隣人を自分のように愛しなさい
むずかしいですね
でも、それができたら、トラブルなんて皆無でしょうなぁ
「隣人を愛する」とは、「相手の痛みを自分の痛みとして感じる」という利他的な
ことだけじゃないと思います。
「隣人は自分とは違った考え方を持っている」という事実を受け入れて、「自分」
も「隣人」も、ひとつの「個」として尊重する、という意味もあるのでは。確かに
隣人とのトラブルは嫌なものですが、トラブルを通じて「相手は自分と全く考え方
が違う」ということを認識できるし、場合によっては相手の方が自分よりも広い
視野を持っていることに気付くかもしれません。
思春期の若者は、それまで自分の一部として感じていた親から独立して、「個」を
確立するために反抗期を迎えます。自分の「個」を勝ち取るためには、どうしても
隣人とせめぎ合わなければいけない。トラブルを恐れて何でも人の言いなりになる
若者は、親から見たら「とてもいい子」でしょうけど、そのまま大人になったら
「自分」を失ってノイローゼになってしまう。その「初めての絶望」の中で命を絶つ
人もいます。
自分の「個」だけを尊重して、隣人の「個」を認められない人間も困りますが、利他
的行為ばかりに明け暮れる「首のない」人間もまた困ります。お互いの「個」を素直に
認め合う社会になれば、隣人とのトラブルは自然焼失するので、必ずしも「個」を放棄
する必要はありません。月並みな言葉になってしまいますが、結局は「中庸」が必要と
いうことなのでしょう。
竹は竹、松は松と、各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の
天性自然を発揮するのが人間の善である (西田幾多郎、『善の研究』)
「個」=天賦と言い換えられると思います。ひとつひとつが違う「個」が、
お互いの特長を生かし、お互いを補い合って成り立っているのがこの世界
だと思います。一言で「相手」と言っても、実は「自分」の一部でもある
のです。相手の「個」によって、自分の「個」が引き立つという面もあるし。
長レスになって、スマソ。
ある行為をして、相手が怒る、というのは当たり前のことかもしれない。竹
と松では価値観が違うからです。このスレの冒頭の文句「隣人を自分のよう
に愛する」についても、すでに「隣人」と言った時点で「自分以外の人間達」
を一般化してしまっている。そういう隣人は、名前や顔位はあるでしょうが、
刃物で傷つけても血が出ないし、泣き叫ばないでしょう。そんな実態のない
ものを愛せよ、というのなら、それは偽善以外の何ものでもない。
違うのです。Aさんの「個」、Bさんの「個」のそれぞれを自分の「個」と同じ
ように尊重しなさい、ということをイエスは言っているのです。自分がCさん
に日頃から感じている憎しみを、Cさんの「個」を理解することによって、最低
限、哀れみ(私が彼ならば、絶対にああいう風にはふるまわないだろう、気の毒
に...)に変えなさい、ということです。
日頃から何の感情も持たない人を愛せ、というのが無理な話でしょう。
924 :
名無しさん@1周年:02/11/27 20:18
231さん
この920の2ブロック目の「隣人は自分とは違った考え方を持っている」という事実〜
云々は確かに愛をいっていますね。あとは違います。お説教です。
>>923-924 お説教にするつもりはなかったのですが...。「石の投げ方」が少々きつすぎたかも。
まあ、「竹は竹」ですから、自分の意見に対して他の方がどう批判されようと、あま
り関係はありませんね。実りのある諭しに耳を傾けるのみ、です。
926 :
名無しさん@1周年:02/11/28 12:04
231はこの二つのレスを批判と受け取られましたか(笑
>231
言葉足らずでスマソ
お説教とは、礼拝の時のお説教のことで、叱られるお説教じゃないよ
先週は礼拝休んだので、ちょうどお話聞きたかったのら!
またおせーてね!
礼拝の時の「お説教」なら、もっと嫌な評価だなあ(w)。牧師さんは所属する
教会の金科玉条をそのまま信者に受け売りしているだけという感じがするもの。
百万言議論を尽くしても、夕餉の時刻になって、そろそろ帰るとしようか、という
段になると、元の金科玉条にリセットしてしまう。まるで、チェスの駒の配置を
両手でかき回すようにね。これが毎日、繰り返される。
私は、議論をする限り、「自分」がどんどん歩き出して、二度と元の場所に戻らない
ようにしたいと望んでいます。「昨日までの私は、今日は死んだ」と毎日、胸を張って
言えるような...ちと、キザすぎたかな(w)。
自分にとっての「自己実現」とは、それまで読んだことがなかった本を読むようになり、
わからなかったことがわかるようになり、考えたこともなかったような思考で考える
ようになる...という感じです。そのためには、どうしても他人の助けが必要です。
929 :
◆TX6bf7XA22 :02/11/28 16:30
>>918 生まれたばかりの幼児は、母親と自分の感情の区別がつかないそうです。
母親が笑うのをみて、赤ちゃんが笑うのは、
別におかしいから笑うわけではなく、笑いの感情を共有しているわけですね。
でもそれは、感情を学習している幼児だけに必要な作業であって、
ある程度成長した人間にそれを強制すれば、心の成長を害します。
いわゆる感情の侵入と呼ばれるものです。
相手が怒っているからといって、こちらも付き合って怒らねばならない理由は無いし、
残念がったり、悲しんだり、申し訳なく思ったり、失敗だと嘆いたりする必要は無い…
という意味では、
>>918さんが言われるような、蒔いた種を刈り取る義務さえも無いのかもしれません。
例えば、豪快に笑ってみせてもいいのではないかと。
ユーモアで返して知能の高さを見せつけてもいいし。
それらの中から、「自分で」自分の感情を選べばいいのであって、
自分の感情の選択肢を相手に制限される必要は無い、
と私は言いたいのです。
930 :
◆TX6bf7XA22 :02/11/28 16:30
優しすぎる人は、犯罪的です。
他人にとっては扱いやすい人ですが、
自分の心と自尊心にタメにならないことを繰り返しています。
肉体を維持するのに必要なものが、生命であるなら、
人間らしい精神を維持するのに必要なものが、自尊心です。
自殺が自分に対する罪であるなら、
自尊心を損なう行為もまた罪ではないでしょうか。
931 :
名無しさん@一周年:02/11/28 16:49
○私は「文章秘伝」というメルマガで、
「あなたは、もう、充分持ってます。
これからは貧しくなりなさい。」と
メルマガ発行者に言われた事がありまして。
何の事やら?と思ってましたが、
案外この優しさと言うか優柔不断の事かも?
これを変えると相手を傷つけそうな気がして
変えられません。
貧しくなれない、自尊心を損なってるということかもしれないな。
とらえ所のない、あてにならない話を持ち出してしまいました。
このスレを読む皆様に祝福がありますように。
932 :
◆TX6bf7XA22 :02/11/28 17:40
>>931 ずいぶん難しい解釈ですね(^_^;
私には通じていないかも。すみません。
「優しい人」というのが、言葉どおりに優しいことは稀です。
多くの人が、状況に適応した結果の、「優しいフリをする人」です。
自分をも見事にだますので、本人も気がつきません。
相手を傷つけるのが恐いのではなくて、
傷ついた相手に恨まれる=相手に必要のない人間の烙印を押される、のが、
恐いのではないでしょうか。
ひとりぼっちになるのが、恐いのではないですか?
933 :
◆TX6bf7XA22 :02/11/28 18:06
気づいたのですが
>「あなたは、もう、充分持ってます。
>これからは貧しくなりなさい。」
これは、まだ足りない、とかき集めるのは、そろそろ止めて、
愛=与える行為をしなさい、と言っているのではないでしょうか。
自分はまだ未熟だと、成長するのだと、必死に努力することは良いことだ、
と、私たちは(親に、支配者に)教え込まれてきました。
でも、それは「使われる者」の資格を高めるだけで、
「使う者」もしくは「対等なる者」に繋がる道ではないんですよね…
「学んで成長しきった果てに、自己実現がある」と信じる人は、
いつまでも飢えています。
でも、与えつづける人の下に、多くのものが集まってきて、
学び奪いつづける人の手からは、次々にものがこぼれ落ちて、
いつまでも飢えています。
934 :
◆TX6bf7XA22 :02/11/29 08:24
>>933 読み返したら接続詞が変。
最後の段落の「でも、」は不要でしたね。
>>932 のような話での問いかけでは、
「そうです」とも「違います」とも言いにくいですね。
書き方が悪かったかな。
私は自分を分析すると、あるんですよ。そういう心が。
その人格のことを「インナー・チャイルド」というのです。
>>931 さんには、はたして・・・
なるほど。
その方が、はるかに話が素直ですね。
私はかき集める一方で、もっと、もっとで、まだまだ、で。
勉強好きで、
名前が登なので、もっと登らなければと思ってました(笑)。
人生を、重き荷をおいて、坂を上るのにたとえるのが
日本人にピッタリ来るわけですから、
こういうタイプは結構多いのでしょう。
「与えるは、受けるより幸い」と言われても
何とか、毎日もっとかき集めないと
誰というわけでもないのに、
価値が無いと言われそうで
いつも怖がる自分がいる、ということですね。
そんなに怖がることないのだよ!と、
今回も自分に言ってあげたくなりました。
感謝。
他人に頬をぶたれたら顔面を蹴り落としてやりなさいってことだよ。
「隣人を自分のように愛しなさい」については
神様を全身全霊をもって愛することと等しいと、イエス様は言われる。
となると、隣人を愛していないと、
神様を愛していることにはならない、
ということになりますよね。
クリの私としては、
隣人は、自らの信仰を阻害する人、
というような発想があって、
愛するどころか、避けたいくらい。
理由はともあれ、というか、ひとごとに様々だが
隣人を愛さない理由は溢れてる。自分にも。
出来ないこと、したくないことはしないで善い、ということで
まず、したいことをして行けば善いわけだが、
この、「隣人を愛することが神様を愛すること」ということが
発想が急に飛んでいるようで、
受け入れるのに困難を覚えるのです。
なにか、ヒントでも、いただけると、有り難いのですが。
祝福がありますように。
938 :
名無しさん@1周年 :02/12/07 19:08
939 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/11 12:58
>>937 >となると、隣人を愛していないと、
>神様を愛していることにはならない、
>ということになりますよね。
そうなりますね。
イエスの言葉に詰まったときには、
私はそもそも愛するとは何か、に立ち戻って考えるようにしています。
>>931 さんは、どう考えておられますか?
>>937 はじめまして。この長いスレ終了間際にお邪魔します。
スェーデンボルグ信奉者です。
おもしろいスレですね。
皆さんの葛藤のあとがよくわかります。
私も、神と隣人を愛することが人間に課せられた使命・目的だということがようやくわかったのですが、実践できずにこのスレに着目してしまいました。
スェーデンボルグ氏(以下ス氏)によると、中世のキリスト教の信者は天界でまったく評価されていないそうですよ。クリであるかどうかにかかわらず、愛の大きさしか主はみとめないそうですから。
天界での愛は天使でさえ不完全性がみとめられるそうです。
>>937 隣人を愛することとは、神の創造物であるすべてを愛すること。
そこには、無機質のものから有機質の創造物まですべてが含まれ、
その中には神の道具であるロゴスを持ってしまった善悪入り乱れる隣人も含まれる。
と解釈しています。草木や動物までなら簡単に愛せるのですが、隣人を愛するのはなかなか難しいですよね。
943 :
名無しさん@1周年:02/12/12 23:13
>>941 そういうス氏の教え自体が、既に愛がない考えだと思いますけどね。
944 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/13 08:14
目に見えないものを、見ることができない人がいます。
彼らの共通している点は、必要以上におびえていることです。
もちろん、人間は、誰しもみなおびえていますが、
人を勇気づける目に見えないものが、見えなければ、
恐ろしさから逃れる努力が、その人の人生の全てとなります。
この世界はさぞ虚しく感じるに違いない。
いくら知識・現金・名誉・腕力・魅力といった力をかき集めても、
飢えが満たされるのは一瞬で、明日からまた走りつづけます。
幸せは、それを求めるのを止めたときに訪れるのに。
彼らは全てをわかっていると言います。
確かに彼らは十分にわかっています。
愛と勇気を除いては。
945 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/13 08:15
本当はわかっているのです。
もっとオメデタクなりなさい。
バカにされるような能天気になりなさい。
何も知識が無いように振舞いなさい。
おまえは役立たずだと言われなさい。
そうなったって死ぬわけではないことを確認しなさい。
そうすれば、
損な人を見ても、自分が得したわけではないと気づくし、
能天気な他人をバカにしても、自分が利口な証明にはならないことに気づくし、
知識が無いことを、その人の価値とみることもなくなるし、
自分にとって役立たずに出会っても、それは自分のわがままに過ぎないと気づくし、
言葉では、人は傷つかないことにも気づきます。
946 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/13 08:16
それが自分を愛するということ。
誰にでもできる簡単な話です。
問題は、気を許した隙にも、そうした行為で
人生を埋めることができるか否かなのです。
私はいつも失敗します。
相手を怒っているその人生の使い方を、
他の感情に置き換えて、他人を愛する時間を増やせば、
貴重な人生に、ほんのわずか
充実した元気がでる時間が増えることがわかっているのに。
それを行うことができないとき、
相手を愛することができなかったとき、
ああ自分を愛することができなかったな、と
いつも振ります。
947 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/13 10:14
>>826 >ところで、奥さんには愛してますよと言っておられますか?
気の利いた答えを用意しようとしてましたが、どうやら私には無理なようです。
白状します。言っています。
最近は自然に言うことができるようになったので、多少気が楽です。
この、言うのが恥ずかしい、やめたい、という感情こそが、
親から言ってもらえなかった恨みに結びついているのだ
ということに気づくには、かなり時間がかかりました。
いや、いまでも半信半疑なのですが。
作家のスティーヴン・レヴァインはこう問い掛けます。
「あと一時間しか生きられず、たった一人にしか電話できない
としたら-----誰に電話をかけて何を言いますか?
それに、いまなぜじっと待っているんですか?」
私達は、永遠の命があると勘違いしているか、
それとも、愛する人たちと「交換で」愛をもらおうと待っているか、
どちらかなのでしょうね…
考えて見れば、馬鹿馬鹿しい話ではないですか。
13億横領とかの被告でしたか、妻に、というか、愛人でしょうね、
「お金やものをあげることなしに、愛をもらう方法をわたしは知らない」と
いうようなことを言ってました。
ま、あきれはてた、男らしくない男、と見下げてみても、
それと同じ地平に今、自分が立ってる。情けないことだ(笑)。
一度書いたのではないかと思いますが、
「薔薇の好きな人は、薔薇を切って花瓶に飾る人
薔薇を愛する人は、薔薇を育てて花を咲かす人」
というのが、本質を言い当ててると思ってます。
「愛してる」、という言葉が、
お相手である奥様を育て、愛を育て、ご自分を大きく育ててる、
そんな気がしますが。
またまた、お久しぶりです。偶然、スレが上がっていたのを目にしたので、お邪魔
します。
>ス氏さん
中世のキリスト教徒が神から認められていない、というのは私にも十分に理解できます。
彼等にとっての神とは、彼等だけをエコヒイキするような、都合のいい神にすぎず、
万人に平等の愛を与えるイエスの「アッバー」とはほど遠い存在だからです。
隣人への愛とは、「自分の神がまた隣人の神でもある」という事実を認識することだ
と思います。自分だけをエコヒイキして肩をもち、自分の代わりに隣人を懲らしめる
ような「ユダヤの神」など、人間が勝手に作り出した空想の産物にすぎない。
「キリスト教の神」だって、クリスチャンにならなければ原罪で滅びる、などと
説く神はエコヒイキの神でしょう。
幼児期には、ある時期に兄弟同士で両親を取り合うことがあります。弟妹ができて、
親の関心を独り占めにできなくなると、悪戯をして気をひこうとする。しかし、親は
自分のものだけではなくて、弟妹の親でもある、ということを学んでいきます。それを
学ばずに成人した人は、エゴイストになります。何でも自分の都合のよいように、回り
がお膳立てしないと気がすまない。
「隣人を愛する」とは、神をひとりじめせず、隣人とともに神を共有することを認める
ことだと思います。いくら「神を愛する」といっても、エコヒイキの神を愛する限り、
結局は「神」という隠れ蓑を通して、自分のエゴを愛しているにすぎないのです。
だから、「隣人を愛する」ことが出来ない人は、「(公明正大な)神を愛する」こと
ができないのだと思います。
○よく似た考えの方が、増えておられるのかな。
何か、本の宣伝みたいですが、教会にこの方が見えて、
お話したので印象が強い。
この方は宗教と言うよりは、思想で解決、という感じでした。
神とは宇宙のいのち―私の神仏観・イエス観
ISBN:4883461149
--------------------------
584p 19cm(B6)
碧天舎 (2002-10-20出版)
・所沢 光繁【著】
[B6 判] NDC分類:160 販売価:\1,300(税別)
自分の信じる宗教だけが正しいという固定観念を捨てなければ人類に未来はない。
「宗教とは主観的事実である」ことをしっかり認識し、柔軟に考えようではないか。
キリスト教の歴史を振り返りながら、一神教と多神教の相互補完を図り、宗教のあるべき姿を問う。
若い人から年配の人まで、あらゆる世代に贈る注目の書。
21世紀の宗教改革はここから始まる。
951 :
名無しさん@1周年:02/12/16 12:50
オマエをオレ様と観ろ。
愛ではない。現象だ。
>950
そうですね。テロが起きるたびに、一部の狂信者の偏狭ぶりが問題になる。
いいかげん、「主観的価値観」で人殺しをする愚かさ加減に気がついた
のでは?
それと、表面は敬虔な信徒としか見えない人が、自分が子供の頃に受けた
トラウマに引きずられて、かえって回りの人に被害を及ぼしている、という
事実に愕然としたからでしょう。◆TX6bf7XA22さんが指摘されている、
「インナーチャイルド」の認識ですね。私は、ニューエイジをどちらかと
言うと嫌っていますけど、内なる自分の声に耳を傾けよ、という彼等の主張
は的を得ていると思います。
953 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/16 19:21
事態を打開するには、他人の性格や考え方、環境を変えるよりも
自分の態度を変えるほうが容易かったりしますが、
インナー・チャイルド〜交流分析の話もその線での話ですよね。
自分の態度や性格、考えや発言内容、を変えたところで、
自分自身を変えることには、本来結びつかないはずなのですが、
誰より自分が、"自分自身"を日頃しっかりとつかまえておかないと、
そうした属性を変えるだけで、根無し草のような気分になってしまう。
頑固さ、というのは、そうした気分が怖いだけなのかもしれません。
もちろん、自分の人生をどう生きているかを規定するものとして、
信念を持つことの大事さを軽んじてはいませんが、
それすれも、ひとつの便法にすぎないことは、どこかで自覚しておかないと。
だから人それぞれ信念が違うのが当然なわけですしね…
(信仰もそう)
偉そうなことを言っていますが、私も、
思わぬ属性に自分自身をまるごと預けてしまっているのに、
気づくことがままあります。
たとえば、何か主張をするときに、
相手がその意見を持つ権利が無いかのような、
言い回しになってしまったりね。同じ内容を
「私の立場はあなたと違う。私の立場に立つと結論はこうなる。」
と言ったほうが格好いいときもあるのにね。
>953
本当に自由な精神の持ち主であれば、
> 誰より自分が、"自分自身"を日頃しっかりとつかまえておかないと、
>そうした属性を変えるだけで、根無し草のような気分になってしまう。
という心配はしないだろうと思います。少なくとも、宗教の世界では、
たとえ真実が自分にとって都合の悪い結論になったとしても、それを
受け入れる責任が出てきます。「マッチ売りの少女」を読んで、感情
移入してひとときの美しい涙を流すという自由はありますが、文学な
らそれで終わり、責任を果たす必要はありません。これは、仮に聖書
の受難物語でも同じだろうと思います。ところが、それが宗教になる
と、「マッチ売りの少女」を救うために本を捨てて、極寒の巷に出て
行かねばならない。少なくとも、出て行かないと良心が咎める位の責任
が伴わなければ、宗教とは言えない。
これは宗教に限らないかもしれない。自分の生き方について、あれこれ
考えて、ひとつの結論を出す。それを実行に移すか、それとも「まあ、
そういう人生も可能だなあ」で誤魔化すかは、その人の責任感の大きさ
で決まってくると思います。当然、自分の人生が「文学」にとどまる
か、それともそれ以上に実存感を伴ったものになるか、という結果に
分かれます。
955 :
◆TX6bf7XA22 :02/12/16 23:50
>>951 本当に自由な精神という、最初の一文と、
それ以降のお話が、つながっていない気がします…
頻繁に登場する責任/責任感とは誰に対する責任なのでしょうか。
>955
舌足らずですみません。本当に自由な精神ならば、真理の方が自分に合わせて
くれることを期待せず、自分を真理の方へ合わせる。だから、自分が変わること
に抵抗するどころか、真理に近づけたことを喜ぶだろうと思います。
真理を知った以上、「なかったこと」にはできません。真理を知りながら、そ
れがなかったようにふるまう人は、自分を偽っています。人間は、誰でも自分
に対して責任を持っています。自分の意志で選んでやったことは、その人の責
任になります。一旦選んでしまえば、逆戻りはできません。
自分の持つ信念にこだわる限り、「真理」を知ることによってそれが覆される
ことを恐れます。聞いてから「なかったことにする」と、(自己)責任を問わ
れるから、最初から耳を塞いでいるしかない。あるいは、小説のようにどこか
別の国の物語であって、自分とは関わりがない、と自分に言い聞かせるしか
ありません。あるいは、社交辞令的な会話として、自分の身に責任がふりかか
らない距離を保つか...。
これって、現実を妄想で置き換える神経症の患者と同じ発想なんですよね....。
957 :
名無しさん@1周年:02/12/25 23:02
次スレ!
(^^)
961 :
名無しさん@1周年 :03/01/20 09:15
次スレという声もありましたし、
神を愛するとの関係までお話いただきたい、とも思い
パート2を立てようとしましたが、
今は駄目、ということでした。
近いうちに、と思っております。
宜しくお願いいたします。
祝福が皆様にありますように。
962 :
名無しさん@3周年:03/01/26 10:35
☆自分を愛するように隣人を愛しなさい。口語訳
本当に分かっていれば戦争は起きないよね
963 :
名無しさん@3周年:03/01/26 23:32
隣人について、あれこれ言わなければ争いはない。
でも、愛が無ければ平和はない。そういうことだと思うね。
964 :
◆TX6bf7XA22 :03/01/28 10:46
>サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ。
と、冒頭にあるので遠慮してましたが…大丈夫なのですか?
965 :
◆TX6bf7XA22 :03/01/28 13:12
大丈夫そうですね。
大丈夫でなかったらすみません。先に謝っておきます。
神を愛する、について、私の考えを述べます。
神、で思いつくのは、頼る対象、すがる対象でしょう。
それは、神から何かを奪っている、でも、神に対して何も「与えて」いない、
ですから、どんなに心の中で慕っても「神を愛して」はいません。依存です。
神を愛するとは、神に××を与えようと差し出すことです。
ただし、何を差し出しても良いというわけでなく、
そんな気前のいい自分、生産的な能力をもつ自分、
そんな自分を、心ひそかにお気に入りになることで、満たされて安定し、
勇気と生きる力を得ること。「これでいいのだ」の感覚で満たされること。
966 :
◆TX6bf7XA22 :03/01/28 13:12
外から見れば、
幸せな奴だな、オメデタイねえと笑われる毎日を送っている人、
奪われたのだと周囲に諭されても、否、与えたのだと感じている人、
怒りたい時に怒るのではなく、怒るべきときに怒れる人
強い敵に立ち向かう馬鹿馬鹿しさを持っている人
それらを演じるのではなくて、自然と素直な心の結果がそうである人。
それらが「愛している」人の特徴です。
愛している人のフリをしても、愛している人にはなれないですね。
ですから、あなたにとって、この××は何か。
ということではないでしょうか。なんでしょう。
誰も教えてくれないと思います。
片っ端から××を列挙してみてはいかがでしょうか。
967 :
◆TX6bf7XA22 :03/01/28 13:13
昔ね。森永製菓のCMで、
誰もいないと思っていても
どこかでどこかでエンゼルは
いつでもいつでも見つめてる
ちゃちゃちゃちゃちゃちゃ
ちゃちゃ〜んと見つめてる
CMの「エンゼル」が、
オリジナル曲では「見張りん」なのですが、
これね、妙に記憶に残っているのです。今も。
刷り込みってやつですか。恐ろしいね。
何かずるいこと、悪いことをしようとするときに、これが聞こえたりして、
思わず「止めよ」と、すると緊張から開放されて、
かえって得した気分になったりして、
私にとっては、神を愛した瞬間のひとつです。それは。
968 :
名無しさん@1周年:
こういうの、見つけました。
神様の言い方って、表面的には押し付けに見えるけど、
きっと、そうでないんだ、って思った。なぜって、祈りは会話だそうだから。
祈りは、神様と心を一つにすること、とも、あるけど。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> どうして余計なことをしてまで、
この人は他人に負い目を負わせ、歓心を買おうとするのか、
恩を着せられるたびに考えてしまいます。
なんで、この一言が言えないんだろう?
「私はこれを貴方にあげたいですが、今、貴方はこれを必要としてますか?」
って、聞いてくれれば気兼ねなく
「いえ、ご親切に。でも、私にはまだ必要ないんですよ」って言えるのに。
普通はこの会話だろうよ。
「なあ、お前が欲しがってた○○○買ったんだけどさ、いる?」
「いや、自分で買ったほうが「買った!」って気になるから、いいよ」
「そうか、でも必要になったらいつでも貸すからな」
「ありがとう、気持ちだけもらっとく」