1 :
名無しさん@1周年:
自力で悟る聖道門、他力にゆだねる浄土門。果たしてどちらが優れた道か?
なんの事かワカランが 2 か?
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、
本願他力の意趣にそむけり。
そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、
願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、
もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
4 :
名無しさん@1周年:02/09/07 16:46
優劣を競うことに非ず。
一人の愚か者を晒したのみ。
5 :
名無しさん@1周年:02/09/07 17:29
自力と他力と言ってもいろいろあるので、
どちらが優れているとは言えない。
どちらもメリット、デメリットはあるだろう。
釈迦の教えたものは、9割型自力だと思うよ。
6 :
名無しさん@1周年:02/09/07 17:34
7 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/09/07 18:24
「他力」とゆうのは、もともと浄土門の専売特許。
自力・他力に拘らずとも良いかと思う。
妙好人、才市のように。
自力で駄目なんだったら他力。
作為とは,解脱の明知が顕れていないので,努力してこれを獲得しようとする意図で
ある。このような努力を放棄すれば修行者は解脱を放棄したことになってしまう。
一方,このような努力がある間は解脱することはない。修行者はこの板ばさみに
苦しむことになる。しかし,正確にこの矛盾した絶望の中にとどまり続けるならば
(中道),しばらくして,解脱は向こう側からやってくる。
やっぱ他力でしょ。
要するに,自力と他力は伴に必要なのであって,どちらがどちらを押さえ込んで
しまうこともないことが中道である。中道とは,あやふやな中間やはっきりとしない
怠惰のことではなく,実に厳密なある一点のある一定期間の持続のことである。
自力でなければ自己に打ち克つ闘いに励むことはなく,ただ怠惰なだけである。
しかし,自力には,それに打ち勝つべき自己が既に含まれているので,最後のどこか
で自力をそっと手放してしまわなければそこにたどり着けない。
自己の想いによらずに達成する初めてのそれは,あなたを驚愕させるであろう。
目の当たりにするその風景は,おもいもよらないで得られた贈り物であろう。
しかし,そのおどろくべき秘められたそれを,あなたは体験しなければならない
のである。
そのためには,その終局的地点までは,自力で歩んで行かなくてはならないのである。
11 :
名無しさん@一周年:02/09/07 23:13
昔、「帰ってきたウルトラマン」ってあったでしょ。
あの変身の設定というのが、ピンチになっても人間
として全力を尽くした後でないとウルトラマンには
なれないってものだった。
自力と他力の関係も同じ。自力を尽くして、その無力
を悟らなければ他力の恩寵は訪れない。
だから「俺ははじめから他力でいく」ってのは無理。
「最後まで自力」ってのも不可能な訳だから、結局
自力と他力は同じ道なのよ。
12 :
名無しさん@1周年:02/09/07 23:15
空海の
宮坂ユウショウ「密教世界の構造」読め
13 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/09 23:34
>宮坂ユウショウ「密教世界の構造」読め
密教学者?。
オウムが盛んに活動していた頃、何をしていた人だ?。詐欺師にエールを送っ
たり、詐欺師の前で沈黙を守って、詐欺師の暴走に社会的に無関心だった学者な
んかは全く信じるに足りない。そう考えるのが常識なんじゃないか。僕はそう思
うぞ。
14 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/09 23:36
自力・他力という概念を考えるには、言葉の原点を考える必要がある
と思います。
曇鸞の浄土論註を引用します。親鸞は他力の概念をここから学んでい
ます。
菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一には難行道、二には易行
道なり。難行道とは、謂わく五濁の世無仏の時に於いて、阿毘跋致を求
むるを難と為す。此の難に乃し多途有り。略五三を言いて以って義の意
を示す。
一には(略)。 二には(略)。 三には(略)。 四には(略)。
五には唯是自力にして他力の持つなし。 〜 易行道とは、謂わく但
仏の因縁を信ずるを以て浄土に生じることを願い、仏の願力に乗じて便
ち、彼の清浄の土に往生を得。
人、三塗を畏るるが故に禁戒を受持す。禁戒を受持するが故に能く禅
定を修す。禅定を以ての故に神通を修習す。神通を以ての故に能く四天
下に遊ぶがごとし。是の如き等を名づけて自力と為す。又劣夫の驢に跨
(またが)りて上(のぼ)らざれども、天輪王の行(あるき)に従いぬ
れば、便(すなわち)虚空に乗じて四天下に遊ぶこと障碍するところ無
きが如し。是の如き等を名づけて他力と為す。
愚かなる哉後の学者、他力の乗ずべきことを聞いて当に信心を生ずべ
し。自ら局分することなかれ。
ここから曇鸞の言う自力・他力という概念を考えて行ってみたいと思
います(暫く議論を続けたいと思います)。
自力も他力も加持力にはかなうまいて。
16 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/11 21:40
他力という概念は、易行道に付随する概念です。易行道とは、仏在世の時
代、仏に従って阿毘跋致(あびばっち)を求める学習プログラムを言うので
しょう。
釈尊先生は多くのお弟子さんを育てました。仏とは、釈迦のような優れた
教育者を指すと考えます。優れた教育者の指導の下で阿毘跋致を求めて学習
するプログラム。これが易行道でしょう。そこから他力とは、阿毘跋致を求
めて学習する学生を指導する教師の指導力を指すと考えます。
曇鸞の専門は、教育者を教え育てる高等教育学だったようです。小乗の基
礎学習を終了し、将来は教壇に立つことを夢見て集まってくる若者に、彼は
教育学を教えます。他力とは、教師が持つべき指導力であり、学習者が学習
の頼りとする教師の指導力を指すと考えます。
阿毘跋致とは不退転という意味です。不退転には色々の意味があるようで
す。小乗の基礎学習を終了して大乗に進み、大乗一年生つまり初地に至るこ
とを不退転に至るということがあります。大乗学校は初地から八地まであり
ます。大乗の修行者は空を認識して八地に至ります。ですから、大乗学校卒
業の八地を不退転ということがあります。初地は小乗基礎学習者の目標、八
地は大乗高等学習者の目標です。他力とは学習者を援助するそのような働き
を指すのでしょう。
曇鸞の自力は、師を持たない独学者の孤独な努力学習をさしていると考え
ます。 (続く)
>>15 >自力も他力も加持力にはかなうまいて。
無邪気な15の加持空想力・夢想力には叶わないかも知れないな。
17 :
名無しさん@1周年:02/09/12 05:25
自力他力は仏縁によること。
つまりは自分で決められないからどちらも他力。
18 :
自力と他力が十字に組んで働きが、、:02/09/12 05:50
陰と陽の作用、空海と最澄、イザナギイザナミ、日と月、男と女、天と地、
有と無、そして >現世と神界
19 :
日蓮宗(陽)と浄土宗(陰)の働き、どちらも必要:02/09/12 05:52
うん、
20 :
名無しさん@1周年:02/09/12 07:13
>>16 阿毘跋致は竜樹先生がはじめていわれたこととされ、
確かに不退転を意味するようですが、
曇鸞先生が教えられたのは
ただちに等覚(「初地から八地」よりも上のさとりですね)
に到達する他力仏教ではなかったでしょうか。
>>小乗の基礎学習を終了して大乗に進み、大乗一年生つまり初地に至るこ
とを不退転に至るということがあります
これはどなたのお説ですか?
初地から不退転にいたったのは竜樹先生のコースのようですが、
竜樹先生もまず小乗の基礎学習を先にしなさい、といわれたのでしょうか?
21 :
名無しさん@1周年:02/09/12 07:16
>>16 「他力とは、教師が持つべき指導力であり、学習者が学習
の頼りとする教師の指導力を指すと考えます。」
初耳の教えですが、お聖教の根拠をしめしていただけますか?
22 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/12 21:08
>>20 >曇鸞先生が教えられたのはただちに等覚に到達する他力仏教ではなかったでし
ょうか。
聞いたことがない。
不退転地は八地であるというのが大乗仏教の基本的概念だと思います。
「わが仏子よ、かくのごときが、菩薩の「まったく不動なる」知の地(くらい
)であるといわれる。もはや、いかんとも動かしかたいからである。「いまや一
歩も退転しない」地(くらい)といわれる。知恵が一歩も退転しないからである。
「いかんとも思議しがたい」地といわれる。<中央公論社 大乗仏典第八巻
「十地経」(第八地「まったく不動なる」菩薩の地)>
23 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/12 21:10
>これはどなたのお説ですか?
表現が不適当だったようですね。
親鸞は、小乗を飛び越して大乗に進み、大乗一年生つまり初地に至る
ことを不退転に至るというようです。前回の記述は不正確な議論でした。
不退転地を初地として主張されているのは、僕が知っている限りは親
鸞聖人です。問題は親鸞以前に不退転地を初地として主張された方がい
たのかどうか、確認できません。
論註を読む限り、八地で読んでも、初地として読んでも趣がある。
僕はそういうことが言いたかったんです。
「自致不退転」というは、自は、おのずからという。おのずからとい
うは、衆生のはからいにあらず、しからしめて不退のくらいにいたらし
むとなり。 〜 不退というは、仏にかならずなるべきみとさだまる
くらいなり。これすなわち正定聚のくらいにいたるをむねとすべしと、
ときたまえる御のりなり。(尊号真像銘文)
親鸞は、歓喜地=不退転地=等覚=正定聚をイコールで結びます。歓
喜地と不退転地との等号式は大経から導くんでしょうね。
本願成就の文、『経』(大経)に言わく、諸有衆生、その名号を聞き
て、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。か
の国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ
五逆と誹謗正法とをば除く、と。已上
24 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/12 21:13
>竜樹先生もまず小乗の基礎学習を先にしなさい、といわれたのでしょ
うか?
大乗段階に進むのは、小乗段階が終わってからです。小学校を終了し
ないで中学・高校に進むことはできません。
25 :
名無しさん@1周年:02/09/12 21:14
自力=傲慢
26 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/12 21:14
>>21 初耳の教えですが、お聖教の根拠をしめしていただけますか?
仏の願力に乗じて便ち、彼の清浄の土に往生を得。
劣夫の驢に跨(またが)りて上(のぼ)らざれども、天輪王の行(あ
るき)に従いぬれば、便(すなわち)虚空に乗じて四天下に遊ぶこと障
碍するところ無きが如し。是の如き等を名づけて他力と為す。
<<23
真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、
竜華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。故に「便同」というなり。(信巻)
本願を信受するは、前念命終なり。即ち正定聚之数に入る。(中略)他力金剛心也と、應に知るべし。
便ち弥勒菩薩に同じ、自力金剛心也と、應に知るべし。(愚禿抄)
私は弥勒さんは竜華三会の暁に仏覚を達成する等覚=51段目と認識しています。
浄土真宗は現生正定聚の教えであり、横超の金剛心を窮めた念仏の衆生は
臨終一念の夕に仏覚にいたる正定聚之数=51段ではないのですか。
>>26 他力と言うは、如来の本願力なり。(行巻)
他力に如来の本願力以外の意味があるのでしょうか。
(つづき)
渡海さんへ
ご教示ありがとうございます。
>>22
仰るとおりかもしれませんが、まだ納得できたわけではありません。
でも不勉強のため反論の根拠を示せません。
発展仏教説からすれば、十地経と浄土経典は土俵違いのような
気がするということです。
>>24
確かに竜樹先生は世親先生のように弥陀に帰命した、と表白されて
いるわけではないですね。他力よりもまず自力仏教をすすめられた、
ということでしょうか。
29 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/13 19:51
>>27 >横超の金剛心を窮めた念仏の衆生は臨終一念の夕に仏覚にいたる正定聚之数
=51段ではないのですか。
なるほど。そう思っていらっしゃことは、何一つ支障ないことじゃないですか
。支障がありますか?。曇鸞大師が貴方の説にご賛成なさるかどうかは、別の問
題です。
>他力に如来の本願力以外の意味があるのでしょうか。
他力には如来の本願力以外の意味はないと思っていらっしゃることは、別によ
ろしいんじゃないですか?。他力は如来の本願力であるということは、曇鸞さん
も賛成されるでしょう。ただ、如来とは何か。本願力とは何かという定義論にな
ると、見解の相違が表面化する場面もあるかも知れませんね。
>>28 >発展仏教説からすれば、十地経と浄土経典は土俵違いのような気がするという
ことです。
両方とも仏教の大事な経典でしょ。十地経は華厳経典類の一つ。大無量寿経も
華厳の影響を受けてると思います。土俵違いと仰るなら、それはそれでよろしい
んじゃないでしょうか。
>他力よりもまず自力仏教をすすめられた、ということでしょうか。
他力・自力という概念は、曇鸞に始まるのでしょう。この辺は、仏教教理史を
勉強している方に正確に伺う必要がある。僕は自信がない。
曇鸞に始まるのなら、竜樹には他力・自力という言葉は出てこない。でも、世
親浄土教は竜樹浄土教を継承して発展させている。曇鸞浄土教は世親浄土教を継
承している。曇鸞浄土教の根本原理は竜樹浄土教にある。他力仏教は竜樹浄土教
に萌芽があると思ってもいいんでしょう。
>>29 私は親鸞さんの説は、「念仏の衆生は、他力の金剛心をきわめている故に
自力の金剛心をきわめた弥勒さんに等しく、
臨終一念の夕に仏覚にいたる正定聚=等覚=51段である」
と主張するのですがそれに関しては同意されますか?反対ですか?
<<24
<大乗段階に進むのは、小乗段階が終わってからです。小学校を終了し
<ないで中学・高校に進むことはできません。
難行道、易行道は竜樹先生からいわれはじめた
ということは同意されますか?
そして渡海さんのお説は「竜樹先生は易行道よりも難行道を優先しなさい、
と教えられた」と理解してよろしいでしょうか。
31 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/13 22:09
>>30 >それに関しては同意されますか?反対ですか?
正定聚=等覚=51段と味わい、噛みしめておられる親鸞さんの心に肯き、深
く同意し共鳴させて貰っています。
親鸞さんの立場と異なった立場もあるでしょう。親鸞さんの立場と異なった立
場にも共鳴させてもらうんですよ。ただ、親鸞さんの主張の場にはとても味わい
深いものがある。
>難行道、易行道は竜樹先生からいわれはじめたということは同意されますか?
竜樹菩薩は難行道、易行道という概念を立ている。それが大乗仏教史上、竜樹
菩薩が最初かどうかは、確認できない。僕は仏教教理史を勉強した経験はない。
在家の一人の親鸞ファンに過ぎないんだ。専門家ではない。
竜樹菩薩の難行道・易行道の定義と、曇鸞大師の難行道・易行道の定義とは違
う。両者の定義の違いは意識しておかないといけない。
>渡海さんのお説は「竜樹先生は易行道よりも難行道を優先しなさい、と教えら
れた」と理解してよろしいでしょうか。
僕はそのようなことを言った覚えはない。言うはずもない。
>>23
>不退転地を初地として主張されているのは、僕が知っている限りは親
>鸞聖人です。
と、
>>31
>正定聚=等覚=51段と味わい、噛みしめておられる親鸞さんの心に肯き、
>深く同意し共鳴させて貰っています。
この両者は矛盾しないのですか?
「不退転地を初地として主張されているのは、僕が知っている限りは親
鸞聖人です。」の根拠となる箇所はどこにありましたか?
33 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/16 20:35
>>32 :27 :02/09/13 23:25
>この両者は矛盾しないのですか?
矛盾しません。信の一念=不退転地=初地=正定聚=等覚=51段
=52段だからです。
>根拠となる箇所はどこにありましたか?
根拠?。そんなもん何だっていいんだけどね(苦笑)。言葉尻の語
呂合わせを追うよりも、親鸞さんの心に触れたいですね。
往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり(証
の巻)。
往相回向の心行=大乗正定聚
如来の本願の御名を信ずる人は、自然に不退の位に至らしむるを旨
とすべしと思えとなり。不退というは、仏に必ずなるべき身と定まる
位なり。これ即ち正定聚の位に至るを旨とすべしと、説き給える御法
なり(尊号真像銘文)。
信=不退の位=正定聚の位
34 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/16 20:36
信ずれば、即の時必定に入るとなり。必定に入るというは、誠に念
ずれば、必ず正定聚の位に定まるとなり。「是故我常念」というは、
われつねに念ずるなり(尊号真像銘文)。
信=入必定=正定聚=常念
出世間はこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、出世間
道と名づく。上は、妙なるがゆえに、名づけて上とす。入は、正しく
道を行ずるがゆえに、名づけて入とす。この心をもって初地に入るを
歓喜地と名づく、と(行の巻)。
念仏道に入る=出世間道に入る=歓喜地=初地
35 :
名無しさん@一周年:02/09/19 23:37
舎利子「どまいら!今日は釈迦の説法を聴きますが何か?」
富楼那「詳細きぼーん」
舎利子「摩訶迦葉降臨期待age」
摩訶迦葉「クレクレ厨uzeeeeee!!おまいらが先ず何かうpしろや」
富楼那「金波羅華うpしますた」
摩訶迦葉「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!」
富楼那「詳細キボンヌ」
摩訶迦葉「一本で足りるかヴォケ!もっとうpしる」
富楼那「氏ねDQN」
摩訶迦葉「煽り厨逝ってよし」
舎利子「オマエモナー」
摩訶迦葉「うるせー馬鹿」
須菩提「摩訶迦葉必死だな(w」
摩訶迦葉「↑=厨房
今からこのスレは「摩訶迦葉様のために金波羅華をうpするスレ」になりますた」
須菩提「2get」
迦旃延「ハァ?」
阿那律「盲目スレsage」
摩訶迦葉「名スレの予感」
阿難陀「↑(・∀・)ジサクジエンハケーン!!」
富楼那「ほれ、再うpしたぞ」
摩訶迦葉「微笑降臨!!!」
(実は優曇華の花)
摩訶迦葉「ブラクラ貼るなドキュソが」
富楼那「拈ってないのに気付かないお前が厨房( ´,_ゝ`)プッ」
舎利子「激しくワラタ」
優婆離「アヒャ笑いする摩訶迦葉がいるスレはここですか?」
舎利子「もう飽きたので-------------糸冬 了-------------」
摩訶迦葉「-------------再 開-------------」
迦旃延「↑(・∀・)ジサクジエンデシタ」
渡海さん、お返事遅れてすいません。
末灯抄17
御尋ね候ことは、弥陀他力の回向の誓願に値いたてまつりて、
真実の信心をたまわりて喜ぶ心の定まる時、摂取して捨てられ参らせざる故に、
金剛心になる時を、「正定聚の位に住す」とも申す、
「弥勒菩薩と同じ位になる」とも説かれて候めり。弥勒と一つ位になる故に、
信心まことなる人をば、「佛と等し」とも申す。
弥勒菩薩は等覚の金剛心=51段=「佛と等し」
念仏の衆生は他力の金剛心=正定聚=「弥勒菩薩と同じ位」=51段=「佛と等し」
が親鸞さんの主張であると思われます。
初地(41段)=51段=等覚となぜいえるのですか?
37 :
名無しさん@一周年:02/09/25 19:38
どっちが本当?
38 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/25 21:11
>初地(41段)=51段=等覚となぜいえるのですか?
親鸞の考え方は、親鸞の言葉を手がかりにしながらじっくり腰を落ち着けて
考え直さないと実体を見失います。
初地(41段)=51段=等覚となぜいえるのか。親鸞が言葉で表現してい
るところは一箇所です。紹介します。
「この経を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至ら
ざるべし。十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一つの応化道
ならくのみ、と。他方の浄土は、何ぞ必ずしもかくのごとくせん。五種の不思
議の中に、仏法最も不可思議なり。もし菩薩必ず一地より一地に至りて、超越
の理なしと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹あり、名づけて
好堅と曰う。この樹、 〜 」
39 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/25 21:12
この大無量寿経をもとに極楽浄土の菩薩について考えるなら、この場合も初
地から二地、二地から三地と、一段一段歩んでいかなければならないはずであ
る。ところが、いきなり一生補処に至るという。それはなぜなのか。華厳経は
十地の階段を語る。しかしこの十地の階段というのは、釈迦如来が今生の人々
に示した救済の一例に過ぎない。今生とは異なる極楽浄土までそのような道理
に縛られなければならないという理由はない。世の中には五つの不思議がある。
その中で仏法が最も不可思議な世界である。
大乗の菩薩は、初地から二地、二地から三地と、一段一段歩んでいかなけれ
ばならない。いきなり飛び越えていく道はない。話をこれだけで済ませてしま
えば、物事の詳細な道理がなかなかはっきりしてこない。それではいけない。
一段一段歩んでいくのではなく、一足飛びに到達する道もあるのだ。譬えで説
明しよう。好堅と言う(伝説上の)樹木がある。これは 〜
これは教行信証の証の巻から引用しました。親鸞が言葉で言っているのはこ
こだけです。「仏法最も不可思議なり」。これだけでは説明になりません。親
鸞の真意を探ってみましょう。親鸞の真意をさぐるには、やはりこの文から始
めないといけません。
親鸞が引用したこの文は、原典は論註にあります。親鸞の主張は、論註の著
者曇鸞と違っています。曇鸞と親鸞の主張の違いを考えながら親鸞独自の主張
を考えて行く必要があります。親鸞思想の核心に触れます。少し議論を続けて
みましょう。
40 :
名無しさん@1周年:02/09/26 17:54
>>39 ( ´,_ゝ`)プッ シネヨ ヒキコモリヲタ
42 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/26 21:05
親鸞と曇鸞とを比較した場合、「仏法最も不可思議なり」に込めた意味が大
きく違うようだ。「仏法最も不可思議なり」の意味は何か。「論より証拠。や
ってみれば分かるだろう」曇鸞にとってはそう意味なんだろう。
親鸞にとっては何か。「そういうものなんだからそう思えばいい」。恐らく
そういう意味になるんだろう。「そういうものなんだからそう思えばいい」。
親鸞にとってはそう意味だろう。ただし、こう言われて我々は、はいそうです
かとはならない。「そういうものなんだからそう思えばいい」とはどういう意
味か。「そういうものなんだからそう思えばいい」と言う心に込めた親鸞の真
意を考えていく必要がある。
曇鸞の考えは、骨太で単純明快な理屈のはずだ。曇鸞浄土教は、華厳思想批
判から生まれてきたものではないか。僕はそう思っている。華厳派で教育学を
学ぶ大乗の学生達は、初地、二地、三地と進級する。進級に従って別々の課題
を与えられる。段階によって異なる学習をしていたのではないだろうか。例え
ば、臨済禅では公案というものを与えられる。公案を一つ解くと次の公案を与
えられる。確か目標は10問位解くはずだ。10問解くと師家になる。おそら
くそういう発想に近いんじゃないか。
曹洞禅は必ずしも公案を使わない。公案は必須ではない。ただ座るだけだ。
昨日入門した人も二十年のベテランも一緒に座る。曇鸞浄土教は曹洞禅に近い
のではないか。曇鸞浄土教はカリキュラムを決めた。礼拝・讃歎・作願・観察
・回向を行う。特に礼拝・讃歎・作願・観察を徹底して行う。特に観察行を重
んじる。一年生も二年生も三年生も同じだ。繰り返し繰り返し行う。この学習
方法は極めて能率がいい。どんどん成長する。華厳流の教育プログラムより遙
かに優れている。「論より証拠。やってみれば分かる。説明は無用だ」。「仏
法最も不可思議なり」。曇鸞の確信はそういう意味のことを言っているんだろ
う。
「そういうものなんだからそう思えばいい」。次には本論の親鸞のこの考え
方を考えてみたい。
43 :
名無しさん@1周年:02/09/26 21:51
以下はコピペです。
1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
だそうです。
45 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/27 22:55
「仏法最も不可思議なり」
親鸞の思想は、議論の文脈が重要な役割を持っていると考える。「仏法最も不可
思議なり」。この議論はどこにある議論か。これは証の巻の議論であるということ
。これを認識する必要がある。証は二つある。往相の回向に係わる証と、還相の回
向に属する証がある。「仏法最も不可思議なり」という議論は、還相の回向に属す
る証の中の議論である。議論の位置をこのように特定する必要がある。
46 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/27 22:56
往相の回向とは何か。還相の回向とは何か。この意味がきちんと理解できないと
、「仏法最も不可思議なり」と言われてもその文脈が理解できない。議論はチンプ
ンカンプンになる。
往相の回向とは何か。還相の回向とは何か。親鸞は全く違う二つの意味を同じ言
葉で表している。このことに気付かないと、文脈の議論ができない。
「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相な
り。往相の回向について、真実の教行信証あり」。教の巻から引用したが、行巻・
信巻・証巻にも冒頭に「往相の回向」という言葉が出てくる。「往相の回向」とい
う言葉が出ていることに注目する。
もう一つある。「いかんが回向する。 一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に
作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえにとのたま
えり。回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳
をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめた
まえるなり、と」。
これは行の巻の論註の引用の末尾にある。「回向に二種の相あり、一つには往相
、二つには還相」。ここに「往相回向」という概念が出てくる。ここに注目する。
注目した二つの「往相回向」は、概念が同じなのか。違うのか。
47 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/27 22:59
証の巻は言う。「二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり
。すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。
また「還相回向の願」と名づくべきなり。『註論』に顕れたり。かるがゆえに願文
を出ださず。『論の註』を披くべし」。「還相の回向」という言葉が出てくる。こ
こに注目する。
先の引用をもう一度見る。「いかんが回向する。 一切苦悩の衆生を 〜 一つに
は往相、二つには還相なり。 〜 安楽浄土に往生せしめたまえるなり、と」。こ
こに還相回向という概念が出てくる。ここに注目する。
注目した二つの「還相回向」は、概念が同じなのか。違うのか。
往相回向・還相回向の語源は論註にある。論註では、回向門の解説部にある。曇
鸞の往相回向・還相回向に二つも三つも意味があるわけではない。しかし親鸞の往
相回向・還相回向には、曇鸞が考えてもいなかった概念を親鸞は追加している。結
論を言おう。「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つ
には還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり」。この場合の往相回向
とは、因という意味だ。還相回向とは、果という意味だ。還相は往相を因とし、往
相は還相を果とする。つまり、親鸞は浄土真宗を、因論としての浄土真宗と、果論
としての浄土真宗という、二つの柱で議論をしていると考えるべきなのだ。教・行
・信・証(一部)を因として考える。証(残部)を果として考えているのだ。
48 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/27 23:00
それでは、「いかんが回向する。 〜 回向に二種の相あり、一つには往相、二
つには還相なり。 〜 」。この場合の往相回向・還相回向とは何か。これは曇鸞
の本来の定義に近い概念だ。往相回向は、自らが真理を求める過程の中で行う教育
活動だ。還相回向は、真理を求め得たところで求め得た真理を背景にして行う教育
活動だ。古典的大乗仏教ではまさににおける核心的実践行為だ。
こういう概念で分類すると、親鸞思想は全体が見通せてくる。「仏法最も不可思議
なり」という議論は、因論と対立する浄土真宗の果論としての議論なのだ。因論・
果論という概念の枠組みから文脈を見直し、考えてみよう。
>>48 一生懸命書いてるけど、ここ見てるの君と僕だけだって!
ご苦労さん!
50 :
名無しさん@1周年:02/09/28 00:07
二つの相というからには一つの事柄の二つの相では?未証浄心の菩薩(念仏の凡夫)
に還相も往相もあらわれるのでは。
51 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/28 09:32
>>49 >一生懸命書いてる
そうそう。一生懸命に書いているよ。すぐに反応があるというのは
嬉しいものです。
>見てるの君と僕だけだって!
貴方が見てくだされば十分です。一人が二人になれば二倍になる。
二人が三人になれば一倍半になる。激増だ。
>ご苦労さん! <恐縮です。お労(いたわ)り戴く程の事はありません(笑)。>
52 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/28 09:33
>>50 >二つの相というからには一つの事柄の二つの相では?
浄土真宗という一つの事柄の因相を示す往相と、果相を示す還相、
この二つの相があります。
浄土真宗は真理を重んじ、それを中心に置きます。真理を擬人化
し、これを躍動的な人格で捉えます。真理に認められる回向という
人的行動性には因相と果相がある。これが親鸞の主張です。
教育実践回向という一つの事柄で、真理に正面を向く往相と、真
理を背景にした還相という二つの相。
大乗の菩薩は、礼拝・讃歎・作願・観察・回向の五念門を修行して
大乗の仏になります。多くの人々との共感的共有的享受を真理の認識
に実現します。これが大乗の悟りです。
回向は教育実践です。教育実践には、新米教員の実践と、ベテラン
教員の実践があります。本質が違います。新米教員は、真理を直視し、
真理に正面を向き、自分も勉強しながら行っていきます。往相です。
ベテラン教員は、要領が分かり、真理を背景に思う存分、創造的に行
っていきます。これが還相です。還相の教育実践は、往相の教育実践
が基礎になり、因相となり、その果相として生じます。
親鸞は、自分の思想の柱を示す重要なキーワードを、土俵の違う二
つの概念の表示に使っています。親鸞の時代、法然・親鸞仏教が置か
れていた特殊な事情によります。結果的にこれで教行信証が極端に難
解になっています。
53 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/28 09:34
>未証浄心の菩薩(念仏の凡夫)に還相も往相もあらわれるのでは。
未証浄心の菩薩には還相も往相もあらわれます(証の巻)。未証浄心
の菩薩(念仏の凡夫)には、なぜ還相も往相もあらわれるのか?。未証
浄心の菩薩に還相も往相もなぜあらわれるのかということを、今議論し
ています。なぜ還相も往相もあらわれるのか、貴方にはその理由が分か
りますか?。
「なぜ言えるのかその理由が分かりますか?」という問いの背景には、
「本来ならば言えないではないか」という、暗黙の価値観があるわけで
す。「本来ならば言えないではないか」。こういう価値観がある。こう
いう価値観がなぜ出るのか。出る余地があるのか?。貴方に分かります
か?。
未証浄心の菩薩(念仏の凡夫)に還相が現れる・現れない、往相が現
れる・現れないという議論、これがどういう文脈で出る議論かお分かり
ですか?。未証浄心の菩薩ってなんですか?還相って何?。往相って何
?。貴方にそれが分かっていますか。でも、いまこの議論に踏み込むと
藪の中で迷路に迷う。
親鸞仏教は、議論の文脈の整理が思想理解の鍵になります。今は、往
相・還相の概略を申し上げました。往相・還相にはそれぞれ、意味の違
う二つの概念があると申し上げた段階です。
「そういうものだからそういうものなのだ」。「そういう風に思え。
ああ、ありがたや、ありがたや」。文脈を無視してこういう議論で話を
終わらせるのが、坊様シャーマニズムのチンプンカンプン共同幻想仏教
だ。そう言って私は日本土着のシャーマニズム仏教を批判してきていま
す。「そういうものだからそういうものなのだ」で終わらせるから、浄
土真宗は数百年間、親鸞の教えに墨を塗り、取り返しの付かない欠陥を
教義の中に取り込んできた。私はそう批判しているのです。
親鸞の真意を真正面で考えよう。これが渡海 難の主張です。今は親
鸞仏教の文脈整理を行っています。
54 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/28 09:38
続きは2,3日後になります。
>>53 すみません、実はそんなに分かってません。本願が自分を救う、これを信じて
(感覚的、盲目的でしょうけど)行くしかないなとは思ってます。
なぜ自分の往生だけを願うことが他人を利することができるのか?このへんは
思考を停止して(考えないわけではないですよ)それが事実として自分を見ていく
事によって今まで見えなかったものが見えてくることを大切にしてます。
未証浄心である凡夫が浄土を願う時、自分の思いには無いものが他人には見える
その他人が見たものがそれをみた人に与える影響では?などと考えています。
逆に聞きますが本願を信じて念仏を唱えてもその仕組みを知らなければ回向では
ないとお考えですか?
56 :
名無しさん@1周年:02/09/28 22:10
>>55 ここの41のリンク先みた?
渡膿の正体が分かると思うけど、、、
>>56 ごめん、実は僕も尾奈にストなので大丈夫です(´+
此のスレは親鸞に限らなくてもいいのでは?
親鸞マンセー多過ぎ。
59 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/30 17:29
>>55 :50
>行くしかないなとは思ってます。 <なるほど。>
>見えてくることを大切にしてます。 <なるほど。>
>などと考えています。 <なるほど。>
>本願を信じて念仏を唱えてもその仕組みを知らなければ回向ではないとお考えですか?
本願・念仏を唱える・その仕組み・ 回向。
重要なキーワードで、貴方と共通の定義概念を共有できているという感じが僕にはあ
りません。定義概念を共有してないところで、YES・NOの返事を表示しても意味が
ない。同床異夢のすれ違いになるだけだ。
各キーワードの貴方における定義概念をはっきりさせてくれれば、応える気になるか
もしれません。
親鸞思想の独創性は、親鸞独特の因果論にあると考える。因果というのは、仏教の心
臓部にある思想であり、因果を否定する思想は仏教ではない。その仏教で、親鸞は因果
の思想そのものに手を加えている。親鸞の思想はこの瞬間に仏教の枠を外れた。こうい
う主張もあながち僕は無視できない。親鸞は禁断の園に足を踏み込んでいる。親鸞の思
想批判の突破口があるとしたら、まさにこの修正因果論だろう。しかし、ここには万人
を納得させうる合理性があると僕は思う。
親鸞独特の因果論とは何か。僕は「一段階半因果論」と名づけたい。親鸞は、第一の
因に対応させて第一の果を考える。第一の因と第一の果を包括し、包括したその全体を
改めて因とし、それに対応する果を考えている。親鸞は、一段階半因果論から前人未踏
の二段階往生論を導く。「仏法最も不可思議なり」という言葉は、果の果を議論する文
脈での議論だ。果の果を議論する文脈にあるということが大事な点だ。二段階目の往生
の話なのだ。
親鸞は従来の因果論を否定するものではない。しかし、従来の因果論で説明できない
事象が生じたとき、独自の修正を行いいわば拡大的因果論を提唱する。親鸞の拡大的修
正因果論の実体は、従来の因果論をベースに考えていかないと迷路に迷う。
60 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/09/30 17:30
>>58 >此のスレは親鸞に限らなくてもいいのでは?
自力と他力を親鸞さんほど精密に詳細に合理的に説明し直した先人を僕は知らない。
知恵の深い人にとっては当たり前のことも、知恵の浅い人には分かりにくいものだ。法
然さんにとっては当たり前過ぎて説明不要なことも、僕らは説明して貰わないと分から
ないことが多い。親鸞さんは、僕らの無意識下の疑問点まで洗いざらい掘り起こし、詳
細に説明してくれている。
58さんよ。可能なら、親鸞さんを外したところで、我々凡人が分かるように自力と他
力について説明してみてください。貴方が、法然さんや親鸞さんほどの知恵者なら可能
だろうと僕は思うよ。
61 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/10/02 20:06
従来の因果論とはどういうものだったのか。教・行・証あるいは教・学・解など
という構造で主張されてきたものだろう。教が説く通りに行動し(因)、教が説く
通りの証(果)を得る。教を学び(因)、それによって教が語る真実を理解する(
果)。この考えは学び方で日本の文化に多大の影響を残す。華道・茶道・武道・書
道等々、いずれも仏教の影響を無視できない。日本の文化の本質は道であり、道の
思想は仏教に由来する。道思想は型を尊重する。人々は、先人の型をなぞることで
先人の心を体得する。仏教が教えている教・行・証の考えは、現代においても極め
て重要な教育学習論だ。
親鸞はこの重要な教育学習論に対して異議を唱え、その修正を提唱する。教・行
・証の学習論では何がいけないのか。親鸞にとって大事なのは華道ではない。茶道
ではない。武道ではない。書道ではない。教育者になるということ。教育者を育て
るということ。教育者を育てる方法論で仏教本来のテーマを考えたとき、教・行・
証は時代遅れではないか。親鸞はそう考えたようだ。
62 :
渡海 難 ◆0AE5SZ4. :02/10/02 20:07
釈迦は、教・行・証の学習に戒・定・恵という三本の柱を立てている。戒は、釈
迦の時代のインドに発する。戒は価値観である。価値観が変われば、古い戒は役に
立たなくなる。三本柱の一角が崩れれば、従来の教育論はその力を失う。親鸞はそ
う考える。これが末法論だ。末法の世は、教は残るが行がない。なぜなら、教を行
じる行そのもは、戒を前提にした定と恵だからだ。恵は、有形的に表された真理で
ある。経典・絵画・彫刻などで伝えられている。定とは有形化できない真理を学ぶ
手法だ。仏教は、有形化できる真理と有形化できない真理に分け、有形化できる真
理は知恵として残している。有形化できない真理も、仏教は誰でも容易に手が届く
ところに置いた。それが定だ。教行証の行は戒を守りながら定・恵を学ぶことだ。
戒のないところでは、定・恵はない。仏教のルールを守らない者は、定・恵を学ぶ
資格はない。学ぶ資格の無い者がいくら定・恵を学んでも、教育者となって人々を
教え導くことはできないだろう。親鸞はそう考える。
戒・定・恵という三本の柱で成り立つ教育論には寿命がある。正法の時代に始ま
り、それは像法の時代で終わる。像法の時代を過ぎて末法に入れば、教・行・証の
学習システムも時代遅れじゃないか。親鸞はそう考えたようだ。
教育手法に寿命があるというのはおかしな話だ。寿命があるというのは生老病死
するということだ。生老病死があるものは無明を因とする。釈迦の教えは無明を因
としたものだったのか。もし、無明を因としたものであれば、釈迦の認識は真理を
悟ったものではなかったということにならないか。無明を根元としたものだったと
いう仮説は正しいのだろうか。結局、親鸞は、価値観に左右される戒を外した教育
論を探す。親鸞は、戒を外してもなお有効な行法として念仏を挙げる。教・行・信
・証という骨格を提唱し、念仏を真実の行と呼ぶ。親鸞は因果の理法を修正する。
63 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/03 22:33
僕は教行信証を読むとき、僕はある種の違和感を感じる。それは、論証方法の違
いである。現代の僕らが実質的根拠と考えるものは、鎌倉時代の賢人には形式的根
拠となるようだ。現代の僕らが形式的根拠根拠と考えるものが、鎌倉時代の賢人に
は実質的根拠となるようだ。鎌倉時代の賢人にも、実質的根拠と形式的根拠が必要
でその両方を提示してくれているから、最終結論に隔たりはない。しかし、そこに
行き着くまでの論証過程には、現代の僕らには分かりにくさがある。
僕らは、明治以来日本に輸入された西洋的思考方法に慣れている。僕らの思考プ
ロセスは恐らく、アリストテレス、ソクラテスなどに発するのだろう。キリスト教、
ギリシャ哲学、ローマ法が西洋文明の基礎だそうだ。論証方法での僕らが感じる違
和感は、ギリシャに発する論証方法と、インドに発する論証方法の考え方の違いに
あるんじゃないか。法然・親鸞などは無論、アリストテレスもソクラテスも知らな
い。鎌倉時代の賢人と僕らとでは、論証過程が正反対になっている。そう分かれば、
そのつもりで論証過程を逆転させればいい。
親鸞はなぜ念仏を選んだのか。親鸞が傍証的に主張している根拠こそ、西洋的思
考方法に慣れている僕らにとっては実質的根拠となるだろう。僕らは、自分たちに
慣れている思考プロセスで考えた方が分かりやすい。ヒントは化身土巻にある。
我々にとって一体何が大事なのか。それは、現実の我々自身が幸福になっていく
ことだろう。釈迦は何を望んでいたか。それは、文字通り多くの人々が現実に幸福
になることだろう。我々自身が幸福なることを望んで釈迦は自らを修行に身を投げ、
法を説いてくれたのだろう。幸福とはなにか。幸福になるとはどういうことか。化
身土巻から読んでみたい。
64 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/04 18:45
議論の筋道が読めなくなってきている方もいると思うので、化身土巻を読む前に
議論の筋道を整理してみる。「初地(41段)=51段=等覚となぜいえるのです
か?」。この議論は、この問いに答えているものだ。親鸞思想全体を鳥瞰する格好
の議論である。「なぜ言えるのですか」という質問の裏には、「初地(41段)≠
51段≠等覚≠初地」という思想が存在する。非同一というのは仏教特に大乗仏教
の基本的考えなのである。
これに対して一つの結論を提示してある。親鸞は、従来仏教の因果論を修正して
いる。親鸞以前の伝統的因果論に縛られない。この点は抑えないといけない。親鸞
の因果論は、従来の因果論の拡大的修正因果論と言うべきものである。「初地(4
1段)=51段=等覚」は、拡大的修正因果論中、果を論じる文脈の議論である。
拡大的修正因果論は、第一の因に対して第一の果を考える。第一の因と第一の果
を包括し、その全体を改めて因と考え、それに対する第二の果を仮想する。初地
(41段)=51段=等覚」はこのような一段階半という複雑な因果論の中の第二
の果で考えられている議論なのだ。
65 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/04 18:47
拡大的修正因果論とは何か。実体を見きわめる必要がある。実体を見きわめるに
は二つの視点が必要だ。従来の因果論を一段階因果論と呼べば、その一段階因果論
には修正する必要性があったということ。修正した結果には妥当性があるというこ
と。この二つである。拡大的修正因果論を提唱するには、修正の原因論としての必
要性と、修正の結果論としての妥当性について正当性が必要だ。妥当性ということ
では、仏教では実はもう一つ議論が必要だ。それは、人的資格論だ。善導なら要件
を満たす。最澄あるいは法然ならその要件を満たす。しかし、親鸞は欠いてるでは
ないか。そういう問題がある。これは最後に問題提起として改めて議論したい。
従来の一段階因果論には修正する必要性があった。ここまでは話が終わっている。
いまは、妥当性の検討に入っている。妥当性は実質的妥当性と形式的妥当性で考え
る。実質論と形式論を考えた場合、インド哲学の影響を受ける親鸞と、西洋哲学の
影響を受ける我々とでは、主客が転倒している。主客が転倒している以上、議論の
順序を変える必要がある。親鸞が形式論と考えている議論を実質論とし、親鸞が実
質論と考えている議論を形式論として議論する。実質論と形式論とは心理的な比重
が違うだけで、両方に妥当性が満たされれば結論は一致する。
実質論と形式論で修正因果論の妥当性が分かれば、人的資格論を残して修正因果
論の合理性も見えてくる。修正因果論の合理性が分かれば、親鸞が果を論じる文脈
で「初地(41段)=51段=等覚」を議論している理由も見えてくる。親鸞の真
意も分かってくるだろう。人的資格論の議論が残るだけとなる。(続く)
誠に残念ですが、このスレは渡海難専用のオナニースレになりました。
よって、このスレは終了します。短い間でしたがありがとうございました。
===============終了===============
67 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/05 10:20
>>66 なるほど。66は、こういう話に波長が合わない呪(まじな)いセンズリ
坊主だな(苦笑)。
27さん。貴方はまだ見てますか?。議論について来れてますか。あなた
からの質問に答えているつもりです。議論はまだ上り坂です。他力とか還相
回向という話は、親鸞思想の中核にあり、議論としてはかなり難しい内容で
す。呪い僧に理解できる内容ではありません。
僕はこれまで幾度と無く、次のように言ってきました。
誰でもいい。貴方が好きなものに勝手に「阿弥陀仏」とあだ名を付け、あ
だ名を付けた対象を嘘っこで「阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念じてみなさい。
「先生、ああ先生」と嘘っこで呼ぶつもりで、誰にも見つからないところで、
相手に発見されないところで 「阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念じてみなさ
い。背筋を延ばし、呼吸を整え、ひと声ひと声「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀
仏」とただ念じてみなさい。まる一日、二日、三日、四、五、六、七日と称
えていけば、きっと素晴らしい世界が開かれてくるでしょう。
68 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/05 10:22
幾度と無く以上のように言ってきました。親鸞の提唱も、結論はこれで全
部だと思っています。他力とか還相回向という話は、上記の提唱を長々と説
明する中の話題の一つに過ぎません。「かくかくしかじかなんだから念仏を
称えたらいかがですか」というアドバイスになり、「かくかくしかじか」の
ところが、長い長い説明になっているわけです。結論が目指す目標は、上記
の提唱そのものだと思っています。
初地(41段)=51段=等覚となぜいえるのか。「 〜 となぜいえる
のか」は、「かくかくしかじか」の長い長い説明のさらにさらにごく一部で
す。「初地=等覚だから念仏を称えたらいかがですか?」。「初地=等覚と
なぜいえるのか」。「仏法最も不可思議なり」。親鸞はそういう。「なぜな
ら、不可思議なんだよ」。「そういうものなんだからそう思えばいい」。親
鸞さえ説明を投げてます。その部分を、更に考えていこうとしています。か
なり難しい議論です。
他力とか還相回向という議論は難しい議論です。親鸞でさえ説明を投げ出
しています。27さん。親鸞でさえ説明を投げ出してる議論は、分からなく
て誰も困ることはないでしょう。嘘っこでいいから「阿弥陀仏、南無阿弥陀
仏」と念じてみなさい。座禅して念仏申すべし。これが全てです。
「そういうものなんだからそう思えばいい」といっているところを、「何
故だ!!。理由を言え」。こう問いただしているわけですから、議論に食い
ついてこれる人がこのスレに登場するまで僕は休止しても構いません。
27さん。あるいはその他の方からの御意見を待ちます。
66さんよ。こういうことで満足かな?。
69 :
名無しさん@1周年:02/10/05 16:58
難しい議論だっちゃ。
70 :
名無しさん@1周年:02/10/06 12:02
自力と他力は相反するものですか。
71 :
名無しさん@1周年:02/10/06 12:43
共存するものです。
72 :
名無しさん@1周年:02/10/06 21:53
自力なくして他力なし
他力なくして自力なし
>>60 以前に電波氏がのたまわってたことだが
渡海は西山系の教義にも目を通すべきじゃないかな?
あれは親鸞と通じる点がいくつかあたよ。
独特の解釈をしてる点もあるけど。
二人にはつながりがあたんじゃないかという説もあるし。
座禅する人には有利な主張もあた気がするよ。
漏れはちなみに鎮西義。
74 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/08 08:37
70 自力と他力は相反するものですか。
71 (自力と他力は)共存するものです。
72 自力なくして他力なし 他力なくして自力なし
自力とは何か。他力とはないか。定義概念が異なれば結論は千変万化する。
同床異夢の中で結論の帳尻を比べても意味がない。
75 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/08 08:40
73
>西山系の教義にも目を通すべきじゃないかな? 〜 座禅する人には有利な
主張もあた気がするよ。
そういうことは、仏教学の研究テーマを探している若手研究者に教えてやっ
てくれ。僕に言ってくれることは別に構わんが、多少お門違いだろう。今更動
くような僕じゃない。
ま、僕なんかは、仏教学の専門家にならなければならなかった器かも知れな
い。学者になって仏教学をやることは、とんでもなく間違ったことだ。僕は昔、
そう言われたものだ。「お前は学者になりたいのか」と言って眉を顰(ひそ)
められたものだ。学者になるということは恥ずかしいこと。眉を顰(ひそ)め
るようなこと。そう教えられたよ。仏教は信心が大事なんであって、学者にな
って仏教学なんかをやることは、罪悪みたいに僕は坊さんから言われた。それ
でいて、信心を得るには一生かかるとも言われた(苦笑)。尊敬する坊さんか
らそう言われれば、何も知らない真剣な青年は信じるものだ。昔の僕も、精神
構造としては親鸞会の学生達と大差はなかった。接触した相手が高森さんか高
森さんではなかったかの違いに過ぎない。馬鹿な話を僕は真に受けていた。今
は自分に苦笑している。
信心というものがそれほど大事なものなら、さっさと相手に洗いざらい明ら
かにしなさいよ。今なら僕はそう言いたいね。もう遅いけどね(苦笑)。仏法
会と言う看板を出すなら、1,2回の中で洗いざらい参加者に伝えちゃわない
でどうするんだ。何を隠す必要があるんだ、と。僕は法座に十年通ったが、人
生の重要な節々で一度としてそれがクソの役に立つこともなかった。聴聞者に
肝心要の信心を明らかにできない坊主は、仏法に似せた無駄話なんか語る資格
はおよそない。
お前は学者になるな。信心に賭けろ。仏法会に来る若者にそう説くなら、半
年以上の時間をかけるな。月一回の仏法会なら、参加者に対してふた月み月で
死にものぐるいで坊主は勝負に挑め。四、五カ月目には卒業させろ。一生使え
る信心を与えてやって卒業させろ。寺には二度と戻ってくるなと言って卒業さ
せろ。聴聞に一生かけろなどと言うのは、狂い沙汰だ。
76 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/08 08:41
仏教学・宗教学をバカにする坊主は最低だと僕は思う。学問の重要性の分か
らない坊主は、坊主の資格がない。仏教に興味がある青年なら、専門家になっ
て学者として仏教学に一生を捧げることは素晴らしいことだ。仏教学・宗教学
を堂々と若者に勧められない坊主は坊主の資格がない。仏教学・宗教学は、生
涯を捧げて研究するに値する。アマチュアが中途半端に片手間で首を突っ込む
ものじゃない。学者になって仏教学・宗教学をやることは恥ずかしいことのよ
うに言うことは、とんでもなく間違った考えだ。今になって僕はそう思う(笑)。
仏教界はまことに人材がいない。仏教界は、次の時代を担う後継者を、必死
になって育てる土壌がないようだ。詐欺師がインチキ宗教を開いてインチキ教
義をばらまいても、日本の学者は借りてきた猫のように沈黙する。詐欺師の教
義の提灯論文を書いてるアホもいた。騙されてインチキ宗教に入信した被害者
信者の方が、税金を投入して運営している大学の学者・学生より、仏教に対す
る造詣が深いという情けない状況もありそうだ。学問界に人材が集まらん。借
りてきた猫の巣となってるようだ。
後継者を必死になって育てようとする気概のある人を、先人達が育ててこな
かった。必死になって育てようとすることは自力で間違ったことだとでも思っ
ているんだろうか(笑)。
「西山系の教義にも目を通すべきじゃないか」。「しっかり勉強しなさい
よ」。こういうことは、20年後,30年後の仏教を担うような人に、是非言
ってやってくださいな。こういうことは、親鸞以外には知らない僕などは言え
ないことだ。言える人が真剣に語りかけてやってくださいな。真剣に語りかけ
れば、意識のある若者にはきっと心が通じるだろう。僕の場合は、そんなこと
言って貰うような時期は、とっくに過ぎている。30年遅かったな(笑)。
仏教学をやることは恥ずべきことのように思ってる坊主がいれば、教団から
一掃することだ。それは将来の仏教を考える上で大事なことだ。教団が今後も
存続して欲しいと思うなら、将来を担う器の若者を確実に確保し、三十年、五
十年、百年かけてじっくり育てる体制を、教団は一日も早く作りなさい。浄土
宗教団も真宗教団も同じだ。僕はそう申し上げたい。
>>75>>76 (笑)
要は見ませんということですか。
証空と親鸞と言う二人は宇都宮つながりも含め
アヤシイ関係だと拙僧はおもっとるのですが、
煩雑な生活ゆえ手を出せずにいるのでげす(w
西山義は一度は天下を取った教義だけにその内容に
ある程度興味があるんですよ。
教団の体制的なことは、見えてる人には判ってる
事なのですが・・・
仏教界にとっての末世なんですかねぇ。
78 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/08 19:50
>>77 >要は見ませんということですか。
話は相手を見据えてするもんでしょう。「見ません」ということではありま
せん。貴方のご提案は、いささか差し出がましい失礼なご提案ではないでしょ
うかということです。
>証空と親鸞と言う二人は宇都宮つながりも含めアヤシイ関係だと拙僧はおも
っとるのですが、
証空と親鸞との関係などは、坊さんだったら貴方の専門分野でしょう。アヤ
シイ関係だと思えば、何をおいてもあなたこそ真剣に取り組んで研究したらど
うですか。それがプロの気構えというものじゃないですか?。煩雑な生活なら
手を出さなくていいとはのんきな話だ。気になることを勉強しないで、あなた
はお檀家にどんな話をなさっておるんですか?。煩雑な生活をしているので、
とくに言うこともありませんとでも言うのですか?。
アンタ<渡海>は専門外のことをもっと勉強しなさい。自分<77>たち専門
家は煩雑な生活をしているんだ。証空と親鸞との関係なんかは勉強する暇もな
い。ああ、忙しい忙しい。
専門家が自分の専門分野のことを、忙しさを理由にほったらかしてどうする
んですか?。ま、平均的な坊さんの気構えなんでしょう。相手<渡海>を何だ
と思っているんだか。プロなき仏教界の能天気な道楽坊主だと批判されたら、
返す言葉がありますか?。
79 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/10/08 19:51
>煩雑な生活ゆえ手を出せずにいるのでげす(w
一度は天下を取った教義で興味があっても、煩雑な生活なら坊主はほったら
かしておいてもいいのか?。専門外の僕に研究させたい?。プロのあなただっ
てやらないことで、アマチュアの僕に何を研究さたいんですか?。貴方の仕事
は何ですか?。宗祖は草場の陰で泣いておることでしょう。
>教団の体制的なことは、見えてる人には判ってる事なのですが・・・
教団の体制的なことは見えていても、貴方は自分の体制的なことが見えてな
いんでしょう。
>仏教界にとっての末世なんですかねぇ。 <貴方の末世なんでしょう。>
80 :
こお ◆KBN.pAY/OY :02/10/13 16:31
20歳頃は自力だった・・・。
30になって「個」「人間」の限界を知り、他力となった。
タオに身をゆだね、日々精進していく。
これが今の生き方だ。
81 :
名無しさん@1周年:02/10/14 00:36
マオツァントウ タオシャンピン リーチピンフドラドラ
83 :
名無しさん@1周年:02/10/18 17:02
禅。
84 :
名無しさん@1周年:02/10/18 17:03
85 :
名無しさん@1周年:02/10/29 17:47
http://www.web-arita.com/sui1210b.html 10月28日(月)25日に行われたキム・ヘギョンさんのインタビューは、23日の
北朝鮮外務省アジア局の朴龍淵副局長(日本担当)の会見(フジテレビ、朝日新聞)
とセットになっている。朴副局長は、そこで拉致問題は「できる限りのことはすべ
てやった」「拉致事件の目的と経緯など全貌をすべて解明した」と断言した。これ
が北朝鮮の見解だ。横田めぐみさんの娘と祖父母が会うことに、北朝鮮は「何の制
限措置もとっていない」とも語っている。それが実現しないのは「拉致議員連盟か
どこかで戦術的に(横田夫妻が)行くとか行かないとかということに問題があるの
ではないか」というのだ。日本側に問題があることを浮き彫りにする目的を持った
のが、キム・ヘギョンさんへのインタビューだった。それに丸ごと乗ってしまった
フジテレビなどの無批判性は、歴史の記憶に留めておくべきだ。
かわいそうの一語で隅に置きしかど拉致の報道心胆寒し
これは朝日歌壇に載った堀田たかえさんの作品(10月14日)である。「心胆寒し」
の嘆きはいつまで続くのか。北朝鮮はさらに「驚くべき」〈事実〉を出してくるは
ずだ。
86 :
名無しさん@1周年:02/11/03 18:22
b
87 :
名無しさん@1周年:02/11/15 23:33
age .
88 :
名無しさん@1周年:02/11/16 00:20
age
89 :
名無しさん@1周年:02/11/18 18:34
横田めぐみさんについての新情報がでたよね。
事実かどうかは不明だけど期待したいものだ。
90 :
名無しさん@1周年:02/11/18 18:46
10台前半は自力だったけど、セクースはやはり他力が一番だと
悟って以来「他力」の虜になっております。
たまーに、AV見て自力にも没頭しますが(藁)
91 :
名無しさん@1周年:02/11/25 17:49
漏れもセクースは他力本願
92 :
名無しさん@1周年:02/11/25 17:53
他力だよね他力
「これを激しく襲う者」が云々という意味なら、自力かもナー。
「彼方から到来する」という意味でなら、他力かもナー。
94 :
名無しさん@1周年:02/11/30 06:57
>渡海さん、全部読めないです。途中で挫折します。
往相還相を因果論にすると、哲学としての宗教学です。信心できない学者ですか?
○○和讃
往相の回向と説くことは弥陀の方便と聞いたり。
悲願の心行、得しむれば、生死すなわち涅槃なり。
わかりました?往くから還ってくるのです。
真宗初心者より
95 :
警告者その1:02/11/30 07:45
渡海 難 に警告
信心は学問によって得られません。
○○○注
心に自ら解し・・・皆誹謗正法となづく
いまのままでは、無間地獄行きです。
信心を探求しなさい。
仏教学門を勧めないお坊さんは偉い。
96 :
名無しさん@1周年:02/12/09 18:44
10台前半は自力だったけど、セクースはやはり他力が一番だと
悟って以来「他力」の虜になっております。
たまーに、AV見て自力にも没頭しますが(藁)
97 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/12/11 17:40
>>94 >わかりました?往くから還ってくるのです。
あんたは乳母と一緒にブランコにでも乗ってればいい。往けば還ってくるでしょう
(笑)。
>真宗初心者より
<初心者なら一人で和讃を読むのをよしんさい。親鸞さんががっかりするよ。>
>>95 >信心は学問によって得られません。
一向宗・浄土真宗は、信心のある人など数百年間、事実上一人も育てて来れなかっ
たという現実が全てを語っている。宗祖の言葉に泥を塗り、教行信証に墨を塗ってくれ
ば、育つ人材を殺してしまう。
>いまのままでは、無間地獄行きです。
死んだ先は無間地獄だろうがどこだろうが構わんさ。どこでも喜んで行くよ。生き
てる限り、僕は念仏を称え続けるだけだ。
死んだら無間地獄に行くかも知れんが、生きている間お釈迦さんは、僕を仏道修行者
として認めてくれる。自分の仲間だ。釈迦の仲間だ。妙好人だ。上上人だ。弥勒君と同
じだ、と、生きてる限りぼくのことを目を細めて喜んでくれる。それ以上、何が必要な
んですか?。それで地獄に堕ちれば本望だ。
>仏教学門を勧めないお坊さんは偉い。
<浄土真宗の坊主は、ノータリンで十分に勤まるということだろう(笑)。>
98 :
名無しさん@1周年:02/12/27 23:28
「一文不知の愚鈍」渡海氏はそれを実践しているわけだ。で、age。
99 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/12/28 10:50
>「一文不知の愚鈍」渡海氏はそれを実践しているわけだ。
実践は仏さんがしっかりやってくださるから、愚鈍の渡海はお任せするだけです。
100 :
名無しさん@1周年:02/12/28 11:09
>愚鈍の渡海はお任せするだけです。
口だけじゃ駄目だぞ。
101 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :02/12/28 20:31
>>100 >口だけじゃ駄目だぞ。
はて? 駄目? はて?。 何か、…?。ぁ…あ?。
貴方は僕に何を期待しているんですか?。100が自分(100)自身に勝手に描いた理想
の自画像を、教科書のように僕に演じて見せてくれと、勝手なことを言っているのか?。(笑)
ま、話にならんざれごとだろう。相手をすれば、100に相手した僕の方が笑われる(笑)。
102 :
名無しさん@1周年:02/12/29 09:25
>>101 >100に相手した僕の方が笑われる。
愚鈍なら笑われても平気だろ。
103 :
名無しさん@1周年:03/01/02 23:53
で、結局現在生きている人々にとっては、聖道門と淨土門どちらが必要ですか?
いろいろ環境、文化等違うので難しいでしょうが
トータル的にどちらがウケソウでしょうか?
104 :
名無しさん@1周年:03/01/03 14:15
自他力本願
これ最強
これ最高
自力サラリーマンは行き詰ると自殺するわけだが・・・
自殺した自力サラリーマンの遺族が、僅かながらの金額だと言って恐縮しなが
ら、保険金の一部を親鸞様へと言って布施してくれたお金を、生かして使える他力
坊主は何人おるやら。
2茶には一人もおらんようだな。他力坊主は所詮能書きだけだ(涙)。
107 :
名無しさん@1周年:03/01/04 23:02
108 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/05 16:18
>少なくとも渡海難には無理だろう。
ウン。まぁ。お布施を受けるなんてことは、僕は考えたこともない。坊さんじゃない
からね。
仮にぼくが専業の坊さんだったらどうするかな。多分、別会計の入金ボックスを作っ
ておくと思うよ。道義的においそれと使えないお布施を蓄えておく入金箱と、簡単に使
っていいという分けじゃないだろうけど、生活費には使わせて貰えるお布施を蓄えてお
く入金箱と、多少遊興に使わせて貰っても良心が咎めないお金を蓄えておく入金箱と、
この三種類ぐらいを作っておくと思う。
道義的においそれとは使えないお布施は、自分が見合うような事業でもしていてそれ
に使って良心が咎めないと思えば、自分の事業で使わせて貰う。そうでなければ、公共
義捐金などに優先的に使わせて貰う。いくら親鸞様のためと言われても、お布施を貰う
ときは、坊さんは一応用途を相手に約束すべきじゃないだろうか?。
お布施を戴くことが心苦しいという場合には、相手にハッキリそう伝えるべきだろう
ね。それでも相手が置いていけば、本山を通すか通さないかは別にして、社会的弱者の
為に使わせて貰うということを伝えるべきだろう。
どういうやりくりで捻出してくれたか分からないようなお布施は、少なくとも一部は
血を吐くような思いで捻出してくれていると思い、少なくとも一部は別会計の入金ボッ
クスに入れるべきだろう。一割か二割かは知らないがね。
お仏飯というのは本来はそういう趣旨だったんじゃないか。腹を空かした旅人が一口
の食を求めてやってくれば、何は無くても一口のご飯は提供しよう。そのため、昔の人
は、突然の来訪者のためにお仏飯を毎日用意していた。昔は冷蔵庫もないから、虫除け
のために線香を焚いた。腹を空かした旅人などは、仏様あるいは弘法大師として迎えた
んだろう。
困っている人がいれば、迅速に対応できる準備金というものを、お寺は用意しておい
ても罰は当たらんだろう。ま、このくらい、あるいはこれ以上の用意工夫をしているお
寺の方は、2茶にもいらっしゃったかも知れませんね。
2茶には一人もおらんといった106は、言い過ぎでした。失礼。 m(__)m
109 :
名無しさん@1周年:03/01/06 12:42
HPなんかで寄付を募集しておきながら、
収支報告もしていない香具師は多いよな。
110 :
名無しさん@1周年:03/01/06 15:37
すぐムキになる渡海の我の強さを見れば他力の信心など得ていないことは明らかだな。まあ、漏れも他人のことは言えた義理ではないが。
111 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/06 19:45
>>109 >HPなんかで寄付を募集しておきながら、収支報告もしていない香具師は多いよな。
収支報告は収支があって始めてするもんなんだ。報告するほどの収支も無ければ
できないだろう。
そういえば、お袋の法事のとき、寺に布施の領収書を求めたら、坊守さんから怒
られたよ。あれは業界でどうなってるんだい?。
>>110 >すぐムキになる渡海の我の強さを見れば他力の信心など得ていない
我が弱ければ他力の信心があると110は思うのか?。典型的な外道の考えだな。
我の強さも、我の弱さも信心じゃない。弱いも強いもその人の性格、人間的な器量さ。
月は、沼にも、池にも、浄水池にも姿を映してくださる。どこの水は汚いから嫌とか、
どこの水ならきれいだからいいなんて言わない。きれいにうつるかどうかは、水の濁り
による。
仏さんは、我の弱い器にも、僕のような我の強い器にも、平等に信心の姿を宿してく
ださる。ありがたいことじゃありませんか。
>まあ、漏れも他人のことは言えた義理ではないが。
いやいや、貴方もきっと捨てた物じゃない。捨てる神あれば拾う神あり。捨てられた
貴方も、いつか誰かが拾ってくださる。きっと貴方にも幸せが来る。南無阿弥陀仏。
112 :
名無しさん@1周年:03/01/11 20:27
>>97 >一向宗・浄土真宗は、信心のある人など数百年間、事実上一人も育てて来れなかっ
たという現実が全てを語っている。
あなたは多くの妙香人たち、たとえば浅原才市、おかる、庄松などは
すべて信を獲ていないとする立場ですか?
113 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/12 09:37
>すべて信を獲ていないとする立場ですか?
難信の法ですからね。
所楽多聞にして、また不具足なり。いかなるをか名づけて「聞不具足」とす
る。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆ
えに名づけて「聞不具足」とす。
先人の所説を過不足なく聞くという姿勢がなければ、難の中の難、これに過
ぎたるはなしということでしょう。
徒に念仏するだけで信が得られるというなら、あなたが実験してみるといい。
貴方が信を得れば、教行信証に註書きをいれましょう。教行信証行巻は、実験
的に間違いでした、と。
信とは何か。座禅して念仏することを2,3時間も話を聞けば、実践してみ
て普通はやがて所在が分かってくる。貴方は一生聞いても分からんかも知れな
いですね。頑固な人は、先人の言葉の前で我説を曲げず、つまらんことにこだ
わるからね。
114 :
名無しさん@1周年:03/01/12 11:30
四力が必要と言っている宗は他力ということにしとけばいいですか?
115 :
名無しさん@1周年:03/01/12 12:42
四力?? 与力(助力。助勢。)?? 誤記??
116 :
名無しさん@1周年:03/01/12 12:49
>B達也 「いずれにせよ、僕等が『成仏への道』を迷わず進んでいけるのは、
一切を大聖人様にお任せして、大聖人様を信じてって事だから、
思いっきり『他力本願』じゃん、ただ『念仏の他力本願』とまぎらわしいから
日蓮正宗では、そういう言い方はあまりしないだけさ」
これに対して
>(仏力・法力・信力・行力)が 一致して初めて成仏が叶うものであり、
>他力か自力かの問題ではないのであります。
という問答を見た
>>113 渡海は妙香人は存在しない、という
主張ですか?
鈴木大拙師なども否定します?
118 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/16 20:42
>>117 >妙香人は存在しない、という主張ですか?
妙香人?。妙好人?
鈴木大拙には興味がないが、妙好人は存在するぞ。僕はこれでも妙好人じゃ。
もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり、人中の上上人な
り、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
座禅して念仏する者も、座禅しないで念仏する者も、およそ念仏する者は、信心の有
無に関わらず、好人、 妙好人、上上人、希有人、最勝人じゃ。善導様も親鸞様もそう
仰って、念仏称える者を喜んでくださる。畏れ多いことじゃが、善導様や親鸞様から御
覧になれば、念仏者はそれだけで、好人、 妙好人、上上人、希有人、最勝人なんじゃ。
念仏者であっても、聞不具足、信不具足ということはある。しかし、信心の人に劣ら
じと、疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし。定散自力の称名は
果遂の誓いに帰してこそ 覚えざれども自然に 真如の門に転入す
119 :
名無しさん@1周年:03/01/17 11:58
>僕はこれでも妙好人じゃ。
自分で自分を妙好人と言う香具師はじめて見た。
一所懸命検索したんやろね。
120 :
名無しさん@1周年:03/01/19 04:11
>妙香人?。妙好人?
渡海は「妙香人」だ。尻のあたりから妙な香りがする。
121 :
名無しさん@1周年:03/01/19 11:48
渡海難が真如の門に転入するのは何時の日か?
今生では無理か、それとも。
(^^)
123 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/19 21:17
>>119 >自分で自分を妙好人と言う香具師はじめて見た。
仏教の「ぶ」の字も知らん。妙好人の「み」の字も知らん。そんな香具師が、はじめて見
たなどと言うのは百年早い。
>一所懸命検索したんやろね。
丸暗記しているわけじゃないが、教行信証の内容は、どこに何が書いてあるかだいたい頭
の中に入ってるよ。
>>120 >渡海は「妙香人」だ。尻のあたりから妙な香りがする。
あんたらみたいなオホタレ坊主から妙好人と言って貰うなんて、毛の先ほども思ってない
よ。僕のことを妙好人と言ってくださるのは、中国の歴史的高僧の善導様だ。それと親鸞様
が言ってくださる。あんたらアホタレ坊主の認識など、お呼びじゃないよ。
あんたらは、他人の尻の穴でも嗅ぎ回っているのがお似合いだ。アホタレ坊主は、三べん
回ってワンと鳴け。
>>121 >渡海難が真如の門に転入するのは何時の日か?
信心のかけらもない坊主に推測できる筈もなし。あんたらに何かを認めて貰おうなんて、
毛の先ほども思ってないよ。覚ざれども、自然に真如の門に転入す。仏さんが、適当に時期
をみつくろってくださるのさ。
>今生では無理か、それとも。 <あんたに想像できるはずもなし。>
124 :
名無しさん@1周年:03/01/19 22:15
いまだに転入してないってことだ。
それでも「僕は妙好人じゃ」。(和良)
125 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/20 18:29
>>124 >いまだに転入してないってことだ。それでも「僕は妙好人じゃ」。
ものごとの自然の道理のあり方に鈍感な坊主は少なくない。仏教の「ぶ」の字も知らず、
もの道理のあり方にも鈍感な124なんかは、推測、山勘、当てずっぽうで何かが見えたと思
ったら大間違いだ。
「難思議往生を遂げんと欲う(化身土巻)」。宗祖でさえ自分の難思議往生は、ご自身の
自覚の外にあった。僕の難思議往生は、僕如きの自覚が及ぶような次元の話じゃないわいな。
広大無辺の世界なんだよ。
>それでも「僕は妙好人じゃ」。
「ひとえに難思往生の心を発しき(化身土巻)」。難思往生までは自覚が可能なのさ。自分
は真門に立つという自覚、これが難思往生さ。サッカーを選んでも、野球を選んでも、凡そス
ポーツを志せばスポーツ人の仲間に加わる。その中でも、野球を選べば、野球技術は未熟でお
粗末でも、野球界の先人は新人入門者を喜んで迎えてくれる。プロ野球ドラフト入団者を、監
督教団関係者が、にこにこ顔で迎えるのと同じ理屈だ。新人を鬼の顔であしらう馬鹿はいない
んだよ。
126 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/20 18:30
僕は、一生念仏を称えていくことに決めたんです。一生念仏を称えていくことに決めた。だ
から、念仏界の偉大な先人は入門者である僕をにこにこ顔で喜んでくれている。「よく来た、
よく来た。よくここを見つけてくれた。さあ、もっともっとみんなの中に入れ。もっともっと
中に入れ」と言って、中を案内してくれる。自分からは妙好人だなどと言わなくても、先方さ
んが僕のことを「妙好人」と言って歓迎の言葉をかけてくれているんだよ。
野球入門者を野球界の偉大な先人が歓迎してくれていても、野球界の外にいる者に、歓迎の
気持ちは伝わるまい。部外者には伝わらなくても、入門者には歓迎してくれてる相手の気持ち
が伝わってくる。歓迎してくれているんだと分かってくる。
入門したばかりでは、先人の深い心の部分は到底分からんが、念仏門を叩いたことを善導様
や親鸞様が歓迎してくれているということは分かるのさ。善導様や親鸞様が喜んで歓迎してく
れている。だから僕は、善導様や親鸞様の世界ではぴかぴかの一年生。善導様や親鸞様から見
た「妙好人」なんじゃよ。
サッカーをしない人には、サッカーの先人が表明してくれている歓迎と喜びの言葉は聞こえ
まい。仏教の「ぶ」の字も分からず、浄土教の「じ」の字も知らん人には、仏教界の先人の気
持ちなど、言葉で説明しても分かるはずがないだろう。
127 :
名無しさん@1周年:03/01/20 18:59
真宗を「プロ野球ドラフト」と同列に考えること自体が問題なんだよ。
「野球技術は未熟でお粗末」な選手はそもそもドラフトにはかからない。
けれども、ドラフトに漏れた野球好きにはアマチュア野球がある。
親鸞もプロの出家のために法を説いたわけじゃない。
むしろ仏教のアマチュアこそが救われる法を説いた。
「仏教の「ぶ」の字も分からず、浄土教の「じ」の字も知らん人」のために。
128 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/20 21:30
>>127 >同列に考えること自体が問題なんだよ。
たとえ話は同列に考えていることじゃない。説明手法の一つだよ。
一見無関係に思える遠い関係の物との間の意外な共通性に敢えて着目し、それを引
き合いにする。これによって、一方だけを見ている限りでは見えにくかったものに別
の視点座標を提供する。説明上の大事なテクニックだ。
仏教に興味の無い人に妙好人の意味を分からせようと思うほど、僕は暇じゃない。
仏教に興味の無い人にこれ以上説明しようとは思わないよ。
129 :
名無しさん@1周年:03/01/20 22:23
130 :
名無しさん@1周年:03/01/21 00:23
仏教の「ぶ」の字を教えて下さいな。
あなたは「淨土系」の人なのでしょう。
それとも仏教全般(原始、上座部、唯識、倶舎、天台、真言)等等も学ばれていますか?
>>120 渡海は「妙香人」だ。尻のあたりから妙な香りがする。
不覚にも笑つてしまつた
妙好人てのは、親らんや念仏をネタにして、最後にはののしり合う人たちのことか
133 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/21 20:17
>>129 >下手なたとえは休むに似たり。
仏教を道楽と飯の種になさってる方には、真面目な話は退屈でござんすかも知れ
ませんね。ま、休むに似たりでござんしょう。
>>130 >仏教の「ぶ」の字を教えて下さいな。
座禅して念仏してるらしい渡海難は、親鸞様や善導様から見ればピカピカの妙好
人なんだと認識していくことが、「ぶ」の字を学ぶということにあたるでしょう。
ま、こんなことを言っても、貴方に聞く耳があるかどうか?。多分、ないでしょう
ね(笑)。
>あなたは「淨土系」の人なのでしょう。
「〜系」などと、他人を気安く分類しなさんな(苦笑)。分類されれば、人格の
少なくとも一部が否定されたように感じるものです。僕にとっては僕が全てです。
何かの一部に組み込まれるような対象物ではありません。あなたは人の心が見えな
いようだ。目もなく耳もなく、心も無いようでござんすね。
>学ばれていますか?
釈迦は何を学んだんでしょうか。釈迦は原始仏教を学びましたか?。釈迦は上座
部仏教を学んだんですか?。釈迦は唯識、倶舎、天台、真言仏教を学んだんですか
(笑)?。
レッテルを並べるだけのあなたと違い、僕は親鸞を通じて釈迦仏教を学んでいます。
134 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/21 20:20
>>132 >最後にはののしり合う人たちのことか
色んな人がいるでしょう。親らんや念仏をネタにののしり合う方もいらっしゃるか
も知れませんね。ののしり合わない方もいらっしゃるかも知れませんね。さるべき業
縁の催せば、いかなる振る舞いもしてしまうものです。妙好人というのは念仏を称え
るだけの方々ですから、いろんな方がいらっしゃって不思議ではありません。
どこぞで妙好人の方が罵り合っていらっしゃいましたか?。
135 :
名無しさん@3周年:03/01/21 23:25
親鸞様を通じて釈迦仏教を学んでいる。
???
つーか、【釈迦仏教】っていうかー?
まぁー、あなたが淨土真宗のみを学んでいる(それも怪しいらしい)のは解りました。
わたしは、親鸞上人の教えは素人なので教え自体の批判はしませんが、
「とにかく偉そうにしろ」とか説いてるのか?
136 :
名無しさん@3周年:03/01/21 23:34
釈尊は、原始、上座部、倶舎、真言等を勉強しろといいましたか?
↑
こんなカキコがありますが、確かに言ってません。あなたの意見は正しいでしょう。
しかし、淨土を学べとも言ってませんし、親鸞の教えを勉強しろとも言ってませんよ。
ほんま笑わすなよ!
137 :
名無しさん@3周年:03/01/22 22:55
age
138 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/22 23:03
>>135 >つーか、【釈迦仏教】っていうかー?
通じにくい言葉ですか?。そうは思えませんけどね。
原始仏教というのは、19世紀にマックス・ミュラー、南条文雄らに始まり、中村元などが
大いに発展させた知的現代人のための教養仏教。まあ、ゲーム好みの新仏教と言うべきでしょ
うか。ぼくも時々その恩恵は受けていますから、悪口は言えないけどね。
上座部仏教は、仏弟子の一部だった上座長老に始まる仏教。
唯識は、無着・世親に始まり、孫悟空でなじみの深い玄奘三蔵などが中国に伝えた仏教。
倶舎は、世親・玄奘などが紹介した説一切有部の教理。
天台は、天台智ぎが大成し、最澄が日本に伝えた教え。
真言は、架空の仏大日如来が説き、金剛薩ったが竜猛に授け、空海が日本に伝えた教え。
浄土教は、釈迦に始まり、阿難が伝承させた正真正銘の釈迦仏教。色んな御批判はあるでし
ょうが、浄土教こそ仏教の中の仏教、大乗の中の大乗、絶対一乗の教え、ぼくはそう考えてい
ます。どうぞお笑い下さい。
139 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/22 23:04
>まぁー、あなたが淨土真宗のみを学んでいる
学んでいると言うよりも、最近は楽しんでいると言って欲しい。貴方に遊び心は分からないで
しょう。
>それも怪しいらしい <他人に教えるつもりはないから、十分なんですよ。>
>親鸞上人の教えは素人なので教え自体の批判はしません
遠慮ですか?。批判なさったらいかがですか?。素人は批判してはいけないという決まりでも
ありましたか?。
批判する能力が自分にはないから批判しないということと、素人なので教え自体の批判はしな
いという間には、雲泥の差がある。
>「とにかく偉そうにしろ」とか説いてるのか?
どなたかが偉そうにしていましたか?。
偉そうにしているように僕が見られれば、これは僕の不徳の至り。でも、偉そうにするような
器量の奴でも、仏教は学んでもいいんでしょう?。人間の器量はお世辞にも謙虚とは言えない奴
でも、仏教は学んでいい。誰が学んでもいい。有り難い話だと思いますよ。
貴方の方こそこんなところで偉そうな口を叩けば、仏教には関係ないが、よそで墓穴を掘るで
しょう。墓穴を掘るのは勝手だが、老婆心ながら、お気をつけなさいませ(笑)。
140 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/22 23:06
>>136 >こんなカキコがありますが
こんなカキコがどこにありましたか?。僕には見つかりません。貴方は幻覚病の方でしょうか。
>あなたの意見は正しいでしょう。
<「あなた」と言う人称代名詞の宛名はどなたですか?>
>ほんま笑わすなよ!
淨土を学んじゃいかん。親鸞の教えを学んじゃいかん。そんなこと、釈迦が言ってたかしら?。
淨土真宗を学ぶのも、親鸞の教えを学ぶのも、他人からとやかく言われる事じゃない。これは僕の
自由です。好き勝手でしょ(笑)。
親鸞の教えを学んじゃいかんなんて、釈迦が千年も隔てた遠い将来、アジアの東ジパングにおけ
る淨土真宗や親鸞の存在を予想して言ったか?。 ほんま笑わすなよ!。
141 :
名無しさん@3周年:03/01/23 07:24
おい、おい!逃げるなよ。
>釈迦は何を学んだんでしょうか。釈迦は原始仏教を学びましたか?〜〜天台、真言仏教を学びましたか?
っ書いてた癖に。
142 :
名無しさん@3周年:03/01/23 07:26
↑133の事な。
ほんま笑わすなよ!
南無阿弥陀仏。
144 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/23 21:34
>>141-142 「学びましたか?」と、「勉強しろといいましたか?」と、同じ意味なのか?。
日本語の分からん奴が掲示板でカキコしているとは思わなかったワイ。釈迦が学
んだということがあれば、他人に勉強しろと釈迦が言ってることを意味するのか?
話が別だろう。アホジャナカロカ。
ぼくはあんたに日本語の講師を買って出るつもりはないんだ。顔でも洗って出なお
すといいだろう。
↑142の事な。
ほんま笑わすなよ!
145 :
名無しさん@3周年:03/01/23 22:26
おまえの方こそ、理解力の無い脳他鈴か?
だったら、基地外の奴にも解るよう言い換えてやる。
釈尊は淨土経を学びなさいとは説いて無い。
よって親鸞上人の教えを通じて釈尊の教えを学ぶ事は不可能である。
あり得ないことだ。
146 :
名無しさん@3周年:03/01/23 22:28
↑
144の事な
ほんま笑わすなよ!
147 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/23 22:38
>>145 >釈尊は淨土経を学びなさいとは説いて無い
そんなこたぁ、大した問題じゃない。これが釈迦の教えだよと親鸞さんが
言えば、それが僕にとっては釈迦の教えなんだ。
ぼくは、親鸞さんが教えてくださるお釈迦様に付いていくんだ。釈尊は淨
土経を学びなさいとは説いて無いって?。そんな話は大きなお世話だ(爆)。
↑
145の事な
ほんま笑わすなよ!
148 :
名無しさん@3周年:03/01/23 22:39
そもそも
釈尊は自力で悟りを得たんじゃないのか。
それともアミダ仏とやらが手助けしてやったとでも思ってるのか?
自力だけでも難しいのかもしれんが、他力だけではダメでしょうな。
まぁー救いはあるでしょうが、「悟り」とはかけ離れてる罠。
149 :
名無しさん@3周年:03/01/23 22:47
親鸞上人の教えをちょこっと教えてちょ。
教えれないなら、誰が書いた何という解説書がお勧めか教えてくれくれ。
いきなり経典読んでも理解する自信無いもんで。
150 :
名無しさん@3周年:03/01/24 00:32
151 :
NB ◆YIoCB90ZbI :03/01/24 00:35
>>148 まあ、渡海氏がらみでレスしとくと、釈尊が「悟り」で自己完結してらっしゃった
ならば「伝道」の遊行はどう説明なさるおつもりで?
釈尊は「悟り」によってと言うよりはむしろ、伝道によって初めて釈尊となられたわけで。
という面の放置が原始仏教(とやら)マンセー派の陥りがちな罠だ罠。
「他力」が問題としてたち現れる局面って、そこに光を当てたとき。
>>149 『歎異抄』でいいと思いますよ。現代語訳とかが本屋さんに絶対一冊はあるはず。
つか、ぐぐってもいっぱい出てくると思いますよ。
いや〜他力ってほんとに難しいですね〜
153 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/24 20:18
>>151 >現代語訳とかが本屋さんに絶対一冊はあるはず。
NBさん。あなたも布教使の一人だろう。2茶は、これだけ自由な掲示板だ。歎異
抄は、あなたという一人の人間の中でどう鼓動しているか、貴方なりの歎異抄論を語
ってみたらどう?。
僕が教行信証論を語れば、アホタレ坊主が盛んに糞ションベンのポンチエを晒しに
くる。布教使のあなたが語れば、興味を持ってくれる人は多いだろう。
どちらも、所詮宗教。
悟っても宗教の範囲で知ったような気になるのみ。
世の中、宗教よりずっと奥が深い。
155 :
名無しさん@3周年:03/01/24 23:35
156 :
名無しさん@3周年:03/01/24 23:44
他力が良い。
自力=自分
他力=自分+他力
だから。
157 :
名無しさん@3周年:03/01/25 01:46
↑
だから自他力だって何回も言ってるのに。
>>151 ここは自力と他力のスレでしょ?
>釈尊の遊行がどうたらは
あきらかに【自利】と【利他】もしくは【小乗】と【大乗】の問題です。
スレ違いじゃない?
158 :
名無しさん@3周年:03/01/25 06:14
↑
たしかに。
他力では無く
利他の事では?
159 :
名無しさん@3周年:03/01/25 18:14
自分+他力÷2=自他力
自分+他力=他力
自力<自他力<他力
160 :
名無しさん@3周年:03/01/25 19:37
↑
他力本願=アミダ仏まかせ=人まかせ
他力<自力<自他力
161 :
名無しさん@3周年:03/01/25 19:54
悟りを得る又開くために、
例えば1〜10の段階があると仮定します。
勿論わたしのかってな考えですが、9.99・・・(もう後うす皮一枚というか、後ちょっとで何かが解る段階)までは自力かと思う。
そして、最後の最後、み佛の加持力というか、目には見えない大いなる力で引き上げて戴き悟りの境地に到達できるのかと思う。
これは私の考えですので、ただの妄想です。
>>157 >あきらかに【自利】と【利他】もしくは【小乗】と【大乗】の問題です。
ってのはまったく同意しません、できませんが、
>>148さんから反応があれば何か言いますよ。
163 :
名無しさん@3周年:03/01/26 01:12
自力でも他力でも駄目だね。
164 :
名無しさん@3周年:03/01/26 13:07
何が?
165 :
名無しさん@3周年:03/01/26 14:08
自分では自力と思っていても、陰で助けてもらっている事が多い。
そう思うと本当の意味での自力って難しい。
考えすぎるとゴチャゴチャになるけど、他力だけではダメだと思う。
166 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/26 15:36
>>165 >陰で助けてもらっている事が多い。そう思うと本当の意味での自力って難しい。
他力って言うのは、陰で助けてくれる他人の力と言う意味なのか?。
他人ほど当てにならんものはない。兄弟は他人の始まり。金の切れ目は縁の切れ
目。人生で、本当に苦しい土壇場に来れば、結局自分で活路を切り開かなければな
らないんだ。
欲しいものは手に入らん。嫌な奴とは会わねばならん。愛する人とは別れにゃな
らん。この世でおよそ苦の種にならんものはない。
兄弟がいてもほとんど助けてくれないもんだ。みんな苦しいんだ。学業に負担の
かかる子供を抱え、手に職のない女房を抱えれば、決して楽なことはない。まして
これに借金がかさみ、社会的責任がかぶされば、嫌でも身動きできなくなる。
先祖の墓を人質に、先祖の悲しみをだしに舌先三寸で上辺だけの馬鹿話をすれば、
天から金が降ってくるという、そんな人だけじゃない。楽に天から降ってくる金と、
陰で助けてくれる他人の力とを混同し、上辺だけのきれい事を並べて同感してくれ
る人がいると思うのか?。同感する奴がいれば、それは結局、坊主くらいなもんだ
ろう。先祖の惰性に乗りながら、惰眠を貪っていると、地獄の釜が口を開くのも、
やがて時間の問題だろうよ。
陰で助けてくれる他人より、陰で落とし穴を掘っている他人の方が遙かに多い。
社会に出れば、人は七人の敵がいる。この現実にどう向かっていくのか。仏教が取
り組もうとしている問題は、まさにこの問題なんだ。
おーい。早く目を覚ませよぅ。厨房165ーぅ
167 :
名無しさん@3周年:03/01/26 15:42
敵を敵と見るおまえの心に浄土なし
168 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/26 15:55
敵を敵とも思わない考えを冒険主義という。人生、一寸先は闇。
先祖の惰性は、地獄に通じる一本道と思え。
169 :
名無しさん@3周年:03/01/26 16:06
人生を闇と見るおまえの心眼は地獄染めか?
170 :
名無しさん@3周年:03/01/26 16:26
渡る世間は渡海難。
171 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/26 17:47
>>149 >親鸞上人の教えをちょこっと教えてちょ。
仕事でもいい。家族でも、兄弟でも、上司でも、部下でもいい。一つでも二つでも、関心が
ある物に「阿弥陀仏」と自分勝手にあだ名をつけてみなさい。
かつて釈尊先生のお弟子さん達は、釈尊先生を先生と呼び、「先生、ああ先生」と念じた。
困ったとき、座禅しながら南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念じてみるといい。南無とは感
嘆詞だ。阿弥陀仏は先生という意味だと思いなさい。
身動きできる人もできない人も、一日は平等に二十四時間ある。一日四時間、五時間、六時
間。身動きできないときは、身動きしないで一日二十四時間称えてみるのもいいだろう。気ぜ
わしく動かなければならないときは、合間を作って称えてみるといい。どんなに忙しくても、
一日は二十四時間あることを忘れなさんな。
三日,四日,五日と念じ続けてみなさい。阿弥陀経は七日という数字を挙げている。称えて
みると、やがて何かが変わってくるだろう。ストレスの中では見えるはずのものも見えないこ
とがある。そんなものが、一つでも二つでも気付かされてくれば、それだけで大成功だ。座禅
して念仏すれば、必ず最善の道が見つかるなどとは思うな。最善の方策は見つからなくても、
最悪の選択肢を選択してしまうことを免れれば幸いと思え。ストレスを抱えながらも、二善、
三善の選択肢が見つかれば幸いと思え。二善、三善の選択肢が見つからず、結局最悪の選択肢
しかなかったという事もあるかも知れない。しかし、そんな最悪の選択肢の選択は、念仏の後
にしても遅くはないだろう。
これが、釈迦から親鸞に流れてきた先人の知恵。ちょこっと教えようとすればこういうことに
なる。
「発心時は自力でも満行に成るにつれ、ただただ、御仏の加護がひしひしと
感じられ、他力によって動かされている自分に気ずかさせて頂いた。」と聖道
門のアジャリさんから聞かせて頂きました。真宗においては、日常の生活体験
の些細な事柄の中にこそ、如来のお気ずかせがあると思われます。妙好人伝を
読めば納得できます。善智識さんを囲んでの聞法も大切ですが。(ただし、十種の益
を具えたお方)
>172
正 気づかせ
誤 気ずかせ
スマソ
>かつて釈尊先生のお弟子さん達は、釈尊先生を先生と呼び、
>「先生、ああ先生」と念じた。
わからなかったことが大変よくわかりました。
有り難うございました。
175 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/27 22:25
>>172 >他力によって動かされている自分に気ずかさせて頂いた。」と聖道門のアジャ
リさんから聞かせて頂きました。
十種の益は、他力によって付与されるとお思いですか。僕の理解とは違うなぁ。
親鸞の他力は、抽象的・観念的なものだ。十種の益は他力の信から付与される。
他力と他力の信とは違う。他力の信は他力に働かれて付与される。他力の信と他
力とを混同するのは勝手だが、少なくとも僕には採れない。僕の体験とも相違す
る。他力の信という概念をもしも飛び越し、十種の益を他力と直結させれば、親
鸞思想全体の説明は破綻するだろう。
真宗以外の坊さんが、聞き手の耳障りのいいところだけを三段跳び虫食い的に
説明していたとすれば、それはまあ、勝手だわな。
176 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/27 22:41
>>175 早とちりした心配もあります。
聖道門のアジャリさんは、その方の宗派の定義に基づく他力・自力観
で話をされていたのでしょうか?。真宗の他力・自力観に口裏を合わせよ
うとして仰っていたのでなければ、175は無視してください。
他力・自力という言葉には、異なる宗派間で様々な定義があるはずで
す。真宗以外の思想について論評するつもりはありません。
おっちょこ‐ちょい
1 (形動)落ち着いて考えないで、軽々しく物事をすること。また、そのさま。
2 軽々しく行動する人。軽薄者。
3 (形動)たやすいさま。
『小学館国語大辞典』より
渡海難さん、有難うございました。受け取り違いを分からせて頂きました。
ご立派ですね、座禅念仏宗を立ち上げ、早くお広めになって下さい。
おながいします。
179 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/01/28 19:52
>>177 敗北宣言
177の勝ちィー(笑)。
>>178 いろんな考えがあってそれでいいんでしょう。
信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励む可し
180 :
名無しさん@3周年:03/01/30 23:37
やっぱりよう解らん、
>>151はどう解釈すれば「自力と他力」の問題になるの?
釈尊が伝導の旅をして人々を導いた事は「自利と利他」の問題じゃないの?
181 :
名無しさん@3周年:03/01/31 10:01
オッシャルトオリ
182 :
名無しさん@3周年:03/02/01 16:35
あまえるな!
183 :
NB ◆YIoCB90ZbI :03/02/03 01:37
>>180 自利と利他を結構きっぱり分けてらっしゃるようだけど、
もしかして、「宗教」としての仏教には「利他」の精神がある。なんて
捉え方をしてるんだったらダメダメさん。
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし @親鸞聖人「和讃」
なんてね。
あ、ちなみに自力と他力のどちらが優れているか。
なんて問いにはまったく興味はないので、このへんで失礼。
あげくの果てに「自他力」なんて言い出すともう目もあてらんない。
言いっぱなしでスマソゴメソなんだけど、そうゆうことで。
184 :
名無しさん@3周年:03/02/03 01:38
>>184 びみょー。っすね。そうとも言えるかもしんない。違うかもしんない。
と、思うです。
186 :
名無しさん@3周年:03/02/03 02:59
まあ、読んでないから前後は知らないけど、
どっちもオンナジなんじゃないですか?
現金払いが良いか、クレジットが良いかみたいなもので、
結局自分で払うしかないのよ。
187 :
名無しさん@3周年:03/02/03 07:49
つーか
>>151さん
答えになってないよ?
なんで「自利利他」では無く「自力他力」だと思ったの?
人をダメ出しする前に答えてちょ。
188 :
名無しさん@3周年:03/02/03 12:31
仏教には利他ということはないんでしょうか?
>>183 自分の理解が間違っているのかもしれませんが、NBさんの言う事が理解できません。
189 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/05 19:19
>>188 NBさんの言っていることは、同感できるところもあるんだけど、質問され
ると答えられないのか?。布教使としては困ったことだ。188の質問の趣旨
が分からないと言うことはないんだろうに。
知識として断片的に上辺だけ吸収しているが、身に付いた中身が薄いんだろ
う。NBさんの発言は、歎異抄四章を意識していると見込んだが、歎異抄四章
と利他の関係が説明できないようだ。情けない話だ。
>>151は、単独なら分からんこともない。
>>148に対する反論と考えると、あ
れではよく分からん。
自力で良いのでは。そのほうが苦労しなくて良い。
でも、縁起等の教理はしっかりとみるが。
大乗なんて、大勢で荒波にいッて沈没したら、それは他力といえるか?
どれも同じといえると思うけど。船もでかいとそれなりに人間乗っていないと
船に穴あいたら沈没するだろう。
どうせ北伝仏教(大乗)も元は枝末分裂ないし、上座部系統の者が関わっている
と推測できる、そういわないと大乗は仏教といえるか?となるので、詳しくは述べないが。
利他と言うものは、多様化からなったものとされます。今、日本で利他精神があるとは
いえないですが、今は仏教いうても金がものをいいますからね。
本来の布施(六波羅蜜で良いものとされるが)というものは無執着でしなくてはならない。
これは般若経典に書かれている、菩薩のあり方をみたら分かる事です。
そして、今日では東南アジアでも自利精神がなくタイ・スリランカなど国家仏教化しています。
昔の世尊と言う人が生きていた時は、尊敬されな食っていけなかっただろうし、托鉢で言えることですが。
尊敬され時間の経過と共に仏教を受け入れられるようにするために体系を変えていったのであると思います。
192 :
堀松千代。:03/02/07 17:11
カトリックですが、「歎異抄」は物凄いと思いました。
親鸞は聖パウロに匹敵する信仰者ではないでしょうか。
プロテスタント神学者カール.バルトは、浄土真宗を
「最も徹底した救済宗教」と高く評価していたようですね。
193 :
名無しさん@3周年:03/02/07 22:29
門外漢ですが、私も親鸞という方は凄い方だと思います。
宗教というのは、救済の中に自己を発見することだと思うんですよ。だから彼の
明らかにした浄土真宗というのは、そういった意味で、宗教の中の宗教だと思え
ます。
194 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/09 22:14
>>192 >高く評価していたようですね。
外国のクリスチャンの親鸞理解ほど当てにならんものはない。彼らは自分達の虚
像を見て感動しているだけでしょう。
明治になってキリスト教の布教が自由になったとき、我が国の仏教者達は大変な
危機感に襲われ、浄土真宗教団は西洋に盛んに留学生を送ったそうです。留学生達
は、キリスト教神学を研究します。ところが、キリスト教神学を学んだ坊さん達は、
これと比較する伝統的な仏教思想についてほとんど無知でした。結局彼らは、仏教
思想を西洋で教わったキリスト教思想に沿って書き換えていきます。多田鼎などは
真宗のキリスト教化で重要な役割を果たします。その結果、外国のクリスチャン達
は、キリスト教化された浄土真宗に触れます。外国のクリスチャンは、浄土真宗と
いう名の自分達の影を見ていることに気が付かず、真宗に映った自分達の思想の虚
像に驚嘆します。これによって、真宗人は、自分達の宗教が世界に認められたよう
な錯覚に陥ります。阿弥陀という名のエホバ、釈迦という名のイエス、親鸞という
名のパウロが誕生し、真宗は仏教版偽キリスト教に変貌します。2茶でも、真宗と
キリスト教の教義は同じだという意見がしばしば登場します。
仏教の「ぶ」の字も分からん連中につき合っちゃいられません。
>外国のクリスチャンの親鸞理解ほど当てにならんものはない。彼らは自分達の虚
>像を見て感動しているだけでしょう。
そういうところが好きですねえ。渡海さん。ぼくも同意です。
でも、「当てにならんものはない」なんて切り捨てるようなのはどうかとは思う。
実際、キリスト教と真宗が似ていることは日本近代以前から認識されてましたし。
真宗教団側からのキリスト教排斥運動なんて、それがベースにあったし。
真宗に対する西洋の驚き。(あるいはその逆)は戦国時代にもあったようですね。
詳しくは知りませんが当時の宣教師の書簡を在野で研究なさってるお坊さんが
いらっしゃいますね。真宗からキリスト教に改宗もあったようですし。
まあ、『歎異抄』を読まれて「物凄い」あるいは「高い評価」とお考えに
なった心はどの宗教の信者の心であろうとも、他人がとやかくケチをつける
べきものじゃないと思う。
ぼくとしては素直に、うれしくありがたく思う。
196 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/10 22:03
>>195 :NB
>素直に、うれしくありがたく思う。
<NBさんは優しい人なんだろうな。>
>切り捨てるようなのはどうかとは思う。
お心は戴いておきます。
日本のクリスチャンは、親鸞肯定派の理屈も否定派もの理屈も、まさに聞いちゃ
いられないという、辟易とした思いを僕は何度も経験してきましたからね。結局彼
らは、我流の無知の中で、親鸞を評価し、親鸞を貶しているに過ぎない。そう思っ
ているんですよ。
彼らが得意としているはずのキリスト教理解だって、こっちから見れば、まさに
噴飯物だ。まして、海外の親鸞評価などは、少なくとも僕が生きている間は見るべ
きものなど何もないだろうと思っているんですよ。まあ、僕は高を括っているんだ
けど、こんな高の括り方がひっくり返る事態が起きれば嬉しいですね。そんなこた
ぁ夢のまた夢だ(笑)。
>西洋の驚き。(あるいはその逆)は戦国時代にもあったようですね。
フロイスの日本史によると、戦国時代、多くの仏教徒が伴天連に転宗するなかで、
一向宗だけはほとんど転宗しなかったという記述があると聞いたことがある。勘違
いだったか?。
197 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/10 22:05
>キリスト教と真宗が似ていることは日本近代以前から認識されてました
それを言えば何でも言える。キリスト教とイスラム教はそっくりだし、禅宗とキ
リスト教もそっくりだし、キリスト教と日蓮宗もそっくりだし、禅宗と日蓮宗もそ
っくりだし、経済学と物理学もそっくりだし、テレビとパソコンもそっくりだし、
猿と犬もそっくりだし、ライオンとアリもそっくりだし、月とスッポンなどもそっ
くりだし、幽霊とロケットもそっくりだし、世のなかにそっくりでないものなどは
存在しないんじゃありませんか?。
似ているというのは勝手だが、似ているなどと言うことは三歳の子でも言うこと
だ。我が家の娘は昔、削り節を見て「夕焼け」と言った。同じ色をしていたからだ
(笑)。
198 :
名無しさん@1周年:03/02/10 22:29
歎異抄には有名な言葉がいくつかありますね。明治以前は一般の目にふれる書物
ではなかったのが、一億富国強兵で国学を精神に、という近代日本の精神的状況
のなかで漱石は悩み、芥川龍之介は自殺する。そういう近代日本が当面する精神的
危機状況のなかで東本願寺系のお坊さんで清沢満之という英国留学をされた方が
[西洋の精神に太刀打ちできる精神はないものか]ということで発見され、それ以来
日本の宗教書の中でいちばん読まれる本が歎異抄だと聞いております。
その中に善人でさえ往生する、まして悪人が、悪人こそと、まるで悪人の勧めみたい
ですが、事実悪いことしたほうが救われると思った人たちもいっぱいいると。。。
わざとでも悪いことしょうとね。
子供の頃、親の愛情を引きつけるためにわざと悪い子になったことありますよね(笑
199 :
名無しさん@1周年:03/02/10 22:44
わざと悪い子になろうという共通した人間の精神の弱さが、この親鸞の言葉を誤解させる。
阿弥陀如来は悪い子ほど可愛いって言っているのではないんです。
[悪いことするな、よいことだけせよ]というのが仏教なんです。
いまの悪い人こそ救われるって、どういうことかといいますと、人間として私は思うてもならぬ、
してもならぬことばっかり思うて、して生きている、とわが罪の深さに気づいた。
そんな人間のほうが[わたしは立派な人間だ]とうぬぼれて生きている
人間よりも、はるかに仏様に近いよ、ということだと思います。
[善人なおもて往生す、いわんや悪人をや]いい言葉ですね。
200 :
名無しさん@3周年:03/02/10 23:15
なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。
201 :
名無しさん@3周年:03/02/11 02:12
自力は疲れるから他力の方がいい
202 :
名無しさん@3周年:03/02/11 08:51
人間は悪いことをする時節に会えば悪いことをする。
良いことをする機会がくれば良いことをする。
ただ、人間の善悪も、念仏の善にはかなわない。
人間として生まれ、たまたま念仏と出会う。
それが、他力ということだと思います。
203 :
名無しさん@3周年:03/02/11 13:03
↑
それでは念仏に会わなかったら、救われない、と聞こえますよ。
>>203 微妙なとこ突いてきますね。
もう少し他力的に言えば、
人が念仏に出会うのではなく、念仏が人と出会う。
これなら、いいですか?
あまり書きすぎると評判がわるいので。
205 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/13 22:03
>>198 >わざと悪い子になったことありますよね(笑
悪を進める書に良書があるとは思えない。歎異抄が悪書であるなら、社会から駆逐す
べきでしょう。貴方は、浄土真宗の非常識な坊様達とは違う卓見をお持ちのようだ。い
かがですか。198さん。自ら歎異抄追放運動の先陣を切ってみませんか?。社会の大掃
除になるでしょう。ま、僕は御免蒙りますけどね。歎異抄はとてもいい本だ。
貴方の仰りたいことは198以外にまだありますか(笑)。
206 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/13 22:06
>>199 >共通した人間の精神の弱さが、この親鸞の言葉を誤解させる。
精神の弱さは人には共通的にある。それで人が誤解するような言葉なら、削除しない
といけない。少なくとも浄土真宗を標榜する教団なら、その危険性は声を大にして社会
に警告すべきでしょうね。
>[悪いことするな、よいことだけせよ]というのが仏教なんです。
忠ならんと欲すれば、孝立たず。世の中には二律背反というのはいくらもある。一方に
とって都合がいいことが、他方にとって悪いこと。他方にとって都合がいいと、一方にと
って悪いこと。そんな例はいくらである。いいことだけしてれば済むそんな世界があるん
ですか。
>うぬぼれて生きている人間よりも、はるかに仏様に近いよ、ということだと思います。
ほほう。
世の中に、うぬぼれて生きている奴よりも、罪の深さに気づくことが大事?。それは、
人は悪いことをしないさいということか?。罪の深さに気づく立派な人に成りなさいとい
うことか?。深い罪を重ねないと、罪の深さに気づくことはないだろうに。それとも人間に
は原罪があるとでも言うのか。浄土真宗偽キリスト派か?。
>[善人なおもて往生す、いわんや悪人をや]いい言葉ですね。
歎異抄が泣いてるんじゃないか?。
207 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/13 22:09
>>201 >自力は疲れるから他力の方がいい
あなたはお幸せなお坊様のようだ。先祖代々、檀家様が生かしてくださる。何もしないで
もボーゥとしてれば、一生が幸せに推移していく。
借金を背負って檀家が首をつっても、坊主には葬式の布施が入ってくるんだろう。他力坊
主は楽でいい。一生幸せにすごせば、死んだら地獄に堕ちるんだろうな。
>>202 >人間の善悪も、念仏の善にはかなわない。
念仏の善にかなわなかったら、何がどうなるというんだろうか?。
親が倒れた。子が看病しないとならん。公的援助だけで間に合うはずもない。看病するには
仕事を休まなければならん。休めば収入がない。このまま行けば、親子共々倒れてしまう。生
きているだけで親は息絶え絶えで苦しんでいる。どうせ親子共々倒れてしまうなら、いっそ親
を殺してしまおうか。親の心臓に刃物を立てれば、心臓から血しぶきが出、それは天井に達す
るだろう。天井は真っ赤になるだろう。手足は倒れても、全身の細胞は生きた生きたいという
思いを刻々刻んでいる。いっそ自分も一緒に死のうか。親も子も共に死ぬなら、元も子もない。
それでは自分だけが首を吊ろうか。自分が首を吊れば、親は2日と生きていられないだろう。
では一層、一緒に死ぬか。
さあ、202さん。いかがする。念仏の善は人間の善悪にはかなわない?。それなら、こん
な場合、親を殺した方がいいのかね?。
>それが、他力ということだと思います。
<先祖の惰性にのって惰眠を貪る気休めだけの無駄話か?(笑)。>
208 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/13 22:11
>>203 >それでは念仏に会わなかったら、救われない、と聞こえますよ
203さんよ。貴方は救われているのか?。救われていないのか?。
救われていなかった貴方と、救われた貴方は、何がどう違うんですか?。
>>204 >もう少し他力的に言えば、
<他力的に言う?。なんじゃこれは?。他力は格好付けだな(笑)。>
>念仏が人と出会う。 <念仏には足でも生えているのかな?。>
209 :
名無しさん@3周年:03/02/13 22:11
念仏すら唱えないのが本物の他力、無上の法です。
210 :
名無しさん@3周年:03/02/13 22:14
渡海 難 さんは皮肉やですねぇ(笑
特に言いたいことはありませんが、あなたの皮肉が非常に気に入りましたよ。アハハハハ
それだけへそ曲がりでしたら人生楽しくて悩みもないことでしょう。
あなたは歎異抄のこの部分どうご覧になっていらっしゃいますか?
211 :
名無しさん@3周年:03/02/13 23:13
↑
反応しないで下さい。
みんな無視してるんですから。
212 :
名無しさん@3周年:03/02/13 23:34
>>209 一念儀でさえ破門されるそうで、内緒にしているんですよ。
私もあなたが正しいと思う一人ですが、
世間の評判はあまり芳しくありませんので。
213 :
名無しさん@3周年:03/02/14 19:34
>>211さん
あなたたちは、渡海さんにちゃかされるのがうれしくてここにいるんですね?
まるで親父と息子のような(笑
うちの父も渡海さんのような人でした。馴染みがあってうれしいですアハハハハ。
214 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/14 19:41
>>209 弥陀の尊号称えつつ 信楽真に獲る人は 憶念の心常にして 仏恩報ずる思いあり
>念仏すら唱えないのが本物の他力、無上の法です。
称えないというのは、外道の教えだ。209さんは念仏を称える意味をきちんと教
わってないから称える気が出てこないんだろう。念仏を称える実体的意義、形式的意
義、方法論を教えられる人が教団にはもう一人もいないということだな。
教行信証に墨を塗り、何百年もインチキ教義を宣伝し、信心のある人など何百年間
もの間一人も育ててこれなかった以上、教団は、親鸞につながる教義の血脈などはと
っくに切れておるようだ。外道の主張これを背景としたものだろう。
215 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/14 19:43
>>210 >あなたの皮肉が非常に気に入りましたよ。
気に入って戴けると嬉しいです。ただ、皮肉ではなく、できるだけ真正面からもの
を言っているつもりなんですよ。
>特に言いたいことはありませんが、
<言いたいことはあったんじゃありませんか?>
>あなたは歎異抄のこの部分どうご覧になっていらっしゃいますか?。
これがあなた(210)の言いたいことだったと僕は思うんですけどね(微笑)。
「往生極楽の道(2章)としては、他の善も要に非ず(1章)。悪をも恐るべからず
(1章)。念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候(4章)。浄土真宗には、今生
に本願を信じて、彼の土にして悟りをば開く(15章)」。
216 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/14 19:45
>>211 >反応しないで下さい。
211さん。貴方が反応してるんでしょう。貴方こそ反応しないで僕のことなど忘
れたらどうですか。忘れられないのでしょうね。貴方の目は僕に釘付けだ(笑)。
>>212 >私もあなたが正しいと思う一人です
自分は正しいと思うものがあり、その主張をすれば破門されるというのなら、いっ
そ貴方からそんな理不尽な教団は破門したらどうですか?。自分の信念、良心をねじ
曲げて、教団という金魚に対し、自分はウンコの光栄を浴するだけというのはいかが
なものか(微笑)。
>>213 >馴染みがあってうれしいです
茶化してはいませんが、貴方のような方からも親のように愛されているとは光栄です
(微笑)。
217 :
名無しさん@3周年:03/02/15 00:08
あっ そっか
オレの目は渡海難さんに釘付けだっかのかぁー。
たしかにそうかも知れんなぁ。
だってぇーバカな奴見るの面白いんだもん。
これからもオレを楽しましてね!
渡海さんはウンコとか言わずにレスできないんだな
219 :
名無しさん@3周年:03/02/15 13:57
渡海さん、>215についてですが(笑
やはり皮肉でしょう。あなたの真正面はどこにあるやら あはははは
それにあれは言いたいことではなく、聞きたいことでしたから、これも
ぼくのほうが正しくいっていますね。
たまたまここに来て >198 199 210 213 を書きました。
この板の住人ではありませんし、宗派も違います。それでもあなたがおもしろい
ので、またうかがいます。
友人のスレには毎日のように顔を出しています。そのついでに(笑
浄土系ってハンパもんばっかりだなぁ。
渡海さんぐらいだな、きっちりやってるの。あとは駄々っ子、甘えんぼ、アホばかり。
221 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/15 19:52
>>217 >たしかにそうかも知れんなぁ。
心当たりがあるようですね。人生の気付きを与えてくださる方に会えることは貴重な
ことだ。瓢箪から駒ですが、恥ずかしながらも不肖この私が見ず知らずの方のお役に立
つ光栄をいただけたことは、恐れ多いことです。
>だってぇーバカな奴見るの面白いんだもん。
貴方は、2茶で名高いあの渡海教信者ですか。僕は信者などいないと思っていたが、
渡海教信者がいるという噂が、2茶で盛んに言われている。一度話を交わしてみたい
と思っていた。貴方がその御仁かも知れん。
話の次元をチノーレベルで貴方がたレベルに落とした話を盛んにしてきましたから、
喜んでくださっているんでしょう。
>これからもオレを楽しましてね!
貴方のチノーレベルに合わせた話は、これからもいろいろ工夫してみましょう。
222 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/15 19:54
>>218 >渡海さんはウンコとか言わずにレスできないんだな
まあ、金魚のウンコなら可愛いもんだろ。
ヤマタノオロチの首根っこように巨大でしかもほかほかの自分の大便を、自分が肛
門から絞り出してるところをデジタル写真にわざわざとって、教行信証を議論してい
る中からインターネットでその拡大画像を世界中に発信する。そんなお坊様の高貴な
お品には、僕は叶わないからね(笑)。
223 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/15 19:55
>>219 >やはり皮肉でしょう。あなたの真正面はどこにあるやら
<皮肉?。心当たりがない。ま、感じ方は十人十色だろ。>
>それにあれは言いたいことではなく、聞きたいことでした
なるほど。言いたいことと聞きたいことは違うのか。一本参った。アハハ。
>ぼくのほうが正しくいっていますね。 <成る程。見解の相違だな>
>198 199 210 213 を書きました。
198,199は同一人物だったのか。分かってれば、コメントも変わったのに。
掲示板は難しい(苦笑)。
>あなたがおもしろいので、またうかがいます。 <ファンが一人増えたな(微笑)>
>友人のスレには毎日のように顔を出しています。そのついでに
「友人のスレ」じゃ、どこだかわからんな。誤解されやすく言葉の足らん人のようだ。
出し惜しみかな?。
224 :
名無しさん@3周年:03/02/15 20:34
渡海さん、ホント。友人のスレではどこやらわかりませんよね(笑
そのつもりで書いておりますのであしからず。。。
ただですね、何かの時に言葉が足らないというのは思い当たります。
わざとでない限り気を付けます。ありがとうございました。
>217,218へのレス面白かった。 どう捌くのか興味がありましてアハハハ
勉強させていただきます。
このスレは念仏宗渡海会に占領されました。
よって、削除依頼を出しますので以後このスレに書き込まないでください。
===============終了===============
226 :
名無しさん@3周年:03/02/16 05:11
渡海難様
知能が低い私に、ちょっと教えてぴよーーん。
あなたの考えでは【ウ゛ィナヤ・ピカタ】の必要性をどう感じますか。
227 :
名無しさん@3周年:03/02/16 06:07
228 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/16 09:22
>>226 >知能が低い私
<そうでしたか。お気の毒に。知らぬことは言え、ご同情申し上げます。>
>ちょっと教えてぴよーーん。
申し訳ありませんが、知能の低い方にお教えすることはできません。そのような方
の家庭教師を引き受けた覚えもございません。能力もありません。本願寺特殊学級
の先生にでもご相談なさったらいかがでしょうか?。
229 :
名無しさん@3周年:03/02/16 10:07
230 :
名無しさん@3周年:03/02/16 10:50
ポーク・ピカタ
うーん、追いC
231 :
名無しさん@3周年:03/02/16 11:11
自分でする自慰行為
232 :
名無しさん@3周年:03/02/16 16:12
>>228 ガッカリですね。
まさかウ゛ィナヤ・ピカタを知らないはずは無い思いますが。
変わった角度の、意見が聞けると期待していたんですが‥‥
期待はずれでした。
律蔵?
>>232 226=232?
知能程度の低い物知り博士?。
鼻持ちならない奴の典型だ(w。
ポークピカタって、トンペ焼きともいうんだよね。あはは。
チキンの胸肉で作ってもうまいよねえ。
小麦粉をまぶして卵を絡めながら焼く。デミソースがあうねえ。
まあ、もっとも、デミソースなんて家で一から作るのはめんどいんで、
ハインツとかの缶詰(orレトルト)を使うんだけど、赤ワインを1/3ほど加えてから
フライパンで表面が艶々になるまで煮詰めるとおいしいよねえ。
ヴィナヤ・ピカタも、やっぱ、時代に合わせた調理法の一種なんだろうか(w
236 :
名無しさん@3周年:03/02/16 21:39
>>234にしても
渡海難にしても
2chごときで「知能、知能」って、
なんだかなぁー。
それでいて、人の質問には答えられなんだよね。
たいしたものだ。
237 :
名無しさん@3周年:03/02/16 21:43
↑
同意します
律蔵の事も答えられないとは驚き
渡海難も底が知れたな。
238 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/16 23:03
>>236 >2chごときで「知能、知能」って、 なんだかなぁー。
レベルが低い人とも仲良く対話しようと思って気を遣ってるんだよ。
>それでいて、人の質問には答えられなんだよね。
>>226に対する
>>228の件を指しているんですか?。
自分から「知能が低い」と言ってくる奴に回答する馬鹿がいるか?。それとも
渡海難は特別な人間で、そう言ってくるお馬鹿にも、丁寧に答えてやらないとい
かんとでも言うの?。2茶に登場する坊主は、あんたも含めて常識のないアホ
ばかりだな。全く。
それに、僕だって知らないことは山ほどあるよ。僕は神様・仏様ではないか
らね。それともあんたは僕を、神様か仏様とでも思っているのか。そんなこと
思っている奴がいるか?。ああ馬鹿馬鹿しい(爆)。
>たいしたものだ。
<誉めて貰うほどじゃないよ(笑)。>
239 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/16 23:05
>>237 >渡海難も底が知れたな。
今までは底が知れないと思っていたの?。何が底知れなかったの?。底が知
れないと思っていたのは、世界中で貴方ぐらいじゃないの?。あんたもお馬鹿
の片割れか?。
>律蔵の事も答えられないとは驚き
律蔵?。そんなもん知るわけないだろう。他人を買い被るなよ
「本願を信じ、念仏を申さば仏になる。そのほか、何の学問かは往生の要なる
べきや(歎異抄十二章)。」
「座禅して念仏しなさいよ(行の巻)」。親鸞さんはそう言っているんだ。だ
から僕は、「はい」と言ってそうしてるだけさ。僕の仏教は、それ以上でも、そ
れ以下でもないんだよ。
僕の仏教は在家仏教。素人仏教。律蔵なんか知るわけないだろ。
素人に、「律蔵の事も答えられないとは驚き」などというお馬鹿はおとといお
いで。
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」。
戒律が好きなら、好きな人が頑張ればいい。戒律が大事だというなら、237よ、
結婚するなよ。おぬしは女を抱いて戒律の勉強するんか?(笑)。
それに僕は、障害者教育などは勉強してないんだ。知能障害者から教えてく
れと言われても相手なんかできないんだよ。忘れるなよ(爆)。
駄文は行数が多いね
241 :
名無しさん@3周年:03/02/16 23:13
素人仏教がエラソウに物を言うのはどうかと
継ぎ接ぎだらけの引用は見苦しいし
DQNを放置できない厨は逝って来ます。
大杉さんで前が読めないし詰まんない。
242 :
名無しさん@3周年:03/02/16 23:15
<想像>
今頃渡海は一生懸命駄文を書いているものと思われ
</想像>
243 :
名無しさん@3周年:03/02/16 23:16
「最低最悪の人間集団」
「人さらい国家の弁護までして、ワラをも掴む思いの拉致被害者家族と面会すらしなかった冷酷非道下劣な人間のクズ」
「北方領土交渉をぶち壊すようなマネ(ピースボート)」までしでかした上、
「史上最悪の犯罪的非人道的な恐怖独裁体制国家である北朝鮮の傀儡」であり、
「戦後50年執念深く日本の進路を誤らせ続け」
「子供たちから誇りと夢を奪い」
「日本から輝かし未来を奪おうと謀りつづけてきた」
「旧社会党の悪のエッセンスをさらに凝縮させたような最低人間らが集うカス政党」
「社会民主党」を糾弾するスレです。
社民党人士や、親社民党人士の反日盲動や反日プロパガンダ集会・発言の垂れ込み等大歓迎です。
ただいま、社民党人士の親北朝鮮発言および、国民の怒りを無視する卑劣な言動についても常時大募集です!
土井たか子は日本国国会議員として、国民を見殺しにした罪を詫びて潔く切腹しる!
__________
初代スレ「社 民 党 だ け は 絶 対 に 許 せ な い」
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/asia/1032412468/ 前スレ 「社 民 党」 だけは「絶 対」に許せない2
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/asia/1033303345/
244 :
名無しさん@3周年:03/02/16 23:22
>>238.239
おぉー、見事に釣れたなぁー
お見事!!
245 :
名無しさん@3周年:03/02/17 00:10
246 :
名無しさん@3周年:03/02/17 00:11
247 :
名無しさん@3周年:03/02/17 00:12
249 :
名無しさん@3周年:03/02/17 08:28
>>248 多分、皮肉か嫌味だろうな。
当人には通じないので、誉められたと喜ぶ。
いつものパターンです。
みなさん、渡海難と遊ぶスレはちゃんとあるので、
そちらで楽しんでください。
250 :
名無しさん@3周年:03/02/17 22:28
他力の中の自力ってなに?
251 :
名無しさん@3周年:03/02/18 00:54
神は一度も俺を救うことは無かった。
もう徹底的にエゴに任せて生きて行きます。
252 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/18 13:14
>>251 > 神は一度も俺を救うことは無かった。
あんたはどんな風に救われたかったんかね?。救われなかったとい
う貴方の考えの根拠は何かね?。貴方が期待した救いはなかったとい
うことそれ自体が、実は神の大いなる救いだったということはないのか。
下手に救われたら、それこそ本当に救いがなかったんかも知れだろう。
エゴに任せて生きて行くというのは勝手だが、任せきることはエゴに
対しては人は難しいはずだ。エゴに任せるのはいいが、貧乏神、疫病
神、死に神に操られるなよ。
日々真剣な祈りの日々を送ることこそ、幸せの礎となるだろう。座禅
して念仏申せ(行の巻)。
253 :
名無しさん@3周年:03/02/18 22:21
198です。
渡海さん、このごろあまり書いてませんね。^^
やっと全部見えるようになりました。ここ以外ではどちらのほうに
書かれてますか?ぼくは勝手に弟子になっておりますのでよろしく。
やっぱり自力は疲れるから、普通でいいや(w
255 :
名無しさん@3周年:03/02/18 23:35
257 :
名無しさん@3周年:03/02/18 23:53
>>253 「あぼ〜ん」してるんで、渡海難はこのスレに居ないことになってる。
番号が飛ぶんで、何かカキコしているようだが。
258 :
堀松千代。:03/02/19 17:00
カトリックですが、「歎異抄」で一番好きな箇所は、
唯円が、「なんか念仏唱えても浄土に逝きたいと全然思わないんっすよ、、、
自分、全然信仰生活に喜びが無いんっすけど、、、」と愚痴ったら、
親鸞が、「いや、オレもそうなんだ!」とあっさり言うところですね。
この辺は「喜べ!重ねて言う、主において喜べ!」(フィリピ人への手紙)と
連呼している聖パウロとは対象的だけど、、、。親鸞さんの方が親近感がありますね。
259 :
名無しさん@3周年:03/02/19 17:22
カトリックと禅はにていると思います。
どちらも正統派ですが、民間習俗をかなり取り入れている。
そして、プロテスタントと真宗は似ていると思うんですが、
どちらも民間宗教を切っている。
いかがでしょうか。
パウロと親鸞は似てると思ってるんですが。
260 :
名無しさん@3周年:03/02/19 17:27
そういえば「パウロと親鸞」という本があったな。八木誠一だっけ?
261 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/19 18:42
>>253 >ぼくは勝手に弟子になっておりますのでよろしく。
ネタでもこういう発言をしてくれる人が出現してくれることは、単純発想の僕は嬉しく
なる。「自分は弟子だ」という思いを貴方が寄せてる相手方は、僕だけではないんだろう。
小説「宮本武蔵」を書いた吉川英次の有名な言葉に、「自分以外は一切が師」というの
がある。「一切」などというのは僕の場合にはオーバだが、「自分以外は師」という考え
は僕も大事にしたい。パン屋さんはパン粉やオーブンから仕事を教わる。僕らは、お金
を貰うお客さんから仕事を教わる。一切でなくとも、一つでも、二つでも、教われると思
える相手を意識することはいいことだ。教われないような相手に対しても「教われる」と
いう認識を持つことは、しばしば人を育てる。
貴方が教わろうとするものが、十あるのか、百あるのか知らない。数は問題じゃない。
学生さんなら学校の先生などは当然その筆頭だろう。新聞、テレビなどから教わることも
ある。親兄弟、親友からも教わるだろう。みんな師なる。そんな中の一つに、後のない末席
の末席に辛くも僕を列してくれている人がいるという事は、ネタでも冗談でも、嬉しくな
る。宗祖は、弟子一人も持たずと言っている。それを考えれば、「師(し)」ではもった
いないな。僕は、「桟(さん)」か「似(に)」、まあせいぜい「市(いち)」ぐらいで
も十分だ。冗談でも弟子になっていると言ってくれているんで「例(れい)」ではないと
ころが光栄だ(笑)。
貴方が評価してくれているのは、僕自身ではなく、僕の口から出ている南無阿弥陀仏だ
と僕は思っておく。僕そのものはデタラメだからね。デタラメな僕の口から出ているこの
南無阿弥陀仏だけは、本籍極楽浄土、間違いなく僕を導く真実だ。僕はそう思ってる。
262 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/19 18:44
263 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/19 18:47
>>254 >自力は疲れるから、普通でいいや(w
貴方は、エゴで生きることを自力と勘違いしているのか?。他力は疲れない生き方だと思
っているのか?。ひょっとして貴方も坊さんか?。貴方は仏教を誰から教わったんだい?。
坊さんなら、一度坊さんをやめた方がいい。貴方向きのまともな仕事があるだろう。貴方は
貴方向きの堅気な仕事をしながら一から仏教を勉強し直しなすといい。
自力とはエゴで生きること。他力は疲れない生き方。こんな風に思ってるんなら、坊主の
資格はないだろうよ。どうだい、ほかの門徒の方々よ。254に坊主の資格があると思う
か?。無いと思うか?。
>>257 「あぼ〜ん」してるんだろ。渡海難のことは気に掛けなさんなよ。
「あぼ〜ん」してると言うと、僕の声は届かないということかな?。
〔ちょっと試しに 「オバカサン」。キコエタ?冗談よ(笑)。〕
264 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/19 18:49
>>258 名前:堀松千代
>親鸞さんの方が親近感がありますね。
貴方はカトリックなんでしょう。僕も、宗教の出発点はカトリックなんですよ。子供の時は
カトリックの教会に通っていた。神父さんから、神父になるかと、冗談めいて聞かれたことも
ある。
カトリックはおかしな宗教じゃない。親鸞への親近感は結構だが、見当違いな脇目は余り
振らず、貴方はしっかりとカトリックを学んで行かれるのがいいんじゃないですか?。
>パウロと親鸞は似てると思ってるんですが。
似ているものはいくらでもいる。ブッシュさんと金正日さんは似ているし、プーチンさんと
小泉さんは似ているし、マザーテレサさんとヒットラーさんも似ているし。ヨハネ・パウロ二
世さんと麻原彰晃さんも似ている。誰と誰が似ているか似てないかということは生産性のある
議論じゃないと思う。
貴方は比較宗教学でも専攻されてる方ですか?。そうでもないなら、先人の主張などは一日
も早くマスターし、マスターしたらそれを土台に、本来の自分のライフワークにしっかりと取
り組む方が社会的には有意義でしょう。
265 :
名無しさん@3周年:03/02/19 19:37
198です。
渡海さん、お返事ありがとうございました。
早速ホームページをお気に入りにいれました。
>261の「一切が師」という言葉はホントに有名ですね。
ぼくはあなたからたった一つのことを学びたいと思っております。
また出し惜しみで、それが何かは申し上げません(笑
今から食事です。また伺います。 ペコリ
266 :
tohtoshi@message:03/02/19 19:52
宗教家やその団体活動は本来、真理を知らせる伝道という愛行であったのですが、道を誤り矛盾もあります。
教団の幹部による利己心から派閥争いが始まり、仲違いをしている場合もあります。
偽善的な宗教には民衆を幸福へ導くためだと称して、宗教家(教祖)の偉大さや権威を示そうと
必要以上に巨大で絢爛とか華麗な崇拝像や建造物を築いたり、人や金集めの大イベントを計画実行したり、
専任のセールストークに長けた巧妙な話術で真理に疎い人々の目を晦まして信者を獲得したり、
或いは信者を惑わしたりして、多額の奉納金を要求して教団の勢力を伸ばすこととか、利益を
追及しようと躍起になっている一部の団体もあり遺憾に思います。
この件に関する説明が当HP↓にあります。
http://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
267 :
NB ◆YIoCB90ZbI :03/02/19 21:30
>>259 うーん。渡海さんの冴え渡るカキコにはかないませんが。(いや、正直。
親鸞聖人のお念仏のコアはChina国の曇鸞大師ですからねえ。
キリスト教はあんまりよく知りませんが、プロテスタントと曇鸞大師
が似ているとお考えになるならば、少なくとも教義上は似ていると
言えるでしょう。って、そういう言い方が何を意味することになるのかは、
あなたさまのお考えにお任せしますが。(いや、いいかげんでスマソ。
「民間宗教をきる」のは、むしろ釈尊のバラモン教否定のスタンスに近いの
かもしんない。…とも、思ってみたり…。って、あ!これはプロテスタント
も同じなんでしょうか?
まあ、曹洞宗の『修証義』は真宗教義に似ているとも言えますしね。
ただひたすらに座禅(只管打座)の道元禅師からも、あるいは親鸞聖人
のような方が生み出された可能性もあるかもとか思いますしねえ。
良寛さまや鈴木大拙師のような例もありますし。
というわけで、以下↓、曇鸞大師の『浄土論註』よりコピペ。
「帰命無礙光如来願生安楽国」といへり。このなかに疑あり。疑ひていはく、
「生」は有の本、衆累の元たり。生を棄てて生を願ず、生なんぞ尽くべきと。
この疑を釈せんがために、このゆゑにかの浄土の荘厳功徳成就を観ず。かの浄
土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときには
あらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清
浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。生まことに
無生なれば、生なんぞ尽くるところあらん。かの生を尽さば、上は無為能為の
身を失し、下は三空不空の痼[廃なり。病なり]に<よ>[酔なり]ひなん。根敗永
く亡じて、号(さけ)び三千を振はす。無反無復ここにおいて恥を招く。かの生の理を
体する、これを浄土といふ。
乃至。
国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。
一法句に入るを略となす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏・
菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身
によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は
異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、
統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利
利他することあたはざればなり。
一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身なるがゆゑなり。
この三句は展転して相入す。なんの義によりてか、これを名づけて法となす。
清浄をもつてのゆゑなり。なんの義によりてか、名づけて清浄となす。真実
智慧無為法身なるをもつてのゆゑなり。「真実智慧」とは、実相の智慧なり。
実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。「無為法身」とは法性身なり。法
性は寂滅なるがゆゑに、法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざるはなし。
このゆゑに相好荘厳はすなはち法身なり。無知のゆゑによく知らざるはなし。
このゆゑに一切種智はすなはち真実の智慧なり。真実をもつて智慧に目くるこ
とは、智慧は作にあらず、非作にあらざることを明かすなり。無為をもつて法
身を標すことは、法身は色にあらず、非色にあらざることを明かすなり。非を
非するは、あに非を非するのよく是ならんや。けだし非を無みする、これを是
といふ。みづから是にして待することなきも、また是にあらず。是にあらず、
非にあらず、百非の喩へざるところなり。このゆゑに清浄句といふ。「清浄
句」とは、真実智慧無為法身をいふなり。
>>270 ここはあなたのWebの宣伝スレではありません。
逝ってよし。
一切が師なら言うこときいてね(ハァト
272 :
名無しさん@3周年:03/02/20 18:35
>>270 宣伝なのにsageでカキコするくらいなんだから、自分に自信がなくてどうでもいい内容なんだろ。
273 :
tohtoshi@message:03/02/20 19:19
宗教家やその団体活動の目的は本来、諸聖人の示された神仏に基づく教えの真理を知らせる伝道と
いう愛行であったのです。そして伝道者自らが真理を体得して実践しつつ、慈悲の精神を他者に
移し植えることで、その人の精神を利己心から慈悲心に立て替えさせ、自発的に愛行へ目覚めて
人心を開発して救済することでしたが、一部には道を誤り矛盾もあります。
目先のご利益を目的とした信心では神仏の世界へ心は通じないものです。
真理を教義する宗教は科学的であり、人々を欺くようでは解散する必要があるでしょう。
犯罪やテロ活動、戦争などが世界中で蔓延るのは地球が不良星であり煉獄だと言われている。
この件に関する説明が当HP↓にあります。
http://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
274 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/02/20 19:31
>>270 前に、このHPはブックマークしといたと思うたのですが、ついついなくなってました。
今度はしっかり「お気に入り」に入れときます。
>>271 >ここはあなたのWebの宣伝スレではありません。
<情報提供しただけです。271は逝ってよし。>
>一切が師なら言うこときいてね(ハァト
師というのは、弟子が右から左に言うことを聞いてくれる存在だと思ってるのか?。
仏に会えば仏を殺し、祖に会えば祖を殺し、師に会えば師を殺す。師との出会いは真
剣勝負だ。
先祖の墓を質にとられた檀家なら坊主のいう事をほいほい聞くんだろう。布施の多寡
は封筒の厚みで目踏みし、厚みが薄いと「お間違えでしょう」と言って突き返すそうじゃ
ないか。相手は恐縮し、檀家は慌てて増額してくるというのが2茶で聞いた話だ。
アホな甘えが通る世界が世界の全部じゃない。匿名掲示板でさえ坊主を名乗れず、
親子代々仏教の「ぶ」の字も分からず、甘えた道化を演じる道化坊主は、地獄の釜が
口を開いて待ってるだろよ。
ところであんたはどんな話を聞いてほしいんだい?。
>>272 >どうでもいい内容なんだろ
謙遜の美徳というもんですよ。こんなことを僕に言わせるあんたは、美徳を知らな
い野暮な人だ。
276 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/20 21:48
これは下げる必要がなかった。
アゲ(苦笑)。
>>275 ここはあなたの情報提供のスレではありません。
逝ってよし
>>276 下げといて人の書き込みを見て上げなおす。
カコワルイ
>276
今時「逝ってよし」だってよ(プ
今2chでその言葉使ってる人いないよ。
おっさん、時代に取り残されてるね。
280 :
名無しさん@3周年:03/02/21 14:05
>>270
髑髏仮面って人、真宗だったのか!
281 :
名無しさん@3周年:03/02/21 14:06
387 :髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/02/19 09:07
おまえたち、嶺南の猿には仏性がない。
仏性のない猿が仏になろーとは・・・こりゃおかすいわい(ワラ
っさっさ、早く立ち去るがよろしかろう。
母の面倒でもみるのが猿の役目じゃわい。
388 :名無しさん@3周年 :03/02/19 11:21
>>387 パクリ人生だわな、相も変わらず。
389 :チーン :03/02/19 14:34
言ったもんの掲示板だもんなー ドクロちゃん、いい時代に生まれてヨカッタナ
周りは、えらい迷惑なんだが・・・・
283 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/02/21 14:51
>>280 妙好人才市のよーな、自力で駄目なら他力。こんな柔軟な発想の人間が好きですね。
ドグマに拘束される方のが弊害は大きい。
かように思ふ。
284 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/21 19:16
>>277 >ここはあなたの情報提供のスレではありません。
<僕のことは大きなお世話だ。嫌ならあんたが目をつぶれ。>
>>278 >カコワルイ
格好が目的で書いてるんじゃないよ。おぬしは格好で坊主になったのか?。(爆)
誰が見ても宗教界に似つかわしくないあんたみたいなアホタレは、職業変えした
方が身のためだ。社会のためだ。本当のことをこんな風に勧めることこそ、目的に
近いな。
278よ。おぬしも坊主だろう。仕事を変えたらどうだい?。まだ若いんだろう。
宗教家なんかはあんたには今も将来も向かないぞ。あんたは宗教家向きじゃない。
それとも、宗教家に向いていると自分のことをあんたは本当に思ってるのか(爆)。
向かない仕事と言うことは百も承知で、仏教の「ぶ」の字も分からず、恥を忍んで
一生、宗教界に囓り付いていくおぬしの惨めさ。お主は馬鹿だね(笑)。
>人の書き込みを見て上げなおす。
<270で書いたときのSAGEチェックを外すのを忘れていただけだよ。>
285 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/21 19:17
>>279 オーイ277よ。お前のように、逝ってよしなんて言うと、お馬鹿なんだとよ。
馬鹿か、馬鹿でないか、279に何か言ってやれ。
素質を見れば全く宗教家向きじゃない奴が、親の惰性で坊主になって、「時代に
取り残されてる」なんていうセリフもないもんだ。お前は自分が時代の先端を行っ
ているつもりか。バカメ(爆)。
>>283 >自力で駄目なら他力。こんな柔軟な発想
<う?。 苦笑>
286 :
名無しさん@3周年:03/02/21 19:27
>
>>283 >>自力で駄目なら他力。こんな柔軟な発想 <う?。 苦笑>
何だ渡海、らしくねーぞw はっきり言ってやれw
287 :
名無しさん@3周年:03/02/21 19:49
髑髏さんも渡海市匠がお好きなんですか。。。
桟だの似だのはあまりに悩ましい(笑 例はありえない。
数は市から孔までですから「孔」でもいいのですが^^
孔は、ここに極まるという一番大きな数です。
288 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/02/21 20:42
ああ、これはすまんこってす。
どうもスレ汚しをしたようで・・・。
気楽にカキコしたつもりなんですが、まあお気を悪くなさらんで続けて下され。
戯言と・・そう思ってくだされ。
まあ、ほんまにすまんでつ(^^)
289 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/21 20:53
>>286 >らしくねーぞw はっきり言ってやれw
髑髏さんは禅宗に軸足を禅においてるんだろう。真宗教義などは大きなお世
話だ。どうでもいいことだ。自力他力論は、真宗の独占物じゃないよ。 カトリッ
クの人が真宗教義を勘違いしてても、問題ないのと同じだ。
禅宗に立つ人は禅をすればいい。禅者に真宗教義を押しつけても生産的じゃ
ない。僕が何かを言えば、どうしても僕流の親鸞理解に縛られる。
それより、どうみても宗教家に向かない奴が、親の都合で坊主にさせられ、仏
教の「ぶ」の字も知らないくせに、無茶苦茶な自力他力論を振り回す真宗坊主の
方が問題だ。
>>288 髑髏さんらしくもない。何を気になさってるんですか?。
気楽にカキコしていけなかったら、僕なんか、一言も書けなくなる。
僕が書けなくなることを望んでるアホタレ坊主は多そうですけどね(笑)
2茶は、自由ところが取り柄でしょう。
291 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/02/21 21:15
>>289 >髑髏さんらしくもない。何を気になさってるんですか?。
ああ、これはどーも圧倒されちまいますね。
妙好人においても、私の考えてるものとは違うかもしれんし、
やはりそのベースが違うとdだ論議にもなりかねぬ。
妙好人は真宗の専売特許でしたね(笑
ッハ、と気が付いたしだいです。
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4.
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1.
宗教板の仏教系ヴァカコンビ
293 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/22 09:01
>>292 > 宗教板の仏教系ヴァカコンビ
ヴァカは誰かは、鏡を見てからカキコしろ。
おぬしも宗教家なんだってな(爆)。聞いて呆れ返るぞ。宗教家の素質などかけらも
ないくせに、親の惰性に乗せられて、いつまでもいつまでも坊主を続ける惨めさ。恥を
知れ!。宗教界、仏教界の恥さらしメ!!。
親・子・孫と、代々、仏教の「ぶ」の字も分からんくせに、先祖代々、バカタレ宗教
家を演じるサル真似一族の切れっ端。坊主なんかやめちまえ。
外国車が欲しいと言えば、あんたらは檀家にねだるそうじゃないか。2茶で聞いた話
だ。自分の肛門がほかほかの大便を絞り出してる写真をインターネットで世界中に発信
したいと言えば、高級デジタルカメラも喜んで布施してくるそうだ。世の中には、生活
に困って餓死する人もいる。そのくせ、自分達は頭さえ隠していれば、尻と大便を丸出
しにした破廉恥写真をインターネットの教行信証論にアップで展示しても、謝ろうとさ
えしないアホ坊主もいる。おぬしらは、布施の多寡は封筒の厚みで目踏みし、厚みが薄
いと「お間違えでしょう」と言って突き返すそうじゃないか。相手は恐縮し、檀家は慌
てて増額してくるというのは2茶の坊主から聞いた話だ。ドロボウメ。
匿名掲示板でさえ坊主を名乗れず、遠吠えカキコしかできないくせに、先祖の墓を質
にとってる限り、大黒柱が首を吊った檀家で葬式すれば、檀家からは布施が右から左に
転がり込んでくる。ノータリンのくせに他人の家に行けば、まっさらの座布団が置かれ
た上座に真っ先に据わって同席者を見下すそうだ。他力は疲れない生き方だと思ってい
れば、どんなに呆けていても、質をとられた檀家は三度の仏が、四度、五度の仏になり、
ほいほい言うこと聞いて自分らを生かしてくださる。三度の仏のお陰で、一族は末代ま
で楽しくおかしく生きられるそうだな。ドロボウメ。
先祖の惰性に便乗した自分達のアホタレ世界だけが世界の全てだと思うなよ。あんた
らには、地獄の釜が口を開いていることを忘れるな。
294 :
名無しさん@3周年:03/02/22 09:24
肛門の写真を撮影するのの何処が悪いんだろう。おおいにやったらよい。
そんなことでいちいち騒ぐのはケツの穴が極小なのだろう。
>>293 朝っぱらから人格が壊れたオッサンが暴れてますな。
何か人生で嫌なことがあったんか?
296 :
名無しさん@3周年:03/02/22 09:38
その坊さんは2ちゃんねらーの手本とすべき人ですよ。素晴らしいではありませんか。
法や規則をおそれず、果敢に人間の真実を訴える、これは道に殉ずる人ですよ。
もし自分の所在をつきとめられ脅されでもしたらどうしよう、と考えるていると決して
できることじゃないです。僕もチンコ画像を公開したいのは山々ですが、その可能性を
考えると二の足を踏んでしまいます。変態写真を堂々と公開の場所に陳列することが
あなたにできますか?
>>296 確かに2ちゃんねら〜の手本ではあるが、人間として尊敬することはどうしても出来んな。
298 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/22 10:24
>>296 苦笑 ブラックユーモアか?。
まあ、バカタレあんたの本心と考えておこう。
>僕もチンコ画像を公開したい
坊主をやめて、アダルト俳優にでもなったらどうだい?。
浄土真宗アダルト映画親鸞社。こういう会社があってもおかしくないよね。
オーイ。本願寺の大谷さんよ。あんたんところに、チンコ画像を公開したいと言って
いる奴がいるようだ。自分の所在をつきとめられ脅されでもしたらどうしよう、と考え
て二の足を踏んでいるそうだ。可哀想とは思わんか。
どうせ仏教なんか分からんやつだ。死んだ人間を相手にするよりも、生きたぴちぴ
ちした坊主の珍子を映画にして売った方が儲かるんじゃないか?。あんたんとこで許
可すれば、そいつは喜んで堂々と商売できそうだ。人を救うつもりで許可したらどうだ
い?。
そいつは、どこの本願寺系か分からんと言うかも知れんが、どこの本願寺でも、そ
んなバカタレはたくさんいそうだな。
>>297 お気持ちは痛いように突き刺さってくる感じです。
誰にでも露出願望はあります。
それを否定するようなことを言って偽善ぶってもダメ。
ほんとうはチンコを露出したくてたまらないから否定的になっている。
自分の本心に素直になりましょうね。
チンコやウンコの画像に拘ってる偽善者が一番醜いですよ。
排泄画像を配信してスッキリすることをお勧めします。
300 :
名無しさん@3周年:03/02/22 12:20
渡海 難 の姓名判断
渡海 難
○○ ○
1311 19
総運43△ 才能あるが認められづらい。異性で身を誤る暗示。誠実に生きれば幸運に。
人運30× 勘が鋭く博打運強い。一攫千金願望あり。そのためか犯罪傾向も。
外運32◎ 周囲の助力で幸運を得、温和で平穏な家庭が築けます。
伏運49◎ それほど悪くはない運数です。
地運19△ 天才肌、挫折、障害、浮沈運。
天運24○ 自然に円満に発展していく家柄。
陰陽 × 良くない配列です。犯罪傾向や突然の不運に襲われる傾向があります。
>>297 渡海に同情されて可哀想(´・ω・`)
>>298 >浄土真宗アダルト映画親鸞社
ここに親鸞の名を使ってしまうあたり、本当に親鸞に
心酔している訳ではなく、単に自分の向きに合った発
言をしたというだけの祖師と捉えているのではないか
と思ってしまう。
多分本人は認めないだろうが、客観的にはそうなのだ。
しかし相変わらず人を坊主呼ばわりして毒舌を吐く。
この辺はカルト(崩れ)の特徴そのものだなぁ。
>>301 君に哀れんでいただく謂れも無い。渡海氏よりアホそうだからウザイ。
渡海氏は親鸞上人を心の底から尊敬していると思うが、酔いつぶれてはいない。
盲目的に心酔し、他を排斥する輩よりよほど上等だろう。
なに言っての?
皆どっちもどっちじゃないの?
上等も下等もねーよ。あはは。
>>302 渡海は盲目的に曲解し、他(人を真宗坊主とキメツケ)を排斥する輩でしょ(w
305 :
名無しさん@3周年:03/02/22 23:50
>>300 この部分が当てはまってる!
↓
>総運43△ 才能あるが認められづらい。異性で身を誤る暗示。誠実に生きれば幸運に。
>人運30× 勘が鋭く博打運強い。一攫千金願望あり。そのためか犯罪傾向も。
>陰陽 × 良くない配列です。犯罪傾向や突然の不運に襲われる傾向があります。
306 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/23 08:30
>>299 >誰にでも露出願望はあります。
馬鹿言うな。おぬしに悲しい露出願望があるからと言って、それが誰にでもあるなんて
思ったら大間違いだ。汚らわしい。バカタレメ。
>偽善ぶってもダメ。
馬鹿言うな。おぬしに悲しい露出願望があることと、他人の偽善とは関係ねぇだろう。バ
カタレメ。
>露出したくてたまらないから否定的になっている。
自分と他人とを同じにするな。おぬしに変態欲求があるからと言って、他人を同じと思うな。
バカタレメ。
307 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/23 08:31
>素直になりましょうね。
変態欲求のない人間が変態を演じても、そんなことは素直になることじゃねぇん
だよ。バカタレメ。
>画像に拘ってる偽善者が一番醜いですよ。
他人に無礼をはたらいた奴は、謝るのが当然だろう。
組織の中に破廉恥漢がいれば、それを野放しにしないのが現代社会だ。宗祖の御
本典に糞泥を塗る坊主を野放しにし、まともな教育もできない教団は、恥を知れと
言いたいんだ。ろくに坊主教育できない教団は、解散しちまぇ。
>排泄画像を配信してスッキリすることをお勧めします。
こんなことをして誰がスッキリすると言うんだ。変態のおぬしがスッキリするか
も知れんが、スッキリする奴の何十倍、何百倍もの人が、不快感を覚えることを忘
れるな。
自分だけが生きている世の中と思うな。バカタレメ。てめぇは仕事を変えろ。
汚らわしいケダモノメ。目をさませぇ。バカヤロー。
309 :
名無しさん@3周年:03/02/23 09:45
やっぱり渡海は壊れてる。
310 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/23 09:59
>>310 変態ケダモノ坊主を放牧する変態教団は、もっともっと、もーーーっと汚らわしい。
312 :
名無しさん@3周年:03/02/23 16:33
肛門もチムポもマムコも神がつくったのですよ。
性欲は神が与えたものですよ。
自分のことを変態であると認識できないトカイナンでさえ成仏できるという話だ。
どうして彼が変態坊主たちを裁くことができるのか大変疑問である。
監視所設置
314 :
名無しさん@3周年:03/02/23 21:32
市匠様、楽しく拝見させていただいております。
当分の間ギャラリーで過ごさせていただきます。ペコリ
315 :
名無しさん@3周年:03/02/23 22:16
このスレは渡海難と遊ぶスレですかw
削除依頼出しときますよ。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
316 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/23 22:52
>>312 >神がつくった
>神が与えた <豆腐の角に頭ぶつけて死ねよ。>
>成仏できるという話だ。
成仏なんて大きなお世話だ。したけりゃあんたがすればいい。アンタが成仏すれば、そ
れが本当の救いの無さだ。あんたは、地獄に落ちにゃ救われんぜ。
>>314 >当分の間ギャラリーで過ごさせていただきます。
2茶では傍観者で一向に構わなんが、出るところに出れば、違った態度をとる人であっ
て欲しいもんだ。
>>294-296,
>>299-301,
>>303-305,
>>308-309,
>>312のようなバカタレがどうして教団
に巣くってるのか。形だけでも親鸞を宗祖と呼ぶ教団に、いつからこういうアホタレが
現れるようになったのか、真剣に考える人になって欲しいもんだ。
教行信証に墨を塗り、インチキ教義を垂れ流せば、育つ人材も腐敗する。
317 :
名無しさん@3周年:03/02/23 23:02
このスレを立てた者です。
渡海さん、お願いですからこのスレを荒らさないで下さい。
非常に迷惑です。
あなたの発言のおかげで、まともな議論ができなくなったじゃないですか。
このような展開になってしまって非常に残念です。
以後、あのような暴言を繰り返すようでしたら、このスレには二度と来ないで欲しいです。
318 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/23 23:14
>>317 > 渡海さん、お願いですからこのスレを荒らさないで下さい。
<はて?。心当たりがない。>
> 非常に迷惑です。 <不愉快な言いがかりだな>
> あなたの発言のおかげで、 <言いがかりだな>
>まともな議論ができなくなったじゃないですか。 <できてるじゃないか。>
> このような展開になってしまって <どのような展開になったの?>
>非常に残念です。 <随分身勝手な坊主だな。おぬしも変態か?>
> 以後、あのような暴言 <どのような暴言??>
>このスレには二度と来ないで欲しいです。
あなたが会員制の秘密掲示板でもを作りなさいよ。僕はそこには行かないから。
他人のことを勝手に変態坊主などと決めつける妄想親父こと渡海難は(・∀・)カエレ!!
320 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/23 23:30
>>319 言われて悔しいと思ったら、たまには教団のドブ掃除くらいしなさいよ。
ネズミやゴキブリは自分達で駆除しなさいよ。
親鸞がないてるぞ。
321 :
名無しさん@3周年:03/02/23 23:50
>渡海
._,,,,,,。,,、 广'x、 ,,、._ 」'゙''i、
,,,,,_.,,,,、广゚┐ .,,,v―冖"~゛ ゙'i、 .ト ,|,_ riゃ .} .,i´ '冖i、
.] ` f゙,l° ,i´ .゙l_ .y-┐ 'や'゙"゙’ _,,,vr" .゙ト.゙'x,,,,广 ィ・'''゙~ .._,,v・゚ヒ''''・x、
入、rУ ,iレ-v,,,、 .,r°."'''l゙ ,|√゙゚'i、 匸 ._ .y・'゙゚,,,v―-, .:゚ーa .√ ._,rll_ :}
.,r''y|゛゙゙l..,i´ ,i"゙l, .゙ト ,r°,,, .., ._,,vぐ .`√ .,i´l广._,,,,,,,,i´ ,,i´ ,i´ ,「 .:| .~''''″
.r″ .|゙l、 “ .,i″.yi入-イ il∠i、.` .,メ| | 」'ト .,,i´ .,i´ ,, ̄ .[ .,i´.,,,,,,! .]_
.゙l_,i´,レ .'_,,,,レ ~''┐ .,r°.,i´.| .| ,l゙ :゙l、 ,,i´ ,i´ l゜.゚L__ .:―ヤ゚″_ :~''=、
.,r″.,x=,, .,i´ ,x'".,,x'″ .゙l、 ゙冖''″ .] | .,i´ .゙l, .~1 .゚L '゙〃 ,n, .,,}
.,l彡'''″ .゙~"''''''''''"゜ .テ''~゛ .:゚'―---―・° ―″ .~''¬―'″ .:゚=_,r
______
| |.| ∧∧
=====(,,゚Д゚)∩=
|_|.⊂ ノ
/ 0
し´
\ えっ…と、糞スレはここかな…、と /
 ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧ ∧∧ __._
∩゚Д゚,≡,゚Д゚) |.|
`ヽ |)====
| _ |〜 .|__|.|
U U
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌─┴┴─┐
/ つ 糸冬 了 .|
〜′ /´ └─┬┬─┘
∪ ∪ ││ _ε3
゛゛'゛'゛
323 :
名無しさん@3周年:03/02/24 12:35
>>317さん
あなたは「太極」という言葉をご存知でしょうか。
太極とは中心のことです。あらゆるものは、その大小にかかわらず、太極が
生じ、太極の周りに秩序あるシステムが作られるといわれています。
例えば、大勢の人がいて勝手に振る舞っているときは混沌とした状態ですが、
誰か強い者が現れ号令をかければ、その人を中心として全体が統制のとれた
動きをすることになります。
人間社会には必ず中心となるべき存在があり、リーダーシップを発揮しています。
一つの国では大統領や首相、会社では社長、学校では校長、家では一家の主人が
「太極」としての役割を果たすわけです。人間だけでなく物にも太極があります。
あなたが>317であのようにおっしゃるからには、太極としての自負心がおありな
のでしょう。ここまでの間にどのように努力されてこられましたか?
渡海市匠に代わられてしまって、あの泣き言は「太極」としてはお粗末です。
きっちりと議論で白黒をつけるのが上等というものです。
わたしは渡海市匠の押し掛け弟子ですが、宗派も違いますし在家です。このすれ
楽しみに通っております。
>>323 渡海の弟子を名乗って自作自演するな、渡海
太極思想を誤解されていると思います >323
326 :
名無しさん@3周年:03/02/24 14:20
>>323 お前は太極拳でもやっとれw
つーか渡海信者は2chに来るな!迷惑だから。
327 :
名無しさん@3周年:03/02/24 18:59
レスが付くって嬉しいもんですね。それにしても、317さんはもっとましな
レス書く人かと思っておりました。折角ですからお返事さしあげましょう。
>>324さん
市匠と間違われるなんて、光栄のいったりきたりです。ホント
>>325さん
太極思想ってあるんでしょうか?初めて聞きました。
是非ご説明をお願いいたします。
>>326さん
太極拳ですか。。。いいですね。やはりこれも中心を定めるといった
意味合いがあるんでしょうか。。お詳しそうですね 教えて頂けませんか。
あぁ いけませんね。スレ違いですね。でも歓迎していただいて嬉しいです。
>>327 >それにしても、317さんはもっとましなレス書く人かと思っておりました。
>>324-326の中に
>>317がいるとでも思ってるのか、このバカは。
バカの弟子って本当にバカ師匠と性格が一緒だなw
327は某糞コテハンです。レス読んでわかる通り、目立ちたがりのアフォです。相手にしないように。
330 :
名無しさん@3周年:03/02/25 00:29
仏教徒なら首相や大統領や社長や家主を「太極」にするのではなく、
ブッダとブッダの教えとブッダの仲間を「太極」にしたいものだ。
また太極バカが一人増えましたので、
自力vs他力vs太極(拳)
でもいいことにしますw
また糞野郎が出現しましたので、
自力vs他力vs太極(拳)vs極太(糞)
でもいいことにします
327はイタイな。
師匠が師匠なら弟子も弟子だな。
師匠は偶にいい事言うこともあるが、大概は煽りかナナメレスしかしねぇし。
偶に良い事言うのなら、かなり上等じゃないの?
良い事まったく言わない煽り糞人間よりは。
何だよ上等って。おまえもダメだな。
>>335 何故「上等」はダメなのか説明できる?頭悪そうなお方だけど。
渡海の場合は人格そのものがダメ。
平気で他人を坊主と勝手に決めつけるから、良い事を言っても信頼できない。
338 :
名無しさん@3周年:03/02/25 20:08
317さんはまだお見えではありませんね。
市匠様、以下の方々へのレスお願いできますでしょうか。こちらでも用意いたしますが
あなたのレスを見てみたい(笑 ただしここには書き込みません。
>328〜>337の方々へよろしくお願いいたします。
341 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/02/25 21:58
>>338 苦笑。 どうぞ支障なく、あなたが自由になさればいかがですか?。
342 :
名無しさん@3周年:03/02/25 22:03
>>341 自由にでしょうか。。。はぁ、糞の飛沫に言う言葉が
あはははは 飛沫への言葉はあなたまかせでいかがでしょう
343 :
名無しさん@3周年:03/02/26 22:02
あらら。。。完全なるスレストッパー。
わたしのせいでしょうか。 あははは
317さん、スレ捨てて逃げましたか?
お ま い ら の せ い で つ 。
>>343=342=338=327=323=314=287=265=253=224=219=213=210=199=198
ズバリお前のせいだ!お前と渡海のせいでこのスレは廃墟となった。
ところでお前は
>>317=1のどこに惚れた?
奴がこのスレを捨てたのも全部渡海とお前が原因だぞ。
お前のIP及び個人情報はひろゆきの協力により監視所が入手したからな。覚悟しとけ。
>>345 お前の1P、クラッカに渡しといたぞ。プロキツしょぼ、だと。
347 :
名無しさん@3周年:03/03/05 21:44
渡海さん、他力とは、あなたで自力とは、わたしとしてよろしいのでしょうか?
348 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/06 17:10
>>347 貴方の仰っていることがよく分かりません。
何をお聞きなさりたいのでしょうか。
【不幸のスレ】
このスレを見た人間は十三日以内に死にます。
※あなたに訪れる死を回避する方法が一つだけあります。
それはこれと同じスレを一時間以内に7つ、別の板に新規作成する事です
■■■■圀■■■■■圀■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■圀圀■■■■■圀■■■■■■■圀圀圀圀圀圀圀圀圀圀圀圀■■
■■圀圀■■■■■圀圀圀圀圀圀■■■■■■■■■■■■■圀圀■■
■圀圀■■圀■■■圀■■■■圀■■■■■■■■■■■■圀圀■■■
■■圀■圀圀■■圀圀圀■■圀圀■■■■■■■■■■■圀圀■■■■
■■■圀圀■■圀圀■圀圀圀圀■■■■■■■■■■■圀圀■■■■■
■■圀圀■■■■■■■圀圀■■■■■■■■■■■圀圀■■■■■■
■■圀■■■圀■■■圀圀圀圀■■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■圀圀圀圀圀圀■■圀圀■■圀圀■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■■■■圀■■■圀圀■■■■圀圀■■■■■■■■圀■■■■■■■
■■圀■圀■圀■■■■圀圀■■■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■■圀■圀■圀■■■■■圀圀■■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■圀圀■圀■圀■■■■■■■■■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■圀■■圀■■■■圀圀圀■■■■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■■■■圀■■■■■■圀圀圀■■■■■■■■■■圀■■■■■■■
■■■■圀■■■■■■■■圀圀■■■■■■圀圀圀圀■■■■■■■
351 :
よんく ◆/cGW.CSzzM :03/03/06 21:50
>>348 あなたが>16でおっしゃてることです。わたしは弟子ですから。
今から他力、自力を勉強しょうと思っております。他宗派のことですが
わたしは、親鸞上人を尊敬しておりますので。
352 :
名無しさん@3周年:03/03/06 23:44
自力vs他力ってバカみたい。
自他力そろって完璧なんだよ。
353 :
名無しさん@3周年:03/03/07 09:19
両方揃うってどういう意味?
354 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/07 19:10
>>351 >あなたが>16でおっしゃてることです。
なるほど。分かりました。「あなた」とか「わたし」という言葉の意味がつかめません
でした。マジレスなのかネタレスなのか、迷ったわけです。マジにはマジで対応しますし、
ネタにはネタで対応します。
真剣な問いであれば、それなりの対応をします。自力・他力の概念は、古義と親鸞
後の新義とでは、一応分けて考えるべきでしょう。古義についての議論は、上の方で
行いましたから、今後、親鸞流の新義を考えていこうと思います。親鸞は非常に幅広い
概念を付与しています。
>わたしは弟子ですから。 弟子?。 苦笑。
>今から他力、自力を勉強しょうと思っております。
僕の考えが参考になるかどうか分かりません。ネタに毛が生えた程度の参考意見としてご
理解いただければ幸いです。
>他宗派のことですが <宗派は関係ないでしょう。僕は無宗派。いわば僕も他宗派です>
>わたしは、親鸞上人を尊敬しておりますので。 <なるほど。>
355 :
名無しさん@3周年:03/03/07 20:44
>>353 つまりですね、本来自力と他力を分かつことは出来ないということです。
もう少し付け加えると、自分が自力と思ってるものは実は他力だという
ことです。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人・渡海難とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
357 :
名無しさん@3周年:03/03/07 21:23
大した男だな渡海は
358 :
よんく ◆/cGW.CSzzM :03/03/07 21:25
>>354 渡海さん、お返事有り難う御座いました。仕事も一段落いたしましたので、
毎日伺えると思います。もう一度スレ前半よく読み直してみます。
HNを出したのは、私が書くとあなたのジサクジエンだという方がいらっしゃいますので、
教わる立場としてそれでは申し訳ないことですから。。。
>355
ご返答ありがとうございます。
私は法然さんも親鸞さんもその教えを学んだことがありませんので、
「阿弥陀様におすがりする=自力」となるその感覚がわかりません。
これは私が考える「自力」の概念と仏教の「自力」と異なっているからでしょうか。
この辺りをご教示いただけると幸いです。
360 :
名無しさん@3周年:03/03/07 23:32
↑
???
??
?
355さんの言われた
>もう少し付け加えると、自分が自力と思ってるものは実は他力だということです。
これは「他力だと思っているものは実は自力だということ」とも言えるはずで、
阿弥陀様におすがりすることが何故自力になるのかな、と疑問に思ったわけです。
どなたでも結構です。ご教示願います。
362 :
名無しさん@3周年:03/03/08 19:11
「たりき たりき と おもうて いたが おもうた こころが みな じりき」
363 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/09 12:36
>>358 >ジサクジエンだという方がいらっしゃいますので、
悪態をつきたいやつは、やりたいままでやらせる他はない(苦笑)。
親鸞の議論を考える場合、その土俵を正確に見極める必要がある。経済学者に
医学の話を聞いても意味がない。天文学者に幼児心理学を聞いても意味がない。
餅は餅屋だ。心臓や肝臓の存在認識も怪しかったようね千年も二千年も昔の人に、
現代でも未解明の霊魂の存在を質問したいなどと、馬鹿なことを書いているスレも
あった。お門違いも甚だしい。
親鸞には親鸞の専門がある。親鸞には親鸞の専門分野のことを聞くべきなんだ。
自力他力というのも、親鸞の専門分野の土俵内の問題として聞くべきだろう。場外
乱闘の口論のネタにしてはいけないんだよ。
親鸞の専門とはなにか。それは、往生極楽の道(歎異抄2章)を研究するというこ
とだ。つまり、自力他力論はあくまで往生極楽の道における議論なんだ。
往生極楽の道とは何か。僕らには二つの大きな仕事がある。一つは世間道、もう
一つは出世間道だ。往生極楽の道とは出世間道を意味するんだけど、この場合の
世間道、出世間道という言葉も、実は親鸞流の定義に従った言葉だ。説明になって
いない。親鸞が解明しようとした彼の専門分野とは何か、彼の専門分野の実体を考
え、その土俵を考えてからその中で自力他力を考えていきたい。その辺から話をし
ていこう(続く)。
366 :
よんく ◆/cGW.CSzzM :03/03/09 21:02
>>363 ありがとうございます。お忙しいとは存じますがよろしくお願いいたします。
わたしも自分なりに考えてレスできるようになりたいと思っております。
367 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/09 21:07
親鸞の専門分野は何か。親鸞が自力・他力を論じている分野はどういう分野か。
これを明確にする必要がある。
親鸞の専門分野は、釈迦起源の分野である。そう考えれば、親鸞の専門分野は
釈迦がテーマとした分野と関連が深い。ただし、親鸞は伝統的な用語と同一の用
語を、全く別の意味で使っているから、単語を並べるだけでは話が分かりにくい。
親鸞の問題は常に釈迦にまでネジを巻き戻し、原理から考えてそこに一定の修正
を加えていく必要がある。
僕らは、色々な問題で悩み苦しむ。悩み苦しむ中で、彷徨(病)・疲労(老)・
挫折(死)・再起(生)をくり返す。釈迦はその原因の解明と克服を図ろうとし
て一生苦労を重ねられた。彼は、生老病死の原因は根元的な無知にあると考え、
学習と教育にその解決の糸口を求める。釈迦は生涯を教育活動に捧げ、彼が建て
た学校からは多くの哲人・賢人が育った。
釈迦の時代には、生老病死つまり、再起・彷徨・疲労・挫折という再起挫折・
再起挫折の連続は、人の一生のスパンというテーブルで考えられていたと僕は思
う。やがてそれを拡大的に考える人々が出現する。おそらく善導だろう。ぼくは
そう想像する。自分の現在の苦しみは、過去の多くの人々がくり返しくり返し経
験してきた苦しみと本質的に同一であり、今後多くの人々はくり返しくり返し経
験していく苦しみと本質的に同一である。そう考える人が出てきた。
368 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/09 21:08
僕らの根元的な無知は、僕らの生(肉体の誕生)が始点でなく、僕らの死(肉
体の死)が終点ではない。再起・彷徨・疲労・挫折つまりこの生老病死は、普遍
的な無知を原因として顕現し、無知は、そうした再起・彷徨・疲労・挫折という
生老病死に内在する本質である。僕らは、始め無き始めから始まり、終わり無き
終わりに連続する無限の時間軸を持った無知を本質として生老病死つまり再起・
彷徨・疲労・挫折をくり返す。僕らの生(肉体の誕生)、僕らの病(肉体の病気)、
僕らの老(肉体の老)、僕らの死(肉体の死)は、実はそうした多様な顕現の仕
方をする生老病死の一例に過ぎない。親鸞は、始め無き始めから始まり、終わり
無き終わりに連続する無限の時間軸を持った無知を本質とした存在のありかたを
考える。こうした問題の捉え方は、親鸞のオリジナルではないはずだが、無限に
連続する生老病死(輪廻)の解決こそが彼も研究テーマとしたと考えていいだろ
う。
親鸞の教育は釈迦のような単独者教育ではない。社会教育に向く。社会教育の
重要性が意識されていると考えるべきだ。社会教育という問題と真っ正面から取
り組んだのが法然だ。往生極楽の道とは、こうした無限のスパンの生老病死の本
質的な解決を図ることにあったと言うべきだ。自力・他力というのも、まさにそ
うした無限の時間時の中の根元的な無知の解決ということにあったと言うべきだ
ろう。
親鸞も法然同じ道を歩もうとするが、親鸞には法然にない大きな問題が立ちふ
さがる。そこから、独自のテーマ出現してくる。(続く)
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人・渡海難とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
↑
おまえの方が痴呆に思えてしまうのはどうしてだろうか。
371 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/11 21:28
法然は、中世の日本で組織的社会教育という分野を切り開いた一人者だろう。無知
というものが、単に個人レベルの問題でなく、人類社会の普遍的本質的な問題である
と考えれば、教育者であるべき僧は社会全体の知的レベルの底上げと取り組まざるを
得ない。貴族の子弟一人一人の個人的な家庭教師のようしにしていればいいという問
題ではない。
親鸞が法然に惹かれたのも、社会教育が目指す社会全体の底上げというスケールの
大きさだったのではないだろうか。法然の下に走った親鸞には、教育者であるべき僧
として、法然のように自分も社会教育に人生を賭けてみようと考えた時期があったは
ずだ。
法然の社会教育学は、善導の個人教育学が拡大的に普遍化したものだ。善導は伝統
的な個人教育学の中の中の初等教育学の権威である。法然は、初等教育学の仏教入門
方法をもって、学問のない大衆の底上げを図る。
かつて中国の高僧善導は、それまでの戒律を仏教入門の条件とすることに時代の遅
れを感じ、念仏による仏教入門という扉を開いた。法然は、善導が開いたその念仏行
だけをもって社会全体の知的レベルの底上げを図ろうとした。しかし、親鸞には思い
もかけない問題が立ちふさがる。それは、僧籍の剥脱という問題だ。
仏教において、教育活動は僧の独占的な行為である。僧でない者は釈迦を代理する
資格がない。教育指導をすることができない。しかし親鸞にとって、もっとも崇高な
職業は人々を教え育てることである。社会全体の知的レベルの底上げである。社会教
育とは何か。人々が教え育つということはどういうことか。親鸞は、非僧すなわち、
教え育てられる側に立って、社会教育というもののあり方を考えていく。
372 :
名無しさん@3周年:03/03/11 21:51
なんかウンコ臭くない?
>>372 おーい。こんなところにいたのかい。
お前さんの患部の治療は終わってないんだよ。
374 :
よんく ◆/cGW.CSzzM :03/03/13 21:39
市匠さま。少しづつ勉強中です。
亀レスとなりますがお許し下さい。
375 :
名無しさん@3周年:03/03/13 21:50
>>374うざいしね!
数日間、多忙です。カキコできません。
377 :
よんく ◆/cGW.CSzzM :03/03/13 22:24
>>376 それは助かります(笑 その間に少しでも進めます。
>>375さん、激励をありがとう。あなたにもお礼の激励を
>>375うざいしね!
そっくりで、嬉しいでしょう あはははは すべては身に帰る。 クックック
378 :
名無しさん@3周年:03/03/13 23:04
なむあみ
だぶつ
>組織的社会教育
>社会全体の知的レベルの底上げ
ようわからん
(^^;)
382 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/24 19:05
>>380 > >組織的社会教育
> >社会全体の知的レベルの底上げ
> ようわからん
いい質問だ。「組織的社会教育」というと、語弊がある。言葉は慎重に選ばないといけない。
所属学生相手の学内授業講座だけではいけない。受講者を選ばない市民講座的社会教育が必
要だ。日本浄土教にはそういう考えがあるようだ。
「知的レベルの底上げ」も分かりにくい言葉だったと思います。
釈迦は、教育に三本の柱を立てました。戒律(規範学習)、禅定(精神統一学習)、知恵(知識学習)。
これを三学と言います。
規範は社会的な価値観に左右されます。千年も二千年も昔、赤道の国で妥当した価値観を、千年
後も二千年後も、雪降る北方の国で妥当するとは思えません。
知識も絶えず変わっていきます。基本的な算術などは世界普遍のものかもしれませんが、漁民は
坊さんから教わるよりも、海や魚から直にものごとを教わることの方が大事だ。有意義だ。農民も、
坊さんが知っていること以上のことを、土や作物から教わっています。
僧が人々に教えるものがあるとすると、それは精神統一学習だ。念仏は禅定の方法の一つと考えま
す。釈迦は、文字や絵画を使って有形的に伝えられる真理は、文字や絵画で有形的に残してくれまし
た。しかし、有形的に伝達できない真理は、それを誰もが手に出来るところに置きました。それが禅定
という行為です。
座禅して念仏申せ。まねごとでいいから、少しずつやってみなさいよ。禅定方法のもっともポピュラー
な方法を、一般の人々に市民講座的社会教育手法で伝達しよう。これが、日本浄土教の原点だと考え
ます。
よお渡海、
またこんなクソスレageたんだな。
お前みたいなカスのせいで、他の善良な住人が不快な思いを
してるんだよ。
渡海よ、お前が思いつき程度でageたクソスレのせいで、
後に伝説となるスレがDAT落ちしかけたかもしれないんだぞ。
渡海よ、お前の人生もそうなんだろう?
このスレのように、思いつき、何となく、行き当たりばったり、
そして無駄に生まれて来ちまったんだろう?
つまんない奴だな。
寂しい奴だな。
悲しい奴だな。
俺はな、最初、こんなスレをageたお前が憎いと思ってたよ。
でもな、そんな怒りも、今ではほとんど感じられないよ。
むしろ、こんな駄スレしかageられないお前に、
そして、お前の人生に哀れみすら感じるよ。
だからせめて、お前は自分がageたスレと人生に、自分の手でけじめをつけろ。
削除依頼はお前が出せよ。
回線は自分で切れよ。
ロープは近所のスーパーで購入しろよ。
もう二度と、お前とは会うこともないだろうな。
でも、お前と話せてよかったよ。
来世では、少しは真っ当なミドリガメに生まれてこいよ。
じゃあな。
384 :
名無しさん@3周年:03/03/25 08:29
ここは宗教板だけど、宗教を語るのはタブーなんだな(ワラ
では何を語ればいい?
世間話か?
恋人とかの話しとか・・
そういう話なら角もたつまい。
そ−しなされ。
386 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/25 21:05
法然仏教というのは、縁がある限り、不特定多数の誰でも仏教のイロハを教え
ることを目指す。仏教は教育学を思想の本質におき、人々が互いに学び合い、教
え育てあうというところに最高の価値を認めてきた。龍樹・世親・曇鸞という人
々は、次の時代の教育者の育成をライフワークとしたようだ。善導は、初等教育
学を専攻し、中国仏教の頂点に立った高僧である。しかし、こうした教育活動は、
結局は、特定の者が特定の者を、時間をかけて教え育てるというプログラムを考
えている。法然は、そうした枠を取り払い、何人も出入り自由な公開仏教講座を
京都市中で開く。
公開講座が教える内容は、現代でもそうだが、入門編を超えない。授業内容は
入門ランクを超えることはほとんどないが、講師は極めてハイレベルの知識が要
求される。法然は、不特定多数の大衆に向かっては極めて優しい入門仏教を説き
ながら、次の次代の市民講座の講師の育成も心がけ、そういう人々には極めてハ
イランクの仏教も教えるという、非常に幅の広い活動をしていたようだ。
親鸞はこうした法然の影響を受け、何人も出入り自由な公開講座の重要性に目
覚める。彼は、自分もいずれそんな講師になりたいと思ったに違いない。
教育活動は僧の独占的行為である。僧籍の無い者には人々を教え導く資格がな
い。非僧が行う教育活動は、仏教形式上で妥当性を欠く。これは外道の活動であ
る。親鸞には、仏教の枠内での教育活動しか考えることができなかったようだ。
388 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/25 21:06
僧籍が無ければ教育活動はできない。しかし、僧籍の無い者には公開講座に関
係が持てないということではない。聴講生として参加することは当然可能である。
しかし、聴講生が参加する公開講座は、あくまで入門レベルである。聴講生が市
民講座の講師を率いることができるということではない。
公開講座に主体的に参画することはできないのか。親鸞はそんな問題に悩んだ
ようだ。社会の価値観との間で多くの食い違いが出てきている戒律などは、大衆
に伝える必要はない。仏教の知恵なども伝える必要はない。大衆の方が、遙かに
優れた知恵を持っている。人々には何を伝えるのか。人生で未知の大きな問題に
ぶつかったとき、自力で解決策が見つけられる方策を教えればいいのだ。座禅し
て念仏することだ。人々にはこれを伝えなければならない。しかし、僧籍が無け
れば、教育者として形式的妥当性がない。公開講座の講師にはなれない。
法然は、ただ念仏せよと教えた。法然は大衆に、仏道修行者の一年生になろう
と勧めたのだ。しかし、僧籍のない親鸞には、人々を教え導く法然に代わること
はできない。親鸞思想はこんな問題を背景に、法然思想とは別異の道を模索する。
たたたたたたたたたたたたたたたた
たたたたたたたたたたたたたたたたたたた
たたたたたたたたたたたたたたたたたたた
390 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/26 21:15
自力・他力というのは、親鸞が念仏講座を人々に勧めるときの説明的概念
と考えればいい。
親鸞という人は、精神的には死ぬまで京都文化圏から抜け出せない人だっ
たようだ。壮年期、都払いの処分が解除されると、それまで世話になった関
東を背にして京都に戻る。日本の文化の中心で法然流の市民仏教講座を持ち
たかったんだろう。教行信証という独自の理論書を携えて京都に戻る。
親鸞が流刑地北陸から直接京都に戻らず、暫く関東ですごしたのは、遠流
の刑は解除されても都払いの刑は暫く続いていたからだろう。また、一切経
の校合という仕事が、吉水の仲間を経由して舞い込んだからだろう。僕は勝
手にそう想像している。しかし、親鸞が関東で見たものは、本物の仏教文化
に飢えている民衆の存在だったと思う。
仏教は、人間の苦の解決が最大のテーマだ。関東の人に教えるべきことは
ただ一つだ。知恵ではない。戒律でもない。一人一人が人生の荒波に遭遇し
たとき、その荒波を自力で克服していく勇気と力を持てればいい。仏教から
はそれだけ学んで貰えればいい。座禅して念仏申せ。それだけ分かって貰え
れば十分だ。親鸞はそんな風に考えたんだろう。親鸞は、仏教文化に飢えて
いる民衆に、他力という独自の概念を提示して市民仏教公開講座を開く。
仏教公開講座を開くには、人々を教え導ける高僧が必要だ。しかしそんな
高僧は関東にいない。いなければどうするか。作ればいい。みんなが互いに
高僧になればいい。高僧になるとはどういうことか。高僧にはなれなくても、
ほとんど高僧になればいい。親鸞は弥勒に等しいという概念を立ててくる。
391 :
名無しさん@3周年:03/03/26 21:19
親鸞って仏陀じゃないの?
392 :
名無しさん@3周年:03/03/26 22:13
渡海市匠 お久しぶりでございます。
198です。お言葉に甘えて名無しに戻りました。
ただ今、100までの小難しいところを繰り返し繰り返し読んでおります。
しかし、もう少し平たく、易しい言葉で書いて頂けなかったものかと、
悶々としております。理解する前に頭が痛くなりました。
それにくらべると、このところの、文章は軟らかですね。
この「悶々」の使い方はおかしい と書き込んでみる春の一日
394 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/03/28 00:45
>>392 > 悶々としております。理解する前に頭が痛くなりました。
あの問題は中途半端で終わっています。結論まで行っていません。
親鸞思想の柱の一つは、因果論の修正にあります。一段階半因果論
です。修正というのは、否定と創造の両方の要素を含みます。一段階半
因果論は、親鸞思想の中核ですから、親鸞の自力他力を議論していけば
嫌でもまた出てきます。その時はもう少し分かりやすく議論したいと思いま
す。
一段階半因果論というのは、親鸞固有の心温まる独創的な論理だと
思います。僕は大好きです。よく考えてみると、この考えは、極めて妥当な
結論に結びつくと僕は思っています。一段階半因果論は、我々はしばしば
無意識に使っています。
また2,3日休みます。
> 渡海市匠 お久しぶりでございます。
> 198です。お言葉に甘えて名無しに戻りました。
> ただ今、100までの小難しいところを繰り返し繰り返し読んでおります。
> しかし、もう少し平たく、易しい言葉で書いて頂けなかったものかと、
> 悶々としております。理解する前に頭が痛くなりました。
> それにくらべると、このところの、文章は軟らかですね。
395 :
ベロ ◆eOod7XM/js :03/03/28 02:45
渡海さん、お久しぶりです。
>一段階半因果論
ってどう言う理論なんですか?
396 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/01 20:13
>>395 >一段階半因果論ってどう言う理論なんですか?
これは親鸞思想理論の中核だ。自力・他力を説明する前に一段階半因
果論を大上段に先に説明していくことの方が、後が分かりやすいかも知
れない。むしろこっちを先にしよう。
一段階半因果論は、〔(因対果)対果〕という模式で考えて貰いたい。
一段階目の因と果があり、一段階目の因と果を包含してこれを二段階目
の因として観念し、それに対応する二段階目の果を考える。
卑近な例で説明しよう。数年前、ある有名なタレントさんが、小学生
のお子さんを難病で亡くした。生まれたときから寝たきりだったという。
お子さんの闘病成長記録をビデオにおさめておられて、その放送があっ
た。
彼女がこんなことを言っていた。「死んだ子供は、普通の人が七十年、
八十年かけて築いていく人生の大事業を、十年で完成させていきました」
と。その子を重荷に思ったことは一度も無かったそうだ。むしろ、その
子に支えられて夫婦は生きてきたという。十年で親にいろんなことを教
えてくれたという。
397 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/01 20:13
十年しか生きられなかった子は、十年の因を重ね、十年の果を残した
に過ぎない。しかし、十年しか生きられなかった子が、人生八十年の業
績を重ね、それを親に残してくれた。そんなことがどうして言えのるか。
こういう論理は一段階因果論では説明できない。
余命数年と言われている子供がいる。難病を抱え、二十歳までは絶対
に生きられないと言われて寝たきり生活を強いられている子供がいる。
こういう子供にも教育が必要なんだろうか。九九を覚えたり、漢字を教
わったり、地理や歴史を教わるということが必要なんだろうか。知識は
大人になって必要になる。大人になって必要となる知識が、二十歳まで
は絶対に生きられないと言われているベッド生活の子供にも必要なんだ
ろうか。ただ遊ばせておいて、親の気が済むまで食事だけ与えておけば
いいんだろうか。
一段階半因果論は、一段階因果論では説明のつかない人間の大事な問
題に、考え方の哲学的ヒントを与えてくれる。非常に大事な論理だと僕
は思う。(続く)
398 :
名無しさん@3周年:03/04/01 21:10
↑
その因果論を親鸞により成立したとするのは
いかがなものか。
よお渡海、
またこんなクソスレageたんだな。
お前みたいなカスのせいで、他の善良な住人が不快な思いを
してるんだよ。
渡海よ、お前が思いつき程度でageたクソスレのせいで、
後に伝説となるスレがDAT落ちしかけたかもしれないんだぞ。
渡海よ、お前の人生もそうなんだろう?
このスレのように、思いつき、何となく、行き当たりばったり、
そして無駄に生まれて来ちまったんだろう?
つまんない奴だな。
寂しい奴だな。
悲しい奴だな。
俺はな、最初、こんなスレをageたお前が憎いと思ってたよ。
でもな、そんな怒りも、今ではほとんど感じられないよ。
むしろ、こんな駄スレしかageられないお前に、
そして、お前の人生に哀れみすら感じるよ。
だからせめて、お前は自分がageたスレと人生に、自分の手でけじめをつけろ。
削除依頼はお前が出せよ。
回線は自分で切れよ。
ロープは近所のスーパーで購入しろよ。
もう二度と、お前とは会うこともないだろうな。
でも、お前と話せてよかったよ。
来世では、少しは真っ当なミドリガメに生まれてこいよ。
じゃあな。
400 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/01 21:47
>>398 > いかがなものか。
いかがなものかだって?。簡単な話だ。あんたらのチノーじゃ
思いもよらないということだろう。
「その因果論」なんて簡単に言うな。どの因果論か、あんたらに
はまだ、海のものとも山のものとも分からんだろう。議論はまだ緒
に就いたばかりだ。
401 :
名無しさん@3周年:03/04/01 22:12
↑
ふっ
お前こそ本当に解ってんの?
甚だ疑問だな。
402 :
ベロ ◆eOod7XM/js :03/04/02 05:30
とりあえず「一段階半因果論」の一端を説明して下さりありがとうございます。
>一段階半因果論は、〔(因対果)対果〕という模式で考えて貰いたい。
>一段階目の因と果があり、一段階目の因と果を包含してこれを二段階目
>の因として観念し、それに対応する二段階目の果を考える。
ある原因と結果が、また別の原因となり新たな果をうみ、
またそれが別の原因となり・・・・・・って言うのは、
仏教一般の因果論で説明されている事ではないでしょうか?
あぼーん
404 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/02 20:44
>>402 僕は端緒を書いたつもりだけど、端緒のなかの更に一端しか読んでくれない
で、その一端もいささか見当外れと思える読み方をされ、お礼を言われ、質問さ
れている感じがする。
質問は無視させて貰って記述を進めます。議論を進めれば、誤解も解けるで
しょう。
現在も寝たきりで、大人になる前に必ず死ぬと医者から死の宣告を受けてい
る子供はいる。そういう子供達から、実存的な問題提起を貰ってみたい。
勉強というものは、大人になって社会に役立てるために身につけるものだ。
こういう考えを僕は一概に否定しない。実用性のない勉強は意味がない。役に
立たない勉強はやっても意味がない。こういう主張は僕は正しいと思う。それ
では、医者から死の宣告を受けている子供が、健康な子供と同じように、例え
ば九九を教わり、分数を教わり、漢字や読み書きを教わることはどうなのか。
学問は、社会人として社会に役立てるために身につけるものという観点にたて
ば、勉強なんかは無用という考えには説得力があると思う。しかし、病弱な子
も、健康な子と同じような勉強することは大事なことだという意見に出会うと、
僕はそちらにある種の感動を覚える。僕などは感情的にそちらに賛成したくな
る。
405 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/02 20:45
健康な子供も、病弱な子も、等しく勉強させなければいけない。この価値観
はどこからくるのか。健康な子供といえども、明日、交通事故で死ぬかも知れ
ない。三角関数を教わった健康な子が、翌日、交通事故で死んでも、三角関数
を学んだことは無駄だったという人はいない。それは何故なのか。全力で生き
るということに、僕らは相対的な価値と絶対的な価値という二つの価値評価観
をもっているようだ。僕はそう考える。一段階半因果論は、因果に対し、相対
的な価値評価に加え、さらに絶対評価を追加的に投影して修正する考えだろう
と考える。
体が健康か病弱かということは、子供の自由意思の及ばない運命的なものが
ある。今健康な子でも、明日は病弱になるかもしれない。今は病弱でも、来年
になると新薬が開発されるかも知れない。三年先、五年先は誰にも分からない。
むしろ大事なことは、今を全力で生きることだろう。今を全力で生きるという
ことに、僕らは相対的な価値とともに、絶対的な価値を認めるという価値観が
あるようだ。
十にならないで早逝した難病の子が、七十年、八十年かけて築く人生の大事
業を、十年で完成させてくれた。親はそう言っていた。親にそう言わせるのは、
まさにその子がその子なりに人生十年を全力で生きたということなんだろう。
生まれてから亡くなるまでの間に果たしたその子の全力の人生は、かけがえの
ない絶対的な価値を持つ。それは、十年か八十年かという相対的な評価の枠を
破るということなんだろう。(続く)
406 :
名無しさん@3周年:03/04/02 21:51
>>404 僕もそう思うよ。
勉強が社会的に役立つためにするというのは一理はあるが,一つの側面でしかない。
病に侵されて社会に出れない人間や、余命を宣告されてる人間にも
そういう知的なものがある意味糧になるような気がするからだ。
それは社会的に対応するための勉学とは限らず,精神に対する糧という意味なんだ。
優しさや厳しさ,そういうものもとても大事なんだ、
それと同時に人と手の方向性という意味で。
人はたとえ健康な人間であっても,体力,知力,精神性,その他の物でも
比べてみればどうしても,優劣や成長速度の早い遅いなどの
異差があるし,出てきてしまうんだ,でもその中で唯一同じものがある。
それは生きるという方向性なのだと思う。
その中で感情の成長、精神の成長,が強い意味を持つというかその実態の
一つなのだと思う。それらをインスパイアする一端として
学ぶ、知るということが大事なのだと思うから。また内面的な個人の領域が
大事だとして、学んだこと知ったことをツールとして
他者そして外界との接触の領域が(個人との内面の面からも)広がり
それがまた成長を促し、また広がっていく。
たとえ常人が10のところ、その人間が1しか出来なくとも
その1が、正確に言えば生の方向性に進んだということが正に
生きているということであり、生きているという活動の正体なのだと思うからです。
旗から見ればただいかされているというように見える人間も
その本当の正体が私たちから見たら微細なためそれを認知できない
というだけで、0.000001の進歩や変化をしているのかもしれない。
407 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/04/02 22:25
>>405 黒澤明監督「生きる」を思い出した。感動した!
409 :
ベロ ◆eOod7XM/js :03/04/03 02:49
>一段階半因果論は、因果に対し、相対的な価値評価に加え、
>さらに絶対評価を追加的に投影して修正する考えだろうと考える。
このコメントと子供の例示を読んで、少し僕の理解が進んだ気がします。
人間はどうしても相対的な価値評価(世間知とでも言えるかも)で判断してしまう
事が多いが、それだけじゃなく、絶対評価(出世間智とでも言えるかも)の視点が
より大切なんだと受け止めました。
410 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/04/03 06:27
>>408 >渡海の自作自演ですか?
渡海氏のレスは、たまに拝見しちょりまふ。
スレには常駐せんけどたまにレスは入れとう存じまふ。
感動した時だけね・・・。
411 :
名無しさん@3周年:03/04/03 09:03
つーーか
何故に因果論(律)なのだ、このスレって‥‥
まっ、いいけどね。
ちょっと気になったんだけど渡海さん
今、因果の論議になってきてますよね。それでもあなた平気で批判すれに対し「おまえの知能ではとか、低脳とか」よく書けますね。
もっと時とスレをわきまえてくれ
せっかく、ごく稀な良いレス付けても説得力もなにも無いです
412 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/04/03 09:17
>>411 >何故に因果論(律)なのだ、このスレって‥‥
つーか、今を生きる。っま、これでもいいし・・・。
これは、全てを包含しちょりまふ。
こーゆ−ことかもしれんねぇ・・。
413 :
名無しさん@3周年:03/04/03 17:50
_、_
( ,_ノ` )y━・~~~.。oO<412(オカエリ、イナイトサミシイヨ)
414 :
名無しさん@3周年:03/04/03 23:21
なかなかいいスレだな。
自力と他力か。
毎日を無駄に過ごすことのないようにしたい。
415 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/04 22:53
>>411 > 何故に因果論(律)なのだ、このスレって‥‥
因果律は仏教の根本原理です。自力・他力という現象も因果律
が基盤にあって筋が見えてきます。
因果律を外して自力・他力を考えることはできません。
ま、浄土真宗のお坊さんは、因果撥撫で自力・他力のおしゃべり
するのが得意だけど、僕はそんなことはしないんだよ。
>平気で批判すれ 〜 低脳とか」よく書けますね。
これは言いがかりだ。「低脳」なんて言ったこと無いぞ。
僕はお坊さんの応援団だから、思いあまって何か言うことはあ
るだろう。
でも、低能なんて言ってないぞ。
416 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/04 23:27
親鸞が提示した理論は共感しやすい。親鸞が言っているようなことは、
普段僕らも無意識に感じている。恐らく、親鸞以前にも同じような感じ方
をしていた人はいたと思う。ところが親鸞さんはそれを、自覚的に提示し
てくれた。しかも、論理的に説明してくれた。これが凄いところだ。理論
的、自覚的に明示してくれると、これと外れた考えを持ったときにその内
容も自覚できる。相対評価と絶対評価という二段階評価論は、オールマイ
ティじゃない。使い方を誤ると大変なことになる。ところが、親鸞さんの
ように、相対評価と絶対評価の論理的関係を明示してくれると、そのとき
の失敗が少なくなる。その意味で、非常に使い勝手がよくなる。有り難い
ところだ。
親鸞は、相対評価と絶対評価とをリンク関係で明らかにしてくれている。
これは僕らに真似が出来ない。僕らが扱うと、相対評価と絶対評価とは全
く別次元の問題になる。ところが相対評価と絶対評価との連携関係を明示
してくれたから、ぼくらはそこから相対評価と絶対評価の本質的な意味が
垣間見え、思考に整理がついてくる。
親鸞の論証は面白い。道具を使う。幾何学の証明に補助線を使うことが
あるが、親鸞は補助線の使い方が巧みだ。阿弥陀とか極楽という概念だ。
親鸞は、阿弥陀とか、極楽という補助線を使ってスマートに論証している。
ただ、僕らは阿弥陀とか極楽という補助線は使いにくい。いずれも架空の
存在だからだ。むしろ、それを釈迦と祇園精舎に置き換えると話が見えて
くる。釈迦と祇園精舎に置き換え、それを阿弥陀とか極楽関係と比べると、
親鸞の心底が見えてくる。親鸞の心底が見えてくると、釈迦と祇園精舎の
関係から、釈迦の真意も見えてくる。多くの先人達が悟りという言葉で語
ってくれている概念の一部がその辺から見えてくる。
阿弥陀と極楽という補助線を使った親鸞の論証方法を見てみたい。
(続く)
417 :
名無しさん@3周年:03/04/04 23:37
>>415 >これは言いがかりだ。「低脳」なんて言ったこと無いぞ。
>でも、低能なんて言ってないぞ。
うんうん。確かに低脳だなんて言ってないね。
でも、あんたはキンタマだとかオマンコだとか言ってるよ。
インターネット上でよくそんなに平気で下品な発言ができるね。
>僕はお坊さんの応援団だから、思いあまって何か言うことはあ
るだろう。
あんたは過去にお坊さんから嫌な目に遭ったから本当はお坊さんのことが嫌いなんでしょ?
みんな知ってるよ。あんたはお坊さんが大嫌いで、嫌いな相手をお坊さんだと思いこむことを。
418 :
名無しさん@3周年:03/04/05 01:16
>417
ふとおもうんだがねたですよね?
ほんとにそうおもってるんじゃないよね?
いや、しんぱいになったもんで。
419 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/06 20:34
>>419 誰も見たくないサイトをいちいち宣伝するな、ボケ!
お前のやってることはブラクラを貼ってるのと同じだぞ!
421 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/07 21:59
十年で生涯を終った人と、七十年や八十年の生涯を全うした人とが、どうして同
じなのか。理屈はいらないと言えばそれまでだ。しかし、親鸞はそうは言わない。
十年で生涯を終えた人と、七十年や八十年の生涯を全うした人とは違いがある。
思考の出発点はまずここにある。七十年や八十年の生涯を全うした人には、十年以
降の人生がある。小学校を卒業し、中学・高校、大学やあるいは仕事社会での刻苦
奮励がある。成人後、家庭、地域、社会でしばしば重要な役割を果たした業績があ
る。十年で生涯を終えた人にはそれがない。それでは、十年で生涯を終えた人と、
七十年や八十年の生涯を全うした人とは違いが明らかに違いがあるじゃないか。十
年以降の人生は、意味がないというのか。
親鸞は、阿弥陀という補助的概念を使う。十年で生涯を終えた人には、十年以降
の人生を、過不足無く満たしてくださる働きがある。親鸞は、十年以降の人生を満
たしてくださる働きとして、阿弥陀という補助的概念を持ち出す。親鸞の他力観は
概念が広いが、親鸞の他力観にはこうした場合の補助的概念も主要な柱の一部に包
含する。十年で生涯が終わるということは、本人の意思・自由を超えた厳然とした
事実である。これは本人の意思・自由を超える。そこでは阿弥陀という概念が下駄
を履かせてくれる。履かせてくれる下駄に他力という概念を波及させてくる。
親鸞は阿弥陀という概念をもってくる。ここは僕らには分かりにくい。僕らの場
合、釈迦という概念を使うとイメージが見える。親鸞は釈迦の価値観を背景に懐き、
真実の論理と迷いの論理という二つの論理観を突きつけてくる。(続く)。
422 :
名無しさん@3周年:03/04/07 22:00
つづかなくて よい
423 :
名無しさん@3周年:03/04/07 22:18
どこまでが自力で
どこからが他力なのか。
自分を含む全てが神や仏陀の掌の上にあると思える時もあれば
全てを自分でコントロールしているかのように思えたりもする時もあるし。
424 :
名無しさん@3周年:03/04/07 22:23
>渡海殿
漢字多し。長文。
理解するには、ものすごい興味が必要です。
ただ、あなたが多読、探求心が強い、表現場所を求めていることは伝わってきます。
2chの対話形式をウマク生かしたら、もっとスゴイかも。
425 :
名無しさん@3周年 :03/04/08 01:29
完全な他力は無いし、完璧な自力も無い。
426 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/09 10:17
>>424の名無し殿
漢字は多くない。長文でもない。僕の主張はほとんどが僕のオリジナルです。し
かも2茶が殆ど初稿です。漢字はイヤ、長文はイヤという人に、読んでくれという
つもりもない。僕には貴方好みの話をしなければいけない理由はないんです。
>理解するには、ものすごい興味が必要です。
貴方から見れば、ものすごい興味のある人と言える人を、今ここでは相手にして
います。
気休め、陰口、お伽噺、開き直り、愚痴、自慢話以外は興味がないというアホー
ばかりを相手にしているんじゃこっちが滅入っちゃいます。アホ垂れ坊主が坊主の
全てじゃない。坊主じゃなくて、親鸞に関心のある常識人も少なくない。そういう
人の千人に一人が興味を持ってくれればいい
>ただ、あなたが多読、探求心が強い、
どこぞの本に書いてあることを伝言ゲームで紹介してると思われたら心外です。
僕が書くのは、僕が起源の体験的仮説的思想です。仮説の原点は僕にあります。借
り物ではありません。
多読、探求者が僕の後から生まれてきてくれるかどうかは知りません。僕が多読、
探求者という事実はありません。
427 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/09 10:18
>表現場所を求めていることは伝わってきます。
僕は表現場所を求めているんじゃなく、見つけたのです。
かつて僕は、ある坊さんから、「お前に仏教なんか教えるんじゃなかった」と言われま
した。「貴方の話なんかを聞こうとする人はいない」とも言われたものです。
僕の話に興味を持つ人はほとんどいないようです。オマンコ・キンタマ・クソションベ
ンの話しか理解できない連中は、僕の話に関心などには聞く耳持ちません。それでも、極
めて少数ですが、僕がオリジナルの仮説的思想に関心を持ってくれる人がいるということ
もわかったんです。伝統的インチキ宗教に踊られされている圧倒的多数のアホ垂れ共が全
てではない。何かを知ろうとしているようです。僕の話に関心を持ってくれる人は、関心
の内容は反論でも反発でもいいんですよ。インターネットという世界は、本当に広大だと
分かりました。
僕はそういう人に向け、僕は僕のオリジナルの仮説的主張を提示します。
>2chの対話形式をウマク生かしたら、もっとスゴイかも。
うまく生かしてないと貴方は思うのですか?。僕は非常にウマク生かしています。これ以
上ウマイ生かし方があると貴方は、本当に思いますか?。
多忙です。暫くカキコできません。
428 :
名無しさん@3周年:03/04/10 09:08
429 :
名無しさん@3周年:03/04/12 21:30
渡海市匠、お時間ができ次第続きをお願いいたします。
毎日は伺っておりませんが、時間の許す限り勉強しております。
430 :
名無しさん@3周年:03/04/12 21:32
仏教は邪教だぞ言っておくが、
はっきりいって仏教やっても何も得るものはないぞ。
>>426-427 丁寧なレスありがとうございます。私の思い込みが過ぎたみたいです。
>関心を持ってくれる人がいるということもわかったんです。
そのようですね。今後も快く続行ねがいます。
432 :
名無しさん@3周年:03/04/14 19:59
渡海市匠、 だんだんとあなたのおっしゃってることが
みえてきました。また、伺います。
433 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/14 21:56
祇園精舎の教育原理を考えてみよう。釈迦は祇園精舎で何をしたか。組織的教育
を人類で始めて実現した。釈迦はそういう人物だ。祇園精舎での教育原理は、学校
教育というものの最も基本的な教育原理を当てはめて考えれば、当たらずとも遠か
らずの結論が出るだろう。
祇園精舎に入門してきた人に、釈迦は、先生の存在を教え、先生を「先生」と呼
ぶことを教え、学則を提示する。校則を守ることを誓わない人に入学を許す学校は
ない。ルールを提示すると、生徒に対して教師は全精力を傾けて本格的な授業を始
める。授業は、易しいところから順次、難度が上がっていく。
祇園精舎では何を教えたか。釈迦が王家からもたらした貴族の先進の実学知識を
公開していたに違いない。文字・算術・暦・薬学・美術・軍学・建築・土木工学な
どを教えていたのだろう。精神集中法として、バラモンの瑜伽(ヨーガ)も重要な
柱だった。禅は、禅那というのが古い名称だ。瑜伽から派生した。
祇園精舎には世界中から多くの学生が集まってくる。人数が多くなれば、事故も
あるだろう。学習途上で病気になる者、怪我をする者もいたに違いない。我が家で
も末娘が今年、大学に入った。ガイダンスで学生保険の案内を見せられたと言う。
祇園精舎だって事故はあったろう。
434 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/14 21:57
学業途中で不幸にも挫折した生徒、あるいは亡くなった生徒を見て、釈迦はどう
思ったか。無論悲しんだろう。生徒が事故で死んで泣かない教師はいない。釈迦は
特別だから泣かなかったに違いないなどと、無理矢理屁理屈をこじつける必要はな
い。しかし、生前に達成していた学業を無駄だっだと思うことはなかったろう。
教師というものは、初級段階の生徒が初級段階の学業を達成すれば、それだけで
喜ぶ。中級段階、上級段階が手つかずで残っていても、初級段階で既に喜んでくれ
る。中級段階の生徒には、中級段階の学業を達成しただけで喜んでくれる。釈迦も
恐らくそんな人だったろう。学業半ばで夭折しても、生前に達成していた学業につ
いて無駄だっだとは決して思わないものだ。釈迦は全ての学業を終えて巣立ち、社
会にそれを還元していった多くの他の生徒と同じように、学業半ばで夭折した生徒
にも心の中では平等の慈愛の目を注いでいたに違いない。
435 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/14 21:57
祇園精舎はハイランクの見識を社会に放出した。祇園精舎の卒業生は、阿羅漢と
呼ばれて尊敬された。卒業生は各地で大きな業績を残す。不幸にも学業半ばで夭折
した人々は、釈迦の意識ではそうした阿羅漢達と平等な存在だったはずだ。実際に
は上級段階の学習を積んでなくても、社会に業績を残すことがなくても、釈迦の次
元では、他の生徒と同じ進度で勉学を進め、上級段階の学習を積み、社会で大きな
業績を残した一人として見なされていた。きっとそうだろう。こんな理屈は世間の
人、誰一人賛成しなくても、釈迦一人だけはそんな認識を持っていたはずだ。親鸞
はそんな仮説を立てててくる。
釈迦の教育は真実の教育なのだ。真実の因は必ずや真実の果をもたらす。真実の
教育は必ず真実の成果をもたらす。親鸞は、釈迦の意識の内面に照合し、真実の論
理と迷いの論理という二つの論理の存在を意識し、独自の論理を立ててくる。
(続く)
436 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/14 22:44
>>430 > 仏教は邪教だぞ言っておくが、
> はっきりいって仏教やっても何も得るものはないぞ。
仏教やっても何も得るものはない。
仏教をしようと思う必要はない。430さんや、貴方の家族でも、友人でも、
仕事でも、勉学でも、仇でも、敵でも何でもいい。一つでも、二つでもいいんだ。嘘っ
こで、「先生」と自分勝手にあだ名を付けてみなさいな。自分一人になったとき、誰に
も知られず、部屋を閉め切り、あだ名をつけた相手を「先生、先生、ああ先生」と、背
筋を延ばし、呼吸を整え、嘘っこで念じてみるといい。1時間、2時間、3時間、2日、
3日、4日と続けてみんさい。初日と2日目は、あだ名を付けた相手は変えてもいい。
念じているときは、対象を忘れてもいい。それでも得るものはきっとあるだろう。
見えなかったものがきっと見えてくる。一つでも、二つでも発見があれば、嘘っこ
であだ名をつけた甲斐があったというもんだ。騙されたと思ってやってみるといいだ
ろう。
437 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/14 22:46
>>431 非常に真面目な方のようだ。どうか気になさらないで
ください。
438 :
名無しさん@3周年:03/04/14 23:26
439 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/16 19:55
多忙。2,3日休みます。
440 :
名無しさん@3周年:03/04/16 20:04
439乙
442 :
名無しさん@3周年:03/04/17 01:46
このスレ、伸びてますね。
私ゃ、親鸞聖人の他力の教えは好きだ。
何とも言えないマターリ感があって、ほっとするのさ。
443 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/18 21:15
僕は悟りの論理と迷いの論理という二つの論理形体の存在を考える。親鸞の
著作の中で二つの論理形体の裏付けが明瞭に探り当てられるといいのだが、ど
うも見つからない。ただ、 こういう考え方をしないと僕には親鸞の考え方に
説明がつかない。こういう考え方をすると、非常に旨く説明がついてくる。
論理には二種類ある。善因善果、悪因悪果という論理。縁の介在の無い論理
である。これを真実の因果という。もう一つは、因縁和合する論理。ここでは
縁の存在が重要な役割を果たす。迷いの因果という。一段階半因果論の背景は、
因縁和合する迷いの因果の現実の前で、真実の因果を貫くための説明的概念だ
と僕は考える。
生のあったものは必ず死がある。始めのあったものは、終わりがある。終わ
りがあったものには必ず始まりがあった。物事には、「始め・終わり」のある
ものと、「始め・終わり」のないものがある。
水は上から下に流れる。この事象に終わりがあるだろうか。ある時期から水
は突然考え方を変え、以後下から上に流れるように決意して下から上に向かう
ようになる。そういう馬鹿なことはない。「水は上から下に流れる」という事
象が変わることはない。「水は上から下に流れる」という事象は普遍の真理な
のだ。
444 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/18 21:16
それでは、川の水が下から上に向かって流れることはないのか。暴風雨ある
いは大津波の時、河川の濁流はしばしば下流から上流に向かう。それでは、水
は下から上に向かって流れると考えるべきではないか。「水は上から下に流れ
る」という考えは普遍的ではないのか。
「水は上から下に流れる」という考えは、水の抽象的本質に着目した原理だ。
本質に着目すると、目先の事象は排除される。「下流から上流に向かうことが
ある」という理屈は、具体的な事象を捉えた論理だ。ここから、論理には二種
類あると考える余地がある。僕はそんな仮説を立てる。
人は必ず誕生の瞬間がある。誕生の瞬間がある人間は、かならず死の瞬間が
ある。貧乏人にも金持ちにも死は平等にある。誕生期はあったが、死期はない
という人はいない。しかし、生死ともにある人間でも、ある人は金持ちになり、
ある人は貧人になる。江戸時代に生まれた人もいれば、平成に生まれる人もあ
る。誕生の時期、死の時期は縁が作用する。地位、名声は縁が左右する。縁が
介在する因果の論理と、縁が介在しない因果の論理とがある。どんなに頑張っ
ても貧乏から脱出できないで苦しむ人がいる。何の苦労もしないのに巨万の富
を得る人がいる。縁が介在している。縁が介在する因果の論理はものごとの現
象に左右される。しばしば物事の本質を見誤る。これは迷いの論理だ。縁が介
在しない因果の論理は現象を外した実体に着目した因果の論理である。悟りの
論理だ。
釈迦の教育活動は迷いの因果か、悟りの因果か。釈迦の教育活動は釈迦が三
五歳の時に悟りを開き、竹林精舎、祇園精舎などを地盤とした本格的な活動に
始まる。始まりのある活動である。始まりのある活動であれば、終わりが来る。
始まりがあって終わりがあるものは迷いの因果である。釈迦の教育活動は迷い
の因果の中にある。果たしてそうか。迷いの因果であれば、釈迦の教育活動は
迷いの一部だったのか。釈迦は悟りを開いてないと言うことだろうか。親鸞は
そんな疑問は投げかけてくる。
釈迦は悟りを開いていない。真理を悟っていない。こういう論理を受け入れ
ることはできない。親鸞は悟りの因果であるという仮説を立てる。
445 :
名無しさん@3周年:03/04/19 01:35
なんか物理の特殊相対性理論の世界だな
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
447 :
よんく ◆/cGW.CSzzM :03/04/20 20:45
>>352さん
>自力vs他力ってバカみたい。自他力そろって完璧なんだよ
遅レスですが、初心者のわたしには、どこがどうとは言えないのですが
親鸞上人の仰る他力は違うような気がします。
こうだ!と言えるようになったらまた、レスします。
448 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/20 22:58
親鸞は、釈迦の教育学を迷いの因果と悟りの因果という二重構造で考える。
迷いの因果は生老病死という流れを持つ。生老病死は無明を因とする。一方、
悟りの因果は不生不滅、無死無生の悟りを本質とする。釈迦は、学業半ばで
夭折した生徒を悲しむ。夭折した生徒を悲しむ心は、生老病死を悲しむ心だ。
釈迦が無明に向けている目だ。一方、悟りに向けている目もある。悟りに向
けている目は、夭折した生徒に、他の生徒と同じ慈愛を向ける心でもある。
釈迦の教育学は、戒・定・恵という三学を本質とする。戒律は価値観であ
り、時代・社会の変化に脆い。三千年昔の南国の価値観が、三千年後の雪降
る北国で妥当するとは思えない。親鸞は、法然という天台の高僧が、捕縛さ
れ、僻遠の地に流罪になる現実を目撃する。親鸞思想はこれを原点とする。
親鸞思想は、戒・定・恵という三学を本質とする釈迦仏教、釈迦の教育学の
終焉を確信したところから始まるのだ。
449 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/20 22:59
戒・定・恵という三学を本質とする教育学が釈迦の教育学の全てであれば、
法然の流罪とともに釈迦の教育学はその寿命を終えたことになる。正法五百
年、像法千年、末法一万年。末法の世に戒律はない。三本柱は、その一本が
欠失すれば、実体を喪失する。多くの経典が、釈迦が定めた教育学の寿命を
規定している。釈迦入滅後千五百年も経てば、釈迦の時代の価値観で人々を
縛ることは不可能になる。釈迦の教育学は終焉する。
親鸞は、生老病死する釈迦の教育学の背後に、もう一つの教育学があると
主張する。それは不生不滅、無死無生の悟りを本質とする。暴風雨時には水
は大河を遡上する。しかし、水は上から下に流れるという本質を失うことは
ない。親鸞は、生老病死する釈迦の教育学の背後に、不生不滅、無死無生の
悟りを本質とする教育学の存在を見出す。不生不滅、無死無生の悟りを本質
とする教育学を、親鸞は阿弥陀という概念を使って説明する。
他力自力とは、悟りを本質とする教育学を、迷いの因果で説明する教育学
上の概念に照合させながら説明する概念である。(続く)
_____________________
|
| 東京都立松沢病院ですが何か?。
| _____________________
| / ⊆ニ(二(ニニ⊇――――' (●ヽ
| / ̄ ̄ ̄ ̄
http://ime.nu/www.matsuzawa-hp.metro.tokyo.jp/ヽ /| /______________________ヽ
,/ ̄V ̄ ┏━, / ̄ ̄ ̄|| ||. ̄ ̄ ̄ ̄ |||  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄...| |
,/ ∧ ∧. i┸i //. ∧ ∧ || / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
_.,/. ( ゚Д゚ ) | :::|// ( ゚Д゚ ) < 渡海を迎え入れに来ました。
|/,,,,,へ⊂ ヽ .// ,/ ノ/ ||\______________
,/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄//|_/ ̄ ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|~ ゜ ̄゜ ̄ ̄ ̄~~| ̄ ̄ =。|┃ |━━━━━...............|
|______: |,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,|,,,,゜,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,|,,,都立松沢病院,,,,,[|
._|]0::∴:::0::[二二il:] ,-―-、 ,,| | . [|
|====== ;...........| /,  ̄ヽ |~~|. | /,  ̄ヽ | {|
ヽニ[_]ヾニニヽ''''''|―-|.(※)|':|''''|.''''''''''''''''''''''''''''|''''''''|.(※)|:|'''''''''''''''''/
ゞゝ三ノ ̄ ̄ ̄ ゞゝ_ノ ̄ ̄ゞゝ三ノ ̄ ̄ ̄ ゞゝ_ノ ̄ ̄ ̄ ̄
451 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/23 23:06
不生不滅、無死無生の悟りを本質とする教育学は何か。親鸞は念仏トレーニン
グ法を重要な候補として挙げる。座禅して念仏する。念仏トレーニングこそが不
生不滅、無死無生の悟りを本質とする教育学である。親鸞はそう考える。
親鸞はこの結論にはどうして至ったのか。こうした問題は、主唱者の直覚的な
気付きという視点と、それをどのように説明したのかという面とで考えていく必
要がある。両者は一見不可分のように思うが、実際は全く別次元の問題なのだ。
自分はどう思うかという問題と、自分はそれをどう説明するかということは別個
に考えないといけない。しかも説明的議論は、形式的議論と実質的議論という二
つの観点で考える必要がある。
現代の我々の価値観と平安・鎌倉期の仏教界の価値観との間の発想の相違も意
識しておく必要がある。我々が中核的実質的本質論と考える論議を、彼らは枝葉
的論議として位置づけるようだ。我々が枝葉的論議として位置づけるものを、彼
らは中核的実質的本質論と考えるようだ。中核的実質的本質論も、枝葉的論議も
両方必要であり、その意味で我々の価値観も、結論では平安・鎌倉期の仏教者と
の到達点とずれることはない。
452 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/23 23:06
しかし説明手法は、平安・鎌倉期の仏教者と僕らとのあいだで手順が相違する。
この違いは、恐らく所属する文化圏の違いによるものだろう。僕はそう想像して
いる。現代の我々が、西洋文明の影響を強く受けている。考え方は、実質的にギ
リシャ文化圏に属している。平安・鎌倉期の仏教者は、インド文化圏に属する。
文化の源流が違う。我々は物事の本質を考える場合、抽象化して普遍化する。と
ころが、インド文化圏の哲人達は、逆に具象化して象徴化するという手法をとる。
我々も象徴化手法をとることがあるが、それは、インド文化圏の哲人達との比で
はない。インド文化圏の哲人達も、抽象的な議論をしているが、その割合は我々
との比ではない。そのような考え方の発想の違いに原因があるようだ。
453 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/23 23:07
議論の過程では、我々はしばしばとまどいを感じる。とまどいは、結局、議論
の重心の位置づけ、いわば重心観にある。抽象的な議論を中心に置くか、象徴的
な議論を中心に置くかという、手法の違いにあるようだ。彼らとは思考手続きの
手法に違いがあるだけと分かれば、とまどいもやがて解消されてくる。
念仏トレーニング法をもって不生不滅、無死無生の悟りを本質とする教育学で
あると考える親鸞の主張を、親鸞の視点で考え、親鸞の視点を通じて親鸞独特の
自力・他力観も考えてみたい。
三学を中心とする釈迦仏教は寿命が尽きた。親鸞はそう考える。これは、戒律
自体の無効化に依拠する。戒律が無効になった事実は、天台の戒師であった法然
上人が理由無く捕縛され、流罪になるという事実で社会的に顕在化する。このと
き同時に、親鸞も法然のような教育者として社会に出ていくチャンスを失う。不
生不滅、無死無生の悟りを本質とする真の教育学があるとすれば、それは戒律の
存在を要件としないものでなければならない。戒律の存在を要件としない行法は
何か。それは称名念仏である。ここに、称名念仏が不生不滅、無死無生の悟りを
本質とする教育学を構成する形式的資格を有する。親鸞はそう考えている
戒律の存在を要件としない行法教育学とは何か。称名念仏はなぜそういう地位
にあるのか。これを考えてみたい(続く)。
>渡海 難 ◆wd0AE5SZ4.
あなたに理解できるかどうかは重要ではありません。
自分とは感性の違う領域に勝手に踏み込んでケチを付けていては、
他人に厨房呼ばわりされかねませんよ。相手はこう言うかもしれません。
「アンタに理解してもらう必要は無いし、理解されたくもないね」
455 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/24 00:10
笑
宗教なんて下らないものをやっていると人生は膨大なゴミの山で終わる。
50歳になるまでに気が付けば良いが、大半は60歳になっても読んでいる。
宗教とは思考の中心に異常が起きた疾患だから始末に終えない。
狂った脳は死ぬまで狂い続ける。何処でこれを止められるか。
本人の自覚と勇気が要求される。大変難しい決断だ。
457 :
名無しさん@3周年:03/04/24 19:01
>>456 大当たり このスレにそういう人がいる。頭で、ごちゃごちゃ
やってるだけなんだよな。
458 :
名無しさん@3周年:03/04/24 21:12
>>456 あなたのような方が2チャンネルに居られるとは心強いかぎりです。
是非とも統一系や、顕正スレで、そのお考えを述べていただきたい。
こういう古めかしい宗派はあっても毒にはなりません。
是非是非お越し下さい。お待ちしております。
459 :
名無しさん@3周年:03/04/24 21:56
460 :
名無しさん@3周年:03/04/26 11:42
健友館も妖しいもんだ。
461 :
名無しさん@3周年:03/04/26 14:23
戒律の無効化?
何言ってんの?
釈尊否定ですか、淨土真宗は。
確かに「律」だけとると大乗仏教にはそぐわない部分もある。
しかし「戒」(いましめ)は仏教において大きな役割を果たしていると思います。
全く無視する事が、果たしてどうゆう結果を招くでしょうか。
462 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/26 21:23
>>461 >全く無視する事が、果たしてどうゆう結果を招くでしょうか。
道徳的価値観と仏教とを切り離すということです。道徳的価値観を切り離すとは、
道徳的価値観を否定すると言うことではありません。
学問諸分野が未分化だった時代、仏教は、哲学・文学・美術・天文学・数学・倫理
学・建築学・土木工学・心霊学・軍学、等々、あらゆる学問領域を包含していました。
薬師如来は手に薬壺を持っています。壺の中には、万病の妙薬、チーズが入ってい
ます。仏教のスタートは、チーズが社会の最高位の薬だった時代です。仏教スタート
時の文化水準が分かると思います。
唐招提寺の鑑真和上像を彫ったのは僧侶です。鎌倉時代の仏師である運慶・快慶も
僧侶です。法隆寺を建てたのも、東大寺を建てたのも、みな僧侶です。香川には空海
が掘ったため池があるそうです。建築家も、土木技師も全て僧侶でした。
やがて、医学は仏教から独立します。画家も彫刻家も仏教から独立しました。建築
家も、数学者も分かれ、独自の道を歩みます。しかし、独立し消滅したものはありま
せん。全て一層大きく発展しています。
親鸞仏教は、仏教と倫理・道徳との分離を図ったと考えればいいでしょう。人間に
とって、倫理道徳は大事な価値観です。仏教戒律は、世界の倫理学に大きな足跡を残
しました。カトリックの坊さんは、回りを残して頭を剃ります。仏教寺院の影響でしょ
う。仏教戒律は、中世キリスト教会にも大きな影響を与え、現代倫理学の基礎になっ
ています。その足跡は、重要な部分で現代法律学などに継承されています。
倫理道徳の重要性を言うまでもありません。しかし、倫理道徳は大事だということ
と、宗教から学ばなければならないものであるということとは別問題です。学校・企
業には、学則・社内規があります。人々が集まれば、ルールができます。市町村には
条例があり、国には法律・憲法があります。脳死臓器移植は是か非か。医学界では医
道について多様な議論がなされています。そうした事柄が、お坊さんから指示しても
らわないと社会は判断ができない。そういうことでは困ります。
463 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/26 21:24
倫理道徳に関する議論に仏教者は、仏教者という冠をつけて参加はしない。そうし
たことは仏教という冠を被せないで議論すればいい。仏教古来の戒律などを参考にし
たい人は、個人的に研究すればいい。仏教古来の戒律価値観などを、論議委員が個人
的に参考にするということと、お坊さんに決めて貰わないと決められないということ
とは話が違います。善悪は、各専門委員が、宗教という冠をつけないで議論すればい
い。各委員が、宗教という冠をつけないで議論すれば、宗教界は、宗教の名の下では
それに重ねて議論はしない。社会の議論に屋上屋を重ねる議論を、坊さんはしない。
坊さんが法律を作って社会を統治したりたり、坊さんが医道の基本を定めてそれを医
師に布告するというような、現代はそんな時代ではないんです。
多くの学問が仏教の枠組みを離れて独立していったように、倫理道徳も仏教から独
立させよう。仏教はスリムになっていい。倫理道徳を仏教の枠組みから外せば、仏教
は仏教でしか扱えな問題を縦横に扱えるようになる。親鸞はそう提案しています。
464 :
名無しさん@3周年:03/04/26 22:07
しかしね
やっぱり、いわゆる道徳心は「宗教、もしくは宗教家」が保ってきた部分が多いと思うけど。
親鸞様が仏教と道徳の分離を目指した事は初耳だったので、よく解りませんが、
もしそうなら、思いっきり分離失敗してませんか?
もちろん現代に生きている我々は、現代の法律等を守るべきです、そんな事は当たり前の事です。
そして時代共に法律も変わってきたし変わっていくでしょう。
そんな中にも法律とは別に仏教徒としての守るべき「戒」が必要だと思いますよ私は。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
このスレッドは、痴呆老人・渡海難とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
466 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/26 22:21
>>464 >親鸞様が仏教と道徳の分離を目指した事は初耳
歎異抄の老少善悪を選ばず、信心を要とすというのは、そういう
意味でしょう。悪人正機というのも、同じ文脈で考えればいい。
>そんな中にも法律とは別に仏教徒としての守るべき「戒」が必要
だと思いますよ私は。
そう思う方はそういう考えでも宜しいんではないでしょうか。
起源は戒にあり、現代にも共通する道徳的価値観は、現代の道
徳として守ればいい。それに宗教という冠を被せる必要があるのか
ということは、考えてもいいでしょう。
仏教から戒律というお墨付きを貰わないと善か悪か判断できない
と言う人は、戒と思って守ればいい。それはその人の好きずきでしょ
う。
467 :
名無しさん@3周年:03/04/26 22:56
>>466 >老少善悪を選ばず、信心を要とすというのは、そういう意味でしょう。
違うでしょ。
悪人正機もオリジナルではないので〜♪
相変わらず曲解しまくりさんなのねん。
>>462,463の書き込みは長い割に内容薄いし。
平たく学問と道徳を同列視してるのは痛すぎ。
468 :
名無しさん@3周年:03/04/26 22:59
なるほど
言いたい事が
なんとなくですが理解できます。
ここで言う「戒」は仏教徒のみが守るべきもの、
と言う意味ではありません。
現代においても、または現代だからこそ通用する、必要とされる「戒」もあるかもよって事です。
すべてを守るべきだとは思ってませんし、
なにより他宗教、無宗教の方には受け入れにくいものです。
しかし万民に必要な「いましめ」が仏教の中にもあると思うんです。
ですから今現代に合わないものも今後のめに
すべて伝えていくべきだと私は思う。
_,......,,,_
,、:'":::::::::::::::::``:...、
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
i::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
!::::::::::::::::::::::;‐、:::::::::_::::::_::::';
|::::::::::::::::::::::| :: ̄ ``!
r''ヾ'::::::::::/ :: |
l r‐、\::/ _,,、ii_;;_、 _,,,l、
ヽヾ〈 ::= -r:;;j_;、`/ :;'ィ;7
!:!_,、 :: ` ー : |: `´/
,./ヽ | 、_ :: ,: 'r' :i |: /
,../ `ヽ;_ i | '"、_:::__`:'‐'. /
/ ``'ー 、_\ ! `::` ̄''`チ`シ
/ー 、_ `\:、_ :: ` ̄/ なんかもう必死でしょ
/ ``ヽ、 ヽ`'7‐--'゛ 最近の厨房
/ `ヽ、 `/
. / _,;:::::::::::;;_ ``\
/ ,、:'゛ ``ヽ、 `i
/ // \i ヽ
470 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 09:29
>>467 >違うでしょ。 <僕は貴方と考えが違うだけだ>
>相変わらず曲解しまくりさんなのねん。
悪人正機説と矛盾しないということです。
相対性理論は、ニュートン物理学の中にはない。相対性理論は古典力学を書き
直しましたが、本質的には両者間に矛盾はない。
悪人正機説は、唯円起源又は清澤満之起源思想だと考えるべきでしょう。それが
僕の持論です。親鸞の思想の発展理論でも決してないが、まあ、大きく矛盾はして
いない。
>平たく学問と道徳を同列視してるのは痛すぎ。
<貴方とは僕は価値観が違うのでしょう。>
471 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 09:31
>>468 > しかし万民に必要な「いましめ」が仏教の中にもあると思うんです。ですから
今現代に合わないものも今後のめにすべて伝えていくべきだと私は思う。
伝えていけばいいんじゃないですか?。
然れば即ち末法の中に於いては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法有ら
ば破戒あるべし。すでに戒法なし(化身土)。
伝えるって、どんな風に伝えるんですか?。戒があると言っても、それは本屋さ
んの仏教書コーナに並んでいる書籍の中の話でしょう。
戒律に関する記述がペラペラ本に面白おかしく踊っていれば、伝わることになるの
でしょうか?。著者と言えば、毛の生えた仏教物知り博士だ。ペラペラ本を2,3冊読
んで感心し、物知り博士になれば自分は仏教徒だと錯覚する。万引き・交通違反さえ
おこさなければ、自分は持戒の仏教徒だと錯覚する。まあ、そんなノータリンにさえな
らなければ幸いだ。
国立戒壇建設は、昔は創価学会の主張だった。今は顕正会の主張だという。戒を
伝えていくというなら国立戒壇建設運動を起こすのが理に一番かなっている。
戒律とは何か。錯覚したい人は錯覚するのもいいだろう。僕とは価値観が違うんだ。
>>468 >なんかもう必死でしょ最近の厨房 <苦笑>
472 :
名無しさん@3周年:03/04/27 10:08
たしかに考え方の違いでしょう。
「戒」をある程度学び持戒するだけで満足してしまう、そうゆう事も考えられますが、まだ望みはあるよう思います。
「戒」を全く不要とし、ただただ教学を高めていく事に疑問があるだけなんです。
ただの物知り博士、仏教学オタになる可能性があるんでは?って事です。(あくまで危険性があるという事)
戒がなければ物知りになる。というのは納得できませんね。
私が思うにそれは、自動車のワカバマークのようなものだと思います。
最初のウチは必要だが、そのうち必要なくなるというものではないでしょうか。
戒を守ることは宗教者として立派なことかもしれないが、
それを自負する宗教者はお飾りなだけだと思いますね。
自分は宗教者をやっていると自負がある人間は所詮、ワカバマークなのではないでしょうか。
釈尊やイエスのような人は、それを持っていなかったと思います。
チラッと眺めただけですが、渡海さんのカキコは真摯だなと感じました。
真摯だからこそ汚い言葉も使うのを厭わないのでしょう。
私は、ブラバッキー以降の神智学を学ぶ者です。仏教はシロート同然ですが。
実は日本の仏教で、神智学と近しいのは浄土真宗だと聞いてます。
愛読書はクリシュナムルティです。どぞよろしく。
474 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 17:00
>>472 >「戒」をある程度学び持戒するだけで満足してしまう、
<学んだように錯覚し、持戒していると妄想するだけでしょう。>
>まだ望みはあるよう思います。
こういう考え方は正しい。浄土教は末法論を真正面に議論するが、正・
像・末はないという考えもある。正・像・末はないという考えも、議論の
主軸を変えて考えれば正しい。
自分は持戒の道を進むと言うなら、その前にきちんと受戒し、受戒して
からそれを守っていくのが順番だ。
無戒を説く親鸞仏教に片足を突っ込み、他方の足で持戒を妄想すれば、
弊害だけが甚だしい。
あぼーん
476 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 17:01
戒と教学の研鑽は関係ない。戒は仏教者としてのアイデンティティー
の問題です。アイデンティティーは僕らは念仏で論じる。
戒律は自分が仏教徒か、仏教徒ではないのか、という問題です。 仏教徒
は、釈迦あるいは釈迦を代理する師から戒を授けて貰い、それを守ることを
誓って入門を許される。
戒を守らなければ、仏教徒の資格はない。しかし、親鸞仏教が戒を不要と
すると言うことは、倫理道徳を守らないということでありません。教学を高
めることでもありません。親鸞仏教が戒を不要とすると言うことは念仏する
ということです。念仏者になるということです。
善導大師は、受戒・持戒という仏教への入門方法と別に、もうひとつの入
門方法を作ってくれました。善導仏教では、念仏だけで仏教徒として認めら
れます。善導大師は、像法の時代の終わり、末法の時代の始めに出現され、
初等教育学を専門とされた。自分は持戒持律の僧として、自他共に認める中
国仏教の頂点を極めます。善導大師は大乗仏教の頂点から、釈迦を代理し、
自らの権威をもって釈迦の経典を書き直しました。僕らはその善導の開いた
道から仏教界に入ります。
善導の権威を認めないというのは自由です。善導の権威を認めない人か
ら見れば、無戒の念仏者など、外道そのものです。本願寺派が倒幕で勲功を
上げるまで、長い間、一向宗は、卑しく汚き宗と思われてきました。
しかし、唐仏教の最高位の高僧善導大師は、念仏者を「お前を仏教者だぞ
と」と仰ってくださっています。だから、その限りで僕は、戒がなくても自
分自身を仏教者だと思っているわけです。
477 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 17:02
善導の権威を認める限り、仏教者として僕らは戒は不要。僕らは念仏者と
いうバイパスにあって、仏教者というアイデンティティーを固めています。
「戒」は不要で、なおも仏教者であると言うことは、どこまでもどこまでも
念仏を称え続けていくということです。受戒もしない。念仏も称えない。ノ
ータリンが書いたペタぺらの偽仏教書を斜め読みし、自分は持戒持律の念仏
者だなどと妄想すれば、外道も甚しいというべきでしょう。
>ただの物知り博士、仏教学オタになる可能性があるんでは?って事です。
<座禅して念仏しなさいよ。念仏者になりなさい。>
478 :
名無しさん@3周年:03/04/27 17:22
自力も、他力のうちじゃん?
意識的に、座禅を組んでいても、それは十分じゃないわけで、
自然に座禅が組めるようになったら、それは、他力の座禅なんだし。
道元も、加持は認めていたし、場合によっては積極的にやってあげたら
いいとも言ってるし、道元が体験したことによれば、座禅の途中、
大きな力に「抱かれている」感覚があったとも、述べてあるし。
つまり、自力もきわまれば、他力だし。他力にまできわまってない
自力は、しょせん無用の長物。
それと、念仏も、自然に口からでないうちは、自力だしょ?
一遍上人のご文章を拝読するに、「極楽に行きたいだの、
救われたいだの、善悪だのという分別を超えて、念仏しなはれ」
といっておられるわけだしね。
禅宗vs浄土真宗みたいな話は、ナンセンスだしょ。
479 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 20:43
>>478 >自力も、他力のうちじゃん? これは誰から教わった考えだね?。
>意識的に、座禅を組んでいても、それは十分じゃないわけで、
十分じゃないような座禅は、組んではいかんとでも言いたいのか?。
十分じゃないような座禅は、自分は組みたくない。自分は十分じゃない座禅しか組
めない。だから、自分は座禅を組みたくない。
「自分は座禅を組みたくない」。要するにあんたはそう言いたいだろう。勝手にした
らどうよ?。誰もあんたに奨めてないよ。
>自然に座禅が組めるようになったら、それは、他力の座禅なんだし。
自然に座禅が組めるようにならない限り、それは自力の座禅。自力はいやだから、
自然に座禅が組めるようにならない限り、自分は座禅を組まない。要するに、自分は
座禅なんか組むつもりはないんだと、あんたはそう言いたいんだろう。
>道元も、加持は認めていたし、場合によっては積極的にやってあげたら いいとも言
ってるし、
あんたは加持にあこがれるんだな。あれは儲かるかも知れんからな。儲かりそうな
宗教には、興味があるんだな。
ま、あんたもアホ垂れ坊主の一人なんだろう。
480 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 20:44
>道元が体験したことによれば、座禅の途中、大きな力に「抱かれている」感覚があった
とも、述べてあるし。
抱かれているくらいの体験あってこそ座禅だ。そのくらいの体験がなければやっても
つまらん。道元の体験には及びもつかないから、要するにあんたは、「座禅なんかした
くない」と言っているんだろ。勝手にすればいいだろう。
>自力もきわまれば、他力だし。他力にまできわまってない自力は、しょせん無用の長物。
今、自分は自力にいるんで、この自力はいずれ他力に極まる。だから今慌てて何もす
る必要はない。能天気で怠惰なままのこれでいいんだということだろう。
他力に極まってない今、座禅をしてもそれは自力。自力は無用の長物。そんな座禅な
んかしたくない。
要するにあんたは、座禅なんかしたくないと言いたいんだろう。勝手にしたらどうだい。
時限装置つきの地獄の釜が開かないことを祈ってやるよ。
>念仏も、自然に口からでないうちは、自力だしょ?
今、自分は念仏も自然に口からでない。自然に口からでない念仏は、称えても無駄。
要するにあんたは、念仏さえ称えたくないんだろう。勝手にすればいいだろう。
481 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 20:45
>一遍上人のご文章を拝読するに、「極楽に行きたいだの、救われたいだの、善悪だのと
いう分別を超えて、念仏しなはれ」といっておられるわけだしね。
念仏は分別を超えて称えるもので、称えろなど言われて称えるのは分別を超えてない。
分別を超えてない念仏は称えればそれは自力の念仏。そんな念仏は、自分は称えたくない。
要するにあんたは、念仏も称えたくないと言いたいんだろう。
勝手にすればいいだろう。
>禅宗vs浄土真宗みたいな話は、ナンセンスだしょ。
要するにあんたは、仏教なんかに興味はないんだろ。
オーイ。478よ。仏教関係の知識は、全部デリートしてしまえ。おぬしは坊主の資格が
ない。坊主をやめて、早く別の仕事を探せ。
あぼーん
483 :
名無しさん@3周年:03/04/27 21:53
>>473さん、
>チラッと眺めただけですが、渡海さんのカキコは真摯だなと感じました
その通りですね。それにアッタカイ。わたしはあまり時間が取れないもので
ワードに貼り付け、印刷。ノートにして 時間のあるときに取り出して読んでいます。
編集の過程でそのことに気づきました。
>>478さんの自力・他力の考え方はチト違うような。。。
よかったら一緒に学びませんか。
484 :
名無しさん@3周年:03/04/27 22:23
渡海は「座禅して念仏しなさい」と他人に言う。その通りだ、全く同意する。
だったら、渡海も2ちゃんで書き込みしてるような時間があるんだったら
そんなくだらない事に大切な時間を使わず、時間をおしんで座禅して念仏しろよ。
渡海は仏道においてはとっても良い線いってるよ。親鸞教徒にしておくのはおしい
ぐらいだ。だからもったいない事に時間を使うなって。人生は短いんだぜ。
あ、おいらもくだらん事に時間を使わないで、今から観仏止観行に集中します。
渡海と渡海信者は市ね
486 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 22:57
453の続き
称名念仏は戒律の存在を要件としない。なぜそういう地位にあるのか。これ
を考えてみたい。
親鸞の思想は形式的根拠が先行する。形式的根拠が先行する論証は、僕
はどうも好きでない。形式性なんかは二の次でいいじゃないかと思うのだが、仏
教はそうじゃないようだ。古代の仏教では、形式的根拠というのが重要らしい。
他に合理的な正当性の説明手段が乏しいんだろう。自由さとともに、不自由さが
ある。親鸞は、教行信証の随所で、重要な記述を紹介している。
無量寿経に云うがごとし、もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、
下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。
これは善導の文だ。親鸞は善導のこの文章を重視し、自己の思想の基軸にし
ている。
無量寿経は何と言っているのか。
設(たとい)我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して
我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念」という部分が、
「我が名号を称せん、下十声に至るまで」に替わっている。「唯五逆と正法を
誹謗せんをば除く」が欠落している。善導は、大無量寿経のこの言葉を書き換
えたのだ。
487 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 22:59
極楽浄土への転入に、五逆罪と誹謗正法は障碍にならない。さらに、心を至
し信楽して我が国に生まれんと欲うという心理性も要件にならないという。要
するに、念仏を称えるものは、極楽浄土に転入する。善導はそう宣言したのだ。
極楽浄土という概念が大きく変わる。善導以前の仏教では、極楽浄土とは、
小乗仏教段階を終了し、大乗仏教段階に入ることを指していた。少なくとも、
世親、曇鸞ではそのように考えている。しかし、善導はその定義を変えた。仏
道界に入ることを極楽浄土に入るという概念で括り出す。善導は初等教育学を
専門とし、それまでの従来の考えでは社会のニーズに十分に応えられないと考
えたからだろう。この時代、中国仏教は末法思想が広がってきた。仏教を厚く
保護した随が崩壊し、混乱の中から唐が政権を握る。動乱の中では、自分が尊
敬していた多くの僧が、目前で殺されていく姿を目撃していたに違いない。社
会から教育者が枯渇していく。善導は、新浄土教を立て、新教育運動を提唱す
る。善導浄土教は、小乗段階を終えて教育専門課程に進学した学生を相手にす
るものでない。これから仏教を学ぼうとする人を相手にする思想として書き直
す。善導は、仏教への入門方法として、戒律を条件としない入り口を設けたの
だ。
488 :
名無しさん@3周年:03/04/27 23:02
________________
| ノ ( |
| 彡彡⌒⌒⌒ ミ 彡" ⌒⌒⌒ミミ
| 彡彡ノ. 三 ヽ / ヽ ||!
| ‖|‖ '。 。` | | || ! l l| l||
| 川川‖U ' ω` ヽ / U |川川 !! l |l|||ル
| 川6 ∴)д(∴) (∴ 9川| l| |川 l||l 漏れってかっこいいよな〜
| 川川 〜 / ヽ 川 | lルリ
| / ヽ ___/ \__ ヽ
| / \ / ヽ
| | | ト ヽ / Y | ! ←渡海
| / . | | ヽ / | | !
489 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/27 23:13
>>484 >今から観仏止観行に集中します。
おいおい。観仏止観行は注意しろよ。これがしたければ、まず指導者を
探せ。源信僧都のようなきちんとした行者を捜せ。生兵法で痛い目に合う
なよ。
法然は、観仏を奨めてないだろう。称名念仏を勧めたのは、合理性がある
ようだ。道元のような、ただ座れじゃなく、称名を併用させているのも合理性
がある。素人判断で暴走するな。先人の言葉は尊重しろよ。身のためだ。
ま、観仏止観行をしますと、2ちゃんの生臭坊主が言っても、マジ受けす
るのは馬鹿かも知れんがな。(w
490 :
名無しさん@3周年:03/04/27 23:18
484の言っていることは、当たっている。頭の中で、理屈こねて、
それが仏教だと思っているやつにはわからんだろう。
>戒律は自分が仏教徒か、仏教徒ではないのか、という問題です。 仏教徒
>は、釈迦あるいは釈迦を代理する師から戒を授けて貰い、それを守ることを
>誓って入門を許される。
なるほど。戒律というのは仏教者にとってとても重要なもののようですね。
まさにアイデンティティに関わる問題だと。
でも何故戒律というものが重要なんでしょうか。
それは自分が仏教者かどうか、自己から見ても、外から見てもそれをきちんと区別
ができるように。ということなんでしょうか。
それとも仏道を歩む者ということを忘れないように。ということなんでしょうか?
釈尊や親鸞のような人の話を聞いて何かを見出す凡人は仏教者ではないのでしょうか?
また、仏教者とそうでない者との区別をつけることが重要になったのは何故なんでしょう?
仏教について知識と体験や会得があれば、仏教者なのでしょうか?
それを持って他人を導くことができれば優れた仏教者なのですか?
素朴な疑問ですが。
今日は集中できなかったから行は中止だ。
渡海よ、俺は注意するも何も、数多くの弟子を指導してる指導者の立場なんだぜ。
ま、ここで修行歴をさらしても意味ないからやめとくが、観仏止観行が一人で
できるレベルには達しているとだけは言っておこう。
仏教は徹頭徹尾「禅定」なんだ。畢竟、釈尊は禅定しか説いていない。
戒律も称名も禅定をやりやすくするための、補助装置にすぎん。戒律にこだわって、
禅定を忘れるバカがたくさんいるけどな。最初は形から入るのがわかりやすいから
戒律を重視するが、それも禅定がしっかりできてくれば、戒律なんてマニュアルは
意識しないでも守れてくるもんなんだ。そういう称名念仏行を通じて禅定に集中する
って意味では、親鸞の捨戒は正しい。ただ真宗はバカの巣窟だから、称名念仏も禅定
も戒律も忘れてるヤツが多すぎるけどな。渡海よ、あんまりネットで遊んでないで、
もっともっと称名念仏を通じて禅定に集中しろよ。大いに座禅して念仏してくれ。
493 :
名無しさん@3周年:03/04/28 00:10
484さんは真宗じゃないんですか?それでお弟子さんが数多くいらっしゃるんですね。
お尋ねしますが、指導者のお立場の方でも集中できないということがあるものですか?
494 :
名無しさん@3周年:03/04/28 00:12
自力+他力=全力
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4.の文章は、長くて
読む気がしねー
真宗は一番最初に卒業した。最初は真宗の僧籍も持ってたけどすぐ帰俗したよ。
その後は叡山と南都の寺、ビルマとタイとベトナムで修行してきた。還俗して
日本に帰ってきてまだ4年ほどだが、弟子は国内外たくさんいるよ。
当然、指導者でも集中できない時はある、そう言う時の行はすぐに中止すべきだ。
496 :
名無しさん@3周年:03/04/28 11:48
つーーか
二人とも「加持」の認識違うし…
497 :
名無しさん@3周年:03/04/28 16:14
座禅なんてやってる暇があったら働け!BAKAドモ。
498 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/28 18:25
>>497 > 座禅なんてやってる暇があったら働け!BAKAドモ。
王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)
お主(ぬし)。京都本願寺の本堂に行って、中央で何百
年も座ってるバカ親鸞に向け、教行信証を叩き返してぶ
つけてやれ。「大馬鹿野郎!」って。
ついでに着ていた坊主服も、脱いで床に叩き付けてや
れ。そうすればお主も少しは目が覚めるだろう。
499 :
名無しさん@3周年:03/04/28 18:44
|
>>498から強いスカラー波を感知しました!
\
 ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄
┌┬┬┬┐ ピピピ...
―――┴┴┴┴┴―――――、
/.◎ ◎ ̄ //. ̄ ̄| || ̄ ̄ ̄||| ̄ ||
/.◎ ◎ ∧// ∧ /| || ||| ||
[/ ◎ ◎∀゚/[ ](゚∀゚.|||___||| ||
||_ ̄ ̄_|_|  ̄ ̄ ̄ ̄|.|. |ヽ._||
lO|o―o|O゜.| ストーカ |.|ー車 追跡中.||
| ∈口∋ ̄_l__l⌒l_|_____|_l⌒l.|
 ̄ ̄`ー' ̄ `ー' `ー' `ー'
500 :
名無しさん@3周年:03/04/28 18:44
500
501 :
名無しさん@3周年:03/04/28 18:45
>>484 すごい修行暦だ。
そんなに修行したら、空海みたいに、なにか超能力がつきましたか?
やっぱし、何かしら奇跡が起こせないと宗教とはいえんのじゃないかと
最近おもいまする。天理教は最近、超能力がなくなったらしいなー。(2chによると)
俺も座禅修行をやっているが、何かが起こりそうで、全然何も
起こらん。まだ3ヶ月じゃでのー。
たしか予想は良くあたるようになった気もする。
502 :
渡海 難って人は。:03/04/28 18:51
渡海 難って人は、彼女もおくさんも、いないんじゃない?嗤
いたとしても、好き者。。。。
>>502 渡海には奥さん(クリスチャン)と子供がいるらしい。
しかし、渡海があまりにもアフォなので別居中。
504 :
?n?C?@?i¨?A´?A¨?l?I´?B:03/04/28 18:59
ああ、やっぱりね☆
渡海 難くんの顔って、きっと「田んぼ」みたいな顔だと思う。
505 :
名無しさん@3周年:03/04/28 19:08
渡海 難くんさ、もっと人間関係のお勉強した方がいいよ。
もっともらしいこと言ってても、人間的にアフォじゃん。
だれかが、渡海 難くんのカキコ、真摯で暖かいとか言ってたけど、
その人も含めて、アフォだよ。
相田みつをみたく、ちんこ立たなくなるぞ。
506 :
名無しさん@3周年:03/04/28 21:25
>494 >499 >500 >502 >503 >504 >505
久しぶりですねぇ。何処に行ってたんですか?
お久なので歓迎しますが、あなたたち「難ずるスレ」の面々でしょう。
書くスレを間違えてますよ。
501さんは、宗教とは奇跡と超能力の世界だと得心されてるようですね。笑えます。あははは
507 :
名無しさん@3周年:03/04/28 21:48
超能力と倫理が宗教だから、片面では間違いということ。
両方そろって初めてホンモノということ。
508 :
名無しさん@3周年:03/04/28 21:56
>506=よんく ◆/cGW.CSzzM
お前こそ今までどこにいたんだ。
ちゃんと座禅念仏してたのか?
お前の師匠が探してたみたいだよ、ゴミ箱をあさりながらw
509 :
名無しさん@3周年:03/04/28 22:07
>>506
>501さんは、宗教とは奇跡と超能力の世界だと得心されてるようですね。
>笑えます。あははは
最近は「超能力を言わんのが流行」だというのは、わかっておる。
それなりに理由もあるだろう。
しかしやっぱり宗教は奇跡が起こらんとなー。
奇跡の意味はいろいろあるがな。しかし、もし修行をすれば誰でも獲得
できるとすれば、修行が足りなくて、能力のないのを弁解しとるようにしか思えん。
そうはおもわんか?
おまえは勉強はしないのか? 勉強するだろ、なんのためにじゃ。
能力をつけるためにじゃろ。素直にになりなされ。
510 :
名無しさん@3周年:03/04/28 22:51
↑
そのいろいろある「超能力」の事ですが
例えばどの様な能力ですか?
2、3例を出して下さい。
511 :
名無しさん@3周年:03/04/28 22:57
484は一見若そうな文章に見えるが、いったい何歳なんだ?
インド、スリランカは行ってないのかな。
512 :
名無しさん@3周年:03/04/28 23:02
>>484 タイ、ベトナム等はよく解らんが、叡山にはいつ頃何年間行かれてましたか?
南都では何を何処で学ばれましたか?
513 :
名無しさん@3周年:03/04/28 23:41
>510 :名無しさん@3周年 :03/04/28 22:51
>そのいろいろある「超能力」の事ですが
>例えばどの様な能力ですか?
>2、3例を出して下さい。
しらないのか? 病気を治したりする能力がよく言われているだろ。
といいつつ、自分としては治癒にはあんまし興味がなくて、
「勉強が良くできるようになりたい」
みたいな感じだな。たとえば瞬時に膨大な知識を身につけたり、
洞察や知恵がでるようなことだよ。 きちんと勉強することによって
知恵はつくんだが、直観力のようなものは、やはりトレーニング方法が
すこし違うとは思わんか?
514 :
名無しさん@3周年:03/04/28 23:53
↑
それが仏教とどんな関係があるの?
515 :
名無しさん@3周年:03/04/29 00:25
>514
仏教観がちがうのか?
仏陀の境地に近づくことが仏教だと思っているんだが、
そのためには教条的な仏教を離れて、仏教を洞察する力が必要だと
おもうよ。
だから信仰とは少し違うかも知れんな。それに集中するときは
仏より呼吸を意識しているからな。
516 :
名無しさん@3周年:03/04/29 13:03
>京都本願寺の本堂に行って、中央で何百
>年も座ってるバカ親鸞
浄土真宗では釈迦ではなく親鸞が中央に座ってるんですか?
518 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/29 13:37
>>491 >でも何故戒律というものが重要なんでしょうか。
早稲田大学の学則を破るような奴は早稲田大学の学生とは言えない。お茶の水
女子大学の学則を破るような奴はお茶の水女子大学の学生とは言えないんです。
早稲田大学の学生だと言って欲しかったら、早稲田大学の学生は大学の規則を
守りなさい。お茶の水女子大学の学生だと言って欲しかったら、お茶の水女子大
学の学生は大学の規則を守りなさい。
裁判官が万引きしたり、痴漢行為をすれば、裁判官の風上にも置けない。松下電
器工業の社員は、松下電器工業の社員規則を守るのは当たり前のことでしょう。
日本人なら、日本の規則を守る。自治会・町内会のルールを守るのが自治会・
町内会員の最低限の条件だ。ゴミは決められた曜日・時間に出す。犬と散歩する
ときは、犬の糞は買い主が始末する。それが自治会員・町内会員の条件でしょう。
お釈迦様を先生と仰ぎ、お釈迦様に学ぼうとする学生は、お釈迦様が定めた規
則を守るのは当たり前の話だ。お釈迦様が定めた規則を守らず、自分はお釈迦様
の弟子だという奴がいれば、そんな奴は弟子の風上にも置けない。そんな奴はお
釈迦様の弟子を止めて貰おうじゃないか。そう言うことです。
519 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/29 13:38
>自己から見ても、外から見てもそれをきちんと区別ができるように。というこ
となんでしょうか。
お釈迦様が定めた規則を守らなければ、お釈迦様の弟子だなんて人様に恥ずか
しくて言えないでしょう。どの面下げてお釈迦様の弟子を名乗るんですか?。
>釈尊や親鸞のような人の話を聞いて何かを見出す凡人は仏教者ではないのでし
ょうか?。
お釈迦様が定めた規則をお釈迦様又はその代理の方から戴いて、それを守って
いくのが仏教者の第一歩です。
ただ、善導様はバイパスを開いてくださった。お釈迦様の規則はもう古いから、
守らなくてもいいよ。そのかわり、ひたすら念仏を称えなさい。そういう人も、
仏教者だと認めよう。そう言ってくださっているのが善導大師だ。善導流仏教に
立つ僕らの立場でもあるんです。
聞いて何かを見出せるかどうかは二の次、三の次でいい。戒律を守りたいと言
う人は受戒して戒律を守れ。それは嫌だという人は、本願を信じて念仏を称えな
さい。これが仏教者の要件です。
520 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/29 13:40
>仏教者とそうでない者との区別をつけることが重要になったのは何故なんで
しょう?。
早稲田大学の学生でもない者が早稲田大学の学生を名乗ったら困るだろう。
お茶の水女子大学の学生でない者がお茶の水女子大学の学生を名乗ったら困る
でしょう。東京電力の社員でない者が、東京電力の社員を名乗って電気料金を
徴収に来たらどうする?。
お釈迦様の弟子でもない者が、勝手にお釈迦様の弟子を妄想し、自分からお
釈迦様の弟子と名乗れば、社会が困る。
お釈迦様は、自分を「先生」と仰ぐ者に真実を教えようとされた。お釈迦様
を、バカだのキチガイだのバカタレだのという人がいれば、そのような人にま
で何かを教えようとしたわけではない。それは仏弟子ではない。
お釈迦様を「先生」と仰ぐ者はお釈迦様の弟子。お釈迦様を、バカだのキチ
ガイだのバカタレだのという人はお釈迦様の弟子じゃない。違いを区別するこ
とはとても大事なことだ。
>仏教について知識と体験や会得があれば、仏教者なのでしょうか?。
<それは、仏教物知り博士という。>
>それを持って他人を導くことができれば優れた仏教者なのですか?
まず、お釈迦様のお弟子になることが大事だ。お釈迦様のお弟子でもなかっ
た者が、いきなり仏教にこじつけて他人を導けば、社会は混乱する。他人を導
こうとする前に、お釈迦様のお弟子になることが大事だ。お釈迦様のお弟子に
なるとは、受戒して受戒した戒律を厳格に守っていくということだ。あるいは、
善導様に従って、ひたすら称名念仏をしていくということだ。
結果はその後に自然についてくる。他人を導くというのはその後の後の話だ。
521 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/29 13:42
>>515 >仏陀の境地に近づくことが仏教だと思っているんだが、
仏陀(他人)の境地に近づくことより、自分の境地を求めなさい。仏教は自
己実現が見つける先人の知恵だ。先人の知恵は自分が自分の境地に近づくため
にその中で利用させて貰うのが利口なんだよ。
522 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/29 14:11
>>516 >浄土真宗では釈迦ではなく親鸞が中央に座ってるんですか?
まあ、本願寺などは、外道の巣窟だ。中央に飾ってるのは、親鸞
じゃなく、木偶人形だ。座禅して念仏することを、外道と化した坊主
が拒否し、操り人形の原型を中央に置いて拝んでるんだよ。
そうすると、お布施がたくさん入ってくるそうだ。叩かないでも潤う
打ち出の小槌だ。
523 :
名無しさん@3周年:03/04/29 17:36
>まあ、本願寺などは、外道の巣窟だ。
親鸞や阿弥陀様から見れば、渡海難も外道中の外道だろw
524 :
名無しさん@3周年:03/04/29 17:50
まぁー まぁー
落ち着いて
525 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/29 21:44
>>523 > 親鸞や阿弥陀様から見れば、渡海難も外道中の外道だろw
他人を外道と呼べば、自分も相手から外道と呼ばれる。自然
の理だ。
親鸞様や善導様は、僕を好人、妙好人と呼んでくださる。
僕が外道かどうかは、阿弥陀様が2茶の愛好者に化身なされ、
いずれ正しく評価してくださることだろう。
2茶の皆様が、僕を外道と思えば、外道なんだろうよ。大した
問題じゃないだろう。
526 :
名無しさん@3周年:03/04/29 21:51
>>478さん
>道元が体験したことによれば、座禅の途中、大きな力に「抱かれている」感覚があったとも、述べてあるし。
道元禅師だけでなく、あなたでも不思議な感覚と出会えます。だれにでも訪れます(笑)
それより気になるのは、「道元」と呼び捨てですね。あなたは何様ですか?
>>522 あなたの仰ることはいちいちごもっともですが、いつも現役の僧侶をバンバンされてますよね。
彼らになにをお望みですか。
>>523 親鸞上人は呼び捨てで阿弥陀如来だけに「様」づけですか?
親鸞上人はお気にされないでしょうが、浄土真宗の門徒なら祖師を敬うことは
必要でしょう。いくら腐れ門徒とはいえ。
527 :
名無しさん@3周年:03/04/29 21:55
確かに523は、外道の意味を取り違えています。
528 :
名無しさん@3周年:03/04/29 22:06
>>522 自分の論拠になった祖師なら敬うべきだろ。
他人の敬い方にケチをつけなさんな。
座禅した親鸞像見してくれ(w
>>525 >親鸞様や善導様は、僕を好人、妙好人と呼んでくださる。
デムパ。
羨ましい。
俺も厚い面の皮と自由な立場が欲しいよ。
何度も言うようだが漏れは真宗じゃないよ。
はっきり言えばうちは鎮西だ。
この下道が。
>>526 身内に敬称はつけんだろ。
てか先人を呼ぶのにいちいち様付けなど新興宗教臭いぞ。
529 :
名無しさん@3周年:03/04/29 22:13
528さんは言ってることが支離滅裂。
525さんへのレス。
>俺も厚い面の皮と自由な立場が欲しいよ。
ホントに親鸞上人が身内ですか。身内ならあなたの望みは叶ってるはずですが(笑)
530 :
モダン仏陀:03/04/30 06:32
説教ばっかしでも退屈するでしょ。愛ばかしでもね。
ばかし、ばかしやってると馬鹿になるんだよね。
で愛憎、苦楽、4苦4愛、さしつさされつ。
リズムが大切だね。こういう考えがモダンだとおもうよ。
531 :
名無しさん@3周年:03/04/30 13:54
親鸞に「様」をつけないと因縁をつける奴は馬鹿。
考察や議論するのに一々敬称などいらない。
感情を排除して、一人の歴史上の人物として学問的に呼び捨てにするのが礼儀。
532 :
名無しさん@3周年:03/04/30 13:59
これが議論というもんですか。
しらんかった
外道ってのは苦の原因を自分の外に求めること.
内道ってのは自分の中に求めること(=仏道)ではなかったかな?
534 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/30 18:27
>>526 >彼らになにをお望みですか。
< ごもっともと思って戴ければ光栄。本気で声援を送っています。>
>>528 >座禅した親鸞像見してくれ(w
座禅して念仏する姿は見せ物じゃない。本願寺は、親鸞を像にして見物人の
見せ物にしているが、僕の親鸞はそんなんじゃないんだ。
見せ物を見たけりゃ、サーカスにでも行くんだな。
>デムパ。
もし念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり、人中の
上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。(散善義 信の巻 引用)
デムパという意味もよく分からんが、別におかしな主張ではない。念仏者なら、
自分は善導様から妙好人と呼んでいただけると思うのは自然なことだ。
>羨ましい。 <僕は親鸞さんと、数十年間格闘してきたんだ。>
> 俺も厚い面の皮と自由な立場が欲しいよ。
面の皮が厚けりゃ、不自由になる。自由さは繊細な精神に宿るものだ。
> この下道が。 <何とでも言ってくれ。>
このスレッドに、渡海難のSARSが感染しました。
外務省から渡航禁止令が出されたため、
− 終 了 −
536 :
tohtoshi@message:03/04/30 18:54
私たちの地上における人生は霊的な修行の場であり、各自の病気や事故や災害やトラブルなど
の不幸という事象がその人の魂の進化のステップとして、一歩一歩昇って行く時に起こる
学習項目であり試練であることを知る時、今ある境地から輝く世界を眺めることになります。
自力で己の人生を切り開いて行こうとする努力なしに、他力依存として僅かな霊能力を持つ人を
頼りにしてすがろうとする心を起こした時は、必ずと言ってよいくらい魔が差し込むものです。
この件に関する出典の説明がHP↓にあります。
ttp://www.d7.dion.ne.jp/~tohmatsu/
537 :
名無しさん@3周年:03/04/30 22:45
霊能力じゃなくて念仏に依存してるんだが
538 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/01 20:15
仏教の入門に戒律はいらない。善導大師はそう言って、仏教の入り口にバイパ
スを作ってくれた。バイパスを作ってくれたというのは、これはあくまで法然・親鸞
流の考えである。ここは間違えてはいけない。法然・親鸞はそう解釈したというこ
となのだ。しかも、法然と親鸞との間で考えに相違がある。法然にしてみれば、戒
律で入門する道もあって、念仏で入門する道もある。有戒の立場に立つ。しかし
親鸞は、戒律で入門する道は消滅して念仏で入門する道だけがある。すな
わち無戒に立つのだ。
法然仏教は流罪事件の前に完成し、その思想は流罪事件で影響を受けてない。
親鸞の思想は流罪事件を契機にスタートした。天台の戒師である法然が捕縛され、
罪もなく流罪になるという現実を見、自分自身も僧籍を剥脱されて僧に戻る道がな
くなったとなれば、現実問題として戒律を基にした入門の道は存在しないというの
が親鸞の立場なのだ。
現代の我々はどう考えればいいのか。戒律は有効と考えても、無効と考えても
いいだろう。ただ、戒律を有効と考えても、戒律を問題にしないで仏教に参加でき
る道が、親鸞さんのお陰で開けと考えれば、僕のような怠惰な人間には有り難い。
539 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/01 20:15
念仏は真実の行である。親鸞はそう主張する。そう主張できるには、それが戒
の存在を要件としない行であるということが条件である。親鸞はそう考えるようだ。
世の中の価値観の変化で衰退する戒律と一心同体のような学習理論は、真実の
理論とは言えない。
しかし、時代に翻弄されず、いつでも人々に幸せをもたらす学習行であるという
ためには、戒律に縛られないと言うだけでは十分ではない。荒唐無稽の行学であ
れば、戒の存在を要件としなくとも、真実の行ではないだろう。
仏教への入門は念仏でいい。しかし、仏教とは何か。少なくとも大乗仏教は、教
育者を教え育てる教育運動だ。僧は、社会の教育者として、自らが得た認識を社
会の公共の財産とし、これを大衆とともに共感的に享受し、認識し、それを人々と
共に利用し合おうとする運動だ。念仏がいくら素晴らしいと言っても、人々とともに
学び教え合う教育学習関係が生まれなけば、それは仏教とは言えない。戒律は
いらないということと、教育事業が実現し続けるということとは話が違う。親鸞はそ
の説明に破天荒の理論を提唱する。
540 :
名無しさん@3周年:03/05/01 20:51
単純に考えさせていただきますと、法然・親鸞は律行の末に絶対他力としての「念仏」を発見し、
逆に「念仏」から入った人は「念仏」を触媒として、そこから法然・親鸞の教えに触れ、
律行の道に自ずから行くのではないでしょうか。
いずれにしても「戒」は人の生きる道に対して必要条件だと思うのですが。
541 :
名無しさん@3周年:03/05/01 21:51
>>538 >仏教の入門に戒律はいらない。善導大師はそう言って、
>仏教の入り口にバイパスを作ってくれた。
言ってませんが。
どちらかというと、懺悔し、戒を保とうとしていたと思いますが。
往生礼讃にあったような気がします。
また、法然の教学は流罪後に回心があったとも言われていますが。
流罪前で無いと都合が悪いのでしょうか?
絶対他力の念仏に導かれたものは
>>540さんの仰るように、
自ずから戒を持とうとする方向へ向かうのではないでしょうか。
しかしこの辺りを論じだすと、西山系の方が出てきそうだ…
542 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/01 22:12
>>541 >どちらかというと、懺悔し、戒を保とうとしていたと思いますが。
>往生礼讃にあったような気がします。
親鸞は善導の正統な後継者かという決してそうではないでしょう。
親鸞だけを見て、親鸞が主張する善導が真の善導であると言え
ば大間違いです。それは法然にも当てはまるでしょう。
悪い言葉で言えば親鸞は善導を踏み台にしている。親鸞は善導
を踏み台にし、空前絶後の壮大な思想を主張していると考えます。
親鸞は、善導からみて、自分の考えを換骨奪胎した許し難い裏
切り者かも知れません。あるいは自分を遙かに乗り越えていった
恐るべき逸材というべきかも知れません。後世畏るべしと、驚嘆し
ていると思います。
> また、法然の教学は流罪後に回心があったとも言われていますが。
そうですか。それは興味深い。どこの記録ですか。ただ、法然思想
が流罪によって土台から書き換えられたとは思えません。
選択集などは流罪前の書籍です。
> 自ずから戒を持とうとする方向へ向かうのではないでしょうか。
戒律は、受戒し、僧門にそれが認められ、国家によって僧の認証が
あって始めて有効になります。
自分が勝手に戒律事項を守っているだけでは、持戒にはならない
でしょう。
543 :
名無しさん@3周年:03/05/01 22:52
>>542 >どこの記録ですか
手元に資料はありませんが、西山深草派の方が論文を出してました。
>自分が勝手に戒律事項を守っているだけでは、持戒にはならない
>でしょう。
それは悲しい答えですね。
浄土門では、もう少し身近に戒について考えられると思うのですが。
ネガティブではなく、ポジティブに考えていけるんでは、と思うのです。
戒と念仏とが同一とは思いませんが、それに近い形で機能してもよい、
と思います。
544 :
NB ◆0buMLZ/Vxc :03/05/01 22:54
545 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/03 11:12
>>540 >法然・親鸞は律行の末に
> 律行の道に自ずから行く
>>544 > 激しく同意。っす。
<言っている意味が分からん。>
546 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/04 19:01
親鸞の考えは、親鸞得意の破天荒の考えにいきなり飛び込んでいくと木を見て
森を見ずという結果になる。木を見る前に、森を見ることを先にしたい。
木を説明する彼の破天荒の考えは、彼の立場では彼の表の議論だ。当時の仏
教界からの反論を封じることを目的とした合目的的議論だと僕は考えている。親鸞
には合目的的議論とは別に真意がある。現代の我々は、通常、自分の真意をもっ
て表の議論とし、これを詳細に展開する。形式的議論はあくまで補助的な議論に過
ぎない。しかし、親鸞の時代には、形式的議論が大事だったようだ。真意に関する議
論は裏の議論と考えていたようだ。
親鸞には裏の議論がある。我々が一番聞きたい議論は、形式的議論ではなく、む
しろ彼らの裏の議論なのだ。破天荒の表の議論に踏み込む前に、真意に近い裏の
議論から考えていきたい。
親鸞には、称名念仏は最高の行法学習であるという確信がある。時代に左右され
ず、朽ちることも、翻弄されることもない最高の行法である。親鸞はそう確信している。
親鸞のこの確信はどこに基づくのか。我々が知りたい親鸞の真意は、彼が表向きの
議論として選んだ破天荒の思想からは見えてこない。地味な扱いの議論から垣間見
えてくる。
547 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/04 19:02
親鸞は念仏をどう考えていたか。我々が歴史的過去の人の念仏観を考える場合、
我々にとって必須だが彼らの口から絶対出てこない問題がある。そういうことも認識
しておかないといけない。それは、生理学的な観点だ。歴史的過去の特定の人物が、
念仏をどう考えていたか。これを考える場合、生理学的観点での観察結果は、彼ら
の口からはほとんど出ない。一部、魔境という神秘的な言葉で語られることが無いわ
けではない。しかし、これすら、親鸞ではほとんど無い。生理学は近代ヨーロッパで始
まり、我が国には明治以降に移入された。現代の我々だからこそ、生理学的観点は
説明上極めて普遍的であり、最も大事であるということを知っている。普遍的な思索を
しようと思えば、生理学は避けて通ることができない。我々は、過去の人の念仏観を考
える場合、生理学的観点は自分達で随時補充して考えていく必要がある。
生理学的な観点は、現代の僕らは自分の体験を交えればいい。人体機械としての僕
の構造と、人体機械としての人間親鸞の構造とはほとんど違いが無い。僕には心臓が
あるが、親鸞には無かったかも知れないなどと考える必要はないのだ。昔の人が生理
学的な問題に興味を持たなかったのは、人体機械はの構造は同じなんだからやれば
分かると思ったからだろう。彼らから見ればそういうことなんだろう。
548 :
名無しさん@3周年:03/05/04 19:16
難しいですね
よく理解出来ません
結局何が言いたいのかな
称名念仏の意義については、なかなか書いてくれませんね。
>>548 ここは渡海難のオナニースレになったので、放置してください。
550 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/04 20:23
>>548 >称名念仏の意義については、なかなか書いてくれませんね。
論筋をガイドします。
547も議論をガイドしました。
称名念仏の真実性の意義は非常に多面的です。多面的な議論
は、最初に全体骨格を示しておく必要があるでしょう。今日はその
骨格を書きました。
議論の骨格は、大きく、表の議論と裏の議論という構造で考える
べきでしょう。表の議論は、親鸞の言葉で「顕浄土」という言葉で出
てきます。裏の議論は「化身土」という言葉で出てきます。
現代の僕らが大事だと思うのは、親鸞が裏の議論として扱ってい
る内容だと思っています。だから、親鸞が裏の議論として扱ってい
る内容をこれから先述します。僕は547でそう、案内しました。
裏の議論を扱う場合、我々は、予め補充しないといけない議論が
あります。念仏の生理学的観点です。これは親鸞にはありません。
生理学的観点はこちらで随時補充して、裏の議論を考えます。
551 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/04 20:25
今回の議論は、一段階半とはどういう議論かという問いに始まり
ました。一段階半という議論は自力・他力観と密接な関係がありま
す。親鸞の独創的な因果論です。
一段階半因果は、論理を迷いの論理・真実の論理という二つの
分類に分けたとき、真実の論理に付属する議論です。既にそうい
う話が終わっています。
次いで、真実の論理とは何かという議論に入りました。真実の論
理とは、時代に翻弄されない論理だと言いました。時代というもの
に翻弄されないという意味で、「縁」に左右されない議論であるとい
いました。また、時代・社会の価値観に左右されない議論だとも言
いました。時代・社会の価値観に左右されないという意味で、戒律
に縛られないという話が終わっています。
縁に翻弄されない。戒律に左右されない行法として、親鸞は念仏
をその候補に挙げてきます。
念仏が真実の論理に立つ行法であるというには、縁に左右され
ず、戒律に左右されないというだけでは足りません。真実とは何か
という本質的な議論がまだ終わっていません。親鸞は、真実性を根
拠付ける中核的な議論として、表の議論と裏の議論で論議してきま
す。
一段階半、他力・自力は、親鸞一流の表の議論の話です。しかし、
現代の我々は、その表の議論に生きなり入ると道に迷う可能性が
ある。親鸞は、インド文化圏に立ち、僕らはギリシャ文化圏になじ
んでいるからです。そこで、裏の議論を先に固め、そこから表の議
論を見ていきたいと考えています。
一段階半、他力・自力は裏の議論を固めて表の議論を概観した
ときに、その中から不可避的に見えてくるでしょう。
552 :
名無しさん@3周年:03/05/04 21:37
縁に左右されない倫理ですか
それが真実の倫理とする訳ですね
ここまでは何となく理解できます。
親鸞様が称名念仏へ辿り付いた、選択した理由はどうですか。
これは「縁」とは違うのかな?
553 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/04 21:57
>>552 > 親鸞様が称名念仏へ辿り付いた、選択した理由はどうですか。
> これは「縁」とは違うのかな?
非常に面白い議論をしてきますね。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫
にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
親鸞は強縁、宿縁という議論を立ててくる。自分が法と会えのは宿
縁によるという。この議論をいまここで考えると話が混乱する。一段階
半因果論・自力他力論とも次元を異にすると考えます。
強縁宿縁は、真理の人格化という議論から派生してくるでしょう。後
で触れる場面が出てくるかも知れません。今は触れないで先に進み
ます。
554 :
名無しさん@3周年:03/05/05 00:17
渡海さん
釈尊を初め、親鸞様など
言語化する事が難しい仏道について、いつも丁寧に(少し難しいですが)説明して下さり感謝致します。
渡海さんが、心より親鸞様を尊敬し、なにより大好きな事が伝わってきます。
そして盲目的にならず、一歩引いた目線で「親鸞哲学(表現が悪いかな)」を見ている事に驚きます。
親鸞様は万人の「成仏への可能性」を称名念仏により強調したと言う事でしょうか。
私は他者の救済こそが、自らの成仏への道(ボサツ行)だと大乗仏教では考えている、と認識していますが
親鸞様的にどうなんでしょうか
>>554 まったくの間違いです。
念仏専心なさい。
556 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/05 20:36
>>554 結論を急がないでください。ゆっくり考えていきましょう。
557 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/05 20:37
念仏を称える意義は何か。親鸞は何を考えているのか。鍵となる言葉を
教行信証から拾いながら検討してみたい。
化身土巻末は、親鸞が本音を語っている重要部分だ。数個の段落に分か
れる。段落の分かれ目は必ずしも明確ではない。切り方で解釈が変わる。
しかし、少なくとも初段目の切れ目は明確だ。
「また言わく、占相を離れて、正見を修習せしめ、決定して深く罪福の
因縁を信ずべし。」
末は、ここの前後で初段目が切れる。ここから新たな段落が始まる。重
要なのは初段目の末尾だ。親鸞は、化身土巻末の初段の議論の結論を書い
ている。それを見よう。
558 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/05 20:41
我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪(しゅほ
つ)を剃除(たいじょ)し袈裟(けさ)を片に着ん者において、師長の想
を作さん。護持養育して諸々の所須を与えて乏少なからしめん。もし余の
天・龍、乃至迦タ富単那等、それ悩乱を作し、乃至悪心をして眼をもって
これを視(み)ば、我等ことごとく共に、かの天・龍・富単那等、所有の
諸相欠減(けつげん)し醜陋(しゅる)ならしめん。彼をしてまた、彼等
と共に住し共に食(じき)を与うることを得ざらしめん。また同処にし
て、戯笑(げしょう)を得じ。かくのごとく擯罰(ひんばつ)せんと。已上
「鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者において、師長の想を作さん。護持養
育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん。」
この記述に注目する。親鸞思想の琴線に触れる記述だ。親鸞仏教は流
罪事件を契機に形成されていく。法然を離れた親鸞は、流罪事件以後、単
独で自己の思想を切り開いていく。一人でどのように構築したか。その答
えがここにあると僕は思っている。最澄の願文とともに、親鸞が「愚禿」
の名乗りを生み出した重要な思想だ。化身土巻末では、護持養育という言
葉が重要なキーワードになっている。
559 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY :03/05/07 11:41
>>558 おひさ。
西山義をすすめていた人がいたよね。
どうして失礼なお節介だと思うのかね?
どうして仏教学として捉えるのかね?
信心する上で、禅に関心のある念仏者渡海さんなら、得られる事一行百巻だと
思うんだよ。鎮西人ならそのことが誰よりもよく解る。
人の親切は端から排除すべきではなく、少しぐらいは試してみようとは思わんのかね。
成長しないよ。
560 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/07 19:20
>>559 >
>>558 >おひさ。 <やあ。おひさ>
>どうして失礼なお節介だと思うのかね?
「差し出がましい失礼なご提案」と言ってあったんですね。前の自分のカ
キコをみましたよ。
>成長しないよ。
成長しなくていいんさ。僕にとっては、後生の一大事は過去の問題なん
だ。もう、済んだんだ。
僕は、仕事人間として外にしなければならないことがある。
今後、中国はますます日本の脅威になる。対中国、対印度の競争で、
日本が今から布石を打っておかないといけない問題はたくさんある。その
ひとつに、今、僕がこれからやろうとしている分野がある。
僕にとって、仏教は過去の問題さ。人生に困れば、座禅して念仏を称え
ればいい。親鸞さんは僕にそう教えてくれた。それ以上、何が必要だい?。
僕は先に生まれた者として、仏教で後から生まれた者から質問を受け
れば、教えてやるよ。「人生に困れば、座禅して念仏を称えなさいよ」と。
僕が、先に生まれた者から聞いた内容はそれだけだ。
僕は、後に生まれた者として、先に生まれた者から聞くこともない。仏教
については聞き尽くしたよ。「人生に困れば、座禅して念仏を称えなさいよ」
と。これが全てさ。
561 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/07 19:21
僕が仏教から学ぶべきものはもう無いよ。そんなことより、僕にはやるべ
きことが山ほどある。それが、僕のライフワークだ。僕のライフワークが何か
は、ここでは言わないよ。ただ、今の僕は、年代的に、自分の子供世代に向
け、この日本や世界を正しく伝達していかなければいけない世代だ。次世代
への伝達に責任を負ってるんだ。
僕らが先輩から受け継いだもの以上に、日本や世界をいい形で残してい
かないといけない。もし、より悪い形で残したとしたら、僕らは子孫から指弾
を受けるだろう。可能な限り微力を尽くすのが、僕の責任さ。成功するかど
うかは知らないけどね。今までは失敗続きだったんだ(苦笑)。
僕には僕のテーマがある。忙しいのさ。仏教書なんか読んでる閑はない。今
後、三十年後、寝たきりなったら、睡眠薬代わりに読むかもしれないね。
「人生に困れば、座禅して念仏を称えなさいよ」ということ以上のことが書いて
あれば、仏教書としてその本はものすごい本だよ(笑)。
数日間カキコできません。
562 :
名無しさん@3周年:03/05/07 21:49
確かに仏教書は読まんで良いと思う。でも「坐禅して念仏を称えなさい」だけでいいのなら
親鸞も、ただそう言っただけだろうね。彼は何故綿綿蜜密にああして説いてくれたのかな。
釈迦も手を変え品を変え何故ああして説いてくれたのかな。
渡海さんにはその理由が十分わかっていることと思います。(皮肉ではない)
わかっているからこれまでこうして書き込んでくれたわけで。
でも、不思議なのは「仏教から学ぶことは無い」という一文です。
仏教学から学ぶことは無いでしょうが、仏教そのものは「学ぶ」とかそういう事では無いのではないでしょうか。
o
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
/ このスレは無事に /
/ 終了いたしました /
/ ありがとうございました /
/ /
/ モララーより /
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
∧_∧ / /∧_∧
( ・∀・) / /(・∀・ )
( )つ ⊂( )
| | | | | |
(__)_) (_(__)
564 :
名無しさん@3周年:03/05/08 20:50
565 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY :03/05/08 22:36
>>561 >僕が仏教から学ぶべきものはもう無いよ。そんなことより、僕にはやるべきことが山ほどある。
じゃ、ここでカキコするのは止めたら?ぼくちゃんにも本業があって、結構忙しいよ。
中国文化圏にはショッチュウ逝っている。中国語が半分母国語なのでね。あんたの
中国の捉え方はもう最新ではなくなってるよ。それに中国問題は台湾、香港、シンガポール
などの複合要素を視野に入れて、華僑問題、関連国家など複雑な問題が多い。
それにSARS問題でどういう局面が一変したか捉えきれていないだろ?
566 :
ベロ ◆eOod7XM/js :03/05/09 02:15
電波男さん、ご無沙汰してます。
浄土宗でも西山義と鎮西義というのは、どう違うのでしょうか?
それと、仏教の原理的な視点から見ると、三昧法としての観想念仏の方が主流で、
善導系の称名念仏は亜流と言う事になるのでしょうか?
567 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY :03/05/09 18:54
>>566 >浄土宗でも西山義と鎮西義というのは、どう違うのでしょうか?
残念ながら、解説書以上の違いについては私には解りません。
>それと、仏教の原理的な視点から見ると、三昧法としての観想念仏の方が主流で、
>善導系の称名念仏は亜流と言う事になるのでしょうか?
『観無量寿経』はご存知のように中国撰述です。そこに説かれている観仏法は往生行
ではなく、飽くまでも補助として捉えるべきでしょう。
よく言われていることですが、臨終時の来迎を見るための訓練としてその観仏法が位置
付けられ、往生行としてインドの土俵で捉えるならば異質だと思います。道教の影響を
無視できないのかもしれません。
そのことでもって観仏法を否定できるわけもなく、臨終行儀を考えるならば、むしろ本道
なのかも知れません。安らかに来迎できるのであれば生き抜いた証だともいえましょう。
西山派の禅行は観仏だけではなく、口伝に残るもっと別なものがありそうです。
568 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/09 22:38
>>562 >彼は何故綿綿蜜密にああして説いてくれたのかな。
簡単なことほど、他人にはなかなか伝わらないんだ。「坐禅して念仏を称えな
さい」と言われ、はいそうですかと、誰がすぐにその通りすると思いますか。多
分、貴方だって坐禅して念仏なんかなかなかしてないでしょう。違ったら御免な
さい。一つのことでも人に勧めるというのは大変なことなんだ。
「坐禅して念仏を称えなさい」と言われ、はいそうですかと、右から左に言う
ことを聞く人がいれば、そんな人こそ問題児だろう。抵抗する人の方が正常なん
だ。なかなかそうしない正常人に向かって、親鸞は綿綿蜜密に説いているんだ。
念仏を称える意義を明らかにする。念仏を称えることにはどういう意義がある
のか。親鸞はこれを詳細に説明している。この議論は、行の巻の重要な柱であり、
証の巻の還相回向論に及ぶ。一段階半因果論もその意義に属する議論なんだ。他
力はその一段階半因果論を説明する補助的な議論だ。
念仏を称える意義さえ分かれば、人は称えると思うかい?。そんなに簡単じゃ
ない。称えろと言っているのは、何か下心があるんじゃないか。相手はすぐに疑
う。相手の下心を疑う人は、絶対に従わない。下心はないということをハッキリ
説明する必要がある。そこで、「坐禅して念仏を称えなさい」と言っている側の
胸中はどういう心か。これが信の巻の三心釈で説明する。
「坐禅して念仏を称えなさい」と言われると、急にいい子ぶる人がいる。「念
仏を称えればいいんだな」、こういう腹据わりに落ちていく。いい子ぶる人は称
えない。そこで、念仏を称える心はどういう心なのか、これを説明する必要があ
る。それが信の巻の一心釈だ。
569 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/09 22:40
称えるとどういう効果があるのか。それを説明しないといけない。それが証の
巻の往相回向論部分だ。
更に、念仏は孤立した世界ではない。念仏を称える世界は広大な世界だ。念仏
を称える世界、称える人を説明する。それが真仏土巻だ。
念仏を称えることの社会性も考えないといけない。なぜ今、念仏を勧めるのか。
時代性を明らかにしないと、人はなかなか称えない。時代性を説くのが化身土巻
の(本)だ。念仏を称えるということは、社会的にはどういう意味があるのか。
これも説明しないとなかなか称えてくれない。それが化身土巻の(末)で語られ
てくる。
教行信証は念仏を体系的に説明している。親鸞の手紙類は、こうした議論のそ
れぞれの一部分一部分を、断片的に平易に説明してくれているんだ。
僕らに念仏が届いてくるまでには、先人は大変な苦労をしてくれているんだよ。
570 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/09 22:41
>仏教そのものは「学ぶ」とかそういう事では無いのではないでしょうか。
「仏教から学ぶことは無い」とは言ってない。「仏教から学ぶことはもう無い」
と言ったんだ。
「源氏物語公開講座」、「シェクスピア公開講座」。こういう類のものはしばし
ば開かれている。こういうものは、普通、一般市民を対象にし、1,2回程度で完
結する。こういうものを、1,2回程度聞きに行った人が、「自分は源氏物語から
学ぶことはもう無い」と言ってはいけないかな?。
源氏物語もシエクスピアも、奥を極めようと思えば深いだろう。でも、そんなこ
とは一般市民には必要ないんだ。一般市民公開講座は触りの部分だけ教えてくれる。
一般市民は触りの部分だけ分かればいいんだ。触りの部分さえわかれば、もう学ぶ
べきことはないんだ。とんでもない、もっと知るべきだという人がいれば、その人
は大学に入学して勝手にもっと学べばいい。
僕は仏教の集まりに約十年通った。そこで聞いたことで、人生の重要な節々で糞
の役に立つことなんかは一度もなかったよ。素人が仏教から学ぶことはただひとつ
だ。人生で困ったら座禅して念仏称えなさいよ。これだけだっんだ。僕は、随分遠
回りしてから気付いたよ。
571 :
名無しさん@3周年:03/05/09 22:55
>渡海
ちがうよ。
572 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/10 10:44
親鸞仏教は流罪事件を原点とする。これが僕の持論だ。流罪事件は次
のように考えている。
真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥(みだ)
りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。
予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」
の字をもって姓とす。
裁判所は、僧籍を失った親鸞に藤井善信という名を与える。親鸞はそれ
を返上し、禿善信を名乗る。愚禿釈親鸞という名は現代で言う筆名だ。
京都あるいは京都と奈良しか知らない無産の僧が、いきなり僧籍を剥脱
され、逃亡防止の入れ墨を体に刻まれ、未知の土地越後に住まわされる。
入れ墨は一生消えない。親鸞は、日々その自分の入れ墨を見ながら生きて
いかなければならないことになる。遠流など、夢にも予想していなかった
彼にとって、ショックはいかばかりだったか。現代の我々からは想像もつ
かない。同じ遠流でも、ショックの大きさは、確信犯的な日蓮とも比較に
ならないだろう。
573 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/10 10:48
流罪には近流、中流、遠流という三段階がある。京都政権にとって、越
後は遠流に当たる。律令制度は形骸化していても、遠流が死刑に次ぐ重
責であることは変わりない。流罪者は、最大限一年分の食糧だけ支給が
ある。流刑地では、わずかばかりの未墾の地が与えられる。流刑者は未
墾の給田地を開墾し、二年目からはそこから自分で食糧を確保しなけれ
ばならない。地頭には租税も納めなければならない。配流の年に天候異
変でもあれば、翌年は餓死が待っている。天候はよくても、配流の時期が
悪ければ種まきもできない。
流罪人を管理するのは地頭の役目だ。流刑人が逃亡すれば、地頭は責
任を負わされる。十数年、数十年に一度の厄介者だ。流刑人が自殺しても、
餓死しても誰も困らない。受け入れる配流地としては、むしろ厄介払いにな
る。遠流は、事実上、執行延期の死刑に当たる刑だったに違いない。
そんな流刑人が、なおもしぶとく生きていく手づるは、初対面の土地の
人の善意だけである。地頭には流刑人を職業教育する義務などない。発想
もないだろう。逃亡防止の入れ墨を刻まれた流刑人は、相手にその入れ墨
を見せながら、犯罪者の汚名を負い、余所者余計者厄介者として土地の人
の善意にひたすらすがり、種の撒き方、草の刈り方、何から何まで教わって
いかなければ生きていけない。親鸞はそんな世界に放り出される。親鸞の念
仏思想は、数年間のこの時の絶体絶命下の体験を原点としている。
>仏思想は、数年間のこの時の絶体絶命下の体験を原点としている。
わかるよなきもするが、絶体絶命ってそんなに想像を絶するような
いい体験かなー。 実際体験してみないとわからないが、たいしたこと
ないような気もする。
考えようによっては、今の俺も絶体絶命なんだが、、、、多少能力UP
したかもしれんなー。
そんなんじゃない!! といいたいのは解る。
>「坐禅して念仏を称えなさい」と言われ、はいそうですかと、右から左に言う
>ことを聞く人がいれば、そんな人こそ問題児だろう。抵抗する人の方が正常なん
>だ。なかなかそうしない正常人に向かって、親鸞は綿綿蜜密に説いているんだ。
坐禅については、やってみて手ごたえを感じる。
しかし、念仏を唱える意味はなんなのか?
念仏が引っかかるなー。
例えば「何でもいいからマントラを唱えれば集中できる、やってみろ」なら
理解できるが、念仏となると、別の意図(胡散臭さ)を感じてしまう。
なぜ、胡散臭く感じるのか、そのへんがわからないかなー。
第一、「カンジーザイボーサツ。。。。。、ナッムニョーホーレンゲキョー、、、」
そんな、言葉面に意味ある分けない
576 :
名無しさん@3周年:03/05/11 16:33
>>572 とりあえず百万遍やってみろや。それから物言えや。
やらんで言うのは卑怯なりよ。
577 :
名無しさん@3周年:03/05/11 19:28
>576
>とりあえず百万遍やってみろや。それから物言えや。
>やらんで言うのは卑怯なりよ。
自分でやってみて、どうです? なんか変わりました。
578 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/11 23:25
>>575 >坐禅については、やってみて手ごたえを感じる。
ま、坐禅だけでもいいんだろうけどね。ただ、坐禅だけするというなら、尊敬
できる禅の師家さんを捜した方がいいだろう。安全だと思う。要は身を滅ぼさな
い安全性の問題だ。
浄土教が称名念仏を不可欠としているのは何故か。坐禅だけでいいという人に
対しては、安全性だと応えるべきだと僕は思う。
僕も、曹洞宗のお寺で何度か座った。そこで大事なことを教わった。総持寺の
御老師は二念を追っちゃいけないと言ってくれた。
二念を追うと迷路にはまり込む。僕もこれで苦い思いをした一人だ。妄想を追
って数年を無駄にした。二念を追ってはいけないということは、そのずっと後に
聞いた話だ。禅は、最初は一人でやってはいけない。安全管理上、ビギナーは、
確かな師の元で行うべきだろう。
浄土教は称名を伴う。これは、二念を追う危険を減らすんだろう。最近僕はそ
う思い出した。親鸞は云う。「もし念仏して臨終に魔障を被ると謂わば、光明遍
照摂取衆生力、またなんぞましまさんや」。
称名を伴うというのは、安全管理上でも必要不可欠なんだろう。
>マントラを唱えれば集中できる、やってみろ」なら理解できる
念仏はマントラの一種だよ。
山家の伝教大師は 国土人民を哀れみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏
を称うべし
579 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/11 23:26
>言葉面に意味ある分けない
意味はあると思うよ。
釈迦の時代、お釈迦様のお弟子達はなんと言って念じていたか。「釈迦のバカ
タレ、糞ジジイ、地獄の底のアホジジイ」。こんなことを念じていただろうか?。
多分そうじゃないだろう。僕はそう思う。
現代でも、社会をリードするような哲人・賢人達は、互いに相手を尊敬し合っ
ている。尊敬は、素晴らしい相手に対する礼を伴う(礼拝)。称讃を伴う(讃
歎)。できれば自分も相手のようになりたいとも思う(作願)。相手の考えはど
こにあるかできるだけ吸収しよう(観察)。相手の中から見えてきた真実は、よ
り多くの人々との共通認識にしようという動きを伴う(回向)。哲人・賢人達は、
互いがそんな風に心を通わしあうんじゃないか。僕らの先人はそんな仮説を立て
たんだろう。
僕らの先人は、普遍的な哲人・賢人の心を釈迦という一人の人物の心を手本に
学び始めた。釈迦は、哲人・賢人達を先生と呼ぶように教えた。相手を「先生」
と尊称する行為に、礼拝・讃歎・作願・観察・回向という哲人達の五つの行為が
含まれる。先人はそう考えたようだ。
卓越した指導力を発揮している現代の指導者、この現代を切り開いた過去の開
拓者、未来の賢人を目指す努力家達、釈迦は、こういう人々と絶えず心を通わせ
ていたんだろう。大無量寿経には「去来現仏 仏仏相念」という言葉が出てくる。
この言葉は、梵語経典にもある。これがアジアの浄土教の起源だと僕は思ってる。
「バカタレ、糞ジジイ、地獄の底のアホジジイ」などと念じるんじゃない。誰
でもいい、何でもいいから「先生、ああ先生」と念じてみよう。そう念じてみる
ところには、世界共通の哲人達の心が存在する。きっと存在する。僕らの先人達
はそんな仮説を立ててくれた。僕らは先人達のそんな仮説に賛同し、その仮説に
従って実践を試みる。
阿弥陀とは梵語で先生という意味だ。仏も先生と言う意味だ。南無は感嘆詞だ。
ああ先生、南無阿弥陀仏をそんな風に念じてみよう。先人達の仮説提案に素直に
従ってみようじゃないか。僕などはそんな風に思って座禅して南無阿弥陀仏を称
えるんだ。
580 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/11 23:28
>>576 >とりあえず百万遍やってみろや。それから物言えや。
一念多念の争いをなす人をば、異学別解の人と申すなり。 〜 別解は、念仏
をしながら、他力を頼まぬなり。別というは、一つなることを二つに分かちなす
言葉なり。解は、悟るという、説くという言葉なり。念仏をしながら自力に悟り
なすなり。かるがゆえに、別解というなり。 (一念多念文意 親鸞)
外道別解は相手にしないことにしているんだ。
↑みなさん、こいつのレスどう思いますか? なんてありきたりなんでしょうね。
誰もが皆、一瞬つけてみたくなる発想のレスです。 しかし、賢明な人はそのみずからの
短絡的思考を野放しにする ことを嫌がり、こういうレスは控えます。 しかし、この人はし
てしまったのです。 「誰もが思い付くような事」を堂々と!
この人にとってこのレスはなんなのでしょうか。 このレスをしているあいだにも時間は刻々と
過ぎ去っているのです。 まさにこの人のした事は「無意味」「無駄」でしかありません。
582 :
名無しさん@3周年:03/05/11 23:39
>>581 バカ言っているの、あなたそろそろやめたらどうよ。
581さんよ。
>>582 ( ´,_ゝ`)プッ シネヨ ヒキコモリヲタ
>>583 ( ´,_ゝ`) こんなことでいつまでも
悔し涙なんか流してないで早く寝ろ。
明日は目が腫れ上がってるぞ。
585 :
名無しさん@3周年:03/05/11 23:54
アフォばっか
587 :
名無しさん@3周年:03/05/12 00:06
588 :
名無しさん@3周年:03/05/12 09:40
>>577 同じ念仏宗でも法然と親鸞はまったくそのアプローチが違うのですね。
例えばブラジルへ行くにしても、法然はシルクロードを歩き、大西洋を泳ぎ、北アメリカ大陸を南下する。
親鸞は「どこでもドア」で到達する。門外漢の私にはそんな印象を齎します。
だから何だと問われると困るのですが・・・
禅の「北宗・南宗」もアプローチ方法としてはまったく同じだと思います。どちらを取るかは「お好み」なのでしょう。
何事もそうですが突出した物(者)が現れると、必ずその反対の立場の物(者)が現れます。
そうやって世界はバランスを取り、「大いなる流れ」は中道をゆるやかに流れているのだと思います。
589 :
名無しさん@3周年:03/05/12 10:30
↑
あなたの言う「中道」って、なんか「平均」って言ってるように見えるよ。
590 :
名無しさん@3周年:03/05/12 20:29
>>579 >阿弥陀とは梵語で先生という意味だ。仏も先生と言う意味だ。南無は感嘆詞だ。
どちらも大いに間違いです。
>渡海の「ああ先生」説
先生などと言う現代的には大して尊敬できない職種に帰結させるのはどうよ。
別のモンのほうがいいなぁ。
>>589 そうですか?そうでなくも受け取れますよ。
あぼーん
592 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/12 20:56
親鸞が北陸に向かい、そこで見たものは何だったのか。妖怪でもない。魔物で
もない。化け物でもない。日々を必死に生きようとしている老若男女、善男善女
の姿ではなかったか。
よそ者の親鸞には、在地の人に教わることが多い。親鸞は、教わり上手、聞き
上手だったのかも知れない。裃を脱ぎ、腹を割り、礼を尽くし、素直に耳を傾け
れば、相手が流刑人といえども邪慳にする村人ばかりではなかったろう。晴れれ
ば荒れ地を開墾し、種をまき、水を巻き、肥やしを撒く。流刑者という汚名を受
けながら、村人の中に必死に溶け込もうとしつつ、降ればあばら屋でひたすら念
仏三昧ですごす。親鸞はそんな毎日を送っていたのだろう。この時は既に在俗
の身である。僧に戻れる望みはない。そんな厳しい生活の中で、親鸞が村の娘
と恋仲になる。この恋には相当反対も強かったろう。相手が流刑者となれば、恋
は御法度という不文律もあったはずだ。それでも、恋が結ばれていったのは、土
地の人から相当信頼を受ける存在に親鸞はなっていたということを想像させる。長
くつき合えば、境遇に同情する人も出てきただろう。当時は男性の方が女性の家
を訪れ、契りを結ぶ。女が声を掛ければ、流刑者として許されぬ恋とは思いつつ、
一人の男として、女の元に出かけることは自然なことだったのかも知れない。そ
れは、村人に助けられながら、親鸞は村に必死に溶け込んで生きていこうとしてい
たことを如実に物語るエピソードだったかも知れない。
流刑地の親鸞の心を支えたものは何だったか。善人なおもて往生を遂ぐ、まし
て悪人をやなどという悪人正機の教えだったか。おそらくそんな軽薄な思想では
あるまい。
「鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者において、師長の想を作さん。護持養育して
もろもろの所須を与えて乏少なからしめん。」
書物一つ携えず流刑地に向かった親鸞を支えたものは、月蔵経のこの言葉では
なかったか。親鸞が流刑地で目撃した事実も、それが絵に描いたように現れた世
界ではなかったか。
593 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/12 20:58
>>590 >別のモンのほうがいいなぁ。
まあ、僕も考えておくよ。あなたも考えてみてよ。
594 :
名無しさん@3周年:03/05/12 21:35
自己を罪悪深重の凡夫であると厳しく見つめ念仏を通して
仏に総てを託した親鸞上人の生き方は人間存在の本質に迫るものです。
人間性豊かな情の人で、素晴らしい人格者である親鸞上人の弱点のひとつに
愛欲があると思われます。女好き、子煩悩。どちらも愛欲です。
595 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆oGUHqg51EY :03/05/12 22:27
596 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/12 23:23
>>594 自分の理想像を勝手に妄想し、その枠内に親鸞を無理に嵌め込めば、親鸞さ
んは窮屈がるだろう。
>罪悪深重の凡夫であると厳しく見つめ
罪悪深重の凡夫であると本当に厳しく見つめていたかどうか、批判的に確かめ
ることも必要だ。罪悪深重とはどういう意味か、その辺も考えるべきでしょうね。
>念仏を通して仏に総てを託し
仏に総てを託せるような人がいますか?。託した対象の仏とは何?仏に総て
を託せたかどうか、自分でそれを批判的に確かめなければ妄想と同じだ。
>人間存在の本質に迫るもの
ひいきの引き倒しは判断を誤る。人間存在の本質に迫るなど簡単な問題じゃな
い。理想像を勝手にでっち上げ、そこに親鸞を無理に嵌め込めば、親鸞さんは窮
屈がるだろう。
597 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/12 23:25
>人間性豊かな情の人
人間性豊ではなかったとは言わないが、できればひとつひとつ丁寧に吟味してい
きたい。
>女好き
結婚すれば女好きと言われるのか。親鸞とは哀れな男だ。親鸞さんは可哀想だ。
女好きなんて言われる必要は何処にもないでしょう。在俗の人が結婚して、どうし
て女好きと言われにゃならんのよ?。
>子煩悩
子煩悩だったかも知れないが、子煩悩だったという証拠はないでしょう。
親鸞の回りには、たくさんの子供がいるそうだ。昔の坊さんは、親の無い子を預
かり、衣食住を与え、教育を施し、成人させることが仕事だった。社会福祉養護施
設のようなもんだ。
関東で親鸞は、一切経の校合をしながら、一方ではそんな仕事をして村人から喜
捨を受けていたんだろう。
親鸞が京都に戻った後は、恵信尼さんが、その後の仕事を引き受けたんでしょう。
僧としての当たり前の仕事を着実にこなし、子煩悩と言われたら、口をへの字にお
曲げになるかもしれないません。
598 :
名無しさん@3周年:03/05/12 23:39
あはははは 久しぶりに真正面ですか?
あぼーん
600ゲット
601 :
名無しさん@3周年:03/05/13 11:27
易行にこそ王道があることに早く気づくべきだな。
自分が何かやったと思ってしまうような行では到底
及ばないということだよ。
602 :
名無しさん@3周年:03/05/13 11:39
渡海さんへ 勧学寮に行かれて、親鸞の教えは「座禅して念仏すること」を述べられてはいかがでしょうか。
603 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/13 18:55
>>602 >勧学寮に行かれて、
ネタですか?
カンカンガクガクリョウ?。どこの寮ですか?。そんな名前は聞いたこともない。
自分の知っていることは、他人も知っていて当たり前と思えば大間違い。僕の
知っていることで、貴方の知らないこともある。僕は在家なんだ。寺との付き合
いなど、ほとんどない。「あなたに仏教など教えるんじゃなかった」と、ある坊さん
から言われた後、寺との付き合いはほとんど切れた。勧学寮など、聞いたこと
もない。「つー」と言えば「かー」じゃない。誘いもなく得体の知れないところに出
かけて行く物好きなどはいないでしょう。好きなら、貴方が泊まりにいけばいい。
勧学寮など聞いたこともない。2茶より広いところとも思えない。2茶は世界に
広がっている。僕の話に興味を持ってくださる方は、2茶にご参加くださればい
い。簡単な話だ。現代は、2茶にこそ、真の仏法がある。僕はいつでも2茶で応
対します。
604 :
名無しさん@3周年:03/05/13 19:00
>現代は、2茶にこそ、真の仏法がある。
あるわけねーだろ、バカ!
だからお前は外道の中の外道なんだよ!
605 :
名無しさん@3周年:03/05/13 19:27
606 :
名無しさん@3周年:03/05/13 20:28
あぼーん
608 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/13 21:03
>>601 >易行にこそ王道があることに早く気づくべきだな。
易行道の疾(と)く阿惟越致地に至ることを得る有りやと。 〜 今是の十
方の仏、善徳を初と為し、広く衆徳を後と為す。若し人一心に其の名号を称す
れば即ち阿耨多羅三藐三菩提を退ぜ不(ざ)ることを得ん。 易行品
親鸞は易行道に立って、一心にその名号を称したんでしょう。
何にもしないで、無為無策でぼーっとしていれば、自然にお布施が転がり込む
というのは、お坊様方がご信仰遊ばされておられる気休め易行道でしょう。親鸞
の言う易行道とは縁もゆかりもないでしょう。
>>604 >あるわけねーだろ、バカ!
あるわけない?。ほほう信じられない?。そういう方もおられるでしょう。信
謗ともにあるでしょう。(笑)
>>605 >では、どこにあるのでしょうか?
はて?。貴方にも見えませんか?。見えない?。なるほど。うんうん。そう
かも知れませんね。貴方には見えない。それが仏法存在の何よりの証拠かも知
れませんね。(笑)
あぼーん
610 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/13 23:43
「禿」という名乗りは、配流処分が決まった段階で京都から始まる。この
一字に、当時の親鸞の全ての心情が込められている。僕はそう思う。
伏して己が行迹(せき)を尋ね思ふに、無戒にして竊(ひそ)かに四事の
労を受け、愚癡にしてまた四生の怨と成る。 〜 ここにおいて、愚が中
の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇
法に背き、下は孝礼に闕(か)けり。 最澄 願文
禿という字は、最澄の願文から引用した字であると聞いたことがある。も
しそうであれば、還俗させられ、流刑囚となって北陸に向かうときの、彼の
筆舌尽くしがたい心情も伝わってくる感じがする。
禿という字の源流は、もう一つある。それが月蔵経だ。親鸞は禿という字
に何を託したのか。剃髪者と名乗ればこれは僧ということになる。これは許
されなかったろう。しかし禿であれば剃髪者ではない。政府はその名乗りに
反対する理由はない。親鸞は、許されるぎりぎりの範囲で、僧というアイデ
ンティティーを守ろうとしたのではないか。医者が医師免許を剥脱されれば
その時から医師は医師でなくなる。親鸞も、僧籍を剥脱されれば僧でなくな
る。しかし、心の底では、僧でありたいという思いを捨てきれなかったのだ
と思う。
611 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/13 23:44
もう少し考えよう。親鸞はいう。
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供
養恭敬を勧めしむ
この和讃は恐らく関東時代に作ったものだろう。自分は舎利弗目連と同等
だと親鸞はいう。まあ、それはいいとしよう。自分は無戒名字の比丘だとい
う。果たして無戒名字の比丘だろうか。
本当はこれはおかしい。名字の比丘とは、名ばかりの僧という意味だ。と
ころが、仮も本物もない。親鸞は僧ではない。しかし彼は自分を僧だという。
彼は、九歳で得度し、最初の受戒をしている。しかし、僧籍を剥脱されれ
ば受戒の効果を失う。彼は、犯罪者として仏教界からも追放されたのだ。彼
は、仏教者としての全ての社会的地位を失っている。しかし、彼は、善導が
開いたバイパスから仏門に入った。彼はそう言いたいのだろう。罪人として
処罰されようが、僧籍を奪われようが、どっこい善導様が自分を僧と認めて
くださっておる。親鸞はそう言いたいんだろう。
実際はどうなのか。善導は、念仏する者は極楽浄土に往生するとは言った
が、僧として認めるとは言っていない。親鸞は何をもって僧と名乗ったのか。
それは、月蔵経の記述だろう。「鬚髪を剃除し袈裟を片に着る者」これが僧
である。親鸞はそういう主張をしているんだろう。
念仏を称える者は仏道者の仲間である。無戒の時代になれば、鬚髪を剃除
し袈裟を片に着た者、それが僧である。親鸞が言う名字無戒の僧とはそうい
う意味だ。
>何にもしないで、無為無策でぼーっとしていれば、自然にお布施が転がり込む
>というのは、お坊様方がご信仰遊ばされておられる気休め易行道でしょう。親鸞
>の言う易行道とは縁もゆかりもないでしょう。
いえ、それはおっしゃる通りで、まったく何もしないということではないと思いまうよ。
でも、親鸞さんも「そのままで救われている」という観念をもっていたのでしょう?
違ったらごめんよ。
俺が言いたかったのは「そのままでよいのだと知る」ことをするということ
なんだ。
613 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/13 23:45
流刑囚としての親鸞が、北陸で袈裟を着ていたとは思えない。しかし、頭
を剃ることはできたのかもしれない。仮に頭を剃ることさえ許されなくとも、
その変わり、「禿」という名を冠することで、精神的にはいかばかりでも僧
でありたいという思いを寄せていたのだろう。
自分は頭を剃っただけの形ばかりの僧である。「愚が中の極愚、狂が中の
極狂、塵禿の有情」である。しかし、そんな存在でも、必死に念仏を称えて
いけば、必ずや守ってくれる人もいる。天は、護持養育し、経済的な困窮か
らも救ってくれる。親鸞はそんな望みを託しながら、北陸に向かったのだと
考える。
あー、
あー、
615 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/14 00:01
>>612 >俺が言いたかったのは「そのままでよいのだと知る」ことをするということ
そのままでよいのだと知ったら何がどうなるの?。知れば何かが好転す
るのか。それとも、仏教というのは、十年聞いても、百年聞いても、結局は
人生で糞の役にも立たないような役立たずで済むとでもいうのか。
救われた状態と救われてない状態は何が違うの?。どこが違うの。
そのままでよいのだと知っても、欲しいものは手に入らない。愛する人との
別れは来る。嫌な奴とは会わねばならん。世の中で、苦の種にならんもの
はない。貴方自身は人間として現実にどう立ち向かっていこうとしているの。
天を仰いで、ノータリンのあくびをしていれば、ラクチンの金が天から降って
くる人間ばかりだと思ったら大間違いだ。貴方は自分の人生をどう切り開い
ていくのかが問われているんじゃないのか?。
二,三日カキコできません。
616 :
名無しさん@3周年:03/05/14 19:43
> 救われた状態と救われてない状態は何が違うの?。どこが違うの。
> そのままでよいのだと知っても、欲しいものは手に入らない。愛する人との
> 別れは来る。嫌な奴とは会わねばならん。世の中で、苦の種にならんもの
> はない。
そうですか。
それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
あなたにとって、それが一番の環境だからそうなっている。
=救われている。
617 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/16 00:01
>>616 <主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。あなたにとって、
それが一番の環境だからそうなっている。=救われている。
<真宗興隆の大祖源空法師、並びに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく
死罪に坐す。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。あなたにとって、
それが一番の環境だからそうなっている。=救われている。
<あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。あなたにとって、
それが一番の環境だからそうなっている。=救われている。
<自今已後は、慈信におきては、子の儀思い切りて候なり。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。あなたにとって、
それが一番の環境だからそうなっている。=救われている。
<専修念仏の輩の、わが弟子人の弟子、という相論の候らんこと、もって
の外の子細なり。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
618 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/16 00:02
<上人の仰せにあらざる異義共を、近来は多く仰せられ合うて候よし、伝え承
る。言われなき条々の子細の事。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
<いい脅かして、二つの不思議の子細をも分明に言い開かずして、人の心を惑
わす事、この条、返す返すも心を止めて、思い湧くべき事なり。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
<経釈を読み学せざる輩、往生不定の由の事。この条、頗る不足言の義と言うつ
べし。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
<真に、この理に迷えらん人は、いかにもいかにも学問して、本願の旨を知る可
き成り。>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
<諍論の所には諸処の煩悩起こる、智者遠離す可き>
そうですか。それをそのまま認めることはできませんかねぇ。
お悟りを開かれてる方とは、私ら凡夫は話が合いまへんなぁ(笑)。
>まったく何もしないということではないと思いまうよ。(
>>612)
<ま、あなたがたお坊様は、あくびぐらいはするんでしょうか。>
619 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/17 14:22
親鸞が越後でどのような境遇にあったか、正確なところは分からない。た
だ、土地の娘であった恵信尼と恋愛関係で結ばれたのは越後だろう。一切経
校合の依頼が入ったのも越後だろうと思う。
流刑人の身で土地の娘と恋愛し、殺されることなく命永らえ、その後、関
東武士から仕事の依頼を受けて関東に呼ばれるというのは、僕は凄いと思う。
運も良かったのかも知れないが、運も実力の内だろうと考える。親鸞は、や
はり大した人物だったんだろう。流罪となれば、その殆どが餓死、自殺、行
不明になる。遠流となれば、普通はその時点で死を覚悟するはずだ。
親鸞が越後で経験したものはなんだったのか。推測の域を出ないが想像し
てみたい。気持ちだけは僧でいよう。親鸞はそう決意し、京都から越後に向
かう。しかし、そうした決意は、流刑囚としての現実の生活の中では揺らい
でいく。髪を剃ることもできず、衣服を整えることもできず、泥まみれ、汗
まみれ、垢まみれ一枚の着た切り雀で、春夏秋冬を過ごしたのかも知れない。
しかし、暇さえあれば、座禅して念仏をする生活だけは継続していたのでは
ないかと思う。
流刑時代、食べるもの、着るもの、住むところに困らなかったということ
は決してないはずだ。しかし、絶命するような窮地は切り抜けている。月蔵
経の「乏少なからしめん」という言葉の意味は、感激感動の涙で、身を以て
体験したことだろう。
相手は無名の余所者余計者である。京都の寺で高い教養を積んでいる相手
と見ればそれだけで腹立たしさを覚える土着の人もいなかったはずはない。
しかし、「悪心をして眼をもってこれを視ば」、その人こそ、逆に、「諸相
欠減し醜陋ならしめ」られ、あるいは
「共に住し共に食を与うることを得ざらしめ」られ、「擯罰」されるという
場面もあったのかも知れない。そんな場面も、感動を以て目撃していたので
はないだろうか。
620 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/17 14:23
一つには寿増長せん、二つには財増長せん、三つには楽増長せん、四つに
は善行増長せん、五つには慧増長するなり。汝等、長夜に利益安楽を得ん。
この因縁をもって、汝等、よく六波羅蜜を満てん。久しからずして一切種智
を成ずることを得ん。時に娑婆世界の主大梵天王を首として、百億のもろも
ろの梵天王と共に、ことごとくこの言を作さく、かくのごとし、かくのごと
し。
仏道の筋が立つと環境に何かが起きてくるようだ。寿増長・財増長・楽増
長・善行増長・慧増長を得、一切種智を成ずる。
後において、その国土・城邑村落・塔寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野
・河泉・陂泊、乃至、海中宝洲・天祠に随いて、かの卵生・胎生・湿生・化
生において、もろもろの龍・夜叉・羅刹・餓鬼・毘舎遮・富単那・迦た富単
那等、かの中に生じて、かの処に還住して、繋属するところなし。他の教を
受けず。このゆえは願わくは、仏、この閻浮提の一切国土において、かの諸
鬼神、分布安置して、護持のためのゆえ、一切もろもろの衆生を護らんがた
めのゆえに、我等、この説において随喜せんと欲う、と。
人材も物材も適材適所というのがある。国土には国土の適材が必要である。
城邑村落には城邑村落の適材がいなければならない。塔寺・園林・樹下・塚
間・山谷・曠野・河泉・陂泊・海中宝洲・天祠それぞれに、適材がいなけれ
ばならない。しかし、現実には親鸞が越後に住まわされたように、適材が適
所を得ない。能力ある命、意欲ある命が、埋もれていく。本来の居場所を得
られず、あるいは居場所を追わる。なぜか。社会にあるいは個々人の中で道
理が明らかになっていってないからだろう。仏道は、能力ある命、意欲ある
命を、それぞれのあるべき位置に再配置する。道理が通れば命達に自ずから
再配置が起こってくる。
親鸞は、配流地あっても、自らの居場所を得ていったようだ。
621 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/17 14:23
その時に世尊、かのもろもろの悪鬼神衆の中にして法を説きたまう時に、
かのもろもろの悪鬼神衆の中にして、かの悪鬼神は、むかし仏法において決
定の信を作せりしかども、彼、後の時において、悪知識に近づきて心に他の
過を見る。この因縁をもって、悪鬼神に生まる、と。
越後には、親鸞から見て極悪人はいなかったのか。流刑囚が配流地で窮地
に立つことはなかったといえば、恐らく嘘になるだろう。現実には多くの困
難があったはずだ。親鸞はその時のことを何も語らない。目前の悪人と雖も、
その人もかつて一度は真実と出会っているんだ。その後、たまたま悪と出会
って心が歪んでいっただけなんだと。仏法と出会い直せば、また、善人に戻
る。親鸞はそんな言い方をしてくる。
622 :
名無しさん@3周年:03/05/18 10:02
> 僕らの先人は、普遍的な哲人・賢人の心を釈迦という一人の人物の心を手本に
>学び始めた。釈迦は、哲人・賢人達を先生と呼ぶように教えた。相手を「先生」
>と尊称する行為に、礼拝・讃歎・作願・観察・回向という哲人達の五つの行為が
>含まれる。先人はそう考えたようだ。
仏陀の思いは時代を超えて、恐らく隣のじいちゃん、ばあちゃんまで
広く染みこんでいるのだろう。
それを感じとれないのは、自分の観察力の無さだろう。
そこかしこに遍在する仏の心を感じることができれば、「光明」をみることが
できるのだろう。
しかし礼拝・讃歎・作願・観察・回向 こういう言葉にはどこか、素直になれない。
いちいち、逆らいたくなるほどではないにしろ、やはり心のどこかで
引っかかるものがある。
回向というと回向帳を連想してしまう。誰某が幾ら寄進したとか、そういうことを
帳面に書いたり、石垣にまで彫り付けたり、それが讃嘆であり、回向なのだろうか。
礼:気分転換
讃:歌って踊ろう
願:お願い事
回向:おすそ分け
俺はこの程度の軽ーい感覚がすきだな。
623 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/18 19:32
>>622 >回向というと回向帳を連想してしまう。 〜 それが讃嘆であり、回向なの
>だろうか。
>俺はこの程度の軽ーい感覚がすきだな。
現代は、坊主仏教が仏教を非常に分かりにくくしている。仏教を分かりに
くくしている諸悪の根元は、外道の坊主仏教そのものだ。坊主仏教は社会的
に金を持っているから質が悪い。
社会から一度、外道仏教を一掃しないと、社会に本物が見えてこない。
末法五濁の有情の 行証叶わぬ時なれば 釈迦の遺法悉く 龍宮に入り給
いにき
正像末の三時には 弥陀の本願弘まれり 像季末法の此の世には 諸善龍
宮に入り給う
大集経に説き給う 此の世は第五の五百年 闘諍堅固なる故に 白法隠滞し
給えり
竜宮に押し込められ、人々の手に届かなくなるというのは、証道の教えのつ
もりで親鸞は語る。証道の教えが竜宮に押し込められると言っている。ところ
が、現実には、浄土の教えが竜宮に押し込められている。押し込めたのは誰
か。外でもない。自分(親鸞)の教えの継承者を名乗る後世の真宗坊主だ。中
核には、自分(親鸞)の末娘の直系の子孫を名乗る大谷家が居座っている。そ
うと知れば、親鸞は、腰を抜かして驚くだろう。死人に口無しだ。死人に口無
しだから坊主達は枕を高くしているんだろう。
>>616も、外道の坊主仏教のぬるま湯に浸かって、本物が見えなくなっている。
625 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/20 20:57
念仏に対する確信は、親鸞の場合どこに基盤があるのか。親鸞の真意を推測し
た場合、化身土巻でくり返し現れる「護持養育」という単語が一つのキーワードに
なるんだろう。加えて、信心には「十種の益」が得られる。この「十種の益」というの
がキーワードになりそうだ。僕はそう考える。「護持養育」と「十種の益」は裏腹の
関係にある。僕はいまそんな仮説を考えている。
森羅万象を含め、社会の存立基盤全てが、本来は矛盾の無い大きな自然の大
道理の中にある。釈迦が悟った真理も、世界中の哲人や賢人の考えも、一見す
れば個々バラバラであり、互いに矛盾し合い衝突しあうように見える。しかし、実は
統一的な矛盾の無い大道理の中に包摂されていく。仏法も、そうした大きな大道
理の一部に過ぎない。現代の僕らに通じやすい発想で言えば、そんな言い方にな
るんだろうか。
親鸞が見ている実体も、僕らが見ようとしている実体とほとんど共通のもので
はないかと思う。しかし、仏教の先人達はそのような言い方はしない。無論、親
鸞もそのような言い方をしない。現代の我々の発想は、ギリシャ・キリスト教文
化圏に属す。親鸞の属する文化圏と、現代の僕らが根を張っている文化園とは、
基本的に発想を異にする。ドイツの哲学者カントはアプリオリという言葉を使う。
現代の僕らは、アプリオリに普遍的なものの存在を肯定しやすい。僕らには、気
付いても気付かなくても、キリスト教的発想が骨の髄まで染みついている。そう
した発想は親鸞にはない。親鸞にキリスト教的な観念は絶無である。当然、親鸞
は僕らと異なった言い方をしてくる。
森羅万象のありかた、社会の存立基盤のありかたは、哲人・賢人達の考え方に
本質的に矛盾するものではない。哲人・賢人達がいなくなれば、哲人・賢人達か
らその運営を任されたものが、哲人・賢人達の意思にそって運営しなければなら
ない。社会のあり方が哲人・賢人の心から離れたとき、社会には多くの不幸が起
きる。しかし、そうした不幸は、後に生まれる哲人・賢人が再び正す。
釈迦は無論、そんな哲人・賢人の代表の一人である。したがって、釈迦の法が
具現すれば、かならず幸せがもたらされてくる。親鸞はそんな言い方をしてくる。
親鸞の護持養育論に注目してみたい。
626 :
名無しさん@3周年:03/05/20 21:09
>僕らには、気
>付いても気付かなくても、キリスト教的発想が骨の髄まで染みついている。
貴殿のどこがキリスト的なのか、小一時間
627 :
名無しさん@3周年:03/05/20 21:45
>>622 素人目にキリスト教と浄土信仰はそっくりだと思っておりましたが、
少なくとも親鸞の思想はまったく異なる、ということですね。
「護寺養育」「十種の益」。この語は初めて知りました。
この語の解釈は過去レスでされているのでしょうか。
無いのでしたらご教示いただけると幸いです。
あと、般若心経などでは「実体は無い。実相がある」とありますが、
親鸞さんは実体として受け止めていたのでしょうか。
628 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/22 15:00
>>626 >貴殿のどこがキリスト的なのか、小一時間
キリスト的とは言ってない。キリスト教的発想が染みついている
と言ったんです。僕は、キリストは全く評価しない。
明治以降の我が国は、西欧文化圏に発生した教育学の実践を近代化
教育の柱にしてきた。普遍的なものの存在をアプリオリに心情的に肯
定しやすい傾向は、そうして生まれてきた。その傾向は、僕の中にも
ある。この背後には、近代化という名の下で浴びてきた近代日本が移
入したキリスト教が影響していると考える。
>>627 >素人目にキリスト教と浄土信仰はそっくりだと思っておりましたが、
現代にはキリスト教も浄土信仰も存在しない。第一の偽キリスト教
と、第二の偽キリスト教とがあり、第二の偽キリスト教が第一の偽キ
リスト教とそっくりだと思われているに過ぎない。由々しき不幸だと思
う。
第二の偽キリスト教には、釈迦親鸞という第二の偽キリストがおり、
阿弥陀という万能の偽エホバが万物を創造し、万物を支配しているこ
とになっている。
第二の偽キリスト教は、ゾロアスター教から生まれたというおまけ話
を、第一の偽キリスト教の坊主が本に書いているそうだ。
基本的には、第二の偽キリスト教は、第一の偽キリスト教の私生児
的分派であり、自分の宗教の鏡像であることを知らないという、お粗末
な話だと僕は思っている。
629 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/22 15:01
>親鸞の思想はまったく異なる、ということですね。
キリスト教とも、第一の偽キリスト教とも異なると僕は思っていま
す。
>「護寺養育」「十種の益」。この語は初めて知りました。
親鸞に護寺という発想はありません。親鸞思想に寺は不釣り合いです。
護持養育というのは、化身土巻末、第一段を貫く中心思想です。
>この語の解釈は過去レスでされているのでしょうか。
僕は記憶にありません。化身土巻末を議論する機会がなければ、この
議論は出てきません。
十種の益は信の巻に出る重要な概念です。この概念を欠けば、宗教
は無力になります。
>親鸞さんは実体として受け止めていたのでしょうか。
浄土教に空の概念が無いわけではありません。しかし、同じ概念を
輪廻という言葉で説明します。輪廻と空とは同じ対象を別の視点から
説明したものでしょう。空は、無という概念で有を説明します。輪廻
は有という概念で無を説明しています。
真理には、有形的な表現ができないものがあります。言語という有
形的表現では、真理を語り尽くすことはできせん。有に執すれば迷い。
無に執すれば迷い。有を離れれば迷い。無を離れても迷います。
釈迦は、有形的表現では語り尽くせない真理でも、容易に人の手が届
くところに置きました。つまり把握容易な方法論を公開しました。そ
れが禅定です。念仏は、そうした方法論の一つだと考えます。
いきなり禅定に入る必要はない。禅定でなくてもいい。そのまねご
とでいいからやってみることをお勧めします。
630 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/22 15:05
2,3日休みます。
ネットカフェで書き子してるの?
>>626 ご教示ありがとうございました。
>いきなり禅定に入る必要はない。禅定でなくてもいい。
>そのまねごとでいいからやってみることをお勧めします。
この一文でこころおちつきました。
しかし、親鸞さんは「口にただ称名ばかりを称えたらば、
極楽に往生すべきように思えり。それはおおきに覚束なき次第なり」
とも言われています。
HPを読んでいたら「万行随一の念仏・万行超過の念仏」ではいけない、
「自然法爾の念仏」でなくてはならない、と書いてありました。
自然法爾とは「阿弥陀仏を信ずる一念で、
絶対の幸福に救われて大安心大満足の心になった人が、
この広大無辺の仏恩にどのように報いようかと噴きあげる喜びが、
口に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とあらわれるもの」だそうです。
そこで、ずばり阿弥陀仏とは何でしょうか?
何故、阿弥陀仏を信じると大安心大満足の心になるのでしょうか。
633 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/24 09:05
>>632 >ずばり阿弥陀仏とは何でしょうか?
あなたは何時の時代の、誰の阿弥陀仏観をお尋ねですか?。
阿弥陀仏の概念は、長い浄土教仏教の歴史の中で二転三転していると思っています。
経典には、経典編纂時代の阿弥陀仏観で登場しています。その後、曇鸞は独自の阿弥
陀仏観を創設しています。善導は曇鸞浄土教を大きく変化させ、阿弥陀仏観を変貌させ
ています。その後、法然は法然の阿弥陀仏観を創設し、親鸞はそうした先人の阿弥陀仏
観を全て否定し、親鸞独自の阿弥陀仏を創出しています。
親鸞の阿弥陀仏は真理そのものと言っていいでしょう。親鸞は、象徴手法を使い、釈迦
をモデルに真理を人格的に捉え直しています。人格は意思と行動力を持ちます。親鸞は、
教育者としての釈迦が持っていた意思と行動力を真理に投影させ、真理が持つ意思を本
願、真理が持つ行動力を他力と言っています。
>阿弥陀仏を信じると
僕には阿弥陀仏を信じるという発想はありません。本願を信じるという概念を立てます。
本願とは何か。阿弥陀仏の概念が違ってくれば、本願の概念が違ってきます。親鸞の
定義で考えれば、祇園精舎を創設した釈迦が抱いた祇園精舎創設の理念に対応する概
念と言うべきでしょう。釈迦をモデルに人格化した真理に見いだせる真理そのものの行動
原理というべきでしょう。
634 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/24 09:07
>大安心大満足の心になるのでしょうか。
これは、ここでのこれからの議論になります。
優れた教育者の教育を受けた生徒は、恩師にいつまでも深く感謝し、恩師の心を生
涯大事に抱き続けたという話はしばしば聞く話です。
阿弥陀仏は真理を人格で捉えた教師です。植物学者は花を先生と呼んで花から真理
を学び、現在の世界中の病理学者達は、SARSウィルスを先生と呼んで、SARS
ウィルスからその治療法を必死に学ぼうとしているはずです。
優れた教育者の教育を受けた生徒が、不平不満の心を抱いて生涯教師を憎み続け、
親族や社会に怨みを抱き続けているという話は、余り聞いたことがありません。
635 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/24 09:17
>>632 >親鸞さんは 〜 とも言われています。
> 「自然法爾の念仏」でなくてはならない、と書いてありました。
> 口に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とあらわれる
>>633-634を書きましたが、上記の発言にコメントする意思は一切
ありません。 念のため。
636 :
名無しさん@3周年:03/05/24 19:01
637 :
名無しさん@3周年:03/05/24 23:14
渡海のせいで「真宗ちゃんねる」が死亡しました。
http://plan-c.fargaia.com/html/sinshu ふぁるがいあご利用の皆様へ
現在、サーバのハードディスク故障により、ふぁるがいあ関連サービス全てを停止しております。
しばらく前からの非常に不安定な状態もすべて上の原因によるものです、今まで不安定
ながらなんとか動かしてきましたが、ここにきて状況が悪化したため、完全に停止しました。
交換部品の手配が出来ないので、復旧のめどは全くたっていません。
誠に申し訳ありませんが、最低でも月末以後になると思われます。
>>630 ご教示ありがとうございます。
>親鸞は、象徴手法を使い、釈迦をモデルに真理を人格的に捉え直しています。
阿弥陀仏の心を持つ人間の行動形態として釈迦の人生を捉えているわけですね。
確かに、人様の苦労話を聞いたからといって自分が偉くなるはずがないのと同じように、
釈迦の人生をなぞっても自分が釈迦になることは無いです。
だから親鸞や道元はそこを飛び越えて、真理そのものと一体化するために
「念仏」や「只管打坐」と説いたのですね。
S会のHPは検索してたまたま見たのですが、何かあるのでしょうか?
639 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/25 08:58
森羅万象のあり方も波がある。いいときもあれば、悪いときもある。豊作に恵
まれるときもある。飢饉で多くの人が死ぬときもある。うち続く戦乱で人民が苦
しむときもある。平和で栄えるときもある。
親鸞は日蔵経を引用する。
カルシッタ 、天衆に告げて言わく、「この諸々の月等、各々主儻(とう)あり。
汝、四種の衆生を救済すべし。何者をか四とする。地上の人・諸龍・夜叉・乃至
蝎等を救けん。かくのごときの類、みなことごとくこれを救けん。我、もろもろ
の衆生を安楽するをもってのゆえに、星宿を布置す。おのおの分部乃至 呼羅の
時等あり。またみなつぶさに説かん。その国土方面の処に随いて、所作の事業随
順し増長せん。」カルシッタ、大衆の前にして、掌を合せて、説きて言わまく、
「かくのごとき、日月・年時・大小星宿を安置す。何者をか、名づけて有六時と
するや。正月・二月を暄暖時と名づく。三月・四月を種作時と名づく。五月・六
月は求降時なり。七月・八月は物欲熟時なり。九月・十月は寒涼の時なり。十有
一月、合して十二月は大雪の時なり。これ十二月を分かちて六時とす。また大星
宿その数、八あり。いわゆる歳星・ 惑・鎮星・太白・辰星・日・月・荷羅 星
なり。また小星宿、二十八あり。
640 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/25 08:59
保元平治の乱を治めたのは平清盛だった。彼は平家を中心とする新たな秩序を
作った。平家の秩序は長く続かない。やがて源家が社会秩序を作る。源家の秩序
は元寇によって基礎を崩され、やがて建武の新政が起きる。南北朝の戦乱は足利
政権・北朝政権の事実上の勝利で終わる。しかし平和は長くは続かない。応仁の
乱を契機に、国内はやがて長い内乱の時代に入る。下克上と戦国の内乱を納めた
のは、農民出身の豊臣秀吉だった。豊臣政権は二代で滅びる。内乱の時代に終止
符を打ったのは三河の徳川家康だった。
社会も平和の時期と戦争の時代をくり返す。生死生死をくり返す無常の中にあ
る。盛者必衰は源氏に滅ぼされた平家を表す言葉だが、全ての社会秩序に当ては
まる。徳川政権も、全国に大名を巧みに配置したが、黒船の来襲とともに瓦解し
ていく。
為政者が、賢人哲人の教えを正しく守れば平和が続く。賢人哲人の教えから外
れれば崩壊していく。リーダーが先人賢者の知恵を尊重すれば社会は豊作となる。
賢者の知恵を否定すれば、飢饉を招く。天災人災が人民を襲う。
カルシッタとは、優れた時代の為政者を象徴する架空の仙人だ。足利幕府が全
国に守護大名を配置し、明治政府が全国に知事役人を配置したように、カルシッ
タも各地に天の支配者を配置し、暦を制定して善政を敷く。
カルシッタの後、伽力伽という仙人が登場する。家康の後、秀忠、家光が出現
したように天の支配者は入れ替わっていく。
641 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/25 09:22
>>638 誤解があるようです。「釈迦が持っていた意思と行動力を真理
に投影させ」ると言いました。しかし、「阿弥陀仏の心を持つ人間
の行動形態として釈迦の人生を捉え」るというのは、仏教的では
ないでしょう。
本来、真理は非人格です。実体は「空」です。空だからこそ
「真如」「真実」「法」「仏」と自在に変貌します。変貌の実体は我
々の机上の観念です。
釈迦は歴史上の人物です。だから人格があります。阿弥陀は
架空の存在です。阿弥陀は釈迦の人格を真理に投影させて創
造されました。だから、阿弥陀は釈迦の心を持ちますが、釈迦が
阿弥陀の心を持つという理屈ではありません。キリスト教的発想
で仏教を捉えると、間違えるでしょう。
> だから親鸞や道元はそこを飛び越えて、真理そのものと一体
化するために
親鸞は「専念仏」を説きました。道元は「只管打坐」と説きました。
しかし、「ために 〜 説いたのですね」と同意を求められても、僕は
コメントしません。否定する根拠はありませんが、肯定する気持ち
にもなりません。
敢えて言葉で言えば、思いも言葉も絶えた世界があるというべき
でしょう。言葉とは有形的な表現手段であり、有形性というところ
で、もともと大きな制約があります。座禅して念仏申せ。
> S会のHPは検索してたまたま見たのですが、何かあるのでしょうか?
久しぶりにジャンヌにカキコしました。
642 :
名無しさん@3周年:03/05/25 11:21
>>638 >S会のHPは検索してたまたま見たのですが、何かあるのでしょうか?
そういうことも検索すればわかったはずですが?
見なかったことにして話を進めればいいよ。
643 :
名無しさん@3周年:03/05/25 19:25
座禅だけなら許すが、歴史を曲げるのは許せん。
644 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/25 23:54
為政者は善政を執行するに当たり、二つの選択肢がある。一つは賢人
に教えを求めてその教えに沿って行う。もう一つは賢人を重用して執政
を委ねるという方法である。政府は私的、公的に多くの諮問会議を持っ
ている。これは、前者の手法を採るものだろう。小泉内閣は慶応大学教
授の竹中氏を経済財政担当大臣に抜擢した。これは後者の手法だろう。
政治は、賢人の意見を採り入れて執行するものだ。これは、民主主義の
時代でも同様だろう。
政府は各地に様々な部署を配置する。首都には三権が集中するが、都
道府県にはそれぞれの役所が配置されている。病院、学校、企業などは
全国に散らばっている。全て国家にとっては欠くことのできないものば
かりだ。すべて、人民を守護するための存在に他ならない。
しかし、銀行はバブル時代の負債を抱えて行き詰まり、政府系企業は
多額の赤字を出しながら、倒産することもできない。倒産する必要のな
い健全民間企業がその余波で倒産し、多くの経営者が命を断っている。
政治の失敗は、国民の悲劇をもたらす。一度歯車が狂うと、建て直しは
容易ではない。
645 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/25 23:54
あるとき賢人の大徳婆伽婆は、支配者である大梵天王に質問する。全
国にどのような配置があるのか、と。
兜率陀天王、無量百千の兜率陀天子と共に北欝単越を護持し養育せし
む。他化自在天王、無量百千の他化自在天子と共に東弗婆提を護持し養
育せしむ。化楽天王、無量百千の化楽天子と共に南閻浮提を護持し養育
せしむ。須夜魔天王、無量百千の須夜魔天子と共に西瞿陀尼を護持し養
育せしむ。
(中略)
大徳婆伽婆、過去の天仙この四天下を護持し養育せしがゆえに、また
皆かくのごとき分布安置せしむ。後において、その国土・城邑村落・塔
寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野・河泉・陂泊、乃至、海中宝洲・天
祠に随いて、かの卵生・胎生・湿生・化生において、もろもろの龍・夜
叉・羅刹・餓鬼・毘舎遮・富単那・迦 富単那等、かの中に生じて、か
の処に還住して、繋属するところなし。他の教を受けず。このゆえは願
わくは、仏、この閻浮提の一切国土において、かの諸鬼神、分布安置し
て、護持のためのゆえ、一切もろもろの衆生を護らんがためのゆえに、
我等、この説において随喜せんと欲う、と。
森羅万象を含めてあらゆるものが、賢人の智恵に支えられてこそ、本
来のあり方を回復する。仏教にはそんな考えがあるようだ。仏法を学ぶ
というのは、人々の繁栄の護持養育の基礎に参加することである。親鸞
はそんな考えを持っていたのだと思う。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
647 :
名無しさん@3周年:03/05/28 09:09
このクソスレを相手するのにどれくらいの労力&費用を無駄にしたと思うか?
>>1 よ?
クソスレを発見しクリックする。左クリック1回でマウス磨耗費用、1円、
アクセスし転送するのに、接続費、サーバ等の電力費を含めて、10円、
この発言を作成するのにかかった時間5分。時給3600円換算で、300円、
発言するのにキーボード磨耗、マウス磨耗費用として、6円、
発言をUPするのに、接続費、サーバ等の電力費を含めて、10円、
最後にブラウザの×ボタンを左クリック。マウス磨耗費用、1円、
スレ発見からブラウザ閉じるまでにかかった本パソコンの電力費、2円、
発言作成を除く、クソスレだけのために費やした時間2分、時給3600円換算で、120円。
総額 450円。たった1つのクソスレに 450円もの大金を浪費してしまう。
そりゃあ、日本経済がおかしくなるわけだ。クソスレは日本経済をダメにしてしまう。
>>1 はこれをどう受け止めているのか。小一時間問い詰めたい。
このクソレスを相手するのにどれくらいの労力&費用を無駄にしたと思うか? >> よ?
クソレスを発見しクリックする。左クリック1回でマウス磨耗費用、1円、
アクセスし転送するのに、接続費、サーバ等の電力費を含めて、10円、
この発言を作成するのにかかった時間5分。時給3600円換算で、300円、
発言するのにキーボード磨耗、マウス磨耗費用として、6円、
発言をUPするのに、接続費、サーバ等の電力費を含めて、10円、
最後にブラウザの×ボタンを左クリック。マウス磨耗費用、1円、
レス発見からブラウザ閉じるまでにかかった本パソコンの電力費、2円、
発言作成を除く、クソレスだけのために費やした時間2分、時給3600円換算で、120円。
総額 450円。たった1つのクソレスに 450円もの大金を浪費してしまう。
そりゃあ、日本経済がおかしくなるわけだ。クソレスは日本経済をダメにしてしまう。
>> はこれをどう受け止めているのか。小一時間問い詰めたい。
649 :
名無しさん@3周年:03/05/28 21:12
>>647 君の自己満足に+450円。
浪費か消費かの違いは君次第だ。
650 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/28 21:23
仏教というのは、国家社会の護持養育の基盤である。仏道を学ぶというのは、
護持養育の基盤を学ぶということだ。親鸞は化身土巻でそんな主張を述べてい
る。それでは、護持養育と南無阿弥陀仏とはどういう関係にあるのか。仏道を
学ぶ人は、その一人一人の中で何が起きてくるのか。親鸞は信の巻で、十種の
益を獲を得るという。
冥衆護持の益。念仏の信を得ると多くの人々が陰になり日向になって助けて
くれるようになる。至徳具足の益。多くの幸せがもたらされてくる。転悪成善
の益。悪が転じて善になる。諸仏護念の益。優れた賢人哲人達が守ってくれる
ようになる。諸仏称讃。多くの哲人、賢人達の称讃を受けるようになる。心光
常護の益。心の光が常に守ってくれるようになる。心多歓喜の益。心に歓喜が
湧いてくる。知恩報徳。多くの人々の過去の親切が見えてくる。常行大悲の益。
多くの人々の助け手になる。入正定聚益。諸仏の仲間に加わる。
金剛の真心とは、釈迦に代表される哲人・賢人達の心だ。念仏はその哲人・
賢人達の心を我々に開いてきてくれる。なぜそういうことが言えるのか。親鸞
は結論だけを述べる。主張の根拠を言わない。親鸞の議論はそういう重要な部
分が欠落している。現代の我々は、こうした部分は自分の体験で補っていかな
ければならない。
651 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/28 21:24
親鸞の念仏は座禅して称える。浄土教の先人達は過去、様々な行体を経験し
ている。例えば観察行というのはその代表的な行為だろう。唱題というと、今
は日蓮宗のおはこだが、あれも起源は浄土教の修行方法の一つだったはずだ。
読誦、礼拝というのもある。こうした行体は、おそらく汎仏教全体の一般的な
修行方法だったのだろう。
観察行は、座禅して浄土を観想する。浄土教が絵画や彫刻を豊富に残してき
たのは、それらがすべて観想行のツールとして使われたからだろう。称名念仏
というのは、その観想に代えて口称という行為を重んじる。
座禅しながら念仏を称えていくと、僕の場合、体の中で様々なことが起きて
くる。一番顕著なのは、脳だ。脳の血管が非常に激しく脈動してくる。僕は脳
の断面写真を撮って貰ったことはないが、脳全体が非常に激しい血管運動をし
ていることが観察されるはずだ。脳の解剖図を見ると、脳は右脳、左脳に分か
れ、前頭葉、側頭葉のブロックに分かれる。僕の場合、脳の解剖図通り、しば
しば右脳だけとか、前頭葉だけという部分部分だけが活性化することもある。
ただしその範囲制御は、自分の意思ではできない。
四十代前半のころ、僕はしばらく、我流で観察行のまねごとのようなことを
していた。そのとき、あまりの頭の痛さに恐くなってそれをやめたという経験
がある。魔境を見たと自分では思っている経験をしたのもその頃だ。禅定を始
めると、脳は確実に質的変革を起こす。僕はそう信じている。ある本で、瞑想
で脳の血管が破裂することがあるという話も読んだ。それも嘘ではないと思っ
ている。
652 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/28 21:24
称名念仏は、観察行に比べると脳にとってマイルドだ。それでも、僕の場合、
かなり痛くなる。僕はこの文を書いている今も、若干の脳の脈動を感じている。
禅定とか念仏という言葉に触れると、反射的に脳はある特定の状態にスイッチ
オンする癖がついている。
念仏は一寸先が闇で、万策尽きたとき、思いがけない力を発揮する。事実、
僕はこれで幾度も救われた。逆境は今なお続いているが、逆境の中の体験を交え
ながら十種の益の意味について考えてみたい。
653 :
名無しさん@3周年:03/05/29 00:52
あげ
654 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/30 23:27
僕は、自分が進んでいく道で行き詰まると、行く度も行く度も念仏を称えてきた。
一日に4時間、5時間称え続けることも少なくない。二日,三日と連続して称え続
ける。こうすると、夜中に布団で寝付いても、脳の一部は寸暇を惜しんで確実に
禅定活動を続けるようだ。
「くよくよしていてもしょうがないじゃないか」。「そんなことはどうでもいいんだよ」。
とつぜん、どこからともなく、そんな声が聞こえてくる。この瞬間、あっと言う間に
気分が変わる。頭の中では水のようものが吹き出る。昔の人が、神の声を聞いた
と言うが、それと同じような現象なのだろう。僕は神の声とは思わない。しかし幻覚
だとも思わない。脳漿を絞るという言葉がある。脳内麻酔が噴き出るんだろう。精
神的な非常時に、生体としての僕の安全装置が作動する。精神的に追いつめられ
ると、環境の改善以前に、自分の精神の建て直しが必要になる。脳は自己防衛方
法を持っている。座禅して念仏していると、その安全装置が迅速に作動するようだ。
人は、悩み苦しむとき、ストレスに襲われ、パニックに陥る。こうなると自分の持っ
ている能力がほとんど使えなくなる。非常時にこそ重要な緊急データが頭の中に
はしまい込まれてある。それが、非常時だからこそ思い出せなくなる。冷静に順序
を追って考えなければならないときにこそ、冷静に順序を追って考えられなくなる。
これが解決に禍する。もともと人間は、脳だけでなく、全身でものごとを考えること
ができるように設計されているようだ。僕は最近そう思い出した。ところが、困窮状
態に陥り、精神的にパニックになると、脳のごく一部しか動かなくなる。ごく一部だ
けが、コマネズミのように空回転を始める。こうなると手が付けられない。
655 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/30 23:28
僕は背筋を延ばし、腹式呼吸で息を整えながら念仏をする。声は非常に小さい。
僕は、禅寺では座禅の時、目を開けろと教えられた。ところが僕の場合、視神経の
奥が大きな力で収縮を始める。上半身が自然に揺れだし、目は開けられなくなる。
それがいいのか悪いのか分からないが、僕の体は生理的にそう機能する。座禅し
て念仏していると、そうした中で、忘れていた情報が意識に上がってくる。意識に上
がってくるのは、念仏を止めた後ということも多い。突然はっと浮かび上がってくる。
この瞬間は自分の腹が決まるときだ。
座禅して念仏を称えると、脳の一部が感じていた危機感が全身に行き渡る。全身
がその危機に向かって臨戦状態に入る。全身が特定の重大事項に向かって解決
策を考え出す。念仏は、体内での情報の流動化を促す。
人は心理的に多くの殻を持っている。心理的な殻は、人間にとって防衛本能上必
要なんだろう。だから存在するんだろう。僕はそう思っている。心理的な殻は悪いも
んじゃない。むしろなければいけない。しかし、人生の危機に立ったとき、その解決
に向かってこの殻が非常に邪魔をすることがある。何重にも囲まれて顕在意識に
上らなくなった重要な情報が、意識の殻の奥で死蔵されている。また、無意識界も
含めて全身で考えて対処しなければならないのに、顕在意識が感知している危険
情報が、無意識界に伝搬しない。称名念仏は、そうしたとき情報の流動化を促すよ
うだ。
腹式呼吸して念仏を称えていると、背中の動脈流が横隔膜のリズムに乗って脳を
圧迫する。背中の動脈流が背中の血管を激しく上っていくのを感じる背中に感じる。
体中の血液が脳をリズミカルに膨張・収縮させる。この動きが、脳の中で血流れが
悪くなっている血管を物理的に刺激し、そこにも大量の酸素を伝搬する。僕は素人
的にそう解釈している。これによって脳が活性化し、眠っていた能力が目を覚ます。
656 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/30 23:29
座禅して念仏しても、遠い未来まで見通せたたという経験は、僕にはない。だか
ら、腹が決まって決断したことが、後で失敗だったということもある。しかし、失
敗しても後味はいい。女房子供を背負って進退窮まり、自分の足下が見えなくなっ
たとき、少なくとも足下の範囲だけは見えると言うことは、大きな救いだ。遠い未
来は見通せなくていい。足下が見えればいい。最善の策が見つからなくてもいいん
だ。二善、三善の策が見つかればいい。人生の危機にあたっては、最悪の選択肢だ
け避けられればいい。そうすればいつか自体は好転していく
僕は念仏に手応えを感じている。相談する相手がいないとき、僕は矢も盾も堪ら
ず念仏の中に飛び込む。僕は、そこから忘れていた情報をしばしば拾い出してきた。
渡海さん。そりゃあ自力だ。
自分で自分の座ってる座布団は上げられんのよ。
658 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/05/31 10:35
>>650 全く同意。
国家鎮護の仏教、日蓮系用語で言うと”立正安国”
659 :
名無しさん@3周年:03/05/31 10:40
>>657 何かバトルの予感。
しかしこの二人の対話は読みたい気もする。
ところで、なもさん、自力って何?
そして自力ってなくなるものなの?
自力をつくして他力に行くんよ。
バトルにならんよ。
渡海さんは私の友達じゃもん。
証拠あげ
>冥衆護持の益。念仏の信を得ると多くの人々が陰になり日向になって助けて
>くれるようになる。至徳具足の益。多くの幸せがもたらされてくる。転悪成善
>の益。悪が転じて善になる。諸仏護念の益。優れた賢人哲人達が守ってくれる
>ようになる。諸仏称讃。多くの哲人、賢人達の称讃を受けるようになる。心光
>常護の益。心の光が常に守ってくれるようになる。心多歓喜の益。心に歓喜が
>湧いてくる。知恩報徳。多くの人々の過去の親切が見えてくる。常行大悲の益。
>多くの人々の助け手になる。入正定聚益。諸仏の仲間に加わる。
662 :
名無しさん@3周年:03/05/31 10:57
>>660 その自力って何?
自力を「つくす」とは「なくす」こと、または「なくなる」こと?
663 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆IByKs72gR2 :03/05/31 10:59
いいなあ。自力を尽くして他力にいく。
日蓮系のおれが他力本願じゃイケナイかな?(藁)
664 :
名無しさん@3周年:03/05/31 12:09
665 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/31 22:18
>>657 自力だとか他力だとか、そんな観念的なことは問題じゃない。
念仏を称えると、一体何が起きるのか。生じる事実を客観的に摘示して冷静
に並べてみる必要がある。
並べた事実は、できるだけ主観を排すべきだ。主観の混じらない認識はないな
ら、どこからが自分の主観であるか、主観と客観範囲の冷静な切り分けが大事
だ。
念仏を称えて自分に肉体的に生じた事実は、程度の差はあっても親鸞の肉体
にも起きたと考える。
自分の肉体に生じた事実は、生じた事実として認識するとき、その認識は親
鸞の事実認識と共通する。
親鸞の思想が、親鸞に生じた事実を基にしていると思えば、親鸞の思想の理
解は、自分に生じた事実が最大のヒントになる。評価はその後にすべきでしょ
う。
>>658 > 国家鎮護の仏教、日蓮系用語で言うと”立正安国”
興味深い。波木井さん。おひさ。
立正安国論は、30年近く前読んだ覚えがあります。当時は何のことだか分か
らなかったが、波木井さんのカキコから、肯けてくるものを感じました。
護持養育というのは親鸞の重要な思想の一部です。国家鎮護に通じると言われ
れば、その通りでしょうね。中心部は重なっているんでしょう。親鸞も日蓮さんも天
台育ちだ。核心的な部分の価値観、情念では共通項が多くても不思議じゃない。
666 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/05/31 22:19
>>661 >証拠あげ 何の証拠か知らないが、危ない、危ない(笑)。
>>663 自力他力というのは、親鸞が自分の思想を説明するときに使った中間的説明的
概念です。親鸞思想を考えるときには必要だが、親鸞思想外を考えるときには、
全く気にする必要はないでしょう。親鸞思想の物差しで自力だと言われようが、
他力だと言われようが、そんな話は大きなお世話。
大事なことは、自分が幸せになることだ。幸せになる上で道具として使い勝手
のいい思想を見つければいいわけだ。使い勝手のいい思想が親鸞思想の外で見つ
かれば、自力他力は大きなお世話。
自力他力という概念は、時代で変化している。親鸞は親鸞独特の定義をしてい
る。もともと他力は、大乗仏教を説明する概念、自力とは小乗仏教を説明する概
念だったはずだと思っています。
>日蓮系のおれが他力本願じゃイケナイかな?
何だっていいんじゃないですか(笑)。
それじゃ僕もまた法華経を読むかな。
(ちょっと時間無いな<すぐ腰砕け(自嘲)>)
667 :
名無しさん@3周年:03/05/31 22:33
> 座禅して念仏を称えると、脳の一部が感じていた危機感が全身に行き渡る。全身
>がその危機に向かって臨戦状態に入る。全身が特定の重大事項に向かって解決
>策を考え出す。念仏は、体内での情報の流動化を促す。
こういう体験談は、はじめて聴きました。
座禅を始めたばかりで、こういう体験はないですが、それなりに禅の面白さ
を感じています。
念仏は使ったことはありませんが、単に唱えるだけなのでしょうか?
念を入れるんでしょうか。たとえば、ありがたい気持ちを全身にみなぎらせるような。
感情移入(感情的トランス?)のような状態に入って座るのでしょうか?
わたしの知っている禅はいたって淡白なようなので、ただ座るだけです。
あぼーん
669 :
名無しさん@3周年:03/06/01 02:23
通 行 人 必 死 だ な
>念仏を称えて自分に肉体的に生じた事実は、程度の差はあっても親鸞の肉体
>にも起きたと考える。
何教だったか忘れたが、信仰宗教の集会で懺悔を聞いたことがある。
若い女性が100人くらいの信者を前にして、懺悔をする。
感極まって、涙をボロボロ流してイエス(マリア?)を賛美する。
あとでその女性にあったら、すごくすっきりしていて、精神的な浄化が
行われたの分かった。宗教の威力をまざまざとみせつけられた、そういう
経験がある。
自分も、NGOの集会で、人間性を賛美する言葉を2こと、3こと
喋ったことがあるが、聴衆の共感が胸に飛び込んできて、
それから1週間くらいは胸が熱かった記憶がある。
覚醒の方法には頭を使うもの、胸を使うもの、腹を使うもの
があると聴いた。キリスト教の祈りの力などは胸を使うものだろうと
想像する。念仏も胸を使うものだろうと想像していたのだが、
どうだろう?
671 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/01 22:47
>>667 >単に唱えるだけなのでしょうか? <そうです。>
>念を入れるんでしょうか。
>たとえば、ありがたい気持ちを全身にみなぎらせるような。
どういう意味かよく分かりませんが、仰りたいことは何とな
く分かる感じがします。一切技巧は使いません。
>わたしの知っている禅はいたって淡白なようなので、ただ座るだけです。
それで十分でしょう。ただ座るというのなら、少なくとも随時、きちんとし
た指導者の指導を受けられるといいでしょう。
何か変わったことがあれば、御相談なさることを勧めます。安全管理の
ためです。
禅も恐い面があるようです。
>>668 苦笑
>>670 >念仏も胸を使うものだろうと想像していたのだが、 どうだろう?
<仰ってる意味がよく分かりません。>
>念仏も胸を使うものだろうと想像していたのだが、 どうだろう?
> <仰ってる意味がよく分かりません。>
下腹部をつかう瞑想を説明したら分かりやすいかもしれん。
俺はヤプー瞑想となずけている。
これは夢の中で高名な和尚から、じきじきに伝授されてた瞑想だ。
両足を平行にくっつけてたつ。できれば全裸が望ましい。
初心者は、手を伸ばしたところに軽くつかまるものがあるといい。
ひざをかるく緩める。そこから一気に爪先立ちする。
天を突き上げる感じでやる。
基本てきには、これを繰り返すだけ。
イメージ的には、頭上に巨人のマンコを意識し、自分はチンコに
なったつもりで突き上げる。
突き上げる、突き上げる。突き上げる。
何回か繰り返す内に、
本当に一物に成りきってしまう。
徐々に肉が硬直して真っ赤になっていくのが分かるはずだ。
乗ってきたら、ぐりぐりぐりからだを揺らして、右に左に
突き上げる。
チンカスを吹き飛ばして、いけ、いけ、いけ、
ごー、ごー、ごー。
通りが悪いときは、頭に解けたバターをたらす。ホホバオイルでもいい。
べちょべょにかける。そうするとすべりがよくなる。
普段はほとんど意識されない一物であっても、2メーターにも
肥大して感じれるのだ。
これを毎日10分程度1週間程度続けると、奇跡が起こる。
言葉では説明できんが、全身自身がみなぎってくる。
非常に勢力が強くなるし、不思議と女がよってくるようになる。
実際には呼吸のつけ方があるんだが、それはいいだろう。
まじめな方に少し不謹慎であった。
「外道」とおこられそうなのではやめに謝っとく。
かまわずに、どうぞ続けてくだされ。
674 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/07 22:47
念仏を称えるとどんな効果があるのか。無意識の中で忘れていた情報が呼
び覚まされてくる。頭の中でパニックを起こし、何がなんだか分からない中で
こんがらがっていた情報の糸が解きほぐされ、整理がついてくる。そうする
と、人は合理的な考えができてくる。ちぎれて無関係に離ればなれになってい
た重要な情報と情報とが再びつながりを回復し、ネットワークを作りだす。す
ると、蓄積していた情報は、格段に使い勝手がよくなる。念仏にはいろんな効
果がある。
経典は言う。
命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましま
さん。この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土
に往生することを得ん。
人は、人の意思と人の行動をもったときに人として存在する。意思と行動
が変われば人格が変わる。
人はしばしば決死の覚悟をもって意思と行動を変革し、再起(生)する。し
かしやがてその意思と行動の下で彷徨(病)し、疲労(老)し、やがて挫折
(死)する。人は、迷い苦しむ中で生死生死をくり返す。くり返す度に意思と
行動を変える。
意思を実現する行動に妨げのない者を天という。ブッシュは、圧倒的軍事力
とハイテク兵器をもって弱小国家イラクのフセイン政権を打倒した。政府だけ
ではない。天才は天の才能をもち、得意分野では妨げられることなく自らの意
思を実現する。
675 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/07 22:51
人は、意思の実現に多くの制約をもつ。
自らの行動を自らの意思で決することの出来ない者がいる。阿修羅という。
圧倒的な力を持っているが、天ではない。彼らは非天とよばれる。彼らは、
天の意思で動かされる。自らが自らの意思で動くことはできない。かつて被
占領国日本を統治したマッカーサー元帥は、米国大統領の意思で解任され、
朝鮮戦争に従軍する。彼らは天の命令一つで死地に赴く。
天・人・阿修羅の意思は知恵を含む。しかし、知恵の無い意思で動く者が
いる。これを畜生という。天・人・阿修羅・畜生は、行動にも休息がある。飽
食の獅子は他を襲わない。しかし、常に空腹で満ち足りることのない者もい
る。これを餓鬼という。
時に人は、身動き一つ取れなくなるときがある。欲望は紅蓮の炎となって
天を焦がしながら、その実現に向けて身はびくともしない。炎は氷の中で燃
えさかる。これを地の獄という。
人は自らの愚かさに流されて、天から地獄の間を流転する。天の意思は知
恵を具している。その一部には無欲の天もある。人には欲があってはいけな
い。人は清廉でなければいけない。こう主張する人々がいる。理想主義とよ
ばれる。しかし、理想主義者は絵に描いた餅の提唱者として指弾を受ける。
理想主義者はビジョンばかりでそれを実現する手段がないのだ。これを色界
という。
ビジョンばかりの理想主義ではいけない。理想主義者はしばしば批判を受け
る。しかし、理想主義を否定する人は、ビジョンすらないのだ。これを無色界と
いう。欲界・色界・無色界の三界は、まさに無知が支配する世界である。
676 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/07 22:55
無知は壁にぶつかる。もうだめだ。もう続かない。人はしばしば大きな壁
にぶつかる。これまでの計画をすべてご破算にして方向転換しなければなら
ないときがくる。人は、それまでの計画と行動に命終の時期を迎える。
念仏はそのようなときでも、死蔵していた情報を呼び起こしてくる。どこで
ぼたんの掛け違いあったのか。それまで経験して出会ってきた多くの人々
との出会いが改めて起きてくる。相手の心が見えてくる。言葉が思い出さ
れてくる。気づきが生じてくる。
「阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にまします」とは、おそらくそ
ういうことを言っているんだろう。心と心の真の出会いは、禅定の中で実現
されてくる。
念仏は、人にものの見方を変えてくる。ものの見方が変われば世界が変わ
る。世界が変わることを往くという。ものの見方が変われば、考え方が変わる。
考え方が変われば行動が変わる。意思(考え方)と行動が変われば人格が
変わる。新たな人格の誕生がおきる。掘り起こされた新たな情報を持ち、世
界が変わる。人格が変わる。昔の人は念仏にそんな効果を発見していたのだ
ろう。
677 :
名無しさん@3周年:03/06/07 23:40
私の実家はお浄土真宗の寺です。兄が家を継ぎますので僕は全くの檀家で
しかありませんが仏教大学を卒業しました。その時に勉強すればするほど
日本における仏教の矛盾が見え出し政治に密着しすぎた宗教。それがゆえ
に得られる利権、金儲けの道。そんなものに嫌気がさして普通の会社員の
道を選びました。生涯約束される報酬は格段違いますが、生涯心に無い嘘
を唱え続ける商売がいやだったからです。
親鸞の立教の本当の理由、人一倍強い出世欲そんなものは調べればすぐに
解ります。なのになぜ気づかないんだろうと思います。宗教には必ず金が
絡みます。信者の数も必要です。無宗教国家と言われる日本では古くから
ある宗教は無関心であるがゆえに信者の数がへりません。十分すぎる程
潤っています。そりゃそうでしょお経読むだけで何万円。葬式、法事なん
かになれば時給何十万ですよ。
檀家のお布施で非課税の住居兼お寺が簡単に経っちゃうんですからそれで
も皆さん文句言わないですよね。インチキ呼ばわりしませんものね。
日本の坊主の現状を見て嘆いていらっしゃるでしょう。
あぼーん
679 :
名無しさん@3周年:03/06/08 00:07
いやや!
>674
坊主にならないのは個人の勝手だが、
>その時に勉強すればするほど日本における仏教の矛盾が見え出し政治に密着しすぎた宗教。
>それがゆえに得られる利権、金儲けの道。そんなものに嫌気がさして普通の会社員の
>道を選びました。
これはずるいでしょ。ならば金儲けを考えない坊主になれば良かったのに。
そんな人もた〜んといるはず。それとも真宗の和尚さんは「全員」金儲け主義?
君からも糞坊主系の臭いが発しています。さすが実家が真宗なだけはある。ご用心。
681 :
名無しさん@3周年:03/06/08 13:31
/ / / /( ∧ ) ヘ ヘ
く // ( /| | V )ノ( ( ( ヘ\ お て
┘/^| \ ( | |ヘ| レ _ヘ|ヘ ) _ヘ し め
/| .| | )) )/⌒""〜⌒"" iii\ え |
.| α _ ヘ レレ "⌒""ヘ〜⌒" ||||> て
_∠_ イ | | /⌒ソi |/⌒ヘ < や に
_ (_ ) ヘ | ‖ () || || () || _\ ん は
/ ( ) ヘ |i,ヘゝ=彳 入ゝ=彳,i|\ ね
/ー ( / """/ ー"""" > |
_) | ヘ(||ii ii|||iiii_/iii)ノヘ|||iiiii< |||||
| ( ヘ|||||iiii∠;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; フ ""'
///// ヘ_/ ) ヘ|||""ヘ===二二二===7フ / ム/∧ ∧ ∧
///// ( | ii | |LL|_|_LLL// | )( ∨| ∨)
・・・・・ ) )| || | |||||||||||||||||||||||| | | ( ヘ | ヘ ) (
___ | | /| .| |||/⌒/⌒ヘ | | | iiiiヘ ( | ( | /
/ / (|.| | | | | | iii ) | ヘ )( )
( ( /..| | |_____/ | | iii ( )( // /
\ ) )..| |ヘL|_|_L/ / / ,,,,--(/Vヘ)(/
BY SEKAI BUNMEI MAHIKARI TAKASHUGI
682 :
名無しさん@3周年:03/06/08 15:04
/━━━-┬-━━━\ <俺達の時代もまだ続く...
/ // .| (・∀・ \ \
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| == _ _ .== |
| \||/ |
| | /
|_@. ┌──-┐ ..@_| プアァァァァァァァァン!
|─○| |サタン| .|○─| \
|─ | └──-┘ . | ─|
|─●| |●|\/L ( ;´Д`)<<文明真光
| ̄ ̄ < ガ ( ;/ つ つ
|_三三_________三Z ン ヽ(/ / /
│ │.[=.=]| |/\|^.(._.ノLノ
└──────────┘
683 :
名無しさん@3周年:03/06/10 00:48
, --- 、_
/ミミミヾヾヽ、_
∠ヾヾヾヾヾヾjj┴彡ニヽ
/ , -ー‐'"´´´ ヾ.三ヽ
,' / ヾ三ヽ
j | / }ミ i
| | / /ミ !
} | r、 l ゙iミ __」
|]ムヽ、_ __∠二、__,ィ|/ ィ }
|  ̄`ミl==r'´ / |lぅ lj
「!ヽ、_____j ヽ、_ -' レ'r'/
`! j ヽ j_ノ
', ヽァ_ '┘ ,i
ヽ ___'...__ i ハ__
ヽ ゙二二 ` ,' // 八
ヽ /'´ / ヽ
|ヽ、__, '´ / / \
神はマトリックスそのものだ!
あぼーん
685 :
名無しさん@3周年:03/06/10 07:43
教祖が宗教本来の道を外し、人を不幸にしております、教祖は罪と罰で信者
を縛り、教祖や教団幹部たちだけが、信者からのお布施で裕福な暮らしをしている。
さらに人間の欲望が信者を増やすことを実行させ、お金儲けに走る。
教義を守り道場に通いまじめに信心するものは、良いことがおき幸福に暮
らせ、天国へ行ける。教義にそむいたもの、宗教を辞めたものは、悪霊の
祟りがあり悪いことが起き、かならずや地獄へ行って火あぶりの刑に逢う
と信者を脅すのである。が、現実には必ずしもそうではないから、懸命な
信者は教団の嘘や矛盾、誤魔化しに気づき、やがて辞めていくのだ。
宗教は、教義、ドグマ、飴と鞭、罪と罰により成り立っている。
686 :
名無しさん@3周年:03/06/10 08:11
オナニしてると、確かに神の存在を感じます
周りに、近くにさえ誰もいないのに、あの不思議な感覚は、まるで神様とし
ているようなそんな不思議な夢のような出来事ですイクとそれまでいた神は
いなくなり、一人に戻されます。
でも、私は信じています、手淫をすれば神様が私のところへ来てくれること
を、神様、今日も私のところへ来てください、いつものようにやさしく私を
包んでください。
自らの意見を他人に賛同して欲しい願望があり座禅念仏を唱えながらオナ
ニーし昇天する 渡海 難。
687 :
名無しさん@3周年:03/06/10 13:36
念仏も題目も同じく「禅定」だからね。
座禅も寝てリラックスするのも同じこと。
結局、いつまでも憤懣やるかたないドス黒い精神状態を抱えたまま、
悪趣味な説法をぶちかましているTは、
心の患いを解消することができていない。
座禅は、普通の人間がやっても意味がない。単なる怠け者の遊び事になる
可能性が大きい。精神的な疾患を治すために座禅をやるべきではない。
まず念仏一向の大乗法をきちんと修してから座禅を取り入れるべきだ。
688 :
名無しさん@3周年:03/06/10 13:38
念仏も題目も同じく「禅定」だからね。
座禅も寝てリラックスするのも同じこと。
結局、いつまでも憤懣やるかたないドス黒い精神状態を抱えたまま、
悪趣味な説法をぶちかましているTは、
心の患いを解消することができていない。
座禅は、普通の人間がやっても意味がない。単なる怠け者の遊び事になる
可能性が大きい。精神的な疾患を治すために座禅をやるべきではない。
まず念仏一向の大乗法をきちんと修してから座禅を取り入れ、念仏座禅に取組むべきだ。
689 :
名無しさん@3周年:03/06/10 15:45
>>680 貴方の発想ご意見は飛躍しすぎではありませんか?
先に書いたように私は実家が寺で有るため家を継ぐために仏教を勉強
したのであって神に仕えたい人心を救いたいと思って坊主を目指した
のでは有りませんので仕事として身を置くには余りにも腐敗しきった
世界なので自分には身が重過ぎると思って諦めたわけですから・・・。
確かに金儲けを考えないお坊さんも中にはおられます。
住職で無ければそれでも良いかもしれませんが住職がそのような考え
方では寺を潰してしまいます。会社でいえば倒産です。結局は自分の
周りの人間、家族であり檀家であり本部の方々に迷惑をかけてしまいます。
それが正しい道でしょうか?清い事が必ずしも正しいとは限りません。
690 :
名無しさん@3周年:03/06/10 15:50
↑
でも、あなたも何らかの仕事をして、その報酬(給料)を頂くんでしょ。
691 :
名無しさん@3周年:03/06/10 17:55
みんなでとこのげるい
692 :
名無しさん@3周年:03/06/10 18:55
>>690 失礼ですがお書きになられてる事の意味がわかりません。
何らかの仕事とは今の職業での事ですか?お寺での事ですか?
僕はお寺の事には一切タッチしておりませんので何ら報酬は得ておりませんが・・・
真光では仏壇におまつりするお位牌の決まり細かく決めていますが
浄土真宗西本願寺ではお位牌は必要有りません。その理由をご存知でしょうか?
現世での行いが清く正しい者は神の傍に召されるのでお位牌は必要無いのです。食事も
神の元で存分に頂けます浄土真宗を信仰するものは現世での行いが良いはずだから
お位牌の必要は無いと教えていますが、実は広く普及させる為に出来る限りお金が
かからずお供えなどの手間がかからないような手軽なものにしたのです。
綺麗な意味などありません。
693 :
名無しさん@3周年:03/06/10 19:25
お寺を継ぐことも出来たが、イヤで継がなかったんでしょ
それでいいじゃない
後悔してるのか?
>689
浄土真宗は神を信仰しているの?
695 :
名無しさん@3周年:03/06/11 08:02
>>687 >悪趣味な説法をぶちかましているTは、
>心の患いを解消することができていない。
神経の図太い彼は躁うつ病ですか?
696 :
名無しさん@3周年:03/06/11 12:39
>>692 何が言いたいんですか?
あなたの育ったお寺と言うより、親がろくでなしって事?
697 :
名無しさん@3周年:03/06/11 18:07
>692
>>現世での行いが清く正しい者は神の傍に召される
それ、浄土真宗?
698 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/11 20:07
多忙です。しばらく休みます。
699 :
名無しさん@3周年:03/06/11 20:53
700 :
名無しさん@3周年:03/06/11 22:24
オーイ、座禅の時間だど。
「ただ吾身をも心をも、放ちわすれて、佛のいへに投入れて、佛のかたよりおこなはれて、
これに從ひもて行くとき、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ佛となる」(正法眼蔵)
道元親鸞一如かな
あぼーん
703 :
名無しさん@3周年:03/06/12 19:12
>多忙です。しばらく休みます。
もう復帰でっか。オナニーすると気が漏れまっせ。
704 :
名無しさん@3周年:03/06/13 16:29
>>702 しかしすごい絵だな。
こういうのを見ると全知全能の支配神は存在しないのだなと確信する。
705 :
名無しさん@3周年:03/06/13 17:06
ナルシスト。修行=精神的オナニー。論理よりも感性に訴える。
706 :
名無しさん@3周年:03/06/13 17:06
>>703 渡海の場合、しばらく休むと言えば1、2日で戻ってくるよ。
707 :
名無しさん@3周年:03/06/13 17:20
________________
| ノ ( |
| 彡彡⌒⌒⌒ ミ 彡" ⌒⌒⌒ミミ
| 彡彡ノ. 三 ヽ / ヽ ||!
| ‖|‖ '。 。` | | || ! l l| l||
| 川川‖U ' ω` ヽ / U |川川 !! l |l|||ル
| 川6 ∴)д(∴) (∴ 9川| l| |川 l||l 漏れってかっこいいよな〜
| 川川 〜 / ヽ 川 | lルリ
| / ヽ ___/ \__ ヽ
| / \ / ヽ
| | | ト ヽ / Y | ! ←渡海
| / . | | ヽ / | | !
708 :
名無しさん@3周年:03/06/13 17:25
r「「「h. / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 、. !j |
ゝ .f _ | 渡海よ!
| | ,r'⌒ ⌒ヽ、. │
,」 L_ f ,,r' ̄ ̄ヾ. ヽ. │ メロンパン買ってこい!
ヾー‐' | ゞ‐=H:=‐fー)r、) |
| じ、 ゙iー'・・ー' i.トソ | 表面の固いやつだぞ!
\ \. l ; r==i; ,; |' .人___________
\ ノリ^ー->==__,..-‐ヘ___
\ ノ ハヽ |_/oヽ__/ /\
\ / / / |.
y' /o O ,l |
座禅念仏より俺に忠誠を示せ!
709 :
名無しさん@3周年:03/06/16 11:18
>座禅は、普通の人間がやっても意味がない。単なる怠け者の遊び事になる
>可能性が大きい。精神的な疾患を治すために座禅をやるべきではない。
>まず念仏一向の大乗法をきちんと修してから座禅を取り入れるべきだ。
坐禅をするのに、そんなに大層に構える必要はないですよ。
方法についても、「あるようで無い、無いようである」くらいに
考えると気軽に取り組めます。
誰でも取り組める何でも無いことです。実際なんでもないことですから
返って気が抜けるくらいです。ですが何でも無いことでも、しばらくやって
みるといろいろ変化が起こることに気付くはずです。
渡海さんのような場合もあるでしょうし、もっとつまらないことも
あります。
実は「つまらないこと」に意味があります。
「重要なこと、大切なこと、大きなこと」は、あまり見逃すことは
ありませんが、些細なことほど見落としてしまいます。
「千里の道も一歩から」は禅の言葉でしたか? その一歩は何でも無い
んですが何でも無いがゆえに見落としていることだってあります。
710 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/16 20:33
もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道
に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくの如き
の愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、
教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。
善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。
かくの如く心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥
陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死
の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪の如くしてその人の前に住
す。一念の頃の如くに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中
において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声を
もって、それがために広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜す。
時に応じて即ち菩提の心を発す。(観無量寿経)
711 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/16 20:34
念仏を称えると何が起きるのか。先人達の認識を明瞭化しておくことは重
要なことだろう。
何事も悪事は長くは続かない。もろもろの不善を具せば、報いは我が身に
戻ってくる。悪業をもってのゆえに人は悪道に堕す。地獄・餓鬼・畜生道に
転落する。長い間様々な苦しみを受ける。やがてもう駄目という時がくる。
にっちさっちも動けなくなる時が来る。それでも、そのそんなときでも念仏
を称えると大きな効果がある。観無量寿経の著者はぼくらにそう教えてくれ
ている。
念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。これはどういう意味だろう
か。自分の過去が見えてくるということだろう。ずっと過去が思い出されて
くる。どこでぼたんの掛け違いがあったのか。ぼたんを正しくかけ直すには
どこから手をつけたらいいのか。忘れていた過去の情報が、一つ一つ見えて
くる。先人達もそんな経験を積んだのだろう。
命終の時、金蓮華を見る。もうだめ。これ以上は進めない。そんなときで
も、一縷の可能性のつぼみが見えてくる。一念の頃のごとくに、すなわち極
楽世界に往生する。真理を大事に思う人々の中に加わる。十二大劫を満てて、
蓮華方に開く。すぐには解決があるということじゃない。しかし、徐々に可
能性が開けてくる。先人達もそんな経験を積んでいたのだろう。念仏を称え
ると、そんな効果がある。観無量寿経の著者の体験だろうか。彼は僕らにそ
んなことを話してくれているようだ。
712 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/16 20:35
>>709 禅者かな?。 うんうん。
>渡海さんのような場合もあるでしょうし、もっとつまらないことも
あります。
<誤解を招きそうなカキコだな(苦笑)>
713 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/16 20:37
>>674-675 迷いの世界、六道を図表にしてみました。僕はこのように考えています。
意思 形 具体性 欲 行為制限 知恵 充足 行動
無色界天 ○ × ○ × × ○ ○ ○
色界天 ○ ○ × × × ○ ○ ○
欲界天 ○ ○ ○ ○ × ○ ○ ○
阿修羅 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
人間 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
畜生 ○ ○ ○ ○ ○ × ○ ○
餓鬼 ○ ○ ○ ○ ○ × × ○
地獄 ○ ○ ○ ○ ○ × × ×
色界天は、ビジョンのある無欲の理想主義。但しビジョンは絵に描いた餅。
具体性がない。
無色界天は、ビジョンなき無欲の理想主義。やることなすこと、破壊だけ。
他人のビジョンを批判するが、創造がない。
阿修羅 他者である天の意思で動かされる者(兵隊)
人間の上位に立つ者と、下位に立つ者がある
マッカーサーは日本人の上に君臨した。
日本軍人は、南方の島々で人間以下の境遇のもとで餓死していった。
阿修羅以外は自己の意思で行動する。
三界とは、無色界・色界・欲界と分ける。欲界とは、地獄から欲界天までをいう。
714 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/16 20:41
やりなおし
意思 形 具体性 欲 行為制限 知恵 充足 行動
無色界天 ○ × ○ × × ○ ○ ○
色界天 ○ ○ × × × ○ ○ ○
欲界天 ○ ○ ○ ○ × ○ ○ ○
阿修羅 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
人間 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
畜生 ○ ○ ○ ○ ○ × ○ ○
餓鬼 ○ ○ ○ ○ ○ × × ○
地獄 ○ ○ ○ ○ ○ × × ×
715 :
名無しさん@3周年:03/06/17 12:05
人間には三大基本本能があり、食欲・性欲・自己保存欲である。
親鸞だって性欲は人間の煩悩で乗り越えられないものだと見切
っていた。俺達凡人ならなおさら性欲を乗り越えるのは無理だ。
俺自身、適度な性欲は命を豊かにすると俺は思う。
親鸞の反省すべき点はオナニーで満足できなかったところ。
凡人ならなおさら我慢せずオナニーするべき。
性に対し極度に抑圧し間違った知識を持ったまま他界後抑圧して
来た念が爆発し、親鸞はSEX地獄に堕ちたようです。
あぼーん
717 :
名無しさん@3周年:03/06/19 01:09
アトランティス大陸とムー大陸はかつて、水爆をも用いた大規模で
悲惨な戦争をしました。さらに、金星やその他の惑星の霊たちとこ
の世の肉身をもった人類との間の戦争が起こりました。こうして、
その戦いに敗北した霊の系統の者たちは、霊的に非常に強い恨みを
現在の人類に対して持つようになりました。本当のことを言えば、
現在の人間に憑依している霊の多数は、そのような霊たちなのです。
神の力を以ってしても、憑依霊が人々の身体から長い間離れないこ
ともあります。その理由を言いますと、ある程度までは、現実の人
間の歴史の中で勝ったり負けたりしてきた霊の系統間の争いが、ま
さに今この現在まで続いているからなのです。現在、強い憎しみと
恨みを持った霊たちが、現在の人間が幸せな世界を建設するのを邪
魔するために、一致団結しています。言い換えれば、そういう霊た
ちは組織的に行動を起こしているのです。
さらに、そのような霊たちは、また他の惑星からの霊たちまでもが、
今日の人類の中に紛れ込み、人類の中に転生してきています。例え
ば、ムー大陸によって破壊されたアトランティス文明の人々は、今
日の人間に霊として憑依するだけでなく、実際に、この世界に人間
として転生してきているのです。さらに加えて、憎しみを持った霊
はそのような人間たちと一緒になって、憎しみに満ち溢れた恐ろし
い世界を作り上げようとさえしているのです、現在起こっているこ
となのです。
718 :
名無しさん@3周年:03/06/19 01:39
>715
せんずりこいてる坊さんってやだなぁ。
最低だよ。
世の中で一番無駄な物はセックスする坊さんだと思うけど、
せんずりする坊さんの存在価値はマイナス以下だな。
719 :
名無しさん@3周年:03/06/19 01:46
日本の天皇は神の直系の子孫であり、何千年か前には世界を統治しており、
再び世界を統治する運命にあると。日本の人々は、天皇の名のもとに行わ
れることは何であっても、たとえそれが不誠実でも暴力的なことであって
も、それは天国の栄光を勝ち取るためのものであると、教えられてきまし
た。第二次世界大戦中、日本人のパイロットは、この確信に従って軍艦に
飛行機で体当たり攻撃を行いました。多くののカルトは、手かざし等のテ
クニックを使って、疑いを持たない人々を引き入れ、日本人の優位性を示
す計画を達成しようとして始まったのです。信念を受け入れてしまってい
ます。
720 :
名無しさん@3周年:03/06/19 05:54
721 :
名無しさん@3周年:03/06/19 09:58
親鸞クラスになると何人妻がいようが構わないが、
そこいらのクソ坊主がセックスやりまくってるのが気にくわんね。
いや、セックスやりまくるのは構わないが、欲を捨てるだの何だのと
偉そうにのたまって金をむしり取る坊主を見ると、胸くそが
悪くなるのを通り越して殺気をもよおす。
722 :
名無しさん@3周年:03/06/19 12:17
地球は365日を掛けて太陽の廻りを一周する。これを地球人は一年と呼ぶ。
銀河には無数の太陽が存在する。同じくその太陽の廻りを500年掛けて公転している惑星もある。
公転時間が長ければそれに見合った生物、即ち寿命が三万年の生物も存在している。
そういう生物は極度に科学技術も進化しているのだ。これらが大量に地球に来ている。
月の裏側を橋頭堡にして巨大な基地を造っているのだ。NASAはそのことを知っている。
723 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/19 21:47
近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理り冥符せり。始めて深信を懐く。彼に云
わく、「善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を
専称せよ。称名をもってのゆえに、諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳・多善根・
多福徳の因縁なり」と。
一心にして乱れず、名号を専称すること。これは素晴らしいことだ。釈迦は後
世に仏道を残した。仏道は三学を基本とする。戒律と知恵と禅定である。戒律は
社会的価値観を背景にする。だから、仏教の戒律は既に寿命が尽きた。では仏教
から知恵を学ぶか。僧は仏教から学ぶべき知恵は多いだろう。しかし、大衆が学
ぶべき知恵が仏教に残っているかどうかは疑問だ。農民は、土や種から作物の収
穫方法を学ぶ。漁民は、海の潮、風の向きなどから漁の仕方を学ぶ。二千年近い
昔の遠いインドの文献に、日本の農民や漁民が学ぶべき知恵がどれだけあるかは
大いに疑問だろう。
人々が学ぶべきものは禅定だ。仏教が伝えてきた禅定は素晴らしいものだ。こ
れは時代に左右されない。僧が教育者として人々に教えるものがあるとしたら、
この禅定方法に他ならない。親鸞が一生をかけてしたかった仕事は、人々にこの
禅定を広めることだったのではないか。僕はそう考えている。鎌倉仏教は二人の
巨人を輩出した。道元と親鸞である。道元は中国に留学して帰国したエリートで
あり、親鸞は無位無冠無名無戒在俗の元流刑囚だ。しかし、二人の考えは、極め
て近いところに立っていたと考える。
724 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/19 21:48
さあ、禅定を学ぼう。本当は禅定でなくてもいい。本当は禅定でなくてもいい
んだ。まねごとでいいんだ。まねごとを始めてようじゃないか。親鸞は在野の人
々に、気さくにそう呼びかけたかったのだろう。親鸞は、称名というもっとも簡
単な禅定手法を、できるだけ広く社会に拡散したかったのだろう。そしてそれこ
そが、教育者としての僧の現代的なありかたである。親鸞の本心はそんなところ
にある。僕はそう考えている。
さあ、称名念仏をしようじゃないか。親鸞はそう呼びかける。親鸞にとって大
衆にそう呼びかけることは、実は簡単なことではなかった。戒律はいらない。知
恵もいらない。ひたすら称えてみよう。親鸞思想とは、そう呼びかけるための武
装理論である。戒律も必要、知恵も必要。仏教主流派はそう主張する。大衆に禅
定だけが拡散し、力を持つことに、支配者は脅威を抱いた。親鸞思想は、こうし
た伝統派に抵抗するため武装理論を僕らに提示している。
渡海市匠、お久しぶりです。いつもありがとうございます。
申し訳ありませんが、しばらく、2チャンネルを留守にいたします。
まだ200強ありますのでその間に戻ってこれればと、、、
できれば秋まで引っ張っていただければと。。。
あはは、申し訳ない。殴られる前に退散いたします、お元気で。
あぼーん
727 :
名無しさん@3周年:03/06/19 22:30
よう渡海、久しぶりだな。
あぼーん
あぼーん
730 :
名無しさん@3周年:03/06/20 09:50
>>723 >人々が学ぶべきものは禅定だ。仏教が伝えてきた
>禅定は素晴らしいものだ。これは時代に左右されない。
これには禿げ同。
実際の行が座禅か称名念仏かということだけに囚われれば、渡海さんの親鸞観は誤りだと見られるが、親鸞が伝えたかったのは禅定ではあったのだろう。そしてその禅定は大悲心を場とするものであった。
人間は形式にとらわれるから、阿弥陀仏を仰ぎ、念仏を称えることに重きを置きがちだが、阿弥陀仏を自然を知らせる料とし、称名念仏を禅定を勧める料として、仏教の本質に立っていたのが親鸞ではなかったかと思う。
731 :
名無しさん@3周年:03/06/20 18:15
人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。
禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。
禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。
神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。
かくのごときらを名づけて自力とす。
732 :
名無しさん@3周年:03/06/20 18:17
これ禅定を修する人、その自力に約してまづ魔種あり、
さだめて撃発を被るがゆゑにこの事を現ず。
733 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/20 20:35
>>730 >念仏を称えることに重きを置きがちだが、
これはどういう意味でしょうか。ややひっかかるものを感じます。それは単
なる言葉の綾なのか、貴方は僕の考えとは基本的に異なる立場にたつものか、
今は判断できません。ここだけは目下はノーコメントです。
>親鸞が伝えたかったのは禅定ではあったのだろう。
貴方は禅者ですか。禅者のような感じもするけど、「自然を知らせる料」な
どという言葉を知っている点から見て、真宗の方のようにも思います。
ここまで言い切ることは、僕の場合には今はまだ、やや抵抗があります。禅
定とは何かという定義にも絡んできます。要するに、大寺院の中で行われるよ
うな権威顔した格式張ったがんじがらめの禅定じゃなく、気楽に安直な気持ち
でできる自由な草の根的な庶民的派の禅定を求めたんだと僕は思います。当
時としては、支配者が脅威を感じるような革命的なものだったでしょう。
>>731-732 これは僕の考えに対する批判ですか?。共感ですか?。疑問ですか?。貴方
の立場は、貴方には自明でも、他人である僕には見えてきません。
共感・共鳴して書かれたようにも思えます。反発して書かれたようにも思えます。
この文との矛盾点を解説して欲しいとして書かれたようにも思えます。批判であ
れば、当然僕には反論があります。共感というなら、少し言葉をたしたい感じがあ
ります。質問であれば、ここは大事なところですので、それに答えるように丁寧な
議論を展開していきたいと思います。そのいずれでもなければ、ノーコメントとし
ます。
734 :
名無しさん@3周年:03/06/20 21:26
聖道(自力)といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
われらがこころをすすめんがために、
仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
これみな聖道門なり。
735 :
名無しさん@3周年:03/06/20 22:11
長い間ご愛顧有り難うございました。
>今月いっぱいで浄土通信を期間未定で中止します。
>長い間ご愛顧有り難うございました。
>今月いっぱいで浄土通信を期間未定で中止します。
>活動の舞台は、2ちゃんねるなどに限定するつもりです。
>大経論・教行信証論は、将来何らかの形で復活させたいと思います。
>電子メールは、
[email protected]にお送り下さい。
渡海素人道程念仏尊師様
もう復活したん?1000年ぶりやな! 貴方は素人道程でっか?
736 :
名無しさん@3周年:03/06/20 22:13
しかし渡海って忍耐強いね。
あぼーん
あぼーん
739 :
名無しさん@3周年:03/06/20 22:18
>>737 しもた、渡海は早漏したと勘違いしただけや、怒らんと勘弁してや。
740 :
名無しさん@3周年:03/06/20 23:40
渡海は生活苦を理由にHPを閉鎖するんですか。
メールアドレスがフリーメールになってるし。
741 :
名無しさん@3周年:03/06/21 00:11
>>740 そこまで気にしているとは。
渡海さんって結構気になる存在なんですね。
お願い力 横さまに超えるんです。
基本
☆ 書き込みは短めにしましょう。
横さまに超えるんです。
743 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/21 21:54
>>734 > これみな聖道門なり。
これは、僕のカキコニ対する共鳴的な立場からのカキコの
つもりですか。
批判的な立場からのカキコのつもりですか。
僕のカキコとは全く無関係のカキコですか。
とりあえず、僕のカキコに対する共鳴的な立場からのカキ
コと解しておきます。
☆ 書き込みは短めにしましょう。
745 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/21 22:54
仏教の戒律はもう時代遅れだ。国には国法があり、社会には様々なルールがある。
坊さんになるのでなければ、戒律から大衆が学ばなければならないものはもう無い。
知恵にしても、一般の人経典などから学ぶべきものはもうほとんどないだろう。仏教
から学ぶべきは禅定だ。格式張らず、権威主義にならず、これにもっと気楽に安直に
嗜んでいこう。
禅定というと、普通は、大寺院の中で格式に則って厳かに行う非常に厳しい修行
だ。素人の大衆はそこまでは不要だ。そこまで肩肘張らなくても、禅定は十分に効
果がある。親鸞は、新しい時代の新しいタイプの草の根の禅定を提唱したのだろう。
もっと気楽な気持ちで座禅して念仏を称えようじゃないか。親鸞は人々にそう訴えて
いるのだ。
こうした親鸞の主張には当然反発がある。釈迦は三学を説いた。親鸞の主張はその
釈迦に真っ向から弓引くものだ。親鸞の主張は仏道ではない。まさに外道の考えだ。
親鸞はそんな主張に反論しなければならなかった。
釈迦は三学を説いたが、念仏だけでいいと説いている教えもある。むしろそっちの
方が真意なのだ。念仏だけでいいと説いている仏陀もいる。それは阿弥陀という仏陀
である。親鸞は大無量寿経を根拠に理論武装した。親鸞は阿弥陀仏教をもって守旧派
に対向し、外道という批判をかわした。
仏道と言えば、本来は受戒して寺院に属し、小乗の三学を学んで阿羅漢果を得、大
乗段階に進む。親鸞の思想はそうしたシステムを根底から否定するものだった。大乗
仏教は、教育者の育成を目指す。念仏を称えているだけで教育者が生まれるのか。次
の時代の教育者を築くという仏教本来の使命はどうなるのか。親鸞はそんな疑問にも
答えなければならない。自力・他力論、一段階半因果論は、そうした問い一つ一つに
答えたものと言うべきである。
あぼーん
747 :
長い方が好き:03/06/21 22:59
男の短いのって最低
あぼーん
あぼーん
☆ 書き込みは短めにしましょう。
☆ 固定ハンドルスレッドは禁止です。
☆ 煽り・荒らしは、2ちゃんねるの神様・仏様にお任せして、放置しましょう。
☆ age 荒らし は禁止です。sage 荒らし・sage での煽り・終了荒らし は板全体の迷惑です
751 :
名無しさん@3周年:03/06/22 00:20
「スレが荒れないように神様に向かってディスプレイに手かざししよっと」
声をかける宗教
期間未定で中止します
復活させたい
2ちゃんねるなどに限定
活動の舞台??????
しぼんでいくはずだ。
あぼーん
☆ 書き込みは短めにしましょう。
あぼーん
あぼーん
757 :
名無しさん@3周年:03/06/22 13:53
心と宗教@2ch掲示板のおやくそく
http://etc.2ch.net/psy/index.html ☆ 書き込みは短めにしましょう。
☆ 固定ハンドルスレッドは禁止です。
☆ 煽り・荒らしは、2ちゃんねるの神様・仏様にお任せして、放置しましょう。
☆ age 荒らし は禁止です。sage 荒らし・sage での煽り・終了荒らし は板全体の迷惑です
他人が見て面白いことを書きましょう。大勢の読者がいることを意識してください。
サーバやシステムのリソースは無限じゃありません。
スレッドを立てる前に、同じような内容のものがないか確認するのも忘れずに。。。
データ量をむやみに増やしたり無駄にスレッドをあげたりすると、「荒らし」と呼ばれちゃうこともあります。
>>745 > 仏教の戒律はもう時代遅れだ。国には国法があり、社会には様々なルールがある。
> 坊さんになるのでなければ、戒律から大衆が学ばなければならないものはもう無い。
> 知恵にしても、一般の人経典などから学ぶべきものはもうほとんどないだろう。仏教
> から学ぶべきは禅定だ。格式張らず、権威主義にならず、これにもっと気楽に安直に
> 嗜んでいこう。
戒律にも工夫が必要じゃ。工夫をすると、時代遅れが新鮮そのものになる。
社会的ルールも大切だが、毎日意識的にできることを戒律にするといい。
そうするとそこにエネルギーの場が生じる。戒律によってダムが生まれる。
10日間貯めると10日のダムができる。それが存在感に変わる。
もし、ひとつのことについて、ひとつの場所に存在するなら、その存在感は
よりいっそう大きくなる。
>>759 > 他人が見て面白いことを書きましょう。大勢の読者がいることを意識してください。
> サーバやシステムのリソースは無限じゃありません。
> スレッドを立てる前に、同じような内容のものがないか確認するのも忘れずに。。。
> データ量をむやみに増やしたり無駄にスレッドをあげたりすると、「荒らし」と呼ばれちゃうこともあります。
zenzenomoshirokunai
あぼーん
763 :
名無しさん@3周年:03/06/22 16:57
座禅してるか?
>いろいろ変えてコテハン活動してる子(踏み台同じ)
管理人さんの御言葉。
☆ 使用上のお約束
http://www.2ch.net/guide/faq.html#B0 ほかに気をつけることは? △ ▽ ▲ ▼
まず、他人が見て面白いことを書きましょう。大勢の読者がいることを意識してください。
サーバやシステムのリソースは無限じゃありません。
スレッドを立てる前に、同じような内容のものがないか確認するのも忘れずに。。。
データ量をむやみに増やしたり無駄にスレッドをあげたりすると、「荒らし」と呼ばれちゃうこともあります。
あぼーん
>765
渡海ってやっぱりホモだったんか
767 :
名無しさん@3周年:03/06/22 22:14
病気もってそう、相手はおみやげもらったんだね。想像してしまった(嘔吐)
>>764 侮った姿勢で、人に接しないこと。みんな真実の断片を求めているのだから。
>>736 > しかし渡海って忍耐強いね。
あるプローセスを理解すると、忍耐が培われ、あまり不安も生じなくなる。
私たちは、将来のことを正確にわかっているのでも、すべてをコントロールしている
わけでもない。しかし、チャンと前を向いて、修養していればいずれ開花が訪れる。
このプローセスを理解すると貧欲さが減って、他人の成功が認められるように
なる。人が成功するのは、単にその人の時節が到来しただけのこと。
自分の時節もやがてやってくる。
>自分の時節もやがてやってくる。
昨日のそう思ったと寝る前に気が付く毎日。おまえには忍耐だけが培われるわけだ。
まけぐみ→「今月いっぱいで浄土通信を期間未定で中止します。」
>>770 > >自分の時節もやがてやってくる。
> 昨日のそう思ったと寝る前に気が付く毎日。おまえには忍耐だけが培われるわけだ。
> まけぐみ→「今月いっぱいで浄土通信を期間未定で中止します。」
おおくの場合、醜さの根底にあるのは嫉妬だろう。育てつづけてきた、嫉妬の炎を消す
のは容易ではない。言葉に出し、書きとめることによりそれはますます強固に育っていく。
え?嫉妬?馬鹿にされてると思います・・・・。
煽られて短絡的に興奮するよりも放置したほうが賢いですね。
他人が見て面白いことを書きましょう。
773 :
名無しさん@3周年:03/06/23 21:08
>769
「誰に」「何を」伝えたいのか。ビジネス文章の失敗例文を読むかのようです。
あなたは他人を煽る前にまず日本語の勉強をした方が宜しいかと存じます。
ちなみにあなたの文章は全て面白くありません。
当面、書き込みを控えられた方が賢明ではないかと思います。 かしこ
>>772 > え?嫉妬?馬鹿にされてると思います・・・・。
> 煽られて短絡的に興奮するよりも放置したほうが賢いですね。
> 他人が見て面白いことを書きましょう。
笑おうとして、無理やり笑っても、笑いになりません。
面白いことを無理やり書こうとしても、面白くなるとは限りません。
面白さは、私の側だけのものでも、あなたの側だけのものでもありません。
対話を繰り返す内に、「間」に生まれるものです。
しかし一方で上手に面白さを引き出すことができる人がいます。また上手に
演出できる人もいます。
>>774 > 「誰に」「何を」伝えたいのか。ビジネス文章の失敗例文を読むかのようです。
> あなたは他人を煽る前にまず日本語の勉強をした方が宜しいかと存じます。
> ちなみにあなたの文章は全て面白くありません。
> 当面、書き込みを控えられた方が賢明ではないかと思います。 かしこ
失敗だと思うことに寛容であることが、面白さを引き出す秘訣のひとつであること
は間違いありません。
また、どんな文章でもビジネス文章を読むように読みたい人がいるということも
頭の片隅に置いておかなければなりません。
そしてビジネス文章と違う文章があって、「誰に」「何を」伝えたいのかを想像する
ことの面白さをつたえることができれば、それが良い演出なのでしょう。
777 :
栗花 馨 :03/06/24 00:58
え?おまえは馬鹿にされてるなと思っていただけだったが・・・・。
煽られて短絡的に興奮する自意識過剰の馬鹿厨房ですねー(藁
嫉妬されているために批判レスを書かれたとか勘違いしている。
おまえは蔑まれているんだよって言ってるのですよ。
っつーかおまえの屁理屈は臭すぎる。
痛すぎる「あるプローセス」をもっと理解して忍耐強くなれよ。
あとのは管理人さんの御言葉です。
☆ 使用上のお約束
http://www.2ch.net/guide/faq.html#B0 ほかに気をつけることは? △ ▽ ▲ ▼
まず、他人が見て面白いことを書きましょう(以下略
>>777 > え?おまえは馬鹿にされてるなと思っていただけだったが・・・・。
> 煽られて短絡的に興奮する自意識過剰の馬鹿厨房ですねー(藁
> 嫉妬されているために批判レスを書かれたとか勘違いしている。
> おまえは蔑まれているんだよって言ってるのですよ。
> っつーかおまえの屁理屈は臭すぎる。
> 痛すぎる「あるプローセス」をもっと理解して忍耐強くなれよ。
君の言葉の根底にあるのは、嫉妬だと思う。
だからきみはだめなんだよ。だめなやつに嫉妬だって?
軽蔑と嘲笑だよ。
>
>
↑
レスするのに
いちいち丸ごとコピぺ引用するなよ。
頭悪いナー
わけわからんこと書きこんで一人で悦に浸りたいなら
自分のHPだけにしろよ。だからきみはだめなんだよ。
781 :
名無しさん@3周年:03/06/24 03:05
たのむ、出て行ってくれないか。
>779
> そしてビジネス文章と違う文章があって、「誰に」「何を」伝えたいのかを想像する
> ことの面白さをつたえることができれば、それが良い演出なのでしょう。
伝えることが出来ていないから取り上げているわけで
783 :
名無しさん@3周年:03/06/24 09:26
ようするに779はアフォ。
784 :
名無しさん@3周年:03/06/24 11:19
自力で救われる。到達点はどこ。
>785
アフォいうもんがアフォじゃ!
786 :
名無しさん@3周年:03/06/24 11:44
787 :
名無しさん@3周年:03/06/24 12:08
>自爆テロ
ワラタ ヤパーリ アフォ
785 :名無しさん@3周年 :03/06/24 11:34
>785
アフォいうもんがアフォじゃ!
あぼーん
789 :
名無しさん@3周年:03/06/24 15:05
>>780 > >
> >
> ↑
> レスするのに
> いちいち丸ごとコピぺ引用するなよ。
> 頭悪いナー
> わけわからんこと書きこんで一人で悦に浸りたいなら
> 自分のHPだけにしろよ。だからきみはだめなんだよ。
同じところをグルグル回る旋回脳
まわれまわれグルグル回れ
タコタコ回れ
790 :
名無しさん@3周年:03/06/24 15:34
タコタコ回れ
1000まで回れ
791 :
名無しさん@3周年:03/06/24 16:35
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
あ〜あ、やっちゃったね。
せっかく盛り上がってたスレッドなのに、あんたのレスで台無しだよ。
なんでここで、そんなレスしかできないわけ?
空気読めないの?
だから君は駄目な奴だって言われてるんだよ。
わかってるの?
それにしても、もったいないなあ、せっかくここまで育ったスレッドなのに。
ここまででおしまいかよ。
まあ、しかしやっちゃったものをしょがない。
これからはもうちょっとマシなレスするように心がけろよ。
792 :
名無しさん@3周年:03/06/24 16:45
>>785 自爆テロ
これは、僕のカキコニ対する共鳴的な立場からのカキコの
つもりですか。
批判的な立場からのカキコのつもりですか。
僕のカキコとは全く無関係のカキコですか。
とりあえず、僕のカキコに対する共鳴的な立場からのカキ
コと解しておきます。
793 :
名無しさん@3周年:03/06/24 17:11
渡海(名無し)VS栗花
栗花の勝だな
あぼーん
あぼーん
796 :
名無しさん@3周年:03/06/24 18:05
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
当の本人のカキコ
餌やっちゃだめよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
あぼーん
あぼーん
800 :
名無しさん@3周年:03/06/24 22:44
渡海難は死亡しました。
801 :
名無しさん@3周年:03/06/24 22:45
331 :渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/04/18 21:55
>>800 生きてます。
あぼーん
803 :
名無しさん@3周年:03/06/24 22:51
渡海虫(害虫)がいなくなれば浄土(きれい)になる。
804 :
名無しさん@3周年:03/06/24 22:54
>>794 そうだ、お前は正しい!それでいいんだ・・・。
805 :
名無しさん@3周年:03/06/24 23:01
>>791 > ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
> あ〜あ、やっちゃったね。
> せっかく盛り上がってたスレッドなのに、あんたのレスで台無しだよ。
> なんでここで、そんなレスしかできないわけ?
> 空気読めないの?
> だから君は駄目な奴だって言われてるんだよ。
> わかってるの?
> それにしても、もったいないなあ、せっかくここまで育ったスレッドなのに。
> ここまででおしまいかよ。
> まあ、しかしやっちゃったものをしょがない。
> これからはもうちょっとマシなレスするように心がけろよ。
ハイ。
これからは気お付けマツ。
畳の目を見て我慢してたのに、もらしちゃいまちた。
アへー。いい気持ちだった。
806 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/24 23:16
親鸞思想は外道じゃないか。三学を否定し、無戒を全面に出す思想は、釈迦の
教えを逸脱している。そういう批判は正当だろう。実際、親鸞にとっては、自分
の考えが仏教内か仏教外かは、それほど大きな問題ではなかったはずだ。しかし、
仏教の枠外だということを真正面から標榜することは、時代社会が許さなかった
ろう。親鸞は、自己の考えを、仏教という枠内で説明することに心を砕いている。
仏教は小乗の修行を積み、阿羅漢果を得て大乗段階に進む。仏教は小乗・大乗
の二段階で修行を積む。念仏だけでいいという主張はこの考えを否定することに
なる。親鸞の主張は外道じゃないか。
親鸞は答える。念仏道は、小乗を飛び超えて大乗に進む。小乗・大乗の二段階
で修行を積むというのは、いきなり大乗に進む道が無い場合だ。小乗の修行を短
期間に卒業して大乗に進む人もいる。念仏は、小乗を超えて大乗の域にいきなり
持ち上げてくれる道だ。仏道の本質は大乗を学ぶことであり、小乗を学ぶことで
はない。大乗を学ぶ以上、念仏道は仏道の本質を乱すものではない。親鸞はそう
いう主張をしてくる。
小乗を飛び超えて大乗に進むとはどういういことか。親鸞はこれに答える。大
乗に進むとは歓喜地に至ると言うことだ。小乗を卒業した大乗の菩薩一年生は、
歓喜地というランクに至る。念仏は人々に歓喜をもたらしてくる。だから、念仏
者はいきなり大乗域からスタートする。
念仏は何故歓喜をもたらしてくるのか。念仏は仏果を約束する。必ず涅槃を得
る。だから歓喜をもたらしてくる。念仏は仏を念じる。仏を念じるから歓喜をも
たらしてくる。
親鸞は龍樹菩薩の論文を引用する。しかし、龍樹の論文は、大乗一年生に向
かって語られた論文である。大乗一年生に向かって語られた論文を、念仏による
仏道新入生に向かって語られたものとして読めばどうなるか。仏道新入生は一気
に大乗一年生に変わる。親鸞は、龍樹菩薩の論文を換骨奪胎して独自の主張を展
開する。
あぼーん
あぼーん
809 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/25 00:08
さあ、気楽に念仏を称えようじゃないか。格式張った大寺院の中でなく、もっ
と安直に禅定を嗜もう。親鸞がこう主張するためには、何が必要か。念仏仏道
こそ、仏道の中の仏道、現代の唯一最高の仏道であるという主張をしないとい
けない。
仏道とは、仏になる道である。念仏だけで仏になれるのか。親鸞はこれに答え
る。仏になるとはどういうことか。大乗段階で、大乗の菩薩達は礼拝・讃歎・作
願・観察・回向という修行を積む。世親菩薩が提唱し、曇鸞大師がその考えを継
承した古代浄土教の基本思想である。親鸞は、念仏だけで大乗仏教の世界に入り、
念仏だけで礼拝・讃歎・作願・観察・回向の五念門を満たすという。親鸞は、破
天荒の論陣を張ってくる(続く)。
あぼーん
自力vs他力・・・・
自力と他力の「力」は何に使うどんな力か・・・
苦しみの生じない状態像、苦しみの生じることのない状態像の実現にかかわる力。
その力の源はどこからくるのか?
それは成就者、達成者の願い、すなわち苦しみの生じない状態像を全ての他者達と共有する目的。
既に苦しみの生じない状態像を持つ者が全ての他者達に向ける力である。
成就者の願いの源泉と同調し共振した瞬間、
絶対成就者が全ての他者達に向けている力の反作用が自己の核となっているところに
集中する。その瞬間の力を「他力」と呼ぶ。成就者=仏陀を如来と呼ぶのはこのためだろうか。
全てとの一体感と光で喩えるしかない体験である。
成就者の歩んだ古道を横さまに超えるのが、他力のお念仏。
言いかえると「お念仏」は成就者の願いの源泉と同調し共振すること。
純粋な心で向かえば実体験できる。
仏の願いに純粋な気持ちで向かえば「それだけ」で良いのです。
812 :
名無しさん@3周年:03/06/26 00:00
813 :
名無しさん@3周年:03/06/27 10:09
************** 観無量寿経 ***********************
『もし念仏することが出来なければ無量寿仏の名を呼びなさい。』
といい続けなさい。十念をもって南無阿弥陀仏ととなえる。
すると仏の名を呼ぶが故に八十億劫の生死の罪が除かれ、命が終る時
蓮華が日輪のようになってその人の前にとどまる。一瞬の中に極楽世界
に往生することが出来る。
蓮華の中で十二大劫がすぎ、蓮華がひらくと観世音、大勢至の声がその
人の為に法、実相、罪を減する法を説く、それを聞いて喜び求道心を起す。
これを『下品下生の者』という。
************************************************************
蓮華の中で十二大劫の期間何をしているんでしょうね。
814 :
名無しさん@3周年:03/06/27 10:26
>>806 >> 小乗を飛び超えて大乗に進むとはどういういことか。親鸞はこれに答える。
>>大乗に進むとは歓喜地に至ると言うことだ。小乗を卒業した大乗の菩薩一年生
>>は、歓喜地というランクに至る。念仏は人々に歓喜をもたらしてくる。だから
>>念仏者はいきなり大乗域からスタートする。
***************** 観無量寿経 ***************************
この国に生まれたいと思う者は次の三福を修行しなければならない。
一には父母を孝養し、師長に奉公し、慈心を起こして殺すことをやめ、
十善行を修行する。
二には仏、法、僧の三帰を受持し、衆戒を具足して礼節を犯さず。
三には解脱心を起こして、深く十二因縁を信じ、大乗の真理を読んで
修行する。
この三つのことを浄業という。」
*************************************************************
これって、先に小乗をやれってことじゃないかな?
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
完敗した渡海 難のばればれ自作自演
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
816 :
名無しさん@3周年:03/06/27 14:08
>814
だから親鸞のオリジナルなんだと渡海士もいってるよ
817 :
名無しさん@3周年:03/06/27 14:15
あぼーん
819 :
名無しさん@3周年:03/06/27 14:26
渡海氏に質問。
では日蓮の「南無妙法蓮華經」は?
あぼーん
あぼーん
822 :
名無しさん@3周年:03/06/27 17:52
浄土とキリストの狭間!
キリスト教に入信する以前は、親戚の家を訪問した時は、まっさきに仏壇
に向かって手を合わせていました。礼儀にもかなっていると思ったからです。
しかし肉親、祖父母、親族の場合、親戚が大勢が集まっている中で、一人だ
け知らないふりを決め込むわけにもいかず、悩んでいます。田舎によくある
ような大世帯なのです。叔父叔母は8人、従兄弟だけでも19人います。沢山
集まってきた親族、縁故の方々から、何故供養をしないかと、責められるよ
うな気がして…。やはりこういう場合にも、私はキリスト教に入信したから
仏像仏壇を拝むことは控えさせてください。と公に断固として申し開き告げ
るべきなのでしょうか?そのときにキリスト教の戒律について説明するほう
がいいのでしょうか。私の親族は特に宗教的関心に篤い方ではないので、あ
まり関心を持ってもらえないのではないかと思います。特に亡くなった祖父
に対しては尊敬の念を抱いているので、供養をしないと、亡くなった祖父が
悲しむのではないかと感じてしまいます。浄土真宗の祈祷文も声に出してお
勤めしなければならないので、気が重いです。
とりわけ亡くなった祖父は、スーパーマーケット、ガソリンスタンド、農機
具販売など、手広く商売をして、今日の繁栄をもたらしてくださった人なの
で、従業員も出入り業者も数多いのです。我が家の書店も祖父の取り計らい
によって起業できたのです。叔父達はいずれも後継者で実業家で、義理を重
んじる血気盛んな昔かたぎの性質なので、「礼儀に反しているではないか」
と言われてしまいそうでキリスト教のことまで理解してくれるかどうか疑問
です。
823 :
名無しさん@3周年:03/06/27 20:12
>>822 >>そのときにキリスト教の戒律について説明するほう
>>がいいのでしょうか。
キリスト教の戒律って、仏教の戒律とほとんど同じでは?
キリスト教で先祖を供養してはいけないなんていわないでしょ?
AAコピぺも完敗した渡海 難のばればれ自作自演
825 :
名無しさん@3周年:03/06/27 22:11
スレチガイ ハケーン
サクジョイライダシマシタ
コピペアラシ
ジサクジエンアラシ
ツウホウシマシタ
826 :
名無しさん@3周年:03/06/27 22:57
>>824 ちょっとまってください!
その質問渡海さんではありませんよ、私がカキコしたんです。
座禅念仏を説く渡海さんのレスを聞いて見たかったのです。
>>822の質問、渡海さんに見解を求めます。
あぼーん
あぼーん
829 :
名無しさん@3周年:03/06/28 00:56
■ ■ ■ ■ 座念宗誕生 ■ ■ ■ ■
830 :
名無しさん@3周年:03/06/28 01:02
頭が捻挫してんじゃねえのか?
ばればれの自作自演!
824はAAコピぺが(渡海 難)のしわざといっていて822のカキコについては
触れていないにもかかわらず、
(渡海 難)は自作自演がばれたことに動揺し826を書きこんでしまった。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■826 :名無しさん@3周年=渡海 難 :03/06/27 22:57 ■
■
>>824 ■
■ちょっとまってください! ■
■その質問渡海さんではありませんよ、私がカキコしたんです。 ■
■座禅念仏を説く渡海さんのレスを聞いて見たかったのです。 ■
■ ■
■
>>822の質問、渡海さんに見解を求めます. ■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
→03/06/27 22:51
→03/06/27 22:57
383 :名無しさん@3周年 :03/06/27 22:51=826 渡海 難:03/06/27 22:57
age
384 :名無しさん@3周年 :03/06/28 01:53
↑
渡海 難 本人
☆ 固定ハンドルスレッドは禁止です。
渡海 難は2ちゃんねるにおいてコテハンです。
渡海=アフォウ
真宗坊主必死だな
あぼーん
836 :
名無しさん@3周年:03/06/28 10:03
>>822 キリスト教ではおじいさんをしのんではいかんの?
仏壇の方向を向いたからと言って仏を拝んだことになるの?
ただじいさんに話し掛ければ委員では
837 :
名無しさん@3周年:03/06/28 10:08
>>822 どうして、先祖を思い慕う心に仏壇が邪魔になりますか?
あなたのキリスト教は先祖を尊み敬う心を妨げるものですか?
決してそうではないよ。手をあわせて祈ってあげればいい。
仏壇仏像に手合わせるのは物に手を合わせることではないよ。
あなたの先祖を尊む気持ちが大切。
それ以外のことは枝葉末節。一番大切なこと忘れてはいけないね。
キリストも父や母敬えと言ってるよ。神に祈る心はご先祖を尊む気持ちと
矛盾しないよ。
律法で心が縛られてはならない。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
841 :
名無しさん@3周年:03/06/29 01:58
>>837 バカまるだしでしょう。
>あなたのキリスト教は先祖を尊み敬う心を妨げるものですか?
妨げるから困っているじゃないの。宗教を勘違いしてません?(藁
あぼーん
844 :
名無しさん@3周年:03/06/29 15:24
2chの中でも、禅系スレは言葉のミステリゾーンの世界である。
以心伝心、なつかしい言葉である。現代人に失われた、
古き良き日本人の伝統。
ITの中で以心伝心が語られる、これぞ、文化と文明との見事な、調和と
融合。この種の古きものと、新しきもの融合の中にこそ、我々人類の未来
に対する、かすかな希望の灯が垣間見られるのかもしれない。
言葉で伝えられる内容は、伝えたい事のごくわずか。それは真実だと思う。
言葉は単なるサインの一つか。そのサインからどれだけのものを摂取する
かはその人の器量、容量によるのであろう。
845 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/29 17:42
親鸞の真意は何か。庶民は、一番簡単な禅定をもっと手頃に嗜もうじゃないか。仏
になるとかならんとか、極楽に行くとか行かないとか、そんなこと関係なしに嗜もう。
そうすれば必ず変化がある。真意はそういうところにあるのだろう。
しかし、そんな主張が許されるような時代じゃなかった。大乗仏教という枠を超え
た主張は許されず、仏になんかならんでいいといいう主張などは許さなかった。称名
念仏は成仏の行である。親鸞はそれを浄土論註から説明する。
「帰命尽十方無碍光如来」は、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、「尽十方無碍
光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。
念仏は普通、南無阿弥陀仏と称える。南無とは感嘆詞だ。「ああ」という意味だ。
阿弥陀とは限りなき命を与えてきてくれる人という意味だ。もう一つ限りなき命を与
えてきてくれる人という意味がある。かつて釈尊先生は、お弟子さんが壁にぶつかっ
て苦しんでいると、その壁を破る知恵を与えてくれた。それにより、お弟子さんは足
下が照らされ、道が開けた。釈尊先生は、いつもお弟子さんに光与え、継続の命を与
えてきてくれる人だった。阿弥陀とは先生という意味だ。仏とは仏陀の省略で、目覚
めた人という意味だ。これも先生という意味だ。阿弥陀仏とは先生という意味である。
これを、中国では尽十方無碍光如来あるいは無量寿如来と翻訳した。感嘆詞「南無」
は「帰命」と訳した。帰命尽十方無碍光如来は南無阿弥陀仏という意味だ。
846 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/29 17:42
浄土論註というのは、世親という高僧が書いた浄土論という書物の解説書である。
世親とは、大乗仏教誕生期のパキスタン・アフガニスタン地方に出現した高僧である。
浄土論は、中国に移入され、翻訳されている。梵語原典は既に存在しないと聞いてい
る。中国語訳の浄土論は、帰命尽十方無碍光如来という言葉で始まる。「帰命はすな
わちこれ礼拝門なり」というのは、中国語訳のその冒頭の言葉を、曇鸞という古代中
国の高僧が浄土論註という書物で解説した言葉である。
先人の書物を前後の文の脈絡無くバラバラに切り刻めば、先人の思想は死んでしま
う。親鸞はそんなことはお構いなしだ。要するに自分の主張を展開する。念仏だけや
っても駄目だ。社会にはそういう議論がある。社会には庶民に禅定を開放したくない
という勢力があったのだろう。親鸞はそれに反論する。南無阿弥陀仏には礼拝という
意味がある。ほらこれを見ろ。中国の高僧曇鸞大師が言っているじゃない。南無は礼
拝なんだ。五念門の一つをそのように切り崩す。大乗の菩薩にとって必須である礼拝
行が南無阿弥陀仏に収まっている。親鸞はそう強弁する。
親鸞の真意は、恐らく道元に非常に近いのだろう。ぼくは勝手にそう思っている。
道元はただ座れという。仏法の真理には言葉という有形的な手段では表現できない部
分がある。禅宗はそれを教外別伝、以心伝心、不立文字ということばで説明し、完結
させる。道元は中国に留学し、中国で本物の仏教を学んできたエリートである。道元
であればこそ使える言葉がある。親鸞には教外別伝、以心伝心、不立文字という言葉
を使える余地はなかった。親鸞思想とは、禅者達が黙して語らない部分を必死になっ
て語ろうとする思想だと言ってもいいだろう。そのため、相当無理な議論をしている
のだ。
847 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/29 18:20
>>826 >
>>822の質問、渡海さんに見解を求めます。
まあ、こういう問いは、僕はパスだな。難しすぎる。
葬式は、誰のために行うのか。あれは生きている人の為に行うという考
えに僕は賛成なんだ。
葬式をやって、死んだ人が喜ぶか、悲しむか、それは誰にも分からんだ
ろう。
死んだ人を喜ばそう、悲しませないようにしようというのは、生きている
人の感情だ。死んだ人がそのように思うかどうかは分からない。
人が死ねば、生きている人は死者と心理的なけじめを付けないといけな
い。葬式はそのための儀式だ。
葬式で誰に手を合わせるのか。死者に手を合わせるのか。多分あれは、
生きている人間に手を合わせているんだろうと思う。
貴方が手を合わせようと、合わせまいと、死んだおじいさんが、実際どう
思うかは分からない。貴方が良心に反して浄土真宗の祈祷文を声に出して
読んで、おじいさんが喜ぶかどうか、これも分からない。
むしろ恐いのは、縁故の人の白い目だろう。するとこれは、宗教の問題
じゃないく、多分、生きた人相互の人間関係で考えればいいんじゃないか。
僕の家は、女房がクリスチャンで、娘も洗礼を受けているんだ。女房のお
じいさんは、内村鑑三に惹かれた大正時代の牧師だったという。女房と知り
合う前からも、僕の回りにはクリスチャンが多かった。結婚式や葬式でも、キ
リスト教式にはなじみがある。僕は、子供の時にはカトリックの教会に通っ
てたんだ。
儀式の場に出れば、僕は賛美歌は歌う。これは人間関係の問題だと思っ
てる。でも祈祷はしない。ありもしない神に向かって祈祷するのは、僕にとっ
ては良心に反することだからね。そんなときは下向いて黙っている。あくま
で、人間相互の良好関係を継続するためからね。
回答になってないで、ゴメンネ。
848 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/06/29 18:35
>>842 > 真宗僧侶が毛嫌いするほどおかしな主張とも思えない。
真宗僧侶は毛嫌いしてないでしょう。圧倒的多数の外道の
ノータリン坊主がキチガッテいるようです。
> スレが荒れてますが、続きが読みたいのですが。
済みません。ちょっと多忙なんです。それと、親鸞会を扱うジャンヌで
油売っていました。
別に制限はありませんでしょうから、徐々に進めていきます。議論の本
道は忘れていません。ただ、当初自分が考えてたよりも、いささか長くなっ
ています。
あぼーん
あぼーん
親鸞の真意とか権威を言葉の上で利用しているだけで
自分自身は何の中身のないだだのクズだな。
親鸞に迷惑かけているだけのクズ。
852 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/02 17:17
/ ̄ ̄ ̄ ̄\〜プゥン
( 人____)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
|/ ∴ ノ 3 ノ <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
\_______ノ,,
ピュ.ー ( )
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 渡海 難
853 :
名無しさん@3周年:03/07/04 01:46
>>851 > 親鸞に迷惑かけているだけのクズ。
どんな迷惑だ?
正直、アフォがネタにつかっているのは迷惑。
常識だろ。
855 :
名無しさん@3周年:03/07/04 13:45
/ ̄ ̄ ̄ ̄\〜プゥン
( 人____)
|ミ/ ー◎-◎-)
(6 (_ _) )
|/ ∴ ノ 3 ノ <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
\_______ノ,,
ピュ.ー ( )
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎
とうみ かたし を宜しくお願いいたします。
座念宗の開祖。座禅と念仏を融合した全く新しい宗教、
座禅念仏の普及に努力し、数々の名言を残す。
856 :
名無しさん@3周年:03/07/04 13:50
渡海 難先生 新訳座禅念仏を是非お聞かせ願いたく候!
857 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/04 18:53
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) アホタレ坊主め、削除依頼出しやがったな〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
>>856く〜ん、座禅しながら念仏してオナニーすればいいんだよ〜ん
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
活動の舞台2ch 期間未定で中止
禅がわかってない
念仏もわかってない
狂人が親鸞をおもちゃにしているだけ。
アフォゥよりタチワルい
859 :
名無しさん@3周年:03/07/04 21:31
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>811真宗のキンタマ坊主必死だな(苦笑)
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
860 :
名無しさん@3周年:03/07/04 21:51
│渡 海 難
│座禅念仏の普及に努力し、数々の名言を残す。
│さあ、気楽に座禅念仏を称えようじゃないか。
└──────────v──────
ll==============ll
/ ̄ ̄ ̄ ̄\:::::::::::||
( 人____) ||
_|./ ーω-ω-) :::::||_____
/.. (6 (_ _) )_|| /
/ | .∴ ノ ω ノ___〕 /‖ ____
/ ゝ ノ ヽ/ / ‖/ /|_
/ /  ̄ ̄ )__/ ‖|三三三|//|
 ̄‖ ̄ ̄ (_ _/ ‖ _|三三三|/
‖ ( ) ‖ |___|/
‖ /( )~⌒) ‖ ω〜〜 _ /__/
( / ⊂二⊃ /| .///|
\,___λ____,,,ノ \__/ | ̄ ̄ ̄|/
シコシコ
861 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 09:02
世親が浄土教にもたらした最大の貢献は、仏になる道を明らかにしたことだ。世
親は、教育者高等教育学を専攻し、教育者教育プログラムを提唱する。世親はそれ
を五念門として提示した。浄土教教育プログラムでは、小乗学を修了し大乗域に進
学した大乗学生はこの五念門を修めて教育手法を体得し、教育現場に立つ。
親鸞の主張は、南無阿弥陀仏と称えることで仏門に入ると主張する。これは受戒
不要論であり、根拠を善導に求める。南無阿弥陀仏と称えると、小乗を飛び越して
いきなり大乗に入る。これは小乗学無用論であり、その根拠を龍樹に求める。南無
阿弥陀仏と称えると、五念門が満たされる。親鸞仏教の神髄はこの主張の中に現れ
てくる。
南無阿弥陀仏の南無は礼拝である。親鸞は論註から導く。世親が書いた浄土論と
いう短編書物は「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来」という言葉で始まる。浄
土論で世親は、帰命尽十方 無碍光如来という言葉の帰命には礼拝の心を込めてあ
ると読めるということと、誰が称えても念仏には礼拝が込められるということとは
話が違うだろう。しかし親鸞の受け止めは違うようだ。南無阿弥陀仏を礼拝行の込
められた行として自分は受け取る。教行信証の行の巻きは、親鸞の主張上、自らの
中核的信念を表白するという位置にある。
同じように讃嘆についても親鸞は触れる。五念門の内の作願についても同じよう
に触れているが、作願については礼拝・讃歎とは触れ方がやや違うことに注目すべ
きだろう。親鸞思想が論敵を意識し、空前絶後の自己の思想を仏教という枠組みの
中で主張するための合目的的な戦闘的武装理論であるという一面が作願論に垣間見
られる。
862 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/05 09:27
│さあ、気楽に座禅念仏を称えようじゃないか。
|ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
└──────────v──────
ll==============ll
/ ̄ ̄ ̄ ̄\:::::::::::||
( 人____) ||
_|./ ーω-ω-) :::::||_____
/.. (6 (_ _) )_|| /
/ | .∴ ノ ω ノ___〕 /‖ ____
/ ゝ ノ ヽ/ / ‖/ /|_
/ /  ̄ ̄ )__/ ‖|三三三|//|
 ̄‖ ̄ ̄ (_ _/ ‖ _|三三三|/
‖ ( ) ‖ |___|/
‖ /( )~⌒) ‖ ω〜〜 _ /__/
( / ⊂二⊃ /| .///|
\,___λ____,,,ノ \__/ | ̄ ̄ ̄|/
シコシコ
863 :
名無しさん@3周年:03/07/05 10:31
そもそも仏門とは何か?
ある程度理解してる者はいいが、
まったく理解していない者が
いくら「南無阿弥陀佛」と唱えたところで
仏門に入った事にはならない。
三宝に帰依し、仏の御教えを深く学び、日々実践するならば
「南無阿弥陀仏」など唱えずとも
既に仏道を歩んでいる
864 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 11:02
>>863 そもそも仏門とは何か?ある程度理解してる者はいいが、全く理解し
ていない者が、「南無阿弥陀佛」さえ唱えなければ、仏門に入った事に
はならない。
およそ三宝にも帰依せず、仏の御教えも深くどころかろくすっぽ学ば
ず、戒も無く、定も修めず、恵も学ばず、六波羅蜜など何一つ実践せ
ず、倫理観も道徳心も羞恥心もなく、 「南無阿弥陀仏」さえ唱えず、檀家
の墓を質にとり、ひたすらノータリンシャーマンとして葬式稼業にいそし
むだけのアホタレは、既に仏道界のダニ・ゴキブリとして、外道をひたす
ら歩んでるペテン師だ。
↑
「南無阿彌陀仏」と唱えるだけで仏門に入った事になる訳が無い
オカルトか?
>およそ三宝〜
同意
866 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/05 12:58
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>863=865く〜ん、一緒に座禅念仏しようよ〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ペテン師のアホタレ坊主なんかほっといてさ〜
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
867 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 13:18
>>865 > 「南無阿彌陀仏」と唱えるだけで仏門に入った事になる訳が無い
うん。この批判は正当派だ。それじゃどうすると仏門に入ったこと
になるのか?。
>オカルトか?
まあ、何とでも言ってくれ。僕らは中国の高僧、善導大師が末法の
世に向けて開いた門から入ってるんだ。
善導の権威を認めないというなら、それはそれで構わないだろう。
>>およそ三宝〜
> 同意
ほほう。三宝をどうすると仏門に入ったことになるのかな?。
三宝に帰依する?。三宝帰依すると仏門に入ったことになる?。
聞いたことがないな(笑)。
仏門に入るとは、入道することだ。三宝帰依を師に誓い、持戒持律
厳守を師に誓い、受戒し、剃髪し、異性とは生涯交わらないという生
涯独身を資格のある師僧に誓って入道となる。
865は真宗ではないのか?。善導が開いた入り口を塞ぐのはいいが、
真宗坊主で、受戒も持戒もない有髪の酒飲み婚姻僧だったなら、それ
は外道の道化師だよ。
日本で仏門に入るというなら、空海か鑑真に戒の法脈でつながらない
と仏門に入ったことにならんだろう。
868 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/05 13:47
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) 仏門に入りたけりゃ僕と一緒に座禅して念仏するのじゃ〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 聞いてるのか、糞外道の坊主共
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
自意識過剰で2ちゃんねるに書きこんで自己満足。
こんなやつが仏教を語る。自己に矛盾をかかえての批評批判。
末法だな。
自作自演コテハン
↓
870 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 18:27
「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。
南無阿弥陀仏は作願門を含む。作願門を含む論拠はここだけだ。願生安楽国
と何か。浄土論の冒頭は次のように言う。「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如
来 願生安楽国 … 」。願生安楽国とは「帰命尽十方無碍光如来」という句に続
いて出てくる浄土論の中の一句である。浄土論註はこの「願生安楽国」を説明し
ている。「この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり」と。
親鸞の理屈では、南無阿弥陀仏に作願門が含まれていなければならない。親
鸞の理屈を字句通り追えば、作願門は願生安楽国に存在する。願生安楽国が
作願門であれば、帰命尽十方無碍光如来つまり南無阿弥陀仏は作願門であると
いう理屈になるのか。親鸞の理屈ではこれを肯定する。帰命尽十方無碍光如来と
は、安楽国を願生することである。安楽国を願生することは作願門である。だから、
帰命尽十方無碍光如来は作願門である。そういう理屈だ。これによって、南無阿
弥陀仏は礼拝・讃嘆・作願という三つまでが揃ったことになる。親鸞としては、五念
門の論証で一服というところだろう。
しかし、帰命尽十方無碍光如来に作願門が含まれるというのは問題ではないの
か。観察行との関係で引っかかるものがある。
「願生安楽国とは、此の一句は是れ作願門なり。天親菩薩の帰命の意なり。其れ
安楽の義は具(つぶ)さに下の観察門の中に在り」。
親鸞は、「観察門の中に在り」という語を引用しない。浄土論註がいう作願門は、
観察門の修行方法と不離一体と考えるべきだろう。次の文を読んでほしい。論註は
なんと言っているか。
「云何が作願する。心に常に作願す。一心に専念して畢竟じて安楽国土に往生して
実の如く奢摩他を修行せんと欲うが故なり」。
作願門とは、安楽国土で奢摩他を修行せんと願ずる行為だ。願ずる行為として奢
摩他という修行を行う。安楽国土の概念は、観察行で明らかになる。浄土論註の論
筋は理解しておくべきだろう。親鸞は、観察行に関する記述を飛ばしている。ここは
親鸞自身の主張と衝突するからだ。
871 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 18:27
曇鸞は教育者高等教育学を専攻している。教育者高等教育学を専攻し、世親が浄
土論の浄土論をベースに教育者育成プログラムを発展させた。教育者育成には何
が必要か。曇鸞は礼拝という行為が必要だという。現代でも授業の開始は起立・礼
で始まり、起立・礼で締めくくる。これは仏教の影響だろう。礼拝は、教育現場では欠
かせない。
教育者にとって次に必要なことは讃歎である。生徒の欠点ばかりをあげつらう教師
の下では、いい生徒は育たない。相手の素晴らしさを発見し、そこを相手にフィードバ
ックする。讃歎は、教育上の重要な行為である。
教育者には理想が必要だ。教育はどうあるべきか。先人達は釈迦の開いた祇園精
舎をモデルにし、そこから理想の学校像を抽出した。彼らは、抽出した理想像を有形
化し、それを視覚神経的にイメージ化し、視覚神経的に強烈に脳裡に焼き付けるとい
う手法を生み出した。それが観察行である。作願とは、その理想の世界に向かおうと願
う行為である。
親鸞仏教には観察行を行なおうという選択肢がない。親鸞思想は観察行を空洞化し、
観察行を抜いた五念門を立てる。ここが曇鸞思想と真っ向から衝突する場面である。
親鸞思想は曇鸞思想の屋台骨の一本を抜き去っているのだ。
私が言いたいのは
渡海 難さんみたいに勉強してる方以外の人(善導さんっ誰?親鸞さんは名前ぐらいは聞いた事あるな。そもそも阿彌陀仏って何?みたいな人)が「南無阿彌陀仏」と唱えただけで「仏教徒です」とは言えないんでは?って事です。
873 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/05 20:46
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>872=863く〜ん、だから一緒に座禅念仏しようよ〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| そうすれば全てがわかるんだYO〜
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
874 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 22:26
>>872 >私が言いたいのは
<なるほど。僕は真意を取り違えたらしい。>
>渡海 難さんみたいに勉強してる方
僕はたまたま知ってることを書いてるだけ。専門家じゃない。
専門に勉強したわけでもない。
>「南無阿彌陀仏」と唱えただけで「仏教徒です」とは言えないん
では?って事です。
念仏を称えている人をつかまえてきて、お前は仏教徒じゃない
よと、僕らが言う必要はない。
「お前は念仏を称えているけど、善導も知らないし阿彌陀仏も知
らないじゃん。だからお前は仏教徒ではない」
こんなことは大きなお世話だ。物知り博士じゃなくちゃ仏教徒
じゃないなんていうのはおかしい。
仏教徒かどうかは、基本的にはお釈迦様が決めてくださる。僕ら
は、末法時代におけるお釈迦様の代理として善導様を仰ぐ。お釈
迦様や善導様が、仏教徒と決めてくだされば、その人は仏教徒
だ。僕らが勝手に仲間扱いしたり、仲間はずれにしたりする話じゃ
ない。
お釈迦様も善導様も、「俺のことを知らない奴は仏教徒じゃない」
なんては云わんだろう。仏道を歩む人を見れば自分の仲間だと言っ
てくださるだろうよ。念仏を称える人は仏教徒。僕らの次元ではそう
言っていいんじゃないですか?。
↑自作自演コテハン
自意識過剰で2ちゃんねるに書きこんで自己満足。
こんなやつが仏教を語る。自己に矛盾をかかえての批評批判。
末法だな。
自作自演コテハン
↓
876 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/05 22:43
>>875 >末法だな。
末法の意味も知らないノータリン坊主だな。
ノータリン坊主のインターネット代を喜んで負担しているノータリン
檀家の顔を拝んでみたいものだ。
こうごうしい三度の仏を超越し、四度五度六度の仏の輝きをしてる
んだろうよ。
ここを見ている檀家の方々よ。875は、あんたがよく知ってる坊主じゃな
いんかい?。
877 :
名無しさん@3周年:03/07/05 22:59
. |::| | |_|,,,,,|.....|--|::| | .| .| |:::|
. |::| | |_|,,,,,|.....,;;;;;;;;;;;、‐''''''''""~~ ̄|:::|
|::| | |. | | {;;;;;;;;;;;;;;}.: . .: . : .. .: |:::| ハアハア… ああ先生…
|::| | | ̄| ̄| '::;;;;;;;;;::' . . :. . .: .: :|:::| シコシコシコシコシコ ドピュッ
|::| | | ̄|,r''''"~ ""''ヽ. : .: .: ..|:::|
|::|,__!_--i' 'i,-――|:::|
|::|―-- | 'i,二二|:::|
|::|. ! i'> } . iュ |:::|
-''" ̄~~"",.`! ; _ノ _,...、|:::|
'i, `'i'''―--―''''i'ニ-'" ノ// ̄~""
ヽ.i' "' '''"'; _/ // _,,..i'"':,
===`ゝ_,.*_ _,;..-'"_// |\`、: i'、
 ̄  ̄ ̄/,/ \\`_',..-i
/,/ \|_,..-┘
↑
渡海尊師様 座禅念仏しながらオナニーすると無我の境地が悟れるのー
878 :
名無しさん@3周年:03/07/05 23:03
キリスト教も仏教も日本ではお客さん宗教ですが、何か?
879 :
名無しさん@3周年:03/07/05 23:05
┌───────────────────
│あ、どうもスイマセン、渡海難がお騒がせしました・・・
└───v───────────────
/⌒\ っ /\
/'⌒'ヽ \ っ/\ |
(●.●) )/ |: | すぐ連れて逝きますんで・・・
>冊/ ./ |: /
/⌒ ミミ \ 〆
/ / |::|λ| |
|√7ミ |::| ト、 |
|:/ V_ハ |
/| i | ∧|∧
и .i N /⌒ ヽ) ←渡海
λヘ、| i .NV | | |
V\W ( 、 ∪
|| |
∪∪
880 :
名無しさん@3周年:03/07/05 23:06
________________
| ノ ( |
| 彡彡⌒⌒⌒ ミ 彡" ⌒⌒⌒ミミ
| 彡彡ノ. 三 ヽ / ヽ ||!
| ‖|‖ '。 。` | | || ! l l| l|| ←渡海難
| 川川‖U ' ω` ヽ / U |川川 !! l |l|||ル
| 川6 ∴)д(∴) (∴ 9川| l| |川 l||l 漏れってかっこいいよな〜
| 川川 〜 / ヽ 川 | lルリ
| / ヽ ___/ \__ ヽ
| / \ / ヽ
| | | ト ヽ / Y | !
| / . | | ヽ / | | !
座禅念仏オナニーすると気が漏れるかな
881 :
名無しさん@3周年:03/07/06 00:55
このスレの真宗坊主よ。渡海 難が仏法を語ってうざいのなら、
真宗坊主のおまい自身が仏法を語れ。
コピペぱっかりしてんじゃねーぞ。
883 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/06 09:36
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
>>881オマエモナー(苦笑)
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
固定ハンドルスレッドは禁止です
実態は2ちゃんねるコテハンです。
自分のHNを自分で演出しているだけです。
現在の状況は、
実質的に2ちゃんねるの自作自演コテハンです。
固定ハンドルスレッドは禁止です
以後、放置で。
885 :
名無しさん@3周年:03/07/06 10:24
/::::::::::::::::::::::::::\
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
|:::::::::::::::::|_|_|_|_|
|;;;;;;;;;;ノ / \ヽ
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴ ( o o)∴) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| < ∵ 3 ∵> <気楽に座禅念仏しようじゃないか
\ ヽ ノ \_______
\__ 渡海 ノ
(∩ ∩) ───────
/
/
/
886 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/06 10:26
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
>>884アホタレ外道真宗のノータリン坊主必死だな(苦笑)
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
887 :
名無しさん@3周年:03/07/06 10:35
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) 栗花たんのクリトリス舐めたいYO〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/ ↑
座禅念仏を称える渡海
888 :
名無しさん@3周年:03/07/06 10:44
(\
\\ * + 。 。 + *
(\\ 。
\\\ / )* + 。 + 。 + *
(\\\\ / /
(\\\\\ / /%%%%%%
\\ |||/ /○-○ | ノ) + 。 + + * 。
( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ | / / > | / \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄( ̄ ̄//// ̄\ / / \ ∇ / _../ /^\) < 先生!オナニー天使だよ〜
 ̄(//// ̄\\| ⌒ ̄_/ \_____________
(/(/// ̄(| | ̄  ̄* + 。 + 。 + *
(/(/|| .|
(/((/ | /
/ /+ 。 + 。 * 。 。 +
/ / /
/ //
// /
_ ノ / / + 。 + 。 + * 。 。
( / /
)( /
し) / + 。 + 。 * 。
↑
渡海天使 天使になった気分だYO
気楽に座禅賛美歌を空中浮遊オナニーしながら
合唱しようじゃないか!
固定ハンドル占有スレッドは禁止です
実態は2ちゃんねるコテハンです。
自分のHNを自分で演出していただけです。
現在の状況は、
実質的に2ちゃんねるの自作自演コテハンです。
固定ハンドルス占有レッドは禁止です
以後、放置で。
891 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/06 18:18
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>890のアホタレ外道真宗のノータリン坊主が
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| いくら吠えても無駄なんだよ〜ん
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
固定ハンドル占有スレッドは禁止です
実態は2ちゃんねるコテハンです。
自分のHNを自分で演出していただけです。
現在の状況は、
実質的に2ちゃんねるの自作自演コテハンです。
固定ハンドル占有の自作自演スレッドは禁止です
以後、放置で。
893 :
名無しさん@3周年:03/07/07 16:40
渡海尊師様 基本的な事をお聞き致したく候。
座禅念仏とは何ぞや? 簡単に回答願いたく候。
894 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/07 18:37
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>893座禅念仏とは、僕がやってるオナニーそのものじゃ〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 君も一緒に座禅念仏しようじゃないか
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
895 :
名無しさん@3周年:03/07/08 00:26
渡海尊師様
成る程、難しく考えることは無いのですね、尊師様にご教示頂き幸せの極み
に存じます。
07 :名無しさん@3周年 :03/06/02 14:30
僕は背筋を延ばし、腹式呼吸で息を整えながら念仏をする。声は非常に小さい。
僕は、禅寺では座禅の時、目を開けろと教えられた。ところが僕の場合、視神経の
奥が大きな力で収縮を始める。上半身が自然に揺れだし、目は開けられなくなる。
それがいいのか悪いのか分からないが、僕の体は生理的にそう機能する。座禅し
て念仏していると、そうした中で、忘れていた情報が意識に上がってくる。意識に上
がってくるのは、念仏を止めた後ということも多い。突然はっと浮かび上がってくる。
この瞬間は自分の腹が決まるときだ。
座禅して念仏を称えると、脳の一部が感じていた危機感が全身に行き渡る。全身
がその危機に向かって臨戦状態に入る。全身が特定の重大事項に向かって解決
策を考え出す。念仏は、体内での情報の流動化を促す。
人は心理的に多くの殻を持っている。心理的な殻は、人間にとって防衛本能上必
要なんだろう。だから存在するんだろう。僕はそう思っている。心理的な殻は悪いも
んじゃない。むしろなければいけない。しかし、人生の危機に立ったとき、その解決
に向かってこの殻が非常に邪魔をすることがある。何重にも囲まれて顕在意識に
上らなくなった重要な情報が、意識の殻の奥で死蔵されている。また、無意識界も
含めて全身で考えて対処しなければならないのに、顕在意識が感知している危険
情報が、無意識界に伝搬しない。称名念仏は、そうしたとき情報の流動化を促すよ
うだ。
腹式呼吸して念仏を称えていると、背中の動脈流が横隔膜のリズムに乗って脳を
圧迫する。背中の動脈流が背中の血管を激しく上っていくのを感じる背中に感じる。
体中の血液が脳をリズミカルに膨張・収縮させる。この動きが、脳の中で血流れが
悪くなっている血管を物理的に刺激し、そこにも大量の酸素を伝搬する。僕は素人
的にそう解釈している。これによって脳が活性化し、眠っていた能力が目を覚ます。
897 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/08 09:43
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>896は僕の文章のコピペじゃ〜
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
898 :
名無しさん@3周年:03/07/08 11:47
渡 海 先 生
実は私もそう思っていました、難解な文章を書ける本物だからこそ、
このような素人にも分かりやすい平易な文章を書けるのですね。
899 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/08 12:11
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>898アホタレ坊主にもわかるように書いたのさ
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| さあ、君も座禅念仏しよう
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
900 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/08 12:12
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) 今だ、900ゲットォォォォォォォォ
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
901 :
名無しさん@3周年:03/07/08 21:36
尊師様
残念ながら、座禅念仏では無我の境地に到達することは不可能に思います。
座禅しながら・念仏を唱えると言う行為を行うと両方とも中途半端になっ
てしまいます。座禅の時間と念仏を称える時間は別に行うことが必要と分
かりました。
人には「人の道」があります。真実を生きる真の道とでも言いいましょうか。
真の道は悟るだけではいけません。実践せねば意味がありません。私たちの
心は神の心で貫かれています。すなわち真の心が宿っています。それを素直
に発露すれば、自ら真の道に適う道理です。真の道に外れはしないかと毎日
ビクビクしながら人生を送るなど愚の骨頂です。大らかにのびのびと生活し、
反省も必要です。しかし、反省によっていたずらに我が心を責め、人生に消
極的になるのは本末転倒です。仮に真の道に外れたことに気づいたなら、そ
の倍の真を捧げるのです。それがあがないです。真を積極的に積み重ねてい
くことです。
永遠の生命を貫くもの、それは「真」であり、「真」こそ生命それ自体です。
「真」なくして永遠の生命を生き抜くことはできません。それを教えるのが
真の道です。
自然の摂理に従い、自然と調和し、無理せず、見栄を張らず、気分をリラッ
クスした状態を心がけ、取り越し苦労、過度の心配をしないように心がけ、
楽観的に、自分を自分らしく生きる事が、おのずと、心・技・体の調和にな
り肉体と精神の融合により健康が保てると思うのです。
902 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/09 17:09
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>901まだまだ修行が足りんのう
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 僕みたいに無我の境地に到達したければ
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) 毎日座禅念仏しながらオナニーを続けるのじゃ
(__/
903 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/09 21:02
親鸞仏教の真骨頂は、曇鸞思想が提唱する五念門中の観
察門と回向門とを排除した仏道をどうやったら立てられるかと
いう点にあると言うべきだろう。
観察門は極めて精巧精緻な修行方法である。これは、絵画
彫刻などのそろった寺院の中で行う。素人が我流で闇雲に行
えば、幻覚に惑わされて思わぬ怪我をする。おそらくそんな危
険性もある修行法だろう。曇鸞思想は、高度な教育者の育成
のため、敢えてそのような観察門を必須の修行項目にしてい
る。このような修行方法を、一般庶民に普及させることはリス
クが大きすぎる。妥当ではあるまい。伝統的大寺院が、仏法
をいたずらに庶民に普及させることに賛成しないというのは、
理由のないことではない。親鸞は、観察門を修行項目から外
し、安全な修行方法だけを広めようとする。リスクの大きい修
行方法外した上で、その正当性の根拠づけに精力を注ぐ。
親鸞は回向門も外す。回向門というのは、教育実践である。
曇鸞思想は教育者の育成にその目的がある。当然、教育実
践が重要であり、回向門は最も重要な修行項目である。しか
し、親鸞は直接大衆を相手にする。親鸞が念仏を勧めたい対
象者は、教育者を目指すものではない。商いをもし、奉公をも
し、猟すなどりをもする人々である。そういう人々に教える仏教
は、回向門を必須とすることはできない。観察門と回向門を外
し、称名念仏だけでいかに五念門を満足させるか。親鸞はそ
の説明に苦心する。
曇鸞は回向門を二つに分けている。往相の回向と還相の回
向である。この考えは世親にない。曇鸞独自の発展だ。親鸞
は、釈迦以来の仏教の骨格を、阿弥陀仏の名の下で大きく変
更した合目的的な新たな教相を提案する。
$(B&U (B(.. ) )I厶厶 -A
905 :
名無しさん@3周年:03/07/09 21:30
>>876 >末法の意味も知らないノータリン坊主だな。
> ノータリン坊主のインターネット代を喜んで負担しているノータリン
>檀家の顔を拝んでみたいものだ。
このような荒々しい言葉を口にしている内は、マダマダですね!
907 :
名無しさん@3周年:03/07/10 19:49
908 :
名無しさん@3周年:03/07/10 19:54
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ尊師様 逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )>>祝詞手かざしオナニーしようよ
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
909 :
名無しさん@3周年:03/07/11 01:31
>>903 渡海様
1 無我の境地とは何ぞや?
2 悟りとは何ぞや?
3 それを達成したらどうなる?
4 釈迦は悟りを開けたというのは本当か?
>>907 >別に荒々しくないと思うが
一般人の方が「ノータリン」と言う言葉を使用するのは差し支えないと
思います。しかし、仏道を志すものが、この「ノータリン」という言葉を
他人様に向かって投げかけるのは八正道の道から逸れることになるのでは
ないでしょうか。仏教は実践だと思います。どんなに快く思わぬ相手にも
慈悲深い気持ちで言葉を投げかけるのが仏教者ではないかと、、、
言葉は正直だと思います。人を蔑む気持ちがあれば、蔑む言葉を発する
でしょう。人を蔑む気持ちがある内は、まだまだなのではないですか?
911 :
名無しさん@3周年:03/07/11 10:48
>910
なぜだ? ノータリンは仏教の坊主にとってはノータリンではないのか?
一般人にとってはノータリンで、坊主にはノータリンでないのは、なぜだ。
言葉は正直だ、「ノータリン」はノータリンを正直に表しているように
おもえる。ノータリンにも可能性があるのは理解できるが、仏教は
ノータリンの可能性をどう見ているのだ。
>>911 ノータリンをノータリンと思う気持ちはわかります。
多分ノータリンに向かってノータリンと言えば、気が知れた仲間内なら
問題ないと思いますが、そうでない場合きっと諍いになると想像します。
まあ佛教の坊様にも色々な人が居られると思われますが、見ず知らずの
他者に向かいノータリンと発しているうちは声聞、縁覚くらいの精神的
境地に居るのではないですかね。凡そ佛教とは他者を慈しんでナンボの
もの。他者を蔑む念があるうちは、精進が足らんと思って間違いない
でしょう。
で、成仏(仏陀)の境地まで、マダマダと思うわけです。
真宗からすれば、往生の境地とでも言うのでしょうか、、、
913 :
名無しさん@3周年:03/07/11 17:20
=========/ ̄ ̄ ̄ ̄\
======== ( 人____) ハァハァ
======== |./ ー◎-◎-)
======== (6 (_ _) ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
======== | .∴ ノ 3 ノ < ハァハァああ先生ぇ〜。座禅念仏オナニーしようよ〜。
=========ゝ ノ \_______________
========/ 難 \
=======(_ノヽ ノ\_)
========= ( ⌒ヽ´
==========ヽ ヘ ) ずんずんずんずんずんずんずんずん 渡海のそーんし!
==========ノノ `J
914 :
名無しさん@3周年:03/07/11 17:48
↑自作自演コテハン
自意識過剰で2ちゃんねるに書きこんで自己満足。
こんなやつが仏教を語る。自己に矛盾をかかえての批評批判。
末法だな。
自作自演コテハン
↓
915 :
名無しさん@3周年:03/07/11 18:01
>スレタイ
別に対立しない。
終了。
916 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/11 18:59
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>914のノータリン坊主は馬のションベンで顔洗って来い
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
>>915のアホタレもじゃ〜
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
自力も他力も結局目指すところは同じだよ。過程が違うだけで、到達しようとするところは悟り・救い、つまり仏になる(成仏)事なんだから。まぁ、俺は他力ね!浄土門さ。七高僧の一人、道綽大師も言われてるように、「末法の世にあっては浄土門をもって往生の他無し」ってね。
918 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/11 21:57
観察門は実践しない。口称念仏で観察門を満たす。口称念仏さえ行っていけば、
観察門はもう実践したに等しい。そう評価できればいい。親鸞は因果の論理を修
正する。
一生懸命勉強している子がいる。回りの大人はその子に目を細める。
「君はすごいな。そんなに勉強してれば、やがては大企業の経営者か、国を動
かすリーダになるだろう」。大人は子供をそんな風に励ます。
子供は何をしているのか。経営学でも研究しているのか?。政治学でも研究し
ているのか?。そうじゃない。算数や国語を勉強しているだけの子にでも、大人は
目を細める。
十に満たない子が病気で死んだ。その子は、普通の人が七十年、八十年かけ
て果たしていく仕事を十年で仕上げてくれた。そう言える。病弱だったけど、病弱
な体を最大限に使って、その子は自らの人生で最大限の努力をし尽くした。最大
限努力し尽くしたというその尊さをもって、その子の人生は七十年、八十年の素
晴らしい人生に匹敵する。そう評価できる。そういう理屈が成り立つのだ。
戒律が実体を失えば、釈迦の教えは消滅する。しかし、戒律が実体を失った時
代でもなお有効な仏道があれば、その道を歩む者は、素晴らしさにおいて筆舌に
尽くしがたい。
919 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/11 21:59
たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。
もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無
価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども、仏法無価なり。もし仏宝ましまさず
は、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆、
もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上とす。もし得定
の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって
無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字比丘を無上の宝
とす。余の九十五種の異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のた
めの初めの福田なり。何をもってのゆえに。能身を破る衆生、怖畏するところなる
がゆえに。護持し養育してこの人を安置することあらんは、久しからずして忍地を
得ん
念仏行の本質は、戒の存在を前提としない唯一の行なのだ。念仏以外の修行
方法は、全て持戒持律を前提とする。持戒持律を前提とする修行方法は、戒が
無効になった世には失効する。しかし、念仏だけは戒の存在を前提としない。だ
からこそ、無戒の時代でも念仏行は有効なのだ。
観察行は専門寺院の中で専門家の指導の下で行われることを前提とする。ル
ールを守らない者は専門寺院の中に居住できない。しかし、称名念仏は破戒、無
戒の者も行いうる。寺は必要ない。師匠も必要ない。台所でも、電車の中でも、刑
務所の中でもできる。戦場でも、少年鑑別所の中でもできる。持戒持律を前提とし
ない以上、戒律が無効となった現代においては、念仏だけが唯一有効な仏道なの
だ。
920 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/11 22:00
正法の時代には、念仏は仏門の入り口に過ぎなかった。容易な行だから、仏道一年
生の修行方法だった。しかし、正法の時代の一年生の学習項目は、無戒の時代ともな
ると、単に仏道一年生だけの修行方法ではない。これは我々に残された唯一の仏道な
のだ。そうなった以上、念仏の道を歩む者は、正法の時代に持戒持律をもって釈迦の
教えを厳格に守って修行していった人々と、尊さにおいて等しい。そう評価できるだろう。
正法の時代、釈迦の高弟達は持戒持律をもって小乗学を学び、やがて大乗を学んだ。
礼拝・讃歎・作願・観察・回向行を修行した。戒律が失効し、あらゆる修行方法が存在を
意味を失った現代においては、残された修行方法すなわち称名念仏を行う者は、正法
の時代に礼拝・讃歎・作願・観察・回向行を修行した高弟達と、その尊さにおいて等しい。
尊さにおいてほとんど等しい。そう評価できる。そう評価できるなら、称名念仏を行うだけ
で、既に観察・回向行も満たすと言っていいじゃないか。親鸞はそんな考えを持っている。
親鸞はこうした情念を、論理的に説明するためにテクニックを使う。
>自力で悟る聖道門、他力にゆだねる浄土門。果たしてどちらが優れた道か?
どちらも悟りの境地へ連なる優れた道だと思う。
しかし、悟る意志の無い者にはその道も無効であろう。
どちらにしても、今日から始めたとして、今日悟るというわけにはいかない
と思うが・・・
922 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/12 09:00
>>917 >自力も他力も結局目指すところは同じだよ。過程が違うだけ
あんたは仏教用語を散りばめて話をするには早すぎる。
いったん坊主を辞め、習った仏教知識をすべてデリート
して、堅気になれ。それでもやっぱり仏教に関心があった
ら、改めてゼロから勉強し直せ。
923 :
名無しさん@3周年:03/07/12 09:15
本当の他力
念仏を唱えない
偶像崇拝しない
座禅しない
それ以外は中途半端な自力
座禅すること。念仏すること。偶像崇拝。等
本当の他力
=他に頼ることもしない。偶像に頼らなくてもそのままの自分に偉大な力が働いている。
=完全な自力
924 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/12 09:29
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>917はいったん坊主を辞め、改めてゼロから勉強し直せ。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 馬のションベンで顔洗って来〜い
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
925 :
渡海 難 ◆wd0AE5SZ4. :03/07/12 13:40
>>923 > 念仏を唱えない
> 偶像崇拝しない
> 座禅しない
お前は、タリバンの残党か?
>他に頼ることもしない。偶像に頼らなくてもそのままの自分に
偉大な力(アッラー?)が働いている。
イスラム教も仏教もキリスト教も区別のつかないどこぞの宗門学
校出身のノータリン平均的坊主だな。
937 :
名無しさん@3周年:03/07/12 13:51
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>935はいったん坊主を辞め、改めてゼロから勉強し直せ。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 馬のションベンで顔洗って来〜い
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
938 :
名無しさん@3周年:03/07/12 13:51
>>923 > 念仏を唱えない
> 偶像崇拝しない
> 座禅しない
お前は、タリバンの残党か?
>他に頼ることもしない。偶像に頼らなくてもそのままの自分に
偉大な力(アッラー?)が働いている。
イスラム教も仏教もキリスト教も区別のつかないどこぞの宗門学
校出身のノータリン平均的坊主だな。
958 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/12 14:01
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>923お前は、タリバンの残党か?
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| イスラム教も仏教もキリスト教も区別のつかないどこぞの宗門学
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄) 校出身のノータリン平均的坊主だな。
(__/ 馬のションベンで顔洗って来〜い
972 :
渡海 難 ◇wd0AE5SZ4.:03/07/12 14:05
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) さっきからスレ潰してるのは外道教団のノータリン坊主だな
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| 馬のションベンで顔洗って来〜い
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。