1 :
名前はいらない:
2 :
園川:2005/06/01(水) 12:18:56 ID:aiflVtml
読書会というものをしたことがなく、
上にあげたボルカさんたちのスレッドを参考に進めていくつもりです。
僕のほうはすでに手元に本書がありますので、3日後くらいには開始できると思います。
が、もし他に参加して下さる方がいれば、それまでにいつでも始めてくださって結構です。
3 :
リーフレイン:2005/06/01(水) 12:43:04 ID:u8TaKItT
本が手に入ったら参加したいです。。
4 :
まーろっく:2005/06/01(水) 13:23:56 ID:VFca1Wv0
その本なら近所の古本屋で見っけてさらっと読んで積んだままになって
るなぁ。なにしろエロ本のなかに詩集だ吉本隆明だがまじってるアバン
ギャルドな古本屋でね、これが。オレがひところせっせと詩書集めして
たら、オヤジも心得たもんでさりげにいろいろ仕入れてくれてたんだが、
ああ、そんなことはどうでもいいのか、とりあえず読み終わったら参加
いたします。
5 :
園川:2005/06/01(水) 19:43:26 ID:aiflVtml
こんばんは。さっそくいっしょに読んでくれる人がみつかって嬉しいです。
今のところ本を持っているのは自分だけのようですので、
できるだけ早く最初のレポートをアップしたいと思います。
6 :
園川:2005/06/01(水) 22:18:30 ID:aiflVtml
本書を持ってない人にもできるだけ開かれたスレであるように、
章ごとに本書の内容の紹介を兼ねた要約をアップし、
それについてディスカッションするという形式でいけばいいんじゃないかと思っています。
さて、少し読んだところで導入部の大まかな紹介をしておくと、
入沢さん詩は現実の出来事を再現したり、作者の感情や思想を他者に伝達する手段ではない
(曰く「詩は表現ではない」)と規定します。そしてその規定の結果、「詩はそれ自体が完結した世界、一個の事物である」
という考えを、その全肯定の危うさ、そしてその本来的不可能性を予感しつつもとりあえず支持します。
さらに、日常言語はイマージュを伝達するが、詩的言語はそれ自体がイマージュである。
言い換えれば詩の言葉とは「言葉のイマージュである言葉」であると、ブランショの文学空間をひきあいにだして規定します。
このように入沢さんは、詩とは現実世界に拮抗するもう一つの世界を、
現実的事物の符牒ではない自立した言葉によって構築する言語芸術であり、
それらを可能にするのは「詩の構造である」と考えます。
では「詩の構造」とは具体的に何なのか、が以降検討されていく、そんな内容であるようです。
まだざっと読んだだけですし、誤読やあいまいな理解に留まっている所があるかもしれません。
もし読んだことのある方がいれば色々指摘してくれるとうれしいです。では今日はこの辺で。
なに? この伸びそうになく面白くもなんともないスレッドは ふざけてるの?
8 :
ボルカ:2005/06/02(木) 01:40:34 ID:SymQih3s
>7 ふざけるも何も名著中の名著だよ。超名著。スレが伸びようが
伸びまいが関係ない。スレ立てること自体がすごい。生物学板で、
「種の起源」読書会スレを立てるぐらいすごい。
てか、「詩は表現ではない」という唐突な言明をどう評価するか。
お前はどうすんだよ。>7。
50年たっちまったんだよ。いや、30年だったかな。いったい
どうすんだ。
「詩は表現ではない」と言われて、ハイソウデスカでいいのか?
それはどうでもいいことだと言えるのか?
9 :
名前はいらない:2005/06/02(木) 01:47:17 ID:Ha8JBwgj
>6
>このように入沢さんは、詩とは現実世界に拮抗するもう一つの世界を、
>現実的事物の符牒ではない自立した言葉によって構築する言語芸術であり、
詩を工芸品と捉えているんですね。
非常に合点がいきました。
何で今までこんな簡単なことに気がつかなかったのか、、、
園川さんありがとう。筆を折る決心がつきました。
10 :
まーろっく:2005/06/02(木) 17:16:53 ID:ip1EHEdM
>>8 ボルカさん、「詩は表現ではない」というのは唐突でもなんでもない
と思います。テキストのなかで入沢さんも「再現」という言葉に置き換えて
「詩は再現ではない」と言いなおしてる。つまりは「表現」という言葉に
二通りの感じ方をする人がいる。つまり、
A すでにある《現実》を言葉に置き換えて《表す》と感じる人
B 内面にあるものに言葉を与えて《表(オモテ)》に《現す》と感じる人
「詩は表現ではない」というのはAを否定しているのでしょう。
ところがわれわれ詩を書くような人間は案外Bの方を当然と考えているので
「詩は表現ではない」と言われると慌てふためくわけです。
吉本隆明が「表出」という言葉を使ったのも、こうした混乱を避けるためで
はなかったかと思います。
11 :
リーフレイン:2005/06/02(木) 22:32:12 ID:wxQAgScx
本買いました。(ちょこっとだけ読みました)
この「詩は表現じゃない」っていうテーマはこの本の根幹みたいだから、ちょっと
議論してみたいですね。
とりあえずかすったとこでは、マーロックさんの認識に近かったんだけども、
後半のほうで私詩の弾劾をしているところをみると、思想的な意見表明とか心象風景の
表出でもまだ詩じゃないと思ってるような気がしました。
>>9氏
まだ、筆を折るのは早計じゃないですか?どうしてそう思われたんでしょうか?
12 :
ボルカ:2005/06/02(木) 23:40:50 ID:SymQih3s
>10 レスありがとうございます。 >11横入り失礼。
今ちょっと本がどっかに入り込んでしまってるんですが、探してみます。
まーろっくさんの<A><B>は大変わかりやすい提示っすね。
「唐突」というのは、あまり考えないで言ってしまった印象です。失礼しました。
私もリーフレインさんと同様に、ここあたりはちょっと議論してみたいかも。
入沢は<B>を否定していなかった、と記憶してはいるのですが、その辺がど
うだったかなあ、と気になっています。
私の記憶では、単純に詩の中の主語(私)がイコール作者であるかどうか、という
同意しやすい話で始まって そこから、いつの間にか、まーろっくさんの<A>や<B>についての
言及にシフトしていたような印象があります。
・・どこいっちゃたかなあ。まだ最近買ったばかりなんですが。
13 :
園川:2005/06/03(金) 01:10:43 ID:JgGlnwAC
こんばんは。日曜日にでも全12回のうち、第一回までは要約してみようかと思っていますが、
とりあえず「詩は表現ではない」についてこの時点である程度先取りして討議するのは面白いですね。
入沢さんは「表現」について、「作者の内面を伝達する手段」と定義し、
そのような作品を「手段」としての詩作品であると規定ます。
ですから入沢さんはずばり
「内面にあるものに言葉を与えて《表(オモテ)》に《現す》」
詩を否定しているように思います。
表現の対象を、現実という「外部」と内面という「内部」に分けるまーろっくさん的な分類は、
この時点では入沢さんは問題としていないのではないでしょうか。
14 :
園川:2005/06/03(金) 01:18:55 ID:JgGlnwAC
では表現=手段ではない詩、言い換えれば目的である詩、とは一体どんな詩かと言えば、
「それ自体で完結した一つの世界、一つの事物、つまりオブジェである。」と入沢さんはとりあえず措定します。
つまりあらかじめ作者の内部にあるメッセージを伝達する手段としての「表現の詩」
書き手および読み手との関係において様々に意味が生まれるのが「目的としての詩」ということになるんじゃないでしょうか。
15 :
園川:2005/06/03(金) 01:35:49 ID:JgGlnwAC
>>8 はじめまして。ボルカさんの「詩的レトリック入門」スレがきっかけで詩について具体的に色々考え始めました。
ということでボルカさんも参加してくださるのは僕にとって大変ラッキー。よろしくお願いします。
>「種の起源」読書会スレを立てるぐらいすごい。
再評価しようというすごさではなく、今更かよ的な「すごい」ですね。自分はその程度の素人ですので、
まあそんな感じで見守ってください。
>>9 「構築」というと「つくりもの」であり「頭だけで作った詩」のように誤解される、というのは入沢さん自身が
本書の中で書かれていることです。「工芸品」とい言葉で言わんとしていることがもし、
そのようなことであるのなら、それで筆を折るというのは早計かもしれません。
入沢さんは私詩にも構造はあり、それを認識し、自覚化することが大事だと言っています。
入沢さんは短歌的、作者=話者という単純な構造をさらに高次の構造へと改革しようとしているのであり、
短歌的叙情自体を否定しているわけではないのではないでしょうか。まだ全部読んでないのでわかりませんが。
16 :
園川:2005/06/03(金) 01:49:50 ID:JgGlnwAC
>>10 本書 1回-T-A より引用
>まして「芸術の中に、現実のものの模写や写しを見るという嘗ての考え……
>幸いにして今日では捨ててかえり見られぬ考え(ブランショ「文学空間」)」にまで立ち戻って考える検討する必要はないと思われる。
これはまーろっくさんの言う「A すでにある《現実》を言葉に置き換えて《表す》」芸術の否定であると思われます。
引用部は「詩は表現ではない」まして…という文脈に置かれているので、どうやら入沢さんはAもBも否定しているようです。
17 :
ボルカ:2005/06/04(土) 01:16:51 ID:Pcv3GzC1
13-16 園川さん
<ずばり>言いましたね(笑。
イイ感じの緊迫感です。
入沢が、AもBも否定しているのであれば、そこから、「私にとっては
詩は表現に他ならない」という意見の方もありえそうですよね。そうした
批判的な再検討の対象としてもこの本は面白そうだと思います。
また、なぜ(どんなニュアンスで)入沢が、単に「表現ではない詩の可能性もある」
としたのではなく、さらに「詩は表現ではない」と、否定までしたのか、と
いうことが興味を誘います。
たとえば、「私(詩人である入沢)にとっては」詩は表現ではないもので
あったのか、批評家である入沢として、一般に詩はそうではないのだ、と言お
うとしたのか、、、。
実は私は今、猛烈に散らかった部屋にいて、まだ本が出てきません。
でもきっと出てきますので、私も参加させてください。よろしくお願いします。
18 :
ボルカ:2005/06/04(土) 01:31:56 ID:Pcv3GzC1
良スレ推薦、花金age
>15 今更なんてことありません。現にイントロ部分で登場する主要命題の一つ
すらが、現代の私たちにとってさえ、議論のネタになるわけですから。
>9 工芸と芸術を区別してよいものかどうか、かなり戸惑いますが、区別するとすれば
それはオリジナリティの問題かな、と思います。
入沢の「詩は表現ではない」という言明が正確に何を意味するのかは議論中ですけど、
私は園川さんの6を読んで、入沢は、作者の経験である<いわゆる現実>から独立した、
詩でなければありえないものの出現、という意味での、現実に対する<詩のオリジナリティ>
=<詩の芸術性>を追及した人なんじゃないかと、いう印象を持ちました。
19 :
園川:2005/06/04(土) 02:18:33 ID:NuvBNskI
>>17 入沢さんは当然の前提の確認として「詩は表現ではない」等を挙げています。
ですからそれらは詩一般の普遍的性質だと考えているようです。
ただし、詩の性質の一部を意識的に誤用、あるいは活用すれば表現としての詩というのもあり得るだろうとも言います。
また私詩的叙情を、作者と話者が未分離の短歌的構造と結び付け、その高次化としての「詩の構造」と考えているようです。
(この高次化を入沢さんは「改革」と言っている)
つまり詩の本質からの派生的、または付随的機能として、表現としての詩=叙情的な詩、
と考えているのではないか…と思います。
20 :
ボルカ:2005/06/04(土) 04:30:37 ID:Pcv3GzC1
>>20 なるほど。
>ただし、詩の性質の一部を意識的に誤用、あるいは活用すれば
>表現としての詩というのもあり得るだろうとも言います。
やはりかなり挑戦的な論理ですね。(とか言いながらまだ本が出てきま
せんが。)
叙情的な詩、何でも良いのですが、たとえば、「よごれっちまった悲しみに
今日も風さえふきすぎる」という詩句を読むとき、「作者が汚れちゃった
んだろうな」、と思ってしまう人は少なくなくないと思いますが、これは、
自明ではない、ということになるでしょうか。
むしろ、そう読ませるために、作者が詩の機能を意図的に誤用した、と。
あるいはそうではなく、本当に自分自身を直接ポエジーに載せているのだとしたら、
それは、詩の構造について未自覚な低次元の文学状況を反映している、と・・・・
そんな感じになるのでしょうかね。
ちょーっと、検討が必要な考え方だと思います。
しかし、なんとなく思い出してきたのですが、確かに園川さんがおっしゃるような
ことを入沢は言ってたような気がします。
21 :
まーろっく:2005/06/04(土) 11:35:55 ID:SSc4SSK4
要するに、ありのままを描き思うがままを伝える、という自然主義文学の否定
が「詩は表現ではない」なんだろうと思います。
もちろん自然主義で「表現」された詩もある(というよりこちらが多数派)の
ですが、「そんなの詩じゃない」とは若き入沢さんにはさすがに言えなかった
とか(笑)。
「表現ではない」という部分より論じるべきは「表現でなけりゃ何なんだ?」
というところではないでしょうか。
22 :
園川:2005/06/05(日) 10:35:40 ID:RcM2oRst
第一回 T 手持ちの材料と道具の点検
「今日ではかなり普遍的に承認されているはずの命題なのであり、
だからこそ、これらについてはあらかじめ確認しておきたい」
と、まず語られるとおり、以下に提示される命題は詩の構造を云々する前提として存在する、
詩一般の普遍的性質、あるいは定義であると入沢は考えている。それを確認した上で、
僕たちも入沢さんの「点検」についていきましょう。
A 詩は表現ではない
引用― 詩人がいて、その詩人が何かその人独自の伝えたいことを持ち、
それが表現されて作品が産まれ、読者はその作品を読んで、作者の伝えようとするものを性格にキャッチし、
そしてそれに十全に共感する、という図式を、詩に関してはぼくは信ずることができない。
〜略〜 まして「芸術の中に、現実のものの模写や写しを見るというかつての考え……
幸いにして今日では捨ててかえり見られぬ考え(ブランショ「文学空間」栗津則雄氏訳による)」
にまで立ち戻って検討する必要はないと思われる。 ―引用終わり
入沢は「表現」を「伝達」と定義し、またブランショの引用によって、伝達される内容は
内面の吐露か外界の描写かを問わないことを強調する。
引用― では、一歩を進めて、「詩作品は手段ではない」と言えるだろうか。さらにそれを裏返して、
「手段ではなく、それ自体が目的なのだ」と言えないか。あるいはこう言いかえることも考えられる。
「手段ではなくて、言葉で作られるそれ自体で完結した一つの世界、一つの事物、つまりオブジェである。」と
―引用終わり
入沢は表現=伝達の詩を「手段」と規定し、その裏側に事物=完結の詩を「目的」としての詩と借定する。
(借定というのは「言葉を物として扱うことと詩作品を物として扱うことは違うのではないか」とか
「言葉は物よりもイマージュに近いのではないか」とかいう新たな疑問による保留による。)
では詩は如何に事物化するのか。また、「なぜ詩は表現ではないのか」との問いに入沢の論は答えない。
ただし「詩の機能を意識的に誤用、あるいは活用すれば」という言い方で、詩は表現でもありうるとは言っている。
23 :
園川:2005/06/05(日) 10:38:04 ID:RcM2oRst
B 作品の構成の素材は単語だけではない
引用― 詩の構成にあたって、素材として処理される単位は、必ずしも一つ一つの単語である必要はなく、
時にはその日常的秩序における連なりである<文>あるいはその集合である<節>でさえあることが考えられる。
―引用終わり
具体的にどのように文、あるいは節を素材として処理するのかと言えば、
まず自作を例にとり、既成の短文の選択と配列という方法を上げる。そして、
引用― ところで、このように、語、文、節などを日常的用法のコンテクストからはずし、
素材として利用すること――それはサルトル流にいえば想像的にそれらに対するということになるのだろうが――
を、ここで仮に素材のイマージュ化と呼ぶとすれば、これはもう、作品そのものが一つのイマージュではないのか
―引用終わり
言葉を「日常的用法のコンテクスト」からはずす。これを既に触れられた選択・配列とい方法、
およびAの「詩とはオブジェである」という考えとあわせれば、
言葉を語、文、節という単位で「日常的用法のコンテクスト」から脱臼させ、
それらを理知によって再配列し、新たなイマージュ、すなわちオブジェと化すという筋が見えてくる。
この「イマージュ」という用語だが、意味が曖昧である。入沢は次の項でこの「イマージュ」を定義する。
24 :
園川:2005/06/05(日) 11:28:15 ID:MFd+PXLT
第二回
C 詩が、主として語のイマージュに依存するという考えは不適当であり、同様に、比喩
(直喩・暗喩)に主な拠り所を持つという説にも、無限低には同意できない
引用― 詩がついに言葉で作られるものであり、そこでは最小限にもせよ文章法の約束が受け入れられるのである限り、
詩にイマージュがふくまれ、比喩が入ってきても、それはあたりまえのことなのであって、その点をとらえて、
詩の特色として正面に据えてみても、本質的な問題解明にはならないと思うのである。 ―引用終わり
比喩やイマージュが文章一般に見られる限り、多用しようが依存しようがそれは詩を詩たらしめるものではない。
他の文章ジャンルには見られない特徴が詩の本質を為すはずだ。入沢はまず「イマージュ」という語の吟味からはじめる。
まず栗田勇の意見(1)詩の問題を単語論にまで分解すると、作品の構造性を無視することになる。
(2)イマージュという言葉の適用を、想像力によって構築された、この世にない世界、その産物に限るべき。
を引き合いに出し、続いて再びブランショの「文学空間」を引用する。
引用― 「詩や文学における言語は、日常言語にくらべて、ちょうど、事物に対するイマージュのごときものではないか?
詩は、他の言語以上に、イマージュの権利を認める言語だと、人々はとかく思いがちである。
おそらくそれは、もっとはるかに本質的なある変形への暗示だろう。 〜略〜 つまり、文学においては、言語そのものがことごとく、
イマージュとなるのではないか、かずかずのイマージュをふくんだり、あるいは現実を形象化するような言語ではなくて己のイマージュに
――比喩(イマージュ)に富む言語ではなくて――言語のイマージュであるような言語に、なるのではないか 〜略〜
出来事のかげに向けられている言語となるのではないか?」 引用終わり
25 :
園川:2005/06/05(日) 11:30:41 ID:MFd+PXLT
ここでの「イマージュ」という語は「残像」とでも解しておけば良いだろうか。入沢はこの「文学空間」からの引用に全面的に賛同する。
詩は他の言語に比べてイマージュの権利を大きく認めるのではなく、むしろイマージュそのものと化すのだ。
つまり日常言語が事物のイマージュを伝達する符牒なら、詩の言葉は符牒の陰に隠れることにより、イマージュそのものと化す、
ということか。そしてイマージュとは事物=世界の不在のあとに現れるものならば、イマージュそのものである詩の言葉とは、
世界の不在後に現れる世界、または世界の陰である、と。
詩の本質とは言葉が言葉のイマージュとなり、世界の影に向けられた構造体としてのイマージュとなることだと定義される。
Bとあわせて考えると、日常的用法のコンテクストを外れ再構成された言葉は言葉の影と化し、世界の影へささげられる、
あるいは世界=事物に拮抗するもう一つの秩序体となり、すなわちそれが詩である。という結論になる。
D 個々の要素の持つ意味の重層性や潜在的情動力は、適切な構造の中にところを得て、はじめて発揮される
詩においては言葉が他の言葉との関係においてイマージュ化し、入沢的には詩の言葉はイマージュ化した言葉のことなのだから、
当然命題は肯定されるし、入沢も検討は省略している。が、注意しておきたいのはここではイマージュの力が「意味の重層性」や「潜在的情動力」といった言葉で
とらえられていることだろう。
E 擬物語詩は、あり得べき詩作品の構造の一つのタイプである
なんでこれが前提事項に入るのかがよくわからなかったが、まず物語のレベルで意味を脱臼させ、
叙述と事件が互いに互いを規定し合い如何なるリライトも許さない、さらに語り手は事件の伝達を目的としていないという特質は、
現実の影としてのオブジェという詩の定義と照らし合わせればたしかに「あり得べき詩作品構造の一つ」ということにはなる。
もうひとつの、現実を現実として存在させるのは世界に属する僕たちの意識だが、擬物語詩を擬物語詩として存在させるのは、
仮構された語り手の意識である(意識という表現は入沢は使っていないが)という特質も同様。
この回ここまで
26 :
園川:2005/06/05(日) 11:47:20 ID:MFd+PXLT
第一回、第二回は「T手持ちの材料と道具の点検」という項で一まとまりになっているので一気に進めました。
感想や疑義についてはまたあとで書いてみたいと思います。とりあえず僕は、「詩は表現ではない」という命題について、
実は論拠が示されていないこと以外には不満な点はないっぽいです。あとはイマージュについてのブランショの引用についての
理解に自信がないです。よくわからん。誤読についてはよろしくご指摘ください。
>>20 僕は逆に穏当な考え方だと思ったんです。心情吐露の作品と世界を構築していくような詩とを架橋、
包括しうる詩論の可能性をみました。これって実は、入沢は「詩は表現でもある」と言ってしまっているんじゃないかと。
>>21 「表現」って言うのはつまり現実の模写なわけですから、詩が現実とは独立した存在であるなら、
それを指して「表現」というわけにはいかないという事でしょう。あえて言うなら「出現」という感じでしょうか。
27 :
園川:2005/06/05(日) 12:13:32 ID:MFd+PXLT
一つだけ訂正。入沢さんは他には見られない詩の本質として、
言葉の日常的用法からの逸脱によるイマージュ化を挙げているのだから、
そしてそれは言葉の伝達機能を破壊したところに成立するのだから、
なぜ「詩は表現ではない」のか?に十分答えていることになるようです。
そうすると、表現している詩、伝達している詩は詩ではないということに、
少なくとも入沢さん敵には断定されてしまいますね。
「誤用あるいは活用」による表現、伝達は普通考えられているような表現、
伝達とは違うということだろうか。
28 :
園川:2005/06/05(日) 12:25:40 ID:MFd+PXLT
29 :
名前はいらない:2005/06/05(日) 12:29:17 ID:QhJ5ZR+I
賛同するかどうかは別として、面白い話ですね。ずっと見てます。
この本読んだことないんですが、読んでみたいなぁと思いますよ。
「詩は表現ではない」がすでに詩の出だしを感じさせますよね。
本は持ってないし、もちろん読んだこともないわけですが。
入沢康夫さんという名前もはじめてここで拝見しました。
検索して出てきた詩を見て、あーこの系の人なら言いそう、と。ジャジャンカ ワイワイ と。
私としてはなにゆえ園川さんがこの人に興味を持ったのかの方が興味深かったりします。
えっと、ただ、このスレを楽しみにしてますと言いたかっただけでした。では。
31 :
リーフレイン:2005/06/05(日) 20:26:32 ID:wBBwC6+W
園川氏、ありがとうございました。
この冒頭の部分をどう読むかって話なんですが、時代背景と、この論文?が
雑誌に連載されていたという事情を考えてですね、個人的な偏見ですが。。
1、入沢氏は、あの有名なジャジャンカワイワイの詩を作るにいたった経路を
自らに規定しようとして書き始めたんじゃないかと。
2、当時の詩は、中原中也氏に代表されるような、一種の私詩風の叙情的なもの、
戦後の処理として、戦争をどうとらえたか、戦争の中で自分はどうあったか、
どうありたいかという命題を扱う詩が非常に多かったという事情があった。
四季派に象徴されるような、いわゆる、情景詩のようなもの(ま、短歌の流れとも同期をとってるんですが)
が優遇されていた。その中で、そうしたものをいったん転倒させた詩(つまり言語をいったん死なせた
上で詩世界のイメージを創出させるもの)の可能性つか、正当性みたいなものを論じてみたかった。
3、自己表現(いわゆる、伝達ですね)を超えるとはどういう道筋、道具立てが必要であるか
を模索したかった。
のではないかと思うんです。言語の定義も連載中にどんどん変化してるみたいだし、
きっと反応も過激だっただろうから、あちこちであいまいな表現をとったりしてねw。
でね、たぶんこの当時、入沢氏は、自己表現についてよほどげんなりしてたんじゃないかなあ?
だけども、自己表現って今の詩板でもあふれかえってるんだけど、私は詩の動機にあたる原動力じゃないかと
思うんですよ。稚拙なそれはもう、読むのも辛いわけだけど、ある種の段階から詩になっていくと
思います。(ある意味、技術ですよね)で、入沢氏自身の論はもう、どこを読んでも自分自身の表出なんて
唾棄すべきもんだって感じがあふれているんだけど、そこんとこは差し引いて、詩にいたる技術として
この本きっちり読んでみたいと思います。
物語詩ってなあ、当時の入沢氏の目標だったんですよね。思索の。だからあえてあの
疑物語の項目があがっているんだと思います。「小説的な詩」と私は思っているんですが。。
32 :
園川:2005/06/05(日) 22:00:51 ID:vfiVfsNe
>>29 ありがとうございます。そういうことを言ってもらえるとうれしいです。
>>30 興味を持ったのはたまたまですね。
「季節についての試論」と「わが出雲 わが鎮魂」を読んで、いいなぁと思ったのです。
ぜんぜん主知的な詩とは思わなくて、抒情詩として読んでいたんですけど。
知るきっかけとしては北川透さんの「詩的レトリック入門」という本での引用です。
>>31 状況論としてはだいたいそんな所なんでしょうね。ただ僕は入沢さんの詩論の普遍性を状況からではなくて、
あくまで論内部から、突き崩していくなら突き崩していく、肯定するなら肯定する、そんなふうにしたいと思っています。
で、入沢さんは自己表現を唾棄したいとして、彼はその根拠を「詩の特質は伝達を破壊することの上に成り立つ」
という考えに置いています。ですので「詩は表現である」と反論するにはそこを覆すことが必要になるでしょう。
33 :
まーろっく:2005/06/05(日) 22:04:02 ID:1D2K00OB
園川さん要約と論評お疲れ様でした。
順を追って僕なりの受け止め方を述べたいと思います。
>>22 A・詩は表現ではない
自然主義的な文学観と方法を否定するところから論が起こされている。
言語芸術に純粋芸術という概念を持ち込もうとする試みであって、外界であれ
内面であれ「対象」を拒否して、言語そのものの自己完結的な世界を構築しよ
うとしている。
絵画における抽象絵画、造形芸術におけるオブジェ、に相当するものが当然
言語芸術でも可能であろう。しかし、その素材は絵の具でも粘土でもなく、
言語であって、言語ゆえの複雑さも生じる。「伝達」と「再現」という言語
の機能が認識に不可欠(一般的に)であって、既存の詩がその機能を手放さ
ないかぎり言語の純粋芸術は不可能である。(読み手も「伝達」と「再現」
を放棄しないと鑑賞困難な詩になる)。
34 :
まーろっく:2005/06/05(日) 22:24:45 ID:1D2K00OB
>>23 B.作品の構成の素材は単語だけではない
日常言語は伝達や再現の機能を高めるために進化してきたので、単語よりむしろ
節や文の構造に進化の蓄積が見られる。日常言語から詩の言語を脱却させるには
単語(語彙)の捉えなおしだけではダメで、文法から作り直さなければならない。
(言語はものであるから破壊も作り直しもできるものだという考えが根底にある)。
35 :
まーろっく:2005/06/05(日) 22:28:00 ID:1D2K00OB
Cのイマージュについては考えがまとまらないので明日以降にしたいと思います。
36 :
リーフレイン:2005/06/06(月) 09:57:14 ID:sD3GA8T5
>>22 A レジュメとしてとてもきれいに要約。誤読ないと私も思います。
「詩とは表現である」(表現の内容としては、自己の内面吐露、現実の情景描写、思想的啓蒙を問わない)
というテーゼに対して、本当にそうだろうか?いや、「詩は詩そのものが目的であって、表現手段ではない。」
というのがAの要約であろうと思います。で、その際に、微妙に目的化の定義が
まだ曖昧な状態なんで保留があるのと、表現としても可能であると譲歩がある。
で、個人的な反論。
読者の視点からみて、その詩が作者の自己表現であろうとなかろうと実はどうでもいいです。
読者は別に作者の意図を十全に読み取って共感することを目標にして詩を読むわけではない。
ただ、その詩を読むことで何かを感じたいに過ぎないです。
では何が読みたいか?と問われれば、それはたとえば、流行歌を好むか、バッハを好むか?
という話にもなるわけで、そのとき読みたいものが読みたいのが基本。
で、そのときにたとえばバッハが読みたいのであれば、それ相応の演奏と、構成と
音色のあるものが読みたいと感じるし、演歌が読みたいと感じれば、べたな感情表現が読みたい
わけですよ。入沢氏の論は基本的にバッハを構築するためにと言っているように
感じるし、それはそれでいいんだけれども、それがすべてではない。
しかも、バッハであっても、個人的には自己表現の残滓のようなパッションが
残っているものが好きなんですよ。芸術というものが人間が作りうるものであるからこそ
その深みというのは人間性に回帰してくると思います。どこかに作者の血が流されているものが欲しい。
自己表現をばっさり切り落としてしまうのは、そこにいたる道を断絶してしまう可能性があると思いますね。
37 :
リーフレイン:2005/06/06(月) 10:27:14 ID:vP095zKd
>>23 作品の構成の素材は単語だけではない
これも、要約は賛成。
異論は、サルトルの引用部分で、入沢氏は単純に”想像的にそれらに対する”と書いているわけだけども、
本来、言語というのはそのシチュエーション事に一回的に(この一回という意味は常に同一の意味という
意味ではなく、その場でだけ成立するという意味)成立する記号であって、それは言語そのものがもっている
特徴で、詩に限ったものではないと思います。(サルトルのもともとの意見も汎用的な風合いではないかと)
賛成意見
詩を書くということは、その一回性の非常に強い場を作るという意味でもあって、そのさい単語を
文脈、構造 というステージに意図的に配置するというのは当然しなければいけない努力だと思います。
>>24 C 比喩は詩の専売特許ではない
――比喩(イマージュ)に富む言語ではなくて――言語のイマージュであるような言語に、なるのではないか
詩作品を構築されたイマージュ(この場合のイマージュは”創造言語世界”あたりかな?)
として捉えなければいけないという論旨だと思います。
疑問点
「出来事のかげに向けられている言語になるのではないか?」ここあたりが曖昧で
わかりにくかったです。「符牒の影に隠れることによりイマージュそのものとなる、
つまり世界の不在後に現れる世界である。」この意見は、ちょっと飛躍が激しい気がする。
この表現そのものが詩的すぎると言い換えてもいいかもしんないですね。
世界の不在と定義しているのは、一般的な符牒によるいわゆる共同認識的な言語成立世界の破壊ですね。
で、この部分(世界=共同認識的な言語成立世界)が思い込みが激しい。言ってみれば
詩が作る幻想性つか創造性に対して価値をおきすぎているような気がします。
38 :
リーフレイン:2005/06/06(月) 10:29:26 ID:vP095zKd
あ、言葉足らずですね。つまり言いたいのは、”世界を不在”と安直に言ってしまえるほど
もともとの世界(共同認識的な言語成立世界)も安定したものじゃないから、簡単に不在に
してしまえるんだろうか?って疑問なんです。そもそも、どうやって不在状態を作り出したら
いいんだろうか?
39 :
リーフレイン:2005/06/06(月) 11:05:13 ID:vP095zKd
>>33 マーロックさん
読み手側の鑑賞の心構えまで踏み込んでますね。。そういう傾向あるかもしんないですね。
この論点はさ、詩が一部の詩人によってしか読まれることがないっていう現在の状況への
説明になるかもしんないw。。
だけど、クラッシク音楽を好む人というのは現代詩を好む人より膨大にいますよね。
小学生でもバッハ聞いて”いい音楽だ”って思うわけだし。。いや、音楽と同値に並べるのは
悪い癖なんですが、受け手側に訓練?を期待するのは傲慢な態度のような気します。。
てか、別世界なんだから別世界でいい。それを詩単体で自然に受け止めさせる仕掛けも
いるんですよきっと。(技術として)
40 :
まーろっく:2005/06/06(月) 14:40:34 ID:twHjn6Kd
音楽の素材である音そのものには意味がない。そのためドイツのベートーベン
の音楽を日本の小学生が鑑賞するのも容易です。だけど、最も抽象芸術であり
うる音楽にさえ、人間は意味の伝達を求めてきたのではないでしょうか? ト
リスタンとイゾルデの愛の高揚感を伝達していたり、お正月に耳にする現代邦
楽「春の海」などは全くのどかな春の海の風景の伝達です。
だけどシェーンベルクのように何も伝達しておらず、ただ音が、不気味に聞く
ものの魂を揺らしてくるような音楽もあります。
音楽なら純粋芸術もあるいは容易かもしれない。もともと音に意味はないので
すから。ところが言葉(日常言語)は意味と不可分です。意味が通らなければ
価値が無いのです。ここから(日常的用法上の)意味が通らない詩は価値が無
いという見方が根強いのは当然です。
しかし、日常言語を脱却あるいは破壊した詩を読んだ時に、なぜあれほど不愉
快で不安な気持ちにさせられるのだろう。日常言語によってきちんと秩序だて
られていた世界が急にぐらぐらと揺すられているような感じ。こういう詩に
価値はともかく存在意義を認めないとすれば、詩の領域はひどく狭くなってし
まうように思うのです。
41 :
園川:2005/06/06(月) 21:11:12 ID:OzNjgaeF
>>36 リーフレインさんの反論を要約すると、自己表現を切り捨てるのはいかがなものか、
ということになると思います。そして自己表現であろうとなかろうと、それは読み手にとって問題ではないと。
それ自体には僕も賛成ですが、注意しないといけないのは、入沢はこの時点で決して
「自己」表現を否定してはいないということです。彼は自己「表現」の方を否定しているわけです。
これは解説で野村喜和夫さんも言っているように、思ってることを思っているように書くのではなく、
作品との間に距離をとれ、ということで、それが入沢流に言えば、作品を事物化する、
目的化する、ということなのでしょう。
>>37 >本来、言語というのはそのシチュエーション事に一回的に(この一回という意味は常に同一の意味という
>意味ではなく、その場でだけ成立するという意味)成立する記号であって、それは言語そのものがもっている
>特徴で、詩に限ったものではないと思います。
これもそのとおりですね。だからおそらく、ここで入沢が重視しているのは
「語、文、節などを日常的用法のコンテクストからはずし」ということなのでしょう。リーフレインさんの言う、
「その一回性の非常に強い場」をそのようなばとして入沢は捉えている。
ということは、入沢にとって、先の作品を事物化するというのは、たしかに作品との間に距離をとるというのも、
やはりなかなか特殊な距離のとり方、ということになるのかもしれません。
入沢への反論があるとすれば、日常的用法を守りつつ(反語ですら日常的用法からの逸脱だとして)、
作品と作者は内容面で距離ととりうる方法はある、というようなことになるでしょう。
42 :
園川:2005/06/06(月) 21:19:38 ID:OzNjgaeF
>>38 ふむ、世界は「共同認識的な言語成立世界」である、というのは鋭い規定ですね。
それに乗っかって言うなら、入沢の言う世界の不在というのはやはり、日常的用法のコンテクストの遺棄、
ということになるでしょう。日常言語不在後の言語は世界の陰にささげられる、ですね。
僕が注意したいのは、入沢は決して詩は内容的に幻想であるというのではなくて、
使用される言葉自体が幻想である、としている事です。つまり、ある日常的な感懐を詩化するにしても、
それが詩の言葉、イマージュの言葉によってならば詩として認める、ということですね。
自己表現の問題とあわせて考えれば、入沢は自己の感懐を詩にすること自体を嫌っているのではなく、
それが伝達の具としての言語で行われ、作者=話者という構造的な馴れ合いに堕するのを嫌っているのではないでしょうか。
少なくともこの時点では。
43 :
園川:2005/06/06(月) 21:41:08 ID:7cPuR5ci
>>33 >>39 僕には入沢はそんなに狭いことを言っているのではないように思うんです。
たとえば外を歩いていたら犬がいたとする。で、それを説明したりその様子を描写して伝達したりするんじゃなくて、
私が道を歩いていると犬がいたという事実を紙の上に、言葉として客観的に存在せしめよ、と言っているんじゃないでしょうか。
まーろっくさんもそういう意味で言っているのかもしれませんが。
44 :
リーフレイン:2005/06/06(月) 21:49:54 ID:vVqDrFwf
>>41-42 うん、本当のとこ、詩を自分から距離を置いて書けっという意見は賛成で、
なんていうのかな、思うことを思うだけに書いてしまうと、どうも読辛いもので
しかないんだよね・・。論文じゃないわけだし。
詩そのものが目的化するつまり工芸品のような価値を持つのを目指すというのも
いいと思うし、詩は伝達を超えた何かであって欲しい。(否定じゃなくて越えてほしいんだけどね。)
>それが伝達の具としての言語で行われ、作者=話者という構造的な馴れ合いに堕するのを嫌っているのではないでしょうか。
> 少なくともこの時点では。
少なくとも・・・の部分の笑ったけども、、まあ、そうだね、この時点では
切り捨ててはいない。で、作者=話者という構造的な馴れ合いは確かにあったと思いますよ。
実際ね、まーろっくさんの「ぼたん雪」読んだ時に私自身がその拘りに突き当たってしまって
鑑賞の邪魔になってたわけだから、そりゃあ人事ではありませんわ。
私小説的な鑑賞が横行しすぎてると思うし、それをあざといと嫌がるのも理解できます。。
ただまあ、一方ではそういう詩小説的なバックグランドを込みにした詩作ってのも
存在してて、読み手との共同の立地にもなってたっていう泥沼な状況があああああ。
45 :
ボルカ:2005/06/07(火) 02:00:04 ID:dIdtmYmP
>園川さん
レポートありがとうございます。
私はリーフレインさんと逆と言うか、作者としての立場からいろいろ考えてい
ます。そうすると、「この言葉で俺はいいのか」とか、「本当にこれが俺の言
葉か」と思うことが多いです。
とくに、シビアな現実を生きてる人たちとかの前で朗読したりするとき、
すっぴんの「私」で勝負しないと怖いっていう感覚があります。
園川さんは、偽物語を成立させるものとして<仮構された語り手の意識>
という言葉を使っていたけど、世界と言葉をつなぐものとして、そうした
<語り手>を創り上げる必要があったわけですよね。
そのリアリティが問題なのかなと思います。
46 :
まーろっく:2005/06/07(火) 16:28:05 ID:Zm6vu4V/
>>24 C.詩が、主として語のイマージュに…
この章のブランショの引用が評論というよりまるで詩で、「言語のイマージュ
であるような言語」って、わからんなぁ。ここはちょっと迂回しときます。
僕が注目したのは
『きらびやかなイマージュをえんえんと連ねた作品の多くが、結局は、どれも
これも同じに見え、一様に平板な印象しか生み得ないのは、(略)中にふくま
れる個々のイマージュがどれほど華麗でも、それらの全体が一つの構造性を
持ったイマージュ(構造であるイマージュ)となっていない点に致命的な欠陥
があるのだと言うべきであろう。』
なるほどと思うと同時に耳が痛い。投稿系サイトに書かれる詩のほとんどは
この「致命的な欠陥」を抱えているように思う。イマージュの羅列に終始して
いる詩がなんと多いことか。それは詩とはイマージュの羅列だと思い込んでい
るネット詩人が多いということだ。
そういう詩には美しい語句が並んでおり、また、やたらと多くのイマージュ
が持ち込まれている。一見上手に見えはする。しかし、発話者のいる状況も、
また情動もイマージュに埋もれてしまって想像することも感じ取ることもでき
ない。
「そういう詩になってますよ」と指摘すると作者からの返事は「自作を解説す
るつもりはありません」(合評にならんやろが)、「読み手の感受性にも差が
あるでしょうから」(誰が読んでもそう感じるわ)、「メッセージとか、直接
感情を吐露するのはイヤですね」(イマージュのオナニー見せられるのより直
接叫んでもろたほうがなんぼかええわ)とさっぱり議論がかみ合わない。
詩の構造とイマージュユの連関を僕も大して理解してもいないし自覚的でも
ないが、明らかに余分な、あるいは的外れなイマージュを持ち込んだ結果、主題を喪失してしまって
いる作品が多いと思う。
47 :
園川:2005/06/10(金) 20:35:14 ID:abN7EMhK
>>46 言語のイマージュである言語っていうのは、言語の後ろ事物のイマージュがある、それが普通の言語で、
言語の後ろに言語がる、それが事物のイマージュと重なって見える言語、ということに論理的には導き出せると思うんです。
でもそれが、実感としてどんなものなのかは確かに今ひとつつかみにくいですね。入沢さん的にはどんぴしゃの表現らしいですが、
それはある種の実作者の間でしか共有できない実感なんでしょうね。
イマージュの羅列的作品を、僕は一度詩板に投稿したことがあって、それは作品としては読むに耐えない代物で、
それを入沢さんの言葉に論理的に断罪されたような感じが僕にもあります。
>詩の構造とイマージュとの連関
入沢さんのここまで挙げている具体的な実践としては
1.言葉そのものを日常の用法から外す
2.言葉を単語、節、文のレベルで理知的に配列する
を挙げているわけですが、彼にとってこれらは不可分の方法論なんですね。つまり平叙的な文章を、
単語、節、文のレベルで分解して、それを日常的用法から引き剥がすように再配列する。
そうすると、言葉が単語のレベルでイマージュ化し、つまり詩の言葉になり、さらに節と節の関係がまたイマージュ化し、
最終的に作品全体が重層的に詩的イマージュとなる、僕はそう解釈しました。また、ここで入沢さんが考えている構造とは、
言葉の並べ方の、言わば文法的な構造であり、主題があって、登場人物がいて、
物語があってプロットがあって、というような散文における構造とはぜんぜん違うと言うのも個人的に大事にしたいところです。
48 :
園川:2005/06/10(金) 20:37:14 ID:abN7EMhK
上の2行訂正
言語のイマージュである言語っていうのは、言語の後ろに事物のイマージュがある、それが普通の言語で、
言語の後ろに言語があり、それが事物のイマージュと重なって見えるような言語、ということに論理的には導き出せると思うんです。
49 :
園川:2005/06/10(金) 20:59:19 ID:abN7EMhK
>>44 僕とリーフレインさんで違うのは、作者と作品が距離をとる工芸品的な作品が、
作者の感懐を否定するか否かということなんだろうかと思ってましたが、そうでもないのかな。
私詩という形式を肯定した上で、まさに私詩をかいたという作品もあるのがややこしいと。
少しあとで入沢さんは話者と語り手は設定によって、つまりその背負った内容によって分かれると言い出します。
ですが話者と語り手が設定の上で同一視される私詩においても作者と語り手は別であるとも言います。
これは矛盾ですね。あとで詳しく考えてみるつもりですが、作者と語り手は設定という内容面によって分裂するんじゃなく、
その分裂は書記行為という仕組みにあらかじめ内在されている、形式的なものなんじゃないかと思います。
たとえば主人公にはリアルタイムな出来事が、語り手にとっては予定調和にすぎないということや、
作者や読者には理解できるが語り手には理解できない隠喩、等。
で、もし話者と作者は詩の構造において、形式の面で分裂するのだとしたら、内容面でだけ話者と作者が同一視される私詩は
可能なんじゃないかと考えています。
50 :
園川:2005/06/10(金) 21:01:25 ID:abN7EMhK
>>45 そうですね、あくまで物語内部のリアリティを保証するもの、という意味でなら語り手の意識とはそういうものでしょうね。
それが現実的なリアリティと作品内部のリアリティの架橋という意味でなら、反対なんですが。
51 :
まーろっく:2005/06/10(金) 23:02:38 ID:vmDBdN4E
>>47 詩を構成する単位である単語、文、節等の相互の関係(単語と単語、単語と文、
文と節といった)を新しく構築していくことがイマージュということになるんじ
ゃないだろうか。たとえば
空色の
ブラウスの叔母は植物に類している
オールの下の
暗い 藻の群落
ハンケチが揺れる
(入沢康夫 古い夏の絵はがき より)
文章としてはすんなり読め、論理性がそこなわれているわけではない。
しかし、<空色の ブラウスの叔母>は<植物に類している>という
文の主部と述部は作者のイマジネーションによって日常言語の秩序から
切り離され、この文で新しい関係を構築している。
さらにこのイマージュを押し広げてゆくようなフレーズが続く
<オールの下の>(詩の舞台が海であることが示される)
<暗い 藻の群落>(藻→植物→叔母という印象の連鎖が生じる。さらに暗い
海の底(意識の深層)に叔母がいるようにも感じさせる)
<ハンケチが揺れる>(ここでもハンケチ→揺れる→藻という印象の連鎖が
生じている。叔母が振っていたハンケチの記憶がよぎって
いるのだろうか…)
ここには自動筆記的なイマージュの羅列はなく、理知的に言葉を配置し、重層
的なイマージュが形成されている。
ちょっと待った! むずかしくなってきましたぞ。。。
言語のイマージュである言語というのは
連想ゲームみたいなものを想像してたらいいんでしょうか?
それとも、これは別の言葉には置換不能の、実感するしかない禅の領域でしょうか?
53 :
園川:2005/06/11(土) 09:54:31 ID:HtJeIR75
>>49 2段目の後ろから2行目、
>たとえば主人公にはリアルタイムな出来事が、語り手にとっては予定調和にすぎないということや、
たとえば語り手には現在進行形である出来事が、作者にとっては予定調和にすぎないということや、
に訂正
>>51 そういうことですね。自分もそういうことを言いたかったんですけど、くだくだしくなってしまいました。
>>52 まーろっくさんが引いている作品で言えば、
「空色のブラウスの叔母は植物に類している」
植物に類している叔母なんて現実には存在できないしイメージもできませんが、言語としては存在している。
それが言語のイマージュである言語、ということじゃないでしょうか。で、この1行は現実に対応する事物を失っているわけで、
強いて言えば現実の言語に対応している言語になっている。ということじゃないでしょうか。わかりにくい説明かもしれませんが。
54 :
園川:2005/06/11(土) 10:17:06 ID:HtJeIR75
もうちょっとわかりやすく言い直すと、(わかりにくくてすいません)
りんごの残像として「りんご」という言葉がある。 ←事物のイマージュである言語
次に「りんご」という言葉の残像として(りんご)という言葉がある。 ←言語のイマージュである言語
(りんご)は現実のりんごには直接関係のない(りんご)であり、言葉としてしかありえない様態を示す(りんご)である。
例えば「空色のブラウスの叔母は植物に類している」という言葉のように。
そういうことなのかなと。
55 :
園川:2005/06/11(土) 10:28:41 ID:HtJeIR75
>>51 植物に属している叔母が、オールの下の藻の群生と重なるわけですね。
僕は全然気づかなかった。深海に溶けた叔母の記憶はそこでハンケチを振っていると。
なるほどすばらしい。
>>55 あ、私もやる、それ。詩を散文に直してみよう!のコーナー。
「オールの下」で「揺れる」「藻」を見ていると、
ある夏の日に、私を見送りに出た「叔母」の振る「ハンケチ」が思い出された。
「叔母」はその日、「空色の」「ブラウス」を着ていた。
あー、にょきにょき分かってきた気がする。ありがとうございます、園川さん、まーろっくさん。
で、「空色のブラウスの叔母は植物に類している」という圧縮ができるかどうかは、また別の問題と。
57 :
リーフレイン:2005/06/11(土) 12:06:36 ID:8ZO+a6OT
>>45 心のそこから詩を書くってとこでしょうか。もしそうなら、それは必要だと自分も思います。
ただ、本心から書くことと、実際の表現ということは当然異なったレベルの問題で、
入沢氏が問題にしていることは、実際の表現についてのノウハウだと感じています。
>>46 >イマージュのオナニー見せられるより・・・
ってなあ良かったねえ。。いやあたしも耳が痛いかもです。
ただ、いい詩って一見散漫なイマージュの羅列のようでいて、実はかなり
絞り込んだ連想の流れがあって、、、っていうの多いですよね、、(
>>51の例みたいに)
そこで問題になるのは、本人しかわかんない連想と他人にもある程度推測できる連想とを効果的に配置する努力なんかな?
>>54 わかりやすいです。。ありがとうございます。
佳境にはいってるところで、すみません。ちょっと宣伝させてください。
近頃、
【2004年度】詩板年間傑作選を選ぼう
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/poem/1117714560/l50 こういう事に手をつけてしまいました。。できたらご協力をお願いします。。
えーと、
まず、ありえない言葉でびっくりさせる。
それからそこそこヒントを出して安心させる。
例文の構造はこういうことかな。おじゃましました。
先を続けてください。
59 :
まーろっく:2005/06/11(土) 21:04:06 ID:8Af3icl5
>>56 散文に書き下すと詩というものの特性がわかるような気がしますね。
さらに海や藻や叔母の記憶を細かく描写していったとしても、この詩のよ
うな奥行きやイマージュの広がりは得られないと思う。
これが言語(散文/日常言語)のイマージュとしての言語(詩?/詩的言
語)ということでしょうか。
>>54 それでは「りんご」という単語論に陥ってしまってはいないでしょ
うか?「一つの単語に非常に恣意的で過重なイメージを託」すことになっ
てしまうのではないかと。例文で言えば「叔母」はどうひっくり返してみ
ても「叔母」でしかなく、「植物に類している」という言葉と関係を持っ
てはじめて「此の世に無い」イマージュを持った「叔母」となる。また、
海底の藻やハンカチのイマージュと結びついて「構造を持ったイマージュ」
を形成しているのではないでしょうか。
60 :
園川:2005/06/12(日) 07:12:33 ID:X9j2wu6R
>>59 いえ、文脈の変形により言語がイマージュ化するというのは分かっています。
その結果として、りんごが(りんご)になるわけです。
どのように言語がイマージュ化するかではなく、イマージュ化した言語とはなにか、
というのがゼッケンさんの問いだったわけです。
ちなみに「一つの単語に非常に恣意的で過重なイメージを託す」というのは意味のレベルでの問題だと思います。
例えば、この(りんご)という言葉は作者のやるせない情動を表している…といった類の「解釈」の危険性を、
上の言葉によって警告しているのではないでしょうか。
61 :
園川:2005/06/12(日) 07:30:46 ID:IOsJ+9ZH
>>60 文脈の変形により、は少し違うかも。
他の語との関係により、ですね。
62 :
園川:2005/06/13(月) 19:52:53 ID:W6G5y1gi
近いうちに次へ進もうと思います
63 :
まーろっく:2005/06/14(火) 23:04:53 ID:DxLbx7hL
「一つの単語に非常に恣意的で過重なイメージを託す」について雑感。
単語(主として名詞)には本来の意味のほか、世間一般に流通している別の
意味やイメージがある。たとえば「カーネーション」にはマスイメージとし
て「母の日に贈る花」、さらに象徴的に「母の日」「母への感謝」というイ
メージや意味を持っている。
「贈れなかったカーネーション」という詩句があったとすれば、『亡くした母
に感謝の気持ちを伝えることがでずじまいだったなぁ』という感慨を読み取る
ことは容易だ。しかしながらカーネーションという単語は通俗的イメージにも
たれかかっているため(詩人が新たに捕らえなおした感じがしないため)、こ
の暗喩を含んだ詩句は凡庸な印象しかもたない。
もうひとつは詩人が思い入れや直感でイメージを託した単語。
商用のことや先祖のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜の更――
死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唄つてゆくのだ
(中原中也 都会の夏の夜 より)
この「死んだ火薬」という言葉に中也がどういうイメージを託しているのだろ
う。ここには中也の鋭い直感がありながら、単語としては恣意的で過重なイメ
ージが託されているように思える。叙述のなかでここだけがほとんど孤立して
いて、ポンと投げ込まれたようなメタファだ。一読しただけでは首をかしげて
しまうような詩句ではある。
しかし、作品全体を見渡すと酔ってラアラアと唱って歩く若者たちの心の底
にわだかまる鬱屈の感じが「死んだ火薬」に通じていることがじわりと読後に
感じられるのだ。
64 :
園川:2005/06/14(火) 23:23:04 ID:WyS0h9M/
>>63 ふむ、他の語との関わり、というのは必ずしも文脈の変形を必要としない、ということですね。
入沢さんの挙げる命題の一つ一つは自分は割りと常識的な、穏当なことを言ってると思うんです。
けど、実際のところは、入沢さんはAとBとCの命題を不可分のものとしてとらえ、
それらの総合の結果出現する独特な詩の形を標榜している。
その結果、最後に「擬物語詩は、あり得べき詩作品の構造の一つのタイプである」という唐突な命題が出現する。
批判点があればそこでしょうね。普遍的な詩論を展開しているようで実は独自の詩論を展開している。
65 :
まーろっく:2005/06/14(火) 23:27:21 ID:DxLbx7hL
「死んだ火薬」の場合は辛うじて詩作品の構造に組み入れられていて解釈可能
だが、中也の作品には時々、なんでこんなところにこんな言葉が? というよ
うな解釈不能な詩句も見られ、さすがにダダイストだなぁと思わせる。
それでも中也並の鋭敏な直観力があれば、鑑賞に堪える作品になるのだろう
が、そうでもなければ構造から孤立した単語のイメージ喚起力に頼るのは成功率の低い
方法だろう。構造に対して自覚的に書くということは、天才でなくてもそこそこ
書ける実は手堅い方法に思える。
66 :
まーろっく:2005/06/15(水) 00:20:11 ID:Nk4Eaprs
>>64 少し本論から外れますが。
作者、話者、主人公の区別や関係については、小説ではごくあたりまえに論じ
られてきたことではないだろうか。作者が仮構の話者に物語を語らせるとか、
作者が登場人物の視点で見たり考えたり、あるいは作者自身が作品のなかで
登場人物を批評したり状況を描写したりと。さすがに小説の場合は日本でも私
小説ばかりではなく、三人称で書かれる作品も多い。しかし、作者と話者、主
人公の区別と関係は小説の場合はほぼ技術論に属するテーマではないだろうか?
(いかにリアリティーを確保するかという技術論に属する)
それが詩に持ち込まれると技術論にとどまらず、詩の本質に関わってくるよう
な、そんな本論の展開になっている。それは本書で追々論じられてゆくのだけれ
ど。
67 :
名前はいらない:2005/06/15(水) 00:50:52 ID:/naClJZ+
>>66 そういえばそうですね。どこかで誰かが言ってましたが、
日本には短歌という、作者と話者の截然としないところから詩が始まった、
というところが大きいんじゃないでしょうか。
詩とは作者の感懐を詠った物だ、というのは疑いようがなかったわけです。
詩はそんなに狭いものじゃないよ、と言う為の
「詩は表現ではない」や「話者と作者は別である」なわけですから、
技術論というより本質論になるんでしょうね。
68 :
園川:2005/06/15(水) 00:51:20 ID:/naClJZ+
上は私です
69 :
ボルカ:2005/06/17(金) 02:12:08 ID:daZQTIK/
自分の意見をまとめられないでおりますが、皆様のご議論、興味深く拝読し
ています。大変勉強になっておりますし、先の展開も楽しみです。
*
>>46は僕も耳が痛いです。のみならず僕の場合、むしろイマージュの貧困
かもしれないけど。
ところで、横レス関連情報ですが、現代詩手帖2003年3月号(ロートレア
モン特集)に、入沢自身が行った「わたしにとって詩の構造とはなんであっ
たか」と題した講義(秋吉台セミナー)の講義録を見つけました。
そのなかで、入沢は課題の本に触れて、
「詩の作者と詩の中で発話しているものは別である」ということが言いた
かったのだ、と言っています。また、「そしてこのことはどんな作品におい
ても当てはまります」と言っています。
この「どんな」というところがクセモノですよね。
おそらく本来は技術論であること(そういう詩もあるということ)を、本質
論(必ずそうである)であるかのように語ってしまっているか、あるいは、本当
に本質論として「どんな詩でも、例えば独白のように見える詩においても、作者
と語り手が一致することは、ありえない」、と考えたのか。
70 :
名前はいらない:2005/06/17(金) 10:58:32 ID:JVqmaALQ
ボルカさんのうれしい書き込みのあとに大変馬鹿な、
意味のわからないことを書いてしまいますが・・・。
とある出来事により、ぼくはあるスレで名無しとコテを使い分けて
人を陥れているということにされてしまいました。
僕は自分の潔白を僅かでも汚さない為に、今後一切詩板内で「園川」に戻らない、
そして名無しでの書き込みも行わない、無論他のコテも名乗らない、事にしました。
詩板を去らなければなりません。
自己満足です。責任放棄です。特に本まで買ってもらったリーフレインさんには本当に申し訳ない。
まーろっくさん、ボルカさん、ゼッケンさん、名無しさん、本当に申し訳ない。
できれば、皆さんで続けてもらいたいですが、それが叶わないのであれば、スレを立てたものの責任として、
この読書会の終了を宣言します。申し訳ない。
園川さん、ほんとにたいへんでしたね。
でも、この読書会は、園川さんが詩板から去るのであれば
いっしょに持っていって、詩板や2chとは別の場所
(例えばフリーの掲示板?)で続けてもよいのでは、と思います。
園川さんがここにリンク置いてくれれば、こちらから行きますよ。
と、本を持ってない私が言うのもなんですが。
どうでしょう?
>>71 げ、名前欄なおすの忘れた。。。
でもあるスレとの兼ね合いで、いまは名前は明かせませぬ。
もー、言ってるそばからね、こうです。トホー。
まったく。。。この本が終わったら、次は、大岡信先生の「蕩児の家系」の後半あたりをやってもらおうと
密かに画策してたのにーーーー。
別に別コテでやってるなんて思わないよ。。実際園川さんって、ここと、徹底討論スレと、梁山泊しきゃ来てないじゃんか。
そんなん、文章みりゃあ○解かりってもんですよ。
で、詩の構造の大事なとこは、ボルカさんも言っていた、発話者と主人公と作者との分離って話なんだけど、
これはやっぱし詩の鑑賞という点ではちょっと現実と乖離したとこを走ってると思うんですよ。
で、「虚構性」を意味づける仕掛けがいるんじゃないかなってちょっと考えていたりします。
まーろっくさんも言っているけど、小説であれば発話者と主人公と作者が違うのは当然の前提で、
その上で、私小説的な色合いを鑑賞時に探してしまうわけだけど、詩の場合は、もろ詩人が自分の
こととして詩世界を書いてしまいがちであり、読み手もそのつもりで読んでしまうんですよね。
そのあたりの境目ってのを、もうちょっと詳しく見てみたいんですが。。
よかったら、掲示板借りますよ。。でも、2chでやるほうが面白いですよ、思わぬ反応が入るし。。
74 :
名前はいらない:2005/06/17(金) 19:39:16 ID:TMfF7uok
やれやれ、密かにロムってたんだけどなあ
園川さんも、どこから沸いたともわからぬ糞ウジ虫名無しの挑発に乗ることなんて無いのに。
しかもこことは関係の無い梁山泊での話でしょう?
俺とソノカワさんは全く違う人種なのだとは思うが、「詩」というモノの概念については
意外と似たような意見を持っていて嬉しかったのに。残念です。
情けないです。一人でいじけて。仲間が沢山ここにいるじゃないですか。
「もう来ない」とか軽々しくいうのは止めた方がいいと思いますよ。
またのお越しをお待ちしております。
きっと俺以上に、皆さんが、ね。
76 :
ボルカ:2005/06/18(土) 00:53:52 ID:G/Co7dob
73
>で、「虚構性」を意味づける仕掛けがいるんじゃないかなっ
僕が考えていて、まだちょっと整理できないのも、まさにそこんとこっす!
リーフレインさん。
僕が最近気になっている現象は、WEBで公開されている無数の「日記」です。
アレは素人の自己表現だけど、作品だからもちろん虚構の一種なわけです。
「私は飛び上がるほど嬉しかったです。」なんて書かれてあっても、誰もソノマンマは
取らないですよね。本当は飛び上がったりしないし、飛び上がるほどってどのぐらいだか
わかんないです。
でも、誰か知らないけど人間がいて、嬉しかったかどうかは、51%ぐらいし
か信じられないけど、とにかく、ある瞬間、その人は「私は嬉しい」と言い
たいと思っていた、てことはある重みを持っているように感じる場合がある
と思います。
うーん、やっぱまとまらないけど、僕は考え中ということで。あとで74に乱入しま
す(笑。
_______
>>74 すばらスイっす!!!
みんなで読んでみたい本って、結構多いですもんね。
77 :
名前はいらない:2005/06/18(土) 01:04:18 ID:LbRZx4GO
したらば(
>>74の掲示板)に書き込むと、管理者にはリモートホストが筒抜けですよー。まぁそれほど気にかける必要もないけど、
固定IPや会社などから書き込んでる方は、アレかもしれませんねー。
78 :
リーフレイン:2005/06/18(土) 20:47:16 ID:0r132Naf
>>76 日記の話と、虚構性の提示はちょっと段階が別であるんだけども、
日記って言う点では、私は「自己発露」という意味合いで、詩の動機にあたる
ものだろうと思っています。作品という形を成してはいない、エネルギーの
塊みたいなもんに見える。そのエネルギーを人に読ませる形式に変換するときに
詩が詩として生まれてくるような気がする。
「飛び上がるほど嬉しい」という表現は稚拙であるけども、そこにある感情そのものは
本物であり、その本物の感情をもっと読み手に伝わる形をとっていく。
この部分が詩の原型みたいなもんじゃないでしょうか?象徴詩もまたこの範囲を出てないと
思います。そこで読み手が味わうことができるイマジネーションは「飛び上がるほど嬉しい」
という表現の比ではないわけですがーーー。
入沢氏は、詩の追求のなかで、この原点をどっかに忘れて迷路に入っていた時期に
この本書いたんじゃないかな?もちろん、「詩は表現ではない」と強調するように、
自己発露を自己発露として書き上げるのはあまりにも稚拙で、そこにテクニックを
使いたいです(多分これが、彼が言いたかった言語のイマジネーションの構築化であり、
話者、主人公、作者を分離したところでその世界を自在に構築しろという意味なんだろうと
思うわけですが)
79 :
リーフレイン:2005/06/18(土) 20:49:15 ID:0r132Naf
実際のところ読み手は詩を読むときに、それを個人の感情がベースにあるものと
暗黙のうちに仮定して鑑賞してますよね、小説のようには読まないです。象徴性とかイメージという
ある意味曖昧なものを構築してしまったが故に、かえって「この人ではない
別の人生」をあえて想像することが難しいような気がします。つまり、象徴的で曖昧で
美しくてどんな意味にもとれる詩であるがために、限定された状況を想像しにくいのではないでしょうか?
小説の場合、説明文に本当に苦慮します。説明的ではありたくないし
説明しなければ話は進まない。つまり本来なら必要であるそういう説明の部分を暗黙のうちに、
詩は「これは作者の心象風景である」という前提を読み手も書き手も受け入れていると思います。
もしかして、この前提を転倒させるために、入沢氏は戯物語という手法を提示したのかもしれません。
フィクションだよっと明示してあるわけです。(まああまりにも限定された
手法でしかないと思いますが。。)話者の性別転換とか、複数の登場人物の語りとかも
そういう転倒への手法になるんでしょうねええ。。まだ私もよくわかりませんが。。
80 :
ボルカ:2005/06/19(日) 01:07:36 ID:fJ3/XjQa
>78-79
ありがとうございます、リーフレインさん。
僕もかなり近い問題意識を持っていて、ちょっと距離をとりながらも、こ
の本に惹かれています。
偽物語というものが、なぜ偽でなければなからなかったかを入沢自身は論理的
には考えなかったのではないか、という印象です。表現で無いなら、物語その
ものでいいじゃないか、と。
印象でしかしゃべれなくてすみませんが(笑。
魅力的な本ですから、早急に結論を出してしまわずに、ゆっくり見ていきたいの
です。
81 :
ボルカ:2005/06/19(日) 01:12:44 ID:fJ3/XjQa
80自己レス
最終行「の」はミスです。・・一字なんだけど、印象違いますね(苦笑。
正「ゆっくり見ていきたいです。」
>>74のサイトで盛り上がってきているようですね。僕もここへの書き込みは
いったん停止して、向こうへ行きます。
82 :
名前はいらない:2005/06/21(火) 23:12:30 ID:O9IH8Dmi
ウホッ
83 :
名前はいらない:
あげ