【顕正会員の語り合い4】

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3神も仏も名無しさん

965 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 07:21:59 ID:NBwSPNHD
>>962
漸くリクエストが来ましたか。お答えしましょう。
ある顕正会員へのご返答を此処に掲載します。
 まず、御遺命ということについて端的に申し上げます。
 日蓮大聖人が御遺命にされたのは立正安国の実現であり、その姿は一期弘法抄に説かれているところでありますので、ご存知であろうかと思いますが、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立」であります。
 そして顕正会では、これについて「時」「手続き」「場所」を論じます。
 「時」とは全民衆一人も漏れることなく入信する時。
 「手続き」とは勅宣(天皇の宣旨)ならびに御教書(国会の議決)
*注意()内は顕正会の解釈
 「場所」とは天生原と。
 そして、全国民が帰依するのであるのだから「国立戒壇」なのである。御宗門でも昭和四十年代までは「国立戒壇」と言っていた。
 これが「現在」の顕正会の主張であります。
 さて、これを検証してみなければならないのですが、
 初めに「国立戒壇」ということでありますが、今の日蓮正宗ではこの名称を用いることなく、「将来の理想の大本門寺の戒壇である。」ということを申し上げております。
 その理由は至って明確です。
 「国立」と辞書で引いて戴いても結構ですし、ごく一般の社会通念の上から申し上げると「国が管理運営する」ということになります。
4神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 22:53:19 ID:JkBfmYJ1
966 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 07:24:11 ID:NBwSPNHD
 しかし、これでは日蓮大聖人の教えと反してしまうことになるのです。
 なぜならば、第一に日蓮正宗では、信徒の御供養以外に財源を求めません。世間謗法の人からの供養は受けませんので、日蓮正宗の寺院には賽銭箱は存在しません。したがって、税金には一切よらないのであります。
 第二には、日興上人が日目上人に宛てられた「日興跡条々事」において、
 「日興が身に宛て給はる弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す。本門寺にかけ奉るべし」
と仰せになられて、本門戒壇の大御本尊の管理の一切は御法主上人がなされるのであり、国に移管することは絶対にありません。
 実際に、戒壇の大御本尊様安置の御厨子(仏壇のようなもの)には鍵が掛かっており、この鍵は御法主上人が管理されております。
 したがって、税金の拠出もなければ、管理運営も御法主上人のご指南によるところの御宗門によって行われるわけでありますから、「国立」ではないのです。
 それでは、なぜ「国立戒壇」と云う事が、日蓮正宗でも云われてきたのかと云いますと、明治時代に遡りますが、「田中智学(たなかちがく)」という学者が「国柱会」という教団を結成し、次のようなことを言い出しました。
1)天皇を戴いて「国立戒壇」を建立する
2)その「国立戒壇」には、大聖人出世の本懐である「佐渡始顕(さどしけん)の本尊」(*ニセモノです)を安置する。
3)折伏とは、天皇の意を戴して五穀豊穣を願って世界を掌握すること。
 このようなことを言い出し、一時期は百万人もの信徒を有し、社会現象まで巻き起こしたといわれております。その代表的な信者としては宮沢賢治(作家)、石原莞爾(軍人)などがあります。
5神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 22:54:35 ID:JkBfmYJ1

967 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 07:28:03 ID:NBwSPNHD
 さて、日蓮正宗では、この「国柱会」を折伏するにあたり、「もしも天皇の帰依があって国立戒壇を建立するのなら、そこに安置するのは戒壇の大御本尊様以外にはない」と折伏したのです。
 いまでは、私達にとって天皇陛下の存在というのはとても希薄なものでありますが、明治の人たちは「古事記」「日本書紀」は教科書の一部であり、天皇陛下は現人神(あらひとがみ)ということでありました。
 このような考え方を現在では「国体思想」と位置づけております。分かりやすく云えば、右翼の思想に近いものです。
 その思想そのものが正しいか否かということが論点ではなく、「戒壇に安置する本尊は何を以てするのか」というところが争点でありました。
 しかし、前述のとおり明治期には国体思想が大前提という国家社会にあったわけであり、日蓮正宗では、大聖人の念願された「国主此の法を立てられるば」の分かりやすい代名詞として「国立戒壇」という名称を
使用するようになったのであります。
 しかし、戦後の憲法改正により、天皇は象徴となり、主権在民すなわち国民の意思が国会議員の選出などを通して顕わされる現今の体制が浸透し、かつ「国体思想」が風化しつつある状況下においては、「国立戒
壇」の名称を使用し続けることは、還って布教の邪魔となり、誤解を生む原因(国家に財源を求めず、運営も移管しないゆえに意義が存在しない)となることから、「国立戒壇」の名称は使用しない、ということに
なったのです。
6波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆rMNMPSLh1Y :2007/12/09(日) 22:55:23 ID:XVhdO9+U
ふむ。
7神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 22:57:35 ID:JkBfmYJ1
968 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 07:39:34 ID:NBwSPNHD
「時」についてですが、顕正会では「全国民漏れなく」としており、その依拠として、諸法実相抄の
「日本国一同に南無妙法蓮華経と唱へんことは大地を的とする」
の御金言を挙げるわけであります。
 しかし、大聖人様の御書をきちんと読んでいくと、次のようなお言葉もあるのです。
 「上一人より下万民に至るまで法然の弟子となる」
或いは
 「上一人より下万民に至るまで叡山の弟子となる」
と。
 これは、大聖人様のお言葉に矛盾があるのではなくて、「日本国中が法然を信じて念仏を唱えてるかのごとく蔓延していた」とか、「天台宗の興隆は日本国中に浸透していた」という意味なのです。
 それでは、どの様な時が戒壇建立の時か、と云う事について総本山第六十六世日達上人は
 「日本国全民衆の三分の一以上の人が純真かつ強盛な信心をもって三大秘法を信受するとき」(取意)
と仰せられたわけであります。
 ここでいう「純真かつ強盛な信心をもつ」と云う人が「日本国全民衆の三分の一以上」ということが、多いか少ないか、という議論があるやもしれませんが、
「純真かつ強盛」ということが「日本国全民衆の三分の一以上」ということは、とてつもなく大変なことであると私は感じておりますが、いかがなものでしょ
うか。
8神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 23:00:20 ID:IqMTxoK5
(968の続き)

 次に「手続き」ですが、顕正会では、三大秘法抄をあげて
勅 宣=天皇の宣旨
御教書=国会の議決
という風にいっておりますが、これには種々論議が生じます。
 先ず、「勅宣並びに御教書」ということですが、かつては歴史的事実として、大規模な建造物の建立については、必ず「御教書」が必要であったとのことで
す。
 また、勅許がおりている建造物も多数あるわけであります。
 しかし、それらが全民衆の合意かというとそういったわけではないのであります。
 これが第一点ですが、あまりここは重要なポイントではありません。
 大事なのは、「勅宣並びに御教書」の意味でありますが、「天皇の宣旨」と云う事につきましては、現今の法制下においては、
7種類しか認められておらず、 「戒壇建立」なる勅宣を発することはできません。
9神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 23:01:18 ID:IqMTxoK5
969 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 07:43:11 ID:NBwSPNHD
 また、「御教書」を国会の議決というのもいかがなものかと思いますが、ここは顕正会の主張に譲って論じましょう。
 国民投票によって過半数の賛成と、国会議員の三分の二以上の賛成が得られれば、憲法改正は可能であります。
 そのようなことになるのであれば、確かに「勅宣」の項目を改めることもできるし、国会の議決も得ることができるでありましょう。
 しかし、果たしてそのようなトップダウン的な押し付けで信仰が確立するものなのでしょうか?
 観点の違いといわれればそれまでかもしれませんが、日達上人の御指南を配しますと、先述しましたとおり、
 「日本国全民衆の三分の一以上の人が純粋かつ強盛な信仰を以て本門の題目を唱える時」
との仰せが正鵠を得ていることが分かろうかと思います。
 これが第二点です。
 そして何より大事なのが第三点目でありますが、日寛上人「六巻抄」において、戒壇建立について、次ぎの様に示されております。
 「兼日の治定後難を招く」
と。
 分かりやすくいうと、
 「時もこないうちから、ああでもない、こうでもない、と決めておくと、後々問題を招きますよ」
との仰せであります。
 従って第六十七世日顕上人は、
 「広宣流布の実相については、時の法主上人の指南によるべし」(取意)
と明言あそばされました。
 いま、我々がなすべきことは、立正安国の実現を願い、こつこつと一人ひとりを折伏していくことなのであり、それを忘失して「戒壇建立がどうであるとかこうである」という議論は不毛なのであります。
10神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 23:03:21 ID:IqMTxoK5

970 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 07:46:34 ID:NBwSPNHD
そして「場所」ですが、
私は最初のメールで、「現在の顕正会では」という表現をしました。さて、なぜ、わざわざ「現在の」と言ったか、というと実は浅井会長の発言は右に左にぶれがあるのです。
まず、昭和四十年に妙信講(顕正会の前身)が発刊していた月刊誌「冨士」では、「戒壇建立の地は大石が原」と言っていたのです。
それが昭和四十五年から近年までは「天母山(あんもやま)」と云っていたのですが、最近は「天生原」に変更になっているのです。
さて、これはいったいどういうことかというと、実は歴代御先師のご指南の中には、「天母山(あんもやま)」「天生山(あんもやま)」「天生原(あもうはら)」「天母ヶ原(あもうがはら)」といった言葉が出てまいります。
これについては様々な研究がされてきましたが、京都に要法寺(ようぼうじ)というお寺があります。
このお寺は日目上人の弟子の日尊師がつくった流れなのですが、大石寺とは親戚の様な関係であり、一時期は交流が深かったのです。
その時期に、この「要法寺」出身の日辰(にっしん)という学者が大石寺に出入りしているうちに、「天母山」だとか「天生原」といった言葉が本宗の教義に混じってきているという研究に至っております。
しかし、ここで念のため申し上げておきますが、三大秘法そのものは御法主上人の御内証(生命とご理解していただいて結構です)に護持遊ばされておりますし、先述のように「戒壇の大御本尊様」は御法主上人が護持されていらしたわけでありますから、何の問題もありません。
さて、上述の様々な「場所」に関する語句でありますが、実は「天母山(あんもやま)という場所と地名は実在しますが、「天生山(あんもやま)」「天生原(あもうはら)」「天母ヶ原(あもうがはら)」といった地名は、いくら上代に遡っても一切でてまいりません。
実在しないのであります。
11神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 23:04:39 ID:JkBfmYJ1

971 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 08:02:37 ID:NBwSPNHD
さて、それではどうしてその様なことになったのかということですが、本宗においては「代々の聖人悉く日蓮なり」という相伝もありまして、
また、御法主上人におかせられては、前代の御法主を師匠とされるわけでありまして、この両意から見た時に、御先師のなかに些少のお間違いが
あっても、「破折」等と云う事は試みないのであります。
 故に第六十六世日達上人はこれらを総括して、大石寺を中心とした大きな広がりが「天生原と信じるべきである」とのご指南をされました。
 こういうと、日達上人を怨嫉する浅井会長はああでもない、こうでもない、と言い出すのですが、実は総本山第五十九世日亨上人と云う方がい
らっしゃいまして、日亨上人は誠に学解が深いばかりではなく、歴史的検証においても群を抜いた輝かしい功績を残しておられ、「碩学(せきが
く=学問の深い)」といわれております。
 この日享上人の残された「富士日興上人詳伝」という非常に貴重な書物の中に、「大石寺こそ未来大戒壇建立の地である」旨がハッキリと書か
れているのです。
 日享上人は「戒壇建立の地=大石寺」の根拠として、「四神相応の勝地(しじんそうおうのしょうち)」ということを挙げられております。
 分かりやすくいうと昨今はやりの「風水」の源流と思っていただいて良いのですが、
北側=山
南側=湿地帯
東側=川
西側=大道
とされています。
 実は、鎌倉幕府もそうでありましたが、前代に遡っても、都の建立は必ずこのような土地を選んでおり、日享上人も「北側が湿地帯で、南側に
山があるようでは不健康であり、譬え仏法の説でなくても理にかなったことである」(取意)と仰せられております。
 そして決定的なのは、第二祖日興上人が「富士一跡門徒存知事(ふじいっせきもんとぞんじのこと)という書物、こ
れは、様々な伝統教義を明確にされているところの書でありますが、此の中で「四神相応の勝地」と明言されているのです。
12神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 23:05:50 ID:JkBfmYJ1

972 :渡辺雄二 ◆61OC0Axck2 :[email protected] :2007/12/08(土) 08:07:15 ID:NBwSPNHD
 そして大石寺を見たとき、北側には山々がそびえ、南側には窪地があり、東側には潤井川(うるいがわ)が流れ、西側には交通至便な大通りが存在しているのであります。
 したがって、日達上人は「大石寺を中心とした広大な敷地こそ天生原である」との御指南をされたのであります。
 さて、顕正会では「大石が原」→「天母山」→「天生原」と変遷をしている、と指摘しましたが、これは至って簡単明瞭なことです。
 日達上人のご指南が正鵠を得ているから、妙信講主張の「大石が原」は正解なのです。
 しかし、正本堂建立に際して、色々と意義付けにイチャモンがついた時に、浅井会長は「天母山戒壇説」を掲げました。
 それからず〜っと浅井会長は「天母山戒壇説」を貫いてきたのですが、それは誰も相手にしていなかったからなのです。
 日蓮正宗からみれば顕正会は僅かに存命している小規模異流義であったため、相手にしていませんでした。そしてその後、創価学会
の教義逸脱問題が起こり、御宗門はやはり創価学会員を救うことに全力を注がれて参りました。
 その渦中に私が「顕正会は危険教団である」という警鐘を鳴らした書物がHPに残っている「顕正会からの脱出」でありました。
 その後、私は研究を重ね、「天母山」の実地検分を行い、「天母山」では本当に僅かな場所しかなく、五百名収容できるかどうかの寺院が建立できる程度であることを明確
にし、しかも水がなく、急に切り立った山道を登らなければならないことから、「日興上人がこのような場所を選定するはずはありえない」と立証し、「顕正会のいうことも
こんなに間違っている」(やはりHPにあり)という書物で発表しました。
 これで浅井会長は「天母山戒壇説」を引っ込めざるを得なくなり、現在の曖昧な「天生原」説に乗り換えたというわけなのであります。
 長文となりましたが、以上の検証のとおり、「国立戒壇」も、顕正会主張の「時」「手続き」「場所」も悉くいい加減なことなのであります。
13神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 23:06:51 ID:JkBfmYJ1

984 :神も仏も名無しさん :sage :2007/12/08(土) 20:42:46 ID:Wt/WVRGS
>>966
>  しかし、これでは日蓮大聖人の教えと反してしまうことになるのです。
>  なぜならば、第一に日蓮正宗では、信徒の御供養以外に財源を求めません。世間謗法の人からの供養は受けませんので、日蓮正宗の寺院には賽銭箱は存在しません。したがって、税金には一切よらないのであります。
>>965で『「時」とは全民衆一人も漏れることなく入信する時』と言ってるのに、
「世間謗法の人からの供養は受けません」というのは疑問ですね。
全民衆が入信しているならすべて信徒のはずですからね。
そして、国立であっても寄付金で立てても問題ないと思いますが。