ハンナ・アレント

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45考える名無しさん
>>42
「活動によって名を残すことが労働より立派」といわれるのはたしかに
現代の感覚ではないわね。
ただし、アーレントが強調しているのは、人間は、他の人間の間に存在
し、他の人間の目の前に現れ、物語の登場人物になることによってはじめて
自分自身を確認することが出来るということではないかしら。
見方を変えれば、見栄っ張りということなのだろうけれど、こうした現れに
対する欲望は、人間誰でも持っていると思うし、それをこういう形で肯定する
というのは新鮮だと思ったわ。
それより私が不満なのは、アーレントは、例えば労働については、生命の再生産
の過程としか捉えていないけれど、実際は、その現場でも、仕事仲間もあり、その中で
それぞれの人が自分を現す(あるいは現れてしまう)ということがあるのでは
ないかしら、ということ。アーレントの眼目(うまくいえないけど)からすると、
彼女が公共空間をギリシャのポリスといったものに限定するのは狭すぎるのじゃないか
と思うわ。(もちろん労働や仕事はそれ自身の論理を持っており、私があげた例は
付帯的なものに過ぎないといった反論はありうるわね。)

>>43
あなたがあげている馬鹿やろどもにしても、人に自分の存在をアピール
し、それに対する人の反応、無視でも罵倒でもいいけど、それを感じ取る
のならば、いいじゃないの。それも一つの世界とのつながり方だと思うわ。
問題なのは、そうした馬鹿やろどもが、そういう奇怪な振舞いをしながら
周囲の反応を無視して自分だけの世界にのめりこむこと、
あるいは、自らの虚栄心の満足(「仕事」のカテゴリになるのかしら)
のために、他人の反応を手段としてしまう(崇拝者を周りに集める、とか)
ことではないかしら。
>>44
コヴァ氏がどういう脈絡で引用しているのか知らないけれど、
公共世界が現れ(本質に対する意味での現象)の世界であり、その維持が
我々の感覚(特に視覚と聴覚)に依存しているという点は、アーレントに
おいては重要な論点ではないかしら。
公共世界は、プラトンのイデアやカントの物自体のような感覚から超越した
永遠普遍の世界でなく、他のあり方でもありえたような(論理必然性からは
説明できない)出来事の集積だから、それを捉えるのは感覚であり、それを
みんなに伝え、不死化immortalizeするのは、アリストテレスがいう模倣、
あるいは物語という手段しかない。
もちろん、感覚は相対的なものだから欺かれることもあるし、それを狙った
欺瞞も公共世界にはつき物だけれど、また、同じ事象でも、公共世界での場所
によって違った現れ方をすることがあるけれども、それでも、同じ一つの世界
を共有しているという信念(ヒュームみたいね。彼女は「共通感覚」なんて言
ってるわ)ががかつては存在し、公共世界を支えてきた。
近代における感覚世界への不信と、公共世界の没落は揆を一にしている。
そんな議論だったと思うわ。
「伝えたい何ものか」云々はあまり記憶がないけど、今まで言った公的世界
の性格からみれば、あたりまえのことではないかしら。