実践瞑想スレッド

このエントリーをはてなブックマークに追加
モ〜〜ウ〜   牛でした。
峠越えってどっから来てどこへ行くん?
身体的リアリティーってぐんだり?
凡人から正覚者になったのか?仏陀は?それは成るものなのか?
正覚者から凡人には、成れんのか?しば、ぶらうん、へんじん、きちかわは?
953名無しさん@1周年:02/04/19 10:30
全てが正覚者なのだ。これが牛の答えなのだ。
バガボンドのパパなのだ。
954名無しさん@1周年:02/04/19 19:45
牛はバガボンドのパパだったのか・・・・
深すぎて意味不明だ(w
955名無しさん@1周年:02/04/19 21:25
シバとブラウンのどっちかは、正覚者なのか?
956仏放っとけ!:02/04/19 21:57
>955,どっちも不正確沙です。
 今夜のオーダーはどっち?
957名無しさん@1周年:02/04/19 22:13
不正確沙ならオーダー無し。
自問自答汁。凡夫のシッダルタと正覚者のシッダルタとは?
958名無しさん@1周年:02/04/19 22:31
何を考えればいいのかわからなくなってきた。
何を考えればいいのか、考えよう。
959名無しさん@1周年:02/04/20 04:39
>>956
私はあなたをオーダーする。
まずは牛あたりから・・・
960brown(牛か、):02/04/20 17:24
牛なんてあんまり意味ないんだけど,なあ。覚者の解説はこれ↓。

@最初,凡夫は愚かで,真理(牛)を求めようとも思わない。下劣で,迷っており,
かつ自分が迷っていることも知らないし,想像だにしない。遊びほうけておる。
Aいつか,人生の無常を感じ,真理を探し求める。真理とは何か,どこを探せば
よいか,知りもしないけれど,居ても立ってもいられずに探し始める。
B様々な誤った道,知識,師,体験に出会う。また自らをごまかしたり,慢心した
りする。ここには長い期間を要する。(三アソウギマハーカルパってやつ)
C探し求めているものは一体何なのか,という核心的な問いが始まる。それは,
自らが実感している苦ではないか,人生に疑問を引き起こす心そのものではないか
と推察し,それを乗り越えない限り,問題は解決しないことを知る。
Dやがて,全て他を諦めて正しい修行をする。外に道を求めるのをやめ,自己に
立ち向かう。自我と闘うとき,悪魔と闘う。
Eついに真理・涅槃に直面する。知的確信や想像力によるのではなく,直接体験により,
自己を制した清らかさを知る。最勝であり,至福なる寂静は,大いなる歓喜である。

次に続く。
961brown(牛か、):02/04/20 17:25
F涅槃の意味を,そこに具わった鋭い洞察力により観察し,いかなる迷いもなく,
比較を絶した無上の完成であることを知る。つまり,もはや真理を求める必要も
それ以上の探求も起きないことを知る。全ての迷いからの大いなる自由である。
G日常生活を続けていくうちに,徐々に,完全な完成された認識が,日常的迷いの
認識の中に陥っていく。しかし,たとえ迷いの認識の中に入り込んでも,そこに,
もはやいかなる苦悩も迷いも本質的・固定的には顕れないことを経験する。
Hその間,迷いの生存と目覚めた生存の間の差異についての深い洞察が続けられる。
しかし,涅槃は,いかなる言葉にも,行為にも,感情にも清らかさにも人格にも
能力にも本質的に差異を及ぼすものなのではないことを知る。それは,個人の体験
領域に輝くが,外から知られるものではなく,いかなる形も持たず,いかなる固定的
価値,恒常の基盤も見られないことをはっきりと知る。
I未だ迷いの中にある人々を見る。また,未だ迷いの中にあった自分を振り返る。
そして,彼我の間にある本質的な違いとは,実は,真理を求める探究心が完成に
よって消滅したか,初めから探究心がないかの違いに過ぎないことを知る。
ずいぶん回り道をして「そのままでよい」凡夫の迷いの状態に還ってきたものだと
感慨を覚える。初めから何も求めなくてよかったんだな,と知る。

これが私が歩んだ道です。
962名無しさん@1周年:02/04/20 17:32
>1
キノコ食え。瞑想はそこから始まるのじゃ…
963名無しさん@1周年:02/04/20 21:14
シバはなんでbrownを認めないの?
>>960>>961は完璧に思える。
964名無しさん@1周年:02/04/20 21:39
完璧には思えないが・・・
まあ解脱者には解脱者の見解というものがあるんだろうけど。
brownさんは十牛図を知っているんですよね。
でもその内容は意識していないようだ。
特に最後まで自分の中に踏みとどまる姿勢が違う。
965774:02/04/20 23:25
十牛図は象徴です。それ以上の意味はない。
それを文字どおり辿ろうとすることが正しいかどうかも考えなければ
いけないと思う。

私の体験では、半分までが体得の過程、後の半分はそれをどう
使えるようにするかだ。そして最後は「牛も人も忘れる」
悟りなんかどーだっていいじゃんん。ってことになるが、
彼の言葉、行動は悟りそのものの反映となる。

けどね。悟ったり解脱したりするだけじゃだめよ。
目の前の人々、世界、の苦も同時に背負うことになるのだから。
凡夫の罪は覚者が背負うんだな。子供の罪を親が背負うのと同じだな
だから、広大な仕事があることに気が付くと同時にそれが新しい
道に続いていくことも見るだろう。覚者が尊敬されるのは苦から
解放されたためではなく、人々の苦しみをも解放するためだ。

966名無しさん@1周年:02/04/21 00:38
>>960-961
それが覚者の解説なんですか?
967名無しさん@1周年:02/04/21 02:22
774さんはbrownさんの覚醒を証明したのだな。
774さんも覚者なのか?
968名無しさん@1周年:02/04/21 19:48
774さんは現れないようだな。
まあそれは仕方ない。
仏門にあるものが覚者を騙るのはとってもヤバイことだからな。
自分でそう思っていても、誰からの証明も無しに気軽に悟ってます、
なんて言えるのは教団に属していないbrownさんならではのことだ。

覚者でないものが覚醒を証明することはできない。
よってbrownさんの覚醒も未だ証明されていない。
だいたい掲示板で証明するなんて聞いたことないが。
969brown:02/04/21 22:39
brownがどれほど高い境地に達しているか,それは仏陀と同じものであるか,それが
魔境と呼ばれるのか,尊敬されるべきものか,尊敬されるにはどうすればよいか,
などということは重要ではありません。私が指し示すものというのは,「人々が
心の底から求めているものは何なのか」,「人は何のために生きているのか」,「人生に
何の価値があるのか」,「相対的でない絶対的な価値とは何なのか」,「生きる喜びとは
何なのか」,ということに対する答えなのです。それをみなさま,ご自分で歩いて
確かめて欲しいのです。私ははっきりと言います。それはここにあります。
それは,何かに属することでも何かを知ることでもなく,体験そのものなのです。
みなさまは,ご自分でそれを獲得できるし,そのために何も傷つけるものなど
ありません。仏陀の探求やキリストの探求はその後ですればよいのです。私の説く
道は,正しいか正しくないかで裁判されるべきものではありません。それは,
あらゆる衆生を利益することができるものなのです。色々と疑いもあるでしょうが,
本当は誰しもこれを求めているのです。その答えが,はっきりとわかるのは,全て
の疑いが晴れる体験そのものを成就するそのときです。
970brown:02/04/21 22:48
私の見解では,人は解脱して何か義務が課されたり,人から賞賛されねばなら
ないなどということはありません。自由に生きていけばよいのです。自ら
悟り知った大自由の歓びあふれるこの世界で自由に生きましょう。
もし,(解脱者のくせに怠けていずに救済活動をしろなどと)非難されることが
恐ろしいのであれば,黙っていればよいのです。誰からも「あなたは悟った」と
認定される必要などありません。賞賛によって歓びが生じるのではないのです。
何事も獲得しないままで,勝手に喜びが生じて心からあふれ出るのです。
それが私がこの六年間経験してきた日常生活なのです。
わたしはこの六年間それを維持するために何の努力もしてこなかったし,
実は成就する前にも苦行も禅も何もしていないのです。なぜなら,それらは
この心の本然の姿を現すこととは無関係だからです。
971brown:02/04/21 22:57
この体験が,人々のそのままの状態で自然に顕れてくるということは絶対に
ありません。それにはやはり正しい努力と呼ばれるものが必要です。
みなさまには,なにものか乗り越えなければならない障害が,厳然とした
障害が立ちはだかっています。その障害を乗り越えていかない限り,
こちらに来ることは出来ないでしょう。単に何か思考を押さえつけたり,
禅をすればよいのではないのです。無思考や禅や中観の本をいくら探求しても
現実のリアリティのトリックを暴くためには役立たないでしょう。
道への執着なくして初めから悟っているというとき,単に怠けているだけ
なのです。偽り,ごまかし,放逸の中にあるときと,ただ凝り固まった哲学
や無理な要求を自分に押し付けるとき,それは顕れてきません。如来は
中道を悟ったからです。
972名無しさん@1周年:02/04/21 22:58
>>970brownさん
教えていただきたいのですが、覚ったり解脱をするためにひとは
何かをやらなければならないのでしょうか?
973brown:02/04/21 23:24
そこに至るためには実は唯一の道しか用意されていないのです。私は誰にも
教えられることなく(偶然)それを発見したのですから,まあ,誰でも終には
それを探し当ててここに来るのでしょう。しかし探し当てるのは大変だと
思いますよ。ただ,一旦それを探し当てればその道を歩くこと自体は容易な
ことではないけれど,無理なことでは全くないのです。むしろ容易なのです。
まあ,数ヶ月ですね。無駄な探求をしなければそういうことになるわけです。
せっかく生まれてきたこの命,人を裁いていないで,是非,本当の生きている
ことそのものの価値を素直に探求してください。本当に求めたとき,そこに
答えがあるのですから。誰でも,実際にご自分で体験をしたとき,私の申す
ことがありありとわかるはずです。私はあまり頭がよくない厨房なので,
表現はいろいろと間違っている部分もあるでしょうが,それは仕方のないこと
です。精一杯の努力がこんなもんですから。
974brown:02/04/21 23:32
>972
そういう質問をしてくれると私はうれしい。

しなければならないことは,一言で言えば,自己観察です。基本的にそれだけ
です。
(詳しくは,このスレッドの上の方でも言っているでしょうし,私のページ
でも,眠たくなるようですが書いています。)
素直になることです。自分がいかに罪深いか,いかに孤独なのか,いかに
いやらしい人間なのか,瞬間瞬間にとんでもない妄想を抱いて生きている
ことを,他ならぬ自分がそういう人間であることをはっきりと,徹底的に
見ることです。自らの心の中に生じてくることを全てはっきり認識して
下さい。結局それだけで究極的最頂点にたどり着けます。
なぜならば,その地点とは,単に心の本性だからです。自らを信じてください。
しかし,同時に自我が引き起こす妨げに打ち勝ってください。どんなことが
あっても恐れず,騙されず,ごまかさず,おごり高ぶらず,その壁をぶち抜いて
下さい。
975brown:02/04/21 23:40
此岸にあるとき,自我はあなたの全てです。しかし,本当はそうではない
のです。彼岸では,自我はあなたの一部です。
でも,今は此岸にいるのですから,自我はあなたの全部なのです。だから,
あなたが何を考えても思っても全て自我に汚染されています。でも,そんな
ことはかまわず,思ったこと,考えたことを分析してください。
なぜ,そのように考えたのか,そのように考えたのはどのような原因があって
でてきたのか,実は背景にどんな意図があったのか。
人類の思考や他人の感情について考えてはなりません。自分自身の心,
具体的に発生している心の動きの一つ一つをじっくり分析してください。
そうすればするほど苦しくなってくるはずです。心がいままでいたんだ
ことがないほどに痛んでくるはずです。そのとき正しく観察しています。
976名無しさん@1周年:02/04/21 23:42
ロザリオ祈りながら瞑想すると良いよ。
気持ちがスッキリする。
健康にも良い。
977brown:02/04/21 23:49
ただ,この方法を行うときには,解脱や悟りに関する観念は全て捨ててください。
全ての信仰を捨ててください。仏教ももちろん捨ててください。なぜなら,
そのような暇はないからです。それらは,単に自我の付け入るすきを与える
だけです。頼りになる思考とは,「誰も助けていくれるものなどない」という
思考くらいのものです。何者にも属さず,頼らず,ただ自己の心を観察する
ことだけに留まり続ける必要があります。続けていくと何かにすがりたく
なるかもしれませんが,その恐れを恐れずに突き進んでください。そのように
恐れず真理を探求していく心を「信」というのですから。
978brown:02/04/21 23:56
なぜ,この方法は心の本然にたどり着く道なのでしょうか。
それは,自己観察が心を浄化し,心の浄化が自己観察の力を強め,強まった
自己観察の力がさらに心を浄化し,という寸法で自然に導かれていくから
です。なぜ自己観察が心を浄化するのでしょうか。それは,心の汚れなど,
いくら自分に染み付いたもののように思えても,虚妄なものに過ぎないから。
なぜ浄化された心は自己観察の力を強めるのでしょう。それは,澄んだ湖
はより深くまで見えるからです。
979brown:02/04/22 00:04
その道は,最初は輝ける可能性とともに歩むでしょうが,次第に苦しみが
増してくるでしょう。まあ,申し訳ありませんがそれはただ耐えてください。
危険なことは何もありません。それは単に心が痛んでいるだけで何も起こり
やしないですから。(免疫力が弱くなって風邪くらいはひくかもしれません。)
しかし,目的に達したときにはそれらの全ての苦しみはきっぱりと完全に消えうせ,
歓びだけが顕れてくるでしょう。そのとき,苦しみの世界は終わり,
歓びだけの世界に超脱するのです。これまで長い間さまよってきた輪廻から
本当に解放され,流転のない,全き自由の中にあなた自身が到達するでしょう。
980brown:02/04/22 00:08
私は,これを読まれた方で,道を求める方なのであれば,どうか,目を覆って
しまうのではなく,自らそれを体験していただきたいと心より思うのです。
そのときには,私の示した,感謝や解脱,心の本性というもの,調和なるもの,
それら全てのものに対する理解がはっきりと生じてくるでしょう。
そしてそれが成就すれば,また,あなたの縁ある人に,それを説いてください。
そして大いに自由に生きてください。
981774:02/04/22 00:31
>967
もちろん覚者ではないです。凡夫です。
しかし凡夫でもこのスレ上ではいくらでも覚者になれるわけですね。
そして当然ながら、brownさんを覚者だと思っておりません。
しかし彼は自分は覚者だと思っているのですから、そっとしておきましょう。
その人が覚者かどうかは2チャンネルのカキコで判断できるわけないです。

そして私にとっての覚者の定義も、皆さんのそれと実際には違います。
私は神智学系なので。神智学での覚者(マスター)は仏教的なそれと
似ているところはありますが、やっぱり違います。イニシエーションの
プロセスと過程、覚者になってから広がる7つの道についてなど、
解脱や悟りのあとにも又新たな階梯が現れるわけです。そんなことは
凡夫が知ったところで何の役にも立ちませんがね。

イニシエーションについては、かなり誤解があるようですが、
凡夫から覚者になるまでには普通、五つのイニシエーション(門)
を通ります。詳細は神智学関係の書物を見て下さい。
982名無しさん@1周年:02/04/22 01:44
私にもbrownさんが覚者かどうかは解りかねますが、
少なくとも何かに対峙しそれを乗り越えた経験を持つ人のように
思えます、それがとても稀なものか、人の心の過程での在るべき経験
なのかも私にはわかりません。

ただ私がbrownさんの言葉を理解できるのは、やはり自分が
自分の心の中に手を突っ込み、禍禍しい気持ちが芽生えた時
「本当にそれでいいのか?そうなった時に何も後悔はないのか?」と
自問自答のような行いをしていた時を思い出した。
自分の心の中での出来事ですから、第三者から責め立てられるような
心配は無い、後は自分が自分に嘘をつかず素直に「本当の心」を
開示できるか、本当にすべき事か、行っていい事なのかを
吟味し熟考することでした。
この行為は私にとって道標だったのです。

幸いにも私には特定の信仰する宗教はありませんでした。
ですからそれらの宗教観的な思考・思想の干渉がなかったことは
良くも悪くも言うまでもありません、
しかし、強いてあるならば「何か」に対する思いは有りました。
それが神とか仏と言われているような者か、解りませんが
形(言葉)としても感覚としてもそれらとは違うのです。
もっと、抽象的で形も上手く言い表せないのですが、ただ
「在る!」と強く確信し、存在を感じるのです。
でも時には忘れてしまう事も(笑い)有ります。
最近では余りに大きな出来事がありすぎて、迷い苦しみすぎて
余裕も無く、そんな事も忘れていました。
brownさんの書き込みを読んでいて、そんな大事な事を思い出しました。
ありがとう。
983名無しさん@1周年:02/04/22 07:43
>>981
774さん。
神智学の悟りとは・・・アナタ仏門ではなかったのだ。

神智学でも悟りと魔境は区別されるのですね?
覚者は覚醒後なにを要求されるのでしょう。
984黒海老:02/04/22 21:52
>>brownさん

どうも、黒海老です。
brownさんとは以前チラッとお話しましたが、その時はなにやら誤解を与えてしまったようですね。
今度は時間のある時にちゃんとレスしたいものです。
985名無しさん@1周年:02/04/22 22:07
brownさんってすごいな。
仏陀じゃないの。
すげー。
986名無しさん@1周年:02/04/22 22:15
774さんが違うって行ってるから違うんじゃないの?
シバがどう煽るか?
987名無しさん@1周年:02/04/22 22:34
言ってることはすばらしい。と思う。
ただ仏陀は行為論者だったからな。
988名無しさん@1周年:02/04/22 22:37
俺は自己観察し過ぎてノイローゼになったが。
自己観察って本当に大丈夫かな。
989名無しさん@1周年:02/04/22 22:38
実践瞑想しれ!
実践瞑想しれ!
実践瞑想しれ!   以上。
990名無しさん@1周年:02/04/22 23:06
言うは安し、行うは難し、継続は力なり。
刹那の宝鏡、永久とすべし、釈迦も達磨も修行中。
991brown:02/04/23 00:52
>982
あなたが体験したのは私が開示した心の本性と全く同じものです。間違いない。
その体験が人生に対する理解をどの程度与えるのかは,もともと持っていた疑問
によります。一切衆生にあまねく等しい救いをもたらす手段がない,人生に絶対
肯定できる価値がないことを悲しむ心のあるところにその体験をすれば,それが
すばらしい理解を与えてくれるのです。つまり,正覚とは,問いの中に,疑いの
中に,迷いの中にあるんですな。つまり苦ですよ。それを苦諦というのです。
992brown:02/04/23 00:57
>987
あなたは正しい。ただ,行為とは心のことですがね。
それについてはまたじっくりと解説したいものです。
聞きたくないでしょうが,まあ垂れ流しですから。
993:02/04/23 02:34
994774:02/04/23 03:21
>983
もちろん魔境の区別をしないと行けません。
私は瞑想を15年やってますが、やはりいろいろ起こるものでね。
少々の悟りやら、誰かが悟ったと聞くと、「あぁ。はまったか」と
思うようになりました。けれども、このこと自体は悪いことでも何でも
ありません。ただ自分の立っている足下が正確にどこであるかを知って
いるのは稀で、多くが「体験」に囚われてしまうものなのです。
なんたってそれで宗教作ってしまう人もいますから。
瞑想に係り、自己の霊性の目覚めの道を知りながら、
あるいは意識せずに進んでいく人にとってやはり注意すべきことです。

私はbrownさんをどうのこうの言うつもりはありません。
彼は彼なりの体験があるのでしょう。でも私から見れば、まだまだ危うい
ようにしか思えません。2チャンで自分の悟りをカキコする人はまだ自身
の得たものに酔っているからです。これからbrownさんに何が起こるか、
私には大体想像がつきますが、彼のために、それは言わないでおきましょう。
それで十分なはずです。

しかし以上のような理由で突っ込みはしておかないと、彼は教祖になって
しまうでしょう。私はオウムの事件のようなことを起こさないためには
常識のツッコミが必要だと思います。それは宗教に関わる方は精神世界
に関わっていこうとする人全体に言えます。
995名無しさん@1周年:02/04/23 06:17
>>994
私にはあなたがまともそうに思える。
正直言って2ちゃんで瞑想やっていると宣言している人で
まともだと思える人はほとんどいない。
ぜひ次のスレでもお話を続けていただきたい。
私は本当に楽しみにしている。わくわく。
996名無しさん@1周年:02/04/23 10:50
つーか変わり者キチガイの集合体2ちゃんの中で
変わり者呼ばわりされる人間は、
まともだと思われたほうがよいな(笑)
997名無しさん@1周年:02/04/23 11:26
1 遠慮なく1000ゲットして幸福感にひたる。
2 1000ゲットを人に譲る。
3 最初から考えない。
4 飽きたからといってしない。
5 輪廻に巻き込まれると恐れてしない。
6 考えているうちに人に取られる。


   覚者はどうゆう人?   1000でも金でもセックスでも同じ。
998名無しさん@1周年:02/04/23 15:19
1番だな。
999名無しさん@1周年:02/04/23 15:23
今まで1000取れたこと無いから
1000名無しさん@1周年:02/04/23 15:26
取らせてちょんまげ。
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。