1 :
スミルナにある教会の使ひ :
02/05/15 10:32
超初心者向け用語あんど人名集 アリウス 本スレでは端役。どうしても知りたければ、山川の世界史用語集でもどうぞ。 異端 正統でないもの。→正統 剃刀 髭をそったり、手首を切ったりするのに使われる道具的存在者。 超越と感性的世界を切りはなすのにも使われるが、素人にはおすすめできない。 公会議 キリスト教で主教・司祭他関係者が集まり、教義内容について協議する会議。 ローカルなものと、そうでないものがある。教派によっては公会とも。 告白 1. アウグスティヌスの自虐的な自伝。 2. 「〜(信経)を告白」。個人または教会がある信経を信じることを認めること、 また特に典礼において口頭でそれを述べること。→信経 サベリウス 昔の人。父と子の同質性を強調するあまり、父と子は同じであり、 十字架上で受難したのも父であると云いだした。第一回全地公会@ニカイア で、アリウスとともに異端とされた。→異端 サベリウス主義 御父受難論ともいわれる。サベリウスを支持し、子は父であると説く。 古代にはここから発展し、聖霊をも父であるとする立場があったようである。 これに対して、本スレッドでよく話題になるスヴェドボリは聖霊は 神から発するが、神そのものではないと説く、らしい。
三一性 (lat. Trinitas: deut. Dreieinigkeit)キリスト教における神概念把握の一例。 またその性質。父・子・聖霊(聖神)からなる三つの位格を想定し、 かつこの三位格が同質であり、存在としては一なる神のみがあるとする。 ニカイア=コンスタンチノポリス信経で確立された、いわゆるキリスト教の教義。 三位一体→三一性 小便娘 小さなヨハネが dendo.に3スレで奉った称号。当人は蔑称のつもりだったらしいが、 不発。このスレッドのなかだけで使われるコテハンなので御注意。→ dendo. 信 誰かさんご愛用のギリシャ語 "pistis" の訳語。パウロ書簡とくに「ローマ人 への書簡」の主題的概念。一般には「信仰」と訳されるが、他に「信実」などの 訳語もある、らしい。 信経 キリスト教の教義を要約したもの。多く公会議で編集する。「我信ず」 「我認む」「我望む」と、信徒個人の信仰告白という形式で書かれる、 ことが多い。 新教会 スヴェーデンボリの教えを報じるキリスト教系新宗教。ニューチャーチとも。 ニカイア=コンスタンチノポリス信経を受けいれない、聖書のほとんどを 正典として認めない、スヴェドボリの著作全体に聖書と同等の地位を 認めるなどから、既成教派からはキリスト教扱いされていない。 スヴェーデンボリ スウェドボリ、スウェーデンボルグとも。スウェーデン生まれの 科学者、神秘思想家。主要著書『天界の秘儀』『結婚愛』『真のキリ スト教』。鉱山技師として功績を立て、貴族に敘せられた。その政治 的コネで破門をまぬかれたものの、故国スウェーデンのルター派教会 から目を付けられ、異国にて死す。 日本には鈴木大拙『スヱデンボルグ』によってはじめて紹介された。
スウェーデンボルグ→スヴェーデンボリ 正統 異端でないもの。なにがキリスト教の正統教義かについては論議が多い。 一般にはニカイア=コンスタンチノポリス信経あるいは内容的にそれと 矛盾しない使徒信経を告白する教会を指す、ことが多い。 西方教会 東西分裂でオーソドクスと袂を分かった正統教会の西側。カトリック。旧教。 場合によって、カトリックから分かれていったプロテスタント教会教義をも 指すことがある。 全地公会 →公会議 dendo.◆Dpy6mDYE 本人がまったりモードのときでさえ端から見ると煽りにしか見えない 書きこみをしばしばするという、天然の煽り屋。 「もう書かない」といいつつ何度となく出戻ってくる嘘吐き娘でもある。 ノンクリで、かつ専門は哲学でも宗教学でもない。 なので書きこみには眉を付けて読む。これ最強。この用語集の編者。 東方教会 東西分裂でカトリックと袂を分かった正統教会の東側。オーソドクス。正教。 日本での出店は日本ハリストス正教会。 なお東方諸教会(イースタン・オーソドクス、非メルキト教会)とは別である。
中路さん スレ違いという話はあるが……。永遠の記憶+ 名無し電動車→dendo. 何か 何か。伺かではない。ないんだってば。 ニカイア=コンスタンチノポリス ニカイア=コンスタンチノポリス信経の略記。 ニカイアのちにコンスタンチノポリスで行われた第七回全地公会で採択された。 カトリック、東方教会(オーソドクス)・プロテスタント一部教派はこれを 告白する。 ニューチャーチ→新教会 ノンクリ クリスチャンでない人。洗礼を受けていないが教会に通う人も含む。 なおこの手の略語は、老舗スレッド「++カトリック++」シリーズに詳しい。 小さなヨハネ (番号がついてない)1スレを立てたコテハン。典型的なデムパ。ちいヨハ、ちぃ ヨハとも呼ばれる。異義語: ヨハネ ちいヨハ、ちぃヨハ→小さなヨハネ ver3.05 ◆ver3llyM このスレのコテハンの一。何か。→何か ふらんちぇすこ→元ふら
ブルネルス 「ブルネルスたん萌え〜」。 誰が何をいっても理解できない小さなヨハネに、伝統的な三位一体論を説い ては無視される、かわいそうな人。自称ノンクリ。 2スレ「賽の河原で石で積んでいる気持です。」はこのスレッドの性格を端的に 現わす至言。4スレでは dendo. に面と向かって厨房呼ばわりされるに到る。 →マリア. マリア 自称おかまで巫女で元カトリック。スファラディ系ユダヤの伝承にも通じる。 かつては電波コテハンとして伝説のKONYと共に猛威をふるったが、 現在はまったりキャラ。ときどき説教姐さんと化す。 常駐スレ「また〜りするスレッド」は心と宗教板の人生相談室の観を呈する名スレッド。 マリア. どこの誰でも知ってるけれど、ちぃヨハだけがわからない(わかりたくない) 某コテハンの別号。その愛猫の尻に残った糞に由来する。その形状は「固くて 小さ」く、「存在感も存在意義もないんこに自分をなぞらえるネーミング」だそうだが、 「いくらなんでもべちょべちょんこには自分を擬えたくない」とも(はぁと)。 おかま巫女「マリア」とは別人。 元ふら 「元ふらんちぇすこと呼ばれる名無しさん@一周年」の略。普段は名無しさん で書いているが、ときどき思いだしたようにコテハン「ふらんちぇすこ」や 他のハンドルで現われることがあった。自称カトリック。 4スレではついに元ふらであることすらやめ、「名無しさん@一周年」を構成する 未生以前の混沌へと還帰する。
ヨハネ このスレッドでは主に福音史家ヨハネを指す。伝承では、ヨハネ伝福音書の 「愛された弟子」こと十二使徒ヨハネ、また啓示筆者ヨハネと同一視される。 スレッド中、ちぃヨハと区別するために「小さくないヨハネ」「大きいヨハネ」 などと呼ばれることもある。なおヨハネ伝福音書冒頭は三一性教説の確立に重要 な意義を持ち、ゆえに東方教会は彼を「使徒・福音者・神学者イオアン」として 崇敬する。 ルター マルティン・ルター。ルーテルとも。最初は遠慮しいしいのAA貼りつけから はじまった既成西方教会への異義申し立ては、そのうちドイツ国内を二分する ちゃぶだい返しへ発展し、ついには近世西欧宗教思想史の分水嶺ともいうべき カキコ「シュマルカルデン条項」に結実する……厨房ぶりもここまで来れば 立派だね。:-) その内容の壮絶さは、ルター派を名乗る教会のなかでも、後者を受けいれない ところがあることに伺えよう。
a question given by dendo.
1スレ644
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1007382318/644 >Swedenborgは人類史上最大の天才で、たくさんの著名人に影響を与えています。
> 哲学者ではカント・シェリング・エマーソン・ベルグソンといった人々がおり、
エマソンは知らないので初耳、
カントについては2スレで書いたので今回は書かない。
シェリングに影響を与えたというのは初耳です。
・スヴェーデンボリの影響を指摘できるシェリングの著作の箇所
・およびスヴェーデンボリでそれに相応する箇所
をページ付け入りできちんと挙げてください。
勝手ながら、本スレッド終了時までに回答がない場合は、
過去の幾多の書きこみとともに、
スヴェーデンボリ主義者がまきちらす迷妄のひとつとして
次スレッド(やんのかよ)以降、断罪させていただきます。
シェリングはシュレーター版全集とオリジナル全集(息子版)と
どちらの頁付を挙げてくださっても結構です。でもどちらかは
きちんと書いてね。
また Weltalter / Schellingiana 等全集以外の資料に基づく場合は
きちんと明記することをお願いします。
なおシェリング→ベルグソンの関係は、ベルグソンのテキストに直接は
基づかないものの、ラヴェッソンを経由して読みとることが可能である
という指摘があります。ベルグソンへの影響というのはこのことを取り違えて
いる可能性があることを、ここで指摘しておきます。
……前スレ、あともうすこしあるのだけれど、この疑問も棚晒しにされそうですね(はぁと)
あぼーん
あぼーん
12 :
名無しさん@1周年 :02/05/15 11:16
ふーん、スゴイね。帰っていいよ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
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あぼーん
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34 :
名無しさん@1周年 :02/05/15 12:32
何かで読んだんですが健康人より患者を観察する方が人間を 知るのには判り易いという。 僕らは普通の、少し気弱な控えめな青年ですが内面に多少の暗さを持ち、 それを会員同士で言い合える特別な関係を有している。 立正佼成会が一番マシな団体と思うのはこういう普通の人の 普通の回答を聞いたときです。 僕はそう思います。
理解出来ないこと=異端と誤謬と断定。 理解出来るもの=異端の啓示と認められていない啓示。 これがちぃヨハさんの世界だからね・・・。
>>34 そうとも言うわよ。
ただ、そこが一番マシかどうかは、
個人的な会う会わないの世界なのよね。
この世界、結構SとM兼ね備えた人が多いのよ。
*小さなヨハネ、3スレより逃げだしたあと、久々の登場。 4スレへのはじめての書きこみ。 98 :小さなヨハネ :02/05/12 23:53 主の平和! 先日は突然失礼してしまい、申し訳ありませんでした。 実際疲れ果ててしまい、妻からタオルが投げられたのは事実です。丁度、 出張も峠を越え、いくつかの感想や、語り残したことを述べさせていた だき、改めて御礼とお別れのご挨拶とさせていただきます。 >ブルネルスさん 議論のお相手をしていただき、有り難うございました。おかげさまで三位 一体の最先端がどのようなものかうっすらと認識することができたこと は大きな励みとなりました。 誤解のないように申し上げますが、それは私が降参したという意味では決 してありません。なるほどこういう理論なのかという手ごたえを感じるこ とが出来たという意味でです。 799 :小さなヨハネ :02/05/12 23:54 皆さんが最初の頃のブルネルスさんと私の議論をどうご覧になったか、私 には分かりませんでした。その後の皆さんの反応を拝見していたら、「聞 く耳を持たない」、「賽の河原に石を積む」などという言葉があり、どうも 私には理解力が全く無く、歯が立たずに負けたとでも思われたのではない かと思います。しかし、私自身はこちらからブルネルスさんに「矛盾して いるなら前提を訂正すべき」と再反論したときに、勝敗は決したと感じま した。そしてその後、ブルネルス氏はご自分から議論を中断され、私はそ の感を深めました。もし、違っているならすみません。
*小さなヨハネ、再び「巫女マリア=ブルネルス」説を主張する。 801 :小さなヨハネ :02/05/12 23:55 それから、聖母の名前をめぐってのトラブルについてですが、私はやはり、 「巫女マリア」はブルネルス氏だと今でも思っています。(もしブルネルス 氏さえよろしければ私の推論を申し上げます。) 「マリア」はフィリピン人の友人からもらった名前であり、それを禁止する ことはその友人を侮辱することであるという反論がありました。しかし、そ れは理論の混同であり、おかしいと思います。なぜなら、その名を使用する かどうかを決めるのは本人であり、その友人ではないという理由によります。 「マリア」は聖母の名であり、クリスチャンの間で敬慕されていることは周 知の事実です。その名と「オカマ」を組み合わせることが、聖母を汚すこと は明らかです。 803 :小さなヨハネ :02/05/12 23:56 どんな宗教においても、本人が信者でなくても、他の人の宗教的崇敬の対象 を侮辱することの無いよう配慮してしかるべきです。「マリア」氏が実在の 人物であろうと、ブルネルス氏であろうと、その名を使うことは本人の判断 であり、責任です。友人からもらったからといって、その名をここで使用し なければならない理由はありません。 それでも強弁して、使用するならそれは故意であり、悪意です。それは屁 理屈であり、論理の混同です。世の悪党のマリアはその名を返上すべきで はないか?という反論も同様に屁理屈にしか過ぎません。それとこれとは 何の関係もありません。世にマリアという悪党がいるからといって、それ らは親から付けられた名前であって、本人が選んだものではありません。 ここで「マリア」氏が自分の意志でその名を選んで聖母を侮辱してよい理 由にはならないのです。
*小さなヨハネ、「謝罪」を要求する(誰に?)。 04 :小さなヨハネ :02/05/12 23:57 私はこれらの反論を伺って、「剃刀」で切り分けるなどという話が一方でな されながら、こんな幼稚な理屈が大人の世界で主張されるとは、ただの認識 力の低さから来るのか(失礼!しかし、その方が罪は軽いでしょう)、欺瞞 から来るのかと耳を疑いました。 いずれにしても、「マリア」氏は早急にこれまでの非礼を詫びて善処すべき と思います。 フランチェスコ氏がそれは昔から使っている名だと言っておられましたが、 上記のように慎むべきことに変わりはありません。ましてキリスト教の教義 を教授されるブルネルス氏が「マリア.」という糞をつけた猫の名を今か ら使用するなどとは、たとえ2チャンネル上の冗談にしても良識を疑います。 もし、私が、名前をくれたフィリピンの友人に失礼だというのなら、糞を つけたブルネルス氏の猫にも失礼だというのでしょうか? これは聖母の名誉のために申し上げました。失礼な点があればお詫びします。
*ブルネルス「第一ちいヨハ反駁」。
(
>>39 で一部お見苦しい点がございました。お詫び申しあげます)
806 :ブルネルス :02/05/13 01:41
>>799 帰って来た早々なにをおっしゃいますやら。ちいさなヨハネはこちらからの
説明や批判に、何一つ答えず、ただ聞くだけで、その聞いたことのうち、こっちが
答えてないことがあるからといって、勝負がついたと思うなどとは。
まさに賽の河原であったことが、以前よりお付き合いくださっている皆様の前で明
らかになったわけです。
まあ、ご自分の正当性の論が通ったと思っておられるのなら、一つ、私が説明した
り、指摘したりしたことが、あなたの中でどう解決しているのか、また、一体あな
たの論点のどれに、私が答えられなかったと思っておられるのか、総括してみたら
いかが。あ、その中には当然、スエが新約聖書中では、福音書と黙示録以外は神の
啓示として認めていないではないか、という点についての、あなたの結論をお書き
くださいますように。このように、あなたこそ、都合の悪いことには何一つ答えて
ないのですよ。
*マリア.(=ブルネルス)「第二ちいヨハ反駁」。
807 :マリア. :02/05/13 01:49
>>804 まあ、帰ってきたら、またこの妄想からはじめなきゃならないの!?
もうやんなっちゃう。いい加減にしてよ。私だって何も好き好んでこういう
文体と名前で出てきているわけじゃあないのよ。あなたの失礼な態度と、相
手の人格を侮辱する物言いに抗議して、この名をつかっているんだからね。
そのことはちゃんと言ってあるわよ。
どうして、マリアという名を使うことが、イエスの母の名誉にかかわるわけ?
そんなら、私が猫のマリアについたうんに因んだ名前で出ることより、私が
猫にマリアという名をつけていることまで、文句を言われそうね。
そういう言いがかりをつけるのなら、それはそっくりそのまま、そちらの名前
についてもいえるんじゃない?私から見れば、あの豊かな思想を紡ぎだした
ヨハネのイエス理解を全く誤解している人に、「小さなヨハネ」などと名乗ら
れたら、それはヨハネの名誉にかかわります、とか言うことになるわけよ(
そういうことは私は言わないけどね)。
*マリア「第一ちいヨハ反駁」。なお、マリア≠マリア.である。為念。
808 :マリア :02/05/13 02:31
>>801 それはまたまた勝手な理屈ね。
また、この名は友達のマリアのもの。
聖母マリアの名がマリアだからといって、
あたしが友達の名を使うことで、
聖母マリアが侮辱されるとする理論は、勝手なこじつけ。
また、あたしはマリアという名の友達に、敬意を表してこの名を用いている。
それを悪いことだといって罰するのなら、
それは、あたしにとってはあたしの友人マリアを侮辱したことになる。
あなたと同じ事を言っているわけなのよ。
人と聖人は違いますという屁理屈は、あたしは許さないわよ。
あたしにとっては、友人マリアは偉大な人。
まぁ、分かるはずはないと思っているけど、
またそうやって聖人の名を妄りに人を裁くために用いるのなら、
それは神の名を妄りに使って、人を裁いていることと同じになる。
聖人の名は称えられるためにあるものであって、
人を裁くために使われるものではない。それは神と聖人への侮辱に他ならない。
あなたには、カトリックの聖書解釈なんかは関係ないかもしれない。
だから、自分の思うように何を言っても、やっても、
それはあなたの中では筋が通っているのかも知れない。
けれど、それってどうなの?常識から考えてどうなのかしら?
>>804 当然のことながら、猫にも謝るべきね。
あなたはその猫を否定した。あたしの友人マリアを否定したようにね。
「聖母の名誉のため」という自分の勝手な理屈によって、
両者を否定したわけだからね。
*小さなヨハネによる「これまでの総括」と「勝利宣言」
832 :名無しさん@1周年 :02/05/13 23:42
>>806 ブルネルスさん
・・・うーん、本当に分からないで言っておられるのか、負け惜しみで言っ
ておられるのか、私にはよく分かりません。
ディベートというのがどういうものか知りません。しかし、おそらく将棋の
ようなものでしょう。将棋も最後は結局一手で決まります。あの一手だけで
はないかと今更言ったところで、仕方ないのです。負けは負け、勝ちは勝ち
です。「男らしく」認めるしかないのです。私が確か「ウェルカム、ブルネル
スさん」と申し上げたところ、ブルネルスさんから「小さなヨハネ氏は対話
する気があるのか」ということで私の方から質問を提示しました。
833 :名無しさん@1周年 :02/05/13 23:43
十くらいの論点に対して、途中で論戦は始まりました。私の再反論に対し、
駒を打つ順番は今度はあなたの番でした。しかしあなたは少し怒った後で、
駒を投げたのです。「三位一体を信じてもいない自分が、これを擁護するか
のような説明を繰り返すのは疲れる作業であり、誰かそれを奉じている方
に代わっていただきたい」というあなたのご発言は、意外なことに明らかに
「白旗」でした。あなたは降参したとはおっしゃいませんでした。私も失礼
と思い、勝ち名乗りを挙げませんでした。ブルネルスさんの喉下に突きつけ
た刀を私は何事も無かったかのように鞘に収めたのです。
いまさら、私の方から具体的な内容を蒸し返す気力も時間もありません。
これだけ申し上げれば充分なはずです。第一あなたの回答する順番のまま
で終わったのですから・・・。
それから、スウェーデンボルグが新約聖書中で「聖言」と認めているのは
確かに四福音書と、黙示録です。それがどうしたのかご質問の意味が分かり
ません。あとの手紙類は「有意義な文書」と言っていたと思います。
(出典個所失念)。私も、はあ、そうかと思うだけです。
*読者の反応
805 :名無しさん@1周年 :02/05/13 00:06
うーん@
まだ、ブルネルスとマリアが一緒になってるんだ。ある意味すごいとおもわれ。
34 :名無しさん@1周年 :02/05/13 23:44
[省略]
>>832 その論法使うと「スウェーデンボルグと新約聖書」問題で
あんたが投了したようにしか見えんのだが。
そもそも勝ち負けにこだわってるの、あんただけだ。
*小さなヨハネによる「オカマと同性愛」非難(IV835-837)。
835 :名無しさん@1周年 :02/05/13 23:46
>>808 マリア氏
オカマと神への崇敬は一致しません。
(レビ記18・22、レビ記20・13、申命記22・5、申命記23・18、
マタイ15・19,20、ローマ書1・27,28、32、コリント1・6・
9,10)
従って神の母である聖母の名をオカマの人があえて選択するのは遠慮して
しかるべきです。
836 :小さなヨハネ :02/05/13 23:54
[省略]
832、833、835は私です。
*小さなヨハネ、「スウェーデンボルグの新約把握」問題@スレッドその3に
コメント。
839 :小さなヨハネ :02/05/14 00:12
>>834 べつに勝ち負けにこだわるつもりはなかったのですが、何か事実誤認が
あるように思われたので、私の実感を述べさせていただいたのです。
そのうえで、どう判定されようとちっとも構いません。
「新約聖書とスウェーデンボルグ」問題というのは何のことですか?
*ブルネルス、コメントおよび再質問(このあとIV847でdendo. ◆Dpy6mDYEによる「厨房」発言)。
846 :ブルネルス :02/05/14 16:26
>>839 ご自分が何を言ったかを、お忘れのようですね。
>>833 もちいさなヨハネ氏の発言であるとすれば、前に言ったことを忘れて
よくもまあ、いけしゃあしゃあと言うよなあ、という感想です。
そういう認識であれば、自分が「勝った」と思い込むという結果にもなる
でしょうね。
#あらためてうかがいますが、「有意義な文書」を書いたパウロが、なぜ
地獄にいるのでしょうか?
*小さなヨハネによる、マリア(IV808)およびブルネルス(IV858)発言へのコメント。
858 :小さなヨハネ :02/05/14 23:05
>ブルネルス氏
>マリア氏
私も思考がループしていると言われましたが、お二人(?)もまったくそう
ですね・・・。
>>808 猫にもあやまるべきね。
本気で言っておられるようなところがすごい・・・。
しかし、どうしてブルネルス氏の猫にあやまれとマリア氏から言われなければ
ならないの・・・?
ま、それはよいとして、
>「有意義な文書」を書いたパウロが、なぜ 地獄にいるのでしょうか?
これは「りさ」嬢が「あうぐすちの」氏の質問に対して書いておられたよう
な気もしますが、人間は言うことと、本人とは違うからです。りっぱなこと
は言うが本人の人間性はまた別という意味です。
「彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは
見倣ってはならない」(マタイ23・3)。
ところで、「あうぐすちの」氏はどなただったのでしょう?今村光一氏の新書
を引用されていたり、出典を尋ねると「実家の倉庫にあるので答えられません」
などといいかげんなことをおっしゃるので、真面目に答えるのが馬鹿馬鹿しく
なって、途中でやめてしまいました。
# 編者による注釈。最終段落も「いけしゃあしゃあ」と呼ばれるにふさわしいだろう。
*ブルネルス、スウェーデンボリのパウロ把握について、再度質問。
862 :ブルネルス :02/05/15 00:26
>>858 何か、どんどん、言うことが以前と食い違って行きますねえ。
おっしゃっているのは、パウロは「立派なことを言った=有意義な文書を書いた」
が、「本人の人間性はまた別=立派ではない」ので、地獄にいるとスレは言って
いるのですか???
以前は、信仰義認がよくないというような理由(=言ったこと、書いたことがよく
ない)を挙げておられたのでは?
私はちいヨハについて、ある程度の評価はしておりましたので、今や、今回でて
きて、ここまで過去の自分と違ったことを自覚なしに堂々と書き込む状況に
驚いております。偽ちいヨハなんではないだろうか。
こんなこと言うと、dendo.さんから「ぶ.は甘い、元からこうだった」と突っ込
まれそうですが・・・
そうそう
>>847 dendo.さんから、最高級のお褒めのことばをいただいた、ないし
は、仲間として認めていただいた、と、感無量です。
# 編者による注釈。褒めてません。ええ、けっして。
*タカビーな匿名者による質問という名の要求および総括。
866 :名無しさん@1周年 :02/05/15 08:04
>>862 >私はちいヨハについて、ある程度の評価はしておりましたので、
一体どういう評価をしてたんですか? その評価から伺いたい。
>今や、今回でてきて、ここまで過去の自分と違ったことを自覚なしに堂々と書き込む状況
つまり、ブルネルスさんは、小さなヨハネさんの書いてきたことに、ある程度の脈絡を感じておられたんですか?
ほほう。さすが。で、その把握されている概略について、小さなヨハネさんではわからないので、
ブルネルスさんにかいつまんでいただきたい。彼の言いたいことは何なの?
867 :名無しさん@1周年 :02/05/15 08:46
>>862 >おっしゃっているのは、パウロは「立派なことを言った=有意義な文書を書いた」
>が、「本人の人間性はまた別=立派ではない」ので、地獄にいるとスレは言って
>いるのですか???
の答えは
>>858 >人間は言うことと、本人とは違うからです。りっぱなこと
>は言うが本人の人間性はまた別という意味です。
で
>信仰義認がよくないというような理由(=言ったこと、書いたことがよく
>ない)を挙げておられた
のは、今はスウェーデンボルグの本は倉庫にしまっているあうぐすちのさんですね。
整理できた?
# 編者による注釈。この匿名者は「りさ」と名乗っていたスウェーデンボリ主義者と
# 推定される。なおスレッドその4には、「りさ」名義で以下の発言がある(IV230)。
230 :りさ :02/04/19 18:21
>>220 悪いけど、りさがばかな発言するときに、りさで入るわけないじゃない。
おばかな発言のときはちゃんと匿名でしてます。
*ブルネルスによるIV866f.への応答。およびIV862での質問の再提示(問い1)
908 :ブルネルス :02/05/15 12:20
[省略]
>>866 ちいヨハのことはあちらに聞いてください。私がどう受け止めている
かを申し上げるのは面倒で、よほどの動機を与えてくださらないと、応じる
気にはなりません。
>>867 おやそうでしたか?整理ありがと。ただし、ちいヨハが、スエのパウ
ロ評価(地獄)について、「考えは立派だが、人間がだめ」だからなのか、
「信仰義認という考えがだめ」だからなのか、どっちだと考えているのかを
私が聞いているという論点は有効であり、取り下げません:
あれだけ長々と、そして数を重ねてスエを引用し、宣伝した以上は、
答えないと負けだ、と思うならどうぞ答えてください > ちいさなヨハネ
#編者による注釈。小さなヨハネの論法を適応すれば、この質問に答えられない
#時点で小さなヨハネは「敗北」したことになる。さて。
*ブルネルスによるIV801への応答および要請(問い2)
925 :ブルネルス :02/05/15 19:00
>>923 おっと、見逃してた。私が要望すれば推論を教えていただけるのね。
では:
>>801 よろしくお願いします。
∴巫女マリア=ブルネルス
となる推論とやらを楽しみにしてますよ > 小さなヨハネ
52 :
ダイジェスト編者による総括 :02/05/16 03:16
「またーり」「重量」「最強」……など数々の称号を冠せられた「父スレ」。 ラブレーの描いた人文学徒の楽園・テレームの僧院にも比せられた いっときの安和が多元厨ジョンヒックによって破られたのち、 小さなヨハネの帰還により「父スレ」は新たな展開を迎えた。 ……喉元に刃を突きつけられているのは、 小さなヨハネがいうごとくブルネルスなのか、 それとも実は小さなヨハネ自身なのか、 編者はあえて意見を述べずにおく(w なんぢ受けんとする苦難を懼るな、速かに来りて語るべし!
同性愛否定に関しての追加。 何故聖書では、同性愛を否定されているか?ということよね。 こんなのは、普通に考えれば分かることなのよ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
63 :
5スレ内リンク集 :02/05/16 11:39
過去ログ
>>2 用語集
>>3-8 主イエス・キリストは父なる神(その4)後半戦ダイジェスト(w
>>37-51 dendo.'s私家版用語集
>>4-8 小さなヨハネに対してではないが、あるスウェーデンボリ支持者の
主張についての dendo.の異義申し立て
>>9 これにもきちんと答えることを編者は希望する。もちろん「敗北」とやらを
認めていただいても、構わんのだが。
64 :
あうぐすちの :02/05/16 16:48
パウロが地獄にいるというだけで、スエーでんボルグはだめです。もう。
65 :
名無しさん@1周年 :02/05/16 17:06
おひさしぶり。点呼もよろしくね。前スレで dendo.さんがやってたから。
それとも変な女の人はもうごめん? :-)
>>64 まあそういわんと。。それいいはじめると、収拾つかないし。
てか、君がそういうこというなら
「父と子が聖霊を発出するというだけで、西方はだめです。もう」とか
「聖母の無原罪を認めないというだけで、東方はだめです。もう」とか
「ロゴスをイエスと同一視というだけで、キリスト教はだめです。もう」(これはいわねーかな)とか
みんないいだして、みんなまたーりできなくなっちゃうし。
末がだめかどうかは、実は小さなヨハネ以外にはどうでもいい話題なんだよね。
#というより、すでにかなりのところまで合意が出来ている。。
いま問題になってるのは末が(というよりは小さなヨハネが理解している末が)
パウロをどのように評価してるか。ブルネルスは小さなヨハネにそれを尋ねている。
……と思うのね。って私(は誰でしょう)がたんにそう予想してるだけなんだけど。
別に末まんせーっていわなくてもいいけど、たんに「だめ」っていう
だけなら、ここ来るだけ目の毒だろうから、よそでまたーりしたほうがいいよ。
以上ちとおせっかいでした。
66 :
名無しさん@1周年 :02/05/16 17:09
>>64 あなたの好きなパウロの言葉を教えてください。
>>64 パウロに対する嫌悪感は、母の先祖達にもあったからね・・・。
ペトロにイエズスがいっている話と違うことを言ってるって
異議申し立てをしたらしいからね。
まぁ、先祖達の流れが勝利したなら、
キリスト教徒はユダヤ人のみで、
ユダヤ内の改革派として存在した程度だったでしょうね。
68 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/16 17:33
あうぐすちの氏おひさしぶり。少しは成長して戻ってきてくれたのかな。 ちょっと君思い込み強すぎるようなので、おねーさんは心配なのだ。 なので余計なことを二三書いておく。 出ていけというわけじゃないので、誤解のないように。ただし君にとって そう聞こえるかもしれないことは、承知のうえで、書く。 このスレッドはまさしく「主について語る」スレッドだ。だけど、というか だからこそだな、「イエスはすばらしい」とかそういう話題を展開するには不向き。 むしろ「イエスは本来、神じゃなかった」とかそういう話がぽんぽん出てくるところ。 だからこそ、楽しいんだけどね。 なので、「主について語りたい」という昔きみが表明した希望が、福音書のこの箇所はいい、 というような話題だったら、よっぽど「マタイ伝映画化スレッド」なんかのほうが 向いているかもしれないよ(あれはあれで逝っちゃってるけど。ラジニカーントのルカ伝って素敵でしょ?)) まじめな話ね、教会の教理からしたら、異端や誤謬になることが平気で語られる、 このスレッドはそゆ恐いところでもあるのでね。君が昔逝くのをやめた末の掲示場以上に、 ここは君の「霊性」にとって危険な場所になるかもしれないよ。 それを弁えた上で君があえて参加するというのなら……私は一観客として、君を歓迎する。
点呼に答えるんだっけ?はーい。
70 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/16 17:41
>>67 作業中なのでうろ覚えで書くんだけど、受難前に「ギリシア人」が
イエスを訪ねて来る話がヨハネ伝にあるよね。あれって平行記述あ
ったっけ?
異邦人としては、「異邦人の使徒」パウロをよみするところ大なんだけどね。
そいえば受難週の祈祷文には「ユダヤ人が退けた救いが、異邦人に開かれる」
的なテキストが多くてね。そりゃそのとおりなんだがちともにょった。
こういうのが、もともとは経済問題だったり文化慣習の違いだったりした
ユダヤ人とヨーロッパ人との確執を固定化する機能を担うこともあったのかな、ってさ。
初代教会の典礼ってどんなんだったんだろうな。
マリア姉は「主の兄弟イヤコフの典礼」にはお詳しいの?
おのれは文盲か、 とはいわんがいいこだからレスをちゃんとよみまちょうね。ぶるねるすたん。 点呼やってるのは前スレ。そもそも数を申告しないと点呼にならない でしょ。 ってぢぢぃわざとじゃねーだーろな。。#あと雑談も向こうだからよろしく。>ぶ
72 :
あうぐすちの :02/05/16 17:49
愛がなければ世界を手に入れてもむなしいという言葉です。パウロの言葉で好きなのは。
73 :
あうぐすちの :02/05/16 17:50
パウロを地獄に位置付けるスエーでんぼりは その時点でダメです。ぼくは捨てましたよ。
つうか。。「その時点で」としかいえない時点で、 君のカキコたんなる煽りにしかならんと思うのだが。 パウロを引用して「いいですよねこれ」とだけいうんだったら 君のやってること、私にいわせればちぃヨハと大差ないんだよ。 ただ正統教会の御墨付きがあるかないかどうかでね。 でもって、それをいうなら私は次にこういわなきゃいけないことに なる。 「filioque信奉者いってよし」 君はそんなくだらないことのためにこのスレッドに戻って来たのか?(呆)
75 :
名無しさん@1周年 :02/05/16 19:10
70もウザイよ。兄弟を「呆」呼ばわりするあんたは何様だ?爆笑するぜ。恥曝すなよ。
76 :
名無しさん@1周年 :02/05/16 19:11
74の間違いだ。↑
>>71 あ、またdendo.ちゃんに叱られちゃったい。萌え萌えーっ、
って、おまえは変態かい(なんだか、文体までdendo.仕込みになっち
まったい)。
>>74 まあ、せっかく あうぐすちの さまが書いてくれてんだから、
もうちょっとソフトに、ね。
もっとも、あうぐすちの殿も、そういうふうに怒鳴られて、萌える
口かもね。
78 :
あうぐすちの :02/05/16 21:23
ウェスレーのスエ批判論文をアップしてあげましょうか。知らずに言っているのではない、僕は自分の語っていることを知っているのですよ。人を阿呆呼ばわりするような人間とは違う。
79 :
あうぐすちの2世 :02/05/16 21:24
イエスは素晴らしい。 パウロ書簡もいい。 ペテロ書簡もいい。 ヤコブの手紙はいい。 ヨハネの手紙もいい。 黙示録は難しい。 聖書は神の言葉だ。 もんくあっか。 神を畏れろ。 Tコリント13章は素晴らしい。感動的だ。 ローマ書8章も素晴らしい。特に8:3が素晴らしい。 聖書は真理だ。旧新約聖書66巻は神の言葉だ。 パウロが偽ものなら、ローマ9-11章をどう読むんだ。 それに答えろ、スウェーデンボルグ。 アーメン、主イエスよ、イスラエルに永久の平安を与えたまえ。 よし、また来よう。
80 :
あうぐすちの :02/05/16 21:26
ウェスレーは末とも直接文通を交わしていた人物ですよ。あなた方のような遊びとは違う。彼の全集に詳しく出ているよ。末批判は。
81 :
あうぐすちの2世 :02/05/16 21:26
あうぐすちのはムキになるな。厨房なんてそんなもんだといい加減に分かれ。
82 :
あうぐすちの :02/05/16 21:30
これも愛からですよ。2世君。
83 :
あうぐすちの :02/05/16 21:32
ぼくはね、ちいさなヨハネが何で、 サドゥーとスエを両立できるのかが不思議で、質問したんだよ。 でも彼が答えたとは思っていない。
>>70 ギリシア人といっても、すっかり信仰をなくしたギリシア人化した
ユダヤの血筋の人とも、考えることも出来なくはないからね・・・。
母の先祖達は、財産があって市民権を買った人間だし、
それを良くは思われないこともあったみたい。
何といっても、かなりの電波みたいな感じだしね・・・。
ヤコブ式については、詳細は聞いたことはないわ。
85 :
あうぐすちの2世 :02/05/16 21:39
dendoは一々仕切るな。他人のふんどしで相撲とってるくせに。 dendo.逝ってよし。帰ってくんなよ〜。あっかんべ〜。
86 :
あうぐすちの2世 :02/05/16 21:41
>>83 彼に答えを要求すんな。そんなこともワカンナイノ? 答えがあったらとっくに言ってる。
87 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/17 00:04
>>84 そもそもどこでしてるんでしたっけ。いま。
エルサレムで(具体的にはどこの教会かしら?)しているところがあると
聞いたのだけど、たぶん正教会ではないだろうし。。
# 正教会だとたまにバシレイオスでなければ金口イオアンなので。
アレクサンドレイアでしている、ってまえおっしゃってなかった?>マリア姉
# でもあそこもいろいろあるしな。。どこかしら。
そういえば、引越ししたコプトのお友達から、イースターメイルをもらったの。
コプトも典礼暦はうちとほぼ同じみたいね。
88 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/17 00:13
>>78 システムというより、フローティング掲示板の仕様を考えてからものを
いいなさいな。だいたい、出版社と翻訳者から転載許可はちゃんと取った
の?でなかったら君がほのめかしていることはシステムへの攻撃にして
かつ著作権法違反だよ。動機は行為を正当化しない。
……そういう後先考えない行動をするのを「厨房」っていうんだよ。ぼく。
# 名前が泣くぞ。。
## あう具たんの時間論わたしも好きです。
## そういうのも、いつかまたーりおはなしできるといいね。>その筋
89 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/17 00:13
>>77 それねえ、使用法間違えるよ、ブルネ。。
「萌」をgoogleで引いたらわかると思うけど。つかそれ 2ch 用語というより
これ同人用語よ。よそでつかうと人品疑われるから、ほどほどにしとくのが吉よ。
そいえば、しぇの人協会の去年の懇親会で「萌」をどう定義するかで
もりあがったんだけど(某学会でそれをやれという注文もそのときあり。
しぇの人書いてるから、ってんでそのときは勘弁してもらったが。。理事某氏は
どうもまぢらしい。。ってこういうの基礎研究ないからしんどいんだよ……
資料も揃えなきゃいけないしだし……)
とまれ、「萌」ってたんなる愛情とは違うんだよね。たぶん。
萌えって、徹底して Ohne Interesse な欲望なの。対象の所有を放棄した欲望。
ただしこの「関心を欠いた欲望」は、
基本的に対象を物象化し、記号化し、かつしばしばエローティッシュな
側面をももつらしい(と、いまのところ私は萌を定義している。というより
萌という言葉の最初の使用法は端的にそうだった。この語はその含みを
ひきずっている。たぶん今でも)。
paradoxical で、そそるでしょ(はぁと)
だからブルネ.がむかし「ルター萌」っていって、「なんか気持悪い」と
感じたのは、たぶん正しい態度なんだな。ブルネのルターに対する態度には
fetisch なものも erotisch なものも介在しない、またしえない、と私は予想する。
いかが?
……あ、用語集の編者が「ブルネルスたん萌」というときに
erotisch な含みがあるということではないですよ。為念(がくーり?)
# というわけで、逆にブルネ.の dendo.萌えには eros があるのかもね。(Symposionがいう意味での)
# というわけでディオティーマならぬ猫糞姉さまのご活躍を祈りつつ、
# 今晩はこれにてさようなら。
90 :
名無しさん@1周年 :02/05/17 00:14
dendo. でオナニー
91 :
あうぐすちの :02/05/17 00:38
>88 おい、dendoよ、よく言ってくれるな。俺を誰だと思っている? まあ、よい。笑わせてもらったぞ。爆笑だ! まいったなあ、ここは。 著作権の有効期限も翻訳されているかどうかもしらんでよういうわ。 やはり俺がくるところではないな。苦笑した。
92 :
あうぐすちの :02/05/17 00:41
そうか、最初に下手にでて、反応を確かめようとしたのが間違っていたんだな。 コテハンを変えるか。面倒なヤツラだな。(W)
つまらないスレ。
94 :
あうぐすちの :02/05/17 00:44
>86あうぐすちの2 そうか、よく解ったよ。サドゥーについて疑問があるなら、なんでも答えるぞ。何でも聞け。ちいよはも含む。
eros をこめて、萌えー(って、dendo.のレクチャアが全然響いてないような)
96 :
名無しさん@1周年 :02/05/17 01:50
>94 「サドゥーについて疑問がある」のは「あうぐすちの」の方だろ? 「あうぐすちの」と「あうぐすちの2世」の演じわけに破綻が見られる。 以前登場した同名人物とは別人と思われ。
97 :
あうぐすちの :02/05/17 02:19
>96 君はどうしようもないヤツだネエ。前スレを読んでから書けよ。相手してられんよ。(W)
98 :
あうぐすちの :02/05/17 02:20
ったく、りささんを信じていたのに裏切られるわ、謝罪の言葉1つないわ。どうしようもないスレなんだな。(W)
まぁ、このスレに出て来る面々に恨みがある人は、 たくさんいるからね。
100 :
あうぐすちの :02/05/17 02:32
>99 俺は何もしていないぞ。それぐらいわかっているだろう、君だって。
>>87 エルサレムではまだ残ってると聞いたけど?
それに、年に一回だけ、エルサレムの正教会が行うと、
どこかのスレで見かけたけどもね・・・。
102 :
ふらんちぇすこ :02/05/17 02:35
>>96 禿同。
私が以前同名で登場していた人物ではないのと同じように。:)
しかし私は「あうぐすちの」を咎めんよ。
小鳥の囀りには意味はない、しかし我々はそこに小動物の生命の歓喜を感じ、
同情する。それと同じく、「あうぐすちの」がなにがしか慰めを得るなら、
私もそれを喜ぼう。
騙りとAAのおかげで、このスレッドはいよいよ 2ch らしくなった。
素晴しいことだよ、これは。そう思わないか?
>>96 ただ、以前、同じ名のもとに登場していた人物が、このスレッドを
見たときに卒倒しないことだけを祈るよ。なんかその手の耐性なさそうだからな、彼。。
コプトだと、マルコ式でしょう? でも、向こうも普段はバシリウスと金聖口ヨハネだったはず・・・。
ちなみにここ、あたしじゃないのもいるのよね。
105 :
あうぐすちの :02/05/17 04:23
困った方々だな。本人が幾ら自分だといっても認めてくれんのか。どういうことだ。 苦笑。
106 :
あうぐすちの :02/05/17 04:24
俺は俺だよ。信じろよ。
107 :
あうぐすちの2世 :02/05/17 05:29
>>98 あんたもあほだね。あの掲示板で恥をかくのは誰だと思ってる?
愛の説教する前に、自分がどういうことを言っているどの程度の人間か
考えたほうがいい。
108 :
あうぐすちの三世 :02/05/17 05:50
107 おまえも性格が悪いのう。わらた。
>>107 それはちょっとキツイわね。(ほんとのことなんだけど)
あの書き込みはショックだったわ。
ていうか、あの掲示板に入る前なら、あうぐすちのさんくらいの人なら、
他のスウェーデンボルグ主義者と交わっていただいて、双方和解の方向に
進めてくれるくらいの度量がありそうに思ったので
あの掲示板を用意して、私も主義者仲間に宣伝したのよね。
でも、主義者は、カトリックなんて馬鹿ばっかりだと思っているから
下手なこと言ってほしくなかったけど、あれじゃあ、まるで
「やっぱりカトリックは馬鹿でした」と自白してるようなもんでしょ。
とか、りさの人選はフシアナでした。ってとこかな?
マリンさんも、考え違いしていたみたいだけど
あれじゃ、和解どころか溝は深くなる一方でしょ。
もう、いいよ。期待してないから。ていうか、期待できないと分かった。ごめんね。
今はもうちょっと分かってくれるカトリックの人が、いろいろ教えてくださってるから
また機会があったらお話しましょ。
110 :
名無しさん@1周年 :02/05/17 10:56
>>95 いぢめっこ...
まさか、よそでも、そゆことしてないでしょうね;;
あんまりおいたすると、そのうちセクハラ対策委員会に訴えられちゃうzo.
# あー……でも、当の委員だたーり、って可能性あるのか。鬱。
はい、天下の碩学をぢぢい呼ばわりした、わたくしが悪うございました。
言と行と想にて罪をおかしし我を、主神よ我が罪より解き、我を赦し給へ。
でも「我爾に爾獨に罪を犯せり」、だから、ぶ.に謝ってるのじゃないからねっ(違)
>>103 へーそうなんだ。正教の典礼のほうが、自分のとのと似てるから落ちつく
いってたの。>友達
でも正教は intercommunion しないから(西方のかたですら領聖できません)
日曜はカトの教会いってたの。おミサがずいぶん違うんでさみしいけど、
やっぱり御領聖できるのが一番嬉しいから、って。
友達と「オーソの聖体礼儀すっっっごい素敵だから、一回来てよ」って
誘った :-) んだけど、で、その子も「次いくね」っていってくれたんだけど
急なお引越しで、けっきょく聖体礼儀に一緒に御参祷する機会はなかったのね。
コプトも普段は聖金口イオアンなのかあ。。だったら、よけい、異同があるのか
ないのか、聞いてみたかったなあ。奉神礼の後にお昼御飯を食べながら、
またーり、ね。ここのスレッドでマリア姉やブルネや名無しさんたちと、
そうしてるみたいに。
111 :
アウグスチノ4世 :02/05/17 17:37
アーラ悪かったわね。マリヤ
112 :
アウグスチノ4世 :02/05/17 17:38
あんたはキックが似合いの夫婦よ。
113 :
アウグスチノ4世 :02/05/17 17:38
なーに見てんのよ!
114 :
アウグスチノ4世 :02/05/17 17:39
マリヤじゃなかったわ。リサよ!
115 :
名無しさん@1周年 :02/05/17 17:40
をまい、キックだろ、↑コラ。
>>115 さま他 all-1
☆ 煽り・荒らしは、2ちゃんねるの神様・仏様にお任せして、放置しましょう。
>>100 まぁ、東洋と西洋の常識の相違があるように、
彼等に伝承の常識を理解させようとしても無理ね。
彼等に、そんな「もの」なんかは、あまり価値のないものだから。
何故なら、霊界話のその根拠は、伝承ではないから。
むしろ、自分達は伝承を超越した概念の元にいると考えているからね。
でも、パウロのことは、母の先祖達も嫌っていた。
ユダヤとナザレ派の分離は、
ある意味彼の説への支持拡大によって起こったから。
ユダヤ人って、そういう事をするのが得意な人種ならしいのよ。
秘儀伝承には色んなのがあって、本当にある意味汚いらしいよね。
自分達の目的=神の目的、と捉えるところから出たような秘儀もあるのよ。
だから、それを疑って嫌っていたのよね。
しかし、その証拠は全くなかったのよね。
証拠もないのに疑うことは、非常にダメでしょ?
>>110 向こうでは楽器を使うと、
聞いたことがあったような気がするわね。
コプト正教のホムペを見ればいいわ。
詳細はそこにあるはずだしね。
あたしは外国語は分からないから、翻訳ソフトで見たけど、
そう書いてあったような気がするのよね。
バシリウスと書いてあったような気がするのよね。
119 :
名無しさん@1周年 :02/05/17 23:56
>コプト正教のホムペを見ればいいわ。 たくさんありすぎて困るんだよね、とかいってみる。でもたしかにそうだ。 thanx. 余裕があるときにちぇっくしてみよう。 # というよりは、コプト関係のイコンのページが多いんだよね。 # うまく検索語絞りこめばいいんだけど。 レバノンのは遠くて重くて、おまけになんかブラウザがあってないので フォントが細かくて読みづらい……そっか、lynxで読めばいいのか。 大バシレイオスははじめて聖体礼儀関係の伝承を文章でまとめたかなんか いわれてるので、コプトでも大ワシリイ聖体礼儀を継承してても、そんなに おかしくない。分裂前の人だしね。 でも金口イオアン使ってるのか。。なんかさらに近親感沸いてくるな。 そういえばカトリックの人はミサでは N-K 告白しないのね。カトスレで 指摘されて、現行典礼文チェックしにいって、びっくりしちゃった。 ……サベリウス主義者がはびこるのも、無理ないのかも(ぉ
120 :
小さなヨハネ :02/05/18 00:51
>>862 (その4)
ブルネルスさんのおっしゃる「スウェーデンボルグにおける新約聖書問題」
の意味がようやく分かりました。そういえば、前にも聞かれて、私は何の
ことか分からなかったということがありました。
>パウロは「立派なことを言った=有意義な文書を書いた」
>が、「本人の人間性はまた別=立派ではない」ので、地獄に
>いるとスエは言っているのですか???
そうです。結局その通りです。それについては、一般論として
スウェーデンボルグにはたくさん出てきます。パウロについては
霊界日記に詳しいです。
121 :
あうぐすちの :02/05/18 00:52
俺は恥ずかしくないぞ。>りさ&二世(W) 2チャンネルなぞで本性を暴露するわけあるまい。 俺も君らと同じように、パーソナリティーを幾重にも使い分けている。 君らの反応を調べるためだ。まあ楽しませてもらった。 強い者に対する態度、弱者への態度、信仰者への態度、 やくざなヤツに対する態度などな。君らのレベルはよーくわかった。 「あうぐすちの・ぼく」を今後も叩き給えよ。(W) まあ、それより、りさ、おまえ、 あうぐすちのに一言謝罪してはどうなのか。 新教会信徒がクリスチャン、否、最低限フツーの人間であることを 示しておけ。まあ、どうするも君の自由だが。 ときに、サドゥーについて疑問があればなんでも質問しろ と言っているだろう。はよ質問せんか。小ヨハ君よ。 これが最後の機会だぞ。仕事が忙しくなってきた。 たとえば、なぜ、サドゥーの熱心な研究家、ハイラーその他、 今なら、バンガロル神学大のプラカッシュなどの碩学が、 多数の神秘家を彼と比較しながら、末を一言たりとも書かないのか。 サドゥー自身、説教でも著作でもいっさい触れないのか考えてみよ。(W) あと、末の地獄論はどう考えても非聖書的だな。 彼の見た世界というに留まる。前にも述べたがな。 要は、末の啓示を中心に置くか、聖書を中心にするかの2者択一 ということなのだな。新興宗教の悲しい運命よ。
122 :
小さなヨハネ :02/05/18 00:52
>以前は、信仰義認がよくないというような理由(=言ったこと、 >書いたことがよくない)を挙げておられたのでは? 私も、意外だったのですが、パウロはいわゆる「信仰義認説」ではなかった という内容のことを霊界における議論の見聞記事を通じてスウェーデンボルグ は述べています(真のキリスト教506)。霊が述べていることが、即スウェー デンボルグの意見かという問題はありますが、彼がそういうスタイルで紹介す ることは通常よくあり、その問題に関しては、そういうスタイルで啓示された のでしょうし、それを紹介するようにとの主のご指示でしょうから、それは彼 のものと言っていいと思います。 それによれば、パウロの「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは 律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマ書 3・28)という言葉は誤解されているとスウェーデンボルグは言います。
123 :
小さなヨハネ :02/05/18 00:54
ここで言う「信仰」とは、永遠からの三人の神的人格に対する、所謂現代の 教会の信仰ではなく、救い主イエス・キリストに対する信仰を意味し、「律法 の行い」とは十戒を守ることについてではなく、ユダヤ人特有のモーゼの律法 遵守(例えば「割礼」など)についての行いを意味しているのだそうです。 パウロがペテロを非難した(ガラテヤ2・11)ときの言葉、「人は律法の実行 ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2・ 16)も同様の意味であると言います。 また、パウロ自身、次の引用の通り、ヤコブ書簡2・17−26同様、「善行を 伴わない信仰」には反対し(真のキリスト教506)、信仰よりも愛を優先させ ています(真のキリスト教796の5)。
124 :
小さなヨハネ :02/05/18 00:55
「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ローマ書2・6) 「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義と されるからです。」(ローマ書2・13) 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ 悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、 報いを受けねばならないからです。」(コリント2・5・10) 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大い なるものは、愛である。」(コリント1・13・13) ですからパウロは「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決し てそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ書3・31) とも言っています。ここの律法とは割礼などのユダヤ教独自の決りのことで はなく、十戒に関するものでしょう。 スウェーデンボルグは信仰義認説、刑罰代償説、予定説等はニケヤ公会議以降、 三位一体論が出てきてから発生したという主張をしていますが、パウロが信仰 義認説ではないという主張はそのこととも符合しています。
125 :
名無しさん@1周年 :02/05/18 00:56
そうか、チイヨハはあうぐすちのだったんか。(ワラ)
126 :
小さなヨハネ :02/05/18 01:02
>>121 あうぐすちのさん
>たとえば、なぜ、サドゥーの熱心な研究家、ハイラーその他、
>今なら、バンガロル神学大のプラカッシュなどの碩学が、
>多数の神秘家を彼と比較しながら、末を一言たりとも書かないのか。
>サドゥー自身、説教でも著作でもいっさい触れないのか考えてみよ。(W)
彼等には理解できなかったのではないですか?
サンダー・シングが手紙で書いたのは違いましたか?
127 :
名無しさん@1周年 :02/05/18 01:10
いつまでも自作自演しておれ。(ワラ)
>>120 >>122-124 りさ、感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。感動した。
木には望みがある。 たとい切られても、また芽を出し、 その若枝は絶えることがない。 たとい、その根が地中で老い、 その根株が土の中で枯れても、 水分に出会うと芽を吹き、 苗木のように枝を出す。
と、いうか、なにがどうでも、イエスは父なる神ではない。 小さなヨハネは残念だろうが、事実は動かんよ。
内容:
>>130 禿同。
>>123 :小さなヨハネ :02/05/18 00:54
> ここで言う「信仰」とは、永遠からの三人の神的人格に対する、所謂現代の
> 教会の信仰ではなく、救い主イエス・キリストに対する信仰を意味し、
正統教会は「三人の」神的人格などを神に帰してなどいない。それは異端の教説である。
……あるいは控え目にいって誤解。
三者は無限かつ一体にして分かれざるもの、ゆえに教父はそれを「三一」と呼ぶ。
「三つ」の位格あるいは本質を、人のそれと同じものとして考える不遜が、
このような三神論の誤謬を招く、ということはすでに指摘されていたので
ここで主題的に触れることはしない。
また「ペルソナ」は神についていわれるとき「人格」ではない。
そのように訳す習慣もない。すでにここで誤解あるいは三神論への意図的な誘導が
はじまっている。この指摘に対して小さなヨハネが反論できないならば
自説を撤回したものと当方は判断する。
132 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/18 09:20
このことは、小さなヨハネ(と末)が非難している「三人の神的人格」とは
おそらく、ニカイア=コンスタンティノポリスにおいて宣言された
「神」とは違うものであることを示唆する。
>>120 第二文でそのことは明瞭に
なる。なぜなら、そこにおいて、キリスト教とは畢竟、イエスを贖いの主
また地獄を征服した主として崇め讃るものであるから。
古代から近代に至るまで、聖にして一なる公の使徒の教会は
この教説を奉じ、教えて来た(他教はときにそのように非難するが、誤解である)。
したがって、小さなヨハネが「教会」の教説に加えているコメントは
不当ないいがかりである。反論するか、謝罪の上撤回するべきだろう。また
いまだにこのような教説を奉じつつ、なお西方教会にとどまっている
ならば、それは涜神の行いであり、おそらくは自動破門に値する……が
現行教会法には詳しくないので、諸賢の御教示を賜われば幸甚。
133 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/18 09:21
なおこれらのことはすでにスレッド1から再三指摘されてきた。
古い読者はいいかげん飽きあきしておられるだろうが御勘弁。
ゆえにこの小文は小さなヨハネへの「反論」ではなく、
過去ログを参照できない読者に対するサーヴィスと思われたい。
……私はブルネルスのように寛容でも物好きでもないので、
人間であることを自ら放棄している糞袋などに、言葉をかけてやる趣味はないのだ。
なお、すでにブルネルス他の論者からは、三一性についての伝統的解釈が
いくつか提示されている(ニュッサのグレゴリオスに依るもの、など)。
小さなヨハネがあえてなお「教会が三人の神を奉じる」というなら、
まずそうして個別の指摘について、反駁を提出する必要があるだろう。
そうでなければ――小さなヨハネの主張にしたがえば――これをもまた
小さなヨハネの「敗北」と当方は看倣す権利を得ることになる。
そうでなければ、一読者としては、
やはり「敗北し」逃げだしたのは糞袋こと小さなヨハネであると判断すること
が穏当であると考える。
※前スレッドのうち、ダイジェスト版(
>>37-51 )に収録されているものについては
以後本スレッド内においてはダイジェスト版を引用参照されたし。>諸賢
>>120 >>122-124 小さなヨハネさん、丁寧な回答をありがとうございます。
スエのパウロ理解については、まず事実を確認したいと思います。前スレあたりで
あうぐすちのさんが紹介してくださった、スエのパウロ理解との違いがあるのでは
ないかと思いますので、
上記、小さなヨハネさんの説明に対するコメントをお願いできませんか
> あうぐすちの さん
>前スレあたりで
dat落ちしているスレッドその3と思はれ。(URL
>>2 )
136 :
ジョンキック :02/05/18 11:07
イエスも父なる神も象徴だよ。まだわかんないのかい?目を覚ましな。
残念ですが、双方の参考資料に差があるようなので、平等に比較検討されるのは難しいかもしれません。 あうぐすちのさんが当時お読みになった本文は、静思社のものだと言っておられ ましたし、躓いて途中で読むのを止められたとのことでした。あうぐすちのさんは、 25年前からいつ頃までスウェーデンボルグを読まれたのか分かりませんが、25年前には、 小さなヨハネさんが論拠として引用なさっている「霊界日記」は、静思社からは出版 されていません。 現在出版されている物ほとんどを読まれている小さなヨハネさんの資料に比べれば、 あうぐすちのさんの資料には限界があると思われます。 あうぐすちのさんは、全世界にお手紙を出して問い合わせなさり、新教会の教役者の 解釈などを参考になさっておられるようですから、ぜひともお話だけは伺いたいです が、小さなヨハネさんは、新教会の説教集とスウェーデンボルグの本文には、明らか な食い違いも発見されるとも言っておられますので、あくまでも、新教会の理解を元に 判断されて、批判も「新教会の人間」に向けてしておられるあうぐすちのさんと、 新教会を信用していない小さなヨハネさんは、(微妙に立場は似ていますが)、本文の 理解という点では差があって当然と思われます。 あうぐすちのさんの「信仰義認が問題で〜」という発言は、その過去ログをご参考 になられれば明らかなように、単なる推測の域を出ていません。 ここでも、サンダー・シングのことについては「なんでも聞いていい」そうですが、 はたして、25年前に躓いて途中で読むのを止められ、今や倉庫に眠っている内容に ついて、「なんでも聞いていい」かどうか。 ですから、私の疑問にも答えていただければ、「どれくらいの本文を読んでるんですか?」 前はそれが聞きたかった。けど、今はぜんぜん気になっていませんから。 私に向かって話しかけないでね。 先生様には、人のいい加減な話を当てにしないで自分で調べられたらいかがですか?
138 :
あうぐすちの :02/05/19 00:32
本当にリサは傲慢なおなごだの。オマエとははなしもしたくない。
139 :
小便娘(1/2) :02/05/19 15:16
>>99 そうみたいね。どうしてだかわかんないけど。
マリア姉やブルネはともかく、あたしみたいな小物を構ってもしょうがないと思うんだけど。
まだ稚い子が団子虫しか捉えられなくて、何度も掴まえては放して……するようなものかしら。
>>95 おっと。
逝 っ て よ し >ぶ.
どさくさに紛れて何をおっしゃるのだか……
酔いが醒めるまで、徳利明神島から帰ってこなくてよろしくてよ。
それとも閣下には是が非でもわたくしの中に生産することをお望みで?
最前御指摘の通り、娘とはいいながら、その実はむくつけき男かもしれませんよ。
そのときは、どうなさいます?(藁
140 :
小便娘(2/2) :02/05/19 15:18
さて、一つの問いは答えられつつあるが、我々にはもう一つの問いも残されている。
一つの問いというよりは、相反する二つの要求というべきか。
すなわち
>>38-39 ,41の応答。
小さなヨハネがいうに
>(もしブルネルス氏さえよろしければ私の推論を申し上げます。)
ブルネルスまたの名を猫糞マリア.(
>>51 )と
おかま巫女マリアの御両名、ともどもその推論とやらを聞きたいって。
私も聞きたいな。どうしてそうなるのかしら?
141 :
小さなヨハネ :02/05/19 17:11
>>140 ・・・うーん、確かに。そろそろ区切りをつけなければなりません。
では、少し趣きを変えて、私も一人二役(自分を入れると一人三役?)に
挑戦してみましょう。
ヨハネ版「名探偵(?)ホームズ」と「ワトソン」です。
なお、本とHPに少しだけ触れますが、それはブルネルス氏御自身がこのスレ
ッドでご紹介下さったものですので、悪しからずご了承ください。またあく
までも、この内容は私の勝手な推測です。失礼な点が多々あるかと思います
が、どうかお許しください。
142 :
小さなヨハネ :02/05/19 17:20
・・・ああ、しかし、まだ原稿が書けていません。書き下ろしで行きましょう。
おい、ホームズ、珍しく小便娘が殊勝な口ぶりで「私も聞きたいな」 なんて言ってるぞ。ところでどうして、小ヨハネはブルネルス教授が 巫女マリアだなんて思ったんだろう? (以下敬称略もあり)
しかし、ま、オカマがどうとか気になるかねぇ? ホモだろうがレズだろうが俺は気にならんけどな。 ただ、気に食わないのは、自分の性嗜好を相手が拒否してるのに強要する奴。 後は、勘違いの自称御主人様(SMのな)とか。 またもや壮絶にスレ違いにつき、sage。 いつも下げてるけど。 >>小さなヨハネ 復帰おめでとう。ま、奥さん怒らせない程度に参加してください。
145 :
名無しさん@1周年 :02/05/19 18:01
>143 ワクワクドキドキ
うーん、それは「動機」が決め手だった・・・。 小ヨハネはふらんちぇすこ氏の紹介した坂口ふみ著『個の誕生』を読んで、 難しかったという感想を述べた。するとブルネルス教授はもう少し簡便な ものとして、岩波書店『新・哲学講義―別巻・哲学に何ができるか』とい う本を一冊、小ヨハネに紹介してやった。 彼はそれを買い求めて読んだ。それは共著で、ブルネルス教授が紹介してい たのはその内の『個と言葉』という文章だった。 しかし、理解力の弱い彼にはやはり難しく、内容自体は全く分からなかった。 ただ、その中で「父と子と聖霊の三者は浸透し合って存在する」という主張が ブルネルス氏の主張と全く同じであることに気がついた。その他にもオッカム だとかウーシアだとかヒュポスタシスだとか、2ちゃんねるでの議論と同じ 話題がたくさんあった。
147 :
小さなヨハネ :02/05/19 18:12
>>144 名前:ver3.05 ◆ver3llyM さん
>復帰おめでとう。ま、奥さん怒らせない程度に参加してください。
ははは、ありがとうございます。
早く書いて終わりにしろと言われています。
148 :
小さなヨハネ :02/05/19 18:51
ブルネルス氏が大学の哲学教授だということは、これまでの氏とdendo氏 とのやりとりで小ヨハネにも分かっていた。この本の著者もある大学の哲学の 教授だった。また、先に、スレッド(その2)の冒頭でブルネルス氏の紹介され ていたHPもこの本と同じ著者によるものだった。 彼は大学の教授というのは、プライドの高い人が多く、自説ということにこだ わる傾向があるということを知っていた。教授が他人の意見と同じ内容で書く ことなど許されないだろうと思い、だから、この著者はブルネルス氏自身に違 いないと彼は考えた。 ところで、その本の中で著者は二つの「現場」にいるということを言っていた。 「現場A」は哲学の文献研究であり、もう一つの「現場B」は、現実の医療活 動の現場であり、医療者や患者と共に、医療の現場で起こるさまざまな問題に アプローチし、その解決を目指す思考錯誤に参加されているとあり、その関係 の本も著わしておられた。 しかし、小ヨハネはその時、意外な気はしたが、ふーんと思うだけで、その ことには全く気を留めなかった。
149 :
小さなヨハネ :02/05/19 18:53
・・・ああ!失礼。↑ホームズです。
ところで、小ヨハネが『主イエス・キリストは父なる神』というスレッドを 開始して以来、どうしても理解できなかったことがあった。それはオカマ巫女 マリア氏の彼に対する論駁の異様なと思えるほどの執念だった。 彼には何が何だか分からなかった。
うーん、確かに少し変だったな・・・。特に中盤からだったかな。
>>150-151 理解できないからと言って、勝手に裁くからよ。
そういう事を、聖書の中のイエズス自身が咎めているからよ。
それを何度言っても理解出来ないから。 いや、理解しないことが当たり前で、 神の名を使用するなら、何をやってもよいという 自己の真理=神の真理という理論の組み立て方によって、 神を語られていたからね。それには、カチンと来たのよ。 伝承の中で語られる霊的意味についても、 全く人の作り話と言った妄想がある。 その現場を、本当に見たのかと言いたくなるからね。
また、他には自説を認めさせようとするけど、 その他説についての考察を全くせずに裁くその態度には、 神を冒涜するものでしかない。 よって、それに対する反論は当然のことなんだけど、 それを他の物事に摩り替えて自己正当化をしまうのよね。 これを許すなら、神を語る資格のない者に その資格を与えてしまうことになる。 三位一体説が完璧に間違えと証明したいなら、 「私が理解出来ないから間違え」というのでは証明にならない。 何故なら、そこには私=神と言う関係が見出されるからね。
>>141-151 わくわくしながら、ちいヨハホームズ氏の推理を読んでます。早く
肝心のぶ.=マリアの推論を見たいです。「もしかしたら、私はほんとはマリア
なのではないか」と思えてしまうようなやつを期待してます。
ただし、ホームズ氏が現在解き明かしている、ぶ.=某哲学教授 というところで
マリアとぶ.の媒介項にこの某哲学教授を使うらしいということは分かってきまし
たが、
某哲学教授=マリア
という同定は、両者とも医療現場に関係していると言ってるから、なんていう、
しょぼい理由によるんではないでしょうねえ。もっとすきっとしたのが出てくる
んじゃなきゃ、観客はがっかりしますよ。
第一、そういう推理だと、「彼は大学の教授というのは、プライドの高い人が多く、
自説ということにこだわる傾向があるということを知っていた。教授が他人の意見
と同じ内容で書くことなど許されないだろうと思い」という推理にもかかわらず、
ぶ.の思想内容(=某哲学教授の主張とホームズは同定)と全く異質なことを、
某哲学教授は延々と長い間、この板で書き続けてきたことになるわけで、上に引用
した、哲学教授の性格についてのホームズの判断と矛盾した推理をしていることに
なってしまうんですがね。その辺、どう処理するのでしょう。
わくわくしながら、続きを待ってます。
(・・・ああ、マリア氏、こんばんは) さて、マリア氏は12月27日(その1・411)で、「あら、面白いスレッドが 立ってるわね。年末年始の準備が終わらせたし、ちょっと一休み」と言って、 初めて登場する。その直前はブルネルス氏の小ヨハ論駁の熱論だった。 (405、406、408,409,410)
411 :マリア :01/12/27 17:51 あら、面白いスレッドが立ってるわね。 年末年始の準備は一応終わらせたし、ちょっと一休み。 そうね・・・。イエズスは父なる神である。 ある目から見ればそうとも言えるし、違うとも言える問題でしょうね。 キリスト教徒の世界では、この考え方が主流だし、 あたしも支持してきた説ではあるわね。 双方が頑なにならずに解けば、どうってことない話しなんだろうけどね・・・。 あたしは、神道に移ってしまった人間だから、 同じことを言ってるのに、何をもめているのかしら?と思ってしまうわ。 双方の理論とも、天主を天主と認めているからね。 それに、反三位一体論のスウェーデンボルグ主義支持の方の発言が、 最終的には、三位一体論が行き着くだろう答えと同じ事だったりして、 大変面白いわね。 そうね・・・。もう忘れかけてるから間違っているかも知れないけど、 この問題は、三位一体論は天主の本体を父と捉えるとして、 この父と共にあった言葉が人の姿となって 現れてきたイエズスを、子と捉える。こういうことなのよね。 父なる神という存在と、これと共にあった言葉は、 子となった段階で別の存在かと言えば、どうなのかしら?と思うの。 あたしは、非常に人間的な理解であるけど、 父と子は同じものだと捉えるわね。 何故なら、あたしの発した言葉があたしの言葉でなく、 別の存在だとしたら、非常に困ったことになるもの。 あたしの言葉は、あたしから発せられるものであり、 他の存在に変化するということは、ないものね。 また、他の例えを使うとすれば、あたしの右手は、 あたしの右手だし、他の何者でもない。 あたしの右手を単に右手と呼べば、 右手が別のものに変化するということはないものね。 また逆に、父なる神は本体を指すともいえるわね。 子の発出元も父であり、聖霊の発出元も父であるものね。 子も天主の一部分であるし、聖霊も天主の一部分であるわね。
(あれ、ブルネルス氏、こんばんは。先読みされてしまいました。 実はそうだったんです。まあ、とりあえず、聞いてください。) ・・・あれれ。本当だ。 「いやいや、さすがにマリアさん、考える仕方が正統ですねえ。西方教会の 伝統に従って、『ことばを語る』という場面を引き合いにだすなんざあ、アウグ スティヌス、アンセルムス、トマス・アクィナスあたりにのっとってますなあ。 で、まっとうにレスをつけさせていただきますと:」云々とあるぞ。 うーん、コワモテのブル氏にしてはなんとなくにやけていて不自然だな・・。
だから〜酔っぱらいはおとなしく寝てなさい。
>>155 むしろ猫糞おねえたま、御降臨きぼん。
至りて潔き生神女よ、我爾の婢は、爾を讃め歌ひ、爾に呼ぶ。
爾女宰と神学者グリゴリイ、大ワリシイ、ニッサの証聖者グレゴリイ、
および諸聖人の転達によりて、我当たらざる婢に力ある言を与へ給はんことを
爾の子、我が神、無原の父と同無原の聖神とともに聖三者の一として讃栄せらるるの主イイスス・ハリストスに祈り給へ。
我爾に頼み、爾と等しき名を保つ我が朋を此処に呼ばん……
来たれ、猫糞マリア.!
160 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 22:10
今改めて読んでみるととてもおもしろいです。 マリア氏初登場の際にブル氏との掛け合いがあったことに今日初めて気が付 きました! そうです。思い出しました。ブル氏のそのマリア氏への誉め言葉で私は驚い て後にマリア氏に、以前は本を読まれたのでしょうね―479、と聞いたら 第一回の論戦の終わったあとでしこたま怒られました。なんて怖いおばさん かと思ったのでした。 565 :マリア :02/01/06 01:25 さて、そうね・・・。まず、小さなヨハネさん。 あたしは、宗教本なんかあまり読まない。読んでも理解出来ないもの。 ブリタニカ国際百科は、昔によく読んだわよ。 ただ、あたしが読んだのは宗教の話し以外のものよ。 スウェーデンボルグ主義に対しては、全くの無知ね。 昔は本を読んだはずですなどと、 人が言っていることに対して、勝手にそれを想像で 打ち消すような発言をするのは、あたしは良くないと思うわ。 相手があたしだから良かったけど、人によっては感情を害するものよ。
(あらら、上がってしまって、ブル氏の対マリア・レスを載せ忘れました。) 413 :ブルネルス :01/12/27 19:29 411 マリアさん、 |あたしは、非常に人間的な理解であるけど、 |父と子は同じものだと捉えるわね。 | |何故なら、あたしの発した言葉があたしの言葉でなく、 |別の存在だとしたら、非常に困ったことになるもの。 |あたしの言葉は、あたしから発せられるものであり、 |他の存在に変化するということは、ないものね。 いやいや、さすがにマリアさん、考える仕方が正統ですねえ。西方教会の伝統 に従って、「ことばを語る」という場面を引き合いにだすなんざあ、アウグス ティヌス、アンセルムス、トマス・アクィナスあたりにのっとってますなあ。 で、まっとうにレスをつけさせていただきますと: 「あたしの言葉」は「あたしから発せられる」ものですから、たしかに「あた しの言葉」以外の何かではない、というのはその通りだと同意します。 では「あたしの言葉」は「あたし」と同じなのでしょうか? 「あたしの言葉」は「あたし」自身ではなく、「あたしから発した」「あたし の言葉」なんじゃあないでしょうか?
そう。ブルネルス氏が1月5日に消えた後に論敵としてマリア氏が中心となる。 とにかくマリア氏はとことん小ヨハに反論して来た。マリア氏の主張は小ヨハ にとって率直に言って、内容に乏しく、根拠が不明確、質問してもわけの分 からない発言の繰り返しであり、そのため却って反論のための反論という目的 だけが小ヨハには明確に感じられていた。
ホームズ、ブルネルス教授が消えたところを教えてくれないか?
ああ、1月3日にブルネルス氏の次の申し入れに対し、小ヨハがそれを受け 入れて論戦自体は終結する。 527 :ブルネルス :02/01/03 23:04 >ALL 三位一体説を信じてもいない私が、これを擁護するかのような説明を繰り 返すのは疲れる作業です。誰か、三位一体を奉じている方、役割を代わっ ていただけませんか? 小さなヨハネ氏も、 *三位一体説の代理説明人としての私と、 *イエスはもともと人だったのが、だんだん神格化して、ついには神と され、唯一性とのかねあいを調整する必要から三位一体説なるものが形 成されたのだ、と考える本来の私 とを区別して対応するのが難しくなっているのではないでしょうか。 536 :小さなヨハネ :02/01/04 21:19 ああ、ブルネルスさん、大変ありがとうございました。ここまで よくお付き合い下さいました。私の旅はまだまだ先が見えないの ですが、おかげさまで道程がはかどりました。 ひとつだけお聞きするのを忘れていたのですが、ブルネルスさんは クリスチャンなのですか?
165 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 22:43
ブルネルス氏が私に反論するなら分かります。なぜならブルネルス氏は論戦 の相手だったのですから。しかし、マリア氏は私と意見の相違はあるにして も、特段の利害関係(敵対関係?)、がある訳ではないのに、どうして「あ たしは許さない」と言って執拗に反対してくるのか理解に苦しみました。わ たしはそれまでにマリア氏を攻撃したことなどなかったのですから・・・。 何がそんなに気に食わないのか・・・?マリア氏と私は何の関係もないのに ・・・?私に反対する表向きの理由ではどうも理解できない・・・。 まるでストーカーに追われているように私は感じました。
>>155 あたしなんて、看護助手だったのに・・・。
ついでに
>>154 もね。本当にそこが問題なわけであるのだから。
169 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 22:59
(すみません、頭が混乱して来ました。もう、時間もないので、後は引用 も省略して、小ヨハ証言で書きます。) しかし、スレッド(その3)も後半になって、ようやくあることに思い当た りました。マリア氏は巫女のかたわら、地元で「ヘルパー」をしている。つ まり、「老人医療」です。本の著者氏も全く同様の研究をされていました。 ひょっとしてマリア氏はブルネルス氏かもしれないという考えが浮かんでき ました。どうも何か変だと思っていたが、そうか、マリア氏のヘルパーとか、 老人ホームで働いていたとはそのことか!と気づいたのです。ブルネルス氏 は自分の医療現場での実践的研究のことを巫女マリアのヘルパーにかこつけ て言っていたのだ!と。 ブルネルス氏と巫女マリアが同一人物なら、マリア氏の意味不明の執拗な反 論の動機が説明できます。ブルネルス氏は途中で私との論戦を降りられまし た。それは明白ではなかったにせよ、氏にとって不本意だったに相違ありま せん。当初は私の質問を歓迎していたのに、馬鹿な小ヨハネ相手などに御自 分から降りることになってしまったのですから。それがマリア氏の私に対す る異常なまでの敵愾心となったのだ、と私は思いました。そう、「動機」は 十分にあったのです。 (ブルネルスさん、違っていたらごめんなさい。これはあくまでも私の勝手 な推理・率直な感想として申し上げています。ああ、ですけど、ブルネル ス氏 に先を越されて言われてしまいました!)
170 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:05
そして、氏が論戦を回避したことが実はもう1度あったのです。1度目はすで に述べたとおり、論戦開始後でした。2度目はスレッド(その2)の後半でし た。「この連中には豚に真珠」というdendo氏の発言に、私は、1回目の 論戦の結末がdendo氏には何も分かっていなかったのかと、いささか驚 きました(失礼!)。 その後でブルネルス氏が「三位一体説は三つのペルソナを主張するだけでな く、一体であることをも主張します」などと言われるので、私はあれだけや り取りしたのに、まだそんなことをおっしゃるのかと思い、「主張するから と言って、それが正しいという理屈にはなりません」と申し上げました。 その趣旨は、主張していること自体は、主張内容が正しいという証拠には全く ならない、という論理学(?)の初歩的な問題です。例えば、泥棒が、私はや っていませんと主張しているからといって、その主張内容が正しいかは全く別 問題だということです。論理の混同も甚だしく、これが剃刀のように切り分け るという明晰な哲学者のおっしゃることかと、無知なヨハネは正直に申し上げ て呆れてしまいました(すみません!)。
>>169 老人医療ね・・・。
あたしは介護のみで医療分野はノータッチだけど・・・。
ヘルパーさん達が出来ないことを手伝っているって感じなのよね・・・。
なんか激しく誤解されているような・・・。
172 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:09
氏は白旗を挙げて降参されたはずなのに、しかも私は「ことあげ」(?) しなかったのに、そこまでおっしゃるならと、私はブルネルス氏の「壮大 な虚構の体系」の話しを蒸し返したのです。すると氏は「とんちき」云々 といささかご立腹になり、くだんの「賽の河原」発言となります。その後 で「名無し」さんの発言があり、氏は「やっとまともな理解が提示されて、 ほっとしています。ついでに受付を代わっていただけませんか」と言われ、 「名無し」氏にバトンタッチされたのです。実は、そんなにうまくバトンタ ッチできるかなと、私はその時不思議に思ったのも事実です(ごめんなさ い!)。
虚構のように見えて虚構ではないかもな(笑)。 さて、ここで問題です。 「わたしは誰でしょう?」
まあまあ、せっかくちいヨハホームズがいい気持ちで、謎の解き明かし(または 明らかなことを「解き明かす」と謎になる話かも)を語っているんだからさあ、 楽しみませんか。 マリアさんは私だということだそうですから。ぶ.=某教授がストーカー的に マリアの名のもとにちいヨハを攻撃した、 というところです。今のところは、ぶ.が引っ込んだら、代わりにマリアが出て きた、ということのようで。なんか、多重人格のでたりひっこんだりのようで。 ただ、もう少し解き明かしていただかないと、同一の推論にならないので、 ちいヨハさんには、ぜひ気持ちよく、最後まで語っていただきたい。 だから、ここは猫のんこは出てこないのよ。またこれで冒涜だ何だの話しになった ら、せっかくのお話の続きがどこかにとんじゃうじゃない > 小便娘どの この推論は、いずれマリアさんがぶ.よりずっと以前から、この世界では有名ハン で、ご活躍だったという、周知の事実をどう処理するか、という難問も含むわけで、 ホームズは苦労するでしょうね。見込み捜査は、はじめから、某哲学教授は、自分 の意見ではない意見をずっとながいこと言い続けてきた、というおかしな結論を 伴うものなので、ぶ.=某教授という推理と反するわけでね。そこをどう切り抜け るか。「ふふふ、明智君、やるねえ、僕の正体にここまで迫ったのは、君がはじ めてだよ」ということになりますかどうか。楽しみ、楽しみ
175 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/19 23:13
>>171 あらマリア姉にしては、めずらしく外したことをいう。
誤解されているような、じゃなくて「端的に」誤解してるの。この糞袋は。
それとも、すべてを肯定する惟神の道におはします巫女様には、
異し神を祀る糞袋といえども、やはり全否定するのはためらわれるのかな。
176 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/19 23:16
ぶーぶー。
>>174 というか……
>この推論は、いずれマリアさんがぶ.よりずっと以前から、この世界では有名ハン
> で、ご活躍だったという、周知の事実をどう処理するか、という難問も含むわけで、
# 過去ログ倉庫、いったことある?
だったとしたら、あんた、厨房の王よ。。
177 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:18
とにかく、ブルネルス氏とマリア氏が同一人物だと思うことによって、 これまで色々と不審に感じていたことに、脈絡がついてきました。たく さんありましたが順不同で書いてみましょう。 1.当方追及の激しさ。→上記の通り。 2.片田舎の神社の巫女が2chをすることのそもそもの動機。何か変。 →大学教授の遊び半分。人をからかってみる快感。人生相談による 人助け(?)。 3.そもそも、ヘルパーをしながらでは疲れてしまい、夜な夜なインタ ーネットをすることなど無理だろうと思われる。 →大学教授なら可能かもしれない。 4.昔ブリタニカを愛読された以外は本も読まない(それも変ですが!) というオカマ巫女氏がそんなに知識が豊富なはずがない。(しかも 現代の宗教知識以外にも、翻訳ソフトを使ったとは言いながら、海外 のHPまで読みこなしておられる!) それで長いこと2ちゃんねるで丁々発止とやって来られるわけがない。 またその自信のある発言態度。→大学の教授なら最もふさわしい。
伝承が正しいか、霊感が正しいか。 これを考えると霊感が正しいか否かは、 伝承によって見極めるというのが普通なのだけど、 そういう視点が一切認められないというのは、やっぱりおかしい。 悪いけど、やっぱり騙されたとしか言いようはないわね・・・。
179 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:22
5.そもそも、オカマの巫女という設定自体不自然で人を食った話。 大学教授ブルネルス氏の存在は現実味があり、疑いを入れない一方、 「巫女マリア」の存在はあまりに現実味に乏しく不自然で、創作の 疑いが濃い。 6.「置き屋に売られ」とか、「亭主は抗争で死に」など、いかにも それらしいステレオタイプの話であり、吉牛のコピーではないが、 「いまどき、はやん……だよ!!」である。しかも、色々なところ で、聞かれてもいないのに(!)「あたしはオカマの巫女」と繰り返す。 7.時々、マリア氏は哲学的(と言えるかどうか)な用語、たいしたもの ではないが、例えば「思惟」とか「欠片」(だったか?)とか、なんと なく本も読まないオカマ巫女氏には似つかわしくない言葉使いや言い 回しが見られる。 8.マリア氏が頭文字で医師の名を呼んでおられたが、何となく知己の間柄 という雰囲気で、田舎のヘルパーさんにしては変。→おそらくブルネルス 氏の大学医学部の先生のことかと思われる。
「金田一少年の事件簿」のようだな。 謎は全て解けた!! はずなんだが・・・。
181 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:29
9.「あたしも地元じゃ神様扱い」とのこと。巫女の御託宣(するとして) は地方によっては尊重されるかも知れないが、今時巫女自身が神様扱い される訳が無い。 →大学という狭い社会では教授の力というのは絶大で、神様のような ものなのであろう。 10.私が「同一人物ではないですか?」と指摘した際、「本人でしか語り 得ないような」本音が一瞬出ていた。 「なんか、学者風の言葉使いに疲れてきたところだったから、丁度よか った、ってこともあるのよね」→・・・そうなのですか。 「自慢させていただきたいけど、普段歩いてても、みんな女だと思い込 んでいるわ」 →「自慢じゃないが、2チャンネルではだれにも疑われなかったよ…。」 「ちいヨハがこれに同意してくれるなら、次の発言からは、マリアに 統一してもいいよ。ちいヨハ以外の人たち向けの区別のために『マ リア.』なんてのはどうかしら。」→・・・いいえ、私小ヨハネは 同意しません。 11.パウロが共通の好み。マリア氏は洗礼名をパウロにしようとしたら 反対された、ブルネルス氏はパウロが好きと公言されていた。「メル アド欄が気になるな」と指摘を受けていたメルアドにPAULの名が。
182 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/19 23:31
ちゃちゃいれのつもりだったんだけど。 もうここまで書かれちゃってるから、書いても困らないよね?>ぶ. >5.そもそも、オカマの巫女という設定自体不自然で人を食った話。 ……一応ちょと確認、と思って『現代思想』のバックナンバー引きぬいたら、 それはごばーくだったんだけど、足立先生の連載があってね。。 あたし結局、お顔を見たことがなかったの。ぶ.はこの辺のこと下手すると知らないだろうけど、 でもってそもそも制度ももしかしたら違うのかもしれないけど、 あたしたち、一年生の12月に研究室配属希望、提出すんのよね。 その数日前だった。学部の掲示板の前で、呆然と立ちすくんだよ。 数分くらいそこに凍りついてた。……帰りの電車のなかで、泣いたよ。 バルトやりたかったの。Roland Barthes。実際、四年生になる直前まで そのつもりでいたの。%だからドイツ語ほとんど出来なくて後で泣いたさ(藁 ……そのときはもう、哲学行こうって決めてたんだけど。 それでも、あの人がいなかったら、私はそこにはいなかったから。 永遠の記憶。
183 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:33
12.両者共に思考がループしている。非論理的(失礼!)。感覚的? 自分はクリスチャンでもないのに人にはカトリックでは、とか、福音の 精神を、などと押し付ける。自分はと問われると、クリスチャンではな いとか、三位一体論ではないとか、関係ないとか神道だとかユダヤの 伝承にしたがって生きるのみなどと言い逃れるパターンが共通している。 13.ともにスウェーデンボルグを読まずに批判だけは堂々となさる。 マリア・ワルトルタについても同様。 14.マリア氏は前からマリアを名乗っているが、ブルネルス氏がマリア氏 でないならマリアの名に拘る理由がない。→同一人物なら他人から言 われて自分の名を手放したくなどない。「マリア」を名乗っていたら、 「マリア」が駄目だと言われたので、それなら「マリア.」にしたとい うのが自然な解釈。猫がマリアかどうか、「.」が糞かどうかは御愛 敬。(これは前のスレッドの最後にも述べられていました。) 15.私が指摘した際、ブルネルス氏が「マリア.」として流暢に、心理的 抵抗もなく、いきなりおかま言葉を使い始めたのにはびっくり。 →これまでにもマリアとしてオカマ言葉で語っていたから。
>>177 かなり偏見があるわね。もう一度自分で読み返してご覧。
185 :
小さなヨハネの証言 :02/05/19 23:41
16.お二人がしばしば一緒に出てくる。私が先日再登場したとき、三者 (マリア.氏はブルネルス氏ではあるが)揃い踏みでお迎えいただき、 大変恐縮しました。 17.私がブルネルス氏はマリア氏だと言うと、マリア氏はブルネルス氏を しばしばかばう。ブルネルス氏はノーコメント。 →同一人物の場合の反応として典型的なパターンと思われる。 18.多神教の起源についての説明で、どうぞお先にとマリア氏に申上げる と、「私は現場の人間だからそちらのを先に」と、ここで「現場」と いう本の著者氏も使っておられた言葉がでてきた。 19.マリア氏が宗教おたくの知人から電話があり、スウェーデンボルグの ことを聞いたとあったが、それはブルネルス氏自身のことだろう。ブル ネルス氏が私の実名をほのめかしたことがありましたが、これはその時 に知ったのではとも考えた次第です。さっぱり分かりません。 (dendo氏にも言われたな…。ルール違反はやめましょう。) まあ、「想像力に乏しい」「美的感覚のない」私ですから、このくらいしか 思い付きませんでした。憶測で申上げました。失礼な点があればお詫びし ます。
>>小さなヨハネ いや〜、想像力は一杯あると思うよ(苦笑)。俺には想像もつかん(爆)。
それから、悪いけどあたしは幼児洗礼組だからね・・・。 11のことは、一体どこで言ってたかしら?記憶違いじゃない。 それに、いつあたしがパウロ好きなんて事を言ったかしら? 母の先祖達の間では、パウロは嫌われていたし、 あたしも今のキリスト教の独善的な体質には、 パウロの影響がかなりあると思ってるからね・・・。 この板では、あたしのパウロ嫌いは有名よ。
それに、本当に巫女というものに対する偏見や、 うちの地方に対する無知もかなりね。 また、あたしが高校卒業まで教会でどういう立場にいたか、 現在の集落に置いての立場は、全然考察に入ってないわね。 それも入れるべきよ。
189 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/19 23:53
それよりっ、 「ちぃヨハの本名をブルネルスが『ほのめかしている』」 かつ それは 「『宗教オタクの友人』からマリア%巫女 が電話でうんぬん」の後の書きこみである。 禿しく過去ログきぼんぬ!!
それから、事実と全く反する理解によって 書かれている箇所もパウロ以外にも多いのだけど、 これもまた読解力の不足という範疇で置いていいかしら?
>>185 これで終わり? ご苦労さまでした。たのしく読ませていただきました。
でも、やはり、自説に都合のいいところだけ証拠に数え、都合悪いところは、
相手が虚偽を言っているのだろうなどとして、無視する、という論法で、これな
らなんでも証明できそうです。たとえば、
くりかえすようですが、 ぶ.=某教授 の証明では、主張内容の一致を挙げ、
しかも、教授というものは自説にこだわるという観察を理由にしておきながら、
マリア=某教授 の証明では、両者の主張内容が一致してないことは無視する
という論法であるところが、リアリティを欠いていて、読者としては、おもし
ろみに欠けて、残念でした。
ただし、15.でマリア.の文体にお褒めのことばをいただき、うれしかった
です。今後もちょくちょく使ってみます。
192 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/19 23:59
>>188 ブリタニカにのってるかどうかしらないけど、
(それを確認したかった)
ネイティヴ・アメリカンのシャーマンには広範囲に異性装の習俗があって、
かつしばしばそのようなシャーマンは「社会的な性」と「生物学上の性」がねじれた
状態にある、というよりあった
# 正確にいうと、逆なんだが。そういう人は強力な呪力に恵まれ、
# ゆえにシャーマンをその職掌とすることが多い。
ある筈の資料が掘れないので制度の名前が思いだせないんだけどね。
だから「オカマで巫女」ってある意味すっとんきょうな話だけど、
私にはすごぉく説得力があったの。ある意味、TG/TS も巫覡も、
わたしのような通常世界に内属しているその他大勢からみたら、
周縁にいるわけじゃない?
でも奈良ならうちから近いのよね。。こそーり場所教えてもらったら
遊びにいくんだけど:-)
そういうの、だめ?
根拠としてまるで別のものをもってきてるが、結論としてはほぼ同じ。 ただそういうものであった、と思っているが(苦笑)。 どうしてああなるんだか。 ちなみに俺の三位一体論の根拠も全然違うところにある。 でも、言うの恥かしいから言わない(爆)。 たぶん、バカ扱いされる事必至。
194 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:04
>>191 うん、禿るほど萎えたよ私も。
これでおしまいみたいだし、せっかく誉めてもらったんだから
顔出しなよ>ねこふん
ところで、よっぽど、ブルネがマリアさんの自作自演で、それにリアリティを出すために
「ブルネの後輩でかつマリアさんに共感する神秘思想ちょと入りぎみ?の
哲学少女d.」を出してみる、のほうが話綺麗だと思うんだけど、どよ。>ALL
195 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:09
>>193 父なる神さん。。
それちょっとひどいな。つまり私とかぶ.とかが「何か」の三一論を
聞いたらバカ扱いする、っていってるのと同じじゃん。
そういうふうに思われていたのかと思うと、悲しいな。
(ちょと、いや、かなーり怒っていい場面だと思うので、感情を顕わにしてみるテスト)
>>195 じゃ、言ってみるぞ。
俺は見たんだもん。
197 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:13
素直にうらやましい。 で、何度?
198 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:17
ただ、それは「論」ではないな。「体験」だな。 なので、馬鹿にはせんけど「それ、論じゃないよね」と指摘する。 # でもって、あたしは観念論でこじあけようとして、たぶん「ちがぁぁぁう」という反応がかえってくるんだけど、 # ブルネご執心の某師なんかだと、剃刀で丁寧に切り離して、別の場所においておくと。
>>197 わりといっぱい。
きれーなごこーがさしてるよ。で、性別は「どれでもある」。
で、バッサバッサと翼はやしてる時もあるな。剣も持ってるし。
ヨハネの黙示録の冒頭にヨハネが「みちゃった・・・」って格好に割りと近い。
ちなみに剣が生えてるのは喉元ではなく、胸元。
邪魔だろうと思うでしょうが、出たり出したりは自在だから邪魔になりません。
実態そのものはエネルギー体だけど、そんな格好で普段はいるのだな。
>>198 そう「論」じゃない。だから、ここもROMってる。
あ、そうそう、悪魔も似たような格好はできるからね。 区別は難しいです、はっきり言って。
202 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:21
うん、で、ほうほうと聴きつつ 「そうやって書いちゃったものは、すでに『それ』じゃないんだよな」と 心中つぶやいていたりする。 何かが伺かではなく「何か」であるように、それはそれ。 はじめでありおわりであり、はじめなくおわりなきもの。
>>189 そう。「ほのめかした」のですよ。本人にしか分からないような仕方
でね。それでも本人がルール違反だと思うのなら、まずかったでしょうかね。
でも、電話は関係ないですよ。マリアさんに何が起こっても、私には影響しな
いんですから。だから、疑うならむしろ、りささんあたりとのつながりを疑う
ほうが、自然かもね(いや、疑う理由は全くないのですよ。「どうせ疑うなら」
という意味ね)。
>>192 奈良は半年だけ住んでた事があったの。今いる土地は内緒。
うちの伝承って、明治に入ってから当局の都合で止めになってるのよ。
かなり、神社本庁や右翼勢力にとっては、都合が悪いらしいのよね。
まぁ、後は考古学の力に任せるとする。
205 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:26
>>204 内緒なのね。でもまあ、2chだから、それはそれでいいか。
>うちの伝承って、明治に入ってから当局の都合で止めになってるのよ。
そういうところ、多いわね。お供えが勝手に鯛にされちゃったりとかね。
紙に本来供えるべきものを字で書いて供える、なんてところもあるけど、
鯛より後のほうがまだましなのよね。ともかくも伝承に残るわけだから。
でも、消し去る事もできないんだよな、これが。 なぜならば、それをすると天御中主神の怒りに触れるからであるから。
207 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 00:31
>うちの伝承って、明治に入ってから当局の都合で止めになってるのよ。 天津教の竹内巨麿みたいなひと?
では、ちょっとだけよ。> dendo.ちゃん。 私だって、今日はホテルからなんだからさ、書き込もうと思って電話線をつなげ ると、話がまた進んでいて、追いつくのが大変。チェックアウトのとき、電話代 をいくらとられるか、もう、やんなっちゃう。 ちいヨハもがんばったわねえ。でも、いいこと。私はあんたがぶ.とマリアさん とを同一人物だといいはり始めたことに反発して出てきたのよ。 ぶ.の中の猫糞を呼び出したのは、ちいヨハだということは、忘れないでね。 じゃあね、楽しかったわ。
209 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 00:32
>>203 師匠いぢわる……。(こっそり教えてくださいませませ、とは
こちら側からは口が裂けてもいえん。プライドというものがある、
と虚勢を張ってみるテスト)
でも……ええと、その話だと、その3、の後半のどこかなのね。
もちろん勝手に決めるのはまずいんだけど、でもとりあえず
どこから始めるかは決めないといけないわけで。それとも予断を
まじえないように、「電話」の後から全ログ読むべきなのかしら。
……「ブルネルス」と「マリア」が同一なんだとしたら、けっこう
膨大なログ読まなきゃいけないわね。ちいヨハは「ブルネルス」の
名でブルネルスがほのめしているとは、いっていないわけで。
その前に過去ログ入手か。
だれもわけてくれないようなので、2ちゃんねるViewer、買おうかしら。
でも本人にしか分からないような仕方、というんだから
ログを読んだだけじゃだめなのね、きっと。とはいえ「ほのめかし」は
言葉でしか行えないわけで。。
名詞に注目して読みすすんでいけばいいのかな。ううむ。
>>192 インドや東南アジアやシベリア辺りにも、
そういう人がいるそうな・・・。うちもその名残みたい。
でも、こういう巫女が現れる時は時代の変わり目とも信じられてるわ。
あたしとしては、言いたいけどやめておく。
年寄り達が、また変な動き見せると大変だからね・・・。
>>207 昔からのやつよ。
昔から隠れ里だったから公表してなかったのだけど、
どこから突き止めてきたのか、
土地と伝承書物や神宝は没収されて神社は閉鎖されてたのよ。
神仏分離と重ね合わせてね。
で、別の場所で別の祭神を勧請して、再開を許されたのよ。
いまだにあたし達は、現在の隠れキリシタンよ。
しかしま〜、やっぱり本気にはしないよねぇ(苦笑)。 だって、普通は、イエス、もしくはマリア。あるいは天使の誰かさん、一番偉くてミカエル。 会える限界は普通ここまで(爆)。 っていうことで、俺はやはり今日も「何か」なのだな♪
多神教の起源はやはり神の様々な属性を呼ぶ名称が多数の神になったという ことです。聖母のことまで行きたかったのですが、力不足でした。マリア・ ワルトルタをもっとお薦めしたかった。何年か後にまたお会いできればと思 います。私はスウェーデンボルグに基礎を置いていますが、それだけとは言 えません。スウェーデンボルグはあくまでも富士山の5合目までではないか と考えています。スウェーデンボルグでなければならないとも思いません。 主から与えられた非常に有効な手段の一つと思うのです。また、私は研究者 でもありません。魂の実際の救いを求めて来ただけです。ですから、語学も 出来ませんし、私の誤解していることもたくさんあると思います。どうかご 容赦下さい。 それから、ふらんちぇすこ氏やdendo氏から、私が虚偽の信仰告白をして いるというご指摘を受けましたが、すでに述べた通り、「重層的三位一体論」 としてそれを認識しており、決して虚偽を告白しているのではありません。 そのご指摘は誤解です。「並列的三位一体論」はそれが正しいのではなく、 あえて許されているのです。「天動説」と「地動説」のようなものです。 地動説が正しいのですが、私達の感覚ではそれを捉えることはできないので、 「陽が昇る」「陽が沈む」という表現が許されているのです。しかし、地動説 が正しいことは事実でしょう。これからそういう認識がされるようになるで しょう。なぜなら主は父であったという方がいいではないですか?その方が どんなに素晴らしいでしょう。 ブルネルスさん、ローマ書を開いていたら ご存じとは思いますが、 「実に、神は唯一だからです。」(ローマ書3・30) 「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」 (ローマ書9・5) という言葉がありました。ブルネルスさんはパウロは主を神と思っていなか ったと言われます。パウロの本物の手紙類は何ですかとお聞きした時、ローマ 書もその中に含まれていたように思います。まあ、これを否定する理屈もお 持ちなのでしょうけれど・・・。
心残りなのは、「T氏の落書き」氏が「聖絶」についてスウェーデンボルグは どう考えているかと聞かれた時、とっさに何のことか分からなかったことで す。T氏の疑問はもっともなことです。スウェーデンボルグは「外観の法則」 「感覚の迷妄」という素晴らしい驚くべき回答を与えています。それは、モー セの離婚の律法の話のように、愛なる神が命じたのでは決してなく、人間が つれないから人間感覚に合わせてそう書かれているのだということです。 そしてそれらはまた同時にすべて人間の再生を表す表象的な表現にもなって いると思われます。こちらも勉強不足のため、お力になれずに申し訳ありま せんでした。 それから、妻が、「認めて欲しかった」と言ったのは、私を認めて欲しいと いうのではなく、もし私の指摘(ブルネルス氏=マリア氏)が正しいならその ことを認めて欲しかったという意味だそうです。私もその意味を実は誤解し ていました。私が2ちゃんねるで日夜翻弄されている(もちろん好きでやっ ているのですからそれは私の責任です)のを見るに見かねてスレッドを覗い てみての彼女の感想でした。彼女も最初はマリア氏は苦労した立派な人だと 思っていたのだそうですが、やはり何か少し変だと思うようになったのだそ うです。「仲間」とは私のことだそうです。日本語として少し変でしたが・ ・・。
ブルネルス氏、マリア氏、勝手なことばかりいいました。ごめんなさい。 ですけど、主を愛すなら、聖母も大切です。ふらんちぇすこ氏、お世話に なりました。しかし、やはり同性愛は感心しません。もし御自分のお子さん がそうなったらどう思われますか?りさ氏、お世話になりました。あなたの 「役者根性」(!)にはびっくり。りさのままで頑張ってくれる方が・・・。 小便娘氏、ご参考:「主のこれらの明白な宣言は、父なる神は聖霊を人間に 遣わし給うと想像するキリスト教界の誤りを明らかに示し、また父なる神は 直接に聖霊を遣わし給うと想像するギリシャ教会の誤りを明らかにしている。」 (真の基督教153) 皆さん、長い間お世話になりました。またいつかお会いしたいと存じます。 それでは。主の平和が皆さんとともに! 小さなヨハネ
おお、ver3.05 ◆ver3llyM 氏を忘れていた。お世話になりました! ワトソン:ホームズ、ver3.05 氏とは誰なんだ? ホームズ:ふらんちぇすこ氏の同意がなければ言えないな。
217 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 01:15
いや、トマスはそれに比べたら彼の全著述も藁屑に等しく思われるといふ 「何か」を見たらしいし(トマス師匠、教えてくれないの。ぶー) キリスト教徒じゃないけどプロティノスは神を四回見たと伝記にある。 ……しかし、そう多いと、逆に「ほんとかよ。悪魔勘定にいれてんじゃねーのか?」 と、つっこみたくなっちゃうね:) スマソ、素直に信じなくって。 あとイエスは神なので普通はといわれてももにょる。とかいうてみるテスト。
>>216 ういうい。また、おいで〜〜。
>>217 うん。だから、まず信じない、といったのだな。
予想してた反応です。
俺が会える、っていうか、会えた理由はね、ヒ・ミ・ツ・♪
時が至れば、わかる時もあるかも。
と、いってみるテスト。
ヨハネ氏に於いては、すっかり、無視された感のある、悲しい私。 別にいいけど。因みにブルネルス氏のとんちき発言は私に向けられた ものと思うんだけど・・・それと、三位一体論は予定説とは関連性薄 と思われ。 あと、とんちき発言に関して、 「神を知る認識と、我々自身を知る認識とは、互いに結び合ったものであって、 分割する事は出来ない。」 カルヴァン ;「キリスト教綱要」第1篇第1章第1部 だったからなんです。
219 :Kirklad ◆rs2OUULQ さん ・・・ああ、ごめんなさい!!実は、迷ったのです。あなたが実在かどうか。 でも、実在の方でよかった。嬉しい。本当にすみません。 そうです。とんちき発言はそのとおりです。あれからまたひともんちゃく だったのです。カルビンは最後は洞窟に去ったとスウェーデンボルグには ありました。やはり主の愛は予定説を越えて万人に注がれているように 思います。スウェーデンボルグはやはり関連性ありとしています。 それでは、本当にお世話になりました。 小さなヨハネ
221 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 07:27
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄
__ ( ・∀・) _ <
>>1 、オレのモノを見ろ!
⊂L/(ニ ニ)\l⊃\____
( | | )
)_/ っ |_(
(_)(_)
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
・現在、ROMも含めた本スレッドの読者数を、前スレッドでカウントしています。
ご協力ください。
・コテハンの方は、できればコテハンを入れてください(なしでも構いませんが)
・第二ハンドル(ブルネルスの「マリア.」etc.)はカウントしません。
実数調査です。
・「スレ読者」の定義はみなさまにお任せします。
・sageのやり方: E-mail: 欄に sage (US-ASCII: いわゆる半角)と
書きいれます(新規書きこみによるスレッド順位浮上が抑制される)
点呼先は
>>1 参照。
りさは、ルターでも、カルヴァンでも、お馬鹿さんもおりこうさんも、 できるだけ皆さんに天国に行っていてほしいんですよね。 へぇ、すごいな、って思っていた人でも地獄だって言われたら、 りさなんか、どうしたらいいの?って思っちゃったりしてね。
小さなヨハネ様へ
「はなむけのことば」
しかしね、りさはまた、てっきり
>>41 、
>>141 は、○葉○四○さんかと…。
だって…。
その線で推論を展開してしまうところでした。
本当に奥さんだったんですねぇ。いい奥さんですねぇ。
いい奥さんじゃないですか。文句ないじゃないですか。
自分は宗教嫌いなのに、宗教にトチ狂ったどうしようもない旦那さんを
「仲間」呼ばわりしてくれるなんて。「人間的にはいい人」なんてね。
うちの旦那さんもいい人だけど、「認めてほしい」なんて、
他の宗教に狂われたら、妻としてそう言えるかしら? 感謝してね。では。
233 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 17:26
>>212 ,
>>217-218 たぶん「何か」氏はわかってくれてるんだろうけど、読者のために書く。
おそらく dendo. は氏の言説を全否定しているわけではない。
だから「馬鹿に」もしていない。
全肯定もしていないけれど。
……全肯定しえないのは、「それ」が形象を持つということ自体が
dendo. にとっては矛盾であり、懐疑であると同時に、「それ」の形象は
「何か」にとっての形象であり他にとってもそうではありえないのでは
ないか、という問いを dendo. が保つから。
いわゆる至福直観、知的直観というべきか、は根源的な認識であり、
ゆえに人間にとっては絶対的な空虚としてまず臨む。
その限りにおいて、「神には沈黙が相応しい」というブルネルスの言葉に
むしろ dendo.は同意する。
だが、ブルネルスと dendo.のおそらくは決定的な差異は、dendo.にとって
神の絶対的な沈黙は、同時に有限なものにおける限りでの神の絶対的な饒舌でもある
ということだろう。もちろん、それが饒舌に聴こえるのは、
神の言が語り出すことどもが、人間の限られた認識能力を打ちのめすからであって、
神の言は尽きることをしらず、しかし無駄口を叩いたりはしないのではあろうけど。
そうして、論理において神を語るという最初から挫折を運命づけられている
試みにあえて挑む dendo. にとっては、「何か」が語るそれの形象もまた、
dendo. が論理によって捉えることではじめて何らかを言いうるものになり、
また dendo. 自身が知る限りの神のかたちは別のありようを取るからだ。
だから、dendo.の返事はこうならざるをえない。親愛と尊敬と、しかし懐疑を
こめた返事。
「ほうほう。……でも、ごめんね。素直に信じなくって」
えーとね、信じなくていいわけ(爆)。 だってね、確かに、以下のように言い得る。 1. ただの妄想。 2. 実は化けていた悪魔(?)に遭遇。 3. 天主ではなくて、眷属の「何か」。 4. 完全なネタ。 で、最後に、 5. 本物だった・・・。 と、なるわけだ。単純に割っても、確率五分の一。 そんで、実際は、4. > 1. > 2. > 3. > 5. で、「可能性」が低くなっていく。 正直、5.の可能性は、1パーセントよりも小さいでしょうな(苦笑)。 0の下に、0が幾つつくか、って世界。 どっちにしても懐疑的に受け取るのが健全です。 信じなくてもいいぞ>読者
235 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 18:29
>>234 >信じなくてもいいぞ>読者
という言葉を、礼儀として本心から出たものとして受けとめ、
それゆえに「何か」のいうことに読者は耳を傾ける。
「何かにとってそれが『何か』である」、それ以上の主張はそこになく、
その真偽は何かだけが知りうるところだから。
そうして「何か」は、それを他人には強要せず、信じてもらえない可能性に
耐えることができるから。
……それをして、むしろ私は健全であると呼ぶ。
236 :
ご挨拶 2 :02/05/20 18:36
夫の仕事場に妻がのこのこ顔を出す。お笑い種をもう一度してしまいます。 りささん。小さなヨハネも自作自演をしていると思われていたんですね。いいえ。あの通り 糞(失礼)がつくくらい真面目なんです。りささんが「どなた?」とたずねていらしたのは 承知していたのですが、度々出る訳にもいかず失礼しました。 りささんにも、大変お世話になりました。 小さなヨハネの友人として出たばっかりに、一緒に槍玉にされ、お辛かっただろうと、思って います。申し訳ありませんでした。そして有り難うございました。 dendoさん。 なんてお言葉をかけてよいのかわかりませんが、今度は御自分のお体に気を付けて下さいね。 私もちょっと医療の方に従事しておりますが、なるべく向マークは。。。。 はーやく元気にな〜〜れ 有り難うございました。
と、いうか本当に信じなくてもいいんだけどな〜。 立証できない事は信じなくてもよろしい。 「デンパ一つ受信しました」 こんな程度でいいのよ。
238 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 19:41
実わ。 私も、世界の能産性……とでもいいましょうか、 うん「何か」をときどき「どんっ」って感じる人なので :-) 天と地をつなぐ光の梯子というか、流れ込む生命というか。 と名付けると実は嘘になる。まさに「なにか」。 ……でも、たんに身体が元気で性欲ありあまって興奮してるだけかもしらんので、 神秘体験とはよう主張せん。またそれだけだと、他人と共有できないから、 意味ないんだよね。今のわたしには。 でも昔星占いしやってて、すげえ当たるんで評判よかったの:-) ハーモニクスとサビアンにタロット図像学併用してね。 まあ、どれも一定のイメージ体系としてある種マニュアル化されてるんだけど、なんかが「どんっ」って 来ることあるんだよね。複数のイメージを反芻してるところへ、さ。 形もなにもないんだけど、それ。うねりというか流れというか。 ……そうすると、当たるんだ、これが。 # もっとも結局は「当たる」って相手がいってほしいことを探りあててる # だけなんだけどね。ある意味。 自分のことは基本的に占ったことないし、 ましていまはキリスト教に帰依しているから、占いはやめているけど。 もちろん世の中、なんちゃって神秘体験やたんなるネタや、何様感を 味わってみたいだけの厨房のほうが多いんだけど、本当に向こうを見てる 人もいるんですわな。で、「何か」やマリアさんとあったことのない「私」は、 いまのところにやにやしつつ判断停止、と。
>>233 モーセがシナイ山に登って、入って行ったのは
「明るい闇」
であった、ということでしょうかな。いや、まことにギリシア教父的神秘です
なあ。
霊界に行ったら、だれそれが何をしゃべっていて、・・・といった境地とは
全く別世界で。饒舌さが色褪せます。
私も明るい闇の中で、沈黙すべきなのでしょうが。
(でもね。 神の饒舌を饒舌としてでなく聴くことが究極の幸せだということを知りながら、 隣にいる誰かに訥々とでも語り、またその応えを聴くことをむしろ喜ぶ。 ……それを選んだゆえに、われわれはここにいるのではないですか? 神と語る幸福に、われわれが値しないとしても、 私が語る言葉に誘われて、その幸福へ向かう誰かがいる。 ……そのことですでに十分私は報われているのだから) # ってすげえ偉そうね :-) # でも質問箱とかで、「元気でました。ありがとうね」っていわれると # すごぉく幸せなの。自己満足?
あー。ようやくいなくなったのかな?糞袋どもは。
彼ら、いいとこまで辿りついたのに、ちょいとつめが甘いよね(ぼそ)
脳までんこ……
ま、でも、畏姉猫糞マリア.
>>208 が「よくがんばった」って褒めてらっしゃるのに
わたしが余計なこというのも、不粋よね。やめとく。
さて、前スレ948
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1018880007/948 で
948 :ブルネルス :02/05/17 23:50
> dendo.ちゃん、もうぶ のことはしっかり掌握ね。今後はぶの発言も代わりに書き込
> んでくれるといいのだが。
と御下命あり、いちどは断わった dendo.ですが、「今回の真相」を閣下になりかわって覚書に纏めたよし。すでに閣下の御高覧には入れましたが、
マリア姉、公開してもよろしくって?それともマリア姉も一度御覧になりますか?
捨てメールアドレス取ってくださったら、そちらに一度送りますけど。
そうでなければ「観察小屋」でいきなし upするってさ>dendo.
242 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/20 21:01
ヨハネさんの奥さん! レスいただいて感激です。 ○葉○四○さんって、○○○○○部と同一人物なんですか? 私はまた、別の人かと…。というか、その手の親友がおありのはずなんですが。 ていうか、ご存知…な…いのかな? あれ、喋っちゃってまずいことは言ってないはずだけど。 >小さなヨハネの友人として出たばっかりに、一緒に槍玉にされ、 楽しみました。 奥さん、りさは、とても分かります。 りさも若い頃同じことをしました。 時期が来れば解決しますので、もう少しだけ我慢してください。 あのぅ、ご挨拶にハマラナイ程度にしてください。 せっかくご家庭の平和を手に入れられたので。 いや、レスは結構です。 では、祝福をお祈りいたします。 奥さん、主イエスは、奥さんと皆さんをとても大事に思っておられますので、ご心配なく。
244 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 21:58
>>219 >因みにブルネルス氏のとんちき発言は私に向けられた
> ものと思うんだけど・・・;
スレッド(その2)の「おいおい誰がそんなとんちきなことを……」だっけ?
ログを見るのも、結構めんどいので記憶に頼って書く(譲渡できないんだ。すまんな。
dendo.も登録したら?色々他にもおもしろいぞ)
俺はあれ、小さなヨハネに向けられたんだと思って読んだんだが……
どうなんだ、そこんとこ>ブルネルス
>>244 誰に向かってとんちき呼ばわりしたのかといわれても、覚えてません。
いったい、どういう文脈だったのでしょうか?
過去ログ?読めません。html化はしているのですか?
たぶん、私が言ったことについての誤った解釈について、その解釈内容をそう
呼んだように思うのですが。ですから、その場合、とんちき発言の対象は、
私自身の発言であり、とんちきという評価は、それについての誰かの解釈につ
いてなされていると思うのです。以上はあくまでも推測であり、私が「とんち
き」という場合にどういう文脈だと言いそうかということについての自己理解
に基づくものでしかありません。あしからず。
もう少し、発言全体を教えてくださると、思い出すかもしれない。
ニュッサのグレゴリオスの三一性理解かなんかで、その解釈についての 合意が取れた……はずだったんだけど重層だか並列だかなんだかいいだして、 そんでブルネが「俺の歌を聴け」もぉどに入ったんだと記憶。 私のファン(藁が板に粘着してる%dendo侯国とか名乗ってる # 私の常駐スレには来ない。そのくらいの狡猾さはあるようだ。 上に、エホ証らしい(これがらみの粘着の可能性あり、外してたらすんまそ>現役様) 裁判と、例のWM裁判事件……というわけで、今、宗教板に複数の荒らしが粘着してる。 他にシャーベルがらみでもいるかもしれない。 たぶん一番大規模なのはWMだろうが。 というわけで今夜もsage推奨! どう荒らしているかは、書かないけれどね。
ああそうか、思いだした。 ぶ「三位一体というのはほげほげですよね」 ちいヨハ「ぶ.さんは『三位一体はもげもげ』といいました」 ぶ「誰がそんなとんちきなこと言ったんだゴラァ!」 ……というわけで、「ちぃヨハが解釈した限りでの(間違った)ぶ.の三一性理解」が 「とんちき」の主語ですな。御記憶通りと思はれ。 # 個人的には「とんちき」は穏当すぎる表現と思はれ。 # ……つうか私なら「楽しいこと云ってんじゃねーよ、ぢぢぃ」と心の中で # 呟く場面である。もちろん、にっこり笑って「貴重な御指摘、ありがとうございます」 # っていうんだけどさ。
249 :
名無しさん@1周年 :02/05/20 23:06
sageるんだったな……
>>246 >過去ログ?読めません。html化はしているのですか?
datファイル専用ローダ(ユーザ登録が必要)を使うと、
http://foo.2ch.net/bar/dat/ 以下に直接アクセスして、datファイルを表示させることができる。
ただし課金制。
# subback.html に表示されるスレッドも
# 実際はすべてこのディレクトリにdat形式で格納されていて、
# http ファイルへのアクセス要求ごとに read.cgi が dat ファイルを
# html に展開した上で httpd へ渡している……はず。
datディレクトリのファイル数がある程度になる or
datディレクトリ格納ファイルの html 化申請が受理されると
過去ログ倉庫(
http://foo.2ch.net/bar/kako/ )へ html化されて
収められる。宗教板はそれほどファイル数も多くなく、
申請待ち行列の最後から数えたほうが早いから、html化は当分先に
なるだろうね。
>>251 うん。しばしばその案内がでている画面にはいく。でもめんどい。
253 :
ジョンロック :02/05/20 23:38
いつまで不毛なことやってんだ、未開人たちよ。ワラ
>>239 うん、あれはわかりやすいけど。
どこにもなく、どこにでもあるのよ。
せんせのなかにも、一見生命のない、道端の小石の中にも。
だってその饒舌こそが、「あらゆる」現実存在を「ここ」に「おく」んだもん
(たぶん。まだ事態を精確に云い当てていない。奥歯に物が挟まったような云い方ですんまそ)
だから、いつも、マジレスするとき、誰かはいうでしょ。
神は端的な肯定だ――って。
まあ、そうだ(笑)。 ってことで俺もここにいるわけ。
256 :
ジョンロック :02/05/21 02:31
ネカマリア くそともしらずに おのれをば たかきにおきて はじさらし それにもきづかず はじかさね ついにみなより みはなされ いなおりてかく にちゃんねる ああ、あわれなり あわれなり ジョンロック
257 :
名無しさん@1周年 :02/05/21 04:59
>「神を知る認識と、我々自身を知る認識とは、互いに結び合ったものであって、
> 分割する事は出来ない。」
> カルヴァン ;「キリスト教綱要」第1篇第1章第1部
……べつにそれで何か問題があるんでしょうか?
N−Kから出てきうる帰結のひとつだと思うんだけど。
もちろん、そこでいう認識の対象が「わたし」ではなく「われわれ」、それもたんに
経験的認識の対象である「我々」ではなく、かつてあり、いまおり、
さらにこれから来るべきすべての人間を包括し、かつ理念において知られうる
「我々(=人)自身」だから、なんだけど。
そういえば後期フィヒテには das Wir っていう表現があったような。1803年のWL講義だったかな。
めんどくさいので、確認しませんが。
というわけで
>>219 で想定されていた(≒外れていた)「とんちき」発言って
どんなの? 教えて教えて :-)
う、あげてしまった。スマソ。謝るだけだと芸がないので、 ちと余談など。 別スレでパンの耳話書いたら札幌行きたくなっちゃったよ。 # 実は二月に行ってきたばっかり。函館でニコライ祭に参祷したついでで、 # 札幌にもいったのだ(で、その途中でニコライ堂に、行きそこねて、神田からアクセスするわけね) HOKUYOはこっちにも店出してるけどボストンベイクは札幌ローカルだからなあ。。 でもって、ボストンベイクのほうがどっちかつーと好みだったりするんだが 北18条の変貌には腰抜かしたっす。私に無断であんなに変わっちゃうなんてひどい(ぉ ……スレ違いにつき、sage。(まちBBS向けか?)
>>257 直接的には結びつかないんですが、私の思考の座というものを示した
言葉なんです。この言葉に問題がない?と云う判断には、私自身、留
保したいと思いますが、その能力不足故。
「我々自身」というのは認識についていわれている以上存在者一般ではなく われわれ人間自身、だと解してよい(と勝手に決める)。 孤立した個別的(経験的)自我でないことは「我々」ということからわかる。 個別的自我の総体か、というと、たぶんそうではなくて、本質(があれば だけど)、まあこのころはまだ超越論的自我という概念はないわけだけど、 だから種概念としての人間なのかもしれないけど、人間一般についての 認識であり、かつ人格性を捨象した空虚な概念ではない、一人称の 「我々」。 で、これある意味不遜だけど、人たるのイエス・キリストは「われわれ」の うちに入るんでない?で、たぶん神を尋ねる探究は、そこからはじまる。 それが神の認識とまったく等しいかどうかは、私はちと確言しかねるけれど、 子と他の位格は同本質である限りにおいて、神にして人であるイエスを認識する ことが可能ならば、「神を認識している」とそれはほぼ同義でありうるよね。 まあ、完全に同じかというと、西方は filioque とかからまるから、 ちとむづかしいかもしらんけど。私の立場なら、「ええんでない」と 逆にいえる :-)
私が、実存してないと云う事は、別の誰かの第二の発言と思われたの だろうか?誰を想定したのだろう? まあ、どうでも好いけど。 私がとんきちだったのは、そういわれても当然だった。ちょっと、冒 険したから。教義との間で(今でも)揺れ動く自分を指摘していただ いた貴重な言葉です。そして、その事については、尚、検討中。
マルコに於いては、「人の子」イエスは我々と同じ地上に居ります。 我々かどうかは知らんけど。
いや、たぶんね…… 彼を支持する発言をする人は、個として実在しているの。 だから別の誰かと同定する必要はない。 そうして、支持しない人たちは、なるべくひとまとまりに 勘定したいのね。だからいろいろと考えてみる。 だから、ブルネルスがマリアなんだとしたら、マリアと親しい 「何か」は、ブルネルスと親しい別の誰かのアヴァターラなの じゃなくって……邪推ですけどね。 そういえば昔、ブルネルスとマリアとdendo.が三者合一し 残った「誰か」は無原罪・共贖罪、という話もあったわね。 でも、これだと「何か」が逆に取り残されて、ちと申しわけないかも。 そうね、もし教会の小僧が誰かの影だとしたら、ところかまわず 放尿する小娘と同定されたのかしれないわね(笑)……バーンズの詩にもあるじゃない? "Ev'ry Lassie has her laddie, Nane, they say, have I, Yet all the lads they smile on me, When comin' thro' the rye." 「とんちき」の件、結果的には誤解だったのね。けど、「幸せな誤解」よね。 ブルネルスはちいヨハには悪辣で意地悪な教授だったかもしれないけど Kirklad さんには「ヴァラ神父」になった。……だからこの世は面白い。 そして、2ch、も。
ちいヨハさんの
>>213 を見ていて思うけど、
多神教に対する誤解も激しいわね。
まぁ、末を知ったから全てを知った気でいるのでしょうね・・・。
マリア・ワルトルタは、なぜカトリックで公認されなかったか。
これもきちんと調べればいいのに、自分さえ良ければこのは真理で、
皆はこれを認めるべきというところがあるのよね。
でも、多分こういう病気なんでしょうね。
265 :
名無しさん@1周年 :02/05/21 12:24
禿げるほど同意。 とりあえずホメロスとギルガメシュ叙事詩とヴァガヴァット・ギーターと、 ……山海経はちょっとむづかしいから今回はいいや、 せめて日本人なんだから古事記くらいは読んで、出なおしてきなさいな、 # 訳本でいいからさ、ってか私も訳本でしかしらない(ぉぃ って末や聖書であれだからな。。。 # 彼、「マムレの樫の木の下」の冗談がわからなかったほうに、1カノッサ。 私的啓示って深入りしないようにしてるんであまりしらないんだけど どうして公認されなかったの?ってもちろんカト的じゃないからなんだろうけど。 # 引用されている限りでは、なんかずいぶん聖伝と趣きが違う感じは、した。
>>265 私的啓示や預言の類は、
取り扱いに気をつけなければいけないのよ。
彼女の啓示が公認されなかったのは、
聖伝承との不一致があったからという話を聞いたことがあるわ。
あたしもそのような類のものを、読む機会がなかったからね・・・。
でも、裏話ってところが、また怪しいのよね。
確かに私的啓示は取り扱いに気をつけなければいけない(爆)。 ま、俺は公認は求めたりはしないけどな〜。 デムパの戯言。 それで良し。
公認された預言や啓示も含めて、 それによって神を知ったと思い込んだり、人を裁いてはならない。 そういうことなのよね。
269 :
名無しさん@1周年 :02/05/21 12:46
しったかでいうのもあれだけど、私的啓示で「裏話」ってあんまり聴いたことないんだけど…… ラサレットにしてもファティマにしても予言でしょ? ルルドはたんに「無原罪の御宿りです」(正教、たぶん認めてないだろな)だし、 でもって正教の御出現(庇護)は、特にメッセージがないもののほうが ほとんどだし(というか、「私的」ではないもんなあ) ともかく、ちぃヨハの推理と御高説、いろいろつっこみどころが多いんだけど、 ただでさえ時間がないのに、例の「ほのめかし」を探すので忙しく、ここにいちいち書いてる暇がないのが残念。 ……ぶ.がにやにや笑ってこの書きこみを見てるんだろうと思うとすごぉく、くやしい。 いいもん、テキストだけから「答え」に辿りついてみせるもん。 やぱーし文責屋さんのT先生に哲学の手ほどき受けたのは伊達じゃないつーのを 見せてさしあげますから、せいぜい小娘が右往左往するのをお笑いになってればよろしくてよ。 ふん。
>>268 そう。
で、特に言えるのは、人を裁いてはならない。
余談だが、上から見ると下は筒抜けらしい。
これだけはいいたい。いわなければ石が叫ぶ!
>>213 >なぜなら主は父であったという方がいいではないですか?
別 に
>その方がどんなに素晴らしいでしょう。
汚 な い 手 で 神 に 触 る な、 変 態
父と子と聖神、
一にして三、三にして一、一体にして分かれざる至聖三者まんせー(ぉ
272 :
名無しさん@1周年 :02/05/21 12:57
……末ちゃんの神がそうであるというだけなら、だーれもちぃヨハに 文句つけたりしないんだけどね。ちぃよは、きっと一生それ分からないん だろうなあ(溜息)
何故主が父であったほうがいいのかが分からない。 それは何故なのかしら?なんて思ってしまうけど、 自分の中ではその方がいいから、 聖伝承でどうであろうが、それが正しいという理論なんでしょうね。 まさに自分=神理論になってしまうのだけど、 本人はそれには気付けば、敗者となってしまうのだものね・・・。
主は・・・、とても綺麗だよ。っていうかラブリーかも(爆)。 で、そのオーラは輝かしい黄金の光のオーラ。
275 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/21 13:11
それさ。その、そこで「勝ち負け」ってのがさらに謎なのよね…… あたしには。 ぶ.の字はあーゆー人だから気にもとめてないだろうけど、 自分がそういうわけわからんことにこだわってる、って他人から思われるって 想像しただけですごぉく嫌。 # なので友人がそういう人だと思われるのも、やっぱり嫌。 間違ったこといってるの人から指摘されて「うっ」とつまるってのは そりゃああるけどね(涙)。「すんません、今のはなし」でいいぢゃん(ぉ ……費した時間を考えると途方にくれるということはあるけどね。 # 数学の学会発表って、質疑時間というのがなくて、発表中にばしばし # つっこみ来るんだって。で、下手すると # フロアの人「その証明なりたってませんよね」 # 発表者「……あ、なりたってませんね。ごめんなさい」 # 司会者「ありがとうございました。では次の方〜」 # とかなる。そういう人が数人いると、早く帰れるのでそれはそれでよい(まぢかい) # とは、とある友人の弁。
276 :
名無しさん@1周年 :02/05/21 13:20
金の光か。エゼキエル書1章を思いだすな。トパーズ色の輪。
エゼキエル書では水の音もついてくるらしいけど、そこんとこ、どよ。
>>274 あ、自分が萎えてた理由、いまようやくわかった。
「自分が好きだからこうに違いない」
……そんな理由が世の中でまかり通るなら、
あたしゃとっくにD論書きあげとるわいっ!!
ってのはともかく、「失恋」ってないし、
だいいちそれ、論証じゃないやん(涙)……ぶ.かわいそすg……いやっ、そゆこというと
甘やかしちゃうから、撤回しり。消し消し。
……だから、やっぱり、サベリウス「主義」者てのは、さべちゃんに禿しく失礼ね、きっと。。
新しい名称、考えなきゃ。偽さべ者?
>>276 音はどうだったかねぇ?
ただ、主は、子供であり大人であり、男であり女である。
しかしぃ〜、やっぱりある種の偏りはあるな。男女どっちに近いかって言う。
男性陣は、というかちいヨハは残念かも知れぬが、
俺が見たのはどっちかといえば女神様だったような・・・。
ただ、この地の祖であるものは、男以外の何物でもなし。
だから、父なる神、だわな。
ヾ(^▽^*おわはははっ!!
278 :
名無しさん@1周年 :02/05/21 14:11
板概況: WM対2ch投稿者(for心と宗教板)裁判により祭状態。当分続くと思はれ。 # てか提訴でこれかい。。はぁ。。。。。。 ニュー速板等から非板住民来襲、さらに激化。 なお中学高校の中間考査期間にあたるためか、昼よりスレ立て多発。 スレ立て荒らしによる dat 落ちは数日ないと予想(期待: しかし10thrd./dayで立ってるな、ぉぃ)するも すこしでも厨房避けになるよう、以後しばらく本スレッドsage推奨。 また〜りまた〜り。
2ch覗くなり激鬱。 ・きょうもまたエホ商スレが立った ・しかもみんなage信仰→板上位でぐるぐる回ってる ・マジスレ|謝っておけば乱立させてもいいってもんじゃないだろうゴラァ ・しかもスレ内容かぶりまくりだし ・現役様スレ間の調整、だぁれも「自発奉仕」しないってなによそれ ……人間育つ環境を選べないということを、つくづく実感させられる今日この頃(涙) 仕事する。。(明日締切だ) # 福音派話、いつしてくれるの?>
>>278 あたしね、メアドは公開しない方針なのよ。御免あそばせ。
282 :
名無しさん@1周年 :02/05/22 22:46
いえどうぞお気になさらず。
>>281 地下スレ、素晴しすぎる。あのままで1000まで行くことを切望する、
がそううまくはいかんのだろうな。
「りさ。」も見てみたいが、
それよりは誰かが昔いってた阿部ちゃんモォドも拝見してみたいもんだねえ。
283 :
名無しさん@1周年 :02/05/22 22:52
パウロ神学の間違い 神=イエス イエスの十字架は予定されていた
>>282 本当にね・・・。
>>283 そこのところも曖昧なんだけどね・・・。
パウロの後継者達の作という噂もあるものでね・・・。
一日ぶりにアクセスしたら(今日は来る暇がなかったわけ)、またまた 話が進んでて(いや、進んでなくて、ごちゃごちゃしてて)、よくわかんない。 福音派話というのは、誰にむかってリクエストしてるのかね。
パウロ自身の思想は伝統的にキリスト教徒たちが思っていたより、ずっと ユダヤ教的だと思う。 ただ、異邦人が異邦人のままで神に受け入れられる、という終末に起こると される預言が、自分のまえで実現しているとおもっていたのだろう。 パウロにとって、イエスは信じる対象ではない。イエス自身が人々の先達と なって、神への信を貫いたことが、人々と神との新しい関係を拓く要となっ たと思っていた。 イエスが信仰の対象となったのは、イエスをメシアとするグループがユダヤ 教から排除された後のことだったのでは、と思う。
>>285 前スレさがすのめんどくさいけど、誰か「そのうちに」っていってた人がいるので
その人に福音派話きぼん。
デパス飲んで眠いのでコーヒー1リットル一気のみ。おなかたぷたぷで
やっぱり眠いです(馬鹿)
>>286 「信」の模範であり、かつそれゆえに(もしかして最初はそうでなかった
かもしれない:ローマ行ってからあたり?)信仰の対象に転化するってのは
どう、とヤクでらりらりなのであんまり気にしないでね。
>286 ここはひとつ、バリバリの新約学徒にでもつっこんでもらいたいところ。 そーゆー奴おらんかー
>>286 言い伝えから想像すると、ブルネルスさんの見解は、
概ねいいところを突いているかも知れないわ。
だけど、やっぱり真相はやぶの中かもしれない。
パウロの説を母の先祖達が嫌ったのは、
ユダヤ人と自分達の派が分裂してしまう要素を孕んでいたことが、
一番大きな理由だった。
それから、異邦人に自分達の信仰を強要してしまいかねない面も
予測できたということも、一面にあったような感じも見受けられるのよね。
「何故、異邦人に教えを説いて回らなければならない?
これは我々のものであって、異邦人のものでは無い」といった疑問点。
それに伴う他への否定が働くことも、彼の説に内包されていた点。
イエズスの教えは、そんなに不寛容なものではないと考えていたようだしね。
厨房の私が書くのも僭越な事ですが、パウロはイエスの”人生”に 興味が無さ過ぎと感じる。
>>291 そいえば、最前マルコに触れておられましたが、
昇天の記事ってそもそもルカにしかないですね。
1. 議論の上で必要なかったから触れなかった。
2. すでにパウロにとって史的イエスはどーでもよかった。
3. (1.の変形)小アジアの信徒にとってパレスティナの逝っちゃった大工の
話をされても却って萎。つかつまづくだけ。なのであえて触れない。
4. 福音書と併読するので、そっちに任せることにした(って年代的にいえるのかな)
5. 受難・復活・高挙にキリストの生涯が十分集約されているので、かえって
議論の邪魔(3.をさらに変形: ただし著述側に引きつけた理由)。
ねむけざましに書いてみました。生八つ橋食いに逝てきます。。
あーあたまねてるわ。コリントスやローマにあててかいてるもんな。 昨日めし食いながらガラテア読んでたせいだということにしよう。わはは。 # こういうときなんていうのが穏当なんだろう。やだ。ボキャ貧。
>>291 全般的に、Kirklad ◆rs2OUULQさんのご発言は、彼をして
「おお、そうです。そうなんです。kirkladさん!」と言わしむるものが多い
ように思います。Kirkladさんには、ぜひ、スウェーデンボルグ友の会に
お入り頂いて、ご意見を頂戴したいです。(そういう会はありません。念の為。…ないと思う。)
でも、スウェーデンボルグで宣教する気のある人、ほんとに、いるんでしょうか?(彼は別)
「宣教によって争った霊たちは、いまも地獄にいて覇権を争っている(大意)」
みたいなこと、どっかにあったような。
295 :
野島秀行 ◆GpSwX8mo :02/05/23 12:25
>>291 それは仕方がないかも。
彼にとっては、自分が出会ったイエズスが本当にイエズスだし。
ヤコブがあまり相手しなかったのは、仕方がないでしょうね。
ここの末さんたちとそういう面ではある意味一緒。
だから、母の先祖達が非常に不愉快になったのだけどね・・・。
まぁ、今のキリスト教はペトロの権威とパウロ説の教会だからね。 イエズス説の教会なんてのがあったら、 それこそ、本当に神道と一緒になってしまいかねないかも・・・。 イエズスは「在りのままを生きていたらいい」って事を 言ってたみたいだしね・・・。
>>297 「我々は神の前で舞を舞うだけ」というのは、実は、或る神主の
方の発言なんです。(・・・で? と続けられてもこまるんです
が、私的には。誰かまとめてちょ。)
「舞を舞う」というのに違和感があったんだけど、そういうことか。 納得。美しい表現ですね。 神社ではよく奉納舞ありますよね。……トルコの、あれはイスラムなのかなあ、 ひたすら周りながら踊ってそれを神に嘉納する宗派という映像を見たことが あります。四拍子でね、典型的なトルコ行進曲のリズムで。 ……そういや、ユダヤ教はそういった面でも祭儀上の伝統捨ててません? 詩篇(聖詠)をみると、ずいぶん鳴り物がいろいろあるようだけど、現代の ユダヤ教って、あまりそういう話を聞かないわね。
スーフィー? という訳で、300ゲト!
301 :
名無しさん@1周年 :02/05/24 11:42
なんだかなあ。変なスレになってたんだな。 相変らずコテハンの実像を探ったり、リサの勧誘があったり。運動が閉じてるな。 それにしても、パウロ批判は近代の賜物だな。 あんまりいじめられると肩を持ちたくなる。 「教会」への否定も同様。それって人そのものへの愛がない。 最近はっきり言って「史的イエス」という学が嫌いになりつつあるよ。
302 :
名無しさん@1周年 :02/05/24 11:42
パウロの言語哲学ってどうよ。
303 :
名無しさん@1周年 :02/05/24 11:44
304 :
名無しさん@1周年 :02/05/24 13:01
>>303 三位一体でない「キリスト教」を構築することは十分に可能ですが何か?
ただ、私にとってそれはつまんない、だからわたしはそれを選ばない。
どだい客観としての宗教が捉えられる神なんて、個体の主観である限りの
信仰において直観された神でしかない。逆に、だから、キリスト教は
教会という客観的な支え、共同体を要求する。
ホメロスの神々を偶像と呼ぶのはまちがってる。あれはまさに「神々」
だった。
私はキリスト教を信じるが、私が考えている理念的なキリスト教とぴったり
くる教派は、実はない。でももっとも自分に近いだろうと思うところを
ひとつ選んで、そこに身を寄せている。
そうして、「理念」は希求されているときだけ理念で、
あるいは希求するという行為のなかでのみ現実的なものとして保持されている
のではないかとも思う。N−Kも「我信ず、聖なる一つの……教会を」という。
それは二階の命題で、だから一つの教会が事実としてあるという主張は
ここには含まれてはいない(そう読みたい人もいるようだが)
教会は普遍性をもたない、むしろ普遍妥当性への要求をもっている。
……端的にいえば、そういうことだ。だから私はこのスレッドに来るし、
ここの議論を楽しんでいる。
305 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 13:08
>>300 300おめ!
そうだ、スーフィーだ。神秘思想なのとぐるぐるまわるのだけ
おぼえてたの。これで資料があたれる。Kirklad氏さんくす!!
……あーあ、「こんなブルネルスは嫌だ」で1000まで行くことを
ひそかに期待してたんだけどなあ。ネタつきちゃったんですか?>ブルネルス
# ……どしてスヴェーデンボリ主義者って、ああいう無断転記を
# 平気でやるんだろう。…………語れよ。語らないからてめぇらいままでたっても糞袋なんだよ。
# 「しずかないずみ」といい、どうしておまえらはいつもそうなんだ?
まあいい、おちて仕事するよ。。(締切ひょんなことでちとのびててん;
# 直しってどうしてはじめるとああ泥沼になるんですかね。。まあ悪文家だから
# しょがないんだが)
じゃ、しばらくこれないから、みなさんお元気で。よい週末を。
306 :
名無しさん@1周年 :02/05/24 17:41
普遍も教会という共同体も永遠命題なんだよ。 人間と神の関わりのな。 パウロ否定はそれをばっさり切り捨てる事になる。
>そちらこそ、珍しくネタつきちゃったんじゃない?
>>298 本当にそうよね・・・。それだけよね。
>>299 ええ。やはり迫害時代に入ると、
そのようなものをすれば目立ってしまうからね・・・。
>>306 パウロ説は、キリスト教にとって良いものだったわよ。
ただ、初期には嫌だった人も多かったということね。
別にパウロは否定しません、私は。むしろ、好きです。
>私はキリスト教を信じるが、私が考えている理念的なキリスト教とぴったり くる教派は、実はない。でももっとも自分に近いだろうと思うところを ひとつ選んで、そこに身を寄せている。 確かに。みんなそうかな? 今の改革派(教団)は改革派的でもないし。
そうか。前スレ1000げとされたんだもんね。だれかに。じゃあ、お約束通り いまや私にはこう言う権利があるわけだ。 汚 な い 手 で シ ェ リ ン グ に 触 る な >1スレ644&末主義者 もちろん、きちんとテキストに則して影響関係を指摘できるなら、 触るくらいのことは許してさしあげてよ(はぁと) ……でもまるまる1スレッド待ってあげても、あんたら末主義者は答えなかった。 だから、あんたらに上の「暴言」の詫びをいう筋合は今後ともない。 あんたらの手が汚らしいことに、かわりないんだもの。 ……もっとも、あんたらが触ったくらいで、シェリングの何かが理解できるとは思えないけど(藁 # しかし、自分がテキスト読んでて # 「あ、こんとき、あたしより×歳、年下なのかS.」 # と気がつく、ってのは、なんつうか、つらいねえ。。やぱ、あの人は天才だわ。 # ……そうして、長生きなんだよなあ(はぁ)
>>307 ネタにつきるわけないじゃない。お望みなら1000まででも書いてさしあげてよ。
こんなのどう?
「りさに1000ゲットされてくやしいブルネルス」
って、私だけが書いてるわけじゃないのでそれは閣下にも誤解なきよう>4スレ
コピペちらっと読んだけど、なんだかへう゛ぉいノヴェライゼイションだこと。
なんつか、ある種の dauphine版よね。へぼんだけど。
擬似さべ者にへぼんdauphine版、お似合いのとりあわせと思はれ。
ああいう小説って20Cにいろいろ流行ったわけだけど、
古代の素朴な表現から、生きいきとした言の力を感じとれないほど
遠ざかってしまった近代人のなかには
あれが必要な人もいるんでしょう。
……というわけで、現象としては面白い。他に例もあるからここでも観測
しようとは思わないけど。
# あれもまた「新しい神話」の試みだろう。かなりに挫折してるっぽいけど。
つかー、あれなら、あたし、
In Nomine Satanis/Magna Veritas(Siroz, ISBN: 2-911103-00-9) の
ほうがいいな。
ルーシファの描写もさることながら、
山羊乳チーズみたいな体臭のやる気のないヒッピーで、日がなのんびり暮してて
だから主に日々労するところの天軍にありてはけっこう嫌われも妬まれもして、
(でももちろん、父の御前で「最愛の子」に関してそんなこと口に出せやしないわね:)
悪魔も天使もいらっしゃい、ただし喧嘩はお断り、な、
なぁなぁな方針の飲み屋のマスターをしている
ジェズ・クリスト――
そっちのほうが、まだそうもありうべきものとして納得できるから。
……ただ相手がいることで足り、一切の返礼を望まない愛って、美しいわよね。
なりゃこそあたしも、ここにこうしているわけだけど。
そいえば『アヴァロンの霧』いま廃刊になってるのね。あれは名作だと思うわ。
ちょいとラブシーンが定型によりかかってるところはあるけどさ。
いま復刊ブックオフで復刊希望署名集めてるから、よかったら署名してね。
このスレも、何か新しい話題を探さないと、死に体になりますね。 スレサイドがいなくなっちゃったんじゃない? 後に残った論点は、パウロ評価くらいか。
大前提: 無理に続かせる必要はない。物語にははじめと中とおわりがある。スレにも。 ============================================================================== とはいえ、残ってる論点って、 前スレからのつみのこしを全部いれるなら実はけっこうあって…… ・聖伝・福音書のナラティヴにみる「神的なもの」の(美的)表象 およびその措定根拠としての神概念 ・「無原罪」教説: その起源と「罪」の理解 ・三一論とその形成過程における有限性理解(上の問題も広義にはここに入るかも) ・聖霊論(主題的には展開されてないが dendo. の「媒介としての聖霊」発言など、布石はある) 他にもあったけど忘れた。ああ、あと「神性の表現としての美と崇高」という 3スレのときの話があるねえ。 ……でも、たぶん皆様一番うずうずしているのは、パウロ評価なんでしょうね。 といってもこれもまた広範に話が渡るわけで…… ……出発点として誰かさんの妄想がぶ.に否定している某哲学者近著の合評会でもする?(ぉ ぶ.がやりたいんなら、なりきりで某教授やらせてあげてもいいよん(ぉ # よく知ってる人には違いないんでしょ?と隣接業界終焉^h^h周縁住民は予想する。 まあ、議論の自然な流れに任せるわ。「みなで話をするとき、競いあう互いの心は 事柄の核心へとずんずん深く入り込む。話はひそやかにはじまり、ゆるやかに進み、 しまいには計り知れないほどにふくらんでくる。そこにいた人は話に感動し、 みな喜びに満たされる」(Schelling, Bruno. 1802. in: Schellings Werke, Bd.3, S. 113)。 スミルナ逝てきます。ぢゃ♪
どうせなりきりやるんだったら、パウロとかルターとかのほうが 受け線広いのでは? #スレタイトルで「パウロですが何か?」とかやったらすげえ荒れそう・・・
たちしょん(ぉ # 夕立去って、快晴ナリ。
dendoさん。いつも来られなくてごめんね。今日もずっと忙しかったんですよ。 えー。気に入ってもらえているようで何よりです。あ…。(まちがったかな?) りさは別になんの専門家でもないので、お気楽に発言していますが、 スウェーデンボルグって、そんなにパウロと違うこと言ってるように思えないんですよね。 いや、違うところもありますよ、それなりに。いろいろ、それはね。ある。でも、 似ているといえば、かなり似ているよ。 主義者の方々は、書簡を読んでいるんでしょうか? ていうか、読んでないでしょうね。 あれだけの著作を読むのも大変だろうから、 「悪魔と契約した人の書いた物」なんて読むわけないですよね。 たまに読むとすれば、最初から否定的な先入観で読むでしょうね。 たとえば、創造論者が「種の起源」を読むとか、そんなようなもんでしょう。 小さなヨハネさんは、よく読んだものだと思います。 反応もわりと肯定的だし、偉いと思います。 ていうか、これは単なる独り言なので、発言に公的な責任を負えませんがご了承ください。 それでは、今日、これから他にすることあるので、ごめんくださいませ。
「ジョニィの命日に寄せて」 ”福音に生きるべき”を思い出して幾日かたって、何となくゆとり が出来たかに思います。もうお分かりとは思いますが、Celtmaniac な面もある私は、元々、Eireマンセーでしたが、どうも気質的に、 (特に音楽)Caledonian的であるのに気がつきました。(聴きこま ないとなかなか区別は難しいものだった。) その”改革派”の一大拠点でもあるCaledoniaと自分の信仰方針との 一致は、これこそ神の摂理ではないかと勝手に想いこんでいます。 (無意識に連結しただけかも知れませんが・・) 今日は”音楽的”一日だったので思ったんですが、TrinityはTriad の譬が好いかなと。それと、教義の初めにあるんではなく、結果にあ るものかと・・さすれば、大アタナシウス(彼も「解らん」と言って たと結果に於いて述べてたように記憶してますが)の偉大さがあると 思います。 (”思います”が多いのは思いつきだからです。) 別に雑談でもいいでしょ?(頻繁にはやりませんから)
321は変な文になった。すみません。
「ジョニィ」さんについて教えてください。
324 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/28 21:15
そいえばふと今気がついたんだが、アベラルドゥスのいた修道院って "Paraclet"っていうんじゃなかったっけ。 前に「聖霊について話すことあり、でもいまはめんどい」って いってたっしょ。あれは?>ねこふん パウロ評価とその話こみなの?
>>315 もう一回、イエズスに対する考察をやってみる?
326 :
名無しさん@1周年 :02/05/28 22:55
ver3.05 ◆ver3llyMは今日は来てないみたいだね。 探してる人がいたけど。
あげ
おるで。
330 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/29 00:15
いずれにせよ、ここでやる話かどうかはやや疑問だけど。 ……この事について何かおよび姐さんの意見、特にきぼん。 %ねこふんはどーせやりたいようにやるだろうから、最初から訊くのやめとく。 %いままでやめたほうがいいよ、ってほのめかして聞いてもらったためしがない %ような気がするし(溜息)
俺はいわゆる「知識」は無いからね(苦笑)。 提示できるのは「判断」だけです、ハイ。 に、してもあてにならんけどな(爆)。
332 :
名無しさん@1周年 :02/05/29 00:27
ばーーーーーーだばーーーーーーだばーーーーーーだーーーーーーーー
ななちかな?
……向こうでまつ。ちと相談したきことあり。
一応、何でもいいんじゃない?勿体無いしね。
>>315 ほら、召喚しないでくださいねっていったのに。。
>>332-334 みたいにわけわかんない書き込みがつきまとってもいいなら、
ここで続けてもいいかな、という気になりつつある。「父スレ」が
ある種のトポスだということは認めざるを得ないようだし。
あんまり気がすすまなけど。で、パウロ批判と聖霊論とどっちやりますか?
しかし俺さんに山本誠一にちぃヨハに……せんせ、そういう人構うのが
趣味なの? しかも山本誠一にレスすんの二回目でしょ。……あたしも
この「宗教板デンパ列伝」の一画なのかと思うと禿しく萎えたよ。。
みなさま、こんにちわ 投稿者:りさ 投稿日: 5月29日(水)16時18分13秒
やっぱり作っちゃいました。
Swedenborgとの対話
http://8629.teacup.com/godloves/bbs 2チャンネルは、どうも苦手です。
なんだか、商店街でメガホンもって街頭演説しているみたいな気分になるんです。
落ち着いて話そうと思ったら、難しいこと知っている人が、
アンプとスピーカーで対抗してくるような…。
しばらくは、日記のようになるかもしれません。日記でもよかったんですが…。
>>337 頑張ってらっしゃい。
確かに、ここはあたしのようなのや色んなのがいるから、
あなた方にとって、あまり良くない場所なのは確かでしょうね。
339 :
名無しさん@1周年 :02/05/29 22:29
キリスト?ふざけんじゃねえ!おめえは漏れの親爺ぢゃねえ! w
340 :
名無しさん@1周年 :02/05/29 22:30
勝手に親爺面してもらうめえぜ!w
ジョニィはカトリック強硬派によるとアリウス主義だそうだ。(我々 にとっての強硬派は教皇派とは好くいったものだ)どう信仰告白して も受け入れられないものらしい(一部に於いてですよ!) 我々は異端であり、多分、そうでしょう。16世紀だったからうまく 世俗の勢力との利害が一致した故、その存在を既成事実化する事が可 能になったのだろうか。改革者達が3・4世紀頃に同じ事いって、〜 主義の烙印を押されてたら、その後、同様の改革を為す事は更なる困 難を伴うものだったでしょう。だから、旧教系での〜主義の乱発には ピンとこないのがあります。彼らには数学に於ける如き”予測”は提 示できるけど、理論物理学に於ける如き”仮説”は提示できない。
>>316 ここでは、小さなヨハネを記念して、ヨハネ福音書をテーマにしよう、
と勝手に思ってしまった。ヨハネが背景にしている旧約(とくにトーラー)理解
の話しを私としては続けるぞ(って勝手に今思った 明日になってもそう思って
いるかどうか分からない)。
>>341 氏は、別スレでも発言されているように、福音書の成立事情や、立場に
ついて関心をお持ちのようだから、話題に参加してくれるかもしれない。
前にヨハネのモーセ5書理解に言及した時には、ヤハウェ顕現体を子なる神イ
エス理解の背景として考えた。ここでは、ヨハネ伝中の聖霊理解の背景にある、
旧約理解について、まずは取り組もう(と、一応言ってみたが、発言に責任は
もてない)。
>>342 異論ございません。というかお好きにどうぞ。いずれにせよ
マジレスしてくれさえすれば、観客としてはいうことはなし。
> 旧約理解について、まずは取り組もう(と、一応言ってみたが、発言に責任は
> もてない)。
ついでにネット上で参照可能なLXXリソースきぼんぬ。
# データファイル(テキストベース)をひとつ見つけたのだが、
# ローダが必要で、で、なぜだかそちらに辿りつけない……ローダ自体は市販?
以上ほくろが多いと評判の某読者より横レスでした。
ほくろが多いんですか?でも、量より位置のほうが問題なんではないでしょうか。
>旧約理解について、まずは取り組もう(と、一応言ってみたが、発言に責任は
> もてない)。
の続きが
>>344 なんですか?
346 :
名無しさん@1周年 :02/05/31 17:01
>>345 dakara,
>発言に責任はもてない。to,ittadesho.
347 :
名無しさん@1周年 :02/05/31 17:58
2000年以上も前の、見たこともない人を 神と思っているお前らの方がむしろ神だ。
正教会では復活祭の日はヨハネ伝の冒頭が読みあげられるのでした。
日本語と英語。朗読前の応答誦も二回繰りかえされていて
そっか、大バシレイオス@カパドキアや金口イオアン@コンスタンティノポリスも(彼等は教区司祭でもあった)
同じ典礼のなかで叡知を、つまり神のソフィア(この頃の発音はもうこうですよね)を呼ん
でいたのだなあと、あらためて胸に迫るものがありました。もちろん典礼の細部は
いろいろ違うのは承知の上で。
>>342 >ここでは、ヨハネ伝中の聖霊理解の背景にある、旧約理解について、まずは取り組もう
先生、質問です!(AAめんどいので今回なし。おさまらなくなるし)
ヨハネ伝には「聖霊」(pneuma hagion)という言い回しはあんまりないみたいで、
ということはここで主題的に検討されるのはヨハネ伝16章だと思っていいんで
しょっかー。
それともヨハネ伝1:33後半を踏また上で、たんにヨハネ伝3章など「霊」と
だけある箇所も取りあげるんでしょっかー。ってまず旧約が先なのは分かって
るのですが、読むの遅いんでどの辺まで行くのがわかると嬉しいな、と
まるで「講義情報」編集サークルのようなことをいってみるテスト。
見通しなし! そもそも、モーセ五書だと「神(=エロヒム)の霊」という表現が参照すべき 表現だと思う。 これって、Gen.1:2 にまずは登場するんだよね(次は6:3,6:17,7:15,8:1・・・)。 だけど、 Gen.1:1 と同じ句ではじまる Jo.1:1 近辺では、神の霊ないし聖霊の役割が 見えないのはどうしてかな? これ、結構気になるポイント
パラクレートスだっけ?エロイーズ−アベラールになじみがあるとか、だれか 言ってた語だけど、ヨハネ福音書では 14:16, 14:26, 15:26, 16:7 に登場する。 おや、新共同訳は「弁護者」と訳しとるな。なんでやねん。もちろん「慰め主」 ってのもやだけど。 これって、「励まし」たり、「力づけ」たりする働きをするものでしょ。かつ、 ヨハネの文脈では、真理の認識をもたらすことと関係付けられている、という とこから解釈すべきだろう。 が、七〇人訳で、これに関係する名詞、動詞等々の使われ方をみても、神の霊 につながるようなところは見つからないように思う。 ただし、神の霊が下った人たちは、非日常的な力を発揮したり、預言をしたり、 と、たしかに力づけられはするんだよね。
ヤハウェの顕現体は、人に向かって現れ、言葉を交わす。 神の霊は、人に下る、人に憑く?という仕方で人と関わる。つまり向き合うと いう仕方ではなく、人の内部に直接影響してしまう。 ヨハネの前半では、生きるとか、新しく生まれる、といったことと霊とが、 連関して登場する。「力づける」パラクレートスは後半に登場する。 *以上、今日考えている、検討のきっかけというか、解釈の手がかりというか を書いた。段落毎に脈絡なさそうに書き散らした。これでよいだろうか>348
うゆ?うまくいってないみたい。とりあえず
>>2 の過去ログリストから
二段で当分飛んでください。そのうちなんとかします。。
>>349 先生、質問です!ヨハネ伝の著者は七十人訳聖書(以下LXX)のみを
直接参照しているという前提で、先生はお話されてるのでしょっかー。
「神(エローヒーム: 複数形?)の霊」ですが、LXXではどんな語を
使っていますのん? pneuma tou theou?
さて Gen1:2以外の「霊」の使用箇所がむしろ「存在者」で代替可能なように
見えるのに対して、Gen1:2 の霊はむしろ不定形なもの・無限なものであるよう
に思えます。獣や人間、あるいは神に対して「霊」がいわれる記述と、
「神の霊が水の表面を覆う」という記述の間には、なにか位相に違いがある
ような。そこになにかひっかかるものを覚えます。
話は飛びますが、ターレスの断片をはじめて読んだときに、Gen1:2を連想しま
した。直接の連関はないでしょうが、無制約なものを自然事物において表象する
際、水のイメージはよく援用されるようですね。類似モティーフは他の神話
にもありますから(インド神話では端的に世界は水から生まれる)。
*中途半端ですけど、所用あり。ここまでで筆を置く。残りはのちほど。
お忙しいのに、ありがとうね(はぁと)>348
>>354 呼ばれた先生(誰かは知らんが)が出てこないようなので、横レスです。
先生はどうか知りませんが、
>>349 の筆者は、ヨハネがLXXだけを参照している
のかどうか、定見を持っていません。ですから、テオスと訳されているところ、
がエロヒムだなどと括弧内注を付けたりしてます。たぶんLXXを使う文化の中で
ヨハネは書かれただろうとは思ってますが。
後半の弟子たちという内部向けのイエスの語りの中での、パラクレートスと、
前半の、対ユダヤ人というか、対外的な場面でのイエスの語りにでてくる霊と
を同一視していいもんかどうか、といったこともあり。・・・
(以下、ギリシア語表記のお約束:エータ:h オメガ:w など。) paraklhtos は 動詞parakalew (傍に呼ぶ、招く;誰かのために呼ぶ、助けのために呼ぶ; 励ます、力づける)から派生した語。 本来は受動的意味:傍に呼ばれたもの;誰かのために呼ばれたもの。助ける者 、誰かのために現れた者・・・。これは訳として採用されたラテン語advocatusが、 現代語に入ってきて持つ意味につながっている。 この線上に「弁護者」というのもあるわけだが、法律家に使うことは稀だと、 バウアーの辞典にはある。 しかし、さらに能動的意味も加味されたらしい。つまり「励ます・力づける者」だね。 英語でいうと、comforter、intercessor、adviserなど。 「慰める」ってえのは、少なくとも今の日本語のボキャとしえは適当でないように 思う。comfortだって、そう訳したらまずいんじゃないか(これ、別の場での主張を 引きずっている発言) 以上の両方の意味を考慮しないとならんらしい。ただ、私としては、ことばの 成り立ちを大事にしたほうがいいように思う。 誰かのために呼ばれて来た、誰かの傍に呼ばれた者というニュアンスを中心に し、動詞の能動的意味:力づけるを加味する、という方向でとっておこう。 こう解すると、ヨハネの後半部におけるこれへの言及がうまく読めるか?は また来週。 正教会では、パラクレートスはどう邦訳されとるのでしょうか?
>>356 手元に資料がないので走り書き。
パラクレートスの訳は一定しているのかどうか。
正教会訳ヨハネ伝では「救恤者」のはずですが、
祈祷文では「慰る者」(小祈祷書・暮の祈祷文・第三祝文)ともいわれて
います。ただ祈祷書はロシア語から訳されている可能性もあるので、そこで
意味の変容が起っている可能性は否定できませんが。
文語訳(大正改訳)では「助主」ですね。
358 :
名無しさん@1周年 :02/06/01 23:57
>>355 >前半の、対ユダヤ人というか、対外的な場面でのイエスの語りにでてくる霊と
> を同一視していいもんかどうか、といったこともあり。・・・
サマリアの女の挿話(J4:1-38)でも「霊」(pneuma)は出てきますね。と重箱
つっこみ。いずれにせよイエスが、まだ弟子でない者に対して語るという
ことでは「対外的」といえるでしょう。ここで霊が与えられるのはいきなり
ではない=信者でないものにいきなり霊が与えられるようには読めない、と
まず指摘しておきます。ヨハネ伝後半の弟子たちは、水による洗礼を受けて
ある態度表明をしている、がまだ霊は与えられていない。一方、ここで
「対外的」に語られている相手には、先後関係はともかく「水と霊」が
与えられる、と語られている。
確かに相違はありますが、信徒集団の中/外への語りかけという差を反映
したものであって、筆者の意図としてはむしろ一貫性をもたせようとして
いるように、小生は考えます。
ここでヨハネ伝二章からをふたたび通読すると、J2-水/ぶどう酒(カナの婚宴)、J3-水/霊(洗礼)、
J4-(イエス=水?=)真理/霊(J4:23)と水をめぐるモティーフが繰り返されている
ことが確認できる、ように思います。
J1:1-5が全体としてはGen1:1-5に対応する構成を持ちながら、Gen1:2はこの箇所で
直接に対応する箇所を持たないのでは?という
>>349 の指摘と、ここでの「水/霊」
モティーフの反復は、関係あるのか、どうか。
サマリアの女の主日、夜半課age。
359 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/02 00:14
あした聖体礼儀なのでもう寝るにょ。 五旬節中節水曜に聖体礼儀があるの知らなくて禿しく鬱。 お話の途中ですが、 今日の早課のアンティフォン(倡和詞)がこの話題とつかず離れずなので 御紹介。ついでにポロキメンもつけとこっ☆ 我が幼き時より多くの欲は我等を攻む、 我が救世主よ、爾自ら我を守りて救い給へ。 シオンを悪む者は主より辱めを受けよ、 爾等草の火に於けるが如く枯られんとすればなり。 光栄は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々にアミン+ 聖神に凡その霊(たましい)は活かされ、 清浄(きよき)を以っていよいよ上り、 三位の一体にて奥密に照らさる。 主よ、起きて我等を助けよ、 爾の憐れみによりて我等を救い給へ。 神は我等に己の耳にて聞けり。 主や、父スレのことごとくの読者を憐み給へ 爾は慈憐にして人を愛する主なればなり。 光栄は父と子と聖神に帰す今もいつも世々にアミン+ ハリストス復活!実に復活!
あ、まちがった。鬱。 ×神は我等に己の耳にて聞けり。 ○神よ我等に己の耳にて聞けり。 スマソ。
361 :
名無しさん@1周年 :02/06/02 15:18
>>356 ∩
| |
| |
| |
| |
∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д`)// < 先生!表記のお約束がわかりません!
/ / \___________________
/ /| /
__| | .| | __
\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
#そういやψをpscで転写してますね、せんせ。あれも一般的慣行?
「パラクレートス」の訳、正教会版では撫恤者「なぐさむるもの」 でした。お詫びして訂正。最近の祈祷書では「慰る者」と書くほうが普通。 なお、この翻訳の底本は不明。ギリシア語からだそうですが、校訂には ロシア語訳(というかキリール&メフォディの教会スラヴ語訳?)聖書を 参照しているとのこと。Mk1:1に「神の子」がある、1Jにコンマ・ヨハン ネスがあるなど、かなり古色蒼然とした趣はいなめません(w いつ頃の 写本に基づいたものか割り出すのはそんな難しくないかもしれないけど、 どうせ誰かもうやってるだろうから、ここではやんない(ぉ
ああ、ちがうか。ps+chなのね。呆けてました。スマソ。
「何か」は「何か」(笑)。 俺はあらゆる宗教には属さない者。 でも、天主を敬愛しておるし、同時にイエスには敬意をはらっている。 そういえば、今はサタンとも呼ばれるルシフェルとその仲間達も一目置いてるよ。 他にもまー、いろいろ。 なにしろ「何か」だからね。
365 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/02 19:24
>>359 誤記もうひとつあった。激しく鬱。
「爾等草の火に於けるが如く枯らされんとすればなり」です。スマソ。
なおこの第四調のアンティフォンは、主日早課の他、祭日の早課でも
用いられます。というより、祭日の場合このアンティフォンと決まっている。
正教における聖霊(聖神)理解を結晶化している詞章ではないかと思います。
訳語の話ついでに。引用文中、霊は「たましい/れい」*でたぶん psyche(ぶ.方式だと表記どうなるのん?)、
一方 pneumaは神゜(しん)と訳します。この語法には中文の影響を指摘する向きもあり(中文の神は霊魂を指す詞でもある)、閑話休題。
とまれ、そういうわけで1 Col 15:44後半は正教訳だと
「霊に属する体あり、又神゜に属する体あり」
(これは文語訳のほうが直感的には判り易いよね、と思へり。やや解釈入りすぎかとも思うが)
となる。御参考までに。
なお「撫恤者なぐさむるもの」ですが、「慰め」とはやや異なり、
「なぐさめ、物を与える」という語義だそうです。そういや、大正や昭和の初期では
慈善事業によく使われた言葉ではある。つまり言葉やなにかでなぐさめるのではなくて、
(その人が必要としている何かを)与えることによってなぐさめ(助ける?)、状況を変える
ことをいうのではないかと。
今問題になっている paraklhtosが与える物はなにかといえば、
「真理の認識をもたらす」ことだろうという点で
>>350 に同意しておきます。
いまは「聖書」を問題にしているわけではないので新約の他の箇所を参照
することはしませんが、現代日本語の「なぐさめ」に含まれる、やや閉じた
ニュアンス、一過性の感情的対応とは違った語が、ここには必要なんで
しょうね。励まし、助け、といっても導くというのとは違って同伴者であり、
かつ存在の位相としては人より上位にある何者かを指す名辞が(むつかしー)。
調べてみたらプシュケーは yuch だった。これってかっこ悪いねえ。やめます。 ps とか ph といった二字で、一字のギリシア文字を表すのをきらった結果、 ps−y 、th−q、ph−f といった対応を作ってるんでした。 (これ、bibleworks の検索の際に、こう入力すると画面にはギリシア文字がで てくる)。TeXでギリシア語フォントを使うプログラムの場合、どう入力するんだっ たかな。 とにかくここでは、ps th等を採用し、h、wは前に言ったとおりに使うということ ではいかが。ユプシロンはyで。 つまり psychh うーん、まずい。では、h、w、はやめて psyche~だっけ?あれにするか。
>>366 >TeXでギリシア語フォントを使うプログラムの場合、どう入力するんだったかな。
どれのこと? C-Greek Project? G-TeX?
368 :
名無しさん@1周年 :02/06/03 13:35
>つまり psychh うーん、まずい。では、h、w、はやめて > psyche~だっけ?あれにするか。 あとで気がついたんですけど。エータ h ってのは帯気無気をそれぞれ`'で 入力するから割りつけ可能なんですね?(まあ input-method としてはそう なるわな。語頭ならそれで構わんのだし) オメガ=wは直感的に判りやすいので、むしろ残しません?(~たくさんって 読みづらいから嫌……だがどうせ長音記号はいれないと不便か)、じゃ、 その辺はおまかせします。 学校ではζはzdで転写する、と習ったのですが、ブルネルスさんは どうなさっておられるんですか?御教示を乞う。 # 学部のときのゼミ合宿の宴会で、ギリシア字母の書き順で # もりあがったのを、懐しく思いだしました。
369 :
名無しさん@1周年 :02/06/03 18:31
おー、最近真面目にやっとるやないけ、このすれ。
>>365 聖霊は、人の内にやってくるんだよね。だから、礼拝の対象というよりは、
「私の内なる助け手」っていう、どこかで私と一体化するような感じがあるんじゃ
ない?
旧約においても、ヤハウェ顕現体は人に向かって現れるのだけど、神の霊は人に
宿って、人を内側から動かす。
だから、聖霊は祈りの対象になるというより、祈りを傍で援助する立場ね。
「聖霊様って言っていいの」とかいうスレのタイトルだけは見たことあるけど、
そういう呼びかけは向かい合う相手へのものでしょ。
パラparaという表現が効いてくるような。
ところで、ヨハネ伝の文脈からいうと、「慰める者」「励ます者」などと訳す
余地はあったでしょうか?どう思います?
>>370 を書くときに、名前欄の書き換えを忘れて、恥晒しなブルネルス。
いや、面目ない。
373 :
名無しさん@1周年 :02/06/03 19:53
おまいらほんとに聖霊のことなんも知らんと、ここまでよう喋りよんの。 がんばれ〜。
374 :
名無しさん@1周年 :02/06/03 20:32
ブルネルス。ハケーン。 ますます冴えて。ますます壊れているなぁ。
375 :
名無しさん@1周年 :02/06/03 20:49
どわはははははははは。ぶは。わはははは。ひぃ。くるちい。 いや確かに、この壊れっぷりの素晴しさときたら、普遍妥当性を要求するものがあるね。 ……でもブルネのそういうとこ、好きよ(はぁと) # で、ζどうするんですか、せんせ。
でも内なる助け手は、どこかから(ヨハネ伝の文脈では天の父からか) もたらされる助け手でもあり、同時に泉から水が湧くごとく、霊の うちなる真理から湧きおこる「喝きを癒すもn ……ごめん、まだ苦しくってまともに書けない。うははは。うは。
377 :
名無しさん@1周年 :02/06/03 23:55
いやはや、何か飲んでないときでよかった。
ところで笑いがツボに入って生気づくのと、水/霊(これが同一なのか連関する
二つの事象かはさておき: 教会は前者が後者の表象であるというけれど)=
parakle~tos を人が受けるのとは、ある意味同一の構造を持っているように
思われる。つまり、「うける」といってもそれはたんなる受動ではなくて、
受けとめる側にすでに一定の構えがあって可能になる communicative な
事態なのじゃないかってことだ。そういや、誰かを笑わせることを
「うけをとる」ともいうね。
かつまた、このことは外在的な契機に触発されてはじめて起こるにもかかわらず、
「うけ」ている側にはむしろ内的=精神的過程(霊的とかいうと抹香ならぬ乳香
くささがただよい始めるから、いまはそうはいわないでおく、という以前に
tautologyなのであまり儲かった気がしない)として意識されるだろう、と
思われる。なんしか酒に酔ったときみたいに、全身が何かに浸されている
ような感じだね。あえて物質的な表象を用いれば、だけど。
「人の内なる神」というのは伝統的には異端視されがちな思惟で、もちろん
それはキリスト教の神が伝統的に超越として把握されてきたからなんだけど、
人のmorphe~としての神=ロゴスとともに、「人のそばへ」来てそれを水の
ように覆うプネウマは、双方とも外部としてではなく、むしろ内在的に理解
されてもいいんではないかと思う。内在というのはちと変だな。外部における
超越としてではなく、むしろ人間存在の境位として、とでもしておきましょうか。
この辺の措辞、後で変更する余地あり。
無駄口はこの辺にして、そろそろ個々のテキストの検討に行きましょうか。
と思ったら夜半課。ではちと失礼。また後ほど。ところで何かコメントは
なしなの?
>>374
ζはz。なにかまずかったっけ? en arche~ e~n `o logos, kai `o logos e~n pros ... 上の試しでは、強い時だけ`をつけたけど、気息記号はなくてもいいような・・・。 それともh? ho logos か。まあ、どうでもいいや、分かれば。
379 :
名無しさん@1周年 :02/06/04 03:21
>それともh? ho logos か。まあ、どうでもいいや、分かれば。
そりゃそうだけど。
>上の試しでは、強い時だけ`をつけたけど、気息記号はなくてもいいような・・・。
だけんど一応決めとかないと、あとあと `on と 'on 区別しなきゃ
いけないような場面とか出てきたときに嫌じゃないですか。で、そこを
引用なさったということは、parakle~tos より先にそちらを検討すると
いうこと?って
>>370 で話飛ばすしぃ。。
380 :
sum ◆heL0ISek :02/06/04 03:58
>>350 >パラクレートスだっけ?エロイーズ−アベラールになじみがあるとか、だれか
> 言ってた語だけど、ヨハネ福音書では
> 14:16, 14:26, 15:26, 16:7
> に登場する。
呼んだ?
多いような少ないような、って多いとはいえないですね。となると早晩
先後関係みていくことになるのね。とはいえ、それなりにまとまった量
のテキストだから、全部書きだすのはちょっとつらいわね。
J14:16
ここだけから parakle~tos(以下P.)が「励ます」機能をもつかどうか言うことは難しい。
さしあたって P. は、「人とともに・つねに・在るもの」として(将来)「与えられる」
ものとして提示される。
(J14:16「あなたがたとともに/永遠において/在る(ために)」(hina/ meth' hymwn / eis ton aiwna / e~i)、
cf. J14:17「まさにあなたがたに(とともに?)とどまるだろう」(hoti gar hymin menei)
かつ J14:17はこの関係が無意識的なものではなく、むしろ人に意識される関係
であることを示すように思われる(humeis ginwskete auto)。人格的交流の可能を
見るのは読みこみすぎだろうか。留保しつつ、次へ。
381 :
sum ◆heL0ISek :02/06/04 04:32
J14:26 `o de parakle~tos, to pneuma to hagion, ... ekeinos hymas didaksei panta kai hypomne~sei hymas panta `a eipon hymin [egw]. ちと長いのではしょりました(マテ)。後半に注目。 「すべてを教えるだろう/すべてを思いださせるだろう/[わたしが]あなたがたにいったことを」 %NAによれば古い写本(アレフ,A,D)でこれを欠く。……三人称に取って %文意が通じるように読むのは難しいので、日本語にするとこの差異は消えてしまうかな。 「慰める」というよりは、まだ「励ます」が妥当する場面か。つづく J14:27にも同じ感想を持つ(特に後半 me~ tarassesthw hymwn `e~ kardia me~de deiliatw.)。 かなり離れた箇所ではあるが、このパラグラフの最終文、J16:33 をも 参照。「わたし(=子)がいったことすべてを」思いださせる、のであれば J14:26「心を騒がせるな」/J14:33「私は世を征服した」(egw nenike~ka ton kosmon.) は、ともに思いだされるであろう、とすれば、それには消極的な響きを もつ「慰め」より、能動的な促しである「励まし」のほうがよりふさわ しいように思われる。
382 :
sum ◆heL0ISek :02/06/04 04:34
ああすみません、「心を騒がせるな」はJ14:27でした。お詫びして訂正。 一度おちます。おやすみなさいませ。
>今問題になっている paraklhtosが与える物はなにかといえば、
「真理の認識をもたらす」ことだろうという点で
>>350 に同意しておきます。
グノーシスの影響に思える。真理の認識→覚知、paraklhtos→(啓示者として
の至高者の「子」とされた)神の子イエス。とすると恐らくヨハネ14.16
の「別に」はグノーシスに対抗する目的の為の編集句ということですかね?
他の箇所については聖霊に置き換えてると(対抗上)思います。
サマリヤの女の挿話については、トマス108:イエスが言った、「私の口から
飲む物は私の様になるだろう。そして、私もまたその者になるであろう。そして、
かくされていたものがその者に現れるであろう。」が関連?
水については、トマス74の「泉」→飲めば上記の如くの水。
>>381 でのJ14:26の試訳、`a eipon hymin がどこに掛るのかわかりにくいですね。
文法的には直前の panta だけかしら。つつしんで御教示を乞う。
>>383 示唆に富む御指摘を賜りありがとうございます。
J14:16では父―子(父に祈る)、父―P([父が]他のPを与える)(kai allon parakle~ton dwsei)
とあって、たしかにここから「子もすでにPの機能を持っている」(だから allos)と
いう隠れた主張を読むことは可能かもしれません。わたくしはグノーシスには
詳しくありませんので、お説を検討することはわたくしの力量を越えておりま
す。ですので現在のところは、まずテキスト内在的にいいうることを探るに
とどめ、可能であれば後でたちもどってお説を検討できればと思います。
集中したく存じます。
あら、編集しのこしが。お目汚し、ごめんなさいまし。
>だから、聖霊は祈りの対象になるというより、祈りを傍で援助する立場ね。 とはいえ聖霊への祈りというものはある。 カトリックの始業の祈り(聖霊来たりませ……)、 オーソドックスの「天の王」(天の王、慰る者や、真実の神゜……来たりて我等のうちに居り我等を諸の穢れより潔くせよ……) ※正教では、公祈祷・私祈祷とわずこれが祈祷の開始となる。これが聖神(聖霊) への祈りであることは、復活節の間(復活節から昇天祭)はこれにかえて 復活のトロパリが用いられることからも明らか) 「来たりませ」ってのは「父より与えられる」、神から下る、という面を重視した 表現だけど、一方でこれが業/祈祷の開始ってのは、聖霊が「力付ける」存在として 捉えられている、それもかたわらにいるものとしてではなく「うちに」あって 生気づけるもの、癒すもの(「潔くする」)ということも示唆している。 後者の、人間とどうかかわるかの側面を重視していくとき「慰める者」という 見方がうまれてくるのかもね。閑話休題。
387 :
ブルネルス :02/06/04 15:07
sum さん、Kirklad さん、ありがとうございます。 どんどん進んでますねえ。 当方、体勢を立て直して、ついていけるようにがんばらなくちゃ。
388 :
sum ◆heL0ISek :02/06/05 00:44
呼んだ?
まずみなさまにお詫び申しあげねばなりません。
昨日の今日ではございますが、書きなおし、訂正など多々これあり。
>>380 eis ton aiwna の訳を、「永遠のうちに」と、とりあえず改めます。
いずこからか、というよりは精確にいえば un'autre Paraclet から
「永遠にいたるまで」と示唆する声あり。魅力的な訳ですが、
ここではあえてそこまでは踏みこまず、生硬に直訳しておきます。
とりあえず、ここでは aiwn はわたしたちにとっての主題的な概念では
まだないので立ちいらずない、ということで御容赦。
ただし後でふたたび eis ton aiwna については検討する予定
(願わくば、他の時間とかかわる語、arche~ などとともに)。
parakle~tos(以下P.)は、一時的な熱狂などではなく、
与えられたら最後、つねに人の「うちに」留まる、そのことを心に留めて
次の件に。
>>381 お詫びの上直したきこと、二つこれあり。
「パラグラフ」といいましたがこれはおかしいですね。むしろ場面と
いいましょうか。映画でいうシーンかな、むしろ。このあたりは子イエス・
キリストが弟子たちに語っている言葉ですが、ヨハネ伝17章は子から父への
語り、つまり「祈り」ですから J16:33 はまさにひとつの場面のおしまいを
告げる言葉となる。「子はすでに世を征服した」が、父に対しては祈り、
憐みを乞う。その存在のありようにおいて従属的というのはたぶん云い過ぎ
でしょうね。でも父から子が生まれるのであり、子が父を生むわけではない
わけで。もちろん父と子というのは相関する概念なので、子がいてはじめて
「父」という呼称は意味を持つ、というのは 2スレでブルネルスが指摘して
いたことね。URL は
http://life.2ch.net/psy/kako/1012/10128/1012830658.html 二つめ。参照指定間違えました、ごめんなさい(_ _)
>J14:26「心を騒がせるな」/J14:33「私は世を征服した」(egw nenike~ka ton kosmon.)
J14:33 なんてありゃしません。J16:33 の間違えでございます。
いろいろとお見苦しいところをお見せして恐縮です。
他にもいろいろ語ることございますが、夜更ゆえ、ちと湯浴みなどして参ります。
ごきげんよう。
私が同じ論理水準にないのはすまないと思いますが、ヨハネはキリスト教 精神にてもっとも重要な「隣人愛」の思想とは遠い所にあって、つまり、 対グノーシスに特化した目的の文書ではないかなとの前提があるんです。
390 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/05 10:02
そりゃそうとさ、盛りあがってるところで水を指すようだけんど
>>381 失意のずんどこで「がばれ〜」といわれたら、グーで殴ってやり
たくなるのが人情というもんではないだろか。人間では癒しよう
のない霊のかわきを[真理と]霊(神゜)が paraklew するんでしょ?……J3,J14
鬱病の人間を「励ましてはいけない」のと同じでさ、この存在論的な病に
「励まし」ってのもちぃと違うんではないか(日本語の表現として考えたときに)、
……と考えると「慰める者」を訳語候補から外すのは、まだ早いのではないか
と思うけふこのごろ。
>>389 そーすきぼん。
>>390 傍らに呼ばれた者>傍らに呼ばれて在る者
なんてのはいかが?
「励ます」がちょっと?なら、「力づける」もだめ?
>>389 対グノーシスに特化したものだ、とおっしゃる文書性格について、当方はまだ考えてないので、今のところ、「もう少し展開してみていただけませんか」とリクエストしてみたいとこです。
「力づける」∈「励ます」なんじゃない?だから「励ます」を仮に捨てても 「力づける」はまた別だと思う。あえていえば「力づける」と「慰める」も たぶん部分的には重なりあうだろうし。 「励ます」ってのは意図的な動作で ということは行為主体は人格性をもつ、あるいは人格性を投影しうる何かだろう。 「励まされる」は結果として(自然に)そうなる、という場合を含むからまたべつだけど。 #「言葉に励まされる」ってのは自然な言い回しだけど、 #「言葉が励ます」てのはなんか変。 「力づける」は励ますに比べるとやや人工的な言い回しのような気が。 googleしてみたけど 励ます……53200件 力づける……2090件(力付ける、だと「〜力つける」という別の用例と混淆してわけわからん。 だけれどもそれも 640件) 自然ないい回しじゃないぶん、ある種抽象化された、中立的な響きがある ように思う。ちなみに「励まされる」は13100件、「力づけられる」は136件。
393 :
sum ◆heL0ISek :02/06/06 00:39
>>391 せっかちさんね。>ブルネルス
まだ用例が二つ残っておりますのに、そう急がなくてもよいのじゃなくて?
J15:26
P.についてはじめて定義が与えられる。父と子とP.=真理の霊、三者の関係。
暫定的ながら試訳を提示します。……正確さは無保証。
P.が来るとき(|〜はいつでも)/
(そのP.とは)わたしがあなたがたに父のもとより送る(ものであり)、/
(彼はすなわち)真理の霊(であり)/ 父のもとより発する(ものである)、//
その彼が証するだろう/ わたしについて。
以下テキストです。
`Otan/ elthe~i `o parakle~tos /`on egw pempsw / hymin / para tou patros,/
to pneuma te~s ale~theias /`o para tou patros ekpoeuetai,//
ekeinos martyre~sei / peri emou:
%上付き点が出せないので、コロンで代用しました。御指定があれば今後は
%それに則ります。よろしく御教示を。
を、まず以下のように読んで(文法上の素人っぽいミス満載の予感)、
流れを損わないことを目標に書き直したのが上掲部試訳です。2chの恥は
かきすて、と、どなたか前におっしゃったけれど、それにわたくしも追随して、
惜しまず恥をかいてみます……
……[する]とき(||〜はいつでも)/P.が来た(||行った)*/
彼(=P.)をわたしは送る/ あなたがたに/ 父の傍らから、
(すなわち)真理の霊が/ 父の傍らから発する者が(来るとき)、//
その彼(=P.?)が証するだろう**/ わたしについて。
* subj.aor. ** pres.fut.
つづく
394 :
sum ◆heL0ISek :02/06/06 00:40
以下注釈、ではけっしてなくて、いいわけ。もしかすると備忘録。 ekeinos は P. なのかそれとも直接には `o 以下の節なのか。 辞書を見ると後者かなとも思うが、 それならむしろ、ale~theias のあとに , おいたほうが明解だよね。と愚痴る。 `o 自体は =P. を受けると決めうち。 `otan から始まる従属節(//まで)がやたらに長いっ、というようなことはおいて、 やや気になる点: ekporeuetai は中動相なのか受動相に取るべきなのか。 いまのところ中動相にとってますけど、変更の余地あり。 受動相なら「父によって発せられる/送られる」? でも pempsw と ekporeuew は訳しわけなきゃなので、送られる、は やめておいたほうがいいかしら。 なお subj.aor. + pres.fut.なので、「証するだろう」ではやや弱い。 実現可能な未来の仮定であることをもっとにじませたいのだが。 `otan は……ときはいつでも、とする必要があるかどうか、ここだけでは 決められないので、とりあえず決めずに残す。 martyre~sei はテキストでは一語であることを重んじ ここでは「証するだろう」としたが、「証をもたらす」と開いてもよい。 ただ直後に J15:26 "kai hymeis de martureite"(opt?) と続くことを考えると (そしてこちらは「もたらす」では変だ)、やはり「証する」と一語でいう ほうがよいだろうか。 J14:26 で to pneuma hagion といわれた P. は、ここでさらに踏み込んで to pneuma te~s ale~teias であるといわれる。さてイエス・キリストもまた ヨハネ伝においては真理である。おそらくは、それゆえに P. は「わたし」、 つまりキリストを証するものとなるのだろう。 ところで、新共同訳の「その方」ってむずがゆいわね。事情を察しないわけ ではないですけども。なお pneuma t. a.as は正教会訳では「真実の神゜」。
以下、余談です。 あくまでも parakle~tos であって parakle~ton ではないのですよね。 もとよりヨハネ伝筆者が作りだしたというわけでもなくこの語がすでにあって、 それを意識せずに使ったというだけのことでしょう。けれども P.が非人格的 であることを強調したいのなら、to parakle~ton とやや不自然かもしれない けれど、措辞することもできた。しかしそうはしなかった、ということは P.が人格的存在者であることを強調したい方々には橋頭堡になるやもしれず。 今宵はここまでにいたしとうございます。では。
擬人化した表現だ、という反応もあり得るかもしれない。 いや、そうはいかんでしょうね。そもそも「弁護者」という訳も可能なように、 いわばクライエントの傍にいて支える者であり、真理を教える者であるという 役割からして、人格的に捉えているに違いない。 でも、そういったナラティブ全体について「擬人化した表現」と言い張る 可能性はあるかな? えーと、非人格的に理解するのは、エホ証はもちろんだけど、スエもそうで したっけかねえ。
>>396 と、いう噂でしたわね。
>でも、そういったナラティブ全体について「擬人化した表現」と言い張る
> 可能性はあるかな?
それならいっそ、子も先在のロゴスの擬人化だとするほうが綺麗ですね。
となれば、父も。こちらはなにかしら。存在一般?
もちろん、私は、そうは、いわないけど。
以前第1スレの頃に書き込みした者です。 テーマにぴったりじゃなく周辺的なことなんですが、一つの材料として……。 「霊」(ルーアハ/プネウマ)の人格性については、列王記上22:19〜23に 興味深い記述があります。ここでも「霊」は人の内側に働き掛ける存在ですが、 同時に独立した人格を持っており、その点では天使と同様の存在として描かれ ています。 ただ、このような「霊」観がここで検討対象にされている「五書」にまで遡る のかというと、何ともいえません。どちらかといえば、王国末期〜捕囚後の時 代に「天使」という観念の明確化に先だって、あるいは並行して出てきた考え 方ではないかと思います。 「霊」と「天使」に関して、使徒言行録には、両者が同一人物に対してほぼ同じ 役割を担うものとして登場している個所があります(8:26、29)。ここでは、 どういう基準で両者を区別しているのか、よくわかりません。あるいは「霊」 は先の天使のことを指しているかもしれないし、ひょっとすると、「聖霊」よ りは格下の霊の存在が想定されていて、この個所ではそれらのことを言ってい るのかもしれません。とりあえず言えることは、神から人へ遣わされる「霊」 と「天使」は人間へのアプローチの仕方も異なり、区別されるけれども、ある 部分では重なっているということです。 ヨハネ福音書のいう「パラクレートスである聖霊」は、このような系譜に連な るもので、独立した人格を持つ存在であると考えられます。もちろん、上記の 個所に登場するおそらく天使級の「霊」たちとは別格でしょうけど。
399 :
sum ◆heL0ISek :02/06/07 01:28
>>398 周辺的とは御謙遜を。重要な御指摘、というより御教示をありがとうございます。
>ヨハネ福音書のいう「パラクレートスである聖霊」は、このような系譜に連な
> るもので、独立した人格を持つ存在であると考えられます。もちろん、上記の
> 個所に登場するおそらく天使級の「霊」たちとは別格でしょうけど。
いまお説を拝見したばかりで十分に検討する時間がないのですが、
おっしゃることに異論を唱える材料はないように思います。
わたくしもヨハネ伝がいう聖霊は人格的存在であろうと予想します。
本来、ここでさらに御指摘を検討するべきであろうかと存じますが、
その前にあとしばし駄弁にお付き合いしていただければ幸甚。
===================
>>393 で提示した J15:26 試訳の検討を続けます。
以前に検討した二つの箇所では、P.と人の関係に焦点が当てられていた。
しかし今や P.が自体において何であるのかが提示される。精確にいおう。
P.が父および子と、どのように関わるのか、それがこの箇所で主題化される。
ともあれ、我々はここに構造の反復を見る。
子が父に聴き、父が子を聴くように、弟子は子に聴きまた子は弟子に聴く。
父が子を人に遣わしたように、子はP.を聴く者に送る。
そして子が父のもとから来たように、P.は父のもとより発する
「発する」と「送る」が区別されていることに留意した上で、
人との関係にだけ絞っていえば、父―子、父と子―P.の間には相似た関係が
設定されている。つづく
400 :) この箇所に「神」`o theos についての言及がないことが注目される。 ヨハネ伝一章を除くと、父と子の関係が語られるとき、「神」についての言及 はない。父は子を遣わし、父は子(の語る言葉)を聴き、つまり父は子を愛し、 一方子はそのようなものであることにおいて父を顕す。 どちらかをことさらに神と呼ばないこと、むしろ「私(=子)と父は一つである」 と主張することは、この両者がそれぞれそのようなものとして神であること を示唆する。そしてこれは J1:3 とも調和しよう。ところで、明示的にそう いわれているのではないが、P.は父と子と一つであるといえるのでは ないだろうか?――しかしこの問いは、いま答えられるものではあるまい。 ゆえに私は、そのことを念頭におきつつも、 P.が人にとって何をなしうるのか、人に対する限りでのP.とは何であるのか という、目下のわれわれの問いへ戻る。
401 :
sum ◆heL0ISek :02/06/07 01:32
一見、ここJ15:26には P. が人に対してもつ機能について新たな手掛りはないよ うにみえる。しかし、すでに語られたことと合わせて考えるとき、以下のように 云うことは不当だろうか―― P.が人に対して担う機能の本質は「想起」にある ――と。 やがて来たるP.は、子が聴いた言葉を弟子たちに「思いださせる」だろう。 そのとき、「わたしについて証する」とは、子が語った言を、P.が弟子たちに 思いおこさせることに他ならない。 すでに与えられていた律法が子について証したのとは逆に すでに自ら語った言、子について、やがて来るP.は証する。 証が期待であり想起であれば、なるほど子がいるときにP.は与えられまい、 というのは、そこで子、すなわち「わたしはある」と宣するものは、 端的な現在、「ある」という事態そのものであろうから。云い方を換えれば、 「動詞的な存在」。しかし、この存在、「ある」ものは非人格的なそれでは なく、生きて、そこにあり、人が言を交わし、聴き、尋ねることが出来る 何者か、自らを証し、「わたし」と云う何者か――すなわちイエス・キリスト。 ヨハネ伝の主張にそって、われわれは今や次のようにいうことができるだろう。 かつて与えられた律法はなるほど子について証する、しかしそれは警喩において、 子によって成就されるべき未完のものとして与えられていた。一方やがて来たる P.は、「喩えによってではなく語り」、端的に子について証するものとなろう、 なぜならP.が語るのは、子によってすでに語られた言であろうから、またすでに 子は律法が証したものを成就しているのだから。 ここで私はあえて、語の意味を踏みこえる、ひとつの疑問を提示しておこう。思 いださせるもの、想起させるものとして P. を把握することが妥当だとすれば、 それによってわれわれ、ヨハネ伝のいう「あなたがた」が得るものは何だろうか? 真理であることはともかくとして、われわれと「はじめから共にいた」生けるキ リスト、しかしもはやわれわれの傍らにはいないキリストを想起することは、 われわれにとってどのような意味を持ちうるのか。励ましなのか、力付けなのか、 ――あるいは慰めとなるものなのか、と。 沐浴して参ります。ごきげんよう。
まじめな質問です。 なぜ、弟子たちはイエスのことを「主」と呼ぶのですか? 「主」とはどういう意味ですか? イエスが「主」と言うときは神様のことですよね? 「主」という日本語は、なんという言葉を訳したのですか? ご存知の方、ぜひ教えてください。よろしくお願いします。
>>402 一部引用順序を入れかえています。
> 「主」とはどういう意味ですか?
あるじ。主人。その人がいうことに従うべき人。バウアーもってる人補足あるならきぼん。
>なぜ、弟子たちはイエスのことを「主」と呼ぶのですか?
主(しゅ)だと思ってるから。
>イエスが「主」と言うときは神様のことですよね?
ヨハネ伝でイエスが「主」と呼びかける箇所ありましたっけ?
つねに「父」なんじゃないかな。うろ覚え。補足きぼん。
>「主」という日本語は、なんという言葉を訳したのですか?
`o kyrios.(キュリオス)
お答えになれば幸いです。間違ってたらスマソ。
>>403 ああ、さすがに「神」と言及する箇所はあるな。
呼びかけではありませんが。「わたしの父およびあなたがたの父、
わたしの神およびあなたがたの神」(ヨハネ伝20:17)。
引きつづき、つっこみを待つ。
403さん ありがとうございます `o kyrios.(キュリオス)という言葉も「あるじ。主人。 その人がいうことに従うべき人。」という意味なんですね?
>>398 romさん、お久しぶりです。ご発言ありがとうございます。
ヤハウェ ヤハウェのみ使い 天使
神(orヤハウェ)の霊 天使 ある霊
といったことをめぐるお話で、とても興味深いところでした。
今後とも折りに触れてよろしくお願いいたします。
↑表が思ったように出ませんでした。改めて: ヤハウェ ヤハウェのみ使い 天使 神(orヤハウェ)の霊 天使 ある霊
「字義通りの解釈」つー話が昔出てたけど、ヨハネ伝をナラティヴと して読むなら、その前にもうひとつやらなきゃいけない作業があるんでない? つまり意味の分析の前に「いかに書かれているか」。音声・韻律・その他もろもろの ナラティヴを実際に構成する素材としての、それぞれの言葉のもつ性格。 たとえば「とかとんとん」と「どっとはらい」は機能においてはナラティヴの終結 を示す点で同じだけど、それぞれの語がもつ音響の効果やなにかは微妙に違うよね。 いわば美術史でいう記述(description, Beschreibung)、パノフスキーのいう「第一層」(たしか)、 文学と造形作品は違うだろ、という反論がくるかもしれないけど、 ヤコープソンの『ボードレールの「猫たち」』はそこから話はじめるじゃないですか。 ナラティヴであることを前提にして読むなら、 そのエクリチュールの特異性の検証は、しなくっていいのかな、とふと思へり。 ヨハネ伝って独特な文体で、それは外国語で書いているというだけじゃなくて かなり意識的に作ってる部分あると思うのよね。たとえば(新共同訳だと差異が覆われちゃってるけど)、 "ame~n ame~n legw hymi~n"っていいかた、他の福音書じゃしないんじゃない? # データベース持ってないので断言(し||でき)ないけど。 # 余談だがルカには逆に"ame~n legw hymin"はないんじゃないだろか。 # 『トマス』は原文見たことないのでノーコメント んでもって、マタイ・マルコで頻出する、よりシンプルな"ame~n legw hymin" はないみたい、というか私の記憶にはほとんど残ってないんだな、ヨハネ伝では。 いくつか見落しがある可能性は否定しないけど。 で、ヨハネ伝でやたらこれが頻出するのには、たぶん意図してこういう表現に してる。となれば、そこにはなにか狙いがある筈だ。
で、なんでこういう言い方になるかだけど、意味上の差異はほとんどないわけで…… 荘重さを加えたいから、ってのが予想されるありがちな答えだけど、それって何でこの 表現が「荘重」なのかは説明してないから儲からないんだよね(そもそも 本来が想定された読者がそれを「荘重」だと思うかどうか、って問題もある)。 といって、他の福音書と差異化する目的にしたって、かなりに trivial な措辞だし…… # この辺、実は、アラム語ではどういう表現が一般的だったのかを踏まえんと、 # 結論は出せない。というか出すべきじゃない。でもまあ、雑談スレッドだからいいよね:) で、dendo.としては、ここをヨハネ伝筆者(集団?)は どーしても iambic tetrameter にしたかったのかなー。 と根拠レスに思ってみる、って第四脚は hy~mi~n だから長長か。iamb.4m.でこれありだっけ。>識者 # ……scansion は苦手なのです。つか、出来ないというほうがより正確だろう。 哲学者さんたちはこういうことあまり気にしないんだろうね。 でもあたし哲学者じゃないからどうしても気になんのよ。で、 文献学の人とかでそういう研究してる人っていないのかしら。 (というか、詩学とか弁論術とか批評理論とかなじんでたら、 一度はそこんとこ気になると思うんだけど、どよ) というわけで、この手の先行研究御存知の方おられましたら、 情報提供きぼん(ぉ
412 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 11:42
>(euangelion kata ioanne~n…これも本当に捜しちゃいました) すまそ、iwanne~n だな。まあ深夜なので許され…… えっ、新約原典の電子化されてるテキストあるんですか?!激しくURLきぼん。 昨日聖書の英語翻訳クロスリファレンスサイトを見つけたのはいいけど、 デフォルトの検索対象がNIVだったのと(N)RSVが検索対象にないので 激萎え。
413 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 12:07
>>411 御指摘のマザッチョの作品ですが、「冷静に」というのは自然な反応だと
思います。
図像学的意味はともかく、この作品を特徴づけるのは画像の中心を貫く
強い垂直性と厳格な透視図法(初期ルネサンスの透視図法が完成に
達した作品、ともいわれています)であり、この両者と抑えた色彩が相まり、
厳格な静謐が観者に熱狂ではなく、観想を促すのですから。
またここで、この構図の垂直性がたんなる縦横の線ではなく、むしろ
(プラトンが好んでイデアの説明に使った)二等辺三角形によって実現
されていること、かつ寄進者―聖人―イエス/父が同一平面にではなく
奥行きのイリュージョンを伴って配列されていることも指摘しておき
ましょう。この作品には聖霊が描かれていませんが、いわば構図の中で
聖数としての三はすでに表現されている、ともいえる。
観者はいちど十字架上のキリストに視線を導かれ(構図上の特色に
細かく触れることはしませんが、そういう構成の絵ですねこれは)、
しかしその瞬間、キリストの背後に立つ厳格な正面性をもった父の
眼差しに居ぬかれる。肖像画では斜めの顔(この絵のキリストは
左斜め下向き)は主観性・個性を、正面を向いた顔は客観性を現わす
効果をもちますが、いわばここで表現されているのは、地に目を
伏せている子(の人性)であり、まさにそれによって栄光を現わす父
であるといえるでしょう。
本スレッドのテーマにまさに合致した図像を提供してくださったワン公さんに
御礼申しあげます。これからもよしなに(ってここ雑談スレッドなので、お気楽にどうぞ)。
うっ。なわけねー。あれは聖三位一体の祭壇画じゃん。 で、祭壇画中聖母と聖使徒ヨハネだな。 でも聖霊がどこに描かれてるのかわかんないっす(爆) って、あ、これか。父と子の間に鳩があるんだけど、手元で表示させてる 画像だとよくわからん。……すっげえ馬鹿書いてるなあ。とほほ。 まあこの程度の奴ですから、他のことも真に受けずに聞いてね(ぉ
417 :
名無しさん@1周年 :02/06/08 20:55
でんどー> あれな。マザッチオの絵。 三位一体の神の救いへといたる間にある様々な行程が描かれている。 西方カトリックの教義の集約されたものだよ。 あと、メメントモリね。 IO FUI GIA'QUEL CHE VOI SIETE E QUEL CH'IO SON VOI ANCOR SARETE 我はかつては汝らのごとし、汝らもいずれ我のごとくならむ。 絵の下方にかかれた石棺上に横たわる骸骨の上には上記の言葉が書かれている。
いや、filioqueを顕すとかいろいろそりゃあるけど、 そういうイコノロジー的なことはあえてかかんかったのda。 てか語りはじめたらこのスレ一本じゃすまないっす:) 語ってもいいならがんがん語るよ〜って教会美術語るスレほしいかもしんない。 スペイン・バロックで三位一体描いてる作家あれだれだっけ。 エル・グレコ?それともムリーリョ?
419 :
名無しさん@1周年 :02/06/08 22:38
教会美術スレいいですね。
420 :
名無しさん@1周年 :02/06/08 22:40
トラトラジオンジオンチトフルモ トチャソウトチャソウホンミアン ジオンプラトアミアミ ミトラホンホントラツ トオライタチプララソト チタチトアミホン 教会バンザイ ワールドメイト
>>417 前から不思議に思っていたので教えていただきたいのです。
フィレンツェ以外の聖三位一体の図像は
死んだ後の状態でどことなくピエタに似ているんですが
その違いは図像に表わされる教義に
どういう差が生じているのでしょうか?
どちらにせよ15世紀以降の図像なのでピエタともども
ヒューマニズムなども絡んでるようにも思うのですが
その辺の事情を教えてくだされば助かります。
>>415 情報ありがと。単語の説明までしてくれるんですね。
しかし、きれいなフォントだなあ、と思ったら、一節ずつ、gifファイルなんで
すねえ。
423 :
名無しさん@1周年 :02/06/09 01:21
>>421 >フィレンツェ以外の聖三位一体の図像は
>死んだ後の状態でどことなくピエタに似ているんですが
ん?例を挙げてよ。チョト今思い出せない。
>>421 ルブリョーフ「旧約の三位一体のイコン」の系統をお忘れでは(父スレ4or3でガイシュツ)
ちなみに翼をもった天使ではない「三者」による至聖三者の図像もあるのですが
どこで見たか忘れた(ムリーリョのような気もする……)。
>>425 むしろそちらはオーソドックスな聖書物語の釈義を表わしていますが
フィレンツェのものは別のニュアンスに見えるのです。
もしかするとフィリピ書のキリスト賛歌の「それゆえ神は彼を高く上げ…」
というくだりが、「十字架の死にいたるまで従順であられた」の
「十字架」が切り出され受難との同時性を与えられたのかと思っています。
手元にある図版で御父は左手で十字架を支え、右手は祝福のポーズを
取っていますが、両手で持ち上げるほうが荘厳な雰囲気を与えます。
逆にその意味ではピエタ風の死んだイエスはむしろキリスト賛歌の全体性を
語っているようですが、むしろピエタのほうが親しまれた図像であるようですね。
聖霊が頭上にあるのは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面の
「これが私の愛する子、わたしの心に適う者」という意味があるのでしょう。
そのため使徒信条にあるような受難を歴史的証言として受け止める
ナザレ人イエスの板が省略されています。
下でたむろう聖人たちは伝統的な受難の証言の位置に立っていて
聖餐の交わりを意識させます。
別の絵では顔と羽だけの小さな天使12人がイエスの十字架の周りを囲んで
いますが、ゲッセマネの祈りでのルカ福音書の記述にある
「御心のままに行ってください」という祈りのあとに天使が天から現われ
力付けたというものなのでしょう。
個人的な感想では、三位一体を受難にまつわる図像として発展させた
にもかかわらず、過去において問題となったペルソナの上下関係が
同一であるという教義をふたたび蒸し返すものになっているように思います。
filioqueの問題でも指摘されるのですが、聖霊をキリストを証するという
役割に限定することは、教会の神秘主義を信条において食い止めることが
あったものの、聖霊の創造的な働きを讃美することを止めてしまったと
言われています。他の並列や三角形のシンボルで表わすものに比べ
ペルソナの垂直構造をより意識した図像であると言えそうです。
ピエタに対する聖三位一体像もそうした教会の宣教的姿勢が強く現わしている
ように思えます。
文献で確かめられるといいのですが…。
なんかログがヘン。 なんで、書きこんでみる。 あ〜〜 あ〜〜
>dendoさん ここにかいていいのかな?ヨハネ伝の注釈なら、誤謬スレ1のNewAdventにあります。 アウグスティヌス「ヨハネ福音書講解説教」95.2では、 ヨハネ16:8の「義について世をとがめる」とは、 「見えないことを確認する」信じる者たちの「信仰の義」との対比で、世の不信心がとがめられる、というような説明になっています。
改めて情報thanx>all
汁さんの紹介だから、カトよりの釈義かな
>>428 >>426 十字架は歴史的記述でないというのはその通りでしょう。
INRIのところに聖霊(鳩)が来ているのは、
むしろ公生涯の最初と最後を一瞬のうちに凝縮しているとみるべきかと考えます。
そして、十字架=画面中心にならぶ父―聖霊(鳩)―子は、
受難がおこなわれている有限な世界に属すると「ともに」時間の外なる領域(聖霊もまた強い正面性を有する)、
神的秩序における「父と子からの発出」をも表現している。ここにも人性と
神性の混同されざる並置をみることができます。つづく?
とはいえ私は東方神学のほうにより共感をもつので、ルブリョーフの
「まったり三位一体」(ぉ のほうが好き。マザッチォのこの作品も好きなんです
けどね(透視図法の説明するときには、いつもこれ使うっす)。
某青葉城の大学*受かってたらこんな話でめし喰うことになってたのかなー。
って匿名だけどとりあえずM先生いたから本業はともかくとして、わしらが
受注するバイトは基本的に美術史関係が多いんですわ。わはは(詐欺だ)。
*ルネサンス屋、つか「近代?それおいしいの?」って人々のすくつ。
(絶対名前を出せないけどとりあえずMとしとこう、な)某先生いわく
「現代やってますっていう学生いたんだよ。
で『なにやってるの?』ってきいたらPRBだって!PRBだよ!!
信じられる?! PRBが、『現代』!!」
というわけで、青葉のお城は端からみると魑魅魍魎のすk、じゃなくって
実に浮世離れしたとこだったりする。。
430 :
ワン公@浮き世 :02/06/10 00:06
PRBって何だと思ったら…ラファエル前派ですな。 あれって日本の少女マンガに影響与えてそうですね。 姉が変な趣味を持っていたんで、小学生時分で読む機会が多かったのですが 「パタリロ」とか「エロイカより愛をこめて」とか宝塚歌劇団とか(おっと…)、 そういう論旨なら十分に現代的ですけど。 教会に置いてあるマンガのイエス・キリストは福音を語るとき花びらが舞って るんですぅ。で、眼もキラキラ。十分歴史に残る書物です。 個人的には「マリアのウィンク」(視覚デザイン研究所)という本が好きで ともかく宗教画の図像をマンガでパロって解き明かすというメッタ切りの本です。 ちなみにペテコステの聖霊はローリング・ストーンズのあれが登場いたします。 同じシリーズで終末論を扱った本のタイトルは「おれたちに明日はない」。 日本のキリスト教は安泰だと感動で涙が出ました。
フォローさんくすこ。 PRBはむしろ英文経由で入ってるんじゃないかな。ラスキン→ターナー→ ……つー受容があったように(漱石はそうだね)、Dante Gabriel Rosetti なんかの詩を通じて。あとミレイなんて最後は体制の犬(笑)だから、 その時期英国留学した人たちは、そういう目で初期PRBをも見た可能性はあり。 RPBでは初期DGRの『受胎告知』同じく後期の『ベアタ・ベアトリクス』が好きっす。と一応宗教話に戻して おく(なお、前者はゴカーン魔に怯えるがごときマリアが冒涜的だといって、けちょんけちょんに叩かれたさうである)。 # てか、他の人、下手だからなあ。ってDGRも初期は禿るほど下手だが。 なお Burne-Johns の Golden Stairs も好きだけど、森村のパロディの方がさらに好き(ぉ 少女漫画はあれはなんだろうな。宝塚研究は東大の渡辺先生とかその門下が かなり精力的にやってますからそれも御覧ください。ってあの辺の人たちは そういう表現が確立する前をむしろ攻めている(だから池田文庫ではけっこう 冷たくあしらわれてる(藁 らしいぞと)わけだけど。。 >同じシリーズで終末論を扱った本のタイトルは「おれたちに明日はない」。 > 日本のキリスト教は安泰だと感動で涙が出ました。 すばらしー。表紙がボニー&クライドだったりすると最高なんだけど。 っていうまでもなく?あ、でもあえて聖画像と取りあわせるのもいいなあ。。 # 正教はこういうセンスはないんだよね。 # ギリシアは「修道士さんが直接質問に答えるスッドレ、じゃなくてラジオ番組」 # とかいろいろあるようですが。まあそれでもまじめなことに変わりなし。 ところでワン公さんは教派どこなんでしょうか?改革派? いや、いいたくなければ、よいのですけど。 # あとまた sage 進行に戻しません?なんか正典性スレとか胸が悪くなるほど厨房くさいんですが。。 ##打たれ弱い私。 今日は雑談だけになってしまいました。早期覚醒で昨日4時間しか寝てないので おちまっす。
くきーくさってた。↑わたしっす。いみなしレスすまそ。
>>431 >ところでワン公さんは教派どこなんでしょうか?改革派?
幼い頃から引越すたびに地元の教会に行っているもので
ドイツ福音派→修正カルヴァン主義→またーり改革派
ということです。
就職してからは改革派にずーとお世話になって
結局一番長く滞在しております。
パラクレートスの「パラ」について考えてました。 前置詞パラは、+属格だと、「・・・から」、+与格だと「・・・と共に」 という意味になるわけでしたが、 ヨハネでは、「父から聞いたこと」という句の中のパラや、 「・・・と共にいる」のパラが目立つ感じです。 動きの方向には、プロス−−ただし、冒頭の「神と共にあった」は、これで すよね。 パラクレートスは、advocatus と訳されるような意味で使われているとする と、「傍へと呼び出された者」ですが、傍とはキリスト信徒の傍でしょう。 聖霊は信徒と共にある、わけですね。 では呼び出したのは誰?信徒?それとも父?こういうような言葉使いをヨハネは意識してしているような感じがしてます。
>>435 paraの用法で父と共にあり、父から来るものというのは、
確かにヨハネでは際だってますね。なるほど。
特にイエスについての証(5章)については「人からではない」
というコントラストも加わってきます。
思うのはこの父から来て、父と共にあるイエスという人物を廻って
霊による知識が具体的な形をとったことです。
プラトン主義の霊が輪廻的に世を廻って蓄積された知識を思い起こす
のに対し、イエスの存在はそうした知識の完全な姿は神のみから来る
という途轍もないテーマが横たわっているように思います。
その意味ではparaは内在というよりは他方の存在であるように思います。
一方で、
聖霊はキリストの天に昇られた後に全てを明らかにするために来ると言い
イエスの実在が信徒のうちに留まる普遍的な存在となることを
証しているようですね。もとよりそれは天地創造の先より存在したが
キリストにあって罪の赦しと共に改めて人との関係を与えられるようになった
ように思います。その意味ではparaは改めて傍らに来たものと言えます。
ヨハネ福音書のユニークなのは使徒の権威が意識的に避けられている点です。
その意味では聖霊の役割はイエスの存在と深く結び付けられていると言えます。
ヨハネ福音書においては三位一体の関係は非常にタイトな感じです。
辞書梱包おはり。次はテキストだ、があるはずのものがけっこうない。うみゅみゅ。
>>435 「父から発する」「子が送る」とあるけど信徒がどうってのあります?
とはいえ、向こうからこちらへ、である以上向こうで呼んで向こうで応える〜♪
というだけではなんか妙だし。……両方で呼んでんのかとも、ふと。
>>436 「エルの物語」?
しかし「アナンケの紡錘」もまた神のふところといえなくもない(膝の上だそうだ)。
げ、国家篇の上巻(岩波文庫)がどこいったかわからん。鬱だ。
あと、遅レスだけど「傍らに呼ばれて在る者」は放棄するの?>ぶ.
ちとくどいけど、悪くないと思う(語の本来の意義も逸脱してない印象あるし)。←久々に何様感横溢
あるいは(つねにかたわらにある)こと自体はこの語の含意としてではなく別の
箇所で指摘することにしたとか?
ちなみにこの傍らに来るという行為はグノーシスのように 知識に至ることによって救いに至るという解釈を否定し、 知っててもなお罪を犯す人間の姿を見定めたうえで迫って来るもののように 思います。人が肉の思いによって霊の真実に至ることができないときにも、 聖霊はキリストの憐れみにおいて正しく共に居て全てを明らかにする。 霊とはいえ空虚ではなく、非常に力を持って迫り来る存在であると思います。 それが創造主の父から来て、父と共にいる、というリアリティを伴った ケリュグマとなって、永遠の命への道を照らし予見しているように思います。
>>437 引越しですか?
以下コピペ)
『メノン』という対話編がありますが、そのなかで「徳は教えることができるか」
という問いをメノンは立てます。これにたいしてソクラテスは、そのような問い
を立てるには、まず徳とはなにか、徳そのもの、その本質について知らなければ
ならないといいます。ここで、有名なアポリアが現れます。メノンは、あらかじめ
知ることのないものをどうして探求できるのか、またもし知っているのならば
探求する必要はないではないかと答えるのです。これは詭弁よりも、常識的な
答えだと思います。たとえば、誰かに「車を探してこい」というならば、
そのひとが車とはどういうものかを知らなければ見つけることは不可能だからです。
ここでソクラテスは神話をもちだして返答します。
魂は不死である。魂はこの世もハデスもいくどとなく経巡ってすべてのものを
見尽くしたのだから、魂の知らないものはなにもない。けれども、魂は身体に
墜落するときに、自己の知ったことを忘却してしまう。だから、本質を知るとは、
思い起こすことにほかならないのだという話です。
…ということで、オリゲネスの輪廻の用語の意味も少し絡んでいるようです。
と何となく理解しただけ。
>>438 目下のお話をグノーシスとの差異化に結びつける点、なんか
よさそうな気がしました。
>>439 言及されているプラトン対話篇的考え方がキリスト教思想の中で
考え直されると、アウグスティヌス『告白』第10巻のmemoria論あたり
になるということでしょうね。
>>437 信徒は聖霊を送ってくれるよう頼め、なんてえ言い方なかったっけ?
わりと一般的な読みなんじゃないの?田川[1997]でもヨハネ伝にはそんなこと
指摘してあった。というかもともとグノーシス文書だったのを正統派信仰に
換骨奪胎した、というふうに読めるんだが……
>>439 というより、追放:)
女が男を離れたとき、死が入ってきて、二人は楽園を追われた。
といささかグノーシス風に措辞してみるテスト。
>>442 ヨハネ伝の中に直接そのままの措辞はないと存じますが……
# 14章以下の pneuma 出現箇所: 14:17,14:26,15:26,16:13,19:30,20:22
御念頭におかれたのは J15:7
「あなたがたがわたしにつながっており、
わたしの言葉があなたがたのうちにいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(新共同訳)
でしょうか?
いやむしろ、J16:24 かしら?
「……願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(op.cit.)
というより、そもそもお手元で調べられるのではなくって?:)
ま、ちょっとめんどかったというか、 対話的にすすめるには、聞くふりをするてえのもいいかな、などと、ね。
>>443 「一般的な読み方」という評価は、どの辺を指していっておられるので
しょうか。
私は、パラクレートスが信徒のもとに遣わされる、というあり方を、反グノー
シスの対応として理解しているところを指して、興味深いと言ったのですが。
それも一般的見解なんでしょうか?不勉強ですいません。
ヨハネを書いた状況においては、すでにこのグループの信徒たちは パラクレートスが自分たちの内に遣わされてきている、という意識 でいたんでしょうね。自分たちが真理に与っているということの 根拠をここに求めているということになりますかね。 ポスト・イエスの状況なんだけど、イエス在世当時と、パラクレー トス内在の現在とが重ね合わせになって、描かれている、という わけで。 こういったとこと、正典スレと絡ませるとどうなるか。個人的には 絡ませたくないですが。
>それも一般的見解なんでしょうか?不勉強ですいません。
いぢめる?
……ソースを提示できないけど雑談だからいいよね。
ヨハネ伝の文書性格についてはいろいろ説があるようだけど、そのなかの
ひとつにグノーシスを意識してる(特に「真理」概念を巡って)というのは
何箇所かで見たような覚えが。
てかね、ヨハネ伝てあきらかに「読者」が語られている事実について
一定の知識をもっていることを前提にしたエクリチュールを採用してるでしょ?
(ex.「まだヨハネがいた頃」:しかし受洗者ヨハネの死はヨハネ伝内部では
語られない。また12使徒のリストもなかったような気がする……/
たびたび出てくる「地の文」筆者を意識させる語り)
どういう性格のものかはともかく、背後にある種の論争の想定する読みは
出てきてしかるべきだと思うのね。それを明言しないところはルカよりも
洗練されてるな、ってのは余談。
えっと私は自分がいま読んでる文献がどういう性格のものか、については
読んでる最中は歴史的事実としてわかっていること以上は頭から追い出す
のが好きなんで、いま問題になっていることは私にとってはとりあえず
どうでもいいこと、だということにしておきますが、
>>438 には確かに
一定の説得力がありますね。
でもとりあえず、傍らにおいて続きを読みすすめません?
# 絡ませるかどうかはともかく、へんなもの召喚しないでね>ぶ.
検討はあとでもできる。
>>447 福音書冒頭やトマスの疑いに象徴されるように
基本はロゴスが肉となったというキリストの存在が光っていて
まずキリストの存在自体がグノーシス礼賛と相容れない。
そしてパラクレートスはイエスの昇天後に約束された霊として
主が共に居るという契約の究極の姿として降りてくる。
これはグノーシスのような所有の概念のない事物で、
常に差し迫ってくる恵みとしてやってくるように思います。
伝統的には「聖霊よ、来たりたまえ」と讃美してきました。
ちょうどイスラエルが出エジプトの旅の途上で受けたマナのように
保存できずしかも降り続けるもののように思います。
しかし主イエスが言ったように、生けるパンであるイエスは
パラクレートスを遣わして救いの道を明らかにされる。
もしヨハネ教団がパラクレートスの使信を内在したとすれば
イエスをケリュグマ的存在として証言しようとしたことかと思います。
他の共観福音書と大きく異なる点は、主イエスが共に居るパラクレートスの
役割を、生けるケリュグマとして存在するイエスを描くことにおいて
深く結び付けているように思うのです。
>しかし主イエスが言ったように、生けるパンであるイエスは > パラクレートスを遣わして救いの道を明らかにされる。 そこっすよ。たんなる外在としては理解できないだろう、と予想というのは。 1.「父は子のうちに、子は父のうちに」と相似した、ある種空間を越えた「空間的」な表現の頻出 2.傍らで「言葉を思いださせる」/でも言が想起されるのは人のうちにであって外にではないだろう 3.「生けるパン」だとすると……パンは食って(=内在化することで)はじめて身の養いになるんでない? 今日は祭日前なんで晩課で「五餅の祝福」(聖餅・葡萄酒・油を祝福)、 早課の聖福音の詠みのあと、祝福された聖餅をいただきました。 いままでと方式かえたのか、ぶどう酒に浸してあってこれはこれでおいしかった。 こんど家でもやってみよ(ぉ
ヨハネ福音書には、共観福音書にないイエスの教えが長くまとまった形で多く 収録されていますが、あれは昔からの伝承とは別個に、著者が聖霊をとおして イエスから直接授かった(と考えた)ものと見ていいでしょうか。 共観福音書著者が基本的に伝承の編集者にとどまろうとしているのに比べて、 異彩を放つあの書きっぷりには、「伝承の権威に頼らなくてもおれは聖霊に 教えられてちゃんと知っているんだ」という確信を感じます。
「イエスから直接授かった」 聖霊うんぬん以前に、使徒が筆者だと(微妙な書きぶりだけど)主張してますが。。 聖霊、というかP.は「思いださせる」のであって、なにも新しい情報を持ってくる わけじゃないのに御留意。(まあ、「解釈」はそれ自体が新しい情報だという 考え方もあるか) # 以下余談。 # 「書き記したのは、この弟子である」のあとに、「そしてそれは私です」とつけるか # 「……というのをさらに私が書き写しました」とつけるかでニュアンスずいぶん違うよねえ>最終章 # 後者だとなんしか『バラの名前』的だけど。修道院長の馬はさてどこにいるのであろうか。
ご挨拶しにきました。 しばらく書きこみできません。話が面白くなってきたところなので 残念ですけど。 宗教板、というか2chに書き込むようになってから最初に使った、 それだけに自分でも愛着のあるコテハン「名無し電動車」は今日を限りに 封印します。……ある人の思い出、ある場所の思い出と一緒に。 おもえばこの小さな部屋、小さな庭は、私たちにとってエデンの園のような ものだった。でもそこでは実は何も生まれていない――エヴァがセツを生んだのは エデンの園を追放されてからでしたね。 いつかこのスレッドにふたたび書きこむこともあるでしょう。でも、 名無し電動車の名で書きこむのは、このレスが最後です、日が暮れて、 昇天祭の一日がおわる今、私もまたここから去っていくことにしましょう―― 天の王慰むる者や、真実の神゜ 在らざるところなき者、満たざるところなき者や 万善の宝蔵なる者、生命を給ふの主や 来たりて我等のうちに居り、我等を諸々の穢より潔くせよ 至善者よ我等の霊を救ひ給へ 神や、我が親友、「父スレ」に労しまたこれを読む諸人を、 生神女と前駆受洗と福音せし使徒と諸聖神父、 成聖者ニッサのグレゴリイ 日本の亜使徒、大主教ニコライ およびことごとくの諸聖人の祈りによりて憐み、これを救い給へ 爾は独り人を愛する主なればなり。 我光栄を爾聖三にして一なる神、父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。ame~n.
454 :
名無しさん@1周年 :02/06/14 00:34
dendo.さん ショックです。どうしてもうちょっと前に言ってくれなかったんですか? きっと明後日には、これを見てくれると思います。 アメリカですか? もしかして留学ってこたあないでしょうね? いや、それでもいいんですが。 あなたのいない2chが、コーヒー豆のないコーヒーだと言うことを よもや忘れてくれているんではないでしょうね。 あなたを励みにやってきた(別に尊敬なんてしてませんが)私の身にもなってください。 あ〜も〜、しょっくだ〜。あ〜、もう2chに来るの止めるかな〜、も〜。 どこからでもいいから、とにかく一日に一回は覗いてください。頼みマス。
>>453 いろいろと考えるとこもあったでしょうから
新しい生活においても主の御祝福のあるようにお祈りします。
正教会のほうでも早く洗礼準備を受け入れてもらえるといいですね。
主は我々の主となりたもうことを創造のはじめより決意され、
キリストは十字架において慈しみと裁きをなしたもう方です。
その事実に正面から真摯に取り組むことを主が喜んでくださり
聖霊があなたの道を照らしてくれますように。
456 :
名無しさん@1周年 :02/06/17 07:52
アーメン
ええと、皆さん、こちらには本当にどなたもお越しにならないようになってしまいました。 空家を掃除して空っぽにしておくと、悪霊が入ってきて、元の状態よりも悪くなるって 聖書にあるし、もともと誰のふんどしか、っていうと、Swedenborg論者が責任を取って然るべきと 思いますので、このスレッドの残りで、りさのとこでやっている 「例えば、パウロとSwedenborgはこういうところが似ている」を こちらに引っ越してきてはいかがかと思います。 (それがすんだら、パウロとSwedenborgはこういうところが似ていない、もやってみたいけど、もし暇があれば、の話です。) 別に、りさは、専門家ではないので、たいしたことはできません。 でも、おかしいとお思いになられても、どんどんご意見を頂戴したくはないです。 どっちかというと、見て見ぬ振りをしてご覧ください。 とにかく、このスレッドを使い切る所までは、何か書きます。
458 :
「例えば、パウロとSwedenborgはこういうところが似ている」の1 :02/06/19 09:04
Swedenborg 天界と地獄(アルカナ出版)9-@のまとめ あらゆる主の善と真理のみならず、命もすべて主から来る。 存在するすべては、自力で存在することなく、「万物の生命の本質そのもの」と呼ばれる方から存在を受け、存続する。 唯一の生命の本源である神との関係が断たれるとき、たちまち崩れ、姿を消す。 パウロ ローマ11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、 神に至るからです。 Tコリント8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものは この神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。 また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべての ものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。 コロサイ1:16‐17 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、 地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も 権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって 造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、 万物は御子にあって成り立っています。
459 :
「例えば、パウロとSwedenborgはこういうところが似ている」の2 :02/06/19 09:12
Swedenborg天界と地獄(アルカナ出版)9-Aのまとめ 唯一の神から出る善と真理の受け入れに応じて、信仰と生活の中で受け入れるものに天界は存在し、拒むものには地獄がある。 拒む者には、真理が 偽りとなり、善が悪となり、生命が死に変わる。 人の意思は、善に向かう愛の命、理性は、真理に向かう信仰の命。 パウロ Tコリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、 救いを受ける私たちには神の力です。 Tコリント1:23−24 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。 ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、 キリストは神の力、神の知恵なのです。
460 :
名無しさん@1周年 :02/06/19 12:56
461 :
immemorabia(1/3) :02/06/19 17:19
なぜかネストレ・アーラントがすぐ出てくるところにあったので 「なぜここでディカイオシュネーなんだろう?」というようなことを 考えながら、あるいはモナド論といままでの議論の関係とかを考えながら 荷ほどきをしつつ、学校にも再び顔を出すようになった。というわけで、 引き蘢り生活から違う段階に移行しつつある。つうのが現況。 某中世屋に「君は研究者に向いてないと思う」とばっさりいわれ、 ふざけんなと思いつつ、まあそういわれても仕方のない部分はあるなと 揺れる今日このごろ。つか昨日のことなんだけど。 で、荷物をほどきながら、自然とか他者とかについて考え、ときどき メモを書く。というのはまだマシンが使えないからなのだが、久々に 手でものを書いてみて、デヴァイスが違うと微妙にエクリチュールが 変わるというごく当たり前の事実に、感動する。 PCは人を饒舌にさせるね。話をするときの饒舌さと、それは明らかに異質だ。 ということを友人と久々に呑みながら考える。プラトンがいうように、言葉の 本来のある場所は文字の中ではなく、音声の上なのだろう。 あるいはこのスレッドの文脈に即していえば、「息にともなわれて」。
462 :
immemorabia(2/3) :02/06/19 17:23
……いくつか新たに考えたことも、実はないではない。ないのだが、 まとめられるならまとめてどこかに投稿するほうが 生産的なのかなとか、かなりに虫のいいことも考えてはじめている (まあ、たぶんそうはならんが。そんな力量ないよ。という以前に あまりにも人の褌だし、だいたい、てけとな雑誌が思い当たらん。。) 最前書いたように、家のマシンがまだ稼動できないので(つうかどこにあるのかすらわからん) 広告の裏にめもを書き書きしている。いまは紙がないので、ここに書いておくけど(ぉ たぶん、ho parakletos は他者存在をそれとして認めかつ関わるための可能の条件で、そこでいう「交流」とは 「…(それは端的に言語的交流に他ならない)」とかいう類の迷妄に全面的に対決 するようなものになるだろう。 #で、我々感性学の徒としては、この手の言説に対して「いっぺん死んで下さい」*と冷ややかに #言い返す。なぜなら人間がその生においてまずはじめに触れるものは、概念になる前の感性、 #la raison d'autreすなわち「感性の論理」に従いそれによってのみ運動するものだからで、 #もちろん言語は、というよりは哲学はそれについて正当に記述する権利をもつだろう、が #しかし記述は記述でしかなく、即自的にそのものを指し示しているわけではない。 #……そしておそらくは感性のもつ固有な論理は、信仰のもつ固有な働きに #より近しいものであり、ゆえに信仰の対象は想像力のなかで最もよく、そのようなものとして、 #把握されうることになるだろう。ゆえに、と私もまたある人に和していう、 #「すべての形式は、かつてそうであったように、詩の形式に還帰しなければならない」−−と。。。 * 私はそこまではいわない、というか言えないが、「若いって素晴らしい」とは思う。
463 :
immemorabia(3/3) :02/06/19 17:28
ところで、「猿」昨日おととい落ちてましたか?>某所 某S氏に移転通知兼ねて久々にメイルだしたら 「そんなホストありません」攻撃を受けてちぃとくらんときた。 相談したいこともあるのになあ。。むぅ。夜に電話しよかな。。
464 :
名無しさん@1周年 :02/06/19 17:29
マリヤはエロヒムであった。 旧約聖書の第1章第1節に書かれている「神」は「エロヒム」である。 それは父一人ではなく、女一人、男複数からなる人類を超えた存在だった。 彼らは一体となってことばを生み、天地を創造、 さらには女性エロはマリヤとなって降臨し、 聖霊と呼ばれる男性ヒムの妻になり、キリストを創造した。 だから、キリストは下の下である。 我々が崇めるべきは最高の神々、エロヒムである。 マリヤは天地創造以前から存在したエロヒムである。 崇めようではないか。
あら、dendo.さん、おさらばなのね。やっぱりね・・・。
猿は木から落ちないのだ。だから最近も落ちなかったのではないだろうか。 驢馬は猿から遠く離れていたので、猿が落ちたかどうかを知らない。 でも、猿を舞わすことはずっとできていた。昨日は驢馬は猿との縁が切れて いたので、落ちたかどうかわからない。 以上、スレ違いだったかな。 #嘘吐きは、いつまでたっても嘘吐きだ。アバヨと言われても本気にして はいけなかったのだ。かもめはかもめなのだろうに。
467 :
「例えば、パウロとSwedenborgはこういうところが似ている」の3 :02/06/20 09:51
「例えば、パウロとSwedenborgはこういうところが似ている」の3 Swedenborg 天界と地獄(アルカナ出版)9-Bのまとめ 天使は、すべての善と真理は神から出ていると認識しているので、 自分が善を行ったと感謝されるのを嫌い、拒む。 善のために善をすることを「神からの善」という。このような善こそが天界を形成し、 自己目的の善行については、それを善とは呼ぶことはない。 パウロ 「聖霊=神」。別にパウロに限ったことではなく、聖書全体に見られます。 (Swedenborgにとって、内住して信者を指導するのは「神のみこころの通りに行う 天使(および善霊)」。ところが、天使は、人間に影響した善を自分に帰されることを 嫌って自分を表明せず、すべての善を神に帰す。あるいは、使命の達成のためには 神になりきる。よって、聖書記者が「聖霊=神」と、あるいはパウロが内住の聖霊を、 神と認識したのはSwedenborg的にみても、正しい)
私もすべての善を神に帰することにやぶさかではありません。 したがって、今後は、「これは私がやっているのではない、神がやっているのだ」 といい、神になりきって「私は神だ」ということにしましょうかね。おっと 2chにはもうそういうのがいましたな、確か。 これも「Swedenborg的にみても、正しい」ことになりそうです。
469 :
「例えば、パウロとSwedenborgはこういうところが似ている」の4 :02/06/21 09:45
Swedenborg『天界と地獄』アルカナ出版10から 善と真理を自分に由来すると信じている者は、天使にとっては泥棒(主のものを奪った)、愚か者である。 パウロも自分のよいものは神に由来すると告白している。 Tコリント 4:7 いったい誰が、あなたをすぐれた者と認めるのですか。 あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。 もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。 Tコリント 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。 エペソ 2:10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって 造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ 備えてくださったのです。
2chは苦手といいながら、やっぱり出てきたか。 分かってはいたけど、本当に面白いわね。 もぐら叩きのもぐらみたいね。 末が好きなら、新約のみならず旧約も、 信者達が勝手に作ったものと考えて、 参考資料程度にしておけばいいのに・・・。
それから、弟子達が呼んだ「主」の意味は、 主人を意味したから、そこのところはちいヨハさんによろしく。
472 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 10:43
>462 どっかで会ったような、会わなかったような・・・・ 心理学と関係がありそう。「発達心理学」の本に、 それに関係する記述があった。
キリストは普通の人間!!なんで神に祭り上げてるのか理解できん
474 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 11:43
キリストが普通の人間なら、当時の律法ガチガチ、選民思想に支配された社会 的環境の中において、誰にも教えられる事もなく「愛」など人に、しかも生命 を危険にさらして人々に語る事など出来ないだろう。
475 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 12:28
>>474 いや、普通の「人間」だったからできたんだよ。愛を説いて危険を
犯してもおかしな権威に否を突きつけることがね。そして、イエス
が人間であり人間の側に立っていたからこそ、人々の支持を得た。
少なくともイエスがキリスト教の言うような「父である神と一体と
しての神の子」だったとしたら、あんなことはできなかっただろう。
476 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 14:02
>475 「父である神と一体としての神の子」の意味ですが、誤解されているように思います。 ヨハネ 7:16〜18 そこで、イエズスはこうお答えになった。 「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしをお遣わしになった方のものである。 その方の意志をはたそうとする人なら、わたしの教えが神からのものか、それとも、 わたしが自分勝手に話しているか、わかるであろう。 自分勝手に話す者は自分の栄誉を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄誉を 求める者は、真実な人であり、その人には不実なところがない。 あなたが言われるようにキリストは「人間」としてお生まれになったが、霊的には、 神と一体であるということです。そしてその「愛」は、普通に言われているような ものとは似て非なるものです。
>>476 いや、だから「霊的にも」人間であったからできた、ってこと。
イエスが人間であるというのは「本質において神の一側面である
神の子が人であることを演じた」のではなく、「本質において人で
あり人として生きて人として死んだ」という意味。
本当の神を知っているならば、このスレの題が間違っているのは 直ぐ分かる、イエスはこの世に生まれこの世に育った。この世の全て こそ、神の本体である。
479 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 14:18
>477 そう思いたいならば、それはあなたの自由です。 ただ、 1+1=2 は誰がやっても同じ答えを導き出せますが、1+1=2 を創造することは不可能であるという事実をどう思いますか?
480 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 14:18
神とは一切の生命の根源であると理解すれば、 人はみな、神の子であるのが「普通」と思われ。 自覚の問題としては個々人に委ねられるわけだ が。
481 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 14:19
>>478 そのとおり、木を割ればその中に、石をどければその下に
イエス(神)はある(トマス福音)。
482 :
名無しさん@1周年 :02/06/21 14:26
キリストのペルソナを父なる神と同一視する 態度は、キリストの地上的人性を不当に絶対化 する危険がある。そういう風にキリストを理解 する者も、同じように自分の不完全な地上的自 我を絶対視して、自分を「神の友」だとか見な し始める。 あるいは逆に、キリストを父なる神と同一地 平に棚上げしてしまうことで、キリストの教え を同じ目線の高さで受け取らなくてすむように なる。 ぬぼれた
驢馬は、実は木から落ちた猿だったのか。 それとも、はじめから驢馬としてこの世に生を受けたのだろうか。 地上を歩き回り、人からは asinus と愚か者の代名詞のように扱われ、 それでも驢馬として、あるいは真から驢馬だから、地上のことに 鋭い眼差しを向けたのだろうか。 あるいは、木の上から見た景色を、驢馬になってからも見ていた のだろうか。 観衆はそれぞれ、どっちであって欲しいか、という自らの思い に応じて、果たして驢馬は何者なのか、について語る。 では、観衆たちは一体誰なのか。猿なのか。驢馬なのか。
「右の頬をぶたれたら、左の頬を出せ」と語った時、 語った者は、ぶたれてもぶち返すことができない人々に向かって、 こう語ったという。その人々にとって、 ぶち返す代わりに、もう一方の頬を出すこと、 「こっちもぶったらいかが」とさし出すことは、 相当な抵抗の意思表示であった。 だが、その語り手の墓を、いやその代わりに、 死に場所としての十字架を、麗々しく飾り立てる者たちは、 ぶち返そうと思えば、ぶち返せる者たちであり、 それにもかかわらずぶち返さないことを、 「敵を愛する」行為だと解釈してしまった。 なんと都合のいい解釈。 ぶつ者を蔑視し、自分を優位に立たせる解釈。 チャリティと言われるもののいやらしさは、ここに遡源するのだろう。 地上に生き、この世の矛盾を鋭く突いた者を、 天上に祭り上げたのも、この解釈する人たちだったのだろう。
>>469 瞑想によってビジョンを得た人は西方教会の伝統に多くいます。(以下コピペ)
…とくにスペインには,アビラのテレサや十字架のヨハネらの瞑想神秘主義者が出て、
祈りによる幻視体験を最重要な信仰生活としてとらえ、
また反宗教改革期のイグナティウス・デ・ロヨラも《心霊修業》と呼ばれる一種の
幻視体験カリキュラムを構築した。(コピペ終わり)
スウェーデンボリは神秘体験を神の認識論に土俵を移すことで
啓蒙主義時代のムードをいっぱい背負っているように思います。
そして神を正しく認識することによって救いを確証するという方法は
知恵(グノーシス)と聖霊との間で揺れ動いた古代教会を思い出させます。
神は認識によって近づくのではなく、自身が存在するものなのです。
(続く)
また幻視がケリュグマを通さずに神を認識できるという点では、
北欧に残る精霊信仰の名残を感じさせます。
古代パレスチナのバール神は豊穣の精霊信仰でしたが、
信託者は世の中の現象を精霊として祀っていました。
近代科学はそうした精霊現象を駆逐したかに見えたのですが、
一方で人間万能の世界観を増長したように思います。
スウェーデンボリはそうした時代のなかで神の認識の恣意性を
幻視によってわざと氾濫させてしまったような気がします。
ケリュグマはそうした神秘の氾濫を抑える役割を担ってきたのですが
ケリュグマが人間の人格と関わることを本望としているので
一定の恣意性と一定の神秘とが混ざり合っているといえます。
それは
>>484 の指摘するようにキリスト論とも重なっており、
スウェーデンボリの幻視による教会形成の不手際な点を感じます。
ケリュグマは他人のために生きるキリストを規範とする手法で
信仰の確信や内在といった問題はケリュグマで解消していくという
聖霊の力とも重なっています。これは教会の歴史でもあります。
スウェーデンボリは科学畑出身の人ですが、教会の歴史には疎かった
と言わざるをえません。少なくとも協力すべきでした。
余談ですが、聖霊派が自分の罪の傾向を憎むあまり自己欺瞞に陥ってしまう傾向が
ままあることも、こうした幻視体験による認識論に根差しているのでしょうか。
スウェーデンボリが歴史性を無視して投げ掛けた問い(というか氾濫)の影響を
考えるうえでのヒントになります。
#今言われているカリスマ運動はすでにケリュグマとの融合を旨としており
#ここで言われる認識論的な錯誤とは基本路線が異なります。
どうぞ、続けてください。 こちらでは、褌のレンタル料金はいただいておりません。 ただ、きたない使い方をされるのが、気が滅入るので、 きれいなお話でお使いくださる分には、分かっても分からなくてもとりあえず、伺っています。
>褌のレンタル料金 あらま。貴方、褌を使ってらっしゃるの?
>>485 ああっと、
>十字架のヨハネらの瞑想神秘主義者が出て、
>祈りによる幻視体験を最重要な信仰生活としてとらえ
これはちょっと・・・。
大聖テレジアに関する限りならともかく、十字架の聖ヨハネはヴィジョンに関しては極めて否定的でした。
ヴィジョンを期待してはいけない、そのようなものに霊的生活を基礎づけることは迷いに堕ちる道だということを「カルメル山登はん」ではっきり述べています。
490 :
名無しさん@1周年 :02/06/24 08:06
ワンネス・ペンテコステ派
>>489 十字架の聖ヨハネの件、勉強になりました。
あまりカトリック神秘主義って詳しくないんですよね。
それでコピペで済まして…ゴメンとしか言いようがない。
スウェーデンボリはプロテスタント内で福音主義を踏み越えて
神秘主義に走った数少ない存在なので注目を浴びるのであって
一端プロテスタントという枠を出ると観想の伝統はあったわけで
独立教派をつくるほどのことだったんか?という感じ。
そしてそれを理解する側も変な三位一体説をとなえるところが
彼が教会史とのマッチングを果たさずに自己の認識だけを主張する
啓蒙主義的な誤謬に陥っていたからだと個人的には思ってます。
霊のタラントは各自千差万別なので一概には言えないが
私の場合は知的な理解に現れるという個人的な感想。
カリスマはケリュグマとの協力が必要なのは
パウロが異言と預言とについてコメントしたとおり。
あるかないかという問題よりも教会のなかでの位置付けのほうに
意味があるのが伝統的な解決方法だと思います。
歴史的なことをいえば、新エルサレム教会を始めた人たちは メソジスト派からの分派と記憶する。 とにかくルター派の人々でなかったことはたしか。 日本で新教会をやっていた故・柳瀬牧師ももとはメソジスト派の人だった かと記憶します。本スレでかつてfilioque問題とからんで 「末は西方教会の落とし子なのだ」という指摘がありましたが、 それよりはさらに狭く、 (ルター派だけではなく)プロテスタント主義のもつある側面が、 この教派を教派として成立せしめたのだろう、 と歴史的事情は無視して想像してみます。 この想像が妥当するならば、 「ある側面」とはプロテスタント主義のもつある種の観念性であり、 そのためにプロテスタントは以下のものを意図的に切り捨ててきた、 あるいはそうすることでより観念的で主観的なものになっていった。 それはキリスト教思想のなかの実在的なもの、 古代からの遺産、あるいは祭儀性・あるいは伝承・ とりわけその中でかろうじて寓意のうちに保持されていたもの、 つまりは個々人の主観を越え、 理性的存在者の観念の集積とその結果としては徹底して主観的でありながら 可感的存在者にまさにその可感性において保持され共有されるということによって、 客観的なものであるようななにものかであったろうと予想します。 それを無造作にいえば伝統ということになろうし、伝統そのもののうちに 聖性を認めるなら、「聖伝」(Tradition)と呼ぶこともさして不当ではあるまい。 むしろ、プロテスタントの枠に留まるということが、関係者にとって あまりにも自明な要請だったことが、この暴走する主観的な夢の、中核に ある事態なのではないでしょうか。あるいはこうもいえるかもしれない。 「信徒の交わり」を生者に限るそのような想像力が、そのような枷を 余儀なく課された社会のもつ想像力であればこそ、 逆に死者たちがあるいは憩いあるいは炎のうちに渇く、霊界なるものの幻想を 熱狂的に迎えたのではあるまいか、と。 ところで、「りさ」=「スミルナにある教会の使い」あるいはひろゆき★ その人なのでしょうか?そうじゃなければ、自由にお使いくださいも何も 「りさ」なる人物がいう筋合いのことじゃあないだろううと思うのだが。
>>492 >スウェーデンボリはプロテスタント内で福音主義を踏み越えて
>神秘主義に走った数少ない存在なので注目を浴びるのであって
ゲルリッツはカトリックなのプロテスタント(ルター派)地域なの?
たしかルター派だったと思うんだが、片手間では確認できなかった。
後者だとすれば、ベーメの影響のほうがよほどスヴェーデンボリより
注目されてきたし、また重要だと思う。
神論においても「ソフィア」概念は、マリア共贖説が出てくる昨今、
新たなアクチュアリティを獲得しつつあるかもしれない。どうだろうね。
少なくともカントに対するスヴェーデンボリの影響などとは
比較にならないほど激甚な影響を、
ベーメは19世紀以降のドイツ思想に与えていると私は考える。
卑近な話で恐縮だが、ベーメに言及してスヴェーデンボリに言及しない
思想史の教科書はいくらでも見たことがあるが、寡聞にしてわたしは
その逆を知らない。
この鼎の軽重に関しては、
なんだったらこのカシオミニを賭けてもいい
(そして君が賭けるのはこの子ロバだ……いやお望みなら、
子猿でもユリカモメの雛でも、なんでも好きなものをどうぞ)。
とネタ振りをしておいても、ベーメ自体については私は詳しくない
(人から話を聴いたことがある程度)なのでこれ以上話を続けられ
ないのだが、というよりまだ聖霊論にケリがついていないのに、
ソフィア話でもないだろう、最近のこのスレッドの流行は再びキリスト論の
ようなので、なおさら。
ベーメ、いいねえ。 しかし、なんかあやしげでもあり。 無底だの、緑なす自然だの。 ドイツ神秘主義の伝統か。 スエはこういうすごいのに比べると、まあ可愛いもんですな。
聖霊についてちょっとコメント
pneumaはpneoからの派生語で
pneoは息や風の流れを意味します。
これはヘブライ語のn@shamahに由来し、
天地創造のときの神が人に息を入れたという記述や
ヨハネ伝でのラビ・ニコデモとの会話で出てくる風と霊の関連など
基本的には息のように絶えず呼吸するものです。
paraklhtosはpara-kaleoと関連のある言葉で
para:近くで、側で kaleo:呼びかける、名を呼ぶ
ですから、これは他者として親しみのこもった話し方です。
内在というとじっと留まっているように思いがちですが
ちょうど息のように内と外が通じてるようなものです。
単純な知識の保有とは違う、他者との生きた交流だと思います。
フリーの聖書ソフトで好いのがあったので紹介します。
http://www.onlinebible.net/ 英語版ですが、ギリシア語新約、ヘブライ語旧約、LXXなどが
プラグイン(これもフリー)で入手できます。
とくにLXXにはStrong's Numbersを振ったバージョンがあり
ギリシア語コンコルダンスにヘブライ語訳の辞書がついて
新約と旧約の用語の橋渡しがよく理解できます。
創世記とヨハネ伝の出だしはまったく同じで
天と地、ロゴスと肉の関連を神に関わる事柄として語ろうと
している様子が判ります。
有益なリソースの提供をありがとうございます。 >内在というとじっと留まっているように思いがちですが それはかなりドキュソな理解だと思うがどうよ>留まっている いまどきそんな理解してる人がいるとはあんまり信じたくないが、 まあいるところにはいるんだろうな。とほほ。 ……神が何かに内伏しうるなら、 それはその何かが生に向かう事態以外の何かでありうるだろうか。 (まあ古代人の「うちに」がどういう世界了解かというのを掘り起こすのは 難しいよね。だから上に書いたこともどれだけ妥当しているかは分からない) 息は外に吐かれるものでもあり、自分のうちから出てくるものでもあり、 かつ他者から自分へ向かって吐かれるものでもありうる(ex.J21)。もっとも ここJ21での「息を吹きかけて」と「私が去らなければ彼は来ない」はやや不整合 に見えるのが気になるところ。 内伏といえば、自分の世界把握はどちらかというとスピノザ的だと思ってたんだが (自由意志を認めるところは異なる)、むしろピッコ・デッラ・ミランドラ的らし いのかも。……異端路線まっしぐらなことでは、小さなヨハネとどっこいどっこい、 いや自覚があるぶんもっとまずいのかも。ううむ。
498 :
名無しさん@1周年 :02/06/29 22:33
age
留まるという言葉はヨハネ文書に色濃い表現です。 【meno】<3306> 留まる 残る Mat10:11、26:38 John1:32、3:36、4:40、5:38、6:56、8:31、8:35、9:41、12:34、12:46、 14:10、14:16-17、14:25、15:4-7、15:9-16 1John2:6、2:10、2:24、…etc 通常は家に留まる、人の側に居るという言葉なのですが、 ヨハネ伝においてはイエスと福音の実在を巡って多用されています。 単にイエスが側に居るということから、イエスの教えが人の心の内で生きて存在し それ自体がイエスの存在そのものであるロゴス=キリストという ヨハネ伝最初の証へと帰結していくようです。 同様にヨハネの手紙にも多く使われ、そこでは教えや真理、愛という 普遍的な存在が人の心に根付くことをも指しています。 このことから、ヨハネ教団の宣教はイエスの実在が重要度を増しており、 パウロの十字架の贖いの宣教とは好対照であるといえます。 イエスと共に生きることと罪を贖われることとは別次元のことではなく 間違ったパウロ主義が罪赦されることで行動を止めてしまったり グノーシス主義が贖罪を意識せずに知恵を尊ぶという 隔たった信仰の在り方に綱引きをしているようなところがあると思います。
500げっと。
>499 ワン公さんって、牧師? それとも神学校の先生? 批判的研究を踏まえた上で豊富な専門知識を駆使して論を進めつつ、 最後は建徳的っていうか、信仰的に前向きな結論に収斂させていく手際はお見事。 いや皮肉じゃなく、神学部の先生のメッセージってそんな感じでしょ。 似てるな、と思って……。
そりゃもう見事で当然だよな〜<ワン公さん ワハハヽ(^▽^)人(^▽^)人(^▽^)ノワハハ
505 :
漂ふとも沈まず。とはいえ敗訴かあ。うーむ(笑) :02/07/02 19:29
くだらないことを。。どうでもいいじゃないかそんなこと。 >単にイエスが側に居るということから、イエスの教えが人の心の内で生きて存在し >それ自体がイエスの存在そのものであるロゴス=キリストという >ヨハネ伝最初の証へと帰結していくようです。 イエスと信者がともにいる、ということが教会(=信者共同体)が(筆者が 想定している仕方で)あるという事態と並行して、というよりは等価なこと として捉えられているように思います。パラクレートスが主題化されるパッセージで 頻出する「あなたがた」は、一義的にはあの章段がイエスから弟子たちへの 語りかけとして設定されることに由来するのでしょうが、あの文章を実際に 読む(あるいはむしろ礼拝において聴く)信徒集団にとっては、自分たちに 向けられた言葉として響くだろう。 「パラクレートス」についての語りが始まる直前に「新しい掟」として 「互いに愛し合いなさい」が与えられることも、パラクレートスが本来 神と人だけではなく、信徒集団のありようを規定する概念として設定さ れているだろうということの証左ではないかと思います。ちと飛躍しす ぎかな。まあいいや。
単純にヨハネ伝での兼ね合いからいうと20:19-22の記述を思い起こさせますが、 そこで用いられているsunagoという語は、穀物の収穫や人の招集に使われます。 Jhon 4:36, 6:12, 11:47, 11:52, 15:6, 18:2など sunagoはヘブライ語では'acaphといって以下の箇所で用いられています。 Gen 6:21(方舟の動物), Exo 3:16(民の長老), Lev 23:39(収穫→五旬祭) Josh 24:1(シケムの契約), Psa 27:10(賛歌として), Isa 11:12(捕囚の帰還)など この集め方は神の主権的な集め方で、主体的というのとは異なるものです。 集会Eekklhsiaは、ek-kaleo、つまり「呼び出されること」をもって組織される集いで paraklhtosと多少とも関わり合いのある言葉です。これは招きを受けて集うという 宣教的な座が明らかにされたうえで使われだした用語のように思います。 sunagoがそうした意味合いで用いられるのはMat 13:2のように、 イエスが湖畔に居るので群衆が集まり、イエスは喩えを用いて話された という枠組みではないかと思います。同じくMat 13:30, 13:47では イエスの宣教がもたらす世の中へのインパクトが合わせて語られています。 Mat 18:20では集うことの意味が究極的にイエスの存在と重ね合わされています。 sunagoの使用は59箇所中24箇所をマタイ伝が占め、その語がヘブライ語の由来を 示すと共に、ヨハネ伝におけるmenoやparaのようなキリストの実存や素性を キリストにおいて集う者たちが担っていく祭儀的な共同体志向が伺えます。 多くの神の国の喩えから始まり、幕屋の祭司的権限の解放にいたるまで マタイ伝の描くイエスは、メシアの祭司的素性を明らかにし、 イスラエルという祭儀共同体の中心に立つべき方として「集会」を保っている という感じがします。 >パラクレートスが本来、神と人だけではなく、信徒集団のありようを >規定する概念として設定されているだろうということの証左ではないか …ということは間違いではないと思います。 しかしその傾向はヨハネ伝よりも、マタイ伝もしくは使徒行伝において 顕著なことであると思います。もしくはそのような集団の存在を既成事実とし その媒介者の真実性をキリストの実存として表現しているのかもしれません。
(ここまで2chで書くことか?という気はするが、論証抜きだから、 お気楽にながそうっと)。 うん、実は最近ヨハネ伝は「イエス=キリストは子(なる神)だ」もしくは 神的起源を持つ存在者だ、ということを実は自明な前提としてもっている 読者を標的にしてるんじゃないかという可能性を検討している。 巷間いわれているようにイエスが神の子だということを証している、ので はなくってね。むしろ神の子としてのありよう、存在様態が問題なんでは ないかと。といって自分でも眉に唾をつけて、さて、トマス読みにいって くらあ。
「急いで書かないといけないもんがあるので今日はこれで」とかいって III.3.4-5, 2.1 のコピーだけ渡して「夏休み読んでおいてね」……そんなの ありかい、と思ったけど、……そうかおやぢ獣肉(妙に気に入ったので 残す)論で書くつもりなのかな。おやぢより先に書き上げて投稿するんだぞ。 燃えるね(←まだ「向いてない」発言を根に持っているらしい) 本屋さんが The Fifth Gospel という本を持ってきたのでなんだろうと 思ったら初期教会から教父時代でのイザヤ書受容の話だった。そういや、 四旬節の間イザヤ書通読されるよなあ。とか思う。
なんのかんのいって、毎日雑用をしに来るはめに。とほほ。 書名で煽るというのも編集&著者の技の見せ所でしょう(w 実は私も最初はそう思ったので「?」と。で、prefaceに目を通す。 ってえと、いちおう過去に(恐怖、じゃなくて教父時代にそういう言説があったらしい。 対グノーシス的文脈でそういう言い方が出てくるかどうかは知らず)。 ……ざっと見た感じ、イザヤ受容がイエス=キリスト(メシア)観を成立 させた、というところから話を起こして、逆にいったんそういう読みが成立 した後イザヤ自体はどう再受容されていくか(Izajah in Music とかなかなか そそる章タイトルもあり)、という話のようで。 #わざとじゃないっす。Typoっす。やられた、と苦笑い。でもそのことと #品位とはまた別の問題でしょ。そうじゃなくって?(w
はい。ひとつふたつ引いといてください。 残りは460くらいでしたでしょうかね。
#ここにも買っておいて読まずに放置されていた本が…(鬱)。 第二イザヤとナザレのイエスとの間に見られる相関と飛躍については モーヴィンケル著「来たるべき者」に“主の僕”の考察が述べられていました。 1956年の著作なので、今ではいろいろと文献的には広がっていると思いますが 参考までに。歌の様式、僕の身分、慣例、僕の教団、などなど 「ソロモンの知恵(知恵の書)」などの旧約の外典、偽典の引用を しながら、オリエント宗教一般との比較なども掲載していて なかなか読み応えのある内容です。モーヴィンケルの見解では イエスがユダヤ教のメシアよりも遙かに大きい権限の持ち主であり、 また本質的に異なっていたことがイエス教団の飛躍の原点となり 第二イザヤの主の僕に新しいメシア観を付与していった ということだそうです。実際に第二イザヤの主の僕は、預言者集団が伝承的に 従ったメシアのオリエント的な理想や死して甦る肥沃の神々の類型などが 重なって出てくるものの、実際の傲慢なメシア王とは異なる献身的な態度で ヤハウェの贖いの場に近づく者という、現実と理想の差異も飛躍の原因として 含まれているということもあるようです。(話題は振るだけ振れば 何か目新しくなるかも…という甘い考え)
513 :
教えてちゃんですまそ。 :02/07/07 01:03
>実際の傲慢なメシア王 もすこし説明きぼん。史上実在したユダ&イスラエルの王たち(いやマカバイとか いれてもいいけど)、のことですか?
ええ。実在の王たちのことです。
>何か目新しくなるかも…という甘い考え) まだひとつ残っている「パラクレートス」出現箇所を読むってのはどうよ。 旧約とうんちゃらの話も、もうおわりなの?
516 :
名無しさん@1周年 :02/07/08 02:20
それはそうと、今日はロシア正教の教会の方とお話しました。 思いがけず、こんな近所にそんな教会あったんですね。しりませんでした。 なかなか、焼きが入った人のようでした。今度、礼拝に行ってみます。 ほんとに、私もいいご身分です。 引っ越すまで、何回か行けるかな、引っ越したら、そっちには正教の教会はない。 別に宗旨変えするわけではないですから。 それと、メールで、正教のメッセージも来ました。 シビアなのは、指導者の性格なのか、それとも、教理的なものなのか。 キリスト教の原型をとどめている、いうたって、どがなもんじゃろ、 ガリラヤ湖畔には、1世紀にはビザンチン様式の建物があったんじゃろか?
さぁ…ピリポやアンデレはギリシア系の名前ですし、 執事職の任命にギリシア人の寡婦という記載があるので 意外に人も文化も流入は多かったようですな。 キリスト教神学の基盤はシリア、エジプトにありましたが ビザンチンとローマは政治的な中心地という感じがします。 ようするに統合体としての教会の中心地。 シノド(公会議)を取り仕切ったのが権威の源です。 もちろんそこで決められた事柄には重要なものも多いです。 シノドの役割も自己の権威の増大よりは実効性に向けられているのが 最近の傾向でしょうか。政治や経済、環境や倫理の面での提言や協力が 目立つようになってきました。ヨハネス・パウルス2世はもとより 今のエキュメニカル大司教は「緑の大司教」と呼ばれるくらい 環境問題に熱心ですね。
519 :
まついみちお :02/07/11 11:50
なんだここは。日経平均と一緒で下がりっぱなしじゃないか。 ひとつ上げてやろう。
イエス=神? まだそんなこと信じてるの? 教会の教えられるまま、何の疑問も感じないんだな〜 宗教って怖い怖い・・(藁
521 :
名無しさん@1周年 :02/07/11 11:56
522 :
まついみちお :02/07/11 11:59
そうよ。りささんとやら、おやんなさいよ。 でもつまんないよ。 ワンコウだかチンコウだかに、のさばらせず続けなさい。
523 :
まついみちお :02/07/11 12:06
いやな性格だねー。まったく。 自作自演の2チャンネラーがはびこってるよ。 人が書くとすかさずいれてさ。りささん負けるな。
>>521 聖書をもっと勉強すれば間違いと分かるよ。
(洗脳されていれば難しいかも・・)
おやおや、本命さんとかが静かなあいだにまたヘンなのが(笑)。
まついさんとやら
ありがとう。案外来て下さっているんですね。
ワン公さんのお話は、そんなに悪くないですよ。ていうか、いいと思うけど。
りさは、こっち
Swedenborgとの対話
http://8629.teacup.com/godloves/bbs で、結構のびのびと勝手なことを書かせて頂いているので、
だんだん2chが遠のいてしまいました。
>>524 りさの正直なところを申し上げますと、
聖書を勉強しても、イエスが神であるかどうかは分かりません。
勉強すれば真理が分かるというなら、勉強する機会のない人には真理は与えられません。
ですが、主は、勉強できなくても、善意を持って真実を歩もうとする人には
ご自身を顕わし、与えられる、と思います。
だから、ここで、あまり実のない応酬に時を費やすのには、それほど魅力がないように思えるんです。
んだけど、まついさん、 さがっているのもいいと思うわよ。 上がって入ってくるレスって、本当にろくでもないのが多いでしょ? 下がっても入ってくるレスって、ここのことをマジで考えてくれている人たちではないかしら。 そういう、地味な交わり、って、りさ、なんとなく好き。というか、ほんとはそれが大好き。 人気が出て、百万売れても、本当に理解してくれている人は一握り、 あとは、流行を追う人たち、騒いで面倒をかけてくるのも、そういう人たちだし。 他の流行が出れば、そちらに去っていく人たちだし。 でも、りさは、一握りの人たちと話したい。
528 :
名無しさん@1周年 :02/07/11 17:52
それにしても、末主義はややグノーシスがかってるともと思ったりもする。
529 :
まついみちお :02/07/11 18:41
お! 早速きてるなりさ 言っとくけど、わたしゃあんたの味方をしてるんじゃないけんね。 公平につかえっちゅうことだ。
ふふ
>>528 上手になったわねぇ。乗せようとするのが…。(成長した、成長した。拍手!)
グノーシスと聞いたらキリスト教徒なら誰でも目くじら立てるから?
どうしてそういうふうにお感じなのか、伺ってもいいですけど。
グノーシスにも、それなりの理由があって発生したのでしょう。
どんな宗教や思想でも、ある程度のところまではそれほど危険ではないのよ。
問題は行き過ぎた時でしょう。(りさの見解)
スウェデンボルグでは、地獄と天界を分けるカラーは、
天界が「神への愛と隣人への愛」であるのに対し、地獄の愛は「自己への愛と世への愛」です。
一つの共通の事実なり認識なりが存在する時、
それを神への愛と隣人への愛によって判断し処するか、
自己への愛と世への愛とによって判断し処するかによって、正反対の世界が、
たとえば鏡に映すと正反対のように、天界と対称になったかたちで地獄が存在すると言います。
一つの事象に関して、どういう見解をとっても、
「その人の時代環境にとってはやむを得ないこともある」という事情を
主はよく分かってくださっている、というのが、スウェデンボルグの語る神の見解です。
だからこそ、ご自分が十字架ほどの救済を用意したにもかかわらず
それに応じることのなかった人々でも善意を持って真実に歩む人々の、
神的な存在に対する積極的、肯定的な姿勢を、
ご自身への信仰に準じたものと酌量してくださる、と考えます。
神の判断はあくまでも、善意か悪意か、愛神愛隣か愛己愛世かであって、
グノーシスか、そうでないかではないんですよね。
グノーシス思想に支配される以外になかった人々がいたとしても、
その中で、可能なかぎり誠実に善意をまっとうしようとした人々は、それでいい、
という答えになるはずです…。
スェデンボルグにグノーシスが載っているかどうか知らないけど。(まずい?)
読んだところでは、無い。
スウェデンボルグの基本的価値観は
間違った知識 < 正しい知識 < 純真無垢(善良な無知)
です。知識至上主義のようなものとはちょっと違う。
532 :
名無しさん@1周年 :02/07/11 20:20
>>528 だからエラノスつながり受容路線って状況が出てきたんじゃなかったっけ。
鈴木大拙が末を知るのはエラノス経由の筈なので。……でも一緒にしたら荒井献に机を叩いて抗議されるかな?
#って面識ないけどっ。
533 :
名無しさん@1周年 :02/07/15 18:46
>>517 ロシア正教の教会というと、東京のポドヴォリエのことですな。
517さんはロシア語が出来るんですね。そんけー。
あそこの神父さんはロシアから志願してか派遣されてか来ている
人たちなので、気合い入るのも当然かと思はれ。
ポドヴォリエに通っている友人と昨日久々に会いました。
「小さいけど家庭的でとてもよい教会」だと言ってました。
一度一緒に来てね、って誘われたのでそのうち行くことになりそうですが、
517さんの話とは雰囲気違いますね……。どきどき。
うちの隣のチャンさんは、中国語がしゃべれるもんね。
私なんか、猫語がじゃべれるのよ。だって猫なんですもん。ニャーオ。
>>533 夢を潰すようで申し訳ないが、残念ながら、私はロシア語はできません。
お話したのは信者の方とで、日本語ででした。
それから、東京在住でもないのですが。すみません。
メッセージの方は、名古屋のギリシャ正教会の配信サービスです。
断食の期間だったので、辛口なんだとのことでした。
説教も、書かれたもの一つだけでは、教会がどんな様子かはわからないです。
ただ、辛口な説教だからといって、教会に愛がないというわけではないでしょう。
そちらの教会の方がそう言われるのなら、きっと期待できるでしょう。
私は、正教は、どうしてとは言えないが、期待できそうな気がします。
おお、ブルネリ、あなたのおうちはどこ? わたしのおうちは 2チャンネルよ
にゃーお、にゃおにゃお、にやあああうおおお。 あ、スレ違いでした。異言スレにいかなきゃ。
539 :
言葉と思いの分裂、no番外編 :02/07/18 20:09
友人をひとり、失ったらしい。おそらくは、永久に。 ……私が好きだったあの人は、もういない。 友人へ電話する。これで私も夜電話の会仲間入りだ(苦笑)。 「ショックだった例の後書きの話、したでしょ? 『どうして……がそんなことを信じるのかわかりませんが』 私にとってはそれは「詩的実存」だ。ぜんぜん立場が違う。……明瞭でしょ?」 「うん」 「それを、あの人がそんなに粗雑な読み方をするなんて。それがショックだった」 「フモールがないんだ、だからわからない」 「……どっちかといえばイロニーなんだけど。 そうか。もう、私たちが知っていた……は、いないんだね」 「イロニーの緊張に耐えられなかったんだ。もともとまじめだったし」 「……うん」
540 :
言葉と思いの分裂、no番外編 :02/07/18 20:10
思いと言葉が分裂しているのではない。分裂しているのは、思い。 その分裂のなかから、あるいはたまさかの協調から、言葉は出てくる。 ……そしていつも人の言葉は、その分裂を映し出す。 「才能のある人が去っていくのは、つらいね」 「うん。……そうか、わかった。私は、寂しいんだ」 「……わかるよ」 去っていた、ほかの友人たちが、思い浮かぶ。 彼にしては、珍しい苦渋を伺わせる言葉が出たのは、あるいはそのせいだろうか。 私たちはいつまで思いの分裂に耐えられるのだろう? 答えは多分見つからない。だからこそ、私たちは求める。 ……自分ではない、誰かを。 「なんかね、つらくてね。このままでいいんだろうかって」 「でもそばにいない私らに手を出せることではないんだよ」 「……そうだね」 「大丈夫だと思うよ。あの人の眼、澄んでたから。 昔と同じように」 「……うん」
541 :
言葉と思いの分裂、no番外編 :02/07/18 20:17
情報倫理なプロジェクトなのに生命倫理な講演会の案内をもらって 「なんじゃそりゃ」と思ったのだが、あとで某誌を見て納得する。 おそらくは外的事情とかなんとかいわれるんだろうな。 でも、たぶん、違う。今までやってきたことと、そのことは繋がっている。 しかし、advocacyか。……やっぱり、類友なのかな(苦笑)。 去っていったあなたたちを、私たちはここで待っていよう。 私の知っているあなたではないあなたを、 生死の分からないあなたを、 ……すでにこの世を去っていったあなたを、あなたたちを。 超越論的お笑い劇を演じながら、ここで、この場所で。 劇はまだまだ続くやもしれませんが、道化の出番はひとまずここでおしまい。 いつかはお会いすることもありましょう、あの「ひとつにする力」が働いて いる限りは。では、そのときまで、さようなら。 #くそ、ナンバリングに失敗しちゃったい(楽屋話)
にゃーお、にゃああぁおぅ・・・この異言?は意味が大体分かるでしょ。 実際の状況において、実際の声として聞けばね でも↑↑は、日本語としては分かるとして、何を言っているのか、分かん ない。文学的素養?がないと分かんないんでしょうか?あるいは発言者 の韜晦(この字もわかんないが)でしょうか。これこそ真の異言なのか もしれません。
543 :
名無しさん@1周年 :02/07/24 20:27
544 :
名無しさん@1周年 :02/07/30 01:42
???????????????。
545 :
名無しさん@1周年 :02/08/03 07:24
age .
\ │ / / ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ─( ゚ ∀ ゚ )< まりあさま〜! \_/ \_________ / │ \ ∩. ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< わたしのすきな〜だいすきな〜! まりあさま〜〜! >( ゚∀゚ )/| / \_____________ ________/ | 〈 | | / /\_」 / /\」
じゃあ、ちょっと出かけてくるからね。
保全
\ │ / / ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ─( ゚ ∀ ゚ )< イエスさま〜! \_/ \_________ / │ \ ∩. ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ \( ゚∀゚)< わたしのすきな〜だいすきな〜! イエスさま〜〜! >( ゚∀゚ )/| / \_____________ ________/ | 〈 | |
550
この前の圧縮でなくなったと思っていた>このスレ。
まだあったんだ。懐しいな。
誰ももう読んでいないだろうから、いまから語る言はまさに記憶されずに風に散るだろう。
そのようなものとして書き記す。……しかし2chがある限りは誰の記憶に残らず
とも、記録に残るんだな。まあそれもまたよし、か。
>>302-303 「信の交わり」があるから、そうはならない。
キリストにならい互いを信じ互いを愛する、
その思いが結ばれる先には復活のキリストがいる。
キリストによってすべてがあるということと、
キリストが神だということは同じことだ。神よりすべてのよきものは生じ、
万物はその中にあり、生き、動く。神によらずして存るものはない。
ゆえに旧約のヤーウェが唯一の神であるなら、
その神はキリストの姿においてもまた顕われたのだと私は証し、
まさにそのことによって私はアリウスの教説を退ける。
そのとき、この「交わり」そのものがキリストにおいて可能になっていると
いうことは、この交わりそのものが神からもたらされたものと同じだ。パウロも
書いているね。信の交わりはキリストの知識と不可欠に結びついている。
まさにその知識によって、私はまたサベリウスの徒にも決して組しない。
地上に下り、十字架に釘せられ、第三日に聖書に叶いて復活する神は
神を父と呼ぶ神、すなわち子なる神イエス・キリストであることを
その知識が私に教えてくれたゆえに。
ここから「真理の霊」すなわち真理であるキリストにかわって呼ばれ来る
「他の慰めるもの」もまた神の在り様のひとつなのだ
……というには、まだもうすこし手続きがいるのだけれど、独り言を続ける
のもそろそろ飽きてきたので、この辺でやめておくことにする。急ぐ事もない
だろうしね。──それはつねに傍らにいるものなのだから。
>>317 まさにそのとおり。まあ、荒れても気にしなさそうだけどね、スレ1は。
ここじゃなんだし、他に廃物利用でヲチ場所を確保した(w ま、使えや。
バイブルバプテスト2
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1015336502/936-n ただし元住民の了解を得てるわけじゃないので、そこのところは
よろしくね(はぁと)
552 :
名無しさん@1周年 :02/08/29 14:30
基地外発見
"Dokumenta uma~"
ドクメンタ (゜д゜)ウマー
これはカッセルというところでやってる ドクメンタ11のことでし。
政治色が強いのがドクメンタの伝統。 今年のテーマは何がおおいんだか?って、すれ違いスマソ。
datte "Dokumenta"(lat. Dokuments) damon. film ga ippai de me ga tsukare ta yo-. Dis-/communication kana. ato producer ga aa dakara, the third world garami ga ookatta yo. Kotoshi ha, Berlin/Vienna, New Delih, Kinsasha, to sangatsu kara ichibu wo junkaiten keishiki ni shiteru mitai dashi. kojin teki ni ha Bonk no "buch der woerter" ga ichi oshi. Kassel tte Grimm Brueder no umareta toko dashi ne. (Shuppan keiyaku mo kassel de nan datte). Etto ne, rittai kei no installlation wa saware te nanbo dato omotta. Saware nai to flustration tamarun da. kore ga. kikou ga chigau kara, chotto sono mama wa tsukae nai kedo, pan ga ishi-mitai ni kataku natte ta no ga atte ne, (sono sakka, Porto shusshin nano yo. chotto waratta.) A, omoshiro katta sakuhin mei list tsukutta kedo, iru? kibou sha fukusuu nara koko ni kaku kedo.
a, dokumenta no URL wa
http://www.dokumenta.de/ ne.
web de douji koukai siteru sakuhin kekkou ookatta yo.
The Internet sonomono wo sozai ni siteru no mo atta shi.
Inuits no Chirstmas (fiction based on histrically correctness) neta no
TV series episode ga atta kedo, WWW demo mirareru kara kaijo de ha ichibu dake mite kita.
maa, areda, matsuri ju-yo-
tte koto de. ja ne.
ヴィデオ作品多い傾向はどこも一緒だな。インターネットもね。 ビエンナーレも同じだ。 どうもやはり現場行かないとつかめないね。 ああいうのは空気ってもんがあるからな。 なんとなくテロや宗教絡みネタが増えていそうな気はするが そういうのはあったか? 有名どころではどんな作家が発表してた? katharina fritsch なんかもでてるんか? あと、日本のとか。
>空気ってもんがあるからな。 Agreed. BTW you can freely read the Dokumenta catalogue in the library of Goethe-Institute Tokyo. I love to drink a beer in the courtyard of their restaurant particularly after a strugle of Fraktur piles in a summer day. Back to topics. >テロや宗教絡みネタ It´s not so many as usuals in my impression: anyway you can see all their catalogue in the above. Their most remarkable theme in a political view is the collonialisation, I thought. On Terrorism, Middle East is the most focusing place, next the NYC in Sep. 17, but only two works refered to the so-called Simaltanously Terrors IIRC. Impressive on that sphere: (two artists collaborating: names unremindable here, sorry), _From/To_(1997 in NYC, 2002 "Dokumenta version" in Kassel. An Installation with white vynir tapes on the floors with characters in black "From XXX To XXX", (XXX is a place name in Middle East, like Damascus, Jenin, Ramala and so on), videos, information aid with computers, cartographies to show how the occupation of Israel goes. Remarkablly the original work in 1997 was made by an US artist. A series of works of "The Atras Group"(Archive on the Lebanese War, fims and photos) is impressive with their highly sophiscated depasements of historic sources.
On religion: some works apparently refers to the Christianism, not depending on that it is their thema or not. Fewer refers to the Buddhism, Hinduism, but not so many. Racism and "Globalisation" seemed to more preferable:) topics. >有名どころではどんな作家が発表してた? Louise Bourgeois, On Kawara ... IIRC A Katharina Fritsch but I don't remember of what sort it was. Anyway all of three brings not a new work, but already appeared except Kawara's installations, loud reading from his two "A Million Years". Then did Joseph Beuss already passed away? >あと、日本のとか。 So I'd like to talk about just it, WHAT ARE our dear neighbors DOING(pl.)? Kawara is the only Japanese joining in Dokumenta11 IIRC. You know, his main activities are on NYC. --- well, both Chinese and Koreans is unremarkable, anyway there is another form of Orientalism.(grin) On Beuss, a Fruxus-related exhibition is soon coming in Wiesbaden which calls themselves during the project "Fruxusstadt".
というわけで日本語書ける環境にようやくたどりついたわけだけど ここいつも混んでるのよ。めしまだ食ってないから後でな。 あ、悪いけど上のは翻訳エンジンとか食わせて読んでよ。 俺の英語ひどいからたぶんむちゃくちゃな出力になると思うけど。
564 :
名無しさん@1周年 :02/09/04 00:59
age
hohou hozennsitana mata atode
日本語書けなくなる状況って結構あるものなのか? それとも、これは流行りなのか?hogeさんの真似とか・・
ブツ。届いたです。 愉しんでいるようでなによりす。 まあカタログ見ても、全然ああいったのは駄目。 今度ゆっくり聞かせてくだせ。 テロに関しては懐かしい。昨年、ベネチア・ビに居るときに起きた。 会場で知った。その次の日、アメリカ館が閉鎖した。 河原温は前も出してなかったっけ?
>河原温は前も出してなかったっけ? Sorry, I haven't followed the current of the contemporary art since recent. But It would be. Then I go on a weekend trip. I hope I've missed the train (I believe the last one departs much later). Anyways ...... Schoenes Wochenende!
さすがにちょいと疲れたわ。週末またーりしたのはいいんだけど、 宿題忘れててさあ。そうそう、プサンのトリエンナーレだっけ、あれ うちうちで結構評判いいよ。いったことある? ゴシックの祭壇画で埋まっているエヴァンゲリッシュな教会、 ってのはちょとすごかった。それがまたいい作品なんだよ。 なにせ、デューラーの師匠だからさ。 壁画は完璧にやられてたけど、あれは空襲のせいだろうな。 ああ、ちゃんとグレゴリウス一世の記念の祈りとかもしてるみたいだよ。 「聖人」とか「聖母」とかいわないだけでね。 むしろカトの教会の予定表になんにも書いてなかったので 拍子抜けしたくらい。 昔大学に通ってた頃、退廃芸術展の研究書を貸してくれた先生がいてね。 おもしろいじっちゃん、いやおじいちゃんといっとこう、 とにかくこーいい感じの人でね、なんだけどあの人もこう、 話をするたびにしみじみと悲しさを感じる人だったな。 とってもいい人なのでなおさらって感じ。 共産主義者なのにロシアアヴァンギャルドとか ショスタコヴィチの初期とか好きなんだよ。>その人 「ショスタコヴィッチは可哀相なことをしたねえ」とその先生がしみじみ 洩らしたのが、いまでも忘れられない。 でも現実世界では、共産党を支持するような言説を書くわけね。その人は。 ……人間って悲しいもんだなあ、とそのとき思ったのを、いままた思い出すな。 あ、退廃芸術展の開催場所、どこだかいまわかる?
……いや、真に共産主義者でありたかったから、アヴァンギャルドが 好きなんだな。アヴァンギャルディストは、マレーヴィチもそうだけど メイエルホリドとかもさ、自分たちの作品が共産主義的で、「人民に 奉仕する」、つまりは共同体に還帰することを信じて疑わなかったん だからさ。その点、ダダとは対照的だよね。ダダはむしろ芸術を特権化 しようとしたんだからさ。まああれはたんなる兵役拒否者の管巻きだと 切っちゃってもいいんだけど、織れ本性からダダイストなのよね。だから ダダには甘いのよ。スマソ。 マレーヴィチは何度か作風変えているけど、織れはやっぱり 『白の上の白』だな。スクロヴェンニやラス・メニーナスのように 純粋な目の悦びがあるわけでもなく、 夜警やブロードウェイ・ブギウギのように 平凡な日常のなかで確かに息衝いている生の輝きがあるわけでもない、 レオナルドの最後の晩餐のように人の生の多様さと永遠の聖性がひとつの 空間に凝縮されているわけでもない(これはスクロヴェンニの接吻図にも いえることだけど) あの絶対的な空虚へ開かれている空間、いやむしろ空虚の来たる根源へと 自ら閉じていく空間がね。織れは好きなんだ。いや、好きとかいう陳腐な 言葉じゃいいあらわせないな……あれとね、「秋のリズム」を生ん だことで、20世紀のすべての苦悩は贖われてるんじゃないか、とすら織れ は思うのね。 ちと褒めすぎかしらん。しかし、こう書いてみると、織れほんとに 抽象的なものに焦がれるたちなのね。ううむ。愛ってぇのは 自分にないものへの欲望だって、どっかのだれかもいってたけど。
あら、ここはまだあったのね。 さてと、二ヶ月も前にグノーシス説についてりささんは あれこれ書いているけど、 それはあなたの思うものであって、神の思うものではないわ。 それが神の思うものであるはずといっても、それは違うわね。 さてと、これはあまり言いたくはなかったけど、書く事にしましょうか。 イエズスはキリスト者の知ったイエズスと、 あなた方の知る後で出てきたイエスを名乗る存在は違うことは、 あなた達の書いていることで、まずは明らかなわけであるの。 聖書についても、神が与えたイスラエルの解釈とあなた方の解釈は違う。 それから、イスラエルの神は何者か。これも違う。 あなた方のは違う神について言っているの。名前が一緒というだけの話。 あなた方にとっては、そのイエスというのが父なる神であって、 イスラエルの神はあなた達の父なる神ではないわけなの。 これを霊的に位置付けると、スウェデンボリは もはやイスラエルの神やキリスト教のイエズスは我々には不要であるから、 その座をイスラエルの神から我々のイエスに移しますよ。 という宣言を行ったことになるの。 かつて、ユダヤ人やキリスト教徒は、 この手でたくさんの異教を滅ぼしてきたわ。 ある神が、同じ手段を使ってイエスを名乗って、 キリスト教やイスラエルの父なる神から 自分達の領域を守ろうとしたことが、理解出来るわね。
573 :
名無しさん@1周年 :02/09/13 12:03
>>572 やらせて
(;´Д`)ハァハァハァハァ
574 :
名無しさん@1周年 :02/09/13 12:06
>>573 こいつぁいかれた男だ。>マリア
君はかような男に興味があるのか?
>>575 いやいや恐縮です。
今日はムハを見てきました。油彩やテンペラも書いてたというのは知らなかった。
油彩の歴史画の連作があるんですね。名の通った画家で、20世紀にまじめに歴史画を
やってた人ってのは、ちょっとすごい気がする。
……ああ、ご想像の通り、作品自体は視覚的にはどうもね、でした。
雰囲気はすごくいいんだけどね。量隗の把握が弱いんだ。20年代に入ると、
とくにそれが顕著になる。かえってパリ時代のテンペラ画のほうが、量隗感が
あるくらい。
ああ、……の絵もね、折れはあの上品なところが気に入ってるんだけどね、
同じ弱点をもってると思うんだ。むっとしただろうけど、人をあげつらうのが
折れらの仕事だからね。まあ、これも声援のひとつだと思って、ファンの人は
反論よろしく。
……国家と神話ということについて、ちとまた考えさせられました。
ここんとこは独立と併合と分割を何度も何度も繰り返してるからね、余計にさ。
国境というのはあるんだかないんだかよくわかんないけど、時には重くなるものだね。
ああ、うちんとこのでっかいのもあって、名前は「キリルとメトディ」でした。
結局行ってないんだけど。わはは。
たまにはスレに関係ある話もしとこうか、ムハはかなり熱心なメーソンリーだった
んだね。折れはここではじめて知ったよ。折れはムハは結構、いやかなり好きなんだけど
と同時にどうしてもどっかでもにょってるところがあったのね。
「絶対理性の礼拝」にも、わかるんだけど禿しくもにょるところがあってね。
今夜はその淵源が同じなのか微妙に違うのか、街をぶらぶらしながら考えてみる
つもり。じゃあ、また。
マリアさん、こんにちは。相変わらずお暇ですか? 宗教スレの管理役ご苦労様です。 >さてと、これはあまり言いたくはなかったけど、書く事にしましょうか。 別に書かなくてもいいわ。 Swedenborgの宗教は確かに、従来のキリスト教とは違う新しい宗教と言っていいです。 違うと思う人には違うし、同じだと思う人には同じだし。 それは、今さら言わなくても、いろんなところでどちらの意見も出ているらしいですね。 私はSwedenborgが言っているとおりに書いてるんだから、違うと言われても、そりゃどうも。 歴史が神を作ったのか、神が世界を造ったのか。 私は歴史には興味ありません。人の思想にも。 だから、あなたのお相手にはなれないです。ごめんね。
>>578 残念ながら、あなたは既にあたしの相手になっているわ。
神が違うことと宗教が違うことは別問題よ。
死霊が神を名乗ることも、多々あるものよ。
それから、歴史が神を作ったのか、神が歴史を創ったのか。
この答えは、どちらも然り、そして、どちらも否。
歴史に興味が無いということは、歴史をつくった神にも興味が無い。
なぜなら、人だけでは歴史はつくれないものだからよ。
人の思想に興味が無いということは、
神にも興味が無い。と言っていることでもあるわけ。
歴史から逃れ、人から逃れる都合にスウェデンボリやその神を用いている。
あなたがそうではないといっても、そうなっているわけなの。
イスラエルの歴史、キリスト教の歴史、
歴史には常に神が関わる。人の力だけでは歴史は展開できないものよ。
これらからは、どのようなキリスト教徒とて逃れることは出来ない。
目を逸らす事も出来ないものよ。神とてそこからは目を逸らさないからね。
>>579 残念ながら、あなたは既にあたしの相手になっているわ。
私は別に、それほどでもありません。
死霊が神を名乗ることも、多々あるものだと思います。
だからSwedenborgが死霊に欺かれている、
という可能性を語っておられるんだと思います。
まぁ、マリアさんでなくても、普通の反応ですよね。
(あなたもたまにフツウのこと言うのね)
その、死霊に欺かれている可能性の充分にある資料を、
日本の多くの神道系の宗教が多く引用し
重要な参考資料として自分たちの教理を作り上げているらしいですよね。
Swedenborgを参考にしている宗教はたくさんあるんですよね。
マリアさんのお話だと、そういうすべての宗教は、
みな死霊に欺かれたSwedenborgに欺かれたまんまで
自分たちの宗教を作ったということになるわけで…。
ま、それでもいいけど、それでマリアさんだけは死霊に欺かれていない、と…。
という事になるわけですね。わかりました。
でも、それって、キリスト教、ユダヤ教を批判できるほど度量の広い宗教の人の
言うこととも思えないけど…。
自分とこの宗教以外は、神道系でもかなりの宗教が欺かれている、偽者だ、
と裁いていること、になるよね。
レスは要りませんが…。でも、仲良くしてね。
581 :
名無しさん@1周年 :02/09/16 18:52
>>579 歴史と関係ないってことは、人の生と関わらないってことと同じことだからね。
歴史とかかわりの無い神を拝むことこそ、偶像礼拝ではないだろうかと
織れは思うね。
一度書き込んだけどうまくいってなかったのでもういちど。
>>577 お分かりだと思うけど、576へのレスです。じゃね、また。
>>580 あら、説明不足で悪かったわね。
あたしはスウェデンボリが
死霊に欺かれている可能性は言ってないわよ。
例として良くある話を挙げただけ。
それより
>>572 で書いた文を読んで御覧。あたしが書いたことをね。
>それでマリアさんだけは死霊に欺かれていない、と…。
>という事になるわけですね。わかりました。
あらあら、まぁ、誤解させる文章を書いたのは悪いけど、
えらく捻くれているのね。普通の人ならそう言う結論にはならないものよ。
もっと目を開いて御覧なさい。
歴史から逃れるなら、神を否定することにもなるものよ。
>その、死霊に欺かれている可能性の充分にある資料を、
>日本の多くの神道系の宗教が多く引用し
>重要な参考資料として自分たちの教理を作り上げているらしいですよね。
>Swedenborgを参考にしている宗教はたくさんあるんですよね。
で、神道系と名乗る教団に認められたら、キリスト教として正しいのか?
これは否ね。イスラエルの神はそういったことを嫌うものよ。
逆に言えば、認められたということを、 忌むべきことと考えなければいけないことでしょう。 また、神道へ転出したあたしが言うのもなんだけど、 そうならキリスト教より神道のほうが正しいということとなる。 ということは、イスラエルの神が人に伝えた「真理」は、 ここで完全に否定されたということになるのよ。 スウェデンボリ説を奉ずるなら、 もうキリスト教という枠や、 イエズスを父なる神として奉じなければ良い。 キリスト教でいうところの父なる神という存在がいるのは確か。 これでいいのよ。 しかし、何故ここでイエズスを主神としたのか? 何故、主神が父なる神自身にしなかったのか? それはあたしが先に書いたことに関係がある。 歴史を洗い直して御覧?そうすることによって、全て開けてくるものよ。 それから、偽者は偽者。本物は本物。 イスラエルの神とスウェデンボリがいう父なる神が同じか否か。 それは、全く違う神というだけのことよ。 しかし、同じにしなければならないという事情があるというだけのこと。 西洋のニューエイジにも、スウェデンボリ説は大きな影響を与えた。 このような思想は、イスラエルの神は好まない。
>>581 神道の天之御中主は、人の生とは関わらないのだけどね。
当然、歴史にも関わらないわ。最初に現れて、後は隠れているからね。
この神は、他の神々に全てを任せて高天原の隅に坐すわ。
585 :
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マリアには何を言っても無理
>>586 そうだろう。マリアは非常にまともなことを言っている。
イエスを父自身にしてしまうと都合はいいな。
父なる神は追放されてしまうからな。
ただ、気になるのはマリアの言い回しだ。
これではイスラエルの神は創造主ではないと言っていることにもなる。
>退廃芸術展の開催場所 すでに行った場所でした。歴史の皮肉を感じた、いやわざとそうしたんだろうと 思うけどね。 織れらに出来ることは、結局忘れないことくらいだね。いや、それだって たいがい難しいんだけど。
Hic ego barbarus
quia non intelligor illis. だいぶ時間があいたけれど、一応はけりをつけておく事にしましょうか。 後はみなさまでよしなに。 J16.7 all' egw ten aletheian legw humin, sumpherei humin hina egw apelthw, ean gar m~e aperthw, ho parakl~etos ouk eleusetai pros humas. /ean de porentw, pempsw auton pros humas./ * / P66(ca. 200) vid. しかしわたしはあなたがたに真実をいう あなたがたの利益になるのだ 私が去っていくことは というのは私が去っていかないのであれば ”慰める者”はあなたがたの元へ来ないであろうから。 /そして私が行くならば 私は彼(=P)をあなたがたの元へと送るだろう。 ……後ろがつかえてるのでね、時制とか否定辞が違うよねとか 異読の検討とか、そゆことはどうぞみなさんでよしなにご検討 ください。それではまた、どこかで。