人は何故生きるのか 生きる目的はなんなのか?

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423考えない名無しさん
>>416
極めて大雑把に近代以降の哲学史をたどってみましょう。
デカルト以前の、16〜17世紀あたりまでのキリスト教の影響を色濃く受けた哲学
の多くは、人生を目的論から見定めようとしました。人生の目的は、死後の幸福を
得るため神の教えに従うこと、というようにです。しかしそういう考え方ではどうし
ても無理がでてきます。答え方がそれぞれの信条になってしまったり、何かしらあ
る教義に強く影響された答えになってしまったりするのは当然のことです。
デカルトは、何でもかんでも神様でかたをつけるのではなくて、もっと科学的な方
法をとりました。人生とか、愛とか、正義とか、あるいは科学一般の知識とか、そう
いうものを語る前に、人間とはいかにして物事を認識するのかを解明しようとしまし
た。つまり、どう人間がものを見て判断するか、そういうメカニズムを明らかにしない
限り、何事についても正確に語ることはできないと考えたのです。このデカルト以降
は、近代哲学と括られています。
つまり、哲学は「人生とは何か?」という問いから離れ、もっと根本的な人間のメカ
ニズムの解明へと移り変わっていったのです。多分哲学史を知らない人が見たら
「これってほんとに哲学なの?理系の分野じゃないの?」と思うであろうことを、哲
学者達は300年近く続けることになります。
この哲学の流れは、スピノザ、カント、ヘーゲル、そしてフッサール、ハイデガー、
サルトルというようにその後形を変えながら続きました。しかし、1960年代になる
と、ニーチェ、マルクス、フロイトの影響を受けたフーコーやラカンなどといった新し
いタイプの思想家が現れます。彼らは哲学を、300年かけても不可能だった人間
の認識のメカニズムの解明から、人間を外部から支配している権力や言語体系と
いったものを解明していこうという方向へと向け変えました。そういう主体の外部
にある構造を綿密に分析することで、人間とはいかなる位置にあるものかを明ら
かにしようとしたのです。

明らかに哲学は、人生とは何かを問う地点からかなり遠くにまで来ました。
というか、幾世紀をかけて、人類は「人生とは何か?」という問いに答えることの不
可能性を思い知ることになったのです。そして哲学者達は、人間の認識の解明、社
会構造の分析、言語体系の分析を通じて、「人間とはこういうものなのだ」というこ
とを我々に語り、そのことで別の側面から見た人間像を浮き彫りにすることを試みる
ようになりました。
つまり、少なくとも今日の、学問としての哲学は、「人生とは何か」「世界とは何か」
「神とは何か」を漠然と問うのではなく、人間の認識機能を解明したり、人間を取
り囲む構造を分析したりして、そのことで人間がどういうものかを説明したりするこ
とが役割なのです。そういう回り道をせずに人生とは何かを問うのは、今日では
「私の人生論」です。