1 :
考える名無しさん:
懲りずに勃てました。
2 :
考える名無しさん:2001/07/07(土) 03:05
永井は発育不良児っぽい。
3 :
名無しさん:2001/07/07(土) 03:40
ルサンチマンの哲学なんて文体は大人っぽかったよ(笑)
4 :
当代随一のヒッキー:2001/07/07(土) 03:47
お、立ちましたね。
5 :
名無しさん:2001/07/07(土) 03:51
当然、後発のこっちが放置だろう
転校生と…て永井の著作だったのか。
わかりにくいよ。
9 :
考える名無しさん:2001/07/07(土) 14:47
いま大学の図書館で迷ってる。
『<私>のメタフィジックス』にするか、
『<私>の存在の比類無さ』にするか。
10 :
名無しさん:2001/07/07(土) 15:35
最初は前者の方がいいよ。
11 :
考える名無しさん:2001/07/08(日) 03:45
>>10 両方とも何回も読んでるのだが、
久しぶりに永井を読みたくなった際にどちらにするか迷ってしまって…(w
12 :
考える名無しさん:2001/07/08(日) 19:11
今<私>存在の比類無さに収録されている一論文『他者』を読み終えて気付いたこと。
<他者>は<私>とは別の「疑い得ないもの」であり、
<私>を主題的に扱うこと(<私>を他人に向けて騙ろうとすること)によって
<私>についての省察が変質してしまうのと同様に、
<他者>を主題的に扱うことは<他者>という存在を疑いうるものの領域におとしめてしまう。
それゆえ<他者>へ対する態度とは独我論的な態度のことでしかあり得ない。
具体的に言えば、「愛や同情や理解を超えた態度」である。
このように述べて<他者>論をまとめているのだが、
「それに向かって態度をとることができないものに対する」態度を取るべしという発言は、
『これがニーチェだ』において、別様の自分の在り方もあったはずなのに、何故か偶然にして今あるこの自分として存在するという
この奇跡を喜ぼうとする運命愛の解釈に通ずるものがある。
と思った。
そして、永井均は徹頭徹尾永井均であるのだなぁというよくわからない感銘を受けた。
言い換えれば、彼独自の理論<私>論の立場からしか物事を見ようとしない一種の傲慢さ?
に深い感銘を抱いたのである。
>>12 > 何故か偶然にして今あるこの自分として存在するという
> この奇跡を喜ぼうとする運命愛の解釈に通ずるものがある。
この部分にいつも引っかかる。
結果論的というか、あみだくじの当たりから逆算した感じ。
14 :
考える名無しさん:2001/07/09(月) 01:58
>>13 <私>の観点から見れば、
そのような気分は普通のことだが。
しかし、その指摘は当てはまるかも。
15 :
考える名無しさん:2001/07/10(火) 13:28
ageておく
16 :
考える名無しさん:2001/07/23(月) 02:53
age2
しかし、この人の独我論はとても難解だ。
まず<私>の在り方に気付かない。
たまたま<私>である存在と任意の人間が結合されうるということが、
ある脱人格的自我(魂)なる存在と任意の存在が結合されうると読み替えられてしまう。
次にたまたま存在するということの奇跡性が語り得ないということに気付かれない。
前述の<私>の奇跡性を問題にした哲学者ならばいるであろうが、
この奇跡の「語り得なさ」を語った哲学者は私の知るかぎりいない。
この二つ目の論をはっきり打ち出したことによって
永井均はウィトゲンシュタイン研究者のなかで輝いている。
18 :
考える名無しさん:2001/07/24(火) 03:00
今、『転校生とブラック・ジャック』を読んでいる。
151ページの「Nが<私>でなくなっても、いや、もともとなかったとしても、
そいつは、まったく同じ気分で、自分が<私>だと言うよね。それでも、そこに
現状との違いがあるだろうか。」という箇所は、なにか微妙に可笑しかった。
19 :
考える名無しさん:2001/07/26(木) 23:12
age
20 :
18:2001/07/26(木) 23:53
なんか、書いてよ。
19=17
22 :
考える名無しさん:2001/07/27(金) 00:34
22=22
23 :
考える名無しさん:2001/07/27(金) 18:58
以前はなかなかレスが付いたのだけどね。
その時のスレが見つからない。
24 :
考える名無しさん:2001/07/29(日) 14:05
l
25 :
考える名無しさん:2001/07/29(日) 17:23
>以前はなかなかレスが付いたのだけどね。
>その時のスレが見つからない。
スレがぶっ壊れたまま、倉庫にも入らず放置されてるみたいだ。
こういうときはどこに申請すればいいのか、誰か知らない?
26 :
考える名無しさん:2001/07/29(日) 19:36
要望板かな?
27 :
考える名無しさん:2001/07/29(日) 22:53
28 :
考える名無しさん:2001/07/30(月) 03:25
はいはい、
ただのふぬけやただの馬鹿やただの虚栄心やただの変質者や
ただのドキュンやただの勘違いやただの不誠実な人たちは
もういいよ。
それも宇宙だYO YO YO!
30 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 19:07
やっと永井の独我論を理解したぜ!
31 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 20:40
池田晶子との『2001年哲学の旅』における対談
読んだ人いる?
立ち読みしたよ。
で?
33 :
考える名無しさん:2001/08/01(水) 23:20
34 :
考える名無しさん:2001/08/02(木) 22:09
35 :
考える名無しさん:2001/08/03(金) 00:06
転校生とブラック・ジャック!!
36 :
考える名無しさん:2001/08/03(金) 18:15
池田の完敗かもね。あれは。しかし「高潔な人格」と聞いて
人間像が直観的に了解されるのも事実ではあるが。
37 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 02:07
「善いこと」もね。社会的必要から説明するのは事柄の反面でしかない。
了解できません。
39 :
tama:2001/08/04(土) 10:24
永井均は1冊でよいと思います。あとは同じ繰り返しだと思っています。その一冊は新鮮な
知の感性的起源と論理の徹底さを表出していると思います。そうした永井均の魅力や意義はよくわかります。
しかし、どうしても文章から溢れてくる、ヤヒな匂いが生理的にダメです。
<何をいっているかより、どういっているか>の点で読むに絶えなくなってきます。
「半径1mぐらいの自身に対するおののき」はあっても、いつまでも自分が、自分が、自分が、自分が、自分が・・・・
宇宙の中の唯我独尊の生涯には本格的な幼稚さを感じざるをえないです。
自分は?はたまにはいいでしょう。
しかし、もう40をこえているでしょう。自分は?というマスターベーションから脱出して、
あるいは、他人に心の中のヒミツを表明せず、こっそり自問していればよいのです。
りっぱな大人になってください。
強烈な<こども>であり、しかも、大きなこどもであることに異様さを感じます。
池田晶子との対話も池田の掌に乗っかっていて、「ああー、全然だめだね、わかっちゃない」という
池田晶子の本音が感じられる対談でした。どう読んだら永井の方が勝っていたと
読めるのか不思議でならない。永井は<唯我独尊>、池田は<気を遣い>のすれ違いを。
彼女も生活のために、どうしてもかみ合わない、気を遣った
あんなくだらない対談をせざるをえなくなってしまったことの方に悲劇を感じてしまいました。
こどもの永井は池田を本格的に恐れているのであろう。世人に対する鈍感さや自己に対する拘泥は
世事に疎く、生活感が欠如してて、アカデミックからも飛び出している池田の強度の方が
強い。
40 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 11:12
最近暑いからな〜。
39みたいに頭やられちゃったのが増えてきたな〜。
41 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 12:54
おいおい、最後の書簡で池田は永井を絶賛していただろ。
それに、池田は結局のところ無根拠な倫理性を連呼するしか
なかったじゃないか。むしろ永井のほうが胸を貸していたん
じゃないかな。じつは社会思想的なセンスもあるよ、永井は。
<私>論以外に『これがニーチェだ』も読もうね。
42 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 12:57
というわけで子供というよりは仙人ということで。
43 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 13:06
永井の唯我性というが、あの人がある意味の弱者であるのは
疑う余地はないわけで。ウィトゲンシュタイン関連の書評で
「ウィトゲンシュタインには経験内のいかなる事実にも動かされ
ない厳密に独我論的な境地が必要だった」「彼はただ死なないた
めに哲学した」「彼にあるのは倫理に関する省察ではなく、惑溺
ともいえる弱さである」とか述べているけど、こんなこと書く人
が、単純に独我論の延長で唯我独尊していると思うかい?
それに40過ぎて、とか言ってるけどいいじゃんそれが仕事
なんだから、人はパンのみで生きるに非ず。
44 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 13:25
>>39 最後の方は破綻してるぞ。世事に疎く自己に拘泥する度合いは
池田の方が強いんじゃ、池田がむしろ子供ということになって
しまうじゃないか。そうした池田がむしろ気を使ってるはず、
という推測もどうして成り立つわけなの?
信者って観察してるとおもしろいね。
46 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 14:03
ていうか、おれは池田も嫌いじゃないよ。
いいかげん<信者>とかレッテル貼るの
やめて欲しい。いうのもばかばかしいが。
47 :
45:2001/08/04(土) 14:46
>>46 そうですか、失礼しました。
39は池田の「内面」を池田になりかわって語っているという点が
読んでていやでした。
48 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 19:36
内面って何??
49 :
45:2001/08/04(土) 20:11
>「ああー、全然だめだね、わかっちゃない」
こんなこと、「言って」はないですよね。
50 :
考える名無しさん:2001/08/04(土) 20:46
確かに言ってはいない。どちらかというと邪推に近い。
51 :
tama:2001/08/05(日) 00:28
池田に関する私の表現の稚拙さは訂正します。
永井は強靱的な論理癖により、道徳についても形式的に組み立てて安全におさめてしまう。
ただ、ロゴスの中だけで。沈黙せねばならないことまで、語ってしまう。多少繊細さが欠如しているのではないか。
<驚き>が徹底しているのかもしれない。
自己に関してはナイーブな手触りの永井が、道徳に関しては、あまりにも
大鉈を振るうので、池田はいらだちをもちながら挑発しているように見える。
これは分析哲学についての異和かもしれないが。あえて<魂><偶然><宿命>
など(アノニムX、他者、原型などと同型)ということばを紡いで無根拠な
倫理性を語っていた。死刑囚の倫理性を持ち出したことも、「形式論だけで、人をなぜ
殺してはいけないのか?」などを饒舌にいいすぎる鈍感さをつきたかったのだろう。
池田は暗いアクティブな過剰性をもっている。結局、永井は驚きを持ったスマートな「学者」
におさまっているようにみえる。過剰、カオスをそぎ落とした学問、知の体系を志向している
「哲学者」にとっては永井は新鮮なのかもしれない。チェスタートンのニーチェ論「柔らかい心を
持たないものは、ついには脳が柔らかくなる」。ラッセル、ヴィトなどの偏屈な人格は論理・ロゴス
の過剰からきたものなのかはわからないが。
52 :
考える名無しさん:2001/08/05(日) 00:42
いや、だから永井も「過剰」だって。
哲学できなきゃとっくに人間止めてる、とまで言ってるんだから。
池田との対談では「僕はそれほど常軌を逸した人間ではない」と
いろいろな意味で池田を意識した物言いをしてたけどね。
53 :
tama:2001/08/05(日) 01:25
それもわかるが、それでは、道徳論に絞って考えてみたらどうだろう。
反価値から措定される道徳をくどくのべているが、
あまりにも、わかりやすすぎるきらいがある。論理責めはわかりやすいものだ。
道徳論は善、価値、意味、生などを丸ごと包含した人生論の核心をついている。
<生々しい>ことばでしか紡げないものかもしれない。
「舞台裏を見せない」と発言していたが、池田は自分がどう生きているのか
(道徳をどうかんじているのか)を「どろどろな表現」で<生々しく>語っている。
永井の道徳は<なまなましい自分>を語っていない。
池田は<生の生々しさ>に触れないならば、道徳=善=いきるには届かないと
思っている。
永井は道徳に関しては突き詰めていないのかもしれない。周知のとおり
池田は自分・社会・世界の全てに徹底して<疑問符>をつけている。
永井はある領域での過剰は尋常でないが、結局、ロゴスで安全に
構築してしまう弱さは池田より強く持っているのではないか。
54 :
考える名無しさん:2001/08/05(日) 14:44
どうでもいいけど池田は反道徳でしょ、倫理の人。
永井の疑問符も徹底されてると思うけどなあ。
ていうか学者だから結果として論理構築して収まりをつけるのは
しゃーないって。
55 :
考える名無しさん:2001/08/05(日) 22:34
くそ、人が家を空けてる間に盛り上がりやがって!
56 :
tama:2001/08/06(月) 02:38
学者としてしゃーないのはわかります。
それでは、池田と永井の相違についてどう考えますか。
なるべくつまびらかに、自身の感性もさぐって
表現してもらえますか。そこにこの微妙な問題が現出されていると思います。
57 :
考える名無しさん:2001/08/06(月) 18:03
58 :
考える名無しさん:2001/08/06(月) 18:25
59 :
考える名無しさん:2001/08/06(月) 18:42
60 :
考える名無しさん:2001/08/07(火) 00:33
age
61 :
Rage Against The Rage:2001/08/07(火) 02:22
だって永井は弱いんだもの・・・・
62 :
考える名無しさん:2001/08/08(水) 19:27
>>58 森岡氏誤読してる。
入不二氏はさすがだね。
63 :
名無しさん:2001/08/08(水) 20:35
64 :
考える名無しさん:2001/08/09(木) 04:04
>>58 そっか、やっぱり森岡はダメなやつだったんだ。
前から怪しいと思ってたよ。。
65 :
考える名無しさん:2001/08/10(金) 00:27
森岡の本・・まず読む気がしない。
リンク先や哲学会告発(藁の文章はマシな方かも・・・
66 :
考える名無しさん:2001/08/10(金) 00:43
>>62 それでも入不二は、永井の言う語りえなさの内部にある。
この議論は永井の独壇場だね。
67 :
考える名無しさん:2001/08/13(月) 02:24
age
68 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 00:46
寂しいので寝た振り。
永井は、論文という形式は哲学的著述には向いていないと明言し、
実際に著作『子供のための哲学』は平易な言葉遣いでありながら入門書の域を超えてもいる。
個々の方々はこのことについてどう考える?
70 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 02:24
『こどものための哲学対話』もええで。
71 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 10:57
age
72 :
考える名無しさん:2001/08/17(金) 12:43
荒らしてる奴オナニーでもして寝ろ
童貞 デブ ははは
よかったな ネットあっていくらでもし放題だな オナニー
でも本物の方がいいぞ 遅漏になるからひかえろよ
若い頃のオナニー b
そう言うのもあるんだけどね、こちらとしては、話が通じない
自閉した小島が乱立する現状を考えると、敢えて
哲学史に一度徹底的に抑圧されたほうがいいという立場を
取りたいわけ。
ゲリラ的な取り組みでは限界があると思わんのかね?
74 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 03:01
75 :
考える名無しさん:2001/08/18(土) 03:03
そうです。
付け加えると「子供のための哲学」というのは幻覚です。
世の中には、あなたの様な人間に対し
つけ込んで、一儲け企んでいるナイスな方々が存在するので
注意すると吉、ラッキーカラーはパールピンク。
負けないぜ〜!
AGE
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死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
79 :
スレ汚し:2001/08/20(月) 21:43
思うに、永井には、ニーチェが自己批判したように
「永井的永井批判」が欠けてるような気がする。
80 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 22:29
〈私〉だから
81 :
考える名無しさん:2001/08/20(月) 22:40
道徳とか価値評価と<私>は違うでしょ。
82 :
考える名無しさん:2001/08/24(金) 09:43
しっかし永井スレは無意味に荒れるねぇ。
政治や社会に関わる思想を持つ学者みたく、キャッチーじゃないせいか?
日本ではトップクラスの哲学人間だと思うんだけどな。
発展的な批判や議論が難しいテーマ(独在論)だし仕方ないのかな。
一方で中島義道スレが荒れつつも続くのは人生哲学ファンの為?
>>68 思うに「猫のインサイト〜」のような対話形式文が哲学的思索の発表に
適してるからじゃない。永井がいつも口癖のように言う
「哲学は主張じゃない、問い(の空間設定)だ」って言葉からしても
そうだし、ソクラテスから続く弁証法の伝統でしょ。
あと、哲学のキモは知識じゃないし難解な言葉であることは本質じゃない。
83 :
考える名無しさん:2001/08/25(土) 02:20
84 :
考える名無しさん:2001/08/25(土) 11:37
ああいう哲学的な誠実さって、長い目で見るとつらそう。
後々そのせいで苦しむはめになりそうで心配だよ。
つっても朝生系のお気軽評論家になられるよりはマシか。
85 :
考える名無しさん:01/08/27 22:33 ID:l4ashXmk
永井の思想は、特に最近の<私>の思想はウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を背景にしているので、
いくらその理解が<私>を掴むことにかかっているとはいえ、ウィトを読むこと無しに
その先の議論ついていけるのだろうか?
皆さんはどうですか?
86 :
考える名無しさん:01/08/27 23:20 ID:sVE2Bfck
自己顕示欲の塊長居菌、逝ってよし。
87 :
ひとりごと:01/08/27 23:22 ID:9MPyFzCk
永井の<私>論は難しい。
はじめはわかってるつもりでも、
読んでるうちにわからなくなってくる。
88 :
ひとりごと:01/08/27 23:25 ID:9MPyFzCk
>自己顕示欲
そうは思わんけどな。
89 :
考える名無しさん:01/08/30 00:05 ID:9ahPdxRY
age
90 :
:01/08/30 10:00 ID:x8lzO6.w
>>87 確かに難しい。しかも恐ろしく精緻な難しさ。
難しい「言葉」を使うだけなら誰でも出来るんだが。この板の厨房同様。
やっぱ、永井均はすごいよ。大学関係でああいうスタイルやろうとしても
よほどじゃないと無理っぽい。つーか怒られるよな>その他の院生
でもまあ最近は野矢先生の「哲学の謎」とかそのまま使うところもあるし、
そういう若い人が今後どうなるのか楽しみでもあるが。
91 :
考える名無しさん:01/08/30 16:19 ID:U0q2ki7M
哲学の謎はそれほど難しくはないよ。
哲学の紹介本だから。
92 :
イソサイト:01/08/30 16:54 ID:19/boRTg
夏休みの間、ずっと哲学から離れていました。
厨房の頭を消防にして、また秋から頑張ります。
93 :
90:01/08/31 00:33 ID:HxMZEut6
>>91 難しくないのは分かっているよ。
正確に言うと、難しい「言葉」が使われてないのは。
要は、正面切って哲学議論が扱われているから評価しているわけで。
浅田彰のような哲学風批評をありがたがって教科書に使うよりは希望がある
と言いたかっただけ。難解な言葉をこねくり回したいだけの哲学専攻者って
意外に多いよ。
94 :
考える名無しさん:01/08/31 00:39 ID:7PE8Xkls
>93
>難解な言葉をこねくり回したいだけの哲学専攻者って意外に多いよ。
以下は自戒を込めてですが。ある程度問題解決にも表現にも熟達する
まで、難解な言葉でしか語れない、という傾向はあります。
『哲学の謎』における野矢氏の文章は、いかにそこで扱っている問題
についての彼のアプローチが彼自身に明快になっているか、という事を
示しているのだ、と思います。
(あと、最初にとっつく哲学ものの本の文体からなかなか抜け出られない
ひと、これも多いですね。)
95 :
考える名無しさん:01/08/31 14:44 ID:EHA6cesc
>>90 精緻な難しさと言うよりはむしろ、
永井が語るように、<私>が語り得ないからだと思う。
その発想自体をウィトゲンシュタインから得ているだけあって
永井のウィト解釈も斬新。
それにしても論考の序文に「以下の思想は私と同じ考え方をする人にしか
理解されないだろう」とあるのだが、
無名の文学士がよくこんなことを書く気になったものだ…
96 :
考える名無しさん:01/08/31 16:04 ID:cbRcBFjI
大庭健に絶縁状を送ったとか絶交したとか
って聞いたけど、ほんと?
97 :
考える名無しさん:01/08/31 16:50 ID:hAosqrx.
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
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98 :
考える名無しさん:01/08/31 21:03 ID:suFBxMiU
>>95 無名といっても、少なくともラッセルにとっては有名だったのだから、
それぐらいのことは書いても、まるでおかしくない。
99 :
考える名無しさん:01/08/31 21:05 ID:suFBxMiU
>>96 あの論争は読んでても煽りが多くて虚しくなるもんなー。
そもそも大庭せんせの主張はありゃ永井じゃなくても納得できんが。
101 :
考える名無しさん:01/09/01 23:31 ID:dGhwwKMo
102 :
考える名無しさん:01/09/01 23:33 ID:wGI.WAeE
ソクラテスは絶大な人気を持っていた。
だが同時に多くの敵がおり、反感も買っていた。
本当に有能な人間というのは、八方美人では済まず、信奉者と、敵が同時に存在するものだ。
その敵の勢力がソクラテスを死に追いやった。
ソクラテスは哲学に没頭し、哲学に明け暮れたので、たいそう貧乏だった。
哲学の創始者はソクラテスでは無いが、ほとんど創始者と言っても間違いでは無い。
ソクラテスは自殺をしたのではなく、死刑の判決を下され、毒殺された。
ソクラテスの偉大さについては、現代人は知らないだろうし、興味も無いだろうが、裁判制度の基本を形成したとも言える。
少なくとも弁明の基本構造を作った。
ソクラテスの人気はすさまじいもので、小泉内閣総理大臣の人気などは足元にも及ばない。
ソクラテスは政治家や、詩人や芸術家を知恵の対象と見ていた。
そして議論をふっかけ、知恵の程度を吟味した。
数々の議論をし掛けて勝利したが、それで金持ちになることもなく、貧乏生活だった。
しかし、ソクラテスは、貧乏などは気にしなかった。
当時の文化レベルはこのソクラテスが形成したといえる。
現代社会には、ソクラテスのような人気がある哲学者は存在しない。
103 :
考える名無しさん:01/09/02 07:42 ID:1U4jPP6s
盲人は盲人の手引ができようか、ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。弟子
はその師以上のものではないが、修行をつめば、みなその師のようになろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自
分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの
目にあるちりを取らせてください、といえようか。偽善者よ、まず自分の目か
ら梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟
の目にあるちりを取りのけることができるだろう。悪い実のなる良い木はない
し、また良い木のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。いばら
からいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。善人
は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心
からあふれ出ることを、口が語るものである。(ルカ 6.39-6.45)
104 :
りー:01/09/03 04:42 ID:JNUmV8fM
皆さんにちょっと聞きたいんですけど・・・
>12さんが短くまとめてますけど、永井さんの「それに向かって態度を
取れないものに対する態度」こそが<他者>に対する態度だ、っていう話、
全然分からなくないですか?
文字面通り取れば、つまり<他者>に対してどんな態度もとれない、って
ことでしょ? たとえそれが独我論的態度であるにせよ、<他者>に対して
何らかの態度をとってるうちは、「それに向かって態度を取れないものに
対する態度」にはなりえないんだし、何の態度をとることもやめちゃたら、
それはもう<他者>に対する「態度」ではありえない。
独我論から始めて他者を開示して、んでまた独我論に戻ってくるのはよく
わかるんだけど、永井さんの書き方では初めの独我論より後の独我論の方が
発展してるような感じじゃない? <他者>を踏まえた独我論みたいな。
でも実際独我論は<他者>を消去して初めて成り立つんであって、結局永井さん
の言ってることは、当たり前か間違ってるかどっちかなんじゃないかな。
105 :
しろうと:01/09/03 19:48 ID:XF.yzhBY
『哲学の謎』が評判いいというのがわからない。
106 :
考える名無しさん:01/09/03 23:26 ID:GSq6vJDc
107 :
考える名無しさん:01/09/04 00:20 ID:c3QM5E0Q
皆さんにちょっと聞きたいんですけど・・・
>12さんが短くまとめてますけど、永井さんの「それに向かって態度を
取れないものに対する態度」こそが<他者>に対する態度だ、っていう話、
全然分からなくないですか?
文字面通り取れば、つまり<他者>に対してどんな態度もとれない、って
ことでしょ? たとえそれが独我論的態度であるにせよ、<他者>に対して
何らかの態度をとってるうちは、「それに向かって態度を取れないものに
対する態度」にはなりえないんだし、何の態度をとることもやめちゃたら、
それはもう<他者>に対する「態度」ではありえない。
独我論から始めて他者を開示して、んでまた独我論に戻ってくるのはよく
わかるんだけど、永井さんの書き方では初めの独我論より後の独我論の方が
発展してるような感じじゃない? <他者>を踏まえた独我論みたいな。
でも実際独我論は<他者>を消去して初めて成り立つんであって、結局永井さん
の言ってることは、当たり前か間違ってるかどっちかなんじゃないかな。
108 :
考える名無しさん:01/09/04 00:28 ID:c3QM5E0Q
>>104 『論考』の著者によれば、語りえない、従って記号化した場合擬似命題にしかならな
い(非命題)は、真偽判定ができないのではなく、真偽がないのです。
真偽判定ができない、という条件規定では、意味の検証原理が前提されない限り(そ
して『論考』においては意味の検証理論は明らかに採られていない)、真偽判定が
出来ないが有意味な命題は、存在しえます。そして『論考』においては、真偽判定
不能だが有意味な命題は語りえます。何故なら、語りえる条件は意味がある事であ
って、真偽判定が可能な事ではないからです。
109 :
考える名無しさん:01/09/04 01:42 ID:uyPHtJLY
>>104 これはウィトの言語ゲーム内部での語り得ないものに関係ある問題だと思います。
<他者>に対して何の態度も取れないのは、<他者>なる存在が認識の対象としては
存在できないからなのです。
それについて明示的に語ることができてしまうために、
かえって伝達したいことを伝達できない構造を永井は明らかにしています。
<私>、そして<他者>はそうした構造を持っているのでそれについて
何の態度も取れないわけです。
110 :
考える名無しさん:01/09/04 03:34 ID:DKmnUeGU
永井は現代最高!!!
111 :
考える名無しさん:01/09/04 04:06 ID:1immewcw
わたしは語り得ない、他者は語り得ない。
「あれ」は語り得ない、「それ」は語り得ない。
すべてのモノは語り得ない。
世界は語り得ない。
「わたし」はどのような態度もとり得ない。・・・・・???
112 :
考える名無しさん:01/09/04 04:11 ID:1immewcw
33 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 12:32 ID:eENgw6eo
存在論ってあるじゃない? ハイデッガーみたいな。
おれ、なんでそんなの考える人がいるのか分かんないんだよね。
「私はなぜ私なのか?」
って、
>>6さん以上の回答は得られないんじゃないの?
こんなの学問として、なんの生産性も発展性もないじゃない。不毛だよ。
哲学ってほんらい生産性や発展性に満ちたものだと思うのよ。経済哲学とか、歴史哲学と
か、政治哲学とか、その応用範囲は計り知れない。
でも、こんな存在論的疑問に、なんの生産性があるのさ? そっちのほうが知りたいね。
113 :
考える名無しさん:01/09/04 04:12 ID:1immewcw
34 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 13:55 ID:g6DAw4hE
科学には私は扱えない。社会学などにはもっと扱えない。
社会学は、「私」とは社会の形成物だと前提することで成立する。
むろん、それはその限りでの真実ではある。
つまり、生まれと育ちによる、性格もしくは世界観である。
しかし、それらは決して「私」ではない。
それらがそのようであると認識しているところのこれ、
これのみが常に問われるべき「私」なのだ。
だからこそそれは、哲学という思考にしか扱われないということになる。
114 :
考える名無しさん:01/09/04 04:12 ID:1immewcw
35 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 14:19 ID:qnIPyeQA
>>34 でも、それだったら「1+1はどうして2なのか?」っていう問いでもいいんじゃないの?
「公理を証明しろ」っていう問いも同じく、数学者には答えられないよ。
なぜ「私」にこだわるのさ?
そして科学で答えられないという存在論に、哲学者はちゃんと解答出すことができたの?
できなきゃ、意味がないよ。
最近もっとも売れた哲学書『ソフィーの世界』も「あなたはだあれ?」っていう問いを重視し
てたけど、
そんなものを全面に押し出されたらますます他の人に、哲学は不毛で非生産的なものだ
っていう印象をもたれかねない。
「私はなぜ私なのか?」
っていう問いは、哲学にも扱うことのできない問いなんだよ。これを哲学的な問いとするの
はいかがなものかと思う。
115 :
考える名無しさん:01/09/04 04:13 ID:1immewcw
37 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 14:29 ID:g6DAw4hE
>>35 しかし、「哲学」と一括していったところで、それを考えているのは、やはりそれぞれ別の
「私」ですね。
認識主体としての「自我一般」は、「私」ではないですし。
大勢の哲学者たちの間で議論されたところで、「私」が「私」であるというこのことの不思議
は、ほんの少しも動かない。
したがって、「私」は、いかなる学問の網の目にもかからないということになる。
なぜなら、「私」は、質だからだ。一般的な量には還元され得ない、唯一無二の質だから。
116 :
考える名無しさん:01/09/04 04:13 ID:1immewcw
38 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 14:37 ID:rYsLdNas
>>37 それは「私」っていうより、ただの「自意識」なんじゃないの?
「私」を「唯一無二の質」っていうんだったら、あの椅子も、この鉛筆も、
なにもかも唯一無二の質になるんじゃないのかな?
そうなると、やっぱり問いの意味がないよ。
117 :
考える名無しさん:01/09/04 04:14 ID:1immewcw
39 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 14:46 ID:g6DAw4hE
たとえば、同じ「私」の語によって、私が「私」と発語するときの感覚と、
あなたが「私」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、如何にして知り得まし
ょうか。
知り得ないはずです。質とはこれです。
これを感じることなく自分を「私」と言うときにのみ、「私」は単なる記号であり得る。
そういう意味において「自意識」とは単なる記号にすぎません。
118 :
考える名無しさん:01/09/04 04:15 ID:1immewcw
40 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 14:56 ID:UJ1PRXlQ
>>39 >たとえば、同じ「私」の語によって、私が「私」と発語するときの感覚と、
>あなたが「私」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、如何にして知り得まし
ょうか。
でも、そうだったらやっぱり、私が「この鉛筆」と発語したときの感覚と、
あなたが「この鉛筆」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、いかにして知り
得るの?
「私」という言葉が記号ではないというのなら、「この鉛筆」も記号ではないんじゃないの?
「自意識」という言葉もそうだよ。
119 :
考える名無しさん:01/09/04 04:16 ID:1immewcw
41 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 15:10 ID:g6DAw4hE
知り得ることはできないし、知る必要もないと思います。
それで哲学が不毛で非生産的だと思われてもそれでいいじゃないですか?
120 :
考える名無しさん:01/09/04 04:20 ID:PkBRUc3E
42 名前:考える名無しさん 投稿日:01/09/02 15:31 ID:gDS4lH1E
>>41 そりゃ、哲学というより、文学や芸術の世界の話じゃないの?
分かる人には分かるけど、分かんない人には分かんない。
これで、やっぱり学問といえるのかな?
哲学って、もっと共通了解性を追求するものだと思う。
sage
122 :
1immewcw=PkBRUc3E:01/09/04 04:25 ID:PkBRUc3E
(この後、34=37=39=41は沈黙してしまった)
無意味に荒れるなぁ、いつも永井スレは。
124 :
111=122(=1immewcw=PkBRUc3E):01/09/04 23:34 ID:MxBSpfnA
すいません。
でも荒らしじゃないです。
マジです。
>>116-118なんか、いいとこ衝いていると思う。
125 :
にいなな(本物):01/09/04 23:47 ID:c3QM5E0Q
しかし、「哲学」と一括していったところで、それを考えているのは、やはりそれぞれ別の
「私」ですね。
認識主体としての「自我一般」は、「私」ではないですし。
大勢の哲学者たちの間で議論されたところで、「私」が「私」であるというこのことの不思議
は、ほんの少しも動かない。
したがって、「私」は、いかなる学問の網の目にもかからないということになる。
なぜなら、「私」は、質だからだ。一般的な量には還元され得ない、唯一無二の質だから。
それは「私」っていうより、ただの「自意識」なんじゃないの?
「私」を「唯一無二の質」っていうんだったら、あの椅子も、この鉛筆も、
なにもかも唯一無二の質になるんじゃないのかな?
そうなると、やっぱり問いの意味がないよ。
たとえば、同じ「私」の語によって、私が「私」と発語するときの感覚と、
あなたが「私」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、如何にして知り得まし
ょうか。
知り得ないはずです。質とはこれです。
これを感じることなく自分を「私」と言うときにのみ、「私」は単なる記号であり得る。
そういう意味において「自意識」とは単なる記号にすぎません。
でも、そうだったらやっぱり、私が「この鉛筆」と発語したときの感覚と、
あなたが「この鉛筆」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、いかにして知り
得るの?
「私」という言葉が記号ではないというのなら、「この鉛筆」も記号ではないんじゃないの?
「自意識」という言葉もそうだよ。
126 :
考える名無しさん:01/09/05 00:33 ID:8rva7LPQ
>>125 それ柄谷が『探究U』で単独性と特殊性の差異として語ってたよ。
でも永井の独在性とはまた違うんだよね。、
>>126 違いますかねえ・・・?
同じように見えるけどなー。
よかったら詳しい解説を。
128 :
にいなな(本物):01/09/05 00:45 ID:N3yUSlFY
>>127 違いますかねえ・・・?
同じように見えるけどなー。
よかったら詳しい解説を。
125のIDは107,108と同じだね。
ダイヤルアップじゃないのか。
それとも、プロキシ使うとこうなるの?
(\
\\
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\\\
(\\\\
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( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ | ⊂⊃
 ̄ ̄( ̄ ̄//// ̄\ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄(//// ̄\\( ゜Д゜) < 氏ねやカス共 ゴルァ !!
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ゴ オ ォ ォ …… ! ! \\ ;": ..;.;".;":
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从へ从へへ从 ; ζ | Γ从 | |;:.. |从Γ | | \\ ∠___/|
( ⌒( ⌒ ) ζ | 从Γ | |.:;. |从Γζ.;"._ \\|ΓΓΓ| |
( ⌒ ⌒ ⌒ ); | ΓΓ | |.;;::|ΓΓ | | ( 从へ;: |从ΓΓ| |
Σ( ⌒( ⌒ ) ζ ( ( ) )⌒ ) ( 从へ从)_.;;:.;|Γ从Γ| |
( (( ( ⌒ )) ) 从 Σ( ⌒( 从へ从) ∠___/|
Σ (( ( ⌒ )) ) )(( ⌒ ( 从へ从) .;".;:;|ΓΓΓ| |
(( ⌒ ( ( ) )⌒ );:; .;".;": ..;.;".;":|从ΓΓ| |
131 :
126:01/09/05 23:34 ID:zpCtP6wA
永井にしろ柄谷にしろ、ある種の個体性について言及しているのは間違いない。
柄谷は個体性を、あるいは個体性の見方を二分し、
その背景を考察しながら特殊性と単独性という相互に独立な立場を提唱する。
特殊性についてはもはや説明する必要はないだろうが、これが(一般−特殊)の対立から
見られた個体性であることに柄谷は言及し、そこには単独性としての「この」性(this-ness)が欠けていると言う。
ということは、(ここからは私の表現になるのだが)特殊性だけが個体性の基準であるならば、
私と同等の水準の生活をし、その思想も似通っている私のクローンは私とは原理的に区別できないということに
なってしまうであろう。
しかし私の友人や恋人にとっては私と私のクローンとの区別は厳然と存在するし、
私にとっても(そしてクローンにとっても)これは重大な問題である。
こうした特殊なケ−スに於いては特殊性が役立たなくなるのである。
個々に述べた単独性の主張は探究Uの一章を占めるのみであって、
柄谷は固有名の問題に入っていく。
一方永井にとっては、おそらくこの問題だけで一つの論文を書くであろうが、
ここで挙げられた単独性は、永井の言う<私>から見れば問題とすべき難点が
既に乗り越えられてしまっている、社会的に受け入れられるであろう思想に過ぎない。
何故なら、単独性が把握しきれない類の個体性があるから。
独在性と永井が呼ぶこの観点は誰にも気付かれることが無く、
<私>を存在論的に論じていた頃には「何故かどの独我論も
この問題をいつの間にか乗り越えてしまっている」とぼやいてる。
私とクローンの話に関連づけてみるとどう違うのかがわかるのだが、
この話は私以外の全ての人について成り立ってしまうのである。
つまり「この私」を語るべき文脈で「この私」一般が語られてしまうのである。
132 :
124(=111=122=127):01/09/06 02:54 ID:q/9NlKdc
126さん、詳しい解説ありがとうございます。
126,及び
>>112-120の問答を見てふと思ったことを、もう少し述べさせていただきたいと思います。
なお私はこの問答の当事者ではありません。また当事者のどちらか一方の意見に全面的に賛同・反対するものでもありませんし、その代弁をするものでもありません。
>>118 >>たとえば、同じ「私」の語によって、私が「私」と発語するときの感覚と、
>>あなたが「私」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、如何にして知り得ましょうか。
>
>でも、そうだったらやっぱり、私が「この鉛筆」と発語したときの感覚と、
>あなたが「この鉛筆」と発語するときの感覚が、同じ感覚であるかどうか、いかにして知り得るの?
私以外のなにか、たとえば「この鉛筆」が「この鉛筆」であることの特別さと、「私」が「私」であることの特別さには、なにか違いがあるのでしょうか。
また、「私」の特別さをことさら他の特別さと区別だてする意味・効果はなんでしょうか。
「私」以外のもの、「この鉛筆」や「あなた」や「家の脇に今朝咲いた花」がそれぞれに湛え持っているこの世界に唯一の特別さと、「私」の特別さの間には違いがあるのでしょうか。なぜ私の特別さは、さらに特別なのでしょうか。
もし私の特別さを他のものの特別さと区別し、一段別の「特別さ」を付与すると、奇妙なことが起こってしまいます。
「私」「この鉛筆」「あなた」「家の脇に今朝咲いた花」はそれぞれが世界に唯一の特別さを持っており、その特別さは他と比較してどうこう言い得ないものです。それが単独性というものです。
ところが、その「特別さ」達のなかから、「私」の特別さを――別に「この鉛筆」や「あなた」の特別さでも良いのですが――抜き出して、それにさらなる特別さを加えてしまうと、それ以外のものの特別が消え失せていまいます。
ある対象に他とは違う特別さを与えるということは、それ以外のものにはなんらかの特別さを欠如させてしまうという一般性、即ちこの世界で唯一の特別さの喪失につながるからです。
133 :
考える名無しさん:01/09/06 02:57 ID:q/9NlKdc
ここにお気に入りの玩具の一群があるとして、持ち主の子どもがその玩具たちに寄せるお気に入り具合は、それぞれまったく違う質のものだとしましょう。
その玩具たちのなかから、ことさら更にお気に入りの玩具を一つ選び、手元に置くとします。そしてその他の玩具を、その子はおもちゃ箱に仕舞ってしまいます。するここには明らかに、「お気に入り具合」の傾斜を見ることができます。
お気に入り具合というものがそれぞれにまったく特有であり、比較することすらできないのなら、傾斜は――比較し得るような量的価値は存在しないはずです。問題は質的な「お気に入り具合」の多様性にあったのですから。
この世界に存在する対象の、それぞれが他に比較できないような比類なさを抱いているのであるのなら、上のような事態はなにか間違っていますよね。
だとすれば考えられることは、ふたつあると思います。
1.それぞれがそれぞれであることににおいて特別であること=単独性は存在しない。
2.なにかを他と比して「特に特別である」と一線を引く行為は、誤っている。
間違えて欲しくないのは、それぞれがそれぞれであることにおいて特別だという点において、すべては同じである、とか、「私」は特別な存在ではない、と言ってるわけではないということ。
単独性という前提においては、独在性の措定はできない、ということです(もちろん、逆のこともいえます。私の特別さ=独在性から出発すると、単独性は存在できないのではないか)。
134 :
124:01/09/06 02:58 ID:q/9NlKdc
名前を入れ忘れました。133は124が書き込みました。
135 :
124:01/09/06 03:02 ID:q/9NlKdc
永井はこの世界で唯一の、それがそれであるが故に発する「私」の比類なさから論を進めていきます。その手並みは鮮やかなものです。しかし私は読み進めて行くうちに、どうにも遣りきれないような奇妙な焦燥感に駆られてしまいます。
いつも、永井の著作のどれを読んでも、何かとても大事なものを積み残したままで、その緻密で力強い論理がドライブして行ってしまう様に不安を覚えます。
私の特別さから出発する永井は、すでにあらかじめ単独性を否定しています。特別なのは「私」だけであり、その他はみな同じである、と言明しています。でもほんとうにそうなのでしょうか。
私には「この鉛筆」とか「あなた」とか「今朝咲いた花」を同じと見なすことは不可能です。私が私であるところの特別さと、比べようもなくまたそれらも、特別です。これは同じ種類の特別さを持っていると言ってるのではありません。
それらは比べようもなくそれぞれにおいて特別であるが故に、そのどれかに「特別な特別さ」を付け加えることができないように思えるのです。
(しかしコッソリ付け加えるなら、すべてがみな同じに見える瞬間というのは儘あるものではないでしょうか。アレもコレも《私》もすべてがおしなべて、境界もない曖昧な一つの全体として感じることは。あれっていったいなんなんでしょうかね?)
もちろん永井は永井の「私」について語っているのであり、私は私の「私」について語っています。どちらが正しいという話ではない。
しかしそれでもわたしは永井の前提の建て方に疑問を持ちます。ものみなすべてがそれぞれの比類無き特別さを湛えて輝く瞬間を、永井だって持ったことがあるはずだ、そう想像してしまうのです。
あるいはここにいらっしゃる、永井ファンのみなさんはどうでしょうか。
単独性という言葉を、それが言語ゲームの枠内にとらわれない皆さん個々人の、言葉に言い表せない個別的な体験のうちに感得する――そういう瞬間があったのではないでしょうか。
どうやっても言い尽くすことのできない、「それ」が「それ」であることの驚きと訝しみ。「それ」が「それ」であることによって、奇妙にも「それ」が全肯定されてしまう、そんな原初的驚駭。そういうものを持ったことはないでしょうか。
136 :
124:01/09/06 03:02 ID:q/9NlKdc
永井がやっていることは「私の特別さ」を解くことであり、「私の言い得なさ」を解くことです。それは「わたしとは何か」を解くことそのものではありません(非難しているのではありません。指摘しているだけです)。
「特別さ」は私に付随する属性ではなく、「言い得なさ」も同様です。「言い得なさ」は「私」にまつわる問題ではなく、言語ゲームの問題です。
永井が「私」について語れば語るほど、「私」そのものから離れていってしまうように思えるのは私だけでしょうか。
137 :
124:01/09/06 03:08 ID:q/9NlKdc
拙筆であり、術語の使い方など不備も多々あることと思いますが、
どうぞご意見のほどをお聞かせ下さいませ。(ペコリ
138 :
126=131:01/09/06 04:20 ID:DyoE5ybs
丁寧なレスありがとうございます。
124さんのレス全般は
>>132の
>ところが、その「特別さ」達のなかから、「私」の特別さを――別に「この鉛筆」や「あなた」の特別さでも良いのですが――抜き出して、それにさらなる特別さを加えてしまうと、それ以外のものの特別が消え失せていまいます。
の部分を基調にして成り立っているようですが、
<私>の特別さは、「比類無い存在である私」一般に新たな特別さを付与するような仕方で
成り立っているわけではありません。
つまり単独性の上に成り立つ単独性といったようなものではないのです。
ですからこうした反論から、124さんは誤解されているのではと考えられます。
ただし上の引用文は事実として正しいと思います。
その限りにおいて>133で出された2.の結論には同意します。
ここからは個々の論点についてですが、
まず>133のもう一つ目の結論には同意できません。
子供と玩具の例からならばそのような結論は導かれるでしょう。
何故なら子供は特殊性や単独性について何も知らないからです。
それは選択が致命的な結果をもたらすような、そういう選択の存在を知らないと言い換えても良いでしょう。
この子どもはしまった玩具で二度と遊べなくなる事態をまったく考えないに違いありません。
この玩具かあの玩具かといった選択が、単独性の把握と関連があることには違いありません。
ただ私の見るところ、柄谷の挙げる単独性とは同一律を思い起こさせるような、
いわば文法的真理ではないかと思われるのです。
(永井の独在性はそうじゃないのか?という問いに関してはまた後ほど)
柄谷自身が言うとおり単独性は固有名で呼ぶことと切り離せないのですが、
柄谷は重要な(と私に思える問題)にはノータッチです。
しかし、単独性を意識するときというのは、その必要性が存在するときだけでは無いでしょうか?
ここで単独性の多数の例を挙げることができるのはまさに今が議論の途中だからです。
母親の比類無さについて考えることができるのは特別なかつ非日常的な関心があってこそでしょう。
単独性とは普段は決して意識されないものなのです。
それを敢えて認識の対象としてしまう辺りに(そしてそのことに無自覚な辺りに)
単独性の危うさ(それは同一律に対する嫌悪に似てますが)を感じるのです。
もちろんこのことから<私>論は正しいなどとは言えませんが。
139 :
126:01/09/06 04:41 ID:VuMJzdic
>私の特別さから出発する永井は、すでにあらかじめ単独性を否定しています。特別なのは「私」だけであり、その他はみな同じである、と言明しています。
これは"他人も太陽も冷蔵庫も<私>の比類無さから見ればみな同じだ"
(うろ覚え。もちろん出典不明)
を指しているのでしょうか。
私もこれを読んだときはあまりにも乱暴な書き方とは思いましたが、
しかしこれが単独性を否定しているものとはみなしませんでした。
これはあくまでも相対論であり、<私>の観点から見るならばという
但し書きがつかざるをえないからです。
独在性と単独性とが両立しないのは指摘の通りですが、
これは独在性を語る永井が単独性を理解しないということにはならないのです。
140 :
126:01/09/06 04:45 ID:VuMJzdic
私は時々、永井は薄情になったのではないかと思うことがあります。(w
以前の著作を見ると、彼の独我論は二部に分かれており、
最初に<私>の存在論が語られた後<私>がいかに語り得ないかへと
議論が移っていったと思います。(手元にテキストがないので断定は避けます)
ところが最近のものは<私>の存在論が<私>の語り得なさから浸食されて
いるような印象を受けるのです。
哲学者という職業柄自分の個人的な経験、感覚などを書けないとは理解できますが、
段々少しずつ<私>とはいかなる存在であるかが語られなくなってきたのではないか。
>>136における指摘はこうした現状を反映しているのではないでしょうか。
この傾向がウィトゲンシュタインからの影響であることはすぐにわかります。
しかしこの傾向は永井の進歩とは無縁の問題であるように思えてなりません。
皆さんはどう思われますか?
それと、駄文によるお目汚しは申し訳ない。
修行中の身ということもあり、また普段から特に読む永井氏関連のスレということもあり、
敢えて書き込みました。
141 :
考える名無しさん:01/09/06 15:57 ID:K4h10je.
142 :
悲しみ ◆k3mXtRVE :01/09/06 16:25 ID:k8GOyRr2
宮崎駿つまんない。大概、主人公は王家の末裔の少女とか魔女とかで、超人的な
力をもってたり、非日常的な生い立ちだったりするよな。そんな設定ならだれでも
物語作れるぜ。しかも奴のアニメは歴史性を無視している。さらに完全な悪人を登
場させないってのもヌルイ。宮崎がどんなテーマでアニメ作ろうとも、どんなメッ
セージを込めようとも、共通していえるのは「ぬるい」。欺瞞的で反吐が出る。
宮崎アニメの薄っぺらさが今の日本を反映している。仮借なき生の現実を直視する
強靭な精神、何ものからも目を逸らさない透徹した眼差しが全く欠落している。
あれを酸いも甘いも噛分けた50過ぎの男が作っているかと思うと暗澹たる気分に
なる。日本人の背骨はどこに逝ったんだ?ああ?
飯田隆編「ウィトゲンシュタイン読本」中の論文を読んでみたけど、頭が痛いよう・・・
144 :
二酉 ◆GJWEv1no :01/09/06 20:09 ID:k8GOyRr2
だからさぁ、富野よ・・・
Vガンダムでさぁ、何でお前が
ガンダム潰しを図ったのか
一般のファンにはその事情が
まるで分からないぞ?
才能、を欲する前に
小説とは、どういうものなのか
一から勉強し直して来い!!
そりゃ、F91とか、Vガンダムの
総監督をやるようにサンライズに
言われたのは,お前にとっちゃ
富野がファーストのリメイク漫画か何か描いてるそうだ。
こんな小説を書いたらダメです! の
典型的な見本だぞ?
屈辱以外の何者でもなかっただろう。
その気持ちは俺にも良く分かる。
まぁ、武士の情け、で俺も全部は
暴露はしないけど。
原案があったんだよなぁ?
これで、やってくれ! と・・・
だからさぁ・・・
Vガンで、富野が正に
怒り、狂った、というのは
富野の自己愛が、病理
と呼べるレベルにあった、
ということさ。
もっと、踏み込んで言うと
今度のガンダムがあるなら
ニュータイプの存在が
どう語られるのか
あるいは語られないのか
いやぁ、悪い、悪い
そんな話どうでも良いこと
だよね?
145 :
考える名無しさん:01/09/07 00:40
<私>ってのが、どういうものとして想定されているのかさっぱり解らない。
例えば、もしも<私>が永井ではなくエンクミだったとしたら…
1.永井もエンクミも恐らく今とは異なった人生を歩んでいることだろう。
2.それでもやはり<私>が結び付いていない方の永井が独我論をかたり、
<私>と結び付いているエンクミは永井の独我論を理解できないであろう。
3.そもそも<私>というものは永井だけに結び付くものとして想定されているので
<私>がエンクミならばと仮定すること自体が不可能。
4.仮定をすること自体は不可能ではないにしても、
<私>が永井でないという仮定することは永井の興味の埒外。
5.その他
たぶんこのうちのどれかなんだろうとは思うんだけど。どれだろ。おせーて。
永井氏の著作読むと、私にはどれにもとれてしまってこんがらがる。
>126さん
>>138 私の書き方が悪かったようです。
>>132は、それがそれであるが故の唯一な特別さ(単独性)と、他から抜きんでた「私」の唯一な特別さ(独在性)とを同時に成り立たせようとすると、こんな変な事が、それこそ単独性に単独性を積み木するような変な事になってしまうよ? ということです。
各々がまったく比較できないような特別さを備えているのに、そのなかの一つに他と一線を画する別の特別さをも付与すると、各々の「まったく比較できない特別さ」が失われてしまいます。
逆に「まったく比較できない特別さ」を保とうとするなら、そもそも「他と一線を画する特別さ」を与えることができません。なぜならこれらは、他との比較という行為を行ってしてしまっているからです。
単独性と独在性はコンフリクトしているのです。それが
>>132の文意です。
玩具の比喩ですが、別に玩具は二度と遊べなくなる必要は無いんですよ。
それぞれがまったく比較できない「お気に入り具合」を持っていたはずです。
なのにそこから一つを抜き出して、他を「抜き出した一つに存在する、特別なお気に入り具合が欠けている」という理由でカテゴライズする=おもちゃ箱にしまいこむ・・・・ここには論理矛盾がある、と言いたかったのです。
意識・無意識ということについては、すいませんが、よくわかりません。柄谷の言い方とは別に、このコンフリクトは意識・無意識を問わず成り立つことだと思います。・・・たぶん。
>>139 このコンフリクトが起こるのは、最初から<私>の観点です。あるいは、他に対し比較不可能な「私」が前提である世界では、「それがそれであること故の、比較できない特別さ」は入り込めない、とでも言うべきでしょうか?
>これは独在性を語る永井が単独性を理解しないということにはならないのです。
まったくその通りだと思います。永井は単独性を理解していると思います。単独性的なことには何度も言及しているのだから。
しかし永井の「私」の世界では、単独性が成り立ちません。永井は単独性のことを忘れてしまったのでしょうか。
でなければ、「他に対し一線を画する私の特別さ」という前提がそもそも誤っているか、このどちらかだと思うのです。
もし単独性的な特別さと独在性的な特別さとを同じ世界に両立させようとするなら、独在性の「私」の言い表し方を、次のように変えればいいんではないかと思います。
――「私」は特別だ。この特別さは、私の世界に存在する他のものがそれがそれで在るが故の特別さを持とうが持つまいが、同じであろうが違いが有ろうが、そんなこととはお構いなしに、特別だ。
>>141さん
>>136にも書きましたが、「言い得なさ」そのものはどんなものも同じだと思うんですよ(
>>118でもどなたかが対話してますが)。
「私」固有の「言い得なさ」を主題にしない限り、「「私」の言い得なさ」を追いかけて行っても、結局「私」じゃなくて「言い得なさ一般」にしか辿り着かない、と思うんですが、どうでしょうか?
自己レス。
>>136 >永井がやっていることは「私の特別さ」を解くことであり、「私の言い得なさ」を解くことです。それは「わたしとは何か」を解くことそのものではありません(非難しているのではありません。指摘しているだけです)。
>「特別さ」は私に付随する属性ではなく、「言い得なさ」も同様です。「言い得なさ」は「私」にまつわる問題ではなく、言語ゲームの問題です。
これは明らかに間違ってますね。永井の「私」はなによりもまず「私の特別さ」から始まるのだから。私の特別さを追い求めることは永井の「私」を解くこと、そのものといっていい。
従って、次のように訂正します。
>永井がやっていることは「私の特別さ」を解くことであり、「私の言い得なさ」を解くことです。後者は永井の「私」を解くことそのものではありません(非難しているのではありません。指摘しているだけです)。
>「言い得なさ」は「私」にまつわる問題ではなく、言語ゲームの問題です。
更に訂正。スイマセン
>>147 >あるいは、他に対し比較不可能な「私」が前提である世界では、・・・
↓
>あるいは、他に対し決定的に特別な「私」が前提である世界では、・・・
152 :
考える名無しさん:01/09/07 03:09
たしかに永井には鼻につく部分がある。
俺にとってそれは一言でいえば
「女性(少女)に対する過剰な期待」ということだ。
なぜ永井は異常とも思える程に少女にこだわるのだろう?
彼の描く少女は純粋、無垢、神秘の象徴であり
世界の変革者であり時には世界そのものである。
彼の思いの根源には「男は駄目だ」「女は強い」という信念があり
それを臆面もなく表現しているところに少なからずの人が反発を
覚えるのだろう。
まあ、多くの人に指摘されてるように永井はロリコンなのであろう。
自らは少女の幻想に逃げ込んでいるくせにそのような立場から
偉そうな説教なんてされたくはないという人の感情はよく理解できる。
153 :
考える名無しさん:01/09/07 03:11
152はコピペ荒らし。
154 :
考える名無しさん:01/09/07 05:32
しかし、<私>が問題であるときには、問題となる「内側」は必ずこの内側でなけれ
ばならないのであり、その内側やある内側であってはならないのである。<私>が永
井均である必然性はまったくない。しかしまた、「私」でありさえすれば<私>であ
りうるわけでもない。「私」は多数存在し、多くの「内側」はあっても、この内側た
る<私>が存在しないことは、じゅうぶん考えられることである。それでは、永井均
が今と同様に存在していても、そのような可能性が考えられるだろうか。永井均が存
在しない世界で、<私>が他の何もの(たとえば毒虫)でもありうるのは当然である。
しかし永井均が今と同じように存在しているのに、彼はあるひとりの「私」にすぎず、
彼とは別に<私>が存在することは可能だろうか。私は可能であると考えたい。ある
いは、それが可能であるというしかたで<私>を捉えたい。永井均が<私>であるの
は、この世界の根源的な偶然性なのであり、彼に述定されるいかなる性質も変化させ
ることなしに、彼が<私>でなくなることは想定可能なのである。
(『<私>のメタフィジックス』88ページ)
156 :
考える名無しさん:01/09/07 11:34
なんで単独性と独在性がコンフリクトするのかわからない。
全然『別の話』ではないの??ごく単純に。
157 :
考える名無しさん:01/09/07 11:56
その通り!単独性は永井的には「私」と近いかもっていうだけ。
159 :
考える名無しさん:01/09/08 05:23
あなたは私ではない。
160 :
考える名無しさん:01/09/08 06:35
人間の価値、いや動物の価値はうんちで決まります。
うんちこそがあらゆる動物に平等に与えられたものです。
いきものは食べるから、みんながうんちをするのです。
だからうんちは評価対象としてふさわしいのです。
しかし、おおきなうんち、ちいさなうんち、まあるいうんち、
四角いうんちと、その形状は多様で、評価基準は単一ではありません。
161 :
考える名無しさん:01/09/09 01:48
age
162 :
考える名無しさん:01/09/09 01:55
学生だったころ,一時はまりました.
随分ひどいかかれようですが,科学用語をレトリックとして
使うあたり,けっこう格好良かったけど.正直,読んでて気
持ちよかった.有能なコピーライターの言葉のように,鮮明
なイメージが沸いてくる.それは確かに学術的ではなかった
オナニーをさせられたり、汗臭いオマンコを顔に押し付けられたり、
汗でぬれたタオルや下着を口の中に押し込まれたり、
足をなめさせられ踏まれたりします。当然、騎乗位でセック
スもやらされます。何人の汗臭い女に犯され、
何回も愛液や唾液を吹きかけられます。犯された
けど,僕は好きだった.学術用語をつかった詩的な表現に,
学問の枠にとらわれない自由な知性を感じていました.
163 :
花の色は……:01/09/09 02:41
最初の3冊でやめて、あとはただの人として、草のように、
石のように、生きればカコヨカッタのに。
しかし、その最初の3冊にしても、一貫して水っぽい風情の顔写真
を載せてるのはイタすぎる。
スレまちがえた。スマソ
>>154 >>155 >永井均が<私>であるのは、この世界の根源的な偶然性なのであり、
>彼に述定されるいかなる性質も変化させ
>ることなしに、彼が<私>でなくなることは想定可能なのである。
うーん、てゆーことは、
2A.現に、この世界において「永井が<私>ではなく、エンクミが<私>である」かもしれない
2B.とりあえずこの世界ではあきらかに永井均が<私>なんだけど、
この世界以外にも世界が複数有れば、それに応じて<私>も複数あるかもしれない。
「エンクミのなかにいる<私>」というのもその一例。
2C.<私>はこの<私>ひとつしかないのだから、
やっぱり結局は<私>がいる世界も、「永井均が<私>であるこの世界」の一つしかない
2D.その他
どれなんだろ。やはりさっぱり解らない。ものわかり悪くてごめんね
166 :
考える名無しさん:01/09/10 14:35
age
167 :
考える名無しさん:01/09/11 01:22
age2
168 :
考える名無しさん:01/09/11 15:45
>165
「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)によると、2C.は否定されていると思われる。
また、2Aも、なんとなく、違うんじゃないかと。
169 :
考える名無しさん:01/09/12 07:16
>>165 >2B.とりあえずこの世界ではあきらかに永井均が<私>なんだけど、
このように、 あなた が書くときに、いったいなにが起きているのか、
というようなことを、永井は問題にしているのだと思う。
ちょっと失敗。「<子ども>のための哲学」に従うなら、
>145
>4.仮定をすること自体は不可能ではないにしても、
> <私>が永井でないという仮定することは永井の興味の埒外。
の方がいいですね。
<私>が永井でないという仮定は、<私>と永井均という一人の人間との結びつきが
偶然であると言いたいための思考実験のようですな。
ちなみに168が<私>のイメージをつかみやすかったのは、永井均という一人の人間は
生まれてきたが、それは<私>ではない、という仮定を自分に当てはめた、168は生ま
れてきたが、それは<私>ではないという仮定ですな。
>>114 神経は完全には有線ではありません。ニューロンとの間をシナプスと
いい、ほんのちょっぴり隙間があり、科学伝達物質にて情報を送っています。
電気エネルギーは細胞内で生起します。
>>116 意識の座は、大脳皮質前頭連合野(前頭前野)にあると言われています。
>>135 情報は集束と発散という作業によって連絡されます。これによって様々な
ニューロンに情報が受け渡されます。
>>150 種の保存として他人の赤ん坊でも助けます。死を認識した時からだと思います。
>>159 何が楽しいかは人それぞれでは?
>>173 電気量の強さで痛みの度合いを伝えます。
>>174 ちなみに遅く痛みを伝える神経系もあります。いわゆる「鈍い痛み」です。
>>169 なぜここで私145に何が起きたかに話がふられるのか解りませんね。
2B.にて「あきらかに永井均が<私>」て書いたのは、
永井均が「永井均が<私>である」ことを確信しているらしいので
それをそのまま書いたのでありまして。
もし私145が「私145が<私>であることがあきらかだ」と思って
それを永井均に投影して「永井均が<私>であることがあきらか」と
書いたのだとすれば、そのフリも意味があるかもしれませんが、
永井均が論じる<私>が果たしてそのように
単純に永井均のかわりに私145を置換えて読み取られるべきものなのかも
私145にはわからないので、今こうして選択肢を挙げて尋ねているわけです。
だから私145に何が起きたかなんていきなり言われてもこまっちゃう。
>>168 =
>>170 「<私>のメタフィジックス」執筆時点では2B.だったが
「<子ども>のための哲学」執筆の段階で4.に変わった、
てことでいいですかね。
そういえば、確かに「<子ども>のための哲学」では
「<私>のメタフィジックス」について批判的だったような気が。
ちなみに私145が読んだことがあるのは「<子ども>のための哲学」だけです。
で、自分で選択肢をあげといてなんですが、4.ってよく解らないですね。
(こんな変な選択肢を作ったことに後悔してます)
4.仮定をすること自体は不可能ではないにしても、
<私>が永井でないという仮定することは永井の興味の埒外。
この仮定が永井の興味の埒外にある事情について。
4A.永井はたまたま今までこの仮定をしたことが無かった
4B.理論的には想定可能かもしれないが、現実問題として
そんなことありっこないから
4C.想定可能かもしれないがなんとなく考えるの面倒臭そうだから
4D.その他
174 :
考える名無しさん:01/09/16 06:42
『<子ども>のための哲学』のような議論を見てると、<ぼく>でありえた範囲は
いったいどこからどこまでなのか、ということがどうしても気になってしまう。
<ぼく>が他の人間でありえたのはいいとしても、生まれて数日で死んでしまう赤
ん坊でもありえたのか? さらに、石ころやロボットではなぜだめなのか?
しかし、これは永井には「あまり重要な問題だとは思えない。よくよく考えてみた
いという気が湧いてこないのだ」そうだ。しかし、永井にとって重要ではなくても、
どのように考えてるかきいてみたい気がする。
こういう事を考えていて、最近は、<ぼく>が(固有名などを使って指示される)
ぼくでない人間である、という想定は実は無意味なのではないか、と思えてきた。
人にできることは「○○が<ぼく>である」と「言う」ことだけなのではないのか。
>こういう事を考えていて、最近は、<ぼく>が(固有名などを使って指示される)
>ぼくでない人間である、という想定は実は無意味なのではないか、と思えてきた。
>人にできることは「○○が<ぼく>である」と「言う」ことだけなのではないのか。
なんか、そんな気がしてきますな。
『<子ども>のための哲学』の中で、脱人格的自己意識の議論にはどういう意味がある
のか、改めて読んでみるといまいちわからん。誰にでも当てはまりうる一般論ではとらえ
られない<私>の特別さは、脱人格的自己意識の議論によっても表現できないのだから、
結局、その議論は何のために必要だったのか。
…うーん、本当に、何のためなんでしょうね?(わら
「私は特別である。なぜなら、かくかくしかじかの特別な性質を持っているから」という
言い方をしてしまうと、同様の特別な性質を持っているものはみな特別なものになってし
まい、私の特別さはどこかに逝ってしまう。私の特別さは、私の持っている性質などによ
らずに表現されなければならない。
しかし、私の持っている性質とは独立の、私の特別さに関する議論は、やはり脱人格的
自己意識という一般論にしかならなかった。
こういう読み替えの構造を示すための議論なんだろうか。
当たり前のことをなぞっただけの気がして、ちとむなしい(わら
176 :
考える名無しさん:01/09/19 11:29
当り前といっても、それはある程度哲学を勉強した人に
とっては、ということでは?
177 :
考える名無しさん:01/09/24 01:27
age
「翔太と猫のインサイトの夏休み」が イイ!
>178
最近読んだんだけど、面白いですな。
みなさん、『ソフィーの世界』なんか読んでる暇があったら、こっちを読みなされ(わら
ちなみに、
>>173の議論とはややずれるけど、<私>は現在168という人間であるが、
ある日突然エンクミになってしまう、ということがあり得るのか、という議論が、
『転校生とブラック・ジャック』で論じられてる(と思う)。
興味のある方はどうぞ。
180 :
考える名無しさん:01/10/07 00:00
ソフィーの世界は、思想史入門と捉えればいいと思う。
中学生高校生向け。
ただ著者の意図はミステリーを書くことにあったのではないかと思うけど。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学の入門書としてはレベルが高すぎ。
永井は子供向けと言ってるが、ここでの子供とは<子供>の事を指しているのであって、
たとえば中学生のことを指しているわけではない。
もちろんこれを理解する中学生もいるだろうけど。
だから哲学板にいる人で、哲学の雰囲気だけでも味わってみたいという人がいるなら
そうした人にとって格好の良書だと言える。
181 :
考える名無しさん:01/10/07 00:01
ソフィーの世界は、思想史入門と捉えればいいと思う。
中学生高校生向け。
ただ著者の意図はミステリーを書くことにあったのではないかと思うけど。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学の入門書としてはレベルが高すぎ。
永井は子供向けと言ってるが、ここでの子供とは<子供>の事を指しているのであって、
たとえば中学生のことを指しているわけではない。
もちろんこれを理解する中学生もいるだろうけど。
だから哲学板にいる人で、哲学の雰囲気だけでも味わってみたいという人がいるなら
そうした人にとって格好の良書だと言える。
何度も薦めるべき良書だと述べたいわけではない。
ただの書き込みミスだ。
>>181 >『翔太と猫のインサイトの夏休み』は哲学の入門書
としてはレベルが高すぎ。
いや、でも本質的な部分を平易に語ってくれてるし、まさしく
入門書に適してると思うな。
184 :
考える名無しさん:01/10/08 01:25
彼の授業はどんな感じなの?
面白いのかな?
あの本を読んでいるときのスリリングさを感じさせてくれる?
あと、学会ではどんな感じなのだろう?
>>184 あー、それ俺っちも興味あるな。
誰か知らない?
本を読んでると、雑談の入れ方がうまいので、
こういう人は授業がうまいんじゃないかと思う。
どうなの?
ところで、永井がロリコンってホントかな?
そうだといいなあ。
共感できるよ。
188 :
考える名無しさん:01/10/09 16:59
age
189 :
考える名無しさん:01/10/22 17:46
あげとく
191 :
考える名無しさん:01/10/23 11:59
永井さんの授業は正直つまらないってのが僕の回りでの印象かな。
うちの大学が馬鹿だったてのもあるけど(前にいた大学ね)。
特に教養過程@大講義室のときなんかはぼそぼそと訳わかんない事
話して帰ってく変な人ってイメージが強かった。
そして帰った後の黒板には培養漕の中の脳から吹き出しが無限ループで
続く???な絵が・・・。
インサイトの夏休みが教科書だったけど、それでも理解している学生は
一握りって感じ。まあ、教養の授業なんてそんなものかもしれんが・・・
僕自身は、授業中暇つぶしに読んだ「インサイト」と
「子供のための〜」が面白くて真面目に授業を聞くようになった。
そして気が付けば一語一句聞き逃さないように集中している自分が。
専門の授業は興味がある人間だけが来ているだけあって雰囲気も良く、
授業のレベルもそれなりな感じ。
総括すると、授業自体は上手いとか面白いという類ではない。
その代わり、少しでも興味を持って理解できる人にとっては授業の
技術なんて気にならないほどのめり込める話をしてくれる。
あと、成績評価に関しては出席してくれれば単位はくれる。
学生に自分の話を理解してもらうことは期待していない。
192 :
考える名無しさん:01/10/24 11:43
>特に教養過程@大講義室のときなんかはぼそぼそと訳わかんない事
>話して帰ってく変な人ってイメージが強かった。
>そして帰った後の黒板には培養漕の中の脳から吹き出しが無限ループで
>続く???な絵が・・・。
それ、なんか、いいなあ(笑)。
>学生に自分の話を理解してもらうことは期待していない。
そりゃそうだろ(w
194 :
考える名無しさん:01/10/29 19:18
うちの子供が小学校5年くらいのとき,『翔太と猫のインサイトの夏休み』とか『子どものための哲学対話』を与えたら,けっこう面白そうに読んでた。
問題設定は子供でも分かるってところが,たぶんいいのだろう。
でも,本当の面白さは彼が高校くらいにならないとわからないだろうね。
196 :
考える名無しさん:01/10/30 03:03
「マンガは哲学する」読みました。
めっちゃおもしろいです、彼は天才です。
日本人の哲学者の中ではダントツ一番の哲学センスです。
197 :
考える名無しさん:
>>196 >「マンガは哲学する」=永井が書いた中で一番つまらん本