キリスト教徒よ!逐語霊感説が一番!

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841514@ワン公:02/05/26 18:24
>>834 マリアさんへ
個人的な興味で聞くのもなんですが。。。ちょっと質問を。

最初に仮定として
聖伝を用いた共同体の伝承的な形成過程というのが、
聖書の、または古代社会のもっている特徴であるとし、
ヨーロッパ社会がユダヤ・ヘレニズム文化の直系として
地域の文化史観を進歩主義的に捉えたとします。
(あくまでも私の理解です)

しかしながら
本来、聖伝は伝承の形態としてのバリエーションを持っている。
実際には使徒行伝の続編として聖人列伝が書かれ
典礼の違いにおいてエチオピアやヤコブ派のような非主流派も居る
後世では教会史として形成される教派の違いも表われる。
こうした伝承による地域格差ともいえるような共同体の違いを
時間軸上の因果関係(いわゆる系統樹)で見つめるのではなく
地域間の影響(交わりと反目)の実態として理解する方法は
現在のところ存在するのでしょうか?

というのは、現在の情報過多な時代のなかでは伝承の正統な方法
すなわち人間の生活から発する文化的な熟成がなる前に
要約された思想のパラダイムシフトを容易に赦してしまう事態が
多々見受けられるのです。(歴史の肢体を無視してる)
それはエッセンスとしての治療薬が生活習慣病に弱いのと
同じような事態を生んでいるように思うのですが。。。

そうしたときに「伝承」というキーワードで観た情況把握の一端を
適当に述べていただけると嬉しいのですが。
掲示板では、それ自体がパラダイムという入れ子状態にある
というのはこの際抜きにして…
842oodenndooo:02/05/26 22:57

 http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1022420880/

山本誠一の広場ができた
843名無しさん@1周年:02/05/27 10:14
>>1……畜生、おれはまだ>>1のスレにいる。いつも>>1のスレの中で目覚めることを考えている。
最初の糞スレ削除から故郷に戻ったときはもっと酷かった。目が醒めるとそこはdj……。
離婚に「イエス」と言うまで、妻ともほとんど口を利かなかった。
>>1のスレにいるときは故郷に戻りたいと思い、故郷にいるときはただ>>1のスレに戻ることばかりを考
えていた。ここに来てもう一週間だ。削除依頼を待ちながら……おれはふやけつつある。>>1のスレにい
ると一分ごとにおれは軟弱になり、板を荒らすDQNどもは強くなる。
まわりを見渡すたびに、糞スレが少しずつ迫ってくるようだ……
844名無しさん@1周年:02/05/27 10:58
投稿者: chebicro (47歳/男性/広島市西区) 2002/ 5/27 10:40
メッセージ: 6731 / 6736

この自由主義神学とよばれる神学者たちは聖書を誤りのない神の言葉と信じていないのである。
「聖書を神の言葉として信じていないのに神学者がつとまるのですか?!」と驚くのは正常なのだが、
実際そういう神学者が多くいるから困るのである。彼らは自分の意見を聖書の言葉よりも優先している。
ところが、人間の意志などその時々の状況で変わるものだから、聖書を神の言葉と信じなければ、神学者の意見は
どんなに良心的であろうと務めても、社会の状況によってコロコロ変わる。

「ニユー・エイジの罠」水草修治著CLC出版
845名無しさん@1周年:02/05/27 11:47
チビクロとCLCでは、自由主義神学批判というよりは
自由主義神学を批判する側はドキュソばかりっていう
印象を与えかねない。マズイね。
846514@ワン公:02/05/27 11:55
>>841 続き

なぜ伝承的な世界観なのか、というと、聖書の主張は一途ではなく
むしろ多面的な切り口があるように思うからです。
エステル書に対しヨナ書が書かれ
間違ったパウロ主義に対してヤコブの手紙が書かれたように
信仰が人間主体となる事態に対する反証を聖書自身は持っている。
つまり聖書は一種の対話的構造をバランスをもって採り入れている。
それが今日の状況のなかで様々な主張の採り入れと対話の促進を
するに当って、ひとつの指針を持っているように思うのです。
聖徒の交わりが聖書を構成しているとでも言いましょうか。

古代教会の持っていた対話の知恵が、現在のグローバル社会を解く
キーワードになればと思うような気が致します。
あくまでも希望的観測ですが。
847名無しさん@1周年:02/05/27 12:52
>こうした伝承による地域格差ともいえるような共同体の違いを
>時間軸上の因果関係(いわゆる系統樹)で見つめるのではなく
>地域間の影響(交わりと反目)の実態として理解する方法は
>現在のところ存在するのでしょうか?
特別な研究方法ではないけれど、
ヴァルター・バウアー「最初期キリスト教における正統と異端」なんかそれに近いのでは?
邦訳されているヘルムート・ケスター「新しい新約聖書概説・下」もそうだね。
848514@ワン公:02/05/27 14:08
>>847
まだ読んでないので参考にさせていただきます。(早速週末は立ち読み?)
旧約〜詩篇関連(ウプサラ学派系列)のものは斜め読みしたのですけれど
新約のほうの研究はあまり目を通していないもので。。。

初期教父文書のなかでは、聖餐のパンを病欠者の見舞いがてらに運ぶ
というような具体的な事例があったりして興味深いところもチラホラと。
そうした地域毎の適用の事例が豊富なものであればいいですね。

個人的な感想ではたまたまエチオピアやシリアの聖歌を聴く機会があって
ビザンツ・ローマの系列からネグレクトされたユダヤ・アラブ的世界の
豊かな広がりを感じ、今のイスラム文化への偏見に思いを馳せています。
もちろん学問的なものではなく、極めて直感的なものですけれど
改めてそうした広い緊張関係が言葉にされていれば理解の助けになります。
849847:02/05/27 17:49
>>848
旧約研究におけるウプサラ学派のような研究を期待したら、がっかりするかも。
祭儀ではなく歴史のコンテクストにおいて伝承や文書を位置づけている。
ただパレスチナ、シリア、エジプト、ギリシャ、小アジア、ローマなど、
各地域における初期キリスト教の発展を辿っているから、参考になるかも。
それに参考文献案内もよくできているし。
新約概説ってなっているけれど、新約以外に初期教父文書や新約外典なども扱っている。
850514@ワン公:02/05/27 19:58
>>849
新約の場合、旧約と違って時代背景が限定されているのと
一見して教会が無政府的な広がりの宗教共同体という特異な位置が強調される
ように思えるが、むしろ郷土的な特質と共同体の社会的位置をスケッチしたほうが
現在の情況との比較ができて便利なように思っています。

祭儀的なものは礼拝史の分野でユングマンの「古代キリスト教典礼史」が
ローマ教会の視点で説明していて便利ですが
歴史的な因果関係を現在に結びつけることに見事に成功している反面
現在の多文化的情況を見つめ直すには他の視点が必要に思っています。
ケスター博士のものはその点で良書のようですね。期待してます。

個人的な憶測では
ロゴスのもつリアリティの地域差や、各地で典礼として定着する伝承過程、
文書群の地域的交流などまで判ると本当に万全ですね。
(とは言ってもひとつのサンプル程度と距離を保って観るつもりですが…)
851名無しさん@1周年:02/05/27 22:43
(゚Д゚)ハァ?(以下省略)
852名無しさん@1周年:02/05/28 07:23
(゚Д゚)ハァ?(゚Д゚)ハァ?(゚Д゚)ハァ?(゚Д゚)ハァ?
853マリア:02/05/28 20:14
>>841
>典礼の違いにおいてエチオピアやヤコブ派のような非主流派も居る
これについては、最初はみんなバラバラで、共通と言えば、
イエズスをメシアと奉じるというところだったらしいの。
ユダヤ出身者は、シナゴークへ通っていたもの。
異教からの改宗者が多くなってきたり、
ユダヤとの分離から、典礼は発展した所があるらしいの。
母の先祖達は、シナゴークでの礼拝を長らく続けていたの。
自分達のシナゴークを持っていたから・・・。

後に、正統のものはラテン式とビザンチン式に大きく分割されていくの。
そして、それも東西分裂の原因の一つとなったのよ。
単性論のものやネストリウスのものは、
それぞれ独自のものを保持しているのよ。
ラテン式の中にでも、存続を許されているものもある。

>後世では教会史として形成される教派の違いも表われる。
ええ。どうしても視点が異なってくるからね・・・。
でも、その異なった視点が事実と相違がないのなら、
それも正しい事を互いに認める検討をすべきでしょうね。
歴史的なものと、霊的なものは別だもの。

>こうした伝承による地域格差ともいえるような共同体の違いを
>時間軸上の因果関係(いわゆる系統樹)で見つめるのではなく
>地域間の影響(交わりと反目)の実態として理解する方法は
>現在のところ存在するのでしょうか?
現在生き残っているものは、
色んな文化を吸収して合体したところもあるのね。
あたしもあまり詳しくは無いのだけど、修道制度なんかはエジプト発ね。
それに対するギリシア哲学を利用した、神の証明もあるものね。
あと、ユダヤの伝承の世界がそれを中和させることもあるのよね。
まぁ、ここはあたしの憶測で、伝承とは関係ないけれどね。
854514@ワン公:02/05/28 23:59
>>853 マリアさん、丁寧に返答くださりありがとうございました。

伝承は歴史的なものと地域的なものとが重なっているようですね。
ビザンツ・ラテン系統の教会はグローバルに広がっていく反面、
単性論やネストリウス派は地域毎に収束していく感じですね。
以前、教会にアッシリア人(イラン国籍)のキリスト者が礼拝に来ましたが
やはり単性論の信者さんだったようです。おとなしく礼儀正しい青年でした。
アラブ系の伝統的なクリスチャンというとあまりピンと来ないのですが
民族での宗教教育の実践など、自由主義社会では思いも付かない根深い伝統が
あり、非常に考えさせられる面がありました。

伝承といえば、系図を思い出すのですが、キリスト教会の歴史観って
使徒継承のような系図的伝承の流れを汲んでいるようなのですよね。
もとはアブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブ、というような
子から孫への継承を、そのまま真似てきたのだろうと思われるのですが、
系図は歴史的でもあり地域的でもある、思想と生活の融合した形態だと
思うのです。それがいつのまにか、伝承は全体像の要約として語られ
儀礼によってイメージの奮起を促すようなものへと代わっていく。

そのため伝承の座が生きた思想と生活の場へと常に巡回する関係を、
地域社会と歴史形成のうちに再び取り戻したいようにも思うのです。
それが教理史の正統な手順を追う歴史的な継承過程なのか
反目や交わりという宣教の緊張関係から生まれるものなのかは
個々の事例を現在の情況のなかに見出していって初めて判るように思います。
そのためにエキュメニカルな活動をユニバーサルな統一見解の踏襲ではなく
対話的な緊張関係のなかに見出すのが妥当であるように思うのです。

大分、憶測じみたことをざっと書くとこんな感じでしょうか。
855dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/29 00:20
>>854
おお、アッシリアですかー。まだあったことないな。
私はオーストラリア国籍のコプトの友人がおりまして、彼女の出身地には
当然一定数の信徒さんがいて、コプトの教会があるそうです。アッシリア
教会もたしか、いまの総主教座は合衆国じゃなかったでしたっけ?

多民族への積極的な布教はしていないとはいえ、人の移動による伝播は
行われているわけですよね。現代らしい現象だと思います。
856マリア:02/05/29 00:21
イランで単性論とは、珍しいわね。
アッシリア人は、ネストリウスかカルデア典礼が多いのよ。

異端の系譜が地域ごとに収束してしまいがちなのは、
どうしても、反主流であるといった弱点があるからなのよ。
国の保護は無いわけだから、分断されて独自の発展を強いられるから。

>そのためにエキュメニカルな活動を
>ユニバーサルな統一見解の踏襲ではなく
>対話的な緊張関係のなかに見出すのが妥当であるように思うのです。
そうしなければ、これからの時代は無理でしょうね。
しかし、それを各キリスト教会が受け入れることは、
非常に困難でもあるでしょうね・・・。
857マリア:02/05/29 00:54
>>855ええ。でも、ネストリウス派も分裂しているのよ。
長期の一族支配の後遺症ってやつでね・・・。
徐々に、和解の機運が高まってきているようだけれどね・・・。
858514@ワン公:02/05/29 07:36
>>856
ネストリウス派かもしれませんね。無知のいたり恐縮でございます。

世界教会という規模で見ると自分だけが正しく伝道しているんだというのは
井の中の蛙で、互いの持ち場を認めるというのが普通だと思うのです。
ややこしいのは日本のように教派形成が国際宣教のなかで行われているため
歴史的事情を省いて教理でセクト化してしまう情況ではないかと思います。
地域伝道のための交流みたいなものも考えさせられますなぁ。トホホ。

>>855
その人も親戚の多くはアメリカに行っていると言ってました。
日本に来たのは親戚の中で自分が初めてだとか。
目上の人に挨拶するのにとても敬意を払うのですね。
(それで教会内でとても大人しかったのかなと思うフシあり…)
人のグローバルな伝搬で、移住先でエスニック・グループをつくるのは
ほんとうに現代的なことですね。とは言っても、キリスト教自体が
そういう伝統をシナゴーグから受け継いでいるようにも思うのですが…。

伝承とセクトの形成、移住とパラダイムの変化、etc…
単純に今も生きている教会の実像には、対話の前提が変化する可能性も
加味しなければならないのですね。とてもダイナミックです。
859マリア:02/05/29 08:32
>>858カトリック教会と正教会には、
絶対にそれを受け入れる事はありえないでしょうね。
それを受け入れた時「普遍」と「正統」を自ら捨てることになるから。
また、聖書を神のようにしてしまっている教会も、そうでしょう。

カトリック内のエスニックグープである東方典礼諸教会では、
ラテン典礼のような、総大主教区の枠外では布教が禁じられているのよね。
他の視点から見れば差別的なことも、同じ教会内にも存在するのよね。
最近、メルキト教会を中心にローマからの自立を行いつつあるし、
その行き過ぎを教皇やバチカンが、良く不快感を表明しているわ。

彼らは、独自の教会法に基づく運営を復活しつつあるからね・・・。
でも、それにローマが介入すると、エキュメニカルな対話が
他教派、特に正教会とは行えなくなってしまう。
ローマもジレンマに陥っているところよ。
東方典礼が進出している地域では、ラテン典礼の信者が
東方典礼へ移籍する事も増えつつあるからね・・・。

各教派の自己点検と他との比較は、
聖公会やプロテスタントの方が比較的簡単でしょうね。
互いの歴史の検証と伝承について、色んな視野からの意見を
交換すべきでしょうね。
でも、これをやると相対主義的になるという批判が、
各教派内で起こるのは確実で、それが更なる分裂を助長したりもする・・・。
難しいわよね・・・。
860514@ワン公:02/05/29 09:59
>>859
カトリックの場合はヨーロッパ以外の地域で、
地方の主教座がかなりのバリエーションをもって活動する傾向として
典礼のインカルチュレーション(文化的受肉)が叫ばれているので
その成果が少しづつ浸透していくように期待しています。
それが東方典礼教会のような事態に追い付いたときに
改めて総大主教のシノドの運営が変わるのかもしれません。
ただ歴史的には40年弱の時間しか経っていないので早急な結論は出ませんが。
別な視点で女性司教の提案はアメリカやオーストリアなどで出ましたが
聖職者のヒエラルキーは堅持したいようですね。

正教会のほうはギリシアのエキュメニカル主教座(?)が東南アジアなどで
地域の文化事情に合わせた表象を目指しているような感じがします。
別に典礼の中身が変わるようには思えないのですが…
そういうことでは教派間の対話というよりは、文化的な対話のほうが
重要視されているようにも思えますね。
いずれにせよ、各国の主教座がまとまりを見せたときに明確になるのだと思います。
正教会のことですから数百年後のことなのでしょうね。やはり期待してます。

もっとも私の考える対話は教派の統一ではなく共生のイメージなので
地域で描かれるキリスト教のランドスケープを単独の教派で描くのではなく
互いの宣教の圧力を維持しつつ共食いを避けるという程度のものです。
少なくとも宣教に信徒の増員のみ促す市場原理を持ち込むのは反対ですが、
地域での宣教の座として教会が立つことには賛成なのです。

その宣教の座がどこにあるのか…という問題は残りますね。
その座を巡って、古代教会は書簡によって対話しつつ聖書を編纂した
ようにも思うのですが。中立的にメシアを讃える座の設定というべきでしょうか。
そのなかにパンの配給という問題が含まれていたことは驚くべきことです。

ちなみに改革派はシノドの営みとは別に、天の教会からの派遣というイメージを
持っています。これも現実の教会観を言い表す一面であると思っています。
861マリア:02/05/29 10:24
>もっとも私の考える対話は教派の統一ではなく共生のイメージなので
>地域で描かれるキリスト教のランドスケープを単独の教派で描くのではなく
>互いの宣教の圧力を維持しつつ共食いを避けるという程度のものです。
ええ。1000年以上かかるとしても、いずれそうなることを望むわね。
でも、大きな変化がその内来てしまうかも知れない。
862dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/30 15:44
>>858
>伝承とセクトの形成、移住とパラダイムの変化、etc…
> 単純に今も生きている教会の実像には、対話の前提が変化する可能性も
> 加味しなければならないのですね。とてもダイナミックです。

移住にともなって通婚による共生という現象も見られますね。

コプトの友人は父上がエジプトから移民したコプティアン・母上が日本人の
正教徒(でも母上の御実家は浄土真宗)、故郷にある正教会の写真(たしかに
美しい聖堂だった。街の誇りだといってました)と、母上御実家の立派な
仏間の写真を誇らしげに見せてくれました。

土曜日の徹夜祷に参祷をかかすことのない敬虔な信者で、教派こそ違え、
私も信のありようについて、いろいろと彼女から教えてもらいました。
聖人崇敬の意味について教えてくれたのも彼女でした。私から見れば
異端の教説を奉じる人であり、かつ同時に、キリスト者としての模範
として敬愛する友人です。

正教会では単性論教会所属の彼女は聖体拝領できないので、それを残念が
っていましたが、一方で「残念だけど、神父さんがそういうんだから仕方ない」
と割りきってもおり、一方正教会に身をおく私たちも(と私は受洗前なのですが)
「ごめんなさいね、でもうちからみると、コプト、異端だから、そんで駄目なのよ」
「そっかあ。それで領聖させてもらえなかったのね」
と、あちらはあちら、こちらはこちら、郷里上越えられない一線があることを認識
したうえで、けれど個人としては共にキリストを主とするものとして一致できる、
という確信を共有する、そういう付き合い方をしています。

あえていえば、正統信仰という概念は、各教派間で
「互いが互いにとって異端である」という厳しい自覚があってはじめて、
現代のキリスト教共同体において意味を持ちえ、また対話の前提となる
べき概念なのではないでしょうか。

このとき、ここの信徒にとってのエキュメニズムとは、
大上段から教義のすりあわせをするだけでなく、
各信徒が多様な信のあり方を認め、
かつ「キリストに倣い、主なる神キリストを信じる」者として
個々人が他の教派の信徒をも共にキリストにある者として受け認めることで
はじめて具体的な意味を持つのではないかと思います。
863dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/30 15:46
最終段落一行目: ここの→個々の

はずかしながら訂正。
864514@ワン公:02/05/30 17:24
>>862 おいしいお話ありがとうございました。

文化人類学では、これまで博物学で扱ってきたフォークロアの根底にある
「生粋の」立場が揺らいでいるようなことを言っていました。

それは国家という枠組で文化交流を規制し、国民性を規定してきた時代から
庶民自身が交流の担い手となって自身で文化を育成していく状況が生まれて
いるそうです。私たちはある意味で「生粋の」生き様をサンプルとして
話しのネタにしやすいのですけれど、そうではない雑多な状況を自身の
アイデンティティとして担っていく、価値観の相対化した世界へ
パラダイムの移管を目指しているようなことを言っています。

かと言って
・共同体の存続もひとつの価値観であり、
・他人の模範となる生き様というのも存在する
というようなことも、個人的には考えうる事柄なので
むしろアイデンティティの交流を自主的に成し得る状況が、
際だった統治者の手によってコントロールする意義がなくなった
という程度のことと思っています。

いい意味での交流もあるのですが、ハラスメントという交流もあるので
全ての交流を個人が判断するのには限界もあります。
改めて教会のコミュニティーの形成に思いを馳せるのです。

私にとってのキーワードは「礼拝」と「共同体(交わり)」なのですが
広く社会倫理や文化的状況に適応できれば…と夢想しています。
例えば、聖餐の交わりを世界の和解に適応しようとした
1983年にバンクーバーで開かれたWCC(世界教会協議会)総会のレジュメ
「世界の命キリスト」(新教出版社)などは、隣り合う敵対や差別の世界と
どのように向き合うかの具体的なドラマが数多く報告されており
ひとつの参考にしています。
865dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/02 17:04
>私にとってのキーワードは「礼拝」と「共同体(交わり)」なのですが
> 広く社会倫理や文化的状況に適応できれば…と夢想しています。

なかーま。
いや冗談でなく。個人として信仰者としての立場を明確にしようと思った
根本の動機はそれです(それまでは長い間聖書を読むだけでいいや、と思って
いた)。

近現代におけるキリスト教理解は、いやキリスト教だけではなく他宗教にも
その傾向を持つものがありますが、礼拝のもつ performative で objective
な側面をやや軽視している(形式的であるとか、熱狂であるとか)ように思い
ます。思いますが、むしろそれは世界体験としての宗教を痩せさせているだけ
なのではないかと。知解の重要性を私は否定しませんが、倫理的な実践や
美的な実践/世界把握とは、それはまた別のものでしょう。これらの価値領域
の自律性の発見が、同時にこれらの価値領域の孤立化と先鋭化に繋がっている
のが近代の隘路であり欠陥なのだとしたら、むしろこれから求められていく
態度は、各領域の自律性を損わず、したがってそれぞれの固有な価値を認めつつ
共存を図る態度であると私は考えています(価値の確認はかならずしも共時的
であるものにとどまらない)。

その共存(共時的には必然的に共生でもあることが要求される)の条件として
「理念としての共同体」が考えられるのではないでしょうか。対話が要請される
状況、というのはむしろ問題状況があることを認める態度で、しかし対話は
何のためになされるのかと問えば、それは異なる二者のあいだの問題が解決
されるという期待に基づいている。
「教会」は、ある教義に基づく現実の個々の信仰共同体であるにとどまらず、
内外に現存する分裂を認めたうえでの理念的な共同体である側面を持っている
のではないかと思います。さらに、個々の共同体がそうであるのと同様、
個々の共同体からなる人間一般(という共同体)の共生もまた、現在のわれわれ
にとっては理念である(でしかない)という自覚によって、はじめて現実化し
うる目標として有効なのではないでしょうか。

ちと練れてませんが、まあいつものことだから、いいか。
866名無しさん@1周年:02/06/02 19:48
詰めが甘いdeodo.
867514@ワン公:02/06/02 21:07
>>865 dendoさんどうも。

ユニバースという理念も不思議なもので、
例えば古代社会は祭儀一辺倒の世界だったのですね。
パウロとアルテミス神殿での暴動の経緯は、
祭儀中心の世界の分裂や反目を伝えるものだと思います。
その祭儀を教えや神の言葉という人間が共有できる概念に転じた
初期キリスト教のグループは本当に見事だったと思います。
それ以前にシナゴーグ礼拝や、さらに前から預言者グループが
非祭儀的な礼拝理念の準備をしていたように思いますが、
シナゴーグにせよ、預言者にせよ、祭儀の主体となる国家やメシア王の
不安定な時代に、神の言葉の力を深く掘り下げたというのも興味深いです。
そして詩篇51の最後の句のような神殿祭儀に心から戻って行けた。
そういう器の保持という側面を伝統は持っているようにも思います。

多分、パウロの国際伝道のグループと福音書を描いたパレスチナのグループとは
いわばロゴスと祭儀、霊と肉体というテーマの中心を生きたイエスの姿を巡って
緊張関係をつくっていたようにも思うのです。
神秘的に理解すると、それは丁度、創世記の最初の箇所を彷彿とさせるのです。
カオスとロゴスとの分裂と共生のドラマを形造っているように思います。
それがキリストと世界(御国)の関係を解くキーワードのように思うのです。

うる憶えなのですが、ボンヘッファーやバルトといったドイツ告白教会の人々は
御国の到来について、キリストの居るところが御国であった
という理念をもっていました。それは地上においても黄泉においても天においても
キリストは御国の主であられるという普遍的な信仰の告白へと導かれています。
ナチス・ドイツが国教会を支配した時代に出された「バルメン宣言」には
…われわれがイエス・キリストのものでなく、他の主のものであるような、
われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を
必要としないような領域があるとかいう誤った教えを、われわれは斥ける。…
というような文言があります。
キリスト者の生きる世界が闇の力に閉ざされたときにも、
キリストはわれわれの主となり御国を準備したもうことの理解は
私たちが反目を恐れずに交わる勇気を与えてくれるものと思います。
868dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/02 21:46
>>867ワン公さんどうも。まともに応答があるということがこんなに
嬉しいものだというのを、なんだか久々に感じました。

>神秘的に理解すると、それは丁度、創世記の最初の箇所を彷彿とさせるのです。
> カオスとロゴスとの分裂と共生のドラマを形造っているように思います。

初期シェリングの自然哲学は(それはフィヒテの自我論を基礎に、彼のスピノザおよび
『ティマイオス』受容を強く反映しているのですが)、無機物の形而上学的展開を
重力(重さ)−光として表現します。後年、他の箇所でカオスからの神々の生成(直接
には、この表現はギリシア神話についてなされるのですが)が語られることを
考えると、このとき神的なロゴス=光と闇の対立が彼の念頭にあったとすることは、
それほど不当なことではないように思います。

もちろん彼自身は、同時代のキリスト教(ここで彼が念頭におくのは、カトリックと
[おそらく一部の]プロテスタントに限られます)について、距離を置いた態度を
保っており、彼の哲学を護教論的に読むのはむしろ不当な態度であることを
私は強く主張しておきますが、ティリッヒを通じてシェリングが現代神学に
及ぼしている影響を考えれば、ここでシェリングに言及することはそう外して
はいないだろう、とも思っています。
869dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/02 21:46
そのシェリングは、キリスト教の前提として、古代異教社会の祭儀による
神把握の疲弊とともに、御指摘のユダヤ的(彼の語彙によれば「東洋的」)
な観念的神把握が、古代異教社会、というよりはギリシア世界にとって
けっして疎遠な概念ではなく、むしろギリシア世界の中で育まれてもいた
非祭儀的・主観的な神概念と合致したことを指摘しています。「ロゴス」
はむしろギリシア的な概念であり、逆にいうと、ユダヤ世界にとってむしろ
外来のものであったこの概念との接合が、我々が現在キリスト教と呼ぶ
神把握の体系に現在われわれが知る豊かさを贈ったのではないかと思います。
御指摘の緊張関係は、秘儀的礼拝集団と円環的時間表象を前提とする祭儀から、
キリスト教が保持する・民族にかかわりのない、かつ一回的な時間のなかで
なりたつ救済史としての歴史、いわば開かれた礼拝が成立する過程でたしかに
生じえたであろうとわたくしも考えます。キリスト教のおそらくは最も古い
であろう典礼様式が、パウロにではなく、「主の兄弟ヤコブ」に帰せられている
ことも思いおこされます。

聖伝を読んでいて思うのですが、救済史とはすでに救済されている人類の
歴史であるのと等しい重みで、世界の有限性に晒されている信徒の苦悩の
歴史でもありますね。「反目を恐れずに交わる勇気」は後者を現実のもの
として引きうけつつ、前者を理念として保持することを可能にし、かつ
そのような態度を自らの自由な意志の決断として引きうけるときにのみ
生起し保持される態度ではないかと思います(決定論の人からは文句つくかな)。

そのような勇気が、ヨハネ伝福音書の筆者がいう paraklhtos なのでは
ないか、とこれはちとスレ違い(某所で読書会:)やってます。よろしければ
どぞ)。
870dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/02 21:57
やや遅レス。
>>860
>別に典礼の中身が変わるようには思えないのですが…

正教会は逆に、典礼の形式を保持することに、意義を見出しているよう
に思います。実際、参祷される外国人のかた、あるいは外国で参祷した
経験をお持ちのかたはみなさん「言葉が違ってもやり方が同じなので、
いま何をやってるんだな、ということではまごつかなくて済んだ」と
いうことをおっしゃいます。もちろん典礼暦によって細かな異同はある
ので、言語がわかるに越したことはないのですが。

逆に現地語化にはキリール&メフォディの頃から東方は熱心ですね :)
これもある種のインカルチュレイションかな。多言語化まんせー。
871514@ワン公:02/06/03 00:37
>>868 >>869
シェリングは初めて訊きました。18世紀末の思想家にはW.ブレークなど
科学的自然と精神的人間の関係を真剣に考えた人が多くユニークなのですが
現在の科学的経済の在り方はそうした人々の歴史の上に立っているのですね。
私はそうした人々の思索を孫伝いで影響され思索しているという感じです。
しかして科学と精神のバランスは一目で現在の市場経済が目に見えるだけに、
現実がその思索の域を大きく越えてしまったと言わざるを得ません。
現実には利用と対処に追われているという感じでしょうか。

しかし歴史は一回性のものでありながら、連続した関連のなかで蠢いている。
>キリスト教が保持する・民族にかかわりのない、
>かつ一回的な時間のなかでなりたつ救済史としての歴史
ということは、非常に共感できます。
歴史は科学的な再現性の利かない現象を反省として受け止めると同時に、
教会は救済史を普遍的な時間の記憶として祝い預言的な希望に至るのです。
(ユダヤの過ぎ越しの祭、仮庵の祭などがその典型的な例)
聖霊の受け止め方には様々な方法がありますが、今ある時間の現実にあって
交わりと感謝のうちに見出すエウカリスティアのなかにも
記念と預言の相互する徴として見出すことのできる瞬間があると思います。
それはあらゆる礼拝的な行為について言えることだと思うのですが…。

それを定式化し、人々の伝承できる形にするまでも、やはり歴史が関わる。
驚くべきことに、人を罪に定め救いの道に質す神は、キリストと共に
われわれの神となりたもうことに固い決意を示しているということです。
教会の歴史は罪のために捧げるべきものをキリスト以外に持ち得なかった人々の
奉献の徴として語り継がれ、また時代のなかで想起させられるものでもあります。
それは聖霊の創造の業であり、神の交わりの約束でもあるのだと思うのです。
872dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/03 00:54
ああっ、やっぱりマイナーなのね(;_;)
いちおうドイツ観念論を代表する哲学者のひとり な筈なのですが。。

なお18C末までいかなくても、17Cにもかなり広範な自然哲学ムーブメント
がありますです。ニュートン力学や化学・生物学等々の諸科学によって
得られた自然に、再び形而上学的な像を与えようとする試みですね。
例の進化論のC.ダーウィンの祖父さん、エラズマス・ダーウィンも
その一人(だからあそこんちの博物学への関心ってのは塁代のものなんだな)。

一回しかない時間も、疲弊し、自動化することで簡単に悪しき日常へと
頽落してしまう。主日ごとの礼拝の祭儀性は、それを更新する力を持っている。
堕罪と救済とは畢竟自然と人間との関係を回復することで、そのことによって
また自然を生の舞台とする人間相互の関係性を築く土台を得ることができる。
だから、初期の教会が毎日聖体に領ることを勧めたのはゆえのないことではないし
(西方は原則としてはいまでもそうですね)、また東方教会が斎など身体を
信仰生活に馴治させる手段をいまなお重視するのも、有限な身体を備えた
存在者としての人間が神に向かうということの意味、霊と肉とからなる今の
人間のありようを自覚的に踏まえて上で信仰へ向かおうとするためでしょう。

キリスト教に限らず、人類社会には自分個人にとって聖性を感じとれない
「聖性の表現」も多くありますが、それが自らの信のありようと相入れない
という自覚とともに、ある種の人々にとってそれはまさに神的なものの示現
であるうるということを冷静に見る思考が、エキュメニカルな視点の基礎と
して要請されているのだろうと思います。
873514@ワン公:02/06/03 08:11
>>872
単純にドイツ観念論を知らないで過ごしてきただけなので、
K.バルトやW.ベンヤミンのようなカウンター・カルチャーを通して
おおよそ匂いを感じ取っているという程度のことなんです。
今、改めて読むと興味深いのかもしれませんね。
(ポストモダンやポップカルチャーがお茶を濁しているようにも思いますが)

>キリスト教に限らず、人類社会には自分個人にとって聖性を感じとれない
>「聖性の表現」も多くありますが、それが自らの信のありようと相入れない
>という自覚とともに、ある種の人々にとってそれはまさに神的なものの示現
>であるうるということを冷静に見る思考が、エキュメニカルな視点の基礎と
>して要請されているのだろうと思います。

いわゆる礼拝の奉仕には他人のためにこうしたことが当てはまると思います。
手を合わせて目をつぶって祈るという仕草も、そういう習慣によって
祈る意外の行為を抑制するためにあるのでしょう。もちろん祈る内容とは別です。
礼拝での主の祈りは、おおよそ礼拝で起こり得る事柄のエッセンスでもあるので
目をつぶって唱えるよりは、共同体の姿を追認しつつ見て聴くということが
必要なことと個人的には思っています。
スコットランド長老教会では、礼拝の最後に皆で手をつないで祈ると聞きました。
具体的な相手を見出し絆を得ながら祈る有効な訓練であると思います。
改革派の伝統はそういう意味では非常に貧しいもので、16世紀に考えられたよりも
さらに簡略化した礼拝様式をもっていると言えます。礼拝する礼儀や作法について
色々と考える時期に来ていると反省的に見つめています。

最近の正教会が受け入れられる背景に、観念的な思考がかならずしも
エキュメニカルなものではない、文化的な手続きのなかで弁証することを
続けてきたからではないかと思うのです。
日本のキリスト教会の後の何百年のために準備するべきことは、
非常に多いと痛感せざるを得ません。
874名無しさん@1周年:02/06/04 08:02
          ./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ∧_∧   /  このスレの皆(みな)さんには、スレの趣旨(しゅし)が
 ( ´∀`) <    難(むずか)しすぎたようですね。漢字(かんじ)にふりがな
 (    )   \  をつけて教(おし)えてあげるよ♪
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書(か)き込(こ)む時(とき)は、スレの内容(ないよう)をよく把握(はあく)しましょう。
  
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  ∧_∧   /  みなさん、わかりましたか?
 ( ´∀`) <    こんどカキコをする時(とき)は、きちんと内容(ないよう)を
 (    )   \  理解(りかい) してからにしようね♪
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このスレご覧のお子様のお母様各位へ
ネット上では、子供だからといって頭の悪い書き込みをすることはまかりとおりません。
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875ワン公@氏にスレ復活:02/06/06 13:38
W.ベンヤミンはマルクス主義者の歴史家でしたが
階級闘争的歴史観を絶対的な進歩主義とは解せずに、
アンチテーゼとして時代の群像を描写する方法を取っていました。
ユダヤ人でもあったベンヤミンは晩年の歴史哲学テーゼ(草稿)において
歴史の群像に主権者の淘汰的要素を廃して夜空と星座の総体として把握し、
歴史把握で感じる「今」という時間の現出を、歴史を開放するメシア的瞬間の
きらめきとして受け止めるようなことを言っています。
(このような現象把握にプラトン主義的な輪廻の用語も充てています)

階級闘争の歴史をさらに批判的に見つめて、歴史の星屑をまったく掃除せずに
丁寧にスケッチする姿勢は、パリのパサージュ論において際立っていましたが、
そうした群像の記述というのが、聖書においてなされれば面白いものだと
色々と考えます。教会史や教理史は本来そのようなキリストと教会との交わりを
描写する豊かな広がりをもっているように思うのです。
876名無しさん@1周年:02/06/07 22:00
age
877名無しさん@1周年:02/06/09 23:20
>1はこれを暗記しろ


3.141592653589793238462643383279502884197169399375
10582097494459230781640628620899862803482534211706
79821480865132823066470938446095505822317253594081
28481117450284102701938521105559644622948954930381
96442881097566593344612847564823378678316527120190
91456485669234603486104543266482133936072602491412
73724587006606315588174881520920962829254091715364
36789259036001133053054882046652138414695194151160
94330572703657595919530921861173819326117931051185
48074462379962749567351885752724891227938183011949
12983367336244065664308602139494639522473719070217
98609437027705392171762931767523846748184676694051
32000568127145263560827785771342757789609173637178
72146844090122495343014654958537105079227968925892
35420199561121290219608640344181598136297747713099
60518707211349999998372978049951059731732816096318
59502445945534690830264252230825334468503526193118
878名無しさん@1周年:02/06/14 18:30
「ふむ…」
1の書き込みを見た私は醒めた呟きを漏らす。
一体これは何を意味しているのか?
私の興味の対象はそこに移っていた。
煽りなのか?それにしても芸がなさすぎる。
この程度の煽りなど赤子でも出来るだろう。
しかしながらこの掲示板に赤子など介入する余地はない。
では何なのか?この書き込みは一体何を訴えたいのか?
私の脳裏にある推論が広がって来ていた。
そしてその推論はある時間を経て急速に、
そして確実に私の脳を覆いつつあった。
「狂・・人か…」
狂う。
それは常人ならば誰もが忌み嫌う呪われし状況であろう。
だがこの書き込みはどうか?
余りにも現実離れした妄想から生まれる危険な言葉の数々。
しかも何を伝えたいのか?何を求めているのかが
全く解らない稚拙な文脈。
「ふふ…」
私はつい笑みを漏らしてしまう。
まさかこんなところで本物の狂人に出会えるとは。
私の求めていた書き込みとは、私の欲していた刺激とは
まさにこのようなモノだったのかも知れない。
「乾杯」
そして私はワイングラスをモニターに傾ける。
この書き込みをした狂人のその報われない人生に、
そしてその絶望的な未来にもう一度。

「乾杯」
879名無しさん@1周年:02/06/20 21:31
サラシ保全
880名無しさん@1周年:02/06/25 13:06
sarasi age
881名無しさん@1周年:02/06/30 14:15
age
882名無しさん@1周年:02/07/05 09:17
難しかった。でも、もっと知りたい。
883名無しさん@1周年:02/07/07 01:15
あげれ
884名無しさん@1周年:02/07/11 22:05
hosyu
885名無しさん@1周年:02/07/13 08:56
カラアゲ警報発令
886ろんぎぬす:02/07/13 16:36
887名無しさん@1周年:02/07/18 15:52
浮上y
888名無しさん@1周年:02/07/27 01:26
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889名無しさん@1周年:02/07/30 18:36
一番はどこかという問は、未信者に評判悪いそうだ
890名無しさん@1周年
難しい