如来浄華の聖衆は 正覚のはなより化生して
衆生の願楽ことごとく すみやかにとく満足す
天人不動の聖衆は 弘誓の智海より生ず
心業の功徳清浄にて 虚空のごとく差別なし
954 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 12:23:48 ID:91jCLO5W
哲学とは所与の世界が何らかの原因によって崩壊した後に現れる思考の運動である。哲学的
認識とは知的に世界を再構成することであり、それは失われた自己自身の復元作業である。
この運動の論理的帰結は「無知の知」である。何故なら、世界に属する者が世界を超えることは
できず、自己から派生した精神が自己自身を超えることはできないから。しかし何らかの「否定」
によって出発した精神の運動は止まず、それは積極性なき否定となる。
信仰とはまさしくこの人間が人間であるが故に抱える自家撞着の切断としてある。信仰とは
哲学的認識の放棄であり、認識された世界の放棄であり、自己自身の放棄である。つまり、
信仰にあるとき、人は見るものから見られるものになり、規定するものから規定されるもの
へと遷移する。人は信仰によって見る主体としては死に、同時に見る主体によって構成された
自己の死という境界もまた消え去るが故に、永遠の生命として生まれ変わる。
この信仰の場から発せられる記述が神学であり、その記述において哲学が援用されてもそれは
あくまでも信仰の周辺としての学に留まる。哲学の役目とは人間知性を「無知の知」に導くことに
あり、あくまでも消極的なものであり、それは神学の婢としてこそ意義を持つ。
955 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 13:07:40 ID:xMxQGbeU
↑
('・ω・`)「アポ」
956 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 13:47:15 ID:fhBIsacu
哲学とはニーチェが語ったように、世界に対する怨念から発するものである。自足した
幸福な世界が何らかの要因で崩壊したとき、哲学的思考が始まるのだ。そして、人間に
とってその究極的な「否定」とは自らの死である。だから、ヘーゲルは人間精神の遍歴の
最初に闘争の中で自らの死を恐れた"奴"を見出し、"奴"を主人公とした物語を語った。
奴の思考とは自らの死の恐怖であり、どこまでもそれを中心に回転する。そして、ヘーゲルの
絶対精神とは自らの死を再び認識し、受け入れた主体である。
それに対して信仰とは何だろうか?信仰するものは自己を乗り越えない。彼は絶対精神
などではない。しかし、所与の世界との直接的且つ肯定的関係は崩れ去っている。彼は
全く別の存在と、所与の世界ではない何ものかとの関係において彼自身となっている。
↑
('・ω・`)「アポ」
958 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:05:23 ID:fhBIsacu
信仰とは神との関係であり、神との関係とは永遠との関係です。この世における関係において
死に、神との関係において生きるというのが信仰ということですから、それは永遠の生命なのです。
また、死とは「我」の死であり、「我」は自己自身への関係であり、だからこそ恐怖としてではなく、
認識として「私の死」をそこに見出します。信仰とはその「我」の運動(死に至る病)の停止ですから、
死という境界線もまた消え去るのです。
959 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:14:04 ID:fhBIsacu
信仰の対極にあるのがプラトンのイデア論である。プラトンはソクラテスが開示した空虚に
詰め物をした。以来、哲学とはその詰め物探しとされてきたわけだ。しかし、そういったイデア
的なものを人間が掴み取ることは永久に不可能であり、人間とはまさにイデア的なものを
失ったがために自己なのである。
信仰に入るためには自らの内に空虚を持たなければならない。
「心の貧しきものは幸いなり」
そのとき、啓示は向こうからやってくる。
960 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:17:13 ID:fhBIsacu
今日の我々にとって「真実」とは何でしょうか?プラトン的な、思索の奥底に隠されているイデアでしょうか。
誰もが認めるところの権威でしょうか。違います。現代の我々の「真実」とは、新聞、テレビといったメディアです。
そして、インターネットの大規模な普及でこの新聞時代が変わろうとしています。
ルターは「神の前に唯一人立つ」といいました。これは聖書が翻訳され、誰にでも読める時代の到来を意味してます。
プロテスタントはカソリックと違い多くの宗派に分裂してますが、ある程度共通に見られる特徴として、「聖書主義」が
あります。神父という特別な人間を通さずに、聖書の言葉に直接触れるというのがプロテスタントの基本的姿勢です。
これが聖書の代わりに新聞を読む時代に移行しました。人々は自分自身がどこにいて、なぜそこにいるのか、そして
次にどこへ行くべきか、新聞を読んで判断するのです。不思議なことに、新聞を読む者は自分だけではなく皆が新聞を
読んでいると考えています。何故か皆と認識を共有していると考えるのです。
961 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:29:26 ID:xMxQGbeU
↑
('・ω・`)「あっぽ」
962 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:40:27 ID:fhBIsacu
この、皆がそうであろうと考えることによって成立している何か、これが我々を規定している
ものです。そして、近代的思考とは具体的に誰にも等身大の視点で関わることをしてない
にも関わらず、何かを共有していると錯覚し続けることで成り立ってます。
キルケゴールはこれを「公衆」と呼びました。これは具体的な人間集団を指しません。むしろ
集団を規定する、集団の関係性そのもののあり方を指す言葉です。そして、我々はこの公衆の
言説に引きずられる形で生活を営んでます。
963 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:44:05 ID:fhBIsacu
我々を律する絶対的なものはもはや崩壊し、現実の中にありながら現実を対象化=批判するが、しかしその認識もまた
将来には骨董品となり、批評にさらされるというわけです。
「人間はこの程度のもの」というのは、今では民主制度がある程度発展した社会においては常識となってます。20世紀
には革命があり、人間は自らを自らの手で完全に認識し、律することができるのではないかという空想がありましたが、
それは完全に失敗しました。しかし、一方で近代的人間の誕生以前にあったとされる不動の超越的視点は不在のまま
であり、また新しくそのようなものを持ち出すのは失敗の繰り返しだとされてます。
ニーチェはこのような状況にある人間を「最後の人間」と呼びました。適度に利口で、無理をせず、現状に不満を持つが
そこそこの改善でよしとする、つまりはこれ以上現実というものが根本から変化することはもう無いという考えの人間。
これはまた、「歴史の終わり」でもあります。
964 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:46:14 ID:fhBIsacu
自己を対象化すること、これが認識の運動であり、近代においてはそれを支える超越的支柱が不在のため、
無限に続く循環運動である。そして認識とは既に終わったことの認識であり、本質として追憶である。行為
とは認識ではない。例えばカント哲学の"実践"理性。
ヘーゲルは正当にも「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」と語った。人々の認識にある世界状況、自己の状況が
はっきりと輪郭を持つとき、その現実は既に通り過ぎている。認識している主体自身は別の場所にいるし、
そうでなければ認識はできない。
だから、ヘーゲルが歴史を語るとき、必然的にそれは歴史の終わりから語ることになる。近代において
歴史は絶えず終わったといわれ続け、今も言われているし、これからも言われるだろう。
それに対して、信仰とはどうだろうか?信仰とは常に行為である。それは認識以前であり、常に前方への
飛躍である。発生してしまったことを知るのではなく、それは"発生する"のだ。だから信仰は常に出発点である。
信仰とは自己自身に立ち戻ることであり、新しく始めることである。だからそれは常に新しいが反復である。
965 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:48:28 ID:fhBIsacu
哲学とは終わりからの記述である。「はじめに終わりあり」これが哲学だ。哲学はそこから遡行した物語を
記述することである。それは映画の編集のようなものだ。撮影の現場では様々な出来事が不意打ちのように
発生し、思いがけない俳優の個性によって物語のニュアンスに変化が出たりするものだ。しかし、撮影後に
編集するときは、全てが必然として捉えられる。編集者は終わりにいる。
信仰は逆に始まりなのである。それは到達点ではなく出発点に戻ることだ。信仰するものは知らない、知らない
ということが何かを心得ている。しかし彼は神との関係を信じているが故に知らないまま出発点に立つことができる。
この絶対的関係が無ければ、彼はすぐさま回れ右をしてしまうだろう。誰が知らないままに第一原因となるだろうか、
誰が知らないままに自己自身であろうとするだろうか。
966 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:50:56 ID:xMxQGbeU
↑
('・ω・`)「てぃめェ!頭悪ぃんじゃゴるラァァ!」
967 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:51:54 ID:fhBIsacu
カント以降なんでしょうか、キリスト教を理性の批判にかけるというのは実際にあったわけです。また、
カント的な理性主義の裏側にはロマン派がいるわけで、実践理性的な命令と、心情的な神との
結合という構図で語られる神学というものもあったわけですね。そういう意味での哲学によって
語られた信仰というものはあった。ヘーゲルなどはロマン派的なものを哲学的理性の側に回収
する哲学を展開したわけです。
しかし、それらは皆人間の側からの、近代的人間の視点に神を回収する作業ですね。それを
「語りえない」領域として語るとしても、あくまでもそれは人間を軸としています。しかし、「信仰」とは
その逆の行為なのです。神を軸とした世界への参入であり、自己が非中心化する体験です。それを
強調したのが、キルケゴールからカールバルトなどの系列でしょう。
968 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 14:55:03 ID:xMxQGbeU
↑
('・ω・`)「あぽん」
969 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:11:39 ID:fhBIsacu
哲学は何のためにあるのか?という問いに対して、哲学とは無意味であるというのが正しい答えです。
しかしこれは、「あなたは何故生きているのか?」という問いに対して、「生きている意味は無い」という
回答と等価という意味で、哲学は無意味なのです。
意味は関係によって生じます。今日、マスメディアはそれを視聴する人間が関係している=社会的
であることを空想されるために機能します。しかしそれはその場限りの、「今日の関係」であることを
皆知っており、当座の「無意味さ」の回避として利用されてます。
例えば、今日保守主義とはこの「その場限り」をやめようという主張です。かつて共同体は普遍的な
意味を構成員に与えていたではないか、皆それを信じていたではないか、そういった現代のような
利口さが蔓延るところでは単なる偏見でしかないもの、それこそが人間を人生を充実させるのだ、と。
しかし、そんな主張とは全く無関係に、全く無視する形で、そして有無を言わせぬ形でそういった
「偏見」さはメディアに乗せられ、相対化され、ウィンドーケースに並ぶ商品と同じ扱いとされて
しまうのです。
970 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:12:58 ID:fhBIsacu
だから、哲学は人生の無意味さを提示しなければならず、それは哲学自身の否定として、自らの
無意味さの開示としての思考でなければならない。
人間が人間自身によって自らに意味をもたらすことの不可能性を開示すること、これが哲学の
役割だ。哲学は無邪気な喜びの顔に泥を塗ることであり、皆を白けさせ、不幸にすることであり、
そして、そういった思考自身もまた意味も無く、しかし必然的に到来するものであることを語るのだ。
哲学はだから到達点を示してはならず、そのようなものがどこにもないことを立証し、何を人間が
行おうとも全ては戯れに終わることを示す。目標を示し、何かよきものが思考の果てにあることを
匂わせ、人を励ますような思考は哲学ではない。
971 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:14:19 ID:fhBIsacu
信仰に至る道は狭い。それはそこを歩く人間一人だけが通れる幅しかない道である。
この道の行き先は見えず、歩む人間もまた知らされてない。ただひたすらこの道を
歩んでいるという事実だけが存在する。
しかし、ふと少し後ろをみると一本だった道が複数になっているのだ。しかも前方は
殺風景だが、その違う道は非常に見通しがよく、楽しげなのである。そちらに道を
変えてみる。すると、何故かしばらくたつと元に戻ってきている。
972 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:17:40 ID:fhBIsacu
信仰への道が何故か一人分の幅しかないというのは重要だ。2人以上の人間皆で信仰に入るなんていうのは
形容矛盾である。しかし、信仰とは無関係な道は広く、そこは多くの人で賑わい、そこにも信仰まがいのものも
ある。そこでは全てが単独ではなく、一般的であり、一般的だからこそ力を持つ。広い通りでは「皆で信じる」という
のが決定的に重要なのだ。
しかし、信仰に至る細い道では全く逆である。一般性はなく(当たり前だ、自己だけなのだから!)隣の人に
噂を確認することもできず、単独の人間が決断しなければならない。一般性は跡形もなく枯れ果てている。
しかし、噂も聞かずに、一般性への照会もせずにどうして信じることができようか?だから、信仰とは啓示であり、
それは向こうからやってくるのだ。それは主体的行為であるが、同時に非主体的である。
973 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:20:11 ID:T8SkZNF/
哲学はその言説によって一般性を枯らすものでなければならない。何も照会できるものが無いことを
開示しなければならない。哲学は、自己自身を忘れるための喧騒から引き戻し、人を単独にし、そこに
おいて人に矛盾を強いるものでなければならない。
974 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:31:52 ID:xMxQGbeU
↑
('・ω・`)「あーほ あーほ」
ある時釈尊に、一人の弟子が、
「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、死人が善い所へ
生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」
と、尋ねました。
その時釈尊は、黙って小石を1個拾われて、近くの池の中に
投げられました。
水面に輪を描いて沈んでいった石を指さして、
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱え
ながらまわれば、石は浮いてくるであろうか」
と、釈尊は反問せられました。
976 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 15:52:17 ID:vrFK3VGH
↑
('・ω・`)「あーほ あーほ」
石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。
人間もまた自業自得によって、死後の果報が定まるのだ。
経文を読んで死人の果報が変わる筈がないではないか。
というのが釈尊の教えであります。
読経や儀式で死者が救われるという迷信は、もともと仏教
にはなかったのです。
それどころか、そのような世間的な迷信を打ち破って、生
きている間に本当の幸福に導くのが仏教の目的なのです。
978 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 16:12:51 ID:TUVqeGPc
↑
('・ω・`)「てぃめェ!頭悪ぃんじゃゴるラァァ!」
お経は、釈尊が苦しみ悩んでいる生きた人間を幸福にする為に、
説かれた説法を弟子達が後世の人達の為に書き遺したものであり
死人に説法されたものは一つもありません。
980 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 18:32:00 ID:6pyvk4cJ
''';;';';;'';;;,., ザッザッザ・・・
''';;';'';';''';;'';;;,., ザッザッザ・・・
;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
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vy;vy;v:yy;vy;v;yv;yv、
うんこスレと聞いて λVv vλ v;y v Vv vλv;y λv、
参りました λ Λ __ λ_ Λ _ヘ λ λ ヘ__ λ_ヘ λ λ
人 人 λ 人 人 人 __λ人 人 人
人 人 人 人 人 人 人 人 人
人(__人(_人 ) 人 (人.人__).人___) 人( 人
(__)__(__)_(__)(__)(__)__) (__)__(__)(__)
(__)(__(__)___(__)__)(__)(__)__)
( ・∀・ ( ・∀( ・∀・ )∀( ・∀・ )・( ・∀・ ) ・∀・ )∀・ )
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│ 次スレ誘導して! |
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>>942 親鸞の真筆本を見たが、南无阿弥陀仏と書いてある例は、見つからなかった。
ほとんど南無阿弥陀仏と書いている。
文書類でも、南無阿弥陀仏と書かずに、南无阿弥陀仏と書くように示している文章は無い。
不可思議光仏・無碍光仏も、「无」を賞賛しているなどと、そんな議論があったなどという話は聞いたこともない。
無がいいか、无と書くべきかなどは些末な議論。そんな些末な議論を蓮如がするとは思えない。
弟子がそのような、非本質的な議論を書き残しているとも思えない。
本願寺出版社の、御一代記聞書の現代語版は、間違いだと僕は思う。
本願寺出版社には、教学の分かる人がいないんだろうと、僕は思う。
俺個人で言えば、2chにきだして喜怒哀楽の幅が狭くなった。
「しね」とか見ても心が痛まなくなった
熱くなってる人を冷めた目で見るようになった
犯行に走るとかのレベルで悪影響受ける輩は少なくても、俺みたいなヤツは少なくないと思う
些細なようでそれが一番危険な気がする
>>942 親鸞の真筆本を見たが、南无阿弥陀仏と書いてある例は、見つからなかった。
ほとんど南無阿弥陀仏と書いている。
文書類でも、南無阿弥陀仏と書かずに、南无阿弥陀仏と書くように示している文章は無い。
不可思議光仏・無碍光仏も、「无」を賞賛しているなどと、そんな議論があったなどという話は聞いたこともない。
無がいいか、无と書くべきかなどは些末な議論。そんな些末な議論を蓮如がするとは思えない。
弟子がそのような、非本質的な議論を書き残しているとも思えない。
本願寺出版社の、御一代記聞書の現代語版は、間違いだと僕は思う。
本願寺出版社には、教学の分かる人がいないんだろうと、僕は思う。
引用ミスorz
988 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 21:05:35 ID:EMG6NeqE
>>984 この議論は、僕の方はこれで打ち切りたい。
989 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 21:09:57 ID:2uHGX2Eh
匿名状態になると人間ってのは大胆になるらしいな
まぁ自分の発言に責任持たなくていいわけだし
そりゃ○○人氏ねとか平気で言えますよ
>>947 例外はあるかもしれないけど、たいがい「无」だよ
教行信証の真筆本も「无」になってる
四字名号が一般的だったのを親鸞聖人が六字名号としたと言う仮説が正しいかどうかはわからん
しかし御一代聞書の例の文を、その証拠とするのは不適当であると思う
聞書の例の文中でも「南无」と「南無」が使い分けられているし、異本では「南无の无の字」と書かれているからね
ただ、親鸞聖人が選択集を授けられたとき、同時に写した真影に法然上人自身が
「南無阿弥陀仏」
と書かれていることを考えれば、掛け軸に六字名号を書く様式はあったと考えるべきかもしれない
この点、調べればおもしろそうだ
991 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 21:19:29 ID:aSq1IVaB
无の字の謂れも知らんのか・・・。
992 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 21:24:58 ID:2uHGX2Eh
自分も以前現実より2chの方が楽しい、なんて時期があったけど、今思うと
バカみたいとしか思わんよ。
そこまで2chにはまって得た物なんて、2ch語くらいなもの。
今はもうはまりたい人は自由にどうぞという感じ。
>>991 古字は「无」で「無」は新字って話しですな
親鸞聖人が「无」の字をつかった謂われは知らないので拝聴しましょう
ググった結果
浄土真宗の「なもあみだぶつ」ですが、「なも」には根拠があります。
平安時代のまでの音は「ナム」又は「ナモ」です。
現在の国語学でわかっていることは、「无」から成立した仮名「ん」を
「ム」とも「モ」とも読ませていたということです。
根拠となる用例は、『源氏物語』には「なも当来導師」、『栄花物語』「鳥の舞」
「なもと拝み奉れば、口は異なれども、声は同じく聞こえて、」、など音が仮名書きされたものがあります。
また、黒川本『色葉字類抄』には「南無 仏法部 ナムモ」、とあります。
平安時代中期では「ナモ」の方が「ナム」より一般的だったようです。
京都を中心とした機内地方では、この平安時代中期の音が以降も完成された一つの規範として強く残ります。
したがって、「南无阿彌陀仏」は「なもあみだぶつ」で継承されるわけです。
ttp://www.kosaiji.org/bodhi/log/bodhi_5_201-300.htm
995 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 21:42:36 ID:2uHGX2Eh
あんなに面白かったのに、今では、当時2ちゃんしてた時間を全部
返して欲しいとすら思う…。
長時間やってたわけじゃないけどトータルだと結構な時間になると思うし。
面白くても所詮ヴァーチャルだからね。テレビゲームをした後の虚しさに似てる。
絶対の幸福を知らずに終える人生の虚しさほどではありませんがね
997 :
名無しさん@3周年:2006/05/12(金) 22:02:23 ID:2uHGX2Eh
2chは、好きな世界ではありませんね。
特殊な用語を使い、狭い限られた考え方の人が集まっているように感じます。
私は、基本的に、相手が目の前にいるつもりで書きますし、
そういう普通の言葉を使いたいと思っています。
しかし、そういう系統の人も受け入れますので、
掲示板の書き込みは、流動的なので何とも言えませんが、
男性の2ch派の人が増えますと、普通に書き込みしたい女性の方等は、
裏の掲示板を使ったり、書き込みにくくなってしまうという声を聞きます。
やはり、2chも多様性の一つのあり方かも知れませんが、
普通の言葉で、普通の交わりをするような気持で書き込みが出来るのが
いいなーと、最近感じます。
これからもまた、よろしくお願いします。
銀河鉄道999
1000なら俺は信心決定する
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。