だってキリスト教の神様って、実は結構ロクなもんじゃないよ? キリスト教の教義は、身勝手な神様に隷属しなさい、その報酬として 天国に行けますよって感じですよ。 神が自分で人間を創って、自由意志を与えて、永遠の命を与える条件 を設定して、そこからはずれれば永遠の死の裁きを下す。これって、 普通に考えればかなり身勝手ですよね。 人間には無償の愛を要求しておいて、神自身は条件付きの愛なんです よ。キリスト教の教義は、傲慢さは神のみの特権であると言っており、 そんな傲慢な神様の顔色をうかがって生きていきなさいよと言ってい るのです。それを隠蔽するために、愛の神様とか救いとか、懸命にオ ブラートで包んであります。 自由意志を与えて自分への信仰を試しているんですよ。しかもその自 由意志というのも、神の条件に背き易いように設定してあるわけです。 それで条件を満たさなかったら永遠の死の裁きだなんていうのは、普 通の感性から見れば傲慢もよいところです。 クリスチャンの方は、本当にこんな傲慢な神様が良いんですか? な んでこんな教義に惹かれるんですか?
2 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 19:57
おい、もう少し勉強してから煽れ、見苦しいぞ・・・あ、吊られてしまった。
3 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 20:03
そう? 入信するなんてまだマトモだよ。ロクに信じていないってことだもん。
勉強っていうのは、包まれたオブラートを学ぶって事でしょ?
5 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 20:10
うわぁ、何も知らない・・・アンタの言ってる以上に厳しい、という 話のつもりだったんだが。 もっとオメデタイ愛とか救いとかを並べると思ったんか?
>5 おお、もっと厳しいのか…… 教えてくださいませ
クリスチャンの方、あなたは本当に、いくらでも救える能力を持った存在が、 自分で作った基準を満たさない人間に永遠の死を与えるような行為をしている と知らされて、愛の神様だなんて思えるのですか? しかも基準を満たさない ような自由意志をわざわざ与えた張本人ですよ?
8 :
俺様 ◆f0ugTrYQRI :03/01/19 22:46
9 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 22:57
え、自由意志ってあるんですか?
>>7 = 1
>クリスチャンの方、あなたは本当に、いくらでも救える能力を持った存在が、
>自分で作った基準を満たさない人間に永遠の死を与えるような行為をしている
>と知らされて、愛の神様だなんて思えるのですか? しかも基準を満たさない
>ような自由意志をわざわざ与えた張本人ですよ?
下手な英文解釈の訳文のようだ。全く意味不明(w
どこからどこまでが何に掛かるのか説明せよ(配点4点)
11 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 23:11
たどたどしいけど、意味は解るよ。
12 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 23:16
>>7 まったくもって意味不明。どんな神様だったら信じるんだよ。
嫌われてもいい。たくましく育ってほしい。
>12 少なくとも、ちょっと偶像を拝んだだけで嫉妬するような狭量なのが、全知全能 の創造神だなんてのは、信じられないね。 キリスト教の神様って、ワガママな子供に偉大な力を持たせたような印象がある ね。
>13 おお、この神は器量が大きい(^^)
16 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 00:42
>>14 何だ、自分が神だといいたいだけか。ツマラン厨房だ。
17 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 00:56
>>15 キリスト教の神も
>>13 と同じ考えだが。聖書というものを単独で(あたま)読むと神がねじ曲げられて伝わるのは困ったものだ。
>17 正常に読めば、聖書は神は傲慢だと言ってしまっていますよ。 自分が罪を犯す余地を人間に与えておいて、罪を犯したからといって永遠の死と いう罰を下すような存在を、どのように考えたら愛の神様と捉えられるのでしょ うか。このような存在を傲慢として捉えないような読み方こそ、捻じ曲げられた 不自然な読み方です。
それで、非難したいの?それともなにかを知りたいの? そんなに攻撃的だと、まともな答えは返って来ないよ。 非難したいんだったらお好きなだけドーゾ。 そこには会話は成立しないからね。 非難する側と弁護する側の戦いあるのみ。
20 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 01:19
フッ 分からない者には分からないサ。
>19 そうやね、クリスチャンに教義を説かれて、この疑問を投げかけてみたら、「そ れは違う」と言いながら、どう違うのかは具体的には回答できないんだよね。 「人間が自由意志で神様から離れたのだから、神様が悪いみたいに言うのは間違っ ている」とか支離滅裂な事は言っていたけれど。 誰か神は傲慢じゃないって説得力をもって言えれば、それは誤解が解けて素晴ら しいよ。
個人的には、むしろ創造神をそんな偏狭な精神の持ち主として示ししてしま っている聖書そのものが、神への冒涜に当たるのではないかと思うのだけど。
23 :
(´・ω・`) :03/01/20 01:35
神たまはなに考えてるかわからないにょ。 旧約の神たまと新約の神たま、全然違う性格にょ。 神たまは沈黙してるにょ。 神たまのことは実は永遠にわからないにょ・・・・。
>>23 っつーか、人間に完全に理解できないから「神様」なのでわ?
人間に理解されうる対象は人間と「相対」であって。
「絶対」の対象を考えるときそれは「絶対だから」「理解を超越する」のだと思われ。
たぶん
>>1 はこれも納得しないと思うけどね。(w
私は永遠の謎である。私を追及するが良い。 私を思うものは、思わないものよりも幸いである。 私を賛美するものは平安が与えられ、 迫害するものは光をうつ。
追求 神も筆の誤り。
27 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 01:55
>>24 そうですね。
その1が理解できないこと自体が相対なのですね。
1は相対的な観点からしかものを見ることが出来ないから、理解できないのです。
絶対を理解するには絶対から見なければなりませんね。
絶対とはアルファでありオメガです。
>24 自分を越えるものに対しては理解し切れないのは当然ですね。神様の事は人間に は理解し切れない。当然その通りです。 でも何で、それが聖書やキリスト教の教義を支持する理由になるのか、さっぱり 理解できません。だって永遠の死とか言って裁くんですよ? そもそも自分でそ うやって創ったのに。 それでアレですか、イエスという神の子を遣わして、十字架によって人間に救い の道を与えた。だから神様の愛は素晴らしいんだ。愛の神様なんだ。って。ちょっ と待て、永遠の死を下しているのも同じ存在じゃないか。どこが愛の神様なんだ。 裁きの係りが別にいるってんだったら、話は解らないのでもないが。
>>24 というか、我々には「絶対を理解する事」も「絶対の視点からモノを見る事」も
できないのだと思いますよ。
そう言う意味ではキリスト教徒と
>>1 に違いはないですね。
どこが違うかと言うと
キリスト教徒はその「絶対」=神を待ち望むところだと思います。
理解しようと足りないアタマで考えず、
自分丸ごと「絶対」に明け渡してしまうところでしょう。
30 :
(´・ω・`) :03/01/20 02:13
入り口にょ。きっかけにょ。 死後のこともほんとはわかんないにょ。 裁く神のこという人もいるけど、もきゅは愛する神たまを見るにょ。 わからないんだから、色々な面があるにょ。 でも、いつ信じたのか覚えてないにょ。 もきゅにとっては神様がいるの当たり前だったにょ。 イエスたまのこと通じて、知っただけにょ。でもそれも当たり前に 思ってたにょ・・・・・。
31 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 02:14
ちょっと正統から外れるが もし輪廻転生があるとしたら・・・ そして、イエスの言った裁きが人間一般の考える裁きでないとしたら・・・ 裁かれるのは人間じゃないとしたら・・・ ?
>29 そうそう、同じ絶対に自分を投げ出してしまうにも、何でキリスト教の神様み たいな傲慢な所に行くのかっていうのが理解できないんです。 逆に善良過ぎると、信用できない心理でもあるんですかね。
33 :
(´・ω・`) :03/01/20 02:21
自分が理解出来ないことは、その人個人の価値にょ。 いろんな価値があるにょ。 語ることが出来ないものには沈黙するにょ。 それが賢明にょ。 でも、どんなものなんだろうって、ヤパーリ考えちゃうにょ。
私に逆らって生きようとするものは苦労する。 だから、楽になりなさい。
>>32 あなたにとってはどうしても「傲慢な神」としか思えないのでしょうが、
わたしには「許しと愛の神様」ですから。
ここがいちばんの大きい隔たりかもしれないですね。
もきゅさんも
「もきゅは愛する神たまを見るにょ。わからないんだから、色々な面があるにょ。」
と言っておられますが、賛成です。
それから新約聖書も読まれましたか?
もしその上で「傲慢」と言う感想しかお持ちではないとしたら、
少し悲しいデス。
36 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 02:37
>>32 もっと優れた神様がいるっていうのですか?それとも、神様の存在自体を否定してるのですか?おせーて。
37 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 02:45
1は神のことを傲慢だといってますが、それは1が勝手に思っているだけで神とは何の関係もありませんよ。 神の世界には傲慢も謙遜も存在しません。あるいは両方同時に存在してそれは一つです。言ったでしょう。 絶対とはアルファでありオメガだと。 聖書を受け取るのは所詮人間です。 人間は相対的な見方しか出来ません。 従って、神の言葉を受け取るのも相対的な見方でしか受け取れないのです。 絶対的な世界とは、相反するものが互いに存在し、しかもそれは一体のものであるという世界です。 つまり、両者は存在しませんが、存在しています。
>32 新約だけだと、随分と印象が違いますね。ふと、信仰の対象がいつの間にかすり 変わっているのでは?? と思うほどです。でもまあ旧約と同じ神様だとすると、 トータルだとかなり印象が悪いですね。何か善・悪に関係なく、自分に味方すれ ば良し、そうでなければ殺してしまえって感じですから。絶対これ神を騙った悪 魔だよなんて感想を持ちました。 では正解は、峻烈な部分を持ち合わせているけれども、キリスト教では神様への 接し方として愛の部分をクローズアップさせているって感じでしょうか。それな らそれで合点がいきます。 >36 否定するっていうか、どうせどの教義が正しいのか、もしくは正しい教義がある のかすら解らないものを信仰するのだから、もっと慈愛に満ちた良い神様は他に いるだろうにって感じっす。
もう遅いのでこれが今日最後のレスですが、 私は「この神様」と「あの神様」で比べて「こっち」と決めたわけではないです。 「神は唯一、天と地と人を統べ治めたもうもの」です。 クリになる前は無神論者でした。 おやすみなさいです。
40 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 07:36
それにしても、自分の趣向に合った神なら信じるのか
>>1
41 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 08:15
>>1 >人間には無償の愛を要求しておいて、神自身は条件付きの愛なんです
>よ。キリスト教の教義は、傲慢さは神のみの特権であると言っており、
>そんな傲慢な神様の顔色をうかがって生きていきなさいよと言ってい
>るのです。それを隠蔽するために、愛の神様とか救いとか、懸命にオ
>ブラートで包んであります。
>>21 >そうやね、クリスチャンに教義を説かれて、この疑問を投げかけてみたら、「そ
>れは違う」と言いながら、どう違うのかは具体的には回答できないんだよね。
そもそもそのことをオブラートに包んでいるかなぁ。それは教派によると思うけど。
カルヴァンなんか、神が善人を地獄に落とす事も悪人を天国に上げることも全て神
の主権の思うが侭であって、たとえ一生を良き信仰とまったき善行とに生きた人が
地獄に落とされるとしてもその際その人は「神よありがとうございます。あなたは
良き方にして全ったき方。私はあなたの名を褒め称えます。」と讃美しながら地獄
へ落ちていくのがおよその人間(⊃被造物)の義務だ、とはっきり『キリスト教綱
要』に書いてるぞ。
>>1 だからキリスト教を信じなければいいだろ?誰も信じろと強制してないんだから。
というわけで
ーーーーーーーーーーーーーーーーー 糸冬 了 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下レスつけないように願います。
43 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 20:40
>>41 だからさ、そいうのが解っとらんアホクリが1みたいな偏見を
植え付けているの。
カトリックにとっては赦しと救いの神だが、例えば私にとっては、 どちらかというと、裁きと召命を与える神である。(カルヴィニ スト)
>39 はい、了解しました。たまたま縁があって出会ったのが、キリスト教だったという 事なのですね。そしてそれに深く共感なり感動なりをして、信じようと思ったとい ったところでしょうか。 >40 趣向に合った神様なら信じるっていうわけじゃないですよ。どの教義も別に信じて いませんので。神という存在がいたとしたら、人間がやっているどの宗教も、おそ らくはその姿を正しく見ていないだろうとは思います。 ただ、色々あるなかで、何でわざわざそんな傲慢な神様が真実だと思うの? って いう疑問ですね。 >41 つまり、神は絶対的な権力者であって、それに反抗しても意味がないって事ですね。 地獄に落ちるも天国に上るも神の胸先三寸、人間はただ神に従い崇めるべきだって ところでしょうか。 >45 峻烈な部分に焦点を当てている派もあるんですね。 結局は、神は人間の目から見て傲慢であったり残酷だったりする面も持ち合わせて いるのに、そこから焦点をずらしてオブラートに包んだ教義が、理論上の矛盾を持っ てしまっているといったところでしょうか。
今の段階で考えてみると、キリスト教の信仰は残酷な裁きを行うにも関わら ず神を善と愛の存在として位置付けている傾向があって、一見そこに存在す る矛盾が、逆に神という存在を 理解の及ばない→遥かに遠い偉大なもの として認識させる効果を持っている部分があるようです。 また人間にとって都合の良すぎる存在にしてしまうと、現実世界に起こる 様々な不幸な出来事との整合性がとれなくなってしまうのかもしれません。 美味すぎる話というのも、信じ難い心理もあるでしょうか。 多くの人の感性にとって、適度に理解不能で、適度に都合が悪い。それが キリスト教の教義を支持する要素になっているかもしれませんね。
ここは 1 がキリスト教を勝手に解釈して自己満に浸るスレだったのだな(w 分析なんかしちゃって、ごくろうさん。
付け加えるなら、イエスの十字架の救いを受けた者だけが天国に行けるといった 選民思想的な部分も、例えば自分は神から選ばれた者だという自尊心を満たして くれるといった感じで、魅力となっていますね。 まあこの意識が強すぎると、クリスチャンとしてもダメな者になってしまうので すが。
>>48 >1は思ってたほど、感覚的な攻撃者ではないらしい。
しかしクリスチャンの方も、酷い事するなあこの神様はと感じた事があるのでは ないでしょうか? どうやって乗り越えたのでしょう??
52 :
神みたYO :03/01/21 21:22
人はサタンによって支配されているのです。我々は自覚がないだけで「世界の権威と栄華を支配する野望」に支配され永遠にあるもの を失った。そのかわり、快楽や享楽、物に対する趣向などが与えられた。しかし、サタンはいけにえを求め、人は災いをもこうむることに なるのです。この地はすべてサタンの領域にあるといっていいでしょう。豊かな者は貧乏となり、貧乏な者は豊かになる。それが繰り返される この地に信仰と悔いることで癒されること、哀れみの心を保ちそれを自らが喜びを感じることで、神の領域に入ることができるのです。 誰でも哀れみの心を保ちそれを喜ぶことがないならば神の前に立っても拒絶するでしょう。すぐサタンのに捕らわれてしまいます。 しかし、神を望み信仰を保っていれば、サタンを拒絶するでしょう。それは、神を望んでいるからです。 神は哀れみの心に近く、さらにそれより数段に素晴らしい真理です。 サタンはしつこく人の心にまとわりつきます。それを拒絶するには今この地でよほどの信仰と哀れみの心を保っていなければ払いのける ことができないでしょう。しかし、イエスを信じれば、イエスに助けられるかもしれない。 サタンの領域に浸っている人は、次にどのような人生が待っているか考えると、今、この人生を信仰と哀れみと愛を自分の心の中で育てる ように生きなければならないと強く思います。
>52 何でそういう物語を信じる気になるの?? って話なんだけどなあ。
54 :
名無しさん@3周年 :03/01/21 22:32
1さんは、新約聖書の 「放蕩息子のたとえ」を読んでどう思った?
55 :
名無しさん@3周年 :03/01/21 22:32
56 :
名無しさん@3周年 :03/01/21 22:34
キリストは神の子かもしれぬが救世主ではないでしょや??もし彼が救世主なら今こんな危ない世の中になるはずがない。キリスト教徒さんでもだれでもいいから教えてください。
57 :
名無しさん@3周年 :03/01/21 22:41
そして十字架に架けられた。
>54 永遠の命が得られる基準の一つですよね。最終的に神様の方に向けば、それまでの 罪は赦されるという。 ここだけ抜き出せば慈悲深く寛大なのですが、結局は自分が与えた自由意志に基づ いて神の方を向かなかったら永遠の死の裁きっていうのは変わらないわけで。 >56 キリストっていうのは救世主っていう意味だから、キリストは救世主じゃないって いうのはちょっと違いますね。イエスはキリストじゃないっていう言い方が正しい です。
なるほどでは
>>1 さん、イエスはキリストというのはおかしいと思うのですがどういうことでしょう?
60 :
名無しさん@3周年 :03/01/21 23:07
>>56 彼は救世主だよ。神の本質を現わした。彼を信じて従うものは神を知る。
世界が今のようであるのは人々が彼を信じているといいながら、その実サタンに従ってきたからだよ。
裁きは神が裁くということではない。神の裁き自体が一人一人の収穫なのだ。種蒔きが蒔いた種はそれを蒔いたものが刈り取る。
その結果が神の裁きとなって現われるに過ぎない。
善いことを慣わしにした者は命の復活へ悪いことを慣わしにした者は裁きの復活へ。
天国を選ぶか地獄を選ぶかは一人一人の自由な意志に委ねられている。
歴史的に一番残虐で血なまぐさい宗教はキリスト教です。 十字軍の戦いやアメリカの先住民の虐殺を行ったのもキリスト教徒達でした。 これは事実です。 世界の植民地化政策で教会のスパイ活動と教化政策でどれだけの人類が死んでいったと思いますか。 アメリカでは先住民の子供を親と引き離し、教会で先住民達のすぐれた精神文化を否定させる教義を受けさせて、先住民を抹殺していったキリスト(一神教)の人類に対する罪は大きいです。 どれだけの人類がキリスト教のために殺されていきましたか。 あなたはもっと宗教史と歴史を勉強しなければなりません。 神はキリスト教の神のように偏屈な教義をいったりしません。 インディオのアミニズム的な宗教の方がよっぽど精神性も高く万物と調和していたと思います。
62 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 00:37
>>58 うみゅうみゅ、放蕩息子のたとえというのは、
人間と神の愛の共通点から、神がどういうものかをかたってるんだが、
そういう視点でみて、
>>1 さんどうなの。人間に理解可能な愛では
ない?あれは。
たとえばああいうオヤジが実際いたとして、
「最終的に自分の方向けば息子を歓迎するってことでしょ」とは
言わないと思うんだが。
63 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 00:39
キリスト教は、民族の奴隷化から解放するための 宗教です。戦いの中の残虐な行為から生生き残るための 宗教です。 それだけ、命をかけた宗教であり、必死なところがあります。
64 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 00:47
>>61 わたしは知る必要などない。知っているからだ。わたしにはしなければならないことは存在しない。わたしは在るからである。
わたしはわたしである。わたしである以上に何かをしなければならないことはない。
わたしはしたいことをする。それがわたしの本質だからだ。
わたしはわたしである。
65 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 00:52
で、今日の相談は?
私は古神道の中に宇宙普遍の神の姿があると思います。 仏陀のした瞑想法の中にも叡智が隠されていると思います。 神仏の静寂な無の境地の中で神と宇宙と人間が一体化すると思います。
キリスト自身が説いたことは真実かもしれないが、その後権力者に利用されたり宗教会議で方針を決められたりしたのでもはや神の本質とはかけ離れてしまっています。 異端宗教を野蛮とみなし民族浄化しようとしたり、科学者の宗教裁判での処刑や魔女狩りなどあきらかに排他的です。 それは一神教からくる排他性だと思います。 神はひとつでもあり、無数でもあり、すべてでもあります。 キリスト教の悪としての役割は終わりました。
69 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 01:37
キリスト教の神は一神教だが、古神道が思い込むような形とは ちょっと違うぞよ。この世を包み込む神だぞよ。 そしてキリスト教の歴史は、真理から離れた人、とどまる人の 歴史だぞよ。alkの一元的な見方も、十分排他的だな。まあ、
包み込む神というのは日本的な考え方の神になります。 日本の神は自らの内側にすべての神を産み落として内包しております。 キリスト教の説く神は神とそれとは別に創造された物として描かれます。 あなたは日本人ですからそういう考え方をしますけど、外国のキリスト教信者の考える神はそういう神ではありません。
71 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:02
だって古神道は聖書の影響受けてんだろ。
72 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:03
>>70 >外国のキリスト教信者の考える神はそういう神ではありません。
いや、あの、聖書読んでから逝ってくれ、、、
お前本当にキリスト教知らないんだな。
73 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:06
聖書の創世記でも、人には神の霊が宿っていて、 人が生きている間は人の中に神の霊がとどまるって書いてあるんだよね。 神道とすごく似ている。日ユ同祖論みたいなのは信じないが、 大昔の日本が聖書の影響を受けてたつーのは考えられるな。 古事記とか飛鳥王朝だって、世界の歴史から見ればごく最近のこと、 キリストよりずっと後じゃん
74 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:07
へ?
古神道の起源は日本民族の発生の頃からあったとされる現存するもっとも古い宗教です。 聖書から影響を受けたとすれば、教義神道になってから一部の神道が取り入れたぐらいでしょう。 仏教の神様を祭る神道もあればキリストを祭る神道もあります。 神道はあらゆるものと合一して包んでいきます。
76 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:15
>>75 日本民族の発生っていつだか知ってるの?スゲ―じゃん(w
日本の弥生時代、すでにローマには水道が通っていたわけだが。
77 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:17
その「あらゆるもの」とか「合一」とか曖昧な言葉使いを まずやめれ。小学生みたいだぞ
78 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:21
神道の人って、神道の年表と世界史の年表見比べたことがないような人が 多い。そいでいて、「あらゆる」とか「最も古い」とか言う。 でも世界の宗教史に刷り合わせると、かなり新しいことがわかるよ。
神道は原始的な宗教の形態を残しています。 それは人類の宗教の原点に近いものがあります。 まず人類が誕生して最初に持っただろう宗教はアミニズム的な宗教だったでしょう。 それは自然の中に宿る神性を発見したから自然発生的に起こったでしょう。 次に現れたのがエジプトやアステカやヒンズー教のような人格化された多神教に発展したと思います。 そしてキリスト教のような唯一絶対神になったのが宗教の最終形態だと思います。 一神教になるにつれて、どんどん人間の手が加わり教義化されていったのは明白でしょう。 そこでは本来の神の姿は変えられています。 自然こそが一番の経典です。 それをキリスト教信者の方々は忘れていませんか。 出発点に立ち返りましょう。
80 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:37
>>79 自然は創造主である神の栄光を表しているんだよ。
自然を拝むのではなく、自然にあらわされる神を賛美する。
神の霊を宿す人間が自然の中に神を見るというのは当然なんですね。
しかし一神教は枝葉ではなく、その向こうにある神を見るのですね。
原点はコッチ。と、こちらも言い切ってしまえば、あなたのような根拠のない
一方的な話し方をする人の場合、議論も進まないでしょうね。
それとあなたのキリスト教批判は、古いカトリック世界にしか、
大方当てはまりませんね。特定の組織形態となったものを批判して
いるのでしょう。
原点は自然にしろ、人にしろ、先祖にしろ、それを創造された源の
方がいるということです。
神のことば=キリストを知るなら、自然にも人にも神の栄光を見出すことができるんですから。
82 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:42
>>79 >まず人類が誕生して最初に持っただろう宗教はアミニズム的な宗教だったでしょう。
あんまり文化史を知らない人のようだが、そんなことないみたいだよ。
人間は何もない状態だと、自然を拝むか、特定のモノを拝むかの
どちらかになるそうだよ。ご神体みたいなのをそのヘンの特異な岩とか、
あるいは火、大木などに一つのものに定めてそれを拝む。あるいは作る。
対して自然を拝むアミニズムがある。アミニズムも人間の信仰形態のパターンの一つ。
83 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:49
で、alkさんの主張する日本民族の始点とは?いつ、どのように?
キリスト教徒がどれだけの自然を征服し、異教徒というだけでどれだけの人類を殺してきたかの歴史を見てください。 今の中東も無意識的な宗教の代理戦争です。 それが答えです。
85 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 02:58
>>84 お前は話をそらしてんじゃないぞ、コラ。
十字軍やらなにやら、
古いカトリック世界の、組織信仰をあなたは叩いていたんでしょう。
それがいつのまにかキリスト教全体に話を広げて、果てはキリスト教の
「神」叩きになって、しかし分が悪くなって行き詰まるとまたそっちに戻る。
>62 ああいう親父がいたとして、一定の条件を実は設定していて、それを満たさなけ れば拷問にかけてみたりとか、殺してしまうなんてしまう事はないですね。 寛容な部分だけを抽出したエピソードであると思われますが。
87 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 03:04
>>86 なんやようわからんが、君ひょっとして=alkではないの。
それはおいといて。
人は自ら神から離れた生き方を選んだね。それをあらわしているのが
放蕩息子の例えだね。最初から神と共にいるか?君自身が。
離れたところから神の元に返ろうとするものを、神はいつでも待っているという
例えでしょ。つっても、独自解釈が先立っているようなので、聞かないだろうけど。
88 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 03:07
>>86 あ、それと、放蕩息子のたとえの父親は、君がいうような
「一定の条件」なんて何ひとつ設定してないね。これ重要だね。
清くなくていい、どんな罪を犯した後でもいい、どんな間違いでも、
どんな反抗でも反逆でも、帰ってくるなら、すべてをチャラにして
息子を出迎えた。親から与えられた資産を使い果たし、家族を捨て、
放蕩に明け暮れた息子だよ、あれは。その息子の帰りを待ち、
姿を見つけるなり祝宴を開く父親だ。
人間も同じだといっている。人間が自分から心を閉ざしている状態が
放蕩の状態でしょう。
君のいう「一定の条件」って、ところで、何?何か勝手に作ってない?
破壊神キリスト教の人達と話していてもらちがあきませんね。
90 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 03:13
>>89 捨て台詞は予想してたけど、質問には答えてちょ。
91 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 03:17
一方的にまくしたてて、そりゃないだろ<alk 議論を最初から放棄して、自分の意見だけ煌々と述べていたのは あなた。相手の疑問や質疑をすべてスルーしていたのも、あなた。 宗教以前に会話のルール放棄してます。
>88 だから、「帰ってくるなら」が一定条件でしょ? 人間の親は自分の子供を設計して創造したわけじゃない。出来る事も限られている。 神は人間の設計して創造した。何でも出来る。それどころか、永遠の死などという ものも創って、基準からはずれた人間に苦痛を与える。 この違いは大きいのではないでしょうかね。 単純に人間の例を出してこれと同じ気持ちだっていうのであれば、欺瞞です。
93 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 03:39
>>92 帰ることに条件はないよ。
「帰るか」「帰らないか」の選択。それを条件と訳すのは間違いだね。
だって、今時点で事「離れている」わけだ。
あなたは何を批判していたっけ?「神のところに帰る」ために条件が
必要である、と批判していたのではなかったっけ。
帰るのに条件はないよ。それが答えだ。帰りたいなら、いつでも
無条件で帰れる。帰りたくないなら、帰らなくていい。
あたはどちらなのか。その選択。
要はこの「離れている」というのを、聞く人が事実と思うか、
思わないかの違いかもしれないね。
それともあなたは「離れていない」、「私はすでに神と共にある」だから
「帰る必要などない」というだろうか。
というよりむしろ、
>>92 を読むと
「私は帰りたくなどないが、神様なら無理やりにでも引き戻してくれるはず」
と書いているように読めるね。
そういうオヤジもいるかもしれないね(w
ディスコとか同棲先に乗り込んで、ビンタして縄で括って車に押し込めて
連れ戻すオヤジとか。それを求めるなら、確かにキリスト教の神ではないし、
あなたの批判ももっともということになる。
95 :
名無しさん@1周年 :03/01/22 09:44
横レス失礼。参考になるといいんだけど。 誰かが言っているように、人間が神を理解する場合には、人間の心理(喜怒哀楽)を 通じて理解するしかない。だから、心理学は神の理解に役立つと思います。基本 的に、神対人間の関係は、幼児期の親対子供に置き換えられると思います。 さて、アダルトチルドレンと呼ばれる人々がいます。簡単に言えば、幼児期に「無条件」 の親の愛を受けなかったため、自分が愛されるためには「良い子」にならなけば と思い込んで、ひたすら自分の感情を押し殺して親に盲従してきた子供達です。 これが、「放蕩息子」の話と非常によく似ているのです。 1.健全なる家庭では、親は子供を無条件に愛する。子供も、自分は親から愛される 存在だということを理解している。(イエスの言う「アッバー」としての神) 2.不健全な家庭では、子供は「良い子である」という条件を満たさなければ、 親から見捨てられるという恐怖を通じて、びくびくしながら親を愛している。 親から十分に愛されていないと感じる場合には、自分に対して強い罪悪感を 抱く。(旧約聖書の神、ユダヤ人達の戒律重視の神、回心前のパウロ) カウンセラーは、アダルトチルドレンを癒すときに、実はイエスの言葉と非常 に近い暗示を使って、治療していくのです。この類似が非常に面白い。
基本的にイエスがなしたことは、当時、民族単位でアダルトチルドレンになって いたユダヤ人を癒すため、「神は無条件で人間を愛している」ということを教え たのです。もちろん、悪いことをすれば罰せられるでしょうが、その裏にはちゃんと 愛があるのだと。 さて、パウロなどは、性ですら罪悪感をもって見るほどに重い症状でしたが、 キリストが自分の身代わりになって十字架上で犠牲になった、と解釈すること で、重苦しい罪悪感から解放されたのでしょう。しかし、心理学的にはそれは 方便のひとつにすぎず、完全に健全になったわけではありません。本来は、 十字架の犠牲などなくとも、神から無条件に愛されているという自覚を持た ねばなりません。それこそが、イエスが一番言いたかった教えだと思います。 不健全なる信仰は、強い罪悪感を伴うので、その「赦し」による浄化体験は 強烈で、どうしても方便が先に立ってしまう。本質を見失ってしまい、方便 ばかりを強調するクリスチャンの一部が、「赦しを信じなければ地獄へ落ちる」 などと脅すのもこのためです。しかし、実際に地獄へ落ちて神の顔色をびくびく 見ているのは彼等自身の方なのです。
>93 だから、「帰ってくる」というのが条件なわけ。 じゃあどうすれば帰ったと見なされるのかという問題があって、その条件はまた 別にある。イエスの十字架を信じるとか、洗礼を受けるとか、細かくは宗派によっ て異なるだろうけれど。 しかしイエスを信じて洗礼を受けても、平気で罪を犯し続けたらそれは帰ってい るとは見なされないでしょうね。 蛇にそそのかされて禁じられた実を食べたというのが、神から離れた切っ掛けと なっていますが、その実を人間の手に届く所に置いておいたのも神であるし、そ の実を食べる選択ができる自由意志を人間に与えたのも神であるし、そそのかし た蛇を創造したのも神であります。サタンも神が創ったものですよね。 それで帰って来なければ永遠の死の責苦を負わせるなんていうのが、傲慢だと言っ ているのですよ。
>94 そういうのでもなくてね、永遠の命を選ぶも永遠の死を選ぶも人間の自由 意志に委ねられているっていう論法が、キリスト教の神の残虐性を愛のオ ブラートで包み隠していたりしますよね。 おいおい、じゃあその永遠の死なんてものを創造したのは誰なんだ、人間 をそっちに進めるように設計したのは誰なんだ、っていう話ですよ。 純粋に愛で善なる存在なら、意味のない責苦など用意しないのでは?
100 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/22 19:18
1さん、主があなたをお呼びになるまでは知識を貯えときましょう。 わからないことを理解しようとすると、却って理解不能になります。 トコロデ、祈りを試したことはありますか? 祈ることを通して解ることは沢山アリマス。 ついでに百げと。 (^o^;
>100 はいありがとうございます。あまり呼ばれたくはありませんが……(笑) 祈りはどの宗教でも共通です。違いは、テレビで言うところのチャンネルですね。
キリストの場合は排他的(自分に都合の良い)的な所がありますよね〜
103 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 21:48
>102 教義によっても異なりますが、他の宗教は全て偶像礼拝の罪、イエスの十字架の救 いを受けないものは皆地獄行き、なんてやられると、排他的も良いところです。 所詮は信じる信じないの世界で確証などないのに、他の宗教を信じている人に向かっ て罪だの地獄行きだの言う人達は、傲慢の最たるものですね。 教義が正しいか否かは実際には解らないけれど、自分はこれに賭けてみているん だという意識を、信仰者には持ってもらいたいものです。
105 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:09
<1>は「信じるのはごめんだ」と言っていて、それは完全に尊重されるべきですが、 >>だから、「帰ってくる」というのが条件なわけ。 この論法は 「金払いたくないけど,だからといってそのDVDを俺によこさないとは何ごとだ、テメー」 と電気屋の親父に難くせつけているのとなんら変わらん。
106 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/22 22:21
>>102 さま これのどこが都合よいですか? 異教のかたがたも救われると書いてあります。
キリスト教信者だけが助かるわけではありません。
<マタイ>
7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
108 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:22
109 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/22 22:22
110 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:27
え、排他的って悪いことなんですか?
ただいま 1 は反論の作文中
112 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/22 22:31
113 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:35
>>1 が批判している「救いの条件」というのは既存の教会の
イメージ見て感じていることだろうと思う。
信徒が集まると、どうしても相手の信仰を確認する必要があるからねえ。
教会がそれぞれに持つ制約的なものというのは(実際はあまりないはず
なのだが)主が人に求めているんではなく、人が人に求めてるんだよね。
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fkは無所属だけど、
神様の目から見ればキリストに召された同じ神の子供なわけで、
コテハンでそういう信仰告白している。この人は面白いと思う(すまん)。
>>110 悪いとかいいとかではなく、宗教は排他的なものである。
信じてないのに信じるものと結果が一緒やったら、そら宗教いらんわなあ。
あたりまえのことでっせ。
1 も信じてないんやから「地獄」もないと思ってるやろ? それでええがな。
ここでぐだぐだ「不公平や」って言うのは完全なお門違いデッセ。
115 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:41
>信じてないのに信じるものと結果が一緒やったら、そら宗教いらんわなあ。 けk
116 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:43
宗教はしんくぉうしてる人だけのものではないと思われ
117 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/22 22:46
>>116 然り。すべての人は神様の子供。
ただし、それを自覚している人としていない人の思考ベクトルはまったく違うわけで。。。
私としては皆さんが神様と「両思い」になればよいと思います。
ね、1さん。
118 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:50
信じていても、信じていなくても、結果は同じ「かもしれない」よ。 神さまがそう思っていらっしゃるのなら。 それにしても、1さんみたいに 同じ聖書読んでいても 神は傲慢 という結論に達する人もいれば わたしみたいに 神さま 優しすぎ!なんだか申し訳ないみたいだよ。 と思うのもいるという・・・。
119 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 22:51
>>117 それ気に入った<思考ベクトル
「新しく生まれ変わり」といわれるより、ピンとくるかもね。
せやからやなあ、どっちにしても 1 の論理は破たんしてる訳よ。
121 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:14
>>120 というか、実は両者の理論とも正論でもあり、
破綻もしてるわけよ。
>105 だからそれ以前の所を問題にしているのであって、そこはあまり関係のない話で すね。 別に無料で何かが欲しいという話ではなくて、人間が神の定めた基準から逸脱す る原因は、そもそも神にあるわけです。全知全能ですから、それを承知の上での 行動なわけですよね? 自分でそんな風にしておいて責苦を負わせるなんていう のは、なんと傲慢なのだろう。キリスト教の神の概念は、神の精神性を偏狭なも のとして位置付けているなあ。何でそういう神様が良くて信仰しているんかなあ って話ですよ。しかも大体の人が、愛で善の存在として認識しているので、おい おい良く見てみなさいよってわけです。
123 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:41
神は正しいことをするのではなく、神がすることが正しいのだ。
124 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:43
>1 つか、別に理解しなくてもいいじゃん。理解する必要あんの? ただ本心では文句言いたいだけでは? 漏れは、そこまでキリスト教その他宗教にいちゃもんつけるのが理解できません。
125 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:43
念のために…… 自分は聖書に書かれている神の姿が傲慢と言っているだけで、神が傲慢であ るとは言ってませんよ。個人的には、全知全能たる創造主が、あんな偏狭な 精神性であるはずがなかろうと思っています。 ちょっとしたSFの世界観で、すっごく進んだ科学技術の世界があって、今 自分達が存在しているこの宇宙は、そこの「宇宙開発セット」なる子供のお もちゃの中の世界で、神様とは実はそこの小学生だったっていうんだったら、 納得できなくもないです(笑)
127 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:46
要するに126が最も傲慢ということで結論が出たじゃん。
いやいや、人間が神に背いてるのは、むしろ、人間の悲惨さを示し、だから、 神を理解しえないと...そして、愛と善については、何故か、我々は生ま れつき”感じる”ものであるから(教えられなくとも)、それは、その(理 解しえぬ)神に原因を見出すものであると... だから、偏狭性は神の属性ではない。
129 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:48
キリスト教の信者よ。 争い起こすな。 米帝逝って戦争やめさせなさい。
130 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:50
>>129 戦争やめさすために戦争してる世の中なわけだが。
兵役拒否してぶち込まれるクリスチャンは正直エライと思う。
131 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:50
お前がやめさせろ。できるもんならやってみな。
>124 あなたは何か必要がなければ、まったく疑問を投げかけたり質問したり しないのですか? 何ていうのかな、本当に理解できないわけです。 宗教っていうのはいっぱいあって、どれを真理と考えるのも自由だし、 どれも真理でないとするのも自由です。その中で何でキリスト教なの? だってそこの神様やってる事実は酷いじゃん! 気付かないのか、もし くは思ってみたけれど乗り越えたのか、乗り越えたなら、どういう経緯 で乗り越えたのかが知りたいんです。
旧約は、むしろ、人間の傲慢さ、醜さをあらわしていないか?
134 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:54
その傲慢さ醜さも神の支配によるものなのにどうして罰っせられなきゃ ならないんだよ。
135 :
名無しさん@3周年 :03/01/22 23:56
>132 じゃあ、理解しなけりゃいいじゃん。 君は、仏教徒や神道の信者やイスラム教徒やヒンズー教徒にも同じ質問をしてるの?
罰するというより、自ら滅びに向かう事を諭したと思う。
罰するというより、自ら滅びに向かう事を諭したのだと思う。
>>132 奇異に感じるだろうが、”科学”と矛盾しないから。
139 :
まどれーぬ :03/01/23 00:06
あなたはこの板にいる wise というコテハンと同じことをいいはじめましたね。 あなたのように考える人もひとりではないと言うことです。 そしてそう考えるのも完全にあなたの自由ですが、 それは完全に一方通行で、対話にはなりませんよ。 >>どういう経緯で乗り越えたのかが知りたいんです。 あなたは自分がサンプリングしようとする対象いい関係を築けていないので、 なかなか情報収集は難しいでしょうね。
140 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:08
>>135 キリスト教徒側からは理解できないかもしれませんが、
実は神道には信者という概念が存在しません。
氏子というものはありますが
そこの神社の信者というわけではありませんね。
教派神道になってきますと信者という概念が生まれてくるのですが。
神道は信仰するものでもないようなものですので・・・。
141 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:10
>>131 きみがやりなさいよYO
142 :
うっさいはげ :03/01/23 00:10
143 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:12
厨房みたいな喧嘩やるなよ
144 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:13
さて、キリスト教を受け入れるということは、 ある意味精神病者が自分を精神病であると 受け入れることと良く似ています。 そういうシステムであることを理解されれば良いかと思います。
145 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:16
キリスト教よりはまだ神道のほうがいい。 祟り系はご勘弁だけど(w 個人的に感じることはキリスト教(つーか新約の神?)の神の擬人的 表現は行き過ぎな気がする。 まぁキリスト教圏の人もどうだか・・・
146 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:24
ここに居る信者は1の意図どうりに答えようとしないな ていうか答えられないだろうが
>132 科学と矛盾しないというのは、例えば旧約聖書の内容が考古学と合致していると か、天文学と合致しているとか、最近では進化論が否定されてきているとか、そ ういう事でしょうか。 個人的には、正しいと確認されたものはその範囲において正しいのであって、そ の範囲を越えてじゃあ全てが正しいんだと結論づけるのは軽率ではないかと思い ます(詐欺師に騙されるのもコレですし)が、心情としては理解できます。 >139 普通に尋ねてもオブラートの部分を説明されるだけなので、いずれは同じ事です。 質問しているうちに切れられます。まあ器用にできる人もいるでしょうけれど。 >144 何となくニュアンスは解ります。個人的にはキリスト教の神は、絶対的な権力者 としての王をイメージしたもので、教義も飴と鞭の概念の延長にあるものと考え ます。エルサレム人のためだけの王であった神を、全人類のための神に創作し直 したのがイエスであり、その弟子達ではないでしょうか。
148 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:34
>>128 違いますね。
キリスト教の理論は、神のやることは何でも正しいのですよ。
それが前提です。生かすも殺すも神のその時の機嫌・都合次第なわけなのです。
神が悪と決めれば悪なのであり、善と決めれば善なのですから。
それに人間が気付く事が出来るか否か。
気付いた人間は生かされ、気付かない人間は滅ぼされる。
どちらにせよ、神と人間の関係は主人と奴隷の関係なのですね。
また、そういう関係であることに満足しているのです。
しかし、親子の関係として奴隷側の人間が転化させる事が出来れば、
神の言うことは愛だと感じることが出来、
なおかつ愛の根源として受け入れられるわけなのです。
ある意味、親に虐待を受けた子供の心理状態と非常に似ていますね。
実際、そういう子供は兄弟達が虐待を受けて死んでいくのを見て、
自分はそうならないように努力し、親を愛するようにするのですから。
そして、親の言ったことを忠実に守ります。
時々親が示した道に疑問を持って離れることもありますが、
やっぱり他の道で生きることは難しいので、親の道に戻ります。
虐待が上手な親は、帰ってくるとまずは喜びます。
そして少しの罰を与えます。子供は喜んでその罰を受け入れます。
また、他の「親から見れば気に入らない兄弟」を親に命じられれば、
喜んで虐待するようになりますし、
また、真剣に兄弟への愛情からその兄弟に対して忠告することもあります。
キリスト教の神と信者の関係は、
残念ながら虐待を行う親とこの関係に似ていると感じることもあります。
149 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:40
>>144 残念ながら読みは浅いです。
イエスは全人類を対象にしていたか否かは不明です。
その後の信者達の創作かも知れません。
ユダヤ人もキリスト教徒も、自分達の神が(また、自分たちが)
いかに正しいかを証明するためにたくさんの文書を書き、
その中のいくつかがトーラーとして採用されたのです。
また、エルサレム人という語は不正確ですね。
エルサレム人となると、エルサレムに住む人のみとなってしまいます。
もう少し彼等の歴史を学んで見られれば良いかと思います。
150 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 00:58
えーっ、しかしそういう親子関係は傍から見ていると 一見に悲惨に見えますが、実はそうではないのです。 当人同士には愛情も在りますし幸せだったりもするのです。 1さん、あなたにはキリスト教の神の信者の 擬似親子関係が理解できないでしょうが、 この神と人間の関係は互いに愛情よって結ばれているわけなのです。 また、預言者や聖人や教父という、信者にとって模範となる 先人(兄弟・姉妹)が存在するのです。
151 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 01:20
152 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 07:01
>>151 虐待を適度に行う拾った「親と子」の関係ですね。
153 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/23 07:03
154 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/23 07:09
ノアの箱舟の話は、要するに ノアとその家族だけが神に忠実だから 神はそれ以外の人間を洪水で滅ぼしたわけでしょ? もし実話だとしたら恐ろしいことですね。 神は自分から姿を現さないくせに 「私を信じろ、信じるものは救われる、 そうでないものは地獄へ落ちる」って言うんだから わがままですね。 こんな神をクリスチャンは 「神は愛なり」と言って崇拝しているんですね。
>148 神のやる事は何でも正しい。これはキリスト教の根幹の一つですね。神は善であり、 そこからはずれるものが悪であり、罪であるというわけです。 虐待をする親とその親を慕う子の関係の比喩は、かなり的を得ているように思えま す。擬似的に親子関係にする事によって、人間に本質的に備わっている親子の情を 神との関係に転化させているのでしょう。 情によって、親を悪くは言いたくない、悪くも思いたくないといった心情が働いて いるのでしょうね。 神話のストーリーでは、神は偏狭な精神の一面や傲慢さを持っているのにも関わら ず、認識ではそこから離れようとします。わざわざフォーカスをそこに合わせない ようにしている様子もあります。理解不能な部分については、「神のなさる事の意 味は人間には計り知れない」で論理的には全て逃げ切れます。
>149 エルサレム人の代わりには、どのような表現が相応しいでしょうか? アブラハムの血筋の人達っていうのもちょっと変だし・・・
>154 ノアの箱舟のエピソードは、恐ろしく身勝手ですね。 全知全能であれば、滅ぼす以外の選択肢だって無数にあるでしょうに。その中から わざわざ滅ぼす選択をするのですから、恐ろしい事です。とても愛の存在とは思え ません。 テレビゲームで失敗して、安易にリセットボタンを押してしまう行為と似たものを 感じるのは自分だけでしょうか? でもクリスチャンは言うのです。「神のなさる事は必ず意味があり、人間にはそれ を完全には理解できない」と。
158 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 07:32
>>1 浅はかだな
全能の神が下した最終審判だよ
キミもそうならないように注意品
神を考えるにあたってキミは知識がなさ過ぎで、妄想的
キミが考えるような神に人類が何千年も関わろうとするわけないだろ
すこーし考えろ!
>158 えーっと、知識がなさ過ぎとか妄想的とか、そういう評価は良いのです。 どういった知識が足りず、どこが妄想的であるのか、具体的に書いてくださいね。 そうでなければ、何も言っていないのと同じように思いますよ。 あと、宗教の歴史の長さが、神の傲慢さの否定の根拠になり得るのですか?
160 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/23 08:20
>>158 >全能の神が下した最終審判だよ
じゃあそれを根拠を挙げて具体的に証明して下さい。
161 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 08:23
>>160 君が嫌いなキリスト教の神つうのは、そういう存在だから。
「じゃあそれを証明してください」という次元の問題ではないと
思われ。君が今まであーだこーだいってた「神」はどういう存在なん?
君もそういう神を前提として話してたんじゃないの?
162 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/23 08:38
話の腰をモムようで恐縮だな。 キリスト者はあくまでもリポーターであって解説者足り得ないと言うことをしばしば忘れがちになります。 神様を自分の体験を通して語ることは可能だが、それ以上は知ったかぶりと言われても仕方ないんだな。 1さんは議論の進行が得られずに困っているみたいだが、真相は創造者たる神のみぞ汁。
163 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 11:56
話の腰をへし折るようで悪いけど、結局のところ各自が自分の好きな神様観を 披露しているだけなんだよね。 158さんの神様は、被造物の人間をリセットボタンひとつで始末しても平気な 神様。それは158さんの世界観でもある。1さんの「ヒューマニズム的な神様」 は、1さんの世界観が現れたもの。
164 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 12:12
ノアの箱船は 神が全てを滅ぼそうとしたわけではなく、自然現象の説明にすぎない。 ノアは脳内映像や心の声(動物の本能的部分−超自我;神の意識に繋がっているとされる)に従ったまで。 他の人間はそれをノアの妄想と判断した。その結果、来たるべき大洪水で滅んだ。 これがノアの箱船の事実。
165 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 12:21
>>159 >>どういった知識が足りず、どこが妄想的であるのか、具体的に書いてくださいね。
>>そうでなければ、何も言っていないのと同じように思いますよ。
キミの幼稚さの手助けをする気にはなれない。
166 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 12:26
>>163 >>158 さんの神様は、被造物の人間をリセットボタンひとつで始末しても平気な神様。
何故、結果だけを見て、そんな浅はかな事を言うのかな?
この世界の被造物が神の創ったものなら、その素晴らしさに目を止めてごらん
167 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 12:27
壊したのはサタンであり人間だよ
>166 あなた自身が神様から「長い眼で見たら、お前が死んだ方が世界のためになる ので、すぐに死んでくれ」と言われないから、そんな呑気なことを言えるのです。 神の意図が人間に理解できないのなら、戦争にジェノサイド、放火に詐欺、 なんでも神の意図で、「知らぬ存ぜぬ」です。現世の同胞に起こる悲劇を見て、 あれは神の意図だろうから、自分には関係ない、と言うようになったら、 人間失格です。
具体例を挙げると、サマリア人の旅人が行き倒れになり、虫の息になって いる。 158さんは「行き倒れになるのは神様の意図だから、放置せよ」と見捨てる 部類だろうな。サマリア人のひとりが死んで嘆くようでは浅はかだ、と。
またこの手のスレか。もう飽きたよ。
171 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/23 13:00
またまた、話の腰をさするようで、恐縮だが。 1さんには、キリスト教の教義をキチンと説明しないといけないのでは? 出来ればその役目は教会に属している方にお願いしたいが。
>160 まあ証明してくださいっていうのは無茶ですね。証明されていれば、人類のほぼ 全員がクリスチャンになってます。 >163 自分はヒューマニズム的な神様像を持っているわけではないですよ。もしもその ような神様像であれば、現実世界に起こる様々な出来事の悲惨さとの整合性がと れなくなってしまいます。イメージとしては、神っていうものは人間には無関心 であるっていうところでしょうか。 >165 クリスチャンの方だと思いますが、そのような態度や物言いは教義的には合致す るのですか? もしかしてアンチキリスト教の方で、キリスト教のイメージを悪 くしようとしていません?
173 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 13:21
旧約だけ読むと距離を感じるよな。仰ぎ見る人にしか、わからない神。 でも新約読み終えて、家族より近い神だというのが分かったよな。 旧約では「いつかそちらにいく」だった方が新約で実際に来られたのだから。
キリスト教の教義には、素晴らしい所は沢山あると思いますよ。 マイナスの感情やそれによる行動は、他人の気分を害したり悪意を生んだり、 マイナスの連鎖を招きます。逆にプラスの感情や行動は、他人の気分を良く したり良心を刺激したりしますよね。 クリスチャンの罪を追い出そうとし、他人を赦し、隣人を愛そうとする姿勢 は、マイナスを自分のところで止めて、自分からはプラスを発信し続けよう とする尊いものです。おそらく、キリスト教というものを適切に自分の血肉 とできている人は、このような尊いものとなっているでしょう。 けれども、選民思想的な部分、排他的な部分に強く影響を受けてしまってい るクリスチャンは、エリート意識が強かったり傲慢だったりしてしまいます よね。 後者のような弊害も、そもそもは教義の中の神の傲慢な性質に起因するもの でもあります。
175 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 13:27
>>1 は、神が愛であり、しかし時に無情に思える仕打ちをすることが
矛盾していると言ってるのかな?
でも現実の世界もそれと同じでないの。聖書の神に怒りを感じるなら、
現実の世界でも怒りと共に生きてるのではないの。
小さな子供が突然事故で死んだり
戦争があったりする。でも、太陽は昇って雨も降って、毎日の食事やら
新しい命やらの恵みがある。神を「超自然な方」と訳したのは
三浦綾子だったが、つまり怒りも悲しみもすべて包み込み呑みこむ
大きな存在ちゅうことだよな。
その現実(無情さと恵みの共存)の中で生きている私たちは、その現実の
世界に、私たちと同じ言葉、同じ性質、同じ体をもって訪れた
神にその答えをいただいたんだよな。それがイエスキリストなんだよな。
176 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 13:30
>>174 「後者のような弊害」
実際そういう人に会ったかい?
その人、神を愛してただろうか。
クリスチャンでありながら、ちょうど
>>1 と同じで
神を愛せない、傲慢で怒りの神にただゴキゲンをとっているだけの
人は実際にいると思うよ。
177 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 13:50
>>174 なんか、君の「おそらく」がいちいち当っていないんだよな
>おそらく、キリスト教というものを適切に自分の血肉
>とできている人は、このような尊いものとなっているでしょう。
実際、キリスト教の教義を自分の血肉にすることなんて、できないよ。
できるのはキリストの血肉。「人を愛しなさい」と命じられて、
ハイ分かりました、と愛せる人はいないと思う。本当に憎らしい人って
いるじゃん。そういう人をどうやって理屈で愛せる?自分の感情を殺す
努力をするしかない。しかし感情を殺しては愛は成り立たない。
キリストを血肉にするというのは、ただ自分を愛してくれる神を知って、
受け入れるところから始まる。努力で人を愛するんじゃなくて、
神の力で人を愛することができると知るんだよ。これがある意味教義。
教義には、人を変える力はない。
ただキリストがあなたを作り変えてくださると、説明しているに過ぎない。
>172 身の回りに起こる悲惨な出来事も、回りまわって役に立っていると思います。 神戸の震災の時にも、お互いに助け合って愛を深めた人々もいれば、ボラン ティアの世話になっても、当然のような顔をしている人々もいた。同じ出来事 が身に起こっても、人間の対処のし具合で結果の善悪が分かれる。もし、震災 を起こすことが神の意図だったとすれば、それは一部の人間に与えたチャンス にすぎないでしょう。そのチャンスを無視する自由もまた人間には与えられて いるから。私の意見が158さんとは違うのは、神の意図が結果にまで及ぶもの とは考えていない点です。 >177 >努力で人を愛するんじゃなくて、神の力で人を愛することができると知るん >だよ。 いや、むしろイエスが主張したのは、隣人を通して神を愛することだったの では。「最も弱い小さい人にしたことは、私にしたことである」と言っていま すね。隣人を愛せない者は神を愛することができない、とヨハネ書にもあり ます。ヒューマニティが人間の本質である以上、ヒューマニティを通じてしか 人間は神を理解し、愛せないのです。
179 :
163(補足) :03/01/23 14:56
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 (ヨハネI 4:20)
>175 微妙にそういう話でもないんですね。自然の先に神を見るなら、そのような考え方 も良いのですが、根本的には神様、自分で原因を作っておいて責苦の罰を与えるな んていうのは、傲慢というもんじゃないですかい? って話です。どうも、ストレー トには反応がないですね。 >176 会いましたね。まあ傲慢も良いところでした。傲慢さの表面に謙虚さと愛をコーティ ングしていたような人でした。彼の場合は、神に選ばれた人間であるという選民思想 的な部分から悪い影響を受けていたようです。 実際、キリスト教の教義には「永遠の死」という脅しがあります。これがある限り、 信仰には神への恐怖が入ってしまい、それはどんなに愛のオブラートで包もうとも、 ゼロにはなり得ません。
181 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:15
>>180 >自然の先に神を見るなら、そのような考え方 も良いのですが、
まあ、そりゃそやろな。人がその知によって神を知ることは
ない と書いてある通り。
182 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:17
>どうも、ストレー トには反応がないですね。 君と同じ視点に立てなくて皆苦労してるだけなんではないかい・・・ 偏狭な質問にストレートに答えるには同じくらいの偏狭さが必要だし・・ どうやらここには寛容な人多いと思うよ。
183 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:19
>>180 >実際、キリスト教の教義には「永遠の死」という脅しがあります。これがある限り、
>信仰には神への恐怖が入ってしまい、それはどんなに愛のオブラートで包もうとも、
>ゼロにはなり得ません。
そりゃ逆だわな。永遠の死とか地獄のような苦しみとかが現実に
あることを知ってる人には愛も分かると思うよ。
この世にも地獄みたいな、答えの得られない苦しみがたくさんあるからね。
そういうの経験した人には、君の言うことは当てはまらないだろうな。
「なりえません」と断言するのはチト幼稚すぎ。
184 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:24
>>180 >微妙にそういう話でもないんですね。
じゃあどういう話ナンダロウ・・・
君の方が、原因と結果を逆に読んでいる気がするんだが。 この世に我々が今、生きてるのは現実のことなんだけど。 この世を前提として皆、神を見ているわけで。 神がこの苦しみの原因を作ったとかなんとか文句言うなら、現実の この世も自分自身をも否定しなければならなくなる。
186 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:31
>>1 は確実な答えが欲しいんだろう。
マニュアル的に、なんでも解答があると。
この世の事象に解答などないし、神の意志自体にも解答はない。
187 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:35
キリスト教の神が真の神であるということには変わりないと思うけど。
>>1
1さんの問題提起は、むしろヨブ記の問題に近いのでは。 義人にも悪人にも平等に禍福が訪れる。いくら大善人でも、大地震で命を失う こともあれば、十字架上の死を迎えることもある。要するに、信仰しても何の 得にもならないということです。死後の至福? あれだって紙約束でしょ。 誰も地獄を見てきたわけではない。結局、信仰とは、何の得にもならないこと を重々承知の上で、神を愛するということだと思います。 もっと極論すれば、たとえ神が不在であっても、自分は神を愛する...。いや、 神を愛さなければ生きていけない、という告白が信仰の本質では? 1さんは、キリスト教を信仰することの「効用」を尋ねておられるのです。 信仰したら何の得になるのか、本当にその「儲け話」は本当なのか...。 正直に腹の中をさらけ出してしまえば、得などない。大昔の詐欺師の口車に 乗せられているだけかもしれない。しかし、騙されていたって構わない。 自分の生涯をイエスなり神に捧げて悔いはない、というのが信仰でしょう。 逆説的に言えば、自分の捨て場を見つけることこそが信仰の真髄です。自分 が捨てられない限り、「永遠の生命」は拾えない。捨ててしまおうと決めた 自分に、捨てる効用だの理由などいらないのです。
なるほど、と思いながら読んでいたが、最後がイマイチ。 >捨ててしまおうと決めた自分に、捨てる効用だの理由などいらないのです。 理由なく自分捨てるんなら自殺した方が早いだろ。 なんで神の前に自分を捨てるか、というところはまだ洞察のしようが ありそうだがな。「理由などいらないのです」ではチョト、物足りない
190 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:53
>>188 なるほど、と思いながら読んでいたが、最後がイマイチ。
>捨ててしまおうと決めた自分に、捨てる効用だの理由などいらないのです。
理由なく自分捨てるんなら自殺した方が早いだろ。
なんで神の前に自分を捨てるか、というところはまだ洞察のしようが
ありそうだがな。「理由などいらないのです」ではチョト、物足りない
191 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 15:54
おお二重カキコではないか。ごめんよ。
>189 自分を捨てても捨てきれないのです。なぜなら、自分の本質は神と同質 だから。自分が捨てれば、神が拾うことになる。
193 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:00
>>192 ごめん、わけわかんないし、脳みそがとけそうだ。
もうやめといてくれ
ちょっと抽象的な表現になりましたが、どん底まで落ちた体験をして、 自分で「支え」きれなくなった時、忽然と世界の実相が見えてくるの です。私の場合は、破産寸前まで行って、自殺しようかと思う毎日が 続き、そのうち最悪の一撃が来て、「終わり」が来ました。しかし、 世界は終わらなかった。自分の貧富の違いにも関わらず、太陽の光も 空気も同じだった。その世界の実相はあまりに美しかった! その時の感覚をひとことで言えば「私は神に拾われた」が一番近いです。
195 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:04
俺もわけわからん。 執着を捨てるという事なら理解出来るけど・ 自分の本質は神と同質で捨てれば神が拾うって・・・・?????
196 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:11
163さんの言ってることは、なんかこう、クェーカー派が表現するところの The light within 内なる光を連想させるね。 脊髄反射カキコすまそ。
>177 キリスト教の教義の中から見れば、まあイチイチ当たっていないでしょうね。 神の力で人を愛するのではなくて、人間にはそのポテンシャルがあるのです。 主の愛、神の力をもってすれば愛せるはずという強い暗示が、通常不可能と も思えていた愛を湧きあがらせるのでしょう。
>183 そうですか? 永遠の死という脅しが教義に含まれている以上、それに対する恐怖 は多かれ少なかれ必ず信仰者の中にあるものです。その恐怖が存在する事に、自分 で気付いていない信仰者もいるでしょうがね。キリスト教の教義に愛がないとは言っ ていません。ただ神は傲慢な面も持ち合わせているし、脅しの部分もあるという事 ですね。 >185 神に文句を言っているのではなくて、キリスト教の教義の中にある創作上の神の設 定に否を唱えているのです。聖書やキリスト教の教義は、むしろ神への冒涜に当た ると考えています。まあ全知全能たる神が、人間の宗教ごときにいちいち目くじら を立てるとも思えませんが。 >186 確実が回答のない中、わざわざあんな傲慢な神様を真理だなんて思わなくて良いん でない? って話ですね。
>187 まあそれはそれぞれですので。旧約を見ると、むしろその辺の邪霊の類じゃないの か?? と思えてなりませんが。血を好むからねえ。 >188 そうですね。キリスト教による効用は、自分の意識の中での自己の確立と、自分の 良心に絶対的な後ろ盾が自分の意識の中で確立される事だと考えます。それが真理 だから信じるという部分もあるのですが、それが真理であって欲しいという願望の 方が大きく信仰には働いているような気もします。この辺は、個人個人で事情は違 いますがね。 永遠の命を得るという教義も、死に対する不安から逃れるために自然発生したもの ではないでしょうか。
クェーカー派って何?
201 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:35
>>197 >人間にはそのポテンシャルがあるのです
現実はそんな簡単に言いきれるものではないぞよ。
>主の愛、神の力をもってすれば愛せるはずという強い暗示
逆に、信仰を持ったつもりになって、そのような暗示的なものだけを
信じた状態が最も危険と言える。「私はクリスチャンなんだから、
人を愛さなきゃ」。
実はこれは、まった信じてもいないし、救われてもいない状態で、
ストレスだけがたまる。憎んでいる人を愛してみようと、チャレンジ
したことがあるだろうか。ものすごい困難なこと。上にもあったように
感情を殺す努力をしなければならなくなる。
202 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:39
そもそも幕末〜明治にかけて入ってきた、Love という概念は、
対応する日本語がありませんでした。
それを新しい言葉を使えばよかったのに、愛と訳してしまった。
これが功罪併さる結果となって、今日に至りますが、
相手を思いやる情や好意という言葉と混ざってしまった点は、大失敗。
だから
>>177 さんのように、誤解した人が出てくるのです。
日本のクリスチャンでも、それも偉い人でも誤解している人は多いので、
仕方が無いことです。
憎らしい人? 愛せますよ。好きにはなれませんけどね。
世の中の不条理との整合性の取り方が、キリスト教は今一つ下手なんじゃないかな という印象を受けます。 要するに、解らないけど全ての事には何かしらの神様の意味があって、神様の計画 があるというものですよね。 仏教的な輪廻、修行、業といった概念の方が、整合性を上手くとっています。
204 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:39
205 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:40
207 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:43
>201 クリスチャンでも、やってみようとすると愛し難い人を愛するのは困難でしょう? ノンクリはその努力をする動機がないだけで、クリスチャンとポテンシャルはそう そう変わりません。 ただクリスチャンになって愛する事が出来たとしても、それはその人のポテンシャ ルの範囲内でのものには違いないです。
210 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 16:52
すべての人すべての時すべての場所が神です。 神道の人はそれを当たり前に受け取っているのです。 なぜならそれが神の本質だから。人の本質だから。 あなたも神なのですよ。 あなたの敬う神とあなたはどちらが偉いというものでもありません。 神は思考で人は体験ですから。 宗教に一番酷い罪があったとしたら、すべての人々が羊ではなく神であったという真実を隠してしまったことです。 すべてはひとつです。 21世紀はすべての人間が神となる世界を作らなければなりません。 ひとりひとりが目覚めて自分の指導者にならなければなりません。
212 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 17:00
>>211 ある意味そういう考えに支配されていた20世紀であった・・・
「神」という紛らわしい用語を除けばね。
自己実現とかな。科学万能とかな。
213 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 17:04
>>1 良くも悪くも、日本は表層の社会システムは西欧化してしまった。
その中で、たくましく生きるなら、キリスト教的な個の発想のほうが
競争に有利なのは、確かだと思います。
自然科学も、自由主義法哲学も、政治、経済、あらゆるものが、
キリスト教的な個人主義概念と、切っても切り離せないからね。
血肉にしておいたほうが、圧倒的に理解が早いでしょうね。
214 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 17:05
仏教は、どちらかといえば、失敗者、不幸な人、社会から 排除された人たちの救済には、都合がいい発想だなあ。 キリストの救済よりも、仏教の方が、日本人は救われるとは思います。 仏教思想に染まっている人は、 いまの近代文明の爆発的な発展を軽視する人は多いけれど、 ぶっちゃけ、それは嫉妬ですね。 もしくは、自分の怠惰の言い訳。 日本は、地理的に両方の文化の潮目に位置する幸運を得たのだから、 両方会得すればいいのです。相対化できて、バランスが取れますよ。
216 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 17:42
>>1 いまは無理かもしれないが、いずれ神がどのような方であるかを知らなければならなくなる。心配するな。
>213 確かに、資本主義はプロテスタント精神から出たものですけど、その裏には 「富めるも貧するも神の意図」という、ある意味無責任な前提があるのです。 富める者は、自分達の権益を守るために、不公平な社会システムを作り上げ、 貧者との間に壁を積み上げます。それは自由意志でなされたことで、それが 神から罰せられないから、神の意図に合致しているんだ、という解釈はあまり に自己勝手です。私が158さんに噛み付いたのと同じ理由で。 イエスが現代に生きていたら、「富めるも貧するも神の意図だから、貧者は 放っておきなさい」とは言わないだろうと思います。現に、積み上げきれない 富を集めるために、地球が半分壊れかけています。それもまた、神の意図なん だろうか。単なる責任回避でしょう。キリスト教は責任回避の隠れ蓑に使われ ているだけです。
218 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 18:00
>>217 そのあなたの考え方の半分は、日本的(?)仏教的(?)分からないけれど、
純粋なキリスト教的な愛の考え方とは違うと思いますよ。
イエスが、貧者に向かって何を言うか、これは私の想像ですが、
「他人に与えないから、貴方は貧乏なのだ。」かな。
誰かが、愛を与えてくれる、という態度で、
口を開けて待っている、その態度が貧乏なのです。
219 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 18:07
>>217 「プロテスタント精神」つーのはどう考えても資本主義は
生み出さないと思うが・・・
聖書のみ 信仰のみ 恵みのみ
の、どこが???
ところで資本主義が何から生まれたか、というのは簡単には論じれないと思う。
貨幣制度はキリストの前からあったし。キリスト教徒の中には
今でも、富や貯蓄を悪だと考えるところもあるが、別にそれは
それぞれのやり方であって、それがキリスト教の何かを語るもんでもない。
>>218 さんの言い方に続けて言うなら、イエスの血肉を本当に
受けるなら、この世の人、貧しい人も富む人も、すべてを
「当事者として」考えられるようになると思う。
キリストの精神は「自分には関係ない」という考えを一掃させる
ものがある。それを自分のものとできるかどうか、だね。
それができるなら資本主義社会であっても、神の祝福を得ることはできるだろうね。
220 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 18:09
愛さない人生なんてありえない。
221 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 18:20
>>219 キリスト教的な個の概念がなければ、資本主義は生まれなかったでしょう。
キリストの言う love とは、(無償の愛と誤訳されていますが)、
誰かに(自分に)与えることで得る、自尊心の高まりを言います。
与えることがベースなのね。
だから、投資家(金持ちとは限らない、普通借金して行うしね)が
行う投資行為も、経済的に見れば love なのです。
欧米で寄付行為が奨励されるのも、もちろんその行為が love だから。
投資も寄付も、相手のために行うのではなく、自分のために行う行為です。
222 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 18:28
ところが、日本の場合には、 誰かから気にかけてもらう、世話になるという、 どちらかというと、受身な態度がベースにあったので、 その資本主義経済システムが輸入されたときに、 中途半端に根付いてしまいました。 皆が与える行為で悦に浸ることがなく、 同じシステムで皆が奪いあっているわけね。 もちろんそうした負の部分は、欧米でも見られますが、 日本の場合は、与えあう愛の文化がもともと弱かったため、 正の部分がほとんど影を潜めてしまいました。 会社も(投資した=愛した)株主のものではなく、(奪う)取締役のものだし、 従業員も、労働力を会社に社会に与える意識が低く、終身雇用で雇って「もらう」。
223 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 18:33
>>219 >「当事者として」考えられるようになると思う。
確かにそうですね。でもそれは仏教も同じでしょう。
むしろ、日本的な水に流す、とか、弱者を暗闇に流して、
キレイになった、とする考え方は、
日本独自の穢れの発想だと、私は思います。
日本は弱者を闇に葬って「なかった事にする」社会、 そして認識することさえ拒否する社会。
225 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:15
>>223 水に流すというのはキリスト教の洗礼から来ている言葉だと聞いたことがあるが・・・
流して良いモンといけないモンがある罠。
226 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:17
>>223 人中心の当事者意識と、神中心の当事者意識はヤパーリ違うと思うよ。
最終的に「害がない」ようにするのが人中心の当事者意識であると、
つくづく思う今日この頃。「人に迷惑かけなければ何をやってもいい」
という考えを生むのでは。
227 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:21
内村鑑三がいいこと言ってたな 「自分が嫌なことは人にしてはならない」これ道徳なり。 「自分がして欲しいことを人にしなさい」これ精神(スピリット)なり。 あの人ほど、キリスト者の目で日本人の道徳観を研究した人は いないだろうと思う。しかも批判ではなく、日本のよきものを 発見するためという一貫した動機がすごい。 日本へは、キリスト教が社会的精神として輸入されてしまった一面は事実。 内村鑑三とか、新渡戸稲造読むと、明治の頃から、そういう問題に 真っ向から取り組んでいた人がいるのはすごいと思う。
>219 私自身、読んだことがないので勧めるのは気が引けますが、資本主義の産み の親がプロテスタント主義だ、と言い出したのがかの有名なマックス・ウェー バーらしい。 //civitas.e.yamagata-u.ac.jp/EvoGame/newsletter/2002/020406.htm >イエスの血肉を本当に受けるなら、この世の人、貧しい人も富む人も、すべて >を「当事者として」考えられるようになると思う。 この部分、禿同です。イエスの時代にも、貧者は麦の刈り入れをさせられなが ら、その麦は自分の口に入らず、富者の倉庫にしまわれていた。おまけに、 豊作だと倉庫に入れたまま腐らせて、価格を維持する輩もいたらしい。ちょう ど、イエスの時代に貧富の差がひどくなって、イエスはそれを苦々しく思って いたようです。この観点から読むと、意味がよくわかる聖句が多い。イエスは マルクスやレーニン以上に貧者のために義憤を感じていた。しかし、イエスは 暴力をもってではなくて、隣人愛をもって革命を起こそうとしたのでした。 >221さん、フォロー3X。
229 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:22
「水に流す」 この表現は、神道の穢(けが)れを清める禊(みそ)ぎに由来するもので、 穢れは「気が枯れる」が転じたものと言われる。 古代の日本人は、食べ物、特に米を通じて、気(体に流れている力)が体内に入り、 日常生活を送ることで、それが枯れる「気が枯れる(穢れる)」と信じていたようである。 この「穢れ」を払う手段として、水で身を清めることが考えられ、 それが「禊ぎ」と呼ばれて一般化したらしい。 川の水には霊力が働いており、川はさらに海の神の国まで繋がると考えて、 穢れを川の水に流したのである。 そこから人間関係で生じた許しがたいことを穢れと捉えて、 それを許そうとする時に「水に流す」と喩(たと)えたものである。
230 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:23
>>221 「無償の愛」は誤訳じゃないよ。愛にはいくつかの種類が
あるとして、訳されているところのひとつ。
>226 でも、それは逃げ口上にも取れるわな。「私は神中心の当事者意識でもの を考えるから、人中心の当事者意識など知らん」といいつつ、貧者の上に 築き上げたピラミッドの頂点であぐらをかいていていいんか、という話。 人中心の当事者意識すら持てぬ人間が、神中心の当事者意識など持てる もんかいな?
232 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:30
>>227 日本的な感覚から、いかにキリスト教的 love の文化に移行させるか、
苦心の跡がわかる言葉ですね。
人から聞いた話ですが、日本にキリスト教の love が輸入されたときに、
対応する言葉がなく、デウスの御大切、と訳されたと聞きました。
このほうが、良かったですね。愛と訳したから、話がおかしくなった。
日本で近い言葉としては、慈悲がある、という方がいますが、
私は反対です。
慈悲は、仏教的な概念だという理由だからではなく、
目上の者から目下の者にかけるのが、慈悲。
主君への慈悲、先生への慈悲、社長への慈悲とはいいませんからね。
キリストの love =与える行為である愛は、対等の関係が前提です。
もちろん、社会的に上下関係があっても、愛する瞬間は対等なんですね。
誤解を恐れずにいえば、神や、イエスを愛するときには、
神やイエスとも対等になります。そうでなければ、愛せない。
愛とは、もらうものではなく、行うものです。
それも、相手のためでなく、自分のために行うモノです。
>227 私も内村鑑三を愛読しますが、まだ徹底していない部分を感じてしまう。 田中正造の徹底ぶりはものすごい。彼こそが本当のクリスチャン。
234 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:32
>>230 誤訳だよ。アガペーには有償の場合も含まれるからね。
>232 確かに、日本人は対等関係での「愛」の理解が苦手かもしれないけど、 その代わりに目下の者から目上の者への「忠」ないし「孝」の理解には すぐれていたと思う。この部分、賛否両論あるだろうけど、「忠孝」は 日本人が誇るべき精神性の高さだと思う。西洋社会には「忠孝」はない からね。あるのは「利害意識」だけ。
236 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:41
>>235 それは賛成。
どちらが優れているとか、劣っているとかではないですね。
ただ、西洋社会には、忠孝が無いから劣っていたのではなく、
必要なかったのです。皆、個として独立しているのが理想で、
主従関係を情緒的に捉えるのは、依存とされて、病気のひとつでした。
日本はとても中途半端なのが悲劇です。
徹底的に日本的にするか、徹底的に西欧化しなければ、
弱者が切り捨てられるような、悪い点ばかりが強調されてしまうのかもしれません。
ユダヤ人は、宗教に「契約関係」を持ち込みましたが、ユダヤ人と付き合い のある人なら納得できると思う。選民意識が強くて、人が自分にサービス して当たり前、絶対にお礼の言葉なんか言わないそうだよ。軍事研究 やっている知り合いがいて、世界の軍隊を取材したが、世界で一番横柄 で性格が悪いのがイエスラエル軍だって。こういう連中は、「忠孝」で は神が説けないから、契約で吊るしかなかったわけよ。
238 :
くろしろ ◆Mi0a.9Ms2A :03/01/23 19:46
欧米には騎士道やロマンチック・ラブがあるぞい。
>236 多分、メンタリティの違いなんでしょうけど、中世の傭兵は、お互いに 敵対関係にある領主と二重契約をした挙句、戦闘放棄するのが当たり前 だった、などと聞くと、あいつらは「忠孝」がわからん、ちょっと動物 が混じっているんじゃないか、と私などは思ってしまいます。 もっと酷いところでは、少年少女十字軍を乗せた船がそのままトルコに 上陸して、みんな奴隷として売られてしまったとか。ドライというか、 したたかというか。神をも恐れぬ大胆さです。
240 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:50
んー。日本的な視点からみたら、そういう感想になるのでしょうね。 向こうの人にとってみれば、 「忠孝? ママとの親子関係みたいだな。成長しろよ」 てな感じでしょうね。 最近は、日本的な考え方を理解する欧米人も増えましたが…
241 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 19:53
家庭を犠牲にして、必死にサービス残業して働いて、過労死する日本人を見ると、 日本人は哀れに思うけれど、欧米の人間は驚くでしょう? 欧米人は、自分のために、与えるのだという発想しかないので、 自分を削って(不利益で)まで、相手に与えようとする点が、理解できない。 思考停止になる。カミカゼに驚いたのも、それなのね。 でも、日本人の場合には、(自分のためではなく)、 相手(会社)のために猛烈に尽くしているわけで、 自分のためでは無いから、がんばれる。 相手のためにがんばっている、すばらしい。と考える。 この価値観の違いをまず、尊重しあわないと、 否定しあっていたら、お互いの文化が理解できない。 愛も同じ。
242 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 21:19
1って暇なんだな 1はへつらいたいだけのように見える 自分に対しての葛藤が無い
243 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/23 21:55
キリスト者は間単に表現すると「イエス様ファンクラブ」の会員であります。 だから、矢沢のファンが矢沢を真似するように、イエス様のことを真似る傾向があります。 ただし、「傲慢」があるとすれば、「罪からの開放感」がさせるところでしょうか。 それとは別に、、、、 1さんにこれほど多くのクリスチャンにレスしているところを評価いただけるとうれしいですね。 おそらく、創価学会に1さんが同じように食い下がれば今頃はこのすれ自体が荒らしに見舞われているでしょう。 (普段は創価板にいますので、あしからず。)
244 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 22:02
確かにこのスレ見て思ったこと クリって人がいいというか糞真面目というか・・・
245 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 22:04
キリスト教が一番傲慢に見えます。無神経なのでしょう。
247 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 22:53
ねぇねぇ 「キリスト者」ってなんて読むの キリストもの? キリストしゃ?
確かにキリスト教のエッセンスの良い所は、日本ももっと吸収したいですね。キリ スト教の排他主義はその土地の文化を破壊しますが、日本という環境であれば、良 いエッセンスを吸収して要らないものは拒否という方向性も可能です。といいます か、今現在もその要素はありますね。 個人的に気に入らないと感じているところは、実はキリスト教の教義の中の神の傲 慢さそのものではなくて、必死にそれをオブラートに包んで見えないようにしよう としている欺瞞的な部分であったりします。
249 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:16
父と子=主人と奴隷の関係であることを 信者の深層心理は隠したいものです。
250 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:18
また、質問の件ですが、 イスラエル、あるいは現代ならユダヤ人と呼ぶのが適当かと思います。
251 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:21
>>248 そりゃぁ、同じ人間が裁かれたらイイ気はしないさ。
でも、滅ぼされるべき人間が滅ぼされなかったら人の世はもっと悪くなる。
粛清に失敗したユダヤ人の末路が正にそうさ。
神はこの悪の世をひと塊の時間で完全に終わらせようとしてる。
今がその期間なんだ
252 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:23
>>249 奴隷といっても重労働負わされる奴隷じゃないでしょ!
それ、絶対に違うと思う。その見方。
253 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:25
なんか忠、孝ばかり書いてる人がいるが仁や義や礼は? そもそも孔子がなんでそんなこと言い出したかってことは? ま、いいや。キリスト教も社会学くらいに割り切れんのかと 常々思う。神とか必死こいて言うからこういうスレが立つんだよ。
>>253 キリスト者にとって神は絶対のものだから。
仁義礼智忠信孝悌 いざとなったら玉を出せ 力があふれる 不思議な玉を
256 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:34
つーかね。百歩譲ってキリスト教で言う神がいたとするよね。 このスレでこうしていろいろ神がどうこう語ってるワケだが それは罪なんちゃうの? そして神の御心とやらを正確無比に理解できる人間がこの世に いるの? 理解出来ないのにどうしてこうやって人に平然と語れるの? 恐ろしく矛盾したことやってません??? 聖書にもあるんだよね確か。神の御心は人間には理解できませんと。 ならしゃべるなよって素直に思うワケだが。 そこんとこどうなんですか?
258 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:41
>>256 神の御心を語ってる?
ちゃんとスレ読んだか?
259 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:44
>>257 それは自分の中の主観的なものと割り切れるんであれば
問題なさそうなんだけど、実際はそうじゃないよね。
だからこうした現状が発生するんだと思うだけども。
伝えようとしても伝わらない。結果として信じなければ判らないと
いうしかなくなると。
まぁキリストがそもそもユダヤの救世主として現れたことになってん
だから仕方ないという気もするが。神ありきっつーのは。
260 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:45
>>256 だからみんな神の御心はわからないなんてことは承知の上で
1 が質問するので答えているだけですが?
疑問にちゃんと答えないと言ってはたたかれ、
答えれば「答えるな」と言われれば、このスレは終わり。
261 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:47
>>256 罪ではないと思うよ。聖書の内容伝えているわけだし。
正確無比に理解出来なくても、どんどん解明されていくんだよ。
試行錯誤しながらね。そして解かった事もある。
>>神の御心は人間には理解できませんと。
正確無比には出来ません。
262 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:48
>>260 申し訳ないが私は無駄と思ってますが?
結局理解してる人間なんていないんだから。
私のスタンスは聞くだけ野暮(w
>>1 ってことで結論は出ないですよ。絶対に。
唯一導かれる答えは「信仰は個人の自由」
263 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:50
>>262 無駄と思うなら来なければイイだけなのに( -Д-)y─┛~~
265 :
名無しさん@3周年 :03/01/23 23:57
>>260 この板では結構この手のスレ立ってきたんだけど
やっぱり堂々めぐりにしかならないんですよ。
神云々の個人的見解は私は否定的なんだけども
信じる人が良い方向にベクトル向けようとしてるのは
文意から感じることもある訳で。
あまりに高飛車な香具師は殺したくなるけども(w
自分を信仰を通して見つめ直して変わっていこうと努力する
のはいいことだと思うし、他人がとやかく言うことじゃないよね。
まぁそれだけ言いたかっただけですわ。
266 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 00:03
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。 自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。 自分に少しでもかかわりあいがあった人に対し、信仰によって幸せを感じられた 人、苦しい時に挫折しなかった人が1さんに説明しようとしているだけだろうに。
267 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 00:17
>>252 いいえ。分析すればそんなものですって。
あなた方にとって神は主人であり、あなた達は奴隷です。
他の表現では、主は虐待の上手な父親であり、
信徒は虐待されるのが好きな子供です。
奴隷とは、肉体的な重労働をすることだけではありません。
歴史的な学びをされてはいかがでしょうか。それとも不都合ですか?
ユダヤ・キリスト教の主は奴隷の主人であることを好み、
信徒に対しては主人の顔色を伺いながら生きる奴隷であることを好むのです。
268 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 00:20
>>266 その聖句は、奴隷の主人が奴隷に対して求めることが
集約されていますよね。
269 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 00:47
私と神との関係は友達同士ですが何か?
270 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:07
>>269 その態度が正しいんですよね。
うつむいてはならない。顔を上げよ。
あなたは愛する瞬間は、神と対等なのだから。
271 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:10
>>267 教会で悶々としている人々の中にそういう人は多いですね。
特に日本の場合は。
そうした人たちは、聖書を読み、イエスの言葉を暗記し、必死に奉仕しながら、
イエスが「やれ」と言っている事を、人間にはできないこと、と
心の中で決め付けて、毎日裏切っているのです。
272 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/24 07:28
>>271 その通り。
右の頬を打たれてさらに左の頬を差し出せる人なんていません。
自分の敵を愛せる人なんていません。
クリスチャンは結局はキリストの教えを守っていなくて、
「ああ主よ、私はあなたの教えを守ることができません。
どうかお許し下さい」と
一生懺悔しながら生きているのです。
273 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:38
>>267 >>歴史的な学びをされてはいかがでしょうか。それとも不都合ですか?
チョッち笑わせないでくれる。
人は必ず何かの奴隷になるんだよ、色んな形の。
キミは聖書を学ぶゆえの幸福を知るべきだと思うよ
キミの発言には、まだ人間的な幼さを感じるよ
274 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:45
>>268 >>その聖句は、奴隷の主人が奴隷に対して求めることが集約されていますよね。
そう、それが愛すること
そして、正しき愛には豊かに応えてくださる。
自立の難しいこの国のマザコン君には、少し難しいと思うよ
でも不可能じゃない
自立した麗しい人間になれ!
275 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:46
堂々巡りの原因はこういう幼稚さを相手にするからだと思うよ
276 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/24 07:49
クリスチャンって、都合の悪いことを言われるとはぐらかしますね。
277 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:50
ノンクリスチャンて難くせ付けるしかしないね
278 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:50
>>248 つーか。部分的には、仏教的な考え方や、日本的な発想と、
全く相反するところもあるのですから、
良いところだけを輸入するというのは、
結果だけを皮相的につまみ食いしているわけですね。
だから、いつまでも日本人は、
ぶっとい精神的支柱を自分のものにできないでいます。
たとえば、憲法前文なんて、あれ、まさにキリスト教的個の概念そのもの。
自由、民主政、法の支配など、すべて、個人の尊厳から発しています。
押し付け憲法などと、いじましい事を言う人もいますが(その通りですが)
日本人には、あんな自由主義に満ちた近代憲法をつくる能力は、無かったんですよ。
279 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/24 07:53
>>277 私が言ってるのは現実ですよ。
それに気付かないクリスチャンはおかしい。
洗脳されてるから気付かないんでしょうけど。
280 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 07:53
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 俺様用しおり ∧_∧ ( ・∀・)<今朝はここまで読んだ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
281 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 08:05
うん。
>>267 タイプは放置が一番だと思う。この人キリスト教にうんちく
タレながら、自分の宗教、はたまた「そしり」の奴隷になってるだけだから。
しかも何もわかってない。ていうか、分かろうとしていない。
聖書すら読んでいない。それから「奴隷」をそしり言葉として使うことで
異様な快楽を得ているね。キリスト教において「奴隷」というのは
そしり言葉ではなく真理の入り口である。
聖書は明かす、人はお金や、自己顕示欲や、食べることや、仕事や地位や、
家族や、親子関係や、必ず何かの奴隷であること。何かに身を捧げるとき、
虚無は感じないが、捧げるものがないとき、虚無を感じる。
よく世間で「使命感=充実」として美化されるアレだ。また、
「自由」という奴隷もある。
例えば「自分が酒を呑もうが自由だろう」というとき、それは自由ではなく
お酒の奴隷である。「フリーセックス」はセックスの奴隷だ。
旧約の時代、人は律法の奴隷であった。
神の奴隷となるとき、それらから初めて自由になると聖書は言う。
だからまず、自分がどのような状態であるかを知ることだ。そして
自分の身の捧げどころを、神に向かって立ち返らせることだ。
それはイエスキリストの十字架によってはじめて可能になるだろ。
>>269 その上で、キリストはこう言われるね。「もはや」というのは
キリスト者として成長した状態をさすのだろうね
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。
しもべは主人のすることを知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。 」
282 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 08:08
>>278 ハゲドウ。
キリスト教は道徳じゃない。文化にへつらってブレンドするなんて
とんでもないだろ。
・・・といっても、実際それをやっているのがあらゆる新興宗教だけどね。
283 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 08:14
>2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs あなたもその不自由な状態から早く脱しろよ。 幼少期の恨み辛みを土台に生きてたって、何の得にもならないよ。 あなたのメッセージは誰にも届いていない。 某教会の掲示板にそのコテハンでずい分酷いことを書いていたね。 あなたはすでに道徳すら逸脱しているじゃないか。
284 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 08:27
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbsは、「洗脳されて」気付かない クリスチャンをどうしたいんだ? おそらくあなたの両親がそうだったと 言いたいのだろうけど。 正しくキリストのメッセージが伝わっていないというなら、 君がメッセンジャーになるべきではないの? 難癖つけて嫌われるだけで人生終わらせるつもり?
285 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 08:31
僕はキリスト教を信仰していませんが、マザーテレサは好きです。あの人は宗派(信仰の有無)に関係なく人と接していたから。 決して信仰を集まってくる人に押し付けたりしなかったし。 他の宗教でも素晴らしい人は沢山いるし、くだらない人もいる。結局一人一人の問題だと思います。
>>281 > 聖書は明かす、人はお金や、自己顕示欲や、食べることや、仕事や地位や、
>家族や、親子関係や、必ず何かの奴隷であること。何かに身を捧げるとき、
>虚無は感じないが、捧げるものがないとき、虚無を感じる。
同感。ただし、虚無を感じないのは「何かに身を捧げるとき」とは限らない。
損得感情もなにもなく、我と彼の別もない状態で、無心に何かをする時、
虚無は消えうせます。そのとき、その人の存在は神に溶け込んでしまう。
農家の人が無心に田を耕し、せっせと手入れをする。彼は神とともに仕事
をする。それは誰のためかと言えば、誰のためでもない。敢えて言うなら
神のためです。ところが、収穫を終えてから、隣の田んぼを見渡して
「私の収穫は彼のよりも少ない」と考えた途端に、その仕事も収穫も
「私」のものになってしまう。と同時に、神と私を結ぶへその緒が絶たれ
てしまうので、不安になり、「主人」にすがらなければ生きていけない
奴隷に成り下がるのです。281さんの話は、この段階以降の話です。
287 :
名無しさん@1周年 :03/01/24 08:56
傲慢でない神様がいたら教えてくらはい。 一つでけっこう。 おぼれていなければ見えない世界もあるということでつ。
>287 傲慢なのは神様ではなくて、鏡にあなたの心が映っているだけです。 神と人とは、胎内でへその緒でつながっている親子のようなものです。へその緒 を通じてすべての栄養分を与えられている。それなのに、人はへその緒が束縛 だと感じてしまう。では、それを神は罰するか。罰するとすれば、へその緒を 嫌って暴れるうちに、首に巻きついて窒息してしまうかもわからないから、 それを避けるためでしょう。そして、振り上げた拳が人に当たるとき、神は その何倍もの痛みを感じるでしょう。 神が罰するかどうかと考えた時点で、その人はすでに神と切り離されてしま っているのです。神を自分の延長ではなく、自分の外に捉えようとしている。 ユダヤ人もそうだった。「契約」なんて、我と彼の立てわけがあって初めて 成り立つものです。ユダヤ人はすでにエデンから足を踏み出してしまった。 だから、イエスは「アッバー」としての神を説き、元の健全な親子関係を回復しようとしたのです。
291 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 09:21
>>290 だいたい合っていると思いますが、
最後だけは誤解を招くかもしれませんね。
イエスは、
親の代わりに、その人を無条件で愛してくれる「神」を提示することで、
「そんな愛する能力が欠如した親を、捨てなさい」と言っているのです。
「親から愛されなくても、あなたは十分に「神」から愛されている。
だから、他人から愛を貰おうと、飢える必要はない。
あなたには「神」のように人を愛する能力が、すでに備わっているのだ。
他者に依存するな、うつむくな、顔をあげろ!」
もちろん、イエスは親と縁を切れといっているわけではありません。
子供として親に執着せずに、人として親を愛せるようになること。
親子関係に寄りかかった、情緒的な偽の愛を捨てること。
そんな親子関係を健全といっているのであれば、
>>290 に賛成です。
>291 ナイスフォローに感謝します。あなたのおっしゃる通りです。 少し補足すると、やはり本来の親子関係も大切だと思います。幼児期に、親が 涙を隠してふるった「愛の鉄拳」を体験した人ならば、神と人間との間にある 「健全なる親子関係」を理解することができるでしょうが、もし、その人が 幼児虐待を受けて、暴力をかさに着た親の顔色を見ながらビクビク育ったと したら....。
293 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 09:29
世の中には、その正体を探ろうとして分解していくと、 結局最後には何も残らない、そんな種類のモノがあります。 神が実在するのか、しないのか。 それを考えるのは面白い。ですが生きる役には立たないでしょう。 クリをいじめるネタとして使うのが、せいぜいです。 私は、全ての考え方は、人が生きるのに役立つように 考えるべきだと思っています。 還元主義も、切り刻む対象を選ぶべきだと思っています。 仮想的にであれ、「神」を考える。 それで、愛される実感を得られ、同じように他人を愛そうと思えるなら、 それでいいのです。 人生を、疑いで満たして、淋しい一生を送るよりも、 より人間らしいといえるのではないでしょうか。 逆に言えば、「神がいる」と断言して言い張るクリもアホですね。 「神がいると自分は信じている」これだけで、神の役割は十分なのです。
294 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 09:31
>>292 肉体的な親は選べませんが、
精神的な親は選ぶことができます。
それに気づくことが、最も大切なことだと思います。
ふと、読み直してみたら、291のイエスの言葉は、そのままアダルトチルド レンの治療に使える内容ですね。 //www2.ocn.ne.jp/~likeself/adaruto.html
296 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 10:01
>>295 パーソナリティの成長という観点からは、同じと言えるでしょうね。
キリスト教圏の人間は、神、愛、自由の概念から派生する、個人主義を、
精神の成長に利用してきました。
マズローの欲求段階説でいえば、大多数の日本人は、
甘えの中に沈んだ未成熟児となってしまうでしょう。
マッカーサーが、日本人は三歳児と米議会で発言したのも、
あながち的外れではないのです。
ですが、それはあくまで西洋的な概念であり、
仏教的な、もしくは日本的な、精神の成熟も別にあるわけで、
道がひとつではありません。
その点は、欧米においても認識されているところです。
私たち大部分の日本人は、
先祖から受け継いだ文化と、西欧化された個人主義の社会の中で生きています。
そんな現実を考えれば、極端な原理主義に走らずに、
個々の考え方に沈まず、自分と考え方に距離をおくことで、
両方を会得していくのが、現実的ではないか、と私は考えています。
297 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 12:58
1とかノンクリスチャンは自分の甘えの部分に気付いたか?! 過去のトラウマを引きずってても何もいい事は無い 自立するのも、トラウマを消し去るもの結局、自分の努力次第 方法はあるから前向きに 取り合えずトラウマにはフラワーエッセンス、これ最強
298 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 16:16
>>295 それ、本当にいえてる。
私自身そうだったよ クリになる前は、AC(元被虐待児だったので・・)、
対人恐怖、前夫との共依存、DVもあったし、現代精神病テンコモリ人生でした。
精神科に1月ほど入院(検査のためよ)したこともあったし。
正直最初のうちは、教会に来ている平和なクリスチャンホーム育ちの
人たちと、どうつきあっていいのかわからなくて、教会自体が非常に
いごこち悪い場所だった。今は全然だいじょうぶ。
生活も仕事も性格も、180°変わったと思う。クリになって自分ほど
変貌した人間も珍しいんではないかとおもう。
だけど、「クリになればこれもあれも治ります」って言うのは反対。
それを治すことを目的にしちゃうと、結局それにとらわれて、
イエス様が見えなくなっちゃうからね。段々と、神様の存在感じて、信じて
受け入れて、気がついたらいろんな執着から自由になってた、そんな
感じだったと思う。内的解決が、外的な全ての問題を解決するんだよね。
299 :
聖書の改ざん :03/01/24 17:41
>>1 さん
キリスト教と同性愛
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1038067023/l50 にもレスしましたが、聖書はその時代その時代の権力者(コンスタンティノープル公
など)によって都合の悪いところは改ざんされた事実が多く在るんですよ。それと、
現にキリスト教が原因で数多くの戦争や宗教弾圧が起こり、多くの人が殺された。
なぜだと思いますか?キリストが支配や弾圧、戦争を喜ぶと思う?戦争や支配はキリ
スト教が原因ではなくてキリスト教を都合の良いところだけ利用した人によって起こ
る訳です。だから都合の悪い部分は改ざんされた。
その様な事実もあるしあなたの言いたい所も分かります。ただ、あなたの言うような
歪んだ考えを持った人もいると思います(皮膚病や同性愛者への差別発言を平気で
する人もいる)。ただ、マザーテレサの様な人もいる(そういう人は目立たない)。
キリスト教が悪いわけでもなく、一人一人の問題では?
300 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 17:52
キリゲト
>249 250 隷属という言い方は、クリスチャンの一つの側面である事には間違いないと思いま す。もしも人間がどのような者であっても、まったく待遇が変わらなかったらどう でしょうか。そこに永遠の死という脅しがあって、永遠の命という報酬があるから、 クリスチャンになるのです。 ユダヤ人、そうですね。それが妥当かもですね。ありがとうございました。 >285 マザーテレサは素晴らしいですね。ただ亡くなられた方をその人の宗教に沿った形 式で葬儀したので、そこは教義的にはどうなんでしょうか。勿論、人間的にはその 人を尊重した素晴らしいものだと個人的には強く感じました。 >299 キリスト教が悪いわけでもないというのは、言い過ぎのような気もします。キリス ト教が都合良く利用され、多くの血が流されたのは事実であり、それは一人一人の 問題であってキリスト教自体が悪いわけではないという側面はあります。 しかしそのような事をされる隙を見せているという部分については、やはりキリス ト教自体にも問題があると言えるでしょうね。旧約の選民思想で血を好む神様を見 れば、決して教義自体に問題がないとは言えないでしょうね。
神の存在を信じない人はやはり不幸だ。 神を信じる喜びを知った時、真の幸福が訪れると思います。
>>48 48 :名無しさん@1周年 :03/01/21 03:00
ここは 1 がキリスト教を勝手に解釈して自己満に浸るスレだったのだな(w
分析なんかしちゃって、ごくろうさん。
本人はクリよりも論理的にも知的にも上だと思ってる(思いたい)だけ。
新しい情報は取り込もうとしないで、自分の中にある「クリ像」を
ぐるぐる回転させてるだけさ。聞く耳持たず。
こういうのは普通「プロパガンダ」と呼ばれるね。
こう書くと「キリスト教こそプロパガンダだ」と言うだろうけどさ。
あんたも同じ穴のむじなだと言うことだ。
<「キリスト教の神は傲慢」と言う公式を証明しなさい>
このスレを公式の証明に使ってるつもりなんだろうが。
ちゃんと証明できましたか?
>>303 彼の気持ちは、少しずつキリストに傾いてると感じるけどね。
こういう人に、如何にキリスト教をわかってもらえるかということも重要だと
思う。
>304 いえ、キリスト教の素晴らしいところは前からある程度は解っていますので。 ただ何度かやり取りすると情が出てしまって、あまり悪くは書き難くなるのが困り ものです(笑)
306 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:17
別に永遠の刑罰が恐くてキリストを信じているわけではありませんがなにか? わたしが永遠に刑罰を受けるかどうかなんて興味ありませんが。。。関係ありませんね。わたしがキリストを信じることとは。
神が傲慢にみえるのは当たり前の事だと思います。 あくまでもそれは人間からみてということなのです。 されに非クリからみれば信じられない部分もあるでしょう。
308 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:22
>>306 確かにクリスチャンには、死後の世界とか関心がない人が多いよな。
信じたから、そういう心配から自由になっているんだと思う。
別に聖書に地獄が書いてある・書いてないに関わらず、(ここの
>>1 は
必死にそれを攻め立てるが)、それ以前の問題として誰もが死が怖いし、
見てきたような霊界の話とか迷信とかそういうのに振り回されて生きている。
「行いに応じて神が公正に裁く」というキリスト教の死後感は一番
潔い気がするし、その裁きすらも神に委ねた人生というのは、どれだけ充実したものか
分からない。ちなみに自分は求道中です。
そう、聖書に地獄はないよ。
310 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:28
1 神は完全で最高だから、それ以上の事は出来ないし、それ未満の事を 人に勧めることもしない。勧める理由はないだろ、基本的に。 それでも柔軟に人に譲歩さえするよ。人に重荷は負わせないよ 間違うのは人間の方だ それに対して、ずっと辛抱してるんだよ
311 :
瑠璃猫 ◆rvY9giy8cU :03/01/24 22:34
ずーっと前、ずっと若いころ、1さんと似たようなことを考えていた 時期があったような気がする。 でもいまは、傲慢なのは、自分の方ではないかと思っている。 どこで転換したのか、なぜ転換したのか、いまとなっては思い出せないが、 はっきりしているのは、いまのほうが 困難に立ち向かう力が増している ということだけだ。
人間の無力さがわかった時、神の偉大さがわかるんじゃないかな。
313 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:38
人間の無力さがわかった時、ひねくれる香具師もいる かわいそうだけど・・・
314 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:40
無力な人間を創った神のいやらしさに気付くこの頃。
315 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:43
無力な人間でないくせに自分が無力だといって何も行動しようとしない奴らにむかつくこの頃。
316 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:45
無力じゃない事に気付かず、悪態ばかりつく香具師にむかつくこの頃。
317 :
まどれーぬ :03/01/24 22:47
>>308 禿げ同ですねえ。
死んだあとのことなんかキリストにお任せしてしまって、考えなくてもいいんです。
いいようにして下さるでしょ。
ひとつだけ >>「行いに応じて神が公正に裁く」 に関しては
このスレでも何度もガイシュツですが、
一般的な意味の「よい行い」ではなくて
「神様の方へ向き直す」と言う行いですね。
たとえ道を踏みはずしてもとにかく神のもとへ帰る。
人間に求められているものはそれだけです。
318 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:49
裁かにゃならん世界を創った神の無能ぶりに嗤いを堪えきれないこの頃。
319 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:52
裁かれる者となった原因が人間にある事を理解しないヤツに堪えきれないこの頃。
320 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:55
飼い犬に手を噛まれ怒りのあまり棒切れを振り回す阿呆に似た神に「頑張れよ」と言いたいこの頃。
みなさん神を信じる事が揺らいでませんか。 信じる事が力になる事を重々理解しておいででしょう。
322 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:58
>>321 信じるちゅーか、信じてはいるから、委ねるということだと
思う今日この頃。自分の中にあるまだ委ねていない部分を
今夜はお祈りしてみよう。。。
主はわが砦なり
323 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 22:58
その棒切れで叩かれる320
キリスト教において異教徒が死ぬとどうなるのだろう?
325 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:00
>>323 >>320 おまいら、1行レスでケンカしないでください。
でもちょと面白いよー。ヤレヤレー!
326 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:00
327 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:01
叩かれることに悦びを覚える323に「愉しいだろうね」と思うこの頃。
328 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:03
叩かれて捻じ曲がる327に「ガンバレ!」と思うこの頃。
329 :
クリ(無所属) ◆sflgnen.Fk :03/01/24 23:04
>>308 名言ですね。
死後の神の裁きにおいても「あなたは傲慢で自分勝手だ!」といきがってみたところでどうにもならないということが、
信仰によってはっきりしました。
傲慢な神様と意思を通じ、神様の御旨が自分の望みというひとはいかに幸いなことか。
そのひとはいつも願いがかなっており、満たされている。。。。
330 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:04
>>1 さんはとにかく徹底的に信じてみてはどうだろうか。
そうすれば理解できるはず。
もう入り口まで来てるんだよね。
あとは最後の踏ん切りをつける納得が必要なわけでしょう。
331 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:05
捻じ曲がる事の苦痛に気付いて欲しいこの頃
>308 地獄に関しては、意見が分かれるところだね。自分が言っているのはシンプルです。 教義に脅しがある限り、そこの神様は純粋に善で愛では有り得ません。 >311 それはあれだよね。バックに神様という親分が付いているっていう安心感だよね。 余計な事には気を取られず、力を必要な所に集中できるというのは、キリスト教 に限らず、宗教の良い効用です。 >317 自分は一般的なところの「良い行い」が基準になる方が良いなあ。どうせならそ ういのを信じたいとは思いません? キリスト教だと、どんなに良い人でも下手 をすると偶像礼拝の罪などで永遠の死だったりしますから。そういうのが良いの かなあ、本当に。(この辺は宗派などで違うでしょうけど)
333 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:07
背骨は真っ直ぐがイイよ、と思うこの頃
334 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:07
飼い主の顔色を伺い尻尾を巻いて生きる328に「可愛がられているね」と実感するこの頃。
335 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:10
嬉しい時はシッポを振ると思うこの頃 飼い主の顔から身を隠す、可哀想な334と思うこの頃
336 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:12
飼い主に狂犬病を移す犬だと自分を思うこの頃。
337 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:16
日本に無宗教が多いのは不幸な事だよね。 神の与えた試練なのかしら。
338 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:17
試練から逃げてんだろ!!
339 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:17
納豆の薬味はネギに限ると思っていたが七味唐辛子が微妙にウマイこの頃
340 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:17
334はそろそろネタ切れと思うこの頃 ・・・オヤスミ ZZzzz....
341 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:18
342 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:20
無宗教とは天下太平の源ではないかと悟るこの頃。
343 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:20
344 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:22
ネタよりもタネが切れそうなのでは?と怯えるこの頃。
345 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:23
それはちょっと下品じゃねーか344さん と構えるこの頃
346 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:26
>>342 自殺者が毎年三万人居てもですか?
いじめ、社会倫理の崩壊、犯罪の増加・・・・・
この日本人の退廃の原因は明らかに無宗教が関係してると言えます。
これは神を信じているものしかわからないことなのです。
はやく救ってあげるべきだと思いますが。
347 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:26
産めよ殖やせよと御大もおっしゃってたからいいじゃないかと開き直るこの頃。
348 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:27
クリスチャンに相談事をすると いつも最後は「祈りましょう」になるんだろう。 その後、そればっか。具体的な対策をいっしょに考えてくれない。
349 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:29
自殺殺人虐待武器輸出、宗教で良くなった社会あるのかと鼻毛抜き抜き思うこの頃。
350 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:29
本人が死後一番苦しむのはキリスト教徒に違いない。 しかも神国に生まれて邪教をやってるんだから、どんな状態になるか 想像するのも恐ろしい。
>>348 祈れば、強い気持ちが湧き、それが行動になって現れる。
>346 宗教色の強い中東では戦争、テロリズムなどが多いですよね。アメリカもキリスト 教国ですが、犯罪も多いし何かというとすぐ武力を使いたがりますね。
祈りましょうか…… 付き合いで一緒に祈ったけど、何も1時間半も祈り続ける事はないじゃない かと思った(^^; 悪いから抜けられないし、迷惑だったなあ〜
354 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:34
>>351 祈りの極意を知っているクリスチャンが行動しない。
行動がともなうなら、精神論ばかり話さないはずだ。
>>354 クリスチャンは行動してますよ。
行動してないのは坊さんでしょう?
356 :
まどれーぬ :03/01/24 23:36
>>332 = 1
>>自分は一般的なところの「良い行い」が基準になる方が良いなあ。
そうすると人によって善悪はズレるでしょ?私の価値基準でもしかしたら他の人を
さばくかもしれない。私は「それは悪い事だ」と思っても他の人にはそうではないか
もしれない。人間による善悪の基準はぶれるものです。
ユダヤ教ではだから「これをしてはいけない」「あれを食べてはいけない」と
統一のしばりをかけることにした。その結果、掟に人間が縛られてしまったわけです。
イエスがきたのはまさにこの縛りからの解放なんですよ。
救われるためによい行いをするのではなく
「神様に全てをゆだねているから、思いきり自分の信じるところのよい行いができる」
とかんがえます。順序が逆なんですよ。わかって下さればいいですが。
なるほどユダヤを正すためにイエスは現れたのか。
358 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:39
クリ携挙妄動 坊主検挙騒動じゃないかと言葉遊びも苦しいこの頃。
>356 でも自分にとっては聖書も、人間による善悪の基準の一つなんですよね。 だから 聖書=神の言葉 というスタンスは取れません。 聖書や教義が、自分の良心の絶対的な後ろ盾になって、良心に従って迷いなく良い 事ができるっていう効果は、素晴らしいですね。もっとも、キリスト教の専売特許 ではないのですが。
360 :
名無しさん@3周年 :03/01/24 23:59
>>359 聖書=神の言葉 というスタンスは取れ無くても良いから、聖書の
良い部分を認める事から始めてみたら?
>>1 :::::::::::/ ヽ::::::::::::
:::::::::::| 愚 じ き i::::::::::::
:::::::::::.ゝ か つ み ノ:::::::::::
:::::::::::/ だ に は イ:::::::::::::
::::: | な。 ゙i ::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ _,,...-
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 ∠_:::::::::
/. ` ' ● ' ニ 、 ,-、ヽ|:::::::::
ニ __l___ノ |・ | |, -、::
/ ̄ _ | i ゚r ー' 6 |::
|( ̄`' )/ / ,.. i '-
`ー---―' / '(__ ) ヽ 、
====( i)==::::/ ,/ニニニ
:/ ヽ:::i /;;;;;;;;;;;;;;;;
362 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 00:13
>>359 「疑い」というのは、身を守るためには確かに必要なものです。
でも、疑うだけでは、
「知る」ことはできても、「感じる」ことはできない。
感じなければ、「気づく」ことも難しい。
子供は、感じることで、気づいていきます。
私たちは皆そうでした。
なぜか、大人になると、感じることを恐れるようになって、
知ることだけで、全てを済まそうとしてしまいがちになります。
なぜでしょうねえ。
>360 聖書の良い所については、また別に認めていますよ。ログをおってくださればそう いった箇所もあります。排他的な所を除けば、それ程悪いとは思いません。傲慢な ところも、個人的にはアリです。ただそれをオブラートに包んでいるようなのは、 欺瞞的で好きではないです。 >362 感じるという部分で、キリスト教について「これは違う」なんですけどね。でも クリスチャンだって、仏教や神道やイスラム教を、疑う事なく受け入れる事なん てできないですよね?
364 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 02:10
>>357 ユダヤに約束されていたメシアだったんだけどね、
ユダヤは受け入れなかったどころか十字架につけた.その後も、
ユダヤは頑なでますます受け入れず、そして救いは異邦人へと広がっていった
旧約聖書には、「メシアは来るが、ユダヤは受け入れない」ということまで
預言されていた また、諸国の民にそのわざが広まることも。
・・・って書いたらますます
>>1 は激怒しそうだな(w
ユダヤに受け入れなくさせたのは神の方じゃないのよー!ってな
でも、今のユダヤ見てると、納得できるもんだけどな
人が自ら心を開かない限り、神は絶対に入ってこない。
サタンもそうなんだけどね。自分からサタンと関わろうとしないかぎり、
サタンは入ってこれない。
人間つーのは、神に依存するように作られているのではなくて、
かなり主体的な存在らしいぞ その主体性引っさげて、神を信じるか、受け入れるか
ということだよね
365 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 02:22
>>364 ユダヤは神の定めたアンチテーゼみたいなものなんだね。
366 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 02:43
367 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 04:47
>>366 >2003/01/24 Fri
>唐沢俊一著『カルト王』を読みました。
>
>また読みたい本を間違えちゃった。
>カルトな宗教についての本が読みたかったのに、
>この本はオタクの本なのでした。
>しくしく・・・。
にオオワラ弟子た
368 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 08:54
>>363 個を守るためには、疑いは捨ててはいけません。
「これは違う」と感じる。それもよしです。気持ちはわかります。
逆に、個を成長させるためには、疑いが邪魔になる。
そこをどう調整するかですね。
お話を伺っていて気になっていたのですが、
イエス自身の思想と、キリスト教の言動は、
全く別だと思ったほうがいいです。
それは仏教系カルトの振る舞いをみて、
仏陀の思想を批判するようなものです。
369 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/25 09:28
>>284 >「洗脳されて」気付かないクリスチャンをどうしたいんだ?
目を覚まさせて現実を直視させたいですね。
私の親にもいろいろ自分の考えをぶつけてきましたが、
一向に目を覚ましてくれません。
だからここに来たのです。
>難癖つけて嫌われるだけで人生終わらせるつもり?
あなたの方こそ洗脳されたまま人生終えるつもりですか?
370 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/25 09:29
>>297 >ノンクリスチャンは自分の甘えの部分に気付いたか?!
自分の体験を人に話してもみんな「甘えだ」と言うんですよね。
所詮エリートには落ちこぼれの気持ちなんて分からないんですよ。
「悲しんでいるものは幸いである」なんて言葉、「きれい事」ですね。
悲しんでいたって誰も慰めてくれません。
親も、そして神さえも。
こんな体験をしているのにどうして神の存在を信じることができるでしょうか。
もし聖書に書いている通りになるんだったらみんな入信しますよ。
でも現実はどうですか?
日本のクリスチャン人口は1%にも満たないのです。
たったそれだけの人しか神を感じることができないのです。
もし神が「全能」なら、誰にでも感じられるはずでしょう?
でも感じない人の方が圧倒的に多いのです。
だから私は信じません。
371 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 09:30
372 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 09:35
>>372 その言葉はそんな意味じゃありません。
現在悲しんでいる者は、神の国が来たときに慰められるであろう。という意味です。
373 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 09:36
>>370 クリスチャンは1%に満たないのに、
自然科学、法哲学、経済、政治、と、日本の表層を支配しているのは、
キリスト教的な個の哲学〜イエスの哲学です。
キリスト教とイエスの思想とを分離して考えなければね。
日本人の場合は、宗教自体に自身を埋没させる必要があるほど、
自我が危機に陥っている人は、少ないのです。
日本人の心のありようとしては、
仏教的な人よりもイエス的な人の方が多いですよ。特に都会では。
374 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 09:44
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs こいつにはかまわない方がいいよ。 俺見たく宗教信じないものから見たら、クズのような香具師だ。 こいつは単に自分が辛い思いをした面当てにクリに文句を言ってるだけ。 信教(そして不信教)の自由のためには完全な害虫だ。
375 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 10:08
>>370 >本のクリスチャン人口は1%にも満たないのです。
それは大昔の話、もっといるぞ。
今は5%くらい居る。
これからも増えていくでしょう。
376 :
2代目はノンクリスチャン ◆2.1aeQwNbs :03/01/25 10:22
>>371 それを言うと身元がばれる恐れがあるので言えません。
本当は言ってやりたいんですけど。
福音派だったとだけ言っておきます。
>>372 聖書に書いていない部分はそうやって言葉を継ぎ足して解釈するんですよね、
クリスチャンは。
聖書は一字一句たりとも不足や間違いのない完璧な書物なんですか。
結局そうやって補足しなければならないのなら、
「不完全な書物」ということになりませんか。
今日はここまで。
>>370 そうか、ノンクリスチャンは甘えだと言われてたのか
チョッと忙しくて出かけるから、また後でレスするな
378 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 11:06
「甘えの構造」そのものですね。 でも、それが大多数の日本人の気質、 とされていますから、仕方が無いことかもしれません。 私は理解できますよ。 甘えは甘えでいい。 それ以外の価値観を、身に付けるために、 イエスの言葉を、参考にすればいい。 仏教的価値観や、日本的な価値観で、 ごちゃまぜにして、理解しようとすると、 訳がわからなくなるのも当然なのです。
379 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 11:35
クリスチャンは、良い意味でイエスに甘えていると私は考えます。 この甘えの甘美さを知らない不幸な人が自殺するのです。
380 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 11:37
キリスト教は毒
381 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 11:58
>>376 違います。敢えて分からないように言ったんです。隠された意味これを奥義といいます。
未成熟な人間には未成熟な人間なりにしなければならないことがある。
ひとの痛みを知るためには怒りとはどんなものか、悲しみとはどんなものか、それを知らなければならない。
聖書の言葉はそれぞれの成長に合わせて解っていくものです。
382 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 11:58
GHQと左翼の作り出した日本人のアノミー状態は、
宗教復権の大いなる幸かもしれない。
自殺者の増加、
>>1 さんの出現もまた、こういう社会では必然なのである。
予定調和的な運命を感じるね。
383 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 11:58
>>379 私もそう思います。
全てのクリスチャンがそうではないのですが。
イエスの言葉を実行すれば、
宗教団体に帰属しない、少なくとも依存はしないはずですからね。
個の確立と、何かへの依存は対極にあります。
イエスは、全てに対する依存を切断するために、
依存すべき"神"を用いるという、一見矛盾した方法をとります。
(関係を絶つわけではありません、依存を絶つ。)
泳ぐことができず、何かにしがみついている人に、
ビート板を渡すようなものです。
そしていずれは、「愛する」ことを会得して、
(日本土着の愛=情、好意、慈悲などではなくね)
ビート板と対等になることができれば、
それは捨ててもいいものなのです。
その後で再度、拾い上げてもいいですが…
いずれにせよ、神と対等になれば、神への依存はなくなります。
それを行ったお手本が、イエス自身です。
384 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:00
385 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:10
>>383 日本人の甘えの構造を脱し、個の確立をするのは中々大変な事です。
386 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:15
>>383 >(日本土着の愛=情、好意、慈悲などではなくね)
良くわからないな、詳しい解説キボン
387 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:29
>>386 アガペー(神の愛)ではないですかね。
純粋な見返りを必要としない無限の愛。
見返りを必要としないので自立した愛といえる。
388 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:48
>>1 傲慢だろうが身勝手だろうが、それが事実で、
神の実態なんだから。
神を信じる信じないというのは、例えば、法律を守る事と
守らない事みたいなこと。
389 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:50
ってか、神を傲慢であると裁いてる点、1は自分かみであると カン違いしており、そのカン違いに1も気付いているのやらいな いのやら。
390 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 12:51
>>387 それを会得した人ってどのくらいいるのかなぁ
391 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:03
>>390 たくさんいますよ。
実は、
>>390 さんも、すでに日常で行っているはずです。
ただ、それに気がつかないため、
その満足感で心を満たすことができないだけです。
>>232 でも書きましたが、
日本語には、明治まで love に相当する単語が全くありませんでした。
love は、愛欲や好意と紛らわしい概念でしたから、
仏教では、煩悩のひとつとみなされて、まるごと切り捨てられていたのです。
仏教的な考え方で、個が重視されていないのと符合しますね。
392 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:03
>>384 劣性遺伝子の劣性は、劣るということじゃないからね。
逆に、優性遺伝子の優性は、優れているということじゃないからね。
393 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:04
現代の個の確立の時代に、仏教は足枷にしかならんわけだ。
394 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:06
>>392 劣等と言いたかったんだろ。無教養クンは。
395 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:08
でも、 私たち日本人は、単語としては love を知りませんでしたが、 日常の言葉としてはつかっていました。 他の人間と、関係付けるときに使う言葉のうち、 「〜してあげる」という言葉、そこにイエスのいう love があります。 一緒にいてあげる。 見ていてあげる。 気にかけてあげる。 話を聞いてあげる。 これらを、なんの義務もない状況で、してもしなくてもいい状況で、 気まぐれに行うときに、その人は、イエスの愛を行っています。 「〜して欲しい」には、愛はありません。例外なしに。 さすがに「〜して欲しい」は露骨過ぎるので、 〜すべきだ、〜するのが常識だ、〜しないと恐ろしいことがおきる、など、 数々の変形があります。 これらの言葉を使う哲学、宗教には、イエスの愛は存在しにくい。 義務の履行で、物事を行っても、 自己効力感(セルフ・エスティーム)は得られないからです。
396 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:10
だから、イエスの愛には、「自由」が大前提として要求されるのです。
397 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:12
> 「〜して欲しい」には、愛はありません。 「〜させてあげる」に言い直せば、愛はある。
398 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:12
>>395 日本人が無意識にイエスのlove実践しているというのは疑問ですね。
日本教は滅私奉公、個を埋没させよということですからね。
399 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:12
>>395 もし必要なら、
別れてあげる
止めてあげる
目の前から、いなくなってあげる。
これも、愛です。
ストーカーには、これがない。だから愛ではないのです。
400 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:14
>>397 それを相手がしなくても、不満でないなら愛ですね。
実際には、そういう言い回しは少ないでしょう?
他者への依存が、愛ではないというのが、分かると思います。
401 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:18
>>398 じじいが足を引っ張っていますが、
徐々にですが、個の時代になってきていますよ。
自然科学も、法律も、政治も、経済も、
すべて個の概念なしには、成り立ちません。
また、再び鎖国をするなら、別ですが。
402 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:24
>>400 剥げ同
自分に親切なことをするチャンスを相手に「与えてあげる」
だけど、相手がどっちの道を選んでもそれに関わりなく
自分の方からは相手に親切であり続ける
「アガペー」ってそーゆーモノだと思います。
403 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:32
戦後間もないころは国家神道がインチキカルトだったことに失望したのと、 アメリカに対する憧憬もあってキリスト教に入信する日本人も多かったが、 最近キリスト教に入信するのはほとんど朝鮮人だろう 聖公会、日本基督教団など伝統的な宗派が高齢化し教勢が伸びないのに対して、 福音派の諸教団が成長していることから、このような傾向がわかる
404 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:32
自由主義経済も、現代民主主義もそうですが、 「お互いに与えたい個人で社会が構成されている」という前提で、 組み立てられています。 そこでは、与える喜びを追及する人が、幸せになりやすいシステムなのね。 奪う喜びを追及している人は、逆に多くの人に搾取されて、 結局手元には残らないわけです。 与えてあげる - 受け取ってあげる、という関係と、 奪う - 奪われる、という関係は、 傍目の行為だけを見ていたら、まったく区別がつきません。 個が独立しているか、依存しているか、その内心の心のありようの違い それだけなのです。
405 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:34
>>403 なるほど。
宗教団体への依存はだめですよね。いずれにしても。
イエスが、いまのキリスト教を見たら、なんと言うか…。
>368 イエスの言動・思想と、キリスト教の教義は別のものであると、自分も思います。 聖書ですら、どこまでイエスの思想に近いものなのかと、かなり疑わしいですね。 イエスを信じる事と聖書を信じる事とは違うものなのですが、どうもイコールに されていたりもしますね。 >388>389 キリスト教の教義が事実であるとは認識していませんので、神を信じていないの ではなくて、教義の中の神様像が嘘だろうと考えています。よって、神を裁いて はいないのですよ。
407 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:37
>>395 >一緒にいてあげる。
>見ていてあげる。
>気にかけてあげる。
>話を聞いてあげる。
どれもこれも押し付けがましい言葉ですね。
〜してあげるというのは恩を売るに等しい
408 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:42
>>407 どうもあなたは。日本的情緒的な感覚から
離れられないようですね。
皆が「〜してあげる」と言い合えば問題ないのです。
409 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:43
>>408 >どうもあなたは。日本的情緒的な感覚から
日本人ですからね。
>皆が「〜してあげる」と言い合えば問題ないのです。
されたほうには「〜して貰った」という負い目の感情が残ります。
410 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:46
西洋の「個人」なるもの−あるいは「人格」と読んでも言いと思うが− いわゆる「ペルソナ」は、キリスト教神学の三位一体論から来るといわれる。 すなわち、ひとつの本質(神としての)であり且3つの「ペルソナ」(位格と訳される) が出発点だということ。 -------------------- 日本人に一番欠けてるのがペルソナなんだよ。 それの真の意味に気付いてない人が多すぎる。 表面だけ。 この部分がマッカーサーに日本人は十二歳のようだと言わしめたんだと思う。
411 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:52
>>410 >日本人に一番欠けてるのがペルソナなんだよ。
そんなもんがなくたって不自由はないし、
マッカーサーのような西洋人の言葉なんて気にする必要なんてない。
412 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:57
現時点では不自由していることに自分で気付いていない... と言い直してもいいのだが
413 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 13:58
アガペーにペルソナか。 これがこれから生き残る鍵だと思わない?
415 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 14:10
アメ公は13歳
416 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 14:26
417 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 15:44
もちろん、動物的に生きるぶんには邪魔だろうな
418 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 15:49
>>406 >>イエスを信じる事と聖書を信じる事とは違うものなのですが、
言いたい事、判らんでもない。
だが、イエスを知るには聖書しかないのたよ
419 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 16:00
>>379 :名無しさん@3周年 :03/01/25 11:35
>>クリスチャンは、良い意味でイエスに甘えていると私は考えます。
>>この甘えの甘美さを知らない不幸な人が自殺するのです。
すごい、女性的な見解に見えるけど、違うと思う。
しかも、自殺とか怖い事言ってるし。
慕うのと甘えるのとは違うよ。
個がしっかりしてたら甘えはしないよ。
自立しているなら甘えに考えは向かないよ。
自立していない女は男に甘えるよ、経験で言うけど
自立した女に慕われるのは、なんとも心地イイよ
420 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 16:05
>>418 もしかして406は聖書に書いてあるのとは違うイエス感を植え付ける
似非キリスト教カルトの人に影響されているのでは?
421 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 16:10
>>420 ていうか、自分が読んだ聖書の理解とクリを名乗る人との
ギャップで戸惑ってるンじゃない!
良く居るよ、そういう人。そうして離れていく人。
正確が完璧主義ナほど自分に重荷を負わせてしまうんだよね。
その重荷で自分自身潰れそうになる。
ホントはボクもそういうタイプだけどw
422 :
406ではありませんが :03/01/25 16:12
>>418 トリニタスを考えれば聖書しかないというのは矛盾しませんか?
423 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 16:17
424 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 16:22
アメ公は保育園児。
425 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 16:30
いやいや、不正がバレたらちゃんと処分される分、日本よりマシだよ。
426 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 17:20
>>271 そうですね。しかし、何故あれほどにも隷属を求めるのか・・・。
隷属から開放されるために、
新たなものに隷属するなら同じなのですよ。
キリスト教徒になるということは隷属するのではありません。
隷属から開放されることのはずなのに・・・。
日本人信者にはこのような人が多くいます。
日本の宗教は比較的おおらかな
カトリック的な宗教が多いから不十分なのでしょうか?
427 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 17:20
>>273 ほう、かなりの重症ですね。
>人は必ず何かの奴隷になるんだよ、色んな形の。
あなたの生き方は隷属することを追い求めるために在るのですか?
キリスト=イエスに出会って隷属から開放されたのではないのですか?
単に隷属の対象が神に置き換わっただけなのですか?
>>274 本当に自立している人はそのようには考えません。
常に何かに隷属していなければ気が済まないのは
あなたにそういう欲求があるからなのです。
何かに呪縛されていないと生を実感できないからなのです。
>>281 あなたがどう思うのも勝手ですが、
それはあなたの自己を守るための思い込みから出ていますよ。
悪意はどこから出るのですか? 聖書を良くお読みください。
428 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 18:16
>>428 自立無く個を埋没させ何かの家畜のように生きる生き方。
あたしが信者やってた頃は、隷属ではなくて自然なものだったわ。 あたしの先祖はユダヤ人だから、先祖の神みたいな意識もあったし、 結構神道的なものに近かったかもしれないわね。 まぁ、熱心な信者さんの一部はそうだったわね。 でも、そういう信者に限って、 自分の主張=主イエズスの主張なんてみなして神父さんから 諭されて逆ギレしたり、まぁ、色々あったわね。 大手の教派の人って、態度で信仰示す人が多いから、 あんまり信仰が目立たないみたいね。 熱心な大声で自らをキリストの代弁者と勘違いしてしまうような 教派の人たちの言動が目立ってしまうからね。
>>429 あたしは、キリスト教で一番大切なことを忘れて、
教義教や権威教に走ってしまうことも良くないと習ったわね。
基本がない応用は意味がないからね。
432 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 18:55
>428 きにくわないものに怒り、自分の思いどうりになることのみに仕える まるで犬のような人の生き方
433 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 19:21
>>428 >動物的な生き方ってどんなモノ?
ある週刊誌の見出しですが
日本人の「劣化」
知力低下、欲望肥大、自信喪失、倫理崩壊、拝金万能…
これが動物的と言わずしてなんと言いましょうか。
これが何から来るのか真剣に考える時が来ている。
434 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 20:35
>>429 それって「キリスト教」なしでは動物的になるという意味なのかな?
435 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 20:46
>>433 これって大昔のキリスト教徒にぴったり当てはまる。
436 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 21:05
大昔っていつ?
438 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 21:17
自分で言って自分で笑うなよ!(−−;) オヤジだなぁ。
439 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 21:54
440 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:12
>>439 わざわざ言わんでもええて。尤も、現代もあまり変わらんかも。
441 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:15
>>440 悪知恵がついたぶん、原題のほうがタチが悪いかも
442 :
うう、変換ミス・・ :03/01/25 22:16
443 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:18
>>441 まぁ、科学技術の発達で、悪巧みの増幅率は高くなった。
でも、悪事千里どころか、地球の反対側まで一瞬で届くよう
にもなった。
444 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:23
445 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:24
>>443 悪事がバレようがどうしようが、居直ってる腐れクリスチャンが山ほどいるな
446 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:25
夷スラム教に入信する香具師らの方がもっとわかんネーヨ。
447 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:26
イスラムの方が因果応報て解り易いよ。
448 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:27
449 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:27
クリスチャンがロクでもないことばかりする話じゃなかったの?
クリスチャンがロクでもないことばかりするように見せかける話です。
451 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:32
452 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:32
>>449 ペルソナがないと動物のように・・・て話じゃなかったかな・・
454 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:35
455 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:55
>>450 クリスチャンってまともなことしたことあるの?
456 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 22:56
457 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:01
天国にはクリスチャンはいない。 地獄はクリスチャンで満員御礼状態。
458 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:12
>>457 つまり、天国は空ということだな。まだまだ工夫が足りない。
459 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:16
天国は空。 聖書の例えが妥当してない?
460 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:45
>>458 いいえ、天国にはクリスチャン以外の人がいるんです(^^
461 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:46
>>460 確かに、キリストはクリスチャンじゃないよな。
462 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:49
今日、末日に誘われて、適当に答えてたら今度教会に濃いといわれました。断ったらまずいですか
464 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:52
ペルソナというのが、ユングの言う元型を指しているなら、 ペルソナが無い人なんていないはず。
465 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:54
>>463 教会なんかに行ったら貴方の人生は灰色になってしまいます
行かないほうがいいでつね。
466 :
名無しさん@3周年 :03/01/25 23:58
>>465サン この団体ってやっぱり怪しいんですか?お布施やらしぼりとられたり
468 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 00:23
モルモン教なんですか??これも怪しい団体ですか?何も知らないもので。
470 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 00:32
キリスト教ではありません。
471 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 00:38
472 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 08:20
>>434 そういう話じゃないはず。
無理に歪曲してますね。
「個の確立」にキリスト教は有効であるものの一つと言えると思います。
そして現代社会は、「個の確立」無くしては実現不可能である。
「個の確立」が社会を発展させる主要素なのです。
これを否定する事は退行を意味します。
そして残念な事に日本では「個の確立」が軽んじられてきたのが
現状です。
「個の確立」が未熟だと情報化、国際化社会で相手にされなく
なるのです。
神の中の人などいない。
474 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 08:31
475 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 08:31
>>472 >「個の確立」が未熟だと情報化、国際化社会で相手にされなく
>なるのです。
周りに相手にされなくなるのを怖れて迎合するのが
「個の確立」だということですね。
476 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 08:46
>>475 キミ、本気で言ってないよね
本気だったら逝ってね
>>476 あまりに無様な反論は放置するのが適当かと。
「個の確立」が理解できてない人の典型ですね。
478 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 09:01
479 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 09:02
480 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 09:09
481 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 09:29
ただ「個の確立」が出来てないと、即「野蛮」「劣っている」という見方をするのは、 西欧人の差別観と重なって嫌なんですよね。 「日本人は個の確立が未熟だ。だから駄目なんだ」 こんな言葉を聞かない日が無いくらい頻繁に言われていますが、これは 言ってる人が西欧人の論調に感化されただけか、クリスチャンによる 非クリに対する差別意識の現われのように思えてなりません。 「個の確立」は重要な事とは思いますが・・・・
482 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 09:41
>>481 今までの日本人が殆んど持ち合わせていなかったものだし
奥手な民族だから声を大にして積極的に浸透させようと
奥手なのが自分の能力を抑止しているのも事実でしょ
それはもったいない事だよ
日本人は基本的におセンチだから時間が掛かるとは思うよ
483 :
ちょっち質問 :03/01/26 09:43
個の確立ってどういうことを言ってるの?
484 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 09:45
個の確立 神の教えのもとメッタヤタラと殺し奪い、あとで「神の命令だから 無条件で正しい」とシレッとすること。 ちとは親玉を批判してみろ。
キリスト教と個の確立は関係ないと思うわよ。 むしろ、初期は逆よ。何もかも捨てて集団生活をしていたし、 その集団を統率する狂信的なセクトも色々と生まれていたわ。 個の主張は、ヨーロッパ的なものだと思うけど? 個の主張の最たるものが、アメリカ。 まぁ、一部のクリスチャンからすれば理想の国かもしれないけど、 あたしは日本があんな国と同化することは最悪だと思うわね。 同化しつつあるけどね。
486 :
ちょっち質問 :03/01/26 10:05
漏れは煽り目的で聞いてる訳じゃないんだけども。。。 ただ「日本人」を卑下しすぎてるんでないかと思うな。 まぁ私は東洋的文化、思想のほうが西洋のそれより 好きなのは事実だが。 で、どうなんでしょうか。 「どういう状態」というのが説明しづらければ 「こうあるべき」でも構いませんが。 いや、このスレの議論を見ててフト疑問に思ったもので。
487 :
ちょっち質問 :03/01/26 10:12
>>485 漏れもアメリカ人はともかく最近の国家政策は反吐が出るほど
嫌なんだよね(苦笑
ま、英米批判はスレ違いっつーことでこのくらいにしときます。
488 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:23
>>485 関係は大有りです。
キリスト教の個人は代替不可能であることから個が発見されたのです。
キリスト教がヨーロッパで広まったのだから、ヨーロッパ的と言われるのは
当たり前の事なのです。
アメリカと同化しないためにも、日本は個の確立が急務だと思いませんか?
489 :
ちょっち質問 :03/01/26 10:27
話題が思い切り逸れるんだけど神道系のとあるスレで 「千と千尋」の話題がチラリと出てました。 何故にあんなにヒットしたんだろ・・・ 日本の良さ、美しさが表現されているからというと妄想だろうけど 宮崎氏の「日本」は外せないところと感じます。 判りにくいと思いますがそうした観点というか感性は無いんでしょうか。 話の流れでそう見えるだけですよね? 司馬遼じゃないがちと寂しい(苦笑) 話の腰をバキッと折ってしまって申し訳ないです。 続きをどーぞ(^^;
490 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:34
「個の確立」の具体例 ”主知長すべき事は主張する”
>>487 そうね。ここではキリスト教だからね。
それから、キリスト教の愛という概念だけど、
これはギリシャ的なものが作用しているのよね。
日本にもそれに該当する概念なら、
縄文時代にあったとも考えられることもあるわ。
そんなのは当たり前だったから、言葉も不必要なのよ。
言葉を作らなければならないってことは、
それが必要だったから作らなければならなかったってことよ。
逆に、イエズスが「愛」を敢えて伝えなければならなかった
ユダヤは、個の理論に支配される「愛」のない場所だった
ということになり得るわけ。
>>488 日本の「個」を否定したのは、
欧米であってキリスト教じゃないのよね。
アメリカの「個」に対立する概念として、
日本の「個」をなくし、受け入れるなら意味はないわね。
493 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:38
494 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:44
>>492 だって日本の「個」て、「個」ていえないジャン!
一部の個を持つ連中に振り回されてるだけじゃネーの
「個」と「和」を見事に融合させよう
そのためには個が足りないんだから「個」に力を入れる。
マリアさん。 キリスト教が言う「愛」って何ですか? 自分の宗教的価値観を押し付けたり、罪だと言って断罪する人たちを見て「愛」を全く感じません。 唯一、僕の中でマザーテレサだけは「愛」の様なものを感じますが・・・。
>>493 残念ながら、離散してキリスト教分離後までの
イスラエル=ユダヤ人は常に多民族だけではなく、同胞を疑ってきたの。
イスラエルとユダヤの離反も、
そういったところにも原因があったそうよ。
愛なんてものはいつの時代もなかったのよ。
いつも外敵同朋の中に敵がいることでビクビクして生きてきたの。
だから、形式的に愛も必要だったの。
落ち着ける場所が一つぐらい欲しいじゃない。
497 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:51
詳しいことは知らないけどマザーテレサは宗教とか関係なく 働きかけた人だよね? 自分の宗教的価値観の内にある人と、自分の宗教的価値観の外を 認め尊敬できる人の違いが出てるように思う。
498 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:52
日本人の「和」は結果的に支配者には都合の良い言葉ですね。
499 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:54
>>489 それは、子供から大人への成長の一過程を暗喩しているからでしょう。
ハリー・ポッターでもそれは同じ。
名前を剥奪された千は、identityの喪失体験そのまま。
顔なしは、インナー・チャイルドそのまま。
銭ばあばと湯ばあばは、グレート・マザーの二面性そのもの。
などなど、心理学の視点から見れば、また別の意味で面白いです。
宮崎監督が、それを狙って作っているわけではないと思いますが、
心に響くストーリーを追求すれば、自然とそうなるのかもね。
500 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:54
>>498 その「和」を持ってして支配者に反抗することも
ありましたが、何か?
501 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 10:55
>>492 仏教伝来以前ならともかく、
それ以降は、個の確立なんて煩悩とされたもの。
社会の中の居場所を探すほうが先決だったわけです。
イエスの指す「個」など無かったも同然ですよ。
>>494 今の日本人は、西欧的価値観に振り回されているから、
日本の「個」が見えないだけよ。
西欧的価値観と日本的価値観を分けてみること。
あたしは欧米の血も引いているから、残念に思うわ。
別に主張するものではないわ。黙って主張するものなのよ。
それが理解できないってことは、欧米人もまだまだってこと。
でも、最後のあなたの意見は、
今後の世界の在り方の参考にはなるわね。
でも、日本人には難しいし、欧米人にも難しい。
>>495 キリスト教の「愛」とは、どんな人でも愛すること。
あなたが嫌いなそういう人も愛することね。
見返りなんて求めない愛よ。
クリスチャンといっても、最低な人はたくさんいる。
でも、そういう人も同じ人間よって思うことよ。
出来てない人がクリスチャンの中にいても当たり前なのよ。
どうせ人間なんだからってさ。
けど、それに対して意見することも大事だとも考えるの。
「あんたの言ってることも分かるけどさ、
あたしはこう思うのよ」てな感じね。
教義教・権威教に取り付かれると、出来なくなるけどさ。
503 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:02
>>502 では、聞きますが。「個」とは何ですか?
504 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:03
どんな人でも愛せというのであれば、それはイエスの愛ではありません。
505 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:05
スッタニパータなんか読むと、釈迦は個の確立を説いていますよ。目的を同じくする仲間がいなければ、ただ独り歩め、って。 個を否定したんじゃなくて、我(欲望)否定したんだが。
506 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:07
日本人の「個」は隠すことなんじゃないかという気はするね。 「能ある鷹は爪を隠す」に現れていると思う。
507 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:07
>>504 では、「あなたの言う」イエスの愛を教えて。
>>501 さて、それはどうかしら?地方・地域により様々よ。
あたしのいる地方なんて、明治までは常に自立してきたわ。
キリスト教も、社会に居場所のない人たちの受け皿だったのよ。
所詮は、社会の中の居場所の一つだったのよ。
イエズスの指した個については、様々なものを受け入れるものであって、
逆に日本的な「個」に近いわね。
509 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:08
>>505 ただ独り歩むこと、孤立することが、個の確立ではないんですよ。
個という言葉を拡大解釈するならともかく、
少なくともイエスの言っている「個」とは、孤立のことではないんです。
510 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:11
>>508 拡大解釈をすれば、何でも同じに見えますよ。
>>498 さん
キリスト教が支配者には都合の良く解釈され、愛とはほど遠い戦争や虐殺を引き起した事実をどのようにお考えですか?
>>マリアさん。
あなたがマリアと名乗るほど素晴らしい方なら「愛」について分かる範囲で教えて下さい。
>>497 さん
>自分の宗教的価値観の内にある人と、自分の宗教的価値観の外を
認め尊敬できる人の違いが出てるように思う。
だからキリスト教徒の中でこの人が一番すきです。クリスチャンでない自分でも好意を持てます。
>>503 個への答えとは、色々あるものよ。一つに縛るものではないわ。
あなたの中では答えは一つでしかないのかもしれない。
でも、実際はそうではないのよ。
あたしには色々ありすぎて答えられないわね。
>>504 なら、人間には原罪がある人と原罪がない人がいるとなる。
主が生かすために作った人間と、滅ぼすために作った人間があると
言っていることになる。これならユダヤ教の説になるわね。
キリスト教は義人のためのものではないわ。
罪人のもののためのもの。罪のない人は一人もいない。
どんな人も神の子で仲間よ。
513 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:16
>>512 いろいろある「個」を、ここで出しても意味が無いでしょう。
イエスの指している「個」とは何か、でしょう?
煙に巻こうとしているとしか見えませんが。
>>510 拡大解釈すれば同じなら、
違いもするし同じでもある、
違うところもあるし、同じところもある。
といっているに過ぎないわ。
>>511 マリアなんて名前、どこにでも一杯いるわよ。
あたしのこのHNは、フィリピン人の親友のものよ。
>>513 煙に巻こうとしていると考えていること自体、
あなたの目はそのようにしか見ていないということよ。
あなたが知るイエズスの「個」のみが「個」であるならば、
他の「個」は存在してはならないとなる。
それではイエズスの「個」の概念は意味を無くすわ。
516 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:23
>>507 まず、イエスの愛とは、人を好きになったり、情を移したり、
好意を寄せたり、慈悲をかけたりすることではありません。
それらは、キリスト教伝来以前からあった、漢字「愛」の意味です。
仏教的では煩悩のひとつ。
その、日常的に日本人が使い慣れている意味から離れなければ、
イエスの愛が何かわからないし、聖書の文句も誤解しか残りません。
>>232 >>391 >>395 西欧の発達心理学では、このイエスの個が方向性のベースにあります。
そうね、フランシスコ=ザビエルなんかは 日本での宣教が成功すると感じていたの。 それは、日本人のものの考え方からだったの。 キリスト教的な下地があるとも考えていたのよ。 しかし、カトリックの宣教師は中国の宣教師のようには 賢明ではなかったわね。
個の確立ってのはどういうことなんでしょう。
隠すほど キラリと光る 個性かな お歯黒は見せるものではなく歯を隠すものなのです。 歯を出すと言うのは生物全般で攻撃性を示すものです。 西洋風の笑い方の口を大きく開き、歯をを強調させるというのは 威嚇行為でしかないのです。 人と対する時、大きな目で視線を合せるのも生物的には威嚇です。 さらに爪を伸ばしマネキュアで強調するのも攻撃性の現われです。 「俺が俺が」と個性を主張するのもその現われかもしれません。 個性と個性がぶつかり合い勝ったものが個性として輝くのが 西欧風なのかもしれません。 みなが個性を隠し、それでも溢れる才能をみなが認める。 これが日本風の個性なのかもしれません。
520 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:26
>>507 日本人の「愛」は、外国でも分析されています。
そこでは passive objective love と訳されています。
「受動的な、物質的な、愛」ですね。
心理学者の土居健郎は、
それを彼自身が、日本人の「甘え」としたものと
同一であると分析しています。
日本人の土着的な「愛」は、海外では love ではないのです。
521 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:27
>>515 落ち着いてくださいよ。
他の個が存在するもしないも、このスレには何の関係もないんですよ。
>>516 日本にはそれは文字に現さなくても良いものだったのよ。
ユダヤやヨーロッパでは、
それは文字に表さなければ理解できないものだったの。
残念ながら、そういうことだったのよ。
523 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:29
カトリックや正教会の聖伝『ディダケー』から あなたがたを呪う人たちを祝福し、あなたがたの敵のために祈り、あなたがたを迫害する人たちのために断食をしなさい。 あなたがたを愛する人たちを愛してもどんな恵みが…か。それと同じことは異邦人でもするではないか。 あなたがたは、あなたがたを憎む人たちを愛しなさい。そうすれば敵を持たなくなろう。(1:3)
524 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:30
恋は求めるもの 愛は与えるもの いや、話の次元は違うけども(自嘲
>>521 いや、あなたはあたしが上で述べた
そういうことを言っているのよ。
>>520 欧米人の分析が、常に正しいとは限らないわ。
526 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:34
>>520 マズー
その土居とかいう香具師の自己分析結果ちゃうか?(w
>>523 日本人が、自然に持っているものね。
日本人は敵を尊敬することも、愛することもあったわ。
ただ、後のキリスト教徒たちと違って蔑視はしなかった。
528 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:36
>>518 その答えを知るには、やはり愛と密接な関係があるのです。
love とは、モノではありません。客体ではありません。
love とは、与える行為、それ自体を指します。
love とは、何かを「与えた」ときに、
心を暖かくするパワー=自己効力感を生むものをいいます。
(肩書きや身分や、人間関係に一切頼ることなく)
「自分はこれこれのことを成しうる、という自己確信」
それを自尊心といいます。
love とは、自尊心を高める行為なのです。
love は、相手のためでなく、自分のために行うものです。
自尊心が高い状態が、万能感へと結びついていきます。
個の確立の第一段階は、そこにあります。
529 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:39
>>528 第一段階か。
自己満足にしか見えないけど。そのloveってのは。
530 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:39
日本では「愛」という言葉を軽々しく口に出すのは気恥ずかしいのが 普通だろう。 言葉より態度で示せのがあるよね。
531 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:41
要するに、皆が小さい王様(女王様)な状態。 他者と比較して偉ぶるわけでなく、心密かに、 自分の価値を確信している状態。 それも、何の根拠もなしに、確信している状態、それが自尊心の高い状態です。 自尊心(セルフ・エスティーム)は、他人と切り離された概念なので、 他人の言動で傷ついたりはしません。 日本は、恥の文化といった人も昔いましたね。 日本の土着の文化に合った、誇りや名誉、見栄と、 自尊心は全く異質なものです。 自尊心は、ただ、自分の行為のみによって、上下します。 与える行為ができる自分、生産的な自分を確認することで、上がります。 他人や集団に依存して奪うだけの自分、消費的な自分だけでは、下がります。 下がりきってしまうと、もはや、個とはなにか、わからない状態になるのでしょうね。
日本人の「愛」という語に対するものと、 欧米人のものとは別のものであった当たり前。 そして、どの概念が上位であるとか考えること自体破綻しているのに。 日本人は、欧米の歪んだ考え方の根底を、 理解しようとしないのも、振り回されてしまうのも愛が自然だからよ。
533 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:45
>>529 そそ。その自己満足でいいのです。
自己満足やエゴを非難するのは、たいてい支配者ですよ。
「自分にばかりでなく俺にもよこせ」と暗に言っているのです。
その、幼い頃から言われてきた呪縛から開放されるのも、
個の確立のひとつですよ。謙虚さの美徳とは、逆の概念ですね。
ただし、ナルシシズム(自己愛)は違います。
ナルシシズムは、自尊心が低いから、反動形成でふんぞり返っている状態です。
だから、誇りを傷つけられると怒る用意を常にしています。
あれは、自分を愛していない、
むしろ自分を殺してペルソナだけにしか目がいかない病気です。
534 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:46
>>532 その通りだと思います。
西欧が最高というわけではありません。
ただ、イエスの思想に限れば、価値観がそうだというだけの話です。
535 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:48
>>531 「愛」を与え実践し、「自尊心」を高める事が、「個の確立」を意味するのですね。
非常にわかりやすい概念です。
>>528 だから、それは昔の日本人が自然に身に付けていたものね。
当たり前のことを、互いにやっているのだからね。
良いものか悪いものかの判断も、色々と時間をかけて分析もしてみる。
>>534 イエズスの思想ではまた少し違うのよ。
あたしが上に挙げた、日本的なものにより近いわね。
西欧人の分析と言うものは、
常に自分達が上位でなければならないという分析法なのよ。
それに日本人が騙されてしまっているのであって、
実際調べてみれば、フランシスコ=ザビエルのように
日本人は欧米人とそう変わらないという結果も出るのよ。
欧米人の愛は、日本人にとっては当たり前のものであったの。
ただ、自己顕示としてそれを使用しない分、
日本人のものの方があたしは高度なものに見えるわね。
538 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:54
>>536 身分制度のあった昔は、代々親の仕事を受け継いできたわけで、
仕事=自分自身のアイデンティティであっても、自我の危機にさらされずにすんだのでしょうね。
桶屋の子は桶屋、草履屋の子は草履屋。
ですが、いまのように、ほとんどがサラリーマンとなって、
それも、規格化されたネジのように均一に製造されて社会に出されると、
自分が誰か、何者か、何の意味があるのか、と考えてしまうのでしょうかねえ…
日本的な、もしくは仏教的な価値観だけでは、
対処しきれていないところが、あるのでしょうね。
でも、欧米では、逆に、個の確立に対する疑問から、
アジア的な発想が注目されたりしています。
どちらが優位劣位という話ではないですよね。
539 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:57
>>537 少なくとも、受動的な物質的な愛は、イエスの愛ではないですね。
love は、情や慈悲とは何の関係もありませんから。
日本は、人々が与える人を馬鹿にする傾向があります。むしろね。
540 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 11:58
>>531 ちょっと疑問に思ったのは、愛の無い人、自尊心の低い人は個性の無い人
ということなのかな?
逆に愛のある人はそれだけで個が確立されたということなのかな?
541 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:01
日本人の愛=受動的な愛って本当にそうなの?
542 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:02
>>540 どれも同時並行です。
自尊心が低い人は、他人のぬくもりに飢えて、奪うことにしか目がいきません。
それは愛とは対極に位置しています。
個を確立するというのは、自分に与えている〜
自分を愛することでもあるわけです。
皆、見渡せば、愛を行う機会があちこちに転がっています。
それが、心を安定させて余裕を生む、
そして、世の中にアクティブに働きかけようという力を生むのです。
>>538 それは、実はそうでもないのよ。
歴史のある視点から見れば、そういう結論もありなんだけど、
実はそうでもないわけなの。色んな時があったからね。
日本も常に安定していたわけじゃないから。
日本の今の社会はちゃんぽん文化でまとまってなくて、
まだ混乱しているのよ。
日本的なものがいいか、西欧的なものがいいか、
日本人達は分析中なんじゃないかしらって思うわ。
あたしは両方の血筋にあるから、
どちらもある程度は理解できるけど、
まぁ、はっきり言ってどっちもどっちよ。
544 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:05
>>541 愛は行うものです。
受ける愛は、相手を受容する〜受容を相手に与える行為です。
奥さんのまずい料理でも、怒らずに何も言わずに
知らん振りして食べて「あげる」とかね。
日本人の土着の愛は、モノ扱いですよね。
愛を盗むとか、奪うとか…
それはイエスの love とは何の関係もないですね。
545 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:06
>>542 個の確立に愛が必要というのは是非はともかくとして
仰る点は理解したのですが、「個の確立」された状態というのが
やはり今ひとつピンと来ません。。。
どういう状態を理想とするのでしょう。
547 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:08
さらに言えばね。 欧米でも、日本流の土着の愛はあるのです。 向こうでは、執着と言われています。 依存関係に登場してくる概念です。 愛と憎しみ、というときは、これですね。
>>539 それは現代日本人ね。元々の日本人の姿ではないわ。
それを言うと、欧米に責任が及ぶからやめておいた方がいいわ。
549 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:10
>>548 仏教的な感覚ですね。古来からそうですよ。
慈悲は、上の者から下のものに与えます。
仏に慈悲をかけるとは言いません。
そこに、気まぐれに与えるという概念は入り込む余地はありません。
>>544 Love=愛としたのがおかしかっただけよ。
日本人の生活には自然に宿っているものであって、
いちいち定義づけなければならないほどのものでは
なかったということに過ぎないからね。
>>549 いいえ、違うわよ。対等の立場のものは古代からあったの。
それは別のものよ。欧米はそういうものを故意に無視するのよ。
あたしは先祖がユダヤ人系だから、良く理解できるわ。
ユダヤ人たちが昔からしてきた手法だから。
しかし、明治以降、欧米の影響で横のつながりを否定されていったわけ。
552 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:17
欧米人が妻を愛していると言ってるは、「イエスのLove」のことなのですか? その辺りがはっきりしないのですが。
553 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:20
>>544 愛とは受動的、能動的なものを含みます。
愛は感情です。行為によって愛に達するということは、逆立ちしてもできません。
行為によって愛しているふりをするならば、偽善です。
愛しているから、そうした行為をするのです。
愛と愛欲とは全く違います。
日本人の愛が愛欲ならばそれは愛ではありませんね。
庶民の先祖や身の周りの神との通じ合いは、 仏とのようなものではなかったのよね。 むしろ、カトリック的な聖人と人の延長線上のような感覚よ。 カトリック的な聖徒の交わりとそう変わらなかったの。 しかし、時代とともにキリスト教に対する 理論武装が必要になったの。
555 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:23
まぁ本来の目的からすれば神学なんて百害あって一理なし だよなぁ・・・
>>552 そういうものもあれば、そうでないものどちらもあるわよ。
日本人も一緒よ。日本語では愛と尊敬に分離されるけど、
そのどちらもある。
557 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:25
セフィロス使ったら神人になれるんでちゅ
>>555 まぁ、キリスト教の歴史上必要だったってことね。
仕方がないわ。
日本人の庶民もザビエルに高度な質問を浴びせて、
庶民だと甘く見ていた彼もたじろいだらしいわ。
あたしは親戚はアメリカ人しかいないから、 他の人たちのLoveは知らないけど、 まぁ、日本語で言うところの色んな意味があるわね。
有名な「互いに愛し合いなさい」は、どちらかといえば、 日本語で言うところの互いに尊敬し合いなさい。 に近いかもね。まぁ、それだけじゃ足りないのだけどさ。
561 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:30
>>556 日本の「愛」という文字は上のものが下のものを可愛がる時に使う感じがします。
「愛でる」が近いのではないでしょうか。
「愛情」「母性愛」「愛玩」「愛娘」「愛着」・・・
それに西洋のLoveの訳を「愛」にしてしまったので混乱していると思います。
だから私には「愛国」は非常に違和感がありますし、使う事の気恥ずかしさが
あります。
>>561 大陸の影響があるからね・・・。
キリスト教的に一番近いのは、尊敬という語かもね。
まだ足りないんだけど・・・。
>>561 愛国なんて概念も、明治以降だからね。
日本にはそういった概念も元々はなかったのだから。
564 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:46
クリスチャンの頬をグーで殴りたい。 クリスチャンの頬をグーで殴りたい。
565 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:47
ってーなー!なにすんだよ!
566 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:48
すまんすまん。
クリスチャンの範囲にも色んな定義があるわね。
568 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 12:49
>>563 それには疑問があります。
元が来襲した時にそういった概念が無かったら守れなかったでしょうし、
明治維新も白人から守るために成立したものです。
良く思うことがあるのだけど、神国日本とかって言うけど、 良く考察すれば他の国も神国な訳だから、 別に大したことはないのだけどね。
>>568 今で言うところの、愛国という概念はなかったのよ。
自分達の生活を脅かされたくはなかったわけなの。
愛国というのは、自分の国が一番というところも含まれるの。
しかし、日本にはあまりそういう思想はなかったの。
さて、そろそろ出かけるわ。またお会いしましょう。
572 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:18
まあ、なんにせよ、 マリアさんはナショナリズムが強いというのは、わかりました。
573 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:37
神のすることは人智を超えている ↓だから キリスト教は正しい という論法にはまっているのがクリスチャン これを認めるのならば 神のすることは人智を超えている ↓だから 統一教会は正しい・エホバの証人は正しい・モルモン教は正しい イスラム教は正しい・ユダヤ教は正しい と認める必要がある
日本人の伝統的な宗教感覚からいえば、いわゆる神様・仏様というものは 信者であろうがなかろうが、平等に救ってくださるという「甘え」の対象 であるが、過酷な自然環境の下で生まれたキリスト教ではそのような甘ったれた 宗教感覚は全く無い。 人間を信者・異教徒に色分けして、敵・味方に分けて他方を絶滅させるまで 争いをやめない。 これは、従来の日本人の「あいまい」な感覚を許さず、善悪・白黒はっきりさせる 合理主義ともいえる。 こうしたキリスト教の明確な教義に信者は引かれるのではないのでしょうか?
575 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:47
話がいろんなとこに飛んでるけど、 キリスト教に基ずく『個』は災厄しか撒き散らさなかったってことでいいのかな?
576 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:48
>>1 別に理解してもらわなくても結構なんですけど。
577 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:53
>>574 なるほどね。
私は、別の視点から見ます。
アジアのように恵まれた環境であれば、
その環境に満足している限りは、周囲を自分と同じ民族だけ置いて、
生存することができます。
そこでは、(大きく見れば、)あなたも私も同じ仲間である。
仲間であるから「だから」なになに、と言った論法が通じます。
ですが、多民族が入り乱れて生活せざるを得ない大陸においては、
同じだからなになに、と言った論法で、物事を進めることが、
常にできるとは限りません。
かといって、違う人間を全て抹殺するということとなると、
平和は永遠にやってこない。
そこで登場したのが、
人間の価値とは何か。それはユニークさこそが価値である。
という、欧米の個の価値観です。それが、イエスの愛へと昇華したわけです。
578 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:53
>>574 すぐに正義と悪に区別するのは、信徒と異教徒の厳格な区別から来てるんだね。
それが合理主義に発展していったということかな。
それがさらに進んで1と0だけの世界を作り出した。
579 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:54
>>576 理解したくもないし。
クリスチャンが何を信じようと構わないけど、迷惑はかけないでね!
布教にくるとか、ポストにチラシいれたりとか・・これってゴミが増えるだけなんよ。
580 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:56
>>578 ブッシュの乱暴な理論(テロの側か我々の側か)は正にキリスト教の産物ですね。
危険この上ないなぁ・・
>>578 しかも、最初から自分たちは正義、他は悪と決まっている。
583 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 13:59
個々の人ではなく、その違い、ユニークさこそに価値を置く考え方が、 個人の尊厳の根本にある「個人主義」です。 あなたと、わたし、違うからこそ価値がある。 全く同じであれば、どちらかは全く無意味な存在である。 極端に言えば、重複しているどちらかは殺してもいい。 でも、現実的には必ずお互いは必ず違う、だからこそ価値がある… この考え方が、正しいか間違っているか、ではなく、 欧米では、このイエスの愛〜自由〜自尊心〜個の確立が基礎となって、 自然科学や、法哲学、経済、政治と、壮大な城のように成立しているわけで、 封建制を捨てて、これらを輸入した日本が、 個の確立を求められているのは、必然ともいえるのではないでしょうか。
584 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:01
一般に認められている宗教はすべてビジネスそのものです それがわかっていればすべてどうってことないです。
585 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:05
>>579 そんなのはオウム真理教は仏教だから仏教が理解できないっていっているのと同じ。
世の中のことを理解する能力が不足している。
586 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:07
ブッシュが正しくないのは誰が見ても自明。 彼を正当化しているキリスト教のバックアップの存在は?????
587 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:07
誰が見ても?
588 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:10
ただブッシュが嫌いなだけか、チラシが迷惑なのか どっちだ?
589 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:11
フセインはどうなんだ?イスラム教だぞ。 北朝鮮はどうなんだ?唯物主義だぞ。
590 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:12
>>586 ブッシュがクリスチャンだからって…それは強引な理屈では?(^o^;
彼が、戦争を従っているのは、軍需景気で国内経済を立て直したいためでしょ。
アフガン空爆もそうだったし。
日本も同じ船に乗っているのだから、戦争開始を待っている日本人も
実は多いですよ。日本人のバックアップの存在の仏教は?神道は?
とは、言えないでしょう。
591 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:18
結論 クリと日蓮系の右翼神道・仏教は邪道。
592 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:20
>>590 ブッチュも日本人もバックアップは拝金主義
594 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:38
>>585 >そんなのはオウム真理教は仏教だから仏教が理解できないっていっているのと同じ。
違う。
傲慢な神を信じている人のことなんて理解したくないってこと。
傲慢な神はイヤだけど、それ以外は努力してもいいかなと
595 :
一応クリスチャン :03/01/26 14:38
さっと読んだけど、1さんのいっていることは良く聞く突っ込みだけど、 そんなに間違った基督教解釈じゃないとおもうよ。 キリスト教国で生まれ、クリスチャンホームに育った人に「個」が確立しているとはちっとも思わない。 単にそういうもんだと自明化して信じたり、信じたふりしてんでしょ? キリスト教に対してはちっとも「個」なんかないヤシ多いよ、欧米庶民には。 で、1さんをフォローしたけど、私はハンドルに書いた通りクリスチャン。 私は大人になってからクリスチャンになったもんです。で、なぜ?ってことだよね? 映画「コンタクト」ってみた?あの主人公と同じ心境。 「主観的にどうしても事実としか思えない」、そういう体験を通じて信じているんです。 だから理屈では1さんを支持しても、信仰は全然ゆるがないの。 「タチが悪い奴」と思うでしょうね(^^)十字軍のことなど思い起こし、カルトと同じだと思うでしょう。 でも、客観性を重んじる世の中になっても誰かが同じような過ちを犯しているんです。 だからといってキリスト者が許されるわけではないです。 あなたが日本国籍なら永遠に中国、朝鮮人/韓国人に戦争加害国民として恨まれるのと同じように、私たちは 他の宗教からそのことを突きつけられ続けるのです。そして受けとめねばなりません。信仰の名において。 宗教は主観の世界で、基督教は科学ではなく、「絶対」の世界なんです。 それは1さんがわからなくていい訳で、「わかる」ということはすでに信仰を持つことを意味しますよ。 私は誰もがキリスト教徒になれとは言えません。だから 1に書いた通りの理解で充分過ぎると思いますヨ、教養や社会学として。 1さんは「他人の心の奥まで理解したい」と言っているわけです。気づいてないかな?それはちょっと欲張り過ぎですよ(^^)
596 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:39
597 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:46
598 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:48
>>596 自分の理解力で解決できないことは何でも「嫌い」
それじゃいつまでたってもバカのままだよ。
599 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:49
クリスチャンの個が確立しているなど、誰も言っていないと思いますが。 むしろ、キリスト教という宗教団体は、 個の確立に失敗した人も多数収容されているわけで、 キリスト教で団体を存続させる必要性に基づいて主張されていることと、 イエスの思想とは、別物だと考えたほうがいいですね。
600 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:51
>>598 ヘンな神を信じている人を理解したくないのが馬鹿なら、馬鹿のままでいい。
キリスト教なんてオウムと一緒で破壊的宗教
あなたオウムを理解したいと思う?
601 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:52
>>599 オカルトフェチにありがちなとんでも逆説ですね
602 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:54
>>600 オウムはカルト。
お前さんは「キリスト教系新興宗教」と「キリスト教」の区別がつかないらしい。
603 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:57
>>602 非クリスチャンの漏れからみたらキリスト教もトンデモ。
だってオカルトじみたこと真面目に信じてるんだもんね
604 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 14:57
>>602 宗教団体に依存していれば、
どっちも、目くそ鼻くそなわけです。
イエスが、どこかの宗教の信者になりましたか?
愛を行うには、自由が大前提だということを考えれば、
頭から宗教に帰依していない人のほうが、個の確立も、愛も容易なんですよ。
605 :
くろしろ ◆Mi0a.9Ms2A :03/01/26 14:59
まあ、断見教にはいれ。そういうことです。イエスは入りました。
606 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:00
>>603 君の観察力をどうこう言うつもりはないが、
キリスト教をカルト呼ばわりするのは正しくないね。
キリスト教の教会が「教会として」信者に被害を及ぼしたという話があるの?
607 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:00
>>595 神秘体験の妄想は、人間の精神の成長を止めるというのが、
よくわかりました。
自己愛のループを描いていれば、社会との関わりの場での葛藤もなく、
安定でいられますからね。
608 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:01
まあ、あれだね。わざわざスレまで立てて 他人を攻撃したいとか論破したいとか、 つまりサドだね。
609 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:01
>>606 カルト呼ばわりなんて誰がしてる?
トンデモだといってるの
610 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:02
>>606 「カルト」じゃなくて「オカルト」って言ってるよ
611 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:03
>>608 (w このスレがそんな結論で終らないことを祈ります。
612 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:03
613 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:04
>>606 >キリスト教の教会が「教会として」信者に被害を及ぼしたという話があるの?
性的虐待をした聖職者を教会が庇ってるってのは犯罪じゃないの?
614 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:05
>>613 だから、それは個人的な犯罪。「教会として」と言ってるでしょ?
615 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:08
616 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:09
617 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:09
>>614 聖職者の個人的犯罪なら、なんで「教会」が賠償金を払うんだ?
618 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:10
>>615 庇ってませんよ。教皇は彼を断罪してますよ。
自分の都合の良いように事実を改ざんしないようにね。
619 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:12
>>617 彼のような職制をはぐくんでしまったのは教会の罪でもあるわけだ。
教会として謝罪するのは当然のこと。
どんな社会にでも「はみ出しもの」が当然いる。
だから、教会全体がだめだ、という結論は短絡的で観察力不足。
620 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:14
下らぬ議論でスレをつぶすな。まとめて書け。
621 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:15
>>618 犯罪の回数によって処分をきめることが断罪?
622 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:15
どうせ下らんスレなんだからいいんだよ
623 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:16
突っ込むスキ見つけて大喜びだね。
624 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:18
聖職者の断罪がしたいのかキリスト教一般を批判したいのかどっちなんだ? 状況に応じて論法を変更するのは主旨一貫せず
625 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:20
主旨なんて特に無いんだから別にいいんだよ
626 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:21
だったらかくなYO
627 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:22
628 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:25
なんだかチャットみたいだね。
629 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:26
>>1 の理解力が向上するように、みんなで必死にチャットです。
バカバカしいからもうやめます。
630 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:30
>>624 >聖職者の断罪がしたいのかキリスト教一般を批判したいのかどっちなんだ?
キリスト教一般を批判したい
631 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:35
自分の考え方をすかさず出して、相手の発言を塗りつぶすなんてな、
まさに個が確立していない証ではないか。
また〜りやりましょうーよ。
自分の主張はする。相手の矛盾を指摘する。
あなたはそう考えるのですね?私はこう考えます。終わり。
それで
>>1 が理解できなければ、原因は
>>1 の頭の中にある。
>>1 の頭の健康は
>>1 自身が責任をとればいい話であって、
私は知らない。
632 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 15:50
キリスト教に入信する人がよく理解できません ↓ キリスト教に入信しない人はみんな理解できます こう受け取っちゃって、よいですか?
633 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 16:17
>>632 入信しない人は、入信する人よりも理解しやすいかも。
634 :
一応クリスチャン :03/01/26 17:00
>>599
>キリスト教で団体を存続させる必要性に基づいて主張されていることと、
イエスの思想とは、別物だと考えたほうがいいですね。
全く同意。595の文章の「個」については一般論。文章下手ですみません。
>>607
>
>>595 >神秘体験の妄想は、人間の精神の成長を止めるというのが、
よくわかりました。
ある人が言っていますよ。「問題解決は問題解決する営みにあるのではない。その問題自体を含め考えるべきだ」と。
つまり、いいたいのは「人間の精神の成長」と書いてますが、「どうなることを成長と自明化していらっしゃるのか?」ってことです。
前提を疑っていないってこと自体、自らを相対化していない、つまり自分の無意識の思想を絶対視しているってことですよ。
それはすでに宗教や信仰じゃないですか?
もちろん、あなたの信仰と私の信仰がどちらが精神を成長させるかを競う気はないですが。
ただ、論理破綻だと言いたいだけですよ。もちろんあなたの信仰も主観的絶対でしょうから、破綻していてもちっともおかしくないですが。
もし、ご自身が客観的なおつもりなら痛い話ですが。
>自己愛のループを描いていれば、社会との関わりの場での葛藤もなく、
>安定でいられますからね。
1さんが書いていることを良く読んであげてください。端から見て「傲慢な」神に付き従っているんですよ、私は。
社会と葛藤だらけです。それも自由意志で選んでいるんだ結果ですから逃げ場なしですよ。
ただし、どんなに自己を客観的に見ようとしても「信仰持つ*自己*の存在は疑い得ない」ので、それを「自己愛」と言われるのであれば、私個人は甘んじて受け入れます。
635 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:02
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〆 彡\
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ミ| , 、 |:::::::::|
ミ| _≡=-、__, =≡=_ 、 |:;;;;;;;;;/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | ◎ | | ◎ |─´ 彡 \ |んも〜、イトマン平和会館なんて
| ヽ==/ \==/ . )∂| |名前変えた方がいいんじゃないか
/ /( )\ )ノ | うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい
( / ⌒`´⌒ \ )| /イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか
( │ し . )|< もっといいねー、もっといいその、
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\ \____/ /
>>572 ナショナリズムというのも、欧米のものだけど、
あたしのものはその定義から外れるでしょうね。
日本には日本の良さがあるし悪さもある。
欧米のものも同じことよ。
637 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:04
638 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:12
634 :一応クリスチャン :03/01/26 17:00 >>599 >キリスト教で団体を存続させる必要性に基づいて主張されていることと、 イエスの思想とは、別物だと考えたほうがいいですね。 そんな事言ってるからキリスト教はだめだって言われるんだよ イエスを信じているならイエスの思想に合わせるべきだろ そこからなってないよ!
639 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:24
今更イエスの思想なんかワカランからな。聖書と伝統から類推するしかない。
640 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:32
>>638 仰っていることは正確だと私も思いますが、
でも、考えてみてくださいよ。
イエスの思想は、他者を含む環境からの、個の自立をうたっているわけで、
宗教団体が、それを厳密に推し進めれば、宗教団体自体が不要になりかねません。
それでは、イエスの思想も消えてしまいかねない。
だから、あくまで教団は、精神の成長の"場"を用意して、
そこでの信者自身の「気づき」を待つ、という戦略を、採らざるを得ない。
心理慮法の場としてみた場合には、キリスト教は良い環境だと思いますよ。
もっとも、信者自身が自助努力を放棄して、宗教団体に依存し、
儀式に埋没してしまえば、個の確立もへったくれもないわけで、
イエスの狙いとは逆に行くことになります。
諸刃の剣ですね…。
641 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:33
642 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:37
最近「個の自立」という言葉を学習してお気に入り。 使ってみたくてしようが無いらしい。 とりあえず使うから意味がおろそかだけどね(サイアク
643 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:38
個の自立ってのはキリスト教機嫌とは思えんけどね。
644 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:39
645 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:41
646 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:49
647 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:50
648 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 17:57
>>642 そうですね。
確かに言葉の独り歩きで意味がついていかないと、
意味が無いですね。
まあ、仏教が伝来して2000年、キリスト教は450年弱。
概念が言葉を超えて浸透するまでには、やはり時間がかかります。
個の確立〜個人主義という思想は、その名前は出ないにしろ、
いろんな形で広まっています。
なにせ、日本国の法体系の根本ですし、政治経済システムの要ですから。
一部の人が理解して、周囲を引っ張っていけばいいと思うんですよね。
649 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:00
>仏教が伝来して2000年 ?? >キリスト教は450年弱。 キリスト教は聖徳太子のときにすでに伝来していますけど・・・・
650 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:03
>>649 馬やどの皇子ってのですか? なるほど。
まあ公式にはフランシスコ・ザビエルってことで。
651 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:04
652 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:06
>>649 いま調べました。仏教が伝来して1500年でしょうか。
>仏教は飛鳥から広まった− 538年(552年説もある),
>百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や
>経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。
合ってます?
関係者の方すみませんでした。
653 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:07
654 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:07
>なにせ、日本国の法体系の根本ですし、政治経済システムの要ですから。 は?
655 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:09
656 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:10
657 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:16
>>649 いずれにしても日本にはあわない宗教なんではないの?
そんなに昔に伝わったのに信者の数ときたら・・・
658 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:18
馬やどの皇子ってのはネタだろ。
659 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:24
景教も知らないんだね・・・・・
660 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:25
教会に行ってみましょう。 勧誘? されませんて。
661 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:32
662 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:36
やめとけ。 お前に教会はもったいない。 「豚に真珠」ってことだ。
663 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:37
>>659 そうムキにならずとも…
社会システムに何ら影響を与えていないのなら、
個人の趣味にすぎない、ともいえます。
…いや、待てよ。ということは、
個人主義が日本に伝わったのは、敗戦後の憲法施行時か…
664 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:40
>>663 いや、資本主義経済システムや、立憲主義が伝わったのは、
幕末〜明治なので、やはりその頃が、
イエスの思想が日本に侵入してきた頃と言えると思います。
だからザビエルで正解。
665 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 18:57
サザエさんが麻雀してた
666 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 19:03
長瀬君すてき
667 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 19:23
ちょっと入って所謂鎖国政策で下火になったんとちゃう?
668 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 19:32
>>667 仏教が伝来したころの日本も交通手段を考えれば鎖国状態に等しいわけですが
669 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 19:46
「廃仏棄釈」という言葉をご存知か?
670 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 19:59
671 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 22:58
657 :名無しさん@3周年 :03/01/26 18:16 >>いずれにしても日本にはあわない宗教なんではないの? 500年後位は馴染んでるヨ!
672 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 23:09
西暦2050年にはイスラム人口が(世界の)全人口の3分の1になると予測されてます。
673 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 23:11
アメリカがんばれ!!
674 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 23:29
>>673 アメリカなんか応援するなよ!
きょうび軍需利益のために戦争起こすような国は存在しない方が全人類のためにもいい!
675 :
名無しさん@3周年 :03/01/26 23:29
676 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 09:42
>>640 >イエスの思想は、他者を含む環境からの、個の自立をうたっている
イエスが主張する「個」というのは、単なる個人の独立という意味合いでは
なく、実存主義的な「個」だと思うのです。自分が食べたハーゲンダッツの味
は、他人が食べた味とは絶対に違う。自分のこの喜びが他人にわかってたまる
か! これは、個人の過去の体験(母親と一緒に食べた頃を思い出すとか)も
含めて「味」なわけだから、ごくごくまともな主張だと思います。自分の体験
が、他人によって再現できないからこそ、「個」として尊いのです。
同じように「罪」と一口に言っても、その人の過去の体験の数だけ「罪」は
存在するし、「キリストを信じる」と言っても、個人によって違うでしょう。
これを「すべての人類は生まれながらに罪を負っている。その罪を贖うのは
唯一キリストのみである」と一般的に書いてしまうと、全く意味がなくなって
しまいます。「ハーゲンダッツは誰が食べてもおいしい」という文章と同じで、
そこには個人の感動のひとかけらもなく、かえって味気ない内容になってしまう。
教会の説教とは、ハーゲンダッツのカタログを見せて「美味いよ」と言ってる
ようなもので、それだけでハーゲンダッツの味を理解したような気になる人に
とっては毒でしかありません。味がわかるのは、自分で食べてみて、自分の舌
で味を感じた人に限られる。それこそがイエスの教えです。
上の方で、「千と千尋」の心理的分析をされているのを興味深く拝見しました。 「千」は、湯屋の労働力としての存在でしかなく、仮に彼女が過労で倒れれば、 すぐに別の労働力が補充されます。そこには個人の喜びや苦しみなどない、味気 ない世界です。人は誰でも「日常的な自分」の仮面をつけて生活していますが、 本当の顔はその仮面の奥にあります。その顔は他人とは絶対に似つかぬもので、 「個」の本質で、それこそが「千尋」です。律法の「汝の隣人を愛せよ」に 従って、義務的に愛する自分は「千」でしかありません。義務もないのに、 倒れている見ず知らずの旅人を助けるとき、初めて「千尋」が顔を出すのです。 イエスの主張とは、「千」としての自分ではなく、「千尋」としての自分を 自覚し、お互いの「個」を尊重しあいなさい、ということだと思います。
678 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 10:03
>>676 個人の価値観の尊重という視点は理解できますが、
それ以上の深い部分を、私には読み取れません。
価値相対主義こそが、イエスの教えと、仰りたいのでしょうか?
経験主義こそが、イエスの教えと、仰りたいのでしょうか?
679 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 10:32
>>677 なあるほど・・・
なんていうか、私たちが普段言うところの「個性の主張」とか
「個性の尊重」というのは、「千」としての自分が前提に
なってしまっているように思います。労働力として、はたまた
成績とか、スポーツとかね。競争社会を大前提としたところの「個の主張」
なんですよね。「個」によっていかに競争を勝ち抜こうか、という。
あるいは学校や職場や、集団の中でいかに自分のポジションを確率
しようか、という。
イエスの主張というのは、そういう「個」とは別次元ですね。
全体的価値観を抜きにしての、
生まれながらの存在としての「個」ですよね。
しかしここに目を止めることは、日本人には非常に難しいです。実際。
680 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 10:35
>>678 イエスが個の尊さを教えてくれただけでも十分であり絶対であると考えます。
681 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 10:39
「罪」ということばが、日本人にはスゴーク、抵抗感がありますよね。
過去の自分自身の罪を償うとか、過去の自分の罪と向き合うというのは、
人間として生きるうえで、本当は自分の存在に帰る権利のようなもの
だと思うんですが、日本的感覚では、違う。「罪」とは我々にとっては、
あくまで他者や集団から罰せられる対象のものなんです。道徳をはずした
人が他者から修正されたり、他者から戒告される。そこで「罪」ははじめて
「罪」として認識されるものであり、逆にいえば、集団から裁かれない限り、
その人は「義」なんですよね、すでに。
集団の中の義をもって頑張って生きているところに、生まれながらの「個」と、
「個として向き合う罪」を持ち出されても、まったく理解できない。
日本人はやっぱり、「千」だと言われても仕方がないし、
>>1 の反発も非常に良く分かる気がします。
>>678 例えば、アイスクリームを食べる。美味い。それで完結するはずなのです
が、実際のところは本当に味わっているわけではない。「こんな安いもの
を美味いと言ったら、貧乏人だと笑われるのではないか」などと、周囲の
目を気にしている。だから、グルメと言われる人が「こんなもの不味い」
と言えば、たちまち「そうですよね、こんなもの不味いですよね」と
話を合わせてしまう。そのうち、自分が本当に美味いと感じているのか、
不味いと感じているのかわからなくなる。
神の顔色を気にして、強いて隣人を愛そうとすれば、これと同じことに
なります。一言で言えば、イエスはパリサイ人に対して「お前達は、隣人
を愛しているつもりだろうか、実は自分でも愛しているかどうかわから
ないくなっている。そんな贋物の愛が神に通用すると思うのか。」と
いうことです。
683 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 10:54
日本人がキリスト教的「個の罪」を理解できるようになるためには、 まぎらわしい「罪」の話の前に、「個」の素晴らしさを知る必要があると思うんです。 「個」の素晴らしさというのは、概念の素晴らしさではなく、 「あなた自身の素晴らしさ」ですよね。 ありのままでいい、とか、集団に属さなくても、属せなくても、集団から たとい外れていても、あなたはすでに「個」であってすばらしい価値があるという「個の義認」。 それができて初めて、自分自身の罪とも、積極的に能動的に向き合えるようになると思うんですよね。 「個の義認」が生まれながらにして大前提である海外から見て、 やぱり、日本人はどうしても子供っぽい。自分の存在確認を 「親対自分」で相対的にしかできない状態を「親離れしていない」と言いますが、 日本人の場合「集団離れができていない」。集団対自分 の相対的意識の 中ではじめて、自分自身がある状態。 この「集団対自分」の個において、今日いろんな問題が生まれていますね。 集団からひとたび離れて、ついに帰れなくなってしまうヒキコモリとか、 まさにそうです。ヒキコモリにならなくても、集団の中で ようやっと自分の存在を維持する苦しさを感じている人も、また大勢いる。 「あなたはそこに存在しているだけで高価で尊い」という周囲からの メッセージ、またそういう価値観の中ですごすこと。 これが教育でも家庭でも常に必要ではないかと思います。
>>679 いやあ、おっしゃる通りです。このスレで議論されてきた「個」の問題
は、いずれも「千」のレベルでの話だと思います。日本は「千」のレベル
で全体主義的だったし、欧米は「千」のレベルで個人主義的ですが、それ
はイエスの言う「個」とは無関係です。
われわれが聖書を読む際にも、「千」の視点ではなくて「千尋」の視点
で読まなければ、その真意は読み取れないと思います。ところが、牧師
が教会で説教する場合、「牧師VS信徒」という「千」同志の関係の中で
語られるから、誤解だけがまかり通ってしまうのです。「牧師」や「信徒」
という仮面をつけたままでは、イエスの言う核心には触れられないで
しょう。
685 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:06
「集団」にとらわれない尊い「個」が存在するんだということをもっと知らせないと いけない。日本人は和ばかり気にし過ぎるから弊害が出てる。
686 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:09
>>684 教会にも、フィードバックできるのですね。
なんだかすごく勉強になるスレです・・・。
そう、キリスト教において「罪と向き合う」というのは、千尋としての自分自身と向き合うこと。
教会の場において、本当に成長したクリスチャンの人は、自然にそれができてるんですよ。
周囲からたとえ「あなたはすばらしいクリスチャンだ」と言われても、
自分自身の課題として、罪をいつも認識している。これはネガティブとか
ポジティブとか、そういう評価を抜きにして、自分が人間である限り持ちえるもの、
それを引っさげて神の前に進み出る=礼拝ができる。
「仮面牧師」「仮面信徒」ばかりとは私は思いませんが、教会が集団的価値観を
もってしまい、その集団に信徒が帰属するように求めるなら、本末転倒ですね。
日常と違わない場所になってしまうでしょうね。
687 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:15
>「あなたはそこに存在しているだけで高価で尊い」という周囲からの >メッセージ、またそういう価値観の中ですごすこと。 教会の本来的役割は、これでしょうね。 こういう「場」があり初めて、聖書のメッセージがひとりひとりに届くのですからね。
688 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:18
>>687 教会に限らず、クリスチャンを自認する人は、日常生活においても
周囲にそういう「場」を提供する役割があるんじゃないんですか。
あるいは自分自身がその場となる。
それが伝道であると私は思います。
>>683 ,
>>685 しかし、尊い「個」が独立して存在しているのか、というと、実はそう
ではないと思うのです。仏教では「個」あっての「全体」、「全体」
あっての「個」という見方をします。たとえば、私は今朝、新聞を読んで
きましたが、それは顔も見たことがない誰かが早朝に配ってくれたもの
です。それは「千」の関係にすぎないのだけど、仮に「千尋」の関係で
見直したら、顔も見ることがない隣人を、自分の体を奉仕することで
愛しているのだ、と解釈することも可能です。お昼には外へ食べに行く
けれど、ただ単に「昼食代の代価を払う」という意識ならば、それは
「千」の関係ですけど、その金がまわりまわってその昼食屋さんの家族
を養う。その家族の幸せを祈りつつ払うことで「千尋」としての関係に
なりえます。
尊い「個」同志が、お互いの「愛」の実現のために、毎日無心に働く。
これこそが天国ではないでしょうか。月並みな言葉ですが「他人の奉仕
を素直に感謝しつつ、自分もまた他人に奉仕できることを喜ぶ」という
のが、実は「個」を生かす最大の極意だと思います。「個」が単独で
存在せず、「全体」を離れて「個」がないのですから、どうしてもこう
なってしまいます。
690 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:20
>>683 私は、相手のすばらしい個を認めず踏みにじるのが、イエスの「個の罪」
だと思うのですが?違いますか?
>>686 >キリスト教において「罪と向き合う」というのは、千尋としての自分
>自身と向き合うこと。
禿同です! これは、名句と言ってもよいですね。
692 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:25
興味深い話が続いていますね。 どういう例えを念頭においているのか、私には理解不足の感がありますが、 千も、千尋も、その人自身ではないと、私は考えています。
693 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:27
>>689 私は「個」は独立して存在し、それぞれの「個」が満たされることで「全体」が
満たされたものになると思います。
だから「隣人」が大切にされていると思うのです。
自分を離れて、全体を前提にしても、天国は来ません。自分を棚に上げるだけです。
出発点も、帰る場所も「個」であると思うのです。なにしろ人間は「個」から離れることの
できない存在であり、「全体」を思うことはできても、全体のために生きることはできない
存在だと思います。
まず自分のように隣人を愛しなさい、がイエスのメッセージですから、
新聞配達の例でいうなら、新聞配達の人を隣人と思いなさい。でしょうね。
誰にでも隣人はいるのでしょ。隣人愛の積み重ねが地に平和ということに
なるんではないでしょかね。
694 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:29
>>692 あの映画をたとえとして引いているのは、
「千」と「千尋」の違いが好例なので使われているだけだと思いますよ。
695 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:34
>>694 私も、そのつもりで伺っていますよ。
イエスの個を理解するには、格好の素材です。
千尋というのは、親が子供としての「彼女」につけた名です。
それは、周囲の環境によって要求された彼女であるという点で、
彼女自身ではないとするのが、個の思想だと思います。
ここで、彼女自身?そんなものは無いとしてしまうのが、仏教的な思想ですね。
そこはどうしても相容れない部分だと思っています。
ですから、
>>677 の「千尋」としての自分を自覚する、という表現に、
私は危うさを感じます。
696 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:39
>>695 なあるほど。確かに、そういう意味では「千尋」こそが個である
と言い切るのは問題ですね。
今までのやりとりには、そこまでの洞察は含んでいないですね。
677さんが、ここでの例の取り方を上手く解説していらっしゃいますが、
全体にとっての益が至上目的である「千」に対して、そうでない自分がいる。
そういったところで、例として使われていたのだと思います。
>>693 具体的に、全体を「神」に置き換えて考えてみると、人間は...「神」を思うこと
はできても、「神」のために生きることはできない、ということだと思います。
人間が「神」の全容やその意図を理解できない限り、この主張は正しいと思い
ます。しかし、聖書には「汝の神を愛しなさい」とあります。「神」を理解
できない人間が、「神」を愛せるなんてことあるのでしょうか....。
しかし、隣人がかけがえのない「個」であることを認識すれば、隣人もまた
神の一部(抵抗があれば、神から「よきかな」と存在を肯定された存在)なの
ですから、隣人を愛することを通じて神を愛することができると思います。
「隣人を通じて」神を愛する、ということだと私は解釈しています。
698 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:46
>>697 うん。「全体」を「神」に置き換えること。それが大事なんではないですか。
「全体」と「自分」との関係ではなく、「神」と「自分」との関係を作る。
そこに、先からある「千」と「千尋(語弊があるという話でしたが)」の
違いがあるのだと思います。
「全体」からみると隣人も自分もちっぽけです。 でも、「全体」を神に置き換えたとき、神から発せられる絶対的な 愛をそこに発見することができます。 神の御前には、この自分自身も、隣人も、尊くて、かけがえのない 存在であるということ。「全体」はそれを教えてはくれませんものね。 そしてあなたのおっしゃるとおり >「隣人を通じて」神を愛する に達するのだと思います。
700 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 11:53
「全体」と「神」の違いをもう少し言うなら、(対「個」の関係を作るものとして)、 「全体」は、有用か無用か、によって「個」の価値が変わるが、 「神」は、創造主であるがゆえにすでに全ての「個」が有益な存在 である というところでしょうか
>>698 実はですね、「全体」など存在していないんです。「全体」=「会社」の
場合、存在するのは個々の社員と生産・販売のシステムです。あとは、
株主の意向位でしょうか。「会社」のために命を賭ける、なんていうのは
錯覚で、実態は必ず個人レベルに分解される。「会社」が儲けて得する
のは、社長や従業員や株主であって、「会社」という存在があるわけで
はない。
ところが、「会社」という存在を仮定することで、人間は簡単に「千」
の関係に埋没できるのです。リストラでも、社長個人が首切ったら掴み合い
の喧嘩になるでしょうが、「会社」が首切るんだから、良心の呵責に
悩まされずに済むのです。こうして、「会社」を隠れ蓑にして無益な
競争やアクドイ商売が行なわれるのです。
「神」以外の存在を「全体」とすると、必ずこの種の暴走が起きます。
場合によっては、教会ですら...。
>>695 >全体にとっての益が至上目的である「千」に対して、そうでない自分がいる。
名を奪われることは、
ペルソナの基礎となる、外部との関係に依存するアイデンティティを
喪失するということですね。
千という名前で、彼女は、世間との繋がりを模索している、
その関係のつなぎ方が、「仕事」です。
彼女は、最初は、仕事を他人から貰おうと"受身"ですが、
一度仕事について以降は、
その仕事をどう行うかで、"能動的に"他者との差別化を図っていきます。
もちろん、その点は、様々な見方があります。 なにもキリスト教的な分析の仕方が全てではありません。 仏教的に言えば、周囲との関係に応じて、個を形作っていくとなるのでしょうね。 ですが、西欧的な個は、自分自身の「自由意志」で「選択」する、 という点を重視します。 「自由意志など無い、環境の役割を軽視している」と反論する方もいると思いますが、 そこは、西洋とアジアで注目する点が違う、としかいいようがありません。 個について語るには、自由との関連の視点が非常に大切だと思うのです。
704 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:01
>>701 すごい、本当にそうです。
「全体」は幻想です。激しく同意します。
「個」の集まりにすぎないはずの
「全体」が、あたかも存在するかのように、私たちは育てられています。
会社、学校、はたまた家庭や、ときには教会すらも。
「神」から「個」が出発しているのに、それを忘れ
「神」が「全体」に摩り替わり、隣人愛すらも見失っているのだと思います。
705 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:06
>>701 >「神」以外の存在を「全体」とすると、必ずこの種の暴走が起きます。
>場合によっては、教会ですら...。
当たり前の事なのですが難しい事です。人間の愚かさを知ります。
706 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:09
好き嫌いもあるでしょうが、アーサー某という方の宣教は、日本人クリスチャンが 大いに学ぶところのあるものだと思います。 YOU ARE LOVED 「あなたは愛されている!」から始まって、 あなたは大事だ、かけがえがない。ということを まずひたすら伝える。じゃあ何故かけがえがないのか。 あなたは創造主から愛を持って作られたから。それが出発点です。 こういう神と人の関係のイメージを得ることなくして、罪も天国も地獄も わかったもんじゃないですね。先日聞きにいったのですが、 教会関係者すら、このメッセージを忘れていないか、というくらい、 強烈でした。
>>704 イエスが「人のために安息日があるのであって、安息日のために人がいる
のではない」と発言していますが、「安息日」を「会社」でも「教会」
でも当てはめることができると思います。「会社」は、もともと個人の
特技を生かすために分業制にしたのが始まりで、個人がより輝くための
ものだったのですね。ところが、気がついてみると、社員はみんな大きな
機械の歯車にされ、一体誰のために働いているのかわからない。それで、
「会社」という亡霊を信じるほかなくなるのでしょうね。
自由と、個の関係が明確に現れているシーンのひとつが、 最後の、並べられた豚の中から、自分の両親を選ぶ場面です。 そこでは、過去の両親の子供という、与えられた"千尋"と、 新しく、自らの行為で獲得した個である"千"との差が、はっきり現れています。 環境に適応する姿勢の人にとっては、選択とは、消去法を意味します。 ですが、"千"は「そこには答えが無い」と断言した。 その力こそが、彼女が、新たに獲得した個の力なのでしょう。 私は、その環境との対峙の仕方に、イエスの指す"個"を見ます。 それは歴史を振り返れば、西洋人と仏教文化の人々との違いに、 いまも現れているように感じるのです。
709 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:12
>>707 耳にイタイ。そうですね。
私はクリスチャンですが、神の奴隷である前に会社の奴隷ですね。ははは。
本当は個人がより輝くため。本当にそうでした。
>>697 それは、私の考えでは、
愛を誤解した解釈ですね。
711 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:18
>>707 「教会」も「会社」と同じですか・・・とほほ。
ちょっと抵抗がある・・・
712 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:18
>>710 その後にいろんな意見も出ているので、
少しスレを租借されてからの方が良いのでは?
>>701 における全体についての考察は、私も同意見です。
ですが、そこまで理解しておられるなら、
全体や、神にこだわる必要がないはずですが、
全体が無ければ、個を語ることができないのでしょうか。
その点が、私には理解できません。
715 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:22
>>1 の指摘を読んでもっともだと思ったのは、
「オブラート」という言葉です。
>>1 の言いたいことと
逆になってしまいますが、創造主の愛がなければ何も
始まらない話なのに、「罪」とか「地獄」とか「罰」とかがオブラートと
なって、全ての人が「すでに」受けている神の祝福が隠されてしまっている・・・。
最初に来るのは「あなたは愛されている」ですよ。
これが理解できない人は、とにかく人間関係や言葉や、いろんな側面で
神の愛をまず伝道する必要があるんです。
それが出来る前に罪とか地獄とかの話をしたって、伝わるはずがありません。
むしろ、神と人間の関係を知ることができれば、罪やら現在やらは、
言われなくても自分の中に発見できるものなんですから。
>>712 その後の書き込みはすべて追っていますが、
すぐに情緒的な「受動的物質的愛」に戻ってしまうので…
愛の沿革やその定義を、そのたびに説明しなければならないのは、
私も大変です。
717 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:25
>>714 701さん、その後でちゃんと説明されていると思いますが。
別に「全体が無ければ、個を語ることができない」のではないと
思いますよ。「対個」の関係を全体と神とで比べていらっしゃるでしょ?
718 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:27
>>717 全体を神におきかえても、心のありようは同じことですよ。
>>714 社会心理学で言われていることですけど、蟻の社会を調べてみると、ある割合
で「グータラ蟻」が存在するそうです。彼等は、餌を食うばかりで一向に仕事
をしない。そこで、このグータラ蟻を全部排除して、しばらく様子を見ると、
いつの間にか最初と同じ割合だけグータラ蟻が出てきてしまうのです。
逆に、グータラ蟻ばかりで集団を作ると、今度はグータラ蟻は最初の割合だけ
になり、残りの大部分は勤勉な蟻に変わってしまう。
詳しい理由はわかっていませんが、いくら「落ちこぼれ」を排除してもダメだ
ということになります。蟻をそのまま人間社会に当てはめることはできない
でしょうが、集団にとって一定の割合の「落ちこぼれ」の存在は益になるという
ことだと思います。人智では「悪」としか見えないものでも、実は密かに集団
全体に貢献している場合があります。
これは、「個」が「全体」と密接に関係しているということです。
721 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:33
>>719 ??? 私は仕事なので落ちますが、
699、700あたりもお読みになると良いのでは。
>>701 にていわれている通りだと思います。
「全体」とは、私たちが受動的に受け入れるものではなく、
能動的に私たちが作るべきものである、私もそう思います。
ですが、せっかく依存すべき対象の「全体」を否定しながら、
それを、神と置き換えるために行ったのでは、なんの意味もありません。
何かに依存する関係で、存在するもの、それを個と言わないのであれば、
なんと呼べばよいのでしょうか。
その点で、最初の
>>689 において、言葉のすり替えが起こっているのは残念です。
私の意味でも、そして、
私たちは、神を愛するためには、神と対等の位置に立たなければならないのです。
>>723 「個」と「全体」が関係しているのは、理解できます。
しかし、個の定義に全体を使わなければならないのであれば、
それはイエスの個ではないと思います。
むしろ仏教的な考え方に近いと、私は感じます。
725 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:49
「全体」というのは幻想に過ぎなくて、実は「個」の集まりであった と気付く事が、「個の自立」というのだと思いました。 この当たり前の事に、気付かない人が大勢居るのです。
726 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:52
>>724 イエスの「個」というのは、まさにそうなんだけど、
現実に私たちが直面している「個」というのは、その、仏教的な、
「全体に対する」「個」なんだよね。「全体」に対する「個」の中に埋没し、
ほんとうの、生まれながらの「個」を失っている というお話かな?と私はオモタヨ。
このスレの流れとしては、そうだと思うよ。
その点までは、今のところ異論を唱える人はいないようです。 私も大賛成です。 ですが「気づいた後に」、どうされるのでしょうか。 「全体」を無価値と無視するのは、 それも「全体」に依存する考えにとらわれています。 また、より大きな「全体」である神にすげ替えるのも、 何も構造は変わっていません。神に依存しているだけです。
>>722 私がここで使っている「個」や「全体」は、厳密な意味ではありませんので、
ご承知おきください。
自分の回りを見渡してみれば、お互いに寄りかかりながら生きている。誰も
「俺は誰の世話にもなっていない」と威張れる人間などない。一日丸々、真面目
に数えてみればいい。どんなにたくさんの人の手で奉仕されているか...。
ただ、奉仕する側も奉仕を受ける側も、それを「契約関係」でしか捉えていな
い。だから、「千」同志の関係になっている、と指摘したのです。お互いに
世話になりながら共同生活しているのだから、「千」関係にスッポリ埋没して
味気なく生きるのか、それとも「千尋」関係に目を向けて、お互いに感謝しあ
いながら生きるのか、二つに一つです。
イエスも釈迦も、「千」関係に囚われると、人間が一番大切な宝を失ってしま
うから、「千尋」関係を大切にしなさい、と説いたのです。
729 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 12:56
議論屋さんが出てきたな(w
>>729 せっかくいい所まで行ったのに、また依存に戻るので、
がっかりしているだけですわ。
皆がそれで納得するなら私は余計かもしれませんね。
>>728 仏陀はそうですが、イエスは、むしろ"千"を支持するでしょう。
人間が一番大切な宝、それは、自分で選ぶものです。
契約関係という言葉に反感があるようですが、
契約とは、個人の自由意志で行うのですよ?
親子関係は、むしろ強制なのです。
イエスの価値観で見れば、
千と千尋は、千尋が千に成長する過程を描いている、ものだと思います。
731 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:06
730さんは、「何故依存がいけないのか」を話してみたら? スレが自分の価値観と違うからといって、怒っているだけの 人にみえてしまうよ。
>>727 「個」も「全体」も、見方が違うだけです。「森」を見れば「全体」が
見えるし、「木」を見れば「個」が見える。
たとえば、モザイクで絵を画くことを考えてみると、「個」はモザイクを
形作る色タイルで、それがお互いにひしめきあって並んでいる。これを
上空から見ると、「全体」が見えますけど、そこでひとつの見解の違い
が出て来ると思います。「全体」が、絶妙な調和で彩られた名画として
見えるか、それともランダムな色の配列として見えるか。
私は、前者を主張するので、この調和を「神」の意図とみなすのです。
隣人愛とは、たとえ全体図が見えない状態でも、「神」の意図を実現
する行為だから、神を愛することと等しいのです。
後者の立場をとった場合には、「全体」そのものに特別な意味はなく、
単なる「個」の集合にすぎませんから、隣人愛もなければ、神への愛も
ありえません。
733 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:10
神の絶対の力により頼むことができるなら、それが依存だろうが、どこかから見て 森だろうが、不要な議論となると思うんだけどな。
734 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:12
神を信頼するというのは、神が森をなされると信頼することを言うのだろうね。
732に書いたことは、「神の存在証明」とも密接に関係しています。 いわゆる「二律背反」で、神が存在すると仮定しても、神が存在しないと 仮定しても矛盾はおきません。あとは....その人がどういう世界観を持つ かという自由意志の問題です。 あとは、その人の「感性」の問題でしょう。
737 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:15
>>734 クリスチャンというのは、そうであると思う。
一本の木である自分が、神と一対一の上で生きていく。
大自然の調合は神がなされるから思い煩わない。一本の木としてまっとうする。
>>695 氏の言う、「依存しない関係」というのは、さっぱり分からないんだが、
自分でビニールハウスを貼って生きてけ、ってことか?
>>731 イエスの個を語ろうとすれば、自由、自立、貢献、愛などの概念と
関係づけることができるはずですよ。
そうでない考え方は、個の自立の逆概念である、依存と
必ず結びつくので、私はその点で真偽を区別しています。
仏教的な観念を忍び込ませる方法は、よくみる手法なのです。
>>728 さんのレスの中に見られますが、
現実を、お互いに寄りかかりながら生きる、
迷惑のかけ合い、お互い様の価値観、これは仏教的な考え方です。
負のやりとりを積極的に是認する考え方ですね。
そこでは、なぜ相手の負を受け入れるのか、
それは、いつか自分の負を受け入れてもらおうという魂胆があるからです。
その交換関係を律しているのが、「全体」のルールです。
ここ最近の流れの中で「全体」なくして和を語ることができない点が、
この点にある気がします。
イエスは、そうは考えていないと思うのです。
お互いに相手に与え合って生きている。
自分のユニークさが、他者へのユニークな貢献を生んでいる。
だから、私という個は価値があるのだ…
寄りかかっていますか?
740 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:21
>>738 意味不明。
>自由、自立、貢献、愛などの概念と
>関係づけることができるはずですよ。
仏教の個だって、関連づけはできるだろ。語り方次第でどうにでもなっちゃう。
真贋というのも良く分からない。何より、あなたの主張されたい
「神と対等」の意味がサパリわからない。創造主と対等になれると
考えるのは思考的に赤ちゃんでは?
>>740 ??
逆にお尋ねしますが、
神を愛するには、あなたは何を行うのですか?
742 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:29
>>741 で、あなたはどうするのですか?
逆に尋ねる前に自分に聞かれてること答えたほうがいいよ。
>>737 に対してレスはないの?
人のレスに攻撃入れるばっかりで、君が何を言いたいのかがさっぱり不明なんだよ。
>>732 隣人を愛せば、自動的に神を愛することになるという解釈では、
別に神を愛する特別な行為は必要ない、といわれるのですね?
それは都合が良すぎるのではないでしょうか…。
745 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:47
互いに関連しあっていることと依存することとは違いますよ。 究極的な現実では全てが互いに関連しあっている。 それぞれが個として独立しながらね。 それだのに、人間は自分を中心に相対的にしかものを見れない。 世界は個でもあり全でもある。 これはイエスも言われたことなのだが。
>>743 いや、神を愛しなくてよいというのではありません。神(森を形づくる
主体)を愛するには、隣人(森を形作る「個」)を通じて愛する他はない
と主張しているのです。隣人のかけがえない「個」の中に、神の働きを
見るといったら通じますでしょうか。鳥は空を飛び、魚は水の中を動く
ことによって、神の働きを表現しているのです。それは尊い姿です。
別に仏教の教えを持ち出さなくても、「人間は依存し合って生きている」
というのは事実だと思いますが。依存しているという事実を素直に認める
ことから、真実は見えてくると思うのですが。それとも、あなた自身は
他人の世話になって生きていないと断言できますか?
>>745 もちろん関連と依存は違います、私も賛成ですよ。
ですが、全体や神がいなければ、隣人愛も神への愛も実行できない(
>>732 )なら、
それは依存でしょう。
「では、全体や神がいなければ、あなたは何ができるのですか?」と、
問い詰めたい気がします。
何もできないという答えなら、仏教行きの切符です。それは否定はしませんよ。
ですが、別の考え方もあるのです。
イエスなら答えるでしょう「愛することができる。」
love とは、与えることです。
「全体」から強制されない自発的な与える行為で、
他者と関係付けていく能力を自覚すること、これが個の自立です。
私は私で勝手にやります。あなたが勝手にやる自由は全力で守ります。
だからあなたもどうか勝手にやってください。
皆が勝手にやる中で、自然にできあがる関係、それが全体です。
全体は、最後の段階だけに現れるのです。
748 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 13:56
>>739 >そこでは、なぜ相手の負を受け入れるのか、それは、いつか自分の負を
>受け入れてもらおうという魂胆があるからです。
この部分は否定しません。ただし、私が考えるのは他人からの見返り
ではなく、神に対する自分の「負」を許してもらおうということです。
自分が隣人に対して与えた負を神から許されるには、隣人が自分に対
して与えた負を許すことがまず不可欠だと考えるからです。イエスも
そのように言ってますよね。釈迦もまた、他人に対する怨みは、怨む
ことをやめることによってのみやむ、と言っています。
>>746 それは、神の創造物を愛しているのであって、
神を愛してはいないのではないですか? と問いたいのです。
愛する対象が違っても、有効なのでしょうか。
自分の好きなものだけを、隣人としてくくって愛すれば、
神を愛したことになってしまいますが…
751 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:04
>>747 神なしに何も出来ないことと仏教行きの切符の論理的関連性を示してください。
全体が最後に現われるの意味も分かりません。
>>747 「では、全体や神がいなければ、あなたは何ができるのですか?」
という前提そのものが、イエスの主張と真っ向から対立しますからね。
イエスは「心をつくして、あなたの神と隣人を愛せよ」というのが、
神の律法すべてのエッセンスだと断言しています。
753 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:08
>>750 『わたしの兄弟のうちで最も小さき者の一人にしたのはわたしに対してしたのである』とはどういう意味か学んできなさい。
754 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:13
「隣人」というのは全ての場において、自分のとなりにいるひとを言うのであって、自分が行為を持っているひとをいうのではありません。 その中には自分のことを憎んでいるひと(敵)も当然含まれます。
676さん、私はあなたの仰っていることが、よくわかります。 私も日本人なので、ともするとすぐに仏教的な価値観に転がってしまうのを、 ぐっと我慢して書いています。 隣人に対して与えた「負」は、その隣人が受け取らなければ済む話なのです。 愛を行う前提である、自由が確保されるということは、 与える自由が確保されること。 ということは、受け取る自由〜受容を与える自由も、また確保されているはずで、 個と個が、愛をやりとりする過程は、それぞれ個人が全面的に責任を負うべきとされています。 そこで、神に遠慮する必要は無いのです。 もちろん、釈迦の言っている 「他人に対する怨みは、怨むことをやめることによってのみやむ」は、 反論するつもりはありません。怨むな、という命令が入る考え方ですね。 それをイエスの哲学流に言えば、 怨むも怨まないも、その人の自由なんです。ただ、 「怨むことで心を荒げている状態に自分を置くのは、 自分を愛している行為ではない。」となるのでしょうね。
>>750 もちろん、「隣人」の対象は最終的にすべての人類にまで広がっていき
ます。
>それは、神の創造物を愛しているのであって、
正確には、自分と相手との調和関係を愛するのです。あるいは、自分と
相手を出会わせて、調和関係を作られた神の業を愛するのです。将棋の
名人は、ひとつひとつの駒を愛しているのではなくて、その駒が形作る
調和関係を愛し、よりよい関係を実現しようと心をくだきます。
行為→好意
758 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:19
>>755 我々はイエスと対等に接しても良いのですか?
イエスの愛と隣人愛は一緒なのですか?
>>752 >>747 にて私も同じことを言っています。
愛し続けるためには、それ以前に誰かに愛される必要があります。
神はそのために存在します。
760 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:22
>>759 まあ、「勝手にやります。結果は神のみぞ知る。」というのならお引止め
はしません。ただ、パリサイ人達もまた「勝手にやって」いたことを
お忘れなく。それではいけないから、イエスが現れて、悔い改めを説いた
のです。その忠告を取り入れるも無視するも、各自の責任ですけど。
>>758 同一のものです。
愛を、日本に土着する「受動的で物質的な愛」とすると、
あちこちでイエスの言葉に矛盾を生じます。
それを繕うと、とうてい実行不可能な理想論に堕ちたり、
意味不明な非日常的な概念が登場してしまうのが、常です。
愛とは、与える行為です。
その中で、与える行為によって自己効力感(セルフ・エスティーム)を得るものです。
古来、日本では、愛とは上下関係において、上の者が下の者に行いました。
愛犬とはいっても、愛主人とはいいません。
その感覚で、イエスの愛を解釈すると、神を愛する、が
奇妙奇天烈な解釈になるのは、よくわかります。
>>761 ルールの僕であったパリサイ人には、愛を行うことは難しかったのです。
ルールに縛られて行う行為は、義務の履行であって、愛ではありませんから。
764 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:32
>>762 つまり神でさえも平等という、すばらいことなんですね!
>>764 現実的な立場は平等?ではありません。
愛する行為を行うに、立場関係は考慮に入らない、といいたいのです。
好きな人しか愛せない。これは愛ではありません。
好きな人は、愛して当然である、とか
親だから愛さねばならない、というルールに縛られているからです。
ルールは、それが例え神のルールであっても同じことです。
隣人愛は、新聞配達の人を隣人と思いなさい。ではありません。
愛は、イエスや神の指図で行うものではありません。
隣人と思えないものは、思えません。それでいいのです。
同じように、人が神を愛するというとき、
それは、神だから愛するのではありません。
愛したいから、愛するのです。
うまく書けないのが、もどかしいですが…わかります?
つまり、愛する=相手に与える、という概念は、 前提として「自由意志」が必須なのです。 ルールに縛られた義務の履行は愛ではないのです。 だから、愛を行う環境として自由が絶対的に必要なのです。 自分を愛するときに、「こうしなければ」と考えて愛しますか? 愛するも愛しないも、自分のことだから自由です。 だからそこに、自分に与える行為が愛となる素地があるのです。 隣人も同じように、気まぐれに自発的に、与えてみなさい。 与えるか与えないかを、理屈で縛るのはやめなさい。 自分のように隣人を愛せとは、そういう意味です。 そのときにはじめて、そこに伸び伸びした、個と個の関係が現れるのです。
767 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:44
768 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:47
>>765 申し訳ない、全然わかりません。
>愛は、イエスや神の指図で行うものではありません。
>隣人と思えないものは、思えません。それでいいのです。
愛する対象(隣人)を決めるのも自分(個)なのですか。
愛したいから愛するだと、愛の対象がかなり狭まってしまいます。
神だから愛するのではないですか?
悪魔でも愛していいのですか。
769 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:50
765 は新興宗教でも起こしそうなヨカン。
>>756 >正確には、自分と相手との調和関係を愛するのです。
そうですか。
それも仏教的な概念ですね。
私はその考え方を、利他主義、もしくは全体主義に入れています。
考え方の溝は埋まりそうに無いですね。
わかりました。
771 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 14:58
>>隣人と思えないものは、思えません。それでいいのです。 クリスチャンで排他的 だよね
>>768 そうです。愛する人が自由に決めるのです。基準は一切ありません。
与えたい物を、与えたい人に与えなければ、自己効力感は得られませんよね?
与える行為自体が、大切だとわかれば、
より多く与えたくなるはずです。狭まることはありませんよ。
知識を仕入れれば、より広めたいと思うでしょう?
それと同じです。
また、より与えた際の自己効力感を得られる対象に、
優先的に与えようとするはずです。
与えたものを、捨てるも受け取るも相手の自由ですが、
できれば受け取ってもらったほうが、うれしいですからね。
最後に、悪魔を愛したい人は愛したい自由があります。
オウムを信奉するに信仰の自由もあり、
民主制を破壊する集団にも、集合の自由はあります。
ですが、自由には必ず責任を伴います。
>>771 隣人か否かを心の中で区分けして、
これは愛する、これは愛さないとすること自体が誤りなんです。
その前提があるから、隣人でない人(郵便配達人)を隣人とみなせ、
なんてな理屈が、でてきてしまうのです。
隣人かどうかなど、どうでもいい、
敵ですら、愛することはできます。
774 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:05
隣人と隣人でない人をどう区別するんだか
775 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:05
>>773 しかし全部を愛せならわかりますが、愛したいものを愛せだと
結局選んでいる事になりませんか?
776 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:08
>>773 >隣人か否かを心の中で区分けして、
そんなことやってる人はいないと思うよ。
関わる人すべてが隣人だろ。問題は誰が隣人か、じゃなくて、
隣人を愛せるかどうかの話。
話をひとりで複雑にしてるのは、チミですよ。
777 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:10
>自己効力感 キリストの「右手のしていることを左手に知らせるな」というのは、 自己効力感に浸るな、という戒めです。そうしたかったらしても いいんだけどね。でもそれキリストのポリシーとは違うのねん。
>>774 そうそう。同意。
>>775 愛したいものを、最初に決めておけば、そうなりますね。
ですが、それをあらかじめ決めては不都合になります。
与えたいと思ったその瞬間に、与えるか与えないかを決めます。
気まぐれな感覚を大事にすることです。
779 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:11
>>771 排他的なのはユダヤ教
--------------------
ユダヤ人たちは、敵と隣人を区別していた。敵でない隣人は、イスラエル民族、
改宗者を含めたユダヤ教徒、同郷人、親戚、家族、近所の人などに区分される。
だから、律法の専門家は、それをはっきりさせなければ、隣人を愛することは
できないと、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』
と言った」(ルカ10章29節)。
780 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:12
782 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:18
>>781 >自己効力感(=自尊心)なしに、人は生きていくことはできません。
できます。それが神との関係を築くと言う事です。
783 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:19
>>781 >それは、他人にみせびらかすような気持ちを捨てよという意味でしょう?
自分の主張をしたいばっかりに、都合よくみことばを解釈しないようにしましょうよ。
「右手」というのはあくまで自分の「右手」であり、「左手」もそうです。
他者に見せる・見せないのはなしではないですよ。
784 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:19
>>780 これがキリスト教の教えだ
------------------
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、
あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」
(ルカ6章27b〜29a)
>>783 都合よく解釈しているのは、私から見ればあなたのほうですね。
あなたは、自己満足感と、自己効力感を誤解していませんか?
786 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:25
>>785 あなたの主張ははっきりいって、理解できません。
しかし御言葉の意味は上に書いたとおりですよ。
神に栄光を帰すという意味です。
私は「あなたのほうこそ」と言われるようなことは、一切書いておりませんよ。
787 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:30
どっちもどっちのような気がする…
695さんのおっしゃる意味もわかるけど、最終的目的と現実は違うんですよ。 最終目的:すべての人がかけがえのない「個」であるから、すべての人は隣人と して愛すべきである。それは、隣人を通じて神を愛することにつながる。 現実:しかし、人は他人から指図されて隣人を愛せない。愛する人を愛せても、 愛せない人を愛することはできない。 イエスは、現実の厳しさを認識した上で、敢えて最終目的に近づくよう迫って いるのです。ところが、695さんは、愛せないのなら愛せなくて構わないと言う。 そこに違いがあると思います。 現実を現実として認識することと、最終目的を掲げて努力することとは、車の 両輪だと思います。695さんの現実肯定一本槍では、イエスや釈迦が説いたこと がすべて無駄になります。富も名声も、多くの人が求めるものは、時とともに 朽ち果てるのです。自己効力感とて同じこと。いくら自尊心を持っても、死の 前には何の役にも立たない。死体になってから、大勢の人にツバを吐きかけ られても、痛くも痒くもない。死後も残るものがあるとするなら、こんなものと は別のものです。
>>785 私も同じ意味で使っていますよ。
神を使わないで、現実に何を行うのか考えてみてください。
「右手のしていることを左手に知らせるな」というのは、
自分が、他人に与えたものの、見返りを期待するな、
自分自身でさえも、自分のしたことについて、忘れろ、
という意味です。
自己効力感とは〜自分は、これこれのことを成しうる力があると
確認することですが、これを否定してしまえば、愛する意味がありません。
790 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:36
>これこれのことを成しうる力があると >確認することですが、これを否定してしまえば、愛する意味がありません。 信仰によってものごとを成すというのは、セルフイメージとは無関係です。
791 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:36
結局 隣人=人類全体 郵便配達の人も平等にイエスの愛を与えなければならない。 ということだよ。
>>788 イエスは、無理なことを要求してはいません。
最終目標も現実も同じです。
現実:他人から指図されないで与えてみなさい。
飢えて足りないというのなら、神から無償ですでに与えられていることを思い起こしなさい。
隣人も敵も、花も虫も、愛する対象は違えど、
あなたが愛する(与える)行為自体は変わらない。
愛する人を愛せても、愛せない人を愛することはできないのであれば、
それは、イエスのようにも愛していないし、神のようにも愛していないのです。
793 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:39
>>789 >これを否定してしまえば、愛する意味がありません。
それは、あなたの勝手な結論では・・・。
神に愛されているから、自分も他人も愛するのですよ。
「意味」があるとするなら、世のはじめからおられる方が、まさにその
「意味」そのものでしょう。。。。
人のために人を愛するのではないですよ。セルフイメージのために人を
愛するのでも、ないです。
>>791 愛さねばならない、と、言った瞬間に、
それは義務の履行であって、
やって当然、行わないのが罪びとということになります。
愛は、そんな程度のものなのでしょうか?
あなたは、人から愛されたときに、その理由を尋ねたら、
「イエスが愛せと言ったから」
「法律で決まっているから」
「隣人だから」
と、答えられたら、胸が温かくなりますか?
「愛したいから愛した」
この状況でしか、愛は生きることができないのです。
795 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:44
>>759 を読むとわかるのですが、695さんのおっしゃるキリスト教は、
宗教としてのキリスト教ではなく、哲学・心理学からみたキリスト教だと
思います。
「はじめにこの方がありき」ここから全ての営みが始まるのが信仰です。
なにか他の目標があって(自己効力感とか、人を愛するとか)、
それに意味付けとしての神を求めるなら、それは信仰ではないです。
695さんの主張を否定するものではありませんが、主張されていることは、
クリスチャンの生き方とは、異なるものです。
796 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:48
隣人を愛することは無理なことではないが。それが無理かどうかはそのひと個人が勝手に決め付けていること。
797 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:48
>>794 あのね、「愛せといわれたから」愛するのが信仰の実現ではないですよ。
自分は何者か・・・の問いに、「神があるから私がある」、
「神に愛されている私がいる」、信仰は、こういう世界観をその人に
植え付けます。人を愛すること自体が、自分の存在理由となるんです。
>>789 は、論理性の緻密さに著しく欠けているのに自覚出来ない厨房の
◆TX6bf7XA22氏である事に、一票。
799 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:49
>>794 「イエスが愛せと言ったから愛する」で良いんじゃないですかね。
イエルの教えを守るも破るも自分なんですよ。
つまり自分が愛したいから愛すと同じ意になると思います。
ここに確固たる「個」が存在するんです。
「義務の履行」という言葉が悪いだけですよ。
「当然の行い」ということでしょう。
そこには、「自己効力感」として表現されるような自我も、ないですよ。 効力感は自己に対してではなく、神に対してのみ、存在するようになります。 自我を主体から追い出さなければ、神は入ってこられないです。 もちろん、自我が中心に来たり、いったり来たりの毎日ですけどね。 だから祈るんです。御言葉を読むんです。そして、神様に自分の真ん中に いらしてください、というのです。自我を外側に置くと、宣言するんです。 それが信仰生活です。
801 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:52
>>794 「イエスが愛せと言ったから、無理に愛する」というのは誤解です。むしろ、
万人を隣人として愛するイエスの生きかたに共鳴し、そこに自分の理想を見て、
一歩でもイエスに近づこうと努力するのです。「イエスと同じ精神状態になりたい」と
思っても、私はイエスではありません。それが証拠に、すべての人を自分自身のように
愛するなんてできません。ただ、隣人の「個」の尊さを理屈ではわかっている
ので、なんとか生きている間にイエスの言うことを少しでも実践できる人間に
なりたい。それが「自己効力感」だ、と言うなら、あるいはそうかもしれない。
しかし、違うような気もします。
>>795 クリスチャンの生き方…ですか。
確かに、私は、一貫してキリスト教という言葉を避けています。
もしも、イエスの自立の思想を、すべてのクリスチャンが実践すれば、
イエス自身が、そうであったように、
宗教団体への依存を辞めて、自由になってしまうのかもしれません。
それが無茶な注文だというのは、私も理解しています。
クリスチャンだから「神がいうからそれを行う」…うーん。
804 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 15:58
695さんに同意。人間ではなく、聖書を基準にするから話がおかしくなる。 聖書は書物に過ぎず、批判しながら読んで参考にすべきもの。そもそも「愛」 を議論の対象にすることが間違っているのでは。観念化された「愛」はもはや 愛ではない。
805 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:00
>>804 聖書は単なる書物ではなくイエスの言葉です。
大体、676のキリスト教理解が浅いと思われ。
807 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:00
>>803 「神への依存」という言葉がいつのまにか「宗教団体への依存」に摩り替わりましたね。
前者はよきものですが、後者はよくないですね。
神つまりイエスキリストに完全に依存する人は、宗教団体へは、そもそも依存しません。
教会に通っても、教会に依存しません。
>>800 気持ちは、すごく伝わってきます。
それは神への依存と解釈してよろしいのでしょうか。
自由とは、信仰の自由に際してのみ発揮され、
あとは神の僕?奴隷?であるとなりますが、クリスチャンとはそういうものだと。
>>807 なるほど。摩り替わっていますね。撤回します。
810 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:03
>>808 突如「自由」という言葉が出てきましたが、
この世のあらゆる従属関係から自由になるのが、クリスチャンですよ。
パウロはこういいました。「真理はあなたがたを自由にします」。
あなたの言う自由とは?
>>810 突如ではない。彼は、自由意志の存在を前提としている。
812 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:05
>>807 >教会に通っても、教会に依存しません。
教会が教区をつくって信者を囲い込むのは何故?
>>813 地上的要請。真なる教会とは「見えざる教会」→囲い込んではいない。
>>811 ん? では、2chのこのスレにカキコをしたのは、あなたの自由意志じゃないと
でも? 自分のやることを神様になすりつけてはいけませんよ。
815 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:11
>>812 教区や規則をもつ教会もありますが、それは教会の役割を担うためですね。
信仰において自立した人は、自宅の部屋でも学校でも、職場でも、
「クリスチャンのあるところが教会」です。
教会にはいくつかの役割があります。一つは信徒があつまり礼拝するところです。
もう一つは、信仰において未熟な人が育つ場所です。教会の規律は、
信徒を育てるというところで効力を発揮しますが、信仰において自立した人
(成長したクリスチャン)にとっては無力であり、不要です。
しかし集団として必要が認められます。
>>810 いえ、お話を伺う限りでは、クリスチャンは、
神やイエスの言葉を、ルールと捉えることで、それに縛られています。
それは、パリサイ派の人々が、自分たちが律法を守ることを
正当性の根拠としたのと同じことで、
イエスは、まさにその部分を攻撃しているのだと、私は思います。
自由とは、ルールに縛られない状態です。
気まぐれに行う、行わないを決めても、誰にも(神にも)罰せられない状態をいいます。
>>814 限られた意志の中での行動の選択にすぎない。人には制限的な自由意志しかなく、
その中でもがき苦しむ存在にすぎない。
「制限的自由意志」と「自由意志」が同意であるとは考えない。
818 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:14
イエスの愛、平等、自由、個、自尊心、 経済、民主主義、国家、科学、 これらがキリスト教の成果なのです。 そして世界はその恩恵を受けている。 世界に幸あれ!
820 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:15
>>816 あなたの意見はキリスト教のものではない。
まるで神を否定した共産主義者のようだ!
821 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:16
>>816 信仰的に自立したクリスチャンというのは、神の御心と自分の
やりたいことが一致していますね。それをキリスト者の自由と言います。
あなたの言う「お話を伺う限りでは、クリスチャンは」以下は、
実際、そういう人がおります。そこからいかに、神に自分を預けられるか、
明渡せるか、というところですね。つまり求道ですね。
洗礼受けたから、信じたからクリスチャンというのではないですね。
あとは新約聖書のイエスの言葉を読み解いていけば、意味がわかるのでは
ないでしょうか。
822 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:16
>>807 しかし、宗教は宗教団体とは切っても切れませんね。歴史的にもそうです。
何故でしょうか。
>>805 語源的にも書物であることは間違いない。「イエス」の言葉そのものか否
かは疑わしい。盲信は、イエスも含めた人間・自然を創造した神の意思では
なかろう。
>>816 全く逆です。自由意志があるから、罪(の可能性)があり、罪に対して
責任を負うから罰せられるのです。自由意志がなければ、何をやっても罪
にはなりません。不可抗力という奴です。
制約がない完全自由なんてものは存在しません。数学の世界でも、実数
の二乗は正になります。秩序があるところ、必ずそれに見合った制約
条件があります。制約条件がない状態には混沌しか生まれない。
神の義とは、1+1=2が全宇宙について普遍的に成り立つことです。
そこに1+1=3という自由は存在しえません。
825 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:21
>>820 共産主義者も、「共産社会ユートピア」という自らの「神」を信仰して
います。
>>820 私は、まじめにお答えしています。煽りなら今だけご勘弁。
飢えて満たされない人、自分が無価値な人間だと感じる人、
他人を愛そうとしても、持ち出すものがないと嘆く人にたいして、
すでに手の内に、必要十分の愛があることを気づかせてくれる存在。
それが神です。
決して否定してはいませんよ。かといって、神に依存してもいないのです。
827 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:21
>>822 >宗教は宗教団体とは切っても切れませんね。
そんなことはないですよ。無教会な人もいます。宗教団体があるからキリストを
信じる時点では、まだ信仰はよちよちの赤ちゃんですけどね。
教会というのは、信者が集い、育ち合うところです。必要な人は行くのです。
あるいは、育てるために行く人もいます。それぞれの役割があります。
>「イエス」の言葉そのものか否かは疑わしい。
これは信仰によるところであり、議論するところではないでしょうね。
あなたのように考える人も当然いるし、いてもいいのです。
しかし、信仰によってそう信じている人になにを言っても無意味です。
キリスト者にとっては、非常に有益な書物だからです。
828 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:23
>>826 神が人のためにいるならば、そうでしょう。
しかし人が神のためにいるのがキリストの教えの大原則です。
私も、あなたの一連の主張は共産主義的だと感じます。否定は
しませんが、クリスチャンとは異なります。
自由意志がないから人は罪に陥る。 >制約がない完全自由なんてものは存在しません。 その通り!だが、それは、構文的に”「自由意志」はない”ということに なる。 神の義じゃなく神の摂理が正しい。
830 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:27
>>827 >そう信じている人になにを言っても無意味
それを「盲信」という。人間としての成長にとって極めて有害です。
>>814 しかし、そうであっても「どの選択肢を選ぶか」についての自由意志は
あって、それに応じた責任を負わねばなりません。
そもそも、人間の側に自由意志などないという考えは、あなた自身が
考え出したものではありませんね。「予定説」あたりを鵜呑みにした
結果でしょう? 無批判にある説を信じることもまた自由意志であなた
がなしたことで、責任が伴うことを忘れるべきじゃありませんよ。
832 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:28
>>830 論拠も出さずに「〜かも知れない」で語る人が、
有害だの無害だのいえたもんじゃないでしょ。
>>824 その解釈では、
クリスチャンの罪はすべて神の罪になって、やりたい放題ではないですか。
自己責任を厳しく追及する国々の宗教とは思えません。
自由主義におけるルールとは、
自由を確保するために設定するときにのみ、
その存在を是認されるという考え方です。
完全な自由とは、何を指しているのかわかりませんが、
自己効力感を感じるに十分な自由があれば、それで十分なのです。
>>830 人は何かを盲信している。自分だけが「存在」の外で「意識」している
などと考えているとは、はなはだ、おかしい。
835 :
死後の世界信じないよ :03/01/27 16:32
横レスごめん。 なんか深い議論してますね。 「神への愛」と「愛への愛」の議論ですか? 「神への愛」は 神への依存でありますし、神から愛されることのみを目指しているようで、賛同できない。 「愛への愛」の 気まぐれであることの部分がどうも賛同できない。 やはり デウスの御大切でしょう。 おじゃましますた。。
836 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:33
>>833 >自己効力感を感じるに十分な自由があれば、それで十分なのです。
だからそれはあなた自身にとってでしょ?
長々と、何度も・・・。
>>831 だから、神の裁きは免れない。
「予定説」を(恩寵選択の摂理)を信仰告白している教団がプロテスタント
の中核であることを知っているのか?
839 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:38
>>838 じゃあ予定説を問題にしてくらさい・・・
私はそんなもの信じてないし。
>>831 それと、人の有限性については、カルヴァンを持ち出さなくとも、古くは
スピノザ、そして、現在の哲学の主流にある。
>>833 実際に、自由が両立する場合の方がめずらしいのです。ここに金貨が一枚
だけあって、3人の人が各々所有する自由を主張したら、何らかの妥協案を
出さねばなりません。
自己効力感についても同様で、3人の「競争で一番になる自由」は両立しま
せん。自己効力感が誰にも得られるような自由の組み合わせは存在しな
いと思います。
世の法律を初め、ユダヤ律法についても、自由に制約があることを前提
として作られたものです。自由に制約がなければ、最初からルールなど
必要ありません。いわば、個人の自由が不公平に侵害されないように、
制約を設けたのが法律です。695さんは、自由に制約がないことを前提
にしているから現実に合致しません。
842 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:48
>>841 禿同!!特に、>695さんは、自由に制約がないことを前提
にしているから現実に合致しません。
人間から神をとったら暴走するんだよ。 共産主義の失敗はそれだろう。 どうしてそれくらいのことがわからないかな。
846 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 16:55
>>845 842ではないが、833のレスをずっとさかのぼって読んでると、
そうなるよ。
>>841 676さんは、自由を、好き勝手にできることだと、考えていますか?
自由は、少々ややこしい概念で、誤解している人も多いのです。
自由と、不自由、どちらを選びますか?
と聞かれて、自由を選ぶ人は、
その行為自体が不自由であること気が付いていません。
不自由を選ぶ自由は? 捨て去ってしまったのでしょうか。
私たちは、それを二者択一で選ぶように見えますが、
それは見えないものを見ていない状態です。
私たちは、モノを二者択一で選択する際には、
・いやいや選ぶ
・なにげに選ぶ
・よろこんで選ぶ
・大喜びして選ぶ
などの、認識の違いがあります。
自由とは、それらの認識まで含めて、自分で選ぶ自由がある状態、
ということなんです。
日本的な発想と違うでしょう?
胎内で人間の体が形作られるとき、最初に手全体ができて、そこに4本の筋が ついて指になります。この時、筋の部分にある細胞が自発的に壊死するように なっています。もし、その細胞が「生存の自由」を主張したら、指がないまま 生まれるしかありません。また、現場監督のようなのが居て、武器を片手に 「お前ら、大人しく言うことを聞けよ」と命令するわけでもありません。その 細胞たちは、自発的に壊死を遂げていきます。 指という秩序を形作るには、細胞の成長に対する制約が不可欠です。そして、 「全体」からの強制ではなく、「全体」=「個(自分)」という観点から、 「自分のために」犠牲になっていくと思います。 逆のケースで、個々の細胞が自由を主張して、際限なく増殖していけば、それ はガンになります。そして、「全体」は死に至ります。制約なき自由もまた、 同じ運命を辿ります。
851 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 17:05
695 悪いけど、別スレ立てて。スレ違いになりすぎてる。 あと、695さんの論は、キリスト教が権威とするところの聖書と まず反するし、遂せの主張は「キリスト教の主張」ではない。 混乱を避けるために、今までそうされていたように「キリスト教」ということばは 避けられた方がいいと思う。 695さんが「これがキリストの教えです」というなら、クリスチャンは 反論しなければならないが「これは私の主張です」というなら、まったく自由だ。 695さんの哲学として、新たに立ち上げ、布教してくれ。
>>849 っていうか、レスになってないよ。教養課程の形而上学をやりなおしたら?
>>841 自己効力感については、誤解です。
3人の「競争で一番になる自由」は、誰に何も与えていません。
何も与えていないのであれば、自己効力感とは無関係です。
私は、他人に与えることの自己効力感を指しています。
競走で一番になるのは、自己達成感? いやいや、
用意された競走にランクされるだけですから、居場所の確保の満足感でしょうか。
…その考え方の影に「集団」への依存が潜んでいるのがわかります?
>>851 そうですか、了解です。
イエスの思想とキリスト教。
違うということで、終わりにしましょう。
>>853 むしろ、神の前での孤独を読み取るがな。
856 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 17:09
857 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 17:11
イエスは、人のために神があるなぞ、一言も言ってないよ。 すべては神に栄光を帰すためとおおせられた。
695のような真面目な厨房は手に負えんな。
>>854 つまるところ聖書学のスレになりそう。
せいぜい、ブルトマンから始めるか。彼が、その名を知っているかどうか
疑わしいが。
>>857 言ってませんね。
神に依存しろとも言っていません。それを強調したくて。
でも宗教自体が、頼るべきものですから…変なことを言っていますね我ながら。
>>858 うーん。真面目はいかんですか。
でもここまで全く話が通じないと、結構ショックだったりします。
>>860 真面目はいいんですが、どうも、「存在」に自ら、飛び込んで「意識」してない
感がある。
>>849 経済学では、「機会費用」という考え方をします。
http://www2.nasicnet.com/~tell-g/kougi44.html つまり、選択肢については、それを選択しなかった場合も考慮にいれ
ます。経済は、結果の白黒がはっきりしていますから、選択しようと、
選択しなかろうと、答えが出ます。日常の選択は、経済よりもあいまい
ではありますが、選択しない結果にも責任を取らねばならないことに
変わりはありません。責任を逃れるために、選択肢を放置するという手
はありえないのです。それがいやいやだろうが、大喜びだろうが、その
選択の尻拭いは選択した人に求められます。
659はちいヨハ?
>>853 あ、そうでしたか。
仮に他人に与えるかどうかという場面について考えてみると、与えるという選択
肢と共に、与えないという選択肢についても、その人は責任を取らないといけ
ないと思います。最初から見なかったことにしても....ダメだと思います。
695さんの問題提起は、個人的に非常に参考になりました。自由意志の議論など
でも明らかなように、私は「予定説」のような既存教義には反発を感じていま
すし、「神が命じるから神の言うとおりにする」という文章にも、「二通りの
読み方」があると感じています。上の方で議論した「千」と「千尋」という
視線の違いなんですが。それで、同じことを主張されている二人のクリスチャン
(らしき人)が、実は全く正反対のことを考えておられるらしい、ということ
を目の当たりにして、驚く場面もありました。少なくとも、695さんは私にと
って隣人です。長くお付き合いいただいて感謝しています m(_ _)m
>>862 あー、それは正月に経済屋と話したときに出た気がします。
いろいろ勉強させてもらいましたが、自分のものになっていません。
676さん、自由における自己効力感とは、
できるだけ大喜びでなにかをすることを、
邪魔されないことがポイントだと思うのです。認識の問題ですね。
皆が、与える行為(=愛)の喜び(認識)に充実している世界、
素晴らしいと思いませんか?
というわけで、ではでは。失礼いたします。
>>863 ? すみませんわかりません。
>>861 「意識」していませんか…
私は、自分で確かめたことだけを語ってきたつもりなんですが、
違う立場の人の話を聞くと、いろいろ参考になりました。
みなさん、お相手してくださって、感謝です。ではでは。
>>866 ちょっと間違えました。
>できるだけ大喜びでなにかをすることを、
>邪魔されないことがポイントだと思うのです。認識の問題ですね。
どんな感情で選ぶかを邪魔されないのがポイントなんですね。
危ない危ない。
>>864 とんでもないことです。
ここまでお付き合いくださって、私こそ本当に感謝しています。
ありがとうございました。
868 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 17:39
大団円。
さあ、みなさんも
>>1 さんも一緒に
ハレルヤ!
予定説を枝とする、カルヴァンの思想体系は、実に、理性的で一般の人 にも受け入れられやすいと思うんだけどな。 (旧教の教義とは違って)
872 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 17:52
695さん。逝かないでくれ。あなたのカキコに対する反応に、キリスト教の 問題点が如実に現れている。あなたの考え方は、キリスト教だけでなく、すべ ての宗教にとって必要だと思う。
874 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 18:17
>>872 具体的に聞かせて。<問題点が如実に
如実にいえるような事実は発見できなかったが・・・
875 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 19:44
>>874 問題点は多すぎて書き切れない(笑)。695さんのカキコで指摘されているとおり
です。基本的には、観念の産物に過ぎない「神」を、現実の人間に優先させること
ではないでしょうか。そのために自己中心主義になり、「神」の名の下に無数の殺
戮が行われました。また、真偽の程も定かでない大昔の「書物」の一字一句を無批判
で信じることも知性の放棄です。要するに、いわゆるキリスト者ほど真実の神から遠
い存在はない、ということです。
>>875 キリスト教徒が一字一句を無批判で信じている?
キリスト教の詳細を知らんようだ。
877 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 20:12
>>875 つか、695さんの主張、
「人」が先にあって、神をどう利用するか、つーのはまるまる共産主義の
ソレやん。キリスト教は「神」が先で、人が信仰によってどう生きるかを
書いている。意見が対立するのは当然だし、それより君は共産主義の
問題点を洞察した方がいいと思われ。
878 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 20:17
>>875 スレも聖書も読んでないのがバレバレだぞ
879 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 20:48
>>877 人が先なら共産主義、神が先ならキリスト教?
単純やなあ。あんたの頭にはその2つしかないのか?
695は資本主義万歳みたいな匂いを感じたがな
それはそれで極端だが、キリスト教徒が馬鹿にされている理由はなんとなくわかった
880 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 20:49
共産主義もキリスト教もユダヤ一神教の系譜。共産主義は一億人を殺し、 キリスト教はウン億人を殺した。いずれも、人命より単なる人為的観念 を優先する。どこが違いますか。
881 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 22:09
882 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 22:19
キリスト教徒って批判を浴びるとよく相手を共産主義者呼ばわりしてるけど、 部外者から見ればその二つは同じ穴のムジナだよ。 要は近親憎悪じゃねーの。
883 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 23:06
キリスト教と共産主義が同じならなんで別の単語が存在するんだ?
884 :
名無しさん@3周年 :03/01/27 23:29
個の確立。。。結局こんな議論になったのね。 よもや千と千尋からこんな話になるとは思わなんだが(苦笑 ところで貴方達は日本は好きですか? なんか日本的どうこうとか仏教側とかいう書き方が結構あった 気がするが・・・
885 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 01:03
かなり良スレだったんだが。
全部読んだ。 かなり疲れた。特に目が。 聖書を読んでみようと思った。以上。
この板は一スレ500レスの方がいいと思うよ。 議論も500までがおいしいトコロで、あとはどうせ惰性。 500までいかないスレがほとんどだし。
>>875 真実の神と書いてるが、それは、人為的観念ではないのか?
889 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 08:19
890 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 08:42
いやー面白かった、疲れたけど。
695はいかにも自分の意見のように偉そうに書いているが、要するにキリスト教文化の自由主義思想だろ。当たり前じゃん。それに噛み付いて反論しているクリスチャン連中は、無知大恥つか悪魔そのもの。
ともかくさ
>>1 の疑問にちゃんと答えているでないの。頭を使わずに神様、神様、と逃げる馬鹿が嫌われるのがわかったろ。スレ違いとは思えん。500以降はクリスチャンには都合が悪い内容だった、てだけだろう。
じゃなー。
891 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 08:45
>>889 その傲慢さの根拠は? (クリスチャンってこんな奴ばっかりな。)
892 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 08:52
>>891 底の浅い思慮から来る質問はうぜーんだよ
そんなのばかりじゃ疲れるぜ人間
相互理解・問題提起のきれいな終わり方をしたようだから、荒らすな寄生虫ども。新ネタを振れ。
894 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 10:57
底の浅い批判・・・良くこの板で聞くけどさ、ってか、某新興宗教の先生の 18番でもあるわけだがキリスト教徒は何億人も殺した→だからロクな宗教じゃない って、それ、ソースは? そして仏教徒は?神道は? 逆にキリスト教がベースになってる今の医療制度やら近代科学やら社会保障制度は 何人を救った?仏教は?神道は? それから十字軍ね。キリストに背く人は人を殺すよ。人は野放しになれば人を殺す。 私たちの心の中をのぞけばその通りだろ。生まれてから今まで一度も、 自分以外の人を「邪魔だな」と思ったことがない人がいるか?「氏ね」と思った ことの無い人がいるか? キリストを十字架につけたのも、その人間の心だよ。その自分の心と向き合って 古い自分に死ぬのがキリスト教だ。表面的な批判こそ外道じゃないのか?
895 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 11:14
896 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 11:18
>>890 スレ一通り見たけど
>頭を使わずに神様、神様、と逃げる馬鹿
そんな奴いなかったと思うぞ、反証もしっかりしてたし正直勉強になった
つか、お前このスレにいただろ(w
897 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 12:21
>>894 いやー、十字軍の話は身に詰まされるねー。なんてったって彼ら(=我々)がやったことは、(全体として)主に対してやったことだから。
いまの戦争の世界もそうだから、悲しいなぁ。人類全体で神に反抗してるようなものだしね。
898 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 12:28
まぁ、社会保障制度や医療への貢献は当たり前のことだな。神の国の民ならば。 取り立てて強調することはないが、それに気付かないで当たり前に思って恩恵を受けているひとがいるのは遺憾だなあ。
899 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 12:29
>>897 その「全体として」の論理が無意味だというのが
このスレ後半の趣旨だったんだけどね。
どの時代にも、主にはむかう人と主に従う人はいると思うよ。
どの時代にいても「お前はどうするか」というのがクリスチャンが
選択するべきところだと思われ。
迫害者を氷の穴から助けるようなことは自分にはできんがな・・・。
900!
901 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 12:44
俺は、迫害者も助けたいなぁ。。 どうすればいいんだろう・・・?
902 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 12:54
>>901 氷の穴に落ちた迫害者助けた人の話は、キリスト教史ではなかなか表に出てこない
話なんだよね。キリスト教の中で最も立場の弱い派の話だから。
最近は、昔の話ということで結構引用されてるみたいだが。
まあ、歴史に残らないでも、死の瞬間まで主に従った殉教者は大勢いるけど
いざというときに、その人の本当の信仰が分かるっつーことなんだろうなあ。
それはどこに所属してるとか、どこの聖書読んでるとかそういう
話ではなしに、その人がどんな信仰生活送っていたかということかもしれない。
やぱり、自立した信仰ということではないんかね。
その人は結局処刑されたんだけど、最後に証しする時間を与えられて
<「汝の敵を愛せよ」という言葉がはっきりと聞えました>、だと。
たとえば今大震災来たら、クリスチャンどうかなあ。
神に従いますといっても、毎日御言葉を読んで祈ってる人は、少ないのでは
ないかなあ。どうしたら助けられる?って結局、自分の受けた救いと、
主の言葉から離れないで生きていくことではないかと、私は思う。
903 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 13:03
自立した信仰 なるほどね
904 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 13:12
人生で一番の「いざというとき」って、死んで、神様の前に たった一人で立つときかもしんない。 自分のやってきたことを一つ一つ暴かれたら、 どんな雄弁も、仲間も、組織も、何の役にも立たないだろうと思う。 その時、イエスキリストが弁護してくれる、というのが「救い」やね。 つまりは、今この瞬間も裁きの時と同じく、神と一対一の関係の上にいる。 本当は私という存在は神と一対一の上で生まれて死んでいく存在だ。 だからこの時間も、たった一人の友であるイエスキリストに弁護してもらう。 ・・・それがキリスト教であり、キリストの救いだろうね。 信じるか、信じないか別として、キリスト教って何か、と聞かれたらね。
905 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 13:23
>904 イエスは弁護してくれるでしょう。しかし、それはイエスばかりじゃない と思いますよ。たとえば、私が仮に、あなたの裁きの場に招かれた陪審員 だったとしても、私はあなたのために弁護するでしょう。なぜなら、私も イエスの思想に感銘を受けているから。 こんな風に、すべての人々があなたを弁護する側に回ったとしたら、 それでも神様は厳しい裁きをあなたに与えるんだろうか...。 ふと疑問を感じたので、書いてみました。気にしないでください。
906 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 13:29
>>904 正直な自分のまっすぐな心が、自分を弁護していれば、
すべての人が弁護してくれなくとも、イエスが弁護してくれる。
正直な自分のまっすぐな心が、頼りにならない悪さをしていれば、
すべての人が弁護しても、救われない。
でも、救われないことに気づけば、それは、正直な自分のまっすぐな心が復活したときだ。
イエスは必ず弁護してくれる。
>>905 弁護してくれるのはイエスばかりじゃない、人が陪審員になるというのも、
なんとなくファンタジックでいいですね。
でもどうでしょ、たとえば私は、陪審員命じられたとして、そんな役割
果たせないと思いマス・・・何しろ相手の心の中すらわからないし、今日起こる
ニュースを見ても、真実がどこにあるかなんて、分かりません。
全部上から見ていて、お見通しの方が裁かれるということの方が、すごい安堵を
覚えます。何しろ陪審員制度って、裁判官が間違いを犯すことを前提にして
出来た制度でしょ?
でもいろいろ感じるのは、いいんじゃないでしょうか。
私はキリストのことば、キリストが約束されたことを信じている者なので、
信仰そのものについて、ああ書いただけです。
908 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 13:36
>>906 >正直な自分のまっすぐな心
うーん、それってどんなものだろう・・・イマイチ、想像がつかない。
現実この世の裁判でも、お互いにお互いが、自分は正直でまっすぐだと
言って相手と責め合っているし。
「自分はまっすぐじゃない」でも「イエスに従うから、イエスは弁護してくれる」、
聖書の約束は、こっちの方なんですけどね。
>>905 でも、
最後の審判とか、神の御前にたったときどうか、というのは
分かりませんが、この世では明らかに、私たちは互いの陪審員であると
聖書は言っていますね。
「あなたが裁くとおりに裁かれ、計られるとおりに計られる」
つまり、どんな「陪審員人生を送ったか」というのを、
神は見ておられると、書かれていますね。
910 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 14:05
>>908 正しいとか、善だとかと誤解してませんか?
他人に見せるよそ行きの心ではなく、
他人との関係から切り離してみて、
自分の本当のところを自分では知っているでしょう。
それが、正直な自分のまっすぐな心。
自分を邪を隠したり、善人のフリをしていると、
その心を忘れるのが得意になるんですよ。
911 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 14:07
>>910 自分に対する誠実さ、ということですかね。
自己弁護をしていたら、忘れてしまうものでしょうね。
912 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 14:08
>>909 他人を批判する習慣のある人は、自分も批判する習慣があります。
913 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 14:12
>>911 そうでしょうね。
誠実さ、と言うと、なにやらいかめしくなりますが…
自分の本当のことは、忘れようとして逃げても、逃げ切れませんよね。
思わぬ反響があったようで、大変うれしいです。>ALL
>>909 イエスは、もっとも弱い者にしたことは、私にしたことである、と言っています
ね。ちょっと拡大解釈して、弱い者、小さい者から見て「善人」か「悪人」か
という判断は、そのままイエスの目、さらには神の目に映るものと同じじゃ
ないのかな、と思いまして。
天国へ入るには、赤子のようでなければならない、というのも、赤子から嫌
われるようでは、神からも嫌われる、という風に見ることもできるように思い
ます。少なくとも、誰からも「あの人は親切で、いい人だ」と誉められる人が
神から厳しい裁きを受けるようなことは、原則的にないのじゃないでしょうか。
>>910 ,
>>911 たとえ、その人が気付かず罪を犯したとしても、他の人から指摘された
時に自分の非を素直に認めて、心の底から悔い改めたならば、よほどの
ことがない限り、許してもらえるという気がします。
私も、日常生活で思わず人に迷惑をかけてしまいますが、こちらが素直
に謝れば、たいていは許してもらえます。時に例外はありますが。神様
だって同じだという気がします。
>>910 さんのおっしゃる通り、自分の
邪を隠したり、善人のフリをする人と比較するならば、はるかに許し
やすいと思います。それは、人間でも神様でも変わらないという気が
します。
916 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 15:50
>914 偶像礼拝をしていても大丈夫なのかな?
>>916 さあ、どうでしょう。無知から偶像崇拝している人もいるでしょうし、
形だけ偶像崇拝を改めたとしても、裁きの場では誤魔化せないでしょう。
918 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 18:27
神が創ったものが人間なら、人間が作ったものが偶像なわけですね。 偶像を礼拝するというのは、逆の方向に向いています。 しかも偶像というのは、なにも形あるものとは限りませんからね。 心の中に、人間が作ったもの(偶像)があれば、同じこと。 神の作った機能と、完成体であるイエスだけが信用に足るもの。 それらは考えるものではなく、胸の奥で感じるもの。
>>872 が厨房の最たる存在と言う事ははっきりしている。
920 :
名無しさん@3周年 :03/01/28 22:13
正面切って堂々と自説の主張もできないくせに、人格攻撃だけはいっちょまえな小動物が。
921 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 02:50
人間でさえ 子供の自立を喜べる親もいるのに 神は自分に従順でない人間を地獄に落とそうとするかね?
イエスの贖罪は成立するとします Aさんは悪意を持ってイエスの救いを拒絶したのではなく 善良な人間ではあるが無知であるがために 「キリスト教は違うだろう」と自分なりに判断しました この結果Aさんは地獄へ落とされるとしたら 神の人格は悪魔の人格と変わりありません
923 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 02:53
924 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 02:55
もしも
>>921 のような神がいるとしたら
その神は(子供の自立を喜べるような)人間よりも
未熟・下等な存在といえる
925 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 02:56
926 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 03:02
人格の成熟度↓ 神>>>>>>>>>>>>イエス=ゴータマ・シッダールタ>>> >>>子供の自立を喜べる親>>>>>>>>>>>>非キリスト教徒を地獄へ落とす神
927 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 03:04
928 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 07:52
イエスは神の子といっても、創造神ではないからな。 どちらかを取れといったら、人類のほとんどは創造神をとるだろう。 イエスをとるのがクリスチャン。
929 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:10
>>918 そういう意味では、イエスが生きている当時は、イエスは偶像ではなかったが、
イエスが死んだ、後世のクリスチャンにとって、イエスは偶像になっている。
偶像礼拝がどうの、というのは、いまさらな気がするな。
930 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:20
旧約聖書をよく読んでみるとどんだけ罪を犯してもなお赦そうとする. 忍耐の神であることがわかると思います ・・・まず聖書読みなよ 話はそれから
931 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:23
てめーで創っといて忍耐もクソもあるかよ。
932 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:25
>>928 この方は世のはじめからいらした とあるからな
神と人との関係のために人の姿をとってこられた方。
・・・というのが、聖書の証しするところのイエスキリスト。
それ以外のイエスキリストがあるというなら、それは
私たちが信じているのとのは違う人、ひと違いだよ
933 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:26
>>931 好き勝手なことしてるから相手も忍耐してるんだろ
934 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:32
>>933 その好き勝手にする意志を与えたのが神なわけだが。
異教徒を作ったのもユダヤの神なの?
936 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:40
異教徒になる人を作ったのは神。アダムとイブという二人の人間から多くの子孫が出た。
937 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:46
>>932 それじゃあ、オカルトでしょう。
生物学的にありえない。
信仰を妄想に貶めるのであれば、それでも構わないですが、
いまだに地球平面説や、地動説を支持している人がいるようにね。
でもそれを他人に広めるのは、害悪でしかないですね。
938 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:49
異教徒を作ったのは別の神だよ。
940 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 08:57
>>929 なるほど。それは私も同意します。
もしもイエスが現代に出現して、膨れ上がったキリスト教信者を見たら、
「下がれ、サタンよ!」と言い放つかもね、愛をこめながら。
イエスの示した、人間の精神の発達方向は、
イエス出現以前には眠っていたもの、もしくは辛うじて存在していたものでしょう。
イエスの教え以降、その行動・思考パターンは取り込まれて、
西洋人の無意識下に、(ユングの)元型としてのイエスが眠っている。
そういう意味では、イエスは、
現代の欧米においては、まだ生きているのだと思います。
愛や自由を、汚したりすり替えたりする人はいても、否定できる人はいない。
これも、れっきとした、ある種の行動・思考パターンですから。
941 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 09:00
>>938 イエスの言葉の本当のところは、イエスにしかわからないでしょう。
それ以外の人によって「根幹」は違うようですね。
私には素朴なオカルトにしか見えません。
942 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 09:04
>940 イエスが現れる前から、イエスが説いた「真理」は、生まれつき人間の 意識に埋もれていたはずですよね。そうでなければ、イエスが神の子なの か、悪魔の手先なのか、判断する術がない。 釈迦の場合には、もっとはっきりしています。釈迦自身、「この教えは 私の創見ではなく、過去の仏達が見つけた古道を再び見出しただけだ」 と言っています。イエスの教えの多くは、彼の創見と言うよりは、律法 主義によって形骸化したユダヤ教の原点への回帰を促したという感じが 強い。
943 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 09:23
人間の無意識には、
過去の特定の人間の行動・思考パターンが、
折り重なるように積み重なっています(ユングは、祖先である猿や哺乳小動物、
魚、原生生物に至るまでの記憶が眠っている、としています)。
その中で大きな塊となって、ある種の「型」を作っているものがあるそうで、
人間の無意識下の行動・思考には、
その「型」がイメージ化して浮かび上がる…
だから、時代も場所も無関係な2人が、似たような行動・思考をとる…
その型が(ユングの)元型ですよね。
イエスや仏陀の示した行動・思考パターンも、
そうした人類共通の無意識下の財産になっている、としたら、
イエスや釈迦以前にあったかオリジナルなのか、見方が難しいですね。
確かに
>>942 さんのように考えることも、できると思います。
>943 私は、イエスや仏陀が「創造神の使いとして人類を救済するために派遣された」 とする見方を否定するつもりはありませんが、仮にそれが本当だとしても、 イエスや仏陀の教えを聞いて理解し、それが「真理である」と納得する時、 自分の心で感じるものだけを頼りにして判断するしかありません。 神学の観点からすると、人間が神の意図を想像してみること自体が冒涜で、 偶像崇拝だ、という考えも成り立つのでしょうけど、人間の側に手がかりすら 与えられないような神を信じるなど不可能です。ましてや、聖書に書いてある 神を無条件に信じるという行為は、単なる理性の放棄にすぎず、実のところ、 その人は何も信じてはいないのだと思います。いや、自分が本当に何を信じて いるのかわからず、他人の顔色を見ながら、信じているふりをしているだけ でしょう。
945 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 13:19
>>944 そうですね。人間が神様を信じるなんてとても出来ないこと。 それなのに、地球上にはクリスチャンが沢山います。 それは人間には出来ないことも神様には選んだ人間に聖霊を与え、 人間の魂の父を気づかせてくれたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、救いを与えてくれたのです。 ハレルヤ!! 942さんがどうか、その時を与えられるようお祈りしています。
946 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 13:33
ユダヤの神にそんなに魅力はあるかな。 ユダヤの神がどういうものか、もう少し分析してみたほうがいい。
947 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 13:48
キリスト教に入信する人と新興宗教に入信する人の違いが分かりません
948 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 13:55
>>947 人はあまり変わらないかもしれないですが、行く先は違います。
949 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 13:58
むしゅうきょうなひと もっとわからない。 どうぶついか おつむ こしょうなやつ むしゅうきょう。 きむいるそんでさえ きりすときょうだった。
>945 >それは人間には出来ないことも神様には選んだ人間に聖霊を与え、 >人間の魂の父を気づかせてくれたのです。 「人間の魂の父」=「(ユングの)元型としてのイエス」と読み替えれば、同じ ことを言っているのだと思います。自己欺瞞さえなければ、どちらでもいい ような気がする。人間が解る神、人間が求める神でなければ、人間を救うこと などできないでしょう。道端でこけてないている幼稚園児を救うには、同じ 目線まで身をかがめて抱き起こさなければいけない。また、幼稚園児が理解 できる言葉で励まし、いたわらなければ、幼稚園児は「救われ」ません。
951 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 14:20
>>949 なるほど、キリスト教徒ってこんなアフォばかりなんですねw
952 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 14:39
>942 本当にそのとおりです。 だから、キリストを遣わし 神は私たちに神さまがどういう方なのか教えて下さいました。 だからイエス様はとても貧しい姿で、最底辺の姿になられ、 人間を愛し、へりくだって、わかりやすいたとえを使い奥義を語り 私たちの罪を帳消しにする為に、十字架刑をうけられたのですね。 罪というのは神様と離れてしまっていることです。 今までは牛の血で贖っていましたが、 それでは全ての人は救われません。 ですから、神様であるイエス様自らが自分の命と血をもって、 贖われたのですね。 942さんはそれを信じれば救われるのです。 そして、イエス様私の罪を許してください、教えてくださいと 祈ることできっと色んな事を神様から直接教えてもらえるように なります。私もお祈りしています。
953 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 14:43
>>947 主を見出すまでガンガッたか、テキトーなところで手を打ったか
の違いだけです。まさに紙一重の差ですが祝福は0と1ほどの違い
があるでしょう。
954 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 14:45
>951 そのかたがキリスト教徒かどうかはわかりませんが、 もちろんクリスチャンには色々な人がいます。 人のスタートは様々だからです。 でも、ゴールは神様が共にいらっしゃいますので、 必ず天国にいけますし、この地上でも、 心の中はどんどん平安になっていくのです。 神を愛し、人を愛せる事ほど、幸せなことはないです。 そうすることで、 確実にあなたもあなたの周りも変わってくるのですから。 主の祝福がありますように。
955 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 14:50
>>934 親に向かって「勝手に生んでんじゃねーよ!」と悪態ついてる子供に見える。
956 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 14:58
>>954 某掲示板を見るとクリスチャンて醜いなと思うけど。
宗教的信条だがなんか知らんが、あんなオゾマシイことを言うとは・・信仰は毒だね。
957 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:00
>956 それはどの掲示板なのでしょうか
958 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:01
インターネット上で某掲示板というと1つしか思い浮かばないわけだが
959 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:08
>956 確かに貴方よりも人間的に下だって思う人はいるでしょう。 でも、もし、貴方が信仰を持ったら、 確実に今の貴方より必ず素敵な人間になれます。 この世の一般的な価値観から自由になります。 貴方もその時がくればわかるでしょう。
960 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:11
961 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:21
>>959 > 確かに貴方よりも人間的に下だって思う人はいるでしょう。
俺の場合、アンタだな
> でも、もし、貴方が信仰を持ったら、
> 確実に今の貴方より必ず素敵な人間になれます。
何で、そんなことが言い切れるんだよw 自分の価値観を押し付けちゃだめよ
> この世の一般的な価値観から自由になります。
> 貴方もその時がくればわかるでしょう。
偉そうだなw あなたは神ですか?
962 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:23
>>960 確かに不気味なスレだな。。。で、どのコテハンがクリスチャン?
963 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:23
>>958 いえいえ、2つありますがな。
『あ』と『い』の『い』のほうでしょうな。
964 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:28
>961 経験してみて下さい。 どうか主の祝福がありますように。
965 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:31
ア〜イ アマァ〜 ナンチクライスタァァ!!!♪
966 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:33
>961 むきになっているところで もう、すでに神さまに捕らえられている証拠です。
967 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:36
968 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:41
>967 かわいい。
969 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:44
>>966 腹抱えてワロタ 宗教野郎の脳味噌はどうなってんだ
970 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:49
>969 あなたのささやかな安らぎになれば嬉しいです。
>>969 ・・・。同感せざるを得ません。
イエスに寄生しているクリスチャンの脳みそは、滑稽だと私も思います。
972 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:54
>>971 はあ?信仰を馬鹿にするのはどうかと思われ。
973 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 15:56
このスレを読んで分かったこと クリスチャンは釣られすぎ
>>972 いえいえ、信仰を馬鹿にしてはいませんよ。
イエスに寄生しているクリスチャンと、そうでないクリスチャンがいるという意味です。
信仰はリハビリのようなもので、その状態自体は到達点(イエス)ではありません。
イエスにすがりつづけて依存する限り、永遠にイエス(成体)にはなれません。
975 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:01
そもそも信仰が大事なのは解る。そういうもんだろう。 だったらだな最初から自分で ネ タ に す ん な よ と。
976 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:08
馬鹿にしたり煽りたいんだったら このスレ以外に行くとこあるのにね。 結局クリスチャンに甘えてんじゃないかな。 優しいから。
977 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:12
>>937 >生物学的にありえない。
そりゃそうだ
生物学には神が証明できないんだから、生物学で証明できるイエスがもしいたら、
それは神じゃないということになる(w
生物学には「世のはじめ」は語れないし、語ったたとしても「偶然が重なってできた」
と科学のくせに非科学的になっちまう・・・学問や知には限界があるし、
信仰はそれに依存しない。
978 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:12
>>974 それはキリスト教を捨てろと言ってるようにしか思えない。
ユダヤ教でも信奉しろってことか?
参加してくださった皆様、ありがとうございました。疑問に対してクリスチャン の方から直接的な回答は得られませんでしたが、その言葉に込められた想いから、 少しは理解できたような気もします。 元々クリスチャン自体は嫌いではありません。好感が持てる人もいればそうでな い人もいるという事で、そこはクリスチャンでもノンクリでも変わりありません。 ここで書き込まれた多くのクリスチャンは、好感が持てる方々であったのではな いかと思います。 ただ、やはりキリスト教の教義は欺瞞に満ちているという認識は変わりなく、決し て好きにはなれないのですがね(^^;
980 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:16
981 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:23
982 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:25
>>978 全ての人間が、宗教依存癖があるわけではありません。
宗教に依存しなくとも、精神が成長し安定した人間はいくらでもいる。
もちろんイエスもそのひとりです。
精神医学や心理学が、その中に価値観としてあらかじめ持っている、
目標となる精神状態ですね。
キリスト教に依存している限りは、
永遠にイエス(成体)にはなれないパラドックスがそこにあります。
983 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:34
別スレ建てられなかったの?
984 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:35
納豆を食べる人は理解できません。 どうしてあんなネバネバした気持ち悪いものを食べられるのでしょうか。 大体、納豆は臭いが傲慢で自分勝手です。
985 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:37
>>977 オカルトだけが宗教ではありません。オカルトが駄目だとはいいませんが、
白昼夢に頼らず、より現実的なアプローチで
イエスの言わんとしていることを把握しようと、努力した人々によって、
欧米の、自由資本主義や現代民主制などが生み出されました。
信仰には、様々なアプローチがあっていいのではないでしょうか?
自分以外は全てダメという態度こそ、イエスを偶像としています。
986 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:37
987 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:38
>>984 私もダメでしたが、小指ぐらいのからしを入れることで克服しました。
生ねぎの刻んだのを入れてもいいですね。
988 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:39
∧_∧ ( ´・ω・) みなさん、お茶もどうぞ。 ( つ旦O と_)_) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦
989 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:40
大人は納豆のナニを知っているのですか? 理解できません。 科学的に説明してください。
>>985 別にオイラはオカルトの話も、自分以外がすべてダメともいっとらんがな・・・
なんでそんなこといわれにゃあかんの。
お好きなアプローチがあればお好きになさるがよい。ただし人に噛み付いたり
押し付けたりしないでね。
991 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:43
クリスチャンと見ると、議論ふっかけたくてしょうがない人が昨日からいるらしい。。。 イエスと同等になりたいなら、自由になればいいのに。
992 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:47
つーか、自分がそうなってから論じるべしだな、少なくとも。 レスをどっちからみても、成体になられた方には見えないのだが。
993 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:47
>>982 イエスを知るには、聖書は重要ですが、
聖書の解釈として、精神医学や心理学のほうが、
共依存社会で育てられた牧師さんの言葉よりも、役立ちます。
仏教や原始宗教なども、取り入れられてはいますが、
やはり西欧で発達した、精神医学や心理学での理想像は、イエスです。
西洋の牧師さんの言葉や、著述は、そのまま、
人間の精神の発達を促すものとして、見事に心理学の方向性そのままですが、
日本人の関係者が語る言葉は、逆方向を向く依存的なものが散見されます。
なぜでしょうね。
日本人の無意識には、違う元型が沈んでいるのでしょうか?(w
994 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:50
2get
995 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:51
あほか
996 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:52
997 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:52
いろんな人がいるということで、いいじゃないですか。 面白いし。
998 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:52
1が心の照らしを受け、キリストに結ばれますように。
999 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:53
1000取れたらキリシタンになってやるよ
1000 :
名無しさん@3周年 :03/01/29 16:53
1001 :
1001 :
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