>>64 色々な読み方もあってもいいんじゃないでしょうか。
真理はひとつ、でも、読み方は様々だし、解釈も完全に一つ、とは言いきれない。
人間には量り知れない部分も含んでいるかもしれないし、含んでいないかもしれない。
今日のミサの聖書箇所は、ヨハネ書の盲人の目を癒されたイエスの話でした。
自分は今まで「目が開いた=イエスを信じた」程度にしか思っていなかったのですが、今日は新たな発見を得ました。
盲人は、目が見えるようになってから、群衆に囲まれ、ファリサイ派に尋問され、両親まで呼び出しをくらいますね。
特にファリサイ派の人々は何度も同じようなことをしつこく繰り返します。
そしてついには会堂から追い出され、イエスに出会い、信じるわけですが、
この尋問のプロセスが重要であったように感じます。
最初は「イエスと言う人」、次は「預言者」、「神のもとから出て来た方。」
彼は会堂でのやりとりの中で、じっくりと理解を深めていったのではないでしょうか。
イエスの言う「目が見えるようになる=」には、たくさんの人との出会いや、環境の変化、
あらゆることに、盲人のように敏感に感じ取っていくことが必要なのではないのか。
これは「回心のプロセス」の一環を現したたとえ話であったようにも感じました。