1 :
暇人 :
2006/05/03(水) 17:00:40 ID:/V2lSPQc
>>2 ゲットォォォ!!
┏━━┓ ━━ ━ ━ ━ ━
┃┓━┃ ┏┓━━ ━ (´⌒ ━ ━ ━
┏┃┗┏┻━┛┃━━ (´⌒(´⌒;; ━ ━ ━
┗┗━┻━━━┛━ (´⌒(´⌒;; ━ ━ ━
>>1 z 。 ことほぎ。
どのような友をつくろうとも、どのような人とつき合おうとも、
やがて人はその友のような人になる。
交友とはそのようなことなのである。
感嘆のことば 25-11
アーナンダよ。そうではない。まったくそうではない。
善き友をもつこと、善き仲間のいること、
善き人々に取り巻かれていることが、清浄行の全体である。
サンユッタ・ニカーヤ 3-2-8-6
4 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 19:40:45 ID:k4YBgHoV
仏の四つの説き方=四悉檀 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の 高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を 違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、 仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」 長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗に説かれた法話を 舎利弗がリピートして、釈尊が理解の正しいことを保証する という設定になっております。 真実義の可能性が高いように思いますが如何でしょうか。 他の経典の多くは、最初から比丘やバラモンや神(夜叉含む)に 説かれたという設定ですので、3つの方便の悉檀とみなして 宜しいのではないでしょうか。 法話の内容(What)も大切ですが、誰に(Who,Whom)に説いたのかが 真実義を追求する人達には大切ではと直感する次第です。
5 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 19:44:55 ID:k4YBgHoV
法華経でも弥勒菩薩に説いたという法話がございましたね。 しかもそれまでの悉檀とは、180度逆の内容でした。
6 :
名無しさん@3周年 :2006/05/03(水) 22:51:48 ID:Z1InOhu1
7 :
南無大師遍照金剛 :2006/05/03(水) 23:08:01 ID:MFOcp9OK
ヽ(´∇`)ノ
8 :
名無しさん@3周年 :2006/05/03(水) 23:40:06 ID:Z1InOhu1
>>4 仏陀は縁起無く説教されなかったということだと思うけど。決してどのような段階であるか
を知って説かれたと言うよりも。詰まり質問を縁として回答されたのであると思う。
9 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 23:42:52 ID:RlAhWNGL
>>6 >どんな風に180ど逆なんでしょうか?
【前スレの過去ログより】
法華経でも、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた
釈尊が一転して、「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と
説き、弥勒菩薩ら高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六)
四諦などの真理も実は方便(真の如き)だったことがはっきりします。
原始仏典(長部経典)の中の「自歓喜経」は釈尊とサーリプッタ(舎利弗)
との対話ですが、興味深い一節(常住論)があります。
「アートマン(個我)と世界は常住であり、なにものも生み出さず、不動
であり、石柱のように固定していて、かの生けるものたちは生死流転し、
輪廻しているけれども、まさに常住不変に存在している。」
10 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 23:46:56 ID:RlAhWNGL
前スレでは長阿含経の「自歓喜経」でも常住を確認済みです。 再び議論輪廻に入る必要もないでしょう。
11 :
名無しさん@3周年 :2006/05/03(水) 23:48:43 ID:GXoqjo5M
>>9 ブッダゴーサはその箇所にどのような注釈をつけているの?
12 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 23:52:52 ID:RlAhWNGL
>>8 >決してどのような段階であるかを知って説かれたと言うよりも。
水野先生は、仏が相手の段階を見て説かれたとコメントされている
ことを紹介しただけです。
文献学の権威の智慧(他力)を少しお借りしたのです。
>詰まり質問を縁として回答されたのであると思う。
質問者を縁として回答されたのであると思っても宜しいのでは。
13 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 23:55:11 ID:RlAhWNGL
>>11 ブッダゴーサのことをよく知らないので、無記と致します。
14 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 00:05:13 ID:GXoqjo5M
>>13 アッタカター及びティーカーにどのような注釈が付いているのか?
ということ。
15 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 00:09:40 ID:w71iOQEe
>>10 法華経では一切は空であるという事を言うのが目的であったと理解しています。
この空は常住です。言い方が一種類ではないのだと思います。
16 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 00:15:18 ID:p9kJHAoM
445 名無しさん@3周年 sage 2006/04/14(金) 13:05:57 ID:xxSLsKRl >> 441 原文は於格? だとしたら、表面上は 「(諸々の)常住論」【に於いて→の中で】最上のものです。 という読みにしかならんだろ。 三つの常住論が説かれたが、それらの中で・・・、と。 で、解釈として、常住論そのものについての意味合いを採るならば 前者かな・・と。 「仏説の中で最上」という記述にはならないと思う。 575 素人 sage 2006/04/18(火) 00:14:00 ID:H6fjDQmK >> 570 みんな忘れてんじゃないかと思ったからさw それより、>> 509の ただ、編纂者の意図がどこにあったのか? →我の常住を仏説とみなして挿入したのか?それとも 如来の神通が外道のものより優れていることを示す為だったのか? は、微妙じゃないかなぁ・・・と。 に対する貴方の【個人的】見解に興味があるw
17 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/04(木) 00:21:43 ID:Xz0wkDyU
「如来の眼をもってすべてのものごとの実相を見れば、すべては消え去る
こともなく、現れることもありません。(中略)ものごとが常住するものの
ように考えるのも迷いでありますが、現象面だけを見て、常住するものが
ないと考えるのも浅い見方です。」(如来寿量品第十六)
>>15 >「空は常住です」という貴方の見方と似ていると思います。
18 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 17:17:06 ID:w71iOQEe
無我であるとは、空性のことであり、そして、空性が常住としてあるのであるから、 無我であることは絶対的な平安である。常住な者は平安である。 無我であることが、あたかも水袋が破けて水が流れ出て何も残らないような状態ではないのだ。 たまに、賢者の言葉として、自分を失わなければなんも失った事になら無いと言うのがあるが、それが空性の無我 の事ではないだろうか?
19 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 17:20:54 ID:w71iOQEe
イエスさんの言葉に、自分を失えば、全地球を得たとしても何の利益になろうか?と言うのがある。
20 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 17:24:46 ID:tjECjcsz
色即是空は空即是色でOK?
21 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 18:02:43 ID:w71iOQEe
真理は空性なのである。真実は空なのである。 自分は真理真実でなければならない。それならば自分は空性・空で無ければならない。 そこで、真理真実ではないものとは、複数のものがあると考えている自分である。 それぞれのものに執着しているから複数のものが有ると認めるのである。この事は自分の上において考え無ければならない。 詰まり、自分というものがあり、自分で無いものがあると考え、自分は愛し自分で無いものは愛さないと言うことになる。 執着とはそのようなものだから。しかし、自分は自分で無いものに依拠して存在している相対的存在なのであるから、 自分を愛するなら、必ず自分でないものが後を追い駆けてきて離れる事が無いのだ。自分を愛すれば愛するほど自分でないものが執拗に追い駆けてくる。 この様な自分に安住する事は出来ない。この人の心は二つに分裂しているのである。 空は一相とも言う。空の心は一つであり、恒常なものとしてあり、、有無の心は二つで有り、有も無も実体が無いのである。
人間というものは自分を固定した存在=肉体人間と思い誤まり、自分と他人を区別
して他人を苦しめたりあるいは物事に執着し業(カルマ)を作ったりします。あら
ゆる物質的存在を実在として認識している限り、五感・自我を中心とした歪んだ不
完全な認識しか出来ないからです。人間は本来、如来(大宇宙に遍満する叡智)で
あるため、本当は悩んだり苦しんだりすることはあり得ないのです。
「如来蔵経」(訳)・・・それらの煩悩の蔽いに纏われた衆生たちの内部に、その如来
と同じく一切を過つことなく認識する智慧をもち、眼をもった如来があって、坐禅
をくんで不動でいるのを見る。如来はこのように、煩悩によって汚された衆生たち
すべての内部に、如来の本性(=法性)が動くことなく存在し、衆生が輪廻の諸道
のいずれにあろうともなんら汚されないでいるのを見て、それら衆生の内なる如来
たちは、私とそっくりだ、と言う。
http://miyashita1.hp.infoseek.co.jp/qqq/mikkyou.htmより引用
23 :
名無しさん@3周年 :2006/05/04(木) 18:40:40 ID:w71iOQEe
>>20 それを導き手として実行できるかどうかはあなたの理解にかかっているのではないでしょうか?
傍らに立って神の子なるスブラフマンは、尊師に対して、詩を持って話し掛けた。
「この心は常に慌てふためいている。
この心は常におびえている。____今だ起こらない未来の事柄に付いても
又既に怒った事柄に付いても。若しもおびえないでおられるなら、____
お尋ねします___それを私に説いてください。」と。
「尊師いわく、
悟りに至る実践の修行のほかには、感官を制御する事のほかには、
一切を捨て去る事のほかには、行けるものどもの平安を、我は認めない。」
サンユッタニカーヤ・スブラフマン
24 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/05(金) 10:40:17 ID:UdyOb8Ih
>>19 >イエスさんの言葉に、自分を失えば、全地球を得たとしても何の利益に
>なろうか?と言うのがある。
本スレはクリスチャンを初め、仏教徒以外も見ていると思います。
もし、ご存じでしたら出典(○○○伝○章○節)をご教示願います。
25 :
暇人 :2006/05/05(金) 10:45:06 ID:GQV8mxKz
マタイ 16:26 に 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、 何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」 とありますね
26 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 11:46:17 ID:FcbPHwkL
>>25 もちろんここのイエスの言う命とは、この世の命を言っているのではない。
イエスは言う。
>「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、
>更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
>自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、
>わたしの弟子ではありえない。 〜ルカ14:26〜14:27
>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。〜ルカ17:33
この世の命は偽りのものだ。キリスト教のテーマは真の命。それは永遠のものである。
人は例え全世界を手に入れようと、真の命を失えば何の得がなろうか。自分の命(真の)を買い戻すのに
どんな代価を支払えようか。そういうことを言っている。聞く耳のある者はよく聞くがいい。
27 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 12:02:32 ID:Fl455Pk1
258 名前:名無しさん@お金いっぱい。[] 投稿日:2006/05/05(金) 10:58:45.66 ID:whIshmST >238 学生時代はストイックに過ごす。 24歳、26歳で計2人。年上。 その後、何かが弾けた。 喰う奴、喰われる奴、全てゲテモノ。 誰もが知ってる話。
28 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/05(金) 12:52:48 ID:P5u9BPuA
>>25 :暇人さん
>>26 :カラスの唄さん
>マタイ 16:26 に
ご提示有難うございます、早速聖書で確認しました。
「命」と訳されておりますが、このギリシャ語の「プシュケー」には、
「魂」という訳もあるそうです。
「福音のために命を失う者は、その魂を救う。」(マルコ8:35)とも
訳せます。
肉体の命が尽きた後に、悪魔になる魂、輪廻を繰り返す魂、天国へ入る魂、
涅槃に入る魂と、真の命(魂)は常住ですが、様相は絶えず変化していく
ようです。
29 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/05(金) 12:57:18 ID:P5u9BPuA
>真の命(魂)は常住ですが、様相は絶えず変化していくようです。 そういう意味では、永遠の命もまた無常(空)ということでしょうか。
30 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 14:22:55 ID:FcbPHwkL
>>29 >そういう意味では、永遠の命もまた無常(空)ということでしょうか。
違います。釈迦は一切行無常を説かれました。
一切とはこの世のことですね。キリスト教では終末思想があります。
つまり、この世は終わりが来ると。これは生じたものは、滅すると説く釈迦の教えとも矛盾するものではないでしょう。
ただ劇的に終るのか、世々に永い時間をかけて終るのか、いずれにせよ生じたこの世は、いずれは滅するのです。
ではこの世が終わり、行き場の無くなった輪廻する魂はどうなるのでしょう?
帰るところの無くなった、行き場の無くなっ魂は、永遠の無になるしかないのです。こうなればもうどうしようもありません。
完全なる無。永遠の滅びです。これをキリスト教では、ゲヘナの火に焼かれると表現するのです。
あなたは魂と、命とを混同されています。魂は解消されるもの。魂が解消された時、そのとき本当の自分(真の命)を取り戻すでしょう。
魂が肉を造り、肉が魂を造る。魂の根源は霊であるが、目覚めたものは、自らの霊により魂を殺す。
すなわち、霊により起こされた魂は、肉により生じた魂を、肉により自らを殺す。肉から生れたものは肉に過ぎず、
霊から生れたものは霊である。
ゾーエ=命 プシュケー=魂。勘違いしないように。
31 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 14:27:11 ID:FcbPHwkL
なにげに大乗系の仏教徒さんは、空、空、空と、 空の中に真理を見いだそうとしているようにみえますが、 空=無自性。無自生の中に真理などありませんよ。縁起の法から言っても、 根源は、自性に突き当たるはずなんですがね。 空に囚われた人は、なにを言っても聞かないでしょうけど。
32 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 14:59:53 ID:YyWQKPz4
大乗の堕落は「一切皆苦」を「一切皆空」としたところにあると思う。
33 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 15:31:10 ID:7TZa6AeW
>>29-32 これらの見解には同意できず、誤りであると言えます。
縁起思想に基づく空思想は完全です。論理に破綻をきたさないです。科学的です。
>>29-32 は未だ理解に至っていないと思います。それを説明するにはいささか疲労を観じるので、
直ちに反論しませんが。
34 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 15:47:29 ID:FcbPHwkL
>>33 空教の人の話は机龍之介氏でおなかいっぱい。
彼の詭弁は芸術的ですらあった。が、しょせん詭弁は詭弁。
禅宗の人に多いんだが、空教の人は、おまえは違う、それは違う、おまえはなにもわかっちゃいおないと
難癖付けにくるが、じゃぁなにが違うのかは言おうとしない。ずるいんだよ。詭弁家とはこんなものだ。
ところで大乗系の人で、涅槃を見た人いるのかね〜。
35 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 15:56:12 ID:7TZa6AeW
大乗の菩薩は涅槃になかなか入ろうとしないんだよ。彼は自分の仏国土(天国)を清め尽くすまで入らないのは道理だ。 彼が知っているのは一切が空であると言うことなのだ。一切が清浄であるという事なのだ。
36 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:02:31 ID:YyWQKPz4
「空教」とは言いえて妙だが「空教徒」は本質からズレてる気がする。 他スレで空教徒と議論したが議論にならんかった。
37 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:05:33 ID:YyWQKPz4
38 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 16:12:58 ID:FcbPHwkL
>>35 そんなことは聞いていない。
大乗系の人で、涅槃をみたものはいるのかと聞いているんだよ。
39 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:13:05 ID:/zvINaK1
>彼が知っているのは一切が空であると言うことなのだ。 >一切が清浄であるという事なのだ。 中村先生の日本人の思惟・・・によると、これって日本人特有の理解なんだって つまり日本人の小乗仏教理解も大乗仏教も、所詮このレベルなのだ・・・ これが日本人の限界、日本語の限界である。 やっぱり日本人には神道が一番肌に合っているのかも・・・・
40 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:19:00 ID:YyWQKPz4
>>39 仏教の本質は言葉など介さないから、「日本語の限界」ってのは
当てはまらないのでは?
41 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:20:56 ID:7TZa6AeW
>>32 >大乗の堕落は「一切皆苦」を「一切皆空」としたところにあると思う。
「一切の形成されたもの」という係りが有るのだよ。一方ニルバーナとは
煩悩が消滅した状態と言う。決して何かが生じるという事が無いのだ。生じるとは形成されると言う意味だ。
そこで生じる又は形成されるとは、無明の故に妄想が生じる事なのだ。止むにやまれずに
勝手に自分の都合のよいように事態を作り出す事だ。これが12支縁起の連鎖なのだ。
苦しみの故に止むにやまれずに生じたものは、又苦しみに他ならないと言うべきだろう?それとも
反対に楽をもたらすだろうか?
次に一切皆空とは、一切皆苦であったものが突如「空」になっているのだ。空とは苦が無いと言う意味だ。
苦しみばかりなら、苦しみなど無いのだ。苦しみと観じるのは苦しみの中に、楽しみとなるもんがあるからなんだ。
この楽しみは、相対的なものではない。相対的なものなら、それは幻だからね。この楽しみは、
ニルバーナでなければならない。そうするとこれは中道で無ければならない。中道は八正道である。
一切皆空も一切皆苦も同次元を言っているのはないのだ。
42 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:26:04 ID:7TZa6AeW
43 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:36:53 ID:7TZa6AeW
>>42 後半がムヅイのは、十二支縁起の説明が欠けているからだ。
縁起して相対的に存在しているものには自性が無いと言う真理、これがあきらかになれば
十二支縁起は消滅し一切は空になるのである。
44 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:37:15 ID:YyWQKPz4
言いたかったのは「一切皆空」では解脱への切羽詰まったものが 抜け落ちてしまう、ということ。 で38への答えは?ついでに俺から大乗の成仏法をおしえてください。
45 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 16:44:40 ID:YyWQKPz4
で、42 43の自作自演の意味は?
46 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:03:12 ID:7TZa6AeW
これを持って満足してください。誰から聞こうと同じですから。 大無量寿経より、「この訳はあんまり好きじゃないな、岩波の浄土三部経が良い」 「 実にみ仏は神通力と智慧をきわめ尽し、深い教えの門に入り、 すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがあり ません。 その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいま す 」 と。 うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏してこの上なく尊い この仏を礼拝したてまつる。 その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしい ことを知り、 菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのよ うにありたいと願う。
47 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:05:06 ID:7TZa6AeW
48 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:10:37 ID:7TZa6AeW
岩波の訳を少し挙げておこう。 「見よ、千劫の間に師のつくりたもうた、この夢のような国のありさまを。」 「願わくば、我らの国土もこの様であれかし」 「ああ、この仏国土は稀有に輝く」
49 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 17:10:55 ID:FcbPHwkL
>>41 まだまだだな。空教を極めるのなら、もっと詭弁に磨きをかけろ!!
君は机龍之介氏の、爪の垢でもせんじて飲んだほうがいいだろう。
そういや机さん、最近みないな。元気にしているのだろうか?
50 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:14:18 ID:7TZa6AeW
>>48 空諦を修行するなら、阿弥陀仏の浄土と同様な浄土を作り上げる事が出来ると言うことである。
51 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:18:21 ID:YyWQKPz4
答えになっていませんね。満足はできません。
52 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 17:18:30 ID:FcbPHwkL
いずれにせよ、空=縁起=無自性なのだから、 縁起などいずれは解消されるもの。世の終わりと共にね。まさかこの世は永遠だと言いいたいのでもあるまい。 でも空教の人の能書き聞いてると、縁起は永遠だとでも言いたげだし、縁起は自性だといいだしそうだからな。 いや、実際に言っていた人がいた(苦笑) 空などこの世の説明をしているに過ぎない。こんなものにいつまでも執着している限り、悟りはないよ。
53 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:20:59 ID:7TZa6AeW
54 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:24:05 ID:7TZa6AeW
>>51 自分が答えを知っているのなら、それを言って見てくれ。
55 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:28:01 ID:YyWQKPz4
>>54 わからないから聞いているのですよ。
特に大乗の成仏法が。
56 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:30:33 ID:7TZa6AeW
57 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 17:33:18 ID:7TZa6AeW
58 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 18:12:54 ID:YyWQKPz4
それらは「教え」ではあっても「法」では無いような気がするのだが。
59 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 18:15:45 ID:7TZa6AeW
60 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 18:19:05 ID:YyWQKPz4
空海に言わせるなら薬の効能書きを読むことと薬を飲む事の差では?
60の表現を借りて、この場面での流れと定義に即した言い方をすれば、 薬が働くこと(効能そのもの・働きそのもの)を「法」と言い、 その解説が「教え」となるかな?
62 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 18:51:24 ID:YyWQKPz4
>>59 要するに私の言いたい事は「一切皆空」では「苦」からの緊急回避的な衝動
が失われ法華経に代表される来世成仏にならざるを得ない。
来世成仏とは言葉の言い回しであって成仏できないということだ。
63 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 18:52:48 ID:7TZa6AeW
真実はこの様なものであるから、真実を体得する為にはこの様な方法がある、と言えば これは教えでもあり法でもあるのじゃないでしょうか?だから教えと法は同じと。
64 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 18:58:33 ID:7TZa6AeW
>>62 今すぐに涅槃に入りたいと言うことですね。
経典は言います、涅槃をも六道輪廻をも望まない事と。無願」です。
これが即身成仏ではないでしょうか?
65 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 19:55:02 ID:YyWQKPz4
「一切皆苦」を理解しなければそもそも涅槃も輪廻も意味をなさないでしょう。 あえて言えば涅槃も輪廻も望まないなど凡夫には不可能です。それを「教え」 と言います。 「暴力はやめましょうね」と言うのが教え。実際にその者から暴力性を 取り除いてしまのが法です。
66 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/05(金) 20:41:34 ID:v1tztp/m
人類史上幾度もゲヘナの炎
>>30 カラスの唄さん
>違います。釈迦は一切行無常を説かれました。
>一切とはこの世のことですね。キリスト教では終末思想があります。
>つまり、この世は終わりが来ると。これは生じたものは、滅すると説く
>釈迦の教えとも矛盾するものではないでしょう。
回教にも終末思想はあります。
改心する見込みのない魂はゲヘナの炎で焼かれて消滅します。
残った魂と、新たに生まれた魂とが世の中を再興していきます。
魂に誕生と消滅があるという意味では、アートマン(魂)は常住ではないと
いうことになります。その寿命が数千年、数万年であってもです。
ただし、人類史上幾度もゲヘナの炎で焼かれております。
コーランの中でアラーは、これまで幾度も終末があったことを説かれており、
マルヤムの子のイーサーを預言者として人類に警告したと記載されております。
コーランは近年に編纂されましたので改竄の余地は少ないでしょう。
(まあ、本当にアラーの声を聞いたのか否かは論議があるでしょうが。)
私も師からは過去に世の大転換期が6回はあったと伺っております。
67 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 21:57:51 ID:7TZa6AeW
>>65 一切皆苦とは「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな智慧をもって観る時に
、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」(観興の言葉;十二章道)
とあるのであって、単に一切皆苦と言うとそれだけでは真意はわからないのではないでしょうか?
この世間の一切は無明から生じた産物であり、それらに執着するのは、苦しみを獲得する事に他ならない。
だから世間の一切に執着せづはなれる(捨てる)のが智慧のあるもののすることである。苦しみから離れる事
又は苦しみを捨てる事により、清浄になることが出来る。何故なら清浄とは無執着の事だから。
68 :
暇人 :2006/05/05(金) 22:40:47 ID:GQV8mxKz
余談 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、 何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」 16:26 τι γαρ ωφεληθησεται ανθρωπος εαν τον κοσμον ολον κερδηση την δε ψυχην αυτου ζημιωθη η τι δωσει ανθρωπος ανταλλαγμα της ψυχης αυτου τι何 γαρ何故なら ωφεληθησεται受・未・直、益になられるだろうか ανθρωπος 人はεανもし〜ならば τον κοσμον 世界をολονすべての κερδηση一過・接3単、得る την〜を δεしかし ψυχηνいのちを αυτου自分の ζημιωθη受・一過・接・3単、損害を与えられる・失なわせられる ηあるいは τι何 δωσει未・直・3単、 与えるだろう ανθρωπος人は ανταλλαγμα代価 της 〜のψυχηςいのちの αυτου自分の 直訳すると 「というのは、何の益があるだろうか。 人がもしすべての世界を得たが、自分のいのちを失わせられるならば。 あるいは人は自分のいのちの代価に何を与えるだろうか」
69 :
暇人 :2006/05/05(金) 22:41:27 ID:GQV8mxKz
ψυχη(プシュケー)の類語に、πνευμα(プネウマ)とσωμα(ソーマ)があります。 織田昭の「新約聖書ギリシア語小事典」p644 ψυχηの類語の項に三つに触れて σωμαは、人間の死によって取り残されて分離し分解・腐敗してしまう形ある部分。 ψυχηは、肉的人間存在の主体であり、人格の中心部分、自己、自我を形成するもの であり・・・略 σωμαは、人にだけ備わっているもので、略 「神を知る能力である」。。。
70 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 22:54:01 ID:7TZa6AeW
>>68 >るいは人は自分のいのちの代価に何を与えるだろうか」
ここの意味がわかりません。説明お願いします。
71 :
暇人 :2006/05/05(金) 23:01:17 ID:GQV8mxKz
>>70 キリスト教では 「いのちの代価(贖い)」といえば、
『イエスの十字架』です。
キリスト教の文脈では、人に「罪」が入り、(パウロとかはアダムを)
「死」が入ったと考えます。
その「人間の罪」を罪のないイエスが代わりに贖ったのが、十字架と
考えるわけですね。
つまり「自分のいのちの代価」は自分ではいかんともしがたいという
反語ですね。
「自分の命は自分では買い戻せないではないか」
「イエスを信じるほかには」と。
72 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 23:22:02 ID:YyWQKPz4
>>67 それ以上余計な事を語らなければ正解です。
73 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/05/05(金) 23:42:03 ID:NPHCTHKC
>>71 >「自分の命は自分では買い戻せないではないか」
>「イエスを信じるほかには」と。
ところがグノーシスではそう考えない。グノーシスは、仏教と同じく、自力救済だ。
今のキリスト教は神を外に求める。だが、グノーシスでは、自分の内に求める。
そして自分の内のものが、外側を作る。復活とは本当の自分に立ち戻ることだ。
永遠の命とはそういうことだ。それは自性である。父は子に名前を与えた。
これが人の創造だ。名前は識別するもの。だから二人は一つであるのに、父と子なのだ。
子の名は父の名となる。なぜなら二人は一つだからだ。父の名を知れば、我々は、我々自身を知るだろう。
グノーシスは非常に禁欲的で、彼らは昔の僧侶のような生活だったと聞く。
パウロはそれを批判した。今のキリスト教会は彼が残したものだ。だが彼はこの世に執着するのは
偶像崇拝だと知っている。彼の残した教会は、真の教えに近い、グノーシスを駆逐し、
後に信仰義認のプロテスタントを生み、イエスの教えから、人々を遠ざけた。全ては新約成就の為。
観よ、世はまさに、新約の通りに進む。これこそがスケールのでかい大乗なのだ。
多くの者が救われるには、その前に生みの苦しみを迎えなければ行けない。
今の秩序、価値観を一度リセットしなければいけないのだ。でなければ、人々の間に意識革命は起こらない。
はっきり言って今のキリスト教には救いはない。漫画みたいなことを信者に教えている。
今のキリスト教は、真のキリスト教ではない 。次の時代にはもうないよ。賭けてもいい。
ユダの福音などは大変興味のそそる内容のようだ。早く読みたいね。
皆さんスレ違い失礼しました。
74 :
名無しさん@3周年 :2006/05/05(金) 23:50:15 ID:7TZa6AeW
あがないとか命を買い戻すなんて言ってるようじゃきリストイエスの教えを知らないね。
75 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/06(土) 01:27:06 ID:QjoYs7UX
>>66 >ただし、人類史上幾度もゲヘナの炎で焼かれております。
>コーランの中でアラーは、これまで幾度も終末があったことを説かれており、
出典:「コーラン(中)」井筒俊彦訳(岩波文庫)
幾度も使徒が遣わされ、多くの改心しなかった人々が滅ぼされており、
例えば「十四 イブラヒーム(アブラハム)」では、ノア、アード、
サムードの民がゲヘナの淵で責苦にあったそうです。
76 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/06(土) 01:38:04 ID:QjoYs7UX
「だが、来世というものを信じられない者どもは、どうしても 道からはずれてしまう。」 出典:コーラン、「二十三 信仰者」 原始仏典で度々説かれております輪廻、三世を信じられない現実主義者 と似ているように思います。
77 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 06:24:55 ID:7BkxKI1Q
>>76 >
「だが、来世というものを信じられない者どもは、どうしても
道からはずれてしまう。」
仏陀はもっと厳しい。ニルバーナを認め無いものは、犯さない悪は無い、とまで言っている。
ダンマパダにあるのですが、今そこを引用できない、見つかり次第引用しよう。
78 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/06(土) 10:24:18 ID:iQpPBd/W
>イエスの本来の教えはグノーシスと同じで、神は人間の心の深層にいる >という教えだ。 >その事を自覚して、神の御心に従う人間はすべて神の子になる。 私は師から、人間の心の深層に霊魂があり、その霊魂の核に神の分けみ魂 があるので、人間はすべて神の子であると伺いました。 これは、法華経でいう「人は皆仏子であり、やがては仏になり得る」と 共通しておりますが、原始仏典とコーランにはまだ該当する説法を見出して おりません。
79 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/06(土) 10:31:40 ID:iQpPBd/W
>>77 >仏陀はもっと厳しい。ニルバーナを認め無いものは、犯さない悪は無い、とまで
>言っている。
>ダンマパダにあるのですが、今そこを引用できない、見つかり次第引用しよう。
ご紹介を宜しくお願いします。
80 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 16:38:51 ID:7BkxKI1Q
>>31 >空=無自性。無自生の中に真理などありませんよ。縁起の法から言っても、
根源は、自性に突き当たるはずなんですがね。
空こそ自性あるものなのだ。空だけが自性あるのだ。だから、空を体得したブッダを
自存者といい、彼は己自身を楽しむと言われている。
この論理のからくりを理解できるかな?
一切が空で有り自性あるものが無いと言うのなら、そしてこれを無自性と言うのなら、
この無自性こそ唯一の自性あるものといわなければならないのだ。無自性と言うのは相対的に存在しているものを
知性により自生が無いと判断したときの表現であるからだ。実にここにおいて大逆転が生じているのだが。
であるから、仏陀の価値判断と凡人の価値判断は180度反対になるのだ。
詰まり、ブッダは究極の世界を獲得しているが、凡人は無辺無量と言う究極をみづに
勝手に世界を限定された小さなものに妄想しているのである。実に究極に至らなければ智慧の完成は無い。
81 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 16:52:08 ID:7BkxKI1Q
>>80 相対的に存在しているものに自生が無いと判断されたとき、そしてそれを無自性と称したとき
その無自性そのものは、そう対的に存在しているものではないのです。相対的に存在しておらづ、
それでも存在が認めざるをえないもの、これは自性あるものという他無いでしょう。これのみが自性あるものとして
、他を必要とせづに存在しているのです。自性あるものは無自性に他ならづ、換言すれば空に他ならないのです。
そして空又は無自性は一切の分別を排斥します。これが真実なんですね。究極まで無分別でいられるかどうかが
智慧の完成を果たせるかどうかということと同義です。
>>80 >>81 おまえは馬鹿だな。話にならん。
たく、空教の人はこれだから。せいぜい詭弁に磨きをかけてくれたまえ。
83 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 17:58:02 ID:7BkxKI1Q
空が真実であるから、一切の束縛を破棄しなければならない。束縛を超越しなければならない。 束縛とは何か?父母、子供嫁、あらゆる人間関係から来る束縛を超越しなければならない。 詰まり、これは嫁であるからと言う分別は御法度になる。一切の人間があなたを離れていったとしても 寂しいと思ってはならない。あなたは空気を去っていった人間と同様に見なして対しなければならない。目の前の空間と 人間とは差別の無い同一のものだから。悲しい気持ちも嬉しい気持ちも同一のものとして観なければならない。 とこの様に経典は説いている。
84 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 18:06:08 ID:hh6zYXGT
>>80 詭弁は科学じゃないよ。詭弁は真理じゃない。
それくらいはわかるよね?
85 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 19:11:36 ID:7BkxKI1Q
>>84 ブッダは人が何をしたかしなかったかを言っては行けない。自分が何をしたか何をしなかったかを反省しなさい、と教えている。
自分が正しい態度を相手に取ったかどうかを反省しなさいということだ。
自分が誠実であったかどうかを考えなさい、ということだ。
あなたは自分がどの様にしたか何を言ったかどのような見解を持っているのか、それらを少しも
明かしていない。自分の考えを明かさないで他人の見解を誹謗している。
あなたが自分の見解を明かした上でわたしの見解を難づるなら正当な態度であるといえよう。
>>79 唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、
どんな悪でもなさないものは無い。(ダンマパダ 176 中村元訳)
>>85 だって君の
>>80 の能書きはただの詭弁だもの。明確なね。
それを一々説明しろと?そんなへ理屈をいってっから、君は詭弁家だと言われるんですよ。
88 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 21:20:21 ID:4PKtk0ak
>>31 縁起するからこそ、無常で、無我で、空なんだが、
自性、本質といった恒常不変の実体があったら、縁起しないでしょ。
いったい、何を根拠にしてるの?
89 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 22:01:57 ID:7BkxKI1Q
>>88 >縁起するからこそ、無常で、無我で、空なんだが、
@縁起すると言うのは、過去において縁起しており未来においてはこれから縁起すると言うことで、
未来においては未だ縁起していないということか?
A無常とは常に有るものは無いと言う意味か?
B空とはどう言う状態を言うのか?
はじめに言葉の定義をしておくべきだと思う。
>自性、本質といった恒常不変の実体があったら、縁起しないでしょ。
実体あるものが縁起しないとはどう言う意味の事か?
90 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 22:49:11 ID:zR1/WLOs
>>89 君は自性から勉強したほうがいいよ。
まるで、ちんぷんかんぷんなことを言っている。
91 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 23:04:43 ID:7BkxKI1Q
>>90 空を空しいと解するのは自分の印象を言ってるもんじゃないか?
ちんぷんかんぷんと言うのも自分の印象に過ぎない。
92 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 23:12:55 ID:zR1/WLOs
>>91 ハイハイ。空教の人と議論しても、屁理屈しかかえってこないから空しい。
詭弁、屁理屈好きの君は、空教に向いてるよ。
禅スレなどの、大乗系仏教のスレに行けよ。
空教の人が来ると、原始仏教の話が出来なくなるんだよ。
ここは原始仏教のスレ。般若心経の話なんかすんじゃねぇぞ。わかってんだろうな?
>>80-81 の言ってる意味がイマイチよくわからんが、
こういうことか?
「空」や「無自性」の概念が唯一世界の中で堅実であるのだから、
「空」や「無自性」は独立自存しているといえる。
そして、「空」や「無自性」が独立自存しているのであれば、<自性があるもの>
として認めなければならない・・・ か?
94 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 23:39:44 ID:7BkxKI1Q
>>90 中道を空と換言してるに過ぎないんだよ。中道又は空は原始経典で教えの中核として
あるんだよ。
1119
〔世尊は答えた〕「モーガラージャンさん、常に気づきある者として、世〔界〕を『空[くう]である』と観察しなさい。
自己についての誤った見解を取り去って、このように、死を超え渡る者として存するように。
このように、世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのです」〔と〕。
スッタニパータ
95 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 23:42:06 ID:7BkxKI1Q
96 :
名無しさん@3周年 :2006/05/06(土) 23:56:35 ID:7BkxKI1Q
>>95 >>80-81 は理解に苦しむ表現があったことと思います。われながら説明がうまくできていないところがあるとおもいます。
でも良く理解してくれました。
97 :
93 :2006/05/07(日) 00:42:16 ID:vjTUiV3N
>>96 申し訳ないが、その説に積極的にかかわってる原典(原始仏教)に
出会ったことがないので、その立場からのコメントができない。
しかし、空七十論の立場では、自性もまた無自性に依存しているのであり、
縁起的な概念であるといえそうです。
つまり、自性という概念それ自体も、自立できていないような気がします。
堅実でないということです。
98 :
名無しさん@3周年 :2006/05/07(日) 08:28:22 ID:i+hlLF2A
>>97 申し訳ないが、その説に積極的にかかわってる原典(原始仏教)に
出会ったことがないので、
平安の境地とは安心の境地。安心の境地は相対的なもんでは安心の境地とは言えない。
安心の境地を述べている原始経典の文証を知りませんか?
99 :
名無しさん@3周年 :2006/05/07(日) 08:46:48 ID:i+hlLF2A
内心の平安を「内なる静寂」と訳しています。 837 世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。 〔彼は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕弁別するでありましょう。 また、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者は、〔それらを〕執持せずして、 〔正しく〕弁別しつつ、内なる寂静を見たのです」と。 838 マーガンディヤが〔尋ねた〕「牟尼よ、〔前もって『こうである』と〕想い描かれた諸々の〔思い〕があり、 〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕結論があります。それらを執持せずして、まさに、 〔あなたは〕『内なる寂静』という、この義(意味)を説きます。いったい、その〔内なる寂静〕は、 慧者たちによって、どのように〔告げ〕知らされたのですか」と。
100 :
名無しさん@3周年 :2006/05/07(日) 08:49:04 ID:i+hlLF2A
839 世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知識によって〔清浄を言わ〕ず、 戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔逆に〕見解なきによって、伝承なきによって、知識なきによって、戒なきによって、掟なきによって、 それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄し、執持せずして、〔心が〕寂静となり、 〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」と。 840 マーガンディヤが〔言った〕「もし、〔あなたが〕言うように、見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知識によって〔清浄を言わ〕ず、 戒や掟によってもまた、清浄を言わ〔ない〕なら、〔逆に〕見解なきによって、伝承なきによって、知識なきによって、戒なきによって、掟なきによって、 それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。 或る者たちは、見解によって清浄を〔認知し〕信受します」と。 841 世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、しかして、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して尋ねているのです。 諸々の執着のうちで迷妄へと陥り、しかして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、 〔正しい〕表象(想:認識対象を表象し概念化する働き)を、微塵でさえも見なかったのです。 それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです。
101 :
名無しさん@3周年 :2006/05/07(日) 08:58:54 ID:i+hlLF2A
102 :
中観派 :2006/05/07(日) 10:49:09 ID:d+TYI2vi
>>98 平安の境地は満足だと思うよ。
俺は仏教の苦は不満だと思うからね。
満足して運動しているときなども平安だと思う。
103 :
93 :2006/05/07(日) 11:03:41 ID:vjTUiV3N
>>98-101 >安心の境地は相対的なもんでは安心の境地とは言えない。
なにかちょっと違和感があります。
まず第一に、ここでの、ブッダの主張は、
【優劣正誤への執着や偏見過誤の先には「内なる寂静」はない】
としているのであって、そもそも「内なる静寂(内心の平安)」の相対観
を説明している言質ではないと思います。
それから、マーガンディアを引用することで、どうして
>>93 の内容を正当化
できるのか理解できません。(
>>98 さんは
>>80-81 さんですよね?)
104 :
中観派 :2006/05/07(日) 11:28:42 ID:d+TYI2vi
>安心の境地は相対的なもんでは安心の境地とは言えない。 正しい執着のない中道の欲望を持って、常に心が満たされ、不満がないことが 絶対的な楽つまり大楽なのではないのですか?
105 :
98 :2006/05/07(日) 12:06:00 ID:i+hlLF2A
>>103 >そもそも「内なる静寂(内心の平安)」の相対観
を説明している言質ではないと思います。
マーガンディアは教えというものに依存して平安がえられると言い、釈尊は
いかなる教えにも依存しない時のみ、平安があるのであるといっているのです。
これは絶対的平安であります。そしてこの平安があると肯定しているでしょう?
釈尊の平安は相対的平安ではないのです。『そして、これらを放棄し、執持せずして、〔心が〕寂静となり、
〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」と。』といっています。心の静寂『心の平安』
というものがあるのを主張しています。
>>104 そうゆうところだと思います。
106 :
98 :2006/05/07(日) 12:58:15 ID:i+hlLF2A
平安というもののみが自性をもつのであり、空や無自性・清浄・無相等の真実の自性は 心の平安である、と言えないでしょうか?
108 :
98 :2006/05/07(日) 14:55:28 ID:i+hlLF2A
>>840 >『見解によって清浄を〔認知し〕信受します」と。』
見解によって清浄をえられるものなら、その見解がくづれる時には
その清浄『平安』もくづれることに成る。
109 :
中観派 :2006/05/07(日) 15:27:39 ID:d+TYI2vi
>>106 正しい中道の欲望とはそういうものでしょう。
さて、釈尊は一食しか食べなかったと聞きますが、それで本当に満足だったのでしょうか?
おなかが空いていても不満とは感じなかったのですかね。
痛みでも満足に思えるようになればこういうことは、可能なことなのですか?
110 :
98 :2006/05/07(日) 16:30:05 ID:i+hlLF2A
>>109 釈尊にとっては水もご飯も差別無いものであったと思います。彼は空気を吸って
ご飯と同様な満足を得ていたと思います。何故なら一切は空であることを体得されていたんですから。
釈尊が乞食をされたのは自分のためではなく、煩悩を持つものが、浄土に入る切っ掛けを得ることが
出来るようにするためであったと思います。
111 :
98 :2006/05/07(日) 21:47:14 ID:i+hlLF2A
アーンナンダよ、如来は若しそうしようと思えば、一食分の施された食物で 一劫の間この世に留まる事が出来るであろう。あるいは千劫も、あるいは、百千劫も あるいは、百千億劫の百万倍の劫に至るまでも、あるいはそれを過ぎてもなおこの世に留まることが出来るだろう。 しかも、如来の諸機関は損なわれる事が無いであろうし、顔の色が悪くなる事もないであろうし、 皮膚の色が衰える事も無いであろう。それは何故であろうか、アーナンダよ、如来は 心の安定と言う面では完成に達しているからなのだ。 大教 岩波・梵文和訳
112 :
93 :2006/05/07(日) 22:56:22 ID:vjTUiV3N
>>105 よく読み込んでいなかったために、トンチンカンな質問をしてしまいました。
そしてご丁寧な説明ありがとうございます。とてもよく理解できました。
113 :
93 :2006/05/07(日) 23:27:45 ID:vjTUiV3N
>>106 このご説明については、ゆっくり考えてみたいと思います。
114 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 04:55:40 ID:M7HpBqXE
>>91 空は、真如ではないこと・もの。
空=真如、ではない
115 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 05:06:38 ID:M7HpBqXE
空なるものが一切なくなった状態が涅槃・真如。 すべて−空=真如
116 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 05:10:55 ID:M7HpBqXE
>>106 「自性」か「無自性」かという分別自体が空なる妄想かもしれません。
空でないもの(真如)を空なる妄想で説明することは、できないかも。
117 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 05:24:28 ID:M7HpBqXE
>>106 今言う平安とは、涅槃・真如のことでしょうか?
「心の平安」とは、心で認識された平安のことでは?
空なる分別判断の色眼鏡を通して見られてしまったもの。
平安は透明でも、心は色眼鏡。
残念ながら、色眼鏡以外に透明を見る方法がない。
わかることは、見えているものは透明ではないということだけ。
認識されたものは涅槃ではないということ。
消去法でしか語れない。
よく禅者が、「妄想だ」と否定ばかり口にするのも、そのためではないでしょうか。
「非想非非想処」に達した人いらっしゃいますか。原典書籍の解説転記ではなく、アラヤ識を得て実際に解脱された方いらっしゃいますか。部派仏教以前の原初形プラティエーカ法で実践されている方。
119 :
98 :2006/05/08(月) 20:46:41 ID:/E+w1zit
>>117 縁起と空又は中道とは実に真理で有り真実であると思います。真如とは聞きなれない言葉ですが、
ヤフー辞書を見ますと実相と言う意味ですね。諸法とは縁起で有り実相とは空のことであると思います。
平安とは涅槃の事であり真如の事です。
あなたはいろんな表現を用いておられます、色眼鏡、透明、消去法、などと。
しかしそのような表現は縁起と空の理法を理解するのに必要ではないと思うのですが。
あくまでも縁起と空なんです。縁起しているものは実体が無い、それ故にすべては実体が無い、それ故にすべては空である。
この理法にすべては納まるのだと思いますが。
縁起している当体に執着していては、縁起を見ることは出来ないでしょう。そこで、
簡単に見られる事例を観察して、それがすべてに渡っていることを推量すべきだと思います。
例えば、白色は黒色と相対提起に存在している、何故なら白色が無いなら黒色無く、黒色あれば白色がある。
黒色無くなれば白色も無くなる。白色黒色が解りにくいなら明るさと暗さを想定してください。
心の変化も同様に言わなければならないでしょう。
だから、相対的存在は、相手がいなくなれば自分も消滅するのですから、
実体あるものとは言えません。そして、一切が実体有るものではないでしょう?
この様に知性により判断し結論として知識したなら、その知識を今の自分に当てはめてみて、
執着しているものは何か、なにが実体あると思っているのか、を判断できるのではないでしょうか?
いや、私も修行中のものです。この様に思っているのですが、どう思われますか?
120 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 20:50:57 ID:P1Jc+P9B
本来釈迦の教えは方法であって教義えではない。 方法を実践してその力を感じることが真の仏教だと思う。
121 :
98 :2006/05/08(月) 20:51:00 ID:/E+w1zit
平安=涅槃=空=中道=真如=実相
>>118 難しい仏教用語はわからないのです。
122 :
98 :2006/05/08(月) 21:22:23 ID:/E+w1zit
>>120 方法と教義は同じだと思います。教義のほうが大きな概念を持っているでしょう。
目的を示さない方法と言うのはあり得ません。目的を欠いた教義もあり得ません。
123 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 22:26:18 ID:M7HpBqXE
124 :
天邪鬼陽光子 :2006/05/08(月) 23:05:00 ID:wwSzoTVo
華厳経が成道の仏、法華経が説法の仏、涅槃経が入滅の仏の経典とすれば、月蔵経 が末法の仏の教訓で、預言の経典といわれ、月蔵経の恐怖伝説を生んだ。 ノストラダムスの諸世紀も顔負けの書、月蔵経の原典は難解な個書も多く、全体を 引用しても冗漫なだけであるので、予言に関連した部分を抜粋する。一切鬼神集会品 には、このようなことが書いてある。 「この世のあらゆる国に住む、悪天、龍、夜叉、羅刹、鳩槃茶、餓鬼、毘舎遮、加た富單那などは、 非情で救い難い存在である。人々を助けることも、反省する心もない悪道非業の存在である。 諸々の刹利、沙門、婆羅門、毘舎及び首陀をたぶらかし、獅子や象、虎や大蛇、非時、暴風雨、疫病、 飢饉など起こして人々を苦しめる。 彼らは人々を殺害し、世の中を崩壊させあらゆる農作物を残害してしまい、正法の灯火を消してしまう。 しかも地球上の一切衆生を絶滅させてしまう。このように、末法の世には悪業、悪鬼がまかり通って、 滅法の世となるのである」つまり、釈尊は3000年後の政治家、僧侶、戦争兵器までも月蔵経で見通して フォトンベルトによるハルマゲドンや天変地異による大厄災を予言したのである。
125 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 23:20:49 ID:/E+w1zit
>>123 涅槃も実体がないのでしょうか?
涅槃だけが実体あるもの。それは平安である。
しかし経典には、涅槃も縁起しているもんであると言う経文があります。
原因無く涅槃は生じないと言うのです。涅槃の原因は煩悩を消滅させる事でした。
煩悩の消滅と縁起は、普通に言う縁起と消滅とは違うと思います。
普通の縁起は、無明を原因としてどんどん積み上げていくんですよね。
煩悩の消滅は、反対に、無明をどんどん消却していくんですね。
126 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/08(月) 23:27:11 ID:pp5evQRb
この世は、全ての存在が、 あらゆるものとの関わり合いの上に成り立っているのであり、 ゆえに、変化しないと言う事がない。 物質も、信条も、感情も、すべて変化流動する。 絶対的に固定されたものなど、何一つない。 ゆえに、自分のものとして、とどめおけるものなど、何一つない。 従ってどこかの宗教団体のいうような決まった教義を持たない。
127 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 23:32:22 ID:/E+w1zit
>>124 彼らは人々を殺害し、世の中を崩壊させあらゆる農作物を残害してしまい、正法の灯火を消してしまう。
ここにおける『正法』とはどのような教えと理解しいておられますか?
128 :
名無しさん@3周年 :2006/05/08(月) 23:53:19 ID:EyGutYU2
>>124 ( ゚Д゚)ポカーン
なんぼ電波飛ばしてOKの2chでも、こりゃあんまりだろ。
129 :
天邪鬼陽光子 :2006/05/09(火) 00:30:55 ID:3Zbb6eFm
釈迦は降誕したときに再びわたしは現れないと宣言しているが、大乗涅槃経でわたしはの入滅後、 56億7000万年後には、わが正法を救うために弥勒菩薩を天上より下生させ、一切衆生を救 うであろうとも言っている。 釈迦が涅槃に入られ弥勒菩薩に対して「今より56億7000万年経ったのち、人間として世に現れ、 一切の衆生を救って欲しいと誓願されているのである。 これが、世界真光文明教団岡田光玉師だというのだ、彼は、神の地上代行者、魁のメシアとして 神示が降り、真光の業と通じて人類救済にたったのであった。
130 :
暇人 :2006/05/09(火) 06:05:53 ID:27JF8BBo
56億年後の弥勒下生を 本気にするなって つーか本気にしたとしても 釈尊死後 まだ2500年だよ
131 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 08:25:34 ID:XbA1eEuL
人間とはこの様な形をしこのように考えるもんである、と言うイメージをもつ事は、 そのイメージに執着しているものであると思う。そのイメージに基づいて法律を形成し社会を形成する。 しかし、釈尊は、『名称と形態を破壊せよ』と教える。人間のイメージは名称と形態の事ではないか?
132 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 08:37:25 ID:XbA1eEuL
ギリシャの哲学で、ある哲学者が、哲学をして何を得るものがあったか?と聞かれて 法律を必要としなくなったことである、と答えるのがあったと思う。これは法律を若しすると言う意味ではなく 、法律が有ろうが無かろうが、正しい言動が出来ると言う意味である。
133 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 08:39:11 ID:XbA1eEuL
>>132 訂正
法律を若しすると→法律を無視すると
134 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/09(火) 10:27:26 ID:6QqMsyeN
いままでさんざん「空」についてやったじゃん。結局、自分勝手に涅 槃だとか、解脱だとか、弥勒菩薩だとか、大日如来だとか妄想で作り上 げてそれに執着し、苦しみや争い作り上げているだけではないの ? 。
135 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 17:15:54 ID:d4xgNnrg
お邪魔様はいささか沈空の傾向が強いようです。 仏教から摩訶不思議さを取り除いたら、後は合理という傲慢な 知的遺産だけしか残らないでしょう。 思議すべ難しことがらの中にこそ、信が育つものと思われます。
136 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 17:18:28 ID:XbA1eEuL
>>134 >自分勝手に涅
槃だとか、解脱だとか、弥勒菩薩だとか、大日如来だとか妄想で作り上
これらを意味を知らず言葉だけのものとして、人を煙に巻くのを面白がったり、
理解をしておらず、人を騙すために操ったりしている様なら、当人の為にも周囲の
ものの為にも迷惑であろう。
137 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 17:24:23 ID:XbA1eEuL
>>135 >仏教から摩訶不思議さを
仏教の摩訶不思議さとはどんなものがありますか?
138 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 18:22:57 ID:OrAev3ep
個人的体験によるものじゃないですか。 瞑想(禅定)中の体験に限るものではないと思います。 例えば、奇跡的に林道や崖淵から転落を免れたときとか……そういうときには、 自分はまだまだ生かされているんだと、生きていく何らかの役割みたいのがある んだと自分自身に言い聞かせたりしています。 acittaはcittaの否定形で「無心」と訳されますが、同じ唯識でも玄奘三蔵は 不思議と訳しているそうです。この不思議という訳にしろ、起信論の信にしろ、 仏教には人間の通常の知的合理性を超えた作用があるものと理解している次第です。 問題はその不思議な作用の空性という中の位置付けを惰らなければ、そういった ことがらを何がなんでも否定しなくてもよいのではと思ったりしています。
139 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/09(火) 19:02:23 ID:6QqMsyeN
不思議を「思議すべ難し」ではなく「思議すべからず(考えるべきではない)」 ととっている。「なぜか」と考えるより、「なぜ」と考える行動そのものが問題 じゃないのか。
お邪魔します。 有意義な討論が続いていらっしゃって何よりです。 真に勝手ながら、当談話室シリーズの過去ログを、小生管理のサイトにて収録させて 頂きました。また、現行スレを今後TOPページよりリンク貼らせて頂いていきます。 当該スレッド常駐のコテハン及び名無しの皆様、あしからずご了承下さいますよう。
141 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 20:15:57 ID:/RkPaIM2
無心は境智不二で無分別智です。 智というからには、躍動するような智の主体はあるでしょう。 この智の主体があるからこそ、後得智としてはたらく無分別の分別へと 完成されるのでしょう。 わたしはあまり論争は得意ではありませんし、好みませんので、失礼させて いただきます。あしからずです。
142 :
中観派 :2006/05/09(火) 20:50:54 ID:gN8Fk53a
求めるけどできないことをやろうとすることは苦行なんですか? あきらめが悪いことはただ苦しむだけだと思うんです。
143 :
中観派 :2006/05/09(火) 21:10:57 ID:gN8Fk53a
そうすると、求不得苦は苦行ということで苦楽中道の精神からはずれている のではないのかと自分は思います。求めるものが求められなくて苦しむのでは なく、諦め、求められなくても満足できるようになればいいのが苦楽中道なのでは ないのかと思います。
144 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 21:19:09 ID:+O5x2HkC
>>124 と
>>129 は、真光信者の一在家ちゃんが言ったことw
真光スレの誰かが当て付けにコピペ貼りつけたんじゃない?
145 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 21:31:02 ID:XbA1eEuL
なんか素直に理解できないような発言が続いていると思う。
>>143 相対的に存在する楽は実体が無いので追及すると逃げ去ってしまう。これを「求不得苦」
というのだと思う。実体の無いものを追求するのは、幻影の蝶々を追いかける狂女であろう。
又、実体の無いものにおびえるものも同様であろう。だから苦楽の両者から離れなければならないのだ。
146 :
中観派 :2006/05/09(火) 22:39:34 ID:gN8Fk53a
難しいですよね、苦楽の両者から離れたものを見つけるのって。苦楽を 離れたものを見つけた仏陀は天才だと思うよ。
147 :
名無しさん@3周年 :2006/05/09(火) 22:44:11 ID:XbA1eEuL
>>146 心の平安が基準だと思うよ。こころのへいあんをついきゅうするのだ。
良いことをすれば心は安楽である。悪い事とされていることをすれば不安であろう。
>>146 いいかげんしつこいw
※中道とは一様のものなのか?苦楽を離れるとは一様のものなのか?
グラデーションのような微かな揺らぎさえも許さない、100人いてもたった一種の中道なのか?
個人差等の揺らぎさえも許さない、100人いてもたった一種の中道なのか?苦楽を離れたところなのか?
大量生産品のように、少しの違いも許されない同じ中道がありうるだろうか?
中道についてだけでなく、2ch内の涅槃や悟りや仏陀というものに対する言説は、
このような完全一種の何かを期待し想定してなされているように見える。
しかし、その視点は歪んでいないだろうか・・・。
普遍な在り様としての中道なぞ幻想に過ぎないのではなかろうか?
149 :
中観派 :2006/05/09(火) 23:11:25 ID:gN8Fk53a
>>148 >大量生産品のように、少しの違いも許されない同じ中道がありうるだろうか?
根本的なところはみな同じであとの微調整は個人個人じゃないですかね。
今俺が聞きたいのは根本的なことで結構普遍性が高いところなんだよな。
人を殺さないことが良いことも中道であって結構普遍的なことだ思うんだ
けどね。だけど時々守らないやつがいるけどそれも結構なことなんじゃない。
仏教の教えははほとんど中道だから、しつこいとかこのスレで言われたら、
話合いもなにもできないだろ。後は無我、とか無常とかぐらいか話合いできるのは。。
>>148 >中道についてだけでなく、2ch内の涅槃や悟りや仏陀というものに対する言説は、
>このような完全一種の何かを期待し想定してなされているように見える。
それは2ちゃんねるだけ?
私が知る範意では、空や涅槃が同一というのは大乗仏教における共通概念だと思います。
釈迦の覚りと、大乗仏教で目標とされる涅槃は同じであると。
あらゆる概念に偏らず、概念を取り払えば、そこには空の世界があると
(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)
原始仏教の空の概念は、大乗のそれと全く異なるということですか?
>>149 君の中道への態度は、
ギターの弦をギンギンに引っ張った中道を求めているように見えるからだよ。
君の姿勢そのものが、実は既に中道を離れてしまっているんじゃないのかな、と。
>>150 誤読している。(私の書き方も悪いが・・w)
そのような内容にはならないはずだが?
おやすみなさい ノシ
153 :
中観派 :2006/05/09(火) 23:24:55 ID:gN8Fk53a
>>151 人を殺さず、平和に解決しようとするのはギターの弦をギンギンに引っ
張った中道ではないでしょ。みんな守れているんだからね。
中道を生き方とするなら、そりゃ個人個人で同一のものなどないでしょうね 荒れ野に生きるものと、山林で生きるものでは生き方が変わって当然です
155 :
中観派 :2006/05/09(火) 23:37:45 ID:gN8Fk53a
根本的な中道はみんなほとんど同じであとは人それぞれに合うように中道を 考えればいいと思いますよ。 根本が分からないといっきに極端な行為にいきますからね。真ん中がわからなければ、 両端を行ったり来たりしちゃうんですよ。中道っていうのは最適航路へ制御すること だと思いますよ。
中道を生き方とするなら それは三法印をモットーにした生き方ということになるでしょう あることをありのまま受け入れ、こだわらないことを理想とし、瞬間瞬間を大切にする
157 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 00:24:43 ID:dOM5++Zc
蓮の葉っぱは露玉を載せる。葉っぱがゆれた傾いても露玉はその形態を保ったまま右横左横する。 決して玉がくづれることは無い。この玉の様に、中道を行く人は、世間に汚される事は無く、 世間に汚されるとは、ニ偏の一方に偏している世間に同調する事が無いと言うことである。 ニ偏を見ているなら、換言して原因結果を見ているなら、換言して相対的に存在していることを見るなら、 換言して縁起していることを見るなら、ニ辺のどちらにも偏していないので、ニ辺から離れているのである。 彼はニ辺にも一辺にも中間にも偏していない。
158 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 00:26:21 ID:dOM5++Zc
>>157 訂正
世間に汚されるとは→世間に汚される事が無いとは
159 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/10(水) 01:43:51 ID:tsNrF2i7
>>144 >
>>124 と
>>129 は、真光信者の一在家ちゃんが言ったことw
>真光スレの誰かが当て付けにコピペ貼りつけたんじゃない?
私に似た別の人が書き込んだ内容を、誰かが当て付けにコピペした
ようです。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。
本スレでも、恨み、執着、固執が苦しみの因となることを度々論じられて
おりますのに、真に気の毒です。
160 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 02:39:04 ID:ImYCSqeG
この系統のスレで、仏教を一番曲解してるのはチュウガンを名のっているやつだ。 最早救いようが無い。吐き気さえ覚える。
161 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 09:07:08 ID:sr+q33dw
出発点:「行(ぎょう)」に於けるやり方について、
極端な肉体の制御と極端な肉体の解放を離れること。
極端な節制と極端な甘えを離れること。
応用: 出家:上記。&種々の行為においても極端な言動を離れる。→常に適切な言辞を発すべき。
在家:日々の生活において、肉体・人間関係等を円滑に和やかに進めるため、極端な言動を避ける。
極端:この世の全ての事柄には、「(万人に共通の)あるスタンスの取り方があって」、
それを実践することが中道と言われる。
種々の価値観の真ん中、「万人が模範とすべき、ある一様な核」があるはずだ。
と、こんな感じですかね。援用は無制限になされるべきではない。
>>155 の >最適航路へ制御すること
という表現は可だと思う。 が、
>>153 のように不殺生についてまで中道で解するのは行き過ぎであろう。
中道とは、何について言われたものなのか?
応用を否定するものではない。
が、少なくとも、この世の全てについて言われたものではないであろう。
163 :
中観派 :2006/05/10(水) 09:33:37 ID:SE4gURfa
多分この世のほとんどすべてだろうね。生き物は動けば動かないところがあり、動かない 状態の方にも最高のものがあるかもしれないからね。 たとえば、不殺生の中道っていうのは正当防衛だと思うね。肉を全部食わない と思えば、死にますよ。 やりすぎも何も楽に正しいものが分かって便利だよ。
>肉を全部食わない と思えば、死にますよ。 いいえ。
165 :
中観派 :2006/05/10(水) 10:11:54 ID:SE4gURfa
>>164 科学的なデータがあるんですけどね。
ついでにいうとブッダは肉食っていましたからね。
肉は15%ぐらいがいいんですよ。肉を食わないのは相当極端な行為ですよ。
肉といっても魚が結構いいらしいですけどね。
166 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 10:16:04 ID:F0ZhN6yN
むしろ肉を食ってるから病気で死んでる。
167 :
中観派 :2006/05/10(水) 10:17:27 ID:SE4gURfa
>>164 まあ、実験してみましょうよ。肉を全部食わない方がいいのか食う方がいいのか
という死のゲームを楽しみましょう。後で後世の人たちが科学的データをとって
幸せになるようにと。
168 :
中観派 :2006/05/10(水) 10:19:50 ID:SE4gURfa
>>167 続き
仏教徒はみんな、死なんて怖くないんだから。
だから、それらは「中道」でくくる必要はないってこったw なぜ、煩瑣なパーティモッカが設けられねばならなかったかを一考してみてくれ。
170 :
中観派 :2006/05/10(水) 10:32:27 ID:SE4gURfa
>>169 でも、食というのは結構大事なことなんですよ。
171 :
中観派 :2006/05/10(水) 10:35:59 ID:SE4gURfa
>>169 そもそもどこからが、些細なことなんですか?
些細なことも重大なアクシデントにつながりますからね。
172 :
中観派 :2006/05/10(水) 10:40:14 ID:SE4gURfa
>>171 続き
それを教えてくれませんと、どうしようもできませんよ。
現代人は些細なことはいいとかいいながら、足を踏まれると
「んっじゃ、てめー、いてーじゃねーか。」とかいうんですよね。
自分の行動に矛盾していますよ。
>>170-172 お釈迦さんが、四波羅夷以外は無くしてもいい(変えてもいい)と言ったのに
長老たちはそうしなかった。なぜか?
それらが大切なことだと判断したからじゃないのか?
>>169 の文章のどこが、些細なことを軽んじた文章になるのか?
この様子だと、
>>160 が今日このスレを見たら、吐き気どころか、おそらく死んじゃうんじゃね?
175 :
中観派 :2006/05/10(水) 12:02:14 ID:SE4gURfa
>>174 死ぬのを分かっていてみるんだから、別にいいじゃねーか。
へどが出て気持ち悪くなるのにこのスレを見るのは苦行なのか?
それって苦楽中道じゃないから、あまり良くないのかな。
176 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 12:26:06 ID:kg6Zjbkc
そんなに中道が大切なら、四法印にも中道が入るはず。 中道は仏教の修行の特徴をうまく説明している言葉ですが、 それ以上のものではないと思います。 快楽を求めるのも、苦行を求めるのも、何かを求めていることに変わりはない。 仏教は、何も求めない。 求めるから苦悩やストレスが起きる。
177 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 12:30:30 ID:kg6Zjbkc
>>155 中道は、過去や未来にこだわらないことに通じるのでは?
今できることしかできないのだから、
今できることだけしてればいい。
過去にできなかったことや未来にできっこないことを
今求めても、しかたがない。
178 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 12:33:46 ID:kg6Zjbkc
「今・ここ」が中。 過去や未来にこだわらず、つねに「今・ここ」を行くのが、中道。 心が過去や未来に飛んでいかずに、 いつも「今・ここ」に心がおちついている生き方。
179 :
中観派 :2006/05/10(水) 15:34:10 ID:aUWpSLNY
極端な行為は求めないけれどどちらにも執着しないものを求めるんだと思う。
>>179 あらゆるものに執着しない
空や涅槃や中道にも執着しない
それが中道
かな
181 :
中観派 :2006/05/10(水) 15:51:52 ID:aUWpSLNY
未来に対してこだわらないといいますけれど、やはり不安なことは必ず来ますよね。ようは、どの程度不安がればいいかですよね。成功者は失敗を恐れないと聞きますが、彼らはそれなりに先のことを考えていますからね。
182 :
中観派 :2006/05/10(水) 15:56:28 ID:aUWpSLNY
未来に対してこだわらないといいますけれど、やはり不安なことは必ず来ますよね。ようは、どの程度不安がればいいかですよね。成功者は失敗を恐れないと聞きますが、彼らはそれなりに先のことを考えていますからね。
183 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 15:57:08 ID:exSGPY6q
中道は無碍で自然な生き方を目指すものだと思う。 自分の考え、行動が、自他共に衝突する事の無い、自然な生き様 実現できずとも、それを目指す生き方ではないのかね。 目指すとはある意味、執着ととれるかもしれない、 だが、中道が執着しない生き方である以上、それが善き事で ある以上、執着している事に、執着する必要もないと思う。
184 :
中観派 :2006/05/10(水) 21:07:56 ID:SE4gURfa
尊者がいうには涅槃を得るためには中道は欠かせないが、しかし、中道に執着 するなというけど、どういうことなのかね。結構矛盾しているようだけど、 俺には気づけないなにかがあるんだよな。
185 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 22:13:03 ID:exSGPY6q
中道というのは覚者の生き方であり、手本にするのは難しい。 中道という人生の手本があるわけではなく、覚者の生き方そのものを表したものだと思う。 中道を追い求めるということは、人生の結果を追い求めてるような気がする。 例えば、スポーツの大会でひたすら優勝を目指して頑張るのと、その時、その時を、楽しみ ながら頑張ったその結果が優勝だったという事に似てる。 <涅槃を得るためには中道は欠かせない 涅槃を得た生き方が、中道にそった生き方だった。俺個人としては、こっちがしっくりくるような 気がする。
186 :
中観派 :2006/05/10(水) 22:22:01 ID:SE4gURfa
それがさー、賢者がいうには中道は涅槃を得るためには欠かせないが、中道で 最高のものを得られると思うなよとか言っているんだよ。 まー、この問題は中道を極めたあとの問題である気がして、超初心者でバカな 俺にはまだ理解できそうもないな。
187 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 22:26:09 ID:exSGPY6q
要は178さんの言うように、今を大切に生きることが 中道に添った生き方になるのかもね。俺は183でも 書き込んだけど、あれも中道という文字に捉われて いるよね。
188 :
中観派 :2006/05/10(水) 22:35:11 ID:SE4gURfa
たぶん、中道に捉われるなっていうのは中道をほとんどマスターしてからの 話だと思うよ。ほぼ、人生が完成し、最後のピースを当てはめるようなものだよ。
189 :
中観派 :2006/05/10(水) 22:44:43 ID:SE4gURfa
賢者は不満が出てきてもすぐに満足を得られればよいというのをどこかで 読んだことがあるんですが、 これはすべて平安で満足であろうとすること は難しい。ゆえに、すべて満足の状態を望まず、不満が出てきてもすぐに 満足になれればいいということですか? 一切の苦もなく、平安で極楽であることを望めば、また不満が増えてしまう 気がするんですよね。
190 :
名無しさん@3周年 :2006/05/10(水) 23:02:20 ID:kg6Zjbkc
中観派さん、絶好調だねw?
192 :
中観派 :2006/05/10(水) 23:44:28 ID:SE4gURfa
>>190 肉体的不満とか良いことをしようとするときに出てくる不満とかだろーね。
今日は不満だらけで嫌だということはなくなるだろうね。
まさに不満だらけで嫌だっていうのはいつも満足であることを望みすぎていると思うよ。
満足なんて常に得られる確証なんてないんだから。
193 :
中観派 :2006/05/10(水) 23:46:43 ID:SE4gURfa
>>191 暇だからじゃねーか。忙しくないとバカみたいに余計なことを考えてしまう
もんなんだよってテーラワーダ仏教で教えてもらったことは図星だな。
194 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/11(木) 03:12:08 ID:SvkdOf/z
>テーラワーダ仏教で教えてもらったことは図星だな。 確かに。考えれば考えるほど、妄想の虜になってしまう。 テーラワーダのホームページにいって、瞑想の仕方習ってみたら。
195 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 03:19:16 ID:JG4lcrqo
中観派は厨房派にしなさいって、誰かに忠告されてなかった?
196 :
中観派 :2006/05/11(木) 10:49:45 ID:ym99B2YH
>>195 忠告されたからってやるかやらないかは自分で決めますよ。
197 :
中観派 :2006/05/11(木) 10:52:20 ID:ym99B2YH
いくら言っても納得がいかないことはやりませんよ。 何万回でも言われてもね。 理論的にそれが最高なものかも分からないことは信じませんよ。 大槻教授みたいにね。
198 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 11:05:30 ID:r9zH9YOE
200 :
中観派 :2006/05/11(木) 16:25:32 ID:uTcdSa0t
お前さんは新興宗教とかに騙されそうなやつなんだな。確か仏陀は自分で考えて行動するのが良いとか言っていたらしいぞ。
201 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 16:34:03 ID:8kGrNOCe
どんどっとっとどんどっとっとどんどっとっと
202 :
中観派 :2006/05/11(木) 16:34:43 ID:uTcdSa0t
誰か容姿についての中道を教えてください。自分よりかっこいい人に対しては羨ましがり、自分よりかっこ悪い人に対しては侮辱の念を持つのは危険なことだと悟りました。このどちらにも執着しない考えとはいかなるものなのでしょうか?
203 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 16:50:17 ID:8kGrNOCe
比較できる者などなにもない。 それぞれの今は それぞれに受肉し 自己を完成させた 今に因ること。 人一人唯一の今だ。 それをあなたの自己によって交え考えるものではない。 人一人ずつが特別だ。 そのようにして、あなたは一切を交えずあるがままの中道をいける。
204 :
名無しさん@救急車 :2006/05/11(木) 17:28:28 ID:FNiuxrPG
かっこいい人に対してうらやましがるのは普通。つまり中道。
例えば風景は観る人の気分によって変わる
206 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 17:52:37 ID:i3XG9r9o
>>202 容姿の美醜分別は、優れた子孫を残せる後尾相手を
みつけるための本能でしょう。
顔が整っていてスタイルがよければ、
頭がよくて健康で運動能力も高い確率が高い。
たいていは、平均的な容姿を美しいと感じるらしい。
たとえば、やせすぎず太りすぎず。
ただし、肥満が懸念される先進国ではやせぎみの人がモテるし、
食べ物が少ない昔の日本や発展途上国では、ふくよかな人がモテる。
美醜の分別は性欲の延長であり、
肉体が出力してくる刺激のひとつ。
肉体があなたそのものでない。
肉体の主張する意見にしたがわない選択もあり。
肉体からの欲の指示に右往左往せずに、
欲を客観的にみるのが、中道では?
美人だと思っても、
「これは肉体の性欲があの娘の遺伝子を欲しがっているだけであり、
わたしがあの娘を好きだというわけではない。」
と、客観的にみる。
207 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 18:09:03 ID:i3XG9r9o
肉体(ハード)面で優れた子供を生みたいなら、 美男美女と結婚するほうが効率的でしょう。 しかし、いくら肉体(ハード)が優れた相手でも、 心(ソフト)面で合わない相手だとしんどい。 いくら処理能力のいいパソコンでも、 入ってるソフトが使いにくいとしんどい。 心とは、入力に対して何が出力されてくるかという、 肉体における一連のできごと。 二人の美人がおなじものを見て(入力)も、 それに対して怒ったり笑ったり出力が違う。
だから! そういうのは中道の範疇じゃないと何度言ったら(ry
209 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 18:15:38 ID:+JNQMPDe
容貌の美醜に対する執着がなければ、このような疑問は生じない。 醜くてもよし、美しくてもよし、このように観ずることが中道である。 質問自体が顛倒している。
まあいいやw 100歩譲ったとしても、そのように日常の多様さと細部にまで敷衍させたいなら、 出家の中道と在家の中道をはっきり弁別しとけ。同列に語れると思うな。 ついでに、 男の中道と女の中道も区別しとけ。 老人の中道と子供の中道も区別しとけ。 雇用者と労働者の中道も区別しとけ。 そのような中道が一言で語れると思うな。 様々な言説で複雑に修飾されて(冗長なものになって) 初めて定義されるものとなるだろう。
211 :
名無しさん@救急車 :2006/05/11(木) 18:32:40 ID:FNiuxrPG
212 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 18:33:05 ID:upEDRNy2
ageとく
213 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 18:50:40 ID:+JNQMPDe
>醜いものは醜いと感じるのが中道。
無為自然にそれを許容できるのが中道。
無為とは美醜の無差別平等。
↓
>>209 >醜くてもよし
214 :
名無しさん@救急車 :2006/05/11(木) 18:55:28 ID:FNiuxrPG
>>213 醜いと言ってるんだから醜いと感じたんだ。
それを無視するのが中道ではなくて、
へたな平等主義思想に陥ることなくうまく処理することが中道では。
215 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 19:00:18 ID:+JNQMPDe
へたな平等主義と空・無相・無願からの観点による平等主義とは弁別したほうが よろしいと思います。
216 :
名無しさん@救急車 :2006/05/11(木) 19:28:13 ID:FNiuxrPG
>>213 無為自然なら、普通に見たままの感想を述べたらよい。
それができないのは、すでに差別があるから。
217 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 19:41:40 ID:82k1gRX3
大乗の三昧王経は「人間などいない」と言ってる。されば美人などいるわけ無いだろう。 美人なるものは、執着に拠る固定観念である。美醜なるものは無い。
218 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 19:53:14 ID:82k1gRX3
>>217 しかし、ブッダ菩薩がこの上なく美であり魅力的であると言われているのはどうしてだろうか?
又どの大乗経典であったか忘れたが、忍耐(正しい忍耐)は美人(男女を含む)産むといっている。
そうすると要するに、正しい人正しい事に邁進する人が美人となるのである。
どんなに美人であると思ってもその人が悪い性質を発揮しているなら、美人であるとうっとりする気持ちは
起こらず、憎しみが生づるばかりではないか?やはり正しい人が美しく見えるはずであり、
正しい人にこそあらゆる賞賛の言葉を捧げたくなるのは、真理であると思う。
そこで正しいとは、八正道をしている人である。忍耐は八正道の一つである。更に
大乗の六波羅蜜の一つである。
219 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 19:59:31 ID:82k1gRX3
八正道は何を生み出すのか?それは苦の滅である。苦の滅は何か?それは『平安』である。 やはり『平安』に達している人に勝る美人は無い。この美人は男女、関係無いのだ。更に 老人子供の関係も無い。老人でも美人であり得るのだ。
220 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 20:10:36 ID:82k1gRX3
これは美である、これは美ではない、と判別されるような美は、実体の無い虚妄である。 そのようなものを美と勘違いしてはならない。 美は空性であり、それ事態で自存しているものである。永遠不変なものである。
221 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 20:12:46 ID:82k1gRX3
美の事を経典では『清浄』と言っている。
222 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 20:45:36 ID:m6HSJ/+T
四諦八正道〜妄執滅尽〜極端出離〜独座遍歴〜自燈法燈〜無分別智〜得阿羅漢果〜解脱〜入涅槃。 イケそうな人いますかー
223 :
名無しさん@3周年 :2006/05/11(木) 21:04:11 ID:r9zH9YOE
今日もホドホドに食ってホドホドにクソしてホドホドに仕事してホドホドにSEX してホドホドに怒ってホドホドに愛して結局ホドホドに生きました。 ボクって立派な仏教徒でしょ?中道バカさん。。。w
224 :
中観派 :2006/05/11(木) 22:23:30 ID:ym99B2YH
>>223 君のほどほどの考えが本当にどちらにも執着がないといえるなら、立派なん
じゃないか。
それにしても現代人はファッションにこだわるよな。やはり、性欲の問題なの
かもな。性欲を認めてみんなでファッション極めて老人になったとき自分の身体の
汚さに苦しもう。みんなかっこよくなろうと思って子供生んで、地球を破滅
させましょう。増えすぎたものは自然に全滅するか、減少するからいいと思って。。。
>>224 中観派さま
現代世相を眺めながら、独語にレスしてみますね。
>それにしても現代人はファッションにこだわるよな。
メイク技術の発達が、男女ともに無駄に虚飾へと走らせる結果になっているようですね。
若いうち馬鹿みたいに外見を飾りたてる程度なら、まぁ可愛い物と言ってすませられ
ますが、この時に十分満足すれば程ほどに年をとって、「いい加減落ち着くか」となる
やもしれませんし、逆にいつまでも若い時のように虚飾癖を止められないかもしれません。
年を取れば自然に容色は衰えるものです。今みたいにそれをカバーする化粧品が
無かった頃なら、諦めと共に受け入れる事も可能だったでしょうが、こんにちのように
それを(それなりの出費である程度)誤魔化すことができるのであれば、いつまで
経っても止められない人も出てくるでしょうね。
>やはり、性欲の問題なのかもな。
直結させるのはどうかとも思いますが・・・
そういう理由で飾ってる人も、それなりの比率で存在はするでしょうね。統計とったこと
がないので、正式な数字は判りかねますが。
「自分が綺麗になりたいから、着飾ってるんだ」という動機もあるかもしれませんよ。
>みんなかっこよくなろうと思って子供生んで、地球を破滅させましょう。
もしもし?w
独語 “空”性を「諸行無常」とか「もののあはれ」という概念に変化させて、文化として 定着させた日本人の感性に、今更ながら私は敬意を払います。 それは本来の「空性」とは違った情緒的なものになってしまっていますが、 「空性」だけだとある意味味も素っ気もない乾いた合理的な概念でしかありません。 それは文化の要素には成り難いものでしょう。 それを「いろはにほえど ちりぬるを」や、「行く川の流れは絶えずして」と 感性的なものに変化させて受容し、後世の日本人たちに難しい言葉では なく感性に訴える方法論で染み込ませていったわけですから。 それは確かに「仏教的なもの」ではなくなってしまったかもしれませんが、仏教を 日本人向けにカスタマイズして受容していった先人達の知恵を見出したいです。 ※あんまり書くと、ありがちな日本マンセー論になってしまうので程々にしておきますが。
228 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/11(木) 23:53:59 ID:h4/k2+gc
苦行に執着するのもダメ。欲望のままの生活もダメ。だからといって その両方に執着しないようにこだわるのもダメ。要するの一つのことに こだわるな、執着しないようにしよう。これが中道だと思うんだけど。
仏教ヤヤコシス
230 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 00:34:58 ID:w0ZwA5aR
中道から入るといかに仏教を曲解するか、非常にいい見本だね。
231 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 00:36:38 ID:WZ3RRQ6L
原始仏教や釈迦の個人崇拝に執着するのは、むしろカルトである。
232 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 01:21:32 ID:bY04v35G
↑ それはやっぱ日本伝統宗教側から見た自己保存の観念論でゎ?変化を容認しないのは釈迦無常論に違背するってか? なら時代につれて分派し、金儲けばっか考えて葬祭儀式化したのはカルトじゃないの? 水子やら安全守やらがどうして仏教なの? 習合経済仏教はカルトじゃないの?神格化した法身佛陀に委ねる楽な商業って印象なんですが。 あと、屍に経文唱えろって誰が言い出したのか教えて。陰陽師の土砂加持じゃあるまいし。 こんな伝統仏教面の昔々一々を知ったら、カルトじゃない定義ってのもカルトの定義以上に妙なもんじゃないの? 違うなら解説してみて。偶像崇拝を肯定する結果、本尊だかが盗まれたら憂いになっちまうなんて、そんな仏教はワケわからん…と、ちなみに近所のネズミに聞かれたのでよろしく。
233 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 02:07:37 ID:14YxWz8G
>>232 原始仏典や釈迦を神格化するのは、キリスト教の聖書やイエスの神格化と同じ。
人間の心を狂わせる。オウムも原始仏教やキリスト教の影響を受けている。
多くの人々の思索の結果としての大乗仏教の膨大な体系のほうが、原始仏典よ
りも価値がある。多数の人々の経験と知恵の集合体だからである。
釈迦は、その大乗仏教の発達を可能にした点のみが、評価されるべき。イエス
とは異なり、釈迦は執着を去ることや、弟子たちが師を超えることの重要さを
解いた。後世の人々が原始仏教に執着することが、果たして釈迦の本意か。
あなたが挙げたワケ判らん仏教の例は、あなたがキリスト教的な観念に毒
されて、多様な人間性の理解と洞察が欠けているだけ。これらは、少なく
ともキリスト教や原始仏典の盲信のように、人間の狂気や現実からの離脱
を招くことはない。ワケ判らん仏教の儀式や行事により、人々は、生活の
中においていくばくかの憩いを得ていることを忘れてはならない。
宗教の起源も本質も、生存のための現世利益の追求であるべきもの。精神性
の追求などが、生存にとって一体どんな価値があるのか、考えてみて欲しい。
人間とは基本的には肉体的存在。精神性の追求は、狂気を招くのみである。
>>228 あなたの主張はすべての立場を否定するのが中道だもんね。
235 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/12(金) 07:10:35 ID:fPhdCakE
こんどから >すべての立場を否定する こともダメにしよう。
236 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 09:00:06 ID:MuwPcFnk
経典を読んでる人が少ないんじゃないのか?大乗経典などは、法華経を除いて、法華経を除くのは、 この経典は何を言っているのか明らかでないからであるが、読んでいるだけで、心が清浄になることを 保証している。八千受般若経がそれであったし、他の般若経典も層である。般若心経は短すぎて 清浄な境地に読んでいる時間は入れない。長めの経典を読んだら良い。
237 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 09:02:10 ID:MuwPcFnk
>>236 つづき
和訳されたものが良い。読んでいて意味をしっかり把握していなければ清浄な境地には入れない。
238 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 09:09:58 ID:MuwPcFnk
大乗は原始経典から生まれ、原始経典の意味内容を良く理解させる解説の経典である。 それでも、これあれば彼あり、これなければ彼無し、の縁起の理法を知っていなければならない。
正宗関係の狂信者は帰った帰った
240 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 09:33:54 ID:Txn3Wf61
>>235 原始仏典や釈迦個人に執着するのは、中道ではない。
241 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 10:39:15 ID:w0ZwA5aR
>>240 ならばあなたは仏教に執着せずキリスト教もイスラムもユダヤもブーデゥーも
偏らず万遍なくやって、何も掴めず逝きなさい。
242 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 10:45:13 ID:GgtG3os0
俺から言わせると原始仏教マンセーのテーラヴァーダ狂信者達は たしかにカルトだ。 タイ人スリランカ人の比丘や仏教徒の友達とも話すんだが、 向こうには大乗や他の仏教宗派を批判して相対的に自分を偉く見せるような 人間はいないそうだ・・・ 台湾の上座部系の信者も然り・・ オウムからテーラヴァーダ系に移った連中も多いしね・・・ たぶん日本人特有の現象だろうね・・・原始仏教カルトって。
243 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/12(金) 10:49:49 ID:fPhdCakE
お釈迦様の教えを守り、その教えを説いたお釈迦様を敬うことと、 「原始仏典や釈迦個人に執着する」ことは別である。 確かお釈迦さま自身が「私を拝んでも何もならない」といった言葉 があったが。 「原始仏典や釈迦個人」が涅槃に導いてくれるのではない。
244 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 11:22:39 ID:TX9gKaDt
245 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 11:31:08 ID:myETR4Pl
242-244ありがとうございます。どうやらテーラヴァーダも駄目なようですね。
246 :
素人 :2006/05/12(金) 11:41:18 ID:30bJXaLY
248 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/12(金) 15:48:39 ID:fPhdCakE
>>247 一つの決まった立場にこだわらない。ということ。
>>248 「一つの決まった立場にこだわらない」=「すべての立場を否定する」ということ?
250 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 16:35:15 ID:HIJXeeB3
>>249 「一つの決まった立場にこだわらない」ということは、少なくとも、「すべ
ての立場を一部否定する」ということになるだろう。要するに、盲信、狂信
は否定するということだ。
執着しないといのは、結果論だと思う。 人間は生きている内は、なにかと執着してるものだ。 それを執着はだめだと、そのだめだから入るから、中道を 判らなくさせる。この瞬間を自分ができることを、大切に生きて いくことが元になるのだと思う。 執着しないというのは、その生きた結果であって、自己が判断する ものではない、あくまで客観的に見るべきものだと思う。
252 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 18:14:13 ID:YJWi2AKc
>>251 そうかもね。
それと、執着するなということより、
苦悩の影には必ず執着があると気付くことが大事でしょうね。
苦悩を覚悟できた上での執着なら、後悔も愚痴も八つ当たりも起きないから。
苦悩はいやだけど執着したままだと、歪みがでる。
253 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 18:22:31 ID:ejivi36N
>>251 >執着はだめだと、そのだめだから入るから、中道を 判らなくさせる。
執着はよいことだと、そのよいことから入れば、中道からますます遠ざかります。
仏教では苦の原因として欲望や執着を示しているのですから、執着はだめから入る
べきでしょう。こういう姿勢がなければ、つまり無我を心掛けなければ、四諦も八正道も
実践はおろか、理解することも困難でしょう。
だからぁ、 そのレベルで話をするならば 出家の中道と在家の中道をきっちり分けろと何度言っt
255 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 19:09:22 ID:bY04v35G
中道に拘ったら遺憾。無分別智に達してみればわかるべ。ただひたすら座れば。
「一つの決まった立場にこだわらない」やら「すべての立場を否定する」やら 「空」やらが気になる人は、講談社学術文庫の「龍樹」を読んだほうがいいと思う。 この本の中身くらいの事を知らないのなら、ここで何を喋っても時間の無駄遣いだろう。 日常生活の指針が欲しい人は、まずは荘子でも読んで垢落しをしたらどうか。
257 :
中観派 :2006/05/12(金) 21:39:18 ID:0xGv3LeQ
犯罪者に出会ったとき言葉だけでその犯罪者の心を改心させ、自分を守る方法 を誰か知っていますか? 完璧とは言えないけど、少しは防犯に役立つのではないかと思いました。 犯罪者っていうのは何か言い誤れば反対に逆上し、逆効果になるんですよね。 しかし、何も説得せずに戦えば犯罪者っていうのは有利な立場だから、 たちまち餌食になってしまうんですよね。こういうの考えれば少しは犯罪 減ると思うよ。犯罪者の頭を冷やさせてあげましょう。
258 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 21:40:17 ID:e31Swnun
>>255 中道と無分別智はまったく逆だろ。
無分別智なんて、ブッダが否定した梵我一如の
神秘主義じゃねーかw
259 :
中観派 :2006/05/12(金) 21:51:03 ID:0xGv3LeQ
>>258 梵我一如っていうのは結構いいと思うよ。
だって、自分が宇宙であることはどうしても否定できないしね。
260 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:04:19 ID:0xGv3LeQ
それにしても殺人事件は絶えねーもんだ。人を殺したらだめだと分かっている のについ頭にきて人を殺しちゃうもんなんだな。 こうなったら、殺そうとしている相手を説得しないと死は避けられないと思って 何かいい対策を立てておくか。武術をならったとしても相手は包丁や刀だから どうやっても殺されちまうな。みんな包丁で殺すの好きだかな。
死ぬべきときが来れば死ぬんだろうに。 アホバカに逆らうことでもあるまい。 戦うことが生きることだと思ってるから、中道に執着するんだな。 わかりやすい話だ(笑
262 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 22:23:13 ID://bS14aK
執着を去ることに執着すれば、それも執着になる。自然体が一番。 なお、煩悩は、人間が生きていることの証。煩悩を去れ、というのは、死ね ということ。この辺を、仏教徒はどう解決するのか。 人間考えすぎると真理を見失う。他者との係わり合いの中でひたむきに生きる ことによってのみ、悟りが得られる。 この関係性(縁起、空)こそ、仏教思想の中核、永遠の真理ではなかろうか。 そこに、釈迦の偉大さがある。
263 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 22:32:49 ID:bV2Apuzc
>>258 >無分別智なんて、ブッダが否定した梵我一如の 神秘主義じゃねーかw
初期経典のアートマンについてはどのように思われますか?
無分別智は般若波羅蜜と同じです。
ブッダは般若波羅蜜を否定するでしょうか。
無分別智や般若波羅蜜に達して、諸法の無我が分かり、執着を離れることが
できるようになればこそ、中道が実践できる道理じゃないのですか。
その際には、中道の原動力は、おおいなる慈悲だと思います。
264 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:40:02 ID:0xGv3LeQ
>>261 だって、死んだ方がいいのか生きた方がいいのかという問題はやはり中道
的に考えればできるだけ長生きして、最後は死を恐怖と思わず死ぬのがいいと
思うんだ。なぜ生きるのかの問題の解決はこれしかないだろ。
家族のために生きるというやつがいるが家族が全滅したらどうするんだよ。
生きれなくて自殺するか?
だから、防犯は重要なことだ。
265 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 22:42:29 ID://bS14aK
>>264 >家族のために生きるというやつがいるが家族が全滅したらどうするんだよ。
>生きれなくて自殺するか?
家族の想い出が、生きる力となる。
266 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:42:46 ID:0xGv3LeQ
>>264 続き
死が怖くなくなるとこうでもしないと簡単に死んじまうんだよな。
267 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 22:43:15 ID:rlmUi6bq
>>264 君は、中道を知らんのに、どうして、中道的なたとえ話が出来るんだ?
他に聞く前に、自分に問うたらどうだ?
思考停止患者の典型なんだよ(笑
268 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:46:50 ID:0xGv3LeQ
>>266 へっへへ。もっときついことをいうとその家族の思い出が事故とかで
記憶喪失になってなくなったり、
写真もすべて燃えてなくなっちゃたりしたら、どうするんだよ。
また、家族が自分を裏切って一人ぼっちになったときどうするんだ。
みんな自殺か?みんな死ぬのが好きだな。
269 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:48:17 ID:0xGv3LeQ
>>267 なぜ、生きるかの明確な問いの答えをいってからなんとでもいいなさいよ。
270 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 22:52:06 ID://bS14aK
>>269 >なぜ、生きるかの明確な問いの答えをいってからなんとでもいいなさいよ。
それは中学生程度の質問。
生きることに理由はない。生きていることがすべてである。
272 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:56:28 ID:0xGv3LeQ
>>270 なぜ、生きることに理由がないと分かったんでしょうかね。
それが疑問っすね。
273 :
中観派 :2006/05/12(金) 22:58:55 ID:0xGv3LeQ
274 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:01:11 ID:0xGv3LeQ
>>270 また、生きることに理由がなかったら、さっさと自殺すればいいんじゃないで
すか?
そうじゃないと生きることに理由がないってことじゃなくなるでしょ。
仏教はそういうことを考えるなという教えなんだよな。
生きるんではなく、生かされているんだと思う。 自己の力で生きているという観念があるから、 生きる理由にこだわらなければならなくなるんだ と思う。
277 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:05:41 ID:0xGv3LeQ
>>270 理由があるから、生きているんでしょ。たとえば、死んだら無になるから怖い
とかね。
しかし、私は死んだら無になるってことは完璧にないことが分かったんで、
別なことで生きる理由が必要になったんですよ。
278 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:07:22 ID:0xGv3LeQ
>>275 たぶん、それはなぜ宇宙があるかの問いでしょ。
279 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 23:07:45 ID:nM1BPSU2
だからーーーーーーーーーーーっ! そういう時は出家と在家を明確に線引き汁!ヽ(`Д´)ノ
280 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 23:08:05 ID://bS14aK
生存は、本来的に生物である人間の基本的本能。たとえ、自殺志願者でも、 殺されようとすると、必死で抵抗するものだ。
唯識的に言えば、人間はどんな事象にだって なんらかの「意味」を見出さざるを得ないんじゃないですかね。 末那識や第六意識の働きに執着するんだから。 自殺を選ぶというのは、「生の無意味を悟ったから」ではなく、 「自殺という行為に意味を見出したから」といえるのでは。
282 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 23:09:49 ID:e31Swnun
>>263 無分別ってのは、二即一如、二が一とする全一性(一如)のことを指してる。
これはもろウパニシャドの思想だろ? ブッダの縁起説はけっして
「一」を主張するもんじゃない。「二の絶対視」を斥けるだけのもの。
283 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 23:18:02 ID:rlmUi6bq
質問者が嵐なのか解答者が嵐なのか。。。 こりゃわからんわい(笑
284 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:18:07 ID:0xGv3LeQ
>>280 そりゃ、無が怖いだけか、痛みが嫌なんだろ。
今は薬でやすらかに死ねるよ。
285 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:23:20 ID:0xGv3LeQ
>>279 出家とか在家とかほとんど関係ないんじゃないか。
どちらも、不満がないようになればいいんだよ。
ようは、満足できることをやればいいんだよ。
286 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 23:23:37 ID:e31Swnun
>>282 唯識的に言えば、認識の対象は存在しないのだから、
自殺も他殺も自然死もすべて同じ主観世界の自作自演ってことなんだろ?
自殺を特別視する必要なんかねーじゃん
287 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:26:57 ID:0xGv3LeQ
他殺や自然死は別に死のうと思ったわけじゃないが、自殺は死のうと思って いるからあきらかに死に執着しているように見える。
288 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:32:48 ID:0xGv3LeQ
別に生かされているから生きるとか難しく考えなくても、死んだ方がいいのか 生きた方がいいのかという問題はやはり中道的にそのどちらにも執着しない のが最適だと考えればできるだけ長生きして、最後は死を恐怖と思わず死ぬのが いいと思うよ。いちいち考えなくてもいいから、結構楽じゃん。
289 :
中観派 :2006/05/12(金) 23:34:06 ID:0xGv3LeQ
だから、生きるためには犯罪者に出会ったとき言葉だけでその犯罪者の心を改 心させ、自分を守る方法が必要になってくるんじゃないかい?
>>279 手数だけど
原始仏典から「在家と出家に分けるべき」に該当する部分を引いてもらえませんか?
291 :
名無しさん@3周年 :2006/05/12(金) 23:39:44 ID:e31Swnun
>>287 唯識は、認識のみであって客体や実体を完全否定してんだから、他人が自分を殺すも、
自分が自分を殺すのも、実はいっしょ。
>>290 私は、仏典は全てそのように書かれていると受け止めています。
293 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 00:00:29 ID:wm9XQ2Vd
どんどっとっと、どんどっとっと
>>282 >「一」を主張するもんじゃない。「二の絶対視」を斥けるだけのもの
縁起は、すべてのものが関係性を持ち、一つだけで成り立つものはないということですね
しかし人間は、その縁起によって関係を持つ世界を名と概念によって二者に分別して見ている
では、二に分かつ概念を取っ払えば、そこには一なる世界、「空」の世界があるのでは?
>>292 いや、中観派は自分の想像で考えていることはたしかです
その想像を正すには原始仏典から、
>>161 を証明する文を引くのが一番効果的だと思います。
個人的には「万人が模範とすべき、ある一様な核」が無いことを証明する文を知りたいです
空執が駄目って意味なら理解できますが、やはり仏教とは涅槃を核とするものだと思いますから
>>291 末那識を滅尽した阿羅漢、或いはそれより上の境地ならそう体得するのだろうね。
297 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 00:50:28 ID:JbZv2qK/
生きる事に意味なんてない。ただ遺伝子に生きろ、他を殺しても生き延びよ! そうプログラミングされてるだけなんだよ。人間とは遺伝子の乗り物なんだ。きっと。 我即宇宙。なんてのはウソだ。だまされてはいけない。釈尊はそれを見抜いてしまった。 我我が欲望を持っているのではない。持たされているのだ。 そして在りもしない自我にとらわれ、人を殺すんだ。 俺達は何者かに騙されているんだ。 少なくとも仏教徒を名のる人間はそこを見抜いて人を殺してはいけない。
俺が俺を騙しているのだ。 俺が俺に騙されているのだ。 南無阿弥陀仏。
299 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 01:20:52 ID:JbZv2qK/
親鸞上人は亡くなる寸前に悟られた方だよな。
300 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 01:25:59 ID:paYAUBxM
いまだに、仏教質問箱ができないよ
301 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 01:43:50 ID:JbZv2qK/
おまえが自問自答してろ。
302 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/13(土) 04:20:51 ID:2lZPOUdW
♪♪・・酒は飲んでも飲まれちゃならぬ〜・・・ 欲望と執着の差は 百薬の長とキチガイ水の違いか。 スマ長老はスパッとやめられるかどうかで線引きしてたな。
自歓喜経の収録されている原始仏典 第3巻 長部経典を読んだ。 常住論が自説か他説かに関する決定的な根拠はなかった。 ただ興味深かったのは入胎が自説らしいということである。 入胎についての教えとは、 (1)母体に入るとき、(2)母体にとどまるとき、(3)母体から出るときに知覚がどうなっているかで、 第一の入胎:(1)知覚せず (2)知覚せず (3)知覚せず 第二の入胎:(1)知覚しつつ(2)知覚せず (3)知覚せず 第三の入胎:(1)知覚しつつ(2)知覚しつつ(3)知覚せず 第四の入胎:(1)知覚しつつ(2)知覚しつつ(3)知覚しつつ それに関する傍証は、自歓喜経の最後で世尊はサーリーブッダに、僧や在俗信者に繰り返し説くように指示していること。 第三三経 教義の集成―等誦経にて、サーリーブッダは世尊によって正しく説かれた教えを羅列しているが、 その中に常住論は無いが、入胎はあることである。
304 :
暇人 :2006/05/13(土) 08:06:12 ID:sYyxGfVw
>常住論が自説か他説かに関する決定的な根拠はなかった。 どう読んでも自論だと私は思うが。。。 如何に読むと「他説」と読めるの?
305 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 09:01:45 ID:v7iKcYxc
「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、 人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、 これを認める。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に 従って常に変化しつつ連続する有為法である。」 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 最近解読された「ユダの福音書」でも、肉体の死後に霊魂が存続することを 重視している点、更に霊体と内なる神に関するイエスの教えが興味深いです。
306 :
中観派 :2006/05/13(土) 09:28:31 ID:ECDCFKEh
>>305 なんでみんな霊魂が好きなんですかね。
みんな死が認めれないからかな。
人間の肉体を自分と思ったら、死は恐ろしいものになっちゃうんだよな。
俺も一回なったことがある。
307 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/13(土) 09:54:16 ID:2lZPOUdW
>>305 一在家さんへ
>霊魂は三世を通じて存在するもの
これは、世代間を超えて霊魂が常住するとはいわないの?
テーラワーダだと、物質である肉体を生かす働きのあるモノとして
「こころ」・「精神」を認めているが、それは瞬間的に消え去り、
また生じるモノであり、世代間を超えて伝わるモノではない。
308 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/13(土) 10:05:37 ID:2lZPOUdW
無為法・・生滅変化を超えた常住絶対なモノ 有為法・・原因・条件により生滅する事物 >業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である 生滅せずに連続して存在する、有為法なるものはあるのか。
309 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 11:33:37 ID:CcePcmQC
>>269 肉体がわたしではない。
肉体が生きていることを縁として、わたしが生かされてるの。
わたしが心臓を殺すことはできても、
わたしの意思で心臓を停止させるのは無理でしょ?
肉体とわたしを混同しないように。
>>304 > >常住論が自説か他説かに関する決定的な根拠はなかった。
>
> どう読んでも自論だと私は思うが。。。
> 如何に読むと「他説」と読めるの?
単に「教え方(他説の紹介の仕方)が最高」と言っているだけと読みました。
たとえば、
入胎について及び解脱知に関しては、列挙されているものは
全て自説というか、自説の中の項目です。
暇人さんは常住論に関し、
■他説、他説、自説 と読みましたか?
それとも、
■自説、自説、自説と読みましたか?
前者のパターンは、自歓喜経で他にありましたか?
PS:
ちなみに私は常住論に関し、
■他説、他説、他説 と読みました
311 :
暇人 :2006/05/13(土) 14:27:54 ID:sYyxGfVw
>単に「教え方(他説の紹介の仕方)が最高」と言っているだけと読みました。 「教え方」とか「他説の紹介の仕方」がどうのとは書かれてませんが。。。 単に常住論は三つある 釈尊の常住論はその中で最高とあります。 私は「他説」「他説」「釈尊説」としか 読めないと考えています
>>311 三つの中で三番目が釈尊の説である、
という根拠もないと思いますが?w
どの文章からそのように見れるのですか?
>>311 :暇人:2006/05/13(土) 14:27:54 ID:sYyxGfVw
> >単に「教え方(他説の紹介の仕方)が最高」と言っているだけと読みました。
>
> 「教え方」とか「他説の紹介の仕方」がどうのとは書かれてませんが。。。
和訳では、
「また尊い方よ、世尊が○○について教えを説かれたやり方は最高のものです。」
ではじまり、
「○○についてはこれが最高です」
で終わっています。
「これが最高です」の「これ」は、「世尊が○○について教えを説かれたやり方」を指していると解釈します。
[正しい話し方]や[正しい戒行]における、
「○○についてはこれが最高です」
の「これ」が最後の項目を指しているとは考えにくいのです。
314 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 21:14:07 ID:wh0m7wnO
>>294 >では、二に分かつ概念を取っ払えば、そこには一なる世界、「空」の世界が
>あるのでは?
あのね、不二は不一の概念を含むんだよ。
なぜなら、「一」という概念は「多」を予想してるだろ。
つまり「一」という概念を援用することで、すでに「一」と「多」
といった具合に、二つに分別することになってしまう。
したがって、<二に分かつ概念を取っ払えば、そこには一なる世界>は、
論理の初動として誤ってる
315 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 21:31:22 ID:b4clp+7X
>>314 無量とは空の別名であると経典は言う。無量は多ではない。無量は一なのだ。
一つのものしかないからである。
複数のもがあるとは無量ではないし、無量から比べたら無いに等しい。
一+一は同性質のものを加えたたのであるから、ニも一に等しいのだ。
要するに理性的に考えるなら二つのものはなく一つのものしかない。
316 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 21:32:26 ID:sSbWzjX8
>>303 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs
>自歓喜経の収録されている原始仏典 第3巻 長部経典を読んだ。
>常住論が自説か他説かに関する決定的な根拠はなかった。
>ただ興味深かったのは入胎が自説らしいということである。
自歓喜経を読まれたことをお喜び申し上げます。>無宗ださん
スッパニターヤでも度々「母胎に宿る」という法話がございますが、自歓喜経
ほど具体的に説かれた経典は少ないと思うからです。
317 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 21:34:02 ID:wh0m7wnO
>>314 >縁起によって関係を持つ世界を名と概念によって二者に分別して見ている
そもそも「不二」は分別に対するひとの執着を断つための言葉だから、
「不二」の代わりに、「不三」、「不四」「不多」を使ったって
本質的な意味は変わらないんだよ。ただ分別の典型的な形が
ものを二つに分けて見ることだから、もっぱら「不二」が使われてる
だけ。
だから、名と概念の二つが縁起して「世界」が構成されている、とは必ずしも
言い切れんでしょう。
318 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 21:36:44 ID:sSbWzjX8
>「こころ」・「精神」を認めているが、それは瞬間的に消え去り、 >また生じるモノであり、世代間を超えて伝わるモノではない。 原始仏典で度々登場する宿世通(智)は仏の嘘になりますよ。
319 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 21:43:25 ID:sSbWzjX8
ご参考までにキリスト教スレのコピぺをします。 仏教徒?が輪廻を否定するのですね。>お邪魔しますさん -------------------○-------------------- 不思議なことに、教父たちが第二のバイブルにしたアリストテレスは、輪廻を 認めているんだよな。 ☆「アリストテレス曰く、人類たるものは不滅性を有している。輪廻転生を繰り返すが、 その本性は不変である」(ハンナ・アーレント『過去と未来の間』) つまり、教会はアリストテレス哲学のうち、自分の都合のいいとこだけ取った ということになる。 ピタゴラスが輪廻転生を説いていたことは有名。プラトンも、霊魂不滅とともに 輪廻転生を信じていたらしい。だから、ギリシャ哲学では輪廻思想がむしろ主流 だった。それなのに、ギリシャ語で編纂された新約聖書には、輪廻思想が故意に 排除されている。
映画のフィルムの各コマをどう解釈するか? それは瞬間的に消え去り、また生じるモノなのか 一本のフィルムとして連続しているのか 場面転換は生まれ変わりかw > 自歓喜経を読まれたことをお喜び申し上げます。>無宗ださん サンクス。
321 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 21:47:45 ID:wh0m7wnO
>無量とは空の別名であると経典は言う。無量は多ではない。無量は一なのだ。 >一つのものしかないからである。 量という概念を知らなきゃ、無量なんて言葉は生まれんだろ。 無量は、すでに有量を予想させる言葉であり、無量のみが唯一自立した 言葉であるわけがない
322 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 21:57:41 ID:b4clp+7X
>>317 >だから、名と概念の二つが縁起して「世界」が構成されている、とは必ずしも
言い切れんでしょう。
ここのところが解らない。
経典は『名称と形態とか、色心』とかいい、しかもこれら両者はひとつであると。
『名と概念』とは『名と形態』の間違いではないのですか?
しかしそれなら『二つが縁起して世界が構成されている』というのが解らない。
名前は名前と縁起関係にあるし、形態は形態と縁起(相対的)関係にある。
例えば、三角は三角で無い形と縁起関係にあるし、形態においても三角形と三角形で無い形と接する形態
で縁起(相対的)関係にある。
しかし概念とは名前(言葉)の事であるとするなら、名前と名前が縁起しているといえますが。
常住論=ニュートン力学 縁起 =相対性理論 という対比はどうだろう? 縁起を説くためには、それに先立って他説である常住論を説く必要があった。 だからこそ、常住論を説いた梵網経が第一経となっている。
324 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:05:21 ID:b4clp+7X
>>323 > 他説である常住論
他説としての常住論はどんな無いようですか?何が常住であると言っているのでしょうか?
325 :
素人 :2006/05/13(土) 22:07:56 ID:wvpCZYQD
>>323 常住論が(肯定的に?)説かれている箇所は皆無。
梵網経は当時の諸説の紹介に過ぎない。
自歓喜経が特殊な経であることも忘れてはいけない。
(思慮の浅い挿入とも考えられるw)
その上で、どう読むか?→自分はどう受け止めるか?
は、それぞれかもしれんが・・・。
>>324 梵網経を読みなさい。
326 :
素人 :2006/05/13(土) 22:09:32 ID:wvpCZYQD
327 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:10:44 ID:wh0m7wnO
>>322 俺は「名と概念の二つが縁起して「世界」が構成されている・・」とは思っちゃいないが、
なぜそういったのかといえば、あんたが、「(凡夫は)縁起によって関係を持つ世界を名と
概念によって二者に分別して見ている」といった思い込みに対して、必ずしもそう観察する
べきものでもなかろうよといいたかったの。
328 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:12:34 ID:b4clp+7X
>>319 仏教は迷いの世界と真実の世界を説く。迷いの世界が輪廻の世界であり、真実の世界が
ニルバーナだ。迷いの世界からの解脱を説く仏教、しかし迷いの世界が真実の世界であるとは言わないのだ。
むしろ真実の世界ではない虚妄の世界であると言う。だから我々のいても、
幸せなときと苦しみ以外の何物でもない世界を経験するのである。
329 :
素人 :2006/05/13(土) 22:17:23 ID:wvpCZYQD
>>325 >梵網経は当時の諸説の紹介に過ぎない。
これは、誤解を招く文だなw
梵網経「でのそうした記述(外道の説)」は当時の諸説の紹介に過ぎない。
という意味ね(^^; 焦焦!
>>314 おお、インド論理学っぽい
そもそも「空」はあらゆる名辞を許さないもので、
名前を付けたとたん、その本質が失われる性質のものだと思います。
「一」という呼び方に問題があるのは当然でしょう。
しかし、「一なる世界」というのは、「いわいる空と呼ばれるもの」の
あらゆる概念を絶した世界という性質を表現するのに適当ではないかと思います。
331 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 22:30:55 ID:sSbWzjX8
>>325 出典:長部経典T(春秋社)中村元監修
【梵網経】
・尊敬すべきバラモン達は正しい精神統一をして、種々の前世の生存を追想します。
・そして各自が体得した追想をもとに、○○論を説きます。
・○○論として、常住論、一部常住論、有限無限論、詭弁論、有想論、無想論、断滅論
など六十二の根拠により浮説を主張します。
・例えば「我と世界は常住であり、生み出さず、山頂のように不動であり、石柱のように
不動である」という常住論を説きます。
・六十二の根拠は全て六つの接触の場に触れて感受するのであると、釈尊は説きます。
・バラモン達は六十二の根拠の何れかの網に囚われて、固執が生じ輪廻を繰り返します。
・如来は(前世の生存を追想しても)固執がなく、身体は生存へ導くものを切断して
いるので再び生まれることはない。
なお同じく長部経典の【大本経】では、釈尊自身も種々の前世を思い出しております。
でも、過去世に囚われないので輪廻から解脱しております。
バラモン達と仏との違いは、単に常住論(過去世の記憶)に囚われるか否か
というように読めます。
332 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:36:07 ID:b4clp+7X
>>331 在家さん面倒でも引用してくれよ。人のフィルターを通しては信用できないだろう?
>>331 囚われるな。ということは、
常住論を拠り所として受け止めるな。ということじゃないのかえ?w
釈子が護持すべき法ではない。ということじゃないのかえ?w
また、如来は各生を想起するが、それらが常住するとは考えないのではないかえ?w
自歓喜経でも、「如来が我と世界が常住すると見ている」
という文章にはならないのじゃないかえ?w
あ、もう一つ。 >常住論(過去世の記憶) つまり 常住論=過去世の記憶 は完全に間違った記述だろwww
335 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:43:27 ID:b4clp+7X
お前ら何言ってんだ?ニルバーナが常住である事は始めから言われていることではないか? 常住を否定するならニルバーナを否定する事になら無いか?
336 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:43:33 ID:wh0m7wnO
>>330 わかります。頭で思いつこうが、紙に書こうが、口で表明しようが、
「概念」の性質はモロ言語ですよ。「空」という概念ももちろん言語です。
いろんな概念(言葉)を使って空を説明しなけりゃならんのは事実ですから、
「空」自体が唯一確固たる自存性をもってるってのは、たんなる幻想だと思います。
>>335 今風に言えば、「更新し続ける」と捉えてはどうですか?
338 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:47:28 ID:b4clp+7X
>>335 つづき
常住と言う言葉に執着してはいけないのだ。常住と言う言葉が意味する世界を考え無ければいけないと思う。
同じように、空と言う言葉に執着してはいけない、空と言う表現が意味する内容を考えるべきであると思う。
339 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 22:50:35 ID:sSbWzjX8
>>常住論(過去世の記憶) >つまり 常住論=過去世の記憶 は完全に間違った記述だろwww 正確には「過去世の記憶→常住論」でしょう。 バラモン達は正しい精神統一にて思い出した過去世の記憶から各々の常住論 を説いております。 如来は各生を想起し、我と世界が常住しても、不変・不滅ではないと説かれて いるように思います。
340 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 22:52:53 ID:b4clp+7X
>>337 別の辞書で再検索 : 大辞泉 | 大辞林
こう‐しん【更新】
[名](スル)1 新しく改めること。また、改まること。「世界記録を―する」2 ある契約の期間が満了したとき、その契約をさらに継続させること。「賃貸契約を―する」 .. [さらに]
更新ではないだろう。ニルバーナは不生不滅の世界だもの。
>>339 そう。優れた沙門バラモンは数多の生を想起する。
そして、そのことによって(これだけの生があり続いているのだから)常住すると考える。
しかし如来は、それでも、それは常住ではない、と見るのではなかろうか?
342 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 22:58:58 ID:sSbWzjX8
>>332 >在家さん面倒でも引用してくれよ。人のフィルターを通しては信用できないだろう?
済みませんね。なにぶん何十頁もあるので。
バラモン達と如来との差異を端的に示す段落があれば、紹介して下さい。
既に長部経典をお持ちのお二方>暇人さん、無宗ださん
正しい精神統一(瞑想)にて各生を思い出すまでは、バラモン達と如来
との差異はないようです。
その後に、根本的な差異があることを説いているのが本経のきもです。
なお梵網経とは網にとらわれているバラモン達を示しております。
343 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 23:01:48 ID:sSbWzjX8
>>341 多分、あなたの理解で正しいように思いますが、縁により長部経典を
保持しているお二方の見解を待つことに致しましょう。
344 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 23:03:56 ID:sSbWzjX8
>縁により長部経典を保持しているお二方の見解を待つことに致しましょう。 過去世では長部経典を読むこともできなかったでしょうから、ラッキー です。
>>343 :一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 23:01:48 ID:sSbWzjX8
> 多分、あなたの理解で正しいように思いますが、縁により長部経典を
> 保持しているお二方の見解を待つことに致しましょう。
残念ながら、私は保持してません。
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm これの中に
梵網経(ブラフマジャーラ・スッタ) … 世界観
第一踊品
常住論 … 「宇宙と我は不滅」という世界観
梵網経一 … 何生も転生している場合
梵網経二 … 何劫も転生している場合
梵網経三 … 梵天や光天の寿命を有する場合
梵網経四 … 思索によって推論する場合
梵網経五 … 常住論の限界
が、あるけど、一在家さんの長部経典の記述と大きな違いはありますか?
>>340 そう。涅槃は、asaNkhata 諸行の内には入らないのだ。
337は、言ってみただけで確証はない。
実は、情けないことに未見だが、片山さんが
(パーリの)涅槃について論文を書いている。
いつか読もうと思っているのだが、生来の怠け者w
なかなかねwww
けれども、常住するものではないと思っている。
なぜなら、涅槃は、各人一人一人が個別に見るものであり、
「普遍的に完全同一の、一種の、一様な涅槃」ではない、
一人に一つずつの、唯一無二の涅槃であるだろうと思うから。
同一の涅槃などない。100人居れば100の涅槃があるであろう、と・・・。
>>343 自歓喜経は南伝だが、
梵網・沙門果は片山訳を読んだ上で言っているのだがな。
だから、自歓喜経の注釈でブッダゴーサがどう解釈しているかを尋ねたのだよ。
348 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 23:18:16 ID:b4clp+7X
>>341 こう言うことではないのか?
バラモンは過去の幾多の人生を想起し、それぞれの人生の主体は自分である、だから
自分は常住であると結論する。釈尊は同じように過去の幾多の人生を想起するが、
変転輪廻している人生は変転している以上常住ではない。しかも苦しみの人生である。一つの人生で
幸せでありそれが永遠不滅の人生で無ければ常住ではない、といわなければならないと釈尊は言うのだ。
こういうことだよ。釈尊の言うとおりだ。
349 :
名無しさん@3周年 :2006/05/13(土) 23:24:46 ID:b4clp+7X
迷いの人生の主体は自分であって、それは苦しみ以外のものではない。しかし、 悟りの世界『ニルバーナ』の主体は自分であり、その人生は永遠不滅のものである。 迷いの世界が永遠不滅であると同様に悟りの世界も永遠不滅なのだ。
350 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 23:30:08 ID:sSbWzjX8
>>345 大きな違いはありません>無宗ださん
御蔭様で探していた一節をコピペできました。
「また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたこと
を知るのである。
しかも、その知に執着するということはない。
執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。」
やはり、バラモン達と違い、如来は過去世を想起(知)しても、執着しない
から寂滅なのでしょう。
尚、手持ちの長部経典T(中村元監修、春秋社)では、この段落に相当する
のはP52-P53の2ページ分です。文字数的には何倍もありますが、意味的
には同じだと見なします。
「梵網」は「聖なる網」の漢訳で、最も優れた一切知が解説されているとの
註があります。
>>349 当時、世界は(遥か長い時間をかけようとも)生じ成長し滅していくものであった。
しかし、それでも続くのが梵我である、というのが主流ではなかったか?
そして、そうではない!と反旗を翻したのが釈尊だったのではないか?
永遠に続くものはない!という宣言ではなかったのか?
352 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/13(土) 23:44:29 ID:sSbWzjX8
「バラモン達は感受が縁で固執を生じ、固執が縁で生存が生じる。」 「如来の身体は生存へ導くものを遮断している。」 この2文が梵網経のコアに思いますが、如何でしょうか?>暇人さん
>>352 コア?
いいかげんにしとけ。
日付変わる前に
季刊「原始仏教1:梵網経」中山書房仏書林(1991)
の序文にあたる所を書き込んどく。
本経は、仏教の最も基本的な立場を表明したものである。
内容は、遊行者の仏教に対する非難・称賛を理由に、
二種の凡夫による称賛を主題として説かれ、二部からなる。
第一部は仏教外の遊行者による場合であり、
ここでは仏によって保たれる「戒」を小・中・大に分けて列挙し、
仏教の具体的な行動・実践的立場を明らかにする。
第二部は仏教内の比丘による場合であり、
ここでは当時の我と世界に関する哲学的見解六十二種(いわゆる六十二見)を網羅し、
これを斥ける仏の徳としての「法」を説き、
仏教の深遠な思想・教義的立場を示す。
このようにして経は、古代インドに知られる一般の社会事情および
宗教事情をも詳しく紹介しつつ、仏称賛の真の意味を語り、
「梵網」という名の仏の一切智(すべてを知る智恵)を明かしている。
経蔵第一の位置を占めるにふさわしい、法と戒律の根幹に触れる、
重厚な内容と体裁を整えたものと言える。
日付変わっちまったwwww
IDのブレが出てしまったようだなwwwww
今日はこれで終わりか? レスないなら寝るぞw おやすみ ノシ
357 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 00:18:18 ID:X9Uny6H+
睡眠は悪、寝てる暇は無いよ。
358 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 07:06:26 ID:1mFL8JRO
自歓喜経と梵網経との「常住」の議論はありますが、 「人格の主体として業と記憶を保持している霊魂は三世を通じて存在する」 ということは共通でしょう。 人類にとっては、こちらの方がまず意味があります。 涅槃に入り、輪廻を超越した如来ですが、何らかの訳があって、7回母胎 に入胎しております。(大本経) 転綸王も含めるともっと多いかも知れませんね。
359 :
暇人 :2006/05/14(日) 08:13:18 ID:xuY942fP
>>313 >「これが最高です」の「これ」は
パーリ原文に「これ」はないのですが、意味的には「これ」は、
「釈尊の常住論」です。
AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM,
yathA bhagavA dhammaM deseti sassatavAdesu.
AparaM次の panaしかし, bhante尊師よ, etadそれAnuttariyaM無上の・最高の,
yathA〜のごとく bhagavA主格:尊師が dhammaM対格:教法を
deseti教示する sassatavAdesu処格:常住論において
「また尊い方よ、世尊が常住論について教えを説かれたやり方は
最高のものです。」(岡田訳)
「次にしかし、尊い方よ、最高です、
尊師が常住論において教えを説かれた如く」(私訳:直訳)
360 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 08:16:02 ID:X9Uny6H+
>>358 縁起と空と言う理法を理解しないと経典の意味を正しく解読できないと思うよ。
岡田と言う人が釈尊の生まれ変わりであるなどといってるようなのは、縁起と空の理法を知らないからだ。
縁起と空の理法を知らないなら、仏教を全然知らないものであり、日本の神話を読むように仏教を見ているに過ぎないと思うよ。
神話でも理屈をつけることが出来る部分があるとは思うけど。
釈尊が『信仰を捨てよ』といわれたその信仰を維持しょうとしているものであり、
仏教に反するものなのだ。
361 :
暇人 :2006/05/14(日) 08:16:20 ID:xuY942fP
「次にしかし、尊い方よ、最高です、 尊師が◎◎において教えを説かれた如く」(私訳:直訳) で、この◎◎は、 146 「処」に関する智慧の教え/十二処 147 入胎の教え/入胎 148 読心の類の教え/読心術 149 見定の教え/観察 150人施設についての教え/七聖 151 努力についての教え/七覚支 152 行道の教え/実践の進展 153 言正行の教え/正しい話し方 154 訓戒類の教え/正しい戒行 155 他人の解脱に関する智についての教え 156 常住論の教え 157 宿住随念智の教え/前世の境遇を想起する知 158 死生智の教え/生類の生死を知ること 159 神通類の教え/神通 このすべてにおいて釈尊が最高だから、釈尊が優れていると 舎利弗は展開しているので 文脈からも常住論は自説ですね
362 :
暇人 :2006/05/14(日) 08:18:50 ID:xuY942fP
>>352 353で整理されているように二部構成になっていると
思います
>>359 :暇人:2006/05/14(日) 08:13:18 ID:xuY942fP
> パーリ原文に「これ」はないのですが、意味的には「これ」は、
> 「釈尊の常住論」です。
どうして、そうなるのかが納得いかないのです。
> 「次にしかし、尊い方よ、最高です、
> 尊師が常住論において教えを説かれた如く」(私訳:直訳)
とのことですが、
「常住論において教えを説かれた如く」というのは、
「常住論を3つに分類し、第一の常住論、第二の常住論、第三の常住論として、説いたやり方」
を意味すると解釈できるのではないかということです。
> 153 言正行の教え/正しい話し方
これに関しても
「尊い方よ、正しい話し方についてはこれが最高です。」(岡田訳)
となっていますが、これとは、「正しいときに含蓄のある話をする」ことだけではなく、
・虚偽の言葉を語らず、
・中傷したり、二枚舌を使わず、
・議論に勝とうとしないで、
・常に智慧を具え、
・正しいときに含蓄のある話
のすべて、すなわち、
「また尊い方よ、世尊が○○について教えを説かれたやり方は最高のものです。」
ではじまり、
「○○についてはこれが最高です」
で終わる、その間に挟まれたものすべてが、「これ」と解釈できるのではないかと言っているのです。
364 :
暇人 :2006/05/14(日) 10:16:56 ID:xuY942fP
>>363 153 言正行の教え/正しい話し方
の
「・虚偽の言葉を語らず、
・中傷したり、二枚舌を使わず、
・議論に勝とうとしないで、
・常に智慧を具え、
・正しいときに含蓄のある話 」が、「釈尊の自説」です。
他説を紹介しているわけではありません。
その「釈尊の自説」が 『最高』なのですね。
156 常住論の教え の論理構造も同様です。
世の中には三つの常住論があることが紹介され、
釈尊の常住論は、「第三の常住論」です。
その第三の常住論が『最高』なのですね
365 :
暇人 :2006/05/14(日) 10:18:48 ID:xuY942fP
この経典の説をどう評価するかとは別問題として 私どもが現在確認できる限りにおいて この経典には 以上のように書かれています。
366 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 11:23:12 ID:HvpaoWki
あんたら偽経をあいてに良くそこまで盛り上がれるね
>>365 暇人さん
> この経典の説をどう評価するかとは別問題として
> 私どもが現在確認できる限りにおいて
> この経典には 以上のように書かれています。
レスありがとうございます。暇人さんが確認した範囲においては、
146 「処」に関する智慧の教え/十二処
147 入胎の教え/入胎
148 読心の類の教え/読心術
149 見定の教え/観察
150人施設についての教え/七聖
151 努力についての教え/七覚支
152 行道の教え/実践の進展
153 言正行の教え/正しい話し方
154 訓戒類の教え/正しい戒行
155 他人の解脱に関する智についての教え
157 宿住随念智の教え/前世の境遇を想起する知
158 死生智の教え/生類の生死を知ること
159 神通類の教え/神通
に関しては「釈尊の自説」のみが説かれ、
「また尊い方よ、世尊が○○について教えを説かれたやり方は最高のものです。」
「釈尊の自説」
「○○については釈尊の自説が最高です」
156 常住論の教え に関してのみ、他説も紹介され
「また尊い方よ、世尊が○○について教えを説かれたやり方は最高のものです。」
「他説」「他説」「釈尊の自説」
「○○については釈尊の自説が最高です」
という構造になっているということですか?
368 :
暇人 :2006/05/14(日) 12:21:23 ID:xuY942fP
>>367 翻訳を読まれたのでは?
146 「処」に関する智慧の教え/十二処 ・・・釈尊説のみ紹介して最高
147 入胎の教え/入胎 ・・・釈尊説のみのみ紹介して最高
148 読心の類の教え/読心術・・・四説紹介。釈尊説は四番目で最高。
149 見定の教え/観察 ・・・四段階の観察が説かれ、第四段階が最高。
150人施設についての教え/七聖・・・釈尊説のみ紹介して最高
151 努力についての教え/七覚支・・・ 釈尊説のみ紹介して最高
152 行道の教え/実践の進展・・・四種が説かれ釈尊説は四番目で最高。
153 言正行の教え/正しい話し方 ・・・釈尊説のみ紹介して最高
154 訓戒類の教え/正しい戒行 ・・・釈尊説のみ紹介して最高
155 他人の解脱に関する智についての教え・・・四種説かれ釈尊は四番目で最高
156 常住論の教え・・・三種説かれ、釈説は三番目で最高
157 宿住随念智の教え/前世の境遇を想起する知 ・・・釈説のみ説かれ、
天の神々には無理と否定され釈尊のみ最高。
158 死生智の教え/生類の生死を知ること ・・・釈尊説のみ紹介して最高
159 神通類の教え/神通 ・・・二種説かれ、釈尊の神通は聖で最高
>>368 だから、
三つ目が釈尊の説である、前二つはそうではない、
という区別は何によっているのか?と問うている。
370 :
暇人 :2006/05/14(日) 14:27:54 ID:xuY942fP
>>369 ある人は第一の常住論を説き
またある人は第二の常住論を説き
また別の人は第三の常住論を説く。
釈尊は第三の常住論を説き、これが最高であると
書かれているからだね
キミのは問いにすらなってないね。
経典をまず読め
371 :
暇人 :2006/05/14(日) 14:30:10 ID:xuY942fP
自分の想定していた仏説と経典に書かれている「教え」が違うからと 言って 『事実から目を背けるな』って
372 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 15:26:28 ID:X9Uny6H+
>>346 >一人に一つずつの、唯一無二の涅槃であるだろうと思うから。
同一の涅槃などない。100人居れば100の涅槃があるであろう、と・・・。
これは間違いだと思う。輪廻の人生は各人様々で同一のものは無いと言う事に同意する。
しかし、各人に付属する人生の個性は、すべて縁起しているものと判断されるから、
縁起しているものは相対的存在であり、実体が無いものであるから、一切は空である事が真実であるといわなければ
ならない。ここにおいて各人に付属していたものは消滅するのである。一切が空であると経典が言うのは、
無限の因果関係(縁起関係)が消滅するゆえのことである。
373 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 16:06:22 ID:EAtoNscf
真如苑(真如密、真言密教)では 中 道 というのは見せ掛けで、実際は醜悪なカルトだからなあ。だからそうなってしまうのも当然だよね。
374 :
中観派 :2006/05/14(日) 17:46:58 ID:NN+4285F
> 言正行の教え/正しい話し方 の 「・虚偽の言葉を語らず、 ・中傷したり、二枚舌を使わず、 ・議論に勝とうとしないで、 ・常に智慧を具え、 ・正しいときに含蓄のある話」 これって結構使えますね。議論に勝とうとしないってことは相手がここがおかしい じゃないかとかいってきても別に気にしないってことですか?
375 :
南無大師遍照金剛 :2006/05/14(日) 17:50:04 ID:XD3O4vJ2
ヽ(´∇`)ノ"空"ってなにょん?"無"?
376 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 18:04:22 ID:X9Uny6H+
>>374 >これって結構使えますね。議論に勝とうとしないってことは相手がここがおかしい
じゃないかとかいってきても別に気にしないってことですか?
相手を安楽にしてやることが良い事を思えば、正しく意味が通じる様にするべきだと思う。
377 :
中観派 :2006/05/14(日) 18:27:14 ID:NN+4285F
まずできるかぎり自分で正しいと思われるものを考え、そして、慈しみ の心でもって相手の心の成長を助けようとすれば、無駄な議論は少なくすむ と思います。 また、これを実践することにより、自己を顕示し、傲慢になることもなく、かつ 相手より劣ることのない中道の境地に入れると思いました。
378 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 18:30:29 ID:JJZiW1D+
空とは大霊、すなわち、神様のことです。
桑田次郎
瞑想とともにこの世を超えた次元とのつながりが分かってくる
霊的進化の実現をめざす巨大な超意識=一大心霊
"いのち"の根源的意識は、自らを現そうとする意志をもっている
霊的進化を正しい方向にすすめていくためには、どうすべきか
物質世界に進化の霊力がはたらいて"いのち"のめざめがはじまる
空なる次元と色の世界は、同時に存在している
高橋信次
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色、
これをつなげてゆきますと輪になります。
円になるということは(循環)、転生するということになります。
空(あの世)、色(目に見える世界・この世)…
この世とあの世は別のものではない、一体だということです。
不二一体であるということ…
http://www.shoho.com/newpage18.htm 素人はこの程度がわかればいいのでは。
http://www.aikis.or.jp/~hatsumas/hannya.html
>>370 aparaM pana bhante etad AnutariyaM yathA bhagavA dhammaM deseTi sassatavAdesu.
tayo 'me bhante sassatavAdA.
idha bhante ekacco samaNo vA brAhmaNo vA 〜 ayaM paThamo sassatavAdo.
puna ca paraM bhante idh' ekacco 〜 ayaM dutiyo sassatavAdo.
puna ca paraM bhante idh' ekacco 〜 ayaM tatiyo sassatavAdo.
etad AnuttariyaM bhante sassatavAdesu.
上記のどこが、「釈尊が説き」の部分になるのか?
三つ目のみを釈尊と結びつける必然性がどこにあるのか?
もし結びつけるなら三つ全てであろう?
「また尊師よ。世尊は常住論についてこの無上なる教えを説かれた。」
というのだから。
南伝が元ではあったが、当該部分の構成を提示したこともあった。 釈尊は常住論について説いた。 それは三種である。三つ目が最上のものである。 この構図のほかに何がある? ポイントはsassatavAdesu(他各節のその部分)が於格であるということと、 三つ目が最上である理由は、想起できる生が多い(長い)から、ということくらいか?
381 :
暇人 :2006/05/14(日) 20:26:05 ID:xuY942fP
>>379 おまえアホだね。
141-145の導入部で 舎利弗は「釈尊は最高だよー」と褒め称え
釈尊から「何を根拠に褒めているねん」と突っ込まれて、
146-159でそれぞれの教えが最高だからだよんと応えるわけだ。
例えば神通について二種あると説かれ、「聖でない神通」と「聖である神通」が
説かれているがキミは両方とも釈尊説と思うわけなのかね(笑)。
常住論では三種説かれ、最後に
AyaM tatiyo sassatavAdo, etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu.
とあるように
「三番目の常住論が常住論において最高」とあるから、
これのみが釈説と考えるのが自然だよ
>>374 >・議論に勝とうとしないで、
議論をなんのためにするのか?
正しくは相手に勝つためではなく真理を見つけるためだ
しかし宗論や法論では真理を見つけることよりも議論に勝つことが目的になりがちだ。
そして詭弁術を駆使すれば、そういう議論を有利に戦える
しかしそれは有意義な議論にならない
383 :
暇人 :2006/05/14(日) 20:31:02 ID:xuY942fP
>>380 それぞれの常住論を説いてるのは
『正しく考える修行者・バラモン』が主語だよ
>>381 明確な文言からでなく、全体の構成から類推した読みということだね。
>>383 そうです。三つ目もそうですよね?
つまり、明確な文言の限界を超えて類推するならば、
「世の中には三つの常住論があり、三つ目が最上である。」ということ。
そして、その理由は「想起できる生が多い(長い)から」であり、
如来はその常住論に拠ってはいないであろう。
なぜなら次節で、
如来の想起できる生は(前述の三つよりも更に)多く長い期間であると言われるのだから。
もう一度言う。三つ目が最上である理由は、
「想起できる生が多い(長い)から」である、と。
このPCには過去ログ残ってないので再掲できないが、
スレその2に於ける要約をもう一度読んでみてくれ。
385 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 21:27:25 ID:XheQaNA1
>>360 >岡田と言う人が釈尊の生まれ変わりであるなどといってるようなのは、
>縁起と空の理法を知らないからだ。
私の師も姓は岡田ですが、一度も釈尊の生まれ変わりだという趣旨の教えは
伺っておりません。
どなたかの誤解ではないでしょうか。(ref.高橋氏、中川=大川氏)
桃太郎さん、織田信長などとは前世で深い縁があったそうですが。
386 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 21:30:39 ID:XheQaNA1
>141-145の導入部で 舎利弗は「釈尊は最高だよー」と褒め称え >釈尊から「何を根拠に褒めているねん」と突っ込まれて、 >146-159でそれぞれの教えが最高だからだよんと応えるわけだ。 横から見ていて、この暇人さんの説明のし方がとても分かり易いです。 これで納得がいかなければ、図書館か大型書店か注文かでご自身で 確認するしかないと思います。
387 :
暇人 :2006/05/14(日) 21:37:27 ID:xuY942fP
>>384 アホだな。
構成としては
1)「また尊い方よ、世尊が常住論について教えを説かれたやり方は 最高のものです。」
2)「尊師よ 三つの常住論がある」
3)Idha, bhante, ekacco samaNo vA brAhmaNo・・・
「尊師よ、あるサマナやバラモンは・・・」と第一の常住論が説かれ
4)Puna caparaM, bhante, idhekacco samaNo vA brAhmaNo・・・
「尊師よ、さらに再び あるサマナやバラモンは・・・」と第二の
5)Puna caparaM, bhante, idhekacco samaNo vA brAhmaNo・・・
第三が説かれて
6)AyaM tatiyo sassatavAdo, etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu.
「第三の常住論が、尊師よ、最高です。常住論において」とあるのですね。
(1)と(6)から
世間のサマナやバラモンのうちには三種の常住論が説かれているが
そのうち釈尊は最高の第三番目の常住論を説き実践していると読むのが
自然。
388 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 21:44:10 ID:XheQaNA1
>>371 :暇人
>自分の想定していた仏説と経典に書かれている「教え」が違うからと
>言って
>『事実から目を背けるな』って
他の仏説と自歓喜経とで教えが違うこともあるでしょう。
水野先生も「仏の四つの説き方=四悉檀」について注釈しておられます。
因みに「自歓喜経」での如来の法話の相手は主に舎利弗であり、
「梵網経」での相手はナーランダと500人の比丘達です。
尚、法華経では弥勒菩薩達に常住論を説かれております。
最近、「ユダの福音書」が解読されて、キリスト教では大変な話題になって
おります。
イエスも高弟、弟子や一般大衆とでは教えを説き分けていたそうです。
例えば、4大福音書では「復活」を重視しておりますが、ユダに対しては
「霊魂の存続」を重視してイエスは説いております。
389 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 21:47:43 ID:XheQaNA1
仏の四つの説き方=四悉檀 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の 高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を 違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、 仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」 原始仏典の多くは、最初から比丘やバラモンや神(夜叉含む)に 説かれたという設定ですので、3つの方便の悉檀とみなしても 宜しいのではないでしょうか。 法話の内容(What)も大切ですが、誰に(Who,Whom)に説いたのかが 真実義を追求する人達には大切ではと直感する次第です。
390 :
暇人 :2006/05/14(日) 21:50:03 ID:xuY942fP
>>384 >如来はその常住論に拠ってはいないであろう。
キミに何を言っても無駄なのだろうが、
何故 無駄なのか説明すると
キミは
『仏説は常住論を説かない』という『揺ぎ無い思い込み』で文章を読むので
『書かれてある事実』を捻じ枉げてしまうのだよ。
だからキミには「常住論は説かれてない」だね
>なぜなら次節で
それぞれ説で「最高」であると完結しているので
次節と結びつけて解釈するのは無理。
>如来の想起できる生は(前述の三つよりも更に)多く長い期間
言われていない。
次節での最高は たかだか「十万生」であるのだが、
常住論の第一の常住論で既に「十万生」だよ。
第二の常住論はそれよりはるかに永い「二十の壊劫」であり
単位が違うほど永い。
次節でのテーマは、「前世の境遇を想起する智」については、
サマナ、バラモンは様々な長さの前世を想起して、精神統一するのだが
『天の神々』は、想起できないと書かれているのだよ。
391 :
名無しさん@3周年 :2006/05/14(日) 22:05:47 ID:BfDmptmP
常住論のオンパレードだな(笑) そろそろ原典批判の立場から意見をいうひとが出てきてもよさそうな・・
>>368 暇人さん
> 翻訳を読まれたのでは?
はい。お手数をお掛けし、申し訳ありません。
> 159 神通類の教え/神通 ・・・二種説かれ、釈尊の神通は聖で最高
とのことですが、和訳、
「尊い方よ、神通の種類に関してはこれが最高です。それを世尊は完全に理解しています。」
をみると、
「神通の種類に関してはこれ(このように2種類に分けること)が最高です。それを世尊は(どちらの種類も)完全に理解しています。」
と解釈しておかしくはないと考えます。
>>381 > 例えば神通について二種あると説かれ、「聖でない神通」と「聖である神通」が
> 説かれているがキミは両方とも釈尊説と思うわけなのかね(笑)。
「聖でない神通」の内容は、
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm 沙門果経(サーマンニャパラ・スッタ)
沙門果経二十 … 六神通(神足通)
http://tetugaku.fc2web.com/butten/samon20.htm とほぼ一致するので、両方とも釈尊説とみていいのではないでしょうか?
六神通のうち、三明が「聖である神通」、残りが「聖でない神通」なのかなあと、思っています。
393 :
暇人 :2006/05/14(日) 22:27:49 ID:xuY942fP
>>392 p156を再度ご確認ください
「煩悩の汚れを伴い 生存の素因を備えた神通」が「聖でない神通」ですが
経典の構成は以下の通りです。
1)釈尊の神通は最高です
2)神通には二種あります
3)あるサマナやバラモンは「聖でない神通」
4)あるサマナやバラモンは「聖である神通」
5)「聖である神通」が「最高」です。
舎利弗の趣旨は釈尊は
世間では神通に二種あるが
「聖である最高の神通」を説いたと
褒め称えていると読むのが自然です。
394 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 23:17:51 ID:XheQaNA1
横レスで失礼します。>暇人さん、無宗ださん 長部経典の第11経「堅固経」では、神通力について世尊は★在家信者 (ナーランダの資産家の息子)に説かれました。 六神通力の内の、「神変」はガンダーリーという名の魔術でも似たことが できる。(註:仙人ガンダーラがつくった呪術) また「読心通」はマーニカという名の魔術でも似たことができる。 ただし、心が集中し、清浄で、純粋で、汚れなく、安定した修行者は 六神通力(神変、天耳智、他心智、宿住智、死生智、漏尽智)を使うことが できるようになるが、これを「説法の奇跡」と呼び、魔術とは異なる。
395 :
暇人 :2006/05/14(日) 23:21:23 ID:xuY942fP
>>394 他経典と結びつけて解釈する必然性はありませんし、
そんなことしていいなら、別の経典から180度逆の解釈が可能なので
まったく無意味です。
396 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/14(日) 23:28:57 ID:XheQaNA1
>>395 暇人さん
>他経典と結びつけて解釈する必然性はありませんし、
似た内容の経典を紹介したのですが、、了解です。
397 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/15(月) 00:18:20 ID:nyqk2/Ap
仏の四つの説き方=四悉檀 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 手持ちの長部経典T(中村元監修、春秋社)の13経の法話の 相手を調べてみました。ご参考までに紹介します。 1)梵網経:to 比丘達、遊行者 2)沙門果経:to 阿闍世王 3)阿摩晝経:to バラモン 4)種徳経:to バラモン 5)究羅壇頭経:to バラモン 6)マハーリ経:to 部族の長? 7)ジャーリヤ経:to 修行者 8)倮形梵志経:to 修行者 9)布藻g樓経:to 遍歴の行者 10)スバ経:to ※アーナンダ尊者to バラモン 11)堅固経:to 在家信者 12)露遮経:to バラモン 13)三明経:to バラモン (参考)長部経典V 28)自歓喜経:to 舎利弗
398 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/15(月) 00:56:12 ID:nyqk2/Ap
(参考)長部経典U(中村元監修、春秋社) 14)大本経:to 比丘達 15)大縁方便経:to 弟子アーナンダ(尊者になる以前) 16)大般涅槃経:to 比丘達 17)大善見王経:to アーナンダ尊者 18)闍尼沙経:to アーナンダ尊者 19)典尊経:to 神格 20)大会経:to 阿羅漢達 21)帝釈所問経:to 帝釈天 22)大念処経:to 比丘達 23)幣宿経:※クマーラ・カッサパ to 王
399 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 01:34:00 ID:lmOZ91Tk
天皇なんかを崇拝すること自体、非常に愚かなことだと思います。 所詮、天皇は仏陀ではありえないのですから。
400 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 02:15:00 ID:NifOiFSk
>>399 仏陀を個人崇拝するのも、同様に愚かだろう。どちらも、人間に過ぎない
のだから。
401 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/15(月) 02:20:08 ID:JbietCLo
霊魂の常住を述べている人に聞きたいんだけど、悟りを開いて死んだ場合 来世に新しい生を得られないので霊魂だけが未来永劫に漂うわけ。 釈尊が目的とした涅槃は、そのようなことだっけ。
>>393 暇人さん
> p156を再度ご確認ください
再度、和訳を確認してみました。
> 147 入胎の教え/入胎 ・・・釈尊説のみのみ紹介して最高
> 148 読心の類の教え/読心術・・・四説紹介。釈尊説は四番目で最高。
の[入胎][読心術]の構成はほぼ同じで、両方、
■釈尊説のみ紹介して最高
もしくは、
■他説、自説に関係なく、とにかく、○○の教えを説かれた方法は最高
と主張しているように読み取れます。
> 159 神通類の教え/神通 ・・・二種説かれ、釈尊の神通は聖で最高
神通に関しても、
> 3)あるサマナやバラモンは「聖でない神通」
> 4)あるサマナやバラモンは「聖である神通」
が間に挟まっていることを除けば、[入胎][読心術]の構成とほぼ同じです。
したがって、二種説いたことを指して、
「神通の種類に関して教えを説かれた方法は最高のものです。」
といっているように受け取れます。
> 155 他人の解脱に関する智についての教え・・・四種説かれ釈尊は四番目で最高
また、[解脱知]に関しては、四種それぞれの主語が「世尊は」となっており、
「釈尊は四番目で最高」との解釈は不適切だと考えます。
> 969 名前: 暇人 2006/03/26(日) 16:47:12 ID:3887dLki > AyaM tatiyo sassatavAdo, etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu. > AyaMこれ tatiyo第三の sassatavAdo常住論, etadそれAnuttariyaM無上・最高, bhante尊師よ, sassatavAdesu常住論において. p154では、 これが第三の常住論です。 尊い方よ、常住論に関してはこれが最高です。 ----- 暇人さんは、「etadそれ」を「第三の常住論」と解釈し、 私は、「etadそれ」を「3つの常住論を説くこと」と解釈する違いですね。
404 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 06:57:42 ID:ToMWDe7u
何かいや〜な感じがするなー。
405 :
暇人 :2006/05/15(月) 07:06:46 ID:XYWmMNpP
147AparaM pana, bhante, etadAnuttariyaM, yathA bhagavA dhammaM deseti AdesanavidhAsu. 「次にしかし、尊師よ、最高です、 世尊が◎◎について教えを説いたごとく。」 この◎◎がそれぞれ変わるわけです。ここでは読心術ですね。 岡田さんの和訳では、日本語としてわかりやすくするために、 yathAを方法と意訳されていますが、原意は「〜ごとく」です。 これは文章が「次にしかし、尊師よ、最高です。」と切れて 何が「最高なのか」を受けて「何々のごとく」です。 yathA【世尊が(主語)+教えを(目的語)+説く(述語)+◎◎において(於格)】が 最高なわけです。 原文には読心術の「種類」について説かれたとか、 説かれた「方法」とかはないのですね。 「最高」なのは、◎◎について「釈尊が教えを説いた」その◎◎です。 世間では四種の読心術があり、それぞれ「ある人」がしている。 これは客観事実の紹介です。釈尊の教えだとは書かれてないですね。 四種のうち四番目の読心術が最高である。 釈尊は読心術について説いた教えが最高であるのは 世間の四種ある読心術のうち最高の読心術を説いているからだ、と。
406 :
暇人 :2006/05/15(月) 07:09:22 ID:XYWmMNpP
解脱知は、おっしゃるとおりですね。 主語は世尊ですので すべて佛説ですね。 ただ二解脱が仏説のうちでの最高というだけの話ですね
407 :
暇人 :2006/05/15(月) 07:16:45 ID:XYWmMNpP
>>403 冒頭に
Tayome, bhante, sassatavAdA.
「尊師よ、常住論には 三つあります」とはじまります。
最後の「tatiyo」は「第三の」という意味であり、
「三つの」とか「三種類」とは訳せないので、
無宗ださんのようには 読めません。
408 :
暇人 :2006/05/15(月) 07:23:05 ID:2Hf0fyc4
AyaM tatiyo sassatavAdo, etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu. 「【これが】、第三の常住論です。 【それが】最高です。世尊よ、常住論において」 【AyaMこれが】と【etadそれが】は、このように密接に関係しています
409 :
素人 :2006/05/15(月) 11:57:24 ID:yOi4pV34
>>393 聖なる神通も、聖でない神通も、どちらをも説いた。中では後者が最上である。
常住論を三つ説いた。中では三つ目が最上である。
全てこうした構図だろう。最後の最上のものだけが仏説なのではない。
『説かれた』ということで言えば、全てが説かれている。如来は一切知者なのだから。
一切を了知せる世尊を賛嘆している。 (→ 最上のものを説いたから賞賛しているのではない。)
(だから舎利弗も、「私も同様に一切を知ったので、世尊が並ぶべき者の無い方であると言えるのです。」と言うのだ。)
常住論の部分は明らかに異質だ。
なぜ唐突に常住論が入らなければならないのか?(ここが、挿入・誤った混入と思わせる理由ではあるが・・。)
なぜ、断滅論等は述べられていないのか?各生を想起するという神通絡みで紛れ込んだのかもしれない。
だとするなら、仏説かどうかは問題ではない。明らかに編纂者の誤りであるのだから。
しかし、もし故意に挿入されたもの(或いは舎利弗がそのように言った)とするならば、
やはり吟味せざるを得ない部分であろう。
だとしたならば、やはり編纂者の意図を推量せねばなるまい。
編纂者の意図がどこにあったのか、明らかに誤った混入であるのか、あなたはどう見ているのか?
私は、(私には判断がつかないので)、
たとえ誤った混入であったとしても、代々の継承を可能にしてきた解釈が存在するであろう、
と考えているわけだ。なぜなら、梵網経(沙門果経)では斥けられている説なのだから。
疲れてなければ、今日の晩にでもまたレスを入れようと思う。(IDは変わっているだろう)
片山さんのパーリ仏典第2期の1と5も注文した。届いたらチェックしてみようと思う。
一連の流れの中での問題点は、この経の構成をどう解釈するか、
という所へ集約するであろうと思っているが・・・。
>>405 :暇人:2006/05/15(月) 07:06:46 ID:XYWmMNpP
> 「次にしかし、尊師よ、最高です、
> 世尊が◎◎について教えを説いたごとく。」
この「教えを説いたごとく。」の指し示す範囲が、
「世尊が◎◎について教えを説いたごとく。」
と
「【それが】最高です。世尊よ、◎◎において」
に挟まれた範囲、すべてだと思うのです。
そして、「【それが】最高です。」の【それが】の範囲と同じだと思うのです。
解脱知というのは
あるバラモンをみて、そのバラモンが、
「預流(よる)」「一来果」「不還(ふげん)」「無学(阿羅漢)」の
(四向四果の果を指すと思うのですが)、
どれかを判別できる知であり、4つ揃って最高なのであって、
「預流(よる)」かどうか判別するより、
「無学(阿羅漢)」かどうか判別する方がむずかしいから
”「無学(阿羅漢)」か否かがわかる知”が最高というのは
なんか、おかしな感じがしませんか?
411 :
暇人 :2006/05/15(月) 13:04:33 ID:OYVEkBeb
>>409 >聖なる神通も、聖でない神通も、どちらをも説いた。
きちんと目を開けて経文をよみなされ。
釈尊が二つの神通を説いたとは書かれていない。
書かれているのは
DvemA, bhante, iddhividhAyo
「二つある、尊師よ、神通類に。」
サマナ・バラモンは「聖でない神通」を行い
比丘は「聖である神通」を行っている。
そして
AyaM, bhante, iddhi anAsavA anupadhikA ‘ariyA’ti vuccati.
「これが、尊師よ、神通です。無漏の依なき<聖なる>と言われる」
EtadAnuttariyaM, bhante, iddhividhAsu
「これが最高です、尊師よ、iddhi神通のvidhAsu種類らにおいて」
TaM bhagavA asesamabhijAnAti,
それを 世尊はase(asesitaすべての略?) samabhijAnAtiよく知る・了知する」
文脈構造上、「聖なる神通」のみを仏説と扱い「最高」としているのは明白です。
更に、「聖でない神通」は 「samaNo vA brAhmaNo」サマナとバラモンという
非仏教者であり、
「聖である神通」の主語はbhikkhu 比丘(仏教修行僧)からも明白。
412 :
暇人 :2006/05/15(月) 13:12:12 ID:OYVEkBeb
>>410 AyaM tatiyo sassatavAdo,
etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu.
をどう読まれています?
解脱知に関してはそのとおりかもですね。
ただ四つのうち第四が仏教的な解脱状態としては
最高段階ではあるので、その先入観から
最初の私の分類は間違っていたということですね
413 :
暇人 :2006/05/15(月) 13:28:01 ID:OYVEkBeb
>常住論の部分は明らかに異質だ。 どっちかというとこの経典は出だしからして胡散臭いよ。 「私は釈尊を信じきっています」 「どんな修行者や聖者よりも釈尊は完璧な悟りを持たれています」 「過去にも未来にも釈尊以上の智慧ある者はでないでしょう」と 舎利弗にカルト信者のような発言をさせ、釈尊に以下の発言をさせ 「お前の言ったことは立派だ 偉い!」と質の悪い教祖さまにしているのだから。 それと この経典に何が書かれているか テキストをきちんと確認するのは別問題よ。
414 :
暇人 :2006/05/15(月) 14:19:21 ID:OYVEkBeb
155解脱知の展開は、 JAnAti, bhante, bhagavA paraM puggalaM paccattaM yonisomanasikArA– ‘ayaM puggalo・・・・ti. 「知っています、尊師よ、世尊は他の人各々について深く思念して- 『その人が・・・』と」 これが四回繰り返されて 最後に EtadAnuttariyaM, bhante, parapuggalavimuttiNANe. 「これが最高です、尊師よ、他の人の解脱知において」 各々の状態はどうあれ、パーリ原文では、 「第一に」とか「第二に」という段階視をしてなく 列挙されている。 岡田訳は「解脱の程度に関する知識」と「程度」を補っているが 「para他のpuggala人vimutti解脱NANe知において」は、 直訳すれば「他人の解脱知」 この「他人の解脱知」について「知っている主体」はすべて「釈尊」であるから 「解脱知」に関しては、四つ総体が最高と読むのが自然でしょうね。 私は先入観から四番目が最高と読み誤ってました。 ご指摘ありがとうございます。
暇人さん
先入観という点で言えば、私は石飛説にはまっていますw
前提として梵網経において世尊は他説として「常住論を説いた」とみなします。
そして、その説き方が最高だったと舎利弗は言っていると考えます。
>>412 > AyaM tatiyo sassatavAdo,
> etadAnuttariyaM, bhante, sassatavAdesu.
> をどう読まれています?
p154の訳でいいと思っています。
これ(AyaM)が第三の常住論です。
尊い方よ、常住論に関してはこれ(etad)が最高です。
原文ではカンマで区切られていますが、
意味的には、この2行の間に段落区切りがあるとみなします。
これ(etad)が=「第一の常住論」+「第二の常住論」+「第三の常住論」
> 【それが】最高です。世尊よ、常住論において
これをこの考えで書き換えるとすると、
最初に「第一の常住論」、次に「第二の常住論」、最後に「第三の常住論」と説くのが、最高です。
世尊よ、常住論において
となると考えます。
416 :
暇人 :2006/05/15(月) 21:08:11 ID:44F9JqaS
>>415 読みは人それぞれ自由です。
ただ、それは原文を忠実に読み解く姿勢ではなく、
よく言えば「思想的な解釈」だと思います。
思想的な前提を原文に読み込むため、
「カンマ」を無視するのはありでしょう。
伝承の過程で「カンマ」程度は、という問題もあるでしょうし
パーリ本文中に「カンマ」と「ピリオド」程度の混乱はまま見られますし、
この経典ではここ以外では「カンマ」でなく「ピリオド」ですから。
但し、私は無宗ださんの読みは成立しないと考えます。
「カンマ」が「ピリオド」としても
三つの常住論が共に釈尊説で最高です。
「他説である常住論」を説いたとする解釈は無理があります。
417 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/15(月) 22:24:40 ID:SCOrmeWo
>>401 >霊魂の常住を述べている人に聞きたいんだけど、悟りを開いて死んだ場合
>来世に新しい生を得られないので霊魂だけが未来永劫に漂うわけ。
神霊界に居ても良いし、再生しても良いし、自由に選択できるのではない
でしょうか。
少なくとも、漂うという表現は違うでしょう。
結局、如来は衆生済土の為に7回は再生されているようです。(参考:大本経)
慈悲深い如来は天耳通、他心通で万世の苦しみが痛いほど分かりますので。
418 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 22:55:58 ID:EDCFS6eR
カラスがいい例だけど、神がいないと回転するっぽいんだよね。 履歴と教えが残っただけじゃない? 手本にするか、材料にするか、道具にするかは、その人次第。
419 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 23:16:58 ID:PCxpbDgY
又始まった。輪廻する如来説www
420 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 23:27:31 ID:ToMWDe7u
又始まった。輪廻する如来説www
421 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 23:30:09 ID:uOELXSIQ
422 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 23:40:34 ID:EDCFS6eR
獣姦でもしながら、オランダで余生を過ごせよ。。。
423 :
名無しさん@3周年 :2006/05/15(月) 23:46:02 ID:PCxpbDgY
424 :
名無しさん@3周年 :2006/05/16(火) 00:09:32 ID:rqIIMfl8
>>416 :暇人:2006/05/15(月) 21:08:11 ID:44F9JqaS
> 但し、私は無宗ださんの読みは成立しないと考えます。
> 「カンマ」が「ピリオド」としても
> 三つの常住論が共に釈尊説で最高です。
> 「他説である常住論」を説いたとする解釈は無理があります。
レスありがとうございます。
暇人さんは、p145の
世尊はわたしに明暗の両方を具えた絶妙の教えを次々にといてくださいました。
の「暗」をどのように解釈しますか?
たとえば、明は縁起で、暗は常住論というのは強引すぎるでしょうか?
426 :
暇人 :2006/05/16(火) 13:37:12 ID:BO7NeNKH
Tassa me, bhante, bhagavA dhammaM deseti uttaruttaraM paNitapaNitaM kaNhasukkasappaTibhAgaM. 「そのために私に、尊師よ、世尊は越えに越えて優れに優れて黒白兼備した教法を説いた。」 「明暗の両方を具えた」は「kaNha黒sukka白sappaTibhAgaM両方備えた」の訳だが、 原意は「明暗」ではなく「黒白」。一般的に仏教で「黒白」と言うと、 「黒」=悪 「白」=善というイメージがあるので「明暗」に言い換えたのだろうか。 あるいは「黒」=無知・無明の比喩としての用法も一般的。 この「kaNhasukkasappaTibhAgaM黒白兼備の」は対格の形容詞で 対格の「dhammaM」を 修飾しているわけだが、「黒法=常住論/白法=無我説」と読み込むためには、本文中に、 神通の「聖でない神通」と「聖である神通」が対になり一体として説かれてないと「兼備」とは 言えず成立しないと思います。 「常住論=他説」と思想的に読み込むならば、「主語がサマナ・バラモンの非仏教者」の一点のみを 主張し解釈するのが得策だと思います。 (※思想的読みの場合は「私はこう読む」「私にはこうとしか読めない」とだけ主張し、 客観的正しさの土俵にはあがらないのがコツです)
427 :
暇人 :2006/05/16(火) 13:38:42 ID:BO7NeNKH
ちなみに岡田さんの訳 「次々に」は「uttaruttaraM」の訳で、 この語はuttara(udの比較級)が二つ繰り返される合成語の形容詞で対格なので 「dhammaM」を修飾しているはずなのであるが、 「deseti説く」にかけて「次々に」と訳されているが疑問である。 ちなみにuttara自体には、「より上に より優れて 次に」とどっちの意味もある。 paNitapaNitaMも「paNita優れた」と言う形容詞が二つ繰り返された合成語。 岡田訳ではこちらは「dhammaM」を修飾して「絶妙の」になっている。 さて私の「暗」解釈は、 「uttaruttaraM」と「paNitapaNitaM」と「kaNhasukkasappaTibhAgaM」は 同種、同格で「dhammaM」を修飾している形容詞であると見ますので、 釈尊の教法の「優位性uttaruttaraM」・「最高性paNitapaNitaM」と ・「完全性kaNhasukkasappaTibhAgaM」を表現した語とみます。 つまり「黒白兼備した法」とは「完全でかけるところのない教法」であると。
428 :
暇人 :2006/05/16(火) 13:43:02 ID:BO7NeNKH
つまり意訳しますと 「世尊は私に無上かつ最高で完全な教法を説いてくださった」 とこの箇所を読んでおります
片山訳の該当箇所: 尊師よ、その私のために、世尊は、法を、つぎつぎと、それぞれ勝れたもの、 黒白の対のあるものにして、示されました。 尊師よ、私のために、世尊が法を、つぎつぎと、それぞれ勝れたもの、 黒白の対のあるものにして示されるにつれ、私はその法において(、)ある法をよく証知し、 諸々の法について完結を得ました。師を信じました。 註は、 uttaruttaraM あるいは「つぎつぎと上のものに」(Re.uttaruttariM) それぞれ → paNitapaNita kaNhasukkasappaTibhAga《「黒」とは黒い汚染法であり、「白」とは白い浄化法である》 参考にどうぞw
430 :
暇人 :2006/05/16(火) 16:46:14 ID:GUVf3uwn
>>429 ほう 片山訳もuttaruttaraMは、次々なんだ。
しかし三つの形容詞の並列を
最初の一つは、副詞的に訳し、
後の二つの形容詞は「もの」を補い名詞的に訳し、
しかも対格であることを無視して訳しているので
意訳でしょうから 参考にならんですね。
更に「黒」を「汚染法」。白を「浄化法」と読み込むのは、
後代の注釈を無批判的に鵜呑みにした乱暴な立場ですね。
431 :
暇人 :2006/05/16(火) 17:02:10 ID:GUVf3uwn
kaNhasukkasappaTibhAgaを「dhammaM」を修飾している形容詞と 読まず、「dhammaM」を説明するものとして 「黒白兼備」の「黒白」を「悪/善」で読み込むならば、 「汚染法」「浄化法」ではなく「黒業(悪業)と白業(善業)」がまだ自然。 つーか「汚染法」「浄化法」という仏教用語がそもそも聞きなれないし、 この場合の「法」は「教法」ではなく「モノとしての法」をイメージしてまうので 誤解が生まれるので註解にすらなってないと思う。
432 :
名無しさん@3周年 :2006/05/16(火) 21:32:52 ID:LZTnGKGp
暇人さん、なんか最近おかしいよ。前はもっと柔軟だったのに。 「法」は「教法」だけでなく「モノ」の意味もあるでしょう。 「後代の注釈を無批判的に鵜呑みにした乱暴な立場」なのではなく、 元々片山さんは伝統解釈に添って私見を交えない立場で訳されているんでしょう。
433 :
暇人 :2006/05/16(火) 21:35:42 ID:GUVf3uwn
434 :
1/2 素人 :2006/05/16(火) 22:03:30 ID:FIgedveQ
おや? なんか、敵意丸出しのレスがついている・・・(´;ω;`)
>>430 >>431 > 後代の注釈を無批判的に鵜呑みにした乱暴な立場
彼の姿勢をまるで理解していない。
彼は、あなたのように継ぎ接ぎの翻訳をしているのではないのですよw
彼の作業はパーリ仏典の訳出であり、現代語の資料として提示することに意味があるのだ。
そこに教義の吟味を持ち込むことは極力避けられねばならない。
「現在、上座部で護持されている教え(解釈)はこのようなものです」という紹介なのだ。
南伝大蔵経や中村訳のように、漢訳寄りだったり各種解釈を織り交ぜたり
現代へ引き当て過ぎたりしない、伝統解釈を基軸に据えた作業なのだよ。
> 意訳でしょうから
現代語訳するというのはそういうことなのだよ。
例えば、学生時代のノートから Loc.(於格)の例文。
natthi dantesu han~n~ate 逐語訳すると「象は、牙において(牙に関して)、殺される」
しかし、あまりに日本語としてこなれていない。そこで、
「象は、牙のために(牙のせいで)殺される」と訳すのだ。
> つーか「汚染法」「浄化法」という仏教用語がそもそも聞きなれないし、
例えばまた、長部31経は「シンガーラ・スッタ」となっている。
スリランカ版は「シガーラ・スッタ」、タイ版は「シンガーラカ・スッタ」、
PTS版は「シンガーローヴァーダ・スッタンタ」である。南伝大蔵経は「教授尸伽羅越経」である。
漢訳は種々あるが、日本では「六方礼経」として知られている。又、PTS版がよく使われることから
「シンガーローヴァーダ・スッタンタ」の方が通りがいいかもしれない。
けれども、片山さんは「シンガーラ・スッタ」とした。スリランカ版もタイ版もPTS版も採用せず、
ましてや「六方礼経」というタイトルにもしなかった。なぜか?
彼が、ビルマ第六結集版を【底本】としているからだ。
たとえ、マイナーな(誰にも知られていないような)呼称であったとしても、
彼の作業には、その選択肢しかないのだ。
この意味がわからないのか?
435 :
2/2 素人 :2006/05/16(火) 22:04:47 ID:FIgedveQ
(私の過去レス) スレその2 998及び 594 名無しさん@3周年 sage 2006/04/18(火) 11:20:17 ID:9/AZHVos >> 587 > 立場がないような。 そうでもないよw 彼の評価されるべき点は、まさにそこにあるだろうと思うから。 彼が、翻訳という作業においてストイックであるという点において・・・。 ひとつは、底本を最大限尊重していること。 ひとつは、現在伝えられている伝統解釈を重視するということ。 ひとつは、原典でさえ省略されている箇所を全て復活させているということ。 ひとつは、漢訳語の濫用をしないということ。 ひとつは、現代口語としての文体に気を使うということ。 つまり、仏陀の言葉は、聞いて(読んで)解るものでなければならない、 そして、翻訳は、あくまでも資料としての中立性がなければならない、と。 勿論、人間の作業であるから、 そこに恣意的な要素の混入を排除することは不可能だろうが、意識してそれを抑える。 「伝統的には、このように伝えられてきている」という、研究の礎となるように。 解釈や解説は、訳文に織り込むのでなく、その他著述(論文や寄稿)において行う、と。 岩波文庫のシリーズは読み易いけれども、実はこの部分において難があるのだ。 中村元(個人)の解釈が訳文の中に反映され過ぎのきらいがある、と。 伝統的解釈を離れすぎではないか、と。 (まあ、中村さんは自ら「そのように訳出した」と宣言しているから別に構わないだろうが。 それよりも、南伝を身近なものにした功績は大きいと思う。) ちなみに、片山さんはスッタニパータについて、 文体は古いが、中村訳より水野訳の方が良いと言っていた。 ――‐――――――――――――――――――――――――――――― てか、今、この件に関して自分としては最後のレスとなるような (そしておそらく暇人さんの判定勝ちになるような)レスを作文してるから、 あんまり煩わせないでくれw (^^;
436 :
素人 :2006/05/16(火) 22:32:34 ID:FIgedveQ
あ、それから、
>>431 > 誤解が生まれるので註解にすらなってないと思う。
ブッダゴーサを全否定ですか・・・(´・ω・`)
(けど、おそらく相当する漢訳語はあるんじゃないかな。
今の私には知りようもないけれども・・・)
437 :
名無しさん@3周年 :2006/05/16(火) 23:35:15 ID:85aQ+Vu/
縁起も空も理解しようとしないで仏典の超越的世界 ばっかり注視してる一在家は、カルト教の信者に認定w
438 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/17(水) 00:27:10 ID:JDZA+l5R
(参考)長部経典V(中村元監修、春秋社) 24)パーティカ経:to 遊行者 25)ウドゥンパリカー師子吼経:to 遊行者(苦行者) 26)転輪聖王修行経:to 修行僧達 27)起源経:to 見習い修行僧 28)自歓喜経:to 尊者サーリプッタ(舎利弗) 29)清浄経:to 修行者 30)三十二相経:to 修行僧達 31)善生経:to 資産家の息子 32)アーターナーティヤ経:to 毘沙門天、比丘達 33)等誦経:※尊者サーリプッタ to 比丘達 34)十上経:※尊者サーリプッタ to 比丘達 長部経典の34経の内で、 ・尊者サーリプッタに関わりが深い3経 ・尊者アーナンダに関わりが深い4経 やはり、釈尊の教えを説いたのは、こんの二方の ようです。
439 :
素人 :2006/05/17(水) 00:28:02 ID:9rxT6nMC
寝る前に、もう一言二言添えておこうか・・・。
>>430 > 更に「黒」を「汚染法」。白を「浄化法」と読み込むのは、
訳文本文は「黒」「白」のままですが?
「汚染法」「浄化法」は複註そのままの提示ですが?
複註の解釈は本文には表れていませんが?
>>427 uttaruttaraM →おそらくPTS辞書の「Uttari(゚―) & UttariM(adv.)[comp(n). form of uttara,]
out,over,beyond;additional,moreover,further,besides.―
(1)UttariM ・・・・・ (2)uttari゚ in foll. cpds. ・・・・・・・」を採用しているのでは?
paNitapaNitaM →PTS辞書には[paNita(adj.)[pp. of pa+neti in application BSk・・・]
1.(lit.) brought out or to,applied,executed; used with ref. to punishment ・・・・
2.(appl.) brought out or forth, (mode) high,raised,exalted,lofty,excellent; ・・・・・」
kaNhasukkasappaTibhAgaM →PTS辞書には・・・
複合語かぁ・・・面倒臭くなってきたのでやめる。
PTS辞書が完璧ってわけでもないし眠いし・・・(^^;
しかし、各種パーリ語の辞書は、
(その残された圧倒的量によって)仏典の記述をベースに作られている。
つまり、ブッダゴーサの註や複註も当然根拠として利用されている筈だ。
辞書の作成や語の定義は、残された各種文献、
つまりパーリ語ならば仏典や各種民話、更にはジャイナ教等の文献との比較検討から入らざるを得ないだろう。
また、時には、サンスクリット等他文献との照合の上で、一つ一つの語義を措定してゆくものではないのだろうか?
(仏典の語義を仏典によって定義するという輪のような感じになってしまうが・・・w)
と、適当に言ってみたw だれか専門の人宜しく・・ m(_ _)m
あなたの参照する辞書の語義もまた、ブッダゴーサ(≒後代の解釈)の影響がない、
と言えるのだろうか?
随分といいかげんなレスになってしまった・・・。先に謝っとく。 ごめんなさい。
440 :
素人 :2006/05/17(水) 00:31:39 ID:9rxT6nMC
あ、複じゃなくて【復】註ですね。 多分全てのレスが間違っていると思います。 慎んでお詫び申し上げます・・・。 _ / (; _, ,_ ) と_)_)_つ と)
441 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/17(水) 06:17:05 ID:JDZA+l5R
長部経典の34経の内で、 ・尊者サーリプッタに関わりが深い3経 ・尊者アーナンダに関わりが深い4経 やはり、釈尊の教えを広めたのは、この二方の可能性が 高いようです。
442 :
暇人 :2006/05/17(水) 07:47:00 ID:KHdIE7lL
>>434 >彼の姿勢をまるで理解していない。
キミの説明からすると私の予想が正確だったと証明されたわけだよ。
キミと私の違いはその立場を評価するかしないかの違いだね
私の訳は「翻訳」ではないよ。そんなだいそれた水準に達してない。
基本文法もしらず 初等辞書片手にどモノ知らぬ素人が
カタコトで遊んでいるだけ。
「現在、上座部で護持されている教え(解釈)はこのようなものです」
という紹介は、それなりの価値はあるだろうが、
「科学的に原文はどういう意図で書かれたか」に肉薄するためではなく、
伝統解釈を尊重する保守信仰的な立場なわけだね。
学問的な文献批判に背を向ける立場だね。
意訳についてはだ、ポイントをはずしているね。
意味がすんなり通れば意訳してよいしそれ自体に問題はないが、
このテーマに関する限り意訳されていて参考にならんということだね。
443 :
暇人 :2006/05/17(水) 07:50:24 ID:KHdIE7lL
>訳文本文は「黒」「白」のまま 伝統的立場を尊重するといっても片山さんの訳は おそらく訳自体は意訳ではなく逐語訳に近いのだと思うよ。 岡田訳は「明暗」と意訳し、三つの形容詞を一つは副詞的に 他の二つはdhammaMを修飾する形容詞として訳しているが、 片山訳は三つの形容詞を共にdhammaMを修飾する形容詞してない という点で文法的には一貫しているしね。 但し、一つを副詞的に二つを名詞化して訳しているのだけどね。 岡田訳よりは筋が通っている。 ブッダゴーサを完全否定しているのではなくて、 合理的なら採用するし、合理的でないなら採用しない それだけの話だよ。 結果的に「漢訳寄りだったり各種解釈を織り交ぜたり」になるのは 判断基準が合理的かどうかだからだね。 ブッダゴーサはAと言っているが、合理的ではないので Bを採用すると中村さんの注にはよくみるところだね。 その中村さんが全部正しいわけでもないが、伝統解釈を鵜呑みにするより 遥かに学問的だね。
>>428 > 「世尊は私に無上かつ最高で完全な教法を説いてくださった」
暇人さん
丁寧な説明ありがとうございます。
仏陀は常住論を、自説として説いていない。
という私の確信はかわりませんが、自歓喜経だけを見た場合には、
> 「カンマ」が「ピリオド」としても
> 三つの常住論が共に釈尊説で最高です。
> 「他説である常住論」を説いたとする解釈は無理があります。
にうなずかざる得ない気がしてきました。
ですが、もうチョイ、難癖がつけれないか、よく見直してみます。
やっぱり、
仏陀が常住論を自説として説いた
というのは、納得がいきません。
445 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/17(水) 10:16:09 ID:7HNzYXDL
霊魂が常住であるためには、霊魂は死後それ自体で独立して存在する必 要がある。これは諸法無常、無我、空、の思想における何物にも実体が なく独立して存在する事物はないという考えとどう折り合いをつければ よいのだろう。
>>445 折り合いがついたから輪廻転生否定から輪廻転生肯定に変節したんじゃないの?
おかしな人ですね。
447 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/17(水) 16:24:44 ID:7HNzYXDL
霊魂は死とともに消滅する。こう考えてますけど。
449 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 18:24:02 ID:xm2Gl/mP
>>445-447 空性対個物を言わなければならないと思う。空性は真実であるが、個物は虚妄である。
我われの真実は空性であるが、個物(霊魂であろうと物質であろうと有無と見なされるものであって相対的存在)
は我々の迷い・執着である。個物はしたがって相対的存在であるにも拘わらず我々の迷いにより独立自存の存在であると
みなすのである。この迷い心が霊魂と言われるものであると思う。
そこでこの迷い心が執着している対象が変化して消滅するにも拘わらずどの様に存在するかが今問われている問題であると思う。
執着している対象が変化して死滅するのだから、迷い心は極限の苦しみに会うと考えられる。極限の苦しみとともに迷い心は消滅するのだろうか?
それならば少なくとも輪廻の問題は解消されるが、そうではないのだ。
迷い心が執着する対象を持つということは、それに縁起する相対的存在をも執着の対象にしているんである。迷い心が執着するものは
その対象ばかりでなくそれに縁起しているものも獲得しているのである、ただそれに気づいていないだけなのだ。
その代表的例と思われるものを言えば、肉体に対する執着で有る。情欲の結果生じている子孫が情欲と相対的に存在しているのである。
この自分の子供が迷い心という霊魂を引き受けるのであると思う、そして、これを輪廻といわなければならないと思う。
450 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 19:07:09 ID:xm2Gl/mP
あなた方は結構な人生を歩んできておりこれからも歩める人で、この人生を何としても 受け継いでくれる子孫を持ちたいと願っている人ですか?
451 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 19:48:38 ID:ZcpK7n/I
>>449 文字通り、輪のように回る運動をするから、輪廻というのだ。
<親が子に引き渡す>ようなものは、どこまでいっても一方通行である。
輪廻を相続と置き換えることは根本的に無理である。
452 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 21:11:09 ID:oMK10jky
>>305 >人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、
>これを認める。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に
>従って常に変化しつつ連続する有為法である。
という水野博士の文言は、勝義の側からすれば、已に滅した非有の過去に
対して、更に法を立てて有と為し、未だ有らざる未来に対しても、予め法を立
てて有と為すような行為は、分別の上に分別を重ねる妄分別です。
業を保持している霊魂は三世を通じて存在するという、霊魂や時間の客体化か
ら入っている時点で、徹底的な存在論的誤謬を犯しています。仏教における究竟
の業(行)とは、主体者のつねに現在する刹那刹那の視点に置かるべきものでしょう。
453 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/17(水) 21:14:25 ID:7HNzYXDL
輪廻があると考えると悟れるのか。輪廻がないと考えると悟れるのか。 霊魂が常住であると理解すれば悟れるのか。霊魂が常住でないと理解すれば悟れるのか。 どちらをとっても関係ないと思われる。ただいまの私は輪廻肯定であり、霊魂の実体化を 否定しているだけ。後のことはわからない。
>どちらをとっても関係ないと思われる これで正解なんじゃないですか?
456 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 21:24:30 ID:xm2Gl/mP
民族も時代も輪廻すると思う。原因結果を後の世代時代に相続させるからである。
457 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 21:33:39 ID:xm2Gl/mP
しかし輪廻はあくまでも無明に基づいて生じたものであり、「実態」有るものではない。
458 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/17(水) 21:37:47 ID:7HNzYXDL
>一つの決まった立場にこだわってるよ。 いつまでも同じ考えにこだわってないよ。あなたも知っているとおり 輪廻否定から輪廻肯定になっているし、またいつ輪廻否定になるかもしれ ない。 こだわっているというのは、その考えを捨てられるかどうかだと思う。
459 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 21:45:56 ID:+0VLvg72
>>452 水野先生は仏典に日常語法として仮設されたものを、そのまま記述してるだけでしょう
「業(行)とは、主体者のつねに現在する刹那刹那」こちらの方が「分別の上に分別を重ねる妄分別」
と思われる。
460 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 21:51:30 ID:oMK10jky
一つの決まった立場にこだわることを捨てるあまりに、 その対極である、何でもありきという放逸に走ってしまっては元も子もないから、 お釈迦様の説かれた中道は、やはり勝れた法なのだと思う。正見・正思惟ね。
461 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 22:01:13 ID:oMK10jky
>「業(行)とは、主体者のつねに現在する刹那刹那」こちらの方が「分別の上に分別を重ねる妄分別」 >と思われる。 業(行)を識にまで敷衍させてはどうでしょうか。 また、主体者という言葉に疑が生じるのでしたら、 何も無いところ、無に対して全く語りようがないから、便宜的に申しただけです。 勝義の側から言えばと最初に断わっています。この断わりの背景には、方便としては、 水野先生の文言も、方便としては有効でもあるという別意も含んでいるわけです。
462 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 23:02:22 ID:sT3t8wUO
>>458 また「こだわっているというのは、その考えを捨てられるかどうかだと思う。」
という一つの決まった立場にこだわっていますよー。
463 :
名無しさん@3周年 :2006/05/17(水) 23:31:29 ID:+0VLvg72
>>461 言葉にしたら全て方便であり仮設でしょう。
諸行が縁起して諸法が顕現するが、全て無常、無我、空というのが最も妥当だと、
現時点では考えております。そして世俗と勝義が別個でなく不二双運でなければならなず、
それを説いているのは、釈尊と中観帰謬派等と考えております。
>>458 > いつまでも同じ考えにこだわってないよ。
仏教徒でなくても、いつまでも同じ考えにはこだわらない。
諸行無常なのに、この瞬間にあなたは輪廻転生肯定にこだわっている。
ところで、「すべての立場を否定するのが中道」ということも言っていたけど
なぜ、輪廻転生肯定なの?
465 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/18(木) 02:03:53 ID:HRp+yHWQ
>なぜ、輪廻転生肯定なの? 直感みたいなモノで感じ取っているので、一度伝えやすい形にまとめてみま すんで2.3日時間をください。ちょっと瞑想してみます。 すべてを否定することも否定すると、今度はあらゆることを肯定できること になります。どっか前に書いたと思うが、もう一つの私のスタンス せのなかすべてあたりまえ
466 :
1/3 素人 :2006/05/18(木) 02:53:19 ID:+G0OPVJ3
夕方早々に布団に入ってしまったもんで目が覚めてしまった・・・(‐_‐)゜゜゜
>>442 >キミの説明からすると私の予想が正確だったと証明されたわけだよ。
>キミと私の違いはその立場を評価するかしないかの違いだね
もうすこし詳しくヨロm(_ _)m てか、暴言を吐く必要はなかろうに・・・。
>私の訳は「翻訳」ではないよ。そんなだいそれた水準に達してない。
>基本文法もしらず 初等辞書片手にどモノ知らぬ素人が
>カタコトで遊んでいるだけ。
カタコトで遊んでいる人間にしては
>意訳でしょうから 参考にならんですね。
> 後代の注釈を無批判的に鵜呑みにした乱暴な立場
>註解にすらなってない
等の発言は、あまりにも傲慢に過ぎやしませんか?
>「科学的に原文はどういう意図で書かれたか」に肉薄するためではなく、
むしろ逆だ。まさに「【原文】はどういう意図で書かれたか」に肉薄する作業だと思われるが?
継ぎ接ぎこそ【原文】を歪める作業ではないか?【原形】と【原文】は違うぞ。
>伝統解釈を尊重する保守信仰的な立場なわけだね。
信仰は別問題だ。再度言う。
「現在、上座部で護持されている教え(解釈)はこのようなものです」という紹介なのだ。
467 :
2/3 素人 :2006/05/18(木) 02:53:59 ID:+G0OPVJ3
>>442 >学問的な文献批判に背を向ける立場だね。
ここが解ってもらえていないようだ。
学問的資料としての位置付けを見据えるからこその伝統解釈重視なのだよ。
例えば、手足等パーツの着脱が可能な人形があったとする。
理想的で一番美しい組み合わせがあるかもしれない。
自分が一番美しいと思う組み合わせ(仏典ならば、自分の人生に必要と思われる部分のみ)
を取り出しても構わない。現実主義としてはそれでいい。それが必要で求められる形であるならば。
学問的にではなく、自らの生き方に利用する座右の銘のようなものとしてならば・・・。
(心経なんて、どれだけの著作が世に出ていることか・・・w)
けれども、そのデザインの変遷を辿る際に、
原初の組み合わせがどういうものであったのかを探る際に、
Aという地域ではaというデザインが保持されている。
Bという地域では・・・Cという地域では・・・
といった差異はしっかりと抽出されねばならないのではないか?
それを、ABCごちゃまぜにして、また、理想の組み合わせのみが提示されていたとして、
変遷を辿ることができるのか?或は、A、B、Cそれぞれの特徴・差異を抽出できるのか?
それとも「A、B、Cそれぞれの特徴・差異は意味がない。考えても無駄。」ということか?
文献批判・原典批判的研究をするためにも、
上座部ではこのようである、という提示に学問的意義がないとは思えない。
また付け加えるなら、スレその2の終局で現代語訳の不在で一悶着あったことを忘れたか?
理想的(=継ぎ接ぎ後の)現代文作成のための一助(参考としての訳)になる作業だと思わないか?
468 :
3/3 素人 :2006/05/18(木) 02:55:59 ID:+G0OPVJ3
>>443 >その中村さんが全部正しいわけでもないが、伝統解釈を鵜呑みにするより
>遥かに学問的だね。
文献批判・原典批判的研究をするためにも、
上座部ではこのようである、という提示に学問的意義がないとは思えない。
また付け加えるなら、スレその2の終局で現代語訳の不在で一悶着あったことを忘れたか?
理想的(=継ぎ接ぎ後の)現代文作成のための一助(参考としての訳)になる作業だと思わないか?
469 :
暇人 :2006/05/18(木) 06:43:23 ID:3VBSCXl9
>>466 仏教をしていたら、自然「黒」と書いてあると「悪」「白」は「善」を
まず想起しちゃうのだよ。戒律の解説なんかでもよく出てくるし。
だが黒を「汚染法」。白を「浄化法」とまで断定的に解説するならば、
せめて当該経典の別の箇所にその旨明記してあるか、少なくとも
類似並行経典や経典中の解説経典にその用例があるとかのないと、
その断定は後代の解釈じゃん。
その後代の解釈を本文の解説に断定的に読み込むのが
危険だと私が思うのは例えば、同時代のキリスト教は教父時代だが、
彼らは新約聖書をギリシア哲学を加味して読み込み、新約聖書にない思想
例えば「三位一体」説を創り上げたわけで、現代のキリスト教の殆どが
この思想を継承しているわけだが、そのキリスト教の色眼鏡で聖書本文を
読むと三位一体は書かれていると読めるわけだ。
黒白とあれば「汚染法」「浄化法」と読むというのは、その類の色眼鏡と
指摘したわけですね。
モノ知らぬ カタコトで遊んでいるアホたれだから、
怖いもの知らずに「生意気」なことを言えるのだよ。
きちんと基本文法を学習し、それなりにパーリと格闘している
ならば専門家の仕事をそれなりに尊重するのではないだろうか。
その大変さの片鱗程度を身体で実感しているだろうからね。
470 :
暇人 :2006/05/18(木) 06:56:42 ID:3VBSCXl9
「【原文】はどういう意図で書かれたか」と確定するためには まず伝承文を比較検討し確定作業が必要でしょ。 色んな資料を見て 本文を確定する作業。 これをしているのが不充分でお寒い限りであるがPTSでしょ。 異読間の読み比べをせず、ある系統の伝承文章だけを本文に選択するのは そもそも「原文」ではないじゃん。 ビルマ本はビルマ本なりにその作業をしているのだろうが、広い作業では ないじゃん。 ただおっしゃるとおりの点 現代のある南伝仏教がどういう伝承しておるのか を知るための仕事としては現代の南伝仏教の「生きた伝承」を知れる意義はあるね ただ古代仏教に肉薄するのとは逆のベクトルじゃん。 当然 伝承の過程で改変があるだろうからね。 ただ批判的にPTSとの差に注視して比べるならば、その差の箇所に関し 実はビルマ本が古形を保持していたという箇所も沢山あるだろうし 逆もあるだろうし、仕事自体は意義あるのだろうが、 片山さんの仕事を絶対視するのは問題だね。
471 :
(*) :2006/05/18(木) 18:16:32 ID:1qThEEGM
暇人さん、じゃ現存写本を収集して、全ての異同を精査しながら系統図を作成し、
古写本の系統を確定した後で、最古の写本の読みに可能な限り従えと仰りたいわけ?
まあ、そうするのが文献学の王道ですね。ですが『新約聖書』ネストレ校訂本を見れば
分かるように 古写本の系統・最古の写本確定しても問題は解決するどころか、混迷してませんか?
私は第六結集版によって伝統的読みを明らかにするという片山さんの方針は素晴らしいと思うけど。
もちろん言語学の成果に依拠して原意を復元するというのも素晴らしいと思いますが、
その手法で一貫した読みを提示した人、つまり伝統的読みに全く頼らない人っているんですか?
論理学の手法を用いて驚くべき成果を上げてるのが、石飛道子さんだと思います。
ちなみに以前述べたような、写本を画像データで公開するという試みが実現しました。
もちろん私がやったわけじゃないんですが、並の頭を持っていれば考えることは同じです。
http://utlsktms.ioc.u-tokyo.ac.jp/ 今後は、写本ごとの正確なローマナイズデータを公開していただきたいものです。
472 :
暇人 :2006/05/18(木) 20:17:07 ID:OZrEfkxg
>>471 PTSの更新とネストレの更新を比較すれば、パーリが遅れているのは
一目瞭然だと思いますよ。
わたしらは そんな専門領域の実際をうかがい知る事はほとんどできませんが
それでもその成果の利用は可能だと思いますよ
473 :
1/3 素人 :2006/05/19(金) 00:19:35 ID:ALdaKSM5
多少イラつきながらも楽しかったりするw
>>469 >その断定は後代の解釈じゃん。
重箱の隅を突かせて(揚げ足をとらせて)貰えば、いつからが後代なの?w
>せめて当該経典の別の箇所にその旨明記してあるか、少なくとも
>類似並行経典や経典中の解説経典にその用例があるとか
『この場面で』それを言うのは強引だろ。また、多義性はよく見られることだが?
ましてや「黒」や「白」などは、文脈によって種々の意味内容が付与されて何の不思議もない。
もし仮に一・二・三・四等の「数」だったらどうする?その箇所その箇所で意味内容が違って当然。
>その後代の解釈を本文の解説に断定的に読み込むのが
ブッダゴーサ(の註・復註)自体が、既に古典(本文と同格)なのだ。
(近現代へかけての)各国内での各種解説・注釈も多くあろう。
(どこまでが古典で、どこからが現代的注釈か?は議論されるべき点かもしれないが・・・。)
資料的性格を持たせたものを作成しようとするとき(今回の訳出作業のような際)に
それらをもってして参照先とするならば、あなたの指摘するようにあまり宜しくないであろう。
(勿論、いつの時代に、微小な改変・訂正以外の大きな改変・増補が終局を迎えたか?は、
また別の研究課題としてあるだろうが・・・)
が、ブッダゴーサの解釈が上座部の伝統解釈なのだよ。註・復註も含めて本文として扱うのだ。
ブッダゴーサの注釈もまた本文なのだよ(´∀`)b
そういえば、清浄道論なんてのもあったな。
ミリンダ王問経なんてのもあったな。
どちらも後代の文献だな。 そうか・・・無視すべき文献なんだな・・・w
>色眼鏡
そう、あの作業には上座部という色眼鏡が不可欠なのだよ。
474 :
2/3 素人 :2006/05/19(金) 00:20:09 ID:ALdaKSM5
>>470 >これをしているのが不充分でお寒い限りであるがPTSでしょ。
たしかに完璧ではない。
また、PTS版は生きた(現在護持されている=実際に伝承されてきた)仏典ではないのだ。
片山さんがPTSでなくビルマ版を底本にした理由はそこにあるのじゃないかい?
が、その分量・まとまり、参照のし易さ、等々
PTSがどれだけ諸学者の役に立ってきたか、また現在も役立っているか、
スレその2の終盤に於ける一悶着を思い出せ。
>異読間の読み比べをせず、ある系統の伝承文章だけを本文に選択するのは
>そもそも「原文」ではないじゃん。
【原形】と【原文】は違う、と何度言ったら解r
>ビルマ本はビルマ本なりにその作業をしているのだろうが、広い作業では
>ないじゃん。
ビルマ本を底本にすることが間違いだと言うのかい?PTSが最上かい?
→また、PTS版は生きた(現在護持されている=実際に伝承されてきた)仏典ではないのだ。
片山さんがPTSでなくビルマ版を底本にした理由はそこにあるのじゃないかい?
475 :
3/3 素人 :2006/05/19(金) 00:21:13 ID:ALdaKSM5
>>470 >ただ古代仏教に肉薄するのとは逆のベクトルじゃん。
だからぁ、→
>>467 >当然 伝承の過程で改変があるだろうからね。
だからぁ、→
>>467 >ただ批判的にPTSとの差に注視して比べるならば、その差の箇所に関し
>実はビルマ本が古形を保持していたという箇所も沢山あるだろうし
>逆もあるだろうし、
だからぁ、ここで重要なのは古形かどうかではないと何度言ったr
また、実際「底本には欠いているが、今はPTSにより補う」という箇所はいくつもあるぞ。
> 仕事自体は意義あるのだろうが、
>片山さんの仕事を絶対視するのは問題だね。
絶対視してるわけではない。
「現代上座部の仏典はこのようなものである」という【日本語での】提示が、
どれだけの人間に有益なものとなるか、という点を高く評価するだけだ。
中村元の仕事と、現在の片山さんの仕事が異質なものであることがなぜわからない。
重ねて言う。 この件に関しては【原形】と【原文】は違う。
【原形】・・・釈尊の思想
【原文】・・・各部派(各地域)の伝承
という捉え方でレスをしてたのだが、違ってたか?
476 :
素人 :2006/05/19(金) 00:47:20 ID:ALdaKSM5
さて、そろそろ寝ますよ。 おかげで、睡眠時間も減り、 前置き以降、作業がちっとも進まないじゃないかw
477 :
暇人 :2006/05/19(金) 06:52:43 ID:1kIPicqX
基本事項だよ。例えば 中谷英明神戸学院大学人文学部教授は、「原始仏教思想の解明」で パーリ仏典のうち,『スッタニパータ』,『ダンマパ ダ』,『サンユッタニカーヤ』などの諸仏典は,これま で最初期仏典としてほとんど区別なく扱われ,本文解 釈がなされてきた。これは近代の仏教学者が,紀元後 5世紀頃に制作されたパーリ注釈書の解釈に従ってき たからである。しかし実際には,仏陀の死後8世紀を 経過し,教理体系が整備された時代の解釈は,テキス ト本来の意味としばしば乖離している 初期仏典の音韻,韻律,語形,構文,語彙,思想につい て統計分析を行い,バラモン教聖典『シャタパタ・ブ ラーフマナ』,古層『ウパニシャッド』との比較を通 じ,初期仏典に4層が区別されること,またアショー カ王碑文の言語との関係および内容(孤独な遊行生活 の推奨)から,その最古層部分(『スッタニパータ』の 一部等)は,アショーカ王以前に遡り,教団生活を前 提する次の層とは1世紀以上の懸隔があることを指摘 した。
478 :
暇人 :2006/05/19(金) 06:56:07 ID:1kIPicqX
この最古層テキストを,注釈書に依拠するのでなく, その層固有の思想を提示するものとして読解する時, そこには他の層と明瞭に異なる世界観が現われる。生 き生きした現実感覚,呪術的なものの否定,理性を感 情や肉体とともに捉える視点,また人間行動の動因と しての「潜在欲望」の確認など,教理によって硬直し た後代のテキストには見られない,直裁かつ柔軟な思 考が読み取られる。それは従来考えられていたよりは るかに『ウパニシャッド』哲学に近似する。 ・・・・ 現代の研究では5cのブッダゴーサの注・複註を本文と同質と見る 立場は時代遅れの伝統的立場なのだよ 古層の代表経典『スッタニパータ』,『ダンマパダ』, 『サンユッタニカーヤ』の中に階層を探る合理的な方法論が 模索されているのだよ
479 :
暇人 :2006/05/19(金) 07:09:54 ID:1kIPicqX
君に云われなくもこのスレッド使っているパーリは すべてPTSなので意義あるに決まっているだろ。 論点は だが新約聖書の本文研究より仏教は何十周も 周回遅れだという客観的事実だよ。 中村さんと片山さんは異質だと私も君も云っているのだよ キミは高く評価し、私はさほど評価しないことが違っているだけだよ。 ビルマ本を底本するのにはビルマ本を定本にする価値があると 云っているじゃん。ある地方に生き続けている一つの現代仏教の 解釈を参照できる。しかしそれは古代仏教のそれではない。 【原形】・・・釈尊の思想 ←部派分裂前のポスト釈尊の思想(九部経・12分経) 【原文】・・・各部派(各地域)の伝承 ←部派分裂前の失われた五ニカーヤ 「各種写本」・・・各部派(各地域)の伝承しているモノ PTS・・・各種写本からの「原文」に近づるための校定本 釈尊自体の教えはわからんよ。 わかるのは初期の釈尊弟子らが「聞き伝持した教法」だよ
480 :
暇人 :2006/05/19(金) 11:43:17 ID:9Tm9Rp8q
【原形】・・・釈尊の思想 ←部派分裂前のポスト釈尊の思想(九部経・12分経) 【原文】・・・各部派(各地域)の伝承 ←部派分裂前の失われた五ニカーヤ 「各種写本」・・・各部派(各地域)の伝承しているモノ PTS・・・各種写本からの「原文」に近づるための校定本 ↑ これは話が違うな(笑) パーリ自体が南伝分別説部の伝承テキストなので、 【原形】・・・分裂直後の南伝分別説部の原初テキストだな 【原文】・・・テキストとした実際記録されているのは、スリランカで 古注がシンハラ語訳された1Cなのでまずこの時代のテキスト。 次に5cのブッダゴーサがシンハラ古注をパーリ語に再翻訳し 失われたテキストを再収集しているのでこの時代のテキスト。 「各種写本」・・・更に一度スリランカでパーリは散逸し、他国から逆輸入して いるので南伝各国が持つパーリテキスト写本 PTS・・・各種写本からの「原文」に近づるための校定本 原型と原文を事実上区別できるのかどうかは疑問だが。。
481 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 12:55:55 ID:U1t6REcC
ドラえもんのタイムマシンがあれば一気に解決する問題だね・・・ 学者に飯の種を残してくれた釈尊に感謝感謝
482 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 13:25:09 ID:xydgtOIb
>>481 現象の確実性も、そう簡単に確定できない。現代の裁判や歴史認識の問題を見れば分かるでしょ。
同じと思われる現象でも認識が異なるから、唯一の事実なんてものはない。
あるのはそれぞれ各自に縁起する諸法しかない。だから無我であり空なんだな〜。
テクストの問題も全く同じ、ネストレのように文献学を徹底させても、問題は解決しない。
適度な本文校訂が有効なのであって、過剰なテクスト解体は意味がない。
それと面白いのが京大系の中谷、荒巻、榎本諸氏がテクスト解体に向かったのと対照的に
東大・水野先生の弟子系統である森、浪速、片山諸氏が伝統を尊重する方向に向かったのは、
興味深い。
483 :
素人 :2006/05/19(金) 13:38:21 ID:ALdaKSM5
>>477 → 了解。
>>478 前半 → 了解。
>>478 >現代の研究では5cのブッダゴーサの注・複註を本文と同質と見る
>立場は時代遅れの伝統的立場なのだよ
だからそれは、古代仏教(≒原初の釈尊の思想)を抽出するという作業・目的に於て、だろ?
>>479 >中村さんと片山さんは異質だと私も君も云っているのだよ
>キミは高く評価し、私はさほど評価しないことが違っているだけだよ。
了解。
>古代仏教のそれではない。
もともとが、古代仏教(≒原初の釈尊の思想)の抽出が目的でないところへ
その台詞は、的外れないちゃもん以外の何物でもなかろう。
>>480 やはり、【原形】【原文】の使い方が違っていたのか。了解。
その分類で言えば、「各種写本」の日本語での提示、ということでFA?
また、ブッダゴーサがあなたの分類の【原文】に入ってしまってますが、
>>431 最終行、
>>443 後段、
>>469 前段、
>>470 の発言と矛盾します。
けどまあ、一段落かな。
名無しの単発レスならスルーしたところだが、
コテ付スレ発起人の発言としては見逃せないと思ったから粘着したまで。
皆様お騒がせしました。 m(_ _)m
484 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 13:44:58 ID:xydgtOIb
ところで素人さんは、松本史朗さんの胡散臭さを承認してくれるんですか?
485 :
素人 :2006/05/19(金) 14:04:15 ID:ALdaKSM5
>>484 すいません。
最近の仕事を知らず、十数年前の授業と、
(こちらも古い)幾つかの著述のみをもとにした発言ですので、
軽はずみな言葉だったかもしれません。
あなたがそう言われるのならばそうなのかもしれません。
少ないソースから断定的発言をしてしまい申し訳ありませんでした。
謝罪致します。m(_ _)m
いや、ほぼ20年近く前の授業と言ってもいいくらいだな・・・(^^;
487 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 17:50:39 ID:xydgtOIb
素人さん、そこまで謙虚に対応してもらってすまないんですが、 松本 史朗「後期中観思想の解明にむけて」『東洋学術研究』1986 ですよ。 なんで正に20年前の論文です。最近は言うに及ばず、当初からウソっぽい人です。 もちろんチベット資料を利用していくつか成果を上げたことは認めますが、
488 :
通行人 :2006/05/19(金) 18:11:30 ID:U1t6REcC
松本史朗のチベット語読解能力に? 山口、袴や言うに及ばず。 文法を知っていることと読解は別物であることが良く分かります。
489 :
素人 :2006/05/19(金) 19:24:42 ID:ALdaKSM5
>>488 そうなんだ。
では、私が知らなかった(気付かなかった)だけのようですね。
私が読んだのは、
「縁起と空」
「ブッダから道元へ(奈良康明監修/東京書籍/1992):第一節中の【応答(二)正しい仏教はありうるか】」
「仏教への道(東書選書134/1993)・・全章松本」
※「仏教の実践(東京書籍・日本人の仏教2)/S58第一刷・・7のみ奈良」の改版
「仏教説話体系1―釈尊の生涯―(すずき出版/1982)中の【布教編】」
たったこれだけです。
他にちょこちょこっと何か読んだかもしれませんが、この程度です。
出すぎた発言をして申し訳ありませんでした。
勘弁してください・・・。
_
/ (; _, ,_ )
と_)ヽ_つ と)
490 :
素人 :2006/05/19(金) 19:26:10 ID:ALdaKSM5
アンカーミス
>>487 へ
重ね重ね申し訳ない・・・ m(_ _)m
491 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 20:07:16 ID:xydgtOIb
>>488 語学の問題ではなく過剰な何かがあると思います。
たぶん曹洞宗の本覚批判への信仰と、その護教論なんだと思うですが
山口さんは、間違いなく過剰な妄想癖がある。
『チベット』特に改訂版は、トンデモ本の域に達している。
袴谷さんは、真面目で義直な方だから悪く言いたくない。
>>489-490 そんなに謝んないでください。後味わるいです。
>>491 ごめんなさい(^^;
パラパラめくってたら、「ブッダから道元へ」は、
第三節の【問題提起】と、応答を受けた【再論】も史朗ちゃんだった。
私は、上記五つの著述を読んで受けた
彼のスタンスというか気概というか、賢治と自分をダブらせるかのような
印象から、先の発言をしたのです。
また、袴谷・松本・伊藤の3セットの方向性は、
入学したての学生には魅力的に映っていました。
信者も多かったような気がします。私も多少の影響は受けました。
疑いの視点を忘れないこと、自分を批判・否定することを恐れないこと、
たとえ転向することになっても堂々と転向すること、等。
(↑は史朗ちゃんがそうだと言うのでなく、
彼らに触れることによって私が思ったことです)
つまり、「私はこう考える」という核を欠いてはいけない、と。
これは奈良さんの影響でもありますが・・・w
しかし、いずれにしても軽はずみな発言であったことは事実なので謝ったのです。
しつこくなってごめんね ( ゝ_ )ゞ
>>491 あの・・・
別に、嫌味で謝ったわけじゃないんで・・・
誤解されてたらやだな・・・(´・ω・)カナシス
一在家 = 邪神の使い = 崇教真光信者=源伸 確 信 度 大 真光関係のスレを覗けば、ほぼ確実に存在する古参擁護派の1人。 都合の悪い質問はスルーし、話のすり替え、詭弁は朝飯前です。 彼の18番のロジカルシンキングをしましょう、と口走っているが 言っている本人が全くできていないウツケの者です。 真光の正当性を主張するために、仏教をを用い、真光の教えに根拠、 オリジナルでは無いことを自ら証明し、自爆しています。
495 :
名無しさん@3周年 :2006/05/19(金) 23:07:37 ID:MMyHUdai
>>463 >
>>461 言葉にしたら全て方便であり仮設でしょう。
意言分別なら方便と言いうるけれども、虚妄分別は方便とは言わないでしょう。
たとえ同じ言葉であっても。世間では方便という言葉が誤用されているようで
すが。
>諸行が縁起して諸法が顕現するが、全て無常、無我、空というのが最も妥当だと、
>現時点では考えております。そして世俗と勝義が別個でなく不二双運でなければならなず、
>それを説いているのは、釈尊と中観帰謬派等と考えております。
世俗という染汚法がそのまま勝義であるなら、顛倒こそ真実の友ということに
なります。本覚も真っ青になるほどの脅威となるでしょう。^^;
世俗と世俗諦とは、やはり正見・正思惟で以って明確に峻別するべきです。
第一義諦(勝義諦)である法界から出て来る正説が世俗諦(言説諦)です。
虚妄分別に覆われた世俗のままでは、不二双運とはなりません。
496 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 06:04:13 ID:vyayzxM8
>>495 文脈的に自明だと思ってましたが、
(勝義といっても)言葉にしたら全て方便であり仮設でしょう。
以下、もちろん正見・正道という仮設の話。
>第一義諦(勝義諦)である法界から出て来る正説が世俗諦(言説諦)です。
「法界から出て来る正説」は 「諸行が縁起して諸法が顕現するが、全て無常、無我、空」という意味?
じゃなければ、常見に落ちちゃうと思いますが?
本覚こそ最高の見解! もちろん本覚でも行は必要。
果としての本覚から揺るがなくなれば、作為は無用と考えてます。
この点については単なる推測ですが
497 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 17:33:27 ID:vIwQqiPF
本覚思想であれ如来蔵であれ、行の体系(唯識的にいえばマールガ)を否定 してはいない。 本覚=行をしなくて良いと曲解したのは天台の一部の坊さん・・・ なのに彼らと来たら、如来蔵を説くチベット仏教の一派を盛んに非難する。 しかしそういう彼らも坐禅くらいしたことあるのか? 本山に安居してみれば良いのにね
>>497 そうじゃなくて、
「悟り」や「涅槃」と言われるようなものが、
『その人が行ずる以前に、発心する以前に、もっと言えば生まれたときから
(「仏性」とか「悟りの種子(?)」として)その人の内にあるのかどうか?』
ということでしょ。
どんなに敬虔なキリスト者やムスリムであっても、
それぞれの宗旨に沿った行を行っていて仏法に頷いていなくても、
むしろ仏法を否定していても、それでも彼らは仏の掌の内にいる、
と言えるのかどうか?と。
別の事柄に構造を移して言えば、
『釈尊が成道する以前に、もっと言えば、釈尊が生まれるよりも以前に
「仏法(縁起・四諦等)」はあったと言えるのかどうか?』
ということでしょ。
499 :
名無しさん@3周年 :2006/05/20(土) 22:43:01 ID:WfxPUUtB
>>496 人法二空や縁起の法に違背した正説(十二部経)というのは聞いたことがありません。
世俗諦と勝義諦との関係は、法と法性との関係で捉えると、両者が(不一)不二で
あるという構造がよく見えて来ます。
つまり、相対的世界において、有為法(世俗諦)は業や経験に従って常に変化しながら
連続していくという現象が顕現しますが、無為法(勝義諦)たる法性(法爾=真如)そ
のものは、顕現する生滅変化に関わり無く常住しています。法爾そのものが生滅をして
いるわけではないのですから、不生不滅・本来寂静・自性涅槃です。換言すれば、縁起
の法は生滅変化しながら而も(生滅変化に関わり無く)常住しているということです。
ここに勝義諦と世俗諦、無為法と有為法との常無常無二が成立します。
>本覚こそ最高の見解!
本覚=有垢清浄・有垢真如。つまり煩悩と倶なる理念的な清浄・真如。
無垢清浄・無垢真如=実際の行の中で、虚妄分別の識が無分別智の火に焼錬される時は
真実性によって顕現するという、転依を特質とする清浄・真如。
>>381 > 141-145の導入部で 舎利弗は「釈尊は最高だよー」と褒め称え
> 釈尊から「何を根拠に褒めているねん」と突っ込まれて、
> 146-159でそれぞれの教えが最高だからだよんと応えるわけだ。
ちょっと、違う。
>>413 > 「私は釈尊を信じきっています」
> 「どんな修行者や聖者よりも釈尊は完璧な悟りを持たれています」
> 「過去にも未来にも釈尊以上の智慧ある者はでないでしょう」と
> 舎利弗にカルト信者のような発言をさせ、
>>381 > 釈尊から「何を根拠に褒めているねん」と突っ込まれて、
「だって、私の信じるあんたが、そう言ったやないか。」と応えるわけだ。
なぜ、
> 「私は釈尊を信じきっています」
という状態になったかの理由が、
> 146-159でそれぞれの教えが最高だからだよんと応えるわけだ。
サーリープッタは世尊にこう申し上げた。 「尊い方よ、わたしは世尊に対する浄信を持っています。 完きさとりについて世尊よりすぐれた智慧がある修行者・バラモンは かつていなかったし、これからもいないでしょうし、現在もいません。」 「サーリープッタよ、何を根拠にそのように表明するのですか」 「尊いかたよ、 わたしは過去・未来・現在のただしくさとった人について、その心のありさまを知る智がありません。 しかしわたしは法のさまざまな系統を知っています。 わたしは教えを聞くために世尊のところへきました。 世尊は私に無上かつ最高で完全な教法を説いてくださいました。 わたしはその教えを十分に理解し、様々な教えの中で次の教えを完全に証得し、 師にたいして浄信を持ちました。」 尊い方よ、最高です、 尊師が「さまざまな善き徳行」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「認識の領域(処)の概念」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「入胎」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「読心術 」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「観察の段階」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「個人存在の設定」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「勤め励むこと」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「実践の進展 」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「正しい話し方 」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「正しい話し方 (正しい生活態度)」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「教育の方法」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「他人の解脱の程度」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「常住論」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「前世の境遇を想起する知 」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「生けるものたちの生死を知っていること」において教えを説かれた如く 尊い方よ、最高です、 尊師が「神通の種類」において教えを説かれた如く
「『過去・未来・現在において世尊より優れた智慧がある修行者・バラモンが存在しないこと、 過去・未来において世尊と同等の智慧がある修行者・バラモンが存在すること、 一つの世界において、正しくさとった人が時を同じくして出現するということはありえないこと』 をわたしは世尊から直接に聴聞し、受持しました。 わたしは質問に対して、以上のように解答しました。 わたしは世尊の説かれた通りに説明したでしょうか?」 「サーリープッタさん、あなたは確かにわたしが説いた通りに説明しました。教えを正当に説明しました」 長老ウダーイは次のようにいった。 「尊い方よ、修行完成者(如来)はまことに少欲知足です。 異教の修行者たちが、これらのうち、ただ一つのことだけでも自分で見つけたとすれば、 彼らは単にそれだけでその旗を守ろうとするでしょう。」 世尊はサーリープッタに告げた。 「あなたはこの教えをくりかえし説いてください。 愚かな人たちが修行完成者に対して疑惑や躊躇を抱くとしても、 この教えを聴聞すれば、その疑惑や躊躇は消え去るでしょう」と。 ---------------------- たしかに、文脈的に考えれば、 サーリープッタの挙げた教えは「仏説であり」、「他説の解説ではない」、と捉えるべきであろう。 長老ウダーイの発言も、それを裏打ちするものである。 しかし、常住論は常見であり仏説とは相容れない。どう整合性を取るか?
梵網経での、常住論の扱いを確認すると、
<−−
http://tetugaku.fc2web.com/butten/bonmo5.htm 十 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
「このようにとらわれ、このように執着している状態は、
これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう」
また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことも知るのである。
−−>
と述べているわけで、常住論を頭から否定しているわけではない。
在家に説いた「生天の教え」は、常住論と考えることも可能だろう。
輪廻(常住論)+解脱(涅槃)=仏説
という解釈はいかがなものだろうか?
504 :
名無しさん@3周年 :2006/05/21(日) 06:08:38 ID:v6fgAufn
>>499 いいですね。同意です。ただ本覚は理念ではなく、それこそ本来のあり方だと思ってます。
唯識的理解は、真実とずれるところがあるように思います。
505 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/21(日) 06:59:11 ID:yvDm8bHw
>「このようにとらわれ、このように執着している状態は、 >これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう」 >また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたこと >も知るのである。 まず真実として、釈尊は過去世、生まれ変わりを認めております。 次に過去世、生まれ変わりに固執、執着すれば輪廻、しなければ涅槃と説く。 霊魂は常住でも不変でなく、輪廻(進歩、堕落)もすれば、涅槃にも入る ということかと理解しております。 あまり、梵網経と自歓喜経との矛盾は感じておりませんが、説いた相手が ことなるので表現がかなり違うようにも思います。
>>505 > まず真実として、釈尊は過去世、生まれ変わりを認めております。
しかし、それはあまり重要なことではない。
最古層テキストといわれるスッタニパータの4章および
序と結語を除く5章を読めば明らかなように、
執着を捨て去ることの重要性は繰り返し説いているが、
出家に対して輪廻や神通力には言及していないことがわかる。
507 :
名無しさん@3周年 :2006/05/21(日) 11:09:07 ID:uKj1pMWW
どうでもいいことをグダグダと・・。
509 :
名無しさん@3周年 :2006/05/21(日) 11:46:30 ID:uKj1pMWW
>>499 >ここに勝義諦と世俗諦、無為法と有為法との常無常無二が成立します。
「常無常無二」というのがよく解りません。無為法が常で有為法が無常で、この二つは
一つと言うことでしょうか?私は有為法に基づき無為法が明らかになったときは、
有為法は消滅するのではないかと考えるものです。この故に原始経典でも大乗経典でも、
有為法詰まりこれあれば彼あり、これ無ければ彼なし論がほとんどと言って良いくらいに
無いのだと思われるのです。
510 :
宗教大学者 :2006/05/21(日) 14:47:42 ID:K6f5aH++
諸行は壊法である、放逸ならずして、目的を完遂せよ、これのみ、住するところなくして、まさに、その心生ず。
511 :
名無しさん@3周年 :2006/05/21(日) 14:51:48 ID:uKj1pMWW
>510 普通の人にわかるように解説してください。おねがいします。
512 :
名無しさん@3周年 :2006/05/21(日) 15:02:17 ID:BTvPXaIX
>>504 本覚というくらいだから本来のあり方の方が適切かもしれませんね。
>>509 別の言い方では、「不一不二」です。大乗の無住処涅槃は、二乗と違って二著を転じて
いますから、「惑を滅すと雖も涅槃に住せず、分別を起こすと雖も生死に住せず」です。
有為法が生滅するのは、無余涅槃においてでしょう。成道後の釈迦の生きかたは、無住
処涅槃に相当すると思います。そしてクシナガラーでの入滅で無余涅槃に入った。
513 :
宗教大学者 :2006/05/21(日) 15:34:57 ID:K6f5aH++
お釈迦様も悟った後、悟りの境地を他者に語ろうと迷い、この微細な法をどう問いたらとなやむ。私も悩む。
514 :
宗教大学者 :2006/05/21(日) 15:37:30 ID:K6f5aH++
無常正覚を公言せりき、すべての世界に、んんん、説明がむづかしい。
515 :
名無しさん@3周年 :2006/05/21(日) 17:49:44 ID:uKj1pMWW
>>510 >目的を完遂せよ
この目的とは修行の完成ですか?
516 :
宗教大学者 :2006/05/21(日) 19:37:01 ID:K6f5aH++
>515>一切は無常。すなわち壊法、それを前提とし迷いにまきこまれず。自由に生きていく事と今の自分において解釈しています。さらに悟るとかわってしまうかもしれな。
517 :
名無しさん@3周年 :2006/05/22(月) 00:24:25 ID:wHzavOYh
>>505 >あまり、梵網経と自歓喜経との矛盾は感じておりませんが、説いた相手が
>ことなるので表現がかなり違うようにも思います。
もっと、具体的にお願いします。
518 :
名無しさん@3周年 :2006/05/22(月) 13:48:35 ID:xIjoorRY
>>505 >説いた相手がことなるので表現がかなり違うようにも思います。
もっとくわしく希望!
キーワード 対機説法
520 :
宗教 :2006/05/22(月) 20:07:09 ID:mt61SVPS
無上正覚を公言せり、北伝のみあり、正法眼蔵の弁道わが詳しく語っていると思う。臨済禅の見性の体験と共通するものを感じる。これは言葉をこえる体験なので感じるしかないというたぐいだけれども。釈尊の最後の言葉の意味を深めるものだと思う。(510の内容)
521 :
黒蜥蜴 :2006/05/22(月) 22:29:35 ID:mo6Hx4+N
無執着にさえ執着しない心
522 :
名無しさん@3周年 :2006/05/23(火) 19:41:47 ID:i8PmePrJ
>>521 一切が平等であり、一切が平等に空であるから、そしてそのことを理解し信じているから、
「無執着にさえ執着しない心 」があり得るのだと思う。さもなければ決してできないことであると思う。
523 :
520の宗教大学者 :2006/05/23(火) 20:18:49 ID:qr7TQ106
菩薩行の意味も含んでの解釈で感じてください。白隠さんも竜にのった観音さんをもって、一人、満足している禅坊主を叱っている絵です。
524 :
名無しさん@3周年 :2006/05/23(火) 21:14:37 ID:y+IXm6IJ
>>519 一在家、ちゃんと詳しく説明してよ。梵網経と自歓喜経が説いた
相手ってそれぞれどんな相手になんよ?
流れが止まってますねw ネタフリを一つ。 独覚、縁覚、という語があります。 原語は「paccekabuddha (P)」「pratyekabuddha (Skt(→BSKのみ?))」。 縁覚は明らかに誤訳であるが、使用をやめるべきだろうか? それとも、(言語は生き物であるという観点も考慮し) 歴史的に多く使用され、定着している語なので、 専門的に必要な場合にのみ使い分け、或いは注記によって注意を喚起すればよいか? それとも、 実は、「paccayeka-b」「prati^tyeka-b」が原語で、 縁覚こそが正しかったりしてwww
527 :
名無しさん@3周年 :2006/05/24(水) 21:36:15 ID:PqYu3Npw
>>525 言語は無常に一票、以下参照
阿理生「paccekabuddha(pratyekabuddha)の語源について」『印度学仏教学研究』100(50-2) 2002
>>526 ここのみなさんにはつまんないですよ。いつもの説です。本人談
528 :
名無しさん@3周年 :2006/05/24(水) 21:53:15 ID:V5JTQ6H+
石飛道子!
529 :
名無しさん@3周年 :2006/05/25(木) 20:24:40 ID:Eb4c3sr9
日本で原始仏教を信仰できる団体ってありますか? カルトではなく・・
530 :
お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2006/05/26(金) 01:48:10 ID:XUebrdM6
531 :
暇人 :2006/05/26(金) 02:11:09 ID:T2316izG
日本テーラワーダ仏教協会は 厳密には現代仏教ですけどね。 原始佛教は古代仏教ですので もはや地上には残っていません。 仏教は大きく二つの流れがあり大乗へと変貌し大きく様変わりした 北伝仏教と、 信仰的に原始佛教を継承しているという立場に立ち、 外面は原始佛教にみえる南伝仏教ですね。 この南伝の一セクトが日本テーラワーダ仏教協会ですね
2chでは、門司のパゴダの話が出ないのはなぜだろう?
534 :
宗教大学者 :2006/05/27(土) 15:21:55 ID:860vj5F/
530。。宗教嫌いなところで宣伝しているぞ。親切な瞑想説明がいい。後、天台宗の座禅、止観も親切だ。でも坊主が怠けているのが多い
535 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/27(土) 19:28:37 ID:alLGG6DS
>>524 >一在家、ちゃんと詳しく説明してよ。梵網経と自歓喜経が説いた
>相手ってそれぞれどんな相手になんよ?
最近、環境の変化で、週末くらいしかネットも読めていないので
レスもできません。過去ログの一部をコピペします。
仏の四つの説き方=四悉檀
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)
手持ちの長部経典(中村元監修、春秋社)の34経の説法の
相手を調べてみました。ご参考までに紹介します。
1)梵網経:to 比丘達、遊行者
(中略)
28)自歓喜経:to 尊者サーリプッタ(舎利弗)
(後略)
536 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/27(土) 19:48:40 ID:alLGG6DS
仏の四つの説き方=四悉檀 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の 高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を 違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、 仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」 長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗に説かれた法話を 舎利弗がリピートして、釈尊が理解の正しいことを保証する という設定になっております。
537 :
外道凡夫 ◆Nd9tI7EP4M :2006/05/27(土) 21:25:51 ID:kMEFeq/W
>>531 おひさしぶりです。チューリ(ダ?)パンダカの話で今調べていますが
どこもマチマチで困っています。詳しい仏典をお知りでしたらご教授ください。
調べてみると彼の存在と逸話の背景はなかなか興味深いです。
538 :
暇人 :2006/05/27(土) 21:38:16 ID:MXgigd39
>>537 チマチマした情報しかしりません。
岩波文庫「仏弟子の告白」557-566とか
中村元選集「仏弟子の生涯」p357以下とか(上記とほぼ同内容)
539 :
一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/27(土) 22:19:52 ID:alLGG6DS
仏の四つの説き方=四悉檀 出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社) 「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の 高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を 違えられた。四悉檀といわれるのはこの意味における仏の説法 の態度を示すものである。四悉檀とは、世界四悉、各各為人悉檀、 対治悉檀、第一義悉檀である。」 「このうち、世界悉檀とは、世間一般の立場で説かれる通俗的説法 であり、各各為人悉檀とは、各自の性格能力に応じて、それに応じた 説法をされることであり、対治悉檀とは、心の病としての煩悩を 対治するために、それに応じた説法をされることである。」 「譬えていえば、肉体の病気において、身体を冷やす場合と温める 場合があり、下痢させる場合と下痢を止める場合があるように、 煩悩の対治においても、相手に対応して法が説かれるために、その 説法には相互に反対矛盾するようなものが少なくない。」 「最後の第一義悉檀とは、右のような方便施設を用いず、高い智慧 や能力のある者に対して、仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれる ことである。」 長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗に説かれた法話を 舎利弗がリピートして、釈尊が理解の正しいことを保証する という設定になっておりますので、第一義悉檀の可能性が高いと 言えましょう。 また、梵網経は大勢の比丘達や遊行者に説かれた法話なので、 世界悉檀の可能性が高いように思いますが如何でしょうか。
541 :
暇人 :2006/06/03(土) 10:31:55 ID:dl6QAUlJ
うむぅ
542 :
名無しさん@3周年 :2006/06/06(火) 21:19:43 ID:VXkxCbCV
544 :
暇人 :2006/06/06(火) 23:03:50 ID:OxM+4AZn
いや レスがなくなったので 唸ってみました(笑) 特に話題がない。。。
545 :
素人 :2006/06/06(火) 23:57:36 ID:LKVVG1JH
怠けててすまんね・・・(^^;
546 :
無宗だ :2006/06/07(水) 12:37:28 ID:WWtWf2gF
仏教における輪廻の根拠は、次のような禅定中の主観的な体験と考えていいのだろうか?
<−−
沙門もしくは婆羅門の中には、
熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、
様々な過去における生涯を思い出すような、心三昧を得る者がいる。
そして、「あの生において、私はこれこれの名前を持ち、これこれの姓を持ち、
これこれの階級に属し、これこれの食物を取り、
これこれの苦楽を感受し、これこれの寿命を持った。
その私はあそこより死没して、別の生に生まれ変わった。
その生では、これこれの名前を持ち、これこれの姓を持ち、これこれの階級に属し、
これこれの食物を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの寿命を持った。
その私はあそこより死没して、この生に生まれ変わった。」と、
このように、その事情と境遇とを併せ持った、過去における様々な生涯を思い出すのである。
http://tetugaku.fc2web.com/butten/bonmo1.htm −−>
そして、このような記憶の連続を担っているのが、五蘊の中の識ということになるのだろうか?
>>546 前半は、それしかないでしょう。
(この形式以外の、輪廻の様相について記された部分って
他にあったかな・・・? ジャータカ等は除くw)
如来は、「昔から言われているから」という理由で語るのではなく、
「自ら目の当たりに見て、知って」そのように語る者なのだから。
後半もまた、初期仏教においてはそうとしか言えないでしょうね。
勿論、現代のように『記憶が保持される』という捉え方はされていないでしょうから、
(もし、現代的に海馬がどうこうと言い出したら、記憶は「色」に依存することになるwww)
「憶い出せる・想起できる」という点から、それを担うのが識(及び行)であるという流れで、
そのように言うことは可能でしょう。そして唯識はそれを深く考察していった結果かも・・・。
個人的には、おそらくそんな小難しいことを考えたわけでなく、
普段の、思い出すという行為の延長として捉えていただけじゃないかという気もするが・・・。
石飛先生のプログに入れません。道場炎上が原因ですか? 2chでなら、 欲惚けアオミを叩けるんですけど道場まで出張はできません。 以前登場した栗栖樽を召還して説得してもらえばいいでしょう。 同様の戦略と野心をもって、確信犯的に荒らしまくった栗栖樽以上の適任者はいません。 なにより栗栖樽にとって罪滅ぼしになりますし。 原始仏教スレッドを参照し検索を重ねれば栗栖樽の巣まで到達できると思います。 あるいはアオミの師匠筋を引っ張ってくるという手もあります。 なんにせよ、自己流に勝手に瞑想したあげく狂ってしまった者の相手をしても徒労にしかなりません。 撃破が無理ならスルーするのも大切ですよ。
>>548 :名無しさん@3周年:2006/06/08(木) 10:38:18 ID:IUBwzlNK
> 石飛先生のプログに入れません。道場炎上が原因ですか?
どこも炎上など、してませんよ。
サイトマスターがしっかりしていると、訪問者は安心して遊ぶことができます。
> 2chでなら、
> 欲惚けアオミを叩けるんですけど道場まで出張はできません。
わざわざ、手間隙かけて叩く価値もないでしょう。
「趣味とかストレス解消に叩くのであれば、お好きにどうぞ。」
といった感じかなw
>>547 > (この形式以外の、輪廻の様相について記された部分って
> 他にあったかな・・・? ジャータカ等は除くw)
尼僧の告白―テーリーガーター 岩波文庫 青 327-2
で、尼さんが自分の体験語っていたのと、
ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 岩波文庫 青 329-1
ブッダ悪魔との対話―サンユッタ・ニカーヤ2 岩波文庫 青 329-2
のどちらかで、過去生が同郷だった人と、ブッダがその頃の知人の消息を話し合っている場面がありましたよね。
> 後半もまた、初期仏教においてはそうとしか言えないでしょうね。
次の記述を読むと、
<−−
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation.html 輪廻転生のメカニズムを語る経典『大縁経』の中でこう述べている。
「アーナンダよ、意識が母胎に入らないならば、いったい名称と形態(身心)は
増大するだろうか」と問い、さらに
「意識が、アーナンダよ、母胎に入ったのち、脱落してしまうなら、
いったい名称と形態は、ここ(輪廻)の状態に転生するだろうか」とたたみかけるのである。
−−>
細胞分裂(発生)や、食事によって成長することに関しても、
識が深く関わっているという印象を受けるのだがどうなんでしょう?
551 :
1/2 :2006/06/08(木) 14:43:09 ID:Y4N/7cKg
>>550 >細胞分裂(発生)や、食事によって成長することに関しても、
>識が深く関わっているという印象を受けるのだがどうなんでしょう?
特に心経等は、学者・僧侶問わず様々な人が、解説書≒生き方指南書を記している。
そのように、現代へ・・・いや、自身の生き方へ敷衍させることを否定するつもりは毛頭ない。
原始仏典を座右の銘として生きることは素晴らしい。
また、仏教【的】視点を利用して、現代の様々な事象へ斬り込んで行くことも、
有効で有意義なことであろうと思う。寧ろ大いに各分野の人にやっていただきたい手法である。
けれども私は、
仏教の理論(理屈)を、そのまま現代へ持ってくることは良くないと思っている。
(特に古代の思考は)時代背景抜きに語ることは出来ないと考える。
同様に、現代の価値観・知識等を仏典に投射することもまた、
細心の注意を払って、慎重になされるべきだと考える。
輪廻や無色界、四禅、神通等等等w
(最新の科学的知見との整合性を探るという作業も面白いだろうし、なされる価値はあると思う。
現代においては、説法の際の武器の一つとして、かなり効果的なものになるだろうとも思う。
しかし、それはあくまでも、仏教の周縁の周縁でしかない。プラスアルファ以上のものではない。
たとえ、仏典を再編纂するとしても、本文ではなく新たな註として加えられるものであろう。)
552 :
2/2 :2006/06/08(木) 14:45:33 ID:Y4N/7cKg
また、余談になるが、(道場ちょこっと覗いてみましたがw)、 誰でもが、(特に2chでは)、理屈っぽい教義に走り、 論理としての普遍性をもって語ろうとする。(本スレもそうでしたねw)。大切なことだと思う。 釈尊は聡明な人物であったろうから、(菩提樹下ではまだぼやけていたかもしれないが)、 批判・反論をきちんと受け流すだけの思索があったろうと思うし、45年間の教化は、 そうした、自己の思想の点検整備の日々ではなかったかと妄想したりもするw しかし、絶対に忘れてはならないことが一つある。 それは、仏教は、シッダッタ自身の苦悩が出発点であったということだ。 出発点は、慈悲でも運命でも神々の要請でもなく、 「人は皆、病み、老い、そして死んでゆく。私もまた、年老い死んでゆくだろう。 輪廻し、新たに生を受けても同様に苦悩することであろう。 なぜ、人は・・・いや、オレは、老病死を厭うのか?避けられぬことなのに・・・。 避ける方法はないだろうか?この苦悩を消し去ることはできないだろうか?」 ではなかったか。 そして、「ああそうか・・・『オレがオレが』と執着するから苦として受けとめてしまうのか・・・」と・・・。 どこかで書いたような気もするが、 縁起も無常も無我も苦も、遠いどこかの縁起じゃない。知らない誰かの苦ではない。 私自身が無常であり、無我であるのだ。私自身が縁起しているのだ。 この視点を忘れるならば、どれだけ精緻な論が重ねられようと、 無味乾燥な呪文にしかならない・・・。
そこに切実な苦がない。 それはわるいことではないです。 ワイワイ楽しくやっているのなら結構。平和でよろし。
554 :
名無しさん@3周年 :2006/06/11(日) 05:42:56 ID:1rPu6YCT
楽しいのはいいんですが、仏教ではその楽しいことも苦と見なすので、 結局、苦に気が付かないことになちゃうんですが、仏教では。 世俗的には、それで結構ですが
行動するにあたって時間が必要でそ。当然そこには優先順位も出てくる。 一切皆苦ではあるけれど本人の気付いていない傷口を指摘する時には注意せんと。 本人も気付いていない、環境も熟していない、事を収めるだけの力量も無しなら、 黙ってみているのが一番。 黙ってみていることができなかった為におこる悲劇、喜劇も少なくない。 同じことをしていても苦痛に感じるひともいれば、生甲斐に感じる人もいる。 でも、自分の修道に関してはやりすぎはないわな。どんどんやってください。
556 :
554 :2006/06/11(日) 22:50:56 ID:1rPu6YCT
>>555 仰るとおりでございます。失礼しました。
いいですね。2ちゃんも、なかなかです。
おみそれしました。
557 :
名無しさん@3周年 :2006/06/15(木) 15:12:21 ID:CxvmQzGy
生きとし生けるものが幸せでありますように。
なんかあったのか?w
>>557 おまいもシヤワセになw ( ̄人 ̄)
559 :
シッタカブッダ :2006/06/15(木) 16:45:49 ID:zDeNvlEZ
お釈迦様は最も古いヨーガ行者だ・・・。
560 :
名無しさん@3周年 :2006/06/16(金) 14:36:53 ID:DMaJy9uG
>>559 それはないでしょ。仏典でも現代の歴史でも。
561 :
名無しさん@3周年 :2006/06/16(金) 16:18:50 ID:BhfRlfJu
他スレでも触れた事ですが、、、 古代インドって、聡明な人が多かった気がする。 その一つが、ゼロ( 0 )の発見ですね。 ゼロの発見により、プラスとマイナスの概念が生まれました。 ゼロは、サンスクリット語で「シューニャ」といい、 釈尊が悟った縁起の法を表す際にも、 「シューニャ」と言う言葉が使われていたとの事なので、 すでに釈尊は「空」の真理を悟っていたのでしょう。
562 :
名無しさん@3周年 :2006/06/16(金) 16:25:08 ID:BhfRlfJu
↑補足 「シューニャ」には 「空」と言う意味もあります。
563 :
名無しさん@3周年 :2006/06/16(金) 18:29:33 ID:b4+ikBYV
0という数字を発見したのはヒンドゥ教徒だったと思うのだが。
564 :
名無しさん@3周年 :2006/06/17(土) 09:37:04 ID:1N9cTLl7
>>563 今でもインド人は秀才ですしね。
IT関係でも、世界のトップにはインド人がたくさんいるらしい。
565 :
名無しさん@3周年 :2006/06/18(日) 08:57:22 ID:LAqZSFQ6
シューニャ=空っぽ をあらわす記号だったそうだ。 数学的視点から算用数字としてに取り入れたのが西洋だとか。
566 :
名無しさん@3周年 :2006/06/19(月) 18:51:01 ID:+XO8kdyY
テーラワーダ仏教協会のお坊様は ご自身でお食事を作られるとブログにありました。 これはスリランカの戒律ではOKなのでしょうか? (批判ではありません。念のため)
567 :
名無しさん@3周年 :2006/06/21(水) 04:20:10 ID:FDBSH/da
北九州の門司の住人です。 近くにパコダがありタイのお坊さんが住んで修行しています。 タイのお坊さんと言ってももう何十年も日本に住んでいるので日本語ペラペラ 顔つきまで色の黒い日本人といった感じです。 良く遊びに行っていたので本をもらったり根本仏教のお話を聞かせてもらったりしています。 瞑想や呼吸法も教えてくれました。 このあいだは、インドの人がきていました。 仏教の修行法はヨーガだよ、って言っていました。
568 :
名無しさん@3周年 :2006/06/21(水) 04:23:57 ID:FDBSH/da
失礼・・・! 眠いのでまちがえた、タイではなくビルマ(ミャンマー)の間違い・・・。
569 :
名無しさん@3周年 :2006/06/21(水) 06:52:17 ID:ArIz0F/h
ヨーガは仏教だけでなく広くインドの修行法だったね
570 :
名無しさん@3周年 :2006/06/21(水) 07:21:06 ID:AYCY0dtU
>>566 すくなくともタイやミャンマーの比丘は自分でご飯は
作らんよ。
優秀さなら日本だよ 万葉集は作れない 核を保有してないのも日本 釈迦の教えのとおり 気が長いのも往年の日本人 嘘をつかないのも日本人だよ 嘘八百が喜劇的な意味合いを持つ この国は嘘ではなく偽装になる つくり物でない繊細な美である万葉集の世界
572 :
名無しさん@3周年 :2006/06/21(水) 09:14:58 ID:q4OXUJmX
日本人の奥ゆかしさ、神秘的傾向は、 WCの柳沢のパスで証明済み
573 :
暇人 :2006/06/22(木) 07:25:36 ID:nyd8tC87
柳沢のパス。。。 川口のファインセーブ後の 気の抜けたビールみたいなプレーも 奥床しいのか。。。
ひゅーどろど〜ろ
575 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 08:14:15 ID:R4EXkXvM
日本のサッカーは世界に恥を曝した。もう日本はサッカーを止めるべし。 それは悟ったと言う人がおり、みんな(日本人)が悟ったと賞賛しているが、世界の 中に出てみると少しも智慧が無いことが暴露されるようなものだ、今の創価の様に。
576 :
暇人 :2006/06/25(日) 10:33:15 ID:h45BbMUB
おおげさな。。。 昔からサッカー弱いじゃん 日本
577 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 10:45:45 ID:SUX1oPPD
スリランカ・タイ・ミャンマーがどのような国かをよく知れば、 そこにはびこっている宗教の性質もよくわかる。 人間があそこまでなれるのは原始仏教の賜物
578 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 11:23:53 ID:aOoNw6xJ
それ褒めてんの、貶してんの、どっち・・・? あそこまでなれるって、どういう意味よ・・・?
「はびこる」というからには貶めてるんじゃない?
580 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 14:16:58 ID:R4EXkXvM
581 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 15:58:07 ID:eXjEAFc0
ほとんど皆が自分の欲のために迷いなく人を騙せる国です。 女はアニータみたいなビッチ、 男はチンピラ犯罪者かホモ野郎と考えればいいです。
582 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 17:25:31 ID:LYdy7BPZ
>>581 君は日本の現代社会が抱える諸問題を直視できないアホですか?
土台、抑制や勘ちがいを後生大事に抱えた奴属民なあなたは
とんだ偽善と虚飾マンセー野郎で
人間精神としての全体性を把握するに至らないようですね。
583 :
名無しさん@3周年 :2006/06/25(日) 18:35:52 ID:aOoNw6xJ
>>581 そりゃあ、われわれ日本人と日本国のことだろうが・・・!!!
584 :
581 :2006/06/25(日) 19:36:47 ID:xhzoC8v7
おかしい・・・。
>>581 の二行目に「女はアニータみたいな嘘つきビッチ、」
と書いたはずなのに消えてる。
>>582 発展途上国はもっと終わってると言ってるんだよ。
>>583 外国で少なくとも半年暮らした事はあるか?
日本はずっとずっとましだぞ。
585 :
581 :2006/06/25(日) 20:00:44 ID:r9Z7X9GL
消えてなかった。
原始仏教は下火ですね インポ男が死んで アホダロウが死んで 残ったのはカス
587 :
名無しさん@3周年 :2006/06/26(月) 20:41:16 ID:tpRCPBSP
私は、その二人と、その取り巻きの某大学のやつらこそカスだと思う。 理由は単純、誹謗中傷ばかりで根拠を全く示さないから。 ごく希に示した場合も、高い確率で誤りである場合が多かった印象がある。
588 :
暇人 :2006/06/26(月) 21:32:44 ID:oI+1peUY
まあ創価とか阿含宗などを叩いて分には ウソがばれなかったわけだが。。。 まあでも彼らの功績として 原始佛教系がにぎわったのだから よしとしましょう
589 :
名無しさん@3周年 :2006/06/26(月) 21:58:10 ID:ZLdNarOn
ところで暇人さんは瞑想の実践をされているのですか? それと、日本テーラワーダ仏教協会やスマナサーラ長老 が布教している仏教についてはどのような印象をお持ちですか? 暇があるときでかまいませんので感想をいただければ幸いです。
590 :
暇人 :2006/06/26(月) 22:03:42 ID:oI+1peUY
瞑想の実践などはしてないです するつもりもありません スマナサーラさんのサイトのパーリダンマパダの日本語訳は 参考にして勉強しているのをはじめ 参考になる部分は勝手に利用させて頂いております。 だけどもスマさんの大乗仏教に対する無理解なスタンスや 現代学問に対する批判的な姿勢は 現代的な文献批判に背を向ける盲信に基づくもので、 レベルとしては創価並にカルトぽいと思っています。
どこの廃墟だよw
誤爆したw
593 :
暇人 :2006/06/27(火) 07:35:19 ID:fOiW7IEM
594 :
名無しさん@3周年 :2006/06/27(火) 16:57:32 ID:LShRbGOK
>大乗仏教に対する無理解なスタンスや >現代学問に対する批判的な姿勢は どんなの?
595 :
名無しさん@3周年 :2006/06/27(火) 18:38:03 ID:n9fYqv6H
仏陀が哀れになってきた・・・ これって恋?
596 :
名無しさん@3周年 :2006/06/30(金) 23:31:44 ID:U004juy+
哀れみなぞ軽蔑の一種に過ぎんよ・・・
597 :
暇人 :2006/07/01(土) 17:56:43 ID:v4b83CdF
>>594 過去ログで三度ほど書いているから
検索してごらん
598 :
源伸 ◆03gfAyqM2A :2006/07/01(土) 19:37:54 ID:nJd1JNc2
>>539 仏の四つの説き方=四悉檀
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)
法話の内容(What)も大切ですが、誰に(Who,Whom)に説いたのかが
真実義を追求する人達には大切ではと直感する次第です。
(参考)長部経典T(中村元監修、春秋社)
1)梵網経:to 比丘達、遊行者 ←※
2)沙門果経:to 阿闍世王
3)阿摩晝経:to バラモン
4)種徳経:to バラモン
5)究羅壇頭経:to バラモン
6)マハーリ経:to 部族の長?
7)ジャーリヤ経:to 修行者
8)倮形梵志経:to 修行者
9)布藻g樓経:※to 遍歴の行者
10)スバ経:to ※アーナンダ尊者★ to バラモン
11)堅固経:to 在家信者
12)露遮経:to バラモン
13)三明経:to バラモン
599 :
源伸 ◆03gfAyqM2A :2006/07/01(土) 19:38:50 ID:nJd1JNc2
(参考)長部経典U(中村元監修、春秋社) 14)大本経:to比丘達 15)大縁方便経:to 弟子アーナンダ★(尊者になる以前) 16)大般涅槃経:to比丘達 17)大善見王経:to アーナンダ尊者★ 18)闍尼沙経:to アーナンダ尊者★ 19)典尊経:to 神格 20)大会経:to 阿羅漢達 21)帝釈所問経:to 帝釈天 22)大念処経:to比丘達 23)幣宿経:クマーラ・カッサパto 王 (参考)長部経典V(中村元監修、春秋社) 24)パーティカ経:to 遊行者 25)ウドゥンパリカー師子吼経:to 遊行者(苦行者) 26)転輪聖王修行経:to 修行僧達 27)起源経:to 見習い修行僧 28)自歓喜経:to 尊者サーリプッタ(舎利弗)★★ ←※ 29)清浄経:to 修行者 30)三十二相経:to 修行僧達 31)善生経:to 資産家の息子 32)アーターナーティヤ経:to 毘沙門天、比丘達 33)等誦経:※尊者サーリプッタ★ to 比丘達 34)十上経:※尊者サーリプッタ★ to 比丘達 長部経典の34経の内で、 ・尊者サーリプッタに関わりが深い3経 ・尊者アーナンダに関わりが深い4経 やはり、釈尊の教えを説いたのは、この二方の ようです。
600 :
源伸 ◆03gfAyqM2A :2006/07/01(土) 19:48:16 ID:nJd1JNc2
原始仏教ならぬ原始基教に関わる「原典 ユダの福音書」の読後感をば。 旧約聖書の神(エホバ)に祈りを捧げている弟子たちをイエスが笑う章が 一番興味深かったです。 イエスは、旧約の神よりも上位の神々がいて、自身は真の神(至高神)を 知っており祈りを捧げているからだそうです。 (唯一神でなく多神であり、更にイエスの天の父はエホバでないの意味) 次に、肉体と霊と魂との違いをイエスが説かれております。 そして、「内なる神を立たせよ」という言葉が続きます。 魂=内なる神、とも解釈できます。 仏教での、「全ての人に仏性が存在する」という真理にも似て おります。
601 :
暇人 :2006/07/03(月) 23:23:45 ID:EhQvqtXG
うむぅ。。
> 魂=内なる神、とも解釈できます。 それ、グノーシス派。異端。 > 仏教での、「全ての人に仏性が存在する」という真理 それ、大乗。原始仏教じゃない。
あぼーん
604 :
暇人 :2006/07/07(金) 22:36:09 ID:Lw5BDS4/
台風が近づいてるねぇー
605 :
名無しさん@3周年 :2006/07/09(日) 08:23:28 ID:ga8M1APD
今の時期に三号とは、今年は少ないんではないか?
606 :
名無しさん@3周年 :2006/07/09(日) 18:01:53 ID:ga8M1APD
今年は梅雨らしい梅雨だ。
607 :
名無しさん@3周年 :2006/07/10(月) 22:13:10 ID:baws9+K6
修行を積んだものはしゃべる必要が無い。沈黙の修行をし様!
608 :
嘘八百古狸 :2006/07/15(土) 08:08:29 ID:6WUROKsd
みんな沈黙を行じているのか。。。 熱心だなァ
沈黙の修行かw 「語らないように語らないように・・・」 なんか笑えるw
610 :
名無しさん@3周年 :2006/07/15(土) 15:28:31 ID:nwHT/sSr
沈黙を石ころになることだ勘違いしないように!!
611 :
南無大師遍照金剛 :2006/07/15(土) 18:49:41 ID:4tH6+5I9
ヽ(´∇`)ノ
507 水先案名無い人 sage New! 2006/07/15(土) 19:58:05 ID:XrI51JIM0 人間の根本的な苦しみとは、四苦八苦である。 生老病死と、以下の四つを合わせて八苦である。 炒飯別離苦・・・炒飯と別れる苦しみ。どんなにつくっても炒飯と永遠に一緒に居ることは出来ない Λ,,Λ ゴシゴシ (::::: ∩゙。 (::::::::. ノニフ  ̄ ̄と とノ ̄ ̄ ̄ 炒飯溢会苦・・・炒飯が溢れるのを見なければいけない苦しみ。 アッ! 。・゚・ ∧,,∧ て 。・゚・。・゚・ (; ´゚ω゚)て // / o━ヽニニフ しー-J 彡
508 水先案名無い人 sage New! 2006/07/15(土) 20:00:33 ID:XrI51JIM0 求炒飯不得苦・・・炒飯が得られない苦しみ。 ...| ̄ ̄ |: /:::| ___|: /::::_|___|:_ ||:::::::( ;∀;): ||::/ ∞ \ チャーハンまだ? ||::| .l ゚ ゚ l |: _..||::| \ 丿 |:_ \ \__(久)__/_\ .||.i\ 、__ノフ \ 炒飯陰情苦・・・炒飯への執着心から生じる苦しみ。 ∧,,∧ ショボーン ( ´・ω・) c(,_U_U ・゚・。・ ゚・。・゚・ 。・゚・ ━ヽニニフ この生きるうえで、チャーハンによってもたらされる苦しみの原因を取り除くために、 仏陀はチャーハンをこぼしたと言われています。 ●● 。・゚・ ●●●● 。・゚・。・゚・ ● -ω- ) // / o━ヽニニフ しー-J 彡
614 :
嘘八百古狸 :2006/07/17(月) 13:31:13 ID:4gGKaKKn
今日も平和だ
あおみ(爆笑
616 :
名無しさん@3周年 :2006/07/19(水) 16:09:06 ID:oYbAq75L
仏陀の悟りとは・・・? 仏陀はヨーガの修行をして悟ったの・・・?
617 :
名無しさん@3周年 :2006/07/19(水) 19:25:44 ID:Z7gZvvEE
仏陀は自分を静かに見つめて 悟ったのよん
618 :
名無しさん@3周年 :2006/07/21(金) 06:20:37 ID:YOQAx0Sq
>>661 戒定慧解脱解脱知見と言ってる。戒めを守るまたは実行する。人々の間において、
トラブルの無い境地に我が身を置く。一切が縁起して存在し、縁起している物は実体が無いことを
悟る。世の一切に執着しないのが正しい態度であることを知る。自分が世の一切から離れて居ること
ことを知る。
イエスさんが「私は天から来たものである。」というのがそれだろう。
619 :
名無しさん@3周年 :2006/07/23(日) 11:45:00 ID:4ptAmKbe
爆発炎上してますね。 もし、ディグナ−ガに至るまでの因明学が全否定されるのなら、 爽快です。 たとえ因明が否定されても、 戒を守れば戒に守られます。 むしろ釈尊や祖師がたの説の微妙さがハッキリしてよい。
620 :
名無しさん@3周年 :2006/07/23(日) 16:00:22 ID:Ar1elMSZ
宗門大学一覧 浄土宗・浄土真宗の浄土系大学 埼玉工業大・大正大・淑徳大・東海学園大・☆佛教大・京都文教大 武蔵野大・同朋大・龍谷大・京都女子大・大谷大・大阪大谷大・兵庫大 以前の宗門では東洋大も含んでいたが、今は手を切っている。 曹洞宗 東北福祉大・駒澤大・駒澤女子大・愛知学院大 真言宗 大正大・高野山大・種智院大 天台宗 大正大・京都精華大 宗門大学 僧侶養成校「同宗派に複数ある場合ランク順」 浄土真宗本願寺派・・龍谷・同朋・九州龍谷短大 浄土真宗大谷派・・大谷・大谷短大 浄土宗・・佛教・大正・西山短大 曹洞宗・・駒澤・東北福祉・愛知学院・鶴見 臨済宗・・花園 日蓮宗・・立正・身延山 真言宗・・大正・種智院・高野山 天台宗・・大正 宗門大学 非僧侶養成大学 浄土真宗本願寺派・・京都女子・京都女子短大・武蔵野・兵庫 浄土真宗大谷派・・京都光華女子・大阪大谷・各地の大谷短大 浄土宗・・京都文教・淑徳・東海学園・埼玉工業・華頂女子短大・淑徳短大 曹洞宗・・駒澤女子 日蓮宗・・文教 和宗・・四天王寺国際仏教
621 :
嘘八百古狸 :2006/07/23(日) 22:41:33 ID:wtHqjfBi
>>620 脈絡なくコピペを貼るな。
しかも情報精度がわるすぎ
×浄土真宗本願寺派・・龍谷・同朋・九州龍谷短大
→同朋大は、大谷派系だ。
×浄土真宗大谷派・・京都光華女子・大阪大谷・各地の大谷短大
→「浄土真宗大谷派」という宗派はない。「真宗大谷派」だよ
三浦先生側−石飛先生側の論理のやりとりは、 小乗−大乗間に交わされるものと似ている。
ここでいう小乗とはまともな信頼の置ける坊さんがいらっしゃる基本重視の仏教。 矯めす意味のない小乗ということでよろしく。
624 :
名無しさん@3周年 :2006/07/24(月) 22:39:00 ID:v8oSmljU
へー、そのまんま本質あるいは実在論と縁起・空の論理の違いだと思うけど。 そして大乗の方が深く広い。さしずめ本覚あたりが最高の見解に違いないんだが。 論理は、全く方便だから。
たんに二つの論がゴロリと置かれている状況ではない。 それに石飛先生は空の論理については積極的には説かれないと思う。
>624 そして小乗のほうが狭い分、深くなりがち。 個人的には今回の話し合いで因明学の重要性に気がついた。 それを生きるには座らなくては駄目だし、それを説くには因明を学ばなくては穴ができる。
627 :
名無しさん@3周年 :2006/07/25(火) 00:38:48 ID:UjFLOBm+
>>625 そうね。
>>626 煩瑣・複雑と深さは別もの。体験の深さであり、それが見解の高さである。
月称、寂天、アティシャ、ミラレパ、弘法大師、源信は論理を軽視した。
法称、寂護、ゴクロシェラプ、サパン、慈恩大師、善珠は論理を重視した。
必要な人もいれば必要ない人もいると思う。
論理は決して不可欠なものとは思わない。
今回の話し合いでは、 その重視する所は異なっているが双方が論理を意識している。 三浦先生には論議上やってはいけないことを学び、 石飛先生にはどのように相手に近寄るかを学べばいいかも。 今回は出会い方が不味すぎた。 三浦先生の初見のコメントは、あおみがカルトと知れていたらおそらくはなかったはず。 石飛先生にしても掲示板の主催者としての枷が重すぎる。 戦いながら育てるのは無理ということ。
629 :
名無しさん@3周年 :2006/07/25(火) 22:59:48 ID:UjFLOBm+
ちょっと愚痴らせてもらう。あおみはひどすぎる。 矛盾の宝庫だ。最初に登場した時、論破しようという野心などないとか言ってたが、 あるのはそれだけじゃないか? しかも論破されて三浦さんに泣きついて、最悪な結果をだした。 仏教とヴェーダーンタは矛盾するし、もう一つおまけに捻れたエロを石飛さんに投げるのも醜いぞ。 女嫌いのセックス好きと見た。 愚痴でごめん。あー、すっきりした。
本スレ落ちてますねw
632 :
名無しさん@3周年 :2006/07/26(水) 21:52:00 ID:P2M4nQrJ
そりゃ三浦さんが可哀想だろう。美しく緻密に彫琢されたロジックと、 便所の落書きを一緒にしちゃ惨い。
633 :
嘘八百古狸 :2006/07/26(水) 22:50:20 ID:6lz0iNSq
三浦先生側−石飛先生側って なに?
>>634 三浦さんも石飛さんも尊敬申し上げている門外漢の戯言です・・・。
相手より優位に立とうとすること。
衒学趣味の掲示板コミュニティの中で「その気」になってしまうこと。
怖いですねぇ。
636 :
嘘八百古狸 :2006/07/28(金) 08:11:50 ID:GY+gNBRC
>>634 おはよ ご紹介サンクスです。
三浦さんの掲示板を
ざっと目を通しましたが
三浦・石飛先生の直接の議論ではなく
外野があれこれですね。
Aは同じ所をグルグルまわっている。 Aの不気味な元気さの原因はそこにある。 栗栖樽のときもそうだが彼も彼なりの善を求めている。 Aの表面上の不備を指摘したり、Aにこちらの困惑をしめしても無駄。 Aが二面性を顕わにした箇所をよく読み、彼が酔っていることを理解しなきゃ。 無我の論理が使えないなら、三浦先生式にコツコツ対応するしかない。 そもそも狂人を正気に立ち返らせ、鹿にすら説法しちゃう釈尊と違い、 竜猛は基地外は相手にしなかったからしょうがないかも。
>>635 目的が「理解」だったら、踏み間違わずに済むでしょうか。
もっとも、答えが明瞭にそこにある分野でないと、その理解の基準自体をどこに置けばいいのかも
難しいのかもしれませんね。
>>636 > 三浦・石飛先生の直接の議論ではなく
そうです。
>>633 > ・・・側って なに?
ということでしたので。
--------
もともと石飛先生の掲示板を読んでいたのですが、仏教に興味があっても基礎的な知識がないと、
大局的に、批判的に論議を読むことは困難ですね。当たり前のことなのでしょうが。
(使われる言葉によって、単に感情的になっている部分というのはわかる時がありますが理解には
直接は結びつきませんし)
639 :
名無しさん@3周年 :2006/07/29(土) 22:42:47 ID:0bCCGzLd
>>619 >もし、ディグナ−ガに至るまでの因明学が全否定されるのなら、
>爽快です。
因明はあくまでも比量にすぎないとディグナーガ自身が言っているのだから、
離言・絶想の悟りの前に否定されることは、予め想定内じゃないのですか。
641 :
嘘八百古狸 :2006/07/30(日) 01:33:16 ID:ZevmCFJK
>>638 鵜呑みにしないこと。
自分で裏をとること。
が常に必要ですが、一から自分ですべてをやるには辛いものがありますね。
私もまた仏教を基礎から体系だって学んだわけではないですが、
たまたまの巡りあわせで「この本がよいよ」と教示して頂ける方が
いて だいぶ時間を短縮できたと思います。
信頼できる大学の公開講座などに出られて、学者さんの知己を得て
ご指導頂くというのもよいかもです。
尚、その指導もまた相対化していかないとダメなのですが
スタンダードを知るのは大事です。
642 :
名無しさん@3周年 :2006/08/01(火) 20:27:26 ID:t/MkSspy
宗教としての仏教は害悪だと思うが、 原始仏教の釈迦の言葉は、 かわいい顔、おっぱい、美脚よりも、魅力的だ。 社会での戦いは義務だし、 欲望の塊の人間を見つめる文学は一生の仕事だが、 釈迦の言葉みたいな心持に、時折にでも浸りたいものだ。 他人との比較、 馬鹿どもにつきまとわれる苦痛、憎しみ、 自分自身の邪心、 かわいい顔、おっぱい、美脚への欲望に、 日々、苛まれる私だが、 素直に好きになれる言葉だ。 仏教徒は害悪にしか思えんがな(苦笑)
643 :
嘘八百古狸 :2006/08/01(火) 20:41:37 ID:PefqYjq0
そか 良い先生に出会えてないのだね。
644 :
素人 :2006/08/01(火) 21:23:24 ID:KMWkkLZD
原始仏教の釈迦の言葉は、 かわいい顔、おっぱい、美脚よりも、魅力的だ。 社会での戦いは義務だし、 欲望の塊の人間を見つめる文学は一生の仕事だが、 釈迦の言葉みたいな心持に、時折にでも浸りたいものだ。 他人との比較、 馬鹿どもにつきまとわれる苦痛、憎しみ、 自分自身の邪心、 かわいい顔、おっぱい、美脚への欲望に、 日々、苛まれる私だが、 素直に好きになれる言葉だ。 ここだけ抜き出すと、いい文章だな・・・w 642
645 :
嘘八百古狸 :2006/08/01(火) 21:29:28 ID:PefqYjq0
>>641 嘘八百古狸さん
「一から自分ですべてをやる」ことと「スタンダード」、また、知己を得ること。
いくつものご示唆、ありがとうございました。
--------------
キリスト教スレでも論理学の話題がでていましたが、基礎を知らない私には
検索して幾つか初歩的なサイトを見ていても迷路の様です。少しですがその
歴史や発展の過程を読んでいて、頭の中で堂々巡りになってしまったのは、
元々辿り着くべき(正しい)「論理」というものがあるのだろうか、あるとすると、
それは元々脳(や心や意識)の働きが論理的だからなし得ることに過ぎない
のではないか、しかしその働きが「正しい」という事をどのように論理をもって
証拠立てられるのだろうか、といったことでした。
多分まだ、公理とか定理とかの(前提になる事柄の)意味の理解も漠然とし
ていて入り口にも立っていないのかもしれません。「考える」こと自体も簡単
なことではないようです。
わからないことが多すぎますw。本当に、日暮れて道通しを実感しています。
>>646 論理の確立を目指すあまり、
迷路へ迷い込まないように御注意を・・・w
健闘を祈ります。
648 :
嘘八百古狸 :2006/08/03(木) 00:19:36 ID:x6pjEeL/
>>646 釈尊は 我々の生活実感にピンと来る喩え話で
教えを説かれたのではないかと思います。
論理はとても大切ですが、
私達の実感はもっと大事かもです
649 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/08/03(木) 01:24:38 ID:7psFB4ew
>>642 >原始仏教の釈迦の言葉は、
>かわいい顔、おっぱい、美脚よりも、魅力的だ。
>馬鹿どもにつきまとわれる苦痛、憎しみ、
>自分自身の邪心、
>かわいい顔、おっぱい、美脚への欲望に、
>日々、苛まれる私だが、
>素直に好きになれる言葉だ。
ブラボー。その通りだな。まことにまことにその通りだ。
ハハハ、まことにまことにその通りだ。釈迦の言葉は素直に好きになれるが、
私の心は怒りが支配する。この矛盾。そして今日もお姉ちゃんの美脚に苛まれる。私の心は弱い。
上には上がいるもんだ。あなたの書き込みに、脱帽。
650 :
野菜スーパー :2006/08/03(木) 01:26:20 ID:x6pjEeL/
怒り過ぎは 血圧に悪いよ。 ( ^-^)_旦~~
651 :
異端リベラル :2006/08/06(日) 13:37:43 ID:+FZ+JrjV
>仏陀はヨーガの修行をして悟ったの・・・? ヨーガの修業という感じではないね 苦行から逃げて死に掛けたところを村娘スジャータに 助けられて 回復後 静かに瞑想したら悟ったというかんじ?
652 :
異端リベラル :2006/08/06(日) 13:39:44 ID:+FZ+JrjV
釈尊を救ったのはスジャータの乳粥 乳粥がなければ スジャータのおせっかいがなければ 仏教はなかった(笑)
653 :
名無しさん@3周年 :2006/08/06(日) 13:58:58 ID:BZq2aPPV
乳粥はおいしかっただだろうね?
654 :
異端リベラル :2006/08/06(日) 14:01:49 ID:+FZ+JrjV
細胞の一つ一つまでに 命の実感が染み渡ったのではないかと思う。 飢餓状態になると すごく感覚が研ぎ澄まされるからねぇ
つ 汗かいたあとのビール
主婦が本当に裁判記録を見たなら、怖くて出てくることはできないと思う。
誤爆すまそ。
ネット上のやりとりだけで裁判までいく人達がいることが未だに理解できません。 失言や暴言しそうになったらパソの電源を落とせば良いのに。
659 :
古狸 :2006/08/11(金) 22:23:23 ID:GhkcbVp4
それも いい手だね
660 :
五平餅 :2006/08/13(日) 01:03:28 ID:ptrtjfD6
静かな部屋になったな
661 :
素人 :2006/08/13(日) 01:05:55 ID:sxCoPcke
662 :
ミセス :2006/08/13(日) 01:34:22 ID:aAi/P1xM
密教のお坊さんが仰るには キリスト教景教ネストリウス派の影響で お寺でも十字をきるって お聞きしました。あまり世間には広まりませんですが、凄いですね! あと 東大寺のお水取り等も シルクロード経由のペルシャの渡来人の拝火教ゾロアスター教の影響があるのかも知れないとお聞きしました。
663 :
古狸 :2006/08/14(月) 00:41:41 ID:yzHVylq/
昨夜のテレビで 脳にゴマがよいと言ってたな。 脳の血管を拡げる成分があるらしい。 途中までしか見なかったので申し訳ないが 確か一日10グラムと言っていたような。。。 他スレッドのコピペ ご参考に
664 :
名無しさん@3周年 :2006/08/14(月) 12:07:08 ID:zbQA8EET
>>658 何のことか判らないが、 裁判官が正解を出す能力があるとは間違った先入観である。
665 :
草を食む獅子座 :2006/08/16(水) 13:03:04 ID:46u3xFuR
盆休みもおわりだな
666 :
名無しさん@3周年 :2006/08/16(水) 17:50:49 ID:x0m6pE7a
若宗という新しい仏教宗派で、万教帰一思想を標榜 ラーマクリシュナやサイババを 聖者だと認定している仏教宗派。
667 :
名無しさん@3周年 :2006/08/17(木) 20:44:43 ID:iCFQe4ii
668 :
細麺長浜派 :2006/08/19(土) 17:13:22 ID:6TZgoZug
さて どーしたものか
669 :
名無しさん@3周年 :2006/08/21(月) 22:05:14 ID:4n+ZiRe5
仏教は原始経典にある。学べ学べ!!
670 :
細麺長浜派 :2006/08/21(月) 22:07:18 ID:kkM9ojm3
671 :
名無しさん@3周年 :2006/08/23(水) 19:01:17 ID:2e2RJ4Cw
無常経について述べよ このように私は聞いた。 あるとき、仏陀はサーヴァッティのジェータ林にあるアナータピンディカの園に留まっておられた。 そのとき、仏陀は諸々の比丘にお告げになった。 「色は無常であると観なさい。このように観ることを正観するという。 正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。 喜貪が尽きた者を心解脱するという。 ●色とは我々が認識している色と形である。色は色相である。赤青黄色と言うように。 赤青黄色は必ず形を持っているものと認識する。赤色を例に取れば、赤色は赤い色で無い色に取り囲まれている。それは形である。 青、黄色に付いても同様である。 次に、赤色はその周囲を取り巻く赤色で無い色が無ければ存在し得ない。黄色青色に付いても同様である。 赤色の周囲を取り巻く色に付いても、赤色が取り去られるならば、それは存在しない。 従って赤色とその周囲の色は相依関係にあるといわなければならない。そうであれば、赤色としての実体(自性:個性)が無いといわなければならない。 赤色の周囲の色も同様である。即ちすべての色は実体自性個性が無いのである。 自性個性実体あるものは常にあるものといわなければならない。しかし今、上に言ったようにすべての色には自性個性実体が無いのである。 色は形でもあると言ったが付言しよう。 赤色はその周囲の別の色に取り囲まれて始めて存在しているのであるが、その時必ず形を形成している。
672 :
名無しさん@3周年 :2006/08/23(水) 19:02:26 ID:2e2RJ4Cw
つづき 赤色の形も、それを取り囲む色の形も、不可分に相手の形に依存している。どちらかが取り去られるなら、自身の形を保つことが出来ない。 従って形も相依関係の存在であると言わなければならない。また、形に自性個性実体があると言えない。形に自性個性実体が無いなら、形は常に有るものではない。 従って、形と色は同一のものであって、これを単に(色)と言っているのである。そして、色に自性個性実体が無い故に、常に有るものではなく、故に、これを(無常)と表現する。 無常であると知ることになったのは、色が相対的存在であることをしることによってである。 「色が無常であると見なさい。」ということは、「色は相対的存在であると見なさい」と言うことである。 この様に見ることを「正観」即ち「正しい見方」「正しい認識」というのである。 >同じように、受・想・行・識は無常であると観なさい。このように観ることを正観するという。 ●受とは感覚のことであるが、痛いと言う感覚はその他の感覚に取り囲まれて始めて存在するものである。色の関係と同様に考えるべきであるのだ。 想に付いても同様に、ある思いはそれとは違う外の思いに取り囲まれて始めて存在しているのである。 行に付いても同様に、ある行いはそれとは違う他の行に取り囲まれて始めて存在し得るものである。 識に付いても同様に、ある認識はそれとは違う他の認識に取り囲まれて始めて存在し得るものである。 そしてこれら各自は、他の認識と相対的にのみ存在し得ているものであるから、自性実体個性があるものと言えない、これは色が相対的にのみ 存在し得たのと同様である。
673 :
名無しさん@3周年 :2006/08/23(水) 19:03:25 ID:2e2RJ4Cw
つづき >正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。 喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。 ●正観するものとは、色受想行識が相対的存在であり、実体個性自性あるものとして存在していないと見る、と言うことである。 この様に見るものは、必ず、色受想行識に執着せず、それまで執着していたなら、執着から離れる様になると言う意味である。 執着している対象があり、それを得れば喜び、失えば悲しむ、と言うことになるが、執着する対象がなければ、 その喜び悲しみは生ずることが無いことになる。これを「厭離する者は必ず喜貪が尽きる。」というのである。 喜貪が尽きたものとは執着がなくなったものであるから、その心が今まで執着していた対象から開放されて自由になる。これを「心解脱を得る」というのである。 >このように比丘よ、心解脱した者は、もし自らの本性を知りたいと思えば、 自らの本性を理解することができるであろう。 ●自らの本姓とは、執着しない自由な心を言う。
674 :
名無しさん@3周年 :2006/08/23(水) 19:08:48 ID:2e2RJ4Cw
>そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、 もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。」 ●人の生とは実に色受想行識が実体自性個性あるものと考えそれらを保持保存する行為なのであったが、それらの保存保持する行為から開放されたものは、 再びそれらの保存保持する行為に戻ることは無いのである。 >このとき、諸々の比丘は仏陀の説かれた教えを聞いて喜び、修行にいそしんだ。 ●我々も縁起の理法を聞いたからには、一切は空であると理解し信じ、いかなるものにも執着しない 様に心がける様で無ければならない、これを修行すると言うのである。 ここに仏教の一切の教えがあり、般若心教はこれから少しも相違するものではない。
675 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 00:12:10 ID:p71w4Odg
>>671-
>>674 勉強の成果なんですが、どう思われますか?
676 :
細麺長浜派 :2006/08/24(木) 06:02:19 ID:4nW6QnN8
般若心経は原始仏典ではないので スレッド違いです。 ちなみに「色」は「物質」です。 我らが認識しようがしまいが、そこに現象しています。
677 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 08:23:44 ID:p71w4Odg
>>676 > 「色」は「物質」です
物質は「識」にも該当する思います。物がその他のものと関係を言わないで、その物内部の性質
働きに注目している様に思えます。
678 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 16:55:09 ID:5RkzTC4r
誘導されてきました。よろしくお願いします。 真言宗のお坊さんに聞いたのですが、お坊さんが戒律を犯した場合、 お坊さんが落ちる「特別な地獄」があるとか・・・ 同じ罪を犯した(戒律を犯した)場合、普通の人よりも坊さんの方が酷い地獄を味わうと言ってました。 坊さんの「特別な地獄」があることは、坊さんなら誰でも知っていると・・・ 本当ですか? それって、一般的に言われている死んでからの地獄? それとも、生き地獄? そのお坊さんに言わせると、現状の私は地獄だそうで・・・ ということは、生き地獄ということですよね〜?
679 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 18:25:09 ID:p71w4Odg
>>678 ここは大乗に付いてのスレではないので、と一応いえる。
>それって、一般的に言われている死んでからの地獄?
それとも、生き地獄?
そのお坊さんに言わせると、現状の私は地獄だそうで・・・
ということは、生き地獄ということですよね〜?
仏教は道理が支配する境地と言わなければならないのです。そうすれば、「現状の私は地獄」と言われるなら、
そのまま「生き地獄」であるといわなければならないでしょう。
地獄と言うものは原始仏教でも、要するに悪い行為の結果のことです。悪い行為の結果が
生きているうちに生じる場合も、死んでから生じる場合もあるのです。
また、坊さんが罪を犯す場合と普通の人が罪を犯す場合の相違でも、道理に拠り判断すべきです。
坊さんは普通の人よりも戒律とその結果を良く知っているのですから、それに付いて良く知らず、周囲に流される傾向にある
普通の人と同じ良心の責めを感じることは無いと考えるべきです。 それを「特別の地獄」といってもすこしおおげさですが、
不当では無いとお思います。
所で、地獄からの脱出方法も仏教は説いているのです。これが大事でしょう。
680 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 21:34:04 ID:p71w4Odg
苦経について述べよ このように私は聞いた。 あるとき、仏陀はサーヴァッティのジェータ林にあるアナータピンディカの園に留まっておられた。 そのとき、仏陀は諸々の比丘にお告げになった。 >「色は苦であると観なさい。このように観ることを正観するという。 正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するという。 ●色即ち色形は、実体としてあるものではなく、相対的にのみ存在しているものであり、 幻としてあるものであり、故に少しも益をもたらさないものである。 この様に色形を見るまた考えることを正観すると言う。 このような色形に執着し有るものと考えるならば、それは無い物を獲得しょうとしているもので、 苦しみしかもたらさないのである。それ故、色形は苦しみであると考えるならば、 それを忌避し執着から離れるようになる。喜貪とは妄想した色形を得たと喜び、 色形を失ったと悲しみ、また、この色形は良いと執着し、この色形はいやだと執着することである。 しかし色形が実体あるもので無く、少しも益をもたらさないものであると知ったものは、 色形かを苦しみと見るから、喜貪することが無い。喜貪することが無いものは、 心が自由に開放されたものである。これを心解脱したものと言う。
681 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 21:35:07 ID:p71w4Odg
つづき >同じように、受・想・行・識は苦であると観なさい。このように観ることを正観するという。 正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。 喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。 ●受想行識も同様である。 >このように比丘よ、心解脱した者は、もし自らの本性を知りたいと思えば、 自らの本性を理解することができるであろう。 そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、なすべきことを既になし、 もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。」 ●転生とは、縁起の世界に留まることである。縁起の世界とは相対的存在を実体ある存在であると見る世界である。 >このとき、諸々の比丘は仏陀の説かれた教えを聞いて喜び、修行にいそしんだ。
682 :
名無しさん@3周年 :2006/08/24(木) 22:28:38 ID:p71w4Odg
How do you think?
683 :
細麺長浜派 :2006/08/24(木) 22:56:58 ID:e8w74u+G
>>683 せめて、「方便です」、くらいの言い方にしといたら?w
そんなこと言ったら、仏典(或いは現在、仏教で括られているものの殆ど)
は嘘だらけだよw
685 :
細麺長浜派 :2006/08/25(金) 05:32:53 ID:R9R+VMvs
>>684 ん? 仏典に書かれていることだったら このスレ的には
「根拠があります。
何々経に何々とあります」との回答になります
あぼーん
688 :
細麺長浜派 :2006/08/25(金) 21:57:00 ID:J4kHOxyN
>>688 では、一連の自歓喜経についての流れをどう見ますか?
690 :
名無しさん@3周年 :2006/08/25(金) 22:12:46 ID:SFBvmLKL
http://tetugaku.fc2web.com/butten/agon3.htm 上からコピペしています。
空経について述べよ
このように私は聞いた。
あるとき、仏陀はサーヴァッティのジェータ林にあるアナータピンディカの園にとどまっておられた。
そのとき、仏陀は諸々の比丘にお告げになった。
「色は空であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離するものは喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するという。
同様に、受・想・行・識は空であると観なさい。このように観ることを正観するという。
正観する者は必ず厭離する。厭離する者は必ず喜貪が尽きる。喜貪が尽きた者を心解脱するというのである。
このように比丘よ、心解脱した者は、
もし自らの本性を知りたいと思えば、自らの本性を理解することができるであろう。
そして、私の生は既に終わり、梵行は既に立ち、
なすべきことを既になし、もはや自らがこの世に転生しないことを知るのである。」
このとき、諸々の比丘は仏陀の説かれた教えを聞いて喜び、修行にいそしんだ。
しつこいなw 別にどうということはないよ。おかしなことは言ってない。 個々の用語の解釈の段階で、多少異論・疑問が発生するくらいだろ。 たとえば、 厭離とは何から離れることなのか? 正観するとはどういうことか? 喜貪とは何か?尽きるとはどういうことを言うのか? 心解脱と解脱は違うのか?同じか?違うならどのように違うのか? 自らの本性とは何を指すのか? その本性は、見つけた後に保持されるべきものなのか? それとも、捨てられるべきものなのか? こんなんでいいか?w
692 :
細麺長浜派 :2006/08/25(金) 22:30:13 ID:J4kHOxyN
一連の自歓喜経って どれのこと?
>>692 いや・・・
過去スレ読んでないなら、いいです・・・(^^;
忘れてくださいw
694 :
細麺長浜派 :2006/08/25(金) 22:45:08 ID:J4kHOxyN
過去スレで読んでるよ 私は投稿量はおおいよん 物忘れもはげしいが(笑)
695 :
名無しさん@3周年 :2006/08/30(水) 21:45:18 ID:apUmYkgp
696 :
細麺長浜派 :2006/08/30(水) 21:47:54 ID:YcY4DO1p
待望というほどではないが 情報サンクス
697 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 10:34:58 ID:DdP/Ur4P
心と宗教板で、晴れて良スレの御認定を受けたことをお知らせします。
□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/ 上記すれは、ノートントラップという仕掛けを受けました。インターネットウィルスを擬装した仕掛
けだそうで、他の板では以前から大変問題になっていたようです。
詳しくは
http://ansitu.xrea.jp/guidance/?Trap#NortonTrap ノートントラップが仕掛けられると言うことは、2ちゃんねるの場合、反対者から「良スレ」である
という認定を受けたことを意味するそうです。自分たちには全く反論の余地がないからどうから、どう
か意見を述べるのを止めて欲しい、そういう良スレであるという認定です。
今回、親鸞仏教(浄土真宗)質問箱は、2ちゃんねるで「本願寺様の有志の方」からそのような認定
を受けたようです。
浄土真宗とはどういう宗教か、親鸞仏教はどういう宗教か、既成教団本願寺のお坊様が、発言を「ヤ
メテクレー!」と、言いたくなる思想はどういう思想か、一度ご覧ください。
ここには、本物の親鸞仏教、本物の浄土真宗があると、本願寺様の有志の方が認定くださいました。
なお、ウィルスワクチンにノートンをお使いの方は、無効化ソフトがあります。
http://www.geocities.jp/cen_hp/program3.html 接続会社でウィルスと誤認して閲覧を拒否する場合があります。セキュリティを解除する方法がある
と思いますのでご研究下さい。
ノートントラップは、決して恐い仕掛けではないようですが、ノートンの高度性を逆手に取った子供
だましのおもちゃで、今回、本願寺様のお坊様は、これにより親鸞仏教(浄土真宗)質問箱を御認定く
ださいました。
698 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 10:35:33 ID:DdP/Ur4P
699 :
細麺長浜派 :2006/09/02(土) 11:01:12 ID:EcduJ+ke
700 :
名無しさん@3周年 :2006/09/02(土) 11:04:18 ID:DdP/Ur4P
>>697-698 =
>>700 何が単なる事実報告だ?
「自分の立てたスレが良スレとして認められました」って思いこんで
勝手にあちこちでマルチポスト宣伝してるだけだろ。
>>701 マルチポストはいいことじゃないけど、ノートントラップを貼れば、それは相手の発言を封じることになる
どころか、逆宣伝になるというルールを作ることは大事なことだ。
マルチポストより、ノートントラップの方が大迷惑だ。ノータリン本願寺の坊主の仕業と思っているんだが、
そんなノータリンによるノータリントラップを抑制するには、こういう方法しかない。
ノータリントラップは削除されないそうだ。おぬしのつたない頭でも、物事の善し悪しぐらい頭冷やして考
えろ!!
703 :
細麺長浜派 :2006/09/05(火) 00:05:43 ID:gUv6CdAU
>>695 ダンマパダ110
素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、
徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている
だそうだが、賛成できないな
704 :
細麺長浜派 :2006/09/05(火) 00:07:21 ID:gUv6CdAU
同115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、 最上の真理を見て一日生きるほえがすぐれている。 だそうだが、煩悩深き私は、 最高の真理なんていらないな
705 :
細麺長浜派 :2006/09/05(火) 00:10:15 ID:gUv6CdAU
最高の真理を見た一日のほうが素晴らしいという発想自体も 煩悩のような気がするな まず「最高の真理」は 這いずりまわりながら生きることを軽視しないだろう とか
706 :
シヴァ大神の化身 :2006/09/05(火) 22:06:23 ID:BrBrfBbJ
,,,--─===─ヽ/へ /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶 iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ iiiiiiiiiiii/ \iiヽ iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ ...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii| ..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii| iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii| ..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii| iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii| iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii| iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii| iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii| iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii| iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii 2ちゃねるの住人よ、聞きなさい。 我が愛する弟子マイトレーヤがアーレフを脱会し 来年「第二ケロヨンクラブ」を設立する。 2ちゃんねるの住人よ、第二ケロヨンクラブに入りなさい。 そしてマイトレーヤとともに全国の神社を巡りなさい。 金・女・仕事すべてが思いのままになるであろう。
707 :
細麺長浜派 :2006/09/05(火) 22:53:13 ID:4GpV8a9n
「金・女・仕事すべてが思いのままになってほしい」という欲望から 自由になるのを教えているのが 仏教なのだが
708 :
名無しさん@3周年 :2006/09/05(火) 23:00:56 ID:qWirbkUS
ウムゥ、そうだ。
709 :
名無しさん@3周年 :2006/09/07(木) 08:23:51 ID:Fyz+ewhH
神社仏閣板で、こんなレス見つけました。 本当でしょうか? もし事実なら、いつ頃でしょうか? ↓ 161:名無しさん@京都板じゃないよ :2006/09/04(月) 16:12:02 仏教でも釈迦は、天部の尊として考えられていた時期もあったのだが。
711 :
名無しさん@3周年 :2006/09/08(金) 22:15:34 ID:98nIYDWh
インドの仏教徒同士の内紛に後世の中国人や日本人が迷惑しているに違いない。 大乗と小乗である。これは教えに相違があるのではなく、その教えを実行する方法が異なるのだ。
712 :
名無しさん@3周年 :2006/09/09(土) 00:51:53 ID:b4ETWICD
中乗仏教というのはないのですか? 中道=中乗仏教ではないかと閃いたものですから。^^
キミが中乗仏教の開設者になってくらはい
714 :
名無しさん@3周年 :2006/09/09(土) 01:29:50 ID:+Qyu3I4q
最近じゃ、日本の仏教界も上座部との交流が見られるようになってきたから、 そのうち中乗仏教になるかもねw
わたし的には 下座仏教でええぞ(笑)
716 :
名無しさん@3周年 :2006/09/09(土) 13:38:21 ID:YMvyVAdO
小乗=単車 大乗=大型バス 参: 声聞乗=小乗 ・・・自身を済度 独覚乗(縁覚乗)=小乗 ・・・自身を済度 菩薩乗=大乗 ・・・他者を済度
718 :
名無しさん@3周年 :2006/09/09(土) 14:21:55 ID:P/cvuoc3
>>717 >声聞乗=小乗 ・・・自身を済度
原始経典において既に、苦、空、無我、無常が真理とされいる。
自身の救済と言うことはあり得ない。なぜなら一切は無我だから。
真理とは相対的に存在するものではないので、苦、空、無我、無常の全てに、
一切を付けて、一切は空である、一切は苦である、一切は無常である、一切は無我であると
言う意味であることを忘れては行けないのだ。
そこで無我であるから、自分は今まで誰かに被害を受けたことはないと知るべきであり、
反対に誰かに加害したことはないと知るべきである。
拠って以下の聖句があるのである。ダンマ パダ
3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われらから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(ヤ)むことがない。
4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われらから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
>>718 俺に言うなよw 別に俺が言ってるわけじゃなし・・(^^;
法華経や勝曼経を中心とする当時の大乗の徒へ向かって言ってくれw
その他に関しては、至極まっとうなレスかと思う。
ただ一点を除いては・・・
>自身の救済と言うことはあり得ない。
>>552 中段から後段
個人的に「自未得度先度他」というフレーズが大嫌いだし・・(爆
720 :
名無しさん@3周年 :2006/09/09(土) 21:38:10 ID:P/cvuoc3
>>719 >自身の救済と言うことはあり得ない。
552さんは718ではない。でも718は552さんに同意する。
修業とは全て真実に近づくことであると思う。
有我と思いその自縛から逃れられ無いものは、救われるべき対象『有我』が無いこと
を、理解し信じなければならないのだ。救済されるべきが我無いのである。
縁起の理法を理解し信じる様にならなければ修行は無い。
>>720 552は俺だよw
また、救われるべきは「アートマン(atta^)」でなく
日常の「私(aham)」だよ。
同列に語るなよ・・(^^;
てか、552読めてないだろ?
「無我」の原語の否定の接頭辞、巴anと梵nirで語感に何か差はありますか?
>>722 比べ方が ???(´・ω・`)??? だぞw
724 :
名無しさん@3周年 :2006/09/09(土) 23:08:06 ID:P/cvuoc3
>>722 英語のunとnotに当たるんだろう?同じく意味は否定辞、語感の差はそのものずばりw。
726 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 13:31:06 ID:685TpkK3
皆さん,誰かわかる人教えてください。 以下の成句はスッタニパータのものであるが,ここに『自己』と出てくる。 自己と『無我』の関係が判らない。矛盾している様にも思えます。 157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。 158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。 159 他人に教えるとおりに、自分で行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。 160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
>>726 それは、スッタニパータではなく ダンマパダだよん。
「無我」というのは
「我ものではないモノを我ものと執着するから苦である」という教えだね。
私がないのが「無我」ではない。
729 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 14:52:28 ID:685TpkK3
>>729 第二章 はげみ をご参照ください。
21〜32 24の「自ら制し」、25の「自制・克己」などに注目して参照されよ
731 :
722 :2006/09/10(日) 17:27:38 ID:1cGuxFzj
>>723 無我の原語として、巴anattanと梵nairatmaが辞書か何かに併記されていて、
ニュアンスの違いがあるのかと疑問だったのです。
>>724 ありがとうございます。
中村元「原始仏教」(NHKブックス)の無我と非我の説明を読んで以来、気になっています。
an-は英語のan-やun-と共通の祖語を持っているのかな、という感じもしますが、
nir-の場合、英語(ラテン語?)のnilやnihilなどと意味・語形が似ているので、関連しているのかとも。
732 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 20:27:05 ID:685TpkK3
>>731 意味・語形が似ているので、関連しているのかとも。
まさに関連しているんだよ。同じインドヨーロッパ語族だからね。
しかし,仏教を学ぶ上において,原典を知る必要は無いと思う。
仏教の説く縁起と空の理法は,何語で表現されても,それは可能であるからだ。
733 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 20:29:27 ID:685TpkK3
詩歌のようなものは絶対に翻訳じゃ味わいえないと思える。
734 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 20:44:52 ID:ttrP9Sww
>>731 まだ気にしてんの?w
anとnirは関連させる必要はないでしょw
その記述は、内容として共通部分があるという事でしかないんじゃないの?
パーリでanatta^ならsktではana^tmanでしょ?
Pとsktは、語形は類似してると思うが・・・。
ちなみに、anに対応するのはan・un・im等であろうし
逆に、notに対応するのはnaとかじゃないかな?
出先なので辞書チェックできないけど・・(^^;
それから、
>>732 >仏教を学ぶ上において,原典を知る必要は無いと思う。
これに関しては、どうかな?
訳者を信頼できればそれでも構わないが・・・・
訳者を信頼しても 裏を取る精神が大事だよ 可能ならば(物理的、時間的、知識的)自分で確認する習慣を。。。
737 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 21:53:04 ID:TLZomy+m
日本の仏教学者の半数以上は実家が寺ではなかったか。 悪意ある翻訳もあったぞ。 知らずに読むと誤解する恐れがある。 信頼できない訳者もいる。
738 :
名無しさん@3周年 :2006/09/10(日) 22:41:03 ID:685TpkK3
華厳経を読む機会が合ったのだが,この経典は良いよ。 原始仏教の解説として、菩薩の修行は、大乗の修行なわけだが、仏教がよく解る。
739 :
名無しさん@3周年 :2006/09/11(月) 06:45:24 ID:b4rzchCX
弟子乗:小乗=市町村長 辟支仏乗:小乗=都道府県知事 仏乗:大乗=総理大臣 総理大臣になれば在職中から涅槃年金がもらえる。 市町村長は在職中には涅槃年金は当たらない。 総理大臣になるのは難しいので上座部党の人は現実思考で 市町村長を目指す人が多い。 稀に総理大臣を目指す人も存在し得る。個人の選択の自由。 市町村長なんか政治家の内に入らない、と馬鹿にして いい年をして「わだば総理大臣になるッ」と出来もしないのに わめいているのが大乗至上党の連中。 皆が皆、成れるわきゃないのに選択の自由はない。あはれ。
740 :
名無しさん@3周年 :2006/09/11(月) 14:52:01 ID:JARncyts
『はじめのブッダ ー初期仏教思想論序説ー』(正田大観 サンガ)を読んでいるが、 経典の訳がヘタクソ。意味不明、日本語文法からおかしいところ多数。 岩波文庫の中村 元訳にいちいち当たらないとダメだ。 こうなると、つくずく中村訳が理解しやすく出色だとわかったよ。
741 :
名無しさん@3周年 :2006/09/11(月) 17:33:34 ID:3cd94Ja9
>>740 確かにね、。サンスクリットやパーリを十分に知っていても、仏教の極意:
その理法をよく知っていないと、正しい翻訳は不可能だろうね。中村先生は
仏教をよく理解していたから、わかるように翻訳できたと言うべきだと思う。
正田大観って 読んだこと無いが 中村元さんは わが国の最高峰の学者。 正田さんは専門教育を受けられているが 学者で飯を食べているプロではなく ただのテーラワーダ信徒さんでは?
743 :
722 :2006/09/11(月) 23:54:57 ID:bD9aoADh
>>732-733 ありがとうございます。
>>735 >その記述は、内容として共通部分があるという事でしかないんじゃないの?
正確に思い出せないんですが、たぶん『仏教要語の基礎知識』か『広辞苑』で併記されていました。
na も否定辞でしたね。astika と nastika を思い出しました。
>色無我、受想行識無我
>諸法無我
漢字の無の用法として、有無の無(〜を持たない)の他に、非(〜でない)の意味もあり、
そうなると、我でない、と、我を持たず、の両様の解釈があり得るので、拘ってしまいました。
744 :
名無しさん@3周年 :2006/09/12(火) 07:41:09 ID:XW7YwVZO
>>743 >我でない、と、我を持たず、の両様の解釈
「我を持たず」これが正確ではないかな。つまりこういうことになる。
『私は我を持たない。』と。従って、主語の「私は」、本来の清浄な自分詰まり
悟りの状態にあるものであり、目的語としての「私」は、縁起しているものに実体を誤認し
執着している自分である、と。このような二つの「私」が無いと、人に苦しみというものが生じ得ないだろうと思う。
この様に相戦う二つの「私」も縁起しているものだから、両方とも実体が無いと「空じなければ」ならないのではないか。
745 :
名無しさん@3周年 :2006/09/12(火) 08:32:55 ID:XW7YwVZO
つづき、 解脱知見と言うのが言われる。私は解脱した、というものである。解脱した自分とそれを認める自分は争っていないのだ。 同一だから。
746 :
722 :2006/09/12(火) 22:52:39 ID:iXgQD80g
「私は我(が、アートマン、実体)を持たない」ということですか。 以前から疑問に思っていたのは、色心の二つに分けて、それぞれに対して「これは我ではない」 というのなら分かるのですが、心の方を四つに分けて五蘊とすることです。 それだけ心を重視していたので細分化した、ということなのかも知れませんが。 >目的語としての「私」は、縁起しているものに実体を誤認し執着している自分である この部分はよく分かるのですが、 >本来の清浄な自分, 詰まり, 悟りの状態にあるもの これは自性清浄心とか仏性、如来蔵とかに通じるものでしょうか。ただ、こちらの部分は本当に そういうものが生来備わっているのだろうか、とか疑問も湧きそうなので、 これはあえて問わなくても、縁起しているものを「縁起していない」と見る顛倒した見方を 脱することができれば十分な気もしますが。 戒定慧解脱というだけでなく、解脱知見というところがよいですね。 「苦しみ」という語を見て思い出したのですが、三苦(苦苦・壊苦・行苦)の行苦の意味が 明瞭に捉え切れていません。大雑把に言って、苦苦が肉体的な苦痛など、壊苦が楽が失われて 生じる精神的な苦、として、無常そのものから来る苦、というものがよく分かりません。 それから、諸法無我の梵語表記を見たことがないのですが、sarvadharmAH anAtmAnaH になるんでしょうか。 直訳だと、「一切法は我をもたぬもの(あるいは、我にあらざるもの)である」ということでしょうか。 以上、行苦と原文の2件、どなたかお分かりの方がいらっしゃったら、お教えください。
>>746 まず、初転法輪を読みなさい。
勿論、南伝・漢訳両方チェックすべきでしょうが、(Tibはまあいいでしょうw)
南伝のみでも構いません。
合わせて、律蔵大品を、ヤサ或いは舎利弗目連くらいまで読んでください。
きっと何か見えるはずです。
それと、梵語至上主義もやめた方が良いと思います。
パーリ絶対主義もどうかと思いますがね・・・w
748 :
名無しさん@3周年 :2006/09/13(水) 06:33:31 ID:mM6FrFq/
749 :
名無しさん@3周年 :2006/09/13(水) 22:24:03 ID:XjTCTFkK
>>746 >これは自性清浄心とか仏性、如来蔵とかに通じるものでしょうか。ただ、こちらの部分は本当に
そういうものが生来備わっているのだろうか、とか疑問も湧きそうなので、
これに付いては原始経典の内の何処かにあったです。中村元氏の岩波文庫ではありません。
道理として苦しむ自分と苦しまない自分が無ければ、苦しむと言う道理はない、と説いていました。
私見を言えば、健全である身体に、傷をつけると、その時始めて苦痛と言う感覚が生じます。
健全である時の感覚と、傷の感覚がそろわないと、感覚というものは成り立たないのです。
本来の自分とは、空性そのものであると思います。空性=仏性=如来蔵。
これが無いと、修行、学ぶと言うこと、仏説そのもの(例えば、自己を整えよの教え)
などはあり得ないんじゃないでしょうか?
空性に反するものは自己ではない。故に、無常なものは自己ではない。我と言う相対的自性があるものは自己ではない(無我)。
苦しみと感じられるもの、楽しみと観じらるものは自己ではない。
これは納得できると思うのですが。
750 :
名無しさん@3周年 :2006/09/13(水) 22:39:12 ID:u1pXXLHU
ここの住人が一番仏教の本義から離れているような・・・
>>747 初転法輪経と律蔵大品ですね、ありがとうございます。
>梵語至上主義もやめた方が良いと思います。
漢文や現代語の訳文を読んでいて、何通りかの解釈が可能な箇所で、原文が参照できれば
誤った理解の方に行かないで済むだろうな、といった感じです。
>>748 豊富な実例をお教えいただき、とても参考になりました。
sarvadharmA anAtmAnaH
-AH に有声音が続く場合は H が消えるんでしたね。
anAtmAn の意味について分かってきたことがあるのですが、まだまとまらないので、とりあえずお礼まで。
vyayadharmAH sarvasaMskArAH
一切の行は過ぎ去りつつある存在。つまり無常。
一切法は無常であるので(否応なしに原理的に?)苦を生じる…。
辞書に興味を引く記述を見つけたので記しておきます。欲界有三苦、色界有壊苦行苦、無色界有行苦。
苦苦・壊苦を離れても悟りの世界に至らぬ限り、行苦は免れ得ない、ということですかね。
753 :
名無しさん@3周年 :2006/09/13(水) 23:41:35 ID:mM6FrFq/
>>752 なぜ「一切法」といわず「一切行」というかに始まる豊富な内容が、
『インド仏教史』『ブッダ論理学』リンク先に示されていますので、
是非ご覧ください。なぜ釈尊の遺言だったのか、ご理解いただけるとおもいます。
755 :
722 :2006/09/14(木) 19:02:11 ID:iT3Gmo9z
752は722の書いたものです。
>>749 レスが遅れてすみませんでした。
>空性=仏性=如来蔵。
>これが無いと、修行、学ぶと言うこと、仏説そのもの(例えば、自己を整えよの教え)
>などはあり得ないんじゃないでしょうか?
もちろん、仏性があると考えることは修行の際の希望になると思いますし、人間の性善を信じることの意義もわかります。
ただ、‘このままで仏だ’とか、中には‘何しても仏性は汚れず’というような言い訳に使われるのでは、という(お節介かも知れない)懸念があります。
そして根本的には、老死などの苦の解決に不可欠な前提なのか、釈尊や弟子たちには、それに類した前提があったのか、という疑問です。
>>753 > なぜ「一切法」といわず「一切行」というか
これも前から引っかかっていたところです。
>>754 552を読みました。自分の場合も苦というところが原始仏教に惹かれた理由です。
『バラモン教典・原始仏典』の「サーンキヤ・カーリカー」冒頭を読んだときは、仏典とたいへんよく似ていたので驚きました。
実践、戒定慧という道、浄信(シュラッダー)という道もありますが、これが大切なことは当然ですが、
定ということで言うと、これは外教にもあった、あるわけで、やはり仏教としての、
慧の理解、正確な理解もないがしろにしてはならない、という思いもあります。
anAtman の考察はもう少し深めたいと思います。考えているのは、否定辞an-ということから、名辞の否定や四句分別といった方向からです。
スッタニパータにも nirattaM という語が使われているようですね。Sn.919
否定といえば空観の龍樹ということで、『人類の知的遺産』の「ナーガールジュナ」も読んでいるのですが、
著者の中村元氏は、原始仏教の研究の人かと思いきや、龍樹の研究も深められていたんですね。
756 :
名無しさん@3周年 :2006/09/14(木) 21:59:38 ID:Zusi3Xbf
>>552 なかなかですね。
>定ということで言うと、これは外教にもあった、あるわけで、
確かに samatha の大半は当時インドにあったものを自らも確かめ
弟子たちにも勧めたものだが vipassanā は違うだろ。外道にはない。
そこに山があっても登ろうとせず、地図を見ただけで山を語るなかれ。
757 :
名無しさん@3周年 :2006/09/14(木) 23:19:40 ID:qzBLBsv9
空・無相・無願:三解脱門
758 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 06:50:17 ID:sQHl1KTn
>>755 >ただ、‘このままで仏だ’とか、中には‘何しても仏性は汚れず’というような言い訳に使われるのでは、という(お節介かも知れない)懸念があります。
生老病死の「苦しみ」、やはり、苦しみではない状態を前提にしなければ生じない感覚であると思います。
苦しみの無い状態を「楽」というのでしょう。そして、苦しみと相対的に存在する「楽」であってはならないことも少し考えるとだれでもわかることです。
「永遠の楽」で無ければならないのです。相対的に存在する「楽と苦」は、実体が無いと言う理法も理解できるのです。
相対的に存在する「楽と苦」を求めない、執着しないという心構えによって、虚妄から離れ、虚妄から離れるが故に、
苦から離れるのです。相対的に存在している楽と苦は虚妄であり、虚妄であるが故に「苦」に他ならないのです。
だから「一切皆苦」と言うべきです。この苦は楽を前提にしています。そしてここに於ける「楽」が
仏性であり、その理論的性質は「空」ですが、しかし、真実の仏性ではないのです。あくまでも
一切皆苦に対するものとしてあるのですから。そこで、もう一度、この楽とこの空を捨て去る必要があるのです。
ここに最終の空が現出するのであると思います。永遠の楽というものを観じているからこそ、苦を捨てることが出来るのです。
759 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 17:25:17 ID:sQHl1KTn
>>758 訂正
>もう一度、この楽とこの空を捨て去る→この楽とこの苦を捨て去る
760 :
722 :2006/09/15(金) 20:14:11 ID:ogy411/R
>>756 ディヤーナ、サマーディ、シャマタ、ヴィパシヤナー、サマーパッティ
それぞれの語の意味範囲が正確に把握しきれていないので、「定」という表現を採りました。
「samatha の大半」という言い方が気になりましたが。
登ろうとせず、との印象をいだいたようですが、行は結構やっています。
坐法には吉祥座がいいのか降魔座かから始まり、数息観はいかにとか禅病の一々、滝行等々。
ただ、釈尊の示してくれた道標を読み違えると道に迷うので、慧の部分を正確に読み取るため
語の闡明も大切にしたいと思います。
>>758 図式化すると、このようになりますかね。
1 苦がある
2 苦と並んで楽もある
3 これら苦楽は相対的なものであるから、「一切皆苦」
4 虚妄の苦を離れるから、「楽」・仏性・空
5 この楽・空を捨てる
6 最終の空、真実の仏性、永遠の楽
最終の空というのが、『中論』の空亦復空という語に相当するようにも思いますが。
>永遠の楽というものを観じているからこそ、苦を捨てることが出来るのです。
釈尊が往時を回想して「わたしは安穏の境地を求めて出家した」と語り、
また、悟りの境地を安らかなものだと言っていることもよくありますね。
無我の検討や梵語の復習もやりだしたので、「時々ROM専」の状態に戻りたいと思います。
質問にいろいろお答えくださった方々、どうもありがとうございました。
761 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 20:33:15 ID:sQHl1KTn
真理は一つ、真理から流れる教えもお互いに相反するものではない。 イスラム諸国における宗派間の対立は、何だ?真理が二つも三つもあるかのように殺しあっている。 世界には巨大宗教団体が幾つかあるわけだが、それらにおいても同じことが言える。 真理は決して二つは無い。仏教の言う空こそ唯一の真理真実であると思うのだが、 みんなは一つであることを知らないのか、真理真実とその真理真実を説明する教えとを、混同しているのじゃないだろうか? 仏教において小乗大乗などと優劣を言って来た大乗教団が、法華経において、一つであると言ったように、その様に世界の宗教も 一つであると説明されなければならないのじゃないだろうか?
762 :
名無しさん@3周年 :2006/09/15(金) 20:37:15 ID:7eVU7RJf
>>760 「samatha の大半」= samatha には四十種類あるうちの大半という意味。
>数息観はいかにとか禅病の一々、
もしや臨済の数息観をやられたのですか。もしそうならそれが問題。
763 :
炭素繊維単一構成 :2006/09/16(土) 10:51:21 ID:Jw1nw8mr
>>761 真理を真理と認めちゃうと、お金が儲からなくなる人たちが多いから。
764 :
名無しさん@3周年 :2006/09/16(土) 23:14:32 ID:1Wv95byE
ここで真理と真実の相違を明らかにし、真理と真実を定義しておくべきだと思う。 真理とは、原因と結果の理法を言い、真実とは、原因に相当する自性も結果に相当する自性も無い ということ、即ち、空である。 真理に付いては他に様々な表現がある。例えば、縁起、相依関係、相対的存在、「これあれば彼あり、これなければ彼無し」 真実に付いては、空の他に、無常、無自性、無実体、無我、無相、一相、涅槃、。 真理と真実を区別しないで言われる時がままあるが、区別している方が論理を進めやすい。 区別していないと論理が進まない。進んでも、表現される意味が曖昧。
765 :
名無しさん@3周年 :2006/09/17(日) 06:15:53 ID:snGbSIW3
>>764 この真実と真理の区別は正しいでしょうか、皆さん?
766 :
名無しさん@3周年 :2006/09/17(日) 10:25:26 ID:snGbSIW3
真実無くして真理無く、真理無くして真実は無い。真実と真理は相対的存在である。 故に、最終の空は真理でもなく真実でもない。 この論は正しいか?
767 :
名無しさん@3周年 :2006/09/17(日) 19:45:28 ID:snGbSIW3
真実から流れ出るものは、教えとなる。教えは真実ではなく、真理である。 教えには無限の違いがある。主な教えと言うものは残るだろうけど。 例えば、真実は不動である。不去来である。これは真理であって真実ではない。 これは正しいだろうか?
768 :
名無しさん@3周年 :2006/09/21(木) 08:57:34 ID:Mfpa4ypB
「・・・の不確定性原理)とかに照らすと、縁起の法則と空の論理は、どうなるんだろうか?
>>768 仏教は、そのようなミクロの領域に踏み込んではいないと思います。
常識的な知覚の範囲での話だと思います。
それとも、そうした不確定性は、
熟したりんごが地面へ落ちず、空へ上っていくこともありうる、
というものですか?
可愛い(´д`*)ハァハァ
失礼しました m(_ _)m
772 :
名無しさん@3周年 :2006/09/21(木) 18:02:46 ID:Mfpa4ypB
>>769 そもそも「・・・不確定性の原理」ってどのような原理なんだろう?
773 :
寒山 拾得 ◇9Cm1SZG7 :2006/09/21(木) 23:50:35 ID:9Cm1SZG7
真理はキチガイに刃物。 キチガイにとって、刃物とは銭儲けである。
774 :
名無しさん@3周年 :2006/09/22(金) 22:17:19 ID:BfnTvrWf
>>769 縁起の真理と空の真実は充分であると思われる。所がそれではゲーテルさんは、
仏教の縁起の真理と空の真実を知らない人だったのだろうか?仏教は西洋に知られていないのだろうか?
談話室のほうがテンション高いね。
>>775 ヒント:
・敷居が低い。
・排他性が皆無。
・罵詈雑言がない。
・話題の多様性に対して寛容である。
やはり阿呆陀羅經の罵声及び机の禅学論はテンション下がるわな。
778 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 08:33:38 ID:j58LKtyn
コテハンを使用するスレはどうしても罵詈しやすいのだろうか、そう言う傾向にあるようです。 名無しが多いと、反応は事実に対するものとなり、その事実と解釈が問題となり、そこに集中することになるのではないか。
779 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 15:30:33 ID:+T/xWNv4
コテハンを使うと間違いを認められず、間違いを指摘した人を罵倒しやすくなる傾向があるのでしょう。 コテハンを使うということが有我に、名無しが無我に近いと思う。 あくまで傾向としてですが
780 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 18:00:13 ID:IBHRCpy8
敷居は高いと思ふ。 たとえば我々の周辺の日本の坊主は世襲だから自身に明確な信仰心がある訳ではない。 原始仏教に関心を持つ人は少なからず、自覚的で自分の周辺にある仏教もどきに 疑義を生じた人が多いのではないか。自覚が高いという点で世襲で仕方なく仏教という 者には敷居が高く、よって余り質の宜しくない方が入室しづらいのでは御座いませんか。
781 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 18:47:04 ID:j58LKtyn
>>780 仏教は「一切」というでしょう?一切の中には質のよろしくない人も含めないわけ内は行かないのですよ。
差別する様では、仏教ではないのです。人間ばかりではなく、人間と一切の物質をも対象にしているのです。
精神病を一番対象にしているのです。ものも言えない人を一番対象にしているのではないでしょうか.?
その人達には、言うことが無いのが正常であると。
782 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 19:07:15 ID:IBHRCpy8
「仏陀の教えは賢者を染めることは出来ても愚者を染めることは出来ない。」 文句は正確ではないがこんなフレーズありましたよね。 「すべての生きとし生けるものが幸せでありますように」 この中には、あなたの仰るように精神病者も、もの言えない人も含みます。 彼らには 「苦しんでいる人々がその苦しみから一日も早く解放されますように」 が適当でしょうね。これを「悲の修習(karuna-bhavana)」と言います。 >差別する様では、仏教ではないのです。 女性はブッダになれません。障害者は出家出来ません。お間違いの無きように。 これを差別と言う人と議論する必要は私にはない。よくよくお考え下さい。
783 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 19:35:36 ID:j58LKtyn
>>782 爾の時に舎利弗、龍女に語って言わく、
汝久しからずして、無上道を得たりと謂えり。是の事信じ難し。所以は何ん。女身は垢穢にして、是れ法器に非ず。云何ぞ能く、無上菩を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て、勤苦して行を積み、具さに諸度を修して、然して後に乃ち成ず。
又女人の身には、猶五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身、速かに成仏することを得ん。
爾の時に龍女、一つの宝珠有り。価直三千大千世界なり。持って以って仏に上る。仏即ち之を受けたもう。龍女、智積菩薩、尊者、舎利弗に謂って言く、
我宝珠を献る。世尊の納受、是の事疾しや不や。
答えて言わく、
甚だ疾し。
女の言わく、
汝が神力を以って、我が成仏を観よ。復、此れよりも速かならん。
当時の衆会、皆龍女の、忽然の間に変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相、八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る。
爾の時に娑婆世界の菩薩、声聞、天龍八部、人と非人と、皆遥かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の、人天の為に法を説くを見て、
心大いに歓喜して、悉く遥かに敬礼す。無量の衆生、法を聞いて解悟し、不退転を得、無量の衆生、道の記を受くることを得たり。無垢世界六反に震動す。娑婆世界の三千の衆生、不退の地に住し、三千の衆生、菩提心を発して受記を得たり。
智積菩薩、及び舎利弗、一切の衆会、黙然として信受す。
法華経ダイバ品
784 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 19:38:08 ID:j58LKtyn
>>782 > 障害者は出家出来ません
死んでいる人で無い限り修行は出来ます。僧院生活を出来ないものとの人間の規則があるだけでしょう?
785 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 19:40:06 ID:j58LKtyn
>>782 原始経典のサンユッタニカーヤにも、女性の聖者が説かれてイます。そこでは
この真理真実の前には女性も男性も無いと言う理由が言われています。
786 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 19:41:26 ID:j58LKtyn
>>782 修行を必要とする人は全て精神病であると言われていませんか?
ブッダだけが正常なんです。
787 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 19:46:30 ID:j58LKtyn
>>782 修行を必要とする人は全て精神病であると言われていませんか?
ブッダだけが正常なんです。
788 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 22:24:47 ID:EUntyqGS
>>783 『もし一つの世界に、正しくさとりを得たふたりの阿羅漢(仏陀を指す)が、
前後することなく同時に出現するとすれば、また一つの世界に、ふたりの転輪
王(全世界を征服する王者)が、前後することなく同時に出現するとすれば、
このようなことは理に合わない、ありえないことであって、それは道理ではな
い』と知る。
『しかし一つの世界にひとりの阿羅漢、ひとりの転輪王が出現することは、
ありうることであり、それが道理である』と知る。
『女が正しいさとりを得た阿羅漢となったり、あるいは女が転輪王となる
ということは、理に合わない、ありえないことであって、それは道理ではない』
と知る。
『しかし男ならば、阿羅漢となり、転輪王となることも可能なのであり、それが
道理である』と知る。
多界経(Bahudhātuka-sutta)
789 :
名無しさん@3周年 :2006/09/23(土) 23:38:12 ID:j58LKtyn
>>788 >一つの世界
一つの世界とはどんな世界でしょうか?
>女が正しいさとりを得た阿羅漢となったり、あるいは女が転輪王となる
ということは、理に合わない、ありえないことであって、それは道理ではない』
と知る。
上がどうして道理なんでしょうか?
790 :
名無しさん@3周年 :2006/09/24(日) 11:16:09 ID:Brvg6Aq0
>>789 >多界経(Bahudhātuka-sutta)
これはブッダの教説ではないとするべきです。
空と言う真実に照らして判断すべきです。
そもそも、悟りの世界には、主従の関係は無いのです。
791 :
名無しさん@3周年 :2006/09/24(日) 11:32:08 ID:Brvg6Aq0
>>790 多界経(Bahudhātuka-sutta)
この経典の意義を意義あるものに解釈するなら、以下のようになると思われますが。
シャリホツが成仏しますと、その悟りの世界にはシャリホツ以外の主が居る道理がありません。
シャリホツ以外の主とはシャリホツ以外の仏と言う意味です。
シャリホツの成仏はシャリホツのものなのです。それを誰も奪えないのです。
阿弥陀仏の浄土に入る条件として、正法を信じると言うのが有ります。正法を信じると言うこと自体
成仏への道なんです。法蔵菩薩はその見本を示したと言うのが真相ではないでしょうか?
792 :
名無しさん@3周年 :2006/09/24(日) 16:06:22 ID:Brvg6Aq0
>>783 龍女は男となって成仏したとあります。成仏の世界は男女の区別は無いのだ。
それで、男でもなく女でも無いもの、そう言うものであるところ、それをインドの習慣では、
男が絶対的存在であったので、その中性的存在を男と習慣を援用したものではないだろうか?
男ばかりの世界では、男と言うものは無いのだから。
ごく最近の母の死をきっかけに仏教を学び始めました。 ご利益を求めているわけでは無いのですが、善く生きるということを主眼とした場合 大乗の般若心経ではマントラ「ガティ ガティ パーラガティ パーラサンガティ ボージスバハー」という音が善いみたい。というところまでは 知識として覚えましたが、次に、これらはお釈迦様の言葉ではないと分かり 愕然。。 原始仏教ではそのようなパワーのあるマントラみたいな音はあります でしょうか?お導きを。
>>793 (全て引用文)
『スッタニパータ』の中に「悲しみの経」としても説かれております。これは南アジアの仏教諸国では特に重視され、唱えられています。その内容を簡単に紹介しますと、
「究極の理想に通じた人が、平安の境地に達して、なすべきことは次のとおりである。
能力あり、直く、正しく、言葉やさしく、柔和で思い上がることのないものであらねばならない。
足ることを知り、わずかな食べ物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、もろもろの感官が
静まり、 聡明で高ぶることなく、もろもろの人の家で貪ることがない」
「なんぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうと
して怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない」
「あたかも、母が己が独り児を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対し
ても、無量の慈しみの心を起こすべし」
「また全世界に対しては無量の慈しみの意を起こすべし。 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく
敵意なき、慈無量心を起こすべし」
「もろもろの邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを備えて、もろもろの欲望に関する
貪りを除いた人は、 決して再び母胎に宿ることがないだろう」
ということです。
『中村元「仏教の真髄を」語る』
>>794 ありがとうございます。善く生き、できるなら人間界に転生するので
なく、天界を目指せるよう
糧とさせていただきます。
796 :
名無しさん@3周年 :2006/09/24(日) 17:57:50 ID:+Mk0Ee8O
797 :
名無しさん@3周年 :2006/09/24(日) 18:06:48 ID:Brvg6Aq0
>>793 >これらはお釈迦様の言葉ではないと分かり
愕然。。
原始経典(阿含経)に般若心教と同一内容の教えがあります。大乗と原始経典の教えは同じです。
大乗経典は原始経典を解説していると考える方が良いと私は思っています。ですから、お釈迦様の教えである
ことを疑ってはならないと思います。
>原始仏教ではそのようなパワーのあるマントラみたいな音はあります
でしょうか?お導きを。
原始経典にはマントラ「真言」というものは全くありません。しかしこのマントラの意味は有ると思います。
そして、それの源泉は原始経典から来て居ると思います。原始経典(ダンマパダ)に以下の聖句があります。277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「 人が苦しみから遠ざかり離れる」とは彼岸に行くと言う意味です。
「一切の形成されたもの、一切の事物、」、これらは「縁起しているもの」という意味です。縁起している者は、
苦であり、空であり、無常であり、無我だと言うのです。縁起しているものに執着している凡夫にとって、この真言は、
執着そのものと成るのだと思います。意味が判らない点において、執着を捨てるのです。縁起しているものを全て捨てるのだと思います。
一切のものは苦しみですから、無意味な言葉とともに捨てるのです。捨てることによって、「苦しみから離れる即ち彼岸に行く」ということになるのだ
般若心教は「意図」しているのだと思います。
798 :
794 :2006/09/24(日) 18:43:13 ID:kSGdd61R
>>795 いいえ どういたしまして。(
>>796 のが抜けなく完全版だと思われます)
>>796 フォローありがとうございます。(慈経ですか。おそらく悲しみより的確ですね。)
>>798 岩波文庫版『スッタニパータ』(中村元)には「慈しみ」とあります。
『「仏教の真髄を」語る』の誤植ではないかと思います。
800 :
793 :2006/09/24(日) 23:15:00 ID:ZENqNppD
みなさま、ありがとうございました。 サンッベー サッター バワントゥ スキタッター
あぁん、だめ・・ 漏れちゃう・・・
すまん・・・w
なんつーかさ
>>793 の書き込み時間の 00秒 と
>>800 の800 書き込み時間の 00秒と
ID の ZEN とか偶然なのか、狙ってんのか。。。
804 :
794 :2006/09/25(月) 00:13:54 ID:2y8dC5LX
申し訳ないです。確認したところ、私のミス(早とちり)でした。m(_ _)m ○慈しみの経 ×悲しみの経 ○「仏教の真髄」を語る ×「仏教の真髄を」語る
805 :
名無しさん@3周年 :2006/09/25(月) 08:05:23 ID:N5Ss5vvi
昨日テレビを見ていたら、ある衣類の販売において、どのような商品を販売するかに付いて、 そして、どの様に販売するかに付いて、要するに生産から営業までに携わる人間が一番大切であるが、 そのような人々において、学歴、経歴、年齢等のものは、害にこそなれ有益な要素とはならない、 と現場監督が言って居た。これらのものは執着だからだ。むしろこれらのものを無視すると、 活性化し、販売も伸びるというような内容であったと思う。これは縁起を容認すべきことを言うものであり、 縁起しているものに執着しないと言う態度ではないか?学歴経歴等のものに対する執着は営業を窒息させるのである。
>>797 大乗経典と初期経典の間には、基本的に関係がないと考えるほう
がよいと思います。たしかに初期経典に般若心経と同じ内容の文言
があるかもしれません。しかし、だからといって大乗経典と原始経
典の教えが同じとするのは早計ではないでしょうか。
四聖諦や八正道に基づかない教えは、ゴータマ・ブッダの教えと
なんら関係がないと考えたほうがよいと思います。
807 :
名無しさん@3周年 :2006/09/25(月) 22:36:36 ID:PXTefv7F
「なんら関係がない」と言い切る理由は何?
>>807 私は四聖諦や八正道に基づく教えが仏教であると理解しているからです。
では言い切れない理由にはどういったものがあるのでしょうか?
809 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 02:14:02 ID:FLMhw+8U
簡単でしょう。釈尊も登場するし、シャリホツも登場する、使用する用語も共通する。 「なんら関係がない」とは決して言えないでしょう。 こんなこと誰でも、一読すれば分かることです。 それなのに「なんら関係がない」と言うのは政治的意図を感じてしまいますよ。 あるいは盲信というべきか、信仰は立派ですが、他派を攻撃してはいけない。 仏教の根本精神でしょう。 他者を害しない 他者に優しく、大らかにいきたいと思いませんか?
ユダヤ教とキリスト教 キリスト教とイスラム教 カソリックとプロテスタント キリスト教とモルモン教 キリスト教と統一教会 原始仏教と大乗仏教は、どんな関係に似ているのだろう?
811 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 18:20:45 ID:sDtlXFOx
>>808 なぜ苦・集・滅・道なのか?この根拠は空・苦・無常・無我だからです。
なぜ十二支縁起なのか?この根拠は空・苦・無常・無我だからです。
なぜ布施・持戒・忍耐・精進・禅定・智慧なのか?この根拠は空・苦・無常・無我だからです。
これらの修行方法はすべて原始経典にあります。そして,八正道と六波羅蜜は同じ内容です。
大乗は上座仏教の修行態度に対する不満の故に生じた原始経典への回帰であったと考えるべきです。
六波羅蜜が大乗の教えであると一般的にされて居ます。しかし大乗経典には,六波羅蜜と十二支縁起,四諦
の同一性が説かれて居ます。
したがって大乗は原始仏教から1歩も出るものではないといわなければなりません。
812 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 18:33:28 ID:sDtlXFOx
つづき 原始経典にある真理真実と,大乗にある真理真実が異なるならば,大乗と原始経典の教えは 関係が無いといわなければならないのですが,そのようなところは私の勉強したところではありません。 原始経典の教えは今の我々に身近な教えで受容しやすいものです。しかし大乗経典の教えは, とても出来そうにない教えが顕著です。しかしそれとても,同じ真理真実から導かれて居ることが分かります。
813 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 19:03:53 ID:hdI7Gx7Z
>そして,八正道と六波羅蜜は同じ内容です。 正しくない。昔は否定していたものの否定しきれなくなってきて 今度は同じだと言いはじめた。取り込みたいわけね。普通は大は小を兼ねる と言うが大乗と小乗との関係に於いては逆で小が大を兼ねています。 分かるかな。分かんないだろうな。
浄土は常住や否や? 菩薩の請願を因として、浄土が生まれるとすれば、浄土もまた空となり、無常である。
815 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 19:18:11 ID:sDtlXFOx
すいません、質問があります。 阿含経というのは全部、釈尊の直説なのでしょうか?
817 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 19:20:35 ID:sDtlXFOx
818 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 19:45:48 ID:hdI7Gx7Z
大乗エセ仏教は六波羅蜜を主張していますが仏教では六波羅蜜ではない。
819 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 19:46:35 ID:sDtlXFOx
>>814 浄土は常住ですよ。空は無常ではなく,常住ですよ。無常と言う表現は,
常にあるものはないと言う意味です。これは無我と言う意味でもあるのです。
単に「無常」「無我」といっては初心者は誤解します。無我無常の前に「一切は」があるのです。
一切とは,五蘊です。五蘊は諸行:諸法ともいいます。「諸」というからには,もろもろのものといって,複数を言います。
諸々のものがそれぞれに置いて,無常で有り空なのです。しかし,一切が空であると解れば,そこに空以外のものがないと言うことですから,
空自体は常住であると言わなければならないのです。無常は空の別語です。
>>816 仏陀が涅槃に入られてから,何年後かに,弟子達が,それも優秀な弟子達が集まって,
仏陀の教えを記録に止めると言う作業をしたとされて居ます。これが阿含集でしょう。
ですから「直説」というのが正しいのです。しかし大乗経典は,仏陀の教えを良く理解した人が,
それに基づいて教えを展開したもので,「直説」とは言えませんが,同じ真理真実に基づいているので,
仏説といわなければならないのです。真理真実から離れるような極端はないです。
820 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:02:37 ID:FLMhw+8U
sDtlXFOxさんのいう大乗は随分普通の解釈と違いますが、誰の説ですか? hdI7Gx7Z、仏教徒なら、仲良くしよう無我なんだから、自分の見解を我執にしちゃいけませんね。
>>819 > 仏陀が涅槃に入られてから,何年後かに,弟子達が,それも優秀な弟子達が集まって,
>仏陀の教えを記録に止めると言う作業をしたとされて居ます。これが阿含集でしょう。
記録に止める、といってもその時文章化されたわけではない。
現在伝わっている阿含経が成立したのは、かなり後になってから。
本当に阿含経典は釈迦の直説のみが書かれていると言える?
直説が含まれている、とは言われるけど、それが直説であると
確実に証明できているのでしょうか?
822 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:28:25 ID:sDtlXFOx
>>820 >sDtlXFOxさんのいう大乗は随分普通の解釈と違いますが、誰の説ですか?
私の説です。私の説と反するような説にはお目にかかっていないのですが,どんな説が有りますか?
>>821 少なくとも8割方直説であると理解するのが相当だと思います。残りは,大乗経典の作者達がなした様に,
仏説に基づいて解釈したものを仏説として居れて居るということは有ると思います。
823 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:34:51 ID:sDtlXFOx
>>821 > とは言われるけど、それが直説であると
確実に証明できているのでしょうか?
阿含経典として残した人達は,釈尊の賛嘆・信奉者でした。彼らが釈尊に対して,釈尊の望まれないような説を
記録すると言うことは,考え難いことです。釈尊の信奉者ではなく,むしろ,理解しないばかりか反対の意見を持つ人達
に拠る記録であるならば,信用できないと言うことは当然ですが。
824 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:36:09 ID:FLMhw+8U
>>814 の無宗ださんの説が伝統説でしょう。
>>819 のような常恒論は、仏教ではないし、その空解釈は例外的な他空説です。
一般的には、そんな解釈はしませんよ。
825 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:39:43 ID:FLMhw+8U
>>823 その論理なら大乗経典も信用できますね。大乗教徒も「釈尊の賛嘆・信奉者で」すから。(笑い)
>>819 ありがとうございました。
阿含経典のなかに「六道輪廻」の話があるらしくて。
私はこれまで釈尊は生まれ変わりとかは
問題にしなかったと聞いていたので、
阿含経が正しいなら釈尊は六道輪廻とか供養による功徳の話も
されたのかな、と思いまして。
それで質問させていただいたというわけでございます。
827 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:51:08 ID:sDtlXFOx
>>824 >常恒論は
無量寿・無量光と言う概念は,空諦からしか来ないでしょう。
輪廻を繰り返すと言う教説に対し,不去来,不動と言う概念は原始経典の説くところですが,
これは恒常を説くものです。
828 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 20:57:07 ID:FLMhw+8U
>>827 一体、どうゆう論理でそんな説が展開できるのでしょうか?
よく似た説を展開しているアオミさんという方がいますが、あの方の説と同じですか?
829 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 21:02:07 ID:sDtlXFOx
要するに仏教と言うは,仏教自身が何回も何時も説くように,「理法」それも,客観的な「理法」なんですよ。 理法ですから,他の国の人でも,この理法を発見することがあり得るわけで,実際にその事例としては, 古代ギリシャのパルメニデス,が居ますね。彼は世界は「静止している」と言って居ます。またキリスト教の神, この神も形成されたものでないもんとして説かれて居ますね。この神以外の一切を認めないところが、「理法」なのです。
830 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 21:10:43 ID:sDtlXFOx
>>828 これあれば彼有り,これなければ彼なし」という縁起の法則から,導き出されるのです。
アオミと言う人は知りませんね。
831 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 21:11:42 ID:FLMhw+8U
>>829 それじゃ仏教と言わなければいいじゃないですか?
伝統的な仏教とは全く違うと多くの人が思いますよ。
そして松本チズオを始めとして多くのニュー・エイジの方々は、似たようなことを仰いますが、
私は一つとして成功した例を知りませんが、それでも大丈夫だと他人に勧められるんですか?
私は非常に心配です。
832 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 21:21:51 ID:FLMhw+8U
>>830 その此縁性から、どのように常恒論が導き出されるのですか?
833 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 21:53:27 ID:4Uq4lQ9z
大乗仏典に釈尊や舎利佛といった人が出るのは当たり前。 仏典製作者が仏教に関連つけるために意図的に登場させい るんだから
834 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 21:56:49 ID:sDtlXFOx
>>831 仏教と言うのは,正覺者の教えと言う意味です。 正覚とは真実真理を体得したと言う意味でしょう?
真実が一つであるので、インド以外の他の国で正覚した人がいるとするとその人の教えも仏教です。だからイエスキリストの教えも仏教と言えます。
ただキリスト教の場合説明に少し問題が有りますね。
> 伝統的な仏教とは全く違うと多くの人が思いますよ。
そんなことはないでしょう。ただし今の創価を筆頭とする日蓮の教えは、仏教からはずれて居ます。
>私は非常に心配です。
御もっともです。しかし真実には従わないわけに行かないのです。自分が真実に従っているかどうか、その確信を漢語で「柔順忍」といいますね。
>>823 それは、そちらの信仰告白なだけで証明にならないよ
法華経が出世本懐であるという信仰とあまり変わらない
>今の創価を筆頭とする日蓮の教えは、 あんなカルトを日蓮の教えの筆頭にしないでください。 身延派の人間が聞いたら、怒るより先に呆れるでしょう。
837 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:05:34 ID:sDtlXFOx
>>832 五蘊は縁起して居るものであるから、実体がない、空である。縁起しているものとは、変化して居るものである。その変化しているものに、
我即ち主体は無い。詰まり無我である。結論として、変化は起きていないのである。
変化こそは恒常で無いもの即ち無常である、しかし変化がなければそこにあるものは、恒常なものであるといわなければならないでしょう。
空こそ恒常であるのです。
838 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:06:43 ID:hdI7Gx7Z
>だからイエスキリストの教えも仏教と言えます。 あまりにも乱暴な議論である。イエスが正覚者とは思われない。
パーリ仏教に於いて、 「常」「つくられたものでない」とされるのは唯一「涅槃」のみ。
840 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:11:15 ID:sDtlXFOx
>>835 阿含経の主たる教えが客観的な真理真実であると認め、理解し同意するので、これは信仰信心ではないでしょう。
釈尊は理法を教えているのであり、盲目的な信仰を要求していないのですよ。
>>840 いや、内容じゃなくて
理屈が通っていたとしても、それによって
それが釈尊の言葉であると確定する証明にはならない
阿含経典が釈尊の直説であるという信仰じゃないの?
842 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:16:42 ID:sDtlXFOx
>>838 ユダヤ教キリスト教において、仏教のように理法が教えられることが無いのです。
イエスだけがこの理法を知っていたのですが、それを教えている記述が無いのですね。
彼は真理と言う言葉を吐いていますが、その真理とは何かと問われた時、答えていませんね。
一切は「空」であるといったとき、誰かイエスの教えを理解したでしょうか?
843 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:18:45 ID:FLMhw+8U
>>833 私は大乗経典が創作だとは思わないけれど、たとえそうだとしても「なんら関係がない」ことにはならないでしょう
>>834 まず此縁性から常恒論が導き出されるロジックを教えてください。
844 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:23:28 ID:sDtlXFOx
845 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:26:40 ID:sDtlXFOx
>>841 釈尊と言う人間、阿含経典と言う経典、そのようなものを受け入れるのではないのですよ。
釈尊の説教に有る理解できる「理法」、アゴン経典に記されている「理法」を受け入れるのです。
>>843 釈尊という言葉を使っている以上は、言葉の上で多少関係があると訂正します。
847 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:30:24 ID:FLMhw+8U
「空こそ恒常であるのです」これは龍樹菩薩が救いようのない見解といったものそのものです。 貴方の見解は、残念ながら仏教ではありません。仏教を名乗るのは止めてください。 ニュー・エイジ風の名前を名乗ったらいかがですか? どうも長時間ありがとうございました。
848 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:45:05 ID:sDtlXFOx
空こそ自性が有ります。なので、「一相」「無相」というのです。相対的存在には自性が無いのです。
849 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 22:45:44 ID:DykyD5VB
縊死堕氏ね。
850 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 23:11:38 ID:sDtlXFOx
不生不滅なものとは空のことですが、不生不滅なものにのみ自性があるのです。
851 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/26(火) 23:26:35 ID:hNaLlTHU
>>842 グノーシスの文献では、しっかり、空についても、無常についても書かれているよ。
イエスは、答えるべき人には、しっかり答えている。
聖書は、あくまで、真理を、たとえでしか書かれていない書物だ。
あえて、キリスト教徒には、それが与えられた。
852 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/26(火) 23:38:48 ID:hNaLlTHU
空とはあいまいな言葉だ。 人によっては、それを、無自性、つまり、縁起=無自性=空の、空として説明し、 人によっては、一相=無相、それは、空。などとのたまう。 どちらもニュアンスとしては、空と表現できなくもないが、まるで意味が違う。 前者の空は、無自性を語り、後者の空は、自性を語るからだ。 正反対のことを、同じ空という言葉で、大乗系の仏教徒は、得意げに語る。 しかし空という言葉は好かんな。 このあいまいの言葉から、数々の詭弁が生まれ、この、空という言葉は、詭弁家達の、格好の道具となる。 空という表現は、気に食わんな。自性と、無自性は、はっきり分けて語るべきだ。 空という言葉は、気に食わん。
853 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 23:52:15 ID:FLMhw+8U
一義的に縁起=無自性=空です。それ以外は、誤解です。 縁起=無自性=空以外の説は、何か恒常な存在基盤を持ち込んだ恣意的な解釈であり、 経典や論書に根拠を持ちません。 sDtlXFOxさんの説は、単純なアートマン説です。これでは色即是空が成り立たなくなってしまうし、 『中論』を始めとする大乗説とは明らかに相容れないどころか、明確に否定されています。 これは三昧体験後に陥りやすい、誤解の一つだからです。
854 :
名無しさん@3周年 :2006/09/26(火) 23:53:01 ID:sDtlXFOx
>>851 グノーシスではどの様に説いていますか、そのところを引用してくださいませんか?
>真理を、たとえでしか
真理をどのような例えで説いていますか?
855 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/26(火) 23:55:07 ID:hNaLlTHU
ついでに言うと、グノーシスの文献では、 無常、無自性である空についてだけではなく、 自性についてもはっきり書かれている。それは生成のないもの。 元からあるもの。復活とは、幻影である自我を捨て、元からあった 本当の自分自身を受け取ることだと、グノーシスは明かす。 今の正統派とされるキリスト教徒は、グノーシスを異端だと、のたまう。 さて、どちらが異端だか。少しでも智恵のある者なら、今のキリスト教に真理の欠片もない のはお見通しだろう。今のキリスト教は、イエスの真の教えを理解しない。
856 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/27(水) 00:04:51 ID:i24GGhbG
>>854 これはイエスの教えである。
あの方は死ぬことのない方であり、永遠まで続くものである。
永遠まで続くものは、なんであれ、生成のないものである。なんであれ、
生成のあるものは滅びるからである。
その方は、はじめかなくて、生まれざるものである。
というのはなんであれ、はじめのあるものは終わりがあるのだから。
その方に支配するものは何もなく、その方には名もないのである。
というのは、名のあるものは何か他のものの創造物だからである。
消滅するものから生じている限り、それらのものはことごとく消滅するだろう。
それらは消滅するものから、生じるゆえである。
だが消滅しないものから生じているものは、消滅しないのが常であり、
消滅しないものとして存在する。消滅しないものに由来するゆえである。
それは人間の群が、この違いがわからないため、
失われてしまっているのと同様である。彼らは死んでしまっている。
身体は変化するものである。変化するものは、滅し、滅びるだろう。
この身体は獣のようなものだから、獣の身体が亡びるように、
これらのつくり物も亡びるだろう。これらのものは、獣の場合と同じように
交合から生まれるものなら、どうしてそれは獣と大きく異なるのか。
〜ナグハマディ文書より。
857 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/27(水) 00:13:16 ID:i24GGhbG
>>854 >真理をどのような例えで説いていますか?
聖書は、あるテーマを、たとえで書かれている。
それに気付く者は少ない。
書かれているテーマは、一貫している。だがそれに気付く者は少ない。
それに気付く者は、グノーシスとなんら矛盾するものではないと気付くだろう。
だがそれに気付く者は少ない。
たとえでしか書かれていない聖書は、誤謬につぐ、誤謬を重ね、
今の教会は、イエスの教えとはまるで違うことを、信者達に教える。
だがそれも仕組まれたこと。今のキリスト教は、次の時代にはないよ。
仏陀の教えから、まるで違うものになってしまっている、今の仏教もね。
858 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 00:14:15 ID:sTM2sug1
>>856 これはイエスが教えているのではないでしょう?イエス自体は教えているのですか?
グノーシスとは何でしょうか?
859 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/27(水) 00:19:29 ID:i24GGhbG
>>858 >これはイエスが教えているのではないでしょう?
上に上げた文章は、イエスが弟子達に語った言葉として記されています。
聖書のテーマに気付く者なら、上の文章も、聖書となんら矛盾しないことに気付きます。
>>839 :名無しさん@3周年:2006/09/26(火) 22:08:31 ID:YyFR2BcD
> パーリ仏教に於いて、
> 「常」「つくられたものでない」とされるのは唯一「涅槃」のみ。
との意見がある。
原始仏教において、天界、地獄は三界、すなわち世間にあり、涅槃は出世間にある。
大乗仏教における、浄土もしくは極楽浄土は世間にありやなしや?
原始仏教において、在家は天生を願い、出家は涅槃を目指す。
大乗仏教において、六波羅蜜により、人は何を得るのか?
862 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/09/27(水) 12:59:55 ID:i24GGhbG
>>860 原始経典を読めば、在家も多数、涅槃に渡ったと、
釈迦が言っているのだが。どうも釈迦の時代、出家者のみならず、
在家の人も、男も女も、阿羅漢が多数輩出し、多くの者が涅槃に入ったとあるのですが。
ところで、大乗は、皆が涅槃に渡るものであり、小乗より優れているというようなニュアンス
で語られる方をよく見かけますが、今の大乗系で、坊主も、在家も含め、涅槃に渡れる人はいるんでしょうか?
863 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 14:13:55 ID:es9tzCCb
>>839 >「常」「つくられたものでない」とされるのは唯一「涅槃」のみ。
ネット上でこのように書く人を始めて見た。厳密には涅槃だけではない、とアビダンマで読んだが記憶があるが、
>>819 >浄土は常住ですよ。
に反論して書いたと思うが全くそれはその通りで浄土が常住なら濁世も常住になってしまう。
我田引水もあつかましい。(
>>819 のことね)
864 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 14:25:00 ID:es9tzCCb
>>862 在家が阿羅漢になれば確か即日だったかな..出家しなければ死にます。
勿論可能性として在家でも阿羅漢にはなり得るし、そしてたとえ死んだとしても死後の涅槃も
有り得るだろうがそんなに原始経典にあっただろうか、記憶にないのだが..。
865 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 17:56:46 ID:sTM2sug1
>>864 >即日だったかな..出家しなければ死にます。
なぜ出家しなければ死ぬんでしょうか?またその出典は何でしょうか?引用できたらしてください。
866 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 18:01:34 ID:sTM2sug1
>>863 > 浄土が常住なら濁世も常住になってしまう
濁世も常住ですよ。永遠に輪廻を繰り返すと言うのがそれです。
867 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 18:08:48 ID:sTM2sug1
>>862 今の大乗仏教を聴聞して信じている人、経文の通りであれば涅槃に入っていると言われていますね。
涅槃経に、限りの無い人が涅槃に入って居ると説かれています。またたいていの大乗経典には、
原始経典に有る人数に比較にならない程の人の数が涅槃及びその道に入ったと有りますね。
868 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 18:56:59 ID:sTM2sug1
>>860 >大乗仏教における、浄土もしくは極楽浄土は世間にありやなしや?
菩薩として活動できるところが浄土ですよ。そこは世間でなければならないでしょう。
>原始仏教において、在家は天生を願い、出家は涅槃を目指す。
大乗仏教において、六波羅蜜により、人は何を得るのか?
菩薩は仏国土を得るのです。仏国土の主、即ち仏となるのです。
869 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:04:20 ID:sTM2sug1
釈尊は菩薩として生涯を終えられと考えるべきです。これを有余涅槃と言うべきです。 無余涅槃とは、有余涅槃を経て始めて得られる菩薩業の終極状態で、身体が見えなくなった時に始まるものと考えるべきです。
870 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:05:19 ID:es9tzCCb
>>865 重みに耐えられないから。出典って地図のことね。あれ。あれです。○○社の×××のp.7
情報は地図からだけでなく、実際に有資格者で登山している方からも得ている。
日本の坊さんはその有資格者の中に入っていないが。地図だけに頼るのではなく、
その道のプロに聞いてみるといい。ただでは済まないが…。
ど素人同士が殺し合いまでしたのがオウム。ここに書き込んでいるプロ(bhikkhu)は
いないと思ふ。文献学のプロはいたとしても、登山しない地図屋さんのようなもの。
871 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:09:34 ID:es9tzCCb
>釈尊は菩薩として生涯を終えられと考えるべきです。 釈尊は悟っていないと言いたいわけね。婆架も休み休み運子をしたり、笑弁をしたり、 食事をしたり、温泉に行ったりしながら言いなさい。秋れる。
872 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:15:56 ID:sTM2sug1
>>870 > 重みに耐えられないから。
どんな重みが阿羅漢にあるのでしょうか?
873 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:21:34 ID:sTM2sug1
>>871 菩薩とは悟っていない人と言う意味ですか?
875 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:29:06 ID:sTM2sug1
>>874 それでは菩薩とは、悟っていない人と言う意味であり、凡夫のことといわなければなりませんね。
876 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:33:16 ID:es9tzCCb
877 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 19:39:39 ID:es9tzCCb
つい何日か前、安部さんは単なる普通の一国会議員だったか? ちょっと考えればわかると思うが・・・。 時間の無駄の気がする。
878 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 21:35:25 ID:L8C7hIJi
es9tzCCbさん、発言しないでください。
879 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 22:10:23 ID:sTM2sug1
◆かの菩薩は、たくみな方便と般若の知恵をはたらかせて、 十種のこれまでとちがった、あらたなる菩薩道の実践を 一つ一つ実現して体得してゆくのである。 十種とは、すなわち、 @ 空であるがままの如性、個的実体のない如性、 願求することのない如性をさとる三昧を 自らの心において修行し、円満にしている。 A あらゆる存在のうちに、自己なるものはない、 衆生なるものはない、生命なるものはない、 人なるものはない、人間なるものはない、 と体得している。 B 豊かな徳と浄らかな存在を ますます向上させるために、 もっともすぐれた菩薩行に、 あらんかぎりの力をつくして努力する。 C あらゆるまよいの世界内存在を超脱して、 自由自在になっている。 D あらゆる灼熱する煩悩の逼迫は、 もはや究極的に寂滅し、静寂になっている。
880 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 22:11:16 ID:sTM2sug1
E あらゆる存在が、幻、陽炎、夢、鏡の映像、反響、 水に映った月、影、変化術で化作された対象のこどく、 有なる自体もなく、無なる自体もなく、 不二であることを理解している。 F あらゆる国土や道が虚空にもひとしいことを、 こころにおいてあますところなく思惟している。 G あらゆる諸仏は、その本性において、 法そのものが身体であること(法身)を理解している。 H 如来の音声なるものは、言葉としてはあらわれず、 そもそも歌詠や音声ではなくして、 本性において静寂であることを確信している。 I さいわいなる諸仏が、まったくの一瞬のうちに、 過去・現在・未来の三世をさとってしまうことを よく理解している。
881 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 22:22:34 ID:sTM2sug1
声門・縁覚と大乗が言うのはこの真理を聞いて知って、そして、縁により悟っているが 、その実現が不充分であることをもって、言われる蔑称である。しかしいずれ完成に到達するものである。 菩薩とは、決して途中で実現のための修行を放棄しない者を言う。 従って真実真理を悟ったり聞いて得心している者は、悟っているものといえるのであるが、その実現には至っていないのである。
882 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 22:27:47 ID:sTM2sug1
883 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 22:37:24 ID:es9tzCCb
スレ違いです。
884 :
名無しさん@3周年 :2006/09/27(水) 22:58:22 ID:L8C7hIJi
有意義な発言をしない es9tzCCbさん、何か高見に立ってると思っているのでしょうが、 それこそ無我を旗印とする仏教の 「カン」違いです。 一から地図を作り直して登り直しましょう!
885 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 00:27:15 ID:SeMpvfZZ
偽札作りは真札を模倣するわけだ。真札を知っていれば簡単に偽札を見破る。 真札(原始仏典)をあまり見ていない初心者は偽札を見破れない。 偽札をばら撒いているsTM2sug1が問題だな。かといって安易に真札を見せる わけにもいかんのよ。偽札に惑わされずに真札(原始仏典)に親しみ、真札を奉じている bhikkhuに直接道を尋ねる事が大事だね。実際に山に登って地図と照合することが大事だね。 >一から地図を作り直して登り直しましょう! 普通は登ってから地図を作るのよ。早くもボロを出した。 登るからには当然危険を伴うものよ。だから、経験者に尋ねることも大事なことさ。
886 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 07:15:47 ID:9ENmTHFf
地図は、当然登頂経験者が作るものでしょう。 ただ登頂経験者というのは自称だから、その地図が怪しいという意味です。 なぜなら、我執がなくなるどころか、非常に強大になっているように見受けられるからです。 ビクなら誰でもという訳ではないでしょう。登頂経験した方から我執を叩いてもらうことが 重要だと思ってます。なぜなら、行が進めば進むほど微細な我執が残ってくるからです。 なかなか、我執というのは自分では気が付かないものです。 他人からはどう見ても我執でも、ご本人は得意満面ということがありますから。 おっと私自身もどうやらこの書き込み自体に含まれているようだ、危ない危ない。 みなさん、お互い気をつけましょう!
887 :
極悪ぢぃ :2006/09/28(木) 07:22:54 ID:tfcSOILp
今は航空写真や衛星写真の時代だったりして。。。 「自分で歩いた個性」が溢れる地図も楽しそうだし 客観的で正確な地図も大切だね
>>875 大乗系統の伝統から言えば、
「悟りを求める者」だけれども、
「いつブッダと呼ばれてもいい境地にある者」「実際には既に悟っている者」
ということになる。
そして、「自らの意思で、ブッダとならずに、衆生により近い所で済度を続けるために、菩薩の位にとどまっている者」
という意味付けがなされている。
889 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 18:41:42 ID:ypCCcq54
悟りと言う意味と、成仏と言う意味が混同されているんではないか?
悟りとは、仏の智慧即ち般若の智慧を知ることである。成仏とは、
仏の智慧即ち般若の智慧を完成させることである。菩薩行とは、
仏の知恵を方便によって完成させる修行である。
「
>>879 ◆かの菩薩は、たくみな方便と般若の知恵をはたらかせて、
十種のこれまでとちがった、あらたなる菩薩道の実践を
一つ一つ実現して体得してゆくのである。 」
この叙述は幾らか修正されなければならない。以下のようにするのが正しい。
「かの菩薩は、般若の智慧に基づく方便を働かせて、般若の智慧の完成の為に、十種のこれまでと違った
実践をし、智慧の完成に至る境地を体得していくのである。」とするのが良いのだ。
890 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 18:55:22 ID:ypCCcq54
つづき 釈尊が中道を悟ったとき、その時が釈尊の成仏の時点であったろうか?否であろう? 釈尊は中道を悟ってから成仏することを知ったのであろう。原始経典に何とかいてあるか? また大乗の法華経には、色々な方便で衆生を導き、今諸願満足したとある。 法華経は初展法輪経の焼き直しであると言う学者も居るのだ。
891 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 19:00:08 ID:ypCCcq54
つづき 縁起の法則を知り、縁起しているものには実体が無いと知ることが出来、 一切は縁起している事をも知ることが出来ている皆さんは、単に知って納得しているだけでは 声門・縁覚の段階に留まって居るものである。
>>891 世俗的な生活をしてても、声門・縁覚なの?
「負債のない生活」という言明との関連はどうなっているの?
893 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 19:28:41 ID:ypCCcq54
>>892 出家するか世俗に留まるかは修行方法の選択行為なのである。声門・遠隔とは関係ないのだ。
負債のない生活」と言うのは、束縛のない自由な生活と言う意味である。縁起しているものに実体があると誤認して居るものは、
まさに「負債のある生活」をするものであるが、縁起している者は実体が無いと喝破している者は、世間に居様と世間の汚れに染まることはないと言う論理が
成立するのである。これが菩薩の行である。
895 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 20:23:10 ID:ypCCcq54
>>894 そんなことありません。原始経典の修行僧とか道の人とかバラモンと訳されている人が、大乗に言う菩薩のことです。
896 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 21:04:35 ID:9ENmTHFf
>>895 それはシュラマナとかブラーフマナと呼ばれる人ですね。
これまた、貴方独自の説ですか? そう飛躍ばかりされても...
897 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 22:23:11 ID:ypCCcq54
原始経典には声門・縁覚という概念はないのです。大乗においても最終として法華経に置いて 声門;縁覚;菩薩の三乗はないと取り消しているのです。
898 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 22:51:04 ID:9ENmTHFf
sAvaka, paccekabuddha ってパーリでは表記されてますよ。 水野弘元 先生の『仏教要語の基礎知識』を読みましょう。
899 :
極悪ぢぃ :2006/09/28(木) 22:53:20 ID:VRdJPRmr
>>897 テキトーな戯言で 遊ぶ前に雑阿含でも ながめなされ
「聲聞」はふんだんにでてくる語だ。
すれ違いだが 法華経は「三乗がない」と否定しているというより、
先行の大乗が二乗不作佛を云ったのを批判して
三乗のどれもが成仏できると宣言して大乗の面目躍如なのだよ
精進されよ
900 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:12:45 ID:ypCCcq54
902 :
極悪ぢぃ :2006/09/28(木) 23:17:22 ID:VRdJPRmr
大正大蔵経-中華電子佛典協会 のアドレスほテンプレで紹介しているでしょ 雑阿含は簡単に確認できますよ
903 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:20:50 ID:ypCCcq54
904 :
極悪ぢぃ :2006/09/28(木) 23:23:25 ID:VRdJPRmr
大きな図書館に行って 新国訳大蔵経「雑阿含1」を確認されて下さい。 ちょっとの労を惜しまずに
南伝大蔵経は日本語だよ。 ちょっと古いけどw
906 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:29:47 ID:ypCCcq54
>>904 岩波の原始経典しか持っていません。暇人さんは岩波の原始経典と他の経典とは内容が同じであるから、
他の経典に拘ることはないと言われてい増した。岩波には声門縁覚に相当する言葉さえもないのですから、
他の経典にもあるはずありません。図書館に行くなどと言う労はどうしてとる必要があるでしょうか?
あなた様は暇人さんを愚弄するのですか?管理人の暇人さんを呼びましょうか?
907 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:31:47 ID:ypCCcq54
うむぅ。。。。。
908 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:35:24 ID:ypCCcq54
909 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:38:33 ID:9ENmTHFf
>>906 声聞:@sa^vaka(弟子)
7-83,84,127 / 30-134 / 40-70,325,348 /
57-149,240,248,257,288,297〜,366〜,402〜 /
58-410,411 / 59上-3 / 62-433
声聞、縁覚、佛:
42-239 / 43-110 / 47-396 / 59上-3 / 62-83,231,249,261 / 63-81,107,305,308,406
声聞、縁覚、菩薩、佛:
38-351
(巻数)-(頁)
>>908 コピペできるわけなかろうwww
電子化されてねーよw
912 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:44:10 ID:ypCCcq54
>>909 >これで納得いただけましたか?
漢文は解らないといってるでしょう?
913 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:45:10 ID:ypCCcq54
914 :
極悪ぢぃ :2006/09/28(木) 23:49:56 ID:VRdJPRmr
>暇人さんは岩波の原始経典と他の経典とは内容が同じであるから、 >他の経典に拘ることはないと言われてい増した 過去レスを提示してください キミの読み違えだと思います >岩波には声門縁覚に相当する言葉さえもないのですから 岩波の雑阿含の相当訳「ブッダ 悪魔との対話」p50に 弟子とありますが、これのパーリはsAvako sAvakaを 水元パーリ辞典でひくと「声聞、弟子」です。 岩波は声聞を「弟子」と訳しているのはジョーシキです
915 :
極悪ぢぃ :2006/09/28(木) 23:52:09 ID:VRdJPRmr
>早く引用していただけませんか?コピペできるでしょう? 甘えず 自分で調べる癖をつけなさい
916 :
名無しさん@3周年 :2006/09/28(木) 23:55:16 ID:9ENmTHFf
中村先生の訳は、口語訳なんですよ。そう書いてあるでしょう。440頁 つまり漢訳用語を使ってない。例えば『ブッダのことば』134で「弟子」と訳されているのが sAvaka 声聞です。134の註を見てください。 .....sAvaka と呼ばれていた。その原義は、恐らく「教えを聞く人」..... と書いてあります。岩波文庫でもちゃんと読めばそのぐらい分かりますよ。 しかし 岩波文庫だけでなんでそんなに自信もって発言できるんですか、 しかも 岩波文庫すら読めてないのに。根本的知識不足ですよ。自覚してください。 暇人さんも、困っちゃいますよ。 水野弘元 先生の『仏教要語の基礎知識』を読みましょう。
>>913 俺が持ってるのは
片山訳の長部と中部の一部、
南伝は3巻と24巻及び学生時代のコピーのみ。
手元に該当箇所があるのは
片山訳の大般涅槃経くらいのもんだw
で、その中では全て「弟子」と訳されている。
918 :
名無しさん@3周年 :2006/09/29(金) 00:00:06 ID:9ENmTHFf
う〜ん、口語訳にこんな弊害があるとは思わなかった。 正にプラパンチャ、広がる妄想! 言葉は、常に妄想を喚起し、妄想に弄ばれるんですね。
>>918 何か独自の感想を述べたりしたら、
片山さんは事ある毎に
「経典を読んでください」
「伝統的にどう解釈されているかをまず押さえてください」
「注釈は大切です」
等々の意味のことを言っていた。
「訳語が気になったら原典(或いは底本)に当たる」は基本だね・・・(^^;
920 :
名無しさん@3周年 :2006/09/29(金) 00:20:28 ID:lp9r6DU7
文献学的には基本ですね。正確に読む癖は付けた方がいいですよね。 ただ学問ではない伝統的なありかたでは、まず教えを「聞く」ことです。 分からないことは先生に聞く、妄想解釈を許さない正確な意味が伝えられる訳です。 もちろん、完全に正確に伝わることは少ないので、法を伝える先生も限られるわけですね。 片山先生は、文献学で可能な限り伝統説を再現することに挑んでおられて素晴らしいと思います。
921 :
名無しさん@3周年 :2006/09/29(金) 16:59:30 ID:9rtbSM/6
>片山先生 『サンユッタ』とか『アングッタラ』の訳もやるのかな?
922 :
極悪ぢぃ :2006/09/29(金) 18:47:57 ID:/l0rhrjX
『バケラッタ』も訳してね(笑)
923 :
名無しさん@3周年 :2006/09/29(金) 19:56:49 ID:hdWWpkC7
要するに原始経典では、声門縁覚はニルバーナに到達できないと言う教説はないと言うことです。 これらは修行僧にひっくるめられているのです。
>>921 やるでしょ。
で、パーリ文献全て処理したあとで、
自説を展開するかどうか・・・。
今からドキワクですw
討論中すみませんが、お智慧を。 涅槃(ニルバーナ)はアカシックレコード的な意味合いでしょうか? また、空は「カラ、無」ではない何か在る3次元以上の不可視な モノと考えても良いでしょうか? 原始仏教では在家信者は功徳を積めば、場合によっては輪廻転生 時、人間界→天界に、出家信者は功徳を積めば、無理ではあるが 輪廻転生から解脱し涅槃に至ることを夢見るチャレンジャーと考えれば 宜しいでしょうか?
926 :
名無しさん@3周年 :2006/09/30(土) 01:43:58 ID:PiB4FuU1
変な解釈せずに水野弘元 先生の『仏教要語の基礎知識』を読みましょう。
927 :
名無しさん@3周年 :2006/09/30(土) 05:28:22 ID:9xWF6aVI
>>925 涅槃と空は同一の事を表しています。
3次元以上の可視・会得・体得できるモノです。
在家と出家信者に違いは無い。あなたが挑戦・チャレンジャーして、
求道者になり、解脱を得られんことを願う。
928 :
名無しさん@3周年 :2006/09/30(土) 07:35:39 ID:qcTPyI3N
>>925 ニルバーナ、その字句の意味するところは、no-burningという意味である。
burningはただし、煩悩を炎に例えたものであり、その炎が生じない状態がニルバーナであると
経典が説いて居る。煩悩とは、真実に反する思いである。真実は「空相:無相:一相:その他の説明表現があるが)
929 :
名無しさん@3周年 :2006/09/30(土) 08:52:14 ID:wWQhAYWV
>>925 信者ではなくとも仏陀は布施をして戒(=五戒)を守れば天に生まれると説いています。
これが施・戒・生天の三論と言われるものであります。
930 :
925 :2006/09/30(土) 19:20:10 ID:khEvP9dK
みなさま、お教えありがとうございます。 まだまだ執着バリバリの衆生の身ではありますが、何かをつかめるよう 少なくとも極悪な事はしないように生きたいと思います。 何語か忘れましたが marienbad メリーエンバー 燃えさし ってニルバーナと 語感が似てますね。
931 :
名無しさん@3周年 :2006/09/30(土) 23:41:47 ID:qcTPyI3N
932 :
名無しさん@3周年 :2006/10/01(日) 09:15:06 ID:IOoeVkR/
>>930 マリエンバード、と言うのを何処かで聞いたことがある。マリエンバーどと違うのか?
933 :
名無しさん@3周年 :2006/10/03(火) 22:08:25 ID:pM/YMcOc
グノーシスの中でも、哲学的な理論の発端は何処にあるのだろう?イエスか?パルメニデスか?
934 :
名無しさん@3周年 :2006/10/03(火) 22:52:34 ID:YQUmkJzt
縊死堕氏ね。
935 :
名無しさん@3周年 :2006/10/04(水) 19:04:56 ID:Le0C9jcr
936 :
名無しさん@3周年 :2006/10/08(日) 11:54:31 ID:l+zgArD7
警戒警報! 警戒警報! 荒しウィルス潜入中 ウィルス・バスターズ発動 各自、無視・スルーでおながいすます
937 :
名無しさん@3周年 :2006/10/09(月) 11:19:06 ID:M5EufBwG
>> 935 縊死堕氏ね。 おまいも氏ね。 みんな氏んじまえ。
938 :
名無しさん@3周年 :2006/10/09(月) 12:07:10 ID:uaH4xmC8
以下のAで人間なるものは無いと言って居る。お前が人間が居ると思っている(妄想している)だけなんだよ。 879 :名無しさん@3周年:2006/09/27(水) 22:10:23 ID:sTM2sug1 ◆かの菩薩は、たくみな方便と般若の知恵をはたらかせて、 十種のこれまでとちがった、あらたなる菩薩道の実践を 一つ一つ実現して体得してゆくのである。 十種とは、すなわち、 @ 空であるがままの如性、個的実体のない如性、 願求することのない如性をさとる三昧を 自らの心において修行し、円満にしている。 A あらゆる存在のうちに、自己なるものはない、 衆生なるものはない、生命なるものはない、 人なるものはない、人間なるものはない、 と体得している。 B 豊かな徳と浄らかな存在を ますます向上させるために、 もっともすぐれた菩薩行に、 あらんかぎりの力をつくして努力する。 C あらゆるまよいの世界内存在を超脱して、 自由自在になっている。 D あらゆる灼熱する煩悩の逼迫は、 もはや究極的に寂滅し、静寂になっている。
939 :
名無しさん@3周年 :2006/10/09(月) 18:57:55 ID:HSn3XEEP
>
>>937 そこの犬、吠えなくても、みんな氏ぬぞ。
安心しろ。
940 :
名無しさん@3周年 :2006/10/09(月) 19:01:25 ID:qK1EZNy3
>>937 おまいが幸せであるように。
おまいが怨みなく、悩みなく、苦しみもなく幸せに生きるように。
おまいが心身ともに健康で幸福に暮らすように。
みんなを嫌っているおまいが幸せであるように。
941 :
名無しさん@3周年 :2006/10/09(月) 19:22:59 ID:uaH4xmC8
942 :
名無しさん@3周年 :2006/10/09(月) 21:18:35 ID:M5EufBwG
>> 940 恐れ入りました。 もう馬鹿な書き込みは致しません。 約束致します。
ロングパス?
944 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 08:50:36 ID:8fLcrGaA
次のスレッドを立ててくれ。
945 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 09:38:15 ID:Kg2zPB6a
まだ早いだろ
946 :
暇人 :2006/10/14(土) 10:06:37 ID:y1NjZmYf
もう需要頻度減ったから、こっちは休止でいいのでは?
947 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 10:32:23 ID:Kg2zPB6a
948 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 11:08:12 ID:8fLcrGaA
思想に興味あるんであり、人間には興味無いのだ。
949 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 11:12:40 ID:31PxePG6
一切の有情の中で、人間だけが思想や文化を持ちうる生き物である。
950 :
名無しさん@3周年 :2006/10/14(土) 12:22:28 ID:8fLcrGaA
>人間だけが思想や文化を持ちうる生き物である。 その人間の思想に興味があるのだ。
951 :
名無しさん@3周年 :2006/10/15(日) 00:17:06 ID:JuE2BHzU
慈(いつくしみ)はパーリ語で mettā mettā を PALI-ENGLISH DICTIONARY で引けば active interest in others ともなっている。 まあ、人は自由だが >思想に興味あるんであり、人間には興味無いのだ。 >その人間の思想に興味があるのだ。 か。なんだかなぁ。これを 女に興味はないが女の脱いだパンツには興味がある、と聞いたとしたら 私の聞き方がおかしいだろうか。
952 :
暇人 :2006/10/15(日) 01:18:38 ID:FQzVYerv
>>951 読解力不足を世間から笑われるだろうね。
>思想に興味あるんであり、人間には興味無いのだ。
>その人間の思想に興味があるのだ。
女性をダシにするならば、これの論旨は
「女に興味はないが、その女の感性に興味があるんだ」という感じではないか。
私は「思想」=「生き様・ライフスタイル」と考えるので
「思想」=「その人自身」と考えるので、
「思想」と「人間」を分けれる感覚自体に共感できないけどね
>>647-648 647さん、暇人さん
せっかくご親切なレスをいただいたのにすぐにお返事もせず、
大変失礼致しました。申し訳ありませんでした。
>>647 >
>>646 > 論理の確立を目指すあまり、
> 迷路へ迷い込まないように御注意を・・・w
どうやら、渦中のようです。w
> 健闘を祈ります。
ありがとうございます。
>>648 >
>>646 > 釈尊は 我々の生活実感にピンと来る喩え話で
> 教えを説かれたのではないかと思います。
> 論理はとても大切ですが、
> 私達の実感はもっと大事かもです
ピンとくるのにはやはり地道な毎日の積み重ねかもしれませんね。
「実感」という言葉も、思ったより難しいテーマのように感じました。
これに懲りずこれからもまたよろしくお願いいたします。
(次スレの話題も出ていたようですので、取り急ぎ)
954 :
名無しさん@3周年 :2006/10/15(日) 08:43:26 ID:VLBG8Khx
仏教では神を認めないとするが、神通力とか言う『神』はどう言う訳で『神』というのですか?
イスラム教におけるアッラーのような唯一絶対神ではなく、神道における八百万の神々のような神。
956 :
暇人 :2006/10/15(日) 13:58:44 ID:5ZXjXKo3
>>953 おひさしふり
>>954 「仏教では神を認めない」というのは事実に基づかない妄想の類です。
仏典に一度でも目を通せば、その類の妄想を述べずに済みます。
せめて
岩波文庫「神々との対話」中村元訳程度を読まれてくださいな。
神々が前提にされていることがわかります
>>954 神通力、六神通などの「神」の字は、神様のことではなくて、
「神秘不可思議な」ということだと思います。ちなみに「通」は融通無碍のこと。
958 :
名無しさん@3周年 :2006/10/15(日) 22:12:33 ID:VLBG8Khx
キリスト教の天使のような存在ではないでしょうか?天使にしろ仏教の神にしろ、 これらは、真実に向かっている修行僧(菩薩)のを援助するんですね。
援助はしないだろ。修行はあくまで本人次第。 神は仏陀に説法してくれとお願いするだけだな。
960 :
名無しさん@3周年 :2006/10/15(日) 22:57:22 ID:VLBG8Khx
しかし、神通力の神と、独立して言われる神と何の関係も無い事は無いはずだ。 なぜ仏菩薩は神通力を持つのであろうか?
961 :
素人 :2006/10/15(日) 23:01:58 ID:hC0hzXJR
962 :
素人 :2006/10/15(日) 23:06:52 ID:hC0hzXJR
もう少し言葉を添えようか? 日本(中国も?)では、解釈の際に、 神にも通じる(同等の)力(能力)、神に届く力、神を通した(神の力を借りた)能力、 と言う解釈が為されただけだろw けど、酔ってるからあまり信用するなよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
963 :
名無しさん@3周年 :2006/10/16(月) 00:02:08 ID:7ANcoDPE
天耳:諸天の耳のように、遠い声・小さい声を聞けることであり、
その者の声を聞こうと遍作する。
天眼:天人の眼のように肉眼では見えないような遠い所や、微小な色を見ることが
できることであり、その際にはその色を見ようと遍作する。
>>962 あながち遠くない。酔って書くな。こら。
964 :
素人 :2006/10/16(月) 06:59:43 ID:uLYSFd9v
>>960 >神通力の神と、独立して言われる神と何の関係も無い事は無いはずだ。
>>963 で天耳通・天眼通の例が出たように、漢訳では神さまのことを「天」と訳すのが通例。
神通・通(abhiJJA 証智)、神足・如意足(iddhi-pAda)、どちらの原語にもgodの意味はない。
以上は、漢字「神」そのものにgodの意味があるかどうか、に関する話。
内容としては、天耳通・天眼通が「神の(ような)眼・耳」という点で、関係があると言える。
966 :
極悪ぢぃ :2006/10/17(火) 00:24:48 ID:qTyv+7CO
iddhiは、英語で言えばmagic(魔法・魔術・不思議な力) とかsupernatural power(超自然の力)だよ。 神という概念自体に、「人間を超越したしたもの」というニュアンスが あるのだから、貴方の「神さま」と無関係であっても 漢訳語としての「神」と無関係などとは云えない。
昏睡状態の少女が音に反応しました みなさんのさらなる祈りが必要です 強力お願いします
968 :
名無しさん@3周年 :2006/10/17(火) 23:07:27 ID:SDWbMURb
969 :
名無しさん@3周年 :2006/10/18(水) 08:01:58 ID:G/bjfLkH
ブッダや空諦を悟りその修行する菩薩が、神を必要とする理由は何でしょうか?
970 :
極悪ぢぃ :2006/10/18(水) 08:06:20 ID:Ebz6Icq8
必要というより 神が前提されている時代・地域を 仏教は生きたのだね 969さんは「悟り」を神格化されているのではないだろうか 悟ったブッダも 現代基準からみれば女性差別・職業差別されてますし 完璧ではない
971 :
聖霊大王 :2006/10/18(水) 12:29:15 ID:tkZ2oJWU
972 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 08:03:28 ID:k49t8xHR
■極悪ぢぃさん。どうしただ。フェミニストにかぶれたか。社会党の影響か。若いのう。 世間法と出世間法とをごっちゃにしちゃいかん。大乗仏教の限界か。 ■酒は飲むべきではない。禁酒法で禁止する。──愚かなことです。 禁酒法など作るとろくな事にはならない。世俗法的には禁止すべきではない。 しかし、飲むべきではない。 ■男尊女卑正しいです。男女不平等法。──愚かなことです。 世俗法的には出来るだけ男女平等にしておくことがいいのかも知れない。 ■最近は男女はもともと平等なのだから法律上の不平等は是正すべきであると、 当の女性だけではなく、男の中にも本気で思い込んでいる者が多いことに愕然とする。 女性は仏陀にはなれない。男に生まれるか、女に生まれるかで決定的な差異がある。 とはいえ、行為が問題である。ここの呼吸が分からないか。 ■>悟ったブッダも 現代基準からみれば女性差別・職業差別されてますし完璧ではない たわけた事を。 ■四無所畏智。とは、 (1) 何者が仏陀は正覚していないと非難しても畏れない智慧、 (2) 何者が仏陀は煩悩を滅尽していないと非難しても畏れない智慧、 (3) 仏陀によってこれは障礙の法であるといわれたものが、実はそうでないと 非難されても畏れない智慧、 (4) 仏陀によってこれは輪廻の苦より出離する法であると説かれたものが、実はそうで ないと非難されても畏れない智慧をいう。 ■じいさんや、出直して来なさい。
973 :
極悪ぢぃ :2006/10/19(木) 08:09:43 ID:2k6Zix7D
ん? 世間法と出世間法? なにを頓珍漢なことを(笑) 「四無所畏智」が大乗教養じゃん。 せいぜい倶舎論だね
974 :
極悪ぢぃ :2006/10/19(木) 08:12:10 ID:2k6Zix7D
釈尊は女性の出家を最初拒絶したと伝承にある。 ある種の職業の者に近づくなと職業差別している原始経典がある。 女性出家の拒絶は、「出世間法」だよん。
975 :
極悪ぢぃ :2006/10/19(木) 08:17:16 ID:2k6Zix7D
四無畏の第一は、 非難されても畏れないではなく 「私は正覚者である」と怯まず世間に明言できる勇気だな 以下同じ
なぜ、女性の出家に躊躇したのか? また、釈尊在世当時に、現在知られるような律が整備されたのでなくとも、 (初期の長老たちが、ベターであると判断し保持し(設け)た、意味のあるものとしての) 比丘パーティモッカと比丘尼パーティモッカとを対比し、 なぜそのような条項が設けられたのか? を、慎重に吟味する必要があるんじゃないかい? 差別云々はその後の話だ。
>>966 自分もかつて、六神通の字面から、原語にそれっぽい言葉があるだろうと予想して
調べたことがあった。結果は、すでに三「明」六通という語に表れているように、
vidyAにせよabhijJAにせよ、智慧より生じるもの、という捉え方。
本題の漢字「神」の字義について言うと、
中国仏教ではdevaを訳すとき、(たぶん中国在来の神農などとの差別化をはかるため)
あえて「神」の字は避けて、発音がdevaと近く意味としても相応しいとして、
「天(あるいは天人・天衆など)」と訳したのではないか。
つまり、devaは「天」字で訳し、「神」字は、devaを直接指し示すというより、
広く霊妙不可思議なことの形容として使っているのだ、と。
六神通もdevaというよりbuddhaに備わるもの、という文脈でのことだと思う。
978 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 20:46:50 ID:KN85+2wd
神通力に付いて質問した者です。皆さんありがとうございました。
979 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 20:58:22 ID:KN85+2wd
大乗では方便と言うことが強調されます。方便の無い智慧、智慧のない方便 、これらはあり得ないもののように説かれてたと思います。 智慧と方便はどのような関係にあるんでしょうか、方便とは何でしょうか? これは大乗であって原始経典に有るものではないと言う意見は承知しています。 この方便と神通と関係あるのではないか、と思うのです。
980 :
極悪ぢぃ :2006/10/19(木) 21:39:10 ID:7jwd5jr/
>>976 躊躇ったというより、二度拒否したと伝承にありますね。
私の推測では、
1.釈尊時代は女性出家を拒絶した
2.釈尊死後、自然と出家修行する女性グループが生まれた
3.追認した。追認の時、規定を増やした。
981 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 22:56:21 ID:k49t8xHR
釈尊の養母マハーパジャーパティーは、夫のスッドーダナの死後、出家して仏教教団に入ろう と希望したが、当時は女性の入門は許されていなかったので、釈尊に拒絶された。 しかし彼女の決心は固く、ヤソーダラーなど釈迦族の女性たちとともに髪を切りおとし、釈尊の 滞在していたヴェーサーリーにおもむいた。彼女たちは、遠路をはだしで歩いたので、足は傷だ らけでほこりにまみれ、疲れ切って泣いていた。それを見てアーナンダは気の毒になり、釈尊 に、彼女たちの出家を許可して下さいと懇願した。釈尊は、女性が教団に入るといろいろと好ま しからざる事態が生ずると考え、叔母たちの出家を認めようとしなかった。アーナンダは、それ では女性は悟りを得る能力がないとおっしゃるのですかと質問した。釈尊は、女性も悟る可能性 があると答えた。アーナンダが、それではぜひ出家させてあげて下さいと強く頼んだので、釈尊 も叔母たちの出家を認めることにした。ただし、比丘尼(尼僧)の教団はあくまで比丘の教団に 従属すべきであることを規定した八ヵ条の条件をつけた。 たとえば、いかなる経験をつんだ比丘尼でも新入りの比丘に敬意を払うこと、比丘尼は比丘のい ない場所に滞在してはならぬこと、比丘尼は絶対に比丘を非難してはならぬこと、などである。 これぐらいの事は通俗的な本にも出ているのだから、推測で言っちゃいかん。 尼僧の僧団は釈尊在世中に成立しており、現在は滅亡したと考えられております。はい。
982 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 22:59:51 ID:XFx9jt+c
神通力は通力ともいう。仏菩薩の衆生を救済する無碍自在なはたらきをいう アビンニャ−を訳したものとのこと。通力で逝けば、神に惑わされずに済む。 叡智とは、こういう無碍自在な思考の働きをいうのであろう。
983 :
名無しさん@3周年 :2006/10/19(木) 23:05:12 ID:XFx9jt+c
お釈迦様は智慧と方便とを以って、無碍自在な対機説法を行ったの だと思われます。
984 :
名無しさん@3周年 :2006/10/20(金) 00:02:52 ID:+UBx8bkM
>>982-983 >仏菩薩の衆生を救済
>無碍自在な対機説法
これらの行為は、衆生から執着を取り除く行為でなければならなかったといわなければならないと思います。
どうやって執着を除く事が出来るのでしょうか?
985 :
名無しさん@3周年 :
2006/10/20(金) 02:53:34 ID:YILK3VA5 おもしろいねこのスレ。 一気にレス読んじゃった。 しかしなんだね。あなた方仏教に詳しそうだけど、どうにも仏教勉強するだけじゃあ 人間救われそうにありませんねw