隣人を自分のように愛しなさいって?

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1名無しさん@1周年
☆隣人を自分のように愛しなさい。新共同訳

☆自分を愛するように隣人を愛しなさい。口語訳

でも、これは、どういうことを言いたいのかわからないのです。
自分を愛することはいけないことだなどという牧師もいますし。
一応神学校出ていますが、納得できる解説が欲しくて
スレをたてます。よろしくお願いいたします。
2名無しさん:02/08/28 19:14
地球は一つって事だや
3名無しさん@1周年:02/08/28 19:18
>>1 子供さんはいないのですか?
4名無しさん@1周年:02/08/28 19:19
>>1 救命胴衣が一つしかないとするでしょう。それは隣人に差し上げる。
5名無しさん@1周年:02/08/28 19:21
>>1 餓えている時に、分割できない一つの食べ物があるとするでしょう。
(普通食べ物は分割できますけど。どうしても割れなくて飲みこむしかないとか考えてね)。
それを、隣人に与えることです。
6名無しさん@1周年:02/08/28 19:22
>>1 わが身我が子といいますよね。二家族で子供靴が一つしかない。
それを隣人の子供に差し上げることです。
7名無しさん@1周年:02/08/28 19:24
分割できない食べ物なんてないですよね。でもどうして「分割できない」と
言ったかというと、砂漠で道に迷い飲み物がない。あと、コップ一杯の
水しかない。この水は物理的には分割できますが、生物学的には分割でき
ないものです。どちらかが全部飲んでしまいます。
8名無しさん@1周年:02/08/28 19:26
だから、キリスト教は神や仏にしか実行できないことを、ヒトに教えているのですよ。
わずかの食料をわが子に与えず、他人に与えれば、もう神、仏の領域。
9名無しさん@1周年:02/08/28 19:29
10分で5つもレスをいただけて感謝します。

☆隣人を愛しなさい、だけで充分そうに見えるのですが

なぜ、自分を愛するように、と言う言葉を入れたのでしょうか?

子供への愛があれば分かるのかもしれないけど、

私はたぶん、生涯独身だからねー。独身者には分かりませんか?
10名無しさん@1周年:02/08/28 19:33
隣人を自分のように愛するという徳目を自分が隣人に対して行うのだから
隣人が隣人を自分のように愛する自分のように隣人の隣人である自分に徳目を行うことを
隣人を自分のように愛する自分はどのように考えるべきだろうか?(ぱらのいあ)
11名無しさん@1周年:02/08/28 19:35
それだけ自分を愛してる人が多いことでしょ。
12名無しさん@1周年:02/08/28 19:36
>>9
愛してるつもりでいながら偽善や欺瞞に満ちたことを
してるのでは意味がないということ。
自分を鏡にすればわかりやすい。
13名無しさん@1周年:02/08/28 19:43
>>1
自分がして欲しいと思うように
人にもしなさいということじゃないの?

また、自分がして欲しくないことを人にも
するな、という・・・。
14名無しさん@1周年:02/08/28 19:44
やっぱり、愛だよね。
15名無しさん@1周年:02/08/28 19:44
>>9 仏教ではもっと思想が透徹していて、我が子と我が身では全然違います。
普段の生活では、我が身イコール我が子程度の認識で過ごせるのですが。
16名無しさん@1周年:02/08/28 19:47
なるほど。

本当に善いものを与えなさい。自分を愛する時にはそうしているでしょう、と。

そうすると、自分を粗末にしている人は、

本当には、人を愛することは出来ない、ということでしょうかね。
17名無しさん@1周年:02/08/28 19:50
>>16
「粗末」の意味がよく分からない・・・。
どういう意味で?
18名無しさん@1周年:02/08/28 19:50
仏教では仏様以外の凡夫は「自分が一番いとおしい」というのがセオリー。
「みんなそんなに自分がいとおしい存在なんだから」「お互い大切にし合いましょうね」。
「情けは人のためならずとて、他を助けましょうね」。

一面、クリスチャンのように「自己犠牲の精神」がないのが欠点ですが。社会全体としては
まあ動きます。カソリックの国のように、子供達が路上で餓えていても、たまの大ドネーション
はやるけど、普段は助けない、と言うことは無い。普段からこまごまと助けてしまう。

路上貧困者、という意味では、プロテスタントの国のほうが勝っている。
クリスチャンは一発勝負の「大犠牲」に賭けている。

仏教徒は、小さな親切の積み重ね。大きな親切はしません。
19名無しさん@1周年:02/08/28 20:06
3度の食事が不規則で、
ろくなものを作らない、食べないというのは
自分の体を粗末にしていると思う。
配慮が足りないというか。

掲示板で、コピペの投稿を見ると
自分も、その投稿者も時間を粗末にしていると思う。

どうも、みなさんの頭で考えていただいていて、
申し訳ないくらいです。
ありがとうございます。


20名無しさん@1周年:02/08/28 20:08
自分を粗末にするのと同様に他人を粗末に扱うのは簡単なんだがね。
21サンサーラ:02/08/28 20:13
>>20 愛は難しい。自己犠牲も難しい。
22ロザリオの鉄:02/08/28 20:38
イエズスは無理難題をふっかけているように思えるけど、
教えられたとおりにすると相手がどのような反応をするか、
かなり計算してあるんだよね。

上司と部下の関係だから、お金がもらえるから、仕事だから、
といったような利害を超えて、人を愛することができれば、
愛された方はその献身にこころを動かされるものだよ。
23名無しさん@1周年:02/08/28 20:41
愛に当たる語は、最初の頃、「御大切」と訳したそうな。

だから、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」は

☆自分を御大切にしなさい。

☆隣人を、自分を御大切にするように御大切にしなさい。

ということか。

「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、

それでも、少々意味が不明。

「隣人を自分のように御大切にしなさい」という

当たり前のことを教えているのだろうか?
24名無しさん@1周年:02/08/28 20:49
>>18
何か変だな。
お前の仏教感はお前のものでしかない。
仏教の場合、釈尊の境地に達するまでには幾らでも道がある。
25名無しさん@1周年:02/08/28 20:49
>>22 愛された方はその献身にこころを動かされるものだよ。

なるほど。
隣人の心を動かすための掟、という理解もできる。
感動の世界を創るというか。
26名無しさん@1周年:02/08/29 04:56
隣人を自分のように愛するというのは、自我の拡大ということ?

お相手が自分のように見えるようになるのかな?

世界一親切だともいうトルコ人は、その人が自分のものにみえるからだとか。

それとも、神様に愛されている自分を愛し、隣人も神様に愛されている人として

自分のように愛するという困難なことをしろ、ということか?

何か、こう、筋道があると分かりやすいのだが。
27名無しさん@1周年:02/08/29 09:58
分からなくなったら、イエス様とか、神の国とか、天国とかを挙げると
わかりやすくなるのだけれど、これもそうなのかも。

天国に入るには、神様を愛し、神様に愛されている自分を愛し(大切にし)
同じく神様に愛されている隣の家の人を愛する。

そして、そんなことが出来ない私には、さらに神様の恵みが必要だということを
思い知らせてくださる掟でもある。

そういう風に考えることを、どう思われますか、みなさんは。
28名無しさん@1周年:02/08/29 10:18
>>24 まあ、日本では仏教は一神教化し、キリスト教は仏教化していると
いう事ですよ。日本のクリスチャンって、仏教徒@クリスチャン派と
外国では言われているんだから。まあ、みなさんご自分を「御大切に」な
さってね。
29ふぁんた君 ◆d.jHAeUw :02/08/29 10:30
「隣人を自分のように愛しなさい、」とはすなわち、
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい、」なのれすよ☆

だから、気持ちいいことをしてほしければ
自分のほうから相手を気持ちよくしてあげるのれす。
だれかのオナーニ姿を見たければ、自分から率先して
その人にオナーニ姿を見せてあげるのれす。
30名無しさん@1周年:02/08/29 10:38
カトリックの聖人で聖コルベという司祭は
アウシュビッツの規則で一人の脱走兵のために連帯責任を
負わされて無作為に選ばれた餓死刑になる10人のうちの
1人が妻や子供を思って泣きだしてしまったが、彼の身代わりになって死刑
になることを申し出た。「私はカトリックの司祭です。私を彼の
代わりにしてください。」
一滴の水も与えられない牢獄から、ユダヤ人である囚人
たちが歌う賛美歌があふれ、その賛美歌も一人、また一人
と減っていくなかで病弱なコルベ神父が最後まで生き残り、怯えたナチス
の将校はコルベ神父に毒を注射した。
コルベ神父は最後まで柔和で威厳を保っていました。

すごい話だと思う。
コルベ神父と私の違いは「神を、イエスをどれくらい
愛しているか。」の差であると思う。
私がイエスを愛するのは「今、地上での慰め」を期待して。
コルベ神父がイエスを愛したのはイエスがイエスであるから。
神は神であるから。
なんと差は大きく、道は遠いことか。
しかし、今日、そんな私に呼びかけておられる神の声に耳を
ふさぐことはできなかった。
キリエ・エレイソン。主よ、あわれみたまえ。
31名無しさん@1周年:02/08/29 13:17
>>29 だから「我が子に対するように」という話も出てきてたでしょう。
我が子にはそういうことはしないよね。
32名無しさん@1周年:02/08/29 13:22
>>23

「自分のように愛せ」の中には、人間という性質を語る言葉が
含まれていると思います。

どこまでいっても、キリストを受け入れても、人間というのは、
「自分を愛する」存在なのです。DNAがそうできてんだから、
しゃあないし。

よく誤解されるところだと思うのですが、キリストの教えは、
人間の「自己中心性」を決して否定していないのれす。
これを考えていくと、すごく自然な、自然体の、ありのままの
信仰を私たちが求められている、ということを味わうことができまする。
33バロット:02/08/29 13:24
>>32
考えすぎだな
味わいつくすにもほどがある。バカじゃねー
3432:02/08/29 13:25
そもそも、神様の国を目指すというのは、どういうことでしょうか。
神の義を求めるというのは、どういうことでしょうか。

これ、実は、人間が自己中心的でない限り、絶対にできないこと
だと思うのですよ。「自分が」天国に行きたいと思うから、
そうするんですもん。自己中心性ひっさげて、キリストに従う、
それが信仰だと思います。
3532:02/08/29 13:29
じゃあ、キリストの十字架というのは、どういう意味だったのでしょうか。
ご存知の通りで、

「そんな自分も、神の性質に対して義とされる」

という結果をもたらします。「自分のくびきを負い」「キリストに従う」
というのは、こうゆうことだと思います。

自己中心な自分を「臭いものにフタ」をして、キリストに従うなら、
偽善者です。嘘の自分が、キリストに従うことになる。
そこには神の平安なぞ、ありませんよね。
36バロット:02/08/29 13:29
>>34
お前の言葉は現在自分が思っている持論だろ。
そんなもの他人に通用するかよ
37バロット:02/08/29 13:31
32
もうやめろよ。偽善者!!
3832:02/08/29 13:35
これを表したのが、先の、「汝の敵を自分のように愛せ」だと思います。

自己中心的だからこそ、

腹が減ったら美味いものが食いたい。
のどがかわいたら、ぬるま湯や、汚れた水ではなくて、
冷たく澄んだ、綺麗な水を飲みたい。寂しいときは、誰かに話しを
聞いて欲しいぞ。寒いときには、暖かい毛布が欲しいぞ。

私たちの「必要」は、この自己中心性があるからこそ、
自分の心に、認識できるものではないでしょうか。

この認識を基として、「隣人を愛する」のでございます。
と、そんな風に思います。
39名無しさん@1周年:02/08/29 13:41
>1
簡単にいうと、自己チューになるなってこと。
40バロット:02/08/29 13:42
あーわかった、わかった。十分だ。
「自分を愛せるから他人を愛せる」とよく言うな。そういうことだろ?
難しく考えるなよ。
4132:02/08/29 13:45
>>36

ごめん、リロードしないで書いてたから、気が付かなかったぽ。

たしかに持論だけど、牧師さんからも、同じような話しを大昔、
聞いた。当時、んなわけねえべ、自己中は悪いことだろ、クソ牧師が。
と思っていました。

でも、私は今、キリストの十字架は、人の自己中心性を
「消す」のではなく、「義として働かせる」ものであるという風に
確信してます。

もうあかん、神様なんかいないわ、という日が、
ここ3日間続いてたんですが、それから今日、そういう風に気付かされています。

2ちゃんだよ。バロットさんの意見も、聞かせてくださいまし。
42バロット:02/08/29 13:47
俺は月並みな言葉しかいえねーが
「自分を愛せる人間は他人を愛せる」ものだと思うがね。
もちろんこれは俺の持論だ。
自己中心とはまた別ではないか?自分と相手は相対関係にあるからな。
43バロット:02/08/29 13:53
自己中は悪いという糞牧師がいいたいのは「自業自得」のことを指す。
仏教用語だが。俺はそう解釈するが。どうだ?
44名無しさん@1周年:02/08/29 13:59
>>42

あ、レスありがと。

「自分を愛する」というのは、自己中心性ではないかな?
と私は思うんだけどな。同じ意味だと思う。
相手がいてもいなくても、現にあるでしょ。

湧き上がる欲求があり、それを
満たそうとする心。その欲求というのは、人の体を生かしている
エネルギーではなかろうか。

キリストの十字架に従うと、この欲求することの内容が、
変わってくるのではないかと、思う。現に私は、イエス様を受け入れる前と、
今とで、毎日、自分の欲求に基づいて「神様にお願い」をしているけど、
お願いする内容が変わってきてる。
45名無しさん@1周年:02/08/29 14:01
>>43

私が書いた牧師は逆で、「自己中があるからキリストに従える」と
説いた。私はそれに対して、「自己中は悪いことだろ、糞牧師が」と
思たよ。
46バロット:02/08/29 14:06
ああ、なんていうかお前とは考え方違うな。俺の言葉足らずもあるが。
自分を愛するというか、自分を愛せるというかな。
逆に自分を愛せない奴は平気で他人を憎むよな。そういうことだ。
47バロット:02/08/29 14:10
>>45
「自己中があるからキリストに従える」と説く牧師の話の言いたい事は
俺にもわからん。こういう糞牧師のいうことなんか聞かなくてもいい。
聞き流す大人になれよ。
48名無しさん@1周年:02/08/29 14:14
>>46

つか、結論は同じとこにいってない?私と。
自己愛が、他者を愛するエネルギーになり得る。と。

「自分を愛せない」人なんか、本当はいないっしょ。
たぶん、ここがあなたと意見の違うところなんでは。

でも、私の意見をいうと、現に人は誰でも、飯食って、糞して、寝る。
寒さを防ぎたいと考える、孤独から解放されたいと考える、
「必要を満たしたいと考える」。

「自分を良い愛し方ができない」人は確かに、いる。
卑屈になったり、心を閉ざしたり、自傷したり自殺したりする。
しかしそれ自体、ある種の自己中心、自己愛からきているわけだしょ。
「必要が満たされなかったから」。

私は、キリストの十字架というのは結局、この自己愛の「かたち」を
ある方向へ変えていくものだと、思っています。
49名無しさん@1周年:02/08/29 14:15
>>47

その牧師の言っていたことが、やっと理解できたよ。

。。。というのが、私の長ったらしいレスの中身なんですが。
50名無しさん@1周年:02/08/29 14:15
この要約じゃ真意がわからないけれど、
自分の身勝手な部分を告白し、
その反省としてキリストに仕えるってことじゃないの?
51バロット:02/08/29 14:17
>>44
祈りについて
祈りがわからなくなったら紙かメモに「今日の一日したこと」でも
書いてみろよ。
良かったことだけを書くのでもいい。
自分を成長させたいという願望は自己中ではないぞ。
52名無しさん@1周年:02/08/29 14:19
>>50

自分で反省して、自分で自分を義とできるなら、
キリストに仕える必要ないでしょ。
53バロット:02/08/29 14:20
ま、ガキじゃないんだ。
掲示板に書いたり紙に書いたりしているうちに整理されて
わかることもあるしさ。勝手にしろ。
54名無しさん@1周年:02/08/29 14:22
>>51

>自分を成長させたいという願望は自己中ではないぞ。

天国行きたいから、自分を成長させたいんだろ?
いい意味の自己中じゃん?
55バロット:02/08/29 14:23
>52
隣人愛について考えること事態がキリストに仕えている。
もうよい。
56バロット:02/08/29 14:26
>>54
は?
お前とも考え方が違うからな。
俺の幸福感とお前の幸福感も違うだろう。
天国へ行きたいから自分を成長させたいとは思わない。
俺はもっとささやかで身近な幸福感だ。そんな野心はないぞ
57バロット:02/08/29 14:28
「野心」という言葉もおかしいか。
俺はとにかく大それた考えをもってないからな。参考にするな。
58名無しさん@1周年:02/08/29 14:35
>>56

>天国へ行きたいから自分を成長させたいとは思わない。

いや、クリスチャンにおける、自己中心性のお話だったと
思います。>>1の御言葉自体が、「救われた」人に向けられたもの
ですからね。そこ間違っちゃ、いけないと思う。

キリストの十字架に預かっていない人にもし言うなら、そりゃあ、
「無茶苦茶な注文」ということになるでしょ。
また、そういう人たちにとっては、そんなこと、言われる筋合いもない。
キリストに命じられる筋合いがない。違う?
59バロット:02/08/29 14:40
>>58
深く考えすぎ
1の言葉はとくにクリスチャンでなくとも分かるひとには分かる。
60バロット:02/08/29 14:43
>>58
悪いが、頭で考えても仕方のない事だ。
経験や環境によっては分かる人と分からない人が生じるのもおかしくないさ。
61名無しさん@1周年:02/08/29 14:44
>>58
本当に聖書読んだ?
62名無しさん@1周年:02/08/29 14:45
>>59

キリストに従わないのに、キリストの命令に応じる人?
63バロット:02/08/29 14:47
>>62
キリスト、キリスト・・・
しつこいぞ!
64名無しさん@1周年:02/08/29 17:02
☆『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、
この二つの掟に基づいている(マタイ22:39〜40)。

律法全体と預言者というのは、キリストを証するもの。
とすれば、イエス様自体がこの掟に基づいて行動し
努力されたことを示す。
当然だけど。

ということは、イエス様は自分を愛するように私を愛してくださっている、
と言えるわけだ。イエス様にそこまで愛されている。
値打ちの無い者をキリストと同じレベルで愛するお方として、
ここで公に発言されてる。

65名無しさん@1周年:02/08/29 17:08
隣人(姑)を自分(嫁)のように愛しなさいと言われたら
出来もしないことと言われるか、
努力の方向を示してくださっているのだから、
有り難いと言う人もいるか?

争いは、正義を主張して、相手を殺そうとするが、
愛はお相手を立てようとする。
66名無しさん@1周年:02/08/29 21:24
隣人とは誰か?という議論にすぐなるのは、
この掟を普遍化すると、とても生きていけないからだろう。

ユダヤ人にとって、パレスチナ人は隣人とは言えないとしないと、
戦争状態の中では精神的に苦しい。

愛せないその愛の無さを気づかせ、
神の愛の大きさを気づかせるための掟ということか?

毎日行わなければならない掟、最大の掟の意味がこれではねー。
67名無しさん@1周年:02/08/30 01:19
>>66


隣人というのは、文字通り、自分の毎日の生活のうえで出会う、
もっとも身近な人々ですよ。これは議論の余地なし。だって、
イエス様がすごく分かりやすく解説されているから。

クリスチャンにとって最大のSUBJECTは、大抵の場合、家族でしょ。

教会や、ボランティア活動でどんなに立派な活躍をすることも、
家族や職場、近隣の人を愛することには、かないません。

キリスト教において慈善事業はむしろ害悪である、と説いたのは、
内村鑑三。そしてどんなにキリスト教に敵対する民族や組織であっても、
ひとりびとりに目をとめることが大切とされておりまする。
68名無しさん@1周年:02/08/30 07:05
確かに家族は命の繋がりを一番身近におぼえるもの。

しかし、木の枝が別れ別れになっていても
それぞれは遠いように見えても、対峙しているように見えても
神様の目から見て命は一つ。人間の命もそれと同じはず。

隣人を愛するのは、同じ一つの命を愛すること。
>>2だったかの、地球は一つ、と同じところに
戻ってきて結論ということでしょう。
69名無しさん@1周年:02/08/30 08:04
☆「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(口語訳)というのは、
自分の命を愛するように、あなたの隣り人の命を愛せよ、ということだろう。
善いところ、善いときだけの愛ではなくて。
命と愛の宗教としては、そうなるはず。
命は神から出てきているから。
70名無しさん@1周年:02/08/30 09:50
イエスは実の家族に対してかなり冷たい言葉をかけていたと思いますが?
もし「隣人」というのが実の家族や隣近所に住む人たちを指すのならば、
そんなのたいていの人は大事に思っているんじゃないんですか?
71名無しさん@1周年:02/08/30 10:38
>>70
そうすると、隣り人を愛しなさい、というのは
1、大事に思っていることと、
2、善きサマリア人のたとえの通り、敵対状態の人への隣り人となる行為
がメイン、ということか?


72バロット:02/08/30 10:42
まだやってんのか。
73名無しさん@1周年:02/08/30 10:48
>>70
あなたの思い込みでしょ
74バロット:02/08/30 10:50
そうだ。>70の思い込み。
75名無しさん@1周年:02/08/31 07:41
そうそう。

神の国を、愛の国をもたらす者として、キリストとして立とうとするイエス様に
家族が反対した時とか、神の時がまだ来ていないとかの理由があるときに、
イエス様が拒絶されたのであって、家族に冷たかったとは、思わないけど。

イエス様が30歳まで独身だったのは、亡くなったヨセフに代わって
家族を養うためであったかも。

>>もし「隣人」というのが実の家族や隣近所に住む人たちを指すのならば、
>>そんなのたいていの人は大事に思っているんじゃないんですか?
私は隣組にも、会費だけのつきあいで、大事に思ってるわけではないですね。
家族のために祈ることも少ないし。大事に思ったり、したりしなければとは思うけど。
残念なことだが。家内安全を願う他の宗教の方のほうが、大事にしているかも。

76名無しさん@1周年:02/08/31 15:45
神の言葉には人間の思い及ばない深さがあると思う。

まだまだ、この程度では、児戯と笑われているような気がします。
77名無しさん@1周年:02/08/31 15:56
愛しなさいとは、理解しなさいという意味だろ。
すべての人類を理解することは困難だが、
関心を示した顔見知りの人くらいは理解しなさいという意味だろう。
貴方の敵を愛しなさい。とは
貴方を苦しめる問題を解決したいのなら、
その問題をよく理解しなさいという意味だと思う。
敵とはイメージでしかないからね。
78名無しさん@1周年:02/08/31 16:01
>>76 全く違う言語体系なので、
思い及ばないどころか、人間は誰一人として理解も認識もできなかったりしてな。
7970:02/08/31 23:54
聖書における「家族」という言葉は教会の信徒たちの交わりのこと
を表現しているんじゃないでしょうか?

だとしたら、隣人というのは信仰を持たない人や異教徒のことだと
思うのですが。
80名無しさん@1周年:02/09/01 08:37
>隣人というのは信仰を持たない人や異教徒のことだと思うのですが。

そうかもね。

表面的にはクリはクリを愛しやすいかもしれないけど、
ICF掲示板を見ているとそのあいは罵り愛?とでも言いたくなるときがある。

ある牧師が、
「いくら、隣人を愛しなさい、隣人、隣人あなたの隣人と、
うるさいくらい言っても、夫や妻が隣人であると教えても
夫婦喧嘩中の二人は決して耳を貸さない。」と、笑いながら言ってた。
81名無しさん@1周年:02/09/01 20:14
天国に入るには、この程度で善いということだろう。

(1)自分以上に愛する必要は無い。
   したほうが善いが、出来もしないことは要求しない。
(2)自分と同じように愛することで善い。
(3)自分を愛する以下では、いかがなものか?

ということでしょう。
82名無しさん@1周年:02/09/01 20:17
>>81

できるか?おいらはできん。
めちゃ大嫌いな人、会社の人とか、想像してみ。
83あずみ ◆V.9uSetc :02/09/01 21:32
 マンションの隣室からピアノの音が聞こえたり、ステレオ大音響で鳴らされても、散弾銃やバット持ち出したりするなということかも...
84名無しさん@1周年:02/09/01 21:47
618 :質問です。 :02/09/01 05:26
西田幾多郎先生が神学を勉強したいならカールバルトを読みなさい って言ってたんですが。
カールバルトってどんな人ですか? 詳しい人教えてください。


620 :あずみ ◆V.9uSetc :02/09/01 09:00
 「読者が清明されて聖書を読むとき、聖書は神の言葉となる」と主張した
20世紀屈指の神学者。ちなみにスイス人。  >618

 興味あるなら、「教会教義学」でも読んで下さい。この本はバルトが初心者
でも理解できるようにとてもわかりやすく書いた本なので、おすすめです。



・・・・あずみさん、感動した。
85名無しさん@1周年:02/09/01 22:02
>>83

それ「愛する」とはちょっと違うと思う(笑)。

うちむらカンゾーさんがいいこといってたぞ。

「自分がして欲しくないことを人にやらない」これ、道徳なり。
「自分がして欲しいことを人にしなさい」これ、精神なり。
86名無しさん@1周年:02/09/01 22:57
ん?ここはネタスレなの?マジレスしていいかい?

「心を尽くし、・・・あなたの神である主を愛しなさい」
「隣人を自分のように愛しなさい」
この言葉はもともとイエスの言葉ゃないんでしょ?
律法すなわち旧約聖書のモーセ5書中で何が一番大事か、っていう流れでの引用。
「心を尽くし・・・主を愛せ」は申命記6章5節初出で申命記中に何回も出てくる。

で、「自分を愛するように隣人を愛せ」はレビ記19章18節でモーセに対して語られる
神の戒めとしてただ1回きり出てくる言葉。モーセ5書を纏めた人物は何百年か後に
まさかメシアその人が最重要ポイントだと指摘するとは思いもよらなかったろう。

イエスにしても旧約聖書の知識を前提とするコミュニティでの発言が、
シチュエーションから離れて言葉が独り歩きして本来のイエスの教えと
はずれた問答が繰り返されていることには苦笑いしてることだろう。
87名無しさん@1周年:02/09/01 23:06
>>86
もうちょっと勉強しましょうね。
88名無しさん@1周年:02/09/02 00:05
>>86
このスレでは、大マジのレスを希望しております。

ビリビリくるような霊感を感じさせてください。
89あずみ ◆V.9uSetc :02/09/02 00:23
 感動したなら、カネをくれ。  >84
90名無しさん@1周年:02/09/02 14:02
お振り込み先をお教え下さい。
91名無しさん@1周年:02/09/02 14:12
生きていて恥ずかしくないか? >>89
92名無しさん@1周年:02/09/02 16:14
マンコが臭い隣人でも愛しなさい
93名無しさん@1周年:02/09/02 17:46
それは、きつい。

きつい掟だから、
人は分かったような顔をして
実際は行わない。

そんな偽善を暴き出すためのものなのかも。
94名無しさん@1周年:02/09/02 18:27
>>92
>マンコが臭い隣人でも愛しなさい

それは出来ません。
95名無しさん@1周年:02/09/03 06:56
それは出来ません、と神様が言っておられることを拒絶するのが罪です。
それでは、天国にいけません。

かといって、それをすると、地獄の苦しみに直行か!

どちらにしても人間に救い無し。
96ペルシャ☆ ◆elOncjKw :02/09/03 07:22
隣人とは・・

ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、
祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、
あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油
とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。
もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、
強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」 聖書・ルカの福音書10:25-37より
97名無しさん@1周年:02/09/03 07:31
人の痛みがわかること、最低限の対処が出来ること、
それらがどうしても必要かな?隣人になるには。
98名無しさん@1周年:02/09/03 07:48
>>93

イエスの救いというのは、まさにそこが出発点だと思う。
99名無しさん@1周年:02/09/04 22:21
>96
善きサマリヤ人がイエスの事である、というのは、常識ですよね。
隣人であったはずの祭司、レビ人に代わって、
反目していたはずのサマリヤ人が隣人「となって」くださって必要な事をした。
それによって、祭司、レビ人も隣人となれた、
少なくとも隣人としての必要な行いを、代わってしていただけた。
という点がありがたいわけでしょう。
「あなたも行って同じようにしなさい」というのも、
イエス様と同じようにするということで、
出来なくても私は責めないよ、という雰囲気が善いですよね。
100ふぁんだ君 ◆rWqKQ/1. :02/09/04 22:21
100get
101ふぁんだ君 ◆dp.jHAHM :02/09/04 22:23
ペルシャさん、こんばんは〜〜(^◇^)
いつぞやはどうも・・・・
102名無しさん@1周年:02/09/04 22:32
隣人の妻を自分の妻のように愛しなさい
103名無しさん@1周年:02/09/04 22:37
隣人を自分のように愛していたら、ストーカー規制法でタイーホされますた。
104名無しさん@1周年:02/09/04 22:39
>>102
隣家の次女(中学1年)を自分のセックスフレンドのように愛してはいけませんか?
105ふぁんだ君 ◆dp.jHAHM :02/09/04 22:40
>>103
貴方は隣人を自分のように追いかけていたのですか?
湧けわからんチンなんですけど・・・(^◇^;
106名無しさん@1周年:02/09/04 22:42
>>105
自分ならこうして欲しいと思ったことをしていただけです。
107名無しさん@1周年:02/09/04 22:46
レイプ願望があるので隣人をレイプするのは主の教えに叶う、ということですね?
108名無しさん@1周年:02/09/04 22:51
>104・105
してもらいたい事を人にしなさい
109名無しさん@1周年:02/09/04 22:54
イッてのべつたえなさい
110名無しさん@1周年:02/09/04 23:00
そうとも!
111名無しさん@1周年:02/09/04 23:00
まず、自分のことを愛せないボクのような奴はどうなりますか。
112名無しさん@1周年:02/09/04 23:07
>111
自分のことを愛せないって、オナニーぐらいはするんだろ?
113名無しさん@1周年:02/09/04 23:12
>>112
111の場合はセルフレイプかも。
114名無しさん@1周年:02/09/04 23:16
>>111
メンヘルですか?
自傷行為はしますか?
リスカしてますか?
115名無しさん@1周年:02/09/04 23:17
右の手を切り落としなさい
両目をエグリ出しなさい
116名無しさん@1周年:02/09/04 23:21
ちんぽ切り落としなさい
まんこ抉りだしなさい
117名無しさん@1周年:02/09/04 23:32
アレは抉り出せるものなのか?
118名無しさん@1周年:02/09/04 23:43




>115

それはリスカどころじゃあねえだろ。
119名無しさん@1周年:02/09/05 00:11
フェラチオしてあげなさい、とも訳せるという話を聞いたことがる。
120ふぁんだ君 ◆dp.jHAHM :02/09/05 00:17
>>106
貴方をしつこい男の人が追いかけますように・・・(W
121名無しさん@1周年:02/09/05 23:26
うまい!
122ふぁんだ君 ◆dp.jHAHM :02/09/05 23:31
>>121
ありがとね(^◇^)
123名無しさん@1周年:02/09/05 23:35
>>1
☆隣人を自分のように愛しなさい
他人の言動でいちいちハラを立てるな、
いつ何時でも、決して腹を立てず安らかなる心でいろという事。
124地蔵の代理:02/09/06 01:40
汝、憎むべからず
125名無しさん@1周年:02/09/06 01:57
なんか皆さん考えすぎでは?これは要するに
「自分の事ばかり考えずに他人の事も考えてあげなさい」
ということでしょう。
126名無しさん@1周年:02/09/06 02:50
他人は自分ではない。
考え方も違って当然。
この物理的な当たり前のことを理解しなさい。
127名無しさん@1周年:02/09/07 01:41
この御言葉を読むたびに、「食いしん坊は料理がうまい」ということばを
思い出します。食いしん坊で料理好きのお母さんというのは、幸せかもね。

それから、飲食店でバイトしてたとき。キャベツのいちばん外側の皮には
農薬がついている。これを捨てるか、捨てないか。捨てなければ、
お店の収益にはいいはずなんだけど。自分だったら、食べたくないよねえ。。
だから、捨てる。捨てない方が、資源の無駄にならないかも!?と、
ちょっと迷う。でも、隣人を自分のように愛するという基準に照らすと、
私だったら食べたくないから、やっぱり、捨てる。オーナーは、
「いいよ」って言ってた。

そういう毎日の中に、神様との関係ってあるんじゃないかな?と思います。
128名無しさん@1周年:02/09/07 07:48
「隣人を自分のように愛しなさい」の中に
目には見えない隣人との関係を含んでいるのですね。
それは、神様との関係と等しいと。
「第二もこれに同じ」というのは、そういう意味なんですね。
かなり納得してきました。
129名無しさん@1周年:02/09/07 09:46
それでもどうしても許せないと思う感情がおこったときは・・・・・・。
三浦綾子は人間の心には氷点があると説いた。
ある人間の言動が自分の中の氷点を越えてしまったら・・・・・・・。
虐待する母親をされた子供はゆるせるだろうか?
夫から暴力を受ける妻は?
社会の個人への抑圧の強さからは?
踏みにじられ続けた人間の感情がもうこれ以上我慢ができないと感じたら?
そういう隣人の苦しみを私たちは共に負えるのか?

130名無しさん@1周年:02/09/07 09:49
神が許さないことを、なぜ人間は見過ごすのか?
神がお許しにならないことをなぜ教会が許せるのか?
見殺しにすることが最良の道であると誰が誰に教えたのか?

131名無しさん@1周年:02/09/07 09:53
愛は無限だ。
そのカタチも様々。
だけど人間の心には氷点がある。
132名無しさん@1周年:02/09/07 10:19
神の愛は無限だが神に氷点があってもおかしくはない
これ以上はゆるせないという氷点がね
133名無しさん@1周年:02/09/07 21:36
この掟を破り続ける人間
それに対する神の許しと愛は
無限なのかもしれない。

氷点があってもおかしくはないが、
不思議なことに、氷点は無いのかも。
もう許せない、もう許せないと言いながら、
それでも許す親がいるように。
134名無しさん@1周年:02/09/07 22:22
7回許せばよいのかと聞いた者に主はなんと答えられたか?
135名無しさん@1周年:02/09/07 22:23
539回ですねー
136名無しさん@1周年:02/09/08 02:41
自分を愛していない人が多い。
そもそも、愛するということが、何をすることなのか
理解していない人もいる、この世の中。

自分を愛することができないのに、相手を愛することなどできるはずがない。
それでも赤の他人を愛することの方が、まだ容易い。
しかし"隣人"を愛するとなると、非常に難しくなる。

ボランティア寄付で1万円支払うのは容易いが、
親しい友人に1万円寄付することは難しい。実行できたとしても、
その友人と将来喧嘩にでもなれば、その1万円のことを持ち出すだろう。
それは、結局1万円でその友人を縛っていることになっている。
寄付になっていないのだ。
でも、隣人を愛せとは、それをやれと言っているのではないかと。
137名無しさん@1周年:02/09/08 07:14
>そもそも、愛するということが、何をすることなのか

薔薇を好きな人は、薔薇を切って花瓶に生ける人、
薔薇を愛している人は、薔薇を育てる人。

まず自分を丁寧に愛しなさい、育てなさい。
それと同じようにあなたの隣人を愛しなさい、育てなさいということだから
自分を愛すること深い者は
隣人を深く愛することが出来る者。
自己中は自分を愛しているとは言えないのだろう。

一万円で縛られない者は、一万円で縛らない者。

神様を愛しなさい、力の限り、という前の掟も、
神様は力一杯、力の限り、おまえを愛しておられるよ、
そのように愛しなさい、が大前提となっていることであることを見れば
神様がなさっておられるように、隣人を愛しなさいということで、
「非常に難しい」というか、
言うなれば、神様のお力なしにこれをしようなどというのは
傲慢もいいところ、と言わざるをえなくなる。

神様中心の世界観をこれほど鮮明に表している掟も無い。
138名無しさん@1周年:02/09/08 11:19
>>137
>薔薇を愛している人は、薔薇を育てる人。(中略)
>自分を丁寧に愛しなさい、育てなさい。

同感。
「愛する」とは、自分が水を受けることで喜ぶのではなく、
自分に水をあたえる行為そのものの喜びを味わうこと。
決して薔薇からの見返りを欲せず、与えることだけで完結する行為。
与えることによる自己効力感に、励まされ、喜びを味わう行為。

であれば、与える対象がなんであっても、
その行為自体から得る喜びは同じはず。
他人を愛するとは、与える対象が自分から他人に置き換わったもの。
Give & Take の商人的交換関係を期待した瞬間に、
その与える行為は、愛ではなくなる。

遥か遠くの人は、愛しやすい。
しがらみが多い隣人は、愛しにくい。
されど、自分を愛する者にとって、それは不可能ではない。
139名無しさん@1周年:02/09/08 11:27
愛は、文化であり、高度なスキル。
教わらなければ知ることができない。
愛することができない者は、愛することができない者に惹かれて、
つれあいになる。
愛することができない両親の下に育った子供は、
また愛することができない。

心に、愛を送り出す装置と、愛を受け取る装置がついていなければ、
世の中に飛び交う愛を見ることができない。
そうした人は仕方が無いから
「相手を慕うこと、相手を思うこと」を愛だと勘違いする。
「愛を奪う」という奇妙奇天烈な誤解文句をひねりだす。
その結果、「誰も愛してくれないと」文句を言い、
常に満たされず、心に「怒り」を蓄える。
140名無しさん@1周年:02/09/08 11:41
「怒り」を蓄えてしまうと、
"まず受け取らなければ"、与えることができなくなる。

「与えよ、さらば与えられん」
「自分の最も欠けているものを、与えよ」
と、何度耳元で言われても、
彼は、
与えられてこなかった自分のみじめさと、
それを裏返した他人への怒りがブレーキとなって、
まず「与えること」ができない。
どうしても与えるときは、交換の保証があるときだけである。
その場合、当然、自己効力感を感じて喜ぶことはできない。
だから、いつまでたっても、みじめなままである。
141名無しさん@1周年:02/09/08 11:53
自分がしてもらいたくないことは、相手にも行うな
自分がしてもらいたいことは、相手もそれを望んでいれば
それを行ってやれ(自分ができる範囲で)
これが愛の鉄則
142名無しさん@1周年:02/09/08 12:00
>>141
同感。
だが「相手もそれを望んでいれば」の部分は不要かと。
相手の顔色を伺った時点で、それは愛ではない。
愛とは、
自分にとって価値あるものを、相手に与える行為であって、
相手にとって価値あるものを、相手に与える行為ではないのだ。
(それは、裏で、相手にも自分に対する配慮を要求しているのだ)

与えたいものを与えよう。
相手が望んでいなければ、ただ受け取らなければいいだけのことだ。
143名無しさん@1周年:02/09/08 14:30
†は唯一無二のアガペ愛だよ。
144名無しさん@1周年:02/09/08 15:26
>>142
自分が玉子を好きならアレルギーのある人にも玉子料理を強引に命じて食べさせるのか?
145名無しさん@1周年:02/09/08 15:30
クリスチャンなら、むなしい議論するよりも、
もっとボランティアとか
しようよ。
146名無しさん@1周年:02/09/08 18:07
☆全ての人にイエスを見ることができる目があれば、
きっとおれたちは互いに愛し赦しあう事ができるんだろうなあ。
おれもそんな目が欲しいなあ・・・。(ボソッ

というのが、ICF掲示板にありました。
あまり関係ないかな?

☆よほどしっかりした考えでかからないと、
ボランティア慣れしているボランティア先に
逆に配慮していただくことにさえなってしまう。
ま、それでも良いといってくださるのだけれど。
確かに実行すると自分の考えの足り無さを思い知らされるという点で
ボランティア賛成。
滅多にしたことないけど。
147名無しさん@1周年:02/09/08 18:20
過去ログ読んでないが
言うと

自分を愛するように・・・

あなたは自分を愛してないですか
お腹が減ったらご飯食べないですか?
眠くなったら寝ないですか?
ホントに自分が嫌いだったら、それらもしないといったのがホントでしょう。
人間は自生できる動物ですから
しかしそれが出来ないのだったら、あなたは自分を愛しています。
その気持ちを持って他人に接しなさいと言う事
自分がしてもらったら嬉しいと思うことを、
時に合って、他人にして上げられるということ
148ブルパー ◆BluePAR. :02/09/08 18:26
愛は寛容であり親切です
また人を妬みません。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制

自分にはたやすく出来るでしょう。
(自制は除く)
しかし他人にはなかなか出来ない
それが出来るようになれたら、どうしたらできるようになれるか?

自分がそうされたら、きっとできるでしょう。
それも喜んで。
149ブルパー ◆BluePAR. :02/09/08 18:34
ボランティア
これも危険です。私はこんなにしてる
ともすれば傲慢になりかねません。

でも、いつもへりくだってボランティアが出来れば
とてもいいことだと思います。

自分はどういうものだったのか?
今もどういうものなのか?
それを忘れると人は、吐いた所に戻るブタのように
すぐに楽な方に戻ります。

好きな人のために祈ることはそうつらくもありません。
でもあなたの隣人は、むしろあなたの敵 嫌いな人です
その人のために祈れるよう、祈ることも必要だと思います
150名無しさん@1周年:02/09/08 18:41
イエスの戒めは全て無条件に受け入れて初めて成就するのです。
自分の利益のために戒めを守ろうとする行為は全て偽善と呼ばれ
あなたたちの心身を破壊するでしょう。
151ブルパー:02/09/08 19:54
イエスの律法とはなんでしょう?

愛の律法ですね
ガラテヤにも出てきます。
互いの重荷を負いあうようにして・・・

無条件に受け入れる
表面上でしても意味がありません。心からしたいと思う
そしてその気持ちはどこから?
それは、自分の罪が許された
キリストが自分の罪のために死んでくださったという愛を知ったから
頂いたからでしょう

聖書に書いてあるからやっている。
それじゃ、パリサイ人と同じですよね
右の頬を打つものに左の頬も向けられる
これは律法以上の事です。 そしてこれが愛の技でしょう。
なかなか出来ないことですが、本当の愛を知ったとき
何のためらいもなく出来ることでしょう。
152名無しさん@1周年:02/09/08 20:47
>>151
そんな屁理屈こねてたらいつまでたっても成就できませんよー。
153名無しさん@1周年:02/09/08 20:52
愛することがこんなに苦しいことだとは知らなかった
あなたを思うと切なくなる
エロスの愛かな・・・・
154名無しさん@1周年:02/09/08 20:53
あれはオウム事件全盛の時代・・・
馬場の雀荘(たしか西武)で大学の友人と徹マンしてた時の出来事。週末ということもあって満卓。
明け方に隣の卓で打ってた学生が突然倒れる→数秒後に同じ卓の別の学生が倒れるという事態発生!
冷静に考えればてんかんかナンかで倒れたと考えるんだろうけど、、、
言っちゃたんだよね、誰かが・・・・・

「サリン?」って・・

その一言でその場に居た全員が出口に向って一直線!(もちろん俺も)
倒れた学生の仲間も彼らを捨てて逃亡(藁
逃げたヤシの半分くらいがオシボリを口に当ててたし・・

もちろん、サリンな訳はないのだが・・あの時期にあのタイミングであの言葉・・
後で聞いたらその学生達は丸一日以上打ってたらしく、恐らくそれが原因らしいとのこと。

マヌケな話しだ・・
155名無しさん@1周年:02/09/08 21:04
>>152
なんか哀れ 
156名無しさん@1周年:02/09/08 21:51
>>144
>自分が玉子を好きならアレルギーのある人にも玉子料理を強引に命じて食べさせるのか?

自分に価値があり、自分が欲するものであれば、与えればいい。
相手が受け取るか受け取らないかは、相手の自由だ。

自分にとって価値のあるものをプレゼントしたのであれば、
また、それを与える行為自体から効力感を得たのであれば、

それから先、相手がそれを即座に捨てたからとて、
傷つくことも怒ることもないはずだ。

もしも、その時に怒る人間は、
「相手が、自分の贈り物を捨てたり受け取ったりする自由を許さない」
と内心思っていた証拠である。
贈り物によって相手を縛ろうとしていたのである。
157名無しさん@1周年:02/09/08 22:00
>>155
私には、何かと理由をつけないと他人を愛することができない、
あなたが不憫に思えます。はい。
158名無しさん@1周年:02/09/09 05:42
善きサマリア人について

井上神父は言う、「ここで注意しなければならないのは、
悲愛の行為というのは相手の思いを中心とする行為ですから、
相手が今何を願い、何を必要としているかということが、
自分の心の鏡にうつる必要があります。
埃に汚れている鏡には物がうつりにくいように、
・・・・そういう状態では、自分はその人のためにやっているつもりでも、
実際は自分のエゴイズムが満足させられるだけで、
本当にその人が必要としている、あるいは望んでいることを
的確に行うことができない危険に陥ることもありうるわけです。

したがって悲愛の行為というのは、ただ努力するというだけでは不十分で、
祈りという行為が基盤になければいけないのだと思われます。
心の鏡に、このサマリア人のようにスプランクニゾーマイしたら、
つまり本当に憐れに思われたら、
そこからはおのずから水があふれ出るように、
悲愛の行為というものは行われるものではないか、
というような気がわたしはしています。」(『福音書を読む旅』308~309頁)
159名無しさん@1周年:02/09/09 05:46
次々と善いレスをありがとうございます。
こういう文章もありました。

「『苦しみも哀しみも喜びも、
すべてをあなたの御手から受けとることによって、
わたしたちの日々の生活が、
あなたの悲愛の息吹きのはたらきの場となることができますように』
というふうに、
わたしの人生はわたしの人生であると同時に、
それ以上に神さまがご自分のはたらきをなさる場なのだという思いで、
神さまの前にたたずんでいく必要があると思います。」
(『福音書をよむ旅』315頁)

■神父が書いた詩集 から。

□投稿者/ 余白 兄弟姉妹(1回)-(2002/09/08(Sun) 21:21:17)
□U R L/ http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5


井上洋治神父著「風の薫り」についての評論全文を掲載しました。
http://imaiki.hoops.ne.jp/kazenokaori.htm
160名無しさん@1周年:02/09/09 10:00
>>158
>実際は自分のエゴイズムが満足させられるだけで、
>本当にその人が必要としている、あるいは望んでいることを
>的確に行うことができない危険に陥ることもありうるわけです。

陥ってはいけない危険とは何を指しているのでしょうね。
的確に行わなければならない、無駄があってはならない理由は何でしょう。
エゴイズムという言葉は、権力者が集団を統治する際に、
規格外の人間に対して張るレッテルとして、よく使われる言葉です。
そこには「俺にもよこせ」というメッセージが巧みに隠されています。
キリスト教と、キリスト教の各種宗教団体とは、その動機や目的が
ずれてしまうのは仕方が無いところかもしれませんね。
161名無しさん@1周年:02/09/11 08:58
げらげら
162パルナスモスクワの味 ◆9m.IDb.6 :02/09/11 09:01
愛とは喜怒哀楽の愛です。
はい
163所詮皆エゴイスト:02/09/11 09:12
パウロの身体論強調する奴は所詮皆
自分が頭になりたいんだろう?
だれも足やペニスやワギナや肛門にはなりたくはないわけだ。
自分で「わたしは足です」というのはいいけれど、他人から
「お前は足だ」といわれればムカツクしな。
164所詮皆エゴイスト:02/09/11 09:20
権力への欲求は、個人の持つコンプレックスに関係があるからな。
「愛されたい」、「認められたい」ってのが根本にあるわけだから。
独裁者から公園のボスママまで皆同じ原理。
「偉くなりたい」=「パパ、ママ僕を愛して」
権力の背景にある個人のメンタルな部分を癒して、真の愛に目覚めさせるのが
我々の役割ではないだろうか。
力に力で立ち向かうことは決してイエスの御心ではない。
ネロもヒトラーもスターリンもブッシュもその本質は愛に飢えた子どもにすぎない。
165所詮皆エゴイスト:02/09/11 09:27
世界中の人間が愛に満たされるまで、わがままな暴君はいなくならないし、
差別や偏見もなくならない。
でもだれもそんな状態はのぞんでない。
自分の力を試してみたい、敵が欲しい、テッペンに登りたい。

神になりたい

とおもいきや

神は僕の姿だった。

あーーーーーーーーーー
どうしたらいいんだ
166原発廃絶祈願:02/09/11 11:30
>165
善悪を知る木の実を食べた人間は、善悪を知った。
すなわち、自分が悪であることを知った。自分勝手な知り方ではあろうが。

それなら、善に向かえば善いはずが、善には向かいたくない。
善は負担が多すぎる。損をする。不快でありすぎる。
働きがきつすぎる。恥ずかしい。

おかげで、人は引き裂かれる。

隣り人を「自分のように」愛する、という掟でさらに完璧に裂かれてしまうのに
あたかも出来ることであるかのように、うわつらで受け止める恥多き人生か、
「出来るようにお願いします、神様、あなたに出来ないことはありません」という
信仰、信頼、の世界に向かうか。

祝福の道と呪いの道が、ここでも人間の前に置かれている。
167名無しさん@1周年:02/09/11 11:35
人間がすべて自分と同じだと思う出発点から間違いが生じる。

愛に目覚める力がある人は、宗教に頼らなくとも愛に目覚める。
それは愛にあふれた家庭に育った幸運な人だ。
傷ついている人は認めたくはないだろうが、辛いかもしれないが、
そういう人たちもいることを認めなければならない。

運悪く自発的に愛に目覚めない人は、
パパママから十分に愛されずに傷ついている人である。
宗教は、パパママ→神と代替することで、
ソフトに離陸する手伝いをするのが役目なのだ。
だから、やたらと父だの母だのといった単語が教義の中に散りばめられる。

そもそも「愛=与える行為」を正確に理解して実践している者は、
両親に十分い愛された者であって、宗教にはまる必要が無いのだから、
逆に言えば、信者の大部分は「愛」が何であるか正確に知らないはずなのだ。
だから、スレタイのような疑問が湧くのだろう。
認めたくはないだろうし、辛いかもしれないが。
劣っているとか、悪いといか、非難するつもりは毛頭ない。

宗教によって「愛」を知った宗教指導者は、
パパママに甘えられなかった代わりに、神に甘えて
ズブズブと沈んでしまう信者を救い出す義務があると思うが、
ミイラ取りがミイラになっては…
168名無しさん@1周年:02/09/11 11:48
>>164
>権力への欲求は、個人の持つコンプレックスに関係があるからな。
>「愛されたい」、「認められたい」ってのが根本にあるわけだから。
>独裁者から公園のボスママまで皆同じ原理。
>「偉くなりたい」=「パパ、ママ僕を愛して」

その通りだと思います。
さらに言えば、
「相手を支配したい」→「相手をコントロールして行動を予測して
未知の危険を回避したい」という動機が潜んでいるわけですね。

パパママの「無償の愛」は、幼児にとって、逆に
「いつ気まぐれに捨てられるかわからない恐怖」でもあるわけで、
それが心に深く傷をつくる原因。
パパママに頼らずに、自力で精神的な臍の緒が切れる人が、
愛の行為ができる人である、とも言えます。

冷たいパパママを、神に代替させることは効果的な方法ですが、
そこから先に進んで、精神的な臍の緒を切る(去勢ともいう)ことが
できるか否かで、その人の人生の価値が決まってくると思います。
169名無しさん@1周年:02/09/11 13:13
いきなり乱入でスマソ。

私はどちらかというと仏教徒なんだけど、キリスト教で言う「隣人愛」のように、
「愛しなさい」とか「愛さねばならない」というもんじゃないと思うんだけどね。
どこか不自然で、偽善の臭いを感じてしまう。

お互いが好き合っている二人同士なら、牡丹餅がひとつしかなければ分け合って
食べるだろ? 分け合った方がうまいからさ。 雀荘でひとり退屈なとき、見知らぬ
メンツが揃ったら、和気藹々で楽しめるじゃない。人間は、ひとりよりもふたり、
ふたりよりもたくさん、の方が楽しく暮らせるようにできているんだよ。その恩恵を
お互いに享受することが隣人愛なんじゃない?

隣人愛は、「この一年間に、あいつを何回愛した」と意識するようなものじゃない
と思うよ。空気のようで、いつもいた仲間が去ったとき、「淋しいな」と感じただけ
愛していたのだと気付く。そんなもんだよ。理想的な隣人愛は、長年連れ添ってきた
仲のいい夫婦が、死別して味わう淋しさに現れていると思う。
170ふぁんだ君 ◆dp.jHAHM :02/09/11 13:16
>>169
その好き合うことを愛といっているんだよ(^◇^)
171169:02/09/11 13:28
>>170

まあな。しかし、自分でも体験があるんだけど、見ず知らずの人と偶然に
出くわして、食物を分かち合うときにも「うまさ」を感じるよ。アメリカ
へ旅行中、乞食が話し掛けてきてね。うさんくさいとは思ったけど、付き
合って(金を要求してこなかったのが気に入った)いるうちに、自分が手に
しているハンバーグとフライドポテトが食いたいのか、と思って分けて
いっしょに食ったよ。なんだか、へんちくりんな感じだけど、顔を見合わせて
ニタリと笑ったとき、こんなうまいもの食ったことがないと思った。

これが「与えた」だったら駄目だったんだろうな。分けて一緒に食ったという
のがミソだという気がする。「与える人」「与えられる人」の区別がある内は
本当の隣人愛にならない気がする。
172169:02/09/11 14:31
これは、ダチの体験談なんだけど。
屋台か何かでホットドッグをふたつ買って、視線を感じて振り向くとホームレスの
人がじっと眺めていたんだそうだ。最初は無視して行こうと思ったらしいが、そいつ
は宗教やっている奴だから、今こそ「隣人愛」の実践の時だと一念発起して、舞い
戻り、勇気を出してホットドッグをひとつ差し出したんだって。

ところが、ホームレスの人はきっぱり受け取るのを断ったらしい。好意はありがたい
が受け取れない、という返事だったって。

やっぱり、いくら人が困っているときでも、人間が別の人間に「与える」というのは
不自然なことだと思う。「分かち合う」なら別だけどね。目線の位置関係が違うんだよ。
もし、ホットドッグがひとつしかなくて、半分ちぎって差し出したら、受け取って
くれたんだろうか...
173名無しさん@1周年:02/09/11 15:32
ドストエフスキーはそれを自尊心として詳細に敷衍した。
凡そすべての人間は(幼い我が子と共に物乞いするような者でさえも)、
ある部分において恐ろしいほどの自尊心をもっているという。
生活保護を受けたくないばかりに、残金30円を残して車の中で餓死した
老夫婦のニュースが、数年前大きくとりあげられたが、これも自尊心に
関わる。イエス・キリストの言・行いは、我々の自尊心(弱さ)を認め
つつ、自らへりくだられたからこそ、十字架が光輝いているのだろう。
174名無しさん@1周年:02/09/11 15:39
マザーテレサも、へりくだって、貧者に、「お世話させていただいております」と
心から祈りながら接したという。自身の自尊心を満足させる奉仕は、最悪な結果を
招く、らしい。つまり、キリスト・イエスよろしく最もへりくだる者こそ・・・・
175名無しさん@1周年:02/09/11 15:41
オレのチンポを愛するように、隣の奴のチンポも愛してあげよう。
176名無しさん@1周年:02/09/11 16:52
>>171
その行為によって、良い気分になったと思います。
「愛」を与える行為というのは、そういう行為を言っているのです。
自分が良い気分になるというのがミソね。
決して交換関係で与えたり、自分を犠牲にして与えるものではない。

>>172
で言えば、
ホットドッグを「与えた」人は、愛の行為をしたかも知れませんが、
受け取る側は、受容を相手に「与える」こと、
つまり愛の行為をしなかったのです。

先に触れましたが、愛の行為をするには、
愛を出す装置と、受け取る装置両方が必要です。

"与えても与えなくても全く自由な状態"において、あえて「与える」
ここから与えるひとは、力を得ます。

"受け取っても受け取らなくてもいい自由な状態"において、あえて「受け取る」
ここからも与えるひとは、力を得ます。
受容を相手に与えているわけです。

例えば、あなたの奥さんがまずいパスタを料理して出した。
「まずい」と言っても構いません。でも、そこであえて
「おいしい」と言えば、あなたは自分のことが少し好きになるでしょう。
その少し好きになった分だけ力を得るはずです。ささやかですが。
受容もまた愛の行為なのです。
177あずみ ◆V.9uSetc :02/09/11 17:06
 まずいものはまずいと、はっきり言うのが礼儀だよ。

 たとえそれでぶん殴られてもね...
178名無しさん@1周年:02/09/11 17:07
生意気ですが、
キリスト教の隣人愛も、仏教の愛も、儒教の仁も、その他もろもろ、
言い方は違えど同じ物を指していると、私は信じています。

オウムを始め新興宗教にありがちな、奪うだけで与えない理論は、
愛の行為ができない者ばかりが群がり、自重ですぐに崩壊するようです。
教祖などの中心人物が死ねば、信者は奪う対象を失い、
やがて離散していくはずです。

古今東西大きな勢力を維持している宗教は、
与える理論をもつ愛の宗教のようですね。
179名無しさん@1周年:02/09/11 17:09
>>177
礼儀と愛とは違う、このことはわかるかな?
180名無しさん@1周年:02/09/11 17:10
>>177
(w 礼儀を言えばそうですね。
でも自分が好きになった瞬間に、食べている物が
不思議にわずかに美味しくなったりするものですよ。

食べ物の味の60%は、部屋の雰囲気や会話の内容で旨さが
決定するそうです。
強制はしません。自らルール化してしまえば、
たちまちきえてしまう不思議な感覚なのですから。
でもそれが愛なのです。
181仔犬 ◆2U/ObgEI :02/09/11 17:14
ホットドッグ?
日本人も犬を食べるニダ?
182赤のプレッソ:02/09/11 17:17
臭いものは臭いとはっきり...
たとえ死ねと言われても
削除されても
183名無しさん@1周年:02/09/11 17:18
>>177
仮に、あなたの丹精こめて作った料理が、恋人から「まずい」と言われたとする。
自分では何度も試食したが、美味いと思っている・・・・・・・・・・この場合、
「ちょっと口に合わないかも…」と表現できるが、「まずい」とはっきり
言ってしまうと、相手を傷つけることにもなりかねない。ましてあなたの
母親直伝の「肉じゃが」とかだったら・・・・・・・・
184仔犬 ◆2U/ObgEI :02/09/11 17:20
あずみのマンコは臭いニダ?
185名無しさん@1周年:02/09/11 17:22
恋人やつれあいがいる方は、試してみてください。
あまり強烈な味がしないもの…寒天やビスケット、白米でもいいです。
コンビニなどで売られている「牛乳プリン」が最適だそうです。

1. まずそれを口に含んで味を確かめてください。

2. 次に、恋人のひざの上に座るなりして、頭をなぜてもらいながら、
口に運んでもらってみてください。

2.の時に、味が強烈に甘くなれば合格です。
あなたは相手を愛している=与えている関係でしょう。

もしもわずかしか変わらなかったら、それだけ愛が疎遠になっているのかも。

全く変わらなかったら…実は、相手のことが大嫌いで、
好きだと思っていた感情は、執着にすぎないのかもしれません。

怖い賭けですが。
相手にも同様に確かめて感想を聞いてみましょう。
ただし責任は一切とらないので、私にクレームをつけるなら止めて下さいね。

>>171 は、こうした人間関係が反映した、味覚の変化だと思われます。
186名無しさん@1周年:02/09/11 17:24
>>185
「甘い恋人たち」というのは、本当に味覚が甘くなるので、
そう呼ばれるのです。
187名無しさん@1周年:02/09/11 17:28
自分が丹精こめて作ったものなのだから相手はそれを否定してはいけない。
もし、そう思っているなら、謙遜さの欠如を問われても仕方がないでしょう。
「おう、おれのついだ酒が飲めねえって言うのかよ」と絡んでくる酔っ払い上司
と同程度の人間性に自分を貶めることになります。
恋人には恋人なりのその人ならではの感じ方があることを容認して次回は相手の
好きな食べ物を一緒に作るほうが優ってます。母親直伝の味だって自分の代で変
えて悪いわけではありませんし。
188名無しさん@1周年:02/09/11 17:44
追加だけど。

>>169
>「愛しなさい」とか「愛さねばならない」というもんじゃないと思うんだけどね。

強制はまずいね。
「すべきだ、すべきでない」とルール化した瞬間に、愛は消えてしまうものだ。
選択の自由を失ったときに、同じ行為をしても、
力を得ることがなくなることで、愛じゃないとわかるんだ。

よく挙げられる例だけど、
1. 振込みで電話代を払えば、与えている感覚がある。
2. NTTの窓口に逝って「払うぜ」と言えばもっと、その感覚があるだろう。
3. でも自動引き落としは、与えているというより奪われている感覚に近い。
債権債務関係が同じで、債務を支払う行為も同じなのに、
楽なはずの自動引き落としは…、
特に気分が良くなる行為じゃないから、愛じゃないんだな。
それは選択の自由が制限されるからなんだ。
189名無しさん@1周年:02/09/11 17:51
>>185

先生、彼のひざを借りて試しましたが、
緊張のあまり味が分かりませんでした。
こういう場合はどう判定したらよいのでしょうか?
190名無しさん@1周年:02/09/11 18:02
>>189
すまん。知らない。
付き合い始めたばかりで、ひざに乗せたり乗ったりを強要すれば、
変な奴だと思われかねないので、さすがに私でもできません。

ひざに乗るのを抜きでやってみてはどうでしょうか。
それでも緊張で味が分からなければ、今は無理です。
まだ相手を愛するよりも、自分の格好の方が気になる段階でしょうからね。
でも強烈に甘くなるので、すぐわかると思いますが…
191名無しさん@1周年 :02/09/11 19:39
>176

霊感のビリビリくるレス、まことに有り難うございます。

なるほど、充分に愛された者は、この掟を素直に受ける事ができるのですね。

信じるどうのこうのではなく、気がつかないくらい自然に実践している。

右の手がしていることを左の手が知らないくらい自然に。

道理で、家庭に愛が無く、というか、当時は無いと見えた私には

>愛を出す装置と、受け取る装置両方が必要です。

の両方が未発達なのですね。

そして、私の父なる神観も、愛に乏しく、力無いものになっていたわけですね。

かなり、すっきりしました。

愛さなければならないとかの義務、掟とか、戒めとか、配慮とか超えている

この言は、この問題だらけの人間が神の国に入る玄関、入り口。

この上に、この中に全ての教えが入っている。

神の愛が十字架の縦棒としたら、横棒は、上下の全くない、人の愛と。
192169:02/09/11 19:54
>>191

禿同。与えるだけじゃなくて、受け取ることでも隣人を愛せるっていうのはすばら
しい。しかも、ホットドッグのようなものでそれが実現するなんて。

ふと思ったのですが、神様(私の場合は仏様ですが)が人間にお与え下さった恩恵
を素直に受け取り、感謝することも神を愛することになるのですね。だから、正確
には、神様がお与え下さったホットドッグを分け合って、二人とも感謝して頂く
ことで「あなたの神を愛し、あなたの隣人をあなた自身のように愛する」という
ことが実現するのかも。それがホットドッグを通じて行なわれるところが実に...
すばらしい(何のこっちゃ!)。
193あずみ ◆V.9uSetc :02/09/11 20:22
 バカはジャンクフードでも食ってろ。

 つうか、死んだ方がいいよ...
194名無しさん@1周年:02/09/11 20:27
 そんなことしか書けないの
 あんなたの知的レベルは年長さん
             >193

 バカはあずみのチコウでも食ってろ。

 つうか、死んだ方がいいよ...

 
195名無しさん@1周年:02/09/11 20:28
>>194
 その発言死んだ後地獄で釈明してもらうぞ。
196名無しさん@1周年:02/09/11 20:29
 こんなスレに入り浸ってるくせに何をえらそうに >193
197名無しさん@1周年:02/09/11 20:29
>>196 お前住所調べてバットで殴り殺しに
   行くぞ。
198名無しさん@1周年:02/09/11 20:31
>>197 俺のクソ食え
    ションベンのみさらせ
199>>193:02/09/11 20:34
おかしな煽りが出てきたので、このへんで落ちます。

 人をバカにするのもいいかげんにして下さい。

200名無しさん@1周年:02/09/11 20:35
 うざばか死ね
201名無しさん@1周年:02/09/11 20:49
ジャンクフードって
鯛焼きみたいなヤツか?
202名無しさん@1周年:02/09/11 20:52




                      _____
                    /
                    / おい、このスレ荒れてるぞ!
                  ∠  
            ∧_∧    \_____/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          Σ(  ´Д`)  ,-っ      | そうか! よし! 殺す!
          /⌒ヽ/   / _)       \       
          /   \\//           ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          /    /.\/         ‐=≡   ∧ ∧
         /   ∧_二つ        ‐=≡   (;´Д`)
         /   /           ‐=≡_____/ /_
        /    \        ‐=≡  / .__   ゛ \   .∩
       /  /~\ \      ‐=≡  / /  /    /\ \//
       /  /   >  )    ‐=≡  ⊂_/  /    /  .\_/
     / ノ    / /       ‐=≡    /    /
    / /   .  / ./          ‐=≡   |  _|__
    / ./     ( ヽ、          ‐=≡  \__ \
   (  _)      \__つ           ‐=≡ / / /
   . ̄         ``)         ‐=≡  // /
               `)⌒`)     ‐=≡ / | /
                ;;;⌒`)    ‐=≡ / /レ
               ;;⌒`)⌒`)‐=≡ (   ̄)
203名無しさん@1周年:02/09/11 20:53
おかしな煽りが出てきたので、このへんで落ちます。

 人をバカにするのもいいかげんにして下さい
204名無しさん@1周年:02/09/11 21:22
あずみさんと上の皆様に、祝福がありますように。アーメン。
205パルナスモスクワの味 ◆9m.IDb.6 :02/09/11 21:48
うましか
206原発廃絶祈願:02/09/11 22:14
虎馬
207名無しさん@1周年:02/09/11 22:19
利口になりたい、
人を馬鹿にしたい
自分は人より上。

そんなどろどろした思いが今の世界を作っている。

愚かであっても愛を取る、
そんな勇気が、世界の救いの導火線になる。
208 ◆6bf7XA22 :02/09/12 12:40
>>191-192
賛同していただける方がいてうれしいです。
>>193
愛の行為ばかりをする人を、世間では「オメデタイ人」と呼びます。
さも皮肉げに、嘲笑を込めて、そしてその裏に嫉妬心を忍ばせて、
親に傷ついている人は、彼をそう呼びます。

なぜ、傷ついている人は、愛の人が気になり、目障りに思い、嫉妬するのでしょうか。
それは、"その人"が自分に無いものを持っていることに、うすうす気づいてしまうのです。
"その人"が、自分の(与える)行為から生きる活力を得て、
人生を自由にデザインしているのを見て、
「自分が自分のために人生をデザインしていない」、
「親のために人生をデザインしている」
「しかし他人(=親)はどんなに努力しても自分を認めてくれない」
「それへの怒りから、生きる活力を得ている」ことに、うすうす気づいてしまうのです。
だからあわてて"その人の考え方すべて"を藁って消し去ろうとするのです。
209 ◆6bf7XA22 :02/09/12 12:41
>>207
傷ついている人は、
記憶に刻まれた、親からおびやかされている虚弱な自分を否定したくて、
自分がいかに優れているかを証明するために、努力して苦しみます。
それは一見、自分のためのようですが、実は親のために人生をデザインしているのです。その証拠に、彼は優れた"人"には成ろうとしますが、
決して優れた"行為"をしようとは思いません。

学生であるなら、それも良い結果につながるかもしれません。
ですが社会人になっても、それを続ければ人生が下降していきます。
成功する者、イチローも中田も俊輔もノーベル賞受賞者も大企業トップも…
考えてみれば当然なのですが、
皆、優れた行為を続けたから、その位置にいるのであって、
優れた人になろうとした結果、その位置に居るわけではないのです。
210169:02/09/12 13:00
>>209

>皆、優れた行為を続けたから、その位置にいるのであって、
>優れた人になろうとした結果、その位置に居るわけではないのです。

慈善にしても、慈善という行為が好きで自主的にやっているうちに「慈善家」に
なるので、普通の人がなろうとして「慈善家」になれるわけでない。もしなったと
したらそれは「偽善家」だ、ということですね。

「慈善家」らしくふるまう(パリサイ派)ことはたやすいが、本物の「慈善家」に
なるのは難しい(よきサマリア人)ということでしょうね。
211名無しさん@1周年:02/09/12 13:08

神は人を創造しました。それは神の愛のあかしであります。

そのように、人は元々は愛し合うようにできていますが、

罪によって堕落してしまって愛し合うことが難しくなりました。

だから、イエス・キリストがこの世に遣わされて

アガペーの愛を私たち人間に教えました。

私たち人間が、神の愛の所に戻るために。

212211:02/09/12 13:11

アガペーとはギリシャ語で、「無償の愛」という意味だそうです。
無償の愛は、見返しを求めない愛であります。

好きな人のために命を捨てるのは、エロスの愛ですが、
自分の好き嫌いを越えて、すべての人のために命を捨てることが
アガペーの愛というものだそうです。
213211:02/09/12 13:13

>>207

アーメン。人は愛されないと、人を愛することもできない
人を愛するためには、まず神の愛を知ることから始まる・・・
214Kirklad ◆rs2OUULQ :02/09/12 13:59
"自分を愛するように隣人を愛しなさい。"
隣人を愛せる資格を持てるだけ、自分を愛せるかどうか自身が無い、正直。
215211:02/09/12 14:15

>>214 神がその愛をいっぱい与えてくださる事でしょう
216Kirklad ◆rs2OUULQ :02/09/12 14:29
自分を愛する事→神を信頼し希望を持つ事→隣人を愛する事の前提
(”行い”が伴うべき::神から与えられた人生の時間を浪費している...)
217名無しさん@1周年:02/09/12 15:28
近年少し自由になれたかな、

肩の緊張が時々抜けているかな、

佳い声が出るときもあるな、と思うのは

世間の私に対する評価って、実に正確だな、

と受け止められるようになったとき。

私がこうだから、世間の評価はこうなのだと。

以前であれば私はこんなに素晴らしいのに

世間の評価は・・・という恨みが込められていた。

確かに優れた行為抜きで、優れた人になりたがっていたと思う。

そして、それにも、親の影響が大きいと思える。

母親が死ぬまでは結婚しないぞ、などというこだわりまでいまだにあるし。

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というのは

神様の目から見た親の姿を私に見せてくれる

私解放宣言でもあると。

感謝。

豊かな祝福が皆様にありますように。
218名無しさん@1周年:02/09/13 14:14
感動した。
219名無しさん@1周年:02/09/13 22:53
>214
209 : ◆6bf7XA22 さんが言われていることを言葉を代えて言ってみると

資格は誰にでもあるのです。

同じ立場、同じ水平軸で、同じ人間として愛することを

神様が求められておられる。

ということは、それが、人間に、あなたに出来るということであり、

それが、そのようにして幸せになるようにつくられている人間にとって

幸せになる道と言うか、方法だから。

ありのままの自分を愛して善い。到底愛せないと思っても。

ありのままの相手、家族、親族を愛して善い、のです。

自分を愛するということはとても大切なことなのです。

そこが修羅の世界であっても。

自分を愛してください。

それほどまでにあなたは大切な存在なのです。

イエス様の十字架が示すメッセージはそれではないでしょうか?
220名無しさん@1周年:02/09/15 07:29
有り難いことに、ICFフォーラムのメインBBSでも、

同じ内容で討論が始まりました。感謝。

スレ名「NO TITLE」
http://bbs.christian.jp/cbbs/cbbs.cgi?mode=al2&namber=1244&rev=&no=0

両方を見るとさらに深くなると思うと、うれしさでゾクッとするものがあります。
221名無しさん@1周年:02/09/15 07:47
人は両親とか隣人とかに愛されないと、自分を愛することが出来ない。

自分を愛することの出来ないまま、両親、隣人を愛することは困難。

「愛の行為をするには、愛を出す装置と、受け取る装置両方が必要です。」

とあるとおり。


愛を出す装置と愛を受け取る装置が未開発というか、未発達。

そのような人間の希望は、

色々あるだろうが、宗教で救われ、神様に愛されて

愛を出す装置と愛を受け取る装置を開発して、育てて行き、

自分を愛して行き、両親と隣人を愛して行く。

親から愛されない子供が増えている状況下で宗教というか

実際に愛を与える事の出来るもの、こと、ひと、組織(?)、

キリストはますます期待され輝きを増してくる。

教会の礼拝、賛美も、愛を出す装置の発達を促しているかも。
222名無しさん@1周年:02/09/15 07:59
そういう意味で、(どういう意味?)

神様を力の限り愛しなさいというのは、

愛を出す装置と愛を受け取る装置を開発して、育てて行くということか。

そして、それが真に育った人は、周りの方々、隣人をも

神様を真に愛するように愛して行くことが出来ると。

ま、理屈ですが。

マザー・テレサが「それは、わたしにした。」という

キリストの声を聞くのも、その究極的な姿を見せていただいていたということ。
223名無しさん@1周年:02/09/15 08:41
ながいねー
224名無しさん@1周年:02/09/15 20:26
済みません。

でも(以下、いらない言い訳)、ユダヤ人は何百年も毎日、何千人もの人が

この掟を考え議論したと思うのです。

それをした方が、今の私たちにとって善いのではないでしょうか?

それに、長文大好きの人間は、いくら短くといわれても、長文を書いてしまう。

子供にもビールを出すおばさんを笑えない。

これを直せるようだと善いのだが。

神様、隣り人を愛することが出来るようにしてください。

ことに、短くてキラッと光る文章を書かせてください。アーメン。
225名無しさん@1周年:02/09/15 20:59
>>224

一生懸命な感じが作用して、長くても気になりません。イイ。

イエス様の前に、苦しいこととか目をそらしていたこと、全部投げ出したあのとき、
心がギューっとなって、それから、叫び出したいくらいうれしかった。
私の人生は、その喜びが今も、これからも、ずっと続いてく。

こういう「愛されてる!」っていう気持ちが、今日会う人、明日会う人、
家族に、会社の人に、お隣のオバサンに、伝わりたいと思う。
イエス様いっつも、私の真ん中にいらしてください。アーメン。
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227名無しさん@1周年:02/09/16 03:26
icf□投稿者/ 自分を愛するように 兄弟姉妹(1回)-(2002/09/14(Sat) 23:48:37)

イエス様は自分をあいするように隣人をあいしなさいとおっしゃいました。
この言葉からわかることは、
1.自分を愛する事は決して悪い事ではない事
2.自分を愛せない人を決して責めてはいない事
(自分を愛せない人は他人を愛する事もむずかしいのでしょう。)
3.過度な自己愛(自分だけを愛する事)はよくない事。
よく、自分を愛する事だけを強調しているクリスチャンがいるけれども、
イエス様のことばの第一の意味は、
自分とおなじくらいに他人を愛しなさいということなのです。
私は、聖書の言葉をイエス様の言葉をそのまますなおに受け入れたいと思います。
イエス様のことばを素直にとるならば、
自分を愛する事だけを強調するのは誤りである事は明らかです。
クリスチャンは自分と同じくらいに他人を愛するべきです。


228名無しさん@1周年:02/09/16 08:10
憎まないようにするのも、愛のうちだと思う。

先の言い方だと、憎しみを受け取る装置と憎しみを出す装置があって、

これを弱体化し、取り去って行く。

そんなことができるとすればだが。

敵を愛するには、この、憎しみの装置、増幅機構を取り除かないと

できることではない。
229名無しさん@1周年:02/09/17 09:36
神様の愛のレベルはイエス様の十字架の出来事で善く啓示されている。

罪の無い自分を十字架に磔にして罵る人々のためにイエス様は祈られる。

憎しみを受け入れる器官で受け入れた憎しみを愛にして出す器官を持っておられる。

これを憐れみというのであろう。

昔、憐れみという言葉がひどく厭だったが、

こういうのであれば、ひどくうれしい。
230名無しさん@1周年:02/09/17 20:02
神の御言葉はもっともっと深いものだと感じる。

なぜって、まだまだ、私は感動してないもの。
231名無しさん@1周年:02/09/18 09:37
隣人愛は、キリスト教の創見のように思っている人が多いけど、仏教でもちゃんと
説いているYO。それが、「イエス」が多発するようになると、仏教徒が去り、一般人
が去り、いよいよ「イエスの十字架」という定番が出るころになると、「関係者」
しかいなくなる。

本当に隣人愛を理解している人ならば、隣人愛の名のもとに隣人愛を独占し、隣人を
スレから追い出すような行為は慎むと思うんだがな。そこにクリスチャンの「隣人愛」
の偏狭性と偽善性があると見た。
232231:02/09/18 09:50
今、>>1を確認したら、新約聖書の句に対する議論のスレだったんだね。
前言を撤回させていただきますm(_ _)m

しかし、一時は仏教徒や一般人と思しき方が参加して、魅力的なスレに
なっていたのに、どんどんクリスチャン独占スレになってしまったのが
残念でならなかったのです。この気持ちは理解していただきたい。
233名無しさん@1周年:02/09/18 11:14
>>231

謝っていらっしゃるところに申し訳ないけど、

>そこにクリスチャンの「隣人愛」の偏狭性と偽善性があると見た。

こういうのは大変寂しいと思います。
このスレの中を読んでみると、クリスチャンの人たち、
分かるように噛み砕いて話そうとしていらっしゃいます。

独占とか、追い出すとか、そういう行為はどこに感じられたのでしょうか?

「隣人」と聞くと、自分がいつも聖書からつきつけられていることばであるから、
語りたいことがたくさんたくさんあるのです。
この気持ちも、理解していただきたい。
234231:02/09/18 11:48
>>233

細かいことだけど、いきなり「アーメン」とか「イエスの十字架」が出て
きたら、一般人は去ってしまうのが当たり前じゃありませんか?

私は、アメリカでモルモン教徒の方と食事をしたことがありますが、彼等が
ワインを口にしているのを見て「失礼ですが、モルモンではアルコール厳禁
なのでは」と訊ねたことがあります。彼等によると、客人を招いたときには
客人におもんばかって、アルコールを口にすることは許されるということ
でした。

もともと、イエスが隣人愛を説いたとき、それはサマリア人という異教徒を
喩えに出してでした。宗教的な慣習を越えて、隣人同士が愛するべきだ、と
イエスは教えたので、モルモン教の方の行為はその教えに忠実なものと私の目
には写りました。

いたづらに「アーメン」を振り回すのが隣人愛だとは私には思えませんね。
235名無しさん@1周年:02/09/18 12:46
「アーメン」から偏狭性と偽善性が見えるのですか・・・。
思いもしませんでした。ちなみに「アーメン」というのは
「然り」「真理です」という意味です。

それを不快に感じる人がいるというなら、
クリスチャンは「アーメン」というとき、気をつけた方がいいということに
なりますね。
236231:02/09/18 13:04
>>235

できれば「ハレルヤ」も控えられた方がよいかと。
237名無しさん@1周年:02/09/18 13:20
ナムアミダブツ も駄目になっちゃうよ(w
238名無しさん@1周年:02/09/18 13:24


 ハレルヤ アーメン ♪ 
239名無しさん@1周年:02/09/18 13:27

 みなさーん、最高ですかー?  最高!!最高!!
240 ◆6bf7XA22 :02/09/18 13:35
私は、去ったわけではありません。ちゃんと見ています。

確かに、愛=与える行為という理解から見ると、
>>219 以降の話は、おかしいと思う部分が多くあるのですが・・・
「キリスト教がそうなんだ」と言われれば、私は何も言えない、というか、
>>219 以降の話がホントに教義であるなら、私的には、
「ああ、キリスト教は愛じゃないんだな」という決着になってしまうわけで、
いや、誤解は理解への一里塚で、私も"愛"を理解するまでの道のりは大変だったことを考えれば、
キリスト教全体ではなくて、たまたま誤解している信者の方がいるのかも、と
思ったり、てなわけで、多くの方が言い合う状況を待っていました。

親に傷つけられた人が、信仰を持って宗教に帰依すること自体、
ヒトという生物の自己修復能力の現れだと私は思っています。
ですが、親を神にすげ替えるだけで終わってしまえば、
せっかくの教義を、自分の幼少期から培ってきた論理の延長上に理解してしまいます。
しかも、世の中は、愛と毒の二重写しになっていて、
相容れないながらも、それぞれが論理的に一貫しているので、
感覚的に考える限りは、解釈の間違いに気づかないのが、普通だと思います。

つまり、神が、イエスが、仏陀が言ったことに、安易に飛びつかずに、
自分の中で、名づけることができない何か、を考えつづけて育てていって、
ふと、顔を見上げたときに、
「これは、イエスが隣人愛と呼んでいるものと同じじゃないか?」
という一致のさせ方が、誤解が少ないかと私は思っています。
241名無しさん@1周年:02/09/18 13:48
>>240

>名づけることができない何か

なんか、いいですねー、それ。
自分をはるかに超越した「何か」というのを感じ取るこころというのは
生まれつき人間に備えられたものだと思っています。

クリスチャンとしては、うんと初歩的な段階で「神が人を創造されたときに備えられたもの」
と考えることになるわけですが、そういうとっかかりから行くと、
仏教も神道も、人に信仰心があるからこそ、となる。
少なくとも、攻撃や批判の対象にはなりえないわけです。
そこからクリスチャンが帰依する場所は、「神への賛美」となるわけですけど。
242名無しさん@1周年:02/09/18 14:32
>>231 私はキリスト教の洗礼をうけている者ですが、あなたのおっしゃっている
ことは、なんとなくわかります。気色悪いって感じではないですか。これは、キリスト教が
日本においてはあまりにマイノリティであるため、その固有の言葉使いが、社会において
広く市民権を得ていないことが、その理由のひとつなのだと考えます。
言葉は、共通の意味や認識をもってはじめて交流・共感の言葉たりうるわけで、独善的に
濫用すれば、自らをさらに小さな村社会に閉じ込める結果になるのは、例をあげる必要もありません。
キリスト教徒もそれでよいと思っているわけではないと思いますが、リアルな社会では
無意識にしろその使用をかなり制限しているので、2ちゃんのようなところでは
その抑制がとれて言葉が目だってしまうのかもしれません。まるで逆差別のような、非キリスト者を
排除するかのような印象をお受けになったのですね。信徒の一人として申しわけなく
お詫びいたします。理解に向けより努力すべきは何者であるか、日本の現状をみれば自明のことです。

243 ◆6bf7XA22 :02/09/18 15:33
>>242
私は 231 ではないですが、私は気色悪いというよりも、
メッセージの伝え方が間違っている気がしました。

>>188 で触れましたが、
愛は、ルールで強制された瞬間に消えてしまいます。
愛は、素晴らしいものですが、本来善悪の価値観とまったく関係がないのです。
味わって食事を摂る行為に、正しいも、正義も、善もないように、
愛の行為をすることが、善なわけではありません。

ですが、キリストが「愛は素晴らしいよ」と言えば、
その信者は、「それをしなければならない」「それが善である」と
ルールを無意識に作ってしまいます。
その途端に周囲から"愛"が消えてしまうのです。
だから他の単語で言えばいいモノを、"愛"と名づける奇妙な結論となって、
ますます"愛する"ことがわからなくなるのではないでしょうか。

"愛"は、他の単語では代替できない概念です。
"愛"は、してもしなくてもいい、強制されない、ルールがない自由な状態だけに、
強烈な感覚となって現れる概念です。
だからこそ、>>234 に登場したモルモン教徒の方の"与えた行為"は、
まさしく本人にとって愛なのです。
244 ◆6bf7XA22 :02/09/18 15:36
誤解の無いように申し添えておきますが、
私は、キリスト教は愛の宗教だと思っています。
ですが、キリスト教に登場する、善悪の価値観で推し量ると、
「愛」が余計に見えにくくなってしまうというジレンマがあるような気がします。
それでも十分に理解が進んでいるキリスト教信者の方であれば、
そこらの事情を熟知して、うまい具合に理解できるのかもしれません。
ですが、他宗教の人間がその言葉を聞くと、まず誤解すると思います。

たとえば例に出して悪いですが >>227 に3つ条件が並んでいますが、
私はどれも賛成しません。
特に3.は親の呪いそのままの言葉なので、
書いた人の境遇を思うと、悲しくなりました。

私がここのスレで書いたコメントは以下です。
愛の説明 >>138-140
愛の補足説明 >>142 >>156 >>160
親の呪いの説明 >>167 >>168
呪われた人の反応 >>208-209
具体例で説明 >>176 >>188
一般論 >>178
245231:02/09/18 15:43
>>240

禿道です。人間は他人の体験を自分のものにすることはできません。いくらイエス
や釈迦の言葉を反芻したとしても、その人はイエスでも釈迦でもない。まして、
教会のようなところで、檀上から人に教え諭すようなものでもない。

あるとすれば、自分自身の体験があって、それと同じものを聖書や仏典に再発見
する。人間の分際でできることといえば、イエスや釈迦と「共感」することだけ
という気がします。イエスの隣人愛や、釈迦の菩提心を自分の体験に当てはめる
のは個人の勝手でしょうが、それを「イエスの隣人愛とはこんなものだ」と決めつ
けた時点で、それはイエスへの冒涜になるでしょう。なぜなら、誰もイエス自身に
はなりえないし、「イエスの隣人愛」がどんなものか言い当てることはできない
からです。

下手に「イエスの隣人愛」のイミテーションに酔うよりは、自分の隣人愛をそのまま
の状態で語った方がはるかに安全です。>>210さんの言葉を借りれば「クリスチャン
らしくふるまう」ことと「クリスチャンである」ことは別問題で、前者では背伸びを
しただけ偽善臭がついてしまいます。
246名無しさん@1周年:02/09/18 15:44

 不親切と欲張りと怒りをころして、
 生きとし生けるすべてのものに
 情けを持て。おまえの生活が
 通りすぎるそよ風のようになるように。 
 
 〜 ヒルティー 〜
247231:02/09/18 15:52
こういう場で、隣人愛を論じるとき、どうして個人的な経験談が出てこない
のか不思議でなりません。聖書や仏典に書いてあるのが本物の隣人愛では
ない。あれは単なるテストケースのひとつにすぎない。本物の隣人愛は、
個人が日常の中で隣人との関わり合いの中で体験するものです。

自ら語るべき隣人愛がないから、イエスの隣人愛を持ち出してくるんだ、
と言ったら暴言でしょうか。
248名無しさん@1周年:02/09/18 15:52
サレジオ学園の子供達の心の傷を読め!

http://star.ruru.ne.jp/yogo-shisetsu/nikki/no001.html

249231:02/09/18 15:57
>>248

サルジオ学園のシスター達が実践した「隣人愛」は、あなたの隣人愛とは無関係
です。あなたの隣人愛を、さあ、語れ。
250名無しさん@1周年:02/09/18 16:00
>>247 まずあなたの隣人愛を語ってみては?
251231:02/09/18 16:05
>>250

すでに語りました。>>169です。
252名無しさん@1周年:02/09/18 16:06
>249児童愛も隣人愛。だからサレジオの神父は間違っていない。
253名無しさん@1周年:02/09/18 16:10
>>251 なんだよ ぜんぜん具体的じゃ ないじゃん 
254名無しさん@1周年:02/09/18 16:14
んとさあ、ここは、隣人愛の議論なわけ。
「隣人愛の体験談を語ろう!」という趣旨とはちょっと違う。
言葉の意味とか、理論的なところでアプローチしてるんだよね。

で、まったくおっしゃるように、「理論と行動は別の問題」
それは言うまでもなく、当たり前のことだと。

ここに書き込んでいる人の実際の生活や、
人柄は、2ちゃんからは絶対にみえてこないでしょ。
それをまず認識しないとね。
顔のしらない者同士がことばだけで議論しているところに
「お前は口ばっかりで行動が伴っていない」というのは、
ちょっと筋違いという気がしませんか。

私は隣人愛を実践しているクリスチャンの人を実生活で大勢知っていますし、
かつてどれだけ助けられたかわかりません。
でもそんなことも、この議論の場で持ち出したって、伝わるわけがないよね。
255名無しさん@1周年:02/09/18 16:21

 このスレは、妄想隣人愛劇場ってな感じで、信仰していまふ。
256231:02/09/18 16:24
>>253

そうか。じゃあ、こんなのはどう? 昔一度書いた話なんだけどね。

ラーメン屋でおやじが差し出すどんぶりから、フウフウもそこそこに麺を
すくい上げる。こうしてラーメンを堪能した後、その感動をおやじに伝え
たくなる。あるいは、となりで眼鏡を曇らせながら、鼻をずるずる言わせて
いる見知らぬ隣人に「どうだ、うまいと思わんか」と訊ねてみたくなる。

ラーメン屋のおやじは、一杯何百円を回収すれば足りるし、自分もそれを
払えばいいんだけど、どうしても「うまかった」と感動を伝えたくなる。
そういう損得を越えた場面でしか、隣人愛は発現しないだろうね。

こういうのは、できるだけ見知らぬ人がいいね。お世辞を言う必要もない
赤の他人から「あんたのラーメンは最高だったぜ」と言われたり、隣で食って
いた赤の他人と、一言もかわすことなく、目線で「うまいなあ」とメッセージ
が交わせたら最高でしょう。お互いの存在を尊重し、お互いに感謝しあう。
こういうのが本当の隣人愛だと思う。

そこで、一段高いところから眺めてみると、自分とおやじ、隣人Aをその場に
引き合わせたのは誰か、ということに思い当たる。人智を越えた存在でしょう。
結局、日々の隣人とのふれあいに感激しながら、その背後にある神に感謝を
するしかなくなる。仏教では神のわざじゃなくて「縁」としますけどね。言わん
としていることは同じことです。
257231:02/09/18 16:31
>>254

で、自分でも体験していない隣人愛を、理論とやらで議論できるものかいな?
そんなことばかり続けているから、

>「理論と行動は別の問題」それは言うまでもなく、当たり前のことだと。

なんていうなさけないことを言わなきゃならんのだよ。イエスが泣いてるぞ。
258名無しさん@1周年:02/09/18 16:33

  ミ"^;,        ,ミ"^;,
        ミ";;.::.ミ       ミ :::::::ミ
        ミ' ;;::::::ミ      ミ ..::::::::ミ
.       ,;ミ ;;;;:::::::::ミ "゙" "゙"ミ :::::::::::::ミ ,,
      ミ"                ミ
     ミ"                  ミ
     ミ                    ミ      ふーん。。愛とラーメンに飢えてるだニャ。。
    ミ      -=・=-     -=・=-   ミ
     ミ         ,       、      ミ
    ミ  ----   l    l    l   --- ミ
    ミ  ----   丶_ノ丶_ノ   --- ミ
     ミ,,                    ミ
      ミ,,                  ,,ミ"
      ミ """             ""ミ
      ミ                   ミ
     ミ,,                  ミ
     ミ ミ                  ミ
  ,,,,,,,,,,ミ                   ミ
 ミ   "ミ                   ミ
 ミ;,,,.,.,..... ミ,,,,,... ..,,,,,,,... ...,,,,,... ... ...,,,,,,,... ...,,,,ミ


259231:02/09/18 16:37
>>258

うんにゃ。ラーメンは腹を満たすため、愛は心を満たすために食うんだYO!
260 ◆6bf7XA22 :02/09/18 16:39
んー。
つか、愛を理解している人にとっては、
愛とは何かを論じることは、ばかばかしいくらい当然のことなんだな。
だから、理論ではなく、実践をというように気が急いでしまう。

でも、愛という概念を誤解している人が、
自分や周囲の「愛する」行為を勘違いして安心しているわけで、
誤解を加速して実践しても・・・
まあ当人は、それで人生を終わってもまたそれが人生なわけだけど、
「これが愛だ!」と巻き散らかされると、迷惑というか。

というわけで、愛が、愛と名乗らずに世の中にあふれ、
それらが見えない人が、愛でないものに愛とラベルを貼り、
飢えている人に与えても、飢えは癒されずに死んでいく。
そこかしこに愛はあるのに。

私もそうだったけれど、
まず、わかっていない人にとって理解することが、一仕事なんだ。
それを完全に理解しても、実行することが次に大変な仕事なんだ。
ってことですね。
261 ◆6bf7XA22 :02/09/18 16:40
では具体例・・・

私の家庭では、「〜の役目」は極力決めません。

たとえば、食事を作るのが奥さんの役目、というように決めれば、
奥さんがどんなに心をこめて作っても、
まずいものを作れば文句をいわれ、サボれば文句をいわれ、
ようするに強要の中で作っている環境が生まれます。

強要された中でする行為では、自分の権力、効力感を感じることができません。
だから「与える行為」自体から力を得ることができません。
与える行為であっても"愛"じゃないわけです。

すると、奥さんは、違うものから活力を得なければやっていけない。
サボったら怒られる恐怖心(に対する怒りのパワー)、
子供へ食事をあげる義務感(子供への愛は、"愛"ではなく自己愛の投影です)、
外で稼いでくる夫のための自己犠牲(商人的交換関係です)、
この状態は他者にスポイルされている奴隷状態です。
262 ◆6bf7XA22 :02/09/18 16:40
食事に限らずこのように、家中の者が互いに相手を役割で縛って、
それに違反したことを口実に罰するような(実際に罰しなくても)状況が、
作られれば、どんどん元気が失われていって、家の中が暗くなります。

ですが、よく考えてみると、原因はルールがあるからじゃないんですよね。
道路をはみ出さなければ、ドライブが楽しめないわけではない。
ルールがあってもルールを金科玉条にして縛られなければいいのです。
自分たちが効率的に作業・役割分担するために、なんとなくルール化している・・・
そんな助け合いを、私たちは理想としています。
失敗しても相手に完璧を求めるのはあきらめる。
キーワードは寛容です。
でも・・・なかなかうまくいかない、というか、
理解できていても、とっさの状況でなかなか実践できない。
263名無しさん@1周年:02/09/18 16:44

 人間が多くの友の胸の中に残すものは、自分のために集めた宝石でもなければ、金銭でもない。
 生きている間に、誰かに上げた心からのプレゼント、優しい言葉、親切な行為、それこそが人々
 の胸に生きつづける、自分の生の証しとなるのではあるまいか。    三浦綾子

264 ◆6bf7XA22 :02/09/18 16:47
てなわけで、食事を作るのも、皿洗いも、気の向いた者がやります。
ぶつかったら仲良くキッチンに立ちます。
誰も作らなかったら?
いえいえ、腹が減れば誰かが気づくのでしょうか、
不思議とうまくできています。

まず、食事の味が変わりました。
本当に美味しい。
自分の作ったものを、相手が食べてくれる、
これは、この行為自体が、愛ですね。
食べる、この行為自体も、相手の料理を受容するという愛です。
また、自分の体に対して"与える行為"なので、愛です。
毎日繰り返しているので、夕食は一日の中で最も楽しみなのです。
仕事の関係で、どうしても遅くなってしまいますが。
265231:02/09/18 16:56
>>260

>愛が、愛と名乗らずに世の中にあふれ、
>それらが見えない人が、愛でないものに愛とラベルを貼り、
>飢えている人に与えても、飢えは癒されずに死んでいく。
>そこかしこに愛はあるのに。

この部分だけでも切り取って、額に飾っておきたい気分です。

>食事を作るのも、皿洗いも、気の向いた者がやります。
>ぶつかったら仲良くキッチンに立ちます。
>誰も作らなかったら?
>いえいえ、腹が減れば誰かが気づくのでしょうか、
>不思議とうまくできています。

これは目からうろこですね。
最近、若いお母さんが食事を作らず、全部コンビニで済ますような家庭が
増えているそうです。愛のネタはその辺に転がっているのに、愛でないもの
に愛のレッテルを貼り....ですか(嘆息)。
266名無しさん@1周年:02/09/18 17:12
>>257

愛は自分が実際に体験しないと、確かに、分からんでしょ。
愛を知らないと、イエスの言葉は心に入ってこないでしょうね。

人を愛することができるのは、愛されたことがある人でしょうね。
267名無しさん@1周年:02/09/18 17:21
愛というのは、誰にでもあるし、どこにでも
ありますよ。第一、愛がなければ、人類はとうに滅びていたでしょ。
人間が最初に作られたときから、備わっているのが愛だと思います。

キリストの救い以前に、誰にでも愛はあります。上にある料理も
愛だし、勉強中の人の横を音を立てないように歩いたり、
落ち込んでいる人を励ましたり、愛の行為そのものは、誰しも
議論の余地もなく、家庭で、職場で、1日何十回と繰り返していると思います。

しかし、キリストの言う「隣人を自分のように愛せ」というのは、
それでも思いがけない言葉のように、自分の中に響くのですね。
「問い」なんです。これに答えようとするのが、人間です。
「自然な、無意識の愛」とは、ちょっと違う愛があるのではないか。
そういう気持ちにさせるのです。どうでしょうか。
268名無しさん@1周年:02/09/18 17:24
>>258 首から下は初めて見たぞ。
   その耳はエロスレ削除の何だっけ
   甲冑か。
269名無しさん@1周年:02/09/18 17:24

 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う
 いけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 Tヨハネ4:10

270231:02/09/18 17:40
>>267

>キリストの言う「隣人を自分のように愛せ」というのは、
>それでも思いがけない言葉のように、自分の中に響くのですね。

そうですか? 勉強中に足音を忍ばせるのは、自分だって勉強中に足音を立てられる
と迷惑だからでしょう? 他人の立場に自分を置いてみて、自分ならどう感じるかと
考えて行動している。これは「隣人を自分のように愛せ」と言えるのでは?
仏教でも「人にして欲しいことを人になせ、人からしてもらいたくないことを人に
なすな」と教えます。キリストの言葉とどこが違います?
271 ◆6bf7XA22 :02/09/18 17:52
>>267
外から見て、同じ行為であっても、愛とは限らないでしょう。

勉強中に足音を忍ばせる行為によって、
その行為者が相手に「与えている」実感があれば、
その行為をすることで、気持ちよくなっていれば、愛だと思います。

その行為を、勉強中の人がイヤミに感じて、怒鳴りだしても、
愛の行為であれば、何も感じない・・・はずなのです。
(そこで、せっかくやってあげたのに、と反論するなら商人的交換関係でした)

でも、足音を忍ばせる常識に従っていたり、その部屋のルールだったりして、
足音を忍ばせなかったら文句を言われる、その状況を避けるために、足音を忍ばせれば、
それは愛ではありませんね・・・
272名無しさん@1周年:02/09/18 17:53
言葉は、その言葉だけではなくて、その言葉を語る口が重要ですよね。
たとえばある人が、ある日突然、ある人に向かって
「隣人を自分のように愛しなさい」と言われても、
「ケッ」とか思うかもしれません。

キリストの口から語られる言葉には、
キリストがどういう方であるか、その意味も込められてくるから、
「考えさせる」「迫る」ものがあるのだろうと、私は思うのです。
273名無しさん@1周年:02/09/18 17:57
>>272 そうそう。仏教徒が使ってもなんだかな〜って感じだよねん
274名無しさん@1周年:02/09/18 17:57
>>271

>外から見て、同じ行為であっても、愛とは限らないでしょう

同意します。
そしてそれが、非常に重要だと思う。

外見的な愛というのが、日常にあふれるいわゆる「愛」で、
ルールとして強制されるかも分からないけど、いずれにしろ慣習的な
ものなんです。でも、その発想の大本は「思いやり」で、
やっぱり「愛」だと思うんですけどね。

自発的な、内面的な愛を探るのが、この問いだと思います。
275 ◆6bf7XA22 :02/09/18 17:58
>仏教でも「人にして欲しいことを人になせ、人からしてもらいたくないことを人に
>なすな」と教えます。キリストの言葉とどこが違います?

おー。そうそう、それです。すばらしい。
自分に価値があることだから、人にしてやると、自分に力が湧いてくる、
というわけですね。

「貧乏なら投資しろ」という経済学の用法と似てますな。
金持ちは必ず金を他人に投資したり、金に法人格をつけて働かせます。
貧乏な人は労働で得た金を仕舞い込んで、その上澄みで自分のために家を買います。
276名無しさん@1周年:02/09/18 18:00
>>273

別にそんなことはないでしょう。その言葉を言った人が
重要というのは、どこであっても、変わらない。

そこにはやっぱり、釈迦なら釈迦がどういう人であったか、
僧侶であるなら、その僧侶がどういう人であったか、
そういう人格を持って(言葉が人格を伴って)、
聞く人の心に迫るという点で、違いはないと思います。
277名無しさん@1周年:02/09/18 18:02
キリストの口から語られる言葉は、
キリストの人格を伴って、心に迫るということですね。
278名無しさん@1周年:02/09/18 18:02

聖書のことばを都合良く利用する、宗教いっぱいあるのよねえ ハジを知れ〜ぃ!!ハゲも。。 
279名無しさん@1周年:02/09/18 18:03
>>278

意見あるなら、具体的に言って下さい。
280名無しさん@1周年:02/09/18 18:05

 『 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
   救いを受ける私たちには、神の力です。         』
                    第一コリント1:18

281231:02/09/18 18:05
>>272-273

だからさ、あなた(方)の場合には、隣人愛の尊さがわかっているんじゃ
なくて、尊いキリストの言葉だからありがたがっているだけなんだよ。

目利きができないブランド志向のミーハーと同じだYO
真実は、いかなる卑しい人の口に上ったとしても輝くものだ。
誰が言ったかが気になるようでは、まだまだ真実がわかっていない。
282名無しさん@1周年:02/09/18 18:06
>>279 あんたイエスさま信じてるん?
283名無しさん@1周年:02/09/18 18:07
>>281

「心に迫る」というのと、単に「ありがたい」という
言葉の違いを、たぶんあなたは知らない。

心の耳を開かせることばというのは、現実にあるよ。
自分の心を貫いて、生き方も変えてしまうような、言葉。
それを私は「心に迫る言葉」だといっている。
284名無しさん@1周年:02/09/18 18:08
>>282 279はクリスチャンだよ。
285名無しさん@1周年:02/09/18 18:12
うええ クリスチャンぽくない?
286名無しさん@1周年:02/09/18 18:14
>>281
>誰が言ったかが気になるようでは、まだまだ真実がわかっていない。

聞く人に対して、空虚な言葉と、空虚でない言葉があるよ。
同じ字面の、同じ内容の言葉であっても、そこに込められた意味を知るとき、
言葉は聞く人にとって、命をもつと思う。

「愛してるよ」という言葉は、誰に言われても同じですか?

言葉は、生き物だよ。
287名無しさん@1周年:02/09/18 18:15
>>285

お互い様や・・・。
288231:02/09/18 18:18
>>275

仏教の教えを簡単に言い表せば、誰もひとりでは存在できない、他ともたれ
あって生きているんだ、ということを認識することに尽きると思います。
自分が死ぬ時が来ても、自分の代わりに生まれてくる人のために死ぬ。自分
もまた別の人から生きる場所を譲ってもらって、楽しく暮らしてきたのだか
ら、という発想です。

実際、経済ひとつ見ても、売り手と買い手の連携があり、形の上では「隣人
愛」が行なわれているのです。それを「階級間の搾取」と見るか、「隣人愛
の現れのひとつ」と見るか、によってその人の心が地獄へ落ちたり、極楽へ
上がったりすると教えます。>>271で書かれている通り、確かに「行動」に
よってではなく、「心」の状態が極楽・地獄の境目になりますね。
289名無しさん@1周年:02/09/18 18:18
やめてクリン。。
290名無しさん@1周年:02/09/18 18:22
「気をつけていってらっしゃい」と恋人にいわれるのと、
ティッシュペーパーに印刷してあるのとでは、ぜんぜんちがう。

特に鋭く厳しい言葉ほど、心の耳に入ってくるか、来ないか、
というのは、言葉が人格を伴うかどうかで、変わってくる。

「あなたは怠け者だ」と、今日会った人に言われるのと、
長年暮した人に言われるのとでは、まったく違うでしょう。
291 ◆6bf7XA22 :02/09/18 18:22
すみません、だんだん話が高みに上っていって、雲の上。
私はついて行けずに脱落です。

とりあえず、私が"愛"か"そうでない"かを見分ける手がかりは、

 1. その愛は行為か、それとも内心の心のありように過ぎないか
 2. 誰が、誰に、何を、与えているのか。
 3. その与えた人は、与えた行為だけで十分か。結果が失敗に終わっても満足か。

この場合にだけ、「愛」が存在する気がします。
そういう意味では、わりと狭い概念ですね。
ですが世の中いたるところにあふれています。
このスレで登場する愛を、いちいち1.〜3.でチェックして選り分けています。

愛と紛らわしいのが、商人交換関係で「与える」行為、
与える行為が苦しい行為だから与えるという、自己犠牲的「与える」行為
ですね。これらは愛ではありません。

というわけで・・・
292231:02/09/18 18:30
>>290

何となく趣旨が理解できました。

私のラーメン屋のたとえで「赤の他人」との心のふれあいを重視している
ことを言っておられるのですね。

長年連れ添ってきた相手とだと、どこまでが「義務」か「見返りを求めての
行為」か、それとも本心からの隣人愛の発露なのか、まぎらわしいので、
敢えて「赤の他人」を持ち出してきたのです。「赤の他人」なら、「義務」
も「見返り」もないから、それだけ隣人愛がストレートに現れるのです。

多分ですが....見ず知らずの「赤の他人」と隣人愛の交換ができる人なら、
長年付き合ってきた人と隣人愛の交換をするのは、ますます容易いでしょう。
293名無しさん@1周年:02/09/18 18:33
さいきんは隣人同士の殺伐とした事件も多いばってん 自分を愛するように隣人を愛すること大切でんなぁあ。。 
294ふぁんだ君 ◆dp.jHAHM :02/09/18 18:36
でも、全ての人を自分のように愛するって
よく考えたらすんごいことだよね。。。
命がいくつあっても足りない・・・(^^;
295名無しさん@1周年:02/09/18 18:39
自分以上でも、以下でもなく... イエスさまの十字架を越えることは出来まへんね
296 ◆6bf7XA22 :02/09/18 18:43
>>292
そうですか・・・
身近な人ほど愛のやりとりが難しいと、私は思うのです。
どうしても見返りや義務的なものが、結果として現れたりしてしまう。
わざわざ「見返りじゃなくて、義務じゃなくて」と口にすれば、
相手も逆に意識してしまう。
はるか遠いアフリカの飢餓難民に寄付する方が、よほど愛になりやすいのでは・・・
だからわざわざ「隣人」なのかなと、思っていました。

自分が持ち出してばかりで、相手が受け取るばかりでは、
正直言うと気持ちが荒れてくる。
これを安易に解決しようとすると、商人的交換関係になって、元の木阿弥。

ですが荒れてくる正体が、だんだん自分でもわかってきました。
その場合には、必ず

自分の好きなことをやっていない、
他人が好きなことを自分がやっているときなんです。

愛する行為をし続けるには、熟練の技が必要なようです。
297231:02/09/18 18:43
>>293

私は40過ぎのオジンなんですが、小さい頃によく近所の「見知らぬオジサン」
に怒られたものです。「こいつは、誰だ」なんて不思議に思いながら、一応
神妙に説教を聞いていたものです。

最近は、自分の子は自分の子、他人の子は他人の子で、お互いに関心がなく
なりましたね〜。単身赴任寮では、隣の若い子たちと話をする機会もないし。
都会の「ひとりが一番」という価値観は、実は隣人愛欠如の現われかもしれ
ません。「ひとりが一番」同士にいざこざが発生すれば、殺伐な事件も起こる
でしょうね。
298名無しさん@1周年:02/09/18 18:49
聖書には、「人が求めるもの、それは変わらぬ愛である」
という言葉があったよね。これもまた、
自分が知らずに求めているもので、隣人に与えよ、と、
キリストが語られた愛のひとつかも知れない。

「変わらぬ」愛とゆうのは、はっきりいうけど、自分には無理です。
ただ、キリストがいつでも、「変わらず」自分を愛し続けて
くれていることは、事実として、分かる。弱いときも、
怒ってるときも、どんなときも。これを隣人にフィードバックする
というのは、並大抵なことではないかも知れない。
299231:02/09/18 18:55
>>296

>身近な人ほど愛のやりとりが難しいと、私は思うのです。
>どうしても見返りや義務的なものが、結果として現れたりしてしまう。

そうかもしれませんが、私と家内の関係で言えば、「見返りや義務」である
ことを見越した上で、それでもお互いを許しあえる部分があるのです。聖人
君主同士が結婚するわけじゃありませんから、お互いに嫌なところがあって、
それをお互いに我慢する。そこが「いじらしい」とお互いに思っている。

「見返りや義務じゃないか」と問う水臭さをも超越しているとでも言いますか。
お互いに傷を持つ身が、寄りかかりあって傷を舐めあっているというか、そういう
凡夫同志のいじらしさみたいなものが「愛」の源泉になっているように思います。

愛は不合理なものですが、不合理であるが故に、私のような凡人は救われるのです。
300名無しさん@1周年:02/09/18 18:55
300
301名無しさん@1周年:02/09/18 18:58
>>297 う〜む。。ほんと隣人愛の危機っすねぇ。。 隣人愛も不信がられる世の中なんすね。。   
302名無しさん@1周年:02/09/18 19:07
なんかこのスレ、理屈っぽくなってきたな。。。
303名無しさん@1周年:02/09/18 19:11
なんか、新聞の読者欄の投稿読んでるみたいな気分になるのは
俺だけ?
304名無しさん@1周年:02/09/18 19:12
隣人愛を理性と屁理屈で、、語り合うスレなのらああよ。。。
305231:02/09/18 19:12
>>301

コンビニができて便利になったので、独身貴族がどんどん増えてきたという
実情があると思うのですが、上の方で「食事と愛」の関連について議論が
あったように、食事を家庭で用意しなかったことが、実に隣人愛の崩壊を
招いていると私は思います。

子供の頃は、母親の作ってくれた弁当を持って幼稚園に通いましたが、何か
の拍子で弁当をひっくり返してしまった時には、自分の母親を失ったくらいに
悲しかった。これは家内に内緒ですが(笑)、新婚時代にうっかり会社の昼食
会があるのを忘れて、弁当を持ってきてしまった。そのまま持って帰るわけに
もいかず、結局、少しだけ食べてあとはゴミ箱に捨ててしまった。その時、
幼稚園時代と同じような心の痛みを感じました。朝早く起きて作ってくれる家内
の姿が浮かんでね。

とんだお惚気話になってしまいましたが、こういうわけで、弁当に限らず
家庭料理は愛の絆だと堅く信じています。お母さん達が全員、手製の弁当を
持たせるようになったら、非行は劇的に減ると思うよ。
306名無しさん@1周年:02/09/18 19:17
>>305
おお、それ、牧師さんに言われたことある。なるほどなあ。
307名無しさん@1周年:02/09/18 19:18
なんか2Chと思えないね ここは...
308名無しさん@1周年:02/09/18 19:20
>>307

アーメン禁止令を出した231が不自然なほどクリスチャンの
カキコをシカトして進んでます(w
上から読んでいくと面白いyo
309 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:21
>>305
同感ですね。
食事なんて、最も"愛"になり得る行為なのに、
そんなチャンスをおろそかにするとは、なんてもったいない。

人生の中で、愛を行うチャンスが、無限にあるわけではない。
限られているのですから。
310名無しさん@1周年:02/09/18 19:21
確かに、ふたりで会話が進んでる・・・。頑固なんれすか?
寂しいよー遊んでよー。
311名無しさん@1周年:02/09/18 19:24
アーメン禁止令とはいかんせん。隣人愛はどうなるんよ。。 主よ
312231:02/09/18 19:27
>>311

まあ、アーメンじゃなくてラーメンで隣人愛が説けるようになったら、
ほんもののクリスチャンだってことだよ(^^)
313名無しさん@1周年:02/09/18 19:30
ラーメンたべるときも アーメンってお祈りして食べるにょろね  
314名無しさん@1周年:02/09/18 19:35
んで、スレタイに戻るんだけど、

キリストは「自分を愛してくれる人を愛したからと言って、
なんの優れたことがありましょう」と言っている。
この言葉と、「隣人を自分のように愛せ」ということばの間に、
密接な関係を感じるんだけど、これ分かる人いますか。
315 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:37
>>314
商人的交換関係で「与える」ことは、
愛ではないと喝破しているのではないでしょうか?
316314:02/09/18 19:38
自然な、当たり前の愛とゆうのは、分かるんだよね。
奥さんとか、子どもとか、「愛し合う関係」という前提があるところに
(健全な家庭であればね)、日常的な、自然な愛があって、平和がある。
それは素晴らしいと思う。

ただ、キリストは、「自分を愛してくれる人を愛すのは当然です」
とした上で、何かこう、新しい愛のチャレンジを迫っているように
思うんですよ。どなたか回答きぼん。


317314:02/09/18 19:39
>>315

代価のあるところには「愛がない」とゆう意味?
318名無しさん@1周年:02/09/18 19:40
>>314 自分でかんがえろ ぼけ
319314:02/09/18 19:40
そうすると、「持ちつ、持たれつ」とゆうのは、
愛ではないということになっちゃわないかな?
320 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:41
だから、見返りがある状況で「与える」ことは、愛ではない。
ということでしょう。そんなに難しいかな・・・

さらに言えば、親が子供を愛するのは、自分のコピーだからであって、
正確には、隣人愛や仁などに表現される"愛"ではない。
自己愛の投影にすぎないのです。
自分に似た飼い犬を飼うのも同じ理由です。

321名無しさん@1周年:02/09/18 19:41
喧嘩するなってこと。
322314:02/09/18 19:42
>>318
いや、ずっとさ「お互い様」の愛が話のテーマにきちゃってたから。
それはすごくいい話なんだけど、
キリストの「愛せ」というのは、それとはちょっと
違うという気がするんです。
323 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:43
>>319
相手が「持ちつ」を止めたとしても、
自分が「持ちたい」から持つのが、愛でしょう。
自分が与える行為自体で、完結しているのが愛なのですから。
324314:02/09/18 19:45
>>320

>見返りがある状況で「与える」ことは、愛ではない。

それなら、夫婦間、恋人間、家族間、友人間の愛は存在しなく
なっちゃうよ?
325名無しさん@1周年:02/09/18 19:46

人間の愛は、いつもギブ・アンド・テイク みんな依存しあって生きてるんでねえ
隣人がいなきゃ愛も示せないし 互いに愛し合いなさいってイエス様も言っとるで
326 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:49
>>322
「違う気がする」というのは、鋭いと思いますよ。
でも私は、一貫して「お互い様」を否定しています。
相手が、受容しようが、捨てようが、怒り出そうが、まったく関知しない。
ルールに強制されてるわけでも、相手から強制されているわけでもない。
自分が与えたい、だから与える、これが愛だと主張しています。

そうじゃないものは、すべて愛ではありません。
まがい物です。

>>314 >>315
そんなことはないでしょう。
お互いが単独で相手に与えている状況は不思議じゃない。
327 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:50
すまぬー
>>314>>324
>>315>>325

328 ◆6bf7XA22 :02/09/18 19:52
>>324
あー、そうか。私の言葉が間違っていました。

見返りを前提とした状況で「与える」ことは、愛ではない。

ちょっと変わったのがわかってくださるでしょうか。
329314:02/09/18 19:52
>>323

>自分が「持ちたい」から持つのが、愛でしょう

そゆことかもしれんね。
ただ、そういう気持ちは実際には、持続しないだろうなあ、
とも思う。相手から何年も何年も、なんの反応もないまま、
与え続けるということが、実際できるものだろうか。

やっぱりどっかに、「相手の気もちを変えたい」とか、
「喜んだ顔をみたい」とか、なんかしらの反応を待つという、動機が
あると思うんだよね。

それで何が問題かとゆうと、「変わらぬ愛」というのは、
結局人間には実現できないんじゃないか、と思ってしまうんだけど。
330名無しさん@1周年:02/09/18 19:54
>>326 押しつけがましい愛ですか それってカンベン
331231:02/09/18 19:54
どんな人でも他人から恩恵を受けて「持ちつ、持たれつ」になっているん
じゃないかな。その「持ちつ、持たれつ」を感謝することは立派な隣人愛
だと思うのです。ところが、最初から「持ちつ、持たれつ」だから相手を
愛そうとすると、「持ちつ、持たれつ」の関係に「自分」と「他人」の区別
が入り込むことになる。「他人」が「自分」に利益をもたらすから愛すると
いうのは、結局回りまわって「自分」だけを愛することになりますからね。

要は「自分」と「他人」がまだ分離していない段階で「持ちつ、持たれつ」の
関係を素直に喜べるかどうかだと思います。結果的に「自分」が損して「他人」
が得しても、「持ちつ、持たれつ」だから素晴らしい、と喜べるのが隣人愛なん
じゃないでしょうか。

まあ、◆6bf7XA22さんの「見返り」云々の部分を、私流(仏教流)に言い表す
と、「自分」と「他人」の分離以前、という表現になるのです。
332名無しさん@1周年:02/09/18 19:57
人間の愛は どこまでいってもエゴでちゅねん アガペーの愛ではないねんな
333314:02/09/18 19:58
>>331

それは「自己投影」による愛という意味ですか?
<他人と自分の分離以前
334231:02/09/18 19:59
あ、そろそろ「持ちつ、持たれつ」の私の隣人が、飲みに誘いに来る時刻なので、
そろそろ落ちます。皆様との「持ちつ、持たれつ」の交歓、心行くまで楽しませ
ていただきました。合掌。
335 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:01
>>329
そこを乗り越えることが、
精神的な臍の尾を切るということではないかと。
「おまえは無力だ」と言われつづけた親の呪いを解くことだと、
思うのです。

相手の気持ちを変えたい、喜んだ顔を見たいというのは、
予測不可能な危険を回避したい願望であって、
子供が親を操作するために、先天的に持っている感情です。
もちろん、否定すべき感情ではありませんが、
相手に縛られているうちは、永遠に愛の行為はできない。
信じられないかもしれませんが・・・

自分に、与える力があることを確信すれば、
相手に依存する必要が無いことに気づきます。
336314:02/09/18 20:01
>>332

やぱーし、そう思ってしまうんだよね。
「良かれと思うこと」が本当に相手に必要なものかどうかも、
分からないわけだから。

結局、人から出る愛というのは、自己満足的、
「自己完結」の愛じゃないかと。「自己愛」が「人を愛する」
エネルギーになっていると。
337名無しさん@1周年:02/09/18 20:01
さよなら 隣人愛をいつまでも。。シャローム。。
338 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:03
>>330
なんか、堂々巡りをしているような・・・
押し付けられても、受け取らなければいいだけなのです。
押し付けられたものを、いやいや受け取るのは「受容」ではありません。
愛の行為にならないのです。
339231:02/09/18 20:03
と、すぐさまレスが。では、これだけで失礼します。

「自分」も「他人」も世界の一部にすぎないということです。だから、世界
は「自分」だけをエコヒイキしてくれない。それを不満に思うことから「苦」
が生じるのです。「自分」だけを追及していけば、この世は地獄のような
不如意の世界です。しかし、「自分」と「他人」、それをとりまく世界全体
を見れば、お互いに融通しあってまるで菩薩の集団です。「自分」中心に
見るのではなく「世界」中心に見なさい、というのが「他人と自分の分離以前」
の意味です。

それでは。
340 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:04
>>336
その理屈は正しい。正しいけれども、愛の理屈ではありません。
世の中は二重映しなのです・・・
341名無しさん@1周年:02/09/18 20:06
なんや 菩薩の愛はいらん 
342314:02/09/18 20:06
>>338

それは「受け取る」人の話だよね。
>>330さんが言っているのは、
よかれと思って、「与えたい」という気持ちがたとえあっても、
あふれていても、実は押し付けになっていたりする。

そういう、あくまで「与える側」のことを指していると思う。
343314:02/09/18 20:08
>>340

人間の「愛」とゆうのは、突き詰めていくと、
そういう姿をしているんじゃないか、という話。
これに対して、「それは愛ではありません」といっても、
それ以上のことは実際、人間にはできないんじゃないか?
と思う。
344名無しさん@1周年:02/09/18 20:09
339さんに同意
345314:02/09/18 20:13
結局ね、>>1にある言葉は、自分が日頃「愛」だと思ってしていることが、
実は独善に過ぎないという、そういう現実を人につきつけるような、
そういう言葉だと、私は思うんだよね。

理想の愛を語るのではなく、ほかでもない、自分自身に対して、照らしてみるとね。
346 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:13
>>343
>>231=>>314 さんも、モルモン教徒の例を出したではないですか。
>>169 にて、相手の見返りの無い愛を例示したではないですか。

与える行為自体から、力を得ることは、可能なのです。
347名無しさん@1周年:02/09/18 20:16
>横田めぐみさん10年前に死亡=安倍官房副長官が家族に伝える

>朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致された横田めぐみさん=当時(13)=が
>10年前に死亡していたとみられることが18日、分かった。
>同日午前、安倍晋三官房副長官が父親の滋さん(69)に電話で伝えた。
>安倍副長官が拉致被害者の家族と面会した際、滋さんが詳しい情報を求めたのを受け、
>同副長官が外務省に問い合わせし、面会後に電話で回答した。 (時事通信)
348314:02/09/18 20:16
>>346

でも、>>340で、世の中は二重写しであると、言っている。
私は、あなたのその話に、ぴんとくるものがあったんだけどな。

理想の愛というのが、ある。それを「実現可能」だと思っている。
しかし本当は、つきつめていくと、>>343 のような姿をした、
人間がいる。
349314:02/09/18 20:18
>しかし本当は、つきつめていくと、>>343 のような姿をした、
>人間がいる。

自分自身が、という意味ね。自分の内面をさらっていくとね。
そういう自分に、「ぶちあたらざるを得ない」。
350314:02/09/18 20:24
で、えんえんと、自分が何を言いたいかというと。

>>1の聖句の意味はね、キリスト教では、
>>169さんが考えるような、

>キリスト教で言う「隣人愛」のように、
>「愛しなさい」とか「愛さねばならない」というもんじゃないと思うんだけどね。

というものでは、決してないということ。これはキリストの命令ではあるけれど、
キリスト者となる条件でもなければ、「やらねば天国いけないぞ」という
ものでも、ないんです。

これを「できる」と断言してしまう心こそ、偽善である。と。
そういう自分自身を発見させる、自分の姿をありありと見せ付ける、
人の「本当の心」を照らす、強力な懐中電灯なんです。この言葉は。

仏教の方(?)の間に、この点で、この聖句に対する大変な誤解が
あるように見受けたので、レスさせていただきました。
351 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:27
>>348
二重映しの世の中の、どちらかしか人は見えません。
だから二つの文化の民族が共存しているというわけです。
ひとつは、愛が見える、世の中かが愛に満たされているように見える民族で、
ひとつは、愛が見えない、違うものを愛と名づけている民族、
世の中を交換関係と見ていて、与えられなければ与えない、と考える民族です。
352314:02/09/18 20:27
ついでに、八木重吉さんの詩を書いておきます。

『イエスというひとは時々非常に無理な
到底人間にできぬようなことを
人に要求しているようにみえます。

それについてわたしは長い間疑いがはれなかった。

然しだんだんわかってくるようだ。

つまりイエスは右の手に光を持ち
左の手に救いを持っていられたのだと思います

右の手の光でわたしをすっかり照らして
わたしらに自分の底をよくみさせ
自分とはこんなものだということを知らせ
それから
左の手で救いとって下さるのだと思います。

そしてつまりは「汝の信仰汝を救えり」ということばが
味わえるのです。』

最後、自分の中にある偽善の心までもすっかり照らしていただいて、
キリストにお預けする。それが、キリストの福音です。
353 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:30
それぞれの民族は、自分の文化の理屈が完璧に通っているので、
間違いに気づきません。
だから、相手を論破しようとしても無理なのです。

ですが、一方の民族は与える喜びに生き生きとしています。
他方の民族は、飢えてあわよくば奪うことばかりを考えています。
ですが、奪うことは許されないので、仕方なく交換をしています。
354314:02/09/18 20:37
>>351

>ひとつは、愛が見える、世の中かが愛に満たされているように見える

極楽とは、まさに、それですね。
キリスト教では、「天国はあなたがたの中にある」という
言い方をされています。

「与える」愛を、どうあがいてもまっとうできない、
人間の不完全さを補うのは、
それらを「どう見るか」、見る人、受け取る人の目に関わってくる。
この盲目の目を、まずは開かれなければ、天国は見ることができない
とかいいます。

>違うものを愛と名づけている

この状態を、キリストの懐中電灯で、さらされ、知らされる必要が
ある、それがキリストの剣のようなことばであり、悔い改めであり、
福音となります。

その「二重写しの世界」の理論に、キリスト教と非常に共通した
ものを感じて、興味深いです。
355314:02/09/18 20:39
>>353 興味深いついでに質問なのですが、

仏教では、「他方の」

>飢えてあわよくば奪うことばかりを考えています

という「民族」が、どのように変わる、どのようにしたら
救われると教えるのですか?
356 ◆6bf7XA22 :02/09/18 20:46
>>354
ロープを握ったまま、「そんなことはできない、それは偽善である」という
考え方も、私は否定はしません。正しい。正解です。

愛を知ることが、優れているわけではありませんし、善でも正義でもありません。
知りたければ、思い切って、あなたが握っているロープから手を離してごらんなさい。
足の下は海でも空洞でもないことを知るでしょう。
そうやって、ロープを離して歩いている人もいるのです。
あなたは偽善と呼ぶでしょう、それはそれでいいです。否定はしません。
ですが、そうして歩いている人が、愛を実践しているのです。

>>355
私は仏教徒ではありませんが、お答えします。
親とつながった精神的なヘソの尾を切断することです。"去勢"と呼ばれます。
愛を理解し、それを実行できるように訓練することで、
他者との共依存関係を探さなくても、自力で生きることができるようになります。
357314:02/09/18 20:49
>>356

ロープとは、キリストのことでしょうか?
「離してみなさい」とおっしゃるが、
私はかつて、ロープなしで、人とイガミあったり、
憎みあったりしていたものです。
ロープから手を離した状態がどのようなものであるのか、
しっかりと覚えています。

多分、キリストの救いというのは、あなたが思うようなロープとは、違う。

358314:02/09/18 20:55
>>356 後半

他者との共依存の中に、「天国」は決して来ませんね。
そう思います。そして多分あなたは、キリストというロープを、
「共依存」のロープだと思っていらっしゃるのでしょうか。

キリスト者とキリストの関係は共依存ではないですね。
一方的に、事実自分が愛されていることを、
それを開かれた目で日々感じる状態です。
359 ◆6bf7XA22 :02/09/18 21:01
>>357
いえ、違います。

ロープとは、幼い頃に誰しも持っていて20代で皆手放すもの、
約半数の人間は、その手にしっかり握ったままのもの、
親との間に培われた適応手段です。それは、人によってさまざまです。
それは生存本能に直結しているために、非常に強いものになっています。

自分を無力だと思うのは、親にそう思わされて育てられたためです。
そのため、他人に与える一方では、自分が枯渇してしまうと恐れます。
(事実、幼児がそれを行えば死に絶えるおそれがありますから)
ただ奪い自分のものにしようとします。
この過程で、親から"愛"を教えてもらった人間は幸運です。
半数の人間は、愛を知らない親に育てられるため、
蛹から羽化に失敗して羽が硬くなったように、幼児期の傷を引きずって成人になるのです。
360314:02/09/18 21:07
>>359

ロープ=キリスト ではないのですね。
でも、あなたは「ロープを掴んだ状態で」と私のことをおっしゃったように
見えたので、>>357のようなレスを入れました。非常に一方的な言い方に
感じてしまったので。

あなたが>>369でおっしゃったところのロープというのは、
成人しても手放せない人が多いですね。親子関係というロープを
手放しても、恋人という一時的なロープであったり、
夫婦というロープであったり、学歴というロープであったり、
会社、「頑張る自分」、将来の夢、幸せな家庭、いろんなロープに
持ち変えるだけのように、私は思うのですが、どうでしょうか?
361 ◆6bf7XA22 :02/09/18 21:09
あー、すんません。食事の最中でばたばたしていて・・・
高速タイピングだったのです。
一方的に感じましたか、失礼しました。すんません。
362 ◆6bf7XA22 :02/09/18 21:17
親とのロープが切れない人は、他者に親を投影します。

元来、親と子供の間にあるのは、主従関係であって、愛ではありません。
愛だと錯覚するのは、嫌われると殺されると感じるため、
どんな親でも嫌いな親でも「好きになろうとしてしまう」という、
子供に生まれつき備わった能力によるものです。

良い親を好きになれば、正しく育ちますが、
嫌いな親を好きになれば、「好きと嫌いの勘違い」が生じます。

たとえば、酒とギャンブル好きの父を持った女の子は、
将来、なんとそういう男と結婚してしまいます。
自分に冷たい父親を持てば、自分に関心の無い男性と結婚します。
子供っぽい父を持てば、マザコンの男性と結婚します。
それ以外に、素晴らしい男性と出会っていながらも、最悪の選択をしてしまうのは、
嫌いな父に似ている男性に出会うと、どうしても惹かれてしまうのです。
363 ◆6bf7XA22 :02/09/18 21:23
同様に、自分で切り開いたはずの人生すべてが親に支配された形となります。
夫婦というロープは、相手を親の投影と見た例は、先の通り。
学歴というロープは、社会に受け入れてもらうための、
会社という子宮にもぐりこむ為の、ヘソの尾かもしれません。
母親が、学歴をつけさせようとしたのであれば、
それは自分の身代わりの代理戦争の結果でしょう。
たとえば、親の学歴が中卒であれば、学歴戦争に必死になるのは高校入試までです。
親の学歴が高卒であるなら、大学入試までは必死です。
大学に入ってしまえば、子供の成績など見向きもしません。
親が大卒であるなら、大学院入試、もしくは、一流企業入社、国家公務員試験合格、
司法試験合格までは、必死ですが、それ以降は勉強について言いません。
自分の代理戦争なので、自分の学歴を超えた時点で興味がなくなるのです。

会社というのは、傷ついた子供にとっては、子宮と同じです。
だからリストラされると、拒絶されたと思って首を吊ります。
会社が終わると、家に待つ母親=妻の元に帰ればいいのですが、
妻は完全に母親役をやってくれませんから、飲み屋の女性に「ママ、ママ」と
甘えます。
364 ◆6bf7XA22 :02/09/18 21:30
ここまで読んで、どこか引っかかる人は、
おそらくは、愛の話を受け入れないはずです。
受け入れたくない、偽善だと思うはずです。
そうなのです。苦しんでいる人は少なくないのです。

ここまで読んで、何をバカな話を延々と、と思う人は、
愛の話も、あたりまえに感じているはずです。
愛の行為を気づかずに行っているはずなのです。
このスレの話自体も必要ないかもしれません。

世の中が二重映しになっているとは、そういう意味なのです。
365名無しさん@1周年:02/09/18 22:00
>>364 カルトの臭いがするにゃ
366名無しさん@1周年:02/09/18 23:14
人間とは、何かに頼る生き物なんですよ。だから、>>363
書かれていることは、ある意味「道理」です。別段悪いことでも、いいことでもない。
そのまんまです。

さまざまな知識や、心理学や、宗教的見解で見ても、おかしいところは、
ないでしょう。

しかし、そういう「道理」の話が、
>>364で急展開してますね。「道理」から「判定」を導き出そうとしているのです。
>>365さんがいうように、
すみませんが、大変カルトチックなニオイを感じます。
367 ◆6bf7XA22 :02/09/18 23:17
>>365
がぁん。

以前にも言いましたが、
愛を知らない親を、包容力のある神、仏などに置き換えて、
ソフトに離陸させるのに、宗教は力を発揮します。
できるだけ歴史のある、規模の大きい宗教が好ましいと思います。
カルトや新興宗教は、教義が刺激的なものが多いですが、
好きと嫌いの勘違いを起こしている状態のまま、直感で選択するのは危険です。
避けたほうがいいでしょうね。金を巻き上げられるだけです。

すぐに理解できなくても、偽善だ、どうせゴールにはたどり着けない、
聖人君子にはなれない・・・とあきらめることは、ありません。
愛を実践できる人を、世間の傷ついた人たちは、
オメデタイ人、大ばか者と嘲笑します。
たいてい、傷ついた人の周りには、傷ついた人が集まるので、
それまで付き合ってきた周囲の人々とも摩擦を起こすかもしれません。

ですが、他人に評価されるために、愛を理解するわけではありません。
あなたの人生を、あなたの手に取り戻すために、愛を知るのです。
あなたが、人間の人生を十分に味わうために、愛を知るのです。
368 ◆6bf7XA22 :02/09/18 23:19
>>366
私は、どちらが正しいとか、価値観を入れていないつもりです。
>>364 は極端な例であって、たいていの人は、
その中間のどちら寄りかにいるはずです。
まあ、気に障るようであれば、無視してください。すんまそん。
369名無しさん@1周年:02/09/19 01:53
二重写し理論興味深いです、私自身は愛を知らない人間のようです……
370名無しさん@1周年:02/09/19 01:57
隣人愛などマヤカシだ。そろそろ気付いていい頃だぞ。
371231:02/09/19 08:55
私は、>>362-364の◆6bf7XA22さんの意見は、どのように「愛でないものに愛という
ラベルを貼って、愛と思い込むようになる」かという過程を的確に分析していると
思います。「危険」を感じる意見ほど、読み手の図星を突いている場合が多いもの
ですよ。聖書だって、八木重吉の詩だって(私も大ファンです)、読んでいる側の
心が痛みで疼かない内は本当に読んだことにならないと思います。

私は、◆6bf7XA22さんの「ロープ」という表現を、「偶像崇拝」に置き換えてみたい
と思います。人間が頼りにすべきは「神」をおいてなく、神以外のもの、金や権力、
学歴、偽りの愛情(神への愛=信仰も含む)、etcに頼るのは「偶像崇拝」です。
「偶像崇拝」にしがみついても、やがて失望する。すべてはかりそめの存在にすぎ
ないから。

私の視点から福音書を読むと、イエスは一切の「偶像崇拝」を捨てることを説いた
ように見えます。パリサイ派的な表面だけの一切の「よきもの」など、人間の自己
満足(ロープ)にすぎず、「よきもの」をもたぬ売春婦や盗賊の方がロープを持たない
だけましであると。

クリスチャンの方は、キリストの贖罪を救いと信じていますが、私に言わせれば、
それもまた「ロープ」にすぎないのです。なぜなら、それは聖書という書物に書かれた
(実は、福音書にも明確には書かれていない)約束にすぎず、自分の体験によって
得た真実ではないからです。
372231:02/09/19 09:12
314さんが>>350ほかで仏教との比較をされているので、ちょっと脱線するかもしれ
ませんが、私見を書かせてもらいます。

キリスト教では、「原罪」によって人間は一切「よきこと」ができなくなってしま
ったと説きますね。実は、仏教にも同じような考え方があるのです。仏教では、
本来「全体」と「個人」というのは不可離で、「全体」あっての「個人」、「個人」
あっての「全体」と考えます。「全体」=「(大)我」、こういう見方ができる人
が「仏」です。

ところが、人間は「個人」こそが本当の「(小)我」だと錯覚し、エゴイズムに走り、
「全体」(ないし他人)をないがしろにして、「個人」だけ生かそうと努力をする。
もともと「全体」を離れて「個人」は独立できないのが自然の摂理なので、当然「苦」
を作り出します。この状態は、「原罪」によって自己本位にしか愛せない、という人間
の姿と驚く程一致しています。

結論ですが、釈迦は「小我」を離れて「大我」を自覚せよ、と教え、イエスは「原罪」
の愚かな偽りの愛を否定して、本物の隣人愛こそがすべてだ、と教えたのです。二人の
主張は一点の食い違いもありません。
373231:02/09/19 09:33
ついでに蛇足を。「ロープ」か「ロープ」でないかは、一度それを手放して
みて、何の不安も焦燥感もないようならば、初めて「それは、やはりロープ
ではなかった」と言い切れるでしょう。逆に、手放してみろ、と言われた
だけで感情的になったり、不安になるようなら、正真正銘の「ロープ」です。
374名無しさん@1周年:02/09/19 09:57
>>372

>結論ですが、釈迦は「小我」を離れて「大我」を自覚せよ、と教え、イエスは「原罪」
>の愚かな偽りの愛を否定して、本物の隣人愛こそがすべてだ、と教えたのです。二人の
>主張は一点の食い違いもありません。

結論ですか。ありがとうございました。

仏教とキリスト教とでは、人間洞察という点において、
非常に共通していると、私は思います。「人間の真実」とでも、いうのかな。

しかし、あなたが「結論」とするところは、「大我を自覚せよ」という結論であるわけだが、
これはあなたが言うように

>二人の
>主張は一点の食い違いもありません。

と導いてしまうと、間違いとなる。

キリストは「隣人愛がすべてだ」という結論を言うために地上に来られた
わけではないのです。
これら「人間の真実」は、キリストの福音の始まりに過ぎないのです。
375 ◆6bf7XA22 :02/09/19 10:13
>>370 さん、あなたは完璧に正しい。
>>366 さんも、"ある意味「道理」です"と書いていますが、正しいんです。
そう道理なんです。全面的にその判断を支持します。
ですが賛成はしません。それ以外の正反対の道理があるのです。

愛を知ろうと思わないのであれば、正反対の道理は一切無視して構いません。
それでも、世間のあちこちで愛の片鱗を見ると思いますが、バカなやつら、
理想主義者、実現不可能、オメデタイ連中と笑い嘲れば平穏でいられるのです。
愛はお互い様のこと(交換)、愛は犠牲、愛は内心の感情、とすり替えれば、
世の中が矛盾なく説明できるようになります。
(ただしキリストの言葉は謎だらけになるでしょうけれども。
それも >>350 さんの理屈が味方になってくれると思います。)
376 ◆6bf7XA22 :02/09/19 10:13
でも私は、"愛"が何か知りたいと思う人が、このスレにいると思うので書き込んでいます。
私自身が苦しんだように、状況が俯瞰できずに苦しんでいる人がいると思うからです。
決して傷つけるつもりはない。ですが、狭い産道を通って去勢の痛みに耐えなければ、
毒の人が、愛を理解できる人にはなれないのです。

全ての人が自分と同じだと思うところに、全ての間違いがあるのです。

断じて認めたくないと思いますが、事実です。
全ての親が >>362-363 のように、子供に呪いをかけて、
子供の人生に侵入する親ばかりじゃないんですよ。
当たり前のように愛(=与える行為)を子供に対して行う親もいるのです。
子育ての様子を並べて観察する機会はありませんから、
愛の家庭に育った子供は、世の中の親が皆そうだと信じています。
そうでない家庭に育った傷つけられた子供も、すべての親が自分の親と同じだと疑いません。
しかし、自分が子育てをする段階になると、再び現れてきます。
人は「親から自分がしてもらったこと」しか子供に対してできません。
無意識に記憶している子育てをコピーするので、愛の家庭では愛が遺伝していきます。
毒の家庭は毒がそっくり遺伝していきます。文化の遺伝です。

昔は大家族でしたから、その中に愛の行為をする人がいる確率が高かったのです。
妬みひがみ怒る家族の中で、愛=自分の与える行為が楽しみな人がいたのです。
現代の核家族化された密室では、家庭全体が毒か愛に染まりやすい。
だから、ますます落差が大きくなり、愛と毒が両極端になっている感があります。
377 ◆6bf7XA22 :02/09/19 10:13
毒から愛に切り替えることは可能でしょうか?
可能です。これが愛を理解し実践することの意味です。
延々と自分の祖先が、次の世代に回しているツケを、自分だけがすべて受け止めて、
愛の行為に転換させることは、不公平に感じるかもしれません。
とてもしんどい作業です。
ですが、誰のために行うのでしょうか。子供のため? 違います。
あなたが!、あなたのために!、
たった一度の人生を親の手から奪い、生き生きとその手に握るために行うのです。

キリスト教においては、キリストの言葉は確かに愛を指しています。
すべて、愛の理論と矛盾がないので、私のような素人でもわかります。
ですが、その言葉の解釈までは私は保証できません。
信者の方々の話を聞いていると、愛を"行為"と置き換えると矛盾する、
妙な解釈にときどき出会います。
その信者さんが、たまたま誤解しているのか、
キリスト教のその宗派が信者を(言葉が悪いですが)統治するために曲解しているのか、
それとも、私の読解能力が不十分なのか(←よくある)、私にはわかりません。
378 ◆6bf7XA22 :02/09/19 11:05
>>374
>これら「人間の真実」は、キリストの福音の始まりに過ぎないのです。

興味深い話の腰を折りたくないのですが、ちょと失礼します。
仏教とキリスト教のどちらが優れているかは、私にはわからないのですが、
キリスト教の福音の形式については、少し疑問があるのです。

>>243 (>>244) については、どう思われますか。
379231:02/09/19 11:08
>>374

察するに、その「キリストの福音」というのは十字架の贖罪を指している
のでしょうけど、阿弥陀如来の本願にすがって成仏する、というのと同
レベルの話で、あとは「信じる者の勝手」というしかない。私が福音書を
読んだ経験では、贖罪など一言も読み取れなかった。「私は私、あなたは
あなた」なんだから、こればかりは仕方がない。

他人が一生懸命、ご馳走を食べても、私の腹は膨れない。同様に、他人の罪
をキリストに負わせて、帳消しにするなんて子供だましとしか思えません。
380名無しさん@1周年:02/09/19 11:18
>>379

>他人が一生懸命、ご馳走を食べても、私の腹は膨れない。

本当にその通りだと思います。
自分と神との一対一の関係にしか、それは存在し得ないのです。

「真理」というのは、ルールではないですね。
「自分」の中に訪れるものです。それは、ひとりひとりが
「個別」の存在であるからです。人間洞察の中に共通項を
見出すことができても、人間はすべて「個別」で「固有」の存在です。

ここ見失うと、キリストの愛も「ルール」となってしまうのでしょう。

それから阿弥陀如来信仰ですが、これはキリスト教の影響ですね。
福音はありませんが、外見的なスタイルが非常に
似ているという点で、それは同意しないといけません。

しかし、「同レベルの話で」と言うほど、あなたは
福音を理解されていない。
381名無しさん@1周年:02/09/19 12:04
キリスト自身も、その思想をすべて自分で思いついたものではない。
原始仏教を含む、多数の原始宗教のアイディアをそっくり頂いている
ところが数多くあります。もしもオリジナルのレベルが上であるなら、
キリスト教の個々の要素のレベルはかなり下ということにならない?
382231:02/09/19 12:10
>>380

どうでもいい話ですが

>阿弥陀如来信仰ですが、これはキリスト教の影響ですね。

というのは、歴史的事実に反します。浄土三部経が成立したのは紀元140年頃と
されていて、ネストリウス派キリスト教が東洋に伝来したのはネストリウスの
死後(5世紀)ですから、キリスト教の影響で阿弥陀信仰が生まれたというのは
間違いです。

もしかすると、新約福音書成立の歴史もご存知ないとか....?
ttp://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sin.nenpyou.html
383231:02/09/19 12:35
イエスも阿弥陀如来も、「(隣人愛を説いた)神の子(もしくは仏)ならば、
その慈悲心の深さから、我が身を犠牲にしてでも全世界の人間を救うだろう」
という、信者側からの投影にすぎないと思います。

もし、他人の罪をそのまま肩代わりすることができるなら、イエスも釈迦も
とっくの昔にやっていたでしょう。そうなら、人類は清められて罪のかけら
もなく、天国のように住みやすい世の中になっていたはず。残念ながら、現実
はそうじゃない。

本人が「罪を犯すことがやめられない」内は、いくら罪を拭っても拭いきれる
ものじゃない。逆に、「罪を犯すことがやめられる」ようになりさえすれば、
罪の償いなどいらないでしょう。小さい子供が布団にシッコするのは悪いこと
で、ちゃんと便所へ行ってしよう、と考えているのに、「お前はこれまで布団
で10回オネショをしたから、その罪を償ってもらう。尻を出せ」なんて言って
何になるでしょう。

重要なのは、「オネショを直すこと」であって、「オネショをした罰を帳消しに
すること」でないことにご注意あれ。
384名無しさん@1周年:02/09/19 13:18
>>383
私はちょっと違う視点で見ています。
イエスが、他人の罪をそのまま肩代わりする、というキリスト教の発想は、
親の呪いを解く過程に極似しているのです。

毒の親が、子供に対して呪いをかける呪文に、以下のものがあります。
<事を起こす前に>
「あんたのことは、お母さんが一番よくわかっているんだから」
「私の言うとおりにすれば、間違いはないんだから」
「がんばりなさい(=現状のあなたは認めないよ or 苦しむ姿を見せなさい)」
<失敗したときには>
「あんたは、ほんとどうしようもない」
「ほら、お母さんの言うとおりにしないから、こうなったでしょ」
「・・・」(子供のケアをするより先に自分勝手に落胆する。)
<成功したときには>
「いい気になっていると、また失敗するわよ」
「次はもっとがんばらないとね」
「・・・」(自分の事のように喜ぶが、子供がつられて喜ぶと"一瞬"不愉快な表情をみせる)
385 ◆6bf7XA22 :02/09/19 13:18
そうした幼少期からの念入りな刷り込みは、
子供に「自分は無力なのだ。他人がいないとだめなのだ」という思い込みを強め、
孤独から遠ざけます。まず自分の孤独な状況を自覚しなければ、自分の力が自覚できません。
ところが、傷ついた子供は、それが親の呪いであることに、全く気づかないのです。
気づかない最大のブレーキは、親に対して巨大な怒りを溜め込んでいることを、
罪悪感と感じる機能が、もともと子供に備わっているからです。
万が一幼児が親と対立すれば死に至るからです。

呪いを解く作業は、"親を責める罪悪感"から開放されて、自分の中にある、
親に対する巨大な怒りを自覚して、泣き、叫び、嘆き悲しむ作業から始まるのですが、
罪悪感から開放されるには、まず前提として、
罪悪感に縛られている自分の状況を把握する必要があります。
キリスト教のメッセージは
「罪はあってもいいのだ。その報いを恐れなくていいのだ」
という、心の奥底に引っかかっている罪悪感から、
傷ついた子供を開放してくれる便宜的なキーワードとして、とても効果的だと思います。
386231:02/09/19 13:42
>>384-385

心理治療の手段としての「贖罪」としてなら、私も認めるのですけど、仏教
でいう「方便」にすぎないことになりますね。阿弥陀信仰の場合で言えば、
お経ができたのが釈迦の死後700年あまり後で、明らかに後世の人の考えなり
希望なりを書いたものであることは明白です。だから、法律家の視点で言えば
「神に書いた救済の約束」としては無効ということになる。

ところが、たとえ仮の存在でも阿弥陀如来を一心に念じることで、エゴイズム
を乗り切って救われる人は確かに居る。正しくは、ロープを放してみて、地面
の上にちゃんと足がついていることを確認するという感じなんですが。その時、
救われたいという自分も幻ならば、救いを求める阿弥陀如来も幻。実は
すがりつくまでもなく、自分を含めて世界中に阿弥陀如来が満ち満ちていた、
と知る...。「方便」は結局、目的を達成すれば消えてなくなるので、それは
それでよいと思います。

問題は、「方便」であるべき存在を実在と混同して、それが新たなロープと
なって身を縛るケースがあまりに多いということです。特にキリスト教の場合
に著しいと思います。
387231:02/09/19 13:52
これは各派で教えが違うのでしょうが、昔議論したクリスチャンの主張は、

1)人間はすべて「原罪」を抱えている。「原罪」を持っている限り、永遠に
救われない。
2)「原罪」を解くには、キリストの贖罪を事実として受け入れ、これにすがら
なければいけない。
3)よって、キリスト教会の外に救いはない。

という、大変乱暴な三段論法でした。

これは、毒の親が「あなた、キリストを信じないと地獄へ落ちるわよ」と冷酷に
言い放っているのと同じです。厄介な、ぶっといロープをもう一本首の周りに掛け
るに等しい。
388名無しさん@1周年:02/09/19 13:57

 こちらはカルト愛を伝授するスレで御座いまぁ〜す。。皆々さま御一緒に呪縛愛しまっしょ♪ 
389231:02/09/19 14:01
>◆6bf7XA22さん

これはお願いなのですが。

昨日から、「毒の親」の心理分析に関する記述を興味深く読ませていただき
ました。◆6bf7XA22さんは心理分析の専門家とお見受けしますが、私のような
素人にでも「毒の親」の心理がわかるような著書を御紹介いただけませんで
しょうか。是非、お願いしますm(_ _)m
390名無しさん@1周年:02/09/19 15:07
>◆6bf7XA22さんは心理分析の専門家とお見受けしますが、私のような
素人にでも「毒の親」の心理がわかるような著書を御紹介いただけませんで
しょうか。是非、お願いしますm(_ _)m

1ですが、私も同感です。もし、本が無くても、ホームページなど、
ご紹介ください。著書がありましたら、一番の感謝です。
あなた様のお話が、一番素直に心に入り、残りますので。

祝福がありますように。
391 ◆6bf7XA22 :02/09/19 15:31
恐縮します。そんな特別な話ではないんですよ。
本屋の心理コーナーで普通に見かける本です。
とりあえず現在入手できるものに限ってリスト化しました。
著者に気をつければ、書名は実は何でもいいです。どれも同じ(^o^;;アセ
鵜呑みにしないで考えるネタを拾う感じで。

導入
"「家族」はこわい" / 斎藤学 / 日本経済新聞社
"「家族」という名の孤独" / 斎藤学 / 講談社
"本当は病んでいる幸せな家族" / 加藤諦三 / PHP研究所

女性は男性よりも呪いのかかり方が複雑です。
女性が受ける呪いについての説明。自分との共通点を探すネタに。
"母親よりも恵まれた結婚ができない理由"/ 岩月謙二 / 二見書房
"女性の男運は父親で決まる"/ 岩月謙二 / 二見書房

呪いを俯瞰したい場合
"毒になる親"/スーザン・フォワード/毎日新聞社

傷を癒す方法のヒント
"インナーチャイルド改訂版" / ジョン・ブラッドショー / NHK出版
392 ◆6bf7XA22 :02/09/19 15:32
呪いを解いた後で、新たな指針となるのが愛の話なので、
同時に理解する必要があります。
私の知っている限り、わりと正確にかかれたものです。

薄い絵本。プレゼントに喜ばれます。
"からだの中を愛でいっぱいにする方法"/伊藤守/ディスカヴァー21

自尊心を高める方法のヒント薄い本
"うまくいっている人の考え方"/ジェリー・ミンチントン/ディスカヴァー21

世に出ている愛について書かれた本が使っているネタ本(たぶん)
"愛するということ" /エーリッヒ・フロム/紀伊国屋書店
393 ◆6bf7XA22 :02/09/19 15:40
>>386
呪いを解く方法においても、やがて、
怒りの対象は、現実のか弱い生身の親なのではなく、
自分の中に、自分が作った親の虚像であることに気づく段階があります。
でも、最初からその段階に行くのは、無理だし無意味でしょう。
思い込まなければ効果が消える内心の成長過程において、
実在と方便を区別する実益は、あまりないと思います。

問題があるとすれば、他人の考えを許容できない姿勢であって、
信念を主観的な事実とする態度まで否定する必要はないと、
私は思います。
394231:02/09/19 15:45
>◆6bf7XA22さん

どうもありがとうございます。幸いにも、私の手に届きそうな(価格、内容
ともに)本のようなので、さっそく本屋で探してみます。m(_ _)m
395名無しさん@1周年:02/09/19 18:04

 いつのまに心理ウォタなっとたか 隣人愛をばハケーンでけたですかぃ? 
396名無しさん@1周年:02/09/19 21:03
>◆6bf7XA22さん

どうもありがとうございました。10年ほど心理学の本とはご無沙汰でしたので

新鮮でした。私の場合は図書館で捜し、無かったら購入以来を出します。

☆心理で分かる範囲は心理学的に学ぶことが一つのルールでしょう。

深層心理にも、

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」は真理のようで、

それは、学の追求がなされているのか、なす事ができるのかも、私には不明です。
397AfterD ◆6bf7XA22 :02/09/20 07:58
231 さん、1 さん、396 さん
いきなり本命の本から読むと、イメージが湧かなくて苦労するかも、と思い、
内容が易しい順に並べておきました。

それと、内容がショッキングなので >>391 だけに、はまりがちなのですが、
正確に現状を知れば、知るほど、心乱れて内向きになります。

それは、呪いが外れた人になろう、というのも、"行為"ではなく、
"主体"に興味がいっている状態(>>209)だということと、関係しているのでしょうか、
しばらくすると「わかった。現状はわかった。で、私は何をすればいい?」と、
探しまわるようになるでしょう。そこが本当のスタートとなります。

>>392 は、愛=与える"行為"の本ですから、
そのときに欲しい答えがあるかもしれません。
長い時間がかかります。あせらず気長に。
398 ◆6bf7XA22 :02/09/20 07:58
げ。コテハンを・・・
399名無しさん@1周年:02/09/20 09:15
ご配慮、ありがとうございました。

呪いがかかった状態、それが、隣り人を愛しにくくしている、
その呪いが解けたら、
元気な声で隣り人に「おはようございます」と言える方向なのでしょう。
楽しみです。56才で以前より焦らなくなっていると思っております。

☆人間は全てエゴイストである。

 故に、人間は、エゴイストが大嫌いである。
 エゴイストはどこに行っても嫌われる。 

 そこで、人はエゴイストでないようにと努力し始める。

 愛する人になってみると、実に世界は素晴らしい。
 エゴの固まりと思えた深層心理まで癒される。

 それは、人間がそういうものであるから。そのように創られているから。

 神様という考えは、このことを一層速やかにしてくれる触媒のようなもの、

今のところ、そんなことかな、と思いながら、楽しみに本を読んでいきたいと
勝手に思ってます。相変わらず、思いこみで生きてますね。

祝福がありますように。


 
400Gocc (Get Mocc) ◆windowsI :02/09/20 09:18
400!
401名無しさん@1周年:02/09/20 10:42
>>387 さんは、「原罪」という言葉の意味を、たぶん間違っているんじゃないかなあ、
と、一昨日からこのスレをみていて、思います。

「罪と定める」以前の、普通に人間の心にある「苦しみ」が原罪なんですよ。
正しいことをしたいと願っても、「なぜかできない」。

いわゆる「罪」として、人の目に見えるのはその、ほんの一部なのです。
原罪が膨らんでいくと、人との不和を引き起こしたり、法律の罪に触ったりという
ことになるわけですが。要は「律法に触れる」わけです。

人を「罪」に定めるのは「律法」です。これは、あなたのいう所のロープで、
足かせです。

たぶんここから先が重要だと思うのですが、
『親の呪縛もまた、「律法」です』。(しかも、真理に沿った律法とは限らない。
これがまた不調和なわけですが)。それらは、あなたの言うとおり、
首に掛かるぶっといロープなんですよ。人はそれから自由にならなければ
いけません。

キリストは「愛は律法を成就する」といいました。律法から開放されるために、
キリストの十字架があるわけです。これは、目に見えず、人の心に働く
直接働く、力です。そして「死」から「いのち」へと移るという。
402401:02/09/20 10:42
私は道です。真理です。いのちです。

自らの命を人に対して投げ出し与えた上で、こう言う。受け取るものの
中に根ざす律法を成就する。これは、個別に起こることです。
ルールではありません。人はすべて固有な存在ですから、固有な心の中に、
キリストを受け入れて、初めて起こることなのです。
ルール=律法では人は、救われません。

あなたがずっと批判されているのは、
キリスト教でいうところの「律法主義」のことだと思います。
「愛せよ」という言葉が律法としてひとり歩きすることがあります。
それは律法主義です。

しかしキリストのメッセージはそこではないのですね。
「自分を愛するように」この点が、キリスト独特で、そして大変重要な
ところだと思うのです。
403聖オーガスチン:02/09/20 11:05
原罪はセクースによって子孫に伝染するのでしゅ。
セクースするときは、コンドームとピルで避妊しませう。
子どもを作ってはいけません。
セクース禁止。
セクースをするたびに人間は恵みから遠ざかるのでしゅ。
モニカママ、なぜ私を生んだのでしゅか?
404231:02/09/20 11:44
>>401

レスをどうもありがとうございます。

>「罪と定める」以前の、普通に人間の心にある「苦しみ」が原罪なんですよ。
>正しいことをしたいと願っても、「なぜかできない」。

>>372に書いたように、私が考える「原罪」の正体とは、

>人間は「個人」こそが本当の「(小)我」だと錯覚し、エゴイズムに走り、
>「全体」(ないし他人)をないがしろにして、「個人」だけ生かそうと努力
>をする。

ということです。401さんの「正しいこと」というのを、具体的に「エゴイズムに
走らず、他人のことも思いやって行動する」と表現しただけだと思います。エゴ
を丸出しにすれば、人の顰蹙を買いますし、自分自身にも良心の痛みを感じます。

>いわゆる「罪」として、人の目に見えるのはその、ほんの一部なのです。

という表現を見る限り、401さんは「人間が罪と認識しない(できない)ものでも
神の目から罪に相当するものがある」と主張しておられるように見えます。
私はそれは間違っていると思います。罪とは、「悪いとわかっていること」を、
やらずに済ませることができるにも関わらず「自らの意志で行なう」ことです。
人間の側に「自覚症状」がない罪などありえません。
405231:02/09/20 11:53
イエスは、安息日に井戸に落ちた子供の例え話をしていますね。安息日を守るという
のは、モーゼの律法のひとつで、神からの至上命令だと言ってもよい。なぜ守らねば
ならぬか、それは神が命じたからです。もし、人間の側に「自覚症状」がない原罪が
存在するとするなら、人間の都合で安息日を破るのはもっての他だということになり
ます。「たとえ人間の目で罪でなくても、神の目からは罪なんだよ」という論理です。

しかし、イエスはそういう価値観を否定した。安息日などどうでもよい、落ちた子供
を助けよ。それが神からの至上命令だ。「汝の隣人を汝自身のように愛せ」、これ以外
に律法はない。それがイエスの主張だったのではありませんか?
406231:02/09/20 12:16
長スレが続いて恐縮です。

>あなたがずっと批判されているのは、キリスト教でいうところの「律法主義」
>のことだと思います。

近いのですが、ちょっとニュアンスが違うのです。「律法」は、実は本人が
「悪いことだと心の底からわかっていない」から、杖として頼るものです。
私はアメリカで喜劇を観賞したことがありますが、英語がわからないので
何が面白いが全然理解できない。むっつり黙っているわけにもいかないので、
まわりの人に合わせて笑っていたのです。「まわりの人に合わせて取り繕う」
というのが律法の精神でしょう。

この場合には、原罪は「英語がわからない状態」に相当します。原罪を除く
には、努力して英語を身につければよい。それで、めでたく喜劇の中味を
理解すれば、心の底から笑うことができるでしょう。この時、「律法」を
卒業するのです。

英語がわからぬ聴衆の前にキリストが現れ、「諸君が喜劇がわからぬのも
無理は無い、許してあげよう」といい、これからは古い「律法」を廃した
から、となりの客に合わせて笑わなくてもよい、と宣言したとしても、
肝心の原罪=英語オンチ、は解決しません。
407のほほほ:02/09/20 15:15
他人のエゴが許せないのもまたエゴ
408名無しさん@1周年:02/09/20 15:54

               /~\
  _           /ヾヽヽヽ
 〈三三ミ丶 、     /ミヾヽヽヽヽ
  ヽ三三ミミミ 丶、_ <ミ_....-'''⌒''''-..丿
  ヽ二ニニ=   ~`´..-'''''''''-...  \
     ` -二ニ=   _: : : :   '''丿  `ヽ、    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        〉ニ=  // 、、、 、、(   ( O) > <ここも荒らされてしまったか。
    , -‐'´彡彡ノノ { 、x x x < ヽ   ,フ    \__________
  ,/三 彡彡ノ/  ヽ、x X X X/lll|_/
 (二ニ 彡-‐'"´    ,-‐'`‐,-‐‐/川|
  ` ‐'"´        /彡''/   !彡"
             {彡'/
409 ◆6bf7XA22 :02/09/20 18:09
>>402
すみません、考えたのですが、まだわかっていないようです。

>受け取るものの
>中に根ざす律法を成就する。これは、個別に起こることです。

これは、客観的なルールではなくて、
個々の人間が、個別に胸に抱いている主観的な価値判断基準という意味でしょうか。

そもそも rule とは、"定規"であって、なんらかの価値判断をする際には、
かならず必要となるはずです。
善悪、違法合法、正誤、正確不正確、すべての価値判断には、
それぞれに基準となるもの=ルールがあります。
ルールなしに価値判断をするというのは、日本語としておかしい。

"自分がどうすべきか、どうあるべきか"という内心の価値判断基準も、
もちろんルールです。私はその意味で使っています。
そのうえで、あらかじめ用意された内心の価値判断基準(ルール)に沿って、
行為をするのであれば、その行為は"愛"とはならない…と言いたいのです。
410 ◆6bf7XA22 :02/09/20 18:26
愛を知らない人の一日

朝起きる。
 それは学校・会社に遅刻するとペナルティがあるから起きる。
朝食をとる。
 それは腹が減っているし、出されているから仕方なく食べる。
電車に乗る。
 金を払わないと乗せてもらえないから切符を買う。
学校・会社で拘束される。
 学生だから仕方が無い、稼ぐためには仕方が無いから拘束される。
帰宅する。
 帰る家がここしかないから、帰宅する。
411 ◆6bf7XA22 :02/09/20 18:26
愛に満たされた一日

朝起きる。
 寝たままでもいいのだが…、今日はふと何気に起きてみる。
 自分に時間を与えることができてうれしい。
朝食をとる。
 食べても食べなくても許される。今日はふと食べてみる。
 食べてもらって嬉しい人の視線がうれしい。
電車に乗る。
 乗っても乗らなくても自由だ。今日はふと乗ってみる。
 自分の判断で支払ったこの金が、今日も誰かを潤すのだ。
学校・会社で拘束される。
 自分のことだ、サボるのも自由だ。今日はふとやってみる。
 なぜやるのか理由は無い。やりたいからでもない。
 ただ確かなのは私の判断に基づいて"やる"、それだけ。
帰宅する。
 帰っても帰らなくてもいい。でも自分が帰ることで安心を与えたいから帰る。
 家族の顔を自分に与えたいから帰る。

バカでしょ。そうなんですよ。書いてるとほんとムズムズしてくる。
でも考えてみてください。
ペナルティにおびえる奴隷であるか、善良な王であるか、
今日一日のその振る舞いを決定するのは、あなたなのです。
412 ◆6bf7XA22 :02/09/20 18:27
隣人を愛せ、自分を愛せ。を理解するには、
まず、"愛する"というのを理解しなければ不可能です。

"愛する"というのは、矮小ながらも"与える"行為を通して、
慈悲深い王の気分を味わうことです。
その気分を"味わいたいから"与えるのです。それが生きるエネルギーになるのです。
すでに愛の装置を持っている人の、心の中は毎日こうなっているのです。

一方、傷ついている人々はルールに縛られるのが好きです。
はっきりと選択せざるをえない状況に追い詰められるのが好きです。
それは心理的には、幼少時代に強大な力の親に押さえつけられた体験を
フェードバックして味わいたいのです。
あわよくば、今度こそそれを乗り越えてやろうと、その場に立つのです。
そうした、精神の奴隷が、生きるエネルギーにしているのは、
ルールを破った際のペナルティに対する恐怖です。
正確には、恐怖を与えるモノに対する怒りのパワーです。
413名無しさん@1周年:02/09/20 18:48
>>412
愛の奴隷
414 ◆6bf7XA22 :02/09/20 18:57
>>413
(w

嫌ならいつ止めてもいいんですよ。
与えるも、与えないも、その時々で気ままに決めるのです。

精神の奴隷って言葉が負のイメージだったかな。失敗。
愛することが優れていることでも、善でもないのと同様に、
傷ついたまま生きることが、間違っているわけでも、悪なわけでも、
劣っているわけでもないのです。
415名無しさん@1周年:02/09/20 19:00
>>414
あんたに残された道はSMプレイしかないな
愛と傷両方で楽しんでください
416 ◆6bf7XA22 :02/09/20 19:11
>>415
??
あなたの日本語読解能力の存否は、私の責任ではありません。
あなた自身は、
 1. 傷ついている人=愛を知らない人=精神の奴隷 >>410
 2. オメデタイ人=愛を知る人=慈悲深い王 >>411
どちらですか?
417名無しさん@1周年:02/09/20 19:13
>>416
愛を知る=相手を傷つける=女王様
418名無しさん@1周年:02/09/20 19:18
>>416
antakimoiyo
419 ◆6bf7XA22 :02/09/20 19:20
>>417
それなら安心です。
傷つくのは相手であって、私ではありません。
傷ついた感情を処理するのは、相手の責任です。私の責任ではありません。
私は自分の感情に対してのみ責任があります。

一日の生活において >>410を、>>411と内心を書き換えても、
外見上は普通の人と同じように義務を果たすわけで、
周囲の人に一切具体的な形として迷惑をかけない以上、これでいいはずなのです。
ですが、この一連のカキコを見て
「なんて無責任なやつだ。なんて偉そうなやつだ」と感じる人はいることを、
私は承知しています。そう感じたら、それはチャンスです。
自分のその感情のポイントをしっかりと見つめてください。
それは嫉妬なのです。その重い嫉妬の感情をどかした、その下に、
あなたが理解したいと欲している"愛"の概念があるのです。
420名無しさん@1周年:02/09/20 19:23
>>419
愛してる
421 ◆6bf7XA22 :02/09/20 19:24
>>418
…そう言うなって。
そう言われることがわかっているから、誰も公にしゃべらないのです。
つか、無意識かに沈めて気づかないのが普通。
私だって、こんなことをわざわざ書く奴を見たら、バカかと思うよ。
普通は書かない。だから世の中が二重写しのまま平穏でいられるのです。
422名無しさん@1周年:02/09/20 19:24
>>419
はい
よく勉強してきましたねえ
転移のことはみんな言われんでもわかってるよ
423名無しさん@1周年:02/09/20 19:34
転移のことはみんな言われんでもわかってるよ
転移のことはみんな言われんでもわかってるよ
転移のことはみんな言われんでもわかってるよ

(゚Д゚)
424名無しさん@1周年:02/09/20 19:36
>>422
みんなって誰だ? 俺を勝手に含めるなよ厨房。
425名無しさん@1周年:02/09/20 19:45
>>424
なんだお前転移も知らないのか?
気の毒に
426名無しさん@1周年:02/09/20 19:52
>>425
何を踏ん反り返っているのか知らんが、スレタイ見て、そこで
要求されていることを確認しろよ。気の毒じゃないおまえが >>1
疑問に答えてやれ。

で き る な ら な。
427名無しさん@1周年:02/09/20 19:59
セックスで手抜きするなってことだろう
428231:02/09/20 20:50
>>410-412

そうですね。「精神の奴隷」は、「ご主人様」に従属することで不安を解消している。
ペナルティーに対する恐怖もあるでしょうけど、従属することは、自由意志を行使する
必要がないから「楽」ですし、自分で責任を取らなくていい。むしろ、「自由」が怖い
のでしょうね。「自由」な人間を見かけると、激しく嫉妬して、自分のご主人様によって
コテンパンに罰せられることを望む。かつて、自分が「毒の親」によって力づくでねじ
ふせられたように。

福音派と呼ばれるクリスチャンの一派がありますが、その人達と議論したときのパターン
がまさにこれと同じだったなあ、と思い出しました。「自由」が怖い人は、神への盲信に
逃避します。そして、「自由」を怖がらない人間を「信じなければ地獄へ落ちる」と脅します。
429名無しさん@1周年:02/09/21 07:30
自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ、で、一句。

「渇く」ちょう、キリストのことば、我を呼ぶ。

愛の業、己を生かし、人、生かす。

何しても、的が外れるのが、原罪。天国を目指して地獄作り出す。

したいけど、できない善いこと、も原罪。

オメデタイ、人に言われて、怯えない。

呪いの地、呪いだらけで、目に見えず。

呪いをも引き受け変える神がいる。

同じ世界、幸せな人、不幸せな人。

平らかに、人を愛せる、この幸い。

問題があっても委ねる神がいる。

ありてある、お方につながれ命あり。

愛すると自由はセットメニューです。

あなたこそ、聖なる国民、王なる祭司。
430名無しさん@1周年:02/09/21 09:26
三高も人を満たせるわけが無い。

パラダイス、世界は愛で満ちている。

わたしこそ、聖なる国民、王なる祭司

この方が良いかな。これを下敷きにして、

あなたも当然そうなんだ、あなたが私を解放してくださる、という意味で

あなたこそ、聖なる国民、王なる祭司。
431名無しさん@1周年:02/09/22 11:06
百合と薔薇、朝顔咲きて、パラダイス。

毒親の、呪いを解いて、秋彼岸。

傷ついた、心を抱える、親ばかり。

話が難しくなってきたので、整理するつもりで、書いてみました。

432名無しさん@1周年:02/09/22 11:24
兼好法師
「月は、隈無きをのみ、見るものかわ」

プロゴルファーの成績が落ちて、
もう人から相手にされないレベルになったとき、
緊張感に耐えられず落ち込んだとき
そこから自分を上昇させてくれたのは、
「自分は自分の好きなことをしている」、
「自分には好いところがあるじゃないか」など、
自分を好きになったとか
そのままで肯定できるようになったときだとか。

隣人を愛せないなら、そのままでは、いけない、ではなく
それで善いよという声を聞くと佳い方向でしょう。
自分を束縛しているものを見つけて落としていく。
433 ◆6bf7XA22 :02/09/22 21:17
そうですね。
「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を分析的に理解しようと思えば、
 1.「愛する」の意味
 2.「自分を愛する」の意味
 3.「隣人〜敵を愛する」の意味
の3つのステップ全てに意味が矛盾無く通るような解釈が、必要ですね。
どれかに偏った無理な解釈を通すと、他のステップで矛盾が生じるので、
非常によくできた言葉だと思います。

1.の「愛する」を理解して、それについて深く考えれば、誰でも、
現在の自分は、なぜ「愛する」ことがいつもできないのだろう、と思い至ります。
何が自分に欠けているのだろうか。
その答えが、2.の「自分を愛する」ことが不十分だから、に
つながっているんじゃないかと思います。

自尊心というのは、これも別の概念と混同しやすい言葉です。
アイデンティティや、嫉妬心、虚栄心、名誉への自負心など、
他の概念と混同すると、たちまち消え失せてしまいますよね。
それは、先の愛の一日の心の中と同様で、
自分の心の中から取り出した瞬間に、「そんなことをわざわざ口に出す」わざとらしさが、
どうしても付きまとってしまう・・・せいかもしれません。
434 ◆6bf7XA22 :02/09/22 21:47
私は、自分に、自殺志願者を思い直させる力があるとは、うぬぼれていませんが、
そういう人に対して、
「生きなければならない」もいいけど、「生きてあげようかな」と考えてみたら?
と、言ってあげることにしています。
誰から聞いたのかどこで覚えたか忘れたのですが、有名な助言の文句だそうです。

自殺をする人は、
「自殺は悪である」という宗教的禁止則や、親族友人に対しての義理やら、
「自分は生きなければならない」という強迫観念など、人によって様々ですが、
とにかくも、なにか「生きることに由来する束縛」に逆らって、
死へと向かっていくと思うわけですね。

「生きてあげようかな」
この中に生きているメッセージは、
「あなたは奴隷じゃない。王ですよ。」と言っているわけです。
毒の考えから、愛の考えへの転換を、うながしているんですね。
この言葉を口にしてみると、わかります。
不思議とリキミが抜けて、体の芯から静かに力が沸いてくるのを感じるでしょう。
それが自尊心の高まりです。それを引き起こした行為(言葉を口にする)が愛です。
435名無しさん@一周年:02/09/23 19:36
エホバふざけるな、のスレに、関連したレスを見つけました。ご参考まで。

鬱病からの救い

368 :もとぴ :02/09/20 22:35

私はかつて、ウツになりました。
その時にわかったことは、
「ウツとは自分で自分自身を愛せない状態である」ということでした。
私は、自分自身に様々な条件を要求していました。(意識していなくても、です)
その条件に、多少なりとも自分が満足を感じている間は、
自分を受容することができていました。
 
ところが、ある時から、
少しも条件に応えることの できていない自分自身を、許せなくなって、
自分を責めるようになりました。
毎日、自分を責めては頭や足を叩き、泣いていました。
そんな毎日の中で、私は、「神の愛」が、少しだけわかりました。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
イザヤ43:4
、、、神の愛は、無条件ではないか!

それなら、私も、無条件で、自分自身を受け入れればよいではないか!
毎日、そのように考えるようになったら、ウツは私から去っていきました。

神の無条件の愛を受けて、自分自身を愛し、そして隣人を愛するようになる。
それが 「神を愛すること」であると、私は理解しています。
436231:02/09/25 08:54
>>435

◆6bf7XA22さん御紹介の本をさっそく読破し始めましたところですが、このケース
に良く似た場面が登場しますね。

>、、、神の愛は、無条件ではないか!

実際には、両親からの愛もまた無条件でなければ嘘なんですが、両親が本当の愛
(無条件の愛)を知らないで育った人だと、子供にもその愛を注ぐことができない。
子供は、両親からの愛の欠乏を恐れて「いい子」になろうとする。しかし、現実には
誰もが「いい子」になれるわけじゃないから、自分に失望して自己不信に陥り、他人
も「自分がいい子でないのを咎めているのではないか」と被害妄想を抱く。

こういう状態で下手に宗教に手を出すと「○○すれば、神の怒りを免れて救われる」
流の「契約宗教」にはまります。所詮は、神を相手にして「いい子」を演じているだけ
だから、やがて破綻し、一層自己嫌悪が激しくなる。

よい宗教にめぐり合った時に限って、
>神の無条件の愛を受けて、自分自身を愛し、そして隣人を愛するようになる。
というよいパターンが期待できるのでしょうね。

「契約関係」(いい子にならねば救われない)ではなく、「信頼関係」(救われるか
どうかを度外視した、無条件の愛を神に返す)でなければ、宗教は人を生かさないで
しょう。
437名無しさん@1周年:02/09/25 10:03
>>436

どういう事情の方だか知らないけど、ルターの「キリスト者の自由」とか
読んでみれば?キリスト教の真髄がちょっとは理解できると思うよ。
なんか君のレス、固定概念ガチガチで見てらんないや。
エホ証とかモルモンとかとキリスト教がごちゃになってる。
438俺様3世(復元アルミ派大浣腸):02/09/25 10:06
9才以下の女の子のみを愛すべきでちゅ。
きょう、大天使がボクのもとにあらわれて、いいまちた。
アルミ派教祖のオムナイはホントはアルミを使わずに真鍮でモルモン書を復元したのでちゅ。
それから、間違った炉利にはしって正室の閻魔とボクを捨てたのでちゅ。監獄でマスかきすぎて死んだ
オムナイの後を継いだブリガム俺様 ◆ugTrYQRIは3000枚も炉利画像をハード・ディスクにいれている
くせにみんな12歳以上の子ばっかりで、炉利の邪道でちゅ。そんなとしまを見てよろこんでいるうちに
無限じごくゆきでちゅ。小倉優子なんて、もう19なのに炉利とはよべないでちゅ。毛もボーボーで最悪
でちゅ。ホントの炉利はまだワレメが割れきっていない、スジだけのものをめでるものなのでちゅ。
だから、ボクチンはここに唯一まことの復元アルミ派イエチュ・クリトリス教会を結成することに
したでちゅ。復元アルミ派教会はホントはモルモンでちゅが、プロテスタントのふりをして勧誘する
ことにするので、皆さん安心でちゅ。成城に幼稚園もたてまちゅ。三重県四日市市にアルミの巨大
工場をたてて、缶ひろいはもうしなくてもいいようにするのでちゅ。お布施の炉利画像は9才以下の
かわいい女の子だけにしてくだちゃい。それいじょうは、ケダモノでちゅ。集めた女の子たちは成城
の幼稚園ではだかで飼育するのでちゅ。じゅるじゅる。みなはん、末日派やアルミ派で炉利の邪道に
洗脳されて地獄に堕ちる前に、復元アルミ派教会に入って正しい炉利をおもいだすでちゅ。正しい
お布施をしてくれたひとにはホホエミの国タイでの炉利炉利の栄えが約束されているでちゅ。みんな、
がんばるでちゅ。
439名無しさん@1周年:02/09/25 13:44
神の尊い御言葉が明らかになり、
恵が溢れますように。
このスレに投稿される方のうえに
このスレを読まれる方の上に、祝福がありますように。アーメン。
440名無しさん@1周年:02/09/25 14:03
>>437
批判はわかった、ならキリスト教の真髄を把握した君が >>1 の疑問に答えてやれよ。
それを吟味した後で、君の評価をしてやろう。
固定概念ガチガチな人間が実は誰だったかわかるだろう。
441名無しさん@1周年:02/09/25 14:32

>>440は何を批判されてるのか分かってるのかな?
442名無しさん@1周年:02/09/25 14:41
>>437 = >>441 ?
既成概念や偉人の影に隠れてコッソリ非難するのは、批判じゃないよ。
レッテルを貼る能力なら小学生でもあるだろう。

さあ具体的な話の中身で勝負に来なさい。話のテーマは把握したかな?
キリスト教の真髄を把握した人に始めて出会えてうれしいよ。
では、どうぞ。
443名無しさん@1周年:02/09/25 20:00
愛せない、自分を愛する、神がいる。
直流も、交流もまた、神の愛。
我が神よ、私を愛の水道にしてください。

電気来て、はじめて光る、電球は、神とつながる、私、世の光。

神愛し、誤変換では、咬み合いし。
神愛し、人を愛せぬ、勘違い?

キリストの、優しさ示す言葉かな、第二もこれに等しと教え。

愛されたい、弱い命を守りたい、心の中で、泣く幼児。

信頼し、己に近づく幼子に、キリストは見る、神の王国。

自分の値打ちに自信の持てない人ばかり。
人を愛して行けば愛される、人を殴れば殴られる。それでも、愛せぬ呪縛あり。
その呪縛、正体分かれば解けるはず。

争いの多い家庭で、自分はいらない子供と思いこむ。
自分が悪いと責め続け、無意識的に、人の叱責誘う人。
444ALL BY MYSELF:02/09/25 20:32
若かった頃は誰も必要としなかった       愛し合うこともただの遊び
でも、そんな日々はもう終わった

一人で暮らしながら今までの友人を思い出す   でも電話をかけても誰一人いない

一人きり
もうひとりぼっちいたくない

自信を持つのは難しい             無性に不安になることがある
愛はとても遠くわかりづらい          でもやっぱり治療薬

一人きり
もうひとりぼっちで生きていたくない

若かった頃は誰も必要としなかった
愛し合うこともただの遊び
でも、そんな日々はもう終わった

一人きり
生きていたくない
ひとりぼっちで暮らしたくない
もうひとりでは
もうひとりでは

         セリーヌ・ディオン




445名無しさん@1周年:02/09/26 00:56
人を捨て、自分も捨てられ、枯れ落ち葉。
マンモン(金の神)は、アメと鞭とを使い分け。

人のこと、心配している人間が、一番幸せな人と知り。
ネットで開く多様性の花。
(ICFフォーラムで、敵を愛するにはどうしたらいいか、という問いに、
ユニークな方法があるということを示すレスがついている。
もっと凄い、とんでもない解釈お願い。たとえば、
あなたが弱いのと同じように、隣り人も弱いのだから、
あなたが、キリストの役を果たせるのだ!とかくらいは毎回。)


夫婦とは、神様がくれた、一生楽しめるパズルです。
こどもとは、パズルがずれた、解けないパズル?

隣の人に身構える、それでも、挨拶、にこやかに。
人間にとって人間ほど興味深いもの無し。

縺れた糸をほどすより、はさみで切り裂きたい気持ち。
複雑よりも単純のよさ。

神の御言葉通りにすれば恵みが来る。この経験は、人、生かす。
これを、繰り返す他に、道がないかも?

正義、義務、強制、責任、ノルマが人潰す。

愛、自由、受容、必要、楽しい世界が人を待つ。
同じ世界に、幸せな人と不幸せな人がいる。
446231:02/09/26 08:42
>>437,441

あの、私の推論がすべてのクリスチャンに当てはまると言った覚えはないのです
けど。幼年期に両親との関係についてコンプレックスを持つ人が成人したら、そう
いう傾向になるだろう、と書いているだけです。

>>436では舌足らずになりましたが、やはりイエスが本当に主張したかったことは、
神や隣人に対する無償の愛こそがすべて、ということではなかったか、と思う
のです。信仰義認ですら契約的な愛にすぎず、実は信じようが信じまいが、神は人
を愛し、人は神に愛を返す、という関係がかつての「エデンの園」の姿ではなかった
のか。

契約的な愛(偽善的な愛)を持ち出して、神から退去命令を受けないのに、勝手に
エデンを飛び出したのが人間なら、そこへ帰るためにはキリストの贖罪という手土産
がないと敷居をまたげないと思い込むのも人間です。かつて、自分の両親の愛に自信
が持てず、親の目ばかり盗んで「いい子」を演じ続ける子供のようにね。

隣人への無償の愛を通じて、人は自らの呪縛から解放され、両親(神)はあるがままの
自分を愛していてくれ、いつでも手ぶらで戻っておいで、と手招きしている事実を知る
のではないでしょうか。ちょうどアダルトチルドレンがカウンセリングで「自分」を
取り戻すように。
447231:02/09/26 08:52
エデンの話が出たので、ちょっとついでに書いておきます。キリスト教の
思想というのは、どうしても「手土産」なしでは神の元に帰れない、という
次元に留まっているようです。そこに根本的な限界があるのじゃないかな。

阿弥陀信仰を通じて、生きたまま仏のようになった人のことを「妙好人」と
呼びますが、そのひとりについてこういう逸話が残っています。

その妙好人が、阿弥陀如来が祀られている本堂に上がると、堂々とその前で
寝そべったので、同行者は「なんと、畏れ多いことを!」と口々に非難した。
ところが、妙好人は平気な顔して「自分の親の家に帰ったのに、何の遠慮が
あるかい」と答えたという。

私としては、かつてのエデンの園の状態により近いのは、妙好人の方だと
思います。
448名無しさん@1周年:02/09/26 16:25
妙好人て、いいですね。
クリもこのくらい解放されれば良いのにと、
京都の本願寺にある、書店でその種の本を見て思いました。
449231:02/09/26 17:39
>>448

こりゃ、どうも。
すでにご存知かもしれませんが、関連サイトをひとつ御紹介します。
ttp://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/myoukounin.html

私は浅原才市のファンですが、
>地獄地獄と 口ではいえど
>こころ一つにならぬからよの
>こころ一つになることは
>はいといただくばかりよの

なんて、いつ読んでも思わずうなってしまう。
450名無しさん@1周年:02/09/26 18:44
  念仏
頭上がらんもんが
  ここにおったと
知れたとき
世界は
みんな
うつくしい

  いれもの
やどかりが
自分の殻を
自分だと言ったら
おかしいだろう
私は 自分の殻を
自分だと思っている

   回心
自分が可愛い
ただ それだけのことで
生きていた
それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけて来た

   始まる
己れの地獄発見
そこから 仏法が始まる
この地獄 深くして底なし
ここから
真の人生が始まる
451名無しさん@1周年:02/09/27 00:10
主婦の友社からでている「マザー・テレサ」愛のこころ 最後の祈りを読むと、
マザーはこころをキリストで満たし、
人々の中にイエスを見ていったように見える。

「心の静けさの中で、神は語りかけます。
祈りと沈黙の中で神と向き合えば、
神はわたしたちに話しかけてくださるでしょう。
そのとき、あなたは自分が何ものでもないことを知るのです。
つまり、自分が無であること、
自我など消え去って、からっぽであることを知ったとき
そこで初めて、神が、ご自身そのものであなたを満たすことができるのです。
祈りの核心は、魂の大きな静けさにあります。」

「その満たされた心によって、
苦しむ貧しい人の姿に身をやつしたイエスをいやすために。」
452名無しさん@1周年:02/09/27 00:16
自分の心のなかにある、というか
神様から注がれるキリストに目覚めよ、
それを愛せ、
あなたの隣り人の中にイエスを見て行け、
というのが
自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ、の
意味かもしれん。

「私は葡萄の木、あなた方はその枝。」とあるし。

このへんは、もうそろそろ、常識的で、しかも、善いレベルでは?
453名無しさん@1周年:02/09/27 00:38
(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ

(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ

(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ

(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ
454名無しさん@1周年:02/09/27 00:58
イエスやキリストの単語を出した文章は、
宗教的にはかっこがついた文章なのかな。
でも、いくら読んでも「この人、理解しているな」って感じを受けないんだよな。

書いている本人にすら、よくわかっていない呪文を、
「こんな感じ?」てな感じで、別の呪文でいくら言い直しても、
何気にわかった気にはなれるだろうけど、わかることはないんだろうね。
要するに、キリスト教信者ってのは、よく口にする「愛」って何かすら
わかっていないということだけは、わかったよ。

わかったふりをするって、ツラくないか?
455名無しさん@1周年:02/09/27 08:31
ツラいです。ご指摘の通りです。あなた様の叡智を。

ここからは言い訳。
この程度でも、さんざん考えないと到達しない小山。
日本では、なかなか佳いレベルだろうと。
そろそろ、説教に使えるカナ?と。

実生活でというほど、実生活無いけど、
100日に一回、そんな経験あるかも、ということ。
こんな、目で見ていくことをしていたら。

すこし、反撃?してみたりして。
3年ほど前のこと、
非難する霊、そしる霊、悪霊でもとりつかれたのか、
外見がキツネ付き状態の○○君を見ていて、
その顎の線一本だけ、イエス様に見えた事がある。
最近はその○○君、かなり中学生たちに人気で、
周りを囲まれイエス様状態になってきていて、わたしも楽しみ。
どうだ、凄いだろう!とそっくりかえりたい。

言わなきゃ佳いのに、を言ってしまうのが人の常。
「敵を愛せよ」も、敵の中にイエス様を見てゆくのだろう。
アフリカ奥地に宣教した宣教師たちは、
なぜそんな殺されそうな、危険で不便な土地へ行くのか?と聞かれると、
「そこにおられるイエス様に会いに行くのだ」と言ったという。
敵の中にイエス様を見ることが敵を愛する秘訣、ということでしょう。

これでもなお、ふざけるな!でしょうか?と聞くと、駄目だな〜。
「いや、ほんとに、あなた様の真摯なご指摘に、イエス様の厳しさを
感じさせていただきました。感謝。感謝。大感謝。」これで、イイでしょうね(笑)。
456名無しさん@1周年:02/09/27 08:56
仏教徒がどうしてキリスト教を理解できないのか・・・
というと、仏教的な価値観でキリスト教を眺めるから、

と、元仏教徒(お寺の子)の現クリスチャンがゆうてました。
ほんまでっか?このスレ読んでるとそれもアタリかも。と思うテしまう。
457 ◆6bf7XA22 :02/09/27 09:14
>>437
愛という行為を理解すれば、それは
人が、群れて共同生活体を成した頃から存在した行為だとわかります。
"他者との接触から受けるストレス"に負けずに人生を送るには、
何かから生きるための活力を得なければ、死んでしまう。
愛は、その活力を無限に湧き出す泉のように生み出すための、心の動きです。
その心のしくみは、神が用意してくださったものでしょう。
そういう意味では、神が下さったものだと考えるのも間違いではないですね。

仏教の成立もキリスト教の成立も、
人類が共同生活を始めるそれよりもずっと後のことです。
だから、宗教よりも「愛」の概念の方がはるか昔からありました。、
キリスト教の人々も、まさか他宗教の人々が愛を知らないとは言わないでしょう。
「愛」はキリスト教だけの専売特許ではありません。

より愛を正確に捉えている宗教が、人々の心に染み入り共感されて、勢力を広げていく、
その結果、キリスト教や仏教など、多くの宗教が、
登頂ルートは違えど、同じ山頂にたどり着くのは不思議ではありません。
愛は、宗教成立以前からそこにあったのですから。
そう私は考えています。
458 ◆6bf7XA22 :02/09/27 09:22
>>455
>「敵を愛せよ」も、敵の中にイエス様を見てゆくのだろう。

455さんに限らず、この表現がクリスチャンの方の文章によく出てきますね。
いつも気になっていたのですが、

「イエスをその人の中に見ないと、その人を愛せないのでしょうか?」

異教徒に心奪われないように、キリスト教を保護するためには、
この考え方は有効かと思いますが、愛の概念からは離れていきそうな・・・
いや生半可な知識で断言はできないので、お話をお聞きしたいです。どなたか。
459 ◆6bf7XA22 :02/09/27 09:32
>>456
日本で、戦前の名残の全体主義的な、
もしくはその反動の、戦後の自由主義を誤解した利他主義的な、
教育を続けているせいで、
日本人の一部の人たちが、愛ではないものを愛と思い込んだままに、
文化としているのを見ると、教育の責任は大きいのでしょうね。

欧米では、ことあるごとに、love = give の概念が顔を出しますよね。
そもそも経済の世界で、資本家の投資、寄付行為は、愛の行為そのものですし、
法律の世界で、その根本に据えられる個人主義は、愛の概念と表裏一体です。

だから欧米人が「愛」の文字をみると、それはストレートに多くの情報が
伝わるのでしょうから、日本人が聖書を読むのとは意味が違うのかもしれません。
日本のクリスチャンが、愛がなんだかわからないままに、
聖書の「愛」の文字を読んでいるのは、とても不幸なことだと思います。
460 ◆6bf7XA22 :02/09/27 10:00
訂正です。

日本のクリスチャンの中に、愛がなんだかわからないままに、
聖書の「愛」の文字を読んでいる人がいるのは、とても不幸なことだと思います。
461名無しさん@1周年:02/09/27 10:07
自分を愛するという行為は、意志ではなく人間の自然的欲求。
自分のために幸せを追求することは愛か何かわからなくても
皆さんやってますよね?でもそれは無意識に自分を愛しているから
幸せになりたいと思うのです。ということは隣人の幸せを自分の幸せのように
追求しろってことじゃないのかな?
462231:02/09/27 10:28
>自分を愛するという行為は、意志ではなく人間の自然的欲求。

厳密に言うと「自分という存在を(あるがままに)愛する」という場合と、「自分
という存在は嫌いだが、生存は続けたいので利己的に生きる」という場合があると
思うのです。利己主義者だって、自殺しますよね。自分自身は嫌いだが、自分の利益
は追求せざるを得ない。

実のところは「自分が本当に自分を愛しているのかどうか」ですらわからない、と
いうことなのでは? それが単なる錯覚でないかどうかは、同じ愛を隣人に対して
注げるかどうかでわかるとか.....

昨日読んだ本に書いてあったなあ。人は愛された分だけしか他人を愛することが
できない。本当の愛を知らずに育った人は、実は隣人だけじゃなくて、自分自身
も愛しちゃいない。自殺する利己主義者みたいに。
463231:02/09/27 10:33
ちょっと、訂正します。「自分自身は嫌いだが」の部分はこんなニュアンス
かな。「自分自身は嫌いだし、ましてや他人はもっと嫌いなので、結局は
自分の利益を最優先した生き方しかできない。」

いよいよ、その嫌悪感が増して、生きることすら億劫になれば自殺する、と
いうパターンでしょう。
464 ◆6bf7XA22 :02/09/27 11:11
>>461
「自分自身を大事に思う」という内心の感情は、自己愛の発露であって、
言葉が混乱しますが、それが本当に愛している状態とは限りません。

幸せになりたいという思いも、その幸せが何かというのが、また罠でして。

ある人から、ある人にプレゼントが渡るとき、
[物欲しげな人]は、そのプレゼントに目が行きます。
プレゼントを受ける人を嫉妬し、次こそは自分こそが
そのプレゼントを受けるのだと、必死で努力を始めます。
彼には、そのプレゼントを受けることこそが幸せなのです。

[愛を理解している人]は、プレゼントを渡す人の口元の笑みに目が行きます。
そのような振る舞いにあこがれ、
自分もそのように与える人になりたいと願います。
ですが同時に、スマートにプレゼントを受けている人の態度を見て、
ああいう風に受容を相手に与えることにも価値があると知ります。
彼には、自分にそうした力が備わることが幸せなのです。
465名無しさん@1周年:02/09/27 11:13
>>462
なんかあなたの言ってること論点からずれてるのでは?
聖書の中の話がこの擦れのテーマなんでしょ?
自分が自分を愛しているとかとかそういうことを
イエスキリストは聞いてるんじゃなくて、
自分のことは省みないで人を愛せってことでしょ?
あんたのかきこみ見てると理屈だらけ、頭でっかちの
パリサイ派に思えてくるんだけど…

ま、ひとつ関係ないけど、自殺も自分を愛する行為のひとつでしょ?
苦しいから生きることの億劫さから逃れるため自分の手で人生を終わらせてしまう。
生きていくより自殺するほうが確実に楽ジャン?自殺も自分の利益を追求してんじゃん。
466名無しさん@1周年:02/09/27 11:27
>>1
神からみれば、自分も他人も同じ人の子。
467 ◆6bf7XA22 :02/09/27 11:27
>>465
確かに日本人にとって、西洋文化は分析的で理屈っぽく感じられるでしょうね。
ですが、聖書の中の「愛」という言葉の意味を
感覚的にしか捉えていなければ、聖書の文章が理解できないと思いますが・・・
あなたは、キリストの言葉を読んで、特に愛の部分は???になりませんか?

まあでも、そのままご自分の解釈のままで、
聖書の文章を読み続けるのもまた、ひとつの文化です。
利益を追求するのが愛ですか・・・ま、いいんじゃないですか?
でも、違う解釈をするオメデタイ人々もいるということだけは、
覚えておいてくださいね。
468 ◆6bf7XA22 :02/09/27 11:31
「自分は未熟→他人の助けを望み→奪う→奪えない怒りから活力を得る」方法は、
何も持たずに生まれてくる私たちが皆、先天的に獲得している思考方法です。
これを便宜的に毒の思考と呼んでいます。

そのいっぽうで、
「自分は自分→自分の力を感じたい→与える→自己効力感から活力を得る」方法は、
無力な子供が持つには無理な思考方法です。
これが愛の思考方法です。こうした与え方を「愛」と呼びます。

肝心なのは、あくまで「自分の与える行為」なので、
与えるモノが、物質である場合もありますし、目に見えない場合もあります。
与える相手が、自分の場合、友人の場合、敵の場合もあります。
だから、そうした様子を傍から見て、
愛を「内心のありよう、想いなのだ」と子供がかんちがいするのも無理はありません。
ですが、愛は「与える気持ち」ではなくて「与える行為」それ自体を指すのです。
そうでないと、憎む敵を相手に、愛を行うという文言が理解できなくなります。
469名無しさん@1周年:02/09/27 12:59
横田めぐみさんが拉致された時、彼女は工作員にレイプされたらしいよね。船内でも、
帰りたい、帰りたいって泣きながらさ...両手の爪がボロボロになるまで壁を引っ掻いて
逃げようとしてたんだ。常に不審船が漂う日本海でさ、初めて海上保安庁が威嚇攻撃した
ことがあったよね。何時反撃されるか分からない中さ、二度と横田さんの悲劇を繰り返さないよう
懸命の思いで、政府は命令を下し、隊員たちは、命がけで攻撃したんだ。


こんな北朝鮮は愛せません
470名無しさん@1周年:02/09/27 16:12
>>467西洋文化ってあなた西洋に住んでるんですか?
   私もヨーロッパに来て6年です。
   西洋文化は何も理屈っぽくないですよ。
   あなたが理屈っぽく感じるのですが…
   仏教のほうが私には理屈っぽく嘘っぽく感じます。
   で、結局回りくどくじゃなく分かり易く言って愛ってなに?

   愛は行為をさすのじゃないでしょ?
   心の問題だと思いますけど…
   心から出てそれが行動になるんでしょ?
   
   
471死後の世界信じないよ:02/09/27 17:38
◆6bf7XA22 に教えられて このスレを知りました。とうして読んだけど、濃厚な議論してますね。

僕は 「愛」って言葉を聴くと、どうしても 危うさと 少しの胡散臭さを感じてしまいます。。。
なんか 自己満足というか 心にも無いことを 自分に納得させるために使う言葉と感じてしまう。
何でこんな たいそうな言葉を使うのか??

「好き」では駄目ですか? または 「おせっかい」ってのはどうですか?

人類を愛す、自然を愛す より 人間が好きだ。自然が好きだ。のほうが わかりやすい。

☆自分を愛するように隣人を愛しなさい。を 
☆自分におせっかいするように 隣人に おせっかいしなさい。 と理解すればわかりやすい。

◆6bf7XA22 の言うように「愛」とは 見返りの無い行為 一方的な行為だとは思いますが、
おせっかいであることも確かですよね。 人間が好きで おせっかいであることが 独善的ではあっても
愛の行為といえるんじゃないかな。未熟な人間が 愛を語るより、 がむしゃらにおせっかいするほうが、
キリストの教えに近い気がします。

だいぶ スレの趣旨から離れたレスかな。。すまそ
472 ◆6bf7XA22 :02/09/27 17:56
>>470

>で、結局回りくどくじゃなく分かり易く言って愛ってなに?
>>468

>愛は行為をさすのじゃないでしょ?

指します。

>心の問題だと思いますけど…
>心から出てそれが行動になるんでしょ?

違います。でもあなたがそう考えるのを否定はしません。
あなたがそう考える文化に所属していることはわかりました。
その解釈で、>>1 の説明をしてみてください。
イエスは何を言いたかったのですか?
473 ◆6bf7XA22 :02/09/27 18:42
死後の世界信じないよ さん、こんにちは。

好きという感情と、愛するという行為は全く違います。
嫌いな人間でも、愛することは可能です。
好きでも嫌いでもない出会った事も無い遠くの人を、愛することも可能です。
そもそも置き換えが可能であるなら、愛という単語自体が不要でしょう。

愛は、おせっかいになることはありません。
愛は、一方的に与える行為を指し、それ自体で完結しているものです。
相手も、気にいらなければ受け取らなければいいだけなのです。

受け取る側にも、与える側にも何の責任もありません。
それでも「おせっかい」と問題にするのだとすれば、
より価値のあるものを相手にねだっているだけではないでしょうか。
それは商人的交換関係を狙っている行為であって、愛ではありません。
474死後の世界信じないよ:02/09/27 19:22
>>473
嫌いな人間を愛するというのは、僕には偽善でしかないように感じます。それで自分の包容力を
示そうとしているとしか思えない。たとえば 元気な金正日を愛せないでしょうが、病気で弱った金正日
を愛で包む事は可能です。

>愛は、一方的に与える行為を指し、それ自体で完結しているものです。
自己完結していると見るべきではないですか?それはそれでいいんですけどね。
それは 他人から見れば「おせっかいだなー」ともみえる。

ぼくは >>471 を ◆6bf7XA22 さんに書いたレスともいえます。 非常に良く分かる理論ですが、
危うく 脆いとも感じました。。

あまりに他人の生活を尊重しすぎると思うのです。家庭や社会では いろんなトラブルがありますよね。
そんな時 相手の人格を尊重するなんぞと、言ってられませんよね。愛があるなら、自己の理論で、
おっかいすることしか 自分に出来ることは無い。◆6bf7XA22 さんの理論では ここを躊躇してしまうんではないですか?

以前薦められてた「愛するということ」やっとこさとどきました。ハリー・ポッターと共に注文したので、送ってこなかった。
文句言ったら、やっと来ました。◆6bf7XA22さんの 「愛」の考え方の一端を勉強してみますね。
>>471
わお。。 ◆6bf7XA22 さんを よびつけでしたね。ごめんなさい。
476名無しさん@一周年:02/09/27 19:59
>458「イエスをその人の中に見ないと、その人を愛せないのでしょうか?」

愛せないというときの理屈というか、
事実を言えばそのとおりですね。
477名無しさん@1周年:02/09/27 23:29
>>473
>相手も、気にいらなければ受け取らなければいいだけなのです。

いやちょっと待って、相手が受け取った時点で初めて「与える行為」が
成立するんじゃん。そうじゃなければ捨てるの同じじゃないの?
それは >商人的交換関係 とは違うでしょ?
別に見返り求めてるわけじゃないんだから。
478477:02/09/27 23:31
>>477
×そうじゃなければ捨てるの同じじゃないの?
○そうじゃなければ捨てるのと同じじゃないの?
479名無しさん@1周年:02/09/28 00:11
476 :名無しさん@一周年 :02/09/27 19:59
>458「イエスをその人の中に見ないと、その人を愛せないのでしょうか?」

愛せないというときの理屈というか、
事実を言えばそのとおりですね。


なにそれ。最悪じゃん。。。クリスチャンってみんなそんなふうに思って人助けしてんの?キモ。
480名無しさん@1周年:02/09/28 01:58
「愛など、粘膜の作り出す幻想だ!」
ギニアス・サハリン
481名無しさん@1周年:02/09/28 05:38
クリは皆、キモイのです。
最悪なのです。
長年の経験です。
例外は屹度いるでしょうが。

問題ある方が信じるのです。
問題無い方の発言は、
別の世界の方の発言は
別の宇宙。ウッチュー。

でも、あなたが最善と考えてるそのレベルも、
私を満足させてくれません。
ずっとましのはずなのに、
どういうわけでしょうか?

あれま。アフターさんからレス来てない。
 失礼なこと言っちゃったのかなー・ごめんなさい。悪意はありませんでした。
どうも僕は一言多いんです。ゴメソ
本読んで考えてからまたここに来ますね。
483 ◆6bf7XA22 :02/09/28 13:05
>>474
その偽善はなぜ悪いことなのでしょうか。
自分の包容力を示そうとするのは、なぜ責められるべきことなのでしょうか。
授受を行う当事者が納得していれば、問題はないはずです。
さらに、自分が愛を行う当事者にならないよう決心すればよいだけの話です。

問題のポイントは、その授受の行為にあるのではなくて、
その行為を問題視するのはなぜか、なのです。

>あまりに他人の生活を尊重しすぎると思うのです。

危険を回避するために、相手の心を読もうと試みていませんか?
他者の真意への疑いを常に抱くことを、賢者の証としていませんか?
484 ◆6bf7XA22 :02/09/28 13:05
ここからは一般論ね。
子供が行う危険を回避する最も単純な方法は、
相手も環境も、すべて支配してコントロールすることです。
ですがそれは、自分の周囲に子宮を再現することと同じなのです。

子宮に固執するのを止め、精神的なへその緒を切るには、勇気が必要です。
勇気というのは、力強いイメージがありますが、私はそれはウソだと思います。
勇気というのは、ビクビクぶるぶる震えて立ち向かう者だけが持つことができます。
危険を回避しようと、必死に力を蓄えて強くなる者は、
周囲を自分よりも弱い者にしようと努力しているのですから、
勇気を持つ事から逃げているとも言えます。
勇気というのは、不完全な者だけが持つことができるのだと、言えるでしょう。

子供の頃の私たちは、親に認められるために、優れた主体になろうとします。
親に認められなければエサを与えられないという、死の恐怖から逃れる機能があるためです。
ですが成人すれば、不要な機能なのです。
愛の行為を行う人は、優れた主体を目指すのではなく、
不完全な主体のままで、優れた行為を行おうとしているのです。
485 ◆6bf7XA22 :02/09/28 13:06
>>477
当然の疑問だと思います。
愛と同義で使われる「与える」という行為は、
与えても与えなくても、誰にも、どんなルールにも責められない自由な状態で、
あえて「与える」行為を指しています。
(そうでないと、自分の権力〜自己効力感〜慈悲深い王の気分を味わえませんからね)

相手が受け取るとすれば、「受容」を私に「与える」ことになりますね。それが、
受け取っても受け取らなくても、誰にもどんなルールにも責められない自由な状態で、
あえて「受け取る」=「受容を与える」行為であるなら、
相手もまた愛の行為をしたことになるのです。>>176

そういうわけで、私が「与える」行為と、相手が「与える」行為を、
分けて考えたほうが、よりすっきりと伝わるだろうと期待しているのです。
486 ◆6bf7XA22 :02/09/28 13:07
もしも、与えたときに、相手がそれを断ったら、がっかりしますか?
そのがっかりする不満の原因はなんでしょうか。
もしも、与えたときに、相手が受け取っておきながら、恩知らずな行為に出たら?
そのがっかりする不満の原因はなんでしょうか。

私は、それは、プレゼントによって相手を縛ろうとしたのに、
その関係を作り上げることに失敗した、怒りの感情だと思うのです。
その怒りがあるということは、プレゼントを与えることで、
自己効力感を得ようとしたのではなく(つまり愛を行ったわけではなく)、
相手を商人的交換関係によって縛ろうとした、なによりの証拠なのです。

自己効力感が目的であるなら、たとえ相手が拒絶しても、
自分に与える能力があるだけで十分満足でしょう。
車中で老人に席を譲ろうと声をかけた、たとえ老人が断っても、
「自分がした」満足感は変わらないはずです。それが愛です。
それで不満が生じるなら、愛ではなかったのです。
487死後の世界信じないよ:02/09/28 16:40
>>483
偽善であっても 真心からであっても 結果が同じなら、まったくかまわないんです。
ただ 偽善までも「愛」に含めてしまうことに疑問を持ったんです。

別スレで◆6bf7XA22さんが 愛はテクニックだ。といわれたように覚えております。
僕も 夫婦生活を続ける上で、その意味がよくわかります。 ただ 人間が本音で付き合う場では
その小手先のテクニックが続かないのです。トラブルが起こったときに本心が出てしまう。

ぼくは 物事をいろんな状況に当てはめて考えることしかできませんので、◆6bf7XA22 さんの
「愛」を行為とみて、 それ以後は相手の問題である。とは 考えにくい。
「愛」の行為には、その結果も付随するべきだ。ってな固定観念が僕にはあるんですね。

「愛」とは 偽善であれ、真心であれ、見返りを求めない行為ってことですね。
「愛」は動詞である。ってなところですかね。すると 今の世の中には「愛」ってのは数少ない。
僕はもっと大きな意味で (見返りを無意識に期待する行為までも含め) 「愛」を考えてました。

愛のある理想的とも思える家庭に育った子供が、ツマラン男に引っかかり、苦労している家族を
知ってますので、色々要らん事いってしまった。すまそ。
488名無しさん@1周年:02/09/28 19:43
>「愛」は動詞である。

なるほどね〜。

「誰が隣人になったか?」とイエス様が聞かれるわけですよね。
誰が愛したか、と。
裏の無い行為と言ったら佳いのかな?

教会猫がお隣に糞をするのでは?と思って、
信頼関係も無いところにポテトチップスを持って行ったら断られた、
などというのは、あまりと言えばあまり、常識の無さだが、
一言、笑顔で、「うちの猫がご迷惑をおかけしております。」と
言ってる方がまだ、罪が無いと。

その上のスレ、受け取る事も、感謝する事も愛とするなら
神様を愛するのはかなり容易になりますね。

感謝、感謝、大感謝で生きておりますので。
このスレの皆様に感謝。
皆様に祝福がありますように。
489477:02/09/28 21:30
>>485
やっぱりちょっとおかしい感じが・・・。え〜とね。

まず、>>477の繰り返しだけど、「与える行為」は相手が受け取ったときに
初めて成立するんじゃない?ってこと。
お金を寄付することがなぜ「与える行為」になるかっていうのは、
どこかの知らない人の役に立っているって予想できるからでしょ?
>自己効力感 を中心に据えたらね、
たとえば、人によっては、川にお金を捨てる行為からだって
それを得られるかもしれないでしょ?
まさに王の気分って意味でだけど、
でもそれは普通、愛とは言わないと思うんだけどなぁ?
要するに贈与ってのは、常に相手が必要で、
相手が望むものを贈るってことじゃないのかなぁ?

で、次に与える側の内面だけど、それは、
極端な話「与える行為」の成否にかかわらず、自分が >自己効力感 を
得ちゃいけないんじゃないの?
だってね、贈与には相手が必要、だから自己完結は無理、で、
それは関係ってことだから、自分が満足した段階で、
どうしても無償じゃなく有償になっちゃう。
ってことは商品交換になっちゃうんじゃないかなぁ?と。
そもそも与える側はさ、神の愛でもう既に満たされているわけじゃない?
「与える行為」それ自体によって自分が何かを得る必要はないわけじゃん。

ってか、要するに、相互贈与と商品交換の違いが分からないんだけど・・・。
490名無しさん@1周年:02/09/29 05:52
いろんな話が飛び交うのを承知で、書いておかないと忘れてしまうので
お許しください。

両親から受ける愛の呪縛は、「善い子でなければ・・・」、ということ。
ところが世界は善い子であることは問題にしない。ほとんど。

いつまでも善い子にこだわってる、いわばマザコン?はいつまでも
親の評価を気にしている。
・・・・そうそう、いるよね、私もその傾向。

善いことをすることで、毒親の呪縛を解いて行く事ができる。
社会に受け入れられて行くから。
ところが、実際は、善いことをすることができるチャンス、
義務を果たすチャンスを無意識的に自分から潰して行く。
それは、自分が善い人だから、善い行いはしなくても認めてくれと、
善い評価、甘い報酬、尊敬をしてくれと、
心の中で、社会に対しても、親に対するように要求してしまうと。
そして、地域、会社、友人からも孤立してゆくと。

善いことをしてゆけば、普通、
神様の言葉としか言いようが無いことが起きて、このことばが
幸いへの、まともな人生への方向性を持っていることが
証されてゆくにもかかわらず。

だけど、善い人であることだけでも、一応の評価を受けることのできる
教育関係、宗教関係ではこれらの人がおおくなるだろうな、とおもう。
491 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:38
>>487
>偽善までも「愛」に含めてしまうことに疑問を持ったんです。

このスレッドで、偽善という言葉が定期的に出てくるのは、避けられないと思っています。
しかし、多くの場合に、それは他人の弱みをつかみ、責めるための、
戦略的な文句にしか使われません。
はたして偽善であると、指摘する人は誰なのでしょうか。
その人は、偽善か否か決する最終的な権利を持っているのでしょうか。

抜け目無く、情報と知識を集めれば、人の心の裏までも、
より正確に予測できると信じている人々がいますが、それは間違いです。
現実には、すべて人のすべての行為が、合理的とは限らないからです。
まして、理由も無く、何の気なしに、ただ気まぐれに、与えたときに、
いつのまにか、手元にあるもの、それが愛なのです。
行為の理由を問いただす裁判官には、決して見えないものなのです。
492 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:39
>>487
>別スレで◆6bf7XA22さんが 愛はテクニックだ。といわれたように覚えております。

少し違います。愛はスキルだ、ですね。
親に傷つけられた人間には、愛が何であるか、正確に理解するだけでも一苦労ですが、
さらに、知識があっても、鍛錬をしなければ、愛を実行することができないのです。
愛は、決して小手先のテクニックではありません。
行為者が自分を好きになれる行為でなければ、すべて愛ではありません。

>今の世の中には「愛」ってのは数少ない。

それは、全面的に正しいです。同時に全く間違っています。
愛が見える人には、そこかしこに愛があります。
愛が見えない人には、恋愛をしても、結婚をしても、一生愛が見えません。
違うまがい物に「愛」とレッテルを貼って納得しているのです。

世の中は、それぞれ内部に矛盾の無い2つの理論が共存しています。
大人になるに従って、それらの理論の、どちらかしか選択できないようになります。
どちらかを踏みつけなければ、他方を支持できない仕組みになっているからです。

>僕はもっと大きな意味で(見返りを無意識に期待する行為までも含め)「愛」を考えてました。

信じられません。他にどんな愛がありますか?
493 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:39
>>489
質問のポイントが多いので、小出しに行きます。申し訳ない。

>お金を寄付することがなぜ「与える行為」になるかっていうのは、
>どこかの知らない人の役に立っているって予想できるからでしょ?

違います。
確かに、他人に喜んでもらえた達成感は"別に"あるかもしれませんが、
それを大きく感じようとすると、別の感情が塗りつぶされてしまうのです。

なぜか。それは、後ろめたいからです。

注意深く探ってみれば、他にも、自己満足な喜びがもうひとつあるはずです。
「そうした寄付行為をすることが可能な自分」のことを好きになりませんか?
その好きになった分だけ、力が湧き、清々しい気分になるはずです。
それを引き起こしたのが愛なのです。
たとえ、相手が思いもかけず断ってきたとしても、その感情は消えないはずです。
494 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:39
なぜ、後ろめたいのでしょうか。

毒の親は、子供が個人的な喜びに浸るのを見ると、嫉妬し邪魔をします。
軽蔑の目で見たり、子供だと呆れたり、関心ないように無視したり、
「勉強しろ」などと釘をさして不愉快な感情を呼び起こしたり・・・
子供は、自己満足の喜びを味わう大切な瞬間を、
何度も邪魔されて育てられると、その種の喜びに鈍感になるのです。

私たちは、親に、もっと喜びを共感して欲しかったのです。
私たちは、親に、それを喜ぶ自分をありのまま認めてもらいたかったのです。
495 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:40
与える相手(自分も含めて)がいなくては、与える行為はできません。

>相手が望むものを贈るってことじゃないのかなぁ?

違います。
愛は、自分のために行う行為であって、相手のためではありません。
結果として相手のためになれば、その嬉しさが偶然に加算されるだけです。

相手のためになる行為を行う人は、いわば無責任な奴隷です。
さらには、せっかく相手のためになると思ってした行為に対して、
相手が不十分なリアクションをすれば、怒り出だすでしょう。
つまり、その意味で主人も兼ねています。

自分の望むものではなく、相手が望むものを贈る、
それは、行為の責任を主観的に相手に転嫁することによって、
[奴隷→主人]であると同時に、[主人→奴隷]の関係にすることで、
相手を縛り付けてコントロールしようとしているのです。

それは愛ではありません。
496 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:41
>だってね、贈与には相手が必要、だから自己完結は無理、で、

?? ここの部分の理解が難しいです。説明を願います。

>そもそも与える側はさ、神の愛でもう既に満たされているわけじゃない?
>「与える行為」それ自体によって自分が何かを得る必要はないわけじゃん。

人はそれぞれに境遇が違います。
最初に、愛を知る親に十分に愛された子供は、神がいなくとも愛に目覚めるのです。
その子供は、愛の行為をすることで、それからエネルギーを得て、
高い自尊心とともに生きることができます。

親に傷つけられ、呪われた子供は、愛を知らずに育ちますから、弱いまま。
常に誰かの助けを必要とするので、相手に受け入れてもらうことばかり考えています。
自分の愛の行為によって自家発電することを、頑として認めようとしないのです。
「飢えているのに、そんな私に、まず与えろと言うのか!」というわけです。
その最初の飢えを満たしてくれる親の代替物が、神(宗教)であれば、
不幸なサイクルを止めることができるかもしれませんね。

神を指して、父、母と呼ぶ表現がなぜ受け入れられるのか、
私は、そこには深い意味があると思っています。
497 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:50
>ってか、要するに、相互贈与と商品交換の違いが分からないんだけど・・・。

与えても与えなくても、誰も責めない、ルールにも縛られない状態を感じないと、
自己効力感が味わえないので、愛になりません。
その点、あらかじめ等価交換のルールが定められている商品交換の場合とは異なります。
商品交換では、愛を行うのが不可能とはいいませんが、かなり難しくなることは確かです。

それでも、商品交換では愛を行うのに絶対に不可能というわけではありません。
例えば、新車などの高価な買い物をするために、
500万円の現金をドサッとレジに出した場合を想像してみてください。
品物を受け取ってもいないのに、自信がみなぎるような、力があふれませんか?
まさに相手に与えているのです。

先に新車を受け取って、口座から引き落とされる場合と比較してみて下さい。
この場合には、与える、というよりも、
債務不履行を避けるために払わざるを得ないのです。

もしも小さな買い物でも、これを感じることができるように、
丸くチビた心を尖らせることができれば・・・それだけで楽しそうな気がしませんか?
少年時代の初めての買い物を思い出してみて下さい。
498 ◆6bf7XA22 :02/09/30 06:52
ひとりで連続して申し訳ない。>皆さん

ちょっと疲れました。
できれば次回はポイントをしぼって頂けると、助かりますです。
よろりら
499名無しさん@1周年:02/09/30 08:41
いやいや、これほど短時間で、これほど内容の濃いのをいただき
感謝、感謝、大感謝です。

なるほど、愛は自分のために行う行為ですか、内容も大胆で。
ショックを受けるくらいでないと、真実はあらわれて来ないですよね。
わたしも、聖書を読んでいて、神の愛は、神のためにあるのでは?と
思った瞬間をおぼえております。

偽物の愛ですか。水晶玉とガラス玉くらいの違いは許せても
ダイヤモンドかジルコンかは大きな違いです。

本物は人を生かす、と。回りをも大きく言えば生かすのでしょう。

ご家庭での炊事についてのお話、興味深く伺いました。
よその家を覗くようで恐縮ですが、
愛を深める実例をお教えいただけると感謝です。

私が知っているある牧師夫婦は、
月給を目玉クリップに止めておいて、
そこから使ってましたが、
きっとそんなユニークな方法をお持ちでしょう。

祝福がありますように。
500231:02/09/30 09:01
横レスでスマソ。

>>489

>要するに贈与ってのは、常に相手が必要で、相手が望むものを贈るってことじゃ
>ないのかなぁ?

>贈与には相手が必要、だから自己完結は無理、で、それは関係ってことだから、
>自分が満足した段階で、どうしても無償じゃなく有償になっちゃう。

花を手塩にかけて育てる場合、花が感謝を表明してくれなくても満足しますよね。
下手をして枯らしたとしても、その人が花に愛を注いだという事実が消え去るわけ
ではない。最初から花に無関心な人よりも、確かに愛は大きいと思います。

ただ、これが犬の場合だと、稚拙ながらに愛にこたえることができる。そのうれし
そうな姿を見て、「自分の愛が受け入れられた」ということで2度目に喜ぶ。これ
はボーナスみたいなものだと思います。

・自分が世界の中で愛の関係の只中にあることを実感する喜び
・自分の愛を積極的に他に分かち与える喜び
・他に愛を受け入れられて自分の愛が結実する喜び

という風にだんだんと愛が深まっていくのではないでしょうか。偽善の愛は、最初
の2段階をすっとばして、最後の段階の結実だけを求めるということになりましょう
か。外に現れて、他人の目にさらされるのは最後の段階だけですから、何とか取り
繕える。商売が成立するわずかな時間の間だけ、相手を愛するふりをしておればいい。
愛のないセクースでも子供はできます(結実)が、最初の2段階を抜きにした
夫婦(仮面夫婦)の場合、愛に渇いた子供になってしまうでしょうね。
501死後の世界信じないよ:02/09/30 13:00
なるほど。このスレのスピードが解りました。マターリとしていいですね。
◆6bf7XA22 さんを 愛のエキスパートと見て、どーんと ぶつかって行けばいいんですよね。。
「愛」についてなんて考えたことも無かったので、この際 僕も考えて見ます。

>>492
>僕はもっと大きな意味で(見返りを無意識に期待する行為までも含め)「愛」を考えてました。
信じられません。他にどんな愛がありますか?

この意味が解らない。無意識に見返りを期待する行為は「愛」なんでしょうか?
見返りを期待する行為は「愛」ではないが、無意識ならよい。ってことだったんですか?
勘違いしてました。
502名無しさん@1周年:02/09/30 13:02
隣人を愛しなさいとはこういうことです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020906-00000836-reu-ent
503 ◆6bf7XA22 :02/09/30 13:59
>>501
そうなんです。またーりです。

自分の理屈の正当性を主張するために、相手を論破しても、
このスレの話題の場合は、意味が無いんですね。
「あなたはそう考えるんですね。わかりました」と、なります。
そもそも、愛の理論も、毒の理論も、内部的な矛盾はほとんどありません。
どちらが正しいとか、優れているという類の話ではないのです。

ただ、イエスや仏陀が愛について語る言葉は、
わずかな誤解であっても、たちまち全体の意味が矛盾するという、
射抜くような繊細さを持っています。
だから、彼らの言葉について考えようとすれば、
どうしても立場の違いが浮き上がってしまうのです。

こうした事態直面して、傷つけられた人ははじめて、
自分の持っている考え方と全く相容れない理論体系の存在を知りますが、
もちろん、それを、偽善である、達成不能な努力目標である、とすれば、
無事、元の自分の理論に戻ることができます。
こうした2種類の人間が、共同社会を作っている仕組みは、とても不思議です。

>この意味が解らない。

言葉足らずで意思疎通に失敗したようです。
意識的にしろ、無意識(?)にしろ、見返りを求める行為は、
自己効力感を得られにくい。だから、その限りで愛ではないと思います。

が。

こんな疑問がわきませんか?
無意識まで含めた行為を、意識的に行えというのは、無理ではないか、と。
504名無しさん@1周年:02/09/30 14:07
>502
隣人を愛するのは難しいですね。まず、聖職になるのが、難しい。

聖職者のスキャンダル描いた映画、メキシコで記録的ヒット
[メキシコ市 5日 ロイター] 
メキシコで聖職者のスキャンダルを取り上げた映画
「El Crimen del Padre Amaro」が大ヒット、
国内の興行収入記録を塗り替えた。
カトリック教会や保守派政治家らが国民に見に行かないよう訴えていた。
配給元コロンビア・ピクチャーズ・メキシコによると、
同作品は16日の公開から20日間で1186万ドルを稼ぎ出した。
これは、1999年に「Sexo, Pudor y Lagrimas」が
公開約6カ月間で稼いだ1171万ドルを上回る新記録。
 
同国は国民の約8割がカトリック教徒だが、
社会ではリベラルな傾向が増大しており、
教会関係者らの呼び掛けは逆効果だったもよう。
作品は19世紀のポルトガルの小説を現代風にアレンジして映画化したもの。
主演は「アモーレス・ペロス」などで脚光を浴びた俳優、
ガエル・ガルシア・ベルナル。(ロイター)
[9月6日14時33分更新]

「親分はイエス様」3億円の赤字だったとか?
3億円で、一人救われれば佳いと言ってたけど、大変だよね。

毎日何本も作られている表題とおなじような映画、当たることもあるんだ。

505名無しさん@1周年:02/09/30 14:10
506名無しさん@1周年:02/09/30 14:34
隣人家族全員、境界性人格障害者家族なんですが
私は愛せません。
507 ◆6bf7XA22 :02/09/30 15:31
>>502 >>505
哲学としてみた宗教と、宗教団体とは切り離して考えるべきでしょう。
イエスや仏陀が天才的な哲学者だからといって、宗教団体がそうである保証はありませんし、
そもそも愛の行為に目覚めていれば、わざわざ宗教団体に近寄ることはないのですから、
むしろ、愛を知らない傷ついている人間を集めているともいえます。

それが行き過ぎて、選民意識を持ち、
「世界中の人がキリスト教徒になれば、世界は平和になる」
という発想が、排他的に働けば、
「世紀末が来て皆が死に絶え、選ばれた者だけが生き残れば、世の中か良くなる」
という発想と同質です。
自分の仲間を周りにはべらせて安心するくらいなら、
自分の個人的な人生をどうデザインするかに執心したほうが、
より大脳新皮質を使った、より人間を味わえる人生になると思うのですが。

できるならば、例の的確な言葉遣いで、イエスに、
自分の名を冠した今の宗教について語ってもらいたいものです。
508名無しさん@1周年:02/09/30 19:15
まだ、きっと、愛を妨げるものを語るには、早過ぎるのでしょうが。
憎しみ、怒り、軽蔑、裏表、虐待、いじめ、冷たい、
目に美しく、食べるには善く、賢くなるには好ましそうに見えた・・・
から言うと、醜い、まずい、愚かなどもそうかな?
毒親からは、否定、否定、否定、暗さ、いらないとか。
根本の一つをあげれば、自己中?

愛を語ろうとすると、いや、愛を語らなくても色々な
有意義とは思えないレスが付いてくるのは
認めて欲しいとか、聖職にぺこぺこしなければならない立場だとか、
想像は自由にできるけど・・・

気にしても益が無いのかな?そう、益が無い。

このスレをお読み下さる全ての方の祝福をお祈りいたします。
509477:02/09/30 20:36
>>493 >>500
>できれば次回はポイントをしぼって頂けると、助かりますです。
ごめん、自分ではしぼったつもりだったんだけど・・・。
でもまだよくわからないから、繰り返すけど・・・。しぼっていきます。

どのような行為が、「与える行為」と呼ばれるんですか?

6bf7XA22さんは、与える側が「自己効力感」を感じられる行為を
「与える行為」だとする、と。ただ、それだと少し疑問があって、
(1)お金を寄付する行為
(2)お金を川に捨てる行為
この二つの行為を、区別することができない。
なぜなら、人によっては(2)からでも「自己効力感」を感じるから。

じゃあ、(1)と(2)を別ける点はどこにあるの?ってことになって、
それは、相手がいるかどうか=相手が受け取るかどうか、じゃない?ってこと。
なぜ、「相手がいること」と「相手が受け取ること」がイコールかっていうと、
もし、相手が拒否しても自分が満足すればそれでいいとすれば、
(1)と(2)を区別することができないから。

そう言うと、親の呪縛だとか、主従関係の強制だとか、言うわけだけど、
>愛は心じゃなく行為 って意見を受けて、
「与える側の内面」はとりあえず切り離して、それとは無関係に、
何をもって「与える行為」が成立するのかってポイントにしぼって。
アクションだけで成立するのか?リアクションも含めるのか?

231さんへのレスにもなってると思うけど・・・。
510477:02/10/01 02:39
>>493 >>500
このスレ全部読みますたw

普通はっていうか、一般的にはっていうか、辞書的な意味ではっていうか、
自分が満足する行為=自己愛
他人が満足する行為=他者への愛
だよね?

それが、親の呪縛とか主奴関係〜とかで、
他人が満足する行為=自己愛
に反転するのはよくわかる。

でもね、だからといって、なんで、
自分が満足する行為=他者への愛
になっちゃうわけ?その道筋がよくわからないんだけど。

普通さ、>世界は二重写しで〜、とかって言う場合、
他人が満足する行為は可能かってところで、
立場の違いが生まれるわけじゃない?

自分が満足する行為は無条件に自己愛でしょ。
511名無しさん@1周年:02/10/01 02:42
902 :名無しさん@1周年 :02/10/01 01:09
>>全員
ちょっと、俺の話を聞いてほしいんだ。マジレスだよ。
もう来ないからさ。想像力をもって、心から読んでみてくれないか。

自分の愛する人を思い出してほしい。誰でも一人はいるだろ?
妻、夫、恋人、親、兄弟、子供・・・
世界には彼らによく似た人間がいるんだ。アフリカ、アフガン、
パレスチナ、イラク、北朝鮮などの飢えた人々の中にもいる。
もちろんアメリカや日本にだっているよ。でも、ある日、主に
鮮やかに見せられたことがあるんだよ。聖霊が教えてくれた。
俺の愛する人に似た人が、荒涼とした砂漠の砂埃の中、ぼんやりと
寂しそうな顔で赤ん坊に乳を与えている・・・・貧しい難民だった。
俺は自分や家族が幸せだと思っていたけど、それは幻想だと・・・
このような愛する人に似た愛しき人々が、実は世界中にいるんだ。
もちろん過去にも大勢いた。しかし今も大勢、苦しんでいる・・・・
障害をもって生まれてきた人、怪我や病気で苦しんでいる人、貧しさに
打ちのめされている人、物質的には豊かだけど心の病にある人・・・・
皆、愛する人に似た人が一人はいるんだ。そしてそれは当然、君たちの
愛する人に似た人だっている、ということだ。だから俺は自分や自分の
まわりの人間だけが幸せになっても、決して満足できないことを悟った。
似た人が全世界で苦しんでいるのだから。寄付を始めようと思う。が、
これも空しいかもしれない。誰にも知られないようにやるけど、極端
に言えば、ビルゲイツの天文学的な額の寄付でさえ、ぜんぜん足りない
・・・・
だけど、聖書を通して「全体との調和」の意義を愛によって教えられたから。
こんな俺をはかりしれないほど愛してくれたんだから。やるよ。みんなの
苦労にあずかって、人は生きられるんだよな。
やはり、どこまでいっても地上では満足を得られない。永遠(天上)の
希望が必要なんだ。

ただ、主の栄光があらわされますように。<アーメン>
512名無しさん@1周年:02/10/01 02:43
感動コピペ
513(*^。^*):02/10/01 03:19
愛の定義ってゆうのはなんだろう
それがはっきりすると、話がわかりやすいと思う

愛と『好き』は違うんだろうね。
ましてや『恋』とは全然違うんだろうね。
514名無しさん@1周年:02/10/01 03:22
キリスト教のいうところの愛とは信者を強姦することである。
これは内部の機密とされているが最近は皆が知っている。
515名無しさん@1周年:02/10/01 03:24
>>514
うざいよ。
516名無しさん@1周年:02/10/01 03:27
隣人じゃなくて金と権力だろ
517 ◆6bf7XA22 :02/10/01 03:31
>>510
簡単なほうから失礼します。

>自分が満足する行為=自己愛
>他人が満足する行為=他者への愛

???
自己愛とは、ナルシシズムの和訳です。
愛と名がついていますが、それは誤訳であって、愛ではありません。
当然、行為ではありませんから、自分が満足する行為とするのは間違いです。
http://yukitachi.cool.ne.jp/column/c008tottemo.html

他人が満足する行為とは、利他的行動であって、愛とは何の関係もありません。

>自分が満足する行為=他者への愛
>になっちゃうわけ?その道筋がよくわからないんだけど。

それが愛の定義だからです。
愛は、最初から世の中にそれだけしかありません。
毒の人間が、見えない愛を誤解するやり方は、その傷に応じて千差万別です。
それについて私はいちいち関知しません。

もちろん、世の中の多くの人が行うように、
あなたが別解釈を採るのであれば、
私はそれを妨げません。ただし、そうであれば、
私の一連の話は全く無用なものとなります。
518 ◆6bf7XA22 :02/10/01 03:31
>>510
>普通さ、>世界は二重写しで〜、とかって言う場合、
>他人が満足する行為は可能かってところで、
>立場の違いが生まれるわけじゃない?

"普通"の解釈の延長線上をいくら辿っても、論理的に愛は見つかりません。
私の"普通"と、あなたの普通が、異なるという結論しか導けないでしょう。

愛の理論の立場で言えば、
他人が心理的に満足するか否かは、その他人の問題であって、
私の問題ではありません。

そもそも傷ついている人は、誰に対しても心から満足することはありません。
親以外の人がする行為は、すべて満足しないのです。
519名無しさん@1周年:02/10/01 03:34
カトリックの教義は三つだけ。
神を愛すこと
自分を愛すこと
隣人を愛すこと。
以上。
自分を愛してはいけないという牧師はあふぉで・・・
520名無しさん@1周年:02/10/01 03:38
カトリックってキモイね。
自分を愛するのか?W
道理で、変態が多いはずだ。
521名無しさん@1周年:02/10/01 03:42
http://wbcl.org/wbcl.ram
アメリカのクリスチャンラジオステイション
522名無しさん@1周年:02/10/01 03:46
>>520
それを言うなら、キリスト教徒がキモイ、でしょう。
マタイとルカには『隣人を自分のように愛しなさい』(新共同約)とイエスが
言った事が、ハッキリと書かれてます。
だから、自分を愛していけないと言う牧師は、やっぱり、アホでしょう。
523名無しさん@1周年:02/10/01 03:49
所謂、キリスト教の愛は、『大事に思う』って事じゃ、ないですか?
『愛着』って云うと、『執着』みたいに受け取られるかも知れないけど、
『大事』とか『大切』とか。
524名無しさん@1周年:02/10/01 03:50
隣人にもよるわな。
綺麗な姉ちゃんならたっぷり愛してやる。
小汚いオッサンは愛せない。
どうだ、正直だろ?
525 ◆6bf7XA22 :02/10/01 03:51
>>520
知識を得る、食事をとる、睡眠をとる、財産を得る、名声を得る…
すべて自分に与える行為ですから、自分に対する愛かもしれません。
ですが、愛はそんな大げさなものだけでなく、
もっと何気ない日常ここかしこにあるのです >>410-411
526名無しさん@1周年:02/10/01 03:53
タイプじゃないのに愛せましぇ〜ん。
527 ◆6bf7XA22 :02/10/01 03:54
>>519 >>522
はげどー

>>523
愛が内心の思いであるとするなら、
思いやって殺すのも愛か、ストーカーの行為も愛かと。
もちろん、そう解釈する民族がいるのは知っています。

ですが、愛は行為だと解釈する民族には、
まったく意味不明なのです。
528飛入り:02/10/01 03:57
>>527
ん?
愛は行為を伴うんでしょ?
529名無しさん@1周年:02/10/01 03:59
>>527
愚か者!

チンコとマンコの結合が愛じゃ! 他にはない!
愛とは、これ即ち「行為」以外の何物でもない!
自分を愛するとは、「オナニー」だぁ〜
530飛入り:02/10/01 04:00
>>526
タイプじゃないのは、確かに、愛せない...。
そのために、信仰があるのでは?
531名無しさん@1周年:02/10/01 04:02
愛と信仰は切り離して考えた方がよいのでは?
532飛入り:02/10/01 04:05
>>529
確かに、性行為も、愛の一形態だろうけど、
それ以外の愛も、あるでしょう?
一概に日本語で『愛』って言っても、
新約聖書には、アガペーとフィロスがあるんだし。
533飛入り:02/10/01 04:07
>>531
信仰と愛を切り離すっていうのは、このスレの主題とはズレル気がする。
神の愛と人間の愛を切り離して考えるコトにならない?
534名無しさん@1周年:02/10/01 04:10
自己愛も愛の一形態か?
自分を大事にするというなら解るが、
自分を愛するなんぞ気が知れん。
535名無しさん@1周年:02/10/01 04:11
神が愛だとは全く思わない。
536飛入り:02/10/01 04:14
>>534
自分を大事にするってことが、自己愛じゃん。

>>535
『神が愛するように...』ってことです。
だから、神への信仰が前提にないと、キリスト教の『隣人愛』は
ある部分、成立しないと思うけど。
537名無しさん@1周年:02/10/01 04:17
クリスチャンは「愛」という言葉を乱用し過ぎとちゃうか?
第一、意味解って使ってるのか?
538飛入り:02/10/01 04:20
哲学の『哲』も、『愛』なんだよね。
539名無しさん@1周年:02/10/01 04:23
消費されるような安っぽい愛はいらん。
見せ掛けだけの愛でこの世は溢れている。
540名無しさん@1周年:02/10/01 04:23
カトリックの教義は三つだけ。
神を愛すこと
自分を愛すこと
隣人を愛すこと。
以上。
どれかひとつでもかけてはいけない。
これだけです。
自分を愛すると隣人を愛さないとか
隣人を愛してるから神を愛さないとか
神を愛するから自分を愛さないとか
すべてだめ。
541飛入り:02/10/01 04:32
カトリックの教義(dogma)は、他にもあります...(^_^;
イエスが直接言葉で残したとされる『最も重要な掟』が
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」

「隣人を自分のように愛しなさい。」
の二つだと考えられていますが。
542名無しさん@1周年:02/10/01 04:35
そうですね。
あとの細かいことはすべて注釈です、ということです。
543名無しさん@1周年:02/10/01 07:10
この掟が何のための掟かを考えてみるのも、いいかも。

愛の夫婦、愛の家庭、愛の共同体、愛の社会、愛の国、神の国を形成するための
基本的な行為を定めたものとするなら、自分を愛さないのは、おかしな事。

善い人になる(自分を愛する)、善い事をする、その両方に心配りする。
「愛は易き業にあらず」とブライダルのリハーサルで教え、
新郎新婦に「愛してるよ」、「ありがとう」と10回練習していただいているが
それだけで、周りの人間を巻き込んで、体温が上がり、感動できる。
愛「する」ことは、感動だ。

全体イメージとしては、化学で習った結晶とかガラスかな?
原子価の手が隣の原子と次々に結ばれている、そして、全体がまとまる。

この「隣人を自分のように愛しなさい」を読ませていただき、考えるだけで、
相当呪縛から自由になれた気がしています。
返って母を愛する事が自由に行える感じと言いますか。
感謝、深謝、多謝。
544 ◆6bf7XA22 :02/10/01 08:28
>>528
それは詭弁でしょう。
愛は何かに行為を伴ったものではなく、愛は与える行為そのもののことを指します。
内心の「大事に思うこと」「大切」「大事」が無くても、
愛は存在しますからね。

第一、「大事に思うこと」「大切」「大事」であれば、そう呼べばよい。
わざわざ愛と言い換える必要は無いのです。
545名無しさん@1周年:02/10/01 08:43
昔、日産が「愛のスカイライン」というCMを展開していた。
どこが愛なのか、子供心にさっぱり解らなかった。
愛のドータラ、ナンタラの愛... 一体「愛」とは何ぞや?
546231:02/10/01 08:49
>>525

>愛はそんな大げさなものだけでなく、もっと何気ない日常ここかしこにあるのです

に関連するのですが、「愛」は経験した人にしかわからないから、論理的に分析
すればするほど、本物とは似ても似つかぬ「愛」の化物になってしまうのじゃない
でしょうか。人は日常的に「これはエロスだ、あれはアガペーだ」と一々区別して
愛を実践しているわけじゃないし、ストーカーどうのこうのって言ったって、自分
で経験してみなくちゃ空論でしょ。ましてや、イエスがどういう愛し方を命じてい
るかなんて、「わかる」人でないと「わからない」。

このスレの主題「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの言葉だって、
すでに経験している人には「わかっている」。それを自分の体験を通じて説明する
ことはできる(◆6bf7XA22さんのレスは皆、これだと思う)が、「わからない」人
がいくら説明を聞いても、さっぱり意味がわからないでしょう。そういう「わから
ない」行為をすべての人に神が「強要する」というのも無茶な話だという気がする。
結局、「わかってもいない」のに「わかったふりをする」のが関の山じゃないか。
「アガペー」とか言葉に全責任を押し付けてしまって、自分は遠巻きにして見ている。

禅的な考え方によれば、人は生まれつき「愛」が何かを知っている。たとえば、火事
の現場で、2階から見ず知らずの赤子が落ちてきたら、「思わず」手を出すのでは
ないでしょうか。それが誰の子か、可愛い子かブサイクな子か、チェックするわけ
ではない。もちろん、助けた後の見返りも眼中になければ、もしかすると助けること
が可能かどうかすら意識しない場合だってある(新大久保駅の悲劇なんか、これで
しょう)。

一切の分別(損得、好き嫌い、貴賎.....)が動き出す以前の、「最初の心の動き」
が「愛」というしかないと思うのです。
547名無しさん@1周年:02/10/01 09:15
自分を愛してないから不可能です。
548名無しさん@1周年:02/10/01 09:19
>>574
俺も…

自分なんか大嫌いだ。
549 ◆6bf7XA22 :02/10/01 09:52
>>546
おっしゃりたいことは、十分わかります。
私たちが、誰にも教えられなければ、幼い頃からなじんできた解釈であろう、
 心の動き
と、関連付けて説明した方が、受け入れられやすいというのも知っています。
でも受け入れられやすい代わりに、逆に、その人の経験に近い概念にすり替わりやすく、
それもまた、似ても似つかない、まがい物に戻っていたりします。
それが >>547-548 さんのようなコメントにつながる元凶と私は見ています。

サリバン先生にこだわらずに、水をコップに入れたものを指して、
「あれが水だよ」といえば楽ですし、簡潔でかえって理解も誤解もされやすい。
コップと誤解する人もいるでしょうけれども、何人かは、中の液体のことだと気づくでしょう。
それは、まさに宗教が行っている方法だと思うのです。わからんやつは知らん…と。

空気中の水蒸気も、雲も、海の水の媒質になっているものも、全部水であって…
と、いった説明が、愛の化け物に見えるのも、当然ですねえ。
わかっているだけに、悩むところです。

私自身の経験では、その点で何年もかなりガンコに考えたりして、
疲れきって、とりあえず言われた通りに、とりあえず

 「与える行為」を愛としよう。
 「与える行為を通して、自尊心が高まること」を愛を感じたこと、としよう。

と考えたとたんに、次々と説明が通るようになったのです。
そこに至るまでに、多くの反証を考えていた蓄積があるので、
そこで考えたことがこのスレで出ると、つい修正したくなってしまうんですな…

最初の心の動きがあっても、手を出さなければ、愛ではないじゃないか? とか。
逆に何も思わなくても、偶然手を出して受け止めた後に、
心に湧き出す自己効力感は、愛にカウントしないのか? とか。
550 ◆6bf7XA22 :02/10/01 09:58
>>547-548
気づかないだけです。すでに愛しているし、愛されています。
あとは、それにいかに気づくか、という問題だけが残されているのです。
551231:02/10/01 11:44
愛の気付きについて参考になるかもと思いつつ、体験を書いてみますね。

先週のこと、ちょっとしたボランティアに参加したのですが、予想に反して大入り
だったことと、時間配分が悪かったこともあって、時間に追われっぱなしの状態に
なりました。簡単な工作をやってもらうのですが、手先が器用でない人も居て、
「こら、とっととやらんかい!」と怒鳴りたい気分を抑えて、作り笑いしながら
対応してました。それでも、どうにか時間内に対応することができました。

その後、昼食休憩していると、その器用でない方がわざわざみえて、丁寧にお礼を
されたのですけど、正直言って、素直に感謝を受け取れなかった。やっぱり作り笑顔
で対応する自分が居たのです。後で、思い直して実に悲しい気持ちになりました。

時間に追われたり、契約関係でギシギシやっている日常では、なかなか「愛」をその
ままに受け取ることは難しいとつくづく感じました。忙しいの「忙」は「心を亡くす」
なんて言いますけど、本当にそうだなあ。こんなボランティアなら、最初からやらぬ
方がマシだったなんて、自己嫌悪に落ちました。ボランティアでも、ある種の義務感
が入った途端に偽善になってしまう気がします。
552231:02/10/01 12:00
自分の拙い体験を書いているうちに、これは昔読んだ「ごんぎつね」の兵十
と同じ立場に自分が立ってしまったのだ、と気付きました。相手の「愛」に
気付かず、かえって相手を粗末に扱ってしまったことに、人間は深く後悔
しますね。キリスト教でも悔悟を説きますけど、「愛」を素直に受け取れる
ようになるには、他人の「愛」をないがしろにしたことに対する悔悟がない
と駄目な気がします。兵十は、ごんぎつねを殺した代償に「愛」を知る人間
になったのじゃないでしょうか。

ttp://www.saga-ed.go.jp/school/hirano-el/gongitune.html
553名無しさん@1周年:02/10/01 12:09
偉そうなことを書いてるけど、あちこちで負け犬とか罵っていた
クサレ神父の言うことなど誰が信じるか。
社会の負け犬は失せろとか言っていたが
実社会でいくら布教しても信者が出来ないんでネットで書き込み。
三流とはいえ大学院まで行ってこの程度のことしか出来ない神父は
本当の負け犬。
554231:02/10/01 12:14
>553

そりゃ、一体誰のこと???
555名無しさん@1周年:02/10/01 12:16
ん、博士号もらって、やることなくて、一時的に2ちゃんに
埋没してたっていうモラトリアムな馬鹿を三人ほど知ってますが
何か?
556 ◆6bf7XA22 :02/10/01 12:17
誤爆?
557名無しさん@1周年:02/10/01 12:18
http://edu.yahoo.co.jp/gambare/daigaku/kantou/prv/2830/campus.htm
神父とは大学院まで行ってなるそうだ。しかし内容はヘブライ語など
日本社会では役に立つものではないので日本社会では何年たってもキリスト教は
信者が増えない。これは無能で日本を理解していないキリスト教なればこそ。

どうせダメ人間には聖書を押し付けて布教しろとしか教えてないと思われる。
また、神父の品性が非常に卑しいことも日本で信者が増えない大きな理由と思われる。
まあ、キリスト教はクソ宗教。
558名無しさん@1周年:02/10/01 12:22
全く信者が増えないで敵ばかりが増えていくキリスト教の不思議。
それどころが謝罪ばかりで何をやっているのかわからないキリスト教も理解できない

http://www.cbcj.catholic.jp/doc/c_abuse/

キリスト教はなくなったほうがいい。
559 ◆6bf7XA22 :02/10/01 12:22
>>552
なるほどねえ…
そうかも知れませんねえ。

ふと気づきましたが、
傷ついた子供の癒しの作業というのは、
ずっと自分の「愛」をないがしろにしてきたことに対する悔悟なのかな。
「ごめんね、自分(インナー・チャイルド)」という作業。
560231:02/10/01 12:42
>>559

禿同です。「私は、自分のことが嫌いだ」という人は、現実の自分と理想の
自分の間に折り合いがついていないのだと思います。その理想の自分を作り
あげたのは、インナー・ペアレンツの仕業かもしれない。幼児虐待で問題に
なった神父さんだって、教会が作り上げた理想の自分に自ら押しつぶされて
しまったのでしょう。

自分のことを本当の意味で愛するには、一切の虚飾がない状態で自分自身を
あるがままに受け入れる勇気が必要だと思います。禅では、一度自分の本当の
姿を垣間見ると、その姿に一目ぼれすると言います。心理学でも、宗教でも、
「虚構の自分」から決別することからすべてが始まるという気がします。
キリスト教の場合、神父さんの例もあるように、「自分のあるがままの姿」を
見て、それを受け入れる(=自分を愛する)という訓練が欠けているように思
います。この状態で「隣人愛」を説くと、どうしてもカン違いが生じてしまう
でしょうね。
561 ◆6bf7XA22 :02/10/01 12:45
宿題を考えていて思いついたのですが。

  『目には目を、歯には歯を』とは、あなたたちの聞いてきたところです。
  しかし私は言います、悪しき人に手向かってはいけません。
  あなたの右のほほを打つ人には左のほほも向けなさい。
  あなたを訴えて下着を取ろうとする人には上着も与えなさい。

という文句がありますね。
これを指して、無抵抗主義と解釈をする人がいます。
これを指して、自己の利益に固執するなという意味だ、と言う人もいます。
検索するといろんな解釈があって、すごいですね。

ですが私は、違うものを感じるのです。
最初に打たれた右のほほと、次に差し出した左のほほは、意味が違うのです。
右のほほは、相手の奪われたものですが、
左のほほは、与える行為であって、愛なのです。たとえ、叩かれなかったとしても。
それは、最初の屈辱感を埋め合わせて有り余るほどの、自尊心を取り戻す行為でしょう。
562 ◆6bf7XA22 :02/10/01 12:46
実はさらに、左のほほを差し出す行為は、別の重要な意味を持つのではないか。

ほほを差し出すだけの力があった、その自己効力感は、
奪われたはずだった、最初の右のほほに対する主観的な評価を、
時間をさかのぼって、愛に変更してしまう効果を生むのです。
自分にはそれだけの用意があった。
盗んでいった者にたいして「ああ、それはあげた物ですよ」というのと一緒です。

奪われていたはずが、与える行為になる。
しかも過去のものであっても、その評価をいま変えることで、愛になるのです。
その愛に慰められ、励まされて、自尊心を高めるために。

これは >>503 のヒント鴨
563名無しさん@1周年:02/10/01 12:46
 http://www.info.sophia.ac.jp/theol/

創世記に流れる神の祝福と誕生のテーマ
・ エゼキエル書に見られる象徴の機能について ― 火、血、水のイメージを中心に
・ マタイによる福音書11章25−30におけるイエスの呼びかけ
・ マタイ福音書8,9章における癒しの物語の意味
・ Understanding the God-centrality in Jesus
・ イエスの神の国の使信の生活の座に関する研究
・ 聖書に見られる自然観
・ マグダラのマリア研究
・ 最初の弟子たちのエウカリスティア理解
こんなどうでもいいことを6年もしているからいつまでたっても日本では信者が増えない。
564 ◆6bf7XA22 :02/10/01 12:48
というわけで、素人である私は言い切ってしまおう。

このイエスの言葉は、毒の人間に自尊心まで奪われないようにするための、
最も効果的な対処法を言っているのであって、愛の理論そのものである、と。

戦争するなとか、利益を追求するな(んな、あほな)という意味ではない。
利益を追求するなという解釈は、教団が金を巻き上げる理屈に使いそうなのですねえ。
どうでしょうか。
565死後の世界信じないよ:02/10/01 12:56
愛するということ読んでみました。結構トンデモ本のように語られていましたが、
すんなり入っていけました。僕はもう恋愛や熱愛にあこがれる年齢では
在りませんので、(オジンじゃないですよ、現実的に見ているだけです)、
この本で語られている兄弟愛のほうに意識がいってます。

今改めて◆6bf7XA22 さんのレス読み返してみると よく意味がわかります。
ただ 見返りを期待しない、、行為、、、の部分が印象に残りすぎて、初めて読んだときに
違った印象を持ってしまう。

>愛の本質は 何かのために「働く」こと、 「何かを育てる」ことにある。
>愛と労働は分かちがたいものである。

この部分 共感できるし、よくわかるような気がします。でも僕は出来てるんだろうか?

またカキコしますね。マターリと。
566231:02/10/01 13:02
>>563

そうですね。愛は料理と同じで、味わえなければどうしようもないですもの
ね。神学は、料理の材料の産地データとか、栄養分析データみたいなものに
相当するかもしれない。いくら料理書を読んでも、料理の味はわからないし、
腹もふくれない。そのうちに、料理書を書いている人自身が料理を作ったこと
もなければ、味も知らないのではないか、なんて勘ぐりたくなります。体験談
の多くは、おきまりのマザーテレサですし、それだけ「愛の臨床例」が少ない
というのが現実かも。本来なら、「隣人愛」など教会の扉付近に転がっている
はずなんだけどね。

拙い体験でもいいから、自分の体験で触れた「愛」について語ってほしいん
だけど、待てど暮らせどそういう人は現れない....
567231:02/10/01 13:13
>>561-562

なるほど。ひとつの解釈として成立しますね。
私はちょっと別の視点から見ています。スズメですら、天の父の許しがない
と地に落ちない、という聖句がありますけど、それをそのまま応用すると
「敵ですら、天の父の許しがないと、汝の右頬を叩かない」と解釈できる
のですね。つまり、たとえ相手が悪人でも、神の支配が相手を通じて働く
限り、それを「感謝していただく」のが道だ。すると、思いがけず「妙好人」
の境地にたどり着いてしまうのです。

「当流の安心は
善いのがでても それをよろこぶじゃない
また悪いのがでても それをくやむじゃない
ただ仰いで 頭をさげ 尊むばかり」

「地獄地獄と 口ではいえど
こころ一つにならぬからよの
こころ一つになることは
はいといただくばかりよの」

ttp://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/saiti.html
568名無しのクリスチャン:02/10/01 13:27
話題のこの個所の影には、「自分たちは正しい」としていたパリサイ、
律法主義者、祭司など、当時の宗教家たちがいます。
イエスの周りには彼らから裁かれ、見下され、白い目で見られていた人た
ちが多く集まっていました。

「『目には目を、歯には歯を』とは、あなたたちの聞いてきたところです。」
誰から聞いていたかと言えば、彼らです。

当時の宗教家たちは自分は、目には目、歯には歯だけしかお返ししていない
から、自分たちは正しい人間で、それ以上やって喧嘩をしてしまうような
奴らは、とんでもない罪人だ!!!…と裁いていたんですね。

イエスは、そんな人を裁くパリサイ派の人たちの「正しさ」に対抗してい
るわけです。
もし本当に自分たちが正しいと言うのなら、
「あなたの右のほほを打つ人には左のほほも向けなさい。…」

パリサイは右頬を殴るような奴らは、合法的に右の頬を殴り返し、
おまけに呪いの一言でもつぶやいていたでしょうから、そんなこと
はできていないのでした。

「パリサイ派の人たち。あなたがたは自分は正しいとして、人を裁い
 ているけど、似たような罪人ではないのか…。
 天の父はそれを赦してくださっているのではないのか…」

説明悪くて、わかりにくいかも。ごめんちゃ。
569568:02/10/01 13:32
ごめんなさい。
上の件、>>561です。
570 ◆6bf7XA22 :02/10/01 13:34
>>568
>イエスは、そんな人を裁くパリサイ派の人たちの「正しさ」に対抗してい
>るわけです。
>もし本当に自分たちが正しいと言うのなら、
>「あなたの右のほほを打つ人には左のほほも向けなさい。…」

すんません。ここの論理がわかりません。
なぜこれで対抗したことになるのですか?
571名無しさん@1周年:02/10/01 13:37
となりのお姉さんを愛してしまった。
572名無しさん@1周年:02/10/01 13:43
まさに愛と憎悪は表裏一体
言いようでどうにでも転ぶのね…
573568:02/10/01 13:52
>>570
ここだけで「対抗」していると、ちょっと語弊があるかもしれないっす。

パリサイ派他の人たちが「自分たちは正しい」とする根拠のさらに上を
いく正しさを出すことで、彼らにも落ち度というか欠点というか罪はあ
るよということを伝えているのではないでしょうか。

確かに「目には目を…」と言う律法は満たしているかもしれないですが、
これは許容というべきもので、それこそ「愛しなさい」と言う律法までを
満たしているのかどうか…というと疑問ですよね。
赦すという選択もあるはずですから。

574名無しさん@1周年:02/10/01 13:53

愛は神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、
神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして
下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。
ここに愛がある。

愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、
わたしたちも互いに愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。
もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、
神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

神が御霊をわたしたちに賜ったことによって、わたしたちが神におり、神が
わたしたちにいますことを知る。(中略)

もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その
人は神のうちにいるのである。
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。
神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。(中略)

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、
かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
ヨハネ第一の手紙4:7−19


575名無しさん@1周年:02/10/01 13:54
これって本当か?

↓ ↓ ↓
http://www.dream-express-web.com/space-trust.htm


576名無しさん@1周年:02/10/01 13:54

たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛が
なければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい「にょう鉢」と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識
とに通じていても、また、山を動かすほどの強い信仰があっても、もし愛
がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を
人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛が
なければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶら
ない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、
恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、
すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。

コリント人への第一の手紙13:1−8

577名無しさん@1周年:02/10/01 13:55

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、
この世が救われるためである。ヨハネ3:16−17







578名無しさん@1周年:02/10/01 13:56

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
第一ペテロ4・7−8






579名無しさん@1周年:02/10/01 13:58
人間は自己中だから、その自己中を他人に向けろよってことだよ。
580 ◆6bf7XA22 :02/10/01 14:03
>>573
ありがとうございます。正直まだよくわからないのですが、
でも「愛しなさい」と言う律法までを満たすのが目的だとすれば、
私の解釈にかなり近づいてきますね。なんて。
少し自信を持っていいのでしょうか。

ともあれ背景はわかりました。
現代刑法は、応報と一般予防/特別予防の2本の柱を持つのですが、
応報の概念はそこからキリスト教〜ドイツを経て、日本に来ているのですね。
まだ私たちの現代社会は、パリサイ派の正義から成長していないのか。
581 ◆6bf7XA22 :02/10/01 14:08
>>579
人間全てが自己中なわけではない罠。

自己中な人間は、自分のことを愛してなどいません。
自分が惨めに感じるから、他人のことに構っていられずに、自己中なのです。
それを他人にも向けるから、
「おまえも惨めになれ!」と要求することになるのです。

すると、幸運な人を見たり、くだらないことで大喜びする人を見ると、
「ケッ」と思うようになるわけですね。
自分の惨めさを意識しそうになるから、恐怖なのです。
582名無しさん@1周年:02/10/01 14:12
血の繋がらないおじいちゃんとの関係が悪く
毎日、父母と喧嘩するのが二階の自分に聞こえた暗い少年時代。
閉じこもって本に没頭していた。

そんな自分のトラウマを考えていたとき、
自分自身に向かって、インナーチャイルド?に向かって
「そうか、恐かったんだよね。そうか、傷ついたんだよね。
楽しい生活が欲しかったんだね。何も出来ないのが辛かったんだよね。
皆、仲良く生活して欲しかったんだね。」と
言った事がある。受容された気がした。

「ごめんね、自分(インナー・チャイルド)」という作業だったのだろうか。
583 ◆6bf7XA22 :02/10/01 14:38
>>582
そうかもしれませんね。
本当にインナー・チャイルドに触れると、涙が出てきます。
もしかしたら >>391-392 が助けになるかもしれませんね。

インナー・チャイルドの癒しの方法とは、
交流分析
 http://www.med.kyushu-u.ac.jp/cephal/methods/TA.htm
でいう、Adopted Child(AC)を下げて、Free Child(FC)を上げる方法
ではないかと、私は感じています。
FC がインナー・チャイルドに近い概念なんですよ。
584 ◆6bf7XA22 :02/10/01 14:45
交流分析のエゴグラムは、例えばここで調べられます。

http://www.taisei-e.co.jp/seikaku/sin-d.htm

AC や FC を自己診断することができます。
585231:02/10/01 14:50
>>582

私が読んだ本によると、今まで忘れていたトラウマを思い出すようになったら、回復
した兆しだと書いてありました。あまりにトラウマが深刻だと、とても精神的に耐え
られないために自己防衛本能によって記憶が消されてしまうのだそうです。それで、
現実の自分を受け入れて精神的に余裕ができると、忘れていたはずのトラウマを思い
出すとともに、それを克服して完全に解決できるのだそうです。

私の場合、もう20年にもなるのに、今日は何時からバイトのはずなのに、行き場所が
わからず焦りまくるという夢を繰り返し見ます。自分でも気づかないトラウマがある
のでしょうね。
586231:02/10/01 14:54
>>583

本当に、岩月氏の2冊は読んでみて大変参考になりました。私からもお薦め
します。>582さん
587名無しさん@1周年:02/10/01 15:50

キ リ ス ト 教 徒 氏 ね
588名無しさん@1周年:02/10/01 19:08
>587
あなたは、どんな人に生きろと言いたいですか?
589477:02/10/01 20:05
>>517
>私の一連の話は全く無用なものとなります
ごめんなさい、不快にさせちゃいましたか?
寝れなくてイライラしてたんで、
つい>毒の理論が頭に浮かんでしまったようです。
また、質問に答えてくださいますか?

ナルシシズムについてはよくわかりました。
なので、自分のレスを修正します。

>他人が満足する行為とは、利他的行動であって、
を受けて、
自分が満足する行為=利己的行動
他人が満足する行為=利他的行動
これは解釈の問題じゃなく、言葉の定義として。

で、繰り返しますが、
>愛の理論の解釈では、利他的行動を意図したとしても
それはナルシシズムを動機とする場合がよくあるので、
愛ではない、と定義される。でいいんですよね?

次に、なぜ利己的行動が愛なんですか?という質問に対して、
6bf7XA22さんは>それが愛の定義だからです。と言われるわけですが、
では、>愛の理論では、これはどのような解釈による定義なんですか?
それとも、これは解釈の問題ではなく、
「与える行為」を行うことによってのみ知りうる境地なのでしょうか?
590477:02/10/01 23:06
>>517
追加の質問です。

231さんの書き込みなどを見ると
「与える行為」がどのようなものであるかも、
「体験的」にしか知ることができない境地であるような気がします。

そうすると、世の中には2種類の人間がいるということでしょうか?
「与える行為」を「体験的」に知っている人間と、知らない人間。
最初から知っている人間と、一生知ることができない人間?????
591231:02/10/02 08:55
>>590(477さん)

ちょっとだけ補足的なコメントを。

「最初から知っている」という部分に二通りの意味があって、私がそれをごっちゃ
に議論していることがあるので。

仏教的な「最初から」というのは、「父母でさえ生まれる前の自分」(医学的には
ナンセンスですが)のことを指します。生まれつき、人間は利他的な生き方をする
存在(仏性を持つ)で、利己的な生き方では決して心は満たされない、という考え
方です(実は、「自分」という存在すら妄想にすぎない、というところから説き
起こすのですが、ここでは省略します)。

二つ目の意味は、父母から受ける「無償の愛」です。生まれた子が醜くても、五体
満足でなくても、父母が子に注ぐ愛は変わらないと思います。両親と子供の関係は、
本来「信頼関係」のみで、「契約関係」ではありません。親が「いい子になってくれ」
と願うのは、自分達の名誉とか老後の世話になるとか、ではなくて、子が幸せで安楽
な人生を歩んで欲しいという願いからです。

ところが、学校へ入ればテストで能力別にされ、素行が悪ければ退学処分になります。
これは「契約関係」です。ホームルームなどで倫理は習いますが、要するに団体に
迷惑をかけなければそこに安住できるという「契約関係」を身につけるにすぎない
のです。これは「法律にさえ触れなければ、人道的な価値観など無関係」という考え
方につながっていきます。
592231:02/10/02 08:56
(続き)
それで、家庭事情などで父母から「無償の愛」ないし「信頼関係」を身につけずに
学校へ上がると、「契約関係」でしか他人を「愛」せなくなってしまうのです。
そういう人が、社会的に挫折して絶望しているときに、心ある人から「無償の愛」
を受け取る機会に恵まれれば、「無償の愛」を知ることができますが、実際には
体に染み付いた「契約関係」思考で、「きっと下心があるに違いない」と勘ぐって
しまい、受け入れを拒否してしまう危険性が高い。これをずるずる続ければ、
「一生(隣人愛を)知ることができない人間」になってしまうというわけです。

仏教的に見れば、利他的存在である人間が、「契約関係」という不必然なものに
目をくらませてどんどん利己主義に走ることは、河童が川から離れて山へ向かう
ようなもので、苦しい(潜在意識のレベルで)はずなのです。いくら富と名声を
得ても、心の平安が得られないのはこういう理由からです。幼児期に両親から
「無償の愛」を受けそこなった子供ほど不幸な存在はないでしょう。
593名無しさん@1周年:02/10/02 09:00
自分がおなぃにするように他人にもしてあげ(省略されました
594231:02/10/02 09:09
学校教育では「不良」を更生できない理由は、所詮は「契約関係」に頼って
いるから、「不良」が心に抱える愛の空白を満たせないからです。「頼むか
ら学校で暴れないでくれ」では、利己主義が形を変えただけですからね。
良寛さんに有名な逸話がありますね。
ttp://www.soto-kinki.net/HOUWA_TEXT/houwa_text_011126_ootsuki.html
595 ◆6bf7XA22 :02/10/02 09:37
>>509
>なぜなら、人によっては(2)からでも「自己効力感」を感じるから。

なるほど。
その人は、なぜその行為から自己効力感を得ていると思いますか?
現金の束縛からの解放感を、自分に、与えているためか。
捨てるほど大金持ちになった成功の実感を、自分に、与えているためか。
それなら(2)は、その人にとって愛なのでしょうね。
何だと思いますか?

与えるものは、具体的な目に見えるものもあれば、抽象的なものもあります。
愛の行為は、意識的に行うこともあれば、無意識に行っていたこともあります。
無意識に行った愛の行為は、その直後にまず、清々しい充実感、生命感を感じます。
その時に「あれ?」となぜだろうか、と思い至れば、
自分が、いま、誰かに、何かを与えた(与えようとした)ことに初めて気づくのです。
596 ◆6bf7XA22 :02/10/02 09:38
傷ついた毒の人間は、意識的に与えることはあまりありません。
与えるときがあっても、見返りがあるときです。つまり"仕方なく"あたえるのです。
"仕方がなく"与えるので、自己効力感を感じることはありませんから、
これは愛ではありません。

ボランティア精神に富んだ人の中には、自己犠牲的に与える人もいます。
自己犠牲は、苦痛な行為だからこそ与えるという立場です。
これも"仕方なく"あたえるのであって、自分の権力を感じる行為ではありませんから、
これは愛ではありません。

「自分のため」与える、と曖昧な言葉を使うと、本質が見えなくなります。
人間は複雑なので、本能的な欲望や、自分の利益や、宗教的義務感の満足など、
「自分のため」には様々なレベルがあるのです。
あくまで、「自己効力感を得るため、自分の力、権力を感じるため」に行うのが愛です。
それは、自尊心を上げる行為だと、言い換えることもできます。
597 ◆6bf7XA22 :02/10/02 09:38
>>509
>「与える側の内面」はとりあえず切り離して、それとは無関係に、
>何をもって「与える行為」が成立するのかってポイントにしぼって。
>アクションだけで成立するのか?リアクションも含めるのか?

「リアクションは含めません。」
達成感にはリアクションが必要ですが、
自己効力感、すなわち、自分にその力が備わっていることを確信するだけであれば、
言い換えれば、「俺って、結構いい奴、できる奴」という感覚を得るには、
必ずしも、与える行為が成果を上げる必要はないでしょう。
そこで、

>「与える側の内面」はとりあえず切り離して

この意味が、どうも私にはわかっていないようです。
愛とは、1)自己効力感を得るような、 2)与える行為ですが、
1)自己効力感を得るかどうかを、左右するのは、
「与える側が、内面でその行為をどう評価しているか」が指標になるわけですから、
その意味では「与える側の内面」を切り離すことはできません。
598 ◆6bf7XA22 :02/10/02 09:52
ですが、自分の内面、内心から理解しようとすると、
>>596 の最後において説明しましたが、紛らわしい他の概念が紛れ込んで、
愛自体が見えなくなってしまうのです。

特に、親に傷つけられた毒の人間は、世間や他人を親の代替物と見ているので、
相手に認められる嬉しさの方が、はるかに大きく感じられてしまいます。
自分を好きになるような、ささやかな喜びよりも、相手の気持ちが気になる状態、
その状態を、私は以前、奴隷とご主人様を兼ねた状態だと、表現しました。
それは、自分の本当の気持ちを犠牲にして、他人から奪おうとしているわけですね。
本人は、全く気づかずにそれを行っているのです。

だから、私は、内面から説明することはせずに、行為から説明します。
奪うことで、溜め込むことで、感じる喜びを一切排除します。
それらは、子供が先天的に持っている喜びの仕組みですが、愛は含まれていません。
与えることで、感じることができる喜び、それが愛の喜びです。
これは、先天的に持っているものではありません。他人から教えられなければ、
永遠に知ることは無い、感じることも無い、見ることもできない、喜びなのです。
599名無しさん@1周年:02/10/02 09:57


   狼 は 生 き ろ

       豚 は 死 ね !

600 ◆6bf7XA22 :02/10/02 10:09
たとえば、
電車の中で、席を譲ろうと
声をかけようかどうかと迷っている
あなたの中に、

たとえば、
雨の中、傘が無くてずぶ濡れの人に、
傘を差しのべたいなと思いながらも、
ただ通り過ぎてしまうことしかできない
あなたの中に、

愛は、あります。

たとえば、
絵や音楽にわけもなく感動したり、
風景を見て涙したり、
感じることを感じているあなたの中に、

愛は、あります。

でも、
そういうことを恐がっている人もいます。
自分が、感動したり、興奮したり、
涙したり、悲しんだりするのを
許さない人もいます。

自分が感じていることを
感じられない人にとっては、
愛は恐れであり、
くだらないものにしておきたいものです。

"からだの中を愛でいっぱいにする方法"/伊藤守/ディスカヴァー21
601 ◆6bf7XA22 :02/10/02 10:15
どんな人でも愛されています。
それはほんとうです。
ただ、どんな人でも、
愛が感じられるわけではない。

人は、見たいものを見たいように見て、
聞きたいことを、
聞きたいように聞いています。
斜めに構えている人に、
愛が見えるわけがありません。
疑り深い人が、
なんでも理屈に置き換える人が、
ナルシシズムに沈んだ人が、
愛を感じることはむずかしいでしょう。

でも、どんな人でも愛されているのです。
それはほんとうです。
それを判断するのは、あなたでなく、
愛なのです。

"からだの中を愛でいっぱいにする方法"/伊藤守/ディスカヴァー21
602 ◆6bf7XA22 :02/10/02 11:01
>>565
もしその本が気に入っていただだければ、>>391-392 も気に入りますよ。
死後の世界信じないよ さんは、
私と同じで思考中枢偏重タイプだと思いますから(^o^;

恋愛や熱愛に使われる脳の回路と、
ここで話題としている愛〜兄弟愛・隣人愛とは
違う脳の回路を使っているのでしょうね。

恋愛や熱愛の方は、そちらのスレで書きました、
偏桃体-視床下部ラインが中心ですが、
愛の方は、前頭連合野と視床下部とを
結ぶラインを中心に使っているようです。A10神経ってやつですね。
前頭連合野と感覚中枢も繋がっていて、
情報をフィードバックしているそうです。
見えないものが、見えているのは、このおかげでしょう。
愛を感じるとき、表層の新しい脳を使っているのが自覚できます。
じわりと、かゆくなりますから。

うそうそ。
603死後の世界信じないよ:02/10/02 11:48
>>602
僕は昔から、「愛」という言葉に抵抗感がありまして、そんな刹那的な、一時の感情を
永遠に続けることは不可能だ。。という意識があったのでしょうね。

人間に対して また 人生に対して「愛」を持て、という言葉より、「慈悲」や「優しさ」 
「思いやり」、って言葉を使いたかったのでしょう。

そういう意味では この本の説く「愛」のほうが僕には納得できます。
良い本を薦めてくださりありがとうございました。

次は実践編ですが、僕は まだ理解不足なんでしょうね、うまい考え方が出来ません。
どうしても 自がの正しいと思う方向に物事を進めるため 努力してしまいます。。
僕にとってはそれが「善意」であり「愛」だと信ずるからです。
要するに おせっかいなんですよ。僕は、、

あれ、、いろいろ疑問が出てきた。。 もう一度読み返してみます。
604名無しさん@1周年:02/10/02 11:53
 http://www.info.sophia.ac.jp/theol/
ある大学の教授の授業内容説明(抜粋、手は加えず)

※キリスト者の結婚の約束は民法的契約ではなく、神と人々との契約の信仰に基づく
 A生物的な性の理解→人格的な理解 B制度としての婚姻→責任と愛を生かす婚姻 
C自由=条件→自由=本質 ※結婚は、誰からの強制でもない、
二人の自由な意志によってこそ成立する。結婚生活においてはほかでもない、
相互に相手の自由を守ることが本質的であるべきである。 

文章に矢印を入れるなど、国語力は小学生以下だと思われる。
一体、どこの高卒やら、爆笑
605231:02/10/02 12:58
>>604

国語力が小学生かどうか知らんが、「神と人々との契約」という部分は許せんな。
「契約関係」でしか愛を感じられん、隣人愛オンチが丸出しという感じ。両親と
子供の関係に「契約」なんて水臭いものが必要かどうか、考えてみればいい。

中世の騎士と従者の主従関係は、今の契約社会と変わらないくらい、ドライなもの
だったらしい。長年付き合ってきた主人よりも、多額の給料を貰えるなら、簡単に
寝返ったらしい。また、戦争状態にある二国間の両方に傭兵として雇われて、給料
を2倍貰うってのもありだったとか。要するに、西洋社会に元々「忠」「孝」なん
て高度なものはないんだよ。

もともと、西欧人そのものが隣人愛オンチの民族だという気がする。キリスト教の
そういう「契約臭」のバタ臭さまで直輸入したところに間違いの原点があると思うね。
西洋の方が慈善事業が盛んだと反論する人がいるだろうが、本当の愛がわからないか
らこそ、贋の愛で誤魔化したがるんだよ。当たり前のことを宣伝する馬鹿がいるかい。

せっかくイエスが「天のおとうちゃん(アッバー)」と神のことを呼んで、神と人と
の関係を「契約関係」から「信頼関係」に引き戻そうとしたのにね。弟子達が寄って
たかってワヤにしてしまった。
606 ◆6bf7XA22 :02/10/02 13:35
>>231 さんもリンク先を読んで毒にあたったみたいですね。
私も、あの妄想の渦にはげんなりしました。

607 ◆6bf7XA22 :02/10/02 13:35
>>604 さん、
あなたは、キリスト教の文章を読むときの、最低限の作法を知る必要があります。

キリスト教の文章を読むときには、
「神」という文字を全て、「両親」といった言葉に置き換える必要があります。

キリスト教の「神」とは、イエスの指し示した、理想の両親の哲学に、
過去、キリスト教の発展に奉仕した人々の努力が重ねられて作られた、
仮想的な、理想の両親像なのです。
もちろんあなたの両親は、実の両親しかいません。
ですが現実の両親は、子育ての専門知識を持たない不完全な素人なので、
うまくやってるつもりでいて、子育てに失敗している夫婦は少なくないのです。
成功したか失敗したかは、あなたの中の子供の心が知っているはずです。

だから、
聖書の文句は、頑固な両親の小言と思って読むべきなのです。
宗教団体や信者の解釈は、小姑の小言だと思って読めばよい:-P

もちろんその通りに強制されて生きるのであれば、無能な奴隷ですよ。
自分の人生は、自分で考えて責任を取るべきなのは、言うまでもありません。
ですが、逆にそうした小言を間に受けて逆らうのも、
限られた人生を費やすにしては、あまりに価値が無いことだと思うのです。
皆が、お節介にもあなたに役に立とうと知恵を押し付けているのに、
あなたがあなたのことを考えなくて、どうするのですか。
608名無しさん@1周年:02/10/02 13:52
「隣人愛」など幻想に過ぎない。
609名無しさん@1周年:02/10/02 16:42

859 :名無しさん@1周年 :02/10/02 16:01

1993年3月13日、横田めぐみさんが重度の鬱病により縊死したとの発表があった。
私は主に祈って尋ねた。これは、悪魔サタンの勢力と光の勢力による我々の見えぬ
ところにおける闘い、なのである。遺骸も遺骨も不明、しかも、若くして拉致さ
れた被害者の多くが死亡。このような発表をする北朝鮮という国は、嘘で塗り固
められた過去を持つ悪魔的な国家。数百万人の自国民が餓死しようが軍事予算は
減らない。そしてさまざまな工作活動と武器・麻薬での資金集め。一部が王様の
ように君臨し支配する・・・・彼ら共産主義・独裁主義の人間たちが、最も畏れ、
忌み嫌うものは何か? キリスト教である。ソ連・中国みなそうであった。彼ら
は潜在的に悪魔サタンから得ているのである。そして彼らは、自らが全く見えてい
ない。つまり、自殺においやったのは自分たちであることを。要するに、これは
他殺である。北による殺人である。もちろん、北の発表が事実なら、であるが、
既に書いたように、私は今回も嘘だと思っている。なぜなら、北の指導層は、
世界中の情報をよく知っているからである。拉致被害者の会の代表(横田氏)が
クリスチャンであることを、当然、知っている。この会が、喉に刺さった骨の
ように・・・・つまり一刻も早く国交正常化と経済支援を取り付けたい北側は、
会の代表である横田氏の愛娘の死亡原因を、クリスチャンが最もショックを受
ける縊死という形で発表し、腑抜けにしようとの(悪魔サタンから得た)魂胆な
のであった。
実際、拉致被害者は皆、外に語られては困る情報を得た人間たちばかりである。
所詮北朝鮮は、整理・殺害し、あわてて9月16日に資料にまとめただけである。
また、アンミョンジンの情報など・・・・他にも韓国の元工作員などが、93年以降に
横田めぐみさんを見たとの目撃情報が多々あるという。いずれにせよ悪魔サタンは、
今、横田さんたちに最後の攻撃をしかけている・・・・が、彼ら悪魔サタンは敗北
する・・・・主は聖書を通してそれを教えてくれる。

我々には、地上の価値観を超えた希望が、ある。

610477:02/10/02 20:18
>231さん、6bf7XA22さん
だんだんわかったような気がしてきました。

仏教的には(ってか、>愛の理論的には)
>生まれつき、人間は利他的な生き方をする存在
って考えが根底にあるんですね。

だから、自分の本来の自然な感情に身を任せれば、
つまり「自己効力感」を得るための行為を行えば、
結果、利他的行動になるしかない、と。

元々、自分が満足する行為=他人が満足する行為、なのにもかかわらず、
「他人のためを思って」なんて不自然なことをするから、
愛がゆがめられ、結果、自分ばかりか他人をも害する、と。

上の方で231さんが言ってたと思うけど、
要は、現世は本来、自他未分の天国だ、と。
611477:02/10/02 20:19
(つづき)
一方、キリスト教的には(ってか、>毒の理論的には)
生まれつき、人間は利己的な生き方をする存在だ、と。

だから、自分の本来の自然な感情に身を任せると、
つまり「自己効力感」を得るための行為を行うと、
結果、他人を害する危険性がある、と。

だから、神との契約によって、
本来の利己的な自分からの解放を経なければ、
人間は他人を愛することができない、と。

要は、現世は自他が分離した地獄、だから神が必要だ、と。

これが、世の中は二重写しってことですね?
だとすれば、納得しました。
612477:02/10/02 20:20
>>595
わかると思います。
>愛の理論的には、自分を愛することと、他人を愛することに
区別はないということですよね?ただ「与える行為」だけがある、と。
たとえ、相手のリアクションがなくとも、
「自己効力感」を感じることができるとすれば、
それは、自分=他人への愛なんだ。と。
613 ◆6bf7XA22 :02/10/02 21:09
>仏教的には(ってか、>愛の理論的には)
>キリスト教的には(ってか、>毒の理論的には)

あれ。ここの意味がよくわからないのですが、
それ以外の部分は徐々に焦点が合ってきていると思います。

あくまで私の意見なのですが、
イエスも仏陀も、愛の哲学者ですし、
またそうした知恵を最も効果的な方法で他者に与えた、
という意味で最高の実践者だと言えます。
ただ、やはり伝言ゲームに似たところがあって、
誤解に誤解を重ねている宗教団体は、少なくないのです。
それはキリスト教も仏教も、変わりません。
また、愛を理解している宗教団体に所属している信者が、
皆、愛を理解しているとも限りませんしね。

ウェブで検索すれば、
どう考えても、発想が親に呪われているとか、
アダルト・チャイルドそのものの共依存な教義とか、
ナルシシズムの毒を撒き散らしているだけの宗教家のサイトが多い。

でもそれは、イエスや仏陀には何の責任もないことです。
そして、あなたにも私にも責任のないことです。
614477:02/10/02 21:20
>>613
ああ、そこは231さんの>>605のレスを受けて、ですから。

西欧のキリスト教解釈=毒の理論
仏教とキリスト教の本来の解釈=愛の理論

でもいいです。
615 ◆6bf7XA22 :02/10/02 21:28
>>590
生まれたばかりの「子供」は、皆、生きるために「毒の発想」なのです。
奪うこと、自分が優れた人になること、そこに喜びを見出す人なのです。
与えるときも、自分に不用な物か、
自分が十分に持ってからその上澄みである物、しか他人に与えません。
そんなことをしていながら、相手の満足を考えて与えたと考えています。

親は、必ず子供を傷つけます。それが親業という仕事ともいえます。
親に、愛の知識、すなわち傷を自力で癒す力があれば、
自然と子供はそれを見て学びます。

男の子には、愛を知る母親が必須です。
父親は別の役目を負うので、実はあまり重要ではありません。

女の子は、両親ともに愛を知らなければ、愛を学習することができません。
まず、十分に父親に愛されて、愛を受ける喜びを知り、
次に、その父親と母親の日常の愛のやり取りを見て、
女の子は、与える行為と、同時に受容を与えるのも愛だと知ります。

そうした、愛を学ぶ作業に失敗すると、
いつまでも自分が未熟だと思い込んで、
親との精神的なへその緒を切断しにくくなります。
その子供が成人すると、親に傷つけられた、
親に呪いをかけられた、毒の人間となります。

こうして、世の中に、2種類の人間が存在することになるのでしょう。
彼らが、「愛」というときには、違うものを指して言っています。
水の入ったコップを指して、「水」といっても、
コップなのか、中の液体なのか、傍で見ている私たちにわからないのと同じで、
2つの文化が共存しているのです。
616 ◆6bf7XA22 :02/10/02 23:03
>>614
そうですね。

231 さんの >>605 の話は、
権利義務関係=ルールを設定しようという意識そのものが、
愛を見失わせる原因だと論じているのでしょう。
私もそう思います。
何であっても強制されると、愛は簡単に消し飛びますから。

中世の騎士の話は、初めて知りました。さすがドライですねえ。

だいぶ昔の話ですが、石の文化である欧米と、
森の文化であるアジアとの対比で語る文化論がありました。
草木も水も豊かなアジアでの宗教と、そうでない欧米の宗教は、
ゴールが同じでも、そのやり方は大きく違いますね。
617477:02/10/03 02:40
>>616
>ゴールが同じでも、そのやり方は大きく違いますね。
いや、愛と理論>>610と、毒の理論>>611じゃ
基本的な人間観も違えばゴール違うじゃん。

と一瞬思ったけど、よく考えると、やっぱりよくわからないっす・・・。
618477:02/10/03 02:59
>>616
正直言うと、>>610>>611のどっちが愛で、どっちが毒かも、
よくわからなくて・・・。
619名無しさん@1周年:02/10/03 05:54
我々には自由意志は無い。神の愛の総てを知る事は不可能である。
神により縛りつけられた地上のあらゆる悲惨ですら、神の愛として受け入れねば
ならない。
620名無しさん@1周年:02/10/03 05:58
>>605
神と人との契約が対等の関係に基づいてるなど、キリスト教徒は考えてはいない。
621名無しさん@1周年:02/10/03 05:59
◆6bf7XA22 氏へ。
現象の説明に偏りすぎ。
622 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 09:55
>>621
つらいとこなんですよ。

私は全てをわかってるわけじゃない。
自分の頭で何年かかけてわかった部分だけ、
それも、私のわかり方、を話すしかないわけで…
もっと心に染み入る語りができればなあ。
ここのスレを読んでも、宗教家の方は上手ですよね…

理屈で追い込むと消えてしまう、
理由を探すと形が変わってしまう"モノ"を、
正確に伝えるには、あなたの手助けが是非とも必要なのです。

カキコ参加している みなさんのやりとりの中で、
名前がついてないまま、あなたの心の中に転がっている「モノ」を
そっとつかんで欲しい。
ひとつわかった瞬間に、全てがわかります。

623 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 09:57
あれ。トリップ変わってる( ゚Д゚)
624名無しさん@1周年:02/10/03 10:45
ネオも愛してくれ。
625 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 11:26
>>617-618
言葉の定義が合っているかわからないんだけど、
利己的・利他的の言葉の意味が混乱しているかな。
もしくは、その分け方が乱暴に見えます。

利他的な行為も、実は利己的な行為と源泉が同じものがあるのです。
また、自分のことを考えることが、全て利己的・エゴイストと責めるのも間違いです。
こう書くと、いろんな反論が聞こえてきそうですね。
「いや。利他的な生き方は、他人の利益のことを考えているよ」
「利他的な助け合い、思いやりの方が利己的と比べて素晴らしいはずだ」
「人間が自分の利益を追求するのは当然ではないか」

それに対して、私はこう答えます。利他的とされる行為には、
・他人のために、(必然的に)他人の利益になるようなことをする(与える)
・自分のために、(偶然に)他人の利益になるようなことをする(与える)
の2種類があると思うんですよ。

また、自分の利益、自分のため、と言っても
 ・すばらしい自分(主体)になることが目的なのだから、
 そのための、金・物・名誉・学歴・資格・宗教的賞賛などが利益である
 ・誇らしい"行為"で人生を埋めて、充たされた瞬間を味わい続けることが利益である
の2種類があると思うんですよ。
626 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 11:41
んでね。
 ・他人のために、(必然的に)他人の利益になるようなことをする(与える)
方は、ちょっと変なんだな。

なぜなら、他人の利益は他人が判断するべきでしょう。
与えるものが他人のためになるかどうかなんて、わからない。
相手が感謝していたとしても、わからない。
なら
「これがおまえのためになることなんだ」という行為者の思い込みに嘘がある。
結局、行為者は、表面上キレイ事を言っていても、
 「他人に必要とされる必要に飢えている」
だけなんだな。
相手に対して、自分の事も同じように考慮してくれよ、と言っているんだな。
要するに自分のことしか考えていないわけ。
627 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 11:45
利己的な行為をして、他人からエゴイストと責められた経験があると、
軸を同じにして、その反動である利他的な行為に走りがちなのです。
でも巧妙に隠していますが正体は同じです。

 ・他人のために、(必然的に)他人の利益になるようなことをする(与える)
 ・自分のために、(偶然に)他人の利益になるようなことをする(与える)

の違いを見分けるのは簡単。
相手に断られたときに、行為者がどう反応するか観察すればわかります。
怒る、当惑する、悲しむ、がっかりする、恨む、など感情が乱れますから。
それは、せっかく
・他人のために、(必然的に)他人の利益になるようなことをする(与える)
であったのに、裏切られたために怒りでいっぱいなわけです。
628名無しさん@1周年:02/10/03 12:15
自然世界が示す法には、格個独立された「我」なるものは存在しない。
それに対してある、人間の「我有り」という妄執を無くせば、誰彼の違
いなく「ただ愛する」という想いが残るでしょう。そこに一切の差別は
ありえない。
629死後の世界信じないよ:02/10/03 12:55
どうも実践編では解りにくい。
たとえば 自分の娘が、明らかな似非宗教に入信しようとしますね。

この場合、親は娘の心を尊重し、素直に送り出すのが、「愛」なのか、
自分の信念を信じ、全身全霊で娘を説得するのが「愛」なのか?

もし前者なら、「娘を信じる」、といって逃げているとしか思えない。
もし後者の場合、その延長上には、全てのことを親の信念で、コントロールすることにもつながる。

似非宗教の部分が、今の北朝鮮。暴力団。ソープ嬢 なんでもいいんです。

◆TX6bf7XA22の おっしゃる「愛」で考えると、どんな答えになるんでしょうか?
630231:02/10/03 13:31
いよいよ、行為に議論の焦点が移ってきましたね。

>>625で、◆TX6bf7XA22さんが問題にされているのは、「〜のために」という動機
ですよね。同じ行為でも、動機が違えば「利己的」とか「利他的」とか言っても
微妙に違ってくると。

またまた仏教の受け売りになりますが、極楽も地獄もその人の心次第だ、と言います。
たとえば、商売で売り手と買い手がある商品を1万円で取引したとして、お互いに感謝
した満足な取引も、疑心暗鬼で激しい値引き交渉の結果も両方あると思います。この
場合「一万円で商品を交換した」という行為には違いはありません。

自然界の食物連鎖にしても、弱肉強食と見ることも可能ですが、お互いに犠牲になり
合いながら共存していると見ることもできます。むしろ、見る人の心の状態で同じもの
が極楽に見えたり、地獄に見えたりするのだと思います。
631231:02/10/03 13:42
さらに、もうひとつ問題提起があります。>>625では行為に限ったわけです
が、「好意でやったつもりが仇になった」という矛盾はよくあることです。
この場合、行為がもたらした結果にまで人間は責任を取らねばならないので
しょうか。>>629でも取りあげられているように、「愛の行為」を思ってなし
たことがどういう結末に終わるかは、誰もわからない。

>>619さんが「人間には自由意志がない」と言ってますが、これは間違いだと
思います。自由意志はあるんだが(利他的な行為をしようと決意することは
できるんだが)、結末は必ずしも保証されない(行為が本当に利他になるかは
わからない)と言うべきですね。

結局、俗っぽい表現で言えば「人事を尽くして天命を待つ」という結論になる
と思います。愚かな自分が「これは利他的行為なんだ」と信じて行動を起こせば、
たとえそれが愚行だとしても、あるいは結果的に相手に迷惑をかけることに
なっても、きっと神が最善の結末につながるように取り計らってくださるに
違いない。「動機」は自由意志で選び、「結末」は神任せ、という感じです。
632 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 15:01
>>629
まず具体的な行為の議論に移る前に、注意すべき点があります。

愛の行為は、"一切のルールに縛られずに"、
 自分にとって価値のあるものを、自分が与えたいから与えます。

だから、死後の世界信じないよ さんの状況で、
「愛なら何をすべきか」という規範は、そもそも愛になじまない、
という仕組みを、まず了解すべきでしょう。
皆が「俺ならこうする」としか言えないのです。
たとえそれが、他人が非難することでも、社会的・宗教的規範に反することでも、
その人その人の愛のあり方が、具体的に違うのが、愛の本来の姿なんですね。

ポイントは、
私は与えつづける、彼女がそれを受けるか捨てるかの自由すらも喜んで与える。
633 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 15:01
まず、止めます。
反社会的な団体に所属することに、何の価値も見出せない私だからです。
翻意しなければ、体を張ってでも止めます。ガンコと化します。
親子を超えて、人間と人間の生き方に関する主義主張の戦いです。
でも、親に止められた程度で翻意するような娘には育てませんから、
それで娘が翻意したら安心しますが、がっかりもするでしょうね。

一致点が見出せなければ、彼女の好きにさせます。
赤の他人は「逃げているとしか思えない」と非難するでしょう。ぜんぜん構いません。
私は、娘の「失敗の権利」まで奪うとしたら、自分を許せないと思うのです。
ですが、娘が反社会的団体へ走っていっても、娘を信じることはありません。
ただし、死ぬまでじっと娘を見つめようと思います。
見つめ方は、人それぞれ、状況次第。
634 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 15:02
両親が見つめている、関わろうとしている、
遠くから愛されていることを、迷惑としても、娘はそれを知っている、
もしくは、いつの日か娘が知ることになる。
そのことだけでも、彼女は救われると思うのです。

人間は、生きてさえいれば、いつか良い方向に変わるもの。
彼女が変わるためのきっかけは、世の中に愛を見つけたときだと思います。
私は、彼女が愛を見つけやすくするためにも、誇り高き行為で埋められた人生を、
自分が送って見せてやらねばならない、と思うのです。
自分がそうである限り、彼女もまたそうである証明なのです。
635名無しさん@1周年:02/10/03 15:03
>>632
そのひとそのひとで違うけど、いっしょってかw
636 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 15:14
>>635
? なぜ一緒になるの?

親は娘の心を尊重し、素直に送り出すのも、
自分の信念を信じ、全身全霊で娘を説得するのも、
愛となりうるんですよ、
何を娘に与えるかは、与える親本人が選ぶのですから。

もちろん、すべてそれらが愛であるとはいいませんが。
637 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 15:17
あー、>>633-634 は私の場合ね。
これが「愛の姿だ」なんて言いませんよ。
短くする際に削ってしまいました。失敗。
人それぞれ。
638名無しさん@1周年:02/10/03 15:37
自分の娘が明かな似非宗教に入信しようとしているのを見て、止めない親が
いますかねえ。まず止めるでしょう。そして親なら止めさせるでしょう。
釈迦の出家だって親に止められたのだし。親の愛とはそういうものでしょうね。
「親ばか」という言葉があるじゃないですか。貴方も人の親なら解るでしょ。
それに、愛は語るものじゃなく、心の行為ですよ。
百万弁愛を語ってもな〜んにもそれ自体に意味はないですよね。自分の心に聞
いてみるのが一番いいと思うけど・・・。何故愛に差別があるのか…ね。
639 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 15:53
たとえば北朝鮮で金正日万歳ってとこに、
娘が「自由主義と民主政を勝ち取る"似非"団体」に入ると言い出したら、
>>638 さんは、「止めない親が世間にいないだろうから」止めるわけですね?

愛は、こうすべきだ、と言った瞬間に消えるんですよ。
640死後の世界信じないよ:02/10/03 17:34
>>631
>愛の行為」を思ってなしたことがどういう結末に終わるかは、誰もわからない。
そうなんですよね。 本当の事は誰にもわからない。。親のエゴだ、と言われるのが分かっていても
心配な目で見てしまうのが親心なんでしょう。

>◆TX6bf7XA22 さん。ありがとうございます。◆TX6bf7XA22 さんが「止める」と言ってくれて安心しました。
子供をモット信じろ、って言わせたくないために極端な例を出しました。

僕の問いは「愛」にそぐわないかもしれません。親子の戦いと見るべきでしょう。 親には「愛」の部分も
少なからずあるんでしょうが、思い込みや 押し付けにならないことが 大事なんでしょうね。
そこは ◆TX6bf7XA22 さんの 「愛」の形が必要なんでしょう。

実践としてどう表現するのか? 「愛」は難しい。でも 今回のレスが僕には一番納得できました。
今度は嫁さんにどう実践して「愛」の家庭を築くのか? うーーん こりゃムズイ。。
641 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 17:49
愛がある、なしの例を考え続けてました。

適当な例じゃないかもしれませんが、
>>633-644で、見つめるパターンのひとつを挙げましょう。
その反社会的団体に飛び込んで行った場合、

仮に娘から、「なぜ来たの? こないでっ」と言われたときに、
親はとっさにどう言うか。

 1)「あんたみっともない」
 2)「私に恥をかかせないで」
 3)「世間様に顔向けができないよ」
 4)「私の迷惑を考えたことがあるのか」
 5)「私がどんなにアナタのことを考えているか」
 6)「おまえのためだっ」

…娘は動かないでしょう。
そもそも似非宗教にハマル娘は、そうした情緒的な侵入6パターンを
言い続けられて、心がボロボロでしょうしね。
642 ◆TX6bf7XA22 :02/10/03 17:49
毒の親は、どーしても、たとえば以下のような愛の言葉が出ない、

 7)「私がそうしたいからよ。理由なんかないのよっ!」

これが言えないんでしょうな。理屈もない、相手の都合も無い。
私がそうしたいから心地よいから、(=自分のために)
アナタを助ける、(=アナタの利益になるかもしれないものを与える)

>>631 で 231 さんが、自由意志を強調していたのがわかります。
そうなんですね。
"仕方なく"やった行為でなく、親が自発的にしてくれることが、
ポイントなのですね。
やはり相手から拒否されたときの、とっさの反応で明白にわかってしまうから、
小手先のテクニックじゃダメということですね。

 「私の人権はどーなるの、私の居住の自由は…」
 「知らん」

法や世間体、道徳による縛りの無い、宗教的な義務感もない、
自発的な自由意志にこそに、愛がある例として。
643死後の世界信じないよ:02/10/03 19:57
実は僕には娘はいません。娘もほしかったのですが、神はくださらなかった。
>>641 
もし娘が、反社会的団体に飛び込んで行った場合ぼくなら、
まず、本人と出会い、向き合い、 ぶっ飛ばしてつれて帰るでしょうね。

何が正しいのかは分からない。でも ぼくは ガキどもが好きなんですよ。
無神経で、押し付けがましくても、僕がみんなを大事に思う心だけは それなりに伝わったようです。
ウザイと言われながら、フト僕のことを心配してくれたりすると涙が出てきます。

実践として、◆TX6bf7XA22 さん、と 「愛するということ」 もう一度見直してみます。
644名無しさん@1周年:02/10/03 21:29
>>622>>631
人には自由意志はない。
故に、>ひとつわかった瞬間に、全てがわかります。ー 判り得ない。
そして、「愛」を行為の結果でしか、評価(理解ではない)し得ない。

一応書いとくが、◆TX6bf7XA22 氏の主張を否定してる訳ではない。
但し、キリスト教理解には疑問。
645名無しさん@1周年:02/10/03 21:54
>>632
>愛の行為は、"一切のルールに縛られずに"、
自分にとって価値のあるものを、自分が与えたいから与えます。
神の召命に基づく、しかし、その広範さと深遠さは人には測りがたい。
しかるに、イエスを地上に遣わした。(と我々は認識する。)(これこそ
が神の愛そのものであるが、)イエスの人性によって、人の愛を知りうる。
その奥義は「行い」にある。聖霊の導きによるものでなくてはならない。
我々如きの認識程度では、地上に愛は残酷なまでに具体的、且個別的、多
様性を持つ。

646名無しさん@1周年:02/10/03 22:08
「愛でない」の例
以前、ホームレスの方に施したことがある。「この方はイエスかもしれない。」
と聖マルティヌスの話を思い出しながら、正直なところ少しの勇気が必要だった。
当時、まだ、信仰心は熱勢に近いものであった。その方は喜んでくださった。神
の召命たる行為を少し果たせたという充実感があった。
しかし、その方が「ありがとう」といって、手で肩をたたいてくれた時、「汚い」
と感じた。
 これは、決して「愛」ではない。「愛」そのものでは決して、無い。少なくとも
俺にとっては「愛」そのものを行えない。ただそれを求め努力するのみの存在であ
る知った。
647名無しさん@1周年:02/10/03 22:21
「愛」は分析認識するものではない。神認識と同種のものである。
とすれば、その神聖を冒す事無い様に、ただ(神に対し、自らの「救い」とは
関係無しに)忍耐と服従をもって「行う」のみである。それは、曖昧な目標で
あり続け、この我々の悲惨さを受け入れた上での事である。
いずれにせよ、「愛」は実践の中での具体的、個別的なものとして、個人の実
存にのみ(地上に於いては)存在する。
648名無しさん@1周年:02/10/03 22:31
くどいようだが、自らの肉体を御しえない、この悲惨な我々には
”自由意志”はない。
我々は、この”時間性”縛られ普遍的に適用される「善悪の判断」は不可能
であるからである。

 (プロテスタント)
649名無しさん@1周年:02/10/04 00:02
自由が無いということは、
愛が無いと言うことになるわな。
650名無しさん@1周年:02/10/04 03:06
>>649
そうだ。漫然としてる奴には愛はない! 行え!!
651名無しさん@1周年:02/10/04 03:29
愛は花 生命の花
きみは その種子
652231:02/10/04 09:45
>>646

ホームレスの人に肩を叩かれたら、誰だって汚いと感じると思いますけど。汚いと
感じた時点で「愛」ではなくなってしまうというのはどうでしょうか。もしろ
「汚いと思ってはならない」という思い込みこそが贋の愛なのでは。まさに、
◆TX6bf7XA22さんの主張=「こうすべきだ」と言った時点で愛は消えうせる、の
模範例?ではないでしょうか。

「汚い」なら、洗えばいいんですよ。「お前、汚いな。たまには水浴び位しよろ。」
と注意してあげることが本当の「愛」なのでは。「汚い」のに「汚くない」と偽らざる
をえないのは、実は「汚い」にものすごくこだわっている証拠です。人はいつも本心が
あらわにならないよう必死の偽装工作をしている。最初から、「汚い」ことを大したこ
とだと思っていない人なら(だって、洗えば済むんでしょ)、「お前、汚いよ」と
平気な顔して言えるはずです。
653 ◆TX6bf7XA22 :02/10/04 09:50
>>630
>またまた仏教の受け売りになりますが、極楽も地獄もその人の心次第だ
そうですね。結局は最終的に心の中に戻っていくわけですね。

こんな話を聞いたので紹介ます。
どなたか原典をご存知の人がいたら、教えてください。

 地獄にも、天国にも
 あるものは全く同じなのです。
 大きな皿に料理が盛ってある。
 そこには恐ろしく長い箸がある。

 地獄の者たちは、先を争って食べようとする。
 けれども、箸が長くて口に運べない。

 天国の者たちは、互いに与え合おうとするので、
 大きな皿を挟んで、長い箸は丁度良い。

この話は最近知ったのですが、
この世の二重映しの様子を、見事に表現しているように思います。
でも、どちらが優れているか、正しいかではなく、
好きな方を、運命と意思で、選択しているだけだと思うのです。
どちらの者も一所懸命に生きている。それに変わりは無いのですから。
654 ◆TX6bf7XA22 :02/10/04 10:08
>>651
よくわかります。
愛で、己の権力を感じれば、体に生命力がみなぎるのを感じますから。
私はその種子ですか。なるほど。

なにかの歌詞ですか?
私はメロディーは一発で記憶する特技があるのですが、
そのかわり歌詞は全く記憶できません。カラオケでいつも馬鹿にされます。
ギターソロ部分やイントロは完全に再現できるのに…(w
655 ◆TX6bf7XA22 :02/10/04 10:39
>>653
…訂正です。
なんかよく考えたら奇妙ですね。
他人を愛すること>自分を愛すること としている点で、
共依存的な匂いがします。

箸を折って、みんなが自らで食べてこそ、自己効力感ですもんね。
その上で相手に与えないと、愛にはならない。

ということで、>>653 はうそですね。
あぶない、あぶない。
656名無しさん@1周年:02/10/04 11:29
ネオも愛して
657231:02/10/04 12:12
>>655

そうですね。その箸が鋼鉄製で折れないものとして、「ねえ、私の箸が長す
ぎて食えないんだよ。おたくの箸でちょっと食わしてくれんかなあ」と頼む
感じだと思います。「そうかい、実は私も同じ問題で困ってたんだ。お互い
様だねえ。」というのが天国なのでしょうね。もし、「自分は与えるだけで
受け取らない」という人が居たら、それは聖者でも何でもなくてただの悪魔
でしょう。与えるだけで受け取らないような存在は神様しかありえないから。

良寛さんは、しらみを一杯湧かせていたのですが、そのまま放置していたそう
です。その理由が「私は、いつも他の生き物を食わしてもらって生きている。
だから、私が食われる番が来たら、自由に食わしてやるんだ」だったとか。
これが「自分を犠牲にしてしらみに食わせる」だけなら、似非聖者の偽善的
行為でしょう。ちゃんと自分が他から世話になっているという意識が底に
あるから「愛」になる。ホームレスだって、自分の代わりにリストラの犠牲
になってくれているという視点があるわけで(社会の責任=自分自身の責任
という面が必ずあります)、結局は「お互い様」と感謝しあう「愛」しか
ないと思うのです。
658231:02/10/04 12:31
私が>>630を書いた時に念頭にあったのは、「一水四見」の教えです。
ttp://www.cable-net.ne.jp/user/terao-ji/teraB6.htm#A74

出典は明らかにされてませんが、こういう記事もありますね。
ttp://dx.sakura.ne.jp/~kameno/i/23.html
「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」というのはいい言葉だと思います。
自分と他人を分けるから、利己主義者や、反対に利他主義一本槍の似非聖者ができ
るので、最初から「自他不二」で考えればよいのでしょうね。

「隣人を自分自身のように愛せよ」というイエスの言葉は、実に無限の深みを持つ
と思います。
659名無しさん@1周年:02/10/05 02:28
>>652
貴君の愛に対する考察は殊勝なものである。しかし、愛を概念上の客観存在とし
分析対象とするのは否定する。そして、それは「こうすべきだ」と言ったとき、
愛は消え去るという、貴君の一つの結論とは(貴君の考察のレベルに於いて)矛
盾する。人が愛を愛と認識せねばならない普遍的要件なるものが「あらねばなら
ぬ」とは考えない。更に、あると仮定しても、それを知り得ないと考える。それ
は貴君の実存であると言わせてもらう。貴君のその考察は貴君が主体的に考え始
めて形をもったものであり、つまり、主体(主観)を必要とする。

>「汚い」なら、洗えばいいんですよ。「お前、汚いな。たまには水浴び位しよろ。」
と注意してあげることが本当の「愛」なのでは。「汚い」のに「汚くない」と偽らざる
をえないのは、実は「汚い」にものすごくこだわっている証拠です。人はいつも本心が
あらわにならないよう必死の偽装工作をしている。最初から、「汚い」ことを大したこ
とだと思っていない人なら(だって、洗えば済むんでしょ)、「お前、汚いよ」と
平気な顔して言えるはずです。
 「汚い」に否定的イメージを万人が抱いてる事を知っているならそのような
対処は適切ではないし、それを知っているなら下段の仮定は成り立たない。そ
もそも、その行為は神に対する行為であるべきで、その方に奉仕するにあたっ
て、神の望む心持ちで行えなかった自分に対する俺の主体的評価として、愛を
実現する行為ではなかったと裁いた。しかし、自らの欠落を以前より意識でき
る様になったのは、益であった。
660名無しさん@1周年:02/10/05 08:08




愛 は具体的
頭の中のものではない



661名無しさん@1周年:02/10/05 10:37
>>660
だから、行為なんだろ?
662 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:04
>>499
>よその家を覗くようで恐縮ですが、
>愛を深める実例をお教えいただけると感謝です。

ずっと悩んでいました。どうやって説明しようかと。
私自身は愛のエキスパートどころか、日々未熟な練習状態ですから、
傍から見ると、ずいぶんとけったいなことをしていると思います。
何の意味を持つ行為なのか説明しないと、
「やってみた、効果がわからん、ごるぁ」となるでしょうし、
それを私が説明するよりも、>>392 を読まれたほうがわかりやすい。
そこで、おおまかに何をしているのかを書きます。

愛=与える行為は、キャッチボールのようなものです。
孤独な状態でできる練習もありますが、壁相手だとどうしても限界があるので、
付き合ってくれる相手がいれば、練習しやすいです。

傷つけられまいと身にまとっている心の鎧を、お互いに外して、
休戦状態に持ち込めるパートナーがいると楽です。
パートナーと細心の微調節をしながら、対等の関係を維持します。
簡単に、その状態になれるパートナーもいますが、
大喧嘩や話し合いを繰り返した末に、そこまで持っていく場合もあります。
私の経験では、ハナシガワカル良い子な人とほど、大喧嘩を通過しないと、
バリア・フリーになれませんね。
663 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:04
で、
ともに、"愛"や"親子の傷"について問題意識を持って、相談しながら、
互いを練習台として、一緒にスキルを積み上げていきます。
妖しげな呪いやカルトは刺激的ですが、それ自体に毒入っていますから一切排除です。
参考書や他人の助言も効果的ですが、最終的には自分の「快」の感覚が頼りです。
本当に自然な考え方というのは、それに触れると、不思議と気持ちがいいものなんです。
愛を知るということは、あなたの本来の約束されていた姿に成長することなのですから。

正しい方向に理解が進んでいるかどうかは、理屈ではわかりません。
愛を感じるときには、忙しくても元気いっぱいオーラです。
毒に落ちているときには、どよ〜んと疲れて暗いです。
これは、毒を含んだ人間ほど受身なので伝染しやすい。
愛を感じやすい状態は、要するに自尊心(self esteem)が高い状態。孤高の状態。
交流分析で言えば、FCが高く、ACが低い状態。
大脳でいえば、偏桃体(快と不快とを判断する器官)を修復する作業です。
各人の受けた傷が多様なのに応じて、訓練内容にはかなり個人差があると思います。
664 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:04
>>391 の4冊目には、
女性が、傷を癒して愛の行為ができるようになるためには、
最初に、愛の行為を行える年配の夫婦を見て、次に、年上の女性から十分に愛されて、
最後に、知恵と勇気のある男性が、必要」とあります。

知恵というのは、愛に関する正確な知識と、
それを行うための創造性を指しているんじゃないかと、思います。
勇気…これが難しい。私の理解は >>484 に書きましたが、
勇気を失わせる強さには、知識の理論武装も含まれます。
知識がつけばつくほど、同時に勇気を持つ必要性がなくなっていくんですね。
だから…必要なのは、知識、じゃなくて、知恵なんですよね…。
665 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:16
>>644
私もあなたを否定しません。
あなたは全面的に正しいと思います。あなたの矛盾は何も無い。

ですが、私は、その3つを完全に否定します。
論理的にスジを通すには、その3つを、同時に肯定するか、全て否定するか、しかないのです。
世界は、二重映しなのです。

あなたは、他人の間違いを正しにきたのですか?
そうであるなら、無駄なことです。
あなたも私も正しいのだから、
相手を論破することが、自分の正当性の証明にならないのです。

あなたは、自分の間違いを拾いにきたのですか?
そうであるなら、私は助けになれるかもしれません。
私が言える、あなたの最大の間違いはただひとつです。
人間は、すべて他人が自分と同じだと思う出発点から間違いを生じさせます。

あなたが神で無い以上、どんなに努力をしてもあなたは不完全です。
不完全なゆえに、私たちの論じている愛が、たまたまあなたに見えないとしても、
なんら間違っているわけではないのです。
666 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:16
神はおそらく、愛も毒も同時にその手に持ち理解することができるのでしょう。
ですが、人間は、どちらかひとつしか持つ事ができません。
あなたが、愛を感じようと思えば、
それはあなたの理屈と trade off の関係にあるのです。

>>645
そう、その立場で愛を語ろうとすれば、
愛は人の可能性にはならず、人の手を離れてしまうので、
必ず、なんらかの別の支配に依らざるを得ない。
そのように、愛を受け渡し可能なモノとして扱えば、
愛はひとつの姿にならず、具体的、且個別的、多様性を持ちます。
あなたは論理的に一貫しています。
667 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:24
>>646
そうです。あなたの感じている通りです。
>>652にて、231さんが明快に説明していますね。
「この方はイエスかもしれない。」と思った"から"、施しをしたのであれば、
そう理由づけした瞬間に、あなたの周囲から愛は消えたのです。

消えた、というのは、すでに愛が見える人の言い方なので、
あなたが不審に思うのは当然です。
愛は、己の行為に対して主観的な評価が付随した、与える行為の感覚です。
それを感じられない人もいるのです。それは子供の頃の傷を抱えている人で、
彼は、その自己効力感をひたすら殺して生きているからです。
だから、周囲に愛はあるけれど、あなたには最初から見えないのです。
668 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:25
人を愛した後で、その理由を聞かれて、その理由が無いことをいうのに、
「その人の中にイエスを見たから」と答える説明とは逆ですね。
あなたはその理屈を逆に使うことで、理屈のループの中にいます。

愛が無いということが判っている(?)のに、
愛が存在していることがわからない、ということは、
それは結局、私の言葉でいえば、
あなたがわかっているのは「飢え」だけなのです。
おそらく、慈悲と愛の区別がつかなくなっているのでしょう。

愛がわからないくせに、見たこともないくせに、
それを目標にするなんて…
669 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 12:25
>>647
その立場で、愛を実践すれば、
終着駅は、商人的交換か、自己犠牲的忍耐のどちらかしかありません。
あなたは、後者を選んだのです。

現代の私たちの、陥りがちな勘違いのひとつが、
知識を多く得れば、より多くのことを予測できる力を得たと思い込むことです。
学生時代に習慣づけられたその思考様式は、間違いです。

欲して見つけられないものは、神聖なもの。
自分の目線よりも高くにあると思うでしょう。
そこに無ければ、さらに手を伸ばそうとするでしょう。
でも届かない。愛に対するあなたの怖れは、よくわかります。

ですが、愛は、あなたが踏みつけているその足の下にあるのです。
あなた自身が、がんばるのを止めて、理屈を忘れかけたときに、
ただひとつ残るのが愛なのです。
ひとつが判れば、すべてがわかる、とはそういうことです。
670 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 16:27
>>499
<偏桃体の鍛え方1>

1) 自分の本当に好きなもの、気持ちが良いものを知ること
 BOOCS ダイエットでは、食に関する偏桃体の異常を「脳疲労」しています。
 http://www.boocs.co.jp/
 その言い方をすれば、愛を知らないのは、自尊心に関する脳疲労。
 好きと嫌いの勘違いをしていて、健康に悪いものに魅力を感じている状態です。

2) その気持ちが良いものがモノであるなら、肌身離さず身に付けます。
 ピンクが好きなら積極的にピンクのものを身に付ける。
 モノトーンや青などが好きな女性が、愛を知ったとたんに、
 好きな色が赤・ピンク一色になるのも珍しくありません。

3) 本当に気に入っているものだけを買う
 店先で迷う人は、チャンスです。
 恥ずかしいかもしれませんが、その商品を自分の胸に当てます。
 強烈に暖かい気持ち、幸せな気分になれれば、買いです。
 そうでないなら、勘違いの怖れアリ。とりあえず捨てて他を当たります。
 3日たって忘れられないなら、再度店を訪れて同じことをします。

4) 物を溜め込まない
 「何かに使えるかも」と物を溜め込む人は、物を大事にしない人です。
 …だそうです。私も、ここ最近、気前よく捨てられるようになりました。
671 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 16:27
>>499
<偏桃体の鍛え方2>

5) 味わう
 好きなものを、見てにやにやするなり、味わう時間をつくる。
 自分の身の回りの「気持ちのよいもの」目に付くものを見渡して、
 忙しくても、一瞬ちょっと気持ちを分けてやる、気にかけてやる。
 相手と話しても、自分との考え方、感じ方の違いを味わう。

 食事も、相手の味わっている様子を見ながら、ゆっくり摂る。
 自然と「美味しいねえ」「美味しいねえ」と言い合いながら、食べるようになります。
 食卓周辺の色を明るくする。白熱灯に変える。
 自分の好きなものの中から健康に良いもの、それから順に食べる。

6) 制限する方向で解決しない
 問題が起こったときに、互いに制限する方向でなく、
 積極的に行う方向で解決を図ってみる。
 たとえば、お互いに迷惑なことは止めよう、ではなくて、
 お互いに役に立てれば嬉しいね、と。
 たとえば、TVは1日何時間と制限せずに、
 TVは思いっきり見る、その他のことも思いっきり同時やる。
 (そうするとTV見なくなるから不思議)
672 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 16:54
わかります? 何をしようとしているか。

自由というと、無秩序、放任、無責任と捉えがちですが、
それで困るのは、上下関係がある場での支配者なのです。

ルールや制限は、(とくに毒の人間にとっては)
個人の内面において親の監視カメラに縮こまる要因ですし、
二人の対等の関係においても、どちらが支配権を握るかの争いになるのです。
かといって、すべてのルールを排除すると効率が低下するので、
そこらへんは知恵ですね。

人間の内面には、インナー・チャイルドと、ワンダー・チャイルドがいます。
真の自我というべき本来の自分は、どこかへ言ってしまったわけではなく、
心の中でうずくまっています。それを「ワンダー・チャイルド」といいます。
親を始め他人との関係や、環境との兼ね合いで、うまく折り合いをつけた自分もいます。
いわば傷つけられた自我、を、「インナー・チャイルド」といいます。

インナー・チャイルドを慰めてあげて、ワンダー・チャイルドを伸び伸びと成長させてあげる、
そうすれば、好奇心を枯渇させない活動的なイメージが、心の中に育ちます。
愛を送り出す装置、愛を受け止める装置です。
愛に対して、敏感になるための準備体操ですね。
673名無しさん@1周年:02/10/05 17:53
難しいけど、よくわかったっす。
674名無しさん@1周年:02/10/05 18:09
>>648
>我々は、この”時間性”縛られ普遍的に適用される「善悪の判断」は不可能
>であるからである。
これって、今の「善」が、この先も「善」とは限らない、ってことですよね?
675 ◆TX6bf7XA22 :02/10/05 22:43
>>673
ありがとうございました。目が20個。
676名無しさん@1周年:02/10/06 00:21
◆TX6bf7XA22氏へ
誰が愛が無いといった?認識論と実体論を混同するな!
実存に於いて存在し、「行い」にその奥義を見るといっておるのだ。
ついでに書いとくが「自由意志」とは文字通りの自由な意志(思)の事であって、
自由な自己選択とか自由な自己決定の事ではない。
聖書が手元にあるなら、ヤコブの手紙を読み、それを踏まえて、それが自分に向
けられて書かれたものなら、どのような、その読んでいる主体に影響するかシュ
ミレーションしてみろ。
677名無しさん@1周年:02/10/06 00:27
>まず具体的な行為の議論に移る前に、注意すべき点があります。
 そもそも、上記の如き発言を他人に対し発する貴君は、何の”権威”によって
かような、発言をするのか?

678名無しさん@1周年:02/10/06 00:47
そして、聖書(福音書)に書かれている、イエスの言葉に於ける、「隣人」「あ
なたがた」の対象として、福音書記者が最も意識しているのは(”最も意識して
いる”としている以上、当然、それに限定はしない。)、各福音書によって若干、
相違している。にもかかわらず、信仰するのは、まさに、各自によるイエスの”
実存理解”であり、そこには、主体的な”決意”がある。
軽々しく、>「隣人を自分自身のように愛せよ」というイエスの言葉は、実に無
限の深みを持つと思います。等と妄想するな。(もっとも、その”妄想”は正し
いものだが。)

愛は、「自らを受け入れ、主体的な決意のもと「行い」によって得た”実存”認識
の中に存在し、それは、多様で個別的で具体的な認識として、自分にあるものだ。」
そして、「そのように認識される愛は、人の(地上の)愛で、それを一部とする、
神の愛は、人には計り難いものだ。」と、俺はいっているのだ。
679名無しさん@1周年:02/10/06 00:53
名無しでスマソ
俺のレスは、644 645 646 647 648 650 659 676 677 678 です。
リンクはせん。
680名無しさん@1周年:02/10/06 00:55
訂正、>>678 >神の愛は、人には計り難いものだ。→ >神の愛の”総て”は、
人には計り難いものだ
681名無しさん@1周年:02/10/06 01:07
そして、>>669
>現代の私たちの、陥りがちな勘違いのひとつが、
知識を多く得れば、より多くのことを予測できる力を得たと思い込むことです。
学生時代に習慣づけられたその思考様式は、間違いです。
これは、貴君が、このスレに於いて、してきた事ではないか。
682 ◆TX6bf7XA22 :02/10/06 01:24
実体? >>666 で指摘したとおり、
私は、あなたが愛をモノとして扱っていることは理解していますよ。
私はあなたの何を否定しましたか?

私の立場では、愛は行為です。
歩くという行為に、認識と実体とを区別して意味がありますか?
足の無い人は歩けない。ただそれだけのことです。

あなたの反論(?)からは
ただ「私の父母を取るな。私のものだ」といった態度しか読み取れません。
論理に詰まって権威を問えば、話はそこで終わりです。
どうか権威の活字を勉強して暗記してください。

重ねて言います。あなたは正しい。
後はその正しさを他人に理解させる技が必要なのでしょうね。
あなたも、わたしも :-)
683名無しさん@1周年:02/10/06 05:33
>>682
実体は実態のtypoである。
モノではない。認識に於ける主体に対する客体だ。そして、それは実存認識の
中にある、と言っている以上、モノなる「客観事実」では無いともいっている
ことに留意せよ。
権威については、パリサイ人とイエスの会話からからの引用である。
論理に詰まっているのは貴君である。権威を自己の感覚に依っている。その権
威はこちらとしては、父なる神と父の遣わした御子イエス、聖霊、そして、そ
れを記述する聖書に依るとする。
「行え」というのが、当初からの俺の主張であり、この点につき一致してるか
の様に思えるが、「これはこうであれはあのようだが云々なる注意が必要だ」
などという空虚な思索を、しかも、他人に対して行ったではないか。
そして、今、ここで >私の立場では、愛は行為です 等というならば、それは
>まず具体的な行為の議論に移る前に、注意すべき点があります なる発言は、
(矛盾とは言わないが)不注意である。そして、、「〜と思う」という表現を
使用する点資料を提示する点(キリスト教では云々、等もそう)、「〜と思う」
という表現を使用する点、つまり、自分の言葉で語らぬのは主体的な決定に基づ
く確信に欠ける所があったと判断する。
684名無しさん@1周年:02/10/06 05:34
俺のこの方法論についても述べてるが「説得」、他人の「理解」等、求めては
いない。信徒に対するなら、聖書の該当箇所を示せばよい事であり、信徒意外
の人に対するなら、それは、「伝道」を目的とした行為をとる。
わざわざ面倒臭い「論理」を用いたのは、俺の主張が、実存といえるだけの下
部構造(論理性に於いて)を有する、主体的確信(決意)に基づくということ
の表明である。
「態度」については、弁明する赦しをいただく。本意ではない。最近、キリス
ト教関係スレに於いて、URL貼り付けの荒しが多いが故の防御策であり、これ
は、貴君、並びにその対話者の感情を乱すであろう事について「罪」にぞくす
るのは自覚している。しかし >「私の父母を取るな。私のものだ」はあたら
ない。上記の理由とともに、そうしようと思ったなら、HNを使用する。ここで
は使わぬ。
685名無しさん@1周年:02/10/06 05:35
更に、元々は貴君の対話者に対しての”もう一つの”主張を示すのが目的だっ
た。当然、そこに反証を提示するのは、いた仕方が無い。
>他人に理解させる技 実存に依拠せざるを得ないと言っている以上、(全くと
は言わないが、自らの欠落の自覚により)、さほど必要性は認められない。
俺のこの方法論についても述べてるが「説得」、他人の「理解」等、求めては
いない。信徒に対するなら、聖書の該当箇所を示せばよい事であり、信徒意外
の人に対するなら、それは、「伝道」を目的とした行為をとる。
わざわざ面倒臭い「論理」を用いたのは、俺の主張が、実存といえるだけの下
部構造(論理性に於いて)を有する、主体的確信(決意)に基づくということ
の表明である。
686名無しさん@1周年:02/10/06 05:37
「態度」については、弁明する赦しをいただく。本意ではない。最近、キリス
ト教関係スレに於いて、URL貼り付けの荒しが多いが故の防御策であり、これ
は、貴君、並びにその対話者の感情を乱すであろう事について「罪」にぞくす
るのは自覚している。しかし >「私の父母を取るな。私のものだ」はあたら
ない。上記の理由とともに、そうしようと思ったなら、HNを使用する。ここで
は使わぬ。
687名無しさん@1周年:02/10/06 05:42
更に、元々は貴君の対話者に対しての”もう一つの”主張を示すのが目的だっ
た。当然、そこに反証を提示するのは、いた仕方が無い。
だから、今、貴君と対話しているのは予定外であった。
>他人に理解させる技 実存に依拠せざるを得ないと言っている以上、さほど
必要性は認められない。 これを”全くの必要性云々”と言わないのは、自ら
の欠落の自覚故、という事にさせてもらう。

688名無しさん@1周年:02/10/06 05:45
>>686は分割の際の不手際である。
689名無しさん@1周年:02/10/06 08:55
なるほどね。
「クリスチャンのいうことが伝わらない」とよく聞くけれど、
この名無しさんの言うことがクリである私にも全く意味不明なのと
きっとそっくりの現象なのでしょう。

分かったような深すぎる話よりも、
単純な頭のわたくしとしては、
丁寧な話を希望しております。自分のために。

禁止の方向で物事を進めない、というのが
わたくしの経験上も、自己効力感を得られる愛の行為でしょうから、
名無しさんのホームページなりの代用が求められている、
ということで、どうでしょう?
690 ◆TX6bf7XA22 :02/10/06 13:38
愛はキリスト教の中にある。 …一部のキリスト教関係者にとっては。
愛はキリスト教の外にある。 …それ以外の人々にとっては。←悪魔?
それは、権威主義と実証主義の対立でもあったのですね。

愛が、その性質上、キリスト教や仏教成立より、はるか昔から、
それも、ヒトという種がアフリカ中央部にて集団生活を開始した時点には、
存在していたことを考えれば、私にとって、概念としての愛は予約済みなのです。>>457
よって聖書の活字の権威は必要ありません。
私にあるのは、心理学・精神医学や大脳生理学その他から得られた知見を助けに、
愛を自ら検証した結果だけなのです。
あとは、ご覧の方々の各自の判断ということで。

以前、このスレで「せよ」の排他的な匂いを感じて、一時控えていました。
ですが、>>231-232 での指摘で、考え方を改めてまた復帰しようと思ったのです。
その点で >>231 さんには密かに感謝しています。もちろん >>1 さんにも。みなさんにも、
そして、いまふたたび >>644 さんにもね。

いつも感謝の言葉で締めくくる >>1 さんの優雅さの真似をしてみます。
勉強になりました。ありがとう。
691 ◆TX6bf7XA22 :02/10/06 14:27
>>657
わかったかも。ふふふ。
愛と平和とはよくセットにされますが、何の関係もない別概念だと思っていました。
愛は、むしろ、毒する者に対抗する"とても強い闘う力"を与えてくれるものだからです。
いまでもそれは変わらないのですが、

 「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」

このポイントが、愛と平和との掛け橋のひとつなのかもしれません。
"からだの中を愛でいっぱいにする方法"にある文なのですが、

 「愛は平和を好みます。」  

これ、「愛は平和です」とは言わない。「平和でないと愛がない」とも言わない。
"好みます"…実に慎重な表現で、好きなのですが、
いまいちピンと来ていなかった私だったのです。
平和とは、「奪い合う行為よりも与えあう行為の方が優勢になっている時代」を
指すのかもしれません…ね。
692名無しさん@1周年:02/10/06 21:28
与えるほどのものがないよう
693名無しさん@1周年:02/10/06 21:47
ありますよう
あなたのほほえみ
あなたの目
あなたの手を欲しがっている人が
しらないところに沢山いると

手が動き
ベッドから起きあがれ
物を食べられるだけで
大変な能力だし。

あなたの愛をうけとめてくださるかたが
あらわれますように。

694名無しさん@1周年:02/10/06 21:49
主のあわれみを請うことぐらいしかないのです。
695女性:02/10/06 21:50

隣チンを自分の夫のもののように愛しなさい
696231:02/10/07 09:12
>>659

>それは貴君の実存であると言わせてもらう。貴君のその考察は貴君が主体的に考え
>始めて形をもったものであり、つまり、主体(主観)を必要とする。

そうそう。私がここでカキコしているのは自分の主観です。だから、他人を説得は
できないし、説得する気もない。ただ、共感してもらえばと思っている。

>「汚い」のイメージ

私の意図は、「汚い」という言葉がその人の内面にまでウイルスのようにベットリ
とこびりついているというイメージは間違いで、表面の何ミリかを洗い落とせば
奇麗になるのですよ、という「客観的事実」に気付いてもらいたかったのです。
汚い話ですが、レトルトパックのカレーを汲み取り式の便所に落としたら、「もう
食えない」ということになりますが、よくよく考えたら、表面さえ洗えば中味は無事
なんですよね。便所に落としたら中味まで汚くなるというのは、一種の妄想ですよね。

ブラインドテストをやったら、きっと見分けがつかないでしょう。それで、「実は
このカレーは....」と経緯を説明すると、途端に吐き気が襲う。その吐き気は、単なる
「気のせい」にすぎない。同じような「気のせい」によって、ホームレスの人たちが
不当に扱われている点があるんではないでしょうか。
697名無しさん@1周年:02/10/07 10:55
セルフイメージの低すぎる人がいますよ。
知ってる人の中にも。
私自身も、皆様も案外、そうかも。

隣人を自分のように愛するには、
単なる能力以上に
セルフイメージの高さも必要なのかな?

セルフイメージ向上を図ること
能力を向上すること
コミュニケーション能力向上を図ること
お相手のイメージ向上を図ること。

そんなことが
愛するという、
教えられ、努力し、訓練して練習を重ねなければ
収得し得ない愛の「実行能力」かも。

したいことをする、という愛の自由さのその底には
案外そんな、白鳥の水掻きのような努力が隠されている。

かつて、考え疲れ切ったという◆TX6bf7XA22さんの努力のように。

レスを下さった全ての方に祝福がありますように。
698 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 11:43
>>692
「愛せない」という言葉の魔術を、
一瞬だけ止めてみるといいかもしれません。

愛することが、善であったり、正しさであったり、
必要だと言われたり、道徳のようにいわれたり。
そうした、何者かの嘘におびえる必要はありません。

愛は、無色な概念です。

あなたが何もしない状態、それを後ろめたく思う必要はありません。
これからは、その状態を、
「愛せない」ではなく、
「愛さない」と呼びましょう。

愛さない状態をいつも意識して、元気をためて敏感になっておけば、
誰の視線も感じなくなった合間に、ふとした拍子に、理由も無く、
「愛してあげようかな」と思う瞬間が、必ずやってきます。
あなたが無理に与える相手を探さなくても、愛はむこうから現れます。

そうした、自分を、優しくしてあげること、(←「自分に、」ではない(?))
それ自体が、実はすでに、
「自分を愛する」ということになっているのです。
699231:02/10/07 12:13
>>687

>隣人を自分のように愛するには、 単なる能力以上に セルフイメージの
>高さも必要なのかな?

昨日、◆TX6bf7XA22さんご推薦の『インナーチャイルド』を呼んでいました
ら、人間が純粋な意味で(道徳とか宗教とかの指示がなくても自発的に)
「他人の立場になってものを考える」ことができるようになるのは、16歳
位になってからだそうです。幼年期にインナーチャイルドが傷ついてしまった
人には、「他人の立場になってものを考える」ことすら難しいのかもしれない。
人間は生まれつき利他的な価値観を持っている(ワンダーチャイルドに当たる
のでしょうね)と信じていた私にはかなりショックでした。
700231:02/10/07 12:27
『インナーチャイルド』の著者であるブラッドショーさんの経歴を見てみると、
カトリックの司祭を目指していたことがあるのですね。神学博士の肩書きも
持っているようです。彼自身がインナーチャイルドの声なき絶叫に駆り立てられて、
神学に活路を見出したが、そこにも救いはなかった。むしろ、教会の説教で
「悪いことをすると地獄へ落ちる」という声がインナーチャイルドを傷つけて
しまった、という体験を書いています。

いろいろな意味で、クリスチャンの人に読んで頂きたい本です。
701名無しさん@1周年:02/10/07 13:07
残念なことに、教会によっては罪責感ばかり募らせるようなことが
語られている場合がありますが、本来的に聖書がいうところでは、
ただ「隣人を愛しなさい」というだけではなくて、同時に、十字架に
よる神の赦しも、むしろこちらの方が大前提にあるはずなんですよね。
愛せない(愛さない)自分に対する赦しです。

「愛しなさい」と言う戒めによって、「愛せない」自分の不完全
さを自覚しますが、同時に、その自分が神や人からも赦されていた
ことも自覚できるのではないでしょうか。
もちろん、人は赦せない場合が多々ありますが(私も)、それも
不完全さゆえでしょう。
むしろ、自分が「正しい」と思って、赦されていることを自覚でき
ない時ほど、人を責めてしまいがちではないでしょうか。

「多く赦された者が、多く愛する」
自分の不完全さが赦されているように、隣人の不完全さも赦す…
愛するということは赦すと言うことでもありますよね。

ちなみに私はセルフイメージについては気にしないようにして
います。セルフイメージが低いことで、かえってセルフイメージを
低くしてしまいそうだから(笑)。あくまで私の場合ですが。
702名無しさん@1周年:02/10/07 15:16
>神や人からも赦されていたことも自覚できるのではないでしょうか。
そうでしょうかね〜。

神様からの許しは聖書に約束されていますが
隣の家の人の許し、前の家の人の許しは、どうでしょうか?
隣人の不完全さを先に赦すことが
この赦しを心理的に自動的に与えるものであるとか?

何となくそんなこともありそうではありますが。
703701:02/10/07 15:34
>>702
>隣の家の人の許し、前の家の人の許しは、どうでしょうか?

もちろん人から完全な赦しを求めるのはそりゃ難しいですよね。
私だって、赦せないことありますもん。
でも、たとえば親友からは赦されていることも多いんじゃないですか。
家族とか。
人間誰しも完璧じゃないっすからね。
自分も赦されているし、自分も赦せないと人付き合いできないっしょ。
うちの親父も、あれこれうるさいことも言うし、うざったいことも
多々ありますが、なんだかんだいっても、付き合い長い分、一番赦
してくれているのも実は親父かな、という気もしないではないかな
…くらいには思うときもありますよ(笑)


704231:02/10/07 16:18
>>701さん

>「多く赦された者が、多く愛する」

『インナーチャイルド』によると、子供は親を通じて「愛」を学習するので、幼児期
に親から(無条件に)愛されなかった人は、他人を(無条件に)愛することができな
いのだそうです。まず、他から愛されて自分が「他人から愛される価値を持つもの」
という確信ができ、他人を愛せるようになる。揚げ足を取れば、愛を知らぬ人に対して
「隣人を愛しなさい」というのは不可能なことを要求していることになります。かと
言って、愛を知っている人に言ったって無駄だしなあ(^^)。

キリスト教ではないが、まず無条件に自分を愛する存在(神!)を仮定しないと、
始まらないですよね。人間を相手にしているうちは、「汝の敵を愛せ」「何で愛する
義務があるんだ」「人間には不可能だ」と紛糾するばかりで前へ進まない。誰かが
馬鹿になりきって、無条件に愛する役目を引き受けないと、「愛の連鎖反応」は
スタートしないと思うのです。

失礼な言い方になるかもしれませんが、たとえキリストの犠牲=全人類の罪の贖い、
というのが幻想だとしても、無条件の愛を体験した人は、自分を赦し、さらに他人
をも(無条件に)赦すことを学ぶと思います。余計なことをつけ加えるなら、無条件
である以上、カトもプロも仏教徒も無神論者も、他人との愛の交換を通じて救われる
はずです。
705名無しさん@1周年:02/10/07 16:39
>「多く赦された者が、多く愛する」

これが、鍵なんでしょうね〜。違いますか?

愛する前に、人には、赦されていることが必要というか
愛するにあたって、赦されているだけ、愛せるというか。
人間はそういうものだと。

神様から愛され、赦されて、駄目だと思っていた自分を赦し、
自分から解放され自由になる。
その自由こそが愛を働かせるにおいて
スペース?というか、余裕になる。

そんな構図が
「隣人を自分のように愛しなさい」という
戒めを支える土台にあるように気がしてきましたが
どうでしょうか?
706231:02/10/07 16:49
>>705

禿道ですね。ただ、「戒め」というのはちょっと違うんじゃないでしょうか。揚げ足
取りになったらごめんなさい。
707 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 16:51
あの、すんません。
まず、「赦される」というのが何なのかの説明を、
誰もしてくれてないと思うのですが、
どなたか説明してもらえませんか?

「赦す」と「愛する=与える行為」とは、別概念ですよね?
708701:02/10/07 17:04
>>704
「神」を信じる信仰は別だとしても、心理的にはそんな感じだと思います。
抽象的ですみません。
でも、「インナーチャイルド」の著者がそうだったように、教会にあって、
赦しが先行せず、戒めだけが先行してしまったのは、残念です。
私の場合で恐縮ですが、私は父から愛されていたはずなんですが、反発も
あったりで、心に怒りを溜め込んでいました。
逆に、神から「赦されていた」ことを自覚した時、父の不完全さも理解でき
るようになり、実は、自分の欠点も、父は赦し、なんだかんだ言っていても、
愛されていたんだなと言うこともわかるようになりました。
それでも、今でも喧嘩しますけどね。それは、お互いの不完全さと言うこ
とで…。

>>705
愛するって、単なる表面的な行動だけではなくて、心からのものですよね。
まごころというもの。
命令や強制によって、たとえ表面的には愛するフリはできたとしても、
心がおっつかないことって、当然ありえますよね。
愛せてはいないわけです。
逆に、なんだかトンチンカンなことだったとしても、真心のこも
ったものって、うれしく思うときもあります。
赦された自由の中でこそ、愛も生きてくるような気がします。
709231:02/10/07 17:07
>>707

私個人の解釈では、「あるがままの自分を『よし』として受け入れる」という
感覚ですね。若い頃は、「自分なんて大嫌いだ」と言う人が多いと思います。
私もそうだった。ヒーローでない自分が許せなかった。中年になって、ようやく
自分は「一般人」で、良いところも悪いところも人並みなんだ、ということに
納得しました。

今は、人並みにスケベで、人並みに酒のみで、人並みに見栄っ張りな自分を
恥ずかしいとも思わず、一生付き合っていけそうです。

「赦す」という表現は、「理想の自分」が「現実の自分」を赦さなかったの
が解決したという意味です。
710 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 17:32
なるほど。つまり、
「これでいいのだ」という感覚ですね。
私は心がぐらついたときに、声に出して言う習慣の言葉です。
声に出すと、不思議と力がわいて、胸が落ち着いて、額が涼しくなります。

ナルシシズムは、現実の自分の否定からすべてが出発します。
自分がダメな自覚があるからこそ、
虚栄・自己中心的・思考の硬直化・挫折への弱さに、つながるわけですね。

自分をダメとも優れているとも評さずに、
ありのままを扱ってあげる、ありのまま認めてあげる、
もっと、こうなればいいのに、と、「未来に生きる」ことを止め、
もっと、こうだったらいいのに、と、「過去に生きる」ことも止めて、
「いま現在を生きる」ということですね。

それは確かに、自分を愛することに相当するようです。
711 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 17:32
でも、そうなると、
他者から与えられた危害を、甘受するという意味の「許す(?)」と紛らわしいですね。

「相手を赦せない」という言葉は、
「相手のありのままを見たくない」という意味になるはずですから、
理解するに難しくなりそうです。
そういう言葉遣いは、あるのだろうか…
712701:02/10/07 17:40
ヒーローになれない自分が赦せないってありますよね。すごくわかります。

私の場合は、ぶっちゃけ、ありのままの自分をみたときに、「よし」
とは思えないですけどね。
「ありのままのあなたでいいですよ」なんていわれると、かえって、
ぶっ飛ばしてあげたくなっちゃう。本当にぶっとばすわけではない
ですが。ひねくれ者なんですね、きっと。
親父ゆずりの短気なところも似て、いらんところばかり似やがって
と思ったりして(笑)
正直、自分で自分のことがイヤになるときは、多々ありますよ。
落ち込むときは、素直に、落ち込みますし。

それが、「ありのままの自分」。
でも、そんな自分をもキリストが愛してくれていると言うので、
自分なりに、自分らしく、愛していこうかな…と。
713 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 18:01
>>708
「愛する」には、まごころのような主観的な感情は必要ではないと、
私は思っています。驚かれるかもしれませんが。
714231:02/10/07 18:02
「ありのままの自分」を愛するというのと、「相手をありのままで肯定する」
というのは、結局は同じ事だという気がします。

ふと、サン・テグジュペリの『星の王子様』の逸話を思い出しました。王子
は自分の星に一本の花を大切に育てているのですが、その「なんでもない一本」
は、外見からは他の何億本もの花と区別がつかない。なのに、「その一本」に
愛着をもち、最後にそこへ帰っていくのです。自分が両親の元に生を受けたのは、
偶然かもしれませんが、選ぶことも許されずに「なんでもない一組のカップル」
の間に生まれてきた。

たとえ他に立派な父母がいくらでもいるとしても、やはり「自分の父母だけは
特別」といわざるをえない。いや、「なんでもない一組のカップル」だからこそ
かえって尊いような気がするのです。それを突き詰めると「無条件」という一語
に凝縮されてしまう!

「なんでもない自分」が尊くあるためには、「なんでもない他人」と特別な関係
を結ぶことにおいてしかありえない、という気がします。うまい言葉が見つから
ないのですが、「日常性の中の特殊性」とでも言いますか....。
715名無しさん@1周年:02/10/07 18:05
>706 :231 「戒め」というのはちょっと違うんじゃないでしょうか。
       揚げ足取りになったらごめんなさい。

いやいや、本当にそうなんです。私も迷ったところです。
戒めというと、何かこう、自由が無いというか。
自由の無いところに愛も無いだろうと。
だから、どう言ったら良いのか、どう翻訳したら良いのか
翻訳者も迷ったのではないでしょうか?

文語では誠命(いましめ)とあって、なかなか、佳いのでは?
誠(まこと)の命みたいで。
英語で commandement 命令、おきてでしょうし、
ギリシャ語で エントレー 命じられていること、戒め、定め、おきてですが、
やはり、ピンときませんよね。
716 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 18:45
ちょっと難しくなってきちゃいましたね。

>「多く赦された者が、多く愛する」
この言葉が、私はまだよくわかっていなかったんです。

「多く愛された、しかも、"親から"多く愛された者が、多く愛する」
これはわかります。子供の傷の話ですね。
親が言葉を話さなければ、子供も言葉を話せないのと同じで、
親が愛して元気になっている様子を見なければ、子供も愛を学習できない。

1. まず、親から無償の愛を受けなければ、
 子供は自分に愛されるだけの価値があると思えない。
2. 次に、十分に愛されて、自分に価値があるのだと思い知った子供は、
 このように自分を満たしてくれた親の真似をしようと考える。
3. 真似をしてみれば、貰う喜びよりも、与える喜びのほうが、高貴で誇り高いことを知る。

子供が親から愛を学ぶには、この3つともクリアしないと学べない。
717 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 18:51
この1.における親からの無償の愛というのは、隣人愛・兄弟愛とはちょっと違って、
親にとっては「自分が好き」を子供に投影したもの、なのですが、
子供にとっては、「ありのままを認めてもらった=赦された」ということなわけですね。

「多く赦された者が、多く愛する」
の意味と使い方がだんだんわかってきました。

となると、「相手を赦すこと」というのは、
直接に「愛する」こととイコールではないのですが、
「あなたは、もう十分に与えるものを持っているじゃないか」と
知らせてあげること、かな?

となると、「相手を赦せない」というのは、
「あなたから貰うものなど何も無い。」という拒絶のメッセージを送ること、

そう考えれば、相手を赦すというのは、
相手に愛する機会を与える(=愛する)ということなのでしょうか。

どうでしょ。
とりあえず、この理解で、皆さんの文章を読解してみます。
お騒がせしました。
718 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 18:59
>>717
>となると、「相手を赦せない」というのは、
>「あなたから貰うものなど何も無い。」という拒絶のメッセージを送ること、

あれ。
それなら「赦せない」じゃなくて、「赦さない」が正しいことになりますね。

「赦せない」って、なんだろ?
うーん。
719231:02/10/07 19:57
>>717-718

相手を愛するという行為を通じて、自分もまた影響を受けると思うのですよ。
ちょっと変な話になりますが....相手を「愛する」と妊娠するとか(^^;

相手を愛するとは、自分と同化することを肯定するということかもしれません。
いくらお互いに「愛を交換」したとしても、自分は自分、あなたはあなた、でドア越し
に交換するだけでは、単なる社交にすぎませんよね。愛のスゴイところ、また恐ろ
しいところは、相手の喜びや悲しみすら共有するはめになることじゃないでしょう
か。相手と(程度はいろいろあるとして)同じ色に染まってもいいよ、と門戸開放
することが愛することという気がします。

卑近な例ですが...私は音楽好きなのですが、2chで記事をカキコしていた人のアドバ
イスに従ってみたことがあります。その人が誰かもわからないのに(^^)。それまで
は聞かず嫌いだったジャンルの曲を、大枚はたいて買ってみたのです。これがもの
すごい拾い物で、実にラッキーでした! もちろん、逆の結果もあるのでしょうけど、
結果的にその人のアドバイスを受け入れることで、私はその(見知らぬ、かつ恐らく
2度と遭うことがない)人に接近して、その一部を私の中に取り入れ、私は変わった
のです。大げさに言えば、それが「愛」なのではないでしょうか。

いくら、和気藹々でも、単なるチャットでは「愛」にならない気がします。変な表現
を再び使うならば、「精神的に妊娠する」位の門戸開放がなければ....「共感」に
近いですが、もっと自分自身に決断を迫ってくるものです。例えば、私は◆TX6bf7XA22
さんのアドバイスを受け入れて、『インナーチャイルド』を読み始めたというのは、
すでに「愛」の範囲に入っているのじゃないかと。(気持ち悪〜い、なんちゃって!)
720231:02/10/07 20:01
ちょっと論点がずれましたが、「赦す」「赦せない」というのは、結局は
「自分の中への立ち入りを」ということなのかな?
721名無しさん@1周年:02/10/07 20:28
>>719
インナーチャイルドもいいけど、現実世界でカウンセリングや心療内科に通うことを
おすすめする。
722 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 20:49
>>721
んで、そこの医師がインナー・チャイルドの頁をめくりながら、診察するわけですね。
なるほど。

あなたの理解できないことに出会ったとしても、
それは、あなたの責任ではないですよ。
723名無しさん@1周年:02/10/07 20:50
>719
このスレを読んでクリならすぐ思い浮かべるのは創世記4章1節
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、・・・」
だと思います。

知るというのは、性行為を通して知った事、
それが妊娠するのは当たり前というのでなく、
知ることが、新たな命を産み出すという、
創造的?行為なのだということをこれは、語っているのでは?と昔から思ってました。

話を広げすぎる気は無いのですが
「知ることは愛することである」などという言葉もありますよね。
出所は不明ですが。赦すことも、知ることも愛に繋がって行く。

私はブライダルのお話で、「始めに、神、天地を創りたまえり」、
無からの創造、それこそが極限の愛です。
そして、神様は命に満ち、愛、喜び、平安、感謝、賛美に溢れた
麗しい世界を創造し、完成するという
大きな目的、善いご計画をもって・・・」と語らせていただいております。

最大の誠命(いましめ)というのは、
命を豊かにするものが愛であり、それが中心となる点であれば
当然のごとく、様々なことと結ばれているわけですよね。

命はインプット、アウトプットから出来ており、その中身も愛であると。
愛が命を産み出し、喜び、平安を産み出す。

誠の命を産み出すものが愛だと。感動を産み出すものが愛だと。
自分が感動出来るまで、この「隣人を自分のように愛しなさい」を
しゃぶり尽くせということですよね。妄想が暴走しているのかもしれませんが。

祝福が皆様に豊かにありますように。
724名無しさん@1周年:02/10/07 20:52
>>1
ビジネスを成功させるための本のどこかに書いてあるよ。
725名無しさん@1周年:02/10/07 20:59
インナーチャイルドよりアダルトチルドレンのほうがやばいと思うが。。。。
726 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 21:17
>>719
それは、共感ではないでしょうか、もしくは共依存。
>>713 でも触れましたが、愛する、という概念を拡張して、
内心の感情を含めてしまうと、いろいろ矛盾が生じてきそうです。

たとえば、「敵に塩を送る」ことで、自分の権力を味わう行為が、
愛に含まれなくなります。
また、行為当時は、何の気なしに与えたものが、後々思い返して、
誇りに思う行為だと気づいたとき、それは明らかに愛の行為ですが、
共感はそこにはありません。

私が、私である。あなたが、あなたであるという、
人の価値というものは、他者と違う点に価値があります。
あなたが、誰かとそっくりであれば、あなたの価値は0だと言っても良い。
人は、孤独なんです。
その孤独を受け入れることが、精神的なヘソの尾を切断するという作業なのです。

自分は自分、あなたはあなた、
でドア越しに交換するだけの「単なる社交」が愛なのです。
それでいいんです。
孤独だからこそ、その交換に勇気付けられるのですから。

どう思いますか?
727 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 21:20
>>725
まさに、インナー・チャイルドは、
アダルト・チャイルドの病理を扱った本なわけですが。

実は、あんまりそれに触れたくないのです。
マザコン、ファザコンといった言葉には、負のイメージが強いので、
非難になってしまいかねない。
伝えたいメッセージが誤解されてしまいそうだと、考えるのは杞憂でしょうか。
728 ◆TX6bf7XA22 :02/10/07 21:28
>>723
>「知ることは愛することである」

もちろん、そうです。
自分に知識を与える行為ですし、
知識の受容を、教師である相手に与えることでもあるからです。

教えることは愛することです。
知ることも愛することです。
知識を得れば、他者に教えて、その自己効力感を得たくなります。
誰かに強制されて「教えてあげなさい!」と言われて、
しぶしぶ教えるのは、誰しも嬉しくない。それは愛でないからです。

「教えようかな〜、どうしようかな〜。」と言いながら、
自分にとって大事なことを教える。
その結果、相手がそれを知っていたり、相手が理解できなかったりすれば、
達成感が無く、無駄に終わったわけですが、
「他人に説明する気前の良さが、自分にあるのだ」という思いで、
ちょっぴり度量が広くなった気がします。
それが、愛そのものなのです。
729名無しさん@1周年:02/10/08 04:09
>726
そうでしょうね〜。
「隣人を自分のように愛しなさい」から言えば
対等だということでしょうし。いわばゼロ同士でよい。

若い牧師さんが悩ましげに語ってくれた事があるのですが、
「何か話をしようとしても、
『どうですか〜』くらいしか、話しかけようが無いんだよね〜」とか。
それで佳いと、そのとき思った事をおぼえている。

貝割れ大根のように同じであってはいけない、
特別な人間にならなければならない、いわば競争の世界から、
同じであって佳い世界。一着が何人いても構わない世界。

「幼稚園のかけっこで、一人の児童が転んだら、
一緒に走っていた友達が、起きあがるのを待っていてくれて、
その子が立ち上がったら、一緒に走って、三人が同時にテープを切った」という
感動的な話をおぼえている。
三人同時にテープを切ったら価値が無いという世界を
子供の直観が裁いたというか。
作り話にしても、凄い話だと思った。

特別でなければ価値はないという世界観からは
無価値とされても構わない。
無価値同士で窓を小さく開けて、でもなく、
ドアを開いて交換する「単なる社交」が
確かに愛であると。最も簡単に見えても。

そうすると、私がお話の題目として
「世界は愛で満ちている」を選んだ事があったが、
これも、なかなか、よかったのかな、と、今、考えついた。
730いい加減にしろお前ら!:02/10/08 06:56
20歳過ぎたら、親は関係ないんだよ!
自分の責任で自分の人生を切り開く勇気を持てよ。
創世記にあるだろう
「人はその親を離れて」と。
日本人はいつまでも親をひきずるから、甘ったるい依存的な馴れ合い社会をこうせいしつづけるんだよ。
731 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 07:52
>>730
全くその通り。はげしく同感。
732 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 07:52
愛すれば、愛するほど、
孤独を感じます。
2人で、笑いながら、しみじみと
人間ってのは孤独なんだねえ、と共感します。

たとえ、恋人であっても、夫婦であっても、
2そうの船で、並んで川を上っていくのです。
1そうの船に相乗ることは、できないのです。
だからこそ、目の前にいて、
私の与える行為の相手をしてくれる相手が、有り難い。

相手は自分と必ず違うように感じ、違うように考えますし、
相手は自由ですから、いつ気ままにそっぽを向いてもいいんです。
だからこそ、目の前にいて、
私の与える行為の相手をしてくれる相手が、有り難い。

そんなわけで、
孤独であればあるほど、愛を強く感じます。

孤独だねえと、言い合いながらも、
自分の淋しさを噛み締めながらも
互いの淋しさに共感するとき
生きていることを実感するのです。
733 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 07:53
孤独から逃げて否定して、
1そうの船に2人で乗り込めば、

相手の心配が、自分の心配
相手の喜びが、自分の喜び
相手の悲しみが、自分の悲しみ
相手のことは、自分がよくわかっている

淋しさを共有することはありません。
1そうの船では、愛を行ったとしても、
相手は受けて当然なのです。
拒否することは許されないのです。
よく知っている相手に合わせて
プレゼントを選んだはずなのですから

これは、いったいどういうわけなのでしょうか。

実はそれは、淋しさを逃れて
相手に合わせることで、自分の感情を殺しているのです。
自分が誰であるのか、見失っているのです(共依存)。

愛することに価値が生まれるのは、
自分が自分であるからこそ、だというのに
734名無しさん@1周年:02/10/08 08:02
>>730
それはそうなんだろうけれど、あなたがそう言ったからとて、
すぐに親離れができると考えているとしたら、
あなたは、
すでに愛を理解しているか、
それとも、ただのマザコンを巧妙に隠すのに成功しているか、
どちらかでしょうね。
735 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 08:56
>>729
すごくよくわかります。
牧師さんの話、新鮮でした。

でも一箇所だけ。

私は、価値が0だと >>726 で言ったのは、
「他人とそっくりになろうとする人、なった人」のことです。
現実社会では、多くの人は、それぞれの個性を持って、
誰とも似ていない。
だから、多くの人は、その価値は0とならないのです。
と、 >>726 で言いたかった。

つまり、「俺は価値が無い」という人は、
他人とそっくりになろうとしているから、そう感じるのです。
ありのままでいれば、自分の個性を大切にしてあげて、
ユニークさを誇りに思えば、「価値が無い」なんて言葉は、
出ないはずなのです。

そこだけ。書き方が悪くてごめんなさい。
736231:02/10/08 08:59
>>726

私は「経験論者」で、この世はその人の経験によってのみ「知る」ことができると
信じています。最初から「正解」を持って生まれた人などなく、自分の経験を通じて
「正解」をひとつづつ勝ち取っていく。また、同時に経験を通じて「自分自身が何者
であるか」という疑問にも自ら答えていく。

もともと「自分は一体何者か」という単純な疑問にすら答えられないのですから、
皆、手探り状態で生きていることになります。その時に頼りになるのが「他人の目」
です。なぜなら、他人の目は自分の「死角」を補ってくれるからです。他人の経験を
共有することで、自分の正体がより明確になります。つまり、「正解」に一歩近づき
ます。正しいルールを守って議論すれば、必ず「正解」に近づくことができます。
そのために「対話」が与えられたのだと思います。

「正解」の自分に近づくということは、古い偏見だらけの自分と決別して、「他人」
を一部を自分の中に取り込み、「正解」を共有するということです。つまり、「他人」
を食物として消化し、自分の体として再構成するようなものです。

もし、対話を尽くしても「わたしはわたし」で古い自分に固執するならば、その「花」
は「実」を伴わない仇花だということになります。もちろん、私の考え方によれば、と
いう但し書きが付きますが。
737名無しさん@1周年:02/10/08 09:50
>730 :いい加減にしろお前ら!
20歳過ぎたら、親は関係ないんだよ!
自分の責任で自分の人生を切り開く勇気を持てよ。
創世記にあるだろう「人はその親を離れて」と。

本当にその通りです。まさにそれをしたいと願って議論し行動しています。
その模索の中で、この「隣人を自分のように愛しなさい」が鍵になる。
そんな、見込みの中で私は話をしています。
ですから、感動という言葉を使ったのは、
ああ、自由になった、親からも、社会の常識からも・・・
そして、これで、対等に愛せる!!といえる瞬間を
眼をこらして待ってるわけです。

自分を縛ってる細い鎖の一つ一つが明らかになると
それが近づく気がしております。
孤独という言葉も、親は関係の無い世界とするなら、私にとっての救いです。
738名無しさん@1周年:02/10/08 09:58
>>737
親のレベルによって子供の自由度が決まると言っても良いだろう
739チュマチュ:02/10/08 10:00
おもうにこういうのは世界を平和にするためにあるものだとおもう
だからキリストはえらい!鳩よりはえらい!キリスト。。。だよね?
740kakinotane:02/10/08 11:33
>>736
そうですね。よくわかります。
考えてみれば、不思議なことをやっているのかもしれません。

人間である以上、同じ心の動き、愛のしくみを持っていると信じても、
愛を感じようと思えば、個性を大切にしなければ、愛を見失ってしまう。
禅問答のようですね…
741 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 11:34
あ。トリップヽ(`Д´)ノ ウキー
742名無しさん@1周年:02/10/08 11:39
>>738
何たる偏見。
インナーチャイルド論を批判する視点も持ってね皆さん。
743名無しさん@1周年:02/10/08 11:43
>>742
どうすれば子供の心は自由になると思われ?
744名無しさん@1周年:02/10/08 11:48
>>742
偏見はいいが、
そもそもインナーチャイルドが何だか、あなたは知っているのか?
まず基本常識として、交流分析って、知ってる?
745名無しさん@1周年:02/10/08 12:07
>>743
完全に生まれたばかりの状態に戻ることは不可能ではないかと思います。
しかしながら、心に傷を負いながらも、新たな純真性を手に入れることが
できるかもしれません。多くの心理学者がそれをなし得ることが出来るのは
自己受容によると語っています。傷ついた心や過去のトラウマ、また自己の
コンプレックスなどをありのままに受け入れ、それと共に生きていく、この状態を
マズローは第2期の純真性と呼び、ロジャーズは十分に機能する人間と呼んでいます。
それを達成する手段としては、種々な方法がありますが、代表的にはカウンセリング
やセラピーなどの二者で行う方法と、フォーカシングやメディテーションなどのひとりで
行う方法があります。それと宗教や旅行などを通した様々な体験なども有効な手段と
なり得るのかもしれません。
インナーチャイルドは自分の内面にある自分自身のありのままの姿、自分自身の純真性
といえるかもしれません。それを受け入れ、認めることができて初めて不安や抑鬱、また
葛藤や恐怖から解放された自由な人間として生きていけるのではないでしょうか。
746231:02/10/08 12:15
昨日は『インナーチャイルド』の学童期の部分を読みましたが、今の教育
システムではもう絶望的だという印象を持ちました。親も問題かもしれない
が、たとえ家庭で無事育っても、学校でほとんど駄目にされてしまう。

私は漢字の書き取りが苦手なんですが、思い出してみると、小学校3年の時の
担任の先生がほとんど毎日漢字の書き取りテストをやって、それを教室の後ろ
に貼りだすのです。それが嫌で嫌でならなかった。もちろん、成績は最低です。
何ヶ月かは、家族に内密にすることで、学校限りの「恥」だけで凌げたのですが...
ある日、参観日にこの恥ずべき表の存在を知った私の母親は激怒しました。
ああ、あれは本当に最低の体験でした!

この例に限らず、教師の教え方が不満で、どんどんその教科が嫌いになっていく
という現象は多いと思います。嫌いなものを強制的にやらせるのだから、ストレス
ばっかりです。これでインナーチャイルドが傷つかなかったらどうかしてる。
747 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 12:54
「インナーチャイルド」の本を持っていない人は、
何の話だかわからないかもしれません。
興味がある方は、申し訳ないです >>391-392 を読んでください。

このスレの愛の話が、当たり前じゃないかと思える人には、
必要が無い本だと思います。
748 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 13:02
>>742
インナー・チャイルドというのは、幼少期に傷つけられて
世界に適応した自分の中の子供を指します。
ワンダー・チャイルドというのは、自由で伸び伸びとした真の自我を指します。

実は名称が一般的ではなくて、
精神分析で古くから用いられている、
交流分析(検索してみて下さい)という理論において、
心の指紋と呼ばれている「エゴグラム」というものがあるのですが、
そこでの、Free Child (FC)が、ワンダー・チャイルド。
Adapted Child(AC)が、インナー・チャイルドに相当します。

被虐待児、これは虐待を記憶している人は幸せな方で、
たいていは精神的な虐待を記憶していない児童が大多数なのですが、
その場合は、ACが高く、FCが低い傾向が見られます。
興味があるなら、web上でエゴグラムを自己診断してみてください。

精神科にかかるほどではないにしろ、
人生がうまくいっていない、何をうやってもサボって失敗する、
他人とうまく折り合えない、自分がいつもダメ人間な気がする、
といった人には、>>391-392 と、このスレは、
効果的な治療である場合もあります。
749名無しさん@1周年:02/10/08 13:14
>>748
インナーチャイルドの話しに便乗して付け加えることを許して下さい。
日本人は特にこの傾向が強いらしく、早い時期に既に重症という人も時々見かけます。

「人の顔色を伺う」「あまりにも固定観念に縛られているように見える」などが
手に負えないほどに強い場合は専門家の手を借りた方がいいとある専門家が言っていました。

心のケアを無料で見てくれるところがあるそうですので、行ってみて下さい。
750 ◆TX6bf7XA22 :02/10/08 13:37
日本には、昔から穢れの思想があるので、
精神科には、なかなか行きずらいでしょうね。

傷つけられた子供は、成人しても、愛がなんだかわかりません。
世の中で、愛、愛、と言われているのに、その人には見えない。
だから、とんでもない思い違い、
それも、誤解と正解の境界線ギリギリにある思い違いが横行します。

好きな人への想いが、愛
思いやりが、愛
やさしさが、愛
助け合いが、愛
共感が、愛

違います。

たいていの傷つけられた人は、愛が見えないばかりに、
見えない心の中に、愛が仕舞われていると信じ込んでしまいます。
本人は、自分の解釈が間違っていることに全く気がつきません。

愛をしらないまま、結婚して、子供を産み育てます。
親から愛を教えられることが無かった子供は、
また傷つけられたままで、成人します。

このスレと、親に傷つけられた子供の話が、なんの関係があるのか、
と不審に思う方もいると思うので、こんなわけで。
751名無しさん@1周年:02/10/08 13:56
ながいしうざいよ
752名無しさん@1周年:02/10/08 14:02
>>750
このスレに愛は関係大あり。
隣人のように愛するためには、じぶんがどうあらねばならないか?
753名無しさん@1周年:02/10/09 03:05
>「インナー・チャイルドというのは、幼少期に傷つけられて
世界に適応した自分の中の子供を指します。
ワンダー・チャイルドというのは、
自由で伸び伸びとした真の自我を指します。」

「隣人を自分のように愛しなさい」と言うときは、
理想的な愛し方などを考える必要は無い、
インナー・チャイルドを持ったままの
今のありのままの自分で善い、
今のありのままの自分で、神に人に受け入れられている
ということなのでしょうが、
ワンダー・チャイルドが解放されて愛し合うと天国みたいだろうな、と。

それを目指すようにというガイドラインがこれかな?と。
そんなことまでは、この言葉の言ってないこと?
754名無しさん@1周年:02/10/09 03:45

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
あなたがたは死んだのであって、
あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。(中略)
古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、
日々新たにされて、真の知識に達するのです。
そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、
未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、
責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦して
くださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
愛は、すべてを完成させるきずなです。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。
この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて
一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉が
あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、
諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイ信徒への手紙3:2−17






755名無しさん@1周年:02/10/09 04:00
バランスの問題ではないか?
自分だけを愛して他人を愛さないと恨みを買ったり
して結局殺されることになりそうだし。
756名無しさん@1周年:02/10/09 04:02
インナー・ウェアーを取り払って、
あるがままの自分をさらけ出す。
『生まれたままの姿の私』
757231:02/10/09 09:04
>>753

>今のありのままの自分で善い、今のありのままの自分で、神に人に受け入れられている

この部分はその通りと思うのですが、単なる(安易な)自己肯定に置き換えてしまうの
はどうかと思うのです。私のように「先」が見えた中年なら別でしょうけど、若者が
現実の自分を完全肯定して、理想を捨て去るというのはちょっと違う気がします。現状
のままで百点というのでは動物と変わらないでしょう。「永遠の不完成品」が完成を
目指して放浪するところに人間の存在意義があると思うのです。

「自分がなりたい自分」になるために努力したり、現実とのギャップに悩むことは
よいことだと思います。問題は、その「自分がなりたい自分」像は、どこから来た
のか、という部分では。意外と親から押し付けられる部分って大きいのでは。完成
を目指す努力が悪いのではなくて、その完成予想図が違っているのが問題なのでは
ないでしょうか。

団体旅行へ行くと、頼みもしないのにショッピングセンターへ連れて行かれますよ
ね。酷い場合には、宿泊先で羽根布団の展示即売会が始まる。心の底で「こんなはず
じゃない、裏切られた」と叫ぶ。それに近い感じになっているというのが問題だと
思うのです。

最初は、弁当やおやつを手にワクワクして家を出てきたはずなのに、「〜すれば、
お得です」「あなたのためにご忠告します」という声に従っているうちに、羽根布団
を前にローンの手続きをしている。いつの間にか「自分がなりたい自分」が他人から
押し付けられた偽物に置き換わっている。思わずつぶやきがもれる「俺は一体ここで
何をしているんだ」。
758231:02/10/09 09:19
「隣人を愛しなさい」というのを「隣人には笑顔で接しなさい」と具体的に書き直
してみるとわかりやすいと思います。

まず、笑えない現実の自分がいる。それを「あるがままの自分でよし」というので、
一生むっつり過ごすのがいいかといえば、私はそうは思わない。では、セールスマン
養成のビジネススクールへ行って、顔の筋トレを欠かさずやって、パブロフの犬みた
いに人の顔を見たら笑顔が出るような条件反射を身につければそれでいいか。その人
は笑えるけど、それはアドプテッド・チャイルドの引きつった笑いにすぎないんだよ
ね。

結局、ワンダー・チャイルドが心の底からほとばしるような笑いが出てこなければ、
その人は「笑わない人」(相手が好きでもなくても「笑える人」ではあるが)である
ことに変わりはないと思います。ワンダー・チャイルドは「笑う人」になりたくて
ワクワクして家を出たはずなのに、周りが手取り足取りしたことは、目的地を
『ビジネススクールで「笑える人」の名手になること』にすりかえてしまうことでした。

イエスは「隣人を愛する人になれ」と言ったので、「隣人を(好きでもないのに)愛せる
人になれ」と言ったのではないと思います。
759名無しさん@1周年:02/10/09 10:14
なるほどね〜。231さん、善いレスを感謝いたします。

自分の中にワンダー・チャイルドを見つけてゆくように
完成への永遠の上昇?を続けて向上してゆくように、
隣人の中にワンダー・チャイルドも見てあげなよ!と。

まあ、何と、慈悲深い神様だこと、と思う瞬間があるレスでした。
有り難うございました。祝福がありますように。
760 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 10:42
正確に掘り下げるほど、誤解が大きくなる余地が出てくるので、
インナーチャイルドまで話題に出すつもりはなかったのです。
失敗かな。
該当する本を読んで正確に理解してから、言葉を使用した方がいいですね。
隣人のワンダー・チャイルドを見ることに、何の意味もありません。

インナー・チャイルドとワンダー・チャイルドは誰の心の中にもいます。
それはどちらも否定すべきものではありません。
つか、否定もなにもない。心の属性なのですから。

要するに、インナーチャイルドをうんぬん、という作業は、
親から受けた傷を思い出して、それから回復することで、自尊心を高める治療、
と考えてください。
ここでは、それ以上に何の意味もありません。
761 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 10:50
>>753

私が懸念していたのは、
「愛する」ことを誤解している人が、とても多いことでした。
そうした、自分流の愛の解釈で、イエスの言う"愛"を理解しようとするから、
その言葉が謎の呪文のように聞こえるのです。…と思ったのです。

それなら、愛は何だかひとことで言ってくれ、となりますが、
誤解の無いように伝えるには、ひどく困難なようです。
(そもそも、それを見事にやっているのがイエスなのですが)
愛は、愛の装置が心に無いと、感じることができないからです。

そこで、愛の装置を心につくるには、どうすればよいのか、
それには、自尊心を高めればよい。

自尊心とは何か、なぜ自尊心が自分は低いのか、
それについて、論じることができれば、
内容も充実すると思うのですが、…なかなか。
ついつい、手っ取り早く愛を理解して、イエスの言葉に行ってしまいがちですね。
自分の傷を見つめ直す作業は、ひどくつらい作業ですから。

自分の周りの愛を、ひとつふたつ丁寧に拾って行く地道な作業の方が、
ゴールは近いのかもしれません。
762 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 10:52
自分を愛する方法

人に自分の期待通りの反応を
させようとする努力、
人の期待に応える努力を止めること。
それより、自分の人生に対する責任を
全面的に引き受けてください。

誰かが自分の人生に責任をもつべきだ、
誰かが自分を幸せにするべきだ、
誰かが自分の人生について
ちゃんとした説明をするべきだ……
知らない間にこんな考えをもっている
ことに気がついたら、
どんな小さなことでもいいから、
自分の人生に責任をもつことを始めなさい。

約束を守るという約束をする。
来た手紙に返事を書く。
部屋の掃除をする。
止めると決めたことを止める。
763 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 10:52
そして、
自分の行動、感情、考えていることに、
責任をもつのです。
自分の理想からかけ離れている自分を
責めたり、その原因を探すのを止めて、
ただ、そうだ、そうしていると
言うのです。
弁解したり、操作したり、
正当化したい気もちはわかりますが、
いまそうであることを認めるのです。

それは、妥協とは違います。
いま目の前にある現実と向き合う勇気です。
そして、自分を愛するということです。

愛は、
ロマンティックなものではありません。
特に甘くもありません。


"からだの中を愛でいっぱいにする方法"/伊藤守/ディスカヴァー21
764 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 10:53
怒りや悲しみは、
昨日今日のものではないんです。
ずっと怒っていたんです。

両親は、
自分をもっと大事にするべきだった。
母は、
自分をもっと抱きしめるべきだった。
友だちは、
自分にもっと敬意を払うべきだった。
まわりの人は、
自分が窮地にあったとき、
自分に注意を払い、助けるべきだった。

ずっと怒っているんです。
ずっと悲しんでいるんです。
ずっとどこか犠牲者なんです。
765 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 10:53
だから、それと向き合って、
そこから自分を始めなさい。
自分を愛するとは、そういうことです。


"からだの中を愛でいっぱいにする方法"/伊藤守/ディスカヴァー21
766 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 11:01
人間の心は不思議です。

いちばん正しい効果のある考え方は、激痛なのです。
いちばんためにならない考え方は、甘く受け入れやすいのです。
いちばん自然な考え方は、心を暖かくさせます。
いちばん結果的に無駄に終わる考え方は、心をとげとげしくさせます。

自分の心を、対象化して見つめるには、
どうしても理性の力を借りなければなりません。
なぜなら、愛は、本能の中にあるのではなく、理性の中にあるからです。
だから、人間だけが愛することのできる動物なのです。
767231:02/10/09 12:10
>◆TX6bf7XA22さん

>自分の周りの愛を、ひとつふたつ丁寧に拾って行く地道な作業の方が、
>ゴールは近いのかもしれません。

ゴールが近いというより、それしかゴールに到達できる方法はないのではないで
しょうか。

>人の期待に応える努力を止めること。

伊藤さんの著書からの引用だと思いますけど、たとえば新婚生活で、新妻が気に
いってもらえるようにと料理の腕を振るう時、「人の期待に応えよう」という気持ち
があると思うのですが、やはり「愛」のひとつなのではないでしょうか。引用された
部分で「人の期待に応えよう」というのは、「料理がうまくなければ捨てられるという
恐怖から努力する」という、アダルトチルドレン特有の病的な精神状態を指していて、
世間一般の意味とは違うように思われます。

私流の解釈では、(世間一般の意味での)「人の期待に応えよう」という行動そのもの
が問題なのではなく、目的(設計図)がおかしいと思うのです。それをやる人を駆り立
てるものが、「愛」か、「恐怖」か、はたまた「偽装された愛」か。◆TX6bf7XA22さんが
ここで問題にされているのは「偽装された愛」のケースですよね。

しかし、われわれ全員がアダルトチルドレンでないのと同じように、正真正銘の「愛」
をもって「人の期待に応えよう」とする場合もあると私は信じます。
768231:02/10/09 12:28
どこかのスレで「キリスト教徒にも救われた人もあれば、救われなかった人
もある」という意見を読み、感銘したことがあります。

このスレのタイトルは、イエスが弟子達に与えた「宿題」についてですが、
「キリストの期待に応えよう」という行為は立派なことであることに間違い
はありませんが、その人を駆り立てるものが「愛」か、「恐怖」か、あるいは
「恐怖が偽装された愛」なのかによって、結果が違ってしまうのかもしれま
せん。

もし、「偽装された愛」でもって「隣人を愛する」ならば、自動的にキリスト
をも「偽装された愛」であざむくことになります。相手が隣人だろうと、キリ
ストだろうと、愛し方は変わらないと思うからです。この戦慄すべき危険を考え
るとき、◆TX6bf7XA22さんのコメント

>そうした、自分流の愛の解釈で、イエスの言う"愛"を理解しようとするから、
>その言葉が謎の呪文のように聞こえるのです。

は、熟考に値する問題提起を含んでいると思います。隣人愛を誤解する人は、
キリストの愛、神の愛もまた誤解していると言えないでしょうか。
769名無しさん@1周年:02/10/09 14:06
釈迦の最後の言葉、日本語での翻訳例
1;もろもろの事象は、過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。     
2;すべてのつくられたものは、破滅するものである。まじめに汝の目標を達成せよ。
3;諸現象は、無常であるから、修行に精励せよ。              
4;ぼんやりと放心することなしに、一切のなすべきことを実現せよ。
聖書では
あなた方は世の光です、かな。

それが愛と。
禅問答みたいですが。

ブラッドショーのインナーチャイルド厚いですね。
伊藤守の「きっとうまくいくよ」を先に読んでしまいそう。

何かについて話す暇つぶしではなく
いま、ここでの目標達成に従事する「成人」になりたい。

神様、誤ることなくその方向を向かせてください。イエス様によって。アーメン。
770231:02/10/09 17:57
>>769

>禅問答みたいですが。

そうですね。仏教では基本的に「神」などの崇拝対象を置かず、とことんこの世の
「無常」を見つめる。ひとつひとつ執着の種を捨てていって、最後の種を捨てた
瞬間に何もなくなるか....と思ったら、実は「仏性」に満ち溢れた理想郷がこつ然と
姿を現すのだそうです。自分の姿は「一目で恋に落ちてしまうほどの立派さ」だそう
です。オウマーの思想などを通じて初めて仏教思想に触れた人は、厭世感の固まりの
うさんくさい思想に見えたでしょうけど、それは仏教にとって実に不幸なことでした。

「仏性」=ユニバーサルな愛(多分、=ワンダーチャイルド)なので、愛を邪魔するもの
をひとつずつ除いていけば、最後に愛だけが残るということだと思います。常識で考え
たら、ひたすら「捨てる」修行を続けていて、いつ「愛」を拾うんだ、と疑問に思う
でしょうね。

>イエスは「隣人を愛する人になれ」と言ったので、「隣人を(好きでもないのに)愛せる
>人になれ」と言ったのではないと思います。

と書いたのも、そういう伏線があるのです。雲をかき分ければ、太陽の光が地を照らす
ようなもので、「捨てる」だけで自然に「愛」は輝き出すものだと私は信じます。
空っぽになった時に、まわりから「神の愛」が流れ込んで満たされるというイメージです。
「キリストの言う通りに、隣人を愛さねばならない」と真面目に考えてしまうクリス
チャンとはもともとの発想が違うかもしれませんね。
771名無しさん@1周年:02/10/09 19:01
>「キリストの言う通りに、隣人を愛さねばならない」と
真面目に考えてしまうクリスチャンとはもともとの発想が違うかもしれませんね。

善いご指摘有り難うございます。
雰囲気的に日本のプロテスタントであるクリスチャンに多い発想でしょう。
これだと、暗くなりやすいですよね。
出来ないことを無理矢理させられるということですし。
でも、何か、カトリックでは、これも感じの話ですが
そこまで縛らない。長い歴史を感じさせる態度だと思うのです。
大船に乗っているような。
772名無しさん@1周年:02/10/09 19:02
できもしないことは開き直るに限る。
773死後の世界信じないよ:02/10/09 19:05
>>762-766
よく分かります。簡単な様で難しい。でもホントよくわかります。
◆TX6bf7XA22さんの 「愛」の形は、世間で言われる「愛」とは ちと違う。
僕は最初それがわからんかった。でも やっと 僕なりに理解できました。
「愛」の行為という言葉で、「愛」へ至る過程を手助けしようとしてくれたのですね。

自分に照らしても 気がつくところは多いです。サンキュ。。
774 ◆TX6bf7XA22 :02/10/09 20:24
>>773
ありがとうございます。
心に転がっている「名前のつかないもの」に気づいていただけましたか?

>◆TX6bf7XA22さんの 「愛」の形は、世間で言われる「愛」とは ちと違う。

いやいや(胸を張る)。フロムの本を読めばわかりますよ。
私の「愛」なんて、おこがましいです。
むしろこの愛の形こそが、正真正銘の愛です。世界共通の知的財産です。

世間で普通に言われる愛こそが、嘘の混じったものなのです。
私も、昔は認めたくなかったんですけれどね。

愛に、内心のありよう、感情、相手の都合など、
余計なものを付加する自己流の解釈を辞めて、愛を与える行為だと限定解釈して、
Beatlesの愛の歌詞を読んでみて下さい。
イエスや仏陀の言葉をなぞってみてください。
とても素直にストレートに意味が伝わってきますよ。
わかっていた人は、わかっていたのです。

私たちはね。騙されていたんですよ。
775688:02/10/10 06:43
俺は>>688以来、書き込んではいないが(一応)、相変らずだな。
◆TX6bf7XA22氏にしろ、231氏にしろ、貴君らは「意識」と「存在」の
循環を断ち切る、合理主義的思考を超える事は出来ないようだ。
776688:02/10/10 07:03
その様に、人の虚しい思考によって、愛という観念を限定、確定(イメージの創出)しようと
いう努力自体は殊勝なものだが、それによって、より高い論考において、霧散して
しまう事に気付くべきだ。
777688:02/10/10 07:31
地上における、愛の多様性、個別性、そして具体性を認めないなら、それは
「独断」でしかない。その「独断」の意味するものを肯定するとすれば、つ
まるところ、実存でしかなく、貴君等の論は矛盾に陥る。
(もっとも、既に、多くの矛盾に満ちているが。正直な所、耳障りの良い文
の羅列でしかない。部分的には納得し得るが、全体としての緻密な整合性に
欠けている。)その多様性が故に、より高い論考において収束されるという
事は、貴君等には理解し難いであろう。
778 ◆TX6bf7XA22 :02/10/10 18:08
愛を知る両親から、自然と愛を学ぶことに失敗した子供の場合、
それ以後に、愛を知る方法として複数のルートがあります。
たとえば、親から受けた傷を癒す過程で、愛を知る人もいます。
たとえば、自己実現の孤独な闘争の果てに、愛を知る人もいます。
たとえば、つれあいを亡くしたショックなどで、愛を知る人もいます。

気がつくのは、どれも共通して、孤独を通して愛を知る点です。

ですが、孤独は、愛を知らず人のぬくもりに飢えた人ほど、つらいものです。
だから、親に傷つけられた人は、
自分自身の孤高と、自尊心を、大切にする考えから離れて、
「相手との関係の方を優先して考えてしまう傾向」が、あるようです。
ここのスレで、そちらに話題が流れるたびに、私がしつこく引き戻すのは、
実際の、愛を行う鍛錬の現場では、
その点を経由して毒の考え方に移行することが、非常に多いからです。

>人の期待に応える努力を止めること。

これも同じ観点だと思います。>>767
779 ◆TX6bf7XA22 :02/10/10 18:23
子供の頃に、親に精神的に傷つけられた被虐待児は、
この自尊心の感情を自ら抑制して、自己犠牲的に相手に尽くすことによって、
相手に、自分を気にかけてもらおうという衝動の方が強いのです。

(毒の)親も、社会も、宗教団体も、与える相手も、
彼の、「相手との関係の方を優先して考えてしまう傾向」を歓迎します。
人の役に立て、人に迷惑をかけるな、と、幼い頃から刷り込まれています。
ですが、誰も彼の自尊心を、彼に代わって大切にしたりしません。

>>767 にて231さんが楽観的な見方を提示していますが、
控えめに言って、日本人の半数以上が、
被虐待児という意味でのアダルトチルドレンだと、私は考えています。
人によっては、9割という数字を上げる人もいますし、
日本社会全体が母性化=子宮化していると警告する人もいます。

愛を知ることは、
社会が要求する利他主義的傾向、全体主義的傾向から
自分自身と、自分の人生を、救い出す方法である、
とも言えると思います。
780 ◆TX6bf7XA22 :02/10/10 18:25
愛は、自力で自尊心を高める行為のひとつです。
愛は、他人に与えることを通じて、効力感を得、
それが自尊心を高めることにつながります。

他人は、どうでもいいのです(w
他人の管轄事項は、放っておきましょう。
他人は、その人がなんとかするのだと信頼しましょう。
他人の、自尊心を大切にしてあげるのです。
他人の自尊心を、自分の自尊心と同じように、大事にしてあげるのです。
それは表面的な、手助けや思いやりでは不可能なのです。

死後の世界信じないよ さんが鋭いのですが、
大事なテーマは、自尊心の方なんですね。実は。
781名無しさん@1周年:02/10/11 02:13
>愛は、他人に与えることを通じて、効力感を得、
 それが自尊心を高めることにつながります。

なるほど。

2年ぶりくらいに、通行止めのガードマンにかり出されました。
結構、交通量も有り、「すみませ〜ん」、と敬礼し、
頭を下げるということで迂回していただくわけです。

その時、思ったのは、「わたしはあなたの味方です」という姿勢があると
とても楽だということです。
敵対すると、呪いの言葉を真に受けて、胃をやられます。
「隣人を自分のように愛しなさい」とは、こういうことかな?と。

オアシス運動というのがありまして、
オ・・・おはようございます
ア・・・ありがとうございます
シ・・・失礼します
ス・・・すみません

この4つに、「はい」、「どうも」を加えれば
必要な言葉は大抵これに入ってしまうな、と。

結構、これで、いい感じになるから不思議。
徘徊しているおばあちゃん?という感じの方にもこれで対したとき
あとで、葡萄の一房をいただくことができました。感謝。

自分は大物というほどではないが、結構充実してました。
善く帰れたな、と。
大変すぎて二度としたくはないですが(笑)。
782名無しさん@1周年:02/10/11 06:46
>それは表面的な、手助けや思いやりでは不可能なのです。

存在に対する愛、というようなことを言ってる本もありますね。
そういえば、隣人について語った善きサマリア人のたとえも、
樅の木のように、受け答えができる状態の人ではなかったし。
何か、関係があるのかも?
783231:02/10/11 09:17
>>775-777

あなたの言われることはもっともな部分もあるけど、所詮人間は不合理な存在なの
だから、いくら「全体としての緻密な整合性」に裏打ちされた学問で人間を分析
しようとしも無駄ですよ。合理的な網では人間という不思議な魚は捕れないのです。

合理性で「愛」が片付くなら、とっくの昔に哲学者が「すべての人間が幸福になれ
る方法」を考え付いていますよ。あなたは、人間をわかったつもりになっているが、
それは人間を「もの」として貶めて、その標本を菓子箱の中にピンで留めてほくそ
えんでいる子供にすぎない。あなたに欠けているもの、それは人生経験です。

「実存」以外の何者でもない、それは事実だが、人間の分際で「実存」以外の何が
許されると言うのですか?
784 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 12:02
これから日本は寒い冬に入りますが、
街を歩くときに、身をこわばらせていると、
余計に寒さが厳しく感じられるんですよね。

そんなとき、体の緊張感を解いて、
風になびくススキのように、
寒さの中に体を放り出した方が、楽だなと感じることがあります。

>>781 さんのガードマン体験も、そんな感じでしょうか。
敵対すると、呪いの言葉を真に受ける。
785 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 12:03
>>781
オアシス運動のそれぞれの言葉に共通しているのは、
自分の立場の表明にとどまっている点ですね。
「アナタの言い分はわかった。自分の言い分はこうである。終わり」

普段の生活でも、
相手の怒りや嫉妬などの感情の嵐に対して、
「そうですか。あなたは、いま怒っているんですね? 大変ですね」
で済ましたい。

相手の叩き潰さんばかりの主張に対しても
「なるほど、そうだねえ。あなたはそう考えるんですね?」
で済ましたい。

本来の共感というのは、こうしたものだと思います。
相手の感情の泥沼に巻き込まれる、母子密着型の共感(?)は、自分自身を削るもとになる。
自分が削れるから、相手も削ってやろうといきりたつ。
それは確かに胃に来ますよね。うまい表現だと思うわー。
でも、なかなか難しいんだなこれが(w
786 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 12:15
そう考えると、2ちゃんで使われる
「…ですが、なにか?」
というのは、自尊心を守るとても優れたやり方なわけで。

実は、2ちゃんで知るずっと以前から、
家庭内では頻繁に使っています。
いえ、真面目に使うのではなくて、
「それがなにか?」と冗談めかして踏ん反り返るように、ですが。

不思議なもので、そう相手に言われると、一瞬冷静になるので
「喧嘩に至るそれほどの価値はないな」とか、
「相手の問題だな、これは」とか
気が楽になる方向に考えが及びます。
787 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 12:16
「ごめん、ご飯炊き忘れちゃった」
「えー? 仕様が無いねー」
「そう仕様がないの。それがなにか?」
「いえ、なにも…」

「ごめん、ご飯炊き忘れちゃった」
「えー? ドジだねあなたは」
「私はドジな行為をしたけれど、かといって私はドジではないの。」
「まあ、それはそうだね」

まあ、初めて来たお客さんはびっくりしますが、
やがてこの冗談のやりとりに慣れて、一緒に笑っています。
最近は、いちいち口に出さなくなったかな。心で了解しているというか。
788名無しさん@1周年:02/10/11 12:36
我想う。ゆえに、我あり。
自分に対する想いも他人に対する想いも。
自分の想いは自分の物、自分自身である。
隣人は自分の想い一つで敵にも味方にもなります。
789231:02/10/11 12:57
ただ、ひとりで考えた想いがそのまま真実とは限らない。むしろ錯覚である
ことの方が多い。自分は医者だと信じることは勝手だけど、それを証明する
には、自分が他人の病気を治すことが不可欠です。病気を治せなければ、
他人は自分に対して「あなたは医者ではない」という事実を突きつけられる。
この時、初めて「自分が医者だ」と信じていた想いが妄想であることを
知るのです。自分は他人を鏡のように使って、自分が何者であるかを知るの
です。他人は自分に「真実」を告げてくれるからこそ、愛するべき存在だ、と
視点もあると思います。

自尊心を守ることは重要ですが、自分だけで完結するわけではない。そこに
他人がからんでこなければ、「事実」か「妄想」か見分けることができない。
「自分は自分」、「他人は他人」という無干渉主義は、自分の姿を鏡に映す
ことを拒否して、個人がおのおの「妄想」の海に身を沈めるという結末に終
わります。
790231:02/10/11 13:18
>相手の叩き潰さんばかりの主張に対しても
>「なるほど、そうだねえ。あなたはそう考えるんですね?」
>で済ましたい。

極論すると、これさえも「自分の姿を鏡に映すことを拒否して云々」につな
がるように思うのです。相手との意見の相違を尊重するとは、安易に頷くの
ではなく、真剣に取り組んで自分の意見との矛盾を解決するということなので
はないでしょうか。この世の中、異なる意見のせめぎあいによって、「より
正しい解」を見出しつつ、進歩していると思います。これは一種の試行錯誤
ですが、試行錯誤なしに真理が見つかったためしはありません。

まあ、「あなたのご意見はもっともです」と心と裏腹なレスをするよりも、
「あなたの意見はここが間違っている、私の意見はこうこうだ」とズバズバ
書いた方が結果的には「愛のこもった」レスになるんじゃないかと思うのです。
同様に「隣人を愛する」についても、相手の意見の違いを引き受けて、お互い
に納得するまで議論し、その結果得られた「真理」を共有するという見方も
できるように思います。
791名無しさん@1周年:02/10/11 13:26
相手を負かしたいと思ってるうちは答えがでない。
792 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 15:13
>>789
他人を鏡のように使って、自分が何者であるかを知る
という231 さんの考え方は、私も同意します。

たしかに、個性豊かな人間になろうとしたところで、
人間である以上、ひとりでは生きられない社会的動物です。
そのために、バランスのとれた価値観を持つには、
他人の存在が必要であることも否定しません。

ここで、こう考えることはできませんか?
(愛を個人的な行為であるとした立場にたつのであれば)
それは、愛の概念と他人との関係をどのように調和させるか、
といった問題として分離し、無理に愛に含ませて考えるのは止めようと。

キレイなものは、愛だけではないのです。
すべてを愛にしてしまう必要が、あるのか、ないのか…。

私の立場は、いかに正確に愛を伝えるか、を重視しています。
水彩絵の具のような愛を、他の概念に塗りつぶされないように、
慎重に選り分けておかないと、愛を知らない人には伝わりにくい、
だから、かなり愛を保守的に考えている嫌いがあるのでしょうね。

そのかわりに、
愛でないものが紛れ込むとすぐにわかるという利点もあります。
793 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 15:14
>>790
次は、議論についてですが、
私は、議論の必要性を軽んじているわけではありません。
議論の結果、大多数が一致した考え方を、受け入れるも拒絶するも、
本人の勝手だと言いたいのです。

間違った考え方を持っている相手を「許せない」と思うのは、なぜか、
それをよく考えてみませんか?
思うに、
それは、自分がいつ他人から責められる立場になるかと、不安だからです。
その裏側は、自分が相手と同じ考えであれば、安心できるからです。
そうした行動は、相手を親扱いしている匂いがします。

相手が、私に理解できない考えを持っていても、
その考えの矛盾点は気になりますが、相手がどんな考えを持って生きていくのか、
そんなことは、私の責任の範囲外なのです。
私は、相手の親ではないのですから。

自分の自尊心を削ってまで、面倒を見ようとは思いません。
むしろ他人の自尊心を大事にする行為に、自分の誇りを感じます。
いつも失敗しますけどね…
794 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 15:14
>>790
真実を言うことが、正しくない場合もあるのです。
正しいことを言うことも、また正しくない場合もあるのです。

常に、真実を知らない不完全さを自覚して中腰でいることに、
何の不安があるのでしょうか。
むしろ、それが人間の完成された姿ではないでしょうか。

私たちの目標は、真実を知る正しい人になることではありません。
不完全な主体のまま、正しい行為をし続けることなのです。
愛も、また行為である以上、同じです。

愛の人、というのは厳密には存在しません。
愛の行為で人生を埋めつづけている人、つねに毒の行為の危険に緊張している人、
そして、常に気を許して毒の行為をしてしまい失敗しつづけて落ち込む人、
その人を、便宜上、愛の人と呼んでいるだけなのです。

ここらへんの認識の話に至ると、
ひょっとしたら分かり合えないのかも知れませんが…どうでしょ。
795231:02/10/11 17:31
>>792-794

そうですね。周りとの意見の違いを通じて、その矛盾を解決することで一種の「統一体」
に進化していくべきだ、というのは私の考え方にすぎません。「鎖国」を守って、一切
の進化を拒否することもまた個人の自由だと思います。

子供の頃には、「できなかったもの」が「できるようになる」ことに大きな満足感を
得たと思います。これは、昨日までの自分を捨てて、別の自分になることと等しいと
私は思います。「自分のなりたい自分になること」が人間の生きがいなのではない
でしょうか。

「愛の人」になりたい、と思うこと自体は何ら問題を見出せません。それが本当に
「自分のなりたい自分」とぴったり重なるのならば。しかし、実はその「なりたい
自分」の姿は、毒の親やその他の指導者達によって押し付けられることが多い。
さらに、その(偽の)「なりたい自分」と「現実の自分」が解離した場合には、
うわべで「なりたい自分」を演出するはめになる。いわば、自分を二重に裏切る
ことになる。それが、

>愛の行為で人生を埋めつづけている人、つねに毒の行為の危険に緊張している人、
>そして、常に気を許して毒の行為をしてしまい失敗しつづけて落ち込む人、

ということになると思うのです。

私の自論は、ほとんど◆TX6bf7XA22さんの主張と重なっているのですが、ただ一点、
「しかし、例外的に心の底から『愛の人』になりたいと考えている人は存在するの
ではないか、そしてその人が不完全ながらその『なりたい自分』にむかって『現実の
自分』を近づけていくことは、人間として尊いことであり、まさにイエスが主張した
ことなのではないか」という部分が違うのだと思います。
796 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 19:34
>>795
だんだん解ってきました。
「自分のなりたい者になること」つまり自己実現について話しているのですね。

私は、自己実現の先に愛の人があるわけでなく、他の方向を向いています。
愛の人にならずとも、愛で人生を埋めることができればそれでよい(それが私の定義で愛の人)。
愛の人にならずに死んでも、別に構わない気楽さがあります。
義務感が全くないため、愛を感じやすい。

だから、自分以外の、愛を知らない人にとっての必要性を考えます。
 「自分は愛の人で無いから、愛をできない」
と、自尊心低くあきらめている人に対して、
 「愛の人でなくても、愛はできるよ。むしろ愛の人なんていない」
と、励ますためにも、愛の人(主体)を目指す考え方を否定する必要があるのでした。
それは「愛は行為である」という定義と矛盾しないことも幸いしました。
さらには、
「優れた子供になれ」という親の呪縛を解くという機能も兼ねているんですよ。
797 ◆TX6bf7XA22 :02/10/11 19:34
ところが、仏教徒やクリスチャンの方々は、
その宗教での自己実現となると、そのまま愛の人に向かってしまうわけですか。
それは、考えつきませんでした。なるほど…

それは、つらいですね。
なんらかの強制「しなければ、ならない」と感じてしまえば、
愛による自己効力感は希薄になって、自尊心を高めるのに寄与しなさそうです。
すなわち愛は消える。

それは「愛の人にならなければ、ならない」義務感も、同じなのか、違うのか。
「愛の人にならなければ、ならない」と心に決めている人が行う「与える行為」は、
愛なのか、愛ではないのか。
その宗教的義務感達成の満足感とは別に、
そうした義務が無くともそういう行為をしていたであろう自分に満足感を覚える…
そうすれば愛になるのか、うーん難しい。
私が考えすぎなのだろうか。ううむ。
798231:02/10/11 19:57
>>796-797

>「愛の人にならなければ、ならない」と心に決めている人が行う「与える行為」は、
>愛なのか、愛ではないのか。

ここは難しいですね。私の場合は、福音書でイエスが「よきサマリヤ人」
の喩えをひいて、「隣人を愛するとはどういうことか」を教え諭す部分を
読んだ時、私もそういう隣人を愛する人間になりたい、と思ったものです。
トルストイなどを愛読するようになったのも、その影響からです。

もちろん、一日一夜でそういう人間になれるわけではなく、「現実の自分」
と格闘しながら歩むしかないのですが、まあ、私がひとり苦しむ人を「心の
底から」善意をもって助けるたびに、私は「なりたい人間」に近づいたと
いうことを証明できるわけで、達成の満足感を感じることができます。
本当に内省的な人ならば、そこに一点の偽善(自分に対する誤魔化し)が
あっても満足感は得られないでしょう。そこの微妙な、愛が消えうせるスレ
スレのところをぬって努力するという部分がありますね。寄付にしても、
500円ならいいが、1万円だと惜しいなあ、という気持ちが出てきて、愛が
台無しになるようなものです。

山に登る人が、「無理して体を壊したら何もならないから、登山はやめよう」と
考えず、無理を承知で危険を冒してチャレンジするように、宗教に興味を
示す人種というのは、最初から高嶺の花を狙う人なのかもしれません。

人間は不合理な存在ですから「あんな危険を冒して、おまけに重い荷物を背
負って山に登るなんて馬鹿げている。どうせ降りてくるんだろ。」と言われて
も、好んで山に登る人があってもおかしくはないでしょう。
799名無しさん@1周年:02/10/12 08:43
>「ごめん、ご飯炊き忘れちゃった」
 「えー? 仕様が無いねー」
 「そう仕様がないの。それがなにか?」
 「いえ、なにも…」

これって、生活の中では重大ですよね(笑)。
事件と言ってよい(笑)。責任問題(笑)。
それをこういう風に笑える。
これは、素敵ですね。

日曜学校の先生が、
「今いただく肉の糧(体を養う食事)を・・・」と祈ったら
中身がエビと野菜の天丼で、「先生、嘘ついただ」という
生徒がいたとか。
これをどうさばくか(笑)。
最近これを考えてます(笑)。
800名無しさん@1周年:02/10/12 09:01

  カーター元大統領 ノーベル賞受賞
    理由は
ブッシュの対イラク政策への批判

ノーベル賞万歳


801名無しさん@1周年:02/10/13 06:56
>「そう仕様がないの。それがなにか?」
 

これを見習ってみると、
「んだ!うそついただ!そがどうしたっとか?」
東北弁、博多弁もどきでどうでしょう。

私はあなたの味方です、ということをいつも表明していればいい。
それが、愛の表現。
善い人に成る必要もなくてできること。

敵は殺せという世界では、誰が敵か分からなくなる。
周りじゅうが全て敵に見えるかも?
今のブッシュさんのように。

でも、敵はいるよね!という声が自分の中に聞こえてくるのは否めないが。

神様、裁きはあなたのなされること。
あなたの祝福をお願いいたします。アーメン。
802名無しさん@1周年:02/10/13 08:42
愛について語るのは良いですね。
キリスト教徒もニューエイジも仏教徒も和やかに議論できる。
それに比べて他のスレの殺伐たることおぞましい。
総論賛成、各論反対なんでしょうか、宗教者どうしの見解って。
803 ◆TX6bf7XA22 :02/10/13 11:05
>>801
私にも敵はいます。嫌いな人もいます。肌に合わない人もいます。でも、
敵と、徹底的に闘いながら、愛することはできます。
嫌いな人を、無理に好きになることは避けていますが、愛することはできます。
肌に合わない人に、無理に合わせることをしませんが、愛することはできます。

敵に塩を送る。手を抜かずに全力で戦う。
嫌いな奴とも、公正(フェア)に競い合う。
肌に合わない人も、無視しないで気にかけてあげる。存在を認めてあげる。

それらも、与える行為であって、自分自身のことが好きになるものなので、
やはり、愛なんですね。
もちろん、
当たり前にやる人は、当たり前にやっているので、気づかないことですし、
他人の目を気にして似たような真似をしても、愛にはなりません。
でも、それらを気まぐれに行うときに、意識の外で、心が愛に反応します。

その場合には、愛が「好き」という感情と分離するので、愛がよりリアルな実感となります。
そうなると、私はあなたの味方です、よりも、
愛は、それを含んでさらにモット広いものなんだなとわかります。
804名無しさん@1周年:02/10/13 12:08
まるで2チャンネル版自己啓発セミナーだな
キモ!!
805名無しさん@1周年:02/10/13 13:38
詐欺的な自己啓発セミナーが評判を落としたのですが、
ここは、だますつもりは無いし、
情報の遮断とか、
真実を語る事を妨げるものは無いし、
何より、お金がかからないのが、いいんじゃないですか?

聖書を読むと
「悪人は悪いことをする」
「罪人だから罪を犯す」という方向で頭が固まってしまいがちだけれど、
◆TX6bf7XA22さんは愛の行為とか、
愛の言葉が愛の人を創るという方向なのでしょうか?
「まず、愛の人になれ、そして、愛の行為をしろ」という
無意識的な強制、毒、出来もしないことでなく。
806 ◆TX6bf7XA22 :02/10/13 15:42
>>805
その通りです。

愛の人にならない限り、愛が実行できないのだとすれば、
凡人ばかりのこの世の中に、これほど愛があることの説明がつきません。
愛の人(主体)なるものはいないのです。
イエスも、仏陀でさえも、そういう意味での愛の人ではない。

そもそも、
「自分は資格が無いから、愛ができない」と嘆く人に対して、
愛するのに資格は必要ない、と言っておきながら、
その他方で、完成された愛の人を目指すのは、論理的に無理があります。
いったん愛の人の資格をとれば、後はやることなすこと愛の行為だ、なんて
それほど甘くはないのです。
毒を一切行わない。愛だけしか行わない、なんてのは絶対に不可能だからです。
(それとも例えば、毒の行為を止める為にサラリーマン辞めますか?後述)

あるのは、ただ行為としての愛のみなのです。

愛でより多く人生を埋めることができれば、
その人は愛の人だった(過去形)と、人は呼ぶのです。
807 ◆TX6bf7XA22 :02/10/13 16:00
例えば

難関大学を卒業した人を、優秀と呼ぶのか
(主体に重きを置いている。これから偉業を成し遂げる「かも」しれない)、

すでに偉業を成し遂げた老人を、優秀と呼ぶのか
(行為に重きを置いている)、

どちらがより、言葉の意味に忠実でしょうか。
日本は、少なくとも前世紀までは、主体に重きを置いた
一種どこか家族的な社会構造になっているので
"優秀な"人が、使いものにならなくても、不祥事を起こしても、
失敗を繰り返しても、責任を取らなくても、優秀なままなのですね。
「お偉いさんに、お上に任せておこう。」
これこそ、社会全体が子宮であるからこそ許される共同幻想なのかもしれません。

偉い人→愛の人、と置き換えれば、解りやすいでしょうか。
808名無しさん@1周年:02/10/13 17:13
>807
なるほど、これだと、楽ですね。
それに聖書の言葉にも忠実。

「隣人を自分のように愛しなさい」は
「愛の人になりなさい」とは書いてないのであるし、
勝手に神の言葉を言い換え、書き換えると
即、中身が、180度、変わる良い例ですね。

そっか、神様は出来もしないことを要求しているのでは無いのだ!!!
ここまで来れて感謝。
一山越えたような気がします。

今、ポストにエホバの証人対策の印刷物を入れて下さった方に
今までならほっておいたかもしれないが
「ご苦労様でした」と素直に声がかけられました。

これまででしたら、この方はお医者さん、
何とか当教会へという気持ちがあらわれるのが嫌で
ほっておきましたが。

毒が千分の一抜けたかも。
そういう、すっきりした気分です。
み言葉を読んで久しぶりに感動です。

祝福がありますように。
809 ◆TX6bf7XA22 :02/10/16 09:28
>>798
>本当に内省的な人ならば、そこに一点の偽善(自分に対する誤魔化し)が
>あっても満足感は得られないでしょう。

自分を何も変えないと、ガンコに保ちながら愛をするのは、無理ですし、
これが愛だと頑なに信じるのも恐いですし。同感です。
正直に誠実に心を洗っていく作業をしないと、難しい。
「そういう人」になる、というのが目標ですが、それは資格とはちょと違う、

「愛の行為とか、愛の言葉が愛の人を創るという」という >>805 さんの言葉に
簡単に同意してしまいましたが、よく考えれば深い意味のある言葉ですね。
810名無しさん@1周年:02/10/17 04:59
805です。
私はチャペルでの結婚式を司式しています。
そのリハーサル、オリエンテーションの最後に
「憎しみあうことは誰に教えられなくても出来ます。
人間は上手に出来るのです。」

「でも、愛し合うことは、
努力し、練習し、訓練して初めて出来るようになるのです。
ですから、新郎は「愛してるよ」、新婦は「ありがとう」と返す練習を
毎日10回して下さい。
そして、その第一回目の練習を
今、ここでしていただきたいのです」、と
申し上げます。半強制的にしていただいており(笑)、
3年ほどになります。

新郎新婦はびっくりしますが、
険悪な雰囲気の新郎新婦さえも
大変に素直になれるので、善いことと思い、続けて来ました。

昨晩のオリエンテーションの後にも同じ事を言い、
このスレによって理解したところである、
「愛の行為とか、この愛の言葉が愛の人を創り、愛を育てるのです」と
お教えしたのですが、笑ってましたね(笑)。

皆さん、時にはブライダル司祭の言うことを聞いて
素直にそのまま実行していただきたいです(笑)。
811231:02/10/17 10:11
>>810

>愛し合うことは、努力し、練習し、訓練して初めて出来るようになるのです。

人間が楽しむことができる快楽の内、その味わいが深いもののほとんどが「後天的
に獲得された好み」(Acquired taste)だとされます。生まれつき、酒の味がわかる
人がおりません。最初は「なんだ、こんなまずいもの、大人はよく飲めるなあ」と
いぶかりつつ、飲酒体験を重ねて「酒の味」を自分のものにします。世に言う「古典
的名作」もまた、味わう側の努力を要求します。

「自分に正直」にふるまい、「自分達は仲が悪いんだから、喧嘩してればいいんだ」
と現状肯定することは、せっかく人間に与えられたAcquired tasteの多彩な世界を
自ら拒絶することにつながると思います。

「愛の人」になることは難しいことですが、「愛の人」の世界の素晴らしさは、実際
に努力してそれを身につけた人だけが味わえるのだと思います。

>皆さん、時にはブライダル司祭の言うことを聞いて
>素直にそのまま実行していただきたいです(笑)。

私事で恐縮ですが。私はキリスト教式で結婚式を挙げ、その時の司祭の言葉「病める
時も健康な時も、相手を愛せるか」が印象に残りました。その後、10年ほどの結婚
生活で、この言葉が心の支えになってくれることが何度かありました。ふりかえると、
まさに結婚こそが最大のAcquired tasteであったと感じる次第です。
812名無しさん@1周年:02/10/17 10:12
そうはいってもさ自分がかわいいのさ
自分に害のあるものは排除し
課程を持ってる人間ならなおのこと・・
別にそれが悪いんじゃない,ただ聖人ぶってほしくないだけ
813 ◆TX6bf7XA22 :02/10/17 10:54
>>812
あなたは正直な人だ。善悪の本質も理解なさってる。

世の中は、自分がかわいい、と口では言っても、
誇りがもてない行為で、自分をずたぼろにしている人が多いのです。
心の奥深くで、デキソコナイな自分を憎くてみじめで怒りに燃えているのに、
それに気づかない人が多いのです。

心の底で、自分がうずくまって泣いているのに気づきなよ、
もっと、本当に自分をかわいがってあげなよ、自分にもっとやさしくしてあげなよ、
自分の人生を人のために送って、失敗したときに相手を責める保険にするの止めなよ、
というのが、このスレの趣旨の、愛する ということなんですよ。
814 ◆TX6bf7XA22 :02/10/18 23:48
新郎は「愛してるよ」
新婦は「ありがとう」
「愛してるよ」と言い合うよりも、対等な気がするのはなぜでしょうか。
「愛してるよ」をより多く言えば、より多くの愛がありそうなのに。

相手から「愛している」と、言われると、
こちらもお返しに「愛している」と言わなければならない、
そんな雰囲気になるからでしょうか…?

無理やりな雰囲気を背負って、「私も愛してる」と返しても、
それは、なかなか愛の言葉となりにくい。
相手を満足させるのみです。

新婦の「ありがとう」に対して
新郎が、さらにもうひとつ「ありがとう」
そのときに
二人は二人とも、お互いが与えた愛の中にいます。
二人は二人とも、自分の与えた愛の中にいます。

>>810さん、気持ちがいい話でした。感謝。
815 ◆TX6bf7XA22 :02/10/19 09:47
わたしたち自由主義国家の法体系の根本に
「あらゆる価値の源泉は、人の個性にある」
という考え方があります(個人主義)。

価値の源泉とは、例えば、国家に価値があるのはなぜか、
それは…に価値があるから、と、どんどん遡っていった、
その究極の価値の出発点という意味だそうです。

要するに個人主義とは、
「あなたが誰とも似ていない点、ユニークさ、こそが最大の価値である」
とする考え方です。
816 ◆TX6bf7XA22 :02/10/19 09:48
よく知られているように、
個人主義の逆が「価値の源泉は全体にある」という考え方です(全体主義)。
全体が大きければ価値も増します(膨張主義)
また、もうひとつ個人主義の逆が「自分の利益のみが他者の利益よりも優先する」
という考え方です(利己主義)。

さらに、利己主義に似たものとして、
「あなたの面倒は私が見るから、あなたは私を必要としなければならない」
という、助け合い万能主義も個人主義と相反します(利他主義)。
利他主義とはここでは共依存関係を指します。日本社会ではとかく賛美される考え方です。

個人主義は、いつも利己主義と間違われ、利他主義に踏みつけにされ、
全体主義には無視される、とても希薄な概念です。

その、守る努力がなければ、簡単にすり変わるところも、愛とよく似ています。
817850:02/10/19 10:04
>>1
「我も良し人も良し」という言葉があります。
突き詰めればそれになるかと。
818名無しさん@1周年:02/10/21 11:42
>「我も良し人も良し」という言葉があります。

なるほど。
友達のアンペイ君に私は
「そんなに沢山の事をしなくていいのだ。
自分にとって佳くて、相手にとって佳くて、
神様にとって佳いことだけしていれば、それで、充分。」と
言っています。
それで、彼は、充分に幸せそうです。
819 ◆TX6bf7XA22 :02/10/27 14:49
個人主義から、様々な現代の法概念が導かれます。

個人のユニークさに、価値の源泉があるのだから(個人主義)、
権力による強制は、できるだけ少ない方が良いのです(自由主義)。
個人のユニークさを最もわかっているのは、そのひと本人だから、
自分のことは、自分で決定した方が良いのです(民主政)。
集団にとって、よりその集団の「自分」に近いのは、人数が多い意見です(多数決民主主義)。

けれど、人数が多い意見もまた一種の権力ですから、
少数者のユニークさを踏みにじることは許されません(自由主義)
だから、理性的な話し合いが大切なのです(議会制)
それも、多少面倒でも、少数者の意見をどう反映するかを決めたルール(憲法)に
基づいた話し合いが必要です(立憲民主主義)
さらに、強制されない話し合いでなければ意味がありません(表現の自由、二重の基準)
820 ◆TX6bf7XA22 :02/10/27 14:51
個人主義を守ることは、人の自尊心を大事にすること、だとすれば、
それを勝ち取ったのではなく、授かってしまった日本人は
悲劇というものなのでしょうか。

「自由は、いいものだから、あっていいのだ」という情緒的な支持しかなければ、
持つだけで行使しないことが美徳とされます。行為の否定。
そのため「個人主義を守るために、自由を行使する」なんて気張る人(主体)を、
偽善だ、エゴイストだ、和を乱す奴だ、と情緒的に責めています。
「過度の個人主義の弊害」などと某総理経験者が口にするのを聞くと、
彼らに憲法改正させることを許さない日本国民は、
これでもまだ理性があるのだなと感じます。

行為をないがしろにすると、消えてしまうところも、愛に似ています。
821 ◆TX6bf7XA22 :02/10/27 14:52
他スレで調べものをしていて、愛についてみつけたので参考までに

http://kyushu.yomiuri.co.jp/cocoro/co1124.htm

――愛とは何でしょう?

いきなりの質問で驚かれるかも知れないが、精神分析では、
愛とは相手のために、相手本位に時間を与えることであると考える。
たとえば、患者さんは、
分析医との間に完全に自分だけのための時間を持つことが許される。
精神分析を背景に持つ交流分析でも、子供が成長する時には、
こういう「徹底的に自分本位の時間」を、
親が共有してくれる体験が欠かせない、と考える。

どうでしょ。
822 ◆TX6bf7XA22 :02/10/27 15:02
リンク切れしたときのために、もうすこし続きを。

不登校や心身症の親子関係を見ると、この「子供本位の時間」が欠けていることが少なくない。
親子の間にばく大な時間が費やされていたとしても、
その時間のほとんどが親ペースで独占されているのである。
 
家族面接をしていて、母親がことあるごとに、
子供を遮って発言する場面に出くわすと、この家庭の交流パターンの縮図を見る思いがする。
一方通行的な交流のもとでは、子供は自分の心中を訴え、
わかってもらうための時間をまったくと言っていいほど、与えられていないのだ。
823名無しさん@1周年:02/10/27 15:58
ICFフォーラムというクリスチャンの総合ホームページで
掲示板を使ったスレで、圧倒的な投稿件数を誇ってるのが

http://bbs.christian.jp/cbbs/cbbs.cgi
「ぼけさん、伝言〜。リーダーちゃんから。」
  [1808] [作成日:09/24(Tue) 00:09]  195 リーダー  ター茶 10/27(Sun)

その理由は
「〜さん、愛しているぞ〜」、とかの愛の呼びかけ、叫びかわしが
次々とレスを呼んでいることによるのです。
これを聞きたいのですよ。結局、人間は。

伊藤守さんの本「きっと、うまくいくよ」で、
自分に対するミスプリントを修正する方法は、
誰かが無償の愛をもって、
「君はすばらしい。」
「生まれて来てくれて本当にうれしい。」
「この世界の奇跡は君が存在していることだ。」
と説明や理由を越えて、誰かがあなたに言うべきです。

とあるのですが、その通りのことをして行けばいいのだな〜と
単純になることのすばらしさを感じさせられる出来事でした。
824名無しさん@1周年:02/10/27 16:08
上の両方の続きになる話でもありますね。

子供本位の時間を共有(01.11.24)

◆成長を促すストロークの効果

 子供本位の時間を親子が共有するとは、どういうことだろうか。
交流分析では、これに「ストローク」という言葉で答える。
これは、もともと「なでる、さする」など
体を愛撫(あいぶ)する言葉だが、
これに精神的な内容を加えたものをストロークと言う。
言葉でほめたり、目で同意を示すといった動作や、
もっと広く「私は、あなたがそこにいるのを気付いているよ」
「あなたは、かけがえのない大事な人ですよ」と
相手の存在や価値を認める様々な刺激をストロークと呼ぶのである。

 人間はなぜ、人を求め、コミュニケーションしたがるのだろうか。
それはストロークを交換するためである。
子供は、親からのストロークに反応して変化・成長する。
親が与えることができる最大のストロークは、
子供の話をじっくり聞いてあげることだ。
しかし、自分本位の時間を与えられず、
十分にストロークをもらえない子は、
ゆがんだ形でそれを補うことになる。


825 ◆TX6bf7XA22 :02/10/27 18:01
>>823
なるほど、いい感じのスレですね。
交流分析では、ストロークの与え方は3通りに分類されます。

1. スキンシップによる方法;子どもを抱きしめる,握手をする,肩を抱く
2. 言語による方法;あいさつをする,話しかける,褒める,励ます
3. 非言語的な方法;うなづく,見つめる,傾聴する

です。
さしずめ、「ぼけさん、伝言〜。リーダーちゃんから。」では、
掲示板ですから 2 のストローク受け渡しがメインなのでしょうね。

愛は、それだけではありません。1, 3 による方法、これが
現代人にとって軽んじられつつある傾向があると、私は思うのです。
なんて、掲示板で話しても仕方が無いのですが(w

でもたとえば、あえてレスを返さない、それによって
伝わるストロークもあると考えれば、それが 3 に近いかな…。
またーりした雰囲気を維持する、なんてのも 3 ですかね…。
ふむふむ、大事にしたいものです。
826名無しさん@1周年:02/10/28 07:12
このスレを立てた者です。いつも好いレス有り難うございます。

名無しさん@1周年でなくて、1とかでこのスレをスタートすればと
何度か思いましたが、ま、いいでしょう。

◆TX6bf7XA22さん、愛してますよ〜

ところで、奥さんには愛してますよと言っておられますか?

祝福が皆様にありますように。
827名無しさん@1周年:02/10/29 16:48
密度の濃いスレですね。やっと読み通したのですがどうしても分からないことがあります。
自己効力感の伴う与える行為が愛としても、効力感を感じることは傲慢というか謙虚さに欠ける気がします。私の理解が足らないのかと思うんですが考え込んでしまいました。どなたかご教示いただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
828名無しさん@1周年:02/10/29 20:15
ほとんど傲慢にあたるような、
そういう自己効力感を感じるということもあるかもしれません。
俺で無ければ、というレベル。

が、大抵のレベルは、「やってよかった」とか、
「生きてて良かった」とか
感動があって覚えている、のレベルでしょう。

そういうことは、外観上はどうってことなくても
感動として残るようなことが一番多いのでは?
そして、感動で生涯を埋めることが出来たら
それ以上の「愛」の人生って無いと思うのです。

実例が無いと議論しにくいと思いますので、
くだらない感動の記憶を。

フィリピン人のリサが、
レストランのラストに
一瞬室内を暗くする瞬間を選んで
自分から私にキスをしてくれました。
これを受けるのも愛、隣人愛だったかな、と。
829827:02/10/29 21:25
>828 ありがとうございます。具体例につき、男女が逆だったら、言いにくいんですが嫌がらせのような。
傲慢とは別な話になってしまいますが、愛する時、それは神が喜ぶ善の行為である必要があるのではないでしょうか。罪深い私には善が完全に分からないため、神にかなって生きたイエズス様に倣って生きようとしているわけなんですが。
830 ◆TX6bf7XA22 :02/10/29 21:58
>>827
はじめまして(かな?)
長いスレを読んでいただき、さらに参加してくださって、感謝です。

その気持ちは、よくわかります。
傲慢だと思う気持ちを警告ブザーとして、謙虚に振る舞おう、という気持ちは、
あなたの優しさを示しているものと思います。
私が気づいてもらいたいことは(すでに気づいているかもしれませんが)、
謙虚な人は、自分が行いたいと思う、正直で自然な振る舞いが、
謙虚になってしまうのであって、
決して、傲慢にならないように制限した結果、謙虚に振る舞う人ではないのです。
それは謙虚なフリをしている人であって、謙虚な人ではないのです。

私たちの中の Adapted Child は、そして被虐待児のほとんどは、
そうした優しい聞き分けの良い子供でなのです。
831 ◆TX6bf7XA22 :02/10/29 21:58
私は、あなたに是非考えてもらいたい。
なぜ自分は、傲慢だと「いけない」と感じるのか、を考えてもらいたい。
得意満面に「えっへん」といばったときに、心に広がる感覚はなんですか?
寒々しい、孤独になるような、「あ、しまった失敗した」と誰かの視線を感じる、
そんな感覚がありませんか?

その感情は、いつ備わったのでしょうか。
決して生まれ持ったものではありません。
また、社会で教わったものでもありません(もちろん社会はそれを歓迎しはしますが)
幼い頃に「誰かに」習慣付けられた条件反射なのです。
その誰かは、あなたが、自分勝手に自己効力感を得ることが、気に入らなかったのです。
その誰かは、あなたの喜びを取り上げようとしたのです。
その誰かは、「平等に」「公平に」「仲良く」と言いながら、
自分にもよこせというメッセージをあなたに送りつづけたのです。
でも、あなたは、その誰かが好きだった。
だから、あなたの心はその仕打ちを忘れているのです。
832 ◆TX6bf7XA22 :02/10/29 21:58
今日からは、傲慢であっても、謙虚さに欠けていると感じても、
気にしないことを試してみましょう。

今日まで我慢してきた自分自身に、今日から優しくしてあげるのです。
あなたが、傲慢に喜んだとしても、その分、他人の喜びが減るわけではありません。
あなたを傲慢に感じて不快に思う人がいるかもしれない、
ですがそれは、その人の問題であってあなたの問題ではないのです。
本当にあなたの隣の人が愛の人なのであれば、
傲慢であれ何であれ、あなたが喜んでいる事実が、嬉しいと感じるはずなのです。

自分のやりたいように、誇りにあふれた喜びを追求しましょう。
与えることから、貪欲に喜びを感じて、自分の自尊心を高めていく。
フリではなく、本当に謙虚な人は、その先にあるのです。

いかがでしょ。
833名無しさん@1周年:02/10/29 22:11
謙遜と他人の羨みの関係、なるほどと思う。

しかし、何でもそうだが、その喜びが低次元のものかもしれないという
自己への疑問もまた必要なときはあるように思う。他人は他人を評価し、
その基準から評価を下し、判断する。あいつはつまらんことで有頂天に
なっている。ひとつ教育的見地からいやみの一つでも言って場を考えない
鼻持ちならないアホな奴にましなことを考えてもらうきっかけになって
もらいたい、そう思って意地悪なことをいう今時奇特な人はいないかも
しれないが、そういうことはあってよいだろう。

いろいろな場面、いろいろな反応、そしてそうしたものがあふれる世の中、
それを自分が受け入れていく過程というものもまた人生の糧である。開けっ
ぴろげな子供のような単純さだけが人の美徳ではない。もっと深く、そして
もっと奉仕的な人生では謙遜と思慮深い沈黙もまたすばらしい徳なのだ。
834名無しさん@1周年:02/10/29 22:14
そしてそれが自分を愛するように他人を軽んじないということに関係して
いるだろう。自分の喜びだけを考えている人格はやはり幼いと言ってよい
に違いない。
835827:02/10/29 22:31
初めましてです。あぁやっぱり勇気を出して聞いてみてよかった。ありがとうございます。
自分の行為を自認することは傲慢なことという思い込みがあります。いただいたヒントちょっと考えてみます。
836827:02/10/29 22:45
あ、考えてみますっていうより、すでに色々なご意見が刺激となって、心のなかにもぞもぞした反応はあるんですがなかなか言葉になりません。言葉に浮かんでくるまでもう少し考えてみようと思います。
837名無しさん@1周年:02/10/29 23:04
>>>1
代表的、偽善者の言葉。

838名無しさん@1周年:02/10/30 02:23
あげ
839名無しさん@1周年:02/10/30 02:51
>>1
人間は自己愛から逃れられんのじゃ、わかったかと聞いてみるテスト
840:02/10/30 04:02
愛のエキスパート、世の救い主基督が発した言葉
「隣人を自分のように愛しなさい」は救いの言葉だったのです。
このスレに依ると。
ですから、偽善者さえも救われるのですね。
この事を成して行くとき。

ですから、偽善者であることが、恥ずかしいというのでは
このスレを読んで無いと思えてしまう。
自己愛の塊、あるがままの人間、全ての人が
隣人愛を通して、愛の人になることでなく、愛の行為によって
永遠の命、壊れることのない幸福の世界に
必ず入れるということです。

実は、これは、私とアンペイ君が始めた
やもめの会、別名落ち穂拾いの会、
愛称オヨヨの会、温泉セルの実感です。

おしゃべりしながらドライブして、温泉に行って、
お互いの為にお祈りし、お食事をして帰って来るだけで
人生がこんなに熱くなる、生きる、輝くとびっくりしてます。
あなたも始められたらどうでしょう。

祝福がありますように。
841名無しさん@1周年:02/10/30 15:41
私はアメリカの公立高校に行っていました。
その時、向こうで言う国語の授業のなかでこの言葉の引用された文学を勉強いたしました。
誰が書いたのかは忘れてしまったのですが、有名な人なのは確かで、ショートストーリーです。
その物語はある村の話です。有名なので知ってる人もたくさんいると思います。
その村には毎年か何年かに一回くじ引きで当たった人は他の村人に石を死ぬまで投げつけられるという慣習があります。
その慣習の時がやってきて何人かの村人がくじ引きすることになります。
そこで皆、自分や自分の家族を助けるべくあの手この手でくじ引きを延長させたり、やり直したりするわけです。
ここではみごとに皆が自分自分を守ろうという考えと、どうにか自分でなく他の人に当たらせようという考えや行動が描かれています。
最終的には一人のがれようのないままくじにあたってしまい、村人によって石打ちされます。
それで物語は終わりです。
この村の教会ではもちろん隣人を愛せということがうたわれています。そしてそれを人々は信じています。
が極限人々はどうにか自分だけは助かろうとするわけです。隣人を犠牲にして。。。
842名無しさん@1周年:02/10/30 15:45
あなたはこの石打ちで自分を犠牲にできますか?
キリスト教の浸透してる文化圏に留学してみるとおもしろいですよ!!
843名無しさん@1周年:02/10/30 15:50
>隣人を自分のように愛しなさい
できるだろ。それくらい。
普段の生活でも多くの人が無意識に行っている。
要は、程度の問題。
死に直面した際に、果たして自分の命を投げ打って他人を助けられるかどうか。
この命題は極論に近い。
日常レベルで考えれば、多くの人が「思いやり」という名目で無意識のうちに実践している。
ただ、問題なのは、普通人が出来ることでも出来ない人もあり得るということ。
ここら辺りが問題の核心になると思われ。
844名無しさん@1周年:02/10/30 16:07
本当のキリスト教者かどうかというのは行動にでるということでは?
他人のために死ねないなら、自分の偽善性を認めるべきだと思います。
みとめてこそ許されるということではなかろうか?
845名無しさん@1周年:02/10/30 16:10
846名無しさん@1周年:02/10/30 16:17
>>844
それは理想だが、一面、極論に陥っている。
極端な思考は、得てして悲劇を生む。
ここは幸福の定義と密に関連するが、
信仰の本義はもっと日常にあるべき。
847名無しさん@1周年:02/10/30 16:21
自慰行為を繰り返すキリスト者に隣人愛なんか説いても無駄
848名無しさん@1周年:02/10/30 16:27
>>846

禿同。理想と現実のギャップがあるよね。
他人のために死ぬことが義と考える自分と、それが行動に表わせない自分の
葛藤。矛盾を恐れて、前者だけが自分だと割り切ればパリサイ的偽善者になるし、
後者だけを自分だと割り切ると「俺は悪人だ、ゴルア、早く救わんかい!」流の
怠惰な「泥棒居直り型」キリスト教徒になる。どっちも現実からの逃避だよね。

人間らしく、一生この矛盾に悩むのが真っ当な道だという気がする。
849名無しさん@1周年:02/10/30 16:36
>>846
極論じゃあないよ。
死は日常にあるよ。
日常の話は日常の話として、これくらいのことはキリスト教を志すものは考えるべきです。
あなたの思考はむしろ仏教ですよ。
良くも悪くも無く中間点を選ぶという考え。キリスト教の概念が2極論なのは周知のことであります。
善と悪、天国と地獄。それが現在の根本的西洋社会の考えかたとなっています。
850名無しさん@1周年:02/10/30 16:42
>>849
教義の二極論は便宜上。
実践は、ここから工夫され導かれるもの。
仏教的であろうとキリスト教的であろうと、真理は同一と思う。
狭義のドグマに陥ることの方が、むしろ害悪があると考える。
851848:02/10/30 16:47
>>850

禿同。

二極論のキリスト教では、パリサイ的偽善者か、「泥棒居直り型」キリスト教徒
しか作れなかったってこと。実際に、金儲けのために「神の名において聖戦」を
おっ始めたりね。西欧は基本的に偽善社会だよ。きれいなのはうわべだけ。
852名無しさん@1周年:02/10/30 16:50
ああ、我々もせめて偽善者にになれる程度の良心があったらな
853名無しさん@1周年:02/10/30 16:56
>>851
その通り。どちらも過激で極端になりすぎ。
こういった教義が成立していった背景を知ることも重要。
854 ◆TX6bf7XA22 :02/10/30 19:35
こういうゾンビのような方々をすべて相手にしなきゃならなかった、
イエスも仏陀も、ほんと辛抱強い愛の人だと思います。

いまの臨床医は、すくなくとも目の前のひとりだけを、
相手にしていればいいわけだし。
さらに、そんな義務の無い人であれば、彼らに対して
「んじゃ好きにすれば。勝手に妬みと怒りの世界にいなよ」
とほうっておけばいい。
アダルトチャイルドの居ないところに行って、
仕事をしたり友人を作ればいいわけですから。

でも、このスレを見ている人の何人かが、こちらの世界にくるきっかけとなれば。
スレを最初から通して読んでくださった人、ほんとありがとう。
855 ◆TX6bf7XA22 :02/11/01 07:00
ちょっと反省を。
ゾンビという言い方はないですね。失礼しました。
素直に仏陀とイエスは偉いっで済む話なのに。

考えてみれば、私もゾンビだったわけだし、みな苦しんでいるんだしね。
言ってきたことが相手に伝わらなくても、
言ったことだけに自己効力感を感じるはずが、
相手の反応に気を取られすぎていて、つい嫌味が出てしまった
・・・というのは、毒な発想。
ということは、私自身がゾンビになっていたわけで、

何度もやってきた失敗をまたしてしまった。
すみません。
856 ◆TX6bf7XA22 :02/11/01 09:11
では、疑問に対して私も考えてみます。

>>833
>自分の喜びだけを考えている人格はやはり幼いと言ってよいに違いない。

そうですね。幼いかもしれません。ですが、その人は見込みがあります。
本当に自分の喜びを追及していけば、
いつか「他人に与える以上の喜びはない」ことに気づくかもしれないからです。
誰でも知識を多く蓄えれば、それを秘密にしておくことができずに、
他人にウンチクしたくなるでしょう。(たいてい見返りを求めずに)

さらに。
自分の喜びだけを考えている人というのは、実はほとんどいないのです。
エゴイストと言われる人、ナルシシズムに浸っている人すらも、違う。
彼らは、実は自分の喜びなど考えていません。
彼らは「自分の喜びを考えずに、他人に自分を喜ばせようとする人」なのです。
こちらの方が、よほど幼いと私は考えます。
857 ◆TX6bf7XA22 :02/11/01 09:12
子供が幼いのは、生存のすべてを親に頼っているためです。
成人した被虐待児は、自尊心が低いため、自分でなにかをするというよりも、
他人と関係をつくって他人にやってもらおう(もしくは交換しよう)とします。
「助け合いは美しい!」と声高に叫びながら、獲物を探します。
他人を喜ばせるというのが、結果の話であれば問題ありませんが、
それを目的としてしまうと、とても奇妙なことになります。
本来であれば、他人の喜びは、その他人が考えるに任せるべきでしょう。
それができないのは、なぜなのか。

私は、それは、
相手を奴隷にしていつか自分の役に立たせようという心が潜んでいるから
ではないかと考えています。
「他人に必要とされる必要」が強迫観念となっている人、
そういう人を共依存者といいます。
858 ◆TX6bf7XA22 :02/11/01 09:13
最後に、教育、しつけといったものが、純粋に相手のためであるなら、
相手がそれを軽んじても、拒否しても、何と言うことはないはずです。
せいぜい達成感が得られないことにがっかりするくらいで。

ですが、おそらく頼まれてもいない教育者たちは、その場合に
「恩知らず、あなたのためを思って言ってやっているのに」と怒り出すのです。
価値ある物をくれてやったのに、相手がその価値を認めなかったことを、
相手のせいにしている・・・これはいったい何なのでしょうか。
結局は自分のために、あいてを教育しようとしている証ではないでしょうか。
859くろしろ ◆Mi0a.9Ms2A :02/11/03 17:59
オウムはどうだろうか?彼らのサンガは愛に満ちてないだろうか?
あれだけ批判されて、なお離れられない彼らなのだ。
自分が解脱したいように、他者にも解脱を与える。嘘か冗談か?
860よんく ◆IMWCDs4aRY :02/11/03 21:53

イエス・キリストは隣人愛を説き、仏陀は人間の仏性を説かれました。
その目指すところは「人の和」なのでしょうか?TX6bf7XA22さん
ふと浮かんだだけですが。。。
861名無しさん@一周年:02/11/05 23:15
仏教の事はよくわかりません。

キリスト教では「天国は実にあなた方の間にある」とあります。
隣人のために、自己効力感を得られる仕方で
愛を行う人々の中で、天国の響きを感じられるのでは?

それは、仲良しとか人の和というよりは、愛の交わりの豊かさでしょ。
862名無しさん@一周年:02/11/06 16:50
>861
自己レス
「隣人のため」は不要でしたね。
863 ◆TX6bf7XA22 :02/11/07 09:16
>>860
調べ物をしながら考えつづけていましたが、
「人の和」というのが何なのか、私には、わかっていないかもしれません。

以前に私は、愛の理論の立場から、平和とは
「奪い合う行為よりも与えあう行為の方が優勢になっている時代」 >>691
であると考えました。

同じ「与える」行為であっても、その行為者の意識次第で、
「与える」となったり「奪われる」となったり、変幻自在に変わりますから、
いつも与える授与者をやっていれば、奪われても与えたと思いやすい→元気喜び
いつも奪われている被害者であれば、与えてもまた奪われたと思いがちになる→怒り妬み

つまるところ、被害者<授与者であれば平和。
864 ◆TX6bf7XA22 :02/11/07 09:17
ここには、奪われる削られるという意味の「自己犠牲の概念」は入ってきません。
傍から見ると自己犠牲に見えても、本人は与える誇りに励まされて喜びの中にいる。
231さんに教わった「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」とも、
そこに共通点を見ました。

ですがその後、仏教徒の方が、
他者を一方的に利するという行為(修行)が、「自分を忘れること(仏道)」をもたらしてくれる、
というのが「自を利すること」(自利)である。と、解釈しているのを知りました。
自己犠牲の埋め合わせを仏様がしてくれる、その方が利益である・・・
仏教的な考え方と、西洋的な考え方の違いなのでしょうか。
これが愛か、と問われればかなり迷います。ここで悩んでいました。

似ていますが「情けは人の為ならず」という諺とは違う。
これは簡単ですね。
これは他人にしたことが巡りめぐって自分の利益になる、という意味ですから、
将来の自分の利益のために、現在の自己犠牲を忍ぶという発想ですね。
これは愛ではない。毒。
865 ◆TX6bf7XA22 :02/11/07 09:29
>>864 は、すべての仏教徒共通の解釈というわけではないようです。
231さんは、「お互い様」という意味である、とされていました。>>657
自己犠牲の時にも、自分も何かしらのお世話になっていることを自覚することで、
感謝の心とともに与えることができる、という意味でしょうか。
これも微妙。
ただ、着目している利益がなんであるか、という点で、解釈が異なるようですね。

イエスが着目している利益は、自分の自尊心の高まりだと、私は思います。
イエスの言葉には、
「自分の足で立て、自分でやれ、あなたにはその力があるのだと自覚しろ」
と、父性的な厳しく暖かい励ましが流れているような気がします。
不具者や無知な相手を、患者と見ずに、限りなく対等な人間として扱う姿がそこにあります。
仏陀の言葉についてはコメント控えます。
866231:02/11/07 10:13
お久しぶりです。

仏教では「因果応報の法則によって、過去の悪業が報いて現在の苦が現れている」
というのが大前提にあります。ところが、苦は主観的なもので、受け取る側の世界
観によってどうにでもなります。「論理療法」的に言えば、個人が勝手に決めつけた
「ねばならぬ主義」が苦を作り出します。仏教は、「ねばならぬ主義」を排除して、
世界をあるがままに見ることを教えます。
ttp://www.geocities.co.jp/Bookend/7010/Ithink-ronri.html

たとえば、過去に贅沢三昧をして、利己主義の生活を送った人が、その報いを受けて
貧困になったとすると、「自分は他人よりも金持ちでなければならない」という考え
方そのものが「ねばならぬ主義」ということになります。だから、因果応報の理で、
今世に利他に励んで「積徳」に務めたとしても、所詮は「ねばならぬ主義」を引きずっ
ているだけだから、問題解決にはなりません。もちろん、こんな考え方は仏教では
ありません。これは、仏教の前身であったバラモン教(今のヒンズー教)の教義です。
>>864で「これは愛ではない、毒」と結論されていることは正解だと思います。

私が「お互い様」と書いたのは、「方便的にそういう善意的な見方をせよ」という
意味ではなくて、あるがままに世界を見たら、自分も他人も目に見えない糸を通じて
もたれあいながら、「お互い様」の生き方をしているんではないか、ということです。
867231:02/11/07 10:36
原始仏典の中にも、後生のために善根を積め、と書いている部分もありますけど、
それは「ねばならぬ主義」にかかっている人達に対する方便だったのではないか、
と私は思っています。

たとえば、原始教団でも、禅院でも、生きる最低限の貧困生活に近いですが、それ
は来世に福を受けて金持ちになるためではありません。むしろ、一度最低限に落ち
ついてみると、結構支障なく暮らせるではないか、という体験をして「金持ちに
ならなければ人間は生きる価値がない」という種の「ねばならぬ主義」を克服する
ためではないでしょうか。聖書にある「明日は炉に投げ入れられる野の草さえも」
の一節にも、同じ思想を感じます。

「この世では、生存競争に勝ち残らねばならぬ」という「ねばならぬ主義」が隣人
との愛の交流を妨げているのではないでしょうか。隣人を愛せよ、じゃなくて、
隣人を敵とみなすことをやめよ、というのが本来のイエスや釈迦の教えに近いの
では。実際、もちつもたれつで、結構仲良く隣人同士でやっているのですしね。
それを素直に認められず「いや、人間なんて利己主義にしか生きられないんだよ」
と嘯きたくなる裏に、「勝たねばならぬ主義」から来る恐怖があると思うのです。

「相手を倒さねばならぬ」と後ろでに短刀を持ちながら、相手を愛することなど
不可能です。短刀=「ねばならぬ主義」から来る恐怖、を捨てて初めてそれは可能
だと思います。
868名無しさん@一周年:02/11/07 17:28
私の想像ですが。

学校で学生に点数を競わせて優劣を付けるなどは
日本が生き残ってくために必要です。

しかし、個人的な生活を心豊かにし
幸福を追求するのは、そのような仕方ではできません。
それでは到底達成できないことを、誰でも知っています。

でも、それなら、どうしたら、というとき、
当たり前すぎるようですが、
この「隣人を自分のように愛しなさい」が
「ねばならぬ主義」と全く別の世界での
権威ある発言として存在するのでしょう。

どのような権威かというと
そのことばどおりにした者に、確実に愛の世界が開かれてゆく。
違うことなく、という真実を持っている、という権威。

869231:02/11/07 20:08
>>868

>学校で学生に点数を競わせて優劣を付けるなどは
>日本が生き残ってくために必要です。

私は、そんなことないと思います。江戸時代までは、今のような競争社会ではあり
ませんでしたが、ちゃんと社会は機能していました。昔は、賃金の時間単価を上げれ
ば、労働時間を短くするのが常識でした。ますます張り切って、収入を増やそうと
労働に励むようになったのは、戦後からのことです。今は、飽食状態にも関わらず、
いくら金を貰っても満足できない。他人を殺してでも金を手に入れようとする。
これは実に不幸なことだと思います。

「日本が生き残る」と言っても、「日本」なんて実態はどこにもない、あるのは
日本人だけです。その日本人がこぞって、権力者の口車に乗って、ありもしない
「日本」のために幸福を犠牲にし、金だけを手にする。まるでガン細胞が「増殖
しなくては勝てない」という信念を持って、体中に触手を伸ばしていくようです。

競争社会の最後は....累々と積みあがった大多数の死体の上で、雄たけびする一握り
の勝者の姿です。ガン細胞が全身に回った末期患者の体みたいなものです。
870名無しさん@一周年:02/11/08 01:05
毒が蔓延して終焉、終演という画しか描けないでいるのが
今の日本ということですが・・・
う〜ん。
まあね。
私もその中で、のうのうと生きられるのだから(今日は)
文句も付けられない。

祝福がありますように。
871 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 01:54
人それぞれいろんな見方がありますね。

私は競争社会賛成派です。競争は生物の宿命であり自然な姿。
人為的に無理な平等を強いると、
結局は共産主義の失敗のように道理が引っ込むことになりかねません。
権威が選んだエリート教育よりも、
競争を勝ち抜いた本物が賛美される社会は、まだ健全だと思います。

かといって、231さんに反対する立場ではありません。
競争は良いのですが、その基準が、企業経営者や国家権力者にとっての
「優秀さ」だけの物差しかないことが問題なのだと思います。
他の複数の優秀さもまた価値観として両立しなければ、文化的に貧しいと思うのです。
競争に負けた残りの人間それぞれが、別の競争では勝者になる。
そうした競争が数多く用意され、互いに価値を認め合う国であれば、どんなにか。
それは、個人主銀思想に帰着していくんですね・・・
872 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 01:57
昔は、そうなっていました。
弱小な経営者〜一国一城の主がおおぜいいました。
わらじ屋も、傘屋も、魚屋も、米屋・・・
彼らは、いわば商業的には与える人〜愛の人々です。
商業的な毒の人〜サラリーマン自体が少なかった。

商業的な愛の人は、金を"与え"て投資する資本家です。
自分の他にも、金に法人格をつけて働かせます。
得たお金はまず自分が取り、残りから政府が取ります。
残らないときは赤字企業として政府も税金を取ることができません。
日本には、そうした赤字の中小企業が非常にたくさんあります。

商業的な毒の人は、経営者から金を奪いまた奪われる労働者です。
自らの労働の対価から、経営者に差し引かれ、次に政府に差し引かれ、
最後の残りの給料で、支払う金額の半額の値打ちの商品を買わされて、
それを財産だと思い込まされる。
最後の上澄みをわずかずつ貯めて、車やマイホームを買えば、
今度はそれを理由にさらに市町村税を取られる。

「自分に最もかけている物を与えよ。」と言われます。
金が欠けているなら、金を与えるのが金持ちなのかな・・・
873 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 01:57
サラリーマンが駄目だと言っているわけではありません。
愛や毒の行為自体に、善悪の価値観は入らないことを思い出してください。

もちろん、できれば愛の行為で人生を埋めて喜びいっぱいに暮らしたい。
ですが、生きていく限りに毒の行為をせざるを得ない。
仮に商業的に愛の人となっても、他の分野ではまた毒を行うことになるでしょう。
それは、分業社会ゆえに仕方が無いところです。
その中で人生をどうやって愛で一杯にするのか・・・
私たち凡人は、身近なところからこなして行きましょう。

以前、すべての分野で「完成した愛の人(主体)」となるのが無理だと言ったのは、
こういう事情があるのです。
でも、自分の愛の(行為)で一日自分を幸せにすることはできます。
874 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 03:01
>>867
「せねばならない」ルールに縛られた善意は、その人の物ではないし、
「せねばならない」ルールに縛られた与える行為は、愛ではない
といったお話と共通するものを感じます。

イエスも仏陀も、さまざまな既存の概念からの自由をうたっているという点で、
共通しているということでしょうか。
その彼らの教え自体に、また縛られる人々が後世に現れるのは、
なんとも皮肉なことと言えるのかも知れませんね。
仏典は、聖書は、と振りかざす人に、あなたちっとも悟ってないですね、と
いつも喉まで出かかるのですが・・・黙ってます。

もっとも、宗教だけに限った話ではありませんが・・・
親の視線に縛られるのに慣れている被虐待児は、
成人しても常に何かに縛られていないと落ち着かないのが特徴です。
縛られれば、ルールのせいにして責任を負わずに済むので、
自分が信用できない彼らには、ルールの縄は甘い誘惑なのですね。
875 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 03:11
>>871
>私は競争社会賛成派です。競争は生物の宿命であり自然な姿。

でも。
偉すぎもしない、貧乏すぎもしない、ちょうどいい加減ってのがあるのだと、
むかし恩師から言われた言葉が、今も妙に気になってます。
いつかこの言葉がわかる年齢になるのだろうか、と。

自分の子供に、こう言えるような人生でありたいとは思うのです。
意味が伝わるかな・・・
876231:02/11/08 08:54
>>875

「自分のための競争」ならば、競争も益になると思います。お互いに触発され合う
ことによって、自分の内面にも磨きがかかる。

ところが、実際の競争は「自分のため」と偽られた贋物の競争です。「お前はこの
会社を追い出されたら、生きていくことはできない」、「一流大学を出ないと一生
頭があがらない」、どれもこれも嘘ばっかりです。北朝鮮の情報統制のことを、日本
人は「こんな不合理なことが」と憤慨し、呆れていますが、実は同じようなことを
日本の企業も政府もやっているのです。ピラミッドゲームの勝者は、何とかして敗者
の気をひいて、ゲームを永遠に続けようとします。ゲームを放棄した人間は、生きて
いけないのだ、と脅すわけです。そこから生まれる恐怖が、次のゲームを開始させる。
アル中患者が、禁断症状に怯えてアルコールをあおり続けるようなものです。

今朝の新聞を読んでいたら、日本の若者の進学志向が急速に衰えているようです。
ことの善悪はともあれ、ゲームの進行に赤信号が点滅していることは確かです。
877名無しさん@一周年:02/11/08 11:10
家に来る雪印牛乳の集金員、怯えてる。
いつ、牛乳いらないと言われるかという感じ。
600人いたお客が400人に減って、経営の瀬戸際だそうで。

でも、週一本の、月400円にならないお金に
怯える会社、社会って異常だよね。
いくらお金の価値が上がってきても。
変な競争社会。

ガラス瓶一本の牛乳が、配達されると
一リットルパックの安売り牛乳とあまり変わらない値段になるのは置いといても。
878231:02/11/08 13:13
>>877

その集金員の人が、自分の地域の一員で、おじいさんの時代からのつきあいだ、と
いうことなら、彼が職を失うのは可哀想だから、少々高い金額を出してもいいや、
という気持ちが働くのでしょうけど。近所づきあいが疎遠になった上、会社との契約
関係で「目隠し」されているから、そういう温情も働きません。「あの人、最近見かけ
ないねえ」「噂ではクビになったそうだよ」「へえ〜、厳しい世の中だね」....という
具合に、彼が職を失った責任を架空の存在である「企業」や「社会」に押しつけて、
自分の手だけは汚さずに済む。一方の企業は「オタクらが、近所のスーパーで安い牛乳
を買うからだ」という言い分を持つのでしょうけど、それは消費者には伝わらない。

かくして、消費者はすべて「清く正しく、虫一匹殺すことがない善人」として平和な
生活を続け、一切の悪は「企業」や「社会」のせいにされてしまう。競争社会を肯定する
人達は、大なり小なりこの種の「虫も殺さぬ善人」という自意識があると思います。

かく言う私も、スーパーで1円でも安い牛乳を買うくちなので、偉そうなことは言えませ
んけど、分業化が進んで相手の顔が見えなくなればなるほど、隣人に対して平気で
残虐なことができるシステムになっていくのでしょう。
879名無しさん@一周年:02/11/08 16:37
競争よりも協力で生き延びて行く時代の方が幸せそうだが。

東北教区報に、青年海外協力隊でインドネシアに派遣され
助産婦の働きをされた方の手記が載ってます。以下にその一部を。

貧富の差は、多くが「平均」の私たち日本人には
到底理解出来ないほど大きな格差と悲しみを生みます。
それでも人々はその中で祈り、幸せを見つけ、暮らしています。
「すべては神様の御心のまま」という
彼らがよく口にする決まり文句があります。
・・・インドネシアのどの島に行っても、
必ず神様が強く住民の心の中に生きています。
経済的・物質的に発展していない地域ほど
人々が幸福に見えたのは私の錯覚でしょうか。

貧しい(これも私の押し付け価値観かもしれません)中で
彼らは日々笑顔で感謝の暮らしをしています。
神様の恵みと家族単位を越えた地域社会の強い絆・・・それで彼らは
素晴らしく豊かな「生」を送っているのです。
880 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 18:08
>>879
それほどに幸せであるなら。
その助産婦さんに、是非、自分の子供をそのインドネシアに留学させて
一生そこに住まわせなさいと言いたいですね。
せっかく紹介して頂いた話を皮肉るようで申し訳ないですが、
そもそも幸せというのは、よく考えると難しいじゃないですか。

新宿で寝ている黒い人だって、幸せかもしれない。
大金に囲まれて寝ている人でも、実は不幸かもしれない。
そう考えれば、客観的な幸福感といったものに、
どれほどの価値があるのか・・・なぞと、思ってしまう私です。
インドネシアの人だって、豊かさを味わいたい人はいるでしょうから、
日本人の立場から、あなたは幸せだからそのままでいなさい、と言うのは無神経でしょう。
それと同じで、日本の自分たちと比較して不幸だと一括されるのも、ちょっと迷惑ですね。

幸せや不幸というのは、環境や相手のせいじゃないと思うのです。
881オナン:02/11/08 18:12
>>880
同意
882 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 18:26
いやね。
私も昔は、幸福とは、諦念のことだと思っていました。
飢えが無くなれば幸福。
愛されれば幸福。

でもそれは、幸せか不幸かを相手や環境に依存している状態です。
子供が親の愛情を子宮の中で待っているのと同じなんですね。
だから常に恐怖と背中合わせの幸せなのです。
恐怖ゆえに、安心感を求めたい。
だから「せねばならない」集団のルールに縛られてしまうのです。
ルールに従っていれば安心感を得ることができるからです。

ここまで考えて、はて、では幸せとはなんなのか、と。
幸せとは、他人次第のものなのかと。

幸せとは、相手が何をするかを待つのでなければ、
「自分が」何をするかしか残されていないと、私は思うのです。
883231:02/11/08 18:27
確かに難しい問題ですね。日本は、インドネシアに商品をたくさん買って
貰って富を積み上げ、今の豊かな社会を作り上げた。悪く言えば、インド
ネシアの貧困を踏み台にした幸福の上に安住しているとも言える。では、
明日からインドネシア流の生活に切り替えましょう、と言い出しても、誰も
追従しないでしょうね。恐らく、その助産婦さんも。私だって嫌だと思う。

うまく言えないんですけど....。どっぷりと物質的反映に浸かって生きている
自分達は、調べれば調べるほど、目に見えないところで「とんでもない」悪逆
非道なことに関わっているということだと思います。ゴジラが東京の街を歩き
回ると、尻尾で何十人もの人間をなぎ倒してしまいますよね。あんな具合に、
ちょっと何かやるごとに、地球のどこかの人間をなぎ倒しているのが現状だと
思うのです。

インドネシアへ行って「迷惑をかけて済まんかった」と土下座するのは、ある
意味たやすいと思うのですが、「それなら、お前は一生、ここに永住して罪を
償え」と言われたら...恐らく逃げ帰るしかないでしょうね。そこにどうしようも
ない「人間の悲しい限界」がある。やっぱり、自分は罪な人間だ、とためいきを
つくしかないような...。
884231:02/11/08 18:42
>>882

「幸せ」の種類にもよるのではないでしょうか。マズローという心理学者
の説によれば、人間の最高段階の欲求とは「自己実現」だそうです。「自分
がなりたいとあこがれる自分になる」のに、他人の助けはあまりいらないと
いう気がします。他人の評価にあわせて自分を変えるような人間はとても
「自己実現」など不可能でしょう。

他人の目が気になるうちは、下位の「所属欲求」とか「承認欲求」の域を
出ないと思います。
ttp://www.with-up.com/sinrigaku/maslow.html

マズローの分類は、かなりよくできたモデルだと思います。
885名無しさん@1周年:02/11/08 18:55
自分を愛せない人はどうしたらいいのだろう。
886 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 19:07
あれ。マズローの4段階説だと思っていましたが、
リンク先を見ると5段階になっていますね。勘違いかな。

自己実現欲求というのも近い概念だと思うのですが、
これも、やはり欲求を満たされる種類の幸せを前提としているので、
ちょっと違うかな・・・

飢えた状態を満たされる、といったマイナスを埋める幸せではなくて、
プラスを積み上げる幸せがあるような気がするんですよ。
それが諦念の幸せ概念からの開放ではないかな、と。
887 ◆TX6bf7XA22 :02/11/08 19:15
>>885
過去レスを読んで、
とりあえず、他人を愛してみましょう。
他人を愛するとは何なのか考えながら。
そして実際に愛してみましょう。

そういうことができる自分が好きになる、
自分が好きになる行為をたくさんしてあげる、
それが自分を愛することだと思うのです。
888蟷螂夫人:02/11/08 19:16
楽に生きるざまス。
無理しないざまス。
889よんく ◆IMWCDs4aRY :02/11/08 22:28
>>◆TX6bf7XA22 さん
過去レスを読んでみてください。あなたも(^。^ なにかを見つけますよ。請け合います。

あぁ それは後回しにして”カムバックヒヤー”といっている人がいます。待ってます。^^
890 ◆TX6bf7XA22 :02/11/11 09:23
>>889
読みました・・・。
ヒアーの方もちゃんと読んでますよ〜。
891トンケ:02/11/11 13:08
>>693 : :
>>運が良かったんだね。
良かったのかモネ(W

>>694 :  :
>>そういった個人的な経験による判断も、「木を見て森を知らない」一例なのではないでしょうか。
全部とは書いてないでしょ。反日ばっかりでなはないってことが言いたいだけよ。俺も「親日派のための弁明」も読んでるしね。

>>696 :  :
>>明らかに日本国への損害になるような行動を取る韓国が日本にとって
それは、政府や知識人達の策謀によるところは大きいと思いますよ。
日本だって昔、アメリカを鬼畜と信じて人はいるわけだし。
一方的な情報を鵜呑みにして知る努力に欠けるやり方は、確かに褒められたことじゃないけどね。

>>いい友人ではないという判断は個人を見て判断するよりはよっぽど確実な判断だと思うがな。
今の韓国の教育政策で国を友にするのは困難ってのは、わかりきってることだよね。でも個人的には友達に出来る方はいますよ。

>>697 :       :
>>ハン板の連中が嫌いなのは、勧告人の偏狭なナショナリズムと
>>日本に対する異様なジェラシーと、執拗な歴史捏造行為と、
>>恥知らずなパクリ体質、じゃないの?
それは、当たってると思います(W 政府がそれを後押ししてるってのが・・・・

>>個人的にはいいやつがいてもね。
それならば、そういった体質を攻めればいいことです。存在その物を否定することはない。

>>698 : :
>>罵声をあびなかったり、石投げられなかっただけで
>>紳士的に思う事自体お寒いけどな、そこからおかしいだろ。
「だけ」なわけねぇだろがよタコ助(W 頭使えよ。
892トンケ:02/11/11 13:24
>>891
俺、思いっきり誤爆してます。ごめんなさい(汗
893名無しさん@一周年:02/11/11 18:45
凄い誤爆ですね(笑)。
これをご縁に、このスレに投稿されませんか(笑)。

祝福がありますように。
894トンケ:02/11/11 18:49
実は私、「オナン」でもあるのです(ばらしちゃった(照れ)。
895よんく ◆IMWCDs4aRY :02/11/13 19:20
>>890さん
ありがとうございます。スレを止めてしまって申し訳なかったです。
このスレ読み直し終了ですか。見えましたか?
896名無しさん@1周年:02/11/14 22:05
>>1
その方が平和に暮らせるからでしょう?
897名無しさん@一周年:02/11/15 10:21
そのようにして、平和に暮らしている実例は
沢山すぎるほどあるのでしょう。

以前はそうでなかったが、この言葉どうりに
こういうふうにしたら、平和に暮らせるようになった、
という実例が欲しいところですね。
898 ◆TX6bf7XA22 :02/11/16 10:02
>>895
スレは止まっていないので、お気になさらず。
深いテーマなのでじっくり熟成することをもまた必要かと。

私は >>136 から参加させてもらってます。
それ以前のレスも、みなさん自分で考えている姿勢が溢れていて、
読み返すたびに新鮮です。

「人の和」についてはいまだ保留です。
愛を支える個人主義が、安易に利己主義と勘違いされるのと同様に、
「人の和」もまた、全体主義と混同されやすい。
(同じモノかもしれませんが。)

もしも、人の和を理解している人に、
「なら、周囲の人を巻き込まないであなた独りで和をやりなさい」
と言った時に、その人がどう反応するか、それでわかるかもしれません。
人の和は、誰のためにしているのか、そこがポイント。

たとえば、愛を実践している人に、同様な言葉を投げかければ、
「そう。わかった」として、気にもとめない筈です。
愛は自分自身(個人)の喜びのためにしていることだからです。
899 ◆TX6bf7XA22 :02/11/16 10:12
>>897
愛は、自尊心を高め、
それは強き者に対して戦う勇気も与えてくれるので、
私の場合には平和になったかどうか・・・(w

人の言動や、人の評価に左右されず、平常心を保てるようにはなりました。
それも、平常心のフリをしていた以前とは違って、
平常心になったぶんだけ、心に余裕を持てるようになった感じがします。
(まだまだ未熟で、乱されることも多いのですが)

好き嫌いが正確に判断できて、嫌いなものに対して
無理して自分を合わせる事をしなくなりました。さっさと捨てる。
わざと混乱した状況に身をおいて、その混乱に縛られて、
何もせずに悩むことで「何か充実したことをしている」気分になることが、少なくなりました。
人や世間のしがらみ、から離れるのは、難しくないことだと知りました。
その他にもいろいろ・・・書き始めると切りが無いのですが・・・
900メリーさんの羊 ◆/JGJ6Z1/Eo :02/11/16 10:13
900get!
901 ◆TX6bf7XA22 :02/11/16 10:30
自尊心とは、

 「自分にはこれこれのことがなしうる」という自己への信頼と、
 そこからくる、自分自身を尊重する感情を重視している。
 それは他者の評価に左右されない静かな自己確信であり、
 ナルシスティックな優越感とは異なるものである。

 サン=テグジュペリ

なんて言葉も。しみじみ。
902 ◆TX6bf7XA22 :02/11/16 10:54
優越感と自尊心とは、取り違えやすい概念です。
子供が成長する過程で自然と手に入れるのは、
ナルシシズムに沈んだ、優越感の方です。

自尊心は、競争や他人との比較とかけ離れた概念なので、
集団生活の中ではなかなか気がつきにくい、
また、一瞬気が付いても、注意して持ちつづけなければ、
すぐに(子供の頃からなじんだ)優越感に塗りつぶされてしまいがちです。

危険で濫用できないのですが、自尊心の高さのテストとして、
相手にこう言ってみる。
「あなたは、そういうあなただから、そんな人生になったのですね」
この言葉自体には、賞賛の意味も侮辱の意味も含まれていないのですが、
「ありがとう」と感謝する人や、不愉快な気分になる人、
運や環境、人のせい(おかげ)と言い訳を始める人がいれば、
静かに自分の実力・権力をかみしめる人もいます。

そこに、その人の自尊心のありようの片鱗を見ることができ(る気がし)ます。
そうなると、その人が、愛を知るのか知らないのかを予想することもできます。
903名無しさん@1周年:02/11/16 11:13
優越感コンプレックスと劣等感コンプレックスは表裏一体です。
904名無しさん@一周年:02/11/19 02:26
>優越感コンプレックスと劣等感コンプレックスは表裏一体です。

私も「笑い話」のスレに毎日書いていてそのことに気がついた。
昨日はとても優越感に満ちた書き方をしていると思うと
今日は打ちのめされた書き方をしているので。

そういうコンプレックスがあっても
自尊心の高まる方向で行動する、それが愛を育て、
結局は、愛に満ちた世界にしてゆく、というのがこのスレですよね。


905名無しさん@一周年:02/11/19 11:13
虫さん、という方の投稿がICFにあって。
どう思われますか?
押し付けになりそうな言動をするとしても、
相手の反応を見ても、こだわらなければ
それで充分ということですか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

たとえば、電車に乗っていて、前に老人が立っていたとする。
そおだ、善い行いをしなければと思い、
「おじいさん。どおぞ座ってください」と言うと、
「いいよ。お前さんに席をゆずってもらうほど年をくってねえよ。」って
言うかもしれない。

もし、このおじいさんにとって座ることが必要かなと思うとどおだろう。
「おじいさん。よかったらお坐わりになりますか?」となる。それでも
「いいですよ。わたしは立っていても大丈夫」となるかもしれないが、
この違いはわかりますでしょうか?

善い行いをしようとするのは、自分が主体となっている。
必要と思うことをするというのは、
相手のことを考え尊重し考慮することなのです。
自分が主体となっている以上、
自分の範囲内でしか考えないから失敗するのではないかと思うのです。
自分が考え正しいかどおかでは、
相手にとって正しいことではないかもしれない。



906名無しさん@一周年:02/11/19 12:39
ひとつには、正しさでは無いということでしょうね。

○パリで旅行中、朝食で出会った韓国人に
日本語で「こんばんは」と話しかけられ、
レストランのウェイターには「いただきます」と言われて給仕してもら
った。(気持ちはうれしかったよ)
◆TX6bf7XA22 さん。他スレではお世話になりました。
いつかまたやりたいと思いますが、チョッと時間が必要なようです。
ホント ありがとうございました。 サンキュ
908よんく ◆IMWCDs4aRY :02/11/19 21:43
いいえ ひと月くらいオヤスミでなんとかなります。キット。。あとはヘノさんに期待して。ADさんもよろしく。

このスレの方々にはご迷惑なレスで申し訳ありません。
   
ここにあるのは「愛」。2ちゃんにも”アイ”はありますよね。あって欲しいです。
909死後の世界信じないよ:02/11/20 08:14
よんくさん。おはようございます。
実は僕のほうにも ごたごたがありまして、続けられない理由もあるのです。
丁度よい引き時だと思ってます。お気遣いりがとうございました。

いろいろお世話になりました。サンキュ

ADさん お体大丈夫ですか? 
僕の父親も すい臓やられまして緊急入院しまして、たいへんです。
くれぐれも お体御自愛ください。 ではでは。。。
910 ◆TX6bf7XA22 :02/11/20 12:56
死後の世界信じないよさん、苦しければ放棄することこそ勇気です。
人生ただでさえ自分を背負わなければならないのに、
それ以外のところで責任を負うことはありません。
膵臓炎とは私などよりよほど災難ですね。お父上を大切になさってください。

このスレの皆さんすみません。
終了した他スレの連絡となってしまい心苦しく思っています。
これも愛のやりとりの実例としてお許しを。
911 ◆TX6bf7XA22 :02/11/20 12:57
>>905
最初に挙げられた例と、その後の結論とのつながりが、
よくわからないので、様々な話題が頭に浮かんで絞りきることができません。

そもそも、
「おじいさん。よかったらお坐わりになりますか?」に対して
「いいよ。お前さんに席をゆずってもらうほど年をくってねえよ。」
という反応もあると思うので、言い方の問題だけではないと思うのですが…

「どうせ断られるなら、丁寧におじいさんに断ってもらいたい」と思うのは、
なぜなのでしょうか。
乱暴な物言いで、伝わる真心があるとしても、それは考慮に入れないのでしょうか
自分がした行為の見返りは常にご褒美でなくては許せないのでしょうか
失敗してはなぜいけないのでしょうか。
自分が傷つくからでしょうか。相手が傷つくからでしょうか。
相手にとって正しいか否かを判断するのは誰でしょうか。
私でしょうか。相手でしょうか。

これらのうち、虫さん、もしくは>>905さんが話題にしたいのは
どの点なのでしょうか。
912名無しさん@一周年:02/11/21 06:23
905です。

「失敗してはなぜいけないのでしょうか。」
と言われてびっくりしてます。
頭に浮かんだのは「毎日、骨太」というチーズのキャッチ(笑)。

そうですね。失敗を恐れていたら、身動き出来なくなります。
失敗が無い方が善いにしても。

そういう言い方も良くないのかな?
失敗があっても、無くても、評価されても、されなくても、
傷ついても、癒されても、
愛の行為は確かにあったのだから、それを評価すれば善い
というふうにお考えでしょうか?

病の癒しがありますように。お体大切に。
913 ◆TX6bf7XA22 :02/11/23 03:36
>>912
ありがとうございます。体大切にしてます…

遅れがちですが、
じっくりゆっくり考えているので、どうかご容赦を。

私が、考えていたのは、
失敗が「いけないこと」だと考えるのは、なぜなのか、
それと、そもそもそれは「失敗」なのだろうか、
という点です。

私も失敗は嫌です。嫌なものは避けたいです。
嫌なものが待ち構えていると思えば、怖いです。
でも「いけないこと」とは考えません。
914 ◆TX6bf7XA22 :02/11/23 03:49
以前は、失敗は悪であると考えていたような気がします。
でもそれは、必要以上に責任を背負い込んでいるのだと気づくことで、
自分をもっと身軽にしてもいいのではないでしょうか。

失敗には、運もありますし他人が原因のときもある。
いや、むしろその方が失敗の原因としては多いでしょう。
それを理性でわかっている人も多いのですが、
そのことの意味について深く考えれば、

失敗を、"必要以上に"自分の責任であると考える必要はないのです。
915 ◆TX6bf7XA22 :02/11/23 03:50
"必要"とは、人それぞれですが、
少なくとも、この場合、座るか座らないか、丁寧に断るか断らないかなどは、
尋ねられたときに、「相手が」「その頭で」判断すべきことで、
ああすればこういう反応がくる、こうすればそういう反応がくる
と、考えること自体、相手を人形扱いしているような印象を受けます。
(本人はそのつもりがないことは、私も承知しています。)

乱暴に断られたら、相手の虫の居所が悪かったか、運が悪かったのです。
丁寧に断られても、自分の手柄にしてもいいですが、
それほどのことでないかもしれない。
大切にしなければならないのは、
席を譲ろうと思い立った、その行為の直前の「心の震え」なのであって、
>>905さんもご承知の通り、結果ではないのです。
結果が悪くても、その心の震えの輝きは衰えるはずがないのです。

つまり、責任を感じることで行き過ぎて、
自分の行為を過小評価する必要はないじゃないか、と、
私は言いたいのです。いかがでしょうか。
916 ◆TX6bf7XA22 :02/11/23 04:09
…たとえば、こんな疑問が湧くでしょう。
>乱暴に断られたら、相手の虫の居所が悪かったか、運が悪かったのです。

自分の言い方が悪かったから→相手が怒った という場合もあるのではないか。

この→現象は、実は起こりえないのですが、
ある種の説明が堂々と世の中にまかり通っているので、誤解を招いています。

「俺を怒らせやがって」

超能力者か脳外科医でない限り、そんなことは不可能です。
あなたの言葉や態度に、人を怒らせる力など無いのです。
相手が勝手に、心の動揺を怒りに転化させているだけなのです。
怒りとは、本来、その人が勝手に心乱れているだけであって、
こちらが、その相手の心乱れている様子を、大変だなあと思うことはあっても。
それを平静に戻す責任など無いのです。
917 ◆TX6bf7XA22 :02/11/23 04:14
(ひょっとしたら、>>905さんのお話には関係が無い話を
私はしているのかもしれませんが、ちょうど書いておきたかったことなので)

私たちは、相手の怒りについて責任を取る事は一切やめましょう。
これは、とても大切なことです。

自分が動揺したとしても、
それを相手のせいや環境のせいにせずに、
自分が未熟だと反省する人は多いのに、
相手の動揺について、悪く思う人は多いものです。

それは、気まぐれな親の顔色を伺わなければ生きてこれなかった、
子供時代の名残なのです。

「俺を怒らせやがって」
「俺を泣かせやがって」
「俺を笑わせやがって」
「俺をいらいらさせやがって」…

「そうですか、それは大変ですね」

2ちゃんでも、頻繁に聞こえてきそうな言葉です。
自分の感情の責任くらいは、キッチリ自分で取れる大人が増えて欲しいです。
918名無しさん@一周年:02/11/26 11:44
そういえば
「トラブル・メーカーが一番怒ってる。」と
心理学っぽい本にでてました。

自分の蒔いた種を刈り取るんだと
明らめる、これが大人、ということですね。

愛をまき散らして、愛を沢山刈り取る。
当たり前だけど。

刈り取れなくても、
怒りを刈り取っても
それは相手の領分、と言うか、責任。

それが人生、それが真理、
それが幸福な世界への真実一路と。

それが戒めという文字で与えられてる不幸、
というか、それは相手のせいにしないで
読みとれなかった自己の不明を恥じて、ということですね。
919名無しさん@1周年:02/11/26 16:58
隣人を自分のように愛しなさい

むずかしいですね
でも、それができたら、トラブルなんて皆無でしょうなぁ
920231:02/11/27 08:55
「隣人を愛する」とは、「相手の痛みを自分の痛みとして感じる」という利他的な
ことだけじゃないと思います。

「隣人は自分とは違った考え方を持っている」という事実を受け入れて、「自分」
も「隣人」も、ひとつの「個」として尊重する、という意味もあるのでは。確かに
隣人とのトラブルは嫌なものですが、トラブルを通じて「相手は自分と全く考え方
が違う」ということを認識できるし、場合によっては相手の方が自分よりも広い
視野を持っていることに気付くかもしれません。

思春期の若者は、それまで自分の一部として感じていた親から独立して、「個」を
確立するために反抗期を迎えます。自分の「個」を勝ち取るためには、どうしても
隣人とせめぎ合わなければいけない。トラブルを恐れて何でも人の言いなりになる
若者は、親から見たら「とてもいい子」でしょうけど、そのまま大人になったら
「自分」を失ってノイローゼになってしまう。その「初めての絶望」の中で命を絶つ
人もいます。

自分の「個」だけを尊重して、隣人の「個」を認められない人間も困りますが、利他
的行為ばかりに明け暮れる「首のない」人間もまた困ります。お互いの「個」を素直に
認め合う社会になれば、隣人とのトラブルは自然焼失するので、必ずしも「個」を放棄
する必要はありません。月並みな言葉になってしまいますが、結局は「中庸」が必要と
いうことなのでしょう。
921231:02/11/27 09:08
竹は竹、松は松と、各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の
天性自然を発揮するのが人間の善である (西田幾多郎、『善の研究』)

「個」=天賦と言い換えられると思います。ひとつひとつが違う「個」が、
お互いの特長を生かし、お互いを補い合って成り立っているのがこの世界
だと思います。一言で「相手」と言っても、実は「自分」の一部でもある
のです。相手の「個」によって、自分の「個」が引き立つという面もあるし。
922231:02/11/27 09:25
長レスになって、スマソ。

ある行為をして、相手が怒る、というのは当たり前のことかもしれない。竹
と松では価値観が違うからです。このスレの冒頭の文句「隣人を自分のよう
に愛する」についても、すでに「隣人」と言った時点で「自分以外の人間達」
を一般化してしまっている。そういう隣人は、名前や顔位はあるでしょうが、
刃物で傷つけても血が出ないし、泣き叫ばないでしょう。そんな実態のない
ものを愛せよ、というのなら、それは偽善以外の何ものでもない。

違うのです。Aさんの「個」、Bさんの「個」のそれぞれを自分の「個」と同じ
ように尊重しなさい、ということをイエスは言っているのです。自分がCさん
に日頃から感じている憎しみを、Cさんの「個」を理解することによって、最低
限、哀れみ(私が彼ならば、絶対にああいう風にはふるまわないだろう、気の毒
に...)に変えなさい、ということです。

日頃から何の感情も持たない人を愛せ、というのが無理な話でしょう。
923騎士500才:02/11/27 10:10
>>920-922
同意。。。。。!
一回分のお説教きけた感じです(w)

924名無しさん@1周年:02/11/27 20:18
231さん 

この920の2ブロック目の「隣人は自分とは違った考え方を持っている」という事実〜
云々は確かに愛をいっていますね。あとは違います。お説教です。
925231:02/11/28 08:29
>>923-924

お説教にするつもりはなかったのですが...。「石の投げ方」が少々きつすぎたかも。
まあ、「竹は竹」ですから、自分の意見に対して他の方がどう批判されようと、あま
り関係はありませんね。実りのある諭しに耳を傾けるのみ、です。
926名無しさん@1周年:02/11/28 12:04
231はこの二つのレスを批判と受け取られましたか(笑
927騎士500才:02/11/28 12:11
>231
言葉足らずでスマソ
お説教とは、礼拝の時のお説教のことで、叱られるお説教じゃないよ
先週は礼拝休んだので、ちょうどお話聞きたかったのら!
またおせーてね!

928231:02/11/28 13:30
礼拝の時の「お説教」なら、もっと嫌な評価だなあ(w)。牧師さんは所属する
教会の金科玉条をそのまま信者に受け売りしているだけという感じがするもの。
百万言議論を尽くしても、夕餉の時刻になって、そろそろ帰るとしようか、という
段になると、元の金科玉条にリセットしてしまう。まるで、チェスの駒の配置を
両手でかき回すようにね。これが毎日、繰り返される。

私は、議論をする限り、「自分」がどんどん歩き出して、二度と元の場所に戻らない
ようにしたいと望んでいます。「昨日までの私は、今日は死んだ」と毎日、胸を張って
言えるような...ちと、キザすぎたかな(w)。

自分にとっての「自己実現」とは、それまで読んだことがなかった本を読むようになり、
わからなかったことがわかるようになり、考えたこともなかったような思考で考える
ようになる...という感じです。そのためには、どうしても他人の助けが必要です。
929 ◆TX6bf7XA22 :02/11/28 16:30
>>918
生まれたばかりの幼児は、母親と自分の感情の区別がつかないそうです。
母親が笑うのをみて、赤ちゃんが笑うのは、
別におかしいから笑うわけではなく、笑いの感情を共有しているわけですね。
でもそれは、感情を学習している幼児だけに必要な作業であって、
ある程度成長した人間にそれを強制すれば、心の成長を害します。
いわゆる感情の侵入と呼ばれるものです。

相手が怒っているからといって、こちらも付き合って怒らねばならない理由は無いし、
残念がったり、悲しんだり、申し訳なく思ったり、失敗だと嘆いたりする必要は無い…
という意味では、
>>918さんが言われるような、蒔いた種を刈り取る義務さえも無いのかもしれません。
例えば、豪快に笑ってみせてもいいのではないかと。
ユーモアで返して知能の高さを見せつけてもいいし。
それらの中から、「自分で」自分の感情を選べばいいのであって、
自分の感情の選択肢を相手に制限される必要は無い、
と私は言いたいのです。
930 ◆TX6bf7XA22 :02/11/28 16:30
優しすぎる人は、犯罪的です。

他人にとっては扱いやすい人ですが、
自分の心と自尊心にタメにならないことを繰り返しています。
肉体を維持するのに必要なものが、生命であるなら、
人間らしい精神を維持するのに必要なものが、自尊心です。

自殺が自分に対する罪であるなら、
自尊心を損なう行為もまた罪ではないでしょうか。
931名無しさん@一周年:02/11/28 16:49
○私は「文章秘伝」というメルマガで、
「あなたは、もう、充分持ってます。
これからは貧しくなりなさい。」と
メルマガ発行者に言われた事がありまして。

何の事やら?と思ってましたが、
案外この優しさと言うか優柔不断の事かも?
これを変えると相手を傷つけそうな気がして
変えられません。

貧しくなれない、自尊心を損なってるということかもしれないな。

とらえ所のない、あてにならない話を持ち出してしまいました。

このスレを読む皆様に祝福がありますように。  
932 ◆TX6bf7XA22 :02/11/28 17:40
>>931
ずいぶん難しい解釈ですね(^_^;
私には通じていないかも。すみません。

「優しい人」というのが、言葉どおりに優しいことは稀です。
多くの人が、状況に適応した結果の、「優しいフリをする人」です。
自分をも見事にだますので、本人も気がつきません。

相手を傷つけるのが恐いのではなくて、
傷ついた相手に恨まれる=相手に必要のない人間の烙印を押される、のが、
恐いのではないでしょうか。
ひとりぼっちになるのが、恐いのではないですか?
933 ◆TX6bf7XA22 :02/11/28 18:06
気づいたのですが

>「あなたは、もう、充分持ってます。
>これからは貧しくなりなさい。」

これは、まだ足りない、とかき集めるのは、そろそろ止めて、
愛=与える行為をしなさい、と言っているのではないでしょうか。

自分はまだ未熟だと、成長するのだと、必死に努力することは良いことだ、
と、私たちは(親に、支配者に)教え込まれてきました。
でも、それは「使われる者」の資格を高めるだけで、
「使う者」もしくは「対等なる者」に繋がる道ではないんですよね…
「学んで成長しきった果てに、自己実現がある」と信じる人は、
いつまでも飢えています。

でも、与えつづける人の下に、多くのものが集まってきて、
学び奪いつづける人の手からは、次々にものがこぼれ落ちて、
いつまでも飢えています。
934 ◆TX6bf7XA22 :02/11/29 08:24
>>933
読み返したら接続詞が変。
最後の段落の「でも、」は不要でしたね。

>>932 のような話での問いかけでは、
「そうです」とも「違います」とも言いにくいですね。
書き方が悪かったかな。
私は自分を分析すると、あるんですよ。そういう心が。
その人格のことを「インナー・チャイルド」というのです。
>>931 さんには、はたして・・・
935931 :02/11/29 19:15
なるほど。

その方が、はるかに話が素直ですね。
私はかき集める一方で、もっと、もっとで、まだまだ、で。
勉強好きで、
名前が登なので、もっと登らなければと思ってました(笑)。

人生を、重き荷をおいて、坂を上るのにたとえるのが
日本人にピッタリ来るわけですから、
こういうタイプは結構多いのでしょう。

「与えるは、受けるより幸い」と言われても
何とか、毎日もっとかき集めないと
誰というわけでもないのに、
価値が無いと言われそうで
いつも怖がる自分がいる、ということですね。

そんなに怖がることないのだよ!と、
今回も自分に言ってあげたくなりました。

感謝。
936他人:02/11/29 19:19
 他人に頬をぶたれたら顔面を蹴り落としてやりなさいってことだよ。
937931:02/12/07 06:16
「隣人を自分のように愛しなさい」については
神様を全身全霊をもって愛することと等しいと、イエス様は言われる。

となると、隣人を愛していないと、
神様を愛していることにはならない、
ということになりますよね。

クリの私としては、
隣人は、自らの信仰を阻害する人、
というような発想があって、
愛するどころか、避けたいくらい。

理由はともあれ、というか、ひとごとに様々だが
隣人を愛さない理由は溢れてる。自分にも。

出来ないこと、したくないことはしないで善い、ということで
まず、したいことをして行けば善いわけだが、
この、「隣人を愛することが神様を愛すること」ということが
発想が急に飛んでいるようで、
受け入れるのに困難を覚えるのです。

なにか、ヒントでも、いただけると、有り難いのですが。

祝福がありますように。




938名無しさん@1周年    :02/12/07 19:08
こちらもオープンいたしました。

http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1039234874/l50


939 ◆TX6bf7XA22 :02/12/11 12:58
>>937
>となると、隣人を愛していないと、
>神様を愛していることにはならない、
>ということになりますよね。

そうなりますね。

イエスの言葉に詰まったときには、
私はそもそも愛するとは何か、に立ち戻って考えるようにしています。
>>931 さんは、どう考えておられますか?
940ス氏:02/12/12 01:06
>>937
はじめまして。この長いスレ終了間際にお邪魔します。
スェーデンボルグ信奉者です。

おもしろいスレですね。
皆さんの葛藤のあとがよくわかります。

私も、神と隣人を愛することが人間に課せられた使命・目的だということがようやくわかったのですが、実践できずにこのスレに着目してしまいました。
941ス氏:02/12/12 01:07
スェーデンボルグ氏(以下ス氏)によると、中世のキリスト教の信者は天界でまったく評価されていないそうですよ。クリであるかどうかにかかわらず、愛の大きさしか主はみとめないそうですから。
天界での愛は天使でさえ不完全性がみとめられるそうです。

942ス氏:02/12/12 23:08
>>937
隣人を愛することとは、神の創造物であるすべてを愛すること。

そこには、無機質のものから有機質の創造物まですべてが含まれ、
その中には神の道具であるロゴスを持ってしまった善悪入り乱れる隣人も含まれる。

と解釈しています。草木や動物までなら簡単に愛せるのですが、隣人を愛するのはなかなか難しいですよね。
943名無しさん@1周年:02/12/12 23:13
>>941
そういうス氏の教え自体が、既に愛がない考えだと思いますけどね。

944 ◆TX6bf7XA22 :02/12/13 08:14
目に見えないものを、見ることができない人がいます。
彼らの共通している点は、必要以上におびえていることです。

もちろん、人間は、誰しもみなおびえていますが、
人を勇気づける目に見えないものが、見えなければ、
恐ろしさから逃れる努力が、その人の人生の全てとなります。
この世界はさぞ虚しく感じるに違いない。

いくら知識・現金・名誉・腕力・魅力といった力をかき集めても、
飢えが満たされるのは一瞬で、明日からまた走りつづけます。
幸せは、それを求めるのを止めたときに訪れるのに。

彼らは全てをわかっていると言います。
確かに彼らは十分にわかっています。
愛と勇気を除いては。
945 ◆TX6bf7XA22 :02/12/13 08:15
本当はわかっているのです。
もっとオメデタクなりなさい。
バカにされるような能天気になりなさい。
何も知識が無いように振舞いなさい。
おまえは役立たずだと言われなさい。
そうなったって死ぬわけではないことを確認しなさい。

そうすれば、
損な人を見ても、自分が得したわけではないと気づくし、
能天気な他人をバカにしても、自分が利口な証明にはならないことに気づくし、
知識が無いことを、その人の価値とみることもなくなるし、
自分にとって役立たずに出会っても、それは自分のわがままに過ぎないと気づくし、
言葉では、人は傷つかないことにも気づきます。
946 ◆TX6bf7XA22 :02/12/13 08:16
それが自分を愛するということ。
誰にでもできる簡単な話です。
問題は、気を許した隙にも、そうした行為で
人生を埋めることができるか否かなのです。
私はいつも失敗します。

相手を怒っているその人生の使い方を、
他の感情に置き換えて、他人を愛する時間を増やせば、
貴重な人生に、ほんのわずか
充実した元気がでる時間が増えることがわかっているのに。

それを行うことができないとき、
相手を愛することができなかったとき、
ああ自分を愛することができなかったな、と
いつも振ります。
947 ◆TX6bf7XA22 :02/12/13 10:14
>>826
>ところで、奥さんには愛してますよと言っておられますか?

気の利いた答えを用意しようとしてましたが、どうやら私には無理なようです。
白状します。言っています。
最近は自然に言うことができるようになったので、多少気が楽です。

この、言うのが恥ずかしい、やめたい、という感情こそが、
親から言ってもらえなかった恨みに結びついているのだ
ということに気づくには、かなり時間がかかりました。
いや、いまでも半信半疑なのですが。

作家のスティーヴン・レヴァインはこう問い掛けます。
「あと一時間しか生きられず、たった一人にしか電話できない
としたら-----誰に電話をかけて何を言いますか?
それに、いまなぜじっと待っているんですか?」

私達は、永遠の命があると勘違いしているか、
それとも、愛する人たちと「交換で」愛をもらおうと待っているか、
どちらかなのでしょうね…
考えて見れば、馬鹿馬鹿しい話ではないですか。
948931:02/12/13 11:36
13億横領とかの被告でしたか、妻に、というか、愛人でしょうね、
「お金やものをあげることなしに、愛をもらう方法をわたしは知らない」と
いうようなことを言ってました。

ま、あきれはてた、男らしくない男、と見下げてみても、
それと同じ地平に今、自分が立ってる。情けないことだ(笑)。

一度書いたのではないかと思いますが、
「薔薇の好きな人は、薔薇を切って花瓶に飾る人
 薔薇を愛する人は、薔薇を育てて花を咲かす人」
というのが、本質を言い当ててると思ってます。

「愛してる」、という言葉が、
お相手である奥様を育て、愛を育て、ご自分を大きく育ててる、
そんな気がしますが。
949231:02/12/13 12:10
またまた、お久しぶりです。偶然、スレが上がっていたのを目にしたので、お邪魔
します。

>ス氏さん

中世のキリスト教徒が神から認められていない、というのは私にも十分に理解できます。
彼等にとっての神とは、彼等だけをエコヒイキするような、都合のいい神にすぎず、
万人に平等の愛を与えるイエスの「アッバー」とはほど遠い存在だからです。

隣人への愛とは、「自分の神がまた隣人の神でもある」という事実を認識することだ
と思います。自分だけをエコヒイキして肩をもち、自分の代わりに隣人を懲らしめる
ような「ユダヤの神」など、人間が勝手に作り出した空想の産物にすぎない。
「キリスト教の神」だって、クリスチャンにならなければ原罪で滅びる、などと
説く神はエコヒイキの神でしょう。

幼児期には、ある時期に兄弟同士で両親を取り合うことがあります。弟妹ができて、
親の関心を独り占めにできなくなると、悪戯をして気をひこうとする。しかし、親は
自分のものだけではなくて、弟妹の親でもある、ということを学んでいきます。それを
学ばずに成人した人は、エゴイストになります。何でも自分の都合のよいように、回り
がお膳立てしないと気がすまない。

「隣人を愛する」とは、神をひとりじめせず、隣人とともに神を共有することを認める
ことだと思います。いくら「神を愛する」といっても、エコヒイキの神を愛する限り、
結局は「神」という隠れ蓑を通して、自分のエゴを愛しているにすぎないのです。
だから、「隣人を愛する」ことが出来ない人は、「(公明正大な)神を愛する」こと
ができないのだと思います。
950931:02/12/16 12:24
○よく似た考えの方が、増えておられるのかな。
何か、本の宣伝みたいですが、教会にこの方が見えて、
お話したので印象が強い。
この方は宗教と言うよりは、思想で解決、という感じでした。


神とは宇宙のいのち―私の神仏観・イエス観
ISBN:4883461149

--------------------------
584p 19cm(B6)
碧天舎 (2002-10-20出版)

・所沢 光繁【著】
[B6 判] NDC分類:160 販売価:\1,300(税別)
自分の信じる宗教だけが正しいという固定観念を捨てなければ人類に未来はない。
「宗教とは主観的事実である」ことをしっかり認識し、柔軟に考えようではないか。
キリスト教の歴史を振り返りながら、一神教と多神教の相互補完を図り、宗教のあるべき姿を問う。
若い人から年配の人まで、あらゆる世代に贈る注目の書。
21世紀の宗教改革はここから始まる。


951名無しさん@1周年:02/12/16 12:50
オマエをオレ様と観ろ。
愛ではない。現象だ。
952231:02/12/16 18:22
>950

そうですね。テロが起きるたびに、一部の狂信者の偏狭ぶりが問題になる。
いいかげん、「主観的価値観」で人殺しをする愚かさ加減に気がついた
のでは?

それと、表面は敬虔な信徒としか見えない人が、自分が子供の頃に受けた
トラウマに引きずられて、かえって回りの人に被害を及ぼしている、という
事実に愕然としたからでしょう。◆TX6bf7XA22さんが指摘されている、
「インナーチャイルド」の認識ですね。私は、ニューエイジをどちらかと
言うと嫌っていますけど、内なる自分の声に耳を傾けよ、という彼等の主張
は的を得ていると思います。
953 ◆TX6bf7XA22 :02/12/16 19:21
事態を打開するには、他人の性格や考え方、環境を変えるよりも
自分の態度を変えるほうが容易かったりしますが、
インナー・チャイルド〜交流分析の話もその線での話ですよね。

自分の態度や性格、考えや発言内容、を変えたところで、
自分自身を変えることには、本来結びつかないはずなのですが、
誰より自分が、"自分自身"を日頃しっかりとつかまえておかないと、
そうした属性を変えるだけで、根無し草のような気分になってしまう。
頑固さ、というのは、そうした気分が怖いだけなのかもしれません。

もちろん、自分の人生をどう生きているかを規定するものとして、
信念を持つことの大事さを軽んじてはいませんが、
それすれも、ひとつの便法にすぎないことは、どこかで自覚しておかないと。
だから人それぞれ信念が違うのが当然なわけですしね…
(信仰もそう)

偉そうなことを言っていますが、私も、
思わぬ属性に自分自身をまるごと預けてしまっているのに、
気づくことがままあります。

たとえば、何か主張をするときに、
相手がその意見を持つ権利が無いかのような、
言い回しになってしまったりね。同じ内容を
「私の立場はあなたと違う。私の立場に立つと結論はこうなる。」
と言ったほうが格好いいときもあるのにね。
954231:02/12/16 19:52
>953

本当に自由な精神の持ち主であれば、

> 誰より自分が、"自分自身"を日頃しっかりとつかまえておかないと、
>そうした属性を変えるだけで、根無し草のような気分になってしまう。

という心配はしないだろうと思います。少なくとも、宗教の世界では、
たとえ真実が自分にとって都合の悪い結論になったとしても、それを
受け入れる責任が出てきます。「マッチ売りの少女」を読んで、感情
移入してひとときの美しい涙を流すという自由はありますが、文学な
らそれで終わり、責任を果たす必要はありません。これは、仮に聖書
の受難物語でも同じだろうと思います。ところが、それが宗教になる
と、「マッチ売りの少女」を救うために本を捨てて、極寒の巷に出て
行かねばならない。少なくとも、出て行かないと良心が咎める位の責任
が伴わなければ、宗教とは言えない。

これは宗教に限らないかもしれない。自分の生き方について、あれこれ
考えて、ひとつの結論を出す。それを実行に移すか、それとも「まあ、
そういう人生も可能だなあ」で誤魔化すかは、その人の責任感の大きさ
で決まってくると思います。当然、自分の人生が「文学」にとどまる
か、それともそれ以上に実存感を伴ったものになるか、という結果に
分かれます。
955 ◆TX6bf7XA22 :02/12/16 23:50
>>951
本当に自由な精神という、最初の一文と、
それ以降のお話が、つながっていない気がします…
頻繁に登場する責任/責任感とは誰に対する責任なのでしょうか。
956231:02/12/17 12:37
>955

舌足らずですみません。本当に自由な精神ならば、真理の方が自分に合わせて
くれることを期待せず、自分を真理の方へ合わせる。だから、自分が変わること
に抵抗するどころか、真理に近づけたことを喜ぶだろうと思います。

真理を知った以上、「なかったこと」にはできません。真理を知りながら、そ
れがなかったようにふるまう人は、自分を偽っています。人間は、誰でも自分
に対して責任を持っています。自分の意志で選んでやったことは、その人の責
任になります。一旦選んでしまえば、逆戻りはできません。

自分の持つ信念にこだわる限り、「真理」を知ることによってそれが覆される
ことを恐れます。聞いてから「なかったことにする」と、(自己)責任を問わ
れるから、最初から耳を塞いでいるしかない。あるいは、小説のようにどこか
別の国の物語であって、自分とは関わりがない、と自分に言い聞かせるしか
ありません。あるいは、社交辞令的な会話として、自分の身に責任がふりかか
らない距離を保つか...。

これって、現実を妄想で置き換える神経症の患者と同じ発想なんですよね....。
957名無しさん@1周年:02/12/25 23:02
958 :03/01/10 11:20
959_:03/01/12 17:14
次スレ!
960山崎渉:03/01/20 08:00
(^^)
961名無しさん@1周年 :03/01/20 09:15
次スレという声もありましたし、
神を愛するとの関係までお話いただきたい、とも思い
パート2を立てようとしましたが、
今は駄目、ということでした。

近いうちに、と思っております。
宜しくお願いいたします。

祝福が皆様にありますように。
962名無しさん@3周年:03/01/26 10:35
☆自分を愛するように隣人を愛しなさい。口語訳

本当に分かっていれば戦争は起きないよね
963名無しさん@3周年:03/01/26 23:32
 隣人について、あれこれ言わなければ争いはない。
でも、愛が無ければ平和はない。そういうことだと思うね。
964 ◆TX6bf7XA22 :03/01/28 10:46
>サイズが496KBを超えています。512KBを超えると表示できなくなるよ。
と、冒頭にあるので遠慮してましたが…大丈夫なのですか?
965 ◆TX6bf7XA22 :03/01/28 13:12
大丈夫そうですね。
大丈夫でなかったらすみません。先に謝っておきます。
神を愛する、について、私の考えを述べます。

神、で思いつくのは、頼る対象、すがる対象でしょう。
それは、神から何かを奪っている、でも、神に対して何も「与えて」いない、
ですから、どんなに心の中で慕っても「神を愛して」はいません。依存です。

神を愛するとは、神に××を与えようと差し出すことです。

ただし、何を差し出しても良いというわけでなく、
そんな気前のいい自分、生産的な能力をもつ自分、
そんな自分を、心ひそかにお気に入りになることで、満たされて安定し、
勇気と生きる力を得ること。「これでいいのだ」の感覚で満たされること。
966 ◆TX6bf7XA22 :03/01/28 13:12
外から見れば、
幸せな奴だな、オメデタイねえと笑われる毎日を送っている人、
奪われたのだと周囲に諭されても、否、与えたのだと感じている人、
怒りたい時に怒るのではなく、怒るべきときに怒れる人
強い敵に立ち向かう馬鹿馬鹿しさを持っている人

それらを演じるのではなくて、自然と素直な心の結果がそうである人。
それらが「愛している」人の特徴です。
愛している人のフリをしても、愛している人にはなれないですね。

ですから、あなたにとって、この××は何か。
ということではないでしょうか。なんでしょう。
誰も教えてくれないと思います。
片っ端から××を列挙してみてはいかがでしょうか。
967 ◆TX6bf7XA22 :03/01/28 13:13
昔ね。森永製菓のCMで、

 誰もいないと思っていても
 どこかでどこかでエンゼルは
 いつでもいつでも見つめてる
 ちゃちゃちゃちゃちゃちゃ
 ちゃちゃ〜んと見つめてる

CMの「エンゼル」が、
オリジナル曲では「見張りん」なのですが、
これね、妙に記憶に残っているのです。今も。
刷り込みってやつですか。恐ろしいね。

何かずるいこと、悪いことをしようとするときに、これが聞こえたりして、
思わず「止めよ」と、すると緊張から開放されて、
かえって得した気分になったりして、
私にとっては、神を愛した瞬間のひとつです。それは。
968名無しさん@1周年
こういうの、見つけました。
神様の言い方って、表面的には押し付けに見えるけど、
きっと、そうでないんだ、って思った。なぜって、祈りは会話だそうだから。
祈りは、神様と心を一つにすること、とも、あるけど。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> どうして余計なことをしてまで、
この人は他人に負い目を負わせ、歓心を買おうとするのか、
恩を着せられるたびに考えてしまいます。

なんで、この一言が言えないんだろう?
「私はこれを貴方にあげたいですが、今、貴方はこれを必要としてますか?」
って、聞いてくれれば気兼ねなく
「いえ、ご親切に。でも、私にはまだ必要ないんですよ」って言えるのに。

普通はこの会話だろうよ。
「なあ、お前が欲しがってた○○○買ったんだけどさ、いる?」
「いや、自分で買ったほうが「買った!」って気になるから、いいよ」
「そうか、でも必要になったらいつでも貸すからな」
「ありがとう、気持ちだけもらっとく」