根本仏典のブッダの言葉

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1仏の教えについて
「修行者たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、
『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれらに対しては次のように答えねばならぬ。
『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、
というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察〔法〕である。
『これは苦しみ消滅である。これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察〔法〕である。
修行僧たちよ。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
−すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。
尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく
滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、かれらは、心の解脱を具現し、
また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
2仏の教えについて:03/01/17 23:11
ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について

「世界は常住なものであるという見解があるとき、清浄行に住するであろう」といことはない。また、
「世界は常住ならざるものであるという見解があっても、また世界は常住なるものであるという見解があるとき、
清浄行に住するであろう」ということはない。世界は常住なるものであるという見解があっても、
また世界は常住ならざるものであるという見解があっても、
しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり、これらの消滅を説くのである。
 〔次に「世界は有限である」「世界は無限である」「霊魂と身体とは同一である」「霊魂と身体とは異なったものである」
  「人格完成者は死後に存在する」「人格完成者は死後に存在しない」「人格完成者は死後に存在しかつ存在しない」
  「人格完成者は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもない」という見解についても一々同じことが繰返し説かれている〕

 それ故にここにわたくしが〔いずれとも〕記説しなかったことを記説されなかったこととして受持せよ・・・・

「世間は常住である」などということはわたくしの記説しなったことである。
何故にわたくしはこのことを記説しなかったのか?
何となればこのことは目的と相応せず、清浄行の基礎とならず、
厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならない故である。
 しからばわたくしは何を記説したのであるか?「これは苦しみである」「これは苦しみの起る原因である」
「これは苦しみの止滅である」「これは苦しみの止滅に導く道である」ということを、わたくしは記説したのである。
何故にわたくしはこのことを記説したのであるか。
マールンキャの子よ、
これは目的と相応し、清浄行の基礎となり、厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・安らぎのために
なるものである。それ故にわたくしはこれを記説したのである。
3仏の教えについて:03/01/17 23:45
さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について

(世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異った執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者で
あると称して、さまざまに論ずる。−「このように知る人は真理をしっている。これを非難する人はまだ不完全な人
である」と。かれらはこのように異った執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」
と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実な
のであろうか?
もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は
すべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるという
ことになる。またもしも自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには
知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは
各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、妄想である」
と言う。このようにかれらは異った執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事を語らない
のであろうか?
真理は一つであって、第二のものは存在しない。
4仏の教えについて:03/01/17 23:47
真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい 異なった真理をほめたたえる。
それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。
みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異った真理を説くのであろうか?
かれらは多くの種々異った真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまた
かれらは自分の思索に従っているのであろうか?
世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である。」
「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論
に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を
<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは
自分を賢者だと自認している。
5仏の教えについて:03/01/17 23:48
自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)とも
に愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の<道の人>のうちに
愚者は一人も存在しないことになる。
「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の
異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の
異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
自分の道を堅く堅くたもって論じているが、ここに他の何ぴとを愚者であると見ることができようぞ。
他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
一方的に決定した立場に立ってみずから考えを量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。
6仏の教えについて:03/01/20 02:21
age
7室丼 刀 ◆v/ClhaTjaY :03/01/20 02:29
先生!スッタニパータって美味しいんですか?
8名無しさん@1周年:03/01/20 02:50
蟹クリームスパです。
9室丼 刀 ◆v/ClhaTjaY :03/01/20 04:03

( ´_ゝ`)フーン、ソウ
10taitsu™ ◆bnx86/FFP2 :03/01/20 05:19
ってか、>>1
根本仏典で何が語りてーのよ?
意味解ってるの?

須らく信解されたし!
11山師さん(摩耶山):03/01/20 06:06
taitsu™ さん、オヒサ最近どこに入るの?
12山崎渉:03/01/20 06:54
(^^)
13taitsu™ ◆bnx86/FFP2 :03/01/20 12:15
>>11
いやいや〜、おひさです〜。w
2ちゃんは離れて、今は専らMXチャットだったりしてます。w
でも古巣も良いデスね〜、たまには。
14:03/01/20 12:51
はじめまして。私、頻繁ではないですが創価板にカキコしてる者です。
私は学会員の妻と別居してるのですが、あの教団の弱点が教義にあることは明白ですよね。日蓮の法華経優位説なんですから。
で、創価板で私がカキコしている「結婚したら強制入信ですか」というスレでは、こういう事を書き込むとスレ違いになりますので、
他のところで波木井という男を論破していただけないでしょうか?
私、忙殺されてまして、あまりカキコできないもので。。。この男は日蓮宗なんですが、まぁ同じ事ですねぇ。
皆様のお力をよろしくお願いします。
15名無しさん@1周年:03/01/20 13:06
>>14は仏教の何たるかが分かっていない。
>>3を読め!
16taitsu™ ◆bnx86/FFP2 :03/01/20 13:26
>>15
なはははw、禿しく同意。w
でも所詮は君もドグマに陥っていると思われ。。w
17taitsu™ ◆bnx86/FFP2 :03/01/20 13:32
>>14
ハキリをも飲み込む事が出来ない君に
法華経の何たるかが理解できてるとは到底思えない。

日蓮大聖人は後年で法華経すらも破折されているのはご存じない楊で。w

大事なのは経典じゃなく、真理なんですよ。w
18名無しさん@1周年:03/01/20 13:33
仕方ないよ。
迷いから正しい悟りに導くためには、誰かがしなきゃね。
でも、14が仏教というものを分かっていないのは事実でしょ。
事実を言語表現として指摘しただけ。
19:03/01/20 18:57
ありがとう。みなさん。神道がすきなんです、私。
20名無しさん@1周年:03/01/20 19:32
「悪魔は善行の功徳を求める人々にこそ語るがよい」スッタ二パータ
心のやすらぎを得る人は、善行で人を助け、よいことをやったことに喜びを見出す。
21名無しさん@1周年:03/01/20 19:54
>>1-5
ふーん。
まあ、いいんじゃない?
少しはまともなこと言ってるみたいだし。
22名無しさん@1周年:03/01/20 20:06
>>19
いろいろ大変でしょうけど、がんばってください。
23仏の教えについて:03/01/20 21:11
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ
24名無しさん@1周年:03/01/20 22:13
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生ける
ものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。〜どのような人にも、障害なく
怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
その心がニルヴァーナに近いのだろう。イエスは哀れみの心だという。敵に対して怨みを抱かない。
真理はひとつ、慈しみや哀れみの心に近いもの。
25taitsu™ ◆bnx86/FFP2 :03/01/21 01:13
>>24
フフフ
戯論だな・・・w

そもそも、ニルヴァーナ=涅槃とは何かね?
彼岸に達するのを涅槃と言うのではなかったか・・
では、彼岸とは? 
彼岸の向こうに真理が有るんだよ。w
その場所は・・・ここだよ。w
今自分が居るその場所に、彼岸が有り、
自分そのものが、真理の的である。w
解るかな?w
26:03/01/21 02:33
ここ気に入ったっす。居ついていいですかぁ?
27名無しさん@1周年:03/01/21 03:06
究極の理想に深く通じ、平安の境地に到達しようと欲する人の為すべきことは、次のようなものである。

有能にして高潔であり、正直にして率直であれ。
教えるにたやすく、穏やかで、うぬぼれを持たず、
満足して、支えるにたやすく、
俗世の義務少なくして、簡素な生活を送り、
平和を作り出す才能に恵まれ、腕は確かであり、
慎み深く、そして、支えてくれる者達に対して一切のむさぼりを持たない。

後に賢者の非難を受けるような行為を、いささかなりとも為してはならない。

心からこのことを願え。
すべての生きとし生けるものは、幸せであれ、平安であれ、
存在するいかなる生き物であっても
弱きものも、強きものも、例外なく、
長いものも、大きなものも、中くらいのものも、短いものも、
微妙なものも、粗大なものも、
見えるものも、見えないものも、
近くのものも、遠くのものも、
すでに生まれたものも、誕生を望んでいるものも、
すべての生きとし生けるものは、幸せであれ。
(続く)
28名無しさん@1周年:03/01/21 03:07


他を欺いてはならない。
誰に対しても、どこにいようとも、決して見下してはならない。
他を苦しめようという思いを抱いて
怒りといらだちに囚われてはならない。

母が子供を守るように、
その一人子を守るために命を懸けるように、
一切の生きとし生けるものに対して、
無量の慈しみの心を起こしなさい。
すべての世界に対する慈しみをもって
無量の心を深めなさい。
上に、下に、そして全世界に、
障害なく、敵意と憎しみなく、無量の心を起こしなさい。

立っていようと、歩いていようと
座っていようと、寝ていようと、
目覚めている限りは、
この心づかいをしっかりと保て。
この世、そしてこの時にあって
これを永久的な気高さと呼ぶ。

諸々の見解にとらわれず
気高く、完全最高の見能をもって
感覚的喜びへの熱望を克服せよ。
このようにして、人は二度と胎に身を横たえることはないであろう。
29名無しさん@1周年:03/01/21 03:40
仏典 スッタニパーダ「慈悲」全文でした。
30taitsu™ ◆bnx86/FFP2 :03/01/21 04:07
>>28
ソースは中村先生あたりかな?w

そのカキコの内容は理想論なんだよ。
現実からはかなり遠ざかってしまっている。

では、智者は具体的にどうしろと言われたのかな?
その云われた方法が果たして現代で実践可能であろうか?

所詮は、心に留め置いてそれでお終いなのである。ww

諸行無常、諸法無我、

一切皆苦、涅槃寂静。

ありのままを受け入れ、ありのままに生きて。
全ての答えは己の手の内に秘められている。
31名無しさん@1周年:03/01/21 04:23
>>30
釈迦が菩提樹の下で悟るきっかけは、何だったのでしょうか。
わたしは、瀕死の釈迦にスジャータの供養した一杯の牛乳だと思う。
その供養で、初めて釈迦は故郷に残してきた父母や、今まで育ててもらった親の恩を
感じて、反省したのではないだろうか。
ヨガで修行した肉体の『修行』の虚しさを知ったのではないだろうか。
その反省行が、「菩提樹の下の悟り」に導いていくきっかけになったのだと思う。
すなわち、病人や苦しむ物を救おうとする『慈悲』の思いである。
32:03/01/21 10:21
「慈悲」全文 拝見してマジ感銘しました。俺バカですから質問していいですか。
これは所謂「三蔵経」っていうか「阿含経」なんですか?
33:03/01/21 10:27
あっ それとコーヒーに入れるクリープに「スジャータ」ってあるけど
名前の由来は>31の話からなのかなぁ?勉強になるなぁココ。
34名無しさん@1周年:03/01/21 17:45
>>32
「スッタニパーダ」と言う経典で、阿含経とは別です。
岩波文庫からも出ていますが、文語訳です。

スジャータ出してる会社の社長が仏典から引用されたみたいですよ。
35    :03/01/21 19:00
>27 28 「慈悲」全文に感銘しました。
36仏の教えについて:03/01/21 21:26
スッタニパータ   慈しみ(全文)

143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、ことばやさしく、
柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、
諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、
安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、
中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何ぴととも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の(慈しみの)こころを起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。
   上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
   この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、
決して再び母胎に宿ることがないであろう。
37仏の教えについて:03/01/21 21:34
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ
38    :03/01/21 22:56
哲学より、どのようなことにもこだわりがないなら少しでも真理に近づける
だろう。釈迦は輪廻転生を終結させた、死んで成仏できた心境に立って語られている
のだろう。成仏できた者はこの世のことは考えない。ニルヴァーナに達しこの上なき
最上の喜びを得ている。つまりこの世はそれと比較して苦なのだ。
この世で論争を好んでも、それだけ苦を受けるだけだ。
39:03/01/21 23:27










>36
わずかの食料、、うーん。ウチは子供3人の父子家庭なんです。俺が料理を作ってるんですけど、
やっぱり子供には喜んでもらいたいので、お金に余裕のある時は、一品増やすべきかどうか、いつも悩んでるんです。
これは慈愛なんでしょうか。それとも思い上がりなんでしょうか。
子供が喜んでる顔を見ると嬉しくてツイ、、、



40:03/01/21 23:38
>39あれっ なんだこの空白!無視してください。技術的なミスです。
41仏の教えについて:03/01/22 03:32
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ
42歩@一日一問:03/01/22 09:42
>39の私の質問、見事にスルー有難うございます。
「慈悲」読んで感銘したのは事実です。
ただtaitsu氏の「理想」という言葉にも共感出来るところもあり、、、
43仏の教えについて:03/01/22 13:36
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ

>>25,>>30
かれらは多くの種々異った真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまた
かれらは自分の思索に従っているのであろうか?
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である。」
「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論
に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を
<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは
自分を賢者だと自認している。

44仏の教えについて:03/01/22 14:35
>>39 子供のためにと思う心は私は慈愛であると思います。
ただ、それが思い上がりかな?と、思うのはあなたのこころに何かしらの執着があるから
ではないでしょうか?

45山上憶良:03/01/22 23:06
子を持っちまった時点で、そりゃ、シューチャクせざるを得ないのでは!
46名無しさん@3周年:03/01/22 23:23
>>39
慈愛ではなく、欲の一種であると言ったほうが正確です。
えこ贔屓したいという欲求を慈愛という言葉で美化しただけ。
それが自然な感情であったとしても、よく観察することが必要です。
全ての者に対する愛でなければ自分の為の行為から出るものではありません。
47歩@一日一問:03/01/23 00:22
>39の私の書きこみが少し表現不足だったと思います。
「贅沢」って事なんです。子供には、一年に5回位食べ物で贅沢させてあげたいと仮定して(少なぁ!)
やはりそれでも「贅沢は敵であり、粗食が一番」という教育をすべきでしょうか?
子供の嬉しそうな顔を見ると、理屈ぬきで嬉しいので、つい、、、
48仏の教えについて:03/01/23 02:17
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ


>47やはりそれでも「贅沢は敵であり、粗食が一番」という教育をすべきでしょうか?
>>47さん
贅沢は敵ではなく、贅沢する心が敵であると思います。
粗食が一番という教育はよいことだと思いますが、あなたとあなたの子供が出家者なら
粗食が1番よいのかもしれませんが、子供たちは在家であり、食べ盛りなのではないでしょうか?
それを無理に、贅沢は敵、粗食が1番とそれに固執するのはよくないのではと思います。
ただ、贅沢はよくない、粗食はよいことだ、と心にとどめておき、
そういう事を子供に話して聞かせてあげるのは良いと思います。
49名無しさん@1周年:03/01/23 19:41
子供の健康のことにも気を使って食事を与え、たまには子供が喜ぶように
してあげる。これを自然に行えるようにするのが、障害なき慈しみを行う
ことのひとつではないかと思います。
50名無しさん@1周年:03/01/23 20:23
4 ある一定の現象について、これは正しいとか間違っているというのでなく、
さとりの境地「すべての存在は水の泡か陽炎のごとく、いかなることにもとらわれない」ことが安楽であり
釈迦は「三界は生まれず、死なず、変化せず、生じず、流転せず、完成せず、真実でもなければ真実でないもの
でもなく、存在するものでもなければ存在しないものでもなく、このようなものでもなければ別のものでもなく、
偽りでもなければ偽りでないものでもなく、別の物でもなければ、そのようなものでもない、と見るのである。」と。

欲求を制することができたら次に、己の心の迷いをなくすること、これが安らぎに通じる道だと思う。


51歩@一日一問:03/01/24 00:56
>1〜5について感じた事を少し、、、「修行者たちよ」で始まりますね。
私は以前からインドで何故、仏教が消滅したのか?と言う疑問を持っておりました。
これは「修行者」に語りかけていますが、「修行者」を通じて「民衆」にまで語りかけているのか、、、
民衆からすれば、なにやら特権階級だけに通じる教えの様に感じたのではないでしょうか?
釈迦の時代から2500年後に生きる「一人の民衆」として、そう感じました。
生意気言ってすみません。
52お釈迦しゃ〜ん:03/01/24 00:58

仏縁が、なかったということでしょうな。
53名無したん3周年:03/01/24 19:45
ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、もしも
飲食豊かな家に住んでいるならば、(1)信あり (2)柔和で (3)よく分かち与え
(4)温かい心でいるならば、これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる
必要がない。[ブッダ神々との対話]

飢えることがないと思われる我々は、出家して乞食行をすることは困難でしょうし
これらの4つの事柄に甘んじて安住し来世にも今の境遇を失わないように生まれること
しかないのでは。
54名前はいらない:03/01/24 19:58
朝起きたら、

太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、

感謝することだ。

どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、

それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。




ショーニー族の首長、テクムセの言葉(1768-1813)

「インディアンの言葉」 ミッシェル・ピクマル編 中沢新一訳 紀伊国屋書店より
55なし:03/01/24 20:44
今日われらは美しい太陽を見、美しい晴れた朝に逢い、気持ちよく起き上がった。
激流をのり超え、煩悩の汚れのなくなったブッダにわれらは見まえたからである。(スッタ二パータより)

ブッダのことばから、煩悩を少なくし、あの世もこの世も望まない心で、今現在
を生きる我々の究極の楽しみは、太陽の光と太陽の光に照らし出される世界を見て
やすらぎを覚えることだと思う。
56名無しさん@3周年:03/01/24 20:45
家族一緒になりなさい
家族一緒に成り始めている
             林 メリイ
57室丼 刀 ◆v/ClhaTjaY :03/01/24 21:56
 


林 メリイ は今流行り(というか昔からあったが)DVを知らない脳内妄想房














58仏の教えについて:03/01/25 01:58
>>51さんへ
わたくしが聞いたところによると、 ── あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッテー市のジャータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのときダンミカという在欲信者が五百人の在欲信者とともに師のおられるところに近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。
そこで在欲信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。

── 省略 ──

384 これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、すべて、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。
けがれなき人(目ざめた人)がさとり、みごとに説いた理法を聞け。 ── 神々がインドら神のことばを聞くように。

385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持て。
目的をめざす思慮ある人は、出家人にふさわしいそのふるまいを習い行え。

── 省略 ──
                                    スッタニパータ、第二、14、ダンミカ

>>51 これは「修行者」に語りかけていますが、「修行者」を通じて「民衆」にまで語りかけているのか、、、

 修行者とは<修行をする者>の意であると思います。すなわち上記のとおり、民衆(在欲信者にも)法を説いています。

59仏の教えについて:03/01/25 02:07
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
60歩@一日一問:03/01/26 01:27
>58さん 有難うございます。
当時の修行とは苦行ですね。釈迦もそうだった様に断食したり、体を痛めつける様な、、、
最近では、オウムの人達が同じような事をやってました。
さて、それは本当の意味の「苦」でしょうか?以前から疑問に思ってました。
現実社会の中で人間関係その他で悪戦苦闘する方がよっぽど苦行なんじゃないかと。
現実社会からの「逃げ」じゃないでしょうか?
私のような感覚を昔のインドの民衆も感じていて、、、
それが仏教の消滅になったのではないでしょうか?
61名無しさん@3周年:03/01/26 12:05
悪魔・悪しき者が言った
 「苦行と厭い離れることに専念し、ひとり遠ざかって暮らす生活を守り、物質的なかたちに執着し、
神々の世界を喜び、それらの人々は、来世のために正しく教えさとす」と。
ブッダは
 「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光輝きや彩色でも、これらはすべて
悪魔ナムチのほめたたえるところである。魚を釣るために餌が投げ込まれたのである。」


苦行が目的ではなく、物質的なかたちに執着する心をなくすことが重要だと理解されます。
例えば、人の顔をとっても様々、美人を喜び不美人を軽視する、そのようなことがないように
どのような人に対しても慈しみができるように気をつけたりとか。
62名無しさん@3周年:03/01/26 12:32
悪魔パーピマンがいった、
 「子ある者は子について喜び、牛のある者は牛について喜ぶ。」
ブッダは
 「子ある者は子について憂い、牛のある者は牛について憂う。」

人間関係に対しては、その言葉を少し延長してとらえ、人とは自分の
思いどうりにならないものだと諦めることによって、少しは気楽になり
ました。
子については、自分の喜びのもとで愛するのではなくて、憂うものだと
とらえ、どのような状況であろうと慈しみを垂れ奉仕するような気持ち
であればいいのだと私は思います。
63仏の教えについて:03/01/26 16:05
>>60それは本当の意味の「苦」でしょうか?以前から疑問に思ってました。
現実社会の中で人間関係その他で悪戦苦闘する方がよっぽど苦行なんじゃないかと。
現実社会からの「逃げ」じゃないでしょうか?

一、欲望  (スッタニパータより)
766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するもの
を得て、心に喜ぶ。
767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、
悩み苦しむ。
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、
この世でこの執著をのり超える。
769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、
770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。
それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた船に水が浸入するように。
771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、
それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。 

〔神が問うていわく、── 〕  (サンユッタニカーヤT、三、八節より)
「大いに財宝あり、大いに財産あり、国土を占有している王候たちは、欲望に飽くことなく、互いに貪りを獲得しようと望んでいる。
熱望をいだき、迷いの生存の流れに押し流されているかれらのうちで、誰が貪りと妄執を捨て去って、世にあっても熱望することが
なくなったのでしょうか?」
〔尊師が答えていわく、── 〕
「家を捨てて出家し、子と家畜と愛しきものを捨て去って、情欲と怒りを断ち、無明を離れて、煩悩の汚れを滅ぼし尽くした真人たち、
── かれらこそ、世にあっても貪りを熱望することがないのである。」
64仏の教えについて:03/01/26 16:08
>>60それが仏教の消滅になったのではないでしょうか?

世界は常住なるものであるという見解があっても、
また世界は常住ならざるものであるという見解があっても、
(上記の様な見解があっても、)
しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり、これらの消滅を説くのである。

それが仏教の消滅になったのではないでしょうか?という事で>>60さんは何を言いたのでしょうか?
65名無しさん@3周年:03/01/26 16:36
つまり、1-5は仏教にこだわるなと。
仏教だけが正しいのではないと。
全ての偉大人は同じ一つのものについてを異なる教えを述べたが
永遠のものは一つもないと。
昔の仏教などを現代にそのまま持ってきても役に立たないと釈迦は正しく言った。
66仏の教えについて:03/01/26 22:20
>>65 昔の仏教などを現代にそのまま持ってきても役に立たないと釈迦は正しく言った。

どの経典のどの部分をとらえて釈迦は上記の様なことを言った、となるのですか?
67楽行:03/01/26 23:11
釈迦の言う無駄な苦行って
ウンコ食べたり
体何年も洗わなかったり
立ったまま横にならないとか
苦行ちゅーか異状な修行のことじゃないの?
68名無しさん@3周年:03/01/26 23:23
>真理は一つであって第二のものは存在しない。その真理を知った人は争うことがない。

争うことがない筈のものがどうして互に貶し合っているのか。
つまり釈迦の説法では人々への教化が不完全にしかできなかったことの証明である。
または釈迦の教え自体が曲がっていた。
いずれにしても釈迦の経など大したものではないということ。

>一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。

「一切の」断定は確執の元。釈迦は臨機応変に教えを垂れたと言われるが、
つまり一つの(例えば釈迦在時の)教えに固執する人間が現在もなお存在している
ということは非常に嘆かわしいことだ。真理は争うものを持たないと先に述べている。
固定したもの、断定できるようなものは確執をもたらす故に真理ではないということだ。
無理に言葉で語ろうとすることは過ちである。正しくは相伝によって暫時の教を説き聞かす
ばかりであって、「これが真理だ」などとは書き表しようがないのである。
69歩@一日一問:03/01/27 00:01
>64さん
仏教は結局、インドで消滅しましたよね。何故でしょうか?
何を言いたいのか?と言われましても、私の>60のカキコは簡単な日本語だと思いますが、、、
あなた個人のお考えをお聞かせください。
スッタニバータにどう書いてようが、結局は民衆の心を捉えなかったんじゃないでしょうか?
70仏の教えについて:03/01/27 01:23
仏教は結局、インドで消滅しましたよね。何故でしょうか?
結局は民衆の心を捉えなかったんじゃないでしょうか?

私の個人的意見はブッダは民衆の心を捉えるために教えを説いていたと思いません。
説法についてはブッダは始め、法を説こうとは思わなかったが、梵天の懇請により、
耳あるものどもに甘露(不死)の門はひらかれたと言って、教えを説きはじめます。
これは善い法だからたくさんの人に知らせよう!という心があるならば、その時点で
執著があるのではないでしょうか?
私はブッダの教えを聞こうとする人だけが、聞けばいいと思っているので
民衆の心を捉える必要もないと思っています。
71仏の教えについて:03/01/28 11:54
age 1〜5のスレを読んで感想などご自由にどうぞ
72名無しさん@3周年:03/02/04 01:31
保守age
73名無しさん@3周年:03/02/04 01:39
四個の真理のうち、苦しみを止める道とは簡単に言うと何?
74名無しさん@3周年:03/02/04 02:04
正しく見ること
75名無しさん@3周年:03/02/04 02:11
仏の教えについてさん はじめまして。
ここ、いいですね。ためになります。いろいろ教えてください。
>これは善い法だからたくさんの人に知らせよう!という心があるならば、その時点で
>執著があるのではないでしょうか?
執著=執着ですね?
すると、ブッダの「教え」なるもの(経典等)を残そうとした弟子たちの行為は
間違いであったとお考えでしょうか?
76金正日MkU改:03/02/04 02:16
>>75


若者を苛めないでいただきたい お手並みは拝見させていただく
77金正日MkU改:03/02/04 02:19
>>75

執着は悪ではない。執着が完全に無くなれば即身仏にならざるをえないからだ。

ブッダは氏ねとは言ってない。
78ゆり:03/02/04 02:20
はじめまして*^-^*
親切な方にここをご紹介いただきまして・・・
なんと言うか、観念ですね・・・
79名無しさん@3周年:03/02/04 02:34
>>76>>77
あなたには聞いていない
失せろ
80金正日MkU改:03/02/04 02:52




       やめろ >>79 君にはまだ






81金正日MkU改 ◆/0GEPxZNjA :03/02/04 02:54







仏の教えについてクンはニーチェが仏教を高く評価していたことを知っていると思うが。









82仏の教えについて:03/02/04 21:49
 他力本願について マハーパリニッバーナ第二章、九

「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは
『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは、『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、歳をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わた齢は八十となった。
譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、
相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
83仏の教えについて:03/02/04 21:49
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をとよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。
では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?
 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、
法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、
かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、 ── 誰でも学ぼうと望む人々は ── 。」
84仏の教えについて:03/02/04 22:17
>75さんへ

 法に対する執著について

〔筏の譬喩〕
「修行僧らよ、実にかくのごとくにここに或る善男子らは法を完全に体得する。
すなわち、経・応頌・授記・諷踊・感興語・如是語・本生・未曽有法・方広を完全に体得する。
かれらはその法を完全に体得して、それらの法の意義を智慧もて究明する。それらの法はそれらの意義も智慧もて
究明しつつある人々を歓喜せしめる。
かれらは論結の快を貪るために、饒舌にふける快を貪るために法を学ぶのではない。
かれらが法を学ぶ真の目的を体験しようとするのである。
それらの法がよく解せられたならば、かれらに永く利益・安楽をもたらすこととなる。
そのゆえはいかん。もろもろの法が良く理解されたからである。
それ故に、ここにわたくしの説いたことの意義を理解しそのままに受持せよ。
85仏の教えについて:03/02/04 22:19
またもしもわたくしの説いたことの意義を理解しないならば、それについてわたくしに問い返すべきである。
あるいはまた賢明なる修行僧らがあれば、かれらに問うべきである。
修行僧らよ、汝らが救い渡されんがために、執着せざらんがために、筏の譬喩の法をわたくしは説くであろう。
それを聞き、よく思念せよ。今からわたくしは説こう」と。
「かしこまりました」と修行僧らは尊師に答えた。
そこで尊師は次のことを説きたもうた。

「修行僧らよ、譬えば街道を歩み行く人があって、途中に大水流を見たとしよう。そうしてこちらの岸は
危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに
渡し舟もなく、また橋もないとしよう。
そのときかれが思うに、<これは実に大水流である。そうしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は
安穏で恐ろしくない。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡し舟もなく、また橋もない。さあ、
われは草・木・枝・葉をあつめて筏を組み、その筏に依って手足もて努力して安全にかなたの岸に渡ろう>と。
そこでその人は草・木・枝・葉をあつめて筏を組み、その筏によって手足で努めて安全にかなたの岸に
達したときに、次の思いが起ったとしよう、すなわち<この筏は実にわれに益することが多かった。
われはこの筏によって手足で努めて安全にかなたの岸に渡り終えた。さあ、われはこの筏を頭に載せ、
あるいは肩い担いで、欲するがままに進もう>と。
86金正日MkU改 ◆/0GEPxZNjA :03/02/04 22:21



2CHは饒舌にふける快がなければ存在できないわけだが。



















87仏の教えについて:03/02/04 22:22
あるいは肩い担いで、欲するがままに進もう>と。
修行僧らよ、汝らはそれをどう思うか。かの人はこのようにしたならば、その筏に対してなすべき
ことをなしたものであろうか。」
〔修行僧らいわく〕「そうではありません、尊師よ。」
〔尊師いわく〕「しからば、修行僧らよ、その人はどうしたらなば、その筏に対してなすべきことをなした
ものとなるであろうか。ここにかの人が渡り終わってかなたの岸に達したとき、次のように思ったとしよう、
すなわち<この筏は実にわたしに益することが多かった。わたくしはこの筏によって手足で努めて安全に
かなたの岸に渡った。さあ、わたくしはこの筏を岸に引き上げ、あるいは水上に浮べて、
しかるのちに欲するがままに進もう>と。
修行僧らよ、かの人がこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをなしたものであろう。

修行僧らよ、このように、救い渡されんがために、執着せざらんがために、
この筏の譬喩の法をわたくしは説いたのである。
修行僧らよ、実に筏の譬喩を知っている汝らによって法もまた捨てらるべきである、いわんや非法をや。」
88:03/02/04 22:24
先生はどんなOCRソフトを使ってるんでつか?
89名無しさん@3周年:03/02/04 23:00
今の世の中でも、貪欲と憂いをなくせば安楽だね。
貪欲は欲望への執着、憂いは自分がなにか失敗したことや、
損したことへの執着かな?また、明日の生活への不安とか。
何もなくなってもよいと開き直り、それを安楽と思えば
憂いも少なくなるのだろうが・・・・・
9075:03/02/04 23:04
>>84>>85>>87
仏の教えについてさん
ありがとうございました。
91金正日MkU改 ◆/0GEPxZNjA :03/02/04 23:07





            放置プレイキタ━━━━(Д゚(○=(゚∀゚)=○)Д゚)━━━━━!!!






92仏の教えについて:03/02/05 17:12
age 下記のスレを読んで感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、他力本願について
84〜87、法に対する執著
93名無しさん@3周年:03/02/05 21:34
>83
自灯明 法灯明とはこのようなことだったのか・・・・・
94名無しさん@3周年:03/02/05 21:43
1、世間と自分をよりどころとすると心休まることなく一生を終える
  
95名無しさん@3周年:03/02/05 21:58
テレビ局は普段増税しろとか喚いてるくせに,税金ガメてこんなもの作ってます
http://members32.cool.ne.jp/~yuzer8/tocho.html
盗聴/盗撮器です
96仏の教えについて:03/02/06 20:11
age 下記のスレを読んで感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、他力本願について
84〜87、法に対する執著について
97名無しさん@3周年:03/02/08 01:00
>87
欲するままの心と行動をなくし、自由意志で生きることでいいのか?
欲する心がなければ、どこにいても安穏だな。
98:03/02/08 01:09
少し無沙汰でした。私なりに色々考えていたのですが、インドというのは今もそうですが貧富の差が物凄いですね。
昔も変わらなかったと思います。
そういう状況での「欲」[執着]etcと言う場合は、今日の日本のような平等社会に生きる我々とは、かなりのギャップがあるのでは?等と思いました。
日本の場合は冗談で、社会主義が唯一成功した国と言われてますものね。
同じ言葉を使ってても、意味合いが違うと言うか、言葉の意味の強さが違うと言うか、、、
ご意見があれば、お願い致します。
99空論者:03/02/08 02:16
ブッダの言葉に関係しないですがすみません。
>98
インドに行った事ありますか?
アーリヤ制度よく言わるのが肌制度(ポルトガルではカースト制度だったようなきがします)
それがあるいうえに今なお経済発展を遂げた今日でも残っています。
この肌制度というのは、生きるものとして生まれた時点で、この世界での存在は前世の業で決まり
そして、何千という地位の中に入るのです。その中に不可殖民という存在もいます。
不可殖民という者に関しては、詳しくレポートしているのは山際素男と言う人です。
これを見たらインドの見方が変わると思います。

今回はこれでご勘弁を
三帰依文(pali文)
 ブッダム・サラナム・ガッチャーミ
 ダンマム・サラナム・ガッチャーミ
 サンガム・サラナム・ガッチャーミ
100:03/02/08 03:44
>99
インドに行った事はありません。
アンタッチャブル(不可触賤民)が居る事は承知してます。
何を仰りたいのか意味が分かりません。
101名無しさん@3周年:03/02/08 13:12
破滅する人
1.栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。
2.悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。
3.睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人。
4.みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人。
5.道の人または他の人を、嘘をついてだます人。
6.おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいものを食べる。
7.血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を軽蔑する人。
8.女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たをその度ごと失う人。
9.おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる人。
10.青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き
   入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠られない。
11.酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託す。

現代人はこのようなことに気をつければいいと思う。
それ以上は、いくら欲の目で仏典を見ようと、深く追求をして論議を交わそう
と、安らぎを求めなければひとつも正しい見解を得られることはないと思われる。
102仏の教えについて:03/02/08 15:07
安らぎについて

 死ぬよりも前に (スッタニパータ第四、十)
848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。
おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」
849 師は答えた、「死ぬより前に妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと
思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
850 かの聖者は、怠らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、
そわそわすることなく、ことばを慎しむ。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂える事もない。〔現在〕感官で触れる諸々の対象について
遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
103仏の教えについて:03/02/08 15:10
852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪りを求めることなく、もの惜しみせず、傲慢にならなず、
嫌われず、両舌(かげぐち)を事としない。
853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、
なにかを嫌うこともない。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために
他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。
また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も
生存のための妄執も存在しない。
857 諸々の欲望を顧慮することのない人、 ── かれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。
かれには縛めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。
104仏の教えについて:03/02/08 15:12
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、
かれのうちには認められない。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、
かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』
とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、
妄想分別におもむかない。
861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。
かれは〔欲望に促されて〕、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」
105空論者:03/02/08 15:15
>100
まだ、若造で知識不足ですみません。しかもこの掲示板事態に投降したりするのが
まだ不慣れなもので。

皆さんに質問ですが。こんなのに興味ありますか?
如是我聞 一時仏在〜(エヴァム マヤー シュタム/エカスミン サマエー バガヴァーニャ〜)の決まり文句
がありますがその後から独自の展開を持って仏典を作りませんか?
現代版の偽経になるので宗教原理主義者の方が見ていたらごめんなさい。
そして、レスを立ち上げたいのですが、賛成な方いませんか?
反対な人はすみません。変なことを書いてしまって。
106:03/02/08 17:11
どこかのスレにスッタニバータは廃刊になってる、、とか誰かが言ってたけど
まだ売っているのかなぁ?これは買わなきゃいけないなぁ。W
でも”仏の教えについてさん”が教えてくれるのだから買わなくてもいいか。W
107仏の教えについて:03/02/08 17:40
>106 岩波文庫で売ってます。
ブッダのことば スッタニパータ 中村 元訳 小さいサイズなら1000円もしません。
解説も載ってるので、詳しく知りたいと思うならば、ご自分で購入して読んでみた方が
わかりやすいと思います。
108名無しさん@3周年:03/02/08 18:48
>103
856 生存の断滅のための妄執も存在しない です

心の中にある全ての迷いを捨て、欲望を捨て、享楽や快楽に耽ることなく、
怒ることなく、平静なこころを保ち、しかし、睡眠するのではなくて起きて
いる状態であれば、安息の境地ニルヴァーナのすぐ近くにいると思われる。
できれば、その方向に自分を向ければ、心は平安でしょう。

>105
スッタ二パータを読み、少しでもそのように自分を近づけるようにしようと
すればそれでことは足りると思います。後は人それぞれの良心にまかせれば
いいのだと思います。

普段の生活に疲れた時、または、生活の中にスッタ二パータを取り入れること
で、少しは安らぎを取り戻せます。
109空論者:03/02/08 20:24
sutta nipa-ta(経集)っていうのは5nika-yaのkuddhaka nika-ya(小部)の一部だと分かっているが
それだけを言って何になるのですか?
言いますが、これをブッダの言葉とするならそれは世尊の言葉ですか?
おそれらくちがいます。ブッダといわれる存在は何人かいたとされます。
それはジャイナ教などの文献を見たら分かる事ですし、
単数でも複数でも取れる、仏教文献が多く存在する事を忘れてはいけません。
それでもあなたは経集を説きますか?

サッバパーパッサ アカラナム
クサラッサ    ウパサムパダー
サチッタパリヨーダパナム
エータム ブッダーナ サーサナム 
(ありとある悪をばなさず。善なるを行ないそなえ。
 自らの心をきよむ。これぞ実に諸々のほとけの教え。)
110仏の教えについて:03/02/09 00:18
>109さんへ
マハーパリニッバーナ 四、十五
八 「修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう、 ──〈友よ。わたしはこのことを尊師からまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。 ──これが理法である。これが戒律である。
これが師の教えである〉と。修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受けとらるべきではないし、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合せ、
戒律に参照吟味すべきである。それらの文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)にも合致せず、戒律(の文句)にも一致しないときには、この結論に到達すべきである、
──〈確かに、これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことである。〉と。修行僧らよ。それ故に、お前たちはこれを放棄すべきである。しかし、もしもその文句を、
(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)に合致し、戒律(の文句)に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである、 ──〈確かに、これはかの尊師の説かれたことばであり、
この修行僧が正しく理解したことである〉と。修行僧らよ。これが、第一の〈典拠への参照〉であるとうけたまわりなさい。

>109さんは背景ばかり気になさっているようですが、内容を読み、
そしてご自分でその内容を参照吟味してからその結論に達したのでしょうか?
 自分で内容を参照吟味して、もし違うのであれば、それを放棄すれば良いと思います。
111ダイサクを供養:03/02/09 00:31
帰三宝偈

『玄義分』に云わく、 先ず大衆を勧む、願を発して三宝に帰し、道俗時衆等、 おのおの無上心を発せども、
生死甚だ厭いがたく、 仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して 横に四流を超断し、弥陀界に願入して、 帰依し合掌し礼したてまつれ。
世尊、我、一心に、 尽十方法性真如海・ 報化等の諸仏・一一の菩薩の身・ 眷属等の無量なる・
荘厳および変化・ 十地・三賢海・時劫の満ちたまえると満ちたまわざると、 智行の円なると円ならざると、
正使の尽きぬると尽きざると、 習気亡ぜると亡ぜざると、功用と無功用と、 証智と証智せざると、
妙覚および等覚、 正しく金剛心を受け、相応一念の後の 果徳涅槃者に、帰命したてまつる。
我等ことごとく、 三仏・菩提尊に帰命したてまつる。無碍の神通力、 冥に加して、願わくは摂受したまえ。
我等ことごとく、 三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、 長時に退することなき者に帰命したてまつる。
請い願わくは、遥かに加備したまえ。 念念に諸仏を見たてまつらん。我等愚痴の身、 曠劫よりこのかた流転せり。
今、釈迦仏の、 末法の遺跡、弥陀の本誓願、 極楽の要門に逢えり。定散等しく回向して、 速やかに無生の身を証せん。
我、菩薩蔵・ 頓教・一乗海に依りて、偈を説きて三宝に帰したてまつる。 仏心と相応す。
十方恒沙の仏、六通をもって我を照知したまえ。今、二尊の教えに乗じて、 広く浄土の門を開く。
願わくは、この功徳をもって、 平等に一切に施して、同じく菩提心を発して、 安楽国に往生せん。

112:03/02/09 00:36
空論者さんへ
経典自体が釈迦の死後、数百年後に編纂されているのですし、「後に」弟子によって付け加えられた部分もあるのかもしれません。
そうであったとしても、現代人の心にも入ってくる部分があれば、それは素直に受け入れる事が大事だと思うのですが。
113空論者:03/02/09 00:56
これ以上、議論はしないつもりですが、
誤解が生じると思うので言わしてください。編纂されたのは死後数ヶ月ぐらいとなっています。
今から言わないです。学者の考え方は捨ててもっと綺麗に読んだ方が良いですね。
比較宗教を専門としようとしているので文献としてみていしまうので、すみません。
ぼくも原始仏教はすきですよ。あり方としては小乗・大乗と言ったりしますが仏教はどれも根本的には
同じ事いってますしね。
114名無しさん@3周年:03/02/09 01:32
>109
生ける者に慈しみの心をもっていれば、自然と善行が果たせると思う。
慈しみを阻害するのが、欲望とよくないことへの執着だとなるのでは。
欲望とよくないことへの執着をなくするために慈しみの心を起せば良い
のかもしれないが。
どちらにせよ、自身の心の安らぎを求めない限り仏教を研究してもそれ
だけのことになると思うよ。
仏教から、心の安らぎ以外のことを求めるのは邪念から起こるのではないか。
115ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/02/09 02:32
ニルヴァーナとは、
「自身は死ぬことはないと感じられ、同時に殺人者や自殺者の霊魂が悲しみさまようのを
感じられる境涯である。自身の全ての思いは、ほんの僅かなことと感じられ、全てから解き放たれた
ような感覚を得て、この世ではない無上の喜びを得る。そして勇気とできないことは何もないという
自身が沸き起こる。しかし、野望の妄執というものに捕らわれてしまいその境涯を失う。」
116:03/02/09 02:39
>113
死後、数ヶ月とは、、初めて聞いたけど、、、
117ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/02/09 02:42
ニルヴァーナに近いものとは
「哀れみ、慈しみ、の心の状態がニルヴァーナに近く、誰かを思いやり、
自身が喜ぶことに近い。また、太陽の光に照らされた自然に心がなごむ
ことにも近く、自然の中で、ただ何も思わず考えることもなくただぼんやり
と楽しんでいればニルヴァーナに近いこととなる。」
118ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/02/09 02:58
ニルヴァーナをやがて知るでしょう
「人は自身の寿命をまっとうし、その一生を終えたならば、ニルヴァーナ
を知るでしょう。そして、妄執に捕らわれなければ永遠の安息につく。
妄執に捕らわれれば、また生まれてしまう。」
119ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/02/09 03:21
妄執とは
「野望であり、人が働く力となる。そして妄執に従属することによって、享楽や快楽を楽しむことが
できる。だが、それは妄執という悪からきてるのであり、享楽や快楽を楽しむことにより、安らぎを
失う。善行は慈悲から起こることとなるでしょう。善悪を識別することは、妄執からはじまっている。
ただ愛は善悪に捕らわれない。生まれくる人は善行の報いを受けて良い運命に生まれるでしょう。
逆に、享楽に耽る者はその報いを受けるかもしれない。
慈悲を常に保ち、自然に安らぎを見つけ、人の造った物に貪りがない人は、ニルヴァーナを好む者である
から、二度とこの地に生まれないか、苦難のない来世を望める。」
120空論者:03/02/09 12:04
> 116
貴方が理解しているのは第二結集、根本分裂の事ですよ。
若い者が律に対して不満を持ちそれに対して多くの長老比丘が集まったとされるが
若い者の不満は了解されず、破棄されたんですよね、だから大衆部というものになったんですよ。
おすすめの本は平川彰のインド仏教史上を読んでください。
でもこの人の一部分の言った事、在家大乗起源説は学者の間で議論されています。
121:03/02/09 18:46
空論者さん。ありがとうございます。
紹介してくださった本、機会があれば読んでみたいと思います。
122他力本願について:03/02/09 23:09
>>82
>他力本願について マハーパリニッバーナ第二章、九

とあったので、初期仏教における「他力仏教」の萌芽についての
引用かと思いきや、引用のなかにある
「自らをたよりとして、他人をたよりとせず」
とあるように、例によって(よくある)
「他力本願ではだめだ、自力更生でなくては」
の「他力本願」の意味に近い浅薄な他力の理解のように思われました。

浄土真宗における他力とは、
「他人をとよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。」
この部分の教えに近いと思われます
(法=真如法性=阿弥陀如来=他力であるから)。

82さんはどちらのご趣旨で「他力本願」といわれたのか
ちょっと教えていただきたいのですが。。。

あまりにも「他力本願」について誤解しているかたが多いと思った
のでついカキコしました。
何かご意見、ご追加ございましたら他の方でもどうぞご指摘ください。
123名無しさん@3周年:03/02/10 00:49
124:03/02/10 14:29
>123
ダライラマねぇ、、中国政府が別のダライラマを「用意」してる話はどうなりましたかね。
軍隊どころか、まともな武器さえないチベットを100万人の人民解放軍で制圧し「解放してやった。」などと言ってながら、
かつて45万人の中国軍が、たった1万人の日本の関東軍に負けて、「日本は軍国主義!」などと言ってるんですからね、、、中国は。

思いっきりスレ違いでした。すいません。
125仏の教えについて:03/02/10 19:32
>122さんへ
スッタニパータ 学生ドータカの質問より
1064 わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。
ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。

他力本願が阿弥陀如来=法という事であるならば、私に誤解がありました。
ただ、私は、上記のようにブッダ(如来)=法、ではなく、如来=法の体現者、であり
法の体現者=法、ではないので、
「わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。」
と言っているのだと思っております。
126名無しさん@3周年:03/02/10 23:07
解脱の境地「すべての存在は水の泡か陽炎のごとし」を念じ、一切の迷いを断つ。
迷いの要因は、執着であり、また何かを求める心だろうと思う。
「人のいない林は楽しい。世の人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむ
であろう。かれらは快楽を求めないからである。」(真理のことば)
迷う要因の多い現在の世の中では、そのようなことも必要かもしれない。
法の体現者は、人の成仏の安穏を知る。成仏した人はこの世のすべてに愛着と欲望はなく、
あれやこれやと思いめぐらすこともなく、迷うこともなく、悟りに到達しているということ
でしょう。だから、安穏。




127仏の教えについて:03/02/14 16:29
age 感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、(他力)個人崇拝について
84〜87、法に対する執著について
102〜104 安らぎについて
128名無しさん@3周年:03/02/14 22:52
「ヴェーダの達人(真理に達した人)は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。〜かれは宗教的行為
によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。」さまざまな願いがあり、一般的な宗教的活動を行い
願いを達成しようとするのだが、実質は気休めにしかならないのだろうか。
「一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、清浄であるとか、不浄である
とかいって願い求めることもなく、それらにとらわれずに行え―安らぎを固執することもなく。」
「願い求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者―
かれは何を恐れよう、何を欲しよう。」
ブッダのことばから、捨て去るべきもの(欲や執着など)をなるべく少なくすれば、宗教活動に翻弄されることはない。
129名無しさん@3周年:03/02/14 22:57
超・横レスでごみんちゃい、です♪
原始仏典を論じる崇高なスレッドに、私的な広告というのもホント恐縮ですが、
本日『葬式坊主をブッ飛ばせ!』なる掲示板をオープン致しました。
坊主叩き専門の板につき、折々にカキコいただけると幸いです。

http://tools.geocities.co.jp/MusicHall-Horn/7710/@geoboard/
130ソーシキ仏教国:03/02/14 23:18
それでは、拙者も馳せ参じさせてもらおう!
131ソーシキ仏教国 :03/02/14 23:25
怒り心頭、お気持ちはわかるが少々、お言葉が乱暴なのではござらぬか?
みなみな方、どうでつか。。。
132名無しさん@3周年:03/02/15 02:11
バーミヤンの仏像破壊はもったいないことをしたと思いますか?
133名無しさん@3周年:03/02/15 09:35
仏像を拝む行為は、欲念からきているのではないかなどと思う。
しかし、仏像を拝むことで、その人が安心を得られればそれでいいのだろうけれど。
誰でも心ある人は、人の安らぎを得るものを破壊しようとしないのではないかと思われ。
でも、宗教的行事や祈願で心の平安を真につかむことができるのだろうか?
林など、人のいない自然の中で瞑想をし満足する。瞑想はしないが自然を楽しんだりす
ることも、仏の教えを行っているといえるのではないか。
134万年救護大本尊の朴蓮:03/02/15 14:17
仏像を壊す者。
本尊を壊す者が真の
仏教者であると思う。魔術の執着や呪いに
掛かってシンボルを
捨て切れない者は
結局心の奥で他人を
支配してやろう
操ってやろうって醜い欲望が渦巻いている。ヒトラーや北朝鮮などの独裁主義もシンボルを良く好む。
135墓は、御影石:03/02/15 14:42
仏壇仏具屋を壊す気かーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   仏壇仏具屋を壊す気かーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      仏壇仏具屋を壊す気かーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
136:03/02/15 20:10
「悟り」についてお伺いしたいと思います。
家の宗旨が禅宗と言う事もあり、昔、何度か座禅を組んだ事があります。
続けてましたらば、何と言うか空がスーと落ちてくるような感覚に見舞われたことがありました。それ以降、我ながら性格が快活になったような気がします。
その後、臨済宗の僧侶が書かれた本を読んでいたとき、私の経験と同じ事が書かれていて少し驚きました。勿論、私の体験などたいした事ありませんが。

そういえば弘法大師空海が室戸岬で修行してた時、明星(金星)が体にドスーーンと入ってきたという話がありますね。
釈迦も空海と同じような(いやもっとカナ)、つまり「悟り」とは体験するものでしょうか?
どうも新しい知識を得たり、何かが分かったと思う時、「悟り」と思いがちですが。
変な質問ですいません。
137名無しさん@3周年:03/02/15 20:11
138名無しさん@3周年:03/02/15 22:25
新しい知識を得たり、何かが分かったというだけでは「悟り」ではないでしょう。
「真理は一つであって、第二のものは存在しない」ので他のいかなる真理といわれる
ものは真理ではないのです。「この世において死も生も存在しないもの」が永遠の真理
に導く教えを語る者であり、「この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)」ですから
なおさらブッダの教えを少しでも取り入れることにより、生活に喜びが得られると思うの
です。
歩さんは「性格が快活になった」ならば、それでいいと思います。
私は宗教活動などで、願いをかなえようと翻弄されることは「ブッダのことば」を読み
無意味であると思うようになり、安らぎを求めるべきだと思うようになりました。
特に創価学会の活動に疑念を抱くようになり、他宗教を排他的にする教えと、分裂した
日蓮正宗を攻撃することを信者に行わせ、本来は文字で書かれているものは理解するもの
なのに、わけもわからず朗読する勤行などなどにとらわれない人生を送りたいと思ってい
るのです。>136

139仏の教えについて:03/02/15 22:57
>>136さんへ
>つまり「悟り」とは体験するものでしょうか?

ブッダ
わたしは、知らねばならないことをすでに知り、修むべきことをすでに修め
断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<悟った人>(ブッダ)である。

ナディー・カッサパ長老
わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執を打ち破り、生まれを繰り返す迷いの生存は
滅びてしまった。今や迷いの生存を繰り返すことはない。

悟りとは、上記のような明らかな知を得る(体得)することではないでしょうか?
140仏の教えについて:03/02/19 18:36
age 感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、(他力)個人崇拝について
84〜87、法に対する執著について
102〜104 安らぎについて
141名無しさん@3周年:03/02/19 20:33
「内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行僧は、この世とかの世と
をともに捨て去る。」

修行僧でなくても、さまざまな情報に憂いとこだわりなどをなくせば、それだけ
でも安らぎが得られると思う。
不正に怒らない。不景気に憂いを持たない。「未来に望みをかけることもなく」
今現在、何も(不幸)がないことに幸せを感じればいいのでしょう。

142ソーシキ仏教、びゃんじゃい!:03/02/19 22:29
いや、無明が故に不正している方々にこそ、仏法を知ってほすぃなぁ・・・
143名無しさん@3周年:03/02/20 19:53
仏教がバックにある公明党などは、自分たちの欲などを目指さない党かも
利権や地位に惑わされず、平和や慈悲ある社会を目指す党なら信頼ができる
144名無しさん@3周年 :03/02/20 20:02
>>143
あんた、s価学会の手先だろうが。
スレが違うよ、スレが。
s価学会なんて仏教じゃないよ。
嘘つき池田野郎をよく観察すれば自明のこと。
145ソーシキ仏教、びゃんじゃい!:03/02/20 22:43
そう来るかぁ・・・・
「国民の為」より、一にも二にも「駄作しぇんしぇ〜の為」
という政党は、願い下げなんだが・・・・
146名無しさん@3周年:03/02/20 23:43
「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみ語れ。これこそ実に善く説かれたことば
なのである」「好ましいことばのみ語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。
感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。」

>143
公明党もいいところがあるかもしれないけれど、自分たちの宗教のみが正しい、あとは邪教と
しているので多くの人々に反感をかってしまう。
おおよその宗教は、少なくとも人の悪に歯止めを利かす役割を果たしているのではないか(一部
を除いて)
自分たちの宗教のみが正しいと主張することにより、家庭内で争いが起こってしまうことも。
そこらへんがなくなればいいのかもしれない・・・・・。
147名無しさん@3周年:03/02/21 07:08
ベゲザンビーク
148名無しさん@3周年:03/02/21 22:25
「或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なった
ものとなる。何となれば、その愚者のその考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄
なるものであるから。安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理である
と知る。かれらは実に真理を悟るが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。」

成仏できた人がこの世のことを悩まないように、一切に思いをめぐらすことがないならば
その人の心は平安であり真理に近い。
149         :03/02/21 23:15
欲/欲/欲の坊主は、どうしましょ・・・・
150名無しさん@3周年:03/02/22 00:16
>>130 :ソーシキ仏教国 :03/02/14 23:18
それでは、拙者も馳せ参じさせてもらおう!
>>131 :ソーシキ仏教国 :03/02/14 23:25
怒り心頭、お気持ちはわかるが少々、お言葉が乱暴なのではござらぬか?
みなみな方、どうでつか。。。

せっかくお待ち申し上げておったのに、残念至極です(笑)。
しかし掲示板に締め切りなんぞございませぬから、
いつでも気が向いた時に、どうぞお越し下さい♪
お上品なご批判も、もちろん歓迎いたしまする♪
151ソーシキ仏教国 :03/02/22 00:26
おっ、これはこれは拙者としたことが、ご無礼つかまつった。ゴメンチャイ。
ほんじゃ、一筆書かせてもらいまーす。
                            すわっ
152仏の教えについて:03/02/23 09:40
age 感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、(他力)個人崇拝について
84〜87、法に対する執著について
102〜104 安らぎについて
153名無しさん@3周年:03/02/23 10:20
>>152
 
1.人生に疑問を持つからでしょう。
2.霊魂などの問題に付いては、無記にしたでしょう。
3〜5.沈黙を重要視したんでしょう。
82〜83.まず、自分を知ることに重点を置いたでしょう。
84〜87.法をわがものにすることはできないでしょう。
102〜104.安らぎは精神的なありかたにとって重要なものだと思います。
154名無しさん@3周年:03/02/23 10:23
小鳥が、餌のあるとこに舞い降りるごとし、そのようにあるもんであればいいし、
そうゆう中で語りかけてくるもんです。
無欲で丹精込めた作品の方が、結果的には優れるもんです。
つまりは、作品が私に教えるんでしょうね。相互依存そのもんが智慧なんでしょう。
そこに留まらずして、智慧は智慧を呼ぶ。善因善果。生かすは内外あらず。
155ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/02/23 21:34
>150
人は死ぬことはないと知ったから、怖くて坊主叩きなんてできないよ〜
識別作用を捨てて、できればどのような人にも慈しまなければならないのだから
人を叩くなんて来世に悪因を積むことになるのでは?と思う。
156平成の論師:03/02/23 21:48
>>155
ブッダは、死者儀礼を行っていたバラモン僧を詐欺師、ペテン師と
言わんばかりに激しく論難している。坊主叩きの元祖はブッタだと知りなさい。
157チーン:03/02/23 22:17
ニルヴァーナを見た  ← こういうコテハンを使うような輩が、いかにも
言いそうなことだ罠。
158もしも:03/02/23 22:25
仏様教えてください。

性愛の快楽は罪だ…という意識があるみたいなんです。

官能的な恋愛は、罪なのでしょうか。

私には、恋におぼれてみたいという欲求があります。
もともと罪を負う運命にあるのでしょうか。
キリストの方にお教え願うべきでしょうか。
159もしも:03/02/23 22:40
この世の苦しみを、消去できるというならば
それは、素晴らしい事だと思います。
私はそれを追及するし、幸福のなかに、永遠にいたい。

私は、たとえ苦しくとも、異性に求められたいという欲求があります。
私は異性を、心から求めています。異性に好かれたい。
露骨な表現をさせていただくと、その人を、抱きしめたい、
その人が苦しみの中にいるのならば、私はその人を救ってあげたい。

こういう感情は、一体、なんなのでしょうか。神、仏も関係なく、
ただ、まぎれもなく、実感として、その人を好いている
この現世で求めているという、この実感。

恋というのは、子孫を残す原因となります。
この世が、苦しみに溢れた世界だというのであれば
愛する我が子を、この世に誕生させるのは、
この上ない、罪であり、事実、苦しむ子供達の姿をみることにも
なるようです。

恋愛というのは、つまり、なんなのでしょうか。
罪なのでしょうか。
人を愛したいという気持ちは、あってはならないのでしょうか。
本当に、わからないんです。
教えてください。
160名無しさん@3周年:03/02/23 23:51
「父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、
―これがこよなき幸せである。」
「欲情は邪道といわれる」
異性を性欲の対象のみとする人がいけないのでしょう。
飽きたら別れるというのがなくなればいいのかも。
161もしも:03/02/24 00:03
私がその人を抱きしめれば、その人も心地よいだろうと
そして、それ以上に、相手が幸福を得ながらにして、
私も、確たる、正真正銘の幸福感に包まれるんです。

相手が、少しでも不快感を感じているのであれば
それは、私も不快だから、その人に触れたりはしないでしょうけど。

性欲の対象とすることが、相手にとって好都合だった場合
これは、罪になるんでしょうか。
純粋な幸福感…そして、それは、いつか消えるもの…それをわかっていながら
一時の幸福に身を任せることは、罪になるんでしょうか。
162みほとけの教え:03/02/24 00:15
もしも さん
お子さんというだけじゃなく、あなた自身もですよ。
パートナーが(あるいは、自分が)事故や事件に巻き込まれて死にやしないか・・・
いや、不治の病で・・・   結婚して、コウノトリが赤チャンを運んできてくれた
としましょう。先ず、十月十日無事に流産することなく産まれてくるだろうか・・・
もう今宵は遅いですので、この辺りにさせていただきますが延々と続くこういう事を
あなたも思い当たるだけ想像なさっては、いかがでしょうか。
とにかく、あなたは今、仏門をくぐっておられますぞー!!!
163もしも:03/02/24 00:40
>>とにかく、あなたは今、仏門をくぐっておられますぞー
はい、そうです。このスレッドをみて、大いに共感して
私の価値観と、随分重なるところがあるな、解決してくれそうだなと
思いましたが。。
あなたの言葉に驚きました。
どうして、わかりましたか?
どこでわかりましたか。
私の考え方は、つまり仏の中の範囲で、私の疑問は、仏の中で解決されうる
ということですよね。私が仏門をくぐっているというのであれば…。
はっきりいって、あなたがすごいとおもいました。

でも最初の文章から、私がなにをどうすればいいのか、
は、ちっとも伝わってきません。もう少しお言葉を頂けませんか。
今、私の迷いを晴らす考え方や思想は
私のこれからの人生観に、大きな飛躍となりそうなんです。
164みほとけの教え:03/02/24 01:03
夜も更けてますのに眠れないでは、ありませんか。(笑う所
また、明日の夕方とか夜でしたら、わたし、こちらに来させて
もらおうと思ってます。ノイローゼにならない程度に!、
上の例のようなことに思いを馳せて、ご一考されては、とだけ
今宵は申し上げさせていただきます。言葉足らずスイマセン。
165もしも:03/02/24 01:54
苦しみに満ちた瞬間。
というのは、あります。たしかにあります。
けれど、喜びに満ちた瞬間というものも、知っている。。。

苦しさっていうものは、この世にあるべきではない、、、
のではないでしょうか。
本当に、消滅しますか。死滅しますか。
私達、人間は、皆、苦しみから逃れよう、幸福を掴もうとしているはずです。
自棄になった人生など、ちっともおもしろくありません。
精神を持った『物』は、一切の苦しみから逃れるべきだ。
宇宙のどこにも、不幸という概念は存在してはいけないとおもいます。
安らぎと優しさに溢れた、希望の世界。宇宙はそうであるべきと。。。

人生21年。短いように思えますが、さんざんな思いをして
ここまで成長しました。
幸福になりたい。この想いに、嘘の間隙、非難の声は
あってはならないはずなんじゃないでしょうか…。

質問:人は何故、現世を何も知らず生まれてくるんですか。孤独を持ち、
それが愛によって埋められるということを、先天的に知っている…
…人は、なぜ、なにをしに、生まれてきたんですか。

人はなぜ、他人の幸福を妬み、他人の不幸を幸福に変換
するのでしょう。
間違ってる!人の脳みそ!
166名無しさん@3周年:03/02/24 21:37
>165
あなたの言うとおりだと思います。165は私の心そのもの。
こうして仏典などを読むのもそのような心があるからです。
自分の幸福感を安らぎに変換しようとして、羨望や妬みなどを
なくそうとしていますが、生きている以上、いろいろな悩みが
でてきます、私たちは仏ではありませんので。
しかし、仏教に接することによって私は以前より苦悩が少なく
なりました。
167名無しさん@3周年:03/02/24 22:26
>>158 キリストの方にお教え願うべきでしょうか。

キリストに出会うなら↓のホームページが一番です。

    http://www.icfforum.com/

メインBBSにちょいと書き込んでごらん。まじめなクリスチャンたちが
どっと回答してくれます♪
168はしだすがこ:03/02/24 22:33
キリスト教は、フィクション・つくり話だからなぁ・・・
いいよ、よく出来てるとは思うけど
ま、好みの問題でさあねぇ。
169名無しさん@3周年:03/02/24 22:59
スッタ二パータと新約聖書はよく似ているよ。
真理は一つで第二のものは存在しないか・・・・・
ブッダもイエスも同じ真理のもとで語っている。
ただ、イエスは御国で釣って真理を人々に教えているけど。
ブッダは真理そのものだろうけど、求法者じゃないと誰も聞かない。
170仏の教えについて:03/02/24 23:18
 聖者と神々並びに世人の安楽について

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、
考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、−
760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。
またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
761 自己の身体(=固体)を断滅することが「安楽」である(自殺とは全く異なる)、と諸々の聖者は見る。
(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。
善良なる人々いは開顕される。あたかも見る人々には光明があるようなものである。
理法が何であるかを知らない人々には、この真理は実に覚りがたい。
764 生存にとらわれ、生存の流れにおし流され、
悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。
この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。
171仏の教えについて:03/02/24 23:21
>165さんへ
質問の答えはブッダは霊魂を否定したかどうかについてを読んでください

「一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、
清浄(幸福)であるとか、不浄(不幸)である
とかいって願い求めることもなく、それらにとらわれずに行え

―安らぎを固執することもなく。」

以下は仏教とは関係のない方から抜粋した文章です。参考までに
思考は快楽に持続性を与え、そのような見せかけの持続性をわれわれは幸福と呼んでいるのである。
それと同様、思考は悲しみにも持続性を与える。
思考は「私はこれは好きだが、それは嫌いだ。だから好きな方を持続させて、嫌いなものは捨ててしまいたい」と言う。
しかしどちらも思考がこねあげたものなのであり、
幸福は思考によってこねあげられたものになってしまったのである。
「私は幸福にひたり続けたい」とあなたが言うとき、あなたは思考そのものであり、
あなたを構成しているものは自分が快楽、幸福と呼んでいる以前の経験についての記憶にほかならない。
そのように、昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、
「私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい」と言うわけである。
あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。
こうして連続性の鎖が作りあげられる。この連続性は昨日の死灰に根ざしており、それは何ら生きたものではない。
死灰からは何も花開くことはできない ── そして思考こそはその死灰にほかならない。
このようにあなたは幸福を思考の枠に閉じこめ、思考を通してしか幸福に思いいたらなくなってしたったのである。
 しかし、快楽や苦痛、思考がいう幸福あるいはほかには何もないのであろうか。
思考の手が届かない祝福、恍惚の境地はないのであろうか。
思考というものはまことに陳腐なもので、独自なものは何ひとつ持っていない。
このように問いつめることによって、思考は自己放棄に至ることであろう。
思考が自らを放棄するとき、そこには放棄におのずから伴う規律が現れ、
それが節度ある優しさとなる。そのとき禁欲は粗暴で冷酷なものではなくなる。
粗野な禁欲は快楽や放縦に対する反発としての、思考の産物である。
172お粗末ですが:03/02/24 23:31

東洋のバイブルと謳われてるのは、法句経(ダンマパダ)だよね。
173名無しさん@3周年:03/02/24 23:39
■実況中継!日本テーラワーダ仏教協会の変質
http://mentai.2ch.net/psy/kako/983/983189611.html
174名無しさん@3周年:03/02/25 20:39

コーサラ国王パセーナディは、尊師に次のように言った、「尊いお方さま。わたくしがここに独り隠れて坐して
沈思していたときに、このような思考が起こりました。―「世の中では、種々莫大な富を得ても、酔わず、なま
けず、愛欲に耽らず、生ける者どもに対して過ったことをしない人々は、少ない。ところが世の中では、莫大な
富を得て、酔い、なまけ、愛欲に耽り、生ける者どもに対して過ったことをする人々は、さらに多い」と。

 愛欲の享楽に執著し、愛欲を貪って、迷っている人々は、道を外れるのに気がつかない。鹿がわなにかけられ
 ても気がつかぬようなものである。のちにかれらには苦渋がある。その報いは悪い。
『神々との対話』

(世の中、金持ちでも働きもせず自分の享楽のみに生きる人は少ない。享楽のみに生きる報いの悪さをすでに
知っている。真理からの安楽は享楽や愛欲でないと知ることで、それらを慎むことが大切でしょう)
175スマネー:03/02/25 22:36
>>173
金満・ニッポンに住み慣れすぎて、スマナサーラ師も、おカネに
目覚めちゃったんだろうね!
176名無しさん@3周年:03/02/26 21:50
>>159
>こういう感情は、一体、何なのでしょうか。
多分、その感情を生み出しているところの「根」にあるのは「愛」と呼ばれているもの
の本質でしょう。ただ、それが異性だけに強調されて向けられているのがちょっと私は
違和感と覚える。まあ、二十歳そこそこの若さならしょうがないとも思うけど。
罪などと、あまり考え込まずに失敗から学んで成長していく方が、実のある人生になる
と思いますよ。
もし、宇宙の法、秩序に「罪」というものがあるとしても、何が罪で何が罪でないのか
は、基本的に自分の経験から学ぶしかないと思うし、それが実践だし、生きるという事
でしょう。
177 :03/02/26 22:19
>>159
完全に100%を目指すんであれば、俗世間を離れて
「出家」するしかないんだが・・・     如何に
178仏の教えについて:03/02/28 16:56
age 感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、(他力)個人崇拝について
84〜87、法に対する執著について
102〜104 安らぎについて
179名無しさん@3周年:03/03/01 01:21
完全でなくても、太陽の光に反射した自然を見たとき心がやすらぐ。
そこで、じっとして、くよくよと思い巡らすことなく、そよ風を感じながら
楽しむ。ブッダのことばの中で、やってはならないこと、離れるべきことは
多いが、楽しみはというと、

「かれは思慮深く、瞑想に専念し、林の中で楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに
みずから満足すべきである」(スッタ二パータ)
「日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく。それは、
わたしには楽しみと思われる。」(神々と語る)

などです。

180この世への賛美:03/03/01 01:30
少ないかもしれませんが、これだけでも
もう感動もんじゃあ、ありませんかーーーー。
181ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/03/01 10:40
人は、野望の妄執というものに従属して安らぎである真理から離れた。
人の手で造られたすべては、妄執から造られたものであり、それらから離れることは
安らぎに近づく一歩といえる。ニルヴァーナはくよくよ思い巡らすことはない。こだわり
や欲求からくるありとあらゆる思いから離れている。意識を失っているものでもなく、
眠っているのでもない。この上なき最上の喜びとともにある。
自然の中で楽しみ、瞑想して、寒い暑いという不快感を退ければ、喜びと安らぎのニルヴ
ァーナに最も近い。その時、人の心は清められるのでしょう。

182あぼーん:あぼーん
あぼーん
183チン  チーン:03/03/01 18:52
性欲も、その後に起こる諸々の因・縁に思いを馳せれば
萎えてくるわな。
上のニイチャンとは、縁遠そうだが・・・
184名無しさん@3周年:03/03/02 00:50
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、
一切のものが従属した。」「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、
輪廻に堕している。人は苦悩から解脱しないのである。」(神々との対話)
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在もくよくよと思いめぐらす
ことがないならば、未来に関しても特に思いわずらうことがない。」(ブッダのことば)

特に年老いた時に妄執を離れることが必要なのか。


185神の望み:03/03/02 11:05
わたくしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。〜 わが小舎はあばかれ、欲情の火は消えた。
わが筏はすでに組まれていて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡り終わり、彼岸
に到達している。もはや筏の必要はない。
わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたくし
にはいかなる悪も存在しない。
わたくしは何ぴとの傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要
はない。
未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕むんだ牝牛もいないし、交尾を欲する
牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。
牡牛のように結縛を断ち、くさい臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたくしはもはや母体に
入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。(スッタ二パータ)

 それで雨が降ったのだが、わたしたちは神に仕えていると思っている人がいるが、ねがい求める欲念
 が捨てきれないのでは?と思う。ブッダのようになることこそが神の望みであり、神のためとして、
 宗教的行事を喜ぶだけでは、聖者の意図とすることと違ったものとなるのでは?
 
186ニルヴァーナを見た ◆M9cxos8D9k :03/03/04 23:51
人は野望の妄執というものに従属した。妄執という悪を受け入れたのです。
それ以前の状態であることが、神聖であり、罪のない状態なのです。
この世は欲界であり、欲望が正当なところであるといえるでしょう。
だから誰に対しても、戒めることはできないと思うのです。
ただ、安らぎを求める人のみがブッダの教えを聞けばよいと思います。
187名無しさん@3周年:03/03/06 18:14
宗教戦争や宗教でのテロなどは、スッタ二パータを読めば、あってはならないこと
です。
「世間の期待感と人々への期待感を一切捨てること」
これが安らぎを求める求法者の姿勢です。欲望の世界を変えることはできないでしょう。
暴力で命まで落として神のために尽くすならば、ひとり遠ざかって暮らす生活をして、ブッダ
のように二度と生まれないように妄執を滅ぼしつくす修行をすればいいのです。

188名無しさん@3周年:03/03/06 21:58
>187
たとえば、体が不自由な人が今度は健常者として生まれ変わりたい
と思う気持ちはいけないことでしょうか?
189名無しさん@3周年:03/03/06 22:57
「信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳
があれば、かれは来世に至って憂えることがない。」
施与といっても、「慈しみと哀れみと思いやりと愛する心」を伴ったことですから、誰か
の幸せを自分のことのように喜んであげるとか、そのようなことも施与というのでは?
「ことばと心を正しくするようこころがけ、身に悪事をなさないで、もし飲食豊かな富んだ
家に住んでいるならば、(1)信あり(2)柔和(3)よく分かち与え(4)温かい心でいる
ならば、これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる必要はない。」(神々との対話
―恐れおののいている者より)
何も問題なく暮らしている人の方が現世で罪を重ね、「喜び生じれば悩みが生ずる」輪廻の中で
来世はどうなるかわからないかも。
190こころのやすらぎを求めて:03/03/06 22:57
>188さん
無常・無我・一切皆苦・涅槃寂静ですぞ〜!!!
191名無しさん@3周年:03/03/08 21:42
傍らに立った「長い杖」という(神の子)は、尊師のもとで次の詩をとなえた。
「修行僧は、瞑想を修め、心が解脱し、心の達成を望め、世の興亡盛衰をさとって、
良き心あり、こだわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすものとなって。」


不景気などの話題が多い今の世の中、豊かさに安楽を求めていた我々は、残業がない、
収入が減ったなどで心が落ち込むことがある中で、仏教で別のもの、安らぎなど
を求める人々は、暗い話題がそれほど気にならないのかもしれません。
また、そのとき益をもたらすのが仏教であると言っているのでしょう。
192NB ◆YIoCB90ZbI :03/03/08 22:11
『五母子経』という経典はシルカセン訳の(とされる。漢字出すのがめんどい)
シンプルな散文で成り立つ小部の経典ですが、母を捨てて師について山にこもった
子供の出家修行者が、過去5回(あれ?4回かもしんない)の前生においても
同じく幼くして母を捨てて山にこもって修行し、そのために5人の母が深い愁嘆
にくれたことが述べられます。

ここまでは、小乗的なのですが、経典の主人公である子供の出家修行者が、
まだ阿羅漢果を得ていないと思われる状態のまま、(だったと思う)自分の5人の
母を救うため飛行して山を去る場面で経典が終わります。
いわば、「小乗」から大乗への過渡期の経典と理解できるようです。
「大乗仏教」の原初の問題意識が知れるようで、なかなかに興味深いですね。
まあ、小乗と大乗をどういう歴史過程として捉えるのか。という問題はありますが。
193一職業:03/03/08 23:11

大乗にあぐらをかく、ソーシキ仏教って        嘆かわしいですね・・・・
194NB ◆YIoCB90ZbI :03/03/08 23:39
ふうむ。ちょっとでも批判めいたことをカキコされると気に食わないんだ。
そんなことじゃあ、「ソーシキ仏教」と同じ運命をたどるよ。

はああああ。嘆かわしいねえ(w
195NB ◆YIoCB90ZbI :03/03/08 23:44
ありゃりゃ。>>193さんはぼくに対する皮肉じゃないのかな?

そうだったら変なレスしちゃってスマソです。
196阿含原理主義者:03/03/09 00:07
仏陀のことばは、国訳一切経2の止息法(仏陀の説く最高の呼吸法)
これを体得しないと、仏教では無いとおもいます。
197名無しさん@3周年:03/03/09 00:30
>196
そういう貴方は体得してないからに・・・
舞い上がって本から引用し解説してるだけでしょ
198名無しさん@3周年:03/03/09 18:57
論より行という気が・・・・・
行を正しくするため、納得するため論があるのでしょう
199懺悔門:03/03/10 18:17
はじめまして。なかなかレベルの高いスレですね。さて、

>>196さん
あなたが、そのように思う根拠は何ですか?
200名無しさん@3周年:03/03/10 23:39
ZETAに哲学・思想板が出来ました
http://zeta.ns.tc/kiba/philosophy/index.html


Zeta BBS
http://zeta.ns.tc/
201名無しさん@3周年:03/03/11 20:01
「悪魔は善行の功徳を求める人々にこそ語るがよい」「慈しみと平静と哀れみと解脱と喜びとを時に
応じて修め、世間すべてに背くことなく〜」「善いことをやったと思い喜ぶ」
見返りのない慈しみ、哀れみの心で、必要な時に善いことをやったと思い喜ぶ心で人は清められるの
でしょう。

「善行の功徳を求めよ」というのは悪魔ナムチの言葉であり、見返りを求めて喜ぶことを知らない人々
に語られる言葉でしょう。
宗教的行為で徳を積めという宗教ならば偽りを語っていると思います。
202ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/03/12 18:41
ニルヴァーナは喜びと共に、何事もできないことはないという無上の勇気と自信と共に
ある。「疑いなく信じていれば何事も得られる」という。その内なる力を導きだすのが
大乗仏教のありかたかもしれない。強い信仰で「これを信じれば思いはかなう」という
ものがあれば奇跡は起きるかもしれない。
203仏の教えについて:03/03/12 20:07
age 感想などご自由にどうぞ

1、真理を聞くのはなぜか?
2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
3〜5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
82〜83、(他力)個人崇拝について
84〜87、法に対する執著について
102〜104、安らぎについて
170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
204ジーザス=キリスト:03/03/12 20:25
2、ブッダは霊魂を否定したかどうか

答え 霊魂を否定しなかった。
205203へ:03/03/12 20:43
>>←これを付けてください。
即ち、

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
206ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/03/16 01:49
さまざまな宗教・仏教(宗派)の論争について、大乗仏教で、これを信じれば救われるというのは、
ニルヴァーナでは虚妄であると知る。偽りだから論争も起こりうるのだろう。真理は安らぎであって、
「すべては水の泡か陽炎のごとし」何かを求める信仰も含めて、この世の一切の思いに離れたことなのだ。
しかし、何かを深く信仰することにより、悪を行わない、享楽を慎む、希望がもてるなど不安を解消
する宗教ならばいいのかもしれません。
207名無しさん@3周年:03/03/19 22:03
内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな智慧あり、黒と白
(善悪業)を超越した人
あなたは善悪の両者に汚されません〜サビアは師を礼拝します

人は善悪の思いを抱くことにも汚されるのでしょう。
また「何が正しいか」「私は正しい」という思いによっても汚される。
あなたは正しくないという思いの裏腹であり、それは、寛容な心が失われる。
208山崎渉:03/03/21 22:57
(^^;)
209名無しさん@3周年:03/03/22 02:03
福栄村商工会長挨拶
「いかがわしいHP内職にご注意ください」
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/fukuesho/syoukou1.html
210名無しさん@3周年:03/03/22 14:28
この世のさまざまな災い、不平等などを憂い、神はいるのか?という人がいますが、
欲望の支配する世の中に人は存在し、ブッダのことばを行っている人のみこの地でも、
ほぼ完全に神の支配下にいるのでしょう。

211名無しさん@3周年:03/03/22 22:37
意欲をもたないことが望ましいのでしょう。自分で善と決め付けて行うことは、他人にとって
利となるとは限らない。余計なおせっかいとなることも。
「慈しみとあわれみを時に応じて修め」必要な人に必要なだけあわれみを行える人が善なる人
なのでは。
悪の判断については「世間すべてに背くことなく」世間や人を煩す行為をしないことが悪を行わない
ことになるのでは。
212仏の教えについて:03/03/22 22:40
一 あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・<孤独なる人々に食を給する長者>
の園に住しておられた。
二 そのとき多くのサトゥッラパ群神たちは、夜が更けてから、容色うるわしく、
ジェータ林を普く照らして、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、
尊師に挨拶して、傍らに立った。
三 傍らに立った或る神々は、尊師に向かって次の詩をとなえた。 ──
「人間のあいだにある諸々の欲望の対象で常住なるものは存在しない。この世には諸々の
美麗なるものが存在し、ひとはそれに束縛されている。それらに耽って怠けている人は、
死の領域から脱して<もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地>に来ることがない」と。
「罪は欲望から生じ、苦しみは欲望から生じる。欲望を制することによって、罪が制せられ、
罪を制することによって、苦しみが制せられる」と。
「世間における種々の美麗なるものが欲望の対象なのではない。
〔むしろ〕欲望は人間の思いと欲情である。
世間における種々の美麗なるものは、そのままいつも存続している。
しかし気をつけて思慮する人々は、それらに対する欲望を制してみちびくのである。
213仏の教えについて:03/03/22 22:41
怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、
無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
思念を捨てた。空想にに耽らなくなった。この世で名称と形態とに対する妄執を断ったのだ。
束縛を断ち、苦しみもなく、願望もない人、── この人を神々も人間も、この世でもかの世でも、
天上にもいかなる住み処にも、さがし求めたが、跡を見出すことができなかった」と。

尊者モーガラージャは次のように問うた、
「もしも神々も人間も、この世でもかの世でもそのように解脱した人を見ることができなかった
のであるならば、人々のためになることを行う最上の人を敬礼する人々は、
称讃さるべきでありましょうか?」と。

師は答えた、
「モーガラージャよ。比丘よ。そのように解脱した人に敬礼する人々も、
また称讃さるべきである。かれらもまた理法を理解し、疑惑を捨てて、
束縛を超えた者となるからである。修行僧たちよ」と。

214仏の教えについて:03/03/22 22:51
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>212-213 世間における種々の美麗なるものが欲望の対象なのではないについて
215ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/03/23 20:55

>>212
ニルヴァーナを体験した訳だが、どんなに素晴らしい境地でも、欲望の思いがあったので
妄執に捕らわれた。欲望の思いが残りなく滅し、静けさと安らぎのみ好む者であれば、生まれさせる
もの「妄執」に捕らわれることはないと思われる。
しかし、二度と生まれないという目標がなくても、ブッダのことばを少しでも理解し、実践しようと
する人は、安らぎ多い人生となるでしょう。
私は、生活のうちに忘れがちなニルヴァーナだが、ブッダのことばを読むことで、ふたたび思い出す。



216名無しさん@3周年:03/03/25 17:52
ブッダは奇麗事ばかり言ってたようだけど、
人間の本質を分かった人だったら、
このような束縛するようなことは言わなかっただろうな。
人間としての度量が小さすぎるよ。
こんなことやってたら偏狭な人間になってしまう。
理想主義なのはわかるけど、
現実がわかってないね。レベル的には子供騙し程度でしかない。
これじゃあクリと変わらない。
アホな子に向かって説教してるんじゃないんだから、
昇華させた仏教を取り入れなくてどうすんだよ。
ブッダの言葉を逐一言葉どおりに受けとろうとしている人がいるとすれば、
かなりマヌケな人だな。
217脚本家・はしだすがこ:03/03/25 18:13
>>ブッダの言葉を逐一言葉どおりに

弟子達のバイアスがかかってることをお忘れなく!
218NB ◆0buMLZ/Vxc :03/03/25 18:42
まあ、近代人ってのは「真理」を認識できる能力と資格がある。なんて
無批判無前提無意識無反省無自覚に思い上がっているから、お釈迦様の
次に偉い人は「弟子達」なんかよりも「自分」だ。と考えちゃうんだろうね。

ま、そのへんは親鸞聖人の理解にもあてはまるんだけど。

自分の認識には「バイアス」がかかってないとでも?
フッサールの現象学に始まる流れもむなしいよね。現代人。
219仏の教えについて:03/03/25 19:37
3〜5スレ、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議についてより

かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である。」
「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論
に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を
<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは
自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)とも
に愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の<道の人>のうちに
愚者は一人も存在しないことになる。
「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の
異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の
異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
自分の道を堅く堅くたもって論じているが、ここに他の何ぴとを愚者であると見ることができようぞ。
他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
一方的に決定した立場に立ってみずから考えを量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。
220名無しさん@3周年:03/03/25 19:55
超化石化したスレだにゃー
五仏の法則について語れる野師いる?
と言って観る。テスト
221名無しさん@3周年:03/03/25 20:11
真理に達した人が、遇者を否定することの、どこが悪いのでしょうか。
222名無しさん@3周年:03/03/25 20:33
ブッダは、人の苦悩の要因をあばきだし、欲望やその他の束縛から解放して
安楽なこころの持ち方、安楽な生き方を説こうとしたのだろう。
安らぎを求める人は、ブッダのことばを聞き、捨て去るべきところは捨て去り、
願い求める欲念が断ち切れない人は、他のものを信仰すればいいのでは?
223名無しさん@3周年:03/03/25 20:55
>かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である。」
>「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

それは違います
他説には正しい部分と間違った部分があると説いているのです

>これらに依存して(他の説を)蔑視し、
>喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
>反対者を<愚者>であると見なす

そういう決め付けはどこから来るのでしょうか?
他人の間違いを喜んだりするというのは、
一体どのような心理状態を言っておられるのか分りませんが、
そのような捻くれた気持であるように受け取っておられるということに、ちょっと呆れました。

>過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、

それこそ妄想です。ブッダには、真理の人は驕慢によって狂っていると見えるのですね。
コメントすべき言葉は見つかりませんが、哀れなことだと思います。

>他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、
>その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。

呼んだから愚劣になる、なんてことは“ありえません”。常識です

>自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の<道の人>のうちに
>愚者は一人も存在しないことになる。

その逆も“ありえません”常識です。
224名無しさん@3周年:03/03/25 20:56
>(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、
>異説の徒はこのようにさまざまに説く。
> かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

耽溺し汚れに染まっていると断定する理由がわかりません。
ブッダお得意の決め付けでしょうか?

>他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれは
>みずから確執をもたらすであろう。
>かれは世の中で論争をなすに至る。

妄説の人が感心するように正しく教えを説くのであれば、
確執を起こすことはないでしょう。
低い教えだからといって、「君達は頭が悪い。君達は悪人だ」などと罵るつもりはなく、
「それは程度が低い」と述べるだけです。

>一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。

妄説を説いているのはブッダ自身であると知るべきでしょう。
まずブッダ自身が断定を捨てなければなりません
225名無しさん@3周年:03/03/25 22:15
この世の哲学的断定で論争している人々を批判しているのでしょう。
解脱して、教える立場にあるから人を批判できる。
永遠の命からして、哲学的断定で論争するのは空しいとなるのでは?

>>219
226仏の教えについて:03/03/25 22:35
さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2

これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、−かれらはすべて他人からの非難を招く。
また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。
(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。
論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、
汝らは無論争の境地を安穏であると観じて、論争してはならない。
すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。
かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。
かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?
戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>
と称する人々は、流転する迷いの生存に誘き込まれている。
227仏の教えについて:03/03/25 22:37
もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。
(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、
「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。
−安らぎを固執することもなく。
あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、
声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。
この世において死も生も存しない者、−かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか?−かれらはすべて自分らこそ真理に達したもの
であると称しているのであるが。
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
228仏の教えについて:03/03/25 22:39
もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというなば、諸々の教えのうちで勝れたものは
一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと
説いているからである。
かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり
真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定して
固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。
他の教えを最も勝れたものだとみなすこともないからである。
「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、
と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。
かれらは、正しい道をはずして、他人によって清浄となると説く。
見る人は名称と形態とを見る。またみてはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。
見たい人は多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、
それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
229仏の教えについて:03/03/25 22:40
(「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、
みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)
を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。
かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。−他の人々はそれに執著しているのだが。−
聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。
かれは不安な人々のうちにあってもやすらけく、泰然として、執することがない。
−他の人々はそれに執著しているのだが。−
過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。
賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。
かれは負担をはなれて開放されている。
かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることもなく、求めることもない。
−師はこのように言われた
230仏の教えについて:03/03/25 22:47
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229 さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
231名無しさん@3周年:03/03/26 21:33
宗教で論争するのは、その宗教が安穏である真理を重視してないからでしょう。
願い求める欲念でこれをすれば願いがかなうという宗教、あの世この世を望み、
善行の功徳を願う宗教など。

232ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/03/27 17:54
ニルヴァーナでは、これを信じればよいというあがないの対象も、大乗仏教の思いも、
虚妄であると知る。だから、どれが正しいということは、真理のうちにはない。
大乗仏教では、それを信じて、安心と悪事をしないこと貪欲を抹消することなどの役割を
果たせばいいのでは?
しかし、ニルヴァーナを見た私は、ブッダのことばで救われる。
233仏の教えについて:03/03/31 20:38
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229 さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
234:03/03/31 23:56
自分の信仰のみが正しく、あとは間違っているとする宗教は、それだけ欲念が強い者を釣る
信仰でしょう。自分の信仰は正しいとする者は、この信仰で現世または来世の利益がこれのみに
あるということだから。
ブッダは、人の心にある悪い思い、つまり、安らぎに反する思いをなくそうとし、善い思いと
行為により、苦楽ない平安な生き方を説かれたのではないか。
235仏の教えについて:03/04/06 21:22
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229 さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
236名無しさん@3周年:03/04/06 21:43
日蓮正宗は他宗を非難することが多い。
日蓮正宗自体も分裂して、日蓮正宗と創価学会は対立している。
宗教の対立を信仰の一部として活動するのも、その人の人生だが、
欲望のまま生きる人よりまだましか。貪欲の報いは悪いらしいから。
信仰の束縛によって、この世の欲望から目をそむけさせるのもひとつ
の手だろうが、釈迦の真の目的は何だったのか。
237仏の教えについて:03/04/06 22:39
苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、── かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、
また苦しみの消滅に達する道を知った人々、 ── かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

>236さんへ 仏陀の教えとは >>1より
『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、
『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』
『これは苦しみ消滅である。これは苦しみの消滅に至る道である』
2381989年監禁コンクリート事件の真実!!!!!:03/04/06 22:42
ほんとの話です!!!!!!
女の子が40日間渡って監禁され、計100人ぐらいに強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。(深くかかわったのは5,6人)
膣を灰皿代わりにされ、自慰(オナニー)を強制され、jfghjgfjgf
真冬に裸で外(ベランダ)に出され、裸で踊らされ、手足を押さえつけられ、膣やお尻の穴に鉄の棒を突っ込まれ、膣やお尻の穴に花火を入れ爆発させ、20キロの鉄アレイを身体(裸体)になんども落とされ、瞼(まぶた)に熱いろうそくをたらされ、
手足を押さえつけて、膣にマッチ棒を入れられ燃やされ、膣の中のや裸体をライターで火あぶり、精液を大量に飲まされ、500ccの尿を飲まされ、基礎の他むちゃくちゃ。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされたそうだ。
女の声だが、人間とは思えない叫び声(悲鳴)(絶叫)を上げ続けた!苦しさのあまり何度も気絶した。
殺された彼女の親友が言うには、監禁され殺される一日前、幽霊(生霊)となって「助けて!」と親友に助けを求めたが、親友はどうすることもできず、泣きじゃくった。
「狂宴犯罪」は 一ヶ月以上 続いた 。
そして(失禁して)死んだ。(殺された)i78i78i78i
専門家によると自死(あまりのつらさに耐え切れず、脳が死ぬことを選択した。(命令した。)らしい。(死体にの脳は溶けていたらしい)
死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。死体には髪がなくなっていた。
40日間の監禁で極度のストレスのあまり全部髪が抜け落ちた
死体の膣(マンコ)にはオロナミンC2本、入っていた。
         

「裁判記録」は死ぬほどエグイ内容であった。「コンクリート詰め事件」で検索すればわかる。
(俺は何時間も涙が止まらず、夜も何日も眠れなかった。たとえ99.9%の人が幸せでも残る0.01%の人が(超)不幸なら、そんな世の中、絶対承認しない!!!!!そんな世界いらない!!!!!絶対、絶対いらない!!!!!絶対認めない!!!!!)
l;ok;l(私の心の底からの叫びでした。)
もし心にきた方は過去ログ26に俺の思いが書いてあるので読んでください!!!
fhfhf
239名無しさん@3周年:03/04/07 19:42
>>238のような事件があるので、神仏に祈ることは大切だろう。それは、人間の悪を抑えるものとなればよい。
しかし、ブッダのことばを理解しようとする人は、少なくとも野蛮なことをするハズがなく、苦しみを知り、
苦しみの生起するもとを知ろうとし、できればそれらから離れ、安楽な生き方をしようとするのではないか?
だから、ブッダのことばを理解しようとする人は、あがないの対象となるものを祈らなくていいと思う。
苦しみの要因を少なくすることは、日頃の生活の中で気をつけて実践すればよいと思う。
240名無しさん@3周年:03/04/07 20:14
日蓮聖人が、南無妙法蓮華経をけなす者は「頭が七つに裂ける」という頭破七分の科
というものを説いたらしいが、ブッダのことばで、

 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、
  あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」
 いつわりをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。
 かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。

「正しい教えの白蓮」では、無明が因で生活活動があり・・・・とあるが、日蓮聖人は、無明
だから信じなさいといっているのだろうか?霊力を信じる人は、無明だともとれるし・・・・
241名無しさん@3周年:03/04/07 21:37
釈迦がバラモン教徒にもわかるように説いた仮の教えを
真実の言葉と思い込み、迷いにはまるスレッド。分相応だ。
242名無しさん@3周年:03/04/07 21:48
根本仏典のブッダの信者さんは
今回のイラク戦争には賛成ですか?
反戦ですか?
243俺が勝手に思うに:03/04/07 22:11
極論だが、現代人にとっての根本仏典と成りうるのは

ヘルマン=ヘッセ「シッダールタ」

「車輪の下」よりこっちのほうが(・∀・)ウツクシイ!
宮本亜門がヒッキーの頃、こればっかり読んでて
今の地位になって、周りの反対を押し切り舞台化したが
ちーとも売れなかったとさ。本人は「それでもやってよかった。」

ヘルマン=ヘッセは父親がインド哲学研究者で、ユングの友人だったから
下手に坊さんや仏教学者の話を聞くよりも、こちらを読むほうが萌える。





244名無しさん@3周年:03/04/08 16:51
1円熟した悟りへの道の先輩たちと交わること。
2感官の抑制。
3激情を離れ、(正語)を実践すること。
4(正精進)を実践する事。
5人生は苦であるという(弟一の尊い真理)を見極める事。


245名無しさん@3周年:03/04/08 16:55
偉大な王たちよ、どうしてこんなことをするのか。もし私が今日ここに
いなければ、諸君は川を血で真っ赤に染めたことであろう。
諸君は敵意と憎しみの内に暮らしている。私は憎しみを離れている。
諸君は煩悩の病に苦しみながら生きている。私はそのような病から自由である。
諸君は肉体の快楽を求めて生きている。私はそうではない。
もし幸せに暮らしたいと願うなら、憎しみを抱く人々の中で憎しみを持たず
暮らしなさい。病に苦しむ人々の中で、健康に暮らしなさい。
苦悩する人々の中で悩まずに暮らしなさい。


246名無しさん@3周年:03/04/08 20:44

願い求めることを信仰の対象としている人々には、真理から安らぎを得ようとするのは
難しいものとなるのでしょう。欲のない話を聞いて、逃げ出すのは当然かも。
永遠にあるニルヴァーナを生きながら得たブッダの説法から、安らぎ以外のものを得ようとするのは
不純な心からきているだろうし、安らぎを得るため、苦しみと苦しみの生起するもとと、苦しみ
の消滅する道をブッダは語っている。
憎しみを持たない、煩悩の病に苦しまない、悩まないことなどが、信仰を実践することでしょう。

願い求めるもの、善行の功徳を求めるものに対しては、せいぜい悪いことをしないようにあがないの
対象を拝ませ、それなりに言い聞かせることは大事なことでしょうが。


247名無しさん@3周年:03/04/09 14:32
ガウタマは菩提樹の下にこの草を敷き、東の方に顔を向け、瞑想の姿勢をとって
すわった。かくして、偉大なトランスがはじまり、満月の日、ガウタマは完全に
悟りをひらいた者、ブッタとして立ち現れるのであった。
248名無しさん@3周年:03/04/09 14:35
その時、私の輪廻は終わった。私にとって、俗世はもはや価値のないもの
となった。
249名無しさん@3周年:03/04/11 17:48
(なぜ泣いておられるのですか。何か不吉なことが、この子に起こるのでしょうか。)
いいえ。私が微笑んだのは、将来必ず〔完全に悟りを開いた者〕ブッダとなる
御方にお目にかかる光栄を得たからです。ある特別な相から私にはそれがわかり
ます。しかし、私自身の行く末を考えてみますと、生きながらえてこの御方の教え
を聞けそうにありません。だから涙がこぼれてきたのです。喜びなさい、王様。
あなたのご子息は、この世でもっとも偉大な人物になられるでしょう。
250名無し@2周年:03/04/11 21:09
仏陀になる法は止息法ですね。
人は、仏陀になれるのです。
芋虫か蛹になり蝶になるように
251名無しさん@3周年:03/04/12 23:02
インドの聖者も(神はあなたの内にもあたしの内にも等しく存在します。
すべての人はみたまの本質において一体であり、みたまの本質は絶対実在に
ほかなりません。この真理を認識するとき、無知は消えます。これこそ唯一
の真理であり、それは生々流転の世にある無数の名と姿とは、まったくかかわり
をもちません。名と姿がなんであれ、わたしたちが見るすべてのものに唯一の
実在が存在します。)といっている。これが悟るということと思える。
シャンカラチャリアの不二一元論より、

252名無しさん@3周年:03/04/13 22:28
79 名前: バウ ◆pyDQkkJ2 投稿日: 02/10/02 13:23

>>78
幼稚園の絵本のようなものを、大人に示しても仕方が無いでしょう。
ダイジェストじゃなんにもならないですよ。仏教は「仏陀の教え」なんだから。
ダイジェストには著者の主観が入っちゃうでしょう。その人の境涯に
なってしまうんだから。
253メモメモ:03/04/13 23:58
ははーん。
こうやって煙に巻いて、本質を見誤らすんだな。新興・カルトさんたちは。
254名無しさん@3周年:03/04/14 00:51
生まれてはまた生まれ
死してはまた死に
誕生の前は母体のなかで眠る
これこそ果てしない輪廻の海
おお、神よ
誤慈悲により苦しみの連鎖より
われを救いだしたまえ
255名無しさん@3周年:03/04/14 04:37
セックスカルト宗教について教えてください。
256名無しさん@3周年:03/04/14 17:02
蓮の葉に光る水滴のごとく
この世はゆれ動き、
とどまることがない
人生には果てしない執着が
つきまとい
苦しみと悲しみの
織りなすスクリーンに
世はその姿を映す
257名無しさん@3周年:03/04/14 17:19
肉欲、怒り、どん欲、執着を捨て
尋ねなさい
いったい自分は誰なのか、と
自分が誰かもわからぬ
愚か者をば
果てしなき地獄の苦しみが
待ち受けるのだ
258名無しさん@3周年:03/04/14 17:46
子供のころは歌ったり遊んだり
年頃になると恋を覚えて
娘たちを追いかけた
老いた男の胸はいま
悩みと疑いばかり
かれはいつ神を求め
真理について考えるのか
259名無しさん@3周年:03/04/14 17:47
ちんちんについてかむがえまする
260名無しさん@3周年:03/04/14 20:38
夜は日を継ぎ
日は夜を継ぐ
夏は冬を継ぎ
冬は夏を継ぐ
時は進み
人生は終わりに近ずく
しかし人はなお
欲望にしがみつく
261名無しさん@3周年:03/04/14 20:48
人はなお
ちんちんにしがみつく
262あぼーん:あぼーん
あぼーん
263名無しさん@3周年:03/04/14 20:51
人は空しい
264名無しさん@3周年:03/04/15 15:57
人は生まれ、青年となり、年老い、死にます。人は成長し変化し死に行く事
のみを考えればよいのでしょうか。清らかな神性について思いめぐらす事な
く、日を送ってよいでしょうか。青年時代には仲間と遊び歩き、大人になる
と欲望を満たし情事にふけって時を浪費し、年老いてなお執着を断ち切れず
にうろうろするのが、人の世の常です。このように人は一生を過し、最後は
土にかえって、無用のものとなります。若者は神を信ぜず、神は存在するか
否かとつぶやきつつ失望の日を送ります。
265名無しさん@3周年:03/04/15 16:26
子供のころは歌ったり遊んだり
年頃になると恋を覚えて
娘たちを追いかけた
老いた男の胸はいま
悩みと疑いばかり
かれはいつ神を求め
真理について考えるのか
266名無しさん@3周年:03/04/15 16:51
時は風のように速く過ぎてゆきます。人生は氷が溶けるように、なくなって
しまいます。早かれおそかれわたしたちは肉体を捨て、人生の目的を究めず
に世を去ります。生命が去った肉体は、埋葬されあるいは火葬に附されます。
人生とはいったいなにでしょう。人として生をうけた目的を認識せず、感覚
を満たすために過す、ことは、時間の浪費です。
267名無しさん@3周年:03/04/15 16:59
怒りの炎、肉欲の炎、どん欲の炎、執着の炎が常にハートに燃えています。
かれはこの火によって自分が完全に焼きつくされ灰になる事に気ずきません。
恐ろしい火が自分の内に燃えていることに気ずかず、彼は未来の大きな夢を
あれこれと思い描きます。
268名無しさん@3周年:03/04/15 18:05
人間にとってなにが恐ろしいといって、死ぬことほど怖いものはありません。
死ぬ時の恐ろしさは、無数のさそりが体をはいずりまわる恐怖どころでは
ないのです。無数のさそりが体中いたるところを刺しつずけるような苦しみ
です。そのように恐ろしい死が近ずき苦痛におそわれているとき、救いは
神の御名しかありません。
269ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/04/15 19:14
人は死んだら、
「自身は死ぬことはないと感じられ、同時に殺人者や自殺者の霊魂が悲しみさまようのを
感じられる境涯である。自身の全ての思いは、ほんの僅かなことと感じられ、全てから解き放たれた
ような感覚を得て、この世ではない無上の喜びを得る。そして勇気とできないことは何もないという
自身が沸き起こる。しかし、野望の妄執というものに捕らわれてしまいその境涯を失う。」


イエスもブッダも、真理のような心を保ち生きろと言っているのです。
真っ当に生涯を過ごした人は、死を恐れる必要はない。
死ねば、この地の全ての出来事に対して、寛容であり、哀れみ、慈しみの心を保ち、
ねたむこともなく、高ぶらず、誇らない。いらだたない、恨みをいだかない、欲が
ないので、当然、自分の利益を求めない。悩むこともなく、憎しまない。敵対しない。
平安であって、静けさを喜ぶ。


270ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/04/15 19:32
人は、生まれさせるもの、野望の妄執というひとつのものに従ったのです。
イエスはたとえで、人々にわかりやすく「悪魔は〜これらの国々の権威と栄華とをみんな、
あなたにあげましょう。」
そして、人は栄華と権威を求めて、未来を求めてあくせく働くようになった。
それに従わなければ、死を味わうこともなく、生も死もない境地と共にいられるのですが。
271名無しさん@3周年:03/04/15 21:18
かって、仏陀は、一つの死体を見ました。そして、一人の病人を見ました。
また彼は、一人の老いさらばえた男を見ました。このような光景を目の当たり
にして、彼の心に変革が起こりました。私たちは、たくさんの死体や、たくさん
の病人や、老人を見ていますが、私たちの心は変わりません。私たちの心は石の
ように固くなったのです。私たちは、自分自身を変革しなければなりません。
そうしてこそ、初めて私たちは人間なのです。
272名無しさん@3周年:03/04/16 00:14
この世には楽しみはありません。
生まれては死に、死んでふたたび生まれてくる事のくり返しに、
なんで楽しい事があるだろうかと、人が生まれるのは、不滅となり、
二度とふたたび生まれないためです。真理への道を発見し到着した
者こそ、賢者です。神の卸名を唱え、神を信じなさい。
それ以外に幸福への道はありません。
273仏陀:03/04/16 00:26
冬は暑く、夏は寒い
274名無しさん@3周年:03/04/16 20:47
神を信じるための一歩を進めることさえ、
前世の善い行いのたまものなのです。
前世の行為の酬いを今生で刈り入れ、
過去生の善悪の行為の果をにないつつ
輪廻転生を繰り返すのが人の常であると、
275名無しさん@3周年:03/04/16 21:26
人を愛したり、慈しんだり、哀れんだり、思いやりをかけたり、人の幸福を
自分のことのように喜んだりすることが、真の幸福であり、癒されることであり、
自分自身の欲望について、罪について、懺悔することにも癒されると思うのです。
勿論、聖者の言葉を読み、神はいるのですから、人それぞれが思う、神に尽くす
ことも幸福だと思います。
>>272
276ブッシュの戦争:03/04/16 23:58
>>神の卸名を唱え、神を信じなさい。
>>それ以外に幸福への道はありません。

この押し付けこそが、何教か存じませぬが仏教とは
相入れないと思うのですが・・・・
277名無しさん@3周年:03/04/17 03:11
ある日、仏陀が旅をしている時、刀を手にした悪人に出会いました。
「仏陀よ!お前の愛は、本日ここで我が妬みに屈服してしまうのだ。
お前の命は今日限りだ!」と告げられた仏陀は、笑みを浮かべて悪人に
こう答えたのです。「私は、妬みにも憎しみにも屈服することはない。私
は、褒められても咎められても心を動かすことがない。私は私に対して、
そのような悪意を抱くそなたさえも愛している」と。
他の人々を憎む者たちは、ついには自らの憎しみによって燃え尽きてしまう
のです。妬みで一杯の人々は、ついにはその中で身を滅ぼしてしまいます。
278名無しさん@3周年:03/04/17 03:18
仏陀はある時「世界で最も富める人は誰ですか?」と尋ねられ
「自分の持っているものにおおいに満足している人が富める人である」
と答えました。「最も貧しい人は誰ですか?」という問いには、
「多くの欲望を持っている人である」と答えました。
279名無しさん@3周年:03/04/17 20:18
聖書の「悪人に手向かうな、もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。〜
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さる
〜あながたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

ブッダもイエスも、どのような人に対しても、憎しまないように言っています。
憎しみから得られるのは、自身の苦悩だけでしょう。
人は、永遠の命からすれば、ごくわずかな人生を過ごすだけです。
完全な者に近づき、たとえ来世に生まれたとしても、それだけ良い人生となると思えば、
わずかなことへの憎しみは許せるでしょう。
280名無しさん@3周年:03/04/17 20:44
家のない者は、自分の家があればどんなに幸せかと思い、
家を持てば、もっと大きな家が欲しいと願う。
大きな家を持てば、人よりよい車が欲しいと願い〜
人の欲求はとどまることを知らないで、常に不満を持ちつづける。
「あの世もこの世も望まない」がブッダのことばであり、今現在、何も
不幸なことがないことに幸福を感じれば、幸福である時は長い。しかし、
来世を望む者は、今現在をそれだけ苦痛にさせるが、今現在、耐え忍ばなければ
ならない事態が起きたとき、励みとなる。

281名無しさん@3周年:03/04/18 22:00
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを
連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに
来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。


282釈尊から500年後:03/04/18 22:53
「パンニャーパーラミター」を知っていたから、イエスさんは十字架に
架けられる道を選んだと理解して、よろしゅうございますね。
283名無しさん@3周年:03/04/19 00:53
人間死んだらゴミになる。
284名無しさん@3周年:03/04/19 01:52
イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、(ダビデの子よ、
わたしたちを憐れんでください)と言いながらついて来た。イエスが家に入る
と、盲人たちがそばに寄って来たので、(わたしにできると信じるのか)と
言われた。二人は、(はい、主よ)と言った。そこで、イエスが二人の目に
触り、(あなたがたの信じているとおりになるように)といわれると、
二人は目が見えるようになった。イエスは、(このことは、だれにも知らせて
はいけない)と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外に出ると、
その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

285名無しさん@3周年:03/04/19 02:16
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐
が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たち
は近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、
起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも
従うではないか」と言った。
286ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/04/19 13:26
我々は、野望の妄執に従って、死なないという境地を失い、どのようなことも出来ないことはないという自信も
失った。イエスは、妄執に従わなかったので、真理と一体になり奇跡を起こせたのだろう。
神は、平安とともにいるので、平安を強く望み、平安を祈れば、その人の信仰の度合いによって、平安な状況で
あることが叶えられると思えばよい。平安と安らぎとできないことはないという真理で、祈りが叶わないなら、
あなたの罪の深さによって、叶えられなかったと言われても仕方がないものとなってしまう。
287ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/04/19 13:38
ブッダのことばは、人の望みではなく、神の望みを生きる人のためにある。
最も安楽な境地に近い生き方であり、われわれもそこから学べば、心の迷い
と苦悩が少ない生き方ができる。
288山崎渉:03/04/19 22:43
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
289名無しさん@3周年:03/04/22 22:16
死に行く人は、いっさいをあとに残してゆかねばなりません。
富も、地位も、ついてはきません。友人と親戚は墓場まで、あるいは焼き場
まではついてくるでしょう。しかしそこで、かれらは帰ってしまいます。
あなたについてくるのは、この世であなたのなした善行と悪行だけです。
今度生まれるあなたは、今生の行為によって決定されるのです。
善であるためには、真理を尊敬せねばなりません。真理は永遠です。
あなたの身体を含め非真は、変化し、衰退し、死にます。
それゆえ学び集中するエネルギーと能力のある若いときに、
神の恩恵を得るため様々な実践に励みなさい。一生の間、幻を追って過すなら
死期に及んで神に心を向けることは不可能です。
290名無しさん@3周年:03/04/22 22:34
仏陀の生涯はわたしたちの教訓になります。わたしたちは、
与えられた限りある時間の中で、わたしたちの真の本性に
気ずかねばなりません。それが人間としての一生の本当の
目的であります。わたしの身体は五つの元素で出来ており、
それはいつかは滅びてしまう運命にあります。わたしの体
に内在する霊だけが、ただひとつ変化することのない実体
なのです。わたしが真理を追求すれば、内在の真我にとって
老年とか死というものは存在しないことに気がつくでしょう。
291名無しさん@3周年:03/04/23 01:50
なぜ、競争したりいさかいをしたりしなければならないのですか?
この世の中にあるもので、長い間そのままの状態を保つことの出来るもの
は何ひとつありません。仏陀はこのことを正しく分析しました。彼は、
「全ては悲しみである。全ては移ろい行く。全ては、はかない諸性質に
よって出来た一時的なからくり仕掛けに過ぎない」と断言しました。
なぜあなた方はこれら有限のものに、致命的な程に心を奪われてしまわなけ
ればならないのですか?永遠なるもの、無限なるもの、普遍的なるもの
を勝ち取る努力をしなさい。
292名無しさん@3周年:03/04/23 01:56
いつの日かあなた方は、これまで養い育てて来た肉体を手放さなけれ
ばなりません。あなた方が稼いで所有して来たものの全てを、
どれだけの間誇らしげに保っておくことが出来るというのでしょう?
つまらない考えや欲望は、苦しみをもたらすだけです。
293名無しさん@3周年:03/04/23 02:04
聖なる思いと望みとは、神聖な平安をもたらします。ですから善良で
有益な感情と望みとを養いなさい。よこしまな人々との交わりと、
よこしまな想いからは離れていなさい。純粋な思いと言葉、同胞に
対する私心のない奉仕を通じて、人生の聖なる目的を達成しなさい。
294世襲制:03/04/23 02:08
お寺の子に生まれて     お寺の子に生まれて     お寺の子に生まれて     
295名無しさん@3周年:03/04/23 18:44
コリント人への第一の手紙より
「今からは妻のある者はないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、
それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。わたしは
あなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。」
296名無しさん@3周年:03/04/23 21:30
子が有って、子を喜び
牛があって、牛を喜ぶ
執着のないものは喜びを知らない。
297名無しさん@3周年:03/04/23 21:35
>296 執着のないものは喜びを知って、その喜びに執着することはない
298名無しさん@3周年:03/04/23 22:40
執着のないものは
喜びを知って、その喜びを喜べず
生を知って、その生を生きることをしない。
299名無しさん@3周年:03/04/23 22:44
まるで、大木でできた仏様のように、、、、
まるで、銅で型抜きした仏様のように、、、
執着のないものは、生きるということをしらない。
300名無しさん@3周年:03/04/23 23:29
慈しんでこそ、ブッダの教えですぞ!
301名無しさん@3周年:03/04/24 21:05
ブッダは「わたくしは何ぴとのやとい人でもない。」と言っています。執着することに生きる喜びを見出す人を、しては
ならないこととして止めることはないでしょう。
牛は当時では、財産の象徴でした。多くの人に、悩みを持たせない為にも、ブッダは究極の安らぎの暮らしを実践し、
財を持たない人でも悩むでないと言いたかったと思うのです。
子は自分の喜びとするだけではないと言っているのでしょう。牛飼いダニアが「わが妻は従順であり、貪ることがない。
久しくともに住んできたが、わが意に適っている。」人に対して、そんな思いを抱く人々が大勢いるとたまったもんじゃ
ない。他人が、すべて自分の思いどうりになるものだと欲する人はいないほうがいい。
しかし、そんな人も許せるような心を持つことで、自分の心の平安は保たれるのだが。



302名無しさん@3周年:03/04/24 21:08
みなさん最高ですか!
303名無しさん@3周年:03/04/25 04:54
人が有徳の線に添ってものごとを考え、話し、行うのであればその人の良心
はきれいで、内なる平安が伴います。知は力なりと言われてますが、徳は平安
であります。世の中は今日に至るまで有徳の手本となるような生活を送った偉大
な人々を尊敬しています。イエス、モハメッド、ゾロアスター、仏陀、シャンカラチャリア、
などの人々は彼らの行為、行動が純粋であったという理由だけで人々の忠誠心と
賞賛とを勝ち得ることができました。彼らは人類の心の中に住む不滅の存在に
なったのであります。


304名無しさん@3周年:03/04/25 05:09
私たちは、神に捧げるために、実に多くの飾り物を作ります。
神は、ただ一つの飾りを身につけています。愛以上に素晴らしい飾り
は存在しません。私たちは、神のために飾り物を作る代わりに、人類
に奉仕したほうがよいのです。私たちが神に捧げるものは、愛だけです。
305名無しさん@3周年:03/04/25 16:24
神様が一番お嫌いなものは何でしょう。
それは「退屈」。
だって神様は、何でもおできになるから、
すぐに退屈していまいます。
 だから退屈を紛らわせるために
たくさんのものをおつくりになる。
 神様がおつくりになったもので、一番退屈しないものが
人間です。人間は愛したり、憎んだり、怒ったり、戦争したり
本当に困ったものです。
 でも人間が一番退屈しません。
306名無しさん@3周年:03/04/25 21:37
きっと、天国は退屈だったんだ。
災いも、憂いも、苦悩もあるこの地を創造したのは、天国で退屈していた人のため。
天国へ帰りたかったら、暇なことに満足すべし。
307名無しさん@3周年:03/04/27 09:55
善良で神聖な生き方を追求する中で、人は数多くの困難や障害に出会うかも
知れません。たくさんの不審や疑問が出て来ます。これらの困難にまともに
直面し、辛抱強く勇気をもって様々な問題に耐えて初めて私たちは、真実と
いうものの本当の性質がわかるようになります。どんなことがあっても、
困難や不幸や疑いや落胆に負けてはいけません。あなた方は信じる心を持って
いなければなりません。自分自身を信頼し、神の愛の性質をよく理解するように
努めるべきであります。それは、人生の聖なる目的が愛であることを確信する
ためです。愛が人を変える力は無限です。もとは頑固にイエスを批判していた
聖パウロは、キリストの愛によって、イエスの最大の使徒に作り変えられたのです。
308名無しさん@3周年:03/04/27 10:04
もうひとつの例を挙げましょう。仏陀の時代に、アングリマーラと
して知られた、大変残忍でよこしまな男が居ました。彼は、盗賊
ラトナカーラのように旅人たちを待ち伏せて財産を奪い、その親指を
切り取って首飾りにして、自分の首に掛けることもしていました。
仏陀は、それほど残忍な男をも改心させて、求道者に変えることが
出来ました。
309仏の教えについて:03/04/27 14:11
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229 さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
310仏の教えについて:03/04/27 14:17
>304私たちは、神に捧げるために、実に多くの飾り物を作ります。

>304さんへ 
(他力)個人崇拝についてより
アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 アーナンダよ。このようにして、修行僧は
    自らを島とし、自らをたよりとして、
    他人をたよりとせず、
    法を島とし、法をよりどころとして、
    他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、
かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、 ── 誰でも学ぼうと望む人々は ── 。」
311ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/04/27 21:39
私はニルヴァーナを知った体験で、原始仏教や聖書を読むようになったのですが、イエスキリストも人々の諸々の罪から開放するために教えさとす
人だと思います。生も死もない境地を一度体験すれば、人は皆、神の存在を肯定すると思います。そして、イエスキリストは、神の意向を人々に伝える
ためにこの地に生まれた。真理はひとつであり、永遠のものですから、そのことばは永久に人々の罪から解放するものでしょう。
ブッダもまた、真理と一体になり、真理におもむくよう語る人です。そのことばに耳を傾け、少しでも取り入れようとし、自分自身を戒めようとする人は
神のことばを聞くのと同様でしょう。
イエスは、より多くの人々を導くために、そしてまた人々が信仰から離れないように、自らをあがないの対象とた。
ブッダのことばは、真理を追究する人のためにあり、多くの人々には受け入れられないでしょうが、これもまた真理です。
どちらがいいとか、悪いとかではなく、罪や苦悩から開放されないのは、自分自身の内面にあると思います。
312ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/04/27 22:11
聖書をあまり読まない人は、クリスチャンの信仰のすばらしさのみを聞いて、神に
願えばなんでもかんでも願いがかない、そのために信仰をしていると錯覚するかもし
れません。イエスを崇めるだけで、天国へ行き、後は地獄とか消滅するとか、そのよ
うに思っているから快く思わないのでは。
「「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の
御旨を行う者だけがはいるのである。」
「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。
貪欲は偶像礼拝にほかならない。」
自分の欲を願い求める欲念は、ダメだと言っているのでしょうか。
新約聖書の厳しい戒めを見ると、ブッダの言っていることとさほど変わりないところも。それは、
宗教なのであたりまえかもしれませんが。


313名無しさん@3周年:03/04/30 18:54
聖者のことばは、貪欲な人のうちでは無になる。
神は、人の貪欲な願いの対象とされ、欲望の功徳を求めて神に尽くす。
そして、不幸なことが起こったとき、人は神を憎む。
314名無しさん@3周年:03/04/30 19:04



仏陀で本当に暇だったんだね母さん。


315名無しさん@3周年:03/04/30 22:10
>>314
日本語が変
316名無しさん@3周年:03/05/01 09:39
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえ
ではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招
くためである。」

貪欲な人こそ学ぶべき。貪欲な人は「いけにえ」にされる。
317名無しさん@3周年:03/05/02 10:50
信仰には三つのタイプがあります。第一は猿のタイプ、第二は鳥のタイプ
第三は蟻のタイプです。猿は木に登って果実をとるとその場では食べず、
実を持ったまま枝から枝へと飛び移ります。そうしているうちに折角とった
果実は手から落ち、猿はせっかくの果実を食べることができません。
わたしたちが霊性の効果を早く得たいと焦ると、猿のようになんの効果も
得ることができません。神を観ることに性急なひとは、瞑想の対象を毎日
のように変え、あちらこちらと場所を変えます。第二のタイプの信仰は、
鳥の行動にたとえられます。鳥が枝の果実にさっと舞い降りると、その
いきおいで果実は地に落ちてしまいます。鳥もまた、果実を食べることが
できません。第三のタイプは蟻の行動にたとえられます。みなさんもよく
知っているように、蟻は食べたいと思うものを細かくわけ、ひとかけらずつ
をゆっくりとしかし着実にすみかに運びます。蟻は食物を得ることにみごと
に成功しました。神さまに対する信仰にかんしてもわたしたちはゆっくりと
着実でなくてはなりません。そうしてこそ、目的を達成することができます。
318名無しさん@3周年:03/05/02 11:27
「ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。
この世において死も生も存在しない者、―彼は何を恐れよう、何を欲しよう。

「ひとが何か或るものに依拠して『その他のものはつまらぬものである』と見なすならば、
それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。」

―スッタ二パータより
319名無しさん@3周年:03/05/02 11:43
「正しい法に従って得た財を以って母と父とを養え。正しい商売を行え。
つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、死後に
みずから光を放つという名の神々のもとに赴く。」
320仏の教えについて:03/05/07 17:11
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229 さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
321名無しさん@3周年:03/05/09 22:48
いけにえにされるような人は、どういう人だろう?
ブッダのことばでは「かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんで
いるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、―「ここで死んでから、われらは
どうなるのだろうか」と。仏教では、この世では神などが奇跡的なことを起こし人を裁く
のではなく、人が理解できる範囲で裁きを与えるととらえてもよいでしょう。

322名無しさん@3周年:03/05/10 03:13
子供が亡くなった時は、「この子が生まれたのは私のためだったのだろうか?」
と自らに問いなさい。その人は果たすべき自分自身の定め、自分自身で完成
すべき魂の歴史があったのです。ゴータマ・ブッダの父親は、息子が通りで
物乞いの鉢を持っているのを見た時、あまりにも深い悲しみに打たれたので
彼にこう言いました。「私の先祖は皆国王であった。この家系に乞食が生まれる
などとは何という運命のいたずらだ!」仏陀は答えました。「私の先祖は皆
物乞いの鉢を持っていました。私の家系に居た国王などは一人も知りません。」
父と子は別々な道を歩き、それぞれ違った道筋で人生の旅をしたのです。
323この世が、地獄:03/05/10 03:20
何千、何万、いや何億の人が毎日
おなか一杯に食べられる日を
願っているのだろう・・・
324名無しさん@3周年:03/05/10 08:49
「田に植え、林に植え、橋をつくり、井戸の舎や貯水池をつくる人々、休息所
を与える人々、―かれらの功徳は、昼夜に常に増大する。それらの人々は、法
に安住し、戒めを身に具えて、天におもむく。」

仕事は、ひとつの戒めとなりうるということでしょう。
325名無しさん@3周年:03/05/10 09:16
この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、他人が与えようとするものを
妨げる人々、―かれらは、地獄、畜生の胎内、ヤマの世界に生まれる。
もしも人間の状態になっても、貧窮の家に生まれる。そこでは、衣服、食物、快楽、
遊戯を得ることが難しい。
愚者たちは、それを来世で得ようと望むが、かれらはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり、死後には悪いところに堕ちる。」

「有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、
考えられるものであって、好ましく愛すべき意に適うもの、〜他の人々が
「安楽」であると称するものを、聖者は「苦しみ」であると言う。」

聖者でない我々は、富むため、もの惜しみをしない。
326名無しさん@3周年:03/05/10 20:03
宗教板に来て思ったんだけどよ、みんな異常だよな。きっと現実生活では変人扱いされて
誰からも嫌われてるようなヘタレばっかりなんだろうな。洗脳されずに自分の考えで生きてる
一般の人々からすればお前らは精神を患ってるとしか言いようがない。オ○ムみたいに犯罪犯さぬよう
気をつけるこったな。
327名無しさん@3周年:03/05/10 20:42
>326

評論家のようなことを書いてるが、お前も(この俺もだが)その一員だ
ということを忘れるなよ。
328名無しさん@3周年:03/05/10 21:07
>326
ほんとうは常連なんだろ?
嘘はすぐばれる。
329名無しさん@3周年:03/05/10 21:19
人間にとって大切な二つのことがあります。ひとつは自分に自信をもつこと
であり、もうひとつは心を清めることです。人はひとりで生きることは
できません。全世界は、社会の組織と、個人が社会にかかわりあって生きる
生き方に依存しています。何者であれ、外界との係わり合いなしに変化する
ことはできないのです。赤子が歩いたり話したり、読み書きを学ぶのは、
母の愛と助けがあればこそです。このように神聖な生活は善い友との交わり
から始まります。
330名無しさん@3周年:03/05/10 23:15
「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、〜
「今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、他人に奉仕する。今日、利益をめざさない
友は、得難い〜
「ただ善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。善き人々の正しい理法を知ったならば、
すべての苦しみから脱れる。」
  ブッダ


「今からは妻のある者はないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たない
もののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、
この世の有様は過ぎ去るからである。」
   聖書

神聖な境地と共にいたい人は、なるべく善き人々と交わり、世との交渉に深入りしないほうが
いいということか。

「思い煩わないようにしていてほしい」「悩まない、迷わない」それが真理。
331名無しさん@3周年:03/05/11 22:13
「わたしは肉体ではない。肉体は一時のものでありやがて滅びる。しかるに
わたしは滅びることがなく神の不滅の子である。」という宣言の真理を理解
する人はいま、ほとんどありません。わたしは肉体をもって生まれ、肉体は
成長し、肉体によって様々なことを楽しむ権利を持っている。人はこのように
考え、一生を空しく費やしてしまうのです。
332名無しさん@3周年:03/05/11 23:39
科学者は現存する物質の性質を研究し記述することしかできません。いかなる
科学者も、存在しないものを創造することはできません。ごくまれに物質の元素
を結合し人工的に新しい物質を創りだすことはあるかもしれません。しかし
彼らに生命を維持するための酸素や空気や水を創り出すことができますか。
それらは神の意志にもとずいて神が楽しんで創るものなのです。一切の創造物
は神の意志と楽しみによって創られたとの真理を認識している人は、愚か者
ではありません。科学者がどのように優れた能力をもっているにせよ、地水火風
空の五大元素を越えたものと接触することはできません。神はカーテンの背後に
いまし、五大元素を越えて存在するのです。神はこれら五大元素の領域外で
力を顕し、人は五大元素の中で力を発揮します。人が五大元素と生活の中で
密接な関係を持ち続けるかぎり、神の真義を理解することは不可能です。物質界
に住む人間が、生活を快適にするために五大元素を用いるのも、ほどほどの
程度ならよいのですが、それも、神の本質を理解するために用いられるので
なければなりません。いっぽう物質世界に神をひきずりおろすことができる
と信じ、神のやり方を理解するために五大元素のなかに閉じこもるのは、時間
の浪費にすぎません。神の恩恵を求めず、五大元素に密接に結びついた生活
を続ける限り、人は必ず様々な失望、難儀にであいます。かれは愚か者のように
人生を浪費します。
333名無しさん@3周年:03/05/12 00:26
>>332
そう、アッラーは何処にもいるのですね。
334名無しさん@3周年:03/05/13 19:38
ニルヴァーナは科学では解明できない。
335名無しさん@3周年:03/05/13 19:40
神を見た者は、誰に言われなくとも、賛美する。
336名無しさん@3周年:03/05/13 21:08
科学が万能でないってことくらい、みんな知っているだろう。神を求めるのは自由だが
人を愚か者呼ばわりするのは、何とかしてもらえませんかね。人間観察の幅が狭過ぎる
から、そういう意見になるんだろうね。
337名無しさん@3周年:03/05/13 21:47
この話しはシャンカラチャリアの詩の説明の一部であり
「ムーダマテ」という言葉を「神を信じない者=愚か者」
とわかりやすく説明しました。物質主義者のほうが言葉としては
ふさわしかったようですね。

神ゴーウィンダの栄光を歌いなさい
ゴーウィンダの御名を唱えなさい
ああ、愚かな者よ
神の御名を唱えて歩きなさい
死が迫ったなら
御名を唱えることができようか
文法の規則を暗唱しても
救いはえられない
338孫 悟空:03/05/13 23:40
所詮は、エテコーなんだから「神さん」っていう存在・オモシが無いと
謙虚になれないんだよ。われわれ、人間様は・・・・
339名無しさん@3周年:03/05/14 22:46
我々は、罪人。しかし、学べば自分を愛する者しか愛さないのがなくなるかも
しれません.......
340名無しさん@3周年:03/05/15 02:21
つぎのように考える人もいます。わたしは自分のすきなこと、嫌いなことを
決めることができる。神が口出しすることはない。自分の好き嫌いをきめる
のに、なぜ神を信じ祝福を祈らなければならないのか、と。また、自分の
住む家には家賃を払い、給料からは税金を差し引かれ、水道、電気その他
日常の生活用品にも税金を支払っているのに、神を信仰する必要があるだろう
か、と。もちろんかれらが税金を払っているのは事実です。しかしその人々
はいっさいの楽しみを供給する母なる大地に、生命に必要な一切を与えて
生活を可能ならしめる母なる大地に、いかなる税金を払っているか、考えた
ことがあるでしょうか。太陽や月、光をあたえるための空間、空気、働く力
にたいし、税金を払っているかどうかを考えねばなりません。わたしたちを
生かす目に見えない力は、なんの報酬も受けていないのです。
341ブッディズム:03/05/15 03:01
仏教は、宗教ではない!
と言えば、それまでなんですが
神の存在、神を持ち出さないで
「苦しみ」を克服しようという
のが、ブッダの教えなんですが。
342名無しさん@3周年:03/05/15 03:52
チベットでは仏教でありながら自然の精霊に対しても信仰をもっています。
インドでは仏陀はヒンドゥー教の神々でもあります。
仏陀がもし今生きていれば柔らかく広い教えをされると思われるのですが・・
343ニルヴァーナを見た ◆wQho5LLYeo :03/05/15 22:07
神を信じることは、ニルヴァーナを信じること意外はない。
ニルヴァーナは至上の幸福感、この上なき最上の喜びとともにあり、死をも超越している。
それは、野望の妄執によって失われたのだが、人は人を思いやり、愛を保つことによって
癒され、苦悩のないニルヴァーナに近づく。
神にはできないことはない。だから人に対して何も求めない。ただ、人が安らぐことを望ま
れるでしょう。
苦悩のないこと、哀れみ、慈しみ、静けさ、安らぎをこよなく愛する者は、自らの人生を最後
までまっとうしニルヴァーナに赴く。
その時は、生きている間には決して味わえない喜びのもと、神を賛美する。


344名無しさん@3周年:03/05/16 21:17
「ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか
と言って思い煩うな。」イエス
「『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『昨夜はわたしは眠りづらかった』
『今夜はわたしはどこで寝ようか』―家を捨てて道を学ぶ人は、これら四つの憂いに導く思慮を
抑制せよ。」ブッダ

 それらは、神を遠ざける心の思い。

「あすのことを思いわずらうな、あすのことは、あす自信が思いわずらうであろう。一日の苦労は、
その日一日だけで十分である。」聖書
「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来にあくせくすることもなく、
ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。ところが愚かな人々は、
未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。」
ブッダ

 人は繁栄を願って、未来のためにあくせく働くようになったが、実は悪魔に従ったから。
 しかし、その報いはもう受けている。死を味わうという報い、願えばどのようなことも叶う能力
 を捨て、神とともにいる神聖な境地を捨てた。働いて糧を得る、働いて物を得る。働くことが悪い
 のではないでしょう。人は欲望を満たすためには、この世の掟に従い神に願わず健康な人は働く
 のがいい、五感を喜ばすこと、快適を願う心は悪魔からきているのだから.....
 
345名無しさん@3周年:03/05/17 15:26
>その人は果たすべき自分自身の定め、自分自身で完成
>すべき魂の歴史があったのです。
そんな風に考えると現代の日本に生まれたということは、俗世界を断って
出家するとかでなければ日曜日にイエス様を祈りに礼拝するだけという信仰も
ありだよね。キリスト教は我々世俗人には優しい宗教だよ。本当に・・
346名無しさん@3周年:03/05/17 21:38
聖書から、神は愛だという。しかし「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報い
があろうか。」とイエスは言い、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」とも言う。そして、
隣人を愛せとは「たとえば強盗どもに襲われ、半殺しにされた人を助け、その治療費も払ってあげると
いうこと。」つまり、愛とは慈悲深いことなのです。
「父なる神が慈悲深いように」神とは、慈悲に近いものであり、人は慈悲の心で神が理解でき、慈しみ
の心を起こすことにより、神と共にいるのと同じになると言っていいでしょう。

ブッダは「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみの心づかいをしっかりたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」ニルヴァーナから慈悲を語った。
ブッダは、一切の物を捨て無一物になっても、その境地といれば幸せであると我々にも教えている
のです。

慈悲ある神は、人が慈しみの心を保つことによって近くなり、肉体からでるすべての思いにより遠ざける
存在であるとブッダのことばからわかります。



347名無しさん@3周年:03/05/17 21:43
年老いてから欲望と感覚の抑制に励むなら、神の恩恵にあずかるかもしれないし
あずからないかもしれません。しかし、若いときに感覚器官を抑制すれば、
神の恩恵はかならずあたえられるのです。例をあげて説明しましょう。朝早く
食堂にゆき予約しておけば、食事時間に遅れてゆこうとも食事をとることが
できます。しかし予約しておかなければ、売り切れて食べられないかもしれません。
348名無しさん@3周年:03/05/17 22:06
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。」
「自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。」

若いうちから、仏教でいう徳を積んでおけば、それなりの報いは大きく自分に
はね返ってくると思われる。
嫌なことを我慢する、耐え忍ぶならそれだけ報いは大きいかも。
仏教同様、イエスも徳を積めということを言っている。
349名無しさん@3周年:03/05/18 18:52
質素なヨギであれ
ぜい沢な者であれ
すべてを放棄した出家者であれ
家族と暮らし執着を抱く者であれ
かれに至福をあたえるものは
平安と真理のふたつのみ
それは最高の幸福
350仏の教えについて:03/05/20 20:27
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229 さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
351    :03/05/22 20:48
イエス「あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない」と言っている。
ブッダ「生き死にする者ぞ」と言っている。つまり、解脱した者。
解脱した者は、本物の心の開放を説いているのではないか。
「善悪の両者に汚されないこと」「見たこと・学んだこと・思索したこと・または戒律や道徳にこだわっては
ならない」ブッダ
「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存知である。
人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌み嫌われる。律法と預言者とはヨハネの時までのものである。」
「不正の富を用いてでも、自分のために友達をつくるがよい。そうすれば、富がなくなった場合、あなたがたを
永遠のすまいに迎えてくれるだろう。」

 今の世の中でも、自分は正しいことをしていると自覚しこだわっている人は、それだけ大きく心の安らぎ
 から離れるに違いない。
352名無しさん@3周年:03/05/23 23:58
仏教伝道協会の『仏教聖典』ってどうなの??
353名無しさん@3周年:03/05/24 00:11
神は言われた。
産めよ、増やせよ、地を満たせ!
354少子高齢社会:03/05/24 00:17
年金局長は、言う。
産めよ、増やせよ、年金財源を満たせ!
355名無しさん@3周年:03/05/24 00:48
>>352
よくホテルの引き出しの中に聖書と一緒に置いてあるやつでしょ?
いいんでない?
俺は好きだよ。
356仏の教えについて:03/05/24 18:35
デーヴァダッタは何故に出家をゆるされたか!?について

『尊者ナーガセーナよ、デーヴァダッタは誰によって出家したのですか?』
『大王よ、これらのクシャトリヤの青年 ── バッディヤ、アヌルッダ、アーナンダ、バグ、キンビラ、
デーヴァダッタ、そして七人目に理髪師のウパーリは<すべてみな>師(ブッダ)がさとりを開いたとき、
歓喜のあまり、尊き師(ブッダ)にならって出家しようと、釈迦族から出家したのです』
『尊者よ、デーヴァダッタが出家したのち、サンガ(仏教教団)は<かれによって>
破壊されたではありませんか?』
『大王よ、そうです。出家したのち、サンガはデーヴァダッタによって破壊されました。在俗の者は
サンガを破壊することはできません。比丘尼(女性の出家者)も、しきしゃまな(出家の見習者)も、
男子の信者も、女性の信者もサンガを破壊することができません。正規の比丘が生活を共にし、
一定の制限地域(結界)内に住むものがサンガを破壊するのです』
『尊者よ、サンガを破壊する者は、いかなる業<のむくい>をうけるのですか?』
『大王よ、一劫の間、持続する業<のむくい>をうけるのです』
『尊者ナーガセーナよ、ブッダは「デーヴァダッタは出家したのち、サンガを破壊するであろう。
357仏の教えについて:03/05/24 18:37
サンガを破壊したのち、一劫の間、地獄において苦しみをうけるであろう」ということを知って
おられたのではないのですか?』
『大王よ、そうです。如来(ブッダ)は「デーヴァダッタは出家したのち、サンガを破壊するであろう。
サンガを破壊したのち、一劫の間、地獄において苦しみをうけるであろう」と知っておられたのです』
『尊者ナーガセーナよ、もしも、ブッダが「デーヴァダッタは出家したのち、サンガを破壊するであろう。
サンガを破壊したのち一劫の間、地獄において苦しみをうけるであろう」と知っておられたのであるならば、
しからば、尊者ナーガセーナよ、「ブッダはすべての生きとし生けるものにたいして、あわれみをかけ、
同情し、利益を求めてやり、不利益なことをとりのぞき、有益なことをあたえる人である」という言葉は、
あやまりにちがいない。<また>もしも、それを知らないで、<かれを>出家せしめたのであるならば、
しからば、ブッダは全知者ではない。
 これもまた、あなたに提出された両刀論法の問いです。この大難問を解き、反対者の説を破ってください。
未来において、あなたのような智慧のある出家者は、得がたいでありましょう。この際、
あなたの力量を示してください』
『大王よ、如来は慈悲の人であり、また全知者です。大王よ、尊き師(ブッダ)は慈悲と全てを知る智慧と
によって、デーヴァダッタの行く末を眺めつつ、デーヴァダッタが業のつみかさねて、一兆劫の間、
358仏の教えについて:03/05/24 18:38
地獄から地獄へ、破滅の所から破滅の所へと行くのを見られたのです。尊き師は全てを知る智慧によって、
「かれの無限の業は、わが教えの下で出家したならば終わりをつげるであろう。前世<につくった業>に
基づく苦しみは、終わりをつげるであろう。だが、出家したとしても、この愚かな人間は一劫の間、
<苦しみをうける>業をなるであろう」と知って、慈悲をもって、デーヴァダッタを出家させたのです』
『尊者ナーガセーナよ、しからば、ブッダは<初めに人を>打ったのちに、<傷に>油を塗る。
崖に落としたのちに、<救いの>手をさしのべる。殺したのちに、蘇生を求める。すなわち、
ブッダは初めに苦しみを人にあたえ、そののちに楽しみを付与してやるのですね』
『大王よ、如来は人々の利益のために<かれらを>打ち、人々の利益のために<かれらを>落とし、
人々の利益のために<かれらを>殺すこともするのです。大王よ、如来は人々を打ったのちにかれらに
利益を付与し、落としたのちにも人々に利益を付与し、殺したのちにも人々に利益を付与するのです。
 大王よ、たとえば、父母が<かれらの子供を>打ち、落としてもそののち、子供たちに利益を付与する
ごとく、大王よ、それと同様に、如来は人々の利益のために<かれらを>殺すこともするのです。
大王よ、如来は人々を打ったのちにもかれらに利益を付与し、落としたのちにも人々に利益を付与し、
殺したのちにも利益を付与するのです。ブッダは、人々の功徳を増大させるあらゆる方法をもって、
人々に利益を付与するのです。
359仏の教えについて:03/05/24 18:40
大王よ、もしもデーヴァダッタが出家しなかったならば、在家の身分のままで地獄<の果を>招く
多くの悪業をなして、幾百兆劫もの間、地獄から地獄へ、破滅の所から破滅の所へと行きつつ、
多くの苦しみをうけるでありましょう。尊き師はそのことを知りつつ慈悲をたれて、
デーヴァダッタを出家させたのです。「わが教えに従って出家したならば、<かれの>苦しみは
終わりをつげるであろう」と<言って>慈悲をたれて、重い苦しみを軽くしたのです。
 大王よ、たとえば、財産、名声、栄誉、血縁において権勢ある人が、自分の血縁の者あるいは
友人が王により重刑をうけたとき、自分が<王から>大いに信任されていることによって
重い罪刑を軽くさせることができるごとく、それと同様に、大王よ、尊き師は幾百兆劫の間、
デーヴァダッタが苦しみをうけるであろうと知って、かれを出家させ、戒行・心の統一・智慧・束縛から
の自由の力・能力によって、重い苦しみを軽くしたのです。
 大王よ、またたとえば、毒やの傷をなおすすぐれた外科医が、重患の者を効力ある薬によって軽快に
させるごとく、それと同様に、大王よ、幾百兆劫の間デーヴァダッタが苦しみをうけつつあるのを知って、
尊き師は<その苦しみを軽くする>方法を知るが故に、<かれを>出家させて、慈悲の力に基づく法
(ブッダの教え)という効力ある薬によって、重い苦しみを軽くさせたのです。大王よ、尊き師が
デーヴァダッタをして、多くうくべき苦しみを<転じて>少なくさせたとき
ブッダは何か不善を犯しましたか?』
360仏の教えについて:03/05/24 18:41
『尊者よ、一瞬といえども、<ブッダは>何らの不善も犯さなかったでありましょう』
『大王よ、尊き師がデーヴァダッタを出家させたこの理由を、正しいものと認めなさい』
『大王よ、さらにそれ以上の理由があって、尊き師がデーヴァダッタを出家させたわけを聞きなさい。
大王よ、たとえば、<人々が>盗人・犯罪者をつかまえて、「王よ、この者は盗人、犯罪者であります。
あなたの欲する刑をこの者に科してください。」と言って、王に示すとしよう。王はかれらに
「しからばお前らよ、この盗人を郊外に連行して斬首台で<かれの首を>切れ」とこう言うでしょう。
「かしこまりました」とかれらは王の命に従い、かれを郊外に連行し斬首台に導くであろう。
ところで、この盗人をば、王に寵愛され、名利をえ、名声・富・財産をえ、その言葉が重んぜられ、
欲することを強力に実行するところの或る人がみたならば、かれはその者をあわれに思って、
その人々にこう言うでしょう。「お前らよ、やめなさい。お前らはこの男の首を切って何になるのだ。
お前よ、それならこの男の手かあるいは足を切って、生命は助けてやれ。わしはこの男のために
王に弁明しよう」と。かれらはその有力な人の言葉によって、かの盗人の手あるいは足を切ったのち、
生命をたすけるであろう。大王よ、このようなことをなしたかの<有力な>人は、
盗人のために自己の義務を果たした者であったでしょうか?』
『尊者よ、かの人は、その盗人の生命を助けた者です。<盗人の>生命が助けられたとき、
361仏の教えについて:03/05/24 18:42
かれのために何かなされなかったことがあるでしょうか?』
『また、<かの有力な人は>その<盗人>が手足を切られたときにうける<苦しみの>感受に関して、
何か不善を犯したでしょうか?』
『尊者よ、その盗人は自己がなした行為によって、<結果としての>苦しみの感受を受けるのです。
しかしながら、生命を助けたかの<有力な>人は、何らの不善をも犯していないのです』
『大王よ、それと同様に、尊き師は「わが教えの下で出家したならば、<かれの>苦しみは終わりを
つげるであろう」と言って、慈悲をたれてデーヴァダッタを出家させたのです。
大王よ、そしてデーヴァダッタの苦しみは終わりをつげたのです。大王よ、デーヴァダッタは、
死ぬときに臨んで、
「全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に越えすぐれた神、調御をうける人の御者、
普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します」
 と言って、生命のあらん限り、<ブッダに>帰依したのです。大王よ、もしも<あなたが>
一劫を六分するならば、<デーヴァダッタが>サンガを破壊したのは、第一分をすぎたときなのです。
<残りの>五部分を地獄においてすごしたあとで、そこから脱して、アッティッサラと名づける
「みずからさとれる人」となるでしょう。大王よ、このようなことをなしたかの尊き師は、
362仏の教えについて:03/05/24 18:43
デーヴァダッタのために、自己の義務を果たした者でしょうか?』
『尊者ナーガセーナよ、如来はデーヴァダッタのために、<与えるべき>すべてのものを与えたのです。
すなわち、如来はデーヴァダッタを「みずからさとれる人」とならしめたのです。
如来によって、デーヴァダッタために、何かなされなかったことがあるでしょうか?』
『大王よ、しかしながら、デーヴァダッタはサンガを破壊したのち、
地獄において苦しみの感受をうけました。その<苦しみの感受>に関して、
尊き師は何か不善を犯したでしょうか?』
『尊者よ、そうではありません。尊者よ、自己がなした行為によって、デーヴァダッタは一劫の間、
地獄において苦しんだのです。<かれの>苦しみを終滅させた師(ブッダ)は、
何らの不善をも犯していないのです』
『大王よ、尊き師がデーヴァダッタを出家させたこの理由もまた、実に正しいと認めなさい』
『大王よ、さらにそれ以上の理由があって、尊き師がデーヴァダッタを出家させたわけを聞きなさい。
大王よ、たとえば毒矢の傷をなおすすぐれた外科医がいるとしよう。矢が孔の中にはいっており、
膿と血とで充満した傷
── 風・胆汁・痰・<これら三者の>和合したもの、季節の変化、不規則な養生、激しい障害をうけて、
363仏の教えについて:03/05/24 18:44
腐敗した屍体のごとき悪臭に満ちた傷
── を治療しようとする場合、かれは傷口を激烈・痛烈・灼熱・劇痛の薬を塗って化膿させ、
化膿したのち、柔らかい状態となった<傷口>をナイフで切開し、腐蝕針で焼くのです。
焼かれたとき、アルカリの洗浄液を注ぐでしょうか?』
『尊者よ、そうではありません。かれは人の利益を計る心をもち、全快させようと欲して、
それらの処置をなしたのです』
『しかも、かれが薬を用いたために、<患者に>苦痛が生じた場合、矢の外科医は、
それによって何か不善を犯したでしょうか?』
『尊者よ、矢の外科医は人の利益を計る心をもち、全快させようと欲して、それらの処置をなしたのです。
かれはそれによって不善を犯したでしょうか?尊者よ、かの矢の外科医は天に生まれる人です』
『大王よ、それと同様に、尊き師は慈悲をたれてデーヴァダッタを苦しみからのがれさすために、出家させたのです』
『大王よ、さらにそれ以上の理由があって、尊き師がデーヴァダッタを出家させたわけを聞きなさい』
『大王よ、たとえば、ある人が棘にさされたとしよう。そこで他の人がかれの利益を計り、かれを治癒させようと欲し、
鋭利な針あるいはナイフをもって、<患部を>みな切開し、出血させることによって、その棘を抜くのです。
大王よ、かの人は人の利益を計る心がなくて、その棘を抜いたのでしょうか?』
364仏の教えについて:03/05/24 18:49
『尊者よ、そうではありません。尊者よ、かの人は人の利益を計り治癒させようと欲して、その棘を抜いたのです。
尊者よ、もしもかの人が、その棘を抜かなかったならば、かれは死んだでありましょうし、
あるいは、死に等しい苦しみをうけるでありましょう』
『大王よ、それと同様に如来は慈悲をたれてデーヴァダッタを苦しみから逃れさすために、出家させたのです。
大王よ、もしも尊き師がデーヴァダッタを出家させなかったならば、デーヴァダッタはまた一兆劫の間、世々生々、
地獄において苦しみをうけたでありましょう』
『尊者ナーガセーナよ、如来は<煩悩>の流れにしたがって行ったデーヴァダッタを、
<煩悩の>流れにさからって上らしめ、邪道をあゆんだデーヴァダッタに正道をあゆましめ、
崖に落ちたデーヴァダッタに足場をあたえ、凹凸の道をゆくデーヴァダッタに平坦の道を辿らしめたのです。
尊者ナーガセーナよ、あなたのごとき智慧ある人をさしおいて、他の<出家者>によっては、
これらの原因、これらの理由を示すことはできないのであります』
ミリンダ王の問い
365名無しさん@3周年:03/05/25 00:13
ここは居心地いい良スレですね。
366仏の教えについて:03/05/25 22:28
すべてのものは、前世になされた業の報いであるという誤った見解について

大王よ、たとえば、虚空に投げられた土塊が、大地に落下する場合、大王よ、その土
塊は、前世になした業によって、大地に落下するのでしょうか?』
『尊者よ、そうではありません。尊者よ、大地には、大地が善と不善との<業の>報
いを感受するところの原因は存在しません。尊者よ、その土塊が大地に落下するの
は、<前世の>業ではなく、現在の<因>によるのです』
『大王よ、あたかも、如来は大地のごとく、そのように見られるべきものです。たとえ
ば、土塊が大地に落下するのは、前世になした業によるものではないごとく、それと
同様に、大王よ、如来の御足にその石の破片が落下したのは、前世になした業によ
るものではないのです。
 大王よ、またたとえば、人々が大地を耕したり、掘ったりする場合、大王よ、その人
々は前世になした業によって、大地を耕したり、掘ったりするのでしょうか?』
『尊者よ、そうではありません』
『大王よ、それと同様に、尊き師の御足に落下したかの石の破片は、その石が前世
367仏の教えについて:03/05/25 22:28
になした業によって、尊き師の御足に落下したのではありません。
 大王よ、また、尊き師が赤痢にかかったというその病気も、前世になした業によっ
て生じたものではなく、<風・胆汁・痰の三者の>和合によってのみ生じたものです
。大王よ、尊き師にどんな肉体的病気が生じても、その病気は<ブッダ自身の>業
から生じたものではなく、これらの六つの原因(↓参照)のうちのいずれか一つより
生じたものです。
 大王よ、神々のうちの最高者たる尊き師は、『サンユッタニカーヤ』の妙典のなかで
、モーリヤ・シーヴァカにたいする解答において、また次のことを説かれました。──
「シーヴァカよ、痰を原因として生じているものによっても、ここに或る感覚されたもの
(苦痛)が生起する。シーヴァカよ、風を原因として生じているものによっても‥‥乃
至‥‥シーヴァカよ、胆汁を原因として生じているものによっても‥‥乃至‥‥シー
ヴァカよ、<風・胆汁・痰の三者の>和合から生じているものによっても‥‥乃至‥
‥シーヴァカよ、季節の変化から生じているものによっても‥‥乃至‥‥シーヴァカ
よ、不規則な不養生から生じているものによっても‥‥乃至‥‥シーヴァカよ、激し
い傷害から生じているものによっても‥‥乃至‥‥シーヴァカよ、業の報いによって
368仏の教えについて:03/05/25 22:29
も、ここに或る感覚されたもの(苦痛)が生起する。シーヴァカよ、業の報いによっても
、ここに或る感覚されたもの(苦痛)が生起するということを、そなた自身も知るべき
である。<なぜならば>シーヴァカよ、業の報いによっても、ここに或る感覚されたも
の(苦痛)が生起するということは、世間においてもまた、真実として認められている
からである。
 シーヴァカよ、しかしながら、修行者やバラモンたち<のうち>で、”個人が感受す
るいかなる楽しみでも、あるいは苦しみでも、あるいは楽しみでも苦しみでもないもの
であっても、すべてそれは、前世になされた業を原因とするものである”というこのよ
うな論者、このような見解を抱く者がある。<この考えは>自己の知識を越えたもの
であり、また、世間において、真実として認められているところを越えたものである。
それゆえに、かれら修行者、バラモンたちにあやまりがある、とわたしは言う」
 大王よ、それだからこそ、すべての感覚は、業の報いから生じたものではありませ
ん。大王よ、「すべての不善を焼きつくしてのち、尊き師は、全知者となった」というこ
とを真実として把握すべきです』
                               ミリンダ王の問い
369仏の教えについて:03/05/25 22:34
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>356-364、デーヴァダッタは何故に出家をゆるされたか!?について
>>366-368、全てのものは、前世になされた業の報いであるという誤った見解について
370名無しさん@3周年:03/05/26 20:03
尊者よ、そうではありません。尊者よ、大地には、大地が善と不善との<業の>報
いを感受するところの原因は存在しません。尊者よ、その土塊が大地に落下するの
は、<前世の>業ではなく、現在の<因>によるのです


この世の運命は、自分が因となって運命をつくっていく。
 決められた運命ではない。

 たとえ、どのような環境であっても、幸、不幸を超越すれば、
 世の盛衰を乗り越えて、安楽に生きられる。
 ブッダが一切を捨て幸せであるように...........
371_:03/05/26 20:03
372名無しさん@3周年:03/05/26 20:35

あのー、>>1さん
それらは仏陀が言ったままの言葉を直接書いたものではありませんよ
仏陀の死後、長い歳月がたってから
伝承された言葉を思い出して書かれたものですよ

その間に他の考えが混入されているので、
それは純粋な仏陀の言葉ではありませんよ

正しい言葉は半分にも満たないでしょうね
373仏の教えについて:03/05/26 20:52
ミリンダ王の問いはブッダの言葉ではなく、
仏滅後の時代の尊者ナーガセーナとメナンドロス王の対談ですので、参考までにどうぞ
374名無しさん@3周年:03/05/26 22:18
仏陀は人間の生活につきまとう苦しみの問題に大変悩まされたので、
人間の心と知性の働きを調べて、それを救済する修業法を発見しました。
彼は人間を欲望の渦へと追い込む心の移ろいやすさを分析しました。また、
理性の働き方も分析して、偏見が定着する領域をつきとめました。
とりわけ彼は、法(ダルマ)と慈悲心と仏陀(目覚めた人)とに身を任せる
ことを説いたのです。
375:03/05/27 00:20
あんがとよ!        わが師、ブッダさん!
376山崎渉:03/05/28 09:00
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
377名無しさん@3周年:03/05/28 21:26
正しい言葉は、正しい心によって導かれる。
378名無しさん@3周年:03/05/28 22:26
邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることが
ない。

俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかし
これだけで「自分が最上の者だ」と考えてはならない。―かれは安らぎに近づいているのだが。
379名無しさん@3周年:03/05/28 22:38
ダイバダッタは本当に地獄に落ちたのですか?
380名無しさん@3周年:03/05/29 08:44
地獄などない。
381名無しさん@3周年:03/05/29 08:49
なんとなーく、このスレでブッダを否定してる香具師って
ソ○カの匂いがする・・・・。
あ、とう○つか。
それとも他のカルト信者か?
382名無しさん@3周年:03/05/29 21:57
356-364 デーヴァダッタについて、どの経典ですか?
383名無しさん@3周年:03/05/31 14:24
>>379
>>ダイバダッタは本当に地獄に落ちたのですか?

阿含経にはそう書いてあるようですね。
384名無しさん@3周年:03/06/01 01:49
ヴィシュヌ神の第九番目の化身とされるのは仏教の祖ブッダである。
「カリ・ユガkali-yugaの始めに、ヴィシュヌ神は神々の敵を迷わすために、
ジナの息子ブッダの名でキカタkikataに化身する」。
385名無しさん@3周年:03/06/03 10:53
ダイバちゃんは、教団改革の提案から分派活動、結局、
「主流派」の正統仏教教団から、不都合を一身におしつけられた。
というような解釈もあります。
386名無しさん@3周年:03/06/03 11:25
法華経あたりでは、提婆達多の成仏が説かれておりますな。
387名無しさん@3周年:03/06/04 09:56
なぜ人は不幸なのでしょう。欲望に満ちているからです。欲望はついには
望みのものを手に入れても満足しない渇愛になってしまいます。では、
どうすれば幸福になれるのでしょう。欲望を捨てることです。ちょうど、
薪をくべなければ火が消えてしまうように、不幸も、欲望という薪をとり除
けば終わります。わがままな望みと習慣を克服するときに、人は真の幸福を
見出すでしょう。
388名無しさん@3周年:03/06/04 12:29
真の幸福よりも金をくれ。
389名無しさん@3周年:03/06/04 20:14
まあ、大昔と比べれば幸福だな。貪欲さを追求すればきりがない。
貪欲だと、今度は反省しれって意味で、飢える国に生まれ変わる
かもしれないし.........


390名無しさん@3周年:03/06/05 07:59
>>387
ブッダがビンビサーラ王に説いた言葉です。

インドでは前世の行いの酬いを今生で刈り入れ、過去生の善悪の行為の果を
にないつつ輪廻転生を繰り返すのが人の常であると古来からそう信じられて
いるそうです。
391名無しさん@3周年:03/06/10 21:15
(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、
が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、また
どのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたしはこのことを説く』、ということがわたくしには
ない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、
固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを見た。」

この世に存在しない者のように、全てにこだわりなく、執着する心がなければ心は平安。

392名無しさん@3周年:03/06/10 21:28
(真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは
見ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。
かれはこの世では最上のものであると固執することもない。

貪欲を離れるべき。無理して離欲を望むこともなく。意識して、これはダメ、あれはダメ
と思う心から安らぎが遠ざかるかも.........
393         :03/06/11 00:02

妻帯する僧侶達よ、見るな!
394名無しさん@3周年:03/06/11 01:02
狭い車の中で集団自殺なんかやめろよ。
最後の花道なんだからビッグエッグ貸し切りで一万人オールスタンディング練炭ライブとかにしろよ。
みんなで保証金無しでサラ金から借りれば夢じゃないよ
死ぬとき位ビッグに生きようぜ!
395名無しさん@3周年:03/06/11 01:32
(1)人生は苦悩に満ちた〈涙の谷〉である。病気、老齢、不満、そして
死の自覚の故に。
(2)この苦悩の原困は、苦悩を引き起こす俗世への執着、欲望である。
つまり、官能の快楽に対する欲望、いやなことが終わってほしいという欲望
生き続けたいという欲望などである。
(3)したがって、苦悩を滅する方法とは、ただ欲望を滅することである。
396age:03/06/13 00:41
知っていたら教えてください。
過去ログの27、28に書かれてある
スッタニパーダ「慈悲」はどこかの本に載っているものでしょうか?
岩波文庫から出ているものと違う訳のようですが。

397名無しさん@3周年:03/06/13 20:06
34 :名無しさん@1周年 :03/01/21 17:45
>>32
「スッタニパーダ」と言う経典で、阿含経とは別です。
岩波文庫からも出ていますが、文語訳です。

スジャータ出してる会社の社長が仏典から引用されたみたいですよ。


>>396
398名無しさん@3周年:03/06/13 22:37
>>397
岩波文庫から出ているものではなくて
27、28に書かれている口語訳の文章が読みたいのです。
読み易い文章で内容にも感動しました。
知っている方がいましたら教えてください。
399仏の教えについて:03/06/16 20:05
縁起の理法について

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピ
ンディカ(給孤独)の園にましました。その時、世尊は、比丘たちに告げていった。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、縁起を分析して説こうと思う。汝ら
はよくそれを聞いて、考えてみるがよろしい」
 比丘たちは、「大徳よ、かしこまりました」と答えた。
世尊は説いていった。
「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
 比丘たちよ、無明によりて行がある。行によりて識がある。識によりて名色が
ある。名色によりて六処がある。六処によりて触がある。触によりて受がある。
受によりて愛がある。愛によりて取がある。取によりて有がある。有によりて生
がある。生によりて老死があり、愁・悲・苦・愁・悩がある。かくのごときがこの
苦の集積のよってなれるところである。
400仏の教えについて:03/06/16 20:06
では、比丘たちよ、老死とはなんであろうか。生きとし生けるものが、老い衰え
、朽ちやぶれ、髪しろく、皺生じて、齢かたむき、諸根やつれたる、これを老い
というのである。また、生きとし生けるものが、命おわり、息絶え、身体やぶれ
て、死して遺骸となり、棄てらたる、これを死というのである。かくのごとく、この
老いとこの死とを、比丘たちよ、老死というのである。
 また、比丘たちよ、生とはなんであろうか。生きとし生けるものが、生まれて、
身体の各部あらわれ、手足そのところをえたる、比丘たちよ、これを生というの
である。
 また、比丘たちよ、有(生存)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三
つの存在がある。欲界すなわち欲望の世界における存在と、色界すなわち物
質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界における存在である。
比丘たちよ、これを有というのである。
 比丘たちよ、また、取(取著)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには四
つの取著がある。欲にたいする取著、見(所見)にたいする取著、戒(戒禁)に
たいする取著、我にたいする取著がそれえある。比丘たちよ、これを取という
401仏の教えについて:03/06/16 20:06
のである。
 比丘たちよ、では、愛(渇愛)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには六つ
の渇愛がある。物にたいする渇愛、声にたいする渇愛、香にたいする渇愛、味
にたいする渇愛、感触にたいする渇愛、法にたいする渇愛がそれである。比
丘たちよ、それを愛というのである。
 比丘たちよ、では、受(感覚)とは、なんであろうか。それには六つの感覚が
ある。眼の接触によりて生ずる感覚、耳の接触によりて生ずる感覚、鼻の接触
によりて生ずる感覚、舌の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる
感覚、ならびに意の接触によりて生ずる感覚がそれである。比丘たちよ、これ
を受というのである。
 比丘たちよ、では、触(接触)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには六
つの接触がある。すなわち、眼による接触、耳による接触、鼻による接触、舌
による接触、身による接触、および意による接触がそれである。比丘たちよ、
これを触というのである。
402仏の教えについて:03/06/16 20:07
比丘たちよ、では、六処(六根六境によってなる認識)とはなんであろうか。
眼の認識と、耳の認識と、鼻の認識と、舌の認識と、身の認識と、意の認識と
である。比丘たちよ、これを六処というのである。
 比丘たちよ、では、名色(五蘊)とはなんであろうか。受(感覚)と想(表象)と思
(思惟)と触(接触)と作意(意思)と、これを名というのである。また、四大種
(地・水・火・風)およびそれによって成れるもの、これを色というのである。つま
り、そのような名とそのような色とを、名色というのである。
 比丘たちよ、では、識(識別する作用)とはなんであろうか。比丘たちよ、そ
れには六つの識がある。すなわち、眼識と耳識と鼻識と舌識と身識と意識とが
それである。比丘たちよ、これを識というのである。
 比丘たちよ、では、行(意思のうごき)とはなんであろうか。比丘たちよ、それ
には三つの行がある。すなわち、身における行と、口における行と、心におけ
る行とがそれである。比丘たちよ、これを行というのである。
 比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦につい
ての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の
403仏の教えについて:03/06/16 20:08
滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのであ
る。
比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。行によりて識がある。
……これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあ
ますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅
する。識を滅することによって名色が滅する。名色を滅することによって六処が
滅する。六処を滅することによって触が滅する。触が滅することによって受が滅
する。受を滅することによって愛が滅する。愛を滅することによって取が滅する
。取を滅することによって有が滅する。有が滅することによって生が滅する。生
が滅することによって老死・愁・悲・苦・愁・悩が滅する。かくのごときがこの
苦の集積のよってなれるところである……これがこのすべての苦の集積のよりて
滅するところである」
404仏の教えについて:03/06/16 20:10
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
405仏教徒:03/06/16 21:19
つまり、「南無妙法蓮華教」
ということですね>>釈迦
406名無しさん@3周年:03/06/16 22:08
>>405
スッタ二パータの慈悲の心を保ち、肉体からくる全ての渇愛・感覚・認識などを
抑制すること、これが安らぎに至る道。

なにも唱えなくてよい。「悪魔は善行の功徳を求める人々にこそ語るがよい」と
ブッダは言っているし、「願い求める者には欲念がある」とも言っている。

五感の抑制こそが安楽と言われ、どのような人に対しても、憎しみなく怒りもない
ならば、安らぎに近づく。
仏界は安らぎの世界。この世でも安らぎを求める者は、安らぎの世界に帰り(成仏)
二度とこの迷いの世界に生まれることはないということだ。
407仏の教えについて:03/06/24 20:08
五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて

かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、バーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住
処・鹿野苑)にましました。
 その時、世尊は、五比丘に告げて仰せられた、「比丘たちよ」と。「大徳よ」と
、彼ら比丘たちは世尊に答えた。世尊は、このように説きたもうた。
「比丘たちよ、色(肉体)は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、
色が病いに捲きこまれるようなことはあるまい。あるいは、その色について、<
わたしの色はかくあるがよい、わたしの色はかくあってはならない>ということ
ができるはずである。
 だが、比丘たちよ、色は我ではないからして、色が病いに捲きこまれるような
こともある。あるいは、その色について、<わたしの色はかくあるがよい、わた
しの色はかくあってはならぬ>ということはできないのである。
408仏の教えについて:03/06/24 20:09
 比丘たちよ、受(感覚)は無我である。比丘たちよ、もし受が我であるならば
、受が病いに捲きこまれるようなことはあるまい。あるいは、その受について、
<わたしの受はかくあるがよい、わたしの受はかくあってはならない>というこ
とができるはずである。
 だが、比丘たちよ、受は我ではないからして、受が病いに捲きこまれるような
こともある。あるいは、その受について、<わたしの受はかくあるがよい、わた
しの受はかくあってはならぬ>ということはできないのである。
 また、比丘たちよ、想(表象)は無我である。‥‥‥
 また、比丘たちよ、行(意思)は無我である。‥‥‥
 また、比丘たちよ、識(意識)は無我である。比丘たちよ、もし識が我であるな
らば、識が病いに捲きこまれるようなことはあるまい。あるいは、その識につい
て、<わたしの識はかくあらしめたい、わたしの識はかくあらしめてはならない
>ということができるはずである。
409仏の教えについて:03/06/24 20:10
 だが、比丘たちよ、識は我ではないからして、識が病いに捲きこまれるような
こともある。あるいは、その識について、<わたしの識はかくあらしめたい、わ
たしの識はかくあらしめてはならない>ということはできないのである。
 では、比丘たちよ、汝らはいかに思うか。色は常住であろうか、それとも、無
常であろうか」
「大徳よ、無常であります」
「では、無常なるものは、苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」
「では、無常・苦にして移ろい変るものを見て、<こはわが所有なり、こは我な
り、こはわが本体なり>となすのは正しいであろうか」
「大徳よ、それはいけません」
「では、比丘たちよ、汝らはいかに思うか。受は常住であろうか、‥‥想は常
住であろうか、行は常住であろうか、‥‥‥」
「では、比丘たちよ、汝らはいかに思うか。識は常住であろうか、それとも、無
常であろうか」
410仏の教えについて:03/06/24 20:11
「大徳よ、無常であります」
「では、無常なるものは苦であろうか、楽であろうか」
「大徳よ、苦であります」
「では、無常・苦にして移ろい変るものを見て、<こはわが所有なり、こは我な
り、こはわが本体なり>となすのは適当であろうか」
「大徳よ、それはいけませぬ」
「だからして、比丘たちよ、あらゆる色は、それが過去のものであれ、未来のも
のであれ、現在のものであれ、あるいは、内外・精粗・勝劣・遠近の別を問うこ
となく、それらはすべて、<これはわが所有ではない、これは我ではない、こ
れはわが本体ではない>と、そのように正しい智慧をもって、あるがままに見
るがよい。
 また、比丘たちよ、あらゆる受は、‥‥あらゆる想は、‥‥あらゆる行は、‥‥
 比丘たちよ、また、あらゆる識は、それが過去のものであれ、未来のもので
あれ、現在のものであれ、あるいは、内外・精粗・勝劣・遠近の別を問うことなく、
411仏の教えについて:03/06/24 20:12
それらはすべて、<これはわが所有ではない、これが我ではない、これがわ
が本体ではない>と、そのように、正しい智慧をもって、あるがままに見るがよ
いのである。
 比丘たちよ、わたしの教えをよく聞いた聖なる弟子たちは、そのように観じて
、色において厭い離れ、受において厭い離れ、想において厭い離れ、行にお
いて厭い離れ、また識において厭い離れる。厭い離るれば貪りを離れる。貪り
を離るればすなわち解脱する。解脱すると、解脱したとの自覚が生じて、<わ
たしの迷いの生涯はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことは
すでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生を繰返すことはない>と知るにい
たるのである」
 世尊は、そのように説きたもうた。五人の比丘たちは、歓喜して世尊の説か
せたもうところを信受した。また、かくのごとくこの教えが説かれた時、五人の
比丘たちは、もはや取著するところなく、その心は、もろもろの煩悩より解脱す
ることをえた。
                             相応部、五比丘
412仏の教えについて:03/06/24 20:14
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて
413名無しさん@3周年:03/06/24 21:03
仏陀をよりどころとし、法をよりどころとせよ。(自灯明、法灯明)
修行第一、万有の真理を悟るとはなんと難しいことなのだろうか。
崇拝、畏敬するのは一般人のあり方です。
414名無しさん@3周年:03/06/25 21:00
刀が体に刺さっている場合に刀を抜き去るように、
ターバンを捲いた髪に火がついている場合に、急いで火を消そうと努める
ように、自信ありという見解を捨て去るために、
修行僧は気をつけながら遍歴すべきである。
415名無しさん@3周年:03/06/25 21:07
>414
急に刀を抜くと出血多量のため死にます。
ターバンまくのはシーク教徒です。
416名無しさん@3周年:03/06/25 21:29
仏陀をよりどころとし、法をよりどころとせよ。(自灯明、法灯明)
修行第一、万有の真理を悟るとはなんと難しいことなのだろうか。
聖人・修行者・「解脱、覚者の考え方」それを崇拝、畏敬するのは
一般人のあり方です。

この世に永続するものはなく、実在するものはない。人生は木の摩擦
で生ずる火花のようなもので、いつ、何処へ行くのか分からない。

417名無しさん@3周年:03/06/25 21:52
人は死んで、その体はなくなる。知識も思慮もなにもかもなくなる。
苦悩の要因の自己は消え去り、残るのは、ニルヴァーナだけなのだ。
無量の喜びと慈悲だけが残る。
しかしながら、自己にとらわれ、この世のものにとらわれている者は、
妄執に破れ、生まれるか、地獄に堕ちるか......
死んだ者のように生きよ、欲望もなく、自己にこだわることなく、この世
一切にこだわることなく、ただ慈悲心を喜びとして生きるならば、生存者
としてこの世に生まれることはないだろう。
418仏の教えについて:03/06/29 21:29
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて
419名無しさん@3周年:03/07/06 21:10
ブッダの思想、そしてそれが現代にどのように影響しているか教えてください。
420性欲万歳:03/07/06 21:43
んで気に入ったネエチャンと百発百中でハメハメできるようになるためには
なにやりゃいいいの?お釈迦さま?
421名無しさん@3周年:03/07/06 21:59
ブッダの思想、現代に影響するもの、男女の性の乱れは悪いってとこか。
422名無しさん@3周年:03/07/06 22:32
>>421
もうちょっと文章にできそうな感じになりませんか?
423仏の教えについて:03/07/13 21:47
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて
424名無しさん@3周年:03/07/15 21:18
>>419
少なくとも、あの世を考えさせられると、悪いことできなくなる(w

努め励むことが、仕事になったのかなぁ

八正道を詳しくわかる人いる?
425名無しさん@3周年:03/07/15 21:48
ゴーダマ・シッダールタ。(釈迦)
今から、約2600年前にインドの釈迦国に王子として生まれた。やがて
結婚し30歳になった時、跡取り息子が生まれたので出家し、6年間の
修行の後、菩提樹下で「悟り」を開いたとされ、仏教を起こした。

東洋を中心に仏教が世界宗教になっているのは、「自分の内を見つめる」
と言う内省的な部分を、もっているからなのかも知れない。
つまり、「個人としての幸福」を求めながら、「組織や社会、国家の成功
をも大切にする」と言う二つの思想がうまく入っているからであろう。

426&lro;:03/07/23 18:08
 
427仏の教えについて:03/07/23 21:15
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて


428ようさん:03/07/25 19:23
涅槃にいく技術は公開されているのでしょうか?
悟りを得る技術はどこにあるのでしょう。
429名無しさん@3周年:03/07/25 19:35
        ●●                        ●●
     ● ●   ●                     ●   ● ●        /   \
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  ●                                          ●          /
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430名無しで宗教問答:03/07/26 03:35
>428 :ようさん :03/07/25 19:23
>涅槃にいく技術は公開されているのでしょうか?

戒・定・慧の三学。
輪廻を止める知恵と戒律を守る力を禅定から悟り得ればよい。

>悟りを得る技術はどこにあるのでしょう。

ヨガの法。
柔軟体操(八段錦・少林拳など)・
食事の禁忌(食の戒律・精進料理など)・
呼吸方法(数息観・経行など)・
瞑想順序(十牛図・公案・円頓止観・月輪観・阿字観など)など。
431名無しさん@3周年:03/07/26 04:13
>>428
仏陀曰く
わたしは足跡を残さない。
432 :03/07/26 04:59
菩薩の慈悲も忘れないようにしたいものです。
433ようさん:03/07/26 07:41
これでは、さとりと涅槃も得られません。
四念住観と四神足法によって、悟りを得て涅槃に至る。
434名無しさん@3周年:03/07/26 08:45
七覚支、八正道によって涅槃を獲得する。
435名無しさん@3周年:03/07/26 10:52
八正道って、どういうこと?
436ようさん:03/07/26 13:31
仏陀曰く
わたしは足跡を残さない
こんなこと書いて仏罰くるぞ。
437ようさん:03/07/26 13:34
[七覚支、八正道によって涅槃を獲得する]
この人も仏罰うけるぞ?
悟りを得て涅槃をえるのです。
438名無しさん@3周年:03/07/26 13:52
1さん、私はブッダの言葉ちゃんと参考にさせてもらってます。
これからもよろしくお願いします。
439名無しさん@3周年:03/07/26 14:16
>>436-437
来ない、来ないw ダンマパダ読んだことある?w
440ペトロ:03/08/01 20:09
430 こんなこと信じて地獄に落ちたとき
責任だれが取るのか?
441ペトロ:03/08/01 20:11
「行ないのだらけた修行者は、地獄に引きずり降ろす」そうです。
442名無しさん@3周年:03/08/01 20:39
出典を明らかにせよ。   〉ペトロ
443ペトロ:03/08/02 05:30
細長い草を引っ張ると手のひらを切るように、
444名無しさん@3周年:03/08/02 05:38
ぶっちゃけ、仏教百話しか呼んだことない
445_:03/08/02 05:39
446ペトロ:03/08/02 05:55
たとえ話読んで悟ってるつもりなんでしょうか?
中村 元著 仏陀のことば 7冊の中にある。
447名無しさん@3周年:03/08/04 03:56
>>446
キリスト教にせよ、仏教にせよ、所詮目暗には何も見えない。
耳しいには、語れども聞こえない。
448&lro;:03/08/11 07:52
 
449山崎 渉:03/08/15 09:18
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
450仏の教えについて:03/08/15 20:23
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて
451名無しさん@3周年:03/08/17 15:44
>25
プッ
愚か者発見♪
人たるものは、精進するべきである
言葉の適用範囲は限られている
愚か者はひとつの言葉を
全ての場合に当てはめようとする
彼には、凝乳も鋤の柄も区別がない
452 :03/08/18 08:37
今度の世界遺産は仏陀の聖地だったね。
453&lro;:03/08/25 12:44
 
454&lro;:03/08/30 22:56
 
455&lro;:03/08/31 23:21
 
456名無しさん@3周年:03/09/01 21:03
わかる方がいらっしゃったら教えていただきませんか。
<ブッダのことば>には神々も釈迦に教えを請いにやってきますが、
インドにおける神とはどのような性格(全知全能ではないようなので)のもの
なのでしょう。
そして、釈迦たちには本当にその姿は見えていたのでしょうか。
457名無しさん@3周年:03/09/01 21:37
オカマ野郎とブス女は悟れない。
これは心理。
458名無しさん@3周年:03/09/02 11:37
459名無しさん@3周年:03/09/03 11:51
460&lro;:03/09/04 17:44
 
461名無しさん@3周年:03/09/11 15:56
a
462名無しさん@3周年:03/09/11 20:40
作り話。
言葉遊び。
早い話が、脳内。
ナンセンスというわけではない。十分意味あるが。
463452:03/09/15 00:48
ねっ今日放送したでしょ。
464名無しさん@3周年:03/09/15 01:03
そいで、仏の教えさんはどうなったの?ほとんど自分を表さないなぞの人物。
465仏の教えについて:03/09/27 21:09
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>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて
466名無しさん@3周年:03/09/27 21:20
比丘と書いてあるところは、スッタ二パータではありませんね。
大乗仏教から?
467名無しさん@3周年:03/10/02 04:12
で、生老病死はどうすれば克服できるの?
仏教で、宗教で大丈夫?
468名無しさん@3周年:03/10/02 09:29
↑完全にとはいかないでしょうが(肉体と言うものがある限り)医学や科学も
万脳ではないから、無意味とはいえないよ。
・・・人はパンのみにて生くるにあらず。とりあえず生きるだけだったらパンだけ
でも良いけどね。智恵を生かしてもっとより良くってことでしょ。
科学もより良い生活を提供してくれるけれど、それを使う人間の智恵しだいって
こともあるからね。
469名無しさん@3周年:03/10/04 22:22
この世は、苦であると認めること。ブッタのことば(スッタ二パータ)を
読むこと。そして、できれば実践すること。>>467
470名無しさん@3周年:03/10/10 20:04
やっぱり色々考えたけどブッダさんは偉大だと思います。
471永遠の命 ◆S9hZ7pFuwA :03/10/10 20:57
ブッダのことばは、キリスト教と違って安心するよな。
「世間にには種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとづいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、繰り返し苦しみを受ける。それ故に、知り
明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。」

死んでもこの世に生まれるという教えは好きだ。たとえ、来世がどうなろうとキリスト教
のように、永遠の地獄に生まれるという教えよりは安心感が持てる。
472名無しさん@3周年:03/10/12 12:37
阿含宗という宗教49
777 :名無しさん@3周年 :03/10/10 00:23
【經文資訊】大正新脩大藏經 第二冊 No. 99《雜阿含經》
CBETA 電子佛典 V1.29 App普及版 # Taisho Tripitaka Vol. 2, No. 99 雜阿含經,
CBETA Chinese Electronic Tripitaka V1.29, App-Format

【經?部類】〔阿含部類〕〔阿含部〕
02 阿含部下 (99~151 經)
http://ccbs.ntu.edu.tw/cbeta/result/app/T02/0099_048.htm
473名無しさん@3周年:03/10/12 12:38
阿含宗という宗教49
778 :名無しさん@3周年 :03/10/10 00:29
雜阿含經卷第四十八 宋天竺三藏求那跋陀羅譯
(一二八三)如是我聞。一時。
佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。有天子容色□妙。於後夜時來詣佛所。稽首佛足。
其身光明遍照祇樹給孤獨園。時。彼天子□偈問佛
 云何人所作  智慧以求財 等攝受於財  若勝若復劣
爾時。世尊□偈答言
 始學功巧業  方便集財物 得彼財物已  當應作四分
 一分自食用  二分營生業 餘一分藏密  以擬於貧乏
 營生之業者  田種行商賈 牧牛羊興息  邸舍以求利
 造屋舍床臥  六種資生具 方便修□具  安樂以存世
 如是善修業  黠慧以求財 財寶隨順生  如□流歸海
 如是財饒益  如蜂集□味 晝夜財搨キ  猶如蟻積堆
 不付老子財  不寄邊境民 不信姦狡人  及諸慳吝者
 親附成事者  遠離不成事 能成事士夫  猶如火熾然
 善友貴重人  敏密修良者 同氣親兄弟  善能相攝受
 居親眷屬中  □顯若牛王 各隨其所應  分財施飲食
 壽盡而命終  當生天受樂
時。彼天子復□偈言
 久見婆羅門  逮得般涅槃 一切怖已過  永超世恩愛
時。彼天子聞佛所□。歡喜隨喜。稽首佛足。即沒不現
474名無しさん@3周年:03/10/12 12:40
阿含宗という宗教49
779 :名無しさん@3周年 :03/10/10 00:29
阿含の詩[あごんのうた]詩画でふれる仏の教え 
文・山田巌雄 画・箕田源二郎 すずき出版 本体1,700円+税

 蓄財 p74〜77
仏が祇園精舎に滞在していたある夜のことである。
ことばでは言い尽くせないほど美しい、
ひとりの天の神が体から光明を放って現れ、
仏の足もとにひざまずいて仏を礼拝した。
その光明は、祇園精舎をあまねく照らし出した。
神は仏に尋ねた。
 世間の者が しごとに励み それぞれ財を 積んではいるが
 いつしか貧富が 生じます
 お示しください 蓄財の法
仏は神に優しい視線を送り、静かな声で答えた。
 始めに技能を 会得して
 手だてを尽くして 利益を求め 財を得たなら 四つに分けよ
 四分の一で 暮らしを立てよ 二分の一を しごとに充てよ
 四分の一は 蓄えとせよ
 世の生業を 営む者は 田はよく植えよ 商売励め
 家畜を飼って 増やすがよい
 屋敷の中を よく治め 暮らしの品々 整理をすれば
 安けく楽しく 過ごせよう
 怠らないで 働けば 河川が海に 流れるように
 財宝はやがて 集まろう
 はちが花みつを 集めるように ありが食料 集めるように
 日夜に財は 増すだろう
475名無しさん@3周年:03/10/12 12:41
阿含宗という宗教49
780 :名無しさん@3周年 :03/10/10 00:30
 不信の者や 邪悪な者 守銭奴などは 極力避けよ
 これらの者は 皆すべて
 財を分ければ 親しみむつみ 与えなければ 怒って去ろう
 優れた人や よい友や 細かに気がつく 正しい人と
 互いに心を 許し合い
 親兄弟と 同様に 親しく寄り合い 助け合え
 財産を得た そのときは 惜しまずそれを 施せよ
 そうして命が 尽きたなら
 天に生まれて 楽を得る
これを聞くと、神は仏に合掌し、深々と頭を下げて言った。
「久しぶりで悟りを得た方のおことばを聞きました。
いっさいの恐れを克服し、
すべてを見通されるお方のおことばを・・・・・・」
そういって、神は音もなくその場から姿を消した。

(大正新脩大蔵経2巻―353頁)
参考《国訳一切経・阿含部3巻―1001頁 巧業経》
476&lro;:03/10/19 18:07
 
477名無しさん@3周年:03/10/22 11:12
根本仏典のブッダの言葉
478名無しさん@3周年:03/10/22 20:35
ヽ(`Д´)ノ ボボボボボボッキアゲ
479&lro;:03/10/24 21:01
 
480名無しさん@3周年:03/10/25 15:56
仏教豆知識
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/munet/bukkyou.htm

仏教
http://www4.justnet.ne.jp/~eden/Hst/dic/buddhism.html

仏教用語
http://www.kotobuki-p.co.jp/yougo/yougoa.htm

三友健容先生講義メニュー
http://www.komyoji.com/jyuku/kougi/mitomok/mitomok01.htm

『多聞の聖弟子』 【目次】
http://www1.ocn.ne.jp/~shodesi/menu.htm
第二章『輪廻転生』
http://www1.ocn.ne.jp/~shodesi/tamon2.htm#■ 輪廻のメカニズム『十二因縁の法則』
第四章『因縁解脱法』
http://www1.ocn.ne.jp/~shodesi/tamon4.htm#■ 阿含経の修行法「因縁解脱」

Sanskrit Index
http://libweb.uoregon.edu/asia/dicts/bdict/ind1-skt.htm

????第三講
http://www.stanford.edu/~daoming/JPN/zfl1_jap3.html

【經文資訊】大正新脩大藏經 第二冊 No. 99《雜阿含經》
CBETA 電子佛典 V1.29 App普及版 # Taisho Tripitaka Vol. 2, No. 99 雜阿含經,
CBETA Chinese Electronic Tripitaka V1.29, App-Format

【經?部類】〔阿含部類〕〔阿含部〕
02 阿含部下 (99~151 經)
http://ccbs.ntu.edu.tw/cbeta/result/app/T02/0099_048.htm
481名無しさん@3周年:03/10/31 15:37
春秋社から出ている『原始仏典』って、6500円と高いけど
買う価値ありですか?
482仏の教えについて:03/11/01 00:15
age 感想などご自由にどうぞ

>>1、真理を聞くのはなぜか?
>>2、ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について
>>3-5、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について
>>82-83、(他力)個人崇拝について
>>84-87、法に対する執著について
>>102-104、安らぎについて
>>170、聖者の安楽と神々並びに世人の安楽について
>>226-229、さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について 2
>>399-403、縁起の理法について
>>407-411、五蘊[色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意思)、識(意識)]は我ではないについて
483仏の教えについて:03/11/01 23:27
八正道について

 分別

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピ
ンディカ(給孤独)の園にましました。その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告
げていった。
 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。
ひとつ、それを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。
そして、よくよく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」
 「大徳よ、かしこまりました」
と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊はいった。
 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。
いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
484仏の教えについて:03/11/01 23:29
比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを
知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道
を知ることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。
 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間
を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害すること
なからんと思うことがそれである。
比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。
 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りのことば
を離れること、中傷する言葉を離れること、粗悪な言葉を離れること、および雑
穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである。
比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。
 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れる
こと、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。
比丘たちよ、これをなづけて正業というのである。
485仏の教えについて:03/11/01 23:31
比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人
の聖なる弟子があり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生
きる。比丘たちよ、その時、これを名づけて正命というのである。
 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろう。比丘たちよ、ここに一人
の比丘があり、いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひ
たすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪し
きことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努
力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修
習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を
振い起して努力をする。
比丘たちよ、その時、これを名づけて正精進というのである。
486仏の教えについて:03/11/01 23:33
比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人
の比丘があって、わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よ
く気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して
住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心によく
気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して
住する。あるいはわが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく
気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して
住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。
熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いと
を調伏して住する。
比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。
487仏の教えについて:03/11/01 23:35
比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに
一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、
なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境
地にいたる。これを初禅を具足して住するという。だが、やがて彼は、その対象
にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはやなにものにも
心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる
。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れる
がゆえに、いまや彼は、内心平等にして執著なくただ念があり、慧があり、楽し
みがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて
、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまた彼
は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから
、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいた
る。これを第四禅を具足して住するという。
もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである」
488仏の教えについて:03/11/01 23:38
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489名無しさん@3周年:03/11/02 01:00
弟子が勝手にやったことだ。」
490名無しさん@3周年:03/11/02 09:36
>>489
「私ではありません。秘書です。秘書がやったんです」
491621
すべては、止息経です。