【源泉の】平岡公威・三島由紀夫の詩【感情】

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1名無しさん@お腹いっぱい。
★小説家として有名な三島由紀夫ですが、幼少時、多くの詩を書いています。
本名、平岡公威
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
大正14年(1925年)1月14日、東京都四谷区(新宿区)永住町2に
父・平岡梓(元農林省水産局長)、母・倭文重の長男として誕生。

三島由紀夫関連過去スレ検索
http://makimo.to:8000/cgi-bin/search/search.cgi?q=%8EO%93%87%97R%8BI%95v&sf=2&all=on&view=table
2名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/28(水) 12:16:03 ID:7qTJeinT
「木枯らし」

木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体を
くねらして。
自分の大事な髪の毛を、
風に散らして。

まるで悪魔の手につかまれた、
娘のやうに。
木が。そしてどの木も
狂つてゐる。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩
3名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/28(水) 12:17:22 ID:7qTJeinT
「父親」

母の連れ子が、
インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり
机から落ちて、
硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、
真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。

母の連れ子の
脳裡に恐ろしい
父の顔が浮び出た。

書斎のむち、
今にも
つぎはぎだらけのシャツを
脱がされて、
むちが……
喰ひ附くやうに、

母の連れ子の、目の下に、
黒いじゆうたんが、
わづかな光りに、ぼやけてゐる

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩
4名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 10:36:12 ID:KDNd1lTw
「蛾」

窓のふちに、
蛾がとまつてゐて、
ぶるぶると体を震わせてゐた。
私は、可哀さうになつて、
蛾を捕へようとした。
窓は、堅く、閉ざされてゐたので、
私は、窓を開けて、
放してやらうと思つた。
私は蛾にさはつて見た。
蛾は勢ひよく飛び出した。
私は、気が抜けた。
さつきの蛾と、
そして、
今の蛾と……。

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩
5名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 10:37:11 ID:KDNd1lTw
「凩」

凩よ、
速く止まぬと、
可愛さうな木々が眠れない。
毎日々々お前に体をもまれて、
休む暇さへないのだ。
凩よ、
お前は冬の気違ひ、
私の家へばかり、は入つて来ないで、
いつその事、雪を呼んでおいで。

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の詩
6名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 10:37:56 ID:KDNd1lTw
「斜陽」

紅い円盆のやうな陽が、
緑の木と木の間に
落ちかけてゐる。

今にも隠れて了ひさうで、
まだ出てゐる。

然し、
私が一寸後ろを向いて居たら、
いつの間にか、
燃え切つてゐて、
煙草の吸殻のやうに、
ぽつんと、
赤い色が残ってゐるだけだつた。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩
7名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/30(金) 14:41:40 ID:r/HgqYtE
「独楽」(こま)
(音楽独楽なりき。白銀なせる金属にておほはれる)

それは悲しい音を立てゝ廻つた。
そして白銀のなめらかな体を
落着きもなく狂ひ廻つた。
よひどれの様に、右によろけ、
左にたふれ。

それは悲しい酔漢の心。
踊るを厭ふその身を、一筋の縄に托されて。
唄ふを否み乍らも、廻る歯車のために。

それは悲しい音を立てゝ廻つた。

「静寂の谷」から、
「狂躁の頂」に引き上げられ、
心のみ、尚も渓間にしづむ。

それは悲しい酔漢の心。
そして白銀のなめらかな体を、
落着きもなく狂ひ廻つた。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩
8名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/30(金) 14:43:05 ID:r/HgqYtE
「三十人の兵隊達」

三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。

三十人の兵隊達。
銀流しの拍車があらはす。
銀と白の光の交叉。

三十人の兵隊達。
硝子の目玉。
極細の毛糸は、
漆黒の頭髪。

けれども、
八つを迎へた女の子は、
この兵隊を捨て去つた。

そして、女の子は、
赤ん坊の人形に、
頬すりする。

芽生えた、母性愛の
興奮。

三十人の兵隊達。
母性愛の為に捨て去られた、
兵隊達。

三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の詩
9名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/30(金) 14:43:48 ID:r/HgqYtE
「絵」

孤児院の片隅で、
幼い子が、大きな絵を眺めてる。
そこには、飴ん棒のやうな木が、
列を作つて並んで居、
木には、パン、草には、ビスケットが、
今を盛りになつてゐる。
口を開けて、夢中になる孤子に、
あたゝかい日差しがあたつてゐる。
しかし、入つてきた院長は、さつさ
と子供を引張つて外に出て来た。
「あんな絵は、目に毒ぢやてな」

平岡公威(三島由紀夫)
13歳の詩
10名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:39:16 ID:7HU+KZuR
「誕生日の朝」

青と、白との光線の交錯のうちに、
身をよこたへつゝ、
その日のわたしは、生れたばかりの
雛鳥のやうだつた。

さて、細い一輪差まで
絶えいるやうな花の香に埋もれ、
太陽をとり巻く雲は、一片の花弁に見えた。

誕生日の贈り物がとゞいた。
美しい贈物の数々は、
石竹色の卓子の上に置かれた。

平岡公威(三島由紀夫)
14歳の詩
11名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:43:01 ID:7HU+KZuR
「見知らぬ部屋での自殺者」

骨董屋の太陽のせゐで
カーテンの花模様も枯れ
家具は色褪せ 空気は
黄色くただれてゐたので
その空気に濡れた古鏡に
わが顔は扁たく黄いろに揺れた
……やがて死は蠅のやうに飛び立つた
うるさくかそけく部屋のそこかしこから

平岡公威(三島由紀夫)
14歳の詩
12名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:43:58 ID:7HU+KZuR
「夜猫」

壁づたひに猫が歩む
影の匂ひをかぎながら

猫の背はなめらかゆゑ
光る夜を、辷らせる

ああ、蝋燭の蝋のしたたる音がする。
真鍮の燭台は
なやめる貧人のごとき詫びしい反射であつたから、
ふと、傾いた甃(いしだたみ)の一隅に
わたしは猫の毛をわたる風をきいた
影のなかに融けてゆく一つの、寂寞の姿をみた

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
13名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:44:50 ID:7HU+KZuR
「民謡」

夕ぐれの生垣から石蹴りの音がしてきた

微温湯をいれたコップの内側が、赤んぼの額のやうに汗ばんでゐた。
病気の子のオブラァトと粉薬が窗のあぢさゐの反射であをざめた
石竹色の植木鉢に、錆びた色ブリキの如露がよつかゝつてゐた

早い蚊帳がみえる離れで、小さな母は爪立つて電気を灯けた。
ねむつた子の横顔が 麻の海のなかに浮びあがつた

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
14名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:45:45 ID:7HU+KZuR
「夏の窗辺にくちずさめる」

雲の山脈の杳か上に
花火の残煙のやうなはかない雲が見えてゐた
サイダァのコップをすかしてみたら
やがて泡になつて融けて了つた

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
15名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:49:10 ID:7HU+KZuR
「幸福の胆汁」

きのふまで僕は幸福を追つてゐた
あやふくそれにとりすがり
僕は歓喜をにがしてゐた
今こそは幸福のうちにゐるのだと
心は僕にいひきかせる。
追はれないもの、追はないもの
幸福と僕とが停止する。
かなしい言葉をさゝやかうとし
しかも口はにぎやかな笑ひとなり
愁嘆も絵空事にすぎなくなり
疑ふことを知らなくなり
「他」をすべて贋と思ふやうに自分をする。
僕はあらゆる不幸を踏み
幸福さへのりこえる。
僕のうちに
幸福の胆汁が瀰漫して……

ああいつか心の突端に立つてゐることに涙する。

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
16名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:50:20 ID:7HU+KZuR
「アメリカニズム」 万愚節戯作

たるんだクッションのやうなスヰートピィ
もう十年代、流行おくれの色ですね
玉蜀黍の粕がくつついてる
赤きにすぎる口紅の唇。
ショォト・スカァトは空の色がみえすぎます。
歓楽は窓毎に明るく灯り、
スカイ・スクレェパァはお高くとまり、
鼻眼鏡で下界をお見下しとやら、
だが、ニッケルの縁ではね。
野蛮の裏に文化はあれど……
白ん坊の裡にも黒ン坊がゐる。
欧州向の船が出て、
髯なし共が御渡来だ、
カジノで札の束切つて
縄の御用もありますまい
レディ・メェドの洋服が船にのつておしよせる
あくどい洒落がおしよせる
自由とスマァトネスがおしよせる
「世界第一」がおしよせる
星のついた子供の旗をおし立てゝ。

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
17名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/02(月) 16:51:33 ID:7HU+KZuR
「薔薇のなかに」

薔薇のなかにゐます。
わたしはばらのなかにゐます。
しつとりしたまくれ勝ちの花びらの
こまかい生毛のあひだに滲みてくる
ひかりの水をきいてゐます。
薔薇は光るでせう、
園の真央で。
あなたはエェテルのやうな
風の匂ひをかぐでせう。
大樫のぬれがての樹影に。
牧場の入口に。
大山木の花が匂ふ煉瓦色の戸口に。
わたしは薔薇のなかにゐます。
ばらのなかにゐます。
小指を高くあげると
虹の夕雲がそれを染め……
ばらはゆつくり、わたしのまはりで閉ざすのです。

平岡公威(三島由紀夫)
15歳の詩
18名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/05(木) 00:00:53 ID:GDrlgICY
「私は学生帽です。」

私は平岡さんのお家の学生帽です。坊ちやんが一年生の時西郷洋服店から参りました。

私は喜ばしい事もあれば泣きたい事もあります。
いつも坊ちやんが学校へいらつしやる時に、おとなりのぐわいたうさんとが書生さんに昨日のごみを
取つてもらひます。私達はそれを毎日楽みにして居ります。
私はずい分古い帽子ですが、坊ちやんが大事にして下さるので、坊ちやんからはなれようとは思ひません。
私は何年と云ふ長い月日をかうやつて暮して来ました。
今迄の間にどんな事があつたでせう?私はそれを物語りたいのです。
(つい此間の事でした。坊ちやんがこはれた帽子を学校から持つていらつしやいました。
それは云ふ迄も無く私です。
坊ちやんは御母様に「之をぬつてね」とおつしやいました。
お母様は「ええ、え」とおつしやつて、ぬつて下さいました)
私は何と云ふ幸福な身でせう?

平岡公威(三島由紀夫)
7〜8歳の作文
19名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/05(木) 00:03:11 ID:GDrlgICY
「農園」

今週の月曜でした。
唱歌がをはつておべん当をいただかうと思つて、教室にはひつて来ました。
すると、おけうだんの上に大きなかごがあつて、その中にはたくさんそら豆がはひつてゐました。
僕はうれしくて、うれしくて、「早くくださればいいなあ」とまつてゐたら、おべんたうがすんだら、
皆のハンカチーフにたくさん入れて下さいました。
おうちへかへつて塩ゆでにしていただいたら、大変おいしうございました。
思へば、三年のニ学きでした。
おいしいみが、たくさんなるやうにとそらまめのたねを折つてまいたのでした。
果して、たねはめが出、はがでて、今ではおいしいみがたくさんなつて、僕たちがかうしていただくまでに
なつたのでした。

…又この間は五六年のうゑた、さつまいもの苗に水をかけました。
秋になつたらこのおいもも僕達の口の中へはひる事でせう。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文から
20名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/05(木) 00:04:33 ID:GDrlgICY
「ばけつの話」

僕はばけつである。
僕は大ていの日は坊ちやんやお嬢さんがきて遊ばして呉れるが、雨の日などは大へん苦しい。
ほら、この通り、大部分ははげてゐる。
又雪の日なんかは、ずいぶん気もちがいい。
あのはふはふしたのが僕のあたまへのつかると何ともいへない。
それから僕が植木鉢のそばへおかれた時、あの時位いやな事はなかつた。
となりの植木鉢がやれお前はいやな形だの、又水をくむ外には何ににも使へないだのと云つた。
あそこをどかされた時は、ほんとにホッとした。ではわたしの話はこれでをはりにする。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
21名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/06(金) 11:52:57 ID:w5OhsOSi
「夕ぐれ」

鴉が向うの方へとんで行く。
まるで火のやうなお日様が西の方にある丸いお山の下に沈んで行く。
――夕やけ、小やけ、ああした天気になあれ――
と歌をうたひながら、子供たちがお手々をつないで家へかへる。
おとうふ屋のラッパが――ピーポー。ピーポー ――とお山中にひびきわたる。
町役場のとなりの製紙工場のえんとつからかすかに煙がでてゐる。
これからお家へかへつて皆で、たのしくゆめのお国へいつてこよう。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
22名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/06(金) 11:54:31 ID:w5OhsOSi
「大内先生を想ふ」

ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。
その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。
ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。
それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。
むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。
僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
23名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/06(金) 11:55:45 ID:w5OhsOSi
「我が国旗」

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に
朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。
それは鹿児島の大大名、天下に聞えた島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、
是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。
之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の作文
24名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/07(土) 21:09:05 ID:QH474UDq
三島由紀夫が詩人になっていたら…と今でも悔やむね。
彼の才能は詩人のそれだろう。本人は否定していたけど。
仮に金閣寺が散文詩集として出版されていたなららばどれだけ輝かしい傑作になったことだろう。

因みに若かりし日の三島の詩は早熟は感じさせるがそれ以上ではない。
傑作を書き始めるのは二十代後半くらいから、散文作品の中で。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/08(日) 10:52:47 ID:zdpLtEyt
三島由紀夫が詩人だというのは正しいと思う。
仮面の告白も金閣寺もある意味、美しい一編の詩のようですね。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/10(火) 12:11:15 ID:gGXhNdI4
「分倍河原の話を聞いて」

私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。
視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、うつさうとした森があつて、
遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。
白く細く見えるのは鎌倉街道である。
遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。
元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて
其の代りに陣太鼓の音や骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。
《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。
其の時、足下の草の中から、小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。
益々空は青い。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
27名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/10(火) 12:13:23 ID:gGXhNdI4
「菊花」

渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、
自然と園芸家によつて造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、
自然の造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、
長い睫毛の下から無邪気な瞳を覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、
山の端に日が燃え切る頃、大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
〜〜〜〜〜〜〜〜
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も
恐れずに微笑む時である。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
28名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 10:33:08 ID:7+0U0Uoi
「支那に於ける我が軍隊」

七月八日――其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。
懐来より大同へと我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。
我国としても出来得る限りは、事件不拡大を旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、
第二の日清戦争、否!第二の世界大戦を想像させるが如き戦ひに遭遇した。
〜〜〜〜〜〜〜〜
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
29名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 10:33:50 ID:7+0U0Uoi
「支那に於ける我が軍隊」

飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、
苦戦に苦戦を重ねて居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。
たとへ東京に百二十度の炎暑が襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。
それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。
浦塩(ウラジホ)には、東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。
我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫!世界は既に動揺してゐるのだ!
〜〜〜〜〜〜〜〜
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
30名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 10:37:10 ID:7+0U0Uoi
「三笠・長門見学」

船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。
私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。
艦前に来て再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ!此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。
艦頭の国旗は、うすらな風にひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。
一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。
伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
31名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 10:38:35 ID:7+0U0Uoi
「三笠・長門見学」

私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。
手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。
とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。
艦の全体にペンキで戦痕が記されてある。
こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、天皇の御稜威のいたす所であらう。
艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
…其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。
先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、余りにその設備の新式なのに驚いた。
艦上には四十サンチの素晴らしい大砲がある。
…あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、日本の海は安全なのであらう。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
32名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/20(金) 10:50:02 ID:6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」

十月八日の宵、秋雨にまじる虫のねのあはれにきこえるのに耳をすましてゐると、階下で電話が鳴つてゐる。
家のものがあたふたと梯子段をあがつてくる気配、なにがしにこちらもせきこんで、どこから?と声をかけると
「東さんが……お亡くなりに」「えッ」私は浮かした腰を思はず前へのめらせて、後は夢中で階段を駆け下り
電話にしがみついた。その電話で何をうかがひ、何をお答へしたか、皆目おぼえてゐない。
よみ路の方となられては、急いても甲斐ないものを見境なく、仕度もそこそこに雨の戸外へ出た。
渋谷駅までの暗い夜道をあるいてゆく時、私の頭は痺れたやうに、また何ものかに憑かれたやうに、ひたすらに
足をはやめさせるばかりであつた。さて何処へ、何をしに――さうした問は、ただ一つのおそろしい塊のやうになつて、
有無をいはせず私の心をおさへつけた。あらゆる心のはたらきを痴呆のやうに失はせてゐた。

平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
33名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/20(金) 10:53:27 ID:6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」

(中略)
兄の御寿(みいのち)はみじかかつた。おのが与へられたる寿命を天職に対して、兄ほどに誠実であり潔癖であり
至純であつた人を寡聞にして私は知らない。私は兄から、文学といふもののもつ雄々しさを教へられたのである。
文学は兄にとつてあるひは最後のものではなかつたかもしれぬ。しかし文学をとほしてする生き方が、やがて
最高の生き方たり得るといふ信仰を、身を以て示された兄の如きに親炙することによつて、わがゆく道の
さきざきに常にかがやく導きの火をもちうる倖せが、こよなく切に思はれるこの大御代にあつて、唯一の
謝すべき人を失ふとは。……兄は病床にありながら、戦に処する心構においては、これまた五体の健全な人間の、
以て範とするに足るものであつた。幾度かわれわれの、あるときなお先走りな、あるときは遅きに失した足取りは、
却つて病床の兄の決してあやまたない足取りのまへに、恥かしい思ひをしたのである。
せめて勝利の日までの御寿をとまづ私はそれを惜しんだ。

平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
34名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/20(金) 10:59:54 ID:6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」

(中略)
文学は兄にとつて禊であり道場であつた。文学のなかでは一字一句の泣き言も愚痴も、いや病苦の片鱗だにも
示されなかつた。平生の御手紙には尚更のことであつた。
そこに私はニイチェ風な高い悲しみを思ひゑがいたのであつたが、兄、神となりましし日、私は、つねに完全なる
母君であられ、今世に二なき悲しみにつきおとされになつた御母堂から、けつして愚痴を言はれなかつた四年間の
まれまれに、余人にとつてもおそらく肺腑をゑぐるものがあつたであらうそこはかとない御呟きを伝へ伺つて、
ふともらされたその御呟き――かうして治るのもわからずに文学をやつてゐるのは辛いなあ(誤伝なれば謹んで
改めまゐらせん)――といふ一句を、なにかたとしへもない真実が岩間をもれる泉のやうにのぞいたすがたと覚え、
かつはかく守られねばならぬたをやかさが兄の奥処にあり、守られたればこそ久遠に至純であつたその真実を思つて、
文人の志の毅さとありがたさも今更に思ひ合はされ、御母堂の御心事に想到し奉つても、暗涙をのまずには
ゐられなかつたのである。

平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
35名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/20(金) 11:02:28 ID:6H2A/Ysq
「東健兄を哭す」

(中略)
初の御通夜、み榊、燭の火、虫のね、雨のおと、……私は言葉もなかつた。平家物語のあれらのふしぎなほど
美しい文章がしづかに胸に漣を立ててきた。……かくも深い悲しみのなかになほ文学のおもはれるのを、心の
ゆとりとしもいはばいへ。兄だけはあの親しげななつかしい御目つきを、やさしく私に投げて肯いて下さるであらう。
御なきがらを安置まゐらせし御部屋は、ゆかり深くも、足掛け四年前、はじめて兄におめにかかつた御部屋であつた。
そして今か今かとその解かれるのをこひねがつた永い面会謝絶のあとで、まちこがれてゐた再度の対面は、
おなじお部屋の、だが決しておなじになりえぬ神のおもかげに向かつてなされた。
私はなにかひどく自分が老いづいた心地がしてならなかつた。
徳川義恭兄、ありしままなるおん顔ばせを写しまゐらせ給ふ。感にたへざるものあり。
みそなはせ義恭大人が露の筆
道芝の露のゆくへと知らざりし
つねならぬ秋灯とはなかなかに

――昭和十八年十月九日深更――
平岡公威(三島由紀夫)
18歳の弔辞
36名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/01(火) 12:52:22 ID:Fv8/Q/wU
そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。
蜜蜂たちはそのまつ昼間のよるのなかをとんでゐた。
かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。
泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。

三島由紀夫
「苧菟と瑪耶」より
37名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/02(水) 14:37:17 ID:N7ebqJ3v
薔薇はリルケの美しい詩のなかで裏返されたいたましい喪失の存在に化した。
それは認識の手によつてではなく、運命を共有する一つの宇宙的な魂の手で、あばかれた羞恥と
苦痛なのである。苦痛の思ひ出は、微風のやうに繁みをゆるがした。
薔薇は詩人にその名を呼ばれたものの受苦の上に、詩人をも誘はうと試みた。

三島由紀夫
「薔薇」より
38名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/02(水) 19:43:42 ID:thHW3IuO
へたくそな散文詩だな。

39名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/03(木) 10:06:50 ID:k+FTm1vv
>>38
>>37は別に詩じゃないんだけど。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 16:36:56 ID:mZBPj2fj
偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、
近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。
彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。口のはじにはおしろいでもかくれない薄いヒゲがやはりあつた。
…彼女は前のやうな重つくるしい丁寧すぎる言葉遣いはなくなつてゐた。
(中略)
「さよなら…お大事に」……云ひちがへて「お元気で」
「ええ」彼女は背を向けた。
…その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
41名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 16:37:51 ID:mZBPj2fj
前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度も
よんでゐたのだつた。それは予感だ。
世の中にはまだふしぎがある。
そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
42名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 16:39:09 ID:mZBPj2fj
僕は婚約した彼女を一度誘い出して話したいという計画を抱いてゐた。
ところが突然別の僕がそれを気狂い沙汰だと叫び出す。向ふの家の父は吃驚して怒り出すだらう。
かりにも婚約した以上、ひとのものをと!
ところが「冷静な」僕がじつくりと別の僕をなだめてかゝる。一度位ゐそれも昼内一緒に出かけたつて
何の悪いことがあらう。まして昔は仲の好すぎた友達だつたのだもの。
向ふの家人も平気で彼女をだしてやるだらう。お前のやらうとしてゐることはひどく常識的なことにすぎないのだと。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
43名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 16:40:27 ID:mZBPj2fj
彼女はレインコートさへ脱ぎたがらなかつた。まるでそれが下着ででもあるかのやうに。
だから僕の彼女の抱心地はゴワゴワした感触しか残らない。
それのみか彼女は、唇を吸ふにまかせて自ら吸おうとしなかった。
また抱かれるにまかせて抱かうとしなかつた。彼女はお人形のやうに強ばつてゐた。
そして戦争中の人目のうるさゝから殆どお化粧をしてゐなかつた。
そしていさゝか子供つぽすぎる横顔をますます子供つぽく見せてゐた。
――ところが彼女との間を第三者が隔てゝから彼女は急に美しくなり出した。
僕は彼女を真夏の薄着で、いささか厚化粧で抱きえなかつたことを後悔した。
彼女は今宵は頗る美しくみえた。彼女の白いレエスに包まれた胸のあたりに花房のやうに揺れるものを
今日ほど烈しく僕は欲したことがなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
44名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 22:26:58 ID:p3nn4oAq
人々は又しても責めるだらう、僕の作品には時代の苛烈さがないと。
しかし評家はもう少し炯眼であるべきだ。全く平和な時代に仮託したこの物語で、僕はまざまざと戦争と乱世の
心理をゑがくことに芸術的な喜びを感じてゐる。
戦争時と戦後の心理のそのすべての比喩をよむ人はこゝによむ筈だ。芸術とはさういふものだからだ。
――昔ばく徒は外出するときは必ず新らしい褌をはいて出た。さういふ生き方は実に我々には親しいものに
なつてゐたのである。それは近代文学特有の不安と衰弱の心理とは別の、もつと張のある活々した心理だつた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
45名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 22:30:15 ID:p3nn4oAq
僕が心中物をデカダンスとしてでなく書かうとする気持にはこの根拠がある。
元禄期の近松西鶴の溌剌たる悲劇の精神(殊に前者の「堀河波鼓」後者の「好色一代女」の幻想)に僕は最も
大きな共鳴を感じて書いた。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
46名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 22:31:12 ID:p3nn4oAq
我々がある思ひ出から遁れようとすると、その思ひ出自身が我々をはなれて激しく生きようと試み出すのを見ることがある。
このやうな時我々の生きる意味はいやでも思ひ出のそれと一致して了ふ。そして我々の死の意味も。

僕の作品は、それを成立せしめた凡ての条件への仮借なき復讐である。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
47名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/10(木) 10:52:00 ID:DFQtHimQ
堀辰雄は僕にシンプルになれと云つた。
しかしシンプルにならうとしてそれに成功するなんて、さうおいそれと出来るものぢゃない。
第一氏が例に引いた立原道造も僕はあんまり尊敬してゐない、ましてや氏自身の素寒貧な小説――すぐ微熱が出たり、
切なくなつたりする小説を書きたいと思はない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
48名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/10(木) 10:53:48 ID:DFQtHimQ
作中の架空の事実と作者とどちらが不確定か?俗人は前者がさうだと考える。
そして目の前にある確実な「架空」はぼつぽり出して、血眼で不確かな、不必要な作者自身を作中から探り出さうとする。
この眼差が一部の批評家にも具つてゐることは驚異に値する事実だ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
49名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/10(木) 10:54:39 ID:DFQtHimQ
僕は詩人だ。一皮剥けば俗人だ。
もう一皮剥けば詩人だ。もう一皮剥けば俗人だ。
もう一皮剥けば詩人だ。ぼくはどこまで剥いても芯のない玉葱だ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートから
50名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/14(月) 00:27:34 ID:+GN6ZYuH
>>48
>作中の架空の事実と作者とどちらが不確定か?俗人は前者がさうだと考える
この辺の批評眼はさすがといわざるを得ないね。
書くという行為はまだかたちを持たない何かしらに言葉というすがたとかたちを与えて
その何かしらを具現化させる行為だからね。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/14(月) 00:42:11 ID:uF09ADfc
>>47
>堀辰雄は僕にシンプルになれと云つた。
>しかしシンプルにならうとしてそれに成功するなんて、さうおいそれと出来るものぢゃない。

シンプルになるってのは三島にとっちゃあ最後まで出来ない難問だった。
あんまり多くの理想と欲望と困難を欲した彼にとっては。

>>46
この発言はよく分からないな。
「思ひ出」というよりも解決を得ていない、まだ問題を内包したままの記憶ということだろうか。
それが離れようとする時に問題を改めて突きつけてくるということだろうか。
しかしそうだとして「死の意味」まで一致するとは?
提示された問題の大きさが個人の大きさを越えた歴史だったということだろうか?
あるいは肉体的条件も合わせた、地上に降りるときに与えられた条件全体、
地上で与えられた条件全体という感じがするな。
しかしそれを「復讐」と呼ぶとは。
生涯にわたり自身を肯定したことの一度も無い人間だったとは思うが。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/14(月) 10:03:50 ID:AqspF51b
>>51
この思い出は、邦子さんに失恋したことです。死ぬほど思い詰めていた頃の記述ですよ。

それを解決するために書いた「盗賊」「仮面の告白」の直前のノートですから。
53名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/14(月) 12:40:55 ID:uF09ADfc
>>52
なるほど、吹っ切れてない「思ひ出」が生々しくよみがえるというだけの話か。
そう読むとなんでもない記述だな。となると、
>そして我々の死の意味も。
なんていう記述は単なる趣味的なものか。
54名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/14(月) 13:30:31 ID:AqspF51b
>>53
三島は死ぬほど思い詰めて、生きるためにその二作を書いのだから、「趣味的」と軽々しく他人のあなたが言えるもんじゃないよ。

その時その時の人の想いや感情をバカにしすぎ。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/14(月) 19:30:14 ID:jMpJwcch
へたくそな散文詩だな。


詩じゃないなら板違いだし

56名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/15(火) 15:40:28 ID:BM6iD9UF
「冬の夜」

火鉢のそばで猫が眠つてゐる。
電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。
けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。
おぢいさまが、
「けふはどうも寒くてならんわ」
とおつしやつた。
冬至の空はすみのやうにくろい。
今は七時だといふのにこんなにくらい。
弟が、
「こんなに暗らくつちやつまんないや」
といつた。

平岡公威(三島由紀夫)
8歳の詩
57名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/17(木) 15:49:36 ID:Q8Xu8MWs
あげます。
58名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 15:52:14 ID:htAYzxyt
「朝の通学」

四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うちの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。

平岡公威(三島由紀夫)
8〜9歳の作文
59名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 16:23:32 ID:Qp/MTpT1
「朝の通学」

四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うちの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。

平岡公威(三島由紀夫)
8〜9歳の作文
60名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 16:26:57 ID:yGY619LT
三島由紀夫の噂 
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/uwasa/1195914213/
「詩人の血」? 寒い日の話    平岡あみ
61名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/20(水) 17:27:02 ID:NSwQja8L
「松の芽生」

これはまだ僕が大森へ泊りに行かないまへの話です。
或る日お庭へ出て箱庭をなんの気なしに見たら、小さなざつ草を見つけたので、かはいい草だと思つて、掘つて
おばあさまにお見せしたら、「あゝこれは松の芽生ですよ」とおつしやつたので、僕は拾ひ物でもしたやうに
有頂天になつて、急いで、又元のところへ植ゑました。そしてもつと有りはしないかと方々をさがしますと、
その箱庭のすみの方にと、それから小さい箱庭とにありました。それから毎日たんねんに水をやつたのです。
そのうちに僕は大森へ行つて今朝かへつて来ました。

平岡公威(三島由紀夫)
年月未詳(推定は9歳)の作文
62名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 10:47:42 ID:QTkC2tfC
63名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/24(日) 10:24:32 ID:FmTdfPiT
三島は自分で箱庭を作っていたんでしょうかね?
子供なのに、おつな渋い趣味だね。
64名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/01(月) 16:44:30 ID:3sH8TMSZ
「電信柱」

お家のお庭向きのへいの前に小さい道がある。
そしてそこに木でできた電信柱が立つてゐる。今日の噺はその電信柱の電線の噺である。
ある春の日、僕は縁側に座蒲団をしいて日向ぼつこをしてゐた。
その日は勉強もなかつたし、又遊ぶ事もなかつた。
それでなんの気もなくその電線をながめてゐた。するとそこへ、三羽の雀がさへづりながらとんできた。
三羽の雀はふとその電線の上へ停つた。そして鬼ごつこでもするやうに電線の上を飛び廻つたのだ。
その度に電線はゆらゆらとゆれた。そのとき電信柱は、
「雀さん、そんなに体の上を飛び廻つてはいたいですよ」
とでも云つたのだらう。三羽の雀は又話をしながらとんでいつた。

(続く)

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
65名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/01(月) 16:46:09 ID:3sH8TMSZ
「電信柱」

それから月日はたつて八月になつた。
八月といへば暑いさかりである。
僕はハンカチーフで汗をふきふきシロップを飲んでゐた。
その時、僕の頭に浮かんだのは、あの春の日のことであつた。
今度は帽子をかぶり庭にでてその電線をみてゐた。
するとそこにはいつの間に来たのか沢山の小鳥が電線の上にとまつてゐて、大きな声をはりあげて歌をうたつてゐた。
あげは蝶や黄色虫が小鳥のまはりをとんでゐる。
樅(もみ)の木や杉の木や松などが歌に合はせて踊るやうに葉をうごかしてゐた。
お向ひの物干の青竹が笑ふやうにして云つた。
「電線さんおにぎやかですね」

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
66名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/03(水) 15:25:08 ID:7kUfc1Nj
天才
67名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 14:40:21 ID:qn3I1r5N
古代の悲劇のいみじさは、現代の神経では涙といふもので味はふことは出来なくても、それ以上の、おそらく
ギリシャ人たちが味はつた感動以上の、ほとんど神を見たやうな宗教的感動を以て味はふことができるやうに
思はれます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年5月1日、
東文彦への書簡より
68名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 14:41:17 ID:qn3I1r5N
音楽部で例の「オルフォイス」のレコオド・コンサアトをやりましたのできゝました。
あのギリシャ的な晴朗さは日本の古代の晴朗さとまことによく似てゐると存じました。
新関良三教授から芸能の講義を演習の時間にうかゞつてゐます。能楽とギリシャ劇の比較など大へん面白いものです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年5月7日、
東文彦への書簡より
69名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 14:47:26 ID:qn3I1r5N
ニイチェの「ツァラトゥストラ」の中には日本のことをかいてゐるやうな気のするところもありますね。
そして超人の思想の根本なぞどうも私にはインド、又ひろく東洋全体の思想への接近より、ニイチェが自ら
意識するせぬに不拘(かかはらず)、日本への大きな意味があるやうに思はれてなりません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年2月15日、東文彦への書簡より
70名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 15:08:04 ID:qn3I1r5N
――「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。
真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、
日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、
そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。
我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる
姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年3月24日、東文彦への書簡より
71名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 15:13:07 ID:qn3I1r5N
いやなことゝ申せば今度も空襲がまゐりさうですね。かうして書いてをります夜も折からの警戒警報のメガホンの
声がかまびすしい。一体どうなりますことやら。しかしアメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものに
まけてたまるかと思ひます。
――ニイチェが反理想主義であること、流石に確かな御眼と感服いたします。
ニイチェの強さが私には永遠の憧れであつても遂に私には耐へ得ない重荷の気がします。おそらくけふは
一人一人の日本人が皆ニイチェにならねばならぬ時かもしれません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月4日、東文彦への書簡より
72名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 15:19:11 ID:qn3I1r5N
ニイチェについて、お陰さまでいろいろ新しいことを知りました。実はツァラトゥストラの登張竹風の跋文の外、
私にはニイチェに関する智識がございませんでした。ツァラトゥストラのあの超人の寂寥あれを私は平安朝の
女流たちにも感ずるのです。「古今の季節」といふエッセイのなかでその荒涼を語つたことがありますが、
ニイチェがあれら女人の深い寂寥にふれてゐたらどう思つたことでせう。
ニイチェの愛した東方ではなく、むしろニイチェ自身の苦しい影をみはしなかつたかとさへ思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
73名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/08(月) 15:48:52 ID:qn3I1r5N
ペルシャ人の、酒と逸楽の享楽主義は、おなじ享楽主義でも「トリマルキオーの饗宴」にみるやうな羅馬の
それとはちがひ、後者が機智と皮肉と退廃とのあらはれでしかないのに、前者には東洋的な深い瞑想がみられます。
前者は月夜のおもむき、後者はまひるのコロッセウムを思ひ出させます。
体骼なぞもずいぶんこの二民族の間にはへだゝりがあつたことでせう。
それにしても西洋人の享楽主義のえげつなさは、支那人はともかく、とても日本人の肌にはあひませんね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和16年7月10日、東文彦への書簡より
74名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 11:19:02 ID:QpYAg2m4
>>72の前述
――行詰り……実はこの文学上のデッド・エンドといふくせものに私は小説をかきはじめたときから始終頭を
ぶつけてゐたやうなわけで、その為に私の作品にはどこかに必らずデカダンスがひそむのですが、私は今度の
行詰りを自分では別に絶望的とも思つてをりません。いまの心境は、書けなくなつたらかけなくてもよい
(これはまあ一概にヤケッパチからでもないんですが)といふところ。しかし貴下のいはれる素朴さは実は
私のたつた一つの切ない宿願です。それを実現する手段として私は戦争や兵隊を考へてゐます。しかし果して
兵隊に行つて万葉的素朴さを得られるものか、この点は化学方程式のやうなわけにはいきますまいし、今のところ
永遠に疑問なのです。それにしても貴下の御忠告と御心やりは今の私には悲しいほど身にしみます。妙なたとへですが、
さんざん不埒なことをした不良少年が、物わかりのよい先輩にさとされるやうな気持とも申せませう。
文学といふ仕事、これは矢張、つらい死に身の仕事ですね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
75名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 11:22:32 ID:QpYAg2m4
>>72続き
「世々に残さん」をかく用意に「平家物語」を何遍も繰つてゐますが、川路柳虹氏も名文だとほめてゐられる
あの文章、又あのむしろ宇宙的な末尾の哀切さ、あれを一篇の小説としてみてみると、大原の大団円は、私には
ラディゲのドルヂェル伯の大団円などよりこのごろではずつと身近に感じられます。
無常といふ思想は印度から来たものでもそれを文学の極致にまで詩の極致にまで高めたのは日本人の営為ですね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
76名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 15:01:21 ID:QpYAg2m4
文学の上では日本は今こそ世界唯一であり、また当然世界第一でありませう。
ムッソリーニにはヒットラアより百倍も好意をもつてゐますので、一しほの哀感をおぼえました。ムッソリーニも亦、
ニイチェのやうに、愚人の海に傷ついた人でありませう。英雄の悲劇の典型ともいふべきものがみられるやうに
おもひました。かつて世界の悲劇であつたのはフランスでしたが、今度はイタリーになりました。
スカラ座もこはれたやうですね。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでありませう。
俗な精神が世界を蔽(おお)うた時、それは世界の滅亡です。
萩原氏が自ら日本人なるが故に日本人を、俗なる愚人どもを、体当りでにくみ、きらひ、さげすみ、蹴とばした
気持がわかります。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年8月20日、東文彦への書簡より
77名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 15:12:46 ID:QpYAg2m4
――国家儀礼と申せば、この間新(日)響へゆきましたら、たゞ戦歿勇士に祈念といへばよいものを、
ラウド・スピーカアが、やれ「聖戦完遂の前に一億一心の誓を示して」どうのこうのと御託宣をならべるので、
ヒヤリとしたところへ、「祈念」といふ号令、トタンにオーケストラが「海ゆかば」を演奏、――まるで
浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒涜も甚だしく、憤懣にたへませんでした。
国家儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、
本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく
是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より
78名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 15:32:37 ID:QpYAg2m4
今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねば
ならぬことが沢山あります。
去年の戦果に、国外国内もうこれで大丈夫と皆が思つてゐた時、学校へ講演に来られた保田與重郎氏は、
これからが大事、これからが一番危険な時期だと云はれましたが、今にしてしみじみそれがわかります。
文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソハソハ、
鼠のやうにうろついてゐる時ではありません。この際、貴方下の御決心をうかゞひ、大へんうれしうございました。
たゞ、かういふ言葉の意味もお弁へ下さい。鹿子木博士の言葉、「今日大切なことは、億兆一心といふ事であり
総親和といふ事ではない。陛下が詔書の中でお示しあそばされてゐる億兆一心とは、億兆一心とは、億兆の者が
一つの心、国体の精神によつて一つになる事也」(ラウド・スピーカアのお題目も亦、億兆一心といふことばを
形式化し、冒涜するものでせう)。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より
79名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 15:42:50 ID:QpYAg2m4
川端さんへは又いつかの機会に御一緒にまゐりませう。
あの眼だけでも見ていたゞきたいと思ひます。酷薄さと温情がいりまじつた鋭い眼、あそこに川端さんの文学の
象徴があります。川端さんといふと、芸だの感覚だの抒情だのといふ言葉しか知らない批評家に憤慨して、
川端康成ノートを作つてゐますが、二、三年たつたら書けると思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年7月25日、徳川義恭への書簡より
80名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 11:40:56 ID:9TNz+Mrp
>>67>>79

こういうのは、本を見て入力?
それとも、データ在って、コピペ?  どっちなんでしょ。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/14(日) 17:42:19 ID:V01bCFHv
入力です。今回新たに加えたところもありますが、ほとんどは以前、他スレ過去スレで入力したもののコピペですが。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 02:22:11 ID:KTXl8eIB
>>81

レスどうも。
UPした他スレを、幾つかリンクしてもらえませんか。(もちろん気が向いたらで構いません)
83名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 10:17:53 ID:ImCMHMhO
84名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 17:15:44 ID:KTXl8eIB
ありがと。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 13:15:46 ID:ik85U6XO
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
86名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 13:17:06 ID:ik85U6XO
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
87名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 13:17:56 ID:ik85U6XO
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
88名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 13:22:25 ID:ik85U6XO
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく。
かかる世に大君こそは唯御一人
人のつかさ、人の鑑(かがみ)にてましませり。
すでに敗戦の折軍将マッカーサーを、
その威丈高なる通常軍装の非礼をものともせず
訪れたまひしわが大君は、
よろづの責われにあり、われを罰せと
のたまひしなり。
この大御心(おほみこころ)、敵将を搏(う)ちその卑賤なる尊大を搏ち
洵(まこと)の高貴に触れし思ひは
さすがの傲岸をもまつろはせたり。
げに無力のきはみに於て人を高貴にて搏つ
その御けだかさはほめたたふべく、
わが大君は終始一貫、
暴力と威武とに屈したまはざりき。
和魂(にぎみたま)のきはみをおん身にそなへ
生物学の御研究にいそしまれ、
その御心は寛厚仁慈、
なべてを光被したまひしなり。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
89名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 13:24:13 ID:ik85U6XO
民の前にお姿をあらはしたまふときも
いささかのつくろひなく、
いささかの覇者のいやしき装飾もなく
すべて無私淡々の御心にて
あまねく人の心に触れ、
戦ひのをはりしのちに、
にせものの平和主義者ばつこせる折も
陛下は真の人の亀鑑、
静かなる御生活を愛され、
怒りも激情にもおん身を委(ゆだ)ねず、
静穏のうちに威大にましまし
御不自由のうちに自由にましまし
世の範となりぬべき真の美しき人間を、
世の小さき凹凸に拘泥なく
終始一貫示したまひき。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
90名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 13:26:42 ID:ik85U6XO
つねに陛下は自由と平和の友にましまし、
仁慈を垂れたまひ、諸人の愛敬を受けられ
もつとも下劣なる批判をも
春の雪の如くあはあはと融かしたまへり。
政治の中心ならず、経済の中心ならず、
文化の中心ならず、ただ人ごころの、
静止せる重心の如くおはし給へり。
かかる乱れし濁世(ぢよくせ)に陛下の
白菊の如き御人柄は、
まことに人間の鑑にして人間天皇の御名にそむきたまはず、
そこに真のうるはしき人間ありと感ぜらる。
されどこはすべて人の性(さが)の美なるもの、
人のきはみ、人の中の人、人の絶巓(ぜつてん)、
清き雪に包まれたる山頂なれど
なほ天には属したまはず。すべてこれ、
人の徳の最上なるものを身に具(そな)はせたまふ。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
91名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:41:36 ID:X1j9wX6u
かへりみれば陛下はかの
人間宣言をあそばせしとき、
はじめて人とならせたまひしに非ず。
悪しき世に生(あ)れましつつ、
陛下は人としておはしませり。
陛下の御徳は終始一貫、人の徳の頂きに立たせたまひしが、
なほ人としてこの悪しき世をすぐさせ給ひ、
人の中の人として振舞ひたまへり。
陛下の善き御意志、陛下の御仁慈は、
御治世においていつも疑ふべからず。
逆臣侫臣(ねいしん)囲りにつどひ、
陛下をお退(さが)らせ申せしともいふべからず。
大事の時、大事の場合に、
人として最良の決断を下したまひ、
信義を貫ぬき、暴を憎みたまひ
世にたぐひなき明天子としてましましたり。
これなくて、何故にかの戦ひは
かくも一瞬に平静に止まりしか。
されどあへて臣は奏す。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
92名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:43:01 ID:X1j9wX6u
陛下の大御代(おおみよ)はすでに二十年の平和、
明治以来かくも長き平和はあらず、
敗れてのちの栄えといへど、
近代日本にかほどの栄えはあらず。
されど陛下の大御代ほど
さはなる血が流されし御代もなかりしや。
その流血の記憶も癒え
民草の傷も癒えたる今、
臣今こそあへて奏すべき時と信ず。
かほどさはなる血の流されし
大御代もあらざりしと。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
93名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:44:49 ID:X1j9wX6u
そは大八洲(おほやしま)のみにあらず
北溟(ほくめい)の果て南海の果て、
流されし若者の血は海を紅(くれな)ゐに染め
山脈を染め、大河を染め、平野を染め、
水漬(みづ)く屍は海をおほひ
草生(くさむ)す屍は原をおほへり。
血ぬられし死のまぎはに御名を呼びたる者
その霊は未だあらはれず。
いまだその霊は彼方此方(かなたこなた)に
むなしく見捨てられて鬼哭(きこく)をあぐ。
神なりし御代は血潮に充ち
人とまします御代は平和に充つ。
されば人となりませしこそ善き世といへど
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
94名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:48:20 ID:X1j9wX6u
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
95名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:50:54 ID:X1j9wX6u
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず
自由と平和と人間性を重んぜられ、
その民草の血の叫びにこもる
神への呼びかけをききたまはず、
玉穂なすみづほの国の
荒れ果てし荒蕪(くわうぶ)の地より、
若き者、無名の者の肉身を貫きたりし
死の叫びをききたまはざりき。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
96名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:56:16 ID:X1j9wX6u
かのとき、正に広大な御領の全てより、
死の顔は若々しく猛々(たけだけ)しき兵士の顔にて、
たぎり、あふれ、対面しまゐらせんとはかりしなり。
直接の対面、神への直面、神の理解、神の直観を待ちてあるに、
陛下は人の世界に住みたまへり。
かのときこそ日本の歴史において、
深き魂の底より出づるもの、
冥人の内よりうかみ出で、
明るき神に直面し、神人の対話をはかりし也。
死は遍満し、欺瞞をうちやぶり、
純潔と熱血のみ、若さのみ、青春のみをとほして
陛下に対晤(たいご)せんと求めたるなり。
されど陛下は賢き老人どもに囲まれてゐたまひし。
日本の古き歴史の底より、すさのをの尊(みこと)は
理解せられず、聖域に生皮を投げ込めど、
荒魂(あらみたま)は、大地の精の血の叫びを代表せり。
このもつとも醇乎たる荒魂より
陛下が面をそむけたまひしは
祭りを怠りたまひしに非ずや。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
97名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 10:58:30 ID:X1j9wX6u
二度は特攻隊の攻撃ののち、
原爆の投下ののち終戦となり、
又も、人間宣言によりて、
陛下は赤子を見捨てたまへり。
若きいのちは人のために散らしたるに非ず。
神風(かみかぜ)とその名を誇り、
神国のため神のため死したるを、
又も顔知らぬ若きもの共を見捨てたまひ、
その若きおびただしき血潮を徒(あだ)にしたまへり。
今、陛下、人間(ひと)と仰せらるれば、
神のために死にしものの御霊(みたま)はいかに?
その霊は忽(たちま)ち名を糾明せられ、
祭らるべき社もなく
神の御名は貶(へん)せられ、
ただ人のために死せることになれり。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
98名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 11:00:11 ID:X1j9wX6u
人なりと仰せらるるとき、
神なりと思ひし者共の迷蒙はさむべけれど、
神と人とのダブル・イメーヂのために生き
死にたる者の魂はいかにならん。
このおびただしき霊たちのため
このさはなる若き血潮のため
陛下はいかなる強制ありとも、
人なりと仰せらるべからざりし也。
して、のち、陛下は神として
宮中賢所(かしこどころ)の奥深く、
日夜祭りにいつき、霊をいつき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りておはしませば、
いかほどか尊かりしならん、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
99名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 11:01:39 ID:X1j9wX6u
陛下は帽を振りて全国を遊行しし玉ひ、
これ今日の皇室の安寧のもととなり
身に寸鉄を帯びず思想の戦ひに勝ちたまひし、
陛下の御勇気はほめたたふべけれど、
もし祭服に玉体を包み夜昼おぼろげなる
皇祖皇宗御霊の前にぬかづき、
神のために死せる者らをいつきたまへば、
何ほどか尊かりしならん。
今再軍備の声高けれど、
人の軍、人の兵(つはもの)は用ふべからず。
神の軍、神の兵士こそやがて神なるに、
――などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
100名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/26(金) 23:46:35 ID:YZ41z8fB
古代の雪を愛でし
君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに
われ近代に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす

三島由紀夫
昭和21年11月、蓮田善明への追悼の文
101名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/06(土) 19:20:15 ID:pJ+TXyZi
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに
幾とせ耐へて 今日の初霜

散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて
散るこそ花と 吹く小夜嵐

三島由紀夫 辞世の句

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の
思ひを知るは 野分のみかは

森田必勝 辞世の句


火と燃ゆる 大和心を はるかなる
大みこころの 見そなはすまで

小賀正義


雲をらび しら雪さやぐ 富士の根の
歌の心ぞ もののふの道

小川正洋


獅子となり 虎となりても 国のため
ますらをぶりも 神のまにまに

古賀浩靖
102名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 22:48:35 ID:tHoOodgX
深き夜に暁告ぐるくたかけの若きを率てぞ越ゆる峯々 公威書

碑文
自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地、追悼碑
103名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:32:30 ID:VBd6vHFm
大島正満博士の「修学院の秋」といふ文章を読んだことがありますか。
塩原太助の馬を舞台に観てふきだしたアメリカ少年が、秋たけなはの修学院を周遊して、ふと拾つた一葉の紅葉に、
日本の秋――日本の荘厳な美の真髄を悟るといふ美しい記録文で、今に忘れられません。
アメリカ人が六代目の鏡獅子を本当に味解しようとする努力、――と云ふより大国民としての余裕を持つてゐたら
戦争は起らなかつた。文化への不遜な態度こそ、戦争の諸でありませう。
日本の高邁な文化を冒涜する国民は必ず神の怒りにふれるのです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月6日、三谷信への葉書より
104名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:32:57 ID:VBd6vHFm
けふで丸五日間、丸つきり空襲がありません。不気味な不安。
そのなかにも駘蕩たる春の日は窓辺まで押しよせて来てゐます。(中略)
大学から、「肺浸潤でも何でもかまはんから出て来い」といつ呼出しがあるかわかりません。さうなつたら
さうなつた時のことです。
僕はこれから「悲劇に耐へる」というより、「悲劇を支へる」精神を錬磨してゆかなければ、と思ひます。
古代ギリシャ人にその範を仰がずとも、身近な巣林子の元禄時代は、我々に文芸復興が何であるかを、赤裸々に
教へてくれます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年3月3日、三谷信への葉書より
105名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:33:31 ID:VBd6vHFm
佐藤春夫氏が近く疎開されるので、林さんと、大垣といふ陸軍曹長の詩人と、伊東静雄のお弟子の庄野といふ
海軍少尉と僕と四人でウィスキーを携へてお別れに行きました。
僕は短冊に佐藤氏の殉情詩集のなかにある詩「きぬぎぬ」の一節
「みかへりてつくしをみなのいひけるはあづまをとこのうすなさけかな」
といふのを書いていたゞき、嬉しうございました。僕は自分でその日の先生を、
「春衣やゝくつろげて師も酔ひませる」「澪ごとに載せゆく花のわかれ哉」
とうたひました。本当に美しい晩でした。佐藤春夫氏はたしかに第一流の文豪であると思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月7日、三谷信への葉書より
106名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:33:56 ID:VBd6vHFm
ルーズベルトが死にましたね、日本時間の十三日の金曜日に。新聞は良き敵将を失つて哀悼の意を表す、といふ
態度に出てゐて、結構だと思ひます。阿南大将が二年程前、アメリカの国旗をふみにじつて行進する日本軍を
写した劇映画をみて、「これでは国が危い。徳義の戦ひをやつてゐるのを忘れたのか」と嘆かれたさうですが、
この挿話をきいて、頗る阿南大将を尊敬しはじめました。軍人でかういふ立派な見識をもつてゐられることは
実にありがたいことです。
今は亡き帝大国家主義憲法学の泰斗上杉慎吉博士が大正十三年に著はした「日米衝突の必至と国民の覚悟」なる
警世の大文章をよみ、その史眼の卓越、見識の高邁に深く搏たれました。(中略)
――今日偶然地下鉄新橋駅で稲田さん(今海軍中尉です)にあひました。沖縄で、特攻隊と共に敵艦へ
肉迫したのださうです。「くはしく話して下さい」と云つたら「いやだ、ネタにされるから」とにげられました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月14日、三谷信への葉書より
107名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:34:23 ID:VBd6vHFm
君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、
僕が地固めをしておく心算です。僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――
すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、
カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは
一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、
今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。
日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、
神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月21日、三谷信への葉書より
108名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:38:04 ID:VBd6vHFm
御葉書拝見。何はあれ、このやうな大変に際会して、しかも君とそれについて手紙のやりとりの出来るやうな
事態を、誰が予想し得たでせう。想像するだに、時代の異常さに想ひ到らずにはゐられません。かゝる事態は、
その型式や態様の如何はしばらく措き、夙に想像し得たところでした。今は何も語りたくありません。
これから勉強もし、文学もコツコツ落着いてやつて行きたいと思ひます。自分一個のうちにだけでも、最大の
美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけに及ばず乍ら全力をつくして
貢献したいと思ひます。(中略)
すべては時代が、我々を我々の当面の責務に追ひやります。僕は少なくとも僕の廿代を、文化的再建の努力に
捧げたいと思つています。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月22日、三谷信への書簡より
109名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:38:27 ID:VBd6vHFm
君のゐる戦後の軽井沢が見せた変化よりも、ずつと激しい変化が東京の街にあります。
一寸用があつて尾張町へ出ましたら、その人通りの激しさは戦前と少しも変りません。と云つても日本人が
物を買へるやうな店はたゞ一軒もないのです。進駐軍人気といふか、たゞもう妙な人気で、カーキ色やモンペ姿の
貧弱な汚ない日本人が右往左往してゐるのです。(中略)
――東京が「世界の大東京」だとか、何とか云つて大見得を切つてゐた時はいつしか、それが汚いアバタの
地図になつて了つたのと同様、乙にすまして馴れない絹靴下にハイヒールを穿いたり、頭をテカテカ光らせて
レディ・メードの背広で夜毎に押し出した連中の化けの皮が見事にはげ、女は自堕落なうす汚いモンペ姿、
男は工員がへりらしいカーキ色の菜葉服姿で、彼等の痴鈍、醜悪、無智の本性を惜しげもなく、いやむしろ
快よげに、発揮してゐるのです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
110名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:38:51 ID:VBd6vHFm
進駐軍からの煙草漁りに眉をひそめて「日本人も堕落した」と慨嘆する人がありますが、これは些か見当外れな嘆息で、
現在の彼等の醜状は、彼等に何ものをもプラスせぬと共に、何ものをも彼等からマイナスしません。日本人は
何といふ下劣な卑賤な、しかし愛すべき国民でせうね!
僕は総じてこの妖精のやうな刻々変様する東京に甚だ愛着を感じてゐます。これは僕がたゞ東京で生れたから
といふだけではありますまい。祖母の先祖は旗本で江戸に永くをりましたから、亡くなつた祖母からきいた、
江戸―東京、明治―大正の東京の移りかはり、(おそらく祖母が生きてゐた頃は、東京はこれで一応完成して少くとも
二、三十年は目に立つ変化もないと思はれたのでしたが)それに加へて、僕がこの短い二十年に経験して来た
東京の変転、それが定めなく、うつろひやすいものであると思へば思ふほど、僕は東京を愛するやうになります。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
111名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 23:39:29 ID:VBd6vHFm
東京を愛する人は、あるひは知つてか知らずか、その流転の美しさを愛するのではないでせうか。
歴史と時には不変と変様の二態があり、不変は変様によつてその刻々の意味を与へられ、変様は不変に基礎づけられて
はじめて変様たり得ます。日本で云へば、東京と田園、それが変様と不変でせう。
僕のやうな「せつかち」は、山野の不変を歌ふ余裕と胸懐に乏しく、ここにゐて終始変様に向ひ、それに耐へ、
この変様を、歌ひ疲れるほど歌つてゐる外はありません。我々の目は変様のかゞやきをとらへた。流れる目こそ
流されない目であり、変様に遊ぶ目こそ不変の目です。僕はこのやうに自負して自ら慰めてゐます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
112名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 16:59:56 ID:gzH3sIXY
たゞいま午後七時半、マダガスカルとシドニイへの特殊潜航艇の攻撃のニュースをきゝをはりこのお葉書を書いて
をります。なんだか胸になにか閊(つか)へたやうで迚(とて)も並大抵のことばでお話できさうにもございません。
御稜威(みいつ)のありがたさに涙があふれおちるばかりでございます。同時に晴朗な気分は抑へがたく、
南方のまつ青な穹(そら)いつぱいに八百万神の咲(わら)ひ声をきくおもひがいたします。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年6月5日、清水文雄への葉書より
113名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:01:29 ID:gzH3sIXY
この間の三里塚の行軍では「月かたぶきぬ」の情景を季節こそちがへ、目のあたりはじめて味はひました。正しく
土佐絵にゑがかれた大胆な霞のあちらに松林の、つらなる松かげはそのかなたから虹のやうな曙を、靉靆(あいたい)と
たなびかしてまゐる向ひの空には、月がしづかな煌めきをみせていまにもひらひらとおちてきさうでございました。
日本画はなにひとつ嘘はつかなかつたのでございます。そのゑがかれる絵具にひとつとして日本の土におひいでぬものが
ないやうに日本の風光を画絹にとゞめようといふ切ない意欲がかうまでたしかさをもつてゐるとは、私はいままで
心附きませんでした。写実を旨とする油絵も、いくら写実の枠をつくしたところで掴めないこの風土の秘密に狐に
つままれたやうな思ひがいたすでせう。この三日の式のあと、明治神宮に詣でてやはりそれを感じました。
畏(かしこ)くも御神殿のおんありさまは申すまでもなく、なんでもない風景、紅白の幕が万緑の松のあひだに
張りめぐらされた景色でさへ、そのあでやかさは桃山時代の屏風のやうでございましたが、そのなかゝら歌謡曲が
ちらときこえてきたのにはおそれいりました。浪花ぶしでないからよいやうなものゝ。

平岡公房(三島由紀夫)
昭和17年11月5日、清水文雄への書簡より
114名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:01:59 ID:gzH3sIXY
この間徳川さんと志賀直哉氏の御宅にうかゞひ、意外なサッパリしたよい方で、御作の印象と比べふしぎの
感さへいたしました。
志賀氏はなにしろ大物にて、我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、
こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました。
今の世の隠者の一模範とさへ思はれますが、仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、
半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました。

平岡公房(三島由紀夫)
昭和18年7月29日、清水文雄への書簡より
115名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:05:03 ID:gzH3sIXY
東京へ出ました序でに学習院へ立寄り、はじめて焼跡を見てたゞならぬ感慨がごさいました。萌え立つ緑のなかに
赤煉瓦の礎石のみ鮮やかに残つて、近眼の目には、遠くの緑の光にまばゆく立ち働らいてゐる人々が懐しい
後輩たちかと映り、近寄つてみると、それが見知らぬ兵隊たちであつた寂しさ。(中略)
中等科の校舎の中には、見知らぬ人々が往来し、事務室もザワザワして、昔のやうに温かく私を迎へては
くれぬやうに思はれました。「ふるさとは蠅まで人を刺しにけり」それほどでもありませんが、無暗に腹が立つて、
何ものへともしれず憤りを抱きながら門を出ました。
ふしぎな私の冷酷。昔、共に学んだ友人たちには、具体的に逢つてどうといふ感激もないのに、たゞ会はずにゐると
漠たる悲しみと孤独の感じに苛まれるのを如何ともなす術がございません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
116名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:05:33 ID:gzH3sIXY
そしてそれは却つてなまじひに顔見知りでない後輩たちを、電車のなかに見出す場合、懐しさに胸がドキドキして、
用もないのに話しかけたくなり、しかも我ながら馬鹿らしい含羞で、話しかけることもできずにじつと見つめて
ゐるやうな時、私のなかに私の少年時代が俄かに蘇るやうな気がします。こんな初々しい清らかな興奮をどんなに
長い間忘れてゐたことでせう。新宿駅で私は汚ない作業服とキャハンを穿いた後輩を発見しました。彼は私が
彼の先輩であることもしらず、私を不思議さうに見てゐましたが、その目は学習院の学生によくある澄んだ、
のんびりした目付で、口は少しポカンと開いてゐました。私は所用で大塚まで行くので、車内で、目白駅に下りた
その小後輩を見送つたわけですが、彼は、そこで我勝ちに下りた乗客たちとは似てもつかない、実にオットリした、
少したよりない、少し眠さうな歩き方で、階段の方へゆつくり歩いて行きました。何故かそれを見ると、私は
ふと涙がこぼれさうになりました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
117名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:05:59 ID:gzH3sIXY
ああした人種、ああした歩き方、あれがいつまでこの世に存続して行けるであらうか。私たちもその一員であつた、
閑雅なあまり頭のよくない、努力を知らない、明るい、呑気な、どこともしれず、生活からにじみ出た気品の
そなはつた学習院の学生たち、あの制服、あの挙止、そしてあの歩き方、そのすべてが象徴してゐたある美しいもの、
それ自身頽落を予感されてゐたもの(私の十数年の学習院生活はその予感のなかにのみ過ごされました。)が、
今や鶯色の汚れた作業服を刑罰のやうに着せられ、靴は埃にまみれ、トボトボと不安気に歩いてゆくのを見て、
私が目頭を熱くしたのも道理でございます。帰途学習院へ寄つてみて、あの焼跡を見、後輩たちをみて、
相似た感慨に搏たれました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
118名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:06:20 ID:gzH3sIXY
(中略)かうした終末感を私は、徒らな感傷や、信念の不足からして感ずるのではございません。ある漠たる直感、
夢想そのもののなかに胚胎する覚醒の危険、凡て夢見るが故に覚めねばならない運命を感ずるのでございます。
現実に立脚した精神がわれわれの夢想の精神より更に弱体なものとみえる今日、われわれの夢想も亦凋落の決心を
必要とします。昼を咲きつづける昼顔の仄かな花弁は、昼の烈しい光のために日々に荒され傷つけられます。
何ものも神の夢想に耐へるほど強靭であることは出来ません。
しかし人の夢想の極限に耐へえた人は、その烈しさ極まる目覚めの失墜にも耐へうるであらうと思ひます。
ただ朝をのみ時めいた朝顔とはちがって、あの長い烈しい昼間をよく耐へた昼顔の夢想は、その後に来る長い
夜の烈しさにも耐へるでありませう。私共は今日ほど私共の生の強さと死の強さを感じることはございません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
119名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:06:45 ID:gzH3sIXY
私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが
喪失の意味にせよ)、ある強烈な意味を与へつづけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。
その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去つてかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、
海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。
私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性を
もつものであると思はれます。
項日(けいじつ)、生じつかな名声は邪魔であるが、真の名声はますます必要であることを感じて来ました。
文学作品を本文とするなら、名声はその註釈、脚註に相当します。本文が死語に化した場合、この難解な
ロゼッタ・ストーンを解読しうるものは、たえず更新される註釈のみでございませう。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
120名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:09:38 ID:gzH3sIXY
あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくれしままにかくの如き事態となりました。
玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。
気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。ただ黙して行ずるのみ。
今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。

たわやめぶりを みがきにみがかむ

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月16日、清水文雄への葉書より
121名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:09:59 ID:gzH3sIXY
大神々社への参籠は八月下旬と決め、その後、広島へ一寸伺ひ、そのあと、汽車で、(飛行機はイヤなので)、
熊本八代へゆき、神風連のことをしらべたい、などと、夏のをはりの旅をいろいろと計画してをります。いづれ、
間近になつて旅程がはつきりいたしましたら、御連絡申上げます。
「英霊の声」は文壇では冷たいあしらひで、かれらの右顧左眄(うこさべん)ぶりがよく見えます。
天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。
それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます。

三島由紀夫
昭和41年6月10日、清水文雄への書簡より
122名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:10:27 ID:gzH3sIXY
「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。
小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、
かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、
一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、
一ト並べされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、
と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら
二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。

三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
123名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:10:48 ID:gzH3sIXY
戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく
身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、
彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり
周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。
彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに
訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、
角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。

三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
124名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 17:11:08 ID:gzH3sIXY
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、
文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。
この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、
犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人が
ゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す
『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。

三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
125名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/15(月) 17:11:01 ID:WhCvIeiG
   遺言       平岡公威(私の本名)

一、御父上様
  御母上様
  恩師清水先生ハジメ
  學習院並ニ東京帝國大學
  在學中薫陶ヲ受ケタル
  諸先生方ノ
  御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
  友情マタ忘ジ難キモノ有リ
  諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
  御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
  殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
  皇軍ノ貔貅(ヒキユウ)トナリ
  皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下萬歳


三島由紀夫
「私の遺書」より
126名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 23:45:14 ID:9XGBHIYR
学習院高等科(旧制高校)は文科乙類(ドイツ語)で、卒業の時は文科の首席だつた。(中略)
首席の賞品として、精工舎製銀メッキ懐中時計を宮内省から頂いた。裏に「御賜」と彫つてある。
又来賓のドイツ大使から乙類の僕に原書の小説を三冊、ナチのハーケン・クロイツが入つてるのをもらつた。
この後で宮中に御礼言上に、当時の院長山梨勝之進海軍大将と共に参内した。霞町の華族会館で謝恩会があり、
これで学習院の卒業行事が終つた。

三島由紀夫
「学習院の卒業式」より
127名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/23(火) 14:22:35 ID:tpb6+WRv
板違いにつき誘導します。

ガチホモ
http://schiphol.2ch.net/aniki/
128名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 20:17:11 ID:8Tgba502
>>126
徴兵は何だかんだでお逃れあそばしましたのですよね?
129名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 22:05:23 ID:txbPg+An
僕は今この時代に大見得切つて、「共産党に兜を脱がせるだけのものを持て」などゝ無理な注文は出しません。
時勢の流れの一面は明らかに彼らに利があり、彼等はそのドグマを改める由もないからです。しかし我々の任務は
共産党を「怖がらせる」に足るものを持つことです。彼等に地団太ふませ、口角泡を飛ばさせ、
「反動的だ!貴族的だ!」と怒号させ、しかもその興奮によつて彼等自らの低さを露呈させることです。
正面切つて彼等の敵たる強さと矜持を持つことです。ひるまないことです。逃げないことです。怖れないことです。
そして彼等に心底から「怖い」と思はせることです。
(中略)貴族主義といふ言葉から説明してかゝらねばなりません。
学習院の人々に貴族主義を云ふとすこぶる誤解されやすく、それはともすれば今までの学習院をそのまゝそつくり
是認する独善主義の別語とされる惧れなしとしません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
130名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 22:05:43 ID:txbPg+An
(中略)
明治以来、「華族」とは政治的特権を背景にもつた政治的な名称であり、文化的意義は頗る稀薄にしかもつて
をりません。新華族が簇生(そうせい)した所以です。――貴族主義とはプロレタリア文化に対抗すると同じ
強さを以てブルジョア文化(アメリカニズム)に対抗するといふことを知つていたゞきたい。この意味で
政治的意味の貴族主義は無意味です。なぜなら世界史の趨勢はアリストクラシイの再来を絶対に希みえず、
現今までわづかに残された政治的特権も過去の特権の余映にすぎぬといふ理由が第一、もう一つは、ブルジョア文化が
今では貴族社会一般を風靡し、単に華族を集めてみても貴族主義は達成されぬといふ理由が第二です。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
131名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 22:06:04 ID:txbPg+An
――それでは文化的貴族主義とは何でせうか。それは歴史的意味と精神的意味と二つをもつてゐます。
…後者はあらゆる時代に超然とし、凡俗の政治に関らず、醇乎たる美を守るといふエリートの意識です。
(これは芸術からいふので、倫理的には道徳を守るエリートたりともある人はいふでせう)
…しかもその効果は美的標準に於て最高のものであらねばならぬ点で明らかに貴族主義的です。向上の意識、
「上部構造」の意識、フリードリヒ・ニイチェが貴族主義とよばれる所以です。
第二に、唯美主義は本質的に反時代性をもつといふ点で貴族的です。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日付、神崎陽への書簡より
132名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 22:06:23 ID:txbPg+An
われらの外部を規制する凡ゆる社会的政治的経済的条件がたとへ最高最善理想的なものに達したとしても、
絶対的なる「美」からみればあくまでも相対的なものであり、相対的なものが絶対的なものを規制しようとする時、
それは必ず悪い効果を生じます。いかによき政治が美を擁護するにしろ、必ずその政治の中の他の因子が美を
傷つけることは、当然のことで仕方ないことです。したがってあらゆる時代に於て美を守る意識は反時代性をもち、
極派からはいつでも反動的と思はれます。すなはち、彼らのいはゆる反動的なるがゆゑに貴族主義的です。
――「中庸」といふ志那クラシックのいかにも睡つたやうなこの言葉がやうやう僕には激しい激越な意味を以て
思ひかへされて来ました。中庸を守るとは洞ヶ峠のことではありません。いはゆる微温的態度のことではありません。
元気のない聖人気取ではありません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
133名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 22:06:50 ID:txbPg+An
「中庸」の思想こそ真に青年の血を湧かせる思想なのです。それは荊棘の道です。苦難と迫害の道です。
漢籍に長ずるときく山梨院長が、戦時中の輔仁会で翻訳劇を上演しようとした僕の意図を抹殺し、戦争終るや
「モンテ・カルロの乾盃」を手もなく容認するやうな態度を、人々はいはゆる「中庸」の道だと思つてゐます。
これは思はざるの甚だしきものです。これこそいはゆる論語よみの論語知らずです。
右顧左顧して世間の機嫌をうかゞひもつとも「穏当な」道を選ぶといふ思想こそ、孔子が中庸といふ言葉で
あらはしたものと全く反対の思想です。
中庸といふこと、守るといふこと、これこそ真の長い苦しい勇気の要る道です。
このやうな時代に、美を守ることの勇気、過去の日本精神の枠、東洋文化の本質を保守するに要する勇気、
これこそ真の男らしい勇気といはねばなりません。
学習院は反動的といふ攻撃の矢面に立ち、真の美、真の文化を叫びつゞけねばなりません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
134名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 22:08:17 ID:txbPg+An
(中略)
君は大東亜戦争を何と考へてゐられますか。
僕らはあの戦争の中で育ち、その意味であの戦争を僕らは生涯(いや子孫代々)否定することはできません。
あの戦争が間違ひだつたのどうのといふことでなしに、人間の成長と形成の「過程」として否定したくもできない
一個の内面的事実なのです。我々が以て恥とすべきは戦争に協力したとか、戦争目的に盲目であつたとか、
為政者にだまされたといふことよりも、あの戦争から「我々が何も得て来なかつた」といふことではないでせうか。
何らわれらにプラスするものを得てこなかつたといふ痛切な恥ではないでせうか。この点は僕も省みて面を
赤くせぬわけにはゆきません。
しかし今日の輔仁会、といふよりはその背後にある昨今の学習院学生の気風にこれに対する反省がみられるでせうか。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
135名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 15:15:52 ID:jQfUkJTa
非小説家の文壇への御戦に、私はいつも胸のすくものを感じてをります。そしてこれほど健康な「自明の理」が
今更力説されねばならぬ日本文壇の頽廃を併せ考へます。貴下の御説がユニークなものであるといふ一事ほど、
日本文学の悲しむべき現状を象徴してゐるものがございませうか。大前提が欠けて小前提ばかり発達してゐる
哀れな国状です。大前提を言ひ出す人は白眼で見られるのです。小前提ばかりバカの一つおぼえでくりかへして
ゐれば身の安全が保てるのです。(中略)
実に美を罵倒し、日本の伝統をののしり、舌を犬のやうにふるはせる芸当を心得、「歯ぎしり」といふ奴を
ハミングの代りに用ひ、それはそれは賑やかで、しかもしんみりした、何が何だかわからない、西洋料理と
中華料理をまぜこぜにしたやうな西欧人文主義的・レアリズム的・サルトル的・ドストエフスキー的・万能薬
ヒューマニズム宣伝的、あやしげなものであります。

三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
136名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 15:17:01 ID:jQfUkJTa
(中略)今日「群像」十一月号が届き、高見、中島、豊島氏が僕を寄つてたかつてやつつけてゐる大人げない
継子いぢめの光景を見(この速記はもつと猛烈だつたさうですが)、鬱勃たる闘志を湧かせました。(中略)
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――小説のなかで存分に
演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に
僕は耐へられません。僕にはわづかながら遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。
僕の文学は、腹を狼に喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その
少年の莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は生命を賭けます。
僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。

三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
137名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 15:18:12 ID:jQfUkJTa
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければならなかつた喜劇俳優が、
その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。(文学を芝居にたとへるなんて、旧文壇の人に
とつてはおそらく冒涜的な言動でせうが、文学といふものに対する自堕落な信念はそろそろ清算してよい時では
ないでせうか。僕は最後のところ、いつもギリシャ悲劇を考へます。作者が一言の思想の表白もさし控へた
純粋な技術と形式の精神がそこにあります。ギリシャ的単純さが最後の目標です。勿論これは志賀直哉氏の
単純さとは全く別個のものです)。
話をあとに戻りまして、ではその時、その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。
逃避でせうか。自嘲でせうか。僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。
彼は悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねばならなかつたのです。

三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
138名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 15:19:03 ID:jQfUkJTa
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。「戯作」と云つても同じこと
でございませう。もちろん僕としてもヒューマン・ドキュメントを書きうるゲエテ的作家の幸福を考へます。
しかしメリメのやうな「自己を語らない作家」の最も不幸な幸福をも考へます。作品の世界に凡(あら)ゆる
「日曜日」を託けて、永遠にウィークデイの累積をしか持たなかつた作家のおそるべき幸福を考へます。それを
高見順氏などは、ウヰークデイの匂ひのしない文学はディレッタンティズムだと仰言るのです。
日曜日は僕にとつて逃避の場所ではありません。そこにこそ僕は生涯を賭け、ギリギリ決着の「生活」を賭けて
ゐるのです。それこそ僕の唯一無二の喜劇の舞台なのです。僕はそこを掃除し、つやぶきんをかけ、花を飾り、
恋人を迎へ、おしやべりをし、……といふ比喩は甚だ皮相的ですが、その日曜日に、僕は自分の悪と不徳と
非情と侮蔑と残忍と犯罪とのあらゆる装ひを期待するのです。

三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
139名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 15:20:00 ID:jQfUkJTa
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
僕はかうして、僕の生にとつて必然的であつた作品からそのあらゆる窮屈な必然性をぬがせてやつて、
くつろがせてやるのです。僕は作家の歯ギシリなどといふものを書斎の外へ洩らすことを好みません。僕の
作品はそれでも尚、僕の本質的な生活だと思はれるのですが……
尤もこんなことは口で言つてもはじまらないことでございます。作品で証明する他はありません。
しかし僕は決してひるみません。負けません。書き続けて、御期待にそむかぬ人間になることをお誓ひします。

三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
140名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/08(木) 12:46:50 ID:t9V+HuP+
私はそもそも天に属するのか?
さうでなければ何故天は
かくも絶えざる青の注視を私へ投げ
私をいざなひ心もそらに
もつと高くもつと高く
人間的なものよりもはるか高みへ
たえず私をおびき寄せる?
均衡は厳密に考究され
飛翔は合理的に計算され
何一つ狂ほしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似てゐるのか?
私を満ち足らはせるものは何一つなく
地上のいかなる新も忽ち倦(あ)かれ
より高くより高くより不安定に
より太陽の光輝に近くおびき寄せられ
何故その理性の光源は私を灼き
何故その理性の光源は私を滅ぼす?

三島由紀夫「イカロス」より
141名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/08(木) 12:50:19 ID:t9V+HuP+
眼下はるか村落や川の迂回は
近くにあるよりもずつと耐へやすく
かくも遠くからならば
人間的なものを愛することもできようと
何故それは弁疏(べんそ)し是認し誘惑したのか?
その愛が目的であつた筈もないのに?
もしさうならば私が
そもそも天に属する筈もない道理なのに?
鳥の自由はかつてねがはず
自然の安逸はかつて思はず
ただ上昇と接近への
不可解な胸苦しさにのみ駆られて来て
空の青のなかに身をひたすのが
有機的な喜びにかくも反し
優越のたのしみからもかくも遠いのに
もつと高くもつと高く
翼の蝋の眩暈と灼熱におもねつたのか?

三島由紀夫「イカロス」より
142名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/08(木) 12:54:24 ID:t9V+HuP+
されば そもそも私は地に属するのか?
さうでなければ何故地は
かくも急速に私の下降を促し
思考も感情もその暇を与へられず
何故かくもあの柔らかなものうい地は
鉄板の一打で私に応へたのか?
私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ
柔らかな大地は鉄と化したのか?
堕落は飛翔よりもはるかに自然で
あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと
自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり
すべてははじめから翼の蝋の
つかのまの灼熱の陶酔のために
私の属する地が仕組み
かつは天がひそかにその企図を助け
私に懲罰を下したのか?
私が私といふものを信ぜず
あるひは私が私といふものを信じすぎ
自分が何に属するかを性急に知りたがり
あるひはすべてを知つたと傲(おご)り
未知へ
あるひは既知へ
いづれも一点の青い表象へ
私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?

三島由紀夫「イカロス」より
143名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:18:37 ID:40xRJ5n8
○偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。
それ自身健康無礙(むげ)なる状態は存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。

○承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして
平和熱へと転換する為に、自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
144名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:19:19 ID:40xRJ5n8
○デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。
併し真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の
群衆に存立の礎をもつやうに、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。
啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から偉大な古典的文学の創造力を
奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。
この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
145名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:19:49 ID:40xRJ5n8
○日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。

○ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ
又取入れられ得たのであると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、
ナチスが禍(わざはひ)ありし如く、デモクラシイも禍あるものとなるであらうと思ふ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
146名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:20:23 ID:40xRJ5n8
○偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。

○芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。

○人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
147名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:26:35 ID:40xRJ5n8
○退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。
諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は健康な人間ではなかつた。
君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。
だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。
つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、もつとおそろしく
退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は
君らを愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。
――なつかしい「描かれる」一族よ。君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、
描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の作者となる義務があるだらう。
(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
148名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:27:10 ID:40xRJ5n8
○流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。

○神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。

○どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や
荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに辷(すべ)り出す、
さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや恵まれずとも怨まない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
149名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 11:15:14 ID:86nt7uFZ
「端午の節句」

四月の始から、もう端午の節句のセット等を、デパァトは店頭に飾り出す。四月の半ばになると、電車の窓から
見えるごみごみした町にも、幾つもの鯉のぼりが立てられる。腹をふくらまし尾を上げて、緋鯉ま鯉は
心ゆくまで呼吸する。彼等は町の芥を吸ひ取り、五月の蒼空を呼んで居るかの如くである。
かうして五月が来るのだ。
私の家も例年の様に五月人形を床の間に飾つた。いかめしい甲は最上段にふんぞり返つて、金色の鍬形を
電気に反射させてゐる。よろひも今日は嬉しさうだ。今にも、あの黒いお面の後から、白い顔がのぞき側にある
太刀を取つて……然し、よろひは矢張りよろひびつの上に腰掛けてゐる。松火台の火は桃太郎のお弁当箱を
のぞいて見たり、花咲爺さんのざるの中を眺めたり、体をくねらして、大変な騒ぎである。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の作文
150名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 11:16:07 ID:86nt7uFZ
「端午の節句」

神武天皇の御顔は、らふそくの光が深い陰影を作り非常に神々しく見える。
金太郎は去年と同じく、熊と角力を取り乍ら、函から出て来た。よく疲れないものだ。お前がこはれる迄
さうして居なければいけないのだ。
さうして、人形は飾られた。白馬は五月の雲。
そして紫の布、それは五月の微風だ。
白い素焼のへい子(し)。
その中には五月の酒が満たされてゐる。
五月が来た!
それは端午の節句が運んできたのである。

平岡公威(三島由紀夫)
12歳の作文
151名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 13:05:39 ID:86nt7uFZ
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。

平岡公威(三島由紀夫)16歳
「惟神(かんながら)之道」より
152名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 13:07:38 ID:86nt7uFZ
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。

平岡公威(三島由紀夫)16歳
「惟神(かんながら)之道」より
153名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:24:03 ID:jLy9eEux
○森を切り拓いて一本の道をつけることは、道そのものの意義の外に与へるのみでなく、
その風景、大きくは自然、全体の意義をかへる。風景(万象)は、道の右、道の左、
道の上方、道の下方といふ観念を以て新たに認識され、再編成される。預言並びに
unzeitgemaβな仕事の意味は茲(ここ)にある。預言とは、「あるがままの変革」である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
154名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:24:47 ID:jLy9eEux
○人が呼んで以て無頼の放浪者といふ唯美派の詩人たちは、俗世間の真面目な人間よりも、
更に更に生真面目な存在である。
いかなる荒唐に対しても真面目であるといふ融通のきかぬ道学者的な眼差を、道徳をでなく
美を守るためにもつ人々である彼等は、また真の古代人たりうる資格を恵まれた人等である。

○微妙なのは恋愛でなくて男女関係なのだ。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
155名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:25:29 ID:jLy9eEux
○近代人にとつては、虚心坦懐に真情を吐露せよと命ぜられるほど苦痛なことはない。
それは苛酷な殆ど不可能な命令である。近代人は手許に多彩な百面相を用意してゐるが、
そのなかのマスクの一つに、自分の「真情」が入りこんでゐることは確かだが、おしなべて
マスクと信ずることの方が却つて容易なので。即ち真情を吐露することの困難は
選択の困難にすぎない。
しかし一方確固たる「真の」マスクをかぶる者たることも近代人には不可能になりつゝある。
私はむしろ古代の壮大な二重人格を思慕する。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
156名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:26:06 ID:jLy9eEux
○同情について
――同情は特殊な情緒である。その情緒としての独立性に於て喜怒哀楽と対等であるとしての。
――同情は最も人間的な情緒である。
人間的なるものには人間冒涜的なるものが含まれる。神的なるものは神的なるもののみから、
悪魔的なるものは悪魔的なるもののみから形成さるゝのに。……かくて同情は、
かゝるものとしての人間的なるものゝ典型である。それは人類の最も本質的な病気であり、
愛の頽廃である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
157名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:26:49 ID:jLy9eEux
――同情の涙は嬉し涙と同類に数へらるべきであり、義憤と同範疇に入れらるべきではない。
義憤はある道徳観念(「正義感」その他を含む)と情緒との結合であり、その強度は
この結合の確信の強度に正比例する。偶発的な結合をも確信が之を必然化する。かくて
義憤は結合の一因子たる道徳観念の上によりも、結合の確信の上に、より多く立つが、
しかしなほ、その因子の故に価値判断の対象たりうるが、同情の涙は嬉し涙と同じく
単なる情緒間の結合であつて、何ら価値判断の対象たりえない。しかるに世間は、久しく
この「同情の涙」をば結果あるひは結果としての行為から判断して、価値判断の対象とする
底(てい)の誤謬を犯して来た。
――同情ほど偏見によつて意味づけられて来た、又意味づけられるべき情緒はない。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
158名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:33:23 ID:jLy9eEux
○痒さには幸福に似た感情がある。一面幸福とは痒さに似たものではあるまいか。

○いかなる兇悪な詐欺師からよりも、師から我々は欺かれやすい。しかしそれは明らかに
教育の一部である。

○精神の知恵では女は男にはるかに劣るが、肉体の知恵では女は男をはるかに凌ぐ。

○フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
159名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:34:07 ID:jLy9eEux
詩人の中核にあるものは烈しい灼熱した純潔である。それは詩人たる出生に課せられた
刑罰の如きものであり、その一生を、常人には平和の休息が齎らされる老年期に於ても亦、
奔情の痛みを以て貫ぬく。どこまでこの烈しい純潔に耐へるかといふ試みが詩人の作品である。
それは生涯に亘る試作の連続である。然しながら「耐へる」(経験的ナルモノ)といふことと
「試みる」(意志的ナルモノ)といふこととの苦渋にみちたこの結婚には、本質的な悲劇が
宿るであらう。こゝに特殊な形成の形態が語られてゐる。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
160名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/27(火) 11:34:52 ID:jLy9eEux
かゝる純潔はラジウムの如きものである。恐るべき速度を以て崩壊し放射しつゝあるが、
この自己破壊は鉛に化するまで頗る長き時間を要する。詩人の営為もかくのごときものである。
詩人は自らの尾を喰つて自らの腹を肥やす蛇に似てゐる。単なる自己破壊ではない。
それは形成を通して輪廻に連なることができる。詩人の永遠性は自己自身の裡にはじまるのである。
(自己自身から唐突な仕方で永遠につながること)
アルチュウル・ランボオが言つてゐる。
「ひとつこの純潔の度合をじつくり値踏みしてやらう」と。併し神が彼に与へた
運命的な時間は、「じつくりと」値踏みする余裕をもたせなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「詩論その他」より
161名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 11:09:38 ID:FuB/C3iY
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着
として、生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、
池水が前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ
存在の意義を比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に
於ける逢会であつた。私は不朽を信ずる者である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳
「別れ」より
162名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/07(金) 11:02:53 ID:DihhqZlT
叙事詩人とは何者でせう。一体そんな人はゐたのでせうか。僕はこの時代にもどこかに生き永らへてゐるやうに
信じられる一人の象徴的人物のことを考へてゐるのでせう。
その人の目にはあらゆる貴顕も英雄も庶民も、「生存した」といふ旺(さか)んな夢想に於て同一視されます。
その人の目には愛情の遠近法が無視される如く見えながら、実は時代の経過につれてはじめて発見されるやうな
霊妙な透視図法を心得てゐます。その人の魂の深部では、信じ合へずに終つた多くの魂が信じ合ふことを
知るやうになります。その人は変様であつて不変であり、無常であつて常住であります。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より
163名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/07(金) 11:03:26 ID:DihhqZlT
その人こそは亡ぼさうと意志する「時」の友であり、遺さうと希ふ人類の味方です。
不死なるものと死すべきものとの渚に立ち、片方の耳はあの意慾の嵐の音をきき、片方の耳はあの運命の潮騒に
向つてそばだてられてゐます。その人は言葉の体現者であるとも言へませう。言葉はその人に在つては、
附せられた素材性を払ひ落し、事実を補へるのではなしに事実のなかに生き、言葉そのものがわれわれの
秘められた願望とありうべき雑多な反応とを内に含んで生起します。我々が手段として言葉を使役するのではなく、
言葉が我々を手段化するのです。――かくて叙事詩人は非情な目の持主です。
安易な物言ひが恕(ゆる)されるなら、人間への絶望から生れた悲劇的なヒュマニティの持主だと申しませうか。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より
164名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/07(金) 11:03:52 ID:DihhqZlT
(中略)
思ひかへせばかへすほど、愚かな戦争でした。僕には日本人の限界があまりありありとみえて怖ろしかつたのでした。
もうこれ以上見せないでくれ、僕は曲馬団の気弱な見物人のやうに幾度かさう叫ばうとしました。
戦争中には歴史が謳歌されました。しかし彼らはおしまひまで、ニイチェの「歴史の利害について」の歴史観とは
縁なき衆生だつたとしか思へません。
戦争中には伝統が讃美されました。しかしそれは、嘗てロダンが若き芸術家たちに遺した素朴な言葉を理解する
ことができるほど謙虚なものであつたでせうか。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より
165名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/07(金) 11:04:35 ID:DihhqZlT
ロダンは極めてわかりやすく慈父のやうに説いて居ります。
「(略)伝統を尊敬しながら、伝統が永遠に豊かに含むところのものを識別する事を知れ。それは『自然』と
『誠実』との愛です。此は天才の二つの強い情熱です。皆自然を崇拝しましたし又決して偽らなかつた。
かくして伝統は君達にきまりきつた途から脱け出る力になる鍵を与へるのです。伝統そのものこそ君達にたえず
『現実』を窺ふ事をすすめて或る大家に盲目的に君等が服従する事を防ぐのです」――この大家といふ言葉は、
古典と置きかへてみてもよいかもしれません。
戦争中にはまた、せつかちに神風が冀(ねが)はれました。神を信じてゐた心算(つもり)だつたが、実は
可能性を信じてゐたにすぎなかつたわけです。可能性崇拝といふ低次な宗教に溺れてゐたのです。

三島由紀夫「M・H氏への手紙――人類の将来と詩人の運命」より
166名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 15:09:31 ID:kvQtBzNo
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。
真の同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその乳臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、
無意味にして有害でさへあるであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
167名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 15:10:05 ID:kvQtBzNo
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。
誤解してはならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を
生ずる時、既に道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ
強さを以て執拗に維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には
報いが落ちるであらう。即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より
卑怯に遁(のが)れんとする者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に
対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から
目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を
声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
168名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 15:10:39 ID:kvQtBzNo
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰(あた)かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に
謳歌したのである。沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。
我々は自らに憤り、又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで
持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほど
もちながら、自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。
我々は現在現存の刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。
もし我々に死が訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
169名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 15:11:06 ID:kvQtBzNo
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ
目賭(もくと)したのは「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握され
つゝあるが如く直感されたのである。危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも
招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含する
のである。意識内容はむしろネガティヴであり、意識なる作用そのものがポジティヴであると説明して
よからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日
正午、異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
170名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 15:11:33 ID:kvQtBzNo
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみが
いかに同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、
これによつて超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を
得るであらうと信ずる。人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ
忘れ果てて泣くのである。この刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の
極小に於て最高最大たりうることを。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
171名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 15:18:24 ID:kvQtBzNo
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。
「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも
即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心(おほみこころ)より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。
この刹那、わが国体は本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す
天皇御親政の世に還つたと拝察せられる。黎明(れいめい)はこゝにその最初の一閃を放つたのである。(中略)
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。
ますらをぶりは一旦内心に沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、
なよ竹のみさを持せんと力(つと)めることこそ、わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。

平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
172名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/14(金) 17:35:34 ID:TA5TxeR7
日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して意識することなく
神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところにはげしく煌めいてゐること、さうして
真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、かういふことだけを述べておけばよい。

平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より
173名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/14(月) 10:50:27 ID:Ot41t29d
私は鏡の中に住んでゐる人種だ。諸君の右は私の左だ。私は無益で精巧な一個の逆説だ。

三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」より
174名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/14(月) 10:51:29 ID:Ot41t29d
私は自伝の方法として、遠近法の逆を使ふ。
諸君はこの絵へ前から入つてゆくことはできない。奥から出てくることを強ひられる。
遠景は無限に精密に、近景は無限に粗雑にゑがかれる。絵の無限の奥から前方へ向つて
歩んで来て下さい。

三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」より
175名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/24(木) 10:43:16 ID:V48LsKlo
『潮騒(しほさゐ)に、伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)、漕ぐ舟に、
妹(いも)乗るらむか、荒き島廻(しまみ)を』

(さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、
今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを。)

詠人 柿本人麻呂


三島由紀夫は、万葉集に歌われている伊良湖岬を歌ったこの歌から「潮騒」の題名をとりました。
この歌は、持統天皇が伊勢に旅された時に、都に残った柿本人麻呂が詠んだ歌です。

ちなみに、潮騒を万葉仮名で書くと『潮左為』だそうです。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 23:02:44 ID:3WAA+XSQ
京都では空襲に見舞われなかったが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を持って
大阪の親工場へ行った時に、たまたま空襲あって、腸の露出した工員が担架で運ばれてゆく様子を見たことがある。

なぜ、露出した腸が凄惨なのだろう。何故人間の内側を見て、しょう然として、目を覆ったり
しなければならないのであろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内蔵が凄いのだろう・・・
それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか・・私が自分の醜さを無に化するような
こういう考え方を、鶴川から教わったと云ったら、彼はどんな顔をするのだろうか?
内側と外側、たとえ人間は薔薇の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に
見えてくるのであろうか?
もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花びらのように、しなやかにひるがえし、捲き返して、
日光や五月の微風にさらすことが出来たとしたら・・・・・・


三島由紀夫 「金閣寺」
177名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/09(金) 14:04:56 ID:X11LsyFS
私は戦時下のあの時代を、一面的に見られることの腹立ちを、いつも抑へることができない。
又、あの時代に不適格者であつたことを誇りにする人の気持が知れない。あの時代に
永い病床にあつて、つひに病死した青年は、自分の心の傷とも闘はねばならなかつた。
しかし文学は、克己的な青年にとつては、嘆きぶしでも愚痴の捨て場でもなく、精神の
或る明るい平静な矜持を保つための方法だつたのである。
なるほど繊細鋭敏な感受性は、戦争には何の役にも立たない。だが、さういふ感受性の
受難の運命は、戦時中だらうと平時だらうと同じことだと悟り、若くして自若とした心を
獲得することは、いづれにしろ一つの勝利だつた。東氏は自分の非運を、誰のせゐにも
しなかつた。

三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
178名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/09(金) 14:05:25 ID:X11LsyFS
(中略)
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、
感情の均衡を破ることなしに、人間の日常について語ること、それも亦、あの時代には
とりわけ貴重なヒロイズムだつた。ただ耐へること、しかも矜持を以て耐へること、
それも亦、ヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、
ヒロイズムの欠如の顕著な兆候ではないか、と考へる者である。

三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より
179名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/12(月) 14:26:59 ID:SqabUQLy
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。



夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺といふ過程を経なければ
獲得できない或る種の勇気があるものである。



最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。水泳は覚えずにかへつて来て
しまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めて
さすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう一つの真実を、
私は覚えて来たからである。

三島由紀夫「岬にての物語」より
180名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:46:48 ID:dLGLQR8X
僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいてゐるあの水平線まで……。



人間の住む屋根の下では、どんなことでも起るんだよ。



飲みのこしたコーヒーはだんだん冷えて、茶碗の底に後悔のやうに黒く残るの。それは
苦くて甘くて冷たくて、もう飲めやしないの。コーヒーは美味しいうちに飲んで、さうね、
何もかも美味しいうちに飲み干して、それから、「おはやう」を言ふときのやうに元気に、
「さよなら」を言はなければ……。

三島由紀夫「薔薇と海賊」より
181名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:47:21 ID:dLGLQR8X
牛乳配達も来ない朝、窓のカーテンの隙間に朝の光りが、金いろの若草が生ひ茂つたやうに
見えもしない朝、鷄といふ鷄は殺されて時も告げない朝、……もし今が朝だつたら、
そんか朝だもの。どうして「おはやう」つて言ふだらう。そんな朝には誰だつて、
「さよなら」つて言ふだらう。さうして殺された鷄のために泣くだらう。
ちらばつた血まみれの羽が、朝風にひらひら飛んでも、朝が来れば私たちは、
「おはやう」と言はなくては。

三島由紀夫「薔薇と海賊」より
182名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/16(金) 11:47:48 ID:dLGLQR8X
もう薔薇は枯れることがございません。
この世をしろしめす神様があきらめて、薔薇に王権をお譲りになつた。
これがそのしるしの薔薇、
これがその久遠の薔薇でございます。
薔薇の外側はまた内側、
薔薇こそは世界を包みます。
この中には月もこめられ、
この中には星がみんな入つてをります。
これがこれからの地球儀になり、
これがこれからの天文図になるのでございます。哲学も星占いも、みんなこの凍つた
花びらのなか、緋いろの一輪のなかに在るのでございます。

三島由紀夫「薔薇と海賊」より
183名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:13:11 ID:3zd6PYOq
誰だつて空想する権利はありますわ。殊に弱い人たちなら。



余計なことを耳に入れず、忌まはしいものを目に入れないでおくれ。知らずにゐ、
聴かずにゐたい。俺の目に見えないものは、存在しないも同様だからさ。



夢をどんどん現実のはうへ溢れ出させて、夢のとほりにこの世を変へてしまふがいい。
それ以外に悪い夢から治ることなんて覚束ない。



喜んだ顔をしなくてはいけないから喜び、幸福さうに見せなくてはいけないから
幸福になつたのよ。いつまでも羽根のきれいな蝶々になつてゐなくてはならないから、
蝶々になつたのよ。

三島由紀夫「熱帯樹」より
184名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:14:40 ID:3zd6PYOq
一度枯れた花は二度と枯れず、一度死んだ小鳥は二度と死なない。又咲く花又生れる小鳥は、
あれは別の世界のこと、私たちと何のゆかりもない世界のことなのよ。



淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。

三島由紀夫「熱帯樹」より
185名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:15:41 ID:3zd6PYOq
贅沢や退屈のしみこんだ肉は、お酒のしみこんだ肉と同じで、腐りさうでなかなか腐らない。



希んだものが、もう希まなくなつたあとで得られても、その喜びは無理矢理自分に言つて
きかせるやうなものなんです。



人間つて決して不幸をたのしみに生きてゆくことなんかできませんのね。



目には目を、歯には歯を、さうして、寛大さには寛大さを。


三島由紀夫「白蟻の巣」より
186名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:16:18 ID:3zd6PYOq
人を恕すといふことは、こんなことだつたのか。こんなに楽なことだつたのか。……
そしてこんなに人間を無力にするものなのか。



世の中つて、真面目にしたことは大てい失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。

三島由紀夫「白蟻の巣」より
187名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:17:22 ID:3zd6PYOq
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。



高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より
188名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:18:17 ID:3zd6PYOq
ねえ、人間つて、待つたり待たせたりして生きてゆくものぢやない?



愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。

三島由紀夫「班女」より
189名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:18:59 ID:3zd6PYOq
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福をめちやめちやに
してしまふ毒薬ですよ。



自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。

三島由紀夫「道成寺」より
190名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:20:05 ID:3zd6PYOq
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。



どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。



人間は死ぬために生きてるのぢやございません。



僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!

三島由紀夫「卒塔婆小町」より
191名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:23:55 ID:3zd6PYOq
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。



私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。
私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を
平気で歩いて差上げますわ……。



この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。



背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文。

三島由紀夫「弱法師」より
192名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:24:13 ID:3zd6PYOq
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。



われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。



形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。

三島由紀夫「弱法師」より
193名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:24:31 ID:3zd6PYOq
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。

三島由紀夫「弱法師」より
194名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 10:24:48 ID:3zd6PYOq
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方からこだまを返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ?何だと思ふ?あれは言葉じゃない、
歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。

三島由紀夫「弱法師」より
195名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:26:07 ID:hUxgZGqN
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の
綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。



外的な事件からばかり成立つてゐた浪漫的悲劇が、その外的な事件の道具立を失つて、
心の内部に移されると、それは外部から見てはドン・キホーテ的喜劇にすぎなくなつた。
そこに悲劇の現代的意義があるのである。



確信がないといふ確信はいちばん動かしがたいものを持つてゐる。

三島由紀夫「盗賊」より
196名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:26:31 ID:hUxgZGqN
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。と同時に真の偽善者も亦、
女の中にこれを見出だすのはむつかしい。女は自分以外のものにはなれないのである。
といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。宗教が女性を収攬しやすい理由は
茲(ここ)にある。



女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である。



愛といふものは共有物の性質をもつてゐて所有の限界があいまいなばかりに多くの不幸を
巻き起すのであるらしい。



ある人にあつては独占欲が嫉妬をあふり、ある人は嫉妬によつて独占欲を意識する。

三島由紀夫「盗賊」より
197名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:26:51 ID:hUxgZGqN
嫉妬こそ生きる力だ。だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて
嫉妬することを知らない人が往々ある。彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、
もつと微妙で高尚な、それだけ、はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。


我々が深部に於て用意されてゐる大きな変革に気附くまでには時間がかかる。夢心地の裡に
汽車を乗りかへる。窓の外に移る見知らぬ風景を見ることによつてはじめて我々は汽車を
乗りかへたことに気附くのである。



ある動機から盗賊になつたり死を決心したりする人間が、まるで別人のやうになつて了ふのは
確かに物語のまやかしだ。むしろ決心によつて彼は前よりも一段と本来の彼に立還るのではないか。

三島由紀夫「盗賊」より
198名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:27:11 ID:hUxgZGqN
死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。



たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された
行為であつても、それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、
自殺とは錬金術のやうに、生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)な
のぞみであらうか。かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。
われわれの科学はまだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすことも
できないわけだ。生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて
三週間醗酵させれば鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。

三島由紀夫「盗賊」より
199名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:27:31 ID:hUxgZGqN
皮肉な微笑は、かへつて屡々(しばしば)純潔な少女が、自分でもその微笑の意味を知らずに、
何の気なしに浮かべてゐることがあるものだ。



いかに純潔がそれ自身を守るために賦与した苦痛の属性が大きからうと、喜びの本質を
もつた行為のなかで、その喜びを裏切ることが出来るだらうか。



人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。生を
選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。

三島由紀夫「盗賊」より
200名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:29:56 ID:hUxgZGqN
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。――生きて
ゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。



人間の想像力の展開には永い時間を要するもので、咄嗟の場合には、人は想像力の貧しさに
苦しむものだつた。直感といふものは人との交渉によつてしか養はれぬものだつた。
それは本来想像力とは無縁のものだつた。

三島由紀夫「盗賊」より
201名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:30:14 ID:hUxgZGqN
死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。



何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。



何気なく何物かを宿し、その宿したものに対して忠実なのは女だ。彼女の矜りの表情は
彼女の知らないところに由来してゐる。



必要に迫られて、人は孤独を愛するやうになるらしい。孤独の美しさも、必要であることの
美しさに他ならないかもしれないのだ。

三島由紀夫「盗賊」より
202名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 10:30:47 ID:hUxgZGqN
地球といふ天体は喋りながらまはつてゐる月だつた。喋りつづけてゐるおかげで、人間は
地球がもうすつかり冷却して月とかはりなくなつてゐることに気附かない。しかも
地球といふ天体は洒落気のある奴で、皆が気附かなければそれなりに、そしらぬ顔をして
廻りつづけてゐるのだつた。



決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。
生への媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。丁度眠りをとらぬこと七日に及べば
死が訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と生の意識とは早晩人を死へ
送り込まずには措かぬものだらうか。



莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。

三島由紀夫「盗賊」より
203名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 11:02:22 ID:hUxgZGqN
「いつはりならぬ実在」なぞといふものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。
おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。
また実在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、なにごとにもまして哀しいのは、
それが翼をもたないことだ。



そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。蜜蜂たちはそのまつ昼間の
よるのなかをとんでゐた。かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、
たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに
足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
204名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 11:02:46 ID:hUxgZGqN
ほんたうの生とは、もしやふたつの死のもつとも鞏(かた)い結び合ひだけから
うまれ出るものかもしれない。



蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。



ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や
痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
205名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 11:03:19 ID:hUxgZGqN
無くなるはずのないものがなくなること、――あの神かくしとよばれてゐる神の
ふしぎな遊戯によつて、そんな品物は多分、それを必要としてゐるある死人のところへ
届けられるのにちがひない。



星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。しづかに
森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
206名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:42:43 ID:hUxgZGqN
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。
ああ、金色のヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の
勇士たちの亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、
いかに万斛の涙を流したことであらう。



もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身可愛さに
ヒステリックな平和主義の叫びをあげる、きんたまを置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
207名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:43:16 ID:hUxgZGqN
買弁資本家やユンカー一族、保守派の老ひぼれ政治家や老ひぼれ将軍、将校クラブで俺を
鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や民衆のことを一度も考へたことのない
あの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝からビールとじやがいものおくびをしてゐる
布袋腹のブルジョアども、官僚といふあのマニキュアをした宦官ども、……あんな連中の
上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、シーソオ・ゲームに憂身をやつして、
お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
208名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:43:38 ID:hUxgZGqN
演説のあとの広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで
行つても人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。



自分を狂人だと思はなければとても耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる
場合は……自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
209名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:44:01 ID:hUxgZGqN
俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を
裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、
鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。
しかしそのときも、俺が息を引取るのはベッドの上ではない。



どんなに行政機構の森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、
夜明けの色の静脈と共に敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、
権力のもつとも深い実質は若者の筋肉だ。



人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
210名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:44:25 ID:hUxgZGqN
歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。死者の目に映る
遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに砕けてしまつた。
あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとおるやうな味をなくしてしまつた。



どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病のやうに鈍麻させてゆく。かつて闇のなかで
道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
211名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:51:30 ID:hUxgZGqN
鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。だから却つて
鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。



友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。これなしには
現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。



この緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い岩漿(マグマ)が
煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この灼熱した
不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
212名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 23:51:52 ID:hUxgZGqN
いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるかどうか、つて。
それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜかくも暗く、
なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。それだけでは
十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に小麦畑を豊饒にし、
ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で神のやうに蘇らせ、
すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせやうとするのかを。……それが私の
運命なのです。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より
213名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 12:17:49 ID:aUs51osv
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報ひではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだ。



女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。


幸福といふのは、何と云つたらいいでせう。肩の凝る女の手仕事で、刺繍をやるやうなものなのよ。
ひとりぼつち、退屈、不安、淋しさ、物凄い夜、怖ろしい朝焼け、さういふものを一目一目、
手間暇をかけて織り込んで、平凡な薔薇の花の、小さな一枚の壁掛を作つてほつとする。
地獄の苦しみでさへ、女の手と女の忍耐のおかげで、一輪の薔薇の花に変へることができるのよ。

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より
214名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 12:18:16 ID:aUs51osv
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光った。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば
気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、
夜になればお互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。



この世で一番自分の望まなかつたものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず
一番望んでゐたものなのです。それだけが思ひ出になる資格があり、それだけが琥珀の中へ
閉じ込めることができるのよ。それだけが何千回繰り返しても飽きることのない、思ひ出の
果物の核(さね)なのだわ。

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より
215名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:05:47 ID:2XxQtB/o
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。



きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
216名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:08:54 ID:2XxQtB/o
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
217名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:13:50 ID:2XxQtB/o
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。



人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相当に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。夢の代りに不安がある。これはダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。
病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。しかもダイヤは決して死ぬことが
できんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。お父さんは病気を売りつけるのだ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
218名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:16:33 ID:2XxQtB/o
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。



どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。



トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。



私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
219名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:20:13 ID:2XxQtB/o
あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の顔が
街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。



お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。気がついてからのお前の暴れやう、
哀訴懇願、あの涙……お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は
美しかつたのに、生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に
負けたんぢやないわ。命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
220名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:22:12 ID:2XxQtB/o
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
221名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:24:52 ID:2XxQtB/o
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに

黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、

明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに

黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか

明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか

黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。

明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。

黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に

明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。

黒蜥蜴:法律が私の恋文になり

明智:牢屋が私の贈物になる。

黒蜥蜴、明智:そして最後に勝つのはこつちさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
222名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/21(水) 11:30:14 ID:2XxQtB/o
明智:あんたは女賊で、僕は探偵だ。

黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。
私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまえてみれば、
冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。

明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。

黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。

明智:しかし僕も……

黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。

明智:何が……

黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
223名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 12:11:24 ID:M+5/VlhT
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。



一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。


三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より
224名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:00:25 ID:M+5/VlhT
女たちの笑ひさざめく声といふのは、どうしてこんなにたのしいのだらう。湖の上に
洩れて映る大きな旅館の宴会の灯のやうだ。そこには地上の快楽が、一堂に集まつてゐる
やうに見えるのだ。



小説家の考へなんて、現実には必ず足をすくはれるもんだ。



四十歳を越すと、どうしても人間は、他人に自分の夢を寄せるやうになる。



自分の小説の登場人物に嫉妬を感じる小説家とは、まことに奇妙な存在だ。

三島由紀夫「愛の疾走」より
225名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:01:51 ID:M+5/VlhT
美代は、丁度その時間にそこで作業が行はれてゐず、魚の腹から卵をしぼり出す残酷な仕事を
見ないですんだのを喜んだ。
『でも、卵……卵……卵……。男たちがこんな仕事をしてゐる!』
彼女は何だか自分が魚になつたやうな、ひどく恥かしい感じがした。自分も一人の女として、
冬からやがて春へと動いてゆく、自然の大きな目に見えない流れに、否応なしに押し流されて
ゆくのだと思ふと、しらない間に野球帽も手拭もとつて、寒さのために赤い活気のある
頬をした修一の横顔を、じつと眺めてゐるのが、何だか眩しくなつた。

三島由紀夫「愛の疾走」より
226名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:02:09 ID:M+5/VlhT
本当に愛し合つてゐる同士は、「すれちがひ」どころか、却つて、ふしぎな糸に引かれて
偶然の出会をするもので、愛する者を心に描いてふらふらと家を出た青年が、思ひがけない辻で
パッタリその女に会つた経験を、ゲエテもエッカーマンに話してゐるほどだ。



クライマックスといふものは、いづれにせよ、人をさんざんじらせ、待たせるものだ。
第一の御柱は崖のすぐ上辺まで来てゐるのに、ゆつくり一服してゐて、なかなか
「坂落し」ははじまらなかつた。



女といふものはな、頭から信じてしまふか、頭から疑つてかかるか、どつちかしかないものだな。
どつちつかずだと、こつちが悩んで往生する。漁も同じだ。『今日はとれるかな、とれないかな』
……これではいかん。必ず大漁と思つて出ると大漁、からきしダメだらうと思つて出ると大漁、
全くヘンなものだ。こつちが中途半端な気持だと、向ふも中途半端になるものらしい。
全くヘンなものだ。

三島由紀夫「愛の疾走」より
227名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:02:24 ID:M+5/VlhT
突然、美代は両手で自分の顔をおほひ、体を斜めにして、修一の腕をのがれた。
修一はおどろいてその顔を眺め下ろした。美代は泣いてゐた。
声は立てなかつたが、美代は永久に泣きつづけてゐるやうで、その指の間から、涙が
嘘のやうに絶え間なくこぼれおちた。顔をおほつてゐる美代の指は、華奢な美しい女の
指とは言へなかつた。意識してかしないでか、美代は自分の一等自信のない部分へ、
男の注視を惹きつづけてゐたことになる。
それは農村で育つたのちに、キー・パンチャーとして鍛えられた指で、右手の人差し指と
中指と薬指、なかんづく一等使はれる薬指は、扁平に節くれ立つて、どんな優雅な指輪も
似合ひさうではなかつた。
しみじみとその指を眺めてゐた修一は、労働をする者だけにわかる共感でいつぱいになつて、
その薬指が、いとほしくてたまらなくなり、思はず、唇をそれにそつと触れた。

三島由紀夫「愛の疾走」より
228名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:02:48 ID:M+5/VlhT
…もともと口下手の修一は、こんなときに余計なことを言ひ出して、事壊しになるやうな
羽目には陥らなかつた。彼は子供が好奇心にかられて菓子の箱をむりやりあけてみるやうに、
かなり強引な力で、美代のしつかりと顔をおほつてゐる指を左右にひらいた。
涙に濡れた美しい顔が現はれた。しかし崩れた泣き顔ではなくて、涙のために、一そう
剥き立ての果物のやうな風情を増してゐた。修一はいとしさに耐へかねて、顔を近づけた。
するとその泣いてゐた美代の口もとが、あるかなきかに綻んで、ほんの少し微笑したやうに
思はれた。
それに力を得て、修一は強く、美代の唇に接吻した。

三島由紀夫「愛の疾走」より
229名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:06:47 ID:M+5/VlhT
……美代はこの唇こそ、永らく待ちこがれてゐた唇だと、半ば夢心地のうちに考へた。
もう何も考へないやうにしよう。考へることから禍が起つたのだ。何も考へないやうにしよう。
……こんな場合の心に浮ぶ羞恥心や恐怖や、果てしのない躊躇逡巡や、あとで飽きられたら
どうしようといふ思惑や、さういふものはすべて、女の体に無意識のうちにこもつてゐる
醜い打算だとさへ、彼女は考へることができた。純粋になり、透明にならう。決して
過去のことも、未来のことも考へまい。……自然の与へてくれるものに何一つ逆らはず、
みどり児のやうに大人しくすべてを受け容れよう。世間が何だ。世間の考へに少しでも
味方したことから、不幸が起つたのだ。……何も考へずに、この虹のやうなものに全身を
委ねよう。……水にうかぶ水蓮の花のやうに、漣(さざなみ)のままに揺れてゐよう。

三島由紀夫「愛の疾走」より
230名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:07:05 ID:M+5/VlhT
……どうしてこの世の中に醜いことなどがあるだらうか。考へることから醜さが生れる。
心の隙間から醜さが生れる。心が充実してゐるときに、どうして、この世界に醜さの
入つてくる余地があるだらうか。……今まで誰にも触れさせたことのない乳房を、修一の
大きな固い掌が触つた。この人は怖れてゐる。慄へてゐる。どうして悪いことをするやうに
慄へてゐるのだらう。……この太陽の下、花々の間、遠い山々に囲まれて、悪いことを
人間ができるだらうか。……美代の心からは、人に見られる心配さへみんな消え失せてゐた。
世界中の人に見られてゐても、今の自分の姿には、恥づべきことは何一つないやうな気がした。……
それでゐて、美代の体が、やさしく羞恥心にあふれてゐるのを、修一は誤りなく見てゐた。
丈の高い夏草の底に埋もれて、彼女はそのまま恥らひのあまり、夏の驟雨のやうに地面に
融け込んでしまひさうだつた。

三島由紀夫「愛の疾走」より
231名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/24(土) 17:07:25 ID:M+5/VlhT
初恋がすらすらと結ばれたら、そんな夫婦の一生は、箸にも棒にもかからないものになる。
人間は怠け者の動物で、苦しめてやらなくては決して自分を発見しない。自分を発見しない
といふことは、要するに、本当の幸福を発見しないといふことだ。

三島由紀夫「愛の疾走」より
232名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 11:20:13 ID:vfSJOxMr
王子をゆりうごかした愛は、合(みあは)しせんと念(おも)ふ愛であつた。鹿が狩手の矢も
おそれずに牝鹿が姿をかくした谷間へと荊棘(いばら)をふみしだいて馳せ下りる愛であり、
つがひの鳩を死ぬまで森の小暗い塒(ねぐら)にむすびつける愛であつた。その愛の前に
死のおそれはなく、その愛の叶はぬときは手も下さずに死ぬことができた。王子もまた、
死が驟雨のやうにふりそそいでくるのを待つばかりである。どのみち徒らにわたしは死ぬ、
と王子は考へた。死をおそれぬものが何故罪をおそれるのか?

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
233名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 11:22:39 ID:vfSJOxMr
この世で愛を知りそめるとは、人の心の不幸を知りそめることでございませうか。
わが身の幸もわが身の不幸も忘れるほどに。



たとひ人の申しますやうに恋がうつろひやすいものでありませうとも、大和の群山(むらやま)に
のこる雪が、夏冬をたえずうつりかはりながら、仰ぐ人にはいつもかはらぬ雪とみえますやうに、
うつろひやすいものはうつろひやすいものへとうけつがれてゆくでございませう。



恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
234名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 11:32:12 ID:vfSJOxMr
はげしい歓びに身も心も酔ふてをります時ほど、もし二人のうちの一人が死にその歓びが
空しくなつたらと思ふ怖れが高まりました。二人の恋の久遠を希ふ時ほど、地の底で
みひらかれる暗いあやしい眼を二人ながら見ました。あなたさまはわたくし共が愛を
信じないとてお誡(いまし)め遊ばしませうが、時にはわれから愛を信じまいと
力(つと)めたことさへございました。せい一杯信じまいと力めましても、やはり恋は
わたくし共の目の前に立つてをりました。



わたくし共の間にはいつも二人の仲人、恋と別れとが据つてをります。それは一人の仲人の
二つの顔かとも存ぜられます。別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに
耐へてゆけますのも恋ゆゑでございますから。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
235名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/26(月) 11:33:12 ID:vfSJOxMr
自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。



女性は悲しみを内に貯へ、時を得てはそれを悉く喜びの黄金や真珠に変へてしまふことも
できるといふ。しかし男子の悲しみはいつまで置いても悲しみである。



凡ては前に戻る。消え去つたと思はれるものも元在つた処へ還つて来る。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
236名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/27(火) 10:42:30 ID:YidMyELX
それは矛盾にみちた悲劇的な愛だつた。彼の巧みな手れん手くだに乗ぜられた女が、
やがて彼の愛が冷め、その冷たさ愛を糊塗しようとする彼の手くだの巧みさを見たとしたら、
おそらく興ざめて別離はたやすくなるにちがひない。しかし愛の冷却に伴ふさまざまな困難を
一つとして切抜けかねる彼の意外な不器用さが、女のなかに母性的な別種の愛をめざめさせ、
それがますます別離を困難にすることはありうることだ。



嫉妬は透視する力だ。



愛の問題ではないのです。女には事実のはうがもつと大切です。

三島由紀夫「獅子」より
237名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/27(火) 10:43:19 ID:YidMyELX
皮肉は何といふ美味なつまみものであらう。殊に酒精分の強い洋酒の場合は。



凡て悪への悲しげな意慾が完全に欠如してゐるこのやうな人間、(それこそ悪それ自体)が
地上から滅び去るとはどんなによいことであらう。さういふ善意が滅びることは、
どれほど地上の明るさを増すことだらう。

三島由紀夫「獅子」より
238名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/27(火) 10:48:45 ID:YidMyELX
椅子から体がずり落ちて床に倒れた。生きてゐる間は巧く隠し了せてゐたこの女の地声が
いよいよ聴かれるのだ。それはゲエといつたりウーフといつたりウギャアといつたりする声である。
乳房や頬や胴を猫のやうに椅子の脚や卓の脚にすりつける。顔に塗りたくつた真蒼な白粉が彼女に
よく似合ふ。彼女は頭を怖ろしい音を立てて床へぶつける。白い太腿が蜘蛛のやうな動きで
這ひまはつてゐる。そこにじつとりとにじみ出た汗は、目のさめるやうな平静さだ。
――彼女と卓一つへだてて彼女の父も、熱心に同じ踊りを踊り狂つてゐるのだつた。
彼の呻き声は笑ひ声と同様に無意味である。「苦悩する人」といふ凡そ場ちがひの役処を
彼が引受けてゐるのは気の毒だ。仔犬のやうな目を必死にあいたりつぶつたりしてゐるが、
一体何が見えるといふのか。彼自身の苦悩でさへもう見えはせぬ。彼は口から善意の
固まりのやうな大きな血反吐をやつとのことで吐き出して眠りにつく。さうでもしなければ
安眠できまいといふことを彼はやうやく覚(さと)つたのである。
――繁子は毒の及ぼす効力をこのやうにまざまざと想像することができた。

三島由紀夫「獅子」より
239名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/27(火) 10:51:59 ID:YidMyELX
危険なのは「幸福」の思考ではあるまいか。この世に戦争をもたらし、悪しき希望を、
偽物の明日を、夜鳴き鶏を、残虐きはまる侵略をもたらすものこそ「幸福」の思考なのである。

三島由紀夫「獅子」より
240名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:35:04 ID:HTDKBdcw
あれは実に無意味な豪奢を具へた鳥で、その羽根のきらめく緑が、熱帯の陽に映える森の
輝きに対する保護色だなどといふ生物学的説明は、何ものをも説き明しはしない。
孔雀といふ鳥の創造は自然の虚栄心であつて、こんなに無用にきらびやかなものは、
自然にとつて本来必要であつた筈はない。創造の倦怠のはてに、目的もあり効用もある
生物の種々さまざまな発明のはてに、孔雀はおそらく、一個のもつとも無益な観念が
形をとつてあらはれたものにちがひない。そのやうな豪奢は、多分創造の最後の日、
空いつぱいの多彩な夕映えの中で創り出され、虚無に耐へ、来るべき闇に耐へるために、
闇の無意味をあらかじめ色彩と光輝に飜訳して鏤(ちりば)めておいたものなのだ。だから
孔雀の輝く羽根の紋様の一つ一つは、夜の濃い闇を構成する諸要素と厳密に照合してゐる筈だ。

三島由紀夫「孔雀」より
241名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:36:24 ID:HTDKBdcw
俺の美は、何といふひつそりとした速度で、何といふ不気味なのろさで、俺の指の間から
辷り落ちてしまつたことだらう。俺は一体何の罪を犯してかうなつたのか。自分も知らない
罪といふものがあるのだらうか。たとへば、さめると同時に忘れられる、夢のなかの
罪のほかには。

三島由紀夫「孔雀」より
242名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:39:22 ID:HTDKBdcw
安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと
思ひ出すのは、いくら祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より
一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して
分かれようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。
安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに
割れることなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、
たうとう分かれなかつた海の真紅の煌めきにひそんでゐる。
おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いては
なかつたのだ。さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐた
あの不思議……。

三島由紀夫「海と夕焼」より
243名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 10:42:21 ID:HTDKBdcw
われわれの内的世界と言葉との最初の出会は、まつたく個性的なものが普遍的なものに
触れることでもあり、また普遍的なものによつて練磨されて個性的なものがはじめて所を
得ることでもある。



少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず入つてくる滑稽な夾雑物、
それなしには人生や恋のさなかを生きられないやうな滑稽な夾雑物を見たのである。
すなはち自分のおでこを美しいと思ひ込むこと。
もつと観念的にではあるが、少年も亦、似たやうな思ひ込みを抱いて、人生を生きつつ
あるのかもしれない。ひよつとすると、僕も生きてゐるのかもしれない。この考へには
ぞつとするやうなものがあつた。

三島由紀夫「詩を書く少年」より
244名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 11:01:43 ID:HTDKBdcw
女の踝が美しいのは、このいかにも慎みのない突起が、なめらかな脚のつづきに現はれて、
そこで突然動物的なものを感じさせるからだらう。



ヤクザ特有の死に関する単純な投げやりな見解、真情を隠して抵抗する可愛い女、それらは
身についた卑俗と卑小の独特の詩を荷つてゐる。凡庸さを一寸でも逸脱したら忽ち
失はれるやうな詩が、かういふ物語の中にはこもつてゐる。天才に禍ひあれ。この種の詩は
決して意識されてはならず、看過されるときだけ薫りを放つのだ。そして大多数の映画は
すばらしいことに、すべてを看過しながら描写してしまふ。

三島由紀夫「スタア」より
245名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 11:01:58 ID:HTDKBdcw
「霧の夜道に青い灯に、別れた瞳が気にかかる」
この種の凡庸と卑俗の詩は、言葉の置き換へのゆるされない厳然たる存在だといふことに
誰が気づくだらう。人がかういふ詩の存在を許すのは、それらが紋切型で無力で
蜉蝣のやうに短命だと思つてゐるからだ。ところが永生を約束されてゐるのは実はこれのはうで、
悪が尽きないやうに、それは尽きない。鱶(ふか)のお腹についてゐる小判鮫のやうに、
それはどこまでも公式の詩のお腹について泳ぐのだ。それは創造の影、独創の排泄物、
天才の引きずつてゐる肉体だ。安つぽさだけの放つ、ブリキの屋根の恩寵的な輝き、
うすつぺらなものだけが持つことのできる悲劇の迅速さ、十把一からげの人間だけが見せる、
あの緻密な念の入つた美しさと哀切さ。愚昧な行動だけがかもし出す夕焼けのやうな俗悪な抒情。
……すべてこれらのものに守られ、これらの規約に忠実に従つた、この種の物語を
僕はとても愛する。

三島由紀夫「スタア」より
246名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 11:02:14 ID:HTDKBdcw
幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる
力を持つてゐる。



スタアはあくまで見かけの問題よ。でもこの見かけが、世間の『本当の認識』の唯一つの型見本、
唯一つの形にあらはれた見本だといふことを、向ふ様も十分御存知なんだわ。世間だつて、
結局認識の源泉は私たちの信仰してゐる虚偽の泉から汲んで来なければならないことを
知つてるの。ただその泉には、絶対にみんなの安心する仮面がかぶせてなければ困るのよ。
その仮面がスタアなんだわ。

三島由紀夫「スタア」より
247名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 12:15:48 ID:HTDKBdcw
女の化粧がはじまると男は自分一人でゐるときよりももつと孤独になるものだ。


あれは草の上で、つやつやした白い毛を日にかがやかせて、因業な口つきで、彼と田舎娘の、
彼と誰それの、……一つ一つの寝姿をじつと見詰めてゐた。軽蔑ならまだ耐へられる。
憤りや嘲笑ならまだ耐へやすい。しかしあの目つきには耐へられない。あの山羊の
何の意味もない見詰め方に出会つては、この世界で太刀討できる人間があらうとも思はれない。
あの目つきで見つめられたら最後、人間の幸福も希望も愛情も、迅速で巧妙な殺人のやうに、
即座に消し去られてしまふのである。と謂つて殺された山羊の口もとに悪意の翳さへないことが
いよいよ救はれない。……

三島由紀夫「山羊の首」より
248名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/28(水) 19:49:28 ID:HTDKBdcw
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう!


君は見神者の疲労つて奴を知つてるか。神がかりの人間は、神が去つたあとで、
おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、
眠りもならない。神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。
ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。


僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。天は、手を汚さずに僕等に
触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。
彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。天が手を抜くと、それは死だ。
……だから僕は、あらかじめ十分用心してゐたのだつた。初めから、僕には、ラディゲは
借りものであつて、やがて返さなければならないことが分つてゐた。……


生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。

三島由紀夫「ラディゲの死」より
249名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:17:40 ID:EE6GIVu+
彼は青年にならうといふころ、皮肉(シニシズム)の洋服を誂えた。誰しも少年時には
自分に似合ふだらうと考へる柄の洋服である。次郎はしばらくこの新調の服を身に纏つて
得意であつた。……やがてこの服が自分に少しも似合はないことに気付いた。ある朝
街角の鏡の中で、女が新らしい皺を目の下に見出して絶望するやうに。……いや、
この比喩は妥当でない。次郎は皮肉の洋服が彼の年齢の弱味を隠すあまりに、年齢に対して
彼が負ふてゐる筈の義務をも忽(ゆるが)せにさせることを覚つたのである。



滑稽であるまいとしても詮ないことだ。彼自身の滑稽さを恕(ゆる)すところから始めねばならぬ。
われわれ自身の崇高さを育てやうがためには、滑稽さをも同時に育てなければならぬ……。

三島由紀夫「死の島」より
250名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:17:57 ID:EE6GIVu+
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや
透明で複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。



『目くばせをしたぞ』と次郎は自分の舟がその間を辷りゆきつつある二つの小島を仰ぎ
見ながら呟いた。『たしかに今、この二つの島は目くばせをした。島と島とが葉ごもりの
煌めきで以て目くばせをするのを僕は今たしかに見たぞ。……それもその筈だ。彼らには
僕たち人間の目が映すもののすがたが笑止と思はれるに相違ない。彼らこそこの水上の風景が
虚偽であることを知つてゐる。島と島との離隔は仮の姿にすぎず、島といふその名詞でさへ
架空のものにすぎないことを知つてゐる。水底の確乎たる起伏だけが真実のものだといふことを
知つてゐる。僕たちの目が現象の世界をしか見ることが出来ないのを、彼らは目まぜして
嗤(わら)つてゐるのだ』

三島由紀夫「死の島」より
251名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:18:17 ID:EE6GIVu+
形式とは、僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の優美なことは、
およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を負かす。あれは
僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……



『あの雨上りの街路のやうな小島は、その街路を雨後に這い出した甲虫(かぶとむし)のやうな
つややかな乗用車が連なつて疾駆することもなく、永遠に人の住まない空つぽな街の
街路であるにとどまるだらう』……次郎は遠ざかる島影を見ながら、かう心に呟いた。
『きつとさうだらう。人間の関与を拒むやうな美が、愛の解熱剤として時には必要だ』
……それは葡萄に手が届かなかつた狐の尤もらしい弁疏(べんそ)であつた。

三島由紀夫「死の島」より
252名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:10:43 ID:u3ILPJTj
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。生れて来て何を
最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて不幸を幸福だと
思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。


幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。


一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気が
あたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を
止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。


愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
253名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:11:01 ID:u3ILPJTj
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。


恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。五なら五、六なら六だけ
生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、函数なんです。


夜の空に太陽を探しだすのはむづかしい。向日葵が戸惑つてゐるのも無理はない。
……しかし夜は長くない。いづれ朝が来る。向日葵は朝になればにつこりする。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
254名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:11:15 ID:u3ILPJTj
あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。



人のために生きるのが偶像の運命ですよ。



あたくしは人造真珠なの。どこまで行つてもあたくしは造花なの。もしあたくしが豚だつたら、
真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしぢゆう
思つてゐることは、豚が時たま自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。

大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
255名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:11:36 ID:u3ILPJTj
もう一度仰言つて下さい。「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。生れながらの
けだかい白い肌の言はせる言葉だ。私はその言葉が好きです。どうかもう一度……

三島由紀夫「朝の躑躅」より
256名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:29:39 ID:u3ILPJTj
辷り台を辷り下りるとき、子供はどんなにうれしさうな顔をするか。辷り下りるといふことは
素晴らしいことなのにちがひない。重力の法則、この一般的な法則のなかで人は自由になる。
その他の個別的な法則はどこかへ飛んでいつてしまふ。
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。


自殺をすれば、国民貯蓄課の属官たちはかう言ふにちがひない。『前途有為な青年が
どうして自殺なんかするのだらう』前途有為といふやつは、他人の僭越な判断だ。
大体この二つの観念は必ずしも矛盾しない。未来を確信するからこそ自殺する男もゐるのだ。


土曜日の午後がはじまつてゐた。『土曜日は人魚だ』と一雄は思つた。『半ドンの
正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚だ。俺も魚の部分で、思ひきり
泳いでいけないといふ法はないわけだな』

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
257名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:29:55 ID:u3ILPJTj
一雄は醜い女もきらひではなかつた。本当に男を尊敬できるのは、劣等感を持つた女だけだ。


女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。


犬だつて女のやうな表情をうかべることがある。


この世には無害な道楽なんて存在しないと考えたはうが賢明だ。


国民の自覚、といふ言葉で、誰も吹き出さなかつたのはふしぎだつた。「国民」とか
「自覚」とかの言葉には、場末で売つてゐる平べつたいコロッケ、藷(いも)と一緒に
古新聞の切れつぱしなんぞの入つてゐる冷たいコロッケのやうな、妙にユーモラスな
味はひがある。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
258名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:30:09 ID:u3ILPJTj
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。いつもでは困るが、
一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。


彼はふと自分が流行歌手になつてゐるところを想像した。マドロスの扮装をし、
ドーランを塗り、にやけた表情をする。この空想が彼を刺戟した。歌うたひにはみんな
白痴的な素質がある。歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。
或る流露感だけに涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。
この非流動的な、ごつごつした、骨や肉や血や内蔵から成立つたぶざまな肉体といふもの。
これが問題だ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
259名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:30:21 ID:u3ILPJTj
二十九歳まで童貞でゐられるとはすばらしい才能だ。世界の半分を無瑕(むきず)で
とつておく。それまで女をドアの外に待たして、ゆつくり煙草を吹かしたり、国家財政を
研究したりしてゐたのだ。
決して急がない男がゐるものだ。世間で彼は「自信のある男」と呼ばれる。蝿取紙のやうに
ぶらぶら揺れて待つてゐる。人生が蝿のやうに次々とくつつくのだ。かういふ男は
どんなに蝿を馬鹿と思ひ込んで、一生を終るだらう。事実は、蝿取紙に引つかからない
利口な蝿もゐることはゐるのだが。


不死は、子や孫にうけつがれるなんて嘘だ。不死の観念は他人にうけつがれるのだ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
260名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:58:13 ID:u3ILPJTj
どんか死でもあれ、死は一種の事務的な手続である。



一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?



われわれには死者に対してまだなすべき多くのことが残つてゐる。悔恨は愚行であり、
ああもできた、かうも出来たと思ひ煩らふのは詮ないことであるが、それは死者に対する
最後の人力の奉仕である。われわれは少しでも永いあひだ、死を人間的な事件、人間的な
劇の範囲に引止めておきたいと希(ねが)ふのである。



記憶はわれわれの意識の上に、時間をしばしば並行させ重複させる。

三島由紀夫「真夏の死」より
261名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:58:31 ID:u3ILPJTj
事実らしさを超えて事実がありうるのはふしぎなことだ。子供が一人海で溺れれば、
誰しも在りうることと思ひ、事実らしいと思ふであらう。しかし三人となると滑稽だ。
しかし又、一万人となれば話は変つてくる。すべて過度なものには滑稽さがあるが、
と謂つて大天災や戦争は滑稽ではない。一人の死は厳粛であり、百万人の死は厳粛である。
一寸した過度、これが曲者なのである。



悲嘆の博愛を信じろと云つても困難である。悲しみは最もエゴイスティックな感情だからである。



生きてゐるといふことは、何といふ残酷さだ。
…この残酷な生の実感には、深い、気も遠くなるほどの安堵があつた。

三島由紀夫「真夏の死」より
262名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:58:49 ID:u3ILPJTj
あれほどの不幸に遭ひながら、気違ひにならないといふ絶望、まだ正気のままでゐるといふ絶望、
人間の神経の強靭さに関する絶望、さういふものを朝子は隈なく味はつた。
…われらを狂気から救ふものは何ものなのか? 生命力なのか? エゴイズムなのか?
狡さなのか? 人間の感受性の限界なのか? 狂気に対するわれわれの理解の不可能が、
われわれを狂気から救つてゐる唯一の力なのか? それともまた、人間には個人的な不幸しか
与へられず、生に対するどんな烈しい懲罰も、あらかじめ個人的な生の耐へうる度合に於て、
与へられてゐるのであらうか? すべては試煉にすぎないのであらうか? しかしただ
理解の錯誤がこの個人的な不幸のうちにも、しばしば理解を絶したものを空想するに
すぎないのであらうか?



事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、
そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。

三島由紀夫「真夏の死」より
263名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/31(土) 10:59:09 ID:u3ILPJTj
われわれの生には覚醒させる力だけがあるのではない。生は時には人を睡(ねむ)らせる。
よく生きる人はいつも目ざめてゐる人ではない。時には決然と眠ることのできる人である。
死が凍死せんとする人に抵抗しがたい眠りを与へるやうに、生も同じ処方を生きようと
する人に与へることがある。さういふとき生きようとする意志は、はからずもその意志の
死によつて生きる。
朝子を今襲つてゐるのは、この眠りであつた。支へきれない真摯、
固定しようとする誠実、かういふものの上を生はやすやすと軽やかに跳びこえる。
もちろん朝子が守らうとしたものは誠実ではない。守らうとしたのは、死の強ひた一瞬の感動が、
意識の中にいかに完全に生きたかといふ試問である。この試問は多分、死もわれわれの
生の一事件にすぎないといふ残酷な前提を、朝子の知らぬ間に必要としたのである。



男性は通例その移り気に於て女性よりも感傷的なものである。

三島由紀夫「真夏の死」より
264名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/01(日) 10:13:28 ID:Y0MTRyMp
外で威張つてゐる女ほど、どこかに肉体的劣等感を持つてゐる。



外人の男たちの、鶏みたいな、半透明な血の色の透けてみえる、ひどく老化の早い、汚ならしい肌。



動物的といふ見地から言つたら、こんな西洋人より、日本の若い男のはうが、ずつと
動物的な美しさを持つてゐる。つまり動物的なしなやかさと、弾力と、無表情な美しさとを。



愛される人間の自己冒涜の激烈なよろこびは、どこまで行くかはかり知れない。
愛する人間は、どんな地獄の底までもそれを追つかけて行かなければならないのだ。

三島由紀夫「肉体の学校」より
265名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/01(日) 10:13:44 ID:Y0MTRyMp
つまらない機能上の男らしさにこだはつてゐる男のうち、性的魅力のこれつぽちもない哀れな
情ない男が、心の中では彼を少しも愛してゐない女の上に立つて、どんな男性的行動に
いそしまうが、それが一体何だらうか。
男にしろ、女にしろ、肉体上の男らしさ女らしさとは、肉体そのものの性のかがやき、
存在全体のかがやきから生れる筈のものである。それは部分的な機能上の、見栄坊な
男らしさとは何の関係もない。そこにゐるだけで、そこにただ存在してゐるだけで、
男の塊りであるやうな男は、どんなことをしたつて、男なのである。

三島由紀夫「肉体の学校」より
266名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:23:29 ID:3BnioFNo
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦(いくさ)のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉(ことごと)く腐蝕せられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り

三島由紀夫「英霊の声」より
267名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:25:56 ID:3BnioFNo
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の蛍光燈に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔(あまが)けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に、
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし

三島由紀夫「英霊の声」より
268名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:34:46 ID:3BnioFNo
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が
海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。
徒に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、喚(おら)び、猛き獣のごとく
この小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。


われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁(とど)める力は
何一つない。われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を
流したからだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
269名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:49:48 ID:3BnioFNo
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる
救済の風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。


われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
270名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:53:17 ID:3BnioFNo
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねば
ならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。
そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とを
つなぐ唯一条の糸があるからだ。そして陛下は決して、人の情と涙によつて、われらの死を
救はうとなさつたり、われらの死を妨げようとなさつてはならぬ。神のみが、このやうな
非合理な死、青春のこのやうな壮麗な屠殺によつて、われらの生粋の悲劇を成就させて
くれるであらうからだ。さうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだらう。
われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下るだらう。神の死ではなくて、奴隷の死を
死ぬことになるだらう。……

三島由紀夫「英霊の声」より
271名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:56:09 ID:3BnioFNo
陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、
そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと
人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、
たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。
清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、
人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は
人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。
それを二度とも陛下は逸したまふた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
272名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 12:57:56 ID:3BnioFNo
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を
失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた。


もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか。

三島由紀夫「英霊の声」より
273名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 13:02:31 ID:3BnioFNo
陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず。

三島由紀夫「英霊の声」より
274名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/02(月) 13:06:50 ID:3BnioFNo
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「英霊の声」より
275名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/03(火) 15:37:21 ID:6uLzjPtI
不吉な宝石によつて投げかけられる凶運の翳といふものを人々はもはや信じまい。
尤もさういふ不信が現代の誤謬でないとは誰も言へまい。現代人は自分の外部に、すべて
内部の観念の対応物をしかみとめない。宝石などといふ純粋物質の存在をみとめない。
しかし人間の内部と全く対応しない一物質を、古代の人たちは物質と呼ばずに運命と
呼んだのではなからうか。精神のうちでも決して具象化されない純粋な精神が、外部に
存在して、ただ一つの純粋物質としてわれわれの内部を脅やかすに至つたのではあるまいか。
死、生、社会、戦争、愛、すべてをわれわれは内部を通じて理解する。しかし決して
われわれの内部を通過しないところの精神の「原形」が、外部からただ一つの純粋物質として
われわれを支配するのではあるまいか。ともすると宝石は、精神の唯一の実質ではなからうか。

三島由紀夫「宝石売買」より
276名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/03(火) 15:42:14 ID:6uLzjPtI
報ひとは何だらう。そんなものがあつてよいだらうか。報ひといふ考へ方は、いま悪果を
うけてゐる者が、むかしの悪因の花々しさに思ひを通はす、殊勝らしい身振にすぎぬではないか。


貴族とは没落といふ一つの観念を誰よりも鮮やかに生きる類ひの人間であつた。たとへば
「出世」といふ行為を離れてはありえぬ「出世」といふ観念を人は純粋に生きることが
できないが、そこへゆくと、没落といふ観念はもともと没落といふ行為とは縁もゆかりも
ないものなのである。没落を生きてゐるのではなく、「失敗した出世」を生きてゐることにならう。
没落といふ観念を全的に生きるためには、決して没落してはならなかつた。落下の危険なしに
サーカスは考へられないが、本当に落ちてしまつたらそれはもはやサーカスではなくて、
一つの椿事にすぎないのと同じやうに。

三島由紀夫「宝石売買」より
277名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/03(火) 15:45:13 ID:6uLzjPtI
女性のもつ人道的感情はきはめて麗はしいもので、多くの場合、審美的でさへあるのである。


女の宝石をほめるのは、面と向つてその体をほめるやうなものではなからうか。宝石への
誉め言葉が時あつてふしぎな官能の歓びを女に与へるのはそのためだ。


この人は自分の軽薄さを実に軽薄に扱ふ術を心得てゐる。真底から軽薄な人間の遠く及ばない
完全無欠な軽薄さだ。つまり真底から軽薄な人間は自分の軽薄さの自己弁護についてだけは真剣に
ならざるをえないのだから。その範囲で彼の軽薄さは不完全なものにならざるをえないのだから。

三島由紀夫「宝石売買」より
278名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/03(火) 15:51:43 ID:6uLzjPtI
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明するものと
同様に、『お金』の他にはありません。打算があつてこそ『打算のない行為』もあるのですから、
いちばん純粋な『打算のない行為』は打算の中にしかありえないわけです。夜があつてこそ
昼があるのだから、昼といふ観念には『夜でない』といふ観念が含まれ、その観念の最も
純粋な生ける形態は夜の只中にしかないやうに、又いはば、深海魚が陸地に引き揚げられて
形がかはつてゐるのに、さういふ深海魚をしか見ることのできない人間が、夜の中になく
夜の外にある昼のみを昼と呼び、打算の中になく打算の外にある『打算なき行為』だけを
『打算なき行為』とよぶ誤ちを犯してゐるわけなのです。

三島由紀夫「宝石売買」より
279名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/03(火) 15:55:09 ID:6uLzjPtI
値踏みといへば、五千円といふまちがへやうもない名前をつけてやる行為です。世間一般でよぶ
鷲の剥製といふ名の代りに、値踏みをする人は五千円といふ特別誂への名でよびかけます。
すると鷲の剥製は、魔法の名で呼ばれたつかはしめの鳥のやうに歩き出して彼に近づいて
くるのです。
…人形に魂を吹き入れて『立て!』といふとき、魔女たちはこれに似た感情を味はひは
しないでせうか。人は値踏みによつてのみ対象に生命を賦与(あた)へることができるのです。
これ以上打算のない行為があるでせうか。

三島由紀夫「宝石売買」より
280名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/03(火) 15:58:23 ID:6uLzjPtI
何度失敗してもまた未練らしく試みられて際限がないあの錬金術同様に、打算のない行為といふ
ものは、何度失敗しても飽きることなく求められて来ました。はじめそれは精神の世界で
探されました。宗教がさうですね。お互ひが真に孤独でなければ出来ない行為は、精神の
世界では、愛がその最高のものであり、もしかしたら唯一のものかもしれません。そこで
打算のない行為の原型が愛に求められました。しかし残念なことに、愛は対象の属性には
決してなりえないといふ法則が発見されたのです。これがつまり基督の昇天です。彼の愛は
人間の属性になるには耐へなかつた。孤独の属性になるには耐へなかつた。


嘘つきにみえる方が正直にみえるより得ではなくつて? だつて安心して本当のことが
言へますもの。

三島由紀夫「宝石売買」より
281名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 16:36:57 ID:bZsNKgza
私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきであつた
姿しか、私にとつては重要でない。鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、
肉体のうちに失はれかかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべきであつた姿に
押し戻す働らきをした。


あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。
英雄に対する嘲笑は、肉体的に自分が英雄たるにふさはしくないと考へる男の口から出るに
決まつてゐる。


私はかつて、彼自身も英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、
英雄主義に対する嘲笑がひびくのをきいたことがない。シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か
過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛へられた筋肉と関係あるのだ。
なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊との
コントラストに帰するからであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
282名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 16:43:24 ID:bZsNKgza
敵とは、「見返す実在」とは、究極的には死に他ならない。誰も死に打ち克つことが
できないとすれば、勝利の栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。


私の文体は対句に富み、古風な堂々たる重味を備へ、気品にも欠けてゐなかつたが、
どこまで行つても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で通り抜けた。
私の文体はつねに軍人のやうに胸を張つてゐた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、
膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振つたりしてゐる他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。
しかしそれは他人に委せておけばすむことだつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
283名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 16:45:41 ID:bZsNKgza
私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして敗れることも、
ましてや、戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる
戦ひといふものの、芸術における虚偽の性質を知悉してゐた。もしどうしても私が戦ひを
欲するなら、芸術においては砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。
芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においてはよき戦士でなければならぬ。


「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の
花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する
二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
284名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 16:49:09 ID:bZsNKgza
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに
謎はなく、謎は死だけになつた。


私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点に
あるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる
世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。


われわれは「絶対」を待つ間の、つねに現在進行の虚無に直面するときに、何を試みるかの
選択の自由だけが残されてゐる。いづれにせよ、われわれは準備せねばならぬ。この準備が
向上と呼ばれるのは、多かれ少なかれ、人間の中には、やがて来るべき未見の「絶対」の絵姿に、
少しでも自分が似つかはしくなりたいといふ哀切な望みがひそんでゐるからであらう。
もつとも自然で公明な欲望は、自分の肉体も精神も、ひさしくその絶対の似姿に近づきたいと
のぞむことであらう。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
285名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 16:53:25 ID:bZsNKgza
七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡素な遺書は、
明らかに幾多の既成概念のうちからもつとも壮大なもつとも高貴なものを選び取り、
心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする
矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし
既成の言葉とはいへ、それは並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる
格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつてわれわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。


私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。


肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い
水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の
液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、
ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇性が必要だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
286名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 17:05:27 ID:bZsNKgza
私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を
嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる
最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます
遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。


私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を
寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は
浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
287名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/04(水) 17:24:40 ID:bZsNKgza
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて
歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、
したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で
宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。
酸素マスクといふ仮面を。
精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで
会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔を
あらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ
舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。
二人揃つて来なくては受け容れられぬ。


ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、
かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。

三島由紀夫「太陽と鉄」より
288名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:10:00 ID:q8KZkWJe
素足で歩いては足が傷ついてしまふ。歩くためには靴が要るやうに、生きてゆくためには
何か出来合ひの「思ひ込み」が要つた。


悦子は明日に繋ぐべき希望を探した。何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。
それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。明日にのこつてゐる繕ひものとか、
明日立つことになつてゐる旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎ののこりの僅かな酒とか、
さういふものを人は明日のために喜捨する。そして夜明けを迎へることを許される。


われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ。


苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事ができるものではない。

三島由紀夫「愛の渇き」より
289名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:12:42 ID:q8KZkWJe
生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。


われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて
軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。それは背中から刺された
匕首(あいくち)だ。

人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしない
といふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。


この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される。

三島由紀夫「愛の渇き」より
290名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:21:22 ID:q8KZkWJe
ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。
人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平に、悦子は何ら抵抗を感じなかつた。
『容易なはうがいいにきまつてゐる』と彼女は考へた。『なぜかといへば、生きることが
容易な人は、その容易なことを生きる上の言訳になどしないからだ。それといふのに、
困難のはうはすぐ生きる上の言訳にされてしまふ。生きることが難しいなどといふことは
何も自慢になどなりはしないのだ。わたしたちが生の内にあらゆる困難を見出す能力は、
ある意味ではわたしたちの生を人並に容易にするために役立つてゐる能力なのだ。
なぜといつて、この能力がなかつたら、わたしたちにとつての生は、困難でも容易でもない
つるつるした足がかりのない真空の球になつてしまふ。この能力は生がさう見られることを
遮(さまた)げる能力であり、生が決してそんな風に見えては来ない容易な人種の、
あづかり知らぬ能力であるとはいへ、それは何ら格別な能力ではなく、ただの日常必需品に
すぎないのだ。人生の秤をごまかして、必要以上に重く見せた人は、地獄で罰を受ける。
そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに意識されない重みであつて、外套を
着て肩が凝るのは病人なのだ。

三島由紀夫「愛の渇き」より
291名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:29:18 ID:q8KZkWJe
下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。


人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間におそらく人は
普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底に横たはつたのちも、
折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき豊饒さを、再びわれわれに向つて
暗示するのであるが、運命的なこの瞬間を避けることは誰にもできず、そのために
どんな人間も自分の目が見得る以上のものを見てしまつたといふ不幸を避けえないのである。


あまりに永い苦悩は人を愚かにする。苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を
疑ふことができない。


嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に近づくのである。


衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが
この世にあらうか。

三島由紀夫「愛の渇き」より
292名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:47:04 ID:q8KZkWJe
世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないといふ気持と、世界が無意味だから、
死んでもかまはないといふ気持とは、どこで折れ合ふのだらうか。


人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。もつとも、いつでも死ねる気でなくては、
さういふ心境にはなれませんがね。生きたいといふ欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せて
しまふんです。


自殺だけは、どう考へても億劫な気がした。折角自堕落かいい気持になつてゐるときに、
つい目と鼻の先にあるタバコをとりに立つ気がどうしてもしない。十分タバコを喫みたい気は
あるのだが、ここから手をのばしても届かないことのわかつてゐるタバコをとりに立つことが、
何だか故障した自動車の後押しをたのまれるほど、しんどい仕事に思はれる。それがつまり
自殺なのだ。


人生が無意味だ、といふのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーが
要るものだ。

三島由紀夫「命売ります」より
293名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:47:49 ID:q8KZkWJe
孤独な人間はお互ひの孤独を、犬のやうにすぐ嗅ぎわけるのだ。
…さういふ人間に限つて、自分の巣をきらびやかに飾る習性があるのはふしぎなことだ。


羽仁男の考へは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に生きるといふ
考へだつた。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかつた。
まづ意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面するといふ人間は、
ただのセンチメンタリストだつた。命の惜しい奴らだつた。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座してゐることが
明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする必要があるだらう。

三島由紀夫「命売ります」より
294名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/06(金) 11:48:18 ID:q8KZkWJe
何の組織にも属さないで、しかも命を惜しまない男もゐるといふことを知らなくちやいかん。
それはごく少数だらう。少数でも必ずゐるんだ。


命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはゐないからね。犯人になるのは、
命を買つて悪用しようとした人間のはうだ。命を売る奴は、犯人ぢやない。ただの人間の屑だ。
それだけだよ。

三島由紀夫「命売ります」より
295名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 11:51:33 ID:pc0vTGuq
まやかしの平和主義、すばらしい速度で愚昧と偸安への坂道を辷り落ちてゆく人々、
にせものの経済的繁栄、狂はしい享楽慾、世界政治の指導者たちの女のやうな虚栄心……
かういふものすべては、仕方なく手に委ねられた薔薇の花束の棘のやうに彼の指を刺した。
…重一郎は世界がこんな悲境に陥つた責任を自分一人の身に負ふて苦しむやうになつた。
誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、この砕けおちた世界の硝子のかけらの上を、
血を流して跣で歩いてみせなければならぬ。


一人の人間が死苦にもだえてゐるとき、その苦痛がすべての人類に、ほんのわづかでも
苦痛の波動を及ぼさないとは何事だらう! こんな肉体的苦痛の明確な個人的限界に
つきあたると、重一郎は又しても深い絶望に沈んだ。どうしてあの原子爆弾の怖ろしい
苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な体験だけで頒(わか)たれることに
なつたのだらう。

三島由紀夫「美しい星」より
296名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 11:54:01 ID:pc0vTGuq
いやが上にも凡庸らしく、それが人に優れた人間の義務でもあり、また、唯一つの自衛の
手段なのだ。


今や人類は自ら築き上げた高度の文明との対決を迫られてをり、その文明の明智ある
支配者となるか、それともその文明に使役された奴隷として亡びるか、二つに一つの
決断を迫られてゐる。


アメリカは、広島への原爆の投下によつて、自らの手を汚しました。これは彼らの歴史の
永久に落ちぬ汚点となりました。


あるべきだと考へるものは、決してこの世に存在しない。しかし何かが存在しないなら、
それが存在すべきだつた。


肉の交はりはそもそも心の交合の模倣であり、絶望から生れた余儀ない代償ではないだらうか。

三島由紀夫「美しい星」より
297名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:06:20 ID:pc0vTGuq
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために
作つた言葉だよ。偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに
身を隠してゐるのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。人智が
探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、さらに
精巧な必然は、まだ人間の目には隠されてをり、わずかに迂遠な宗教的方法でそれを
揣摩してゐるにすぎないのだ。宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ
真の必然が隠されてゐるのだが、天はこれを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののやうに
見せかけるために、悪戯つぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。

三島由紀夫「美しい星」より
298名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:10:13 ID:pc0vTGuq
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために
作つた言葉だよ。偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに
身を隠してゐるのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。人智が
探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、さらに
精巧な必然は、まだ人間の目には隠されてをり、わずかに迂遠な宗教的方法でそれを
揣摩してゐるにすぎないのだ。宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ
真の必然が隠されてゐるのだが、天はこれを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののやうに
見せかけるために、悪戯つぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。人間どもは
まことに単純で浅見だから、まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく見える現象には、
持ち前の虚栄心から喜んで飛びつくが、一見ばかばかしい事柄やノンセンスには、
それ相応の軽い顧慮を払ふにすぎない。

三島由紀夫「美しい星」より
299名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:15:57 ID:pc0vTGuq
かうした人間はいつも天の必然にだまし討ちにされる運命にあるのだ。なぜなら天の必然の
白い美しい素足の跡は、一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに印されてゐるのだから。
恋し合つてゐる者同士は、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。それだけならふしぎもないが、
憎み合つてゐて、お互ひに避けたいと思つてゐる同士も、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。
この二例を人間の論理で統一すると、愛憎いづれにしろ、関心を持つてゐる人間同士は
否応なしに偶然に会ふといふことになる。人間の論理はそれ以上は進まない。しかし
われわれ宇宙人の鳥瞰的な目は、もつと広大な展望を持つてゐる。そこから見ると、
関心を抱き合ひつつ偶然に会ふ人の数とは比べものにならぬほど、人間どもは、電車の中、
町中で、何ら関心を持ち合はない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会つてゐるのだ。
おそらく一生に一度しか会はない人たちと、奇蹟的にも、日々、偶然に会つてゐるのだ。

三島由紀夫「美しい星」より
300名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:17:17 ID:pc0vTGuq
ここまでひろげられた偶然は、もう大きな見えない必然と云ふほかはあるまい。仏教徒だけが
この必然を洞察して、『一樹の蔭』とか『袖触れ合ふも他生の縁』とかの美しい隠喩で
それを表現した。そこには人間の存在にかすかに余影をとどめてゐる『星の特質』が
うかがはれ、天体の精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。実はそこには、それよりも
さらに高い必然の網目の影も落ちかかつてゐるのだが……。

三島由紀夫「美しい星」より
301名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:21:49 ID:pc0vTGuq
かつて叫ばれた八紘一宇といふ言葉は、かかる文明史的予言であつたものを、軍閥に
利用されて、卑小な意味に転化されたのだ。


世界連邦の理念は、国際連合的な悪平等の上に立つてにつちもさつちも行かなくなるやうな
ものではなく、文明史的潮流の予言的洞察の上に立ち、日本といふ個と、世界といふ全体との、
お互ひがお互ひを包み込むやうな多次元的綜合(!)に依るべきである。


人間には三つの宿命的な病気といふか、宿命的な欠陥がある。
その一つは事物への関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは
神への関心である。人類がこの三つの関心を捨てれば、あるひは滅亡を免れるかもしれないが、
私の見るところでは、この三つは不治の病なのです。

三島由紀夫「美しい星」より
302名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:23:57 ID:pc0vTGuq
いくら人間が群をなして集まつても、宇宙法則の中で『生命』といふものが例外的なものに
すぎないといふ無意識の孤独感は拭はれず、人間はとりわけ物に、無機物き執着します。
金貨と宝石とは人間の生命と生活に対する一等冷淡な対立物であるにもかかはらず、
さういふ物質をとらへて、人間的色彩をこれに加へ、人間的臭気をこれに与へることに
人々は熱中して来ました。そのうちに人間は物に馴れ親しみ、物の運動と秩序のなかに、
人間の本質をみつけ出すやうにさへなつたのです。
そして有機物にすら、生きて動いてゐる猫にすら、人間の惹き起す事件にすら、いや、
人間そのものにすら、物の属性を与へなくては安心できぬやうになつた。物の属性を
即座に与へることが事物に完結性の外観をもたらし、人間が恒久性の観念と故意を
ごつちやにしてゐる『幸福』の外観をもたらすからです。

三島由紀夫「美しい星」より
303名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:24:47 ID:pc0vTGuq
かやうに人間の事物への関心は、時間の不可逆性からつねに自分を救ひ出さうとする欲求で、
三十年前にロンドンで買つた傘を愛用してゐる紳士も、今年の夏の流行の水着を身につける女も、
三十年間にしろ、一ヵ月にしろ、その時間を代表する物質に自分を閉じ込めて安心するのです。
物質に対する人間の支配は、暗々裡に、いつも物質の最終的な勝利を認めてきた。
さうでなかつたら、どうして地球上に、あんなに沢山、石や銅や鉄のいやらしい記念碑や
建築物やお墓が残つてゐる筈がありませう。さて、そこで人間は、最後に、物質の性質を
ある程度究明して、原子力を発見したのです。水素爆弾は人間の到達したもつとも逆説的な
事物で、今人間どもは、この危険な物質の裡に、究極の『人間的』幻影を描いてゐるのです。

三島由紀夫「美しい星」より
304名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:26:31 ID:pc0vTGuq
性慾は実は人間的関心ではないのです。それは繁殖と破壊の間から、世界の薄明を
覗き見る行為です。


彼らはみな、苦痛が決して伝播しないこと、しかも一人一人が同じ苦痛の『条件』を
荷つてゐることを知悉してゐるのです。
人間の人間に対する関心は、いつもこのやうな形をとります。同じ存在の条件を荷ひながら、
決して人類共有の苦痛とか、人類共有の胃袋とかいふものは存在しないといふ自信。……


政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで
普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと
人類共有の文化的遺産になります。しかし苦痛がさうなつては困るのです。大演説の最中に
政治的指導者の奥歯が痛みだしたとき、数万の聴衆の奥歯が同時に痛みだしては困るのです。

三島由紀夫「美しい星」より
305名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:31:32 ID:pc0vTGuq
神のことを、人間は好んで真理だとか、正義だとか呼びたがる。しかし神は真理自体でもなく、
正義自体でもなく、神自体ですらないのです。それは管理人にすぎず、人知と虚無との
継ぎ目のあいまいさを故ら維持し、ありもしないものと所与の存在との境目をぼかすことに
従事します。何故なら人間は存在と非在との裂け目に耐へないからであるし、一度人間が
『絶対』の想念を心にうかべた上は、世界のすべてのものの相対性とその『絶対』との間の
距離に耐へないからです。遠いところに駐屯する辺境守備兵は、相対性の世界をぼんやりと
絶対へとつなげてくれるやうに思はれるのです。そして彼らの武器と兜も、みんな人間が
稼いで、人間が貢いでやつたものばかりです。

三島由紀夫「美しい星」より
306名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:33:50 ID:pc0vTGuq
神への関心のおかげで、人間はなんとか虚無や非在や絶対などに直面しないですんできました。
だから今もなほ、人間は虚無の真相について知るところ少く、虚無のやうな全的破壊の原理は
人間の文化内部には発生しないと妄信してゐる人間主義の愚かな名残で、人知が虚無を
作りだすことなどできないと信じてゐます。
本当にさうでせうか? 虚無とは、二階の階段を一階へ下りようとして、そのまますとんと
深淵へ墜落すること。花瓶へ花を活けようとして、その花を深淵へ投げ込んでしまふこと。
つまり目的を持ち、意志から発した行為が、行為のはじまつた瞬間に、意志は裏切られ、
目的は乗り超へられて、際限なく無意味なもののなかへ顛落すること。要するに、
あたかも自分が望んだがごとく、無意味の中へダイヴすること。あらゆる形の小さな失錯が、
同種の巨大な滅亡の中へ併呑されること。……人間世界では至極ありふれた、よく起る
事例であり、これが虚無の本質なのです。

三島由紀夫「美しい星」より
307名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:35:22 ID:pc0vTGuq
科学的技術は、ふしぎなほど正確に、すでに瀰漫してゐた虚無に点火する術を知つてゐます。
科学的技術は人間が考へてゐるほど理性的なものではなく、或る不透明な衝動の抽象化であり、
錬金術以来、人間の夢魔の組織化であり、人間どもが或る望まない怪物の出現を夢みると、
科学的技術は、すでに人間どもがその望まない怪物を望んでゐるといふことを、証明して
みせてくれるのです。そこで、人間をすでにひたひたと浸してゐた虚無に点火される日が
やつてきました。それは気違いじみた真赤な巨大な薔薇の花、人間の栽培した最初の虚無、
つまり水素爆弾だつたのです。
しかし未だに虚無の管理者としての神とその管理責任を信じてゐる人間は、安心して
水爆の釦を押します。十字を切りながら、お祈りをしながら、すつかり自分の責任を免れて、
必ず、釦を押します。

三島由紀夫「美しい星」より
308名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:43:39 ID:pc0vTGuq
平和は自由と同様に、われわれ宇宙人の海から漁られた魚であつて、地球へ陸揚げされると
忽ち腐る。平和の地球的本質であるこの腐敗の早さ、これが彼らの不満のたねで、彼らが
しきりに願つてゐる平和は、新鮮な瞬間的な平和か、金属のやうに不朽の恒久平和かの
いづれかで、中間的なだらだらした平和は、みんな贋物くさい匂ひがするのです。


人類はまだまだ時間を征服することはできない。だから人類にとつての平和や自由の観念は、
時間の原理に関はりがあり、その原理によつて縛られてゐる。時間の不可逆性が、
人間どもの平和や自由を極度に困難にしてゐる宿命的要因なのです。

三島由紀夫「美しい星」より
309名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:45:58 ID:pc0vTGuq
私が彼らの想像力に愬(うつた)へようとしたやり方は、破滅の幻を強めて平和の幻と同等にし、
それをつひには鏡像のやうに似通はせ、一方が鏡中の影であれば、一方は必ず現実であると
思はせるところまで、持つて行く方法でした。空飛ぶ円盤の出現は、人間理性をかきみだす
ためだつたし、理性を目ざめさせるにはその敵対物の陶酔しかないことを、理性自体に
気づかせるのが目的であつた。そしてわれわれの云ふ陶酔とは、時間の不可逆性が崩れること、
未来の不確実性が崩れること、すなはち、欲望を持ちえなくなること、――何故なら
人間の欲望はすべて時間が原因であるから――、これらもろもろの、人間理性の最後の
自己否定なのでした。人間の純粋理性とは、経験を可能にする先天的な認識能力のすべてを
云ふのださうで、人間の経験は欲望の、すなはち時間の原則に従つて動くからです。
私は未開の陶酔を人間どもに教へようとしたのでした。そこでこそ現在が花ひらき、
人間世界はたちどころに光輝を放ち、目前の草の露がただちに宝石に変貌するやうな陶酔を。

三島由紀夫「美しい星」より
310名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:55:55 ID:pc0vTGuq
私が私の予見を語らないのは、それが語られると同時に、地球の人類の宿命になつてしまふからだ。
動いてやまない人間を静止させるのが私の指命だとしても、それを宿命の形で静止させるのを
私は好まない。あくまで陶酔、静かな、絶対に欲望を持たない陶酔のうちに、彼らを
休らはすのが私の流儀なのだ。
人間の政治、いつも未来を女の太腿のやうに猥褻にちらつかせ、夢や希望や
『よりよいもの』への餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、
未来の暗黒へ向つて人々を鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まらうとする
あの政治、……あれをしばらく陶酔のうちに静止させなくてはいかん。

三島由紀夫「美しい星」より
311名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 12:59:48 ID:pc0vTGuq
歴史上、政治とは要するに、パンを与へるいろんな方策だつたが、宗教家にまさる政治家の知恵は、
人間はパンだけで生きるものだといふ認識だつた。この認識は甚だ貴重で、どんなに
宗教家たちが喚き立てやうと、人間はこの生物学的認識の上にどつかと腰を据へ、健全で
明快な各種の政治学を組み立てたのだ。
さて、あなたは、こんな単純な人間の生存の条件にはつきり直面し、一たびパンだけで
生きうるといふことを知つてしまつた時の人間の絶望について、考へたことがありますか?
それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だらうと思ふ。何か悲しいことがあつて、
彼は明日自殺しようとした。今日、彼は気が進まぬながらパンを喰べた。彼は思ひあぐねて
自殺を明後日に延期した。明日、彼は又、気が進まぬながらパンを喰べた。自殺は一日のばしに
延ばされ、そのたびに彼はパンを喰べた。……或る日、彼は突然、自分がただパンだけで、
純粋にパンだけで、目的も意味もない人生を生きてゐることを発見する。

三島由紀夫「美しい星」より
312名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:01:56 ID:pc0vTGuq
自分が今現に生きてをり、その生きてゐる原因は正にパンだけなのだから、これ以上
確かなことはない。 彼はおそろしい絶望に襲はれたが、これは決して自殺によつては
解決されない絶望だつた。何故なら、これは普通の自殺の原因となるやうな、生きてゐる
といふことへの絶望ではなく、生きてゐること自体の絶望なのであるから、絶望が
ますます彼を生かすからだ。
彼はこの絶望から何かを作り出さなくてはならない。政治の冷徹な認識に復讐を企てるために、
自殺の代りに、何か独自のものを作り出さなくてはならない。そこで考へ出されたことが、
政治家に気づかれぬやうに、自分の胴体に、こつそり無意味な風穴をあけることだつた。
その風穴からあらゆる意味が洩れこぼれてしまひ、パンだけは順調に消化され、永久に、
次のパンを、次のパンを、次のパンを求めつづけること。生存の無意味を保障するために、
彼らにパンを与へつづけることを、政治家たち統治者たちの、知られざる責務にして
しまふこと。しかもそれを絶対に統治者たちには気づかせぬこと。

三島由紀夫「美しい星」より
313名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:03:21 ID:pc0vTGuq
この空洞、この風穴は、ひそかに人類の遺伝子になり、あまねく遺伝し、私が公園のベンチや
混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情の素になつたのだ。
こいつらは組織を好み、地上のいたるところに、趣きのない塔を建ててまはる。私はそれらを
ひとつひとつ洞察して、つひには支配者の胴体、統治者の胴体にすら、立派な衣服の下に
小さな風穴の所在を嗅ぎつけたのだ。
今しも地球上の人類の、平和と統一とが可能だといふメドをつけたのは、私がこの風穴を
発見したときからだつた。お恥ずかしいことだが、私が仮りの人間生活を送つてゐたころは、
私の胴体にも見事にその風穴があいてゐたものだ。
私は破滅の前の人間にこのやうな状態が一般化したことを、宇宙的恩寵だとすら考へてゐる。
なぜなら、この空洞、この風穴こそ、われわれの宇宙の雛形だからだ。

三島由紀夫「美しい星」より
314名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:10:31 ID:pc0vTGuq
人間が内部の空虚の連帯によつて充実するとき、すべての政治は無意味になり、反政治的な
統一が可能になる。彼らは決して釦を押さない。釦を押すことは、彼らの宇宙を、内部の
空虚を崩壊させることになるからだ。肉体を滅ぼすことを怖れない連中も、この空虚を
滅ぼすことには耐へられない。何故ならそれは、母なる宇宙の雛形だからだ。


愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で、ほかのもろもろの政治的
詐術と同様、羊の群を柵の中へ追ひ込むやり方、つまり本来無目的なものを目的意識の中へ
追ひ込む、あの千篇一律のやり方の一つなのだね。


皮肉なことに愛の背理は、待たれてゐるものは必ず来ず、望んだものは必ず得られず、
しかも来ないこと得られぬことの原因が、正に待つこと望むこと自体にあるといふ
構造を持つてゐる。

三島由紀夫「美しい星」より
315名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:19:58 ID:pc0vTGuq
気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も
甘美なものの片鱗がうかがはれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のやうなもの、
許容された詩のやうなもので、それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。人間どもの
宗教の用語を借りれば、人間の中の唯一つの天使的特質といへるだらう。
人間が人間を殺さうとして、まさに発射しようとするときに、彼の心に生れ、その腕を突然
ほかの方向へ外らしてしまふふしぎな気まぐれ。…(中略)
さういふ美しい気まぐれの多くは、人間自体にはどうしても解けない謎で、おそらく
沢山の薔薇の前へ来た蜜蜂だけが知つてゐる謎なのだ。何故なら、こんな気まぐれこそ、
薔薇はみな同じ薔薇であり、目前の薔薇のほかにも又薔薇があり、世界は薔薇に充ちてゐる
といふ認識だけが、解き明かすことのできる謎だからだ。
私が希望を捨てないといふのは、人間の理性を信頼するからではない。人間のかういふ
美しい気まぐれに、信頼を寄せてゐるからだ。あなたは人間どもは必ず釦を押すと言ふ。
それはさうだらう。しかし釦を押す直前に、気まぐれが微笑みかけることだつてある。
それが人間といふものだ。

三島由紀夫「美しい星」より
316名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:21:09 ID:pc0vTGuq
もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を
書かずにはゐられないだらう。この墓碑銘には、人類の今までにやつたことが必要かつ
十分に要約されてをり、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかつたのだ。
その碑文の草案は次のやうなものだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきつぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾つた。
彼らはよく小鳥を飼つた。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑つた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』

三島由紀夫「美しい星」より
317名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:21:37 ID:pc0vTGuq
これをあなた方の言葉に翻訳すればかうなるのだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らはなかなか芸術家であつた。
彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ひた。
彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛ふじて自分の自由を相対的に確認した。
彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうとした。
そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』

三島由紀夫「美しい星」より
318名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:25:55 ID:pc0vTGuq
人間は前へ進まうとするとき、必ずうしろへも進んでゐるのだ。だから彼らは決して
到達することも、帰り着くこともない。これが彼らの宇宙なのだ。


破滅か救済かいづれへ向つてゐやうと、未来は鉄壁の彼方にあつて、こちらには、すべてに
手つかずの純潔な時がたゆたうてゐる。この、掌の中に自在にたはめられる、柔らかな、
決定を待つていかやうにも鋳られる、しかもなほ現成の時、これこそ人間の時なのだ。


どんな威嚇も、人間の楽天主義には敵ひはしないのだ。その点では、地獄であらうと、
水爆戦争であらうと、魂の破滅であらうと、肉体の破滅であらうと、同じことだ。
本当に終末が来るまでは、誰もまじめに終末などを信じはしない。

三島由紀夫「美しい星」より
319名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/07(土) 13:26:51 ID:pc0vTGuq
生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間といふものだ。


一寸傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡面ともなるつややかな肉。あの肉の外側へ
一ミリでも出ることができないのが人間の宿命だつた。しかし同時に、人間はその肉体の
縁(へり)を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との、傷つきやすく
揺れやすい「明るい汀」にしたのだ。その内面から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、
その薄い皮膚は又、たえまない海の侵蝕を防いでゐた。若い輝かしい肉が、人間の矜りに
なるのも尤もだつた。それは祝寿にあふれた、もつとも明るい、もつとも輝かしい汀であるから。

三島由紀夫「美しい星」より
320名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 09:59:06 ID:uKo9gUkS
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から
拒まれた顔だと思つてゐる。しかるに有為子の顔は世界を拒んでゐた。月の光りはその額や
目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れてゐたが、不動の顔はただその光りに洗はれてゐた。
一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒まうとしてゐる世界は、それを合図に、
そこから雪崩れ込んで来るだらう。
私は息を詰めてそれに見入つた。歴史はそこで中断され、未来へ向つても過去へ向つても、
何一つ語りかけない顔。さういふふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの
切株の上に見ることがある。新鮮で、みづみづしい色を帯びてゐても、成長はそこで途絶え、
浴びるべき筈のなかつた風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として
曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へ
さし出されてゐる顔。……

三島由紀夫「金閣寺」より
321名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:04:39 ID:uKo9gUkS
吃りが、最初の音を発するために焦りにあせつてゐるあいだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から
身を引き離さうとじたばたしてゐる小鳥にも似てゐる。


鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終つて
しまつたあとなのである。


金閣はおびただしい夜を渡つてきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、ふしぎな船は
そしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委せ、夜が来ると周囲の闇に勢ひを得て、
その屋根を帆のやうにふくらませて出航したのである。
私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。

三島由紀夫「金閣寺」より
322名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:08:21 ID:uKo9gUkS
父の顔は初夏の花々に埋もれてゐた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きてゐた。
花々は井戸の底をのぞき込んでゐるやうだつた。なぜなら、死人の顔は生きてゐる顔の
持つてゐた存在の表面から無限に陥没し、われわれに向けられてゐた面の縁のやうなもの
だけを残して、二度と引き上げられないほどの奥のはうへ落つこちてゐたのだから。
物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。

対面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
屍はただ見られてゐる。私はただ見てゐる。見るといふこと、ふだん何の意識もなしに
してゐるとほり、見るといふことが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、残酷さの
表示でもありうるとは、私にとつて鮮やかな体験だつた。

三島由紀夫「金閣寺」より
323名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:17:42 ID:uKo9gUkS
私といふ存在から吃りを差引いて、なほ私でありうるといふ発見を、鶴川のやさしさが私に教へた。
私はすつぱりと裸かにされた快さを隈なく味はつた。鶴川の長い睫にふちどられた目は、
私から吃りだけを漉し取つて、私を受け容れてゐた。それまでの私はといへば、
吃りであることを無視されることは、それがそのまま、私といふ存在を抹殺されることだ、
と奇妙に信じ込んでゐたのだから。


戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思ふまい。美といふことだけを
思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。
人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。

三島由紀夫「金閣寺」より
324名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:30:03 ID:uKo9gUkS
京都では空襲に見舞はれなかつたが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を
持つて、大阪の親工場へ行つたとき、たまたま空襲があつて、腸の露出した工員が担架で
運ばれてゆく様を見たことがある。
なぜ露出した腸が凄惨なのだらう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆つたり
しなければならないのであらう。何故血の流出が、人に衝撃を与へるのだらう。何故
人間の内臓が醜いのだらう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質の
ものではないか。……私が自分の醜さを無に化するやうなかういふ考へ方を、鶴川から
教はつたと云つたら、彼はどんな顔をするだらうか? 内側と外側、たとへば人間を
薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に
見えてくるのであらうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、
しなやかに飜へし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……

三島由紀夫「金閣寺」より
325名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:33:21 ID:uKo9gUkS
敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の
焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、
永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するといふことを
語つてゐる永遠。
天から降つて来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまふ永遠。
この呪はしいもの。……さうだ。まはりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの
呪詛のやうな永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまつてゐた。


私にとつて、敗戦が何であつたかを言つておかなくてはならない。
それは解放ではなかつた。断じて解放ではなかつた。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに
融け込んでゐる仏教的な時間の復活に他ならなかつた。

三島由紀夫「金閣寺」より
326名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:37:49 ID:uKo9gUkS
この少年は私などとはちがつて、生命の純潔な末端のところで燃えてゐるのだ。燃えるまでは、
未来は隠されてゐる。未来の燈芯は透明な冷たい油のなかに涵つてゐる。誰が自分の純潔と
無垢を予見する必要があるだらう。もし未来に純潔と無垢だけしか残されてゐないならば。


雪は私たちを少年らしい気持にさせる。


肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。

三島由紀夫「金閣寺」より
327名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:40:57 ID:uKo9gUkS
滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。


そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在してゐないといふ贅沢な不満から生まれる
ものではないのか。


世界は永久に停止してをり、同時に到達してゐるのだ。この世界にわざわざ、
「われわれの世界」と註する必要があるだらうか。俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙を
一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつかうとする迷蒙だと。

三島由紀夫「金閣寺」より
328名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:46:45 ID:uKo9gUkS
戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によつて保たれてゐたと思はないかね。
死刑の公開が行はれなくなつたのは、人心を殺伐ならしめると考へられたからださうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けてゐた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしてゐた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、
和やかにするんだのに。俺たちが突如として残虐になるのは、たとへばこんなうららかな
春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れてゐるのをぼんやり眺めてゐる
ときのやうな、さういふ瞬間だと思はないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はさういふ風にして生れたんだ。

三島由紀夫「金閣寺」より
329名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 10:59:49 ID:uKo9gUkS
隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、
私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で
人生に触れることは不可能である。


禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち見性だと
いはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して
極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、
どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。かくて
鶴川のやうに、そこに存在するだけで光りを放つてゐたもの、それに目も触れ手も
触れることのできたもの、いはば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪はれた今では、
その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもつとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無の
もつとも実在的な模型であり、彼その人がかうした比喩にすぎなかつたのではないかと思はれた。

三島由紀夫「金閣寺」より
330名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:06:55 ID:uKo9gUkS
それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就するその短かい美は、
一定の時間を純粋な持続に変へ、確実に繰り返されず、蜉蝣のやうな短命な生物をさながら、
生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、
同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかつた。


私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美を官能とを同時に見出すところよりも、
はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、……肉を乗り超え、……不惑の
しかし不朽の物質になり、永遠につながるものになつた。

三島由紀夫「金閣寺」より
331名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:12:01 ID:uKo9gUkS
総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥まで
つづいて、新たに会ふ事物にも過去に見た事物の影がはつきりと射し、かうした相似に
みちびかれてしらずしらずに廊下の奥、底知れね奥の間へ、踏み込んで行くやうな心地がしてゐた。
運命といふものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、
日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をゑがいて、その幻に親しんでゐる筈だ。


音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
音楽はそのどちらだらうか、と私は考へた。とまれ音楽は、この二つのものを、時には
逆転させるやうな力を備へてゐた。

三島由紀夫「金閣寺」より
332名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:16:12 ID:uKo9gUkS
それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。
それはこのやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。

三島由紀夫「金閣寺」より
333名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:22:25 ID:uKo9gUkS
蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。


金閣を焼かなければならぬ。

三島由紀夫「金閣寺」より
334名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:26:08 ID:uKo9gUkS
老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。何故なら
よし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から
現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。人間は自然の
もろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、繁殖するに
すぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。
私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では
人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却つて
滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することができないのだ。
そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに
気がつかぬのだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より
335名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:30:20 ID:uKo9gUkS
認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、さうして永久に変貌するんだ。それが
何の役に立つかと君は言ふだらう。だがこの生を耐へるために、人間は認識の武器を
持つたのだと云はう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐へるといふ意識なんか
ないからな。認識は生の耐へがたさがそのまま人間の武器になつたものだが、それで以て
耐へがたさは少しも軽減されない。それだけだ。


「世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない」と思はず私は、告白とすれすれの
危険を冒しながら言ひ返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」

三島由紀夫「金閣寺」より
336名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:33:40 ID:uKo9gUkS
君は今や南泉を気取るのかね。……美的なもの、君の好きな美的なもの、それは人間精神の中で
認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。君の言ふ『生に耐へるための
別の方法』は幻影なんだ。本来そんなものはないとも云へるだらう。云へるだらうが、
この幻影を力強くし、能ふかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。認識にとつて
美は決して慰藉(いしや)ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰藉ではない。
しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが
生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。
世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。


「美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ」


どんな認識や行為にも、出帆の喜びはかへがたいだらう。


私はたしかに生きるために金閣を焼かうとしてゐるのだが、私のしてゐることは
死の準備に似てゐた。

三島由紀夫「金閣寺」より
337名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:40:39 ID:uKo9gUkS
鞘を払つて、小刀の刃を舐めてみる。刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、
遠い甘味が感じられた。甘みはこの薄い鋼の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに
照り映えてくるやうに舌に伝はつた。こんな明確な形、こんなに深い海の藍に似た鉄の光沢、
……それが唾液と共にいつまでも舌先にまつはる清冽な甘みを持つてゐる。やがて
その甘みも遠ざかる。私の肉が、いつかこの甘みの迸りに酔ふ日のことを、私は愉しく考へた。
死の空は明るくて、生の空と同じやうに思はれた。そして私は暗い考へを忘れた。
この世には苦痛は存在しないのだ。


「人の見てゐる私と、私の考へてゐる私と、どちらが持続してゐるのでせうか」
「どちらもすぐ途絶えるのぢや。むりやり思ひ込んで持続させても、いつかは又途絶えるのぢや。
汽車が走つてゐるあひだ、乗客は止つてをる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねば
ならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息ぢやさうなが、それだとて、
いつまで続くか知れたものではない」

三島由紀夫「金閣寺」より
338名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/09(月) 11:47:36 ID:uKo9gUkS
『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢みられ、
私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだらうか。もはやそれは
無駄事ではあるまいか。
柏木の言つたことはおそらく本当だ。世界を変へるのは行為ではなくて認識だと彼は言つた。
そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだつた。
そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、
ひとへに、行為をしなくてもよいといふ最後の認識のためではなかつたか。
見るがいい、今や行為は私にとつては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、
私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のやうに、私の前に在つて始動を待つてゐる。
その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないやうだ。ここまでが私であつて、それから先は
私ではないのだ。……何故私は敢て私でなくなろうとするのか。

三島由紀夫「金閣寺」より
339名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 14:27:08 ID:oRk/z0Fx
苦悩や青春の焦燥を恥ぢるあまり、それを告白せぬことに馴れてしまつて、かれらは極度に
ストイックになつた。かれらは歯を喰ひしばつてゐた。実に愉しげな顔をして。
この世に苦悩などといふものの存在することを、絶対に信じないふりをしなくてはならぬ。
白を切りとほさなくてはならぬ。


世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。

詩才の欠如は人の信用を博する早道である。


どんなに辛苦を重ねても、浅い夢しか見ない人は浅い生をしか生きることができない。


狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、自分が
嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真個の特質なのである。

三島由紀夫「鏡子の家」より
340名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 14:33:01 ID:oRk/z0Fx
人体でもつとも微妙なものは筋肉なのである!


筋肉は厳密に個人に属しつつ、感情よりもずつと普遍的である点で、言葉に似てゐるけれど、
言葉よりもずつと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。


僕は詩人の顔と闘牛師の体とを持ちたい。


真に抒情的なものは、詩人の面立(おもだち)と闘牛師の肉体との、稀な結合からだけしか
生れないだらう。


この世は必ず破滅にをはる。しかもその前に、輝かしい行動は、一瞬々々のうちに生れ、
一瞬々々のうちに死ぬ。


芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、世俗的な
人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは
多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。それに生れつき身にそなはつたものだけで
人生を経営してゆくことは、女や貴族の生き方であり、市民の男の生き方ではなかつた。

三島由紀夫「鏡子の家」より
341名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 14:43:20 ID:oRk/z0Fx
会社のタイム・レコーダアを莫迦らしいと思はない人が、どうして結納の三往復を
莫迦らしいなどと言ふことができよう。


女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。


神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。


人は信じた思想のとほりの顔になる。


どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに据つてゐるのを見るものだ。


権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。


芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、実は
それ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、
超時間性に他ならないのだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
342名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 14:53:36 ID:oRk/z0Fx
……そこでは毎晩刃傷沙汰が起り、悲劇が起り、本当の恋の鞘当、本当の情熱、――ええ、
どんな俗悪な情熱でも、あなたがたの物知り顔よりは高級ですもの、――さういふ本当の情熱、
本当の憎しみ、本当の涙、本当の血が流れなくちやいけませんの。


男の精神的天才が決して女に理解されないやうに、男の肉体的天才も、女に理解されない
やうにできてゐる。


ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の
感じ方ね。世の中が、人間らしい感じ方、人間らしい考へ方をさせないやうに、みんなを
盲らにしてしまつたんです。


愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間にならうとするのには至当の
理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようとするのである。


金でたのしみが買えないと思つてゐるのは、センチメンタルな金持だけです。

三島由紀夫「鏡子の家」より
343名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:00:33 ID:oRk/z0Fx
天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造型する人であつた。
かういふ手がかりが正にあの喜悦であつて、美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて
生誕の讃歌のやうなものなのだ。そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、
その空席に腰を下ろすことに、何のためらひもありはしないのだ。いひかへれば天才の
感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえやうと、決して悲劇に到達しない特質を
荷つてゐるのである。


一人ぐらしの女が何の感情にも溺れないで生きてゐるといふのは大したことだわ。


ああ、他人こそ、犠(にへ)であり、かけがへのない実在なのだ。


僕は死ぬだらう。血はどこまで高く吹き上がるだらう? 自分の血の噴水を、僕ははつきり
この目でたしかめることができるだらうか。

三島由紀夫「鏡子の家」より
344名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:05:32 ID:oRk/z0Fx
他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。
それはこちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きずつてゆき、つひには
『他人の希望』の代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。


美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、必ず
『死の意志』なのだ。これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が
恥ぢてゐてその秘密を明さない。


男の断末魔の手がつかむものが、星に充ちたがらんとした夜空や、荘厳な重い塩水に充ちた
海ではなくて、腰紐だの、長襦袢だの、まとはりつく髪だの、なよやかなパンティだのである
といふことは、男の生涯のひとりぽつちの永い戦ひの記憶をすつかり台無しにしてしまふだけだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
345名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:13:13 ID:oRk/z0Fx
鏡子は大袈裟に、一つの時代が終つたと考へることがある。終る筈のない一つの時代が。
学校にゐたころ、休暇の終るときにはこんな気持がした。充ち足りた休暇の終りといふものが
あらう筈がない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。
大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。
人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。
徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。
目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!


峻吉は不幸や不運を明るく眺め変へたり、一旦挫折した力の方向をやすやすと他へ
転じようしたりする、あの人生相談的な解決を憎んだ。決して悔悟しない人間になることが必要だ。
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
346名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:18:25 ID:oRk/z0Fx
健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。


青年にとつて反抗は生で、忠実は死だ。


青年にとつて、反抗が必要なのと同じくらい、忠実も必要で、美味しくて、甘い果実なんだ。


死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。


一つの思想が死ぬやうに見えても必ずよみがへり、一つの理想主義が死に絶えて又
新らしい形でよみがへる。しかも思想と思想は、殺し合ふことしか考へないのである。
が、清一郎は感じてゐた。これら再生の神話そのもの、復活の秘義そのものが、まぎれもない
世界崩壊の兆候なのだ。


人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようと
しないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること、……そんなことは
怖ろしいことのやうに思へたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
347名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:23:50 ID:oRk/z0Fx
神秘が一度心に抱かれると、われわれは、人間界の、人間精神の外れの外れまで、一息に
歩いて来てしまふ。そこの景観は独自なもので、すべての人間的なものは自分の背後に、
遠い都会の眺めのやうに一纏めの結晶にかがやいて見え、一方、自分の前には、
目のくらむやうな空無が屹立してゐる。(中略)
僕は画家だから、その地点を、魂などとは呼ばず、人間の縁と呼んでゐた。もし魂といふものが
あるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、
人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の縁でなければならない。その輪郭、
その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの縁でなければならない。

三島由紀夫「鏡子の家」より
348名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:26:13 ID:oRk/z0Fx
僕はありありと目に見える外界へ進んで行つた。その道をまつすぐ歩いてゆく。すると
当然のやうに、僕は神秘にぶつかつた。外部へ外部へと歩いて行つて、いつのまにか、
僕は人間の縁のところまで来てゐたのだ。
神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、
急に人間界のはうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のやうに、
解釈しやすい数式のやうに見える。(中略)
……しかし神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまひ、世界の解釈を放棄し、
その言葉はすみずみまでおどろな謎に充たされてしまふ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
349名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:30:20 ID:oRk/z0Fx
でも今になつてよく考へると、僕は結局、知性の人でもなく、神秘家でもなく、やはり
画家だつたのだと思ふ。過度の明晰も、暗い謎も、どちらも僕のものではなかつた。
人間の縁のところまで来たとき、僕は人間界へ背を向けることもできず、又人間界へ
皮肉な冷たい親和の微笑を以て振返つて君臨することもできず、ひたすら世界喪失の
感情のなかに、浮び漂つてゐたのだと思ふ。
僕の目は鎮魂玉に集中することはできず、おそるおそる周囲の闇のなかを見まはした。
するとそこには、同じ死と闇のなかに、世界喪失の感情に打ち砕かれて、漂つてゐる
多くの若者たちの顔が見えた。ここまで歩いてきたのは僕一人ではなかつた。そのなかには
血みどろな死顔も見え、傷ついた顔も、必死に目をみひらいてゐる顔も見えた。……

三島由紀夫「鏡子の家」より
350名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:33:48 ID:oRk/z0Fx
花は実に清冽な姿をしてゐた。一点のけがれもなく、花弁の一枚一枚が今生まれたやうに
匂ひやかで、今まで蕾の中に固く畳まれてゐたあとは、旭をうけて微妙な起伏する線を、
花弁のおもてに正確にゑがいてゐた。(中略)
僕は飽かず水仙の花を眺めつづけた。花は徐々に僕の心に沁み渡り、そのみじんも
あいまいなところのない形態は、弦楽器の弾奏のやうに心に響き渡つた。(中略)
すべて虚無に属する物事は、ああも思はれかうも思はれるといふ、心象のたよりなさによつて
世界が動揺する、その只中に現はれるものではないだらうか。僕の目が水仙を見、これが
疑ひもなく一茎の水仙であり、見る僕と見られる水仙とが、堅固な一つの世界に属してゐると
感じられる、これこそ現実の特徴ではないだらうか。するとこの水仙の花は、正しく
現実の花なのではないか。

三島由紀夫「鏡子の家」より
351名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:39:08 ID:oRk/z0Fx
……僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられた。それはただの物象でもなく、
ただの形態でもなかつた。(中略)
もしこの水仙の花が現実の花でなかつたら、僕がそもそもかうして存在して呼吸してゐる
筈はないと考へられた。(中略)
僕は君に哲学を語つてゐるのでもなければ、譬へ話を語つてゐるのではない。世間の人は、
現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い
国々で展開されてゐる民族運動だの、政界の角逐だの、……さういふものばかりから
成り立つてゐると考へがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、
いはば現実を再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで
支配してゐるのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
352名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 15:41:03 ID:oRk/z0Fx
この白い傷つきやすい、霊魂そのもののやうに精神的に裸体の花、固いすつきりした
緑の葉に守られて身を正してゐる清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、
いはば現実の核だといふことに僕は気づいた。世界はこの花のまはりにまはつてをり、
人間の集団や人間の都市はこの花のまはりに、規則正しく配列されてゐる。世界の果てで
起るどんな現象も、この花弁のかすかな戦(そよ)ぎから起り、波及して、やがて
還つて来て、この花蕊にひつそりと再び静まるのだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
353名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 10:13:49 ID:ymOqQWE7
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しいものになる。
事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁に
なつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを涜(けが)し、
しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。


夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。おぼろげに漂ふ感覚ではなくて、
一顆の黒い丸薬のやうな、小気味よく凝縮され、ただちに効力を発揮する、さういふ思考を
わがものにしなくてはならないのだ。

三島由紀夫「春の雪」より
354名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 10:17:05 ID:ymOqQWE7
何故時代は下つて今のやうになつたのでせう。何故力と若さと野心と素朴が衰へ、
このやうな情ない世になつたのでせう。


様式のなかに住んでゐる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。だから俺たちも
何かの様式に包み込まれてゐるにちがひないんだよ。金魚が金魚鉢の中に住んでゐることを
自分でも知らないやうに。


歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。歴史の形成と崩壊とは
同じ意味をしか持たないかのやうだ。

三島由紀夫「春の雪」より
355名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 10:30:34 ID:ymOqQWE7
拒みながら彼の腕のなかで目を閉じる聡子の美しさは喩へん方なかつた。微妙な線ばかりで
形づくられたその顔は、端正でゐながら何かしら放恣なものに充ちてゐた。その唇の片端が、
こころもち持ち上つたのが、歔欷(きよき)のためか微笑のためか、彼は夕明りの中に
たしかめようと焦つたが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇のすばやい兆のやうに
思はれた。清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。耳朶にはほのかな紅があつたが、
耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の
龕のやうだつた。すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。
その奥にあるのは聡子の心だらうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤んで
きらめく歯の奥にあるのだらうか?

三島由紀夫「春の雪」より
356名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 10:36:10 ID:ymOqQWE7
清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が
見られることを避けるやうに、顔を自分のはうから急激に寄せてきて接吻した。清顕は
片手をまはしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも花々が腐つてゐる
室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、窒息してしまつたらどんなに
よからうと想像した。聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、
完全な美の均整へ達しようとしてゐるのをつぶさに見てゐた。
唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその髪油の
香りの立ち迷ふなかに、幕の彼方にみえる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、憂はしい
髪油の匂ひと夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。夕あかりの前に、こまかく重なり、
けば立つた羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、
底深くほのかな不吉な紅、あたかも死化粧のやうな紅を蔵してゐた。

三島由紀夫「春の雪」より
357名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 11:02:32 ID:ymOqQWE7
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど
愚かなのだから、今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて一つの
結晶を成した月光姫を見てゐるのかもしれないのだ。別れてゐることが苦痛なら、
逢つてゐることも苦痛でありうるし、逢つてゐることが歓びならば、別れてゐることも
歓びであつてならぬといふ道理はない。


優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を。


繁邦は思つてゐた。人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを
止めることはできない、と。それは人間の理性と良心を自明の前提としてゐる近代法では、
決して受け入れられぬ理論だつた。

三島由紀夫「春の雪」より
358名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 11:07:21 ID:ymOqQWE7
雨のまま明るくなつた空は、雲が一部分だけ切れて、なほふりつづく雨を、つかのまの
孤雨に変へてゐた。窓硝子の雨滴を一せいにかがやかす光りが、幻のやうにさした。
本多は自分の理性がいつもそのやうな光りであることを望んだが、熱い闇にいつも
惹かれがちな心性をも、捨てることはできなかつた。しかしその熱い闇はただ魅惑だつた。
他の何ものでもない、魅惑だつた。清顕も魅惑だつた。そしてこの生を奥底のはうから
ゆるがす魅惑は、実は必ず、生ではなく、運命につながつてゐた。


……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。
そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に終るのだ。

三島由紀夫「春の雪」より
359名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 11:08:27 ID:ymOqQWE7
肉体が連続しなくても、妄念が連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。
個体と云はずに、『一つの生の流れ』と呼んだらいいかもしれない。


どんな夢にもをはりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは
愚かではございませんか。私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし
永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。

三島由紀夫「春の雪」より
360名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 11:15:25 ID:ymOqQWE7
「じやあ、気をつけて」
と言つた。言葉にも軽い弾みを持たせ、その弾みを動作にも移して、聡子の肩に手を
置かうと思へば置くこともできさうだつた。しかし、彼の手は痺れたやうになつて動かなかつた。
そのとき正しく清顕を見つめてゐる聡子の目に出会つたからである。
その美しい大きい目はたしかに潤んでゐたが、清顕がそれまで怖れてゐた涙はその潤みから
遠かつた。涙は、生きたまま寸断されてゐた。溺れる人が救ひを求めるやうに、まつしぐらに
襲ひかかつて来るその目である。清顕は思はずひるんだ。聡子の長い美しい睫は、
植物が苞をひらくやうに、みな外側へ弾け出て見えた。
「清様もお元気で。……ごきげんやう」
と聡子は端正な口調で一気に言つた。
清顕は追はれるやうに汽車を降りた。(中略)
清顕は心に聡子の名を呼びつづけた。汽車が軽い身じろぎをして、目の前の糸巻の糸が
解(ほど)けたやうに動きだした。
361名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 11:23:35 ID:ymOqQWE7
剃刀は聡子の頭を綿密に動いてゐる。ある時は、小動物の鋭い小さな白い門歯が齧るやうに、
ある時はのどかな草食獣のおとなしい臼歯の咀嚼のやうに。
髪の一束一束が落ちるにつれ、頭部には聡子が生れてこのかた一度も知らない澄みやかな
冷たさがしみ入つた。自分と宇宙との間を隔ててゐたあの熱い、煩悩の鬱気に充ちた黒髪が
剃り取られるにつれて、頭蓋のまはりには、誰も指一つ触れたことのない、新鮮で冷たい
清浄の世界がひらけた。剃られた肌がひろがり、あたかも薄荷を塗つたやうな鋭い寒さの
部分がひろがるほどに。

三島由紀夫「春の雪」より
362名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 11:27:13 ID:ymOqQWE7
髪は何ものかにとつての収穫(とりいれ)だつた。むせるやうな夏の光りを、いつぱい
その中に含んでゐた黒髪は、刈り取られて聡子の外側へ落ちた。しかしそれは無駄な収穫だつた。
あれほど艶やかだつた黒髪も、身から離れた刹那に、醜い髪の骸(むくろ)になつたからだ。
かつて彼女の肉に属し、彼女の内部と美的な関はりがあつたものが残らず外側へ捨て去られ、
人間の体から手が落ち足が落ちてゆくやうに、聡子の現世は剥離してゆく。……


ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に。


今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で。

三島由紀夫「春の雪」より
363名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 19:46:48 ID:ymOqQWE7
もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになつてゆく。
かつてあつた、といふことと、かくもありえた、といふことの境界は薄れてゆく。
夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似してゐた。


乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから
立ち現はれ、手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に
揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、
会ひ、又、離れて、空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに
見えるのだつた。

三島由紀夫「奔馬」より
364名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 19:56:10 ID:ymOqQWE7
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことが
なかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の額の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……

三島由紀夫「奔馬」より
365名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 19:59:00 ID:ymOqQWE7
『喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだりする人間』
と本多は考へてゐた。それこそ裁判所の支配下にある人間だつた。まかりまちがへば
いつでも被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。


純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。

三島由紀夫「奔馬」より
366名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:02:29 ID:ymOqQWE7
悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ。


壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、
褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。血も花も、
枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。だからこそ、血と花は名誉へ
転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。

三島由紀夫「奔馬」より
367名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:08:25 ID:ymOqQWE7
忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で
握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が御空腹でなく、
すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、
ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんで
その握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、
草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、
握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。飯はやがて
腐るに決まつてゐます。これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

三島由紀夫「奔馬」より
368名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:13:02 ID:ymOqQWE7
私の申し上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に
生きてゐながら、何もせずに生き永らえてゐることがまづ第一の罪です。その大罪を祓ふには、
涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、
即刻腹を切ることです。死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、
左すれば罪、どのみち罪を犯してゐることに変りはありません。


同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。思想などではなく、もつと遠いところから来る或るもの、又、もつと明確な
外面的な表徴であつて、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、
それこそが同志を作る因(もと)に相違ない。

三島由紀夫「奔馬」より
369名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:16:54 ID:ymOqQWE7
存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。


思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の「英姿」は、
今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、今では、
個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内側の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に
滑稽の塵が降り積つたにすぎぬのだらうか。

三島由紀夫「奔馬」より
370名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:24:13 ID:ymOqQWE7
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。そつと指を
触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに青みを残してゐる茎を
離れるにちがいない。それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、
不朽のつややかな百合がそこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。
しかし依然として、そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。
かつてここに注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。唇と百合とが、まるで黎明と屋根とが触れるやうに
触れ合はねばならない。

三島由紀夫「奔馬」より
371名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:27:16 ID:ymOqQWE7
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思つた。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』


あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。
こちらはいよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)の
やうになつた。それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど
信じがたいものにしてしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向ふ側のグロテスクな
現実性に源してゐた。奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、
そのときはじめて世界の修理固成が可能になるだらう。

三島由紀夫「奔馬」より
372名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:34:56 ID:ymOqQWE7
勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと察した。
人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。


左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。


恋も忠も源は同じであつた。


勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。
野蛮人が病気よりも医薬を怖れるやうに。

三島由紀夫「奔馬」より
373名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:39:42 ID:ymOqQWE7
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのは
たしかに穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも
知らないで人生を送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。
ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く
同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。

三島由紀夫「奔馬」より
374名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:54:01 ID:ymOqQWE7
夏の午睡の女の喜びは曇らなかつた。肌の上にあまねく細かい汗をにじませ、さまざな
官能の記憶を蓄へ、寝息につれてかすかにふくらむ腹は、肉のみごとな盈溢を孕んだ帆の
やうである。その帆を内から引きしめる臍には、山桜の蕾のやうなやや鄙びた赤らみが射して、
汗の露の溜まつた底に小さくひそかに籠り居をしてゐる。美しくはりつめた双の乳房は、
その威丈高な姿に、却つて肉のメランコリーが漂つてみえるのだが、はりつめて薄くなつた肌が、
内側の灯を透かしてゐるかのやうに、照り映えてゐる。肌理のこまやかさが絶頂に達すると、
環礁のまはりに寄せる波のやうに、けば立つて来るのは乳暈のすぐかたはらだった。
乳暈は、静かな行き届いた悪意に充ちた蘭科植物の色、人々の口に含ませるための毒素の
色で彩られてゐた。その暗い紫から、乳頭はめづらかに、栗鼠のやうに小賢しく頭を
もたげてゐた。それ自体が何か小さな悪戯のやうに。

三島由紀夫「奔馬」より
375名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 20:57:33 ID:ymOqQWE7
一寸やはらげれば別物になつてしまひます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、
一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、
もはや私たちの思想ではなくなるのです。


あそこに太陽が輝いてゐます。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、
太陽に源してゐることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いてゐる筈です。
その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に浴びれば、民草は歓喜の声をあげ、
荒蕪の地は忽ち潤ふて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおほふて、その光りを遮つてゐます。天と地はむざんに分け隔てられ、
会へば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔さへ相見ることが
できません。

三島由紀夫「奔馬」より
376名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 21:01:57 ID:ymOqQWE7
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か
決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を
賭(と)さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。


私は人を殺すといふことは考へませんでした。ただ、日本を毒してゐる凶々しい精神を
討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとふてゐる肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。
さうしてやることによつて、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還つて、私共と
一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちに
いさぎよく腹を切つて、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を
捨てなければ、魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんとする
ことだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ入るのです。

三島由紀夫「奔馬」より
377名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/11(水) 21:02:54 ID:ymOqQWE7
ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……


正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。

三島由紀夫「奔馬」より
378名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 16:28:24 ID:UgNVy9dQ
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。あの夕焼の
花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふたはごとも
忽ち色褪せてしまひます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちてゐます。
何がはじまつたのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。

三島由紀夫「暁の寺」より
379名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 16:31:06 ID:UgNVy9dQ
社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だつた。


時として、広大な人間性に、法といふ規矩を与へることほど、人間の思ひついたもつとも
不遜な戯れはない。


何かにつけて青年が未来を喋々するのは、ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしてゐない
からにすぎない。何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。


天変地異は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに見える事柄であつても、
実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進まぬ気配を伴ふのである。

三島由紀夫「暁の寺」より
380名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 16:41:01 ID:UgNVy9dQ
日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを
怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、
古風なアジア主義たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、
ムッソリーニとではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話と
ローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。


一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人はおのづから、別の生の存在の
予感に到達するのではなからうか。


酒がすこしづつ酢に、牛乳がすこしづつヨーグルトに変つてゆくやうに、或る放置されすぎた
ものが飽和に達して、自然の諸力によつて変質してゆく。人々は永いこと自由と肉慾の過剰を
怖れて暮してゐた。はじめて酒を抜いた翌朝のさはやかさ、自分にはもう水だけしか
要らないと感じることの誇らしさ。……さういふ新らしい快楽が人々を犯しはじめてゐた。

三島由紀夫「暁の寺」より
381名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 16:44:24 ID:UgNVy9dQ
純粋なものはしばしば邪悪なものを誘発するのだ。


阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に
奔逸し激動してゐるのである。
世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。
世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
しかし、なぜ?
なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされる
からである。


現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、
同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交はる一点に
存在するのである。

三島由紀夫「暁の寺」より
382名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 16:53:49 ID:UgNVy9dQ
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……


生きてゐる人間が純粋な感情を持続したり代表したりするなんて冒涜的なことです。


この世には道徳よりもきびしい掟がある。


不安こそ、われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。


生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられてゐるやうなものだつた。
そして人間存在とは? 人間存在とは不如意だ。


知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの
極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。

三島由紀夫「暁の寺」より
383名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 17:03:44 ID:UgNVy9dQ
真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ生れる。


停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう。
…怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。


必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみじんもなかつた。


嫉妬の想像力は自己否定に陥るのだ。想像力が一方では、決して想像力を容認しないのである。
丁度過剰な胃酸が徐々に自らの胃を蝕むやうに、想像力がその想像力の根源を蝕んでゆくうちに、
悲鳴に似た救済の願望があらはれる。


ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと望んだからだ。


身の毛もよだつほどの自己嫌悪が、もつとも甘い誘惑と一つになり、自分の存在の否定自体が、
決して癒されぬといふことの不死の観念と一緒になるのだ。存在の不治こそは不死の感覚の
唯一の実質だつた。

三島由紀夫「暁の寺」より
384名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 17:07:21 ID:UgNVy9dQ
自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら
思はれる。お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺が
たのみもしないのに、その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない
綱渡りを強ひたのだ。陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を
家財道具に換価させ、美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を
流刑に処し、異端を病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。それは、
膿盆の上の、血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、
そのたびごとに、老いも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。

三島由紀夫「暁の寺」より
385名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 17:15:20 ID:UgNVy9dQ
人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで成功するなどと思はれてたまるものか。


覗く者が、いつか、覗くといふ行為の根源の抹殺によつてしか、光明に触れえぬことを
認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。


今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。


裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。私一人をいつもじつと
見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず手取り足取り指図して下さる
神様でなければ。その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、
何一つ羞恥心を持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう。


どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へ
そそのかす力も、全く同じ源から出、同じ予兆の動悸を伴ふ。

三島由紀夫「暁の寺」より
386名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 11:38:48 ID:nfVgv16j
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか
名付けようのないもので辛ふじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、
この豊かな、絶対の無政府主義。


刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐる
などといふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。

三島由紀夫「天人五衰」より
387名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 11:42:27 ID:nfVgv16j
堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、
家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。今まで一度も
出会はなかつた永遠、すなはち海に。もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、つひに
人が死に直面することができないやうに。


見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、
物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや見ることが
認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。


微笑は同情とは無縁だつた。微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、
弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。

三島由紀夫「天人五衰」より
388名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 11:52:10 ID:nfVgv16j
女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、女にとつて
侮辱はないわ。


美の廃址を見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖い。


しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのでは
なかつた。これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、
しかし石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。


一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあつた。
欲望を抱かない限り、この目の透徹と澄明はあやまつことがなかつた。


悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。

三島由紀夫「天人五衰」より
389名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:04:00 ID:nfVgv16j
私たちは一人のこらず、同じ投網の中に捕へられた魚なのですね。


人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷蒙なら、
それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝やかしい肉を以てする肉体とでは、
勝負にならない。人間にとつて本筋の美しさは、肉体美にしかないわけさ。


本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうなものが
実は自分の願望だ、といふ説には、首肯しかねるものがあつた。それより自分以外の何者かが、
いつも自分を見張つてゐて、何事かを強ひてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。しかし自分の
意志にかかはりなく、夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より
390名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:10:20 ID:nfVgv16j
僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。この世の中には、
どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言ひなりになつてやるんだ。
さうしてゆつくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に
出るためには、こちらも十分力を蓄へ、敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。

三島由紀夫「天人五衰」より
391名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:14:14 ID:nfVgv16j
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。奴らの戦ひが
有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。奴らは僕らが本当に
膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手をゆるめないだらう。
だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければならない。むやみに
突張つて、踏絵を踏まなければ、殺されてしまふんだからね。さうして一旦踏絵を踏んでやれば、
奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。でもそれまでは、自分の心の中に、
よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね。


醜さも、ひとたび不在になれば、美しさとどこに変りがあるだらう。


……遠いところで美が哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向こうで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが
宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。

三島由紀夫「天人五衰」より
392名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:28:56 ID:nfVgv16j
自然は全体から断片へと、又、断片から全体へと、たえずくりかへし循環してゐた。
断片の形をとつたときのはかない清洌さに比べれば、全体としての自然は、つねに不機嫌で
暗鬱だつた。
悪は全体としての自然に属するのだらうか?
それとも断片のはうに?


自分に向けられる他人の善意や悪意が、悉く誤解に基づくと考へる考へ方には、懐疑主義の
行き着く果ての自己否定があり、自尊心の盲目があつた。


退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだ。


世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。氷が割れるとわかつてゐたら、
誰が滑るだらう。また絶対に割れないとわかつてゐたら、他人が失墜することのたのしみは
失はれるだらう。問題は自分が滑つてゐるあひだ、割れるか割れないかといふだけのことであり、
本多の滑走時間はすでに限られてゐた。

三島由紀夫「天人五衰」より
393名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:32:06 ID:nfVgv16j
一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。



老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は失はれてゐる。


意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。もちろん賤しいのは
意志のはうだ。


或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。


……詩もなく、至福もなしに! これがもつとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしか
ないことを俺は知つてゐる。

三島由紀夫「天人五衰」より
394名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:44:26 ID:nfVgv16j
「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。
「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。
一寸ばかり育ちがいいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で
『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけのこと
なんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、
世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
さう言ひながら、本多が勲を思ひうかべてゐたことは疑ふべくもない。勲はおそらく
洋食の作法などは知らなかつた。勲の高貴はそんなこととは関はりがなかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より
395名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:49:09 ID:nfVgv16j
世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の何ものでもない。


世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。


スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。


――大人しい透に向つて、かうして執拗に説き進めながら、いつしか本多は、目の前に
清顕と勲と月光姫を置いて、返らぬ繰り言を並べてゐるような心地にもなつた。
彼らもさうすればよかつたのだ。自分の宿命をまつしぐらに完成しようなどとはせず、
世間の人と足並を合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれてゐればよかったのだ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。翼は危険な器官だった。飛翔する前に自滅へ誘ふ。
あの莫迦どもとうまく折合つておきさへすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰へるのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より
396名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 12:57:33 ID:nfVgv16j
老人はいやでも政治的であることを強ひられる。


この世には実に千差万別な卑俗があつた。気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、
鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、
帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは
卑俗の劫罰だつた。そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。


何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。


この世は不完全な人間の陽画(ポジティブ)に充ちてゐる。


この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ。

三島由紀夫「天人五衰」より
397名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 13:13:12 ID:nfVgv16j
「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に何かの
変質をもたらすものだ。


人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短かさだつた。


この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにして
おきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、
誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に
叩き込んでくれる筈ですわ。

三島由紀夫「天人五衰」より
398名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 13:24:39 ID:nfVgv16j
精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に
何のちがひがあらう。老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が
不治の病だといふことは、人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは
何ら存在論的な病ではなくて、われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。肉体の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれて
ゐることに他ならなかつた。


生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた。

三島由紀夫「天人五衰」より
399名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 13:27:13 ID:nfVgv16j
われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。…そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。

三島由紀夫「天人五衰」より
400名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 13:29:08 ID:nfVgv16j
もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質のものであつたとしたら、
一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。糸を切つて一旦卓上に
散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ落ちた
ビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には
今や思はれた。我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より
401名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/13(金) 13:32:24 ID:nfVgv16j
狐はすべて狐の道を歩いてゐた。漁師はその道の薮かげに身を潜めてゐれば、難なく
つかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることがわかつてゐながら狐の道を歩いてゐるのが、
今の自分だと本多は思つた。


劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ。


自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、ゆくてに
それ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと本多は思ひ返した。
希望を抱くふりをして。印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに
永いことあがいたのだ。


それも心々ですさかい。


この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。

三島由紀夫「天人五衰」より
402名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 10:57:43 ID:00VNcQcO
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きづり下ろしてしまふ。女は主義といふものを全く
理解しない。『何々主義的』といふところまではわかるが、『何々主義』といふものは
わからない。主義ばかりではない。独創性がないから、雰囲気をさへ理解しない。
わかるのは匂ひだけだ。


女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。
有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。
男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。


最上の逃避の方法は、相手に出来るだけ近づくことである。


あらゆる文体は形容詞の部分から古くなると謂はれてゐる。つまり形容詞は肉体なのである。
青春なのである。

三島由紀夫「禁色」より
403名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:04:12 ID:00VNcQcO
風呂に入るときに腕時計を外して入るやうに、女に向ふときは精神を外してゐないと、
忽ち錆びて使ひものにならなくなりますよ。それをやらなかつたので、私は無数の時計を
失くして、一生、時計の製造に追ひ立てられる始末になつたのです。錆時計が二十個
集まつたので、今度全集といふやつを出しました。


打算は愛によつて償はれると考へるのが青年の確信ですね。計算高い男ほど自分の純粋さに
どこかでよりかかつてゐるものです。


絶望は安息の一種である。


死人の目で見たときに、現世はいかに澄明にその機構を露はすことか! 他人の恋情は
いかにあやまりなく透視できることか! この偏見のない自在の中で、世界はいかに
小さな硝子の機械に変貌することか!

三島由紀夫「禁色」より
404名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:06:45 ID:00VNcQcO
窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。不幸はめつたに
窓枠をこえてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。


本当の美とは人を黙らせるものであります。


美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。

三島由紀夫「禁色」より
405名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:10:14 ID:00VNcQcO
「でも先生は若さがおきらひだ」
悠一はさらに断定的にさう言つた。
「美しくない若さはね。若さが美しいといふのはつまらぬ語呂合せだ。私の若さは
醜くかつたんだ。それは君には想像も及ばないことだ。私は生まれ変りたいと思ひつづけて
青春時代をすごしたからな」
「僕もです」
と悠一がうつむいたままふと言つた。
「それを言つてはいけない。それを言ふと、君はまあいはば禁忌を犯すことになるんだ。
君は決してさう言つてはならない宿命を選んだんだ。…」

三島由紀夫「禁色」より
406名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:18:34 ID:00VNcQcO
>>404訂正
窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。不幸はめつたに
窓枠をこえてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。


決定的な瞬間といふものは、心の傷に対して医薬のやうに働らく場合がある。


本当の美とは人を黙らせるものであります。


美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。

三島由紀夫「禁色」より
407名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:25:14 ID:00VNcQcO
男の目の中に欲望を見出す時ほど、女がおのれの幸福に酔ふ時はない。


思想を抱いてゐる男は、女の目にはもともと神秘的に見えるものである。女は死んでも
「青大将は俺の大好物だ」なんぞと言へないやうに出来てゐるからである。


家庭といふものはどこかに必ず何らかの不幸を孕んでゐるものだ。帆船を航路の上に
押しすすめる順風は、それを破滅にみちびく暴風と本質的には同じ風である。家庭や家族は
順風のやうな中和された不幸に押されて動いてゆくもので、家族をゑがいた多くの名画には、
華押のやうに、ひそんだ不幸が手落ちなく一隅に書き込まれてゐる。


人の不幸は何程かわれわれの幸福である。激しい恋愛の時々刻々の移りゆきではこの公式が
一等純粋な形をとる。

感情の或る種の詭計(きけい)の告白に当つて、女が示す放恣な陶酔の涙ほど、人の心を
うごかすものはない。

三島由紀夫「禁色」より
408名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:31:37 ID:00VNcQcO
様式は芸術の生れながらの宿命である。作品による内的経験と人生経験とは、様式の
有無によつて次元を異にしてゐるものと考へなくてはならぬ。しかし人生経験のうちで
作品による内的経験にもつともちかいものが唯一つある。それは何かといふと、死の
与へる感動である。われわれは死を経験することができない。しかしその感動はしばしば
経験する。死の想念、家族の死、愛する者の死において経験する。つまり死とは生の
唯一の様式なのである。
芸術作品の感動がわれわれにあのやうに強く生を意識させるのは、それが死の感動だから
ではあるまいか。


表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止(とど)めを刺し、その息の根を止める行為だ。


女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齢を持つてゐなかつた。


ナルシスは、その並々ならぬ誇りのために、却つて不出来な鏡を愛する場合がある。
不出来な鏡は少なくとも嫉妬を免れしめる。

三島由紀夫「禁色」より
409名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:39:41 ID:00VNcQcO
自殺はどんな高尚なそれも低級なそれも、思考それ自体の自殺行為であり、およそ考へ
すぎなかつた自殺といふものは存在しない。

愛さないで体を委すといふことが、男にはあんなに易しいのに、女にはどうして難しいのだらう。
なぜそれを知ることが、娼婦だけにゆるされてゐるのだらう。


どんな思想も観念も、肉感をもたないものは、人を感動させない。

『君は僕が好きだ。僕も僕が好きだ。仲良くしませう』――これはエゴイストの愛情の
公理である。同時に、相思相愛の唯一の事例である。


しかしいつも勝利は凡庸さの側にある。

三島由紀夫「禁色」より
410名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:46:05 ID:00VNcQcO
褒められた女は、精神的に、ほとんど売淫の当為を感じる。


女は決して征服されない。決して! 男が女に対する崇敬の念から凌辱を敢てする場合が
ままあるやうに、この上ない侮蔑の証しとして、女が男に身を任す場合もあるのだ。


愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。


人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。


現代では、われわれの教養の中から、かつてあれほど精細を極めてゐた悪徳に関する教養が、
根こそぎ葬り去られてしまつた。悪徳の形而上学は死んでしまひ、その滑稽さだけが残つて
笑ひものにされてゐる。(中略)
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。
三島由紀夫「禁色」より
411名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 11:52:56 ID:00VNcQcO
精妙な悪は、粗雑な善よりも、美しいから道徳的なのです。古代の道徳は単純で力強かつたから、
崇高さはいつも精妙の側にあり、滑稽さはいつも粗雑の側にあつた。ところが現代では、
道徳が美学と離れた。道徳は卑賎な市民的原理によつて、凡庸と最大公約数の味方をします。
美は誇張の様式になり、古めかしくなり、崇高であるか、滑稽であるか、どちらかです。
この二つは、現代では、同じものをしか意味しません。
無道徳な似非近代主義と似非人間主義が、人間的欠陥を崇拝するといふ邪教を流布した。
近代の芸術は、ドン・キホーテ以来、滑稽崇拝のはうへ傾いてゐます。


本当は、人間が人間である以上、世間でふつうさうしてゐるやうに、人間以外のもの、
神だとか、物質だとか、科学的真理だとかを援用したがるはうが、もつとずつと人間的では
ありますまいか。

三島由紀夫「禁色」より
412名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:04:43 ID:00VNcQcO
醒めることは、更に一層深い迷ひではないのか。どこへ向つて、何のために、われらは
醒めようと望むのか。人生が一つの迷妄である以上、この錯雑した始末に負へない迷妄のうちに、
よく秩序立ち論理づけられた人工的な迷妄を築くことこそ、もつとも賢明な覚醒ではないのか。


青春の死の耐へがたさに比べれば、肉体の死が何程のことがあらうか。多くの青春が
さうであるやうに、(何故かといふと青春を生きることはたえざる烈しい死であるから)
かれらの青春もいつも新たな破滅を夢みてゐた。死に臨んで美しい若者は莞爾たる筈であつた。


思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式なのだ。大きな鼻を持つた男は、大きな鼻
といふ思想の持ち主であり、ぴくぴく動く耳を持つた男は、従つてまた、どう転んでみても、
畢竟するに、ぴくぴく動く耳といふ独創的な思想の持ち主である。

生活を侮蔑することによつて生活を固執すること、この奇妙な信条は、芸術行為を無限に
非実践的なものにしてしまふ。芸術によつて解決可能な事柄は存在しない。

三島由紀夫「禁色」より
413名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:11:34 ID:00VNcQcO
俊輔の孤独は、それがそのまま深い制作の行為になつた。彼は夢想の悠一を築いた。
生に煩はされず、生に蝕まれない鉄壁の青春。あらゆる時の侵蝕に耐へる青春。


青春の一つの滴のしたたり、それがただちに結晶して、不死の水晶にならねばならぬ。

青春が無意識に生きることの莫大な浪費。収穫(とりいれ)を思はぬその一時期。生の破壊力と
生の創造力とが無意識のうちに釣合ふ至上の均衡。かかる均衡は造型されなければならぬ。


愛は絶望からしか生まれない。精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が
愛なのだ。


精神はたえず疑問を作り出し、疑問を蓄へてゐなければならぬ。精神の創造力とは疑問を
創造する力なんだ。かうして精神の創造の究極の目標は、疑問そのもの、つまり自然を
創造することになる。それは不可能だ。しかし不可能へむかつていつも進むのが精神の方法なのだ。
精神は、……まあいはば、零を無限に集積して一に達しようとする衝動だといへるだらう。

三島由紀夫「禁色」より
414名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:14:40 ID:00VNcQcO
美とは到達できない此岸(しがん)なのだ。さうではないか? 宗教はいつも彼岸(ひがん)を、
来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。
科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、
到達の可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。
美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前してをり、確乎として手に
触れることができる。われわれの官能が、それを味はひうるといふことが、美の前提条件だ。
官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。
なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮(さまた)げるから。希臘人が
彫刻でもつて美を表現したのは、賢明な方法だつた。

三島由紀夫「禁色」より
415名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:19:30 ID:00VNcQcO
此岸にあつて到達すべからざるもの。かう言へば、君にもよく納得がゆくだらう。美とは
人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあつて最も深く
人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も
安眠できない。……


三島由紀夫「禁色」より
416名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:25:49 ID:00VNcQcO
この世には最高の瞬間といふものがある。
この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ。
その表現は、生きてゐるあひだの人間には不可能といふ他はない。生ける人間は、その瞬間を
おそらく味はふかもしれない。しかし表現することはできない。それは人間の能力をこえてゐる。
『人間はかくて超人間的なものを表現できない』と君は言ふのか? それはまちがひだ。
人間は真に人間的な究極の状態を表現できないのだ。人間が人間になる最高の瞬間を
表現できないのだ。
芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られてゐる。
表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか人を愛しえない。そしてあとから
それを表現する。
しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かといふことだ。それについては
人間は一つだけ知つてゐる。それは死なのだ。

三島由紀夫「禁色」より
417名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:29:19 ID:00VNcQcO
死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。……さうだ、私は言ひまちがへた。
死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言ひ直すべきだらう。人は自分の意志によつて
生れることはできぬが、意志によつて死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自然哲学の
根本命題だ。しかし、死において、自殺といふ行為と、生の全的な表現との同時性が
可能であることは疑ひを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。
これには逆証明が可能だと思はれる。
生者の表現の最高のものは、たかだか、最高の瞬間の次位に位するもの、生の全的な姿から
αを差引いたものなのだ。この表現に生のαが加はつて、それによつて生が完成されてゐる。
なぜかといへば、表現しつつも人は生きてをり、否定しえざるその生は表現から除外されてをり、
表現者は仮死を装つてゐるだけなのだ。

三島由紀夫「禁色」より
418名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 12:32:04 ID:00VNcQcO
このα、これを人はいかに夢みたらう。芸術家の夢はいつもそこにかかつてゐる。
生が表現を稀(うす)めること、表現の真の的確さを奪ふこと、このことには誰しも
気がついてゐる。生者の考へる的確さは一つの的確さにすぎぬ。死者にとつては、
われわれが青いと思つてゐる空も、緑いろに煌めいてゐるかもしれないのだ。
ふしぎなことだ。かうして表現に絶望した生者を、又しても救ひに駆けつけて来るのは美なのだ。
生の不的確に断乎として踏みとどまらねばならぬ、と教へてくれる者は美なのだ。
ここにいたつて、美が官能性に、生に、縛られてをり、官能性の正確さをしか信奉しないことを
人に教へるといふ点で、その点でこそ正に、美が人間にとつて倫理的だといふことがわかるだらう。

三島由紀夫「禁色」より
419名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/19(木) 19:25:14 ID:BfV4lF7H
娘の父親にとつては、この世に一般論などといふものはあるべきではなかつた。心の奥底で
娘を手離したくないと思つてゐる父親の気持から、オールド・ミスにならぬうちに誰かに
早く呉れてやりたいと思つてゐる父親の気持まで、無数のニュアンスの連鎖があつて、
どこからが一般論で、どこからがさうでないとは云へなかつた。又、見様によつては、
世の父親のすべての心には、右の両極端の二つの気持が、それぞれの程度の差こそあれ、
混在してゐる筈であつた。


怖ろしい巨犬には、正面から向つて行けばいいのである。


あまり完璧に見える幸福に対して、人は恐怖を抱かずにはいられないものなのであらうか?


人間の心といふ奴は、とにかく、善意だけではどうにもならん。善意だけでは、……人生を
煩はしくするばかりだとわかつてゐてもね。

三島由紀夫「夜会服」より
420名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/19(木) 19:27:39 ID:BfV4lF7H
人間は誰でも、(殊に男は)自然にこれこれの人物になるといふものではない。目標があり、
理想像があればこそ、それに近づかうとするのである。


幸福といふものは、そんなに独創的であつてはいけないものだ。幸福といふ感情はそもそも
排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着ていけないといふ道理はないし、
同じ種類の他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。


隔意を抱くといふことは淋しいことである。しかも、愛情のために隔意を抱くといふことは、
まるで愛するために他人行儀になるやうなもので、はじめから矛盾してゐる。


結婚とは、人生の虚偽を教へる学校なのであらうか。


現代では万能の人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ。

三島由紀夫「夜会服」より
421名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/19(木) 19:30:56 ID:BfV4lF7H
人間つて誰でも、自分の持つてゐるものは大切にしないのぢやないかしら。
…誰でも、手に入れたものは大したものだと思はなくなる傾きがあるのぢやないかしら。


あなたは女がたつた一人でコーヒーを呑む時の味を知つてゐて?
今に知るやうになるわ。お茶でもない、紅茶でもない、イギリス人はあまり呑まないけれど、
やはりそれはコーヒーでなくてはいけないの。それはね、自分を助けてくれる人は
もう誰もゐない、何とか一人で生きて行かなければ、といふ味なのよ。
黒い、甘い、味はひ、何だかムウーッとする、それでゐて香ばしい味、しつこい、
諦めの悪い味。……

三島由紀夫「夜会服」より
422名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/19(木) 19:35:13 ID:BfV4lF7H
さびしさ、といふのはね、絢子さん、今日急にここへ顔を出すといふものではないのよ。
ずうーつと、前から用意されてゐる、きつと潜伏期の大さう長い、癌みたいな病気なんだわ。
そして一旦それが顔を出したら、もう手術ぐらゐでは片附かないの。
私、何で自分がさびしいのか、その理由を探さなくては気がちがひさうだつた。あなた方の
結婚が、はつきりその理由を与へてくれたやうに思ひ込んでしまつた。でも、私つてバカなのね。
さびしさの本当の深い根は自分の中にしかないことに気がつかなかつたの。
鳥のゐない鳥籠は、さびしいでせう。でも、それを鳥籠のせゐにするのはばかげてゐるわね。
鳥籠をゴミ箱へ捨ててもムダといふものね。鳥がゐないことには変りがないんですから。

三島由紀夫「夜会服」より
423名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/20(金) 10:28:16 ID:rjFwIMg0
「米人鏖殺」

米人よ地上を去れ。汝らの義務である。米人よ跡をも止めぬ者たれ。汝らの光栄ある使命は
それである。米人よ滅びよ。尽(ことごと)く死ね。もはや躊躇すな。汝の剣は汝自身の
血もてのみ衂(ちぬ)れ。米人よ残らず死ね。米人よ再びこの地上へ来るな。米人よ死ね。
……汝らの存在は私にとり不快である。目通り叶はぬ。死ね。日輪の前にもおびえぬ群盲よ。
死ね。私は日の方へ顔をむけるものゝ額に慎しみの代りに憎悪がある故踏む。汝の額を踏む。
いかなる大砂漠をも恐れげもなく蹴立てゝきた不遜な隊商が、懸橋なき断崖の上へ来て
何とした。墜落せよ。飛べ。寸時たりとも輝やける中空に在る光栄に喜死せよ。
臭い。涜らはしい。傍へ寄るな。退れ。汝の息が花園に近づく時花はみな剣をかざす。
汝の息は清流のうちなる魚をも腐らす。汝、蠅の母なる者よ。去れ。見苦しい。去れ。
犬の犬。豚の豚。汚物を食とする卑賎猥雑なバビロンの末よ。汝を鋤いて地を肥やし、
汝の屍に毒だみの花咲かせん。屍は毀(こぼ)たれて踏み躙(にじ)られし蟹の如けん。
青き脳髄を地へは垂らすな。

平岡公威(三島由紀夫)年月不詳(推定戦時中)
424名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/21(土) 12:39:24 ID:tv9pVN0w
いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。


よくこんな経験があるものだ。十年も二十年も前に、たとへばピクニックに行つて、
一人だけ群を離れて、小滝や野の花の茂みのある静かな一劃に出てしまふ。そのとき何となく、
意味もなく口をついて出た言葉が、十年後、二十年後になつて、何かの瞬間に、再び
ふつと口をついて出てくるのだ。すると永年小さな謎の蕾として眠つてゐたその言葉が、
今度は急速に花をひらき、意味を帯び、人生のその瞬間を決定する、とりかへしのつかない
重要な言葉になつてしまふのだ。


小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる。


結婚して一ヶ月もたてば、大した苦労を嘗めなくても、女は十分現実を知つたといふ自信を
持つやうになる。


一等怖ろしいのは人間の言葉の魔力である。証拠らしい証拠がなくても、耳に注がれる
言葉の毒は、たちまち全身に廻つてしまふ。

三島由紀夫「お嬢さん」より
425名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/21(土) 12:41:02 ID:tv9pVN0w
玉のやうな男の児。「玉のやうな」とは何と巧い形容だらうと一太郎は思つてゐた。
明るい薔薇いろをした堅固な玉。弾む玉。野球のボールのやうに力強く飛びまはる玉。
それは飛び出して、ころころ転がつて、両親や祖父母の膝の上へ跳ね上り、笑ふ玉、
喜ぶ玉、きらきらした国旗の旗竿の玉のやうに青空に浮び上り……、それを見るだけで
みんなに幸福な気持を起させるのだ。


人の心といふものは、一定の分量しか入らない箱のやうなものである。


あなたはお嬢さんだわ。本当に困つたお嬢さん、私の妹だつたら、お尻にお灸をすえてやるわ。
どうしてあなたは叫ばないの? 泣かないの? 吼えないの? 思ひ切つて、景ちやんの顔に
オムレツでもぶつけてやらないの? 花瓶を叩き割らないの? お宅の硝子窓だつて、
ずいぶん割り甲斐があるぢやない? あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。
そんなの、ほんとに女の滓だわ。

三島由紀夫「お嬢さん」より
426名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/22(日) 11:24:48 ID:dwyaBzA9
人間とはただ雑多なものが流れて通る暗渠であり、くさぐさの車が轍(わだち)を残して
すぎる四辻の甃(いしだたみ)にすぎないやうに思はれる。暗渠は朽ち、甃はすりへる。
しかし一度はそれも祭の日の四辻であつたのだ。


このごろの若い人のやつてゐることは、衣装がちがふだけで、中味はちつとも昔と
かはつてゐやしませんよ。若い人は自分にとつてはじめての経験を、世間様にもはじめての
経験だととりちがへる。どんな無軌道だつて昔とおなじで、ただ世間のやかましい目が
昔ほどぢやないから、無軌道も大がかりになつて、ますます人目につくことをしなくちや
ならなくなるんです。


今、世に時めいてゐる人たちは、無礼な冗談や狎(な)れすぎた振舞をもむしろ面白がるが、
かつて世に栄えて隠棲してゐる人たちにとつては、同じ冗談も矜りを傷つけられる種子に
なるのだ。そんな老人相手には、ひたすら聴き役にまはるに限る。そして柔らかな会話で
按摩をし、むかしの権力がふたたびその座に花やいでゐるやうな錯覚を起させるのだ。

三島由紀夫「宴のあと」より
427名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/22(日) 11:28:29 ID:dwyaBzA9
若い男は精神的にも肉体的にもあんまり余分なものを引きずつてゐて、特に年上の女に
対しては己惚れが強くて、どこまでつけ上るかわからない。


「面倒臭い」。それは明らかに、老人の言葉だつた。


死んだやうな生活といきいきした思想とが、どうして同居してゐることができよう。


かづが今やその人たちの一族に連なり、その人たちの菩提所にいづれ葬られ、一つの流れに
融け入つて、もう二度とそこから離れないといふことは、何といふ安心なことだらう。
何といふ純粋な瞞着だらう。かづがそこへ葬られるときこそ、安心が完成され、瞞着が
完成される。それまでは世間はいかにかづが成功し、金持になり、金を撒かうと、本当に
瞞されはしないのだ。瞞着で世間を渡りはじめ、最後に永遠を瞞着する。これがかづの
世間へ投げる薔薇の花束である。……

三島由紀夫「宴のあと」より
428名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/22(日) 11:34:32 ID:dwyaBzA9
その大仰な秘密くささも情事に似てゐて、政治と情事とは瓜二つだつた。


しかし人間は墓の中に住むことはできない。


かづが打算と考へてゐるものは一種の誠意、とりわけ民衆的な誠意であり、動機が
どうあらうとも、献身と熱中は、民衆に愛される特性だつた。


自然なものしか人の心を搏ちませんよ。


政治家の目からは選挙区の景色はどこも美しく見えなければならず、自然を美しく眺めるには
政治家でなければならない。それは収穫されるべき果物の、みずみずしさと魅惑に
充ちてゐる筈だ。


かうして展望することは政治的な行為であつた筈だ。展望し、概括し、支配するのは
政治の仕事である。


本当の権謀術数は、絹のやうな肌ざわりを持つべきである。


三島由紀夫「宴のあと」より
429名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/22(日) 11:37:23 ID:dwyaBzA9
空虚に比べたら、充実した悲惨な境涯のはうがいい。真空に比べたら、身を引き裂く
北風のはうがずつといい。


曇り空の一角に白金のやうに輝いてゐる小さい太陽へ、たえずかづの目は惹きつけられる。
不可能といふことがその輝きの素なのである。それは輝いてゐる。美しく天空に懸つてゐる。
何度目を外らしてもその輝きへ目が行くのも、それが不可能だからなのだ。そしてちらと
そこへ目が行つたが最後、他所はすべて闇としか思はれなくなつてしまふ。


理想のちらつかせる奇蹟への期待も、現実主義の惹起する奇蹟への努力も、政治の名に於て
同一なのかもしれない。


男の目が不可能に惹きつけられて光つてゐるときには、それを愛情のしるしと考へてよかつた。


かづは自分の活力の命ずるままに、そこに向つて駈けて行かねばならぬ。何ものも、
かづ自身でさへも、この活力の命令に抗することはできない。しかもさうしてかづの活力は、
あげくの果てに、孤独な傾いた無縁塚へ導いて行くことも確実なのである。

三島由紀夫「宴のあと」より
430名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:33:22 ID:gsethOP0
璃津子:このさき日本はどうなるのでせう。
経広:僕たちは、つてききたいのではない?
璃津子:その二つは同じことだわ。
経広:さうだね。同じことだ。
璃津子:お国の右の腕が痛むと
経広:僕たちの右腕も痛むのだ。そしてあの海のかなたへまで晴れやかにひろげられた
お国の裳裾が引き裂かれると
璃津子:私たちも引き裂かれるのだわ!
経広:その引き裂かれた絹の叫びが
璃津子:かうしてゐても海のむかうからきこえてくるわ。……もしかすると、日本は
負けるのではないかしら。
経広:それは世界が夜になることだ。この世でもつとも美しい優雅なものが土足に
かけられることになるのだよ。そんなことにさせてはいけない。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
431名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:33:36 ID:gsethOP0
悲しみのあまりだつて? 人はさう言ふ。悲しみは慰められても、悲しみよりもつと
遠くへ行つた人間に、人の慰めなんぞが追ひつくものか。


生きてゐる間は若様でした。私は自分の卑しさのすべてをかけて、あの子を若様と呼びました。
……今はちがひます。あの子は死ぬと同時に、青い空の高みからまつしぐらに落ちてきて、
ここへ、(ト自らの腹を叩く)ここへ、この血みどろの胎の中へ、もう一度戻つて来たのですわ。
もう一度私の賎しい温かい血と肉に包まれて、苦しい名誉や光栄に煩はされることのない、
安らかな眠りをたのしみに戻つて来たのですわ。今こそ私はもう一度、ここにあの子の
すべてを感じます。あの子の眼差、あの子の微笑、あの子のしつかりした手足をこの中に。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
432名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:33:49 ID:gsethOP0
経広はおそらく知つてゐたらう、自分の小さな死は無益(むやく)であり、たとへその死を
何万と積み重ねても狂瀾を既倒に回(めぐ)らす由もないことを。しかし又知つてゐたらう、
このやうな御代に生き御代に死んで、すでに閉じられようとしてゐる大きな金色の環へ
鋳込まれて、永遠に歴史の中を輝やかしく廻転してゆくその環の一つの粒子になることを。
身を以て空にかけた悲しみの虹の、一つの微粒子になることを。


苦しみをこえる矜りといふものがあるのだ。たとへば木は大地につながつてゐる。それは
苦しみだ。痛みだ。しかし梢にかかる白い雲は青空に属してゐる。私たちはその美しい横雲と
樹木とを、いつも一つの絵のなかに見るではないか。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
433名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:34:06 ID:gsethOP0
……しかし私が気が狂つてゐたとすると、それはどんな狂気だつたのだらう。果して
私自身の狂気だつたらうか。それともはるかかなたから、思召しによつて享けた狂気だつたか。
たとへ私が狂気だつたにせよ、あの狂気の中心には、光りかがやくあらたかなものがあつた。
狂気の核には水晶のやうな透明な誠があつた。


翼を切られても、鳥であることが私の狂気だつたから、その狂気によつてかるがると私は飛んだ。
……今はどうだ。お前は私が正気になつたといふかもしれない。私にはわからない。
自分が今なほ狂気か正気かといふことが、自分にはわからう筈がない。只一つわかることは、
その正気の中心には誠はなく、みごとに翼は具へてゐても、その正気は決して飛ばない
といふことだ。あたかも醜い駝鳥のやうに。私は知らず、少なくともお前たちみんなは
駝鳥になつたのだよ。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
434名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:34:19 ID:gsethOP0
光康:もう時代は変つて、手袋を裏返しにしたやうに、すべては逆になつたのに。
経隆:写真の陰画が陽画になつただけかもしれない。絵はもともと一つなのだ。


海と雲とは一色(ひといろ)の重い苦患に融け合ひ、沖に泊つてゐる外国の船の白い船腹を、
苦痛にむきだした白い鮮やかな歯のやうに見せてゐる。日本の船はどこにも見えぬ。
日本の船は悉く沈んでしまつた。
経広があこがれたのは決してこんな海ではなかつた。ただあいつの死の刹那に、海が
青かつたことを私は祈る。あいつのためには、海は晴れやかに青く輝き、そこにこそ
誉れの火柱は高くあがり、若者のおびただしい血潮は、透かし見られる朱い珊瑚礁のやうに
亜熱帯の海を染めなした。あの島をめぐる海は、経広の最後の日に、雲の影一つないほど
晴れ渡つてゐたことを私は祈る。あいつは朱雀家の代々が使はなかつた黄金造りの太刀の、
明るい花やかな朱いろの下緒のやうな死を選んだと思ひたい。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
435名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:36:34 ID:gsethOP0
なぜといへ、それを最後に、日本は敗れ、滅びたからだ。古いもの、優雅なもの、
潔らかなもの、雄々しいものは、悉く滅びたからだ。かつて気高く威光さかんであつた
一帝国は滅びたからだ。もつとも艶やかな経糸(たていと)と、もつとも勇ましい
緯糸(よこいと)とで織られてゐた、このたぐひまれな一枚の美しい織物は、血と火の
苦しみのうちに、涜され、踏みにじられ、つひには灰になつた。歴史の上で誰も二度と
ふたたび、同じ見事な織物を織り成すことはできまい。


すべては去つた。偉大な輝やかしい力も、誉れも、矜りも、人をして人たらしめる大義も
失はれた。この国のもつとも善いものは、焼けた樹々のやうに、黒く枯れ朽ちて、
死んでしまつた。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
436名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/23(月) 14:37:22 ID:gsethOP0
(雪ふりはじめる)
雪がふつて来たな。
(両手で雪を受ける)
この浄らかな冷たさ、雪はすべてを和める力だが、それといふのも、すべての身を一様に
慄へさすからだ。雪は女神に似てゐる。冷たく、美しく、矜り高く、残酷な女神に似てゐる。
その女神の冷たい嫉妬のおかげで、夏のかがやかしい日々は消されてしまつた。


璃津子:滅びなさい。滅びなさい! 今すぐこの場で滅びておしまひなさい。
経隆:(ゆつくり顔をあげ、璃津子を注視する。……間。)どうして私が滅びることができる。
夙うのむかしに滅んでゐる私が。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より
437名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/24(火) 17:04:07 ID:4ULWI8J4
○もし僕に子供が出来て、彼が天才の名にあこがれたら僕はどう云つて叱り、またいさめよう。
彼にこんな暗い、寂寞たる青春は与へたくない。

○天才がたゞその作物によつてのみ天才といはれるなら僕は明らかに天才でないだらう。
天才がたゞ彼の夭折によつてのみ天才といはれるなら、僕は尚天才ではないだろう。
しかし天才はたしかにある。それは僕である。それは凡人のあづかりしれぬ苦悩に昼となく
夜となく悩みつゞける魂だ。それは生れ乍ら悲劇の子だ。それは神の私生児だ。

○天才とは青春の虐殺者である。

平岡公威(三島由紀夫)「わが愛する人々への果し状」より
438名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 14:17:26 ID:9HvnB5RX
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に
感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。


世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには
悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を
出ない。

三島由紀夫「アポロの杯」より
439名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 14:19:38 ID:9HvnB5RX
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。
一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな
阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに
足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに
思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての
苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。
この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。
その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。
一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯」より
440名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 14:22:26 ID:9HvnB5RX
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。
美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは
本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。


時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな
ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。


狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、
破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも
一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には
意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯」より
441名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 14:25:16 ID:9HvnB5RX
(竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。
芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。
芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の
予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、
破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである
場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。


希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を
信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、
いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を
暗示してゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「アポロの杯」より
442名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 14:27:47 ID:9HvnB5RX
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、
人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。


真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。


われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。


アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず
不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、
これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた
ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。


彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が
われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、
われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から
はじめることができる。

三島由紀夫「アポロの杯」より
443名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 23:36:28 ID:9HvnB5RX
この世の絶頂の倖せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
その思案は波間をかすめる太刀魚の背鰭のやうに、幸福の海へ舟出をしてゐる時でなくては
見えないのです。


一つの建築が一つの夢になり、一つの夢が一つの現実になる。さうやつて巨大な石と
おぼろげな夢とは永遠の循環をくりかへすのだ。


今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、
共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様は
あの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう。


この世のもつとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ。

三島由紀夫「癩王のテラス」より
444名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 23:37:02 ID:9HvnB5RX
私の前にはただ闇があるだけ。色もない。形もない。死も私にははじめて会つたやうな
気がしないだらう。なぜならそれは、この世と一トつづきの闇に他ならぬからだ。


精神は必ず形にあこがれる。


崩れたもの、形のないもの、盲ひたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
おまへが癩にかかつたのではない。おまへの存在そのものが癩なのだ。精神よ。おまへは
生れながらの癩者だつたのだ。


何かを企てる。それがおまへの病気だつた。何かを作る。それがおまへの病気だつた。
俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
どこへも到達せず、どこをも目ざさず、空中にとまる蜂雀のやうに、五彩の羽根をそよがせて、
現在に羽搏いてゐる。俺を見習はなかつたのが、おまへの病気だつた。


青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。……俺は勝つた。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。

三島由紀夫「癩王のテラス」より
445名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/28(土) 10:07:50 ID:x3rRQddB
この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは
私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で
谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、
さういふ生の回復術である。


肉まで喰ひ入つた仮面、肉づきの仮面だけが告白をすることができる。告白の本質は
「告白は不可能だ」といふことだ。


私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと
自分を考へるが、もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の
恥部(セックス)に他ならないかもしれないから。

三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」より
446名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/28(土) 10:11:54 ID:x3rRQddB
比喩を用ひる。――私は鏡の中に住んでゐる人種だ。諸君の右は私の左だ。私は無益で
精巧な一個の逆説だ。


逆手の一つ。――私は自伝の方法として、遠近法の逆を使ふ。諸君はこの絵へ前から
入つてゆくことはできない。奥から出てくることを強ひられる。遠景は無限に精密に、
近景は無限に粗雑にゑがかれる。絵の無限の奥から前方へ向つて歩んで来て下さい。

三島由紀夫「序文(『仮面の告白』用)」より
447名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/28(土) 20:35:08 ID:x3rRQddB
「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活がもたらす深い暮色の香りが
たゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。


インダストリーといふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね。


詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないか。


僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁を
そそるものがあるのを感じます。…昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、
汚れた河口や、並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が
聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より
448名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/30(月) 11:35:11 ID:q4gQVzXn
光:僕はもう夢は怖くない。
看護婦:葵さんは夢に殺されたんですよ。
光:僕は男だ。
看:お気をつけなさい。真夜中にでる幽霊なんかは、知れたものですわ。もつと怖ろしいのは
午後の幽霊なのよ。こんな、何とも云へない退屈な、いい日和の、いつまでもつづきさうに
思へる午後、それは突然現はれるの。午後の幽霊……それに会ふときがあなたの本当の
敗北の時、でもその時こそあなたの本当に自由になる時かもしれないわ。いづれにせよ、
あなたはもうぢきそれにお会ひになるでせう。
光:(時計を見て)さア、もう君は病院へかへらなきやならん時間だぞ。
看:(立上つて)あなたが時間を知らせて下さることはないのよ。
光:(立上つて)I just remembered something funny …………

三島由紀夫「LONG AFTER LOVE」より
449名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/30(月) 11:37:27 ID:q4gQVzXn
今急に俺の家の猫がペンキ壷を引つくりかへしたやうな気がしたのだ。

それも私の罪ぢやないのさ。私の知つたことぢやないのさ。さつきお前さんが恋人たちを見て、
星だの大空だのと愚にもつかぬことを言つた、それとおんなじ気持に溺れて、いい気持で
死んで行つたんだよ。恋が自然にその身を滅ぼし、夢みただけの報いをうけ、私が手を
下すまでもなく、……さうさ、行き倒れの酔つぱらひの上に雪が静かにふりつむやうに、
やつらの上に死がふりつんだ。
(強く)……私に何の科があるものかね。私の顔の美しさから、つまらぬ幻を引き出して、
その報いに死んだだけのことだもの。それ以来私は、私の顔を美しいといふ男は、きつと
死ぬもんだと思ふやうになつたんだ。

三島由紀夫「LONG AFTER LOVE」より
450名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 12:01:26 ID:uumBOv2k
美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。

三島由紀夫
昭和22年11月26日、林房雄への書簡より


夜ばかりを愛して来た人間は、昼間の花園に出ると目がくらむのです。恋人の唇かと思つて
花に接吻します。恋人の囁きかと思つて蜜蜂に返事をします。


この間新潮に「戦艦大和」を書いた細川といふ人にある場所で会つて、その原文の、
門外不出の原稿を見せてもらひ驚倒しました。小林秀雄氏がこれを読まれて、細川氏の
勤め先へかけつけられたさうですが、日本人がうたつた最も偉大な叙事詩ともいへます。
(中略)日本人のテルモピレエの戦の細述です。人間の「目」のおそろしさを感じます。
事によつたら「心」より神に近いのは目かもしれない、人間が神からさづかつたのは、
肉体とか精神とかではなく、「目」だけかもしれない、と思はれて来るのです。

三島由紀夫
昭和23年2月21日、林房雄への書簡より
451名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 12:01:42 ID:uumBOv2k
小生はたつた一つの的を何とか最上の瞬間に射当てようと、弓を引いてゐるやうな気がします。
これは小生の手に負へぬ強弓で、弓を引きしぼる腕がともすると耐へきれずに落ちさうに
なります。しかし引きしぼつて、待つて待つて、これぞといふ瞬間に放さなければ、
矢は思ふ方向へ飛んで行かないことも確実なのです。

三島由紀夫
昭和44年3月3日、林房雄への書簡より


全学連が静かになつて、又日本は眠りかけてゐるやうな気がします。本質的なことは
なほざりにされ、又「仮面の日本」がつづくうちに、素顔を忘れてしまふだらう、と思ふと、
いささか焦燥の感なきを得ません。


いくら年をとつても心は傷つき易く、矜りも傷つき易く、それだけにロマンティケルなのでせう。
しかし日本はいよいよロマンティシズムから遠のいてゆく感があります。

三島由紀夫
昭和45年3月6日、林房雄への書簡より
452名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 12:05:08 ID:uumBOv2k
文学運動は運命的なものである、縁(えにし)である、八犬伝の八犬士の会合の如きものである、
といふ感じが僕にはします。それは理論体系を前提しません。但し解説と批判は後から
大いに必要です。併し命名も亦、後人の附するところに委ねてよろしいでせう。たゞ我々は
我々の中のデエモンの奮起を信ずるのみです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年12月10日、野田宇太郎への書簡より
453名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 12:05:26 ID:uumBOv2k
思ひがけなく帰京でき、時ならぬ正月を致し候。後で思へば、十四日はわが誕生日、――
寮へかへりて、速達及び御手紙拝見、殊に御母上様の御文章、感銘深く、ゆかりも深き
廿一歳の一月十四日、御母上が御廿一にて、小生を生ませ玉ひし記念の日に、わが家へ
かへれしも何かの縁。思へば思ふほど、御心づくしのホット・ケーキの美味しさ、
忘れがたく候。――豆、乾パンなどハ同室の諸君とわけ合ひ、けふすでに一缶、消費致候。
田作は、けふストーヴにて焼いて喰べ申候。おいしく候。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月17日、平岡梓、倭文重への葉書より
454名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 12:07:14 ID:uumBOv2k
むかし「鏡子の家」についてお書き下さつた時、自分は三島の文学自体には興味がなく、
精神史的興味が主である、と述べられてゐたと記憶しますが、実はさういふアプローチのはうが、
小生が文学に賭け、あるひは文学を利用してゐる(この二作用は同じことのやうに思はれます)
態度の根底にあるものを、正確に見抜いてをられるといふ感を抱かされます。小生は
長年文壇の「と見かう見」批評や、ダンディズム批評や、社会派批評や、精神分析批評や、
さういふものにツバを吐きかけてやりたい思ひで一杯でした。此度の御文章によつて、
真の知己を得たうれしさで一杯です。(などと申すと又、インチキてお思ひでせうが、
小生これで根は素直な人間のつもりです)。
三島由紀夫
昭和41年5月29日付、橋川文三への書簡より
455名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 19:48:47 ID:uumBOv2k
絶望は卑怯な方法である。目前の不幸なり困難なりにぶつかつて絶望するとき、人は
もし絶望しなかつたら更にぶつかつたであらう一層大きな不幸や困難から身を守るのだ。
絶望する者は結局、不幸や困難を愛することを知らないのだ。そして絶望と妥協した範囲だけの
不幸や困難を愛するのだ。そのとき彼は、絶望そのものにだけは絶望しえない自分を
見出だすだらう。なぜなら絶望といふ前提をとり除いたら彼の現在の存在理由はなく、
また同時に絶望によつてしか現在の存在理由を失はしめえないと考へるとき、彼は新たな
第二の絶望のために何らかの行動の原理をたのまざるをえないだらう。それが他ならぬ
希望ではあるまいか。
この世のありとあらゆる不幸と困難を心から愛し、あらゆる不幸と困難に対して扉を
とざすことのないものこそ、希望と憧憬、この生への意慾の二つの美しい支柱である。


人間もまた向日葵のやうにたえず太陽のはうへ顔を向けてゐたいと希ふものだ。夜のあひだ
向日葵は夢みてゐる。それは夜になれば太陽の光が彼の内面にだけ差し入つて来るからだ。

三島由紀夫「人間喜劇」より
456名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 19:53:10 ID:uumBOv2k
目前の汚れた小さな水たまりに目を奪はれて、お前も海の水の青さを疑つてはならないぞ。
どんな世の中にならうとも、女の美しさは操の高さの他にはないのだ。男の値打も、
醜く低い心の人たちに屈しない高い潔らかな精神を保つか否かにあるのだ。さういふ
磨き上げられた高い心が、結局永い目で見れば、世のため人のために何ものよりも役立つのだ。
人の心はいつかは太陽へ向ふやうに、神がお定め下すつたのだからな。


不幸や悲しみの滅びないことを信じる人だけが、幸福も滅びないことを知ることができる
わけなのね。


何もかも失くした時こそ、何もかも在りうる時なのです。


人が自分のことでない喜びをよろこんでゐる表情ほど美しいものはありませんね。

三島由紀夫「人間喜劇」より
457名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/31(火) 19:56:03 ID:uumBOv2k
自分の不幸だけを忘れようとするのは烏滸(をこ)のわざですよ。もしあなたが不幸に
会はれたら世界中の不幸を忘れてしまふ覚悟をなさることです。私のことなんぞ当分
お考へになるには及びません。又いつかきつとお考へになる時は来るのですから。そして
一旦世界中の不幸を忘れる必要に迫られた人だけが、世界中の不幸の慰め手になることが
できるのです。それを不幸への愛と呼びませうかね。愛するためにはまづ忘れることが必要です。
あなたは希望をお忘れにならぬ。これは若い人として美しいことです。しかし希望を
お忘れになつたときに、あなたの希望への愛も本当に生きてくるでせう。それは絶望を
忘れた人の、絶望への愛と似通つて来ます。ともかくお生きなさい。そしてお忘れなさい。
それが愛するといふことです。


どんな世の中が来ようとも誠実と愛とは貴く、情熱は美しいものだと頑固に疑はない。
そのどれもが人間にだけ出来るものなのだから。

三島由紀夫「人間喜劇」より
458名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/01(水) 11:23:38 ID:45UVuRoS
待つといふ感情は微妙なものです。それは人の生活に、落着かない不満足な感じと同時に、
待つことそれ自身の言ふにいはれぬ甘美な満足をもたらすからです。


明日の遠足がよいお天気であるやうにとねがふ子供は、その明日がお天気であつただけで、
もはや遠足そのものの与へる愉しみの十中八九を味はひつくしてゐるのです。よいお天気の
朝を見ただけで、彼の満足の大半は、成就されたも同じことです。


仏の花を買ひにゆくといふ殊勝な用事を彼にうちあけることが、私には何故かしら
嬉しかつたのです。私は悪戯をする子供の気持よりも、修身のお点のよいことをねがふ
子供の気持のはうが、ずつと恋心に近いことを知るのでした。まして恋といふものは、
そつのない調和よりも、むしろ情緒のある不釣合のはうを好くものです。

三島由紀夫「不実な洋傘」より
459名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/01(水) 14:45:31 ID:45UVuRoS
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには
思はれる。その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうと
その人たちをかり立てる。かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへ
かけ上る。そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前に
そそり立つた死の影響からのがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそ
はじまるものだつた。死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光にあふれた
野の花と野生の果樹となだらかな起伏の景観を、人々はこれこそ死の眺めとは思はず
眺めてゐるのだつた。

三島由紀夫「罪びと」より
460名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/01(水) 14:45:51 ID:45UVuRoS
矜りのない人間に自殺は出来ない。同様に傷つけられた自負心は人をたやすく死へ
みちびき入れるものである。


「幸福」などといふ怖るべき観念が人心に宿つて殺人罪を使嗾(しそう)する結果にならぬやう、
私は一社会人の立場に立つて衷心より切望する次第である。

三島由紀夫「幸福といふ病気の療法」より


人生といふものはまるで脈絡もない条理もない感動に充ちてゐる、感動は私たちの心の
トンネルを通過する急行列車のやうに過ぎてゐるのだ、何も残らない、永久に感動する心は
永久に純潔な心だ。


心の共有とはなんといふ容易な事柄でせう。黙つてさへゐれば人間の心は永久に一人一人の
共有物でありませう。黙つてさへゐれば思ふままに相手を創造することができます。
相手は私の中で創造られ、私に似て来ます。本当の真実は孤独なものです。愛のためなら
何故真実が要りませう。愛はいつでも真実を敵に廻すべきではないでせうか。

三島由紀夫「舞台稽古」より
461名無しさん@お腹いっぱい。
夥しい薔薇は衰へた高貴な詩人の顔へ花冠を向けてゐた。彼らの本質を歌ひ、彼らの存在の
核心を透視した不朽の詩人の顔に向つてゐた。被造物のうちでも最も精妙な最も神秘な
美しい存在が、この詩人の何ものも希はない深い無為の瞳の澄明の前に、われにもあらず
嘗て己れの秘密を売つたのであつた。薔薇はリルケの美しい詩のなかで裏返された
いたましい喪失の存在に化した。それは認識の手によつてではなく、運命を共有する一つの
宇宙的な魂の手で、あばかれた羞恥と苦痛なのである。苦痛の思ひ出は、微風のやうに繁みを
ゆるがした。薔薇は詩人にその名を呼ばれたものの受苦の上に、詩人をも誘はうと試みた。
リルケの瞳は、恰かもまどろんでゐると見える見事な一輪の薔薇にとどまつた。
葉は蝕まれてゐず、咲具合も頃合である。花弁は深く包まれてゐてしかも艶やかに
倦(たゆ)げである。心もち重みにうなだれ、リルケの目に対してゐた。

三島由紀夫「薔薇」より