クザーヌスの邦訳書・参考文献として以下のものを挙げておきます。 「テオリアの最高段階について」(平凡社「中世思想原典集成」17所収) 短く、かつ明晰であり、私見ではクザーヌス入門として最も望ましい一篇。 これを読んでから「可能現実存在」「光の父の贈り物」(国文社)を読んでいくとよいでしょう。 「知ある無知」(創文社) 値段は高いですが平凡社ライブラリー版よりも注が充実しており、おすすめできます。 「神を観ることについて」(岩波文庫) 伝記的事実や影響史(ライプニッツ・西田幾多郎など)についても配慮の行き届いた解説があり、コストパフォーマンスが高いです。 Nicholas of Cusa's Metaphysic of Contraction Jasper Hopkins,Arthur J Banning Pr ; ISBN: 0938060252 ワルター・シュルツ、ハインリッヒ・ロムバッハ、クラウス・ヤコ−ピなどの、近代的クザーヌス理解を鋭く批判する良書であり、同じ著者のNicholas of Cusa's Debate with John Wenckとともに、クザーヌス解釈の危険性を知る上で必読書と言わざるを得ないでしょう。 La Crise du symbolisme religieux Jean Borella,L'Age d'Homme; ISBN : 282510020X 「象徴的認識の喪失」をモチーフに近代ヨーロッパ思想の凋落の諸相を描いた大著であり、p.51-59においてクザーヌス宇宙論の含意が論じられてています。著者はdoctrat d'Etatを授与された元ナンシー第二大学哲学教授。 その他の邦訳・参考文献に関しては日本クザーヌス学会編「クザーヌス研究序説」(国文社)および八巻和彦「クザーヌスの世界像」(創文社)巻末を参照。 ・・・なお、この機会にラテン語を始めたいと思われる方がスレ読者の中にもしおられましたら、 大西英文「はじめてのラテン語」(講談社現代新書)から入ることをおすすめしておきます。
クザーヌスの基本思想について 「端的にかつ絶対的に最大な現実」(maximum simpliciter et absolute)、すなわち無限は一切の可能性を包含するがゆえに(そうでなければそれは無限ではないでしょう)、 対象化される諸存在者において見出される諸々の対立全ての超越的根源です。(「反対対立の一致」(coincidentia oppositorum)) ここでいう「無限」は、文字通り、端的に、いかなる制約もない現実、という意味で、 限定された(縮限された)諸存在者をつぎつぎに付け加えていくことにおいて見出される「無際限」あるいは縮限的無限(例:数学的な無限や時空的な無限)ではありません。 諸存在者をいくら寄せ集めても絶対的無限にはなりません。無限と有限者との間に「比は存在せず」無限は有限者に対して超越的です。 諸存在者はその全ての存在可能性、現実性を、無限=普遍的可能性=可能自体(posse ipsum)に依存していますが逆は成り立ちません。可能自体なしにはいかなるものも不可能だからです。 クザーヌスは、数学的象徴を操作しそれを超越的に使用する(数学的現実を超越する現実を指し示す)ことによって、無限を「把握されない仕方で(incomprehensibiliter)知解」することができることを示します。 無限は無限であるゆえに有限な知性のうちに包含されることは不可能(すなわち把握不能)であり、そのことを知ることが「知ある無知」(docta ignorantia)です。 これはクザーヌスが始めて使用した表現ではなく、アウグスティヌス、ボナヴェントウラに見出され、さらにその原型はディオニシオスに遡ります。
De berylloの執筆時期、場所、題について 題名を直訳すれば「緑柱石について」となるこの著作は、1458年、南ティロル山中のブーフェンシュタインにおいて書かれました。 前年、ティロル大公ジギスムントとの教会領をめぐる紛争にからんで生命の危険を感じたクザーヌスは、この山奥の小さな砦に避難してきていたのです。この砦をクザーヌスは「聖ラファエル城」と呼んでいます。 本書を仕上げた直後の9月には、教皇ピウス二世となった親友エネア・シルヴィオ・ピッコローミニに召還されてローマに移り、教皇庁改革にのりだしていきます。 当時、緑柱石は眼鏡の材料として利用されていました。クザーヌスはこの著作において、見ることができないものを見えるものにする眼鏡のたとえを用いつつ、「反対対立の一致」の図形的象徴による説明を提示します。 話題はプラトン書簡、ヘルメス文書、ディオニシオスの神名論からアリストテレス存在論の解釈へと及び、小品ながら非常に豊富かつ高度な内容を持っています。
スレの進行について 以下においては、「緑柱石について」のテキストの解説・レジュメを、最初の章から順番に、参加者各人の担当の順番や範囲・形式は決めないで書きたい人が書きたいところを書いてupし、皆で検討していくというかたちでスレを進めたいと思います。 なお、1514年のパリ版テクストをupできる方がおられましたら、どうかよろしく。 あと、ぼくのカキコにおける略号はHopkinsのそれを踏襲します。英訳末尾の解説を参照してください。 それではおやすみなさい。すやすや
>>3 の最後を次のように訂正。
これはクザーヌスが最初に使用した表現ではなく、アウグスティヌス、ボナヴェントウラにも見出され、後者はその源泉をディオニュシオスに帰しています。
(ただし、ディオニュシオスは「知ある無知」という表現そのものは使用していません。「中世思想原典集成3」(平凡社)p.468の第一書簡参照)
7 :
めがスレ委員長 ◆sSMEGAP74E :03/01/02 09:53
第一章
「私がさまざまな本に書いたことを読む人は、私が反対対立の一致にしばしば立ち戻り、
理性の力を超える知性的直観に従って結論に到達するためにしばしば努力したことを見るでしょう。」
(1:1-4)
括弧内の数字は節番号と行ですが、これも今後
>>1 のハイデルベルク・アカデミー版に従います。
「反対対立の一致」についてこれ以前に論じられた箇所としては、「知ある無知」(以下DIと略)第一巻第四章および第十三章(以下I,4,13と表記)
「推測について」(以下DCと略)I,6(23)、「神を観ることについて」(以下DVDと略)10があげられます。
本書でこれから提示される図形的象徴は、おそらく殆どの読者にとってこれらの箇所における説明よりも理解しやすいでしょう。
なおこの文でクザーヌスは「理性」(ratio:推論的認識能力)と「知性」(intellectus:直観的認識能力)を明白に区別しています。
区別している箇所として他にはDI III,6(215:1-4)、DC II,1(72)があげられます。
プラトンにおいてlogosとnousが区別されるのと同様です。
オツー
10 :
名無しさん@1周年 :03/01/03 18:03
おつ
しるたん元気そうでなによりです。たまにはカトスレや他のすれにも顔を出してあげてね。 でもみんなをいじめちゃダメよ(笑)
「読者のために明晰な概念化を行うために、鏡と謎めいた像(aenigma)を提示しましょう。
それによって、読者各人のひ弱な知性は、知りうることの限界において、助けられ導かれるでしょう。」
(1:4-7)
aenigmaは>1の独訳ではRatselbildと直訳されていますがHopkinsの英訳(以下単に「英訳」と略)はこれにsymbolism(象徴)という訳語をあてています。
独訳は1コリント13:12(ヴルガタ)との対応を念頭においており、英訳はこの一節に対して与えられたクザーヌスの説明(DI I 11)を考慮したものと思われます。
DI I 11はクザーヌスにおける「象徴」概念の理解のために必須であり、
>>2 の邦訳の訳注とディオニュシオスにおける「象徴」の用例とともに、必ず読んでおいてください。
私流の言葉で簡単にまとめておくと、
(1)下位の現実は上位の現実の射影である。
(2)下位の現実は上位の現実とのいわば構造的な類似性を持つ。
(3)その類似性によって、下位の現実は上位の現実を認識するための手段となる。
(4)このような下位の現実が上位の現実の「象徴」と呼ばれる。
ということです。
「下なるものは上なるもののごとし」というヘルメス主義の格言を思い出していただければわかりやすいでしょう。
このような「象徴」は、指示対象とは恣意的な結合関係しかないものとしての「記号」とはもちろん区別されます。
より詳しい象徴理論については、
>>2 であげたBorellaの著作を参照。
なお、ネオプラトニズムにおけるピタゴラス主義以来の象徴の重要性についてはイアンブリコス「ピタゴラス伝」第二十三章を参照すべきでしょう。邦訳とThomas Taylorによる英訳があります。
>>9-11 ども。
・・・あ、それから、ドイツ語引用の時、ウムラウトは省略させてください。
すやすや
「だが、偉大なるディオニシウス・アレオパギタと同様にプラトンがその書簡において、知性的な高みについて無知な人々に対してこれらの神秘を開示することを禁じた理由は、 それらの無知な人々にとってはこれらの高遠な事柄ほど嘲笑すべきものはないように見えるだろうから、ということです。」(2:1-4) ここで言及されているプラトン第二書簡(314a)の邦訳は岩波版全集か角川文庫版(p.16)で読めます。 焼かれずに残ったこのプラトン的エゾテリスムの第一級資料に関する注釈はプロクロス「プラトン神学」参照。 これもThomas Taylorによる有益な解説のついた英訳があります。 ディオニュシオスの参照箇所は「神秘神学」I,2です。ミーニュ版のテクストをupできる方がおられましたらよろしく。 さて、この節でクザーヌスは1コリント2:14を引用しつつ、「プネウマ的人間(pneumatikos anthropos)」と区別されるところの「プシュケー的人間(psychikos anthropos)」に対して鋭くクギを刺しています。 身に覚えのある人は当面本書を読まない方がよいでしょう。理解しようという善意のある方々には神の祝福がありますように。 1テサロニケ5:23、ヘブライ4:12、ルカ1:46-47、ヤコブ3:15、ユダ19に現れるこの用語法に関してはJean Borella,La charite profanee(Editions du Cedre)所収の「新約聖書による人間の構成」参照。
をを、汁さん復活!!!
17 :
ふぁんだ君 ◇D4dp.jHAHM :03/01/06 12:47
どうやって参加したらいいか、分からないもん★
こんなに中身の濃い勉強が2chでできていいものでしょうか? 読み専になりそうですが、楽しみに拝見しています。
低レベルな質問ばかりになるかもしれませんので、すみません。 英訳ではシルさんが「反対対立の一致」と訳されたところは、 coincidence of opposites と成っています。 opposites について「反対」と「対立」2つの単語をお使いに なっているのは、何か意味があるのですか? すでに哲学用語でそういう訳語が定着しているということでしょうか。 当方、哲学も数学もからっきしダメです。
>>19 「反対対立」のところは、八巻先生が「クザーヌスの世界像」(創文社)第三章で採用しておられる訳語に従ったのです。
邦訳ではこの他にもいろいろに訳されています。
またクザーヌス自身も用語をいろいろ変えているのですね。
21 :
かぐや姫 ◆csRXi05V0M :03/01/07 09:56
22 :
名無しさん@1周年 :03/01/08 21:10
僕の作文 シルさんのスレは2ちゃんにしてはレベルが高すぎて参加できません。 おわり
23 :
名無しさん@1周年 :03/01/08 21:15
>>22 同感…(--;)
早くしるたんはHPつくるべし!
第二章 「もし、最大であるとともに最小である形を持つ知性的な眼鏡が、知性の眼につけられるならば、その媒介によって、万物の分割不能な始原が到達されるでしょう。」(3:3-6) 本章においてクザーヌスは本書の題名「眼鏡について」の由来を説明します。 この文でクザーヌスは、図形的象徴をそれ自体の現実のレベルを超えて転用(transsumere)すること(DI I 12参照)によって見出される「最大と最小の一致」を、見えないものを見えるものにする「眼鏡」にたとえています。 ここでいう「最大」「最小」には「端的に」「絶対的に」という形容詞を補って理解してください。 「より多く」や「より少なく」ということがありうる現実(例えば概念的な連続量)のレベルにおいては、そのような「最大」「最小」は見出されません(ある量よりもより大きな量、より小さな量は常に概念可能ですから)が、 そのレベルを超えたところ(そのレベルの諸条件から解き放たれた現実のより上位のレベル)において、「最大と最小の一致」は概念化されます。(例えば、量という条件から解き放たれた「最大限に大きな現実」と「最大限に小さい現実」について、DI I 4参照。) それは下位の現実の範囲内においては到達不能な極限であるとともに、下位の現実に先行するところの始原です。 本書でのその例は9節以下の「角」の象徴において示されるでしょう。
第三章 「知性は、その栄光が顕現されるために、自分自身を自分自身の作品の目的とするがゆえに、その現実を見ることができる、認識する諸実体を創造します。」(4:5-8) アナクサゴラスを引用しつつ、始原の単一性とそれが知性であることを説いた後、クザーヌスは被造物のraison d'etreを説明します。 「認識する諸実体」とはもちろん動物や人間や天使のような諸存在者のことです。 クザーヌスのこの言葉を、ヘルメス選集XI 22や、イブン・アラービーが「叡智の台座」において展開している、神の自己開示に関する教説と比較してみることは大変興味深いことでしょう。 後者にはBurckhardtによる仏訳(「預言者たちの叡智」という題での解説つき抄訳)があります。 絶対的無限は当然に自己顕現の可能性を(したがってまた認識能力を持つ諸存在者を通しての認識の可能性を)包含します。 そうでなければそれは無限ではないでしょう。 諸存在者による認識がなければ、神は「知られざる宝庫」(ハディース)に留まるのです。
う〜ん、このスレがカトリック系のスレなのかどうかもわからん・・・・
第四章 「第二に、真なるもの(verum)でも真らしきもの(verisimile)でもないものは、存在しないことを知りなさい。」(5:1-2) 英訳は参照箇所として聖アウグスティヌス「告白」第七巻15,12(「すべてのものは存在する限りにおいて真実である」)を挙げているだけですが、 verumとverisimileについては、「知恵の狩猟について」(以下VSと略)36(106)における定義を参照しなければならないでしょう。 この箇所にはクザーヌスのveritas観がよく出ています。 そこでは、 verumとは、「知性的に分有された、永遠なる真理の永続的類似(similitudo)」 verisimileとは、「知性的な真なるものの時間的な類似」 となっています。 前者の定義における「真理」(veritas)とは、不増不減の普遍的可能性=無限です。 独訳はさらに、存在性の程度と真理性の程度は相関的であるという思想が見られるアリストテレス「形而上学」第二巻第一章(993b30)を参照箇所として挙げています。
↓ そして、第五章・・・・
「さて、存在するすべてのものは、自分自身において(in se)存在するのとは違う仕方で、他のものにおいて(in alio)存在します。」(5:2-3) これとほぼ同じ命題は「神の子であることについて」(以下FDと略)1(54)にも見いだされますが、その命題は、御独り子の子としての性質と、養子的様式で神の子たることの区別の説明のために用いられています。 本章では、三つの認識様態(知覚的・理知的・直知的)の区別が提示され、それぞれの認識能力と認識対象が、自分自身において存在するのとは違う仕方で、相互のうちに存在することが説かれます。
>7 い、委員長・・・(w
32 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 12:28
(〜〜)
33 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 12:39
文献読解では、ないのだが。エソテリックスレッドの趣旨は。 対応するから、誠実に返答お願い。
34 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 12:54
逃げてはいけないと思うよ。 Silviusさん
36 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 13:43
眼鏡age -OO-
37 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 14:13
Silviusさん逃げてしまったら、信仰者として失格になってしまう。 ただの文献漁りでおわるのか? 悲しいことだ。
38 :
名無しさん@1周年 :03/01/19 15:00
まず、文献を紹介して、自分が、読みとったように嫁。 それで、なにも、応対しないんじゃ話しにならんのだ。 逃げんな コラ。
第五章 「かくして、人間は、測定する尺度のうちにおけるように、自分自身のうちに、全ての被造物を見出すのです。」(6:9-10) ここでいう「測定」とは認識のことで、万物は、前節で述べられたように、それぞれの認識様態に応じた仕方で人間精神のうちにある、ということです。 クザーヌスは本節および65節以下で、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの格言の中に、神を知るための階梯としての被造物の認識の意義(ローマ1:20参照)を読み取ろうとします。 知られうるものとして、知られるために創られたものを現に知ることによって、それをそのようなものとして創った創り主の意図を知るのです。 なお、クザーヌスにおいては万物の究極的な「尺度」は神であり、人間中心主義的なプロタゴラス本来の意図とは大いに違った意味でこの格言が読まれようとしていることは言うまでもありません。 神は、限定をおくことによって万物を顕現せしめるという意味で、万物の尺度です。 「ある被造物がこのように存在する」ということは「神の認識によってそのように限定されている」ということにほかなりません。「存在するもの」とは「測られたもの」です。(VS 27-28参照)
>>30 めがねスレですから私は当然リンクしにくるかと(笑
>>40 しかもリンクしただけじゃなくてまた見に来ているところがまめだ。
Sylvius さんはかきにげしているみたいだし、
いっそのこと宗教と眼鏡の関係について論じるスレにしましょうか。
第六章 「かくして人間は自身の知性を自らの作品の力によって測り、そしてそのことによって彼は神の知性を測ります。」(7:10-12) 被造物が、神の知性の似姿であるように、人間の作品は、人間の知性の似姿です。 この二つの事態の間には、いわば構造的な類似性(アナロギア)が存在するわけで、 それによって芸術活動は象徴的認識手段としてのその存在価値を有しているわけです。 本来の伝統的芸術というものは「娯楽」「嗜好品」ではなく・・・洋の東西を問わず・・・アーナンダ・クーマラスワミが表現したように、「至高の意味における教育」なのです。 なお、伝統的芸術理論の比較思想的検討についてはCoomaraswamy Selected Papers:Traditional Art and Symbolism(Princeton)を参照。
第七章
「私たちの精神の目に眼鏡をつけましょう。そして、(それよりも大きなものがありえない)最大と(より小さなものがありえない)最小の両方を通して見ることにしましょう。
そうすれば私たちは始原を、大きなものや小さなものすべてに先立ち、まったく単純で、
大きなものや小さなものは何であれ分割可能な分割のいかなる手段によっても分割されえないものとして見るでしょう。」(8:6-11)
いよいよ図形的象徴を用いた本論に入ります。
エウセビオス「福音の準備」から取られたものと思われる本章冒頭のソクラテスとインド人との対話によって、クザーヌスは万物の分割不能な始原としての神について論じ始めます。
眼鏡をつけること=図形的象徴を量的・空間的条件を超えて転釈することについては、
>>24 参照。
絶対的無限は、分割されることを可能にするような量的・空間的条件付けをまったく欠いています。
したがって分割不能です。
絶対的無限の「外」に別の絶対的無限などありえませんから、当然複数化されることもなく、完全な一性そのものです。
不増不減の同一性そのもの、いかなる限定もない現実(veritas)そのものであり、あらゆる存在者はその同一性の似姿である限りにおいて存在者として成立します。
44 :
俺様@ヨハネ・ペトロ1世 ◆f0ugTrYQRI :03/01/23 10:56
第八章 (要約的再構成) 葦をとり、それを線分abとし、中点をcとします。 中点cで折り曲げ、線分cbを動きうるものとし、線分caへ向けて動かします。 cbはcaとともにあらゆる形成可能な「角」を生み出します。 (以下において、「角」は、「二つの区別された(同一直線上にない)線分によってできる二次元的図形」という定義のもとに理解してください。) この定義のもとでは、任意の「角」は、より鋭い「角」がありえないほど鋭くはありませんし、より鈍い「角」がありえないほどに鈍くはありません。 しかし、折り曲げられる前、および折り曲げられつくした後に見出される一つの連続した直線、一次元のリアリティは、いわば「最大かつ最小の角」である、ということができます。 (ここでは、先ほどの定義によって限定された、二次元的「角」という現実のレベルが「眼鏡をかけて」乗り越えられています。) 直線は、あらゆる「角」がそれ無くしては不可能な、「角」に先行する現実であり、また形成されうるあらゆる「角」を包含します。 このような意味で、直線は、二次元的な「角」というリアリティの始原にして終局です。 (以上において私がどのような補足・再構成を行ったかは英訳や原文と対照して確認しておいてください。)
第九章 (要約的再構成) 線分abの中点cから、cを中心として動く線分cdを伸ばします。 cdがacとなす「角」と、cdがbcと「角」の二つが存在する限り、 それらの任意の「角」は、より鋭くなることも、より鈍くなることもつねに可能なので、「(端的な意味で)最大かつ最小の角」とは言えません。 しかし、cdがabに一致してしまった状態は、いわば、「いかなる「角」もそれよりは鋭くなりえず、またいかなる「角」もそれよりは鈍くなり得ない、最大かつ最小の角」であるということができます。 より鋭い「角」を生み出す可能性も、より鈍い「角」を生み出す可能性も、いわば「最大かつ最小の角」である、この直線に包含されています。 これと類比的に、永遠にして一なる始原も、その似姿である諸事物の可能性を包含します。 そして諸事物は、あくまでも始原の似姿であるにとどまり、始原と同レベルの現実ではありません。
>>46 四行目は
cdがbcとなす「角」
の誤り。
第十章 「この神的なる人物が、私が述べたことを、そこやその他の箇所で、いかなる明晰性をもって肯定しているかを御覧なさい」(11:15-17) ディオニシオス「神名論」(邦訳:「キリスト教神秘主義著作集1」教文館p.213参照)の当時の翻訳が引用され、クザーヌスのこれまでの説明・・・「謎めいた像」によって、対立する諸々の事物の統一的始原を象徴的に認識すること・・・の正当性が語られます。 クザーヌスが指定する「神名論」の章番号は、ミューニュ版やDionysiacaのそれとは一致していません。
第十一章 「それゆえ正当にも、プロクロスが「パルメニデス」注解において述べているように、プラトンは原理自体についてあらゆることを否定したのです。」(12:13-15) 否定神学の肯定神学に対する優越性が表明されます。 言葉による何らかの肯定的述語づけは、必然的に限定を含意します。 言葉は「そうであるもの」と「そうでないもの」を区別する、二項対立の力によって機能するからです。 それは、「墨と紙でものを書くこと」の内在的限界です。 (MorrowとDillonによるプロクロス「パルメニデス注解」英訳p.427「assertions slice up reality」参照。クーザン版を参照できる方はupよろしく。) しかし、一切の限定を超えた現実そのもの、絶対的無限については、限定的述語付けは本来的には妥当しません。 それゆえ否定神学は、神に関する一切の限定的述語付けを否定することにおいて、無限を表現しようとします。(ディオニシオス「神秘神学」第五章参照) ただし、無限が諸存在者における肯定的諸性質の原因であることを指し示すために、肯定的述語付けが類比的に用いられるかぎりにおいて、肯定神学もその存在意義を持ちます。(「神名論」第一章第六節参照)
第十二章 「しかしながら、「一」は他のいかなる名にもまして神にふさわしいように思われます。」(13:1-2) すでに説明されたように、神を名指すこと=絶対的無限を言葉で表現することには本性的な限界がつきまとうのですが、 クザーヌスは、もっとも適切な神名として、パルメニデスやアナクサゴラスも用いた「一」を挙げます。 この「一」は多重化されうるような数的な「一」ではなく、あらゆる二極性に先行する不二の(advaita)普遍的可能性です。 無限の「外」はない。 現実以外に現実はない。(La ilaha illa 'Llah.)
51 :
名無しさん@3周年 :03/02/13 10:40
第十三章 (要約的再構成) 以上の象徴において、被造物は始原=神の類似像にすぎないということが、つぎのような仕方で象徴的に表現されています。 (1)描かれうるあらゆる二次元的「角」は、より大きくも小さくもありうる、偶然的存在である。 (2)しかし、「角性そのもの」は、より大きくも小さくもありえない。 (3)「最大にして最小の」描かれざる「角」は、そのような必然的な「角性そのもの」である。 ここではもちろん、描かれうる個々の二次元的「角」が被造物を、「角性そのもの」が始原=神を象徴しています。
52 :
名無しさん@3周年 :03/02/13 11:39
何言ってるか全然意味がわからない… 2ちゃんにもこんなスレがあるとは
第十四章
「今やあなたは以上のことから次のことを十分に見ることができるでしょう。
使徒が言っているように、鏡によって謎めいた像において見るとき、私たちは神の認識をもつ事ができます。
確かにそれは、否定的なもの以外のものではないのですが。」(15:1-4)
ここで言及されている使徒の言葉はもちろん1コリント13:12です。
>>12 参照。
像=象徴は、それが表すものを表すと同時に隠蔽します。それは、それが表すもの自体ではないからです。
すなわちaenigmaです。
しかしまた同時に象徴は、それが表すものとの内在的な(恣意的でない)つながりを持っています。
本体無しで像が映ることはないように。
描かれうるいかなる二次元的な「角」も、端的に最大かつ最小の角ではありえません。
個々の二次元的「角」を見ることにおいてそのことが認識されるならば、そのことのいわばネガとして、
最大かつ最小の角が知られます。
それと類比的に、対象化されうるいかなる偶然的諸存在者も、必然的にして無制約的な現実そのものではありえません。
対象化される個々の偶然的存在者を見ることにおいてそのことが認識されるならば、ネガティブな仕方で、必然的にして無制約的な現実そのものが認識されます。
第十五章 「それゆえプラトンは、彼の書簡において、すべてのものは万物の王とともに存在し、それらはすべては彼のためにあり、 彼はすべての善きものの原因である、と言っているのです。」(16:1-3) 王国において、公爵、戦士、裁判官のような地位が王に対して秩序づけられる限りにおいて存在し、紙に書かれた法は王の意思の顕現であるように、 一切の諸存在者は無限のうちに、無限によって、無限のために存在します。 そして「第一の始原においてはすべてのものは生命であり、時は永遠であり、被造物は創造主です」(16:21-22) クザーヌスらしい、ドキッとさせるような表現ですが、もちろんこれは、被造物は創造されることに論理的に先行して神の認識のうちにあるが、神の認識は神にほかならない、という意味です。 英訳注81参照。
お勤めご苦労様です。
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され るな!!) ●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い) ●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない) ●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする (ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはた いてい、内面的・実質的に負けている) ●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!) ●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本 の常識は世界の非常識) ●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる) ●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす) ●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗) ●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ) ●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量) ●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険) ●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい) ●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、 世間体命) ●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度 も言ってキモイ) ●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い) ●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う) ●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬 する(不合理な馬鹿) ●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ) ●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷) ●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男 前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
第十六章 「さて、神は自分自身のうちにあらゆるものの範型をもっているということは真実です。」(17:9-10) アヴェロエスや大アルベルトウスによる、ネオプラトニズム的なアリストテレス解釈を紹介したのち、 クザーヌスは自己もこの伝統に属するものであることを言明します。 大アルベルトウスの弟子によるキリスト教的イデア論の最も洗練された形態の一つは、 いうまでもなく聖トマス・アクィナス「神学大全」第一部第十五問に見いだされますが、 そこでトマスが明確に説明した重要な論点は、 「一つの本質から知性認識されるラチオが複数であるのに応じて、複数のイデアということがいわれる」 ということでした。 神はその能力の無限性によって自分自身を、あらゆる可能な仕方によって認識します。 それらの認識内容のうち、被造物の成立根拠となるもの(被造物がその特定条件下における射影であるもの)がイデアです。 このような「イデア」は、個物間の共通性として人間精神によって抽象されてはじめて存在するに至るようなものではなく、 「始めに(in principio)」あるものです。
58 :
名無しさん@3周年 :03/03/09 23:55
みんなのトーマス
第18節要約 (1)現実(veritas)は、それ自身への類似性によって、全てのものに存在を与える。 (2)その類似性は、受容者側の態勢の如何によってより多くあるいはより少なく受け取られる。 クザーヌスの分有の教説については邦訳「知恵の狩猟について」(「キリスト教神秘主義著作集10」教文館、p.151)参照。 本節の最後には、イブン・ガビロル「生命の泉」に帰されている難解な一節がありますが、諸賢のご教示を期待。
(^^;)
第19節(要約的再構成) 線分abをとり、現実(veritas)=絶対的無限と無とのいわば中間にある、現実(veritas)との類似性を表すものとする。 線分の一端bは、無における類似性の終局を表すものとする。 この線分を中間点cで折り曲げ、cbをaに向けて動かしていくことによって、神が被造物を非存在から存在へと呼び出すさまを形象化する。 acとcbによって形成されるさまざまな角は、単なる存在から生命を経由し知性へと至る、さまざまなレベルの類似性を表現する。 コメント:これはイブン・ガビロルに帰された前節の引用に対する、クザーヌス流の解釈および形象化です。
62 :
名無しさん@3周年 :03/03/24 22:45
働きながら勉強を続けるってすごいね。 シルさんHP作ろうよーもっといろいろ教えてほしい(このスレはぼくには難しすぎて
63 :
名無しさん@3周年 :03/03/29 00:08
汁さんは関東在住じゃないから役に立たないと思うけど、お知らせ
検索してたら、早大のエクステンションセンターの講義がヒットした。ヨサゲ。
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ニコラウス・クザーヌス 「神を観ることについて」を読む
クラスコード:[120534] 定員:40名
水曜日:7回 13:00〜14:30
期間:4/24〜6/26
受講料:18,000円 八巻 和彦
早稲田大学教授
●目標
クザーヌスは15世紀西洋の思想家ですが、彼の思想は「文明の衝突」が問題となっている現代にも通用する深さをもっています。
彼の神秘主義的思索の頂点を示すとされる「神を観ることについて」を、私の翻訳(岩波文庫)で味読します。
●講義概要
先ず、クザーヌスの人となりおよび彼の時代を学びます。引き続き、第7章から一回に一章ずつ読み解いて行きます。
その際に、この書物の内容そのものが、私たちに問い掛けてくるものがあるはずです。その問い掛けに、ひとまず身をゆだねてみましょう。その経験が、私たちを成長させるはずです。
最後の授業では、受講生同士でこの本について語り合う機会を設けたいと思います。
テキスト:神を観ることについて(岩波文庫)
ttp://www.waseda.ac.jp/extension/lecture/2002spr/0501.html#020521
>>63 ありがと〜
僕は行けないけども、首都圏在住で興味ある人はぜひ行ってみることをおすすめします。
>>62 HPは手を入れてから公開するつもりなんだけど、今、時間的体力的につなわたり状態なので、もうすこし・・・
>>64 汁さん
ご自愛くださいね。
気長に待ちます。とても勉強になりそうで楽しみです(^^)
もし公開されたら教えて下さいね。
でも、カトスレは、今、(わけわからんプロテスタント過激派?の人に)良く荒らされているようですし、
URLを晒すのは絶対に止めたほうがいいです。
コルベ名無したんのところの掲示板は、削除に追い込まれました。
第十七章 (要約的再構成) 点の不可分性は、一者の不可分性の似姿である。 点は、連続体や次元の、いかなる存在様態によっても分割されえない。 線は線たる限りにおいて分割不能(線をいくら分割しても線でないものにすることはできないという意味において)であり、点の不可分性を分有している。 平面は平面たる限りにおいて分割不能(平面をいくら分割しても平面でないものを得ることはできないという意味において)であり、点の不可分性を分有している。 有体物は深さに関して分割不能(有体物をいくら分割しても有体物でないものをつくることはできないという意味において)であり、やはり点の不可分性を分有している。 線は平面よりも、平面は有体物よりも、より高い程度において点の単純性を分有するのではあるが。 以上の諸々の不可分性は点の不可分性のうちに包含されており、その展開にほかならない。 したがって、物体的対象のうちに存在する全ては、一者の似姿にほかならない。
第十八章 (要約) 「知性の存在は、肉体から分離した、それ自体で現実的なものである。 知性はその普遍性と不可分性によって、それ自体では伝達されず分有されえないものであるが、 その似姿である魂を通して伝達される。 魂は本性を通して肉体を生かす。 肉体のうちに展開された仕方で見出される全ての要素は、知性のうちに包含された仕方で先在している。 知性はそれら全ての形相であり、それら全ては知性のために存在する。」 (コメント) 上位の現実における下位の現実の包含、下位の現実における(縮限された仕方での)その顕現というテーマが、ここでは人間に例をとって取り扱われています。 この人間生成論をヴェーダーンタにおける「鞘」(koshas)の教説と比較してみるのもよいでしょう。 Rene Guenon,L'Homme et son devenir selon le Vedanta(Editions Traditionnelles)第九章参照。 余談。ヴェーダーンタとキリスト教的神秘主義の間の対応関係についてはオットーの先駆的指摘があるわけですが、 Elie Lemoine,Doctrine de la non-dualite et christianisme(Dervy)は聖ベルナルドや聖トマスとの比較によってこの方向の研究を推し進めています。
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
第十九章 (要約) 諸聖人も哲学者たちもさまざまな象徴を提示している。 「国家」におけるプラトンや、「神名論」におけるディオニシオスは太陽の象徴を用いているが、 知性的な光と知覚される光との類似性のゆえに、この象徴はたいへんふさわしいものである。 アルベルトゥスは直線性や絶対的な熱が、個々のものに無数の異なる仕方で分有されることを象徴として用いている。 (コメント) 「知性によって知られる世界において、<善>(tagathon)が、<知るもの>と<知られるもの>に対して持つ関係は、 見られる世界において、太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対して持つ関係とちょうど同じ」(「国家」508c)です。 すなわち、太陽がその光によって万物を生成させ視覚を可能にするように、「実在の彼岸なる」<善>=対象化されざる絶対的無限、普遍的可能性は一切の認識対象、認識主体、認識を可能にします。 それなくしてはいかなるものも不可能です。 なお余談ですが、「国家」当該箇所の理解のために井筒俊彦「神秘哲学」(中央公論社)p.231以下を参照することは大変有益でありましょう。
70 :
名無しさん@3周年 :03/05/01 06:48
age
第二十章 「それ自体に関しては、本質はより大きいとかより小さいということを許容しませんが、 存在と形相の固有の作用に対する関係においては、受容する質料の態勢にしたがって、 より大きいとかより小さいということを分有するのです。」(28:5-8) この例示としてクザーヌスは、神的な知性の賜物を有している人々において神が見られる、 というアヴィセンナの言葉や、 (これは、「天上位階論」においてディオニシオスが1コリント3:9に与えた解釈を想起させます・・・) 形而上学第二巻第一章での始原に関するアリストテレスの推論を挙げています。 例えば個々の熱いものにおいては、その熱さはより熱いとかより熱くないということを許容しますが、 個々の熱いものがそれを分有することによって熱くあるものは、より熱いとか熱くないとかいうことを許容しません。
72 :
名無しさん@3周年 :03/05/08 11:18
クザーヌス研究家坂本氏と遠藤周作の対談を読んだ 最近注目された人ですね、進歩的。 イスラム教等の諸宗教に対する考え方など 現代に通じる。 読みたいと思ってた。 今日初めて見つけたのでゆっくり読みます。 自分のノートにメモしながら
74 :
名無しさん@3周年 :03/05/13 18:03
仏教なりイスラムなり私はこれが神だと思う、私の良心に従ってという場合、 どれをゆるしてよろしいとクザーヌスは言っている。 その民族が受けとり、親から受け取った宗教を その人が受け取るのは当たり前だ、それをあたかも絶対の如く思っても 人間の持っている精神的な力の限界なんで、「知ある無知」なんですね。 各宗教にあらわれている神性は一つである. 人間は限られた知性の中で生きている. 世界を超越したものに対してきわめて限られた知性しかもっていない。 だから異教徒は自分の良心に従って(祖先や親とかからもらった) 神を選んでよろしい、 もちろんキリストの絶対性は主張しているが
siru-tann gannba! o(^^)o
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
77 :
名無しさん@3周年 :03/06/07 12:55
他の伝統的諸宗教にも真理が認められるという認識は、決して第二バチカン以降の教会にかぎられるわけでもなく、またそれ以前のカトリック教会においてはクザーヌスにしか見られないものではありません。
下のサイトのOur Father's Planを読んで見て下さい。
Theological Works of Fr. William G. Most
ttp://www.petersnet.net/most/browse.cfm 聖アウグスティヌスは「ファウストゥス駁論」において、次のように書いています。
「異邦人たちもまた、彼ら自身の預言者たちを持っていたことを、人は疑うべきではない」(P.L.42,col.348)
教皇パウロ六世は、1968年11月21日ウルバノ大学での会合において、上の言葉を引きながら、インドの伝統との、宗教混交主義でなはない真の相互理解と対話を説きました。
>>77 訂正
パウロ六世の当該発言は1964年12月9日の一般謁見です。
(Documentation Catholique n1439)
79 :
カトリック教徒 :03/06/15 16:02
聞きなさい。 アメリカが世界に主の福音を伝える役を担ったことは否定できない事実である。 ローマカトリックが世界にキリスト教を伝える役に召されたのも否定できない事実である。 そのいずれも獣ではない。 反キリストとは何か。主イエスがキリストであることを否定する者、否定する組織である。 キリスト教以外の組織である。 陰険なテロリストを影で動かし革命で世界征服をたくらむものたちである。 彼らは常に世界の背後で動いている。 キリスト教は公然たる組織であり秘密結社ではない。 他方、反キリストは常に秘密裏に動きことを進めるのである。 獣はローマでもなければアメリカでもいかなる国でもないのである。 いかなる国家も超える超国家組織である。 キリスト教がそうであるように、彼らも超国家的組織を持っている。 だが、キリスト教とは正反対に、彼らは秘密裏に動くのだ。 アメリカをバビロンという者たちは反キリストに加担しているのである。
第二十一章 要約: アルベルトゥスは、認識者を照明する神的光を、太陽のそれになぞらえている。 太陽光線は、それを受け取る側のさまざまな態勢にしたがって、さまざまに異なる効果を引き起こす。 第一の始原も、諸事物の何性を認識することができるように、ある種の本性を照明するのである。 コメント:この章の後半部では、明らかにトマス的なクザーヌスの認識論が説明されていますが、 これはホプキンスが論じているように、幾つかの近代的なクザーヌス解釈の欠陥を明示するものでしょう。 クザーヌス認識論についてJ.Hopkins,Nicolas of Cusa on Wisdom and Knowledge(Banning Press)Introduction参照。
第二十二章 「理性的推論に頼るとき、私たちはしばしば滑り、最高度に確実な直観に対して理性的な支えをつくりだそうとするのですが、その直観はあらゆる理性を超えているのです」 (32:10-12) 不二なる現実の知性的直観は、本性的に対立を内包する言語による推論を超えたものです。 そして象徴は認識手段として、推論のなしえないことを可能にするのです。
第二十三章 (要約的再構成) 第一の始源は最も完全な不可分性であり、そのうちに一性、相等性、合一が見出される。 一性は不可分性の源泉であり、相等性は一性の不可分性、合一は一性と相等性の不可分性である。 角acbを象徴として用いる。線caは不動であり、線cbは可動である。 点cは三一的始源である。それは線ca、線cbの始源であるとともに、二つの線の合一である。 一性はすべてのものを結びつけ、相等性はすべてのものを形成し、合一は結び付けられ形成されたすべてのものの保持である。
83 :
名無しさん@3周年 :03/07/15 14:35
シルさん、DAT落ちするぞ!あげ
84 :
名無しさん@3周年 :
03/07/22 21:28 ◎司祭の児童虐待報道でボストン・グローブ紙にピュリツァー賞 【CJC=東京】全米メディアの優れた報道・評論活動に贈られるピュリツァ ー賞の受賞者が4月7日発表されたが、公益報道の部でカトリック教会司祭の「 性的虐待スキャンダル」を報じたボストン・グローブ紙が受賞した。「勇気のあ る、包括的な報道により、国際的に波紋を広げ、カトリック教会のあり方に変化 をもたらした」としている。 教会内部資料と被害者の証言を基に、マサチューセッツ州ボストン教区のジョ ン・ゴーガン元司祭らによる児童に対する性的虐待の実態と、極秘裏に和解金を 支払うなどで監督者であるバーナード・ロー大司教(枢機卿)が事件を覆い隠し てきた教会の体質を次々と暴露したもの。同様のケースが他教区にもあることも 判明、全米を巻き込んだスキャンダルに発展し、バチカン(ローマ教皇庁)の指 導を受け米司教会議が対策を協議するに至った。枢機卿は昨年12月に辞任、虐 待に関与した司祭らは聖職者の資格を停止、はく奪される厳しい処分を受けるこ とになった。