えらいアンチがいるな。サラリーマンがそんなに悪いのかい?
502 :
神も仏も名無しさん:2007/08/23(木) 23:23:49 ID:Xpn8fUw1
サラリーまんでも、ロリでもよかよ!
一般人奈良ね。ただし、なんでそんなのがキリスト
だの霊界の実相だの語る資格があるかってよ?
ある意味、ヘンタイの方が天国を見てると思う。
504 :
神も仏も名無しさん:2007/08/25(土) 22:55:41 ID:KcBfRldK
スエデンボルグは自分の主張のせいで自国にいられなくなってロンドンに移住したんじゃなかったっけ。
これは弾圧されているわけだろ。信仰のために苦労してんじゃん。
スエデンボルグの影響を強く受けた出口王仁三郎の大本は戦前戦中にひどい弾圧されたぞ。命がけの後継者(?)いるじゃん。
それとな〜、なんか特別な苦行経験がないと認めねえなんてのはな、それは個人的な思いこみにすぎんだろう。
スエデンボルグが凡夫だったとしても、特別な使命を受けていたんだったというなら、それでいいじゃない。
505 :
神も仏も名無しさん:2007/08/28(火) 19:28:22 ID:9A6crCH0
「結婚愛」ってなかなかいい本だよ。
本人は結婚していないのにここまで書けるのはすごいね。
その中に2ちゃんを思わせるような霊界の様子が書かれている部分がある。
おしゃべりが天界の喜びだと信じる霊がいく場所で、無数に区切られた部屋がある建物で、
その中でそれぞれテーマにのっとって喋ったり議論したりしている。最初は楽しいんだけど、
そのうち飽きてきて最後にはいやになってしまうというw
506 :
神も仏も名無しさん:2007/09/04(火) 08:55:36 ID:0YLYMyQB
スエデンボルグの言うことを信じれば、彼はキリストの忠実な僕で、「霊界の
実相を語れ」と命じられたからそれに従っただけだろう。
それに、パッケージの立派さだけに目を奪われるような輩は、本質については
何もわかっていない「真理オンチ」と昔から相場は決まっている。
イエスが、宝石をちりばめた王様の衣装ではなく、汗と血にまみれたみすぼらしい
姿で真理を説いているのは、その種の「真理オンチ」を遠ざけるためのカモフラージュ。
スエデンボルグもこれと同じだと考えればよい。パッケージだけ関心のある奴は、
大伽藍が立派で中身が空虚な大教会へ行けばよい。類は類をもって集まるだからな。
スウェーデンボリのスレがあったんですね。
よろしく^^
すべての預言者と使徒たちが命を賭けて地上を駆け巡ったのに、
スウェデンボルグがやったことといったら、ただ本を出版するだけ・・・
しかも無駄に多く、高い・・・・・・
こんな預言者いねーよ。
あと、スウェデンボルグは、ヘブライ文字についても間違いおかしてるね。
ヘブライ文字の母音記号がはるか昔からあるように書いているが、実際は紀元後に作られたものである。
結局は、スウェデンボルグの思い込みで書いてるだけなんだな。
510 :
神も仏も名無しさん:2007/09/13(木) 10:55:27 ID:D69HlQ9i
ん? それは致命的な問題なのかね?
もう少し、気に入らない点を整理してみてはどうか。
511 :
神も仏も名無しさん:2007/09/14(金) 09:46:31 ID:0U3E3hFR
>>508 同意ですね。
スエーデンボルグが活躍した19世紀にはもう東洋では仏教、儒教が隆盛を誇って
いた。スエーデンボルグはさまざまな著書の中で、中国人について言及
しているが彼らが信じていたはずの仏教、儒教は出てこない。
仏教やヒンドウーの説く「輪廻転生」の存否は霊界探検家ならぜひとも言及しないと
いけない大問題のはずである。
これはおかしい!また他の宗教(マニ、ゾロアスター、ヒンドゥー)も
皆無である・・・なぜなのだろう。たぶん彼に(現世の)知識がなかったのでは
ないか?つまり現世の知識がないと来世は書けなかったのである。
512 :
神も仏も名無しさん:2007/09/14(金) 09:59:16 ID:0U3E3hFR
>>506それに、パッケージの立派さだけに目を奪われるような輩は、本質については
何もわかっていない「真理オンチ」と昔から相場は決まっている。
パッケージじゃないと思う。心から15の娘を愛していたから
結婚まで考えたのであろう。娘の気持ちも考えず・・・
彼の著書によれば死後は本人の愛そのものになるはずだから
私は「死後はロリをやっている。ロリのセフレをもっているはず。」
と言ったのである。
ス氏の理論はカント哲学に似ている点が多い。カントは理性を重んじた。
また行為の結果よりも動機の純粋性を重んじて外的な「傾向性」
(欲望)を排除し、評価しなかった。
たまたま外的な行為が道徳的(義務)と合致していても
評価できないという態度である。また、物自体という道徳の根源、
あるいは物質の根源のような形而上的理想の世界を想定した。
要約すれば人間の「本性」がいかにあるかということにおいて
(善か悪か)の哲学を構築した人である。
どうも私が解説するとうまく行かないから各人で勉強されたし。
ス氏はカントのパクリ・・・といってしまうと「真理は一つ、
似通ってしまうのは自然の事」と反論されると思うが各人に
判断はゆだねるしかない。
>ただし行いをしようとしても行えない人は
>なんとなりますか?寝たきりの障害者や高齢者は?かつての若き折、カリエスで寝たきりだった
>三浦綾子さんや星野富弘さんは?
まあこういう例を考えられる思考回路があるのなら
よくキリスト教なんていう理不尽宗教信じられるよね。
幸福でほどほどに生きた善人と地獄のような人生生きた人が
等しく「永遠の天国」にぶち込まれるという不平等。
>>510 ヘブライ文字に関する無知は致命的でしょ。
後代にできたにすぎない母音記号についても、聖なる内なる意味がある、といったんだから。
結局、他の事に関しても、適当に書き散らしてるだけという証拠だろ。
515 :
神も仏も名無しさん:2007/09/14(金) 21:14:41 ID:MhjEdEas
正しい。。。じゃなくて ただし・・・BUT・・・
>>
幸福でほどほどに生きた善人と地獄のような人生生きた人が
等しく「永遠の天国」にぶち込まれるという不平等。
>>514 わたしもそう思います。なんと霊界が間違えたということになる。
これは致命的!
いやわからん?どこにそんなこと言ったっけ?聖書にもないけど。
>>509 >あと、スウェデンボルグは、ヘブライ文字についても間違いおかしてるね。
>ヘブライ文字の母音記号がはるか昔からあるように書いている
どの著作の何番で、「ヘブライ文字の母音記号がはるか昔からあるように書いている」のかい?
公刊されている著作では、読んだ事がないのだが。
517 :
神も仏も名無しさん:2007/09/19(水) 13:00:46 ID:oU0FFsJp
気にするな。バビロンの主人が放った工作員が出没しているだけだから。
ゲイビデオにもBabylon Stageというシリーズがあるしな。
以前にある野球選手がシリーズの一本に出演したせいで
あやうく本人の選手生命を絶たれるところだった。
519 :
神も仏も名無しさん:2007/10/05(金) 22:48:12 ID:nOZnH5uH
サティやイトーヨーカドーで幼児をトイレに連れ込みいたずらする事件が相次いでいるようです。
男の子はお尻にボールペンを入れられ、
女の子はもっとひどくて三歳で子宮を全摘出しなくてはならないほど。
口には粘着テープをされたらしい。
ママと買い物していて子供だけ男子トイレに入ったときや
ママと別の個室に入って一人で出たところを狙われたらしい。
もしお子さんを一人でトイレに行かせているのなら気をつけてあげてください!
520 :
神も仏も名無しさん:2007/11/03(土) 19:20:22 ID:GqZiiRgA
>>500 当時の時代背景を調べたうえで言ってるのかね。
スピリチュアルの鏡理論によれば、他人をそのように断罪する者は、
自分の中にそのような欲望があるからこそ、
「他人も自分と同じような欲望、思考、感じ方をするはずだ」
と思うんだよ。
521 :
神も仏も名無しさん:2007/11/03(土) 19:23:55 ID:GqZiiRgA
>>520 イエスも、
マグダラを断罪した連中には「罪のない者は裁くがよい。」と言い、
マグダラには「私もあなたを裁かない」言った。
522 :
神も仏も名無しさん:2007/11/03(土) 21:42:53 ID:GqZiiRgA
520、521 に追伸。
私の言いたかったのは、
「クリスチャンが俗人やパリサイ人や律法学者と同じような判断しか下せないん
じゃー、2000年前から少しも進歩してないってことだろ」
つーことです。
523 :
神も仏も名無しさん:2007/11/03(土) 21:46:25 ID:SLWwleYV
セラフィタセラフィトスはオモロイ本
524 :
神も仏も名無しさん:2007/11/05(月) 18:53:02 ID:UX0kg3tw
バルザックの小説?
_,,..,,,,_ _,,..,,,,_
_,,..,,,_/ ・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_
./ ・ω_,,..,,,,_ l _,,..,,,,_/ω・ ヽ
| / ・ヽ /・ ヽ l
`'ー--l ll l---‐´
`'ー---‐´`'ー---‐´
526 :
神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 00:12:23 ID:3sGhRWSI
>>525 バルザックの小説に「セラフィタ」というのがあるんですよ。
527 :
神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 03:33:10 ID:30sxU6x+
私もそうですね・・もう死んでるのかもしれないです。いや、死にたい。
何も楽しいことがないです。
>>527 ま、「浮世も心次第」だというじゃないか。
何も楽しみを見出せないままに霊界に戻ったって、やはり楽しいことなど見出せないぞ?
生きているうちに楽しいことを見出しておかないと、たとえ高級な霊界に足を踏み入れてみたって、そこの太陽がまぶしすぎて耐えられんぞ。
そして、とどの詰まりは薄暗い霊界にとどまっては「楽しくない 楽しくない」と言い続ける同じ階層の霊界仲間と愚痴ばかりを永遠に言い続けるところに落ち着くことになる。
・・・・まずは「物事を、今までより深く識る」ことに心掛けてみられてはいかがだろう?
529 :
素人A:2007/12/11(火) 16:14:36 ID:v2PYm560
>>528 と言う事はこの世界で心高めれば同じ階級仲間も自動的に上がるのですか
>>529 いや、おそらく基本的には「個人(個々の霊)」単位での霊格の向上と相成るのを原則としているのだと思います。
ただ、同じ霊系の霊界の住人らとて、「中心霊」や同じ霊界村の住人の大立者の登場によって、その大立者の所属する霊界村の住人らが一斉に触発されることで、
丸ごと高次元霊界に引き上げられるなんて事象が霊界では存在してもいるらしいのです。
ま、階級仲間というよりも、大いに心を高められた霊の存在する「霊界の一村落」単位での霊位の向上ぐらいならば割りに頻繁にあるのではないでしょうか?
531 :
素人A:2007/12/12(水) 08:23:36 ID:EA3or30m
有難うございました。霊界は心の中に存在するというか輪廻転生も心の中
だと思うのです。ま直感で思うだけですが。正法眼像の法華転法華で
道元さんによると心悟れば法華を転ずると虚空からも仏が次々と湧き出して
くるとあるのでああいう感じと勝手に妄想するのですが。
私間違っても気にしません。
532 :
神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 21:28:24 ID:5VLnGC6Q
533 :
神も仏も名無しさん:2008/01/19(土) 15:42:03 ID:gKd8sTH4
宗教団体のスタッフがやる霊能まがいのものは全部芝居です。
あそこにキツネが座っていて講義をウンウンとうなずきながら
聴いていたから除霊しといたとかいうのも全部嘘です。
絶対にありえません。教団の若いスタッフもこの嘘を本気で信じていますが、
さまざまな文献を研究すれば霊的に見てもありえないということはわかるでしょう。
信者の著名人や医者、弁護士もこのトリックに引っかかっています。
534 :
神も仏も名無しさん:2008/01/20(日) 10:18:04 ID:hH6H0j/E
スウェデンボルグは、スウェーデン国名の元となっている方ではないですか?
優秀な科学者で行政の立場でも手腕を発揮していたようです。
私はキリスト教信者ではありませんが、体脱(幽体離脱?)の世界観に興味があり読みました。
ただ、自分の現世利益のために神を利用した宗教屋(神父?)が死後に苦しむ姿は妙に納得できました。
通信が貧弱な時代に遠方の火事をリアルタイムで察知(千里眼?)したり、死者しか知りえぬ情報を正確に肉親に伝えたことは驚異です。
現代のインチキ霊能者には無い力を持っていたのでしょう。
535 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 07:56:36 ID:iHLQq4lB
>スウェデンボルグは、スウェーデン国名の元となっている
どこにそんな珍説が?
スンダル・シングが天において見た三位一体は
スウェーデンボルグのそれと同じだ(似ている)が、
スンダルはどのように考えていたのだろうか。
彼の書籍を読むと、刑罰代償的な贖罪を説いていないが。
もう誰も見ていない?
(`・ω・´)見てます
アメリカのニューチャーチに疑問を送ったら、
親切に答えてくれたので翻訳転載する。
Q3.
救いに向けた再生は徐々に行われるとありますが、イエスと共に磔にされた罪人はどうなのでしょうか?
イエスは彼に、「今日、あなたは私と共にパラダイスにいるであろう」と言われましたが……。
また、死を目前にした人の改心について、新教会はどのように教えていますか?
A3.
「あの十字架上の盗人は悪人だったが、彼が死を前にして言ったことばで救われたのだ」と、言う人がいますが、
本当に彼は内心から悪人だったのでしょうか?もちろん、彼は盗みのために罰せられていましたし、彼自身が自分の過ちを認めていました。
スウェーデンボルイの著作はこのように教えています。
「人は理性的な確信に従い、状況と偶然性を考慮に入れて、ある人を許すことがあっても、
判事が裁判の席で法律に基づいて許せないことがある。
また、死後に断罪される身の人を、判事が許すこともある。
その理由とは、判事は事実に基づいて判決を下すが、人は死後において
本人の意思による意図 や それによる理解力によって裁かれるからである。」 結婚愛485
天界と地獄358、471、472は、ある2人が見かけでは同じことを行いつつも、
彼らの性質がまったく異なっている事を明らかにしています。
あの盗人がイエスに話しかける前に言った事から、
彼の性格(性質)をうかがい知ることはできないのでしょうか?
所謂「死の床での悔い改め」というのは誤った信念です。
というのも、「いかなる悪を喜んで行いながらも、
死ぬ前に良いことを言えばよい」ということを示唆するからです。
まさに死のその時に救われる、と考える人がいますが(天界の秘儀4730、7779)、
人の「いのち」の状態が一瞬で変わるとか、
悪い人がたちまち良い人になると考えるのは誤りです。(神の摂理279:4)
実際に死にそうになると簡単に恐怖に影響され、自分の本当の意志を示しません。
エルサレムと天界の教義168によれば、
「自由な状態での悔い改めは有効なものであるが、強制状態のものはそうではない。
強制された状態というのは、差し迫った死などの、理性の働きを奪ってしまう恐怖の状態のことである。
悪にある者は、強制状態において悔い改めを約束するものの、
自由の状態に戻ると、以前の<悪のいのち>に戻ってしまう。
It is otherwise with good. (← “そうでなければ、善とともにある”?) 」
その時点にのみ 悔い改めのことばを言っても、人は改革されません。
しかしながら、「神の摂理142」は病死しそうな人について特に言及しています。
「ただ、病気になる前に改革されていれば、それで強められる事は可能です。」
このことばで終わっていますが、唇ではなくて心の問題である、ということです。
あの盗人の救いは、即座の救いではありません。
イエスは彼の魂を、彼の心が良きことをご覧になられました。
人は突然には改心しません。そのいのちの中に、あの盗人は既に天界を受け入れていたのです。
「天界へと受け入れられる人々というのは、自分の中に天界を受け入れた人々のことです。」
hosyu
544 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 01:59:03 ID:1qBi7RBW
マッケンロー
73 【 天界へ入る生活の容易さ 】
天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど難しいものではない。自分では不正直で不正だと
知っていても、その方向に心が動いてゆくとき、それは神の教えに反しているから行ってはならない、と考え
さえすればよいのである。そのように考えることに慣れ、その慣れから習慣を確立するなら、人間はしだいに
天界と結合してゆく。そして天界と結合すれば、心のより高い領域が開かれ、そこが開かれるにつれて、不正
直や不正が何かが見えてくる。悪が見えれば見えるほど、それを追い払うことができる。どんな悪も見えるよ
うになってはじめて追い払うことができるからである。
人間は自由にこのような状態に入ることができる。実際そうであることを、誰が自分の自由から考えられない
であろうか。 人間が糸口を作れば、 あとは主が人間に内在するあらゆる善きものを活気づける。すると人間
は、悪が悪として見えるようになるだけでなく、その実行を思いとどまり、ついにはそれから離れるようになる。
これが「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」( 「 マタイによる福音書 」11章30節 )という主のことば
の意味である。
しかし知っておかなければならないのは、そのように考えたり、悪に抵抗したりする困難さは、人間みずから
意思して悪を行う度合いだけ大きくなる、 ということである。 なぜなら、 それだけ人間は悪が見えなくなって、
ついには悪を愛し、愛する喜びから弁解し、 さまざまな偽りによってそれを正当化して、それは許されたこと、
善いことだとさえ公言するようになるからである。 これが、青年期の初期に無鉄砲に悪に飛び込み、心から
神的なものを拒絶する者たちの運命である。
74 天界に通じる道と地獄に通じる道
天界に通じる道と地獄に通じる道が、 かつて私に表彰された。 左のほう、 ないし北に向かう一筋の広い道があり、
多くの霊たちがそこを進んでゆくのが見えた。やや遠方に一つの大きな石があり、そこでその広い道は尽きていた。
その石から道が二手に分かれて、 一本は左へ、もう一本は反対の右へ伸びていた。 左のほうへ伸びた道は、細く
て狭く、西から南に通じて天界の光の中へ入っていた。右のほうへ伸びた道は、広々としていて、下のほうへ曲がり
くねって地獄へ通じていた。最初は誰もが、二本の道の分岐点になっている大石のところまでは、同じ道をたどるよ
うに見えた。しかしそこで二手に分かれた。善霊たちは左へ曲がって、天界に通じる細い道に入ったが、悪霊たちは
その石を見ないで、その上に倒れて傷ついた。起き上がると、彼らは地獄に通じる右手の広い道を走りつづけたの
である。
以上のことが何を意味するかについて、私はのちに説明を受けた。最初の道は広く、そこを善霊も悪霊も一緒になって
友達のように話し合いながら共に歩いていった。彼らのあいだには、一見してそれと分かるような相違は何もなかった。
これは、人々が外見では、正しく正直に生きており、お互いに何の違いも見せていないことを表象している。悪霊たちは
二本の道の分岐点となっていた隅の石にぶつかって、そこから地獄に通じる道へ駆け込んでいったが、この石は主の
神的な真理を表象している。 それは地獄のほうへ向いた者たちに拒絶される。 最高の意味では、 この石は主の神的
人間性を表している。神的な真理と主の神性を承認した者たちは、天界に通じる道を選んだのである。
以上のことから分かるのは、外面的には悪人も善人も同じような生活を送り、同じ道をどちらもたやすく歩んでゆくが、
心から神を承認した人々、とりわけ主の神性を承認した教会内の人々は天界に導かれ、承認しなかった人々は地獄
へ導かれる、ということである。
人間の意図や意思から発現する思考は、他生では道によって表象され、道はそこでは、意図から生まれる諸思考に
正確に一致した形で、 目に見えるように示される。 またそこでは、誰もが意図から発現する思考に基づいて歩いてい
る。 したがって霊たちの性質や彼らの思考は、歩む道によって知られている。 このことはまた、次のような主のことば
の意味を明らかにする。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。( マタイ7章13〜14節 )
生命に通じる道が細いのは、それがむずかしいものだからではなく、ここで言われているように、それを見出す者が
少ないからである。隅に石があり、そこで広い共通の道が終わり、そこから二本の道が相反する方向へ通じている
のが見えたが、その石は次のような主のことばで説明されるものである。
それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
「 家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ ・ ・ ・ ・ ・ てしまう。 ルカ 20章17〜18節 」
「 石 」は神的な真理を( また 「 イスラエルの石 」は主の神的人間性 )を意味している。
「 家を建てる者 」は教会に属する人々であり、「 隅の親石 」は、二本の道の分岐点に
なっている場所である。「落ちる」とか「打ち砕かれる」とは、否定して滅びることである。
>>545-547 乙です。
「青年期の初期に無鉄砲に悪に飛び込み……」のくだりは耳に痛い。
今でもやはり罪の残果をひしひしと感じることがある。
でも、カナン目指してえっちらおっちら。
549 :
神も仏も名無しさん:2008/05/27(火) 09:09:41 ID:z5TG5T70
な
「真の基督教」上下巻を探しているんですが…
何処かに売ってませんかね?出版社にも在庫が無いみたいだし(orz
レスどうもです。
欠品も多々有りますが、スエデンボルクの膨大な著作を抱える静思社のをコレクションしようと思いまして。
本棚には極力、統一性・整合性を持たせたい神経質で損な性格です。。。
553 :
神も仏も名無しさん:2008/06/22(日) 17:41:44 ID:F9brMeCK
>>102 シュタイナー説 ↓
「アストラル界を観察すると、そこに或る種の存在が
―そこにいる多くの存在の内の一種類ですが― いるのに出くわしますが、
我々がふつう目にする物質界の存在のもとには、一見、全然姿を現わさないように見えます。
しかしその存在は、実は我々の物質界と関わりをもっているのです。
我々がアストラル界で出会うその存在は、ある種の明確な意志、
明確な意図をもったアストラル的存在です。
我々が座を占めている世界の内側では、そのような存在は、いま述べたように、
アストラル界で出会えるような在り方をもっているわけです。
しかしその存在は、今日空にかかる月に棲んでいる或る種の存在と同じ起源をもち、
それと同族であるのです。
その月に棲む存在は、今日の月上で或る種の物質的在り方すらもっています。
この月上の存在を霊視によって真近かに見ることのできる者は、
これが月上に生息する、或る意味で人間に類似した存在ではあるが、
人間と比べると小人のような者であるということを知っています。
なぜなら、それは6歳ないし7歳の子供の背丈にも達しないほどの大きさしかないからです。
その月上で彼らは独特な活動の機会をもっています。
月上では自然の条件が全く異なっています。
たとえば大気も全く異なっていて、その結果この存在は、
いわばその自分の住みかに戻ると、そこでとてつもなく大きな声で吠える能力、
物凄く強烈な、恐ろしい音声を発する能力を獲得するのです。
この小人状の存在は我々の世界にアストラル的存在として滞在することができます。」
(全集102番「霊的諸存在が人間に働きかける作用」15ページ、1908年1月6日講演)
ttp://www.higusumi.com/japanisch/steiner/ongaku/ototaiken/tsushin/ototaikentsushin15.html
554 :
神も仏も名無しさん:2008/06/24(火) 17:20:59 ID:YnwW5MSM
↑
これが狼男のモデルとなった月人なんですね!
やっぱりNASAっていろいろ隠してるんだなぁ‥
555 :
神も仏も名無しさん:2008/07/26(土) 02:03:42 ID:aYnkp7KY
>>555 月面には「サンタクロース」まで存在してるんだって。
>>557 「引き合いに出して欲しくない」どころか、
地獄に由来する迷妄として完全に退けるだろうね。
スウェーデンボルグの著作では、霊界への出入りや交流よりも、
「イエス・キリストこそが、万物の創造主にして保持者なる主である」
ということが重要なのは明らか。
霊界での見聞録は、その統治を補足説明するものに過ぎない。
559 :
葵:2008/09/23(火) 00:50:42 ID:BR1uF4Vj
>>558
>霊界での見聞録は、その統治を補足説明するものに過ぎない。
そのとおり、彼の主著は天界の秘儀であり、聖言の解釈が本旨だ。
そして、聖言を解釈するに聖言をもってするその手法には驚嘆させ
られるほどの合理性を持っている。
スエーデンボルグの霊界についての記述はインドの聖者サンダーシング
と全く軌を一にしている。サンダーシングは人に勧められてスエーデン
ボルグの著書を読み、彼を評して、「最高の聖者」と記している。
サンダーシング自身はエノクのごとく、ヒマラヤの雪のなかに神にとられ
たする記録が残っている。
おお、レスがついてる……。もう人がいないかと思った(笑)
>>559 でも、サンダーはあんまり著書を読んでいなかったようです。
というよりも、読む暇が無かったのかもしれません。
「天界と地獄」は間違いなく読んだでしょう。
しかしながら、サンダー自身が著作の真正を認めていますし、
霊界でスウェーデンボルグと会っています。
サンダーの霊界見聞が、特に救済論においてス氏のそれと
ほぼ一致しているのは、非常に興味深いことだと思います。
562 :
葵:2008/09/24(水) 02:19:43 ID:giyhrg+n
>>560 私が驚いたのは、スエーデンボリの記述で、右脳と左脳の機能の違い
(今日ではわれわれの常識ですが)を明確に記述していることでした。」のを読んだ
カントと同時代の彼が脳波による研究法も知らない時代に、左右の脳の機能の差異を
知っていたことは驚異でした。
彼は当時において先端的科学者であり、今の日本で言う科学技術庁長官を
演じ、多くの鉱山土木の設計、潜水艦の設計さえもしている。
その科学性をもって霊界の探究に入った結果が、彼の膨大な著書であろう。
スエーデンボルグの研究者である精神科医ウイルソン・ヴァン・デュセンが、
多くの患者の憑依現象を実験台として、精神病理学からスエーデンボリの霊感の
シンリック性に迫っており、非常に興味深い。
過日、コリン・ウイルソンもその著書で注目して取り上げている。
「霊界の存在」を科学的に確かめるのは簡単なことです。
昔で言う「精神分裂症」患者は絶えず自分の中の他者と対話します。
私もゆえあって、患者が自分の中の他者と語り合っている状態を確認
しています。
そして、患者の信頼する医者は、患者の中の他者と対話できるのです。
その対話において、患者の履歴を徹底して調査したうえ、その患者の
絶対知りえない高度の学術的質問に対して、患者の中の他者が応答
できるのです。つまり、精神分裂ではなく、実際に他者が憑依している
ことがわかるのです。ヴァンデュセンは多くの患者にたいして、多くの
精神科医たちの立会のもとに実験しています。
したがってヴァンデュセンにあっては憑依現象は当然の事実なのです。
つまり、霊が憑依するということは、霊の世界の「存在」を示すことです。
>>562 おお、興味深い。
ある人が幻覚と幻聴に悩まされるのを実際に見たことがありますが、
それは凄まじいものでした。軽いトラウマです。
精神病の人は、悪霊からの流入が大きいのでしょうか。
ス氏の科学者としての業績は異常ですね。
物質界に対する観察眼があるからこそ、
相応の秘儀について記すことを許可されたのでしょうね。
質問なのですが、ス氏の科学者としての著作などは読まれましたか?
アメリカ新教会のブックストアを見ると、
「動物界」や「植物界」といった、科学者としての本もあるようですが。
564 :
研究生:2008/10/12(日) 23:55:18 ID:IN0RETzE
何も知らない人のために
スウェーデンボルグの神学の特徴は三位一体説の独自の解釈によります。
イエスが日ごろ用いていた表現、自分とは他社である父と自らである子、そしてその後使わされることになる聖霊という存在、そこから三人の人格があるとされ三世紀のアタナシウス信条によって、三人格でありつつも一人格の神という信条が正統派とされることになりました。
そこには三人格の明確な区別がありつつも一人格というパラドックスが残されたままとなり、その後のキリスト教の歴史に大きな影響を与えることになります。
565 :
研究生:2008/10/12(日) 23:55:54 ID:IN0RETzE
絶対者である父と、取り成す子、そして理解しがたい聖霊という存在、明確に区別された存在からそのような構図が生まれ、代理贖罪論や、予定説、いくつもの教理が生まれることになりました。
代理贖罪論とは、信ずる者は救われる、というよく聞くプロパガンダ。
でも、逆を言えば信じないものは救われないのです。
不公平ですよね。
善悪に関わりなく、愛があるか、冷たいか、その人の性質にはまったく関係なく、信じるだけで誰でも天国に行けるというのだから。
そこから当然生まれたのが予定説。
キリスト教を信じるものは天国にいけるし、その他のイスラム教や仏教、神道、ヒンズー教、さまざまな土着のシャーマニズム、アミニズム、または無神論、それらを信望する人はキリスト教を信じてないのだからみんな地獄に行くことになる。
566 :
研究生:2008/10/12(日) 23:57:01 ID:IN0RETzE
だから、うまれながらに天国に行く人と、地獄に行く人が決められている、という教理。
これが元来のカルビン派の理論だし、ルター派から必然的に生まれた理論なのです。
スウェーデンボルグが提唱したのは、神的三一性。
三人の人格があるのではなく、イエス・キリストという一人格の中に集約された3つの要素を父、子、聖霊と呼ぶのです。
福音より〜
「ピリポ、こんなに長い間お前といるのにまだお前は分からないのか?」
「私を見るものは私の父を見るのに等しいのだ。」
福音に述べられているように、御子としてのイエスは同時に絶対者である父、無限偏在であるゆえ、内包しているのです。
聖霊とはそこから発出するもの、原因なくして結果はありえず、父とは原因であり、御子とはその結果、聖霊はその効果と考えることができます。
無限偏在で影も形もない父なる存在、ありてあるもの、しかし普通の人にはまったく分からない、その人間的姿がイエスなのです。
そこで登場するのが、神人という概念。
イエスはマリヤによって人間性を取得し、生涯に渡る過程でそのもろさを克服し、十字架は最後の試練でした。
567 :
研究生:2008/10/13(月) 00:00:15 ID:FAM9lPLV
そこで人間の固有性とも呼べる罪に陥りやすい弱さを剥奪され、栄化、つまり神的なものとしたのです。
それらが復活によって表現されています。
(スウェーデンボルグによれば復活は、イエスの霊が使徒たちの前に現れたということです。そこにはもちろん目に見えない世界の一大転換があったのですが。)
贖いとはいってもそこには含みがあり、イエスが取り成してくれるのだから、人間はなにもしなくていい。
彼が成り代わって死んでくれたのだから、という安易な信仰は成り立たなくなります。
568 :
研究生:2008/10/13(月) 00:02:57 ID:FAM9lPLV
人間の固有性、罪の根は深く、人間自身のいかなる努力によってもそれは取り払われないと言われます。
それはスウェーデンボルグによれば、福音のなかで、イエスが弟子の足を自ら洗ったという出来事によって表現されています。
これは象徴であって、悪い習慣、悪に陥りやすい習慣、天の理にかなわないさまざまな悪事、社会的には罪に定められなくとも、それらは人間の努力によって取り払われず、神的な作用によって取り払われるということを意味してます。
ですが、それは悔い改めを伴っており、形式的なものではなく、実生活において点検し、改善することによってのみ作用するものなのです。
全てが人間的努力の結晶であって、血と涙、汗の結果といえるのです。
ときには嫌でも行わなければならないし、自分を強制してでも良いことならば行わなくてはならず、その積み重ねの中で神的な作用が起り、根源的な罪が除かれるというものです。
起点から見れば全的な人間的努力ですが、終点から見れば全的な神的恩寵ということができます。
私たちは自らの努力として行っても、それは神の恩寵であることを確信しなくてはなりません。
スンダル・シングも胡散臭いけどな。
胡散臭い奴が、胡散臭い奴を認めてどうにもなるわけない。
570 :
研究生:2008/10/13(月) 00:05:18 ID:FAM9lPLV
しかもそれは謙遜ではなく、真理なのです。
贖いとは、自力と他力との相互作用であり、完全な他力と結論することができます。
だから贖いとは、悪を避け、善を行うことにってのみ成就します。
イエスの掟を守ることもそうだし、各々の宗教に定めるところの教えに従って生きること、仁愛の生活を行うものが何よりも自らを救うのです。
そうして生活に中に生きた善が死後、顕わになって本人の内部の幸福が明らかになります。
福音によれば
「天国は芥子種のようなもの、最初は小さいが育っては空の鳥が巣を作る。」
「隠されているもので顕わにならないものはない。部屋でつぶやいたことが、屋根の上で言い広められる。」
ということになります。
571 :
研究生:2008/10/13(月) 00:07:18 ID:FAM9lPLV
信条や信念、信仰だけでは足りず、仁愛によって生きること、その宗教の教えを生活の中で生かすことが必須の条件となります。
天国は、週末は善人になり残りの日は悪魔になる、という人のものではないのです。(週末は教会にいって敬虔に礼拝や、ミサに参加して、寄付もする。でも仕事では人殺しや、あくどいことばっかりやってるような人のこと)
その宗教に関わりなく、良い生活を送るものは天国にいるし、仁愛が自らを救うのです。
これがスウェーデンボルグの神学の特徴といえると思います。(続く)
>>569 スンダル・シングが胡散臭かったら、
世界中の宗教者(聖人)なんて、みんな胡散臭くなってしまわないか?
逆に、胡散臭くない人物って誰だろう? って考えると、
<みことば>にまします主イエス以外にない、ということになってしまうが。
573 :
神も仏も名無しさん:2008/10/13(月) 13:38:48 ID:Xw7Gz4Fq
スンダル・シングは謎が多いよな。
個人的には彼の生涯と言葉には感銘を受けた。3年くらい前だが。
スウェーデンボルグには3年前に傾倒していた。
彼の著作こそ完璧な真理を示すものだと信じて疑わなかった。
というか、もともと私が求めていた教義が彼の著作にあったので、一気に引き込まれたといったほうがよい。
今では、彼のいうことがあまりにも合理的で説得力があるところにかえって疑問を感じる、あるいは物足りなく思うかな。
人生も神の御業ももっと非合理的なもんじゃなかろうかと。
あと聖書を象徴的にとらえすぎててつまらない。
キリスト教の物差しでは真実の霊界やスウェデンボルグをはかり切れるもんじゃあないんだよ、きっと。
>>574 ス氏の著作は、あくまで「霊的・天的な意味(教義)を
理性で受け止められるようにした」というものだから、
そういう "物足りなさ" "つまらなさ" みたいな感覚は、
自発的にバランスを取っていくしかないんだろうね。祈りつつ。
私は そういう時には、普通のキリスト教の聖人伝や牧師の本を読んでる。
577 :
研究生:2008/10/19(日) 23:10:19 ID:VhUyPMIG
わたしは今わたしの幼少期について記しましょう。わたしは四歳から十歳に至るまで絶えず神、救い、人間の霊的な情愛について考えにふけりました
。幾度もわたしはいくたの事柄を明らかにしましたが、そのことで父と母とは大変驚いて、天使たちが私を通して話しているに違いない、と言いました。
六歳から十二歳にかけわたしは信仰について、教職者の方々と話し合うことに喜びを感じることが常であり、信仰の生命は愛であり、生命を与える愛は隣人に対する愛である、と言いました。
また神は全ての人に信仰を与えられますが、しかしその愛を実践するものたちのみがそれを受けることができる、とも言いました。
578 :
研究生:2008/10/19(日) 23:11:10 ID:VhUyPMIG
当時わたしは、神は自然の創始者、維持者であられ、人間に理解と善い気質とを与えられること、そこからつづいて起ってくるほかのいくたの事柄以外のいかなる信仰も知りませんでした。
当時わたしは以下のことを教えているところの、かの学ある信仰については何一つ知らなかったのです。
父なる神は誰にでもその御子の義を帰せられ、そうした際には、その好まれるままに、悔い改めもしないし、その生活を改良しなかったものにすらも御子の義を帰せられるというかの学のある信仰については何一つ知らなかったのです。
579 :
神も仏も名無しさん:2008/10/19(日) 23:11:43 ID:VhUyPMIG
そしてそうした信仰について聞いたとしても、そのことは今のように、わたしには理解できなかったことでしょう。わたしは情愛と友情との一切をささげ、あなたの最も従順な僕、友としてとどまります。
エマニュエル・スウェーデンボルグ
1769年11月14日
ストックホルムにて。
尊い、極めて学殖豊かな博士、導師、ガブリエル・ベイエル殿へ。
581 :
研究生:2008/10/25(土) 19:08:38 ID:ASclz6uN
神学論文集。
人柄が伝わってきて乙だったので、うpしますた。
582 :
研究生:2008/10/25(土) 19:13:47 ID:ASclz6uN
トマス・ハートレイ牧師に寄せたスウェーデンボルグの返書
私は貴方が手紙の中で明らかにされている友情を喜んでおり、その両方のものに対して、衷心から感謝してますが、とくに貴方の友情に感謝しています。
貴方のお褒めになる言葉で私は圧倒されますが、私はその言葉を私の著作に含まれている、いくたの真理に対する貴方の愛の表現として受け取り、それをその源泉であられる方として、私たちの救い主、主に帰しまつります。
主は真理それ自体であられるため、主から真のものがことごとく発しているからです。
私はお手紙の終わりに記されているお言葉を主として考えましたが、そこで貴方は以下のように貴方の考えを述べられています。
「もしかして、貴方が英国から去られた後で、貴方の書かれたものが議論の対象となり、その著者であられる貴方を、ある悪意をもった中傷家に対して弁護する必要が起りますなら、
その中傷家は虚妄のくもの巣により貴方の名声を損なおうと欲するかもしれませんが、真理を憎悪しているものらはそうしたことをやってのける慣わしをもっていますが、そうした中傷家らを斥けるためにも、貴方自身について何か特殊な事柄を、大学における貴方の学位を、
貴方が携わってこられた公の任務を、貴方の名声を確立するに役立つほかのいかなることでも、私のもとにに残しておかれ、そのことにより、質の悪い偏見が取り除かれることが貴方にとり良くはありませんでしょうか。」
私はそのことについてよく考えてみた後で、貴方の友情に満ちた忠告を受けるように導かれました。
それで今貴方に私の生涯について若干の細々したことを伝えましょう。
それは簡単に言って以下のものです。
583 :
研究生:2008/10/25(土) 19:14:20 ID:ASclz6uN
私は1689年1月29日にストックホルムで生まれました。
私の父の名はエスパ・スベドベルイであり、父は西ゴートランドの監督であり、その時代では有名な人物でした。
父はまた福音をひろめるために英国協会の一員として選ばれ、登録されました。
なぜならば父はペンシルバニアのスウェーデン教会を治める、またロンドンの教会を治める監督として、王チャールズ12世により任命されたからです。
1710年私は外国へ行きました。
私はまずイギリスへ行き、オランダ、フランス、ドイツへ行き、1714年に故国に帰りました。
1716年にまたその後スウェーデン国王、チャールズ12世と幾度も話し合いましたが、国王は非常に私に好意を示されて、私は同年鉱山協会の監査役に任命され、その官職を1747年まで勤め、1747年にそこを辞任しましたが、しかし生涯にわたってその官職の俸給を受けております。
辞職いたしました私のただ一つの目的は、私が主により命じられました新しい任務にさらに多くの時間を捧げるためでした。
当時私は名誉あるさらに高い官職を提供されましたが、それを決定的に固辞しました。
私の心が誇りのために損なわれることを恐れたためです。
1719年に私はウルリカ・エリアノラ女王により貴族に列せられ、スウェーデンボルグと名づけられ、そのときから私は国会の3年ごとに開催される会期の騎士団の地位の貴族の間に議席を得ております。
私は招待により、ストックホルムの王立科学院の特別会員であり、またその一会員でありますが、決して他の場所におけるいかなる学問上の協会へも入れられることを求めたことはありません。
なぜなら私は天使の社会へ入れられており、そこでは天界と霊魂に関わるような事柄が話し合われる唯一の主題となっているからです。
1734年に私はレイプスイクでフォリオ版で3巻の書籍として「鉱物界」を出版しました。
1738年にイタリアへ旅行し、ベニスとローマに1年滞在しました。
584 :
研究生:2008/10/25(土) 19:15:10 ID:ASclz6uN
あらしじゃないです。
585 :
研究生:2008/10/25(土) 19:23:57 ID:ASclz6uN
私の家族関係については、私には4人の妹がおりました。
その中の一人はエリック・ベンセリウスと結婚しました。
ベンセリウスは後にウプサラの監督長となり、彼を通して私は2人の彼の後をつぐ監督長たちと親類関係を持つにいたりましたが、
この2人はともにベンセイウスの家族に属しており、エリックの弟でありました。
私の2番目の妹はラルス・ベンセルシュティエルナと結婚し、彼は県知事となりましたが、この2人は何れも無くなっています。
しかしながら私と親類関係にある2人の監督は依然生きており、その中の1人はフィレニウスといい、
東ゴートランドの監督でありますが、今はストックホルム国会の教職院の総裁として務めており、病んでいる監督長に代わっております。
彼は妹の娘と結婚しており、他の一人はベンセルスティエルと名づけられ、ベストマンランとダレカルリヤの監督であり、私の一番目の妹の息子であります。
名誉ある地位を占めている私の親類関係にあるほかのものたちのことは触れずにおきましょう。
さらに私の故国のあらゆる監督は、彼等は数では10人に達しておりますが、また16人の上院議員と最高の公務についているものたちの爾余のものたちは、
私に対して優しい感情を抱いており、彼等はその愛情の年から私を尊んでおり、私は友の中の一人の友として、親しい間柄のものとして彼等とともに生活しておりますが、そのことの理由はかれらは私が天使たちと交わっていることを知っているということです。
王と王妃すらも、その3人のプリンスとそのご子息たちも私に非常な好意を示されており、私はまた王と王妃からかつて招待され、
ご当人自身の食卓で食事をともにしましたが、そうした栄誉は最高の任務についているものたちにのみしか通常は与えられはしないのです。
その後で皇太子が私に私のその同じ名誉を示されました。
彼等はすべて私が故国へ帰ってくることを望んでおられます。
そのため、私は私の国で貴方が恐れられておられるそうした迫害を、それに対して貴方が、極めて友情に富んだ態度で接しようと望まれていますが、
そうした迫害をさも恐れてはおりません。
もしかれらが他のところで私を迫害しましても、そのことも私には何らの危害を加えることはできないのです
586 :
研究生:2008/10/25(土) 19:24:28 ID:ASclz6uN
しかし私はこれまで述べましたすべてのことを比較的たいして重要なことであるとは考えておりません。
なぜなら、そのことは主の以下のご配慮のもとに起っている些少事に過ぎないからです。
すなわち私は主ご自身によりき聖い任務へ招かれたのであり、主は極めて慈悲深くも主の僕である私の前に1743年に現れたまい、
その際主は霊界に向かって私の目を開かれて、私に霊たちと天使たちと話すことを与えられ、その状態の中に私は現在に至るまで続いておかれているのです。
かのときから私は、私から見られ、啓示された色々なアルカナを印刷に附し、公刊することをはじめました。
すなわち天界と地獄、死後の人間の状態、神を真に拝すること、聖言の霊的な意味、さらに私たちに救いと知恵とを得させるほかの多くの最も重要な事柄にかかわる秘義として、
そうしたアルカナを印刷に附し、公にすることを始めました。
私が外国へ数度にわたり旅行した唯一の理由は、私自身を有益なものとし、私に託されたアルカナを他に知らせようとする願いでした。
さらに私は私が必要とするこの世の富を十分に得ており、さらに多くのものを求めもしないし、望みもしません。
私は貴方が言われるように、「悪意をもった偏見が取り除かれるために」貴方のお手紙を拝読して、こうした細細したことをことごとく書き記すようになりました。
ではこれにて失礼します。
私は心から、貴方がこの世においても、また次の世においてもあらゆる幸福を得られますようにと望んでおります。
もし貴方が主を見上げ、主に祈られますなら、そのことを得られますことを私はわずかも疑っておりません。
エマニュエル・スウェーデンボルグ
587 :
神も仏も名無しさん:2008/10/26(日) 07:35:32 ID:OOtGnSWO
588 :
研究生:2008/10/26(日) 15:07:33 ID:xdomOJ30
罪を取り去ることの意味について今若干述べよう。
罪を取り去ることは人間を贖い、人間を救うことと同じ事を意味している。
なぜなら主は救いを人間に可能にするために世に来られたからである。
彼が降臨されなかったなら人間は一人として改良され、再生し、かくして救われることはできなかったであろう。
しかしそのことは主が悪魔からその全ての力を剥奪されて、その人間的なものを栄化された日に、すなわちそれを主の父の神的なものに結合された後に可能となったのである。
もしこれらの事柄が為されなかったなら、誰一人永久にいかなる神的な真理を受けることはできず、ましていかなる神的善を受けることはできなかったであろう。
なぜなら悪魔は前にはその力はさらに強かったため、それを人間の心から抜きとってしまったであろうから。
以上述べたことから、主は十字架の苦難によって罪を取り去られたのではなく、主を信じるものたちの中に主の戒めに従って生きることによってその罪を取り去られる、すなわち遠ざけられることが明白である。
(『イエス・キリスト』エマニュエル・スウェーデンボルグ著)
589 :
研究生:2008/10/26(日) 16:02:38 ID:xdomOJ30
この(アタナシウス)信条のあらゆるものは三人格の三一性に代わって一人格の三一性が理解されるなら、その言葉の表現に関する限り真であることは、もし私たちがこの後の三一性をそれにおきかえてそれを再び書き写してみるならば認められるであろう。
一人格の三一性とは以下のものである。
すなわち、主の神的なものは父であり、神的な人間的なものは子であり、発出する神的なものは聖霊である。
この三一性が理解されるとき、その人間は一人の神を考えてそれを口にすることもできるが、もしそうでないと三人の神を考えないわけにはいかないことを誰が認めることができないか。
アタナシウス自身そのことを認めたのであって、それが以下の語が挿入された理由である。
このことは結局、キリスト教の真実性によって三人の神、三人の主を承認し、また考えることは許されてはいるものの、それでもキリスト教信仰によって、一人以上の神、一人以上の主といったり、また名指したりすることは許されていないということとと同一である。
それでも人間を主と天界とに連結させるものは承認することと考えることであって、単に言うことではない。
さらに一つのものである神的なものがいかにしてその各々が一人の神である三つの人格に分割されることができるかを把握することはできないからである。
そしてその三つのものを本質的または原質を通して一つのものとすることは三人の神の考えを除きはしないで、単に三神の合意性を考えさせるにすぎないのである。
(『イエス・キリスト』エマニュエル・スウェーデンボルグ著)
590 :
研究生:2008/10/26(日) 16:47:04 ID:xdomOJ30
十字架上の苦難が実際上贖罪であったことは教会の根本的な誤りである。
この誤りは永遠から存在する三人の神的人格に関わる誤りとともに全教会をゆがめ、ために霊的なものは何一つその中に残されていない。
現今いかなる教義といえども以下の教義ほどに、すなわち父なる神が人類を怒り、これを斥けたのみでなく、さらにこれに刑罰の宣告を与え、
これを破門したが、しかし恵みと慈悲があるため、その御子を説得し、あるいは強要してこのふりかかってきた呪いを彼自身に負わせ、
そうすることによってのみ父は人類を恩恵をもって見ることが出来たというほどに正統派の著作に見られるものはなく、またその教義ほど学校に熱心に教えられ、説かれるものはない。
またこの教義によればこれは子によって為されたのであり、彼は人類に宣告された呪いを自分に負い、自らユダヤ人に鞭打たれ、ついには神に呪われた者として、十字架につけられるのを許したのである。
さらにこのことが為された後、父なる神はなだめられ、その子を愛することによって、刑罰の宣告を取り消したのであるが、しかもそれは子が取り成しをするものにのみ取り消されるのであり、かくして彼は永久に父の御前に調停者となったのである。
こうした、またこれに類似した教義が現今教会に述べ伝えられ、その壁から反響し、列席者すべてのものの耳に満ちている。
しかし健全な理性を持ち、聖言に照示されているものはすべて神は愛そのもの、善そのものであるゆえ、慈悲そのもの、憐れみそのものであり、それが彼の本質であることを理解することができるのである。
それゆえ、慈悲そのもの、あるいは善そのものが人間を怒りをもって見、その破滅を決定しつつも、なおそれ自身の神的本質を保留することができるということは矛盾である。
こうした事柄は正しい人間、あるいは天界の天使にもほとんど帰せられることは出来ず、むしろ邪悪な人間、あるいは地獄の霊に帰せられ得るものであり、それゆえこれを神に記することは神を涜すことである。
(『真のキリスト教』エマニュエル・スウェーデンボルグ著)
591 :
神も仏も名無しさん:2008/11/24(月) 22:14:03 ID:ibOV9aIy
読みにくいので、改行を工夫してもらえると助かります。
592 :
神も仏も名無しさん:2008/11/25(火) 20:07:59 ID:WcnI8IsE
このスレ汚い!
スウェーデンボルグの若いころってつり目で結構イケメン
スウェーデンボルグの夢日記を読んだけれど、
かなり壮絶な悔い改めを経験しているではないか!
これは多分に予想外な一面だった。
>>594 霊界における「限りない純化」の法則の大局を充分に把握できないままに
一般大衆に誤った霊界のことを紹介してきてしまったのが原因とか?
肉体の欲、貴族としての高慢、学者としての名声欲・知識欲などと
彼は徹底的に戦い、殲滅せねばならなかった。
罪に汚染されている状態では、
事実を都合よく捻じ曲げる恐れがあったからではなかろうか。
神のペンとなるには、それに相応しい性質を持たねばならなかったのだろう。
597 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 16:37:47 ID:KTNfDn3c
柳瀬氏がコンペンツアルからジェネラルチャーチ系に移ったのも心境の変化がうかがえて面白い。
コ派とジェ派がどう違うかというと仏か釈迦かというのに等しいくらい違う。
聖書をあくまで聖典としてスの批判的研究もするコ派と聖書もスの著作もともに聖典とするジェ派。
いずれが真か偽か議論すること自体西欧的な発想で多神教の日本人からすればどちらも真で可。
598 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 16:52:02 ID:KTNfDn3c
ス派の教会の欠点は教会から神秘を取り去ってしまったこと。
フランシスコが戦乱を止めるために風を吹かせたとか。
エゼキエルや、エリヤがとんでもないことやったような神秘的な要素を近代的なアプローチで取り除いてしまったこと。
子供がマリア様見たとか。
その結果、教会から祈りが消えてミサが下手なカルチャーセミナーに陥ってること。
内村鑑三が最後に十字架にたどり着いたのもそんなところから。
教会から十字架まで取り去ることないじゃん。
599 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 16:53:35 ID:KTNfDn3c
カトリックの欠点はス派のような近代的アプローチを否定してしまってること。
とくに神父が独身なのはとても気持ち悪い。
600 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 17:00:51 ID:KTNfDn3c
そもそもスは新しい分派を作ることが目的ではなく、キ教の啓蒙、意識改革が目的だった。
だから鈴木大拙がいつまでも仏教者であったように、それぞれの宗教をもったままス的アプローチを試みる、
というのが最も本質的、かつ合理的。
宗教と言う枠組みでとらえようとすること自体がナンセンス。
ス派になりたければ赤十字だっていいはず。