‡ネストリオス異端に救いなし‡

このエントリーをはてなブックマークに追加
132名無しさん@3周年
ルターも単性論異端であることを、おたあ自らが暴露してくれました。

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1106450104/36-n
36 :おたぁ ◆OwjWTI5Ujw :05/01/23 16:19:52 ID:kl8rn2SW
『食卓語録』の中で(32)、ルターは、十字架上でキリストの人間性だけが苦しんだという思想に反対して、
キリストの人間性のみならず神性も苦しみ、かつ、死んだと言っている。これは明らかに、キリストにおける
神性と人間との間の属性の交通から由来したルターの発言であるが(略

こちらの方がまともです
133名無しさん@3周年:05/01/24 16:31:24 ID:91ht0I5V
>>131-132
こちらを参照のこと。「正教要理、日本ハリストス正教会教団、1952、p.51」


「十字架上の死」
主の公生涯の終りに十字架上の死が待ってました。
これは神父(かみちち)の正義の要求でもありました。
主は人間の罪をつぐなう方法として、神と人との仲保者の立場から死を選びました。
その主の十字架上の受難と死の効力は全人類に及ぶ救いとなりました。
信者はこのことを信じ、主の教えを疑わず従うことが大切です。
信経には「十字架に釘うたれ、苦しみを受け」とありますが、イイススの苦しみは真の現実の苦しみであり、夢や幻ではないことを示しています。
「葬られ」とつけ加えられていますが、これは確実に死んだことを示しています。
苦しんで死に、葬られたのは主の人性であって神性ではありません。
神性は地獄にくだって聖人らの霊を救い出し、十字架の右の盗賊が自分の罪を認め悔い改めたとき、主は彼を楽園に導かれました。
復活祭の聖歌も「ハリストスよ、汝同じ時に体にて墓に寝(い)ね、霊にて地獄にくだり、盗賊とともに天国にあり、父と聖神とともに宝座にいませり。満たぢるところなき神なればなり。」
とこの事件を歌っています。
134名無しさん@3周年:05/01/24 16:38:10 ID:91ht0I5V
>>131-132
さらにこちらを参照のこと。「公教要理、カトリック中央協議会編集、1952」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm

111 イエズス・キリストは神性に於てお苦しみになり、おなくなりになりましたか。
イエズス・キリストは神性に於ては、お苦しみになることも、おなくなりになることも出来ません。
それは全く人性に於てであります。然しイエズス・キリストは天主の御子でありますから、その御苦しみの功徳は限りがありません。叉、その御業は、どのように小さくとも、限りない功徳となるのであります。