1 :
考える名無しさん:
は、いつどのように始まり現在どのように展開されているのか。
存在論上の一つの立場である唯物論と対立するのは唯信論や不可知論でしょーが
観念論という訳語はアイデアリスムスの認識論の側面についてのものだよ。
3 :
考える名無しさん:2001/08/12(日) 15:47
>>2 教科書読みすぎ。エンゲルスは読んだことある?
現実的なものは理性的であり、
理性的なものは現実的である。
>3
あるよ オマエは最近読んだんで誰かに話したくてしょうがないんだろ?バーか
6 :
考える名無しさん:2001/08/12(日) 18:29
>>2=5
まあまあ熱くならないで教科書でも読んでれば?(ワラ
>観念論という訳語はアイデアリスムスの認識論の側面についてのものだよ。
これまた一面的な見方やね(ワラ。 最近勉強したの?(ワラ
7 :
悲しみ ◆7P44pfbg:2001/08/12(日) 18:30
>>5 見て下さい。
こういうことです。
何が「馬鹿」なんでしょう。
哲学という物がなにもわかっていない態度です。
8 :
悲しみ ◆7P44pfbg:2001/08/12(日) 18:32
>>6 あなたもです。
つまりこういうことが虚栄心のみということです。
いやいや、このスレは自作自演ですね
つまり1〜8まで全てたった一人の中学生の詭弁ということですよね
10 :
考える名無しさん:2001/08/13(月) 22:35
あらあら教科書バカのおかげで下がってんじゃん。仕切り直しね
11 :
考える名無しさん:2001/08/14(火) 18:32
観念論=ノリ
唯物論=ニヒリズム
観念論って?
唯物論って?
この二つは対立してるの?
13 :
:2001/08/14(火) 20:38
駄スレたててんじゃねーよバーカ
14 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 01:20
恐らくこうだ。「観念論」は人間の精神的側面を重視し、
世界を人間の精神の側から説明しようと企てる。
対して「唯物論」は人間の精神よりも、世界自体の物質的側面を
重視する。物質的側面を重視するのならば、精神的側面は等閑にされる。
それで「心」を重視する立場と、「物」を重視する立場との対立が
生ずる。簡単に言えばそういうことだろう。
つまり、観念論と実在論との対立だな。
アレ、唯物論と実在論とは違うな。
唯物論と言えば、デモクリトスのアトミズムとかを言うんだよね。
でもさ、アトム間の相互関係を説明するのに精神的なものを
持ち出して来たのはデモクリトスではなかったか。
15 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 01:24
観念論とか実在論とか唯物論とか、そういう言葉は西洋人の
考えた事柄の無理やりの翻訳だから余りこれに拘泥しない方がいい。
寧ろそれらの思想の根幹にあるものを正しく把握することの方が
重要だろう。
それに、両方を読む必要は無い訳で、片方を読めばおのずから
もう片方の思想も理解できるようになっている。
観念論といえばドイツ観念論が一応大きな潮流を為しているから、
まずはあの辺りを読んでみてはどうでしょう。
16 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 09:44
2=13.
だれかドイツ・イデオロギーくらい読んでるひといないの?
17 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 09:57
18 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 12:35
観念論(=形而上学)は隙のない体系を指向する。
それに対し唯物論はその体系から必ず零れ落ちる
ことがらを指摘する
19 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 12:37
20 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 12:48
観念論の隙のない体系は、(定義した)観念論でのみ通用するものだよ。
それに対し唯物論は普遍的。
21 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 13:28
ロックとライブニツの論争がもとかな
22 :
考える名無しさん:2001/08/15(水) 19:43
いやむしろ普遍性を目指すのが観念論でそこからズレるもの
(例えばマルクスが指摘した下部構造=生産関係)を指さすのが
唯物論なのでは。ロックとライプニッツの論争について知りたいです
系の中では観念論も唯物論も整合的。
問題は、その系の前提を承認しない人にとっては、どちらも根拠がない、というだけ。
24 :
考える名無しさん:2001/08/16(木) 10:35
系は思考(=観念)のなかのみに存在する。事実を根拠とする唯物論は体系化されない。
25 :
考える名無しさん:2001/08/16(木) 22:42
あげ
26 :
考える名無しさん:2001/08/16(木) 23:17
青木雄二は唯物論者です。
共産党を応援してます。
27 :
考える名無しさん:2001/08/16(木) 23:23
>26
二度と来んな
28 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:24
観念論は普遍的である。観念論はどうしても認識される対象よりも、
その認識対象を認識する主観の精神の側に重きが置かれる。
これは前に書いた。で、認識する主観というのは物のように
具体的に把握されることは出来ない。つまり、物とは異なる存在様式を
具えている。というのも、もし主観が物と同じ存在様式を具えているのなら、
どうしてその物と同じようなものが、当の物を認識し得るかが分からない。
だからこそ認識主観は主観なのだ。
それで、物は我々の前からやがて朽ちていったり消え去っていったり
するけれども、この認識する者としての主観は滅びることがない。
イヤ人間死ねば主観も滅びるではないか、と言うかも知れぬが、
死ぬのは具体的な人間であって、高度に抽象化された主観そのものではない。
主観は「死ぬ」という、一物質としての人間に付加される述語の適用を
拒むのだ。
34 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:29
観念論も唯物論ももう過去の遺物のような気がするのだが・・・。
例えば、複雑系のようなものって解釈できるの?
39 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:30
更に、主観はどんなに認識の対象がいろいろなものに変化しようが、
それそのものとしては一つであり、その一つの主観が、あらゆる
対象を把握し得るのである。対象は様々に変化するが、それらを
認識する主観は常に同一である。
以上のような事柄を踏まえて、観念論は「普遍的」であると思う。
それに対して、唯物論は普遍的と言いうるだろうか。
もし言いうるとしても、それは観念論の普遍性とは異なる次元の
普遍性だろう。例えば世界が破壊不可能な極微の単子の集合体だと
考えた場合、それらの単子によって構成される複合体は変転して
やまないが、単子そのものは同一であり滅ぶことがない。
そして世界がこれらの単子の集合と離散とによってのみ
説明され得るのならば、唯物論はそのとき「普遍的」である。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
44 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:32
それでなんで私が書き出した途端に荒らしが入るのだろう。
やっぱり小学生にはチョット難しかったかな。
ごめんね。帰るよ。
あぼーん
あぼーん
47 :
:2001/08/17(金) 01:34
48 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:35
頑張れ。もっと氏ね氏ねやってくれ。
49 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:35
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
51 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:37
「氏ね」というのは自分に言ってるの?
それともここを見てる人?
もしくは両方?
52 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 01:43
ああ、君は単に荒らしまくってるだけだね。
マアそれもいいさ。
あーあ、明日までに論文仕上げなくちゃいけない。
もうすぐ2時だな。2ちゃんなんかで遊んでいる場合ではない。
論文の内容?
フッサールだよ。しかも英語で書かなくちゃいかん。
内容はともかく、現象学の用語の英語での言い回しを調べる
のが非常に面倒。だからもう原語でやります。
だいたいね、Gegenwaertigung が making something present
じゃやりにくいんだよ。
じゃ。
53 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 13:17
フッサールだろうなそりゃ。観念論の普遍性とかいってるんだもん。
でもフッサールの現象学ってハイデガーやデリダによって乗り越えられてる
んじゃないの?なんでいまフッサール読んでるの?意味あんの?
デカルトと違って身体性にまで視点を移したのは面白いと思うけど
そのあと続いたのがポンチじゃねえ・・・
54 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 14:38
夢精派 vs オナニー派
55 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 14:45
28は系のなかに入っちゃった人の典型的な書き込みですね。
>するけれども、この認識する者としての主観は滅びることがない。
根拠がない。
>イヤ人間死ねば主観も滅びるではないか、と言うかも知れぬが、
>死ぬのは具体的な人間であって、高度に抽象化された主観そのものではない。
根拠がない。
>主観は「死ぬ」という、一物質としての人間に付加される述語の適用を
>拒むのだ。
根拠がない。
どうやってこれを実証するのですか??
こんなものは同じ観念論の系にいる人にしか通用しませんよ。
>>28 そもそも主観と存在様式の違う物の存在を認めてるんなら、存在論的には観念論で
はなくて二元論(デカルト主義)じゃん。
>>52 ごくろーさまっす。
うちは、英文で著述する哲学者について日本語か英語でしかペーパー書いた
事ないからその苦労しなくてすんでるけど。
現象学なんか、独文で読むのと英文で読むのとイメージ変わりますよね。
ちなみに、かつて西田について英文で投稿論文書いていた友人は死んでいた。
58 :
ほげ:2001/08/17(金) 16:22
西田を英語にするのは英語の根底をくつがえさないとだめやろ。
59 :
名無しさん@1周年:2001/08/17(金) 22:15
>>58 最近は西田の英訳がちらほらでているので、テクニカル・タームはかなり英訳が安定
してきているみたいです。
>英語の根底をくつがえさないと
西田の日本語自体、日本語を無視した文体だものね
60 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 22:56
西田幾多郎を評価してる人って本気なの?
61 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 23:46
観念論対唯物論のスレだっつってんだろうがゴルァ!
62 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 00:06
唯物論者は自然科学者。
観念論者は人文科学者。
社会科学者は、その中間にいる人。
でも、最近は、自然科学領域でも、独我論ぽい理論が生まれてるみたいだね。
人間原理とかいう。
昔メルロ・ボンティいかれポンチというスレありませんでした?
話題ずれますが
64 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 00:13
マルクスは自然科学者か?否。
ちなみにプラトン以降の西洋哲学すべてが観念論で
唯物論的立場はソクラテス以前のギリシャ哲学へ回帰する
66 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 00:17
フーム
スレ自体無理があるんじゃないかなぁ。
実在論×唯心論のほうがいいと思うが。。
68 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 00:22
だれもマルクス読んでないみたいだね。観念論に対して唯物論で対抗ってのは
最近の批評空間HPで浅田が触れていたみたいに今でも有効な問題設定ではある
と思うけど
69 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 00:24
実在論×唯心論みたいな議論は大文字の哲学好きが喜びそうな
主題だけど結局それも観念論の亜種でしかないんじゃないかな
>>68 ドイツ・イデオロギー、フォイエルバッハに関するテーゼ、経済学批判
資本論を読んだけど、何か?
だいたいマルクスが唯物論に回収されるかあ?エンゲルスは回収できるだろうが。
マルクスの学位論文はデモクリトスとエピクロスの原子論の差異を論じてたんだぜ。
観念論VS唯物論の対立を超えた一義性思想の人だと思うね。
71 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 00:36
>>70 なにかと聞かれても・・・誰だよおまえ?(w
一義性思想つうのも意味不明。一元論のこと?
つうか学位論文だろ?初期の?まだヘーゲル左派の
影響があったわけだからあの辺は観念論に決まってんじゃん(w
>>71 一義性という概念を論じることは重いのでやめておく。
柄谷も言ってるが、マルクスは唯物論と言われたら観念論に
変身できちゃうような人なわけ。
マルクスはフォイエルバッハの疎外論的な唯物論に
耐えられなかったんだよねたしか。んでドイツイデオロギーで
唯物史観を導いた、と。テーゼ11の解釈から実践へ!には萌えるよね
74 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 01:22
>>64 >マルクスは自然科学者か?否。
そう。だから、マルクスは唯物論者じゃない。
75 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 01:24
自然科学者は必ずしも唯物論者じゃないでしょ。
ていうか逆に、何で自然科学者が唯物論者なんですか?
だから
何となく唯物論者と実在論者と自然科学者とを
「あ〜こいつら反観念論っぽいな」などという安易な理由から
一括りにするから
例えばギリシャの自然哲学者=唯物論者という大雑把な結論も出たりするんですな。
77 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 01:58
唯物論・実在論・観念論とかって初めに定義しておいて話したら
都合よく括れちゃったりするけど、実際にその人の考えを見てみ
るとそうきれいに分けられるようなものでもないよなぁ
実際今世紀における衝動哲学というのは、伝統的な加法減法式予定調和的モデル
(+1−1=0)ではなく乗法除法式的な反比例モデルになるだろうな。
この場合衝動という概念はいわば強度的速度的な推進装置ともいえるだろうが
これを数学的に言うなら、要するに衝動とは傾きだ。
伝統的な負債概念であれば、1借りると1返す、このバランスが所謂「健康的」といわれるものだ。
が、反対に衝動が示すのは、むしろ「過剰な」負債概念なのだ。
1借りるところを2借りてしまった、だから2返す必要がある!これを極端に言えば
1借りるところを1000借りてしまった、だから1000返すひつようがある、とこうなる。
1から1000への乗法は、例えば1借りているようにみえたが
実は1000借りていたという除法としても機能する。これがルサンチマンの数学である。
というわけで衝動哲学には歴史概念、というより時間概念がつき物であることも付しておく。
だからこの場合、強度(傾き)を可能にしているものは速度であるともいえる。
ところで速度は一見すると平等に割り振られているように見えるかもしれない、それはすなわち
男性であれば75歳前後、女性であれば80歳あまり、これは速度の絶対的資本である。
ただしこれが相対的に可変可能であるーーそして我々にとって重要なのはこの相対性である――
のは、上記の乗法除法モデルにより明らかである。
(民明書房刊『速度――この偉大なるもの』)
79 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 20:11
てゆうかたぶん観念論に対応する唯物論って構図は
ドイツ観念論とそれに対するマルクス・エンゲルスの
唯物論でしょ。話はそこに限定すれば?そうしないと
実在論とか唯心論とか出てきてごっちゃになる。
80 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 10:17
>>75 >自然科学者は必ずしも唯物論者じゃないでしょ。
>ていうか逆に、何で自然科学者が唯物論者なんですか?
自然科学は、唯物論(素朴実在論)を前提にして成立しているからだよ。
ぎゃくに、人文・社会科学は唯物論では取り扱うことはできない。そこには、人間の精神性・観念性・幻想性を考慮に入れなくてはいけないから。
人間なしでも自然は成立するが、社会や人文(言語、文学)は、人間なしでは成立できない。
マルクスが唯物論者を自称しながら、『資本論』なんていう社会科学論文を書くことには大きな自己矛盾があるの。
81 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 12:21
だからマルクスの唯物論はそういう狭義の唯物論じゃなくて
上部構造(観念論)の支えとなる下部構造(生産関係)を
指摘するっていう内容でしょ。
82 :
:2001/08/19(日) 12:25
唯物論と素朴実在論は違うんではない?
83 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:00
自然科学は、方法論であって、思想ではないから、
仮説のような手法上の方便を除いて、
世界のあり方に、観測事実によらない前提条件を設けていないと思うのだが、
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
84 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:03
実際今世紀における衝動哲学というのは、伝統的な加法減法式予定調和的モデル
(+1−1=0)ではなく乗法除法式的な反比例モデルになるだろうな。
この場合衝動という概念はいわば強度的速度的な推進装置ともいえるだろうが
これを数学的に言うなら、要するに衝動とは傾きだ。
伝統的な負債概念であれば、1借りると1返す、このバランスが所謂「健康的」といわれるものだ。
が、反対に衝動が示すのは、むしろ「過剰な」負債概念なのだ。
1借りるところを2借りてしまった、だから2返す必要がある!これを極端に言えば
1借りるところを1000借りてしまった、だから1000返すひつようがある、とこうなる。
1から1000への乗法は、例えば1借りているようにみえたが
実は1000借りていたという除法としても機能する。これがルサンチマンの数学である。
というわけで衝動哲学には歴史概念、というより時間概念がつき物であることも付しておく。
だからこの場合、強度(傾き)を可能にしているものは速度であるともいえる。
ところで速度は一見すると平等に割り振られているように見えるかもしれない、それはすなわち
男性であれば75歳前後、女性であれば80歳あまり、これは速度の絶対的資本である。
ただしこれが相対的に可変可能であるーーそして我々にとって重要なのはこの相対性である――
のは、上記の乗法除法モデルにより明らかである。
(民明書房刊『速度――この偉大なるもの』)
85 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:03
恐らくこうだ。「観念論」は人間の精神的側面を重視し、
世界を人間の精神の側から説明しようと企てる。
対して「唯物論」は人間の精神よりも、世界自体の物質的側面を
重視する。物質的側面を重視するのならば、精神的側面は等閑にされる。
それで「心」を重視する立場と、「物」を重視する立場との対立が
生ずる。簡単に言えばそういうことだろう。
つまり、観念論と実在論との対立だな。
アレ、唯物論と実在論とは違うな。
唯物論と言えば、デモクリトスのアトミズムとかを言うんだよね。
でもさ、アトム間の相互関係を説明するのに精神的なものを
持ち出して来たのはデモクリトスではなかったか。
86 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:03
観念論とか実在論とか唯物論とか、そういう言葉は西洋人の
考えた事柄の無理やりの翻訳だから余りこれに拘泥しない方がいい。
寧ろそれらの思想の根幹にあるものを正しく把握することの方が
重要だろう。
それに、両方を読む必要は無い訳で、片方を読めばおのずから
もう片方の思想も理解できるようになっている。
観念論といえばドイツ観念論が一応大きな潮流を為しているから、
まずはあの辺りを読んでみてはどうでしょう。
87 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:03
観念論(=形而上学)は隙のない体系を指向する。
それに対し唯物論はその体系から必ず零れ落ちる
ことがらを指摘する
88 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:09
観念論=ノリ(ロマン主義)
唯物論=シラケ(ニヒリズム)
浅田彰のいうようにノリつつシラケねばならない。
89 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:18
>>88 >唯物論=シラケ(ニヒリズム)
この辺の発想にある種の限界を感じるね。
90 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 13:24
ある種の煽りを感じるね。
91 :
:2001/08/19(日) 13:25
観念論とか唯物論等の時代遅れの強引な区分けをいまだにして
いるなんて、哲学者は羞恥心がないのでは?
実証もできないようなことを延々とやってるなんて、知恵遅れに
近い。歴史を持ち出して誤魔化すのが得意ですし。
92 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:03
さまぽいんっつぁすいっつぁらい
93 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:38
恐らくこうだ。「観念論」は人間の精神的側面を重視し、
世界を人間の精神の側から説明しようと企てる。
対して「唯物論」は人間の精神よりも、世界自体の物質的側面を
重視する。物質的側面を重視するのならば、精神的側面は等閑にされる。
それで「心」を重視する立場と、「物」を重視する立場との対立が
生ずる。簡単に言えばそういうことだろう。
つまり、観念論と実在論との対立だな。
アレ、唯物論と実在論とは違うな。
唯物論と言えば、デモクリトスのアトミズムとかを言うんだよね。
でもさ、アトム間の相互関係を説明するのに精神的なものを
持ち出して来たのはデモクリトスではなかったか。
94 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:38
自然科学は、方法論であって、思想ではないから、
仮説のような手法上の方便を除いて、
世界のあり方に、観測事実によらない前提条件を設けていないと思うのだが、
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
95 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:38
だからマルクスの唯物論はそういう狭義の唯物論じゃなくて
上部構造(観念論)の支えとなる下部構造(生産関係)を
指摘するっていう内容でしょ。
96 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:38
唯物論・実在論・観念論とかって初めに定義しておいて話したら
都合よく括れちゃったりするけど、実際にその人の考えを見てみ
るとそうきれいに分けられるようなものでもないよなぁ
97 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:39
だから
何となく唯物論者と実在論者と自然科学者とを
「あ〜こいつら反観念論っぽいな」などという安易な理由から
一括りにするから
例えばギリシャの自然哲学者=唯物論者という大雑把な結論も出たりするんですな。
98 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:39
>>91 ドイツ・イデオロギー、フォイエルバッハに関するテーゼ、経済学批判
資本論を読んだけど、何か?
だいたいマルクスが唯物論に回収されるかあ?エンゲルスは回収できるだろうが。
マルクスの学位論文はデモクリトスとエピクロスの原子論の差異を論じてたんだぜ。
観念論VS唯物論の対立を超えた一義性思想の人だと思うね。
99 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:39
フッサールだろうなそりゃ。観念論の普遍性とかいってるんだもん。
でもフッサールの現象学ってハイデガーやデリダによって乗り越えられてる
んじゃないの?なんでいまフッサール読んでるの?意味あんの?
デカルトと違って身体性にまで視点を移したのは面白いと思うけど
そのあと続いたのがポンチじゃねえ・・・
100 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 14:39
ああ、君は単に荒らしまくってるだけだね。
マアそれもいいさ。
あーあ、明日までに論文仕上げなくちゃいけない。
もうすぐ2時だな。2ちゃんなんかで遊んでいる場合ではない。
論文の内容?
フッサールだよ。しかも英語で書かなくちゃいかん。
内容はともかく、現象学の用語の英語での言い回しを調べる
のが非常に面倒。だからもう原語でやります。
だいたいね、Gegenwaertigung が making something present
じゃやりにくいんだよ。
じゃ。
101 :
:2001/08/19(日) 14:58
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
102 :
:2001/08/19(日) 14:58
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
103 :
:2001/08/19(日) 14:58
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
104 :
:2001/08/19(日) 14:58
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
さあね?
106 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 16:33
楽でいいじゃん。
簡単な話しが優れた話しなんだよ。
107 :
:2001/08/19(日) 16:57
前提が間違った思い込みなら、そこから導かれるのは
おかしなことや間違ったことだと思います。
わかったから尾奈って寝ろ。
109 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 17:22
↑デブ
110 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 17:38
朝:起床後すぐに2ちゃんねるに接続。ブラウザは開きっぱなし。
もちろん半角板と速報板を「お気に入り」に登録している。
ちなみにここ数ヶ月PCの電源は落としていない。
いつものように「逝ってよし!」「オマエモナー」とカキコする。
一通り巡回したら回線を切断。
その後凉木もも香でオナニーし、朝食後再び寝る。
昼:TVから流れる「笑っていいとも」のテーマ曲で起床。
起床後すぐに2ちゃんねるに接続。ブラウザは開きっぱなし。
もちろん半角板と速報板を「お気に入り」に登録している。
ちなみにここ数ヶ月PCの電源は落としていない。
いつものように「逝ってよし!」「オマエモナー」とカキコする。
一通り巡回したら回線を切断。
その後浅倉舞でオナニーし、昼食後再び寝る。
夜:気が付いたら既に真夜中。
起床後すぐに2ちゃんねるに接続。ブラウザは開きっぱなし。
もちろん半角板と速報板を「お気に入り」に登録している。
ちなみにここ数ヶ月PCの電源は落としていない。
いつものように「逝ってよし!」「オマエモナー」とカキコする。
一通り巡回したら回線を切断。
その後響奈美でオナニーし、夕食(夜食)後入浴し、浴室で手
首に剃刀を当てて自殺を図るが怖くて断念。諦めて再び寝る。
111 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 17:42
ブラウザ開きっぱなしなのに回線切断するの?
112 :
:2001/08/19(日) 17:54
卵から生まれたにわとりは・・・
にわとりを踏まえて卵を産む。
113 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 18:01
>>110 ADSLも来てない田舎モノ低脳バカ発見!
114 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 18:01
訂正:バカ→デブ
115 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 19:37
田舎者を煽っちゃ駄目。
仕返しに山手線で呑み食いはじめちゃうよ。
常磐線と同じノリで。
116 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 19:46
ごめんなさい。
デブな理由はそういうことだったのか・・・
117 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 22:58
俺デブだけど。体重120キロあるけど。なんでここ荒らすかなあ。
議論についていけない厨房の嫉妬かな?クス
118 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:01
>>117 何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
119 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:04
>>117 間違った前提から正しいことを導くにはどうしたらいいんですか?
121 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:06
122 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:07
知らんがな。哲学が自然科学を唯物論としてみるという
文脈をおれは知らん。ていうかこのスレの唯物論はそういう
狭義の唯物論ではないと思うのだけどね
123 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:08
>>117 観念論と唯物論の現在の状況は?
実在論を使わずに説明してみて下さい。
124 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:09
>>90のある種の煽りを感じるね。
の「ある種」とはなんですか?
125 :
考える名無しさん:2001/08/19(日) 23:54
>>123 批評空間のHPにある浅田彰の文章をこんどコピーするよ。今日は寝る
126 :
124:2001/08/19(日) 23:56
>>89のある種の限界を感じるね。
の「ある種」とはなんですか?
127 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 01:02
コピペがおおすぎて、なにがなんだか分かんなくなってるぞ。
さいしょ、デジャブかと思った。
128 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 01:04
俺はデブ。・・・・・ネタふってくれてありがとう
129 :
80:2001/08/20(月) 01:32
>>81,95
>だからマルクスの唯物論はそういう狭義の唯物論じゃなくて
>上部構造(観念論)の支えとなる下部構造(生産関係)を
>指摘するっていう内容でしょ。
だから、マルクスのその指摘が詭弁なんじゃないかな、と思うの。
上部構造は《観念》だけど、下部構造(生産関係)は《物質》ではないよ。
「経済」なんていう物質はないからね。あと、「関係」なんていう物質もない。
どれだけ、自然科学的な技術革新が行われても、それを「経済」に応用するのは社会科学者だよ。だから、生産関係なんかは、「中部構造」とでもいうのが正しいと思うよ。
下部構造は、純粋に物質的な自然科学領域に限定するべき。
>>104 >何故、哲学者は、自然科学に唯物論を押し付けようとするのだ?
唯物論=自然科学、そう考えるのがいちばん整理された考えだと思うから。
レーニンなどのロシア・マルクス主義者は、「マルクス主義は真理であるがゆえに、全能である」っていってたけど、
これは正確に言うと、だだの〈自然科学万能主義〉。はっきり言って、古い。人文・社会科学領域を完全に無視してるから。そこが限界。
130 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 01:43
いやだから文字通り「モノ」にこだわる唯物論じゃなくて
モノの交換が諸観念の前提としてあるってことでしょ。
そりゃ「関係」なんて物質はないよ。マルクスとマルクス主義
を分離するのは必要だね
131 :
129:2001/08/20(月) 01:53
>>130 同意。それじゃ、まったくなんの問題もないね。
意見の相違なんてなかったわけだ。(w
132 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 01:59
まあまあ熱くならないで教科書でも読んでれば?(ワラ
>そりゃ「関係」なんて物質はないよ。マルクスとマルクス主義を分離するのは必要だね
これまた一面的な見方やね(ワラ。 最近勉強したの?(ワラ
来た来た来た!!!嵐が今日もやってきた!史ね厨房!お前に未来はない!
134 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:12
2=132 ニヤニヤ
135 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:15
>唯物論=自然科学、そう考えるのがいちばん整理された考えだと思うから。
なぜ整理されていることになるのだろうか?
もしそうだとすると、人間原理のような発想を物理学者がすることは
哲学者によって禁止されているのだろうか?
136 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:46
この世界には人間の観念を超えたものが厳然と存在し、
人間はそうした物質なり構造に抗いようもなく規定されている、
という認識が「唯物論」。
だから「唯物論」は、「観念論」批判としてしかないのだし、
人間の認識形態においてすれば、そのような「メタ観念(もう一つの観念)」
という在り方でしかとらえられない。
137 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:55
>>136(自己レス)
ごめん、ちょっと違ったな。
「メタ観念(もう一つの観念)」といった積極的な在り方をするのとは
違い、あくまでも観念論のネガとして、あぶりだされるかたちで、
モノの「影」あるいは「動き」を察知するような認識といえるか。
138 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:56
恐らくこうだ。「観念論」は人間の精神的側面を重視し、
世界を人間の精神の側から説明しようと企てる。
対して「唯物論」は人間の精神よりも、世界自体の物質的側面を
重視する。物質的側面を重視するのならば、精神的側面は等閑にされる。
それで「心」を重視する立場と、「物」を重視する立場との対立が
生ずる。簡単に言えばそういうことだろう。
つまり、観念論と実在論との対立だな。
アレ、唯物論と実在論とは違うな。
唯物論と言えば、デモクリトスのアトミズムとかを言うんだよね。
でもさ、アトム間の相互関係を説明するのに精神的なものを
持ち出して来たのはデモクリトスではなかったか。
139 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:57
観念論とか実在論とか唯物論とか、そういう言葉は西洋人の
考えた事柄の無理やりの翻訳だから余りこれに拘泥しない方がいい。
寧ろそれらの思想の根幹にあるものを正しく把握することの方が
重要だろう。
それに、両方を読む必要は無い訳で、片方を読めばおのずから
もう片方の思想も理解できるようになっている。
観念論といえばドイツ観念論が一応大きな潮流を為しているから、
まずはあの辺りを読んでみてはどうでしょう。
140 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 02:58
更に、主観はどんなに認識の対象がいろいろなものに変化しようが、
それそのものとしては一つであり、その一つの主観が、あらゆる
対象を把握し得るのである。対象は様々に変化するが、それらを
認識する主観は常に同一である。
以上のような事柄を踏まえて、観念論は「普遍的」であると思う。
それに対して、唯物論は普遍的と言いうるだろうか。
もし言いうるとしても、それは観念論の普遍性とは異なる次元の
普遍性だろう。例えば世界が破壊不可能な極微の単子の集合体だと
考えた場合、それらの単子によって構成される複合体は変転して
やまないが、単子そのものは同一であり滅ぶことがない。
そして世界がこれらの単子の集合と離散とによってのみ
説明され得るのならば、唯物論はそのとき「普遍的」である。
141 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 03:07
だから、「唯物論」というとき、重要なのは、
この世界には我々の意識を超えて、我々にはどうしようもない物質性や
構造といったものが存在し、我々はそれによって規定されているのですよ、
という感覚をもつこと。
142 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 03:10
「生きた思想としての仏教」というのは個人的にやっていればいいのであって、
菩提心の実践うんぬんは個人でやっていればいい話というのはわかります。
研究者が学会とかでそういうことを問題にするのは変だともおもう。
だけど、たとえば、福田さんなんかアカデミズムの中枢部にありながら、
絶対に「如来蔵批判」とか「大乗非仏説」とかいわないでしょ?
たぶん、チベット人の僧侶や修行者と日常的に共同作業をすすめていて、
根本的なところで、仏教に愛情を持っているからだと思うわけよ。
研究者の立場をとりながら、菩薩行を実践しているような態度は美徳でしょう。
ああいうしょうもない批判をする連中は「仏教」を憎んでいるようにみえてしかたない。
「学問的な態度」の裏側に、すごく汚いものが見えてしかたがない。
僕がルサンチマン臭いから大嫌いだって言ってるのはそういうことです。
上記の福田さんの論考は、静かな怒りに満ちていてマジかっこいい。
>>33 >
>>32 >それはあなたも同種のルサンチマンを身につけているかも知れない。
って言われても。私は仏教研究には縁もゆかりもないので、
別に仏教関係者にはルサンチマンもついわれはないけど。
>あくまでも、仏教は単なる知的興味の対象だという態度を貫き通すあたりが、
>寒々しいです。
山口氏がですか?私の読みが間違ってるのかもしれないが、
山口氏の本からは、これまでの仏教理解の脱神話化というか、
仏教の可能性の中心を求めようとする力を感じたけど。
たぶん、50年代に黒田寛一やトロツキーとかを読んだブントの学生達も、
また、60年代に広松渉を読んだ新左翼の学生達も、
私が山口氏の本を読んで感じた熱さを感じたのではないか。
そういう意味で、山口氏は学者だけでなく実践家だと思う。
もっとも、氏の説が今日の仏教学の水準から見て正しいかどうか私には判断できない。
専門の方、その点いかがでしょう。
144 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 03:11
あれは学説、いわば解釈であって、必ずしも中観派以外の思想は仏教
としてみとめられてこなかったという歴史的な事実があるわけではありません。
ただし、例えば如来蔵思想が日本や中国ではあまり批判されずに受け入れられ、
一方チベットでは好まれなかったというのは、事実でしょうし、仏教の受容に
関して差異があったというのはおもしろいとおもいます。
ただ中観派のみが「本物」の仏教であるというような考え方は77にもあげたように
かなり以前から中観派内部にはあったもので、その考え方自体はとくに新しいわけでは
ないとおもいます。これは「無我」が「仏教の特質」であるという考えにたって、
それを追求していけばたどり着く結論ではないかと思います。
145 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 03:14
>140さんをよんで思い出したこと
曹洞宗の宗祖道元さんが最初に仏教で感じた疑問は仏像を見て「なぜ悟りを開いた如来や菩薩が修行をするのか?」
ということだったそうです。そうして、悟ったのが「身心脱落只管打座」つまり、悟るために修行をするのではなく修行をしてるのが悟った状態だということらしです。
現代臨済宗の実質的な宗祖、白隠さんも「衆生本来仏なり、水と氷のごとくして・・」と語ってます
つまり、人は本来悟っている。だけどいろんな偏見やら自我によってその悟りが曇っていると教えています。
ちなみに、なぜお釈迦さんは「真実を知った」といわずに「悟った」と言ったのでしょう
悟るというのは新しい知識を仕入れたという意味ではなく、今ある知恵を深めた(表現が適切じゃないかも・・^^;)というほうが近いでしょう
たとえば、東京に生まれた人は東京の町を知っています。しかし、もし飛行機から見たら東京を見下ろしたらまったく違う印象をもつでしょう。
そして、再び自分の足で東京を歩いたとして・・・。見える景色はもちろん同じ。しかし、その見え方は違うはずです。
それが悟りの例えでしょう。
悟りとは人それぞれ違うものらしいです。白隠禅師は「自分は生涯に大悟は5回、小悟は数知れず」といっています。
疑問に持つことがあり、それが氷解するのが悟り。飲み込めない事を飲み込めるようになる事が悟りです。
他の人からみたら意味なさげでも本人にしてみたら大きい悟りかも知れません。
そうやって小さな悟りを重ねていくのが哲学の道であると思います。
えらそうなことを言いましたが、ワシ自身はたいした悟りを得ていません。
あえて言えば、「人間は吉野家があればどこでも生活できる」ということかな・・^^:
でもこの悟りのおかげで行雲流水な旅人暮らしを送っています
146 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 03:49
われわれに「物自体」(カント)はとらえることが出来ない。
だから、数式を媒介にそのかたちをとらえようと努める。
それが「科学」である。
また、ときに「物自体」を「歴史」と言ったりもするが、
その場合も、われわれにはどうしようもなくある規定性という
認識がそこに含まれている。
147 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 04:16
唯物論の対義語は唯心論だと思ってたけど違うの?
で唯心論の側に唯脳論や唯我論、はたまた仏教の唯識なんかがあると思ってたよ
過去ログとごちゃまぜにすんなって。
>>147 おまえは過去ログみろ
149 :
考える名無しさん:2001/08/21(火) 03:50
たとえば、観念論者が「唯物論といえども結局は人間の観念に過ぎないではないか」
と言ったとしよう。
それに対し、唯物論者が「いや、観念といえど論理つまり言葉という物理的基盤に
したがっているではないか」と反論したとする。
そのとき、観念論vs唯物論という問題の構図は、言葉をめぐっての考察に集約することが
できることになる。
すなわち、言葉は観念なのか物質なのか。
おそらく、この問題はいまだ誰にも解決されてないはずである。
(ヴィトゲンシュタインやソシュールにしても、言語ゲームあるいは
差異体系とは言いはしたが、言葉自体の性質には解き明かしていないから)
150 :
考える名無しさん:2001/08/21(火) 03:53
それとも哲学は西洋の文化に過ぎず、
日本には哲学なんて何の関係もないってこと?
でも私から見れば、そんな文化論や社会学的考察の方が
西洋の受け売りだと思います。
そうやって循環論法になってしまうのは、不毛だから、
メタ批判は単なる独断論だと思います。
これは2番についての話です。
151 :
考える名無しさん:2001/08/21(火) 14:53
だめだコリャ
152 :
考える名無しさん:2001/08/22(水) 14:06
なんでここが荒れるかねえ
153 :
考える名無しさん:2001/08/22(水) 23:29
あげ
154 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 02:41
>>149 もちろん、観念論と唯物論との対立の構図を更新する概念として
すでに「情報」という概念が立ち現れてはいるが、しかし
「情報」といったからといえ何かが解決したわけではない。
それでもしかし、「情報」についての考察することが、
「言葉」を理解する上での大きなヒントになることは言うまでもない。
155 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 05:12
>>136 >この世界には人間の観念を超えたものが厳然と存在し、
>人間はそうした物質なり構造に抗いようもなく規定されている、
>という認識が「唯物論」。
なるほど、これが唯物論の哲学的な定義(?)なのですな。
もちろん「人間はそうした物質なり構造に抗いようもなく規定されている」以上、物理法則を曲げることはできない。
命の危険が迫っても、人間は空を飛んで逃げるわけにはいかないし、ごはんを食べなきゃ餓死してしまう。
この意味で、唯物論は否定できないと思う。(「唯」かどうか知らないが)
じゃないと、自然科学は〈科学〉じゃなくなっちゃうもんね。
この手の、観念論vs唯物論の難問はたしかフッサールが現象学を使って解答しようとしてたけど、あれって結局成功したの?
知ってる人がいたら、成功したがどうかだけ教えて。プリーズ(^o^)!
156 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 10:49
大失敗。だって現象学なんていわば観念論が純化されたものだもの
157 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 11:02
フッサールなんてまともな風に喋ってるけど、オカルトと紙一重。
成功してたら新しい学問ができてます。
158 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:29
>>156-157
完全同意。
現象学なんて、難解なだけで、なんの生産性もなかった。
真面目に勉強してる人がかわいそう。
159 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:39
>>158 生産性がない。それでこそ哲学!
難解で無意味なパズル。それでこそ哲学!
意味ないことを真面目に勉強する。それでこそ哲学!
160 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 22:08
>>155 >もちろん「人間はそうした物質なり構造に抗いようもなく規定されている」以上、物理法則を曲げることはできない。
>命の危険が迫っても、人間は空を飛んで逃げるわけにはいかないし、ごはんを食べなきゃ餓死してしまう。
>この意味で、唯物論は否定できないと思う。
いや、136の唯物論の定義によれば、命の危険が迫っても空を飛んで逃げら
れないのが逃げる観念が生じないからだとすれば、現実生活における意識の
非全能性の感覚は説明でき、観念論をとりつづける事を否定できない。
つまり、観念が自我の自由にならない、という前提さえ認められれば、
唯観念論でもあなたが上げた事例は説明できるのです。
(逃げたいという欲求は生じ、ここにおいて逃げることという概念の
観念も生じているとしても、実際に逃げたという観念が生じなかったの
で現に空を飛んで逃げられなかった、という解決がある、ということ)
161 :
考える名無しさん:2001/08/23(木) 22:10
>>159 私の目から見ると、現象学が扱っている問題はそもそもパズルになってい
ないきがするのですが?
パズルは解法が明確であるという意味で問題設定が明快でなければならない
のに、現象学は問題設定自体に意味のぶれがあるかもしくはそもそも無意味
(シグニフィカントではなくセンスレスの意)であるように思えるので。
あるか、
>>161 パズルってのりで適当に書きました。すんません。
フッサール延命の可能性の中心は基礎付けのシジフォス化にあり!
正解なきパズル。それでこそ哲学!
またわたし適当なこと逝ってます。
163 :
考える名無しさん:2001/08/24(金) 00:46
>>160 >つまり、観念が自我の自由にならない、という前提さえ認められれば、
>唯観念論でもあなたが上げた事例は説明できるのです。
そうそう。たとえば、トラウマとかもそうだよね?
眼前に物質的要素はないのに、人間をリアルに苦しめる。悪夢とかもそう。
自由にならないのは物理法則だけじゃなくて、人間の無意識の衝動(エス)も同じなんだよ。
自分の精神を完全に恣意通りにできるんだったら、精神病院なんていらないんだよ。
だから、物理法則の絶対性(「これを批判したらオカルトだ! トンデモだ!」みたいな)は、唯物論の証拠にはならないんだよ。
まあ、ロシア・マルクス主義者とかは、いまだに『物理法則の絶対性』をかかげて観念論を論破しようとするけどね。日本共産党とか、民青同盟とか。
どこの大学にも民青員はいるから、ちょっとお話でも聞いてくれば?
164 :
考える名無しさん:2001/08/24(金) 01:05
う〜ん、結局唯物論と観念論の対立は見かけだけのものになってしまう
のか?
両方とも、自分の認識はるものの中に自分の意のままにならないものを
認める(当たり前だけど)のだとすると、実質的な違いはないような感
じがする。
165 :
考える名無しさん:2001/08/24(金) 02:38
実質的な違いは、ほんとうにないんじゃないの?
近代は、自然科学が隆盛期だったこともあって、ヘーゲルなんかの観念論が批判されてきたけど。
でも、さいきんは、観念論のほうが有利なんじゃない? だって、やっぱ哲学っぽいから。
166 :
考える名無しさん:01/08/29 14:27 ID:NsSFMWUM
哲学っぽい・・・嗚呼低レベル
167 :
考える名無しさん:01/08/30 18:38 ID:V0tkj0os
ははっ。
でも実際の、哲学や思想の流行なんてそんなもんでしょ。
わりと有名な人で、関西ではたまにテレビとかにも出てるよ。
おれもあの坊主は好きじゃないが、じつは同情してる部分もあるんだ。
いまでこそ教科書に載るほど有名になった大仙院だが、
跡継ぎがなった大仙院の住職を、尾関さんがひきうけた当時は
荒れ果てていたらしい。
大仙院は檀家がない、つまり収入がないお寺だから、
荒れていた枯山水を整備して、積極的に観光客に
アピールして観光収入を増やす以外に建て直すてだてがなかったらしい。
庭園をユーモラスに(といってもぜんぜん面白くないが)解説するとかも
最初のうちは好評だったらしい。
苦労人だから人生訓的な著書をたくさん書いてて、
それをアピールするのも寺のためには必要だったんだろう。
まあ、営業マンとしては優秀だったといえる。
問題なのは、一時は評判になったその手法を
その後もぜんぜん変えてないというところにあるな。
おれが初めて大仙院に行ったのは小学生の時、もう30年近く前のことだが、
その時から現在まで、ずーーーーっとあの調子でやってる。
時代にあわせて参拝者への対応を変えないと、
>>56みたいな反感は
やっぱりもたれるだろうな。
もう観光地として十分すぎる知名度もあるんだから、
考えてほしいね。