1 :
ガス:
2 :
名無しさん@3周年:2005/03/27(日) 21:24:24 ID:0oyMdXRZ
3 :
ガス:2005/03/27(日) 21:24:31 ID:lL7Xedbc
全部読んでない、だいじょうび
イエスの生涯 キリストの誕生 死海のほとり 沈黙 私のイエス 私にとって神とは
母なるもの 走馬燈 白い人・黄色い人影法師 海と毒薬 留学 月光のドミナ 牧歌
ピエロの歌 彼の生きかた 砂の城 悲しみの歌 ボクは好奇心のかたまり 大変だァ
それ行け狐狸庵 真昼の悪魔 王妃マリー・アントワネット 王国への道 影法師 侍
女の一生(一部・キクの場合) 女の一生(二部・サチ子の場合) 闇のよぶ声 天使
ヘチマくん おバカさん 恋愛とは何か 火山 現代の快人物 わたしが・棄てた・女
古今百馬鹿 黒ん坊 ぐうたら会話集1〜3集 わが青春に悔いあり 狐型狸型 宿敵
灯のうるむ頃 観客席から 怪奇小説集 心の航海図 青い小さな葡萄 ただいま浪人
ウスバかげろう日記 小説身上相談 ピアノ協奏曲二十一番 深い河 ぐうたら社会学
その夜のコニャック 春は馬車に乗って 落第坊主の履歴書 協奏曲 ぼくたちの洋行
生き上手死に上手 男の一生 快女・快男・怪話 心の砂時計 たかが信長されど信長
イエス巡礼 人生の同伴者 スキャンダル 父親 結婚 ひとりを愛し続ける本 哀歌
私の愛した小説 妖女のごとく 十一の色硝子 冬の優しさ 観客席から 心の夜想曲
よく学び、よく遊び 愛情セミナー 勇気ある言葉 埋もれた古城 ぐうたら生活入門
どっこいショ 第二ユーモア小説集 ぐうたら愛情学 ぐうたら好奇学 最後の巡礼者
狐狸庵うちあけばなし ほんとうの私を求めて 口笛をふく時 変るものと変らぬもの
ぐうたら人間学 ぐうたら交友録 楽天大将 お茶を飲みながら 第三ユーモア小説集
我が青春に悔いあり ユーモア小説集 第二怪奇小説集 あべこべ人間 何でもない話
足のむくまま気のむくまま 快男児・怪男児 悪霊の午後
4 :
名無しさん@3周年:2005/03/27(日) 21:53:44 ID:bWdBwDDH
ちがいのわかる男 遠藤周作
「狐狸庵先生」として親しまれる。
遠藤氏はカトリックを母の宗教と捉えたかったし、そのように理解しようと
した。しかし、実際には父である神を人々に示す姿がイエスの生前の宣教の
中心としてある。このことはカトリックの実際を知る上で遠藤氏の宗教小説に
触れる前に知っておくべきだと思う。現サンパウロである旧中央出版社から
発行された「カトリック入門」要理編纂専門委員会編から第5章だけ以下に
参考までに引用しておく。
★カトリック入門★
要理編纂専門委員会
1 生きていくために
わたしと社会
好みに合った職業について、自分なりの生活を思う存分築いていきたい。
これが大部分の人の望みであろう。事実かなりの人がこうした志を抱いて
思い思いに職場を見つけたり進学したりしている。ところが実際その場で
生活してみると、理想と現実とは違う。自分の思いどおりにふるまえる
どころか、むしろ他人に自分を合わせていかなければならないことに
気づいてくる。
わたしはこの世に生を受けてから、さまざまな人に出会ってきた。父母、
兄弟姉妹、友人、先生、職場の仲間、また行きずりに出会う数知れぬ人々。
幼いころわたしは、人はみな自分のためにいると思っていた。しかし年と
ともに、自分以外の人はだれでも、わたしの願望を受け入れることも
できなければ拒むこともできる自由な存在であることがわかってきたので
ある。こうして、自己中心的であったわたしは次第に周囲の人々との交わり
をとおして「わたし」というものの独自性を確かめ、豊かにしていくことを
知った。
-1-
6 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:11:25 ID:rE7qUChL
しかしわたしと他の人々との人間関係は、ただ自己を形成していくことだけ
にとどまらず、ひろく人類文化の向上に向けられている。わたしたちは
それぞれ一定の文化の中に生まれ育ってきた。今わたしには他のすべての
人と力を合わせて祖先の遺産である文化をいっそう高め、次の世代に伝えて
いく使命がゆだねられている。こうしてみると個人の存在や価値やしあわせ
は、「わたし」と「あなた」、そして全人類という相互のつながりの中に
あるとも考えられよう。
人間の矛盾
人類はこれまでにすばらしい文化を築きあげてきた。現代ではそれに加え
て、さらに輝かしい将来を約束するかのように月面にまでその足跡を印して
いる。生活環境は日増しに便利になり、交際の場も急速に広がっていく。
技術や科学方面の成果はめざましく、身近なところでも生産や販売消費の
分野における極端な合理化が叫ばれつつある。原子力の開発やコンピューター
の利用に伴い、科学技術がもたらした無数の産物は人間の偉大さを誇らかに
歌っているかに見える。
ところが他方から見れば、これらのものは人間自体を徹底的に踏みにじる
結果に導くものともなりかねない。原子力は使い方ひとつで全人類を灰に
する。コンピューターへの過信は人間の思考力や情緒、また自由までも
奪ってしまう。極度の合理化は人間同士のつながりを断つに至る。こうして
みると「わたし」と「あなた」との交わりはすでにその根底からおびやかされて
いると言っても過言ではない。
「たとえ全世界を手に入れても自分の魂を失ったらば何の益があろうか。」
これはキリストのことばである。そしてこのことばはそのまま現代の全人類
に向けられた警告ともとれよう。
-2-
7 :
名無しさん@3周年:2005/03/27(日) 23:13:27 ID:0oyMdXRZ
8 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:14:24 ID:rE7qUChL
>>5-6は、該当書籍内容を頭から引用してしまった。間違い!!以下に
あらためて第5章を掲載する。
5 イエズスは父である神を人びとに示す
(1)父である神
「父母の恩というものは、たとえば出生に際して母の胎内に宿って
十か月の苦痛を与えるにとどまらず、いよいよ出産というときには、
いのちも絶え入るほどの苦しみがある。続いて授乳や洗浴の世話を
受けるが、一般に乳児の吸う乳の量は百八十石と言われている。その
上、日夜用便の始末に母を煩わせることは幾度か知れない。
やがて成人した暁には、わが子に渡世の職業を得させようとの
配慮は切実である。遠出のときには安否を気づかい、帰宅が遅れる
ときには門口に立ってその帰りを待つ。またわずかの病気にも父母の
心には量り知れない悲しみが生じる。事柄の如何を問わず、このように
寸時も心の安まるときなく、自分を忘れてわが子のために苦しむ
父母の恩情はとうてい筆舌に尽くし得ない。」
これはわが国の古典の一節を現代語訳したものであるが、わが子を
思う父母の恩情が切々と歌われているではないか。時が移り変わって
も、親の心というものは報いを求めない没我的愛の典型である。
-1-
9 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:17:24 ID:rE7qUChL
>>7 多分売ってない。父の持っていた書籍で昭和46年発行のもの。
遠藤周作さんのカトリックとして知っていた教えとしてこの古い
書籍を挙げてみている。
10 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:19:06 ID:rE7qUChL
天の父
イエズスは神を「天の父」と呼び、父に信頼を寄せるように教えた。
「空の鳥を見よ、鳥は種まきも刈入れもせず、また倉に納めること
もしないが、あなたがたの天の父はこれを養ってくださるのである。
あなたがたは、鳥よりもはるかにすぐれているではないか。あなた
がたがどんなに思い煩ったとて、だれが寿命を一刻でも延ばすことが
できよう。着る物のことをなぜ思い煩うのか。野のゆりがどのように
育つかをよく見よ。骨折ることもつむぐこともしない。あなたがたに
言っておく。栄華をきわめたソロモンでさえ、この花のひとつほど
にも着飾っていなかった。今日あって明日は炉に投げ入れられる野の
草をさえ、神はこのように装ってくださるからには、ましてあなた
がたに対してはなおさらのことであろう。」
神を「父」と呼んだのはイエズスが初めてではなく、「天にいます
父」という表現はそのころイスラエルの民間でも用いられていたと
言われる。かれらにとって「父」は一家一族のやさしい主人であり、
配下にある者は信頼と従順を尽くさなければならないという観点から、
神に対しても「父」という呼び名を用いていたのであろう。この
「天の父」こそただイスラエルの民ばかりではなく、野のゆり、
空の鳥に至るまでありとあらゆるものの生命の源であることを、
あらためてはっきり人々に教えたのはイエズスであった。
-2-
11 :
名無しさん@3周年:2005/03/27(日) 23:19:16 ID:0oyMdXRZ
>>9 その本、けっこうまとまってていい出来なんだけど、
俺の、乱丁でページが飛んでて、読めない箇所があるんですわw
12 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:20:54 ID:rE7qUChL
慈愛の神
イエズスが口にする「天の父」という名称は、父母がわが子に示す
ほとんど無条件ともいえる慈愛、自分を与え尽くしてかえりみない
愚かなまでの愛に通じることばである。イエズスが「放蕩息子」の
たとえ話をとおして語った父としての神の姿ほど、人々の感動を呼び
起こすものはないであろう。神が父であるということはつまり、神が
限りない慈愛そのものであられることを意味する。
「天の父は悪人の上にも善人の上にも太陽をのぼらせ、また正しい者
の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる。」
神は人を差別されない。もし自分だけは神の光をそそがれていない
と思う人があるとすれば、それは曇りの日にも太陽はあるのだという
ことを忘れて心を閉ざし、みずから日陰を作っているからではない
だろうか。
-3-
13 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:25:32 ID:rE7qUChL
>>11 どの辺りのページ?乱丁で読めない部分があって自分でその部分を
修正するというのなら該当ページの該当個所を書き込みしましょ。
要望のページと行をどうぞ。
14 :
名無しさん@3周年:2005/03/27(日) 23:26:40 ID:0oyMdXRZ
>>13 いや、20ページくらいあるから、いいよwありがと
15 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:27:58 ID:rE7qUChL
天の父の招き
わたしたちを父である神に導くために、イエズスは神の国の福音を
告げ回心を説いた。
「神の国」または「天の国」という言い方は、父である神と人間の
親しい交わりを表すことばである。イエズスはすべての人がこの国に
招かれていると言うが、この招きに応えるには口先だけの祈りをする
のではなく、全生活を神に向け、神と人々に心を開かなければならな
い。回心が本ものならばおのずからそれは行為に表われるはずである。
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国にはいる
のではない。天にいますわたしの父のみ旨を行なう者だけがはいる
のである。」
とイエズスは教える。
ある日イエズスは、イスラエル人でないひとりの百夫長がやって
来て、絶大なる信頼を傾けながらしもべのの病を訴えるのを聞き、
感動を押え切れずに言った。
「あなたがたによく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの
信仰を持っている人をわたしはまだ見たことがない。あなたがたに
言っておく。多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、
イサク、ヤコブとともに宴会の席につくが、国の子らは外のやみに
投げ出されるであろう。そこには嘆きと歯ぎしりがある。」
信仰を持たずに神の国にはいることはできない。しかも信仰それ
自体が父である神からの恵みなのである。
「あなたがたが悪い者であっても自分の子にはよい物を与えること
を知っている。まして天にいますあなたがたの父が、自分に求める者に
よい物をくださらないことがあろうか。」
父である神の招きに応えるための恵みを、神は拒まれないであろう。
わたしたちを親しい交わりに招いてくださったのは、ほかならぬ神
ご自身だからである。
-4-
16 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:31:47 ID:rE7qUChL
>>14 そうですか?お役に立てませんですみません。では。
17 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:33:10 ID:rE7qUChL
(2)みな兄弟
わたしたちはみな唯一の天の父を親としていただいてこの世に生を
受けた子であり、兄弟である。めいめいが天の父にあやかる者ならば、
この地上に神の国を実現できよう。
愛する
イエズスは何よりも先に、父の無限の慈悲にならい、慈悲深い人と
なって父の子であることをあかしするようにと教えた。
「『あなたの隣人を愛し敵を憎め』と命じられているのをあなた
がたは知っている。しかしわたしはあなたがたに言う。あなたがた
の敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは
あなたがたが天にいます父の子であることを示すためである。」
すべてのおきては「神と隣人に対する愛」の一語につづめられる。
ここでいう隣人とは今、現に助けを必要としている人は無論のこと、
敵とみなされる人までもさしているのである。しかもすべての人は
父である神に愛されてる兄弟であるから、隣人に対する愛には条件も
限度もつけてはならない。
-5-
18 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:35:04 ID:rE7qUChL
ゆるす
慈悲深い天の父はご自身を離れ去った者をもおゆるしくださる。
イエズスは当時の人になじみ深い例をあげて父の愛のゆるしを説いて
聞かせた。
「あなたがたの中に百頭の羊を持っている者があるとする。その中の
一頭を見失ったら、九十九頭を荒れ野に残して、見失ったその一頭を
見つけ出すまで跡をたどって行くのではないだろうか。そしてそれを
見つけ出すと、喜んで肩に乗せて家に帰り、友人や近所の人々を呼び
集めて『いっしょに喜んでください。わたしの羊が見つかりました
から』と言うであろう。あなたがたに言っておく。このように悔い
改めるひとりの罪びとのためには、悔い改める必要のない九十九人の
義人のためよりも天においてはもっと大きな喜びがあるであろう。」
わたしたちも同じ父の子として、父の無限のゆるしの恵みをあかし
していかなければならない。
「もし、あなたがたが人のあやまちをゆるすならば、あなたがたの
天の父もあなたがたをゆるしてくださるであろう。」
わたしたちはいったいどこまでゆるせばよいのか。弟子のひとり
ペトロがイエズスに向かって「主よ、兄弟がわたしに対して罪を
おかしたとすれば何回ゆるしたらよいでしょうか。七回までですか」
と尋ねると、イエズスは「わたしはあなたに言う。七回どころか七の
七十倍までも。」つまり際限なしに何度でもだれに対しても、という
答えが返ってきた。キリストの死後、教会の最初の殉教者となった
ステファノが死をまのあたりにして叫んだのは、自分を殺害しようと
する人々に対するゆるしの祈りであった。
「主よ、この罪をかれらに負わせないでください。」
この祈りこそ、身をもって父の愛のゆるしを教えたイエズスの心の
こだまだったのである。
-6-
19 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:36:49 ID:rE7qUChL
さばき
愛することもゆるすことも、ありきたりの感情や漠然とした思いに
とどまるのでなく、行為によってそれを表わす必要がある。愛は
とりわけ、貧しい人や不幸な人への積極的援助の形で示されるで
あろう。そういう人々をかえりみず利益をむさぼり不正を働くことは、
父である神に逆らい神ご自身に不正行為をなすにほかならない。
こうして人は自分で神を離れ兄弟を離れてしまうのである。
イエズスはしばしば「神はお裁きになる」と教えた。しかもこの
さばきとは兄弟愛の実行や相互のゆるし合い、恵まれない兄弟への
援助を対象としてなされるのである。人々は、イエズスが手近な例を
引いて神のさばきを説明するのを聞いた。
「キリストは左側の者に向かって、『のろわれた者よ、わたしを
離れて悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいれ。
おまえたちはわたしが飢えていたときに食べさせず、渇いていたとき
に飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、
また病気のとき、ろうやにいたときに尋ねてくれなかったからである』
と言うであろう。
そのときかれらもまた答えて、『主よ、いつ、わたしたちはあなた
が飢えたり、渇いたり、旅をしていたり、裸であったり、病気で
あったり、ろうやにおられたりしたのを見て世話をしてあげません
でしたか』と言うであろう。そのとき王は答えて言う。『あなたがた
によく言っておく。これらのいと小さき者のひとりにしなかったのは、
わたしにしなかったのである』と。こうしてこの者は永遠の刑罰に、
義人は永遠のいのちにはいるのである。」
-7-
20 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:38:03 ID:rE7qUChL
父に対する子の祈り
愛すること、ゆるすことによってわたしたちは父である神にあやかる者と
なり、すでにこの地上で神との親しい交わりにはいることができるであろう。
この交わりは祈りによっても表わされ、また深められるものである。
イエズスは子であるわたしたちが父にささげうる最上の祈りを教えた。
「天にいますわたしたちの父よ、
み名がとうとまれますように。
み国が来ますように。
み旨が天に行なわれるとおり、
地にもおこなわれますように。
今日は今日のかてを与えてください。
わたしたちの負い目をゆるしてください。
わたしたちも同じように負い目のある者をゆるしました。
わたしたちを誘惑に陥らないようにし、
わたしたちを悪から救ってください。」
-8-
21 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/27(日) 23:44:07 ID:rE7qUChL
祈りは天の父に向けられた賛美と感謝の心、父にふさわしくない子である
ことを認め、ゆるしと恵みを願う謙虚な心、すべての人を兄弟とみなして
愛しゆるし合う心の表われである。わたしたちは単独で神の国にはいるの
ではなく、兄弟である人々と手を取り合ってともにはいることを志さなければ
ならない。それには憎しみ・恨み・ねたみなど、愛に背くすべての思いや
望みや行為を断固として退ける覚悟がいる。
「洗礼者ヨハネのときから今に至るまで、天の国は力づくではいられて
いる。そして力づくではいる者がこれを勝ち取っている。」
わたしたちはみな、相互の愛やゆるしや助けを困難にする内心の傾向に
対し、全力をあげて戦わないかぎり神の国にははいれないであろう。そして
そのためにこそ祈るのである。「わたしたちを悪から救ってください」と。
要点
1. イエズスは神がすべての人の「父」であることを教え、人々を父のもとに導く。
2. 神が父であるということは神があらゆる生命の源であり、特に無限の慈愛であることを示している。
3. わたしたちはみな神を父と仰ぐ兄弟であるから、愛し合い、ゆるし合い、貧しい不幸な人を援助するという行為をとおして父にあやかる者とならなければならない。これがイエズスの教えの中心であった。
4. イエズスはわたしたちが父である神にささげる子として兄弟としての祈りを教えた。
朗読のすすめ
マタイ5章21から7章29節
祈りへのさそい
詩篇 131篇
-9-
[以上「カトリック入門」要理編纂専門委員会編 から引用]
22 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 05:34:41 ID:px6qQ8sT
人+人氏には、
自分は人より信仰が篤いと勘違いしてないだろうか?
自分は信仰が篤いということを知識を多く持っていることで示したいのではないか?
自分はカトリックの保護者なんだという思い上がりをもっていないだろうか?
自分の投稿を信仰のない一般的な読者は不気味に思わないだろうか?
こういう反省をしていただきたいですな。
23 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 07:04:11 ID:px6qQ8sT
「本が本だけに」連続長文投稿でも、押し付けれる、許されると考えたのですかな?
思い上がりと独りよがりが鼻につく。カトリック信者の恥ですな。
24 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 10:10:08 ID:px6qQ8sT
>>810 >彼はこの書の中で一貫して無力で何の何も出来なかったイエス像を描きます。
>そして最後には「我々は自分の人生を投影してこの人を考える・・・・」と
>書いています。
>遠藤氏は故意に聖書の中のイエスにまつわる出来事について都合の良いところ
>だけを抜書きしていて聖書について真摯に語ってはいません。
亀レスですが、
人+人氏は、遠藤先生に都合の良いところだけ抜き出して、と書いていながら、
ご自分こそ都合の良いところだけ抜き出してますな。
次の投稿で、あなたが『イエスの生涯』から抜き出した
「我々は自分の人生を投影してこの人を考える・・・・」の前後を投稿して
みます。
人+人氏がいかに遠藤先生を悪く悪く捉えよう、そして読者に印象を悪くしよう
としているのかが分りますぞ。
25 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 10:12:30 ID:px6qQ8sT
もちろん私はこの「イエスの生涯」の俯瞰(ふかん)によってイエス自身を
捉えられたとはつゆ思ってはいない。
【我々は自分の人生を投影してこの人を考えるからである。】
少なくともこの人の生涯には我々の人生を投影してなお掴み難い神秘と謎があ
るのだ。私もまた生涯のいつの日か自分の人生の蓄積でふたたび「イエスの生
涯」を書きたいと思う。そしてそれを書き終えた後も、更に「イエスの生涯」
にあらたに筆をとる気持ちを失わないであろう。 『イエスの生涯』より
人+人氏の投稿の印象と上を比べて、実際の遠藤先生は如何ですか?
先生はほんとに謙虚ですな。
26 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 10:53:52 ID:px6qQ8sT
それと、人+人氏は、遠藤先生の「自分の人生をイエスに投影する」
を悪く悪くとって、「自分をイエスと同一視する」と判断、そしてそれは「自分が神になる
危ない考え方だ」と憤慨し批判してますが、それはあなたが勝手に妄想した遠藤先生
であり、それへの勝手な批判ですな。先生はそんな初歩的なミスは犯しません。
前スレッドの810以降です。
27 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 12:42:02 ID:i/JLScP/
このスレ、タイトル「遠藤」の間に空白があるから、検索でヒットしないぞ
遠 藤 先 生 の文学は如何に奥深いってことでつね
29 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 20:12:14 ID:spkTfIxK
>さーてさん
あなたこそレスを受けている本人を差し置いて代弁者のごとく勝手に
しゃしゃり出てきて挙句の果てにあれやこれやの皮肉と失礼な言動をレス
し過ぎですな。あなたの常識が疑われます。
>>990 >そういう、蔑みの言葉を待っていました。
ずいぶん歪んだ受け止め方をされますね。陰湿な被害妄想を抱かないように!
>>992 >978氏は、生前のイエスを目撃していなかったパウロが、個人的に
>妄想狂だったのではないか?という主張ですよ??
パウロが妄想?それならパウロに手を置いたペトロやヨハネ、宣教旅行に
同行したバルナバやルカ、使徒との親密な交わりの中で得ていたイエスに関する
確かな知識と解釈、それらがみんな妄想になってしまいますね。978さんは、
パウロに対する出来事の時系列上の認識が間違っています。パウロはイエスの
十字架刑を見て回心したのではありません。イエスは復活し弟子たちに現れ
昇天して聖霊降臨が訪れ教会が出来宣教がはじまり初めての殉教者ステファノの
死が訪れるまでパウロは回心しておりませんでした。つまり、イエスの処刑を
見てパウロの心理的変化が起こったという仮定は成り立ちません。 つづく。
30 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 20:12:51 ID:spkTfIxK
パウロは霊的に完全な回心をしたのだと言えます。そのきっかけは何か
物理的な原因によるのでも化学変化が彼をそのようにしたのでもなく使徒と思いと
理解を同じくする「霊」における一致を体験したためにイエスへの回心と宣教
を開始したのだと言えるでしょう。Tコリント15章4−11節あたりをもう
一度お読みください。パウロが使徒と一致した思いであることを理解できます。
>「聖霊の霊感によって神のことばを書き記した書物」
パウロに関して事実を踏まえずに妄想しているのはそちらの方だということ
はわかりましたか?また、上記の記述については「カトリック要理 改訂版」
P87 第十課 聖書と聖伝
聖書
46 聖書とはどのようなものですか。
聖書とは聖霊の霊感によって神のことばを書き記した書物です。
から引用しています。あなたは、聖書と聖伝についての教えを確認して自分流
イエス教の妄想状態から抜けて信仰の基本をもう一度押さえてみたらよいでしょう。
31 :
vs :2005/03/29(火) 20:31:06 ID:spkTfIxK
>>993 >どのように誤解するのでしょうか?
>正しい理解と誤解の例をよろしく。
キリスト教ではイエスの「復活」と「聖霊降臨」がキモなんです。
復活と聖霊降臨が信仰と教会というキーと密接です。ですから、
イエスの死と聖霊降臨を直接つなぐと信仰のキモを飛ばし、キリスト教を
知らない人がこの投稿を読んだ場合に、イエスは死んだ、弟子は聖霊
降臨の話を創作した、などの誤解や疑念をもってしまいかねません。
この誤解を避けるための訂正が該当のレスです。
>>994 >>995 知識不足の指摘で気を悪くさせたことは、すみませんでした。
32 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 20:32:47 ID:spkTfIxK
>>31は名前欄を訂正しようとして誤って送信してしまった自分の投稿です。ごめん。
33 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 20:53:58 ID:spkTfIxK
>>22-23 相手への敬意を欠くレスはお互いにやめにしましょう。あなたのことを傷つけた
レスをこちらがしたことは謝りましたので知識不足の指摘に対しては忘れて
下さい。こちらは事実として遠藤氏のキリスト教観について踏まえだ上で
実際のカトリックの教えを知ってもらおうとカトリック入門の一部を例示
したまでです。
>>24-26 指摘されている書き込みは、女子パウロ会発行「率直にきこう あなたは
なぜ神など信ずるか」の遠藤氏の発言も頭にあってのものなのです。P115に
次のようなくだりがありますが、聖書を霊感の書としてではなく人間がつくった
ならばそれは人間にとって大事な真理だなどと述べているところがあり、この
意見に対しては自分は全く受け入れる余地がないのです。申し訳ありませんが。
【 もう一つ『イエスの生涯』で書いているけど、事実と真実は違うっていう
こと。聖書の一つの話をもし人間がつくったならば、それは人間にとって非常に
大事な真実だと考える。それを欲求する人間の心理というものだね。事実は
学問が明らかにするけど、真実がなぜぼくの心の中に生まれたんだろうという
ことを考えるわけだ。君たちは事実でないものは切り捨てるという段階かも
しれない。しかしやがて真実ということの重要性に思い至り、それを分析した
なら、それらを人間がどんなに大事にしているか思いあたるわけだ。そうすると、
たまねぎがいるのかいないのかっていうことにぶつかるだろう。】
あぼーん
35 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 21:10:09 ID:90PuxrTP
「・・・と聖書に書いてある」 「・・・と聖書に書いてある」 「・・・と聖書に書いてある」
「・・・と教理(信仰)問答に書いてある」 「・・・と教理(信仰)問答に書いてある」
頑なな聖書原理主義も、偏狭な教条主義も、もうコリゴリだよ〜。
いったい何人の求道者が、その為にキリスト教から離れたことか!
イエスは決して、ガチガチの律法主義者ではなかったぞ。
36 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 21:22:31 ID:px6qQ8sT
>>29 >978さんは、
>パウロに対する出来事の時系列上の認識が間違っています。パウロはイエスの
>十字架刑を見て回心したのではありません。
上を読むと978さんが、「パウロはイエスの十字架刑を見て改心した」と
主張しているように見える。実際には、978さんは、 「パウロは生前のイエス
を知らなかった。」としか書いていない。
しかも、978さんに時系列上の認識に間違いはありませんよ?
間違っている投稿の箇所を的確に抜き出してください。
あなたは、人の投稿を自分で勝手に解釈したりねじ曲げて妄想し、それを
批判する性癖があるんですな。
37 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 21:46:32 ID:spkTfIxK
>>35 マタイ5章19節でイエスは小さな掟についても軽んじずに教える
べきである旨、勧めておられると思います。教えることと愛することは
違うと思いますが、教えや聖書の記述について関わりあう人間相互に
おいて小さなことにあっても正しい共通認識があれば愛し合うことに
あっても自分勝手に相手を思いやることに逸れることなく正しく信仰と
愛を伝え合えるのではないでしょうか?
38 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 21:50:06 ID:px6qQ8sT
>>34 >聖書を霊感の書としてではなく人間がつくった
>ならばそれは人間にとって大事な真理だなどと述べているところがあり、この
>意見に対しては自分は全く受け入れる余地がないのです。
そりゃ受け入れたらクリスチャンではなくなる。
遠藤先生は、誠実にそこまで疑ってみせてるわけです。
39 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 21:58:46 ID:px6qQ8sT
>>37 「死海のほとり」の1エルサレムに描かれている
戸田の若い頃を読んでごらんなされ。
40 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 22:04:26 ID:spkTfIxK
>>36 前スレ:
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1063965088/978 >サウロ(パウロ)は、もともと、ファリサイ派の原理主義者。その盲信的素地があ
>ったので、キリストの処刑により精神的変調を生じたのでしょう。
前スレの上記引用文中で「キリストの処刑により精神的変調を生じた
のでしょう。」とこの書き込みの方は書いておられますが、サウロが回心
するのは『キリストの処刑』のずっと後であり、弟子たちが聖霊降臨を
経験して宣教をはじめ、最初のステファノの殉教を迎えるまで、サウロに
精神的変化はどこもなかったと使徒言行録の記述を読むとわかります。
>>38 疑っているのではなくて、そういう意味で遠藤氏独特解釈の「真実」と
いうものを『イエスの生涯』の中で描きたかったと言っているわけですよ。
イエスを疑うとかそういうことが問題なのではなく、聖書の前提を変える
なかで仮にも「イエスの生涯」などという書を記してもらったのでは信徒も
これからキリスト教に興味や関心を持つ者にとってもたまらんという感覚で
この彼の発言を捉えているわけです。わかりますか?
41 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 22:11:11 ID:px6qQ8sT
>>40 >「キリストの処刑により精神的変調を生じた
>のでしょう。」とこの書き込みの方は書いておられますが、
そうでしたな。どうもすみません。
978の時系列の理解は確かに間違いがあります。
42 :
人+人tgbndjr9:2005/03/29(火) 22:12:09 ID:spkTfIxK
>>39 読みましたけど何を言いたいのですか?
「あの男」を「俺のイエス」だと戸田に告白する主人公がいますね。
43 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 22:16:22 ID:px6qQ8sT
>>42 あなたのやり方では日本人は賛同しませんな。
44 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 22:18:29 ID:OV42N5r9
>>40 >>41 サウロが「イエスの処刑を見た」とは言ってません。「処刑の事実を後日聞いた
こと」が、回心の最大の原因になったと言っているのです。時系列的には誤り
ではありません。遠藤氏の「キリストの誕生」をお読み下さい。
45 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 22:18:34 ID:spkTfIxK
>>42のレスはあなたの指摘の若い時の戸田について気づいた点ではなく、
こちらがいやだなと思っていた回想のあと最後の方で戸田に主人公が言う
部分を挙げてしまいました。失礼。
46 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 22:21:30 ID:90PuxrTP
残念な事に、どの宗教どの教派にも、原理主義的な方がいますね。
一種の強迫観念というか、何かに囚われているんだろうな〜。
47 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 22:25:37 ID:px6qQ8sT
>>45 日本人はヤドカリのようにとても繊細なんです。
信仰生活が長いと、相手の立場にたって考える習慣がつく。
私が未信者の立場で、あなたの投稿を読んで、カトリックは
素晴らしい、心の重荷を軽くしてくれそうだ、とは
思えないということです。どうすれば素晴らしさを伝えられるか?
それが遠藤先生なんですよ。
48 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 22:29:46 ID:spkTfIxK
>>43 その教えを信じる人種や国籍がどうであろうと聖書や教えの事実を
曲げたり理想の思想に当てはまるよう形を変えれば、キリスト教の
本来あるべき共通認識が正しく育たなくなるでしょう。これは大問題
なのです。
>>44 >サウロが「イエスの処刑を見た」とは言ってません。
>「処刑の事実を後日聞いたこと」が、回心の最大の原因になった
>と言っているのです。
だから、こちらはそういう前提が成り立たないということを言って
います。ステファノは処刑されたイエスが復活して昇天し約束通りに
聖霊降臨があって宣教していた若い弟子の一人です。パウロはイエス
の磔とその後の復活について宣教する者としてのステファノの殺害に
同意しています(使徒言行録7章58節から8章1節)。
49 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 22:32:36 ID:px6qQ8sT
>>44 パウロの理解は信仰によるしかないと思っています。
確かめようがないかぎり反論できませんな。
50 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 22:40:04 ID:px6qQ8sT
>>48 978さんの時系列の間違いを指摘しても、反論には
なりませんな。パウロに個人的な異常性があったのではないか
という指摘が主旨なんだから。
51 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 22:42:21 ID:spkTfIxK
キリスト教はやはり基本は遠藤氏の小説内容の共有による「愛」ではなく、
イエスを頭として聖書や聖伝からその事実を共有することからはじまる『愛』に
あるのだと思います。自分は、遠藤教≠わかりやすいキリスト教 だと考えて
おります。
52 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 22:46:34 ID:90PuxrTP
人+人 ◆8fRI53Oe1oさん
「聖書や教えの事実を曲げたり理想の思想に当てはまるよう形を変えれば、
キリスト教の本来あるべき共通認識が正しく育たなくなる・・・」
二千年の歴史の中では、カトリック教会も聖書の解釈や教えを、変えてきた
ではありませぬか? さらに、これからも変えていくでしょう。
53 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 22:47:13 ID:spkTfIxK
>>50 まあ、言いたいことを立証する根拠は聖書に置けないという結論です。
彼が何を言おうとしていたか主旨はもう問題ではないんです。書き込み
は妄想でした、それだけなんです。わかりませんかね?
54 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 23:02:52 ID:90PuxrTP
強く生きられない弱虫の自分には、遠藤周作さんの描いた
人生の同伴者イエスのイメージ、違和感ないですね。
むしろ、しっくりきます。
55 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 23:17:31 ID:spkTfIxK
>>52 信徒というのは教えの中にいてこそ信徒なのですよ。カトリックと
遠藤はそれぞれ個別の宗教として、あるいは時間の流れのなかで変化する
一つの思想体系として、おなじ天秤にかけられるという話にはなり得ません。
世代を越えた2000年継がれている宗教と一個人信徒の信仰思想の変遷を
同じ土俵に乗せて論じることができるわけないじゃないですか?
56 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 23:25:05 ID:3Z44JlGI
遠藤周作さん自身が謙虚峻厳なカトリック信者像というものを壊したい、と
考えていたようですね。
そんな堅苦しいもんじゃないよ「私のくびきは易く荷は軽い」ってことで。
実際にはイエスは遠藤氏のいうように無力な存在だったと思います。
でも彼の死後、あんなに弱虫で利己だった弟子達がなぜか死をも厭わない
強力な信仰心をイエスに持ったのかがわかりません。
無宗教な人間がインチキ教祖についていくのとはわけが違い、ユダヤ人は
民族のアイデンティティの寄って立つところとしてヤハウェを唯一絶対の神
として信じ崇めていたはずなのに。
ラビとメシアではえらい違いです。
イエスが預言者ではなく神の子として神格化された理由が今ひとつ理解できない。
その理解できないところが信仰の基礎なのかもしれませんが。
57 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/29(火) 23:26:06 ID:spkTfIxK
>>54 正直な自分をイエスに告白する。こういう姿勢の信仰はあると思います。
しかし、イエスはこうであるはずだという観念から導き出すイエス像には
センチメンタルな物語があるだけで自分を投げ出す瞬間のような弱さを
真に自覚する瞬間みたいなものが決定的に欠けるのではないかという
気がします。素直な自分を神の前で認めることと、自分の神はこういう
神であるはずだと夢想することとは信仰上、決定的な何かがことなる
のではないでしょうか?
58 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 23:29:35 ID:px6qQ8sT
>>55 学生時代、私も遠藤先生と同じように
カトリックを棄てたい棄てたいと思う鳥ました。
先生の本は、私にとってどれも王道に見えましたな。
まさしく先に生きたカトリックの先生でした。
59 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 23:35:46 ID:90PuxrTP
人+人 ◆8fRI53Oe1oさん
止めようと思ったが、敢えて問おう。
あなたは、イエスの「踏み絵」を踏めと強制されたら、断固として
踏まないと言える、強い信仰者なのですね?
60 :
名無しさん@3周年:2005/03/29(火) 23:46:42 ID:3Z44JlGI
>>57 仰ることは正しいと思います。ただしそれは物理的なものを観念で論ずる場合に
おいては、という留保がつくと思うのですが。
実際、神を見た人間は現在この世にいないでしょうし、見えざるものを語る以上、
同じイエス、同じ神でもそこに人それぞれの解釈が生じることはむしろ当然です。
それはちょうど信号機のススメを表す色は緑だ、青だという論議に等しく、
受け取る側の問題ではないかと思うのです。
所詮、見えざるものを信じる信仰という行為においては人間は等しく群盲に過ぎません。
群盲象を撫でて、自分なりの神を信じることも決して間違いではないと思いますよ。
61 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/29(火) 23:54:54 ID:px6qQ8sT
>>57 >イエスはこうであるはずだという観念から導き出すイエス像
これに縛られない人はいないのでは?あなたも私も。
62 :
名無しさん@3周年:2005/03/30(水) 02:12:51 ID:6cp/fU6z
>>48 >だから、こちらはそういう前提が成り立たないということを言っています
「キリストの誕生」における遠藤氏の見解は、あなたとは異なっています。
サウロは、イエスの処刑後も信者を迫害したが、彼の回心の最大の原因は、
伝え聞いたイエスの処刑による心理的衝撃に始まっている、と言っている
ように思います。
2000年も前の事実の詳細について、正確に確定することは絶対に不可能
です。従って、遠藤氏の作品も、できる限りの文献調査はしていますが、大半
は彼の想像の結果であり、聖書も彼の作品と同様、想像や、聖書の場合は教会
の政策的・意図的な編集・改変があると思われます。2000前の事実の詳細
については、誰がどんな想像をしても許されるのであり、聖書のみが絶対的真
実であると信じることほど、大きな誤りはありません。
カトリック教人は子供を一人しか作らないって本当ですか?
64 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 21:46:42 ID:ayarB8UO
『侍』は、初め取っつきにくいですが、調子が出てくると面白いですな。
前スレッドで勧めて下さった方、どうもありがとうございます(^^)ニコ
とろこえ、やはり、遠藤先生の気持ちは、『侍』の中でも、ベラスコ神父を
通して語られています。
65 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 21:47:24 ID:lMT2hKQC
>>58 >
>>55 >学生時代、私も遠藤先生と同じように
>カトリックを棄てたい棄てたいと思う鳥ました。
>先生の本は、私にとってどれも王道に見えましたな。
>まさしく先に生きたカトリックの先生でした。
まあ、そういう人がカトリックに多くなっているのかもしれませんね。
自分はそれが現在のカトリックにおける不安と混乱の要素の一つであると
考えています。
>>59 >あなたは、イエスの「踏み絵」を踏めと強制されたら、断固として
>踏まないと言える、強い信仰者なのですね?
踏絵を踏むか踏まないかではなく素直な心と神との間における対話の
重要性が問題なのではないかと自分は思います。つまり個々の祈りが
大切なのであり、個々の心に起こる神についての観念が問題なのではない。
神を愛する心、素直に神に問い決断するこころは信徒一人一人が持っている
はずです。その心による祈りと決断にしたがって行動することこそが、事が
過ぎ去った後での後悔、または事後に神と向かい合うことになって慌てる
ことのない本当の意味で神と共に歩む信仰なのではないでしょうか?
理想論や決意を語ることは信仰ではなく、神に心を明渡す勇気と実践が
信仰なのではないかと自分は考えます。
66 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 21:54:49 ID:ayarB8UO
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
主よ、私のとったこの行為は卑劣でしょうか。いつの日か、あの国にあなたを
讃美する唄が流れ、信仰の花が開くため、私はこのような嘘をつき、策を弄し
ました。だが、そうした術策を使わねばならぬほどあの日本の土地はあなたの
種が芽ばえるには固いのです。誰かが手を汚さねばならぬのです。手を汚す者
が他にいない以上、あなたのために私は泥まみれになることを決して厭いませ
ぬ 『侍』より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
67 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 22:01:00 ID:lMT2hKQC
>>60 >自分なりの神を信じることも決して間違いではないと思いますよ。
神を信じるということの前提にはキリスト教の場合カトリックでも
プロテスタントにおいても共通して聖書に書かれていることの意味を
実際に明らかにするという目的があるのだと思います。
遠藤氏が聖書の霊感によって書かれていることを無視し、人間の教え
をカトリックの教えであるかのように公の場で流布することについては
非常に問題があるものと自分は考えています。あしからず。信徒個々人
が神について自由に思い巡らすということと、一信徒が小説とはいえ
イエスを題材にして聖書を用いて作品を書くならばそれなりの注意が
必要であるということとを一緒に考えてはいけないのです。
>>61 >これに縛られない人はいないのでは?あなたも私も。
聖書に書かれていることは、信仰によって確認すべきことがらであり、
観念で再構築したり自分なりの理想をそこに載せるための土台などでは
ないのです。聖書の教えを語るのはよいですが、神との対話を欠いた
人間のための聖書の読み方をかりそめにも「真理」と定義する遠藤氏の
聖書に向き合う姿勢を、自分は逆に我々にわかりやすいと喜ぶ気持ち
ではなく逆に不快感と不安を感じてしまいます。
68 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 22:03:56 ID:ayarB8UO
人+人さんは、直球しか持ち玉がない投手みたいですな。
カトリックの素晴らしさを伝えたいのは分りますが、
その前に拒絶されますぞ。プロのバタ臭さも、私は、
好きになるはずのキリスト教を、日本人から遠ざけてると思いますが。
69 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 22:21:50 ID:lMT2hKQC
>>66 祈りとは弁解ではなく、素直に自分のこころを神にお見せすることでは?
「神よ、罪深いわたしを哀れんでください」頭も上げずに神に祈った
徴税人に対して神は義であるとされましたね(ルカ18章13節)。
すでにわたしの心は決まっていますと神に報告するだけなら祈りは自分だけで完結していて神の御心の入る余地がないではありませんか?
70 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 22:30:09 ID:lMT2hKQC
>>68 >好きになるはずのキリスト教を、日本人から遠ざけてると思いますが。
偽って信徒を増やすよりも、信仰は聖書と教えについてきちんと本物を
共有する方がよいと自分は考えます。聖書によって救われるのではなく
聖書にかかれていることが実現することによって個々に愛が確認でき、
またキリスト教会に愛があふれてくるものであろうと自分は考えています。
71 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 22:42:22 ID:ayarB8UO
>>69-70 ほんとわからんやっちゃなー。
偽るんじゃなく、キリスト教の良さにすら触れずに死ぬじゃない。
あなたのその鈍くささは通用しませんってば。
あと二段階賢くなってよ。
72 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 22:43:07 ID:lMT2hKQC
>>62 聖書が誤りであるとかキリスト教の誹謗のために遠藤氏の著作内容を突きつけて
たのしいのですか?そういう反対者としての立場をハッキリ告白する人に対して
今は何もお話や弁解する必要をこちらは感じませんので書き込み内容に対する
レスは遠慮させていただきます。あしからず。
73 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 22:48:42 ID:ayarB8UO
>>70 大体、他者に対する信頼がなく馬鹿にしすぎですな。信仰は育ちますぞ。
74 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 22:49:49 ID:lMT2hKQC
>>71 あなたも少ししつこいですよ。あなたの書き込みが何か少し壊れて
きましたね、そろそろコンピューターにへばりつくのはやめてゆっくり
深呼吸でもしてお休み下さい。
●ヤコブ1章19節
愛する兄弟、心に留めておきなさい。人は皆、聞くに早く、語るに遅く、
怒るに遅くなければなりません。(フランシスコ会訳注新約聖書より)
75 :
名無しさん@3周年:2005/03/30(水) 22:50:19 ID:0vfLyQJS
遠藤さんは教皇様にお会いになったことがありましたよね。
デタラメを言うなと叱られに行ったのですか?
自分は遠藤さんの本を読んでカトリックになりました。
76 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 22:52:50 ID:lMT2hKQC
>>73 まあ、切れずにお休みくださいな。今夜はともかく。
77 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 22:55:17 ID:ayarB8UO
>>75 遠藤先生の本を読んで神父様になられた方もいらっしゃいます。
カトリックは自然体でほんと居心地がいいですな。(^^)ニコ
78 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 22:58:44 ID:ayarB8UO
>>76 人+人さん、なんとなくわかってきたのでは?
引用が賢いことですかな?
79 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 23:02:06 ID:lMT2hKQC
80 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 23:04:38 ID:lMT2hKQC
>>77-78 どうしても寝ないのであれば、話し合いましょう。
こちらは、あなたの批判がどうしてもあなた自身に返ってますます機嫌
を損ねるだけになると思うのですが、それでもいいということでしたら。
81 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 23:15:12 ID:ayarB8UO
>>80 私は、あなたに腹を立ててるというより、ヤレヤレという気持ちですぞ。
82 :
名無しさん@3周年:2005/03/30(水) 23:16:51 ID:0vfLyQJS
>>79 はい、そうです(^^)
さーて ◆RLtoLnT/2Eさん、話しても仕方がないと思うので、終わりにしては
いかがでしょう?
83 :
人+人 ◆ZGRlzXlcXc :2005/03/30(水) 23:22:15 ID:lMT2hKQC
>さーてさん
主の祈りを唱えました。レスの準備のつもりで唱えたのですが、
レスをする気力が萎えました。ふさわしい状態や時が来るよう
でしたらいずれまたあなたにレスをするかもれしません。
今はあなたに、個別にレスを返すのは止めにします。
そちらでも主の祈りを唱えて信仰の話をする準備の確認をして
みたらいいと思います。いずれまた、機会があったら話し合いましょう。
84 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/30(水) 23:24:50 ID:lMT2hKQC
>>81 2chですからあなたのその心は神の御旨にまかせてそのままにしておきます。あなたの神様にヨロシク。では、また。
85 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/30(水) 23:27:38 ID:ayarB8UO
>>83 気力が萎えるのも神の思し召しでしょうな。
私は、あなたに対して怒ってませんから。ただ、鈍くさいことは卒業して欲しいんですな。
もっと日本人は繊細だし、信用してよいと思いますが。
86 :
名無しさん@3周年:2005/03/30(水) 23:33:16 ID:w1o+x4aV
人+人 ◆ZGRlzXlcXcさん
あなたは、カトリック教徒ですよね?
なんか、言ってる事がプロテスタントの福音派と
似てるんですけど。
特に、聖書の絶対性の主張のあたり・・・
87 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/03/31(木) 00:19:26 ID:BJM6hC2o
>>86 なんだかトリップとかいうのがうまくいかなかったみたいでしたねこちらの
>>83の書き込みは。書き間違いはご容赦のほどを。
聖書か転ばぬ先の杖、聖書が愛と聖霊の確認をさせてくれるもの、この二つが
あればよいのです。聖書を教条的に他人に強いたところで教える者と教わる者、
そのとおりに出来る者と出来ない者の区別が生まれるだけで、赦しと愛に
よって結び合う信徒間の交流や教会生活が実現するとは思えませんから、
そういう教えの道具として聖書を絶対視することを求めてはいません。
88 :
87:2005/03/31(木) 00:21:33 ID:BJM6hC2o
乱文失礼!濁点のない文字や、意味のとおりづらい説明があっても
お許しあれ!
89 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 00:37:36 ID:0NUu6EUZ
>>87 御託はいいから、人の信仰を平気で馬鹿にするあなたはカトリック信者?
90 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 00:49:15 ID:0NUu6EUZ
読み飛ばしてましたが、69のレスなんか見ると、なんかズレてますな。
私には、人+人さんが、他者を蔑んで、己を義としたい醜い心が見えるんですがね。
そんなエネルギーで遠藤先生のあら探しもやってませんか?
聖書の原典では愛を二十種類?以上に使い分けてるという話には苦笑させられましたが。
91 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 00:51:13 ID:0NUu6EUZ
>>90 ×人+人さんが、他者を蔑んで、己を義としたい醜い心が見えるんですがね。
○人+人さんには、他者を蔑んで、己を義としたい醜い心が見えるんですがね。
m(__)m
92 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 01:23:31 ID:0NUu6EUZ
>>51 >キリスト教はやはり基本は遠藤氏の小説内容の共有による「愛」ではなく
こういう人を馬鹿にした発言を平気でする者が、
聖書やカトリック入門などの文言を投稿に使う。主の祈りを唱えて、人の信仰を平気で
馬鹿にする。吐き気がしますな。
93 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 01:32:55 ID:0NUu6EUZ
>>82 自分を弱い者だと認めない偽善者は臭いますからな。
94 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 01:39:26 ID:VJM1izd3
>>91 >人+人さんには、他者を蔑んで、己を義としたい醜い心が見えるんですがね。
それは、程度の差はあれ、すべてのキリスト教徒について言えると思います。
人間を超越した架空の存在である「神」に最大の価値を認める以上、現実の
人間との折り合いをつけることは「理論的に」不可能だからです。
遠藤氏は、その「折り合い」についてはどのようなご見解なのでしょうか。やはり、
架空の神からは離脱できていないような感じがしますが。
95 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 01:50:15 ID:0NUu6EUZ
>>94 いえ、イエスは他者との比較で、己の義を確認するようには
教えていません。己の十字架を背負って私についてきなさいですから。
正しい信仰を持てば、他者を蔑まなくなります。
96 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 01:55:41 ID:eIL9thTE
人+人 ◆8fRI53Oe1oさん
あなたは、59の問いに対して、65で誠実に答えていない。
そこで、 もう一度同じ内容を、お尋ねします。
あなたは、イエスの「踏み絵」を踏めと強制されたら、断固として
踏まないと言える、強い信仰者なのですね?
遠藤周作さんの小説「沈黙」に登場する、キチジローのようには
ならない、自信があるのですね?
97 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 02:02:55 ID:eIL9thTE
>>94 非キリスト教徒・未信者・無神論者より、キリスト教徒の方が
優れているなんて、遠藤周作さんは、考えてないなかったと
思います。
98 :
:2005/03/31(木) 02:05:12 ID:Qht7faMS
この人、顔に品がないよな。
99 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 02:10:32 ID:VJM1izd3
>>97 遠藤さんは、それを「理論付ける」ことができたのでしょうか。架空の神
に最高の価値を認めれば、それは、論理上絶対に不可能なことだと思われ
ますが。
100 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 02:19:16 ID:eIL9thTE
>>99 「架空の神」と言われるが、神が架空かどうか、あなたはどのように
決めたのでしょうか?
それから、キリスト教の「神」という言葉がダメなら、「自然の法則」
とか「超越者」とか「究極のリアリティー」と読み替えても良いです。
101 :
さーて ◆RLtoLnT/2E :2005/03/31(木) 02:19:23 ID:0NUu6EUZ
>>99 架空の神であっても、その神は人を愛するように教える神なので・・・
最高の価値を認めて崇めれば崇めるほど、人を愛さないといけなくなりますな。
102 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 02:40:10 ID:VJM1izd3
>>101 しかし、「愛」を唱えるキリスト教が、最も多くの紛争を起こし、最も
多くの人を殺しました。
やはり、その「教え」自体がどこか間違っていると結論せざるを得ません。
それはどこでしょうか。「木は実によって知られる。」
103 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 02:54:53 ID:eIL9thTE
>>99 さらに補足するなら、キリスト【教】ではなく、イエスの教えた【道】
と表現する事もできます。
つまり、他にも【道】があり得るわけです。
そして、たぶん、あるでしょう。
例えば、仏教・仏【道】と、歩む【道】は違うが、到達点は同じです。
その他の宗教・思想についても、同様です。
>>102 キリスト教が、多くの過ちを犯してきた事は、事実です。
それは、素直に認めます。
教会や信者は、深い反省と自己批判・自己吟味が必要でしょう。
しかし、「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」
というイエスの教えは、現代でも色褪せていないと思われます。
良い事も、たくさん行われてきました。
104 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 03:13:12 ID:VJM1izd3
>>103 >「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」
そんな「歯の浮く」ようなことを、イエスから「説教」されるいわれはありません。
共同体としての人間は、他者との係わり合いの中での日々の生活において、教えら
れなくても 行動によって実行しています。他者への配慮なしには、自己を含む共同体
が維持できないことを、本能として知っているからです。
「愛」とは、人間の共同体維持の本能に基き、人知れず行動で示すものです。
本当に愛のある人は、その言葉を決して口にしません。口にした途端に観念化し、
その実質は失われます。イエスは、そのことを理解していなかったのではないで
しょうか。
キリスト教の諸悪の根源は、イエスが「愛」など「唱えた」ことにあると思います。
105 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 03:42:55 ID:eIL9thTE
ま〜ま〜、落ち着きなされ。
朝起きねばならぬので、もう寝ます。これが、今夜最後の書き込みです。
イエスが真実の「愛」について説かなければ、今のキリスト教は存在して
いませんし、世界宗教にもなっていなかったでしょう。ユダヤ人のための
ユダヤ教、そのままだったのです。
106 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 12:48:48 ID:NRIKyeHz
>>104 ちょっと極論すぎないか?
2000年前に説いた教えを現在の共同体論理で吟味するってのはフェアじゃない。
まして愛ある人は愛を口にしないなんてのは日本だけでしか通用しない論理。
日本以外の国では韓国中国も含めて「あなたを愛してます」はごく一般的な言葉だ。
日本語にはもともと愛情や思いやりを「愛」という言葉で表現する文化がなかっただけ。
実際は「恋」あるいは「仁」という言葉でそれに類することを表現していた。
イエスの「自分がして欲しいことを他人にしてあげなさい」という言葉と
孔子の「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」は一対のものといえるだろう。
つまりそこには洋の東西を問わず普遍的な真理も含まれている。
107 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 12:53:44 ID:NRIKyeHz
ついでに言えば、孔子はあらゆる諸徳のなかで「仁」こそが最上である、
と言っている。
仁とはなにか、という弟子の問いに対しては「思いやりの心である」と。
つまりは「アガペー」と意味するところは同じといえる。
あなたの論法でいうと「儒学の諸悪の根源は孔子が仁など唱えたからだ」
ということになるが。
いずれにせよ、遠藤の本は、異端なんだから、
信仰に於いて迷いたくない人は、読まない方が良い。
読んだ上で、その偽りのキリストを受け入れる事は、
神への裏切り行為である。
「異端に対する憎しみのないところには聖なることは存在しない」
109 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 13:00:20 ID:3qrBCkIv
>>105 >ユダヤ人のためのユダヤ教、そのままだったのです。
それがどうしていけないことですか。
宗教は、生の欲求という基本的本能を有する生物としての人間が、厳しい自然の
もとで生存を維持する努力の中に生まれました。従って、宗教は、特定の共同体
(民族)とその自然環境とは、本来的に一体のものです。強制改宗を含む熱心な
布教によって、一個人の思想が世界中の数十億人、数百億人の人間を2000年
間にも渉って呪縛すること自体が異常なことなのです。
ユダヤ教は、布教などしません。
イエスは、ユダヤ教社会に対する個人的不満から、その社会に生きる人々の日々の
生活において実行されている、人間本来の「思いやり」「憐れみ」を見落としたの
ではないでしょうか。
110 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 13:28:02 ID:3qrBCkIv
>>106 イエスの「他人にしてあげなさい」と孔子の「人に施すことなかれ」とは、本質的
に違うよ。何故だか考えてみて下さい。「愛」の押し付けは、愛ではない。「余計な
お世話」である。だから、愛を唱えながら殺し合いが生じる。
>>107 孔子の「仁」は、人が二人いること、即ち同等な他者の存在と自己を含む共同体
の維持という現実的根拠に立脚している。主観的な一方的観念に過ぎない「アガ
ペー」とは異なる。思いやりとは、生物としての人間の本能から生じるものであり、
エロスとアガペーの区別など確固たる根拠はない。
>>108 >「異端に対する憎しみのないところには聖なることは存在しない」
これこそ宗教の「病理」。判断基準としての現実上の基盤が皆無で、各人各様
の観念の遊戯に過ぎない宗教において、「正統」と「異端」の区別は初めから
不可能。正統も異端も、それぞれの「聖」があることを忘れてはならない。
>>110 君はかなり病的だよ。
本人は気づいてないようだけど。
>>110 まさに汎神論の極みだね。
異端中の異端。
113 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 18:15:28 ID:uCsxJ2KI
>>110 一体君は何がいいたいわけ?遠藤周作と何の関係があるの?
ここはキリスト教批判スレじゃないよ。
>>110 論語読んだことあるのか?仁とは君が考えているようなものではない。
仁はレベルが低い順に孝悌(親や目上に対する礼)恭敬(同僚隣人に対する敬意)
忠恵(部下後輩を育てる熱意)寛恕(他者に対する慈悲)そして仁の中でも
最上とされているものは忠恕(衆生済度、救世の志のある思いやり)だ。
この忠恕は釈迦や孔子やキリストのような特別な使命を帯びた人間にのみ
求められる仁であるとされている。
漢字の仁の成立過程と孔子の説く仁は大きく違う。
>>同等な他者の存在と自己を含む共同体の維持という現実的根拠に立脚している
どこから出てきた理論だか。アホですかw
遠藤周作と関係ないのでsage
115 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 18:56:23 ID:dn3gazwQ
>>109 基本的な認識がズレてないか?
ユダヤ教が布教しないのは民族宗教だから。つまりユダヤ人の救済に留まっているから
世界宗教になり得ない。なぜならそれは選民思想宗教であるから。
選民思想はエリート意識とは違う。エリートは集団の中で自分達が特別である、と
思い込むことを指すが、選民思想は世界の種々の民族の中で自分達の民族だけが
選ばれている、と考えることであり、最終的には更なるエリートを選抜することに
つながるかもしれないが、基本的に意味するところは違う。
この辺はラビ・トケイヤーの本でも読めば理解できるはずだ。
原始キリスト教徒の見方からすれば唯一絶対の神は最初はユダヤ民族とだけ契約を結んだ。
ユダヤ民族は神をちゃんと信じる代わりに神はユダヤ民族をどの民族よりも守り、
高めるという契約関係があったが、それをイエスは対全人類に拡大したとみなした。
逆にいうと、だからこそイエスは神でなければならない。神でなければ彼との契約は
神との契約にならないから。
別にキリスト教の肩を持つ気はないが、ユダヤ教とキリスト教の対比をするには
君の知識では役者不足ではないかな思う。
儒教の知識についてもね。
116 :
注意事項:2005/03/31(木) 19:16:18 ID:sg0Knum8
110は依然、キリスト教質問箱で 散々手前勝手な幼稚な小理屈捏ねまくって嫌われまくり、
最後には誰にも相手にされなくなった、アンチキリスト教気取りの自己中アラシです。
皆さん、クレグレも相手にされません様に・・・・。
117 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 20:39:27 ID:3pNxM0By
>>114 >>115 俺は本はあまり読まずに、専ら、現在目に見える現実の人間や社会から推測すること
にしている。「(特に、昔の)本に書いてることは正しい」と信じ込むことにも問題
があると思うよ。誰も、孔子や釈迦やキリストの「真意」を確認することは不可能な
のだから。「俺はそんなこと言ったり、考えたりした覚えはない」と言うかも知れな
いよ。
遠藤作品も、彼の想像の産物。「小説家見てきたような嘘を言い」というが、イエス
の心理の細かな襞までもこれだけ想像できるとは、マジで敬服に値する。
聖書などの古い文献を読む場合は、そこに書かれた事実が絶対的真実であると思い込ま
ないよう注意しなければならない。現在の事実を、裁判所が無数の証拠に基いて認定し
ようとしても、「絶対的真実」の発見は不可能か、または極めて困難なのだから。
裁判でも、両当事者がいずれも納得する事実認定は、ほとんどあり得ない。
118 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 21:17:01 ID:gX2LbXnO
>>108「異端に対する憎しみのないところには聖なることは存在しない」
お初に参加します。
これって異教徒は憎む、または同じ宗教でも違った宗派はダメということですか?
キリストを信じないものはダメということでしょうか?
他教をまったく否定するというのが 私がキリスト教になれない所以かな。
そして
ブッシュがしているものは まさに愛でも正義でもなく
正義の名をかりた余計なお世話。
120 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 22:05:17 ID:3pNxM0By
>>119 >異端に対してです。
異端から見ると、あなたのほうが異端なのですよ。そんな簡単なことも分らないで
どうする?
確固たる現実上の判断基準の皆無な観念の遊戯に過ぎない、すべての宗教の「病理」
です。
自然科学では、実験の結果次第で、全人類的な合意が容易に達成されるのは何故か、
考えてみて下さい。
>>120 > 自然科学では、実験の結果次第で、全人類的な合意が容易に達成されるのは何故か、
> 考えてみて下さい。
,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなこたーない
´∀`/ \__________
__/|Y/\
Ё|__ | / |
| У |
実験結果の解釈や結論に至る議論に関しては、論文投稿時にアレやコレやの
意見がレフェリーからつけられるっつーのが普通。
例え審査に通って論文が学術誌に掲載されたとしても、
各研究室で行われる文献紹介の場で「んなわけねーだろ!」って
ツッコミが入ることもしょっちゅうあるコト。
122 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 00:25:06 ID:k73eZDOh
>>121 自然科学の分野でも論争はあるだろうが、自然という厳然たる判断基準がある。
宗教のように殺し合いやったという話は聞かないねw。
>>122 自然現象を見ていると思っていたツモリが、実は実験遂行上で予想外に発生した
人工的な影響を見ていただけだったってコトも、これまたよくあるハナシ。
(こーゆーのを、artifact といいまつ)
実験室に持ち込まれたサンプルは、その行為自体によって「ナマの自然」では
なくなってしまうのだ。
だけれども、自然を人工的にサンプル化して実験室に持ち込まないと、
「自然現象の解析」とやらは行えないってのも事実。
自然に対しても、そんな「間接的な認知」を通した手段でしか知見を得られないの
ですよ、私たち人間は…
いくら自然科学が強力な自然認識法だとは言ってもねー。
124 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 00:47:43 ID:k73eZDOh
>>123 それでも、最終的には、自然という確固たる基盤が存在する。宗教は、基盤が皆無。
観念の遊戯に過ぎない。
あ、そうそう。連書きでスマソ。
artifact の好例を思いついたので付記しとくね。
病院で血圧測ると、家庭で血圧計使って測った血圧よりも高い測定値が
出ることがあって、「白衣高血圧」と呼ばれているらしいですよ。
被験者の方が、医師や看護師の白衣を見て緊張して、血圧を高くして
しまうんだって。
ソレだったら、家庭で血圧計使って測った血圧が「ホントウの血圧」なのか?
っつったら、これも疑問ですよねー。
だって、「血圧計を用いて測定に臨む」ってコト自体が、被験者にある程度の
負担を強いているワケなんだから…。
ン?測定機器によるプレッシャーに晒されていない状態での血圧?
そんなの「測定」できまっか?
126 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 00:54:10 ID:0YOQ84He
>>122 >>124 それでは、あなたは【自然】を崇拝すれば良いではないか!
それだけの話だ。ゴキブリでも神殿に飾っておきなされ・・・
>>126 Oops!
ゴキブリを馬鹿にしてはいけない YO!
「ゴキブリ 肢 再生」でぐぐってみることをお勧めします。
ゴキブリの肢一つをネタにしても、ソコから学べることは山ほどあるのだ。
128 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 10:24:30 ID:1JmEu1sg
>>127 すべての宗教の教典を集めても、ゴキブリはおろか、木の葉一枚に宿る神秘さえ
解明できない。即ち、宗教をいくらやっても、神はわからない。神を知りたい者は
むしろ自然科学をやるべきです。そのほうが、社会にも貢献できる。
宗教って一体何ですか。精神医学の対象以外の何物でもないと思いますが。
自然宗教とは異なり、創唱宗教は例外無く教祖の精神異常から発生したもの。
この板の、特にキリスト教関係スレは、殆ど狂乱状態です。
宗教を信じるから気が狂うのか、気が狂っているから宗教を信じるのか、どちらで
しょうか。
>>128 しかし相変わらず病的だねー。
>どちらで しょうか。
君が狂っている理由なんて誰も知らないよ。
狂っている理由を知りたければ、病院に行きなよ。
やはりこう言うのは専門家にしか分かるまい。
130 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 13:41:56 ID:Xfz9OuCx
>>129 私は無神論者だから、少なくとも「架空の神」「教義」「教祖の言説」で狂うことは
あり得ません。
131 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 14:13:02 ID:lWRGK3iK
『侍』を電子辞書片手に、10章のうち五章、半分を読み終えました。
『沈黙』なみのボリュームがあります。登場人物や分らない日本語をノート
に書き出しながら、ゆっくり読んでいますが、いやあ面白いですな。
130さんは、『侍』に出てくる松木忠作のようです。
>>130 私は無神論者だから、少なくとも「架空の神」「教義」「教祖の言説」で狂うことは
あり得ません。
私は無神論者だから、少なくとも「架空の神」「教義」「教祖の言説」で狂うことは
あり得ません。
私は無神論者だから、少なくとも「架空の神」「教義」「教祖の言説」で狂うことは
あり得ません。
私は無神論者だから、少なくとも「架空の神」「教義」「教祖の言説」で狂うことは
あり得ません。
133 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 17:49:56 ID:+gC/Z6pp
>>116 130さんは神に捕まってしまったのでしょう。
イエスに袖を掴まれてて、振り払いたくても、イエスが日々の生活で語りかけてくる。
もうこうなったら、あとは時間の問題ですな。神を敵に回し、否定したり、
拒絶しようとすればするほど気が狂いそうになる。
私も二十代半ばに諦めました。誤解が晴れたらいずれ受洗なさいましょう。
134 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 17:57:57 ID:+gC/Z6pp
>>104 >「愛」とは、人間の共同体維持の本能に基き、人知れず行動で示すものです。
神以外の愛の出所の彼岸は「自己保身のエゴイズムに基づくもの」ではないでしょうか?
動物に「愛」はあるのか?あなたの「愛」は動物の「愛」と区別がつきますか?
また、マタイの6章1ー3をご覧になられてください。
「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」
つまり、イエスは、あなたよりもっと厳しく、人知れず行うように教えていますな。
135 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 18:34:26 ID:t7hY9wAp
>>133 >もうこうなったら、あとは時間の問題ですな。神を敵に回し、否定したり、
>拒絶しようとすればするほど気が狂いそうになる。
>私も二十代半ばに諦めました。誤解が晴れたらいずれ受洗なさいましょう。
それって、精神病の発病ではなかったの?
>>134 >あなたの「愛」は動物の「愛」と区別がつきますか
勘違いしてはいけない。人間も、生の欲求とそのための共同体形成・維持の本能を
持つ動物に過ぎない。これが唯一の「普遍」です。その本能から、自他の死への恐
れや他者への思いやりが生じる。これが「愛」なのです。
イエスから、聖書から、教えられ命令さて行うのは、本能に基くものではなく、口先
だけの観念に過ぎないから、愛などではない。だから、キリスト教徒が、愛を唱え
ながら殺し合うのです。
136 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 18:41:46 ID:+gC/Z6pp
>>135 動物的本能に基づく「愛」だけを、真の「愛」だと。(苦笑)
「自己保身のエゴイズムから他者を生かしておこうとする気持ち」を
強引に「愛」と表現しているのではないですか。
137 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 18:47:02 ID:t7hY9wAp
>>136 人間は、自己保身の本能(エゴ)があるからこそ、人類がここまで存続して来た
のです。共同体においては、エゴは相互的であり、自己のエゴを維持するためには、
他者のエゴとの調整が必要になる。それが道徳の起源です。
138 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 18:55:37 ID:+gC/Z6pp
>>137 イエスの説く「愛」は要らない。
「自己保身のエゴからでてくる他者を生かす気持ち」と、エゴを調整する
道徳で十分だとおっしゃるわけですな。寂しい死を迎えますぞ。
139 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 19:08:12 ID:t7hY9wAp
>>138 >イエスの説く「愛」は要らない。
そのような、人間性に立脚しない、偽善の「愛」などは、不用どころか、極めて
有害です。あなたは、偽善の中に死にたいですか。
140 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 19:12:29 ID:+gC/Z6pp
自分が年老いて病床に臥せった時、無神論者の息子と、クリスチャンの息子の
二人がいて、死ぬまでの間、どちらかに看病を頼まないといけない状況に
なったとします。137さんは、無神論者の息子を選ぶというわけですな。
年金欲しさに、自分を生き永らえさせてるという疑念が、自分を苦しめませんかな?
141 :
注意事項U:皇紀2665/04/01(金) 19:18:32 ID:wpGVsQB9
皆さん139は、誰にも相手にされないアンチキリスト教気取りの自己中アラシです。
無視し続けると勝手に自滅しますので、クレグレも相手にされません様に・・・・。
142 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 19:19:17 ID:+gC/Z6pp
遺産を多く欲しいがために献身をしているのではないかという
疑念が、自分を苦しめることになりませんか?
間抜けに見えるクリスチャンの息子は、己のそうした不純な動機を
見つめて看病にあたりますな。
143 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 19:24:54 ID:+gC/Z6pp
赤十字が、どうして十字架のマークなのか?
イエスの教える「愛」が、病人の治療には必用なんですな。
139さんも、病人になれば、イエスの教える「愛」を実践する
医師や看護師に涙することでしょう。
144 :
ブッコク堂:皇紀2665/04/01(金) 19:28:49 ID:BQRRLcrp
こんばんわ!てきとーに顔出しますがヨロ!!です。
145 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 19:34:47 ID:+gC/Z6pp
ブッコク堂さん、こんばんわ(^^)ニコ
1で「悲しみの歌」のガスさんが、何でもありとおっしゃってますので、
言いたいこと思いついたことを、私もどんどん書いてます。
>>137 > 自己のエゴを維持するためには、
> 他者のエゴとの調整が必要になる。それが道徳の起源です。
えーと、元ネタはホッブズでつか?
あ、あと、護教系の方々にキーワードとして…
「利己的な遺伝子」
いまから10年くらい前だっけかな?
人間の善性を全てコレで説明しようというふいんき (ry が
確かにありました。ハイ。
ぐぐってみてください。
148 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 20:40:01 ID:MkcWDf/1
>>140 >年金欲しさに、自分を生き永らえさせてるという疑念が、自分を苦しめませんかな?
年金欲しさでも、生き永らえさせてもらうほうがあり難い。年金ばっかしではない
だろうし、年金などどうせ子供にくれてやるものだからな。
親子の情ではなく、キリストさんの「命令」で、いやいやながら看病してもらうの
だけはお断り。
149 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :皇紀2665/04/01(金) 21:25:42 ID:+gC/Z6pp
>>148 親子の情があるのは無神論者もクリスチャンの息子も等しいとして、
やはり、同じつらい看病ならば、無神論者の息子さんの方がいやいやながら
することになりますな。無神論者にとっては、つらい看病を「これは、
お金のもらえない苦役ではないか」という思いが、心の中で渦巻くから
です。この思いを昇華する術を持ちません。一方クリスチャンは、天に
宝を積むという動機があるので、心ではクリーンな炎が燃えており、
見返りがなくてもストレスは溜まりにくいといえます。
150 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 21:54:45 ID:M+2CWJde
>>147 ドーキンスはまともだよ。
追随者は無知が多いが。
グールドなんかよりはいい。
151 :
名無しさん@3周年:皇紀2665/04/01(金) 22:03:47 ID:oYKXE/B3
152 :
ブッコク堂 ◆TTsm5q0cZ. :皇紀2665/04/01(金) 22:11:19 ID:BQRRLcrp
>>145 さてとさん、挨拶おくれました。お言葉に甘えさせてもらいますね(笑
>>151 キリスト教徒は大変ですね・・・。
153 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/03(日) 15:47:21 ID:1szXCG+8
『侍』を読み終わりました。
新しい登場人物が出てくると蛍光ペンで橙色。遠藤先生のイイタイコト
だろうと思われるところは緑色。分らない語彙には鉛筆で丸印をつけて
ていねいに読みました。10章を読み終えるごとにそれぞれの章の題を考えました。
どうして人は神を必要とするか?一筋縄にはいかない日本人とは?
頑なに神を拒絶していた者がどのようにしてクリスチャンになるか?
映画5本分くらいのボリュームであり、感無量、最高の一冊でした。
次は『深い河』を再読する予定でしたが、重たいので『真昼の悪魔』
いきたいと思う鳥ます。
154 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/04/03(日) 15:49:17 ID:FE8Jwkdp
155 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/03(日) 20:33:30 ID:VfleyBq5
今、ラジオAMで、遠藤純子さんが語ってます。
「沈黙」しか読んでないんですが
あの小説の
前半は世界情勢的から客観的に
中盤は三人称の物語として
後半は主人公の立場から
と、語り手の視点をどんどんと置き換えていく手法には
眩暈とともに感服しました
…と書いてからちょっとロムってみたのですが
>>149の意見が目に留まりまして
このような、この他の主義を持つ者を頭から認めないような
意見を読むと心が痛む
>>147 150の言うとおりドーキンスはまともです
本の後半の「ミーム」の部分だけでも読んでほしい
158 :
名無しさん@3周年:2005/04/03(日) 22:25:05 ID:CiDuPgt7
>>148 君には学問も政治も、ましてや宗教を論ずる資格はない。
仁について偉そうに述べながら論語を読むといった最低限の努力もしておらず、
宗教を批判するくせに根本経典やわかりやすい解説書にも一切目を通さず、
ただ浅薄な自分の考えだけを論拠にする夜郎自大な阿呆だ。
年金制度にも疎いようだし、まして国際赤十字の精神だのにはほとほと縁遠い。
つまりは基本的な社会知識が欠如しているとしか思えない。
ひょっとしたら君は君だけの宗教を奉じているのかもしれんな。
独りよがりな狂信者というのが君にはぴったりの形容だ。
中世スペインの異端審問官たちとはさぞや気があっただろうと思うが、
残念ながら生まれる時代が4、500年ほど遅かったな。
159 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/04(月) 00:26:29 ID:K7EqssZq
『真昼の悪魔』読み終わりました。
「悪魔」とはどのようなものか?疑問を持たれてる方にお勧めします。
しかし、作品に描かれているような悪魔的な人物に私は何人も遭ってきました。
ウッサン神父様と同様、私も吐き気を催すからソレと判るのですが。
この嗅覚はクリスチャンやってると磨かれますな。
160 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 13:52:20 ID:AiJtas8L
>>158 聖書や経典や解説書を、現実と照合しながら批判的に読み、それらを超えているから
、
>>148のようなカキコができる。
書物に囚われている者は狂信者。
ここは2ch。書物からの「借り物」の知識や考えではなく、書物を超えた自分自
身の考えを述べてこそ、意味があり、進歩がある。
161 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 14:15:13 ID:AiJtas8L
「イエスの生涯」と「キリストの誕生」を読了した。聖書を批判的に読み、広汎な
文献調査を行い、キリスト教を「人間」と結びつけようと努力している労作である。
キリスト教徒全員に是非読んで欲しい作品。少しは呪縛から逃れることができるだ
ろう。
しかし、遠藤氏自身が信者であるための限界はある。非宗教者の文学者が書けば、
もっと面白い作品になったと思う。
「キリストの誕生」で、著者は、他の多くの預言者や宗教のリーダーとは異なり、
イエスだけが「神格化」された理由が不明で、今後の探究の課題として残している。
この理由は、発達した現代の精神医学の理論により、解明できると思う。遠藤氏は
信者作家であり、精神医学的知識は欠けていたように思える。
162 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/04(月) 15:34:41 ID:TtAnHVgq
>>161 聖書を「批判的に」というより、知的な日本人が当然疑うだろうというところまで
疑ってみせてます。
それと、人+人さんが遠藤先生は、「母」を強調しすぎると批判されてましたが、
『母なるもの』の中の二作目に納められている「小さな町にて」でも先生は
繰り返しこう書かれています。
「いや、私が言いたいのは、日本人はどの宗教にも母親の姿を求めるのです」
これは、先生の持論なんですが、私も激しく賛成します。
日本人には、マリア様のいるカトリックか正教会が合ってるというわけですな。
164 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/04(月) 15:52:23 ID:TtAnHVgq
>>157 >この他の主義を持つ者を頭から認めないような意見を読むと心が痛む
キリスト教徒を(1)神の命令でする愛(2)いやいやながら、と
馬鹿にするものだから、キリスト教徒を援護したのです。
とろろで、信仰を持ってない未信者の方には、神の「命令」のように
見えるんだろうなあ、と興味深く思いました。
「命令」と考えているクリスチャンは皆無だし、これは信仰を持たない
と実感できませんな。
165 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 16:32:21 ID:AiJtas8L
>>164 >「命令」と考えているクリスチャンは皆無だし、これは信仰を持たない
>と実感できませんな。
それがまさにマインドコントロール、洗脳。どこのカルトも同じ。現実と社会通念
からの遊離が既に生じている。人間は現実界において社会通念に従って生きている
ことを忘れてはならない。さもなければ、酔生夢死の一生であり、社会にとっては
ゴミに過ぎない。
166 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 18:45:55 ID:R9BSZvun
>>160 はいはい。わかりましたから、おうちにかえっておやちゅみしましょーね。
>>164 無宗教のままで無条件で人を愛する事は許されないことなのでしょうか?
168 :
注意事項V:2005/04/04(月) 20:02:24 ID:A8ilR7Tq
皆さん148=160=165は、何時までたっても進歩の無い自己中アラシです。
無視し続けると勝手に自滅しますので、クレグレも相手にされません様に・・・・。
169 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 20:42:16 ID:8Ib8EyJn
>>168 人間の自然の感情に基かないで、宗教の「教え」や「命令」で愛するのは、愛など
ではない。それは、偽善に過ぎない。
170 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 20:52:30 ID:8Ib8EyJn
ま、ここは 2ch らしい言葉で〆ましょうか。
「しない善より する偽善」
うむ。
「愛する」というのは、自発的なもんだからな。
「愛せない」対象を無理やり「愛する」というのは、確かに偽善かもな。
ある対象を愛するか愛さないかは、最初の一瞬で決まってしまうわな。
ただ、「嫌いだ」というものが、長い時間をかけて「誤解」が解け、本当に
「愛する」ようになることもあるわな。ただ、それは宗教の教えや命令で
愛するという浅はかなものよりも骨が折れるし、ずっと本物の愛に近いわな。
愛するとゆーか、理解し合う(その為に努力する)ってことは
信仰以前に、人として当たり前のことだと思う
>>173 > 愛するとゆーか、理解し合う(その為に努力する)ってことは
> 信仰以前に、人として当たり前のことだと思う
んじゃ、その「人として当たり前のこと」を私たちはドレダケ
実行してますか?って問われたら…答えに窮するわなぁ…
その点、御帰天なさった教皇様はスゴいと思うんだなぁ。
なんせ、自分の命を狙ったテロリストが収監されてるムショに
自分から出向いて対話しちゃうんだもの…
175 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 00:02:13 ID:ZtUvQgag
>>165 『真昼の悪魔』では、ウッサン神父様が、教え子の学生、難波を我が子のように
接している場面が出てきます。難波君の立場で、本を読んでごらんなされ。
それと、ウッサン神父様の愛は、神に命令されているものではなく、自発的な
ものですな。
176 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 00:41:16 ID:+pgQBht4
>>174 >>175 教皇なら、全世界が見てるのだから、それくらいの芝居はするだろうし、
小説ならなんとでも書けるよw。
無数の名もない生活者たちが、他者との係わり合いの中での日々の生活において、
人知れず行う思いやりの行為、それが本当の愛というものだ。そのような生活者
たちは、愛などという言葉を決して口にしない。
イエスもキリスト教徒も、それがわかっていない。愛を意識したり、唱えたり
した途端に観念化し、人間の自然の感情としての愛ではなくなる。
177 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 00:48:24 ID:ZtUvQgag
>>176 >愛などという言葉を決して口にしない。
だから、クリスチャンは口にしませんぞ。
それと、イチローが俺は実力があると言ったところで、実力がないことに
ならないのと同様、仮に私には愛があると言ったところで、私の現場での
愛の量は増えも減りもしませんな。相手に「これは愛です」なんて
言う馬鹿はおりませんし。
178 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 00:50:38 ID:ZtUvQgag
>無数の名もない生活者たちが、他者との係わり合いの中での日々の生活において、
>人知れず行う思いやりの行為、それが本当の愛というものだ。
これをしなさい、と言ってるのがイエス様ですからな。(苦笑)
179 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 01:25:34 ID:evUO0nx/
>>176 だから、君の場合は、ゴキブリを神殿に祭って、それを
崇拝してれば良いのだよ。
君は、感心するほど執念深い性格だね〜。
その強力なエネルギーの、向かう方向が修正されれば、
君の人生も違ってくるだろうに・・・
180 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 01:31:58 ID:+pgQBht4
>>179 俺がゴキブリを崇拝するのも、君達が神を崇拝するのも、別段変わりはない。
「鰯の頭も信心から。」実在しない神よりも、実在するゴキブリのほうがマシ。
181 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 01:40:04 ID:evUO0nx/
>>180 ゴキブリも君も、神様の被造物だよ・・・
182 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 01:50:15 ID:+pgQBht4
>>181 そんなことが、あんたの「造られた」脳みそでどうして判る?ゴキブリは、
神など信じないで(多分)、与えられた生命を精一杯生きているから、あんた
より偉い。
183 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 02:04:18 ID:ZtUvQgag
>>182 神を信じるということは、神から与えられた生命を精一杯生きるということですぞ。
日本は、先進国で自殺率トップですが、精一杯生きてませんな。
184 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 02:06:29 ID:evUO0nx/
>>182 理解するのではなく、信じるのです。
あなたも、神様の手によるユニークな作品なのです。
誤解のないよう補足しますと、進化論を否定する
つもりはありませぬ。
185 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 03:31:36 ID:KnY1d9Gw
深い河を読み終えたところ。
汝の敵を愛せよ、というイエスの言葉は、
異なる宗教間の対立を克服して、愛し合えよという意味なのだなと思いました。
遠藤先生、ありがとう。
人を、愛す、許す、理解を求めることを
信仰に基づかずとも人として当たり前のこととして
成す(少なくとも努力しているもの)も居りますことを、
信仰者以外に居ない・出来ないと頭から決め付けるのではなく
心の隅に留めおき下さい
自分が幼稚園がミッション系だったし日曜学校に何度か行ったり
聖書も読んだけど、なじめなかったのはこの理由です
187 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 13:34:20 ID:+qRybepI
>>183 >神を信じるということは、神から与えられた生命を精一杯生きるということですぞ。
それは違うと思うね。現実上の根拠の皆無な教典や教祖の言説に心を占拠されたまま
生きることは、批判力や自立性を失った操り人形の人生に過ぎない。
188 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 14:25:10 ID:II4EjIeD
>>185 >異なる宗教間の対立を克服して、愛し合え
そうなんです。
このスレには、キリスト教を穿った見方をする方がお一人、闖入されて
ますが、いつしか受洗なさいましょう。
189 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 14:31:49 ID:II4EjIeD
>>186 あなたのおっしゃっていることよーくわかっておりますぞ。
むしろ禿げしく同意します。私がカトリック信者でなくとも、
「人を、愛す、許す、理解を求めること」はありますから。
190 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 14:38:50 ID:II4EjIeD
>>187 >現実上の根拠の皆無な教典や教祖の言説に心を占拠されたまま
>生きることは、批判力や自立性を失った操り人形の人生に過ぎない。
では、あなたは何に心を占領されているのでしょう?
それと、イエス様の言葉に照らせば、何が善で何が悪か見えるように
なるので「批判力」は増しますな。また神にいただいたたった一回きり、
そしてオリジナルの生命であるという認識は、むしろ自立性を強めます。
『侍』に出てくるベラスコ神父の自立性をご覧になられてください。
191 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 18:43:57 ID:n12Matgf
>>190 >では、あなたは何に心を占領されているのでしょう?
創造主によって与えられた自然の感情・本能と、それに基き長い歴史を通じて
築き上げられた生活の叡智としての社会常識です。
>イエス様の言葉に照らせば、
イエス様の言葉を一切批判できないことが、「批判力の喪失」です。
>ベラスコ神父の自立性をご覧になられてください。
遠藤氏は、既にキリスト教の影響を受けた信者であるという事実を忘れないで
下さい。
192 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 19:56:03 ID:7BUS8Yjc
>>191 >創造主によって与えられた自然の感情・本能と、それに基き長い歴史を通じて
>築き上げられた生活の叡智としての社会常識です。
これはクリスチャンの回答と変わらんではないですか。
創造主によって与えられた自然の感情・本能をイエス様は、無視してるどころか
よく知っておられ、どのようにすれば心の平安を得れるかを教えています。
あなたは創造主は信じるが、イエス様を信じないというわけですかな?
>イエス様の言葉を一切批判できないことが、「批判力の喪失」です。
愛だけに生きたイエス様を批判することはできません。
批判すればするほど、人間性を喪失することになると思いますがな。
193 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 19:57:11 ID:7BUS8Yjc
>>191 >>ベラスコ神父の自立性をご覧になられてください。
>遠藤氏は、既にキリスト教の影響を受けた信者であるという事実を忘れないで
下さい。
ベラスコ神父のように自立性を持った宣教師は、実際に何人もいたんですぞ?
このベラスコ神父が、想像上の人物としか捉えられんのですか??
まあ、キリスト教信者となった方が、その人の自立性が増すという例は
いくらでもあると思います。私は私。あなたはあなた。イエス様は
あなたの十字架を背負って私についてきなさいとおっしゃってますからな。
このくらい個々人に自立性を勇気づける言葉はありません。
以下は信仰を辞めろという話ではありません
ただ、信仰の名の下にそこで思考停止なさってるような気がして…
このスレの住民の方は、たとえば他宗教系の本とか読まれることはありますでしょうか?
ドーキンスの本(基本は動物行動学の本)も読まずに頭から否定しておられますが
宗旨に合わない本・思想でも、せめて読んでから否定していただきたいのです
(実はこの本、最後はキリスト教的にまとまってしまったってのが自分の感想ですが)
元々無宗教の自分がこのスレ覗いたのは
一言遠藤氏の本の感想を書く為にたまたま…でした
それ思わぬ不毛な諍いを目にしてしまって
(無宗教者に親孝行する資格はないとか)
思考停止してすべて無批判に信仰に思考をまかせるのは
とても楽でしょう(まぁ、どの宗教もですが)
キリスト者以外にも見本とすべき生き方をした人は大勢います
居ないと思うなら、それに関する文献・資料等を
自分自身の思考で中立的客観的に良く考察なさって、そう断じて戴きたいのです
自分はただの活字中毒の濫読者です
今回のように遠藤氏の本も読むし
現代思想系も仏教系も科学本その他諸々の本も読むし、2ちゃんも読みます
どれもいいとこもあれば納得出来ないとこもあります
でもそれでいいと思うのです
まとめて簡単に2ちゃん風に言えば
「視野を広げれ、おまいら」とゆーこと 長文スマンカッタ
195 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 21:15:04 ID:evUO0nx/
私は、聖書の文言も、教会関係者の意見も、丸呑みに
信じてはいません。
「信じたい為に、疑い続ける」、これが私を含め、多くの
キリスト教徒の実態だと思いますよ。
キリスト教徒になれば、全ての悩みや迷いが消失する
訳では、決してありませぬ。
196 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 21:37:01 ID:bPStd29j
>>195 このスレを読む限り、単に信仰で思考停止してる人間は少ないようですが?
むしろ、煽りの某氏などのように信仰を否定する人間の方により勉強不足が顕著。
彼を批判する人間はユダヤ教や儒教に対する知識をお持ちの方が多かったですよ。
人間も動物である以上、動物行動学で測れる部分もあるでしょうが、普通の人間は
理性という厄介な荷物を背負い込んでおり、エデンで罪のない動物として
単純に生きていけるわけではありません。
普通の日本人はカトリックだろうが仏教徒だろうが、他者を無宗教だから悪い、と
考えることはあまりないと思いますよ。それよりも無神論者あるいは唯物論者が
他者の信教に対して誹謗するケースの方が多い。
ところで、そういうあなたはもちろん新約聖書は一読なさったことはあるんでしょうね?
タルムードは?仏典は?クルアーンは?論語は?
宗教というのは信仰と文章と口伝の積み重ねです。
宗教を批判するのならば、その根本教典に触れるなどして、ある程度の知識を
持たなければならないでしょう。
これは宗教以外の全ての物事についても、批判を前提とするならば同様の態度が
求められるはずです。
197 :
名無しさん@3周年:2005/04/05(火) 21:40:39 ID:bPStd29j
198 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 23:49:13 ID:7BUS8Yjc
>>194 >無宗教者に親孝行する資格はないとか
そんなぶっきらぼうなことは誰も書いておりませんな。
クリスチャンが苦しい看病においても、心を健全に保ちえるのはなぜかという理由
を、私が書きましたが、それを誤解されてるのではないでしょうか。
199 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/05(火) 23:57:05 ID:7BUS8Yjc
198は、クリスチャンが等しく心を健全に保ちえる、という意味ではなくて、
その個人にとって信仰が心の健全性にプラスに寄与するという意味です。
だから、信仰が寄与しても親孝行しないクリスチャンも当然いるということですな。
200 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/06(水) 00:13:53 ID:fomp818n
>>195 禿げしく同意します。
小狡い(トマの)指にイエスはこう言われたのだ。
「さあ、その指を手の傷口につけるがいい。槍でつかれたわき腹にさわるがいい。
私はあなたに信じてほしいのだ」 遠藤周作『指』より
201 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/07(木) 22:31:52 ID:3abbT5Ij
>>185 今『深い河』5章「木口の場合」読んどります。これは面白いですな。
前スレッドで、大塚は井上洋治神父様がモデルになっていると誰かが書いて
おられたが、神父様の苦笑されてるお顔を思い浮かべながら、楽しさが倍増
しました。3章「美津子の場合」で、鈍くさい大塚の学生時代が描かれて
ますが、私の学生時代の内面と似ており、外面を他の学生と合わせていた
自分を思い出しました。この鈍くささはカトリック信者の学生さんに
特有のものではないでしょうか。
202 :
名無しさん@3周年:2005/04/07(木) 23:13:25 ID:tTmsk+Rb
遠藤周作先生の「怪奇小説集」を読みました。
背筋がぞっとしました。
>>201 > この鈍くささはカトリック信者の学生さんに
> 特有のものではないでしょうか。
えーっと、2ch 的に言えば
「クソ真面目系の喪男」ってコト? orz
204 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/07(木) 23:27:44 ID:3abbT5Ij
>>202 今『怪奇小説集』を手元にもってきましたw
先生は、熱海の旅館でしたか、実際に幽霊を見ておられるようですからな。
私も幽霊を一度は確実に、二度見ておりますぞ。
205 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/07(木) 23:36:15 ID:3abbT5Ij
>>203 アルバートさんは学生さんですか?
カトリック信者の学生さんの鈍くささはそのままがいいですぞ。
私は、鈍くささは中身を詰めようとしてるということが後からわかりました。
ただし、カトリックを着て鈍くさいのでなければ、本当に鈍くさいだけの学生
ってことになりますからな(苦笑)。少し我慢して25歳くらいになると、女性から
もてるようになるんです。女性から「何でもいいから話して。話がおもしろい。」
って言われますぞ。あ、仕事もできるようになります。
だからカトリックの学生さんは我慢ですな。
206 :
名無しさん@3周年:2005/04/07(木) 23:40:36 ID:IIRogF+X
>>201 前スレでも書きましたが、「深い河」で井上洋治神父が
基本モデルになっているのは、木口ではなく大津です。
もちろん、事実そのままではなく、誇張・脚色されている
のですが。
207 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/07(木) 23:50:31 ID:3abbT5Ij
>>206 木口はビルマの兵隊さんですからな。木口でも大塚でもなく大津でした。m(__)m
しかし、大津は誇張しすぎですな。「女性の体に武者振りついた。」とか。
井上洋治神父様と遠藤先生が大笑いしてるのが思い浮かびます。
208 :
206:2005/04/08(金) 00:27:31 ID:BehGkv5v
しかし、「深い河」という作品は、宗教に関心がない
人々にも評判良いですね〜。
私の七十歳を過ぎた母親も、えらく感動しおりました。
「深い河」を読み、感銘すると共にインドに興味を持ち、
実際に旅をする若者も、多い聞いております。
209 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/08(金) 01:38:50 ID:vryrM6Cz
>>208 登場人物も先生お得意のキャラが次から次に出てきますな。
大津(井上洋治神父様)、ガストン、九官鳥、満州犬のクロ、
美津子は『ピエロの歌』の波多マキ子っぽいし、勝呂が塚田なのかもしれません。
イグナチオ教会は出てくるわ・・・
森田ミツが出てくるか楽しみに読んでおるところです。(^^)ニコ
210 :
名無しさん@3周年:2005/04/08(金) 03:46:14 ID:BehGkv5v
私が最初に読んだ遠藤周作作品は、「わたしが・棄てた・女」でした。
あまり話題になりませんけど、この作品、すごく良いですよ、本当に。
211 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/08(金) 19:36:15 ID:beGKqZZ7
>>210 『わたしが・棄てた・女』いいですな。
『悲しみの歌』『口笛をふく時』『ピエロの歌』とグルーピング
できそうな作品だと思う鳥ます。
>>209 『深い河』が七章「女神」に入ったのですが、
美津子=『真昼の悪魔』の女医+『ピエロの歌』の波多マキコ
っぽくなってきました。
212 :
名無しさん@3周年:2005/04/08(金) 20:09:17 ID:GSxsRkE/
「イエスに遭った女たち」いですよー
深い河は手元にありますがまだ読んでいません。
213 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/08(金) 20:19:20 ID:beGKqZZ7
>>212 『イエスに遭った女たち』・・・聞いたことがあるから
もってるはずですが、すぐには出て来ませんな。ブックオフに出かけようかな。
この前は100円で『「深い河」をさぐる』(文春文庫)を入手しており
『深い河』を読み終えた後の楽しみにとってあるのです。
あなたもいち早く『深い河』に着手なさらぬか。左から右に紙面をめくるのが
惜しいというほどに面白いですぞ。
214 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/10(日) 21:19:31 ID:P9F6hC2g
『深い河』&『「深い河」をさぐる』読み終えました。
うーん。最後の方の展開が大味な気がしました。あそこまで彼を
惨めに描かなくて伝わってきてますからな。
『侍』の方がマターリして良かったです。
215 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/04/10(日) 21:20:27 ID:76IsXwA9
>>214 あ、同じような感想。深い河は最後がイマイチであまり印象に残らなかった。
217 :
名無しさん@3周年:2005/04/11(月) 12:50:04 ID:6NTrVVDS
さてとさんって、もしかして「ハリー」さんですか?
遠藤文学にとても詳しいですね!
これから「心の海を探る」に取りかかるところです。
218 :
214:2005/04/11(月) 12:55:58 ID:lZPOEnQt
>>216はなんか偉そうになってしまいましたが、よくまとまり過ぎてて
いかにもフィクションぽく感じた、というのが感想でした。
気分悪くした方あったらすみません。私は狐里庵ものなんかにものすごく
影響を受けて、遠藤先生が大好きです。遠藤先生の影響でカトリックに
なりました・・・。
219 :
名無しさん@3周年:2005/04/11(月) 22:22:54 ID:6NTrVVDS
私は遠藤周作先生の影響はもちろんですが、
三浦綾子さんの影響もかなりありました。
220 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/11(月) 23:15:14 ID:OYiGEybB
>>217 ハリーさんとは別人です。(^^)ニコ
そして私は、先生の全作品中半分くらいしか読んでおらず
詳しいとはとても言えないです。最近、信仰を見つめ直すのと
娯楽、頭の老化防止を兼ねて、先生のご本を寸暇を惜しんで
読み始めましたのですな。猛進止まらず、
昨日今日で『スキャンダル』を読み終えまして、今は
目がショボショボしております。
221 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/11(月) 23:44:52 ID:OYiGEybB
>>218 >私は狐里庵ものなんかにものすごく影響を受けて、
>遠藤先生が大好きです。遠藤先生の影響でカトリックに
>なりました・・・。
自ら受洗される方、精神性が高いですな。
多分私が自ら受洗を考えるならば35歳を越えていたであろうと
思います。いや受洗していないかもしれません。
ところで、20年ほど前に私の母が先生の講演会に行ったのですが
写真よりずっと背が高く、上品で、神々しい紳士だったそうです。
『スキャンダル』では、自らを左の眼に比べて、右の眼のほうが大きく
まるで二つの眼が別々のことを考えているピカソの絵のようだ、と
書かれていますが。
222 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 00:24:52 ID:E0OXyPjw
>>いずれにせよ、遠藤の本は、異端なんだから、
信仰に於いて迷いたくない人は、読まない方が良い。
読んだ上で、その偽りのキリストを受け入れる事は、
神への裏切り行為である。
「異端に対する憎しみのないところには聖なることは存在しない」
個人的には遠藤さんの小説を読んでカトリック(キリスト教)に対して
アレルギーがなくなったのですが、上記のような書き込みを見ると
「日本の某宗教団体の方々と(「いわゆるくさいものには蓋」の考え方)同じなの?」と思い悲しくなります。
遠藤さんは確かカトリック(というかキリスト教)が
日本人に受け入れられるようにがんばっていらしたんですよね?
遠藤さんは、日本人のメンタリティにはプロテスタントよりもカトリックの
方が合っていると思う、と書かれていましたね。カトリックの清濁併せ呑む
感じがいいと。
実は私は元プロテスタントで、三浦綾子さんにも影響を受けました。
(人の影響を受けやすい・・・)
でも、ふざけた話とかもする遠藤さんが大好きで、結局はカトリックに
落ち着いてしまいました。
>>221 生前に一度はお目にかかってみたかったです。
友人などが洗礼を受けるので代父をなさるとき、ことの他喜んでおられた
そうですね。井上神父だったか、「あんなに嬉しそうに代父をする人を
見たことがない」みたいなことを言っておられたと思いました。
224 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/12(火) 01:11:01 ID:SX8sbQaz
>>222 >日本人に受け入れられるようにがんばっていらしたんですよね?
そうですね。ファンにはお馴染ですが・・・
「母がくれたこの洋服(キリスト教)を、おれの身体に合った和服に仕立て直して
みようと考えるようになったのです。キリスト教というのは、私にとっては身によく
合わない洋服なのです。私はみそ汁とたくあんが食べたいのに、向こうがバタくさい
食べ物をよこすので、放り出してしまうというような感じだったのです。
このキリスト教を日本人の身体に合った和服にしてみよう、そして、それができな
かったときには、さようならと言っても、母親が許してくれるだろうという気が、
一挙にではなくて、少しずつ起きてきたわけです。」 『私にとって神とは』より
225 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/12(火) 01:27:35 ID:SX8sbQaz
>>223 あなたの投稿を読んで目頭が熱くなりました。
カトリックに入信する方がいらっしゃると嬉しくてですな。
ちょっとワインでも飲みますか。本来日本酒なんですが、希美さんが
ワインをよく飲まれるので影響受けとるのです。
226 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 07:58:31 ID:e128zrdZ
教皇様(ヨハネ・パウロ2世)は遠藤周作さんの存在を知っていたのかなぁ?
もし教皇様が「イエスの生涯」を読んだらどんな評価をされたのか
とても興味の湧くところです。
227 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 09:59:32 ID:E0OXyPjw
>>226 遠藤さんの存在は知っていたと思いますよ。
どの本か忘れてしまいましたが
(知っている人詳細お願いします)
遠藤さんが教皇様に面会した時
教皇様に「遠藤君、日本の仏教にもいいところがたくさんあるので
仏教の勉強もしなさい」と言われ仏教の勉強を始めた
と書いてあったのを憶えています
しかし、教皇様が「イエスの生涯」を読んだらどんな評価をされたのかは知りません・・・
東洋と西洋では笑いのツボもずれてまつからね・・・・。
229 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 13:29:29 ID:V+BMQR9v
>>227 >教皇様に「遠藤君、日本の仏教にもいいところがたくさんあるので
>仏教の勉強もしなさい」と言われ仏教の勉強を始めた
>と書いてあったのを憶えています
教皇はさすがですね。これは日本ばかりでなく世界のすべてのキリスト教徒に対する
忠告でもある。
遠藤氏のキリスト教関係の一連の作品は、宗教を越えて人間そのものにまで踏み込ん
だ大変な力作ではあるが、氏が信者である点で大きな限界があり、所詮は普遍的な芸
術作品とはなり得ない。
230 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 13:39:34 ID:hu80dOVM
>>氏が信者である点で大きな限界があり、所詮は普遍的な芸
>>術作品とはなり得ない。
遠藤氏をまっとうな信徒として認めるのには大きな限界があるので、
その作品は普遍的な芸術作品となってしまう恐れが・・・。
231 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 13:45:31 ID:V+BMQR9v
>>230 遠藤氏がキリスト教の神を信じていたことは否定できない。
彼が無神論者であれば、普遍的な作品となった。惜しいことだ。この点は、曽野綾子
も同じ。曽野は、信者でさえなければ、いい女。
232 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 13:51:14 ID:hu80dOVM
>>231 そこまで言うなら「宗教を越えて」の一言は余計だったな。
それさえなければ首尾一貫していたのに。残念!
233 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 15:12:47 ID:bgzZ4HkN
>>232 遠藤氏の「主観的努力」を言っただけ。
それにしても、遠藤氏は一番痛い所を教皇に突かれたという感じだね。
234 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 16:13:19 ID:hu80dOVM
>>233 それならば、「踏み込んだ」ではなくて、
「踏み込もうとした」ではないといかんね。
235 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 20:37:06 ID:E6ZVOegg
遠藤周作さんは大好きだが、曽野綾子さんは嫌いです。
ちなみに、三浦綾子さんは好きです。
イワンのバカのトルストイさんが好き。富野さんも好き。乙武さんも好き。
237 :
名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 21:06:02 ID:E6ZVOegg
私もトルストイさんは、大作よりも素朴な民話が好きです。
238 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/12(火) 21:27:36 ID:niSwQfwT
239 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/12(火) 21:44:30 ID:niSwQfwT
うさぎ888さんお勧めの『母なるもの』読み終えました。
短編の傑作集だと思いました。僭越ですが評価と感想を書いときます。
「母なるもの」……○ マリア様のいるカトリックはいいですな。
「小さな町にて」…○ 爺さんが目に焼き付きます。
「学生」……………◎ 使節団の4人と留学生4人を対照的に描いています。
ということは、主人公の私は、実は「彼」の評価が一番低い?!
「ガリラヤの春」…◎ カトリック信者の方々は爆笑します。
「巡礼」……………△ スピッツ、プロの方には申し訳ありませんが私も・・。
「召使いたち」……◎ 未信者の方にお勧めします。茗荷谷に行ってみたくなりましたな。
「犀(さい)鳥」…△ どうして犀鳥なのか?そして『彼の生きかた』を読みたくなりました。
「指」………………○ 先生がパウロ2世に謁見する場面いいですぞ。
240 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/12(火) 21:56:23 ID:niSwQfwT
>>217 『心の海を探る』持ってなかったのでブックオフで入手してきました。
目次を見ると、現代人は「自殺への道」を歩いている、というのがあり
私も早く読んでみたいと思う鳥ます。対談形式ですな。
241 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/13(水) 23:40:13 ID:biIUIz+y
『彼の生きかた』読み終わりました。この作品は、先生に対して
ではなく、二人の両極端の登場人物双方に嫌悪感が湧いて、後味が悪かった
ですな。一平は優秀な動物学者なのに、魂の救済する術は幼稚で、始終閉塞感を
感じました。信仰を持たない純粋な者の「愚鈍さ」にイライラさせられるのです。
また加納の不遜さは会社員であるなら誰でもが知っているもので
やはり嫌な気分を味わいました。ただ、不快になった=ためにならなかった
ということではまったくなく、女性の心理を学ぶうえでもたいへん勉強になりました。
後味が悪いので、短編『影法師』を大急ぎで読み直しました。
242 :
名無しさん@3周年:2005/04/14(木) 02:56:36 ID:b4d7eBpD
>>227 昔、キリスト教が仏教に急接近して、神父さんたちが座禅組んだりしたこと
があったね。
しかし、あれは単なる見せかけだと思うけど。
そもそも、仏教の教えの根幹とは、自分の外に一切救いを求めないこと
(自燈明、法燈明)だ。特に、禅の修業はそう。だから、イエス・キリストを
救世主と信じる者が座禅を組んだなら、師家はまず、そのイエス・キリストを
放下してしまえ、と教えるはずだ。
その意味で、キリスト教の信仰を持ったまま仏教の修行をするというのは、
最初から結婚の意志がないくせに、相手に貢がせようとする結婚詐欺師とあまり
発想は変わらない。
244 :
名無しさん@3周年:2005/04/14(木) 23:05:28 ID:4imUb3o0
公案などなく、ただひたすら座る、それが曹洞宗の禅です。
心の修養、瞑想には、とても有効だと思います。
私は、イエスを信じていますが、ブッダも信じていますよ。
初期の仏教は、そんなに難解でもなく、他者に寛容な教えですね。
>>243 仏教には、他力本願の思想もあるんでないの。
南無阿弥陀仏。
246 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 18:00:51 ID:ZxkDg72J
中国の若者に遠藤周作さんの本を是非読んで貰いたいですね。
>>243 ぷっ、仏教の教えなどキリスト教より幼稚園だと気付けよ。
248 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 20:33:54 ID:gdOmadrW
>>247 それでは問う、あなたの考えでは、小学校とは何か?
249 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/15(金) 20:36:00 ID:9Z6peSzC
仏教に関しては、『私にとって神とは』の5章と6章に、
「私はなぜ仏教よりもキリスト教に心ひかれるか」と題して先生が書かれております。
キリスト教では愛と憎しみ。憎しみは愛に変わりようがある。一方仏教は慈悲であるが、
これに対置されるのは「無関心」である。無関心は何も生み出さないのだ。と。
この本も是非読んでおきたい一冊ですな。学生さんにお勧めします。
250 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 20:59:34 ID:gdOmadrW
【憎しみ】が【愛】に変わるとすれば、とても良い事です。
しかし、【憎しみ】のままなら、【無関心】より悪い事態に
なりかねません。言い換えるなら、【無関心】の方が
良い場合もあり得ます。
イエスの説いた【愛】も、ブッダの説いた【慈悲】も、どちらも
素晴らしい教えだと思います。とても優劣は、つけられませぬ。
251 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:06:59 ID:gp/c12Qs
>>243 今でも、坐禅を組んで、信徒に教える神父さんは居ます。
禅マスター(師家)の免許皆伝?を正式に老師から受けた修道女もいますよ。
>>244 仏教信者がイエスを認めることは出来る。
しかしキリスト教信者がブッダを認めることは出来ないでしょう。
ブッダの教えは「空」であり「中道」です。愛のために自分を犠牲にするという発想は
(虎のエサになる前世譚はともかく)ブッダにはないです。
>>245 阿弥陀の他力は、善業がいらないですね。むしろ善業など出来はしないんじゃないか、という立場。
キリスト教は愛と犠牲が必要なんですね。ここが違います。
252 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:21:17 ID:qRSRIPwP
>>249 >キリスト教では愛と憎しみ。憎しみは愛に変わりようがある。一方仏教は慈悲で
>あるが、これに対置されるのは「無関心」である。無関心は何も生み出さないのだ。と。
愛が憎しみに変わる場合のほうがはるかに多い。その点で、仏教の「無関心」の
ほうがマシなことは自明だろう。
遠藤氏はそのことについては言わなかったのか。だとすれば、まさに信者である
故の限界であり、文学者としての価値はない。
253 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:36:32 ID:Q+RsZARs
まあ あれだ
神に立ち返ることで、憎しみが愛に変わるって事だ
逆に、神から離れることで、愛が憎しみに変わるって事だ。
犠牲っていうか、神の呪いによって神から離れていることに気付き
神に立ち返ることで救いに変わる、て事だとおもうよ。
254 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:42:39 ID:qRSRIPwP
>>253 カルト宗教がいつも使うすり替え、こじつけですね。
神が存在しなければどうなりますか。実際、存在しませんが。
255 :
243:2005/04/15(金) 21:43:15 ID:DYdByjpk
>>251 禅の自力と阿弥陀の他力は、全く対極のようでいて、実は同じ境地という気
がするんだけど。たとえて言えば、東京から乗っても大阪から乗っても、
最後に名古屋で出会えるみたいな。阿弥陀信仰の粋は「妙好人」だけど、
彼等は阿弥陀に救いを求めているんじゃなくて....すでに救われているん
だよね。だから、彼等の祈りは救いを求めるのでなくて、救われた感謝しか
ない。
私自身はクリじゃないから、推測でものを言っているんだけど、どうもクリ
は現世では救われていない気がする。
256 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:48:03 ID:gp/c12Qs
257 :
243:2005/04/15(金) 21:50:48 ID:DYdByjpk
>阿弥陀の他力は、善業がいらないですね。むしろ善業など出来はしないんじゃないか、という立場。
>キリスト教は愛と犠牲が必要なんですね。ここが違います。
ここの部分は重要な指摘だと思う。
すでに阿弥陀の手の平に身を任せた者にとっては、善悪の区別など関係ない
わけでしょう。強いて言えば、日常生活のすべてが善だ。
憎しみを愛に変えるということについて言えば、どこまで言っても「自分」
と「他人」のギャップは埋まらない。仏教の発想は、憎しみと愛の区別より
先に「自分」と「他人」の垣根を取り払うことから始める。良寛が就寝中に
泥棒に入られたとき、何も取るものがなくて気の毒に思い、わざと寝返りを
打って布団を持ち帰らせたというエピソードがある。それは「愛」という
より、「自己同一化」なんだよね。仏教は「愛憎」を超越しているわけ。
258 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:51:16 ID:Q+RsZARs
>>255 パウロは 希望によって救われている と言っている。
ローマ 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
259 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:58:46 ID:qRSRIPwP
>>258 抽象的で、意味不明。まるで女子中学生の文章。「救い」とは具体的に
どおういうこと?あなたは判っているのか?
「目に見えないもの」に対する希望を「妄想」という。
260 :
243:2005/04/15(金) 21:58:48 ID:DYdByjpk
妙好人にもこういうエピソードがある。
彼が丹精込めて野菜を育てていると、いじわるな隣人が自分が飼っている馬
を連れてきて、野菜を食わせて知らん顔をしている。妙好人は「どうせ食う
ならこっちの方がよく熟れているから、こっちへ来なさい」とわざわざ指示
した。
これは、心の底からこみ上げる怒りを、力ずくで愛に変えてしまう無理じゃ
なくて、もはや「愛憎」が消滅しているんだよね。野菜を食うのが馬だろうが、
自分だろうがもはや関係ない。
こういうエピソードを読むと、イエスの「あなたの隣人をあなた自身のように
愛しなさい」という言葉の本当の意味が伝わってくるように思う。
261 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 22:10:01 ID:HK+/l7JQ
>>259 そうなのよ 妄想かも知れないの。
神は イエスは救ったが 他の人は 救わないかもしれない。
だから 希望なんだと思う
艱難からの救いだから 「現世では救われて」いると
最終的に 救われないかもしれない。
マタイでは この世で良い報いを受けるな しつこくいっている。
262 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 22:20:20 ID:qRSRIPwP
>>261 「救い」「神はイエスを救った」「艱難」「最終的に」「良い報い」などの
言葉を、教養ある一般人に理解できるよう、具体的な日常例で説明して下さい。
抽象的な言葉や、自分でも具体的に理解できない言葉は絶対に使わないこと。
263 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 22:39:50 ID:WjQNtLNl
>>262 救いは 死から復活してもう死ぬことはなく永遠に続く安息日 ってことかな。
艱難は 惨めなことかな
最終的は この世の終わりの時かな。
良い報いは 富や名声かな。
神は 言葉で言い表せない存在
まあ この世を創造した存在かな
264 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 23:20:19 ID:tla7qKdj
>>263 完全に死んでから生き返った例は、史上皆無。死こそ永遠の安息。永遠の生命とは
永遠の地獄の別名。
「惨めなこと」は当人の気持次第。艱難を「自ら」克服するこにと救いがある。
具体的にどのようなことが「惨め」なのか?
「この世の終わり」とは、具体的には何時?それは何故?誰がどんな根拠で決めた?
「脅迫」に利用されないか。
キリスト教は「富や名声」を良い報いだと考えているの。世俗そのものではないか。
この世を創造した存在が、創造された人間の脳みそでどうして判る?ユダヤ社会の
秩序を乱した犯罪者として処刑されたイエスが、何故創造主と同格なのか?あり得ない
話で、神に対する冒涜の言ではないのか。
265 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 23:36:15 ID:2uR1DjBO
>>249 >>仏教は慈悲であるが、これに対置されるのは「無関心」である。
これはもう、ほとんど詭弁というか、言葉の遊びというか、思いつきに近いな。
これを書いた頃の遠藤って、まだ唯識なんか勉強する前の昭和40年〜50年ころだったはず。
あとで恥ずかしく思ったんじゃないのかな。
266 :
名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 23:50:17 ID:/boLX96Z
>>264 イエスは 死から復活させられた これは事実だよ。
その出来事に付いての証言がある。それは新約聖書だよ。
永遠に続く安息日とは 午前中に教会で礼拝をして 皆で飯を食って
午後は各自好きな事(趣味など)をして過ごす。夜は、家族で飯を食う。
まあ 趣味の無い人や 人と飯を食うとき話題の無い人 にとっては
地獄かもしれない。だからこの世でそれを練習する為に 7日に1日の
安息日があるのですよ。
>体的にどのようなことが「惨め」なのか?
人を創造した、神の人に対する要求である聖書の教えを
実行できないことだよ。
>それは何故?誰がどんな根拠で決めた?
形ある物は 何時かは滅びるからだよ。
>キリスト教は「富や名声」を良い報いだと考えているの。世俗そのものではないか。
この世で 富や名声 を得てはいけないの。
>秩序を乱した犯罪者として処刑されたイエスが、何故創造主と同格なのか?あり得ない
>話で、神に対する冒涜の言ではないのか。
この辺のいわゆる三位一体は 聖書からはなんとも言えない。神学の分野だよ。
オレは 神学については アンタより素人かかもしれない。
267 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/16(土) 00:32:02 ID:QvOBCx6u
話が難しくなってきましたな。
ところで、今日は『海と毒薬』を再読しました。これは遠藤先生は長編と
おっしゃってたそうですが、文庫本で166ページなので一日か二日で読めます。
橋本教授(おやじ)の妻ヒルダさんが上田看護婦を突き飛ばす場面、手術の場面、
傑作です。最後、勝呂二郎が、戸田に教えてもらった平和な詩をつぶやこうとしますが、
喉が渇いて声がでません。それはどうしてか。ちょっと疑問に思ったのは、
上田看護婦は上田と離婚した後旧姓を名乗らなかったのかな?ということ。
多分別れた夫に未練があったと解釈しました。先生が34歳の時の作品ですが
ドロップのように味わいがあります。日本人の罪の意識を問うているのですな。
268 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 00:43:42 ID:eqMDzEnR
>>251 「阿弥陀の他力は、善業がいらないですね。むしろ善業など
出来はしないんじゃないか、という立場・・・」
浄土思想は、ブッダ時代の仏教と、かなり異なりまする。
付け加えれば、親鸞聖人は、「薬があるからと言って、毒を飲んではいけない」と、
強調して説いたはず。念仏は、人の道としての【仏道】・倫理が、軽視されがち。
こんな伝統があるので、日本でも浄土教関連の宗派は、個人・社会の倫理という
側面がおろそかになり、社会事業も仏教他宗派より遅れてたんだね。
269 :
243:2005/04/16(土) 07:32:27 ID:iEVWsZhE
>>268 ちょっと妙好人のことを書きましたが、あれはキリスト教で言えば、庶民の
中に生まれた聖人みたいなもので、いわば阿弥陀信仰の理想形です。一般の
信者の祈りには、「この世で救ってくれ、この世でダメならあの世で救って
くれ」という欲求ばかりが渦巻いていると思う。
ところが、「人の道」は、もともと救われる救われないとは関係がないはず
なんだよな。「念仏」は、これを一心に唱えることで、心に湧き上がる我欲
とか思惑に囚われず、「人の道」に即して行動するためのものだったはず。
動機が不純な「念仏」の方が圧倒的に多いだろうし、形だけの「信心」が
ひとりあるきして、肝心の「人の道」がないがしろにされているのは、仏教
もキリスト教も同じだと思う。
狐狸庵先生の作品は、他のキリスト教系の作家と比較すると、イエスの言葉を
人間の手の届かない雲の上に引き上げてしまうのでなく、「人の道」を説く声
として、等身大で捉えようとしている気がするんだが。ノンクリの私から見ると、
変な「バタ臭さ」がないのがいいね。
机上の空論、学問上の教えとしては、仏教擁護香具師の諸説は成る程御もっとも
涅槃仏教の肝は「無」であり、「神」を全ての規範とする基教より深淵高邁である・・・かも知れん?
がしかし、仏の教えに身を置くもの=仏教聖職者=はやい話が周りに居る葬式坊主及び檀家の多い寺の坊主を見てみると・・・。
幼稚園から霊園、マンションまで経営し、高級外車を乗り回し、挙げ句の果てには愛人を囲い、紅燈の巷で名士気取り
物欲に塗れ、私腹を肥やし、最も教義とかけ離れた煩悩まみれの俗人と何ら変わらん輩が如何に多いかご存知であろう。
毎夏、京都のとある山奥の有名な寺院では
日本中の有力な寺の坊主共が負いも若きも集い、禊を一定期間行う。
で、それが開けた日、本堂でその坊主共は二組にわかれ、それぞれ観光バスを仕立て
雄琴の特殊浴場と、祇園の芸者遊びにイソイソと出かけるのが長い伝統となっている・・・・。
自分が京都のさる仏教系の大学で真面目に東洋哲学を勉強していた若い頃、同級生の有力寺の倅にこの話を聞かされ呆れ果てた・・・。
これが、悲しい哉 日本仏教の教えに携わる者の現実に過ぎない訳で、聖職者と言う自覚は建前に過ぎず、単に世襲制の経済的に安定した職業として
存在し続けているに他ならないとも言えてしまえる。
271 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 13:39:34 ID:4W6j9jkl
>>270 日本の坊主だけを基準にされてもな。
それは仏教の責任じゃなくて、檀家制度作った徳川幕府の責任だしな。
272 :
243:2005/04/16(土) 13:59:31 ID:zMCiG6WZ
>>270 日本仏教の堕落ぶりは御説のとおりで否定しようがありませんね。
タイとかカンボジアの僧侶は、孤児や不良少年を引き取って更生することで
社会貢献しているとも聞く。
これは、仏教を支える側の責任もあるのでは。生前は餓鬼丸出しのエゴで
暴利を貪った挙句、死んだら極楽の椅子を確保したいという強欲から、追善
供養と称してウン百万のお布施を出す。そういう「棒にも箸にもかからない
悪人」によって、実質上の仏教が潤っているというところが問題だわな。
宗教は、その時代の風潮に合わせて救済を求める人の要望に答える使命は
あるけど、現実に迎合したら、単なる水商売のポン引きと変わらなくなる
のも確か。
273 :
243:2005/04/16(土) 14:04:14 ID:zMCiG6WZ
ただ、その堕落した仏教と対比して、まだ「マシ」だという理由だけで
キリスト教を賛美する気にはならんわな。
「人間の道」を実践するために、時の権力者に立ち向かって、隣人の幸福を
ひたすら追求した無神論者はいくらでもいるわな。
そういう連中は、たとえばイエスの目からすれば、形だけ信心深いが、隣人
の運命など無関心なクリよりも、「御国」に近いのじゃないかな。
274 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 14:06:39 ID:ebOeqtJK
そこでネルケ無方和尚ですよ!
275 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 14:12:42 ID:4Ia407Xn
>>265 そうですね。遠藤先生は、その後、唯識論を熱心に勉強されたようです。
そして最後にガンガーの宗教(アジア多神教的発想)にたどりつかれました。
その総まとめが「深い河」です。あれは小説というより遠藤先生の過去の体験、
作品のモチーフをつなぎ合わせながら、遠藤思想を小説風に描いたものです。
自分の家がクリスチャンだったからキリスト教徒であって、
ガンジー思想でも釈尊でもチャームンダーでも良いではないか、ということですね。
276 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 14:15:00 ID:4Ia407Xn
>>268 >こんな伝統があるので、日本でも浄土教関連の宗派は、個人・社会の倫理という
>側面がおろそかになり、社会事業も仏教他宗派より遅れてたんだね。
たとえば具体的にどんなことですか?
知らないので教えてください。
社会事業で、浄土系が他の宗派より遅れた、というのを。
>>273 >ただ、その堕落した仏教と対比して、まだ「マシ」だという理由だけで
>キリスト教を賛美する気にはならんわな。
歴史的に見て過去のカトは、まだ「マシ」とは到底考えられないから、教皇自らの謝罪が
あったのでは?
>「人間の道」を実践するために、時の権力者に立ち向かって、隣人の幸福を
>ひたすら追求した無神論者はいくらでもいるわな。
カトなんかでそういうの追求した香具師は、所謂、福者、聖人と呼ばれる人なんだけど
総信者数の何割位なのかな?
278 :
243:2005/04/16(土) 18:00:18 ID:zMCiG6WZ
>>277 >歴史的に見て過去のカトは、まだ「マシ」とは到底考えられないから、教皇自らの謝罪が
>あったのでは?
多分、宗教が組織を作ると例外なく堕落するということでは。
>カトなんかでそういうの追求した香具師は、所謂、福者、聖人と呼ばれる人なんだけど
>総信者数の何割位なのかな?
妙好人と聖人の決定的な違いは、妙好人が所詮は「模範的信者」として尊敬を
集めるだけなのに対して、聖者は神秘化され、祭り上げられて、組織に利用
されてしまうというところ。浄土真宗の信徒が妙好人を崇拝することはないが、
カトの信者は聖人に「願」かけているよね。あれは百害あって一利なしだと
思うけど。
279 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 18:06:02 ID:S+ZR3zYM
>>277 キリスト教で言いますれば、リベラル派の「社会的福音」に該当します。
つまり、天国をただ待ち望むのではなく、現実の世の中でも、イエスの説いた愛の理念
に従い、改良・改善してゆこうという考えです。
具体的には、幼稚園・大学等を創立・運営し教育を普及させる活動、病院・福祉
施設を建て運用する活動、赤十字などの活動、廃娼活動、生活困窮者の救済
活動、悪しき差別の撤廃活動、反戦平和活動、人権尊重活動、etc
仏教でも同様に、ブッダの説いた理念に従い、この世の社会を改良・改善してゆくべき
なのですが、キリスト教リベラル派に比較して不熱心でした。
その中でも浄土真宗は、現実黙認の【あの世】志向が強かったのです。
そんな浄土真宗も、太平洋戦争後は悔い改めたらしく、教派として社会改良・改善活動、
反戦平和運動、人権尊重運動、差別撤廃運動等、それなりにやっています。
280 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 18:26:19 ID:0L4gR63g
>>264 >キリスト教は「富や名声」を良い報いだと考えているの。世俗そのものではないか。
カルヴァン派的な理解ではそうです。
281 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/16(土) 19:39:00 ID:v75uGiY2
282 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/16(土) 22:13:54 ID:RWmmTKz+
だいぶスレッドが進みましたが、
>>90 >>96などの書き込みに対してレスを
させてもらいます。
>さーてさん
>>90 >聖書の原典では愛を二十種類?以上に使い分けてるという話には苦笑させられましたが。
あなたは自分の正当性を主張するために偽って相手の書き込みを判断したり
引用しますね。これは、偽証ですから大罪に入りますし該当書き込み相手に
対するひどい侮辱ですよ。一つ目はどなたかの書き込みに対してあなたが
割込んで反論をはじめた
>>41で一応終結した一件。もうひとつは90で書き込み
されているあなたの理解はこちらの書き込みを踏まえていないというものです。
前スレ:
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1063965088/527 で自分は10種類の「愛」に解釈されているギリシャ語を挙げました。しかし
あなたは20種であったと書き込みし相手の書き込み内容を偽っています。
>>50では前スレッド978さんの投稿をもって「パウロに個人的な異常性が
あったのではないかという指摘が主旨なんだ」とその方の側に立った主張を
しておられますが、本当にカトリック信徒ですか?あなたは。故意か過誤かは
わかりませんが、人様の文面を曲解したり曲げて引用したり偽証した上で持論
を述べたり・・・・・少し悪さに度が過ぎてはいませんか?
283 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/16(土) 22:17:14 ID:RWmmTKz+
>>96 >あなたは、イエスの「踏み絵」を踏めと強制されたら、断固として
>踏まないと言える、強い信仰者なのですね?
>遠藤周作さんの小説「沈黙」に登場する、キチジローのようには
>ならない、自信があるのですね?
踏絵は、踏んでも踏まなくてもお上の裁き。踏まないという決意と
行動が神のために取られたその人の判断と行動であったらそれは潔く
すばらしいことですが、踏絵を踏むにせよ踏まないにせよ、神から
義とされることをこそ求めるべきことなのだと思います。まず神ありき
で個々が神の前に正直であるならば一方で踏まなかった人の殉教を神は
お喜びになるのかもしれませんが、もう一方で神に一滴の涙を注がれる
こととなる愛深い信仰者も踏んだ者の中から現れるかもしれないと
思います。ステファノを初めとしてペトロもパウロも殉教したと伝え
聞きます。しかし、神殿で頭を上げることなく「神よ、罪びとの私を
憐れんで下さい」と胸を打ちながら呟く徴税人を「義」とされ[ルカ18章13節]、
また「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。」[詩篇34編]
と聖書には書かれるように、神に希望を置き正直に生きる人には救い
への希望が取り去られることはないと言えるのではないかと考えます。
284 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 23:12:51 ID:A4J/AtP7
285 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/16(土) 23:28:06 ID:8/3KUrRl
>>282 故意に増やしたわけではないですが十種類でも二十種類でも同じことですな。
私の言いたい事を汲み取っていただきたい。
それと私はカトリック信者ですが無神論者と同じくらい疑います。
パウロを狂信者ではないと理解していますが、彼の指摘や疑いはもっとも
だと思いますな。
>>283 96さんは、あなたがご自分を強い信者だと過信してることをいなしている
んですよ。それが96さんの言いたい事なんです。そのようなありきたりの
レスではカトリック信者の読者は納得しないでしょう。
286 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 23:33:00 ID:S+ZR3zYM
神様は、いるかもしれないし、いないかもしれない。
死後の世界は、あるかもしれないし、ないかもしれない。
それは、誰にもわからないでしょう。
あると信じる生き方あっても良いし、ないと信じる生き方があっても良い。
どちらが正しいとか、優れているとか、そんな論争は不毛です。
287 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 23:50:37 ID:A4J/AtP7
>>286 人間界では、(必要な場合は観測装置を使って)不特定多数人が知覚できる物を
実在という。例外は皆無、日常生活の経験から帰納すればあまりにも明白。その
意味では、神は絶対に実在しない。
「死後の世界」は、死んでみなければ判らないし、死んで火葬されれば脳を含め
すべての感覚・認識器官は消滅するのに、一体どうやってその世界を認識するのか。
人類史上、完全に死んでから生き返った例は唯の一つもない。
宗教は、少なくとも神や死後の世界の実在を「断定」して、信者に恐怖感や期待を
抱かせるべきではない。公序良俗に反するものとして、法律により厳禁すべきもの
である。
288 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:08:05 ID:p9d0m+GS
>>286 >神様は、いるかもしれないし、いないかもしれない。
じゃあ、聖書もそのように書き替えてね。
289 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 00:17:51 ID:2vu61PrT
>>284 神の存在は、人の渇きと同じようなもの、被造物の存在を見ることにおいて
その片鱗を知ることのできるに過ぎないものですが、神の働きは命や愛において
顕著に現れるものなのだと考えてよいのではないでしょうか。
>>285 > 故意に増やしたわけではないですが十種類でも二十種類でも同じことですな。
>私の言いたい事を汲み取っていただきたい。
>それと私はカトリック信者ですが無神論者と同じくらい疑います。
まずあなたの過失について相手に謝ることもなく横柄に開き直るその態度は
あらためてもらいたいですな。そして、自分に向けてレスされていない書き
込みに対して無遠慮に当人を差し置いて代弁するようなその癖も良くないもの
ですから改めてほしいものです。
カトリック信仰と道徳の問題は、信仰者の信仰にこたえて示されたものと
して神の教えであるがゆえに洗礼を受けた者の良心を拘束するというのが
カトリック信徒一般の教えに対する理解だと思います。遠藤周作氏の小説から
信仰に入るのではなく、カトリック信仰の教えの実際をよく確認して聖書を
もう一度読んでおさらいをしてから遠藤氏の小説内容にそってカトリックを
考察してみたらどうですか?あなたは遠藤教であって、カトリックでも
キリスト教でもないのかもしれませんよ。
290 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:26:23 ID:p9d0m+GS
>>289 現実上の根拠の皆無な妄想を長々と書き込むのは止めて欲しい。貴重な
スペースの無駄使いです。
自分の考えを、まず現実と照合して確認すること。
291 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 00:29:42 ID:2vu61PrT
のどが渇いたということや夢を見たということは、普通当人が周囲に
言わない限りはお腹が鳴ったりうなされている様子を見るなどの場合を
除けばわかりにくいものです。神に心から渇いているという場合、その
渇きは癒されることがあるのか?というのが信仰者にとって切実な問題
です。自分は、その渇きに対しては食べ物や飲み物に渇く者にパンと水が
与えられるように、神と人や人々の間に霊を伴う命の営みとして、あるいは
神を信じる人と人の間にある愛の形として癒されうるし、「救い」という
ものが現実的に信じるに足りる希望であると感じています。
292 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 00:35:02 ID:2vu61PrT
>
>>289 >現実上の根拠の皆無な妄想を長々と書き込むのは止めて欲しい。貴重な
>スペースの無駄使いです。
>自分の考えを、まず現実と照合して確認すること。
信仰の現実と向かい合うというのは大切なことです。あなたは信仰者
ではないようですから、いろいろとお話するのは控えますが信仰者が
直面する現実と教えの順守については複雑なことが多いのです。
293 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:35:33 ID:GSiisYdC
>>287 常連の、【ゴキブリ教】信者の方ですか?
>>288 聖書には、「神様が必ずいる」とは、書いてないですよ。
キリスト教徒は、「神は、愛である」と説いた、イエスを信じてるのです。
294 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:35:43 ID:p9d0m+GS
>>291 神がどこに存在するのですか。あなたは存在を確認したのですか。
「架空の神」について語ることは止めてください。あなたが本当に神を
知っていれば、決してそのように饒舌に語ることはできない筈ですよ。
295 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 00:48:18 ID:2vu61PrT
>>294 >神がどこに存在するのですか。あなたは存在を確認したのですか。
>「架空の神」について語ることは止めてください。あなたが本当に神を
>知っていれば、決してそのように饒舌に語ることはできない筈ですよ。
神についてカトリックは色々と語ります。その内容は霊的なものを含めた
信仰箇条があり、現実的にマリアの奇跡現象と言われる話、エクソシズム、
七つの秘蹟、そういった超常的な問題も現実的なものなのです。聖書の中に
書かれた世界は架空の物語ではなく現実の一端についてあらかじめ示唆して
いるものであると理解したほうがいいかもしれません。
296 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:50:24 ID:p9d0m+GS
>>293 人間に過ぎない、しかも犯罪者イエスを「神格化」しているのが問題なの
です。
その「愛」を唱える宗教が、最も多くの人を殺したのは一体何故?「愛」など
口にすること自体が基本的に間違っているからです。本当に「愛」のある人は
その言葉を決して口にしません。
297 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:58:24 ID:GSiisYdC
イエスは、あなたのように疑い深く口汚い者も、受け入れ愛しておられます。
あなたの負のエネルギーを、信仰に向けてごらんなさい。
あなたは、神様の尊い作品なのですよ。
298 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 01:04:42 ID:p9d0m+GS
>>297 余計なお世話というもの。俺はイエスを信じて人殺しだけにはなりたく
ないよ。
俺が、そしてすべての人間が「神様の尊い作品」なら、すべての人間自体
が神であり、他の神など信じる必要はない。
宗教は、架空の神など信じるから、現実の神である人間の軽視と否定が生じて
いるではないか。
299 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 01:06:31 ID:JCHRr+g9
>>289 >神の働きは命や愛において
>顕著に現れるものなのだと考えてよいのではないでしょうか。
こんなことを書いて未信者の方がどう感じるかわからんのですか?
私でも胡散臭さを感じます。
>遠藤周作氏の小説から信仰に入るのではなく、
人それぞれですな。
>カトリック信仰の教えの実際をよく確認して聖書をもう一度読んで
>おさらいをしてから遠藤氏の小説内容にそってカトリックを
>考察してみたらどうですか?あなたは遠藤教であって、カトリックでも
>キリスト教でもないのかもしれませんよ。
あなたこそ遠藤先生の『カトリック作家の問題』を読みなされ。
そして、人の信仰にケチをつけ人を踏み台にして神に近づこうとする
心は醜いですぞ。
300 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 01:10:50 ID:a5G68nRG
>>297 >常連の、【ゴキブリ教】信者の方ですか?
なあ、これは口汚くないのか?
301 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 01:15:47 ID:GSiisYdC
>>298 あなたは、「神は、架空だ」と、ひたすら信じたいのですね。
だけど、心の中では【イエスという男】の事が気にかかり、モヤモヤしてる。
302 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 01:18:05 ID:GSiisYdC
>>300 ハイ、口汚い言葉です。
私の不徳です。
303 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 01:24:40 ID:2vu61PrT
>>299 あなたのような人がカトリックには多いかもしれませんね。あなたがこちらを
非難しているその内容は、こちらにしてみればみんなあなた自身がご自身の問題
として受け入れなきゃならない問題であるように思います。遠藤氏の小説を
楽しみたければどうぞお読みになられたら良いと思います。しかし、あなたには
決定的に要理と聖書に書かれている事実に対する認識が欠けておられます。
もう一度要理だけでも読み返されたら良いかと思います。では。
304 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 01:30:38 ID:JCHRr+g9
人+人さんのような信者が、日本人を神から遠ざけてると思いますがな。
「日本人の感覚からすれば全くそらぞらしいようなことを言うのを、改めようと
思えば改められると思います。私は小説を書く場合、キリストにふれても読者に
寒けを起こさせないように努力しているつもりです。だから、たくさんの人に読
んでもらったのかもしれません。キリスト教の出版物が二千、三千しか売れない
というのは、日本人の感覚を逆撫でするようなところがあるからかもしれません。」
『私にとって神とは』より
305 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 01:43:27 ID:JCHRr+g9
>>303 >あなたがこちらを非難しているその内容は、こちらにしてみればみんな
>あなた自身がご自身の問題として受け入れなきゃならない問題であるように
>思います。
詭弁ですな。私はあなたのバタ臭さを非難しています。未信者の方をキリスト教
から遠ざける点では悪しき信者ですな。無知だから許されるのですかな?
以前、あと二段階賢くなって欲しいと苦患を申上げましたぞ。そして、私は
あなたの信仰を非難や否定をしてはいない。信仰を裁いてはいません。
一方、あなたは私や遠藤先生の信仰の瑕疵を見つけようとして必死ですな。
それがあなたの神に近づくエネルギーとなっとるんですか?
要理の本?(苦笑)
306 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 01:47:49 ID:2vu61PrT
>>304 偽りが信仰者を平安に導くことは無いと自分は思います。
自分が遠藤氏に不安を抱く理由は、遠藤氏が代父を勤め洗礼を受けられた劇作家
の故Y氏とのやり取りの最中に起きた突然の詳報とその後件について教皇庁から
発表された問題の文書がY氏の記事の間違いを裏付けたことという体験がある
のです。あなたが平然と他者の書き込みを曲解したり内容を変えて当人の書き
込み内容であるかのように引用したり(ある場所で
>>33とすべき引用番号を
>>34として相手の書き込みを削除情報であるかのようにリンクを貼っている)、
そういうことが行なわれるのはカトリック信徒の中に一定数占めている信徒の
傾向なのかもしれません。
カトリックは現在病んでいると思います。そしてその根が非常に深いのでは
ないかと危惧します。
307 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 01:54:22 ID:2vu61PrT
>>305 いや、あなたは人の信仰について非難や否定をしてはいないどころか、
あからさまにこちらの否定しているのですがね。事実に基づかない信仰は混乱と
分裂を招きます。そして、キリスト教の信仰は信仰者に対して教会が責任をもっているのであって遠藤氏は責任を取りません。遠藤氏はその点
で聖職にあるわけでもないのですから、無責任な態度で教会の教えについて教えと違うことを吹聴してはいけないのだと思いますよ、自分は。
308 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 01:58:16 ID:2vu61PrT
>>307の改行などに乱れがありました。乱文すみませんでした。
309 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 02:03:53 ID:GSiisYdC
ま〜、カトリックというのは、日本の自民党と似ていますね。
一つの団体ですが、内容は多彩です。実に、幅が広いです。
人+人 ◆8fRI53Oe1o さん、懐の深いカトリックなのだから、
ユニークな視点もありという事で、良いじゃないですか・・・
310 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 02:15:54 ID:JCHRr+g9
>>306 >自分が遠藤氏に不安を抱く理由は、遠藤氏が代父を勤め洗礼を受けられた劇作家
>の故Y氏とのやり取りの最中に起きた突然の詳報
あなたらしい切羽詰まった書き込みですな。人を安心させるのではなく、不安に
陥れたいという心の動き・・。詳報がどんなものか私は知りませんが、遠藤
先生も人間、誤りはあるでしょう。あなただけ大いに不安を抱いてください。
>あなたが平然と他者の書き込みを曲解したり内容を変えて当人の書き
>込み内容であるかのように引用したり
私も人間ですから曲解はありますが、あなた程ではないです。
十種類を二十種類(?)としただけで、内容を変えて当人の書き込みのように
したと非難してるのですか?
>(ある場所で
>>33とすべき引用番号を
>>34として相手の書き込みを削除情報であるかのようにリンクを貼っている)
悪意を感じたわけですか。心が病んでませんかな?
>カトリックは現在病んでいると思います。そしてその根が非常に深いのでは
>ないかと危惧します。
私はあなたが病んでいると思います。敢えて直球をぶつけてみましょう。
自分だけお利口ちゃんぶるのではなくて、あなた自身があなたを悩んでみたら
如何ですか。
311 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 02:35:32 ID:JCHRr+g9
聖書や要理やカトリックを使って、他者を責め他者を不安に陥れようとする。
自分以外の人間は間違った信仰を持つだろうという思い上がり。
決して自分が弱い人間であることを認めようとしない。いつも他人に問題がある
のであって、自分には欠点が全くない。
未信者の方を自分が味わっている幸福からは遠ざけようとする。
悪魔の取り憑いた人間は吐き気がしますな。
312 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 02:46:35 ID:2vu61PrT
>>310 多くの人が教えを知らない「無知」によって迷い、多くの人が教えの知識に
埋まって教えの中身を「知る」には至らず、多くの人が隣人を通して将棋倒しの
ように倒れているのが、今のカトリックではないかと思います。あなたは信仰の
話にあっても、その実一切信仰については語らず馬鹿にするような物言いで
人を侮辱しつづけますが、それもこれもあなた自身が招いていることでこちらは
もうあなたにレスはしないつもりでおりますからそのおつもりでよろしくどうぞ。
313 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 03:07:26 ID:2vu61PrT
難しい話のお詫びに、あるボクシング選手を題材に書かれたショートストーリーを少しだけ。どこかのHPで前に読んだものを思い出して書き出すものです。出典は不明ですが笑いを提供して下さっている諸氏に感謝!
1.会長は言っていた
ヨーコー、最初の世界タイトルマッチを目前に控えていた。
会長:ヨーコー、怖いか?
ヨーコー:はい、会長。怖いれすねえ。
会長:しかしな、ヨーコー、自分が怖い時は相手はもっと怖いんだよ。
ヨーコー:そうれすか会長!ありがとうございます。
かくしてヨーコーは世界チャンプとなることが出来た。
さて、TVのクイズ番組にゲスト出演したヨーコーに司会者が訊ねた。
女子アナ:チャンピオン、初めてのクイズ番組ということで
多少緊張なさってますか?
ヨーコー:そうれすねえ。でも自分がアタマ悪い時は、
相手はもっと悪いれすから……。
314 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 03:08:29 ID:2vu61PrT
2.家紋はなんですか?
TVの番組で
「ヨーコーさんの家の家紋はなんですか?」
「カモン?」
「家の紋です」
「家のモン?………あーぁ、ブロックです。」
3.携帯
やっと念願の携帯電話を買ったヨーコー、渋谷のスクランブル
交差点で初めて呼び出し音が鳴った。
ヨーコー、交差点中央に歩き出しながら周りに聞こえるような
声で、「会長、よくボクがここに居るってわかったねえ!」
4.サーカス
ヨーコー、沖縄にやってきた「木下(きのした)大サーカス」が
評判との番組でコメントを求められた。
記者:ヨーコーさん、木下大サーカス、もう見にいかれましたか?
ヨーコー:ああ、まられすけろ(まだですが)。やっぱりサーカスは
木の上での方がスリルがあるんじゃないですか!?
315 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 03:09:29 ID:2vu61PrT
5.デパートにて
田舎から出てきたヨーコー、エレベーターで、
「ご利用の階数をお知らせください」
「5階です」
「3階!」 というやりとりを聞いて……
「私ははじめてです」
6.映画鑑賞したい
田舎から出てきたヨーコー、映画館でチケットを
「学生一枚下さい」「子ども二枚」と買っているのを見て、
「ボクサー1枚!」
7.ハワイでお買い物
ハワイに団体旅行で出かけた英語の出来ないヨーコー、
八百屋で客の一人がバナナを指して「バナーナ」と注文
しているのを目撃した。また、別の客はトマトを指して
「トメイトウ」と頼んでいる。
ニヤっとほくそえんだヨーコー
いちごを指して
「イチィーゴゥ、くらさい!」
316 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 03:14:57 ID:JCHRr+g9
未信者の方を誤魔化せても私は誤魔化せませんぞ。>人+人さん
私があなたにしつこいのは同じクリスチャンとして
あなたがよくわかるからですよ。
317 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 03:27:06 ID:2vu61PrT
318 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 03:37:04 ID:JCHRr+g9
>>317 人の信仰のあら探しをして自分の信仰を確認するという悪癖が
ついてしまっているということです。クリスチャンが陥りやすい過ちですな。
319 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 03:52:58 ID:JCHRr+g9
それを遠藤先生や私や他の信者に向ける。
あなたは遠藤先生を愛をもって理解しようとするのではなく、己の信仰の土台に
するための素材として遠藤先生を見ているのです。先生もたまらんでしょうな。
私や他の信者に対しても、己が神に近いという確認のための素材として裁いて
いますな。私はあなたの信仰が薄いというような批判はしてませんぞ。
あなたは私に要理を読みなさいとおっしゃる(苦笑)。
悩まないといけないのはあなた自身でしょう。己の醜い心にレーザーメス
を入れたら如何ですか。私はあなたのように、いつも他人にジョーカーを
渡し、決して己を問題にしない「平気でうそをつく人たち」を何人も
見てきました。
320 :
人+人 ◆AOLegnPuzA :2005/04/17(日) 03:54:33 ID:2vu61PrT
>>318 信仰をきちんと学び理解しようとする中で、現実生活は色々な課題を
我々にもたらすものです。自分の信仰を確かめるのに相手との一致点を
探しているのですが、あなたには信仰面での一致点を求めるのが困難な
状況です。こちらの姿勢はあなたとの信仰面での確認にあるのにあなたは
こちらが信仰の穴を探すことで自らを正当化しようとしていると考える。
あなたが非難するその内容はズバリあなた自身の他人の信仰への姿勢の
問題であってこちらの姿勢の問題ではありません。
321 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 04:06:19 ID:2vu61PrT
>>311 >未信者の方を自分が味わっている幸福からは遠ざけようとする。
>悪魔の取り憑いた人間は吐き気がしますな。
あなたは信者の幸福を味わっているとしていながら悪魔の取り憑いた
人間だとするのは文面に矛盾があります。
>>319 とにかく客観的に見てもあなたの文面は少し信仰者としてはおかしい。信仰の基礎である教会の教えについての知識、キリスト教全般に
共通した認識であるはずの聖書についての知識、その両面にあなたと
こちらとの間に適当な一致点を見ることが出来ない。信仰の話をする
ためには共通の土台が欠けています。ですから遠藤氏に対しての見方
をこちらが示しても感情的にそちらはこちらを批判するだけになって
しまう。これでは信仰面においてお互いに歩み寄ろうと話し合っても
まったく不毛です。
322 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 04:07:16 ID:JCHRr+g9
>>320 また、私の信仰の批判ですか。やれやれ。
私がしつこくあなたに食い下がるのは、あなたに悪の臭いがするからですよ。
煙たいですかな?
323 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 04:11:12 ID:JCHRr+g9
>>321 悪魔には悪魔の味わい方がありますぞ。
信仰そのものからくる幸せというより、
信仰を使っての優越感や虚栄心から幸せを感じていませんかな?
324 :
321読みにくいとこ訂正:2005/04/17(日) 04:12:46 ID:2vu61PrT
>>321 >×あなたは信者の幸福を味わっているとしていながら悪魔の取り憑いた
>人間だとするのは文面に矛盾があります。
↓
○“あなたは信者の幸福を味わっている”としていながら“悪魔の取り
憑いた人間”だとするのは文面に矛盾があります
改行不備などの乱文はご容赦を。
325 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 04:30:59 ID:2vu61PrT
>>322 >また、私の信仰の批判ですか。やれやれ。
>私がしつこくあなたに食い下がるのは、あなたに悪の臭いがするからですよ。
>煙たいですかな?
あなたに対する感じはこちらも同じです。イエス・キリストは公
生活前に悪魔に試みられた時には聖書の言葉を引用して悪魔の聖書
からの言葉の引用を退けます。
あなたがこちらを非難するその根拠は、信仰面で元となるはずの
聖書の記述にもカトリック要理にもおいておらず、もっぱら遠藤氏の
小説の中からの記述を抜き出したものとなっています。
>>323 はっきり言っておきますが、優越感や虚栄心を持てるほどの信仰や
知識を自分が持っているとは思いません。かえって自分の信仰に不安
があり欠けている点が多いがゆえにその知識や実際について確認すべき
ことが沢山あるものと心得ております。あなたは信仰において知識が
あまりにも重視されすぎていてこちらの指摘に逆上されたかに思います
が、こちらは前にも申し上げたように知識はその本質において知る過程
であって「知る」ことそのものではないと思っています。しかし、
実際問題としては共通項としての信仰者の知識というものは必要でしょうし
それがないとお互いに理解し合えないかもしれないと思っていますし
今もあなたとこのようにやり取りをする中で痛切に感じております。
326 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 04:33:53 ID:JCHRr+g9
>>324 悪魔の取り憑いた人間は、必死になって他人を責めて、
「あなたの信仰は間違っている。信者ではない。」などと言って
躓かせようとするでしょう。
また、キリスト教はとてもついていけない宗教だと思わせ、
未信者の方に遠ざけるでしょう。
あなたのやってることではないですかな?
前スレでは愛を10種類?に分けないと本物の信仰ではないような
口ぶりでしたな(苦笑)
それと、あなたの虚仮威しにはのりませんぞ。
327 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 05:05:04 ID:JCHRr+g9
>>325 今度は自分がイエス様気取り。私が悪魔の聖書を引用する者ですか。
また私を踏み台にして、信仰を確認しようとしている。
そうとう強力な悪魔が取りついてますな。
人のことを心配しているフリをして、人を不安にさせる作戦は
もう見切りましたぞ。己の心の悪と向き合って欲しいものです。
328 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 05:07:05 ID:2vu61PrT
>>326 世は相手の欠点や悪を見て弱みを握ったとばかりに喜びその人を受け入れます。
しかし、クリスチャンは相手の悪を見た場合自分に出来る部分については相手の
欠点を補い支えようとします。相手には欠点が無くなることを願い罪については
相手のために祈ろうとしますし、救いについて相手が神にあって救われるように
と願うのが信仰でありその実質たる愛のひとつの形であろうかと思います。
あなたの信仰は正しい信仰なのかもしれません。しかし大切なのは
最終的に神をどれだけ信頼していたか、誰を愛していたか、それだけ
が問題なのであって、どれだけ教会の知識があったかとか地位や立場に
あったかというのは救いにとっては小さな問題であろうと思います。
329 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 05:33:51 ID:JCHRr+g9
>>328 私にクリスチャンの理想系を示し、圧迫してるつもりですかな?
この類いは・・・私のやり方のほうがおが屑が取れますな。
330 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 05:45:03 ID:2vu61PrT
>>327 >
>>325 >今度は自分がイエス様気取り。私が悪魔の聖書を引用する者ですか。
>また私を踏み台にして、信仰を確認しようとしている。
>そうとう強力な悪魔が取りついてますな。
>人のことを心配しているフリをして、人を不安にさせる作戦は
>もう見切りましたぞ。己の心の悪と向き合って欲しいものです。
遠藤周作さんの作品が神のものか悪のものかは別にしても「聖書」と
形容するほどにあなたは彼の作品に傾倒しているわけですか?
困りましたね。
331 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 06:17:24 ID:2vu61PrT
>>330は、こちらがあなたの書き込みを誤解していました。
悪魔が聖書を引用してイエスを試したとこちらが指摘したことをあなたは
「悪魔の聖書」と語に区切りをつけて理解されたようです。
>イエス・キリストは公生活前に悪魔に試みられた時には聖書の言葉を引用
>して悪魔の聖書からの言葉の引用を退けます。[
>>325から自分の文章を引用]
自分は、聖書の言葉やカトリックの教え自体によって疑問や不安に応えて欲しい
のです。ですから、出来るだけ相手を悪魔だの天使だのと決めてかかる前に
そのように判断する根拠をきちんと示して欲しいと思うわけです。よろしく。
>>329 >私にクリスチャンの理想系を示し、圧迫してるつもりですかな?
>この類いは・・・私のやり方のほうがおが屑が取れますな。
体験としてそうした記憶などがあなたにあればよかったのですが、
そういうものはお持ちではありませんか?
332 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 06:18:04 ID:JCHRr+g9
>>330 私が「悪魔の聖書」とあなたの投稿を読み間違えて、それを引用した
のを指摘されとるのですか?つまらん揚げ足を取るのはやめなされ。
遠藤先生は、日本人+カトリックで出てくる悩みや苦悩を書かれました。
私にとってこれほどまでに面白い本は他にありませんな。
それと困ってくれなくて結構。他者を悩ませたり、不安にさせようと
する悪癖を早く治すことです。
333 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 06:34:49 ID:2vu61PrT
>>332 あなたのような人が平然とカトリック教会内を闊歩することの方が、とどの
詰まり非常に霊的に危険なのです。遠藤氏が日本人の心情を理解していたと
しても彼はカトリックを書いてはいないのですよ。それがわかりませんかね?
カトリックはマリア崇敬を教えます。しかし、自分が
>>5以降に引用し
>>21 に要点があるように天の父の慈愛において聖書は読まれ教えが浸透する中に
「平安」が望まれるべきであることは明白な事実なのです。
334 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 06:40:40 ID:JCHRr+g9
>>331 >自分は、聖書の言葉やカトリックの教え自体によって疑問や不安に応えて欲しい
>のです。
また人を虚仮にすることを書いてますな。私があなたに言われる筋合いがありますかな?
私があなたに聖書の言葉やカトリックの教え自体によって疑問や不安に応えて欲しいと
思います。こうやって投げ返すのが悪の治療には効果的なんです。
>ですから、出来るだけ相手を悪魔だの天使だのと決めてかかる前に
>そのように判断する根拠をきちんと示して欲しいと思うわけです。よろしく。
全部が悪魔だなんてそんな野暮なことはいいませんぞ。もっと巧妙ですからな。
私は聖書や要理からの引用は全部取り除いて考える。
それらは自分がいかに信仰が篤いかを見せるためのやり方でしょうから。
判断の根拠は私の投稿を読み直せばわかられるでしょう。既にあなたの心中には
私の言いたいことは伝わってるはずですが。
335 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 06:43:28 ID:2vu61PrT
自分が言っていることは、職業そのものが求めるある種の道徳の問題
と同じことです。つまり、英語の先生は好むと好まざるとに関わらず
正しい英語の発音を生徒に教える、物理学者や科学者一般が実験結果を
好むと好まざるとに関わらず認める、お店の店員が取り扱いの商品について
いつでも取り出せるように把握しお客の注文に応える、そういったことと
同じレベルのことです。カトリック信徒は好むと好まざるとに関わらず
洗礼を受けた以上基本的に教会の示す教えと聖書への示唆に沿って信仰を
捉える、このことは基本的に重要なことです。
336 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 06:49:40 ID:JCHRr+g9
>>333 あなたのように思い上がった信者こそカトリックにいてはいけないのです。
イエス様の教えからほど遠いですな。知ること=信仰が篤いと勘違いしてる
なら仏教徒になられては如何ですか。
337 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 06:52:54 ID:2vu61PrT
>>334 >私は聖書や要理からの引用は全部取り除いて考える。
>それらは自分がいかに信仰が篤いかを見せるためのやり方でしょうから。
とうとう完全に文章がいかれてきましたよ。カトリック信徒としての
立場での相手の的外れを指摘するなら要理やカテキズムやカトリック事典
などから具体的に示して下さい。キリスト者として正しいことを言う場合には聖書や信仰書籍などを具体的に示して間違いについて示唆を
与えるならばわかりやすいです。知識があるなしは信仰の有無を意味
しないと思いますよ。相手をどう誉めるかとか相手に対してどのような
知識をどのように織り交ぜて気持ちを伝えるかが重要なのでは?
信仰に関する面で相手を拒絶する場合、生理的に嫌いだ!というもの
ではなくこういう理由であなたに同意できないという根拠を少しは
示すことが出来るはずです。あなたは教えも著作もかなぐり捨てて俺は
遠藤が好きだ!でカトリックと日本人を語るつもりですか?めちゃくちゃ
ですよ・・・・・
338 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 06:54:53 ID:JCHRr+g9
>>335 それを遠藤先生の作品に求める点がおかしいのです。
カトリックの要理や聖書を読めばいい。あなたが説教しに出てくることでは
ありませんな。
339 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 07:00:14 ID:JCHRr+g9
>>337 ん?「私は聖書や要理からの引用は全部取り除いて考える。 」
これは、あなたの投稿から取り除くという意味ですぞ。
あなたの引用は信仰を篤く見せるための擬制であると判断しているということですが
意味がわかりませんでしたかな?
340 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/17(日) 07:02:15 ID:2vu61PrT
>>336 >あなたのように思い上がった信者こそカトリックにいてはいけないのです。
>イエス様の教えからほど遠いですな。知ること=信仰が篤いと勘違いしてる
>なら仏教徒になられては如何ですか。
なんであなたは相手を排除することばかりに躍起になって書き込み
するんです?教会で洗礼を受けているなら信仰の原点は教会の教え、
このことにまで反対するのですか?聖書を引用したらその引用は全部
取り除く・・・それはそれでいいですが、あなた自身は相手の引用
ばかりでなく聖書そのものまでも投げ捨ててはいませんか?まあ、
お互いに夜を明かして書き込みし合ってましたから消耗して思考が
働かなくなりましたな。では、このあたりで自分は小休止します。
341 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 07:04:07 ID:JCHRr+g9
>カトリック信徒としての
>立場での相手の的外れを指摘するなら要理やカテキズムやカトリック事典
>などから具体的に示して下さい。
とうとうパリサイ人であるという本性を現わしましたな。
342 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/17(日) 07:25:48 ID:JCHRr+g9
>>340 >なんであなたは相手を排除することばかりに躍起になって書き込みするんです?
まず、あなたが未信者の方や日本人を理解してないからです。
日本で信者を一体何年やっとるのですか?相手の立場に立って考える訓練が
できているとはとても思えませんがな。今、私が読んでいる
のは『女の一生 一部・キクの場合』ですが、プチジャン神父様が
どのように長崎の農民と接しているかを読んでみなされ。
人は幸せになるためにクリスチャンになるのですぞ?
あなたみたいな、へんてこりんなパリサイ人が出てきて、責められるために
クリスチャンするのですかな?
343 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 09:24:34 ID:un8GRR8J
近藤周作とは違うの?
344 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 12:14:16 ID:ffKzLKq1
>人+人さんへ
「人が聖書のためにあるのではない。聖書が人のためにあるのだ。」
「人が神のためにあるのではない。神が人のためにあるのだ。」
イエス・キリスト
横レスですが。
>「さてと」さん
パリサイ人が自分の「義」を律法遵守という形で証明したがるのは、「悪」
というよりも、「弱さ」から来ていると思うけど。自分自身の「義」が贋物
であることを心の底から痛いほど知っているから、律法に弁護してもらおうと
いうことではないか。
律法という仮面は、もちろん取り外すべきだけど、パリサイ人の場合、仮面
が自分の顔に癒着して、引き剥がすと出血し、激しく痛むんだよ。時がまだ
至っていない人から仮面を無理にはがそうとしても無駄だから、この辺で
終わりにしては如何? この世の中、あなたのように強い人ばっかりじゃない
ことを忘れないでね。
346 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 13:14:52 ID:DMOOZ2Oh
>>345 弱さを売り物にするのは醜悪である。依存こそ、人間の精神の堕落を招く。
弱者に対する憐れみは、弱者に対する侮辱である。
そもそも、なぜそのような仮面を付けざるを得なかった(付けさせられた)かを
問題にすべき。
347 :
345:2005/04/17(日) 13:28:07 ID:yKTzi0Ic
>>346 天の下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある
生ずるに時あり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和ぐに時がある。
(コレヒトの書)
348 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 13:32:34 ID:DMOOZ2Oh
>>347 そんなことを聖書から教えてもらう必要はない。生活者にとっては、とっくに
自明のこと。
私の教会の神父様たちのお話しは、さてと ◆RLtoLnT/2E さんのおっしゃることの
ような感じです。神父様によっておっしゃることもずいぶん違うのでしょうね。
350 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 14:01:48 ID:DMOOZ2Oh
宗教は、神とか教典とか現実に確認不能なものを根拠とするから、百人百様な
見解が可能であり、このような果てしない紛争が続く。
造られたままの人間とは、生の欲求という基本的本能を持った生物であるという
確固たる普遍の事実を基盤・出発点とすれば、すべての問は容易に回答可能である。
351 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 14:20:10 ID:DMOOZ2Oh
キリスト教は、教祖とその弟子達の心的外傷から生じた精神の病の故に、人間を
抽象化し、生物としての基本的生存本能から切り離してしまったために、結果的
には誰よりも多くの人間を殺した。その元凶はイエスである。
神から与えられた一度きりの生をひたむきに生きようとはせず、もっぱら宣教に
従事した者達に、人間性のすべてに対する洞察が出来るはずがない。全く異常で
ある。
聖書のすべての言葉は、他者との係わり合いの中での日常の生活において神を見た
生活者の智恵の見地から、反論と否定が可能である。
キリスト教ほど、実は「神」に遠いものはないことを自覚すべきである。
352 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 14:40:57 ID:pCuRCFHA
>>899 正義と平和を口実にして、野心を遂げようとする連中、
つまり、イザベルやアハブ王たちは逃出すことに・・
353 :
注意事項:2005/04/17(日) 16:40:38 ID:xcCixJIz
皆さん346、348、350、351は、時々湧いてくる一言居士の自己中アラシです。
無視し続けると勝手に自滅しますので、クレグレも相手にされません様に・・・・。
354 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 16:45:55 ID:SvtMzXwh
>>353 反論できないのなら、正直にそう言ったらどうかね。
355 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 20:13:05 ID:GSiisYdC
>>354 「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけしましょう」
理性を犠牲にして、丸呑みに信じろとは、決して言わない。
疑いつつ反抗しつつ、イエスの説いた道を歩んでみる。
まずは、そこから始めたらどうか・・・
356 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 20:17:13 ID:+YiM7mOV
>>355 精神障害者の言説を、大真面目に信じ、あり難がるキリスト教徒も精神障害。
精神病は伝染する(感応精神病)。
357 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 20:29:39 ID:GSiisYdC
>>356 君がイエスを棄てても、イエスは決して君を棄てない、ずっと君の傍らにいるよ・・・
君と共に喜び、君と共に哀しむよ、君の人生の同伴者だ。
358 :
名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 20:54:27 ID:GX8nCESV
>>357 サイコパスに付きまとわれるのは不気味で迷惑。もっと健全な人間にしてくれ。
359 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/18(月) 01:58:30 ID:FhapBFIJ
カトリックが霊の識別の出来ない偽りのキリスト教となっていると自分が
主張する根拠は色々と挙げることが出来ます。
>>341 >>342のさてとさんへの
レスをかねてここではその後の他の方のレスも勘案しつつ書き込みしようと
思います。
自分が愕然としているのはカトリックの霊的な脆(ぜい)弱性であり、それが
中世以来連綿と内部を侵食し日本にカトリックを齎したイエズス会修道士から
はイルミナティという秘密結社創始者を出し、マリアの出現と言われた前世紀
の世界における霊的関与の深い出来事に関してその識別判断が長い間なされな
かったという事実などに現れる1500年以上にわたるであろうと思われるカトリック
に潜む善悪混交の霊的影響などについてです。この状況は本当に酷いものだと
思います。そして、このような状況を打破するのは容易ではないと体験的に
感じています。
360 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 02:01:29 ID:u+xzdUR8
>>359 「霊」とは一体何ですか。幽霊を信じるのは子供だけですよ。
361 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/18(月) 02:14:10 ID:FhapBFIJ
霊、というとその存在を疑ったり信じない方もいると思います。
しかし、自分の周辺環境においてはその事実に対して無視したりすること
は出来ないものでした。そして、事実は霊的問題について非常に恐ろしい
予想を引きおこすものです。
マスコミが興味本位にこぞって記事にしたりしていましたから、
カトリックに固有とは言えないものですが奇跡や超常的出現という
現象を皆さんはご存知のことと思います。カトリックが歴代聖人として
認可する人には通常少なくとも二つは説明の難しい奇跡的現象の
エピソードを持ち、是非が検討されて認められた者のみが聖人として
名を連ねているということ、皆さんもお聞きになったことがあるかも
しれません。つまり、聖人崇敬のみならず、典礼や信仰生活上も含め
カトリックは霊的な問題や奇跡にある種信徒も聖職者も敏感であると
言えます。「父と子と聖霊の御名によって」という十字架のしるしに
伴う聖霊は使徒行録の初めの方に「炎の舌」と出てくるイエスの約束
として降される「霊」でありこのことを考えても基本的にキリスト教
の信徒は霊の存在と働きに対して無関係ではいられないわけです。
362 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/18(月) 03:45:33 ID:sSs2xxgB
>>359 >>361 >「愕然としている」
>「この状況は本当に酷いものだ」
>「このような状況を打破するのは容易ではない」
>「非常に恐ろしい予想を引きおこすものです。」
>「無関係ではいられない」
相変らず切羽詰まった投稿ですな。またカトリック信者(他者)の不安を煽っとるのですか?
私は、あなた自身の信仰が危機だと思う鳥ます。ベクトルは外側にではなく内側に向けなされ。
363 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/18(月) 03:52:52 ID:sSs2xxgB
364 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 03:55:07 ID:irElPAOQ
私は宗教に関心のあるただの読者ですが、
>>313 ヨーコーさんとは名ボクサーの具志堅さんのことだと思うが、なぜこの話で笑えるの?
具志堅さんを侮辱する内容じゃないか。
人+人さんて、他人を見下すのが相当好きなんじゃないの?
あまり腹がたって、みすごせませんでした。
人+人 ◆8fRI53Oe1o さんは或る福さんの逆バージョンで福音派からの刺客
366 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 21:48:11 ID:gYzVNEIU
具志堅も渡嘉敷もいい奴だ。
渡嘉敷はちょっとおっちょこちょいだが。
367 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 21:51:25 ID:gYzVNEIU
カトリックか。ついに馴染めなかったな。
自ら洗礼まで受けたのに。
祈りのことばと自分の気持ちが、心の奥でいつもずれていたのを感じてたな。
気持ちよさそうに祈ってる人を見ると・・・・ そんなことは考えたこともない幸せな人たちなんだな。
368 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 22:38:53 ID:l2NwW8fj
>>367 その気持ち、何となくわかりますね〜。
だけど実際には、違和感や自分だけ皆から浮いてるような
感覚を、全く感じない人の方が珍しいのでは・・・
あなたは、感受性豊かで正直な人なのだと思います。
同じカトリック教会でも、場所・集う人数・関係者が違うと、ぜんぜん
雰囲気が違いますよ。
自分の場合、都心の大きな教会や外国人神父は、馴染めませんでした。
369 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/19(火) 07:01:17 ID:ACZRPbAG
>>364 >ヨーコーさんとは名ボクサーの具志堅さんのことだと思うが、なぜこの話で
>笑えるの?具志堅さんを侮辱する内容じゃないか。人+人さんて、他人を
>見下すのが相当好きなんじゃないの?
多分、具志堅さんの人となりを見てそのユーモラスな沖縄方言や発言の特徴
を捉えてさもありなんというエピソードを作られた短編ストーリーだと思います、
一連の話は。でも、「具志堅」という実在のボクサーを指して作られた
当人を揶揄したりするためのストーリであるとは自分は思いません。最近、
ガッツ石松さんのプロデュースするインスタントの焼きそばをコンビニで見かけ、
それを買ってみましたが、ガッツさんの語録なる同じような笑いを誘うエピソードが
書かれていました。それを最近見たことと、「さーて」なる人と自分との
やり取りをしている内にハッとこのエピソードを思い出した次第です。どこか
やり取りがちぐはぐでヨーコーなる主人公がこちらかさーてさんかは別としても
なんだかこのエピソードが今の二人の間にある緊張をほぐすような気がしたの
です。この話に笑えない人もいるでしょう。364さんが他人を見下さないように
頑張っていることは立派です。自分は、他人にキチンとモノを発言してもらいたい
と思っています。ですから自分が発言するときにはきちんと話題の枠組みの中で
客観的な資料や知識を示しながら自分の発言をしようと心がけているつもりです。
挿入したジョークは、多少これまでの経緯に対する風刺てきな意味合いを内意に
込めてはいますが、さーてさんや具志堅さんを指してどうこう非難や侮辱を
しようと思ったわけではありません。そのあたりの冗談についてはお怒りに
ならずにいただければ幸いです。
370 :
人+人 ◆lByqzFcLKA :2005/04/19(火) 07:09:07 ID:ACZRPbAG
>>365 >人+人 ◆8fRI53Oe1o さんは或る福さんの逆バージョンで福音派からの刺客
それはないですね、福音派のプロテスタントの人がカトリックに改宗
することがあるようですが、そのような人には聖書を逸脱しない教えの
中核を実践していって欲しいと願っています、自分は。カトリックが
歴史上民間信仰を源流として取り入れてきた色々な習慣や信心行のような
ものについては注意を払って信仰生活を歩んでいって欲しいと思います。
371 :
人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/19(火) 07:21:04 ID:ACZRPbAG
>>367 >カトリックか。ついに馴染めなかったな。
>自ら洗礼まで受けたのに。
>祈りのことばと自分の気持ちが、心の奥でいつもずれていたのを
>感じてたな。
同じ気持ちの人は結構いるかもしれません。イエスはペトロのために
祈っていました。イエスは愛する者、神と彼に従う者たちのために十字架を
進んで受け入れました。自分の場合、今の自分は正直にカトリックであろう
とするとカトリックを非難しなければなりません。カトリックであるという
ことは神と人とに正直な自分を表現することも一つの正しい信仰への
突破口になりうるのではないかと自分は考えます。ですから、あなたも
祈りを他者に伝えるべき気持ちの表れとして神にそして周囲の人に祈って
みたらどうでしょうか?神に伝えたいことや願いたいことを正直に神に
向けて祈ることは与えられた文言をただ人に合わせて唱えるだけの
唱和よりもずっと本当の意味の祈りに近づく行為になるのではないかと
思います。
372 :
人+:2005/04/19(火) 07:33:37 ID:ACZRPbAG
>>362 >相変らず切羽詰まった投稿ですな。またカトリック信者(他者)の
>不安を煽っとるのですか?私は、あなた自身の信仰が危機だと思う
>鳥ます。ベクトルは外側にではなく内側に向けなされ。
あなたの周りにいれば人はみんな神経症のような病気になってしまう。
人の内側にあるものはすべて外に出すこと適当な形で表現していくこと
こそが必要なことです。カトリックの問題に対してあなたはカトリック
信徒として一つもこちらに的確な回答をよこされたことがない。
カトリックがどのような教え方をしているか、聖書にどのようなこと
が書かれているか、相手が受け入れやすい客観材料をきちんと示しながら
相手に対して意見を言いなさいな。感情を爆発させることで相手を
言いくるめたり押し黙らせようとすればそのような振る舞いをされた
方は傷つきますし成長しません。自らの知っていることは知っているよう
にきちんと語り、知らなかったことについてはそれを知らなかったとこと
としてきちんと認める。それだけのことでどんなに互いが成長するか
わかりません。
373 :
372は人+人 ◆8fRI53Oe1o :2005/04/19(火) 07:34:38 ID:ACZRPbAG
>>372の名前欄、書き込みがうまくいきませんでした。ごめん。
374 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/19(火) 08:43:51 ID:fG5TqTug
>>369-370 >「自分は、他人にキチンとモノを発言してもらいたいと思っています。」
>「そのような人には聖書を逸脱しない教えの中核を実践していって欲しい」
>「注意を払って信仰生活を歩んでいって欲しい」
今度は、他者の不安を直接的に煽るのではなく、
「○○してもらいたい。○○して欲しい。」という形を使ってこられましたな。
つまり、他者や私やカトリック信者が至らないと思い込ませることで、間接的に
不安を煽っているのです。同時に、他者を踏み台にして神に近づこうとしている。
人+人さんは、未だ己の心に巣くう「悪」に手をつけようとしてませんな。
涙して回心するまでは、その地獄からは出てこれませんぞ。
私は、あなたの投稿の目的が「墓を白く塗るため」だと気付いてからは
まともにレスしよらんのですがな。
375 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/19(火) 09:40:28 ID:fG5TqTug
>>372 >あなたの周りにいれば人はみんな神経症のような病気になってしまう。
効きますかな?
私はあなたが外側に向けてるベクトルを、強引に内側に向けて、
己の心の「悪」に対峙させようとしてますからな。あなたにとっては
神経症になるような気分でしょう。
心に巣くう「悪」が居心地が良くて出て行きたがらんのですよ。
他者を蔑み、他者に要求し、他者が至らないと考え、他者がカトリックだと
思えない、いつも他者に問題があって、他者が悪いと考えていますな。
これからは自分の心に巣くう「悪」を問題にしなされ。
『 自分の感受性くらい 』
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
茨城のりこ
377 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/19(火) 10:09:20 ID:fG5TqTug
>>371 >自分の場合、今の自分は正直にカトリックであろうとすると
>カトリックを非難しなければなりません。
聖書もカトリック辞典も要理の本も他者を非難する道具にするなら捨ててしまいなされ。
あなたに欠けてるのは、イエス様が一番伝えたかったこと、なんです。
それを欠いて墓を白く塗ることを信仰だと勘違いしとるのです。
だから他者にも墓を白く塗るように要求するのですな。
己の弱さを嫌というほど味わい、おいおい泣いて、禅宗で言うならば放下にも
似た気持ちになって、回心することです。そうすれば他者を非難しなくなります。
『 自分の感受性くらい 』
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
茨城のりこ
379 :
名無しさん@3周年:2005/04/19(火) 11:57:52 ID:B0zvzUEy
>>369 気持ち悪い自己弁護だな。
具志堅を揶揄してるのは間違いないでしょ。
しょーもない、本人も知らないつくりばなしで。
具志堅を出汁に、さてとって人を揶揄したかったんでしょ。
嘘つき。
さぞや聖書は自らの罪悪感への免罪符となることでしょうよ。
380 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/19(火) 19:15:31 ID:gycl6txD
祈りやミサにあずかることや聖書やカトリックの知識を持つことで得た自信を
他者(遠藤先生や他のカトリック信者や私)を非難するためのエネルギーにしてますな。
そして、他者を非難する過程で、己の虚栄心を満足させ、己の信仰は篤いとウットリなさる。
信仰に寄生した毒きのこが、信仰から栄養を吸収し、毒を作り、毒を発散するよう
なものです。毒きのこ自身は毒を発散する過程は快感なんです。
この悪循環というか、悪の形を破壊しないと、いつまでも毒や悪臭が発散されましょう。
私がかなりしつこいと思われる方がいらっしゃるようですが、この類いは
かなり根が深いと思うとります。
こんな掲示板を通してでないと、一生、誰も、面と向かって注意しませんからな。
381 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/19(火) 19:52:53 ID:gycl6txD
ところで、『女の一生 一部・キクの場合』を読み終わりました。
こんな作品を今まで読まずに放置してたことを激しく後悔しました。
私の中では『わたしが・棄てた・女』を越えましたな。
「小さな町にて」は、遠藤先生が46歳(1969年)の時に書かれており
『女の一生 一部・キクの場合』は57歳(1980年)のときの作品ですから
前者がデッサンだったのでしょう。
382 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/21(木) 01:33:11 ID:QMuKNY6h
私の母の家系が代々クリスチャンで、私の母の母、
つまり私の祖母ですが、祖母の父親が山口県の津和野に住んでおりました。
その「私の祖母の父」が五人兄弟の末っ子だったそうで、兄四人は
クリスチャンの弾圧が酷くなってきた際に、津和野のお殿様から
カリフォルニアに逃がしてもらっとるんです。
危うく、凍った池に突き落とされたり、「三尺牢」に入れられるところ
でした。
『女の一生 一部・キクの場合』を読み終えた後、『灯のうるむ頃』を
読んで『砂の城』に移ったのですが、未だ『女の一生』の
余韻のほうが大きいですな。
383 :
名無しさん@3周年:2005/04/21(木) 02:54:47 ID:XkNkfSF0
遠藤周作に感銘を憶えながらペンテコステ系に心底入り込んでる人って
いるのかな?
384 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/04/21(木) 21:16:46 ID:lILwAc5l
385 :
名無しさん@3周年:2005/04/28(木) 00:52:21 ID:fAZeoP/k
遠藤先生は、イエスさまを信仰していると言うよりも
マリヤさまを慕っておられたと思うのだが…
386 :
(´Д`;) ◆s.nh0p9Cws :2005/05/01(日) 00:55:18 ID:O4lJnOV6
↑日本人向けに仕立てられた和製キリスト教なんだな〜
387 :
思うに:2005/05/09(月) 22:54:24 ID:bahdj8tu
カトリックの洗礼を受けてしまったものの一人ですが、
無限な超越からの肯定性というのは、私の場合聖書の中から
ではなく、自然発生的な自分の心のイメージと『歎異抄』のメッセージの
調和の中から出てきました。八木誠一なんかによると(『パウロ・親鸞*イエス
禅』)根底的なメッセージの同一性が主張されています。
カトリックと浄土真宗を補い合う形で調和させれば、「実存的に機能す
る宗教」になるんじゃないかと、思っております。
南無阿弥陀仏をカトリックから異端として退けられれば、私は異端なんで
しょう。だからといって、その源泉の存在を否定できません。
388 :
名無しさん@3周年:2005/05/10(火) 13:01:48 ID:uvAkqH0O
389 :
名無しさん@3周年:2005/05/10(火) 22:23:38 ID:xGSaWe3B
遠藤を批判する人でカトリックの人にお伺いしたい。
あなたにとって望ましい、カトリック作家とは誰なのですか?
あるいは、カトリック文学というものなど、不要とお考えならその理由でもよろしいです。
390 :
思うに:2005/05/10(火) 22:28:48 ID:GjkBacqA
単純な「神話」として、神の働きが心の中で息を吹き返すことが出来ると
思われます。直接的な神、存在そのものにわれわれの精神が、うまくつな
がることは、難しいと思われます。イエスはそうだったかもしれませんが。
彼のキリストとしての復活自体も、一種の「神話」として心の中で機能して
いると思います。それでいいと思うのですが。つまり、神話は人間の心が
作り出した物であるといっても、人間の心自体が存在と深くつながっており、
その心の力づよい働きの現れ(特に時間・空間を越えたもの)なわけです
から。どの神話が本物かということになると、概念的なレベルでの問題になり
ます。しかし、それにこだわることが信仰あるいは信心の場合には
個人の内面的な生活にとってかなり重要になるため、愚かな戦いも起こるわけ
でしょう。
キリスト、阿弥陀神話は、元型レベルで同一性をしめしており、
双方とも心の中に「限りない光」を発し得るのだと思います。
391 :
名無しさん@3周年:2005/05/11(水) 00:43:28 ID:qeKJOvrN
まあ、ネットの上での遠藤批判者クンには、呉智英の「バカにつける薬」を
お勧めします。というか、せめてこの程度の文章は書けるようになってください。
392 :
名無しさん@3周年:2005/05/11(水) 01:01:20 ID:GQuG8nzB
394 :
名無しさん@3周年:2005/05/11(水) 21:26:49 ID:yCWouNZt
浄土真宗の説く阿弥陀様を信じつつ、イエスもキリストだと信じる。
こういう信じ方も、あって良いと思います。
私の場合は、初期の素朴な仏教に学びつつ、イエスの説いた【愛の神】
を信じております。
この様な立場は異端と思われるかもしれませんが、宗教的真理には多元性
があり、一つであるとは限らないと思われます。
395 :
名無しさん@3周年:2005/05/11(水) 23:38:55 ID:fhuF2fSq
本来統一できるような多元性であれば、象徴が複数あっても自然にまと
まりを持つようになるのではないかと期待しております。「掟がなく光の
みがある場所」これへの通路がやはり必要だと思います。それがあってこそ
イエスの教えが生きてくるのではないでしょうか。どうしても、
キリスト教の枠内にとどまるとおしつけがましい窮屈なところがでてき
てしまいました。
カトリックが禅を取り入れたりするのも、そういうところを確保するため
の努力なのかと思います。私は教会に復帰するにあたって、神父に
「信心告白」をしてそれに対する意見を聞くつもりです。
遠藤作品は、私は読んだことがありません。「カトリック 親鸞」で
google検索したらこのページに当たりました。私の問題意識と近いことが
これまで書かれていたので、思うところを書かせていただきました。
「深い川」はガンジス川をモチーフにした作品だったことは知っております。
真面目に自分の内面とむきあうと、どうしても東洋的な心とむきあわんと
いけないところがでてくるのではないでしょうか。
396 :
名無しさん@3周年:2005/05/12(木) 00:46:04 ID:NLfj1VCp
現在の状況は【葬式仏教】に落ちぶれていても、先祖代々仏教徒の家では、
仏壇・位牌・先祖の遺骨のあるお墓を放棄する事は、分家した人は別としても、
跡取りの立場では現実的に困難でしょう。
【仏教】そのものにも、よく学べば捨て難い魅力と優れた内容があります。
私は、青年時代にキリスト教に出会い受洗しましたが、イエスの教えに深く
共感する反面、【唯一絶対の救い】という主張に疑問を持つに至り、宗教多元
主義者になりました。
>>396 同意です。
一般的には仏教は、葬式仏教か、御利益祈祷の場か、
欲望をすべて捨てて悟り済ますもの、などと極端に
考えられていますが、それだけではありません。
もっと深い中身があります(唯識なども含めて)
遠藤先生も晩年、そのことに気付かれました。
398 :
読売新聞:2005/05/25(水) 01:07:43 ID:TvzHdqUH
2004年(平成16年)12月10日(金曜日) 読売新聞
物語の中のふるさと 女の一生 遠藤周作 長崎県
冬の初めの長崎。昼下がりの大浦天主堂を訪ねた。右の奥には幼いイエスを胸に抱く聖母マリア像。
それは、祈りのための静寂を守っているようにも思われた。遠藤周作が「女の一生」で描いた女性達、
そしてコルベ神父が祈ったのも、このマリア像だった。
マキシミリアン・コルベ(一八九四〜一九四一)。布教のため長崎に住み、ポーランドに帰ると人
の身代わりとなってナチス・ドイツに殺された。キリスト教徒でもあった遠藤は、神父が長崎で生き
た証しを残し、中高生らに戦争と命を考えてもらおうとした。その情熱は「聖コルベ記念室」として
結実した。
聖コルベ記念室は天主堂から石畳を少し下ったところにある。コルベ神父は1930年(昭和5年)、
長崎を訪れた。
記念室は六年間にわたる布教活動の足跡を、写真や神父の書いた手紙で紹介している。
神父と修道士たちは最初の一年間、この位置にあった洋館を仮の修道院にして暮らした。記念室に
は、神父らが日々使っていた赤レンガの大きな暖炉が保存されている。
洋館は戦後、崇山(すやま)雄太郎さん(九一年に死去)、淳子さん(75)夫妻が購入した。
夫妻は、神父の住んだ家だとは知らずに買った。
「修道士たちがよく家の前で立ち止まり、手を合わせていました。ある日、そんな人たちに尋ねて初
めて、それだと知ったのです」
399 :
読売新聞:2005/05/25(水) 01:08:46 ID:TvzHdqUH
コルベ神父 献身の人間愛忘れず
いま、記念室を守っている淳子さんは言う。だがこの洋館は、七八年(昭和53年)、火災で焼失
した。
八一年十一月、遠藤は雑草の茂るこの地を訪れた。焼け残った暖炉を見て「聖母の騎士修道院」の
修道士、尾崎登明(おざきとうめい)さん(76)に訴えた。
「大浦天主堂には修学旅行の学生がたくさん来ますね。百人いたとしたら九十八人はほかのことを
考えても、一人か二人の学生はコルベ神父の話を聞いて感動するかもしれない。何とか(暖炉を)保
存して見学コースにしてほしい」
遠藤は何度も長崎に足を運んだ。小崎さんは神父に関する多くの史料を提供した。
長崎に原爆が投下された時、小崎さんは爆心地に近いトンネルの中の兵器工場で働いていて難を逃
れた。
「林の中で、険悪な仲だった同僚が倒れていた。助けを求める同僚を『ざまあみろ』とののしって
自宅にたどり着くと、母は死んでいたのです」
このことが消えぬ傷となり、修道院の門をたたいたという。
小崎さんはある年、タクシーの中で遠藤に打ち明けた。遠藤は第二部を書き上げた後の正月、小崎
さんを東京の料亭に招いた。
「あなたが原爆で助けを求める人の手を振り切って逃げた話をしてくれたでしょう。ああいう時、
誰もパンを与えることはできない」
その時の言葉である。
400 :
読売新聞:2005/05/25(水) 01:09:31 ID:TvzHdqUH
女の一生の第二部にはナチス・ドイツの収容所が描かれている。苛酷な労働を強いられた一人がコ
ルベ神父に「なぜ神は助けてくれないのか」と詰め寄る。
<「ここに愛がないのなら……」と神父はかすれた声で言った。「我々が愛をつくらねば……」>
神父は餓死室への身代わりになることを決意した。
作家と小崎さんはその日、コルベ神父について語り続けたという。
「『女の一生』は私の心の故郷である長崎への恩返しのつもりで書いた作品である」
遠藤は第一部の筆間談話(あとがきに当たる)で、長崎への思いをこう語っている。
彼の熱意を受けて九五年八月、暖炉を囲んだ教会風の聖コルベ記念室は完成した。聖母の騎士学園
が運営している。
「知らせたかったが、入院中と聞いて果たせませんでした」
訃報(ふほう)が届いたのは一年余り後の九六年九月だった。
小崎さんはこう言って遠くを見た。
「遠藤さんが、暖炉のそばの小さな黄色い花を摘んで『コルベさんの花だよ』と言ったのが忘れら
れません」 木戸 隆司
401 :
名無しさん@3周年:2005/05/25(水) 01:23:05 ID:zq4x2BUB
コルベ神父は、他人一人の命を助けても、自分の命は失ったではないか。人間の
自己保存の本能には反している。何だか違和感を覚える。それも、相手に対する
心からの憐れみからではなく、「神」のためにやったのならなおさらだ。
,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなこたーない
´∀`/ \__________
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Ё|__ | / |
| У |
>>401 そうですね。自分の地上の命を健康に保持することも愛徳の業のひとつですからね。
むつかしい面がありますね。
眼の前で、我が子が河で溺れてるの見ても
自分が泳げなきゃ、周りに人が居ない場合でも
迂闊に飛び込んで助けようとかしない事の方が
自己保存の本能に順じた愛徳の業なのですね。
>>404 共倒れになることが予めわかっているなら、飛び込まないべきでしょう。
子供も自分も死ぬのが分かっているならね。
溺れ死ぬのが分かっていながら、とっさに
飛び込むのは自然の反応であって、
愛徳とはいえないと思いますね。
406 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/06/04(土) 10:36:16 ID:NUHSELBI
>>385 私もそうかな?と思いましてな。ここへの書き込みをブランクしている間に
先生の作品を大層読み込みましたぞ。それでも、先生ご自身がマリア様をカトリック信者
としての普通を越えて慕われていたとは思えんのですな。
407 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/06/04(土) 14:52:21 ID:OXuF9t41
ところで、『満潮(みちしお)の時刻』もいいですぞ。
主題は「時は満ちた=マイナスをプラスにして掴んだぞ」だと思いますが、
私はそれより「生活ではなく人生を考えるように足を掴まれ引き戻される」
ところが良かったですな。それによって駄目押しで「見える人」を要求される。
命がけの経験で心に焼き鏝をあてられないと
人はなかなか「見える人聞こえる人」になれないのかもしれません。
書いてありませんが先生がお一人で泣くような顔して(泣いて)お祈りされて
いた姿が思い浮かぶ作品でもあります。長崎も出てきますぞ。^^
408 :
名無しさん@3周年:2005/06/12(日) 02:33:51 ID:/IHDoPFi
キリスト教は進化論を否定しているそうだけど、遠藤周作さんはどう思っていたのだろう。
カトリックは進化論を否定しません。
410 :
名無しさん@3周年:2005/06/16(木) 00:46:27 ID:YSkSe54/
エホバの教えは進化論を否定しているのでは…?
カトリックは進化論を否定しません。
412 :
名無しさん@3周年:2005/06/16(木) 22:12:57 ID:idsdUawI
証拠を述べなさい。
無知は恥、怠惰は罪、自力検索しなさい。
414 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/06/18(土) 02:48:00 ID:20gGRUwX
進化論も創造論も遠い世界の話ですな。どっちに転ぼうが日々神に感謝。
日差しが強くなってきましたがそれを感じる肌があることから感謝ですな。
415 :
さてと ◆RLtoLnT/2E :2005/06/18(土) 03:24:26 ID:20gGRUwX
長崎が出てくる作品をあげときます。
=長崎がでてくる作品=
『沈黙』『女の一生 一部・キクの場合』 『女の一生 二部・サチ子の場合』
『砂の城』『満潮の時刻』『走馬燈』『切支丹の里』『銃と十字架』
『哀歌』の「帰郷」「雲仙」
『母なるもの』の「小さな町にて」
『最後の殉教者・母なるもの』遠藤周作文庫に収められている「一枚の踏絵から」
『最後の殉教者』に収められている「最後の殉教者」
『侍』…少し 『ピエロの歌』…少し
保守sage
417 :
名無しさん@3周年:2005/08/11(木) 15:54:04 ID:MElGAZrm
遠藤さんの本を読むとキリストが遠い過去のユダヤの人ではなく
私達とともに歩む、共に苦しむ同伴者にみえる
それが母なる許しの神という日本人の宗教心にあうのでは
418 :
名無しさん@3周年:2005/09/26(月) 16:50:03 ID:NdDFX+MW
落ちたのかと思っていた。
間にブランクが入っているから、遠藤周作 で検索してもヒットしないはずだ。
419 :
名無しさん@3周年:2005/10/21(金) 07:35:10 ID:Q3pZGmpJ
大体死んだら、読まれなくなるもんだが、遠藤の場合は、相変わらず売れています。
売れなくなれば遠藤周作全集でしか読めなくなるから
今のうちに文庫は、買っておいたほうが、ええ。
420 :
名無しさん@3周年:2005/10/21(金) 07:36:40 ID:Q3pZGmpJ
小西行長のことを書いた鉄の首枷は盲全集でしか読めないと思う。
残念!
421 :
名無しさん@3周年:2005/10/31(月) 20:52:58 ID:rRvJwowS
久々にあげます 芥川賞作家で思いつく作家は?というようなアンケートで
遠藤周作がベスト5位以内に入ってました 遠藤作品は健在です。
ところで井上洋治神父は法然上人について書いていますね。
よいことだと思います。
422 :
名無しさん@3周年:2005/11/02(水) 00:14:27 ID:YgtDJh7n
質問でもいいですか?
子供がカトリック系の幼稚園に入っていまして、その関係で
聖書の勉強会とかに入っています。
今度日曜帯の教会に行ってみたいのですが、幼稚園の子供は
無理ですよね?
皆様どうしてらっしゃるのか教えていただきたいんですけれど。
どうぞよろしくお願いいたします。
423 :
名無しさん@3周年:2005/11/02(水) 02:43:01 ID:o4R2aVvD
幼稚園の子供さんでも大丈夫。
いちばん後ろで御ミサを観察してくるといいと思います。
425 :
422:2005/11/04(金) 18:19:28 ID:qk7dMIyO
>>423-424さん
どうもありがとうございます。
参考になりました。
ぜひ、教会にも足を運んでみたいと思います。
すれ違いなのにお答え頂きありがとうございました。
426 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/11/04(金) 20:05:57 ID:/KiKiM6Y
427 :
424:2005/11/05(土) 12:01:49 ID:zOwi0Fox
428 :
sage:
>>427 百合丘 → 百合ヶ丘が正しいですね。失礼。