532 :
言いすぎ?:02/06/30 03:18
新共同訳は、訳語の的が重要なところに限って意味を暈かしていると思う。
その上、ヘブライ語聖書底本とは書簡の扱いが異なっていて、これまでの
邦訳聖書の並びをそのまま踏襲していて、何の目新しさもない。
イエスは、マタイ23章35やルカ11章51節で、アベルの血からザカルヤの血
にまで言及する。そこであるが、アベルの死については創世記の4章8節に書いて
あり、ヘブライ語聖書でも創世記から始まることとも一致する。問題はない。
そして、ザカルヤの血については歴代誌下24章21節に出てくる。これは、
ヘブライ語聖書の書簡構成では最後の巻だが、邦訳聖書では列王記に続く書簡である。
新共同訳聖書は訳語の的外れ、暈かしもあり、書簡の並べ替えもそのまま・・・
つまり、信仰の道しるべとしての役割を担う聖書としてはこれは死んだもの、あるいは
もっと言えば偽りの書に等しいのだ。
自分は、あえて聖書の構成と翻訳を、原典に近づけて欲しいがために、
思い切ってこうした点を批判する。気をつけて!あしからず。
自分の書きこみが、意味不明なので、書き直す。
新共同訳は、訳語の暈かしが目に付く。それも重要な個所に限って甚だしい。
BHSというヘブライ語旧約聖書があるが、新共同訳は、書簡の配列の扱いが
これとは異なっている。従来の日本語訳聖書がこの配列をしているので新
共同訳がそれを踏襲しているのは当然だと言うこともできる。
しかし、このことは実は新約聖書における重要な「福音」つまりイエスの
言行の意味を分からなくさせるには十分過ぎる配慮だと言えるのではないか?
翻訳の改訂をするたびに聖書は、信仰者の糧としての意味を根底から崩して
いっていると自分は勘ぐってしまうのである。
イエスがマタイ23章35節やルカ11章51節でアベルの血からザカルヤの血
までに言及する個所は、ヘブライ語の創世記に始まり、歴代誌に終わる
旧約聖書書簡の並びを知らなければ意味がわからない個所だと思われる。
新共同訳聖書には、書簡の並びに関して注を設けているわけでもなく、
訳語に関して底本の使用用語に忠実な訳を施しているわけでもない、
あいまいな部分が根本的な部分で存在する。つまり、信仰の道しるべとして
この聖書(新共同訳)を見るならば、これは死んだもの、偽りの書に
等しいとさえ言えるかもしれないのだ。
自分は、あえて聖書の構成と翻訳を、慎重に原典に近づけて欲しいために、
辛口の批判をさせてもらう。あしからず。
534 :
名無しさん@1周年:02/06/30 04:07
BHSの書簡の配列は何を根拠としているのでしょうかね?
535 :
名無しさん@1周年:02/06/30 04:29
レニングラード写本の書簡配列を踏襲していると思います。>534
536 :
名無しさん@1周年:02/06/30 05:55
新共同訳の名称を使って、BHSの書簡項目順を書き記すなら
以下のようになると思う。上下に別けた書簡がないので総数は36巻。
【律法五書】
1.創世記 2.出エジプト記 3.レビ記 4.民数記 5.申命記
【預言の書】
6.ヨシュア記 7.士師記 8.サムエル記 9.列王記
10.イザヤ書 11.エレミヤ書 12.エゼキエル書 13.ホセア書 14.ヨエル書
15.アモス書 16.オバデヤ書 17.ヨナ書 18.ミカ書 19.ナホム書
20.ハバクク書 21.ゼファニヤ書 22.ハガイ書 23.ザカリヤ書 24.マラキ書
【聖なる教訓の諸書】
25.詩編 26.ヨブ記 27.箴言 28.ルツ記 29.雅歌
30.コヘレトの言葉 31.哀歌 32.エステル記 33.ダニエル書 34.エズラ記
35.ネヘミヤ記 36.歴代誌
537 :
名無しさん@1周年:02/06/30 08:21
ようするに532は旧約はイエスが使ってたのと同じにしろといいたいのね?
俺は預言書は預言者の登場順に並べてほしいなあ
アモス-ホセア-ミカ-第1イザヤ-ゼパニヤ-ナホム-ハバクク
エレミヤ-エゼキエル-オバデヤ前-第2,3イザヤ-オバデヤ後
ハガイ-ゼカリア-マラキ-ダニエル-ヨナ-ヨエル
538 :
名無しさん@1周年:02/06/30 18:14
>532
「書簡」って、文書ってことが言いたいんだね。
「書簡」は手紙のこと。だから、「書簡」は新約にしかない。
539 :
名無しさん@1周年:02/06/30 18:20
>イエスがマタイ23章35節やルカ11章51節でアベルの血からザカルヤの血
>までに言及する個所は、ヘブライ語の創世記に始まり、歴代誌に終わる
>旧約聖書書簡の並びを知らなければ意味がわからない個所だと思われる。
歴代志はヘブライ語聖書の「諸書」に含まれているけれど、
諸書の範囲と配列はイエス時代にはいまだ不確定だったんじゃないの?
例えばルカ24,44は聖書の構成として、「モーセの律法、預言者、詩篇」となっている。
諸書としては詩篇だけが挙げられているね。
それに現在のヘブライ語聖書の「諸書」の構成は紀元語100年頃には確立していたが、
配列はその時点ではいまだ不確定だったらしい。
だから現在のヘブライ語聖書の最後が歴代志で閉じられているからといって、
イエスの時代にもそうであったとは必ずしも言えないのでは?
それにこのザカルヤはエホヤダの子のほうかバラクの子のほうか議論されているし、
いずれにもそれなりの理由づけが出されている。
>>538 細かいことだけど、大事な語句の使い方が間違っていたね。指摘してくれてどうも。
>>539 ルカの聖書構成の付言「詩編」は、慣用的な書巻群の全体を表現する仕方なだけ
じゃない?例えばユダヤの信仰深い民衆は詩編の最初の一節を唱えるだけで、唱えた
者が何を言いたかったのか、理解できたというよ。「モーセの律法、預言者、詩篇」
という表現方法も、「詩編」に関しては単独の「詩編」書巻を言い表わしたのではなく
数ある書巻群をまとめて言い表わす時の慣用的表現方法だよ。
>だから現在のヘブライ語聖書の最後が歴代志で閉じられているからといって、
>イエスの時代にもそうであったとは必ずしも言えないのでは?
BHSは最新の研究成果に基づいて、権威ある家系に引き継がれた信頼性の
高いレニングラード写本を底本に復元されている現状最も信頼できる旧約聖書だよ。
あなたが言うことはおかしいね。現在の私達の所有する聖書がマラキ書で終わって
いるからといって、イエスの時代にもそうであったとは必ずしも言えないのでは?
少なくとも現在の聖書協会の配列は学者の都合で編纂された無意味なもの。信仰の
書はいまや知的遊戯のための対象物と化している。
少なくとも、BHSの書巻の並びを踏襲することでイエスの言行に矛盾は無くなる。
考古学的にも矛盾はないし、あなたが指摘の「エホヤダの子かバラクの子か」という
議論も不要だ。でも・・・
>いずれにもそれなりの理由づけが出されている。
この点について、概略でいいから、教えてほしい。自分はこうした議論が
どこでいつ頃、どんなメンバーの間で、何を目的に、何を用いてどういった方法で
行われていたのか、あるいは今も行われているのか、よく知らないものですから。_(._.)_
541 :
名無しさん@1周年:02/07/01 02:35
だから、人にしてもたいたいと思うことは何でも、
あなた方も人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。
^^^^^ ^^^^^^^
542 :
名無しさん@1周年 :02/07/01 02:45
>>540 >少なくとも現在の聖書協会の配列は学者の都合で編纂された無意味なもの。
あなたが批判されている新共同訳の中の文書の配列は
一般的に「キリスト教式」
と呼ばれるもので
アレクサンドリア・ギリシャ語訳
ラテン語・ウルガタ訳
ドイツ語・ルター訳
英語・欽定訳
など、これまでのほとんどすべてのキリスト教での聖書の写本・印刷本が
とっている配列です。
これは文書を
過去−現在−未来
の順番に並べるもので、教義的な説明もちゃんとあります。
543 :
名無しさん@1周年:02/07/01 02:48
現行のキリスト教旧約聖書の配列は、ヘレニズム世界に住むユダヤ人によって
前3世紀から後1世紀にかけて生みだされた七十人訳(ギリシャ語)聖書を踏襲
したもの。七十人訳は初代教会の人びとに利用されていたことが、新約本文の
研究からわかっている。
一方、パリサイ派が中心になってBHSに見られるヘブル語正典の範囲を正式に
決定したのは、紀元70年のこと。ユダヤ戦争によってユダヤ社会が崩壊して
しまったため、信仰に統一基準を設ける必要に迫られ、決定はなされた。
これらの事情を考えると、現在の配列が全く後のものということはできない。
外地住いのユダヤ人に発するものではあるが、キリスト教旧約配列にもイエス
以前からの歴史的背景がある。
後世の「学者」が勝手に決めたわけではない。
544 :
名無しさん@1周年:02/07/01 03:24
>>542 >>543 聖書が ヘブライ語聖書→ギリシャ語訳→各国聖書翻訳 という流れを辿って
きたことを自分も知っています。
問題は、イエスの仰った事はヘブライ語聖書の配列からでなければ、
整合性をもって現状説明できないという点にあり、その整合性を考えると、
ヘブライ語聖書(BHS)は書巻の配列順序を含めて、訳出されるのが適当
であるということを言いたい訳です。旧約はギリシャ語聖書の書巻配列
を残してヘブライ語聖書の写本本文を翻訳するという姿勢はキリスト教
の「福音」の記述に照らしても良くない事甚だしいのです。むしろ、
ヘブライ語聖書の書巻配列に習いながら、七十人訳ギリシャ語旧約聖書
の本文を底本に翻訳作業するほうが何倍も良いと言えます。
>>540 >ルカの聖書構成の付言「詩編」は、慣用的な書巻群の全体を表現する仕方なだけじゃない?
イエスの時代にもそういう表現の仕方が存在した証拠とか存在するの?
例えば死海写本には、「モーセの律法、預言者、ダビデの書」(『トーラの著作の一部』C )とあるし、
フィロンも、「律法、預言者、詩篇、その他の書物」(『瞑想の生活について』V)と言っている。
詩篇によって諸書全体を表現する仕方は、少なくともイエスの時代に存在した証拠はない筈だけど。
大体ユダヤ戦争後、ヤムニヤのベツ・ディンで、歴代志も論争の焦点になっていて、その際、
ヒレル学派は歴代志が“手を汚す”ものであるとしてその正典性を主張して、シャンマイ学派と
論争を展開している。だから現在のヘブライ語聖書の最後が歴代志で閉じているからといって、
イエスの時代においてもそうであったとは言えないよ。
>現在の私達の所有する聖書がマラキ書で終わって
>いるからといって、イエスの時代にもそうであったとは必ずしも言えないのでは?
イエスが70人訳を使っていたなんて言ってないよ。
当時のヘブライ語聖書が歴代志で終わっていたとは断言できないと言っているの。
諸書の範囲と配列は、律法や預言者とは違って、かなり長い間流動的だったのだから。
>この点について、概略でいいから、教えてほしい。
エホヤダの子ザカルヤ(歴代志・下24,21-22)ではなく、ユダヤ戦争の際、70年のエルサレム
陥落直前にゼロタイによって処刑されたバラクの子ザカルヤ(ヨセフス『戦記』W-5-4)とみる見解。
古くはウェルハウゼンが唱えている。イエスは、洗礼者ヨハネまでも殉教者に含めている
(マタイ17,10-13)のだから、殉教者をエホヤダの子ザカルヤまでに限るとみるのはおかしいと。
そこでマタイ、ルカの当該箇所のザカルヤはバラクの子のザカルヤであり、当該箇所は真正の
イエスの言葉ではなくて、パレスチナ・ユダヤ教が右傾化した時代を反映する言葉であると。
>>532 ちょっときびしいことをいわせてもらうよ。
>つまり、信仰の道しるべとしての役割を担う聖書としてはこれは死んだもの、あるいはもっと言えば偽りの書に等しいのだ。
他人のやったことをここまで批判する人間のやることとしてはあなたは不勉強すぎるね。
私もたしかに新共同訳聖書にはいろいろ問題があると思う。
批判している人も多い。
しかしあなたの主張にはおかしな(おかしすぎる)ものが多い。
ひたすら「書簡」という誤った言葉を連発したこともそうだけど、
新共同訳聖書を批判するのに旧約聖書の中の文書の配列方法をあげて、
キリスト教の約2000年の歴史の中でほぼ一貫して続いてきた旧約聖書の中の文書の配列方法を
まるで現代の日本聖書協会と現代の一部の学者が勝手にやったことのように書いていますよね。
あなたはある程度キリスト教や聖書のことを学んだ人間ならまずやらない誤りをいくつも犯しています。
これでは多くの人はあなたの主張をまともにとりあげようとは思わないでしょう。
初心者として質問するなら基本的な用語や概念についての誤りがあってもしかたが無いとは思うけど、
自分の意見を持ってそれなりの主張をしようとするなら、
結論に従えとは言わないから既存の学説について一通りの勉強だけはして、
きちんと踏まえた上で自分の思うところを主張して欲しいと思う。
そうでないと、あなたが何を言っても全く相手にしてもらえないか、
よくて相手から「あなたの知識が間違っていますよ」
という「指導・注意」を受けるだけで、
「議論」にはならないと思います。
あなたが論じようとしている問題は、
旧約聖書学の中の旧約聖書緒論総論と呼ばれている学問の中で、
正典論、本文論等の名前で論じられているものに入ります。
どういう議論があったのかを全てフォローするのは私の能力に余りますので
主な参考書を紹介しておきますので参考にしてください。
この分野は西欧では非常に発達した学問なのですが、
日本語で詳しく読める本は余りありません。
1 「総説 旧約聖書」(日本基督教団出版局)の総論の部分
2 左近義近「旧約聖書緒論講義」(教文館)
3 榊原康夫「旧約聖書の生い立ちと成立」(いのちのことば社)
4 榊原康夫「旧約聖書の本文と写本」(いのちのことば社)
5 翻訳もので「旧約聖書の本文研究 ビブリア・ヘブライカ入門」(日本基督教団出版局)
位だと思いますです
あとは主として新約聖書についての本なのですが、
6 田川健三「書物としての新約聖書」(勁草書房)
が参考になるかと思います。
あなたは現代のBHSの中での文書の配列を重要視しているようですね。
BHSの元になったコーデックス形式のヘブル語聖書は、
そもそもキリスト教の中ではなくユダヤ教の中で伝えられてきたものです。
中世の終わりくらいまでは教会(カト・プロに分かれる前です)の中で
聖書と言えばほとんどラテン語訳聖書のことであり、ごく一部ギリシャ語訳聖書のことでした。
そして宗教改革以後に、旧約聖書の翻訳をヘブル語の原典から直接翻訳するべきである
ということになったときに、キリスト教世界の中にはもはや信頼できるヘブル語旧約聖書がほとんど無かったのです。
そこで当時のキリスト教世界はこれをユダヤ教世界に求めることになったのです。
確かにユダヤ人たちは大変な努力で誤り無く聖書を後世に伝える努力をしてきました。
しかし誤りや教義のための書き換えが全く無かったのかどうかについては
議論の余地があります。
このような事情があるものですから、
キリスト教の立場から見てユダヤ教が伝えてきたヘブル語聖書をそのまま
受け継いでよいのかどうかについては十分検討する必要があるのです。
現在のユダヤ教に伝わる歴代誌で終わる形の文書の配列は、
完全に確定したのは紀元後であっても恐らくは紀元前に遡る可能性の高い古いものであることは確かです。
けれどもBHSの元になった現在も残っているコーデックス形式のヘブル語聖書の写本はせいぜい8、9世紀のものです。
これに対して現在のキリスト教式の配列も紀元前のユダヤ教に遡る古いものです。
現在も残っているキリスト教式の配列に従ったコーデックス形式の
ギリシャ語聖書の写本はの中には4世紀にまでさかのれるものもあります。
ですから、このふたつの方式のどちらがより古いものなのか、
別の言い方をするとどちらがより原本に近い形なのか、
簡単に判断することはできないのです。
最後に、現在の歴代誌で終了する形が旧約聖書の原本がとっていた形ではない
とする主張とその根拠について書いておきます。
かつて聖書は現在のように旧約聖書全部(あるいは旧・新約聖書全部)で1冊の本の形(コーデックス)ではなく、
ひとつひとつが巻き物の形で作られ、保管されていました。
創世記で一巻、出エジプト記で一巻というような形です。
しかも第1巻、第2巻というようなタイトルが書いてあるわけではありません。
死海写本などの古い写本はほとんどすべてこの形になっています。
ところが文書がこのような形のままだとどの書がどの書のあとに続くのか
わからなくなってしまう恐れがあります。
そこで当時のユダヤ人たちがどうしたかというと、
「Aの巻き物の後にBの巻き物が続くときは、
Aの巻き物の最後の部分をBの巻き物の最初にもう一度書くことによって、
Aの巻き物の後にBの巻き物が続くことを示す。」
ということをやったのです。
ここで歴代誌の終わりとエズラ記の最初を見てください。
一部分同じことが書いてありますね。
つまり聖書本文に従う限り歴代誌の後にはエズラ記が続くはずであって、
歴代誌で終わる形の旧約聖書は聖書本文に反しており、
成立したときの形のままではありえないことになるわけです。
550 :
名無しさん@1周年:02/07/02 06:51
>>545 >イエスの時代にもそういう表現の仕方が存在した証拠とか存在するの?
昔のヘブライ人は聖書を3つに大別していたんです。それはトーラー(律法五書)、
ネビム(預言の書)、ケトビム(聖なる教訓の書)です。新共同訳続編のシラの書という
書巻を参照できるなら、その序言を読んでみてください。書いてあると思います、
区分が(1-2.7-10etc)。このことは西暦前2世紀には聖書全体がこうした3区分で
認識されていたことを示すものでしょう。この事実から、「モーセの律法、預言者、
詩編(または)ダビデの書」と3区分すべてに言及されている発言は、聖書全体を表現
する仕方だと考えられると思います。
>>この点について、概略でいいから、教えてほしい。
>エホヤダの・・・・・・言葉であると。
イエスは、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究して
いる。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ5章39節)」
と仰っているんですから、イエスが仰る聖書の引用は、当時の我々が旧約聖書と
言っている聖書の全体を指しています。創世記から始まり歴代誌に終わっている
律法学者やファリサイ派が研究している聖書の内容の内、預言者の血の責任について
をイエスは述べているのです(マタイ23章29-35節)。ですから、少なくともイエスの
言葉として福音記者が書き記した内容はイエスが仰ったこととヘブライ語聖書の中身
との間に矛盾がありません。逆に七十人訳聖書の書巻配列を基準にして考察をはじめると、
イエスの言動は何を言っているのか収集がつかなくなって、あなたのお話しのように
なってしまうのです。
551 :
名無しさん@1周年:02/07/02 06:54
>>546-549 まず、あなたが
>>546でこちらを批判されていることは、そのままあなたに
お返しします。コーデックスは「写本」という意味です。「コーデックス形式
の○○聖書の写本は・・・」というあなたの表現は「頭痛がします」と言えば
いいものを「頭痛が痛いです」というのと大差ありませんね。もってまわった
言い方が、鼻について読むこちら側が恥ずかしくなります。ユダヤの格言に、
固定観念の背後には自分は賢いと思う心理が隠されているといったものがある
ようですが、あなたの無駄に長い知識のひけらかしレスは、これを思い出しました。
また、
>>548下から4行目「ギリシャ語聖書の写本はの中には4世紀にまで
さかのれるものもあります。」のような「ろれつ」の回らない文章をそのまま
投稿しておいて、人の投稿の変換間違いだけは冒頭から批判して意見を述べ始める
あなたのずうずうしさに頭が下がりました。それでも今後、ざっくばらんに
ご意見いただけるならばこちらは喜んでお受けいたしますが・・・。
BHSを底本に翻訳作業するなら、内容は書巻配列まで踏襲するか書巻配列の
ことについては別途注や説明をもうけるべきではありませんか?普通。実際に
は、付録の「聖書について」の説明にも、書巻の配列順については一切但し書き
も注意もありません。こうした聖書協会の翻訳姿勢は今後新しい版の聖書出版に
与える影響を考えてみても、翻訳作業の悪しき前例になりかねない重大な偽りです。
552 :
名無しさん@1周年:02/07/02 10:18
コーデックスて語、スクロール(巻物)ではなくて綴本(我々のよく知る
書籍の物理形状)、という意味で使わないかな?
553 :
名無しさん@1周年:02/07/02 10:38
写本は<manuscript>だろ、普通。
554 :
名無しさん@1周年:02/07/02 11:05
まあ、なにをいってもむだだんべ。
555 :
パイレーツってどこいったの?:02/07/02 11:10
おいおい、綴り本じゃなくって「巻物」の場合の配列ってどんなだ?
556 :
名無しさん@1周年:02/07/02 12:07
つづりぼん? とじぼん、だろフツー。ここは小学校か?
557 :
名無しさん@1周年:02/07/02 12:10
>>550 >この事実から、「モーセの律法、預言者、詩編(または)ダビデの書」と3区分すべてに言及されている発言は、
>聖書全体を表現する仕方だと考えられると思います。
全然答えになっていない・・・
詩篇だけを挙げて諸書(ケスビーム)全体を表現する仕方が、イエスの時代に存在した証拠があるのかと
聞いてるんだけど。
ベン・シラの知恵の序文は、当時すでに諸書が閉じられていたとは言っていないし、諸書の配列が
どうであったのかについても触れられていないよ。
>七十人訳聖書の書巻配列を基準にして考察をはじめると、
>イエスの言動は何を言っているのか収集がつかなくなって、あなたのお話しのように
>なってしまうのです。
???
先に紹介したバラクの子ザカルヤ説は、70人訳なんか前提にしていないぞ。
それにイエスの時代にすでにパレスチナ・ユダヤ教で70人訳も使われていたんだから、
70人訳の配列をはなっから除外するのも、少しヘンじゃないの?
558 :
名無しさん@1周年:02/07/02 12:13
そのうち「テキストとは文章と言う意味です」などと言い出すに違いない(w
559 :
名無しさん@1周年:02/07/05 03:05
深夜の晒しアゲ
560 :
名無しさん@1周年:02/07/05 21:36
聖書と言えばフランシスコ会訳注付き聖書
561 :
名無しさん@1周年:02/07/11 16:54
>>560、胴衣
旧約に付けられてる脚注読むだけでも、パウロが旧約から引用しまくって
いかにキリスト教を変化させてったのか、なんとなくわかってくる。
ただし、聖書内に根拠が見当たらない聖母、聖母、て言うのは新約だけならまだしも
旧約にまで「後の聖母のことをさす」「広い意味では聖母をさす」など根拠のない強引な指摘が
頻繁に現れるのはなんとかして欲しい
562 :
名無しさん@1周年:02/07/11 22:03
にゃはは
563 :
名無しさん@1周年:02/07/13 05:18
創世記1章2節
新共同訳 地は混沌であって闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた
口語訳 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた
関根正雄訳 地は混沌としていた。暗黒が原始の海の面にあり、神の霊風が大水の面に吹きまくっていた
フランシスコ会訳 地はむなしく何もなかった。やみは深遠の上にあり、神の霊は水の上をおおい動いていた
岩波委員会訳 闇が混沌の海の面にあり、神の霊がその水の面に働きかけていた
バルバロ訳 地はととのわず、むなしく、やみが底知れぬふちを覆い、水の上に神の息吹が舞っていた
新改訳 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた
新世界訳 さて、地は形がなく、荒漠としていて、闇が水の深みの表にあった。そして、
神の活動する力が水の表を行きめぐっていた
中澤洽樹訳 地は荒涼混沌として闇が淵をおおい、暴風が水面を吹き荒れていた―
創世記3章24節
新共同訳 きらめく剣の炎
口語訳 回る炎のつるぎ
関根正雄訳自転する剣の炎
フランシスコ会訳きらめく炎のつるぎ
岩波委員会訳揺れ動く剣の炎
バルバロ訳炎をはなつじぐざぐ型の剣
新改訳 輪を描いて回る炎の剣
新世界訳 自ら回転しつづける剣の燃える刃
中澤洽樹訳回る剣の炎
ドンボスコ訳 きらめく剣のほのお
出エジプト記3章14節
新共同訳 わたしはある。わたしはあるという者だ
口語訳 わたしは、有って有る者
関根訳 わたしはあらんとしてある者である
フランシスコ会訳 わたしはある(エーイェ)ものである
岩波訳 わたしはなる、わたしがなるものに
バルバロ訳 わたしは”在すもの”である
新改訳 わたしは「わたしはある。」という者である
新世界訳 わたしは自分がなるところのものとなる
中澤訳 わたしは<われ有り>という者である
ドンボスコ訳 私は在るものである
創世記3章24節
新共同訳 きらめく剣の炎
口語訳 回る炎のつるぎ
関根正雄訳 自転する剣の炎
フランシスコ会訳 きらめく炎のつるぎ
岩波委員会訳 揺れ動く剣の炎
バルバロ訳 炎をはなつじぐざぐ型の剣
新改訳 輪を描いて回る炎の剣
新世界訳 自ら回転しつづける剣の燃える刃
中澤洽樹訳 回る剣の炎
ドンボスコ訳 きらめく剣のほのお
567 :
名無しさん@1周年:02/07/13 23:54
>>557 >詩篇だけを挙げて諸書(ケスビーム)全体を表現する仕方が、イエスの時代に存在した証拠
>70人訳の配列をはなっから除外するのも、少しヘンじゃないの?
問題は、聖書の記述はヘブライ語聖書の配列を念頭に理解すると矛盾がないということが
正しいかどうかということ。あなたの方が反証に必要な証拠を何も挙げていないじゃないか?
学者の仮説の数や理屈をいくら述べ立てても意味あることにはならない。ザカルヤの父親が
誰なのかということすら、聖書を読む上で本質を突いた問題点の捉え方ではない。第一、
ザカルヤという言葉以外の点については後世の加筆であると説明する聖書があるくらいだ。
また、イエスの発言(マタイ23章35節やルカ11章51節)は、これまで何度も書いているように
ヘブライ語聖書の配列を参考に挙げてあるだけでその意味が明らかになる問題なのだ。
本文の翻訳が、使徒も当時携えていたといわれる七十人訳のギリシャ語に拠っていて
も別に構わないと自分は思っている。しかし、BHSを基本に旧約を翻訳したと説明するので
あれば、すくなくともBHSの配列に対しても忠実さを示すべきなのだ。そして、それは
偶然にもイエスの言動に対し明らかな理解を我々に齎すのである。聖書を読んで、ザカルヤ
の父親は果たして誰なのかとか、諸書を言い表わす慣用表現に証拠はあるのかとか、
枝葉末節の議論は、ハッキリ無駄といっておきたい。
>問題は、聖書の記述はヘブライ語聖書の配列を念頭に理解すると矛盾がないということが
>正しいかどうかということ。
違うよ。
あなたははじめ、ヘブライ語聖書の配列を知らなければ「意味がわからない」個所が福音書に
ある(
>>533)と言っていたじゃないの。それを根拠に新共同訳の配列を批判してたんでしょ。
ヘブライ語聖書の配列を念頭に理解すれば「矛盾がない」(
>>567)というのとヘブライ語聖書の
配列を知らなければ「意味がわからない」というのとでは、全然違うよ。「矛盾がない」という
だけでは、新共同訳の配列を批判する理由とはならないからね。
>それは偶然にもイエスの言動に対し明らかな理解を我々に齎すのである。
それにヘブライ語聖書の配列を前提に読んでみたら、「偶然に」発見した理解っていう程度では
やはり新共同訳の配列に対する批判としては、全然説得力に欠けるね。
>BHSを基本に旧約を翻訳したと説明するのであれば、
>すくなくともBHSの配列に対しても忠実さを示すべきなのだ。
結局この程度の理由で批判していたんだね。
どこが「辛口の批判」(
>>533)なんだか。
569 :
名無しさん@1周年:02/07/15 21:17
>>561 まあ、カトの聖書だから。
好意的にみれば、予型論的注釈(執筆者自身には意識されていないことを、
読者は悟れ)がついていてお得であるともいえる。
>>548 「教会」は「西方教会」にしといてね。でないとLXXをそのまま使っている
コンスタンティノポリス他四総主教座の立場がないっす。
570 :
名無しさん@1周年:02/07/16 01:12
>>568 あなたの屁理屈はもう沢山だよ。あなたの批判が何の意味もないことは読む人は
すぐにわかる。
君の批判は、本筋の翻訳聖書に対するものに関しては学者の証明できない仮説や数
を持ち出して、話しをむやみに広げてややこしく感じさせ、いい気でいる。また、
こちらの意見に対しては、質問や問題点に関する回答を避けるばかりか、言葉尻を
捉えて反論や誹謗を試みるだけで、書き込みの主旨を汲み取ることすらしない。
571 :
名無しさん@1周年:02/07/16 01:15
570のほうがへりくつにみえるんだけど。
というか「書き込みの主旨うんぬん」って思い込みだけでいってて、
自説を支える論理を展開できなくなったときによく聞く台詞なんだよな。
572 :
名無しさん@1周年:02/07/16 01:40
ヘブライ語の配列を知れば、「意味がわかる」ことと、配列を念頭に理解
すれば「矛盾がない」こととは一続きの理解を示している。
「矛盾がない」は、仮にヘブライ語聖書の配列をそのままにした場合の人物
の関係性について。「意味がわかる」のは、イエスの言動が聖書全体を指し示し、
アベルからゼカルヤまでの預言者や殉教者などの人物すべての人のことを示して
いるということについて。
あなたの他の「理由にならない」とか「説得力に欠ける」他の批判は、事実を
直視してご自身の意見を述べるのことはせずに、揚げ足を取って誹謗中傷する
卑怯な態度にしか見えないのでここは無視する。 あしからず。
573 :
名無しさん@1周年:02/07/16 03:21
>565
秋吉訳
「在るったら在るんだっ。」
> ヘブライ語の配列を知れば、「意味がわかる」ことと、配列を念頭に理解
>すれば「矛盾がない」こととは一続きの理解を示している。
たしかに矛盾なく説明できるということは「意味がわかる」ことなんだけど、
矛盾なく説明できる解釈は必ずしもひとつではないんだよ。
そして他の解釈の余地が残っている限りは、ヘブライ語聖書の配列を知らなければ
意味がわからない、っていうことにはならないんじゃないの?、って言ってるんだけどさ。
>言葉尻を捉えて反論や誹謗を試みるだけで、書き込みの主旨を汲み取ることすらしない。
だからさあ、主旨を汲み取れと言われても、主旨が一貫していないように読めちまうんですよ。
こういうふうに解釈すれば矛盾なく説明できるよ、っていうだけなら、なにも言いませんよ。
しかしあなたの場合はそれ以上に、こう解釈しなきゃ駄目だ、と先に大威張りで言われたんで、
それは違うんじゃないですか?、ってツッコミを容れたわけ。
まあ、あなたの解釈が唯一正しい根拠を教えて下さいってしつっこく質したら、枝葉末節なこと
ばかり言う卑怯者と罵られてしまいましたが(^^ゞ
575 :
名無しさん@1周年:02/07/20 20:52
>>574 こちらが問題としている事実は、新共同訳がBHSを底本として標榜していながら、
書巻配列を踏襲していないばかりか旧来翻訳聖書の配列と比較して書巻配列について
一切言及せずにいることだ。そしてこれが問題点である理由としてこの事実を隠したり
無視していなければ、無用な解釈議論を避け、信仰者にとっても矛盾なくイエスの言葉
の意味を理解できる部分があることを例示したまでだ。
あなたは、聖書そのものの事実から導き出される矛盾のない解釈よりも、複数の学者が
頭をひねって提出した仮説を説明し、聖書解釈の問題に議論を移して、「可能性」という
言葉ではなしを煙に巻いているので、今後あなたにはレスしないかも知れない、あしからず。
また、自分の解釈が唯一正しいかどうかは問題の争点ではない。こっちはあなたの煽りに
乗る気はさらさらない。自分は、BHSを底本とするならBHSを忠実に翻訳するのがルールだ
と言いたいだけ。BHSにはそこに記載されている書巻配列が厳然として一つある。
それは事実なのだから正しいも可能性もあったもんじゃない。そこをあなたは勘違いしている。
576 :
名無しさん@1周年:02/07/20 20:53
>>574 BHSが底本であると称する限りはこの配列を唯一認め踏襲するのが本来の筋だ。
それ以外の配列を用いるならば理由を付して断りを入れた用い方をする必要がある。
翻訳者に意味がわからなかったり重要でないと思えるところが底本にあっても、
それを自分勝手に解釈したり省いたり弄ったりせず、忠実に底本を移植する作業に
従事専念すべきなのだ。そのルールは信仰が必要だとか、社会的な契約による
のではなく、仕事それ自体から要求されたものである。たとえば、物理学者が
好むと好まざるとに関わらず実験結果を認める、運転手がエンジンの性能に合わせて
運転する、英語の教師が生徒がいやがっていても正しい発音を教える、店員が品物を
即座に見つけ出す、そういった態度同様の良心的な態度は、仕事の社会的な役割を
果たすことそれ自体なのだ。そういう意味で、聖書翻訳者は恣意的な解釈を盛り込んで
聖書翻訳の社会的役割における責任をおろそかにするようなことがあってはならない。
聖書の信仰の書としての意味合いは翻訳者の解釈に頼ってはいない。聖書を
読む者が聖書の内容を吟味する可能性を翻訳の段階で意図して削がれてしまっている
ことは、聖書を用いる全てのキリスト者にとって由々しきことである。
自分はこれからも聖書の翻訳は底本に忠実であることを望みつづける。乱文失礼!
>>575 > こちらが問題としている事実は、新共同訳がBHSを底本として標榜していながら、
>書巻配列を踏襲していないばかりか旧来翻訳聖書の配列と比較して書巻配列について
>一切言及せずにいることだ。
新共同訳がBHKではなくBHSに忠実に従って訳されたといわれているのは、本文批評の点に
ついてだよ。「できる限り」マソラ本文に忠実に従って訳すように努力しましたよと。
ただ聖書の配列の問題は、本文批評だけでは埒があかない。聖書の配列をどうするかは
正典論の問題がからんでくるからね。
ヘブライ語聖書の配列が律法(トーラー)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケスビーム)という
かたちをとっているのは、正典化されたのがこの順序であったからというだけでなく、
価値の面でもこの順序に従っていると考えられているからだよ。つまり律法が一番価値があり、
これを中心に同心円的に次に預言者が続き、一番価値が低い諸書が同心円の一番外側に
置かれる。これがユダヤ教の正典論ね。
しかしあなたのようにユダヤ教の正典論に従って聖書の配列を決めるとなると、
新約聖書はヘブライ語聖書で一番価値が低いとされる諸書よりも外側に置かれることになって、
新約聖書が諸書よりもさらに価値が低いような錯覚を与えかねない。そこで
新約聖書を重視するキリスト教会では伝統的に、聖書の配列についてはカト・プロ問わず、
70人訳-ヴルガタ訳の配列に従ってんだよ。
それに新共同訳には旧約続編が加わってんだから、なおさら70人訳-ヴルガタ訳の配列に
従う意味があるんだよ。
それを福音書には旧約聖書の配列を知らなければ意味がわからない個所があるなんて
ウソこいて新共同訳批判をしたから、反論したまで。あしからず。
578 :
名無しさん@1周年:02/07/22 20:55
>>577 あなたは、論駁されて頭の線が切れちゃってない?
>新共同訳がBHKではなくBHSに忠実に従って訳されたといわれているのは、本文批評の点に
>ついてだよ。「できる限り」マソラ本文に忠実に従って訳すように努力しましたよと。
これは、あなたの勝手な解釈で、あなたが聖書周辺の知識に基づいて勝手に理解したこと。
聖書(新共同訳)に記載がある事実自体に前提をおけば「凡例」6.に以下のような記載をみる。
【6.本聖書の底本は次のとおり。
(1)旧約聖書「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」(ドイツ聖書協会)
(2)新約聖書「ギリシャ語新約聖書 (修正第3版)」(聖書協会世界連盟)
(3)旧約聖書続編「ギリシャ語旧約聖書」(ゲッティンゲン研究所)
*『エズラ記(ラテン語)』「ウルガタ版聖書」(ドイツ聖書協会) 】
これによれば、BHSは底本だ。(BHKの聖書としての位置付けをあなたは、ご存知?)
>しかしあなたのようにユダヤ教の正典論に従って聖書の配列を決めるとなると、
こんな人が一言も言っていないことについてあなたは反論してる。意味がない。
西暦がキリスト以前とキリスト誕生後とで明確に分かれているように、聖書分類は
大枠で旧約と新約が分かれるのは、当然。ユダヤ教が新約聖書の正統性を認めはじめ
たらあなたが言うように正典論の議論が巻き起こる可能性はあるが、そうしたことは
将来のことで今問題とされることではない。
>それを福音書には旧約聖書の配列を知らなければ意味がわからない個所があるなんて
>ウソこいて新共同訳批判をしたから、反論したまで。あしからず。
事実を踏まえずに仮説講釈をどこまでも展開するあなたの根拠のない「妄想」に
こっちは、付き合ってられないよ。現行新共同訳聖書自体に何がどう記載されてる
かハッキリと押さえて発言されたし。ウソこいて、客観的事実を無視してみたり、
事実を都合良く虚飾し、ご自分で作り上げた前提から的の外れた無意味な解説を
されたり・・・虚言妄想で終始一貫し、無意味な議論を誘発し続けているのはあなた
の方です。あしからず。
>あなたは、論駁されて頭の線が切れちゃってない?
ハイハイ、負けました。降参です\(^o^)/
しかしまじめに旧約聖書の配列のことを知りたいのなら、
きちんとした定評のある旧約聖書の正典史に関する研究書や論文を
読んでみたほうがいいよ。ライマンとかサンドバーグとかA.サンダースなんかね。
まあ、旧約聖書の基礎知識がないと理解できないだろうから、
先ずは旧約の基礎知識を勉強したほうがいいと思う。
邦訳で薄く且つ安価な、ヴォルフの「旧約聖書」なんかお薦めだよ。
BHSに手を出すのは、そのあとにしたほうがいいと思う。
今のキミには、ちと荷が勝ち過ぎているんじゃない?
>>あなたは、論駁されて頭の線が切れちゃってない?
>ハイハイ、負けました。降参です\(^o^)/
う〜む、「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」の精神か・・・・
とりあえず合掌・・・・・・・・南無阿弥陀仏・・・・・・・