ベンジャミン・クレームは、「太古からの英知によれば」反キリストは個人ではなく「エネルギー」であって、
「第二次世界大戦における枢軸国の敗北とともにこの時代に対する反キリストエネルギーの活動は終了し、
今後3000年以上再び出現することはありません。」
と主張しています。("The Emergence Quarterly"より,Charls Upton,The System of Antichrist,p.469における引用)
自分の宣伝する自称「キリスト」は、それゆえ反キリストではない、とでも言いたいのでしょうか。
聖書においても反キリスト概念は個人に留まるものではありませんが(
>>74で引用したヨハネの手紙参照)、
黙示録第十三章の「獣」、つまり個人としての反キリスト、偽メシアについても新約聖書「テサロニケ人への第二の手紙」第二章は次のように明確に述べています。
「まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自分は神だと宣言する。」
聖パウロが上記の箇所で述べているとおり、イエス・キリストの再臨の前に、必ず、個人としての反キリスト、偽メシアの出現があるというのが正統キリスト教の教えです。
このことは現在の「カトリック教会のカテキズム」675でも繰り返されています。
>>154参照。
カテキズムの英訳は以下のサイトで読めます。
ttp://www.kofc.org/faith/catechism/catechism.cfm
ベンジャミン・クレームによる「神」の定義はつぎのとおりです。
「秘教によれば、神とは、あらゆる法則およびこれらの法則によって支配されるあらゆるエネルギーの総合計です。」
("The Emergence Quarterly"より,Charls Upton,The System of Antichrist,p.468における引用)
これは明白な汎神論、被創造物の総合計を「神」とする偶像崇拝です。
このような偶像崇拝はセム的一神教のみならず、ヒンズー教、ネオプラトニズム、ネイティブアメリカンやアボリジニの諸伝統ともかけ離れています。
これらの諸伝統において、神、絶対者は、いかなる限定をも受けない真の無限であり、対象化される諸存在物を超越しています。
したがって、そのようなものの「総合計」などではありません。
汎神論が誤謬であることはセム的一神教の諸伝統の常識であるばかりではありません。
汎神論を正当化するためにニューエイジャーによって恣意的に援用される東洋の伝統的教義そのものが、被造物の合計を「神」とするような偶像崇拝を明確に排斥しています。
例えば、シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッドは神の超越性について次のように語ります。
「人は知らねばならない。
自然は測られたもの(マーヤー)であり、
力ある主は測る方(マーイン)であることを。」