>>619 自我と我と言うのは違うと言う思うけどね。
自我は日常生活を送るための機構。
我とは、その自我を実体として捉える思い込みだ。
僕はあるともないとも考えてないし、あってもなくとも困らん。
問題にならんのよ。。
>>620 確かめるのは容易だけどな。
自分を捉えなければいいだけで・・「これが自分だ」という意識が生じても、すぐ忘れていけば、無我のまま生活できる。
あるいは、坐ってるときとかね・・坐らなくとも、何にも考えてなかったら、我もないし。。
あたりまえなことだけどな。。
技法と言ったって、それを捨てないと、我なしの状態にならないでしょう。
我ががんばってるときに、どうして無我が見えるんでしょ?
>>622 僕にとってはあってもなくても同じなんだが。。w
628 :
Ron:2010/11/18(木) 20:02:48 ID:uagCq2Fs
>>621 坐っていると、自己を意識しない状態があたりまえになって、意識してそれが生じたときに、あれ??っとなる。。
発生の原理がわかれば、もともとないということにも気づく。
意識したものを「自分である」と思い込むことによって、作り出されるのだから、幻想なのよ、要するに。。
こんなんあたりまえなことだけどなー。。
629 :
Ron:2010/11/18(木) 20:06:53 ID:uagCq2Fs
肉体の運動、感情、想い、これらを自分のもの、自己と思い込むことによって、発生する、私と言う意識が。。
別に、あったらまずいというわけではないが、幻想なのよ。。
身体的現象、心的現象はある。しかし、「私の体」とか「私の心」というのは、それにレッテルを貼って、自分と思い込んでいるわけだ。。
そっちは幻のようなものだ。
>>629 そのつぎはなんですか?
悟りはそこで終わりですか?
悟った方ですか?
631 :
Ron:2010/11/18(木) 21:12:51 ID:uagCq2Fs
悟りとは今にしかないんだよ。
と言うか迷悟は関係ない。
今にしか真実はない、次のステップがどうのとか思うことによって、おかしくなるんだよ。
632 :
Ron:2010/11/18(木) 21:19:40 ID:uagCq2Fs
悟ってる迷ってるとか余計ごと。
今本当にあるものはなんだ?
あるものだけ相手にしていれば迷いがないんだよ。
迷いとか悟りとか考え出すからおかしくなる。。
ではあなたは迷いも悩みもないんですか?
>>624 ビッチというよりも天然という感じがします
SPとかよく分からないから調べたけどやっぱり分からなかった
体験談とかならいっぱい出てくる
いわゆる瞑想のようなものでしょうか?
635 :
Ron:2010/11/18(木) 22:27:40 ID:uagCq2Fs
>>633 迷いなんて誰にもないよ。
これが迷いだと本人が思わなければいいだけ。
悩みはないけど、別に悩むときがあってもいいと思うし、なくそうとか思わない。
喜怒哀楽、楽しいとき苦しいとき、その時々の状態があるだけ。
>>635 >これが迷いだと本人が思わなければいいだけ。
それができてるならようするに迷いはないですよね。
できてるなら大したものですね。
637 :
神も仏も名無しさん:2010/11/18(木) 22:55:49 ID:REQwSZ4l
638 :
神も仏も名無しさん:2010/11/18(木) 23:33:07 ID:e7QQ4SpC
バーナデット出てこない。。。
あと、誰が誰だかわからんから全員、仮コテつけて。。。
>>624 >眼とは、何の例えですか?
>>561でも書いたけど、「方向のない注意」のことです。
>>「悟れると言われている技法を試している人」と「悟り」は同じ
>>「悟れると言われている技法を試している自分」がいるかぎり悟れない。
>この二つの矛盾した話が、私には、よく分からないです。
>できれば、この辺りを、もう少し詳しく説明してください。
私が金魚を見ている、近所の子供の声を聞いている、テレビを見ている、
爪を切っている、明日の予定を考えている、
対象は違うけれど、向けているのはどれに対しても同じ「注意」。
でも、注意は、方向がなければ、対象がなければ現れられない。
注意が、注意自身に向いているのはSP。注意が注意に気づいてること。
かたちやイメージはないけど、注意があることはわかる。
そして、「注意が注意に気づいていると気づいている私」もまた注意の現れの対象のひとつ。
元々は方向のない注意だった。
対象はその主体を見ることはできない。客体は主体に依存してる。
方向のない注意は方向を持たない。そこには客体は存在しない。
よって、「悟れると言われている技法を試している人」は存在しない。
方向のない注意は、方向のない注意のままではそれを見ることはできない。
ということを言いたかった。
>あの人は、ほうざんさんですから(これが、私の唯一の洞察です(笑)
>ま、そんなことは、どっちゃでもええわけですが。
え? そうなの? ほんとう? びっくり。
てか、もしかしたらあなたも?? もう疑心暗鬼。
誰がだれやら誰がだれでないやら・・。w
>>638 あと、誰が誰だかわからんから全員、仮コテつけて。。。
下げてコテが、自分のPCではできない。前はできたような・・・。
半角sage以外の文字を入れても表示されない。しかも上がる。
なにかやりかたがあるのかな。
641 :
神も仏も名無しさん:2010/11/20(土) 07:02:26 ID:TdiLK73N
>>639 説明有難うございます。
えっと、眼とは、「方向のない注意」の例え。眼は眼を見ることはできない。ということですね。
>注意が、注意自身に向いているのはSP。注意が注意に気づいてること。
この場合の注意自身というのは、「方向のない注意」ですか?
であるならば、注意が、方向のない注意に向いてるのがSP「ではない」です。
注意自身を、見ることはできないので・・・・。その辺り、意味伝わりますかね??
眼は、眼を見ることはできない。それは、眼が眼自身を見れないと言う意味でなくて、
この場合の眼は、眼の機能がないからです。見る機能はないし、見られることもない。
眼はただ在るだけです。在ると言うから、意味が伝わらないのかな。
眼はない。注意自身はない。主体はない。ない。ないんです(笑)
>かたちやイメージはないけど、注意があることはわかる。
「方向のない注意があると想像していること」があるだけです。
だから、ないんですね。この辺は「あるんだか、ないんだか」みたいなところですけどww
SPをしてる人(方向のある注意)が「方向の“ある”注意」に向いているのが、SPです。
SP(方向のある注意)は本当の主体の自分ではないですね。それを見る。
ある意味、本当の自分自身でない物を見ていくことによって、本当の自分が現れる。それがSPです。
>え? そうなの? ほんとう? びっくり。
いや、私が勝手にそう思ってただけなので・・・^^;;;
642 :
神も仏も名無しさん:2010/11/20(土) 07:03:49 ID:TdiLK73N
>>638 コテは・・・名前何にしようかな~~という事だけで、一ヶ月くらい悩むw
無我の境地って、この世界のことじゃね?
我が無いと思う世界。ゆえに心も肉体も物も世界もある、みたいな。
>>641 >>注意が、注意自身に向いているのはSP。注意が注意に気づいてること。
>この場合の注意自身というのは、「方向のない注意」ですか?
「金魚やテレビや思考に向かっている注意」に気づいている注意、という意味です。
>注意自身を、見ることはできないので・・・・。その辺り、意味伝わりますかね??
それはわかります。
>眼はない。注意自身はない。主体はない。ない。ないんです(笑)
最初から、あなたの誤読でもなんでもなく、スタンスの違いというか、
立ち位置が違っていたみたいですね。
「ない。」と断言できるだけの説得力のある根拠を、あなたはお持ちなのだろうと思います。
私には、あるのかないのかはわかりません。主体がある、ないというより、
主体がないということで在りえる何かがあるのではないか、と想像するしかないわけです。
ないならないで、それでは困るというわけではないですが、
それならば、厳然としてある、自分のこの意識はなんなのだろうという疑問は、
今の自分にはどこまでも残る。
>SP(方向のある注意)は本当の主体の自分ではないですね。それを見る。
>ある意味、本当の自分自身でない物を見ていくことによって、本当の自分が現れる。それがSPです。
ここらあたり矛盾を感じるのですが。
「主体はない」けど「本当の自分が現れる」のでしょうか?
>いや、私が勝手にそう思ってただけなので・・・^^;;;
そうですね、思うのは勝手ですよねえ。ww
>>644 あ〜!やっと分かりました。
あなたは、「この意識は何なのだろう?」という事が大事だったんですね。
私は、疑問はある訳ですけど、それを考えるより、技法をすると言うスタンスでした。
>「ない。」と断言できるだけの説得力のある根拠を、あなたはお持ちなのだろうと思います。
説得力のある根拠というものはないです^^;その根拠も私は求めてないです。
私が求めているのは、この意識は何だろうとか、そういうのではないです。
思い返してみれば、私は、子供の頃から、夜に道路に寝転んで、星を見ながら「宇宙〜」とか、
屋根に登って「夕日〜」とか、木に登って「木登り最高〜、気のぬくもりがなんともいえぬ・・・」
とか思って、 「この意識が云々」ということは、全くなかった。
七歳くらいまでは、自我がなかったと思います。
なので、人とコミュニケーションも殆ど取れなかったし、結構、
それはそれで大変でした。自我って言うのは、Ronさんがいう「我」の方の意味です。
たぶん、大人になっても、自分と言う意識は、殆どなく、自分と言う意識に
焦点を当てたのは、無明庵を知ってからです。
それで、無明庵で、禅書を書いてもらったとき「書けない・・・この企画に縁がない人」
と言われて「えええええ!?」とか思っていました。
>>645の続き
あなたと話して、自分には、あなたの様な疑問が全くないこと、
私の場合は、単純に、精神世界の本を読んで「自我なくさなきゃ」的な発想してたこと。
Ronさんの説明で、自我と我を混同して考えてたことなどが明瞭になって、
自分に自我があると思い込んでいただけだったことがわかって本当によかったです。
感動の涙すら流れてきました(;O;);;;;
失礼ながら、あなたの方こそ、カマトトぶってるんじゃないですか^^;;;
話してると、全くぶれない、聡明な感じがしました。
>それならば、厳然としてある、自分のこの意識はなんなのだろうという疑問は、
>今の自分にはどこまでも残る。
その疑問が、あなたにとって、とっても重要な事だという事が分かりました。
私は、余計なおせっかいをしまったようで、申し訳ないです。
疑問の答えが得られるといいですね。応援しています^^
>ここらあたり矛盾を感じるのですが。
>「主体はない」けど「本当の自分が現れる」のでしょうか?
このへんは、言葉のアヤですww気になさらずにwww
>>646 >あなたは、「この意識は何なのだろう?」という事が大事だったんですね。
もっと厳密に言うと、この意識の「由来」はなんなのだろう?ということかもしれないですけどね。
>説得力のある根拠というものはないです^^;その根拠も私は求めてないです。
>あなたと話して、自分には、あなたの様な疑問が全くないこと、
>Ronさんの説明で、自我と我を混同して考えてたことなどが明瞭になって、
>自分に自我があると思い込んでいただけだったことがわかって本当によかったです
あなたは、無明庵で言うところの「チー」さんなのではないかと思いました。
「チー」さんを理解することは私にはできませんが、
あなたにはSPは必要ないのではないかなとちょっと思いました。
>私は、余計なおせっかいをしまったようで、申し訳ないです。
いえいえ、そんなことはないです。あなたとのやりとりで、
自分の中で明確になったもの、明確でなくなったものがわかりました。
>>641のあなたの
>「方向のない注意があると想像していること」があるだけです。
というこの一行を通り過ぎることができない自分がいます。
>疑問の答えが得られるといいですね。応援しています^^
ありがとうございます。
バーナデットからだいぶそれてしまって、スレの皆さん申し訳ありませんでした。
>>647 ゾンビ本読んでないからチーが分からない
パーとチーの説明ヒマだったらお願いします
>>647 >もっと厳密に言うと、この意識の「由来」はなんなのだろう?ということかもしれないですけどね。
ほう。。。由来ですか。。。うーむ(@_@;
>あなたは、無明庵で言うところの「チー」さんなのではないかと思いました。
「ゾンビ化する人々」は読みましたが、私は、チー、ではないと思います。。。
ゾンビ論ができ始めたのは、私が無明庵を知る以前の事で、
私が無明庵を知ったのは、ゾンビ論が終わりかけの頃でした。
簡単に言うと、ああいう具体的な法と言うのは、人(覚者)と人(私)とが関わりあってから、
発生する、と私個人は思っているので、ゾンビ論は、私には関係のないことだと思っています。
>あなたにはSPは必要ないのではないかなとちょっと思いました。
う〜ん・・・私がSPをしたきっかけ、というのが、、、ちょっと、また長い話で申し訳ないですが、、、
ある日、またまた、無明庵の掲示板で、「最終的に、人は『意識の問題』になる。この意識とは何か?
という事が、問題になる」という感じの事を書かれていたのを読んだんですね。
で、私は「ふーん、私は、そんな疑問は全くない。私は、全く最終的ではないようだ。ちっ」
とか思ってたんです。でも、次の日「暇だなあ・・・。考える事がないから、あの、最終問題と言う、
私には、あまり関わりのなさそうな、意識について、ちっと試しに考えてみるかな・・・」
と、五分ぐらい、意識についてあれこれ考えていると、意識が意識に向いて、ない感じがして、
「ないな。ない。ない物に、意識という名前をつけていただけなんだな」
と思って、しばらく、ない感じにとどまって、ちょっとすっきりしてたんですが、
次の日に、「で、最終問題はクリアになったのに、、、全く、全く、問題は解決していない。
悩みはあるし、苦痛もある、全くシアワセではない。。。で、どうするか」
と考えて、ネットでいろいろ調べてた時、(いや、単に、何か楽しい事ないかな〜みたいな感じだったかもw)
2スレで、SPの話で盛り上がってたんですね。たまたま。
>>649の続き
で、SPってなんだろう?と、またまた、調べて、
「あ〜、この意識のない感じのする状態ってのが、どうやらSPで、その状態を続ければ、
私の問題はおそらく解決する」と確信して、やっていました。
しかし、SPを続けて、三ヶ月ほどたって、「SPは、私に向いてないのではないか。
何か上手く行かない。私には、師が必要だ。。。」と思って、師を探しました。
私は、絶対に、「私の人間的な欲求もちゃんと満たしてくれる師」でないとダメだ、と思っていたので、
なかなかいないかなーと思っていましたが、あっさり見つかり(笑)
その師も、「リラックスしながら、(ふんわりした感じで)気づきに気づくことが一番効果があります。」といっていました。
で、今に至る(笑)
>いえいえ、そんなことはないです。あなたとのやりとりで、
>自分の中で明確になったもの、明確でなくなったものがわかりました。
そうなんですか。そう言ってもらえて、とてもうれしいです^^
>ありがとうございます。
こちらこそ、いろいろと話を聞いていただき、有難うございました。楽しかったす。
それにしても・・・バーナデット・ロバーツが出てこなくて、本当にすみませんでした(>_<;;
思わぬ、長話になってしまい・・・スレの皆様、本当にごめんなさいm(__)m
>>648 かいつまんで説明するのは、ちょっと無理です。スレ違いでもありますし。
それに、私自身も、「チー」のことはよくわかりません。^^;
絶版なんですよね。
「ゾンビ化する人々」でググってみると、いくつかブログがヒットします。
そこに部分的な引用があったりするので、参考程度にはなるかもです。
652 :
神も仏も名無しさん:2010/12/20(月) 23:56:48 ID:9jacRnfa
h
ほんの数秒もなかったかもしれない。
スーパーの帰り、通り慣れた道を運転していた。 見慣れた風景。
雪をかぶった山、はしゃぎながら下校する子供達、信号機、葉を落とした街路樹、
雪かきしてるおじさん、フロントガラスに張り付く雪、それを掃うワイパー、
いつもと同じ景色。
けど、その中に自分自身もいた。運転してる自分、ミラーに映る後続車を見ている自分、
いつもの風景を見ている自分。その自分も風景の一部だった。
視点がない。 見ている主体がない。
それに気づいて「びっくりした」とたんにもとにもどった。
いや、もとにもどったから、気づいてびっくりしたのか・・・。
これに近い経験は何度かあったけど、おぼろげなものだった。
料理中だったり、バイパス走行中だったり、そんなに神経を使ってないときだったし。
夕方の市街地、雪道、しかも降雪中、歩行者、対向車、信号機、神経使いまくりの状態、
でも、認知してるのは、あきらかにその自分じゃない。
神経を使ってる最中の自分が、ついでに自分を意識してるのじゃない(そんな余裕ない)。
その自分も、歩行者や信号機と同じ、「対象」のひとつだったから。
でも、他に、見ている何かがいるわけでもない。
視点そのものが存在しないので、「何か」であると特定できない。
「認識」という「はたらきそのもの」があったというふうにしか言い表せない。
認識者はいない。
ほんの数秒とはいえ、ちゃんと運転もできてたのが不思議といえば不思議・・・。
再現しようとしてもできないし、自分の意思とは関係なく起こる。
>>641 >眼はない。注意自身はない。主体はない。ない。ないんです(笑)
腑に落ちました。w;;;
ある種の催眠状態にやられてるから、そんな思考形態になるんだよ。
655 :
神も仏も名無しさん:2011/01/31(月) 08:33:50 ID:7Aq5AFBh
むしろ、催眠からさめた状態なんじゃ?
656 :
神も仏も名無しさん:2011/02/08(火) 23:32:24 ID:IArckT7x
あれが催眠だ、これは催眠じゃないって、誰が判断してるんだろうね
657 :
神も仏も名無しさん:2011/02/12(土) 11:44:13 ID:NeYIpFR6
自分語りはそこそこにしてもらって、まっとうなロバーツ愛読者が現れることを願いつつ保守
659 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 10:41:38.36 ID:3ybKCCtC
おもしろそうだけど図書館になくて読めずざんねん
そしてほすage
660 :
谷口雅宣:2011/03/28(月) 10:31:15.99 ID:TdCtY/Xc
『感謝と確信と明るい言葉が平和を実現する』
イエスは「神よ、あなたは常に私の祈りに応(こた)え給(たま)いし
事を感謝いたします」と先(ま)ず“感謝”の言葉を述べて神に
対したのである。そして、祈りの実現に確信をもってから、
その確信をもって自分の願望の実現を言葉の力をもって宣言したのである。
その方法によってラザロは癒やされたのである。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
天皇陛下有難うございます
661 :
五井昌宏:2011/04/13(水) 09:06:31.85 ID:6gilrtsy
『天地の一切のものと和解せよ、無限供給が現われる』
まず神と和解することが必要なのである。神の救(たす)けを得よう
と思ったら天地一切のものと和解した関係に入らねばならぬ。
神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。
神はわが親であり、わが供給であり給う。
神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
天皇陛下有難うございます
ー住吉生長の家ー
662 :
神も仏も名無しさん:2011/05/12(木) 23:50:29.76 ID:gMU8sP3Y
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
★★★エホバ=ヤハウェ=アラー=高橋信次=エル・ランティ★★★
(釈迦、イエス・キリスト、モーセはエル・ランティの意識の一部)
★★★大天使ミカエル=アポロ=エリヤ=マルティン・ルター=如意輪観音=高橋佳子★★★
664 :
神も仏も名無しさん:2011/07/03(日) 13:34:09.41 ID:3PzwbCqo
hosyu
665 :
神も仏も名無しさん:2011/07/28(木) 17:14:45.17 ID:v8ctoclr
気づきは、認識は、留意は、どこからくるのだろう?
それに「対象」という方向性を与えることはできるけれど、それそのものを知ることはできない。
気づきは、認識は、留意は、忙しい。常に対象を追いかける。
いや、私の心が忙しいと言うべきか。
何かに気づいているということ に気づいてみる。
何かを認識しているということ を認識してみる。
何かに留意しているということ に留意してみる。
対象を追うものを追う、というはがゆさもどかしさ。それは忍者のようだ。
追うものも追われるものも、それはみな同じそれなんだけれども。
ロバーツの言う「空白」や「沈黙」。
Aという対象からBという対象へ移動するその刹那の、
我々凡人にとっては果てしなく短いその間隙に留まるすべを、子供の頃から彼女は知っていた。
私は感情ではないし、思考でもないし、行為でもない。
私が認識するものすべては対象にすぎない。認識しているということを認識することさえも。
思考する者とは「思考」である。 とわかってはいても、その理解があっても、
感情や思考はいつもいつも私のふりをし続ける。
ローンレンジャーの音楽(ウィリアム・テル序曲)って、テンポが速くてにぎやかな曲だよね。
けど、6歳のロバーツにはそれは空白誘導曲だったんだね。
学校での授業や難しい数学の問題もしかり。
方便や技法としての集中の対象物は、結局なんでもかまわないのかもしれない。
瞑想に、心のありようやムードは関係ないのだろう。要は、資質ということか?。
6歳って・・・。−ー;
ひさしぶりにスレに則した話題を見たな。
668 :
神も仏も名無しさん:2011/09/21(水) 16:12:46.20 ID:rwd/j2wb
思考や感情や行為、
なにかと同化していない私は存在しない。
私は常に対象とセットだ。
というか対象そのものだ。私という感覚さえも思考であるし。
私という独立した単独のものは存在し得ない。
仮に、対象物と同化していない単独の「私」なるものがいるとしても、
それはもはや私とは呼べない。 それは何者でもないし「者」でさえない。
見る者、見られるもの、見ること、
これらすべてが、さらなる 見ること に吸いこまれていく。
見る者 見られるもの 見ること
主体 対象 認識
父と 子と 聖霊
クセモノは、この「聖霊」っていうやつだな。
なんだかなあ
まったく薄っぺらいこと書いてんじゃねえよ
671 :
Qちゃん:2011/10/31(月) 13:05:29.19 ID:EywfoiK1
キリスト教は絶対神に服従する主体性なき奴隷の宗教だ。
672 :
神も仏も名無しさん:2011/11/05(土) 08:37:57.09 ID:XcuLZPif
保守ついでにマジレスしてみるw
ロバーツは、自分はキリストと格闘する運命にあったと言ってる。
彼女は家庭や学校で厳格なカトリックの教育を受けたにもかかわらず、
子供の頃からキリストへの疑問を持ちつづけた。
それが彼女の旅のモチベーションのひとつではなかったかと感じる。
仮に、「キリスト教は絶対神に服従する主体性なき奴隷の宗教」だとしても、
少なくとも彼女は、主体性なき奴隷ではないよ。
674 :
神も仏も名無しさん:
バーナデット