900越えたので建てておきます。テンプレは以下に。
5 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/08(金) 11:26:32 ID:9hU5pCzr
6 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 16:11:17 ID:pD4KDzz/
前スレが満杯になりましたので此方でどうぞ。 尚、スレ違いの下衆話は持ち込まないように願います。
7 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 16:28:00 ID:pD4KDzz/
8 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 16:34:01 ID:wfjT2NtC
>前971 (前スレに書こうと思っていたんですが、埋まってしまった(; ;)) 先ず、一番重要な問題である『唯識二十論』は外界を認めるか、否定するのか。 つまり、電波説は明らかな誤読であることは認めますか? 『唯識二十論』を読めば明らかですよね。 次に「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」という記述が『唯識二十論』に あるというのも電波男の誤読であることは認めますか? du rnam par gzhag で du が iti 相当する例などありません。論証は別に書きます。長いです。 >>vijJapti の t は ppt. の接辞 ta の t が残存したものとは考えられないですか? 考えられません。ヴィヤーカラナを勉強してください。とりあえず辻文法の名詞造語法を読んでください。 >前971-973 >前982 >前982さんと>前969 リンク先の電波男の批判者さんが大体同じ考えのようですが、もう一歩です。 1.vi+√jJA+Nic+ktin vi+√jJA+使役接辞+名詞接辞 √知る+ 使役接辞>「知らせる」+名詞接辞>「知らせること」 rnam par √ rig pa+r byed(使役接辞)pa(名詞接辞) 「知らせること」から漢訳「教」(教える)「表」(示す) 2.vi+√jJap+ktin vi+√jJap+ +名詞接辞 √jJap は『ダーツパータ』による 「知る」+名詞接辞>「知ること」 rnam par rig+pa(名詞接辞) 「知ること」から漢訳「識」(知る、分かる)「了」(分かる、さとる) 以上、蔵漢からvijJapti-mAtra のvijJapti は2.の「知覚、了解」を意味するのです。納得できましたか? リンク先でも完全に論破されてましたが、自演による誤魔化しで電波男が正しいなんて思っている人もいるかも、 ですがあらためて電波男説は完全な誤読で、サンスクリット初級に達してないことが明らかになったと思います。
なるほど。 唯識(ゆいしき)だから「知覚、了解」ですよね。 これは中観と対比すると非常に面白い。 葦束の喩え、ってのは私は違うふうに解釈していました。 中観にはピッタシな喩えかと思うておりましたけど、 唯識でも、この喩えを参考にするのですね?
10 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 17:18:38 ID:qrfWNZOV
良家妻女 手籠め金ヅル 出禁バカ 見渡せば 辺りは無人 出禁バカwww
11 :
名無しさん@3周年 :2006/12/10(日) 17:37:18 ID:wfjT2NtC
間に合わせようと思ったんですが、今から外出しなくてはならなくて。 また、今度、書きますよ。たいした問題でもないし、 でも、論証するには結構時間かかるんです。(/_;)
12 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 21:55:34 ID:pD4KDzz/
直接関係なかろうが・・・。 動詞 形容詞化 ゆく ゆかし なまめく なまめかし
ラストサムライつまんね
14 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 22:10:42 ID:pD4KDzz/
おまけ(笑)。 動詞 形容詞化 えず(づ)く えず(づ)くろしい ルサンチマンチンピラを眺める心地(苦笑)。
前スレ「稲竿經」の件、ありがとうございました。これから少し読みます。
16 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 23:38:45 ID:pD4KDzz/
>>15 「稻竿經」類に加えて、前スレで少しく言及しました「分別?起初勝法門經」類にも興味深い論点を
見出せるように思います。
17 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/10(日) 23:40:15 ID:pD4KDzz/
文字化けしました。 『分別縁起初勝法門經』類でした。
18 :
名無しさん@3周年 :2006/12/11(月) 00:19:41 ID:HY++zyPJ
>>13 お前の精神がつまんねーんだよ。
自称どうりの>「莫迦」 !!! だな。
長州藩的思考で彩られた明治維新〜第二次大戦の終戦までの権力歴史を
俺は否定する。戦前の日本の姿は吐き気がするぐらいに大嫌いだ。
仏教徒・団体なんてアホ餓鬼ばかりだったじゃねーか!
国家神道?靖国神社?英霊? アホか!
大乗坊主どもは何をした?
19 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2006/12/11(月) 08:01:12 ID:aXKVAGJ6
始めに識ありき(第一義識)であるから、「知覚、了解」というのは上手い言い方ですね。 知覚が了解しなくも識である。とも言える。 時間系列として識は相続されて逝く。 ここが中観と根本的な違いかと思います。 中観の特徴としましては、この時間系列の概念が突如として変化する。 哲学的に言いますと直覚とかいう。 佛教では現観とも言いますネ。 龍樹の文脈はこれを説明しておる訳ですが、 そもそもこういう話には関心はないのですか?
龍樹も羅什も女性関係は豊富だったようで、 わしも見習いたいと思っております。
21 :
名無しさん@3周年 :2006/12/11(月) 08:51:11 ID:S3oHofQK
不義堕胎 悪事のスクツ 出禁バカ 皆露見 野垂れ死ぬだけ 出禁バカwww
>>8 2のvi+√jJap+ktin の語根部が引っかかっていたのですが、だいぶ見通しがよくなりました。ありがとうございます。
“dhAtupATha”というパーニニに帰せられる語根表に√jJapという動詞語根が載っている、ということですね。
しかしそうすると、同じ「知る」の√jJAとの差異が何なのか気になるし、pが付く理由など疑問が湧いてきますね。
それにしても、1の語形分析の方で解釈しているのは見たことがありますが、2の方は
日本の唯識書の著者は触れているんでしょうか。ほんのわずかしか知りませんが他に見たことがありません。
また、2の意味とすれば、なぜもっと単純に vijJAti という語形にしないのだろうか、という気もします。
>「知覚、了解」を意味する
つぎに、Tib. pa がrig+paのように動詞語根に付いた場合は、「知ること」にしかならず
「知るもの」とはならない、ということでしょうか。
theg-paでは「乗せること」「乗り物」の両義あるので、これから類比して、
rnam-par rig-paが心作用(こと)か認識主体(もの)かの微妙な差異が生じるように思います。
というのは、Skt. -ti では下記の例のように、
「こと」(行為名詞)だけでなく「もの」(具体的名詞)にもなるので概念の範囲が違ってくると思いますので。
例、kSi-(住む) -> kSiti-(住居)、jJA-(知る) -> jJAti-(近親)
唯識二十論の現代語訳はちょうど半分まで読みました。前半だけでもいろいろ気になったことはありますが、
全編読み終ったら、数日内になると思いますが、唯識無境についての見解を書き込みたいと思います。
No. 709《佛説稻[?/干]經》摘録 [空]種、[不作障礙]。又假於[時]、[節氣和變]。(季節がおだやかに変化する) [空]亦不言我[能不作障礙]。[時]亦不言我[能令生]。(種子から発芽等々の成育をさせる) /空間・時間について、どういう捉え方をしていたか。/ 當知[不斷]、亦[非常]、亦[不從此至彼]。 云何不斷。從種、牙根莖、次第相續故、不斷。 云何非常。牙莖華果、各自別故、非常。亦不種滅、而後牙生。亦非不滅、而牙便生。而因縁法、牙起種謝。次第生故、非常。 種牙名相、各異故。不從此至彼。/種少果多故、當知不一。是名[種少果多]。/如種子不生異果故。名[相似相續]。/断見・常見の否定etc./ 何謂為[識]。四陰五識、亦言為[名]、亦名為[識]。/●[有漏心]名為[識]。/[識]亦不念我[能生長]。 隨著一切假名法、名為[識]。/識/ 能生嫉熱故、名[憂悲苦惱]。五情違害、名為[身苦]。/意不和適、名為[心苦]。 造集諸業、名為[行]。分別諸法、名為[識]。 起造諸業、故名為[有]。後陰始起、故名為[生]。住世衰變故、名為[老]。最後敗壞、故名為[死]。 追感往事、言聲哀?、名為[憂苦]。事來逼身、是名[苦惱]。追思相續、故名為[悲]。煩惱纏縛、故名為[惱]。 邪見妄解、名為[無明]。 以此邪解、起於三業、故名為行、善惡等業、能受果報、故名為[識]。 /十二支の解説/ 而[眼識]亦不作念我[能作體想]。[色]亦不作念我[能作境界]。[明]亦不作念我[能照了]。[空]亦不作念我[能無礙]。 [作意]亦不作念我[能發起眼識]。[眼識]亦不作念我[從數?生]。如此[眼識]實假。??和合而生。/眼識の縁生のさま/ 譬如明鏡、能現面像。鏡面、各在異所。而無往來、物見同處。 如月麗天去地四萬二千由旬。水流在下月曜於上。玄象雖一影現?水。月體不降水質不昇。/水月などの譬喩/ 如是、[業]結生[識]、周遍諸趣。能起[名色]果。 如幻如夢、無有實法。而其善惡、因縁果報、隨業不亡。/夢幻の如くなるも、なお因果応報あり/ 云何不來不去、無有子去、而至於牙。亦無牙來、而趣子所。以是?故。無有從此至彼。/中論の不來不去/
縁起は不去不来でありますから(三時不成)現在は本性としては成立たない。 しかしながら、日常というのは意味連関の継続であり、 あたかもそれは識が継続として相続するやに錯覚する。 それは、日常が目的意識を継続するからに他ならない。 禅定は、この日常というベクトルを離れた非日常という刹那を実体験する意を有する。 静中禅も動中禅も意味は同じです。 まあそれは兎も角、人は最初から悟っている訳じゃないので、 錯覚(無明)というのはありますね。 中観においては、業とか応報とか、そういう意味も勿論違ってきます。 それは第一義空より導きだされますから、 やはり彼岸へは逝くべきかと思います。
25 :
名無しさん@3周年 :2006/12/12(火) 12:44:21 ID:t/QXBNoK
叩く程 旧悪の埃 出禁バカwww シカバネを 虫も食わない 出禁バカwww
どうもいろいろと難しい言葉を使って巧みに説明してるが、ピンと来るものがないなぁ。 それもこれも見性の実体験がないことからくるのだろう。 みんな学習だけの他人様の借り物だからなぁ。
>>26 >どうもいろいろと難しい言葉を使って巧みに説明してるが、ピンと来るものがないなぁ。
>それもこれも見性の実体験がないことからくるのだろう。
>みんな学習だけの他人様の借り物だからなぁ。
戯論だからね。
原始仏教はもっと平易な言葉で相手相応に説かれたもんなのに。
結局、 「どうだ自分はこれだけ難解な言葉を知ってるぞ」 ・・・・なんて自己満足の世界か。 そんなものいくら頭に詰め込んでも下らないもんだということに気がつかない。 未だ証拠せざるものは看よ看よ!!!
学習も悟るうえでは貴重な材料である。 ま、その材料も“経験の省略”に過ぎないわけだが。 さて飲み行くべ=3
ほらほら、だから意味連関をするでしょ? 連関するから日常というのは時系列的系列において成立つわけです。 ですから私は、この論理構築こそが無明の因なんじゃないですか? というておるんです。 これは十二支縁起でも連関して逝くのが無明というておるじゃないですか? 文体をそのまま解釈するのが学習能力がある訳じゃない。 論理構成のポイントだけ抽出せば、語義にさしたる意はなきに候。 まあ唯識というのは、簡単にいうたら、識こそ普遍的である。 ってことですが、 果たしてそげなことを釈尊が悟ったのか?ってことです。
31 :
名無しさん@3周年 :2006/12/12(火) 19:06:53 ID:t/QXBNoK
邪淫詐欺 カルト教祖の 出禁バカwww 笑い物 晒し物だよ 出禁バカwww
33 :
名無しさん@3周年 :2006/12/12(火) 23:23:44 ID:M30TaPI+
電波男、完全に終わったな。
34 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:20:37 ID:79Nq6snv
イライラする夜だぜ。世の中馬鹿が多い。馬鹿ばっかりだ。 よぉ、釈迦の悟りは、単なるこの世の意識革命ということにして、悦に入ってる馬鹿仏教徒さん達、元気かい?
35 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 04:02:47 ID:79Nq6snv
二元世界であるこの世には、善と悪は無いんですか〜〜〜。 馬鹿につける薬はねぇんだよ。はぁ〜アホくさ。
>>35 >善と悪は無いんですか〜〜〜。
今は、そういうことも含めて私は書き込みしておらんうーたん。
>>30 の書き込みがそうです。
社会通念上における論理的整合性の構築に依りて善悪を判断する。
このベクトルにおいて龍樹は不去不来である。と言うておる訳で、
ここは非常に難解なとこではあるけど・・・
まあ、こういう話題には誰も関心はないんだろうね?
意味が通じんのなら、私が書き込みしても意味はない。
人間というのは、飯さえ食うておれば生きていける訳だし、
何も難解な佛教に心を奪われることもあるまい。
37 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 09:00:43 ID:M8kmK2gg
バカラスは 性懲りもなく バカ晒しwww タレ込まれ メシの食い上げ 出禁バカwww 寒空に 野垂れ死ぬだけ 出禁バカwww
38 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 10:02:50 ID:S82zrq35
>>35 >>36 >二元世界であるこの世には、善と悪は無いんですか〜〜〜。
さて、本日12月14日は四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日。
1702(元禄15)年、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた。
執着の塊、大石らの行動は善なのか悪なのか、グラデーションを含めて
原始仏教的に日本人を哲学す。
39 :
38 :2006/12/13(水) 10:05:01 ID:S82zrq35
すまぬ、1日早すぎた。
>>38 武士道は忠義を本分とするのが規範ですから、武士道に生きるのであれば主君のあだ討ちは善となりますよね。
普通に考えて。
極道に生きるのであれば任侠道がいいんじゃないでしょうか?
佛教でしたら菩薩道になりますが、
その道その道で善悪というのもグラデーションがありますね。
つまり第一義はそれぞれ違います。
ちなみに武士道は葉隠れの思想がありますから、死で成就することは美学とされます。
「武士とは死ぬこととみたり」。
議論のための議論 メタ議論であり形而上学的議論
42 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 13:31:31 ID:M8kmK2gg
出禁バカ ナマスに斬られ 放置されwww
43 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 14:00:01 ID:S82zrq35
赤穂浪士のあだ討ちは、トンチンカンな逆恨みの集団テロであって武士道とは無関係。 吉良に殺された訳ではないからだ。 世間知らずなアホ殿様の逆恨みの思いを遂げさせた集団テロにしかすぎない。 あだを討つなら柳沢吉保=幕藩体制だろう。 大石はわかっていたと思う。 なんで日本人がこの物語を好きなのか理解に苦しむ。
44 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 14:33:51 ID:S82zrq35
この世(世俗)の善悪は相対的なものだ。
>なんで日本人がこの物語を好きなのか理解に苦しむ。 忠義といふ大義があって、それに向き合う浪士それぞれの人生模様を 自分に置き換えることが出来るのが魅力なのかと思います。 仮名手本忠臣蔵には、見逃せない名場面がいくつもある。 そのうちで、天野屋利兵衛が登場するとこがあるのですが、 利兵衛も商道にかけてはイイカッコしますねw それぞれに美学があったわけです。 ちなみに利休も、負けず劣らずの茶道に生きておったのですが、 最期は見事だったですね。 ここでROMっておられる御仁たちは、商道でもなく茶道でもなく もしや仏道に生きておるんでしょうか? それぞれの美学などを語ちりたいもんですね)^o^(
46 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 16:15:27 ID:M8kmK2gg
シッタカに ヘソで茶が沸く 出禁バカwww
47 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 20:07:11 ID:sWaHuzjK
唯識二十論の梵本の出版には以下のものがある。 1925:シルヴァン・レヴィ、Vijnaptimatratasiddhi, Paris. 1932:シルヴァン・レヴィ、Materiaux pour l'etude du systeme Vijnaptimatra. Paris. 1940:シルヴァン・レヴィ、Vijnaptimatratasiddhi, Reprint, Shanghai. 1984:ステファン・アナッカー、Seven works of Vasubandhu, Delhi. 1989:御牧克己 他、Three works of Vasubandhu in Sanskrit manuscript, Tokyo. 1993:T. R. シャルマ、Vijnaptimatratasiddhi (Vimsatika) , Delhi. 御牧は、貝葉写本と、そのナーガリーによる筆写の印影出版である。 レヴィ1925のp.XVII の印影見本と御牧のp.15、p.16との一致を確認。 同一写本である。御牧が、以上全ての梵本の直系祖本である。まず、全梵本が、 mahAyAne traidhAtukaM vijJapti-mAtraM vyavasthApyate / であることを確認した。当然、御牧には欠いている。レヴィ1925の還梵を皆踏襲している。 レヴィ1940はレヴィ1925の再版で全く同じ。 レヴィ1932はレヴィ1925訂正表が p.175以下に記されるが、上に関しては訂正されていない。 以上の他に宇井伯寿などの版本があるが参照できなかった。 だが、祖本はレヴィ1925の還梵であることに変わりはない。
48 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 20:08:57 ID:sWaHuzjK
つまり、電波男は、勝手に iti を挿入したか、 蔵漢訳などによってテクストを訂正したかの何れかになるわけだが、 大乗では「〔われわれが経験している〕三界とは認識された〔その内容〕に過ぎない」と言っている。 という訳は、還梵や蔵訳からは思いもよらない訳なのですが、1923:寺本婉雅、西藏文世親造唯識論(p. 20)の 経に依れば、「嗚呼勝者の子等よ、是の如し、この三界は唯心なり」と言へることの出づればなり。 を見ると和訳で電波男のように「と言っている」のように訳す系統があったことが分かった。 つまり電波男は、なにがしかの和訳を参照して還梵や蔵訳などを適当に参照して、 適当に訳していたということになる。これによって長い論証手続きを行わないことにした。 そんな男にテクストを訂正する作業などはできる訳もなく、例によって単なるハッタリであることが ハッキリした。以上で彼の唯識有境などの珍説が妄想から湧きだしたことも簡単に予想できる。
49 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 20:45:33 ID:sFGmqwSu
>>48 というあなた。梵本もチベット訳も読んでいないことがみえみえの
誤解をなさっていますよ。
レビ本でいうと、一行目と二行目を混同していらっしゃる。
50 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:53:05 ID:2aLBBkLZ
>>37 おもえも相当な馬鹿だな。
同じことばかり書き込んでらぁ。
オウムだよ、オウム。自分の頭では考えられないから、
同じこと鹿かけない。これからおまえのことをオウム男と呼ぼう。
よぉオウム男。おまえ、もう少し身のあること書いて見れば〜〜。
頭悪そうだから、無理だと思うけど。はぁ〜ぁ、可愛そうに。南無。。
51 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 21:01:48 ID:M8kmK2gg
アタマなき 身で鳴き喚く バカカラスwww
52 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 21:04:28 ID:2aLBBkLZ
53 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 21:13:28 ID:M8kmK2gg
テンプレも 読めぬメクラの おバカラスwww
54 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 21:21:04 ID:2aLBBkLZ
>>53 オモエモナー
わはは はははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは 。
前スレで引用された『倶舎論』の梵蔵両文を見比べると、Skt. iti に対応するのは Tib. pas (具格)で、「(〜という)ことの結果として(〜)」という意味になっていますね。 「安立大乘 三界唯識」の文脈とは異なりますが。 下文は梵語経典中に引用された梵文断片だそうですが、シュローカ第一行の長短規則には合っていました。 vijJapti-mAtram evaitad; これは、まさに vijJapti 以外のなにものでもない。 'di(etad)-dag(pl.) rnam-par(vi) rig-pa(jJapti)-tsam(mAtram)-nyid(eva) / (他にも単数を複数と蔵訳した例があったけどなぜだろう。) 【唯識】無境界、以無塵妄見(菩提流支訳、唯識論) 妄見の妄は三界虚妄の虚妄、見は耳識などの場合も考慮すると、現の字の意味での使用だと思われます。 tsam(mAtra)、nyid(eva) この対応は他にも出てくるので、覚えておくとよいでしょうね。
56 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 21:31:41 ID:sWaHuzjK
>>49 ああ、その通り。失礼しました。
寺元本見た時は、ただ対照してるだけだったから、間違いました。
寺元本は、手元にないから、訂正はできません。
いや、お恥ずかしい。蛇足でした。
vijJapti における使役の意味の有無について 『倶舎論』 vijJA【paya】ti / avijJa【p】ti 【令】他知 / 無【教】 表示【令】他了知 / 無【表】 rnam par rig par 【byed】 pa / rnam par rig 【byed】 『中辺分別論』 vi【jJap】ti / vi【jJA】na 似【識】者 / 六種【識】 變似【了】者 / 餘六【識】 rnam par 【rig】 par snang ba / rnam par 【shes】 pa 『倶舎論』の方は、iti で結ばれて語義を説明する形になっているので、 漢訳・蔵訳の助けを待たずとも、avijJa【p】ti の【p】は使役の意味と取ってもいいでしょうね。 『中辺分別論』の方は、名詞文ですが、vijJapti と vijJAna が直ちに同義だというのではなく、 間に入った pratibhAsa が vijJAna だ、となっているので、この文で vijJAna から vijJapti の 意味を直接うかがうのは少し難しいですね。ただ、vijJAna を唯識の意味で使うこともまれにある そうなので、vijJAna と vijJapti の関係もほとんど同義と見ているのかも知れません。 漢文では動詞を自動詞・他動詞・受動態・使役・名詞に読むことがありますが、ここでは自動詞の 名詞化のようです。「識(ること)に似たる者」。蔵訳の rnam par rig pa には使役の意味はないですね。 以上の梵漢蔵4種の文自体からは、使役の意味がないことが明かなのは蔵訳のみだ、と思われます。 蔵訳者は、そう解釈していた、ということでしょう。
58 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 21:46:57 ID:sFGmqwSu
>>56 iti の有無を問題とする議論で、こういった間違いは致命的です。
あなた自身の論拠を自分で否定しているわけですから。
寺本本が手元に無いから訂正できない?なにが訂正できないんですか?
あなた自身、チベット訳も読んでいないし、還元梵本も読んでいない。
和訳と照らし合わせてどっちがどうだといっているだけの話じゃないんですか?
「外境は実在する(●)」 「外境は実在しない(○)」の否定 これら二つはまったく同じことを述べているのでしょうか。ベン図を使って比べてみましょう。 ※※※※※ ※○※●※ ※※※※※ 単に「○ではない」というだけでは、「○」の外側を指しているだけになります。 つまり、「※」の範囲と「●」の部分の両方ですね。 このように、「○」を否定しただけでは、「※」と「●」のどちらであるかは指定されていない、と言えるでしょう。 このような立場は「無記」とも言えるでしょう。「記別・記述しない、述べない」ということですね。 さて、「外境は実在する(●)」の否定は、「※」と「○」の両方を指し、 そのどちらであるかは指定されていない、ということはもうお分かりですね。 唯識二十論が「●」を述べている、と言う人はいないでしょうから、 〔唯識哲学スレの880で> だれが外界を認めるといいました?、と述べられていましたが〕 あとは、「○」なのか、「※」(「○」も「●」も共に否定されているので)なのか、 に見解が分かれる、ということでしょう。 「唯識無境」の無境の原語に相当するかと思われる artha-pratiSedha や anartha の pratiSedha や an- だけでは、 「○」と「※」のいずれを指しているのか決めかねるので、本文内容の検討が必要と思われます。 この際には、仏教の教義上のことですので、もちろん「有見・無見・有無中道」というキーワードも参照されるべきでしょう。
これは論証形式になっています。 No. 1589《大乘唯識論》真諦譯 因 實無有外塵 宗 似塵識生故 喩 猶如翳眼人 見毛二月等
宗 實無有外塵 因 似塵識生故 喩 猶如翳眼人 見毛二月等
62 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 22:27:39 ID:sWaHuzjK
>>55 > 前スレで引用された『倶舎論』の梵蔵両文を見比べると、Skt. iti に対応するのは
> Tib. pas (具格)で、「(?という)ことの結果として(?)」という意味になっていますね。
何んでそうなるの? じゃやっぱ用意しといたやつあげとくよん。
>>58 おいおい、論拠が崩れるのは、>48後半で、>47は全く生きてますけどね。
ついでに和訳みたら「と言へることの」を読んで、これから「と言っている」なんて訳したんだと、
思ってしまった訳。ケアレスだよ。いや寺元先生すいません。
梵蔵を読んでないってんなら、以下をどうぞ。梵蔵で反論してきてね。まあ、誰だか想像つくけど。
いっときますが私は和訳なんかあてにしてないよん。梵は初級だけど、蔵は結構自信あるもんね(^_^)
63 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 22:29:01 ID:sWaHuzjK
1.問題の還梵と蔵訳 theg pa chen po la khams gsum pa rnam par rig pa tsam du rnam par bzhag ste / (佐々木11、寺本7) mahAyAne traidhAtukaM vijJapti-mAtraM vyavasthApyate / /(レヴィ1925: p.3) 2.問題の蔵訳 rnam par rig pa tsam du rnam par gzhag pas に対応する梵本 vijJaptimAtra-vyavasthApanayA de ltar rnam par rig pa tsam yang rnam par rig pa gzhan gyis kun brtags pa'i bdag nyid kyis bdag med par rtog pa'i phyir / rnam par rig pa tsam du rnam par gzhag pas chos thams cad la chos la bdag med par 'jug pa yin gyi / yod pa de la yang rnam pa thams cad du skur pas ni ma yin no / / (佐々木51、寺本16) evaM vijJaptimAtrasyApi vijJaptyantaraparikalpitenAtmanA nairAtmyapravezAt vijJaptimAtra- vyavasthApanayA sarvadharmANAM nairAtmyapravezo bhavati na tu tad astitvApavAdAt / (レヴィ1925: p.3, 御牧: p.11/fol.4a/p.142) 3.梵本が vijJaptimAtraM nAstIti と iti を用いる箇所の蔵訳は rnam par rig pa tsam zhes bya ba gal te chos rnam pa thams cad du med na rnam par rig pa tsam zhes bya ba de yang med pas de ji ltar rnam par gzhag ce na /(佐々木49-50、寺本16) yadi tarhi sarvathA dharmo nAsti tad api vijJaptimAtraM nAstIti kathaM tarhi vyavasthApyate / (レヴィ1925: p.6, 御牧: p.11/fol.4a/p.142) iti に対応する 蔵訳は一般的に zhes bya ba。これは全く直接話法、引用を意味する「〜と」です。 そして、khams gsum pa rnam par rig pa tsam du rnam par bzhag は A は B と設定される/A を B に設定する。(bzhag : tha dad pa, 'das pa)といった意味になります。
64 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 22:42:42 ID:sWaHuzjK
>>22 そんなとこですね。
1の語形分析は、宇井先生ですね。2の方は この方です。
http://www.inbuds.net/search/ib.cgi?0052-085 また、以下の一連の論考も非常に参考になりました。
http://www.inbuds.net/search/ib.cgi?0104-053 > つぎに、Tib. pa がrig+paのように動詞語根に付いた場合は、「知ること」にしかならず
> 「知るもの」とはならない、ということでしょうか。
> theg-paでは「乗せること」「乗り物」の両義あるので、これから類比して、
> rnam-par rig-paが心作用(こと)か認識主体(もの)かの微妙な差異が生じるように思います。
チベット語だけでしたら<「こと」(行為名詞)だけでなく「もの」(具体的名詞)>の両方の意味が
ありますね。ただし rig-pa とした場合、不定で能動でも受動でもありません。
能動: rig byed 受動: rig bya 行為名詞の場合は特に rig pa po と言ったりします。
65 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 22:49:43 ID:sWaHuzjK
>>26 >>27 >>34 その通り。実にくだらない内容ですいません。
本当は、もっと実のある内容を話し合いたいのですが、
あまりに珍説を述べる方が、のさばっていて優しく言っても通じないので、
露払いをしているわけです。露払いは、どうにもテクニカルにならざる得ません。
私の限界でもあるのですが。
66 :
名無しさん@3周年 :2006/12/13(水) 23:04:48 ID:sWaHuzjK
>>55 > 'di(etad)-dag(pl.) rnam-par(vi) rig-pa(jJapti)-tsam(mAtram)-nyid(eva) /
細かいことですが、違和感があるのでチベット語だと
'di-dag rnam-par rig-pa-tsam-nyid(これらは相として唯識性)
とするのは変ですね。eva なら、やっぱ以下じゃないですか、
'di dag rnam-par-rig-pa-tsam nyid(これらは他ならぬ唯識)
チベット語だけだと以下はどう切るかは文脈から判断するしかありません。
rnam par rig pa tsam nyid
どこまでが単語か、それが結構チベット語の難しさ、サンスクリットや漢訳があると助かります。
また、チベット選述書は、すんなりチベット語だけで読めるように書かれているものが多いので、
意外に読みやすいです。
67 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/13(水) 23:17:35 ID:dHgJSnXl
>>59 いつの世も、「悪魔の証明」に永劫憂き身をやつそうと足掻く憐れな御仁が後を絶たぬようですな(苦笑)。
>>64 >>65 参考になりました、ありがとうございます。
>チベット選述書は、すんなりチベット語だけで読めるように書かれているものが多いので、
>意外に読みやすいです。
じつは工巧明関連の或る蔵語文献を読みたいとかねがね思っていたんですが、
阿含経の蔵訳はあまりないというのを読んでからサボッておりました。
今回のことで、すこし蔵語にも力瘤を入れてみようという気になりました。
>>67 いちおう論点を絞って、
唯識論の「無境界」の「無」がどういう意味かを(絶対否定か相対否定かを含めて)
〔有か無かという方面の追究ではなく、世親の真意を理解しようということで〕
本文から探ろうということなんですが、これももともと証明不可能ですかね。
証明できないから自分はこれを信じる、 と言ってほかの意見を罵倒するだけなら ここに書き込みする意味もないな。 あーばかばかしい。
自己同一性を証明しようとしても、言語においては根本的な矛盾が生じる。 部派佛教にいたっては、刹那滅の繰り返しを時間軸に設定して説明しようとしたのだろうけど、 これにしてもやはり無理はある。 唯識においては、阿頼耶識とか設定することにおいて、この矛盾を何とか説明したかったのだろう。 そこには必ず説明しようとする「観察者」がいる。 自己同一性とは、観察者において成されるわけではない。 龍樹も、クリシュナムルティーも、アインシュタインも、つまりはこのことに関しては同一見解である。
72 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/14(木) 08:29:39 ID:eHymklH2
>>69 > 本文から探ろうということなんですが、これももともと証明不可能ですかね。
後学のため、ご見解を拝読いたしたく存じます。
ただ、「実在としての外界」を前提する議論は、その有無のいずれを主張するせよ、前述の
「悪魔の証明」の如きアポリアに陥ってしまうものと考えます。
今日も黙ってトイレ掃除してろ!って事である。
74 :
名無しさん@3周年 :2006/12/14(木) 08:43:05 ID:iFrdAj7O
出禁バカ ウソ詐りで 失脚しwww
75 :
名無しさん@3周年 :2006/12/14(木) 09:21:41 ID:ZnBTwT3D
フォイエルバッハ・テーゼ 11 哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。 問題なのは世界を変えることなのだ。
76 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/14(木) 09:36:21 ID:eHymklH2
佛教思想の発達展開は原始佛教の段階から既に、不当前提や誤謬命題を剔抉して破棄却下する営みと 不可分であったと考えます。
77 :
名無しさん@3周年 :2006/12/14(木) 14:46:14 ID:ZnBTwT3D
>>74 おまいはまさに貧瞋痴の三毒の代表者だな。
反面教師としてずっと居座っておれ。
いーかこのレスを寝ずに監視していろ wwwwww(哀れ・・
78 :
77 :2006/12/14(木) 14:47:50 ID:ZnBTwT3D
× レス 〇 スレ
79 :
名無しさん@3周年 :2006/12/14(木) 15:04:39 ID:iFrdAj7O
ウスノロは 死ぬど治らず おバカラスwww
81 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 06:48:44 ID:OAuxgYOe
ここまでで明らかな電波男の珍説、誤読、妄想。 1.『唯識二十論』は外界(artha, don, 外境)を認める(=否定しない)という珍説 2.『唯識二十論』に「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」という記述があるという誤読 3.『唯識二十論』に勝手に iti を挿入して珍説補強妄想展開 4. vijJapti=「認識された」という誤読(しかも形容詞化という珍説を展開して言い訳) 5. vyavasthApyate=「言っている」という誤読
83 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/15(金) 09:38:40 ID:b5XMJNce
>なんだい言語学で「形容詞化」(笑)なんて用語聞いたことない。全く言語学的ではない。 日本語の、それも一般向き辞書レヴェル。「受動ニュアンス」に注意(笑)。 ゆく(動詞) ゆかし(形容詞化) ゆかしさ(名詞化) なまめく(動詞) なまめかし(形容詞化) なまめかしさ(名詞化) わずらふ(動詞) わずらはし(形容詞化) わずらはしさ(名詞化) 以下ビリーバータルチュフに相応しい語彙(笑)。 ゑづく(動詞) ゑづくろし(形容詞化) ゑづくろしさ(名詞化) けがる(動詞) けがらはし(形容詞化) けがらはしさ(名詞化)
84 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/15(金) 10:03:51 ID:b5XMJNce
命題Aの否定≠対立命題Bの肯定 もはや論理学以前の問題。
アホダラケイさんは普通に書けないの? それアホだら語?
86 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 10:30:29 ID:7fIOIGIY
ごちゃごちゃ言ってないで、先ず悟っちゃえば? 大死一番、肉体が滅してしまった境地から、 肉体があった当時の自分の言動を省みれば、馬鹿に思えるよ。 あー、すっきりした。
87 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 10:46:58 ID:7fIOIGIY
>>85 阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ は仏教知識収集がナルシズム的趣味の頭でっかちだけであって、
まともな菩提心なんかない奴だから、悟りなんて無理。手段と目的の逆転、これを趣味という。
妨害電波男も同類。
仏教ナルシズム的趣味者の、方言ならぬ「阿呆言」ですわ。
だから
>>86 なんて絶対無理。
88 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 10:58:41 ID:NYnqRWM+
ラクガキの 壊れ具合は おバカラスwww
90 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 11:56:58 ID:NYnqRWM+
存在が 資源のムダの 出禁バカwww
91 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 14:01:36 ID:zYE621cZ
電波ビリーバー阿呆陀羅經さん根拠のない擁護は虚しい ビリーバー 阿呆陀羅さんは ブリぶりばか〜
92 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/15(金) 17:32:04 ID:/5ygPIhU
>ID:NYnqRWM+ 折角やよってに、もう少し俳句風のを書き付けなはれ(笑)。 当てもなく 紙礫舞ふ 師走哉www とか(笑)。
大人げない
94 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/15(金) 18:56:18 ID:b5XMJNce
>>93 おうちは仕事と家事の合間を縫うて、あんじょう独習しときなはれや。
「形容詞化」という語は「名詞化」という語と共に、辻文法 p.198 に出てきます。
>>84 >命題Aの否定≠対立命題Bの肯定
「ある」の否定は、「ない」ではなくて、「『ある』ではない」。
「ない」の否定は、「ある」ではなくて、「『ない』ではない」。
「外境は実在する」と「外境は実在しない」という二つの対立した見解
それは決着のつかない形而上学の論争になるから止めて
その論争の外側に居ることを指す。
TBSテレビで、来週の「CBSドキュメント」が、初めの20分間くらいは、 仏教国ブータンを取材した "Gross National Happiness" というのを放送する予定です。 アンコール放送かも知れない。よく聞き取れなかったので。 grossというところに「国民全体の」という他に「粗末な」って揶揄の気持ちも込められてたりして。
大乗と安立について まず「大乗」について 唯識派では「大乗」という語が重視されたようです。経論の題名に大乗の付くものが多い。 大乗阿毘達磨経、大乗荘厳経論、摂大乗論、大乗阿毘達磨雑集論。 唯識二十論の異訳、大乗唯識論にも。 その他、唯識派所依の経典である大方広仏華厳経の方広も大乗のことだし。 つぎに「安立」について 安立大乗、三界唯識。==立義 以契経説、三界唯心。==その立てられた義が正しいことを立証するものとしての聖教 ということだと思われます。聖教を根拠とした場合は、譬喩の提示は不要だということなのか。 最後に、「大乗の中に於いて」の位置づけについて >於大乘中、立三界唯有識。 theg-pa chen-po la (mahA-yAne) これは、中観自立論証派の論証式の前提「勝義諦に於いて」とパラレルな構造なのか、 それとも、安立する中に入っているのか。つまり、 mahAyAne (traidhAtukaM vijJapti-mAtraM vyavasthApyate) / / (mahAyAne traidhAtukaM vijJapti-mAtraM) vyavasthApyate / / のどちらか、ということです。
khams-gsum-paのpaをtraidhAtu-kaMと訳し入れたのは、
>>63 の
vijJaptimAtra-vyavasthApanayA sarvadharmANAM
の部分に出てくる例からすると、三界に属する一切法という含意だと受け取るべきなのでしょうかね。
>>62 倶舎論からの例文では、[引用のiti]ではなく[理由のiti]になってますね、ということでした。
na vijJApayati^【iti】
不…可令他知【故】
非…令他了知【故】
rnam par rig par byed pa ma yin 【pas】
とにかく、vijJaptiとは何かの理解には、世親が心・意・識とvijJaptiは同じだ、と言っていることは重要な点ですね。
>>94 人の心配しちょる暇があったらトイレ掃除しなはれ!
100 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 21:45:40 ID:3hAzpUHz
ヨーシヨシ 100ゲェーーーーーーーーーーーーーーとぅ!!
101 :
名無しさん@3周年 :2006/12/15(金) 23:38:21 ID:7fIOIGIY
執着はアカンのご意見なれど あん肝と ふぐの白子には執着す 今夜のあん肝は最高ですた。 塾女の味でした。 お悟りがちょっとくらい遅れても 納得します。
唯識派では菩薩乗という意味で大乗と称しているのだろうか。 十地経と瑜伽師地論での菩薩地と瑜伽師地という取り上げ方から見ると、そんな感じがします。
103 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/16(土) 01:17:40 ID:XlwQ14Pn
>>101 あん肝は十数年前に食べたきりで、それいらい食していません。
塾女というのは、私は食べたことがないので分らんですが、珍味ですか?
というより、
私はアボガドをスライスして、ワサビ醤油で食べるとトロの風味になるので、
刺身の代用としてアボガドを食べることはありますね。
(結構うまいですよ、塾女にはかなわんかもしれんけど)
というより、
塾女というのは、もしかしたらアボガドをスライスしないで、そのまま食す熟女のことじゃないでせうか?
こういうことに関しては熟女は悟っているらしいですよ。
私はこういう件に関してはかなわんですけど。
105 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 11:48:49 ID:0R9XWnZG
シラきれど もはや手遅れ 出禁バカwww
106 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 12:23:09 ID:0R9XWnZG
堕胎よし 孰女は手籠め 出禁バカ
>>98 と思ったら、華厳経の「三界唯心」citta-mAtraM traidhAtukam からの利用だったみたいです。
これを見ると名詞文のようですね。韻律の関係で前後を変えたのかな。
とにかく、三界に属する一切法という含意、という見方はそのままですが。
108 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:46:21 ID:oHoQ/4sl
みおしえの きよきみたまに ふれもみで 虚しからずや ことをうつ波 穢波なぞ かぶりてうかる めしい鱈 迷い迷って 迷い言陳ぶ
109 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:47:36 ID:oHoQ/4sl
>>95 一般的な用語として「形容詞」という言葉は広く認知されていますから、
その意味で辻先生は「形容詞化」と使っています。そういう問題ではありません。
問題とされたのは言語学で「形容詞化」ということを以下のように用いるか、です。
当該スレの「形容詞化」を主張する文章を書き出して、彼(ら?)の用いた特殊な「形容詞化」説を見てみます。
> 879 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY 投稿日: 03/04/20 01:09
> そのまま読むと、「知らしめられた」だけど、こんなへんてこりんな日本語は通常、
> 用いない。使役受動では「知られた」(あるいは認識された)で十分。
この時点で電波男は vijJapti を「知らしめられた」と訳すべき「使役受動」と解釈していました。
当然「使役」を意味する形態素は認められますが「受動」を意味する形態素は発見できません。
ですから、その部分を問われます。すると形態素の話をしているのも分からず次のような頓珍漢な答えをしています。
> 887 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY 投稿日: 03/04/20 17:23
> だれが、受動と言いました?人の文章をじっくり読む訓練をしなさい。
電波男は「使役受動」と言ったのに「受動」と言われて無知なヤツめと思っているのです。
本当に無知なのは、明らかに電波男です。話してるうちに形態素の話だとやっと分かってきたのか、
言い訳として持ち出したのが次の「形容詞化」です。
110 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:48:06 ID:oHoQ/4sl
> 891 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY 投稿日: 03/04/20 22:54
> 最初は受動でジャンケンポン
> 負けたら後だし使役受動の非難でジャンケンポン。
> 動詞派性の形容詞化について、
> 受動ニュアンスを無視する言語学しらずの文法偏重でジャンケンポン
> 使役形を否定していないのに「受動なら」と論点先取のジャンケンポン。
vijJapti には「受動ニュアンス」も「動詞派性の形容詞化」もなく、以下対論者が言うのように
百歩譲って<「動詞派性の形容詞化」なら vijJapta であって vijJapti ではない>ことが
貴方の示した辻文法 p.198 に 明らかでしょう。しかしながら電波男は次のように正論に対して強弁します。
> 903 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY 投稿日: 03/04/21 07:12
>
>>895 > >「動詞派性の形容詞化」なら vijJapta であって vijJapti ではないでしょ。
> 形容詞化の意味を勉強すべき。形容詞化とは形容詞にするノミに有らず。
> 911 名前: 考える名無しさん 投稿日: 03/04/22 07:04(電波男コテハン入れ忘れ、後に自分で告知)
> 一つだけ言ってやろう。〔動詞の〕形容詞化と言うのは形容詞にすることだけじゃないんだよ。
「形容詞化とは形容詞にするノミに有らず」明らかに強弁・詭弁です。
その無理を通すためにタイミングよく二人の自称言語学者が現れて以下の珍妙な奇説を述べました。
111 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:51:55 ID:oHoQ/4sl
> 919 名前: 考える名無しさん 投稿日: 03/04/22 08:31(電波男自演と思われる自称言語学者)
> 「形容詞化」について「文法屋」と「言語屋」の論争が始まりそうとの噂を聞きつけて来ました。
>
> 「形容詞化」の概念を形容詞という品詞にすることに限定して議論するのは高校英語で終りにすべき
> なのです。パーニニの文法で形態論を議論したいのであれば勝手にすればいいと思う。恐らく電波氏
> は馬鹿らしいからしないんだと思う。なぜなら、あなたの形態については「受動じゃなく、使役」だ
> と発言して同意しているから。
>
> 次に、言葉を翻訳する時に文法は大切だけど言語の特性を考えたファクターを通して翻訳用の「説明
> 的形態」を加える必要がある。私はギリシアが専門だけど、動詞が名詞に変化する過程で、動詞語根
> から派生していくことを「形容詞化」と呼んでおり、それは言語学でも同じことなのです。そして、
> 動詞派生で形容詞化する場合、例外を除いてほとんどが受動のニュアンスをもつのはどの言語でも同
> なのです。またその語の中に受動の意味が含まれてくるのは周知の事実です。電波氏が「使役受動」
> としたのは大勢いる中で、非常に親切だと考えます。
> 923 名前: 言語2 投稿日: 03/04/22 09:34(電波男自演と思われる第二の自称言語学者)
> ここでも形容詞化という言葉を正しく使っていますね。名詞造語接尾辞といえば
> それで終りですが、動詞派性から名詞が作られる過程で形容詞化という用法は
>
>>920 氏の示す通りです。
>
> 解りやすく言えば、
>
> 動詞 → 形容詞化 → 形容詞、名詞
>
> という事になるでしょう。名詞になるのは動詞由来以外にもありますから、動詞派生
> の場合はあえて形容詞化といいます。
112 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:55:43 ID:oHoQ/4sl
二人の自称言語学者は<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」>ということで一致しています。
そんな言語学説を私は聞いたことはありません。この意味の「形容詞化」が言語学で用いられることが問題なのです。
当然、辻文法では用いられいません。逆に以下のように述べられます。
辻文法§57:語根+接尾辞 → 語幹+人称語尾 → 動詞
辻文法§105:語根= 名詞
辻文法§106-I:語根+kRt接尾辞 → 名詞/形容詞
辻文法§106-II:名詞/形容詞 +taddhita接尾辞 → 名詞/形容詞
以上は、言語学では形態論と言われ、語形における形態素の結びつきを明らかにする学問領域で扱われます。
語構成論です。語彙的な意味を持つ形態素が語根と呼ばれ、機能的な意味を持つ形態素が接辞と呼ばれます。
活用に共通して現れる形態素を語幹と呼び、語幹以外の活用部を語尾と呼びます。
例えば風間喜代三『言語学』1993、36頁以下、及び
http://en.wikipedia.org/wiki/Morphology_%28linguistics%29 つまり、辻文法で接尾辞/人称語尾が『言語学』で 接辞/語尾と呼ばれるだけで全く同じです。
また、水野弘元『パーリ文法』§63以下も同じ。なにせ語構成論は梵語のヴィヤーカラナから発見されたのですから。
なにより梵語では形容詞という品詞は用いません。
こういった基本的なことも分からない言語学者どころか、言語学の学生もいないでしょう。
全く基本が分かっていないのに何でも知ったかぶりする電波男のハッタリと自演はここでも明らかと思われます。
113 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:56:17 ID:oHoQ/4sl
> 「外境は実在する」と「外境は実在しない」という二つの対立した見解 > それは決着のつかない形而上学の論争になるから止めて > その論争の外側に居ることを指す。 あの『唯識二十論』は外境否定論証以外のなんだというのでしょうか?
114 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 16:59:45 ID:oHoQ/4sl
115 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/16(土) 17:09:52 ID:XlwQ14Pn
外境実在論の否定論証≠外境否定論証
116 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/16(土) 17:13:23 ID:XlwQ14Pn
かなづかひ のりことはりに ふみまどひ やみぢはてなく まよひつるかな
>>113 以下、二十論第11偈の直後の長行です。中観派からの唯識批判への論主の答論の部分です。
---------------------
愚か者たちは、主観・客観というような(ありもしない、)ものの本体(自性)を仮構(遍計)している。
この構想された形としてはものは実在しないものである。けれども、仏陀たちの(認識の)対象であるような、
表現を超えた本性としては、ものがなというわけではない。そのように、「表象のみであること」についても、
人は、それが(主観という)もう一つの表象によって仮構され(対象化された客観としての)形としては
実在しないとさとるのである。(梶山雄一訳)
---------------------
認識が成立するためには外境が実在しなければならない、という有部や経量部の
主張を論主は否定します。その論証をおこなっていますが、単純な外界実在否定論といってしまって
いいのでしょうか?上の引用部分を見ればあなたのいうような単純な話ではないとおもいますけれど。
ほかの皆さん、どうおもいますか?
118 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 18:11:11 ID:la3eMtVU
なーんかね。言語学では”形容詞化”が無いなんていってる人がいるんですね。 動詞、あるいは名詞の形容詞化なんて聞き飽きてるるんですよ。証拠にググれば沢山出てくる。 形態論と動詞の形容詞化とでは違う話だということなににな。 そんでURLで憶測なんだけどh田って電波の修士論文の経量部説をパクった奴? そりゃ必死になるわな。
119 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/16(土) 18:17:51 ID:XlwQ14Pn
>>118 何というか、沙汰の限りという眺めですな(苦笑)。
しかし、どうしてこう、泥棒・カルトタルチュフ・詐欺師・ペテン師どもの素性が株連蔓引状に
露見するんでしょうね。このスレは(笑)。
>>117 >ほかの皆さん、どうおもいますか?
わたすが
>>71 に書いたとおりです。
唯識派というのは、そもそも部派仏教が発展していった、いわゆる大乗ですから、
中観派とは水と油です。
論理的に重なるとこはない。
あえて言うなら、中観における世俗諦にて論理矛盾において論理の構築をして逝く。
そもそも中観には主客の二項はないし(概念がない)
この論理自体を矛盾とする。
121 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 18:26:27 ID:la3eMtVU
>>109 通り過ぎようと思ったが、メタメタなので釘。
使役受働を単なる受働と言うのなら、使役要素を排除する反論であるのは明らか。
形態素の話題であると仕切らずに批判するのは順序が違う。
その後のことはかなり苦しんでいるようで。
”主語+補語(主語記述部分)”では補語の部分は広い意味での形容詞である。
これを形容詞化としてとらえることが出来ないという言語学説があるのなら教えて欲しい。
この観点で話しているのは明らかであるのに、各論で批判するのは妥当ではない。
122 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 18:28:04 ID:0R9XWnZG
カヤの外 すらも判らぬ 出禁バカwww
123 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 18:48:57 ID:aWk6nyA9
124 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/16(土) 19:33:07 ID:XlwQ14Pn
>>117 不当前提乃至誤謬命題の剔抉・破棄却下→中道の闡明・顕揚に他ならないものと考えます。
>>112 名詞→形容詞→名詞
なんていう経過で多樣な語義を持たせるなんていうことは
サンスクリットでは普通にあることですよね。
ものの属性を示す(したがって、名詞を修飾したり、主格補語となる働きをする)
働きを有する語(句)である、というのが形容詞という言葉の
通常の用法ですよね。
>なにより梵語では形容詞という品詞は用いません。
とあなたは言いますが、一方で辻文法を根拠に「形容詞」という言葉をつかっていますね。
梵語には形容詞という品詞を用いないのに形容詞という品詞に分類することは認めるわけですね。
チミの論は破綻していますよ。
126 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 20:12:51 ID:aWk6nyA9
>>125 おやおや、妨害電波男も相手にならって、無名でいくことにしたのかwwwww
127 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 20:17:04 ID:la3eMtVU
>>125 ppt が形容詞じゃないと言い出すかもしれませんよ。
この揶揄が彼に理解できるとは思いませんけど。(爆
主格補語には主格を記述説明する働きがあり、
言語を見る場合には形容詞としてとらえなければならないなどと話しているときに、
「形容動詞があるじゃないか!!」と横を向きながら走ってくるのが彼です。
128 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 20:36:14 ID:VWUhRR5E
>>127 笑っちゃいました。そこまでアホですか(爆。
中国語では文中に形容詞はない、定語だ、と言い出しかねない人だとは思っていましたが。
129 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 20:57:01 ID:aWk6nyA9
中道も 空語になりぬ 年の暮れ
130 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:00:28 ID:oHoQ/4sl
>>118 そんでURLで憶測なんだけどh田って電波の修士論文の経量部説をパクった奴?
おいおい、原田さんのように優秀な人が、電波男みたいな何も知らないヤツの修論なんかパクらないよ。
それに経量部説は、1992年にクリッツァーが発表してるよ。クリッツァーもパクったのかな? (笑)
問題の形容詞化というのは 「形容詞化とは形容詞にするノミに有らず」
<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」>という意味だよ。
こんなことを主張する言語学があるなら証拠を出してみて。(笑)
>>121 > 使役受働を単なる受働と言うのなら、使役要素を排除する反論であるのは明らか。
> 形態素の話題であると仕切らずに批判するのは順序が違う。
無茶いうな。次のように対論者は始めから形態素(接辞)の話をしているだろう。それが分からないのが電波男。
> 875 名前: 考える名無しさん 投稿日: 03/04/17 00:20
> vi+√jJA+Ni+ktin
> 使役辞の例外性はこれに準ずると思います。PAN.3.2.27
> つまり、前接辞(vi)+語根+使役辞+女性抽象名詞接尾辞
131 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:02:46 ID:oHoQ/4sl
>>121 > ”主語+補語(主語記述部分)”では補語の部分は広い意味での形容詞である。
> これを形容詞化としてとらえることが出来ないという言語学説があるのなら教えて欲しい。
これまた惨いな。上の内容がどうサンスクリットの vijJapti に関わるのかな?
電波男は形態論、語形成、ヴィヤーカラナの vijJapti を形容詞化と説明しているんだけど。
何にも分かってないんだから黙ってた方がいいよ。
ちなみに<”主語+補語(主語記述部分)”>ってサンスクリットでどんな事例のことを指すわけ?
> 主格補語には主格を記述説明する働きがあり、
> 言語を見る場合には形容詞としてとらえなければならないなどと話しているときに、
一体、何を言ってるのかサッパリ分からないよ。普通の言語学用語を使ってくれ、学校英文法用語で
サンスクリットを説明しないでくださいよ。(笑) それができないなら サンスクリットで例を挙げて。
132 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:08:06 ID:oHoQ/4sl
>>125 > >なにより梵語では形容詞という品詞は用いません。
> とあなたは言いますが、一方で辻文法を根拠に「形容詞」という言葉をつかっていますね。
> 梵語には形容詞という品詞を用いないのに形容詞という品詞に分類することは認めるわけですね。
バカだな〜。梵語には形容詞という品詞あるか? じゃそのサンスクリット名を言ってみて?
破綻しているのではなく、君の知識と理解力がないだけだ。電波くん!
それより「形容詞化とは形容詞にするノミに有らず」 <動詞語根から派生していくことを「形容詞化」>
という意味の「形容詞化」ってのは誰が何処で述べてるんだい。
たぶん電波くんぐらいしかいないだろう。
133 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:15:31 ID:0R9XWnZG
空威張り 愚か加減は おバカラスwww
134 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/16(土) 21:19:01 ID:XlwQ14Pn
フェスティンガーが標本に使用しそうな常連カルトタルチュフが粘着してますな(苦笑)。
>>132 おいおい、チミの発言がそのまままチミの発言自体を否定することに
「なってしまいますよ」、
と言っているだけですよ。
136 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:24:38 ID:la3eMtVU
>>128 な。何を揶揄られているのか理解しないだろうと言うのは当たりな。
電波の修士論文は確か1992年よりずっと前だったよな。
”主語”や”補語”が学校英文法用語だってよw
137 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:30:50 ID:oHoQ/4sl
>>136 じゃ、サンスクリットで補語ってどんな文法現象を説明するのか
例を挙げてくれ。簡単だろ。
クリッツァーもパクったってのか? 三流大学の修論を笑うよ。
内容は、知らんが例によって妄想と無知の集合と推測できるよ。
電波男は何も知らんからな
138 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:32:31 ID:la3eMtVU
>>135 こいつ、oHoQ/4slは外界の否定は外界の存在否定だと本気で思っているよ。
hを優秀だという辺り、本人じゃないのか?
139 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:36:23 ID:la3eMtVU
>>137 文法現象?なにそれ?意味わかってしゃべってる?
クリッツアー?なんのことを言ってるのかな?
三流大学?関係ないな。
>137 (oHoQ/4sl) >117 に答えてくれ。そつちの方が本題だろ。
141 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:39:58 ID:oHoQ/4sl
>>139 まあ、大学は関係ないな。電波が無能なのはよく分かったよ。
知ったか、ハッタリ、自演ね。
補語のサンスクリットの例は挙げられないだろう。
間違いを認められず、浅い知識で誤魔化すいつものパターンですな。
142 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:42:27 ID:oHoQ/4sl
>140 補語のサンスクリットの例を挙げてくれたら答えよう。 簡単だろう。
143 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 21:44:06 ID:oHoQ/4sl
ま、ゆっくりやってくれ。風呂入ってくるから。
俺は>140とは別人だよ。 妄想癖があるんかい。
ごめん。アンカー間違えた。 俺は>136(la3eMtVU)とは別人だ。 自演妄想する癖があるようだな。
146 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 22:08:21 ID:la3eMtVU
>>142 あらゆる言語には補語がある。
文法現象ってなんだ?説明しろ。
言語現象として文法があるなんて言ってるから何も理解できないんだろうな。
質問に答えることが出来ないのか?
145さん。こいつはダメだ。使えない。
147 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 22:24:08 ID:la3eMtVU
>>143 本気で、主語や形容詞、主格補語、補語、修飾関係などの語句が学校英語文法であって、
言語学用語ではないと思ってる?特に比較言語学や生成文法では沢山目にするけど、
ソシュール系の言語学では補語について深い考察があるね。
勿論、特定言語限定でないのはあんたも理解できるね?主格補語や結果補語という文法概念が
サンスクリットでは存在しないとしても、言語学的分析では適用される。
"iyam atra dharmatA"ではiyam が主語で dharmatA が補語であると分析される。
ここまで説明させるな。サンスクリット文法じゃないぞ。生成文法で一時言われていた普遍文法といわれる概念だ。
もっとも言語学界で、補語についての決着がどうなったのかは私は知らない。
148 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 22:42:17 ID:la3eMtVU
oHoQ/4slの主張 補語となる語句がサンスクリットには存在しない。 なぜならサンスクリット文典には補語と言う概念が存在しないから。 だからサンスクリットには補語が存在しない。 註)「補語」を「形容詞」に置き換えても同じ このように分解したら、流石のoHoQ/4slも赤面するであろう。 これでもわからないのなら、サンスクリットや言語学を語ることはやめたほうがいい。 笑われるだけだから。
149 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:09:20 ID:oHoQ/4sl
> 認識が成立するためには外境が実在しなければならない、という有部や経量部の > 主張を論主は否定します。 これで十分『二十論』の目的は法無我へ至るための方便としての唯識でしょう。 つまり知覚以外にない。ブッダの領域はあくまで表現不可能であって最後に説かれるように 『二十論』の記述対象とはなってない。それは世俗の外界とは全く別のものなのだから。 そんなことも分からないの?
150 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:10:47 ID:oHoQ/4sl
ありゃ〜、逆になっちゃった。まあ、いいや。いや、風呂はいいね〜。 別に他人でもいいよ。電波本人かどうかしらんが、擁護してることには変わらないだろう。 電波擁護派で一括りだよ。 なんだ生成文法で説明すれば「あらゆる言語には補語がある」か、厳しいな。 確かに生成文法では Comp を用いて文法を説明する。 日本語にも用いている、それが生成文法の欠点だと思われる。 つまり統語解析する時に、英文法の概念をあらゆる言語に押しつけること。 日本語、サンスクリット、チベット語などに補語なんて文法概念導入しなくていいでしょ。 オッカムの剃刀を適応すべきである。 ところで生成文法では普遍文法という概念を何時、誰が放棄したんだい? MP でもチョムスキーは放棄してないけどね。 ベイカーとかは言語の周期表とか言って、P&Pで突っ走ってるけど? ラドフォード、ジャッケンドフ、福井、黒田、一体だれよ UG 放棄したの。 オイラ、生成文法結構知ってんだけど。
151 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:17:41 ID:oHoQ/4sl
しかし、電波男は、いつもながら間違いを認めずに変な知識を使って論点を変えてくんだよな。 それで普通の人はいやんなっちゃって、論じることを止める。 するとどんなに論破されていても、勝ったことにしちゃって間違いは認めない。 別に勝敗はどっちでもいいんだ。でも問題は間違いを認めないで、人にそのまま吹聴するとこ。アホダラさんとか少数だけど信者がいるでしょ。 もっと怖いのはロムってる人が信じちゃったりすること、そのためにきっちり間違いを正そうと思ってます。時間がないから毎日書けるわけではないが、きっちりやりますよん!
152 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:19:34 ID:la3eMtVU
>>150 生成文法だけじゃないんだけどな。
そんで、補語の概念を導入しないくても好いと言う根拠は?
だれが普遍文法と言う概念をチョムスキー学派が放棄したと言ったんだい?
読解力の無さが現れているね。
「サンスクリット文典には欠点がないと君は断言したね」と言っちゃう、結果先取りと同じぐらいの屁理屈だな。
それから、何一つ答えてないね。
153 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:22:20 ID:la3eMtVU
>>151 今日の間違いだけでも認めて謝罪したらどうなんだ?
質問にも答えていなし。
私は電波ではないよ。言っておくけど。
154 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:31:29 ID:aWk6nyA9
妨害電波男、いつもの手口 wwwww・・・・ 分身撹乱戦法、もちろん真+信はない。
155 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:32:17 ID:oHoQ/4sl
>>152 「補語の概念を導入しないくても好いと言う根拠は」簡単だ文法は記述できればいいからだ。
不要な概念など導入しなくてもよい。
「だれが普遍文法と言う概念をチョムスキー学派が放棄したと言ったんだい?」君だよ。
ほれ「生成文法で一時言われていた普遍文法といわれる概念だ」
ところで「普遍文法といわれる概念」で「補語であると分析される」とはどうゆうこと?
普遍文法の意味、分かってないな?
>「サンスクリット文典には欠点がないと君は断言したね」と言っちゃう、結果先取りと同じぐらいの屁理屈だな。
何言っての? 大丈夫?
「それから、何一つ答えてないね」言うだけは只だから、とりあえず威勢よくして、いつもの印象操作ですか?
156 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:41:39 ID:la3eMtVU
>>155 補語と言う概念が不要であるということの説明がまだなんですよ。
以下、すべて逃げですね。答えられないのですか?
偉そうなことばっかりじゃなくて、答えられるよな?
ちゃんと説明しなさい。出来ないのなら、謝罪しなさい。
じゃ、これから行きましょう。
外界の否定が外界の存在の否定であることを証明してください。
出来るよな?ああ?
157 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:46:07 ID:oHoQ/4sl
>>153 おいおい、何間違ったんだ? 質問には全て根拠を挙げて答えたよ。
君は、根拠は出さず主張だけですな。いつものように。
電波男の主張は、何かなら何まで間違いだらけなのが、よく論証できたよ。
「今日の間違いだけでも認めて謝罪したらどうなんだ? 」電波男の十八番。
電波男こそ、沢山の間違いきっちり「認めて謝罪したらどうなんだ? 」
1.『唯識二十論』は外界(artha, don, 外境)を認める(=否定しない)という間違い
2.『唯識二十論』を「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と間違い
3.『唯識二十論』に勝手に iti を挿入した間違い
4. vijJapti=「使役受動」「認識された」という 間違い
5. vyavasthApyate=「言っている」という 間違い
6. 「形容詞化とは形容詞にするノミに有らず」という間違い
> 私は電波ではないよ。言っておくけど。
そ え は ま っ た く と お り ま せ ん(笑)
法律電波少女バスタちゃんとかに変身してくんないかな、どうせなら
お も し ろ い か ら
158 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:50:11 ID:oHoQ/4sl
>>156 そりゃ、君が勝手に納得しないだけだ。
無理言うなよ。クレマーくん。
それでは、またな電波くん。きっちり間違いを認め、自分の能力を自覚するように。
たいした能力じゃないんだから、UG とか知らないのに言っちゃだめでちゅよ。
159 :
名無しさん@3周年 :2006/12/16(土) 23:57:06 ID:la3eMtVU
>>157 もう滅茶苦茶だね。自分がどれだけ馬鹿やってるのかわかってるのか?
君は論点拡張することしか知らないんだね。
その列挙部分はすべて誤読だと思うよ。
まず、「補語が形容詞となる」ことを君は否定したと言うことになっちゃうよ。それでいいのか?
私は電波ほど優しくないよ。論点拡張して逃げても追い詰めるよ。
160 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 00:18:54 ID:Y1hboUNi
>>159 じゃ、最後に。「論点拡張」したのは君でしょ。サンスクリット文法から一般文法に飛んだ。
言語学的に問題なのは<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」>と呼ぶかどうかだ。
それについて君は全く触れず、サンスクリット文法から一般文法であるという断りもいれずに、
「”主語+補語(主語記述部分)”では補語の部分は広い意味での形容詞である」と言った。
もちろん英文法において「補語が形容詞となる」ことは認めますよ。
しかしサンスクリット文法に補語という概念は必要ないし、
例文のiyam atra dharmatAの 補語とされた dharmatAは形容詞ではない名詞だよね。
しかも問題となっている vijJapti の形態論の問題とは全く関係ない。
形態論の話ではない、統語論の話にすり替えたわけだ。
>その列挙部分はすべて誤読だと思うよ。
自称言語学者と同じだね。印象操作じゃなくきっちり、論証したらどう。1.での君の論点は分かったから、
それ以外はどうよ。証拠を挙げて論証したら答えよう。
161 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 00:29:22 ID:ZRxkkkOl
>>160 あれ?ものすごいすり替えがおこなわれているね。
では、主語を修飾する語句(補語=dharmatA)はシンタックスからみて名詞であると主張するのかな?
単語一語をとらえた場合は名詞であると言ってもよい。
しかし、シンタックスの中で意味をとらえるときに一語にとらわれ文意を外すのはおかしいな。
三界(主語)+唯識(述語=補語)を考察するときに、唯識=名詞と考えるのかな?
まだ何を揶揄られているのかわからないのかな?
162 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/17(日) 01:46:52 ID:bHaacvQx
>なんだい言語学で「形容詞化」(笑)なんて用語聞いたことない。全く言語学的ではない。
この発言における“言語学”の範疇を梵語が対象今更言い募っても、見苦しい“アドホック虚偽”の標本にしかなり得ません。
>>115 >>117 への“論駁”は不可能ってことですか。
尚、当方は如何なるものであれ、所謂“神学”には全く関心を持っておりませんし関知致しません。悪しからず。
163 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/17(日) 01:48:41 ID:bHaacvQx
訂正 梵語が対象今更言い募っても→梵語が対象であると今更言い募っても
>>149 まあ簡単にいうと、そういうことになりますね。
論旨は、俗諦と空諦の二諦において解釈せにゃならん訳です。
二諦あいまって中道ですから、
偏せざれば法にあらず。
かように調うてくだされば宜しい。
(つづき) >論旨は、俗諦と空諦の二諦において解釈せにゃならん訳です。 とは言っても、ただ解釈するには凡夫には至難だから・・・ そこが”宗教”たる所以なんでしょう。 空諦へと透過していくには菩提心において成されるわけですから。 疑なくば大義もなし。
166 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 09:31:10 ID:vgrXjCTO
看よ看よ臘月(ろうげつ)尽く
167 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 11:11:05 ID:uy4O4oJm
頭数 入れてもらえぬ 出禁バカwww 俗世にも シカトされてる 出禁バカwww
168 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/17(日) 11:54:32 ID:bHaacvQx
“みのもんたF田”とその一味(H田もその構成員?)やらの旧悪露顕組連中が 粘着し跳梁跋扈して居るんですかね。見苦しいことこの上ない眺めですな(苦笑)。 まあ、かかる輩どもは世間からさっさと粛清排除されるべきでしょうが。
169 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/17(日) 12:15:30 ID:bHaacvQx
オイラ なる自称。 どうゆうこと? なる1980年代コピーライター(笑)状の言い回し。 かてて加えて素朴二諦論(笑)。 とすれば昨日のID:oHoQ/4sl&ID:Y1hboUNは 夏炉冬扇のニューアカ幇間型芸風の自称中観派チベット行者だな。 まだ生きてたのね、この人(笑)。
170 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/17(日) 15:44:15 ID:bHaacvQx
いずれにせよ、憂き世を渡っていくにあたり、タルチュフどもを一絡げに放逐排斥して行く 必要は常に発生しているものと理解します。
171 :
オルゴン :2006/12/17(日) 17:12:10 ID:vgrXjCTO
>>170 菩提心なき仏教悪趣味者の太鼓もちアホ陀羅スネオから
“タルチュフ”呼ばわりされたのでは、
モリエール先生も(苦笑)せざるをえまいぞ、アホ。
おまいは業報輪廻を信じてんだから、アホ輪廻決定!だな wwwwww
172 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 17:25:28 ID:uy4O4oJm
遣る方も 無しにわめくか おバカラスwww
「あした待たるるその宝船」。→赤穂浪士の句
まあ、ここまで逝けば殆ど悟ってる状態なんだろうけど。
>>166 参照
つまり菩提心というのは生死を超越した覚悟のことだね。
生死あらずんば、もはや輪廻の迷いなどあろうはずがありゅらん。
生の歓喜こそ、逆説的な死の覚悟なんだけど、
こういうアカデミックな法門というのは、凡夫には足し難いんだろう。
「もはやこれまで」とか、そこまでの諦観がないとね、
彼岸には逝けんかとおもうよ。
ちなみに私は「除夜の鐘」を聞いてメクラが治ったけどね、
眼が開かんと、どうにもならんのだよ。
174 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 18:30:36 ID:uy4O4oJm
殺盗淫 何でも桶の 出禁バカ
>>114 還梵でしたか。気づかずに失礼しました。
>>117 その引用されている部分は、
>>63 の2の梵文の直前の部分ですね。
ここは現代語訳を読んでいたときに、チェックしておいたところです。
唯識二十論について述べるときの例として挙げようと思っていました。
他にも印を付けてある所は多数あるのですが、原文の雰囲気を知る方を先にしてたので
所見を書くのが遅れています。
> 仏陀たちの(認識の)対象であるような、表現を超えた本性としては、ものがないというわけではない。
>>149 で反論が書かれていますね。
> ブッダの領域は…『二十論』の記述対象とはなってない。
熟読していない段階なので、コメントはこれくらいで。
>>175 ところがその仏陀の領域を記述するのが二十論の目的なんです。
論の最後に次のように記されています。
世親が二十論でのべたこの教えについて、
「では、この教えは完全な形としてはだれの認識領域であるかというと、
仏陀たちの認識領域である。
完全な形態としては、この教えは世に尊き仏陀たちの認識能力である」
以上、梶山雄一訳です。
仏陀の認識領域を記述するのではなく それがなぜ記述できないかを説明するものでしょう。
178 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 23:35:49 ID:Y1hboUNi
>>161 すり替えは、君だろう。あの文脈で形態論以外の話に持ち込むのは?としか言いようがない。(/_;)
そういえば山口瑞鳳のトンデモ説「二表現位相」によって<インド系言語の「存在」にかかわる語彙>
を説明できるなんて言っていた何にも知らないのに兎に角・偉そうな自称学者がいたんだけど。
まさか電波の自演でなく本当に学者じゃないよね。何にも知らなすぎるから。
> では、主語を修飾する語句(補語=dharmatA)はシンタックスからみて名詞であると主張するのかな?
> 単語一語をとらえた場合は名詞であると言ってもよい。
> しかし、シンタックスの中で意味をとらえるときに一語にとらわれ文意を外すのはおかしいな。
> 三界(主語)+唯識(述語=補語)を考察するときに、唯識=名詞と考えるのかな?
あ〜あ、学校英文法の基本も知らないようだ。補語は形容詞だけじゃないよん。名詞も補語になれるんだけど。
なんにも知らないな。I'm a man. SVC/manは名詞だよ。形態論と統語論をごっちゃにしてるね。
http://www.oup.com/oald-bin/web_getald7index1a.pl 3 (grammar) a word or phrase, especially an adjective or a noun,
that is used after linking verbs such as be and become,
and describes the subject of the verb. In some descriptions of grammar it is used
to refer to any word or phrase which is governed by a verb and usually comes after the verb in a sentence:
In the sentences ‘I'm angry’ and ‘He became a politician’, ‘angry’ and ‘politician’ are complements.
dharmatAも唯識も名詞に決まってるでしょ。
「三界(主語)+唯識(述語=補語)」と統語論で解釈すると補語だから形容詞化されると言いたいのか?
そんな珍説、誰が言ってるの? とにかく君は言語学以前に学校英文法でもおさらいした方がいいよ。
本当に学者なら学生に珍説、吹き込まないでよ。で「学生はバカで何にも分からん」とか言ってたりして。(^◇^)
179 :
名無しさん@3周年 :2006/12/17(日) 23:45:26 ID:Y1hboUNi
>>164 賛成してくれてありがとうございます。ですが唯識では二諦をあまり言わないですね。
>>175 いえ、どういたしまして。多分、『二十論』解読できましたら所見をお聞かせください。
>>176 何んでそう読めるかな?
>>177 さんが仰るようにその直前に逆のことが書いてあるでしょ。
180 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/18(月) 01:01:12 ID:ueamvEG5
『世親』(講談社学術文庫)所収の『唯識二十論』冒頭部分の和訳と訳註を参考までに。 大乗では「三種の〔現象〕世界(=三界)は唯だ識のみである」と主張される。なぜなら「ああ、勝者(ブッダ) の子(弟子)たちよ、三種の〔現象〕世界は唯だ心のみである」と経に説かれているからである。 心と意と識と了別(*)とは同義語である (*)了別(vijn~apti)とは、「知る」という動詞vi-jn~a~の使役形から作られた名詞形であり、「二つにわけて(vi) 知らしめること(jn~apti)」というのがその原意である。すなわち心が主観と客観とに二分化し、その対立の上 に具体的に行われる認識活動一般を意味する。瑜伽行唯識派は好んでこの語を用い、「唯識」と言われる 場合の識はほとんどvijn~Anaではなく、このvijn~aptiである。心はかならずなんらかの対象を表象としても ち、その存在を自己自身に知らしめている。という観点からこの語を重要視したのであろう。「識別」「記識」 「表象」と和訳する例を見るが、ここでは玄奘訳の「了別」をそのまま用いたが、以下は識という訳語に統一し た。
181 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/18(月) 01:17:36 ID:ueamvEG5
> 動詞派生で形容詞化する場合、例外を除いてほとんどが受動のニュアンスをもつのはどの言語でも同
> なのです。またその語の中に受動の意味が含まれてくるのは周知の事実です。
という言語学者さんの発言に触発されて書き出したのが、
>>83 の用例です。
182 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/18(月) 01:43:21 ID:clU9M7D4
ここは言語学のスレでつか?
183 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 07:49:04 ID:Z224YFIk
>>178 あんた、また同じ過ちを犯してるね。
サンスクリット文典だけで話していたときと同じ。学校英文法の話をしているのはあんただけ。
S+Vの補語が統語論的に名詞だという珍説があるのなら示してくれ。
名詞が名詞を修飾するんだな?あんたの珍説によると。
184 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 09:02:18 ID:x2JtvFsK
>>179 >ですが唯識では二諦をあまり言わないですね。
なるほど、そうでしたか。
>>180 まあ、ようするに「了別」というのは色即是空の「色」のことだね。
心作用のこと。
五蘊は色であり、即空である。→五蘊皆空
186 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/18(月) 09:36:30 ID:HYS9KxvG
ちなみに
>>180 の和訳&訳注は横山紘一氏によるもの。
書籍本体は、三枝充悳氏名義になってますが・・・。
187 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 10:01:05 ID:CVb91Lsu
出禁バカ 訳もわからず 恥晒しwww
>>186 >和訳&訳注は横山紘一氏によるもの。
そうでしたか。
どこかの大学で教鞭をとっている御仁ですか?
まあ、そういうことはどうでもいいですけど・・・
>すなわち心が主観と客観とに二分化し、その対立の上
>に具体的に行われる認識活動一般を意味する。
これは間違いですね。
というか、こんなこと考える人はいないですね。
対立はしないです。
十二処を考えたら中学生でも分る。
189 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 11:40:06 ID:CVb91Lsu
死に体で 支離滅裂の 出禁バカwww
190 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 13:13:41 ID:akXiTFpa
>>180 >すなわち心が主観と客観とに二分化し、その対立の上
>に具体的に行われる認識活動一般を意味する。
おい、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ よ、おいらみたいな無能者にも
解るように解説してくれ。西田の純粋経験が発展してゆく過程のことを
言っているのか?誰が「心を」主観と客観に二分割するんだ、なんのこっちゃ?
こんなトンデモ文言を理解できる奴がいるのか?なんぼ西田でもここまで
アホはいっとらんと思うが・・
191 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 13:31:33 ID:CVb91Lsu
基地害も タケナワなるか おバカラスwww
192 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 13:38:06 ID:Z224YFIk
>>190 その文章は横山先生で、元になるのは瑜伽行唯識派の中の一派の説。
193 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/18(月) 13:45:24 ID:HYS9KxvG
>>192 「安・難・陳・護、一・二・三・四」でしたか・・・。
194 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 14:11:38 ID:8VyW5UcL
>>183 まず自分で根拠を示そう。何も示してないですね。
まぁ、でんなみお氏がどこでも同じやり口なのは分った。 オカ板住人としては。
dazabhUmizvara 梵文大方広佛華厳経十地品 近藤隆晃 校訂 中山書房 昭37 大乗の實現(梵文十地経現代語訳註) 川瀬光順 冨山房 昭17
vizeSa syntax 統語論。文の構造について論じる morphology 形態論。語形の変化について論じる phonology 音韻論 ゴンダの語彙欄から vijJapti-, s. f. 身分の低いものの高いものに対する話しかけ。 jJA-, IX, jAnAti 知る; viと共に, 使役動詞 人に知らせる。 これを見ると、vijJA- は使役動詞の扱いのようですね。
根拠は示さず罵倒だけしとけば とりあえず何があっても絶対に論破だけはされないからなw
《jJAti の指すもの》 @知る対象←(A知る行為)←B知る者 kRt- 接尾辞 -ti は、行為者名詞ではないからBではない。行為名詞としてA、 さらに具体的名詞として@(近親)を指すようになる。(gati 行路・出口, kSiti 住居, etc.) 《vijJapti の場合》 @知る対象←(A知る行為)←B知る者(使役対象)←(C使役行為)←D使役者 本来はC('令他'…無表), Bを指すが、使役行為よりも 焦点が対象の方に移り、A(心意識等), @(外塵/似塵識生)を指すようになる。 同じものを指しているようだが、CDが背後に控えている点が jJAti とは違う。 いずれにせよ、知る対象と知る者の関係は、後者からは「知る」という能動、 前者からは「知られる」という受動の関係が生じる。 ・・・などと考えてみました。 焦点が移る理由は、使役の意味合いが薄れることによりますが、 まとめるのに時間がかかるので(9割方は入力済み)、明日、書きます。
200 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 21:28:06 ID:+2LZ8Zxk
201 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 23:40:28 ID:Ba32xYgf
>>183 ほいさっさ、有名なホーンビーの Guide to Patterns and Usage in English では、
1.32で主語+be+補語の文型として名詞が補語となる例として This is a book. 等が挙げられ、
1.33では形容詞が補語となる例として It was dark. が挙げられている。
また何れも修飾/被修飾関係ではなく、名指し、指示ですね。
『チョムスキー小辞典』ではGB理論の概要を述べた箇所で、78頁
+++++++++++++++++++++++++++++++
文法現象の中には、全範疇にではなく、ある特定の類の範疇のみに限って見られる現象がある。
たとえば、後に見るとおりVとPは格付与能力を持つが、AとNは持たないとか、N"とP"は分裂
文の焦点の位置に生起できるがV"とA" は生起できないといった現象がある。
It was [N" your book about the double helix] that I wanted.
It was [P" under the chair] that I think i left my coat.
*It was [V" go home early] that John did.
*It was [A" very angry at me] that John was.
+++++++++++++++++++++++++++++++
V:動詞 P:前置詞 A:形容詞 N:名詞 *:非文
とSVC構文で明らかに名詞と形容詞を分けて扱っているし、文法現象に差異がある。
さらに補語という概念を用いない文法もある。補語なんて絶対的な文法用語ではないのである。
では、今度は君が根拠を明示する番ですよ。できないならもう無理しないように。
沈黙したとこみると君はどうやら「二表現位相存在語彙」君らしいが、その説は放棄したなら、
感謝するように
202 :
名無しさん@3周年 :2006/12/18(月) 23:47:24 ID:Ba32xYgf
>>180 >>197 その説は、古く宇井さんが唱えたもの。ただし表/rnam par rig byed pa しか説明できない。
識/了/rnam par rig pa に適応する説を語形成、ヴィヤーカラナに添って解説した後で、
なんでそんなゴンタとか横山さんを引用するのでしょうか?
203 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/19(火) 00:51:38 ID:HhpjCiIF
天竺の言の葉に「たとへなり」なるを無しと見ゆ烏滸を眺めて いにしへの ふみことのはに みえぬとて などそのこころ なしと思はむ
204 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/19(火) 01:13:46 ID:HhpjCiIF
キより、ゑづくろしきゑびすを見て 辺土にて 養はれしか ことのはに 受け身の体も なしは烏滸なり
>>199 >いずれにせよ、知る対象と知る者の関係は、後者からは「知る」という能動、
>前者からは「知られる」という受動の関係が生じる。
いわゆる唯識派というのは、論理的整合性を構築して逝くのが特徴かと思います。
このために心血をを注いで、一生この難題に悶絶しつつ最期を遂げる。
というのは、
私はアホダラ氏において既に感づいておったのですが、
やはり、その勘は当たっているかと思います。
これはつまりは簡単にいいますと、帰納と演繹の違いですから、
法の側面からの考究は随分勉強になりますね。
>明日、書きます。
そうですか。
じゃあ、私は貴殿の論説を楽しみにしちょります。
206 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 07:15:45 ID:z99U3Wk7
いいかげん形容詞化がどうこうというやりとりはうざい。 双方の言い分を聞いていたが要するに「形容詞化」をどう定義するかが 双方で違うというだけだろう。 一方は普遍言語を持ち出し、 どんな言語でも形容詞化はあると言っているようだが、 最初に言い出したほうはその意味で指摘していない。 これではどちらもその定義内では間違っていないので決着はつかない。 つまり どっちもどっち。
208 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 08:55:09 ID:3TgPR5d3
話される 中身判らぬ 出禁バカwww
209 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 10:00:44 ID:bYlST2Zg
これを言っちゃーおしめーかもしれんが(叩かれるだろうが)、 唯識の「識の構造」と「四分説」−主客未分世界のごちゃごちゃ説明は、 原始仏教的立場からすれば、実践的にはヴィパッサナー瞑想のsati(サティ)で 実在(事実)=ダンマに迫り、事実と妄想を峻別して清浄道を実践することで尽きている、 余計な無駄思考・知識だと思う。ブッダからは「あんたらアッフォでっか?」と言われかねん。 同じやるんなら、日本の西田哲学や鈴木大拙のほうがオモロイで。
210 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 10:27:57 ID:ByiLX2My
211 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 11:11:50 ID:3TgPR5d3
基地害に 加え外道か おバカラスwww
212 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/19(火) 11:26:02 ID:eoo1EEqU
>>207 少なくとも一方は、
> 動詞派生で形容詞化する場合、例外を除いてほとんどが受動のニュアンスをもつのはどの言語でも同
> なのです。またその語の中に受動の意味が含まれてくるのは周知の事実です。
という前提で語っていますよ。
213 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 12:44:45 ID:ByiLX2My
>>212 だからそれをフォローする典拠、根拠が示されてないですけど。
それを示さなきゃ始まらないでしょ。それが反証可能性であって、
それがなければまさに誰かが言ったアドホック虚偽なんだけど。
214 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/19(火) 12:47:27 ID:eoo1EEqU
毎度の子供騙し複問虚偽に反応して貰えなくてタルチュフはおかんむりのようですな(冷笑)。
215 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/19(火) 13:14:59 ID:eoo1EEqU
タルチュフ発言。 >なんだい言語学で「形容詞化」(笑)なんて用語聞いたことない。全く言語学的ではない。 一般向け辞書レヴェルの事例は「全く言語学ではない」とでも? そうか、日本語は「タルチュフ言語学」の対象外なのか・・・(苦笑)。
216 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 13:39:36 ID:z99U3Wk7
>>210 根拠がわからないのなら、あんたも201と同じ。
S+Vの構文をすべての英語に敷衍して、考えるところにすり替えが生じているのです。
つまり、指示代名詞や " It (be) that "などの形式主語を持ち出すのは筋違いであると見抜くべき。
二表現位相?なんの事?山口瑞鳳嫌いなのかな?
217 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 14:32:14 ID:ByiLX2My
>>216 そんなこと言ってないでここに書いてあると書けば済むんだが、出せないのはなんで
218 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 15:01:59 ID:MhzQ5o9/
>>202 vijJapti のチベット語訳2種類の一つである、という限定を離れて、チベット語単独で見た場合、
rnam par rig pa の rig が、能動態なのか受動態なのかは、前後の文脈で判断せざるを得ない、
という理解でよろしいでしょうか。
>>219 >能動態なのか受動態なのかは、前後の文脈で判断せざるを得ない、
>という理解でよろしいでしょうか。
能動態とか、または受動態とか、普通は考えないでしょうね。
学者というのは「飯の種」にいろんなことを言うとりますが、
まさかこんなことを本気にしとる訳じゃないでしょ?
縁起に能動態も受動態もないかと思います。
まあ、これが唯識派ということなら、私は謙虚に学びとう御座いますが・・・
なんだか、西田京都学派とか鈴木大拙なんかが妙に光ってくる気がしますが。
わたくしの思いすごしでせうか?
221 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 18:29:19 ID:3TgPR5d3
飯の種 尽きて手詰まり 出禁バカwww
>>199 この【vijJapti の焦点の移動】という着想は、辻文法の次の3箇所の記述から得られました。
p.174 Caus. は…形態のみこれに属し、【使役の意味を失っ】た場合も少くない。
p.175 p-caus. と呼ぶが、これも【使役の意味を失う】ことがある。
p.120 dhAtupATha「語根集成」によれば、10類に属する語根の数は【非常に多い。しかし】
{[本来の10類動詞]すなわち【他の動詞に属することなく・使役の意味をもたないもの】}と、
[Caus. 或いは Den. ]とが【混同され】、かつ 【Caus. が使役の意味を喪失する傾向が強まった】
結果、【ますます区別があいまいとなった】ためである。
〜〜〜〜〜
次に、KRt 接尾辞(-tiが属す)の項にある、
p.210 第1次派生語は…時には動詞の語幹 (… caus. 等)を基礎とする。
これから vijJapti の vijJap- が使役形の語幹であると見てもよい、と思われます。
〜〜〜〜〜
以上、2つの点から考えると、
p.120 の記述に示唆されているように、また梵英辞典などにも採録されていないように、
使役の意味がないという語根 jJap- を想定せずとも、解釈が可能なのではないか、
いやむしろ、使役の意味をも含意する jJA- -> jJapaya- 系の語幹を背景として持たなければ、
vijJAti との差別化は不可能なのではないか、・・・という発想によるものでした。
《付記 使役と p の残留とについて》
受動、jJA-ya-te 彼は知られる
使役、jJA-p-aya-ti 彼は知らしめる;彼は教える・知らせる
使役の受動、jJA-p-ya-te 彼は知らしめられる;彼は教えられる・告げられる(使役の意味は失われていると見なせる)
のように使役形から受動形を作るときも、aya は取り去っても p は残します。
これで、単なる受動の jJAyate と区別できます。また、辻 p.196 で、
過去分詞 jJap-ta は caus. jJapayati 系からの派生とされています。
223 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 23:27:49 ID:XMIZ6UmZ
阿呆陀羅經さん、相当愚鈍なのか、不誠実なのかのどちらかですよ。
つまり彼らの言う「形容詞化」の特殊性を私が明らかに指摘したのに分かってないのか、
あるいは分かっているのに敢えて無視して一般的な「形容詞化」の意味で反論しているのか?
>>212 > 動詞派生で形容詞化する場合、例外を除いてほとんどが受動のニュアンスをもつのはどの言語でも同
> なのです。またその語の中に受動の意味が含まれてくるのは周知の事実です。
>>215 >なんだい言語学で「形容詞化」(笑)なんて用語聞いたことない。全く言語学的ではない。
両方とも根本的問題なんですけど。既に >109-112 で詳しく説いたように、
何かの派生で形容詞になることを「形容詞化」と呼ぶことを問題にしているのではないんです。
「形容詞化とは形容詞にするノミに有らず」名詞である vijJapti が
<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」>と言語学で呼ぶことと、
「形容詞化」されるから vijJapti という「語の中に受動の意味が含まれて」いることが問題なのです。
vijJapti には「受動の意味が含まれて」いないことは使役形態の「表」、非使役形態の「識」の
どちらにしても明らかです。
そしてvijJapti のような名詞であっても<動詞語根から派生していくことを >「名詞化」と呼ばず、
「形容詞化」と言語学で呼ぶことは聞いたことがなく、私が知る限り全く言語学的ではないのです。
それを言語学的だというなら証拠を明示しなければならないでしょう。
常識的に変だと思いませんか?
224 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 23:30:15 ID:XMIZ6UmZ
>>216 へ〜、分裂文や外置構文は例外ですか。
じゃ同じくホーンビーの Guide to Patterns and Usage in English 1.32で
主語+be+補語の文型として名詞が補語となる例として His father is a lawyer. も挙げられてます。
これでいいでしょう。では、貴方の説の典拠を示してください。一週間以内に示せないならハッタリ決定ですよ。
典拠を示めさない限り、もうこの点については無視しますので、そゆことで。
「二表現位相存在語彙」君じゃなかったの、それは失礼。
225 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 23:30:50 ID:XMIZ6UmZ
>>219 「rnam par rig pa の rig が、能動態なのか受動態なのかは、前後の文脈で判断せざるを得ない」
ご質問の意図が分かりません。「rnam par rig pa の rig」では√ jJAは「能動態なのか受動態なのか」と
聞いているのと同じです。
既に
>>64 で言ったようにrig-pa とした場合、不定で能動でも受動でもありません。
能動/使役: rig byed 受動: rig bya 行為名詞の場合は特に rig pa po と言ったりします。
226 :
ブッダ :2006/12/19(火) 23:40:07 ID:bYlST2Zg
あんたらアッフォでっか?
227 :
名無しさん@3周年 :2006/12/19(火) 23:54:13 ID:XMIZ6UmZ
>>222 なるほど √ jJAで使役の意味を失った形が jJapti という訳ですね。それは李さんも検討しています。
ですがそうなると次の問題が出てくると思います。
jJApaya という使役語幹で使役で用いられていない例がなければならない。
ところが一般に jJApaya は使役語幹で使われており使役の意味を失った形が jJapti という可能性は低い
と思われます。まあ、これに関しては vijJapti が同じな訳ですから、意味を蔵漢から確認して
誤らなければいいと考えます。要するに語根がどちらであるかは、さほど重要でなく、
vijJapti が表象の意味で使われているか、知覚の意味で使われているかを誤らなければいいと思います。
受動態から派生した場合は、形態の問題と、蔵漢に受動の意味が見られない
という二つの理由から、考えられないと思います。
つまり jJapti に受動の意味は求めることはできない。これは間違いないでしょう。
228 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/20(水) 02:39:59 ID:FdgUFL5w
汚穢タルチュフ言明は、 >なんだい言語学で「形容詞化」(笑)なんて用語聞いたことない。全く言語学的ではない。 ということ。言語学に対する非常に明確な言表。アドホック虚偽に変わりなし(失笑)。 ゑづくろし いと穢らはし ゑびすごと
>>223 で意味がやっとわかった。
そりゃ阿呆陀羅經が単に言葉の揚げ足取りしてるだけだな。
子供のけんかレベル。
>>223 アホダラ氏は間違いを指摘されますと、一応はハッタリをかまして逃げます。
そして頃合いを見計らってコソリと訂正風な書き込みをし、
(机龍之介に同意の意思表示)
慌ててスレの流れを遮断しようとしますねw
これを私は何度もやらされてますから(ニガワラ
以後、アホダラ氏は机とは絡まんよぉになりましたよ。
( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
231 :
名無しさん@3周年 :2006/12/20(水) 08:04:56 ID:3ni6Vg+E
>>228 不誠実だとハッキリ分かった。もう誰も電波擁護派以外は貴方の言葉は信じないだろう。
全員トイレ掃除でもしとれ
233 :
名無しさん@3周年 :2006/12/20(水) 09:57:08 ID:reW4epgQ
乾尿橛 もとめもとめて 臘月尽きる
234 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/20(水) 13:50:31 ID:FdgUFL5w
カテゴリーミスをさんざん侵しておいて居直るのが 汚穢タルチュフクオリティ(冷笑)。 外境の実在否定≠外境の否定 という論理以前の誤謬とか・・・。
235 :
名無しさん@3周年 :2006/12/20(水) 14:07:23 ID:8OyA5k3K
盛り場の 残飯漁る 出禁バカwww 段ボール 終の棲み家の 出禁バカwww
236 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/20(水) 14:18:28 ID:FdgUFL5w
訂正 外境の実在否定=外境の否定 という論理以前の誤謬とか・・・。 烏滸どもや蟲喰ひを眺め渡して いつはりを 問ひにしのばせ 呼び掛けど たれかその手に乗らむものかは
>>225 >rig-pa とした場合、不定で能動でも受動でもありません。
>能動/使役: rig byed 受動: rig bya 行為名詞の場合は特に rig pa po と言ったりします。
レスありがとうございます。paが余計でした。不定詞形でなく、rig byedのような場合に
byedが能動というふうに、文脈を離れて(術語として能動に)固定してるのか、という意味でした。
前スレ899にあったrnam par rig byed ma yin paのbyedが気になってたものですから。
>>114 >還梵を元に論じても意味ありません。
>>107 で引用されている『華厳経十地品』の「三界唯心」の対応梵文citta-mAtraM traidhAtukam は、
>>196 の刊本『梵文大方広佛華厳経十地品』からの引用なのでは?
『華厳経』全体はまだでも、『十地品』梵本は発見されてるということじゃないの?
それとも「三界唯心」の部分だけは欠損してて、そこはチベット語訳からの還元梵文ってこと?
239 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/20(水) 22:18:29 ID:FdgUFL5w
>>227 >√ jJAで使役の意味を失った形が jJapti という訳ですね。
この着想では、完全に失われたわけではない、という点が重要です。使役の意味が完全に失われて
いれば、vijJAti との区別はありません。そうならば、vijJapti でなくて vijJAti でもいいわけで
す。わざわざpを入れた意味は何か、というのが、そもそもの疑問の出発点でした。そこから、視点
の移動という見方が出てきたのです。使役のニュアンスは完全には失われていない、という・・・。
>jJApaya という使役語幹で使役で用いられていない例がなければならない。
辻文法 p.175の jJApaya-(又は jJapaya-) '知らしめる'と jJapaya- '示す'の2つの対置は、前者
が使役の例、後者が使役の意味を離れた例として提示されている、と見なせるのではないでしょうか。
また、jJApayati などの直接の形ではありませんが、下記の例なども jJap-が使役の意味を離れて
いることの傍証になるのではないでしょうか。
使役の受動、jJAp-yate 彼は教えられる・告げられる ⇔ 受動、jJA-yate 辻 p.170
過去分詞、jJap-ta (from caus.) 同 p.196 ⇔ 過去分詞、jJA-ta (from jJA-) 同 p.197
後者 jJapta は使役の意味が失われているかどうか明確ではありませんが、前者 jJApyate は使役の
意味が失われた例として、菅沼・新基礎に出ていました。使役動詞は使役の意味のほかにさまざまな
意味を表す、といった記述もあったと思いますが、正確な表現は覚えていないので明日あたり調べてきます。
しかし、逆に言えば、使役のニュアンスがまったくないなら、回りくどく vijJapti とせず、
vijJAti とすればよかったはずで、そうしなかった意味を説明しなければならないと思います。
提示された論文では、その辺のことは説明されていますか。
>vijJapti が表象の意味で使われているか、知覚の意味で使われているかを誤らなければいいと思います。
上の方で触れられていた識の四分説のうち、難陀の二分説、見分・相分が発想されたのも、-ti が
指すのが行為名詞とみるか具体的名詞とみるか、に関わってくるのではないか、と思っています。
つまり、行為名詞なら見分・知覚、具体的名詞なら相分・表象ですね。
241 :
名無しさん@3周年 :2006/12/21(木) 00:15:51 ID:ux0HlBdX
>>237 いえ、文脈に依存します。ただし、受動や使役を示す場合は必ず形態素が挿入されます。
>>238 そう『二十論』の<「三界唯心」の部分だけは欠損してて、そこはチベット語訳からの還元梵文ってこと>です。
そしてそれを巡ってはなかなか複雑な文献学が展開しております。前掲、原田<『唯識二十論』ノート>(1)(2)が詳しい。
>>240 なぜ vijJapti なのか私の見解は以下のように始めにのべました。
私の述べたことをもうちょっと読んでいただけないでしょうか? その他の疑問点も解決すると思います。
李さんの論文では触れられてません。また論文はPDFで簡単に読めますので読んでみてください。
> 898:名無しさん@3周年 ::2006/12/06(水) 09:06:24 ID: LSy4alus (5)
> <阿含経の「心・意・識」>に<唯識二十論の「了」>が何故、加えられねばならなかったか?
> それが問題でしょう。つまり、何故 citta-mAtra ではなく vijJapti-mAtra と言わねばならなかったか
> ?
> それが問題です。結論から言えば『解深密経』で vijJapti-mAtra と述べられるからでしょう。
>
> そして『摂大乗論』と違って経証に『解深密経』を引用しないのは何故か?
> それは経典の受容射程の違いからと思われます。
> 通仏教的に受容された <阿含経の「心・意・識」>に
> 通大乗的に受容された大乗経典の citta-mAtra を経証として引用する。
> 唯識派だけで受容されたであろう『解深密経』を経証として引用せず、こっそり会通させる。
> そのためには citta-mAtra ではなく vijJapti-mAtra と言わねばならかった。
それぞれ詳細に述べると面白い問題もあるのですが、時間がないので、またいずれ。マルチレスでスマソ!
>>241 近藤本98ページ、註番号23のところ。
cittamAtram idaM yad idaM traidhAtukaM
とありますね。これは「三界唯心」という部分ではないのですか?
243 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/21(木) 14:49:08 ID:wdXapyye
244 :
名無しさん@3周年 :2006/12/21(木) 15:29:39 ID:wasOinFt
誰かジャイナ教と仏教の違いを分かりやすく教えてくれないかな? 特に教理的な部分で。
>>241 >文脈に依存します。
なるほど、やはりそうでしたか。ありがとうございました。
>受動や使役を示す場合は必ず形態素が挿入されます。
使役・受動に関する動詞・助動詞としては、
助動詞は、byaが受動・未来・義務、byedが能動・使役、chugが使役。
行為対象を持つのが他動詞で、能動・受動に訳せる、となるようですね。
>>63 のチベット語訳rnam par bzhagが「A は B と設定される/A を B に設定する」と
2様に訳されていたのですが、訳し戻された方ではvyavasthApyateと受動になっていたので、
こちらも気になっていました。
この文では、チベット語としては、受動にも能動にも訳せる、ということですね。
ところで、Aは能動文で第1主格(〜は)、また受動文で第2業格(〜を)にとっているとして、
Bの助辞duは第2業格・第4為格・第7於格にとれますが、この場合は於格で、
Aの存在場所、Aが(分けて)立てられる場所、ととっている、ということでしょうか。
「A(主格)+B(於格)+rnam par bzhag」という決まったパターンがあるようですね。
>>241 どうも根本的な錯覚があるようだが、
『唯識二十論』の還元梵文mahAyAne traidhAtukaM vijJapti-mAtraM vyavasthApyate のことを言ってるんじゃなくて、
『華厳経十地品』のcitta-mAtraM traidhAtukam が、還元梵文かそうでないかということなんだが・・・。
まあ
>>242 の『唯識二十論』の非還元でcittamAtram idaM yad idaM traidhAtukaM とあるようだから今更だが。
「唯識論」般若流支譯 唯識無境界 以無塵妄見 如人目有翳 見毛月等事 凡作論者、皆有三義。 およそ論をなすに、みな三義あり。 何等為三。一者立義。二者引證。三者譬喩。 何らをか三となす。一は立義、二は引証、三は比喩なり。 立義者。如偈言。唯識無境界故。 立義とは、偈に言ふがごとく、ただ識のみにて境界なきが故に。 引證者。如偈言。以無塵妄見故。 引証とは、偈に言ふがごとく、塵なくて妄(みだ)りに見(あらは)るるを以ての故に。 譬喩者。如偈言。如人目有翳、見毛月等事故。 比喩とは、偈に言ふがごとく、もし人、目に翳(かげ)あらば、毛・月などのことを見るが故に。 中観派に関連のある方便心論や廻諍論では四量(現・比・譬喩・阿含) 唯識派の所依の経典、解深密経では三量(現・比・聖教) 陳那では二量(現・比、聖教は比量に含める)
>>243 《攝論》真諦譯本「諸師説 此意識 隨種種依止 生起,得種種名。」
「色-識」的梵文 就是 rUpa-vijJapti,「眼識-識」梵文 是 cakSurvijJAna-vijJapti,
這裡的 兩個識 梵文不同,意義 也有差別。
vijJAna 是 主動性的動作 意味,勝呂信靜 學者 將之分成 三個内涵:
認識的主體(包括 精神主體 與 感官)、認識作用 與 認識的結果。
並且 稻津紀三 學者 從接頭詞vi 認為 認識作用 有迷妄、錯誤了別的意義。
而vijJapti,從使役過去被動分詞,可得「使被知道的」之義,
勝呂信靜 學者 認為 有 認識作用(了別) 與 認識的表象 兩種内容,並偏重 認識的表象的意義來 闡述 唯識無境。
vijJapti 並 沒有 公認固定的説法,但「表象」的意涵 是 多數學者 都有 所提及的。
陳一標(1997)<識的詮釋-vijJAna與vijJapti>《圓光佛學學報》第二期。
prajJapti と nidhyapti の検討も要するでしょう。
>>241 PDFの論文をこれから読ませていただきます。ご紹介ありがとうございました。
250 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/22(金) 08:33:24 ID:i3Jxv5FF
>>248 上田義文 《攝大乘論講読》,東京:春秋社。
は架蔵しています。非観念論→非本体論としての唯識理解に資するところ多き
名著かと思います。
>>247 相対性理論と同義ですね。→広義において
佛教では「第三の眼」とか、分りやすいような言い方をする。
眉間のチャクラとか、智慧、仏眼、慧眼とか、いろんな言い方をする。
252 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 10:12:06 ID:lPC+4GVB
失脚し 犬以下のザマ 出禁バカwww
人間というのは、その存在が社会に必要とされておるか? ということなんだよ。 ある意味、天皇などは存在自体に意味がある。 という象徴的なもんだ。 その対極にあるのがニートかもしれんね。 人間は社会に必要とされるためにスキルを磨く。 しかしながら、スキルが必ずしも社会に還元される訳ではない。 というのは大体わかっておっても、この呪縛に拘束されてしまう。 あたかもそれが安住であるかの如くに自らに課す。 そして、 驚くべきことは、この呪縛に雁字搦めにしつつ最期を遂げる。
254 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 13:25:13 ID:hmNKFDcw
劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ(晶子) 机氏、あなた亡きあとも地球は廻ります、ご安心下さい。
255 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 13:41:28 ID:lPC+4GVB
最期まで 虫ケラ以下の 出禁バカwww
84 名前:元八神社員・山下慶子 ◆HOZD09e0RQ [sage] 投稿日:2006/11/01(水) 21:02:15 主婦と引き合いに乃杏(菅)を出して「俺の恋人だ、文句あるか!」と高野聖を脅していた。 その当時、口説いて言いなりになった菅と主婦は恋人圏内 89 名前:元八神社員・山下慶子 ◆HOZD09e0RQ [] 投稿日:2006/11/01(水) 22:29:55 主婦は俺と似ている・正義の人だとさ 馬鹿じゃね? だったら今になって悪口言うなよ 嫌虐という別HNで出てきてちゃんと主婦をフォローしろよ>バスター
458 名前:法の下の名無し[] 投稿日:2006/11/02(木) 22:02:15 ID:2itvG1FS
>>451 あのなあ、自己正当化もいい加減にしろよ
主婦とメッセして惚れていたのは事実だろう。私が「主婦は悪だよ」といったら
「そうかなー俺と似てるよ」と言っていてメッセだと情が移ると言っていたよね
その責任とれっての、主婦はただの病気でしょう。
461 名前:法の下の名無し[] 投稿日:2006/11/02(木) 22:05:02 ID:2itvG1FS
でさ。私は女として「証言してやるから体うんぬん」という発言は大嫌いなんだよ
たとえ私がドブスでも人間だからな
471 名前:法の下の名無し[] 投稿日:2006/11/02(木) 22:16:22 ID:2itvG1FS
>>466 その通り、何ならメッセ公開するよ
すごく不愉快だった
何より主婦が「悪である」というレスに対して「そうかなあ・僕とそっくり」というのには呆れました
「証言するからセックスしろ」は当たり前でしたよ
466 名前:法の下の名無し[] 投稿日:2006/11/02(木) 22:12:53 ID:wT5YyWx2
あのう、つまりバスタが擁護者という立場を利用してサルに対して
体を提供しろと?
このバスタって電波男の事ですよね?
259 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 14:43:23 ID:lPC+4GVB
基地害よ 木ノ芽だちまで まだまだだwww
>>254 黄金の釘が昌子の総括ですね。
三島は割腹で陽明学を完結しましたし、
利休は自害において秀吉を抹殺した。
全てその時が自己完結ですし、
それなればこそ、あらゆるものは属性に過ぎぬ。
第一義空諦
うわっ、こりゃひどい。ここまでバスタが電波だとは(絶句)
262 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 16:12:06 ID:qufYL0gB
>>259 そうそう。で沢山の誤謬を認められないので本体のデン・ナミオは登場できないのか?
263 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/22(金) 16:28:31 ID:hfhA4ui6
はいはい、汚穢撒布は巣穴のみでやるように(蔑嗤)。
264 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 16:33:55 ID:hmNKFDcw
265 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 16:36:57 ID:qufYL0gB
>>264 お! 七誌でご登場のようです。みなさま!
266 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 16:48:11 ID:lPC+4GVB
年の瀬に 声を枯らすか おバカラスwww
267 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 17:17:56 ID:qufYL0gB
>>266 ばかアホは ナミオたちでしょ あんただれ? 笑いもとれぬ スレ汚しつつ
268 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 17:22:35 ID:lPC+4GVB
おバカラス 字数解らず 恥晒しwww
269 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 17:41:43 ID:qufYL0gB
>>266 ばかアホよ 字数で数う 恥知らず 音のこととは 何も知らずに
270 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 18:06:46 ID:lPC+4GVB
おバカラス 哭くほど 増える恥の数www
271 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 18:24:03 ID:lPC+4GVB
死にきれず のたうちもがく 出禁バカwww
>>241 >>242 が指摘している部分は「三界唯心」ではないのですか?還梵されたものなのでしょうか?
>>63 の3を訳読してみました。
yadi もし〜ならば tarhi それでは sarvathA 完全に dharmo ものが nAsti 存在しない,
tad その api 〜もまた vijJaptimAtraM 唯識 nAsti 存在しない ^iti 〜ので,
kathaM どうして tarhi それならば vyavasthApyate 分けて遠く立たしめられる(立てられる)〔安立される〕のか?
それでは,もし完全にものが存在しないならば, その唯識もまた存在しないので,
それならば,どうしてそれ(唯識)が安立されるのか?
gal-teもし chos法-rnam-paものが thams-cadすべて-duに於いて med存在しない naならば,
rnam-par-rig-pa-tsam唯識-zhes-bya-baいわゆる-deこの-yangも(=Skt. tad api) med存在しない-pasので,
deそれは ji-ltarどうして rnam-par-gzhag分けて立てられるのか ce-naと言うならば,
もし,ものとしての法がすべてに於いて存在しないならば,このいわゆる唯識も存在しないので,
それ(唯識)はどうして安立されるのか,と言うならば,
真諦訳:若し一切法 一向に無ならば,是(こ)の唯識も亦(ま)た応(べ)し←無なる。云何(いかん)が得ん←成立するを。
もし一切法がまったくもって無ならば,この唯識もまた無であろう。どうして(唯識の)成立することがあろうか。
三界は唯識だ、というのが唯識派の主張なのに、iti の前の部分を引用文として解釈すると、
「どうして『その唯識もまた存在しない』と安立されるのか」、というように、意味から見て逆になってしまうので、
ここでは「原因・理由の iti」(辻 p.264 c.)を意味していると解釈すべきだと思われます。
また、チベット訳を見ても、ces/shes/zhes に対応するサンスクリット語は確かに iti ということですが、
zhes-bya-ba を辞典で見ると「いわゆる」となっているので、これが前の「唯識」にかかって
「いわゆる『唯識』」になると解釈し、「理由の iti」に対応する具格助辞 pas で理由を示している、と解釈すると、
サンスクリット文と意味が合致するように思われます。
>>273 この部分は、中観派からの唯識説批判です。
唯識なら、唯識ということも唯識だから唯識であるということ自体がありえなくなってしまうのではないか?
という反論です。
これに対して、唯識側は、必ずしも完全に何も無い、というわけではない、として仏陀の認識領域を引き合いに出します。
ですから、引用の部分は、お前の言うことを認めるとお前の主張(=唯識)が成り立たなくなるぞ、というわけですから
>『その唯識もまた存在しない』
と主張するように読むのが正解です。
>>274 > >『その唯識もまた存在しない』
> と主張する
そう主張しているのは誰ですか。世親ですか?それとも中観派?疑問文だから中観派のようだけど、
そうだと、中観派が唯識派の意見『その唯識もまた存在しない』をそのまま引用していることになりませんか?
また、「それでは,もし完全にものが存在しないならば, 」は引用文の中に入りますますか?
ttp://buddhism.lib.ntu.edu.tw/BDLM/index.htm 陳一標 / 「識」的詮釋
學者們 對 vij~naana 的 看法 大同小異,故 依他們 對 vij~napti 看法的 不同,將其分 為五類.
『長尾雅人』等 將vij~napti 視為「表象」,屬 於對象面,不含有 主體的意味,
「唯識」也就 變成「一切只是表象」之意,是 一種 觀念論的形態.
『寺本婉雅』將 vij~napti 視為「創造,統一 境與識的 認識主體」,具 強烈 唯心論的傾向.
『稻津紀三』認為 vij~napti 應譯 為「表識」,與「表象」同屬 對象面的意含,他 更發現 到
vij~napti 具「顯現為境」與「從自種子 生」的 兩個 性質; 而 vij~naana 的性質 則是「相續」與「轉變」.
『芳村博實』主張 vij~napti 原指 對象一面,但《攝大乘論》後,vij~napti 指「純粹的 識的作用」,
是「對象顯現」與「使對象顯現之能力」 (種子) 所在的場所.
『上田義文』反對 將主體的意思 排除 在vij~napti 外,且 堅持 初期唯識思想 不能是觀念論,
他 認為 vij~napti 是 表示「識 見 識自身」之意.
vij~naana の見方は大同小異,vij~napti の見方は同じでない,五類に分けられる
『長尾雅人』等・・「表象」。対象の面に属し,主体的な意味を含有しない,
「唯識」も「一切は、ただ表象」の意味に変わる。一種の観念論的な形態.
『寺本婉雅』・・「境と識を創造し,統一する認識主体」,強烈な唯心論的傾向をそなえる.
『稲津紀三』・・「表識」。「表象」と同じく対象の面に属する意味を含む,
さらに「顕現が境となる」と「種子から生ずる」という2つの性質をそなえる;
そして vij~naana の性質は「相続」と「転変」である、と.
『芳村博実』・・もともとは対象の一面を指したが,《摂大乗論》の後では,「純粋な識の作用」を指す,
これは「対象の顕現」と「対象を顕現させる能力」 (種子)がある場所である.
『上田義文』・・主体の意思をvij~naptiの外に排除することに反対し,また初期の唯識思想は
観念論ではあり得ないと主張する。 「識が識自身を見る」という意味を表す.
>>275 唯識もまた存在しない、というのは中観派の言葉です。
「それでは、」云々ももちろん中観派に擬せられた発言です。
ただし、引用文ではないですよ。
>>274 >唯識なら、//お前の言うことを認めると
>唯識ということも唯識(sic、無カ)だから
>唯識であるということ自体がありえなくなってしまうのではないか?//お前の主張(=唯識)が成り立たなくなるぞ
>唯識ということも唯識(sic、無カ)だから
ここでは「判断」としてるのに、なぜ後で
>『その唯識もまた存在しない』と主張する
と「引用文」に変化してしまうのか。
>>278 引用箇所を一々梵文と対照させてみてよ。
>ここでは「判断」としてるのに、なぜ後で
>>『その唯識もまた存在しない』と主張する
>と「引用文」に変化してしまうのか。
がまとはずれだとわかるからさ。
書き忘れ。 けっして「引用文」ではありませんからね。
281 :
名無しさん@3周年 :2006/12/22(金) 23:01:43 ID:jzZ1AdLM
>242 >246 >272 近藤本は持ってないので「註番号23」と言われても困ります。中には根本的な誤解されている方もいるようで。 『唯識二十論』ネパール写本は第一葉を欠いているのです(これを知らずにこの問題に異見するのは...)ですから、 mdo las / kye rgyal ba'i sras dag 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo zhes 'byung ba'i phyir ro/ の部分の梵文も還梵です。 これは簡単ですので多くの方は理解されていると思います。次に、これが『十地経』の cittamAtram idaM yad idaM traidhAtukaM の引用かどうか? ですがこれはちょっと難しい。なぜなら、'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo は、 ほぼ一致するが、kye rgyal ba'i sras dag に相当する文が『十地経』の前後に見あたらないからです。(BSS p.32) 原田さんは『中観光明論』『中観荘厳論自注』『修習次第』に引用される『華厳経離世間品』も引用されていますが、 こちらには確かに kye rgyal ba'i sras dag はあるのですが、ピッタリというわけでもないのです。 では『十地経』の引用ではないのか、というと『般若灯論註』 [291b]に 'phags pa sa bcu pa'i mdo las / kye rgyal ba'i sras 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo 東北3903にも [142b] 'phags pa sa bcu pa'i mdor gsungs pa / kye rgyal ba'i sras rnams 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo zhes pa と書かれていてインドでもそのように後代は認められていたことが分かります。 また、後魏瞿曇般若流支譯『唯識論』でも 如十地經説。三界虚妄但是一心作故。心意與識及了別等。 と訳されており6世紀のインド人でも『十地経』の引用と考えられていた伝承もあるようです。 そうゆうわけで『十地経』のテキストの問題にも関わるわけで、現時点では私はハッキリしたことは言えません。
菅沼・新基礎p.416
‐‐‐引用始まり‐‐‐
〔補2〕‥‥‥使役動詞があらわす意味
使役動詞(使役活用における動詞)は‘〜させる’という意味から転じて,
さまざまな意味をあらわす。とくに,Caus. Pass. は Caus. の意味を失なって
単に Pass. の意味だけをあらわすものがある。
√jJA‘知る’>jJapayati‘彼は教える’,jJApayati‘彼は教える,知らせる’;
jJApyate (Caus. Pass.)‘彼は教えられる,告げられる’
‐‐‐引用終わり‐‐‐
>>273 > vyavasthApyate 分けて遠く立たしめられる(立てられる)〔安立される〕
> rnam-par-gzhag分けて立てられる
これは、〔使役+受動〕から使役の意味がなくなって〔受動〕だけになっている、
とチベット語訳をした人が理解していた、という例かも知れません。
283 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 00:20:10 ID:yQG3JGHx
>>273 gal te chos rnam pa thams cad du med na rnam par rig pa tsam zhes bya ba de yang med pas
de ji ltar rnam par gzhag ce na /
yadi tarhi sarvathA dharmo nAsti tad api vijJaptimAtraM nAstIti kathaM tarhi vyavasthApyate /
(中観派の反論)「もし総じてものが存在しないというならば、この『表象のみであること』というものも
存在しないわけだから、どうして君はそれを主張しえようか」(梶山雄一訳)
gal te 〜ce na / 「もし〜と言うなら」で対論者の反論全体。
zhes bya ba/iti「〜と」引用を意味し、ここでは対論者の反論の中で引用される自説「知覚だけ」を意味する。
これ以外に解釈の余地はありえません。
> zhes-bya-ba を辞典で見ると「いわゆる」となっているので、これが前の「唯識」にかかって
> 「いわゆる『唯識』」になると解釈し、「理由の iti」に対応する具格助辞 pas で理由を示している、
<辞典で見ると「いわゆる」>というのは『蔵漢』の「ces pa / ga da ba dang / da drag bcas kyi
mthar sbyar nas tshig gzhan 'dren byed kyi phrad gzhan dbang can zhig / 云、云云、所謂、称為。」
の部分なのでしょうが、蔵文の語釈の部分を読めば明らかなように「ga、da、 baや da dragに後置され、
他の言葉を引用する他律辞」なのです。<これが前の「唯識」にかかって「いわゆる『唯識』」になる>ことは
ありえません。
また<「理由の iti」に対応する具格助辞 pas で理由を示している>というようなことは、絶対ありえません。
なぜなら、rnam par rig pa tsam zhes bya ba de の de という指示代名詞が、句または節を表示するからです。
直訳すれば<「知覚だけ」という、それ(君の主張)は>です。「理由の iti」なら rnam par rig pa tsam pas
などと訳したはずです。
他ならぬ「引用文」です。
>>274 さんの仰るとおりです。
284 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 00:25:30 ID:yQG3JGHx
>>248 > 並且 稻津紀三 學者 從接頭詞vi 認為 認識作用 有迷妄、錯誤了別的意義。
> 而vijJapti,從使役過去被動分詞,可得「使被知道的」之義,
> 勝呂信靜 學者 認為 有 認識作用(了別) 與 認識的表象 兩種内容,
>>276 いまさら、こんな二次資料挙げても仕方ないだけど。電波男の主張がこういった二次資料に依っていることを
示唆する資料として挙げたのでしょうか?
285 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/23(土) 12:00:56 ID:yFXc/pN9
>『寺本婉雅』將 vij~napti 視為「創造,統一 境與識的 認識主體」,具 強烈 唯心論的傾向. ふ〜ん、なるほどね〜(笑)。
ニュートン力学が、ある段階まで通用するように
唯識論も、ある段階までは有効なのかもしれませんね。
それから進んで近代物理学となりますと、
やはりニュートンも「古典」となってしまいます。
まあ、原始佛教というのも古典ではありますが・・・
>>276 の典拠は、なにかしらノスタルジーを感じます。
でも、そんなことを逝ってはいけません。
先人はマジで求道していたのでしょう?
その熱意に敬意を表します。
287 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 13:47:24 ID:AJYuwnJf
氏にきれず メクラであがく 出禁バカwww
288 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/23(土) 14:01:40 ID:yFXc/pN9
以下に所収の、表題からして刺激的な『認識主体なき認識論』など非常に面白かろう。オンデマンドにて再版とのこと。 客観的知識 K. R. Popper, Objective Knowledge, 1972 K. R. ポパー著 森博訳 A5判440頁 定価:本体5000円+税 ISBN4-8332-9001-4 C3010 1 推測的知識:帰納の問題に対する私の解決 2 常識の二つの顔 3 認識主体なき認識論 4 客観的精神の理論 5 科学の目的 6 雲と時計 7 進化と知識の木 8 論理学,物理学および歴史 9 タルスキーの真理 ■進化論的アプローチ ポパーの名声を決定的にした『科学的発見の論理』『推測と反駁』を経て本書に至る一連の業績は,科学における認識,事実と理論の関係,科学と 非科学の限界に関心を持つ読者に種々の刺激を与えている
>A5判440頁 定価:本体5000円+税 金を払って読むほどの本でなかろうに(笑ふ 表題からして、その内容は大体わかる。 なんも刺激的にあらず。 ちなみに私は本など買うたことは、あまりない。 図書館で目ぼしい本の目次だけ見て、あとは気に入ったのだけ数十冊を速読。 これが通のやりかた。 図書館は宝の山。つまり宝探しの魅力がある。 そしてなによりゴミは溜まらん。 どうか、買うんだったら良書を吟味したらよかろう。
>>281 大乘唯識論の「於大乘中立三界唯有識。如經言。佛子三界者唯有心。」は
佛説十地經だけでも充分、説明がつくのではないかと思います。まずは卷第一から。
爾時【金剛藏菩薩】。承佛神力。【入於菩薩妙三摩地。名大乘光明】。入此定已。
即時十方各過十?胝佛?微塵數世界之外。各有十?胝佛?微塵數諸佛如來。同名金剛藏。
皆現其面。?作是言。【善哉善哉。佛子】。汝今乃能入是【大乘光明菩薩等持】。
(1)「大乘光明」という禅定で得られた境地を述べている。つまり、真諦訳「於大乘中立」に関わるだろう。
(2)「佛子よ」と呼びかけている。真諦訳「如經言。佛子三界者唯有心。」と同じ。他にも、多数、
この呼びかけは出てくる。原語が勝者の子かどうかは分からないが、意味としては同じ。
謂【即十地安立解釋】。唯諸佛子。當知此處不可思議。謂【於諸地安立法】中自所證智。
(3) 菩薩地に於いて安立する法、という表現。これも、真諦訳「於大乘中立」に関わる。
爾時【金剛藏菩薩告?菩薩言】。【唯諸佛子】若是菩薩。…即此菩薩作是思惟。所言【三界此唯是心】。
(4) 「三界はただ心のみ」となっている。
【無明昏暗稠林。覆障三界牢獄】。我當令彼【永離三界】。住無障礙究竟涅槃。
(5) 「三界」を遠離すべきものととらえている視点。これは重要。
由無明闇纏繞意識。/ 由以欲有及無明漏所?心意意識種子。 / 無明闇にまとわれた意識、という視点。
根境與識三事和合名有漏觸?生名受。/ 謂識不斷復有扶助。識?名色者於識?性。/識滅故名色滅者。
遠離一切心意及識分別妄想無所執著。/ 識と名色との強い連関。
佛子。菩薩住此不動地時亦復如是。一切心意及識現行不復現起。又此乃至諸佛現行。
菩提現行菩薩現行。涅槃現行尚不現起。況復發起世間現行。/心意識も世間も起らない。
識為種子名色芽 三界無始恒相續 / 識を種子として名色が生じ、三界は無始から常に続いている。
291 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 17:21:47 ID:AJYuwnJf
生きている こと即罪の 出禁バカwww 出禁バカ 本も買えずに 野垂れ氏にwww
>本も買えずに 本は買えんけど、井戸茶碗は持ってるぞ(笑う まあ、こういう話をしても通じるかどうか分らんが(爆笑 ちなみに、 私の所有の茶碗を持った瞬間に震えがきた客人もおった。 まあ、眼の肥えてる御仁なら分かるんだが。 ちなみに、 井戸茶碗は本の代金5000円+税よりは高いぞ(核爆
>>283 > 他ならぬ「引用文」です。
>>274 さんの仰るとおりです。
> zhes bya ba/iti「〜と」引用を意味し、ここでは対論者の反論の中で引用される自説「知覚だけ」を意味する。
> 直訳すれば<「知覚だけ」という、それ(君の主張)は>です。
上の文で引用部分とされている所と次の
>>274 の
> >『その唯識もまた存在しない』
> と主張するように読むのが正解です。
この引用部分が同じ内容とはどうしても思えません。
『その唯識もまた存在しない』と主張する
ではなく、
その『唯識』もまた存在しないと主張する
と変わっているように思います。
"rnam-par-rig-pa-tsam" zhes-bya-ba
こういうことなんでしょうか。どこからどこまでがzhes bya baで引用されている部分なのか
明示していただけませんでしょうか。というか、チベット文を和訳していただければ、違いが
はっきりするとは思いますが。
294 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 17:48:49 ID:AJYuwnJf
井戸茶碗 すでに質屋へ 出禁バカwww
>すでに質屋へ 価値が分らんというのは怖いね(^^ゞ あのね、人間というのは感動すると失禁まですることもあるんだよ。 そういうことは全く分らんだろ? いろんなことに遭遇する。 それが一期一会というもんだよ。 これは他言は出来んがな・・・ 平蜘蛛と心中した松永久秀という御仁もいるくらいだから、 この道は奥が深い。
296 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 18:39:56 ID:AJYuwnJf
茶道具も 詐欺の見せ金 出禁バカwww
>>296 貴殿はね、机龍之介じゃなくて、茶人に憧れをもっているんだよ。
(唯識派風に言えば潜在意識での嫉妬)
その裏返しが机に纏わりついてくる。
茶道の道を歩むのであれば、幼児期からの高等教育が必要です。
またそのために授業料も莫大です。
まあ、諦めなされまし。
今からでは・・・手遅れです。
298 :
名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 19:42:13 ID:AJYuwnJf
野垂れ氏に 誰が羨む 出禁バカwww
rnam par rig pa tsam zhes bya ba de
>直訳すれば<「知覚だけ」という、それ(君の主張)は>です。
この訳自体に異論はありません。ただ、zhesに対応するものとしてここで iti を使ってしまっていいものか、
つまり、後に続く yang med pas をどう取るか、とくに pas の位置づけがどうかがポイントだと思います。
>「理由の iti」なら rnam par rig pa tsam pas などと訳したはずです。
「理由の iti」が pas と訳すことがある、というのは共通点のようですが、
上のように訳した場合、 vijJaptimAtraM と iti にはさまれた nAsti の位置づけはどうなりますか。
nAsti は iti で引用されてはいないのですか。
この nAsti の後に iti が来る点が、同じ形で並ぶ med pas の pas が iti に対応していると判断した手がかりです。
最初は zhes が iti の固定的な訳語であることから、おっしゃるように解釈してみたんですが、
それではこの反論全体の構造として、どうもしっくり来ないので、iti は引用というよりも
理由を表し、pas に対応していると判断するようになったのです。
梶山訳でも、nAstIti を「存在しないわけだから、」と理由(わけだから)として訳しているように読めました。
ちなみに括弧が必ずしも引用を意味しないことについて付言すると、梶山訳の、
>『表象のみであること』というものも
の括弧は《引用》の意味ではなく、《強調》のために括弧で括っているように思います。
>>63 の2にある evaM vijJaptimAtrasyApi を梶山訳では
>そのように、「表象のみであること」についても、
と括弧つきで訳していますが、原文の前後を見ても iti はありません。
>>299 チベット訳はチベット語です。
機械的な直訳ではありません。個人個人が自由に訳す場合と比べれば格段に統一の取れた
訳出スタイルにはなっていますけれど、梵語とチベット語が一対一にきれいに対応するわけが
ないのは日本語に訳す場合を考えればおわかりになるとおもいます。
ちなみに、iti は「〜というわけで」と訳す場合もあります。
梵文の、v〜 nAstIti の iti はあなたの指摘するとおり、nAsti までをまとめています。
チベット訳の zhes bya ba と対応しているわけではありません。
チベット語の接尾辞 pa/ba には全体をまとめる働きがあります。「〜なるものすべて」という
意味となり、終辞のように訳さねばならない場合がある理由です。
したがって、今、あなたが問題とされている部分について、iti でまとめられた内容を pa でまとめ、
それに具格助辞 -s を付して理由を表していると理解するのが梵文に照らした場合、適切な
理解であろうと思います。
>>298 境界例の前兆です。
(もしかしたら手遅れかもしれんけど)
境界例は他人のことが気になってしょうがない。
他人の一言一句がアタマから離れない。
非常に苦しい病です。
私は、それらしき人間と複数出合ってますから直ぐわかる。
いわゆる精神的ストレスに弱い日本人の特徴です。
江戸文化の「粋」というのは、この対極にある文化です。
茶の湯は、まさにこのベクトルですね。
和敬静寂
302 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 09:46:17 ID:B5vRJMfy
>>301 机さん、瞋恚・愚痴の無明猿にはエサをやらないほうがいいよ。
唯識なんて無駄な趣味知識は糞の役にたたないが、
この無明猿は実践的な原始仏教の瞑想をやらないとダメなことは確か。
ほとけ、ほっとけ。
303 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 09:48:14 ID:I2/hDaNs
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 残念だが(裏金で県民を無差別に殺す)事実上の 殺人テロリスト犯罪カルト教育集団は実在する。 近藤啓子(1期生)が殺人テロリストなのは間違いない。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 佐藤了は学生や卒業生を使った殺人テロ企画を多発させている。 安藤氏もこの殺害風土で消された可能性がある。 この県の殺人稼業は警察ぐるみである。 赤ん坊から老人まで年間1000人はこの殺人商売制度で消され換金されている。 殺人業態は造園業、道路工事業、除雪作業、病院などの形態を表面上は取り 集団で人を狩り、人肉や臓器に換金する。近藤啓子が殺人テロリストなのは間違いない。 殺害対象は赤ん坊まで多数含まれ、この県では病院で赤ん坊死体が食通マニアのために販売されている。 警察や病院も当然ぐるであり、赤ん坊殺人に関わっている。近藤啓子が殺人テロリストなのは間違いない。 こういった殺人理論を開発しているのが保全生態学(森林科学)研究室である。 その上で環境教育と称してカルト殺人教育を行い、卒業生の一部は次々と県民を殺害し 死体を解体して生計を立てている。それがこの県の実態の一面である。 近藤啓子が殺人テロリストなのは間違いない。年間1000人以上が殺害され自然死偽装されている。 近藤啓子が殺人テロリストなのは間違いない。この県の住民は彼女を見かければ殺人業者として 接するべきである。そうしないと騙されて喰われる。近藤啓子が殺人テロリストなのは間違いない。 県民は全員、気をつけてほしい。年間1000人以上が理不尽に消され喰われている。 造園業者は危険だ。近藤啓子が殺人テロリストなのは間違いない。 他県へ「出稼ぎ」もする
304 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 10:26:10 ID:QYbFMEUa
出禁バカ 基地害他人へ 擦り付けwww 出禁バカ 語るに落ちて 悪事ばれwww
>>302 私は、フランス人的なリベラルが好きですw
元来私は独立独歩型の人生だったですから、どちらかと言うと
日本人的な粘着気質には性が合わない。
(田舎に逝くほど、この気質の人間は多い)→農耕民族の特徴。
関東でいうと、フランスリベラルに近いのは東京ですね。
正直いって、東京に逝くとホットするw
それだけ田舎ってのは他人を詮索する人間が多い、ってことです。
まあ、都会の団塊世代が、退職後に田舎に憧れ移住すると、
この田舎の粘着気質に参るようですが・・・w
私はリアルで、こういう人間達と付き合ってきたのです。
今は、ある程度そういう人間関係もなくなって、
独立独歩型の人達とテリトリーは形成しつつありますが、
近未来的には、これがポピュラーになるかとおもいますね。
今は封建社会からの過渡期。
306 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 11:50:35 ID:QYbFMEUa
行くところ 悪事が露見 出禁バカwww
307 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 11:52:55 ID:QYbFMEUa
田舎者 粘着気質 出禁バカwww
308 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/24(日) 14:00:13 ID:MqUXpLD6
唯識:
[Basic Meaning:] consciousness-only
Senses:
(vij~napti-mAtratA, vij~napti-mAtra, citta-mAtra). The view that nothing is cognized independently from the transformations occurring within
our own consciousness; in other words, everything we become aware of is 'nothing but the transformations of consciousness' .
了別: [Basic Meaning:] perceive, cognize; perception, cognition
http://www.buddhism-dict.net/ddb/search-ddb3.html
309 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 19:06:19 ID:B5vRJMfy
すかす、ほんまに極端な唯心論と誤解されても止むをえんだろう。 阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ がくたばったら、宇宙もくたばるのだ。
310 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/24(日) 19:28:47 ID:MqUXpLD6
唯心論 観念論 独我論 唯物論etc・・・。 いずれも実体乃至本体を前提したもの(→我論・我見)に他なりません かかる不当前提を悉く棄却し、否定・排除して佛教の教理は顕示されます。
>>302 >唯識なんて無駄な趣味知識
中観もチベット語も無駄な趣味ですか?
>実践的な原始仏教の瞑想をやらないとダメ
そんなこと言ってないで、解深密經の毘鉢舍那のことでも調べて報告してください。
T16n0676_p0697c10(00)?解深密經卷第三
T16n0676_p0697c13(00)? 分別瑜伽品第六
T16n0676_p0697c14(00)?爾時慈氏菩薩摩訶薩白佛言。世尊。
T16n0676_p0697c15(03)?菩薩何依何住於大乘中修奢摩他毘鉢舍那。
T16n0676_p0698a28(06)?諸毘鉢舍那三摩地所行影像。
T16n0676_p0698a29(10)?彼與此心當言有異當言無異。佛告慈氏菩薩曰。善男子。
T16n0676_p0698b01(03)?當言無異。何以故。由彼影像唯是識故。善男子。
T16n0676_p0698b02(00)?我説識所縁唯識所現故。世尊。
>>310 >かかる不当前提を悉く棄却し、否定・排除して佛教の教理は顕示されます。
顕示されたものが、もし唯識論ということならば・・・
既にそこで論理矛盾がある。
というか、そもそも論理矛盾という認識があるのか?
そこが問題。
疑なくば真はなし。
疑と真は不二です。
313 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 20:25:18 ID:QYbFMEUa
物読めぬ 虫ケラ以下の 出禁バカwww
314 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 20:25:30 ID:B5vRJMfy
>>311 またまた、ブッダ在世当時は多数の阿羅漢が出たのに
315 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 20:33:26 ID:B5vRJMfy
>>311 失礼。仏教教説が飯の種とか、仏教趣味者ならいいんですよ。
しかし、ブッダ当時でも多数の阿羅漢がでた(本来それが目的)のは事実です。
大乗の頭でっかちでどうなのかが問題ですね。
たとえば
>>313 を大乗で覚者にしてごらんよ。
>>315 なんか根本的に勘違いしているらしいが
大乗はかなり時代が下って釈尊の教えが教条主義に陥り、
阿羅漢が出なくなってからその反省として元に戻ろう、
ということで興った、いわば原点回帰運動ですよ。
もちろん。
>>318 うそだろ。
大乗非仏説の話をききたいんじゃないぞ。
(1)大乗はかなり時代が下って釈尊の教えが教条主義に陥り、
(2)阿羅漢が出なくなってからその反省として元に戻ろう、ということで興った、
(3)いわば原点回帰運動ですよ。
(1)〜(3)それぞれの根拠を示してください。
そういうことは自分で調べてね。
322 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 21:56:38 ID:8bN5eXjU
歴史問題はさて置くとして、現代のテーラワーダでアルハットはいっぱい出てるとは聞かないが、 それはどうなの? 大乗は、チベットでいっぱい成就者がでてるんだけど、それで西洋にも台湾、中国を始めとするアジアでも大乗教徒がたくさんいるんだけど。 例えば、フランスはキリスト教に次いで仏教徒の人口が第二なんだけど、 ほとんど大乗なんだけどね。
いつから大乗なの? どの地域の仏教が大乗になったの? 実践の方法はどれくらい違うの? 歴史問題を抜きにして大乗云々が語れるの? 勝曼経や法華経が大乗のルーツじゃないの? 大乗仏教は一種類なの? 教えてエロい人
324 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 22:31:05 ID:TjxodrfP
大乗云々はスレ違いだが、大乗が釈尊への原点回帰運動と言うのはその通り。 部派仏教は釈迦一仏だが釈尊は誰でも仏陀になれると説いている。 大乗は誰でも菩薩になり仏陀となれると主張する。大乗は初期般若経典群が 古層の経典であり、法華経や勝曼経や唯識などは大乗の中でも古層ではない。 大乗も部派と同様に中期・後期になると煩瑣な哲学的観念論に陥って、 釈尊の精神を忘れ、五姓各別など不本意な事を言い出すけどね。 竜樹や世親は特に釈尊の原意を理解し、回帰させようとしている。 そう言う意味では仏陀ではなく阿羅漢を目指す上座部など比にならないと考える。
325 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 22:45:40 ID:8bN5eXjU
こういった歴史的解釈では大乗はいつか必ず破綻すると思います。 >>竜樹や世親は特に釈尊の原意を理解し、回帰させようとしている。 例えば、竜樹はそういうことも可能かもしれないが、世親はありえないだろう。 世親唯識にサーンキャやニヤーヤの影響を見ないわけにはいかない。 大乗を述べる時、色身の釈尊を根拠にしていては無理があるでしょう、 必ずや法身・報身の諸仏を根拠にしなくてはならないと思う。 歴史主義あるいは素朴実在論みたいな思想に立っていては、テーラワーダさんの 批判は免れられないと思いますよ。
>>324 大乗仏教こそが
ブッダ、或いは釈尊を
遠い存在とした張本人に見えるのは気のせいだろうか・・・?
( ̄ー ̄)ニヤリ
>>324 ってか、324は
もろに歴史的語りを含んでいるが?
初期大乗は良くて後期大乗は駄目、という区分が
大乗の中でも必要なんだねw
>>322 は歴史的問題は捨象して「大乗」という一色で語っているが・・・・?w
328 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:04:12 ID:B5vRJMfy
>>324 だから、ラッキーにも
>>313 という手頃なサンプル・モルモットがへばりついて
いるんだから、大乗でこの糞モルモットを「仏陀」とやらにしてごらんといっている。
ブッダは実存的経験主義者なんだから、経験的な実証を見せろ!は当然だろ。
現在の今証明せよ。妄想は不要。実証しな。同じ事は、妨害電波男にも阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ にも言える。
大事な事は、当たり前だが、経典にどう書いてあるかではなく、自分がどう考えるかなんだよね。
329 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:11:06 ID:B5vRJMfy
唯識!(爆笑 wwwwwwwwww プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー プギャー!プギャー!プギャー! プギャー!プギャー!プギャー!プギャー! プギャー! m9 m9 ノ) プギャー! プギャー! 川 m9 川彡'三m9 プギャー! プギャー! m9ミm9、m9ミm9彡m9 プギャー! プギャー!m9三ミm9(^Д^)彡三彡三m9 プギャー! プギャー! m9彡川m9彡川ミm9 プギャー! プギャー!m9彡川m9m9 m9川彡m9 プギャー! プギャー! (ノ m9 川 m9ミ) プギャー! プギャー! m9 プギャー! プギャー!プギャー!プギャー! プギャー!プギャー!
330 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:13:23 ID:8bN5eXjU
テーラワーダのB5vRJMfyさんは、現代にアルハットがたくさんいないなら、テーラワーダも有効ではないということになるのだが、それには答えられないの? ちなみにテーラワーダも部派仏教であり、明らかにヴァイシェーシカの影響を受けていると思うのだがどう? それから大乗を名のるものにたくさんろくでなしがいるのも事実ですが、 だからといって大乗がだめだというのは、明らかに詭弁ですね。 釈尊在世にも六群ビクなど、あまりよろしくない方々がいらしたのはパーリ律に明らかなので、 あなたの論法では釈尊の仏教もだめになってしまうでしょう。 それとテーラワーダさんは、そんな穢い言葉使いを推奨してるんですか?
331 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:14:43 ID:QYbFMEUa
おバカラス 出禁バカつれ 心中しwww
332 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:18:14 ID:8bN5eXjU
確かにQYbFMEUa、電波男、アホダラ等はみっともないが、彼らを大乗の代表とするのは詭弁でしょう。
実証してみろってw 誰かが解脱させてくれるわけじゃない ってのが釈尊の言葉なんだが。
>>332 では逆に、
貴方が代表として対話相手に選ぶ上座部は誰ですか?
或いは、どの国の上座部ですか?
335 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:37:01 ID:8bN5eXjU
私は別にテーラワーダを否定しようとは思いません。 ですがテーラワーダの一部の方が大乗を目の敵のように否定している姿勢はいただけない。 私はテーラワーダに対してたいした経験がないが、私の限られた印象では、 タイとスリランカにはあまり良い印象はありません。 ビルマにはちょっと好感を持っております。 これは私の著しく狭い所見であって一般的な見方ではないことは、いうまでもないでしょう。
336 :
名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 23:41:09 ID:TjxodrfP
簡単な事じゃん。菩提心を発し六波羅蜜や十善業道を修せば個人差によって 時間はかかるが誰でも仏陀になれるよ。それが大乗、いや釈尊の真意だよ。 遅々としてでもその道を諦めずしっかりと歩む事が仏陀になる方法だし、 それ以外には無いと思う。ただし菩提心を発するのは本人に縁があるかどうかだ
>>335 了解しました。御無礼の段御容赦を・・・。
338 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/25(月) 00:14:33 ID:Y59wQaL5
現存の「大乗」を標榜するイデオロギーやドグマあるいは教団が破綻しようが滅亡しようが関知するところではありませんが・・・。 龍樹や無着・世親などの論師が阿含經典を教証・典拠として所論を展開したのは確実です。
339 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/25(月) 01:08:35 ID:Y59wQaL5
時々このスレを覗いている初心者です。 どなたか解る人がいたら、無我及び縁生とその多分対極にある「あの世」を論じていただけると幸いです。
>>340 対極じゃないですね。
「あの世」が縁生しとるじゃないですか。
つまり、
「あの世」がそのまま縁生。→そう想起している。
当該スレッドを貴殿がロムり(縁にふれ)、ついつい「あの世」が想起してしまった。
これを縁生という。
縁において我が生起する。
逆に言うたら、縁なくば我はない。→無我
「あの世」は縁生するが、同時に縁滅しております。
342 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 07:56:48 ID:2guZnEY1
拾い食い 反吐撒き散らす 出禁バカwww
343 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 08:12:23 ID:PemgQxAg
初心者Q:菩提心を起こしました。成仏したいと思います。 一生懸命修業して唯識さんでは、時間はどれぐらい かかりますか? 高徳唯識僧侶A:三大阿僧祇劫かかるぞえ。 初心者Q:えーと、ブッダが成仏されたのが2500年前として、 ゴータマ・シッダッダさんの初発心はビッグバンより 遙か以前ですか。時空が存在しないのに時間概念を 説くのはおかしいトンデモ説ではないですか。 高徳唯識僧侶A:・・・・・・、とにかく「信」の一字じゃ。 初心者:菩提心は撤回しますわ。 ぶつぶつ・・あの坊主は妖怪か?
344 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 08:27:58 ID:PemgQxAg
>>342 サンプル・糞モルモット?!(爆笑 wwwwwwwwwww
プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー 、もっとやれ!
ID:TjxodrfPって電波男?
346 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/25(月) 13:40:45 ID:Y59wQaL5
>>310 にも言及したように
唯心論
観念論
独我論
唯物論etc・・・。
の如き実体・本体論を前提とする形而上的独断(=戯論)を、佛教は言下に却下します。
そしてそのような謂わば「淘汰済み」の前提を蒸し返す企図も仔細に剔抉され、駁撃・破棄されます。
>>328-329 > プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー
アンタこそ、その変な、ヒルデガルドもどきのモヤモヤ画で悟った気分になってんじゃないの?
> 大事な事は、当たり前だが、経典にどう書いてあるかではなく、自分がどう考えるかなんだよね。
それはだれも分かってるだろ。でも、その考えが偏見で塗り固められた勘違いだったら、どうするのさ。
348 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 15:04:59 ID:2guZnEY1
おバカラス(出禁バカ) 標本にされ 恥永劫www
349 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 15:40:24 ID:PemgQxAg
350 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 20:00:53 ID:BcjVLzAE
成仏したとか、成仏すると確定したとか、結果論ではなく、 成仏しようと日々努力精進する過程が重要なんだね。 仏教は結果よりも動機や過程を重視してるね。 正しく修行すれば結果は自ずとついて来るよ。
351 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 20:55:28 ID:HBgp+B9V
>>345 たぶん、そう。あらゆる面でデタラメなのがここまで明かされて擁護するのは、
アホダラ以外は、本人しかいないだろう。しかしアホダラは、なんで擁護するのか?
>>339 ttp://www.yinshun.org.tw/94thesis/94-02.htm#_ftnref18 > 識が生じるのは、自立的にでも自然発生的にでもなく、
> アシ束のたとえのように、かならず名色との相互依存の関係にある。
> 「絶対主観」といったような「識体の存在」がある、としているのではない。
雑阿含経 巻第12
> 内にこの識身あり、外に名色あり。この二つを因縁として触を生ず。この六触の
> 入りて触るるところに、愚痴にして無聞の凡夫、苦楽を受覚し、因りて種種を起こす。
> 若し 取るところの法に於いて 随ひて味著・顧念・縛心を生ずれば、
> 其の心 駆馳し、名色を追ひ逐ふ。
> 名色を縁として六入処あり。六入処を縁として触あり。触を縁として受あり。
識の理解にとって大事な視点だと思うので、訳しておきます。
法灯明、自灯明っていうのは、人に依らず、法に依れ、ってことでもあるでしょう。 禅語の、羅漢に逢うたら羅漢を殺し・・・、っていうのも、人に依るな、って意味だろうから。 法も無我、人も無我。法も空、人も空。 あまりの執着は苦しみの元。人にも執するなかれ、ってことでしょう。
ナーマルーパと相互依存関係として識が生じるとして そのもう一方の「意」との関係のありようは どのように説明されているのでしょう? なにやら図が書いてあるようですけど。 3つ目の図の円中の「法」→「意」が気になりますね。
355 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/25(月) 22:21:22 ID:Y59wQaL5
>>346 に述べたようなところは、卑賎なドグマタルチュフの居場所は寸毫もあり得ない(冷笑)。
356 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 22:55:41 ID:PemgQxAg
>>355 おまいが ゆーな
スネオよ、鏡に写った自分の姿をみろや。
菩提心なき蝦蟇蛙が写っているだろう?
あとは・・・
357 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/25(月) 23:13:23 ID:Y59wQaL5
>>354 『摂大乘論』に説かれる「十一識」を念頭に置かれては如何でしょう。
唯識とは畢竟、認識機能たる「識」とその対象たる「名色」−いずれも縁生−との相依関係によって成立する認識作用
が追究された帰結に他ならず、そこへ
> 「絶対主観」といったような「識体の存在」がある
などという見解が這入り込む余地は全くないものと考えます。
358 :
名無しさん@3周年 :2006/12/25(月) 23:30:22 ID:2guZnEY1
ボダイシン 嘴腐る おバカラスwww おバカラス 必要なのは ヒライシンwww
359 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 10:25:23 ID:W4+bVmIp
へただな
>唯識とは畢竟、認識機能たる「識」とその対象たる「名色」 ひとつ確認したいのですが 「名色」は外界にある物質現象を指すものとして使われていますか?
361 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 11:20:03 ID:YN+8aVQu
Ding an sich 答えてもらおうか
362 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/26(火) 11:52:51 ID:+m//PpMh
>>360 > 「名色」は外界にある物質現象を指すものとして使われていますか?
パーリや出土相応(雜)阿含には「名色は、ここなる有識の身と外なる〔対境〕とである」とあるようです。
したがって「外界にある物質現象」が前提されているわけではありません。
思うに唯識とは、かかる論点を起点に追究されていった一種の認識論でありましょう。
因みに当方年末忙事多端につき、年内は発言できないかも知れません。諒と願います。
363 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 12:36:11 ID:W4+bVmIp
>>362 すると有部や経量部との違いはどうなるのか?
一般説と全く異なるわけだが、一体何を根拠に言ってるのか?
何を「名色は、ここなる有識の身と外なる〔対境〕とである」と読んだかわからないが、
この読みから(したがって「外界にある物質現象」が前提されているわけではありません。 )にいきなり結論づけるのは無理で、全く逆にも読めると思うのだが。
原典が示されない以上、なんともいえないけど。
364 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 13:04:00 ID:YN+8aVQu
さあ、年末は、カントの純粋理性批判を再読するか。
365 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2006/12/26(火) 13:23:22 ID:+m//PpMh
外回りの前に・・・。
>>352 の訓読は
T02n0099_p0083c23(00)? (二九四) 如是我聞。 一時。
T02n0099_p0083c24(08)?佛住王舍城迦蘭陀竹園。 爾時。世尊告諸比丘。
T02n0099_p0083c25(06)?愚癡無聞凡夫無明覆。愛??得此識身。?有此識身。
T02n0099_p0083c26(01)?外有名色。此二因?生觸。此六觸入所觸。
からのものと思われます。この漢訳から所謂「外境実在論」が発生しそれが「一般説」として流布したのかもしれませんね。
まあ、この箇所のパーリ相応部や出土相応阿含のパラレルは、研究もあることですし容易に特定出来るでしょうけど。
そして想定され得るのは、この聖典解釈を巡っての毘婆沙師と經量部→瑜伽行唯識学派との論争です。
年末業務と迎春準備に忙殺されそうです。皆様ご機嫌宜しゅう。
366 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 16:29:05 ID:YN+8aVQu
歴史的意味においてでないかぎり「哲学」を学ぶということはできない。 かえって理性に関しては、「哲学的思索をすること」を学び得るばかりである。 (カント)
帰納法において仏教を学ぶことは至難である。 かえって論理矛盾の無限ループに陥るばかりである。 (机龍之介)
368 :
名無しさん@3周年 :2006/12/26(火) 17:28:27 ID:sj5k8x6I
出禁バカ 解りもせずに 反吐を撒きwww
>>363 >有部や経量部との違いはどうなるのか?
有部は、諸法は、過去・未来・現在にわたり実有である、
経部は、現在は(有部と同じく)実有だが、過去・未来は実有ではない、
唯識派は、過去・未来は(経部と同じく)実有でないが、現在も実有ではない、
とするところが三者の相違点のようです。
ところで、『中論』観因縁品第一の次の偈頌の「この故に生ずることなしと知る」は、
一見「諸法は存在しない」と説いているようにも読めますが、どう考えますか?
諸法不自生 亦不従他生
不共不無因 是故知無生
>>365 確認してはいませんが、雑阿含経294経は、相応部 12.19 (bAlena pandito) に対応するそうです。
漢訳で見る限りでは、
無明に覆われ愛縁に繋がれて(そういう縁起から)識と身が得られ、
内つまり自己としては識と身、外は名と色があって、
これら二つを因と縁として触があり、そして苦楽の感受が色々とできてくる、
・・・、となっているようです。
使役の意味が薄れたということはどういうことなのか、考え続けてきましたが、分かってきたのは、 内面にかかわる行為の動詞語根では、使役した結果、その行為が実際に行われたかどうかが 分かりにくい、たとえばジュニャー(知る)の使役形で言うと、相手が本当に「理解した」か否かは 確実には分からないので、「『知ら』しめる」というより「示す」というように、相手が「知る」 こと自体への使役の意味が薄れる(辻 p.269)ようになったのではないか、ということです。 このことでは、現代日本語でも同じような現象が見られます。 「作らせる、待たせる、言わせる、行かせる」などでは使役の意味が明瞭ですが、 「見せる、聞かせる、知らせる」などでは、「単に提示する」という意味合いで使われることが多いのです。 「ちょっと、一応」などをつけて言うと分かりやすいでしょう。「ちょっと聞かせた、一応知らせた」など。 外面に行動の表れない、人の内面に属する事柄(見る、聞く、知る、など)では、 そのことがほんとうに相手に行われたのか不明瞭なので、使役の意味が薄らぐのでしょう。 少年は/法を/知る。//師匠は/少年をして/法を/知らしむ。//の2文で図示しましょう。 法←―知る――少年 知るもの(対象, 法) 知ること 少←―知らしむ――師 年………法←示す―匠 知らしめるもの(対象, 法) 知ら「しめる」こと(原義の使役行為)→示すこと(使役の意味が薄れて) vijJAti と vijJapti の語義に関しても、同様な見方が可能だと思います。 vijJAti knowledge 知るもの(知識), understanding 知ること(理解) vijJapti information 知らしめるもの・告げるもの(情報), report 知らしめること・告げること(報告)
そこから言えることは、使役形「知らしめる」jJApayati は使役の意味が薄れても「知る」 jJAnAti にはならない、ということです。あくまでも「示す、教える、告げる、表す」など の意味であり、「知る」にはならない、と。 したがって、使役の受動でも、たとえば、「知らしめられる」jJApyate は「示される、教え られる、告げられる、表される」などであり、単なる受動「知られる」jJAyate になる訳では ない、ということです。 以上のことは、vi-√jJA- に名詞化の接辞 -ti が付く例でも同じで、使役形 *jJapti は 「*知ること」にはならず、「示す、教える、告げる、表す」行為(またはその対象=いわゆる 直接目的語)であって、もし「*知ること」と言いたかったならば *jJAti を使うだろう、と。 前スレの899で倶舎論から引用された無表色についての漢訳2つ、 不如有教色可令他知。故名無教。/而非表示令他了知。故名無表。 にあっても、明確な使役と言えるのは、令他知と令他了知だけであり、 教や表示・表は使役の意味が薄れたものと解釈すべきではないかと思えます。 もっと考えてみなければ、とは思いますが、現時点での見解をまとめておきました。
372 :
名無しさん@3周年 :2006/12/27(水) 00:57:56 ID:iTXEQRyy
,:'/ ヽ、 ゙、\ {,:' , , ,',' l , ゙、 ゙、 ヽ / / ,' l|{ | ',', , , ', ', ゙、 { ! { ノl|゙、 ゙、','\ ',', ',| | } | l { _ゝー"~ ̄ ̄~゙二゙ヽ、',', |! | | ', ',、ィ'゙ ,;'''テ、 "{(゙フヾ、 ヽ,' ,'| | | '´ ',ッ'{ー'.:} |.:.:.:.:} ,' ,'-'、 l ,' {} ゝ-' ゙ー" ,' ,'、) } ,' ,' ゙'l 丶 ,' ,'ノ_ノ ,' ,:' ノ人 ⌒ || 7 /_/ /,:' ゙ヽ、 , |h,ヽ、 ノ // ゙ヽ、__、、- ' |、 ', ヽ ( ( | 〉冖7‐''" ゙、} } お父様、晶子は寂しいより、悔しい。 ヾ'、 ノ/ / /彡-' "ノ ノ ヾ, _, -'/ / / ノ/ \ この世では決して知りえない、あるがままを知りたいわ。 _ノ / (ノ / _,, - '' " ゙、 肉体を滅されたあなたは、お知りになったの? この世の存在の神秘を。 一切行無常 一切法無我 一切皆苦 涅槃寂静
373 :
足乃 香 :2006/12/27(水) 03:57:52 ID:setPt8E/
結局愛が大切なのね。理屈ばっかりこねてないで、愛を実践しなさいよ。 難しいことばっかり言ってると禿げ上がるわよ。
次の解釈であってる? 一切行無常 この世に不変なものは存在しない 一切法無我 輪廻転生を繰り返す不変の「我」は存在しない 一切皆苦 (略) 涅槃寂静 死んだら終わり
375 :
名無しさん@3周年 :2006/12/27(水) 06:56:19 ID:WOsjZoHP
>374 一切行無常 この世に不変なものは存在しない 以下あってない。本来はこう。 一切法無我 あらゆる現象に「我」(本質)はない 一切皆苦 輪廻の現象一切は、苦である。 涅槃寂静 悟りは楽である。 死んでも終わらない輪廻する。輪廻の主体はない。 なぜならあらゆる現象に我はないからである。 現在の我々が無我であっても縁起して連続して自己同一性を保っているように錯覚するように 死後も無我であっても縁起して連続して自己同一性を保っているよう現れる。 これが仏教の一貫した考えであり、ただし業がどのように縁起するかについて 解釈が分かれ、いろいろなことが言われた。だが以上は変わらない。 君の解釈は、誰が言ってたんですか? 完全な誤りです。
376 :
足乃 香 :2006/12/27(水) 07:24:52 ID:setPt8E/
あんたたち、本当にすきね。そんな輪廻があるかどうかなんてわからないじゃないのよ。 どんな偉い坊さんが言ったんだか知らないけど、盲信もほどほどにね。 これじゃ宇宙人や神を信じる子供と変わらないわ。
377 :
名無しさん@3周年 :2006/12/27(水) 08:17:40 ID:iTXEQRyy
「馬鹿は死んでも直らない」という格言は真理ですか? 馬鹿さも輪廻するんですよね? しかし、業・輪廻・神・悪魔なんて経験的な実証性のない形而上概念ですよね。 バカモン教が輪廻したヒンドゥー教では馬鹿も輪廻するんですよね。 したければすればいいんですよね。♪ カラスの勝ってでしょ ♪
378 :
名無しさん@3周年 :2006/12/27(水) 09:35:15 ID:iTXEQRyy
だから、梵我一如では ブラフマンと馬鹿は一如だから ブラフマンは馬鹿ということでFA?
379 :
名無しさん@3周年 :2006/12/27(水) 10:41:54 ID:C3ryQFRy
>>369 そんなこと聞いてませんです。阿呆陀羅經がなんで「外境実在論」に拘っているか考えてみてください。
彼はただ電波の唯識は外界を認めるという説をフォローしたいだけ、だから
>>357 >>362 >>365 と言ったですね。詭弁なわけですが。
認識論的に単純化するとインド仏教四大説は、以下のようになると言われてます。
対象 知覚
有部 有 有
経量部 有 有
唯識 無 有
中観 無 無
電波や阿呆陀羅經の説をとるならインド以来のこのスキーマが否定されるけど、それでいいのかという意味ですよ。
中論については縁起として法は仮設されるが、自性・本質が実在することはないという意味だと理解してます。
>>379 >「外境実在論」に拘っている
というより、外境有論も外境無論も両方否定してるように読んでましたが、
それは、これ以上は水掛け論になりそうなので置いておいて、
ここで最もお聴きしたいのは、中観では
>対象 無
>知覚 無
となっているのに、どうして認識が成り立つのですか。
>自性・本質が実在することはない
自性が実在しないとして、諸法は実在すると見るのですか、
それとも実在しないのですか。
>>369 >相応部 12.19 (bAlena pandito)
ttp://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn12/sn12.019.than.html >When a fool is obstructed by ignorance and conjoined with craving, this body thus results.
>Now there is both this body and external name-&-form. Here, in dependence on this duality,
>there is contact at the six senses. Touched by these, or one or another of them,
>the fool is sensitive to pleasure & pain.
無知によって妨げられ、渇望と結びつかれて、この身体が結果としてある。
そして、この身体と外部の名・色がある。この二者によって、六感の接触があり、
これら又はそのどれかに触れられて、苦楽への感受がある。
賢愚経とかいう題名の経典があったと思ったけど、それとは関係あるかな。
ちなみに、このスレのアドレスは以下に変更になってます。
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1165378636/l50
>>241 >『解深密経』で vijJapti-mAtra と述べられる
>『摂大乗論』と違って経証に『解深密経』を引用しないのは何故か?
理由はいくつも考えられるでしょう。(ちなみに、vijJapti-mAtra は還梵ですよね)
(1) 『解深密経』には「識所縁唯識所現」という文言がある。
無着の『摂大乗論』に、これが「唯識無境」の教証として使われている。世親は、その『摂大乗論』
に対して注釈書『摂大乗論釈』を書いている。当然、その教証のことも知っていた。
世親としては、同じ教証は使わず『唯識二十論』を著したい、という意向が働いたかも知れない。
(2) 世親には、『唯識論』の訳者、菩提流支の訳した『十地経論』という『十地経』の注釈書が
ある。そのことから、『十地経』を尊重していたことが窺われる。
また、『大唐西域記』第五には、『十地経』を聴いて大乗に転じた、という伝説も記されている。
相当の思い入れがあったものと思われる。
世親菩薩 初發大乘心 處。世親菩薩 自北印度 至於此也。時 無著菩薩 命其門人 令往迎候。
至此伽藍 遇而會見。無著弟子 止戸○外。夜分之後 誦十地經。世親聞已 感悟追悔。
(3) 『唯識二十論』と同様、他派の主張を破斥するための『大乗成業論』では、
『解深密経』を引用している。だから、引用すること自体に躊躇はなかっただろう。
しかし、「三界唯識」という立義の教証としては、「識所縁唯識所現」がふさわしいかと言うと、
ピタリと重ならないし、説明的で弱い。やはり「三界唯心」の方がインパクトがある。
また、『十地経』の三界にも心にも、遠離すべきもの、というニュアンスがある。
影像にはそういう色付けがあまり感じられない。この点もあるだろう。・・・といったところです。
唯識二十論述記 T43n1834_p0981b09(00) にも同様な問いが書かれていました。
問ふ「何故に、論中には即ち唯識と言ひ、諸經の所説は乃ち唯心と名づくるや。
心を舉げて識を證するに、義 如何が成ぜん。」
重要なのはそういう動機面ではなく、 心意識と了別を同等と見なせること。心に心所を含めること。この二点。 1. 心意與識、及了別等。(如是四法)、義一名異。此依相應心説。 (相應心者。所謂一切、煩惱結使、受想行等、諸心相應。) 2. 心意識等、是總名。應知此心、有相應法。 3. 心意識了、名之差別。此中説心、意兼心所。 菩提流支訳の「相應心者。所謂一切、煩惱結使、受想行等、諸心相應。」にある、 心所の「煩惱結使」というとらえ方は『十地経』の「由無明闇、纏繞意識」といったことと共通だ。 これが『雑阿含経』の「心意識」を解釈する際の参考になるだろう。 『心意識より見たる唯識思想史』昭10 『仏教における心識説の研究』昭36 『パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』昭39
>>363 >何を「名色は、ここなる有識の身と外なる〔対境〕とである」と読んだかわからないが、
識ある身とは、おおかた有識身 saviJJANa-kAya のことでしょう。
このほかにも、識身 viJJANa-kAya、有分心 bhavaGga-citta、思身 saJcetanA-kAya など、
心に関わる語がいろいろあるようです。
>>363 >>>「名色」は外界にある物質現象を指すものとして使われていますか?
>>「名色は、ここなる有識の身と外なる〔対境〕とである」
>>したがって「外界にある物質現象」が前提されているわけではありません。
>全く逆にも読めると思う
その、まったく逆に読める、という点がポイントなんじゃないですか。
つまり、「外なる〔対境〕」という表現では、「物質現象」の実在を前提としてるとも、
又、していないとも読めるというのであれば、
この語句からはっきり言えるのは、何事も「前提」として定義されている訳ではない、
ということになるでしょう。
したがって、「物質現象」は前提として定義されていない、と。
「否定の否定は、必ずしも肯定にあらず」だったかな。
言葉の微妙な意味合いに、ずっと気を抜かないで読んでいく、というのは芯が疲れますね。
中論など読んでいるとほんと疲れます。
>>379 中観・唯識のいう「無」は、有部・経部のいう「有」と同じレベルの話ではない、と思います。
「有」説は、常住・独立・主宰としての存在、とするもの。
いわば、有無のレベルでの有。
それに対して「無(na, a-)」は、
存在詞(〜がある)として否定しているのではなく、
繋辞(〜である)として否定している。
もし前者(存在詞としての否定、撥一切法無/大乘唯識論)だとすれば、
他派から虚無論(悪取空など)と非難されるものになってしまう。
後者(繋辞としての否定、非有)は、
有無の論争を離れた「無記」の立場から、
「有」説に対し、そうではない、とするもの。
当然、有無レベルの「無」説に対しても、そうではない、と言うでしょう。
そして、仏説とは、諸法を縁により生じ、縁により滅する、と見るものであり、
この点から逸れるものではない、と思います。
387 :
名無しさん@3周年 :2006/12/29(金) 23:31:20 ID:uOMA9Sub
あれ、人大杉じゃなかったの? 人がほとんどオランダ。 だますな、ゴルァー!
ttp://www.inbuds.net/jpn/media/0-00001/0-00001-000105.html 中道思想と縁起説 -「迦旃延経」の成立を中心に 仲宗根 充修
> 中道思想と縁起説とが関連して説かれる経典の例として、「迦旃延経」が挙げられるが、
> この経典は初期仏典内部にも引用され、また南方分別説部や説一切有部、正量部の論書、
> さらには中観派の文献等にも引用される。
> 「両極端に対する意欲を抑制して」 (Sn 778)
> 「彼は両極端を了知して、中間にあって、考えて、汚されない」 (Sn 1042)
> 「この形像は自作ではない。この苦は他作ではない。原因に縁って生成し、原因の滅から止滅する」 (SN V 9 selA)
> 自作と他作を否定して縁起によって生滅することが説かれる。
> 「苦は自作であるという説は常見に陥る。・・・苦は他作であるという説は断見に陥る。
> これら両極端を離れて、如来は中によって法を説く」 (SN XII 17 acela)
> 断常中道と縁起説とが関連づけられている。
> 「苦は縁已生である」 (SN XII 24 aJJatitthiyA, 25 bhUmija)
> 「一切があるというのは一つの極端である。一切がないというのは第二の極端である。
> これら両極端を離れて、如来は中によって法を説く」 (SN XII 15 kaccAyanagotto 迦旃延経)
> 有無中道と縁起説とが関連づけられている。
> 最古層韻文文献では、両極端から離れることが説かれることから、中道思想の原形が見られ、
> 古層韻文文献では、苦が自作ではなく、他作でもなく、縁起によって生滅することが説かれることから、
> 中道思想と縁起説とを関連づける教説の原形が見られた。
> そして散文文献において、SN XII 17 acela 等に見られる断常中道説や SN XII 15 kaccAyanagotto
> (迦旃延経) 等に見られる有無中道説へと展開したと考えられる。
>>244 >ジャイナ教と仏教の違い
>特に教理的な部分で。
>>388 の論文の以下の記述なども参考になるでしょう。
>ジャイナ教では、苦は自作であって他作ではないと説かれる。
>これに対して仏教では、断常中道の立場を主張したのであり、
>これを縁起説でもって説き示したと考えられる。
390 :
名無しさん@3周年 :2006/12/30(土) 23:22:59 ID:PQAcRSPm
>>244 埴谷雄高「死霊」を読め。
「虚体」にまつわり、宇宙の原罪を問う。
大雄が釈迦を徹底弾劾するはずだった。
釈迦は大雄にどう反論するのか。
続編は誰が書くのか?
ひとりひとりが書くべきだ。
唯識?!(爆笑wwwwwwwwww
391 :
名無しさん@3周年 :2006/12/31(日) 01:53:06 ID:0Nfcoo+i
392 :
名無しさん@3周年 :2006/12/31(日) 01:53:52 ID:0Nfcoo+i
すまん。 誤爆。
393 :
名無しさん@3周年 :2006/12/31(日) 01:56:26 ID:0Nfcoo+i
誤爆ついでに。 昨年、あほ集団オウムスレにおいて阿呆陀羅經氏に幾多のアドバイスを いただいたことについて、この場を借りて御礼申し上げます。
大晦日にちなみ、過ぎ行く時について、龍樹の偈頌に耳を傾けてみよう。 中論 2.5 gamyamAnasya gamane prasaktaM gamana-dvayam / yena tad gamyamAnaM ca yac ca^atra gamanaM punaH // <去りつつあるもの>に<去るはたらき>があるならば、 二種の<去るはたらき>が付随してくる。(中村元訳) (1) それ(gamana1)によって そのgamyamAna(という言葉)がある ところのgamana1 (2) この時 再びgamana(という行為)がある ところのgamana2 * gamana (時が)過ぎ行くこと * gamyamAna 過ぎ行きつつある(時) 中論第二品は「三世実有」説に基づく問いに回答してゆく形をとる。 問うて曰く、「世間眼は『三時に作すあり』と見る。 已去・未去・去時に作すあるを以ての故に、まさに『諸法あり』と知るべし」 答へて曰く「・・・」
395 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 10:58:42 ID:x3sWs5jQ
皆様明けましておめでとうございます 除夜の鐘 胡蝶の夢みて 姫始め 破戒ありとて 菩提忘れず
396 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 11:00:08 ID:x3sWs5jQ
おそまつく〜〜ん お正月ですよ!
397 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/01(月) 11:35:19 ID:QMHqasJQ
あらたまの 歳は来にけり しののめの そらにたなびく みねの横雲 恭賀新年。
あけおめことよろ
明けましておめでとうございます。
雜阿含經 巻12 (301) 迦旃延經
>世間、有二種依、若有若無、為取所觸。取所觸故、或依有、或依無。
SN 12.15 Kaccayanagotta
ttp://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn12/sn12.015.than.html 雜阿含經 巻10 (262) 佛告摩訶迦旃延經
>世人顛倒、依於二邊、若有、若無。世人、取諸境界、心便計著。
>如實正觀世間集者。則不生世間無見。如實正觀世間滅。則不生世間有見。
>迦旃延。如來離於二邊。説於中道。
SN 22.90 Channa
ttp://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn22/sn22.090.than.html > 'By & large, Kaccayana,
> this world is supported by(Alternate reading: "takes as its object.") a polarity,
> that of existence & non-existence.
> But when one sees the origination of the world as it actually is with right discernment,
> "non-existence" with reference to the world does not occur to one.
> When one sees the cessation of the world as it actually is with right discernment,
> "existence" with reference to the world does not occur to one.
> "Everything exists": That is one extreme.
> "Everything doesn't exist": That is a second extreme.
> Avoiding these two extremes, the Tathagata teaches the Dhamma via the middle:
謹賀新年・あけおめ
>>394 アインシュタインは物理法則を数式で表しますが、
(電子などは数理的な存在)
実際のとこ我々は数式よりも比喩とかの方が理解しやすい。
中論の時空についても、私は比喩が一般的には理解しやすいかとおもいます。
龍樹は学僧ですから、勿論数式は使うわけはない。
ここがアインシュタインと決定的な違い。
しかしながら、龍樹がこんなことを悟っていたのは凄いですね。
禅僧は、勿論こういうことは悟るんでしょうけど。
401 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 20:22:25 ID:3K65g4lS
正月も 空気が読めぬ 出禁バカwww
402 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 20:39:04 ID:x3sWs5jQ
>>401 今年も相変わらず馬鹿かあ? wwwwwwwwwww
ご苦労! 枯れ木も山の賑わい、空華を修す。
どうせ書くなら、もっとカッコイイのを書けよwwwww
403 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 20:47:53 ID:PaluEAn6
「原始」仏教だからといって精神的に原始的になることはない・・・
404 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 22:04:15 ID:QLU90wdw
でんなみを とんそうきめて としをこし
405 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 23:01:59 ID:3K65g4lS
焚きつけの 用にもならぬ 出禁バカ(おバカラス)www
406 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 23:07:41 ID:x3sWs5jQ
>>405 ボキャ不足。wwwwwwwwwwwwww
おいらはカラスじゃねーよ。正月は
馬鹿相手の
暇つぶし
407 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 23:27:46 ID:3K65g4lS
虫ケラと 同じ最低 バカ揃いwww
408 :
名無しさん@3周年 :2007/01/01(月) 23:47:51 ID:QLU90wdw
むしけらか ののしるかなし でんなみを
>>399 全存在はまた非存在と同義というのが禅(般若)思想ですね。
(否定は、またかつ肯定の意)→空で勝義諦
森羅万象、大日如来の当体というのが如来像思想。
(肯定はそのまま肯定)→空を世俗諦とし、仏性において勝義諦
電波先生は密教のアジャリ(高僧)だったらしく、勿論わたしとは考えが違います。
この間、真言宗の坊主と話しをしましたけど、
葬儀においては般若心経と理趣経を読経するらしい。
(心経には真言の部分がある)
まあ、実際のとこは私とは話が噛み合いませんけど、
心経を依典とするとこは通じるとこがありますね。
410 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 08:46:11 ID:6x1/UrE1
リア厨の 教科書読めぬ 出禁バカwww
411 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 09:06:17 ID:Ai3r4UA0
仏像 お経 呪文 論 全て間違い 呼吸瞑想による、脳内化学物質のコントロールこそが 釈迦の体感した悟り 科学なのです
阿含宗の臭いがする・・・
413 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 10:17:41 ID:ghVFMy4y
人間存在のコアを仏性とする大乗如来蔵又は本覚思想は、 (1)ブッダの根幹思想「縁起の法」を破壊した邪説である。 縁起法では人間存在のコアは無明(根源的迷妄)であって、 仏性とは反対極だ。ブッダの仏教では無明というコア(執着)を 枯らすことで実存の根源を滅し解脱=涅槃寂静に達する構造だ。 コアを仏性=真理とするならよき輪廻の継続として機能するだろう。 (2)さらに龍樹の、存在には実体がない無自性=空の思想とも矛盾する。 如来蔵思想では仏性を実体・自性のように捉えているからだ。 この上で六道輪廻説との合体にいたってはトンデモ説の極だろう。 大日如来は空海でっち上げのブラフマンそのものであって、ヒンドゥーそのもの ではないか。いずれにせよブッダの実存的経験主義に反する形而上概念にすぎず、 「無記」とされたブッダの姿勢に反する。
414 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 10:23:49 ID:xvcmhT6o
マリファナ喫煙で総て理解出来る。 アホな頭でいくら考えても無駄
415 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 10:27:27 ID:+NwL3l+6
>413 松本説なんて今時、信奉者いるとは 松本説こそトンデモ説の一つ、極みではないが
>>413 実際そういうことかと思います。
真宗坊主のベロ氏とか、アホダラ氏はヒンドゥー教に近い考えを持っていて、
電波氏の書き込みには陶酔しちょるようですが・・
まあ、アホダラ氏はいいとしても、ベロ氏は勿体無いですね。
せっかく大学まで逝って、坊主になれきれぬまま外道に走ってしまったのは。
ベロ氏は実直な坊主かと思うけど、眼が開かんのは残念です。
まあ今の時世は、大学まで逝っても見性率が落ちてますから
袈裟掛けでも中身は凡人というのは珍しくはない。
ベロ氏を批判している訳ではない。
一般論で書き込みしちょりまふ。
417 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 17:03:22 ID:nIaKaoD4
テンプレ嫁!
418 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/02(火) 17:32:39 ID:pwJeQ8zH
>>416 禅宗を自称するなら
正法眼蔵くらい読もうよ
>>418 道元は幼少のころから頭脳が賢明で、わたしはキャラとすると秀才・神秀を連想する。
わたすはどちらかというと愚鈍タイプの馬祖とかが好みなんです。
道元を批判している訳ではない。
一般論で書き込みしちょりまふ。
420 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/02(火) 17:49:21 ID:pwJeQ8zH
読んでないでしょ(笑)
わたすはね、どちらかというと禅宗の源流に近いんですよ。 日本禅はあまり関心がない。 関心があるのは、一休とか盤珪、良寛くらいです。 道元は中国禅の焼き直しですよ。
422 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/02(火) 18:24:19 ID:pwJeQ8zH
中国の焼き直しでせう? だったら日本より中国の禅に近いですよね? てか 読んでないでせう? 正法眼蔵
423 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/02(火) 18:28:24 ID:pwJeQ8zH
道元さんは如浄禅師の元で身心脱落つまり大悟徹底してるらしいから 中国の本場仕込らしいし
正法眼蔵は図書館で読んだから、私の頭にはちゃんと保存してあるよ。 一度読めば二度読むことはない。 六祖壇経を下敷きにしたもんで、よほど道元に傾倒しない限りはさほど斬新なことが書かれている訳じゃない。 てか、そもそも禅宗といのは論書には依らない。 というのが伝統。
425 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 20:34:27 ID:6x1/UrE1
読めもせず ホラ吹くばかり 出禁バカwww
426 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/02(火) 22:02:25 ID:pwJeQ8zH
>>424 正法眼蔵に
本証妙修ってあるけど
貴方の禅は違う考えなの?
428 :
名無しさん@3周年 :2007/01/02(火) 23:14:49 ID:ghVFMy4y
>>426 なんだ南無はここにも出張っているのか。
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート16 の950以下の
尻切れトンボをここでやるか?パート17はどーなった?
このスレはちょっと厳しいで、覚悟しーやwwwwww
保守
>>426 >貴方の禅は違う考えなの?
いやはや、どうも恐れいります。
本証妙修というのは、もともとが南嶽和尚の公案を道元がパクッタもんです。
いろいろな言い方があるけど、そんなに考え込まなくても皆同義です。
親鸞和尚の「自然法爾」も同じ。
禅では大自然(だいじねん)ともいう。
これを即心即仏の位相。などと言うたりする。
またこれを非心非仏などと言い換えたりもするんです。
意味は同じなんです。
(この手法を不立文字などと言うたりもする)
なんも語句に惑わされることもあるまい。
明鏡止水でおるのなら、言語それ自体も用なしになるんです。
よき一年でありますよう、机は祈願しときまふ。
431 :
道元坂 :2007/01/03(水) 09:02:53 ID:DaEnW2Zn
ご参考に 『本証妙修』とは、本来覚った仏である存在が、仏の修行を行うこと。 引用 ・妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。 ・それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。 仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、 初心の弁道すなはち本証の全体なり。
432 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 09:36:58 ID:DaEnW2Zn
>それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。 おいおい、道元さんよ、これではブッダの仏教は「外道の見」にされちまってるよ! 人間のコア=無明渇愛執着を枯らすことで実存苦から解脱する⇒涅槃寂静へ達する構造とは まったく異なる。修証一如などというなら、ブッダが否定されたカーラーマ(無所有処)も ラーマプッタ(非想非非想処)もブッダが目指された「悟り」だということになる。おかしいよね? 悟ってないから八正道を修業するんだろ?
433 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 09:48:13 ID:DaEnW2Zn
日本的本覚思想の単純ワープ論の害は激しい。 だから、「悟った」坊主どもが祇園のホステスを 追いかけまわすわけだ。
434 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 10:01:38 ID:DaEnW2Zn
>>426 おい、南無よ。
密教の即身成仏を論じてみろや。
435 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 10:13:07 ID:DaEnW2Zn
どっちがブッダの原始仏教にとって「外道」か、勝負 勝負!
436 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 10:13:11 ID:ikV/8fGc
殺盗淫 常習外道 出禁バカ
437 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 10:27:48 ID:DaEnW2Zn
ブッダにとって、道元は完全に「外道」だ。
438 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/03(水) 10:42:59 ID:HNH/0R17
近代宋朝の參禪のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、 如來の正法の流通するところ、祖祖正傳せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。參學のともがら、ま さにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれ ば、修因感果のむね、あきらかなり。佛佛祖祖の道なるべし。おほよそ佛法いまだあきらめざらんとき、みだ りに人天のために演説することなかれ。 あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあ れども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、 すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺 海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘 にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。 あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進み な因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を習學せんともがら は、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。 正法眼藏深信因果第七
439 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/03(水) 10:47:12 ID:HNH/0R17
世尊言、 假令經百劫(假令百劫を經とも)、 所作業不亡(所作の業は亡ぜじ)。 因縁會遇時(因縁會遇せん時)、 果報還自受(果報還つて自ら受く)。 汝等當知、若純黒業得純黒異熟、若純白業得純白異熟、若黒白業得雜異熟。是故、應離純黒 及黒白雜業、當勤修學純白之業(汝等當に知るべし、若し純黒業なれば純黒の異熟を得ん、若し 純白業なれば純白の異熟を得ん、若し黒白業なれば雜の異熟を得ん。是の故に、應に純黒及び 黒白の雜業を離るべし、當に純白の業を勤修學すべし)。 時諸大衆、聞佛説已、歡喜信受(時に諸の大衆、佛説を聞き已りて、歡喜信受しき)。 世尊のしめしましますがごときは、善惡の業つくりをはりぬれば、たとひ百千萬劫をふといふとも不 亡なり。もし因縁にあへばかならず感得す。しかあれば、惡業は懺悔すれば滅す。また轉重輕受す。 善業は隨喜すればいよいよ増長するなり。これを不亡といふなり。その報なきにはあらず。 正法眼藏三時業第八
440 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/03(水) 10:53:48 ID:HNH/0R17
あるがいはく、諸佛如來ひろく法界を證するゆゑに、微塵法界、みな諸佛如來の所證なり。しかあれば、依正二報 ともに如來の所證となりぬるがゆゑに、山河大地、日月星辰、四倒三毒、みな如來の所證なり。山河をみるは如來 をみるなり、三毒四倒佛法にあらずといふことなし。微塵をみるは法界をみるにひとし。造次顛沛、みな三菩提なり。 これを大解脱といふ。これを單傳直指の祖道となづく。 かくのごとくいふともがら、大宋國に稻麻竹葦のごとく、朝野に遍滿せり。しかあれども、このともがら、たれ人の兒 孫といふことあきらかならず、おほよそ佛祖の道をしらざるなり。たとひ諸佛の所證となるとも、山河大地たちまちに 凡夫の所見なかるべきにあらず、諸佛の所證となる道理をならはず、きかざるなり。なんぢ微塵をみるは法界をみる にひとしといふ、民の王にひとしといはんがごとし。またなんぞ法界をみて微塵にひとしといはざる。もしこのともがら の所見を佛祖の大道とせば、諸佛出世すべからず、祖師出現すべからず、衆生得道すべからざるなり。たとひ生即 無生と體達すとも、この道理にあらず。 眞諦三藏云、振旦有二福、一無羅刹、二無外道(振旦に二福有り、一には羅刹無し、二には外道無し)。この言、ま ことに西國の外道婆羅門の傳來せるなく、得道の外道なしといふとも、外道の見おこすともがらなかるべきにあらず。 羅刹はいまだみえず、外道の流類はなきにあらず。小國邊地のゆゑに、中印度のごとくにあらざることは、佛法をわづ かに修習すといへども、印度のごとくに證をとれるなし。 正法眼藏四禪比丘第十
441 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 11:16:56 ID:58OGVJxz
如来は清浄に到達したもの、如来蔵とは未だ不浄でいるもの(=衆生・有身者) のことです。つまり無明の中にあります。如来と如来蔵とは、仏(如来)の立場 からすれば無差別ですが、同時に清浄に到達した仏と未だ無明の中にある如来蔵 (=衆生)は相互否定的に対立しています。不覚の衆生(=如来蔵)が如来に至 る為には、縁起の法という正法抜きに至ることは不可能なのです。如来蔵は因、 如来は果という関係構造になります。般若経や龍樹の空思想で考えていけば、本来 空=仏性と、即非の空(破して空ならしむ)=不覚の衆生(=如来蔵)が行をして仏 に成る、という二義を論理的に別の表現をしたのが、如来蔵思想と云えるのであり ます。
442 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/03(水) 11:53:15 ID:rJyC1fRK
悟りは悟ったら終わり? そうじゃねーだろ 悟ったあとも維持しなきゃならねーんじゃねーの? 悟れば終わりとお釈迦様は言ってるの?
>悟ったあとも維持しなきゃならねーんじゃねーの? 意味不明です。 つうか、悟れば仏教用語の殆どは仮設としてあるものですから、 それ自体が滅却してしまうんじゃないですか? しかしながらまた、娑婆に徹して生きるのも菩薩道なるゆえ(平常心是道) 不風流処也風流などと、 わたしは風雅な生活をしております。
444 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 12:23:18 ID:DaEnW2Zn
>いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を習學せんともがら は、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。 これって、阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ のことだろ?
445 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/03(水) 12:56:00 ID:HNH/0R17
義務教育の古文授業否綴り方からやり直すべき烏滸者が迷い込んだか(嗤笑)。
446 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 13:01:20 ID:ikV/8fGc
詐欺ペテン マルチで失脚 出禁バカwww
つ 【お触り禁止】
448 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 13:14:03 ID:DaEnW2Zn
449 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 13:30:26 ID:ikV/8fGc
虫ケラが ID晒し 自画自賛wwww
450 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 18:44:19 ID:DaEnW2Zn
道元の疑問だったことは、悟った後も修行を続けるのはなぜか、というものだったと思います。 つまり、「修証一如」というより、「証上の修」「聖胎長養」「悟後の修行」といったことではないでしょうか。 悟ったからそれでお仕舞い、ということではなく、如来が悟った上で尚、禅定を続けられた意味を尋ねていたものでしょう。
>>450 娑婆に生きるとは、即ち「今に生きる」ということですね。
今はどうでしょうか?
幼児虐待があったり、また格差社会であったり(数えあげればキリがない)
つまりはハッピーな状態じゃないですね。
こういう諸々の事象なりを全て許容する→(一切皆苦)
つまり全否定なきは全肯定もない訳です。
盤珪の「疑あらざれば境地に至ることはない」というのは、
ようするに、逃げることあらずして全て受け止める。
という意に解しますね。
これは容易いようですけど、なかなか、どうして、そんなもじゃないです。
凡人には自己保身というのがありますから、
アホダラ氏の言説のように、もしあしたら「あの世で生きる」などと
妄想をするのが常ですから。
まったくもって、そういうことじゃないんです。
甚深の慈悲行は生涯続きます。
この位相こそが不風流処也風流じゃないでしょうか?
禅は逆説的であります。
<机龍之介・花押>
453 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/03(水) 20:24:25 ID:rJyC1fRK
生きてるならあとは生きなくても良いよねってのが アンチョコに書いてある なんで 悟ったらあとは悟った状態を維持しなくてもよいの?
454 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/03(水) 20:27:31 ID:HNH/0R17
池沼のスレ違い外道ネタ排泄は余所で。
>悟ったらあとは悟った状態を維持しなくてもよいの? 意味不明です。 悟るとアタマの回線が切れますから(我の破壊)、再度接続するには非常に至難かと思います。 白隠は18回も大悟したらしいです。
456 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 20:45:59 ID:ikV/8fGc
虫ケラと 傷の舐め合い 出禁バカwww
今日は中学時代の恩師と般若湯を酌み交わしました。 かなり高齢の女性教師です。 わたすはあまり般若湯は飲めないのですが、先生はかなりいけます)^o^( 友よ遠方から来る。 よき師と巡り合えました。 一期一会。 では皆さま、良き年でありますよう祈念いたしまして床に伏したいと思いまふ。 おやすみ。
458 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 23:13:20 ID:DaEnW2Zn
>>453 南無よ、おまいのアホぶりは阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ と違う意味で
年季がはいっているなあ。
>>442 と
>>453 で2回聞く必然性がない。
まともに(他も含め)レスを読まず且つ自力で考えていない証拠だ。
自力の法門はおまいには無理かもしれん。
「信仰」宗教で鎮座してろ。
459 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/03(水) 23:16:08 ID:rJyC1fRK
>>458 阿含宗さん
もっと分かりやすく教えて(*^_^*)
460 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 23:19:55 ID:DaEnW2Zn
>>455 白隠のは悟りではない。
単なるサマーディだ。
猿のオナニーと一緒だ。
461 :
名無しさん@3周年 :2007/01/03(水) 23:23:10 ID:DaEnW2Zn
>>459 偉そうに言って悪いが、自分の脳みそを
気が狂う寸前まで使いまくれ。
それに俺は阿含宗なんか大嫌いだ。
462 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/03(水) 23:55:21 ID:rJyC1fRK
>>461 そっか
やっぱり阿含宗出身者なんですね
そかそか
だから
オイラが気にくわないのね(笑)
463 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 00:20:35 ID:s3jW+Ge/
虫ケラに 使う脳味噌 無きものをwww
464 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 00:20:55 ID:oLorXWD1
>>462 俺は、かつていかなる宗教系団体にも属した事はない。
もっとも、家は臨済宗相国寺系の末寺の檀家だ。
今日も住職と抹茶をいただきながら、長々と話をしてきたよ。
一休さんの凄み、盤珪さんの剛直な一徹さを聞かされて、楽しかった。
狭くとも深く自己を徹底的に凝視せよと83歳の住職に教示された。
465 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/04(木) 10:06:13 ID:gYKo2q+H
466 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 11:18:53 ID:oLorXWD1
>>465 一切行無常 無常迅速 瞬息の程
肉体という限界があるが故に、
展転する無の実相は、視えないもののようだ。
467 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/04(木) 11:40:27 ID:gYKo2q+H
無常は常に有らずっていみでせう 常に何かしらに反応して変わる その変わるのは 無分別に変わるのではなく 何かしらの法則(空)に則って変わる
南無って、ほんと粘着だよね。 キリスト教の雑談スレでも、フーゾクエロ坊主出てけって言われても、いつまでも居座ってるしw 昔、散々、仏教板を荒らしたのに、懲りないし。。。。。 ネンブツスレにとどまってた方がいいんじゃない? それか自宅で写経とネンブツやってたほうが君のためだと思う。 電話代かからないしね(^^♪
469 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 14:15:03 ID:oVDvis81
>>386 で言及されている、
存在詞(〜がある)
繋辞(〜である)
を混同せぬよう注意。
ここでしくじると目も当てられない惨状に陥る。
「風と共に去りぬ」の一場面で、スカーレット・オハラが「Tomorrow is another day」
などとつぶやきます。
そこがいわゆるクライマックスのとこで、
いわゆり全米が泣くカットシーンです。
何故にこういう場面に世界は感動するのか?
これが私がカキコした
>つまり全否定なきは全肯定もない訳です
>>452 に通ずるのかもしれません。
つまり、ある価値観の瓦解こそが即、法なるやに思います。
法とは得るものにあらずして忘却することなりや。
<机龍之介・花押>
471 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 14:48:01 ID:s3jW+Ge/
行き場なく 醜態晒す 出禁バカwww
2種類の否定について prasajya-pratiSedha, Tib. med dgag, 絶対否定, 命題の否定。 否定詞は動詞にかかる。或る肯定的な命題を誤謬であるとする。 たとえば「講堂に比丘がいる」の絶対否定は「講堂に比丘がいない」である。 文全体を単に否定するだけであり、「講堂に牛がいる」などと別のことを述べる意図はない。 paryudAsa-pratiSedha, Tib. ma yin dgag, 相対否定, 名辞の否定。 否定詞は名辞にかかる。否定だけでなく、他の物事の肯定を意図する。 たとえば an-azva (非馬) は馬であることを否定しながら、牛などを指している。 ちなみに、梵語と同じ印欧語族に属するラテン語でも事情は似ているようだ。 否定詞 non は否定したい語の前に置く。 文全体を否定するときは動詞の前に置く。 英語での事情は、プログレッシブ英和中辞典 (小学館) によると、 un-, dis-, in-, im-, il- などがしばしば「反対」「逆」を表すのに対し、 non- は単なる「否定」「欠如」を表す消極的否定。
473 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 17:23:48 ID:aWP+873E
>439 阿呆陀羅經さんは、そこで説かれる業をどう思ってるわけ? 明らかに輪廻、前世が説かれてるでしょう。道元さんや釈尊は外道なんでしょうか?
474 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 17:46:27 ID:oVDvis81
原因と結果あるいは理由と帰結の法則性、すなわち因果律の真理性乃至絶対性の説明に、所謂生物学的 生まれ変わりやら実在的時間観などを持ち込み、トンデモ疑似科学に貶めるべきではない。 尤もトンデモ似非科学・疑似科学外道の類は、いつの世にも掃いて捨てるほど居ますがね(笑)。
>>474 生物学的意味を離れた輪廻転生など、それこそ観念論というもんです。
仏教は一切における法です。
一切とは是即ち十二処なり。
これを離れました法はありえんのです。→三法印
貴殿はなにゆえ輪廻転生に拘るのですか?
じゃあ簡単に机が説明しましょう。
生物学的死をもちまして十二処は消失します。
(一切の消滅です)
これでどうか開眼してくだされ。
476 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 19:35:53 ID:s3jW+Ge/
学習が 一切不能 出禁バカwww
477 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 21:26:47 ID:aWP+873E
>474 それでは >439をどのように読んでいるのですか? それから科学をどのように捉えているのでしょうか?
478 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 21:30:20 ID:aWP+873E
>>475 何故、三法印から「生物学的意味を離れた輪廻転生など、それこそ観念論というもんです」が
導きだされるのでしょうか?
> 生物学的死をもちまして十二処は消失します。
> (一切の消滅です)
これは全くの断見ですね。意処と法処が死で消滅すると説く経典などあるのでしょうか?
479 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 21:35:22 ID:oVDvis81
業に時効無し≠生物学的生まれ変わりの肯定。 再現性乃至反証可能性の欠如、そして無窮にそれらに晒され続けることを拒否するイデオロギーやドグマ体系 の類はトンデモ似非科学・疑似科学に他ならない。かかるゴミ類はCSICOPあたりの餌食にされ、見世物になっ ていればいいのである(笑)。
480 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 21:42:06 ID:aWP+873E
>479 > 業に時効無し≠生物学的生まれ変わりの肯定。 この発言は根拠が示されてないので、正に「反証可能性の欠如」の典型ですね。 また人文科学としての仏教文献学にどんな「再現性」があるのでしょうか? 修行を伴った仏教にのみ追体験という「再現性」があり、 それ以外に「再現性」など仏教という分野にありえないでしょう。
481 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 21:51:59 ID:oVDvis81
>>439 > 世尊言、
> 假令經百劫 所作業不亡→業に時効無し≠生物学的生まれ変わりの肯定。
こんなもの義務教育レヴェルの理屈(笑)。
>また人文科学としての仏教文献学にどんな「再現性」があるのでしょうか?
誰もそんなことに言及していない。烏滸がましさの極み(笑)。
「体験」など吟味・批判・検証、メタ化の対象に他ならない。
ほれほれ、今宵も複問虚偽の標本が釣れましたな(冷笑)。えづくろしおすなぁ・・・。
482 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 22:13:46 ID:oVDvis81
483 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 22:19:43 ID:aWP+873E
>>481 あなたは本気で自分が正当な理屈を述べていると思っているのですか?
> > 世尊言、
> > 假令經百劫 所作業不亡→業に時効無し≠生物学的生まれ変わりの肯定。
> こんなもの義務教育レヴェルの理屈(笑)。
これが「反証可能性の欠如」以外の何なのか? なぜ「業に時効無し」が
「生物学的生まれ変わりの肯定」ではないのか?
もし「生物学的生まれ変わり」を否定していて死後がないなら業は死をもって終わり、
「業に時効」があることにどうしてならないのか?
> >また人文科学としての仏教文献学にどんな「再現性」があるのでしょうか?
> 誰もそんなことに言及していない。烏滸がましさの極み(笑)。
では、あなたは 仏教文献学にどんな「再現性」がなくても科学であり認めるが、
輪廻は「再現性」がないから科学でないので認められないのですか?
それなら典型的なダブル・スタンダードでしょ?
それとも 仏教文献学も認められないのですか?
それなら一応筋は通っているが、過去に 仏教文献学を認めてきたことと矛盾する。
> 「体験」など吟味・批判・検証、メタ化の対象に他ならない。
どういう意味?
484 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 22:27:21 ID:oVDvis81
トゥルービリーバー症候群か何かですか(苦笑)。 カテゴリーエラーにすら気がつかないようだ。 常習化した複問虚偽の治療に関して、CSICOPなり癲狂院なりに相談に行けば如何(冷笑)? 佛法も 假の宿りと定むれば などかおそるる ことはりやある
485 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 22:30:08 ID:aWP+873E
>>482 あなたの科学というのは、原典を直接検証せず、
権威ありげな他人による二次資料を提示することですか?
それは科学ではないでしょう?
単純な話、英語をどう読むかについて、言語学や伝統文法を駆使して読みを提示した人に
様々な日本語の研究書で、こう書いてあると言うのは、科学の方法論以前の問題です。
その問題に反論したいならあなたは、サンスクリットを勉強するしかないのです。
できないなら黙ってればいいだけです。
>>478 >何故、三法印から「生物学的意味を離れた輪廻転生など、それこそ観念論というもんです」が
>導きだされるのでしょうか?
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。
この”諸”は「一切」のことですね。
つまり生物的生存における十二処全ての意です。
縁ありて生存なるゆえ、この生存(一切)を離れた法はありえんのです。
十二支縁起においても誕生〜〜〜〜老死で終ってますから、
是即ち生物的生存で全く問題はないのです。
>これは全くの断見ですね。意処と法処が死で消滅すると説く経典などあるのでしょうか?
よくよく考えたら宜しかろう。
第一義空にして「縁があるか、ないか」は二義的なもんです。
縁なくば消滅するは当然です。
つまり、空においては二項対立はありませんけど、二義的(分別相)においては
当然、果となりえます。→二項対立
これを空即是色というております。
では、おやすみ。
487 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 22:33:36 ID:aWP+873E
>>484 ほんとに何を考えているのか?
> 佛法も 假の宿りと定むれば などかおそるる ことはりやある
上の言葉を述べられるのは、悟った人だけですよ。
悟ってないのにこんな言葉を吐くのは、不遜の極みです。
488 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 22:38:45 ID:oVDvis81
はいはい、さっさと癲狂院へ帰りなさい。 トゥルービリーバー症候群も常習性虚偽症も不治の病か知れないが、世上に野放しよりも マシでしょう。 どこぞで act active activity の例を出されて黙り込んでたのの“亡霊”でも迷い出てるのかね(笑)。
489 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 22:42:35 ID:oVDvis81
「佛教」も畢竟、無窮に吟味・検証・批判・反証に晒され続けねばならない「仮説の体系」に他ならない。
490 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 22:44:51 ID:aWP+873E
>>485 > 諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。
> この”諸”は「一切」のことですね。
> つまり生物的生存における十二処全ての意です。
上は、全く正しい。ただし 輪廻する「生物的生存」です。
輪廻以外の意味で説かれる「生物的生存」など仏教にはないでしょう?
> 縁ありて生存なるゆえ、この生存(一切)を離れた法はありえんのです。
> 十二支縁起においても誕生????老死で終ってますから、
> 是即ち生物的生存で全く問題はないのです。
十二支縁起は、円環し輪廻することをお忘れ無く。これは『倶舎』『中論』『因縁心論』など
に限らず全ての十二支縁起がそうです。なぜなら「老死で終」るなら断見ですから。
> 第一義空にして「縁があるか、ないか」は二義的なもんです。
> 縁なくば消滅するは当然です。
あの輪廻とか十二支縁起は、世俗諦の話ですよ。
第一義諦の話なら「消滅する」とも言えませんよ。
491 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 22:51:13 ID:aWP+873E
>>489 そういう思い込みで、科学と仏教を同一視するから、
仏教を自分が知ってる通俗科学説に会通させようとするですよ。
あなたは仏教を述べてるのではなく、自分が知ってる通俗科学説に合わせた似非仏教を述べてるだけなんです。
あなたのような人に仏教が批判的に検証されて適当なアホダラ仏教を真説のように喧伝するのはやめてください。
492 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 22:58:15 ID:oVDvis81
トゥルービリーバー症候群も常習性虚偽症も不治のようだが、かてて加えて重度の認知的不協和 も抱えているようだ。娑婆へなど迷い出て来ない方が「自利利他円満」といったところだろうよ(苦笑)。 ご機嫌よう、お大事に。はよ、ちんまり寝なはれや(笑)。
493 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 23:04:57 ID:oVDvis81
尚、ID:aWP+873Eの信奉するような「仏教」なるものがどうなろうが、一切当方の関知するところではない。 以上。 ナチスのチベット人部隊みたいな代物を差し向けられてもかなわんけど・・・(苦笑)。
皆さん、このスレが 仏教の教義を理論的整合性の元に組み直す場所である ことを忘れているようですねw このスレに於いては、 「現実」や「現状との整合性」や「歴史的記述内容の吟味」や 「記述内容に当時の何が表れているのか」とかは関係ないんだよw
495 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 23:11:00 ID:aWP+873E
私は阿呆陀羅經さんが何時の日か、聖者から聖者へと伝えられてきた法脈につならることを祈ってますよ。 まずはあなたの悪口を直された方が「自利利他」になりますよ。
>>483 >「生物学的生まれ変わりの肯定」ではない
が、必ずしも
>「生物学的生まれ変わり」を否定
にはならないことは、
>>472 で述べられています。
>たとえば an-azva (非馬) は馬であることを否定しながら、牛などを指している。
こちらなら「肯定でない」は「否定である」になると思いますが、
>文全体を単に否定するだけであり、「講堂に牛がいる」などと別のことを述べる意図はない。
こちらの場合、「肯定でない」は「否定である」にはなりません。
単に「肯定である」という見解を虚偽としたものになります。
積極的に「否定である」とは述べられていません。
仏教的には、無記の立場から常見を否定したもの、と見ることができます。
497 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 23:18:15 ID:oVDvis81
何をどう言い繕おうが、誤謬は誤謬、虚偽は虚偽。「悪口」などもとより成立しない。 当方生憎ドグマタルチュフではございませんのでね。
498 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 23:23:41 ID:aWP+873E
>>494 あの私は、文献学の範囲でやっているつもりですが?
現実という名の通俗科学思想に矛盾するからと言って記述を退けるのは可笑しいと言って来ただけです。
ところで
> 「歴史的記述内容の吟味」
> 「記述内容に当時の何が表れているのか」
とは何を意味するのでしょうか?
499 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 23:30:47 ID:oVDvis81
宗義ドグマの紐付き弁論は「神学」でこそあれ「文献学」とはいえない。
500 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 23:35:56 ID:oVDvis81
疑似科学に顕著な傾向 ・反証不可能性 ・検証への消極的態度 ・立証責任の転嫁 神学屋や聖典ファンダメンタリストといった「ドグマタルチュフ」もしくは「トゥルービリーバー」にも顕著な傾向ですな。
501 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/04(木) 23:41:02 ID:oVDvis81
>>496 このようないわば「初歩」すら理解能わぬ杜撰の輩が絶えないことに遺憾の念を禁じ得ません。
「外境の実在」云々も同様です。論理以前の問題でしょう。
502 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 23:42:52 ID:aWP+873E
>>496 誤解されているようですが「〜がない」という絶対否定と「〜でない」という相対否定ですね。でしたら
>「生物学的生まれ変わりの肯定」ではない
は明らかに相対否定ですから、「生物学的生まれ変わりの肯定」を A とすると ¬A が要請されます。
非肯定は、否定ですから<「生物学的生まれ変わりの肯定」ではない >は<「生物学的生まれ変わりの否定」である >
つまり、
>「生物学的生まれ変わり」を否定
にならないなら、何を意味するのでしょうか? 「ではない 」というのですから絶対否定ではなく相対否定です。
> 仏教的には、無記の立場から常見を否定したもの、と見ることができます。
ですから、以上も誤解であることをご理解ねがいましたでしょうか?
>>498 たとえば、輪廻の記述、梵天勧請等神々の記述、魔の誘惑の記述、
河を飛んで渡ったというような記述、河の水が急に澄んだというような記述、
すぐそばを多数の車が通ったのに気が付かないというような記述、
目連など高弟が神通力を現したという記述、ウルヴェーラカッサパ等との神通合戦の記述、
過去の幾多の生を想起するという記述、ジャータカを始めとする数多くの前世物語、
そして、
施論戒論生天論といった在家への説法が、どのような意図の下に行われたか、
どのように説かれたのか(単なる方便で、後から、「あれは嘘だった」とフォローされたのか)
などなどなど。
504 :
名無しさん@3周年 :2007/01/04(木) 23:45:31 ID:aWP+873E
>>503 では、あなたは「輪廻の記述、梵天勧請等神々の記述、魔の誘惑の記述」を
どう取り扱うべきだと考えられますか?
>>504 正直に言えば、判りません。
ただ、梵天勧請については釈尊の内面が文学的に表現されたものであろうと思う。
釈尊自身がそのように表現した可能性もあるだろうが、
釈尊自身は、梵天に誘われたとの認識ではないであろう。
神々はわからんw 般涅槃を前に、「神々が来ている。どきなさい」なんて台詞は
実際の場面のどのようなものが表現されたのか・・・?
魔の誘惑は、梵天勧請と同じ。但し、釈尊自身が、
「まさに魔の誘惑として実感したのか」「文学的に弟子達に表現したのか」
「仏伝の伝承者達が、文学的表現に改変したのか」・・・
これらを確定する文献的確証はあるんでしょうか・・・。
輪廻についても、
「内面(心の変遷及び成長・再生)について述べられたもの」
「内面についてのものだが、当時の常識に合わせて説かれたもの」
「釈尊自身も、輪廻をしっかりと信じていた」
等あると思う。 これらを、恣意的な解釈でない文献的証拠として確定できるであろうか・・・。
だから、追体験こそが、本来は求められるべき最重要事項である筈なのだ・・・。
506 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 00:06:06 ID:EovqHolX
成道の折、躊躇のうえで確立されたブッダの公布戦略と戦術・・・真理目的と方便戦術を混同するな (1)真理・目的:実存苦の克服⇒涅槃、真理の伝道 キーワード・・縁起法、四聖諦、三(四)法印 (2)方便・戦術:当時のインド社会の現実を踏まえたスムーズな伝道妥協戦術 キーワード・・古来の生天思想(神・悪魔・天国・地獄など) バラモン・ヴェーダ的業報輪廻思想 対機説法、方便説法 ブッダの(1)の本質を純化してゆけば、(2)が思想として組み込めるわけがない。 しかし、純理論的に当時の一般的社会通念を否定していては、あたまから一般民衆やバラモンから激しい反発を 受け、説法どころではなかったろう。戦略的誤謬だ。この点バラモン教、ヒンドゥー教は実にうまい。 徐々に純化していけばよい・・。ところが、ブッダの危惧は的中実現してしまった。教条主義者が実に多かったのだ。 ブッダ成道の折、教えの内容も、戦略戦術論も正確に理解してもらえるか、 伝道を躊躇された理由はよく解る。
507 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 00:07:54 ID:HoVPK9hG
>>505 この種の記述の内容探究には紐付き神学ではなく、人類学や神話学からのアプローチが必要とされ
ると考えます。
>>507 で、このスレでは扱わないということなんですよね?
>>506 釈尊がそのように区別していた証拠はどこにあるんでしょうか・・・。
510 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 00:19:51 ID:HoVPK9hG
>>508 紐付き神学には何ら関心を持ち得ませんし、取り扱うつもりもありません。
511 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 00:24:01 ID:FL9NAGVZ
>>505 誠実なお答え感謝いたします。
私は文献学であれば文献を忠実に再現し内容を正確に記述する以上のことはできないと思います。
> ただ、梵天勧請については釈尊の内面が文学的に表現されたものであろうと思う。
> 「仏伝の伝承者達が、文学的表現に改変したのか」・・・
> これらを確定する文献的確証はあるんでしょうか・・・。
確証は全くないでしょう。ただしよく言われるのはルナンのイエス伝のように、
素朴な伝承が時代の経るごとに信仰によって神格化されたと現代人の常識から解釈されてきただけです。
しかも梵天勧請は、一貫して仏伝に記録されてきたと記憶しています。
1. > 「内面(心の変遷及び成長・再生)について述べられたもの」
2. > 「内面についてのものだが、当時の常識に合わせて説かれたもの」
3. > 「釈尊自身も、輪廻をしっかりと信じていた」
> 等あると思う。 これらを、恣意的な解釈でない文献的証拠として確定できるであろうか・・・。
1., 2. は現代人の常識から解釈ですね。3. しかありえないでしょう。
例えば「 假令經百劫 所作業不亡 因縁會遇時 果報還自受」が世俗の善悪のために方便として説かれたという
解釈の余地はあるでしょうが、聖者の結果としても宿命智を認めて説かれているのですから。
> だから、追体験こそが、本来は求められるべき最重要事項である筈なのだ・・・。
追体験は可能ですが、その場合、内面的な追体験では「反証可能性の欠如」と言われるでしょうね。
成就者は、物理的に舎利を残しますから、それは「反証可能性」があるのではないでしょうか?
>>510 生天論に関しては捨象しきれないのでは?
>>506 のように捉え、内面の成長を「天に生まれる」と見做す立場ということですね?
その解釈の経証はどれになりますか?
513 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 00:26:40 ID:EovqHolX
>>509 文献学的証拠はない。だから、「物語だ」といわれれば、それまでだ。
しかし、成道時の激しい心理的内部葛藤と、仏典の戦略的意味を考えれば
十分成立すると考える。理論的に(1)と(2)が同列におけるわけがなく、
且つ矛盾することは明らかだ。
いわば、マルクス経済学における宇野理論的視点を構築することができる
のではないか。
では、明日は早いので寝ます、おやすみ。
514 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 00:28:46 ID:HoVPK9hG
>>512 言及も何もしていないことを押しつけないように。
今日は複問虚偽の縁日か何かですか?
>>512 あなたの様な人がこのスレにいるとは思いませんでしたw
こちらこそ、駄弁にお付き合い頂きありがとうございます。m(_ _)m
>>514 では、一つずつ問います。
生天論に関しては捨象しきれないのでは?
517 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 00:35:05 ID:HoVPK9hG
>>516 指摘された意味も判らないようだ(苦笑)。
稚拙な横車を押そうたって無理な相談(笑)。
518 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 00:38:35 ID:FL9NAGVZ
>>506 のような説は簡単に破綻します。
「真理・目的:実存苦の克服」が、輪廻を前提としなければ自殺に帰結するからです。
一切皆苦、五蘊も十二処も十八界も全て苦であり、死んだら終わりなら、自殺すれば涅槃だからです。
ですが、解脱していない限り輪廻してしまうから、自殺は解決にならず、解脱するために道諦を行ずるしかないのです。
だから、道諦を行ずる。
方便・戦術説は、単なる現代人の解釈でなんら文献的根拠はありません。
たしか和辻が、釈尊がそんな低俗なこと信じるはずがないという自分の信仰を解釈に持ち込んだだけです。
519 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 00:43:34 ID:HoVPK9hG
死も苦(=不如意)に他ならず、したがって自殺も何ら救いにはなり得ない。
>>513 >且つ矛盾することは明らかだ。
だからこそ、解釈の妥当性が問われるのではありませんか?
電波氏や阿呆陀羅氏のような解釈・スタンスも勿論ありだが、
それを絶対視する必要はない。
一般の、仏教的素養ゼロの人への言葉を捨象して教義を語るのは
サークル内のオナニーにしか過ぎない。
経典や教義解釈の変遷は、内部(比丘たちの理解)の変遷であると同時に、
外部(一般民衆)への言葉の重ね方の変遷でもあるはずだ。
これ(一般民衆への言葉)を捨象しっ放しというわけにはいかない。
ひとまず脇へよけておくにしても、もう一度手許に引き戻し吟味を加える必要はあると思う。
菩提樹の下から立ち上がった釈尊を敬うなら、外への言葉の重ね方を外せないのではないか?
おやすみなさい ノシ
>>517 あなたは、キリスト教徒など他宗の人を始め、
外部の人間の問いにそのように対するのですか?
あなたは、仏教について、仏教を知らない人とは会話をしないのですか?
あなたの態度は、人を見下し、自分より下と判ると、説明もしないのですか?
このように問いを重ねる人は多いですよ。
そういう人とは会話をしないのですか?
他宗教の誠実な信者であれば、もっとたたみ掛けるように問いを重ねてくると思いますよ?
俺も寝るか・・・ 知的パズル以上の価値が仏教にあるとしたら、 それは阿呆陀羅氏の対極にあるのだろう・・・ みなさんおやすみ ノシ
523 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 00:55:02 ID:FL9NAGVZ
> 519 死ねば終わりだが、死自体が苦だから救いにならないって意味ですか? もし、死ねば終わりなら一瞬の苦などなんだろう? それで多くの現代日本人は自殺するんでしょう。 あなたの論理は、どれをとっても屁理屈。すべて破綻している。
524 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 01:04:49 ID:HoVPK9hG
複問虚偽の“化身”になると、何振り構わなくなるという標本の大漁日ですこと(苦笑)。 不治のドグマタルチュフはさっさと癲狂院へ。 紐付き神学屋も帰った帰った。
525 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 01:07:09 ID:FL9NAGVZ
知的パズルは、仏教文献学。仏教は本当に人間を素晴らしい状態に変えます。 私は多くの聖者と出会いました。また法友が目に見えて変わるのも見ました。 e3OhmFpIさんも、聖者と出会うことがあれば分かると思います。 e3OhmFpIさんが聖者と出会うことを祈ってます。
526 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 01:10:06 ID:FL9NAGVZ
>524 あなたは自分が原典も読めないのに、なんで自分が間違ってる可能性を見ないのか?
527 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 01:13:10 ID:EovqHolX
528 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 01:14:50 ID:HoVPK9hG
ドグマタルチュフ・紐付き神学屋・宗義ゴロや教団奴婢が増殖しないことを願いつつ 床に就くと致そう。
529 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 01:22:19 ID:EovqHolX
>>528 阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ よ、天下御免のアホぶり炸裂だなwwwww、アホ。
530 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 02:01:22 ID:FL9NAGVZ
>>527 http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html 以上の例は考察済みで、逆に私の主張の証拠となるものです。
なぜか、ゴーディカ、サーリープッタは解脱しているので自殺しても輪廻しないからです。
特にゴーディカに何故、自殺を勧めたかを考えるとハッキリするでしょう。
ゴーディカは、解脱と退転を繰り返しています。
もし退転している時に不慮の死を遂げたなら輪廻してしまうから、解脱している状態での自殺を勧められたのです。
ヴァッカリの場合は、釈尊は引導して解脱に導いたものでしょう。なぜならヴァッカリにしろゴーディカにしろ
最後に「魂」(世界の名著1、456頁)「識別力」(悪魔との対話、52 頁)と訳される viJJAna つまり
漢訳で「識」と訳されるものが、縁起して相続して行く意識、あるいは心相続と後代言われるものです。
これが死後も輪廻していくとされていたが、解脱した二人にはそれがないので輪廻から解放されたわけです。
> ブッダの目的は、あくまで『現在の生存における』生老病死・愁悲苦悩を
> 征服することです(中部経典6,3 :中阿含経221)。
> 解脱とは、あくまで『現在の実存苦から』の解脱です。
> 死後の世界を無記とされたそれ以上の理由で業報輪廻は無記対象のはずです。
> 実存的検証不能な形而上概念(一切ではない)だからです。輪廻を「真理」と説く
> ことは内部矛盾であり、理論的破綻です。
死後の世界を無記としたという説は、一部の学者の誤解です。
本来は、如来の死後つまり解脱した者の死後を無記とされたのです。
また、一切には五蘊でいう行、識、十二処でいう法処、意識などが含まれこれらは現世だけではありません。
また聖者に得られる宿命通(過去世の記憶)などはどう説明しますか?
これらが、五蘊でいう行、識、 十二処でいう法処、意識で解釈されます。
まったく現代的な解釈は成り立たないでしょう。
>>490 >上は、全く正しい。ただし 輪廻する「生物的生存」です。
>輪廻以外の意味で説かれる「生物的生存」など仏教にはないでしょう?
もちろん「生物的生存」など仏教にはないです。
アホダラ氏の個人的妄想ですね。
現実的には「生物的生存」はしていても植物状態で十二処すら消失しておるのもあるんですから。
あくまでも一切であります。
ここを離れましては法は遠のきますね。
>なぜなら「老死で終る」なら断見ですから。
「老死で終る」のは縁起が終る(世俗諦)ってことですから一切は終了してますね。
しかしながら縁生とか縁滅とかは世俗諦の論理です。
簡単に言いますと勝義諦においては言語表記は無理です。
何故かと言いますと、生起するは論理矛盾になりますから縁滅で相殺する以外にない。
「何において生起するのか?」とか「生起の主体は?」とか、
それ自体が説明は困難だからです。
ここまで逝きますと、もはや言語哲学の範疇になってまいります。
ゆえに断見・常見の二項論理は、そもそも勝義諦にはそぐわない。
仏教は一如の法門でありますから。
532 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 09:14:18 ID:AVvfWGYV
所謂無記・捨置答の文脈での「Tathagata」」は、パーリ註によれば、「衆生(satta)もしくは我(attA)」とされています。 他部派等の説に対して執拗な論難・批判を加えるのが常のブッダゴーサら(?)も、この語に関しては別段異説を 俎上に載せておりません。また、この論題を扱った漢訳諸經乃至論書には上記の註にトレースできる解釈が幾つ も見られます(原典を文献学的に扱ってられる方ならとっくにご承知と思いますが)。 何よりも、十(四)難無記の設問の数々は、不当前提に基づく非論理的な疑似命題であり、複問虚偽の典型に他なら ないことに気付かれるべきです。成立しない問いは相手にせず即刻却下が順当な処置なのです。
533 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 10:45:29 ID:AVvfWGYV
変換ミス訂正 「Tathagata」」→「TathAgata」 「識」もつまりは衆縁和合して起こる作用に他ならず、それをあたかも主体の如く捉えれば矛盾撞着に 陥ります。「心相続」なるものも、あくまで様相として把握されるべきで、主体・本体の類を前提する循環 論は放逐・排除されるべきです。
>>533 貴殿は既に論理矛盾をしておりまふ。
>「心相続」なるものも、あくまで様相として把握されるべきで
である「識」も
>「識」もつまりは衆縁和合して起こる作用に他ならず
なのであれば、「識」それ自体が「識」であります。→縁起
よって「識」自体が無となりますね。
この論理こそが「仏教は無の哲学」などと言われる論拠なんですよ)^o^(
どうか開眼してくだされまし。
535 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 11:34:23 ID:G/ta5imJ
悪アガキ すべて無に帰す 出禁バカwww
536 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 11:38:36 ID:QfzCZPWB
お前等、宗教が好きならそれで良いが、税金が滅茶苦茶高くなっていく 今年からどうするんだ?現実を無視して神も仏も救いもなにもないぞ! 企業への税金は下げられて個人への税率は凄く上げられて、消費税も 20パーセント目指して所得税に健康保険にアゲまくられて庶民は水のみ 百姓の暗黒政治に突入だぞ!企業には税率が下げられてオマケに外国企業が 参加出来て買収されていく事を評論家達は皆予測している。つまり、日本人の 個人は貧乏でも強引に重税をかけられて逃げ出せば刑務所送りだ。 その上に在日手当て在日特権の為に3兆円でも10兆円でも投入されている。 つまり、日本人は一部の金持ちが在日と癒着して庶民はアメリカと在日と日本人の エリートと公務員の食い物にされて生き地獄が待っているのだ。 神仏は結構だが、現実で政治的運動に出ないと将来は恐ろしい暗黒時代になるぞ! 目覚めろ!日本人!目覚めろ!お前等!現実の知識を増して現実で目覚めて 現実で救われなければ、あの世もこの世も苦しいばかりだぞ!戦え!団結と行動と 現実変革を神仏に祈願しろ!その上で在日から退治する事を考えろ!お前等がチンタラ していると暗黒は増すばかりだぞ!
537 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 11:43:12 ID:yAhEUTIg
おいおいwwwww またまたペいに俺のマラの臭さに降参したのかよm9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ よほど俺の釜堀一筋30年のマラへのルサウンチマンが尽きたようだなぁニヤニヤ ま、もとから俺様のマラの臭さには対抗すらできていなかったわけだが( ´,_ゝ`) その言葉を聞くと、僕は自然と身が引き締まります。 東大法の先輩方に恥じない自分であっただろうか・・・・。 しかし、東大法ブランドを作りあげてきた先輩はじめ僕は道を歩いていて、ときどきクスッと笑うことがある。 「ああ、自分は天下の東大法学部卒なんだ」と思うと、東大法ブランドを作りあげてきた先輩はじめ先達の深い知恵なのでしょう。 東大に入学することにより、僕たちは伝統を日々紡いでゆくのです。 嗚呼なんてすばらしき東大法。 知名度は世界的。その言葉を聞くと、僕は自然と身が引き締まります。 東大法の先輩方に恥じない自分であっただろうか・・・・。 しかし、先輩方は僕に語りかけます。 「いいかい?伝統というのは君たちが作り上げていく物なのだよ」と。 僕は感動に打ち震えます。 人気、実力すべてにおいて並びなき王者。 嬉しさがこみ上げてくる。 激烈な入学試験を突破してから○年。 東大に入学したときのあの喜びが「東大法ブランドが何をしてくれるかを問うてはならない。 君が東大法に何をなしうるかを問いたまえ」 僕は使命感に胸が熱くなり、武者震いを禁じえませんでした。 でもそれは将来日本の各界をになう最高のエリートである僕たちを鍛えるための 天の配剤なのでしょう。 いまだに続いている。 「最終学歴 東大法学部卒」・・・・・ 先達の深い知恵なのでしょう。 東大に入学することにより、僕たちは伝統を日々紡いでゆくのです。 嗚呼なんてすばらしき東大法。 知名度は世界的。人気、実力すべてにおいて並びなき王者。 先輩方は僕に語りかけます。 「いいかい?伝統というのは君たちが作り上げていく物なのだよ」と。 僕は感動に打ち震えます。
__ __ n _____ _____ ___ ___ ___ | | / / / / / | /__ __/ [][] _| |_| |__ _| |_ | |. / / /⌒ヽ/ / / ̄ ̄|. l / / | _ | |_ レ'~ ̄| | | / / ( ^ω^ ) / /. / / | |___  ̄| | / / / /| | | | / / ノ/ / ノ /  ̄ ̄ / \__| | |  ̄ /_ / | |_ | |. / / // / ノ / / ̄ ̄ ̄ |_| |__| \/ | |/ / ⊂( し'./ / / |. / | ノ' / / | /. し' ./ /  ̄ ̄ ̄  ̄ ̄
539 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 19:41:44 ID:EovqHolX
道妄一切妄 道真一切真 真外更無妄 妄外別無真 如何修道子 只管欲覓真 試要覓底心 是妄乎是真 (大愚良寛・花押)
540 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 19:49:19 ID:AWuxoR2r
(5)複問(complex question)の虚偽 別名:誘導的な質問(loaded question)、多くの質問(many questions)、 質問の虚偽(fallacy of interrogation)、推定の虚偽(fallacy ofpresupposition) ラテン語名: fallacia plurium interrogationum ut unius これは、1つの命題の中に複数の論点を含ませて、そのすべての論点に関する 複数の主張について一括して受け入れるか、それとも拒否するかを 聞き手(読者)にせまるという誤りである。 (例)あなたは自分の子供を殴るのをやめましたか。 この例では相手に子供がいることと、その子供を殴ったことがあるということを 質問する前から決めつけている。本来そのようなことはそれぞれ別々に問うべき事柄である。 複問に対しては即座に「はい」または「いいえ」という形で答えるのでなく、 まず結合された質問をばらばらにする必要がある。 なお、複問の虚偽は社会調査においても起こる可能性がある(7.3.2.3.1.1.(3)を参照)。
541 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 20:13:25 ID:EovqHolX
542 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/05(金) 20:28:36 ID:HoVPK9hG
> (例)あなたは自分の子供を殴るのをやめましたか。 類似の文例は、中村元氏も「無記」についての記述で取り上げてられました。複問虚偽については 言及されてませんでしたが・・・。「お人が悪い」と思いましたね(笑)。意外に仕掛けだらけの文章を書 く学匠でした。
543 :
名無しさん@3周年 :2007/01/05(金) 21:04:19 ID:EovqHolX
>>502 >「〜がない」という絶対否定と「〜でない」という相対否定
その分け方は違います。有無判断と正否判断を同じレベルで見ています。
「〜がある」「〜がない」というレベルの議論に対して、
「〜である」「〜でない」というのは、その真偽評価をするものです。
そして、絶対否定や相対否定というのは、否定の中に別の何かを肯定するか否かをめぐる分類です。
>>541 リンク先見てみました。そこじゃないよ。
複問虚偽でぐぐって出て来た、哲学者のサイトだったような気がしまする。
否定とは 「有る」の否定「有らず」は、必ずしも「無い」ではない。 「有無」という一対の言葉があるため、それに引きずられて、 「有の否定」ならば「無」である、という方向に行ってしまいがちだ。 しかし、「有る、のではない」という言明でもあり得るのだ。 「丸い」の否定、ということで考えてみると分かりやすいだろう。 「丸くない」は、別に「四角だ」と言っている訳ではないことには、誰しも異論がないだろう。 「三角」かも知れないし、「菱形」かも知れない。もっと他にもいろいろ考えられる。 丸⇔(四角,三角,菱形,他) このように、「丸い」を否定しても、別の一つの言葉に考えが集中しないのは、 「丸い」と一対となる言葉がないため、その言葉に引きずられることがないからだろう。 インド思想では、否定文によって真理を表現しようとすることが多い。 日本語訳で「〜ない」に出会った時は、上記のことに留意して読むべきだろう。
549 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 00:02:26 ID:FL9NAGVZ
>532
完全なハッタリですね。なんでパーリが読めないのに以下のように主張できるのかと思えば、
> 所謂無記・捨置答の文脈での「Tathagata」」は、パーリ註によれば、
> 「衆生(satta)もしくは我(attA)」とされています。
なんですかこれは
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha217.html 和訳の又聞きじゃないですか?
それなら「パーリ註によれば」と言わず「片山訳によれば」と言えばよく、
なによりリンクすればいいだけです。しかもあなたは、以下で
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/cgi-bin/resbbs1/resbbs.cgi 森教授にわざわざ質問して、丁寧に答えをもらって重要な論文を教えられいるのに全く無視し、
論文を読むこともしてませんね。そこに示された水野先生の論文にパーリ註解釈が何故されたかが
明解に説かれています。なぜタターガタを有情と解釈したのか、それは十四無記が外道からの
質問だからです。つまり外道のタターガタは解脱者ではなく、有情なのだというのがパーリ註解釈の
解釈です。ですが当然のことながら外道は、解脱者としてタターガタと述べている。
そして水野先生は<「輪廻を超越した完全者」の意味を含むものであったと思われる>と結論しています。
パーリも読めないのに、なんでこんな偉そうなハッタリは、恥ずかしいですね。
> 他部派等の説に対して執拗な論難・批判を加えるのが常のブッダゴーサら(?)も、
> この語に関しては別段異説を俎上に載せておりません。
なんでこうなるのか、その論理の筋道が分からない。全くの飛躍ですね。もうコメントしませんので
> 何よりも、十(四)難無記の設問の数々は、不当前提に基づく非論理的な疑似命題であり、
> 複問虚偽の典型に他ならないことに気付かれるべきです。
> 成立しない問いは相手にせず即刻却下が順当な処置なのです。
寝る前に、もうひとつ。
435 名無しさん@3周年 sage 2005/12/02(金) 01:06:48 ID:uodBw98G
テンプレに
「ここは、学問的に仏教を読み解いてゆくスレです。
現実を視野に入れたり、現実へフィードバックさせることは別次元の問題です。
原始仏教とは関係がありません。別スレを建ててください。」
と入れといてくれ。
436 阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A 2005/12/02(金) 07:34:54 ID:8pmdb0lQ
>>435 お説ごもっとも。了解です。
551 :
復讐するは我にあり、神ではない :2007/01/06(土) 04:26:08 ID:TkaKfDlq
死せるサンジャヤ、生けるアホどもを錯乱す。
サーリプッタとモッガラーナと弟子全員を取られ狂死した
サンジャヤの復讐は永遠に続く。
ゴータマ・ブッダの死後生、輪廻についてのの教説はサンジャヤのパクリにすぎない。
形而上問題での二律背反については、判断中止かのらりくらりの鰻論法がふさわしい、賢い。
アホはたいてい教条主義者だから、両立場からのツッコミ可能で、サンジャヤの復讐は永遠だ。
真理を洞察できる智慧なきまことにすくない。サンジャヤは永遠に笑うwww
>>506 が智慧ある者の立場にふさわしい⇒1)戦略問題と2)実証不能の二律背反問題への事実上の解答中止。
552 :
復讐するは我にあり、神ではない :2007/01/06(土) 04:36:16 ID:TkaKfDlq
× 真理を洞察できる智慧なきまことにすくない 〇 真理を洞察できる智慧者はまことにすくない
553 :
復讐するは我にあり、神ではない :2007/01/06(土) 04:49:39 ID:TkaKfDlq
だいたい、当時のドロドロの布教戦争の現実をイメージできないアホが多すぎる。 現に、インドでは仏教は完全敗戦でヒンドゥーの戦略・戦術に叩き潰されたのだ。 多数の死者も出ただろう、ゴータマ・ブッダも戦略的誤謬があれば殺されていた(それはそれでイイが・・) だろう。特に権益を奪われるバラモンへの神経戦にはブッダも神経をすり減らしたはずだ。 宗教戦争のエグイ現実を知らない平和ボケには“あるがまま”を知るなんて無理無理wwww
>>549 そうなんですよw
アホダラ氏は文脈のトータル的な把握が苦手でして、部分抽出だけ脳にインプットしちまうんです。
この件に関しまして、私は何度もアホダラ氏に進言しちょるのですが、
なかなかアホ氏のプライドが邪魔して聞く耳を持たんのですよ(^^ゞ
というか、
問題はアホ氏の我執ですね。
何ゆえこうも氏を駆り立てておるのか?
我執の破壊こそが禅なのであります。
555 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 10:42:09 ID:7LpDnHJp
詐欺マルチ 我利我利亡者 出禁バカwww
556 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 12:10:28 ID:Vjidur2Z
パーリ註(ブッダゴーサら?著)の記述に拠る学者乃至訳者は片山氏をはじめ枚挙に暇がありませんし、 手許の訳本を参照したことはいうまでもありません。 十(四)無記(における諸論題)は別段外道に向けた經に説かれているわけでもなく、かかる不当設問 を佛教は捨象棄却するという大前提の表明に他なりません。つまり佛教では初歩からこうした戯論に は取り合わず、いわば淘汰済みの事柄とされるのです。 <「輪廻を超越した完全者」の意味を含むものであったと思われる> そりゃ「含む」でしょう。ところがこの論文、紙数をそれほど要しない短い紀要論文の類にも関わら ず水野氏の著作選集から漏れているばかりか、冒頭の「研究の回顧」において言及すらされませ ん(尤も業績一覧には記載されますけど)。「重要な」論文の筈なのに不自然の感を禁じ得ません。 それと「大家」のはずの森氏の著述はどうしてこう、入手しにくいのだろう。書籍も品切多し。 そこいら辺の「業界事情」も知りたいところです。 ま、虚に向かって必死に吠えたところで徒労に終わるだけなんですけどね・・・(苦笑)。
>冒頭の「研究の回顧」において言及すらされません さほど重要なことではなく言及に及ぶ必要がない。ってことです。 >「重要な」論文の筈なのに不自然の感を禁じ得ません。 覚者は既に悟っております。 重要であるか、そうでないのか、その二項すら存せず。 >そこいら辺の「業界事情」も知りたいところです。 貴殿の考え過ぎです。 「業界事情」→→(笑 >ま、虚に向かって必死に吠えたところで徒労に終わるだけなんですけどね・・・(苦笑)。 吠えるベクトルが違います。 このベクトルを汝自身に向けたら宜しかろう。 さすれば光は必ず見出せるであろう。 <机龍之介・花押>
558 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 12:49:04 ID:7LpDnHJp
永劫に 基地害メクラ 出禁バカwww
559 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 13:13:25 ID:+DZ53d6Q
>556 よくでてこれるね。じゃパーリを示せる?
560 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 13:22:06 ID:Vjidur2Z
文献学の大センセイなるドグマタルチュフ・宗義ゴロ輩は、参考サイト紹介も読めないらしい(笑)。
561 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 13:29:38 ID:Vjidur2Z
ちなみにドグマタルチュフ・神学屋、宗義ゴロ・教団奴婢の類は学童期からの玩弄対象。 「仏典バイブルベルト住民」も然り。
562 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 13:51:58 ID:Vjidur2Z
書肆漫歩にでも出掛けるか・・・。
563 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 13:58:12 ID:ieshOfAg
>>510 問1
文化としての仏教には興味がないのですね?
問2
文化的影響が、経証として用いる文献に反映している場合、
どのように処理をされますか?
問3
原点批判的アプローチにより、釈尊の悟りの原型が抽出できたとして、
その後どうされますか?
ア、それを胸に抱き生活する。他者へは話さない(→説かない)。
イ、原型と伝統的各種記述との整合性を模索する。
ウ、原型に沿うように伝統的記述・解釈を捨てる。
エ、他者へ語る際に、常に原型についての補足説明をする。
(→伝統的記述・解釈が間違いである事を理解させる)。
オ、他者へ語る際に、原型について補足説明は行なうが、
伝統的記述・解釈もまた歴史的必然のうちに伝えられたものであるという尊重の上に行なう。
カ、その他( )
564 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 14:09:19 ID:ieshOfAg
>>514 >>517 問4
外部の、仏教をほとんど知らない人間に対して仏教を説明する時に、
抽出した原型以外の部分については口にしませんか?
問5
外部の、仏教をほとんど知らない人間(当然、論理学の素養などない人が殆どであろう)
が問いを発してきた時、あなたはどのような態度をとられるのでしょうか?
ア、このスレであなたがしているように、斬って捨てる。
イ、その問いを受け止め、組み直しながら答える。
ウ、その他( )
問6
外部の、仏教をほとんど知らない人間が、
原型以外の部分について問い及び指摘をした場合、どのような態度をとられますか?
ア、このスレであなたがしているように、無視及び斬って捨てる。
イ、問われた部分・指摘された部分について、理由とともに原型から外れている事を解説する。
ウ、その他( )
565 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 15:01:27 ID:Vjidur2Z
>なお、複問の虚偽は社会調査においても起こる可能性がある。 なるほどね。 寒いので午睡に変更しようかな(笑)。
566 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 15:53:13 ID:ieshOfAg
>>565 お気づきになられましたね。
では、
>>563-564 のような疑問は、
どのように問いかけたら複問虚偽にならないのでしょうか?
或いは、どこまで問いを分節すれば複問虚偽にならないのでしょうか?
そもそも、このような問い方は日常に於いては茶飯事でしょうし、
阿呆陀羅氏は、
論理学を知らない人間は問いを立ててはいけないとでも言いたいのでしょうか・・・。
学究的問いしか問いとして認められないのでしょうか?
また、これまで貴方が指摘した部分も、
>複数の主張について一括して受け入れるか、それとも拒否するかを
迫ってはいないし(一つ一つに答えてくれればいい)、
>1つの命題の中に複数の論点を含ませて
もいないし、(問いの一つ一つは分けられているはずだ)
>結合された質問をばらばらに
すればよいのではありませんか?
もっとも、私の問いに誘導尋問的部分が多い事は認める。
>>512 の二つ目は >推定の虚偽 にあたるかもしれないが・・・w
567 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 16:13:32 ID:Vjidur2Z
>>566 >>2 に提示の掲示板で捨てアドでも教えていただければ、某SNSへご招待しますよ。
あなたとはそちらでの方がまともにじっくり話せそうです。
568 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 17:22:19 ID:ieshOfAg
>>567 御遠慮しておきます。w
純粋に文献学的な経典の読みをしてゆくならそれもいいでしょうが、
そのためには、そっち方面の事をもう一度勉強しなおさなきゃならないw
大学の図書館にも通わなきゃならない。PCの環境も整えなきゃならない。
専門家にお任せして、結果を拾わせていただきます。
(勿論、あまりにも気になるところは「チェックしなきゃ・・」という気持ちはあります。
また、片山信者としては訳出を追いかけなきゃならないですしねw)
また、何よりも、今の私の興味は、
外部や初心者に対して、どのような言葉の選び方、重ね方ができるだろうか・・
というところにありますので、阿呆陀羅氏とは反りが合わないと思います。
(勿論、その為の自身の足場は確立せねばならないわけで、
経典を読むことをやめるわけではありませんがw)
たとえば、ヨハネパウロ二世が著した「希望の扉を開く」という本をご存知ですか?
その中で仏教についても少しく述べられているわけですが、
お愛想としても肯うことの出来ない記述となっています。
(もう亡くなられたが)もしパウロ二世と対することがあったら、喧嘩を吹っかけていた事だろうw
あなたの常なる態度は、そうした際に無視や罵倒で相対するようなものなのですよ。
もしキリスト教徒が、(前掲書等をもとに)詰問してきたら、
あなたは、「外道虫けらの妄想に答える義務はないw」と一蹴するのですか?
(問いを発する者が皆、論理学を修めているなどと思わない方がいい。
また、仏教の外からの問いは、往々にして貴方の嫌う問いや問い方になる。)
2chに於いては、茶化しや煽りが多いわけだが、普通に異議を唱える者も居るわけだ。
彼らに対して、自身の拠って立つ解釈に合わないからと罵詈雑言を重ねて切り捨てるだけの態度は如何なものか?
もっとも、別の場所に議論の場があるから此処ではそれでいいという判断かもしれませんが・・・。
(だとしたら、このスレの存在意義は一つもない。)
お誘いをお断りする理由の三つ目は、
私は、そういう貴方の態度が好きではないからだということも付け加えておきましょう。
569 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/06(土) 17:34:13 ID:Vjidur2Z
>>568 それでは仕方ありませんな(笑)。
佛教を云々する以前に、言説を交わす要なしと判断される輩がここには多過ぎです。
そんな手合いに一々関わり合う義理も義務も存しません。
>>568 素晴らしい書き込みです。
なんですなぁ〜、こういう書き込みにも馬耳東風なのがアホダラ氏でして、
そのキャラを今さら変えるのも至難なんでしょう。
っていうか、
そもそも私を含めてですが、仏教オタは何らかの頭脳破壊者が多いかと思いますね。
いい意味でもありますし、また悪い意味でもあります。
人空
572 :
名無しさん@3周年 :2007/01/06(土) 22:42:49 ID:7LpDnHJp
喚くほど 生き恥晒す 出禁バカwww
慈氏菩薩所説大乘縁生稻[?/幹]喩經 云何識界。令轉名色 如束蘆。五識相應 有漏意識 名為識界。 識界 亦 不作是念。我 能轉名色 猶如束蘆。 名前・概念と(それに対応するであろう)事物を転じて、 両者を対応させ、互いに依存して初めて立つ葦束のようにするもの。それが識界である、と。 『中辺分別論』1-3(or4) artha-sattva^-Atma-vijJapti-pratibhAsaM prajAyate / vijJAnaM na^asti ca^asya^arthas tad-abhAvAt tad apy asat // 対境・衆生・我・表象の顕現が生じる。 識は存在しないし、その対境も(存在しない)。それ(対境)の非存在によって、それ(識)もまた存在していない。 対境の顕現は色等、衆生の顕現は六根、我の顕現は染汚意識、表象の顕現は六識。
>>568 >外部や初心者に対して、
本当に初心者相手なら、その態度でどんどんやったらいいと思うけど、
私の別板での経験からすると、業者が初心者を装って誘導宣伝にこれつとめ、
間欠的に何度も意見しても馬耳東風という苦い経験があるからなぁ。
だから書き込みの内容で判断するしかないんだけど、本当の初心者はそれに騙されるようだし。
>>574 2chに限ったことではないですよw
リアルで相対した時に、自分はどんな言葉を紡ぐことができるのか?
ということです。
少なくとも言葉に詰まってしまうことがない様、準備は必要だと思っている。
(阿呆陀羅氏はリアルでもああなんじゃないかと思わせてしまうんですよw)
また、2chでも質問箱では気を使いますしね。
>本当の初心者はそれに騙されるようだし。
この危険性がある時は、面倒で気が滅入る様な流れでも
書き込む必要もあろう。
576 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:15:55 ID:G/90oOx8
>111 電波男自演と思われる自称言語学者発言 > 私はギリシアが専門だけど、動詞が名詞に変化する過程で、動詞語根 > から派生していくことを「形容詞化」と呼んでおり、それは言語学でも同じことなのです。 電波男自演と思われる第二の自称言語学者発言 > ここでも形容詞化という言葉を正しく使っていますね。名詞造語接尾辞といえば > それで終りですが、動詞派性から名詞が作られる過程で形容詞化という用法は > 920氏の示す通りです。 > 解りやすく言えば、 > 動詞 → 形容詞化 → 形容詞、名詞 > という事になるでしょう。名詞になるのは動詞由来以外にもありますから、動詞派生 > の場合はあえて形容詞化といいます。 と珍妙なギリシャ語説、言語学説を展開しているのですが、やはり<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」>などとは呼ばないようだ。日本語で書かれた最高のギリシャ語文法と言われる高津春繁『ギリシャ語文法』105頁以下 名詞・形容詞は、語幹に語根そのものが直接に用いられることもあるが(語根名詞), 大部分は語根に接尾語を 附して造られ, また合成が行われることがある。この際, 語根或いは動詞語幹につくものを第一次, 名詞または形容詞につくものを第二次的な接尾辞と称するが, 両者の間には明確な区別はない。
577 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:16:35 ID:G/90oOx8
及び高津春繁『印欧語比較文法』147-54頁も同様。以上は
>>112 で挙げた辻文法、風間『言語学』水野パーリ文法と
全く同じです。極めつけは『印欧語比較文法』241頁の以下です。
形容詞と実体詞との間には印欧語に於いては, その形態上にも用法上にも明瞭な限界がない.
従ってある語が実体詞か形容詞かは屡々文脈によって決する外ないことがある.
ここでいう実体詞とは『印欧語比較文法』154頁で
形容詞及び代名詞は狭義に於ける名詞, 即ち実体詞と同じ種類の曲折を行うのであるが,
と述べられるように狭義の名詞を指している。つまり梵語と同じように印欧語に射程を広げても
形容詞は元々品詞分類されない概念なのである。そんな虚弱で便宜的な概念なのに
<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」と呼>ぶことなどどんなギリシャ語文法でもあり得ないだろう。
また「形容詞化」が言語学でどのように捉えられているかを探るため、いくつかの言語学辞典や教科書を
見てみたが、探し当てられたのは『ラルース言語学用語辞典』の「形容詞化」:
前置詞句(前置詞+名詞句)を形容詞句あるいは形容詞に変える変換をいう。
と定義し用例を挙げるものと同辞典の「形容詞化辞」という見出に「名詞範疇の辞項を形容詞範疇に
移行させる形態素」というものがあるのみであった。後者にしても名詞を形容詞にすることを形容詞化と
呼ぶ常識的な用例で、二人の自称言語学者の説、および電波説が異常であることは確認できる。
> 動詞派生で形容詞化する場合、例外を除いてほとんどが受動のニュアンスをもつのはどの言語でも同
> なのです。またその語の中に受動の意味が含まれてくるのは周知の事実です。電波氏が「使役受動」
> としたのは大勢いる中で、非常に親切だと考えます。
以上の主張も当然<動詞語根から派生していくことを「形容詞化」と呼>ぶのだから、受動の意味を含まない
動詞語根派生名詞の反例は、辻文法211-5、水野パーリ文法149-51、高津春繁『ギリシャ語文法』106-26
『印欧語比較文法』154-87 のほとんど全てがそうである。
578 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:17:22 ID:G/90oOx8
名詞は言うまでもなく形容詞に限定して、より身近な例をあげても英語で動詞+ingが名詞・形容詞に造語されるが、 受動の意味は全くない。例えば endure > enduring(永遠の) engage > engaging(魅力ある) 日本語の場合は、語根oyog:泳ぐoyog-u > 泳ぎ oyog-i;語根yure:揺れるyure-ru > 揺れ yure といった沢山の例が風間『言語学』47頁に出ているが、私の見るところ 受動の意味を含むものはない。 以上で電波及び二自称言語学者/古典学者の <動詞語根から派生していくことを「形容詞化」と呼>ぶ説が、 根拠のないアドホック(その場しのぎの)なデマカセであったことが明らかになりました。
579 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:28:56 ID:G/90oOx8
580 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:31:36 ID:G/90oOx8
ぎゃぽーん、これでは意味が通らないので訂正します。
>>216 もうこれから
>>224 二週間、やっぱり根拠は示せない。
またハッタリでしたね。
581 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:58:37 ID:G/90oOx8
>>290 それじゃ多くの経典が比定できちゃうんじゃないですか?
以下、文献学的にやってみます。結論は同じで、ほとんど意味がないんですが、
文献学というならこのような手順を踏まないと文献学者は納得しないのです。
学生の時、教授は「結論より論証が重要なんだ」と言ってました。人を納得させる方法なんです。
■1.『唯識二十論自注』の諸訳本とインド註
1.1.唯識論、後魏瞿曇般若流支譯 T31n1588_p0064b
如十地經説。三界虚妄但是一心作故。
1.2.大乗唯識論、陳天竺三藏眞諦譯 T31n1589_p0070c
如經言。佛子三界者唯有心。
1.3.唯識二十論、大唐三藏法師玄奘譯T31n1590_p0074b27
以契經説三界唯心。
1.4.蔵訳、唯識二十論自注、ジナミトラ、シーレンドラボーディ、イェーシェーデ訳 東北4057
mdo las / kye rgyal ba'i sras dag 'di lta ste /
khams gsum pa 'di ni sems tsam mo zhes 'byung ba'i phyir ro/
1.5.蔵訳、唯識二十論ヴィニータデーヴァ注、ジナミトラ、
シーレンドラボーディ、ダーナシーラ、イェーシェーデ訳 東北4065
theg pa chen po thob par bya ba'i phyir lung dang rigs pa gnyis kyis khams gsum pa rnam par rig pa tsam nyid
du de bstan zhes gang smras pa de la / re zhig lung gis bstan pa'i phyir /
kye rgyal ba'i sras dag khams gsum pa 'di ni zhes bya ba la sogs pa smos so / /
yang na bshad pa gnyis pa'i dbang du byas nas theg pa chen po la rnam par rig pa tsam du bstan zhes bya ba
de ji ltar nges zhes rgol ba de'i phyir / kye rgyal ba'i sras dag khams gsum pa 'di ni
zhes bya ba la sogs pa smos so / / mdo sde las khams gsum pa mtha' dag sems tsam mo zhes gsungs te /
gzugs dang mi ldan pa dang / 'dus ma byas ni rnam par shes pa las logs shig na med la /
gzung ba dang 'dzin pa yang med do zhes dgangs pa'o / /
582 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 00:59:39 ID:G/90oOx8
以上を見て「佛子」を含む系統と含まない系統の二系統あることに気づく、 自注に「佛子」を含む系統は、1.2., 1.4., 1.5. 「佛子」を含まない系統は、1.1., 1.3. 1.5.所引の経典は、「佛子」を含まない。 これは伝承過程「佛子」が混入した伝承ができたと思われる。本来「佛子」を含まない引用が原型だろう、 なぜなら以下に見るように『十地経』諸本のほとんどが「佛子」を含まず、 諸論の引用でも初期 のほとんどが「佛子」を含まないからである。 そこでこの仮説を検証するために『十地経』の諸本を見てみよう。 ■2.『十地経』の梵本と諸訳本 インド註 2.1.漸備一切智徳經、西晋月支三藏竺法護譯T10n0285_p0476b 又復思惟。其三界者。心之所爲。其計於斯十二縁起。 2.2.十住經、後秦亀茲國三藏鳩摩羅什譯T10n0286_p0514c 又作是念。三界虚妄。但是心作。如來説。 2.3.華嚴經、東晋天竺三藏佛駄跋陀羅譯 T09n0278_p0558c 又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心。 2.4.華嚴經、實叉難陀譯T10n0279_p0194a 佛子。此菩薩摩訶薩。復作是念。三界所有。唯是一心。如來於此。分別演説十二有支。皆依一心。 2.5.佛説十地經、三藏沙門尸羅達摩於北庭龍興寺譯T10n0287_p0553a 即此菩薩作是思惟。所言三界此唯是心。如來於此分別演説十二有支。皆依一心如是而立。
583 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 01:00:30 ID:G/90oOx8
2.6.梵本、ヴァイディヤ本、丘山新、原田和宗論文引用文 tasyaivaM bhavati / cittamAtram idaM yad idaM traidhAtukaM / yAny apImAni dvAdaza-bhavAMgAni tathAgatena prabhedazo vyAkhyAtAni tAny api sarvANy ekacitta[V:sarvANy eva tAni citta]-samAzritAni / 2.7.蔵訳、丘山新論文引用文 te 'di snyam du sems te / 'di ltar khams gsum pa 'di ni sems tsam ste / gang 'di srid pa'i yan lag bcu gnyis de bzhin gshegs pas rab tu phye ste / bka' stsal ba de dag thams cad kyang sems gcig la gnas pa dag go / 2.8.十地經論、T26n1522_p0169a 經曰。是菩薩作是念三界虚妄但是一心作。論曰。但是一心作者。一切三界唯心轉故。 云何世諦差別。隨順觀世諦即入第一義諦。 2.9.蔵訳、十地經論、東北3993、マンジュシュリーヴァルマン、プラジュニャーヴァルマン、 イェーシェーデ、ペルツェク訳 fol.199a don dam pa'i bden pa rnam par gzhag pa ji lta bu zhe na / ji ltar de yongs su shes pas grol bar 'gyur ba de yongs su brtags pa ste / gang gi phyir de 'di snyam du sems te / 'di ltar khams gsum pa 'di ni sems tsam ste zhes gsungs pa ste / khams gsum pa ni sems gyur pa tsam du zad pa'i phyir ro / / kun rdzob kyi bden pa rnam par gzhag pa ji lta bu zhe na / ji ltar yongs su rtogs pas don dam pa'i bden pa la 'jug pa'o / / 2.10.蔵訳、十地經論釈、プラジュニャーヴァルマン、ペルツェク・ラクシタ訳、東北3998、fol.73b sems gyur pa tsam du zad pa'i phyir ro zhes bya ba ni sems de lta de ltar yongs su gyur pas khams gsum pa rnam par gzhag pa'i phyir ro / / こちらは2.4.以外は、全て「佛子」を含まない。当然『十地経』の当該テキストは「佛子」を含まないものであった。 2.4.は逆に<『唯識二十論』「佛子」混入本>に影響されたと考えられる。 つまり、以上の検討からも「佛子」が混入説が支持される確率は非常に高いのである。 次に 諸論の「三界唯心」の引用を見てみよう。
584 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 01:08:03 ID:G/90oOx8
■3.気がついた限りの諸論の「三界唯心」の引用。 3.1.理趣釋、不空訳、T19n1003_p0608b 是故諸契經。説三界唯心。 3.2.成唯識論、玄奘譯 T31n1585_p0039a 如契經説三界唯心。 3.3.廣百論釋論、護法菩薩釋 T30n1571_p0249a 能造即是心及心法。又契經説三界唯心。如是等經其數無量。是故諸法唯識理成。 3.4.攝大乗論世親釋、隋天竺三藏笈多共行矩等譯T31n1596_p0285b 阿含者如十地經中世尊説。三界唯心故。 3.5.蔵訳、攝大乗論世親釋、長尾雅人本、II.7 de la lung ni bcom ldan 'das kyis sa bcu pa las 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo zhes gsungs pa dang / 3.6.攝大乗論、後魏世佛陀扇多於洛陽譯T31n1592_p0101a 是中阿含如佛十地經所説。三界唯心作。 3.7.ジュニャーナサーラ・サムッチャヤ、東北3852 de dag ni / kye rgyal ba'i sras dag khams gsum pa 'di dag ni sems tsam ste / dus gsum yang sems tsam mo zhes gsungs pa'i lung gi don dngos po dang mthun pa ltar / 3.8.ジュニャーナサーラ・サムッチャヤ註、東北3853 1:mdo sde las / kye rgyal ba'i sras 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo zhes gsungs pa'i phyir ro 2:rnam par nges par mdzad nas / kye rgyal ba'i sras 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo zhes 3.9.中観宝灯論、東北3853(など三十ほど諸テキストの例がありますが)以下省略 こちらは二系統に分かれ、初期は含まないものが多く、後期は半々となる。 つまり、含むものは <『唯識二十論』「佛子」混入本>に影響されたと考えればよいだろう。 もちろん、以上は本来、歴史的前後関係など細かい論証を厳密に詰めたり、 諸本特に『十地経』梵本の諸写本を対照するなどして精度を高める必要があるのだが、 これで大過ないと思われます。私が知る限り誰も言ってないようですが?
585 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 01:22:42 ID:G/90oOx8
他にもコメントしたいのですが、本日はこれぐらいで。
586 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/07(日) 05:43:49 ID:CElJ4D0r
世の中には鬼がいる。 恐ろしく我の強い連中だ。この連中は、真理の対極にいる人達だ。 滅びる者共に哀れみを。 おれは某スレで鬼退治をしてきたところだ。 ついでに、ここの阿呆陀羅經も退治してやろうか?こいつの仏教論の行き着く結論は、 仏教など現代には全く必要のない、取るに足らない、 下らない教えになる。そんなことも気づかず、何か特別なことでも語っている気になっているのには 笑えるんだよね。ちゅうかこの人、ただの古文アニアだし(爆笑)
587 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/07(日) 05:54:40 ID:CElJ4D0r
ちゅうかここ、「原始仏教経典を元に、パーリ語、サンスクリット語を学ぼう」。に、 スレタイ変えたほうがいいんじゃねぇの(苦笑)
原始仏教経典と言われるものも釈迦の没後何百年か経ってから書かれたものだと伺っております。 これらが原始と言われるのは何故でしょうか。
>>577 >形容詞と実体詞との間には印欧語に於いては, その形態上にも用法上にも明瞭な限界がない.
>従ってある語が実体詞か形容詞かは屡々文脈によって決する外ないことがある.
私は速読しますから、こういうことは基本的なものですよね。
瞬時に全体的な流れを読み取り、詳細は部分的に解釈していく。
そして行間における機微を読め込めたら、これである程度はパーフェクトです。
一時間くらいあれば、十冊くらいは読書はできる。→図書館で
本など買うたことはないです。
速読法は一種のスキルですから、これを身に付けると便利です。
(ベストセラー本なら、本屋にて気軽に立ち読みでオッケー)
590 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 10:01:53 ID:BcrrrYud
虫ケラの 身でカラ威張り 二匹かなwww
>>590 飽きずによく続けるなwww
数が溜まったら句集でも出版するか?w
592 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 13:59:45 ID:BcrrrYud
虫ケラは 飽きもせず反吐 撒き続けwww
593 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/07(日) 15:56:21 ID:CElJ4D0r
594 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 15:59:27 ID:BcrrrYud
おバカラス 基地害籠で 悶絶死www
>>506 > ブッダの(1)の本質を純化してゆけば、(2)が思想として組み込めるわけがない。
そうそう、そういうことです。
> ブッダの(1)の本質を純化してゆけば、(2)が思想として組み込めるわけがない。
まったくそのとおり。
>ブッダ成道の折、教えの内容も、戦略戦術論も正確に理解してもらえるか、
>伝道を躊躇された理由はよく解る。
じつに素晴らしい。まったく異論はありません。
つうか、こういうことは既に皆さま分っておるのかと思っておったですが、
まだまだ迷うてる御仁もいるのが現実ですね。
596 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 17:07:32 ID:BcrrrYud
出禁バカ 石もて追われ 退治されwww
>>581-584 資料の提示に感謝します。
>それじゃ多くの経典が比定できちゃうんじゃないですか?
ここが疑問点なんですね。
>>281 でも
>kye rgyal ba'i sras dag に相当する文が『十地経』の前後に見あたらない
と「勝者の子よ」が近くにないことを指摘されています。
私は、こう考えます。
これの原梵文は漢訳での韻文訳を見ても、多分、韻文形式であろう。
すると当然、音節数に制限がある。これは多すぎても、また足らなくてもいけない。
韻律規則に合わせるため、枢要でない語を附加することもあるだろう、と。
中論の韻文でも不可欠とも思えない語が、韻律の都合上、附加されているようなところがあったと思います。
次に、「如經言(経に言うが如く)」とはどういうことか、という見方によると思います。
この立義という形式、かつ韻文という条件内では、一字一字、原文そっくりそのままの引用を
するだろうか、取意でいいのではないか、と思います。
最も肝要な「三界唯心」ということを述べたいのですから。そうすると、十地経の
cittamAtram idaM yad idaM traidhAtukaM
から cittamAtram traidhAtukaM だけを抽出することは十分あり得るでしょう。
また、十地経は、金剛藏菩薩の述べたり考えたりしたことの記述、という形式なので、勝者の子よ、
という呼びかけ語を、敢えて附加した、という可能性もあるかも知れません。
以上をまとめると、十地経の「三界唯心」を教証として出しているが、原文どおりの引用ではなく、
取意として韻文形式に当てはめたのだろう、ということになります。
精読していない段階ですが、ちょっと感想めいたことを書きました。
598 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 21:40:40 ID:G/90oOx8
>>597 いや、それはありえないでしょう。
『二十論自註』は、梵蔵漢のいずれも散文です。梵は、写本第一葉以外の箇所から明らかです。
ご確認ください。『二十論偈』は韻文です。『二十論自註』は散文です。
まとめるなら、6世紀に漢訳したインド人も引用文を『十地経』と見なしていた。
シナ・日本の伝統でも、チベットの伝統でも、この引用文は『十地経』と見なされてきた。
しかし、レヴィによってネパール写本が発見されると、引用文『十地経』説を疑う学者が出た。
理由は、レヴィの還梵に基づいて『十地経』の引用文と合わないとする一見もっともらしいが、
還梵に欺かれた根拠のない論と、kye rgyal ba'i sras dag 仏子が挿入されていて合わないという
もっともな論である。しかしながら
>>581-584 の諸資料を検討した結果、
kye rgyal ba'i sras dag 仏子が伝承過程で『二十論自註』に混入したと見るのが妥当だろう。
理由は以下のとおり。
1.『二十論自註』の諸本には「仏子」の有無で二系統あること。
2.『十地経』相当箇所の諸本には、1/10しか「仏子」が確認されないこと。
3.諸論書による『十地経』相当箇所の引用は、初期はほとんど「仏子」が確認されず、
後期は「仏子」の有無で二系統あること。これは『二十論自註』「仏子」混入本の流布後、
「仏子」のある『二十論自註』のテクストを引用したものと思われる。
4.6世紀に漢訳したインド人以来、インド・シナ・日本・チベットの全ての伝統は
引用文を『十地経』と見なし、反例が見あたらない。
以上により引用文は『十地経』であり、「仏子」は混入と見なすのが妥当である。
となります。以上の考察には原田論文と丘山論文が参考となりました。
599 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 22:16:48 ID:G/90oOx8
>>299-300 仰る通り iti は理由を示す意味のようです。失礼、私の誤読でした。
>>370-371 使役形「知らしめる」が自然なシナ語で「示す、教える、告げる、表す」などと訳されたのでしょう。
>> 380
『唯識二十論』が外境無論なのは、「識のみ」「外境の存在を否定すため」といった言葉で十分だと思いますが、
さらに一水四見、原子不成立論証、他相続の存在論証によっても明らかでしょう。
『唯識二十論』の全ての記述が 外境無論と言ってもいいぐらいですから。
中観だけでなく釈尊の仏教でも認識だけではなく、すべてが成立するのは縁起によってです。
だから対象無く、知覚も無ない。自性も実在せず諸法も実在せず、 自性も諸法も縁起して仮設されるだけです。
これは重要なポイントなので理解すべきです。『因縁心論』が一番分かり易いと思いますので、読んでみてください。
600 :
名無しさん@3周年 :2007/01/07(日) 22:18:44 ID:G/90oOx8
>>382 『解深密経』で vijJapti-mAtra としたのは還梵です。
その理由なら citta-mAtra とすれば何も問題なかったと思います。
原始経典の心識説にも『十地経』の引用とも合致しますから、当然 citta-mAtra とすべきでしょう。
ですが vijJapti-mAtra としたのは『解深密経』と『リョウガ経』の影響と思われます。
そして vijJapti-mAtra としたのに『解深密経』と『リョウガ経』も引用しないのは戦略でしょう。
この点、現在の私はハッキリ分かりません。本質的に重要な問題とも思えないし、そもそも唯識が重要と思えないので。
>> 383
> 重要なのはそういう動機面ではなく、
> 心意識と了別を同等と見なせること。心に心所を含めること。この二点。
だから何故「心意識と了別を同等と見なせる」のか?
何故「心に心所を含める」のか?
理由は『解深密経』と『リョウガ経』の唯識という言葉を根本的解釈基盤に置いているからでしょう。
601 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/08(月) 03:06:48 ID:ReMtFbia
縁起も根源なくては存在し得ない。 縁起は、根源なくしてはじまり得ない。 では、縁起は元からあるのか?そうなれば縁起は自性となり、 相対する対象がなければ存在し得ない縁起は、矛盾をはらみ、それはあり得ない。 では縁起は無から生じたのか?無からは、なにも生じないので、それもあり得ない。 縁起も、芯となる、根源がなければ、存在し得ないものである。 善と悪も、根源がなければ、存在し得ないものなだからである。 幻影であるこの世界も、なにかしら根源がなければ存在し得ないものである。 何度も言うが、縁起も根源なくして存在しえず、無から生じたものではないのである。 そもそも無からは、何も生まれない。これは当たり前といえば、当たり前の道理である。 これはここの机さんにも何度も言っているのだが、一向に理解できないで、空理空論ばかり申し立てる。 空思想に執着する、現代の日本仏教徒達の迷いは深い。 で、君らの仏教は、単なるこの世の意識革命ですか?君らの仏教に、なんか意味あんの?
>>601 >縁起も根源なくては存在し得ない。
>縁起は、根源なくしてはじまり得ない。
まだ迷うておるようですね。では簡単に縁起について拙者が語ちります。
十二処で説明します。
人が饅頭を食うた場合、縁起というのは”味”のことです。
(識とか饅頭というのは二義的なものであります)
第一義空において”味”があり、同時に二義として対象化することができる。
つまり、唯識論における外境とか内境とかの概念は、空においての属性であります。
一如の法門は、これを凡人にも理解しやすいように、
空を無差別相、外境とか内境とかを分別相という二相とし
空即是色というふうに言うておるんです。
”味”つまり縁起は実体有・実体無の二項分別は不可でありますから、
生起する(はじまり)という概念自体も不可であります。
不可無不可にて調うてくだされば宜しいかと思います。
<机龍之介・花押>
>で、君らの仏教は、単なるこの世の意識革命ですか?君らの仏教に、なんか意味あんの? まったく意味はないですね。 般若心経においても「なにもない」ってことしか書かれておりません。 心経は、最後の方に「彼岸へ逝け」と書かれておりますから、 とにかく彼岸へ逝く他あるまい。 逝けば仏陀の本義に到るかと思います。
604 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 07:52:38 ID:GKLdJMP7
>>602 またはじまったよ、空理空論が。
あほが、それをいうなら、味は、舌に縁起して生起し、舌に触れるものに縁起して生起するだろ。
なにが縁起は二項によらずだ。二項によるから縁起だろうが、詭弁家が。
しかし空教の連中は実に自分達の詭弁に便利に空という言葉を使う。
竜樹は、空とは、縁起=無自性=空。だと説明した。
この机もそうだと言う傍ら、空とは二項によらずとかいいだす。
言っとくが、空=縁起=無自性という意味と、一相=無相=空とじゃ、同じ空と言う言葉を使っても、
まるで正反対のことをいっている。かたや無自性であり、かたや、自性だからである。
空教の詭弁は、もうお腹一杯だよ。しかし机よ、おまえ悟りスレからこの原始佛教のスレにかけて、
さんざん俺に論破されていながら、一向に介さず、持論を改めるどころか、
省みようともしないとこなんざ、おまえさんも、相当我執の強い人間だね。
605 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 08:02:45 ID:GKLdJMP7
机よ、おまえはとどのつまり、涅槃とは、 今の思考、意識のバージョンアップだとはっきり言った。 そりゃそうた、お前たちの佛教論の行き着く結論はこれしかないだろう。 一切行無常。一切皆苦。 俺は、この世の思考、意識などは所詮一切の内にあり、 どんなにバージョンアップしようと、そこに涅槃などないと言った。 まぁいい、今は出先だ。時間ができたらたっぷりおまえを叩いてやるよ。残念ながら、 最近忙しくて、時間が取れないがな。今度は息の根を止めてやる。 でおまえ般若心経しかしらないのに、どうしてここで偉そうに原始佛教を語ってるわけ?変な人だね。
>>604 >>605 >あほが、それをいうなら、味は、舌に縁起して生起し、舌に触れるものに縁起して生起するだろ。
では私がもっと簡単に説明します。
「縁に依って感受するわけです」。→第一義空
ここのとこ↑が大事です。
「縁なくば感受それ自体がない」。→第一義は空(縁起)です。
>なにが縁起は二項によらずだ。二項によるから縁起だろうが、
二項といふ単純な因縁じゃないです。
これは非常に難しいのですが、複合的な関係性・条件です。
葦束の喩えがこれに相当する。
つまり簡単にいうと、縁と感受は分別できない。→色即是空
607 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 09:54:02 ID:OjD9T2X+
論題に かすりも出来ぬ 出禁バカ(おバカラス)www
608 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 10:06:57 ID:hXj2Rmyk
形而上的な二律背反問題については、両方とも突っ込み可能だから
決着しない。
>>551 根源としての「神」(名称はともかく)を建てるかどうか。
あとは体力(知識量と根気)勝負だ。
8:2法則からいえば、人間は 真理・知性2:境地・感情情緒8でできている。
人間の根源は情緒8だから(岡 潔)、知性2は論争では役に立たない。
609 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/08(月) 10:26:41 ID:64ZNUWLx
所謂「オッカムの剃刀」を振るえば、神、本体・実体や根源といったあらずもがな不当前提群は早晩剃り落と されてしまうだろう。こうした淘汰に当のオッカムのウィリアムはお冠だろうけど(笑)。
610 :
608 :2007/01/08(月) 12:29:31 ID:hXj2Rmyk
ブッダは形而上命題については真理問題(理念型)としては言及しない。 もちろん、伝道・組織戦術としての方便論とは別問題だ。 サンジャヤの最奥のノウハウはサーリプッタやモッガラーナから仕入れている。 ブッダの最大の主題である実存苦からの開放(解脱)は、神の概念無用で 構築できたことは証明されている。「覆われていること」は、他の「宗教」のような 認識対象側の問題ではなく、かえって認識主体側の問題であることをブッダは明らかにしたのだ。 マックス・ウェーバーの宗教社会学的アプローチがブッダの仏教にも求められる。 いちど、優秀な宗教学者がブッダの教えの理念型(イデアルティプス)を明解にしてくれればいい。
>>610 ほとんど禅の捉えかたと一致している。
つぅか、
そもそも仏教の原点というのは禅にあるのかと思うね。
612 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 13:22:35 ID:OjD9T2X+
おが屑と ともに吹っ飛ぶ 出禁バカwww
613 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/08(月) 21:50:11 ID:ReMtFbia
俺は机の主張を理解している。
それでいて、それは違いますよと言っているんだ。
それはこの辺のスレから、散々言ってきたことだ。
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1158728286/l50 こいつはまともな反論できない。詭弁ばかりだ。あげくに、
論では勝てないと知ると、やれ、俺はオウムだの、カルトだのと罵るのが精一杯だ。
我執の強いこの御仁は、どんなに間違っていても、決して自分の間違いを認めない。
ちなみにこいつは俺の主張を全く理解していないのには笑える。
>>606 >「縁なくば感受それ自体がない」。→第一義は空(縁起)です。
そういうのを二項によると言うんだよ、アホめが。たく、なに言ってんだか。
お前の主張はつまりはこうだ。初めに縁起ありき、善と悪は切り離せない、ワンセットのものである。
だからこれらの縁起は二項にはよらない。こういうのを詭弁というんだよ。
あほめが、善はそれ一本では成り立たず、悪と縁起して、セットで成り立つ。
こういうのを二項にて成り立ち、それどちらもそれ一本では成り立たない、無自性な空というんだよ。
竜樹の空の説明ともなんら矛盾するものじゃねぇだろうが、タコ。
なに詭弁垂れて、空を拡大解釈して、元の教えとどんどん離れたものにしてんだ?おまえ。
ちゅうか、おまえのはただの詭弁だし。お前の書いた文章をよく読んでみろ。
縁起は、二項によるものそのものじゃねぇか。縁起は一相=無相か?
あたまおかしいんじゃねぇの?おまえ。なんでいつも俺に論破されてる御仁に、
まだ迷うておるおるようですねといわれなきゃならんわけよ。なぜこんなにごちゃまぜに、
ぐちゃぐちゃに迷うておるアホウに、まだ迷うておるようですね。と言われなきゃいかんわけよ。
イライラするぜ。
614 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/08(月) 21:57:00 ID:ReMtFbia
>>607 論題に かすりも出来ねぇのは、てめぇのほうだろ(嘲笑)
お前は病人だ。お前は病院に行け。とにかく病院に行け。話しはそれからだ。
615 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 22:06:29 ID:OjD9T2X+
もう消灯 基地害籠の おバカラスwww
616 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/08(月) 22:13:51 ID:ReMtFbia
四法印 一切行無常 一切法無我 一切皆苦 涅槃静寂。 これが仏教の根幹となる教えである。 これに外れると、もはや仏教とはいえない。 一切とは、五感によって知覚できる世界。今の私の意識。 つまりこの世のことだ。一切皆苦。つまりこの世は苦しみであると説いている。 これは四聖諦の真理からみても間違いのないものだ。 では縁起考察してみよう。この世がなくなれば、縁起はどうなる? 存在し得ないものである。つまり縁起は相対するものがなくなれば、存在し得ないものである。 この世が滅んでも、縁起だけ残ると言うのは、トンデモさんである。 縁起は、相対するものが存在しないと、存在し得ない空なのである。 え?この世界は永遠にあるって?この世は、永遠に存続するものと考えるのなら、釈迦の教えの根幹のひとつ、、 一切行無常の教えからはずれ、もはや仏教の教えではない。 縁起なども所詮は、無自性な空である。そこに涅槃はない。釈迦はとどのつまり、 この世の生存は苦しみでしかないと言っている。机の論のどこに涅槃がある。 一切行無常。空思想と言うのは、無自性なこの世界の説明をしているのに過ぎない。そこには涅槃はない。
617 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/08(月) 22:15:29 ID:ReMtFbia
>>615 つまんねぇ書き込みしかできないのに、ここずっと張り付いて監視してるの君?
さすがちょっと違う人は、人とやることが違うね。
618 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 22:20:03 ID:OjD9T2X+
おバカラス 喚き悶える 檻の中www
>>610 宗教学者ではないけど、山本七平とかやってんじゃない?
小室直樹とかw
結構、日本で探せばいるんじゃない?
>>616 四法印は意外と難しい。
一切法無我は、輪廻転生する主体である常住普遍の霊魂は存在しないでOK?
涅槃静寂は、涅槃は静かで寂しいものだの、真意は?
621 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/08(月) 22:34:34 ID:ReMtFbia
>>609 なにがオッカムの剃刀だよ、アホウ陀羅經。
おまえにひとつ例え話をしてあげよう。相対性理論って知ってるだろう、相対性理論。
時間は相対するものであり、相対する対象によっては、進み方が違い、
光の速度で宇宙旅行をしてきた宇宙飛行士と、地球に残った人々とでは、
年のとり方が違いますよといったところや、重力によって空間が曲がる。なんてことは、
測定技術の発達した今でこそ、観測の結果として、この理論の正しさは、確かめられるが、
中世の時代にこの理論を述べたところで、確かめようがない。あくまで仮説にしかすぎないものになるだろう。
もし仮に、アイシュタインが、中世の時代に生き、この理論を、中世の時代に語ったとしたら、
それは妄語になるのか?きっとお前のような低脳は、その時代に生きていれば、そういうだろう。
言ってる意味がわかるか?アホウ陀羅經。もちろん愚かなのは、
アホウ陀羅經のような人達なのは、ちょっとでも利口な人なら、たちどころに理解するだろう。
なぜなら、いくら当時の技術で、観測、実験などで確かめようのない理論でも、
理論に矛盾がなければ、それは否定できないものだからである。
否定される理論は、机のような、自性と、無自性がごっちゃになってる、矛盾だらけの理論である。
何度も言うが、弟子とのやりとりひとつとって、釈迦は形而上のことは一切無記とするお前達の主張は
意味不明だよ。他の原始仏典など読めば、無記どころか、釈迦はけっこう語っている。
俺の能書きが妄語なら、釈迦も随分妄語がお好きなようで。
622 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/08(月) 22:37:00 ID:64ZNUWLx
>>621 カラスよ、寝言は床へ着いてからしなはれ。
>>622 それでは、輪廻転生は有り得るが、それに固執してはならない、の意と解してよろしいか。
625 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 22:51:02 ID:OjD9T2X+
ダーウィン賞 きっと貰える おバカラス(出禁バカ)www
626 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/08(月) 22:57:36 ID:64ZNUWLx
>>624 上に頻出する複問虚偽・不当前提の却下の意味を熟考されたい。
佛教どうこうを離れても、通常の生活にも資すものと思われ。
>>626 よくわからないので感想の替わりにwikiから引用。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Bela?hiputta, 散若夷毘羅梨沸)は、インドの代表的な懐疑論者であり、
形而上学的問題に対して曖昧な回答をし、判断を中止したのである。例えば、「来世があるのか」と言う問いに対し、
「あるとは考えない、来世があるとも、それとは異なるとも、そうでは無いとも、また、そうでは無いのでは無いとも考えない」と
実に捉えようが無く、つまるところ、考えること、判断すること自体を中止したのである。実に鰻のようにヌラヌラして捉えがたい議論をするのである。
このような論は確定的な知識を与えないという点で、不可知論と称する。
また、彼はマガダ国の王舎城に住んでおり、名声がかなり高く、多くの弟子を擁していたが、
その高僧のサーリプッタ(舎利弗)とマルーモッガラーナ(目連)とが、250人の弟子全てと共にブッダに帰依し去っていったため、
憤激のあまり血を吐いたとも言われている。
628 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/08(月) 23:19:50 ID:64ZNUWLx
>>627 過去ログや参考サイト等も熟読されんことを。
それも面倒ならば質問箱スレッドへ行った方が宜しかろう
(回答の正否は関知できないが)。
629 :
名無しさん@3周年 :2007/01/08(月) 23:43:31 ID:jbuEk8LI
原始仏教に触れてみたいと思っています。 初心者にお薦めの本を教えてください。 よろしくお願いします。
630 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/09(火) 00:04:50 ID:1Y8B+gUy
631 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 06:35:47 ID:6cUHGzR8
>>544 >>547 なにを根拠にそのように述べるのでしょうか?
プラサジュヤプラティシェーダ、止濫、med dgag、〜がない、絶対否定
パリュダーサ、遮詮、ma yin dgag、〜でない、相対否定
少なくとも清弁、月称以降のインド・チベット仏教は以上のようにつかってますが、
違うのでしたら論証してください。インドについては江島恵教『中観思想の展開』113-119が詳しく
チベットについては以下『蔵漢』で十分でしょう。
ma yin dgag / dgag pa'i nang gses / rang dngos su rtogs pa'i blo'am rang brjod pa'i
sgras rang gi dgag bya bkag pa'i shul du chos gzhan 'phen pa / lhas sbyin tshon po nyin par zas mi za /
zhes pa lta bu / tshon po yin pas zas za bar bstan cing / nyin par zas za ba bkag pa'i shul du
chos gzhan te mtshan mor zas za ba don gyis 'phangs pa'o /
med dgag dgag pa'i nang gses / rang dngos su rtogs pa'i blo'am rang brjod pa'i
sgras rang gi dgag bya dngos su bcad tsam gyis rtogs par bya ba ste /
gang zag gi bdag med lta bu / bdag bkag pa'i shul du don gzhan mi 'phen pa'o /
>>547 「有る、のではない」は、無以外になにを示しているのでしょうか?
相対否定の場合「有でない」は無を示しますね。
絶対否定の場合「有がない」は無を示すのではない、分別を超えたものと、
清弁、月称以降のインド・チベット仏教は使いますが、それ以外はないでしょう。つまり有、無、無分別。
ちなみに無記というのは、私は〜とは言わないとされるか、沈黙する場合なので、
上の例は当てはまりません。こちらは『方便心論』と『ブッダ論理学』に詳しい。
632 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 07:04:48 ID:6cUHGzR8
なんでアンチノミーとか理念型とか、オッカムの剃刀みたいな西洋の概念を用いているのか理解できません。
説明の助けになってなく、原典だけでは自分の理解したい読みにならないので、適当に利用して
衒学的にハッタリかましてるだけにしか見えません。
例えばマックス・ウェーバーの「理念型」 idealtypus は、
無限に多様な実在から、特定の諸要素を抽出し、思考の上で高めた上で、
それ自体として矛盾のない関連にまとめあげ、総合した思想像 [挿入句を省いた]
[折原浩 補訳 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
岩波文庫、1998、269頁、また111-150、270-302、9頁を参照。
この訳は労作です。25-161頁が訳。189-331頁が解説]
という意味であって「真理問題」といった意味ではありません。
これはチョムスキーが言語研究の対象を理念的言語話者(ideal speaker)としたのと同じで、
科学実験で物理状態を理想化して、その理想状態で実験するのと同じことです。
>>551 釈尊は輪廻についても宿命通についても、前世についてもたくさん言及されてます。
そして十四無記は、輪廻の無記ではなく「解脱者に輪廻があるか」についての無記です。
なぜ輪廻がアンチノミーなんでしょうか? 実体が オッカムの剃刀で剃り落とされるわけも分かりません?
>>627 まだ迷うておるよううですね。
では簡単明瞭に説明します。
>お前の主張はつまりはこうだ。初めに縁起ありき、善と悪は切り離せない、ワンセットのものである。
>だからこれらの縁起は二項にはよらない。こういうのを詭弁というんだよ。
言語は生得的なものであり、言語を人が獲得したがゆえに「人は言語にて思惟することが出来る」。
思惟することとは何ぞや?
思惟とは「モノゴトを判断(分別)して決定つけることである。
つまり言語とは、それ自体が既に分別概念を構築する。
善悪概念(分別概念)は、人が言語を獲得した故に成立つのなら、
つまり、人が言語を獲得しなかったら善悪そのものの概念もない。
(この説明は分りますか?)
ならば、本来は善悪などないでしょ?
( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
誰でも迷うことはありますが、
気づいてしまえば、なんてことはないのです。
またなにかありましたら、この机に問うてくだされまし。
簡単かつ明瞭に、誰にでも分りやすいように、平易な言語にて答えまふ。
634 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 07:07:17 ID:6cUHGzR8
>>620 一切法無我は、縁起して法として顕現する諸法には本体、実体はないという意味で、
すべての現象は無我ですから、現在も無我なのに縁起して仮設された我が連続して生成し、
実体を持っていると勘違いするが、そんな我はないという意味です。
輪廻の主体や基体も無我ですが、現在の自分と同じように縁起して連続します。
これを心相続とか識とか色々な名称で呼ばれてきました。
死をもって連続が絶たれるという見方は、断見と呼ばれ仏教でもインド思想でも最低の見解と
一貫してされています。
>>629 水野弘元『仏教要語の基礎知識』を読まれることをお勧めします。
635 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 07:44:09 ID:MtTXO3ms
出禁バカ 義務教育も 身につかずwww
636 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/09(火) 08:19:23 ID:1Y8B+gUy
なるほど、 「しか思えません」 「しか見えません」 というのは、ドグマタルチュフ・紐付き神学屋の常套句なんだな、昔から(笑)。
637 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 08:24:38 ID:cdsO8dCT
>>634 莫妄想!(無業和尚)
「僕は、身体とそれに伴う精神の死について、いちばん好きな言葉があります。
高村光太郎の詩のなかの『死ねば死にきり 自然は水際立っている』という言葉です。
死ねば死にきりで、やっぱり自然というものは見事なものだと高村光太郎はいっている
わけでしょう。僕は人間の心身の死はこれでいいのではないかと思います。」
(吉本隆明「遺書」32頁ー33頁)
638 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 08:37:46 ID:cdsO8dCT
639 :
629です :2007/01/09(火) 13:42:01 ID:TOkgTSoz
640 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 13:43:30 ID:cdsO8dCT
莫妄想!(無業和尚) <きっこの日記> 06/8/16 より >‥‥そんなワケで、あたしは、「死んだ人の霊と交信できる能力」なんてもの が、 >あるとかないとか言う以前に、「死んだ人の霊」って何?‥‥って思って る。 >小学生くらいならともかく、いい年こいた大人が、守護霊だの背後霊だ のって、 >バッカじゃないの? そんなもん、あるワケないじゃん。前世だの生 まれ変わりだのって、 >そんなもん、あるワケないじゃん。天国だの地獄だのっ て、そんなもん、あるワケないじゃん。 >神様だの悪魔だのって、そんなもん、 あるワケないじゃん。すべては、人間の空想に決まってんじゃん。 >人間は、 地球上の他のすべての生き物たちとおんなじように、少しずつ進化して来て、 今の形になっただけじゃん。 >人間だって、猫だって、虫だって、木だって、 そのルーツは、おんなじなんだよ。それなのに、なんで人間だけが特別で、 >死後の世界だの霊だの神様だの悪魔だのって、アホな妄想なんかに右往左往 してんの? 人間も、他のすべての生き物とおんなじで、 >「死んだら終わり」 に決まってんじゃん。 > だけど、前頭葉が発達しすぎちゃって、「死」に対して恐怖を感じるように なった人間は、その恐怖を少しでもやわらげるために、 >天国だの神様だのって いう夢物語を作り出して、それが、そのうち、宗教になっちゃったんだよね。 >そして、現代では、この宗教っていうデタラメを悪用して、私腹を肥やすペ テン師どもが、次から次へと登場するようになったってワケだ。
641 :
640 :2007/01/09(火) 13:57:09 ID:cdsO8dCT
642 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/09(火) 14:55:51 ID:trBO+OME
ヨハネ1:03
>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
>>633 また机がおかしなことを言っているよ。
名前は言葉によってなり、言葉は識別するものである。
お前に言われなくとも、そんなことはキリスト教徒の俺は百も承知だ。
おまえのおかしいのは、まるでこの世に善悪などないといっていることだ。
俺が善と悪を引き合いに出したのは、この世は相対世界であるということを言いたかったわけで、
それは、光と闇とたとえてもいい。あのな、たとえ言葉を持たない獣であろうと
光と闇は存在するし、善と悪も存在するんだよ。おまえ獣にエゴはないと思っているのか?
自他の区別あるところに、エゴは存在する。
今の人間が、全て言葉を失ったとしたら、ただちにこの世界に相対は消滅し、
一元の世界になるのか?寝言は寝てから言え、アホめが。
俺は根源の話をしている。
言葉は識別するもので間違いないが、机は、根本のところで、致命的な誤謬をしている。
こいつの迷いは深い。しかもこの我執の強さだ。この我の強さからいっても
自分の考えの過ちを認める事もできず、捨てることもなく、今生を棒に振るだろう。可哀想にの。
ところで冒頭にヨハネの福音の一節を紹介したが、この世界を作ったのは誰だと思う?
イエスキリストや、抽象的な神なんて言うなよ。ま、ここの連中は間違っても神だとは言わないだろうが。
俺はそれが誰だか、よく知っている。繰り返すが、言葉は識別するもので間違いないが、
机は、根本のところで、致命的な誤謬をしているのさ。
643 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 14:59:34 ID:lkmdO6NO
薬が効いて調子が良いみたいだね、カラス君。
644 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/09(火) 15:01:01 ID:trBO+OME
スッタニパータ 1036 尊者アジタが〔尋ねた〕「あるいは、知慧こそが〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、あるいは、 気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となるなら〕、さらに、尊師よ、〔つぎは〕 名前と形態(名色:現象世界)についてです。〔問いを〕尋ねられた者として、これを、わたしに説いてください。 この〔名前と形態〕は、どのような所で消滅するのですか」と。 1037 〔世尊は答えた〕「アジタさん、〔あなたが〕尋ねたこの問いについて、それを、あなたに説きましょう。 名前(名)と形態(色)とが残りなく消滅する所とは、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き) の止滅によって、この〔名前と形態〕が消滅する、〔ほかならぬ、いま〕この場のことです」〔と〕。 1086 >〔世尊は答えた〕「ヘーマカさん、この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた、 >諸々の愛しい形態のものについての、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を取り除くことが、不死なる涅槃の境地です。
645 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 15:01:28 ID:lkmdO6NO
ところでカラス君ていくつなんだろ? 男か女か? 因みに俺は男で39歳。 これは本当。
646 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/09(火) 15:12:10 ID:trBO+OME
たとえ言葉を持たない獣であろうと、自分達の群れ、を脅かす天敵の存在は悪であり、 自分達の群れを守り、繁栄させることは、善である。このように自分と他人という識別がある限り、 言葉があろうと、なかろうと、善と悪は存在する。 ただ、真理の視点で言えば、このように、自分と他人を識別すること自体が悪であり、 自他の区別をなくし、自分を愛するごとく、他を愛し、区別差別のない平等の愛を持つ心を、善とする。 >私は幸せであれ。私の大事な人も幸せであれ。そして私を嫌っている人も幸せであれ。 >生きとし生けるものは、全て、幸せであれ。 これは釈迦の教え。これは禅宗にはない教えであり、禅宗の教えでは理解できない教えだ。 獣が言葉を持とうと、持たなかろうと、すでに私とあなたのいるこの世界は、相対世界なのだ。 まるで言葉をもたない獣は、一元であるかのような机の屁理屈は、本当、聞いてておかしな話だ。 この世に生きる我々が、言葉を忘れようとも、獣が言葉を持っていなかろうが、すでにこの世界は 相対世界であり、相対世界で成り立つこの世は、無自性な、空であり、そんなところに いくら自性を探しても見付かるはずもなく、自分と他人を識別する無自性なこの世界に、 いくら涅槃を探しても、見付かるはずもない。せいぜい迷って、自分達の全く意味の無い仏教で悦に入ってろよ、 盲人共。
647 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/09(火) 15:28:56 ID:trBO+OME
あ、俺はこの世の創造主は神だとは言っていないのでお間違いのないように。 神も悪魔も、人間が作ったものだ。なぜならそれは、相対するものであるからである。 根源はそれらを超えている。 名前は「言」によって成る。識別は「言」によって成された。「言」は、人だけが持つものである。
648 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 15:57:43 ID:cdsO8dCT
自分の信念とやらをぶっつけあって、違いを確認して終わる。 議論をお互いに生産性のあるものにするには、 自分がいかにしてこの地点までたどり着いたか、を明らかにすることだ。 俺はごく最近ようやく、「ある処」が視えてきたよ。 深い霧に包まれて漂流していた船が、霧の切れ目から少し陸地が見えた気分だ。 その陸地が幻でない事を期待するだけだ。 幻でなかったら、なにかのきっかけで、霧が全て晴れるだろう。
649 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 16:07:14 ID:4CSrkpUV
_|_ ___ / ̄| ̄\ | | \ | | | | | / / .| | | | / 、_/ ___| \_/ / _|_ | ̄| .| _|_〃 /\ | | /| ノ レ .| .| /  ̄ \ | | / | ▽ | | | ̄ ̄| | | 亅 /\ | ノ |__| し ____ -┬'~ /|\ --┬' ̄ l⌒) ー──一 ー米一 / | \ ──|── | ./ ノ .| \ | --─|── |/ l王l | L__ノ ○ ___________ ________________ V プーン 人 プーン ∞〜 ∫∫ ミ ( ) ウンコー! ∫ ∫ ∧_∧ ミ \(・∀・)/ ∫ ( ・∀・)つ Σ ∧_∧ べちゃ! /;; つ / ∧,,∧ ウンコー! 人 (ζξ;;;; ) っ /ι/);;;) ミ ミ゚Д゚;ミ,,,∫,,, ( )/ / /;;ι) (_)_) ;;っ ミ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ミ (・∀・)と(_J ;;;っ
>>642 では簡単に説明します。
貴殿は
>>621 で相対性理論を振ってきたので、その流れで説明します。
>光の速度で宇宙旅行をしてきた宇宙飛行士と、地球に残った人々とでは、
>年のとり方が違いますよといったところや
じつは光速では宇宙旅行は出来ないのです。
仮に光速になりますと存在そのものが消滅します。
で、この場合は時間は停止したまんま。
じつは計算上では時空は消滅しても、飛行士は驚くべきことに消滅しないのであります。
この計算式をベースに、今や近代理論物理学はユラギの謎を解き明かす寸前なのであります。
しかしながら驚くべきことに、
この相対性理論を龍樹&釈尊は悟ってたのであります。
唯識は唯識に依り消滅する。by龍樹
この理論は、アインシュタインの理論と基本は同じです。
しかしながら、相対性理論というのは本当に理解できる人は5%にも満たないらしいですよ。
ゆうに、
中論も、そう簡単には理解は出来んですよ。
まあ、わたくしが簡単かつ明瞭に説明するのは容易いですがね(^o^)丿
651 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 17:13:17 ID:MtTXO3ms
出禁バカ
652 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 17:14:49 ID:MtTXO3ms
出禁バカ 分裂病が 全開しwww
653 :
名無しさん@3周年 :2007/01/09(火) 17:17:49 ID:MtTXO3ms
出禁バカ 殺盗淫の サイコパス
>>631 > 〜がない、絶対否定
この日本語訳はちょっと違和感ありますね。「〜が有る・無い」を想起させるものがある。
それに、絶対否定の意味は、あくまでも否定のみであり、無の肯定、というように、
他のなにものかを積極的に指定する、という面はないと思っていましたが。
そもそも
>>481 や
>>483 の肯定・否定には、絶対・相対の限定は付けられていないのだから、
両義での解釈が可能です。だから、絶対否定として他は何ら指定されていない、
と取ることも可能だ、ということなんですが。
>>578 >日本語の場合は、語根oyog:泳ぐoyog-u > 泳ぎ oyog-i;語根yure:揺れるyure-ru > 揺れ yure
>といった沢山の例が風間『言語学』47頁に出ているが、私の見るところ 受動の意味を含むものはない。
名詞「見え、聞こえ、覚え」は、どうなんでしょうか。
動詞+{自発・【受動】・可能の助動詞(ゆ)}である「見ゆ・聞こゆ・覚ゆ(←思ほゆ←思はゆ)」からの派生語ですけど。
また、「思ほし」は動詞「思ふ」が形容詞化したもの、ということですが。
結局、ご紹介いただいた本が今日は見つからず、『ブッダのことば』という本を買ってみました。 またあらためて探しに行ってみます。
>>656 とりあえずにしては正解だと思われます。また、
「釈尊の生涯」水野弘元(春秋社) も推薦しておきます。
ちなみに、教義的・専門的に知りたいと思っていますか?
それとも、自身の生き方・受けとめ方の一助(或いは興味)として探していますか?
>>621 >観測、実験などで確かめようのない理論でも、
>理論に矛盾がなければ、それは否定できない
そこが20次元空間とかを言い出す数学と、あくまで実験による裏付けのないものは
仮説に止められる物理学との違いだな。
否定できないが、同様に肯定もできない。よって、その段階では無意味と評すべきだろう。
>釈迦は形而上のことは一切無記とするお前達の主張は意味不明だ
>他の原始仏典など読めば、無記どころか、釈迦はけっこう語っている。
ぜひ例示で具体的にタノム。
法華経・日蓮御書を解明したいのが一番の目的です。御書には疑問点があるので。 自分が信じて来たものが正しいのか?そうではないのか? そのためには、仏教の知識が必要かなと思いました。 今、『蛇の章』を読んでいます(^-^)
>>659 なるほど・・。
手に入るかどうか判りませんが、
「釈尊との対話」奈良康明(NHKブックス) も、併せてお薦めしておきます。
もっとも、何を読んでも、どれだけ読んでも、
最後に決断する(判断する)のは、
どこを向いて歩き続けるかを決めるのは、
あなた自身であることを忘れないでください。
>>660 たぶん自分の中では、結論が出てるんですけどね(^-^)
心の置き方(うまく表現できませんが…)を教えてくれるのが宗教だと思っているので。
また遊びに来させてくださいm(__)m
ありがとうございました。
複問虚偽とは、一つの問いの中に、本来別々になすべき複数の問いが含まれていることによる虚偽。 例えば「あなたは、いつから木魚を叩いていますか?」という問いは、相手が木魚を叩いて いることを前提にして、問いを発している。実際には木魚を叩いていないかも知れないのに。 本来の展開は以下のようにすべき。 質問1 あなたは木魚を叩いていますか? 回答1−1 いいえ。→問答終了 回答1−2 はい。 質問2 それでは、何時から叩いていますか?
>>662 レスの無駄。いっぺんに書き込んだ方が効率がいい。
そのためのアンカーなり引用符なのではないのかい?w
てか、会話・対話に於いては、同時に提示されることは往々にしてあると思うが?
このスレを、論文の応答にしたいということか・・。
ならば、それもテンプレに入れるべきだなw
論文形式の一問一答のレスのみが、このスレでは認められます。
それ以外のレスは荒しと見做し、通報対象となりますので
ご注意ください。
とねwww
>>647 >あ、俺はこの世の創造主は神だとは言っていないのでお間違いのないように。
宇宙創生においては、今の理論物理学はビックバン以前の研究もなされています。
数値的には宇宙そのものが創生されないのです。
しかしながら宇宙は創生されてしまった。
これを今現在の物理学では「何らかのアクシデント」という外ないのです。
この「アクシデント」を神の意思というなら、それも全く否定はできない。
数値的には陽因子と陰因子は等値です。→等値で相殺→消滅。
しかしながら、どういう訳か陰因子がある程度消えてしまったのです。
この因に依りて宇宙は創生された。というのが仮説になっております。
そう説明する以外にない。
つまり、陰因子が消えてしまったのが今現在の謎です。
ちなみに、この世は相対世界ではありません。
この宇宙と相反する「反宇宙」というのは物理学ではもはや常識です。
>>650 で光速において存在が消滅するのは、つまり反宇宙へ逝ってしまったのです。
反宇宙でも飛行士は元気にしちょります。
っていふのが最近やっと分かりました。
>>658 >ぜひ例示で具体的にタノム。
文盲ハケーン!
原始仏典読んだことないんですか?変な人。
666 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 07:57:29 ID:QHucDQqJ
原始仏教とあったので覗いてみましたが・・・ 「涅槃には縁起は存在しない」と言うのは「究極の悟りの世界には善悪はない」というのとおなじ。 そんな実体視された絶対的涅槃はどこにある?有部か? 確かにブッタはパリニルヴァーナしたが、だからと言ってブッタは涅槃を求めよとは説いていない。 道の向こうに涅槃はあるけど 相対的な存在である凡夫が絶対的な涅槃を説き、凡夫が凡夫を愚者だと罵る・・・実に無意味。 これを中国のことわざで「相手に投げた糞が自分に当たる」と言います。多謝。
>>502 >「〜がない」という絶対否定と「〜でない」という相対否定ですね。でしたら
>>「生物学的生まれ変わりの肯定」ではない
>は明らかに相対否定です
それだと、絶対否定で言いたいときは
>「生物学的生まれ変わりの肯定」がない
と言わなきゃならないの?
668 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 10:24:13 ID:D+Ym6Ac7
我々は、ゴータマブッダに教説のノウハウも弟子も全てを乗っ取られ、 怨念と化したサンジャヤに復讐されているのさ。
669 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 14:41:08 ID:n3fNGAaN
>>650 机よ、いよいよ揚げ足取りしかできないようだな。
たしかにお前の言うように光の速度と等速で、宇宙旅行はできない。
だが99.99999%などという、限りなく光の速度に近い速度ででは、理論的には宇宙旅行は可能である。
そのような速度で、宇宙旅行をすれば、宇宙船の宇宙飛行士と、地球上の人々では
進む時間に大幅な違いがあり、この理論の正しさは、観測技術の進んだ現代では、実験により、
確かめられている。つまり、俺の光の速度で、宇宙旅行をするという表現は、正確に言うと間違いであるが、
論旨に間違いはなく、おまえのレスは単なる揚げ足取りで、言いがかりに過ぎないということだ。
しかし、おまえも自分の理論の間違いに背を向け、現実を直視できないとは、終わっているよな。
お前の人生は、迷いで終わるよ。いつまでも迷いの生存を繰り返していろ。盲人。
670 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 14:50:44 ID:+vKvGdLv
虫ケラの 基地害比べ キリもなしwww
671 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 15:05:57 ID:n3fNGAaN
>>664 >ちなみに、この世は相対世界ではありません。
>この宇宙と相反する「反宇宙」というのは物理学ではもはや常識です。
で、今度は屁理屈か、詭弁家らしいやね。
俺は、この世は、相対で成り立つ、無自性な空だと言ったんだよ。
日頃空、空、空といっている御仁が、今度は空思想をも、否定するなんざ、
いつもながらお前の詭弁にはあきれるばかりだ。
宇宙と相対するのがなぜ、反宇宙なんだ?お前本当に頭悪いな。ちゅうか子供の屁理屈のレベル。
いよいよこいつは、竜樹の空思想をも否定してまで、自分の論を守ろうとしてやがる。
お前の空は、時には自性となり、時には無自性となり、しまいには、この世は相対世界ではないとまで
言ってきている。もうむちゃくちゃだ。こいつは竜樹の空思想まで違うものに変えてしまうぞ。
こいつにとっては、空という言葉はとっても魅力的なんだろう。みごとその空という言葉に執着し、
その考えに自ら閉じこもり、大いに迷っている。何度もいうが、空なんていうものは、
無自性なこの世のことを説明しているに過ぎない。なにが、宇宙に相対するものは反宇宙だよ。
屁理屈こねてんじゃねぇよ。それをいうなら、無自性に相対するのは自性。
だが自性も、このように言語化すれば相対するものであり、言葉で表現するのは間違いである。
自性とはそもそも、言語では表現できないものである。
自性はそもそも、名前のないものである。なぜなら自性は、相対するものが無いからである。
机よ、詭弁が仏教ではなく、真理を悟るのが、仏教なんだよ。
672 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 15:09:40 ID:n3fNGAaN
>>666 一切皆苦。
苦を滅した境地をニルヴァーナという。
お前達の仏教論だと、涅槃も、苦になるな(苦笑)
頭が悪い人は、言ってる意味さえ理解できんだろう。
>>669 唯識論の外境の謎は解けましたか?
つまり宇宙船という対象は、その視座において消滅する場合と、消滅しない場合がある。
その違いは関係性(縁)です。
縁が第一義であり、消滅&非消滅はその二義です。
(これが空即是色です)
これは非常に難しい理論ですが、龍樹はこれも悟っておりまして、
この論法において唯識派を論破しました。
これはまだまだ中論の登竜門に過ぎんですが、
やはりこれはどうしても透過せねばならんとこです。
674 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 15:13:00 ID:n3fNGAaN
>>665 そいつは、目の中に、エゴと言うどでかい梁が入っているので、
字が読めないのさ。そんな奴などほうっておけ。
相手にする価値もない人間だ。言ってることが、アホすぎる。
675 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 15:23:46 ID:n3fNGAaN
>>673 >縁が第一義であり
だからその縁も二項によって成り立ち、無自性な空ですよと言ってるんだよ。
まるで、二項によらないと成り立たない、相対する対象が無いと成り立たない無自性な
ものでしかない縁(縁起)が、まるでそれだけは、自性かのごとき、能書き垂れる
お前の詭弁は、トンデモだと言ってるんだよ。何度も、何度も、何度も、同じこと言わせるな。
で、今度は刹那滅あたりを使った詭弁を、いい出すぜ、この人。
>>671 >俺は、この世は、相対で成り立つ、無自性な空だと言ったんだよ。
これが基本的な間違いです。
空は相対未分です。
宇宙が存在しようが、存在しまいが空であり、
その現象(縁)において色相があります。→存在・非存在の相
どうか仏教の本義に到るには基本をしっかり抑えておいて下さい。
>>675 >だからその縁も二項によって成り立ち、無自性な空ですよと言ってるんだよ。
論理矛盾です。
無自性ならば、そもそも二項があるわけはない。
縁において二項に分別できる。→対象化できる。
この簡単な論理が何ゆえ分からんのだろ?
仏教の論理は難しいですか?
678 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 15:33:02 ID:+vKvGdLv
テンプレも 読めぬ虫ケラ スレ汚し
679 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 15:33:19 ID:n3fNGAaN
>>676 宇宙が存在しなくなったら、縁起など存在しねぇよ。
なんか空教の人は縁起だけは特別だと思ってやがる。気の毒な人達だ。。
>どうか仏教の本義に到るには基本をしっかり抑えておいて下さい。
だからお前の詭弁が、仏教じゃねぇって。なに勘違いしてんだか
680 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/10(水) 15:40:14 ID:n3fNGAaN
>>679 >宇宙が存在しなくなったら、縁起など存在しねぇよ。
これも間違いです。
「存在しない」という縁起です。
存在の有無は色相ですから、中道においては「縁において有無が感受される」。
ただ感受されるだけのことです。
これを一切といふ。
>>680 >とにかく自性と、無自性がごっちゃになってる机の理論はめちゃくちゃだよ。
それは貴殿かと思いますよ。
どうか基本のところから学習してください)^o^(
683 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 15:53:42 ID:+vKvGdLv
出禁ども 基地害文盲 併発しwww
684 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 18:35:51 ID:QHucDQqJ
>672 誰も「涅槃が苦である」とは言っておりませんが? 涅槃には「楽」をはじめ四徳八味が備わっていることくらい常識でしょう。 私の言っている意味が本当に分かりませんか? 糞の臭いも分からなくなりましたか・・・・。 でも >宇宙が存在しなくなったら、縁起など存在しねぇよ なんて言ってるようじゃ、あなたの想像する涅槃とは少なくともブッタの 至った涅槃とは別物のようですね。 そもそも縁起は理法ですから、実有ではありません。 「存在する、しない」という日本語表現は適当ではありませんね。 宇宙論とも関係ありません。自己の問題でしょう。 私はまだ涅槃という「未知の国」には行っていないので、 涅槃がどういうとこであるか分かりません。 でも幸い私も正しいガイドブックである仏典が読めますので、 貴方の想像する涅槃と私の想像する涅槃が別物であることは良く分かりました。
685 :
名無しさん@3周年 :2007/01/10(水) 19:24:10 ID:D+Ym6Ac7
<ブッダ涅槃の境地> 修行僧たちよ、このような境地がある。そこでは、地もなく、水もなく、火もなく、 風もなく、空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、 この世もなく、あの世もなく、月も太陽もない。修行僧たちよ、[そこに]来るとも、 行くともいえず、[そこに]いるとも、死ぬとも、[再]生するともいえない。 それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、何かに支えられているのでもない。 それこそが苦しみの終わりである。 ( 『ウダーナ』8章1節 ) 涅槃は境地であり、認識客体側ではなく、主体側の全人格的な「際」の処だ。 *到 彼岸 *大死一番 *正定衆の位(親鸞) *幻視して見返すところ(埴谷雄高) *目指さるべき向こう(あちら)側の「ある場所」の視点(吉本隆明) そこからはいろいろなことが全部わかる処 *肉体の滅とそれに伴う精神の滅、「前世・来世」線上の「現世」とは関係がない。 ・・・・などと思想家たちは表現してきた。
686 :
685 :2007/01/10(水) 19:26:30 ID:D+Ym6Ac7
× 「現世」とは・・ 〇 「現世」の終焉とは・・
687 :
南無大師遍照金剛 :2007/01/10(水) 20:44:11 ID:gWY5r/LG
修行僧たちよ、このような境地がある。 このような境地もある? このような境地しかない? どっち? 原理主義さんヽ(´∇`)ノ
妄想族の皆様方へ、早く小便して寝ましょう。 朝はちゃんとトイレ掃除をしましょう。
>>685 > 涅槃は境地であり、認識客体側ではなく、主体側の全人格的な「際」の処だ。
つまり縁起しないということですね。→ニルバーナ(涅槃寂静)
>*目指さるべき向こう(あちら)側の「ある場所」の視点(吉本隆明)
> そこからはいろいろなことが全部わかる処
つまり定置観測ではない→自由(定まらない)→既存しない→無我。
というところでしょうか。
「まさに住(とど)まるところなくして、その心を生ずべし」→金剛般若経
>*肉体の滅とそれに伴う精神の滅、「前世・来世」線上の「現世」とは関係がない。
即今即所ですね。一期一会
>>687 わたくしが上記に書いた如し、二項には依らない。
691 :
名無しさん@3周年 :2007/01/11(木) 07:36:25 ID:I4wTJ8q8
カラスの唄ってひとの文章を読んでると日本語表現の稚拙さを感じます。 涅槃はあくまで主体内面の境地なのに、宇宙とかこの世とか客体を言い出すからおかしくなる。 涅槃において主体はもはや縁起する存在ではないことぐらい、 仏教辞典にも載ってること。常識過ぎ・・・なんでそこまで力説するのか? でもブッタが涅槃に入ったからと言って、宇宙やこの世が消滅するわけではない。 故に「縁起の理法」が消滅するわけでも無ければ、「縁起の理法」が仮説のわけでもない。 因みに >宇宙が存在しなくなったら、縁起など存在しねぇよ これも説明すると、仏教的には誤りですね。 そもそもクシャ論12巻界品には4つのカルパが説かれる。 たとえ宇宙が滅した空劫でも、いずれ縁起によって宇宙はまた生起すというのが 仏教の考えです。
692 :
名無しさん@3周年 :2007/01/11(木) 07:38:19 ID:I4wTJ8q8
水野先生の命日は1月1日 お墓参りにいってまいりました。
693 :
名無しさん@3周年 :2007/01/11(木) 09:50:40 ID:xkX0lcPu
そうでしたか 正月が命日でしたか ならお坊さんを二人呼んだ方がいいでしょうね
694 :
名無しさん@3周年 :2007/01/11(木) 10:23:42 ID:Q0UI4qei
電波は遁走して収まったころにアクセス規制で書き込めずとかいって 恥知らずに登場するつもりか?
696 :
名無しさん@3周年 :2007/01/11(木) 12:27:44 ID:FoRJQ6d+
よし子さ〜ん♪
宇宙は膨張して、その後に収縮に転じ、やがて宇宙は消滅します。 この消滅した時点がいわゆるノーマルな状態と考えられております。 しかしがながら、やがては静寂からアンバランスになりビックバンがあると推測されている。 これを永久に繰り返すというのが、現代の理論物理学です。 つまり、この世(物質世界)はアンバランスな状態。→ゆらぎ 人が部屋に座るとき、中央より少しずれた個所の方が落ち着くのも、 あるいはこういう理由があるかも知れません。 日本における禅文化は、これを経験的に会得し、 あらゆる道文化に生かされております。 これは、何らかの理論とか理屈がある訳ではなく 経験的に感得するものです。
698 :
名無しさん@3周年 :2007/01/11(木) 18:40:11 ID:2j35cyQU
おーい! でんなみお〜
ところで君達はこの地球で何の為に生きてるのだい?
>>599 推奨された「因縁心論」を読みました。
短い中に、唯識説の源流のような記述が沢山、見受けられますね。以下にそれらを引用します。
遞手相依。猶如束蘆。//手をにぎりて相依ること、なほし束蘆(=アシ束)の如(ごと)し。
言唯者。是其遮義。//唯といふは、これ、それ、遮する(=他を排除する)の義(=意味)なり。
言有者。有其三種。所謂欲。色。無色。//有といふは、それ三種あり。いはゆる欲、色、無色(=三界)なり。
假立之境。不成實物。//仮立の境は、実物を成ぜず。
鏡中現其影像。//鏡中にその影像を現ず。
從種生芽。//種より芽を生ず。
少し話題になったことに関連しているので、次も引用しておきましょう。
問曰。若如是者。誰從此世至於他世。
答曰。無有極微等法。從於此世。移至他世。雖然唯從於空法。還生於空法。
問うて曰く、「もし、かくの如くんば、誰かこの世より他の世に至る?」
答へて曰く、「極微(≒原子)などの法(=もの)の、この世より他の世に移り至ること、あることなし。
然(しか)りといへども、ただ、空なる法より、また空なる法を生ず。…」
プトンや月称も言っておらず龍樹の真作かどうかはっきりしませんが、
訳者名は失訳ということのようですが著者を「龍猛」としていることから玄奘以後の新訳と
思われるので、実際には唯識派の影響を受けた後人の作かも知れませんが。
唯識二十論の教証の論証について精読しました。それについては明日あたりに。
>>631 > 「有る、のではない」は、無以外になにを示しているのでしょうか?
何事をも指し示していません。ただ、「有る」ということを否定した、それだけです。
> 江島恵教『中観思想の展開』p.xii
> BhAvavivekaは、…空性論証に伴う【否定判断のすべて】を、
> 【何の定立をも含意しない】非定立的否定 (prasajya-pratiSedha) と規定したのである。
「無」と言うかどうかは、また別の問題です。
また、無記は、この場合、有無論争の外にある、という立場でしょう。
702 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 00:17:01 ID:9/1UYut9
>>659 日蓮さんが目的でしたら、以下のようになるかと思います。
まずは、水野弘元『仏教要語の基礎知識』これは本当に優れた本で、三回ぐらい読むべきです。
そして仏教の全体像と術語を掴んでおくと誤解しにくくなります。
術語辞典としても使えます。
初級コース
竹村牧男『インド仏教の歴史』 木村清孝『中国仏教思想史』 末木文美士『日本仏教史』
鎌田茂雄『八宗綱要』(ただし現代語訳と註は、あまり信用できませんが、以下を読むのに便利です)
菅野博史さんの諸著書
中央公論社の大乗仏典シリーズの*法華経、大智度論、三論玄義、*摩訶止観、華厳五教章、
*聖徳太子、*最澄、空海、源信、栄西、法然、*日蓮(*だけでもいいです)
中級コース
平川彰『仏教通史』
国訳一切経の法華経、法華経論、大乗義章、法華玄義、法華文句、法華義疏 等
昭和新纂国訳大蔵経の天台宗聖典、真言宗聖典、浄土宗聖典、日蓮宗聖典
上級コース
平川彰『インド仏教史』
大正大蔵経のここらへんを読む
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/%7Esat/japan/downpage/t33-39.html それぞれ読み終わった本を次の本を読む時に利用していけば、以外に難しくないと思います。
703 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 00:19:37 ID:9/1UYut9
>638
どう「捻じ曲げ」なのか、人に分かるように理由を筋道立てて述べましょうね。
>640-641
そういった唯の常識通説を根拠に挙げられても困りますよ。
ここは文献に書かれた仏教とは何かを、文献学的に追求するとこでしょ?
それに物理学、生理学、生物学、言語学等は、物質に還元することを放棄してますし、
科学は、どれをとっても仮説であって comfirm されることはないのが本来でしょう。
文献の読みに現代の通説を読み込むのは、科学的ではありません。
>658
物理学に限らず科学では理論先行が多いでしょう。湯川秀樹の中間子なんかそうですね。
それから実験が反って事実を妨げてきた例もあります。例えばプラウトの原子量に関する仮説です。
当時のスタースの実験では仮説に対する反証となる測定結果がでましたが、
同位元素が発見されてから実験が不備であったことが分かりました。
http://www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/Theory-of-Science/article_relativity02a.html これと同じことをチョムスキーも力説します
さらに言うなら、たとえば50年まえに戻ると、言語について膨大な量の情報がありました。
図書館に行きますね、するとあらゆる種類の言語について大きく分厚い本が見つかります。
そしてそういう本はあまり多くを教えてはくれませんでした。当時の言語学者のありだの標準的見解は、
「言語は恣意的にそれぞれ異なりうる」、というものでした。この文はほぼ直接引用と同じです。
これは、当時の言語学者がもっていた厖大なデータから得られる一つの当を得た結論でした。
ただ、当時の言語学者はまちがったデータをもっていただけでした。[大石正幸 訳『言語と思考』76頁]
704 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 00:22:06 ID:9/1UYut9
>662
その例では別に困りませんね。「叩いてませんけど/〜から叩いてます」でいいでしょう。
何が問題なのでしょうか? 問いが 一問一答でなければいけないという理由がわかりませんが?
もしかして、帰謬法、条件文、仮言的三段論法を複合虚偽といって無理矢理いちゃもんつけてるんでしょうか?
より虚偽論なのは、電波一派が盛んに説いている「有でない」≠「無」ではないでしょうか?
彼らのはハッキリと、間違いを認められないだけだと思います。以下のように
>>654 > それに、絶対否定の意味は、あくまでも否定のみであり、無の肯定、というように、
> 他のなにものかを積極的に指定する、という面はないと思っていましたが。
その通りです。だから「〜ではない」は相対否定であり、他の法が引き出されるということです。
>>667 「絶対否定で言いたいときは」<「生物学的生まれ変わりの肯定」がない>でもいいですが、
一般的な日本語では「生物学的生まれ変わり」がない/はない、等と言うでしょう。
ちなみに英語では二重否定は、教養の高い人は用いません。英語が全て正しいとはいいませんが。
>>701 上に説いたように絶対否定なら「〜がない/はない」等となり相対否定なら「〜ではない」等となります。
電波一派の「絶対否定」や「無記」というのは言い逃れ以外のなにものでもない。
なぜなら、「假令經百劫 所作業不亡」が「輪廻」の前提としてない、とか、
唯識が外界を否定していない、といった単純な誤読を認められないだけだから。
それと言い訳でなく、根拠を示してください。なぜそれが「絶対否定」や「無記」と言えるかという。
705 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 00:39:03 ID:9/1UYut9
>>700 私には縁起説、および通仏教説と語釈にしかみえませんが?
> 問うて曰く、「もし、かくの如くんば、誰かこの世より他の世に至る?」
> 答へて曰く、「極微(≒原子)などの法(=もの)の、この世より他の世に移り至ること、あることなし。
> 然(しか)りといへども、ただ、空なる法より、また空なる法を生ず。…」
輪廻の主体とは何か? 実体が転生することはない。空なる法から、空なる法が縁起するのみ!
空なる法から、空なる法が縁起するのは輪廻に限りません。
現在の私も諸法も常に空なる原因と仮説される法から、空なる結果と仮説される法が縁起するだけです。
別に真作でなくてもいいんです。これが中観の根本的見解であり、釈尊の縁起と無我、空の意味です。
これが先ず知的に理解され、修習によって馴染み体得されることで、実体視・我見という無明・認識誤りから
解放され、無執着になり解脱できるとされます。これが理解できなければ、三昧で高い境地にあっても、
輪廻の中にいるとされます。だから、外道のアートマン・ブラフマン等では解脱できないとされます。
『中論』第26章『勧戒王頌』『宝行王正論』と変わりなく、『入中論』『入菩提行論』『中観荘厳論』などの
後代の中観派文献とも一致しています。私にとって一番、分かり易く感じたのが『因縁心論』でしたので、
お勧めした次第です。これは重要なので、是非ご理解ください。つまらない文献学的パズルとは違います。
私は別に何々一派に入ろうとかそういうつもりはありませんよ。善財童子の顰にならって あらゆる人に学ぼうと思っているだけです。 また、否定に拘るのは、インド思想を学びだした頃、ヤージュニャヴァルキヤの 「ネーティ・ネーティ」に出会ってから、とくに否定に対しては敏感なのです。 否定の基本は、否定だけで、それ以上のことは何も言っていない、ということでしょう? 何かを肯定したいときは、肯定文で別に言い表す必要がある、ということです。 肯定文で言明していない限り、否定文から言外の意味を汲み取ってはならない、と。 もちろん日常言語では、そういうことが頻繁にありますが、インド思想、ことに有我論に対峙する 仏教では、この日常レベルの否定で解釈すると、誤解を生じる、と思うのです。 非バラモン(a-brAhmaNa)、非馬(an-azva)を相対否定で捉えると、前者では「クシャトリヤ」や 「バイシュヤ」などを指しますが、けっしてクシャトリヤとかバイシュヤに絞られている訳ではない。 後者でも同じ。牛かどうかは不定です。ただ、前者は石やカニなどでないことは、はっきりしているし、 後者でもそれらでないことは、はっきりしている。つまり、ある範囲内を指していることは確かだと。 しかし、指定しているのはそこまでです。 ここで言いたいのは、相対否定ですら、特定の事物を指定していない、ということです。 まして絶対否定では、何事をも指し示していない。否定あるのみ、ということです。 有の絶対否定を例にとれば、有の否定のみであり、無もそれ以外も何事も言っていない、と。 >「〜ではない」は相対否定であり、他の法が引き出されるということです >絶対否定で言いたいときは・・・〜がない/はない、 ですから、この否定の捉え方は、どうしても根本的に違和感がぬぐえないのです。 「丸い」の相対否定・絶対否定ではどうなるでしょうか。
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>>671 >宇宙と相対するのがなぜ、反宇宙なんだ?お前本当に頭悪いな。
おやおや、これは失礼。
では簡単に説明いたします。
恒星は核融合においてエネルギーを放出します。
つまり燃料である水素はいつかは尽きるわけで、中性子星になって消滅します。
この消滅する場合の残滓である核は非常に質量(分子の)が高く、つまり自らの重力により
どんどん押し潰されて逝き自滅への一途を辿るのです。
つまりどういうことかと言いますと、光速の限界を突破しちまうのです。
(実際にこういうことがあるんですねw)
光速を突破する。とはどういうことか?
これは時空があまりにも押し潰され、この世の逆転を起こしちまうんです。
(実際にこういうことがあるんですねw)
アインシュタインの方程式では簡単に導き出されることですし、
いわゆる天文学においても既にコンセンサスのある定説であります。
こんな説明で宜しいでしょうか?
(反宇宙は物理学のジャンルでは、もはや常識です)
理論的には反宇宙へ旅行はできます。 驚くべきことに、相対性理論と中論は全く矛盾はない。 よもや龍樹はこんなことまでは悟っておらんかと思いますが、理論的には正しい。 ちなみに電子は数理的に導きだされたものです。 理論物理学ですから・・・電子が実際に存在するのか? ってのは、本来は分らんもんです。 分らんけども、実際は殆どの人は「電子の存在は信じている」。
710 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 10:30:39 ID:O8drrJG4
得意げに 生き恥晒す 出禁バカwww
711 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 10:41:31 ID:WZfiCPzb
デンデン パオパオ デンパオパオ 口だけ 嘘だけ 自演だけ〜
712 :
ピーピーング行者 :2007/01/12(金) 17:01:20 ID:WnEG8oz1
存在、非存在の問題を中観だけで考えるのは、ちょっと偏るのでは? 例えばユガ行派はこれを三性説で説明しますし 『大乗荘厳経論』では空性も三種に分けて説明します。
まず、2.十地経と3.論釈の考証から「十地経」の当該箇所直前に「佛子」の語がないことはほぼ 明瞭になった、と言えると思います。 つぎに、「唯識二十論」に引用(原形どおりではないようですが)されたと思われる当該箇所の直前に、 真諦訳「佛子よ」、蔵訳 "kye rgyal ba'i sras dag"(おお、勝者の子らよ)が挿入された事情についてですが、 玄奘の高弟、窺基の「唯識二十論述記」に「今勘三梵本」となっていて、真諦のもたらした大量の 梵本が玄奘のもとに接収されたということも併せ考えると、瞿曇般若流支と真諦の用いた梵本も参照 したのだと思われますが、佛子の件には「述記」では触れられていないので、それら3梵本が2系統に 分かれていたのかどうか明確ではありませんが、 調伏天註の蔵訳には挿入されているので、その底本にあったのは確かだろうとしても、 玄奘訳の形態から見て底本になかったというのは、多少慎重を期した方がよいかも知れません。 また、2系統あったとして、世親本人による挿入および後人による十地経と対照しての削除、または 本人自身による二種類の改訂版の流布の可能性も考慮しなければならないでしょうが、 ひとまず、後人による挿入説を採るとしても、梵語だと"bho jinaputrAH"あたりになるのでしょうか、 とにかく単なる写誤にしては長いし、何か特別な意思が働いたように感じます。 つぎに、世親自註の部分が散文であることはもちろん分かっていましたが、立義の部分が韻文形式かも 知れないと思ったのは、「佛説十地經」の卷第五に「頌言」として「了達三界唯是心」とあること から頌の形で引用されたのかなと思っていました。韻文の方が暗記しやすいですからね。 しかし、7基字を基本とすると思われる蔵訳の頌と比べると、ここは韻文にはなっていないようですね。 また、改めて玄奘訳を見ると、頌と長行の区別を「頌曰」と明示していました。 瞿曇般若流支の訳で「如偈言」としている「唯識無境界…」も、偈ではないとしています。 (このあたりの事情は「述記」に詳しく語られています。) ただ、梵語の韻文形式は多彩らしいので、梵文のない現状では、それらが検討できないという点は残りますが。
714 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/12(金) 22:48:55 ID:2WNaqcC6
>>709 だからよ、だからその反宇宙があるとしても、その世界も所詮縁起で成り立つ、
無自性な空だといっているんだよ。空の思想は難しいですか?詭弁家さん。
>>708 それブラックホールの話しだし。反宇宙論こそ、いまだその存在は実験、観測で
確かめられないものであり、仮説にすぎないものであるってことくらい、わかってて言ってるんだろうな。
ま、おまえのような自性と無自性がごっちゃになってる、矛盾だらけの詭弁とは違う話だが。
しかしここは、机のような、詭弁が仏教だと思っている奴。
言語学が、原始仏教だと思ってる変な奴。
原始仏典で、釈迦は形而上のことは一切語っていないなどとおかしなことを言う、文章の読めな奴。
自分達の仏教論の行き着く結論は、釈迦の教えは単なるこの世の意識革命に過ぎない、
取るに足らない、現代では全く役に立たない教えになることも気づかないで、自分達の仏教論は、
何か特別なことを語っていると思ってる頭の悪い奴。
詭弁で、縁起と、自性とを一緒に思ってる、もはや竜樹の空の思想とは違う、
自分達のおかしな空の思想が、仏教だと思ってる奴。
仏教とは縁起だと、縁起、縁起、縁起と、輪廻の主体である縁起から抜けきらない、縁起脳の頭の悪い奴。
日頃、仏教は中道、中道、中道と得意げに語る御仁が、中道の意味もわからず、仏教は、
形而上のテーマとは一切関係ないかのごとく、自分は断見している、頭の悪い奴。
アホばっか。
715 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 22:53:04 ID:VwPYw068
熟し老いてゆくことの、この玄妙な味わい、無常な存在の味わいはたまらなく美味しい。 なんでこれが「苦」なものか、ブッダも相対世界で胡蝶の夢をみておられたかwwwwwww
717 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/12(金) 23:18:40 ID:2WNaqcC6
>>709 >ちなみに電子は数理的に導きだされたものです。
>理論物理学ですから・・・電子が実際に存在するのか?
>ってのは、本来は分らんもんです。
>分らんけども、実際は殆どの人は「電子の存在は信じている」。
ん?おまえもよくみりゃいい事書いてんじゃん。
ここにいる断見キチガイは、電子の存在も否定する、もしくは実験によって裏付けられない
電子の存在を予言する理論物理学は、無意味なんだってさ。なぁ
>>658 よ(爆笑)
この手の輩の頭の出来は、この程度のものだ。頭悪すぎ、
わっはははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
718 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 23:18:51 ID:VwPYw068
>>714 だってここは、都立松沢病院の談話室なんだぜ。なめんなよー!
かつてない思考実験の場だよ。どちらが正常かなんて、相対世界的視点さ、どっちでもいい。
「死霊」の埴谷雄高もときどき参加してるさ! 般若豊(本名、カッコイイ)よ、大雄に語らせろ、ブッダを批判せよ。
ドストエフスキー爺はウォッカのアル中で使い物にならん。
719 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/12(金) 23:26:30 ID:2WNaqcC6
矛盾の無い理論は、たとえ現時点で、それの証明が確かめられなくとも、 価値のあるものだ。だが、 縁起=無自性=空=一相=無相=自性。 これはないだろ〜〜〜〜。頭大丈夫でちゅか?おぉ父よ、このアホ共を許したまえ。 彼らは自分の言っている意味が、全くわかっていないのです。 わっはははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは 矛盾の無い理論は、たとえ実験、観測で、存在が証明できなくとも、大変価値のあるものだが、 論理矛盾をはらみ、もちろん実験、観測などで、正しさが証明できない理論は、全く価値の無いものである。
720 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/12(金) 23:37:39 ID:2WNaqcC6
なにが縁起は理法だよ。 法は自性じゃねぇんだよ、タコ。自性は言語化できない。 なぜなら言葉は、相対化し、識別するものだからである。 それは前にも言った。ただ、便宜上、この世では、 それのことを、「自性」と、言い表しているだけである。 釈迦は、法でさえも、執着するなと言った。 そえれはなぜか?馬鹿には、意味がわかんねぇんだろうな。 可哀想に。
無意味と無価値は別だろw アンタ先走りすぎ 激情持て余してんなら寒中滝に打たれてこいや
722 :
名無しさん@3周年 :2007/01/12(金) 23:50:40 ID:O8drrJG4
夜更けには 基地害進む おバカラスwww
中世の煩瑣哲学も、近代ヨーロッパ文明の発達にある意味貢献したし、 結局、金は作れなかった錬金術も、化学の発達に貢献したしな。
724 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 07:47:11 ID:laxAKrEX
>>722 しかし、つまんないわ、詞藻も旋律も意味もお粗末、稚拙。
しかも行為自体が粘着中傷だから、救いようがない。もうやめれ!
725 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 08:17:06 ID:ILXjqfax
>716 なにも佐倉何某さんの説を持ち出すまでも無く 空=無自性=縁起ですけど・・・それがどうかしましたか? それと相と自性はイコールではありません。 >なにが縁起は理法だよ。 >法は自性じゃねぇんだよ、タコ。自性は言語化できない。 あなたが言うように縁起が理法でなければ空も無自性も理法ではなく 偽りの論理と言うことになりますね? つまりあなたの主張は「自性は存在し、それは言語化できない」と言うものですね。 そしてその自性は一切法の中には含まれない。つまり自性は非法ですね。 ブッタは「法に執着するな」と言ったそうですが、「法ではなく非法を求めよ」ということですね? それなら理解できます。 あと相成るべくは、幼稚園児の罵り合い見たいな雑言はやめて 簡潔かつ明瞭な日本語表現で御願いします。
726 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/13(土) 08:52:32 ID:E9zrwJo2
>>725 >あなたが言うように縁起が理法でなければ
俺は縁起は理法じゃないとは言ってないぜ、文章読めないの?ぼくちゃん。
俺の言ってることは、そんなに難しいでちゅか?
それどころか、自分の書いた文章の意味もわかりまちぇんか?
君らのお得意の、屁理屈、詭弁で、人の言説を捻じ曲げないように。
>>714 縁起にいてはマクロ的な考察が理解しやすい。
宇宙船という対象と、それに搭乗する乗組員という設定で・・・
ブラックホールに近づくのは一応は障害がありますが、なかったとして通常にホールを通過できる。
この場合は全く時間的は遅れはない。
かたやこの観測船をホール外で観測する場合は、時間的な遅れがある。
この両者の違い(時間経過)というのは、つまり宇宙船との関係性です。
関係性において、乗組員&ホール外観測者の違いが生じる。
関係性が先ずありまして、それと同時に主体という認識が生じる。
大事なのは「認識は関係性に依って全く違う」。
二項(自性)という対立において関係性(縁)があるのではなく、
関係性において認識が即生じる。
つまり認識&宇宙船に普遍性はなく、たえず関係性において生起するに過ぎない。
(ここのとこが重要です)
ようするに相対(二項)は、ただ生起しているに過ぎんのじゃよw
まあ、これだけ簡単に説明すれば、貴殿にも分ってもらえるかと思うが。
(無理かな?)
728 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/13(土) 09:10:48 ID:E9zrwJo2
>>691 >涅槃はあくまで主体内面の境地なのに、宇宙とかこの世とか客体を言い出すからおかしくなる。
内があるから外があり、内側のものが外側を作る。
あなた達の内側は、あなた達の外側なのだ。そして、あなた達が外側に見るものを、
あなた達は内側にみるのだ。それは見えている。それはあなた達の衣。
堕落した女は、子宮を外に向けているが、悔い改める女は、再び、外に向いていた子宮を、内側に向けるだろう。
そこで元の花婿を迎え、男と女は一体となる。
ま、縁起脳の君らには理解できんだろう。せいぜい詭弁を真理だと誤謬し、迷っていろ。
729 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 10:51:24 ID:nzo3K0xg
>>728 ハイハイ、ごくろうさん、ごくろうさん。
自称グノーシス「信仰」の執着:迷いの徒はお仲間(あればだが)の
アーレフのスレへお帰りくださいね。
上祐に信者集めは逆効果でしたって報告しといてね。
カラスもかなりのレベル落ちだな。
730 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 11:34:35 ID:ZVnI1Ynd
出禁ども 底辺バカで 小突き合いwww
>>728 >ま、縁起脳の君らには理解できんだろう。せいぜい詭弁を真理だと誤謬し、迷っていろ。
私は真理を語ちているわけではない。
真理とは普遍である。とおっさるなら、
仏教は「普遍なるものはなし」。ということになる。
空は真理という意味ではない。
732 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 13:43:40 ID:ZVnI1Ynd
門前へ 近付けもせぬ 出禁どもwww
733 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 13:58:33 ID:laxAKrEX
>732 君や自演するようなヤツが最低だ。はやく止めなさい。
734 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 14:20:05 ID:ZVnI1Ynd
基地害は 玩ばれて 葬られwww
735 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 14:40:42 ID:laxAKrEX
>734 電波(=君)のことか?
736 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 14:46:08 ID:ZVnI1Ynd
基地害は 悪事の末に 目が潰れwww
737 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 14:54:08 ID:laxAKrEX
>736 そうか可哀想だな。誰か親切な人に助けてもらってるのか? オレも祈っとくよ
738 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 14:59:45 ID:ZVnI1Ynd
基地害は 知らず己れの こと語りwww
739 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 15:20:15 ID:laxAKrEX
>738 もうやめな。みんなのために。君のために。
740 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/13(土) 15:49:34 ID:E4G0yJAe
>ID:ZVnI1Ynd 直截過ぎ(苦笑)。 烏滸どもは ゑびすうたにもとり上ぐる 甲斐すらなきを眺め渡さむ
>>712 中論にせよ唯識論にせよ、一応はリアルな例示をもって考察せねば、その本意は納得できるものではない。
例えば龍樹においては「主体と客体における境界というのはない」。
と言うてますが、
これを例えば人の五感において考察せば、なる程納得はいく。
外境の存在・非存在論は、またそれを決定する唯識においてなされ、
ではその決する外境は存在・非存在論なのか?
と、無限ループに陥るのであります。
だからしまいには、唯識が正しいのなら唯識そのものも存在・非存在論の無限ループになる。
ってのが龍樹の論なわけです。
例えば、味とか匂いとか温暖の感覚に主客の境界があるか?
ってたら、これは論理自体が矛盾しているような気がします。
(唯識論者は、こういうことを真剣?に学習しておるようですが?)
なかなか難しいもんですね。
742 :
名無しさん@3周年 :2007/01/13(土) 19:05:23 ID:ZVnI1Ynd
無知メクラ 露出狂いの 出禁バカwww
そんなこと言ったのは悪取空の連中だろ。 入蔵して西蔵に仏教伝えた寂護・蓮華戒のような瑜伽行中論派もいるぞ。 ていうか、そもそも龍樹の時代に唯識があるかよw
説一切有部などの実有論の逝ったのが唯識論である。
如来は死後、輪廻するか−−−解脱者がもはや輪廻しないというのは、内外道を選ばず問答無用の大前提。
仏教とは釈迦に始まり、釈迦に終わる。 キリストは神の独り子であり、キリストをほかの誰かが継げる と言う発想がないように、仏教にもそれは当てはまる。 永遠のキリスト、永遠の仏陀、絶対存在 仏教は悟れば人は仏になれるというなら、 悟りとは是、個人のものなりということ。 因果は個人に帰する。
747 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 10:11:44 ID:KC0xK8Fo
晒し
>>743 >入蔵して西蔵に仏教伝えた寂護・蓮華戒のような
わたくしも若手にはいろいろ伝えております。
机はいつか無余涅槃に入りますから。
メカケ(妾)と別荘はもってはならぬ。
とか、いろいろあります。
749 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 12:48:01 ID:R/HlKJde
>725 否定と思ったら早々に今度は肯定ですか? 仰るようにあなたの日本語は難解ですね >なにが縁起は理法だよ。 というのは「縁起は理法に決まってんだろ」と言う意味でしたか・・・ 一般的な日本語とは逆の意味なんですね。 それを仏教では天邪鬼と言います。 ところであなたの言う「縁起脳」って何ですか? 確かに >法は自性じゃねぇんだよ、タコ。自性は言語化できない。 なんて言うあなたに最早言語のルールなんてどうでも良いのでしょうが・・・ どうやら、あなたの脳みそは縁起してないようですね。 それとあなたはグノーシスを齧ったオウムなんですね なんとなく分かります。
750 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 12:57:33 ID:HcJJkpJF
751 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 13:16:38 ID:HcJJkpJF
501 :名無し草 :2006/12/14(木) 10:00:18
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1165410099/ いたいた、ここに名無しで。
502 :名無し草 :2006/12/14(木) 10:05:38
>>500 501
ついにバスタも創価にどっぷりつかり始めたか。あっちはあっちでまた強烈なコテ多そうだしな。
バスタはまたオカルト板同様なことを延々繰り返すんだろう。こりないやっちゃな。
2ちゃんねるで同じことを万年やってねーで仕事に精だしゃいいのにな。w
503 :名無し草 :2006/12/14(木) 10:14:27
>>502 >>501 の葵講スレの752
相変わらずだね。
バスタって何でもが自分に都合のいい拡大解釈・誇大解釈なんだよね。
752 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 13:26:42 ID:HcJJkpJF
504 :名無し草 :2006/12/14(木) 10:17:00 779 名前:88 ◆cxMDmLQXwI [] 投稿日:2006/12/13(水) 23:00:07 ID:BOegjxcL 「○○さんを全力で守る」・・・ これが波男の常套文句。 で、自演を繰り返し、時には他人を恫喝 時には○○さんを名無しで攻撃し、「××の仕業に違いない」と敵を貶めようとする。 ・・・ 結果、多くの人から反感を買い、○○さんまで巻き込まれ叩かれる。 いつもこのパターン。 オカルト板の人ならご存知だろう。 つうか、最近体調が悪いだとか、もう2ちゃんは引退するだと抜かして 今日も名無しで自演三昧。 ったく、反省の色がまるでない(爆 505 :名無し草 :2006/12/14(木) 10:20:03 その●●さんはいつも女ってのがwwwwwwwwww ズラでも守ってやってくれよ。
753 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 18:16:45 ID:R/HlKJde
それにしても 「自分は絶対正しい」 「俺を否定する奴らは全て間違い」 この二つの信念にはすさまじいものがあるね。 この信念をもっと生産的なことに使えればどんなにすばらしいことか・・・ ある意味、他者とのかかわりを拒絶しているように見えて、拒絶という関わり方を している。まさに縁起している。無が非存在というあり方で存在すると有部も主張するが。 こんな退歩的な人間関係のどこが面白いのか?逆縁によってのみ支えられる自己なんてね。
色即是空 空即是色の「色」というのは、つまり現実世界のことだね。 この現実世界において仏教とどう関わって逝くべきか? ってところが大事なんかと思う。 そういったところから輪廻思想とか業法論とかも見えてくる。 わたくしは、そういうテーゼで仏教を語ちてみたかった。 しかしながら、既にその機は失せてしまうだらう。 2ちゃんも再来週くらいには封鎖になるだろうし。 して、 総括とすれば、20シリーズまでスレを伸ばしたアホダラ氏によれば、 如来は輪廻から解脱するらしい。 ただしそれは生物学的死において解脱するのではない。 という結論に至りました。 まあ、今度どこかの掲示板で皆さまと逢うとしたら、 死んだ先の心配なしで仏教を語ちてみませう。 「不生ならば不死にて調ふ」。by盤珪
× 業法論 〇 業報論
756 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 20:03:08 ID:EalCxYIh
永劫に 地獄の責め苦 出禁バカwww 出禁バカ 悪業報に 苛まれwww
757 :
名無しさん@3周年 :2007/01/14(日) 22:39:48 ID:b++3dO+F
『無門関』第一則 変容「趙州無(空)字」 趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」 州云く、「無」 更に僧問う、「人に還って仏性有りや也た無しや、釈尊の教え如何」 州云く、「・・・・・・・・」
758 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/01/14(日) 23:44:39 ID:TZSjg4K+
〜ダンマパタ 97
>〔特定のものについて〕信なく、かつまた、作られざるもの(涅槃の境地)について知あり、
>しかして、〔輪廻の〕鎖を断ち切った人――〔造悪の〕機会を打ち砕き、〔自利の〕願望を吐き捨てた者――
>まさに、彼は、最上の人である。
釈迦は輪廻の鎖を断ち切りなさいと説いているのに、縁起に執着し、
なぜか縁起で完結する似非仏教論を、得意げに語る君らを観察していると、まことに、まことに笑える。
釈迦の仏教と、君らの ”縁起仏教” を分けて語ってくれないかな〜〜、わっははは。
君らの縁起脳では、真の仏教とも言える、グノーシスは、難しすぎて理解不能だろう。
俺があげた
>>728 の、男の女の意味も、君らじゃ、その喩えを理解せず、理解できず、生物学的な、
男と女の意味としか捕らえられないのが関の山。縁起脳の君らは見てて気の毒だ。
縁起脳の君らは、真理を悟ることも無く、永遠に輪廻を繰り返し、せいぜい迷いの生存を繰り返していてくれたまえ。
わっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
759 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 00:44:57 ID:6aimv9oL
おバカラス 夜半に発狂 発作が出www
760 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 00:47:07 ID:6aimv9oL
おバカラス アタマが潰れ 愚脳死すwww
762 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 07:10:59 ID:xoAhRJZ0
>君らの縁起脳では、 >真の仏教とも言える、グノーシスは、難しすぎて理解不能だろう。 グノーシスで仏教を理解しようとしてる人なんですね。 それなら、グノーシス板でも作ったらどうでしょう? あなた以上にグノーシスに詳しい人もいるでしょうから・・・ でも専門板じゃ仏教版住人の知らない比喩を得意げに振り回すことは出来ませんね それにグノーシスは「流れ」がないと意味がない。 相変わらず幼稚園児なみの表現で笑えますが、 もっとも笑えるのは「無為である涅槃」にあこがれながらも 自身はいまだ「作られたもの、迷える存在」であること 縁起を否定しても、自身はいまだ縁起し続け、輪廻する存在であること。 精神を病んだ人が、「俺は病気じゃない、おかしいのはお前らだ」と 言うのに非常に近似しています。 火に包まれた家の中にいて、「火事なんて存在しない」と叫びながら焼け死んでいくようなもの。 でも、もしかしたらもう涅槃(愚能死す)に入っているかもしれませんね。
>>758 >俺があげた
>>728 の、男の女の意味も、君らじゃ、その喩えを理解せず、理解できず
私は分っております。
理論とすれば統一原理の創造原理と意を同じくするものです。
ちなみに私は統一原理は学びました。
「男女一体」理論は、女性性相&男性性相の合一を意とするものです。→統一原理
カルトがよく使う手法でして、
この理論に依りオナニー状態に入って逝きます。
こういうことは、私は高校生の時分から既に経験しておるのです。
伊達に年はくうておらんです。
オナニー状態は気分がハイになっていますので、本来の自分から離れて逝きます。
勿論こういう状態においては自分自身で自覚はありません。
しかしながら、この酔った状態から醒めたときは充分気をつけて下さい。
精神が非常に不安定になります。
これはつまり、失うものもある。ということです。
株取引でもなんでも同じ。
たとえ2・30万くらの金を儲けたとしても、実質的には失うものの方が大きい。
764 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 09:14:23 ID:6aimv9oL
悪業の 統一原理 出禁バカwww
765 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 09:16:22 ID:6aimv9oL
婦女犯し ガキは堕ろせと 出禁バカ
766 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 10:35:44 ID:xoAhRJZ0
>758 グノーシスちょっと興味があります。詳しければ教えて下さい。 グノーシスでブッタになった方、涅槃に入られた方は誰でしょうか? 何時頃の人でしょうか? またどのような修行をされたのでしょうか?
>>753 >この二つの信念にはすさまじいものがあるね。
>この信念をもっと生産的なことに使えればどんなにすばらしいことか・・・
わたくしの長年の教育関係において経験(蓄積)したことを、今明かしまふ。
ある悪ガキがいまして、教師も親も見放した状態でした。
つまり何を言うても馬耳東風の悪ガキです。
そのガキと対話するのは、大抵が説教です。
わたしは、このガキはもう説教には免疫ができてるので、
発想の転換をしまして「この子の良いところを探してみよう」。
ということを考えました。
その子と逢うたびに、わたくしは「その子の良いところを褒めてあげるのです」。
そういう日々が何日か続きました。
私の信念は「その子に自信を持たせてやることです」。
微かな自信も、大きな自信繋がります。
なによりも教育は愛が必要であります。
今、その子は大人になりまして社会で活躍をしております。
立派になりました。
そうなんです、その子が立派になったということは、
わたくしにおきましても教育者としての自信に繋がるものです。
こうしてわたくしは、いわば人生の半ばにあって、
若いもんにいろいろ伝えたい。
=子供は褒めて育てる= by机龍之介
768 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 17:21:58 ID:bEFbVN4n
2500年前の古代インドと異なり、現代の日本では業報輪廻=死後生、さらに梵我一如思想は 強固な社会通念ではない。社会的諸関係が全く異なる。方便として無用になっているのだ。 ブッダの真の教えを知るためには、かえって不必要かつ害悪な方便として機能している。 ブッダの無常=無(非)我=縁起の教えと、業報輪廻=死後生、梵我一如とは明白に矛盾する。 教条にとらわれず、智慧によってブッダの純粋な仏教原理を見出すべきだろう。 ちなみに梵我一如にはアニミズム型(自然法爾、山川草木悉有仏性など)執着客塵思想型(如来蔵、 仏性名目の実質アートマン設定)、他力思想型なども含む。
769 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 17:29:45 ID:wtbN2uSP
アホダラ以外は、電波男が自演、ハッタリ、虚偽ということでいいんですか?
770 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 17:32:28 ID:xoAhRJZ0
よこ槍で申し訳ありませんが、 「業報輪廻」という言葉は誤解を与えるのでは? 因果応報と輪廻は本来別の思想です。 おそらく三時業の来世で受ける果報のことだと思いますが。
771 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 17:40:41 ID:bEFbVN4n
現代で最も強力な方便は現代科学だ。 物理学、進化論、脳科学の発展は ブッダの無常=無我=縁起の内実を強力に明らかにしつつある。 業報輪廻や梵我一如などを説かねばならない時代は遙か昔に過ぎ去っているのだ。 一切行無常である。
772 :
768 :2007/01/15(月) 18:07:01 ID:bEFbVN4n
>>768 に生天思想(天国・地獄・神・悪魔など)も加えておきます。
773 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 19:21:47 ID:6aimv9oL
出禁バカ 囁き声に 苛まれwww 子供らを 魔の手で汚す 出禁バカ
>>600 華厳経(699年訳)の訳者、実叉難陀は、唯識に近かったのか、大乗入楞伽経(704年訳)も訳していますね。
楞伽経の梵本もあるようですが、vijJaptimAtra(唯識)という語も出てくるのでしょうか。
cittamAtra(唯心)というのは出てくるようですが。
「唯識二十論」3漢訳の年代
後魏/菩提流支(508入国)
陳/真諦(546入国)
唐/玄奘(645帰国)
>>713 で間違えました。真諦と玄奘では年代がだいぶ違いますね。接収されたのはインド僧
福生のもたらした1500部の写本の方でした。述べ直しますと、玄奘の訳出に際して他の梵本を
対照したことは「述記」に4度ほど触れられています。
今我和上三藏法師玄奘。校諸梵本。/校三梵本。及勘題目。/勘三梵本。並無此頌。/今勘三梵本。並無果字。
その頃は、翻訳の終えた梵本も保存していたようですね。
>>281 に引用された『般若灯論註』に、
sa bcu pa'i mdo las (十地経により)/
kye rgyal ba'i sras 'di lta ste / khams gsum pa 'di ni sems tsam mo
とあるのは「唯識二十論」からの孫引き、ということなんでしょうか。「十地経」から直接、
引用したにしては引用部分の区切り方が同じだなと思ったので(こちらは sras が単数ですが)。
また、「十地経」と「唯識二十論」翻訳の年代順を調べていて気になったのですが、
これは、観誓(700年頃)のティーカーの蔵訳、ということでよろしいでしょうか。
立て看板 設置させてください、<(_"_)>ペコリ
『 ☆彡 目も見えず、耳も聞こえぬお人が、桜の木に抱きついている。
桜を、見たい、聞きたい、と言う。
さて、どうやって?
坐禅と見性第50章 公案と見性B流れる水
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1167920142/ 二ではない(不二、ふに)、一の如し(一如、いちにょ)、それは、ほとけさま(さとり)のことです、どうですか、参禅していきませんか?
問う。
『 この場に坐したままで、30メートル先のローソクの炎を吹き消せ。 』
答える。 ・・・と。
☆彡沢木興道老師のなぞなぞ?
アメリカに 「我が妻は我が父の母なり、我が父は我が子なり、我が妹は我が孫なり」 という言葉があったそうな。
☆彡碧巌録(へきがんろく)第45則 趙州布衫(じょうしゅうふさん)
【本則】
禅僧「万法は一に帰す。では、一はどこに帰しますか」
趙州「私は若い頃、青州に住み、一領の布衫(実務着、サラリーマンなら背広と言うことかと)を作った。 その重さは7斤(4.2kg)もあった」
また、あるひと(ジャック、ラカン) 曰く(いわく)
「世界をキリストは支えている。キリストを聖クリストファーが支えている。では、その聖クリストファーを支えているのは何?」という謎々と同じかと。
‥‥……━★ 友好スレ
精神世界で癒される第19章
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/healing/1168176226/
>>772 布施・持戒・生天論も、いわゆる世俗諦としては、現在でも有効かも知れませんよ。
霊魂不滅と考えないと、耐えられない人(あるいは、その時期にある人)も多いですからね。
比丘たちへの説法、いわゆる勝義諦としては、霊魂不滅については無記、が本来の教説としても。
中村元『論理の構造 上』pp.55-56 から引用。 知られる対象(jJeya) 知る主体(jJAtR)。主観と訳してもよいであろう。 知るはたらき(jJAna) 知った結果(jJAta) 考えられる対象(mantavya) 考える主体(mantR) 考えるはたらき(manana) 考えた結果(mata, mati) 認識される対象(prameya, pramAtavya) 認識する主体(pramAtR) 認識するはたらき(pramANa) 認識の結果(pramti) 考えた結果(mata, mati)のところが気になった。 また、同書 pp.460-461『金七十論』から、サーンキヤ派からの論難の部分 釈迦の所説の非有非無、この義は然らず。〔何となれば、有と無とは〕自ら相違(矛盾)するがゆえに。 もし非有ならば、即ち無を成ず。もし非無ならば、即ちこれ有なり。… (真諦)三蔵曰く、この計は然らず。何を以てのゆえに。〔何となれば〕釈迦にはこの執なきがゆえに。 もし釈迦は非有と説くも、無を執せず。非無と説くも、有を執せず。 〔釈迦の説は〕有無の執を離れたるがゆえに、〔サーキヤの論難は〕破壊を成せず。
778 :
名無しさん@3周年 :2007/01/15(月) 23:53:13 ID:3X/Px8WF
>768 > 2500年前の古代インドと異なり、現代の日本では業報輪廻=死後生、さらに梵我一如思想は > 強固な社会通念ではない。社会的諸関係が全く異なる。方便として無用になっているのだ。 業報輪廻、梵我一如思想が 古代インドの「強固な社会通念」だというのは、誤読である。 当時から、業報輪廻が一般には受け入れられてなかったと考えた方が分かる。 > ブッダの真の教えを知るためには、かえって不必要かつ害悪な方便として機能している。 > ブッダの無常=無(非)我=縁起の教えと、業報輪廻=死後生、梵我一如とは明白に矛盾する。 上は縁起も無常も理解してない発言である。無我と梵我一如は矛盾するが、無常・無我・縁起と 業報輪廻・死後生は何も矛盾しない。無常・無我なる現在の私が縁起して連続するように、 無常・無我なる業報輪廻・死後生も縁起して連続するのである。 >770 因果応報と輪廻は本来どう別の思想なのでしょうか? >776 逆ですね。死んで終わりなら疾うに自殺してますよ。一切皆苦ですからね。 でも、死んでも終わらないから自殺しても終わらず、行するしかないわけです。 仏教の輪廻は不滅霊魂が主体なのではなく、無常・無我なる識・自相続などと呼ばれるものを想定します。 また比丘たちへの説法ではなく外道への質問に対する答えとして、 解脱者としての如来が死後どうなるかの答えが無記です。お間違いなく。
779 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 00:14:08 ID:u5wpDbIh
>713 まず、私はシナやチベット、日本撰述資料は全く用いませんでした。際限なくなるからです。 敦煌文書は参照すべきだと思います。『宝生論』も。 > また、2系統あったとして、世親本人による挿入および後人による十地経と対照しての削除、または > 本人自身による二種類の改訂版の流布の可能性も考慮しなければならないでしょうが、 > ひとまず、後人による挿入説を採るとしても、梵語だと"bho jinaputrAH"あたりになるのでしょうか、 > とにかく単なる写誤にしては長いし、何か特別な意思が働いたように感じます。 上は、伝統的仏教徒が暗唱により伝承するということを考慮してませんね。 "bho jinaputrAH"は『十地経』でよく使われるので、ここに混入してしまったのだろうと思われます。 >774 楞伽経にvijJaptimAtra(唯識)という語は出てきます。 楞伽経と二十論は非常に接近しています。 『般若灯論註』の引用は「唯識二十論」からの孫引きかどうかは分かりません。 推測するに「唯識二十論」が流行してから、あの引用が流行したと思います。 暗唱による伝承なので論書の引用であっても、『十地経』の引用とすることは散見します。 観誓註の蔵訳です。年代は分かりません。 ジュニャーナ・ガルバ、チョクロ・ルイギェルツェン翻訳官訳なので9世紀が下限年代です。 それからもう、電波男のデタラメさは十分証明されたと思うので、もう唯識についてコメントは控えたいと思います。 もともと唯識に興味ないし、このような文献学的考証も、たいして意味がないと思ってますので。
>>777 訂正します。
>認識の結果(pramti)
>〔サーキヤの論難は〕破壊を成せず。
認識の結果(pramiti)
〔サーンキヤの論難は〕破を成ぜず。
781 :
770 :2007/01/16(火) 07:29:05 ID:6syZxAoM
因果応報は外道でも説きます。 例えばヴェーダに説かれる有名な 「天界に生まれんと欲するならヤジュニャ(供犠)を為すべし」 果報は祭祀や神の恩寵によって得られると説かれました。 それに対し仏教は縁起の立場より、因と縁により行為の結果として果報を得ると 説きました。つまり果報を得ることに祭祀や神の介在を排除しました。 お気づきだと思いますが「天界に生まれる」という果報は来世の話なので 輪廻が前提条件です。 ただ、仏教では果報の受け方を3種に分けます。 行為の直後に受ける。 行為の後、スタンスをおいて受ける。 来世で受ける。 3番目のみが輪廻と関わりますが、それ以外は輪廻とは関わりません。
782 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 07:59:11 ID:u5wpDbIh
輪廻というのは、来世だけでなく、因果が円環して縁起することをも言います。 ですから、現世はもちろん瞬間的な因果も輪廻の内と解釈されます。 そして輪廻は解脱するまで断たれない。 それと誤解されやすいのでこちらはみなさんにですが、ヴェーダやウパニシャッド、 六師外道などが社会通念と考えるのは誤りと思われます。 彼らは特殊な宗教者であって、一般人は所謂ローカーヤタのように考えていたと思われます。 だから仏教では初心者に生天や因果を説くわけです。 これらは文学などにも証拠があります。 それらを無視して現代に迎合する学者の一部が無記解釈や無我と輪廻が矛盾するといったように こじつけて現代の常識にあうように適当に読み替えているだけです。 原始仏典を総合的に解釈すればそれらは簡単に破綻します。 よく読んでみてください。
783 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/16(火) 09:01:13 ID:ZOO0OLfB
>>779 忙殺されていて、久々に2chに帰って見るとなんだその印象操作は?
あちこちで色々やってるな。
一つずつ答えてやるから列挙してみろ。
ボクが外界の存在を肯定しているという馬鹿な論点先取はやめておけよ。
そして反論して、人をデタラメだと言うのならハンドル付けてくれ。
784 :
768 :2007/01/16(火) 18:16:36 ID:r5VpPSiQ
>>782 だったら、輪廻を経験主義的に証明してみろよ。
おお、ブラーミンよ、夜を昼と、昼を夜と主張する人はたくさんいる。
しかし私は、夜は夜であり昼は昼であると主張する。
―― 仏陀
輪廻は現実存苦からの解脱に役立たない経験的に証明不能の形而上概念にすぎず、
方便としてならともかく、ブッダの仏教の範疇に入らない。
まったく、教条主義的に曲がった指先ばかりを見ている奴が多すぎる。
月を視ろ。
四法印のどこに輪廻を入れる余地があるんだ?役にたたない糞概念であり、
否定されるべき狂雑物だ。もっとも、信じるのは勝ってだが、それは「信仰」であり、
仏教ではない。
現実とは何か?を見極めんことには形而上学的なものは分らんで当然。 哲学的には、この手法を帰納法的推論などという。 つまりは一切を見極める。ということが即形而上学的諸問題の解決になる。 この見極めのことを「彼岸へ逝く」などと言うたりする。 一切というのは、つまり十二処のことで、即これは形而上学的なことも勿論含まれるわけです。 簡単にいうと、現実というのは非常にファジーです。 ましてや形而上においては論ずるほどもないくらいに問題にもならない。
786 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 20:05:20 ID:ZZxwVzi5
刑事上 処罰対象 出禁バカwww
>>778 >死んで終わりなら
「死後に転生はない」という、いわゆる「断見」ということは考えていません。
そうではなく、「死後(の転生)を問われたのに対して、無記とした」ということです。
>外道への質問に対する答えとして、
>解脱者としての如来が死後どうなるかの答えが無記です。
佛説箭喩經(失譯)
尊者摩羅鳩摩羅 // 我問已當離還 // 彼時世尊 面責摩羅鳩摩羅已
中阿含經卷第六十(瞿曇僧伽提婆譯)の例品 箭喩經
我當難詰彼 捨之而去 // 我當難詰彼 捨之而去 // 於是 尊者鬘童子 為世尊面訶責
MN 63 Cula-Malunkyovada Sutta (
http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/mn/mn.063.than.html )
Ven. Malunkyaputta // then I will renounce the training and return to the lower life.
"No, lord." "Then that being the case, foolish man, ...
上の引用のように、「尊者」とされているし、「答えられなければ俗人に戻る」と考えたし、
外道なら釈尊から比丘たちの面前で叱責されないだろうから、マールンキャープッタは「比丘」だと思いますが、
他に「外道」との問答という形式での経典があるのでしょうか。
また、「如来が死後どうなるか」の「如来」が「人」と解釈されるのは、
「仏陀は再生しない」ということは、スッタニパータなどで頻出することなので、
それは比丘たち(あるいは沙門たち)の間での共通認識であり、
「もはや再生することのない仏陀」の死後を
比丘がことさら問うはずはない、ということなのではないか、と考えてみました。
>>779 >シナやチベット、日本撰述資料は全く用いませんでした。際限なくなるからです。
>敦煌文書は参照すべきだと思います。
なるほど。高崎直道『宝生論』は図書館にあるので、この間少し読んでみたんですが、
ちょっと興味が湧かない印象でしたが、もう一度挑戦してみます。
>伝統的仏教徒が暗唱により伝承する
仏伝とか韻文とかはともかく、散文の長大な論書などまで暗誦だけだったんでしょうかね。
福生が1500部の写本をもたらした、ということからも推測されますが、
写本という形態で流布していったのではないか、という印象を持っていましたが。
>楞伽経にvijJaptimAtra(唯識)という語は出てきます。
>『般若灯論註』の引用は「唯識二十論」からの孫引きかどうかは分かりません。
>観誓註の蔵訳です。9世紀が下限年代です。
ありがとうございました。蔵訳は古と新で思想的にはなにか傾向はあるんでしょうかね。
たとえば漢訳では、羅什なら中観派、玄奘は唯識派に、それぞれ親和的だと思いますが。
>もう唯識についてコメントは控えたいと思います。
了解しました。唯識二十論については、これくらいにしましょう。個人的には、もう少し考えて
みたいテーマはありますが。(表業などについて考えています。また、お二方に求められていた
総括はまだですので、これはそのうち書きます)
789 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 22:54:28 ID:u5wpDbIh
>>783 反論するならどうぞ。>157
印象操作、論点先取という何か学術的言葉を使って、それでよしとする。
これをハッタリというわけです。なぜかというと何故、それが印象操作、
論点先取なのかという論証を欠いているからですね。
これ意図的にやってると思ってたんですが、案外本気でそれで自分は納得してるんじゃないかと、今思った。
電波男は、全てがそう。自分の思い込み、よく言えば直感で、断定、主張する「〜だ」と。
だけど殆ど全てに論証や証拠の提示という手順を欠いているんですね。
つまり、本人は本気で論破・論証したつもりなってるですが、
客観的には全く唯の独断・ハッタリにしか見えない。
そこで相互になんだこいつ〜、になるということなのではないかと思った。
しかしながら >157の全てを実証的に反証できたなら、上の仮定は崩れるが、できないなら仮定は強く補強される。
790 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 22:55:59 ID:u5wpDbIh
>>784 なぜ「輪廻を経験主義的に証明」する必要があるのか?
必要性があるなら、まず「輪廻を経験主義的に」ないと「証明」しなきゃいけなくない?
だから一切皆苦で輪廻しなければ自殺すれば終わりでしょ。
「まったく」常識「的に曲がった指先ばかりを見ている奴が多すぎる。
月を視ろ。」仏教の「どこに輪廻を」前提としない「余地があるんだ?」
輪廻がなければ仏教は「役にたたない糞概念であり、 否定されるべき」古代宗教「だ。
もっとも」思い込む「のは」勝手「だが、それは」現代通念、臆見、常識「であり、 仏教ではない」(笑)
>>787 ブッダゴーサが如来を有情と解釈する理由からの水野先生などの総合判断に従っております。
こちらの説が趨勢であり、和辻や増谷などの輪廻否定者が 如来有情解釈をねじ曲げて輪廻否定の
証拠としたというのが真相です。なぜならブッダゴーサも、その解釈に従う現代テーラワーダ諸派も
輪廻という苦の状態からの脱出という意味で仏教を伝承しているからです。
というか、それ以外の仏教は現代日本仏教の一部しかないと思います。
森 章司 先生の こちらをどうぞ:
791 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 23:01:35 ID:u5wpDbIh
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/cgi-bin/resbbs1/resbbs.cgi の引用
無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の「tathAgata(如来)の意義用法」
(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」
(『佐藤博士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を参照してみて下さい。
前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説におけるtathAgataも、仏教的な如来も、
その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した完全者>の意味を含むものであったと思われる」
と結論を下されています。
また後者でも水野論文を参照したうえで、「仏教の中で、如来はブッダのみと理解し、当時、
如来は外に存在しなかったとして、一般の有情(=人)と同義に解釈したことは、やはり無理があったと
みなすべきであろう。ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、
輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」と結論されています。
またサンユッタニカーヤの44(南伝大蔵経 第16巻上 pp.99〜136)は「無記相応」
と名づけられた章です。ここを詳しく読んでみてください。タターガタが如来などの輪廻を超越した人を
さすことが明らかになるはずです。
それから10無記や14無記にはさまざまなヴァリエーションがありますが、その整理を三枝充悳先生が
『初期仏教の思想』(1978年7月 東洋哲学研究所)という本のなかで綿密にやっておられます。
やはりこの部分はタターガタで解釈すべきでしょう。
792 :
名無しさん@3周年 :2007/01/16(火) 23:13:31 ID:u5wpDbIh
>>788 いえ『宝性論』ウッタラタントラ ではなく『成唯識宝生論』です。
もちろん暗誦だけとは言いません。ですが暗誦が基本なので伝承中の流入は暗誦を考慮しないといけない
と思います。大蔵経を暗誦してる方がいるぐらいですよ。『二十頌自註』なんて何の問題もないでしょう。
蔵訳は古と新で思想的差異は、タントラにあります。顕教的には基本的にはありません。
ですが、古訳派では『入菩提行論』新訳派では『入中論』を重視する違いがあったりします。
訳は、 古訳の方が読みやすく新訳の方が読みにくいように思えます。単なる印象です。
総括、楽しみにしています。
793 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/16(火) 23:54:08 ID:8ZoDE2+V
“tathAgata”の語は、パーリ註乃至漢訳阿含において、所謂「如来」と「衆生・我、有情」と、文脈によって異なる解釈が
加えられています。
これは漢訳諸論書(阿含と同様インド人訳僧によるもの)でも同様です。こんなことは当方の如き“ハッタリ素人”が指摘す
るまでもなく、「文献学的」研究をされている方々には余りにも常識的な事項でありましょう(笑)。
また、「解脱者・完全者なるtathAgata」の死後の有無を問うなどという愚問は、いくら外道沙門でも行わないでしょうね。
><生死輪廻を脱した完全者>の意味を含むものであったと思われる
そりゃ「含む」でしょうよ。何をか況や(笑)。この論文の「水野著作集」における継子扱いについては
>>556 で言及済みです。
また、三枝氏の著書では、新版(レグルス文庫所収)の注において赤沼智善説(=衆生)や中村元説(=たましい)が紹介され
ています。
尚、再三に亘って言明していますように、当方はどのような教団ドグマ・イデオロギーもしくはローカル思想という「村の掟」に
対し、その前提に従う如何なる義理合いも一切持ち得ません。悪しからず。
勘違いしてました。護法菩薩の成唯識宝生論のことですね。それなら併読しました。 >論曰。謂依大乘成立三界但唯是識。 ここに別の漢訳の形が見られますね。 ちなみに、ゲッティンゲンのサイトから因縁心論の梵文をDLしました。漢訳と対照したいと思います。
795 :
名無しさん@3周年 :2007/01/17(水) 06:58:48 ID:/tyrSAkA
>793 まるで悲鳴だね。こういった始めから輪廻・転生を否定しようという姿勢が論点先取なのだが。
796 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/17(水) 08:06:56 ID:6sWVdAWM
>>789 反論?印象操作や論点先取学術的言葉?ハッタリ?
まず、キミは読解力を養いなさい。この貴方の文章にはなんの論証もない。無意味です。
一つだけ説明してあげましょう。
>157 のすべては論点先取です。阿呆陀羅さんが言うところの複問虚偽も含まれます。
また論点先取と複問虚偽は印象操作が動機となるのは通例です。
解りましたか?これでも解らないあなたのために。。。。。
>157にはボクが主張していないことも含まれます。これは複問虚偽の合成形で多問虚偽とも言えましょうか。
もう一つ頭の悪い貴方のために言ってあげましょう。前提と根拠が飛躍やすり替え、意図的な操作のあるもの
として提示されているのに、すべてが断定になっているのが789の文章。
わかった?
797 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/17(水) 08:37:37 ID:y4BO/ia0
卑しいドグマタルチュフ、紐付き神学屋の類が必死で虚に向かって吠えておるようですな(苦笑)。中世のヨーロッパあたりでは かかる手合いが魔女裁判・異端審問などの言い掛かり商法で蓄財に励んだのでしょうよ。 さて、排泄物を厠へ流しに行こうか(笑)。
>>778 >逆ですね。死んで終わりなら疾うに自殺してますよ。一切皆苦ですからね。
>でも、死んでも終わらないから自殺しても終わらず、行するしかないわけです。
これもひとつの論理。
しかしながら、全く逆説的な論理も同時にある。
ヒントは
>>775 の公案です。
800 :
名無しさん@3周年 :2007/01/17(水) 13:18:29 ID:bhqzZe9e
出しゃばって 悪業を積む 出禁バカwww 出禁バカ 追い詰められて 吊し上げwww
801 :
768 784 :2007/01/17(水) 13:36:08 ID:R1tjRONa
>>790 隙間タイムにちょっとだけ。
俺は『輪廻は現実存苦からの解脱に役立たない経験的に証明不能の形而上概念』だと
言っている。捻じ曲げるな、正確に嫁。
名称如何を問わず、実質的にブラフマン、梵我一如、業報輪廻というバラモン→ヒンドゥの3点セットを
を組み込む事は、体内にガンを持ち込むことだ。これはどんな高名な学者であっても同じだ。
アキメクラであることは同じだ。
文献教条主義スコラもどきには、教条の背後の生きたダイナミズムを感じ取る能力がない。
まさにサンスカーラの妄執まみれだな、売教徒だ。ヒンドゥーに隙をみせるな。
802 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/17(水) 13:57:54 ID:y4BO/ia0
世の中は右も左も明き盲 輪廻といふをききて虚に吠ゆ
803 :
名無しさん@3周年 :2007/01/17(水) 17:50:58 ID:/tyrSAkA
804 :
名無しさん@3周年 :2007/01/17(水) 18:34:15 ID:vTurIfNe
>801 samskaraって今ひとつ分かりません。 漢訳の行も良く分かりません。 平たい日本語で言うとなんでしょうか?
>>804 横合いからですが、
サンスカーラ。原義、「集まってつくる」もの・こと。
五蘊の一つ行蘊。感受し想念したことが「総合して起こる」、意志としての心作用。
諸行無常の行、因と縁が「集まってできる」もの。
「行」という字は、それが変遷・遷移、移ろい行く、ということからのものでしょう。
十二因縁の一つ。説明略。
・・・くらいの感じでしょうか。
806 :
名無しさん@3周年 :2007/01/17(水) 23:49:17 ID:R1tjRONa
「行」(sankhâra)
807 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 00:30:42 ID:42hXBlkE
>>796 あ〜やっぱり実証できず、ハッタリのみ。「まず、キミは読解力」が無いのは十分知っているが、
最低慚愧「を養いなさい」ハッタリ、詭弁、強弁などで言い逃れようというのは、
仏教に携わるもののすることではないからです。それができないなら仏教を語るのは止めようね。
>> >157 のすべては論点先取です。阿呆陀羅さんが言うところの複問虚偽も含まれます。
論点先取とはアリストテレスの唱えた以下のようなことですが、
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/medieval/logic/fallac.html # 論点先取assumptio non probata 論証に先立って、その前提とすることが不当な前提を立てる場合。
* 不当仮定hysteron proteron 論証を経たうえで認められるべきものを前提として立ててしまう誤り。
* 先決問題要求petitio principii 証明を要する一般的原理を証明なしに前提として立ててしまう。
* 循環論証circulus in probando ある結論をある前提から導出し、
その前提自体はその結論を前提とすることによって導出する、というように論証が循環してしまう。
これも参照:
http://en.wikipedia.org/wiki/Fallacy
808 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 00:31:21 ID:42hXBlkE
これは正に和辻以来の輪廻否定の現代仏教学の一部にあて嵌るだろう。
輪廻がありえない、あるいは差別肯定になるからあってはならないという前提から出発しているからである。
http://www21.ocn.ne.jp/~kobataka/literature/shimoda/sairoku_kindaibukkyo03_06.html だから仏教から輪廻を排除するために死後無記や、無我と輪廻は矛盾するといった無理な詭弁を弄する。
論点先取でない客観的な文献学であれば、文献で輪廻がどのように扱われているかを虚心に読み解くだけだろう。
さらにいうなら論証せずに結論・主張だけ断定する君や>801 も論点先取だろう。
もっと酷いのは学者に質問して丁寧に答えてもらい、読むべき文献も指示されながら
自分の意図つまり先取した結論に添わないために全く無視する態度の>793 こそが論点先取に他ならない。
以上のような意味で >157 のすべてが、なぜ論点先取なのだろうか? 一つ一つ答えていただこう。
まず、どう詭弁を弄そうと明らかに誤りなものが 3.『唯識二十論』に勝手に iti を挿入した間違い
これは、どうして論点先取なのか? そして、間違いでないなら理由をのべなければならない。
>>805 五蘊とは。
色受想行識のこと。
色とは、眼に見える物質のこと。認識対象のこと。
受とは、認識対象(色)を見て感知すること。
想とは、認識対象(色)を感知して、過去に見たものの何に相当するのか照合すること。
行とは、認識対象(色)を照合した結果、認識対象(色)が何であるか判断すること。
識とは、認識対象(色)が何であるか判断した結果、認識対象が○○であることを最終的に認識すること。
五蘊皆空とは、、認識対象(色)とその一連の認識作用が、実体のない幻想そのものであること。
五蘊は心作用であり、また色作用である。色心不二にしてこれ空なり。 輪廻転生観念もこの心作用に他ならない。 ゆえに縁ありて想起するも、縁なくば既に無きが如し。 (縁起の現観) 三時不成で現も既に無き。
811 :
804 :2007/01/18(木) 07:36:25 ID:YB2dCsJz
サンスカーラは平たく言うと五蘊では「心の働き」の意味なんですね。 諸行無常はそうすると「心は移ろい行くもの」または「因と縁によって 作り出されたものは変化する」と言う意味なんですね。 納得しました。
812 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 08:09:10 ID:hvh25Vxm
>>807 はい。やり直し。
知ったかぶりしてアリストテレスを出したのは好いけど、
>論点先取assumptio non probata 論証に先立って、その前提とすることが不当な前提を立てる場合。
↑
この通りなんだけど?で、引用するなら、もう少し補ってから記述したらどうなんだい?
例えば、不当仮定なんか
「論証を経たうえで認められたものを前提とすべきである。しかし、その手続きをしなかったものを前提として立てて、論述を進めてしまう誤り。」
と咀嚼してから記述するのが良心ってもんだろ?すべてがスカタン。
スカタンと言うのは、あんたの読解力の無さにも現れている。例えば、
> 以上のような意味で >157 のすべてが、なぜ論点先取なのだろうか? 一つ一つ答えていただこう。
だれがすべてが論点先取と言ったんだ?
人を非難するのならコテハン付けろ。そしてボクと他人を混同するな。お前の列挙したアリストテレスの虚偽をお前が繰り返すな。
”iti”? なんのことだ?言いがかり論法だな。
それでは名誉挽回のチャンスをあげよう。>157はお前であると言う仮定の上でだ。完全に援用するんだからその責任をもてよ。
157の根拠を提示しろ。根拠曖昧なものに対して反論や説明を強要するな。
813 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 08:34:10 ID:42hXBlkE
>>812 あれ自分が書いたことぐらい憶えてようよ。それとも以下は改竄されて引用されたとでも?
http://life.2ch.net/psy/kako/1029/10296/1029606807.html > 218 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss :02/11/09 08:09
> MahAyAne " traidhAtukam vijNaptimAtram " iti vyavasthApyate
>
> 大乗では「〔われ、われが経験している〕三界とは認識された〔その内容〕に過ぎない」
> と言っている。
>
> とあり、「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と続きます。
> 外界の存在否定などしてしまったら、当時の論理学的水準でも相対論に陥ってしまう
> ため、そんなバカな事はしません。
>
> バカな学者の説明を読む前に、訳でもいいから原典を読みましょう。
814 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 08:36:08 ID:hvh25Vxm
>>813 引っ掛ったね。はい、やり直し。
一つだけじゃダメだよ。
確定的なものはなにもない。 ただし、今あるキーボードの感触やモニター画面は確かなに感受しておるではないか! おお!! なんと素晴らしいではないか。 この境涯こそが、かの正岡子規などの詩にもよく表されてますね。 確定的なものはなにもない。 ただし、今あるキーボードの感触やモニター画面は確かなに感受しておるではないか! おお!! なんと素晴らしいではないか。 この境涯こそが、かの正岡子規などの詩にもよく表されてますね。 「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる」。 この詩には、生死とか輪廻とか業報とかの観念すべてが超越されてます。 わたくしがそう思うのは、情緒的なものはなにも書かれてない。 無心でないと、こういう詩は書けんのです。 無為ということです。 つまり簡単に言いましたら、仏教は作為があっては目が開かん。 ということになりますね。 もっと簡単に言いましたら、輪廻転生とかの作為はいらんのです。 無学です。 この境地こそが本懐となりますね。 簡単に言うたら。
816 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 09:33:58 ID:WcX5wkt1
リアルでも 袋叩きの 出禁バカwww 失脚の 上に告発 出禁バカwww
817 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 10:02:16 ID:kPPYdOUX
サンスカーラ・・ブッダ理解の最重要なポイントだね。 サンスカーラの世界とあるがままの世界のギャップが『苦』を生む。 中村元博士訳では「潜勢力」(ダンマパダ338:岩波文庫57頁)だが、なんのこっちゃ? 妄執を生じさせる概念形成だが、むしろイメージ形成というべきだろう。 人間は、先ず言葉(ロゴス)ありきではなく、先ず情緒的なイメージありきだからだ。 もっともサンスカーラなくして現実は生きられない。
818 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/18(木) 10:07:38 ID:Cq10Cu+r
垂らされし 餌に喰ひつき 深刺さる 針のえ抜けず ぬたうつぞ烏滸
819 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 10:11:38 ID:UjraYbb+
電波男、間違いを指摘されても詭弁で言い逃れ、いつもの如し!
820 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 10:27:51 ID:kPPYdOUX
業報輪廻、梵我一如(禅のいう仏性を含む)、生天思想はサンスカーラの世界です。 こういう重要だがブッダの微妙なニュアンス、真意を嗅ぎ分けないと。 『文献教条主義スコラもどきには、教条の背後の生きたダイナミズムを感じ取る能力がない。』
821 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 10:37:10 ID:kPPYdOUX
>>816 おまいなんか、完全且つ典型的なサンスカーラ屑だから、ブッダの反面教師として、
サンプルモルモットとしてこのスレに永遠にはびこっているように。寝るなよ。
822 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 10:48:21 ID:WcX5wkt1
虫ケラは 同類どもと 心中しwww
823 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 11:42:10 ID:YB2dCsJz
縁起脳の次はサンスカーラ屑 とどめは涅槃バカ
正岡子規といふ御仁は、ぬくぬくと炬燵に入って庭を眺めていた訳じゃない。 病床において、つまり身体的にはボロボロな状態におった訳です。 こういう場合は、もちろん死のことも覚悟する訳です。 しかしながら人間というのは、こういう土壇場になりますと、 以外に死後のことはあまり考えなくなる。 (死を許容してくる) つまり死を含めて全てを受け入れてくる。 (執着から離れる) 受け入れてこそ自らの無明に気づく訳です。 (煩悩即涅槃)
825 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 12:23:21 ID:WcX5wkt1
氏に花も 咲かず根腐れ 出禁バカwww
>>824 全てを受け入れて自分の無明に気づくことを煩悩即涅槃というのですか?
横やりで失礼します。
>>808 >>157 に列挙された中の、
>3.『唯識二十論』に勝手に iti を挿入した間違い
電波男氏が二十論の冒頭部分(レビによる還元梵本)を引用した時に iti を插入してしまったことですね。
還元梵本に存在しない語を入れてしまったのは間違いには違いありませんが、彼はiti があることを根拠に論を展開してはいなかったのではありませんか?iti があるのが正しいとか主張したわけでもなかったと思います。
あの発言以来彼はしばらく沈默していたようだから、ここを責め立てるのは誤植を以って批判するようなものではないでしょうか。
この程度のミスはあなたも犯したはずです。
>1.『唯識二十論』は外界(artha, don, 外境)を認める(=否定しない)という間違い
>2.『唯識二十論』を「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と間違い
この二つはセットですね。
前者は、「外界の存在を認めない」=「外界は無である」という二分法が成立しないと主張できない批判です。
所謂四句分別による表現を知らないあなたではないでしょうが、あえて知らないふりをしているのでしょうか?
二十論の前半は「外境が実在しなくても認識が成立すること」の論証です。言い換えれば、認識が成立するためには認識対象の存在、非存在を問わない、ということになるはずです。
しかも、18偈以後では、他者の心の存在を認めます。つまり認識対象としての自分の認識以外の存在を認めるわけですから、二十論の論主が「外界の存在を認めない」とは限らないことになりませんか?末尾の仏陀の認識についても同様です。
だから、あなたが主張するように間違いであると断定するのには無理があると思います。
また、 >>和辻以来の輪廻否定の現代仏教学の一部にあて嵌るだろう。 輪廻否定はなにも和辻哲郎からはじまったわけではありません。龍樹以後明示的に述べられてきた仏教の一つの伝統的見解です。 龍樹が大乗経典ではなく、主として阿含経典を用いてその論証を重ねてきたことは、あなたもご存知でしょう。 特に電波男氏が徹底して批判してきたのは、輪廻を「生まれ変わり(=転生)」と同一視する見方です。 インド仏教ではなく、日本仏教の特殊な霊魂観に支配された拝み屋仏教学の立場なら同一視可能ですね。 しかし、インド仏教の伝統的教団の教義全般にあてはめることができるでしょうか?
829 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 16:15:12 ID:YB2dCsJz
↑ 仏教の輪廻説が外道の輪廻説と違うことは周知の事実ですが 輪廻の解釈の差異を民族性に帰納させるのは無理があると思いません? 中国や朝鮮半島 またはミャンマー、タイ、スリランカなど上座部の影響のある地域と 比較してみましたか?
>>826 輪廻転生というのは「死」といふ概念がもたらす観念ですね。
そしたら先ずは「死」というもんに真っ向から対峙せんことには分らんもんです。
テーマは、
死とは何か→老いとは何か→病とは何か→生とは何か?
というふうに、やがて連関しつつ無門の関を越して逝きます。
(逆観という場合もある)
煩悩といふ縁ありまして、そのまま涅槃に悟入して逝くんであります。
これを煩悩即涅槃などと言うとりますね。
つまり煩悩なくば涅槃までには逝けんのであります。
炬燵でぬくぬくしている場合じゃないですね。
己に向き合わねばなりません。
これを直指人心とも言います。
831 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 17:10:41 ID:WcX5wkt1
出禁バカ 総身の腐る 断末魔www
832 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 17:14:09 ID:UjraYbb+
電波七誌おつ!
833 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 19:29:25 ID:vkUqUvxI
五蘊って何のことやらわけがわからん 俺は思い切って次のように考えてみた 色とは、肉体 受とは、神経 想とは、脳 行とは、臓器 識とは、本能 こう考えてみるとサルでも俺でもわかる 煩悩即涅槃ってクマラジュウの珍訳だって教育テレビで竹中直人が語ってたぞ ここは大乗仏教について考えるスレなんですか?
834 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 21:11:46 ID:kPPYdOUX
>>830 「人心(直心)」とは何ですか?仏心のことですか。
アプリオリに人間には「仏心」が『ある』などという説は
検証不能な形而上学ではありませんか、ブッダの仏教では
ありませんね?
また「本来の自己」ですか?自己分裂思考で、実質的なアートマン設定ですよね。
仏心と本来自己が合体するのは、梵「我」一如そのものではありませんか?
もはやブッダの仏教の破壊ですよね。縁起の破壊ではありませんか?
根源的な無明=渇愛=「苦」の源は、生命現象そのものの個体及び種族保存保存本能として、
DNAに組み込まれて縁起しているものです。無明執着は決して「客塵」ではありません。
ブッダはこのことを踏まえて、実存苦からの解脱を教えられたのではありませんか?
直指人心は妄想ではないでしょうか?
835 :
834 :2007/01/18(木) 21:16:53 ID:kPPYdOUX
× 種族保存保存本能 〇 種保存本能
836 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 21:26:50 ID:42hXBlkE
>814 間違いは認めるの? それはさすがに認めるよね。謝罪しないの? 人には強要するのに。 心配ご無用全部やるから。一つ一つキッチリ確認してくよん。まず、これからキッチリしよう。 一体、何が引っ掛かったのよ。苦しいな、強がりは。
837 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 21:31:12 ID:hvh25Vxm
>>836 は?
キッチリ確認を求められているのはあんたの方なんだけど?
強がりでもなんでもない。そこまで理解できないのなら発言しないほうが好いと思うんだけどな。
ここ数日、2chに戻ってカキコしたけど、何一つ読解できてないじゃん。
知ったかぶりしてアリストテレスを意図はどこにあるの?馬鹿丸出しだよ。
論点先取の攻撃をして、それをも認めず、因縁つけるチンピラ以下の所業。早く謝罪しろや。
洒落にならんぞ、お前。
838 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 21:36:34 ID:42hXBlkE
>827 > 電波男氏が二十論の冒頭部分(レビによる還元梵本)を引用した時に iti を插入 > してしまったことですね。 > 還元梵本に存在しない語を入れてしまったのは間違いには違いありませんが、彼はiti があることを根拠 > に論を展開してはいなかったのではありませんか? 思想的には些末な問題です。ですが<「三界とは認識されたに過ぎない」と言っている>と訳しているように 単なるケアレスではありません。勝手にテキストを変えて、意味も変えているのです。学者なら死を意味するでしょう。 ここが引用かどうかは結構重要で、なかにはそれに納得していた人もいたぐらいです。 重要なのは彼が誤りを認められない不誠実な人であることが、非常に鮮明になっていることです。 誤りを認められない人の言うことなど信じられないでしょう。なにからなにまでハッタリなのです。
839 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 21:37:49 ID:42hXBlkE
>814 を見てください。誤りを指摘されても尊大な態度。これは劣勢に見せない印象操作といっていいでしょう。 全然、一貫性がなく「アドホック」にハッタリなのは、短いやりとりに以下のようにハッキリ現れています。 >783で「一つずつ答えてやるから列挙してみろ」と言ったので、まず否定しようのない iti の誤りを指摘すると、 >812で「 ”iti”? なんのことだ?言いがかり論法だな。」と知らんぷり、証拠を出すと >814では「 一つだけじゃダメだよ。」 >796で「>157 のすべては論点先取です。」と言ったその舌も乾かぬうちに >812「だれがすべてが論点先取と言ったんだ? 」 最後はこれですから>837 以上をデタラメと言わずに何をデタラメというのでしょう?
840 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 21:39:57 ID:Ypq+/FED
涅槃は、太陽の中心にある。 形状の秘密解かないと涅槃にはいけません。
841 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 21:40:31 ID:hvh25Vxm
>>838 馬鹿だね。それを引っ掛っていると言ってるのですよ。
何に引っ掛っているかはヒントがあります。ボクの発言以外にもありますよ。
そのことにも気づかず、たらたらと下らんことを述べているのはあんたの方。
気が向けば、一つずつ、その愚を明らかにしましょう。
先ず、アリストテレスを紹介して、あんたの論法の愚をご自身で晒したその意図をご説明ください。
で、当然のマナーとして、ハンドルを付けてください。
842 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 21:44:42 ID:hvh25Vxm
>>839 アリストテレスを紹介した貴方が、ここまで破綻しているのなら、お話になりませんね。
印象操作について非難した人が、ご自身でその言葉を使ってしまっている。
出している証拠も、曖昧だと指摘していることさえ気づかない。
大した奴じゃないですね。取るに足らない。
生まれ変わりとしての輪廻転生を批判されてトチ狂っているのでしょう。
843 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 21:50:42 ID:42hXBlkE
>827 > しかも、18偈以後では、他者の心の存在を認めます。つまり認識対象としての自分の認識以外の存在を認 > めるわけですから、二十論の論主が「外界の存在を認めない」とは限らないことになりませんか?末尾の > 仏陀の認識についても同様です。 逆ですよ、外界を認めない唯識がソリプシズムではないというために、他相続も認めるというのです。 ブッダの認識は、表現できないということです。無戯論、言葉を超えているということです。 つまり、いままで論証してきたことを超えていると述べているだけです。 > 828 > 輪廻否定はなにも和辻哲郎からはじまったわけではありません。 > 龍樹以後明示的に述べられてきた仏教の一つの伝統的見解です。 全くの誤解です。勝義では輪廻どころか、現在認識している全ての現象が否定されます。 『中論』26章でハッキリ世俗の立場で輪廻を説いています。中観派は、当然輪廻を前提とします。 『四百論』『入中論』『入菩提行論』『菩提道灯論』とインドでも、シナでもチベットでも。 その説も輪廻を認めたくない学者が、詭弁を弄した一つです。
844 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/18(木) 22:04:03 ID:Cq10Cu+r
「同じ穴の狢」に他ならぬ独我論・外境実在論ともに成立し得ないことを指摘論証し、中道を闡明するのが 唯識思想の眼目でありましょう。
>>843 >>他相続も認めるというのです。
ということは、自分の認識以外の存在を認めているということですね?
また、
>ブッダの認識は、表現できないということです
>つまり、いままで論証してきたことを超えている
であれば、「外界の存在を認めない」ということを無条件に認めていることにはなりませんよ。
>勝義では輪廻どころか、現在認識している全ての現象が否定されます。
当然です。あらゆる観念の否定ですからね。世俗の立場で認めるからといって、立論の前提となっていたりするわけではないですよ。
846 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 22:09:07 ID:hvh25Vxm
>>843 827じゃないが、、
唯識二十論で、外界の存在を認めないという記述があるのか?
認識の根拠を外界には求めず、それは種子の相続轉變差別として現れると言っている。
ただそれだけだ。
独我論にではないというために、他の心相続を認める?どこにそんな前提が書いてある?
で、世俗の立場で輪廻を説く?生まれ変わり、死に変わりの死後輪廻じゃないでそ?
リアルとして死後輪廻があるというのなら、示してみろよ。
アリストテレスの件はどうなった?
847 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 22:15:05 ID:42hXBlkE
>837 >841-842 iti は間違いだろ。それも認められないのか、ほんと心が狭いというか自己愛しかない人だな。 こんなハッキリした具体的な誤りが認められないなら、他の複雑な概念を含む問題は、やるだけ無駄でしょ。 それに「形容詞化珍説」と「vijJapti」に関してキッチリ上で、証明したんだけど、認めないよね。 iti の間違いも認めないんだもん! それ認めないんじゃ、駄々っ子相手に論じても時間の無駄なんだよね。 ハッタリ、やめな。もがけばもがくほど誰も信じなくなるよん。みっともないだけ。 アリストテレスを引いた意図、分からないの原典主義だよ。翻訳だけど。誰がどこでどのように述べた言葉か 確認して意味を明らかにして使うのが当然の手続きでしょ。君は意味も分からずとりあえず言ってるだけだけど。 ふ〜ん「気が向けば、一つずつ、その愚を明らかにしましょう」って、 本音は、「くやし〜、今は言い返せないけど、時間かけて調べてあら探しできたら、指摘してやる〜」ってこと? >846 すり替えないように。間違いも認めない人とは話せないよ。認めないなら、もう答えないで、勝手にやるから。 今日は、もう寝るよ。じゃ、がんばって。
848 :
名無しさん@3周年 :2007/01/18(木) 22:19:16 ID:42hXBlkE
>845 これ以上は、細かい話しになるので、やるなら具体的にテキストに添ってやるしかありませんね。 それと唯識は私は興味ないので、電波男のインチキ性を証明するためにしかたなくやっているだけなので、電波男に関係ないならやりたいと思いません。 それで本日は、寝ます。あしからず。疲れてるので。
849 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 22:30:27 ID:hvh25Vxm
>>847 なんど言ってもあんたの脳みそでは理解できないようだね。本当に哀れだ。
じゃ、仕方ないから言ってやろう。最初にサンスクリットを出したときの文脈を読め。
唯識二十論を論じるという文脈じゃなかっただろ?
その中で唯識二十論にはない ”iti” を見つけたお前は、文脈の流れを変更し、電波叩きへと引水した。
つまり、害悪の告知だ。文脈や意図を変更されてしまったのなら、それに関わる義務も責任も無い。
むしろ、お前の害悪を責める権利が生じるわけだ。理解不能なら弁護士に聞いてみろ。
で、形容詞化説?なんか言語学では形容詞化という概念は存在しないとか言ってたね。
そこらへんはつめないのか?”viJapti”に関して、どう証明したというんだね。表色としての概念は押さえたか?
無表との関わりは?やり直しだ。ボケ!!
で、
> ハッタリ、やめな。もがけばもがくほど誰も信じなくなるよん。みっともないだけ。
そんな印象操作やめな。恐らく一番お前が馬鹿にされている。罵倒しかできてないもん。
アリストテレスについて原典主義?馬鹿じゃないの?そんなことは百も承知で使ってるよ。
> 1.『唯識二十論』は外界(artha, don, 外境)を認める(=否定しない)という間違い
こんなことイツボクが発言した?このことを言ってるんだよ。論点先取じゃなく、意図的害悪かもしれないね。
論理的瑕疵だと思っていたが、意図的だったとはね。
で、何をどうすり替えているのか説明しろ。逃げるな。
850 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 22:34:51 ID:hvh25Vxm
>>848 まだまだ害悪の告知をするのですね。
何一つボクのインチキが証明されていないのですが。。
他の板のボクの発言に対する言及など、捨て置けないことが沢山ありますね。
先ずは大○の某氏では無いという確認を取りましょう。疑心暗鬼のまますごすのは嫌ですから。
851 :
素人 :2007/01/18(木) 22:45:46 ID:9gFc67H8
ここは(ここも?)相変わらず不毛だな・・・w
852 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 22:46:42 ID:hvh25Vxm
【論点先取について】 どこかの馬鹿が論点先取についてアリストテレスが原典であると、文脈を外した説明をしています。 賢明な皆様におかれましてはボクがアリストテレス学や論理学史を語るためにこの用語を使ったのでは ないことはお分かりだと察します。 相手の誤謬を指摘するために用いたのであり、その指摘に耐えられないと見た某氏はアリストテレスを 苦し紛れに持ち出したのです。哀れです。その傾向は別板のボクの悪評価をしきりに言うのとよく似ていますね。 死後輪廻の主張を批判されたのがそんなに悔しいのでしょうか。。 論点先取の虚偽(誤謬 fallacy)は現在の私の職業でも相手方の論理矛盾を指摘する際に、当然のごとく 使用するタームです。つまり、「前提不備なものを使って詭弁を弄している。無効だ!!」と言うほどの意味です。 誤謬論としては形式的、言語的、資料的誤謬の3つに分類されますが、ここではそれらを説明しません。 馬鹿がアリストテレスを用いたのと同じになりますから。
853 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/18(木) 22:59:46 ID:Cq10Cu+r
「叩く」だの「潰す」だの怨恨全開、「戦略」だのというセクト根性丸出しの語(バブル期広告代理店風w)を常用している 時点で自爆していませけどね、このタルチュフは(苦笑)。決して敷居を跨がせてはならない手合いです。
854 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/18(木) 23:05:27 ID:hvh25Vxm
>>853 そうですね。
こいつは議論とは関係の無いことを持ってきては私を卑しめようとしています。それも根拠の無いことで。
このことのケジメはリアルで付けたいと思うのですが、腰抜けだから多分名乗り出てこないでしょう。
こいつは自称仏教徒と言ってますが、その資格は全くありませんね。仏教の名を汚す賊です。
855 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 07:11:13 ID:H28DyEaS
電波男、完全敗北だな。議論で負けたら、裁判で恫喝いつもの手。
856 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 07:29:30 ID:eJzzAxLI
世俗に住するものがいくら勝義を説いてもリアルでない。 勝義に住するものこそが勝義を説くべきであることがよく分かる議論です。 目を塞ぎ耳を塞いで、外界は存在しないと叫んだところで 外界がなくなるわけではない。 目の前の火事は存在しない、存在しないと思ってるうちに焼け死んでしまう。 不毛な議論のうちに光陰は去り行く。 学問を志すものは別として、修行者はかくあるべきではないと、ブッタも仰るであろう。 空性を正しく理解した偉大なる成就者たちは自由に空を飛び、壁を突き抜ける。 それでこそ、マイトレーヤの聴聞に与れるというもの・・・・
857 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 07:33:38 ID:eJzzAxLI
さて、「輪廻は存在しない」と正しく理解した増谷、和辻大先生たちは 今ごろどうしているのかしら? 解脱して涅槃の境地でしょうか? それとも無になってしまった? それならまさに「ホトケさま」合掌
858 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 07:57:34 ID:eJzzAxLI
夢のなかでは、いかに荒唐無稽な事柄でも不思議には思わない。 優れたものたちだけが、これは夢であると気づき、 やがて夢を光明へと変化させる。 それではおやすみなさい 良い夢見ます。
>>834 >「人心(直心)」とは何ですか?仏心のことですか。
直指人心の意味は
>>830 に書いてあるとおり、
「己に向き合う」ことです。そんなに深い意味はない。
>仏心と本来自己が合体するのは、梵「我」一如そのものではありませんか?
ガンダムとは違いますから、そんなに簡単に合体するもんじゃないですね(^^ゞ
「仏心」とか「本来自己」というのは名称ですから、
そもそも仮設としてあるものが合体できましょうや?
860 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 08:49:39 ID:7pKeGlv1
出禁バカ 断末魔でも なぶりモノwww
861 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/19(金) 09:59:53 ID:pcBarhYN
ん?断種されるべきオウムの残党でも迷い込んだか・・・(苦笑)。
862 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 12:36:10 ID:eJzzAxLI
で、「輪廻の存在」を信じなければいいわけだね?仏教は・・・ そんなに単純なら、大乗であれ上座部であれ仏教の伝統的教育の場において 「輪廻は存在しない、迷妄である」と教育されていても良いわけだよね? でも・・・釈迦滅後何年経ってると思う? 最初っから輪廻否定なら、とっくの昔に仏教徒はみな輪廻の存在を否定してないといけないな。 それとも2600年を経て初めてブッタの真意が解明されたわけか? 近代科学の洗礼を受けた現代人が科学との整合性を求める余り輪廻否定に 走るのも仕方ない。 しかし、科学に仏教を摺り寄せるわけだから、仏教より科学のほうが上なんだな。 勢いあまって「ブッタは輪廻の存在を否定していた」とまで主張する。 問題は古典である仏典を、現代人の感性のまま解釈するをよしとするか 作られた時代の感性のまま解釈するをよしとするかだな。 前者も学問的にはいみがあるが、 テキストを改変したら、単なる捏造だwww
863 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 12:42:18 ID:eJzzAxLI
>空性を正しく理解した偉大なる成就者たちは自由に空を飛び、壁を突き抜ける。 >それでこそ、マイトレーヤの聴聞に与れるというもの・・・・ 分かりました、これを見てオウムの残党だと思ったわけだwww 短絡と言うか・・密教は目の敵のようですね。 で、ターラナータの仏教史とか読んだこと無い人なわけね。
864 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 13:16:35 ID:VpS4Aohh
劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ(与謝野晶子) 業報輪廻転生などというような検証しようもない形而上問題にこころ患わせらることなく、 修業を重ね、生命(DNA)あるがゆえの現実存苦から解脱しなさい、ということです。 そして、自己の肉体滅後にも影響・因縁は何らかの形で縁起として残るのだから、 せめてあとに続く世界のために、黄金の釘としての生き方をしませう、ということです。 これが輪廻転生「無記」の『再生』の考え方です。平凡ですが、実行するのは異常にむつかしい。 死ねば死にきり 自然は水際立っている(高村光太郎)
865 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/19(金) 13:36:51 ID:2VzV/pa3
>>862 >で、「輪廻の存在」を信じなければいいわけだね?仏教は・・・
君達の考えてる輪廻転生(死後の世界)のことがよくわからんのですが、
死後において意識が明確に覚醒された状態を想像してるのですか?
それとも意識が朦朧とした状態?
いずれにしても、今の自分に置き換えて想像する以外にないでしょ?
だったら「今の自分とは何だろう?」。
ってことが分らんと、死んだ先のことなんか分りようがない。
っていうか、
釈尊はそもそも四苦のテーゼにおいて本懐を遂げたのであって、
このテーマを深く洞察(開悟)すれば、おのずと輪廻転生の謎は解けるかと思いますね。
覚者は、このようにして解脱したのですから。
覚者は輪廻の循環から解脱したのではなく、
この輪廻の迷いから離れて逝ったんです。
866 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 13:43:30 ID:VpS4Aohh
業報輪廻転生論は、機能的には人間の我執-執着-エゴイズムを強化・刺激する方向へ働く。 エゴイズムへの強迫だからだ。ヒンドゥーのその実体はエゴイズム教なのだ。 だから、バラモン教と同構造の現代日本の葬式仏教やインチキ詐欺師(細〇数子とか・・) にとっては、ご先祖・霊魂・輪廻転生・死後生など検証不能概念はオイシイ商売ネタだ。 無常=無我=縁起なるがゆえに「我」に執着するな、というブッダの教えとは 機能的に正反対の方向だということだけは注意しておくべきだ。
867 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 13:49:02 ID:H/UjG1JF
>>849 電波男、むちゃくちゃだな。子供かヤクザか。
868 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 13:50:15 ID:7pKeGlv1
ブッタとは 俺のことかと ブッダ言いwww
869 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 16:22:32 ID:GqzDrq7a
>>827 >所謂四句分別による表現を知らないあなたではないでしょう
《「〜がない」は絶対否定であり、「〜でない」は相対否定である》
と仮定し、それを
>…認識されるわけではない
に、そのまま適用すると、
《「〜でない」で否定しているから相対否定であり、
>「外界は無である」
と述べていることになる》
というように、一応、先の仮定に基づく論理は成立していますが…。
あとは、
>二分法が成立しないと
という、先の仮定の検討が要請されるでしょう。
871 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 19:02:30 ID:CFNT/3Ih
「輪廻」を信じている人は十四無記をどうとらえているの? 俺はあくまでも仏教は哲学だと思っているが、本来
>外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない この文の構造は次のように分析できるでしょう。 {外界の存在そのもの}が{直接そのまま認識される}わけではない つまり、簡単な文構造に置き換えると、「AがBするわけではない」となります。 これは区切る場所によって二つの解釈が可能になります。 (1) 「Aが、Bするわけではない」 否定(わけではない)が「Bする」にかかっている。Aにはかかっていない。 ここから、「Aつまり外界は否定されていない。実在している、と見なしている」という解釈になる。 (2) 「AがBする、わけではない」 否定が「AがBする」にかかっている。つまり、否定は外界・認識の双方にかかっている。 したがって、外界の実在を前提にしてBを述べているのではない。 批判者は(1)で解釈し、主張者は(2)だとしているようです。これが議論が噛み合わない原因でしょう。 上記の視点は一か月ほど前に気づいていたのですが、書きそびれているうちに忘れてしまっていました。
プトンの伝記に出てくることですが、西域記にもありました。 大唐西域記卷第十 T51n2087_p0929c20(05)?龍猛俳徊顧視求所絶命。以乾茅葉自刎其頸。 T51n2087_p0929c21(02)?若利劍斷割身首異處。王子見已驚奔而去。 T51n2087_p0929c22(01)?門者上白。具陳始末。王聞哀感果亦命終。 話はもっと上から続きます。 大方、外教徒による中傷デマが伝承された、といった事情とは思われますが。 俗人のとき友人たちと透明人間になって宮中に忍び込み云々、という話もかなり眉唾っぽいですし。
874 :
名無しさん@3周年 :2007/01/19(金) 21:03:45 ID:CFNT/3Ih
末法の世ですか? 下らんことであーでもないこーでもないやって、気づいたら経ろ経ろ爺さんになってました? 糞坊主とあほニートの対決ですか?
>>872 批判者は、おそらく意図的に気がついていないんだと思います。
>所謂四句分別による表現を知らないあなたではないでしょう
というコメントが全てを物語っているのでは?
「無記相応」摘記 ケーマー経//「如来=仏陀」という感じの説明。釈尊を神秘化しているような印象も多少。 アヌラーダ経//色が如来と思うか。以下、五蘊の一々について問う。色とは別に如来があると思うか。 色は無我である云々に表現形式が酷似しているので、マハトマという語を想い起こした。 偉大なお方ガンジーであり、アートマンでもある。 上で触れられた中村元訳で「たましい」とした、というのはこのことか。 the Tathagata -- the supreme man, the superlative man, attainer of the superlative attainment -- これら如来を修飾する語は当初からあったものか。後世の挿入という可能性。 サーリプッタ・コッティタ経。モッガッラーナ経 ヴァッチャゴッタ経//the members of other sects assume form to be the self, or the self as possessing form, or form as in the self, or the self as in form. Tathagata, worthy and rightly self-awakened, 上の経にも同文が入っているが、ここでは自称とすれば自慢となってやや奇妙。 論義堂経(ヴァッチャゴッタ)//This contemplative Gotama describes a disciple who has died and passed on in terms of places of rebirth: But when the disciple is an ultimate person, a foremost person, attained to the foremost attainment, the contemplative Gotama does not describe him, when he has died and passed on, in terms of places of rebirth: 釈尊が、弟子某はどこそこに転生した、と述べた例を アーナンダ経//"And if I were to answer that there is no self, the bewildered Vacchagotta would become even more bewildered: 'Does the self I used to have now not exist?'" 論義堂経(サビヤ)//ケーマー経に近いが、神秘化はない 以上、すべて対応漢訳も探して対照すべし。
877 :
名無しさん@3周年 :2007/01/20(土) 00:08:14 ID:qE6Tww3W
>871 解脱者としての如来が死後どうなるかの答えが無記です。お間違いなく。>778 及び>530 >549 >790-791 >876 如来は、当時、以前からの一般的呼称で外道も使用していたことも、 釈尊が如来という言葉を一人称として用いず、常に三人称として用いていたことをアンカー先の 水野先生の論文で厳密に論証されていますので、貴方の推測は全くあてはまりません。
878 :
名無しさん@3周年 :2007/01/20(土) 00:11:00 ID:qE6Tww3W
>872 >875 よく彼の発言を読んでくださいよん。
http://life.2ch.net/psy/kako/1029/10296/1029606807.html > 218 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss :02/11/09 08:09
1 > MahAyAne " traidhAtukam vijNaptimAtram " iti vyavasthApyate
2 > 大乗では「〔われ、われが経験している〕三界とは認識された〔その内容〕に過ぎない」と言っている。
3 > とあり、「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と続きます。
4 > 外界の存在否定などしてしまったら、当時の論理学的水準でも相対論に陥ってしまうため、そんなバカな事はしません。
1. が iti でテキストを「捏造」した『唯識二十論自注』還梵の引用。2.が彼の「捏造」訳。
3.が問題の文章ですが『唯識二十論自注』には見あたらない「捏造」。既に指摘したようにほぼ逆の
tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro /
mAtram ity artha-pratiSedhArthaM /
「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである。
たぶんここを3.のように「捏造」したのでしょう。誤読したなら梵蔵漢の何れかが妄想レヴェル。
そして4.がつづくので、明らかに「外界の存在否定」せず、外界は直接認識されないが外界は存在すると、
述べているのは否定できないでしょう。
電波男は唯識が専門だそうだが、たった四行の中に誤読と妄想が盛りだくさん、
専門分野でこうなのだから、他は全く信用できないのがよく分かるでしょう。
879 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 00:13:17 ID:/N7h0M9A
880 :
名無しさん@3周年 :2007/01/20(土) 00:18:00 ID:qE6Tww3W
>856-858 いね、いね、いね〜! 貴方、行者だね。しかも結構いいんじゃない。 そうそう、無明という認識の誤りは夢のように >862 いや、仰るとおり。 「テキストを改変したら、単なる捏造だwww」その通り! 表現をそのように正しく改めました。 >863 ターラナータに限らず、仏伝でもそのような記述は沢山ありますよん。つまりお経を読めば出てくる話。 ただそのような記述は文献学では神格化として切り捨ててきただけの話。 仏教は凡夫の根本的認識の欠陥を、正しい認識を持ったブッダや聖者が直す方法を説いたものですが、 彼らは凡夫の基準・通俗科学で、仏教を判定する。それなら仏教は必要なく科学に従えばいいだけ。 文献学は、本来、テキストを復元し正確な読みを提示するまで、そこに現代の解釈の介入は許されない。 それは、多少意味あるが、仏教本来の意味からは遙かに低い。 ですが、ここでは文献学を用いる以外ないのです。なぜなら、物証以外信用しないだろうからです。 まあ、電波男やアホダラのように物証を突きつけられても、認めない輩もいるわけですが。 よろしくね!(ゆーとぴあ)
881 :
名無しさん@3周年 :2007/01/20(土) 00:20:19 ID:qE6Tww3W
>879 既述の如くiti の誤りも認められない方とは議論できませんので、あしからず。
882 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 01:58:31 ID:/N7h0M9A
>>881 もう既に、議論とかの話じゃないんですよ。
理解できないのかな?
弁護士とは相談を済ませたのかな?
仏教徒である以前に、人間として最低のことをしていると他人から言われたほうがよさそうですね。
非難中傷しておいて議論できないとは、腰抜けで卑怯者であるといわざるを得ません。
”iti”で揚げ足取る前に、あんたのしでかした学問的致命傷について何の返答も無いとは情けないですね。
仏教や文献学を述べる資格はないということです。
で、物証とはなんですかぁ?何度お聞きしてもお答えくださらないのですね。絶対に無理だと思うけど。。プゲラ。
883 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 02:15:15 ID:/N7h0M9A
ん、、、この「輪廻転生絶対君」の学問的見地やその人間性、品格、品位などがいかに下劣であるかを少しだけ見ようか。
論理的に破綻していることもよくわかるだろう。アリストテレスを持ち出して原典云々は笑ってしまったが。。
質問形式で列挙してみよう。
原始佛教 その19
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1160400642/634 より
【輪廻転生絶対君への質問001】
・「生れ変り以外の輪廻などない」と断言する根拠はなにか?
・「最近自演がばれた電波さんも」議論とは関係のないものを持ってくるのはなぜか?
・上記、自演がばれたとする根拠が曖昧なのに、なぜ断定するのか?
・それが論点先取であって、害悪の意思表明になっていることに気づかないのか?
・議論とは関係の無い、上記発言についての責任をもてるのか?
・「その珍説に従っているわけですが、和辻以来の珍説はもう終わりにしましょうよ」と言うが、ボクのどの発言が和辻氏と同じだと言うのか?
・また、珍説と言うのであれば、その根拠を提示し、論証すべきである
・並川孝儀氏、望月海慧氏などに対する「阿諛」などとする侮辱について、責任をもてるのか?
・「どうしようもないですね」と言うのなら、論証してからにすべきじゃないのか?
・「はっきりいいますが、「生れ変りとしての輪廻」を認めないなら、一切皆苦であることを承認する仏教徒は、今すぐ自殺するしかないでしょう」と結論付ける根拠はなにか?
・前提も論証もないその結論は承認しがたい。
これはほんの一部分。気が向いたら書き足していこう。
====
で、リアル裁判とリンクしていたスレッドでのいざこざを全く関係の無いこのスレッドに持ち込んだ行為については、謝罪があっても
許されるべきものではない。折りあるごとに追求していくのでそのつもりで。このこと一つで品性下劣だということは証明されていますが、
まだ自称仏教徒だと言い続けますか?そして人の質問からは「議論したくない」で逃げ切るのですか?あるいは完全無視して
遁走ですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB ヒンドゥー教における輪廻
ヒンドゥー教では、輪廻を教義の根幹とし、信心によって次の輪廻(来世)においてカーストが上がるといわれている。
輪廻は、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karuman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。
行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。
この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、
前の生の行為によって決定される。
仏教における輪廻
仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とした。
ただし輪廻の主体たる常住不変の我は因縁説と矛盾しており成立しない(無我)とする点で、他のインド伝統宗教と対立してきた。
仏教者や仏教研究者のなかには、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば社会の常識化した輪廻を
直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。
>>878 >3.は、悪意をもって読むのでなければ、捏造でもなんでもなくってこの文のパラフレーズでしょうね。
>3.が問題の文章ですが『唯識二十論自注』には見あたらない「捏造」。既に指摘したようにほぼ逆の
> tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro /
> mAtram ity artha-pratiSedhArthaM /
> 「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである。
外界が実在することを否定する文でしょうか、それとも認識には外界に実在する対象が必要であること
を否定する文なのでしょうか。この文からはどちらとも確定できないと思いますが。
don が認識とは無関係に外界の存在を意味するのか、それとも「対象」と訳してあるような「認識の対象」
に限定された意味であるのかを確定しできないなら、あなたの主張も電波男の主張も両方とも成り立つ
と思います。
また、dgag も同じことで、存在を無条件に否定するという意味なのか、「排除」の意味なのかで文意は異
なるのではありませんか?don が認識とは無関係に存在する外界の存在を意味し、dgag が無条件に
否定するという意味ならあなたの主張は成り立ち、don が認識対象に限定された意味なら電波男の解釈
が成り立つと思います。
ちらっと見ただけでは、有部の言う「識は境に依る」という立場の否定だと読んでしまいたくなりますが。
(つまり電波男のパラフレーズが正解ではないかと思いますが)。
886 :
名無しさん@3周年 :2007/01/20(土) 08:50:03 ID:qE6Tww3W
>885 すごく特殊なこと仰ってますが、一体誰が仰ってるのでしょうか? 私が知る限り貴方の説はインド、シナ、日本、チベットの伝統説と矛盾しますし、 文献学の分野でも、貴方のような説を唱えている方は知りませんが、どなたが言っているのでしょうか? 誰も言っていないのであれば、論証する必要があります。
888 :
856 :2007/01/20(土) 11:44:15 ID:ZmmunHKy
>仏教者や仏教研究者のなかには、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、 >インドに古代から信じられて半ば社会の常識化した輪廻を >直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。 これこそ、まさに近代科学の洗礼を受けた後の解釈。 つまり、アジアの仏教思想よりも西洋合理主義のほうが優位である という欧米人仏教学者(かれらはクリスチャンだもんね)の説に阿るもの。 ご指摘のように近代仏教学はブッダの奇跡もすべて単なる神話比喩として切り捨ててまいりました。 その結果、インテリの間では仏教は「単なる哲学」だと思われています。 しかし、例えば輪廻は存在しない、他の生存はないと断言し、あらゆる神話は無意味 と切り捨てるなら、ジャータカなぞ、味気ない、なんの価値も無いものになってしまいます。 多くの経典がそうです。 現に研究者の多くが無視しております。 明治初年、近代科学によって否定されつつあった須弥山思想を護法精神で 何とか辻褄を合わせようとした先人の努力を忘れるべきではない。 でも文献学なら学問版でやったほうが良いんじゃないでしょうか? ここは宗教版だから私は宗教的アプローチを取らせていただきます。
優位なメスと劣位なオスの歴史 生物:生活能力のあるメスが生活能力のない矮小なオスを養う関係は生態系にはいくらでもある それで、受精卵ができて、オスの精子が必要なくなる すると、どのオスも追い出されるか、殺されるか、 メスの体内に吸収されるかのいずれかの運命になる 人類:人間も古代ではメスが優位 一例:アマゾンは狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していた 女のみの部族であるため子孫を残すためには男が必要である このため時折捕虜として男を連れ帰ることがあった 捕虜となった男は全裸にされ手枷、足枷がつけられ子作りの道具として多数のアマゾンによって嬲られ精を搾られた その結果、すぐに発狂するか廃人同然となり、男性機能が役に立たなくなった者から順に絞め殺された 男児が生まれた場合は即、生き埋めにして殺すか、不具として奴隷とする 女児の場合はそのまま戦士に育てた こうしたメス優位な社会が古代ではごく当たり前であり、男は女に約5500万年間虐げられてきました メス優位社会は母なる大地(女神崇拝)、自然崇拝が基本です メス優位がオス優位?になったのは、キリストや仏陀や孔子などの男尊女卑思想登場前後からです オス優位?社会は父なる天を崇拝、文明マンセーが基本です ところが、昨今はフェミニスト(女尊男卑思想)によりまたメス優位となってきました それにつれてメス本来の凶悪性が出てきました(オス優位?な時代ではおとなしくしていただけ、殴られちゃうからね これらは、妻の夫殺しが年々ハイスピードで激増している事からも分かります 鬼嫁、熟年離婚、女だけ過剰な保護、貢ぐ君、不幸で悲惨な結婚生活、女子にのみ甘い判決、豪華な女子刑務所、金銭搾取、女優遇マスコミ、他多数 女の子は優しい?か弱い?(笑)メスは本来凶悪です。今後、更に男性差別が激しくなっていくでしょう。最終的にオスはメスの奴隷になります オス優位な仕事場も、今後はどんどんメスに奪われていくでしょう(3k労働や兵役は残してくれるでしょうが・・・ こうして地位も経済力も生活力もやる気も無くしたオスをメスがどのように扱うかは上記を見れば分かります。 男性諸君!恋愛(避妊SEX)は楽しみつつ、不幸で悲惨な結婚生活は回避し、約5500万年間の恨みを晴らそう!
890 :
856 :2007/01/20(土) 12:01:31 ID:ZmmunHKy
それにしても「輪廻は存在しないという説を非難」すると どうして「輪廻転生絶対君」になるのでしょう?これは「常見」のことですか? それなら「輪廻は存在しないと主張すれば即、断見という」おなじ過ちになりますよ? 確かに釈尊は輪廻を積極的にお説きにはなっていません。 しかしそれは常見、断見から離れるためでしょう。 私はそうしたprapancaを否定しているわけで・・・ 「ある」「ない」は決してdesanaじゃありませんよね? まあ無我説と輪廻説をどう折り合いつけるかが、インド仏教の歴史でもあり 研究の醍醐味でもありますけど・・・ これはもう行じて自分で確かめるしかない。
891 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/20(土) 12:03:18 ID:I/GSY7jd
迷子石 濱の真砂は尽くるとも 世にタルチュフの 種は尽きまじ
892 :
856 :2007/01/20(土) 12:06:33 ID:ZmmunHKy
長々駄文を書き連ね申し訳ありませんが 「修道」の立場から申しますと、他の有、生存がないと 四向四果も嘘になってしまい困りますね。 極七辺生とかどう解釈して良いやら・・・ アビダンマもこれじゃ成り立ちません。
893 :
864 :2007/01/20(土) 12:24:13 ID:HxoFQCcj
>>888 何回言ったらわかってもらえるのやら・・・
>業報輪廻転生などというような検証しようもない形而上問題にこころ患わせらることなく、
>修業を重ね、生命(DNA)あるがゆえの現実存苦から解脱しなさい、ということです。
だいたい、検証できない業報輪廻転生なんか問題にする事自体が迷妄の証拠。
無記とは拒否以上の拒否、問題にさえしない事だ。修業の妨げになり、本来目的を達成できないからだ。
いっそのこと、ヒンドゥに転向したら?インド国民の85%を占めるお馬鹿な
不可触民として歓迎されるだろう。
ブッダの教えは「現在の生存において」の苦を征服することだよ(増谷文雄『仏教の根本聖典』238頁)。
>>889 >ところが、昨今はフェミニスト(女尊男卑思想)によりまたメス優位となってきました
その時代に形成される世相は、バックボーンに生物学があります。
少子化社会ですと、種の保存のために女性優位の思想になりやすい。
人間の原型はメスです。
ですからオスは生物学的には弱い。
よって、オスの方が出生率は高く、死亡率も高い。
近年はどういうわけか、オスの出生率が低くなってきてるんです。
(メスの生誕が多い)
これは生物学でいうたら、どういう意味なのか?
わたくしはそれなりの分析はしちょりまふ。
895 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 13:08:50 ID:/N7h0M9A
輪廻に対する基本的立場を何度もご説明してきましたが、再度簡潔に申し上げます。 1 仏教で言う【輪廻】とはこの生存において、「おこない」とその「報いが」繰り返してとどめの無い生存(=苦)のことを言う 2 その連鎖を断ち切り、苦からの開放を目指すために、苦の原因を知り、おこなわないようにする 3 具体的には五戒を保つなど、止悪から始まり、執着の環境を作っていくためにも善いことをおこなう 4 これらは経験的に確認できるものであり、実践徳目でもある 5 これらに対して、確認も経験も出来ない創造神の存在や【輪廻転生】に関わる有無の断定に始まる執着は迷信として排除すべきである 6 また、世俗諦や勝義諦で原始仏教を考察し、それを文献学だという人もいるが、先入観だと考える 7 「輪廻転生が勝義諦では存在しないで、世俗諦として存在する」など飛躍も甚だしい 8 この三界における真実で、認識の領域あるいは明確な推論の元で検証されるものを超えたところに求めれば、迷妄となる 7 原始仏典で「釈尊が輪廻転生を解いているから輪廻転生がある」と無批判に受容するのなら、議論の必要は無くなる 8 釈尊の思想とされるものの中で、死後輪廻(輪廻転生)はつじつまが合わないから、その体系の中で解きほぐす作業が必要になる 10 つじつまが合わないというのも断定ではなく、蓋然性のあるものだから、まだまだ明らかにする必要があるだろう ==== あと、何回も説明しているのですが、「認識は外界を根拠にしない」というのが「外界の否定である」*と言う論点先取の上で 攻撃してくる輩がいますが、この論の飛躍による粘着をどうも意図してではなく、本当にわかっていないようですね。 多くの方がご指摘されているのに、有見によって目が曇っているのでしょうか。 *「外界の否定をするのが目的ではなく、認識の根拠として外界を主張するのは間違いであり、認識の根拠としての外界を遮止する」 と言う主張にたいしても「唯識は外界を認めるの言うのか!!」などの攻撃を加えます。輪廻転生を批判すると、「断見論者」という レッテルを貼るのと同じですね。さすがにアリストテレスを貼り付けて「原典だぁ」と言うだけの事はあります。
896 :
名無しさん@3周年 :2007/01/20(土) 14:40:06 ID:ZmmunHKy
>893 >無記とは拒否以上の拒否、問題にさえしない事だ。 >修業の妨げになり、本来目的を達成できないからだ。 毒矢の喩えは存じてますが、貴説を有難う。 一切知者である釈迦ムニブッタは生命をDNAであると喝破されていたのですね? >検証できない業報輪廻転生なんか 何によって検証できないと言うのでしょう?科学でしょうか? つまりあなたの意見は、科学によって仏教を検証し、検証できないものは仏教でない。 科学優位思想なんですね。了解しました。 でもレッテル貼りですか? 差別意識丸出しの意見ですね?ブッタはカーストを否定したというのに あなたはその否定さるべきカーストで人を愚弄する。 で、増谷大先生は今どうしてんですか?この生存を終えられて涅槃ですか?
897 :
856 :2007/01/20(土) 15:02:38 ID:ZmmunHKy
>896 ご意見頂戴いたしました。 やはりと申しますか、私の考えとも大体において一致しております。 まずは 1 仏教で言う【輪廻】とはこの生存において、「おこない」とその「報いが」繰り返してとどめの無い生存(=苦)のことを言う これも肯んずべきでありましょう。 なぜなら前世の記憶を持たない私にとって、個々の生存は「常に」最初で最後の一回きりだからです。 そして、これっきりと思いつつ、期せずして生存を繰り返すを輪廻と申します。 何事も「次があるさ」と思っていては成就しません。今生で悟ることこそ目的です。 2諦についてはあえて申しません。 大事なのは「有無の断定」からいかに逃れるか・・・あなたは否定からそこに いたろうとし、私は肯定からそこにいたろうとする。その違いです。 でも私は一切知者ではありませんからわずかばかりの自身の経験で 「確認も経験も出来ない」から「迷信、迷妄」だとは、おこがましくていえません。 どうも認識手段の違いがあるようですね。私は伝統的解釈に従い科学を持ち込むつもりは ありません。 しかし、欲界の住人が、どうやって三界の実存を認識し体験できるのでしょう?
898 :
893 :2007/01/20(土) 15:07:06 ID:HxoFQCcj
わたしが白丸=〇だよと言っても、
>>896 は私が黒三角=▲と言った、と捻じ曲げて
揚げ足取り風にトンチンカンに非難する。
生産的な成果が期待できないので以降
>>896 の無明生は無視します。
899 :
856 :2007/01/20(土) 15:23:02 ID:ZmmunHKy
誤解もあると思いますが、かくも「輪廻はある」と思っている私も 何も見もしない過去世や来世にこころ奪われているわけでは ありません。 私の本有は生苦と死苦にはさまれて、行くもかなわず戻るもかなわぬ状況ですから。 今生こそが唯一の解脱の機会だと思っております。 ただ私は認識手段としてsabdaを認める立場ですから・・・ この輪廻に浮沈しながらやっと縁あって人間となり縁あって仏教に出会えた。 このように考えるからこそ、今生がいとおしくかけがえのないものに思われます。 余談ですが、年間3万人を超す日本の自殺者 彼らは死ねば全ての苦しみから逃れられると思い自殺したのではないでしょうか? 彼らには「人生一回きりだから死ぬな」と言ってもかれらは人生を「一回きり」にしたくて 自殺するわけで・・・ 彼らに輪廻説が有効かどうかは疑問ですが、 かといって「一回きりの人生」だけでも救えない気がします。
900 :
856 :2007/01/20(土) 15:29:40 ID:ZmmunHKy
トンチンカン・・・ なんか懐かしい響きですね。 最後に ブッダの教えは「現在の生存において」の苦を征服することだよ その通りです。 でも今生で苦を乗り越えられなかったらどうするの?と言う話です。 負け犬ですか? 出家できない身障者、ライ病患者も負け犬、 苦しんで死になさいでしょうか?
901 :
856 :2007/01/20(土) 15:39:43 ID:ZmmunHKy
若くて元気な人は良いでしょう。 しかし病者や高齢者で自ら修行できない方 また死を目前にした人々、その方々に「今生のみ」と言うのは無慈悲な 気がします。 タイのエイズ患者のターミナルケアの現場を見たことがあります。 その場合も来世を説いていたと思います。 これは極論かもしれませんが、条件は様々 だからブッタは対機説法されたわけで8万4千の法門が存在する。
>>878 1 >外界の存在否定・・・はしません
2 >外界は存在すると、述べている
3 >「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである
「『外界は存在する』を否定する」
「『外界は存在しない』を否定する」・・・1の見解
「『外界は存在する』を肯定する」・・・2の見解
「『外界は存在しない』を肯定する」・・・3の見解
「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」は、
「外界を直接に認識できるわけではない」ということから、
「したがって、有部のように外界の実在を主張することはできない」という主旨となれば、
「『外界は存在する』を否定する」に相当するだろう。
物理学の分野においては、同一対象物が”状況”において存在する場合と消滅する場合がある。 動体観測と静体観測の違いで、いわゆるマクロの相対性理論です。 ミクロですと、可視・不可視の”状況”の違いで対象物が存在する場合と消滅する場合がある。 インド哲学は、この”状況”を第一義とするため、存在・非存在の二項には属さない。
904 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 09:23:28 ID:Gxpcey4u
出禁バカ 断末魔にも 嘘を吐き
905 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 10:17:07 ID:VX/gW2a9
割り込んで恐縮ですが、56億7千万年後に弥勒菩薩が降臨して衆生を済度する、というのがありますが、 それは太陽の余命と一致します 太陽は太陽系における「煩悩」の源と考えられます 偶然の一致なのでしょうか?
906 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 10:42:40 ID:Gxpcey4u
天文も 物理も蛇足 スレ違い
宇宙には陽因子と陰因子が等数あって、それが互いに合体すると因子は消滅します。 つまり数理的には宇宙が存在していないことになります。 しかしどういうわけか、計算上はありえない「物質世界がある」。 というのが、先ずもって謎なのであります。 この宇宙は、数理的には若干陽因子が陰因子より多いようです。→これが謎 で、そおいう理由により宇宙は誕生した。 と考えられております。 つまり宇宙の存在そのものは、アンバランスな状態である。→ユラギ というのは宇宙物理学においては定説であります。 恒星どころか、宇宙そのものが消滅する。 と考えられています。 この消滅した世界が、一応は安定した宇宙というのが定説です。 安定から→ビックバン→膨張→収縮→消滅→ビックバン・・・・→∞ と繰り返す。 まあ、マクロの観点でしたら、、あの世を語ちる場合じゃないですね(^^ゞ
908 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 11:20:10 ID:Gxpcey4u
出禁バカ スレ沙婆ともに 居場所なしwww
>太陽は太陽系における「煩悩」の源と考えられます >偶然の一致なのでしょうか? よくは分りませんが、 物理学が発展することにより、仏教にピタリ一致するとこがあります。
× この宇宙は、数理的には若干陽因子が陰因子より多いようです。→これが謎 〇 この宇宙は、数理的には陽因子だけが残存している状態。→これが謎
911 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 11:58:54 ID:Gxpcey4u
トンデモで 総身が腐乱 出禁バカwww 存在が 罪業と知れ 出禁バカ
912 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 12:06:06 ID:VX/gW2a9
太陽はやがて赤色矮星となり10億年以内に地球は燃え尽きるそうですね 輪廻転生があるとして、11億年後にはどこに生まれ変わったら良いのでしょうか? 地球以外に生まれ変わるのですか? そこはどこですか? そこもやがて「諸行無常」の法により朽ち果てるのではないですか? また別のどこかを探さなくてはならないのですか? それって苦しくありませんか?
913 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 12:22:51 ID:XaJ76sVO
仏教の宇宙論は、そんなに射程が狭くないですよ。 ビックバン以前から輪廻していることになっています。 宇宙も生命もすべて無常です。 別に自分の意志で、日本に生まれてきた訳ではないでしょう。 それと同じように行・カルマの力で生まれてしまうのです。 その輪廻の生き死にを続けること、すべてが苦でありので一切皆苦なんです。 その輪廻から抜け出すには行をして解脱するしかないのです。 まず輪廻にいるという現状認識を行い、その輪廻一切は苦であるとはっきり認識するのが苦諦です。 その苦がどのように縁起するかが集諦で、それらが消滅した状態だけが楽であるというのが滅諦です。 そこに至るための道を示すのが道諦です。
914 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/21(日) 12:27:35 ID:FxG6HALI
【認識の根拠について】 よく、「説一切有部などのバイバーシカは外界の存在を積極的に説く」と言う意見を聞きますが、 実在論として外界を説明したのではなく、認識の根拠として説明したものだとボクは考えます。 その意味で有部などは「素朴実在論」と言ってもよいのかもしれませんが、これは論主世親によって 批判されてしまいます。 〔素朴実在論として〕認識の根拠を外界を認めてしまえば、不合理なことが沢山生じてしまう と展開していきます。 【有無の両辺から脱却できない人】 輪廻転生について「有」を主張する人がいます。 そのことを不合理であると批判すると、「断見」であると断定した非難返しがきます。 「常見」論者にとっては、断見論者との両極しか見えないのでしょう。 検証、確認できないことや経験できないこと(科学分野を持ち出す必要は無い)について、 詮索を加えることや、判断を下すことは、材料が無いので不可能です。 だから言及を避けるのですが、このことは原始仏教の精神であるとボクは確信します。 これに対して、原始仏典に記述があることだけを根拠とし、輪廻転生を主張する人がいます。 そして、その常見を批判されると勝義諦と世俗諦という別判断基準を導入してきます。 原始仏教の文脈でこの二諦説という別基準を用いること自体、詭弁であり、不誠実さを表明していることに他ありません。 また、世俗諦は輪廻転生を肯定する常見であり、勝義諦で空として否定されるという珍説を披露してくれます 中観の入門もわかっていない発言を繰り返しているのですね。 辻先生や山口瑞鳳、並川先生などを偉そうに批判する資格はありません。 論理矛盾を指摘したときに、アリストテレスを紹介し、原典がどうのこうのというトンチンカンがこれ以上原始仏教スレを 荒らすことの無いように。チベット語スレでも論破されて怨霊化しているのでしょうかね。 怨霊退散させるのには、まだまだある質問項目、矛盾項目、道徳的有責性をも含めて箇条書き列挙すれば好いのかな? で、念のためですが、断見も常見と同じくボクは批判の対象とします。 この有無の両辺を遮することで原始仏教の本質を探れると確信しております。
915 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 12:29:12 ID:BKIw/zRw
>>908 お前はストーカーだ。少し増しなことを言う様にしろよ。
916 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 12:50:12 ID:XaJ76sVO
>914 というのが唯の断見なんですが、辞書でも経典でもみればすぐわかる。 常見というのはアートマンやブラフマン、原子やスポータなど永遠不滅の実体を想定することで輪廻とは関係ありません。 仏教の輪廻は、実体が輪廻するのではなく、縁起して輪廻するので実体は立てないのです。 まあ、仏教内部でもそれが理解できず輪廻を主体をいろいろ設定したのですが、 原始仏教や中観はそうで、主体は識や心相続などと仮設されて呼称されますが、 もちろん実体ではありません。
917 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/21(日) 13:41:30 ID:FxG6HALI
>>916 その常見の説明は中村元『佛教大辞典』P.756 を根拠にしているのですね?
輪廻転生に関して、肯定するのが常見、否定するのが断見であるということを批判するには材料不足ですよ。
常見は断見とセットでかたられ、それは輪廻転生についての議論になります。つまり、現世限りか、来世に転生
して行くかの議論です。雜阿含經では頻出です。
勿論、バラモン思想の梵我なども常見の一つですが、それのみを対象として考察し、限定するのは作業的に不適切です。
だから、実体云々はここでは関係ありません。また、検証、確認できない事柄を縁起して輪廻すると言うのは迷信に属します。
原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
を指摘したのですが。。。
以下、蛇足です。
中村元訳『真理のことば』410,411、解説部分
> 仏教は、われわれの陥り易い誤ったものの見方に常見と断見があるという。前者は、東洋によく見られるもので、
> 人は死んでも魂(私)は不滅であって、永劫回帰などをいう。一方、後者は、人の命はこの世限りのもので、死
> ねばすべては滅び、死後の世界はもちろん、因果の法則もないというものだ。因みに、もしあなたが虚心に自ら
> を顧みれば、自覚の有無はともかく、このどちらかに基づいて人生を歩んでいるはずだ。
> 最近では、臨死体験者の報告などから、人間は死んでも終わりではないのかと思い、常見に飛び付く人々がいる。
> しかし、殆どの人は肉体が滅びればすべては終わりという断見に傾いていよう。常見を採る人々は輪廻転生を言
> い、死後の世界を説くことが人間の秘密を解き明かすかのように錯覚し、一方、断見は、私利私欲に走る世相が
> よく表しているように、浅はかな現世至上主義になり易い。しかし釈尊は、どちらの立場もとらないというので、
> 現世を望まず、来世を望まずと言ったのだ。なぜなら、現世と来世、いずれも超えた生と死の彼方にある「不死
> の境地」を目指しているのが仏教であり、そこに到達した人を彼はバラモンと呼ぶ。
>913 >ビックバン以前から輪廻していることになっています。 ビックバン以前というのは、時空がない。ということです。 したがって「輪廻している」というような時間経過そのものもない。 ってことです。 空間と時間は切り離せないのです。
919 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 14:44:40 ID:kmvWDYrX
まもなく梅が咲き、桜が咲く。 桜はいずれ散る、だから桜のような形あるものに執着してはいけない、 これがブッダのの無常=無我=縁起だ。 日本では、桜は散るからこそ尊くいとおしいと論理構成が逆転してしまう。 「空」による否定を通じた世界の甦りの論理は、 日本で、はかない現実存のそのままでの肯定へと横滑りしてしまっている。 そのあいだで、揺れ動き、迷いの花園を楽しむ俺。いろんな奴がいて、面白い。 輪廻は肉体がある以上、経験できないから、くたばった後のお楽しみということにしよう。 人生は、謎があるから面白い。全部わかったら、退屈やろね。
920 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 15:12:22 ID:Hqjq3Dzt
>>917 >釈尊は、どちらの立場もとらないというので、
> 現世を望まず、来世を望まずと言ったのだ。
結局、来世があるないとかは語ってないことか。
921 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 16:31:37 ID:VX/gW2a9
【十四無記】異教徒の提出した形而上学的な問題に対して、釈尊がイエスともノーとも答えなかった十四の問題点。 「世界は(1)常であるか、 (2)無常であるか、 (3)常かつ無常であるか、 (4)常でも無常でもないか、 これと「諸行無常」は矛盾するのですか?しないのですか? 「世界」は「諸行」に含まれないのですか?
>「世界」は「諸行」に含まれないのですか? 「諸行」というのは一切のことですから、一切は世界のことですよね。 つまり世界というのは対象化できない。 一切は自分のことですから。 これが世界でもある。 つまり釈尊は、すでに相対性理論の域にまで達観しちゃってる訳です。 当時の民衆に相対性理論が理解できますか? 物理の専門家でも、相対性理論は難しい。つうのに・・・
923 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:14:14 ID:q+aNCh/3
>887 どこが特殊なのって >885の言い訳こじつけ全体がそうですが、特に主張と思われる 「つまり電波男のパラフレーズが正解ではないかと思いますが」ですね。 ということは「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」が、 tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro / を噛み砕いて分かり易く言い換えたということですね。 それは先ずテキストからしてありえません。これに関しては全テキストが一致しているので玄奘訳でみてみます。 1. 安立大乗三界唯識。= 主張:大乗では三界は識のみであると設定する。 2. 以契經説三界唯心。= 根拠:なぜなら『十地経』で「三界は心のみ」であると説かれるから。 3. 心意識了名之差別。此中説心意兼心所。= 注釈:『十地経』の「心」も識も同じと言って経証を補強。 4. 唯遮外境不遣相應。= 注釈:「のみ」というのは外界対象を否定するためである。 これを「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と読み込んでは、 1.の主張も2.の根拠も台無しである。ありえない捏造読みであるとしか考えられない。 そして「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」では経量部の見解であって、 唯識の特性とは私が知る限りありえない。以下、インド、シナ、日本、チベット、現代文献学者が みな一致して唯識は外界の存在を認めないとしていることを引用してみます。
924 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:14:56 ID:q+aNCh/3
アドヴァヤヴァジュラ『タットヴァラトナーヴァリー』宇井伯寿訳『大乗仏教の研究』33-4 経量部は外境を認めるが、唯識は外境を認めないことが説かれている。 モークシャーカラグプタ『論理のことば』梶山雄一訳135-6 説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。 経量部の意見によれば、これらの原子はそれ自身の形象を投げ込むだけのものである。 ところが、唯識派の思想では、これらの原子も存在しない。(外界は存在しない) 基『成唯識論述記』T43n1830_p0230b 名成唯識。故此即以唯識爲宗。識有非空。境無非有。以爲宗也。 凝然『八宗綱要』鎌田茂雄訳256 此の宗の本意は、只唯識を明す。一切の諸法は皆是れ唯識にして、都べて一法として心外にあることなし。 クンチョク・ジクメ・ワンポ『ドゥプター・リンポチェ・テンワ』ダラムサラ本45 phyi don khas mi len zhing gzhan dbang bden grub tu 'dod pa'i nang pa'i grub mtha' smra ba'i gang zag te/ sems tsam pa'i mtshan nyid do// 外界対象を認めず依他実在と主張する仏教宗義を述べる人が、唯識者の定義である。
925 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:16:02 ID:q+aNCh/3
オットー・シュトラウス『インド哲学』293 仏教的観念論者= 唯識者 仏教的観念論者の見解によれば、ブッダは若干の弟子たちの性向を快く受け入れるために、外界の実在 について語っただけであり、実際にはただある蘊、すなわち識が存在するにすぎないというのが、 ブッダの真意であった。認識手段、認識対象および認識の結果を包括する過程は純粋に精神的であり、 完全に内面的である。外界は存在しない。 ヤン・ゴンタ『インド思想史』中公文庫125 唯識派が外界に客観的実在性を認めず、 中村元『インド思想史』第二版175 万有は識によって顕現したものにほかならぬといって、唯識の説を主張する。 あたかも夢の中で経験することと同様に、外界の対象は実在しないものであるが、 識の分別のはたらきによって仮に現し出されたものである。 平川彰『インド仏教史』下巻120 唯識の「唯」とは、凡夫が実在と考えている「認識の対象」を否定する意味で、「ただ識のみ」という のである。外界の対象であると思っているものが、実には識(心)に他ならないと悟るのが唯識である。
926 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:19:03 ID:q+aNCh/3
高崎直道 他『インド思想史』83 瑜伽行派の、外界の諸対象は空で、認識主体たる心のみが実有であるという説 経量部の外界の諸対象はただ推知されうるものとみる説 沖和史「唯識」『岩波講座 東洋思想 インド仏教1』288 唯識は「すべてこの世界はただ心像のみにすぎない」ことを意味することばである。 つまり、あらゆる存在は認識された姿として立ち現れているだけであって、 実体的に存在する何かが認識された姿の背後にあると予想してはならない、 ということがこのことばによって主張されている。 服部正明『認識と超越』角川文庫版76以下 外界実在論批判として長い論が展開されている。 すべて一致しています。 特に沖和史の説き方が、電波男説の全く逆を述べていることがハッキリ分かります。 そしてモークシャーカラグプタ、高崎直道により電波説が経量部に一致する珍説だと分かるでしょう。 これでも電波珍説、唯識有境説を支持する人はいるんでしょうか? >885さん、証拠だしてみてください! またチベット語 「二表現位相存在語彙」君や 「補語は形容詞」君みたいに強弁した結果、間違いも認めず失踪でしょうか? また>872 >875 のお二人は、電波男の「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」が 外界存在を経量部みたいに認めているということに納得していただけたのでしょうか?
927 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:34:03 ID:q+aNCh/3
>895 iti 誤りを認めないのか? ここまで無茶苦茶なの論証されて、仲間以外は信じないだろう。 相変わらすハッタリ主張のみで根拠なしだな。 ちゃんと学問やってないだろ、主張するには論証手続きがいる、証拠がいるんだよん。 >914 > よく、「説一切有部などのバイバーシカは外界の存在を積極的に説く」と言う意見を聞きますが、 > 実在論として外界を説明したのではなく、認識の根拠として説明したものだとボクは考えます。 考えるのは勝手だが、これまた論証手続きがいるんだよ。自分の珍説に合わせて勝手に読み替えないように。 ここは所信表明、信仰告白を聞く場ではないんです。文献的裏付けがない勝手な常識への迎合は止めて。 私は、原始仏教解釈に二諦を用いたことはないよ。中観派が輪廻否定という珍説の誤解を解く場合に テクストに添って勝義諦では輪廻に限らず一切法が空、世俗諦では輪廻も含む一切法が縁起するというだけ。 私は、 辻先生を批判したことはないよ。尊敬してあまりある日本のインド学を変えた50年進んでいた先生でしょう。 辻先生の諸著は素晴らしく、賞賛するのみ。 山口瑞鳳はチベット語スレで明解に論証した。あれはここで『十地経』の混入と並んで結構よくできた。 山口文法は酷い、細部は合ってるが、根本「二表現位相」が間違ってる。
928 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:34:51 ID:q+aNCh/3
並川さんの可笑しさは、経典を最古層と古層に分け、最古層より古層が輪廻に対して積極的だということから、 釈尊が最古層より輪廻に対して消極的で「あくまで現世に力点を置くという態度を強く示していた のではないかと推定できる」としてるが、その根拠である最古層が輪廻に対して否定的表現をとる から消極的というのは、他生や再生が望まれないことを指していること。 なぜなら他生や再生、つまり輪廻を厭う、否定的であるというのは通仏教的なものであり、 特殊な表現ではなく、古層が輪廻に対して積極的というのは、輪廻の中で良い生まれを望むことを 指している。これも特殊な表現ではなく通仏教的なもの。これは生天と言われ解脱に向かわない人への 方便としての教えで本来、否定されますが、悪趣に行くよりはマシといった内容。 つまり「資料に対して一貫した姿勢で臨み、それに基づく研究が徹底され」ているのではなく、 釈尊は「現世に力点を置く」としたいために意図的に最古層が輪廻に対して消極的だと解釈しているのです。 このような研究はまったく支持できない。 チベット語スレでも論破されたって、それはありえないだろう「二表現位相存在語彙」君は、 私に感謝すべきだよ。なんたって「二表現位相存在語彙」を用いてインド・テキストを分析しようとしてたんだから。 >917 原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。 >530 識は出てくるよ。相変わらず。ウソばっかりだな。 私がこのように書いているのは君がウソばっかり、自分の面子や営業のために書いているからだよ。 ほら、またウソに欺されてる人が出てる。
929 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 07:46:40 ID:Raj/C9m/
似非学問的手続き、ご苦労さん。 論理的手続きがすっ飛ばされているから、あんたの主張はすべてアウトだね。 まだ「外界の存在を否定」と「外界を認識の根拠とすることの否定」の区別が出来ていない。 原典云々と言うのであれば、後世の解釈を援用(まちがっているが)しないで、原文で示してみたら?
930 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 09:54:16 ID:hZPDoUdT
>926 >検証、確認できないことや経験できないこと(科学分野を持ち出す必要は無い)について、 >詮索を加えることや、判断を下すことは、材料が無いので不可能です。 >また、検証、確認できない事柄を縁起して輪廻すると言うのは迷信に属します。 この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか? 電波さん自身ですか? どうも議論がかみ合いませんね?物指しが違うのでしょうか? 仏教では「正しい知は正しい認識手段によってのみ得られる」とします。 あなたの言うところの検証云々はいかなる認識手段によるものでしょうか? 因明はご存知ですよね? >原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと >を指摘したのですが。。。 これは誤謬ですね。原始仏教だけでなく仏教史全体の流れを把握してみてください。
931 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:09:00 ID:hZPDoUdT
>輪廻転生について「有」を主張する人がいます。 >そのことを不合理であると批判すると、「断見」であると断定した非難返しがきます。 >「常見」論者にとっては、断見論者との両極しか見えないのでしょう。 まさにその通りです。そしてあなたも「有無の二極を離れる」と言いながらも 同じ過ちを繰り返す。 いかにこの二辺を超えることが難しいことか >輪廻転生について「無」を主張する人がいます。 >そのことを不合理であると批判すると、「常見」であると断定した非難返しがきます。 >「断見」論者にとっては、常見論者との両極しか見えないのでしょう。 あなたは、輪廻が有るという我々も「輪廻を厭うていること」を意図的に無視してますね? だれも輪廻を肯定的に捉えている人なんて誰もいないことは知ってますよね? もし、あなたが本当に「有無の二辺」を離れているならば為すべき行動は ただ一つです。 でも、それが出来ないところが、この2ちゃんに住するものたちの性、業www でもまあ、本気で解脱するつもりは誰もいないでしょうから、 ここは文献学的探求に限定しましょう。
932 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:14:50 ID:hZPDoUdT
>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと >を指摘したのですが。。。 これは誤謬ですね。原始仏教だけでなく仏教史全体の流れを把握してみてください。 これはわたしの誤謬でした。確かにアゴンの捏造です。 失礼しました。
933 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 10:23:48 ID:vWCinLiX
そもそも「厭い」却下すべきなのは、あらゆる循環論・不当前提・複問虚偽(→多問虚偽)の類です。
934 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:24:57 ID:wux6YpV1
電波男がいう印象操作、論点先取、なんとか虚偽すべて自分がやっている。 ハッタリと自演と嘘と強弁とほんのちょっとの不正確な専門用語、 それが電波男クオリティ! 七誌の電波擁護は自演として、アホダラは他人のようだからなんでこんなヤツ擁護するんだ。 それと輪廻を認めない人たちは、それじゃ仏教必要ないでしょう。 現代の科学と倫理に従って生きればいいじゃない。仏教はあなた達には関係ないよ。
935 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:27:47 ID:hZPDoUdT
私は輪廻は有ると思うが、同時に無自性であり実体がないとも 思っております。 如来は如来ならざるが故に如来と呼ばれる。 即非の理論じゃなくてね。
936 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 10:47:21 ID:vWCinLiX
ちなみにドグマタルチュフ・紐付き神学屋、宗義ゴロ・セクト奴婢の類もお払い箱・門前払いにすべきで、決して 敷居を跨がさぬよう要注意です。
937 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:50:24 ID:wux6YpV1
電波男と阿呆陀羅經がいなくなった方がいいと思うが
>>934 >それと輪廻を認めない人たちは、それじゃ仏教必要ないでしょう。
あのね、それじゃ〜わたくしが正直にカキコします。
人生にはいろんなことがありますから、
わたくしは仏教で随分救われてます。
今日、救われています。→Tommorow is Another day
これで充分かと思います。
しかし、君達は何で死んだ先のことを心配するのか分らんのです。
つまり現世は住みにくい。
ってことですか?
だから来世とかに夢を賭けるとか?
あまり心配なら、阿弥陀如来に全てオマカセするのがベターです。→南無阿弥陀仏
これなら心配だけは消える。
ひとつの「生きる智慧」です。
939 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 12:04:01 ID:9FNtEcA0
行くところ すべて地獄の 出禁バカwww
940 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 12:18:46 ID:wux6YpV1
>>938 それって別に仏教じゃなくてもいいんじゃないですか?
私は〜に救われた。〜が偶然、仏教だったわけで。
941 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 12:54:24 ID:Raj/C9m/
>>930 議論が噛みあわないといわれても、貴方が誰だか知らないし、これまでどこでお話したかも覚えがありません。
>この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか?
主語はボクをはじめとする大勢の人。輪廻転生を如実に経験できると主張する特殊な人は除外します。
なぜなら、一般に輪廻転生を事実として提示することに成功していないから。つまり、検証できないことですね。
で、貴方の言う、正しい認識手段とは何ですか?それによって、輪廻転生が客観的に確認できるのですか?
> あなたは、輪廻が有るという我々も「輪廻を厭うていること」を意図的に無視してますね?
> だれも輪廻を肯定的に捉えている人なんて誰もいないことは知ってますよね?
輪廻を厭うことと、輪廻転生を否定することとは違うことがらです。
同時に輪廻を甘んじることと、輪廻転生を肯定することとは違うと考えます。
おこないによって、様々な生存の繰り返しを余儀なくされている苦しみを厭わない人はこのスレッドには居ないでしょう。
その生存のあり方が、死を機軸として実際に転生すると考えるか、日常のあり方として考えるかの違いがあるだけですね。
>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
>を指摘したのですが。。。
このことについてのご訂正には敬意を表します。誰かと違って一切の間違いを認めず、人に間違いの謝罪を迫り続け、
ボロばかり出す人とは別人ですね。これは過去ログをあたられたのでしょうか?
942 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 13:07:28 ID:Raj/C9m/
>>928 > 私がこのように書いているのは君がウソばっかり、自分の面子や営業のために書いているからだよ。
> ほら、またウソに欺されてる人が出てる。
心して返事しろ。営業のため?証拠を出しなさい。その阿含宗の捏造は文献で指摘済みなのですよ。
精査してからコメントしろ。
>>940 自灯明・法灯明だから、仏教というのは「回答」ではなくて「方法」。
この方法として”計らいを捨てる”という手段こそ(阿弥陀信仰など)
いわゆり仏教のテーゼかと思いますね。
(釈尊の我見と信仰を離れる)
阿弥陀信仰は、求める信仰ではなく捨てる信仰です。
仏教じゃなくても別にいいかと思います。
釈尊は、贅沢とか苦行とか両極を経験して初めて中道を悟ったわけですから、
なるべくだったら、やはり現世においては思い残しがないことが一番いいかと思います。
さすれば来世などに迷うこともあるまい。
一休は、いい坊主でしたね)^o^(
944 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 14:32:33 ID:kFj3VtGw
十四無記もたとえ話に過ぎず、論争に暇と労力をかけるより、他にやるべきことがあるだろう衆生たちよ、という 釈尊の有難き警鐘だととらえるのはいかがでしょうか?
945 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 14:48:40 ID:wux6YpV1
>942 自分が文献を精査してからコメントすべきじゃない? >943 レーベンのジャータカ的解釈(笑)ってご存知? 仏教徒は釈尊が過去世の功徳によって悟ったと考えてますよ。 >944 おっしゃるとおりです。ただあまりにウソばっかの電波男はひどいでしょ。
946 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 14:55:07 ID:vWCinLiX
そういえば、 佛典を「ドイツ観念論(シェリングあたり)」なる我論の一種にこと寄せるトンデモ説があったようですな(苦笑)。
947 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 15:44:00 ID:Raj/C9m/
>>923 あんまりだから少し説明しておこう。
> それは先ずテキストからしてありえません。これに関しては全テキストが一致しているので玄奘訳でみてみます。
また詭弁ですか?唯識二十論では外界の存在を否定しているということは記述されていないと主張する文脈であって、
そのことが記述されていると主張しているのではありません。
> 1. 安立大乗三界唯識。= 主張:大乗では三界は識のみであると設定する。
> 2. 以契經説三界唯心。= 根拠:なぜなら『十地経』で「三界は心のみ」であると説かれるから。
> 3. 心意識了名之差別。此中説心意兼心所。= 注釈:『十地経』の「心」も識も同じと言って経証を補強。
> 4. 唯遮外境不遣相應。= 注釈:「のみ」というのは外界対象を否定するためである。
もう滅茶苦茶ですね。
1 三界とは認識内容そのものだけであり、それ以外には存在しない
2 三界唯心
3 三界唯心という「心」とは「心所(精神作用)」を含んだものとして意図されており、心意識〔というこれまでの心の異門に加え、これ〕
と認識内容である表の4つのことである
4 ヴィニータ・デーヴァの注釈ですか?そこに外界の存在が否定されているとは記述されているのですか?ボクの眼が悪いのかな?w
> これを「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と読み込んでは、
> 1.の主張も2.の根拠も台無しである。ありえない捏造読みであるとしか考えられない。
これは先ほど説明済み。外界の存在を否定したという珍説にたいする言論。
上記、3について、あんたは文献から何も読み込めていない。4の注釈も捏造。いい加減にしてくれないかな。。
948 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 15:53:15 ID:wux6YpV1
>>947 ぷっ。ついでに原始経典では輪廻の主体として識を説かないことも説明したら。
949 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 15:56:20 ID:Raj/C9m/
>>924 > モークシャーカラグプタ『論理のことば』梶山雄一訳135-6
> 説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。
> 経量部の意見によれば、これらの原子はそれ自身の形象を投げ込むだけのものである。
> ところが、唯識派の思想では、これらの原子も存在しない。(外界は存在しない)
唯識二十論とほぼ変わらない内容ですが、外界は存在しないなど()付きで捏造しないでくれ。
> 有部などの極微説が妥当で、それが認識根拠となるのなら、不合理が生じる。認識の根拠と言うのであれば、
> 極微と定義づけた以上、それ以上分割されないはずなのに、6面6方向という分割要素があるじゃないか。
> よって、外界が認識の根拠であるというのは不合理であり、否定される。
というのが唯識二十論の内容だろ。「説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。」←を否定してるんだよ。
解らないかな。。
> 基『成唯識論述記』T43n1830_p0230b
> 名成唯識。故此即以唯識爲宗。識有非空。境無非有。以爲宗也。
それが何か?護法流であり、「識有非空」などという曖昧な記述の内容を根拠にする理由は?
> 凝然『八宗綱要』鎌田茂雄訳256
> 此の宗の本意は、只唯識を明す。一切の諸法は皆是れ唯識にして、都べて一法として心外にあることなし。
その通りですが?批判になっていない。外界の存在を否定していますか?一切諸法は「表」を心に取り入れることにより、
心になってしまいますよ。
> クンチョク・ジクメ・ワンポ『ドゥプター・リンポチェ・テンワ』ダラムサラ本45
> phyi don khas mi len zhing gzhan dbang bden grub tu 'dod pa'i nang pa'i grub mtha' smra ba'i gang zag te/
> sems tsam pa'i mtshan nyid do//
> 外界対象を認めず依他実在と主張する仏教宗義を述べる人が、唯識者の定義である。
「外界に対象を認めず」その通りですね。なにか問題でも?
あんたの瑕疵は論理的な手続きを経ていないことです。
950 :
930 :2007/01/22(月) 16:05:34 ID:hZPDoUdT
意見がかみ合わない、つまり物指しが違うと思い、質問してみましたが さて >この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか? 主語はボクをはじめとする大勢の人。 輪廻転生を如実に経験できると主張する特殊な人は除外します。 主語には大勢の人が含まれるのですね? つまり、一般論、常識と言う奴ですね。 その常識は一体何を根拠にしているのでしょう?どこからもたらされるのでしょうか? 常識は時代、地域によって変化します。正に無常です。 ブッタの生きた時代と現代日本では無論違います。 したがって単なる日常経験、常識、一般論は「正しい認識手段(pramana)」たりえません。
951 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:06:07 ID:Raj/C9m/
>>925 > オットー・シュトラウス『インド哲学』293 仏教的観念論者= 唯識者
> 仏教的観念論者の見解によれば、ブッダは若干の弟子たちの性向を快く受け入れるために、外界の実在
> について語っただけであり、実際にはただある蘊、すなわち識が存在するにすぎないというのが、
> ブッダの真意であった。認識手段、認識対象および認識の結果を包括する過程は純粋に精神的であり、
> 完全に内面的である。外界は存在しない。
唯識二十論との関係は?ま、好いでしょう。これも問題ありませんね。外界の存在を否定していますか?
> ヤン・ゴンタ『インド思想史』中公文庫125
> 唯識派が外界に客観的実在性を認めず、
これもそうですね。外界に客観的実在性は認められません。認識の根拠として否定するのですから。
で、外界の存在を否定していますか?
> 中村元『インド思想史』第二版175
> 万有は識によって顕現したものにほかならぬといって、唯識の説を主張する。
> あたかも夢の中で経験することと同様に、外界の対象は実在しないものであるが、
> 識の分別のはたらきによって仮に現し出されたものである。
そうですよ。
viJnaptimAtram eva-idam artha-avabhAsanAt /1ab/
そのままじゃん。なにか問題でも?外界の存在を否定してるだけじゃないでしょ?
認識内容が外界の存在であると思い込むことを否定している。以下も同じ
> 平川彰『インド仏教史』下巻120
> 唯識の「唯」とは、凡夫が実在と考えている「認識の対象」を否定する意味で、「ただ識のみ」という
> のである。外界の対象であると思っているものが、実には識(心)に他ならないと悟るのが唯識である。
>>945 >レーベンのジャータカ的解釈(笑)ってご存知?
ドイツ観念論で十無記を解釈するのは簡単です。
しかしながら論理(つまり話しの筋道)が全くインド哲学とは違います。
観念論は先ず経験則から論を立てます。→観念第一義
仏教というのは、この観念破壊なのであります。→簡単にいうなら。
数十年、同じ経験を積んできまして、ある日失敗をしたとする。
この失敗を契機として新たな発見をする。
(キューリー夫人などの発見もそうです、経験というより偶然)
なにかの非日常的な事象により発見する場合が多い。
仏教の悟りとは、この非日常に依存する。
953 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:09:25 ID:Raj/C9m/
>>926 > 高崎直道 他『インド思想史』83
> 瑜伽行派の、外界の諸対象は空で、認識主体たる心のみが実有であるという説
> 経量部の外界の諸対象はただ推知されうるものとみる説
それが何か?外界の対象が推知されうるのもだと唯識二十論に関してボクが主張しましたか?
以下の沖先生や服部先生も同じ。
> 特に沖和史の説き方が、電波男説の全く逆を述べていることがハッキリ分かります。
読解力と論理能力の無さを証明してしまいましたね。
954 :
930 :2007/01/22(月) 16:13:43 ID:hZPDoUdT
正しい認識手段とは仏教では直接知覚と推論の二つです。 さて、あなたは「輪廻の否定」の根拠として「検証、確認できない」こと を揚げておりますが、これは正しくない。 なぜならブッタは「一切知者」であるから。そういう意味でもブッタは特殊な人ですね。 ブッタは輪廻を如実に知見して「無記」とされました。 私はブッタのように輪廻を直接知覚することはできませんが 推論は出来ます。 例えばダルマキールティは『プラマーナヴァールッティカ』 第四章でローカーヤタを相手に心相続を論証しています。 それにしても「輪廻の否定」とは「輪廻の無」のことではないのですね?
955 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:17:11 ID:Raj/C9m/
>>950 そうですよ。一般論、常識です。その意味は客観性があり、再生産、つまり再現性可能ということです。
万人に示すべき真理として提示するのなら、これらが必要だということですね。出来ないのであれば、
釈尊在世と同じ、迷信として遮止されます。
ところで、あなたのいう「正しい認識手段」とは何ですか?それを示さない限り話は進みませんよ。
因みに、私も行中には身体浮遊感をはじめ、佛菩薩をリアルに観じ、人の心が手に取るように理解でき、
思った場所、時代の風景や人の有様をリアルに見ることが出来、穢れたものから完全に開放される方途を見出し、
自分や他人の生まれ変わり、死に変わりを完全に知ることができました、できると思いました。
しかし、それらはすべて幻覚や思い込み、妄想だったのです。
もしかして、貴方はその域から脱していないのでは?
956 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:25:07 ID:Raj/C9m/
>>954 「輪廻の否定」とは輪廻転生が実際にリアルに存在し、業報輪廻が跨り、それに制約されているという考え方の否定です。
今おこなった悪業が結果苦として生じる。そしてその複合が終わりなき輪廻として繰り返され、心安穏になることが無い
と言う意味の輪廻は妥当だと考えます。
だからこの意味と分けるために輪廻と輪廻転生とを分けてボクは言ってるのですが、この生は死を以って断滅するという考えも
否定します。検証、確認できないことに対して回答を与えること自体、愚かなことだと考えますからね。
だから、「輪廻転生は無い」とも言いません。決して不可知論ではありませんよ。検証、確認などの手続きに耐えうるものは
認めざるを得ませんからね。検証の中には勿論推論も含まれますよ。
観念論は、現状認識の延長で十無記などを考えますが、 例えば、有無の二項のどちらかを選択しても論理矛盾はおこります。 論理的には無理だから、 だから十無記なんだ。ってのは稚拙な論法ですね。 十無記をこのように理解している人は多いですが、 仏教は、もっと深いですよ。
958 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 17:10:54 ID:Raj/C9m/
経量部、経量部と言うが、経量部でも様々な考えがあったことは、特に『成業論』などを読めばよくわかる。 一概に、「推論によって外界の存在を実有として認める」と定義付けるのは乱暴すぎる。 事実、一切種子を阿羅耶識として主張する世親が「自分はある経量部の人だ」と言ってるのだから。 偉そうに文献学や学問だと言うのなら、もう少し精度を上げて欲しいな。 「外界の存在を否定しているのではない」→「外界の存在を肯定している」と短絡する論理脳では無理かもしれんが。。
959 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2007/01/22(月) 17:15:14 ID:TLCHNJR5
>>921 いい着眼点でしたね。
「世界は常であるか」や「諸行無常」のポイントは「世界」や「諸行」の方ではなく、
「無常」の方にあると思います。その「常」という見方を否定した「無」の部分。
言いかえると、「世界は常住である」という見解に対して、「そうではない」と言うものです。
「諸行は常住である」に対しても同様に「そうではない」と。
このようにして、四句分別のすべてに対して「そうではない」というものです。
これで、「世界は常であるか」に対する答え方と「諸行無常」とが矛盾しないことが
分かると思います。
三法印のような定型句を釈尊が使ったのかどうか少し疑問。 とくに「諸行は」とか「諸法は」という括り方をしてたのか。 単に「色は・・・」「受は・・・」しか言わなかったのじゃないかなと。
>>961 三法印は、当時の思想(バラモン教)のアンチテーゼとして、あえて強調したものかと思いますね。
釈尊成道はまさに画期的なものだったんでしょう。
今でいうコペルニクス的大転換というべきですね。
ガリレオが、地球は太陽を廻っている。などと言うようなもんです。
963 :
名無しさん@3周年 :
2007/01/22(月) 21:45:47 ID:q+aNCh/3 >932 原始仏教で輪廻の主体が識とされることはありますよ。既にに指摘済み>530 より詳しく説きましょう「病あつきヴァッカリ」です。中公の世界の名著1、451-456 状況を要約します。病の床についたヴァッカリ尊者のもとへ釈尊がいらして、語りかけます。 釈尊:悩みや後悔がないか? ヴァッカリ尊者:ある 釈尊:では戒律は清浄だったか? ヴァッカリ尊者:清浄 釈尊:清浄なら悩みや後悔などないではないか! ヴァッカリ尊者:釈尊にお目にかかる体力がないこと 以下引用、 「ヴァッカリよ、もうそういうことはよしなさい。おまえが、(わたしのやがては)腐敗してゆく この肉身を見たからといって、それがいったい何になろう。ヴァッカリよ、ものごとの理法を 正しく見る者は、わたしを見るのであり、わたしを見る者は、ものごとの理法を正しく見ること になるのです。ヴァッカリよ、ものごとの理法を正しく見ている者は、(結局その理法にほかな らない、この)わたしを見ていることになり、わたしを見ている者は、(結局のところ)もの ごとの理法を正しく見ていることになるからです。 ヴァッカリよ、ものは、永遠に不変のものなのか、それとも無常なのか、 おまえはこのことをどう考えるか」 「師よ、無常です」 「感受、想念、因果的存在、心は永遠に不変なのか、それとも無常なのか」 「師よ、(それらはすべて)無常なものです」 「こういうわけだから、このように(すべてのものが無常であることを)みて、再びこの(苦の) 世界に生をうけることはないと知るのである」 この後ヴァッカリ尊者は無常を覚り、自殺する。すると悪魔がヴァッカリ尊者の魂を探すが、 魂は止まることなく涅槃したことを釈尊がみなに告げる。