914 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/21(日) 12:27:35 ID:FxG6HALI
【認識の根拠について】 よく、「説一切有部などのバイバーシカは外界の存在を積極的に説く」と言う意見を聞きますが、 実在論として外界を説明したのではなく、認識の根拠として説明したものだとボクは考えます。 その意味で有部などは「素朴実在論」と言ってもよいのかもしれませんが、これは論主世親によって 批判されてしまいます。 〔素朴実在論として〕認識の根拠を外界を認めてしまえば、不合理なことが沢山生じてしまう と展開していきます。 【有無の両辺から脱却できない人】 輪廻転生について「有」を主張する人がいます。 そのことを不合理であると批判すると、「断見」であると断定した非難返しがきます。 「常見」論者にとっては、断見論者との両極しか見えないのでしょう。 検証、確認できないことや経験できないこと(科学分野を持ち出す必要は無い)について、 詮索を加えることや、判断を下すことは、材料が無いので不可能です。 だから言及を避けるのですが、このことは原始仏教の精神であるとボクは確信します。 これに対して、原始仏典に記述があることだけを根拠とし、輪廻転生を主張する人がいます。 そして、その常見を批判されると勝義諦と世俗諦という別判断基準を導入してきます。 原始仏教の文脈でこの二諦説という別基準を用いること自体、詭弁であり、不誠実さを表明していることに他ありません。 また、世俗諦は輪廻転生を肯定する常見であり、勝義諦で空として否定されるという珍説を披露してくれます 中観の入門もわかっていない発言を繰り返しているのですね。 辻先生や山口瑞鳳、並川先生などを偉そうに批判する資格はありません。 論理矛盾を指摘したときに、アリストテレスを紹介し、原典がどうのこうのというトンチンカンがこれ以上原始仏教スレを 荒らすことの無いように。チベット語スレでも論破されて怨霊化しているのでしょうかね。 怨霊退散させるのには、まだまだある質問項目、矛盾項目、道徳的有責性をも含めて箇条書き列挙すれば好いのかな? で、念のためですが、断見も常見と同じくボクは批判の対象とします。 この有無の両辺を遮することで原始仏教の本質を探れると確信しております。
915 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 12:29:12 ID:BKIw/zRw
>>908 お前はストーカーだ。少し増しなことを言う様にしろよ。
916 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 12:50:12 ID:XaJ76sVO
>914 というのが唯の断見なんですが、辞書でも経典でもみればすぐわかる。 常見というのはアートマンやブラフマン、原子やスポータなど永遠不滅の実体を想定することで輪廻とは関係ありません。 仏教の輪廻は、実体が輪廻するのではなく、縁起して輪廻するので実体は立てないのです。 まあ、仏教内部でもそれが理解できず輪廻を主体をいろいろ設定したのですが、 原始仏教や中観はそうで、主体は識や心相続などと仮設されて呼称されますが、 もちろん実体ではありません。
917 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/21(日) 13:41:30 ID:FxG6HALI
>>916 その常見の説明は中村元『佛教大辞典』P.756 を根拠にしているのですね?
輪廻転生に関して、肯定するのが常見、否定するのが断見であるということを批判するには材料不足ですよ。
常見は断見とセットでかたられ、それは輪廻転生についての議論になります。つまり、現世限りか、来世に転生
して行くかの議論です。雜阿含經では頻出です。
勿論、バラモン思想の梵我なども常見の一つですが、それのみを対象として考察し、限定するのは作業的に不適切です。
だから、実体云々はここでは関係ありません。また、検証、確認できない事柄を縁起して輪廻すると言うのは迷信に属します。
原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
を指摘したのですが。。。
以下、蛇足です。
中村元訳『真理のことば』410,411、解説部分
> 仏教は、われわれの陥り易い誤ったものの見方に常見と断見があるという。前者は、東洋によく見られるもので、
> 人は死んでも魂(私)は不滅であって、永劫回帰などをいう。一方、後者は、人の命はこの世限りのもので、死
> ねばすべては滅び、死後の世界はもちろん、因果の法則もないというものだ。因みに、もしあなたが虚心に自ら
> を顧みれば、自覚の有無はともかく、このどちらかに基づいて人生を歩んでいるはずだ。
> 最近では、臨死体験者の報告などから、人間は死んでも終わりではないのかと思い、常見に飛び付く人々がいる。
> しかし、殆どの人は肉体が滅びればすべては終わりという断見に傾いていよう。常見を採る人々は輪廻転生を言
> い、死後の世界を説くことが人間の秘密を解き明かすかのように錯覚し、一方、断見は、私利私欲に走る世相が
> よく表しているように、浅はかな現世至上主義になり易い。しかし釈尊は、どちらの立場もとらないというので、
> 現世を望まず、来世を望まずと言ったのだ。なぜなら、現世と来世、いずれも超えた生と死の彼方にある「不死
> の境地」を目指しているのが仏教であり、そこに到達した人を彼はバラモンと呼ぶ。
>913 >ビックバン以前から輪廻していることになっています。 ビックバン以前というのは、時空がない。ということです。 したがって「輪廻している」というような時間経過そのものもない。 ってことです。 空間と時間は切り離せないのです。
919 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 14:44:40 ID:kmvWDYrX
まもなく梅が咲き、桜が咲く。 桜はいずれ散る、だから桜のような形あるものに執着してはいけない、 これがブッダのの無常=無我=縁起だ。 日本では、桜は散るからこそ尊くいとおしいと論理構成が逆転してしまう。 「空」による否定を通じた世界の甦りの論理は、 日本で、はかない現実存のそのままでの肯定へと横滑りしてしまっている。 そのあいだで、揺れ動き、迷いの花園を楽しむ俺。いろんな奴がいて、面白い。 輪廻は肉体がある以上、経験できないから、くたばった後のお楽しみということにしよう。 人生は、謎があるから面白い。全部わかったら、退屈やろね。
920 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 15:12:22 ID:Hqjq3Dzt
>>917 >釈尊は、どちらの立場もとらないというので、
> 現世を望まず、来世を望まずと言ったのだ。
結局、来世があるないとかは語ってないことか。
921 :
名無しさん@3周年 :2007/01/21(日) 16:31:37 ID:VX/gW2a9
【十四無記】異教徒の提出した形而上学的な問題に対して、釈尊がイエスともノーとも答えなかった十四の問題点。 「世界は(1)常であるか、 (2)無常であるか、 (3)常かつ無常であるか、 (4)常でも無常でもないか、 これと「諸行無常」は矛盾するのですか?しないのですか? 「世界」は「諸行」に含まれないのですか?
>「世界」は「諸行」に含まれないのですか? 「諸行」というのは一切のことですから、一切は世界のことですよね。 つまり世界というのは対象化できない。 一切は自分のことですから。 これが世界でもある。 つまり釈尊は、すでに相対性理論の域にまで達観しちゃってる訳です。 当時の民衆に相対性理論が理解できますか? 物理の専門家でも、相対性理論は難しい。つうのに・・・
923 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:14:14 ID:q+aNCh/3
>887 どこが特殊なのって >885の言い訳こじつけ全体がそうですが、特に主張と思われる 「つまり電波男のパラフレーズが正解ではないかと思いますが」ですね。 ということは「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」が、 tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro / を噛み砕いて分かり易く言い換えたということですね。 それは先ずテキストからしてありえません。これに関しては全テキストが一致しているので玄奘訳でみてみます。 1. 安立大乗三界唯識。= 主張:大乗では三界は識のみであると設定する。 2. 以契經説三界唯心。= 根拠:なぜなら『十地経』で「三界は心のみ」であると説かれるから。 3. 心意識了名之差別。此中説心意兼心所。= 注釈:『十地経』の「心」も識も同じと言って経証を補強。 4. 唯遮外境不遣相應。= 注釈:「のみ」というのは外界対象を否定するためである。 これを「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と読み込んでは、 1.の主張も2.の根拠も台無しである。ありえない捏造読みであるとしか考えられない。 そして「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」では経量部の見解であって、 唯識の特性とは私が知る限りありえない。以下、インド、シナ、日本、チベット、現代文献学者が みな一致して唯識は外界の存在を認めないとしていることを引用してみます。
924 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:14:56 ID:q+aNCh/3
アドヴァヤヴァジュラ『タットヴァラトナーヴァリー』宇井伯寿訳『大乗仏教の研究』33-4 経量部は外境を認めるが、唯識は外境を認めないことが説かれている。 モークシャーカラグプタ『論理のことば』梶山雄一訳135-6 説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。 経量部の意見によれば、これらの原子はそれ自身の形象を投げ込むだけのものである。 ところが、唯識派の思想では、これらの原子も存在しない。(外界は存在しない) 基『成唯識論述記』T43n1830_p0230b 名成唯識。故此即以唯識爲宗。識有非空。境無非有。以爲宗也。 凝然『八宗綱要』鎌田茂雄訳256 此の宗の本意は、只唯識を明す。一切の諸法は皆是れ唯識にして、都べて一法として心外にあることなし。 クンチョク・ジクメ・ワンポ『ドゥプター・リンポチェ・テンワ』ダラムサラ本45 phyi don khas mi len zhing gzhan dbang bden grub tu 'dod pa'i nang pa'i grub mtha' smra ba'i gang zag te/ sems tsam pa'i mtshan nyid do// 外界対象を認めず依他実在と主張する仏教宗義を述べる人が、唯識者の定義である。
925 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:16:02 ID:q+aNCh/3
オットー・シュトラウス『インド哲学』293 仏教的観念論者= 唯識者 仏教的観念論者の見解によれば、ブッダは若干の弟子たちの性向を快く受け入れるために、外界の実在 について語っただけであり、実際にはただある蘊、すなわち識が存在するにすぎないというのが、 ブッダの真意であった。認識手段、認識対象および認識の結果を包括する過程は純粋に精神的であり、 完全に内面的である。外界は存在しない。 ヤン・ゴンタ『インド思想史』中公文庫125 唯識派が外界に客観的実在性を認めず、 中村元『インド思想史』第二版175 万有は識によって顕現したものにほかならぬといって、唯識の説を主張する。 あたかも夢の中で経験することと同様に、外界の対象は実在しないものであるが、 識の分別のはたらきによって仮に現し出されたものである。 平川彰『インド仏教史』下巻120 唯識の「唯」とは、凡夫が実在と考えている「認識の対象」を否定する意味で、「ただ識のみ」という のである。外界の対象であると思っているものが、実には識(心)に他ならないと悟るのが唯識である。
926 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:19:03 ID:q+aNCh/3
高崎直道 他『インド思想史』83 瑜伽行派の、外界の諸対象は空で、認識主体たる心のみが実有であるという説 経量部の外界の諸対象はただ推知されうるものとみる説 沖和史「唯識」『岩波講座 東洋思想 インド仏教1』288 唯識は「すべてこの世界はただ心像のみにすぎない」ことを意味することばである。 つまり、あらゆる存在は認識された姿として立ち現れているだけであって、 実体的に存在する何かが認識された姿の背後にあると予想してはならない、 ということがこのことばによって主張されている。 服部正明『認識と超越』角川文庫版76以下 外界実在論批判として長い論が展開されている。 すべて一致しています。 特に沖和史の説き方が、電波男説の全く逆を述べていることがハッキリ分かります。 そしてモークシャーカラグプタ、高崎直道により電波説が経量部に一致する珍説だと分かるでしょう。 これでも電波珍説、唯識有境説を支持する人はいるんでしょうか? >885さん、証拠だしてみてください! またチベット語 「二表現位相存在語彙」君や 「補語は形容詞」君みたいに強弁した結果、間違いも認めず失踪でしょうか? また>872 >875 のお二人は、電波男の「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」が 外界存在を経量部みたいに認めているということに納得していただけたのでしょうか?
927 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:34:03 ID:q+aNCh/3
>895 iti 誤りを認めないのか? ここまで無茶苦茶なの論証されて、仲間以外は信じないだろう。 相変わらすハッタリ主張のみで根拠なしだな。 ちゃんと学問やってないだろ、主張するには論証手続きがいる、証拠がいるんだよん。 >914 > よく、「説一切有部などのバイバーシカは外界の存在を積極的に説く」と言う意見を聞きますが、 > 実在論として外界を説明したのではなく、認識の根拠として説明したものだとボクは考えます。 考えるのは勝手だが、これまた論証手続きがいるんだよ。自分の珍説に合わせて勝手に読み替えないように。 ここは所信表明、信仰告白を聞く場ではないんです。文献的裏付けがない勝手な常識への迎合は止めて。 私は、原始仏教解釈に二諦を用いたことはないよ。中観派が輪廻否定という珍説の誤解を解く場合に テクストに添って勝義諦では輪廻に限らず一切法が空、世俗諦では輪廻も含む一切法が縁起するというだけ。 私は、 辻先生を批判したことはないよ。尊敬してあまりある日本のインド学を変えた50年進んでいた先生でしょう。 辻先生の諸著は素晴らしく、賞賛するのみ。 山口瑞鳳はチベット語スレで明解に論証した。あれはここで『十地経』の混入と並んで結構よくできた。 山口文法は酷い、細部は合ってるが、根本「二表現位相」が間違ってる。
928 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 00:34:51 ID:q+aNCh/3
並川さんの可笑しさは、経典を最古層と古層に分け、最古層より古層が輪廻に対して積極的だということから、 釈尊が最古層より輪廻に対して消極的で「あくまで現世に力点を置くという態度を強く示していた のではないかと推定できる」としてるが、その根拠である最古層が輪廻に対して否定的表現をとる から消極的というのは、他生や再生が望まれないことを指していること。 なぜなら他生や再生、つまり輪廻を厭う、否定的であるというのは通仏教的なものであり、 特殊な表現ではなく、古層が輪廻に対して積極的というのは、輪廻の中で良い生まれを望むことを 指している。これも特殊な表現ではなく通仏教的なもの。これは生天と言われ解脱に向かわない人への 方便としての教えで本来、否定されますが、悪趣に行くよりはマシといった内容。 つまり「資料に対して一貫した姿勢で臨み、それに基づく研究が徹底され」ているのではなく、 釈尊は「現世に力点を置く」としたいために意図的に最古層が輪廻に対して消極的だと解釈しているのです。 このような研究はまったく支持できない。 チベット語スレでも論破されたって、それはありえないだろう「二表現位相存在語彙」君は、 私に感謝すべきだよ。なんたって「二表現位相存在語彙」を用いてインド・テキストを分析しようとしてたんだから。 >917 原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。 >530 識は出てくるよ。相変わらず。ウソばっかりだな。 私がこのように書いているのは君がウソばっかり、自分の面子や営業のために書いているからだよ。 ほら、またウソに欺されてる人が出てる。
929 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 07:46:40 ID:Raj/C9m/
似非学問的手続き、ご苦労さん。 論理的手続きがすっ飛ばされているから、あんたの主張はすべてアウトだね。 まだ「外界の存在を否定」と「外界を認識の根拠とすることの否定」の区別が出来ていない。 原典云々と言うのであれば、後世の解釈を援用(まちがっているが)しないで、原文で示してみたら?
930 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 09:54:16 ID:hZPDoUdT
>926 >検証、確認できないことや経験できないこと(科学分野を持ち出す必要は無い)について、 >詮索を加えることや、判断を下すことは、材料が無いので不可能です。 >また、検証、確認できない事柄を縁起して輪廻すると言うのは迷信に属します。 この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか? 電波さん自身ですか? どうも議論がかみ合いませんね?物指しが違うのでしょうか? 仏教では「正しい知は正しい認識手段によってのみ得られる」とします。 あなたの言うところの検証云々はいかなる認識手段によるものでしょうか? 因明はご存知ですよね? >原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと >を指摘したのですが。。。 これは誤謬ですね。原始仏教だけでなく仏教史全体の流れを把握してみてください。
931 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:09:00 ID:hZPDoUdT
>輪廻転生について「有」を主張する人がいます。 >そのことを不合理であると批判すると、「断見」であると断定した非難返しがきます。 >「常見」論者にとっては、断見論者との両極しか見えないのでしょう。 まさにその通りです。そしてあなたも「有無の二極を離れる」と言いながらも 同じ過ちを繰り返す。 いかにこの二辺を超えることが難しいことか >輪廻転生について「無」を主張する人がいます。 >そのことを不合理であると批判すると、「常見」であると断定した非難返しがきます。 >「断見」論者にとっては、常見論者との両極しか見えないのでしょう。 あなたは、輪廻が有るという我々も「輪廻を厭うていること」を意図的に無視してますね? だれも輪廻を肯定的に捉えている人なんて誰もいないことは知ってますよね? もし、あなたが本当に「有無の二辺」を離れているならば為すべき行動は ただ一つです。 でも、それが出来ないところが、この2ちゃんに住するものたちの性、業www でもまあ、本気で解脱するつもりは誰もいないでしょうから、 ここは文献学的探求に限定しましょう。
932 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:14:50 ID:hZPDoUdT
>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと >を指摘したのですが。。。 これは誤謬ですね。原始仏教だけでなく仏教史全体の流れを把握してみてください。 これはわたしの誤謬でした。確かにアゴンの捏造です。 失礼しました。
933 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 10:23:48 ID:vWCinLiX
そもそも「厭い」却下すべきなのは、あらゆる循環論・不当前提・複問虚偽(→多問虚偽)の類です。
934 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:24:57 ID:wux6YpV1
電波男がいう印象操作、論点先取、なんとか虚偽すべて自分がやっている。 ハッタリと自演と嘘と強弁とほんのちょっとの不正確な専門用語、 それが電波男クオリティ! 七誌の電波擁護は自演として、アホダラは他人のようだからなんでこんなヤツ擁護するんだ。 それと輪廻を認めない人たちは、それじゃ仏教必要ないでしょう。 現代の科学と倫理に従って生きればいいじゃない。仏教はあなた達には関係ないよ。
935 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:27:47 ID:hZPDoUdT
私は輪廻は有ると思うが、同時に無自性であり実体がないとも 思っております。 如来は如来ならざるが故に如来と呼ばれる。 即非の理論じゃなくてね。
936 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 10:47:21 ID:vWCinLiX
ちなみにドグマタルチュフ・紐付き神学屋、宗義ゴロ・セクト奴婢の類もお払い箱・門前払いにすべきで、決して 敷居を跨がさぬよう要注意です。
937 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 10:50:24 ID:wux6YpV1
電波男と阿呆陀羅經がいなくなった方がいいと思うが
>>934 >それと輪廻を認めない人たちは、それじゃ仏教必要ないでしょう。
あのね、それじゃ〜わたくしが正直にカキコします。
人生にはいろんなことがありますから、
わたくしは仏教で随分救われてます。
今日、救われています。→Tommorow is Another day
これで充分かと思います。
しかし、君達は何で死んだ先のことを心配するのか分らんのです。
つまり現世は住みにくい。
ってことですか?
だから来世とかに夢を賭けるとか?
あまり心配なら、阿弥陀如来に全てオマカセするのがベターです。→南無阿弥陀仏
これなら心配だけは消える。
ひとつの「生きる智慧」です。
939 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 12:04:01 ID:9FNtEcA0
行くところ すべて地獄の 出禁バカwww
940 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 12:18:46 ID:wux6YpV1
>>938 それって別に仏教じゃなくてもいいんじゃないですか?
私は〜に救われた。〜が偶然、仏教だったわけで。
941 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 12:54:24 ID:Raj/C9m/
>>930 議論が噛みあわないといわれても、貴方が誰だか知らないし、これまでどこでお話したかも覚えがありません。
>この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか?
主語はボクをはじめとする大勢の人。輪廻転生を如実に経験できると主張する特殊な人は除外します。
なぜなら、一般に輪廻転生を事実として提示することに成功していないから。つまり、検証できないことですね。
で、貴方の言う、正しい認識手段とは何ですか?それによって、輪廻転生が客観的に確認できるのですか?
> あなたは、輪廻が有るという我々も「輪廻を厭うていること」を意図的に無視してますね?
> だれも輪廻を肯定的に捉えている人なんて誰もいないことは知ってますよね?
輪廻を厭うことと、輪廻転生を否定することとは違うことがらです。
同時に輪廻を甘んじることと、輪廻転生を肯定することとは違うと考えます。
おこないによって、様々な生存の繰り返しを余儀なくされている苦しみを厭わない人はこのスレッドには居ないでしょう。
その生存のあり方が、死を機軸として実際に転生すると考えるか、日常のあり方として考えるかの違いがあるだけですね。
>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
>を指摘したのですが。。。
このことについてのご訂正には敬意を表します。誰かと違って一切の間違いを認めず、人に間違いの謝罪を迫り続け、
ボロばかり出す人とは別人ですね。これは過去ログをあたられたのでしょうか?
942 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 13:07:28 ID:Raj/C9m/
>>928 > 私がこのように書いているのは君がウソばっかり、自分の面子や営業のために書いているからだよ。
> ほら、またウソに欺されてる人が出てる。
心して返事しろ。営業のため?証拠を出しなさい。その阿含宗の捏造は文献で指摘済みなのですよ。
精査してからコメントしろ。
>>940 自灯明・法灯明だから、仏教というのは「回答」ではなくて「方法」。
この方法として”計らいを捨てる”という手段こそ(阿弥陀信仰など)
いわゆり仏教のテーゼかと思いますね。
(釈尊の我見と信仰を離れる)
阿弥陀信仰は、求める信仰ではなく捨てる信仰です。
仏教じゃなくても別にいいかと思います。
釈尊は、贅沢とか苦行とか両極を経験して初めて中道を悟ったわけですから、
なるべくだったら、やはり現世においては思い残しがないことが一番いいかと思います。
さすれば来世などに迷うこともあるまい。
一休は、いい坊主でしたね)^o^(
944 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 14:32:33 ID:kFj3VtGw
十四無記もたとえ話に過ぎず、論争に暇と労力をかけるより、他にやるべきことがあるだろう衆生たちよ、という 釈尊の有難き警鐘だととらえるのはいかがでしょうか?
945 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 14:48:40 ID:wux6YpV1
>942 自分が文献を精査してからコメントすべきじゃない? >943 レーベンのジャータカ的解釈(笑)ってご存知? 仏教徒は釈尊が過去世の功徳によって悟ったと考えてますよ。 >944 おっしゃるとおりです。ただあまりにウソばっかの電波男はひどいでしょ。
946 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 14:55:07 ID:vWCinLiX
そういえば、 佛典を「ドイツ観念論(シェリングあたり)」なる我論の一種にこと寄せるトンデモ説があったようですな(苦笑)。
947 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 15:44:00 ID:Raj/C9m/
>>923 あんまりだから少し説明しておこう。
> それは先ずテキストからしてありえません。これに関しては全テキストが一致しているので玄奘訳でみてみます。
また詭弁ですか?唯識二十論では外界の存在を否定しているということは記述されていないと主張する文脈であって、
そのことが記述されていると主張しているのではありません。
> 1. 安立大乗三界唯識。= 主張:大乗では三界は識のみであると設定する。
> 2. 以契經説三界唯心。= 根拠:なぜなら『十地経』で「三界は心のみ」であると説かれるから。
> 3. 心意識了名之差別。此中説心意兼心所。= 注釈:『十地経』の「心」も識も同じと言って経証を補強。
> 4. 唯遮外境不遣相應。= 注釈:「のみ」というのは外界対象を否定するためである。
もう滅茶苦茶ですね。
1 三界とは認識内容そのものだけであり、それ以外には存在しない
2 三界唯心
3 三界唯心という「心」とは「心所(精神作用)」を含んだものとして意図されており、心意識〔というこれまでの心の異門に加え、これ〕
と認識内容である表の4つのことである
4 ヴィニータ・デーヴァの注釈ですか?そこに外界の存在が否定されているとは記述されているのですか?ボクの眼が悪いのかな?w
> これを「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と読み込んでは、
> 1.の主張も2.の根拠も台無しである。ありえない捏造読みであるとしか考えられない。
これは先ほど説明済み。外界の存在を否定したという珍説にたいする言論。
上記、3について、あんたは文献から何も読み込めていない。4の注釈も捏造。いい加減にしてくれないかな。。
948 :
名無しさん@3周年 :2007/01/22(月) 15:53:15 ID:wux6YpV1
>>947 ぷっ。ついでに原始経典では輪廻の主体として識を説かないことも説明したら。
949 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 15:56:20 ID:Raj/C9m/
>>924 > モークシャーカラグプタ『論理のことば』梶山雄一訳135-6
> 説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。
> 経量部の意見によれば、これらの原子はそれ自身の形象を投げ込むだけのものである。
> ところが、唯識派の思想では、これらの原子も存在しない。(外界は存在しない)
唯識二十論とほぼ変わらない内容ですが、外界は存在しないなど()付きで捏造しないでくれ。
> 有部などの極微説が妥当で、それが認識根拠となるのなら、不合理が生じる。認識の根拠と言うのであれば、
> 極微と定義づけた以上、それ以上分割されないはずなのに、6面6方向という分割要素があるじゃないか。
> よって、外界が認識の根拠であるというのは不合理であり、否定される。
というのが唯識二十論の内容だろ。「説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。」←を否定してるんだよ。
解らないかな。。
> 基『成唯識論述記』T43n1830_p0230b
> 名成唯識。故此即以唯識爲宗。識有非空。境無非有。以爲宗也。
それが何か?護法流であり、「識有非空」などという曖昧な記述の内容を根拠にする理由は?
> 凝然『八宗綱要』鎌田茂雄訳256
> 此の宗の本意は、只唯識を明す。一切の諸法は皆是れ唯識にして、都べて一法として心外にあることなし。
その通りですが?批判になっていない。外界の存在を否定していますか?一切諸法は「表」を心に取り入れることにより、
心になってしまいますよ。
> クンチョク・ジクメ・ワンポ『ドゥプター・リンポチェ・テンワ』ダラムサラ本45
> phyi don khas mi len zhing gzhan dbang bden grub tu 'dod pa'i nang pa'i grub mtha' smra ba'i gang zag te/
> sems tsam pa'i mtshan nyid do//
> 外界対象を認めず依他実在と主張する仏教宗義を述べる人が、唯識者の定義である。
「外界に対象を認めず」その通りですね。なにか問題でも?
あんたの瑕疵は論理的な手続きを経ていないことです。
950 :
930 :2007/01/22(月) 16:05:34 ID:hZPDoUdT
意見がかみ合わない、つまり物指しが違うと思い、質問してみましたが さて >この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか? 主語はボクをはじめとする大勢の人。 輪廻転生を如実に経験できると主張する特殊な人は除外します。 主語には大勢の人が含まれるのですね? つまり、一般論、常識と言う奴ですね。 その常識は一体何を根拠にしているのでしょう?どこからもたらされるのでしょうか? 常識は時代、地域によって変化します。正に無常です。 ブッタの生きた時代と現代日本では無論違います。 したがって単なる日常経験、常識、一般論は「正しい認識手段(pramana)」たりえません。
951 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:06:07 ID:Raj/C9m/
>>925 > オットー・シュトラウス『インド哲学』293 仏教的観念論者= 唯識者
> 仏教的観念論者の見解によれば、ブッダは若干の弟子たちの性向を快く受け入れるために、外界の実在
> について語っただけであり、実際にはただある蘊、すなわち識が存在するにすぎないというのが、
> ブッダの真意であった。認識手段、認識対象および認識の結果を包括する過程は純粋に精神的であり、
> 完全に内面的である。外界は存在しない。
唯識二十論との関係は?ま、好いでしょう。これも問題ありませんね。外界の存在を否定していますか?
> ヤン・ゴンタ『インド思想史』中公文庫125
> 唯識派が外界に客観的実在性を認めず、
これもそうですね。外界に客観的実在性は認められません。認識の根拠として否定するのですから。
で、外界の存在を否定していますか?
> 中村元『インド思想史』第二版175
> 万有は識によって顕現したものにほかならぬといって、唯識の説を主張する。
> あたかも夢の中で経験することと同様に、外界の対象は実在しないものであるが、
> 識の分別のはたらきによって仮に現し出されたものである。
そうですよ。
viJnaptimAtram eva-idam artha-avabhAsanAt /1ab/
そのままじゃん。なにか問題でも?外界の存在を否定してるだけじゃないでしょ?
認識内容が外界の存在であると思い込むことを否定している。以下も同じ
> 平川彰『インド仏教史』下巻120
> 唯識の「唯」とは、凡夫が実在と考えている「認識の対象」を否定する意味で、「ただ識のみ」という
> のである。外界の対象であると思っているものが、実には識(心)に他ならないと悟るのが唯識である。
>>945 >レーベンのジャータカ的解釈(笑)ってご存知?
ドイツ観念論で十無記を解釈するのは簡単です。
しかしながら論理(つまり話しの筋道)が全くインド哲学とは違います。
観念論は先ず経験則から論を立てます。→観念第一義
仏教というのは、この観念破壊なのであります。→簡単にいうなら。
数十年、同じ経験を積んできまして、ある日失敗をしたとする。
この失敗を契機として新たな発見をする。
(キューリー夫人などの発見もそうです、経験というより偶然)
なにかの非日常的な事象により発見する場合が多い。
仏教の悟りとは、この非日常に依存する。
953 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:09:25 ID:Raj/C9m/
>>926 > 高崎直道 他『インド思想史』83
> 瑜伽行派の、外界の諸対象は空で、認識主体たる心のみが実有であるという説
> 経量部の外界の諸対象はただ推知されうるものとみる説
それが何か?外界の対象が推知されうるのもだと唯識二十論に関してボクが主張しましたか?
以下の沖先生や服部先生も同じ。
> 特に沖和史の説き方が、電波男説の全く逆を述べていることがハッキリ分かります。
読解力と論理能力の無さを証明してしまいましたね。
954 :
930 :2007/01/22(月) 16:13:43 ID:hZPDoUdT
正しい認識手段とは仏教では直接知覚と推論の二つです。 さて、あなたは「輪廻の否定」の根拠として「検証、確認できない」こと を揚げておりますが、これは正しくない。 なぜならブッタは「一切知者」であるから。そういう意味でもブッタは特殊な人ですね。 ブッタは輪廻を如実に知見して「無記」とされました。 私はブッタのように輪廻を直接知覚することはできませんが 推論は出来ます。 例えばダルマキールティは『プラマーナヴァールッティカ』 第四章でローカーヤタを相手に心相続を論証しています。 それにしても「輪廻の否定」とは「輪廻の無」のことではないのですね?
955 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:17:11 ID:Raj/C9m/
>>950 そうですよ。一般論、常識です。その意味は客観性があり、再生産、つまり再現性可能ということです。
万人に示すべき真理として提示するのなら、これらが必要だということですね。出来ないのであれば、
釈尊在世と同じ、迷信として遮止されます。
ところで、あなたのいう「正しい認識手段」とは何ですか?それを示さない限り話は進みませんよ。
因みに、私も行中には身体浮遊感をはじめ、佛菩薩をリアルに観じ、人の心が手に取るように理解でき、
思った場所、時代の風景や人の有様をリアルに見ることが出来、穢れたものから完全に開放される方途を見出し、
自分や他人の生まれ変わり、死に変わりを完全に知ることができました、できると思いました。
しかし、それらはすべて幻覚や思い込み、妄想だったのです。
もしかして、貴方はその域から脱していないのでは?
956 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:25:07 ID:Raj/C9m/
>>954 「輪廻の否定」とは輪廻転生が実際にリアルに存在し、業報輪廻が跨り、それに制約されているという考え方の否定です。
今おこなった悪業が結果苦として生じる。そしてその複合が終わりなき輪廻として繰り返され、心安穏になることが無い
と言う意味の輪廻は妥当だと考えます。
だからこの意味と分けるために輪廻と輪廻転生とを分けてボクは言ってるのですが、この生は死を以って断滅するという考えも
否定します。検証、確認できないことに対して回答を与えること自体、愚かなことだと考えますからね。
だから、「輪廻転生は無い」とも言いません。決して不可知論ではありませんよ。検証、確認などの手続きに耐えうるものは
認めざるを得ませんからね。検証の中には勿論推論も含まれますよ。
観念論は、現状認識の延長で十無記などを考えますが、 例えば、有無の二項のどちらかを選択しても論理矛盾はおこります。 論理的には無理だから、 だから十無記なんだ。ってのは稚拙な論法ですね。 十無記をこのように理解している人は多いですが、 仏教は、もっと深いですよ。
958 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 17:10:54 ID:Raj/C9m/
経量部、経量部と言うが、経量部でも様々な考えがあったことは、特に『成業論』などを読めばよくわかる。 一概に、「推論によって外界の存在を実有として認める」と定義付けるのは乱暴すぎる。 事実、一切種子を阿羅耶識として主張する世親が「自分はある経量部の人だ」と言ってるのだから。 偉そうに文献学や学問だと言うのなら、もう少し精度を上げて欲しいな。 「外界の存在を否定しているのではない」→「外界の存在を肯定している」と短絡する論理脳では無理かもしれんが。。
959 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2007/01/22(月) 17:15:14 ID:TLCHNJR5
>>921 いい着眼点でしたね。
「世界は常であるか」や「諸行無常」のポイントは「世界」や「諸行」の方ではなく、
「無常」の方にあると思います。その「常」という見方を否定した「無」の部分。
言いかえると、「世界は常住である」という見解に対して、「そうではない」と言うものです。
「諸行は常住である」に対しても同様に「そうではない」と。
このようにして、四句分別のすべてに対して「そうではない」というものです。
これで、「世界は常であるか」に対する答え方と「諸行無常」とが矛盾しないことが
分かると思います。
三法印のような定型句を釈尊が使ったのかどうか少し疑問。 とくに「諸行は」とか「諸法は」という括り方をしてたのか。 単に「色は・・・」「受は・・・」しか言わなかったのじゃないかなと。
>>961 三法印は、当時の思想(バラモン教)のアンチテーゼとして、あえて強調したものかと思いますね。
釈尊成道はまさに画期的なものだったんでしょう。
今でいうコペルニクス的大転換というべきですね。
ガリレオが、地球は太陽を廻っている。などと言うようなもんです。
963 :
名無しさん@3周年 :
2007/01/22(月) 21:45:47 ID:q+aNCh/3 >932 原始仏教で輪廻の主体が識とされることはありますよ。既にに指摘済み>530 より詳しく説きましょう「病あつきヴァッカリ」です。中公の世界の名著1、451-456 状況を要約します。病の床についたヴァッカリ尊者のもとへ釈尊がいらして、語りかけます。 釈尊:悩みや後悔がないか? ヴァッカリ尊者:ある 釈尊:では戒律は清浄だったか? ヴァッカリ尊者:清浄 釈尊:清浄なら悩みや後悔などないではないか! ヴァッカリ尊者:釈尊にお目にかかる体力がないこと 以下引用、 「ヴァッカリよ、もうそういうことはよしなさい。おまえが、(わたしのやがては)腐敗してゆく この肉身を見たからといって、それがいったい何になろう。ヴァッカリよ、ものごとの理法を 正しく見る者は、わたしを見るのであり、わたしを見る者は、ものごとの理法を正しく見ること になるのです。ヴァッカリよ、ものごとの理法を正しく見ている者は、(結局その理法にほかな らない、この)わたしを見ていることになり、わたしを見ている者は、(結局のところ)もの ごとの理法を正しく見ていることになるからです。 ヴァッカリよ、ものは、永遠に不変のものなのか、それとも無常なのか、 おまえはこのことをどう考えるか」 「師よ、無常です」 「感受、想念、因果的存在、心は永遠に不変なのか、それとも無常なのか」 「師よ、(それらはすべて)無常なものです」 「こういうわけだから、このように(すべてのものが無常であることを)みて、再びこの(苦の) 世界に生をうけることはないと知るのである」 この後ヴァッカリ尊者は無常を覚り、自殺する。すると悪魔がヴァッカリ尊者の魂を探すが、 魂は止まることなく涅槃したことを釈尊がみなに告げる。