874 :
名無しさん@3周年:03/07/25 21:39
次の総裁は、本部講師のうち最も優れた人が継ぐべきである。
雅宣は、宗教家としての資質に欠ける。
神を信じられない人間が宗教家になれるはずがない!
温故資料館の名誉館長くらいが適職。
875 :
名無しさん@3周年:03/07/25 21:52
>>874 生長の家は、谷口家が世襲する宗教企業じゃないのかな。
876 :
名無しさん@3周年:03/07/26 10:20
870さん
そうなのです。
五感の感覚で、肉体の頭脳で考えて読んでいるだけでは、真理は分からない。
実相は実相のみ知る事が出来る。
じゃ、どうすりゃいいんだ??と、思って、生命の実相を読んでいたら、
“あなたは自分を神の子だと信じなければなりません。あなたは自分を病気だと思うならばそれはあなたの心の
眼が曇っていて真相を見ないからです。だからあなたはこう言って神に祈らなければなりません。――「神よ、
わが心の眼をひらき給え、わが神の子たる真相を見せしめ給え。あなたの創造りたまいしものに不完全なのもが
存在すると思ったわが不信を宥し給え。あなたのお創造りになったこの世界に不完全なものは無いのです。
わたしはあなたに創造られた神の子ですから本当は完全なのです、健康なのです、どこにも病はないのです。
わたしは今、この真理を知らしていただきまして、神よ、あなたに深き感謝を捧げます。」こう言って合掌して
心を神に集中してお祈りするようにお勧めすることがあるのであります。・・・”
と、あったので、早速やって寝た。すると明け方目が覚めたので、窓際の椅子に座って空をながめていた。
空は雲ひとつ無く、細い月が浮かんでいた。私は近視の乱視ですので、月がぼんやりと三重、四重にあるように
見えます。はっ、そうか、私は月が一つでくっきりしたものだと知っている。しかし、ぼんやりと三重、四重に
見える。私はぼんやりと三重、四重に実相を見ているから本当のすみっきった実相を見ていないのだ、と思って、
月をしげしげと眺めました。細い月ですが、私は、この月がまん丸だという事を知っていて、疑った事は無い。
私は月が欠けていても、まん丸だと知っているじゃないか、と、思った。
877 :
名無しさん@3周年:03/07/26 10:29
872 さん
うちの母は生長の家をやるようになってから霊感がついたため、
傲慢になってしまったようです。私も霊媒体質ですが、母を見ていると
霊感には頼りたくないな、と思います。
879 :
名無しさん@3周年:03/07/26 11:41
880 :
名無しさん@3周年:03/07/26 13:02
信仰をすること、それはいろいろ説明の仕方はあろうが、
要は、自己の感情の処理速度を向上させることだと思う。
たとえば、私は神の子であるという定義を脳にインプットする。
そこのことで、あらゆる生活場面における心の情報処理が行いやすくなる。
それが信仰のメリットであると私は考えます。
ただし、このメリットに浴するばかりに、信仰をすることにより物事を
考えなくなる人が出てくる。これが信仰のデメリットです。
宗教被害における加害者は必ずこういう傾向を持った者である。
874
わたしには詳しい事情はよくわからないけれど、あんまり心配しても
しょうがないんじゃないかな。
例えば、正宣先生が、優秀な本部講師を推薦することだってあるかもしれないし、
優秀な本部講師が、新派を作ることだってあるかもしれない。
私がもし、中枢にいる人間だったらおおいに口を出させていただくがそのような縁もない。
私たちに出来ることは、今の自分の立場でこの真理を体現することだけ。
正宣先生も、他の先生方も真理を中心に生きておられれば、それほど
判断に狂いは出ないと思う。(金で買えない価値をちゃんとご存知ならば。)
いずれにしても、少しずつでも悟りの階段を登って生きたいものです。
そうすれば、つぎのステップを選ぶとしてもそれは喧嘩別れではないでしょう。
>876
そうですね。知っているか知らないかで可能性の幅も違ってくるんですよね。
スピードスケート選手の誰だかがいってたなぁ。
>880
そうそう、知ったというだけで満足せず、ひとつひとつ自分の生活の中で検証
してみる。感動と確信を得ることが出来る。
・・・・すみません、疑い深いわたしの実感です。
zzzzzzzzzzz
>876
そうですね。知っているか知らないかで可能性の幅も違ってくるんですよね。
スピードスケート選手の誰だかがいってたなぁ。
>880
そうそう、知ったというだけで満足せず、ひとつひとつ自分の生活の中で検証
してみる。感動と確信を得ることが出来る。
・・・・すみません、疑い深いわたしの実感です。
884 :
名無しさん@3周年:03/07/26 14:26
877さん、霊感ですか。私には判りません。ごめんなさい。
あなたにしか判らない使命が何かあるのかもしれませんね。
お母様のお力になってあげてくださいね。
885 :
名無しさん@3周年:03/07/26 19:52
霊感などというものは、生長の家とは無関係です。
悟りの邪魔になるだけです。
霊界も現象の一つだからです。
↑実際コントロール出来なくて困っている人がいるんだったら
どうしたらいいんですか?悟りの邪魔になることがわかってても
どうしたらいいのかまでは判らないんだったら、ごめんなさいと
言うしかないでしょう。
あなたならどうしますか?
887 :
名無しさん@3周年:03/07/27 08:31
我々の思考方法自体が近代合理主義に拠っていることを
忘れてはいけないと思います。
まったく違う思考形態もあるのです。
また、宗教を批判することは原則自由ですが(表現の自由)、
批判する姿勢も、見方によれば、信仰じゃないかと思います。
あと、懐疑主義というのはいつの時代でも流行るものですが、
無思想というのは、多くの哲学者ですらとるものではないという事実を
あげておきます。
888 :
名無しさん@3周年:03/07/27 17:03
生長の家は「生長の家は世界最高の宗教です!」と広告を出していたことがあった。
自分で自分のことを「世界最高」などと宣伝する宗教ほどうさんくさいものはない。というか傲慢。
何をもって世界最高とするのか、その根拠は薄弱である。
自分が夢中になっている文化とか、恋人とかを「最高!」と思ってしまうことは誰にでもある。
しかし、公にそんなことを宣言したりはしない。
客観的に考えれば、これが絶対世界最高と言い切れるものは存在しないからである。
名実ともに世界最高とされている人物や団体にだって、賛否両論はあるものだ。
相対化の作業を怠る事なく考察すれば、絶対最高とか中心とか言い切れるものはない。
ただ、自分が最も尊敬したり愛したりするものを最高とか中心とか思わずにはいられない人間の心理までを否定するつもりはない。
しかし、そうした主観的な心情は必ずしも客観的形式を備えた普遍的倫理ではないので、
常識のある人間なら普段は胸の内に秘めておくものだ。
ましてや公に宣言して、できたら他の人にまで自分たちの思想信条を普及させたいなどとは思わない。
それがまともな宗教者、文化人の社会的責任を踏まえた態度というものであろう。
生長の家の信徒の多くは自分の宗教は最高だと思っている。
「自分にとって最高」という意味を超えて「世界最高」と本気思っていることもしばしばであり、
指導者もそれを否定することなく、一致団結して公言することもはばからない。
むしろそういう主観的で、客観的根拠に乏しい考えでも口に出して反復すればその通りに実現するとでも思っているかのようである。
生長の家のセオリーからすればそのように考えている人が多くいるとしても不思議ではない。
しかし、現実には「最高、最高」といくら反復してもダメなものはダメである。
自信をつけるためにポジティブな言葉を反復することの効果は認めるが、その効果もある程度まで行ったら無に等しい。
せいぜい世俗的な次元を生き抜くための知恵としての自己洗脳手段が「良い言葉の反復効果」といえよう。
それを生長の家のように拡大解釈して、「言葉の創化力を駆使して人類を光明化する」手段とするなどという思想を本気で信じ、実践している人がいるとしたら、
「あわれ、オソマツ」と言う他はない。
言語の力を盲信することは危険とさえ言える。
むしろ言語(ポジティブな想念であれ、ネガティブな想念であれ)が人間の無意識を束縛し、
絶対無条件の実相に目覚めることから遠ざけてしまうという見方もあり得ることに留意したい。
肯定神学と否定神学の関係を想起して欲しい。
どちらも自己成長のために有効な方法であるが、また限界のある方法でもある。
894 :
名無しさん@3周年:03/07/27 21:15
888さん。
あなたの一連の書き込みは、生命の実相40巻を読んでからの発言なのでしょうか?
895 :
名無しさん@3周年:03/07/28 03:36
生長の家は、“宗教”と言っているが別の見方をすれば、“各宗派の解説哲学”と言える。
この宇宙は、想念によって成り立っているので、その想念を、神がつくられたままの完全なる姿に一致させる
のが宗教であり、“各宗派の解説哲学”におけるポイントであると思う。私たちは、想念の影を実在であると
見ているから、まず、実在は想念であり、影(現象)は想念がどれほど神と一致したかを見る手引き書のよう
なものだと見ることが必要になる。すなわち、現象の否定、そして、言葉によって想念を変える、つまり「人間は神である」と、神想観する事になる。はっきり言って、生長の家は、難しい事は全然言っていない。
想念を変えよ!唯、神のみが実在である、と。神は全てを全く素晴らしく創っているから、不幸などは、想念
を神と一致させれば消えてしまう。もちろん病気も消えてしまう。それで、いろいろ悩む事も不必要になる。
生長の家は、かなり簡単なやり方を説いている。
唯、想念を神と一致させるだけ!!
神想観、言葉によって!!
私はダメだなどと考える暇があったら、私は神の子だ!!と思ってください。
だんだんその気になってきます。
896 :
名無しさん@3周年:03/07/28 03:43
>>884 さん
ありがとうございます。がんばります。
母は私を生長の家に導いた観世音菩薩です。
>>885 さん
その通りです。
私は、霊感がついた時、神様に「私は恐がりなので、こういうのは止めてほしい」
とお願いしました。はっきり言ってじゃまです。うっとうしいです。新想観に集中できないし。
しかし、それも私がまだ未熟だからでしょう。とほほ。
897 :
名無しさん@3周年:03/07/28 03:46
↑間違えた。新想観→神想観でした。ごめんなさい。
全部は読んでいませんがそれが何か?
全巻読破を勧められたが、その内容のあまりの身勝手さにうんざりしてやめた。
第八巻までで谷口哲学の全体像はまとめられており、
あとはその変奏曲や応用編ですと生長の家の講師から聞いた。
だから第八巻までは読んだ。後は拾い読み程度。
しかし谷口雅春のその他の単行本は何冊か読んだ。
練成会や誌友会や全国大会は何度も参加した。
神想観をし、聖経をあげたことは一回限りではない。
それによって信徒や講師や総裁の考え方の基調は分かった。
(こんなに何回も行事に参加しても、教義の基本も分からないような構造になっているとしたら、それもまた問題だと思う)
その上で発言しました。
率直に言って、極端な唯心論が逆に彼らの物質的繁栄論を支えていると思った。
その意味では「唯心論的唯物論」と呼んでもいいと思った。
また「天皇は神様です」と強調するのもひっかかった。根拠も論理もない主張だからだ。
なぜ天皇が中心であり実相なのか分からなかった。単なる右翼思想の影響以外にその根拠は考えられない。
ましてや真理でもなんでもない。
天皇は戦後自ら人間宣言をし、戦後日本の象徴というポジションにとどまっていることは自他共に認める事実である。
いうまでもなくシンボルというのは記号であり、いわゆる現象世界の存在者である。
したがって「神」ではあり得ない。
生長の家の天皇解釈は、現行の天皇の定義を大きく逸脱していると思った。
これでは逆に戦後天皇の意思に反することにもなりかねない。
なぜ天皇なのかということを講師に聞いても「わからないままでいいんじゃないの」とか、
「理屈じゃないんだ」とかいつもお茶を濁された。
言葉の創化力を極端に強調する一方で、一般人が関心を寄せる肝心な部分は言葉にならないから説明できないと開き直る。
彼らにとって言葉とは論理でなく呪文のようなものにすぎないのであろうか。
矛盾もいいところのこうした態度では、情緒的な傾向を有すると言われる日本人、しかもその中のほんの一部の間ではともかく、
高度に発達した論理学の伝統を有するインド、チベット、イスラーム圏、ヨーロッパ、
アメリカなどの国々ではとても広くは受け入れられないだろうと思った。
また、仏教とキリスト教を統一したとか超えたとかいう自慢話も、かなり恣意的・作為的なものである。
例を挙げれば、谷口雅春の仏典解釈は、漢字文化圏の文献を通しての理解に限定されており、
チベット、ネパール、東南アジア諸国などサンスクリット文化圏の仏教の哲学や実践は考慮に入れられていない。
漢字文化圏の仏教と、サンスクリット文化圏の仏教とでは、
その思想哲学・実践修行体系において相当に性格を異にすることは仏教史をひもとけばすぐに分かることである。
したがって常・楽・我・浄を最高の真理とする谷口の仏教解釈は、仏教の真髄を明かすどころか、全くの本末転倒であり、
苦・無我・無常・涅槃の四つの真理を旗印とする仏教の本義からは遠くかけ離れたものとなってしまっている。
これでは仏教というよりはむしろヴェーダーンタ哲学や新プラトン主義に近い。
それを仏教と強弁するところが恣意的・作為的なのである。
ましてや「『無門関』や『華厳経』に日本国実相顕現の真理が説かれている」などというとんでもない解釈は、
オカルト的・右翼的・恣意的・作為的なるものの典型であり、
生長の家という集団以外の場所ではまるで通用しないきわめて特殊なものと評せざるを得ない。
そして谷口の「事象を実相と現象に分けて考える方法論(唯神実相哲学)」によって、
全ての宗教の真理を同一の相のもとに理解できるなどというのは、全くの思い上がりであり、
諸宗教に対する忠実な学術的研究成果と、実践的修行面の両方をともに無視したきわめて大雑把なものである。
そもそも生長の家においては「万教帰一」という思い込みが前提となっているので、
同一性を強調せんがために、己の哲学に合わせて諸宗教・思想を勝手にカスタマイズしてしまう。
とは言えカスタマイズすることが非常に困難なくらい複雑高度な内容を持った代物は、取り上げることはしないようである。
自分達の考えを表現したり裾野を広げたりするのに都合のよさそうなものならオカルトでもニューエイジでも何でも飛びつくのだが。
万物の一体性を見抜くことも確かに大事だが、万物の差異を見極めることも同じくらい大事だということをまず知ってもらいたい。
特に哲学を志す者にとっては形而上学批判や差異論は現代思想の文脈において主要なテーマであることくらいは常識である。
諸宗教・思想間の差異を無視することは、現代的文脈においては哲学的・感性的デリカシーに欠けたある種の言説的暴力ともなり得る。
これに哲学などと呼べるほどの厳密な論理性や実証性は求むべくもないことは言うまでもない。
これをもって谷口自身が説くように「世界最高の完全なる超宗教」を自認するのは、
思い上がりもはなはだしいと言わざるを得ないのである。
とりあえず今回はこの辺で筆を置かせていただきます。
902 :
名無しさん@3周年:03/07/28 06:59
>>888さんの視点は実にスルドい。生長の家、谷口雅春氏の主張は
あまりに一方的であり、自己の暖めてきた宗教観を哲学的に説明
したようなもの。つまり、宗教の自己解釈論に過ぎないと思う。
また、無意味に右翼的であり、天皇崇拝の異常さは笑うしかない。
903 :
名無しさん@3周年:03/07/28 11:12
>>888さん
私は、888さんの文章を読んでもなお、生命の實相を繰り返し読み続けるよ。
888さんは、長い文を一所懸命書いてくれたけど、生長の家をやっていると、私は
幸せです。型にはまってしまった今の仏教も生長の家では生きています。
902さんが888さんの視点は実にスルドい。と言ってるけど、全然そんな風に思わない。
888さんが、生長の家を理解できないだけだ。888さんが、生長の家を理解出来なくても
私は888さんが幸せであればそれでいいと思うよ。
904 :
”削除”依頼:03/07/28 13:17
905 :
”削除”依頼:03/07/28 13:20
906 :
名無しさん@3周年:03/07/28 14:14
政治関係のネタが多いんで削除したほうが良いと思う。
今まで一度も削除以来が出されてないのが不思議。
で、888さんはどこに行き着いたのですか。
あなたのおっしゃっていることはスルドイと思います。
あなたの論理的なお力で、ぜひ実相哲学の実用性を説明していただきたいものです。
でもばかばかしくて箸にも棒にも掛からないんですよね。
あなたのお眼鏡にかなった素晴らしい教えがあったら教えてほしいものです。
簡単な言葉ひとつで人を救うことが出来るとしたらそれはそれで
すごいことだと思いませんか。
頭が良すぎると、<実感>というものを見逃しますよ。
908 :
名無しさん@3周年:03/07/28 18:55
888は、谷口氏を批判しつくしているが、やっていることは
谷口氏と同じなんだよね。
その辺に転がっている出来合いのもののツギハギにしか見えない。
しかも谷口氏より劣るように思う。
888は無思想なんだよ。結局、何も信じていない。
その点、谷口氏には信念がある。その差かな。
ここまで書いた以上、888には自分の信念を発表してもらいたい。
是とするところを書き込んでもらいたい。
君にその勇気がある?
909 :
名無しさん@3周年:03/07/28 20:09
888が無思想かどうかは、他人が口出しすることはない。
彼が言いたいのは、教理自体が矛盾していることだとおもう。
その通りです。私はそれでキリスト教を見つけた訳です。
彼が、何教であっても、無神論であっても、彼の説は、正しいと思う。
生命の実相を読んで、実相て説明できる人は、居ないと思う。
人間が神の子であると言うことは、人間の存在を定義しているだけで、実相ではない。
なにをもってして、実相といっているか?さっぱりわかりませんな。
910 :
名無しさん@3周年:03/07/28 20:19
生長の家ハンドブックみたいな、エッセンス集がほしい。
生長の家辞典でもいい。要点、用語を簡単に説明する物
これがないと、用語のつかいかたもマチマチ 説明文はあるが、何のことか
分からない。生命の実相を読めば、もっと分からなくなる。
長くて要旨不明な文 悪文集であります。
教祖が死んで長いのに、後の信者本部職員の怠慢が甚だしい。
信者拡大にのみ、目が奪われている。
創価学会の二の舞で、あります。創価学会ほど大きくないのに。
現天皇は、現人神思想は、毛嫌いしています。それのに、現人神思想を強要
する、ストーカーが、生長の家の右翼信者と思います。
ご質問に対してはひとつひとつ回答したいと思います。
なお、私の前回までの生長の家批判的投稿文においては、「(敬称略)」を明記することを忘れていました。
質問に対する回答というよりはコメントに対するコメントになってしまいそうですが、
903さん
>888さんは、長い文を一所懸命書いてくれたけど、
私にとっては長い文でもないし、一所懸命書いたものでもありません。
>生長の家をやっていると、私は幸せです。型にはまってしまった今の仏教も生長の家では生きています。
今の仏教の全てが型にはまっているとお考えなら、認識不足ですね。型にはまっていない仏教もたくさんあると思います。
欧米で最も高い人気を誇ると言われるチベット仏教などはそのいい例でしょう。
東南アジアの上座部仏教や日本の禅も、そうですね。型にはまらない活動をしている方もたくさんおられます。
それこそ、「超宗教、超宗派」的な。例を挙げるなら、ベトナム僧のティク・ナット・ハン、ご存知ダライ・ラマ、今は亡き鈴木大拙など。
特に欧米に伝わり現に支持・実践されている仏教は、西洋人にとっては型破りだからこそ受けている面もあると思います。
そしてその「型破り」な仏教の思想の根本は、私見では生長の家の思想の根本と一致しないのです。もちろん、似たところもあることは否定しませんが、
仏教の旗印はどの宗派を問わずやはり「無常」なのですが、生長の家の旗印はやはり「常住」ですね。
結局、仏教は仏教、生長の家は生長の家。仏教は生長の家ではないし、生長の家もまた仏教ではない。その辺をごっちゃにすることが良くないと思うだけです。
もちろん、私の立場からはどっちが優れていると断言することはできません。
真理としての「無常」と「常住」のどちらに軍配をあげるかを判断できるほど、私は偉くもないし悟ってもいませんので。
ただ、どっちが好きかと言われたら仏教の方が好きですが。
>902さんが888さんの視点は実にスルドい。と言ってるけど、全然そんな風に思わない。
888さんが、生長の家を理解できないだけだ。
その通りです。先に述べた通り、私は生長の家を理解できないし、もはやしたいとも思わなくなりました。
したがって、私と生長の家の信徒が議論を始めたら、それは平行線をたどるばかりでしょう。
それと、自分の思想が鋭いかどうかは私の文章を読んだ人の感想であり、私自身の意図するところではありません。
>888さんが、生長の家を理解出来なくても私は888さんが幸せであればそれでいいと思うよ。
たとえ個人的な思想信条面では対立的な関係であっても相手の幸せを願う精神性には、私は共感的です。
それにしても2ちゃんねるは一度に書き込める文字数が少なすぎるのが不満です。仕方なく数回に分けて投稿してます。
以下、文字数を節約する目的も含めて、出来る限り簡潔にコメントさせていただきます。
907さん
私のここでの立場はあえて言うなら批評・評論・ジャーナリズム的なものです。
自分のよって立つ思想をあらわにしない相対主義的・中立主義的な批評家・評論家・ジャーナリストの立場は、
現代においては哲学者や宗教者と同等の市民権を与えられているものと判断します。
自らのよって立つところの思想信条を表明しなければ宗教を批判することは許されない、とは私は思いません。
したがって行き着くところのドグマを提示するつもりはありません。
しかし自分が無思想なら、他思想を批判する気はそもそも起こらないだろうと思いますので、何らかの思想、
例えば仏教や現代西洋思想の知識が背景にあることを了解いただければ幸いです。
ただしこの場ではいずれかの宗教や思想を擁護するために生長の家批判を行ったのではないこと、
そして私がプロフェッショナルな評論家やジャーナリストでもないことを明言しておきます。
私が生長の家批判を行うということは、現に生長の家と利害関係にあることを示しています。
本当に生長の家と無縁の存在になったら、批判すら行うこともないでしょう。
生長の家と私が個人的にどういう関係なのかについては、プライバシーの問題なので、ここに公開する義務はありません。
私には「簡単な言葉ひとつで人を救うことができる」ということの具体例が頭に思い浮かばないのですが。
「簡単な言葉ひとつで人を救うことができる」と生長の家が主張しているとも思えませんし。
生長の家は、「生長の家の教えは簡単です」という時もあるし、
「生長の家の教えは難しい」という時もあり、決してその点一貫してはいないようです。
どういうところが難しくて、どういうところが簡単なのかがもう少しはっきりしてくるといいのですが。
それと、私たちが、普段簡単に考えていることが、実は複雑な事態を内包していることの方に私は関心があります。
また、頭が良すぎると何か良くないことが仮にあるとしても、
頭をもう少し悪くすれば何かが良くなるとはまるで思えません。
問題は頭の良し悪しではないと思います。
あと、私は自分は頭が良いとは思っていません。むしろ頭が良くなりたいと思っている方です。念のため。
908さんへの回答およびコメントにつきましては、以上911-915をもってそのほとんどを代えさせていただけるかと存じます。
こういう文章を書いていて私は疲れませんが、やはり時間はかかりますので、
掲示板活動に費やす無制限の余裕はありません。その点はご容赦ください。
比較的手厳しいお言葉をいただきましたが、
「そんなことはないよ!」と言い張るほどの自尊心も護るべきものも私は持ち合わせていません。
付け加えておきますと、私は谷口雅春をあらゆる面において超えたとまでは思っていません。
私は他人の病気を治したこともないし、自分で書いた本を大量に売って生活できることもありません。
ただ、谷口雅春への信頼はとうに失いましたし、何らかの接点による客観的関心すらも、現在進行形で失いつつあります。
ならばそうなってしまった理由として、谷口雅春をある面においては超えたのか?と聞かれたとすれば、
自己を肯定的に評価する機会を与えられれば、
その可能性をもやはり否定はしませんが、自分としては、
「谷口雅春および生長の家の説くところの生き方とは別の生き方を発見しましたので、
これ以上彼らの影響下には身を置きたくありません。お世話になった時期もあるにはありましたが、
私としては、そろそろあなた方の下から完全に『卒業』する時期が来た、と考えております。」
と答えるでしょう。
信徒さんの立場から見れば、「卒業」ではなく「退学」かもしれませんが(笑)、
いずれにせよとにかく私はこれ以上生長の家に「在籍」していたくないのです。
しかし、個人的な事情により、完全に彼らと無縁になることもできないのが現状です。
これも生まれついた環境や自分で過去に作り上げた業というものです。
はっきり言って、もう葉書も手紙も電話もお守りも貰いたくないし、
神癒祈願にも出してもらいたくないし、人づてに彼らの噂も聞きたくもないのです。
だがそこまで固くシャットアウトすることは今はできない。
そのジレンマから来るフラストレーションが、今回の私の一連の投稿文を書かせたのかもしれません。
しかしながら、これを機会に、生長の家を擁護する側の方の声と、
批判する側の方の声の両方を、
自分自身も議論に参与しつつ聞くことができたのは、
ひとつの収穫だったと思います。
それでは。
918 :
名無しさん@3周年:03/07/29 10:28
ひとつのインスピレーションの説明のために多くの言葉を使う。
当然のことながら、言葉ではそのすべてを包括的に説明できない。
したげって、ある原則を表明すれば、言葉の性質上、
そこには必ず例外が生じてしまう。
そして、それをまた言葉で説明していくことになる。
エンドレスである。
谷口氏には、何よりもまず先に、直感があった。言葉は後である。
この直感に同意出来る者にしてみれば、生命の実相を読む際、どの言葉が
谷口氏の本音をよく示しているものなのか、どの言葉が便宜上の説明のものなのか
自ら進んで立体的統一的に解釈をしているはずである。
逆に、彼の直感に触れることが出来なかった者は、谷口氏のあらゆる言葉が
批判の対象となるだろう。
究極において、宗教は学問ではない。だからこそ、価値がある。滅びない。
宗教が学問であるなら、谷口氏の言葉は、今となっては多くの誤りを含んでいる。
それは事実である。
しかし、そのことで、谷口氏のインスピレーションは誤りであった、ということ
にはならない。
また誰かが言葉をつむぎ出すだろう。谷口氏はそれを認めている。
888さん、あなたの書き込みからは誠実なものを感じますよ。
>生長の家の説くところの生き方とは別の生き方を発見しました・・・・
生きていくうえでいろんなもの見つけていけるのは幸せなことです。よかったですね。
私がここで見つけたものをあなたと共有できないのは残念ですが、あなたの生き方は
理解できます。これからもがんばってくださいね。
920 :
名無しさん@3周年:03/07/29 11:22
888さん
私もあなたに共感します。どんな宗教をやっていても、また、無神論であっても
お互い意見しあって、お互いを思い合って、皆、幸せでいたら、世界は平和だと思います。
921 :
名無しさん@3周年:03/07/29 12:20
888さん
生命の實相の第八巻までって愛蔵版の方?頭注版の方?
私は、頭注版の第八巻までだったら、たぶん納得出来ないと思う。
私は萬教帰一篇が一番好きだし、(頭注版の第十一巻、第十二巻)
後、仏教篇も分かりやすかった。(頭注版の第三十九巻)
生長の家の中で難しい所は、「物質はない、現象はない、肉体はない」と、いう所ではないかしら。
仏教でいう空という観かた。で、実相とは、仏教で言うと、華厳経(入法界品第三十四の一)の
三昧に入り已りし時、・・・云々。から始まるところに書いてある通りです。
生命の實相の仏教篇に書いてあるよ。(頭注版の第三十九巻165P)
要するに、現象は空、実相は荘厳極まりない極楽みたいです。
私は、最近まで実相を空だと誤解していたので、これを読んだとき、なるほど!!と思いました。
922 :
名無しさん@3周年:03/07/29 14:31
<本気で神の望みを考えてみよう>スレ弾んでるよ。
頭の柔らかい生長の家の方々なら、きっと感動されるに違いない。
アクエリアンさん、また新しいスレお願いね。
923 :
名無しさん@3周年:
8883の指摘で、極端な唯心論が、唯物論と非常に近い考え方であること
がよく納得されます。卓見であります。付け加えるとすれば、極端な性善説であり
楽観論をともなうことです。
色即是空を、肉体無し現象無しと言う解釈は、一般論的な解釈としては、通らない
と思います。へたをすると、虚無思想に陥ります。危険な考え方であって、
どうも賛成できません。
こう検証してみますと、論理の綻びがあり、宗教のエッセンスを纏めるまでには、
至っていないようですね。これを完成させる人が、生長の家の人に いるのでしょうか?