■原始仏教談話室 その3■

このエントリーをはてなブックマークに追加
945名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 01:40:53 ID:q2RXkFhT
中道バカ。お前はもう来るな。頼むからもうこないでくれ。
こいつを相手にしてるやつも来るな。来ないでくれ。
限度というものがある。
946名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 10:12:19 ID:FQFS5nt3
どいつもこいつも、口ばっかり。
947中観派:2006/04/29(土) 12:23:32 ID:NNKMZCPN
>>945
誰か無駄な論議をしすぎないようにするための中道を考えれば、結構スムーズに行くかもな。

948中観派:2006/04/29(土) 12:30:34 ID:NNKMZCPN
>>945
あと、中道を使ってどんな断り方が最適なのかを考えた方がいいよ。
ますます、こういう断り方すると来たくなって逆効果だよ。
949名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 12:43:21 ID:tbfFIKYU
>>944
>理解のほかいったい何を修行するんだい?
 
 理解「気づく」の時点で行動に移さなければならない。今までの間違った行動は
正しい行動により消滅する事になる。これが完全になるまで、智慧の完成と言うもんはないのだ。
 釈尊も中道を悟ってから、それを修行して智慧の完成を果たされたのである。理解が生じたときが
完成ではないのである。
 有身見というものがないならば、苦痛が意味あるだろうか?この苦痛はこの肉対を
損傷するであろうと心配して、その肉体の世話としてその苦痛から逃げなければならないと考えるのだろう?

950名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 12:56:11 ID:tbfFIKYU
>>949
つづき
 色身は相対的にのみ存在する。相対的存在は実体がない。一切は相対的存在だから、
一切に実体はない。一切は空である。
 この真理真実を実現させる為に様々な教えが生ずるのだ。この教えに反する事象は全て捨てる。
この教えに合致する事象は受容する。
951名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 15:56:32 ID:M50GovxS
救世教幹部時代からの光玉先生を慕って世界真光文明教団に移籍してきた
神組み手(元救世信者)達(恵珠含む)は、

「浄霊を真光の業」「おひかりをおみたま」「信仰を神向き」「教祖を教え主」
「信者を組み手」と呼び名を変え、信者に目眩ましさせる作戦だと疑問を持たないだろうか?

952名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 00:29:55 ID:JD1Dd+Wq
>>949
>有身見というものがないならば、苦痛が意味あるだろうか?
>この苦痛はこの肉対を損傷するであろうと心配して、その肉体の
>世話としてその苦痛から逃げなければならないと考えるのだろう

有身見の否定は、無我説を支持する観察方法のひとつである。
それはアートマンではない、それはわがものではない、と教えて
いるだけであって、肉体とアートマンの同意を否定すれば、肉体的痛苦を
否定できるという律は成り立たん。そういった意味では有身見の否定は、
世人が誤って想定するかもしれないところの対象的・客体的などのような
原理(たとえば痛覚)もアートマンではない、という人間観にとどまってる
と思うがね。
953名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 10:25:11 ID:7QNPOHhQ
 いくら頭で否定しても、実際に有るものはあるんではないの。
954名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 15:23:28 ID:8KIgpCMZ
>>593-592
『国訳一切経阿含部一 第一義空経』p257に収録される書き下しです。

是の如く我れ聞きぬ。一時、佛、拘留搜の調牛聚落に住まりたまへり。
爾の時世尊、諸の比丘に告げたまはく、
「我れ今汝等が爲に法を説くべし。初・中・後・善く、
善義善味、純一滿淨にして梵行清白なり。所謂第一義空經なり。
諦に聽き善く思へ。當に汝が爲に説くべし。云何が第一義空經と爲す。
諸の比丘、眼生ずる時來處有ること無く、滅する時去處有ること無し。
是の如く眼は實には而かも生ぜず、生じ已らば盡く滅す。
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。
俗數法をば除く。耳・鼻・舌・身・意も亦是の如く説き俗數法をば除く。
俗數法とは謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る。
無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く、
又復た此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す。
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す。
是の如く廣説し乃至純大苦聚滅す。比丘、是を第一義空法經と名づく」と。
佛此の經を説き已りたまひしに諸の比丘、佛の説かせたまふ所を聞きて、
歡喜し奉行しき。

955名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 15:31:30 ID:8KIgpCMZ
>>594
>諸の比丘、眼生ずる時來處有ること無く、滅する時去處有ること無し。
是の如く眼は實には而かも生ぜず、生じ已らば盡く滅す。
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。

感覚「六根 六境」は本来上の如きものである。これはまさに無自性無実体空
を言うものである。所が、これに識が加わるのだ。

>無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く、
又復た此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す。

 ここにおける識が六根六境に続く六識である。この識は無明より起きているものであるから、
自性のない苦痛を自性あるものと認識してしまうんである。
956名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 15:50:37 ID:8KIgpCMZ
>953
三世はない(過去未来現在)。なぜないのか解ります?
これを徹底しなければならないところ、そうじゃない。
過去の遺物を現在に引きずり未来に持ち越している。それらは縁起しているもの
にも拘わらず、縁起しているものは実体がないと言う般若の智慧を理解せず信ぜず、
縁起している幻に引っ張りまわされているのである。
 しかし、般若の智慧を理解し信じたならば、過去の遺物を受け保つ事無く、未来にも送り届ける事もない。
本当は現在なるものもないのであるから、時間の経過を感じる事無く空の世界・無自性の世界に生きる事になる。
957名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 16:05:16 ID:LE9CpIBD
三世がないなんて言うのは彼岸に逝ってからにしようね。
958名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 16:45:33 ID:c99Mk75y
そうそう
三世は無いと言いながら時間は過ぎ去り老いていく・・・
「三世は無いから俺は老いない、死なんぞー」と言いつつ死んでいく。
959名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 17:24:45 ID:8KIgpCMZ
自分を有身見の支配下においているならね。
960名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 19:02:24 ID:RyQUpcJw
三世があるということは、すでに自分が狂ってるのであって、
三世がないというのは、
狂ってるのに狂ってないと主張すること。
961名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 19:41:19 ID:8KIgpCMZ
三世に付いての議論は以前にも出てきてたよね。
962名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 20:14:25 ID:8KIgpCMZ
>>908
>法友になれるかな・・・発狂は恐いよね。

発狂は怖いです。
 ところでここにあなたの法友這いませんか?

963名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 20:52:41 ID:XJFE4tmY
水野弘元先生の説く霊魂と三世について
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)

「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、
人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、
これを認める。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に
従って常に変化しつつ連続する有為法である。」と。
964名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 22:10:13 ID:8KIgpCMZ
>>963
有身見が人格の主体である。有身見は五蘊に執着するところに生じる妄想である。
965名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 22:16:32 ID:8KIgpCMZ
>>964
取り消しします。
966名無しさん@3周年:2006/05/01(月) 22:20:14 ID:7DpL0/Dd
仏教を学ぶ人達も連休の誘惑には勝てなくて、お休みか?
967名無しさん@3周年:2006/05/01(月) 22:23:23 ID:7DpL0/Dd
頭髪に火がついてそれを急いで振り払う様に、その様に仏教を学ぶべきものを。
睡眠は悪。食物は悪。解脱する以外に何の楽しみあがろうか?・・・・言うことだけは自由か
968名無しさん@3周年:2006/05/01(月) 23:47:37 ID:AMVqHfsj
連休嬉しいんだが
最初の日に散々寝て、好きなもん食って、やること無いとやっぱり2日くらいで飽きる。
969名無しさん@3周年:2006/05/01(月) 23:52:31 ID:+LTA28s7
俺は3,4,5しか休みない。全然嬉しくないぞ・・・
970名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 02:01:38 ID:U1wtsQ1z
原始仏教に興味もってるひとって職業何?
ちなみに俺はふつうのリーマン。経済学部出身。
971名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 12:53:22 ID:yU3xXP+o
>>942 痛みを感じている肉体は我ではない。
私の足が踏まれて痛かったら、怒りを感じる。
足も痛みも自分のものではない。
972名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 13:46:46 ID:aQbJn+Ep
凡夫は汗水流して働くのが恒である。
徳有る者にのみ、有閑は約束される。
973名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 19:50:07 ID:5WrH5l9H
>>972
> 徳有る者にのみ

徳とはどんなものでしょうか?
974名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 21:10:56 ID:kIkqF2+O
>徳とはどんなものでしょうか?

仏法を学ぶことに絶えず意識が向かうような境地にあること。
例えば、世間的価値において、あの人は働き者だと寸暇を惜し
んで働くような評判の良い人がいたとしても、くたくたに疲れ
果てるまで働いて、あとは石の如く眠るだけという人生では、
仏法を学ぶことに意識は向かうべくもありません。
975中観派:2006/05/02(火) 21:23:45 ID:NivN2MJc
>>971
もっと、現実的に考えましょうよ。病気のときや事故にあって骨折するとき痛み
があることは事実です。無我だから、私には痛みがないなんて通用しませんよ。
976名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 23:17:40 ID:5WrH5l9H
>>975
大乗経典(般若、法華、涅槃等)においては、空諦を実行する人は、戦場においても、
いかなる刃物・矢の被害を受けない、といってる。
 俺も何度も殺されているが、何とかやり過ごしていると思っているのだがなW。
977名無しさん@3周年:2006/05/02(火) 23:31:26 ID:5WrH5l9H
>>974
あなたは仏教に心が向いていると思います。
978一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/02(火) 23:58:56 ID:BnVKdBXK
仏の四つの説き方について
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)

「仏が人々に法を説かれる場合には、相手の智慧経験の
高下浅深によって、同じ教理を示すにしても、その説き方を
違えられた。(四悉檀、中略)最後の第一義悉檀とは、右の
ような方便施設を用いず、高い智慧や能力のある者に対して、
仏法の第一義的な真実義をそのまま説かれることである。」

長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗の為に説かれたという
設定になっております。
真実義の可能性が高いように思いますが如何でしょうか。

他の経典の多くは、最初から比丘やバラモンや神(夜叉含む)に
説かれたという設定ですので、方便の悉檀とみなして宜しいのでは
ないでしょうか。
979名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 00:03:21 ID:iDSlF7EK
目の前の仕事に集中して働く事そのものが禅です。
980名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 00:05:25 ID:IvvKqvPB
>>978
> 舎利弗の為に説かれたという設定

どう読んでも違うだろw
981一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 00:12:46 ID:Gb9gfcfC
体験のない者には理解されない
出典:「仏教要語の基礎知識」水野弘元著(春秋社)

「仏教は一般の学問のようにたんなる知識の面だけでなく、
信仰の実践という体験とか悟りとかの面があり、(中略)
いかにやさしい言葉で表現しても、体験のない者には理解
されないことになる。」

長部経典の中でも、過去世を正確に読む「宿世通」という
神通力が説かれており、正しい精神統一を行えた修行者は
過去世を思い出すと易しい言葉で表現されております。

でも体験のない者や、現実主義者には理解されないのかも
知れません。

釈尊自身が成道直後に、説いても徒労に終わるであろうとて、
説法を躊躇されたのも、常識とは違っていたからのようです。
982名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 00:16:30 ID:GXoqjo5M
>>981
> 釈尊自身が成道直後に、説いても徒労に終わるであろうとて、
> 説法を躊躇されたのも、常識とは違っていたからのようです。

神通力が理解し難いからじゃねーだろw
縁起・無常・無我が理解しがたいもの、
当時の常識と異質なものだったからだろw
983一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 00:17:53 ID:Gb9gfcfC
>長部経典の中でも、「自歓喜経」は舎利弗の為に説かれたという
>設定になっております。

より正確には、「自歓喜経」では舎利弗に説かれた説法を、舎利弗が
リピートし、釈尊が保証したという設定になっております。
984一在家 ◆03gfAyqM2A :2006/05/03(水) 00:26:52 ID:Gb9gfcfC
>神通力が理解し難いからじゃねーだろw
>縁起・無常・無我が理解しがたいもの、
>当時の常識と異質なものだったからだろw

さて、三世は現代の常識とは異質でしょうか?

当時は常識だったようですので、因果応報、縁起も理解し易かったのでは
ないでしょうか。

それでも、体験が無ければ「三世」すら真の理解が難しかったのでしょう。

985名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 12:15:17 ID:cp8ETh3p
>目の前の仕事に集中して働く事そのものが禅です。

戦争で目の前の敵を集中して殺戮することも、集中した任務遂行です。
986名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 12:18:46 ID:Z1InOhu1
空・無常・無が、が理解しがたいのではなく、それを実行し難いのであるとおもます。
いや、実行し難いと言う事は、理解しがたいと言う事になろうか?
 
 「私の悟ったこの真理は、見難く,難解であり、静まり,絶妙であり,思考の域を超え
,微妙であり,賢者のみ良く知るところである。所がこの世の人々は,執着のこだわりを楽しみ
執着のこだわりにふけり,執着のこだわりをうれしがっている。さて執着のこだわりを楽しみ,
執着のこだわりにふけり,執着のこだわりを嬉しがっている人々には,(これを条件として彼があると言うこと)
即ち縁起と言う道理は見がたい。又全ての形成さ用の静まること,すべての執着を捨て去る事,妄執の消滅
貪欲を離れる事,止滅,安らぎ(ニルバーナ)というこの道理もまた見がたい。だから私が理法(教え)を説いたとしても
もし他の人が私の言うことを理解してくれなければ,私には疲労が残るだけだ。私には憂慮があるだけだ)と。
          サンユッタニカーヤ 梵天に間する集成
987暇人:2006/05/03(水) 17:01:26 ID:/V2lSPQc
988名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 00:49:18 ID:p9kJHAoM
      _, ,_     
    (  ゚∀゚) < 乙
    ( つ旦0   
    と__)__)
989名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 01:02:44 ID:ZjozGCad
>>985
もちろん。縁があれば。
990名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 12:50:43 ID:nRhkMOUS
>>975 怪我して痛いのはあたりまえ。
痛みを消したければ治療すればよい。
治療してもすぐに痛みが消えない場合には、
痛みを受け入れるしかない。
消せない痛みを消したいと嘆くなら、中道ではない。
991中観派:2006/05/04(木) 13:10:25 ID:r0jgwmoE
すべて楽で痛みをなくす方に行こうとするととても苦に敏感になってしまい、
さらに大きい苦を味わうことになることを身をもって知りました。
自分の敏感症を治す方法として、ヴィッパサーナ瞑想のように痛みを感じたら、
「痛み」とラベリングし、それでも苦痛を感じ、痛みをなくしたいと思うなら、
痛みを治すことに集中する方法がいいのではないかと思いました。
この方法は小さな痛みをあまり気にしないので集中力が付くと思いました。
果たしてこの方法は集中力を付けるのにもっとも適した方法なのですか?
教えてください。
992名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 16:07:29 ID:RP/wv09Q
993名無しさん@3周年:2006/05/05(金) 02:13:59 ID:hxARJZ0G
>>991 ヴィパッサナー(観察)ために集中力をつけるのであって、
集中力をつけるのが目的ではないでしょう。
994中観派
>>993
そうですね。