>>180チョトチガウ。
不義の目撃者は不義者の頭の上に手を置きその後、石を投げよ。全会衆は残らず
それに続き石を投げよ。デス
石を投げよとしている点でイエス様は女を断罪してしまっています。
なぜならば女が不義者であることを前提としているからです。
しかし
不義でない者が投げよといっているのですからメッセージは実に
ラディカルです。なぜならば全員が不義者である、不義者でない者が
ないことを前提にかたっておられるからです。
感動的な点は集まった者たちすべてがこのメッセージを敏感に感じ取り
その場を立ち去った点です。ユダヤの人たちの素養はチョトチガウ。
蛇足ながらこの言葉を発せられながらイエス様はなぞの行動を取られます。
石畳の上を手でかいてちょうど字を書くようにされたと記録されています。
イエス様はきっと裁判官のようにすべての人々の罪状文を書いていたのだ、と読む
人がいる一方で、別な読み方をする人々がいます。すなわちただひとり不義なき者
として一投目を投げつけるべく石を取ろうと石畳を掻いていたのだ、とする読み方
です。わたしもきっと後者であろうと思っています。
石畳の敷かれたイエス様の時代とごつごつした石が見渡す限り広がっていたモーセの
時代では人間も違っています。律法の中に人が見出す神意も違ってくるはずです。
イエス様はその中で唯一変わらぬものとして不義者のしるしに目には見えぬ石を手に取り
そのうえで女を許すことを選ばれたのです。