主イエス・キリストは父なる神(その4)

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100マリア
>>96正教の人は、カトリックとは共通の基盤である、
聖伝承という基盤があるけど、
プロテスタントの人には共通の基盤は、
西方教会であるということのみに限定されるから、
そういう無意識の解釈の刷り込みはあると思うわね。

あたしと正教の子が話してたら、プロテスタントの子は、
「あなた達の話しは、こっちには訳が分からん話だわ」
と言っていたわね。福音の見解についても、何かずれてたし・・・。

正教の友達が「西方教会といっても、
フェリオクェ問題等では一致しているから、
あなた達はある程度は出来ると思ってたのに、
こちらとの一致点が多いのが意外だった」
という、感想を言ったことがある。
101名無しさん@1周年:02/04/17 01:06
>そして通常のキリスト教理では、救いが何だか
>さっぱり分からなかった小さなヨハネさんは

普通は理解出来るんだがな。
しかし、小さなヨハネには小さなヨハネなりのやり方があってそれでいい。
それが聖霊の導きってもんだ。神はあらゆる手段をとる。

それにしてもリサはタカビーだな。。。
102名無しさん@1周年:02/04/17 01:07
対話拒否だからな。つまらん。
103名無しさん@1周年:02/04/17 01:08
>>96
んーでもね。
講談社学術文庫に入ってる(第二バチ以前の)要理とかのほうが
現行カトリック要理より手に入りやすくて、
でもって心理的抵抗なく前者を読み通せるプロの人って、やぱーめずらしいのではないだろうか。

とはじめてカトリックの聖堂にいったとき身体が受けつけなかった元エホ証は語る。
104名無しさん@1周年:02/04/17 01:10
>>101
まあ、あれに萌えを感じる人もいるんでしょう。女王様もぉどつか。

レジャーランドに、っていわれてるからそうしましょうか。
すでに「父なる」でこのシリーズを指すくらいには、
このスレッド群ひとつのトポスになってるみたいだから。

って誰にいってるのだか。
105マリア:02/04/17 01:10
>>98贖罪を、プロテスタント教義は強調するからね。

カトリックと正教は、受肉についても強調したので、
三位一体の教義や、マリアは神の母という意味も、
ここから出ているわけだけなんだけどね・・・。
106名無しさん@1周年:02/04/17 01:18
つれづれなるままに
結局直感的・実在的なものに関するかぎりでのキリスト教理解が
プロとカト(&正教)の決定的な違いなんじゃないかと思うわけよ。

・聖伝を否定した→共通了解の基盤(とりわけ詩的な)が失われた
・聖像を否定した→美的レヴェルでのキリスト教受容が質的に変化した
# ただ、これにより西方では音楽の地位が相対的に上昇するので
# 悪いことばかりではない。
・聖変化を否定した→典礼/礼拝内における実在性の表現とその理解が変化した
# このへんかなりいいかげんに書きとばしてる。つっこみをまつ。

存在論的には決定的な亀裂のようにみえる filioque 問題より、
この実在性理解の相違のほうが実は問題なんじゃないかなと思うわけよ。
我々の存在了解は実在的で触知できる世界からはじまるから、なおさら。
107名無しさん@1周年:02/04/17 01:24
ま、お言葉に甘えてこっちはこっちでやるか。
ほんとは、論争に弱い奴等め。と言いたいが。正教もカトも論争に論争を重ねてきた
歴史を保持してるからな。論争こそ学におけるコミュニケ−ションとも
言えるんだがなぁ、ヤパーリ、普通じゃないのかもしれないな。

>カトリックと正教は、受肉についても強調したので、
>三位一体の教義や、マリアは神の母という意味も、
>ここから出ているわけだけなんだけどね・・・。

それを考察するのが面白いんだが。
ひいては、森羅万象について考えることにつながる。
似姿である人の存在も含めね。
108名無しさん@1周年:02/04/17 01:27
>>106
切れ味の良すぎた剃刀のせいかもね。

啓示も、理論も、信仰の営みも、すべては繋がっているはずであり連動する
ものなんだが、それを切り離して特化してしまったがゆえの不幸。
109名無しさん@1周年:02/04/17 01:28
うううむ。争っているつもりはないのだが。たんに問いと答え、あるいは
問いと「わかりませんごめんなさい。だめ?(はぁと)」←ぉぃ

そういえば、どこだったかわすれたけど、このスレが一部で「荒れてる」と
評されてるとおぼしき書きこみを見たな。実にまたーりと議論を楽しんで
いるつもりなのだが、そうは見ない人もいるんだろうね。

かようにテキストというのは多様な読みを内包しているのであるまる
110マリア:02/04/17 01:29
>>101それはそう。
まぁ、あたしの立場からすれば、
ここでは円錐を丸か三角と言っているように、
感じるところがあるものだから。

まぁ、ここではキリスト教の中にある
イエズス教とスエ教、
また、イエズス教に使徒伝承派と再解釈派がいるし、
ある意味それぞれの違いが明確化されているが、
キリストによって一致しているという、
そういう現象が起こってて、あたしは大変面白いと思うね。

そして、その枠内にもいたあたしといたことはない人もいて、
ちょっとある意味諸宗教談義。面白いわよね。
111名無しさん@1周年:02/04/17 01:31
そういえば質問箱だっけ、クリシェ「オッカムの剃刀」の解説を
している人がいたな。回答のほうもクリシェだったけど。

こう、昔ネット上で同じ問いについていた濃密な返答を思いだして
すこしくおかしかったよ。御当人をさしおいてなにかいうのもあれだし、
だいたい再版されるらしいので営業妨害になるといかんしな、とか
思ってたら、どこのスレだかわかんなくなっちゃった(ぉぃ
112マリア:02/04/17 01:32
>>109本当に、その通り。
113名無しさん@1周年:02/04/17 01:39
>>109
をれ的にもマターリなんだが。。。どうも世間はそう見てくれない。
ちいヨハとも楽しんでたつもりだったのにな。共有できなくて残念だった。
リサは対話拒否なタカビ-だから問題外だな。

>>110 マリア
結局、再三言ってるように「語り得ぬものを語っている」わけだからね。
ほんとうは「神の御心ははかりしれない」だけなんだよね。
イエスという存在によって、をれたちは神を知る事が出来た。
それが一番大切なんだと思う。

その神をどう理解して来たか?先人達の知の遺産をあれこれしながら
をれたちも神との一致を目指そうとしていたりもするんだよね。
その先人達とは、福音使徒から、ギリシャ、ラテンの神学者達、
プロテスタントの神学者たち、そしてスヱーデンボリという事なんだがなぁ。
それぞれに敬意を払いつつも批判的に見て行こうとしてるってだけで。

114名無しさん@1周年:02/04/17 01:44
>>109
「ちいヨハの躓き」をマ2.は「ファリサイ人の躓き」に1/256くらいは冗談で
喩えていたが……議論におけるファリサイ人の躓き、てのは
「わかりません、ごめんなさい」といわなければいけない局面がつねに訪れえる
ということを認められないときに起こるのかもしれないな。

もちろん、それが単なる論理性の欠落や当然前提として期待されるべき知識の
欠落だったりするなら「ごめんで済むかゴラァ」となるわけだが、そいでも
わからないことをわかったふりするよりは、たぶんまし。元ふらがいう
「知への誠実」はそれをも含意しているだろうと私は考える。

人間的認識の限界を設定する、ってのも構造的には同じ。
個人としての対話を拒否して飛びさるのと、
視霊者の夢を全体として無謬と認めさせなければいられない心性は
同じ根をもっているだろう……ではまた。
115名無しさん@1周年:02/04/17 01:51
知への誠実は大切なんだよ。
また自分が信じるものに対し、批判的に見るという事も。

をれは素養がないから判らない事だらけでね。
結構このスレで、勉強させてもらったよ。神学の本を何度ひっくり返したことか。
その時にはもう別な話題になっててね。他でしょうがないから確認したりしたな。

ちいヨハも、そういう事してたとは思うよ。
本読んでたし。きっと判らなかったかもしれないけど。
いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。
でも、それでいいと思うね。
116ブルネルス:02/04/17 01:52
>>111 剃刀の解説って、宗教板のどこかなの?それともよそ?

えーと、それから・・・
今日のところは、元den..の知的マターリモードをROMするだけにしておこう。
書き込む元気はないのだ。
117名無しさん@1周年:02/04/17 02:01
こんな時間まで起きて何をしているんだ?>ブルネルス。
118マリア:02/04/17 02:02
>>113あたしの場合も、感覚では分かっていても、
それを語ることは一定の限界がある。
その部分は、それに近い表現が出来たとしても、
それを確実に語ることはできないもの。

あたしはカトリックの信仰を持った母から産まれて、
土着信仰の上に成り立つ神道の伝承を持つ父の家に属し、
神道で今は生活しているわけだけど、
あたしの目には、どちらも正しくどちらも尊い。

こういう概念は、神道的な概念でしかないけれど、
あたしは何をもって正しいかと言うと、
聖なるものを認識するその感性が、違うものであっても、
それは非常に尊いものだと思うのね。
その聖なるものというのは、形こそ違えども同じだと思う。

神の理解の仕方においては、各々違うわけで、
それには円錐のある部分を指していると考え、
あたしも敬意は払う。

また、母の家の言い伝え、
それによるタビデの星の象徴とするものから考えても、
そうすることは正しいと考えるからね。

けれども、不理解の上で他を裁くなら、それは不当な裁きね。
それは、キリスト教的にいうなら、原罪を持つ人間の
行うこととして天主の許される範疇ではあるけれど、
そこから大きな罪が出てくるのであって、良くないこと。

神道的に解釈するなら、他を否定することは
ありとあらゆる神の産物が、
そこには降りないと否定するものであって、
そうすることは、自らを否定しているのと同じだから。
119名無しさん@1周年:02/04/17 02:02
といいつつ最後っぺ。
>>107
>似姿である人の存在も含めね。

Naturanlage zur Metaphysik≒ angegorene Naturanlage(Genie)
つーのを飛躍した論理で書いて、誰かな、新郎(第一変換は縁起悪そうだからこっち)先生に
「こーゆーメカニカルなやり方で、論文書けるんですねえ。ぼくにはとてもできない」と、
とほほ感ただよう口調で忠告されてからちょーど10年、ってことに今気がついた。

その日はちょうど某大学院の発表日でもあったんだが、そこでも
「体系への感覚も大事だけど、それに溺れるな。自分の美的経験につねに立ちかえれ」
と忠告された。
だからちぃヨハの躓きはわからないでもない。
……でも体系性の自覚があってはじめて、美的なものへの感覚も動きだすのだ。たぶん。
備前、ぢゃなくて美善なるものを語るのは、そのあとからでも遅くないんじゃないかな。

(つか、いぢけてないで、雑談にもまじってくればいいのに。。)
120名無しさん@1周年:02/04/17 02:05
Nacht, mein Lieber. お忙しそうですな。御身大切に。

>剃刀
宗教板。キリスト教@質問箱だと思うが、確証なし。

用語集へのつっこみもよろしこ>all
121名無しさん@1周年:02/04/17 02:13
>>118 マリア >>119
感覚は主観に支配され、距離を置くのが難しいんだが、
その距離を置かない限り、ただの電波現象に陥るだけなんだよね。

神を知るということは、神の視点を意識するということでもある。
つねに外部観察者の視点を通じて自己を知ること=批判なんだな。
それは否定行為ではない。肯定していくための必要な過程なんだよね。
122名無しさん@1周年:02/04/17 02:16
上記のように能動的に精神を働かせても、
最終的に神について知ることは、恩寵によるものだと。
ボナヴェントゥラは考えているようだ。
123名無しさん@1周年:02/04/17 02:26
ああっと。いまかいておかなければわすれそうだから。
>>73
> 少なくとも、うわべではなく、心を見られる主は、そのあたりはちゃんと判断できる、と。

たぶん欧文だったら気にならなかったんだろうけど……
他者の行動について「……できる」というのは日本語においては
隠れた上下関係かせいぜい平等な関係を前提とすんじゃねーのか?
それ「主」に対する態度として、どうよ?

と、観察されたおかえしに、文責屋教授へおみやげをのこしておくテスト。
124L:02/04/17 02:31
神の存在の証拠は?呪われしカインの行く末は?意味を考えたいですか?
125マリア:02/04/17 02:52
>>121ええ。主観によって解くなら、伝承は不必要だからね。
神の感覚と、人の感覚は違うもの。人は主観に左右されやすいからね。
それをどうするのか、それが結構大変なもの。

他人の目は、神の目でもある場合も多いからね。
126 ◆rs2OUULQ :02/04/17 04:55
「まず汝の出来る事を行え。その後に、なお正当な理由があるのであれば、汝
に恩恵を与え給わぬことを神に訴えなさい」
 Baxter  :Works of the Puritan Divines
127ブルネルス:02/04/17 13:16
>>120 ありがと。探したら、
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1017913910/33-46
で、確かに使われてたね。なんか、すごい使い方してるね。

エロヒムは複数形だ → 神は複数だと考えるのがより単純だから正しい
という話のようだ。

オッカムは確かに「必然性なしに存在者を増やしてはならない」と言っているわけだ
が、これをそのまま上のやりとりにぶちこめば、逆の使い方もできたですね。

また、オッカムは
「神はより単純にできることを、よりまわりくどいやり方ですることもできる」
という趣旨のことも言っているわけで、・・・

でも、あそこに今更書き込むのもとぼけた話で、気晴らしにならんから、ここ
で以上、ぶつぶつつぶやくだけにしときます。
128ブルネルス:02/04/17 13:45
>>123 なんか呼び込まれているような。
午前2時半にもなれば、元気に書きまくってきた元den..さんも、いらつき気味の
ご様子で。「できる」についての文責はその通りでしょうけど、なにもそこにか
みつかんでも、と(はぁと―使ってみるテスト)。もちろん、その言葉の端が、
リサ氏の本質を現わしているのだということなのかもしれませんけどね。

むしろ >>73 についていえば、次のポイントについて、共同検討しませんか。
| ・・・信仰義認を否定するということは、信仰を否定していることだとは読んでいません。
| ・・・・
|スウェーデンボルグが「信仰」を語るとき、悔い改め進行形の信仰と、単なる記憶知としての
|信仰との二種類が語られているように思います。

この言葉から得られる限りの情報をデータとして推測する限りでは、スエは「信仰
義認」を、キリストの十字架における贖罪=刑罰代償(えーと術語をど忘れした)
に対して、それを信じて、そのごりやくに与る的信仰を批判していることになる
ようで。

その限りで、私はスエの批判に同感なのです。ただし、スエはパウロを誤解してい
るのであって、スエがパウロ批判だと思っていることは、パウロ自身の思想への
批判ではなく、実はパウロ神学を取り込んだ時点で、キリスト教が自らに都合の
いいように解釈を付加した〈パウロ〉思想への批判だ、と思うのです。「信仰義認」
もパウロにおけるそれは、スエが理解した〈パウロ〉思想のそれとは似て非なるもの
です。

スエの同時代のキリスト教も〈パウロ〉思想を受け継いでいるわけだから、同時代の
キリスト教批判が〈パウロ〉思想批判になるのは当然。
129名無しさん@1周年:02/04/17 13:51
>最終的に神について知ることは、恩寵によるものだと。
> ボナヴェントゥラは考えているようだ。

「信仰する」ことを己の態度として引きうけることが、そもそも恩寵だから。
祈りたくても祈れない、あるいは祈ることができるということを完全に亡失する、
そこにはまさに神から断たれた状態と呼ぶにふさわしい、世界との断絶がある。
スヴェーデンボリが「天国も地獄も人の心のなかにある」というのはそういうことなんじゃないかな。
# で、カントはその部分は評価していたと。
130名無しさん@1周年:02/04/17 13:54
>次のポイントについて、共同検討しませんか。

おけー。
でも今日は読まなきゃいけないテキストがふたつあるのでお休み。
みなさんで先にすすめといてくだされ。