++詩的レトリック入門++

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793ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/17(土) 01:54:16 ID:FNfpL13P
何をやっているのかというとですね。

雨の中の船みたいなホテルで一夜を過ぎしている人についての詩と、
ビルの一室で魚に包丁を刺している不気味な料理人についての詩に
ついて考えていたところです。
ランゲルハンス島という奇妙な島に住む人々についての詩についても
考えていました。

いずれも良い詩なんですよ。

そられの詩の「良さ」のあり方と、モコさんの詩の良さのあり方の
良さに共通点があるかどうか、
ならびにそれらと、日本の住宅、東京ドーム、通天閣、パルテノン神殿、
等に共通点があるかどうかについて、語り合ったり考えたりしている
ところです。
794ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/19(月) 16:54:59 ID:LQ9k8TdN
一瞬、脳神経迷路の奥に何か見えてきたんですが、蜃気楼と化しました。

一息いれつつ、寄り道していきましょう。

NANA、第一巻、読みました。
後期思春期の成長物語りとしては、僕が少年の頃に何度も読みこんだ、「メッシュ」より深いです。
でも「綿の国星」の王座は、僕のなかで揺るぎませんでした。

NANA(一人目)の良さは、性的な経験を文化や学業より優先させることにとまどいがない、という感覚ですよね。
トキオと「引っ詰めみつあみ」の恋と対照的ですが、
僕は先日、「言葉は人間の鳴き声だ」、と、書きました。

鳴き声としてのポエム、というもののみかたからすれば、
性的なことがらの全てが、教科書をあまりにきっぱりと
逸脱する場所で起こるっていう、僕らの当たり前な実感は、
着目に値するポイントのひとつだと思います。


しかし、この作品世界は、ボ−ドレ−ルの人工的な
世界からは無限に遠いですね。
どう展開するのかな。
795ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/19(月) 17:19:24 ID:U7N8eouw
僕が考えているポエムというものは、技巧的にはマニエリスム
の一種だと思う。

マニエリスムとは、日本語で(外来語で)「マンネリズム」と
呼ばれているもので、西洋でも一時期は芸術論上の蔑称として
用いられたそうですが、その極地とみなしうる漫画文化がこれ
ほど発展した日本で、マニエリズムを蔑称と考える人はむしろ
多くないと思います。

NANA的世界は、マニエリズムの到達点の一つとみなしうると思う
のですが、マニエリズムとは、図示すれば次のようなものだと
思います。

____________________

近いもの       対立するもの
____________________
技巧的・反復的    オリジナリティ重視

直感的・本能的    知的・批評的

オリエンタリズム   古典主義

服飾・服装デザイン  ファイン・アート     
建築・刺青      
__________________    
796ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/19(月) 17:25:10 ID:U7N8eouw
ボードレールの高踏的な詩は、技巧的にマニエリズムの
猥雑でエロティックな風合いを帯びてはいても、むしろ
古典主義的・批評的なものを芯に持っているように思い
ます。

メッシュなどで反復された、かつての少女マンガのお気に
入りのアイドルは、ランボーだったわけですが、ランボーなら
漫画文化との融合はわかる。
でも、ボードレールでやるのは難しいだろうな、という、
NANA第一巻を読んでの印象です。
しかし、NANA的世界は、逆に僕の考える「ポエム派」な
世界に近いです。
NANAは、なんせ20巻超えてるからね。
もっと読めば印象もかわるかも、ですが。
797ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/21(水) 08:55:38 ID:aNX4p8sV
脱線を続けます。
繋いで行けば脱線にも、本線へもどる道があるかもしれないし。

NANAはまだ一巻までしか読んでませんが、
上述のように脳天気ぶりは、とてもよいし、
リアルだと思う。地に足をつける、っていうけど
一次産業従事者が減ったいま、地に足をつけるとは
性的現実と向き合うってことにかなり近い。
外から見れば、NANAの暮らしは不毛に見える
けど、NANAもひとつの真面目さだと思う。

一巻まででひとつ気になるのは、彼女がやってる
のが、恋愛ではなく、
共依存だということ。
個人的には、実際にこんな人がいたら、僕は相手
にはしない。
お互いをダメにしあう関係なんて、普通のセック
スの快感だけじゃ、
支出が多過ぎて釣り合わないです。

だけど、「メッシュ」も、「恐るべき子供たち」
も、共依存なんだよね。

共依存の形でしか輝かない日々もあり、ダメにし
あうのも、人生だったり。

そんなことを感じたな。
798ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/21(水) 12:18:49 ID:aNX4p8sV
>詩と共依存
という視角は、これまであまりとられたことが無
いかもしれない。
しかし最近の小説には、恋愛と共依存を履き違え
たものが多く、詩を書くひとの意識にも、共依存
的な混乱した価値観は侵入しているにはちがいない。

一方で、ジャン・コクト−の「大股開き」など、
共依存すれすれを駆け抜けたり、大宰のようにそ
れが恋ではないことを見つめながら、思いっきり
共依存のドツボにはまったりとかも、古くから名
作のあるテ−マではある。

ポエムで共依存と愛の履き違えが問題になるのは、
自己愛をめぐってかもしれない。
小説は自己愛を直接テ−マにしないが、詩はかなり
書き手に近い表現なのでほとんど常に自己愛のあ
りかたが表面に出る。
だけど、多くの場合、自己愛とは、単なる「自己
との共依存」なんだよな。
一見、真面目で前向きそうなひとほど、自己との
共依存の一人SMだったりする。それもソフトS
M(笑)。
それはポエムというものの陥りやすい一面じゃな
いかな。
799704:2009/10/21(水) 12:53:47 ID:pux0STO0
>詩と共依存
なんてきわどい話題を、、、それってもしかして地雷、、、
800ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/21(水) 14:57:03 ID:aNX4p8sV
そうかな。

休息まじえてゆっくり雑談散歩しながら、少しづ
つ本質に向かってくイメージなんですが。
(^0^)

谷崎潤一郎とか坂口安吾とかも、共依存の達人だ
よね。

僕は安吾は好きだなあ。

安吾の「白痴」のなかでは、愛ではなく共依存だ
ということを、ひりひりするほど自覚した主人公
が語り手なんですが、心のなかの何かを貫くこと
によって、やっぱりというか仕方なくというか、
ついつい「愛」に似たものに到達してしまうんで
すよ。
「満開の桜の森の木の下で」の山男も、そう。救
いの無い二人だけど、二人の間にあるのは愛とし
かいいようがない。

歌詞でいえば、沢田研二がかつて歌った、
「ときの過ぎ行くままに」が、そうでした。
>いつか二人が、愛せるならば
>窓の景色も、変わって行くだろう。

今は愛ではないんですよ。でもそうであっても
寄り添うことが愛に二人を近づけてしまう。

ボ−ドレ−ルはそうじゃないよね。
ランボ−は愛と共依存を清濁あわせのむ感じがあ
るけど、ボ−ドレ−ルは女に触られることすら嫌う。
彼は薄い服の上から軽く触られること、までしか
快適と感じないよね。
彼の世界は、どこまで行っても愛は無いよ。憧れ
の対象はあるけど。

彼がビジュアル系バンドと相性がいいことも、僕
は前から気になってます。
801名前はいらない:2009/10/23(金) 06:16:37 ID:bFNY9VAB
現代詩と現代美術って似てるかな?
似てる気がする
802名前はいらない:2009/10/26(月) 02:04:10 ID:Y5pfsHPT
ボードレールが人工的? ???
803ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/26(月) 12:42:50 ID:nElpPWHG
ナチュラルってどんなことかな、ってことがありますね。
あるひとにナチュラルなことは、別のひとにそうではなかったりするし。

ボードレールがナチュラルだっていう感じ方もあると思いますよ。

804名前はいらない:2009/11/07(土) 17:22:42 ID:7HCQq/VG
ボードレールはあの訳が人工的に読ませるんじゃないかな
805ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/10(水) 23:13:45 ID:UyE7oek+
>翻訳
そうかも。
言い回しとかも古風だしね。

ポエム派革命について、ずっと考えてるんですが、僕の思うポエムって、類型とか定型に近い要素はやはりあると思う。
でも、古典主義や定型詩とは方向性が違う。

それって、自己反復とか、自己模倣なのかもしれないな。

共依存とは直接つながらないけど、自己を模倣し、反復する作品を外部につくるっていういとなみは、共依存を経験しやすいタイプの個性から生まれるのかも。

806ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/10(水) 23:18:02 ID:UyE7oek+
それを比較的に受け入れられやすそうな表現でいうなら、
「自分の言葉を大切にする」
ってことかも。
807ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 00:58:08 ID:aqVcHdKL
かろうじて、って感じだけど、僕が「ポエム」という語で何を示そうとしたかは、暗示ぐらいはできたと思います。

そこで次に、ポエム派革命の綱領に相当する部分についてさらに考えてみます。

808ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 01:10:47 ID:aqVcHdKL
綱領にあたる部分、すなわち実践的なことを語るにあたって、まずは非常に多い誤解から。

革命と言ったとき、ひとはマルクスを思いだしやすいし、進化論の一部(競争と淘汰)を肥大させて社会や芸術に当て嵌めたエセ科学的思考に陥りやすいと思います。

そこをまず否定しておきたいです。

うまく否定できるかどうかは別として、少なくとも僕はそう考えません。

革命は適者生存の意味での進化ではない。

この考えかたは自分勝手なものではなく、もともと革命とは五行思想にもとずく交代の思想であり、革命により否定されたものも、それにより弁証法的に取り込まれていわば消化されてしまうわけじゃないです。

809ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 01:37:30 ID:aqVcHdKL
つまりは革命によって否定されたものも、まだ成功する革命にはなりえなかったものも、消えうせるのではなく、地下水脈となり本来の意味での進化を続けていく。

実際、生物進化も歴史もそのように進み、その結果、多様性というものがあるのだと思います。

よく誤解されるような意味では、詩は進化しないし、少なくとも私はそういう進化を信じない。

しかし、革命である以上、それは時間、空間のなかで起こることではあるでしょう。

それが時間のなかで起こるということから、ひとつの立場が主張されます。

それは、私のポエム派の立場に立つのであれば、これまで行われた全ての詩の実験と、全ての詩の冒険は、そのまま私たちポエム派の詩的技巧として使用可能だ、ということです。

高度なレトリックを使ったからと言って、ポエムとして評価しないじゃないし、そこに線を引いて、低レベルなレトリックに限定して詩作するわけでもありません。

まずはそこかなあ。
810名前はいらない:2010/03/21(日) 03:28:01 ID:frWOUluq
昔ちーちゃんっていう子がいてね
実際は律子って名前なんだけど本人がちーちゃんって呼ぶもんだから
みんなちーちゃんって呼んだ
だけどちーちゃんはイジメられっ子だったんだよ
811ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 10:13:58 ID:aqVcHdKL
いじめ問題は深刻になる一方ですね。

他人の顔色を伺って保身のために多数に同調しようとする悪癖を直さないと、愚劣と悲惨のスパイラルからは抜けられないわけですよ。
しかし少数の勇敢な子供しか、それを正さない。

そんなときは、結果を気にせず、正しく行動すると良いですよ。
どんなときも打つ手はあるし。

僕は小中五個の学校に行きましたが、いざとなれば転校にも楽しさはありますから。
卑怯なやつや愚劣なやつはのさばらせなくていいんですよ。
812ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 10:21:52 ID:aqVcHdKL
そういえば、イジメに立ち向かうのも革命だよな。
しかも弁証法は断じて関係ない。

それが弁証法だなどというのは、いつの世もあいかわらず卑怯なひとびとの、卑怯な言い訳だ。

813ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 11:34:17 ID:aqVcHdKL
ではそのように一本化した歴史的発展のモデルを拒否した上で、「良いポエム」とは何か。
そしていかにして可能か。

と、、、
とりあえずはここまでで、またしばらく、創作を通じて考えないといけないですね。

革命は常に実践だし。
814ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 17:01:08 ID:aqVcHdKL
【補足】

この部分は非常に誤解されやすいと思うので、さらに補足を。

例えば、日本サルとヒトを比べ、サルはヒトの祖先であり、「ヒトのほうが進化した生物である」と考えるのは過りであると言える。
まず、比較するなら400万年前の我々の祖先と、400万年前の日本サルの祖先との比較となるのだが、それを経由するにしたって、進化のキャリアとしては、我々もサルもともに同じ頂点にいる。
サルが人間への道の途上にいるわけではない。

ゾウムシもカエルもリュウグウノツカイも、現代に生存している真核生物は、進化上の地位というようないささか不正確な概念を弄ぶなら、ともにヒトと同じ地位にあると考えられる。

それと同じことで、万葉と現代詩を進化の観点から比較することには意味がないし、ポエム派的ポエムと、他の潮流の現代詩や現代短歌は、ともにそれぞれの進化の頂点にあり、どちらが進化しているわけでもない。

にもかかわらず文学史はあるし、革命は可能である。不可能に見えるとしたら、革命の概念が誤解されているのだ。

補足終わり。
815ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/22(月) 12:23:42 ID:yPEkwKeb
とりあえず、ここまでを、賛同されないまでも理解されたと考えて、革命という言葉を以後の考察では油断して使いますよ。
それが通俗的な意味での淘汰や適者生存を意味しないことは、もう説明はしたからね、ってことで。

つまり革命家は、政治家でも啓蒙家でも教育者でもないです。
方向の違うひとと潰しあうことも、自分を発見していないひとを指導することも、僕の活動の範囲外。
各自、やりたいことをやるといいし、まだ見つかってないひとはじっくり探すといいです。

816ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/22(月) 12:40:49 ID:yPEkwKeb
ポエム派革命綱領としての技術論。

まず、過去のすべてが利用可能である、と述べました。
そりゃあ当然ですけど。

チョコパひとつ、コップひとつ作るのだって、過去の技術を使えないわけがない。

しかし、ここで問題になるのが、まさに北川の詩学であって、彼は「実験」を最初の一回目に限定して評価しようとする。

このスレで検討してきたように、彼には彼の一貫性があるわけですが、それは彼のいた文脈での話ですよね。

早い話が、現代詩手帖に投稿する作品を作るのにあたって、入沢を形だけマネしたら、今はまだ、笑われる。

だけど私たちが私たちのうたを造るのに、なんの遠慮も要らないんですよ。
形しか知らない無知にすらも責めはない。
形が結局はすべてじゃないですか。彼らが形に至らせられなかったこと、表現できなかったことは、我々は忘れてよい。
むしろ、形を面白がることだけは忘れないこと。
それが彼らへの敬意だと思います。
817ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/24(水) 21:03:36 ID:D3fOt92G
ポエム派的ポエムに対して、どのような観点からの批評が可能だろうか。

モノサシのひとつは、「表現したい」という欲望ないし意思が、どれだけ実現しているかということだろう。

そこで、批評するさいにも、
「作者はほんとにこれが書きたかったのか」
「作者は本当はいったい何がしたかったのか」
と、批判することが違和感なく起こり得る。
逆に言えば、批評においてそう語るひとは、すでにいくぶんかポエム派なのかもしれない。

818ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/24(水) 21:21:53 ID:D3fOt92G
ところで、何かを「ほんとうの言葉」で語りたいひとというのは、実在するのだろうか。

もちろん実在する。

しかし、その実在を確認したほどのひとなら、「ほんとうの言葉では語りたくない」ひとのことも目撃しただろう。

先に述べたとおり、芸術に弁証法はなく、この二人も議論しあわない。
しても有益ではない。

しかし、この「ほんとうの言葉では語りたくない」ひとは、ポエム派なのだろうか?

819ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:00:52 ID:g4xFKPKT
さて。革命を続けましょう。

#相変わらず閑散としたスレッドですが、途中なんども書いたとおり、このスレッドは本来の目的をすでに終了し、いまは雑談スレッドです。
820ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:14:43 ID:g4xFKPKT
一般的な感覚として、「ほんとうの言葉では語りたくない」というスタンスは、むしろ典型的なポエム派的スタンスだと思われていると思う。

それ以前に、「ほんとう」から「ずらす」ことは芸術の基本的な操作だと思われているのではないだろうか。

しかし、そのように考えてしまうと、ひとつの詩論としてのポエム派はおそらく成立しない。
そこまでをイレ込んでしまうと、それはたんなる現状肯定の論になってしまい、革命理論にはならないのだ。

だから私は「ほんとうの言葉では語りたくない」スタンスは、ポエム派ではない、と考えることにする。

むろん、優れた「嘘」はポエム派的ポエムにも存在する。
だがそれはおそらく、「ほんとうの」自己欺瞞の「言葉」なのだ。
821ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:28:50 ID:g4xFKPKT
さて、そのように「ほんとうの言葉」を価値として位置づけたとき、その立場からは詩的レトリックはどのように見えるのだろうか。

まず、隠喩について。

このスレッドでなんども話題なったことだが、隠喩とはおそらく、詩的レトリックである前に言語の基本的な特性である。
しかし、詩にそれを使用することは特殊なひとつの技巧であるとは言えるだろう。

では隠喩とは詩において何を意味するか。

ポエム派にとっては、それは、「まことの言葉」を意味する。
822ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:41:38 ID:g4xFKPKT
最近また、私はネイティブアメリカンの書いた小説を読んだ。

そこでも「ほんとうの名前」の話が出てきていた。
私が例えば「加藤登」と両親に名付けられたとして、それはほんとうの名前ではない。と、いう話だ。
自分のほんとうの名前を知ることは人生でもっとも重要なことである、とそこではされる。

この世界観は、ファンタジー小説「ゲド戦記」で美しく定着されてもいる。
そこでは、事物の「まことの名前」を知ることは魔法使いの主要な仕事である。

ポエム派の詩において、例えば例えば雨を「行列する女神」と呼ぶなら、それはひとつの呪文であり、雨ではなく「行列する女神」こそが、その物体のまことの名前なのである。
そのようにして探された比喩であるかどうかが、そのレトリックの評価基準となると思う。
823ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 01:19:15 ID:g4xFKPKT
ここでひとつ補足します。

僕としてはこの語りかたで必要十分なのだけど、読むひとが中学生や高校生なら、ひとつ気をつけたほうが良いです。

北川もそうだけど、多くの詩論は、隠喩について僕が述べたことの逆のことを述べます。
彼らはポエム派じゃないから当然ではあるけど、あまりにも逆なので、初学者には注意は必要です。

多くの場合、隠喩はすでにある概念なり事物なりを他のものと関係づけたり、他の位置に動かしたりすること、と考えられますが、私はポエム派においてはそうではない、としました。
逆にそのものをほんとうの言葉でよぶことである、と。
824ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 19:10:37 ID:NKzqsVrQ
次に、ポエム派にとっての音数律と韻について。

上のとおり、ポエム派における隠喩が「まことの言葉」であることは、呪文の本質を想起することにより理解される。

同様に、ポエム派における数律と韻も、呪文の在り方を通じて理解される。

隠喩とは、まことの言葉における体言であり、踏韻とは用言である。
数律は文法だ。
呪文がそれを反映し、証明している。

825ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 20:37:26 ID:NKzqsVrQ
具体的には、ポエム派のある作者が定型のように見える詩形を選択することは有り得るし、それは批判されないということになる。
ときには学問上、不完全とされる定型モドキを利用することもあるが、その不完全さはポエム派的観点からは、その作品の低評価にはつながらない。

大切なのは、それがその表現者の「真言の」リズム、文法であるのかどうかだ。
826ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 20:51:24 ID:NKzqsVrQ
また、その点においてオリジナリティをかんじさせない作品であることも、ポエム派的観点からはなんら問題ない。

なぜならそれは「文法」や「語」であり、作者の創作物である必要はないからだ。
むしろ、そこで勝負するのではない、というスタンスが、私のいうポエム派を特徴づけると思います。
827ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 21:03:17 ID:NKzqsVrQ
中学生や高校生のための注を、ここにも入れます。

今述べたことについても、他を参照せず、いきなり私を信じないように気をつけてください。

多くの詩論は、いま私が述べたこととは異なり、定型と自由詩を、すくなくともいったんは峻別し、その上で両者のスタンスを検討します。

また、出来そこないの定型を認める立場は、おそらく少ないのではないかと思います。

したがって、私と前提や基本姿勢を共有せず、結論のみを利用するのは無謀ですからお気をつけください。
828ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/14(水) 07:51:51 ID:zTHepfcd
ポエム派の定義、実践理論の順に述べた。

理論についてまとめると、まずそれは「詩作する意思や欲望」を核心とする一連の行動の理論であるわけだから、当然のことながら詩作行為そのものは、完全に、一点の迷いもなく全肯定される。
また、自己模倣、自己欺瞞、自己愛なども、その作品行為に含まれる世界性や歴史性とともに全肯定される。

その上で、価値基準としては、「ほんとうにそれが表現したいのか」が問われ、評価基準としては「ほんとの言葉で書かれているか」が問われる。

829ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/17(土) 14:13:16 ID:xx7Mc1oa
【付記的なことや、再言及などなど】

以上で、僕が提唱するポエム派革命については、述べ終わりです。
結構しゃべったな(笑。

途中で宿題がたくさん溜まったけど、今はシゴトのほうでの勉強に
多忙で、手が付けられません。
みんな後日ってことでありますが、思想、作品の紹介はありがとう
ございました。

ではあるけど、この話題を振って半年以上が過ぎました。

せっかくだから読み返しながら、気がついたことは付記していこうと
思います。
830ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/17(土) 14:29:01 ID:xx7Mc1oa
まず、「詩と共依存」について。

ポエム派詩人には、「他者を圧迫したり、加害したりし、結局は
壊してしまったりするタイプの人間によって粘着され易い」とい
う傾向があると思います。
それが形としては、しばしば共依存の関係をなすと思います。

これはおそらく詩人・粘着、双方の誤解によるものであり、認識の
変更を主張していったほうがよい、と思います。

社会病理的な現象としては、モラルハラスメントと呼ばれるもののひ
とつだと思うのですが、「自分が他者を加害する立場でいつづけるため
に、生贄をつかまえて共依存に無理やり持ち込む」タイプの人格障害者が、
日本社会にはかなり普通にいますよね。
詩の分野にももちろん普通にいて、それはそれで嫌らしいものです。

しかしそうではなく、詩に全く関心を持たない人が、詩人なら生贄に
しやすいと思い込んで近寄ってくる場合があります。

そういう場合はさ。
遠慮要りませんよ。遠慮することが不幸を招きますから。

簀巻きにして火をつけるぐらいの勢いで、やっつけてしまって
かまわないと思います。
「いや、ちょっと」
と思う人が多いことと思います。
なかなかそうは思わないでしょう?

そのへんをちょっとポエム派の立場から理屈で整理してみましょう。
831ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/17(土) 14:41:26 ID:xx7Mc1oa
まず、周辺から。

モラハラとは、閉鎖空間で発露しやすい醜い人間のあり方、と私は
理解しています。
それをどうやって避けるか、なぜそれが起こるかは、慎重な検討が
必要なのかもしれません。
しかしそもそも、詩人一般を(顔を知らなくても詩人でありさえすれば)
モラハラ被害者にしたて易いと考えること自体が、重大な誤解に基づい
ており、それを詩人、粘着君双方が認識することも重要だろうと私は思
います。

モラハラ被害者の女性の個人ページ↓
http://www.geocities.jp/moraharadoumei/hajimeni.html
「嫉妬心が強く、人の行動を制限したりチェックしたりする」
などの加害者の行動が説明されています。


WIKI
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
マリー=フランス イルゴイエンヌの要約など。
832ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 09:33:47 ID:7C10wSFa
第一に重要なのは、もちろんこのタイプの人格障害者を、この社会から減らす、すくなくとも野放しにしないことなのですが、それはここで論じることではありません。
とくに、詩人がターゲットになりやすい原因に限って考えると、そのひとつに、詩人自身の誤解もあると思います。

上のリンク先に解説されているように、加害者は、被害者の心の弱いところを見つけて、そこを巧みに攻撃し、被害者に「自分が悪いんだ」と、思い込ませていくわけですね。
被害者が本当に自ら悪い部分を作って普通のひとを加害者に仕立てしまう場合もあり、それを共依存とするなら、今、指摘している関係は強制された擬似共依存であり、被害者にとっては被害以外のなにものでもありません。

しかし、詩作行為においては、自分の弱い部分も隠さないことから、「そこが弱点である」ことについて、被害者と加害者の意見が予め自明に一致している(ように見えてしまう)のです。
833ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 10:09:06 ID:7C10wSFa
また、ポエム派のポエムが、自己愛を重要な契機とすることも、作者自身の誤解の原因となります。

リフレインの多用、スタイルの反復、特定の語の頻出、これらはポエム派の特徴ですが、自己愛なくしてはそうした技術は駆除できません。
自分を愛するひとだけが、自分の言葉を記憶し、繰り返すのです。

それは「金髪のひとは髪の毛が金色」と、いうのと同じタイプの言明です。
当然の前提であり、なんら後ろめたいことではありません。
834ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 12:47:53 ID:7C10wSFa
×駆除
○駆使
m(__)m

上述の不愉快な関係は、様々な理由により起こり、解決も難しいわけですが、いままで述べてきたことの展開として指摘できることもあります。

それは、ポエム派の詩人は、「自分が詩を書いている」という誤った自己認識に陥りやすい、ということです。
もちろん、一面では詩人が詩を書いているのは当然です。
しかし、じつのところ、詩人が作品をコントロールできるのは、限定された範囲でしかありません。
他のスタンスにたつ場合は、このことは自覚(または理解)されやすいのですが、ポエム派においては、「表現への意思」が根底で全肯定されているため、混乱しやすい。

ポエム派においては、書きたいことを書きたいように書いているかどうかが規準にはなるのですが、その書きたい個人は、歴史的、空間的に規定される一方で、無意識や関係性をも含む生活者としての個人です。

したがって、作品をもって作者の生活や人格を攻撃する材料にできると考えるのは、(他の潮流では当然に誤りでしょうが)ポエム派においても誤りです。

835ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 17:29:01 ID:7C10wSFa
【再言及、補足そのニ】

詩と古典について

詩と少女漫画の話から、ボードレールにとびましたが、、、オチはとくに思い付きませんでした。

しかし、ボードレールに限らず、ポエム派と古典は相性が良い、とは言えそうに思います。

なぜなら、ポエム派は表現技術において、「なんでもあり」だからです。
なんでもありとは言え、Jポップを流用したら角が立ちますが、古典から技巧を学ぶぶんには大丈夫ですから。

ただし、ナチュラルなかんじは失われますよね。
それはダメージとしてあとまで残るかもしれません。
ポエム派には、ボードレールに関心をもつだけでも、蒸発してしまう詩人もいるでしょう。

しかし、死は再生の糧。

某矢沢Aの名曲「時間よ止まれ」は、ゲーテからの引用が使われてます。
「時間よ止まれ、お前は美しい」
は、ファウストがメフィストフィレスに言った名セリフ。あの曲の「お前」はベアトリーチェです。

でも、だからって、あの曲で矢沢が不良性を失ったわけではありません。
836ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/19(月) 20:43:18 ID:8E6w9eyl
【再言及、補足三】

詩と建築について


建築の最大の特徴は、なかに入って、様々な部分を移動する、ということだと思います。

専門分野での定義は知りませんが、一般には、例えばカマクラは建築とは言いません。
テントも建築ではないような気がします。
その理由は、ひと部屋しかないからなのではないか、と、僕は思う。

だれかが、「詩と建築が似ている」、というとき、やはり幾つかの部屋が空想されていて、それらをひとが歩き回るイメージがあるのではないか、と僕は思います。

事実、詩は小部屋をもつ場合や、詩のなかをひとが歩く仕組みになっている場合が少なくありません。
詩を想起するとき、一気に全部を頭に浮かべるひとはきっと少ないでしょう。
そうではなく、時間の経過を伴いながら、小さなパーツごとに、ひとによっては一語ごとに想起していく。
想起する場面が変わるたびに頭のなかの景色が変化していく、ということが一般的だと思います。

837ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/19(月) 20:50:18 ID:8E6w9eyl
なにも入沢を引き合いに出さずとも、そういう、ごくストレートな意味で、詩は構築的、構成的なものであると言えると思うのですが、では、ポエム派の詩はどうか。

こういう意味でなら、構築的でない理由はないですね。

838ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/19(月) 23:05:07 ID:8E6w9eyl
おっと。
少しわかりにくく書いたかもしれません。

詩が構築的だ、ということは、「建物において、我々が同時に二つの部屋にいることができない」、ということとパラレルだと僕は思います。

それはかなり当たり前のことなので、否定する理由はない、ということです。
839名前はいらない:2010/04/22(木) 11:50:52 ID:5dmQS05v
誰も読んでない日記書いてんじゃねえよ
馬鹿かおまえ?
840名前はいらない:2010/04/22(木) 11:54:01 ID:5dmQS05v
>>827
何が中高生のための注だ気どりやがって
詩の先生気取りか?
てめえの糞作品晒してから偉そうなこと言え
841ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/22(木) 22:23:42 ID:Cc5wiPh1
喜んで。

三つワードくれよ。
名詞で。

僕の糞ポエムをお見せしましょう。
842ボルカ ◆6kB1JyG4Xo
なんだ。
アオリのくせに即レスできないのかよ。

ツキのないやつ。