ベンジャミン・クレームは、カトリック教会は「教義や教理・・・を放棄するだけの柔軟性」があれば、
自称「キリスト」の出現の後に特別な役割をもつだろうという趣旨のことをのべています。
(「マイトレーヤの使命」第一巻、邦訳p.87)
カトリック教会が信仰箇条として定義するものは、聖霊の助けによって不可謬的なものであり、
それゆえ、将来的な変更・放棄の余地は一切ありません。
(不可謬権の範囲については、
>>43のカトリック百科事典でinfallibilityの項目を参照)
このような不可謬の教義的権威がなければ、教義上の重大な疑義や紛争に決着がつかず、
人々が真理を認識し救いを得る上で差し支えが生じます。
それゆえ、教会の設立者である神は教会にそのような助けをお与えになる、というのがカトリックの正統的な教えです。
>>172の「カトリック教会のカテキズム」890前後も参照。
ベンジャミン・クレームは、自称「キリスト」は、人間に「貨幣を使用しない」ことを忠告し、
「高度に複雑な物々交換のプロセスが現在の混乱した経済組織にとって代わる」であろうと予言しています。
(「使命」第一巻、邦訳p.121)
この、貨幣を使用しない物々交換システムとは、いったいどのようなものを想定しているのでしょうか?
自称「マイトレーヤ」が、反キリストであると仮定するならば、おそらくそれは黙示録十三章の次の箇所で予言されている
「刻印」システムでしょう。
「また、かれのたくらみで、・・・すべての人は右の手あるいは額に印をつけさせられた。
獣の名、あるいはその名の数を記されていない者以外は、誰も売り買いすることができないようにするためである。
ここに知恵が必要である。
知恵あるものは、獣の数字を解くがよい。
その数字は人間をさすものである。その数字は六百六十六である。」(黙示録第十三章、16-18)
ニューエイジャーが「獣の数字」を「聖なる数字」としていることについては、
>>72で述べたとおりです。
182 :
名無しさん@3周年:03/05/01 22:30
ベンジャミン・クレームは、自称「キリスト」は「新しい世界宗教を開幕」すると断言しています。
そして聖パウロは「教えを歪曲した」と主張します。(「使命」第一巻、邦訳p.280)
反キリストに関する警告を述べた聖パウロ書簡(
>>172)も「歪曲の所産」として都合よく葬りたいのでしょうか?
彼らはここで、伝統的宗教を破壊するための新興宗教を作るつもりであることを、はっきりと公言しています。人間自身を神格化する、自我崇拝カルトを。(
>>164、
>>154参照)
これはまた、ブラバッキー以来の彼らの意図でもあるのです。(
>>52参照)
ベンジャミン・クレームは、イエス・キリストの死の意味を次のように全面的に否定します。
「キリスト教徒が、イエスが死んで世界を救われたと考えるのとおなじようなものです。
彼は世界を救いませんでした。それはできない事です。」(「使命」第一巻、邦訳p.336)
正統キリスト教は、
「神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をおつかわしになった」(「ヨハネの第一の手紙」4:10)ことを、
イエス・キリストは「多くの人の身代金として自分のいのちをささげ」(マタイ20:28)たことを、
「聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだ」(「コリント人への第一の手紙」15:3)ことを、
断固として主張します。
イエスの十字架上の死は、神人、受肉したロゴスによる至高のいけにえです。
「カトリック教会のカテキズム」595以下参照。