{釈迦}と{キリスト}偉いのはどっち?

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301名無しさん
努力では釈迦
思い込みでは基督
戦略ではムハンマド
302元オウム信者:02/03/01 21:19
>111
>53様
>>107
>どこの宗教?麻原もイエスと釈迦の生まれ変わりみたいに言ってたな。

彼は「キリスト宣言」という本において、救世主宣言はしましたがイエ
ス・キリストそのものとして転生したとは一言もいっておりません。
また釈尊の時代は在家信者だったと言ってました。
303brown:02/03/01 22:03
>301
戦略ではムハンマドってなんですか?
304名無しさん@1周年:02/03/01 22:05
>>303
一旦退散しながらも、自分でメッカを占領したでしょ。

世俗的成果をあげている。

母国を滅ぼされた釈迦や、エルサレムで処刑された基督とは偉い違いだ。
305赤い眼:02/03/01 22:13
釈尊も基督も創造主のメッセンジャー(使い走り)です
宇宙人は創造主と同等です
306名無しさん@1周年:02/03/01 23:28
星の数ほどいる宗教家のなかで釈尊だけは創造主に否と言えた唯一の方。
あまりの難解さに布教を躊躇われたほど。
307brown:02/03/02 16:08
>305さん
宇宙人ってかなり偉いんですね。
宇宙人とムハンマドとどちらが戦略的に勝っているのでしょうか。
でも306さんによると釈尊は創造主=宇宙人に否といって抵抗勢力を演じたよう
ですので,使い走りの業務に忠実ではなかったようですね。
308ぱしり ぱしり ぱしり:02/03/02 18:16
お釈迦しゃんは、むしんろんしゃ   で〜す!
309名無しさん@1周年:02/03/02 19:42
釈迦は王子だったけど、小さな村の村長さんの息子くらいのもん
だったと書いてあった。。
310名無しさん@1周年:02/03/02 21:31
預言者としてはマニが偉大だと思う。
経典がかなり失われてしまっているのが悔やまれる。
31153:02/03/02 22:01
>302そうでしたか。ただ、直接いうと信憑性がなくなる。
それらしく、匂わすというテクニックがうまいですね、
深見に似てる。  
大川は仏陀宣言してますね。
>309小さな村というほど、ちいさくはないでしょう。
小さな国くらいだと思います。
312無辺会:02/03/03 11:07
 お釈迦様は29歳で出家し35歳で悟りを開いた。しかしイエス・キリストは
33歳で殺されている未だ修行の身。それに対して釈迦は35歳に悟った後45
年間80歳まで法を説いているから仏教は解りやすく後の仏教徒が解説できてい
る。しかし、キリスト教は未成熟のためイエス・キリストが生まれる前の教えで
ある、旧約聖書に頼らざるえない。
313名無しさん@1周年:02/03/03 21:56
>>312
年齢より修行した年数ではないか?
イエス・キリストが出家?したのはいつ?
314名無しさん@1周年:02/03/03 22:00
仏典は多すぎて学者にも読みこなせないそうですよ。
315brown:02/03/04 23:24
>313
イエス・キリストは生まれたときから処女懐胎だからゼロ歳じゃないかな。
316名無しさん@1周年:02/03/05 00:31
なんか、このスレの結論として
蚊帳の外のキリスト教は、仏教の深遠さには到底及ばない。って感じ。

って事でいい?藁
317297>155.298:02/03/05 01:33
>>298
>自分の父親を捨ててついて来いと命じている(マタイ4:18)

 この部分の聖書引用はゆがんでるぞ!父親を置いてついて行ったという事実は
イエスが「父親を捨ててついて来い」と命じたからではない。彼ら自身の意思で
父親さえもおいてイエスに従ったというのがこの個所で書かれていることだ。
一言も「父親を捨てて・・・」とイエスが命じたことなど書かれていないではないか?
 その他のあなたの引用も、おかしい解釈ばかりだと思うぞ。
イエスは父や母を捨てろとはどの場面においても一言も命じていない。
まず神を愛し、同じように人を愛しなさい、というのがキリスト教の愛だろ?
神への愛を第一にしなければ、真の愛からは程遠いのだ。神の目には虚しく映る。
              ということだよ。
イエスが父や母への愛をないがしろにして神に従うように促すところは聖書には
ひとつもないはず。神を差し置いて父母を自己本位に愛してもそれは意味がない
という愛に対する間違った人々の愛への認識を警告しようとして事あるごとに
彼は人々を諭していたに過ぎないよ。 
318名無しさん@1周年:02/03/05 01:43
>>317
故郷に戻ったときシカトしてんじゃん。非道!
319名無しさん@1周年:02/03/05 02:04
>>317
 誰が、誰を、どの時点で?聖書のどこに書いてあること?
320319:02/03/05 02:30
>>318
 319は、宛名を間違えた。ゴメン。
 で、シカトしたというのは、イエスが聴衆の前で教えている時に母親と
兄弟が外に来ている場面のことか?
 これは、仕方がないよ。何せ、イエスは狂っていると告げ口をした人の
言葉によって母と兄弟が動いてるんだ。卵が孵って雛が生まれるのは、
卵自身にその力があったからというよりもその卵を生んだ母鳥が卵を温める
からだろ?イエスは、母親や兄弟がイエスの反対者にそそのかされてノコノコ
と教えの場に顔を見せるのを良く思わなかったに違いない。
だから、あえて、私の父、母、兄弟は神の言葉を聞いて行う人であると明言を
して、母親と兄弟にも自分の意思をはっきりと伝えたんだと思う。
 イエスは普通の人ではないから、その辺のユダヤの民の企みやなんかもよく
ご存知だったに違いない。
321320:02/03/05 02:33
 日本語のおかしいところがあるが、あしからず。すみませんでした。
322155:02/03/05 08:55
>>317

あなたはご存知ないようだが、古代インドの風習では、上流階級の男子は一定期間の間
出家するのが当たり前だったんだよ。今で言う兵役義務のような感じでね。釈迦の出家の
動機については、当時の風習に従って何年か修行をしたのがきっかけだろう、と推測する
学者は多いよ。だから、釈迦が妻子を意図的に捨てて修行に出たという歴史的事実を証明
する証拠はないと思う。

福音書は、イエスの取り巻き達が口伝えで伝承してきた逸話が元になっている。だから、
イエスが自分の母親達にした冷たい仕打ちや、弟子達が自分の父親を捨ててイエスに従った
という話は、後々まで語りつがれるほどショッキングだったはずだ。そうでなかったら、
イエスの死後何十年も伝承が残るわけないだろう?
323155:02/03/05 09:03
個人的には、求道のために父母をも顧みないというのは、宗教家なら当然の
ことだと思うけどね。六祖も自分の母親を郷里に残して出家したが、いつも
自分が早く悟りを開いて母親を導きたいという慈愛心を忘れることはなかった。
親元を離れつつ、遠くから見守るというのは、親を捨てたことにはならないと
思うが。イエスや釈迦がいい年こいて、マザコン三昧やっててどうするね?
324名無しさん@1周年:02/03/05 09:19
父母ってもんがえらいもんか。まんこにちんこをつっこんだヤツってことが明らかなことは確かだネ。
マリアは寝てるうちに打たれたけど。14歳だったんだね、ジュリエットと同じだね。
325名無しさん@1周年:02/03/05 09:27
>>323
お前は宗教家なのかよ?え?宗教家でもないのに偉そうな事ぬかしてるんじゃねえ。
326155:02/03/05 09:36
>>325

宗教家じゃなくても、大成するために故郷を後にするようなことは世間には
いくらでもあるさ。私も大学卒業してから親元離れて生活したし、数年間
外国生活もしたよ。親元離れるのが嫌で故郷に閉じこもっていたら、今より
もっとダメになっていたと思う(^^;

親の側だって、手元に置いておきたいのを我慢して、かわいい息子の大成を
願って送り出すのが本当の親の愛だと思うよ。
327名無しさん@1周年:02/03/05 14:20
>>326
その意見自体には頷けるよ。「可愛い子には旅をさせろ」っていうからね。親に
しろ子にしろ、必要以上の依存心は禍を作る基だよね。
328名無しさん@1周年:02/03/05 19:41
聖フランチェスコとか良寛さんとかも見方によっては、すごい親不孝ものですね
でも儒教だと親孝行ていうのが絶対の規定で、子供が犠牲にならなかいけないのかね?
親の側の道徳も説いて欲しいよ

329名無しさん@1周年:02/03/05 21:57
イエスは
「神があなた方を愛するように隣人を愛しなさい」
と言いたかったのであって髪と同じように愛せと言ってるわけではない。

何故こんな簡単なことが2000年も経って伝わらん?
イエスの考えていたことくらい仏教徒なら有る程度推測できるぞ。
キリスト教徒の考えは永遠に謎だ。それはイエスにも分からん。
330317>155:02/03/06 00:40
>>322
 自分が問題に思うことは、故意かどうかは別としても、釈迦の王子としての責任、
両親と妻と子供への関わりを全て放棄したことが悟り(修行)の出発点として間違い
はないのかという点だ。期間を限定した出家の習慣が当時あったのならばなおの事、
その出家体験の意味を汲むべきではなかったか?出家の間に自分を見つめなおし、
責任のある王となるために何かを身につけなくてはいけなかったのではないだろうか?
独身の身で本格的な修行を試みるというならばまだ話がわかるが、子供までいる身
で、出家をした理由が自分にはにわかには飲み込めない。また、父親が風習としての
出家の意味を悟らせ、王の自覚を彼に促せられなかったのも腑に落ちない。
 そこで、博識の155氏に逆にお尋ねするが、当時の「男子は一定期間の間出家する」
のはその社会にあってどういう意図、あるいは配慮があったとお考えになるかお聞きしたい。

 福音書が今日まで伝わってきたのは、あなたの指摘の個所などがショッキング
であるからではなく、その内容がグッドニュース(福音)であるからだ。偏見があなたに
ありすぎるから、福音書が文字通り「福音書」と呼ばれていることすら忘れてしまいがち。
お気をつけて!
331>329さん:02/03/06 00:47
>イエスは
>「神があなた方を愛するように隣人を愛しなさい」
>と言いたかったのであって髪と同じように愛せと言ってるわけではない。
 
 あなたは、神の愛を知っている?
神があなたを愛していることは、あなたが示す神や隣人への愛の深さでわかる
のかもしれないよ。あなたが示す愛の深さはあなたが神からどれだけ罪を赦さ
れたかに比例するらしい。神を知っているという人はまだ神を知らなければ
ならないようには知っていないものだよ。自分もそうだよ。主の眼差しがあなたの
上にも注がれ、回心しますように・・・。
332名無しさん@1周年:02/03/07 00:43
>>331
イエスは人の愛を広めたかった訳ではない。
神の愛とは人の愛とは違うところにあると
伝えようとしたのだ。
それともイエスもまたあなたと同じ考えなのか?
333名無しさん@1周年:02/03/07 00:46
神様への愛が一番だて事じゃないかね。
聖書には家族愛や夫婦愛のメッセージも載ってるから
柱となるのが神様への愛っていう
334331:02/03/07 01:47
>>332
 ルカによる福音書の7章後半をお読み下さい。特に7章47節前後。
Tコリント8章2節とその前後も読んでみて下さい。
 自分は、この個所のことを思い出しながら書きこみをしたまでです。

>それともイエスもまたあなたと同じ考えなのか?

 とあなたが問い返すので、自分の出典とした聖書の個所をちょっと調べてみました。
ところで、あなたの考えは、イエスと同じなのでしょうか?手がかりとなる福音書
の記述や資料やどなたかのお話などの体験がおありでしたら、教えてください。
自分の誤りがあれば、快く訂正しますし反省しますから・・・では。
335名無しさん@1周年:02/03/08 09:54
1873年スリランカのパーナドゥラの論戦を参考にしてください。
キリスト教宣教師たちと仏教僧侶との論争です。
キリスト教宣教師たちに有利な条件であったにもかかわらず、
結果は僧侶の圧勝にみえますが?

詳細は此方に和訳が、

金 漢益訳注 中村元監修 『キリスト教か仏教か 歴史の証言』山喜房刊、1995

こちらに要略が、

http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/chap5.html
336名無しさん@1周年:02/03/08 10:14
>>335

「人間がもしそのことに正しさを見出すならば、それを認め実践するというのが、
分別のある人の良識であります」

というのが痛烈だね。キリスト教側は、口と裏腹なことをやって平気だった。植民地
支配そのものがイエスの教えに反するからね。釈迦は、カースト制からの解放を主張
していた。それが世俗権力に邪魔扱いされて激しい宗教弾圧を受ける。宗教弾圧を
恐れて、教義を骨抜きにすれば、キリスト教のように堕落する。堕落した宗教が論争
に勝てるわけがない。
337名無しさん@1周年:02/03/08 10:16
なにが有利なの?二人ってか(w
まあアウェーでスリランカの民衆にひびくようなことを僧侶がいやそりゃ
圧勝で勝たないと恥でしょ
338155:02/03/08 10:30
>>330

遅レス、スマソ。まず、私は博識でもなんでもない、受け売りのばらまきを
やっているだけなので、その点はよろしく。

釈迦の当時、良家の男子が一時的に出家した理由は、バラモン教の考え方で、
来世によいところへ生まれる(輪廻転生が前提)ためには、出家して神々に
供養を捧げる必要があるという動機があります。これは表向きの理由で、実は
社会的な要請があったのではないかと言う学者もおります。一家のあるじが居
座ると、金も女性も同一人物が独占することになり、たちまち組織が老害にやら
れるので、一時的に家を追い出して、次の若い世代に活躍してもらうのです。

現代のわれわれが考える「家を捨てて、出家する」というのとニュアンスが全然
違うのです。

>その内容がグッドニュース(福音)であるからだ。

それはそのとおりでしょうけど、その福音の中身を支えているのは伝承なんです。
では、何が伝承に残っていたかといえば、ショッキングなものが優先されただろう。
福音書というと、筆記者が24時間イエスに付き添って、言行を書き留めたように思う
人がいるかもれしれないが、実際にはイエスの死後20-30年経って、思い出話を集めて
イエス伝のようなものを残したのです。20-30年も覚えているだけで、ショッキングな
ことだと言えませんか?
339名無しさん@1周年:02/03/08 14:38
>>337

二人も有利だけど、最大の条件はこれ。

> 五 初めの時間は、キリスト教徒側に与える。その時間は、仏教の虚
> 偽性を提示することに使用し、次の時間は仏教側から、仏教の虚偽性
> に対するキリスト教の対論に対して必ず答弁した後、キリスト教の虚
> 偽性に対する対論を行わなければならない。

なぜか? 始めに問題を投げかけることで、優位に立てるからです。
なぜなら、論証に対して周到な準備が可能であるからです。
その準備された論証に始めに仏教側が答えなければならないからです。
要するに、この時点で勝敗は決まるといってもいいのです。

仏教側がこれを反証できなければ、印象はとても悪く、
その後で、同じような準備された論証で、いかに優れたことを言っても
信用されないでしょう。あるいは心理的要素も含めれば、
負けたも同然です。

だが、グナーナンダは勝った。

しかも民衆に訴えるような卑怯な方法は一切とっていません。
終始一貫、聖書を用いて合理的に論証しています。

まあ、簡単なこととは思えません。
340155:02/03/08 14:49
>>339

禿同。こんなにハンディもらっておきながら、勝てないとなると、あとはヘソ噛んで
死ぬしかないワイ。

もっとすごいのは、仏教側は一切自分の手の内を見せていない点。仏教の教義をひとつ
も出さずに、相手の論理の矛盾だけを突いて、やっつけている。仏教では、こういう理屈
を捏ねることは、本当はご法度なんだよ。理外の理を悟ることを重視するからね。だから、
仏教からキリスト教へ切り込むというのは元々そぐわない。キリスト教が抜き放った殺人剣
を逆さまに取って、それで相手を自害に追い込んだところがすごいね。毒をもって毒を
制しつつ、自らは毒を用いず、ってとこかな。いずれにせよ、仏教側の完全勝利。というか、
キリスト教側の完全自殺。
341名無しさん@1周年:02/03/08 23:18
いいとこがないんでケナして誤魔化したってことですね
342名無しさん@1周年:02/03/08 23:41
仏教のお坊さんが、キリスト教の坊主と論争して負けた話しも
歴史上いくらでもありますがな
戦国時代
宣教師と禅の坊さんが論争して最後は、禅の坊主が暴力沙汰に及んだとか。
343名無しさん@1周年:02/03/09 00:38
日本の仏教は堕落してると、

釈尊の教えにむりろ近い考えの
南伝仏教の国々から批判を受けてますが
それについてはどう考えてるんですか
344名無しさん@1周年:02/03/09 00:48
イエスの教えは革命的なんでショックなのは当たり前なんです
昔のバラモン教の人にとっては釈尊の教えはショックだったはずです
345名無しさん@1周年:02/03/10 05:50
キリスト教徒って、もしイエスが目の前で語りかけてくれても
聖書引合いに出して聴く耳持たん奴ばかりだろうな。
346名無しさん@1周年:02/03/10 05:54
>>343
日本の坊主が堕落していないと逝ってくれる国が
一つでも有るんなら教えてくれやと考えています。
347はい質問です:02/03/10 06:11
そんな日本の坊主が俺は好きさ〜
348ぶっでいすと:02/03/10 15:49
戦国時代、信長がキリスト教の宣教師と坊さんを論争させようと
したけど、京都や奈良の坊さんが不勉強で話にならず、鎌倉まで
呼びにいったのは有名な話。ひどい堕落で信長の虐殺の一因と
なったようである。
ただそのことが、仏教の教えが劣っていることにはならない。その
教えの深さはあきらかにキリスト教を凌駕していると思う。
ただ私は聖書も何回か読んでますが、キリストもまた愛を説く
救世主であり、釈尊とは違う目的のために生まれた偉大な人
ではあると思います。
比較する必要はないでしょう。
349名無しさん@1周年:02/03/11 00:05
ヒンズー教徒でもなんでも、ヨソの宗教の方が優れててあるいは深い教えだと
思ってる人はいないって
350名無しさん@1周年:02/03/11 04:16
>>349

もっともです。それはそのとおりです。
ただ、キリスト教最高説の西洋にウパニシャッドや仏教が驚異となり、
盛んに研究されたのは否定しようもないでしょう。

その結果、キリスト者の反応はシュヴァイツェルのようにアレルギー反応みたいな
本が雨後の筍のように出た。

その後、禅ブームが来て、それからチベット仏教に至っています。
351155:02/03/11 10:13
>>438

禿同。仏教の堕落は、本覚思想(人間は修行するまでもなく、元から仏という存在
だという教え)の濫用が原因。キリスト教の堕落が、「贖罪」の濫用を源にしてい
るのと共通していて面白い。要するに、人間は元来怠け者なので、楽して助かりたい。
それが噴出したのが本覚思想の濫用であり、贖罪の濫用なんだよね。

仏教もキリスト教も、どちらも堕落していて、教祖の本当の教えを伝えていないん
だから、どちらが勝とうが負けようが、意味がないと思う。ただ、仏教は「物の見方
や考え方」が中心教義だったので、キリスト教のように根幹部分が腐って空洞化する
結果にはならなかった。キリスト教の場合、自己浄化作用が働かねばならないほど
腐敗が進み、宗教改革が起こった。もっとも、宗教改革によっても腐敗部分は取り
除けなかったが。

私見ですが、キリスト教と仏教の根幹の部分だけを比較すれば、348さんのおっしゃる
通り、大きな違いなどないという結論になると思います。
352名無しさん@1周年:02/03/11 13:02
本覚思想は実に優れた教えであり、
一部の学者が言うようなものではありません.

確かに弊害はあったかもしれませんが、
本質は実に高度で素晴らしいものです.
353競争がすべてです:02/03/11 13:19
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354155:02/03/11 13:24
>352

それについては同感です。本覚思想そのものは大乗仏教の中核ともいうべき
重要な思想です。キリスト教の贖罪もまた、同じくらい重要な思想であること
は間違いありません。しかし、残念ながら両方とも濫用され、本来の意義が骨
抜きにされている。

具体的に書けば、仏教の「小我」=キリスト教の「罪を犯さざるを得ない自己」
で、その仮の「我」を殺すことによって、仏教でいう「大我」、またはキリスト
教で言う「神の支配」が実現するのです。本覚思想も、贖罪思想も、「小我」が
仮の「我」にすぎないのだということを示している(その「小我」を捨てれば
いいのだから、天国は決して遠くはない)のですが、怠惰な人間は、あれこれ理由
をつけてそれを「小我」の肯定へと置き換えたがる。「小我」を肯定しだしたら、
仏教もキリスト教もダメです。
355名無しさん@1周年:02/03/11 17:52
>>352
155さん賛成です。

大我をどう捉えるかが難しいです。
私は実感がなく正確なことは言えませんが、やはり空で、
かつ慈悲に溢れた法身であると思います。

それを宇宙とかブラフマン、神といっていいかどうかは疑問で、
仏教の諸学者の多くは否定的ですが、
仏教を超えた大成就者は、同じといっていたかもしれません。

いずれにしろ言葉を超えたものであることは確かで、
これは確信をもっています。
356仏教側から:02/03/11 18:44
キリストも仏陀も同じくらいすばらしいですよ。違う持ち味が
あります。
357155:02/03/11 18:48
>>355

これはどうもです。

よく使われる表現では、神が大海の水で、人間ひとりの実態(俗な表現をすると魂)
はそのしずくだ、と言いますね。神と人間が本来同質であれば、人間が神を愛する
ことも、人間同士が愛し合うことも当然のことになる。これを頭においてイエスの
言葉を理解すると、納得の行くことが多いと思います。

>いずれにしろ言葉を超えたものであることは確かで、
>これは確信をもっています。

禿同です。弟子達は言葉を超えたイエスの教えを、言葉で曲解してしまった。イエス
には運がなかった。せめて、神は人間と同質だ、位のことを言い残してくれてたら
よかったのに。やっと「とうちゃん」と説いたところで早々と殺されてしまった。
358名無しさん@1周年:02/03/11 18:49
>349
いや、私はカトリックだけどヒンドゥーのほうが教義的に完璧だと思ってます。
輪廻転生があるほうが、世の中不平等や理不尽な理由も納得がいくけど、生まれつき盲目の理由が「神様の栄光」じゃ、ちょっとね・・・;
ただ、ヒンドゥーを信じる根拠が何もないので。
359名無しさん@1周年:02/03/11 19:58
>>358 それはおかしいですよヒンズー教の方が完璧だと思うならば
ヒンズー教に改宗すればよいのです。
360名無しさん@1周年:02/03/11 20:05
>>351
キリスト教のように根幹がクサって空洞化することはなかったとかっていうのは
そっくりお言葉をお返ししたいですね。葬式仏教とはまさに教えの空洞化なんですから。

むしろ仏教のほう釈尊お教えから隔たっているんですから。
日本の仏教は仏教じゃないとみなしている学者も海外には多いのです。
361名無しさん@1周年:02/03/11 20:25
聖書なんですけど仏典と比較して
弟子が正しい教えを伝えなかったなんて言われると疑問を感じますね
仏典結集だとや大乗経典の成立と比べて、精度が劣ってるとは思えないですね。
かなり古いイザヤ書なんかの写本でもけっこう正確だそうですよ

例えば、アーナンダが廃止してよい戎としてはならない戎の確認もしてなかったとか。
で実際に解釈の違いから教団が凄くたくさんに分裂しちゃってるわけですから。

仏弟子がイエスの弟子より優れてるとも思ってないです。
仏教徒の人が思う分には、ま、自由かなと。

で、チベット仏教とか禅なんですけどほんとに仏教を望んだのかって疑問でしょ
当時の流行で流行ってたんだもの。今でもあれはなんだったのかみたいな話は出ますけどね
362名無しさん@1周年:02/03/11 21:11
他者を貶めるような書きこみってのは
釈尊もイエスも望まないはずなんですがね
363名無しさん@1周年:02/03/11 23:02
>>361
チベット仏教は今も西洋で息づいてますけど。

>>362
ごもっとも。反省。
364名無しさん@1周年:02/03/12 09:07
>>362は真髄をついたかな
自分はクリスチャンで仏教のことはよく知らないが
このスレ読んでちょっと感心するところもありますね
イースターの記念に
イェス・キリストは処刑されてから生き返ります
そのことを信じる信じないは人それぞれでしょうが
よみがえってからあのぼんくらな弟子たちに数々の印をのこし
天に帰りましたその後弟子たちに聖霊が降りて数々の奇跡をのこし
そしてイェスと同じように処刑されそれを証明しました
問題はぼんくらな弟子たちが立派なお坊さんのようではなく
私たちと同じお金が好きで快楽を求めるもの
えらいお坊さんが死を持って何かを追及するというなら話は
べつですが、このような弟子たちゆえの実証であると思うのですが
そうでなければわれわれのような凡人でも救われてクリスチャンに
なれるということがここまで普及しなかったでしょうね

365155:02/03/12 09:34
>>360

私も、今の葬式仏教が仏教だなんて思っていないよ。ただ、いくら坊主が堕落
したところで、仏教思想は揺るがないということ。仏教の根幹はその「物の
考え方」にあるんだから。「生きる者はいつかは死ぬ」という命題は、人種や
文化に関わらず、万人に対する真理でしょう?無神論者であっても、仏教の教え
は否定できない、そういう厳粛さを持っている。

キリスト教の根幹にあるものは、パウロが作り上げた「贖罪思想」だけだよ。
パウロが詐欺師だったなら、キリスト教全体が引っくり返る。それを、「聖霊が
弟子たちに下って...」などと脚色で誤魔化しているにすぎない。そういう誤魔化
しを全部取り払って、「万人にとっての真理」を拾い出すと、イエスの「神は悪人
の上にも平等に太陽の光を恵まれる」とか、「明日のことを思い煩うな」という
言葉に行き着く。後のは全部、後世の連中のつけたし、堕落の言い訳でしかない。
366155:02/03/12 09:48
>>361

確かに、仏典の結集の時にも福音書の時と同様、不完全な編集や、意図的な
書き換えがあったでしょう。原始教典と呼ばれるものでさえ、明らかに後世の
付けたしと考えられる部分が混じっていることはよく知られた事実です。

ただ、仏教とキリスト教の大きな差は、365でも書いたように、教えの根幹の
違いなのです。キリスト教では、「イエスは、救世主であって、その死によって
全人類の罪が贖われた」というのが根幹教義だけど、「イエスは救世主だと自ら
宣言していた」、「自分の死は全人類の贖いだとイエスが宣言した」、「イエス
が死後復活したのを弟子達が目撃した」、などの一連の事実が完璧に伝承されて
いないかぎり、その教えは本物だと断言できない。ガラス細工など比べ物にならぬ
ほど脆いものが根拠になっているのです。

仏教は、物の考え方が根拠だから、極端な話、釈迦が架空の人物だったとしても
全く問題ない。釈迦自ら、自分は昔の真理の道を発見したひとりにすぎない、と
宣言している。仏教にとって、釈迦をめぐる伝承など初めから問題じゃないの
です。

結論:文献成立の不正確さは、仏典も聖書も同じようなものだが、キリスト教に
とって、それが致命的であるのに対して、仏教にはほとんど影響がない。
367155:02/03/12 12:04
個人的には、クリスチャンの人は、仏教的な悟りを得た上でキリスト教を信仰すれば
完璧だと思っているよ。仏教では「仏」を拝めなんて強要してないんだから、偶像
崇拝にはならない。不勉強な上に自分の想像で仏教批判して、恥知らずにも本まで
出版している内○牧師なんているけどね、ああいうガイキチはどんな宗教にもいるもん
だから、相手にしないことだよ。

仏教の「自他不二」(自分は独立に存在するのではなく、相手あっての自分だ)を理解
すれば、イエスの説く隣人愛だって素直に受け入れられる。仏教の教えは、福音書を深く
読むヒントにはなっても、キリスト教の信仰の邪魔にはならない。その上で、キリスト教
の信仰に打ち込めばいいんだよ。
368名無しさん@1周年:02/03/12 12:21
知恵と信仰は矛盾すると思う。
究極において信仰は知恵には勝てない。
つまり、(正しい)仏教のほうが上。
本当に知恵があれば何かを信じる必要はないはず。
知恵がないから信仰が必要になる。
369155:02/03/12 12:47
>368

>知恵と信仰は矛盾すると思う。

そうは思わないな。知恵と矛盾する信仰は、盲信だよ。本当の信仰ならば
知恵とも矛盾はしない。

>究極において信仰は知恵には勝てない。

これも違うと思う。究極において、知恵が知恵でなくなり、信仰と一致する
という感じだと思う。言葉でできない知恵こそが、究極の知恵で、かつ信仰
なんだよ。知恵を頼りにして、はばたいて上昇を続けると、やがて空気が
なくなってそれ以上は上がれなくなる。

>本当に知恵があれば何かを信じる必要はないはず。
>知恵がないから信仰が必要になる。

これも、信仰を「盲信」に変えた場合のみ賛同できるね。自分が神の大海の
真っ只中にいることを「知っている」のに、どうして神を無視することなど
できましょうか。それが本当の知恵だよ。究極の知恵は信仰と一致する。
370Sylvius ◆IdGGn6Qs :02/03/12 12:48
>>368

「認識は信仰の完成である」(アレキサンドリアのクレメンス)

皆が最初から悟っているわけではありません。

カトリシズムにおいても、神の本性の直観によって対神徳としての信仰は不要になります。
(ベネデイクトウス十二世。デンツィンガー教会文書資料集1001参照)
371名無しさん@1周年:02/03/12 17:04
>155さん。
仏教の理解は様々な装置によって進む。
その最たるものが輪廻思想だ。
仏教ではこの世からの完全な消滅を問題解決の最終形態と考える。
一方キリスト教では復活を信じ永遠の命を理想とする。
水と油だ。
仏教理解の究極のエッセンスのみを都合よく利用できるような非常識な
センスを持っているキリスト者のみが仏教の真理を信仰に生かせる。
なんて考えるがいかがでしょう。
372名無しさん@1周年:02/03/12 17:31
仏教のなかで慈悲ってありますよね。
あのエッセンスって、キリスト教の中にあります?

373155:02/03/12 17:53
>>371

う〜む。私は輪廻転生がなくても仏教の教えは成り立つと思っているけどね。
輪廻転生するとしても、それは「小我」にすぎないから、「大我」に目覚めれば
輪廻もなくなるという教えでしょう?

キリスト教でいう「永遠の生命」を「大我」に置き換えたらどうだろう。同じ
概念なんじゃない?人間は、「小我」という虚構の自我を作り出し、神の国から
自ら出て行った(追放じゃなくて)、というのがエデンの追放の話だと解釈
しているんだけど。パウロが「古い自分が十字架上で死に、自分の中でキリスト
が生きる」という告白も、「小我」を捨て去って「大我」に目覚めたと解釈すれ
ば矛盾しない。

確かに「形」は違うけどネ、究極のところは「有限でやがては消え去る、仮の自我を
離れて、永遠に存在し続ける、自他の差もない、本来の自我(=神)にすべてをゆだ
ねる」という教えなんだよ、キリスト教も仏教も。
374155:02/03/12 17:59
>>372

あると思うよ。唯一の違いは、仏教のように動物や植物に対する愛を説いて
ないだけでしょう。たとえば、こういう聖句。

「第一の掟は...力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』第二の
掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる
掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)
375名無しさん@1周年:02/03/12 18:09
>>373
155さん、仏教は輪廻を前提とします。
輪廻なしに仏教はありえない。

しかも、それは我々が包丁で指を切れば痛いと感じるのと
同じリアリティがあります。

輪廻なしに本覚とかいってもそれは単なる言葉の遊びですよ。

他者への慈悲も輪廻を苦しみから出てくるし、

殺生や自殺しないこと、人間の人生の意味も輪廻という
前提があって初めて切迫したぎりぎりの焦りにもにた、
意味が照らし出されると思うし、伝統的仏教徒は、
大乗でも小乗でも、みんなそう考えてきた。

考えないのは近代日本仏教学という奇形だけです。
376155:02/03/12 18:37
>>375

>仏教は輪廻を前提とします。

いや、そうとは限らないですよ。釈迦の時代に六師外道というのがありました。
ttp://www.cam.hi-ho.ne.jp/h_sakamoto/thought/thought.htm

輪廻転生を認めると、ジャイナ教と一体どこが違うのか、ということになると
思う。釈迦が説いた相手が、それこそ先祖代々から輪廻転生を信じきっていた
連中だったから、それに合わせて「善行を積めば、天に生まれ変わる」などと
いう比喩を説いたかもしれませんがね。釈迦が本来、輪廻転生を説いたという
歴史的事実は、今となっては誰にもわからない。
377155:02/03/12 18:45
私見ですが、仏教的な回答としては、以下のいずれかになるんじゃないでしょうか。

1)輪廻があるというのも、輪廻がないというのも、迷いである。
2)輪廻するときは、それに従えばよく、輪廻しないなら、それに従えばよい。
3)輪廻するかどうかは、死んでから考えればよい。
378名無しさん@1周年:02/03/12 19:18
小我、大我という言葉を使っているけど一般的?ちょっと教えて。
379155:02/03/12 19:28
>378

多分、一般的に使われている用語だと思いますよ。たとえば、

ttp://www.shomonji.or.jp/chosho1.htm

の第二編第七章をご覧下さい。
380光の子:02/03/12 19:50
輪廻ですか。確かに仏教では、積極的な意味づけは行われませんね。
ただ、仏教で問題になるのは「輪廻」というより「輪廻する(自分と
思っている)我」に対する執着のような気もします。あえて言えば

「輪廻する自分がいる」と断じるのは迷いである

「輪廻はないと断じる自分」により、輪廻を否定するのは迷いである

「輪廻する自分は作り出された幻影であるから存在しない」と断じ、
その思いを生じさせる自らを無視するだけで「我によって作り出され
た自らという思い、そしてその輪廻は絶えた」と断じるの者は、その
自らの思いによって新たな輪廻と迷いを作り出す

という感じなのでは。
381227:02/03/12 21:51
>>375
>輪廻なしに仏教はありえない。

これは間違い。

「マールンキャプッタよ。
人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。
人間は死後も存在する、と私は説かない。死後存在しないとも説かない。
なぜ説かないか。なぜなら人間は死後存在するとか、しないとかいうことは苦を滅する事、涅槃の役に立たない。
それゆえ私は説かない。
マールンキャプッタよ。私は四諦を説く。なぜ説くか。なぜなら四諦は、苦を滅する事、涅槃の役に立つ。
それゆえ私は説く。マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(中部経典)

以上の「人間は死後も存在する」を「輪廻はある」に、「人間は死後存在しない」を「輪廻はない」に置き換えてみればよい。
仏教とは「輪廻がある、ない」を超えた教えなのである。
382227:02/03/12 21:56
以下コピペ

かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。
その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。
二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。
「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。
これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」
「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」
「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」
「そうではない。」
・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、
人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。
だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、
独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(中部経典)

このように、ブッダは「人は死後にもなお存するかどうか」
というような種類の形而上学的問いには答えなかった、と仏典は記録しています。
そのような問いに対する見解はドグマ(独断)に過ぎないからです。
383227:02/03/12 21:58
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(中部経典22)

「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、
つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。
このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、
ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。
現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。

初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。
・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)

ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、
もっと根本的な批判だったのです。
つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、
そのような問答は無意味であると批判したのです。
ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。
384太郎:02/03/13 09:40
>>380
なるほど。

知識として理解できているのは、
確かにすごいことだと思いますが、
実際に、自分に我執があるということが
認識できない人もいるんですね。

その辺が問題なんでしょうね。
385:02/03/13 17:34
「断見外道」:人間は死んだら終わりという唯物論。

「常見外道」:死んだ後の世があると考える。
一般的に、今の内に供養を積んで地獄へ落ちずに天国へ行こうとする信仰にはまる。
386名無しさん@1周年:02/03/14 05:44
>>376
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/h_sakamoto/thought/thought.htm
>仏教を一言で表すと、この世を苦とし、苦からの救済について述べている。

「この世」というのがこの現世に限定された思想だというのでしょうか?

いや便利なHPですね。
   >川崎信定 著、「インドの思想」、放送大学教材 '93
に基づいてインドの思想をまとめているようですが、随分自分の言葉で
書き換えているようです。それは問題多いです。

上の内容は、川崎先生の本では、
   >ブッダの教えは、現実に苦しみ悩む人々をいかに救済するかという、
   >差し迫った動機からの具体的な対応を説くものであった。(p.62)
となっていて巧妙に輪廻を肯定も否定もしてません。
それから、輪廻前提は一貫してジャイナ他のヒンドゥー各派との共通点で、
それは『サルヴァダルシャナサングラハ』等に明らかです。
   中村元訳、『インドの哲学体系I』を読んでみてください。
   輪廻否定は順世外道だけで、その輪廻否定説は、
   仏教徒ダルマキールティの論理によって否定され、
   他のヒンドゥー各派もその論理によって輪廻を論証しているようです。
ジャイナとの違いは、いくらでもあります。無我、縁起、中道が大きな
違いではないでしょうか。
また、仏教は心を重視し、ジャイナは身体を重視したとか。

それに実際、ジャイナと仏教は結構似てるんです。
似てるからといって無理に差別化しなくてもいいでしょ。
要するに心が鎮まり、他に優しくなれればいいわけで、
それ以外、オマケでしょう。

ところで歴史的事実なんてないと思いますけど。歴史は過去に起こった事象の
ある視点から観た解釈であって、還元できる事実なんてまさに空でしょ。
387名無しさん@1周年:02/03/14 06:21
>>381
>仏教とは「輪廻がある、ない」を超えた教えなのである。

227さんこれは確かです。確かにに輪廻は空であり実在しない。
しかし、幻だけれども我々が自分があると思い、苦を感じる程度の
効果としては無いわけではなく、そこから抜けでなくては、
他を抜けださしめなければならないのです。

また、一歩譲って「死後存在する」とは説いていないことは
認めますが、それは、マールンキャプッタが死後存在するかどうかが、
分からなければ修行するのはやめようという前提の問いに対して
「役に立たないから説かない」と明言しているではないですか?
388名無しさん@1周年:02/03/14 06:23
>>381
引用は、世界の名著からですね。もっと別の所も読んでみてください。

>釈尊が目ざめた者の眼をもって世界を観察されると、(中略)
>来世に生まれて苦をうけねばならぬおのれの罪業について
>おそれを知りつつ暮らしている者たちもある、ということが知られた。(p.433)

>これが最後の生存であって、いまや再び迷いの生存にはいることはない。(p.438)

>悪行を行った彼は、肉体が滅んだ死後、苦悩・災いの世界、不幸な状態、
>煉獄に生まれる。(p.444)

>善行を行った彼は、肉体が滅んだ死後、善い場所・天上界に生まれる。(p.444)
同様、pp.446, 465-6, 493, 501

>比丘は過去の生存の境涯を想起する知(宿住通)に、心を傾け、心を向けます。
>彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。
>そしてそれは幾多の生成・壊滅をふくむ宇宙期を(通して)想起します。
>『あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。
>家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、
>こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。
>そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、そこでも同じように、
>自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、
>これこれの幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。
>そしてその世からいまのこの世に生まれ変わってきたのだ』というように、
>具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。(p.535)
389名無しさん@1周年:02/03/14 06:27
「キリスト」「釈迦」は高橋信次さんの分霊です。

高橋信次さん設立した会社。
高電工業、東京大田区
http://www.koden.co.jp/
390名無しさん@1周年:02/03/14 06:44
>>387
じゃあ、ヴァッチャに対する説法はどういうこと?>>382

>>388
それは、方便としての死後の話では?電波男と対話してみたら?

496 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/02/22 23:54
>>494
いいえ、違います。三界における六道輪廻に苦しむというのは現実の人間の
有り方で、「生まれ変わり」故に苦しむのとは違います。

> 輪廻転生を前提としない中国・朝鮮・日本では、仏教が違った展開を
>みせたのも、当然だと思いますが。

それは逆で、中国日本で「生まれ変わり」を前面に出してしまったのです。
詳しくは哲学板をご覧下さい。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1010788424/
391名無しさん@1周年:02/03/14 06:51
もちろんキリストですよ
392名無しさん@1周年:02/03/14 16:35
>>390
>じゃあ、ヴァッチャに対する説法はどういうこと?

ども。ゆうまでもないから省略したのですが、こゆことです。
>>382
  >独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
  >それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
  >厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
要するにそのような思想追求は、覚りに意味がないということ。
  >それは、方便としての死後の話では?電波男と対話してみたら?
それは不毛です。もう実証済みです。まさにここで対話、というかテストしました。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1010788424/

人のことは言えないけど、彼こそ見取の結縛、つまり仏教学で抽出した
結果に囚われていて、覚りにも利他にも役に立たない。
「苦をともない、悩みをともない、破滅をともない」ことばかり言ってるし、
仏教学は結構できるが、自分の非をほとんど認めないし、あれじゃ対話にならないよ。
あのレヴェルのサンスクリットで、できるといったり、大口叩くのは無理があるです。
かといってオラはできるって訳ではなく、へなちょこですけど。
一つだけ彼に感謝したいことがあります。小川英世さんの論文を教えてくれたことです。

こんなとこで、ありがと。(おこんないでね)

彼の輪廻否定は創価学会に対する反動形成でしょう。
393155:02/03/14 16:51
う〜ん。どんどん泥沼にはまっていくように思えるなあ。

要するに、釈迦の四諦が仏教の根幹である以上、>>381にあるように輪廻転生があろうと
なかろうと関係ないんだ、という結論にならないかな?

この問題提起は、「輪廻転生が仏教思想に不可欠かどうか」であって、「輪廻転生があるか
ないか」じゃないと思うのだが。いつの間にか問題がすりかわっているぞい。

もし、仏教思想が輪廻転生を仮定しないと成り立たないのなら、ここでいくら議論しても
キリスト教の人は到底受け入れられないだろうし、私もウソを言ったことになるので、
むしろ、それが心配だ。
394名無しさん@1周年:02/03/14 16:51
395名無しさん@1周年:02/03/14 17:35
>>393
>要するに、釈迦の四諦が仏教の根幹である以上、>>381にあるように輪廻転生があろうと
>なかろうと関係ないんだ、という結論にならないかな?

155さん。なりません。これは確信を持って言えます。四諦の一つ「一切皆苦」を本当に実感し、
輪廻しないなら、すぐに自殺することが導き出されませんか?

そうなるはずです。あらゆることが苦しみであるというこの現世、しかし自殺しても、
苦しみはケイゾクするから、自殺せず、善行をし、他の苦しみも理解し、利他行をする。

逆に四諦が仏教の根幹である以上、輪廻を前提にしなければ自殺するのが当然だと思いますが、
何故、そうならないか説明できますか?

私は四諦を認めた仏教肯定派が輪廻を否定できる根拠を知りたいので、教えて欲しいです。

また「輪廻転生」という言葉は、あまり伝統的仏教では使わないので、できれば「輪廻」と
いってください。
396太郎:02/03/14 17:55
輪廻転生が、あろうとなかろうと関係ないという結論は、
生老病死が、あろうとなかろうと関係ないというのと、
同じような結論であることが、理解できるだろうか。

輪廻転生の問題は、自我意識の問題なんよ。
生老病死の問題も、自我意識の問題なんよ。

>>395
同意。
397155:02/03/14 18:07
>>396

そう言われると納得できるような気もするけど、結局のところ「輪廻」も
「生死」も仮の自我の迷いにすぎないわけでしょう?その自我の奥に、輪廻
も生死も超越した真の自我がある。それを感得して、仮の自我への執着を
離れるのが仏教だと思うけど。「生死」に迷う人間に対して、それから解脱
せよ、というのは理解できるが、キリスト教徒や現代人のように「輪廻」を
信じていない人に、わざわざ「輪廻」という迷いを押し付けなければならない
理由がわからない。
398155:02/03/14 18:15
出典は忘れてしまったが、釈迦は「大切なことは体にささった矢を引き抜く
ことだ」と教えているよね。最初から「輪廻」という矢がささっていない人
に、「仏教を理解するにはこの矢が必要だ」と言って、わざわざ矢で傷つける
ことは釈迦の意向に反していないだろうか?
399太郎:02/03/14 18:25
というか、あれなんですよ。
解脱して仏になった世界というのは、
生死、黒白、男女、仏と凡夫、というような
相対的な世界じゃなくて、絶対的な世界なんですね。
それを「空」とか「無」とか「涅槃」って言うでしょう。

我々のように、相対世界で生きると言うことは、
苦楽を必ず伴いますよね。
矢が刺さっていない人がいるんじゃなくて、
矢が刺さっているのを知らない人がいるんです。

無理矢理矢が刺さっていることを
教えてあげる必要はないけれども、
いずれは必ず知ることです。

つまり、矢が刺さっていることを知らない人には、
知ったときに仏教の教説を話すればいいのではないでしょうか。
400太郎:02/03/14 18:30
でも、キリスト教徒の人は、
輪廻のことをどのように考えるんだろうね。