時間論

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797682
こんにちは。

>>790
その問題については、>>779の後段にて述べました。
すずめさんは、さまざまな視点から時間を論ずるとされていますが、
そうした思考の展開の仕方についての批判を述べたつもりです。

>>791
あと、定性的・定量的の話ですが、私は時間概念は人間の認識だと考えています。
そして、認識は人間にとって便宜になるように形成されるべきであり、
実際に時間はそのような扱われ方をしているという考えから、定量的な観点を
含めて時間を理解しないとまずいという点を>>778にて述べました。

>つまり、「近い過去」とすると、それはもう量(=「近い」)が含まれています。
>682さんが「時間を論じる場合には、定量的に語る(べき)」としたとき、
>その「時間」はすべて量を含むものとして「しか」、考えておられなかったのでしょうか
もちろん定性的な観点は含まれています(一個の因果関係は、定性的な性質のものでしょう)。
私は、時間を観念するさいに、定量的な性質まで含めなければ、時間の定義として不十分であると
のべているだけです。
定性的な観点で時間を定義することも「時間はただの観念ですから」、なしえますが、
そうした観点から規定される時間は、時間という概念として日常扱われている時間では
ないように思われるのです。ですから、自分の思索を、時間と言う言葉にあてるのに、
普通に使われているより狭い意味(定性的な時間なる概念)をあてるのは適切でないと
考えています。

>また、「時間軸」に置く場合、仮に現在を原点としますと、どの方向に置くのでしょうか?
>量からは方向は出てきません。
>方向のない時間(概念)は、時間(概念)ではないと思います。
>すると、少なくとも、定性的視点は不可欠に思われます。
>それによって定量的問題を無視して良いということにはなりませんが。 いかがでしょうか
まず、ここでいう定量的と、量というのは、違う話です。定量的に対象を扱うというのは、
量「的」に対象を扱うという意味に過ぎず>>770、厳密に量を観念しなければならないわけでは
ありません。
方向の話をなさっていますが、それは数直線の方向を観念せよ、と言っているのと同じです。
私が>>778で述べた意味の時間は、特に方向らしきものをを観念する必要性がありません。
強いて言えば、自らの意思で、過去から現在、未来にX軸をとって、Y軸が空間のひろがりであると
みたてて、Y軸上に別の因果関係が無数に配置される、というような話でしかありません。