>>517 >法話を聞くといいですよ。
ほほう。それでは僕も、30年近くぶりに聞きに行くかな。
どこでどんな方がお話しされるのやら、楽しみだ。
<行ったら、講師がNBさんだったりしてね。(微笑)>
>>518 >外の事象は内面に合わせて顕現する幻のようなものと見抜き、達観
親鸞は二人いる。外道の親鸞と、内道の親鸞と。
外道の親鸞は、何もしないで、ただボーとし、内面に合わせて顕現する幻のよう
なものと見抜き、達観する。何があっても手をこまねいている。まるで現代のど
こぞの宗派のお坊さまのように。
内道の親鸞は内面に非常に激しい気性を持っている。
「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」。
天皇であろうが、公家であろうが、法と正義に反する行為を行う者は容赦しない。
「自今已後は、慈信におきては、子の儀思い切りて候なり」
誤った教えを説いていれば、我が子であっても義絶し、物事にけじめをつける。
こう言うところは、ノータリンボーズの跡継ぎで馬鹿息子にお鉢を回していくこと
しか考えていないどこぞのお坊様には、思いも寄らないことだろう。
>救済者を演ずる陶酔を恥じて、ただ衆生の苦のありのままに寄り添うことで仏の
光をこの世に浸透させました
常陸・下野の念仏者の皆御心共の憂かれて、果ては、さしも確かなる証文を、力
を尽くして数あまた書きて参らせて候ば、それを皆捨て合うて在しまし候と聞こえ
候えば、ともかくも申すに及ばず候。 〜 性信房の書かせ給いたるは、少しもこ
れに申して候様に違わず候えば、嬉しくそうろう。 (血脈文集)
親鸞は二人いる。外道の親鸞と、内道の親鸞と。
外道の親鸞は、何もしないで、ただボーとし、何があっても手をこまねいて眺め
ているだけ。普通は目を覆って耳を塞いで突っ立ている。その内、阿弥陀さんが
天から救いにくるだろうと、能天気に気休めを言い、仏の光をこの世に浸透させ
るんだという。ま、そんな親鸞だ。
こういう外道の親鸞からは、たくさんの善証坊が生まれた。現代でも盛んに増
殖している。門徒の信頼や教学の良心を得体の知れない奴に売り飛ばすような奴
は、そんな外道の親鸞から生まれたたくさんの善証坊の一人だろう。現代は、そん
な善証坊が、刑務所ではいそいそと教誨師ごっこをしてるそうだ。冤罪で苦しんで
いた元死刑囚から本の中で怒られるのも、そんな善証坊だ。
内道の親鸞は違う。京都に戻るにあたり、小さいときから育て、文字を教えて
きた常陸・下野の念仏者達に、たくさんの証文を粉骨砕身して書き残した。性信
房などは、内道の親鸞が、小さいときから手塩にかけた一人だろう。
>>523 妄想と法とを混同しているんだろう。