浄土真宗本願寺派 [20拍]

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952名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 02:39:34 ID:zjB7UrWD
漢訳されたもののインドの原典が発見されたとでも思っているのでしょうね。
一般人ならそう思うかも知れないけれど。
953名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 02:46:45 ID:dtECTJ44
原典がないのなら、疑経ですか?
954名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 02:57:20 ID:zjB7UrWD
>>931
> 上山和上は大丈夫かな。伝道のためなら科学を利用する必要があるなんていっちゃってる。
> 実際はそうなんだろうけど、あんたがそれを言っちゃあ(ry

あの人は和上じゃないよ。
単に元龍大学長。
宗学わからんのに口出しすると評判悪いね。
「教学伝道研究センター」のセンター長なのに、教学に理解がない。
京都にいる口実に、肩書きだけが欲しいんだろ。
955名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 15:22:32 ID:WSjRZUsT
なむあみだぶつ の現代的意義が必要だと感じる

なむあみだぶつとは何なのか?

わからない…
956名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 23:12:32 ID:DIPAOxr0
>>955
全くだ。親鸞の時代、法然さんの浄土宗があったのに、浄土真宗を唱えた。越後や
関東の農民などとの付合いの中で、こうでなくてはと思ったんだと思う。で、それ
がその後広く受け入れられた。
明治になっても一部の学者が現代的な意味の考え方を唱えたんだと思うが、表に出
ていると(少なくとも不信心の自分には)思えない。
だからかどうか分からないが、部落解放とか左翼とかの話が出ているのかな。
更に一部の人は本願寺派とは別のグループを作って布教しているとも見れる。

親鸞の時代、他の人が農民などに了解される教えを説いていなかったから親鸞
が説いて了解されたんだと思うが、今、農民などは少ないから余計了解され難
くなっていると思う。
957名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:21:18 ID:sgXmuE0C
>>956
ちゃんと理解してから書き込むことですね。
親鸞は法然と別の教えをわざわざ説いたわけではないよ。
法然の教えは、法然没後に、それぞれの弟子がその理解を説いただけで、
親鸞が教えを説いた関東には法然の浄土宗などなかった。
京都では法然没後に弟子が説いた教えはすでに法然のものとは異なっていた。
親鸞が手紙のなかで、法然上人の教えが正しく伝わっていないと嘆いている。

親鸞が受け継いで発展させた法然の教えは、
明治になって変わったとかではなく、
戦後にサヨク思想の影響を受けた僧侶がそのような解釈を言い出しただけ。
西では個人的な活動ですんでいるが、東は宗派ごとサヨク活動に熱心だ。
といっても、地方の寺院は政治活動にはあまり関係ない。

南無阿弥陀仏を現代的に変える必要などないよ。
阿弥陀仏は阿弥陀仏だし、浄土は浄土、
変に、この世に浄土を実現など言い出すのがサヨク思想。
958名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 01:39:45 ID:jhxV6/fo
現代的な解釈が必要なのではないかと思う。

浄土、阿弥陀様、阿弥陀様の願い、
それらを経典の文字ごとドンと説かれても、
この私には生きる力とらないのです。
何も響いて来ないのです。
阿弥陀様の根本の願いが目に見えない光と命と
なって響いている。十方衆生に、この私に。
しかし、その声をいかに私は受け止め、現代の方々に伝えたら
良いのか、わからないのです。
阿弥陀に帰命せよ、それはわかった。じゃあ
阿弥陀様って何なのでしょうか?
報身仏?法身仏?目に見えない不可思議光の仏様?
じゃあ不可思議光はどうして私に届いているのか?
私を救う為にですよね?私に何かを知らせたい伝えたいから働きかけている、
願いをかけているのでしょう?

その願いとは何でしょう?
親鸞聖人様は、その当時の時代背景や民衆の方々の
心理を踏まえつつ、ご自身も人生を歩む中でご本願を味あわれて、
それをお伝えになられたのではないかと推測致します。

ならば、信心正因のご法義を踏まえつつ、
現代的に解釈しお伝えしてゆく事はむしろ大事ではないかと思わざるを得ません。

でなければ、浄土真宗は民衆の宗教ではなくなってきます。
いや、もうそうなりつつあるのではありませんか。
959名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 01:50:10 ID:jhxV6/fo
お前達は凡夫なんだ、この世は
浄土では無い。信心決定して私に帰命して生きて、
命尽きたら仏となって還相回向だ。…

それが阿弥陀様のお伝えしたい事なんでしょうか?

その前に、今のこの世で生きる上で、阿弥陀様を知って、
ご本願にあえて良かったと言えない私は、一体どうすれば良いのか解りません。
960名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 01:51:57 ID:eBdfDuB4
>>957
どうにかならんもんかなぁ
別に宗派をつくって世界平和と人権問題頑張ってくれれば良いんだけどな
浄土真宗基幹運動派とか

961名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 04:10:21 ID:sgXmuE0C
>>958
それは教義であって、
「南無阿弥陀仏」の解釈とは違います。

教えをわかりやすく現代に通じるようにするのと、
南無阿弥陀仏の意味を変えるのとは違います。
962956:2007/02/01(木) 04:59:12 ID:IAAlWtkB
>>957
親鸞が法然の教えてを踏まえていることは認めるよ。教える側の話はお説の通り
だと思います。

問題は教わる側の気持ちです。どこかの僧侶がああだこおだと説いてもすぐに
分かったとなるかどうか。通じるとか感応するとかがあるかどうかです。
越後や関東の農民たちが、それまでにもいろんな説教を聞いていたはずなのに
それには納得できずにいて、親鸞にはなじんだ。

自分の想像だが、例えば輪廻転生の話。悪いことをすると変なものに生まれ
代わるという。悪いことをするなという戒めとしてはいいが、大地を相手に
日々仕事をしていてミミズや虫を眺めている農民に、これは誰かの生まれ代
わりと思えるかどうか。自然の恵みや災いに関わっていて、高等教育も受け
ていない人々にそんな理屈は通じないんではないか。方便だから、そう理解
しなさいと言っても、そんな器用な真似ができるかどうか。
そんなことを言わない親鸞さんの、弥陀の本願の大きさ、寛大さの話の方が
よっぼど分かり易い。聞いた途端、この人は本当のことを言うわとなったん
ではないか。

話が飛ぶが、細木数子。話はまとものようだが、自分はハナから聞こうと
思わない。寂聴が出てくると、なんだろうとちょっと見る。こういう分岐
点が人間には自ずからあるように思う。

他宗と比べてみると、真言宗や日蓮宗には商人が多いように思っているが
大地を相手にしていない人には、そういう疑問が沸かなかったのではないか。
あるいは、別の要素がより重要だったか。
近江商人は、そうでもなかったかも知れないが。

そして今、大勢の人が大地を相手にはしていない。
963名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 09:41:50 ID:jhxV6/fo
何よりも宗祖ご自身が、お念仏を有り難く
受け止められていたのですよね。
でないと『教行信証』なんて大著を書かれたのか
さっぱり理解出来ません。
964名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 09:56:03 ID:jhxV6/fo
南無阿弥陀仏は現代の私に、どう呼び掛けているのか?
965名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 09:57:34 ID:PkXYS2S+
久々に見たらまじめで読み応えのある流れになってて、
ためになります。
966名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 11:33:55 ID:jhxV6/fo
阿弥陀様は、私達に何を呼び掛けておられるのでしょうか?
阿弥陀仏に南無せよ、この南無阿弥陀仏の呼び声は、
皆さんお一人お一人に、どのように呼び掛けて
おられるのでしょうか?
南無阿弥陀仏のお呼び声を、皆さんはどのように受け止めて、
日々の生活に生かしておられるのでしょうか?
生きる力とされているのでしょうか?
967名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 11:49:16 ID:jhxV6/fo
私は、阿弥陀様の実在について、確信を持てない。
ただひとつ、親鸞聖人が法然聖人から伝えられた事が、
親鸞聖人にとってははっきりとリアリティを
感じさせるものであり、歎異抄から感じる親鸞聖人のお人柄
から、この真面目な方が人生を賭けて求めて仰られた
事であるから、阿弥陀様の実在もご本願も、きっと嘘ではあるまい、
ただその一点に尽きるのです。
親鸞聖人様の時代は、多くの方が阿弥陀様を信じた。
蓮如上人の時代には、爆発的に増えた。

しかし今、そのリアリティを、はっきりした実感を私達は
感じれているのでしょうか?
もし、私達が感じれていて、伝わっているならば、オウム事件は
起きなかったのではないかと思うのです。

私達は本当に阿弥陀様の南無阿弥陀仏のお呼び声を、
今に生かしているのでしょうか?私達自身がそれを生かして生活出来て
いるのでしょうか?
968962=956:2007/02/01(木) 11:58:27 ID:IAAlWtkB
>>963
親鸞さんの得られた理解は、親鸞さんの経歴や身体の条件(例えば抑えようしても
抑えられない性欲=自分の内なる自然の強さなど)を抜きには理解できないんじゃ
ないかと想像します。

比叡山では、戒律や習慣など人工的な仕組みがあったと思いますが、馴染めなかった。
人間もその一部である「大自然」の仕組みがそんないびつはことでは済むはずがない
という疑問があったんではないか。弥陀の本願は、そんな自然と対立してはまずいと
思われたんではないか。法然さんが、いわば対立するものではないと教えられた。
だから、行より信と言われた。自分=956の理解では「心の持ち様」が優先ということ。

しかし一方で京都にいる、極端にいえば空理空論で暇つぶしをやっている、エラい
人達に親鸞の理解が通じるとも思えない危惧があった。んで、教行信証を書いた。
で、また悲しいことに、生まれ育った京都はなつかしい場所でもあった。

話は飛ぶが、米国には信仰を守るため未だに自動車を使わない町があるそうな。

>>964 氏のような疑問は自然。自分=956は親鸞さんでいいし、阿弥陀さまで
いいと思っているが、どうしてという疑問の答えを探すには、自力の努力が
要ると思います。通常の生活の中で感得する能力がついてくるのが一番いい
のですが、今は(雑音が多くて)無理でしょうねえ。
この書き込みも、雑音かも知れませんけど。
969968=956:2007/02/01(木) 12:56:14 ID:IAAlWtkB
968を書き始めて用事をしているうちに、他の人が書き込んで脈絡がおかしくなった。

>>966, >>967 の方のお話で気になったので続いて書きます。尚、批判とか結論で
なく、自分=956の理解です。

特別な感性がなければ、ジーと座って待ってて、阿弥陀さまの声が聞こえるとか
はないんじゃないか。うまく説明できないが、例えば彼女と食事をしていて口の
周りが汚れて、ナプキンを取ってくれるとか拭いてくれるとかしたとき、彼女の
心使いがドキンと来るか、いつものことだと思って過ぎてしまうか。
階段を昇っていて息が上がってきたとき、自分の内なる自然が警告を発している
と思うか、乳酸が増えたと思うか。

弥陀の本願の実感は、そういう、ある種の感得能力がないと、座っているだけでは
無理ではないか。とすると、殆どの人は救われないんだねと論破を試みる人が出て
来るでしょうね。確信は持てないけど、そうかも知れない。一つの証左は妙好人と
言われる人は大勢いるという話がない。
勿論、自分=956も妙好人には遠く及ばないと思っている。
雑音ゴメン。
970名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 13:19:14 ID:jhxV6/fo
虚しいのです
阿弥陀様が本当にいらっしゃるならば、
この虚しさから救って欲しいのです…
それが本音です…
971名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 13:27:23 ID:PkXYS2S+
阿弥陀さんの実在(ありなし)よりも
誓われた内容、そしてその事柄が私とどのように関係があるのか、
というのがポイントじゃないでしょうか?
972969=956:2007/02/01(木) 13:52:45 ID:IAAlWtkB
>>970
自分のことで精一杯で人のことをあれこれいう資格も能力もないけど、ひょいと
思ったことを一言。

普段、体を動かすことをしていますか。もししてなければ、散歩でも自転車でも
毎日やって基礎代謝を上げる努力をしたらどうですか。

自分は車は好きなんだけど、ある時期面倒だったことがある。ちょっと走ると腰
が痛くなって滅入ってしまった。んで、休日出かけることも減った。腹の周りが
増えて余計億劫。これはいかんと中古自転車を\5000で買って来て乗り始めた。
ウエストも減り身が軽くなって、近所へ買い物も今やみなこれ。たまたまガソリ
ンも高くなって助かった。

B&Bの一人の著作に、佐賀のがばいはあちゃんという著作があるが、著者が運動
したいと言ったら、ばあちゃんは走れと。んで元手も要らない運動をした。
その後、マラソンや野球やなんやかやとやる基礎になったようだ。

体が軽くなれば、また気持ちも違ってくる。そういう自然の仕組みがある。
973名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 14:13:55 ID:sgXmuE0C
阿弥陀さまの実在や浄土の実在なんて、そう簡単に実感できるもんじゃないですね。
だから何度も何度も聞いて、それでも疑問は残るし確信は得られない。
それでも、納得できないまでも耳に残っている言葉は、
何かの機会に少しずつ、ああそうだったのかと思えることはある。

もちろんそれで全てが納得というわけではないが、
妙好人と言われる人も、わからないままに聴聞を続け、
反発して、納得できず、ずっとそういう生活をしていたのが、
あるきっかけで、阿弥陀仏の本願に気づき、
逃げ回って本願に背を向けていた自分も本願の光に包まれていた、
摂取不捨なんて難しい空論のように思っていた言葉が、
初めて納得できるようになったのでしょうね。

すべての救うと誓う本願にあらためて気づくとき、
あんな人間は救われないだろうと思っていた自分の心に気づき、
自分の愚かさに気づけば、それで生き方は変わるはず。
本願も南無阿弥陀仏も、死んだ後の浄土往生のことだけでなく、
今、この世で生きる自分の生き方に意味があるとわかるのでしょうね。
そうすると、自分の人生も虚しくはなくなると思えます。
974名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 17:18:48 ID:jhxV6/fo
生きてて良かったと思える日が来る事を望んでいます。
この虚しさが報われる日が来る事を望んでいます。

私は自分が良くオウムに入らなかったと不思議に思っています。
私のような人間こそ、オウム向きだと思いました。
オウム脱会者の方々の手記を読んでみてそう思いました。
私も何かに救われたいと強く望んでいます。
私がオウムに入信しなかったのは紙一重の偶然としか思えない。
975名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:31:21 ID:jhxV6/fo
松本智津雄被告の家は、浄土真宗のご門徒
さんだった。
浄土真宗の教えは、当時の若い松本被告の心に
響かなかったのだろうか。
976名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 21:11:26 ID:y3Bd3QcM
>>975
第一、寺の息子や娘に信仰(信心)を求めている人が非常に少ない。
否、坊さん自身に信心を求める者がどれ位いるかな?
自分を含めて、激しく反省しなければ。
977名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 21:40:13 ID:jhxV6/fo
松本被告のご両親は、ご聴聞されていたのでしょうか。
わからないが。
最近のお寺にもご聴聞される方々のほとんど
はご年輩の方々が多いと私は思わざるを得ません。
何故若い人達はお寺に来ないのか、皆さんはご門徒さんに
お尋ねになられた事はありますか?
978名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 21:42:04 ID:sgXmuE0C
>>974
オウムに入った人って、人生を真剣に考える真面目な人が多かったようですね。
そういう純粋さを持っているからこそ簡単に欺されてしまう。
人を善人だと考える方が先で、疑うことをあまりしないのでしょうね。

だからこそ、情報を出す側、人を指導する側の責任が重大になる。
テレビが人の考え方や人生に大きな影響を持つ今だからこそ、
作り手は充分な責任を持たなくてはならないのに視聴率と収益が優先する。

細木数子や、江原なんとかの語ることを真に受ける人が多くて、
テレビの嘘やヤラセを見抜けない人が多いのに、
作り手はそこまでの影響は考えず娯楽だからと安易に捏造を行う。

こういう時代に、真宗や仏教の教えをどう伝えればいいのか、
テレビを見ていると、その難しさをひしひしと感じますね。
979名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:50:17 ID:9po1QDVD
光とか声とかいう人がいるけど、
それは実体ではなくて、表現上の話。
実際は、光も無く、声も聞こえない。
光というのは、はたらきをすばらしいと感じた人が言うこと。
声というのは、はたらきが自分の体全体でうなづいた人が言うこと。
法を喜んでない人が解釈に走るからわからなくなる。
仏教は、実体を描くのではなくて、私自身の心の状態を説くもの。
だからこそ、自分に問いかけることが必要なんです。

いかがでしょうか?
980972=956:2007/02/02(金) 00:30:36 ID:CYSrkaOD
>>979
なかなか良い表現。感服。

こういうとこで、文章に書くと知識や理屈で理解して貰おうとして書きますよね。
鈴木大拙の表現によると、知性による理解、直覚に訴えようとする。
しかし信仰的はものは、知性だけではやり取り出来ないようです。
英語で、spirituality とかいうのがあるようですが、そういう領域に入って行く。

実体とか実在とかを云々するときは、知性で話題にすることになるけど、限界が
あるということかなと思います。>>973氏の言われるように、一種の刷り込みが
あって、あるときハッと気づく。

余談ですが、本願寺にお参りして、たまたま読経の最中で、何人かの若い僧侶が
声を揃えて朗々とやられていると、ある種の雰囲気を感じますね。
981名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 00:34:53 ID:wNDpFvGp
>>979さんは、ご自分の解釈で満足出来ているのですか?
「はたらき」に喜んでおられるのですか?
「はたらき」を体全体でうなづけているのですか?
982名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 01:07:12 ID:TSou3A4X
>>981
979です。
何が言いたいのですか?
もし私の解釈が間違いなら、どう解釈すればよいのですか?
あなた自身が満足している解釈を聞かせてくださいな。
983名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 01:20:31 ID:TSou3A4X
>>981「あるときハッと気づく。」

この瞬間が、「闇」に包まれていた私の分別が
      「光」によって打ち破られた瞬間。
よく言う「光(如来)と闇(凡夫)」の表現ね。
学問的にいうと、こじつけだったらごめん、二種深信の事かな。
この体験が全ての真宗の体験かどうかはわからないけどね。
自分で「気付こう気付こう」と思って到達した考えは所詮分別の世界。
しかし、聴聞すると頷くつもりも無いのに時々頷く自分がいるよね。
そのような心のはたらきはどこから来るのかな?
984981:2007/02/02(金) 08:49:59 ID:wNDpFvGp
>>982さんへ、私は今まで自分なりの解釈はありましたが、
全部壊されたような気がするのです。それは、
今までの解釈では喜びも感じないし、うなづけもしない
事に気付いたからです。
だから、あなたはご自分の解釈に本当に満足されているのか、
そしてあなたの言われた「はたらき」に本当に喜びを感じて、また、
うなづけておられるのか、お尋ねしたかっただけなのです。
あなたの解釈が間違いかどうか、私に解るはずがありません。
あなたが「はたらき」に喜びを感じ、うなづけておられるなら
私も喜びます。ただ、本当に自分に偽り無く、そう言えますか?とお尋ねしたかっただけなのです。
それでもなお、本当に喜んでいます、とお答えになれるならば、私は
何も言う事はありません。
もう一度誤解の無いように言いますが、間違いか正しいか
を言いたいのでは無いのです。
私が喜べないから、喜びを感じているあなたの言葉に
確認をしたかっただけなのです。本当に喜べているのですか?と。うなづけているのですか?と。
わかって頂けますか?
985980=956:2007/02/02(金) 11:21:01 ID:CYSrkaOD
>>983
>>そのような心のはたらきはどこから来るのかな?

題名がおどろおどろしいので、言いたいことではありませんが、鈴木大拙の「日本的霊性」
(岩波文庫)には、理解とか直覚とかには、知性、情性、霊性、その他に感性とか
まだあったかな、いろいろ関わると述べられています。
親鸞は法然の教えを踏まえて、日本で初めて霊性で「弥陀の本願」を感得した人とも
位置付けています。霊性は、英語の spirituality の訳。

これは、鈴木大拙の論で、違う人は違ったことを言う可能性がありますが、感得会得
にはそれなりの能力?が受け手にないとダメですから、そのような力が働けば、
感得会得の状態になるんだろうと、自分は(知性的に)理解しました。
986まけ犬坊主:2007/02/02(金) 12:23:08 ID:T3m5suVX
庶民の娯楽であり、死後の救いを確約するための優れた物語を流暢に語り、
情感、感性を刺激する節談説教は、芸能まがい、卑しい、学問的でない、
といって糾弾された。
因果応報、道徳や善悪の意味を教える輪廻思想、宿業(カルマ)論は、差別を助長し、
正当化するものだといって、糾弾された。
これらは、全てアメリカGHQの占領政策によって洗脳された、左翼唯物論坊主の
しわざではあるまいかと、邪推する今日この頃である。
思想とは恐ろしいものである。
仏教でさえ、ねじまげられ、形骸化させられてしまった。
小学校では推薦唱歌の「お化けなんてないさ」が歌わされるではないか。
また、大学の仏教科では「霊なんてないさ」と教えられているのである。
しかし、真実(オカルト)は死なない。

987名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 14:24:59 ID:TSou3A4X
>>984
きつく言ってしまい、すみませんでした。

聴聞する時、私自身何度か頷いたり、心の中で「なるほど」と納得することがあります。
たぶん皆さんも何度もあるはず。
では、そのご法話が無量寿経の意図を汲むものであれば、
それこそ私が成仏して行く道を素直に聞いていることじゃないでしょうか。
オーバーな言い方かもしれませんが、これこそ弥陀の本願を疑い無く聞く姿ではないでしょうか。
悔しいかな、疑いつつも、聞けば頷かされる。そしてその繰り返し。

ちなみに、973さんや980さんの言う「刷り込み」というのは、
唯識でいうところの、「薫習」のことかな。
その薫習により私たちの考え方・行為が変わることが「習気」かな。
帰三宝偈の「習気亡未亡〜」ね。
988985=956:2007/02/02(金) 15:29:25 ID:CYSrkaOD
>>986
節談説教といえば、今年7月3日(火)築地でやるんですねえ。
忘れそう。
近づいたら、だれかやるよって書き込んでくれるといいんだが。
989984:2007/02/02(金) 20:19:06 ID:wNDpFvGp
>>987さんがうなづける事は喜ばしい事です。
私も昔はうなづけた感じになった事が何回か
ありましたが、それは思い込みだったのでは
無いかと今では思っています。
つまり、心の底からのうなづきでも喜びでも
無かったのです。
私の中には、疑心があります。お念仏とは何か、
ご本願とは何か、阿弥陀様とは何なのか、私の
人生にどのように関わってくるのか、私は本当に
心の底から喜んでいるのか、うなづけているのか、
見つめなきゃいけなくなったのです。
990名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 22:47:37 ID:pAQPl6B5
むつかしいお話しなのですね
991名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 23:11:40 ID:Dmo6P81b
研修か何かで忙しいのか?
992989:2007/02/02(金) 23:28:57 ID:wNDpFvGp
わかった、自作自演と言われてまで書く気には
なれない。
自作自演でいいよ。
それで990さんは納得するんだろ。
993988=956:2007/02/02(金) 23:51:43 ID:CYSrkaOD
スレも終わりに近づいたので、埋める意味もあって、法然さんの7か条起請文の
2番目を紹介。

一、無智の身をもちて有智の人に対し、別解別行の輩にあいて、このみてジョウ
  論をいたすことを停止すべき事。(ジョウ=言争を一字にしたもの)

既出ならゴメン。
994名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:24:40 ID:DKf7LuZk
埋めましょう
995名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:25:24 ID:DKf7LuZk
995
996名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:25:54 ID:DKf7LuZk
996
997名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:29:42 ID:DKf7LuZk
997
998名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:31:40 ID:DKf7LuZk
998
999名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:32:18 ID:DKf7LuZk
999
1000名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:32:24 ID:sKqZ3TrV
一般的他人が読んで意味が分からない了解は一般多数で共有し難いものであり、
そういうものが嫌われるのは一般的な場ではアリアス。
10011001
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