十十十 カトリック159 十十十

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781名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 05:00:39 ID:13fD4OyS
ダニエルさん、やっぱりあなたには違和感を感じる。
カトリックを変えようとするのではなく自分自身を変えた方がいいよ。
782みく ◆lqWrB4ttOo :2006/09/25(月) 05:04:53 ID:pjoVnDA1
>>780
イエス様に愛されれば、人を愛する必要はないといってるようなものね。
783みく ◆lqWrB4ttOo :2006/09/25(月) 05:13:34 ID:pjoVnDA1
ダニエルは
「私たちは神様に無償で愛されたのだから、
人を愛する必要はない。
人は行為によってではなく信仰によって救われるのだから」
といってるに等しい。アホでつね
784みく ◆lqWrB4ttOo :2006/09/25(月) 05:20:40 ID:pjoVnDA1
ダニエルは
「神様は私たちに無償で犠牲を払われたのだから、
私たちが犠牲を払う必要はない。
人は行為によってではなく、信仰によって救われるのだから」
といってるに等しい。アホでつね

ダニエルは
「神は私たちに無償で罪滅ぼしをしてくれたのだから、
私たちが罪滅ぼしをする必要はない。
人は行為によってではなく、信仰によって救われるのだから」
といってるに等しい。アホでつね

ダニエルは
「神は私たちの代わりに罪を償ってくれたのだから、
私たちが罪を償う必要はない。
人は行為によってではなく信仰によって救われるのだから」
といってるに等しい。アホでつね
785名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 05:23:30 ID:13fD4OyS
プロの工作員なのかカトの日が浅いのか。
安心して読めない危険なものがあるね。
786カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/25(月) 05:42:53 ID:czMTb2Hj
なんだ、ダニエルは信仰義認の人だったのか・・・・・

ますますがっかりだな。
ちなみにローマ書のこの箇所

>ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
>の恵みにより無償で義とされるのです。

は、誤謬してはいけない。
ま、パウロの書簡は、別に間違ったことを書いていないのだが、
わざと、誤謬するような言い回しで書かれている。
キリスト教をバッタもんにするためにね。
787ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/25(月) 09:14:04 ID:W4YGL4wo
私たちが義とされるために、私たちが償って足りるような
罪ではないということを理解しないといけないと思います。

私たちが自分で償える罪なら、イエスの過ぎ越しは必要なかったのです。
私たちの罪を帳消しにするには、神の子を生贄とする、というとてつもない
高い代価が必要だったことを理解しなければなりません。

この尊い代価により私たちの罪の代償が支払われたのです。
聖書に書いてあるとおりです。
788ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/25(月) 09:16:09 ID:W4YGL4wo

イエスの十字架で何か不足があるように考えることは間違いである
と思います。
もちろん、罪を犯さないようにすることは大切です。

とにかく聖書には、はっきりと「無償で義とされる」と書いてあります。
これを受け入れない人は、聖書を信じないということになると思います。
789名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 09:17:53 ID:rJrMDnC1
651の日本語上手だなあ。日系二世にしては。
790ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/25(月) 09:19:17 ID:W4YGL4wo
>>783
>ダニエルは
>「私たちは神様に無償で愛されたのだから、
>人を愛する必要はない。
>人は行為によってではなく信仰によって救われるのだから」
>といってるに等しい。アホでつね


そのようなことは一言も書いていません。
償いなしに義とされた、ということが、なぜ
「人を愛する必要がない」とか「信仰義認」とかの話に
なるのでしょうか。そのような論理のすり替えをしてでも
あなたは他人を貶めたいのですか?
791ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/25(月) 09:24:24 ID:W4YGL4wo

聖書の言葉を素直に信じない、という態度を改めて、
聖書の言葉を素直に受け入れる人になってください。

カトリック教会は、1600年という年月を経たにしては
驚異的なほど、正統的な信仰を保っていると思います。

しかし、それでもやはり過りはありますし、スペイン異端審問の
ような大きな誤りも犯しているのです。

ですから、教会を「絶対視」したりしてはいけないのです。
教会はもちろん、教皇であっても間違いを犯すのです。
カトリック教会はもちろん、教皇にも「絶対」は無いのです。
このことを、どうか認めていただきたいと思います。

カトリック教会の信者さんは、このような偶像崇拝をしておられる
方がたくさんいるからです。
「絶対」と言えるお方は、神だけです。
792訂正:2006/09/25(月) 09:25:21 ID:PDiEQqxH
信仰によって義とされるとかのお話ですか?

ブツ切れの投稿では話が見えないので、
論点をまとめて下さい。
793ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/25(月) 09:32:14 ID:W4YGL4wo
>>792
>信仰によって義とされるとかのお話ですか?
>ブツ切れの投稿では話が見えないので、
>論点をまとめて下さい。

今までの投稿の論点は、すべて定まっています。
ですから、理解できない人は理解できないままでよいと思います。
ちなみに、あなた方が大好きなプロテスタントとカトリックの対立の図式とか
「信仰義認」だとか「行為義認」だとかの幼稚な議論に興味はありません。

信仰があれば、自然と行為が変わってくるのです。
こんなこともわからないで、信仰だ、行為だ、と言い合っているような人たちと
一緒にしてもらっても困ります。

あなた方は、このように聖書の聖句に従うことを拒む思いを持っています。
こうした思いは自分中心の世界観から出ているのです。
世界観を自分中心から、神中心、聖書中心に切り替えなければいけません。
794訂正:2006/09/25(月) 09:55:43 ID:PDiEQqxH
>>793
「あなた方」とかいう、いい加減な総括は止めて下さい。
私はカトリックですが、貴説は常識的に理解できるものです。
795あるカトリック司祭:2006/09/25(月) 10:45:34 ID:MMOcuPCw
ダニエルさんの投稿は全て正しい。

あなた方は彼の言うことに聞くようにしなさい。

主の平和
796名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 10:50:01 ID:zVMNjR8x
>>793
では告解は不要なのでしょうか?
797名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 11:09:49 ID:2+rR22v9
ダニエルはカトリックの誤謬を教えるために主が遣わされた使者
彼をたたえましょう。
798名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 11:11:29 ID:2+rR22v9
>>796
したければすればいいのでは
強要することではないのでは
799名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 12:17:44 ID:2+rR22v9
>>796 神に直接告白しなさい。人に告白してはなりません。
800名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 12:27:46 ID:OQvZsVI9
>>799
あなたは何処の人?
801カトリック司教:2006/09/25(月) 12:40:11 ID:2+rR22v9
告解は、してもしなくてもいいよ。
だいたい、司祭が告解を受け付けたがらないからね今の時代は。
時代に即して柔軟にすればいいよ。
秘蹟で救われるわけではないからね。
802名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 12:49:17 ID:OQvZsVI9
>ある偽カト司祭&司教

もう少しましなレスしなよ
803ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/25(月) 13:26:38 ID:zB6mBrG3
>>794 訂正さんへ
>「あなた方」とかいう、いい加減な総括は止めて下さい。
>私はカトリックですが、貴説は常識的に理解できるものです。

申し訳ありません。
極力、誤解を生む表現は避けるように努力します。
大変失礼いたしました。
804名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 13:55:23 ID:VWbHaPhi
幼きイエズスの聖テレジアの聖遺物の話

ある日テオフィロ神父は小さな聖体器の中の幼きイエズスの聖テレジアの聖遺物を、
この聖人のものとは知らずに聖具室に安置しました。
別の日に、保護を願い奉るためにテオフィロ神父はこれをポケットの中に入れ、
祓魔式が行われている修道院に行きました。
丁度その部屋に入室した時、悪魔がわめき出しました。
「去れ!それと共に去れ!小さき花の聖遺物と共に、その風見鶏と共に去れ!」

「我々は小さき花の聖遺物など持ってはいない。」と祓魔師が大声で言いました。
悪魔は「確かに今丁度入室した者がそれを持っているのだ。」と言い、
テオフィロ神父を指し示しました。悪魔はどれほど唾きをし、抵抗を始めた事で
ありましょうか!

また他の時小さき花は更なる重要なる事をなさいました。
人々はサタンが聖ミカエルに対しいかに凄まじき戦いをするかについても
気づく事が出来たのです。


805名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 14:30:01 ID:LcoMz0qK
とりあえず注意喚起

この【聖ミカエル】というのは高橋佳子のことではありません。
806ゲジゲジ悪魔:2006/09/25(月) 15:31:23 ID:GGDHU2zN
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807名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 16:28:41 ID:vKPS1wnA
>>774
死後について、あなたは聖書から、どのように解釈されていますか。
聖句を上げて、説明してみてください。
808名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 18:22:01 ID:EkvNJeAH
小ヴァヤシ徹也さんは日本人に向けての秋田の聖母マリアのメダイの販売は中止したの?
809名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 18:30:11 ID:LcoMz0qK
>>807
何か問題でも?
810名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 19:58:12 ID:GGDHU2zN
丹波哲郎さんが死去
811名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 20:21:13 ID:M6YA8MA4
丹波はカトリックだったのか
812名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 20:55:54 ID:8NtEXufl
カトリックの死後観

死ぬと直後に私審判が臨終の床の上で行われます。
ほとんどの人は、審判後に煉獄に入り、天国に行けるようになるまで
各種の浄めを受けます。
まれに天国に直行するような聖人もいます。
昔は洗礼を受けてない子供や異教の義人は神と出会えないリンボに入る
といわれましたが、リンボは前の教皇により廃止されました。
それ以外の異教徒は、地獄に落ちて火で焼かれる、と教えられていましたが、
今は地獄の存在に疑問符がもたれています。
やがて、煉獄と地獄も廃止されると予測されています。
天国だけは残されるでしょう。
813みく ◆Kox6WYmKK6 :2006/09/25(月) 23:50:48 ID:ZVZZSRom
またもやにせみく・・・#のうしろはlunaでした。

どう、だんだん私の秘密が解けてきたんじゃないかな
814名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 02:27:54 ID:J0DObUq6
22 :narumi ◆BsviaE72Qo :2006/09/25(月) 18:11:19 ID:Xo6su9GS
みなさまへ

悲しいお知らせです。
前から予告していたとおり、今日で2ちゃんを卒業します。
2ちゃんに消費する時間とエナジーを、他に転換して
有意義な人生を作ろうと決心しました。

私のトリップでつ。narumi#...
どなたか引き継いでくださる方は使ってください。w

みく、希美、シスターシャロン、聖ちゃん、オター、我さん、
八戸のカッペ菅原クン、犬さん、ignisさん、極悪じい、月見うどん、
えてこう、うさ公、その他たくさんの方々、こりもせず相手して
くださって本当にアリガトン(TT)

私は嘘付きました。書いたことは全て真実でも、多重人格者を装いました。
よかれと思ってしたのでしたが、それもいけないと心から理解しました。
許してください。

さようなら
815名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 04:06:54 ID:RpYUX7fk
>>812
リンボウはただの考えで、実在の場所ではなかったわけでしょう。
だから、簡単に削除できるわけでして。
煉獄もそうだというし。
地獄もないなら、天国だってあるかどうか怪しいですよ。
時代に即してというなら、心理学的に全てを置き換えるのでしょう。
816名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 04:23:11 ID:jJ8TCuoi
>>721
神は「存在」で、神名は「生成」です。神と対話する者にとって、神が存在することは自明です
が、神が如何なる仕方で存在する御方なのかは自明ではありません。
それゆえ神は、モーゼに「生成」という神名で、ご自分の「存在の様式」を啓示されたのです。
そして、神が発した神名(生成)は、神の「御言葉」に他なりません。
従って「存在」と「生成」の間には、神と御言葉、御父と御子の関係の類比が成立します。
ニケア信条に「造られずして生まれ、父と一体」とあるように、イエスは神における「生成」
としての「御言葉」なのです。
神と御言葉、御父と御子が一体であるように、「存在」と「生成」は一体なのです。
「存在」(神、御父)なくしては、「生成」(御言葉、御子)もありません。
両者を相容れないものとして対立させる必要はないのです。
817名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 05:16:09 ID:2EzN1Z7Y
>>816
神はいかなる限定も超えています。私が「生成」と述べたのは、
シナイ山でモーセに告知された神名がヘブライ語で「生成」(なる)の意で
あるハーヤー動詞で告知されたということだけです。しかし、これにした
ところで、人間の言葉で説明すればそんなところになるだろうという、
文法的リミットを示しただけで、いかなる定義も超えた神は、そうした
反語的・否定的な方法で模索するしかないという、人間的無知の告知でも
あるわけですね。
818名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 06:30:52 ID:jJ8TCuoi
神名は「生成」であって「存在」ではないというあなたの主張は、例えて言えば、
イエスは御子であって御父ではないという主張と同じ意味合いで正しいのですが、
神と神名との関係の考察をすっとばして、いきなり「神は存在ではない」という
結論に持って行くのは、いささか論理の飛躍があるように思います。
819名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 07:42:14 ID:2EzN1Z7Y
>>818
それは、あなたが神と神名の関係を人と人名の関係からのアナロジーでとらえることからくる誤解です。
シナイ山で告知された神名は神のあり方と不可分であり、人と人名の関係からは類推できません。
つまり、被造物から神を類推することはできないということです。
820ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/26(火) 09:11:45 ID:FlSI6YnR
>>817
>神はいかなる限定も超えています。私が「生成」と述べたのは、
>シナイ山でモーセに告知された神名がヘブライ語で「生成」(なる)の意で
>あるハーヤー動詞で告知されたということだけです。

「生成」についてです。これは、別の言い方をさせてもらえば
神は「自ら生きている」ということではないかな?と思います。

森羅万象は神から生かされていますが、神は「おのずから生きているもの」
ということかな、と思います。
どう思われますか?
821ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/26(火) 09:16:36 ID:FlSI6YnR
僕も >>819さんが書いておられるように、
>>818 さんの主張である「神は存在ではない」は、少し飛躍があるのかな、と思います。

その理由ですが、
生きている=存在 だと思うからです。

もしかすると
生かされている=存在 になるかもしれません。

神と人とがひとつになれば、きっと生きているものも生かされているものも
ひとつの存在になるのだと思うのです。
822ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/26(火) 09:17:49 ID:FlSI6YnR
訂正します。

上の文章の引用で、>>819 と >>818 が逆になっておりました。
お詫びして訂正させていただきます。
823名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 10:56:29 ID:2EzN1Z7Y
>>821
それは、普通神学を支えているギリシア哲学における「存在」の一般的定義と違います。
「存在」とは最終的形態を持った時空間における物量的ひろがりについて使う用語で
あり、あなたが恣意的に定義された「存在」とは違うと言われれば、そりゃ違うでしょう。
別の説明をすれば、神は「〜【である】」とは限定できない、存在論的に回収できないと
いうことです。
824ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/09/26(火) 13:24:10 ID:fj7CMSXK
>>823

なるほど。
ギリシア哲学の「存在」とは違う、と言われたらそれまでですね。
825名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 20:41:22 ID:F6iD1sxd
神が在るのは自明ですが、如何なる仕方で在るのかは自明でありません。
神は存在物が存在するような仕方で在るのではないことは確かです。
神は何であるか?と問うなら、神は「神名」(御言葉)である、ということになるでしょう。
神名は何であるか?と問うなら、神名は「生成」である、ということになるでしょう。
生成は何であるか?と問うなら、「生成」は神の在り方である、ということになるでしょう。

新約において、神の「生成」としての「神名」(御言葉)が、「造られずして生まれ、父と一体」
であるイエス・キリストであることが、啓示されました。

神は人間の言葉で把握することはできません。そうではなく、神がご自分に近づく者に
御言葉を与えることで、神が人に歩み寄るのです。御言葉が人間になることで、人間の
言葉、理性による存在論的アプローチが可能になったということです。
826小牧瑞夫(こまき みつお):2006/09/26(火) 22:23:24 ID:AVko6Fqg

 そののち、アブラハムが日盛(ひざか)りに幕屋の入口に腰をかけていると、

マムレのかしの木のそばに、主(神)が姿を現された。アブラハムが目を上げる

と、≪三人の男≫がそばに立っているのが見えた。

   ( 創世の書18:1−2 )・・・両脇の二人は男の天使。聖母マリア

以外は、みな男の天使である。聖母マリアは天使と似たものとなり、この世に

預言の警告を与えておられる(聖地ルルド)。・・・
827みく ◆Kox6WYmKK6 :2006/09/26(火) 23:28:03 ID:YXCOW2KS
ave maria
828みく ◆Kox6WYmKK6 :2006/09/26(火) 23:47:43 ID:M5a1czWC
おは
829名無しさん@3周年:2006/09/27(水) 08:35:05 ID:bRgDxDxW
>>825
>神は人間の言葉で把握することはできません。そうではなく、神がご自分に近づく者に
>御言葉を与えることで、神が人に歩み寄るのです。御言葉が人間になることで、人間の
>言葉、理性による存在論的アプローチが可能になったということです。

それはそうでしょうね。イエスは、ご自分を父への「道」と称されているわけですから。
旧約の神のようなあり方では、多くの人々は、何をお考えになっているかわからないので、
ひたすら恐懼するでしょうし、神名など関して抽象的思惟に堪える者も少ないでしょう。

ですから、血肉を持ったイエスがこの世に遣わされて、父への「道」の道案内となられた
のでしょう。そのイエスの言葉を命がけの飛躍で信じるのが信仰です。
830名無しさん@3周年
@聖書はマリヤ崇敬等の偶像礼拝を厳禁しています。出20:4-6、レビ19:4、26:1、
申4:16-19、23、5:8-10、イザ44:9-20、Tコリ6:9-10、Tヨハ5:21、黙22:15、他にも多数
A偶像礼拝は神に背く行為である上に、悪霊と交わるという二次的な害があります。Tコリント10:19-20
B人は、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ救われます。
マリヤ崇敬や、その他の行為によって救われるものではありません。
※マリヤを崇敬しても救われません。イエスを救い主と信じ、心の中に受け入れる必要があります。ヨハネ1:12、ロ-マ3:21-31、ロ-マ10:9-10、ガラテヤ2:16
C神と人との間の仲介者は唯一、人としてのキリスト・イエスであり、マリヤは仲介者ではありません。Tテモテ2:5
D主イエスが人として生まれたのはマリヤからですが、父なる神と同質の神の御子として生まれたのは造られたすべてのものより先であり、マリヤは神の母ではありません。コロサイ1:15-17
E聖書には「マリヤの像を作れ」とも「マリヤ崇敬をせよ」とも書かれていません。新約外典にさえ書かれていません。申命記4:2、箴言30:6、黙示録22:18-19
※ケルビムや青銅の蛇は主の命令によって作られたものです。その青銅の蛇でさえ、偶像化した際、打ち砕かれています。出25:18-22、民21:8-9、U列18:1-6
F伝承は聖書に匹敵するものではなく、信仰基準ではありません。内容が明らかに聖書に反しているものなど論外です。マルコ7:8、Uテモテ3:16

 以上のように、マリヤ崇敬は聖書に完全に反しており、神に背く行為です。
いくら詭弁を考えても、マリヤ崇敬が神に背く行為であるという事実が変わる