☆★仏教☆☆

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1名無しさん@3周年
全般について語り合いましょう。
2たっち〜で〜す:04/08/06 16:32 ID:OAo2HcKv
仏教は害毒です。

間違いない。
3たっち〜で〜す:04/08/06 16:48 ID:OAo2HcKv
でも、使い方では、薬になります。

間違いない。
4名無しさん@3周年:04/08/06 17:50 ID:o95k9Tux
どうもお寺さんとは縁がない。
お経を読んだり座禅をしたりするのは結構好きなのだが。
51:04/08/06 18:15 ID:m4HxeCux
私は八正道を歩めるように頑張っているよ。
結構難しい。「8つの正しい道」ってちゃんと知らないんだけど、
一応あらゆることで正しいように。
皆さんはどうですか?
6名無しさん@3周年:04/08/06 19:55 ID:m4HxeCux
仏典を読むときは二つに分けるべきだよね。
一つはブッダの言行を写していると思われるもの。
もう一つは後世に出来上がったもの。
テキストはHNKテープの仏典シリーズで勉強し
ています。
7名無しさん@3周年:04/08/06 20:42 ID:m4HxeCux
なぜ仏教かというと、神は迷妄だからです。
8名無しさん@3周年:04/08/07 03:15 ID:/yz3vV3+
たとえば「スッタニパータ」と「般若心経」を読み比べると、だいぶ雰囲気が違いますよね。
「スッタニパータ」の地道さも魅力だけれども、「般若心経」のダイナミックさに惹かれます。
9名無しさん@3周年:04/08/07 11:18 ID:j8vgWAhz
hu〜n
101:04/08/07 12:58 ID:CXCwl9AA
>>8
その両者のつながりをどう考えていくべきかが課題かもしれませんね。
般若心経はブッダの言行そのものではないが、その教えを敷衍したものと
考えるべきでしょうか。
また、私たちが阿弥陀仏を拝むとき、その阿弥陀仏をブッダとどのように
関連づけるべきなのでしょうか。私自身は「南無阿弥陀仏」とは唱えずに
「オンアミリタ・・・・・」とお唱えしているのですが。一応仏陀の得た
心の平安を象徴するものと理解して、同じく心の平安を得られるよう願って
唱えるようにしています。もちろんその効果?は絶大?なのですが、さて、
その阿弥陀仏の実体とはと問われると、実はよく分からないのです。
11名無しさん@3周年:04/08/07 13:04 ID:b/64JCmp
まあ関係ない、ってのが正直な所だろうね。
マントラは、スッタニパータに説かれるような教えとは何の関係もないと思うよ。
12名無しさん@3周年:04/08/07 14:41 ID:E1CZ+n2Y
>>11
ちゅうか、関係がわからないだけだろう
13ニルヴァーナを見た ◆1ziQYzCxNU :04/08/07 14:44 ID:foq8j4Uz
ブッダが、神を教えとしなかったのは、彼岸であるニルヴァーナ世界では、神という存在
を識別することもなく、認知することもなく、見ることもない世界だからです。この上な
き最上の喜びの境地だけが存在し、安らぎと無上の喜びで満足する世界。成仏世界では、
私たち現在のこのような生存状態というものは一切なく、境地のみが存在する世界。死も
なく、わが身に対する存続の思いはなく、わが身の存続を断じる断滅の妄執も存在しない。

肉体はなく安楽であって、感受されることは何もなく、苦楽であろうと非苦非楽であろう
とも、内的にも外的にも、およそ感受されたものは苦しみであると説かれる。愛著するも
のは何もなく、こだわりもなく、悩みもなく、思考さえ存在せず安楽であって、五種の欲
望の対象もなく、遠ざかり離れることで安らぎを得る。意の対象さえ苦悩なのである。

その境地に到達した時、「全ての存在は、水の泡か陽炎のごとく、一切は虚妄である」と
思われ、悩みなく、こだわりなく、死の恐れもなく、至上の喜びを最上のものとして満足
する。しかし、妄執に破れ、現在の境地に戻るだろう。それが生まれ変わりの要因とされ
る。現世の諸々の対象に対しての貪欲な思いが生まれ変わりを生み出す。

14ニルヴァーナを見た ◆1ziQYzCxNU :04/08/07 14:46 ID:foq8j4Uz
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッダ
と真理の教えとに対して信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっている
ならば、かれらは天界に生まれて、そこで輝く。」ブッダ 神々との対話

人は死後、一切の所有物も捨て去り、世間をも捨て去らねばならない。「かれは思慮深く、
瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに自ら満足すべきである。」

在家者は、人格神を拝むことなく、ニルヴァーナ世界に近い場所で楽しみ、妄執を滅ぼす
修行をする修行者を尊敬し、もの惜しみをしないことで生まれ変わりをしない。人間的な
神というものは何もない。それを敬していても迷うであろう。天にも地にも存在しないも
のを敬し、死後迷う。思考がないから、迷ったままの存在になる。しかし、一切の所有物
を捨て去り、世間を捨て去り、起動もなく林のほとりで瞑想し楽しむ修行僧を尊敬するこ
とは、成仏世界を敬する心を一定に保ち、そのまま死後迷うことはない。
15名無しさん@3周年:04/08/07 14:49 ID:UIjAYIfI
>>14
そういう理想的な修行僧はどこにいるんでしょうか
16ニルヴァーナを見た ◆1ziQYzCxNU :04/08/07 14:58 ID:foq8j4Uz
スッタ二パータなどの原始仏典の中>>15 そして、全ての仏教徒は、原始仏典から
学べばよい。
17名無しさん@3周年:04/08/07 23:35 ID:v81pIxb0
原始仏典の中でも仏陀は神々(神霊)を礼拝しているわけで。
その神々とはどのようなもので、どのような名前で唱えられたたのでしょうか。

絶対的な神については、もちろんニルバーナの世界において認識されうる
ものでもないし、また六道世界のものにとっても認識の外にある、あるいは
認識の外にもないものなのでしょうね。
18名無しさん@3周年:04/08/08 02:02 ID:YxPn89YB
愚か者の君たちは釈迦を神のような存在だと思い込んでいるね
釈迦以上の教えが多数発生していることを否定し
釈迦一人を崇拝し、逆戻りして釈迦を調べれば神のようになれると信じているW
19亀仙人:04/08/08 05:03 ID:r7ECZuek
仏教は複雑な世界感の上になりたっています。
だれしも単純な世界観にはいかれます。
全知全能の神、極端化すれば絶対神に。
仏教にはそのような神はいません。
世界は矛盾に満ちています。
法華経、般若三教の教えを単純化することはできません。
極端にはしらないこと、それが仏教を理解するうえでの
基本的態度だと思います。
20ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 08:08 ID:atqJSJzq
「雪山に住む者という神霊がいった。」「七岳という神霊がいった。」「アーラヴィ
ー国のアーラヴァカという神霊の住居に住みたもうた。」ブッダのことば
「カッサパという神の子」「神の子マーガタ」「神の子ダーマリ」「神の子カー
マダ」「神の子パンチャーラ・チャンダ」「神の子ターヤナ」「神の子なる月の神」
「チャンディマサ」「ヴェンドゥ」「ナンダナ」「チャンダナ」「スダッタ」
「スブラフマン」「カクダ」「ウッタラ」「シヴァ」「ケーマ」「ジャントゥ」
「赤い馬」「ナンダ」「ナンディヴィーサーラ」「スシーマ」「アサマ」「サハリー」
「ニンカ」「アーコータカ」「ヴェータンバリ」「マーナヴァ・ガーミヤ」などが
神々の名前 神々と語る

21ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 08:09 ID:atqJSJzq
「そこで悪魔・悪しき者は神の子ヴェータンバリにこっそりと忍び込んで、尊師のもとで
次の詩をとなえた」とあるように、神の子は悪魔にも忍び込まれるとある。
ヴェータンバリ「物質的なかたちに執著し、神々の世界を喜び、それらの人々は、来世の
ために正しく教えさとす」
そこで尊師は「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝き
や彩色でも、それらはすべて悪魔ナムチの讃めたたえるところである。魚を殺す(釣る)
ために餌が投げ込まれたのである。」

法華経などは、神々の世界を説いており、魅惑的に語られている。本来のブッダの教えは
地味なものであり、貪欲を抑えたりする教え。それを行わない人々に、魚を殺す(釣る)
教えとして説かれたものである。
22名無しさん@3周年:04/08/08 08:21 ID:jW1qY/sn
檀家制度を引き継ぐ、いわゆる葬式仏教は、死に仏教。
宗教としては、浄土真宗や日蓮宗の新興宗教団体のほうがはるかにマシ。
たとえば、築地本願寺、創価学会、立正佼成会、霊友会・・・
創価学会ですら、葬式仏教と違い、救いを真剣に考えている。

ここらで宗教革命が必要でつ
23ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 09:17 ID:+4DpYhXN
南無妙法蓮華経を唱えるなど、特定の唱えもの、世界に通じないお経を読むこと
などの特殊な宗教行事を廃し、仏教の特徴である、物質主義的なことへの戒めを
教えとして教え、人々に自然を楽しむようなことも奨励し、心のゆとりを教える。
「日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっている時に、大きな森が鳴りひびく。それは、
わたしには楽しみと思われる」神々との対話

あの世もこの世も望み、貪りつづける人々に対し「あの世もこの世も望まない」と
教え、「過ぎ去ったことを思い出して悲しむことなく、未来にあくせくすることな
く、ただ現在を重んじて生きよ」と教える。今現在を健康的に暮らすことが教え。

快いを貪り、物質的な豊かさを追い求め続ける人間の性質に対して、仏界である何
も望まない、快楽を苦しみであると教え、人間の性質と仏界とを中和をさせるため
にブッダは教えを説いた。人々はそれができないから、釣られる。
24ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 09:49 ID:OONbLE5n
仏教の一番の目的は、慈しみ。慈しみをもって仏教とする。法論や論争は有りえない。
なぜなら「一切は虚妄であり、どのような見解も持たない」とするのが仏界。或る見解
に対し、「如何なることでもない」「どのようなことでもない」とするのが仏界の基本。
迷うことなく、こだわることなく、悟りを目指す。

「何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いをいだいてお互いに他人に苦痛を与えることを望んではなら
ない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きと
し生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、
障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。〜この世では、この状態を崇高な境地と
呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲
望に関する貪りを除いた人は、決して母胎に宿ることがないであろう。」ブッダのことば

貪らず、怨みを持たず敵意を持たず、慈しむこと。
25名無しさん@3周年:04/08/08 11:03 ID:tXP/KFf5
「スッタニパータ」などの初期の教典が、釈尊自身の教えを伝えるものとして尊重されるべきなのでしょうか。
その場合、大乗の諸教典は、どのとうなものとして位置づけられるでしょうか?
26名無しさん@3周年:04/08/08 11:13 ID:tXP/KFf5
すみません。「大乗の諸経典」の誤りでした。
ところで、菩薩とは具体的にどのような存在でしょう。
仏教の実践を始めるなら既に私たちも菩薩であるという話を聞いたことが在るのですが。
27ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 13:28 ID:8JdBhZhB
「願い求める者には欲念がある」「この世もあの世も望まない」「有ると言われる限り
の、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ま
しく意に適うもの―それらは、苦しみだからそれらを追い求める貪欲を避けよ」
「慈しみと平静とあわれみとを時とともに修め、世間すべてに背くな。怨みを抱くな。
憎むな。争うな。上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を
回避して、よく知りつくして、偽りと慢心と貪欲と怒りとを滅ぼしつくせ」

「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。
人は、苦悩から解脱しないのである。妄執を断じ捨てることによって『ニルヴァーナ』
と呼ばれるのである。」

それら世間の諸々の欲を追いつづける貪欲な心、怨み、ねたみ、憎しみ、盗み、偽り
など邪まな見解が妄執のもととされる。それらを断じて捨てることのブッダの地味な
教え。願い求める欲念のある人々は、それらの教えを捨て去る。ニルヴァーナを知ら
ないから、快楽、享楽を追い求め、働くことなく、吝嗇で人に与えることをせず、人
から掠め取り、悪い境遇に陥る。
28ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 13:29 ID:8JdBhZhB
「かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、死時には
苦しみにおそわれて悲嘆する―ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。
だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で『不正』であると知られているどん
なことであろうとも、それのために不正を行ってはならない。」

「今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちよく起き上がった。」
ニルヴァーナ世界では、恐れなく、悩みなく、こだわりなく、この世では精神統一さ
れたような世界で、欲求なく、快楽を追わず、林のほとりで楽しみ、大いにみずから
満足するような世界で、あの世もこの世も望まず、願い求める欲念のない世界。

しかしながら、人々は堕落して死後の恐れを抱き、かの世まで望む欲念と願い求める
欲念とがある。ブッダの地味な教えを捨てているから。それらの人々は、ブッダの教
えでは導けず、貪欲で悪い行いを正そうとせず、悪い境遇に陥り、恐れと不安を抱く。

29ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/08 13:30 ID:8JdBhZhB
そこで大乗仏典は、「偉大な志を持つ求法者マイトレーヤーの住むトゥシタ天の神々と
なって生まれるであろう。」「そして、このような最高の経典を聴聞し、書写し、記憶
し、読誦する以外に、かれらの悦びはないであろう。」法華経

とあるように、神々の世界を喜ぶよう魅惑的に書かれた経典を聴聞したりして悦ぶこと
により、貪欲で悪い行いをさせないようにした。かの世を望む欲念と願い求める欲念と
で釣っているわけだ。

しかし、ヴェータンバリに悪魔がこっそり忍び込んで「神々の世界を喜び、それらの人
々は、来世のために正しく教えさとす。」そこでブッダが「空中に現れる光り輝きや
彩色でも、これらは悪魔ナムチの讃めたたえるところである。魚を殺す(釣る)ために
餌が投げ込まれたのである。」と詩を以って答えたように、初めからブッダの教えを
学べばよい。
30名無しさん@3周年:04/08/09 02:13 ID:uRX9bZRF
誰か大乗を弁護してください。
31:04/08/09 09:46 ID:peHvgz7X
[釈迦以上の教えが多数発生]

釈迦のような存在は一劫にお一人だとされていますよね。
億劫(おくこう)の間には1億人の仏陀が出現するわけですが。
私たちの「劫」の「教師」=先生はやはり釈迦ではないでしょうか。
次の劫の未来仏=弥勒菩薩が出現するまでは。
32:04/08/09 10:01 ID:peHvgz7X
>>18 でした。↑
33:04/08/09 10:29 ID:peHvgz7X
>>19 私は多分世界はとてもシンプルなんだと思うんですよ。
ところが私たち人間の頭のほうがもっともっとシンプル(単純)
できてしまっているような気がしますよね。
だから仏陀は絶対的なものについては「考えるな」と言われたの
かも。
34:04/08/09 10:45 ID:peHvgz7X
>>30 初期仏教(仏陀の仏教)を忘れ去った大乗仏教は
意味がないと思うのですよね。
いつも「大本は仏陀の教えである」と認識して学ぶ大乗
仏教はとても有意義だと思います。
35:04/08/09 12:25 ID:peHvgz7X
>>21 「ニルヴァーナを見た」さんは輪廻についてはどう
考えられていますか?
36名無しさん@3周年:04/08/09 13:09 ID:y71rZfab
>釈迦のような存在は一劫にお一人だとされていますよね。
>億劫(おくこう)の間には1億人の仏陀が出現するわけですが。

それこそおかしな話
釈迦は人間だ
釈迦を神格化するのは仏教にあるまじきこと
37名無しさん@3周年:04/08/09 13:22 ID:sguQLVn5
釈迦は、ニルマーナ・カーヤ
救いを受ける人々の素質・能力に対応して、
化現した応身仏
38名無しさん@3周年:04/08/09 13:47 ID:y71rZfab
受ける側があればこそ教える者が存在できる。
それは当たり前だが。「応身仏」などと小難しく呼んで
そのような固有の存在であるかのように祭り上げてしまうのは違っていると思うよ。
39名無しさん@3周年:04/08/09 14:02 ID:y71rZfab
ちゃんと意味を分かって言ってるならいいんだけど
カルト信者は馬鹿だから何も考えずに崇拝してしまうだろ。
40名無しさん@3周年:04/08/09 14:07 ID:BS7fytwQ
★念仏宗無量寿寺の実態★
社会的地位を利用して断り難い立場の人に狙いを絞り
決して教団名を名乗らずに済度(勧誘)する。
「とにかく良い話があるから京都まで来て欲しい。」と言うだけ。
京都へ2日間行くと意味不明の説法、儀式を受ける。30数万円払う。
(詳しい事は過去ログ倉庫、京都での儀式にほぼ全て書いてあります)
京都での儀式入信した事は例え親家族であろうと口外禁止。
無量壽寺の名バラしたら無間地獄へ落ちると脅される。
同行になってからも出費(護持費、会費、廻向費、御布施など)は重む。
同行になると3人は済度しないといけないとノルマを命じられる。
同行が亡くなったら「涅槃が出たぞ」と近くの同行が集まって
その遺体を触ったり、持ち上げたり、口の中に手を突っ込んで匂いを嗅いだり。
御開祖様(教祖)は元サイコロ占い師で詐欺で告発寸前まで行った分際で
秋篠宮真子様の名付け親だと平気で豪語する始末。
41:04/08/09 14:40 ID:peHvgz7X
>>36 別に神格化はしていないんだけど。無師独覚で
(すなわち師の指導を受けずに)真理に到達するのは
本当に一劫に一人くらいしか居ないのではないかと思う。

師が居れば真理に到達する人は、仏陀の時代でも500人
1000人といたわけで、経典にも虚空に遍満せる
数微塵の応正等覚なんて表現もあるよね。
42:04/08/09 14:44 ID:peHvgz7X
>>39 主語と述語が分からないのだけど。カルト?信者が
わけも分からず崇拝するのが仏陀であれば問題ないのでは?
仏陀を崇拝するなら、その時点でカルト信者はカルト信者
ではなくなるわけだし。
43名無しさん@3周年:04/08/09 14:48 ID:ahclmBj2
>>42
仏陀を崇拝するのが仏教だと思ってるわけ?
44:04/08/09 15:04 ID:peHvgz7X
>>43 そうだよ。言語を超越した意味でそうだと思う。

仏教の方法論を考えてみると。
1.仏陀の教えを言語で学ぶ。
2.仏陀の教えた修行階梯をわが身で実行していく。
3.言語を超えて仏陀との交信?を試みる。

その3に相当するとも言えると思うけど。
「直に」仏陀の教えを聞くわけ。もちろん言語ではなく「思念」で。

また、ごく単純に言っても
「ブッダ・ダルマ・サンガ」を礼拝することは、仏・滅後
のわれわれには、ごく普通の仏教徒としてのあり方だと思う。
45:04/08/09 15:12 ID:peHvgz7X
「礼拝・崇拝・拝む・頂礼」するということを、ただの作法や儀式
だと思うから現代人はちょっとバカにするわけで。

そうではなくて、言語を用いない思念を用いた交信を、虚空に遍満せる
諸仏、諸菩薩、諸天、善神に向かって試みていると思えば、なかなか
現代人にも納得のいく行為だと思う。

しかも、すぐに、お返事があるしね。
46名無しさん@3周年:04/08/09 15:17 ID:iDrBr6i7
仏陀と交信か〜。なかなかおめでたい団体だね。
じゃあ一生懸命仏陀を崇拝してください。
違うものの餌食になっても私は知りません。


47:04/08/09 15:44 ID:peHvgz7X
>>46 ハンドルネームつけて、私と交信しませんか。
48名無しさん@3周年:04/08/09 16:06 ID:YbAmZaxS
>>44
1→仏教の学問、仏教学
2→仏陀の法
3→電波ゅんゅん
49:04/08/09 16:28 ID:peHvgz7X
>>48
3番って、仏教(宗教)における
礼拝という行為を否定することにならない?
50名無しさん@3周年:04/08/09 16:47 ID:YbAmZaxS
逆に言えば礼拝と電波交信にどんな関係があるのかと(汗
51名無しさん@3周年:04/08/09 16:50 ID:3FsOOPO3
>>47
交信はちょっと(笑)
52:04/08/09 19:25 ID:peHvgz7X
>>50 礼拝というのは自己完結なのかな?
つまり、1。

1.自分が礼拝してただ単に喜んでいる。あるいはパワーをつけている。
2.他人に自分の礼拝している姿を見せていてる。
3.霊的な存在との交流を求めている。

あなたにとって礼拝とは何。私の場合は3.
仏教をはじめる?場合。お勉強は意外と易しいんだよね。
易しいと言っても難しいけど。
でも、祈れるようになるまでに何十年もかかったりするらしい。
知識人ほどね。(本気で)祈る・拝むは難しい。
53:04/08/09 19:27 ID:peHvgz7X
>>51 交信しようよ。
絶対できるから。じゃあちょっと「思念」を送る!

to 3FsOOPO3 ・・・・・・・・・・・・行った?
54名無しさん@3周年:04/08/09 19:32 ID:wOEDLFiD
プッ

来ねーよ。 >>53
55名無しさん@3周年:04/08/09 19:37 ID:YbAmZaxS
仏陀の生きてた時代も、人々は仏陀の回りをまわったり、足に頭をつけたりして
礼拝して尊敬を表してたけど、別にそれは仏陀と電波ゅんゅん交信するためじゃ
ないぞ?
56:04/08/09 19:45 ID:peHvgz7X
>>55 それって気持ちと気持ちが触れ合ってたわけでしょう。
ライブなんか行っても「目線来た〜!」とか喜ぶしね。
何も物理的に触りたいわけじゃない。心が通うことを求めている。
それは相手が生きている場合で。

仏陀が滅した後は「お釈迦様お助けください」と祈る。すると
仏陀は「よしよし、そうかそうか」と助けてくださるわけですよ。
お釈迦様は全知全能の存在ではないから、助けを求めないと、
(気が付かないので)助けてくれない。

57名無しさん@3周年:04/08/09 19:52 ID:wOEDLFiD
>>56
仏教はいつから現世利益の宗教になったの?
58:04/08/09 19:57 ID:peHvgz7X
>>57 仏教の功徳には、もともと、昔から、世間福と出世間福があるよ。
「お助けください」が世間福だけとは限らない。釈迦如来を拝む場合は
「出世間福」を求める場合が多いと思う。すなわち「三毒の苦」
(貪欲、瞋恚、愚痴)を逃れて、平安な心を得ること。
59:04/08/09 19:59 ID:peHvgz7X
>>57 あるいは八つの正しい道を守って、おのずから幸せになること。
60名無しさん@3周年:04/08/09 21:15 ID:ogbBak9s
いくら仏陀でも死んだら助けてくれないよ。
法を理解することが仏教の本質なんだから。
61ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/09 22:01 ID:mB98qmng
1.「願い求める者には欲念がある」神仏に願い求める者には欲念がある。
2.「かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利益を得ることに縁って欲望を
   達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存
   を貪って止まない。」
3.「宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。」
   人々は、宗教行事によって善業の功徳を求めるが、ブッダは「悪魔は善業の功徳
   を求める人々にこそ語るがよい」として、宗教行事による善業の功徳はない。
4.「何ものかを信じることなく、作られざるものニルヴァーナを知り、生死の絆を断
   ち、善悪をなすによしなく、欲望を捨て去った人」偶像化されたブッダ、仏像を
   拝むことなく、今の人々は、ブッダの行為と教えと修行僧の行為とをスッタ二パ
   ータなどの原始仏典から知り、そして敬し、吝嗇でなく気前よく分け与える者と
   なること。

 ブッダは願い求める行為を欲念であると戒めている。無明の人々は、それを話しても
 わからないという。欲念のある者は、生死の輪廻を終滅させることができないと。                 
62ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/09 22:02 ID:mB98qmng
一切の所有物を捨て、世間を捨て、欲念を滅する修行をし、「林のほとりで楽しみ、樹
の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである」を行った、ブッダと修行僧を敬
すること。彼岸に至る者は、一切の所有物の愛著を捨て、世間とこの世の想いを捨て、
欲念を捨て去る。ニルヴァーナに近い森や林で大いにみずから満足するブッダと修行僧。

人々は、森や林で静けさを楽しむことなく、快楽や享楽、物質的な形や五欲を好み追い
求める。ニルヴァーナに近いものを好むことなく、この世を離れることができない。だ
から生死の輪廻に陥る。しかし、
「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、
―かれらの功徳は、昼夜に増大する。それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具えて、
天におもむく」神々との対話
人から掠め取ることなく働き、法に安住し、快楽や享楽への耽溺、ものうさ、睡眠、不
実行と不自制とを離れ、戒めを身に具えて天におもむく。

 功徳は修行僧として、人々にニルヴァーナ世界を見せ与えた者、実際に労働して世間
 を快適にさせた者が積めるもの。人助けなども功徳を積むことになるだろう。善いこ
 とを現実に基いて行うことで功徳が積める。「怠け者の親族、悪しき者たち」は、宗
 教的行いで功徳を積もうとする。
63名無しさん@3周年:04/08/09 22:16 ID:XRCQrLNU
>>23 >>62
気持ちが良くわかります。
仏教のことを調べれば調べるほど、原始仏教に惹かれる。
日本の仏教は、なんと言っても偶像崇拝がいけない。

今さら、仏教徒になるつもりはないから、どうでもいいけど、
残念ではある。
64ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/09 23:02 ID:8EggiFwZ
               八  正  道
             
ここに遠ざかり離れることにもとづき、止滅にもとづき、煩悩を捨て去ることに向かう
〈正しい見解〉を修め、〈正しい意向〉を修め、〈正しいことば〉を修め、〈正しい
行動〉を修め、〈正しい生活〉を修め、〈正しい努力〉〈正しい落ち着き〉を修め、遠
ざかり離れることにもとづき、欲情を離れることにもとづき、止滅にもとづき、煩悩を
捨て去ることに向かう〈正しい精神統一〉を修める。

彼岸に到達するならば、諸々の執著する拠りどころから離れる。厭い離れることに専念
し、意識作用も尽き、感受作用も止滅するが故に静止があり、解き放たれること、遠ざ
かり離れることにもとづき、煩悩を捨て去ることに向かう〈八つの正しい道〉を修める。


>>63 彼岸であり、永遠の命の世界は、偶像ではない。肉体もなく、見ることも触れるこ
とも、物体を識別することもなくなるわけだから。どのような形態も名称もない。
65:04/08/10 12:21 ID:83fr2oEC
>>60
死んだら助けてもらえないですよね。
生きている間に学ばないと。うん、そうだと思う。
66:04/08/10 12:32 ID:83fr2oEC
>>61
欲念;出家者はニルバーナを得たいという欲念を持ち、
在家者は福徳円満な生活を送りたいという欲念を持つ。
それで良いと思うのですけど。
そして一段一段階梯を登り、最後の一段で「この世も
あの世も共に捨てる」。私たちはまだまだ階段の下の方
ですよね。
67:04/08/10 12:36 ID:83fr2oEC
>>61
2.供犠と貪りの否定。 
神々に動物や人の命という尊い犠牲を捧げて、この世の欲望を望むこと。
そういうことは良くないですよね。しかし、在家のものがまっとうで幸
せな生活を祈ることに何ら問題はないと思う。
68名無しさん@3周年:04/08/10 12:37 ID:hd+UNZCY
>>65
死んだ釈迦は助けてくれないという意味は
お分かりですか?
釈迦が生きているときに発した言葉
それを受持するのが仏教徒が釈迦を敬うことなんです。
69:04/08/10 12:40 ID:83fr2oEC
>>61
3. 善業を積めば良果があり、悪業を積めば苦い果実を得る。
これは仏教の「定理」?ですよね。証明不能だから「公理」かも。
また、スッタニパータには正しい祭祀を褒め称える章が有った
はずですよ。
70:04/08/10 12:48 ID:83fr2oEC
>>61
4. 何物かを信じることなく;
仏陀は宗教というものを否定した。信じることを否定した。
ところが例外があるんですね。

否定されたのは「仏陀以外の教え」です。
71:04/08/10 12:55 ID:83fr2oEC
>>62 この世を捨てた出家者の徳目と、この世は捨てられない在家者の
徳目が、この文章には混在していますよね。出家者はまずこの世を捨て、
ついであの世を捨てることを目標に修行する。在家者はこの世を捨てる
ことさえできない。五欲を満たしながらも、この世を捨てた出家者を
守ることで功徳を得て天に上ることを望む。
出家者と在家者を分けること。自分がどの位置にいるのかを見極める事
も大切なのではないでしょうか。
72名無しさん@3周年:04/08/10 13:00 ID:Usx/opGx
皆さん、見性に興味のある方は一度はおいでくださいまし。

★見性を本当に得たもの同志が語らうスレ★
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1091363340/l50
73_:04/08/10 13:01 ID:VacgipmW
生について

私は今日まで生きてきました。
死んだら何もかも無くなると思っています。

生きてきたのは両親の遺伝子のなせる業です。
虫は生き残れる葉っぱの上に生むのが親心だそうです。
子育てなんかしません。
俺も親と同様遺伝子のためなぜか子供を作り育ています。

一人で生きているのではなく現金を稼いで
みんなの力で生きています。

一応病気でもなく家族も幸せに生きています。
小市民的発想です。

ここで病気になったり、犯罪で家族が殺されたら
たまりません。
イラクに生まれなくて良かったと思います。
でも死んだら子供や日本がどうなろうと知ったことではありません。
死後の世界があると思えません。
俺は地獄でも良いと思います。どうせ無いんだから....



74_:04/08/10 13:08 ID:VacgipmW
最近は殺人事件が多いですね。
明らかに犯人がわかるのに殺していますね。
自首したりして馬鹿ですね。

どうせ死刑になるなら堂々と逃げたらどうですか?
海外だってあるんですから。
殺人がなぜいけないか俺にはわかりません。
ただ、相手の命を奪い、平均寿命を無駄にしたのは許せません。
ましてや自分が殺されたらたまりません。
この世の中いつ殺されるかわかりません。
車で正面衝突あるかもしれません。

しごの世界が無いのになぜ宗教があるんでしょう。
まして旧家で親の宗教受け継いでます。
年会費(上納金)、お布施、寺の建築費など
おそらく年10万は出している
葬式になると100万くらい出した。
見返りがあるのか
俺は世間体で生きていくので村八分が怖いからだ。
両親が死んだらやくざでないが足を洗いたい



75:04/08/10 13:10 ID:83fr2oEC
>>68 そちらの方なんですね。
この世に人として生を受け涅槃に入られた仏陀。死んでしまったのだから
跡形もないだろうと考えるか、そうではなく仏陀の心(魂)はこの世に留
まって私たちを見守ってくれているのか。

まず仏陀御自身としては「心霊を敬え」と言う教えを残しておられますよね。
〜族への教えというのがあったと思う。マガダ国に滅ぼされそうな〜族が、
心霊を敬い礼拝する限りは云々。(何族なのか忘れました)。

涅槃経とか仏陀最後の旅では、仏陀の滅後、各地の人々がこぞって仏陀の
御遺骨と遺灰を求めていますよね。もちろん礼拝するためですが、物質と
しての遺骨を礼拝するのでしょうか?違いますよね。御遺骨に宿る魂を
礼拝するわけです。それを行っているのは、仏陀直弟子達(在家&出家)。

仏陀時代の記述を見る限り、亡くなった人を礼拝することは無意味では
ないように思われます。
76_:04/08/10 13:16 ID:VacgipmW
今中年だが

死ぬことがわからない
息を止めると苦しい。
すぐ呼吸をしてしまう。
だから死ぬことはくるしいのか?

死ぬときには花壇に一杯花が植えてあると
言われている。
生命が無くなると魂はどうなるんだろうか?

たくさん魂があるといけないので
仏教では輪廻といって生まれ変わるといわれている。

虫けらだって何百と卵を産む
そしてほとんどが死ぬ
人間は生まれる確率が高い

子供がいるので死にたくないが生きている意味がわからん
選挙に出ないし新聞にも出ない。
役員もしないのでいつ死んでも誰もなんとも言わない。
地元新聞では毎日死亡欄に一杯書いてある。

俺の父親が死んだとき
涙よりご苦労さん、ありがとうといった。
大学出してくれて、あまり一緒に旅行はしなかったが
鹿島神宮とつくば博は連れて行った。
骨を見たときこれで終わりかなと思った。
涙は本当に出なかった。
俺も死んだら焼かれるんだなと思った。
今の火葬場は近代的だね、灰なんて風で吹き飛ばすんだね。
77:04/08/10 13:17 ID:83fr2oEC
>73 仏教ではまず第一歩として、断見、常見ということを考えますよ。
どちらも否定されているのですが。「死んでしまえば何もなくなる」と
いうのが「断見」です。

「こころ」がどこから来てどこへ行くのかが問題ですよね。「こころ」が
物質から生じる機能的なものであれば、双生児やクローン人間はまったく
同じ心を持つはずなのですが。
78_:04/08/10 13:24 ID:VacgipmW
老後について

人間はいつかは死にますね。

新撰組の近藤局長だって今はいません。
歴史上の英雄もみんな何時かはいなくなります。

いま日本には1億3000万人息をしているだけです。
俺は90才まで生きていて世の中に役に立つのでしょうか?
多分惨めに死ぬでしょう。

年金問題も80歳までみんなが生きるからです。
昔は人間まさに50年でした。

いままでどれだけの人が飢えと病気で死んできたか
わかりますか。
世界でも飢えと戦争があります。

この日本の平和と自分の生きる補償を誰がしてくれるのでしょうか?
宗教ですか?日本の首相でしょうか?
79:04/08/10 13:24 ID:83fr2oEC
>>76 死ぬことは苦しくないと思いますよ。(うまくやれば)。
高いところから飛び降りればいいんですよ。

屋上の手すりを乗り越える・・痛くも痒くもない
飛び降りる ・・・全く何ともない
落ちている ・・・気持ちがいいくらいだ
どんと地面に当たる ・・・一瞬で何も感じないでしょう

つまり趣味のスカイダイビングと全く同じ。
異なることは、もう一度お家に帰れるか、それっきりなのか。
死の恐怖というのは「それっきり」が怖いんでしょうね。

80:04/08/10 13:27 ID:83fr2oEC
>>78 仏教は「生老病死」の苦を乗り越えるためのものです。
81ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/10 21:06 ID:+IksPcIn
「かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利益を得ることに縁って欲望を達成
しようと望んでいるのである。供儀に専念している者どもは、この世の生存を貪って止
まない。かれらは生や老衰をのり超えていない」

「(神仏に)願い求める者には欲念がある。」
それら世間一般の宗教的行為によって導かれることのない悟りの世界。だから、ブッダ
は人の教えぬことを正しく教える。
82けちゃっぷ:04/08/10 22:12 ID:wp3sgrv9
念仏すればお金があろうとなかろうと往生できると思えば、結果的にお金への執着がなくなります。執着が苦悩の原因なのは仏教の基礎。大乗仏教は方便の教えです。
83けちゃっぷ:04/08/10 22:15 ID:wp3sgrv9
不思議なことに、表面上お経に書かれてるのは極楽往生のための念仏なのに、実際念仏してると死後の世界があろうとなかろうと、それすらどっちでもいい、僕の人生はOKだったんだなと思えます。
84_:04/08/10 23:30 ID:i7HbnQ02
今帰ってきたところだ。

仕事場ではお客や同僚に気を使い
金をもらうためにヘイコラ仕事をするのは社会参加だね。
がんばることしかない病気になるまで働いているんだね。

宗教は暑いインドから発生したので気候が影響している

怠けても生きていけるし冬が無いので投資しない
木の実や作物や魚はとり放題だから暑いときには寝ていれば良い

仏陀も寝ているものがある。
だから仏教は怠ければよいとの教えであろう
すべて空だから働くのは無駄だ。修行だけしていればよい

お坊さんはみんなの先祖を供養するだけ
わからん言葉はありがたみがある。直訳したら詰まらん
日本語の仏教もあるが面白くない
生を諦め死を明らめるのはぶっけ一台の因縁なり






85_:04/08/10 23:36 ID:i7HbnQ02
神道との融和

江戸時代までは神道と仏教は一緒だった。
お寺に鳥居があったりする
日本は多神教だね。
だから新興宗教が数多く存在する。
仏教もいろいろなボトケさまがいる。
神道も尊がが多くいる


俺の地元の神社にのご神体はなんと
仏像だよ。不思議だね。

若狭のお水送りのお寺さんも拍手します。
86亀仙人:04/08/10 23:36 ID:h3na1Vw/
>82
念仏が方便の教えであることはありえますが、
法華経、般若心経、理趣経の教えが方便なのですか。
あなたの意見は、大乗仏教を否定するものですよ。
87名無しさん@3周年:04/08/10 23:48 ID:Hx+1QVPh
>>86
あの、方便の意味を知らないのでしょうか??
88亀仙人:04/08/10 23:53 ID:h3na1Vw/
仏教では、方便の意味を2ツにわけてつかいわけます。
あなた、いちゃもんつけた以上、当然しってると思いますので、
説明できますよね!
89名無しさん@3周年:04/08/10 23:59 ID:kYcxE0Gb
仏教は、いちゃもんつけた人をとことん追求する宗教っていうことがわかった。
外道と違い争わない宗教だと思ったけど残念だね。

宗教はすべて無駄。
90名無しさん@3周年:04/08/11 00:02 ID:iW4vRZsC
>>88
自分で説明しろよ(w
91亀仙人:04/08/11 00:04 ID:kg22ne+4
批判意見を書く。それに対して、「横から」無意味な
イチャモンをつけて、暴論の援護射撃をする。
これは、一般社会でも許されますか?
92名無しさん@3周年:04/08/11 00:07 ID:iW4vRZsC
>>91
一般社会じゃないからいいんじゃない?
せっかくだから早く説明しなよ。
このスレも追い出されたいか?
93名無しさん@3周年:04/08/11 00:13 ID:jYROIItm
大乗仏教は方便の教えです、と>>82でけちゃっぷが思ったことを言っただけで、
お前は暴論と非難し、追求しようとするのか。>>91一般社会人以下だね。
94名無しさん@3周年:04/08/11 00:17 ID:jYROIItm
>>91のお前が違うと言うなら、ここで相手にわかりやすく説明するのが常識というものだ。
大乗仏教が方便という意見に反対なのを、お前が人にわかりやすく説明せよ。
95けちゃっぷ:04/08/11 00:20 ID:UdMt/sUR
善巧方便は、役に立つ工夫です。日蓮さんは方便を捨てろと言いますが。大乗がゴータマ・ブッダの直説でないことは明らかです。大乗を肯定するためには、使える方便であることを主張すべきでは?
96けちゃっぷ:04/08/11 00:23 ID:UdMt/sUR
火事の家の中で遊びに夢中の子供を避難させるために、おもちゃの車で子供の気を引くという方便の喩え話が、法華経にありましたよね。法華経も方便を肯定していると思います。
97亀仙人:04/08/11 00:26 ID:kg22ne+4
>95
そういうお考えでしたら見解の相違ですね。
私は、大乗仏典は、方便ではなく、真理を説いたものと
かんがえますが。
98名無しさん@3周年:04/08/11 00:31 ID:iW4vRZsC
>>97
なんで大乗?
99亀仙人:04/08/11 00:32 ID:kg22ne+4
>96
法華経に限らず、般若三経にも、あなたのあげたような方便は
たくさんあります。
しかし、お経の中に方便があるからといって、お経は方便では
ありません。
涅槃経は、すべてのお経ー涅槃経もふくめて、方便だという思想
のようですが。
100名無しさん@3周年:04/08/11 00:34 ID:ZUpYsdPo
結局仏教も外道と同じとなるんだろう。イエスをただ信じろ、非難するな。非難する者は、
迫害するぞ。非難する者にこういうわけだからという答えが出せない。
答えをだそうとしても、誰がみても納得いく答えをだせない。
仏教は外道と違い客観性がある宗教だと思ったけど。誰がみても納得いく答えが出せるも
のと思った。

101けちゃっぷ:04/08/11 00:34 ID:UdMt/sUR
方便の中に真理(法華)があるのでは?だから三乗(声聞・縁覚・菩薩)成仏を説く。上座部も大乗も真理に向かっているのです。南無妙法蓮華経=仏教万歳=「宗派は違えど仏教を信仰すれば大丈夫さ信仰」
102けちゃっぷ:04/08/11 00:40 ID:UdMt/sUR
悟りは感覚的な体験ですので言葉じゃ表せませんから、お経はすべて方便かも。悲しいという言葉をいくら言葉で説明しても、悲しみそのものは表せませんので、泣ける映画(方便)を見せて追体験させるのです。
103名無しさん@3周年:04/08/11 00:40 ID:6sRzt/d8
>>101
そうそう、排他的でないのが仏教のいいところ。
お釈迦様は、争いを一番嫌ったと思う。
仏教は小乗も大乗も救われる。
それぞれの状況に応じて、信仰するよう教えた
のだろうし。
104名無しさん@3周年:04/08/11 00:42 ID:6sRzt/d8
他を認めるような寛容な教えがあるから、
仏教には戦争がない。
105亀仙人:04/08/11 00:44 ID:kg22ne+4
方便のなかに真実がある場合、法華経、般若三経などは
これにあたりますね。

106けちゃっぷ:04/08/11 00:44 ID:UdMt/sUR
>100 たとえば諸行無常は誰にでも納得できるのでは?すべて変化する。怒りも悲しみもやがて過ぎ去る現象にすぎないので、だいじょうぶだよ、安心していいんだよ。ただし、頭で解るのと悟るのは別でしょう。
107名無しさん@3周年:04/08/11 00:54 ID:6sRzt/d8
どのお経でも、そのお経を唱えることに意味があるわけだね。
今の生活から離れ、お経を唱える時は仏界なのだろう。
生活から離れ、気を静める。重要なことだと思う。
唱題もそれで意味ある。生活から離れる論理的な意味が隠されて
いるわけだよ。時々さぼるけど。
108けちゃっぷ:04/08/11 00:55 ID:UdMt/sUR
>84 暑いだけでなく水も豊富で稲作ができ、海の幸もある環太平洋地域の宗教は、貧しくても仲良く型ですね。砂漠の一神教は、水さえ奪い合いなので、カリスマリーダーの民族主義宗教です。
109名無しさん@3周年:04/08/11 00:56 ID:Z3uyY7Ji
他を認めるような寛容な教えがあるから、
仏教には比較的に戦争が少ない。
110名無しさん@3周年:04/08/11 00:57 ID:6sRzt/d8
>>106
そうわかりやすく説明されると、更に納得いく。
諸行無常は聞いたことあるけど、意味までは知らなかった。
非常によい教えだということがわかった。
111名無しさん@3周年:04/08/11 01:03 ID:iW4vRZsC
>>107
>どのお経でも、そのお経を唱えることに意味があるわけだね。
んなこたあない。
内容が大事なの。
内容を知らずにただ唱えているのは日本の坊さんだけだって。
112けちゃっぷ:04/08/11 01:14 ID:UdMt/sUR
上座部仏教ではお釈迦の時代の戒律を一つも変えず守ってるそうです。お釈迦さまは、自分の死後は必要に応じて戒律を廃止してもいいと言ったそうですが、長老達はすべての戒律を存続させた。
113けちゃっぷ:04/08/11 01:18 ID:UdMt/sUR
女性を出家させることは女性しかできないという戒律もある。しかし上座部の国では仏教弾圧時代の影響もあり、現在は尼さんの相続が絶えてしまった。だから尼さが新しく生まれることは戒律上無理らしいです。
114けちゃっぷ:04/08/11 01:27 ID:UdMt/sUR
上座部仏教とは、スリランカやタイなど南ルートで伝わった仏教で、修業もお経もお釈迦さまの時代に近いと言われる。大乗仏教は、中国・チベット・日本等北伝仏教で、方便を駆使して多くの人を救います。
115名無しさん@3周年:04/08/11 01:47 ID:Z23buFa/
得てして、仏者が「お釈迦さま」というのは
普段から在家の方にお話していそうだ!(^^)!

方便と真理の違いが述べられていますが
それは、受け止める側次第という考え
方便というのが、顕教で
それは真理だと気づいたら密教に思います
区別を気にするのなら。
116名無しさん@3周年:04/08/11 09:40 ID:3QbEpDHV
高度情報化時代に方便は通用しない。
117:04/08/11 10:22 ID:81V/VCUx
>>81
「供儀」の意味の確認をお願いします。
生き物の犠牲(殺したその命を)を捧げることですよ。


「(神仏に)願い求める者には欲念がある。」
神仏への願いを否定しちゃうと、
仏教は「この世もあの世も捨てた者」しか相手にしないということに
なりませんか。人が100万人いれば999999人までは、この世とあの世に
願いを持っているわけで。興味の対象がこの世だけの人もいれば、
まれにはあの世だけの人もいるかもしれないけど。
ほとんどの人が「幸せとは何か」「幸せを得るにはどうすればいいか」
を考えているのが実情ではないですか?
118:04/08/11 10:25 ID:81V/VCUx
>>82 けちゃっぷさん、念仏ということは阿弥陀様を念じるという
ことですよね。
私は「阿弥陀仏は釈迦(仏陀)の化身であり、極楽浄土とは心の
解脱(心の安楽)だと考えているのですが、いかがですか?
119:04/08/11 10:34 ID:81V/VCUx
>>84
ちょっと「托鉢行、乞食行」を甘く見ているかもしれない。
一切の蓄えをせずにその日その日の貰った食べ物で暮らす。
インドだって飢饉もある。実際経典を読んでいると飢饉に苦しんで
一時サンガを解散して各自の故郷を目指したことだってある。

食べ物が供養されなかったら食べるものは無い。蓄えも無い。
死ぬしかない。水はあるだろうけど、塩の蓄えも禁じられていた。
腐りかけたような残り物を貰うことだってあるだろう。

仏陀は人々に功徳を積ませるためにむしろ貧しい村に托鉢に行くことを
勧めた。本当に苦しい行だと思う。耕すほうがずっと楽だよ。
120:04/08/11 10:36 ID:81V/VCUx
>>84 誰も供養してくれないから「じゃあやめた。仕事しよう」という
訳には行かない。命を落とそうがこの修行を続けるという誓願を立て
ているのだから。
121:04/08/11 10:39 ID:81V/VCUx
>>85 神道といえば各地の心霊(ほとんどが過去の偉人)を祀ること。
初期の仏典を読むと、仏陀は各地の心霊を敬えと口をすっぱくして?
教えている。すなわち神仏混交は日本人の発明ではなくて、本来の
仏教の教えだと思う。
122:04/08/11 10:44 ID:81V/VCUx
>>97 亀仙人さん、
「初期仏教は仏陀の智慧を教えている。大乗仏教は仏陀の慈悲を教えている」
なんてよく言われますよね。
でも、初期の仏典を読んでいても、みんな仏陀に会いたがっているし、
慈悲だって求めていたんだと思う。大乗仏教は仏陀の慈悲にすがって、
そして根本にある仏陀の智慧の教えも忘れないようにすればいいのではと
わたしは思ってます。 
123:04/08/11 10:51 ID:81V/VCUx
>>100
人間のつたない頭で教えに100%の客観性を見出すことは
難しいですよね。仏陀は「私の教えは100%正しい。真理である」と
宣言した。なぜなら「覚者(仏陀)は人間を超えた存在だから」だって!

その仏陀の言われたことの真偽を検証するのもとても難しい。

私の場合は、仏陀の教え>>>自分自身の判断 と想定して、一応、
仏陀の教えの線に沿って人生を考えてみようかなと思っています。
124:04/08/11 11:28 ID:81V/VCUx
>>107 唱題って「南無妙法蓮華経」ですよね。やはりその意味するところの
「法華経に帰依します」という意味を忘れないように。さらには法華経は
仏陀の教えを敷衍して(かなり行き過ぎたりもして)成り立っているという
ことを忘れないことも大事だと思う。仏教なんだから。
125:04/08/11 11:31 ID:81V/VCUx
>>106
「怒りも悲しみもやがて過ぎ去る現象」

過ぎ去る現象にしてもその苦しみは七転八倒するほどで、
しかもそれが何年も何年も続くこともある。
死刑囚に「いずれ死んで楽になるんだから気にするな」と言っても
とても気にすると思うよ。
126:04/08/11 11:39 ID:81V/VCUx
>>113 だけどね、一番最初に出家した女性は誰だろう。スジャータ?
出家を許したのは仏陀だよね。悟りを得たとはいえ一応男性。
仏陀の時代の尼僧はすべて仏陀によって授戒されたのでは?
(はっきり知らないのですが)
127:04/08/11 11:41 ID:81V/VCUx
(連続書き込みごめん)
128名無しさん@3周年:04/08/11 13:17 ID:mFsGnNND
>>126
検索すれば分かる事です。
ケチャップさんに失礼のないよう。

マハープラジャーパティーが釈尊に女性の出家を願い出る。
許されなかったが、アーナンダの計らいで
女性の出家が認められた。
その代わりに、八敬法(八条件)を守るという条件を付けられた。
比丘尼の扱いはかなり厳しかった。

受戒の時に和尚になれるのは、受戒後10年以上の比丘か
受戒後12年以上、尚且つ比丘尼全員の承認が必要。
条件の厳しさから、正統な比丘尼は消滅した。
しかし、釈尊は「女性と男性は変わる事無く悟れる」と述べられていた。
129_:04/08/11 13:30 ID:1bbptbDg
いま思うのだが

病気は怖い


病気ー治療代高いー失業ーがん宣告
ー死亡宣告ー意識無くなるー花園ー死ー葬式ー火葬
ー49日ー納骨ー永代供養

このうち他人にかかわるところ俺は依頼できない
死後はどうしようもない
遺産もないし家族も離散

寂しいのかわからん。死ぬのがなぜか怖いです。
明らめた人はすばらしい
芸能人も毎週一人は死んでいる
そうぜつなんだろうなあ。
病気でもTVに出たい醜態をさらしたいとがんばっているんだ
130_:04/08/11 13:33 ID:1bbptbDg
地元では
葬式も5万円ほどで出来る

火葬後採骨しないでそのままだそう
家財はイランので燃やすか再使用だ。
預金は誰かが取ってしまうだろう。

身寄りがないと死後は管理できない
ハンバや日雇い現場で法律はいらないとおもう。
131_:04/08/11 13:42 ID:1bbptbDg
けんちゃなよ
けせらせら
気にすんな
ボーヒンゲエンズィー
132ネズミ:04/08/11 13:56 ID:4Rxeo/qw
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133ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/11 14:33 ID:20hTGtIu
「ひとが何か或るものに依拠して『その他のものはつまらぬものである』と見なすならば、
それは実にこだわりである。」ブッダのことば
彼岸世界は、何もこだわらない。凡欲の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。見
解に流されず、知識にもなずまない。「或る人々が、『最高の教えだ』と称するものを、
他の人々は『下劣なものである』と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?」
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。安らぎは虚妄ならざる真理である。快を
貪ることなく、争うことがない。」

小乗から学ぶ仏教もあり、大乗から学ぶ仏教もある。神仏に願い求める欲念を捨て、貪欲を
捨て去り、快を貪らず、あの世もこの世も望まず、今現在を大切にして、人々の快適な暮ら
しのために働き、収入を得る。得ようとする心に従わず、与えることをして得る。怨み、敵
意を抱かず、全ての存在を慈しむことを大切にする。もの惜しみせず、他人に気前よく分け
与えられるよう心がける。一切の所有物を捨て去ること、物への愛着のないことが、苦悩の
ない彼岸に近いものと心得て、たとえ何もなくても不満を抱かない。全てに満足する。子も
人も人々も、憂いであると心得ておき、自分の思うとおりにならなくても、怒りを抱かない。

134ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/11 14:35 ID:20hTGtIu
大乗仏教は、願い求めるものの対象物の違いにより、唱えものの違いにより、見解の違い
により、他より自分の宗派が優れていると主張することもある。仏界は争わないこと。
「無論争の境地を安穏である」と観じて、論争をしてはならない。「心のうちが平安と
なれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものが存
在しない。」「論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々
のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。」>>103

原始仏教は、一切の所有物を捨て去り、自然の中で瞑想するブッダと修行僧を敬し供養す
る。無欲で世間と離れ、一切の愛著を断ち、快を好まず、彼岸に近い自然の中で瞑想し、
満足する者を敬して供養する。供養が、その人の敬意を現し、欲求に生きないことへの心
の支えとなる。世間においては、もの惜しみせず、気前よく分け与える者となることを心
得る。

135ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/11 14:36 ID:20hTGtIu
「尊敬されるべき人の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見れば、『かれはもう
わたしの力の及ばぬものなのだ』とさとって、嘆き悲しみを去れ。」

人々は、死者の霊を慰めるため、成仏することを願い供養するが、尊敬されるべきブッダ
は、死んだ者は、生きている人が何を行っても、力の及ばぬ世界に入ると教えている。
死んだ者は、自分の生前の行いによって、行くところに行く。自己の責任は自己自身。

しかし、大乗仏教がお寺の意向に従い、布施や供養をするのも自分の為に全てを使うこと
なく、他人にも与える行いをすることだろうし、生前愛していた人を想い、お寺に供養す
ることは、哀れみや慈悲の心につながるだろう。布施や供養は、義務的に決められた金額
を求められるのではなく、その人の気持ちの金額を求められているのが普通でしょう。
仏教そのものが、心の修行。悪い行いを抑え、良い行いに導く。特定の宗派が良く「その
他のものはつまらぬもの」とすることがこだわりであって、原始仏教の教えも、大乗仏教
の教えも、それなりの意味を持つもの。>>117

1361:04/08/11 15:06 ID:81V/VCUx
>>128 その男女差別は
「女性のほうが煩悩が強いからだ」と言われていますよね。
この世に対する望みが、女は男の100倍もあるような気がします。
だからこそ苦しみも強く、出家のニーズも強いかもね。
もし本当に上座部仏教が女性の出家を認めていないのなら、それは
ある意味で教条主義に陥っているのでしょう。
教条主義(戒取=無意味な禁令)は仏教の一番嫌うところですよね。
1371:04/08/11 15:15 ID:81V/VCUx
>>133 「この世を捨てる」が形式論になってしまっている。
気持ちだけでこの世を捨てても、実際あなたはこの俗世を捨ててはいないし、
俗世で生きる限りさまざまな望みや欲望を持っている。

気持ちと実生活が分離してしまっている。そしてその高尚な気分の部分
だけを仏教に関連付けている。仏教とは机上のことではなく生きること。

仏陀は出家者には「現に」この世を捨てることを求める。さらには、あの
世さえ捨てることを求める。
実生活としてこの世を捨ててないものは在家者であり、在家者は正当な
福徳果報を求めブッダ・サンガを供養する。
1381:04/08/11 15:24 ID:81V/VCUx
>>134 このコメント中の「供養」は、生きた仏陀や聖衆に供え養う
ことですよね? (死者への回向ではないですよね?)

だとするとすべての所有物を捨てた者は、他の人に供養はできませんよ。
すべての所有物を捨てた出家者は供養を受けるのみです。ブッダ・サンガ
は供養を受け、供養を行った人に福徳を授けるのです。すなわち福田。
福田という言葉の存在からも分かるように、在家の信者は、聖衆に福徳
果報を求めるものなのです。

私もあなたも仏教学者もお坊さんも、市井で生きる限りは在家者です。
139ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/11 20:57 ID:mk4SoGiW
施与を受けるにふさわしい人々 ブッダのことばより
 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した全き人がいる―そのような
 人々にこそ適当な時に供物をささげよ―バラモンが功徳を求めて祀りを行うならば
 一切の結び・縛めを断ち、みずから慎み、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる
 ―そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ―バラモンが功徳を求めて祀を行う
 のであるならば。
  
  尊い悟りに至る修行をしている人々に施与をする。自分たちと同じように飲み、食い、
  家に住み、それらの人がどんな偉い人でも、悟りの上では偉くもない。食うや食わず
  でおこたり怠けず修行している人々に、哀れみを垂れて施与をするという心の功徳も
  あることでしょう。哀れみは仏界に通じるものですから。
    
140ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/11 20:58 ID:mk4SoGiW
「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―
かれらの功徳は、昼夜に常に増大する。それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具え
て、天におもむく。」
現実的な功徳は、実際働くこと。人々は快適な暮らしを求めて働く。人から掠め取ること
なく、法に安住し、快や五欲の喜びの対象に耽溺することなく、睡眠や怠惰を離れて、戒
めを身に具えて、天におもむく。

 ブッダは、信仰をもって与えることより「法の句」のほうがすぐれていると言っている。
 快適な暮らしを求めて働くことも、戒めを身に具えて、天におもむくと。
141ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/12 00:13 ID:FG3slRmZ
「信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳が
あれば、かれは来世の至って憂えることがない。もしもこの世に誠実、自制、施与、
耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、〜バラモンどもに問え」
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッ
ダと真理との教えとに対して信仰心あり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもって
いるならば、かれらは天界に生まれて、そこで輝く。もしも人間の状態になっても、富
裕な家に生まれる。そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。また来
世には他人の貯えた財物を、他化自在天のように、喜び楽しむ。現世ではこの報いがあ
り、死後には善いところに生まれる。」神々との対話
142ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/12 00:14 ID:FG3slRmZ
貪欲を捨て去ろうとする者、全てに満足する者、享楽や快楽を耽溺しない者、五種の対象
の喜びを自制する者、気前よくわかち与え、もの惜しみしない人、誠実で、柔和で、慈悲
があり、温かい心でいる者、耐え忍んでいる者は、天界に生まれたり、富裕な家に生まれ
る。富裕な家に生まれながら、満足せず、自制せず、もの惜しみし、吝嗇で、乞う者を退
け、冷酷で、無慈悲で、高慢で、怒りっぽく、強情なら世の役割を果たさない。

おおよそ、真理に向かう法則と、真理から遠ざかる法則により、人は善なる運命になるか、
悪なる運命になるか決まることでしょう。慈愛や哀れみ、驕らないこと、柔和や寛容、愛
著ない者など、肉体の欲することを少なくした者は、善い運命をたどる。
143けちゃっぷ:04/08/12 01:32 ID:tmZioxH+
>125 ただ頭で理解するだけではなく、信仰と実践の中で、自然に心が変わってくるのだと思います。いわゆる「マインドコントロール」です。
144けちゃっぷ:04/08/12 01:35 ID:tmZioxH+
お釈迦様の時代のインドは、男尊女卑が常識だったはず。その中で、女性の出家は男性の統治下ではないというのは、ある意味女性保護かも。また、恋愛の煩悩を防ぐため、男女別々に修業させたのかも。
145けちゃっぷ:04/08/12 01:43 ID:tmZioxH+
現在の上座部仏教が女性差別をしてるわけではないでしょう。ただ、お釈迦様の決めた戒律は絶対変えない、という立場を守っているのです。大乗仏教は
146けちゃっぷ:04/08/12 02:08 ID:tmZioxH+
スリランカ上座仏教の「日本テーラワーダ仏教協会」のサイトでの長老の見解では、在家の女性信者が修業を完成して阿羅漢になれば、お釈迦様と同等の地位なので、女性を出家させる権限があるそうです。
1471:04/08/12 05:42 ID:+JEcC8w/
>>139 「哀れみを垂れて」

哀れみを垂れてではなく、生死を極めようとしている勇者たちに、大いなる
尊敬と羨望を持って供養するのでは?出家にせよ在家にせよ仏道修行者は
ニルバーナを目指している。麓でうろうろしている在俗信者がついに山頂を
極めようとしている人たちに供物を捧げるのです。いま何もかも捨ててその
場に行きたい気持ちもありながら、実際には持っているものを何一つ捨てら
れない私たちです。
1481:04/08/12 05:58 ID:+JEcC8w/
>>129 たしかに病気は怖い。私自身は薬師如来に祈る。「オンコロコロ・・・・」。
友人や家族や知り合いには絶大な効果がある。でも自分自身のこととなると「祈って
治るのだろうか」と不安になることもある。仏さまを疑ってはいけないのだけど、
自分自身の事となると盲目で客観的に見れなくなる。
(もちろん最高の医療を受けた上での話ですが)
1491:04/08/12 06:05 ID:+JEcC8w/
>>146 なんとか無事に女性たちも修行できますように。
けちゃっぷさんは独身ですか?女性の煩悩のすごさを知らない???
(私も女性には詳しくないけど)。
仏陀の教団では、食欲と色欲がかなりの大きなテーマだったみたいですね。
こう言った欲貪(よくとん)は出家者にとっては比較的下位の煩悩のはず
なんですが。五欲を満たしながら暮らしている在家者には考えられないほど
のことなんでしょうね。
1501:04/08/12 06:10 ID:+JEcC8w/
今日も一日、戒と定と智慧を求めていくことができますように。
また人としての正しい道(八正道)を歩むことができますように。
151名無しさん@3周年:04/08/12 13:59 ID:ETenstVn
>>140
仏教は現実的で素晴らしいですね。釈迦の時代に、私が生きてたら
良かったような気になります。お釈迦様の説法は、わかりやすく、
人を騙すような教えではありませんね。金品を要求しない説法は、
正直に教えるような気がします。
152名無しさん@3周年:04/08/12 17:51 ID:DTj7AsiY
>真理は一つであって、第二のものは存在しない。安らぎは虚妄ならざる真理である。快を
貪ることなく、争うことがない。

安らぎを求めれば、争わない。当然の理屈ですね。仏教思想の根本は、安らぎで争いがないこと。
だから、仏教には戦争が少ない。

153名無しさん@3周年:04/08/12 18:51 ID:+JEcC8w/
八正道とは
正見(正しく見ること)
正思(正しく考えること)
正語(嘘をつかないこと)
正業(正しく行動すること)
正命(正しく生活すること)
正精進(正しく仏の道に進むこと)
正念(正しい修行の方法をすること)
正定(正しい瞑想をすること)
154名無しさん@3周年:04/08/12 19:52 ID:AWeP5GLf
仏教書などを初めて読んでみた時、
「こんなので生きていけるのだろうか」
と疑問を感じた人はいないだろうか。
その最初の不信感が正しかったとわかるまでは、
人によっては多大な時間と損害がかかるだろう。
155名無しさん@3周年:04/08/12 21:34 ID:I8l5OLyM
仏教には、在家と出家という、二つの道があると思いますが、
どちらが優れているんですか? やはり出家?
156名無しさん@3周年:04/08/12 21:43 ID:WX+NefWo
どういった点において「優れている」ということなのかな。
在家で悟れちゃう人がいたら、それはもちろん資質において
出家しなきゃ悟れない人より「優れて」いる。
157名無しさん@3周年:04/08/12 21:52 ID:AWeP5GLf
在家者は出家者に及ばない。
あたかも、○○鳥が空を行く白鳥に及ばないように。

みたいに原始仏典に書いてあったと思います。
仏教は出家者が優れていると思わせて、普通人に劣等感を抱かせる教えです。
仏教に熱心な在家者は、出家できない自分を気にしたりし始めます。
158名無しさん@3周年:04/08/12 21:57 ID:xSOZakkm
同じ資質の人であれば、やはり出家のほうが進歩が早いですか?
あるいは人による向き不向きというものもありますか?
159名無しさん@3周年:04/08/12 22:12 ID:WX+NefWo
>>157
原始仏典は、当時のインドの社会背景などを考慮しながら
読んだほうがいいよ。
>>158
出家は、仏縁だと思いますよ。
是が非でも出家しなければならない、という決心が固まり、
かつ、それを理解してくれる先達に恵まれるという状況そのものが
その人が出家に向いていることだということですね。
一般的に、人は出家に向きません。
人間的な成長や、心の安住の地を望むなら、在家で充分です。
160ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/13 00:11 ID:LHn5T4IB
「眠く、ものうく、あくびをし、楽しまず、食べすぎてぼうっとしている―努め励んでこれを払いのぞき
尊い道が清められる」「起てよ、坐れ、平安を得るために、ひたすら修行せよ。汝らが怠惰でありその死
王の力に服したことを知って、汝らを迷わしめることなかれ。」「かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、
吝嗇で、不正になずんでいるが、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する―『ここで死んでから、われらは
どうなるのだろうか』

〔神々いわく〕ひとは、どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?―もしも自分の心
      を制することができないならば。
〔尊師いわく〕修行僧は、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ます
       ことなく、束縛の覆いを完くときほぐして、なんぴとをも謗るな。

貪欲を制し、明知を得て死王に打ち勝ち、精神統一によって迷いを克服し、願い求める欲念のない者とな
り、かの世もこの世も望まず明朗な智慧を得て、他人を悩ますことなく謗ることなく、何ものにも依存す
ることなく、自己こそ自分の主とするまで。―煩悩に敗れている者は、自分の幸せを得ることができない。

  この世では自己こそ自分の主である。他人がそうして自分の主であろうか?賢者は、自分の身を
  よくととのえて、いろいろの幸せを得る。
161ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/13 00:12 ID:LHn5T4IB
「『わたしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭
は七つに裂けてしまえ。』詐りをもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを告げた。
かれのその呪詛のことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。」

(ゴータマ・ブッダは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力と
に結びついて、頭を裂け落とさせるものである。〜バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽
しくあれ。」

 恐ろしいことばを告げられて、思い悩んでいたバーヴァリ。「七日の後に、あなたの頭は七つに裂
 けてしまえ」臆病で煩悩の迷いにより悩んだバーヴァリ。彼岸には悩みがない。恐れもない。明知
 が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、無明を克服する。

「今日われらは美しい太陽を見、美しい晴れた朝に逢い、気持ちよく起き上がった。」
  矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか―修行僧は、煩悩を克服し、
  恐れを克服して、清々しい心で、、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみず
  から満足し、在家者とは違う聡明な心でニルヴァーナの近くにいる。
162名無しさん@3周年:04/08/13 01:55 ID:uW3ZDYGk
んで、結局ニルたんの意見はなんなのよ
163名無しさん@3周年:04/08/13 07:05 ID:U6x1InOe
>>162 まあわけもわからず仏典をこつこつ読んでいるのでは?
164けちゃっぷ:04/08/13 07:14 ID:E/a47wgV
ニルヴァーナを見たサンは、在家より出家が悟りに近いと言いたいのでしょうか?
165名無しさん@3周年:04/08/13 07:38 ID:g6HGVOiH
>>164
大乗仏教は、偶像崇拝を禁止しなければ、
現代人の本当の意味での共感を得ることはできないよ。

一神教のような拡大性が、いいことなのか、悪いことなのかは、
分からないけどね。
166ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/13 14:06 ID:+pSJj6Sl
「ひとが何か或るものに依拠して『その他のものはつまらぬものである』と見なすならば、
それは実にこだわりである。或る人々が『最高の教えだ』と称するものを、他の人々は
『下劣なものである』と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるか?」

 仏教でも、或る宗派が「最高の教えだ」と称し、「その他のものはつまらぬものである」
 と人に教えることにより、こだわりを教えることになる。それぞれの宗派が「最高」と
 も言わず、「その他のものはつまらぬものである」と見なさなければよい。だから、小乗
 から学んでもよいし、大乗から学んでもよいだろう。
167ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/13 14:07 ID:+pSJj6Sl
私はニルヴァーナを知った経験から、「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに
みずから満足すべきである」「今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持
ちもよく起き上がった。」「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽
であれ―上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし」を尊重する。

 ニルヴァーナはその境地に近く喜びであり、それらを好む者はその境地の世界に入るし、
 諸々の欲望の貪りを好み、諸々の邪まな見解にとらわれている者は、生まれ変わりの要因
 である妄執に敗れる。仏教はどれもその妄執である邪念を抑える一定の方向で教えが説い
 あるだろう。どれでも、良いのではないか。

 勿論、在家より出家者のほうが、その境地に近く安らぎに近い生活をしているわけだが、
 在家であろうが貪り求める生活をしないようにすればよい。衣食住を正しく得て、正し
 く生活する。
168ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/13 14:08 ID:+pSJj6Sl
ブッダが、神を教えとしなかったのは、彼岸であるニルヴァーナ世界では、神という存在
を識別することもなく、認知することもなく、見ることもない世界だからです。この上な
き最上の喜びの境地だけが存在し、安らぎと無上の喜びで満足する世界。成仏世界では、
私たち現在のこのような生存状態というものは一切なく、境地のみが存在する世界。死も
なく、わが身に対する存続の思いはなく、わが身の存続を断じる断滅の妄執も存在しない。

 願い求める欲念を断ち、何ものにも依存することなく、この世もかの世も望まない。
 ブッダの教えは、彼岸世界を正確に伝える。今、生きている人がその世界に近いよ
 う生きることを教える。人は貪欲を離れ、そのように生きれば生きるだけ、安らぎ
 に近づくわけだ。
 
169名無しさん@3周年:04/08/13 15:13 ID:F7gkw4vc
仏教の目的が、「悟りを開く」という個人的なものである以上、
その方法論として出家が優れていることは言うまでもない。

ただ、出家という行為そのものは、反社会的行動であり、
自己中心主義、個人主義の極端な形でもある。
一般社会に満ちている、穏当な人道主義とは相容れない点も多い。
洗練された人格や、世のため人のためといった人道主義を
追求したいのであれば、出家よりも在家のまま
社会の荒波にもまれ、艱難をクリアしていくのが最も効率的だ。
「寺」という安全地帯にこもり、仏典を読み瞑想するのもよいが
それは人並みの人生を生きてきたあとで、己の半生について
静かに考察したくなったときでもよい。

「それでも」出家することが必要である、という人間は
確かに存在する。
宗教の最奥部にある「何か」の魅力にとりつかれ、
自分が社会的に関わっているもの全てを放棄しても、
それを追求しなければ気がすまないという人々だ。
真理に対する狂おしい興味にとりつかれ、それを追求することを
許される人間というのは、まれな適性を持った一握りの人間だが、
それは別に、優れているとか選ばれた人間であるというわけれはなく
「他者と異なる」というだけの話である。

無論、このような出家の本質的部分とは全く関係なく
出家する人々も、世間には多く存在する。
多くは社会的制約からくるものであり、求道という点から見れば
在家者が熱心に仏典を読むほうが余程優れていたりもする。
170名無しさん@3周年:04/08/13 20:06 ID:U6x1InOe
>>165 偶像を拝んでもその中に込められているお御魂を礼拝しているのであれば
問題無いのでは?
たとえば彼氏や彼女の写真だけど。写真自体を愛してしまったのではどうしよう
もないけど、写真を通して彼や彼女への愛を確認するのなら良いでしょう?
先日立ち読みしたんだけど「絵に恋する」という小説が有ったよ。
171名無しさん@3周年:04/08/13 20:11 ID:U6x1InOe
>>>165 一神教は最後の一つの神が生き残るまで戦いを止めないと思うよ。
多分地球上には何万何十万何百万という一神教が有ったと思うけど、殲滅
戦を繰り広げて、本当に少ない数になってしまった。私の知っている一神教は
、キリスト・ユダヤとイスラムと天理教だけ。実際はもっともっと有るんだろうね。

絶対に他の「神」の存在を許さない一神教は迷妄にしか過ぎないよ。迷妄で無い
のなら「名は違えど同じ全能の神」として融和できるはずだからね。
172名無しさん@3周年:04/08/13 20:14 ID:U6x1InOe
>>169 寺に暮らすということが本当に出家ならまだしもなんだけどね。
お坊さまでも蓄財に励んでいるのであれば出家とは言えないよね。
173けちゃっぷ:04/08/13 21:29 ID:E/a47wgV
出家と在家の関係は、能化(教化する側)と所化(強化される側)ですね。
174名無しさん@3周年:04/08/13 21:33 ID:1gxKBi7i
そういう単純なものでもない
175名無しさん@3周年:04/08/13 21:53 ID:EOAxbkn4
>>171
自分たちが一番とする宗教はどれも一緒でしょう。
争わないことを第一に掲げる宗教でないとダメ。
内面の悟りを目指すこと。
組織の拡大を目指す宗教なら、なんらかの争いは
起きる。

176ニウヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/15 11:58 ID:+EfPRgje
「両極端に対する欲望を制し、感官と対象との接触を知りつくして、貪ることなく、自責の
念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。想いを知りつく
して、所有したいという執著に汚されることなく、煩悩の矢を抜き去って、つとめ励んで行
い、この世もかの世も望まない。安らぎに固執することもなく。」ブッダのことばより

大乗仏教でも、どれが正しいというものでもなく、快や享楽などの貪りから離れ、五感を貪
ることなく、所有したいとする執着やその他現世への諸々の貪りを離れるようにし、安らぎ
に固執することもなく、中道の道を歩ませているわけだろう。

「サマンタ=バトラよ、〜自分の所得だけで満足する者となろうであろう」
「かれらを、愛欲も、憎しみも、愚かさも、羨望も、嫉妬も、中傷も、自惚れも、傲慢さも、
虚勢も、害うことはないであろう。」法華経

 経典を護持し、書写し、経説を崇めることによって、人々は「愛欲に溺れて盲目になり、
 邪見の網に覆いつつまれ」ないようになる。法華経より
177ニウヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/15 12:00 ID:+EfPRgje
小乗仏教でも、出家修行をし煩悩を滅ぼし尽くすこと、在家者は彼らを尊敬し、貪りを止め、
所有したいという執着にこだわることなく、この世もかの世も望まないよう心がける。

 仏教はどれが正しいかを争わないもの。

一神教は争う。それを広めるため、宗教によって、人を傷つけることもある。自分達が善く
なることを主体とすることなく、争うことのない内面の平安を尊重することなく、特定の神
なる対象物を拝ませることによって、平和を達成しようと、また、その特定の神が地上を支
配してその力により、いつかは救われると願うことを教えているからだ。

 一神教などの拝みの対象物を広めようとする宗教は、争いの要因の他ならない。客観的
 な思考概念もなく、特定の神を拝ませ救われ、他はだめだとする宗教は、宗教によって、
 争いをつくる要因になる。

「(神などに)願い求める者には欲念がある」この正確に説かれた事実を知って、神などに
平安を願い求めるなど、他に依存して平安を求めるものではなく、「真理は一つであって、
第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。安らぎは虚妄ならざる
真理である。無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。」彼岸という争
いのない事実に基き、内に平安と安穏を求め、仏教は争うことがない。(争えば、仏教では
ない)
178名無しさん@3周年:04/08/15 21:51 ID:wYerKLjv
大乗仏教は、偶像を礼拝しているんですか?
仏像なら、南伝仏教にもあると思いますが?
179けちゃっぷ:04/08/16 12:33 ID:nWovHkMR
>118 レス遅くなりました。阿弥陀仏をお釈迦様の化身ととらえるのなら、いっそ大日如来(宇宙仏・真理そのもの)の化身でいいのではないでしょうか。また、無数の仏様達の総称かも。
180けちゃっぷ:04/08/16 12:39 ID:nWovHkMR
浄土を信じることで平安な気持ちになるなら、その気持ちが心の浄土かも。基本的には、お経に書いてるとおり、人格的な阿弥陀仏が建てた浄土が極楽。
181ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/16 20:55 ID:kl+72sYt
「生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざる
もの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの―それは
喜ぶに足りない。
それらの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つ
くるはたらきの静まった安楽である。
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、
月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
来ることも無く、行くところも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどま
ることも無く、依存することも無く、依拠することも無い。―それが苦しみの終滅である。
聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、一切の苦し
みから全く解脱する。
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいも無い人は生存の矢を
断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没する
ことなき解脱の境地である。」 ニルヴァーナ
182ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/16 21:06 ID:kl+72sYt
この世で名称と形態との妄執を断ったのだ〜
かたちあるものからの出離〜
  ブッダの教えは、かたちなき境地の世界からの教え。「この上なき最上の喜びの境地」
  を最上のものとして、そこから教え導く。平安の境地であり、安らぎでもある。

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」その慈愛に満ち
た境地からの教えは、人々を安穏と安楽に導く。
「過ぎ去ったことを思い出して、悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもな
く、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。」
「日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく、それは、楽し
みと思われる。」 
「らんだと、怠りと、不実行と、不自制と、睡眠と、耽溺と―これらのものをすっかり除去
せよ。」怠けている人々に、働くこと教え、快適で安穏な暮らしを得ることを教えるなど。

 ブッダは平安の境地に順ずる教えを説き、かたちあるものへの欲念や出離を説いているの
 で、ブッダ自身が、仏像をつくりそれを拝めとは言っていないと思う。
「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、こ
れらはすべて悪魔ナムチの讃めたたえるところである。魚を殺す(釣る)ために餌が投げ込
まれたのである。」
183名無しさん@3周年:04/08/16 23:27 ID:Wjg86X/7
>>180
ケチャップ殿。
浄土経典には、浄土の観想は妄想ではないと
言っています。
ある人は、浄土が黄金という表現に、がっかりしたとの話しもあります。
というより、なんで黄金だと思いますか?
184名無しさん@3周年:04/08/16 23:35 ID:VrYQqL4s
うん(ryの隠語だから。
185名無しさん@3周年:04/08/17 01:20 ID:G/J2RewT
自分は仏像を方便のひとつと理解していますが。
186名無しさん@3周年:04/08/17 01:35 ID:1CHtTQeP
仏像は低い教えということです。
187けちゃっぷ:04/08/17 01:41 ID:7mBMWR8P
極楽は、黄金だけでなく、宝石でも飾られています。極楽のデザインは、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩という名で、修業を始めた頃に誓ったプラン。世俗の価値観をもとに考えた理想ではないでしょうか。
188けちゃっぷ:04/08/17 01:45 ID:7mBMWR8P
念仏の教えは、悟れない凡夫でも救われるので、ある意味低い教えです。自力難行ではなく他力易行ですから。高度なコンピューターゲームより、幼児でも遊べる積み木を選択する。自分も幼児だから。
189名無しさん@3周年:04/08/17 02:02 ID:pCJyF9n8
>>188
成長の意思を持てる程度の恵まれた幼児だったら自力を選択した方が良いのかな?
仏教は本来(仏教的)人格完成を目指す教えだし。
190けちゃっぷ:04/08/17 02:14 ID:7mBMWR8P
幼児は自分で成長しようと思って遊んでるわけではありませんが、遊んでるうちに自然に成長するのです。念仏に出会う以前とは別人のような自分になったと、法然さんも語ってます。
191名無しさん@3周年:04/08/17 02:30 ID:pCJyF9n8
>>190
幼児を衆生と読み替えると、菩提心を一切認めないということでしょうか?
幼児が発心する可能性はないというのが前提ではないですか。
192名無しさん@3周年:04/08/17 02:39 ID:xoOtxs7a
>>190
横から失礼
衆生とは、草木も含め生を受けてるもの全てと存じます。
幼児であろうが、佛性をもっており、その佛性に気付くか否か?
釈尊の一大事の因縁は衆生に自分自身を見つけ出させるために出現したもうととあります。
193けちゃっぷ:04/08/17 08:31 ID:7mBMWR8P
菩提心の否定ではありません。戒定慧の三学を究められない未熟な凡夫(幼児)は、成仏まで何度うまれかわらねばならないか…。それよりは、まず成仏しやすい極楽に往き、阿弥陀仏の弟子になるのです。
1941:04/08/17 09:53 ID:R3/guhFw
>>176 「貪りから離れる」というのが仏教の根本ですよね。
私自身あるものが欲しいと思うとき、それは貪りなのか、必要(ニード)
なのか良く考えないといけないと思っています。
「これくらいは良いだろう」と思ったことがいつの間にかとてつもない
貪りに発展してることがあります。

実例で言うと「男女間のこと」なんですが。何年か前に男女間の貪りは
一切止めようと決心したんですね。するとその欲望が、文学とか演劇な
どのほうに突出していってしまって。そういう欲望も高じてくるとかなり
苦しいものです。
色貪(しきとん、本能の貪り)を捨てようとしたところ、無色貪(むしき
とん、精神世界への欲望)が限りなく増大して苦しんでいるところです。

もちろん全く色貪も捨てられてません。
1951:04/08/17 10:00 ID:R3/guhFw
>>177
「仏教はどれが正しいかを争わないもの」

これはとても正しい言葉だと思うんです。
でも「私たちの教師であるお釈迦様は忘れないでください」という
ことだけは言いたいと思うんですよね。

朝から晩まで「なんみょうほうれんげきょう」。妙法蓮華経の大本の
お釈迦様を忘れていませんか?
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」。釈迦如来と一体であってこそ
阿弥陀如来は生きてきませんか?
うちのオバサン朝から晩まで「般若心経」の写経。仏陀に感謝して
写経していますか?などなどと。

この一点「お釈迦様を忘れないで!」だけは声を大にして言いたい。
1961:04/08/17 10:04 ID:R3/guhFw
>>178 南伝仏教は釈迦像ばかりなのでは?(よく知らないのですが)。

偶像を真実の仏様と思うのは良くないわけで、その「おみたま」を
礼拝するのは別に良いのでは、と思っています。前にも書いたけど、
彼女の肖像そのものに恋するとだめだけど、肖像を見て彼女を思い
出すのは良いんじゃないでしょうか?
1971:04/08/17 10:27 ID:R3/guhFw
>>179 けちゃっぷさん今日は。

仏教の基本原則として「三宝帰依」を考えた場合。
「ブッダ・ダルマ・サンガ」に帰依するわけですが。
その場合の「ブッダ」は釈迦でないとまずいような気がするんですよね。
大日如来も阿弥陀如来も釈迦と一体になってこその仏様だと思う。

大日如来や阿弥陀如来が「ブッダ」でも良いわけだけど、その場合
「ダルマ・サンガ」はどうするのと思ってしまうわけです。
198名無しさん@3周年:04/08/17 10:44 ID:KbN2CV/7
仏像など固定的な相を観じさせるものは用いないに越したことはない
1991:04/08/17 10:50 ID:R3/guhFw
>>182 名称と形態=名色は〜、〜は〜より、〜は無明より生ず。
十二支縁起の一つですよね。
物の名称と形態が迷妄だというのは頭では分かってます。

物は分子の集まりに過ぎないし、分子は原子、原子は電子と原子核、
そのまた小さな素粒子の集まりにしか過ぎない。最終的にはエネル
ギーの励起にしか過ぎない。

頭では分かっているが、妄執はますます盛んな私です。
2001:04/08/17 10:53 ID:R3/guhFw
>>180
>>183  私は、すべての妄執を捨てた安楽な境地、すなわちニルバーナ?
こそが「極楽浄土」だと思っています。
「何もかも捨てて楽になろう」という気持ちを助けてくださるのが阿弥陀様?
2011:04/08/17 11:00 ID:R3/guhFw
>>193
戒定慧を学びながら阿弥陀仏を念じたらだめなんでしょうか?
密教の阿弥陀様(オンアミリタテイゼイカラウン)と法然親鸞の
阿弥陀様(南無阿弥陀仏)はどのように違うのでしょうか。
私自身、今朝も一生懸命「オンアミリタテイゼイカラウン」とお唱
えしているわけですよね。私にとっては多くの仏様のうちでも
一番好きな??仏様の一つ?なのですが。
202名無しさん@3周年:04/08/17 11:14 ID:EmbxxuDf
>>190
ケチャップ殿

有難うございました。私もそのようなことを思いました。
ケチャップさんが「成長」という言葉を使われました。
妄想と観想の違いは、覚者が出来るかどうかだと思ったのですが
そう考えると分かりやすいです。

法然上人は、初めから悟りを得る宿命では生まれていないような気すらします
亡くなる時に、もとにいた浄土に帰るとおっしゃったのですよね
203けちゃっぷ:04/08/17 12:23 ID:7mBMWR8P
>197 浄土教は二尊教と呼ばれます。阿弥陀仏はお経の中の釈尊が説かれた教えですので、釈尊を信じなければ釈尊が紹介してくれた阿弥陀仏を信じることはできませんからね。
204けちゃっぷ:04/08/17 12:33 ID:7mBMWR8P
>201 仏教徒が仏教徒らしく生活するべきなのは当然です。ただ、往生に関しては念仏だけでいいのです。仏教徒としてレベルアップするために自力の行をするのはいい。ただ、往生は他力だと忘れなければ。
205けちゃっぷ:04/08/17 12:39 ID:7mBMWR8P
>202 鈴木大拙さんは、法然さんも禅者のように悟っていたと見てたようです。ただ、悟った悟ったと言わないだけで。念仏三昧の体験も内緒にしてました。聖者でなきゃ往生できないと人々が誤解しないために。
2061:04/08/17 12:42 ID:R3/guhFw
>>203 けちゃっぷさん今日は。

「浄土教は二尊教」
「阿弥陀仏はお経の中の釈尊が説かれた教え」
「釈尊を信じなければ釈尊が紹介してくれた阿弥陀仏を信じることはできません」

そうなんですね。とても勉強になりました。

ブッダ・ダルマ・サンガ・について。
サンガ=僧=聖衆ですが。日本の阿弥陀信仰の場合はすべて在俗の信者
なんですね。僧侶といえども妻帯肉食の在俗者。これはどうなんでしょ
う。親鸞聖人が始められたことだと思うのですが、仏陀は、僧侶には一
人で山で暮らせ、一人が無理なものは二人で暮らせ、二人で無理なもの
はサンガ(僧伽、教団をなして)暮らせ、サンガにも楽しみを見出せない
ものは配偶者を得て仏道修行をしろと教えていますが。
親鸞聖人ほどの人がどうしてサンガでの生活ができなかったのでしょうか。
実際はできなかったのではなく、選択しなかったのだと思いますが。
俗世を離れて暮らす聖職者は、阿弥陀信仰には必要ないのでしょうか?
いまどきだから山の中ではなく、最小限の住居に住んで、贅沢と蓄財を否定
する程度で良いのではとは思うのですが。
207けちゃっぷ:04/08/17 12:54 ID:7mBMWR8P
親鸞さんは正直だったんですね。当時の比叡山には隠れて女性をかこっていた僧侶もいたはず。また、表面上は戒律を守ってた法然さんも、内面の煩悩に悩んで救いを求めていた。で、他力の念仏に出会った。
208けちゃっぷ:04/08/17 13:00 ID:7mBMWR8P
法然さんは、「結婚したほうが念仏できるなら結婚しなさい、独身の聖でいるほうが念仏できるなら聖でいなさい。」と言ってます。
209ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/17 21:13 ID:7O/9/0CH
―悪魔は、神の子ヴェータンバリにこっそり忍び込んで、尊師のもとで次の詩をとなえた―
「苦行と厭い離れることに専念し、ひとり遠ざかって暮らす生活を守り、物質的なかたちに執著し、
神々の世界を喜び、それらの人々は、来世のために正しく教えさとす。」
―そこで尊師は「これは悪魔・悪しき者であると知って、〜詩をもって答えた―
「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、これらは
すべて悪魔ナムチの讃めたたえるところである。魚を殺す(魚を釣る)ために餌が投げ込まれたの
である。」

仏界及び浄土世界が、暗黒ではなく、白い光も輝かず、金色であったとしても、その世界を喜ぶだ
けではだめだということだろう。

「人々は善根を養い育てることなく、福徳を失って貧しい者となり、愛欲に溺れて盲目となり、邪
見の網に覆いつつまれて・・・・・・・・・・・・・」法華経
「愛欲の享楽に執著し、愛欲を貪って、迷っている人々は、道を外れるのに気がつかない。のちに
かれらには苦渋がある。」神々との対話

「愛欲も、憎しみも、愚かさも、羨望も、嫉妬も、中傷も、自惚れも、傲慢さも、虚勢も、害うこ
とがないであろう」法華経
「怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢、極めて傲慢であり、もの
おしみする性で、なんぴとにも与えない人」ブッダのことばより

そのように仏典に書いてあるような、悪い心を絶つこと、または、制することができるようにな
ること。そして、善い行いができるようになることが大切。
210ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/17 21:14 ID:7O/9/0CH
神々いわく「ひとは、どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?
尊師いわく「修行僧は、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を
      悩ますことなく、(煩悩の)束縛の覆いを完くときほぐして、なんぴとをも謗るな。」
悪い心を制する者となり、自らを拠りどころとして、法と自らを灯明として生きること。そして、

「彼は、かれらが老齢となり、眉にしわがより、頭が白くなったのを見て『ああ、ああ、何という
ことだ。一切の衆生は騙されている。それ故、わたしは今、教えによって、かれらをいましめよう。』
彼はかれらにこの世で教えを語り、そののち、「さとり」の境地を説こう。
 『すべての存在は水の泡か陽炎のごとし、速やかに一切の存在に対して嫌悪を抱け」と。
かれら、すべての衆生は、施主から親しく教えを聴き、怱ちにこの世の汚れを棄て去って、最後の肉
体を保つ阿羅漢の位に達した。」法華経

「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよ思いめぐらすこ
とがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。」「妄執が人を生まれさせる。
人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は苦悩から解脱しないのである。」
ブッダのことば、神々との対話

老齢となり、死ぬよりも前に、すべての存在は水の泡が陽炎のごとし、一切の存在に対して心を離れ、
何事にもくよくよ思いめぐらすこともないならば、未来に関しても特に思いわずらうことがない。

211名無しさん@3周年:04/08/17 21:15 ID:wCwG6piK
>>208
在家はそうに決まってますが、出家者は家族を持ってはいけなくないのですか?
212ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/17 21:15 ID:7O/9/0CH
>>194
精神世界の欲求。仏教では、彼岸に近い境地になること。
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものども
に対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意
なき慈しみを行うべし。〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」

「他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるもの
は幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」ブッダのことば

人の幸福を喜ぶような心でいること。人々の安穏を願い、安楽を願うような心でいることでしょう。
上に、下に、横に、障害なく全ての人々の幸福を願い喜ぶことが最善。
全ての人々が、このような心でいるなら、世の中は平安になるでしょうが。そのような心でいて、
「諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを
除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」と。

自分の欲望の貪りより、人の幸福を喜ぶような仏様のような人は、やはり成仏する。

213けちゃっぷ:04/08/17 22:53 ID:7mBMWR8P
>211 僧侶であるにもかかわらず、戒を授かっても守れない。そんな愚かな凡夫なのです。だからこそ、念仏にすがるしかないのです。
214名無しさん@3周年:04/08/17 23:09 ID:UVyvRpGP
ということは、親鸞は妻帯を認めているけど
法然は認めてないんですね。浄土宗で妻帯しているのは
おかしいと言わざるを得ません。
215名無しさん@3周年:04/08/17 23:17 ID:WdcNXwnp
>>193
>菩提心の否定ではありません。戒定慧の三学を究められない未熟な凡夫(幼児)は、成仏まで何度うまれかわらねばならないか…。それよりは、まず成仏しやすい極楽に往き、阿弥陀仏の弟子になるのです。

あなたの発言で、浄土教の根幹には転生への脅迫が含まれていることがわかりました。
また、念仏三昧で成仏できる、と言ってしまうのは簡単ですが、そこに論理的背景を汲み取ることは困難です。

八正道も三学も、究めることのできるものを凡夫とはいいません。
衆生はほぼ全て幼児です。
では、幼児はみな向上を諦め、他力の念仏に没頭していればよいのでしょうか?

仏教は本来(仏教的)人格の完成、すなわちニルバーナを目指す道だったはずです。
八正道を実践すれば、たとえわずかでもそこに近づくことができる。

転生のような確認できない事柄を離れ、この現世での楽を得る方法です。
転生の迷妄を離れれば、窮め尽くす必要はもうどこにもありません。
徐々にお悟りに近づくことが、仏教本来の修行法ではありませんか。
仏果は日常に転がっております。
216けちゃっぷ:04/08/17 23:25 ID:7mBMWR8P
平安・鎌倉の僧侶達は、「現世でせっかく修業しても、来世で動物になったら無駄になってしまう」みたいな心配を本気でしてたようです。だから比叡山でも浄土信仰があったのです。
217けちゃっぷ:04/08/17 23:28 ID:7mBMWR8P
全員が凡夫だとまで言うつもりはありません。自分が凡夫だという自覚がある方には、「阿弥陀仏の本願の念仏行が救いになるよ」と紹介しているのです。聖道門を行かれる方は、心から尊敬しています。
218けちゃっぷ:04/08/17 23:36 ID:7mBMWR8P
法然さんが「生きれば念仏の功が積もり、死ねば浄土へ往けるので、生死ともに思い煩うことはない」と、心中を語っています。結果的には、輪廻や来世のことも考えず、ただ今を生きているのです。
219215:04/08/18 00:14 ID:5di3KgrH
>>218
わかりました。転生の迷妄が色濃く残っていた時代にあっては素晴らしい方便だったのですね。
220名無しさん@3周年:04/08/18 01:44 ID:o8TXQOz4
転生を迷妄と断言できるのですか?
別に自分は転生を積極的に信じているわけではありませんが。
しかし、過去のお経は多かれ少なかれ、
転生を世界観的な前提として説かれていることは事実だと思います。
お釈迦様とは、まず何よりも、輪廻の鎖を断ち切った人だったのでは。

現在の仏教では、一般に死後をどのように考えているのですか?

221215:04/08/18 02:14 ID:5di3KgrH
>>220
転生を迷妄といってしまったのは私の趣味です。
死後は確認できないので、仏教本来の思考が生きていれば「無記」となるはずです。
ただ今を生きるに当たり、死後や転生が迷妄か否かを議論することは不必要ですよね。
2221:04/08/18 10:48 ID:htvttsce
>>221 さん、こんにちは。仏教では、輪廻はその思想の根幹ですよね。
ブッダは無限大の輪廻の苦しみから逃れるために道に入ったのだから。
私自身も何が怖いといって、暗黒の世界を永遠に輪廻していくことが
一番恐ろしいです。仏陀は「無記」項目については自然科学のように
明快に語られていますが、輪廻や死後の世界は原始仏典でも全く否定
されてないですよね。
死後の世界も無く輪廻も無ければ仏教も必要ないくらいなもので。
死んだらそれっきりですねという意見は「断見」といって明確に
否定されていると思います。
仏教というのは、例えば理論物理学や天文学のように、私たちの生活
実感から離れたところに真実を見ているようです。
2231:04/08/18 10:57 ID:htvttsce
>>217 けちゃっぷさん。
「聖道門を行かれる方は、心から尊敬しています」。

仏道を志す人、仏教に興味のある人、仏教に救いを求める人の
頂点にはやっぱり「聖人」が必要なのではないでしょうか。
親鸞聖人のような立派な方が聖道門(この用語は知らなかったのですが)
を捨てられたのは、仏陀ではなく阿弥陀様を頼りにしたからではないの
ですか。仏陀は「これこれの修行をしなければ涅槃を得ることもないし、
涅槃に近づくことも無い」とはっきりと語っていますよね。

仏陀は六道の迷いからの出口を示した。その道以外には出口は無いのでは
ないかと思うのですが。
2241:04/08/18 11:02 ID:htvttsce
>>208 その教えは、浄土三部経(というんですか?)の教えが
真実仏陀の教えであると信じた上での教えなのではないのですか?
法然上人は阿弥陀経?の教えは仏陀の教えであると信じていた。
でも現代人の私たちは、阿弥陀経?の教えは仏陀の教えと関連は
あるけれど、直接の教えではないと知っているわけです。
225けちゃっぷ:04/08/18 12:22 ID:x9VNSbKR
>223 もし、修業による禅定の境地でしか仏教徒の幸せがないのなら、在家信者のほとんどはそんな修業できませんし、僕のような愚かな凡夫は救われません。りっぱな教えでも、実践できねば意味がないのでは?
226けちゃっぷ:04/08/18 12:27 ID:x9VNSbKR
>224 念仏を称えている瞬間は、阿弥陀仏や極楽が実在するかどうかさえ考えていません。ただ、念仏できてる今の僕はOKなんだという安心のみ。生死ともに煩いなしの心境に導く方便としては価値ありでは?
227けちゃっぷ:04/08/18 12:31 ID:x9VNSbKR
言葉の上では「念仏すれば往生できるからOK」と言ってても、実際はただ「OK」だけの心境になってしまいます。念仏が、自分がOKかどうか確認する目印になってきます。…僕の場合ですが。
228名無しさん@3周年:04/08/18 13:50 ID:rPiQU/jA
それは宗教と言えるのか
229名無しさん@3周年:04/08/18 14:45 ID:3GpwLiIa
べつに念仏じゃなくても「ハッスルハッスル」とか「おっぱい!おっぱい!」とか
繰り返し唱えるやつだったらなんでもいいんじゃないの?
同じ言葉をくり返してるとだんだん陶酔してきて幸せな感じになってくる原理と思うよ。
2301:04/08/18 20:11 ID:htvttsce
>>255 けちゃっぷさん。仏陀の教えによると在家信者に対しては。

仏陀の教えを学ぶこと、
仏陀の教えを忘れないこと、
仏陀の教えについてよく考察すること、
仏陀の教えを信じること、
仏陀の(在家信者としての)戒めを守ること、
貧しい人や困っている人に施しを行うこと、
他の人に仏陀の教えを伝えること。
そして、仏陀と仏陀の教えと仏陀の修行者たちを尊ぶこと。

こういう事が在家信者の修行だったと思います。
そんなに不可能なことでもないと思うのですが。
2311:04/08/18 20:17 ID:htvttsce
>>226 >>227 念仏三昧で一時的に無の境地に入ることが本当に
正しい禅定なのか。それとも思い込みに過ぎないのか。検証が
必要だと思うんですよね。
世間欲で突っ走っている人より、何百倍も何千倍も仏陀の境地
には近いと思うのですけど。
仏陀御自身は「念仏せよ」とは言われてないので心配になります。

「恐怖におののいたときに仏陀を念じよ」とは言われていますが。
正確には「仏陀の旗先(フラグ)を思え」でしたよね。旗先経?
2321:04/08/18 20:22 ID:htvttsce
>>229 「念仏=仏を念じる」ですから。おっぱいとは違うような。

スポーツで死ぬような思いをして鍛えても聖人にはならないんですよね。
やっぱ教えが必要みたい。知り合いでも元甲子園球児でむしろ変な方向に
強く激しく凝り固まっている人もいるし。

おっしゃる通り、やっぱ「教えを学ぶ」ことが基本にあってこその念仏
(仏を念ずる)だと思います。
念仏三昧とジョガーズ・ハイ、あるいはセクシャル・ハイはおのずから
異なっているべきで。
233けちゃっぷ:04/08/18 20:43 ID:x9VNSbKR
悟るための念仏ではなく、往生のための念仏です。往生決定の思いが、安心を与えてくれるのです。仏教の知識のない人でも、たった1回の念仏を信じれば、一瞬で安心できます。普通の修業では時間がかかります
234名無しさん@3周年:04/08/18 22:24 ID:l5vwMB8Y
>>205
ケチャップ殿

明恵上人が法然上人への批判を考えますと
悟りを開けない原因が明恵上人には分かっていて
憐れんだのでは無いかと思いました。
そう願って生まれたのだから、私には解決できないけど。
万人に言う事ではないぞというような。。。

私には、戒律を厳守しながら、一切のお経を5返読み返すような努力をしながら
悟りを開けないというほうが遥かに脅威です。
でも法然上人尊敬しております。
235けちゃっぷ:04/08/18 23:06 ID:x9VNSbKR
>234 末法思想が前提にありましたから、悟れないという思いが強くなる環境でもありましたね。
僕も、五戒の一つもまともに守れないんです。聖道門は難しいですよやっぱり。
236ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/18 23:07 ID:n7iZ1Lse
修行者は、修行により、全ての煩悩を断ち切り、潜在的形成力まで断ち切り、一切の形成される
ものが存在しない、消滅世界に生まれるとされる。在家者は、ブッダのことばを学び、善なる行
いによって、天に生まれるとされる。自ら光を放つ神々の世界に生まれるともされる。肉体より
天の霊体、霊体より消滅が安楽であるとブッダは言う。また、「光輝く神々のように」とも書か
れている経典もある。

―世界に通じない理論の仏教―という人もいるが、原始仏教は理論的であり、世界に通じるもの
であると言えるだろう。

「一切の生きとし、生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」仏界である、ニルヴァ
ーナ世界は、この世全てが苦であると悟るほど安楽であり、安穏であり、安らぎであり、平安の境
地であり、この上なき最上の喜びの境地の世界。そのため信仰があり、苦悩や闇やただの消滅世界
なら、信仰は存在しない。

安穏であり、安楽であるその境地にこの世一切のものより喜ぶから、「一切の生きとし、生けるも
のは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」と願い思う心は、この世では仏界に近い。
237ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/18 23:08 ID:n7iZ1Lse
「母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の慈しみのこころを起こすべし。」
―生も死もない境地であり、もはや自分自身に捉われることはない。
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。」
―黒と白の善悪に汚されることなく、良い悪いの識別はない。上に、下に、全てに障害なく。
―粗暴・残酷・憎しみ・怨み・敵意・怒り・驕り・傲慢・強情・反抗心・嫉妬・争いはない。
―寛容・平安・安楽・安穏で人や生きものに対しては、優しくあれ、慈しみのこころを起こすべし。
「この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」―ニルヴァーナ世界は、全てに対しての慈しみに似て
いるような境地。

五感の対象の喜びもなく、安楽であり、第六の意の対象もなく安楽である。肉体がなく安楽であり、肉
体への刺激により苦しみが生ずる。「楽であろうと、苦であろうと、およそ感受されたものは、苦しみ
である。」―色かたち、音声、味わい、香り、触れられるものなどへの貪欲を避けよ(自制せよ)。快
楽や享楽に耽溺しないこと。―肉体への過度な刺激により、聡明な心が失われ、迷妄が生まれ、死魔の
領域に悩まされる―「わたしは死んだらどうなるのだろうか」と。

睡眠、ものうさ、欲情、怠り、不実行、不自制、耽溺を除去せよ。―それらによって、迷いが生まれる。
ニルヴァーナ世界は、迷いなく、くよくよ思いめぐらすことなく、悩みなく、聡明で精神統一された世
界(悟りの世界)
また、一切の愛著はない。「わが物と執著したもののために悲しむ。」―分け与えを教える。また、物
などがないからといって悲しむこともない。
238ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/18 23:09 ID:n7iZ1Lse
また、一切の愛著はない。「わが物と執著したもののために悲しむ。」―分け与えを教える。また、
物などがないからといって悲しむこともない。「子ある者、牛のある者は喜び」に対して、「子ある
者、牛のある者は憂う、執著する拠りどころのない者には、苦しみは存在しない」―ニルヴァーナ世界
は、執著する拠りどころもなく、安楽である。―人をして自分の喜びとするな。人は自分の思うとおり
ではない。また、「人をして、自らの利を欲してはならない。」利を欲するなら善いことばを語れ。

虚無論を抱くことなく、失望することなく、あの世もこの世も望まない。―ニルヴァーナ世界は、望む
ことはない。願い求める欲念もない。―欲念なく、今現在を自分を灯明として生きる。両極端に対する
欲望を制し、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらにも汚されない。

幸福と安楽と安穏に従って、人々は功徳を積む。人を幸福にさせること、快適や安穏な暮らしを目指す
こと。「彼らの功徳は昼夜に増大する。」
「人のいない地域に清涼な水があっても、それを飲まぬならば、涸れて消えうせるように、愚劣な人が
富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自
ら用い、またなすべきことをなす。牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難さ
れることなく、天の場所におもむく。」と。
239215:04/08/18 23:40 ID:lVDI2WXu
>>222
>輪廻や死後の世界は原始仏典でも全く否定されてないですよね。

輪廻は仏教の根幹にも関わる重要事項ということですし確認もできますので、否定もされないし
無記の対象でもありません。
輪廻についての理解に問題があるようですので、下記を参照してみてください。

ttp://www.ne.jp/asahi/ningenzen/gakunan/zuihitu/z3-rokudourinne.htm

なお、死後の世界は経験から容易に確認できないので無記の対象であることがわかります。


>死後の世界も無く輪廻も無ければ仏教も必要ないくらいなもので。
そんなことはありません。人は今を生きなければなりません。
私もけちゃっぷさんもそのことを言っているのです。

>死んだらそれっきりですねという意見は「断見」といって明確に
>否定されていると思います。
明確な否定ではありません。無記です。
一方、あなたのような死後の世界肯定派も常見ですので、無記ということになります。

240名無しさん@3周年:04/08/19 00:12 ID:piAdUiBB
>輪廻や死後の世界は原始仏典でも全く否定されてないですよね。

仏教は苦を滅する教えなので
死後の楽については興味がないのだと思います。
241名無しさん@3周年:04/08/19 01:15 ID:5Qc1fJWE
>>239
ttp://www.ne.jp/asahi/ningenzen/gakunan/zuihitu/z3-rokudourinne.htm
もし、この心の状態を現世に限定して説いているなら上のような説がまさに方便です。

>>死後の世界肯定派も常見

こうゆう常見の用例って経典・論書に根拠あります?
普通、死後の世界がないというのが断見で最悪の見解。
なにか恒常なものが世界の根本原因であるというのが常見。
恒常なアートマンが輪廻するというなら、確かに常見ですが、
仏教は恒常な主体が輪廻するとは言わないでしょう。

しかも十四無記も別に輪廻に対するものではないでしょう。

>>240
そんなことはないですよ。さかんに昇天について説きます。
天の楽についても説きます。が、それらの楽も本質的には苦であると説きます。
だから、まっとうな行者は天界の楽なんか求めるなと。
242名無しさん@3周年:04/08/19 01:27 ID:Y+uJZgFV
>>241
>もし、この心の状態を現世に限定して説いているなら上のような説がまさに方便です。

なんで?
243名無しさん@3周年:04/08/19 02:01 ID:PnCVqH0g
>さかんに昇天について説きます。

どちらの仏教が昇天を説いているのですか?
244名無しさん@3周年:04/08/19 08:18 ID:5Qc1fJWE
>>242 >>241 のその主張以下が理由なんですけど。原典の引用が必要ですか?

>>243 たいてい何にでも説かれますけど。いったに何を読んでるんですか?
スッタニパータ、マハーヴァッガ等のパーリ語仏典。
ラリタヴィスタラ、華厳経、正法念処経等サンスクリット仏典。
龍樹菩薩、馬鳴菩薩、アーリャデーヴァ菩薩、寂天菩薩等のインド論書。
新華厳経論等のシナ論書。
十住心論、往生要集等の日本論書。

その一部を簡単に漢訳で次に示します。
245名無しさん@3周年:04/08/19 08:45 ID:5Qc1fJWE
白文で申し訳ないが、昇天を説いてることは分かるでしょう。

雜阿含經
T02n0099_p0279a05(00)  唯有戒徳香  流熏上昇天
T02n0099_p0335c11(00)  惡業堕地獄  爲善上昇天

佛所行讃
T04n0192_p0019a21(00)  入彼五山城  寂靜猶昇天
T04n0192_p0020a26(00)  當乗神龍背  受樂上昇天
T04n0192_p0034b25(00)  令人上昇天  報以天五樂
T04n0192_p0036c05(00)  長者乗斯福  壽盡上昇天
T04n0192_p0043a11(00)  淨戒爲梯   令人上昇天

法句經
T04n0210_p0560b23(00)  斯道明智説  如是昇天世
T04n0210_p0565a23(00)  行善上昇天  無爲得泥 
T04n0210_p0568a01(00)  所住者異  近道昇天  不近堕獄

出曜經2004/08/1409:17:15
T04n0212_p0654a13(00)  所往者異  近道昇天  不近堕獄

正法念處經
T17n0721_p0175c12(00)  不能昇天  若於天中  受五欲樂
T17n0721_p0358b16(00)  昇天之階陛  滅除地獄火

大乗掌珍論
T30n1578_p0270a29(01) 誰言他是依。智者我善調。故得昇天樂。
246名無しさん@3周年:04/08/19 08:47 ID:5Qc1fJWE
新華嚴經論
1739_,36,0942a18(00):以此昇天。但云不離菩提場普光明殿。如説十定品。
1739_,36,0948c06(08):何故名爲就俗利生成行門者。已前但云昇天。
1739_,36,0987b28(00):前從普光明殿説十信心位已。次昇天明五位昇進。

以下は、天に生まれる等の意味。言葉は少し違いますが、意味はまったく同じです。

八十華嚴
0279_,10,0268b24(03):作諸惡行苦。欲生人天當種善根。生人天中。

三論玄義
T45n1852_p0002b09(04) 小利即生人天福善。大益即有三乘賢聖。

摩訶止觀.
T46'No1911,52b,25,6, 惡則三品三途因果也。善則三品修羅人天因果。
T46'No1911,90a,21,0, 離三惡道名葉益。得人天身名花益。

十住心論
2425_,77,0315c18(00):<ver>五戒資身人天受趣
2425_,77,0316a18(00):華嚴經云。十善業道。是人天因及有頂因。
2425_,77,0319c13(08):及信當來善不善業人天果報。如是名爲具足淨信。受持淨戒。

選擇本願念佛集
2608_,83,0001b22(04):縱有人天果報皆爲五戒十善能招此報。
247:04/08/19 13:03 ID:YKDvnWzG
>>239 215さんこんにちは。「常見」というのは魂が永遠に
存続するということだったと思います。別に死後の世界を肯定しても
常見にはならないと思います。
「断見」「常見」。これに対峙する見解は、
「すべての存在は因と縁に依る」ではないですか?魂も因があれば延々と
輪廻するし、因が消滅すれば涅槃に入るのでしょう?

ちょっと無記の範囲が広くないですか?確か十無記とかいってはっきり
定義されていたはずです。

時間がないのですみません。また今晩でもちゃんとコメントを読ませて
いただきます。
248:04/08/19 13:06 ID:YKDvnWzG
>>233 けちゃっぷさんこんにちは。その往生というのが良く分からないん
ですよね。極楽という場所が実際に有るわけでもなし。西へ西へ行っても
ずっと西ですから。(地球は丸い)。

だから極楽往生というのはニルバーナのことだと理解しているのですが。
249名無しさん@3周年:04/08/19 13:24 ID:MFibugQ5
例えば、死後に「永遠の命」を得るというヤソ教や、
死後浄土に安住するという浄土系の教義は「常見」と見られるかもしれませんが
そもそも仏教は輪廻から出ることが目的ですから
過去にあった輪廻の因縁をなるべく持ち越さないようにすること
そのために把われを少なくするんだという
理由があるから、浄土のみを目指すことは仏教の一つの方策として
組み込み済みなのかもしれません。
ですが人間としての輪廻を終えてもなお、それで終わりではなく、
もう一段先の修行段階へ進むだけであると言う宗教もあります。
これは常見にならないので、おすすめです。

250けちゃっぷ:04/08/19 17:28 ID:BDmM2Rqu
極楽は極楽で、他の意味付けは必要ないと思います。苦の原因を滅するのが仏教だと思います。例えば失恋した時、念仏して、「失恋は辛かったけど、それでも極楽往生できる」と安心できればいいのでは?
251けちゃっぷ:04/08/19 17:31 ID:BDmM2Rqu
家族に先立たれた時、「きっとまた極楽で会えるね」と安心できれば、死別の苦を軽減できます。極楽が悟りなのかどうかなんて、死別の苦には直接関係ない問題だと思います。
252名無しさん@3周年:04/08/19 18:10 ID:dft3W4Ix
なぜ悟り(涅槃)が修行の目的と言われるかというと、それが単なる苦の軽減ではなく、
根本的な苦の消滅だからではないでしょうか。苦の軽減なら、単純で効果的な癒しの
方法がたくさん知られています。もちろん念仏もそのような癒しの一つではあるのでしょう。

しかし例えば失恋した時、念仏して、「失恋は辛かったけど、それでも極楽往生できる」と
安心できればいいのですが、「極楽など有りはしない」と権威ある人や信用する人に言われ
ると途端に落ち込んでしまいます。家族に先立たれた時、「きっとまた極楽で会えるね」と
安心できれば、死別の苦を軽減できますが、「極楽など経典に書いてあるだけの空想」
と誰かに指摘されると、そうかもしれないと苦しみます。
そこで何とかますます信心に励みますが、それは疑惑(苦の一つ)を心の底に抱いたまま
なので信心家になったとしても苦しみは解決されていません。
253けちゃっぷ:04/08/19 18:15 ID:BDmM2Rqu
シャバ世界は苦の渦巻く世界ですので、苦しくてあたりまえです。でも、必ず極楽というハッピーエンドがあると知れば安心。恐いジェットコースターも、終わりがあるとわかってるからスリルを楽しめる。
254名無しさん@3周年:04/08/19 18:28 ID:Np9C+5rc
お坊さんって死人に群がる
ハイエナみたいな職業だね
255名無しさん@3周年:04/08/19 18:48 ID:dft3W4Ix
ハイエナやハゲタカやウジムシがいなったら、死んだ動物は腐敗したまま
何年も風化するまでずーっと放置されてしまうでしょう。
ハイエナやハゲタカやウジムシは人間の目から見たら、忌むべき醜い生き物
かもしれない。しかし大きな生命のつながりの中でで、それぞれ役割を果たし
ている。
256名無しさん@3周年:04/08/19 18:54 ID:Np9C+5rc
>>255
自然界とは違うんだら、ハイエナ、ウジムシのように
いなければ困るってことはないよ
はっきり食べていくためには何でもするって言ったらどうなの?
257名無しさん@3周年:04/08/19 19:40 ID:dft3W4Ix
この世にいなければいい人など、誰もいませんよ。
あなたも誰かから、いなければいいのに、と思われているかもしれません。
しかしあなたはあなたなりに理由があって、生まれ、生きているのです。
理由なし何か起こることなどありえません。これもブッダの悟り「縁起」です。
2581:04/08/19 20:22 ID:5LYVxPzD
>>250 >>251 それって現世限定の考え方ですよね。
私の場合は来世がとても重要なのです。
仏教に入ったのは来世への恐怖感からですから。
だからリアル・来世ですね、興味があるのは。

「こう考えたら、今が幸せでしょう?」というのは
メインテーマではないんです。
2591:04/08/19 20:25 ID:5LYVxPzD
>>253 本当にハッピーエンドなら良いんですが。
死んでしまって、もし阿弥陀様が迎えにこられなかったらどうなりますか?
無間地獄をさまようわけですか?
260ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/19 20:25 ID:C5nK/VP+
なぜこれほどの多くの経典が存在するのだろうか?真理はひとつであって、第二のものは存在しないのに。
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
『わたしが語る』と言ってもよいでしょう。」
「理解せざるものは、理法ならざるものであるとよく気をつけて、ことばを語れ。」

在俗信者に説明する場合、正しく説明できるもの、問われて答えられるもの、疑念を抱かせないもので、
迷わせないものが求められ、道理を正しく伝えられるもの、真に力量のある人は、世間における名称を知
って、言語表現だけのものとして、(仮に)そのような表現をしてもよいのである。

「見聞することに汚されない」とあるように、実際は瞑想をして(かれは思慮深く瞑想に専念し、林のほ
とりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである)悟りの境地が得られるだろうけ
れども、言語表現だけのものとして、在俗信者に伝える場合は、問われて「このようであるから」と道理
を正しく伝えることが求められた。ブッダによって明らかにされた真理への道は、真人となった修行僧ら
のそれぞれの言語表現だけのものとして、後の人々に伝えられるように、様々な経典となったのだろう。

真理はひとつだが、様々な人々をそれに導く教えは「これだ」というものがないに決まっている。一様に
「出家者のようにせよ」では、様々な人に伝わらない。在家も正しい生き方ができるように、大乗仏教経
典などがつくられたのだろう。
2611:04/08/19 20:29 ID:5LYVxPzD
>>254 お坊様って、お話してみると意外と優しいですよ。
人の死を多く見ているからかしら。お布施を払い過ぎないように
気をつけて付き合えば良いんですよ。大体世間体考えるから
お布施が高くなる。精進して生きているお坊様に
多くを支払う必要はありません。少なければ少ないほど精進の元ですから。
2621:04/08/19 20:33 ID:5LYVxPzD
>>260 原始仏典にもちゃんと在家の修行法(正しい生き方)が書かれていますよ。
在家のままでも涅槃の世界に進むことは可能だと書かれていますけど。

もっとも良く引用される例は、仏陀に乳粥を差し上げたスジャータですよね。
彼女は在家のまま仏陀にお仕えして、涅槃の世界に至ったのです。

(一応「涅槃」と「涅槃の世界」は定義を分けて書いています。)
263ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/19 21:04 ID:hHtC52q4
・・・施与を受けるにふさわしい人・・・バラモンが功徳を求めて祀りを行うならば

1.実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。
2.一切の結び・戒めを断ち、みずから慎み、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々。
3.貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを滅ぼしつくし、清らかな行いを修めている人。
4.偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望を持たぬ人々。
5.実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人。
    など、そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。―バラモンが功徳を求めて
    祀りを行うならば。(原始仏教 スッタ二パータ)

しかし、「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、他人が与えようとするものを妨
げる人々」これらのことに対しては、ブッダは戒めている。つまり、自分達と同じように飲み、
食い、物を持ち生活している僧侶に対しては、布施をして功徳があると思わず、気前よく人に分
け与えることが善いこととして、布施をすればよい。 

>>254
 
264ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/19 21:16 ID:hHtC52q4
>>262
「正しい法に従って財を似て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように
怠ることなく暮らしている在家者は、死後に(みずから光を放つ)という名の神々のもとに
赴く。」  
265けちゃっぷ:04/08/19 21:33 ID:BDmM2Rqu
>259 過去は過ぎ去りもう無いのだから、念仏すれば過去の罪が滅すると説きます。未来は未だ来たらずまだ無いので、不安に思っても仕方ない。だからハッピーエンドを信じる。「もしも」は不安のもとでは?
266けちゃっぷ:04/08/19 21:36 ID:BDmM2Rqu
親鸞さんは、どうせ自分は罪深い地獄行きの身だから、たとえ師匠の法然さんにだまされて地獄に墜ちても後悔しない…みたいなことを言ってます。取り越し苦労も結局は煩悩ですしね。
267名無しさん@3周年:04/08/19 23:05 ID:CnbeoMwi
輪廻と涅槃は根本的には変わらないとな
268名無しさん@3周年:04/08/20 00:19 ID:Yza+/QaC
>>248 往生は浄土へ生まれ変わることでしょう。涅槃とは違いますよん。
この現世が濁世で条件が悪いから、条件のいい浄土であらためて涅槃しよう、という。

>>250 >>251 しかし酷すぎるなあ。仏教以前の問題、世俗的経験もない。
それに失恋した人に来世は極楽だからとかいって、安心できるか! 殴られるぞ。

>>265 >>266 そうゆう意識で葬式もやってるんですか?
そしたら葬式の念仏や供養にはまったく意味なくならない?

お願いだから、もうその、けちゃぷ教を語るのやめてください。
もしかして信じちゃう人が出てくるかもしれないよ〜。
269名無しさん@3周年:04/08/20 00:31 ID:DGoovG5i
>>244
夏厨さんですか?
この板では転生論争がずいぶんと盛んだった時期があります。
もう充分吟味しつくされて鎮火してしまいましたが、ご興味が
おありでしたら原始仏教スレの過去ログでも検索するなり、そこ
からのリンク先を参照するなりしてみてください。
2701:04/08/20 09:18 ID:EngJLaaL
>>263
正確には供養と布施を分けたほうがいいかもしれませんね。
現代では布施と言っちゃうわけですけど。
道を求める人に捧げるのは供養。
生活に困った人に施すのが布施。なのではないですか。
2711:04/08/20 09:22 ID:EngJLaaL
>>268 浄土といい往生といい、本来仏陀の教えにはない概念ですからね。
本来の仏陀の教えのどの部分を敷衍したのかなと考えたわけです。
浄土とは仏陀の教えでは何に当たるのか。たぶん涅槃の世界=涅槃の周辺
=六道の地獄・餓鬼・畜生界から離れていく世界のことだと思うのですが。
2721:04/08/20 09:24 ID:EngJLaaL
>>264 そうそう、在家の正しい生活者はまず天に昇るんですよね。
一度(ひとたび)、三度(みたび)、七旅と天に上って、いずれは
六道を離れて(天も六道輪廻のうちですから)涅槃に至るんですよね。
2731:04/08/20 09:29 ID:EngJLaaL
>>265 けっちゃっぷさん、こんにちは。

「念仏すれば過去の罪が滅すると説きます」

この根拠が浄土教関係の経典なんですよね(そちら方面不案内なのですが)。
仏陀の教えでは、善業を積まないと過去の悪業は消えないんですよね。
念仏では消えない。
浄土教関係の経典の記載をそのまま信じてよいものかどうか。
法然上人・親鸞聖人の時代は、それらの経典は仏陀の金口であると誰一
人疑わなかったわけですが。現代人は誰もが、それは
歴史上生まれてきた経典だと知っているわけです。
2741:04/08/20 09:40 ID:EngJLaaL
>>267 宇宙船に例えると、輪廻の世界は六道
(天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄)の重力圏でぐるぐる回っている
スペースシャトル。涅槃はその重力圏を逃れて別の世界に。
別の世界って経験した人しか分からないみたい。人というか、人でないもの
「仏陀」になっちゃうわけですが。

ご存知だと思いますが。「ある意味同じ」と考えられたのですか?
2751:04/08/20 09:51 ID:EngJLaaL
>>268 お葬式って何のためにすると思われますか。
私にも意見はありますけど。(後で書きますね)。
2761:04/08/20 10:04 ID:EngJLaaL
>>269 その(輪廻)転生議論はどうなったんですか?
大体が議論すべきことじゃないと思うのですが。
なぜなら、人間には輪廻や転生を見通す力はありませんから、
仏陀の説を信じるか信じないか、その選択しかないと思うん
ですよ。
277名無しさん@3周年:04/08/20 15:01 ID:R6O/XOOn
「舎利弗.不可以少善根.福徳因縁.得生彼国. 舎利弗.若有善男子.善女人.
聞説阿弥陀佛.執持名号.若一日.若二日.若三日.若四日.若五日.若六日.
若七日.一心不乱.其人臨命終時.阿弥陀佛.与諸聖衆.現在其前.是人終時.
心不転倒.即得往生.阿弥陀佛.極楽国土」(「阿弥陀経」)

「シャーリプトラよ、ちょっとばかりの善業では極楽へは行けない。シャーリプトラよ、
もし良家の男子、女子があって、阿弥陀佛のことを聞いて、阿弥陀佛の名前を保ち
1日ないし7日の間、心を乱さず念じ続けることができれば、その人は命終わるとき
阿弥陀佛が聖者方とともにその人の前に現れるだろう。その人は心を乱すことなく
すぐに阿弥陀佛の極楽世界へ行き生まれ変わることができる」
278けちゃっぷ:04/08/20 17:24 ID:f3hDbgPh
>273 罪業を断ち切る剣といわれる善業に懺悔(さんげ)があります。常に念仏する者は、常に懺悔する人だといいます。他力にすがる信仰は、自分の罪深さを懺悔する気持ちがあるからこそ成り立つからです。
279けちゃっぷ:04/08/20 17:44 ID:f3hDbgPh
サンタが実在しようとしまいと、サンタを信じている子供は幸せではないですか?正しいから信じるんじゃなく、信じたほうが幸せだから信じるのです。カルマに怯えて暮らすより、極楽を信じたほうが幸せでは?
280けちゃっぷ:04/08/20 17:48 ID:f3hDbgPh
大乗仏典はゴータマ・ブッダの直説ではないですが、お経の登場人物「お釈迦さま」の説く教えに、人を幸せにする力があることは確かだと思います。方便として、価値があると思います。
281名無しさん@3周年:04/08/20 17:49 ID:fvcX6KCy
子供騙念仏 是 最尊最上深深不可思議 阿呆貝那。
282けちゃっぷ:04/08/20 18:17 ID:f3hDbgPh
売春でしか生きていけない女が罪業に恐怖してて、法然上人に相談に来た。上人は、まず、生活に困っても道を求める覚悟があるなら今の仕事はやめなさいと説き、その上で、念仏の救いがあることも説きます。
283けちゃっぷ:04/08/20 18:19 ID:f3hDbgPh
もしも売春でしか生きられない遊女に、その仕事をやめなければ救われないとしか説かなかったら、死ぬ気で出家する以外に道はないという、恐怖を植え付けることになります。大前提の安心をまず与えるのです。
284名無しさん@3周年:04/08/20 19:15 ID:pksjv/YK
蓮如なら、先ず一発やってから考えるな。
285:04/08/20 19:38 ID:EngJLaaL
>>278 けちゃっぷさん今晩は。
懺悔って大事ですよね。私も最近少し懺悔ができるようになってきた
かも知れません。日々懺悔して積徳を行って、仏陀のご紹介の阿弥陀
様を念ずるなら、それはそれで仏陀の教えに近いのでは有りませんか。

絶対他力、悪人正機と言いながらも、やはりやや自力めいてくるのが
根本に仏陀の教えがあるからでしょうね。現代人はじっとしていても
いろんな知識が入ってきますもんね。

私も念仏ではないけど、やはり仏様にすごく頼ってますから、絶対他力
と言ってもいいくらいですよ。「それじゃあだめだ」と言われるか「それ
で良いんだよ」と言われるかの違いはありますが。
286:04/08/20 19:43 ID:EngJLaaL
>>279 サンタさんは実在しないけど、プレゼントはちゃんと届きますよね。
プレゼントが届けば、信じ甲斐もあると思うけど。
阿弥陀様は実在しないのか、未来仏として実在するのか。
私は(何らかの)実態はあると思うんですよ。だから毎日
「オンアミリタ・・・・・」とお唱えしているわけで。
ただ弥陀の誓願(18願でしたっけ)に関してはあまり検証したことは
ないんです。

どなたか学問を積んでいる方が、弥陀の実在性について語ってくれると
嬉しいのですが。
287:04/08/20 20:00 ID:EngJLaaL
>>283 遊女。売春は五戒に触れるんですかねえ。
お釈迦様の話でも遊女は良く出てきますよね。
「殺すな、盗むな、酒を飲むな、嘘をつくな、姦淫することなかれ」だった?
職業上のセクスは姦淫ではなさそうだけど、相手の姦淫を助長してい
るかも。それにこういう商売は酒なしでは不可能ですよね。

それよりも「殺すなかれ、盗むなかれ」が厳しかったでしょうね。
殺すか殺されるかの時代だったと思うし。
288:04/08/20 20:05 ID:EngJLaaL
>>281 必ずしも子供だましとはいえないと思う。
AD100年頃にこれらの仏典は成立したんでしょう?
その頃の人に聞いてみないと分からないよね。
きっと何らかの実態があったはずで、ただのいい加減な作り話
ではないと思うのですが。
一応大乗仏典は後世の人が仏陀の啓示を受けて作ったとされて
いるんですよね?
289名無しさん@3周年:04/08/20 22:18 ID:dAuRiJfX
大乗は啓示宗教だったのですか?
神の啓示か仏の啓示かの違いのみ?
290名無しさん@3周年:04/08/20 23:50 ID:xi6ROJLK
>>276
>仏陀の説を信じるか信じないか、その選択しかないと思うん
ですよ。

きっとあなたの見識では、転生が仏説でないとする解釈など想像もできないのでしょうね。
過去ログ読んでみると勉強になるかもしれませんよ。
291名無しさん@3周年:04/08/21 00:05 ID:tUgnTXEt
仏説かどうか判断する基準をしっかり確立しないと、
何を言ってもすれ違いになりますよ。
292名無しさん@3周年:04/08/21 02:23 ID:omXL4FBX
相手の姦淫を助長している= 魔
293名無しさん@3周年:04/08/21 07:59 ID:B1CKE22M
>>261
なんだそうなんだ
それじゃ今度葬式あったら100円でやってもらおっと
294293:04/08/21 08:01 ID:B1CKE22M
でも断られたらどうしよう
気まずいし(;;
295ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 09:25 ID:qnEAeCzS
― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ―
仏界では、安穏であること、安楽であることに喜び、地上のものに心を引かれることはない。
自分の欲求に従わず、人を幸福にすること、人を喜ばすような心をもって働くことや、その
ような心をもって人に接すること。害を加えようとしたり、人をして利益を貪ろうとしたり、
この世の利を貪ろうとしないこと。
快や享楽に耽溺せず、有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられる
のも、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うものへの貪欲を避け、多く眠る
ことや、ものうさを避けること。物質的な物への愛着を避け、吝嗇にならないこと。
怨みや敵意を抱かず、驕ることなく、慢心にならないこと。寛容である仏界に従うこと。

要するに本能的な生き方を自制すること。それらが、妄執となる。仏界は本能的行いなく安楽
である。
そして、優しい心や慈しみを保つこと。「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブ
ッダに罪過は存在しない。かれに過失(道から外れること)は存在しない。」
人を傷つけ、悲しませ、罵倒し、謗り、盗み、人をして利益を貪ろうとすることは、人に対し
て、あわれみがないからだ。
296ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 09:26 ID:qnEAeCzS
「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずか
ら満足すべきである。」
「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。
かれらは快楽を求めないからである。」

ニルヴァーナは、そのような所で楽しむのに近い境地。静けさを楽しみ、また自然の安らぎを
楽しむような境地。修行僧は、「森に住み、心静まり」静けさを目指し、妄執を滅ぼし尽くし、
この世でニルヴァーナを楽しむ。そして、潜在的形成力を滅ぼし尽くし、霊体ではなく、一切
が形成されない世界、完全な安楽な世界を目指すとされる。

そのように、この世でニルヴァーナ世界に近いものを喜ばず、快楽や欲情、五感の喜びや意の
対象、利益を貪り、この世の物質的な喜びを貪り求めることにより、怒りにより、慢心により、
妄執が起こり「妄執が人を生まれさせる。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩か
ら解脱しないのである。」となる。
2971:04/08/21 09:27 ID:fsdrQOtq
>>289 仏教の源流は仏陀だと思うんですよね。
それがどんどん支流になって観世音池とか弥陀の泉などが
派生しているわけで。だからどの仏様もみんな「仏陀の源流」に
通じるところがあると思っています。
でも「観音池」で楽しく遊んでいる人も、きっとこれは仏陀の
源流につながっているに違いないと考えて、いつも勉強を怠って
はいけないと思うんですよ。

仏陀から啓示を受けて仏説?の経典を書いたというのは大乗仏典の
建前なんじゃないのですか?だから「仏説〜」と書いていますよね。
建前が正しいかどうか、ちょっと私には判断できないんだけど。
信じたい気持ちはあります。
298ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 09:27 ID:qnEAeCzS
ニルヴァーナ世界は、快楽や欲情、五感の対象、意の対象、この世のものに対する愛着は一切
なく、安らぎであり喜びに満ちている。貪欲な思いがニルヴァーナを拒絶する。それらは、法
則であり、欲望の対象がないから、欲念のある者は妄執に従うのである。

生も死もない境地、恐れなく、こだわりのない境地。そして、この上なき最上の喜びの境地ニル
ヴァーナを知りながら、欲念があり妄執に従った。原始仏典は、それを正しく示す。そのことが
ないなら、スッタ二パータなどの仏典は良い仏典とは思わなかっただろう。第一仏教を知ろうと
さえ思わなかったはずだ。
299ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 09:28 ID:qnEAeCzS
「かれらが老齢となり、眉にしわがより、頭が白くなったのを見て〜そののち、『さとり』の境
地を説こう。『すべての存在は水の泡か陽炎のごとし。速やかに一切の存在に対し嫌悪を抱け。』」
法華経
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐら
すことはないならば、未来に対しても特に思いわずらうことがない。」「怒らず、この世の現象に
、出来事に動揺せず、誇らず、自責の念にかられるような悪い行いをしない。未来を願い求めるこ
となく、過去を思い出して憂わない。現在感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れ、貪欲か
ら遠ざかり、偽ることなく、物惜しみせず、傲慢にならない。快いものに耽溺せず、高慢でなく、
柔和で、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。美味に耽溺することもない。『世間において、
他人を自分と等しいとも、自分が勝っているとも、劣っているとも思わない。』
『生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。』―命の存えを(神仏)に願うこ
ともなく、また生存の断滅という悪い心を起こさない。依りかかることのない人は、理法を知って
こだわることがない。
子も、家畜も、田畑も、地所も、すでに得たもの、捨て去ったもの、わがものという所有がない。
無所有を嘆くことなく、欲望に促されて、諸々の事物に赴くこともない。」
自己が自分のものではない。この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性
のものであると、悟ったならば、悪魔の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
『すべての存在は水の泡か陽炎のごとし。一切は虚妄である。』見聞されることに汚されることも
ない。
3001:04/08/21 09:43 ID:fsdrQOtq
>>290
「転生が仏説でないとする解釈など想像もできないのでしょうね」

そうですね。初期の仏典では「輪廻、転生、天上、地上」のオンパレード
ですからね。そのあたりを「古代人の迷妄」であるとして削除してしまう
と、仏典が(お肉がなくて)骨ばかりの魚料理になっちゃいますよね。
ただ初期仏典でも「仏の何十何相」というような、これはいくらなんでも
と言う部分もありますけどね。南方仏教などで典拠としている仏典なんか
にそれが多いですよね。

輪廻関係は仏教の根幹だと思います。仏教の基礎は仏陀が瞑想を通して
見たと言う、何世何十世何百世の生まれ変わりを信じるか否かにある
ような気がします。
そこまでは信じられないけど、もっと探求したいと思う方は、仏陀の瞑
想法で三明六通を得れば見られるはずなんですよね。
3011:04/08/21 09:51 ID:fsdrQOtq
>>293 うちでも戒名料はすごく安くしました。
でも、摩擦はすごいですよ。志納(おこころざし)ですから
本来いくらでもいいはずなんですけど。
安いと言っても、実は○○祭典のガイドライン程度ですが。
でも親戚が思ってた額の20分の1くらいだったみたいで、
親戚中から非難を浴びました。
3021:04/08/21 10:07 ID:fsdrQOtq
>>299 ニルバーナさん、引用される文献が大体出家の修行者向きですよね。
在家向きもお願いしま〜す!私、まだまだ煩悩に染まった在家者なもので。

ニルバーナさんは、かなり修行が進んでいるみたいですね。
ネットのことなので、本当にニルバーナを見た人なのか、見ようとしてい
る人なのか、そのつもりだけの人なのか、という疑問はありますけどね。
もしお暇ならまたディスカッションもお願いします。
3031:04/08/21 10:16 ID:fsdrQOtq
>>300 自己レスです
「仏陀の瞑想法で三明六通を得れば見られるはずなんですよね」

そこまで行くと、もうその人は「ブッダ=覚者」ですから。ブッダの
説を確認するには仏陀になるしかないと言うことになりますよね。
だからブッダは我を捨てよ(自己の見解を捨てよ)と教えたのかも。
304 ◆tsQRBnY96M :04/08/21 10:36 ID:XPviT/He
> 建前が正しいかどうか、ちょっと私には判断できないんだけど。
> 信じたい気持ちはあります。
信じてはいけない、と釈尊はのたまう。
305名無しさん@3周年:04/08/21 10:43 ID:2vW/uq66
1さんはちょっと釈尊を超人化しすぎ。
上座部みたいな考え方ですね。
306名無しさん@3周年:04/08/21 10:44 ID:HFmWqGAB
>>305
釈尊を超人と見なしてたのは、むしろ大乗経典を編纂した人達じゃね?
3071:04/08/21 10:52 ID:fsdrQOtq
>>304 大乗仏典ができた頃ってどんな風だったんですかねえ。
インド人てどんどんどんどん経典を作っちゃうんだよね。

ブッダ初期経典+インドの神々=大乗仏典と言う図式で良いんですか?
308名無しさん@3周年:04/08/21 11:19 ID:xrRGH325
まぁ簡単に言えば、出家しないと悟れないor釈迦に教えを実践して何度も生まれ変わりながら、いつか出家して悟りに至るのが小乗。

出家しなくても悟れるが大乗。

ってか、小乗大乗をはっきり区別しないほうがいいよな。
3091:04/08/21 11:37 ID:fsdrQOtq
>>305 >>306 さん、部派仏教と大乗仏教の接点として、
仏陀の入滅前後を伝える仏典、大パリニッバーナ経(パーリー仏典)
大般涅槃経(大乗仏典)があると思うんですが。

どちらもブッダは超人として扱ってますよ。遺骨を皆で競って貰い、
辻辻に仏塔を建てて礼拝するのですから。入滅の頃ですから、みんな
ブッダと同世代の人ですよね。遺骨を礼拝供養するだけで功徳がある
と言うのですから。
3101:04/08/21 12:17 ID:fsdrQOtq
>>308 大乗仏教でも、例えば法華経なんかは今生で悟れるとは
書いてないと思う。。法華経を受持すれば、来世において、
ありがたいお話を聴聞して云々とか。阿弥陀経も来世成仏
じゃないのですか?

大乗でも小乗?(今は小乗とは言わないんだよね?)でも、在家
者は一度か二度かあるいは何度も生まれ変わって後に、ニルバーナ
を得るんだと思う。



「小乗大乗をはっきり区別しないほうがいいよな」

これは難しいテーマですね。
初期仏典にはブッダが実践していた、神々への祈りとか密教的なものが
(あたりまえすぎて)記載されてなかっただけだと言う意見もあるけど。
区別はしなくてもいいかもしれないけど、学ぶ順番としては「源流から
支流へ」ではないでしょうか。複雑化した支流から学び始めると迷路に
入ってしまいそうですよ。
311ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 13:40 ID:MXXieu5A
ブッダは生きながら彼岸に到達した超人であり、輪廻から解脱することを正しく教え示す。
「他人が解脱させてくれないからである。」真実を解き明かし、人は自ら欲念を断たねば、
輪廻に陥ることを教える。
「一人が清らかな行いを修めたときに、千人の人が死を脱れた。もはや畜生として生まれ
ることもない。また他の人々も功徳を受ける、とわたしは心に思う。かれらの数を数える
ことはできない。―わたしが嘘をつくと人に言われるのを恐れて。」
「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させ
てくれないからである。―かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずん
でいるが、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する。」
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッダ
と真理の教えに対して信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているな
らば、かれらは天界に生まれて、そこで輝く。」

ブッダと真理の教えと、修行者の行っていたことに敬意を示すならば、欲望を貪り熱中し、
溺れることなく、吝嗇でなく、世間で「不正」であると知られているどんなことであろう
とも、「不正」をしないよう気をつける。在家であっても、快を貪らず、林のほとりで楽
しみ、安らぎを求めたりするだろう。但し、欲望を貪り、恐怖にかられて森や林に行って
も楽しんでも、喜びは得られない。
312ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 13:41 ID:MXXieu5A
とにかく死後に、人は行き先が決まるので、人が自分の見解によって、「ああだろう」「こ
うだろう」としても、それは空虚なものに終わるだけである。彼岸は如何なる見解を持ち合
わせず、人がそれぞれの見解によって、「ああだろう」「こうだろう」と論争をしても、そ
の人々は、論じ合いによって地獄に堕ちる。
「めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、みずから真理への熟達
者であると称して、さまざまに論ずる。―『このように知る人は真理を知っている。これを
非難する人はまだ不完全な人である』と。」
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。」
「無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。」
「或る人々が『最高の教えだ』と称するものを、他の人々は『下劣なものである』と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるか?ひとが何か或るものに依拠して、『その他のもの
はつまらぬものである』と見なすならば、それは実にこだわりである。」
313ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/21 13:42 ID:MXXieu5A
どの仏典が一番で、他は下劣であるとしないこと。その人の信仰しているものが、その人にと
っては良いもの。もし、その信仰で、成仏もしくは天に行けなかったとしたら、その人は天に
見合わなかったとしてあきらめるしかない。
彼岸には、「ああだろう」「こうだろう」として、自分の見解によって争うことはないのだが、
ブッダは「無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。」とは言っている。

「理解せざるものは、理法ならざるものであるとよく気をつけて、ことばを語れ。」
人に説明できないものを、「信じて下さい。他はよくないものです。」と誰かが言ったとすれ
ば、「他はよくない」と言われた人は、反対意見を言うであろう。
そして新たな論争の火種となるのは現実的な意見だ。「これだからこうだ」と相手に理解させ
ることもなく、私の信じていることが一番正しいと互いに意見し合うなら、その決着は死後で
しか有りえない。

人に理解させることができないものは、無理に人に勧めないことが一番だろう。既にそのよう
な理もブッダは教えているのだが。ブッダはブッダを尊敬する者にしか教えを語らなかった。
仏教から迷いが起こらないように、理法を明らかにし、信仰をしようとする者に教えている。

314名無しさん@3周年:04/08/21 13:45 ID:HFmWqGAB
>>308
>小乗大乗をはっきり区別しないほうがいいよな
まぁ難しいな。

とはいえ、経典の分類は楽だろう。
阿含教=小乗経典
それと密教経典以外=大乗経典
としておけばよい。なおかつ
小乗経典≠小乗仏教  大乗経典≠大乗仏教
これだけ区別しておけば特に問題は生じまい。
315名無しさん@3周年:04/08/21 14:25 ID:9XsC4RQZ
>>314
密教経典を大乗経典から分ける根拠はないと思うけど。
特に華厳経と密教の違いは方便の違いだけだと思うけど。
もちろん、ヘーヴァジュラ、カーラチャクラ等も含めて。

分ける理由は、日本仏教の一部宗学と古い西洋文献学の臆見だけじゃない?

インド成立の文献で密教を大乗といわない文献ってありました?

大乗小乗の区別は菩提心の有無、いいかえれば普賢行の有無だと、
伝統的に言われています。その他、メルクマールはたくさんあります。
316名無しさん@3周年:04/08/21 18:49 ID:xrRGH325
区別して、どうするの?
317名無しさん@3周年:04/08/21 19:13 ID:6lh/aDtZ
301 :1 :04/08/21 09:51 ID:fsdrQOtq
>>293 うちでも戒名料はすごく安くしました。
でも、摩擦はすごいですよ。志納(おこころざし)ですから
本来いくらでもいいはずなんですけど。
安いと言っても、実は○○祭典のガイドライン程度ですが。
でも親戚が思ってた額の20分の1くらいだったみたいで、
親戚中から非難を浴びました。


 お寺の方ですか?
3181:04/08/21 20:19 ID:7j7JA77C
>>317 じゃなくて支払いのほうです。身内が亡くなったときです。
3191:04/08/21 20:26 ID:7j7JA77C
>>315 「大乗小乗の区別は菩提心の有無、いいかえれば普賢行の有無だと」

用語が難しいですね。「普賢行」が分からないです。想像するに、真の智慧を
求める行のことですか?原初仏教でもいわゆる大乗仏教でも、菩提心には変わ
りは無いと思うのですが。

小乗という言葉を文字通り「劣った小さな乗り物」と考えると、初期仏教や、
いわゆる大乗仏教から「信仰心」を取り去ると小乗になるような気がします。

仏陀は信仰を捨てろと言ったと言われるし、あるいは「信」は菩提への道の
慈雨であるとも言ったし、信仰の解釈は難しいと思いますが。私は一応筋道
を立てて考えています。
3201:04/08/21 20:30 ID:7j7JA77C
>>311 「ブッダと真理の教えと、修行者の行っていたことに敬意を示すならば」

しいて言えば「仏・法・僧」の三宝を敬うならば。。。
3211:04/08/21 20:34 ID:7j7JA77C
>>311
「一人が清らかな行いを修めたときに、千人の人が死を脱れた。もはや畜生
として生まれることもない。」

清らかな行いを修め、餓鬼・畜生・地獄の三つの悪い世界から逃れ、やがて
涅槃に達する涅槃の世界に赴く。

一人と千人の関係がわからないですね。なぜ一人が清浄行を修めると千人が??
3221:04/08/21 20:40 ID:7j7JA77C
>>311
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、
ブッダと真理の教えに対して信仰心があり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心
をもっているならば、かれらは天界に生まれて、そこで輝く。」

仏・法・僧(三宝)への信仰と尊敬。すなわち三宝への帰依と、布施行の大切さ。
貪欲から離れることの大切さ。 →在家修行者への指導ですね。
天に生まれ、人として帰り、天⇔人をひとたび、三度、七度と繰り返してやがて
(涅槃の世界から)涅槃へといたる。というお話。
3231:04/08/21 20:41 ID:7j7JA77C
>>311 森や林に行くのは、出家信者のみかも。
3241:04/08/21 20:44 ID:7j7JA77C
>>312 すべての教えを捨てよ。すべての論争を捨てよ。

ただし仏陀の教えは除く。仏陀の教えの確認のための法談は大いにやり給え。

↑↑↑ 天上天下唯我独尊。これが仏陀の教えの真骨頂。
3251:04/08/21 20:51 ID:7j7JA77C
>>313 真の仏説を求めることはとても大事。
仏教と名のつくものを一切合財仏説だとして議論しないのでは、
仏陀もお嘆きになるでしょう。「私はそんなこと教えてないよ!」と。
真の仏陀の教えに近づくべく日夜努力すべき。

仏陀のことなどすっかりどこかに忘れてしまっている仏教??宗派も
有るんだから。
3261:04/08/21 20:59 ID:7j7JA77C
>>313 仏典を読むとき、出家者への指導なのか在家者への指導なのか、
決して読み間違えないようにしないとだめですよね、、お互い。
有名な人でも、原始仏典の出家者への指導を読んで「私にはとても無理だ」
なんて書いてますもんね。そんなの無理に決まってますよ。
それと、書かれているコメントのうちの、どこが仏典の引用で、どの部分が
あなたのご見解なのかが分かりにくいですよね。混ぜて書かれているから。

仏典の引用はおおむね正しいし。ご見解は所々おかしい部分もあると思うので
すが。皆さんは仏典部分と見解部分を分けて読まれているのでしょうか?
3271:04/08/21 21:15 ID:7j7JA77C
>>321 自己コメントです。
「一人が清浄行を行うと、千人が救われる」って、、まあ有りうるかなと。
一人が出家修行僧になると、7代の先祖が救われると仏典に有るから。
328名無しさん@3周年:04/08/21 22:04 ID:cQsveOHa
結局どの宗教も、迷い無き善人に、迷いと罪を植え付けお金と引き換えに救済ちらつかせるのね…
酷い話だ…
329名無しさん@3周年:04/08/21 22:45 ID:g45a1dVb
戒律もナシクズシ、修行もしない
日本の仏教って???
330名無しさん@3周年:04/08/21 23:18 ID:L1k/T0iJ
原始仏教の釈迦は、お金を取らなかったでしょ?
貪欲はダメだとか、怠けず働けとか、善い想いでいろとか、
そういう説教が本当の釈迦の教えだとすると、
たとえば、観音様を信じれば救われます、とする御利益宗教
が成り立たなくなる。
それだから、大乗仏教は初めの釈迦の教えを、小乗として、
毛嫌いしているわけだ。商売が成り立たなくなるから。>>328


331名無しさん@3周年:04/08/21 23:48 ID:9XsC4RQZ
大乗仏教を現在の日本仏教と一緒にしないでください。
また、鎌倉新仏教はインド的大乗仏教とは違っているので、それも一緒にしないでください。
332名無しさん@3周年:04/08/21 23:52 ID:cQsveOHa
>>330
ともかく、社会制度としての宗教は百害有って一利無しって事ですな。

>>331
言葉とやり方は違うが同じもんだわ。
333名無しさん@3周年:04/08/21 23:54 ID:9XsC4RQZ
>>319 普賢行はすべての衆生が涅槃するまで菩薩として輪廻のなかで、
利他を行じることです。これを菩提心といい、だから大乗は難行なのです。
別に禅定とか観想、戒律とかが難行なのではありません。
普賢行を捨てて念仏だけを選択したことを、菩提心を捨てたと明恵上人は、
法然上人を批判したんだと思います。
334名無しさん@3周年:04/08/21 23:55 ID:cQsveOHa
てか、今の日本ではどの宗教も税金払って無い分。
より一層邪悪だな。

335名無しさん@3周年:04/08/21 23:57 ID:cQsveOHa
>>333
利他が難行って、とりあえず税金払えや。
やる気無いくせにプププ
336名無しさん@3周年:04/08/22 00:07 ID:5No9+nN0
日本の大乗仏教=商売仏教

檀家は、普通の生活でいいから信仰すれば、寺にお金を払えば成仏できると教える。

坊主は、豊かな生活をし、檀家のお金で息子を大学に入れる。

現世では、坊主が楽をする報いを受け、檀家はあくせく働き、御利益を期待する。

そして、来世では、坊主が地獄、餓鬼界に生まれ、檀家は畜生か、修羅界か、人間界
に再び生まれる。

戒律もなく、修行もなく、ただ信仰をして自由に普通に生きる。これでは意味がないよ
なあ。修行者はなぜ修行をしていたんだろう?とさえ思わなくさせてる商売仏教の話で
した。
337名無しさん@3周年:04/08/22 00:08 ID:TomvxVMu
>貪欲はダメだとか、怠けず働けとか、善い想いでいろとか
お釈迦さまの御教えはこれで代表されるようなチャチなものではないと思います
これではまるで自分のことは棚に上げて従業員に説教をたれるワンマン企業の社長です
338名無しさん@3周年:04/08/22 00:09 ID:jEh9A3f8
>>336
おいらは商売仏教を否定はしないぞ。
ハリウッド映画見て幸せな気持になる奴もいるんだし。

ただ、税金払えや。
339名無しさん@3周年:04/08/22 00:11 ID:5No9+nN0
>>333
意味わからんこと言ってないで、金取るな。
340名無しさん@3周年:04/08/22 00:15 ID:5No9+nN0
お前な、寺の坊主が自分のことを棚にあげて、檀家信者が普通と変わりない生活
してるくせして、俺らが成仏して、信じない者は成仏しないと抜かすなボケ!
341名無しさん@3周年:04/08/22 00:16 ID:5No9+nN0
340は>>337に対するレスだ。
342名無しさん@3周年:04/08/22 00:20 ID:5No9+nN0
>>337
お前らどう違うんだよ、みんなにわかるように説明しろ。
説明できるようなものではないと言いたいのか。
それで、そこの寺に金払えと言いたいんだな。
それはただの詐欺。人から金取ろうとする詐欺師はどんな
ことでも言うからな。
343名無しさん@3周年:04/08/22 01:41 ID:ut0ApZd4
そうだな、詐欺宗教撲滅のために、宗教者は全てコテつけてきっちり説明することだな。
信じたから騙された被害者もいるかもしれんしな。死人に口なしでは、被害者が気の毒だし。
幽霊になってどこかにいるかもしれんしな。
344名無しさん@3周年:04/08/22 01:45 ID:ut0ApZd4
ところでおばけはいるんだろうか?幽霊のこと仏教はどう説明している?
345ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/22 10:15 ID:M1WWGDei
「一人が清らかな行いを修めたときに、千人の人が死を脱れた。もはや畜生として生まれる
こともない。また他の人々も功徳を受ける、と、わたしは心に思う。かれらの数を数えるこ
とは、わたしには出来ない。―わたしが嘘をつくと人に言われるのを恐れて。」

 修行僧の行いを知り、欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇な人々が、欲望を貪らない生
 き方を尊いものであるとし、畜生として生まれることはなくなる。「森に住み、心静ま
 り、清浄な行者」を人々は尊敬し、欲望を貪らない人になり、畜生に生まれない。

「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッダと
真理の教えとに対して信仰心あり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならば、
かれらは天界に生まれて、そこで輝く。」

「他人が解脱させてくれないからである。」その人が、欲望を貪る心から解脱すること。
あくまで、彼岸とその人本人との関係により、天に生まれることができるかどうかが決まる。

346ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/22 10:16 ID:M1WWGDei
「道理を語らない人々は、善い人々ではない。情欲と怒りと迷妄とを捨てて、道理を語る人
々は、善い人々なのである。」「方角に迷った者に道を示すように、〜ゴータマさまは、種
々のしかたで真理を明らかにされました。」
「理解せざるものは、理法ならざるものであるとよく気をつけて、ことばを語れ。」と弟子
たちに言われたように、道理として説明でき、真理への道を明らかにすることがブッダの教
えであり、理解できるものが理法である。

その理法に従って、彼岸とその人本人との関係ができ、その人本人の努力により、輪廻に陥ら
ないことができる。他の人が介入して、その人の教えが正確でなかったら、その、他の人が、
悪い者で、理解せざることを語り、金銭を欲したり、迷うように教えたら大変なことになるだ
ろうとして、「理解せざるものは、理法ならざるもの」とブッダは指導したのだろう。
「『諸々の従属の中に大きな危険がある』と、この禍いを知る」こと。「心のうちが平安と
なれ、外に静穏を求めてはならない。」人やその他もものに従属することは、大きな危険があ
る。

ブッダは理法を語った人には、施与を受けなかった。教える人は、教えたことの対価として、
何かをもらうことはできないと、真理を正しく明らかにするブッダは教え諭す。
347ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/22 11:35 ID:rQv6KEUB
「願い求める者には欲念がある」この理法を正しく語られたブッダ。欲念のある者は、その願い
求める欲念の故に、成仏することができず、天さえ生まれ変わることができない。

一切の所有物を捨て去り、森に住み、心静まり、諸々の欲望から遠ざかり離れる修行は誰でも行
い難い。

― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ―
仏界は、地上のものを喜ばぬが、安穏であるとこ、安楽であることに喜ぶ世界。その心に従って、
その身で、人々を幸福にすること、快適にすることは、怠け者にはできない。自分の求める心に
従って、働くことは欲望が多ければ多いほどできる。「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の
舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は、昼夜に増大する。」人は欲念を
完全に消滅することはできないが、怠けず人々を幸福にすること、快適にすること、安穏にする
こと、安楽にすることの心と行為があれば、天におもむく。「それらの人々は、法に安住し、戒
めを身に具えて、天におもむく。」と。それは、多くの人々ができる理法に適った行為。

悪魔は「あなたがヴェーダの学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多
くの功徳を積むことができる。」ブッダ「怠け者の親族よ。悪しき者よ。悪魔は善業の功徳を求
める人々にこそ語るがよい。」「宗教的行為によって導かれない。」と言われたブッダは、宗教
的行為によって、供物をささげたりなどして、それを善業だと思いなし、功徳を求めることは怠
け者であると言われている。また、それらの功徳は存在しない。

348名無しさん@3周年:04/08/22 12:16 ID:vElO0Mhl
>>346
ブッダは理法を語った人には、施与を受けなかった。これが本当なら、今の
坊主はどうなるんや?その坊主から説法なり受ける者。
ただ坊主を豊かにし、ろくな教えを聞かない信者は、ろくなところに行かない
って理法か。
理解できそうなことを理解不能にして、騙し騙される。人が理解できるように説法
することがあたりまえだわな。そんなこともわからん信者の行き先は、迷って迷って
騙されて地獄か?
349ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/22 15:50 ID:lMX11sSl
>>348 老齢となり、死ぬよりも前に、諸々の事柄から心離れ、自己が自分のものではないと心得
る。生きているうちに何も思いめぐらさない彼岸に近づくこと。思い残すことはない者となり、
この世のこと全てに心が離れていることで成仏できるとされる。

「かれらが老齢となり、眉にしわがより、頭が白くなったのを見て〜そののち、『さとり』の境
地を説こう。『すべての存在は水の泡か陽炎のごとし。速やかに一切の存在に対し嫌悪を抱け。』」
法華経
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐら
すことはないならば、未来に対しても特に思いわずらうことがない。」「怒らず、この世の現象に
、出来事に動揺せず、誇らず、自責の念にかられるような悪い行いをしない。未来を願い求めるこ
となく、過去を思い出して憂わない。現在感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れ、貪欲か
ら遠ざかり、偽ることなく、物惜しみせず、傲慢にならない。快いものに耽溺せず、高慢でなく、
柔和で、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。美味に耽溺することもない。『世間において、
他人を自分と等しいとも、自分が勝っているとも、劣っているとも思わない。』
『生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。』―命の存えを(神仏)に願うこ
ともなく、また生存の断滅という悪い心を起こさない。依りかかることのない人は、理法を知って
こだわることがない。
子も、家畜も、田畑も、地所も、すでに得たもの、捨て去ったもの、わがものという所有がない。
無所有を嘆くことなく、欲望に促されて、諸々の事物に赴くこともない。」
自己が自分のものではない。この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性
のものであると、悟ったならば、悪魔の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
『すべての存在は水の泡か陽炎のごとし。一切は虚妄である。』見聞されることに汚されることも
ない。
350ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/22 19:18 ID:oipRUxaz
>>337
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲望
が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である。」
世間の人々に対しては、貪りと怠惰を止め、理法に従い正しく働き富を得て、人に分け与え、
親族の仲間を養い、人から非難されることなく、天の場所におもむくと。

ブッダは修行により激流を渡り終え、彼岸に到達し、一切の所有物を捨て去っている。それは、
通常の人間には達成できないこと。自らも托鉢を行い、その日の糧を自分で得る。理法を説い
た者に対しては、托鉢を拒んでいる。理法を説いたことに対する代償として、糧を得ることを
しないという徹底した行者。

だから人々に対しては正しく理法を語ることができ、聞く人々が理解できるように正しく教え、
迷わないように、迷いの生存に戻らないように従う人を導く。世間の人々と同じように、家を
持ち、食し、教えているわけではない。人々は、そのブッダと修行者の行いを見て、また学ぶ。
一切の所有物を捨て去り、森の中に住み、心静まり、日に一食を取るだけの生活は、成仏する
ことには尊い道であると学ぶのである。そして、死ぬよりも前に、所有物の愛着を捨て、心静
まり、迷いの生存に戻らないように心得る。
351名無しさん@3周年:04/08/22 21:17 ID:hE/bNNoj
http://enlighten.fc2web.com/bukkyouseiten.htm

法句経(ダンマパダ)と、法華経を読むと心が洗われる。



352名無しさん@3周年:04/08/22 22:04 ID:I0O8a9ud
俺に言わせれば仏教徒はアホだね。
利巧なのはシッダッタだけ。
353けちゃっぷ:04/08/22 23:51 ID:AiwkcBet
自力他力の対比も、本来は空・不二のはずですからね。しかし、空・不二を体得できない凡夫には、他力を説く効果があると思います。
354けちゃっぷ:04/08/23 00:02 ID:CH2u8juT
末法思想(時が立てば仏教教団も乱れるだろう思想)を肯定するか否かで話が変わります。末法の世は、僧侶だけでなく一般在家信者も堕落してるんです。堕落しても、僧侶撲滅したら仏教が滅びちゃいます。
355名無しさん@3周年:04/08/23 00:09 ID:+c9j+9Zg
>>354
また無いもの有るように言う…
それは止めなさい。
356名無しさん@3周年:04/08/23 00:10 ID:+c9j+9Zg
>>354
仏教が滅びて釈迦の教えが生きるなら。
こんなに喜ばしい事ありゃせんがな。
357けちゃっぷ:04/08/23 00:16 ID:CH2u8juT
>355 日本の仏教徒(僧侶も含む)が、堕落してるのは事実じゃないでしょうか?末法思想には当然賛否あるでしょうが、そういう思想があったのは事実です。
358けちゃっぷ:04/08/23 00:23 ID:CH2u8juT
大事なねは、人を幸せにできる教えを存続させること。この世に一人でも、仏教の教えを聞いてしあわせを感じる人がいるなら、仏教撲滅を遅らせるよう努めるべきだと、一人の仏教徒として考えます。
359名無しさん@3周年:04/08/23 00:27 ID:+c9j+9Zg
>>357
はぁ。

禅のスレでもあれやけど、なんで普通の知性、勉強で分かる事も
わからんのや。

堕落してる人間にアンタ堕落してるって言うて、
「はいそうですか、えらいすんまんへん」
言うてシャキとするか?

堕落してるんやから、「堕落してへん」とか、「我こそは悟ったとか」
「世の中が堕落してる」と言うわ。

しかも、>>354は迷うてない人間まで惑わす。
俗な人間やから、それは止めて欲しいんや。

>>538
教えが無くなる事心配してるのか。
俗な人間は智恵を積み重ねるので、無くそうたってなくならへんわ。
万が一無くなったら、それはイラン教えや。
3601:04/08/23 10:10 ID:X7QHeGOD
>>328
「お金と引き換えに救済」

これがすべての宗教団体の構造でしょうね。
「お金」は組織運営に必要なわけで。「救済」が本物ならば
何の問題もないですよね。ほとんどのところが偽物だと思うけど。

本物らしく見せるために、互助会的に助け合ったりとか、政治に
関与したりとか。「救済」をブランド化する努力は結構どこもし
ているかも。
3611:04/08/23 10:14 ID:X7QHeGOD
>>330 原始仏教の釈迦は、飢饉の村に赴いて托鉢しましたけどね。
貧しい村ほど仏陀や仏陀の弟子たちに供養する必要がある。なぜなら
彼らには、供養により得られる福徳が一番必要だから、という論理
ですよね。
3621:04/08/23 10:21 ID:X7QHeGOD
>>329 そういう人たちは、僧の姿をした一般人で、
「お葬式でお経を読む人」であると理解すればいいのでは。
だから大したご供養はしなくても良いわけで「読経料」を
お渡しすればいいと思う。
死者を扱うと言う大変な仕事でもあるから、ちょっと割り
増しは必要だと思いますけど。
363名無しさん@3周年:04/08/23 10:32 ID:yBnanwta
そんな人が死者を扱ってケガレを運んでくるのだったら、
逆に有りがたくないですね。一般のケガレの少ない人に
読んでもらったほうがいいです。
3641:04/08/23 10:42 ID:X7QHeGOD
>>331 「鎌倉新仏教」

「南無阿弥陀仏」と唱えれば、全く救われる。
「南無妙法蓮華経」と唱えれば、全くもって救われる。

この2種類ですよね。これは経典のそのままの解釈なんですよね。
でもそれは仏陀の書いたものではなかった。後世に書かれた物だった。
だから真実ではないですよね。
365名無しさん@3周年:04/08/23 10:50 ID:0RHwaA4R
>仏陀の書いたものではなかった。後世に書かれた物だった。
>だから真実ではない

それは嘘ですね。
戒に反しますので訂正が必要です。
3661:04/08/23 10:56 ID:X7QHeGOD
>>365 そうなんですか。どのように訂正すればいいですか?
仏陀は「善業を積まないと悪業は消えない」と言っておられ
ると思うのですが。
367名無しさん@3周年:04/08/23 10:58 ID:0RHwaA4R
>仏陀の書いたものではなかった
>だから真実ではない

これはこじつけ。
368名無しさん@3周年:04/08/23 11:05 ID:3N9bzmp5
実際のところ仏陀(ゴータマシッダールタ)は自分の教えを
宗教だと思っていたんでしょうか?。一般的には当時の
バラモン教に対するアンチテーゼとしてのもの(宗教?)だと
いうことになっていますが。
私の個人的な印象としてはゴータマシッダールタは宗教者
というより、むしろものすごく優秀な心理カウンセラーだった
んじゃないかと思います。ということで仏教(というかゴータマ
シッダールタが本来やろうとしてたこと)は宗教ではないかと
思ってます。ゴータマの死後、弟子たちによって宗教にして
しまった(それがよかったのかどうかは別にして)のではと
思ってます。


3691:04/08/23 11:10 ID:X7QHeGOD
>>333 観音菩薩の誓願とかがそうですよね。
一切衆生が二世の願を成就するまでは云々とか。
本来如来であるべき方が菩薩としてこの世に
そのお姿を留めおかれるとかは良く聞きますよね。
3701:04/08/23 11:28 ID:X7QHeGOD
>>368
仏陀の教えはとても高度な心理学だと思うのですが。
プラスアルファで宗教的な面もあると思います。
先入観を捨てて原始仏典を読んでみると、宗教的な場面に数限りなく
遭遇しますよ。

何を宗教的というかですけど。思いつくままに。
天と地、輪廻、供養、功徳、祭祀の重要性、土地土地の神々を祀ること、、、
瞑想、、、瞑想による三明六通。過去世を見通す。死者の行く先を見る、、
etc.etc.

3711:04/08/23 11:39 ID:X7QHeGOD
>>368 現代人が仏陀の教えにであった時、
一番よくあるパターンは「お勉強する」「瞑想をする」だと
思うんですよね。頭の良い人ほどそうなると思う。

でも私は「礼拝供養」が一番大切だと思います。でも難しいん
ですよね。現代人が礼拝供養の意味を見出すのは。
372名無しさん@3周年:04/08/23 11:43 ID:+c9j+9Zg
>>371
面白い。

礼拝供養によって縁が生まれる。
その縁を相続する事が大事。

とおいらの家へくる坊さんは言うが、
この縁が嫌い嫌で断ち切りたいと迷うてます。

3731:04/08/23 11:48 ID:X7QHeGOD
>>372 何を礼拝供養するかが一番大事ですよ。
まずは仏陀釈尊。

一般にご先祖様は礼拝供養するものではなくて、
慰霊、回向、追善供養などだと思いますけど。
徳が高くて如来様になられたり、神=心霊の域に
達している方は別として。
3741:04/08/23 11:50 ID:X7QHeGOD
>>368 善因良果、悪因苦果というのも宗教的ですよね。
心理学的に解釈できないこともないかもしれないけど。

人知れず悪業を積む。必ず報いはある。
人知れず善業を積む。必ず良果は得られる。

これが心から信じられたら、仏道の大きな最初の一歩だと思う。
375名無しさん@3周年:04/08/23 11:51 ID:+c9j+9Zg
>>373
1さんは、西洋的宗教観を御取りになると。
そりゃあ難しいでしょうなぁ。日本には古来からの
八百万の神様が既に居てますので、選び放題ですもん。
376名無しさん@3周年:04/08/23 11:52 ID:3N9bzmp5
>>370
> 先入観を捨てて原始仏典を読んでみると、宗教的な場面に数限りなく
> 遭遇しますよ。

原始仏典と言えどもゴータマ仏陀本人が書いたものでは
なく、後世の弟子たちが書いた(まとめあげた?)ものですよね。
だから弟子たちがゴータマ仏陀が言い残したものに宗教的な
場面を盛り込んで宗教的にしたのでは?。

なにも仏教が宗教であって悪いと言う事ではないですよ。念のため。
377名無しさん@3周年:04/08/23 11:54 ID:+c9j+9Zg
>>374
経済学的にはかなりOKですな。

人に知られて悪行を積むと酬いを受けるし、
人に知られて善行を積むと食い殺される。

これが経済学の答えらしい。
3781:04/08/23 11:55 ID:X7QHeGOD
>>333
[菩提心を捨てたと明恵上人は、法然上人を批判した]

菩提って「あのくたらさんみゃくさんぼだい」(漢字分からない)
のことですよね。そういう無上の正覚は念仏のみでは得られないと
思われたのでは? 
3791:04/08/23 12:00 ID:X7QHeGOD
>>336 最近はスナックで説法したり、カラオケ喫茶で声明を唱えたり
するお坊さんもいるみたいだけど。一応、お酒は五戒の内だよね。
般若湯は、せめて隠れて舐めて欲しい。舐めるくらいなら良いと思う。
カラオケの後には信者の女性口説いたりするのかなあ?

日本のお坊さんは生臭です←自他共に認める定説。
3801:04/08/23 12:08 ID:X7QHeGOD
>>346
[教えたことの対価として、何かをもらうことはできないと、真理を正しく
明らかにするブッダは教え諭す]

それは、仏陀と仏陀の修行者たちは托鉢以外には生業を立てる行為を
してはならないと言う決まりが有るからです。
「教える人は、教えたことの対価として、何かをもらう」という行為
自体が悪いわけではないと思いますよ。
3811:04/08/23 12:12 ID:X7QHeGOD
>>347
[天さえ生まれ変わることができない]
仏陀は出家修行者には、この世とあの世を捨てよ、と言っている。
天に生まれると言うことは、あの世を捨て切れなかったことで、
それさえできないと言うことは、まだもっと下の世界に落ちると
言うこと。
3821:04/08/23 12:18 ID:X7QHeGOD
>>347
「それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく。」

これは在家修行者への指導。在家修行者はまずは、この世で安楽に暮らし、
そして天におもむく事が一番大切。
3831:04/08/23 12:21 ID:X7QHeGOD
>>347

「悪魔は.......」

以下は経典でもなんでもなく、あなたが適当に書いた言葉。
全く論旨が通ってない。この現代に「経典捏造」してどうなる?
経典捏造は古代インドにまかせましょう!
384名無しさん@3周年:04/08/23 12:22 ID:+c9j+9Zg
>>380-382
そうやって仏教各宗が派生したんだなぁ、
正当性を主張するんだなぁ。

とは思うけど、「ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs」さんが
書いてくれてることを素直に読めば、素直に読んだほうが
救われる気がする。

だって、戒律だからって始祖が戒律だからそう言ってるだけ、
なんて解釈ありえないッス。
3851:04/08/23 12:24 ID:X7QHeGOD
>>347 仏陀やその弟子は、黙して供養を受けお礼も言わないらしい。
説法はまた別の機会にやるみたいだね。
3861:04/08/23 12:35 ID:X7QHeGOD
>>384 ちょっとコメントの意味が分かりにくかった。

ニルバーナを見たさんは、沢山良いことを書いてくれているけど。
ただ問題点は、出家向きの指導と在家向きの指導がごちゃ混ぜに
なっている所があると思う。

出家と在家では指導が180度違うからね。

仏陀とその弟子への供養に関しては、在家にとっては「福田」と言
って功徳(世間福と出世間福)を貰える最大のチャンスだから捨て
るわけにはいかない。もちろん生臭坊主に供養??しても何にもな
らないよ。
387名無しさん@3周年:04/08/23 12:39 ID:+c9j+9Zg
>>386
そうか、そうか、
3881:04/08/23 12:44 ID:X7QHeGOD
>>350
[一切の所有物を捨て去り、森の中に住み、心静まり、日に一食を取るだけの
生活は][所有物の愛着を捨て][心静まり、迷いの生存に戻らない]

在家修行者は、所有物を捨てず、家族と共に家に住み、五欲を満たしなが
らも、仏陀の教える在家者の戒を守り、毎日的量の食事を取り、適切に身
を飾り、そして心静かに天に赴き、迷いの生存には二度と戻らない涅槃の
世界へと向かう。
3891:04/08/23 12:56 ID:X7QHeGOD
仏陀は供養を四種に分けて説明している。
1.道心のある人→道心のある人への供養
2.道心のない人→道心のある人への供養
3.道心のある人→道心のない人への供養
4.道心のない人→道心のない人への供養

1.は功徳は貰える。
4.は当然功徳はない。

2.3.は忘れた!!(ごめん)。
多分3.がOKだったんだと思う。

つまり仏道信仰の篤い人が、にせ坊主にだまされて供養しても
何らかの功徳はある。
逆に信仰心も無いのに形だけ、真の仏弟子に供養したところで
功徳は無い。

この二つは違っているかも。
390けちゃっぷ:04/08/23 12:57 ID:CH2u8juT
>378 念仏は直接悟らせる行ではなく、悟りへの近道である極楽への切符ですから、明恵さんは、菩提心(悟りをめざす心)の否定と思ったのでしょうね。極楽で、仏弟子として菩薩の修業をします。
3911:04/08/23 13:23 ID:X7QHeGOD
>>375 八百万の神は迷ってないんでしょうか?

392名無しさん@3周年:04/08/23 13:26 ID:E0ZquI0d
釈迦一人にこだわり過ぎて,初期の仏教を完成形だと思い込み「絶対だ」と決め込んで
こだわり続けてしまう人もいるし、
一方の大乗仏教の教団は、大乗はあくまで釈迦が説いた教えだと言い、釈迦を崇拝させ、
釈迦を神のように祭らせて有り難がっている。またそれらの教団では、現世利益のために
信仰させる所が少なくない。
押さえておくべき点を二点挙げると、仏教はニヒリズムなので、
釈迦は自分を拝ませたりするはずがない。(諸行無常) 釈迦は人間。
もう一つは、この世の事やあの世の事に一切執着しない。(諸行無常、一切皆苦)
現世利益を目指さす信仰は、仏教においては有害なので有り得ない。
また後世安楽を求めて現世を軽視することも仏教はしない。

ただ現世は過去世によって決まっており、何しても変わるものでないことを悟って、
今更じたばたすることを辞める。
しかしそこに未来を見据えて、だからこそ力むことなく
自然な状態を保ち、自分を取りまいている世の中・他人という業の表れへの干渉を
極力避け、つまり自分の業想念で因縁を再び掴んでしまうことをせず、
自分の現在の業想念の波を静めて内面の浄化に徹すること。平常心を保つ。

宗教と狂気は紙一重だと言うが、宗教は途中で狂って伝わることが当然の世界なので
本当によい指導者に教わるかどうかが決定的に信仰の質を左右すると思う。
3931:04/08/23 13:35 ID:X7QHeGOD
>>390 けちゃっぷさんこんにちは。
明恵上人のお話しは良く理解できました。

前のコメントの空・不二というのが分からなかったです。
空の観点から見れば同じという意味ですか?

阿弥陀様信仰に関しては、私はもう結論を出してしまいました。
「釈迦仏、阿弥陀仏、同時に礼拝供養しないとだ〜め!」
ちょっと結論出すのは早すぎる?
394J・K:04/08/23 13:36 ID:DgHUp4+W
出家と在家の区別を絶対真理として受け取っているのですか?
たとえブッダが出家と在家の区別を説こうが、そんなことは自明のことでもなんでもない。
それはあなた自身で自ら考えることを放棄して、ただ漫然と伝統的な
出家と在家の区別を受け容れているに過ぎません。

>仏陀とその弟子への供養に関しては、在家にとっては「福田」と言
>って功徳(世間福と出世間福)を貰える最大のチャンスだから捨て
>るわけにはいかない

このこともまったく自明でない。
たとえ経典がブッダとその弟子への飲食を捧げることを善しとしていても、
それが一体一般人にとって何になるのか?功徳という伝統用語を絶対真理として
疑わずに受け容れているので、考える必要がないのか?まったくその辺明らかでない。
「捨てるわけにはいかない」とは、誰にとってなのか?あなた自身にとってか?
わざわざ既存の宗教教団の立場に立って考えてあげてるのか?
ブッダがヴェーダ聖典の権威を疑い、漫然と受け継がれてきた祭式を捨てさせ改めたように、
私達じしん自分たちが無意識に漫然とやっていること、支持しているの一切を疑い、問い直す
必要があると、私は思います。
3951:04/08/23 13:45 ID:X7QHeGOD
>>392
「初期の仏教を完成形だと思い込み」
完成していたと思うんだけど、伝わってない部分が大きいと思う。

「釈迦を崇拝させ」
釈迦を拝ませいているところは少ないです。ご本尊が釈迦仏という
所はほとんどないのでは?釈迦を拝み釈迦を学べば、僧侶も今まで
通りの生活はできませんから。


「現世利益のために信仰させる」
現世利益も在家には重要なことです。でも菩提心(涅槃を求める心)
も忘れたらだめですよね。

「釈迦は自分を拝ませたりするはずがない」
仏陀最後の旅(岩波文庫)などを読んでみてください。
辻辻に遺骨の塔を建てて拝めと書いているから。
3961:04/08/23 13:51 ID:X7QHeGOD
>>394 衣鉢のみで何の蓄えもせず、山の中で一人で、山の中で二人で、
あるいは麓のサンガで暮らす(出家)というのはとても大きなことですよ。

そういう人たちへの教えと、自宅で必要なものを蓄えながら、妻や夫や
子供や家畜たちと暮らしている人へ(在家仏教徒)への教えは全く違い
ますから。

理屈より先に、一度そういう目で初期仏典を読んでみてください。
全く分けて書かれていますから。読めば分かります。

命を捨てて生きている人と、命を守りながら生きている人。
両者への教えが同じであるはずがないでしょう?
3971:04/08/23 13:57 ID:X7QHeGOD
>>394 既存の仏教教団の立場には立ってないですよ。
供養を受けるには、それなりの資格が要るのです。

厳しくは、仏陀の出家の戒律を受け入れ、仏陀の法を学び、衣鉢のみで
何の蓄えもせずに暮らしている人です。
まあ、現代なので、当然緩和しても良いとは思うのですが。供養が無ければ
死ぬしかない、というのが本来の出家ですよね。
3981:04/08/23 13:59 ID:X7QHeGOD
>>394 供養と功徳というのは仏教の基本理念ですから。
初期仏典をざっと読んでみてください。これを否定すると
仏教でなくなりますよ。
3991:04/08/23 14:04 ID:X7QHeGOD
>>394 祭礼についてですが。仏教国と非仏教国。
アンデスでは乙女の心臓が神に捧げられていました。
スペインでは今も闘牛という名で牛の命が神に捧げられています。
神代には日本でも人身御供があった筈。
そういう祭祀を仏教では否定しているんですよ。初期仏典をよく読んで
みてください。「仏教徒が嫌がるような祭礼」を仏陀は否定しているん
です。(結果的に仏教徒が嫌がるようになったのですが)。

先入観を捨てて、初期仏典を「文字通り」読んでみてください。
4001:04/08/23 14:06 ID:X7QHeGOD
時間がないので、392より後は明日読ませていただきます。
連続書き込みごめんなさい。
401名無しさん@3周年:04/08/23 14:21 ID:+c9j+9Zg
>>391
さぁ?
402名無しさん@3周年:04/08/23 14:26 ID:+c9j+9Zg
>>397
>供養が無ければ
>死ぬしかない、というのが本来の出家ですよね。

こーゆう言葉の省略が、宗教を胡散臭くさせてるよね。

(仏教を信じ原理原則一切の邪心をすて、)供養が無ければ
死ぬしかない、(と信じそれ以外一切を信じられない)というのが
本来の出家(するしかない)ですよね。


だろ。では信じるに足る教えなのか?って事が既に疑問になるわけで、
その為に既存宗教を否定したり、神通力があったりする訳だな。

>>398
仏教というカテゴリなら、そこを疑う事から始めましょう。
403名無しさん@3周年:04/08/23 14:57 ID:lFHiad2M
>>395

>完成していたと思うんだけど、伝わってない部分が大きいと思う。

仏教は方便で説くより仕方ないものですから、
時に応じて臨機応変に変化するのが特徴で、完成された教義など
思い描くことは間違いの元です。

>仏陀最後の旅(岩波文庫)などを読んでみてください。
>辻辻に遺骨の塔を建てて拝めと書いているから。

それまでの釈迦の話が一遍にして崩れてしまうような話の信憑性は、
いかほどのものでしょうか?

>釈迦を拝ませいているところは少ないです。ご本尊が釈迦仏という
>所はほとんどないのでは?

そうですが、人間である釈迦を第1〜第2の万能の力を持った神として
神格化し、依存心を助長させている崇拝の形には問題があると言わざるをえません。


>現世利益も在家には重要なことです。

特に仏教では現世的な利益の執着から遁れることが
一番大切な所ですから、それを忘れてしまってはもはや何の役にも
立たないと言っても過言ではありません。
世界は苦であるとの気づきに到達させることなく、ご利益成就のために拝み
ましょうと言って、苦を更に大きくさせることを進んでやっているのは
どういうことでしょうか?
仏教各宗はこういう面に限って方便の方便であることも、何が重要なのかも忘れてしまい
世間的に流されて麻痺しているとしか思えないのです。
404名無しさん@3周年:04/08/23 17:32 ID:2Rjmpn3C
g  もともとの釈迦はすばらしい人ですねえ。
   今のお坊さんはどうなっているの?
   釈迦は尊敬でき、釈迦のような人なら、教えを学んでも
   いいと思うけど、今のお坊さんで、だいなしにしてるで  
   しょ? 
405名無しさん@3周年:04/08/23 17:38 ID:2Rjmpn3C
 みんないいことがあると現代仏教を信じているけど、
 仏壇に供養物をささげてどうなるの?
 お坊さんに供養してどうなるの?
 そんなこと犬でもやるじゃない。なにかいいことないか、
 って供養をするんでしょ?
 なにか餌をくれないかって犬が餌をねだるように主人に
 仕え尾っぽをふる。
 死んだらみんな犬に生まれるんだわ。
406J・K:04/08/23 17:45 ID:DgHUp4+W
>>396
そのような出家者の生活が「とても大きなこと」だと言うあなた自身は、
出家生活を体験した上で、自分にとって大きなことだと言っているのですか?
それともただ漫然と経典の理想を自分にとっての理想と受けいれて、他人に
それを説いているのか。

どうしてあなたは自分自身の目で見、頭で考え、理解しようとする前に、
「初期仏典」を自明の真理として受け取ってしまうのですか?
たとえ初期仏典に出家と在家が分かれて書かれていたとして、それは
2500年前もの話ですね。何も考えずにそれを永遠不滅の真理と奉ずる根拠は、
何でしょうか?

命を捨てて生きている人(出家者)と、命を守りながら生きている人(在家者)、
修行に費せる時間は違えど、両者とも命を保ってこの世を生きている人間に違い
はないでしょう。あなたにはわかりませんか。身体に五感を備え、心がある人間に
対してなぜ、「同じであるはずがない」と決め付けてしまうのでしょう。
407名無しさん@3周年:04/08/23 17:49 ID:2Rjmpn3C
 なんら普通の人と変わらないお坊さんを尊敬して、犬のように
 尾を振るかわりに供養物ささげて、天国かどこかいいとこ生まれます
 ようにねだる。そう教えるのが、自分の利益をもくろむお坊さんの作戦
 みたい。
 そして、犬などの動物になって生まれ変わるんだわ。
 もうけるのはお坊さんで、天国にうまれるよう供養物をささげる信者は、
 死んでから動物に生まれる現代仏教。尊いことは、もともとの釈迦だわ。
 釈迦の教えをお坊さんはねじまげて、自分たちの食い口にしてるんだわ。
 そして、お坊さんは地獄ね。
408名無しさん@3周年:04/08/23 17:57 ID:DgHUp4+W
>>399
「初期仏典をよく読んでみてください」とうわ言のように繰り返しても、
それが真理だと私やあなた自身が見出すまでは真理ではないでしょう?

>「仏教徒が嫌がるような祭礼」を仏陀は否定している

とあなたは言われますが、ブッダが初めて彼の真理を説き始めた時、
仏教徒と言われる人々は存在しましたか?そのような人々はいませんでした。
だからブッダが「仏教徒が嫌がるような祭礼」を否定したというのは、おかしいですね。
ではなぜブッダがそのような犠牲祭を否定したのか?
ブッダ自身が体験した真理から、慈悲の心から、否定したのでしょう?
人々がこの世やあの世での享楽を求めるあまり漫然と宗教的権威を受け容れる
その愚かさから自由になるために、否定したのでしょう?

それで現在、動物犠牲こそ伴わないけれども、仏教をふくめて色んな宗教的権威が
宗教儀式を行い、本尊を礼拝し、聖職者と一般人を区別しているこの現実に対して、
まったく疑問はないのでしょうか?
409J・K:04/08/23 18:01 ID:DgHUp4+W
>>406>>408書き込みJ・Kです。
410名無しさん@3周年:04/08/23 18:02 ID:2Rjmpn3C
祭礼なんか真理に関係ないでしょ。お経を唱えよなどともお釈迦様は言って
なかった。
411名無しさん@3周年:04/08/23 18:11 ID:2Rjmpn3C
 宗教儀式と、本尊礼拝はお坊さんの金儲けのためだわ。
 その本尊のない世界の人はどうなるのよ。現代仏教の
ひ人たちって、頭悪すぎ。賢いのは、それで金儲けする 
おお坊さんだけ。しかし、生きているうちだけだわ。
死死んだら地獄行きよ。信者も本尊を礼拝して、本当の
ここと知らずに、動物になって生まれるんだわ。  
  
412けちゃっぷ:04/08/23 18:13 ID:CH2u8juT
>393 はい、自他の区別も空ですから。また、念仏実践の効果も、自力のようで他力、他力のようで自力のような面があります。
お釈迦様なくては仏教は成立ちませんからね。
413名無しさん@3周年:04/08/23 18:19 ID:2Rjmpn3C
名無しさん@3周年 :04/08/23 11:43 ID:+c9j+9Zg
>>371
面白い。

礼拝供養によって縁が生まれる。
その縁を相続する事が大事。

とおいらの家へくる坊さんは言うが、
この縁が嫌い嫌で断ち切りたいと迷うてます。


  だから、それがお坊さんの金儲けの手段なの。
  なんで、お坊さんだけ、供養だけで食っていけるの? 
  よく考えてみなさいよ。嘘にだまされて後で後悔する
  のよ。後悔したときは、もうどうにもならないのよ。

414名無しさん@3周年:04/08/23 18:24 ID:2Rjmpn3C
 けちゃっぷは何わけのわからないこと言ってるの。
 念仏を唱えてお寺に行きなさい。そうすれば天国のような
 ところに行けますよ。それはだましだって。後で後悔するよ。
 
415けちゃっぷ:04/08/23 18:29 ID:CH2u8juT
>414 僕は兼業だし、お寺で儲ける気はさらさらありません。赤字さえ出なければいいです。お寺に行かなくても、念仏すれば往生できます。幸せと思う人が幸せでしょう。幸せを信じるのがダメなのでしょうか?
416けちゃっぷ:04/08/23 18:32 ID:CH2u8juT
坊さんが全員お金儲けのために仏教をやってると思うから、「だましてる」という発言になるのでしょうけど。たとえば瀬戸内寂聴とか、作家として成功してるし、お金のために尼さんになったんじゃないでしょう?
417けちゃっぷ:04/08/23 18:37 ID:CH2u8juT
おいしい料理に出会ったら、まわりの人にもこの喜びを知らせてあげようと思います。僕は念仏で幸福感を知ったので、他人にも同じような幸せをお裾分けしたいだけです。
418名無しさん@3周年:04/08/23 19:06 ID:j2jNp5OE
>>413
このスレは大乗仏教の坊さんの営業スレだよ。
4191:04/08/23 19:15 ID:X7QHeGOD
>>410 今も昔も、祭礼のない宗教はないですよ。
崇める対象に向かって偈(げ)を唱える。そういう場面が
原初仏教の経典にも出てきますよ。
*偈=仏教の真理を詩の形で述べたもの(広辞苑)。
4201:04/08/23 19:24 ID:X7QHeGOD
>>402 もうちょっと簡単な意味です。

出家する以上は托鉢によってのみ食を得ると言う
戒を受けているわけで。供養によって食を得られなければ
物理的に死ぬしかないわけです。(物理的じゃなくて生理的かな)。
そのような状況に自ら追い込んでいるのが、本来の出家ですよね。
4211:04/08/23 19:27 ID:X7QHeGOD
>>403
[完成された教義など思い描くことは]

仏陀御自身が「教師に握拳なし」と語られていますからねえ。
つまり、隠し事の握りこぶしはない、語るべき教えはすべて伝えた
と言うことです。
4221:04/08/23 19:31 ID:X7QHeGOD
>>403
[釈迦の話が一遍にして崩れてしまうような話の信憑性]

釈迦の入滅前後の話は、原初仏典でも大乗仏典でも
とても詳しくて、またその内容が一致するので有名ですよね。
仏陀の遺骨・遺灰を各部族が競って手に入れようとしたという
話は、作り事ではないと思いますよ。
4231:04/08/23 19:37 ID:X7QHeGOD
>>403
[特に仏教では現世的な利益の執着から遁れることが一番大切な所ですから]

出家修行者は「この世とあの世を共に捨て、犀の角のごとく一人歩む」ん
ですが、
在家修行者は「この世もあの世も捨てず、この世の安楽と、あの世の安楽
を望み」在家の戒行と修行に励むのです。でもいずれは涅槃に至ることを
望むという菩提心も持っているんですよ。すなわち仏教に対して、世間福
と出世間福を求めているのです。
あなただって、わたしだって、持っているものをみんな捨てて森で暮らした
りするのは無理でしょう??

4241:04/08/23 19:42 ID:X7QHeGOD
>>404 お坊さんの姿をして、中身は実は一般人というのは
人々から憎まれるらしいんだけど、私は憎んでも仕方ないと思うから
付き合わないようにしている。

>>405
そうですよね。供養の根本には道心、菩提心がないとだめなんですよね。
反省しよう。忘れていたかもしれない。
4251:04/08/23 19:57 ID:X7QHeGOD
>>406 私には無理だと言うことで、大変なことだなあと。

私の考え方なんですが、仏陀以下の存在(普通の人)と仏陀では
物事の理解が違うんですよ。如来は私たちの分からない世界にい
るわけだから。
だから如来の語ることは、そのまま受け入れるしかないかなと思
っているわけです。
そういう意味では、如来は修行者を上品と下品にしっかり分けて
居られますから、いくら知能が高くて優秀で意志が強くてすばら
しい人でも、所有物を捨てられない人は下品(げぼん)なんだと
私は思っています。今日でも銀行で貯蓄のどのコースにしようか
と悩んでいた私はバリバリの下品ですね。
4261:04/08/23 20:12 ID:X7QHeGOD
>>407 お坊さんの定義がおかしいのでは?
お葬式にお経を読んでくれるのが僧侶ではないですよ。
それは「読経やさん」で。
戒律を保って仏教を学んでいるのがお坊様ですからね。
供養と功徳の関係は、ねだるねだらないではなく、そう
いう原理で動いていると言うことだと思います。
でも、先ほども書いたけど、菩提心を忘れての供養は
やはりだめですよね。
4271:04/08/23 20:20 ID:X7QHeGOD
>>408
[宗教儀式を行い、本尊を礼拝し、聖職者と一般人を区別しているこの現実に]

まず、本尊は何かと問いますね。経本の題名とか拝んでないでしょうね?とか。
次には、僧衣を着ていてお経を唱えていても僧侶とはみなしませんよ。
現代の仏教制度にはあまり興味は無いんですよね。どうでもいいんじゃないのと
思ってしまう。ちゃんと各自が仏陀を見据えて礼拝供養すればいいんですよ。
また、そういう人たちの中から本物の仏道者が出るかもしれないじゃないですか。

4281:04/08/23 20:26 ID:X7QHeGOD
>>417 けちゃっぷさん、
念仏をちゃんとやっているお坊さんって少ないでしょう?
お坊様業界でも異色なのでは?僧侶会の皆さんから
「お前変わっているな」とかいわれてそうですが。信仰心の
あるご住職なんて檀家も幸せですよね。。。。

私の予想では、信仰心のある僧侶は1000人に3人程度だと思う。
429J・K:04/08/23 21:19 ID:DgHUp4+W
>>425
>仏陀以下の存在(普通の人)と仏陀では
>物事の理解が違うんですよ。如来は私たちの分からない世界にい
>るわけだから。

あなたはこのように言われますが、では仏陀、如来とは誰でしょうか。
それが普通の人と物事の理解が違う、とあなたが考える理由は何でしょう。
如来は私たちの分からない世界にいる、とあなたが思う根拠は何ですか。
あなたは、自分には理解できない世界にいる人の言うことは、そのまま受け入れる
しかない、と思うのですか。
430名無しさん@3周年:04/08/23 21:20 ID:DgHUp4+W
>>427
あなたは、本尊は何かと問い、経本の題名とか拝んでないでしょうね?と問うたり、
僧衣を着ていてお経を唱えていても僧侶とはみなしませんよと、批判したり、
外に対して疑ったり、注意を払ったりすることは、ご存知のようです。
しかし自分の内側、心の動きの癖、自分の思考の由来に対しては、そうではないようです。

人は、経典など自分が信じるものを無前提に真理として崇めるのに、他の人の行為
に対しては、批判したり非難したりする。自分自身への無知ゆえに、経典を漫然と
受け入れてしまい、経典に書いてあるからこれは仏陀、如来、完全な悟った人だと
思い込み、普通の人とは物事の理解が違う、きっと分からない世界にいらっしゃる、
礼拝供養せねばetc…と先入観を持ってしまう。このような先入観を持ったまま悟りを
うんぬんすることは、自己への視点を欠いており非常に危ういことだと、私は思うのです。
431ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/23 22:07 ID:aiIQfa4K
>>383
(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ......................
「あなたがヴェーダの学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多く
   の功徳を積むことができる。苦行につとめ励んだところで、何になろうか。つとめはげむ
   道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブ
   ッダ)の側に立っていた。
(ブッダ)「怠け者の親族よ、悪しき者よ、汝は世間の善業を求めてここに来たのだが、わたく
  しにはその世間の善業を求める必要はみじんもない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ
  語るがよい。」

現代にも通じるであろうその言葉。霊的な力を求めて、供え物をささげる。世間一般の宗教行事
によって、尽くし功徳を求める行い。それは、犬が人間に餌を求めて尾を振ってねだるような感
じが私もする。犬を人間に、人間はそれ以上のものが存在しないから、霊的な見えない存在にこ
びり尽くす。そのような行為は、巨大な見えない何かに尽くし、見返りを求める行為であり、そ
れが煩悩を増す行為であると私は思う。供え物という簡単な行為で、宗教行事などで、大きい果
報を期待する。それが怠け者の親族と言われても仕方がないだろう。

それらの繰り返しで、死後畜生に生まれたりするかもしれない。どちらにせよ、霊的な見えない
大きな力の見返りを期待して、宗教行事を行わない。

432ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/23 22:07 ID:aiIQfa4K
功徳を求めて、供物をささげるならば―
「実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した全き人がいる。―そのような人々に
こそ適当な時に供物をささげよ。―バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。」
「自己をよりどころとして世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。
―そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。―バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであ
るならば。」
(ブッダ)施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成するであろう。
バラモンが功徳を求めて祀りを行うならば、無一物で、執著することなく世間を歩み、家なくして
歩み、よくみすから制して、あらゆることに関して解脱している人々に施与をするならば、貪欲を
離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こして、日夜つねに怠らず、無量の慈しみの心をあらゆ
る方向にみなぎらせる。

功徳を求めて、供物をささげるならば、無量の慈しみの心を起こして、供物をささげよ。その無量
の慈しみが起こせることで目的を達成する。

無量の慈しみが起こせるかどうかが肝心。施与を受けるにふさわしい尊い道を歩む人に施与をする
ならば、慈しみの心が起こせるとブッダは説かれる。
433ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/23 22:09 ID:aiIQfa4K
在家者は、その正しく説かれたブッダの理法に信仰心があり、気前よく人にわかち与え、もの惜し
みをしないこと。
―上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。―この世では、この状態
を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々
の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。―
― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ―
そのような気持ちを持って生きればよい。
在家者の功徳は、実際人々を幸福にするような気持ちで働くこと。「かれらの功徳は、昼夜に増大
する。それらの人々は法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく。」

「願い求める者には欲念がある。」自分の願い求める心のため神仏を信仰しても、成仏できない。
宗教行事によって、功徳がつく成仏するなどと思う人は、とんでもない間違い。怠け者の親族は、悪
魔に導かれる。

「諸々のつくられた事物は、すべて無常である。生じては滅びる性質のものである。それらは生じて
滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。」
「安らぎは虚妄ならざる真理である。非我なるものを我と思いなすことなく、個体に執著することな
く、(心のうち)内的に平安となれ。」
「『諸々の従属の中に大きな危険がある』と、この禍を知って、従属することなく、執著することな
く、よく気をつけて、遍歴すべきである。」
彼岸は、何ものにも従属することなく、依存することなく、安らぎのみある世界。在家者はブッダの
真理の教えを学び、何が彼岸にあるものか、何が彼岸にないもので、安らぎを阻害するものか学んで
近づくようにすればよい。
434名無しさん@3周年:04/08/23 23:22 ID:CeNQcY5j
解脱の境地は空にして無相
何ものかを信じることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り
世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ
一切の形成されるものは無常である
一切の形成されたのもは苦しみである
一切の事物は我ならざるものである
435名無しさん@3周年:04/08/24 04:08 ID:+0ESkiiC
>>434
つまり、仏経典や坊主疑うなってことか。
悪徳商法なんじゃないのそれ?

436名無しさん@3周年:04/08/24 08:19 ID:+0ESkiiC
>>391
仏教家の手にかかれば、神様まで迷わすと…
酷いことするなぁもう。

神様はあまり物考えないから。
437:04/08/24 10:28 ID:H9ZXS83L
>>429 J.Kさんこんにちは。
仏教と言うのは理論体系ですから「公理」のようなものが
あると思うんですよ。公理と言うのは理論体系の基礎にな
るもので証明不能のものですね。とりあえずその世界に入
って行くときはその公理から話が始まる。

仏陀はニルバーナを得た(ニルバーナを得て仏陀になったわけですが)。
ニルバーナは普通の人には理解できない世界である。
それはどのようなものであるか仏陀を見て推測しなさい。
それが良き物だという気持ちが芽生えたなら、
我を捨てて(自分の見解を捨てて)、
如来の教えを全面的に受け入れてみましょう。

これが仏教修行スタートの公理のようなものだと思うのですが。

それ以上知りたいのなら「自らニルバーナを体得せよ」。

438:04/08/24 10:49 ID:H9ZXS83L
>>430 今度は仏教の「定理」の様なものかもしれません。

「本尊は何かと問い、経本の題名とか拝んでないでしょうね?と問うたり」

仏教の礼拝の対象は「ブッダ・ダルマ・サンガ」(三宝)です。
ブッダはゴータマ・ブッダ=仏陀釈尊、ダルマは仏陀の教えたもうた法、
サンガは仏陀の教えを守っている出家・在俗の修行者たち。

経本の題名は本尊としては不適当です。

「僧衣を着ていてお経を唱えていても僧侶とはみなしません」

仏陀の戒を受けて、仏陀の戒を守り、仏陀のほうを学んでいる
方が僧侶なのです。

「自分の内側、心の動きの癖、自分の思考の由来に対しては、
そうではないようです。」

自分の内面に関しては、指摘していただくとありがたいです。


「経典など自分が信じるものを無前提に真理」

仏教に関しては、我を捨てて(自己の見解を捨てて)、自分の常識と
は合致しなくても一応受け入れてみると言うのが正しい態度だと思いますよ。
439:04/08/24 11:01 ID:H9ZXS83L
>>431
(悪魔)ナムチ
苦行につとめ励んだところで、何になろうか。
つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。

(ブッダ)
怠け者の親族よ、
わたくしにはその世間の善業を求める必要はみじんもない。
___________________________ 

つとめはげむことこそ仏道。
この世とかの世を捨てた私には、世間の善業は必要ない。


440名無しさん@3周年:04/08/24 11:15 ID:+0ESkiiC
ふむ。

数学の公理体系で今の文明が支えられてるが、
仏教の公理体系で、なにを支えてるのか?

公理だからと言うならそこを示しましょう。

441:04/08/24 11:19 ID:H9ZXS83L
>>432
無一物で、自己を制した全き人がいる。
―そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。
―バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば

あらゆることに関して解脱している人々がいる。
―そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。
―バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば

(ブッダ)
施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成するであろう。
バラモンが功徳を求めて祀りを行うならば
_____________________________________

貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こし


この部分はどちらにかかっているのでしょうね。
供養を受ける仏陀や仏弟子は当然、貪・瞋・痴からは離れているでしょうし。

「供養の功徳によって、貪・瞋・痴の三毒の苦しみから離れることができ、
無量の慈悲心が生じるよ」と言うことでしょうね。
442:04/08/24 12:01 ID:H9ZXS83L
>>433
[諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることが
ないであろう。]

輪廻を離れるであろう。

「かれらの功徳は、昼夜に増大
する。それらの人々は法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく。」

在家者の法があり戒がある。
彼らは出家者とは違い、あの世もこの世も捨てることなく、天におもむく。

「願い求める者には欲念がある。」

欲念があるゆえに、この世もあの世も捨てきれず在家修行者となる。

「成仏できない」
在家修行者は今生では(たぶん)成仏できない。
地獄・餓鬼・畜生の世界は逃れて、涅槃に近づくことはできる。
まずは天におもむいて。
供養をなすことで、世間・出世間の功徳を得ることはできる。
世間の功徳とはこの世の安楽な生活であり、出世間の功徳とは涅槃に
近づくことである。

それゆえ如来は応供(供養に応じて功徳を授ける)と呼ばれ、
仏陀と仏弟子は福田と呼ばれる。


443:04/08/24 12:06 ID:H9ZXS83L
>>436 神様は如来じゃないから。

特に優れた神様でも天神でしょう。神様と言っても過去の偉人だからね。
〜戦争で何万人もの人を殺してしまった神様。〜戦争で何百万人もの
兵士を殺してしまった神様も居られるわけだし。

仏教の世界では、如来。。。諸天。。。諸菩薩。

天神は六道輪廻(天・人・修羅・地獄・餓鬼・畜生)の迷いの
世界にいるのでは?
444名無しさん@3周年:04/08/24 12:15 ID:+0ESkiiC
>>443
だから、神様が迷ってるかどうかは、仏教の公理じゃなくて、
その神様の公理で考えるのが、仏教自体を議論する場では
必要なの。

そりゃあ仏教の公理で判断すれば迷ってるんだろうね(w
自分の都合に合わないのは全て迷ってるんだから。

こーゆう行為が酷いなぁって事。

数学でわからん事まで、数学で是非を判定しないでしょ。
そーゆう事しちゃう酷さが宗教には有る。
445:04/08/24 12:18 ID:H9ZXS83L
>>440

[仏教の公理体系で、なにを支えてるのか?]

仏陀の法は何のためにあるのか。
生死を乗り越えるため。
生老病死の苦しみを乗り越えるため。
六道の輪廻を逃れるため。
無間の地獄から逃れるため。

そのためのルートを釈迦は発見したと言う。
446名無しさん@3周年:04/08/24 12:20 ID:+0ESkiiC
>>445
まぁ正解。

って事で、生死で苦しんでない人に迷ってるって言うのは
仏教体系上嘘って事ね。

で、家に来る坊さんを追い出しで良いって結論付けられる。

ありがとね。
447:04/08/24 12:30 ID:H9ZXS83L
>>444
ここは仏教スレッドだから、仏教から見た神様達でも良いんじゃないの。
4481:04/08/24 12:52 ID:H9ZXS83L
>>446
お坊さん断ったら後が心配でしょう。
慰霊と言う意味もあるしね。

私は自分でやっているよ。
何も考えずにごく普通にDIYしてたけど、
ちょっと変わっているのかな。
お寺から来たDMは読まずに捨ててた。
4491:04/08/24 12:54 ID:H9ZXS83L
>>446 追伸だけど。あなたが生死で苦しんで無くても、
膨大な人数のご先祖様が苦しんでいるかもしれないよ。というか、
絶対苦しんでいるよね。
450名無しさん@3周年:04/08/24 12:59 ID:+0ESkiiC
>>448
禅のスレでノタウチ回ってたけど、俺んち浄土真宗なんだよねー。
で、先代の坊さんはえーかんじの爺さんで説法法話聞いて
なんかえーなーって気分にさせてくれてた。

もろ葬式仏教としてしか付き合ってなかったけど。

ところが10年位前に代替わりして、これがねぇー。
若い時には仏教が葬式仏教じゃあかんのやーとか
わけわからん事言い出すし、この前はお茶だそうと
お念仏が終わって、母がお茶出そうと席たったら、
まぁええから座りなさいとか。

なんかねぇー、仏教と向き合えって言われてる感じが
して凄く嫌なの。で、おいらが仏教やるなら禅系かな?
と思って暴れてた訳よ。

葬式仏教で居てくれるなら、それは文化として受け入れられるけど、
宗教として行動するなら、おいらは嫌だね。納得できないかぎり、
一円たりともだすかぁって感じ。
451名無しさん@3周年:04/08/24 13:00 ID:+0ESkiiC
>>449
そうやって迷うてない者まで迷わすから嫌いなんだよ。
4521:04/08/24 20:30 ID:6Kigxbf8
>>450
座禅って、寝てしまったりとか、言葉遊びになっちゃうとだめなんだよね。
4531:04/08/24 20:42 ID:6Kigxbf8
>>451 やっぱり先祖供養は大事だと思うよ。
仏陀が先祖供養していたかどうかだけど。仏弟子は7代の先祖を清める
という話が仏典にある。やっぱ先祖は浄めてあげないと。
お坊さんと縁を切っても、般若心経くらいを心をこめて読んで上げれば
同じ位の価値はあるかもしれないけど。早く心を許せる師を見つけるべき
だとも思う。
454J・K:04/08/24 20:54 ID:lgiquW1W
どうしてダメと決め付けてしまうんでしょうか?
寝てしまったり、頭の中でおしゃべりが絶え間なく言葉をくりひろげたり、
それも生きているということの一部でしょう?
禅というのは、生きていることはダメ、と言うのでしょうか?

寝てしまっていたのが目が覚めたり、あるいは心のおしゃべりが続いて
それが途切れたり、そうしてまた眠くなったり、心が騒がしくなったり。
それら一切のこと、自分の内側、外側、感覚、感情、心の動き、自分の思考を、
良い悪いと決め付けず、ただ一瞬一瞬注意深く静かに見守るとき、たとえ坐らず
とも禅ではありませんか?

そして「寝てしまうのは悪い、おしゃべりはダメ」と評価を下してしまい、ただそれ
に従うことに集中するなら、心は強制されており、やがて死んでいくのではない
でしょうか。
4551:04/08/24 20:56 ID:6Kigxbf8
>>450 座禅スレッドちらっと読んで見たけど、あなたのコメントが
一番まともっぽい。ほんとにちらっとだよ。なんで座禅の人って、
世界中であんな風なんだろう。言葉をこねくり回したところで、何にも
ならないと思うけどねえ。。というか私の悪い頭では理解できない。
4561:04/08/24 21:20 ID:6Kigxbf8
J・Kさんこんばんは。

「寝てしまったり」
経典の話ばかりで申し訳無いけど、仏陀の場合は弟子たちに「寝るな、寝るな」
「夜は三更まではおきて居れ」とか、後世には睡眠昏沈蓋(すいめんこんちんがい?)
なんて用語もあるし、眠く物憂くなることはとても嫌われたみたですね。

「頭の中でおしゃべりが絶え間なく言葉をくりひろげたり」
私も瞑想はだいぶやったけど、頭の中のお喋りをぱったりと止める
技術を身につけたのは良かったと思っています。たとえば今すぐ思考ストップ、
すぐに眠りに落ちる、なんていう自信は有る。(何にもならないけど)
何にもならないけど、不眠症よりは良いのかも。


「禅というのは、生きていることはダメ、と言うのでしょうか?」

禅というのは、お茶やお花のお稽古をやって無我夢中、われを忘れるのとは
ちょっと違うと思うんだよね。何かをつかまないと。でも何かをつかもうと
思うと逃げるし。私の場合だけど、むしろ、ひたすら仏に祈るほうが禅に近
いような気がする。

「ただ一瞬一瞬注意深く静かに見守るとき」
脳内の動きと、行為を見守る修行もあるんでしょう?

禅は生きることとは私は思わない。何なんだろう。やっぱ人生を
整理、総括することでは?

絶対違うのは、言葉のセンスを競い合うこと。句会や和歌の会じゃなんだから。
457ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/24 21:33 ID:L7jVa5MN
>>451
「尊敬されるべき人の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、『かれはもう
わたしの力の及ばぬものなのだ』と悟れ。煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、
心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに
帰する。」

死んだ人は、生きている人の影響を受けない。生きている人の行為によって死者は影響
を受けない。「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」と尊敬されるべき人の言葉
に従い、こだわってはならない。
458名無しさん@3周年:04/08/24 22:46 ID:Q7aGrOJ4
>>378 1さん菩提心の意味が違います。法然上人も『選択集』で菩提心は各宗に
よって意味が違うといっているように意味射程の定まらない言葉なんです。
だから普賢行の意味の菩提心といったのです。それは大乗仏教の根本義であり、本来、
浄土思想でも同じだったのです。法然上人の先輩にあたる恵心僧都の『往生要集』 に。

大経に云く、「およそ浄土に往生せんと欲せば、要ず発菩提心
を須ふることを源となす」と。(中略)浄土論に云く、「発菩
提心とは、正にこれ仏に作らんと願ふ心なり。仏に作らんと願
ふ心とは、即ちこれ衆生を度せんとする心なり。衆生を度せん
とする心とは、即ちこれ衆生を摂受して有仏の国土に生れしむ
る心なり」と。今既に浄土に生れんと願ふが故に、まづすべか
らく菩提心を発すべし。    [岩波文庫、石田本159-160頁]

「大経」とは『無量寿経』で、根本経典でも菩提心が根本的であると説かれているのです。
そして「衆生を涅槃に度せんとする心」というのが菩提心の要義で、これが>>333で言った
「すべての衆生が涅槃するまで菩薩として輪廻のなかで利他を行じる」普賢行の動機なのです。
だからこそ『無量寿経』の有名な四十八願で、

  たとい、われ仏となるをえんとき、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
                             [岩波文庫、133頁]
という本願・誓願を立てるのです。これはあらゆる生き物が成仏するまでは、
自分が成仏せずに普賢行をおこなうという菩提心に基づく誓いなのです。
459名無しさん@3周年:04/08/24 22:47 ID:Q7aGrOJ4
しかし法然上人は菩提心を捨てて称名念仏一行だけを選択した。私には謎です。
それこそまさに無知の衆生のために方便として選択したのかもしれません。
法然上人は素晴らしい行者で、かつ学者であることが諸文献から伺われます。
ですから上に述べたような菩提心の意義など知らないはずがない、しかも以下のように、
最大の根拠とした善導の『観経疏』でも普賢行の意味の菩提心が重要視されているのにです。

  発菩提心と言うは、これ衆生の欣心趣大を明かす。浅く小因を発すべからず。
  広く弘心を発さずによりて、何ぞ能く菩提と相会すを得ん。
  唯だ願はくは、我が身、身は虚空に同じく、心は法界に斉しく、
  衆生の性を尽さん。我が身業をもって、恭敬供養禮拜し迎送來去し、
  (衆生を涅槃に)運び度して尽くさしめん。    [大正大蔵経37巻260頁上]

では法然上人がどこに「菩提心を捨てる」と書いているかというと『選択集』に、

  (仏意は)菩提心等の諸行を説いて、三輩の浅深不同を分別す。
  しかるを今諸行においては、既に捨てて歎めたまはず、
  置いて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行について、既に選んで讃歎す。
                     [日本思想体系、法然・一遍、115頁]
その他、たくさんの部分で法然上人は、称名念仏が選択され、菩提心等余行は捨てられて
いるのです。まさにここが明恵上人が批判したところです。なぜなら、それは大乗仏教が
大乗仏教であるための根本精神の放棄に他ならないからです。
460名無しさん@3周年:04/08/24 22:50 ID:Q7aGrOJ4
明恵上人は決して称名念仏を否定しているわけではありません。逆に菩提心がなければ、
念仏も成り立たないと言っています。『摧邪輪』に、

  (『選択集』に)「この経に菩提心の言ありといへども、いまだ菩提心の行相を説かず」
  汝、双観経を指して、この説を作す。しかすにこの経の中に、四十八願を説く。
  菩提心を以て願と名づくとは、自他宗の盛談なり。しかるに、汝、菩提心を説かずと
  云う。以て知りぬ、汝が所計のごとくは、西方宗は、能化・所化倶に菩提心を亡ずと
  いうことを。しからば、弥陀も正覚を成ずべからず、仏国を厳浄すべからざるなり。
         [日本思想体系、鎌倉旧仏教、67頁。『選択集』引用は同上、116頁]
つまり法然上人は『無量寿経』に菩提心の行法が具体的に説かれていないと、
言っているのですが、始めに言ったように四十八願こそが、普賢行そのものの誓願なので、
それこそ菩提心の行法が具体例にほかならないと明恵上人は仰られているわけです。

そして浄土宗は、能化であるアミダ仏も所化である信者も菩提心がなく、
それでは、アミダ仏は成仏できず、ある世界を極楽浄土に組み替えること(ヴューハ)も
できないと皮肉っています。(ちなみに極楽を創造するとか、作り出すとは言わない)

ちなみに親鸞さんは横超を説いて、この明恵上人の批判に反論しています。それは以下。
(『無量寿経』岩波文庫、註139、291頁で『無量寿経』に「発菩提心」とあるが、
  真宗では始めに信心を起こした時に菩提心を起こしたことになるから、
  それ以後は起こす必要はないという解釈をしているが、それを菩提心というか疑問?)
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/02_12_17.html
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/04_06_14.html

また、こういった大乗精神について論じた学者は津田真一先生と丘山新先生ぐらいしか
知りません。以下参考。
http://www.classics.jp/Contents/Assets/publication/NLpdf/NL10/NL10TALK.pdf

菩提心の意味は『摧邪輪』に詳細で、『四百論』『入菩提行論』といったインド論の所説と
よく合致しています。
461名無しさん@3周年:04/08/24 22:51 ID:Q7aGrOJ4
以下諸菩薩の普賢行の誓願です。いかに通大乗的か感じ、また感動しませんか?

乃至虚空得究竟 衆生無餘究竟然 及業煩惱乃至盡 乃至我願亦皆盡 [華厳経]

虚空が尽きず衆生がいるかぎり、私もありつづけ衆生の苦を除こう。 [インド論入菩提行論]

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん。 [弘法大師、性霊集]

要するに虚空が尽きず衆生の苦があるかぎり、私もあり続け直接間接、
利楽をもたらすものとなりますように。 [ダライラマ猊下、ris med smon lam]

ここで「あり続け」というのは何度でも化身として生まれてきてという意味です。
ダライラマ猊下などは、まさに菩薩の化身ていう感じがするんですけど。

そんな難行は凡人には不可能と思うのは間違いです。なぜなら、すべては無我で、
無常で、空だからです。凡人という本質などなく、凡人もコツコツ善行を積めば、
いつの日かブッダになれるというのが大乗です。
もちろんできることから始めればいいので称名念仏も素晴らしい方便の一つだと思います。
しかし、菩提心を捨てる必要はなく、また捨ててはいけないと大乗諸経、諸論は説いています。
462名無しさん@3周年:04/08/24 23:26 ID:Q7aGrOJ4
>>269
輪廻は差別思想とか、輪廻が新興宗教の脅しに他ならないという予見を持つ人たちが
多数派で、やや文献派だった。
しかし、文献的証拠の多くは輪廻肯定派から、提示された。
ジャータカや前世因縁譚、昇天等は単に方便と切り捨てられた。
経典の中での六道の記述は、禅定・三昧中の体験と解釈された。
否定しようのない箇所は、後世の付加、スッタニパータ等初期文献はジャイナ混入とされた。
証拠としてして提示された箇所には明らかに断見外道批判箇所の誤読もあった。
来世否定は断見に他ならないが、いつのまにか別の意味にすり替えられた。
同時に輪廻や来世を肯定することが、常見とされた。
以上の文献的根拠は、示されていないように思われる。

輪廻否定派で唯一の文献的根拠は、マールンキャプッタ経の
人(如来)死後の有無についての無記だけだと思われる。
そしてこれも有力な根拠にはならないと思う。

輪廻否定派は、誤りを認めないということが、感じられた。
463名無しさん@3周年:04/08/24 23:29 ID:IQ0yPXJ0
>>421-423
>仏陀の遺骨・遺灰を各部族が競って手に入れようとしたという
>話は、作り事ではないと思いますよ

どの話も等しい重要性ではないです。全体を通して釈迦は何を
いいたいかを考えながら内容によって軽重を判断できなくては、
教えを理解しているといえません。

>仏陀御自身が「教師に握拳なし」

その仏陀自身は、自分が完成された師匠だと言いましたか?

>在家修行者は「この世もあの世も捨てず、この世の安楽と、あの世の安楽
>を望み」在家の戒行と修行

戒を見て分かるように、「この世の安楽」を望むことなど仏教徒には無理。
464:04/08/25 11:04 ID:057cKO0V
>>457 ニルバーナさんこんにちは。

生きている人と、死んだ人は影響を強く与えあっているような
気がします。経典の意味とご解釈の意味が違うのでは?
経典は「死者の生命を助けることはできない」と言う意味であって。
465:04/08/25 11:18 ID:057cKO0V
>>458 さん、コメントありがとうございます。とても勉強になりました。

「普賢行の意味の菩提心」
「大乗仏教の根本義であり、本来、浄土思想でも同じだった」
1.「発菩提心とは、正にこれ仏に作らんと願ふ心なり」
2.「即ちこれ衆生を度せんとする心なり」
3.「衆即ちこれ衆生を摂受して有仏の国土に生れしむる心なり」
「すべての衆生が涅槃するまで菩薩として輪廻のなかで利他を行じる」
(普賢行)
「国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」


上記の「仏国土」は私の場合は涅槃の世界(涅槃界)と理解していま
した。「獄・餓鬼・畜生」の三つの世界から離れて、いずれは涅槃を
得ることのできる世界です。
私の場合は、上記の1.はもちろんあるのですが、2.と3.には思
いも及びませんでした。そういう誓願を立てられるのは菩薩様ばかり
だと思っていたのです。

まず第一段階として、皆様にも「正にこれ仏に作らんと願ふ心」が
生まれますようにお祈りします。                       
466名無しさん@3周年:04/08/25 11:44 ID:0/Li5IHj
しかし、仏教の価値ある時代は終わっている。多額の寄付を出す者も減ってきている。
467:04/08/25 12:05 ID:057cKO0V
>>460
「明恵上人は決して称名念仏を否定しているわけではありません。
逆に菩提心がなければ、念仏も成り立たないと言っています。」

「しかるに汝、菩提心を説かずと云う。以て知りぬ、汝が所計のごと
くは、西方宗は能化・所化倶に菩提心を亡ずと」
         
「法然上人は『無量寿経』に菩提心の行法が具体的に説かれていないと」
「四十八願こそが、、、菩提心の行法が具体例にほかならない」
(と明恵上人)

「始めに信心を起こした時に菩提心を起こしたことになるから、
  それ以後は起こす必要はない」
(と親鸞聖人)
−−−−−−−−−−−−−−−−−

私の感想
「(その)菩提心を持って念仏申しなさいよ」といえば済むところを、
わざわざ否定したのは何故? 浄土教関係の勉強はしたことはないん
だけど、法然上人も親鸞聖人も経典に忠実だったのではないのかしら。
経典には「称名念仏だけで必要十分」と書かれているのは?
468:04/08/25 12:23 ID:057cKO0V
>>461
「凡人という本質などなく、凡人もコツコツ善行を積めば、
いつの日かブッダになれるというのが大乗です」

初期仏教でもそうですよ。在家の凡夫でもちゃんとルートは
あるんです。称名念仏だけと言うのは易行のようで易行では
ないですよね。空手形で何の進展もないかもしれませんから。
仏陀の初期仏教の在家(凡夫)修行者向きの指導は、本当に
易行ですよ。
ただ、最初のハードルが「仏陀の教えを信じられるか」とい
うことなので、ちょっと難しく感じる人もあるかもしれない。
でも、易行?の念仏だって、仏陀の教えを信じずに称名して
も何にもならないとは思うのですが。
(教えでは、そういうことは良いよ、という事になっている
のかな?)
469:04/08/25 12:38 ID:057cKO0V
>>462
如来の滅後は無記なんですよね。ということは「人」の死後は
無記ではないということです。無記でないということは経典の
記述通りだということですよ。(仏陀の見解は)

自分の五感から、その外の世界へ、仏陀の理論通り跳躍しないと
だめですよね。不思議だからといって否定していたら。
例えば、宇宙だって、人体だって、生命だって、とても不思議な
んだから。
470:04/08/25 12:41 ID:057cKO0V
>>469 (自己レス)
無記と言うのは「記載が無いという意味」ではないことは
知っています。でも無記だと記載もされないし、無記ではない
事項は記載されている場合が多いと言う意味でした。
471:04/08/25 12:49 ID:057cKO0V
>>463 さんこんにちは。
在家の戒って五戒とかだと思いますよ。
ごく普通に正直に暮らせと言うことでしょう。

(検索してみました)
五戒律
不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。
以上が五戒律といわれるものです。この五戒律に次の五つの戒律が
加わったものを十戒律と呼んでいます。

十戒律(五戒律含む)
不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
不瞋恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだして
はならない。

何とかなりそうな気がしませんか?
完璧には難しいけど。大体行けますよね。
472:04/08/25 12:56 ID:057cKO0V
>>463
この戒律を守ったら(守れたら)とても幸せで安楽になりそうですよね。
酒が好きな人にはつらいでしょうが。男や女が好きな人にもきついかな。
でも道ならぬ男女関係は不幸と苦しみの元だしね。無いほうがすっきり
はする。タバコが入ってないのが不思議だけど。当時はタバコは無かっ
たんでしょうね。
473:04/08/25 12:59 ID:057cKO0V
>>466
中東はまさに黙示録の世界に突入。いまや
世界中が仏教を必要としていると思う。
474ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/25 21:57 ID:h23ERCtN
>>464
原始仏典では、私が見る限り死者の供養の重要性を説いているものはない。生きている人が、
死んだ人に影響を及ぼすなら、ブッダは何より先に語っているはずだ。それで成仏するなら、
それをまず説くだろう。「だから尊敬されるべき人の教えを聞いて、人が死んで亡くなった
のを見ては、『かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ』」でよい。

あなたは、ニルヴァーナを知らず、非我なるものを我と思いなし、自己が自分だと思ってい
るから、そのような錯覚を起こす。死者には、このような生存状態の思いはもはやない。
非我なるものを我と思いなし、信仰することで、方向違いの信仰をすることになるだろう。

 {世の中は泡沫ごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。死者は、全ては水の泡か
 陽炎のごとく、一切は虚妄であると知るのである。そして、安らぎは虚妄ならざる真理で
 あると知るのである。}

「一切の形成されたものは無常である」「一切の形成されたものは苦しみである」「一切の
事物は我ならざるものである」これこそ、清らかになる道である。

しかし、多くの人々は、自己を自分だと思いなし、欲望に生きる生存の快楽に囚われ、死後、
妄執に破れ、再びこの世に生まれるのである。一旦は、安らぎを真理として知るが、欲望に
生きる生存の快楽を捨てきれず生まれる。
475ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/25 21:58 ID:h23ERCtN
生存者が死者を救うことはなく、彼岸を我とするか、自己を自分としたままで生きることに
より、天に生まれるか、地に再び戻るか決まる。人は天を好まないから、地に生まれる。

 ― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ―
これこそ我らの天での姿である。平安であることに喜び、安穏で安楽であることに喜ぶ境地
を保ち、幸福であることに喜ぶ。もはや我はない。一切の形成されたものは苦しみであると
知り、地上の形成されないものの上で喜ぶであろう。肉体もなく安楽であり、五感も意の対
象もなく、快楽も享楽もなく安楽である。

 ― 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし ―
これこそ我らの天での姿である。生きものの幸福と安穏と安楽を願う境地。この上なき最上
の喜びの境地は、この世では慈しみである。白と黒(善悪)に汚されることなく、善きも悪
きも識別せず全てを慈しむ。
憎しみ、怨み、敵意なく、粗暴・残酷・傲慢・驕り・怒り・強情・反抗心・偽り・嫉妬もな
く、何をも責めることなく謗ることなく寛容である。

 ― 林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである
    森に住み、心静まり、静けさを楽しむ ―
これこそ我らの天での姿である。地上の造られたものを捨て去って、ざわめきから離れ、精神
を統一し、欲念なく、静けさを楽しむような境地である。そこで満足すれば、天を望める者と
なるであろう。情欲と執著から離れ、生存の快楽であるこの世を望むこともない。
476ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/25 21:59 ID:h23ERCtN
在家者は、人の幸福、安穏、安楽を心得て、自分の欲求に従わず、人を幸福にすることで糧を
得る。そのように、仕事は、人々を幸福にしようと心得て、怠惰にならず勤め励む。
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない。かれに過失
(道を外れること)は存在しない ― 慈しみを心得て、道から外れることはない。
快楽や享楽に耽溺することなく、五感の対象を貪ることなく、自然の静けさを楽しむ。何をも
信じることなく、ただ内面の安らぎを喜ぶ。粗雑な思考をおさめとり、見聞したことに汚され
ることもなく、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことはしない。
解脱の境地は「空にして無相」なのだから、どのようなことにもくよくよ思いめぐらすことな
く、見たり聞いたりしたことがらに「これだ」と認めることもない。天では「どのようなこと
でもない」見解を知るのだから。

そして、老齢となり、眉にしわがより、頭が白くなった頃、「すべての存在は水の泡か陽炎の
ごとし、速やかに一切の存在に対して嫌悪を抱け」
死ぬよりも前に、妄執から離れ、依りかかることのない人は、「生存のための妄執も、生存の
断滅のための妄執も存在しない。」者となる。何ものにも願わないからである。

世の中は泡沫ごとし、かげろうのごとしと知り、今あることも、宗教行事でさえ虚妄であると
知るだろう。この世の全てに愛著なき者は、この世に再び生まれない。

とにかく死者は、生きている人間の力の及ばぬ、まったく違う存在である。全ては虚妄である
と知り、地上の者に従わない。
4771:04/08/26 11:16 ID:rAe0K4Up
>>474 ニルバーナさんこんにちは。
仏陀時代の文献。
仏陀が各地の心霊を篤く祀ったと言う話は載ってます。
仏陀のお葬式の場面も描かれていますね。
仏陀のお葬式は「王の如くせよ」と仏陀はアーナンダに語る。
お葬式の方式は当時も細かく決まってたようです。
どの人も手厚く葬られ祀られていたのだと思いますよ。
4781:04/08/26 11:23 ID:rAe0K4Up
>>474
すべての物事は因と縁によって生じています。
因と縁が消滅しない限り、その事象や事物は存在するのです。

うたかたの如しであるが、うたかたではない。

ニルバーナを得て因も縁も消滅した方は別の存在になるのでしょうが。
うたかたも一瞬は存在します。我々も一瞬は存在するわけで。一瞬と
言っても、今生は50年以上。100年も生きないけど。
前世や来世まで入れると無限の時間、億劫(おくこう)。

私達は何十年も生き続ける「うたかた」です。うたかただからと一言で
片付けるには長すぎる人生。
4791:04/08/26 11:27 ID:rAe0K4Up
>>475
「生存者が死者を救うことはなく」

仏教には、回向、死者の供養、と言う習慣があります。
私は仏陀時代から連綿と続いてきたのだと思っています。
後世捏造された無意味な慣習だとしたらいつの時代にそう
なったのでしょうか。
私は仏陀在世の頃からこうだったと思っています。
4801:04/08/26 11:33 ID:rAe0K4Up
>>476 仏陀は在家修行者にお金の使い方を指導されています。

4分の一は生活のために
4分の一は人のために
4分の一は楽しみのために
4分の一は将来への蓄えとして

また別の指導で、夫は妻に身を飾るもの(宝飾類)を分に応じて
買い与えること、と言うのもあります。

正直に、人のためになる生業を立てて、自分のためにも、自分の
楽しみのためにも、家族のためにも、家族の楽しみのためにも、
そして他の人のためにもお金を使いなさい。

貧困にあえぎながら人助けをせよとは書いてない。4分の1です。
4分の1と言っても実行するとなるとなかなか厳しいですよ。
481名無しさん@3周年:04/08/26 11:44 ID:84SbZxeD
↑現実をわかって言ってるのか?
4821:04/08/26 12:09 ID:rAe0K4Up
>>481 収入を泉に例えます。

泉がこんこんと湧く家があるとする。その泉の水を
家族でも楽しみ、他の人にも分け与えなさいと言う
意味だと思う。少ない人は少ないなりに。

修行ですから。でも貧しい中の布施の行はつらいで
すよね。つらいからやめるか。つらいけど頑張るか。
483けちゃっぷ:04/08/26 12:24 ID:gLbadLZf
祈っても死者をどうこうできないと説くのも、きっと極楽へ往ったんだと説くのも、死別の悲しみにとらわれなくなることでは同じでしょう。身内の死を納得して受け入れるための方便でしょうね。
4841:04/08/26 13:21 ID:rAe0K4Up
>>483 けちゃっぷさん今日は。
私は方便だとは思ってないんですよ。事実どうなのかを問題にしています。
例えば最近良く報道される子供の殺人事件。「〜ちゃんは天国へ行きました」
と言うことになっているけど、、
天国に行ったにしては残された親族の苦しみようが凄いんですよね。
私はその子達は天国には行けずに、中有に迷い苦しんでいると思っています。

そういう人たちを、生きている者が、回向や供養で助けることができるかど
うか。(お坊様には、できる!と言い切って欲しいのですが(笑))
485横槍の者:04/08/26 13:30 ID:KfGiEKuV
>すべての物事は因と縁によって生じています。
>因と縁が消滅しない限り、その事象や事物は存在するのです。

原因というスタート地点を作るのは人の思考であって
縁ということで、細微な物質が集まっている考え方で終始するのなら
よろしくないと思います。
あくまでも、物事を細微にして、縁を感じて観想をなし、執着を断つのを目指す
「〜の如く」の比喩を取るのは、観想の為に、つまり意識の改革の為に。
それを世の真実のあり方だ(その事象がある)と思うのはおかしい。
言葉(区別をつける)は人の概念の上に成り立っていて、仮のものなのに
それこそが真実だと思ってしまう。〔>>474の2段目〕
唯識思想は>>478のような諸法無我に反して考えてしまう問題を解く
新しい切り口をくださる、けれど、その発言が仮の姿「識」だ。

輪廻とニルバーナは根本的には同じだと、ナーガールジュナは教えを説かれた。

「うたかたの如く」であって、「うたかた」の一瞬の存在を考えるのは
あなたの根底に、本質があるという考えに成り立っている。
一瞬も存在するとは言えない。仮に一瞬といっても、知覚できないそれを
どうして存在すると言えるのだろうか。  
486名無しさん@3周年:04/08/26 14:32 ID:klC5u8vv
ここ、生きてよく動いています。

坐禅と見性〇第4章☆生死大海を泳ぐ_
http://life6.2ch.net/test/read.cgi/psy/1093234409/
4871:04/08/26 15:21 ID:rAe0K4Up
>>485 横槍さんこんにちは。

>すべての物事は因と縁によって生じています。
>因と縁が消滅しない限り、その事象や事物は存在するのです。

「原因というスタート地点を作るのは人の思考であって」

それは無明ですね。無明があなたの存在を形成している。

「あなたの根底に、本質があるという考えに成り立って」

あなたの無明が、あなたの五蘊を形成し、
あなたの色・受・想・行・識(五蘊)は厳然としてここに存在する。
あなたの無明が存在する限り。

あなたの本質が無我であるというのは。
あなたの本質は、あなたの無明というOSの上で作動して
いるソフトに過ぎないという意味なんだけど。
無明というソフトの上で、五蘊はしっかり作動しているのです。
488けちゃっぷ:04/08/26 17:58 ID:gLbadLZf
>484 できます!
大事なのは、家族が子供の死を早く受け入れることでしょう。親が泣けば泣くほど、子供は安心できません。親が子供の天国行き(例えば)を信じた時、子供は天国に往くのでは?
489けちゃっぷ:04/08/26 18:03 ID:gLbadLZf
死んだ子供がさ迷ってるから親が悲しんでいるのではなく、親が悲しんでいるから子供が迷うのです。死は人生の卒業。別れはさみしいけれど、めでたいことです。いずれまた浄土で再開できますしね。
490けちゃっぷ:04/08/26 18:09 ID:gLbadLZf
訂正。再開→再会です。
子供の生命が親の所有物であるかのように勘違いしてるから、失った悲しみが大きくなるのでしょう。また、始めから生じないものが、消えるはずないので、悲しむ理由は本来ない。
491名無しさん@3周年:04/08/26 18:22 ID:1trC6GFZ
>>490

人間の本質というものは、そういうものじゃないと思うよ。
親が子供を亡くしたら、ただわけもなく悲しいもんだ。
私は数年前に親父を亡くしたけど、生前はそれほど好きじゃなかったのに
泣けて泣けてしかたがなかった。

仏教の深遠な教えを勉強するのは立派なことだが、そのために人間本来の心を
亡くしたら、それこそいくら泣いても追っつかないぞ。
492けちゃっぷ:04/08/26 21:01 ID:gLbadLZf
悲しみも怒りも煩悩です。煩悩は時間が経てば過ぎ去ります。悲しみを過去のものにするのを、早めるためには、極楽や天国を信じるのもいいと思います。悲しいからこそ信じたいのだと思います。
493ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/26 21:26 ID:VGOOl6ry
>>477
葬儀自体が悪いとは言ってはいない。親族を手厚く葬るのは良いことだと思う。今まで親
しかった人の遺体を手厚く葬ろうとするのは、葬ろうとする人の慈愛があるだろう。しか
し、
「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たち
は、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、
勤め、専念しておれ。」

正しい目的のために努力せよ―仏教の修行僧は、自分の修養につとめることだけをせよ。
葬儀などやるな、という思想は原始仏教聖典にまま散見するが、ここにも現れているので
ある。また、ブッダの遺骨崇拝も世俗人のやることであり、出家修行僧のかかずらうこと
ではないと考えていた。

「アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがい実践
し、正しく実践して、法にしたがって行っている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊
び、尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。」

494ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/26 21:27 ID:VGOOl6ry
ブッダの遺骨崇拝も、供養も、「だから尊敬されるべき人の教えを聞いて、人が死んで亡く
なったのを見ては、『かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ』」と思わぬことも、世
俗人であり、非我なるものを我と思いなし、死後もこのような生存状態の心がつづくと思っ
ている人たちである。そして、人の死後が自分たちの供養で変ると考えて供養する。

子も妻も兄弟からも離れて、ひとり遠ざかって修行をする修行僧。死後の世界は、このよう
に親族に対する愛著はない。「この身は泡沫のごとし」と知るのに、「この世は泡沫のごと
し、世の中はかげろうのごとし」と全く知るのである。この世の災難も、この世の出来事は
ほんのささいなこととして、遠ざかり離れる。しかし、現世で天の我になじまないように、
天の我になじまず、妄執に従いこの世に生まれる。
「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は
苦悩から解脱しないのである。」
495ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/26 21:28 ID:VGOOl6ry
在俗信者でも、供養が仏教の行いと重んじることなく、理法にしたがい実践することが天に
生まれる大切なこと。「この世を泡沫のごとしと見よ。この世をかげろうのごとしと見よ。」
ということも大切なことでしょう。「一切の形成されたものは無常である」「一切の形成さ
れたものは苦しみである」その清らかな道を歩み、諸々の存在に対する愛着を捨て去ること、
少なくすること。在俗信者も、様々なもののある内にいて、愛着を少なくする方向に向かう。

「この世を泡沫のごとしと見よ」それによって、「苦しみは動揺の縁から起こる」という理
法を、無動揺・無執着でこの世を遍歴できる方向にも向かう。

― 一切の生きとし生ける者は、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ―
彼岸には悪は存在しない。人を幸福にするような心で仕事に従事し、生活の糧を得る者には、
悪は存在しない。しかし、自分の糧を得る心が優先なら、悪に従っている。
「健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。牡牛の
ような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におも
むく。」愛著少ない者は、人々にも気前よく分け与える。
そこで、自ら用いることが正しいと強調してはならないでしょう。一切の所有物を捨て去る
ことが彼岸に近いとしながらも、必要だからといって、自分の所有物を得ている。>>480
目安でしょう。欲の深い者は、自分のために一番よく使い、少し他人のために使ったからと
言って、素晴らしいことをしたと自らを大いに褒め称える。
496名無しさん@3周年:04/08/26 22:36 ID:vxkjITsR
>>465 1さん、立派な発心されて、もう菩薩ですね。

>上記の「仏国土」は私の場合は涅槃の世界(涅槃界)と理解していました。

それは違います。そこは修行に適した世界で涅槃ではありません。
また、涅槃の世界というのは通仏教的にないと思います。
涅槃したら、もう世界ではないはずですから。
浄土で行じてまた、この世に戻ってきて普賢行をするのです。

>>466
>法然上人も親鸞聖人も経典に忠実だったのではないのかしら。
>経典には「称名念仏だけで必要十分」と書かれているのは?

念のため岩波文庫の浄土三部経をすべて読んでみました。
すべて菩提心を起こして精進して善行をなして往生せよと説いています。
『観無量寿経』は浄土の観想行を説いた経典ですね。
面白いのは()や註に、真宗では〜と解釈すると述べられていて、
逆に、いかにその解釈が経典から離れているか確認できました。
ちなみに浄土三部経は、梵蔵漢が、その内二つは英訳もネットで見れます。

唯一の根拠である善導も菩提心に基づく「称名念仏」を述べたのです。
経典に忠実だったら明恵上人のような方が、批判しないでしょう。
日本で経典に忠実なのは平安以前の旧仏教であり、
鎌倉新仏教は経典から逸脱しています、鈴木大拙は逆手にとって、
それを日本的霊性とかいって、付会してますが、明らかにおかしいですよ。
497名無しさん@3周年:04/08/26 22:38 ID:vxkjITsR
>>467
私の理解ではパーリ仏教は、ブッダを目指さず、アルハットを目指すと思いますが。
パーリ三蔵には菩提心という言葉がないということも、それを証拠づけていると思います。
大乗はアルハットでは不充分でブッダにならなければならないとして、
釈尊と同じ普賢行が要求されるのです。法華経で会三帰一ということも、
それを前提に説かれていると思います。すなわち声聞の悟りも、独覚の悟りも、
方便でそれらも仏の悟り、つまり無上正等覚に至るという。

以下に見られるように日本ではほとんどの宗派で四句誓願を唱え、普賢行を誓っています。
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1076055949/124-128

衆生は無辺なれど誓って度せん。 (曹洞宗式)
煩悩は無尽なれど誓って断ぜん。 
法門は無量なれど誓って学ばん。
仏道は無上なれど誓って成ぜん。
498名無しさん@3周年:04/08/26 22:39 ID:vxkjITsR
>484死者の業と発願者の力に応じてですが、菩提心を起こし、
三宝を信じて集中して行えば必ず効果はあると思います。
しかも、その根拠は他ならぬ空です。空だからこそ観想も回向も可能なのです。
もしろんそう龍樹菩薩も述べられています。すでに引用した『華厳経』も
『入菩提行論』も美しい有情救済の言葉を述べています。

例えば、灯明、蝋燭をともし、死者に供養することを手がかりに、
観想の力で有情一切の無明を消すまでに広げ誓った
18世紀のチベット聖者と、9世紀の日本聖者、時と場所を遠く隔てた二人の言葉は、
力強く、美しく、そしてなんと慈悲深く大乗本義に添って一味です。

 虚空さえ埋め尽くすほどの限りない有情が、意識せず仏の三身を実現し、
 父と母たる六道すべての有情が、伴に本来の覚りの状態でありつづけますように!
 憶念と明智の大光明であるこの灯明が、絶ず灯りつづける福徳により、
 暗闇のような業風や習気すべてを浄め、普賢意界へ伴に解放されますように!
 
高野山万灯会の願文  [山喜房、弘法大師著作全集、第三巻、364-366頁、名訳!]
 恭んで聞く、黒暗は生死の源、遍明は円寂の本なり。
 その元始を原ぬればおのおの因縁あり。
 日灯空にささげて唯一天の暗を除き、月鏡漢に懸けて誰か三千の明をなさむ。
 大日遍く法界を照し、智鏡高く霊台に鑒みるがごときに至つては内外の障り悉く除いて、
 自他の光普く擧ぐ。かの光を取らむと欲はば、何ぞ仰止せざらん。
499名無しさん@3周年:04/08/26 22:40 ID:vxkjITsR
 ここに空海、もろもろの金剛子等と金剛峯寺にして、いささか万灯万花の会を設けて、
 両部マンダラ、四種の智引に奉獻す。期する所は毎年一度この事を設け奉つて、
 四恩を答へ奉らむ。虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願ひも尽きん。
 しかればすなわち、金峯高く聳えて安明の培ロウ(小山)を下し睨、
 玉毫光を放つてたちまちに梵釈の赫日を滅さん。
 ラン字の一炎乍ちに法界に飄つて病を除き、
 チッタ(心)の万花咲を諸尊に含んで眼を開かん。

 仰ぎ願はくは、この光業によって自他を抜済せん。無明の他たちまちに自明に帰し、
 本覚の自たちまちに他身を奪わん。無尽の莊厳、大日の恵光を放つて、
 刹塵の智印朗月の定照を発せん。六大の遍するところ、五智の含するところ、
 虚を排ひ地に沈み、水を流し林に遊ぶもの、総べてこれ我が四恩なり。
 同じく共に一覚に入らん。
 
私もお二人にあやかって一切が闇を抜け光の中にありますように。
500名無しさん@3周年:04/08/26 23:21 ID:xvNyCo+l
500
5011:04/08/27 09:52 ID:ezWfc1zN
>>488 けっちゃっぷさん、こんにちは。
私も親の死で苦しみ抜いて、供養していただいてすっと楽になった
体験があるんです。まるでモルヒネかなんかを打ってもらったように。
親族の死は麻薬が必要なほどの苦しみですね。親でもあんなだから、
配偶者だと何十倍も苦しいのかな?
5021:04/08/27 09:54 ID:ezWfc1zN
>>489 初期仏典にも、良きことをして暮らした人は幸せである。
あの世で親族達が喜んで迎えてくれるであろうという一節があります。
5031:04/08/27 09:57 ID:ezWfc1zN
>>491 私も親の死でも相当こたえたのに、結婚して子供とか生まれて
先立たれたりするとちょっと耐えられそうにもないと言う気がします。
家には子猫がいるんだけど、長生きしてくれよなあ、なんて思う。
(長生きしてくれよニャア!)
5041:04/08/27 10:00 ID:ezWfc1zN
>>492 煩悩無尽 誓願断。
煩悩は無尽。生きているうちに少しでも薄らげばいいのですが。
5051:04/08/27 10:17 ID:ezWfc1zN
>>493 ニルバーナを見たさんこんにちは。

「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな。」

在家の者に任せよ。
(供養ではなく、供養に関する実務では無かったですか?)

「仏教の修行僧は、自分の修養につとめることだけをせよ。」
「葬儀などやるな、という思想は原始仏教聖典にまま散見するが」

修行僧は、仏陀の教えを学ぶこと、瞑想を行うこと、托鉢を行うこと、
これ以外は(商業活動や実務は)禁止ですよ。偈を唱えて供養することは
禁止ではないと思います。仏陀のお葬式でも修行者達は偈を唱えて荼毘に
付される仏陀のなきがらの周りを回っているはずです。
(偈を唱えて食物を得ることは禁止です)


「ブッダの遺骨崇拝も世俗人のやることであり、出家修行僧のかかずらう
ことではないと考えていた。」

仏陀のなきがらの荼毘の手配、実務は在俗のものがやるべきなのです。
荼毘に付された遺骨の分配などの実務もそうですね。
礼拝供養は出家僧でも行って良いし、むしろ行うべきだと思いますよ。
5061:04/08/27 10:18 ID:ezWfc1zN
>>493

「アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、
理法にしたがい実践し、正しく実践して、法にしたがって行っている
者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊び、尊敬し、最上の供養に
よって供養しているのである。」

そうですね。法に従い実践することが一番大切なのです。
でも教師(仏陀)を敬ったり礼拝しても何も悪いことはないのですね。
と言いうか、礼拝供養して仏陀のお力を貰わないと、とても実践は
無理なのです。
5071:04/08/27 10:27 ID:ezWfc1zN
>>494 ニルバーナを見たさん。

「ブッダの遺骨崇拝も、供養も…」

解釈はともかくとして、仏陀ご在世当時の修行者も在俗信者も、
こぞって仏陀の遺骨を礼拝供養したということをご確認してください。


「妄執が人を生まれさせる」
無明により生が始まるのである

「人の心が走り廻る」
無明があるから、行、識、、、生、老、病、死があるのである。
(↑十二支の因縁)

「生存するものが、輪廻に堕している。人は苦悩から解脱しないのである。」
無明がある限り、生、老、死の苦しみからは逃れられない。
5081:04/08/27 10:34 ID:ezWfc1zN
>>495 ニルバーナを見たさん。

「在俗信者でも、供養が仏教の行いと重んじることなく」

先祖の供養が大切だと知って。

「理法にしたがい実践することが天に生まれる大切なこと」

在俗信者はまず天界を望め。

「この世を泡沫のごとしと見よ。この世をかげろうのごとしと見よ。」

煩悩や欲望に執着することなく。

一切の形成されたものは無常である」
「一切の形成されたものは苦しみである」

諸行無常、一切皆苦、の輪廻の世界から逃れるべく。


「「苦しみは動揺の縁から起こる」という理法を」

苦しみの生は無明より始まる。

「自分の糧を得る心が優先なら、悪に従っている。」

仏陀の在家修行者はまず自分が幸せにならないと人助けもできません。
不幸な間は助けてもらうばかりです。

5091:04/08/27 10:39 ID:ezWfc1zN
>>496 さんこんにちは。
よく仏典に書かれている「もう三つの苦しみの世界(餓鬼・畜生・地獄)
には二度と返らない境涯」のことです。「涅槃界」と書かれた書物も読ん
だことがあります。

「浄土で行じてまた、この世に戻ってきて普賢行をするのです。」
天と人を往復するのですね。原始仏教でも「一来」「七来」という用語が
ありますね。
5101:04/08/27 10:49 ID:ezWfc1zN
>>469 さんん、

「念のため岩波文庫の浄土三部経をすべて読んでみました」

すごいですねえ。

「すべて菩提心を起こして精進して善行をなして往生せよと説いています。」

それだと全く初期仏教と変わりありませんよね。仏陀が阿弥陀様に代わった
だけで。

観音経などでも「この偈を誦すれば云々」という表現もありますよ。
その表現をその言葉通り取れば「誦するだけ」で最高無上の境涯が得られる
はずなんですけど。もちろん大前提の仏道修行を抜かして良いと指導した
方が居られなかっただけですよね。
観音経を典拠に同じような宗派を作れないこともないと思うのですが。
でも、それは否定されたと言うか、歴史上誰もそのようには説かなかった
わけです。
5111:04/08/27 10:56 ID:ezWfc1zN
↑ >>496 さん宛でした。
5121:04/08/27 11:20 ID:ezWfc1zN
>>497 さん
「パーリ仏教は、ブッダを目指さず、アルハットを目指すと思いますが。」

私の理解では仏陀もアルハトも全く同じなのです。
ニルバーナを得た人がブッダ。
別名、如来(タターガタ)、真理より来たれる人。
アルハト、応供。供養に応じて福を授ける人。でしたか。
如来の十号ってあるんですよね?

「パーリ三蔵には菩提心という言葉がないということも」

菩提心が「アノクタラサンミャクサンボダイ」を求める心と言う意味なら、
出家でも在家でも仏弟子になると言うことがそれに等しいと思います。

広く衆生を救って、すべての人が救われるまで云々であれば、初期仏教
にはないかも。お釈迦さまご自身はそうですよね。ニルバーナを得て、
そのまま法を説かず安楽の涅槃の世界に入ろうとしたとき、やはりそれを
思いとどまって衆生のために法輪を転ぜられたのですよね。


5131:04/08/27 12:24 ID:ezWfc1zN
>>498さん、コメントありがとうございます。

「空だからこそ観想も回向も可能なのです」
「もしろんそう龍樹菩薩も述べられています」
「恭んで聞く、黒暗は生死の源、遍明は円寂の本なり」

光明の意味がはじめて分かったような気がしました。
私は物理的な「光」を考えていたのですが、当然「法の光」
のことでしたね。今までどうして気がつかなかったのだろう。

龍樹菩薩はご自分でも衆生救済の大誓願を立てられたので
しょうか?(当然そうですよね)
514けちゃっぷ:04/08/27 17:48 ID:K+BYdnTc
1さん、信仰がひとかけらもない人が家族を亡くして、そこにいきなり仏教を説いても、怒るだけかもしれませんね。普段から信仰や智慧を育てていると、いざという時にも頭の切り替えがしやすいのでしょう。
515:04/08/27 19:51 ID:ezWfc1zN
>>514 けっちゃっぷさん、こんばんは。

本当に信仰心って不思議ですねえ。
どう見ても1000人に数人くらいしか信心深くないみたい。
座禅スレッドなんて、あんな信仰心も無く、仏様に手も合わせず、
大言壮語ばかりしていても、・・・・だと思うのですが。
すごい暴走スレッドですね。ダンプカーのラッシュみたい。
(私も暴走ダンプですが。←反省を込めて)

ちょっと話がどっかへ行っちゃいました。

516:04/08/27 19:54 ID:ezWfc1zN
>>514 お法事の信徒ってどうなんですか?
お経が短いと機嫌が悪いだろうし、長すぎると良くないし。
説法もないとだめだし。あまりにも抹香臭いとだめだし。
ちょっと仏教めいて受ける話ってあるんでしょうねぇ。
517名無しさん@3周年:04/08/27 23:35 ID:UCTV+Fv1
1さん、錯綜してきましたね。且つ私自信に誤認がありました。
複雑なので、簡単なことから、いってみます。

>>516 誠実さは伝わりますよ。みんなそんなにバカじゃないですから。
あと、たいていの人はお坊さんのやることは大目に見てくれますよ。
それでもドラブルのは、そのお坊さんがかなり問題があると思います。

>>508 インド仏教では先祖供養を重要だと考えていませんよ。大乗小乗共通です。
昇天を説くのは、輪廻、因果、善悪の認識と比較的楽なところへ行く方がいいというだけで、
基本的に浄土の教えも、その発展系だと思います。逆に仏教的には自分の先祖だけ、
供養するというのは、利己的で推奨されないと思います。

>>510 浄土三部経等を読むのは、あたりまえのことでしょう。
仏教についての質問に答える際の最低の良心みたいなものだと思います。 
理想的には悟っていて且つ発言する教えを暗記し完全に体得していることが望ましいのですが、
なかなか、そうはいきません。思いつきで語るのは、いうまでもなく慚愧して、
お経を確認してから発言するぐらいにして欲しいと思います。
518名無しさん@3周年:04/08/27 23:37 ID:UCTV+Fv1
>>509 普賢行で戻ってくるのと「一来」「七来」とはまったく概念が違います。
これは次の、ブッダ/アルハット、大乗/小乗の違いにつながります。

>>510 >>512
>「すべて菩提心を起こして精進して善行をなして往生せよと説いています。」
> それだと全く初期仏教と変わりありませんよね。仏陀が阿弥陀様に代わった
> だけで。

ですから「菩提心を起こす」ことに違いがあるのです。
「アノクタラサンミャクサンボダイ」つまり無上正等覚を求めるというのは、
ブッダになることを求めることで、そのためには一切衆生を救う普賢行が必要となるのです。
アルハットのように解脱して終わりではないのです。少なくとも大乗では、
ブッダとアルハットを通常、分けて用いています。だから『無量寿経』等で、

 たとい、われ仏となるをえんとき、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ
 
などと有情すべてが救われるまで、涅槃せず、解脱しないという誓願を立てるのです。
もちろん如来十号も用います。それは文脈が違います。 

パーリ三蔵で anuttaram sammAsambhotim 無上正等覚を用いる用例が、
少なく、しかも主語が釈尊以外の用例を見つけられないことが、以上の傍証になると思います。
つまり、弟子の悟りはブッダの悟りではないという認識があったと思われます。
519名無しさん@3周年:04/08/27 23:41 ID:UCTV+Fv1
>>513
私は光は、本来の状態かつ慈悲と思ってます。その本来の状態を無明が覆うのが闇。
根拠は『般若経』を始めたくさんあります。(中公文庫、八千偈頌般若1、11頁)

もちろん龍樹菩薩は誓願を立てられていますよ。
以下『勧戒王頌』の119-123をご覧下さい。
http://www.sacred-texts.com/journals/jpts/nfe.htm

また『宝行王正論』5.65-87は誓願二十頌といわれこれだけが唱えられることもあります。
詳しくは、両者とも素晴らしい瓜生津隆真先生の『大乗仏典 龍樹論集14』中央公論社を。

『宝行王正論』4.90, 93は上の私の説と全く同じです。このように、

声聞乗には菩薩の誓願と行、回向が説かれていない。
それによってどうして菩薩になれるだろうか?
菩提行を続ける意味を声聞経典にお説きにならなかった。
大乗の中でお説きになったので、賢者たちは大乗を選び取る。
520名無しさん@3周年:04/08/27 23:42 ID:UCTV+Fv1
>>509 「涅槃界」いいますね。まったく私の誤りでした。すいません。
パーリから始まって『般若経』『華厳経』『入中論』と多くのお経に書かれていました。
私の邪見を改めてくださり、感謝いたします。

ただ界の原語である dhaatu には「世界、領域」という意味と「要素、成分」という意味が
あるのでどちらの意味になるか、現在検討中です。これはごく大雑把に概観して検討する
だけでも浄土三部経や法然上人、明恵上人関連文献の10倍ぐらいになるので、
けっこう時間かかります。
521:04/08/28 09:55 ID:Il7HQfiE
>>517 けちゃっぷさん、ですか? おはようございます。

「たいていの人はお坊さんのやることは大目に見てくれますよ」
基本的にお坊さんと言うのは愛され尊敬されているんですよね。
聖職者ですからね。

「インド仏教では先祖供養を重要だと考えていませんよ」
初期仏教の書物はだいぶ読んだのですが、あまり先祖供養の話は無いんですよね。
当たり前すぎて載ってないのではないかと思っているのですが。
唯一パーリー仏典に「ある人が出家すると、先祖七代を浄めるという記載が
ありました。仏陀の法によって先祖が浄まると言うことはあるようです。

「浄土三部経等を読むのは、あたりまえのことでしょう」
私の場合は、浄土宗関係の文献は読んだことが無いんです。
本音で言うと阿弥陀様は仏陀の事だと思っているんですよね。古代の人には抽象的
な涅槃の世界はあまりにも分かりにくい。と言うことで西方浄土を設定したのだと
思っています。ところが地球や宇宙の構造がはっきりしてきた現代では、返って西
方浄土と言う概念のほうが分かりにくいような気もします。
私は阿弥陀様は「ブッダの心の解脱」の象徴で、西方浄土は涅槃の世界のことだと
理解しています。また、何かとても偉大なブッダ以外の覚者とも関連しているの
ではないかと思うのですが。そのあたりは想像するばかりで。

「阿弥陀如来の歴史的成り立ち」そういう文献があればぜひ読んでみたいです。

「仏教についての質問に答える際の最低の良心みたいなものだと思います。」
本当に素人談義で申し訳ありません。でもあまり文献を出し合って、
侃々諤々と「さあどっちが正しい」という議論はしたくないんですよね。
もちろんそういうお話も大切なのでよろしく。
私は本は調べず、雑談風に書かせて頂きたいと思っています。
 
522:04/08/28 10:09 ID:Il7HQfiE
>>518 こんにちは。
ブッダの初転法輪でコンダンニャ(五人の比丘の一人)がまず悟りますよね。
そして多くの仏弟子達が涅槃を得た。私はその人たちの悟りは全くブッダと
同じだと思っているんですよ。後世の仏陀の分類?は捏造?だと。
こんな風に決め付けてはいけませんけど、初期仏教に無かった概念がどんど
ん出てくると眉に唾をつけてしまうんですよね。初期仏教の概念が整理され
体系化されている場合は良いとは思うのですが。

仏教に関しては初期仏教が主、後世の仏教が従だと思っています。
無上無穢の涅槃は誰が得ても変わりないと思っています。
このあたりは平行線で申し訳ありません。
523けちゃっぷ:04/08/28 10:52 ID:s+ar5FF9
>251 1さん、517は僕じゃないですよ。
真理は、ブッダ釈尊が創ったものではなく、発見したもの。だから、過去にも、外の世界にも、同じく発見した仏が、いるにちがいないと想定したのですね。
524けちゃっぷ:04/08/28 10:58 ID:s+ar5FF9
インドでは、天から地獄までで1セットの我々のいるような世界が、銀河のように無数にあるだろうという世界観でした。また輪廻は常識だったので、ブッダの生きている世界に往きたいと願ったのでしょう。
525けちゃっぷ:04/08/28 11:02 ID:s+ar5FF9
我々のシャバ世界の仏(ゴータマ・ブッダ)は亡くなった。だけど、仏の生存する世界に往けば、仏に直接弟子入りして学ぶことができると考えたのです。阿弥陀仏は、無数の仏達の総称であるのかもしれません。
526:04/08/28 12:45 ID:Il7HQfiE
>>518 さん、
「声聞、縁覚、阿羅漢、二乗、一乗」など、時々目にするこれら用語。
以前から気になっていたのですが、勉強はしたことは無かったのです。

今回、手元には本はないのでネットで調べて見ました。う〜ん、私が
知っている仏教とは別の世界ですね。「敗種」とか恐ろしい単語があっ
たりとか。
でも、仏陀の教えを正しく守っていれば「敗種」にはならないと思いますよ。
ブッダ・ダルマ・サンガに対する信もないのに形だけ出家修行者の如く振
舞う。あるいは下品(げぼん)の者でありながら上品の修行に手をつける。
そういう人が、貶められている二乗の悟り??を得るかもしれない。
(そんなもの悟りでもなんでもないけど)
でも法華経には「二乗作仏」なんて便利な?機能があったりして、なかなか
後期の大乗仏教は複雑ですねえ。

原初仏教には、正しい仏陀の出家修行者と、正しい仏陀の在家修行者が
あるばかりです。間違った考えで修行の真似事をやっている方達は、もともと
仏道修行者ではないのです。まずは「ブッダへの信」が必要。
527:04/08/28 12:46 ID:Il7HQfiE
↑ >>519 でした。
528:04/08/28 12:51 ID:Il7HQfiE
>>520 さん、また分かりやすく教えてくださいね。

私は(大雑把ですが)出家修行者は涅槃を求め、在家修行者は涅槃界を求める
と思っています。
529名無しさん@3周年:04/08/28 17:55 ID:fagDWIzV
「アーナンダよ。どのような道理によって、修行完成者・真人・正しくさとりを開いた人に
ついては、人々がかれのストゥーパーをつくってかれを拝むべきであるのか?アーナンダよ。
〈これは、かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いた人のストゥーパーである〉と思っ
て、多くの人の心が浄まる。かれらはここで心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、
善いところ・天の世界に生まれる。アーナンダよ。この道理によって、修行完成者・真人・
正しくさとりを開いた人については、人々がかれのストゥパーをつくってこれを拝むべきで
ある。」そのように道理があって、信仰があり、心が浄まる。

その道理は、ブッダと真理の教えに対して信仰心ありに通じるものです。
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみをしない人々が、ブッダと
真理の教えとに対して信仰心あり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているならば、
かれらは天界に生まれて、そこで輝く。」

修行僧があの世とこの世の利益を望み、修行によって地獄に生まれると戒められ、「あの世
もこの世も望まない」心が清浄であり、「願い求める欲念」によりまた地獄に生まれると戒
められ、願い求めない心を目的とするように、人々は願い求めない心によりブッダを信仰し
なければ、天にも生まれることができない。人々は願い求める心により信仰すれば、心が浄
まらず不浄になるばかりで、畜生か餓鬼界か地獄に生まれるかもしれない。

530名無しさん@3周年:04/08/28 17:56 ID:fagDWIzV
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、
一切のものが従属した。」「六つのものが生起するときに世間が生起して、六つのものがあ
るときに、交際をなす。六つのものに依拠して、六つのものにおいて世間は害われる。」
「六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのもの
に執著しており、世界は六つのものに悩まされる。」「世間は五種の欲望の対象があり、意
の対象が第六であると説き示されている。」

ブッダと清浄な行者たちは、その世間から離れ、森に住み、心静まり、日に一食を取るだけ
であり、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足している。天の世
界に生まれる者は、世間と六つのものの貪欲から離れねばならないが、多くの人々はそのブ
ッダと修行僧の行いとを尊敬し、心が浄まる。それが道理。教えについて、「あれが正しい、
これが正しい」と言って迷うことはない。迷えば、迷ったまま、一切の束縛から離れねばな
らない天の世界に生まれることすらできない。
531ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/28 17:57 ID:fagDWIzV
「アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがって実践
し、正しく実践して、法にしたがって行っている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊び、
尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。アーナンダよ。それ故に、ここでわれ
らは理法にしたがって実践し、正しく実践し、法にしたがって行う者であることにしようと、
お前たちはこのように学ばねばならぬ。アーナンダよ。」

ブッダは、世を去って成仏した。「一切皆苦」であり、供養されるべき人間は、今生きてい
る人間なのある。その供養されるべき人間が、死んだ人間を供養し、正しい道に進ませるこ
とが可能かどうか。道理に従わない教えを重んじることにより、天にも生まれることができ
ない者となる。

そこで、自分自身を供養するつもりで、法の行いが必要になってくるのである。
「生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、それの出離で
あって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみの止滅であり、つくるはたらきの静まった安
楽である。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無い境地。これが最上の究極であ
り、無上の静けさの境地である。」その究極の安らぎの世界にもとづき、
「ここに遠ざかり離れることにもとづき、欲情を離れることにもとづき、止滅にもとづき、
煩悩を捨て去ることに向かう〈正しい見解〉を修め、〈正しい意向〉を修め、〈正しいこと
ば〉を修め、〈正しい行動〉を修め、〈正しい生活〉を修め、〈正しい努力・正しい落ち着
き〉を修め、遠ざかり離れることにもとづき、欲情を離れることにもとづき、止滅にもとづ
き、煩悩を捨て去ることに向かう〈正しい精神統一〉を修める。」
5321:04/08/29 07:41 ID:SWxxAwEO
>>529 さんこんにちは。

人はこの世の安楽と、あの世の幸せを望むものです。
しかし、ニルバーナは、この世の幸せも、あの世の幸せも、すべて虚妄で
有ると知るところに有ります。この世とあの世に執着のある人には、ニルバーナは
訪れません。

翻って私たち在家の修行者はどうでしょうか。この世とあの世への執着を
捨てきれるでしょうか。捨てきれたら立派な出家修行者になれますよね。捨てきれ
ないから在家で仏道を行じているわけです。
自分の来世がどうなってもよいと思っているでしょうか。それも無いですよね。
安楽な天に生まれたいと思うか、あるいは死後の世界なんて無いさと思うかどち
らかですよね。

この世とあの世への執着を断てない私たち。口でそう言ったところで、心の中で
「断った!」と無理やり宣言したところで、決してその執着を断てない私たち。
そういう私たちには救いは無いのでしょうか。

そうでは有りません。仏陀はそういう私たちでも、ブッダ・ダルマ・サンガに
深い信仰心を持って、在家の戒を守り、ブッダ・ダルマ・サンガに仕えるならば、
不還となって天に生まれ幸せな天界でニルバーナを得る、あるいは一来、七来と
なって天・人を往復しながらいずれニルバーナを得る。そういうニルバーナに
いずれは至る世界(涅槃の世界)に属することができると教えているのです。

この世への望み、かの世への望みは人は等しくみな持っているものです。
もともと持っているんですね。それを捨て切れればそれで良いし。捨てきれ
なくても修行の道はあると言うことです。
529さんはどちらなのですか?私はどちらも捨てられません。この世からも、
あの世からも「絶望してではなく」、とても静かな気持ちで離れるのが一番
良いのでしょうが。
5331:04/08/29 07:59 ID:SWxxAwEO
>>530 さん。最初の段落は後世の仏教で言うと「十二因縁」ですね。

検索してみました。
十二因縁
無明;まず迷妄有り
行;意思意欲が生じ
識;認識力が生じる
名色;ものをものとして捉え(素粒子の集合に過ぎないのに)
六入;眼・耳・鼻・舌・身・意(五感を心)という道具で
触;認識し
受;味わい
愛;楽しんでしまう(嫌悪するのも、愛の一種?)
取;執着が起き
有;あなたは一つの存在となる
生;生起した存在はいずれは滅びるものであり。
  (滅びるべき存在=生、命)
老死;老死が待っている

無明の有る限り続く
5341:04/08/29 08:02 ID:SWxxAwEO
>>530 後半の部分は、ダイレクトにニルバーナを得る人の話ですね。
在家修行者には、段階的にニルバーナに近づく方法が有ります。
逆上がりもできない人間に月面宙返りは無理ですよね。
5351:04/08/29 08:02 ID:SWxxAwEO

逆上がりもできない人間=私自身のことです。
5361:04/08/29 08:18 ID:SWxxAwEO
>>531 ニルバーナを見たさんこんにちは。

「修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも」
仏道修行者にはこのような分類があります。四双八輩でした?

「理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行っている者」
修行者の種類によって「理法」(おしえ)は異なっています。

「修行完成者を敬い、重んじ、尊び、尊敬し、最上の供養によって供養してい
るのである。」
ブッダ・ダルマ・サンガのうち、ダルマの実践が最も大切。

二段目は、あなたご自身が、仏陀の供養も、先祖の供養もしたくない!
ということの表明ですね。
私はとても大切なことだと思っています。

三段目は後世の言葉でまとめると八正道。四念処から始まる三十いくつの
修行法のうちの一つ。四念処、四正勤、、、、、八正道。(間は忘れました)。
主に出家の修行法ですよね。でも在家が実践して悪いということは無いし、
特に八正道は在家でも可能ですよね。「正定」なんてちょっと難しすぎるけど。
四念処は病院で心理療法に使っているところがあります。下手に使うと余計ノ
イローゼになりそうな気もするのですが。
5371:04/08/29 08:20 ID:SWxxAwEO
>>533 訂正

(五感を心)→(五感と心)
5381:04/08/29 08:30 ID:SWxxAwEO
>>536 四双八輩の件は間違いでした。
阿羅漢、不還、一来、七来(四沙門果?)とその男女のことだったかしら。
4双×2(男、女)=8輩。(不確かですみません)
539名無しさん@3周年:04/08/29 12:03 ID:1amoWn/H
test
540ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/29 12:08 ID:DNLszhSR
>>532
悪魔・悪しき者は、神の子ヴェータンバリにこっそり忍び込んで、尊師のもとで次の詩をとなえた。
「苦行と厭い離れることに専念し、ひとり遠ざかって暮らす生活を守り、物質的なかたちに執著し、
神々の世界を喜び、それらの人々は、来世のために正しく教えさとす。」
尊師は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以って答えた。
「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、それらは
すべて悪魔ナムチの讃めたたえるところである。魚を殺す(魚を釣る)ために餌が投げ込まれたの
である。」

悟りを目指すとあるように、目指すから天への道が開ける。そして、それは一切の所有物に愛着も
なく、五感の対象の喜びもなく、意の対象の喜びもなく、情欲もなく、あの世もこの世も望まぬ心
であり、願い求めぬ心である。「修行僧は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。」


541ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/29 12:09 ID:DNLszhSR
在家者は、ブッダと真理との教えとに対し信仰心を持ち、修行者の行ってきたことに尊敬心を持ち、
情欲もなく、貪欲もない方向に向かう。方向が大切であって、どれだけというのはその人の努力次
第。とにかく、物質的なかたちに執着し、神々の世界を喜ぶことが、悪魔に従うことであり、それ
らは止めるべきだが、何かを信じて安楽な世界を目指すのは問題ないだろう。しかし、信じるだけ
で、情欲をも捨て去らないままでいるならば、畜生界などに生まれるかもしれない。

「他人が解脱させてくれるのではないからである。」それは正しい道理だが、それぞれの人の努力
次第で、天に生まれるか、人間に再び生まれるか、畜生などに生まれるか否かは、死んでからわか
ることでしょう。本当の結果は、死んでからしかわからない。だから、それぞれの人が信じる道を
歩めばよい。
542ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/29 12:10 ID:DNLszhSR
そして、人に説明する場合は、「私の信じるもの」が正しいとただ言うのではなく、人に勧めるの
ではなく、道理をもって説明することが一番大切でしょう。そして、多くの人が納得できるように
説明する。そして、迷わせない。迷ったままの人は、悟りという道から大きく外れる。
「道理を語らない人々は、善い人々ではない。情欲と怒りと迷妄とを捨てて、道理を語る人々は、
善い人々なのである。」悪しき者とならぬよう気をつけて道理を語ること。
ただ「これを信じて下さい、救われますから」などと言うことで、人の迷いと疑念と不信仰を生み
出す。そして、「他のものを信じて下さい、救われますから」という人々と対立し、争いも起こる。
「道理を語らない人々は、悪しき人々である。」
仏教は道理を語るから、迷わない。理法に従って行うことを重んじるから、争わないのである。
道理も語らず、信じるものの対象物の違いにより、「救われる、救われない」とすることで、現に
戦争も起こっている。
悪しき者とならないように、ブッダの正しい意向を重んじ、道理を語り、全ての人々にわかり易く
納得するように心がけるのが肝心でしょう。道理を語り、迷わせないようにするのが、ブッダの教
えであるから。そして、それに従うよう努力し、天で一切迷わない悟りの世界に生まれる。
543ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/29 17:58 ID:UjG8gN02
四念処

 1.この身は不浄である
 2.感受するものは苦しみである
 3.心は無常である
 4.すべての事物は非我である

   という四つのことを心に思い浮かべる修行

 身体は不浄である
  鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢
  とを排斥する。また身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、
  親族もこれをかえりみない。人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、種々の汚物が充満
  し、ここかしこから流れている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、
  また他人を軽蔑するならば、かれは見る視力が無いという以外の何だろう。

 およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起こるのである
  楽であろうと、苦であろうと、内面的にも外面的にも、およそ感受されたものはすべて、こ
  れは苦しみであると知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅する
  ことを認め、このようにしてそれらの本性の認知する。
544ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/29 17:58 ID:UjG8gN02
心を悪の起こるところから離れる
  妄執により、人の心が走り廻る。その妄執に従う心から離れること。しかし、心をあらゆる
  事柄から離れるように抑制すべきではない。すでに自制されている心を抑制すべきでない。
  悪の起こるところから離れるように、それぞれの場合ごとに心を抑制すべきである。しかし
  ながら、諸々のつくられた事物は、すべて無常である。生じては滅びる性質のものである。
  それらに囚われる心も無常なのである。

 一切の事物は我ならざるものである
  非我なるものを我と思うことなく、「個体」に執著することなく、安らぎは虚妄ならざる真
  理であると心に思い浮かべる。一切の事物に我が囚われ、或るものをああだろう、こうだろ
  うと考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。何となれば、その愚者のその考え
  は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
  安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは、実に
  真理を悟るが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。
  最終的には、天に入る者は、安らぎという最上の喜びに入るのだから、それを我と心得て、
  取るに足りない、この世の事物にああだろう、こうだろうと迷うことも少ない。
  
545名無しさん@3周年:04/08/29 19:11 ID:DNkoGD0I
法華経
 人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々
 の苦悩に遭遇しているのである。かれらは、現世においては切望
 しているもののために、また来世においては獲得しようとしてい
 るもののために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界に生まれかわっ
 て、種々さまさまな苦悩に遭うであろう。

地獄や畜生の胎内やヤマという世界に生まれてしまうのは、他の経典
では、どのような理由からか。同じか、違うのか。
546名無しさん@3周年:04/08/29 19:28 ID:aviGWDjk
大英博物館だったか、どこだったか忘れましたが、
なにやら由緒ある博物館に所蔵されている、
ブッダ釈尊の肖像画なる画像を入手したのですが、
これって本当に釈尊なんですか?
いわゆる仏画などとちがって、極めて写実的に
描かれています。
うるおぼえですが、釈迦が王子の座を捨て、
王城を去るときに、悲しみのあまり、せめてもと
父のスッドダーナ王が、国一の絵描きに書きとど
めさせたもの、みたいな話を聞きましたが。
ほんとなんでしょうか??

是非、アップローダーにでもうpして、ここの
皆様に鑑定していただきたいのですが。
でも、ご尊顔をデジタルデータにして、ネット
上にうpするなどということが、はたして許さ
れるのか・・・。
もし許されるなら、どこかよいアップローダー
を紹介してください。
547名無しさん@3周年:04/08/29 19:51 ID:r5UsDgnU
法華経
 三十二の偉大な人間の吉相を具えて、蓮華の胎内にある獅子座に坐った。
 幾千万億という多くの求法者が出現した。そして、これらの求法者たち
 は、幾百千の世界において、四万八方に拡がり、いずれの方角において
 も空中にとどまったまま教えを説いた。

三十二の吉相とはどんな顔だろう。空中にとどまったまま教えを説いた。
これは、シャーキャ=ムニ如来を神格化し、後々の人々に教えを伝える
ものなのだろう。しかし、三十二の吉相は本当かもしれない。見てみた
ような気もする。
548名無しさん@3周年:04/08/29 20:04 ID:r5UsDgnU
法華経
 諸君、怖れることはない。怖れることはない。われわれに安心を
 授けられる偉大な志を持つ求法者アヴァローキテーシュヴァラを、
 われわれは声を揃えて一緒に呼ぼう。そうすれば、諸君はたちど
 ころに盗賊や敵どもの恐怖から免れることができよう。

 悪意のある者が誰かを殺そうとして、火坑に落とし込んだとして
 も、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、水をかけられ
 たように、火は消えよう。

 悪意を抱く者が誰かを殺そうとして、メール山の断崖から突き落
 としたとしても、アヴァローキテーシュバラを心に念ずれば、太
 陽となって虚空にとどまる。

なんか元気の出そうな感じがする。
549 ◆tsQRBnY96M :04/08/29 23:29 ID:Ci00GJ5m
>>548
初期の仏教の教えからみると、その法華経の考えは、否定されるような気がします。
550名無しさん@3周年:04/08/30 00:17 ID:JrkEW6Hl
出家したらどうっすか?
551名無しさん@3周年:04/08/30 06:03 ID:FNTqdQx8
けちゃっぷは悪い童貞だ。
5521:04/08/30 06:32 ID:TgdD9p4u
>>548 観音経ですよね。「念彼観音力」で検索したらありましたよ。
みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんげ
妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈

せそんみょうそうぐ がこんじゅもんぴ ぶつしがいんねん みょういかんぜおん
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
ぐそくみょうそうそん げとうむーじんに にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょほうしょ
具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所
ぐぜいじんにょかい りゃくこうふしぎ じたせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
がいにょりゃくせつ もんみょうぎゅけんしん しんねんふくうか のうめつしょうく
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
けしこうがいい  すいらくだいかきょう  ねんぴかんのんりき かきょうへんじょうち
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
わくひょうるこかい りゅうごしょきなん ねんぴかんのんりき はろうふのうもつ
>悪意のある者が誰かを殺そうとして、火坑に落とし込んだとして
>も、アヴァローキテーシュヴァラを心に念ずれば、水をかけられ
>たように、火は消えよう。

わくひょうるこかい りゅうごしょきなん ねんぴかんのんりき はろうふのうもつ
或漂流巨海 龍魚諸難鬼 念彼観音力 波浪不能没
わくざいしゅみーぶ いにんしょすいだ ねんぴかんのんりき にょにちこくうじゅう
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
>悪意を抱く者が誰かを殺そうとして、メール山の断崖から突き落
>としたとしても、アヴァローキテーシュバラを心に念ずれば、太
>陽となって虚空にとどまる。
(太陽の如くですよね)


5531:04/08/30 06:35 ID:TgdD9p4u
>>548 法華経の教えはとても優れていると思います。
ただ、菩薩行と仏陀への帰依が前提だと思うのですが。
日蓮系で「題目だけでよい」と単純化してしまったのが
問題の元だという気もします。それと法華経は来世
成仏ですよね。
554:04/08/30 10:10 ID:Pw5dCI6y
>>545 さん、ヤマの世界と言うのが分からないのですが。
「六道をさまざまに輪廻するよ」ということでしょうね。
555:04/08/30 10:11 ID:Pw5dCI6y
>>546 テレビの「何でも鑑定団」でもそういう場合は大体にせものですよね。
556名無しさん@3周年:04/08/30 10:25 ID:FNTqdQx8
その絵は何に書かれてん?
当時は紙がありませんよね。
後の時代のガンダーラ美術じゃない?
557名無しさん@3周年:04/08/30 10:28 ID:G7nc5DSc
うpしてよ〜。みたいよ〜。
お釈迦さんは慈悲深いから、
そんなことで怒らないよ。
558:04/08/30 12:07 ID:Pw5dCI6y
>>547
「三十二の吉相」
南方仏教聖典とかに詳しいですよ。
荒唐無稽で悲しくなるような記述ですけど。
初期仏教にはああいう表現はありませんよね。
559:04/08/30 12:23 ID:Pw5dCI6y
>>544 ニルバーナを見たさんこんにちは。
ずっとコメントを読ませていただくと、やはり出家の修行法に
とても惹かれていらっしゃるみたいですね。出家と言っても、
ブッダ当時の純粋な出家ですよね。でも、今の日本では、そう
いう修行者を受け入れる場所がある
のだろうか。
それと、ブッダ・ダルマ・サンガに対する信を確立しておかな
いと、○○○の如く邪道に陥りますよね。
560:04/08/30 12:26 ID:Pw5dCI6y
>>556 ブッダって人種的にモンゴロイドだという話もありますよね。
561名無しさん@3周年:04/08/30 14:55 ID:Xaot9dAJ
>>533
1さん。こんにちは
なにより、無明を詳しく知る事をしないと先にすすめないのではないでしょうか
過去レスにPCのOSで喩えていますが、方便はいつまでも方便で
捨てることをしないといけないと
あなたの書き込みをみて気づきました。
562名無しさん@3周年:04/08/30 17:57 ID:jF4gNiO7
148 :1 :04/08/12 05:58 ID:+JEcC8w/
>>129 たしかに病気は怖い。私自身は薬師如来に祈る。「オンコロコロ・・・・」。
友人や家族や知り合いには絶大な効果がある。でも自分自身のこととなると「祈って
治るのだろうか」と不安になることもある。仏さまを疑ってはいけないのだけど、
自分自身の事となると盲目で客観的に見れなくなる。
(もちろん最高の医療を受けた上での話ですが)

 
 1は、ただの御利益主義
563ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/30 20:51 ID:zx4QewqE
「諸君、怖れることはない。怖れることはない。われわれに安心を授けられる偉大
な志を持つ求法者アヴァローキテーシュバラを、われわれは声を揃えて一緒に呼ぼ
う。そうすれば、諸君はたちどころに盗賊や敵どもの恐怖から免れることができよ
う。」法華経

「この世において死も生も存しない者、―かれは何を怖れよう、何を欲しよう。」
スッタ二パータ
「さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は
生存の矢を断ち切った人である。」感興のことば ニルヴァーナ

ニルヴァーナに到達した人は、もはや死もない境地に到達する。恐れること無く、
疑いが無い。恐れも煩悩であり、修行僧は修行によりそれらを断ち切る。
悪魔ナムチの黒き魔の攻撃軍は、第一(欲望) 第二(嫌悪) 第三(飢渇) 第四
(妄執) 第五(ものうさ、睡眠) 第六(恐怖) 第七(疑惑) 第八(みせかけ
と強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人
を軽蔑すること)
564ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/30 20:52 ID:zx4QewqE
恐怖も煩悩である。そして、「手むかうことなく罪咎の無い人々を恐れさせること」も、
愚か者のする行為であり、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。しかし、愚かな者は、
悪い行いをしておきながら、気がつかない。

法華経で「アヴァローキテーシュバラ」を呼ばせることも、恐怖というものを取り除か
せる行為であり、実際は「殺そうとして、誰かが金剛づくりの山の大石を頭に投げつけ
としても、アヴァローキテーシュバラを心に念ずれば、一本の毛髪さえ害うことはない。」
ということは起こらないだろうが、疑いなく信じることで、災難からの怖れをなくする
ということだろう。(恐怖から免れることができよう)

そのようなものが菩薩などを拝むことで利益を得ようとする仏教となった一因だろう。し
かしブッダは、それらと類似した行為を「かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。
利益を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供儀に専念している者
どもは、この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えていない。」神々
に献供することも、犠牲を捧げることも、菩薩に自分の命の存続を願い求めることも、老
・病・死の根本的解決にはならなような気がする。人それぞれだが。

しかし、特定のものを信じないだけで、あなたは救われませんという宗教よりは、仏教の
菩薩を拝むことは、他人を怖れさせる悪を行わず、自ら信じて安心を得るならば道理に適
っているとも言えるだろう。そして、他のものを拝んでいる者を排除しないことで争いの
要因をつくらない。
565名無しさん@3周年:04/08/30 21:34 ID:IXxzbBYV
>>553
現世成仏した人がいるんか?この日本で。
566名無しさん@3周年:04/08/30 22:47 ID:JrkEW6Hl
あんた輪廻転生肯定派?
死後の世界(天国や淨土)肯定派?
567:04/08/31 10:13 ID:xu87vK0N
>>561 さん、こんにちは。

「無明を詳しく知る事」

無明は「根本煩悩」と呼ばれます。すべての煩悩の大本。
その根本煩悩である無明を元に色々な随煩悩が生じてくる。
それを、初期仏教では上の5つの縛め、下の5つの縛め。あわせて
10個の縛め(いましめ)と言いますよね。

煩悩は下のほうから順々に切れてくる。一番下の3つの縛めは、

「自己の見解に執着すること」
「仏陀や仏陀の教えを疑い惑うこと」
「さまざまな無意味な教えや宗教や決まりにとらわれること」
仏陀の教えは上記の「無意味な」には当てはまりません。

無明と言うのは物事がちゃんと分からないことです。諸行無常なのに、
どうしても諸行無常とは思えずとか。それをいくらこねくり回しても
無明からは逃れられない。まず下の3つの縛りから逃れることが大事
だと思っています。

色欲とか物欲はもう少し上位の煩悩なのです。
568:04/08/31 10:25 ID:xu87vK0N
>>562 さんこんにちわ。 

「ただのご利益主義」

ただのご利益主義になるとだめなんですよね。
ご利益をいただくには、ちゃんとした菩提心がないと。
仏陀を信じる心、仏陀の教えを学ぶ心、ニルバーナを求める心、
人のために祈りつくす心。
最初は自分のために祈願するだけでも良いと思うけど。
569:04/08/31 10:45 ID:xu87vK0N
>>564 ニルバーナを見たさん、だんだん文章が・・・・になってきたよ。
570:04/08/31 10:46 ID:xu87vK0N
>>565 ニルバーナを得るのは仏教のゴールだから。
571:04/08/31 10:47 ID:xu87vK0N
>>566 さん、仏教は、輪廻転生や来世のことを解決する教えですよ。
もちろん今生もだけど。
572名無しさん@3周年:04/08/31 18:11 ID:faBcKAcR
アヴァローキテーシュバラを素直に声を揃えて呼べばいいじゃん。
573名無しさん@3周年:04/08/31 18:13 ID:faBcKAcR
経典に書いてあることは素直に行うこと。みんな素直じゃないな(w
574566:04/08/31 18:30 ID:lJ1POrdg
>>571
あなたは、>>565さんですか?
それとも別の方?
「現世以外の何処で成仏すると言うのか?」
と疑問に思っただけです。
575ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/31 21:49 ID:08W70FTJ
「修行僧たちよ。四つのすぐれた真理をさとらず、通達しないが故に、この長い時間に
わたって、わたしもお前たちも、このように流転し、輪廻したのである。」
(苦しみ)(苦しみの起こるもと)(苦しみの止滅)(苦しみの止滅にみちびく道)
「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。
人は、苦悩から解脱しないのである。」

悪しき者「あなたがたは、人間の愛欲を楽しみなさい。現在経験されることを捨てて、
      未来の時に得られることを追求なさるな。」
修行僧「われらは、現在経験されることを捨てて、未来の時に得られることを追求して
    いるのではありません。われらは、未来に得られることを捨てて、現在に経験
    されることを追求しているのです。愛欲は、時間に属するものであり、苦しみ
    多く、悩み多く、禍いであり、ここでいよいよ烈しくなるものだ。」

「人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々の苦悩に遭遇してい
るのである。かれらは、現世においては切望しているもののために、また来世において
は獲得しようとしているもののために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界(死者の世界)
に生まれかわって、種々さまざまな苦悩に遭うであろう。」法華経
576ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/31 21:50 ID:08W70FTJ
「この世もかの世も望まない」「かれら(修行僧)は、過ぎ去ったことを思い出して、悲
しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らし
ている。それだから、顔色が明朗なのである。」

在家者でも、今現在が大切であって、快楽や愛欲の耽溺、貪欲のために生きないこと。
なぜ快楽や愛欲の耽溺、貪欲のために生きないことが大切なのかは、彼岸には快楽や愛欲
もなく、欲望もなく永遠に喜びであるから。しかし、人はかの世を思い、今現在の安らぎ
を思わないならば、善いところに生まれることができないかもしれない。(ブッダはかの
世も望まないと言っているから)

菩薩心― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ― 
人はその思いでいるならば、本人も不幸にならないだろうとも思えてくる。完全に解脱し
その菩薩心に到達したブッダは神通力を得ている。人の幸福、安穏、安楽を思う心は、そ
の神通力に近いもので自らを護れる可能性がある。現実的には、自分のことでくよくよ思
い悩むよりも、人の幸せを思うことで喜びを感じる者は、悩みも少ないだろうし、安楽で
はないか。
577ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/08/31 21:51 ID:08W70FTJ
快楽や愛欲の耽溺、「色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに
思考の対象たるものと、―これらは世人をおびきよせる恐ろしい餌である。」それらが悪
魔の餌とされる。それらが、恐怖と迷妄とを生み出す。
「かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、死時には苦し
みにおそわれて悲嘆する、―『ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか』と。」

それらから離れて在家者は、「今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気
持ちもよく起き上がった。」という清々しい心をいつまでも保っていなければならないで
しょう。恐れや迷いがあるならば、今が地獄でもある。
578名無しさん@3周年:04/09/01 11:01 ID:LvFYC+Ut
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、
お釈迦様のその心を身につけるのが仏教の修行の目的かもしれないな。
人間は自分のことに悩み苦しむ、人の幸福と安穏と安楽を願う心によ
って苦悩を消滅しようとする試み。それが、愚かな人間にはわからな
いのだ、ということだろう。宗教とは、人間界を超越した心を教える
ものだ、ということで。そして、学ぶだけでなく、身に着けることだな。
人の幸福と安穏と安楽を願う人が、この世界に多ければ多いいほど、
世界は幸せになる。人の幸福と安穏と安楽を願う心は、死後の世界に
もあり、全世界共通のものとわかれば、誰もそれは違うと言えないわ
けだ。少なくとも永遠の命を信じる人々にとっては...............
そして、それを身に着けた人間は、死後も成仏できるとか言えば、そ
れぞれの人が互いに、人を幸福にしたり、安穏にしたり、安楽にした
りを行うようになる。全ての人々が互いに助け合い、全ての人々が今
生きているうちにも幸福になる論理。

仏教はそういう方面なら素晴らしいと言えよう。


579:04/09/01 11:14 ID:ohe1xOLC
>>574
566さん、こんにちわ。

>「現世以外の何処で成仏すると言うのか?」
> と疑問に思っただけです。

原初仏教では、出家者は現世成仏(その生でニルバーナを得ること)を
目指します。それがダメな人でも、
不還(二度とこの世に戻らず)、
一来(一度天・人の世界を往復して)、
あるいは七来(七度天・人の世界を往復して)ニルバーナを得るという
ことになっています。
それ以外の人は、六道輪廻(三つの悪い世界も含む)を続けなければな
らない。

法華経は現世成仏は放棄して、来世ですばらしい法話を聴聞してニルバ
ーナを得るという事になっています。

浄土宗ではどうなんでしょうか(あまり知らないのですが)。

*七たびというのは、必ず七回と言う意味ではなく「何回も」と
言うことらしいです。
580:04/09/01 11:15 ID:ohe1xOLC
>>573 経典にも色々あるし、経典間の矛盾もあるし。
そのあたりはちゃんと調べないとまずいと思う。
581名無しさん@3周年:04/09/01 11:43 ID:LvFYC+Ut
しかし、仏教は信じる対象物があやふやで、みんな勝手な思い込みによって、
信仰してしまうから、天国に行けないようになるのかもしれんのだ。盲人は
見え、足なえは歩き、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、多くの財産のあ
る者に、貧しい人々に分けてあげなさいと言われたイエス・キリストをあが
めなさい。
この世の幸福と安穏と安楽を願ったとしても、この世には不幸な人もいるし、
みな幸せとは限らないのだよ。天では、イエス・キリストが現されたように、
みな平等に幸福なんだ。この世の幸福と安穏と安楽を願うことは大切だろう
が、この世を去る時、その幸福から離れねばならないだろう。さあ、どうす
る?この世の幸福に浸っている人々は、この世からの思いから永遠に離れら
れない。そこに落とし穴があるのではないかな?
この世の幸福への思いも、人間の思いも、全て死とともに消え去ってしまう。
しかし、全ての人々を不幸もなく平等に幸福にされる天の父をまこととし、
あがなう心は永遠なんだ。そして、その人は死後天国に入る。



582混沌坊主:04/09/01 11:45 ID:1NIO3SVt
>>579
 浄土宗では法華経と同じく、現世成仏をあきらめて、極楽浄土で阿弥陀如来の
教えを聞き、そこで成仏しようと考えています。
 浄土真宗ではそこを簡略化し、「最早死んだら仏様」と考えていますね。
 死者を「ホトケさん」というのは、そこからきているとか…
583:04/09/01 11:53 ID:ohe1xOLC
(仏壇仏具と仏壇店というHPから)

釈迦如来(シャーキャ・ムニ)
実在の人物で、仏教の開祖に当たる方です。釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタ
が悟りを得て釈迦如来になりました。初期の仏教ではお釈迦様の姿は描かれること
なく、樹木や塔、法輪、足裏で表されていました。ですが、紀元1世紀からその姿
が描かれるようになりました 。
ガンダーラで作られた初期の釈迦像は、左右に梵天と帝釈天を従えた3尊形式で、
梵天勧請と呼ばれる、梵天がお釈迦様に人々に教えを説くように進める場面を表し
ています。これは、やがて左右の尊格が弥勒菩薩と観音菩薩に置き換えられるよう
になりました。 ですが、釈迦像として最も多いのは、両足を交差させて座り、
大地に手を触れて悟りを得たことを表した成道時の姿です。
他にも、誕生時の童子形や、仏滅時の涅槃図なども表されます。
禅宗の曹洞宗、臨済宗、黄檗宗のご本尊です。日蓮宗でもご本尊と考えることがあります。

584:04/09/01 11:57 ID:ohe1xOLC
>>582 混沌坊主さんこんにちは。
私家のお坊様は「死んだ人は亡者です」と言われています。
「一生懸命供養して初めて仏様になるんだよ」。仏様と言っても、
悟りを開いた仏様ではなく、中有で迷っている状態ではなくなる、
という意味らしいです。
「中有」というのが良く分からないのですが、この世とあの世の間?
585名無しさん@3周年:04/09/01 12:01 ID:Ipif7h0Q
そもそも、地獄や極楽に行くの嫌って思うの?
なんか仏教読んでると、そんな気がしてくる。

おいらは、迷ってる方が楽しいと思う。
586:04/09/01 12:08 ID:ohe1xOLC
【仏壇仏具のHPから】
薬師如来(バイシャジャグル)
東方浄瑠璃世界の教主で、名前の通り諸病、特に眼病を除き延命を願う
如来です。左手に薬壺を持って描かれます。インドでは仏像の作例が見
つかっていませんが、朝鮮や日本では人気のある如来です。


私は知り合いの人に病人が多いので毎日薬師如来様を拝んでいます。
本当に素晴らしく霊験あらたかな仏様なのです。ご尊像は持ってま
せんので、梵字仏(梵字を表装したもの)を礼拝しています。
587名無しさん@3周年:04/09/01 12:10 ID:UXLi9QC4
>>585
そもそも地獄や極楽ってのはないんだよ。
あくまでも人間の心理状態とかを比喩的に
表現しただけ。仏教を信じさせるための方便です。

迷いに迷って何かしらをつかんだらそれもひとつの「悟り」です。
それを積み重ねる事によって人間は成長していくのです。
588名無しさん@3周年:04/09/01 12:20 ID:LvFYC+Ut
偶像礼拝は貪欲他ならない。偶像たるものは存在しない。
しかし、盲人は見え、足なえは歩き、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、
多くの財産のある人に、貧しい人に分けてあげなさいと言われたイエス・
キリスト。そのように天で行われる天の父は存在する。
天で本尊が見えるのかね。釈迦像が見えるのかね。見えるものを拝むことに
より、既に罪を犯している。「あなたがた、見えると言い張るところに罪が
ある」天では、人間が見える偶像もなく、見えるものを拝むことにより、天
国に入れない。
偶像を拝み、「私を天国に連れてって下さい」そう願いお経(呪文)を唱え
るならば、更に罪を犯す。天では、もう自分が存在しないことに気がつかな
いでいる。天ではお経も唱えない。
しかし、不幸もなく全てを幸福にされる父をまこととする心は永遠なのであ
る。「みこころが、天に行われるとおり、地にも行われますように」全ての
人々が、この地も天のように幸福になりますように、祈り求める者は、霊の
世界に通じ、天国に入る。しかし、地上と義としながら、幸福を願うものと
は少し違うのである。
589:04/09/01 12:22 ID:ohe1xOLC
>>585さん、こんにちわ。
仏教って修行しないとダメでしょう。
でも、もし修行しなくても良くて自由に自分の境涯が選べるとする。

1.ニルバーナを得た悟りの世界。
  人間界とは違ってこの上も無く心静かで楽しいらしい。
2.人間界。楽しみも苦しみもあり、人生色々。
3.修羅の世界。戦いに明け暮れる世界。戦いが好きな人もいるよね。
4.地獄や餓鬼や畜生の苦しい世界。
5.あと天の世界もある。天神は清らかだと思うと大間違いで、
  五欲を満たして楽しく暮らしていけるらしい。

あなたはどれを選びますか。
私は躊躇なく1.を選ぶよ。でも付き合っている人間に聞くと、人間界
が良いっていっていた。それが普通だと思う。1.を選ぶ人はとても少
ないのじゃないかなあ? でも4.が嫌だというだけでも仏教をやる
価値はあると思う。
590:04/09/01 12:27 ID:ohe1xOLC
>>587 さん、少なくとも無間地獄(むけんじごく)はあるよ。

私は親が小さいときに死んだんだ。そして親は無間地獄に落ちた。
その恐怖は実の子供(私)に伝わってきたよ。

「真っ暗闇地中の小さな穴に押し込められて、音も無く光も無く
 誰にも会わず、全くの孤独で永遠に生きつづける」。

それが無間地獄だよ。
591:04/09/01 12:32 ID:ohe1xOLC
>>588 偶像自体を「神様・仏様」と思って礼拝すれば偶像崇拝。
そのお御霊(おみたま)を礼拝すれば別に偶像崇拝じゃないと思うよ。
表装した梵字だって、十字架だって、ロザリオだって偶像と言えば、同じく
偶像だよね。

仏陀は「すべての信仰を捨てよ!」と2500年前に宣言した。
すべての信仰を捨ててよ!あなたの神は「迷妄」です。仏陀の教えは
信仰じゃないんだよね。「真理」。天上天下唯我独尊。正しいのは
仏陀の教えのみと仏陀は言われています。
592:04/09/01 12:34 ID:ohe1xOLC
>>588 追伸。ちょっと時間がないのでざっと読んだだけですみません。
書かれたコメントはあとでちゃんともう一度読ませていただきます。
593けちゃっぷ:04/09/01 12:38 ID:oSxZJfSv
仏教は、苦悩の原因となる執着(気にしすぎ)をなくすことで、苦悩をなくします。貧乏なことを気にして自分が不幸と思い込んでる人も、金持ちも貧乏も極楽に往けると知れば、不幸感をなくせます。
594名無しさん@3周年:04/09/01 12:42 ID:Ipif7h0Q
>>530
それは嘘だ。ルサンチマンに凝り固まったような
おいらだと、金持ちも極楽に行けるなんてなんか許せない。
金持ちとお坊さんは、本人が行きたくない地獄に行って欲しい。
おいらは貧乏だから、どっちに行こうが構わないって感じ。
595けちゃっぷ:04/09/01 12:43 ID:oSxZJfSv
神様の世界も、六道輪廻のひとつ。聖書の神様は、仏教における梵天様に相当するんじゃないかと思います。
596:04/09/01 12:48 ID:ohe1xOLC
>>593 けちゃっぷさんって本当に「現世的」だね。

ちょっと出かけます。またね。
597けちゃっぷ:04/09/01 12:50 ID:oSxZJfSv
怒りはストレスの原因(煩悩)ですので、疲れるだけです。金持ちも坊さんも、みんなみんな極楽で幸せになれたらいいね!っていう阿弥陀仏の慈悲に共感できれば、ストレスの原因や人生の苦悩が減ります。
598けちゃっぷ:04/09/01 12:54 ID:oSxZJfSv
金持ちも貧乏人もただの概念にすぎない。価値に差はない。どっちが好いとか分別してしまうのは、仏教の智慧を悟っていない「愚痴」。愚痴もストレスの原因になる煩悩です。どっちでも幸せになれるのです。
599混沌坊主:04/09/01 12:59 ID:1NIO3SVt
>>584
>死んだ人は亡者となり、人々が供養すれば仏になる

 その考えは仏教ではありません。神道です。
 人間は死ぬと、死というケガレをまとった「死霊」になります。定期的に
祭り、穢れをはらっていくと、33年目もしくは50年目には「祖霊」となり、
地域や子孫を守護する神様になります。これが神道の考え方です。

 仏教では根本的に、死後の世界については「無記」という立場をとっています。
死んだ後の世界は、いってみないとわからない。だが行って還ってきた人はいない。
だから考えるだけ無駄。考えないようにしなさい、というわけだ。
 それでも死後の世界を考えてしまう人のために、「死んだ後は仏様の世界に行き、
仏様になれる。だから安心して、しっかり今を生きない」という内容の経典が
作られたのだと考えられています。
600名無しさん@3周年:04/09/01 13:02 ID:LvFYC+Ut
盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞こえ・・・・・
苦しむ者のない世界とそのようにされる存在。
多くの財産のある者に、貧しい人々に分けてあげなさいと言われた・・・・・
富んでいる者も、貧しい者もない世界とそのようにされる存在。
全ての存在を不幸もなく、苦しむ者もなく、病むこともなく、富むこともなく、
貧しくもなく、全て平等に幸福にされる存在。
その世界以上のものがあるのか?
人間のこの世も思いは、死とともに失われる。この世の幸福もだ。しかし、その
世界とそのようにされる父とをまこととする心は永遠なのである。
「みこころが天に行われるとおり、地にもおこなわれるように」全ての人々が、
この地も不幸もなく、幸福になるよう祈り求める者は、永遠の命の世界に通じ、
天国に入るのである。しかし、地上の幸福に浸っている人々は、地の者なのである。
601混沌坊主:04/09/01 13:05 ID:1NIO3SVt
>偶像崇拝
 これはカトリックの神父さんの言葉だったと思いますが…

 神様の像は、偶像ではありません。これは一種の「窓」です。
 窓は、建物の一部ですが、そこを通して外の世界を見ることができます。
窓を見るとき、普通「窓」そのものを見る人はいません。窓に映る「外の
景色」を見るのです。
 建物の中は、私達の世界。建物の外は、神様の世界です。私達は、神様の
像や、十字架を真摯に見つめることで、神様の世界を見ることができるのです。

 これは仏教にもいえますな。
 窓の例えは、鏡とかテレビとかパソコンのディスプレイにもたとえられる。
602けちゃっぷ:04/09/01 13:36 ID:oSxZJfSv
>600 「らい病人は清まり」って言うのは…、現在では差別発言にとられかねませんから、あまり言わないほうがよいかと思います。
清い・汚いの分別も、実体の無いただの概念にすぎません。
603けちゃっぷ:04/09/01 13:49 ID:oSxZJfSv
「奪いあえば足りないが、譲りあえば余る」。同じだけの財産を持っていても、「もっともっと」と欲張れば不満のストレスになるし、今ある分に感謝すれば満足と幸福になる。仏教は、心の持ち様を制御します。
604名無しさん@3周年:04/09/01 13:50 ID:BjwOl5GR
ここは仏教スレじゃないのか…
605名無しさん@3周年:04/09/01 13:57 ID:Ipif7h0Q
>>602
概念にすぎなくは、ないだろ。
概念だとは思うけど、その概念が大切なんじゃないの?
どーしても、やだ、金持ちは不幸になるべきだと思う。
606けちゃっぷ:04/09/01 13:57 ID:oSxZJfSv
貧乏人は貧乏人のままで幸福になれます。病人・ケガ人も、そのままで幸福になれます。それがわからねば、金持ちから財産を奪ってやれという怒りや憎しみになります。中東みたいに。
607名無しさん@3周年:04/09/01 13:59 ID:Ipif7h0Q
>>603
譲り合っても足りなくなってきてるんだけど…
608けちゃっぷ:04/09/01 14:04 ID:oSxZJfSv
過去も未来も今は無いのです。記憶も予想も、脳のデータでしかない。預金通帳の数値が多くても、のどが乾いてる時があります。120円しかなくても、ジュースを飲んでる瞬間は幸せです。感謝が幸せ。
609名無しさん@3周年:04/09/01 14:05 ID:Ipif7h0Q
>>606
それは良いんだよ。貧乏人が貧乏なまま幸せになるのは何の問題も無い。
金持ちが来世で幸せになるのが、駄目なんだよ。
別に財産を奪えとか、金持ちは不幸でいなさいとか、そーゆう話じゃない。
610けちゃっぷ:04/09/01 14:08 ID:oSxZJfSv
>609 それは嫉妬ですか?嫉妬は煩悩ですから捨てたほうが楽では?それに、お腹いっぱい食べられてインターネットができる日本人を金持ちと思う人もいます。日本人は幸せになってはいけないのですか?
611けちゃっぷ:04/09/01 14:11 ID:oSxZJfSv
まぁ日本人も概念にすぎないから実体はないけど。太郎・花子という個人しか存在しないから。一人一人違うのに、ひとつの概念でくくろうとする癖が、分別・差別・愚痴ですね。
612けちゃっぷ:04/09/01 14:14 ID:oSxZJfSv
太郎という個人名も概念にすぎません。実際は入れ代わり立ち代わりの細胞に見える、物質とエネルギーの移動にすぎない。昨日太郎君と呼ばれていた物質が今は水に溶けてるかも。だから生死も概念にすぎない。
613名無しさん@3周年:04/09/01 14:16 ID:Ipif7h0Q
>>612
だ・か・ら、すぎなくは無いって、それが大切なんだってばさ。

>>610
>>610
>日本人は幸せになってはいけないのですか?
はい。駄目だろ幸せになっちゃ。そりゃあこの世で幸せ感じる分には
人それぞれだけど。

来世はしんどい思いしないと駄目だと思うよ。
614けちゃっぷ:04/09/01 14:18 ID:oSxZJfSv
逆に、大きな概念でくくる方法もあります。「人類」という観点で見たら、太郎君が金持ちでも花子さんが金持ちでも同じこと。財布を右手に持つか左手に持つかの差。だからどっちでも喜ばしいことです。
615けちゃっぷ:04/09/01 14:22 ID:oSxZJfSv
どうしたら人生の苦をなくせるかが仏教です。「すぎない」と思えれば、失う悲しみもなくなります。大切にするという執着こそが、人生をしんどくしてるんですよ。ホントは何も大切じゃないのです。気楽に。
616けちゃっぷ:04/09/01 14:28 ID:oSxZJfSv
お金は大切じゃない。だからって貧乏になれと言うのでは、貧乏を大切にしてる。どっちでもいいのです。阿弥陀仏の慈悲は平等なので、どちらでも極楽に往生できます。金持ちをめざしても往生できます。
617けちゃっぷ:04/09/01 14:40 ID:oSxZJfSv
金持ちをめざすのもゲームと思えば、負けて貧乏に終わっても、その「負け」も含めた人生ゲームを楽しめます。健康めざすゲームで負けて病気になっても、ゲームだから不幸じゃない。人生はゲームなのです。
618名無しさん@3周年:04/09/01 15:56 ID:CEVxKrro
金持ちを目指すという目的が間違っているわな。
「金を持つ」ことは目的にはならんでしょ?
「金」って物を買うためにあるんだから。
金持ちが意味を持つのは、目的の物を買って、金を手放した瞬間です。
「金を持つ」ことが目的になるのはただの我利我利亡者。もちろん極楽など
いけるわけがない。
619名無しさん@3周年:04/09/01 16:01 ID:CEVxKrro
何年か前の新聞に、ふとんの上で餓死した身寄りのない老人の記事が載っていた。
ふとんの下の畳を裏返してみると、ウン千万円の現金が出てきたってさ。
その御仁、金の収集熱が嵩じて、とうとう飯代までケチりだした。
挙句の果てに、全額国庫へ没収だ。

いくら阿弥陀仏でも、この種の人間は救えないだろう。本人からすれば、
金を持つことだけが救いなんだからな。
620名無しさん@3周年:04/09/01 17:02 ID:szs++TA8
盲人は見え、足なえは歩き、耳しいは聞こえ、それらの奇跡を起こされたイエス・キリスト。
多くの財産のある人に、貧しいに分けてあげなさいと言われたイエス・キリスト。

仏教徒は、様々な思いで多種多様なあがないの対象をつくり、それぞれ勝手気ままなことを言い出す。
功徳がつくからといって、老人に仏像を買わせたり、死んだ者の供養のために、地獄から救い出すと
いう理由をつけ、高額の供養料を要求する。
それらの信者は、信仰が深ければ深いほど金をむしり取られるわけだ。そして、常に不安を抱いて生活
する、「死んだ親はどうなったのかと」。
神がいないために、自分たちで高額な供養料をお坊さんの言うままに支払い、少し安心を得る。死者を
神任せにできないために、安心が得られない。つまり、宗教詐欺のようなことが起こりやすいのだ。
621名無しさん@3周年:04/09/01 17:26 ID:szs++TA8
自分の利益のために、信仰をするから、功徳という言葉に弱い。仏像を買わされ、功徳
がついたと安心する。それで、成仏か。金持ちほど成仏するということだ。

自分のために修行し、または自分のために信仰し、つまり自分の欲得のために信仰してい
る。天国では、自分自身がなくなるということに気がつかない。
ただ、全ての存在が不幸もなく、平等に幸福になる世界とそのようにされる父をあがない、
喜ぶ者だけが天国に入るのだ。
しかも、地上の幸福を喜ぶ者は、地上の存在でしかあり得ない。
いくら、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと思っても、天を現された父をあがなわない
限り、地のことをまこととし、自分に負け、天を思う心から離れて行く。
だから偶像を作ったとしても、偶像も天には存在しないものだから、地のものでしかあり得ない。
偶像礼拝によって、自分を天国へ行けるように願っても、更に自分を愛する心を助長し、更に
欲求を増すだけだ。

622名無しさん@3周年:04/09/01 17:30 ID:g3Gf2RX2
「奇跡を起こす」などと言う詐欺師よりはマシかも…
623名無しさん@3周年:04/09/01 17:57 ID:Ipif7h0Q
今ここに宣言する。
金持ちは絶対極楽にも天国にも行けない。

じゃあてんで、どっかに寄付しても無駄。出家しても無駄。
金持ちは駄目なんだよ。どんなに頑張っても。
どんなことしても、来世は地獄。これは決まり。
624けちゃっぷ:04/09/01 17:57 ID:oSxZJfSv
もし一度でも、極楽に往きたいと思って阿弥陀仏の名をとなえていたら、往生できてるはずです。悪業のために臨終に心乱れて仏の姿を思い浮かべることさえできない人でも、阿弥陀仏の名を口にすればOKです。
625名無しさん@3周年:04/09/01 18:09 ID:Ipif7h0Q
>>624
創価は嘘つきだと思う。誰も見てないんだから、そーゆう嘘付いちゃ駄目。

お金持ちと、宗教家と、お坊さんは、来世は地獄なのだ。
626けちゃっぷ:04/09/01 18:12 ID:oSxZJfSv
うちは浄土宗です。
金持ちは地獄に落ちろという気持ちが、ストレスの原因なのです。他人が幸福になることで自分が困る理由がありますか?あるとしたら、ただの嫉妬では?
627混沌坊主:04/09/01 18:13 ID:1NIO3SVt
 こういう例え話があります。

 小学校のクラスの出し物で、劇をやることにしました。
 劇の中には、ヒーロー、ヒロイン、脇役、悪役、カタキ役、その他大勢の役があるのですが、
クラスのみんなはアミダクジで決めました。
 劇の中では、ヒーローは大活躍し、ヒロインはみなの羨望を集め、悪役は憎たらしく、カタキ役は
見事にヒーローに打ち倒され、劇は無事に終了しました。
 劇が終了し、みんながクラスに帰ってきたとき、先生は言いました。
「みんな、いい劇だったね。よくがんばった」

 劇の中は、この世界です。アミダクジは、多くの縁です。配役は、私達です。
 この世には多くの人がいます。そしてそれぞれ、自分に課せられた課題を果たそうと
全力で生きています。様々な因縁に結び付けられ、ある人は金持ち、ある人は貧乏、
ある人は政治家、ある人は庶民、ある人は警察官、ある人は犯罪者。様々な姿を
しております。
 しかし、それはいずれも「アミダクジで選ばれた配役」にすぎません。自分の人生を
全うし、舞台から降りた子供に対し、「お前は悪役だったらキライだ」などという先生が
いるでしょうか。「よくがんばった」とほめてくれるでしょう。
 極楽浄土の阿弥陀如来は、そんなお方です。おそらく、他の宗教の救い主も、同じこと
をするでしょう。
 お金持ちは、その人がお金持ちなのではなく、お金を持つ環境に生まれ、お金を失う状況
がなかっただけです。すべては条件・因縁によって生ずるのです。あたかも無数の横線で
行き道が変わるアミダクジのように。
628けちゃっぷ:04/09/01 18:14 ID:oSxZJfSv
同じ極楽往きなら現世で悪を尽くしたほうが得だ…とでもいうのでしょうか?それなら仏教徒として逆です。極楽に往ける上に、この世で菩薩らしく正しく生きさせてもらうのは、さらなる幸せですよね。
629名無しさん@3周年:04/09/01 18:17 ID:CEVxKrro
ところで、けちゃっぷさんや混沌坊主さんは、本気で「浄土三部経」が
ノンフィクションだと信じてるの?
630名無しさん@3周年:04/09/01 18:20 ID:Ipif7h0Q
>>626
嫉妬だけど、ただの嫉妬じゃないよ。

>他人が幸福になることで自分が困る理由がありますか?
幸福になるのは困らないけど、お金持ちになると困るんだよ。
まぁ中にはなって良いお金持ちがほんのわずかにいるけど
(芸術家とか、発明家)それ以外は、ぜーんぶ他人から搾取した
結果のお金持ちなんだから、駄目だね。
坊主なんかは、一切生産しないのに生きてるんだから、生きてるだけで
もう、地獄行き決定。

まぁ、現世で幸せなのは仕方ないけど、来世は地獄なんだ。
631けちゃっぷ:04/09/01 18:20 ID:oSxZJfSv
重要なのは、信じたほうが幸せだということ。不治の病で今日にも亡くなる人に、またその家族に、あなたは悪人だから地獄逝きだなんて言えますか?
632名無しさん@3周年:04/09/01 18:20 ID:CEVxKrro
もし、三十二誓願に「けちゃっぷ」菩薩という名が書かれていたとした
ら、それでも「けちゃっぷ」菩薩の救済を「心の底から」信じられる?
また、貴方達はそれを阿弥陀如来の名にかけて誓える?
633名無しさん@3周年:04/09/01 18:22 ID:CEVxKrro
自分自身が信じていないものを、たとえ方便でも他人に信じさせるのは
詐欺だと思うんだけど。
634名無しさん@3周年:04/09/01 18:26 ID:Ipif7h0Q
>>631
言えるよ、もうすぐ死ぬ人で、お金持ちで、仏教信じてるなら
絶対に言える。

>>633
はげ同。だから坊主は地獄行き。信仰したら、毎月お金振り込んでくれる
宗教なら、坊主は極楽。でもそんな宗教は存在したことが無い。
635:04/09/01 18:30 ID:ohe1xOLC
>>588
>そのように天で行われる天の父は存在する
そんな風に言い切れるあなたがうらやましい。
私は天なる唯一の神を捜し求めたが見つけられなかった。

>天で本尊が見えるのかね。釈迦像が見えるのかね。
私はブッダの魂を礼拝しているよ。

>みこころが、天に行われるとおり、地にも行われますように
キリスト教国はイスラムとの対立で、すでにヨハネの黙示録の世界に
突入していると思うが。天ではあのようなことが行われているの?

636名無しさん@3周年:04/09/01 18:31 ID:CEVxKrro
法然上人の時代には、阿弥陀如来は実在の仏だった。
だから、他に救いがない衆生のために、阿弥陀信仰を勧めた。
しかし、現代人が法然上人の真似をしたら、詐欺師にしかならんでしょう。

心と裏腹なことを言えば、不妄語の戒を犯すことになるから、仏教ですら
なくなるわな。
637:04/09/01 18:36 ID:ohe1xOLC
>>593 けちゃっぷさんこんばんは。

>仏教は、苦悩の原因となる執着(気にしすぎ)をなくすことで、
>苦悩をなくします。

じゃあ、老死も(気にすぎ)。それとけちゃっぷさんて本当の貧困
を知らないでしょう?借金取りに追われたこともないでしょうし。
借金取りは鬼より怖いらしいよ。昨日新幹線の駅でホームレス見たけど。
家もないお金もないと言うのは可哀想なもんだよ。気にしなくても
つらいと思う。
638名無しさん@3周年:04/09/01 18:36 ID:CEVxKrro
仮に、極楽があったとしたら、そこには阿弥陀如来も、法然上人も、
揃っているだろうけど、現代の坊主はひとりも見当たらないだろう。
>>634みたいに地獄落ちとまでは言わんけどな。
639:04/09/01 18:41 ID:ohe1xOLC
>>594 さん、>>530はニルバーナを見たさんが書いているんだと思うけど。
出家の最終的な目標がテーマのコメントだから、あまり一般人には関係ない
と思うよ。

*ルサンチマンってなんだろう?調べてみた。
怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内向して心に積っている状態。
(広辞苑)
仏教用語で言うと「貪・瞋・痴」の三毒におかされて苦しみぬいている
状態ですよね。お釈迦様にすがればその三毒の苦しみからは逃れられる
と思う。例えば「憎む」と言うのは相手より自分を苦しめるんだって。
640:04/09/01 18:44 ID:ohe1xOLC
>>595 キリスト教の天国は「天界」なのかな。天界だと良いんだけど、
必ずしもそうとも限らないよね。仏陀の教法に耳を貸せない人が天に
生まれるとも思えない。万一そこが天だとしても、その後には天人五衰
が待っているわけだけど。
641名無しさん@3周年:04/09/01 18:57 ID:Ipif7h0Q
>>639
ごめん、単にお金持ちや坊主酷い事するなぁってのを
ルサンチマンと言っちゃった、そこまで凄くない。


おいらは別に不幸じゃないって。
貧乏でも納得してるし、幸せだよ。

ただ、お金持ちが死んだ後極楽に行けるわけが無いって思う。
だから、決めた。

大体、権力の寵愛を如何に受けようかと考えてた鎌倉仏教が
お金持ちに優しくてあたりまえなんだよねー。
だから、坊主は地獄行き。これも決まり。
仏の慈悲。
642名無しさん@3周年:04/09/01 18:57 ID:CEVxKrro
ところが、意外と信仰の熱心な人にルサンチマンが多いから驚く。

この世ではいい目を見られなかったから、自分はせいぜい善行を積んで、
ないしは三毒から解脱して、死んだら極楽へ行ってやろうと考えたとしよう。
それは、一種の「敗者復活」に勝利することで、所詮は他人を蹴落として
自分だけいい目を見ようという心にすぎないよね。

ルサンチマンは、ニーチェがキリスト教を批判するときに使った用語。
イエスは、「弱いものにこそ、天国はある」と説いたので、それは弱い
者が強い者に対して抱く嫉妬心と復讐心が作り上げた屈折した願望じゃ
ないかとすっぱぬいた。イエスの弟子の中には、「死んだら、あなたの
隣に座を占めて、諸国民を治める」と信じていたのが居たくらいだから、
ニーチェの批判は的確ではあった。
643:04/09/01 18:58 ID:ohe1xOLC
>>599
混沌坊主 さん。
>(584の死んだ人は亡者となり、人々が供養すれば仏になる)
>その考えは仏教ではありません。神道です。

えーと、続きがあって、(本当の仏様になるのではなく)、
生と死の迷いの世界、中有界を離れることができるという意味でです。
涅槃を得て成仏するという意味ではありません。死者でありながらこの世に
縛られている状態を脱すると意味です。

>仏教では根本的に、死後の世界については「無記」という立場をとって
>います。

たしかに如来の滅後については「無記」ですね。しかし一般人の死後につい
ては無記ではありません。仏教では無記というのは明確に決まっています。
あいまいなものではありません。

原始仏典に「法の鏡」という文献があります。仏陀が人々を死後を語る。
すべて語り続けるのもわずらわしいので、
「法の鏡」=死後の行方を知る尺度、に照らし合わせて自分達で判断せよ、
という経典です。死後については「不還、一来、七来」という用語もある
くらいですから。決して無記ではありません。
644:04/09/01 19:04 ID:ohe1xOLC
>>603 けちゃっぷさん

>「奪いあえば足りないが、譲りあえば余る」。

この百年で、共産主義運動は見事に失敗しましたね。
人は決して分け合わないし、人のためには働かないことが証明された?
仏陀は在家の者に、4分の一づつ、
「自分の生活ために、自分の楽しみのために、蓄えとして、そして他人のために」
使うように指導されています。納得の行く教えですが、4分の一を他人の
ために使うのもなかなか苦しいです。(税金もそこに入れても良いかしらとか)。


645名無しさん@3周年:04/09/01 19:04 ID:CEVxKrro
>>641

ある霊能者の言を信じるならば、地獄は坊主、医者、政治家、学者、
いわゆる「先生方」で満室だそうだ。天国は、素朴で善良な人、しかも
誰も自分を善良だと思っていない人ばかりだそうだ。天国にも金持ちが
いないことはないが、ごく稀だとのこと。
646:04/09/01 19:13 ID:ohe1xOLC
>>617 けちゃっぷさん、人の欲望はもっともっと強いものですよ。
焼く尽くす喉の渇きのように苦しい欲望。渇愛。すべての欲望に
人は苦しんでいます。気持ちの持ち方で変わるような生易しいものでは
ありません。あなたがすべてに恵まれているから気が付かないのかも。
あるいは自己欺瞞に陥っているのかも知れません。

その深い深い欲望をそのまま認めた上で、それでも何とかなるよという
のが仏教なのです。

食べ物のない人に慰めなど何の役にも立ちません。貧しいというのは
そういうことです。何かが得られないというのはそういうことです。
ごく簡単に、今から「絶飲、絶食」してみれば4,5時間もたてば、
身につまされて分かることです。

そのあたりを「言葉の遊びで済ませていこう」というのは本当の仏教では
ないです。他のすべての欲望に関してでも同じですよ。
647名無しさん@3周年:04/09/01 19:15 ID:Ipif7h0Q
>>645
そんな分けない。医者と学者(理系)が、地獄に落ちるわけ無い。
政治家は、寄生虫だけど、必要悪だし、ある意味そのための政治家
なので地獄に行くのは変だよ。

地獄に行く代表的な人は、パリーグの選手と、官僚と、学校の先生と、
坊主と、広告代理店と、銀行のトレーディング部門と、証券会社のトレーディング部門と、
後、営業成績が普通以下の営業マン。

その他、年収一千万円以上や、資産が2億超える人達は、ちょっとやばい。
648:04/09/01 19:18 ID:ohe1xOLC
>>617 人生も(今生も)来世もゲームじゃないですよ。
ゲームじゃないから苦しむのです。

人の生は空です。空というのは「ある条件下で存在」しているのです。
ある条件下で存在していても存在は存在、苦しみは苦しみ。
例えば、今ナイフを持ってきて、あなたの小指をちょっと切断して
ください。それでも人生はゲームだなんてスパッと切れますか?
いくら預金をお持ちか知らないけど、全財産を渋谷ででも銀座ででも
ばら撒いてください。人生はゲームですよ。お金なんてあっても無くても
夢幻、、そんな風に笑いながら。できますか?
言葉の遊びに陥ってないですか?
649混沌坊主:04/09/01 19:19 ID:1NIO3SVt
 財産で地獄極楽の差別ができるとは、そこは層化か十一教会か…
 無償の慈悲や無償の愛は、いったいどこへ行ったのやら〜
650:04/09/01 19:21 ID:ohe1xOLC
>>620 キリスト教会の「什一」の寄付と言うほうがきつくない?
これって他スレで読んだだけなんだけど。
651名無しさん@3周年:04/09/01 19:22 ID:Ipif7h0Q
>>649
本音を言うと、25超えたOLも地獄行き。
30超えた無職も地獄行きだと思うよ。
652:04/09/01 19:23 ID:ohe1xOLC
>>621 仏教の定義が間違っているかもね。
「ブッダ・ダルマ・サンガ」に帰依するのが仏教ですよ。
もう少し仏教を研究して、個別に批判しないと。
653:04/09/01 19:27 ID:ohe1xOLC
>>623 「金持ちの出家」と言うのは言葉の矛盾。

「すべての持ち物と蓄えを放棄した人」=出家だから。

仏教では、在家のものは「福徳円満の長者たれ」と教える。
ちゃんと仕事して、妻子や家人を幸せにして、自分自身も幸せにして、
他人も助け、また「真の出家」を供養できるような人。
金持ちは別に悪くはないんだよ。

お金は泉にたとえる。せっかくの泉の水を誰にも飲ませず、また自分に
さえもほんの少ししか飲ませず、腐らせてしまうなんていうのはダメ。
654混沌坊主:04/09/01 19:28 ID:1NIO3SVt
>>643 1様
 ふむ、よく勉強なさっているようですね。ならばきちんと申し上げましょう。
死後の行方を示しているという預流・一来などは「四向四果」とも言い、言うなれば
「修行者の修行の階梯」を示しております。涅槃の境地にどれだけ近づけているかを
示しているのであって、別に死後の状況を示したものではありません。
655:04/09/01 19:30 ID:ohe1xOLC
>>636
>法然上人の時代には、阿弥陀如来は実在の仏だった。
>だから、他に救いがない衆生のために、阿弥陀信仰を勧めた。
>しかし、現代人が法然上人の真似をしたら、詐欺師にしかならんでしょう。

そうだよね。
656名無しさん@3周年:04/09/01 19:33 ID:Ipif7h0Q
>>653
>ちゃんと仕事して、妻子や家人を幸せにして、自分自身も幸せにして、
>他人も助け、また「真の出家」を供養できるような人。
 〜〜〜〜〜
ここが問題で、今の日本社会の制度では(世界中同じだけど)、金持ちは
他人を殺さなきゃ駄目なんだよ。原理的に。
だから、地獄行きなんだよねー。
657混沌坊主:04/09/01 19:33 ID:1NIO3SVt
>>654の続き
 また釈尊の教えには、修行者に向けたものと、在家信者に向けたものの、二種類が
あると言われています。
 修行者が、死後の世界について問いただしたとき、釈尊は「毒矢の例え」をもって
さとしました。
 在家信者が、仏像を刻むことはどのような功徳があるか、と問うた時、釈尊は「天に
生まれることができるであろう」と答え、信者を喜ばせています。

 浄土経典は、後に作られた「在家信者用の経典」と考えられます。
死後の世界については、仏教は基本的に「考えない」。考えてしまう人には「御浄土行き」
としているようです。
658:04/09/01 19:38 ID:ohe1xOLC
>>641 私の場合は、貧乏でも金持ちでもない。普通。
原始仏教では、在家の仏教信者は「長者」を目指しな
さいと言うことになっている。

地獄極楽と言う点では、一番大事なのは「ブッダ・ダルマ・サンガ」
に対する「信」だと思う。仏陀と、仏陀の教えと、仏陀の弟子たちを
信じているかどうか。それと我見に凝り固まってないかどうか。
一度でも我見を捨てて初期仏典を読もうとしたことがあるかどうか。
それと、仏陀が教えてないルールにこだわってないかどうか。
659混沌坊主:04/09/01 19:38 ID:1NIO3SVt
>>656
 この世に、他人に迷惑をかけずに生きている人がいるものですか。
 我々は、そのことを許されているだけです。
 誰かの人生狂わせないと、我々は生きていけないのです。
660名無しさん@3周年:04/09/01 19:44 ID:Ipif7h0Q
>>659
そーゆう針小棒大な事いうから、坊主は地獄行きなんだよ。
農家と漁業の人と理系の学者は、純増を人間社会に与えてるんだから、
まずこの人たちは極楽行き。次に、製造業の人で実際に物作ってる人も
給料次第で極楽行き、次に、芸術家できちんと人に感動与えてる人も
極楽行き。ただし、宇多田光見たいに、うまいんだけど、マーケの成功
で、100万部上乗せされて無い?てな人は微妙。マーケの人はまず地獄行き、
100万部も上乗せしたんだから、思いっきり地獄行き。

それ以外の金持ちはかなり地獄行き。

ギブとテイクのバランスですよ。
661:04/09/01 19:48 ID:ohe1xOLC
>>642 在家の仏教徒にとって一番大事なことは、
「ブッダ・ダルマ・サンガ」を信じること。我見を捨てて仏陀の法を
学ぶこと。我見に凝り固まらないこと。そこまでいけたら極楽(涅槃
の世界)に行くことができます。そうなると、貪・瞋・痴も薄らいで
生きていくのがとても楽しくなりますよ。
662:04/09/01 19:52 ID:ohe1xOLC
>>642 私はニーチェは「読もうとしたことがある」くらい。
西洋物は読めない。教養がないので恥ずかしいです。
663:04/09/01 19:54 ID:ohe1xOLC
>>645 先生方は「八正道」は守れてないんだろうね。
政治家は・・・だし。弁護士は・・・だし。医者も・・・だし。
664:04/09/01 19:58 ID:ohe1xOLC
>>647
>資産が2億超える人達は、ちょっとやばい。

私の場合はやばくない。安心した。

665混沌坊主:04/09/01 20:00 ID:1NIO3SVt
>>660
 本人の行為はまったく関係ないんですな
 お話によると、金持ちを殺した人は、あなたの極楽に逝けるようですが
666名無しさん@3周年:04/09/01 20:06 ID:BlqUrkjW
>>660

あっしも坊主の地獄逝きに一票。
特に臭い屁理屈こく坊主は、今からすぐにでも逝ってほすい。
667:04/09/01 20:06 ID:ohe1xOLC
>>654 混沌坊主さん。ちょっと調べてみました。

四向四果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』
四向四果 (しこうしか)とは、部派仏教や上座部仏教における修行の階位で、
預流向(よるこう)、預流果、一来向(いちらいこう)、一来果、不還向(ふげんこう)、不還果、
阿羅漢向(あらかんこう)、阿羅漢果のことをいう。
「向」とは修行の目標、「果」は到達した境地を示す。向と果の名称が同じ、八種の段階に
ある人ということで、「四双八輩」(しそうはっぱい)ともいう。

預流とは聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。
一来とは1回人と天の間を往来して悟りに至る位。
不還は欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。
阿羅漢は今生の終りに悟り涅槃(ねはん)に至り再び三界には生れない位をいう。

ちょっとウィキペディア (Wikipedia) じゃあまずかったかな。
なんかいい加減。もう少しちゃんとしたところで調べてみます。
668:04/09/01 20:08 ID:ohe1xOLC
↑ 訂正 「なんかいい加減・・・」  。最後の2行削除。
669混沌坊主:04/09/01 20:09 ID:1NIO3SVt
>>667 1様へ
 ご苦労様です。拙僧は『仏教語大辞典』中村元、東京書籍を使っております。
670名無しさん@3周年:04/09/01 20:13 ID:BlqUrkjW
>>663

一番守れてないのは坊主でしょ。嘘つくのが仕事だから。
671名無しさん@3周年:04/09/01 20:14 ID:BlqUrkjW
糞坊主 地獄落ちなきゃ 釈迦の恥
672名無しさん@3周年:04/09/01 20:42 ID:Ipif7h0Q
>>665
ただ殺しちゃ駄目だな。
人を殺すと、警察とマスコミって言う、寄生虫が仕事にありつけるから、
動いた警察官の時間とマスコミの経済効果。これを上回る生産を上げてれば
殺しても天国。

ただ、この場合、これだけのプラスがあるなら、わざわざ殺さないほうが
安全安心だと思う。
673名無しさん@3周年:04/09/01 20:43 ID:Ipif7h0Q
逆に言うと、偶然交通事故起こしてしまって、相手が坊主なら
おめでとう宝くじに当たり。

よっぽと変な仕事してない限り、極楽行き。
674名無しさん@3周年:04/09/01 21:00 ID:BlqUrkjW
ところで...フーゾクの女性はどう?
私は天国逝きだと思うんだけど。

ある禅僧の歌にこうあるよ。

「仏は法を売り、祖師(そし)は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。
汝四尺の身中を売りて、一切衆生の煩悩を安んず」

汝というのは、昔の花魁(おいらん)で、今ならフーゾク嬢ね。
四尺の身中つうのは、いわゆる女の道具のナニだわな。
そこを善用して、多くの悩める男性の寂しい心を癒しているんだから、
開祖の威光をかさにきて、金儲けに走る糞坊主よりも偉いってわけだ。
675名無しさん@3周年:04/09/01 21:07 ID:Ipif7h0Q
>>674
普通に考えて極楽行きでしょ。
風俗が法律で禁止されてるのは、値崩れを防ぐためだよ。
676名無しさん@3周年:04/09/01 21:08 ID:Ipif7h0Q
ただし、女衒とか、風俗店の店員とかは、
地獄行きだよ。
677名無しさん@3周年:04/09/01 21:10 ID:BlqUrkjW
じゃあ、決まった。風俗は極楽逝き
女衒と、風俗店の店員は地獄逝き
で、ケテーイ!
678けちゃっぷ:04/09/01 21:14 ID:oSxZJfSv
1さん、念仏を実際となえてみると、単なる言葉だけの信仰ではなく、やっぱり「行」なんですよ。でも、はじめから「行」を積むことを強調すると、臨終1時間前に仏教に出会った人には絶望しか与えませんよね。
679名無しさん@3周年:04/09/01 21:22 ID:P2yPXGV6
http://www1.plala.or.jp/eiji/ZATUGAKU.htm

真言立川流って、いいね。
680けちゃっぷ:04/09/01 21:26 ID:oSxZJfSv
2千年近く前から浄土系経典はあったらしいですね。不妄語の戒を守っていた僧侶が、なぜ浄土を語ったのでしょう?苦を滅する方便として効果があったからでは?
681名無しさん@3周年:04/09/01 21:33 ID:Ipif7h0Q
>>680
仏教を広める方便って聞いたけど。

>>679
仏と絡めて、SEXしたり、呪い殺したりするのは、ちょっと仏教じゃないでしょ。
SEXはしたいからするんだよ。呪うのは憎いからで、他人の為や、まして本人の為に
呪い殺すなんてのは、大嘘。
682けちゃっぷ:04/09/01 21:39 ID:oSxZJfSv
僕は今も借金(奨学金と車のローン)あるし、学生の時お金なくて家賃滞納して、学費もなくてもう少しで退学でした。「阿弥陀仏を信じて名を称える」念仏を、効果的な行と信じています。
683混沌坊主:04/09/01 21:40 ID:1NIO3SVt
>>680 けちゃっぷさん
 それは、修行初心者・在家信者のために作られたと考えられています。
死に対する恐怖を、簡単に取り除く方法として「死後は浄土行き」とした
そうです。
 それを元に、老・病・生の苦しみを解いていき、ステップアップしたら
残りの四苦をも解き放つ。そんな目的と順序があります。
684けちゃっぷ:04/09/01 21:42 ID:oSxZJfSv
「なむあみだぶつ」を口ずさみながら、心で意味を想ってみます。その一瞬は、他に何も考えられません。鏡を曇らないようにするのは難しくても、曇る度に拭くことはできます。念仏で。
685名無しさん@3周年:04/09/01 21:46 ID:Ipif7h0Q
>>683
死に対する恐怖を取り除くためにそんな事言うなら、
棒でがつんがつん殴って、殺しちゃえば四苦から解き放たれるね。

オウムジャン(w
686名無しさん@3周年:04/09/01 21:47 ID:Vz3J6DLK
カトリックの勉強会に出席したら
意地悪そうなおばあさんに
「どうせ、興味ないくせに、カトリック式の結婚式を挙げたいだけでしょ!」
って言われたorz

カトリック信者であるっていうことは一種の権力者であるってことなのだろうか?
信者同士の会話もついてけなかったよ
「きのう、うちのお手伝いさんったらおかしいの…」とか
「うちのこが、また“おベンツ”を買って、もう四台目ですのよぉ」とか

内容は、結構興味深いけど、なんか信者が…イヤ。
こういう目にあうってことは、私は宗教に嫌われてるんだろうか? なんて。
687名無しさん@3周年:04/09/01 21:58 ID:Ipif7h0Q
>>686
西洋の宗教は、出発点から、自分達が偉い、金持ちが偉い、
だから、そーゆう嫌な奴はそっこー叩きのめすべし。
688けちゃっぷ:04/09/01 22:00 ID:oSxZJfSv
実際念仏を称えている瞬間は、阿弥陀仏が実在するかどうかすら考えていないんです。初心者の方は試しに、口で「なむあみだぶつ」と称え、心で「帰命無量寿仏(キミョウムリョウジュブツ)」と意味を想ってみてください。
689混沌坊主:04/09/01 22:00 ID:1NIO3SVt
>>685
 ガツンガツン殴られるのは、拙僧はいやだぞ。怨憎会苦だ。
 生老病死の四苦はとにかく、残りの四苦からは開放されないでは
ないか。
690混沌坊主:04/09/01 22:01 ID:1NIO3SVt
>>688
 そうですね。まずはやってみましょう。
 はじめなければ、はじまりません。
 少なくとも拙僧は、浄土の教えに救われました。
 生きる喜びと、死ぬ充実を、ある程度得ることができましたから。
691ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/01 22:08 ID:ickGEUFO
「心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内部に平安となった人には取り
上げられるものは存在しない。」
キリスト教のように、全てが平等に幸福な世界を願う................ということですね。
それは、当たり前のことです。ニルヴァーナ世界は、このような物質世界はなく、全てが
平等に幸福「万物に対して平等である。(だから、平静な心が保つことができるのである)」
そして、「さとり」の境地「すべての存在は水の泡か陽炎のごとし。一切の存在に対し嫌悪
を抱け」(法華経)とあるように、地上のもの全てに囚われることなく、だだ「平安と安穏
と安楽の世界を喜ぶ境地」なのです。
だから、キリスト教と同じように― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であ
れ、安楽であれ ― が天に通じる。そして、自分がなくなってもその心は残る―諸法非我
(一切の事物は我ならざるものである)でブッダは既に説いている。キリスト教に言われな
くても、ブッダは既に説いているのです。
692ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/01 22:08 ID:ickGEUFO
何故その存在をあがなわなくてはならないのか?(地をまこととし、自分に負ける)から死ぬ
まであがない続けなければならないのか。― 宗教活動全般が地をまこととしない行いでし
ょう。仏典全般が、自分の欲望や悪い心に負けないように説いてある。特に勝れた論理で、
(天の父は、全てを平等に幸福にされる=天では全てが平等になることは当たり前のこと)を
あがなえを言い、そうしないと天国に行けず、他は地獄だ(ということだろう)という脅迫
信仰により、人は心のゆとりがなくなる。しかし、恐怖もなく、不安もなく、動揺しないよ
うに今現在の人の心の安らぎを与えるのが仏教であると言えるのです。それは、天では恐れ
れもなく、不安もなく、動揺もしないからです。また、生きている以上、一方的なことに囚
われず「中〔道〕」を説いており、極端な思いをも捨て去ることをブッダは説いている。
ただでさえ、この世は苦しみである「一切皆苦」なのに、人を傷つけることもなく、暮らし
ている人に、「ある特定のものを信じないと地獄だ」という脅迫を加えるならば、更に人に
苦悩を与えることになる。

あくまでも「心の内が平安となること」が大切なのです。心の内の平安が永遠の命です。何か
をあがなって、心の内が平安となるでしょうか。それはその人次第でしょうが。

693ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/01 22:10 ID:ickGEUFO
天国、地獄という二つに分けられるのではなくて、仏教は来世をも説いている。
「ことばと心とを正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、もし飲食豊かな「富んだ」
家に住んでいるならば、〔一〕信あり 〔二〕柔和 〔三〕よく分かち与え 〔四〕温かい心 で
いるならば、これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない。」
だから人に安心と安楽を与えるのです。

仏教では、基本的に人に悪い行いをしなければ悪いことが返ってこないと説かれている。
「この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、
たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、これら生けるものどもに対して貪り求め、敵対して殺し、
常に害をなすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる。」
「生き物を打ち、切断し、縛ること、盗み、嘘、詐欺、脅し、だますこと、他人の妻に接近するこ
と、友を裏切り、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんぴとにも与えない、・・・・・」
神を信じる、信じないで地獄に落ちたりすることはない。

仏教は死者の供養のことは説いていないようだが。寺では死者の供養をするが、多額の金額を要求
されたことは一度だってない。供養のため多額の金額を要求する寺は、悪い寺でしょう。
霊的なものを期待して、宗教行事によって功徳を積もうとするのは無効でしょう。
「園に植え、林に植え、橋をつくり・・・かれらの功徳は、昼夜に増大する。」労して行うことで
す。>>621

694名無しさん@3周年:04/09/01 22:12 ID:BlqUrkjW
釈迦は、「犀の角のように、ただひたすらに自分の足でまっすぐに
進め」と説いたので、仮想の救世主にすがれなど一言も言ってないよ。
むしろ、来世を願ってヒンズーの神々に供養を捧げることには悲観的
だった。

「そう言っても、開祖の教えは世間の人には厳しすぎて」というのが
お決まりの言い訳なんだろうが、坊主自らが救われたかどうかなど、
ここのカキコを数行読めばわかることだ。お宅らは他人を救うどころか、
自分も救えやしないよ。せっかくの仏の教えを傷物にした咎で、地獄へ
落とされるのが関の山。
695机と椅子:04/09/01 22:14 ID:MgOPtAS+
俺、ぶっきようですから。
696名無しさん@3周年:04/09/01 22:17 ID:BlqUrkjW
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中に、大審問官の挿話
がある。その大審問官が、無知で心の弱い大衆を代表して、ここの坊さん
たちとそっくり同じような弁明をする。

一読してみてはいかがかな。
http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/igeta/dos/kara.html#09
697名無しさん@3周年:04/09/01 22:18 ID:BlqUrkjW
うまく飛ばなかったから、「悪魔の最初の試し」のところから
読んでみて。
698名無しさん@3周年:04/09/01 23:47 ID:5xk3GPN2
坐禅と見性第6章あめつちは書かざる経をくり返しつ
http://pc5.2ch.net/test/read.cgi/pc2nanmin/1094025701/
699コーク港:04/09/02 03:26 ID:FmE1azNH
浄土真宗の安心と、覚りはどう違いますか?
700名無しさん@3周年:04/09/02 04:28 ID:7hGwUevu
ここの人間がその信とする道或いは方向に進んでいけば
おのずと色々な体験や経験に出会い其処から
気ずき、理解される事は
どんなにたくさんに人間がいようと
そしてどんなにそれぞれの道を進もうと行き着く先は
行き着く先は同じだよと言う事を言ってるんじゃないの界?
サイの角の様にと言うのはその人間個人自身に
主体性を置き進むべきだと言ってるんじゃないの。
701名無しさん@3周年:04/09/02 04:44 ID:7hGwUevu
ここの人間→個々の人間
702名無しさん@3周年:04/09/02 08:19 ID:zJuEq3MP
>>700

個々の人間の主体性が本物ならば、の話だけどね。

人間は、「奇跡と神秘と教権」に弱い。だから、あり難そうな教典や、偉そう
な僧侶や、金ぴかに飾り立てられた伽藍を信仰対象にしようとする。イエスも
釈迦も、その類の自己欺瞞を否定したんだ。「藻前ら、見かけに騙されるんじゃ
ねえ。何にも頼らず、ただ自分の主体性だけを信じて進め」ってこと。

フィクションという意味じゃ、阿弥陀仏もスーパーマンも変わりはしない。
どこが違うかと言えば、ありがたそうな経典や、偉そうな顔した坊主や、
金ぴかの伽藍で人間の目を幻惑するか否かだ。

今の坊主がやっていることは、「奇跡と神秘と教権」の薬物中毒に罹っている
人間達に「薬物を中止すると禁断症状で苦しむから」という理由で、薬物漬け
にしているのと同じ。それは、釈迦の遺訓に反すること以外の何ものでもない。

今の伽藍には、仏の教えを標榜する悪魔が住んでいるといってもよい。坊主は
悪魔の片棒担ぎだ。だから、死後は地獄へ落ちること間違いなし、と言っておる
のだ。
703:04/09/02 09:25 ID:TCaGqyUQ
>>669 混沌坊主さん
>預流とは聖者の流れに入ること
>最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く=七来
>一来とは1回人と天の間を往来して悟りに至る
>不還は欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る
>阿羅漢は今生の終りに悟り涅槃(ねはん)に至り再び三界には生れない

三界って欲界、色界、無色界 ですよね??
この世に三界があるのは知っていたけど。天にも三界があるんですね。
そういえば、光音天とか聞いたことありますよね。光と音だけの世界。
これは物質界だから色界なのかな。不還は色界の天に昇る、すなわち
欲界を離れて、色(物質)と無色(精神現象)だけの天に昇るという
ことですね。
704:04/09/02 09:29 ID:TCaGqyUQ
>>674 仏の五戒には売春はないよね。ちゃんとした職業だと思うよ。
罪は作ってない。でも、我が身を傷めている悲惨な職業。3Kのトップ
かも知れない。「親から貰った身体と心を護りなさい」と言う意味では、
仏陀の教えに反するかも。
それに、すべての客に平等に付き合うわけにも行かないから、嘘をつか
なきゃならないシーンも出てくるかも。
705:04/09/02 09:34 ID:TCaGqyUQ
>>678 けちゃっぷさん、おはようございます。
念仏が仏教の「行」であるためには、ベースに「ブッダ・ダルマ・サンガ」
に対する信が必要だと思いますよ。
706:04/09/02 10:12 ID:TCaGqyUQ
>>680 年表を調べてみたよ。

BC500 釈迦
BC400 第一回結集
BC300 第二回結集、根本分裂(上座部,大衆部)、阿含経等
   セイロン島へ上座部仏教伝来
BC200 阿毘達磨論、アショカ王(268-32)
BC100 部派分裂終了
紀元 大乗仏教運動、般若経群成立、浄土三部経成立、中国へ仏教伝来
AD100 原華厳経,法華経成立、龍樹(150-250)中観、「十地品」
200 涅槃経,如来蔵経成立、弥勒(270-350)、経典漢訳開始

すご〜〜く早いんだね。びっくりした。釈迦滅後500年にして、
龍樹より早く浄土三部経が成立していたんだ。早急に釈迦の仏国土
に代わる、当時としては分かりやすい「阿弥陀様の極楽浄土」が必要
だったんだね。
もとより、経典製作者に悪気が有ろうはずもないだろうけど。創作は
創作だから。現代人はしっかりそれを認識し無いといけない。というか、
それをそのまま信じられる現代人も少ないと思う。

ところがネットで色々調べていると。(続く)
707:04/09/02 10:16 ID:TCaGqyUQ
(続き)
↓【ダライ・ラマ法王日本代表事務所のHP】
パンチェン・ラマは、チベットでダライ・ラマ法王に次ぐ高位の転生化身で、
シガツェ市にあるタシルンポ僧院の座主を代々務めています。チベットの
仏教徒は、歴代のパンチェン・ラマを、阿弥陀仏の化身だと信じています。
ダライ・ラマやパンチェン・ラマは、生きとし生ける物全てを救うため、
世界の屋根ともいうべきチベットの地へ、何代にも亘って生まれ代わりを
繰り返すのです。そして歴代のダライ・ラマとパンチェン・ラマは交互に師
となり弟子となって、仏教の発展と人々のために尽くしてきました。

こういう話もある。というと阿弥陀如来は代々化身として引き継がれる
実在の人なんだろうか?という疑問も湧いてきた。
ダライ・ラマは観世音菩薩の化身だと言う。どうもチベット密教は分かり
にくい。

708:04/09/02 10:31 ID:TCaGqyUQ
>>694 さん
>>700 さん
「犀の角のように、ただひたすらに自分の足でまっすぐに進め」

こういう文章は経典(スッタ・ニパータ)のどこにもないですよ。

犀の角の話はただ単に修行形態の指導です。

1.「犀の角の如くただ一人歩め」 
   =(できるなら山や森で)一人で修行しなさい。
2.その修行生活に喜びを見出せない者は、(同性の)友と二人で
  森や山の中で修行しなさい。
3.その修行生活にも喜びを見出せないものは、サンガに入って出家
  集団として修行生活を送りなさい。
4.その生活にも喜びを見出せないものは、配偶者を得て、夫婦で
  在家の修行者となりなさい。
709:04/09/02 10:45 ID:TCaGqyUQ
>>702 さん、
>「藻前ら、見かけに騙されるんじゃねえ。
>何にも頼らず、ただ自分の主体性だけを信じて進め」

これも仏陀は教えてないと思う。

「我見を捨てよ」「真っ白になれ」そして「仏陀の教えを学べ」。

みんな「これはこうだ」と思い込みながら仏典を読んじゃうんだよね。
犀の角の話だって「一人で自分の足で自主的に歩くべきだ」という先入観
で読んでしまう。作家なんかがそう読んでそう書くとまた、
それが広まってしまう。脳を白紙にして仏典を読みましょう!!
710名無しさん@3周年:04/09/02 11:25 ID:zJuEq3MP
>>708, >>709
気にいらないのなら、こういうのでもいいぞ。

「おのれこそ   おのれのよるべ
 他の誰に    たよられようぞ
 よくととのえし おのれこそ
 まこと得難き  よるべなれ」
(法句経、160)
711:04/09/02 11:33 ID:TCaGqyUQ
>>710 さん、
自己を島とし(島=州=中州として)激流を渡れ。
州と灯明という原語が似ているらしくて、
自灯明=自らを灯明としてとして、という翻訳もありますよね。

仏陀の教法を白紙になって学んで、その教えをよりどころとして、
煩悩の激流を渡りなさい。

入門者はとりあえず我見を捨てるべき。学んだ後は、、、、
712名無しさん@3周年:04/09/02 11:41 ID:zJuEq3MP
伝説によれば、釈尊が臨終の際に、阿難に託した遺言だそうです。
それを忠実に守っていたならば、インドの仏教が、ヒンズー教の多神信仰の中に
埋没して、滅亡することもなかっただろう。
713:04/09/02 11:47 ID:TCaGqyUQ
>>712 ブッダは各地で神霊を礼拝供養していますよ。
経典には載らないけど神々も礼拝していたかも。
供犠(犠牲祭)は禁止しているけど、一般の祭祀はほめ
たたえている経典もある。
仏陀ご遺骨の礼拝供養は仏陀御自身の指示だしね。
714名無しさん@3周年:04/09/02 11:50 ID:zJuEq3MP
その神霊に「阿弥陀仏」が含まれると、あなたは主張されるのか。
715:04/09/02 11:57 ID:TCaGqyUQ
>>714 南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経は仏陀の予想の範囲を
はるかに超えていたのかも。いや、予想していたからこそ
「末法」なんて言葉があったのかもね。

どちらも「ブッダ・ダルマ・サンガ」への信を基本に、菩薩行など
積徳の行を忘れずに行えば別に害は無いと思う。しかし、
「仏陀なんてどこに行ったの。念仏、昌題だけで必要十分。」とかなって
しまったら、それはもはや仏教と呼べないと思う。

チベット密教のパンチェンラマだって、オリジナルの仏教の基礎の上に
その(阿弥陀如来化身)信仰があるのだと思う。
(チベット密教は全く知らないので、想像のみ。)
716名無しさん@3周年:04/09/02 11:59 ID:zJuEq3MP
釈迦の時代のバラモン僧侶達は、ありとあらゆる神霊を礼拝供養していた。
釈迦は、それに異論があるから仏教を立てた。
では、どういう主張だったのか。
「この神ではなくあの神を礼拝供養しなさい」という主張だったのか、
「どんな神でも礼拝供養することで、救われるというのは間違いだ」という
主張だったのか。

釈迦の遺訓(法句経160)を無心になって読めば、その答えは明白だと思います
がね。
717:04/09/02 12:17 ID:TCaGqyUQ
>>716 名前を忘れてしまったんだけど。
原始仏典に〜族の話というのがあって、その国が隣国から攻め
滅ぼされそうになる。
仏陀はお尋ねになる。「その国はちゃんと話し合いで物事を決
めているか、女や子供達を大事にしているか」などなど。その
一項目に「地域の神霊をちゃんと祀っているか」というのがあるよ。

とにかく、仏陀は天の神々や土地の神々をとても大切にしている。
文献を読めばいくらでもその例は出せると思うけど。
(文献合戦はしたくないので、またお読みになってください)
718:04/09/02 12:19 ID:TCaGqyUQ
>>715 昌題→唱題
719名無しさん@3周年:04/09/02 12:30 ID:zJuEq3MP
>>717

神霊への崇拝については、釈迦が認めていたとしましょう。
しかし、「神霊を崇拝すればそれでよい」などと釈迦は一度も言わなかった
でしょう。そうでなければ、仏教を作って屋上屋を重ねる必要はなかった。
釈迦は何を伝えるために、老齢の身を引きずってインド中を歩き回ったのか。

それを「一神霊」への崇拝に誤魔化としたら、とんでもない反逆的行為です。
720けちゃっぷ:04/09/02 12:42 ID:KpQft5du
1さん、三宝に帰依し戒を授かる仏教徒が、日々の修業として念仏を選択しているわけで、阿弥陀佛信仰のみの一神教ではありませんよ。成仏を早めるための往生極楽→そのための念仏。
721けちゃっぷ:04/09/02 12:45 ID:KpQft5du
末法思想を前提にする場合は、現存するのはお経だけで、今伝わってる修業も不完全だし、その修業では悟れない。だから、生きた仏のいる浄土で正しい仏教を学ぼうという信仰になったわけです。
722けちゃっぷ:04/09/02 12:58 ID:KpQft5du
ユガ行の実践から唯識思想を大成した天親(世親)菩薩は、浄土教の祖師でもあります。おもしろいですね。
723名無しさん@3周年:04/09/02 13:01 ID:zJuEq3MP
>>721

>今伝わってる修業も不完全だし、その修業では悟れない。

というのは、具体的にはスッタニパータに書かれている釈迦の教えを耳に
しても理解ができないという意味ですよね。法然上人の時代には、ほとんど
が文盲だった。ましてや四諦なんて高度な概念は理解できなかったでしょう。
良いことをせよ、悪いことをするな、という教えも、「悪いことをすると地獄
へ落ちて酷い目にあうぞ」と視覚的、感情的に訴えかけるしかなかったから、
地獄絵が盛んに書かれた。

では、現代人はどうでしょう。誰もが文字を知り、ちょっと考えれば四諦の
意味がわかる。書店でも仏教書がずらりを並び、「ただありがたい」という理由
でなく、思想を理解するためにそれを買っていく。現に、2chでは仏教について
いろいろ議論しているじゃありませんか。

なのに、なぜ古臭い子供騙しをいまさらになって持ち出すのか。
伝統があるからという骨董品の価値ですか?
724:04/09/02 13:20 ID:TCaGqyUQ
>>719 やっぱり「ブッダ・ダルマ・サンガ」と「諸天・善神」が
仏教の基本だと思うんですよね。どういう形で礼拝するのか。
その形は、帰依、礼拝、崇拝、尊敬といろいろあると思いますが。

法を授けてくださるのは「仏陀」。
こまごまと助けてくださるのが「諸天・善神」かしら。

仏陀は、地域には神霊がいらっしゃって、高級な地域には高級な
神霊が、そこそこの地域にはそこその?神霊が鎮座なされます
なんて表現されていますよね(地祇)。
天神の話は初期仏典には数限りなく出てきて、修行者よりも天神の
ほうが出演回数が多いかも。

その上、仏陀の時代には本当に多人数の人が涅槃を得ているし。そう
いう人たちだってないがしろにはできないような気がします。
725:04/09/02 13:34 ID:TCaGqyUQ
>>723 さん。
>法然上人の時代には、ほとんど
>が文盲だった。ましてや四諦なんて高度な概念は理解できなかった

昔の人だって頭脳明晰ですよ。相違点は、現代では文献学が進んできて、
どの経典がどういう経過で成立したかが分かるようになってきたこと。
文献学が発達してない時代には、すべての経典が仏陀の教えとして分類
整理されちゃったんですよね。分かってしまった今となっては、どん
どん改めていくべきですね。
726:04/09/02 13:39 ID:TCaGqyUQ
>>721 けちゃっぷさん、
末世だから、阿弥陀様の念仏だけで良いとは仏陀はおっしゃってないですよね。
末世だからこそ初心に戻って、真のブッダ・ダルマ・サンガに帰依して、
善根を積みなさいよ、と教えているのでは?
727名無しさん@3周年:04/09/02 14:19 ID:LW2MxcgM
先月4日から5日にかけ発生した台風11号による土砂崩れで、紀伊山地を代表する景勝地、
下北山村前鬼の不動七重滝の滝つぼが大量の土砂で埋まり、景観が大きな打撃を受けていることが1日、分かった。
現場の約2キロ上流には、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定された修験道の裏行場、三重滝
(みかさねのたき)があり、周辺登山道が崩落するなど、危険な状況になっている。

人間があなた様関係を祭っているのに、仏よ、自爆ですか?あぁそうですか。
ほんま悪魔よりたちわるいな。
728けちゃっぷ:04/09/02 17:33 ID:KpQft5du
末法思想は、仏説ではないし信じる信じないは人それぞれですが、要は、現在の私たちが修業してもブッダと同じように悟れない、あるいは阿羅漢の境地になれないんじゃないか?って思想のことです。
729けちゃっぷ:04/09/02 17:37 ID:KpQft5du
末法の時代にもお経はありますし、読んで理解できる人はいます。問題は、ブッダと同じように戒律を守れるか、そして、生きながらブッダと同じニルヴァーナに達しているか?それは難しいのでは?
730けちゃっぷ:04/09/02 17:46 ID:KpQft5du
即身成仏できなくて、不退転の位の悟りにすら達していない場合は、来世で動物や虫になるかもしれませんし、仏教の無い世界に生まれるかもしれません。そういう不安が当時は常識だったのですね。
731けちゃっぷ:04/09/02 18:04 ID:KpQft5du
とにかくまずは、みんな(仏教初心者でも悪人でも)極楽へ往けると、大きな安心を得る。その安心の上で、さらに上級者向けの修業ができる人はすればいいのでは?
732名無しさん@3周年:04/09/02 18:09 ID:zJuEq3MP
けちゃっぷさんの言う末法思想と、本覚思想とが矛盾しているように見える
んだけど。
http://www.ican.zaq.ne.jp/euahf202/raigozu2.html

法然上人が浄土教を始めたとき、すでに最澄によって天台仏教が確立されていた。
法然さんも元々比叡山で修行していたし。だから、本覚思想を信じていたはずだ。
だから、「修行してもブッダと同じように悟れない」というのは、ちょっと
ニュアンスが違うような気がする。本覚思想で言えば「本当は仏そのものなのに、
凡夫だと思い込んで輪廻に苦しんでいる」ということになる。

ということは、念仏によって阿弥陀仏に救われるというのではなくて、実は自分も
阿弥陀仏と同位にあることに気付くということなのではないか。少なくとも、法然
さんはそういう理解をしていたように思える。>>730の発想は、法然さん以前の、
本覚思想が出る前の段階に逆戻りしているように見えるんだけど、浄土宗の坊さん
達も同じように考えているんだろうか。
733名無しさん@3周年:04/09/02 18:19 ID:zJuEq3MP
本覚思想が一番はっきりとした形で書かれているのは法華経だけど、
その中に火宅の喩えというのがある。火事になっている家から息子達
を助けるために、「最新のスーパーカーを買ったから、ガレージまで
見に降りて来い」みたいなこと言って、家から救い出そうとするわけ。

念仏というのは、そういう方便だという気がする。阿弥陀仏に頼るという
のは、煩悩という火事から逃れるための「嘘」なんじゃないかな。
結局、>>731と同じことになるのかもしれないが、「嘘」がばれたら単なる
茶番劇にしかならんよね。

けちゃっぷ氏の発言から推測すると、浄土宗は「厳しい修行を経て始めて
成仏できる(本覚思想の否定)」と、「すでに嘘だとばれているものを
方便に使おうとしている」という二重のねじれがあるね。
734けちゃっぷ:04/09/02 18:19 ID:KpQft5du
仏性が誰にでもあるとしても、生きながらに三毒の煩悩を絶つことができなければ、四苦八苦からは解放されません。また、自分が仏だと、頭で理解するんじゃなく体感するのは、難しい覚りなのでは?
735けちゃっぷ:04/09/02 18:24 ID:KpQft5du
もし如来蔵思想・煩悩即菩提だけに偏ったら、悪いことし放題では?法然さんは、仏教はやはり善をめざし煩悩を絶つことをめざす…という基本姿勢は崩さず、しかしそれでも罪を犯してしまう弱い人を許します。
736名無しさん@3周年:04/09/02 18:33 ID:zJuEq3MP
だから、念仏を唱えるわけだ。法然さんはそういう方法を思いついた。

しかし、その時に感得する「仏」というのは、森羅万象に遍満している
「仏」であって、浄土三部経に書かれている特定の菩薩ではないよね。
密教では、この「仏」は大日如来として描かれるようになる。この
段階では、もはや特定の「個人」という性格は消えうせて、宇宙そのもの
という感じになるよね。

阿弥陀仏を、特定の仏と見るか、それとも宇宙を包括した(一神教で言う)
絶対神として見るかで、念仏の内容が変わってくるように思う。法然さんは
密教の修行僧だから、恐らく大日如来のようなイメージで阿弥陀仏を捉えた
のだろう。念仏は真言(マントラ)の代用か。いずれにせよ、民間信仰として
溶け込んでいく内に、阿弥陀仏は特定の仏にイメージ化されてしまったので
はないか。

特定の仏は、お経がフィクションだった、と言われた途端に雲のように消え
失せるしかない。しかし、宇宙に遍満する大日如来であれば、全く無傷でしょう。
737名無しさん@3周年:04/09/02 18:44 ID:zJuEq3MP
>>735
>もし如来蔵思想・煩悩即菩提だけに偏ったら、悪いことし放題では?

法然さんとほぼ同時期に、道元が日本曹洞宗を開いていますね。道元
さんが善悪を律すること、法然さんの比ではありませんよ。
元々、煩悩即菩提は大乗仏教の中核なのだから、けちゃっぷさんの理屈
によれば、仏教徒は犯罪者集団ということになりますね。
738名無しさん@3周年:04/09/02 18:47 ID:zJuEq3MP
ところで、けちゃっぷさんは、どちらの阿弥陀仏に向かって念仏を
唱えるのでしょうか。浄土三部経の書かれているあの菩薩さんですか、
それとも大日如来のようなイメージですか。
739名無しさん@3周年:04/09/02 18:59 ID:zJuEq3MP
けちゃっぷさん、けちゃっぷさん、.....念仏中?
740名無しさん@3周年:04/09/02 19:19 ID:9TI+1zL5
>>736
>特定の仏は、お経がフィクションだった、と言われた途端に雲のように消え
>失せるしかない。しかし、宇宙に遍満する大日如来であれば、全く無傷でしょう。

酷い事するなぁ。
まるで、小学生が「うちゅうよりおおきい?」って言い争ってるみたいだ。
本当に。坊主は酷いなぁ。
741名無しさん@3周年:04/09/02 19:45 ID:9TI+1zL5
>>733
それで良いの?
火事の時には火事だから降りてきなさいと、言うのが一番だと思う。
火事のときに、面白い物があるから降りて来い、なんていう風に
育てるのがそもそもの間違い。

同じ教訓から読むべき位置が違いすぎる。
742名無しさん@3周年:04/09/02 20:18 ID:WCt039Gf
>>741

火事だというのを信じない場合もあるだろ?
たとえば、死んだらそれまでと唯物論に凝り固まった現代人が、自分の欲望
のまま悪事をしまくって死ぬ。死んだら酷い苦しみを味わうことになるから、
生きている間に善行を積んでおけというのが仏教のスタンス。だけど、現代人
はそれを鼻でせせら笑う。法華経の喩えは、そういう状態を示したものだよ。
743名無しさん@3周年:04/09/02 20:24 ID:WCt039Gf
744けちゃっぷ:04/09/02 20:50 ID:KpQft5du
宇宙に遍満する真理を仏に例えて呼ぶ場合は、大日如来でいいでしょう。阿弥陀仏は、「みんなをもれなく救うぞ」と誓った、意志・方向を持つ人格的イメージです。アンパンではなくアンパンマンです。
745けちゃっぷ:04/09/02 21:06 ID:KpQft5du
たとえ架空の人格でも、阿弥陀仏の慈悲に共感することはできます。阿弥陀仏の慈悲と同じように、過去2千年の念仏者全員が僕を慈悲で包んでくれます。阿弥陀仏の名のもとに実在の念仏者の慈悲が動くのです。
746名無しさん@3周年:04/09/02 21:06 ID:9TI+1zL5
>>743
立正佼成会と創価学会って何が違うの?

>>742
信じないのはやばいね。なんで火事という大事を信じられなくなるんだろう?
それは、大人や坊主が、嘘ばっかり付いてるからじゃないのか?
子供は覚えるぞ。

それで、正しい教えとか。はっ。鼻で笑うわ。
747名無しさん@3周年:04/09/02 21:11 ID:WCt039Gf
>>746

>立正佼成会と創価学会って何が違うの?
わしゃ、よう知らんわい。知っている人に聞いてくれ。

>それは、大人や坊主が、嘘ばっかり付いてるからじゃないのか?
たとえ善意の嘘(方便)でも、嘘は嘘。
それが元で宗教は誰にも相手にされなくなったわい。
748名無しさん@3周年:04/09/02 21:12 ID:WCt039Gf
>>745

だから、架空の阿弥陀仏にどうしていまさらこだわるわけ?
あなた、檀家に向かって正々堂々と「阿弥陀仏は架空でした。私は
無知な皆様が救われるようにと、今まで騙していました」と宣言
できるか。
749けちゃっぷ:04/09/02 21:14 ID:KpQft5du
お金も「空」だと悟って貧乏の苦悩から解放される場合もあるし、貧乏でも往生できると喜んで貧乏の苦悩から解放される場合もある。苦悩からの解放が重要なのです。
750名無しさん@3周年:04/09/02 21:16 ID:WCt039Gf
>>749

そんなことを言って自分を騙しても何にもならんよ。
他人のことより、自分の死後のことを気にした方がいいんじゃない?
坊さんが不妄語の罪を犯すとどうなるか知ってるんでしょ?
751けちゃっぷ:04/09/02 21:24 ID:KpQft5du
>748 アンパンマンは実在しなくても、「アンパンマンみたいにやさしくなろうね」と一言で、言わんとする「やさしさ」をイメージできます。人格的なイメージで教えを圧縮して伝えられるのです。
752名無しさん@3周年:04/09/02 21:27 ID:WCt039Gf
スウェーデンボルグって人知ってる?
彼は生きたまま霊界へ行き、その体験を『霊界日記』に書き残している。
私は全部読んだよ。それによれば、聖職者のほとんどが地獄へ落ちている。
理由は、自分自身が半信半疑であるにも関わらず、神の救いを他人に
説いたために、本心の自分とうわべの自分が分離してしまった。人間は
死後、うわべの自分を剥ぎ取られてしまうから、その場合に残るのは
不信でしかない。

死後、偽善は悪よりも重い罪として裁かれる。だから、表向きは信仰者
を装う僧侶が、不信者よりも下の地獄へ堕ちるという。「阿弥陀仏」が
作り物であることを知って、「阿弥陀仏」の救いを説いたとしたら、
どうなると思う?

まあ、信じる信じないは別として、後生のために一度考えてみたほうが
いいと思うよ。
753混沌坊主:04/09/02 21:34 ID:odNdNypo
 仏教哲学は難解です。ややこしいです。
 はっきり言って、その境地まで至るのは骨が折れます。
 あたかも、地上30メートルの高さにあるように。

 だから釈尊ならびに多くの先人善師たちは、その高みへ至るための階段を
作ってきました。
 まず生活倫理から入り、修行の心構え、目指すべき境地、そこへ至るための
方法などを、分かりやすく、順を追って、教えていくために。
 あたかも船を港へ導くために、灯台のあかりを目指すように。
754混沌坊主:04/09/02 21:34 ID:odNdNypo
>>750
 どうなるか、あなたはご存知ですか?(w
755けちゃっぷ:04/09/02 21:36 ID:KpQft5du
念仏信仰で救われてる人は大勢の人達に、わざわざ不安を与えて、何か得なことがあるのでしょうか?正しいから説くのは日蓮タイプですが、法然タイプは、救われるから説くのです。
756混沌坊主:04/09/02 21:38 ID:odNdNypo
>>755
 まったくその通りですね。自分が信じ、救われたからこそ、人に
伝えられるのです。
 浄土教の七高僧は、いずれも経典を研究し、浄土経典に釈尊の教えが
生きており、その方法で人々が救われることを確信した。故に後世に
伝えたのです。
757けちゃっぷ:04/09/02 21:39 ID:KpQft5du
法然さんは、「疑いながらも念仏すれば往生できる」と言います。親鸞さんですら時々疑いを抱いてしまう。その自分の疑いを気にして不安にならないようにという、法然さんの慈悲がうかがえます。
758けちゃっぷ:04/09/02 21:44 ID:KpQft5du
遊女(売春婦)には、その仕事をやめるべきだと教えます。その上で、他に食べていくすべもなく、命懸けで出家する覚悟もないなら、念仏しなさいと説く。法然さんは、まず戒めた後に、希望を付け加えます。
759名無しさん@3周年:04/09/02 21:58 ID:WCt039Gf
>>754

あなたは、そんなことも知らずに仏教を説いているわけ?(大w
760名無しさん@3周年:04/09/02 22:02 ID:WCt039Gf
>>756

わからん御仁だな。
法然さんの時代には、「阿弥陀仏」は実在の菩薩だと信じられていた。
今、そんなこと信じている人いないよ。仏教史で習ったろ?

>浄土教の七高僧は、いずれも経典を研究し、浄土経典に釈尊の教えが
>生きており、その方法で人々が救われることを確信した。故に後世に
>伝えたのです。

違いますね。高僧達は、浄土三部経が本当に釈迦の直説だと信じたから、
後世に伝えた。嘘だとわかっていたら、火にくべて燃してしまっていた
だろう。
761名無しさん@3周年:04/09/02 22:14 ID:WCt039Gf
浄土真宗の坊さんでも、心ある方は事実をちゃんと認めておられる。
http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/iitai/it21_40/iitai31.html
762けちゃっぷ:04/09/02 22:20 ID:KpQft5du
念仏信仰で救われる人が一人でもいれば、それでいいのでは?極楽が西にあると言うのも、方向を定めないと迷う凡夫の性質を配慮してのことです。宗教として価値があるかいなかの問題です。
763けちゃっぷ:04/09/02 22:23 ID:KpQft5du
>780 それに、口で念仏を称えるという行為が、一つの修業として効果があるのです。じゃなきゃ、はじめから念仏抜きでみんな救われると説くはず。効果があるかないかが大事です。
764混沌坊主:04/09/02 22:23 ID:odNdNypo
>>759
 いい答えだ。あなたはなぜ、真宗が戒律を守らなくていいのかを
知らないだろう。戒律の本義についてもだ。

>>760
 空の概念を確立した龍樹、唯識学を成立させた世親が、釈迦の直説か
否かで気にするものか。
 苦悩を除いてくれるのがまことの仏教ならば、釈尊の直説か否かではなく、
拙僧の苦悩を除いてくれるか否かで判断するわい。
7651:04/09/02 22:24 ID:Q6DdKLGt
>>727 セブンツーセブンさん、
霊的な話のみに限定すれば(エコロジカルな話はさておいて)、
霊場というのはなかなか浮遊霊の集積する場所だそうですよ。
だって浮遊霊なんてほかに(宗教施設以外に)行くところがな
いじゃないですか。

エコロジカルには、森林の乱開発なども関係しているかも。

夜も更けたし寝ます。続きはまた明日読もうっと。
766混沌坊主:04/09/02 22:25 ID:odNdNypo
>>761
 極悪寺の珍宝和尚の話は、しっかりかみしめんとアカンぞ。
 表面と中身で味が違うからな。ちょっとなめただけでは、本義は
絶対につかめまい。
767名無しさん@3周年:04/09/02 22:26 ID:WCt039Gf
で、効果さえあれば嘘をついてもいい、と居直られるわけだ。
768名無しさん@3周年:04/09/02 22:28 ID:WCt039Gf
君らの論理は、結局のところ「大審問官」と同じだわな。
769混沌坊主:04/09/02 22:30 ID:odNdNypo
>>767
 当たり前ではないか。うそをついても、救われるのなら、それは
それで問題はないだろう。
 世の中に蔓延する「ウソ」とは、自分の利益のためのものだ。
 利他のウソは、「方便」とされる。
 
 問題が出るのは、救われると信じていたのに、救われなかったときだ。
770けちゃっぷ:04/09/02 22:33 ID:KpQft5du
幼い子の死を悲しむゴータミーという母親を導くために、お釈迦さまは、子供を生き返らせる薬を作るから材料を町でもらって来なさいと言いました。生き返らせる気などないのに。効果的な方便の例です。
7711:04/09/02 22:35 ID:Q6DdKLGt
>>768 大審問の頁、読んだけどどうも分からなかった。
かいつまんで説明してくださると有りがたい。
772混沌坊主:04/09/02 22:35 ID:odNdNypo
 拙僧は、念仏の教えをいただき、心安らかに生きることができている。
この現実から立っている。
 そしてその教えを学んでいくうち、念仏の教えと、釈尊の経典、多くの先師の
教えは、矛盾せずにあることが分かった。信じるに足る内容であった。
 故にこの教えは、まことの教えだと信じ、それゆえに拙僧は、安心してまかせる
ことができるのである。

「信じる者は救われる。信じなければ救えない
 弥陀の請願、馬券に同じ。信じて買わねば、意味はない」
773名無しさん@3周年:04/09/02 22:51 ID:WCt039Gf
>>771

イエスが荒れ野で悪魔から3つの誘惑を受け、ことごとく退けます。
イエスの主張とは「奇跡と神秘と強権」をもって布教してはならないと
いうことです。

例えば、もし石をパンに変えたならば、そのパンを求めて人が集まって
くる。しかし、パンで釣られるようなのは本当の信仰ではない。心の飢え
こそが人間には致命的だからです。

しかし、人間は心が弱いために「奇跡と神秘と強権」にすがろうとする。
「パンを取るか、それを退けて心の糧をとるか、自分で決めろ」という
自由ほど扱いに困ったものはない、と考える。

それを先取りしたのが「大審判官」で、密かに悪魔と契約をかわし、
人々が求めてやまない「奇跡と神秘と強権」でもって、心を支配した
のです。
774名無しさん@3周年:04/09/02 22:51 ID:WCt039Gf
(続き)
「大審判官」とは、キリスト教会を象徴しています。教会は、イエスの
教えが人々には重荷すぎると勝手に判断し、キリストの名の元に人々の
罪をすべて許してやります。そして、こう嘯くのです。

「われわれはおまえの事業を訂正して、それをば奇跡と神秘と教権の上
に打ち建てたのだ。そのために民衆は、ふたたび自分たちを羊の群れの
ように導いてくれる人ができ、限りない苦痛の原因たるかの恐ろしい
贈り物を、ついに取りのけてもらえるときが来たのを喜んだ。われわれ
がこういうふうに教えたのはまちがっておるかどうか、一つ言って聞か
してくれ。われわれが素直に人間の無力を察して、やさしくその重荷を
へらしてやり、いくじのない本性を思いやって、われわれの許しを得た
うえなら、悪い行いすら大目に見ることにしたのは、はたして人類を
愛したことにならぬだろうか?」
775ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/02 22:54 ID:XnZoDjUf
「ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしたので、ひとりでに生まれて、
そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。」
その五つとは、貪欲・瞋恚(怒り)・有身見・戒禁取見・疑結

この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると悟る
こと。自己が自分のものではないと知ること。非我なるものを我と思うことなく、個体に
執著することなく、我がものとして執著なき者となること。「すべての存在は水の泡か陽
炎のごとし、速やかに一切の存在に対し嫌悪を抱け−さとりの境地」(法華経)有身見(我
とか我が物とかいう観念を離れぬ我執が人を生まれさせる)

私はこのような生存状態ではなくなるのだ。この身は泡沫のごとくであると知り、かげろ
うのようなはかない本性のものであると知れ。我がものとしている全ては、自分の前から
消えうせる。世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中は陽炎のごとしと見よ。我がものとし
ている愛著から離れる。

老齢となり、眉にしわがより、頭が白くなったのを見て〜さとりの境地を説こう「すべて
は水の泡か陽炎のごとし〜」(法華経)「死ぬよりも前に、妄執を離れて〜」

776ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/02 22:55 ID:XnZoDjUf
なのに、この世のものでしかない世間一般の宗教的行事で、人は導かれるだろうか。彼岸で
は、宗教的行事もない。「宗教的行為によっても導かれないし、伝統的な学問によっても導
かれない。」戒禁取見(誤った戒律や禁制を正しい修行方法であるとして執著することによ
っても人を生まれさせる)「来世において獲得しようとしているもののために、地獄や畜生
の胎内やヤマの世界に生まれかわって、種々さまざまな苦悩に遭う。」「願い求める者には、
欲念がある。」「この世もかの世も望まない」人は欲念により、かの世も望み獲得しようと
願い求めることによって得られない。
777ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/02 22:56 ID:XnZoDjUf
ニルヴァーナは、貪欲もなく怒りもなく、欲念により願い求めることもなく、この世もかの世
も望まない。「安らぎは虚妄ならざる真理であると知る」楽であろうと、苦であろうと、およ
そ感受されたものは苦しみであると知る。この身は不浄であり、自身を偉いといって驕ること
もない。彼岸に入りこの身がなくなり清浄となるのである。「生存のための妄執も、生存の断
滅のための妄執も存在しない」
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」「あたかも、母が己
が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の慈しみのこころを起こすべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪ま
な見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた
人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」
疑結(正しい道理を疑うことによりこの世に生まれさせる)
778マンゴー先生:04/09/02 23:12 ID:3nE7L33w
はじめまして。某スレから避難して参りました。何卒宜しくお願い致します。

>>774
この続きがとっても気になります。
私はこの大審判官にちょっと共感できますね。
この問いにイエスさまはなんとお答えになられたのでしょうか?

779コーク港:04/09/03 03:20 ID:7Qt36Vzu
阿弥陀如来により救われると信じる(まあ、信じなくても救われそうだが、それは不安を解消する為の方便かな?)も修行により阿羅漢果を得るもどちらも同じくらい難しいよ。

たから親鸞も疑ってたんだろ

大乗仏教は利他を重要視して、菩薩行をしますね、人を救う事により自らも救われる、釈迦の情けは人の為ならずと言うヤツだ、しかし浄土経典は信者が法蔵菩薩を見習い菩薩行をするのでは無く、経典にある救われる衆生の側になる事を目指す変わった経典でもある。
780名無しさん@3周年:04/09/03 03:41 ID:P21D/Al3
>>779
他力本願の考え方は、封建社会だったあの時代の民衆へ広めるために
そうしたんじゃないの?徳川幕府はその有効性に気づいたから、あえて
鎖国なんて凄いことしたんだし。

てことで、親鸞や日蓮の方便は誰のための方便だったのか?
って思うわけだ。ある意味それで救われたと強弁できないことも無いが、
強弁だなぁ…と思ってしまうわけですよ。
781ニルヴァーナを見たい:04/09/03 03:52 ID:jzrwBzXZ
見たいなー。どんな感じなんですかね〜。
782名無しさん@3周年:04/09/03 08:03 ID:68iO+bnf
>>778

それは読んでからのお楽しみ。『カラマーゾフの兄弟』の中の第5編の第5章
に出てきます。分量はせいぜい10ページくらいだったと思いますので、是非
続きはそちらの方で。
783名無しさん@3周年:04/09/03 08:23 ID:68iO+bnf
>>779

禿同です。法然上人が浄土教典を拠り所としたのは、緊急避難的事情だったと
思います。世が乱れて明日は人殺しになるか、骸になるか、という修羅場だった。
六字を唱える余裕しかなかった。緊急避難だったからこそ、「阿弥陀仏」という
架空の存在でも効果を発揮したのだろうとも思う。

おぼれる者は藁をも掴む、と言いますけど、信じる側の真剣さが「阿弥陀仏」の
リアリティーを支えていたのではないでしょうか。

ところが、現代は事情が違う。「殺すか、殺されるか」といっても、せいぜい
会社の人名録から名前が消えるだけだし、次の部長の椅子をめぐって架空の
「殺し合い」をやっているだけだから、じっくりと座って利他行に励むという
余裕があるのです。そういうフェーズになると、浄土教典は「薬転じて毒となる」
としか言えない。

鎌倉時代の特殊事情を言い訳に使って、現代の自分達の行為を正当化している
わけです。私自身、浄土真宗の坊さんとおぼしき人たちから、同じような弁明を
繰り返し聞いてきたけど、どうしても虚偽の匂いが否定できないのは、それが
理由です。あと、上に出てきた「大審問官」の偽善的「救済の論理」が鼻につく
ということ。
784:04/09/03 09:32 ID:cCMPpTu4
>>720 けちゃっぷさん今日は。
>三宝に帰依し戒を授かる仏教徒が、日々の修業として
>念仏を選択しているわけで、阿弥陀佛信仰のみの一神教
>ではありませんよ。

三宝に帰依とおっしゃいますが。信は、戒(=在家の戒で
いいとおもうけど)は、布施の行は、仏陀の教えの日々の勉強や復習は、
いつもブッダを念じて忘れないようにしているか等等、チェック
ポイントがあると思うのですが。ただ機械的に「帰依仏、帰依法、帰依僧」
とお勤めのときに読んでいるだけではいけないと思います。
いかがですか?
785:04/09/03 09:34 ID:cCMPpTu4
>>728 けちゃっぷさん、原始仏典にも末世の状況を書いた経典は
あるんですよ。
786:04/09/03 09:37 ID:cCMPpTu4
>>729 それは在家でありながら出家の戒を守ろうとするから難しいんです。
お坊さんだって、家もあるし妻子もある、財産もあるし守るべき持ち物だ
らけ。だからお坊さんも仏教学者もみんな在家の初心の仏道修行者なんで
すよ。だから初心者向けの指導を読まないとだめなんです。
787:04/09/03 09:41 ID:cCMPpTu4
>>730
>不退転の位の悟りにすら達していない場合は

これって、混沌坊主さんがおっしゃってた「預流」のことですか?
「預流」ならば「預流」になる方法はあります。修行も何もいらない。
気持ちを切り替えるだけで良いんですよ。心の底から懺悔して、今まで
の行為をすべてあらため、仏陀の教えに従えばいいんです。
788:04/09/03 09:54 ID:cCMPpTu4
>>731 けちゃっぷさん、念仏を申しても極楽には行けません。
まず
「心の底から懺悔して、今までの行為をすべてあらため、仏陀の教えに従う」
↑↑↑
これが最低の必須条件です。
789:04/09/03 10:05 ID:cCMPpTu4
>>732
>>733 さん、本覚思想、如来蔵思想、煩悩即菩提の考え、

仏陀の教えからは遠く離れているような気がします。

790:04/09/03 10:09 ID:cCMPpTu4
>>753 混沌坊主 さん、

>その高みへ至るための階段を
>まず生活倫理から入り、修行の心構え、、

まず、仏陀と教えと聖なるサンガへの信。
続いて戒。そして布施。学ぶこと。
791:04/09/03 10:10 ID:cCMPpTu4
>>755 けちゃっぷさん、

>念仏信仰で救われてる人は大勢の人達に、
>法然タイプは、救われるから説くのです

救われてないと思うよ。
792:04/09/03 10:13 ID:cCMPpTu4
>>756 混沌坊主 さん。

>浄土教の七高僧は、いずれも経典を研究し、浄土経典に釈尊の教えが
>生きており、その方法で人々が救われることを確信した。

そうではなく、経典が仏陀の金口だと思い込んだのでしょう。
793:04/09/03 10:34 ID:cCMPpTu4
>>757 けちゃっぷさん
>法然さんは、「疑いながらも念仏すれば往生できる」と言います。
>親鸞さんですら時々疑いを抱いてしまう。

仏陀の金口にしてはおかしなことが書いてあるなあと思ったのでしょうね。
全く他の教えに反しますから。現代の文献学の成果を知ったら発狂してし
まうと思う。
794:04/09/03 10:43 ID:cCMPpTu4
>>774
「奇跡と神秘と教権」
キリスト教会はこれで成り立っているのですね。
奇跡と教権は分かりましたが、神秘というのが難しいですね。

浄土宗には「奇跡」はなさそうですね。
795:04/09/03 10:49 ID:cCMPpTu4
>>775 ニルヴァーナを見たさんこんにちは。

>「ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛
>その五つとは、貪欲・瞋恚(怒り)・有身見・戒禁取見・疑結

十結煩悩のうち下位の5つですね。
有身見・疑結・戒禁取見・貪欲・瞋恚(怒り)

経典ではこの順番(下位から上位)になってなかったですか?

>その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。

不還(ふげん)のことですね。
796:04/09/03 11:06 ID:cCMPpTu4
>>780 さん、
>親鸞や日蓮の方便は誰のための方便だったのか?

親鸞や日蓮は方便は使ってないんですよね。
仏陀がその一代の教法で方便を使われたと誤解した。

*実際は仏陀も方便は使ってない。
*万一使っても良いとしても、そういうことができるのは仏陀だけ
*祖師方も方便は使ってない
*待ちのご住職さんが「これは方便じゃ」なんていうのはとんでもない
797:04/09/03 11:08 ID:cCMPpTu4
>>783 さん、
>法然上人が浄土教典を拠り所としたのは、緊急避難的事情

そこにそういう経典があったから、それをそのまま信じただけなのでは?
798:04/09/03 11:14 ID:cCMPpTu4
>>783
阿弥陀様の念仏も、法華経の唱題も免罪符ですね。
それがそのまま経典に書かれているんだから怖い。
まずはその経典の錯誤をしっかりと認識することで
すよね。
799名無しさん@3周年:04/09/03 11:14 ID:68iO+bnf
>>797

確か、法然上人が天台僧であった頃、浄土教典はほとんど顧みられてなかった
と思います。少なくとも、天台のエリート僧侶の目からは、価値があまり
なかった。あるいは、フィクション臭に気付いていたのかもしれません。
法然上人が浄土宗を立てると、天台宗はそれを弾圧する側に回ります。
これだけを見ても、浄土教典は当時ですら、天台僧達を納得するだけのもの
を持っていなかったことがわかります。
800けちゃっぷ:04/09/03 12:28 ID:nmtsruGs
観無量寿経は、観想念仏の修業法が説かれています。夕日を見つめていつでも目の前にそのビジョンを出せるようにするとか。で、そのような修業ができない悪人も口で仏名を称えれば往生できるとも書かれてる。
801混沌坊主:04/09/03 12:29 ID:2m1BYW+L
>>799
 浄土経典は、在家信者の入門経典として読むべきです。
 あれは、学問をして研究する類のものではありません。
 仏教学・仏教論理を根本から研究したい人にとっては、あまり有効な経典では
ありません。なにしろ結論が「信じるか否か」という、宗教の根本にかかわる
経典ですから。内容も、他の経典に比べ論理的とは言いがたいです。
802けちゃっぷ:04/09/03 12:44 ID:nmtsruGs
何かに意識を集中していく観法は、天台の止観の延長として修業されていたのでしょう。実際念仏で三昧に入った僧はいますし。浄土経は修業本とも言えますよね。
803けちゃっぷ:04/09/03 12:55 ID:nmtsruGs
お経を仏教学の対象として研究する立場と、実践する立場とでは、とらえ方は違ってきますよね。自力も他力も修業があります。他力の念仏は、信と行の双修が重要です。
804北海道警察:04/09/03 12:56 ID:Kp3PVrfX
ここですか?マルチ商法出資法違反及び
ネット内恐喝、脅迫、HP嵐、出会い系サイト性別詐称美人局容疑、
及び、コメント詐欺など、ありとあらゆる犯罪に手を染め、
2ちゃんねる運営人として宗教板でコロコロ名前を変えて身を潜め、
掲示板運営の特権を利用し、リンク規制をかけ、自分の犯罪証拠を
隠している犯罪者、鈴木公一『奇跡を呼び込むS氏の能力開発」と
そのマルチグループ(HN 2ch太郎)がいるスレは。
2人とも警察まで来てもらおう、もし拒否するなら逮捕し、
他の2ちゃんねる運営人も班員隠匿罪で逮捕する。

逮捕令状対象者 鈴木公一(奇跡を呼び込むS氏の能力開発)
北海道札幌市手稲区前田9条12丁目4−15
犯罪証拠、http://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=UTF-
8&c2coff=1&q=YahooBB219003162167&btnG=Google+%E6%A4%9C
%E7%B4%A2&lr=
805けちゃっぷ:04/09/03 18:19 ID:nmtsruGs
>799 当時の天台宗でも阿弥陀信仰はありましたが、往生のための修業は観想念仏だという意識が強かったのでしょう。お経には悪人のために口称念仏も書かれてたが、エリート意識で興味なかったのでは?
806名無しさん@3周年:04/09/03 18:24 ID:nKeO6AQV
8071:04/09/03 18:44 ID:cCMPpTu4
>>799 さん
>浄土教典

もし私があの時代に生まれていて仏教を学んだとしたら
とても魅力的な経典だと感じたと思います。
地球は平らだと思っているわけですよね。そして西へ西へと
行くと無限のかなたに極楽浄土がある。そして阿弥陀如来様
が私たちを待っていてくださる。なんて魅力的なんでしょう。
当時の人々でも疑問を感じた人もいたのですね。しかし、お
釈迦様の保証付き。
一発、この末世濁世にこの経典に賭けてみよう。これこそが
現代(当時)の経典だ!!と思ったかもしれません。

でも「お釈迦様の保証」というのが嘘っぱちだった。
8081:04/09/03 18:46 ID:cCMPpTu4
>>801 混沌坊主さん。
>浄土経典は、在家信者の入門経典

西へ西へと行くと極楽浄土があるんですか?
落語にもありますよね。西へどこまでも行くと、
自宅の仏壇の中だった。とか。
8091:04/09/03 19:06 ID:cCMPpTu4
>>805 けちゃっぷさん、
瞑想行や観想の目的が意識の変容だとお思いですか?
そうではないんですよ。「心の変化」が目的なんです。
考え方や気持ちが変わることが(主な)目的。
だから何でもかんでも拝んで意識が朦朧としたら良い
というものでもありません。
そこを間違えると、ドラッグでトリップなんて修行ま
がいも発生しますよね。

必要なのは「正しい定」=「正定」。
810けちゃっぷ:04/09/03 19:14 ID:nmtsruGs
1さん、念仏者は知らず知らずのうちに心が変わってきますよ。浄土宗の念仏は、観想念仏ではありませんし、三昧が目的でもありません。念仏が人生の目的であるという価値観になっていきます。
811混沌坊主:04/09/03 19:19 ID:2m1BYW+L
 念のため、拙僧が学んだ「浄土真宗の教えで苦悩が除かれるメカニズム」を、ここにあげさせてもらう。
どうもそういう基準をあげないと、話がごちゃごちゃになりそうだ。

 苦悩を除く手法として、四聖諦がある。苦諦(苦とは何か?)、集諦(その原因は?)、滅諦(苦が除か
れた状態とは?)、道諦(そこに至るための方法は?)の四つを明確に知ることで、対処を行っていく方法だ。

 苦諦として、四苦八苦がある。生・老・病・死に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。以上を加えて
四苦八苦である。これをのぞくにはどうするかということだ。これが仏教の根本である。
812けちゃっぷ:04/09/03 19:21 ID:nmtsruGs
念仏者は、念仏さえできてればOKなんですね。そうなると、もはや極楽の有無さえも問題じゃなくなる。念仏=幸福、と直結してくるのです。生死ともに煩いなしという心境になってきます。
8131:04/09/03 19:27 ID:cCMPpTu4
>>811 混沌坊主さん。

四苦八苦には出口がある。私もそう思うよ。
814混沌坊主:04/09/03 19:28 ID:2m1BYW+L
>>811の続き
@「阿弥陀如来はその昔、一切衆生を成仏させんという誓いを立て、完成させた。念仏する者は、死んだ直後に、極楽に
往生し成仏できる。輪廻することもなく、悪道に落ちることもない。すばらしい世界に行くことができるのだ」

 この教えをまず信じることにより、「死」に対する恐怖がなくなる。死んだ後にすばらしい世界に行けることを信じきる
者は、死に対して恐怖は抱かない。

 死に対する恐怖がなくなった者は、同じ理由で「老」「病」に対する恐怖もなくなる。

 必ず来る幸福を待つ時間にこそ、まことの幸福はある。すなわち「極楽往生を信じている間、その者はすでに極楽にある」
とも言える。そして「生」の苦悩も消える。
815混沌坊主:04/09/03 19:30 ID:2m1BYW+L
>>814の続き
 重要なのは、この「苦悩」は、痛みや苦しみをさしているのではない。
 仏教における苦とは、「思い通りにならない」ことを意味する。
 病気で、呼吸苦しく、全身に痛みが走っても、心安らかにいる人は多い。この人には、苦痛はあっても
苦悩はない。
8161:04/09/03 19:30 ID:cCMPpTu4
>>812
そういう心境ってスポーツとか山登りとか芸事とかでも
得られませんか?金メダルを取って「やったー!」とか
言っている人とどう違うのかな。ジョギング命のジョガー
のジョギングハイとどう違うのかしら。
人生に苦しんでいる人に「オペラ歌ったらスカッとしますよ」
なんて説得力があるだろうか?
817けちゃっぷ:04/09/03 19:31 ID:nmtsruGs
念仏者にしかわからない感覚かもしれませんが、最初はお経のとおり往生のために念仏してますが、いつのまにか、念仏のために念仏してます。で、念仏のために生きてるようになります。
8181:04/09/03 19:34 ID:cCMPpTu4
>>817 そんな「念仏婆さん」の様なこと言われても困る。
819けちゃっぷ:04/09/03 19:39 ID:nmtsruGs
混沌坊主さんのおっしゃるように、苦悩がなくなるのです。人生にはコントロールできないことがあります。コントロールできないことは、コントロールできなくてかまわない。それらは人生の目的じゃないから。
820混沌坊主:04/09/03 19:40 ID:2m1BYW+L
>>815の続き
Aここまでなら、普通のカルトや、伝統宗教・民族宗教にもある。浄土経典を普通に使っても、ここまでだろう。
だがここからが「歴代祖師が築いてきた、真宗が仏教である真骨頂」である。

 死後のことをすべて阿弥陀如来に任せた段階に至った人は、次の階梯に進む。
 自分の苦悩を「救われる証拠」と認識し始めるのだ。

 阿弥陀如来は、苦悩する人々を救う。中でも罪悪の深い「悪人」を、優先的に救ってくれる。
あたかも医者が、たくさんの病人の中から、最も症状の重い患者から診察するように。
そして悩み、迷い、苦悩することは、むしろ阿弥陀如来に救われる証拠なのだ。

 こうして、苦悩することも喜びと信心に昇華できるようになったとき、その人からは残りの八苦が
消え始める。そして次の階梯に進めるようになる。
8211:04/09/03 19:40 ID:cCMPpTu4
>>814 混沌坊主さん、信じるとはどういうこと?
「心の底からそれが正しいと思う事」でしょう?

>「阿弥陀如来はその昔、一切衆生を成仏させんという誓いを立て、
>完成させた。念仏する者は、死んだ直後に、極楽に往生し成仏で
>きる。輪廻することもなく、悪道に落ちることもない。すばらし
>い世界に行くことができるのだ」

混沌坊主さんは、この命題を心の底から正しいと認識しておられますか?

 
8221:04/09/03 19:43 ID:cCMPpTu4
親鸞聖人は心から弥陀の誓願を信じて美しい文章を書き残した(そうだ)。
(読んだ事はないが)
それはそれで素晴らしい事だと思う。しかし「そんな事は嘘っぱちだ」と
知っているはずの現代の坊主が商業的にその美しい文章を利用するのは
とても悲しい事ですね。
823混沌坊主:04/09/03 19:48 ID:2m1BYW+L
>>820の続き
 ここで重要なのは、「悪人」の扱いだ。ここでいう悪人は「悪事を働いた人」ではない。
そこを勘違いしている人が多いため、「親鸞は麻原彰晃を救うか」などという質問が飛ぶ
のだ。

 ここでの「悪人」とは、「自分は悪いことをしてしまった」と、後悔・煩悶している人の
ことをさす。
 いくら何百人人を殺した男でも「自分は正しいことをした」と信じているやつに、苦悩は
ない。こういうのを「善人」という。
 善人は、自分は正しいことをしていると信じているから、悩むことはない。それゆえ救う
必要もない。自分の力で進むことができる。
 「自分は罪深い。最早救われない。もうおしまいだ」と嘆き、絶望し、後悔し、煩悶して
いる、そんな人を「悪人」と呼び、阿弥陀如来はそういう人から救っていくのだ。

 海に投げ出された多くの人のうち、救助者は誰から助けるだろうか。
 自力で泳げる人。自力では泳げず、おぼれながら悲鳴を上げる人。
 言うまでもあるまい。自力では泳げない人から、まず助けるだろう。

 これが歎異抄に有名な『善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや』の本意である。
824混沌坊主:04/09/03 19:51 ID:2m1BYW+L
>>821 1様
   >>772を参照してくだされ
825けちゃっぷ:04/09/03 19:57 ID:nmtsruGs
ところで、1さんは、どのような立場で仏教を学ばれているのでしょうか?どこかの宗派に属しておられるのでしょうか?また、どのような修業をされているのでしょうか?
8261:04/09/03 19:58 ID:cCMPpTu4
>「弥陀の請願、馬券に同じ。信じて買わねば、意味はない」

馬券ならば当たる事もあるだろうが。

混沌坊主さんの商業的にこなれた文は読むのがつらい。
それだけしゃべれば檀家は黙るだろう。でも檀家
を黙らせるための文章だね。悲しい。仏教はそんな
ものじゃない。

「ブッダ・ダルマ・サンガ」に対する信がどこにもない。

827混沌坊主:04/09/03 19:59 ID:2m1BYW+L
>>823の続き
 「苦悩を、救いの証拠として、阿弥陀如来からいただく」このスタンスに至った人は、
「すべてを阿弥陀如来の計らい」とみなすようになる。

 雨が降るのも、阿弥陀様のおかげ
 思わぬ出費も、阿弥陀様のおかげ
 事故が起きても、阿弥陀様のおかげ

 すべてを阿弥陀如来の計らいと認識し、往生の証拠として合掌し、ありがたいと考えて
いくうち、人は「自分の都合」という認識から離れていく。

 人は、自分の都合によって善悪を決定する。自分に都合がいいのが善、都合が悪いのが
悪なのだ。
 ところが、善も悪も、いずれもが「往生の証拠」としていただけるため、「ありがたき
幸せ」として認識できるようになる。

 全て、阿弥陀如来によって生じ、阿弥陀如来によって滅していく。

 この境地に至った人は、我執を離れたといってよいだろう。
 人に説法できるような智慧を持たずに、一切の執着を離れた人。
 真宗ではその人を「妙好人」と呼ぶ。
8281:04/09/03 20:01 ID:cCMPpTu4
>>825 キリスト教で言えば「無教会派」ですね。自分の立場を
一言で言えば「仏教ファンダメンタリスト」。教会は必要ありません。
829名無しさん@3周年:04/09/03 20:02 ID:Nmrjo0G1
混沌坊主さんには悪いけど、文章から何かギラギラした商売っ毛みたいな
ものを感じてしまう。

真理を探究しようという謙虚な心じゃなくて、最初から相手を言いくるめて
やろうという意図を感じる。
830名無しさん@3周年:04/09/03 20:04 ID:Nmrjo0G1
思い出した。パウロ書簡を読んだ時に感じる「押し付けがましさ」
と同じ雰囲気です。オリンピックで、ドーピング総動員して、そこまでして
勝ちたいか、と呆れる時の感じに近い。
831混沌坊主:04/09/03 20:07 ID:2m1BYW+L
>>826 1様
 ……私は大学と大学院で、仏教学(唯識)を学び、真宗の教えも学びました。
内容が信ずるに足るから信じているのですが。
 ひょっとしたら、知識の探求のみで終わっていたのかもしれません。
 なぜか、あなたの言葉が胸に刺さりました。
 しばし、自己を見つめなおそうと思います。
 いい一言を、ありがとうございます。
832けちゃっぷ:04/09/03 20:10 ID:nmtsruGs
>828 では、1さんにとって、僧(サンガ)への帰依とは?師から弟子(在家信者含む)への口伝でしか伝えられていない、書物には載っていない教えについては、興味はないですか?
833名無しさん@3周年:04/09/03 20:17 ID:Nmrjo0G1
>>832

>師から弟子(在家信者含む)への口伝でしか伝えられていない、書物には
>載っていない教えについては

それこそ「神秘と教権」に逃げてるだけでしょ。
けちゃっぷさんにとって、念仏は現実逃避のための「人工子宮」なんだよ。
8341:04/09/03 20:23 ID:cCMPpTu4
>>831 もし私が職業的に真宗の僧侶なら檀家にどう説明するだろう。

阿弥陀様ってお釈迦様のこと。
お釈迦様の「心の解脱」を象徴した仏様。
一生懸命拝んでいると心が清らかになって仏国土に行く事ができる。
それは昔の人が考えていた極楽浄土。
実はお釈迦様のニルバーナの世界。
「阿弥陀様ってお釈迦様のこと」←これは私の勝手な想像で、
本当は昔の偉大な仏教修行者の化身なのかもしれない。
835名無しさん@3周年:04/09/03 20:27 ID:Nmrjo0G1
私は、中学高校とミッションスクールに行ってた。
友人の何人かが洗礼を受けてクリスチャンになった。
ところが、そいつら全員が大学受験に失敗した。

これは単なる想像だけど、人間というのは、もう後がない、自分で踏ん張らなくては
誰も支えてくれない、という場面でしかがんばれないんだよ。下手に宗教で「逃げ場」
を作ってしまうと、人間は弱いからそれに甘えてしまう。

キリスト教にしても、浄土真宗にしても、「これまでの罪は帳消しにします」
という徳政令でしょ? がんばり続けて、もうこれ以上は一歩も進めないという
人にはよいかもしれないが、一般の人にとっては毒にしかならないね。
安易な自己破産者を増やすばかりで、何の役にも立たないさ。
836けちゃっぷ:04/09/03 20:27 ID:nmtsruGs
では、現実とは何でしょう?その人が自分が幸せだと「感じている」。それ以外に現実があるのでしょうか?どんな苦悩も無常なので必ず心から去ります。そのように必ず念仏がやってくる
837けちゃっぷ:04/09/03 20:32 ID:nmtsruGs
大学落ちたら不幸と思うから不幸になるのでは?念仏が口から出たら幸福の証。大学の採点基準から見たら不合格でも、仏の慈悲から見たら合格人生なのです。
838名無しさん@3周年:04/09/03 20:38 ID:Nmrjo0G1
現実を見つめることから始めないと。念仏唱えたって現実は変わらないよ。
現実と取っ組み合って、血肉になるまで消化し尽くすしか方法はないと
思うよ。

念仏唱えたら、現実の嫌なことは忘れられるかもしれないけど、そこから
一歩も進めないと思う。自分の例で言えば、ある女性に二股掛けられたこと
をずっと恨み続けていた。これはとても一生許せないだろうと思うくらい。
許せない、許せない、と思いながらも、人生の経験の中でやがて許せてしまう
時が来るんだよ。忘れ去るというのでなくて、それを直視して、それでも
それを受け入れられる時が来る。念仏など唱えなくてもね。
839名無しさん@3周年:04/09/03 20:41 ID:Nmrjo0G1
>>837
それは屁理屈でしょ。誤って人を殺しちゃった。念仏が出たからそれ
でも幸福。裁判所の採点基準では不合格でも、仏の慈悲で無罪放免と
いうわけですか。

そんなこと言っているから、宗教が社会悪を野放しにして平気なんだよ。
人を殺してしまったら、その原因を追求して、二度と過ちを犯さないのが
大切でしょう。念仏に逃げられてたまりますかい。
840けちゃっぷ:04/09/03 20:44 ID:nmtsruGs
阿弥陀仏が釈尊なら、釈尊がイダイケ夫人に阿弥陀仏の浄土を紹介するのは変です。観無量寿経では、実の息子である皇子の命で牢獄に入れられ絶望しているイダイケ夫人のような人に、阿弥陀仏が説かれます。
841名無しさん@3周年:04/09/03 20:46 ID:Nmrjo0G1
川でおぼれている人がいる。
普通の人ならば、何とか飛び込んででも助けようとするだろう。
だって、自分以外に助ける人がいないとしたら、それしか方法がない
から。

その時に、もしかしたら、けちゃっぷさんは、念仏だけ唱えて助けに
行かないような気がするんだけど。
842けちゃっぷ:04/09/03 20:52 ID:nmtsruGs
念仏は、あくまで仏教徒としての修業です。戒を授かった仏教徒は、普通は人を殺さない方を選びます。でも暴漢に襲われたら、とっさ反撃し殺してしまうかも。それが凡夫の弱さなのです。
843けちゃっぷ:04/09/03 20:59 ID:nmtsruGs
苦悩の解決が仏教。「殺されたくない」という執着心がある人を殺したら、その人には苦悩があることになります。殺す殺さないという見た目の形より、相手の苦悩を軽減できるかどうかを重視すべきです。
844名無しさん@3周年:04/09/03 21:03 ID:Nmrjo0G1
ところが、一般に人は念仏を悪用するでしょう。

十字軍がイスラム軍に包囲された時の話。イスラム軍は、全員を捕虜にして、
身代金を要求した。ところが、十字軍の総責任者である某大僧正は、自分の
分だけ身代金を払って、十字軍の運営資金を持ち逃げしたそうだ。結局、
ある金持ちが全員の身代金を払って無事解放されたが、その金持ちはキリスト
教徒ではなかったそうだ(蛮族の傭兵の隊長か何かだったと思う)。

その下劣極まりない大僧正は、念仏こそ唱えなかっただろうけど、「主を、
我の罪をお赦しください」位は口にしただろう。舌を使ってもタダだからね。
それと同じように、念仏も悪用されますよ、ということ。
845名無しさん@3周年:04/09/03 21:05 ID:Nmrjo0G1
下手に念仏知らない一般人の方が、「やるべきことは自分はやらねば
ならない」ということを了解しているだけ、人間として立派です。
「奇跡と神秘と教権」で似非信仰を勧めると、信者はたくさん集まる
かもしれないが、良心とか責任感が去勢されたダメ羊になってしまう。
846名無しさん@3周年:04/09/03 21:48 ID:P21D/Al3
>>844それはキリスト教だから。

だが、一向一揆を見るまでも無く、権力闘争としての武力衝突は
やってるし、キリシタン弾圧、身分制なんかも、仏教界の関与が
無かったとも言い切れない。
そりゃあ、俗人的な意味では、仏教はキリスト弾圧とか、戦国時代に
直接的な関与はしてないだろうけど、後の士農工商の身分制度の中で
ちゃっかり、士族階級に収まって能書きたれてたんだから、慈悲を知る
なら、無関係とは言えないはず。


>>843
そりゃあ無茶苦茶だわ。罪の意識無く、覚せい剤打ち続けてる人間は、仏様ってことになる。
847けちゃっぷ:04/09/03 21:48 ID:nmtsruGs
すべて、やるべき事ではなく、やりたい事になります。大学合格しなくては「ならない」のじゃない。本人が受験したいからした。結果落ちても、やりたいことをしたから満足でいい。合格人生は不変だから。
848名無しさん@3周年:04/09/03 21:57 ID:shcdPMPY
>>847
合格したくなかったら、最初から受験しなければいいじゃない。
例えば、ミュージシャンになりたいと思う人が音大を受けて不合格になると
するわな。もし、その人が念仏唱えて、脳内麻薬でラリッて「サイコ〜です!」
と満足したら、それで終わり。
念仏知らない一般人なら、独学目指してニューヨークでも行って、そこで
ストリートミュージシャンを目指すだろう。

要するに、念仏唱える前に人間としてやれることがあるでしょう、てこと。
849名無しさん@3周年:04/09/03 22:02 ID:shcdPMPY
>>846

どこの宗教でも、政治に取り入って金持ちになり、門前町に蔵が乱立
するようになったらオシマイです。

大阪の町名には、昔の浄土真宗の門前町の名残が多く見られます。
御堂筋には、馬鹿でかいコンクリートの「教権の象徴」が立ってるし。
あれはあれで、さらしものにしておいてやるのがいいだろう。
850けちゃっぷ:04/09/03 22:13 ID:nmtsruGs
大学合格したければ、合格するための手段を取るのは当然です。念仏の幸福の上に、さらにやりたいことをやって生活する。やりたいことが失敗しても、その失敗も含めて人生を楽しめます。
851けちゃっぷ:04/09/03 22:16 ID:nmtsruGs
世俗の価値観のみだと、世俗のやりたいことを失敗した時、不幸だと錯覚してしまう。念仏者は、世俗のやりたいことが失敗しても、不幸感はなく、また次のやりたいことを続けるだけです。
852ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/03 22:18 ID:f4HQz8ZZ
悪しき者は、神の子ヴェータンバリにこっそり忍び込んで、尊師のもとで次の師をとなえた。
「神々の世界を喜び、それらの人々は、来世のために正しく教えさとす。」
尊師「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、
それらはすべて悪魔ナムチの讃めたたえるところである。魚を殺す(=釣る)ために餌が投げ
込まれたのである。」

神々の世界を喜ぶ経典、空中に現れる光り輝きや夕焼けなどが修行の助けとなる経典がブッダ
には、うっすらと見えていたのではないか。それが実際は、夕日となったのでは>>800

「愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたとする。それ故に修行
僧は、自己の離欲を望んで、愛欲を除き去れ。」真理のことば
愛欲のある多くの人々は、「愛欲を除き去れ」という言葉を聞かない。聞いてもすぐ忘れ去る。
そこで、神々の世界を喜ぶように説かれた経典が必要だったわけで、「このような最高の経典
を聴聞し、書写し、記憶し、読誦する以外に、かれらの悦びはないであろう。〜かれらは、根
本的な正しい理念を持つ者となるであろう。〜かれらを、愛欲も、憎しみも、愚かさも、羨望
も、嫉妬も、中傷も、自惚れも、傲慢さも、虚勢も、害うことがないであろう。」法華経
人々は、神々の世界を思いながら、経典を聴聞し、書写し、記憶し、読誦しながら正しい理念
を身に着けていく。「〜となるであろう」暗示にかけ、愛欲も憎しみもない者となる。とにか
く、愛欲も、憎しみも、愚かさも、羨望も、嫉妬も、中傷も、自惚れも、傲慢さも、虚勢もな
い者となればよいのだ。

853ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/03 22:19 ID:f4HQz8ZZ
「ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしたので」順番は書いてなかった。
「在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷いとが漸次
に薄弱となるが故に、一度だけ帰る人であり、一度だけこの欲界の生存に還って来て、苦しみ
を滅ぼすであろう。」
その五つとは、貪欲・瞋恚・有身見(我とか我がものとかいう観念を離れる我執)・戒禁取見
(誤った戒律や禁制を正しい修行方法であるとして執着すること)・疑い
三つの束縛とは、見結(我見。我有りと見なす見解)・戒取結(あやまった戒律を行ずること
を解脱の因と見なすこと)・疑結(正しい道理を疑うこと)

非我なるものを我と思いなし、個体に執著している。今の生存状態が永遠に続くと思っていた
大きな間違いである。心も無常なのである。人はこのような心の状態が永遠に続くと思ってい
たら大きな間違いである。そして、或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えてしまう。
「安らぎは虚妄ならざる真理であると知る」こと。ニルヴァーナは安らぎである、無量の慈悲
である。この世のものは全て消えうせ、安らぎと慈悲が残る。それが、天での我である。

今の我に執著して、今の心のままでいると思う者は、また人間となる。「安らぎ」を思うこと。
しかし「生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」。それらの妄執によっ
ても、天に生まれない。
854ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/03 22:20 ID:f4HQz8ZZ
「聖賢の生まれなる人が住居をかまえる地方において、そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者
たちを供養したならば、そこにいる神霊たちはかれらに施与の功徳をふり向けるであろう。かれ
ら神霊は供養されたならば、またかれを供養し、崇敬されたならば、またかれを崇敬する。かく
て、かれを愛護すること、あたかも母がわが子を愛護するようなものである。神霊の冥々の加護
を受けている人は、つねに幸運を見る。」
「実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己そ制した全き人がいる。―そのような人々
にこそ適当な時に供物をささげよ。―バラモンが功徳を求めて祀りを行うならば。―かれは貪欲
を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こして、日夜つねに怠らず、無量の慈しみの心をあ
らゆる方向にみなぎらせる。」
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるもの
どもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。」

神霊の加護を受けたいならば、慈しみのこころを起こすように供養すべきだろう。
しかし「貧しき中からわかち与える人は、法を実践することになるであろう。千の供儀をなす人
々の百千の供儀も、そのような行いをなす人の功徳の百分の一にも値しない。」貧しき中から供
儀する人は、執着という煩悩を断てる。
855名無しさん@3周年:04/09/03 22:37 ID:P21D/Al3
>>851
それが卑怯って言うんだよ。世俗の価値観がなんでそんな貧弱な物じゃないと
駄目なの?世俗を貶めないと、仏教が浮かばないなら、そんな仏教いらない
じゃん。世俗の人、宗教持たない人の方が、己を信じて生きてるよ。
856けちゃっぷ:04/09/03 22:48 ID:nmtsruGs
世俗で満足してる人に、わざわざ無宗教はダメ!とか言いに行きませんよ。ここは仏教スレだから語ってるだけだし、批判や質問に答えてるだけです。世俗で満足の人がわざわざ仏教批判に来て、得することある?
857名無しさん@3周年:04/09/03 22:51 ID:P21D/Al3
>>856
だったら、世俗の価値観を否定するような発言は慎まないとね。
仏教が無くても出来ることをやった後に残るのが仏教の必然。
それが無いって言うなら、仏教は要らないって事になる。
858けちゃっぷ:04/09/03 22:52 ID:nmtsruGs
法然さんも、自分から他宗派の人を批判しに行ったり攻撃したりはしませんでした。悩みや質問に対しての救いや答えを与えるとか、弟子入りしてきた人に教えるとかだけです。その点はご留意願いたいです。
859名無しさん@3周年:04/09/03 22:57 ID:P21D/Al3
だいたい、なんで宗教家はそんな物の言い方するんだろ。
>わざわざ無宗教はダメ!とか言いに行きませんよ。

仏教を信じること、坊主が語ることについての弊害は計り知れないんだぞ。
自分の足で歩こうとしてる人間に、成仏できないと言い、罰があたると言う、
自分の言葉で人を説得できない人間へ、卑怯な道具を供給してる。
また、坊主は何ら生産しないんだから、そこへ金が流れるだけで、
人間社会に大変な損失を与える。

私は信じてるんだからほっといてくれと、言いながら、害悪を垂れ流すのは
やっぱり問題があるでしょう。
860けちゃっぷ:04/09/03 22:58 ID:nmtsruGs
仏教思想を目にして不愉快なら、仏教スレに来なければいいだけでは?執着心が苦悩の原因だというのは、仏教の基本です。例えばお金に執着すれば貧乏を不幸と感じる。心が不幸を創るわけですね。
861けちゃっぷ:04/09/03 23:01 ID:nmtsruGs
ごめんなさい。ケータイからなので一度に書き込める文字数が12字×8行ほどなので、簡略化して書くとついつい口調がキツくなってしまうんですよね。
862けちゃっぷ:04/09/03 23:08 ID:nmtsruGs
>859 念のため申し添えますが、僕は「罰があたる」とか言ったことないです。「坊主」というのは言葉だけで実体がないのです。あなたのイメージの中の「坊主」でもって、僕を批判するのは、筋ちがいです。
863名無しさん@3周年:04/09/03 23:19 ID:P21D/Al3
>>862
違うって、坊主や宗教を信じてる中途半端な人間が居るから、
罰があたるてな、非科学的、説得放棄、権力志向的な話ばかりが
先行してしまうって事。君が言ったこと有ろうが無かろうが関係ない。
君が信じてることが、このような貧弱な知性と無知蒙昧な人種に
発言権を与えてる一因になってる事だ。君らの用語で言えば
仏の慈悲だ。仏教信じる人間が居れば、それを悪用する人間が
出てくるのは必然なんだってば。だから、我感知せず。と言うなら
一切の発言を慎めって事。
864名無しさん@3周年:04/09/03 23:21 ID:8UXqe3M3
ケチャップさんは僧侶と言った方がよい人物ですぞ

そういえば釈尊と凡夫との会話でこんなのがありました。
              (日常語訳)
「あんたは、作物が取れなくても悩まなくことなくて幸せだね
食物庫がねずみに荒らされることもないから、幸せだね
妻に蹴っ飛ばされて起こされなくて、幸せだね
借金取りがこなくてしあわせだね」

とここで釈尊。幸せだと認められました
嫌味を言ったこの人は、釈尊マンセーになります。
ここにいろんな事が考えられますね。
865名無しさん@3周年:04/09/03 23:43 ID:P21D/Al3
>>864
だから、キチガイどもが黙って、社会からドロップアウトして行くのは
構わないが、仏教家とか、けちゃっぷとかは、そうやって色々悩んだ
人の心と成果物を食らいながら、なんで仏教を信じるんだ?って事。

インターネットつかえるのは、悩んだ人のおかげだよ。
君らがご飯食えるのは、悩む人が居るからだろ。

出家して一切托鉢を受けない、墓も見ない、寺も作らない。
それなら許したる。そうは出来ないくせに、仏教ありがたいって言うのは、
麻薬打って喜んでることと一緒、しかも他人に麻薬を勧めてるようなもの。
866マンゴー先生:04/09/03 23:58 ID:rya4BgX4
>>821 1さん
仏教における信とは、体験による確信のことですよ。
キリスト教や一般的な信じるとは少しニュアンスが違うのです。
ちなみに仏教における願とは、誓うこと。
あと、方便とは、嘘のことではなくて喩え、と捉えた方がよいかと思います。

私も最初は浄土教が嘘っぽくて嫌いでしたけど、回心の体験を通して浄土経典に
納得できるようになりました。よい経典です。
経典の錯誤>>798ではありません。錯誤しているのは私たちの方。
法然さんは暇でしたからたくさん経典を読んだ。その中で救いにつながる何かを
浄土経典に見出したということであって、単純にそのまま信じたわけではないでし
ょう。>>797
それにしても浄土教は曇鸞さんあたりまではとっても良かったけど、善導さんは
思い切った解釈をしすぎたように思います。十念を十称にしてしまっては…。
ただ、こういった自分流の解釈は覚り人の特権であり、これがなければ生きた仏
教は伝わらなかったでしょうけどね。


867けちゃっぷ:04/09/04 00:16 ID:9AVt4gSA
うちのお寺は弱小なので、必要経費をいただくだけでせいいっぱいです。僕は兼業です。すべての日本の坊主はお金のために仏教をやってるだけにちがいない…とでも言いたいのでしょうか?違うと思います。
868けちゃっぷ:04/09/04 00:20 ID:9AVt4gSA
まぁしかし、戦後すぐ生まれくらいの世代の坊さんは、全国坊主不足だったために、簡単に坊主(というか住職の)資格をもらえたと聞いたことがあります。それが末法に拍車かけたかも?
869コーク港:04/09/04 01:45 ID:WDshhFUc
善導って首を釣ったってマジ?

なんでなん?
870名無しさん@3周年:04/09/04 01:45 ID:BGWRJEGP
>>868
それは奇妙な話ですね。
今は簡単にもらえないと。

仏の教えはそんなに変化してるんでしょうかね?
871名無しさん@3周年:04/09/04 02:26 ID:6mXTgi4K
仏教やヒンズー教って同じようなものなのですか?
マニ教やゾロアスター教などとも?
違うとは分かるけどなにか接点はあるのではないでしょうか?
873名無しさん@3周年:04/09/04 08:42 ID:pTBbtS1y
>>869

こういう記録はあるらしい。

>ある時、善導大師が西の空を見つめ、様々な苦しみが切迫しているのみて、
>「私は仏様の威神力を信じて、観音菩薩・勢至菩薩に助けられて、畏れること
>なく、浄土に生まれんことを願う」。そういって自分の住する寺の柳の木に登り、
>そこから飛び降りて死んでしまった。(『新修往生伝』)

だけど、単なる誤認だったらしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~zv6m-hcrk/study/toko001.htm
874名無しさん@3周年:04/09/04 08:45 ID:pTBbtS1y
それよりも、大きい問題はこっちの方。

>光明寺には興味深い説話がある。善導大師の説法を聞いた者が、感極まって
>光明寺の木に登り、浄土往生を願って自殺したとある。

生きていく時にぶつかる苦難を乗り越えるための念仏なら役に立つだろうが、
ただ極楽往生のための念仏になったら、残りの人生をドブへ捨てるような
もんだ。実際に、精神的な意味で自殺してしまった念仏者はたくさん
いると思われ。
875名無しさん@3周年:04/09/04 08:49 ID:pTBbtS1y
別のスレで、浄土真宗の坊さんを自称される人に遇ったけど、その人
も経済的に苦しいということをこぼしていた。上納金を巻き上げられて
るんだって?

念仏で批判能力を虚勢した羊達の上に、貧しい羊飼いが管理を任され、
ピラミッドの頂点で、聖人の仮面をかぶった悪魔が、やらずぼったくり
で手に入れた金を使って、人の目を欺く金ぴかの伽藍を建てる、という
お決まりのパターンだな。
8761:04/09/04 09:41 ID:Q0SAFX4T
>>831 混沌坊主さま

>私は大学と大学院で、仏教学(唯識)を学び、真宗の教えも学びました。

その博識でぜひまたブッダ釈尊の教法を教えてください。
「三帰依;帰依仏、帰依法、帰依僧」が勤行の際の口先だけの誓いになら
ないように、いつもブッダを思い出しましょう。
877ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/04 10:00 ID:XTTeQ6xw
神々「ひとは、どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?―もしも自分の
心を制することができないならば。」
尊師「修行僧は、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ます
ことなく、束縛の覆いを全くときほぐして、なんぴとをも謗るな。」

非我なるものを我と思いなし、自らに(思考の対象と心)に執著し、「或るものを、ああだろう、
こうだろう」と考え、思い悩む(迷妄)。また、この世を望み、かの世を望む。「わたしは、この
まま死んだらどうなるのだろうか?と。」そして、(神仏)に願い求める。―自分の粗雑な思考
考をおさめとれ。

「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?賢者は、自分の身を
よくととのえて、自分の主となり得る。この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分
の主であろうか?賢者は、自分の身をよくととのえて、自分の目的を達成する。この世では自己こ
そ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?賢者は、自分をよくととのえて、徳行を
達成する。」「従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態
からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることができない。」「依りかかることのない人は、
理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための
妄執も存在しない。」―何ものにも依存してはならない。
878ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/04 10:01 ID:XTTeQ6xw
― 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ ―
― 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし ―
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれは過失(道
から外れること)は存在しない ―
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の
汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である。」

貪りに基く思考をおさめとり、何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじ
てはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならな
い。他人を幸福にするような思いで働き功徳を積む。「いろいろな仕事に従事し、種々さまざまな意図
をもってそれぞれに良心による判断に従って行動する人々に、善根を生じさせようとして、如来は種々
の経説を種々の信憑すべき根拠に基いて語るのである。」(法華経)
「田に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―かれらの功徳
は、昼夜に増大する。それらの人々は、法に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく。」「愚劣な人
が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、
自ら用い、またなすべきことをなす。牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難
されることなく、天の場所におもむく。」

人々は欲心に従って行動し、自らの繁栄を貪り、権威を欲するが故に人を己の意のままに支配する。ま
た、怠惰であって自らは勤め励むことをしない。妄執に従って行動し、自らの勝利を願うばかりで、他
人に施すことをしない。掠奪、争い、殺人、怠惰、願い求める欲念などが世間の汚れである。
「願い求める者には欲念がある」他に依りかかり、決して天には生まれない。「この世とかの世」とを
望み「願い求める」ならば、願い求め獲得しようとした心のために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界に
生まれるだろう。人は願い求めのために、どれだけでも汚れていく。
8791:04/09/04 10:01 ID:Q0SAFX4T
>>832 けちゃっぷさんこんにちは。

>僧(サンガ)への帰依とは?師から弟子(在家信者含む)
>への口伝でしか伝えられていない、書物には載っていない教え

サンガの意味にはそれがあるんでしょうね。だからブッダは「帰依僧」
を教えた。
日本仏教は過去のしがらみを乗り越えて「ブッダに帰る」仏教大学を
作る必要がありますよね。
8801:04/09/04 10:05 ID:Q0SAFX4T
>>840 けちゃっぷさん、浄土三部経がフィクションなのをお忘れなのでは。
8811:04/09/04 10:08 ID:Q0SAFX4T
>>840 私が問うているのは、阿弥陀如来とは「リアルに」何者なのか
ということなのです。むしろ浄土経典よりも、チベット仏教のパンチェン・ラマ
(今調べてみると歴代のパンチェン・ラマは阿弥陀仏(無量光仏)の化身と
信じられている。)
こちらのヒントがあるのではないかと。
8821:04/09/04 10:10 ID:Q0SAFX4T
>>847 念仏を一生懸命やると敗北主義になるの?
8831:04/09/04 10:13 ID:Q0SAFX4T
>>851 お寺という帰るところがある人にはそんなことが言えるけど、
職も無く、金も無く、帰る所のない、寄る辺無い人の胸には届かな
いご説法だと思いますが。
884けちゃっぷ:04/09/04 10:15 ID:9AVt4gSA
>880 阿弥陀仏と釈尊が同一人物だという認識は、歴史的に一般的ではない、と言いたかったのです。
臓器移植する場合に脳死を人の死と「みなす」ように、阿弥陀仏に救われるんだと「みなして」生きてます。
885けちゃっぷ:04/09/04 10:21 ID:9AVt4gSA
あらゆる概念は元来「空」。「昨日の僕」も存在しないし、「今日の僕」と同一人物であるというのも、記憶による錯覚です。逆に、枯れすすきも幽霊と見えた人にとっては幽霊であり、冷や汗も出るし心搏数も上がる。
886けちゃっぷ:04/09/04 10:25 ID:9AVt4gSA
目に見えるすべてが、「南無阿弥陀仏」なのだと認識してきます。コップも「南無阿弥陀仏」、テレビも「南無阿弥陀仏」。総ては僕を救うために存在してるんだと「みなす」認識が、育ってきます。
887けちゃっぷ:04/09/04 10:35 ID:9AVt4gSA
勝ちたい人は勝てばいいじゃありませんか。勝っても負けても念仏できるので、本人の趣味・嗜好だけの問題です。人生の目的は念仏です。その後極楽へ往けるかどうかすら、もはやどっちでもいいのです。
888けちゃっぷ:04/09/04 10:38 ID:9AVt4gSA
1さんは、勝ちを追求しなきゃならないという執着があるのですか?パンが好きならパン食べればいいし、米が好きなら米食べればいいし、勝利が好きなら勝てばいい。その程度の問題です。念仏できればOK。
889けちゃっぷ:04/09/04 10:46 ID:9AVt4gSA
>883 1さん、仏教では、そういう物質的財産がないと不幸だ…という執着心から解放されれば、苦悩がなくなるのでしょう。それでも執着が捨てられない…と、仏教徒ならそっち方向で悩むのでは?
890名無しさん@3周年:04/09/04 12:28 ID:FzGAiEgD
>>884-889

やっぱり、わかった。
けちゃっぷさんには、世の中がすべて自分に対して敵意を持っているという
脅迫観念がある。そこで、再び子宮の中に戻りたいと願っている。
念仏が現実逃避のための人工子宮になっているということ。

物質的財産があれば、金持ちのやり方で幸福になればいいし、なければないで、
貧乏人のやり方で幸福になればいい。今の世の中、貧乏すぎて念仏にすがらない
と生きていけないような人なんて稀だよ。債務に追われている人とかね。

普通の生活が可能なのに、念仏を唱えてないと安心できないのは、一種の
神経症だよ。ましてや、フィクションに出てくる架空の存在に対してだよ。
マジで医者に看て貰った方がいい。
891名無しさん@3周年:04/09/04 12:34 ID:FzGAiEgD
悪い喩えだが、念仏は強力な麻薬のようなものだ。
末期がん患者が、痛みに耐えられずにモルヒネに頼るのはしかたが
ない。モルヒネで一時的ではあるが苦痛は和らげられる。

しかし、健康人が日常的にモルヒネを打ったらどうなる?
それと同じことだ。神経症患者は、まずその故なき不安を取り除く
のが大切だ。それには神経科の専門家に任せるのが一番だ。
それを怠って、モルヒネで現実逃避すれば、行く末は廃人しかない。
892ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/04 12:56 ID:FbXGaGfC
仏教は「この世で自己を求める」この世で彼岸あるいは天での自己の姿を求める自己の追求で
す。他に依存している者は、非我なるものを我と思いなし、個体に執著しているから、天にも
入れない。口で唱えることもない。人間の口があるのは、この世だけです。心も無常であり、
このような人間の今のような心も、願い求める心もない。
在家の人々は「一切の所有物を捨て去り、森に住み、心静まり、この世もかの世も捨て去った
ブッダと修行僧、自己を制し、樹の根もとで瞑想し大いにみずから満足する清浄行者たちを敬
すること」です。
人はやがて、一切の所有物を捨て去らねばならない時が来る。世間を捨て去らねばならない時
が来る。欲望を捨て、怒りと慢心を捨て去らねばならない時が来る。天ではこの世もかの世も
望むことなく、願い求めることもない。
「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。」世間一般の宗教行事で
さえ、迷いの生存の中にあるのです。それらからも離れること。
口で何も唱えることがないならば、まだ天に通じるのです。見るものがなかったら、まだ天に
通じるのです。人の手でつくられた、口で唱えるもの、見るものを廃して、貪欲、怒りを制す
る。天では、人間の口もなく、目も鼻も耳も肌に触れるものもなく、貪欲、怒りもない。
893ニルヴァーナを見た ◆gx6wqL8lOs :04/09/04 12:56 ID:FbXGaGfC
「欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。快楽
から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば、憂いが存在しない。人間のう
ちにある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるものとして存在
している。束縛されているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫って来ないし、さ
らに次の生存を受けることもない。諸の欲望にしたがっているあいだは、心が満足を得ること
が無かった。しかも欲望から退き休止することを反省して見て、明らかな智慧によってよく満
満足した人々は、実に満足しているのである。欲望によって満足することがないから、明らか
な智慧をもって満足するほうが勝れている。明らかな智慧をもって満足した人を、愛執が支配
することはできない。」

在家の人々は、森に住み、心静まり、自己を制し、樹の根もとで瞑想し大いにみずから満足す
る清浄行者たちを尊敬し、欲情を制し、快楽を制し、怒ることなく、この世で恐れもなく、迷
妄に陥ることなく、死の恐れもない者となって、この世で苦悩を受けることなく、願い求める
る欲念を捨て、この世もかの世も望むことなく、貪欲を捨て去り、自分を主として、人のため
に働き、他人を喜ばせて天におもむく。
恐れと迷いがあり、神仏に願い求める者は「今日われらは美しい太陽を見、美しい晴れた朝に
逢い気持ちもよく起き上がった。」それくらいになるまで、諸々の欲求の自制が必要でしょう。
全てに満足することなく、願い求める者は、善からぬ運命への警告です。恐れぬ者と不満のな
い者は、願い求めることはない。
894名無しさん@3周年:04/09/04 13:04 ID:FzGAiEgD
>>893

では、誰もが仏道修行を目指し、欲望がなくなったとしたら、一体誰が経済
を支えるのでしょうか。よい農家には、よい農産物を作ろうという欲望が
あり、よい技術者は、よい工学製品を生み出そうと執着している。
この現世を否定して省みない人間に、現世で汗水たらして働いている人々が
生み出した糧を味わう権利などありませんよ。

欲望を否定するのなら、自ら耕して得たものだけを口になさい。
895名無しさん@3周年:04/09/04 15:33 ID:De0tvbN5
>>627
ある人は政治家、ある人は庶民、ある人は警察官、ある人は犯罪者。様々な姿を
しております。
 しかし、それはいずれも「アミダクジで選ばれた配役」にすぎません。自分の人生を
全うし、舞台から降りた子供に対し、「お前は悪役だったらキライだ」などという先生が
いるでしょうか。「よくがんばった」とほめてくれるでしょう。
 極楽浄土の阿弥陀如来は、そんなお方です。おそらく、他の宗教の救い主も、同じこと
をするでしょう。

仏教は生まれ変わりなど言うから、教えが教えとして成立しない。
〜何をしたら永遠の生命が受けられるか〜イエスは言われた「姦淫するな、殺すな、盗む
な偽証を立てるな、父を母とを敬え」犯罪者もアミダクジで選ばれたのか。そして「よく
がんばった」とほめるのか。偶像である阿弥陀は悪魔の他ならない。人々を迷わし、地獄
へと導く。
896名無しさん@3周年:04/09/04 18:13 ID:K5X7atpR
>>895

この世が配役だというのは賛成ですけどね。
人間は馬鹿だから、王様や金持ちの配役をもらった連中は、役であることを
忘れて本気で貧乏人を虐待するんだ。そういう奴らに、阿弥陀如来が救いの
手を差し伸べるわけがない。

だから、ほとんどの奴らは地獄で血反吐を吐くほど苦しい思いをする。
そうでないなら、この世に神も仏もありゃしない。
897名無しさん@3周年:04/09/04 18:18 ID:P51pwJPu
アミダクジって阿弥陀の教えか。悪人成仏だったっけ。
みんな好きなこと勝手にしろ。坊主に金持ってこれば許してやる。
金儲けみえみえの宗教ここにあり。
898マンゴー先生:04/09/04 19:39 ID:gQJK8EGw
>>894
釈尊の否定する苦の原因たる欲望とは、自己を守ろうとする欲望(自己中心性)
のことなんですよ。
8991:04/09/04 19:43 ID:quJ25RAs
>>853 ニルバーナを見たさんこんばんは。
仏教辞典を検索してみると
ごげぶんけつ 【五下分結】[欲貪・瞋恚・有身見・戒禁取・疑] 203
ごじょうぶんけつ 【五上分結】[色貪・無色貪・掉挙・慢・無明] 216
こういう項目がありました。この10個の煩悩を断ずるとニルバーナを
得る境地に達するのです。

>ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしたので
これは五下分結

>「在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、
>欲情と怒りと迷いとが漸次に薄弱となるが故に、一度だけ帰る人であり

スッダは五下分結のうち下位の「有身見・戒禁取・疑」を断ち、その上の
「欲貪・瞋恚」が薄らいだので「一来」の聖者となった。

>「安らぎは虚妄ならざる真理であると知る」

それを心から知るときは、五上分結(五下分決ではなく)に取り掛かって
いるということですね。

>天に生まれない。

五上分結の、色貪、無色貪を断じないと、色界の天、無色界の天から
決別はできません。前者は物質に対する欲望。後者は精神世界に対する
欲望です。

(続く)
900マンゴー先生:04/09/04 19:44 ID:gQJK8EGw
>>896
阿弥陀佛の救いというのは、私たちを存在させてくれていることを言うのですよ。
善いことをした人を天国に連れて行ってくれるような救いのことではないのです。
9011:04/09/04 19:44 ID:quJ25RAs
>>853 続きです

面白いことに、この辞書は五下分結の順序が逆になっていますね。どうしても
「欲貪」が一番下位だと思ってしまうみたいです。「欲貪」は生命の維持に
関わりますから、五下分結では一番上位なんですよね。

「有身見・疑・戒禁取・瞋恚・欲貪、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明」
この順番で下から十結煩悩を絶っていけば「ニルバーナを見る」ことが
できるのです。あなたが繰り返しかかれているフレーズは最後の最後の
無明ですよ。一般人が「無明を断った」なんていう時は大体最初の
「身見」でつまづいているのです。
902名無しさん@3周年:04/09/04 19:45 ID:K5X7atpR
>>900

あなたの言う「阿弥陀仏」というのは、浄土経典に出てくるフィクション
の主人公のことでつか。
9031:04/09/04 19:50 ID:quJ25RAs
>>854
>貧しき中から供儀する人は、執着という煩悩を断てる。

供儀という用語はないと思うので、多分「供犠」の間違いだと思うけど。
「供犠」=生命を神々に捧げる行為は、仏陀は厳しく禁止されていますよ。
それとも供儀という用語があるのかしら?ちょっと気になりました。

他の文章はとてもすばらしい真理だと思います。
9041:04/09/04 20:04 ID:quJ25RAs
>>889 けちゃっぷさん。
仏教辞典を検索してみました。
はっしょうどう 【八聖道】[正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定] 278

ちゃんと生きたいと思う人は「正業・正命・正精進」を求めると思いますよ。
希望の学校に入って、希望の職業について、定職を持って、定収入を得てちゃんと
暮らしたいはずです。
仏陀の別名に「世間解」と言うお名前があることはご存知なはずです。仏陀は
瞑想に生きながらも、その瞑想が深く透徹しているので、世間に生きる人の
苦しみをご存知なのです。仏教者が世間の苦しみに対して観念の遊戯をしては
なりません。お寺の子も仏教学者も、世間という戦場から見れば高見にいるん
ですよ。
9051:04/09/04 20:11 ID:quJ25RAs
>>892 ニルバーナを見たさん。書かれていることにだんだん筋道が
通ってきましたね(偉そうにすみません)。

>天ではこの世もかの世も望むことなく、願い求めることもない。

かの世を望む人が天に行くんですよ。

「有身見・疑・戒禁取・瞋恚・欲貪、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明」

「欲貪」が切れない人は欲界の天に赴き、そこで五欲を満たすのです。
「色貪・無色貪」が切れない人は「色界・無色界」の天に生まれるのです。
「有身見・疑・戒禁取」を断ずることができない人は、天に赴くことは
ないのです。
9061:04/09/04 20:16 ID:quJ25RAs
>>893 経典の文章をまぜこぜにして、ご自分で「経典創作」しないほうが良いよ。
凡夫からいろんな段階の聖者までの状況が混ざり合ってしまっているじゃない。
我見(自分の見解)を捨てて経典を経典通りに読みましょう。
9071:04/09/04 20:26 ID:quJ25RAs
>>898 :マンゴー先生 はじめまして。

>苦の原因たる欲望とは、自己を守ろうとする欲望(自己中心性)
>のことなんですよ。

苦の原因は「無明」ですね。=根本煩悩。
無明があるがゆえに →(仏教辞典)
じゅうにいんねん 【十二因縁】[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死] 304
生・老死があり、それゆえに苦があるのです。(人間の誕生・死亡という意味だけではなく)。
その大元の無明を断つためには、十結煩悩;「有身見・疑・戒禁取・瞋恚・欲貪、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明」
を下位から順に断じて行かなくてはなりません。

阿弥陀様を専一に拝むということは、出だしの「有身見・疑・戒禁取」に簡単につまづいていますから、
仏道としては成り立ちようもないと思うのですが。
908マンゴー先生:04/09/04 20:32 ID:gQJK8EGw
>>902
そうですよ♪
フィクションといっても嘘ではなくて比喩なんですけどね。
例えば無量寿経に登場の法蔵菩薩なんて如何にも釈尊の生き方そっくりですよね。
909マンゴー先生:04/09/04 20:35 ID:gQJK8EGw
>>903
文脈から見て、最後の供儀は供養のタイプミスかと思います。
910マンゴー先生:04/09/04 20:40 ID:gQJK8EGw
>>904
>仏教者が世間の苦しみに対して観念の遊戯をしてはなりません

そうですね。過去の悪業による現在の悪果は耐え忍ぶしかありません。
それが六波羅蜜の忍耐ですね。
そして現在に善を成して未来に悪果を作らない。
これが釈尊の説かれた輪廻からの解脱の道でしょう。
911名無しさん@3周年:04/09/04 20:58 ID:K5X7atpR
>>908

TV映画でも、「登場する人物は架空です。実在する人物とは一切関係があり
ません」と字幕を出すのに、浄土宗や浄土真宗では、あたかも阿弥陀仏を
実在であるかのように売り物にしていますが、これは詐欺だとお考えになり
ませんか。正々堂々と「阿弥陀如来は比喩ですよ」と断ってから、法事を
されるのなら文句は言いませんけどね。

問題は、比喩だと知って、阿弥陀如来が果たして売り物になるかどうか
ですがw
912名無しさん@3周年:04/09/04 21:01 ID:K5X7atpR
けちゃっぷさんを初めとして、浄土経典を支持する人たちは、阿弥陀仏
を比喩だとか何とか誤魔化したがるけど、阿弥陀仏への供養として
檀家から金を請求する限り、いかなる言い訳も通用しませんよ。
913マンゴー先生:04/09/04 21:03 ID:gQJK8EGw
>>907
南無阿弥陀佛とは自己のはからいを捨てて一切を阿弥陀様にお任せするということ
ですから、本来はこれで無我の境地へと到達するのです。
方法は違えど、釈尊の観念修行法(瞑想)と意味するところは同じかと思います。
914マンゴー先生:04/09/04 21:28 ID:gQJK8EGw
>>911-912
そうですね。阿弥陀様の何たるかを知らずして法話をしようなんて百万年早いですよね。
私も、坊さん方はもっと修行して出直してくるべきかと思います。
でも、けちゃっぷさんは結構いいところまで信が確立してらっしゃると思いますよ。

比喩だと言ったのは別に誤魔化そうとしたり言い訳してるわけじゃないんですよ。
この意味は、真剣に人生を考えて一生懸命修行するか、愛する人が亡くなったときに
きっと分かるかと思います。キーワードは非日常です。
今無理して分かろうと焦る必要はありません。大丈夫ですよ。
今あなたが為すべきことは、今ある環境の中で今ある能力を発揮して一生懸命生きる
こと。そんな中で誰かが幸せになってくれたら嬉しいですね。
915けちゃっぷ:04/09/04 21:52 ID:9AVt4gSA
1さんは、どのような修業を実践されていますか?
念仏は行です。フィクションだろうと比喩だろうと、阿弥陀仏の慈悲に共鳴していく行為が、知らないうちに心を変化させていきます。
916名無しさん@3周年:04/09/04 22:01 ID:K5X7atpR
>>915
では、供養はどうなんですか。
比喩に対して供養するのですか。
供養する側は、ちゃんとそれを了解していますか。
917名無しさん@3周年:04/09/04 22:05 ID:K5X7atpR
「私達は、阿弥陀如来という比喩を使って、悟りを開くべく修行を
します。もし、あなた方が我々に供養すれば、きっと福につながりますよ」
と言って、供養金を貰うのならいいけど、信者達は、阿弥陀仏に先祖の
悪業を許してもらい、極楽へ送り届けるためにお金を払っているんでしょ。
それなら詐欺じゃん。
918けちゃっぷ:04/09/04 22:08 ID:9AVt4gSA
>916 「供養」とおっしゃるのは、具体的に何を指していらっしゃるのでしょう?
919名無しさん@3周年:04/09/04 22:11 ID:K5X7atpR
>>918
死者への供養のことです。特に葬式。
920名無しさん@3周年:04/09/04 22:20 ID:hwJfNEEn
人間は、悪いことをすると
動物に生まれ変わるのですか?
921けちゃっぷ:04/09/04 22:23 ID:9AVt4gSA
念仏に限らず、修業をすると功徳が積まれると言われます。その自分の功徳を、死者のために捧げ回向(エコウ)するという信仰があります。それが日本の法事や葬儀です。自分の修業を死者に捧げてるわけです。
922名無しさん@3周年:04/09/04 22:30 ID:hwJfNEEn
>死者のために捧げ回向(エコウ)するという信仰があります。
死者って言うと、人間の死のようなのですが、
では、動物の死の場合は
供養は必要ないのでしょうか?
動物は毎日膨大な数で死んでいます。
人間は動物の犠牲無しで生きられないからです。
923名無しさん@3周年:04/09/04 22:30 ID:K5X7atpR
>>921

では、僧侶の修行の功徳を死者に分ける「手数料」ないし「謝礼」が
供養金だということで間違いないですね。

「南無阿弥陀仏」でなくて「オウム」ないし「修行するぞ」というマントラ
でも効果があると思いますが(架空の仏の名前でも効果があるんだから、
何でもありでしょ)、それではダメですか。
924名無しさん@3周年:04/09/04 22:35 ID:K5X7atpR
もし、「阿弥陀仏は実在である」と嘘を言えば、その僧侶は不妄語の
罪で、仏教修行者ではなくなります。その場合は、功徳が積まれない
わけだから、死者には回向できないことになりますね。

そういう理解でよろしいでしょうか。
925マンゴー先生:04/09/04 22:45 ID:gQJK8EGw
>>917
葬式は人間の尊厳の最高度に露出する場なんですよね。
ここにおいて生死を超えた世界に出会えなければ、死に対する恐怖、不安しか残らない。
それは生をも殺すことになるんです。
愛する人の死は非日常です。
この場において論理性や合理性なんぞを持ち出すと、非日常が破れてしまうんですよ。
そういうことを坊さん方が理解してやっているかどうかは分かりませんけどね。
926マンゴー先生:04/09/04 22:50 ID:gQJK8EGw
>>922
例えば日本では施餓鬼供養というものがあって、そこでは三界万霊への供養を
行ないます。死んだ動物への供養も含まれているんですよ。
927マンゴー先生:04/09/04 22:51 ID:gQJK8EGw
>>920
私は無いと思いますけど、あなたはどう思いますか?
928マンゴー先生:04/09/04 22:56 ID:gQJK8EGw
>>924
何度も言うようですが、嘘ではないんですよ。
古今東西の覚り人の中で「仏なんぞいない」などと言う人は、おそらく一人もおりますまい。
929名無しさん@3周年:04/09/04 23:01 ID:hwJfNEEn
>>927
俺も無いと思います。
そう思って、あえてこの話題を振ったんですが。w

動物と人間では決定的に違う側面があります。
それは、執着する態度があるか無いか。
930名無しさん@3周年:04/09/04 23:07 ID:K5X7atpR
けちゃっぷさんは真面目だから、かわいそうになってきた。
この辺で、私の本音を書いて終わりにするね。

結局、戦後の日本では、仏教は葬式専任になってしまい、本気で修行する
人が集まるサンガではなくなったってことでしょう。無神論者がどんどん
増えて、残るのは葬式という儀式だけ。それだって、単なる形式だと割り
切っている人がほとんどだ。その中で、本音を言ってしまえば、たちまち
飯の食い上げになってしまう。

言い方は悪いが、迷信深い人のお守りを、金貰ってやっているって感じ。
考えたら気の毒な話だ。特に、けちゃっぷさんのように、ある程度の理想を
持っておられる方にはつらいでしょう。

しかし、食うのが大変だから、迷信を利用して金儲けするのは、やっぱり
いけないことだと思う。どうせ、迷信なんて消える運命にあるんだから、
既成仏教は過去の悪業とともに滅びていくでしょう。その後につながる道を
考えないとね。
931けちゃっぷ:04/09/04 23:07 ID:9AVt4gSA
>923 僧侶の功徳だけじゃなく、お参りする人々全員の功徳を回向します。念仏じゃなくてもいいです。布施(拝み賃じゃなく!)も功徳があり、昔の貴族がお寺を建てたり寄進したのも、功徳のためです。
932名無しさん@3周年:04/09/04 23:10 ID:K5X7atpR
正直なところ、けちゃっぷさんの口から、そういう本音を聞きたかったんだよ。
やっぱり、立場上無理だったか...。しかたないよね。
その反面、これで既成仏教が滅びるのをはっきりと確認できた気がする。
933名無しさん@3周年:04/09/04 23:14 ID:K5X7atpR
行き違いになってしまいました。

>>931
それは、檀家向けの模範解答ね。
私は、「仏教修行者のけちゃっぷさん」の答えを聞きたかったよ。
934けちゃっぷ:04/09/04 23:15 ID:9AVt4gSA
死者に執着していつまでも悲しんでいては苦の原因になります。供養を通じて、死者との別れを過去のものにしたり、胸のつっかえが取れたりします。死者のためと言いながら、実は生きてる人のための供養です。
935けちゃっぷ:04/09/04 23:17 ID:9AVt4gSA
苦悩の原因を解消することで苦悩を和らげる。それが仏教です。大乗仏教は、その目的のためにさまざまな方便を用いてきました。死者を供養することで、遺族の苦悩を軽減できれば、それでいいのです。
936名無しさん@3周年:04/09/04 23:19 ID:K5X7atpR
>>934
そういう風に、今の葬式仏教の弁解に終始していると、仏教は確実につぶれるよ。
それでもいい?
937名無しさん@3周年:04/09/04 23:20 ID:K5X7atpR
仏教って、生きた人間を相手にする教えでしょ?
なぜ、それほど死者にこだわるのだろう。
938名無しさん@3周年:04/09/04 23:21 ID:6Q11YCgx
阿弥陀仏を唱えて、成仏できる?
厳しい修行をしている人は、何?
釈迦も、出家したんだろ。
釈迦が出家したのは、力のない人だったからか?

こう考えると、阿弥陀仏を唱えれば成仏できる
というのが、坊主の嘘というのがわかる。

みんな騙されないで下さい。
939けちゃっぷ:04/09/04 23:22 ID:9AVt4gSA
死ななきゃわらないのに死後の心配をしたり、返ってこない死者との別れをいつまでも悲しむのは、苦の原因です。悟った人はそんなこと考えませんが、凡夫は考えちゃう。そこで方便によって苦悩を消すのです。
940マンゴー先生:04/09/04 23:22 ID:gQJK8EGw
>>930
そうですね。住職の世襲制が僧侶を堕落させたんじゃないかなぁ。
現在の葬式も、形骸化している感は否めませんね。
でも葬式をしてあげたいという心は人間の最も尊い心であり、葬式をやらなくなったら
人間は終わりだと思います。いろんな意味で。
941名無しさん@3周年:04/09/04 23:22 ID:hwJfNEEn
>死者のためと言いながら、実は生きてる人のための供養です。
あなた、なかなか深い洞察だね。それは。
人は、執着するからね。確かに。
死んだ人は楽なのですが、生きてる人はそうでもありません。w
はははは。
942名無しさん@3周年:04/09/04 23:27 ID:6Q11YCgx
死んだら取り返しがつかないかもしれないのに、南無阿弥陀仏を唱えれば
成仏するって嘘つくこと?>>939
943けちゃっぷ:04/09/04 23:28 ID:9AVt4gSA
>938 生きた仏がいる極楽に往けば成仏が早く確実になるという信仰なので、念仏だけで成仏できるんじゃありません。念仏は極楽への切符です。ただし、念仏自体に修業の効果もあります。
944名無しさん@3周年:04/09/04 23:29 ID:6Q11YCgx
みんな南無阿弥陀仏の嘘のために、供養とか布施とかしてるんだ。
ただの気休めだね。
945名無しさん@3周年:04/09/04 23:29 ID:K5X7atpR
>>940
しかし、葬式だけというのはまずいでしょう。
釈迦が現代の状況を見たらどんな顔をするか。
946マンゴー先生:04/09/04 23:29 ID:gQJK8EGw
>>937
それは>>925を参照のこと
947名無しさん@3周年:04/09/04 23:33 ID:6Q11YCgx
釈迦が現代の状況を見たら、
 坊主=人から金取って、飯食うんじゃねえ!
 信者=お前ら、俺らの苦労を知らねえな。
 南無阿弥陀仏を唱えろ=そんなこと言った記憶はない。
 

  
948名無しさん@3周年:04/09/04 23:34 ID:K5X7atpR
非日常である「死」を直視することで、「生」に対して襟を正すという
ことでしょうか。

何も葬式という儀式を使わなくても、「死」を意識して生きることは
可能だと思いますよ。西欧ではハイデッガーがそれを指摘している。
本一冊読めばわかることです。
949名無しさん@3周年:04/09/04 23:35 ID:hwJfNEEn
>でも葬式をしてあげたいという心は人間の最も尊い心であり、葬式をやらなくなったら
>人間は終わりだと思います。
俺は、葬式の意味を見付けられない一人なのですが。。

質問したいのですが、葬式は、なぜ必要なのでしょうか?
950名無しさん@3周年:04/09/04 23:36 ID:BGWRJEGP
>>930
逆だろ、葬式仏教が仏教の本質なのに、
まともな教えが有るかのように言うから
衰退するんだよ。

葬式仏教の担い手が、生活する為の方便として
法話説くんだよね。TVドラマがこの物語はフィクションです
と明示して事を指摘してた人が居たけど、仏教家てか、宗教家
はそうするべきだと思うよ。
951名無しさん@3周年:04/09/04 23:38 ID:K5X7atpR
ネアンデルタール人の遺跡から、墓らしき場所と、そこに供えられた
花が見つかったそうです。先史時代、すでに人間は「死」の中に生の
尊厳を感じて生きてきた。特定の宗教が生まれる前からそうだったの
です。仏教はそれをあとから独占したにすぎないのです。
952マンゴー先生:04/09/04 23:38 ID:gQJK8EGw
>>944
だから嘘じゃないというのに…大衆の顛倒夢想はなかなかに根深いですね。
南無阿弥陀仏を唱えれば成仏するというのは確かに勘違いだと思います。
953名無しさん@3周年:04/09/04 23:38 ID:6Q11YCgx
世界広しといえど、南無阿弥陀仏を唱えれば成仏できると言う
のは日本だけだろ。唱えない人間はどうなるんだ。
唱えない人間のほうが、世界には圧倒的に多い。
それをまず説明せよ。神とか仏というのは、そういう特殊なこ
とをしないと成仏できないようにしたのか。
954名無しさん@3周年:04/09/04 23:39 ID:hwJfNEEn
>「死」を意識して生きることは
>可能だと思いますよ。
頭の中で死を考えるということですか?
955けちゃっぷ:04/09/04 23:42 ID:9AVt4gSA
>949 僕は必要ないと思わなくもないですが。葬式を必要としてる人がいるから行なわれてるだけ。戒名だって、本当は生きてるうちにもらうべき名前だし。でも、付けて欲しいという遺族がいるから。
956名無しさん@3周年:04/09/04 23:43 ID:K5X7atpR
>>954
いや、自分では死んでみることができないでしょう?
だから、死だけは他人ので代用するのです。私の経験では、おばあちゃん
の葬式で死体というものを初めて見、それに触った。ああ、人が死ぬという
のはこういうことなんだと。自分の人生の終わりが形をとって姿を現すの
です。それに対峙して生きている。ほとんどの人は、不快だから「死」を
忘れてしまいますが。

人間「いつ死ぬかわからない」というのを覚悟するかしないかで、生き様
が違ってくると思います。それが「死」を意識して生きるという意味です。
957名無しさん@3周年:04/09/04 23:44 ID:6Q11YCgx
>>952
じゃあ、なぜ南無阿弥陀仏を唱えろと言うんだよ。
ケチャップがうるさいだけか→ケチャップ静かにしてれ。
958マンゴー先生:04/09/04 23:48 ID:gQJK8EGw
>>948
「生死を超えた」がキーワードですよ。
釈尊の教えは本を読んだだけでは分かりません。実践こそが仏教の本義。
葬式でなくても観念修行法(瞑想)などでもよいんです。
でも一般の人たちにとっては葬式は大きなきっかけになるかと思います。
959けちゃっぷ:04/09/04 23:48 ID:9AVt4gSA
>953 念仏は、数ある修業方法の一つです。口でとなえるだけでいい、いつでもどこでも実践可能なので、初心者向けだから日本で流行った修業なのです。
960名無しさん@3周年:04/09/04 23:54 ID:I9tzb79+
>>947

釈迦を神格化するのは、釈迦の本意ではあるまい。釈迦以後の膨大な思考の
体系も無視すべきではない。一神教とは全く異なり、仏教の思想は常に現実
と人間に向けられているという事実は、評価に値するのではないか。それが
仏教には殺し合いが少ない理由だろう。

葬式仏教などというが、家族の死により遺族が悲嘆にくれているときに、下手
に精神的な説教などされては、遺族の悲しみは深まるばかりである。意味の
判らないお経を聴いたり、会葬者の接待や僧侶への支払いに追われるほうが、
しばし悲しみを忘れることができるのではないか。
961名無しさん@3周年:04/09/04 23:56 ID:K5X7atpR
>>960
>意味の 判らないお経を聴いたり、会葬者の接待や僧侶への支払いに
>追われるほうが、 しばし悲しみを忘れることができるのではないか。

そこが実に胡散臭いよね....一般人の目から見ると。
962マンゴー先生:04/09/04 23:57 ID:gQJK8EGw
>>957
それは>>866下から4行を参照のこと
963名無しさん@3周年:04/09/04 23:59 ID:hwJfNEEn
>人間「いつ死ぬかわからない」というのを覚悟するかしないかで、生き様
>が違ってくると思います。
ふむ、では、覚悟とは?
いつ死ぬか分からないという点では俺も同じです。
それは、それが来たならばそれはそうだなとは今は思っていますが。
でも、それは頭でそう考えているだけです。w

癌になったとします。
自分はもうダメだと思うのか、

残された人生の中で、自分の時間をどう使っていきたいと思うのか?
964名無しさん@3周年:04/09/05 00:00 ID:8ZkweLrw
昔、日本に「泣沢女(なきさわめ)」という仕事があったらしい。
葬式に出向いて、号泣するのが役目。葬式専用のコンパニオンみたいな
もの。

儀式を演出して、残された遺族にサービスするのが仏教の使命だと言う
のなら、何のことはない、コンパニオンと同レベルってことだわな。
965名無しさん@3周年:04/09/05 00:05 ID:8ZkweLrw
>>963
残された時間に何をするかが、その人の本質を顕わに示すのだと思います。
ちょっと前に、末期患者の追跡取材を放映していました。体中にガンが
まわって、激痛が走るのをおさえて、車椅子で花見に出かける。それで、
こうつぶやくのです「ああ、きれいだなあ。これが最後かもしれない。
しかし、こんなに美しいとは今まで思ってもみなかった」。

死と直面した時だけに見えてくる「世界」があるようです。
966けちゃっぷ:04/09/05 00:06 ID:yJ7MYGHm
コンパニオンの何が悪いのでしょうか?
葬式を僧侶がやるようになったのは、放ったらかしだった死体の片付けと弔いを、空也上人がやりはじめたのが、きっかけだと聞いたことあります。
967マンゴー先生:04/09/05 00:06 ID:NcLEleLu
>>964
韓国では今もあるよね。
葬式には宗教性と民俗性がありますからね。
968名無しさん@3周年:04/09/05 00:08 ID:QGsS7BHd
>>964
儀式、偶像、その他形あるもの、五感で知覚できるものに接して人間ははじめて心の
安定を得るという、人間性の本質を忘却している。キリスト教などの過度の精神性は、
人間にとって極めて有害である。
969マンゴー先生:04/09/05 00:10 ID:NcLEleLu
>>965
そうですね。それが生死を超えた瞬間でしょう。
いつか死ぬから今が大事というのとは、少し違うもの。
970けちゃっぷ:04/09/05 00:15 ID:yJ7MYGHm
>969 あと、死は誰にでも、そして予期せぬ時に訪れる。コントロールできないのがあたりまえ。しかし、あたりまえをあたりまえだと受け入れずに、自分は不幸だと勘違いすると、苦悩の原因になります。
971名無しさん@3周年:04/09/05 00:17 ID:8zQctmfu
>>965
死と直面しないと桜が綺麗な事にも気づかないのは、
宗教があるから、坊主が好き勝手言うからだと思う。
972名無しさん@3周年:04/09/05 00:18 ID:UqcF1qNm
>>961
お経ってのはさあ。経典といって、ちゃんと意味があるように書いてある
のだ。それを、お経を唱えるだけにしてしまったわけ。
これじゃ、誰も成仏できないよ。
南無阿弥陀仏を唱えよとは、釈迦は言ってないよ。
念仏を唱えながら、成仏できなくなるよ。
973マンゴー先生:04/09/05 00:29 ID:NcLEleLu
>>971
その論理の因果がよく分かりませんが、私たちが花見なんかで「桜がきれいだなぁ」
というのと、死に直面し乗り越えた人の「桜がきれいだなぁ」とは、同じ台詞でも全く
意味合いが違うんですよ。
何かの基準と比較して美しいと感じたから美しいのではなく、生き生きとした存在感、
初心の新鮮さ、そして「私」との関係の中で大慈悲が通い合っているから、美しいと
表現しているのです。
覚りとは、天を仰ぎ地に伏して喜ぶべき存在の確かな実感なのです。
974名無しさん@3周年
創価カルト鰍フカスが荒らしてますなぁ

オン アボキャ ベロウシャナ マカモダラ マニハンドマ

ジン バラハラ バリタヤ ウン