★★★私がハイデガーだが何か質問ある?★★★

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1マルティン・ハイデガー
できるだけ何でも答えましょう。
2考える名無しさん:2001/02/21(水) 04:08
存在存在って結局何がいいたいんですか?
あなた存在論の言葉しか使いたくないんでしょう。
3名無しさん:2001/02/21(水) 04:14
命懸けでもヒトラーに抵抗すべきでした。
物理学者ハイゼンベルクとともにあなたは断罪されるべきです。
4マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 04:25
>>2
ううむ。じゃあまず揚げ足取りになるが、「何かをいう」とはどういう意味でしょう?
意見を述べる、行動を指示する、感情を表現する、こういうポジティブな表明としては、
存在という言葉が無意味で有効でないことは十分分かります。
ええ、その点では私はソークラテスと酷似しているのでしょう。
彼が委曲を尽くして「いいたかった」のは、自分は何も分からない、
が、分からないということを自覚はしている、ということでした。

われわれは、自分の存在、他人の存在、社会、歴史、政治体制、人種、民族、
これらのカテゴリーに対して絶えず一般的で普遍的な仕方で関与することは――少なくとも出発点では――
できません。「私であること」これは取替えが効かないし、類型化しても無意味です。
けれども「私であること」このことを問うこと、自分の存在を自覚することは、普遍的に問うことができます。
「自分が何かわからない」この一見ナイーブに見える疑問が、「存在」の問題として普遍的な様相を見せること、
ここに存在論の不思議さがあります。
答えになっていませんが・・
それと存在論の言葉とは何でしょう?
5マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 04:31
>>3
言葉で語るのは容易です。では私は何をすべきだったのでしょう?
抵抗するとはどういう行動なのでしょう?
命がけとはどういう気構えを言うのでしょう?
確かに私は分をわきまえるべきだったのかもしれません。が、行動にはおのずと限界があります。
人間は有限な生き物です。危険に敢えて飛び込むか、危険を回避するか、
どちらが吉でどちらが凶か、それは歴史が判断するところです。そして私は歴史の決定を甘受しました。
――それ以上でも以下でもありません。
6考える名無しさん:2001/02/21(水) 04:36
>4=5
あなた、それ参考書の丸写しだね。読んだ事あるよ。
やめな、醜いよ。
7マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 04:41
>>6
オリジナル志向でしょうか。というよりそれはもはや信仰に近い、
近代形而上学が生み出した個人主義の行き着く先です。
哲学は絶えず反復する営みです。それをミメーシスと形容しようが、
モノマネ、パクリ、コピペといおうが、所詮反復であることは変わりありません。
問題はその内容なのでしょう。
私の反復は醜いでしょうか?それが事実であれば、私の力不足ですね。
8考える名無しさん:2001/02/21(水) 04:44
ハイデガーをよく勉強なさっておられるようで尊敬します。
9マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 04:50
本人です。
10考える名無しさん:2001/02/21(水) 04:54
>。「私であること」これは取替えが効かないし、類型化しても無意味です。
けれども「私であること」このことを問うこと、自分の存在を自覚することは、普遍的に問うことができます。
「自分が何かわからない」この一見ナイーブに見える疑問が、「存在」の問題として普遍的な様相を見せること、
ここに存在論の不思議さがあります。

不思議かもしれないけど、自分で考えてると気が変になっちゃうんですよ。
存在論って。同じ存在論でもファンタジックなプラトニズムとか
また同じ哲学でも外部の認識とかのほうが、なまくらに考えても
分かった気になれるからすくいがある。

俺がコアに哲学できない人だからなんだけど。

あと、あんた「問う」「問う」っていうけど、始めから解決を
求めてないでしょう。そういう意味での「問う」ことの重要度も
分からないんだな。
11マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 05:05
>>10
 私にアドバイスなどという大それたことはできませんが・・
「在る」という事実、これとじっくり付き合うことです。そして、
 雑学的な知識に惑わされないことです。知の過剰は無意味であり、真理は単純なものではないか、
 これが私が長年考えてきたことです。
 私が「解決」、何らかの生産的な答えを求めていない、というのは鋭い批判です。
 おそらくそれは正しいのでしょう。ですが「解決」の質が違う「問い」があります。
 生きることに答えがあるのでしょうか?そして答えがなくても問い続けるとは、不思議なことではないでしょうか。
 人間とはつくづく救われない生物だと感じてしまいます・・
12三木清:2001/02/21(水) 05:20
>人間とはつくづく救われない生物だと感じてしまいます・・

ハイデッゲル先生。あなたが「存在」とかを問うてばかり
いるからだと思いますが・・・

ところで「私が存在する」って確かなことなんでしょうか?
病院とかに入院していると(知り合いになった人とかが
頻繁になくなっていくのを見、また赤ん坊を抱いた母親が
退院していくのを見ていると)不安(普通の意味の不安、先生
の言う不安ではないかもしれない)になることがありますが。
13マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 05:33
>>12
迂遠な話かもしれませんが、デカルトと違い“神なき”時代に生きる私としても
「われ在り」はそれほど確かなものではありません。
私はデリダはあまり好みませんが、彼ならこういうでしょう、つまり
「確かなものは、われ在りではなく、“われ在り”というコトバである、と。
私が存在を絶えずロゴスと結びつけて考えているのも、存在への不安からロゴスの確実性へと
流されている証拠かもしれませんね。
14マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 05:36
私は言葉をその現代的な記号化から救おうとして、
言葉を物象化し、偶像崇拝してしまったのかもしれません・・
が、偶像崇拝は、コンピュータ上であろうと、ヘルダーリンの詩であろうと、
コトバのある場所には等しく存在するのです。
ヘルダーリン「危険の在るところ、救いもまた育つ」――――

では今日はこの辺で。
15考える名無しさん:2001/02/21(水) 13:21
先生、後期のテクストはなにかいてるんだかさっぱりわかりません
16考える名無しさん:2001/02/21(水) 13:51
結局アレントとは何発やったんですか?
17マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 17:44
>>15
 テクストを特定してほしいね。
>>16
 う〜ん、彼女とは1、2年の付き合いだったけど当時はもぅハァハァ・・失礼(藁
18考える名無しさん:2001/02/21(水) 18:02
ナチとの関わりについて釈明したまえ。
山荘に隠していたオーディオ・セットのメーカー名を明らかにせよ。
19考える名無しさん:2001/02/21(水) 18:22
あんたの哲学って結局なにも言ってないのに等しいじゃん。
なにも言ってないのはいいとして、
なんでこんなにメジャーになってるの?
20考える名無しさん:2001/02/21(水) 19:06
ハイデッガーとハイデガーは同一人物なのですか?
ハイデッゲルなんてのも昔いたような気がします。
21考える名無しさん:2001/02/21(水) 20:27
なんで日本語なんですか?
22考える名無しさん:2001/02/21(水) 20:49
日本語勉強するくらいならもっとましなドイツ語で書いて下さい。
23名無しさんの主張:2001/02/21(水) 20:53
どうやったらラクに生きられますかね?面倒臭い事ばっかりで・・・。
24西田幾太郎:2001/02/21(水) 21:28
Woher kommen sie ?
25西田幾太郎:2001/02/21(水) 21:30
最近ドイツ語書いてないから間違えた。

Woher kommen Sie ?

だよな。
26ウソデッガー:2001/02/21(水) 22:20
>>18
Ich vergesse Nazi.
27も〜っとウソデッガー:2001/02/21(水) 22:32
いっひ ふぇるげっせ どいちゅ あうほ。
28考える名無しさん:2001/02/21(水) 23:15
ヘルダーリンとかの詩人が大好きなくせに、
ドイツの代表的な詩人であるゲーテにほとんど言及しないのは何故ですか?
嫌いだったとか?
29考える名無しさん:2001/02/21(水) 23:35
異端に属する人が多いよ。ハイデガーの重視するのは。
ヘルダーリン、ニーチェ、シェリング、キルケゴール
皆狂ったり大哲学者の影で不遇だったりね。
30マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 23:45
こんばんわ。
>>18
私がフライブルク総長として行おうとしたのは、現在の日本でいえば、大学の専門化と
独立行政法人化に反対し、ユニヴァーシティとしての諸学の統一像を形成することであり、
前東大総長の蓮見氏と同じようなことだったかもしれません。
ナチの精神への共感は私にはありました。今でもそれは間違ってないと思います。
「反省した奴は反省するがいい。私はしない」といった日本の批評家がいるそうですが、私流に言えば
「私は反省する、が、変節や転向をするつもりはない」といったとこでしょうか。
>>19
私は多弁の時代において、沈黙の重要性を考えたように思います。
ソークラテスの無能さは、彼がメジャーであることと不釣合いでしょうか?
>>20
関東では「ハイデッガー」関西では「ハイデガー」が通例のようです。
もっとも、フライブルク訛りでは後者に近い気がします。

31考える名無しさん:2001/02/21(水) 23:47
先生はベッケンバウアーのファンだったそうですが、
「ドイツのナショナルチームよ、他はともかくあの国
にだけは負けるな」という国はありましたか?
32マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 23:50
>>21
日本の留学生から学びました。
>>22
私のドイツ語自体は分かりやすいはずです。
>>23
救いは危険と不可分です。ラクに生きたいのであれば、そもそも生きる意味がありますまい。
>>25
メスキルヒという片田舎です。
>>28
ゲーテの近代精神が肌に合わないのです。
ですが後期の講義や著作ではゲーテにも触れていますよ。
>>29
なるほど(笑)。カントはむしろ例外でしょうか。
33マルティン・ハイデガー:2001/02/21(水) 23:53
>>31
どうでしょう・・フランスでしょうか(笑)。
私は小学生の頃、サッカーをこよなく愛する少年でした。
余談ですが、最近のブンデスリーガーの脆弱さは情けないかぎりです。
34考える名無しさん:2001/02/21(水) 23:59
結局のところ、
『存在と時間』の続きでは何がやりたかったんですか。
後半部分の原稿、見せてください。
全集24巻は読みましたけど、
もっと詳しく書いて欲しかったです。
35匿名:2001/02/22(木) 00:03
先生、パウル・ツェラン氏の印象をお願いします。
36考える名無しさん:2001/02/22(木) 00:07
いわゆる「ハイデガー問題」ってなんですか?
37マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:14
>>34
全集24巻『現象学の根本問題』は『存在と時間』のプログラムを別の仕方で構築してみようという試みでした。
結果的に挫折しましたけどね。読むのであれば20巻『時間概念の歴史への序説』21巻『論理学』をお読みください。
このころ(1925年)には『存在と時間』の全体は出来てました。が、後半部分の刊行は結局しないままになりました。
盟友ヤスパースに見せたのですが、どうも分かってもらえす、私自身が焼き捨てたのです。
詳しいところは木田元氏や、細川亮一氏の論文(現代思想特集号『ハイデガー』)を参照ください。

私は後半部分で、哲学史解釈を考えていました。要するにカントから中世へ、そしてアリストテレスへと遡行することです。
アリストテレスの時間論を“脱構築”する、これが当初の目論見でした。
挫折の理由・・・それはいろいろ考えられるでしょう。
ひとつは、私の意図がたんなる哲学史解釈を超えて、ひとつの時代哲学を標榜するようになってしまったこと、ここにあります。
私の関心は、古代とともに、常に絶えず現在へと向けられていましたから・・・・
38マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:17
>>35
ツェラン氏には悪いことをしてしまいました。
彼は戦後ドイツ世代同様に、私の戦争責任について触れたのです。
盟友ブルトマンと同様、私は何の釈明もできないままになってしまいました・・
>>36
がいしゅつです。
39考える名無しさん:2001/02/22(木) 00:21
先生とアレント女史との馴れ初めや、ノロケ話などをお聞かせください。
40マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:27
>>39
そのあたりは『アーレントとハイデガー』という某ゴシップ本に詳しいはずです。
馴れ初めは・・彼女が私の授業の聴講生だったのです。
ベッドの中で「キミのおかげで『存在と時間』が書けたよハァハァ」と言った話は本当です・・
息子はどう思っていたのか知りませんが・・まぁそれは男の勲章ですな!
余談ですが女史とは、思想的には対立していた部分が多いように思います。
41考える名無しさん:2001/02/22(木) 00:27
>盟友ヤスパースに見せたのですが、どうも分かってもらえす、
>私自身が焼き捨てたのです。

 というのが確かに定説ですが、ヘルマンだか誰だったかが
「原稿はあるけど全集には入れない」と言ってたという話も
読みました。ほんとはあるんでしょ。
日本語がお上手なようですから、翻訳してアップしてください。
お礼に、日本人女子大生との合コンを企画します。
42マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:32
>>41
ヘルマンは我が弟子でありながらヘタレなので、あまり信憑性はないように思います。
女子大生ですか?私はスキーが得意ですので、そのあたりで考えて欲しいですなぁ。
43名無しさん:2001/02/22(木) 00:37
よくがんばるなあ。
いつまでなりすましするの?
ハイデガーでドクター論文でも書いたの?
44考える名無しさん:2001/02/22(木) 00:37
哲学史解釈のあたりは、後に出た講義録や
単行本でなんとなく分かったような気になれるけど、
「時間と存在」のところはまったく推測できないなぁ。
この問題にからむ『存在と時間』の一番大事な箇所は
§69だと思うんだけど、間違ってますか?
45マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:38
本人です。
46マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:48
>>44
そうですね。一般的にもそう言われています。
ここでは、ようするに認識の超越論的条件としての時間が問題でした。
ものごとの理論的な把握のための時間、実践的な把握のための時間・・というぐあいに、
私は時間性の諸段階とその変容を考えていました。
それは一方で、根拠としての時間の多層的なヒエラルキーを考えることであり、ある意味では形而上学でした。
結局、この形而上学的な性格がネックになったのです。
根拠、根拠、根拠と遡行していっても、それは無限遡及に陥るだけです。
この点で私は、けっして根拠づけられない「無」を想定せざるを得なくなりました。
そして他方で私にとって問題であったのは、従来の時間概念と私の時間性が分離不可能であるということでした。
なぜなら、私が考えていた時間性の諸段階は、いわばスタティックな構造であり、
存在の“動的”な営みを理解するための時間性が、存在者の眼前性、事物性を把握するための量的な時間性へと同化する危険はつねにあったのです。
・・・・私は弁証法的なダイナミズムをあまりにも拒否しすぎたのかもしれません。
47考える名無しさん:2001/02/22(木) 00:51
「なぜなら」以降の4行、分かりません。
48マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 00:59
まず私は、事柄の理論把握を、認識のもっとも表層的な把握の仕方と考えました。
(例)12時から1時までの一時間は、わたしの昼食の時間だ。
つぎにわたしは、この理論把握に先立ち、かつこれを条件づけている実践的な事柄理解を考えました。
上の例でいうと、一時間というのは、私が昼食を食べるという実践的な意図の“投影”である、というわけです。
時間とは、つねに「〜するための時間」という形で、私が投影(わたしの言葉では“投企”)ではないか、と考えたわけです。
そしてこの時間を私はさらに、期待、忘却、現在化という、三つのパースペクティブによって構成されるものと見ました。
問題はここからです。
49マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 01:05
まず私は、事柄の理論把握は気に入らなかったのです(暴論になりますが)。
そして、これとは違う形で事柄の把握ができないものか、というより、
これとはちがった形での把握こそ“ホントウ”の理解のあり方だと考えていました。
本来的な理解の仕方、私はこれを先駆、反復、瞬間という三つのパースペクティブで考えました。
整理しましょう。

理論把握)ホントウでない、ものごとの量的把握のための時間概念
  │
実践的把握)「私が〜するための時間」
  │
本来的理解)「私が“真の意味で”〜するための時間」

とまぁ、粗雑ですがこういう諸段階になります。
50考える名無しさん:2001/02/22(木) 01:06
humu humu
51考える名無しさん:2001/02/22(木) 01:11
>本来的理解)「私が“真の意味で”〜するための時間」

というのが唐突に思えはしますが、大筋のところでは
理解できます。続ききぼんぬ。
52マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 01:13
問題はこの“│”の過程なのです。
弁証法では、認識にいろいろなレベルが設定されていますね。感覚的確信、悟性、知性、理性など。
ですが、それぞれの諸段階の間の移行において、必ず“否定”の契機があります。
感覚的確信は、直観にあたえられたものが、実は悟性によって構成されたものであることを自覚することにおいて
悟性のレベルへと止楊されます。これは、自覚と自己否定のダイナミズムなのです。

私の場合、このダイナミズムを不十分に捉えていたのです。
理論把握から実践的理解へ、そして本来的理解への“遡行”を、たんに構造的に分けられるものとして捉え、
実際にそこで何が変容し、何が以前とは区別されるのかという実質的な議論を、わたしは十分していませんでした。
結果として、上の三者が混同されてしまい、理論把握と本来的理解とでは、
その構造上の差異が見えにくくなってしまったのです。
理論把握では投企は「主題化」とよばれ、本来的理解では「先駆」とよばれましたが、
この両者の違いを、私は不明瞭なままにしてしまったのです。
53マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 01:18
理論把握)ホントウでない、ものごとの量的把握のための時間概念
  ││
実践的把握)「私が〜するための時間」
  ││
本来的理解)「私が“真の意味で”〜するための時間」

極論するなら、このような感じになります。││はいわばイコールですね。
私の時間論は、従来の量的規定としての時間概念を脱構築するはずのものでしたが、
結果的にこれに“実存論的”な裏付けを与えてしまいました。
私の存在論そのものが、従来の形而上学の基礎づけとなってしまったのです。
このあたりの経緯については、27巻の『哲学入門』をお読みください。
54考える名無しさん:2001/02/22(木) 01:21
分析の連中が哲学のゴミ箱呼ばわりしてますが、何か言い返してやってください。
55考える名無しさん:2001/02/22(木) 01:22
先生、どうもありがとうございます。
ちょっとよく考えてみますね。
あさっての演習までに、
先生のテクストを20ページばかり
邦訳しておかねばなりませんので、
私は落ちます。
またよろしくお願いします。
56マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 01:28
>>54
 バートランド・ラッセルあたりに言わせるとそうですね(笑)。
 ですが、どうでしょう。私自身については分かりませんが・・・
 例えばニーチェ、キルケゴールのいない19世紀というのは、いかにも味気ないのではないでしょうか。
 私のいない20世紀は快適でしょうか?ヘンな喩えですね。。。。
57マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 01:30
じゃあ今日はこの辺で。

質問には何でも答えますので、門外漢の方もどうぞ!
58考える名無しさん:2001/02/22(木) 02:24
このスレ参考になるなあ。
ハイデガーの晩年の著作読んでると、理解しようとする努力が何度挑んでも打ち倒される思いがする。ハイデガーの仕事って形而上学の解体とそういう思考方法の批判って感じがするんだけど、このことが読者にとって大きな壁となっているのかな?
つまり僕の読解の態度の中に彼が将に批判しようとした思考法が暗に潜んでいて、それがハイデガーの著作を読む際の障害となっているような。。。

ハイデガーの主張は真理を言い当てているか、というような事物と知性の一致による真理に裏打ちされたような態度で読もうとすることがマズイのだろうか?
そこらへんどう思うんですか?
59アドルノ:2001/02/22(木) 02:41
つまらんスレッド立てるなよ。
60名無しさん:2001/02/22(木) 02:43
ハイデガー先生は1976年にお亡くなりになったとお聞きしていますが
あれはウソですか?
実は偽装死亡でいまはどこかで生きていてネットにつながれているのでしょうか?
一度お亡くなりになったのであればお聞きしたいことがあります。

上の方で先生はソクラテスに言及しています。
ソクラテスは死についてこんなことを言っていたと思います。
>もし、死んでわれわれ人間が無に帰すなら、それも良かろう。
>もう何も思い悩むということはないのだから。
>もし、死んでも霊魂は不滅で死後の世界というものがあるならば、
>死は何も恐れることはない。
>結局、死ぬことはそんなに悪いことじゃない。

一度お亡くなりになったいま、死について先生はどう思われますか?
61ハイデッゲル:2001/02/22(木) 02:53
>ハイデガー先生は1976年にお亡くなりになったとお聞きしていますが
>あれはウソですか?

はい、うそです。葬儀も行われましたし、私のデスマスクと称するもの
も存在しますが、あれらはすべてヤラセです。
1976年5月26日、やせた背の高い二人の男が拙宅にやってきました。
ロシア人でした。当時、風邪をこじらせて床についていた私を
彼らは拉致し、はるばるクレムリンへと連行しました。
私はそこで改造手術を受け、無敵の超人マルチソ・ハイデッゲルに
生まれ変わったのです。
クレムリンがなぜ私の体にメスを入れたのか、またクレムリンの
奥深くで私が出会った思いがけない人物とのエピソードについては、
また後ほどお話いたします。
62マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 02:58
牛丼を食って帰ったところです。
>>58
大まかにはあなたの意見は私の言いたいことを“言い当てて”います。
ですが、主客一致の思考がダメなものかどうかということに関しては、早急に結論を下すべきではないです。
先ず“ハイデガーの言いたいこと”そして“事象そのものが言いたいこと(変な形容ですね)”、そしてあなたの言いたいこと、
この三つを絶えず分けて考えないと、安易に私のエピゴーネンになりかねません。
問題は自身で考えることです。その結果、主客一致の思考が正しいという結論が出たなら、それもそれで真理でしょう。
>>59
『啓蒙の弁証法』は私の技術論のパクリでしょうか?
あと、あなたとベンヤミン氏のドイツ語はなんとかなりませんか?
63マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 02:59
>>61
あぁ〜ん?誰だゴルァ!!
64マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 03:12
>>60
われわれの時代はプラトニズムを否定することから始まりました。
ニーチェの「神は死んだ」これを私は解釈しましたが、そこで私のいいたかったことは、
魂の不死性、死後の世界、彼岸の価値観については、もはや全面的に肯定できない、というものでした。
プラトンは天国を信じていましたから、安心して毒杯を飲んだだけです。
ですが、われわれはどうでしょうか?
私の言う“不安”は、はやして救済され、癒されることができるでしょうか?
いかに死すべきか、これを私は現存在の本来的な可能性と結びつけて考えました。
死はあの世ではなく、現世においてその成就を果たすべきだと考えたのです。私は死を美化したのでしょうか?
おそらくアドルノであれば、戦争での死、或いは強制的な虐殺を美化することなど笑止!というでしょう。
個々人の死について言語化し、体系的に、哲学の問題として述べること、これにどんな意味があるのでしょう?
私の死は、私、ハイデガーの死によってしか証明されません。
そして私が死の“直前”まで、私自身の死について言語化すること、これはいわば、唯一なるものの一般化であり、
要するに不安からの回避なのです。
人間は弱い生物です。「私の死」、これについて云々することなど、不死性へのはかない期待であり、茶番です。
ですが、この人間のはかない努力を美化すること、これに私はひかれたのです。
ヘルダーリン以外の詩論で、私は「死」をあつかわなかったものはありません。
もっとも、この私のナイーブな努力の所産が、政治的な意思表明へと
或いはコトバの暴力へと転化するのはやむを得ないことかもしれません。
私は敢えて危険に飛び込みました。アドルノ以下の批判に関しては、その代償として甘んじて受けるしかないと思います。
6560:2001/02/22(木) 03:20
お早い回答ありがとうございました。
結論として先生はいま生きている、ということですね。
だから、牛丼も食べられる。
僕はもしかすると、霊界から2chにアクセスしてるのではないかと
思っていたので少し残念です。
66マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 03:27
>>65
霊界など存在しないのです。だからこそ私は、
私の思惟同様「異邦のもの(das Fremdes)」としてあちこちを彷徨しているのです。
牛丼も食べれば、ミュンヘンのビールも賞味しますし、アーレントも日本の女子高生もハァハァ・・
冗談が過ぎました。今度こそ落ちます〜
67考える名無しさん:2001/02/22(木) 03:36
先生、それを言うなら
das Fremde ないし(冠詞抜きの) Fremdes
ではないでしょうか。
68ハイデッゲル:2001/02/22(木) 03:46
>67
クレムリンでの手術の後遺症が、
まだ残っているようですね。
失礼いたしました。
6958:2001/02/22(木) 04:42
ハイデガーさん、レスどうも。
どこかにまだ発見されていない真理(イデアのような)がある、と考えるやり方が
もうだめだってことですかね。「もうだめだ」なんて言い方は変だけど、もし「間違い(合っていない)」
としたならばそれもやはり探求が「合うべき」何処かに在る真理を設定してることになるからと思うので。
 「合っている/いない」「言い当てている/いない」という思考で臨むと、ハイデガーの主張は真理OR非真理と
いうことになります。この方法がもうだめだとすれば、ハイデガーをどう読むべきなのでしょうか。
それこそ小説を読むように「鑑賞する、味わう」べきなのでしょうか。そうだとすれば、哲学書を「合っている/いない」
の仕方で読むことは、ある意味でプラトンに始まる形而上学が提示した鑑賞の仕方を採っていることになります。
 ちょっと突っ込んで話しましたが、ローティの「偶然性アイロニーなんたら。。」という本で、
「ハイデガーは存在の私小説を書いたのである」という文に妙にひかれたので。
ハイデガーさんはローティ好きですか?

7058:2001/02/22(木) 05:04
補足です。
 小説を鑑賞するように哲学書を読むのも少しおかしいかな、と思います。
というのも今の小説の鑑賞の仕方もやはり、単なる暇つぶしみたく真理探求からすれば
価値の低いものとして捉えられているように思われるからです。つまり小説鑑賞の仕方もやはり
形而上学的に規定されたものである。
 話しが脱線してきたようなのでここらへんでやめときます。

 
71考える名無しさん:2001/02/22(木) 15:04
上げます
72いちご姫:2001/02/22(木) 15:26
Heideggerなら<逝ってよし>といいたいけど
>64毒杯をあおったのは、ソークラテース
73考える名無しさん:2001/02/22(木) 16:06
本題には関係ないけど、ちょっと気になったので上の投稿関連で質問があるんですが

>>64
> プラトンは天国を信じていましたから、安心して毒杯を飲んだだけです。

これはプラトン学者以外は深く考えもせずに受け入れている解釈のようですが
(『弁明』でソクラテスにそのように語らせているところから来ているのだと思いますが)
実際プラトンをやっている人はどのように解釈しているのでしょうか?
そんな白痴じみた単純な解釈で満足しているのでしょうか?
74考える名無しさん:2001/02/22(木) 16:15
どうもハイデガー先生はテレホ帯にしか
いらっしゃらないようで。
印税でたくさん稼いだはずなのに(売上に
かんしては日本人も大きく貢献)
どうして常時接続にしないのだろう。
75名無しさんの主張:2001/02/22(木) 22:32
悩みを無くすにはどうすればいいですか?
76名無しさんの主張:2001/02/22(木) 22:46
世渡りがうまくなるにはどうしたらいいですか?
77考える名無しさん:2001/02/22(木) 23:04
>67, 72
ハイデガー先生はああ見えてけっこうナイーブなのです。
細かいことで苛めるともう来なくなっちゃうかもよ。
78ミック:2001/02/22(木) 23:05
先生、ウィトゲンシュタインという同年生まれの人物ご存知でしたか?
こんな評価どう思います?

≪私は、ハイデッガーが存在と不安について考えていることを、十分考えることが出来る。人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。例えば、或るものが存在する、という驚きについて考えてみよ。この驚きは問いの形では表現されえない。そして、答は全く存在しないのである。・・・・・・キルケゴールもまたこの突進を見ていた。そして彼はそれを全く似たように(パラドックスに対する突進として)言い表しているのである。言語の限界に対するこの突進が倫理学である≫
79考える名無しさん:2001/02/22(木) 23:06
日本における先生の研究者の中で
もっとも先生を理解している人物は誰ですか?
80マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 23:15
Guten Abend!
81マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 23:24
>>67
 ・・・失礼しました(アセ
>>69
 難しい問題ですね。真理と非真理、好きと嫌い、これらは厳密に分けられるでしょうか。
 私も自身がありません。私自身もこう述べたことがあります「詩を考えるのに、なぜヘルダーリンなのでしょうか。
 なぜゲーテでもなくソフォクレスでもなく・・」
 リチャード・ローティ氏の『哲学の脱構築』は興味深く読みました。
 いかにもアメリカ人的だと感じたのは、伝統からの自由!を強調するのに対して、それとは反対に
 伝統への回帰の仕方が等閑に付されている点です。いかがでしょうか?
 アメリカには熱心な私の研究者がいました。リチャードストン氏でしたか・・
82マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 23:32
>>70
 文学を私は高く評価しています。もっとも私は詩を好みましたが・・
 文学を鑑賞するように哲学書を読む。意外かもしれませんがこれはよい方法なのです。
 聖書は検証するものでしょうか?ゲーテの自然科学論は幼稚でしょうか?
 文字はたんなる記号や情報媒体ではないのです。触れるように読むこともとても大切だと思います。
>>72
 し・・失礼しました(アギャ
>>75
 考えないことです。映画にでも浸ってください。
>>76
 決して譲れない信念を持ってください。そしてそれ以外では譲歩してください。
83マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 23:50
>>78
 木田元氏が同様の箇所を引用していましたね。そしてそこではシュペングラー、ヒトラとあわせて
 私とヴィトゲンシュタイン氏の名が触れられていました・・
 引用の内容については、おおむね同意します。
>>それは・・・わかりませんね。
 ただ私が強い印象をうけたのは、九鬼伯爵と手塚富雄氏です。
 私をもっとも早く紹介したのは三木さんで、彼は前期の私の立場を
 実存論的な人間学として捉えていました。この説は今では多くの訂正を必要としますが、
 当時としては―――いや、おそらく今でも――正当な解釈だったと思います。
84マルティン・ハイデガー:2001/02/22(木) 23:52
上の二つ目の引用は
>>79
です。
85考える名無しさん:2001/02/23(金) 00:54
どうしてこのような掃き溜めの場に降り立ったのですか?
86考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:06
フィリップ・トルシエのフラット・スリーは
ヒロキ・アズマの注目するスーパーフラットと関係があるんですか?
87考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:07
今日は返答が手抜きっぽくないですか?
でもご高齢でしょうし、無理なさらないでください。
88マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:08
>>85
 私の問いに終わりはないのです!
>>86
 スーパーフラットを簡単に説明してください。
89マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:09
>>87
 んなこたぁない。
90考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:10
イチゴショートケーキのいちごは
最初に食べますか?最後に食べますか?
91マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:11
>>90
 最初です。
9255:2001/02/23(金) 01:12
忙しい筈なのに
ちょっと飲んでしまって、今は頭が働きません。
先生にはいろいろと質問もあるので、
明晩にでもまた書き込ませていただきます。
ですから、先生、消えちゃいやですよ。
93エルンスト・ユンガー:2001/02/23(金) 01:16
マルティン・ハイデガーと名乗っているのは
本物なのですか?
意地悪かも知れませんが、ちょっと質問させていただきます。

1)史実でのハイデガーには、息子が二人いました。
 ハイデガーを名乗るなら答えられるはずですから、
 名前を書いてください。
2)また、ハイデガーには息子のほかにも養女がいました。
 同じく名前を書いてください。
94考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:20
真摯な質疑応答あり、
悪気はないらしい騙りあり(ハイデッゲル氏のことね、
あんまり面白くないけど)。
優良スレだ、上げておこう。
95マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:21
>>93
 ヘルマンしか覚えていません。
 ですがこの忘却は、私自身の責任ではないのです。。。
 存在そのものが引き起こす忘却なのです!
9693:2001/02/23(金) 01:31
>95
すばらしい。
息子が二人とか養女が一人とか言うのは
私のでっちあげです。
ほんとうはヘルマン以外にこどもは
いません。
したがって、このスレにカキコしてるハイデガー氏は
絶対に本物です。
私は、彼が本物のハイデガーであることを認めます。
97考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:32
直観を認識することは可能ですか?
98マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:39
>>97
 言葉の意味が分かっていますか?
 あなたの言う直観はカント的文脈でしょうか?それともわが師フッサールの概念でしょうか?
 それとも“認識の完全な形”と解されたギリシア・ラテン的なintuitusのことでしょうか?
 認識とはer・kennenであり、よりよく知ること、或いはより判明に分かることですねブツブツ・・
99考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:40
先生が使用しているパソコンは
マックですか?ウィンドウズですか?
100マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:41
ユンガーさん、現代ドイツ最大の文学者のひとりであるあなたの著書が
日本であまり翻訳されていないのは残念なことです。『労働者』『線について』は
私もよく読みました・・・
101マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:43
>>99
 ウィンドウズ98です。
 本体はコンパック社、ディスプレイは三菱の17インチフラットを使用しています。
 画像がきれいのなんのってハァハァ・・
 ――――失礼。
102マルティン・ハイデガー:2001/02/23(金) 01:49
それではそろそろおやすみです。。
103考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:50
先生はタイプライターすらお嫌いで、
原稿は必ず手書きだったと聞きました。
存在忘却の権化といってもいいくらいの
米国で作られたOSなんぞ使っていては
ダメなのではないですか。
104考える名無しさん:2001/02/23(金) 01:53
このスレ、実はハイデガー氏の他には
二、三人くらいしか参加者がいなかったりして。
105ハイデッゲル:2001/02/23(金) 01:54
>104
私のことを忘却してもらっては困ります。
106考える名無しさん:2001/02/23(金) 02:04
ハイデガーってなにがすごいのかよくわからない。
既成概念(ここでは存在)を疑え!以上のことは何も言ってないでしょ。
カントのコペルニクス的転回も越えてないんじゃないの?
107ハイデッゲル:2001/02/23(金) 02:08

>106

詳しいことは「マルティン・ハイデガー」氏
が語るでしょうが、あんまりイタイ書き込みはしない方が
よろしいのではないかと、クレムリンで埋め込まれた
私の人工頭脳が申しております。
108考える名無しさん:2001/02/23(金) 02:31
実は「マルティン・ハイデガー」氏と「ハイデッゲル」氏は
同一人物だったりして。
109ハイデッゲル:2001/02/23(金) 02:36
>108

私は「マルティン・ハイデガー」氏の
非本来態です。同一人物ではありません。
110考える名無しさん:2001/02/23(金) 10:50
存在者の存在というのはわかるのですが、
それとは区別された存在そのものって
何なのですか。
学生のころ、先生の思想に興味をもっていたのですが、
その辺がわからなくて挫折してしまいました。
111考える名無しさん:2001/02/23(金) 12:42
先生、デリダについてどう思われますか?
112考える名無しさん:2001/02/23(金) 13:06
先生は夜にならないと来られません。
113考える名無しさん:2001/02/23(金) 13:35
先生は、なぜ「ケーレ」に至ったのですか?
「ケーレ」に至った哲学的な意味をおしえてください。
114考える名無しさん:2001/02/23(金) 16:31
もっとわかり易い本書け
115吾輩は名無しである:2001/02/23(金) 16:39
「ケーレ」って江戸弁の「帰ーれ」じゃないよね?
116ナナシデッガー:2001/02/23(金) 17:43
何かここ面白いよ! とりあえず先生の来訪を待つ。
117考える名無しさん:2001/02/23(金) 19:54
ツルネン・マルティとマルティン・ハイデガー の間に
なんらかの連続性は見いだせますか?
118考える名無しさん:2001/02/23(金) 21:38
竹田青嗣があなたの入門書かいてますがどうお思いでしょう?
119名無しチェケラッチョ♪:2001/02/23(金) 22:38
なんで、ナチっちゃったの?
120マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 00:01
みなさんおそろいで・・
121マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 00:14
>>103
 私は技術の限界について考えているのであって、技術を避けるわけではありません。
 危険と救いとは表裏一体であるので・・
>>104
 煽り入れましょか?
>>106
 おっしゃりたいことは分かります。ですがこのことは理解していただきたい。
 つまり、存在を疑うというのは、社会を、法律を、国家を、道徳を・・
 つまりあらゆる「あるもの(das Seiende)」を疑うのとは違うのだ、ということです。
 存在を疑うということは、あらゆる存在者への問いに寄り添うように、またこの背後にあるわけです。
 だから例えば「私」の存在への問いは、あらゆる「私」にかかわる存在者への問いでもあります。
 もっとも個人的な疑問がもっとも普遍的な形式で問われるのです。
 ですから―――こう考えてください。そもそも「問う」とは何を目指しているのでしょうか?
 あるいは、人間が「なぜ」と問うのはなぜてしょうか?この「なぜ」の発露は何を目指しているのでしょうか?
 無限の背後遡及でしょうか?答えのない非生産的な営みでしょうか?
 世の優れた哲学者、このような思惟の狂気にとらわれた者、ですが彼らの“無意味”な営みが
 どうしてここまでヒトを引きつけるのでしょうか――――。
 少し冗長でしたね。あなたの質問ももっともです。私にとっても大きな課題です。
122マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 00:27
>>110
 これまた鋭い質問ですね。存在そのもの・・・
 中期、後期の私の試みでは、存在そのものとは――――
 いろいろな観点で捉えられていました。例えば
○詩、絵画などの芸術を通して、ものごとの「本質」、その「独自なもの(das Eigenes)」が現出する。
 これを私は「性起(Er・eignis)」と呼びました。
○上と関連し、本質への問いは「自然」、そう、日本でいう「じねん」への問いと関連づけられていました。
○さらに自然への問いは、同時に「自然科学」における自然、つまり技術への問いへと向かっていました。
 全ての事柄が「役に立つ」という自然科学的なモットーのもとに表象される、前に立てられる、
 これを私は「組み立て(Ge・stell)と呼びました。

存在そのものとは、このように、自然科学、あるいは否応なしに芸術のいとなみ――ここでは言語活動も含まれるかもしれません――
にも随伴している、西洋の形而上学的な表象行為を支配している根本的な動向への問いであると思います。
存在者ではなく、存在そのもの、という言い方は、このような動向を――いわば擬人化して捉えようという試みかもしれません。
それはヘーゲルの世界理性の場合と同じく、本来人間の思考によって抽象化され、概念化されたものを、ふたたび偶像へと物象化するものであったかもしれません。
・・・それはやむをえません。私の思惟も完全ではないのですから。
123考える名無しさん:2001/02/24(土) 00:30
つーか、おめーら、せっかくハイデッガー大先生を前にして、
そんなショボイ質問しかできねーのかよ。なっさけねーなあ。
もっと、相手を「ううぅ」とかうならせるような哲学的で知的な
質問してみろよ。

 ところで、今でもオナニーしますか?
12455:2001/02/24(土) 00:32
>122

うーん。
九州の某H先生が示してる解釈の方が
私には説得力があるように思えます。
でも、ご本人がおっしゃるのですから、
拝聴いたしますです、はい。
125マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 00:39
>>111
 ドイツにいたときはあまり好みませんでしたが、今はけっこう好きです。
 『声と現象』『アポリア』『精神について』『歓待について』『言葉に乗って』『滞留』・・
 このくらいしか読んでいません。
 私の哲学が主題となっている著作はほかにありますか?或いは何かお勧めはありますか?
>>103
 いろいろ形容されています。
 現象学的存在論から、存在論的歴史論へ
 現存在への問いから、存在そのものへの問いへ、
 意識哲学の立場から、在る種の決定論へ
 能動から受動へ
 自力本願から他力本願へ・・・
 いずれにせよ『ケーレ(Kehre・転回)』はただの変節ではなく、思考のひとつの深まりです。
 前期の立場の限界、というより、前期の立場を基礎づけている、形而上学的な思考法そのものの歴史的位置が
 私にとって問題となってきたのです。
 ですからケーレは、ひとつの自己批判だとも言えるでしょう。
>>114
 講義を読んでください。あるいは『ツォリコーン・ゼミナール』はどうでしょうか?
 精神分析医メダルト・ボスたちと私の対話記録です。

 でもがむばります。
126いちご姫:2001/02/24(土) 00:42
(1)
Seinの訳語は、存在、有、ある、のいずれが適切だ、とハイデガ先生は
お考えになりますか?
(2)
有への開けを持つとはいえ、それ自身の有論的身分は有なる者である人
に、なぜ、先生はDaseiendeではなくDaseinという術語をもちいられた
のですか?これでは、人を指すのではなく人の有論的あり方を意味して
しまうように東洋の一学生には思えるのですが。
127考える名無しさん:2001/02/24(土) 00:43
カルスタに対して一言お願いします。
128考える名無しさん:2001/02/24(土) 00:49
>>123
ほんとう、誰かこの大先生をREFUTEして歴史に名を刻もうと考える
愛知者はおらんのか!

 ところで今でもオナニーしますか?
129マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 00:49
>>115
 ほぉ・・・エドヴェンは中高ドイツ語に通じる?なんてね、わははは。
>>117
 んなこたぁない。
>>118
 読んでいません。そういえば細川亮一氏が最近、入門書を書きましたね。これも読んでませんが・・
>>119
 私の志向が英雄を求めるものであることを否定はしません。民主主義を私は必ずしも肯定したわけではないですから。
 或いはヒトラーの演説に魅了されなかった、とも断定できません。言葉の魔力は絶大です。。
 ですが私は、ヒトラー的なものへのコミットメントはありましたが、
 決してヒトラー自身を、そして彼の政治的体制を肯定したわけではないのです。
 私の活動は大学に限られていましたから・・これも詭弁ですね
>>123
 ったりめぇだろうがハァハァ―――――と、失礼!
>>124
 上の細川氏のことでしょうか?どの本ですか?
13055:2001/02/24(土) 00:55
>129
そうです。細川さんです。10年近く前に出た分厚い本で、
結論だけ示すと(今、本自体は手元にないもので)
存在そのものっていうのは、存在の意味とか、存在の真理
と呼ばれるものを指すのだ、といってました。
131マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:00
>>126
 これは諸説ありますね。私としては「有」のほうがコンパクトでよい気がしますが、
 なぜか「存在」のほうがソフィスティケイトされた響きがします。
 まぁ、有とするとヘーゲルの概念と混合されてしまいますけどね・・
 そういえば日本の私の全集が「有」で統一されたのは、ヘル・ツジムラの影響だと聞きましたが・・
 それと(2)ですが、それはですね、「人間」とは、「人間で―在ること」から、つまりDa(今―ここ)にいる、という
 歴史的事実から、反照的に規定される、と私が考えたからです。
 それに現存在とは、個々の人間のみならず、ある歴史的に規定された「我々」が――あるいはひとつの“時代”そのものが
 展開されている、という事態も指しているのです。
 (21年の講義『事実性の解釈学』を参照してください)
>>127
 がむばれがむばれ。
>>128
 がいしゅつです。
132マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:03
>>130
 それなら目を通したことがあります。
 たしか『意味―真理―場所』ですね。
 前期を、現存在の存在の意味への問い、
 中期を、存在そのものの真理(真性)への問い、
 後期を、現前することの場所論として考えていました。
 かなり体育会系のお方だと聞きました。議論で他人をねじ伏せたとか・・・
 まあ、ヘル・カワハラよりは優れた研究者ですね。
133考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:05
>まあ、ヘル・カワハラよりは優れた研究者ですね。

先生、そんなこと言っていいんですか。
134マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:10
>>133
 いいのだよぉぉぉ〜!
 それはそうとワセダはエーホ先生が退官されてから大変だと聞きましたが、どうですか?
 それと実存思想協会の定期刊行物は、薄いわりに高いですね。
135考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:13
厨房である私がハイデガー先生の思想を知るためには、
まず何から読み始めるべきなのでしょうか。

あと、どうでもいいことなのですが、理想社から出ている
『ハイデッガー選集』の表紙には先生のお顔が押印されている
のをご存知ですよね?あの顔は先生に似ても似つかぬほどブサイク
だと思うのですが、いかがでしょうか。
136考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:14
先生は日本のどこに住んでおられるのですか。
戦前、東大に客員教授として来ないか、という打診も
受けたそうですね。
137考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:25
あと、先生の書かれたテキストではなくて、
先生について書かれた書物で信用できる
ものがあれば教えてください。
138マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:27
>>135
そうですね・・・
レベル1:木田元『ハイデッガーの思想』、細川亮一『ハイデッガー入門』
     現代思想の冒険者達『ハイデガー』、世界の名著シリーズ『ハイデガー』の前解説
     ゲオルク・シュタイナーの解説書、エゴン・フィエタ『ハイデッガーの存在論』
レベル2:茅野良夫『ハイデガーの思想』シリーズ(三巻?)
     渡辺次郎『ハイデッガーの存在思想』『ハイデッガーの実存思想』
     川原栄峰『・・・・』(忘却)、細川亮一の前掲書
レベル3:ペゲラー『ハイデッガーの根本問題』、レーヴィット『ハイデッガー』ブルデュー『ハイデガーの政治的存在論』

まだまだありますが、私としては、難解かもしれませんがやはり、世界の名著『ハイデガー』にある『存在と時間』を
あなたなりに読み進めることをお勧めします。

>>136
お〜ふぉふぉふぉ。打診については確かにありました。破格の給料と十分な自由時間。
ですが私はドイツを離れることにはためらいがありました。
詳しいことは『ハイデガー・ヤスパース往復書簡』を参照。

139マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:29
さぁこい!!何でもこい!
140考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:32
好きな芸人は誰ですか?
141考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:32
吉野屋で牛丼を食べるときに
タダだからといってべにショウガを山盛りよそってしまうことは
人としてやってはいけない行為ですか?
142考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:35
私は外国語がダメなので、
翻訳でしか先生の本を読めません。
しかし、哲学科の友人に言わせれば、
翻訳で先生の本を読むなんて、マッキントッシュに
ウィンドウズをインストールするようなもんだそうです。
先生の本を理解するにはやはりドイツ語を勉強しなくては
ならないのですか。
143考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:35
先生!山田くんがゲロはきましたー!
144考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:38
『形而上学とは何か』っていう論文は
何だかドキュソ臭かったです。
145考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:40
先生はほんとうにクレムリンで
改造された無敵ロボなのですか。
146考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:46
私はヤスパースに興味があるのですが、
先生とヤスパースとの間で交わされた、特に戦後のやり取りなんかは、
読んでいて気分が重くなってしまいます。
先生、ほんとはヤスパースのこと嫌いだったんでしょ?
147マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:47
>>140
 ううむ・・・芸人・・・・・いないですね。
 (最近マヂおらんなぁ〜)
>>141
 牛丼を食ったあと隣のコンビニで立ち読みして一服し
 そのままコンビニを出るドキュソよりはまだいいでしょう。
>>142
 そんなことはありません。
 私は決して頭の回転の速いほうではないです。したがって論理の展開もそうアクロバティックではないはずです。
 同じ言い回しが多く、それに慣れればけっこう読めてしまうはずです。
 がむばれ!
>>144
 日本人好みだと聞きましたが・・・
148マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:51
>>145
 んなこたぁない!
>>146
 (笑)。そんなことはないです。
 ただ、私は妥協をしたくなかった、それだけです。
 師匠フッサールにしろヤスパース、ブルトマンにしろツェランにしろ・・・・
 私は人間に仕えるとともに真理に仕えてきたつもりです。別離はその代償かもしれません。
 私に活目せよ、とはいいません。が、あなたも思想の道に仕えるなら、それなりの覚悟をしておいてください。
149考える名無しさん:2001/02/24(土) 01:56
男のダンディズムとは何ですか?
やはり葉巻きとガウンですか?
150マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:58
>>149
 愛人です。
151マルティン・ハイデガー:2001/02/24(土) 01:59
じゃあそろそろ落ちるぜジェントルメェェェェェ〜ン!
152考える名無しさん:2001/02/24(土) 02:03
先生はラブレターを書いた事があるんですか?
あるとすればそこでも哲学的な言い回しでもって
愛を語っているのですか?
153考える名無しさん:2001/02/24(土) 02:29
デリダは、あなたのDestruktionという言葉の仏語訳として
deconstructionという言葉を作ったそうですが、
「脱構築」はハイデガー的な概念だと思われますか?
15469.70:2001/02/24(土) 02:31
レスありがとう。
鑑賞するという態度を明確に持ち出してきたのはデイビドソンです。事実を確定したり
探求するより、むしろ事実を鑑賞し味わう(appreciate)のが重要なんだ、と。
デイビドソンは僕には荷が重いのでローティを通じてこのような見解を知りました。
存在についてのあなたの一連の史的言説を彼が私小説としているのもこの見解に拠るのだと思います。
 哲学書を事実探求という態度で読むことから、事実鑑賞という態度へと態度変更することではないように
思えます。つまり事実確定や事実探求も鑑賞の一様態であって、あなたは従来の鑑賞態度を解体して、
もっと包括的な事実鑑賞態度を提示しているように思えるのです。
 ただ、伝統的な鑑賞態度から自由になることは口で言うほど簡単ではないことを
実感しています。このような態度が自分の思考傾向に刻み付けられていると言ってもいいほどに。
155.:2001/02/24(土) 06:59
アレントのアナルは開発しましたか?
156ナナシデッガー:2001/02/24(土) 19:58
アメリカでのあなたの受容ぶりについてはどう思われますか?
157157:2001/02/24(土) 20:20
哲学の民主化ということを考えています。
例えば日本人で義務教育を受ければどんなに頭が悪くても
たいていの人間は新聞を読んだり、店でお釣を計算したりする
ところまでできます。
これを哲学にあてはめるとどうなりますか?
どのレベルの哲学までならすべての人間に理解できるでしょうか?
プラトンでうちどめでしょうか?
カントレベルは不可能と思いますが。
158とおりすがり:2001/02/24(土) 20:29
先生にぜひ答えてほしいのですが、あなたの「ヒューマニズム」は
スローターダイクも批判しているように
存在の明るみとして理解された人間を、飼いならしと友愛化の圏内に
引き込む意図があったのですか?
世界大戦の痛手を引きずった反省的思考から
逃れていないのでしょうか。
「ヒューマニズムについて」の真意を教えてくれませんか?
159考える名無しさん:2001/02/24(土) 20:30
カントレベルは不可能というのはどうでしょうか。
カントの著作をみんなが読むことは不可能であっても、
カントの問題意識を共有することは、市民的教養といって
いいんじゃないかと思いますけど。
160考える名無しさん:2001/02/24(土) 23:56
先生はいないの?
161考える名無しさん:2001/02/25(日) 00:10
ハイデガーって何?
有機物の塊?
推論機械のアルゴリズム?
ただの記号?
それ以上の何か?
162考える名無しさん:2001/02/25(日) 00:46
先生、今夜はいないね。
めんどくさくなったのかな。
偽者でもいいから誰か書け。
163考える名無しさん:2001/02/25(日) 00:52
週末だから、先生の講義もお休みなんじゃない?
164考える名無しさん:2001/02/25(日) 01:15
先生のアパートの部屋の隣に住んでいるものです。
先生は今夜はエッチに専念しておられます。
もうすぐ三回戦目が始まりそうです。
165マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 01:48
こむばむわ。
友人宅で飲んだくれてました。。
166マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 01:59
>>152
 手紙好きで知られる私ですがありませぬ。。。
>>153
 脱構築について別に否定はしませんが、この言葉に相対主義的な響きがあるとすると
 少々問題ですね。私は相対主義者ではありませんから。
>>154
 なるほど。ディビットソンですか。もしよろしければ典拠を教授していただけますか?

 あなたのいうとおり、鑑賞的態度と事実確認的な態度とを分けることはきわめて難しく、また
 やっかいな問題をかかえています。しかも鑑賞をより包括的な概念として捉えるのであればなおさらです。
 一方でそれは、自然科学的な厳密さを安易に軽んじるような、似非美学的態度になってしまいかねません。
 たとえば自然科学と人文科学という分け方を踏襲するのであれば、
 両者において、例えば“厳密さ”の質がどういう違いを持っているか、ということを、冷静に追跡する必要も出てくるでしょう。
 文献を丹念に読むことがなければ、いかなる鑑賞も、鏡にうつった自分を読むようなナルシズムと変りわりありませんし、
 人文科学においても、自然科学と同様、説明責任というものはあるのですから・・
167偽ハイデッガー:2001/02/25(日) 02:01
<存在の明るみとして理解された人間
人間が存在の明るみじゃないよ。存在の明るみへと立ち出でてあるのが
人間であるはず。

 ヒューマニズム書簡では、存在の投げがあって初めて人間がその事に対して
応答的に投企することが可能になるとされている。存在と時間では、人間の存在は
被投性と投企によって等根源的に構成されているとされた。つまり後期では被投性
が先行し、投企を基づけている。
 書簡ではまた、哲学者達はみんな同じことを言い述べたとも言っている。つまりイデア
、実体、自然や永劫回帰といった言葉はすべて存在の根本動向の表現である。哲学者は皆
自分で思考してそういった言葉に到達したと思っているかもしれないが、実はそれらの言葉は
存在の根本の働きの言葉として現れたさまなのである。古代ギリシャ人が自然(ピュシス)という
言葉で存在を言い表した時に、既にプラトンがイデアと言い最後にニーチェが等しき物の永劫回帰
と言った事柄は下図を描かれてあった。哲学者達は存在の投げに対して、思考しながら存在の動きに
それ自身から顕わにさせた(存在の投げに応答した)にすぎない。そしてその結果がイデアとか永劫回帰
といった言葉として知られている。
 要するに後期ハイデガーでは、人間にとって(つまり哲学にとって)できることは、存在の語りを顕わにする
ことだけ。「人間が話すのではなく、言葉が話す」とも言う。
 偽者だからこれ以上うまく説明できないわ。本物の再訪を待つ!
168偽ハイデッガー:2001/02/25(日) 02:02
あ!書いてる間に本物が来てた。。。
169マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 02:13
>>155
 忘却していました。Analvergessenheitですね!
>>156
 よく知りませんが、やはり前述したように、伝統の破壊者という左翼的側面が強調されているのですかね?
 そういえば私の概念がどう訳されているのでしょうか。『存在と時間』はたしか『Being and Time』でしたね。
>>157
 おっしゃっていることがよく分かりません。
 カントよりもプラトンのほうがレベルが低いというのはずいぶんな暴論のような気がしますが・・・
>>158
 飼いならしと友愛とはどういう意味でしょうか?
 私の哲学は、いかなる友愛も理想郷も幸福も、つまり人間にまつわる倫理的事項についての
 いかなる主義主張も表明していません。
 民主主義か民族主義か、という二項対立の彼岸に、私の哲学はあります。
 わたしは「危険(Gefahr)」を肯定したのです・・・少なからず。
 ・・・・そうですか、そういう批判がスローターダイクに。
 彼は確かフランクフルターシューレの新世代ですね。『シニカル理性批判』にそういう言述があるのですか?
>>164
 私が住んでいるのは高級マムションです。
 
170マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 02:16
>>167
 あなたはかなり厳密に私の思惟を理解されているようで何よりです。
 ・・・・そうですね、人間が話すのではなく、言葉が話す。
 他方でこの「言葉が言葉自身を話す」という唯名論的な構造が
 ある種の決定論であるとか、他力本願であるとか、諦観主義であるとか言われてきたわけですね。
 あなたはこれに関してどう思いますか?
171154:2001/02/25(日) 02:19
Donald Davidson,Inquiries into Truth and Interpretation
ですが、この本自体は読んでません。ローティのEssays on Heidegger and others
で引用されていただけです。
 ローティは哲学者を新しいメタファーの提示者として捉えていて、人々を当惑させるような
メタファーである限り、それは生きたメタファーだが、もはや自明的となってしまうとそのメタファーは
死んでいる。ハイデガーも「日常言語とは使い古された詩のことである」と言っているのでなるほどと思えるのです。
172マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 02:24
>>171
 ほう、それは面白い。
 ですがその論理では、メタファーは再現なく再生産させられなければならないのでしょうかね?
 それともメタファーも生かすも殺すも、解釈者当人なのでしょうか。
 或いは、メタファーが生きている、死んでいるとはどういうことなのでしょうね。
 使い古され、たやすく引用される言葉であるからこそ、人間はその言葉にひかれるのですから。。。
173偽ハイデッガー :2001/02/25(日) 02:52
例えば既に意味が厳密に定義されているはずの言葉であっても、それらをいろんな仕方で
再編することで新たな意味を持つ言葉や文を作り出せる。こういう仕事が哲学者や詩人の
やってきたことですよね。一見すると彼らは新たな言語を創造するという自由を持っている
といえるでしょうが、本当はそういう新たな意味や言葉は、既に既存の言葉群に伏在している
といえませんか。つまり人間は言葉の再編成行為としての自由を持っているにすぎない。
こういった自由は諦観に属するものなのでしょうか?
174マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 03:00
>>173
 無制限な自由など存在しないところを見ると、
 制限された自由であれ、それは諦観主義とは言えないでしょうね。
 それはそうと
 私はかつて詩人と哲学者を、二つの尾根の頂点であると形容したことがあります。
 言葉に関して、両者の働きは根本的な部分で共通性と差異性があるのです。
 詩人は歌い、哲学者は伝える。
 哲学者は詩人の営みを、たんある美的表現としてではなく、或る歴史的運命として伝達します。
 そのようなヘルメス的解釈の営みこそ、哲学者が問うある種の普遍的要請なのです。
 わたしは問いました――『なんのための詩人か』(1942)
 それは、語ることの意味を、万人に対して問いかけているのです・・・・
175マルティン・ハイデガー:2001/02/25(日) 03:14
そろそろねるかのう!わはは。
176171 :2001/02/25(日) 03:15
メタファーの生死については例えばデイビドソンを引用して
「地球は太陽の周りを回る」はかつて天動説が常識であった時代では生きたメタファーであったが、
今ではそれは自明の事柄として死んだメタファーであると言っています。おそらく科学的真理をメタファー
トすること自体おかしいと多くの人は反論するでしょうが。
 ローティはハイデガーのメタファーの捉え方に他との違いを見ています。ハイデガーは新しいメタファーを
開拓していくというよりも、古いメタファーへと回帰することで言葉の原初的な力を取り戻そうとする。
彼にとってメタファーは死なせてはならないものであり、換言すれば自明性を得てしまえばだめなんだということです。
つまり「社会は詩人と思想家のためにある」。ここがローティに代表されるプラグマチストとハイデガーとのメタファー観
の違いだとローティは言ってます。
177考える名無しさん:2001/02/25(日) 03:19
先生は日本のプロ野球ではどこが好きですか。
178実習生さん:2001/02/25(日) 04:35
「神なき時代」っていうのは、先生の言葉でしたっけ?
先生のお言葉でしたら、どの本で言っているのか教えて下さい。
179考える名無しさん:2001/02/25(日) 05:52
あいかわらず、お前らの質問はつまんねー。
まったく低レベルだね。
これじゃ、ハイデッガー先生もがっかりして帰っちゃうよ。
全く。
もっと先生を「ううぅ」とびびらせるような高度に知的な質問は
ないのかね。

ところで、月に何回オナニーしますか?
180考える名無しさん:2001/02/25(日) 06:02
せんせーはバリバリのナチスとーいんだったそーですね。
自分から進んでとーいんになったんれすか?
それともちょびひげの人浦おぢさんにおどされたからですか?
どっちですか?
181名無しさんの主張:2001/02/25(日) 07:21
先生はタモリをどう思いますか?
182名無しさん@1周年:2001/02/25(日) 09:14
>いずれにせよ『ケーレ(Kehre・転回)』はただの変節ではなく、
>思考のひとつの深まりです。
>前期の立場の限界、というより、前期の立場を基礎づけている、
>形而上学的な思考法そのものの歴史的位置が私にとって問題
>となってきたのです。
>ですからケーレは、ひとつの自己批判だとも言えるでしょう。

詭弁だね。反吐が出る。
ナチ問題でもしかり。
お前のケーレは「レベル2」の渡辺二郎が言うように
「内的な崩壊現象」そのものだろ。
だいたい「前期の立場を基礎づけている形而上学的思考法」
って何だ。
これ以上、師匠の顔に泥を塗るなよ、ナチにもなれない
糞ったれエリートが!!
日本の高級官僚みたいなヤツだな、まったく。
183ぼーふれ:2001/02/25(日) 10:39
先のスローターダイクの発言は「人間園の規則」という小論に
出てます。ハーバーマスを中心とした批判的知識人に対する
「公開書簡」という位置付けのようで、99年あたりに、
ドイツの思想界で結構話題になったようです。
小著ですが煽りとしてはなかなか力強いものがあります。
テーマは「支配者シニシズムに対する市民的キニシズムの止揚」と、
「シニカル理性批判」の流れをくんでます。
18455:2001/02/25(日) 15:25
182が何であんなに怒っているのか、
分かる人います?
何を問題にしたいのかすら私にはわからないのですが。
185考える名無しさん:2001/02/25(日) 16:19
てゆうか、ただ頭が悪いだけでしょ・・。
答えてもらいたいなら、もっとまともな批判しろっちゅうの(笑
186考える名無しさん:2001/02/25(日) 23:29
>これ以上、師匠の顔に泥を塗るなよ、ナチにもなれない
糞ったれエリートが!!
 師匠ってフッサールのことかい?それは兎も角、ハイデガー氏にはどこか偏屈な
ところは確かに在る。ある種の自己中心主義というか無頓着さというか。。。
だが思想家に性格の潔癖さまで求めるのは思想を過剰評価することの一つの現われじゃないのかな。
西洋文明の根幹を成す形而上学の解体を通じて西洋文明の限界を示したのが氏なのだよ。

187考える名無しさん:2001/02/25(日) 23:37
まるてぃんおじたんはかがくぎじゅつがだいっきらいなのでやまに
ひきこもってしまったのれす。でもひそかにさっかーのしあいを
みるためにてれびのあるいえにおしのびできていたのれす。そんで
こうふんしすぎてこーひーをこぼしてしまったこともあるのれすよ。
そんなおじたんでもわらうとおちゃめなのれす。
188考える名無しさん:2001/02/25(日) 23:43
>187
ちょっとワラタ
189レヴィナス:2001/02/26(月) 00:48
>>182
激しく同意(藁)

>>184.185
頭悪いのは君たち
190考える名無しさん:2001/02/26(月) 00:55
>>187
ののたんは娘。板に帰れよ
191マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 01:19
こんばんわ。今日も飲んだくれています。。。
192考える名無しさん:2001/02/26(月) 01:23
明らかに182=189

クズでもできる煽り入れてないで、少しはマトモな反論してみろよ。
これからレヴィナス君は、レギュラーで反論してもらいましょう。
193マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 01:26
>>176
 原初的な力・・・そうですか。でも力とは何なのでしょうね。
>>177
 アンチ巨人というのは確実ですね。
>>178
 私としてはヘルダーリンの「乏しき時代」という言い方を好みます。神なき時代とは、ニーチェの思想を
 指していますが、ヘルダーリンの言葉は、「もはや神々が去り、そしてこれからも神々が到来することのないような」一種の欠損状態を
 意味しています。何が乏しいのでしょうか?超越的な価値観でしょうか?
 それとも価値なきものを疎んじる精神でしょうか?
>>179
 一日一回が最低限のノルマですな!
194マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 01:39
>>180
 自発的に入りました。ええ。
 そして総長を退いた後も、私はナチスに対し党員会費を払いつづけました・・・
>>181
 いや・・別に特には―――――
>>182
 内的な崩壊現象・・・そうですよ。私は自分を弁護したりしない!
 ナチにもなれないエリート・・・ははは!
 あなたはナチの何を知っている?
 この豊かな時代に、私が生きていた窮乏の、切迫の、のっぴきならない時代の何を知ってる?
 私は本物のリーダーの登場を予感した・・・・石原慎太郎のような小物ではない!
 本物の革命家だ!そして私は破滅を予感し、まやそれを歓迎しもしました・・・
 人間の個々の生命がたやすく消え去る時代・・私の旧友も戦火に倒れました。
 センチメンタリズムに浸る余裕もなかった。死ぬときは死ぬ。それが事実だ。後悔する暇もない。
 私は時代に流され、同時にこの時代にとって、できるかぎりの選択をしました。
 万人に賞賛されるような行為などあるはずもない!批判されて結構だ。
 だから聞きたい。
 あなたはナチの何を知ってる?私には分からない――他の選択肢があったのだろうか?
 人間の歴史とは過ちの歴史である、とは自明な論理だ。
 それをつかまえて説教しようと?よろしい。ではあなたは何を知っている?
 ナチとは何だったか語っていただこう!!
195マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 01:47
>>186
 私には私なりの論理があった・・・少なくとも私はそれに・・ためらいながらも従いました。
 それがこの体たらく!恥ずかしい限りです。
 ですが、万人に受け入れられること、等しく妥当すること/どうでもいいこと(gleich−gultigkeit)
 こうした性格はそれほど賞賛されることなのでしょうか?
 偏屈は悪でしょうか?潔癖とは何でしょうか?
 私は妥協しなかっただけだ―――――もっともそういう中庸なき精神こそ時代の落とし子であると言われれば
 私はそれを黙って甘受するしかない!
>>189
 同意するのは勝手ですが、自己の信条を述べていただきたい。
 私がナチを理解していたと思われるの心外である。
 反省はしましょう。だがその前に意見を表明せよ。
196考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:00
まさにあなたは希代の雄弁家だ。自己弁護の天才だ。
あなたは聴衆の「気分」を自在に操る術を知っている。
そういえばあなたの元愛人は、ハイデガーの講義は
実際に聞かないと本当に理解はできないと言っていたそうですね。
つまり読むことには限界があると?
197考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:07
悪意ある煽りは2chでは珍しくも何ともないのですから、
先生、あまり過剰反応なされない方がよいと思います。

ナチズムと先生とのかかわりについては、
みなさんご承知のようにいろいろと言われているわけですが、
このスレでは、議論をするに充分な量の共通認識が
あるわけではなさそうです。
吉田秀和風にいえば20世紀のヨーロッパの運命に深く突き刺さった
刺のような存在(者?)であるナチズムに対して、何の準備もなく
気楽なムダ口を叩くのは愚かでありましょう。

もちろん、ナチズムと先生の関わりは論じるに足る大きなテーマでは
あるのですが、最低限、ナチズムのどこが問題なのか、またナチズムに
対して先生の取られた態度のうちのどこを問題にしたいのか、だけは、
182には示して欲しかったと思います。
198マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 02:16
別に悪意ある意見とは思いませんが・・・
私の“雄弁”に、他者の悪意を誘発するものがあることだけは確からしい。
とにかく書きっぱなしではなく、
丹念に議論していきたいと思うところである。
粘着質歓迎!!
199マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 02:17
>>196
 あなたが限界があると思うのならそれで結構です。
200考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:24
存在と時間では、死は実存の究極的可能性として特別視していますね。
死へと先駆的に実存することで、実存が本来性を帯び全体化することで
明け開かれてある事(Er-schrossenheit)が錠を外されてある事/決意性(Ent-schrossenheit)
へと本来化されると。
 ところが後期では、「人間は死ぬ。それだけです」(ツョリコーンゼミナール)のように死を特別な事態とはみなしてはいない
ように感じるのです。ザフランスキーの伝記によれば、死を特別視すべきではないという示唆をサルトルから促されたとあるのですが。
201ハイデッゲル:2001/02/26(月) 02:24
>196
何がおっしゃりたいのか今ひとつわかりませんが、
活字になったテキストではたとえば講義で「語られた」ことを
充分に再現しきれていないことは、私が『ニーチェ』講義の序文
などで幾度も明言していることです。何も「緑」嬢のことを
もちだす必要はないと思うのですが?
202考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:26
ユダヤ人を殺さないファシズムを論破
することは簡単ではない。
アメリカは日本人を原爆で大量殺戮した
ファシズム国家だが、ユダヤ人を殺していない
がゆえ、それは批判されない唯一のファシズムなのだ!!
203のの:2001/02/26(月) 02:31
じつぞんの錠をこじあけたいのれす
「そんざいとじかん」は泥棒指南書なのれす
でもますたあくらすの泥棒志願者しかよめないのれす
だからよむことには限界があるのれす
204ハイデッゲル:2001/02/26(月) 02:31
>199
煽りが続いたので、
本物は辟易して落ちたと思っていました。
かぶってすいません。
もうカキコしませんから許してください。
205考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:31
マ・クベの壺とクラインの壺、どちらが良いものですか?
206マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 02:34
>>200
 ほう!それは初耳です。驚きました。
 ザフランスキーですか?読んでみましょう。
 死について、私は前期の立場では、あなたのいうように「本来的決意性」として話題にしました。
 これは一見、個々人の問題に限定されているかのような外観を与えました。
 ですが私は、例えば『ニーチェの言葉、神は死んだ』や、数々の詩論において
 死の――いわばイデオロギー的で価値観としての側面を強調したりもしてきました。
 引用しておきましょう・・
 「この時代がいつまでも乏しいのは、神が死んでいるからということばかりでなく、
  死すべきものたちが死すべき身であることをほとんど知らず、ほとんどそれを能くすることがないからである」
 なるほど・・・・今読み返し見ても詭弁ですね。
 人間は死ぬ、それだけ」そう。死のイデオロギ−化、それははかない夢です。
 ですが夢を語らないで死ぬことに私は――そしてあなたがたは?――耐えられるでしょうか?
 なぜ私たちは埋葬をするのでしょうか?生き返ることの無いものに対して、
 私たちは何を期待しているのでしょうか?


 ――――そうですか、サルトルとザフランスキーがそんなことを・・
 『ツォリコン・ゼミナール』の私の発言にしても・・・丹念に読に返してみます。
207マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 02:36
そろそろ酔いの限界なので落ちます・・・・・・
208マルティン・ハイデガー:2001/02/26(月) 02:38
 忘れていました。
>>205
 「あれはいい壺だ!!」
 ガンダムネタですね
 
209考える名無しさん :2001/02/26(月) 02:41
実存という訳語は実は現実存在という訳語から九鬼周造が縮約したもの
であることを皆は知っているか?この語がこれほどメジャーになったのだから
九鬼はやっぱすごい。
それと九鬼の「いきの構造」ではオントローギッシュ(おそらく)が存在学
的となっているがこちらは普及に失敗したようだ。おっとすまん議論を邪魔して
しまったようですな。
210考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:42
>204
そんなに恐縮しなくても(笑)。
私、あなたのカキコ、けっこう好きですよ。
難しい話は先生に任せているようですが、
じつはハイデガーにかんしても詳しいようですし。
また書いてくださいね。
211考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:44
このスレけっこう面白いかも・・
212考える名無しさん:2001/02/26(月) 02:57
「二重襞」っていう概念は先生の概念だって
聞いたことがありますが、
(ドゥルーズとかが使っています)
どこで使っておられるのでしょう。
また、どういう意味ですか?
213宿直:2001/02/26(月) 03:20
二重襞(Zwiefalt)はハイデガー氏のテクストのどこかにでてくるらしい
俺もよくは知らんが。要は、存在者と存在の差異、存在論的差異のことを
言っているんじゃないかな。氏の存在史では歴史的に存在は自然とかイデア
基体、権力意志として言い表されてきたとされている。つまりそういう
言葉である枠組み(襞)を設定する事で、何を存在者とみなすか(つまり存在者の
存在)が決定される事になる。例えば自然という襞では存在者は自ずから現れてくるものである
が、主体の権力意志では存在者は意志されることによって価値として捉えられたものが存在者となる。
214考える名無しさん:2001/02/26(月) 13:58
マターリiu..ジュjra /.... いて言及しているわけでしょう?
ならば、当然、もう一歩進めて.pか・.kg・ワラ
拒否したのは私も渡辺二郎先生、同様合点が行きません。

もう一度、この点についての説 aro/.jaワォl歩サka..si番アポ・・アポアポ
いた


lai./.ジャアポkroアポ アポ

あぽーん。マタ〜リ
215182:2001/02/26(月) 14:52
>>194
おいおい、そうやって逃げんなよ。
182はナチ問題なんかより、お前のケーレを問題にしていて、
それは「内的な崩壊現象」だって糺してあるの。
それを認めるわけね?
だったら、「思考のひとつの深まり」だとかくだらねぇこと言って
ねーで「狂ってましたゴメンチャイ」とでも言えや、この薄らハゲ!!

それから192のクソガキ。レヴィナスのハイデカー批判が何だったか
知ってんのか?
182の批判はフッサールの立場からのもの!!
おめー頭わりーんだから、だまっとけ!!

それから序でに

>死のイデオロギ−化、それははかない夢です。
>ですが夢を語らないで死ぬことに私は――そしてあなたがたは?――
>耐えられるでしょうか?
>なぜ私たちは埋葬をするのでしょうか?生き返ることの無いもの
>に対して、私たちは何を期待しているのでしょうか?

死の現存在分析からそーとー退化してんな(笑)
つーかケーレ以前の問題。
216考える名無しさん:2001/02/26(月) 15:06
せっかくのチャンスなので質問させていただきます。
当方、哲学素人ですのでわかりやすい言葉でお願いします。
1.色即是空 空即是色を先生の言葉で言うとどんな感じになりますか?
こういういう考え方をどう思いますか?
2.先生にとって権力ってなんですか?
3.もし、先生の講義中におっぱい丸出しの女の子が抱きついてきて、
先生にキスをしたり先生のチンポを握ったりしたらどうしますか?
21755:2001/02/26(月) 23:08
182のどの辺が「フッサールの立場からの」批判なのか、
ちっともわかりません。
フッサールの哲学だって、「内的な崩壊現象」と評されるもの
たくさんあったんですけどね、本人はそう認めたがらなかった
ようですが。
218通行人:2001/02/26(月) 23:38
182は何でモーレツに怒っているのでしょう。
せっかく盛り上がってんのに水を差すな、水を!!!

ところで先生、先生はニーチェについてどう思われますか?
219考える名無しさん:2001/02/26(月) 23:44

マルティンおじたんはおはなしをよくしてくれたのれす。
あることがあるものをあらしめていたのれす。あるものをめのまえにして
そのあるもののあらしめように昔のしとはおどろくしかなかったのれすね。
 でもなにかが変わってしまったのれス。
みんなはだんだんあることを忘れて、あるものばかりをちゅうもくしはじめたのれす。
そんであるものをコントロールすることにばかりに熱中してしまったのれす。そのうち
あるものはじぶんたちがうみだしたんだぞ、と勘違いするしともあらわれてきまひた。
 ののはおじたんにききました。にんげんってわがままなにょ?
おじたんはぜんぶあることがやったことなんだよといいました。
あることがあるものを見捨ててどこかに隠れてしまったのれス。
だからみんなはあることを忘れてあるもののコントロールにのめりこんでしまったのれす。
ぜんぶあることがやったことだから、にんげんのせいではないのれす。
220考える名無しさん:2001/02/26(月) 23:53
>>215

先生がまだ来てないようだから暇つぶしに突っ込んどくが、
>死の現存在分析
って何だ?
221考える名無しさん:2001/02/27(火) 00:15
おじたんは「そんざいとじかん」を書いたとき、げんしょうがくっていう
やりかたをつかっていたの。あらわれをそのまま見えるようにすること、が
その方法れす。あらわれは別のあらわれに隠れたり歪められたりしているから
そえを見とおしてあらわれや隠れや歪めのもとになっている、そのすべてを
あらわれさせているあらわれを見えるようにすることれす。そのあらわれが
あることだったのれす。そういう見とおしのもとでおじたんが書いた「そんざいとじかん」
はおじたんの出世作になりました。
それ以来おじたんはいろんなたいけんをしまひた。いちどとりかえしのつかないことを
してしまい、ちいもめいよも失ってしまいました。
おじたんはそういうたいけんをしながら、かんがえかたもおおきくかわっていったのれす。
あらわれというできごと、それはそのまま見えるようにできるのかな?
あらわれというできごとには、見ることにとってどうしようもない
ヒミツが隠されていてそのヒミツがあらわれのできごとを起こしているのれす。
だからげんしょうがくはそこでつまづいてしまうのれした。
じゃあどうすればいいの?おじたんはなやみました。
222考える名無しさん:2001/02/27(火) 00:30
>死の現存在分析
「そんざいとじかん」でおじたんはにんげんの在ることを分析しました。
にんげんは在ることを理解してるから、にんげんの在ることを分析すれば
在ることそのものがどういうことかがわかると、みこんでいたのれす。
それがげんそんざいぶんせきなの。
でもにんげんがふつうにあるさまを分析しても限界があるのれす。
「ふつうにあるさま」は「ぜんたいてきにあるさま」に基づいているのれすね。
だから「ぜんたいてきにあるさま」を分析しないといけなくなってくるの。
おじたんはその「ぜんたい」の境を構成するのが死と誕生とかんがえました。
「そんざいとじかん」の後半部は死というぜんたいにのぞんでいるにんげんが
分析されているのれす。それが死の現存在分析なの。
ところが、全体のもう片方の誕生のはあまり分析さえずにおわってしまいまひた。
223考える名無しさん:2001/02/27(火) 00:41
つーか、220の突っ込みは、
「現存在の死の分析」だろ?
というところにあると思われ。
224名無しさん@1周年:2001/02/27(火) 00:45
なぜ、大恩あるフセアルHusserl先生をいぢめた?
225考える名無しさん:2001/02/27(火) 01:41
>>216

>3.もし、先生の講義中におっぱい丸出しの女の子が抱きついてきて、
>先生にキスをしたり先生のチンポを握ったりしたらどうしますか?

それってアドルノだったっけ?

先生、今夜は来ないみたいだね。
226考える名無しさん:2001/02/27(火) 01:47
女子学生にチンポ握らせてるんだろう。
227マルティン・ハイデガー:2001/02/27(火) 02:38
>>226
 んなこたぁない!
228マルティン・ハイデガー:2001/02/27(火) 03:00
登場時間帯が段々遅くなってきたが気にせんでくれい!!

>>212、213
 う〜ん、これはマヂ忘れた。
 そういえば後期メルロ・ポンティも、
 表と裏の可逆性を持った「存在の折り目」という表現を使ってましたね・・
>>182
 文句ばかりで何の反論にもなってませんね。
 レヴィナスがフッサールを介して私を批判した?
 そのようなことが『レヴィナスとハイデガー』に書いてましたか?
 詳しく説明してくださいね。
>>216
 知るかぼけぇ!!
>>218
 どう・・・思っている?
 う〜ん、質問が漠然としすぎていますね。もうちょっと限定してください。
>>219、221
>あらわれというできごと、それはそのまま見えるようにできるのかな?
>あらわれというできごとには、見ることにとってどうしようもない
>ヒミツが隠されていてそのヒミツがあらわれのできごとを起こしているのれす。
 その通り。
 私は最初、現象(Phanomen)と現れ(Erscheinung)という区分をしていました。
 要するに現れとは、もろもろの現出の仕方をする存在者のことで、
 現象とは、その存在者を現出せしめている、存在の統一的な意味のことです。
 そして私はフッサールの形相的還元にならって、現れから現象を分けることによって、
 存在のピュアな意味を取り出そうとしました。
 問題はこの“ピュア”な意味など存在しないという点にあったのです。
 存在の意味は、プラトン的なイデアではなく、はじめから“ゆがめられて”しか取り出されない。
 それは、存在そのものが、現れることと隠れることという両義性を持っているからに他なりません。
229マルティン・ハイデガー:2001/02/27(火) 03:11
>>222
>ところが、全体のもう片方の誕生のはあまり分析さえずにおわってしまいまひた。
 それはその通りですね。
 ですが正直言って当時の私は“誕生”それ自体に関心があったのでないのです。
 終わりとしての死、そして誕生とにはさまれた形で存在する、現存在の統一的なスパン、
 すなわち生涯や人生という意味における人間の「歴史」を把握すること、これが私の関心でした。
 『存在と時間』第二部第五章『時間と歴史性』はそういう目論見がありました。
 これはある意味、歴史というものを人間の体験の諸連関として捉えていたディルタイの構想を
 私なりの仕方で存在論化したものであります。
>>224
 それは・・・私がフッサールの葬儀に出席しなかったことに言及しているのでしょうか・・・
 これについては大いに反省しています・・・・
>>225
 女学生のおっぱいポロリ露出事件、アドルノの晩年の話ですね。
 
230考える名無しさん:2001/02/27(火) 03:28
モビルスーツの脚部は飾りなのですか?
また、涙は飾りではないのですか?
231・e・:2001/02/27(火) 03:30

質問するのはいいけど
もうちょっとセンスある仕方でしたほうが・・
笑えないよ。
232考える名無しさん:2001/02/27(火) 03:33
先生眠くないのですか?
233マルティン・ハイデガー:2001/02/27(火) 03:45
そろそろ寝ます。
234・e・:2001/02/27(火) 06:48
>>228
せんせいそれは『フッサールとハイデガー』ではないでしょうか?
235考える名無しさん:2001/02/27(火) 12:29
好きなテレビ番組は何ですか
23655:2001/02/27(火) 16:56
>>212, >>228
「二重襞」は、「思惟とは何のいいか」に出てきます。存在論的差異にからむ
重要な術語なのですが、私にもよく分からないところが多いです。
237考える名無しさん:2001/02/27(火) 17:48
ハイデガー先生、質問です。

身長は何センチですか?
初体験は何歳ですか?
アメリカでほとんど評価されない事についてどう思いますか?
フッサール先生に勝ったと思いますか?
ウィトゲンシュタイン先生をどう思いますか?
『存在と時間』は自分でよく書けてると思いますか?
二十一世紀はどうなると思いますか?
238考える名無しさん:2001/02/27(火) 23:16
名前は忘れましたが、米国のハイデガー研究者
(リチャードソンじゃなかったと思う)が先生のお宅
に行ったとき、机の上に『存在と無』の独訳版を
見つけたそうです。で、先生に「こんなの読むんですか」
と聞いたら、「誰が読むか、こんなクズ本」と答えたとか。
体裁もあってそうは答えたものの、
サルトルに興味がなくはなかったんでしょうね。
ちょっといいエピソードです。

それから、あと、戦争が終わってすぐのころ、サルトルに手紙を書いて
「いっしょにがんばろうね」と言ったって本当ですか?
239考える名無しさん:2001/02/28(水) 00:54
きのうは待ちわびて寝ちゃったンれすが、うなづけるれすもらってよかったのれす>おじたん
ところで「そんざいとじかん」ではにんげんは投げられて居るのれすね。
投げられて居ることが、にんげんが世界にもたれかかって居ることを基づけているのレス。
この「世界にもたれかかって居ること」はにんげんが自分じしんを捉えるのをじゃましてしまいまふ。
にんげんは自分をもたれかかっている世界から捉えるので、自分じしんはただのひとになってしまうのれす
こうなると、そんざいも自分じしんもゆがんだありかたでしか理解されないれすね。
ところが、おじたんは後になると「もたれかかり」はあまり問題にしなくなったようにおもえるのれす。
「もたれかかり」はおじたんのそんざいへの問いからはずされたのれすか?
すくなくとも、そんざいろんてきにはたいしてじゅうようじゃないと、みなしてよろしいのれすか? 
240マルティン・ハイデガー:2001/02/28(水) 00:55
こんばんわ!幾分マターリしてきましたね。
241考える名無しさん:2001/02/28(水) 00:59
>>239
「もたれかかり」って、先生の言葉でいうと何?
24255:2001/02/28(水) 01:01
時間がなくて質問できませんが、
このスレ、ちゃんと覗いてますよ。
先生も負担にならない程度にね。
243マルティン・ハイデガー:2001/02/28(水) 01:02
>>234
 訂正どうも!!
>>235
 めざましテレビです!
>>236
 なるほど。『Was heisst Denken?』ですね!
>>237
 160センチ弱!
 忘却!
 んなこたぁない!
 興味なし!
 ま〜ね!
 ・・・・・・・・弛緩した時代でしょうね。精神が、です。
>>238
 サルトルとのエピソードは私にとっても新鮮です。
 そうですか、そんなことがあったんですか。
 まぁ、私は彼と違って政治的には音痴でしたし、新聞もたまにしか読みませんでしたが・・
244マルティン・ハイデガー:2001/02/28(水) 01:05
>>239
 もたれかかりというと・・・没入、理解、関心、あたりの概念ですか?
 詳細きぼぼぼぼ〜ん。
>>242
 むぁかしてください!
245考える名無しさん:2001/02/28(水) 01:06
ようするに、覚悟して居ることはそれなりにすごいとおもうのれす。
でもやっぱりむりがあるようにおもえるのれす
246考える名無しさん:2001/02/28(水) 01:13
いちおう
たいらく(Verfallen)のことをののたんなりにいってみたのれす
じつは、ほそやたんはたまにそう訳しているのレス。
247考える名無しさん:2001/02/28(水) 01:14
ののたん、韜晦しているが実はけっこう詳しいと見た。
ううむ。あなどれぬ。
248考える名無しさん:2001/02/28(水) 01:18
そういうことおいわれると、照れるのれス。
249マルティン・ハイデガー:2001/02/28(水) 01:38
>>245
 Entschlossenheit・・・覚悟性、決意性とも訳されますが変な概念ですね。
 レーヴィットが「先生は覚悟していた、だが何に対してそうだったかは、
 本人もよく分からなかったようだ」とコメントしていましたが、これは
 この概念の奇妙さをあらわしているように思います。
 つまり、特定の歴史的事象や個人にたいする覚悟ではない、それはオンティッシュ(存在者的)な
 概念になってしまう。
 覚悟とは、・・・に対して覚悟している、という態度でしかない。でもこれでは何も言ってないに等しい。
 むしろこれは、人間(現存在)の在り方の構造を指している、と考えたほうが妥当である。
 要するに間延びした主観ー客観関係ではなく、絶えず存在するものとの緊張関係のなかで
 自己の存在可能性を選択しつつある、自己を「賭け」つつある存在、としての、ね。
 この点では私の覚悟性は、主観主義の最たるものであり、サルトルに近い。
>>246
 なるほど。頽落はむしろ、中期以降では「ニヒリズム」との関連で、
 西洋の形而上学を、存在を忘却した没落の歴史として捉える、という具合に
 歴史動向そのものをさすようになるのですかね・・
250考える名無しさん:2001/02/28(水) 01:48
<絶えず存在するものとの緊張関係のなかで
 自己の存在可能性を選択しつつある、自己を「賭け」つつある存在

 なんとなくわかったのれす。これにかんけいしているのれすが、
後期でおじたんが言う「そんざいの明き地を堪え抜く」というにんげんの
ありかたと前期の覚悟して居ることはなにかかんけいがあるのれすか?
251考える名無しさん:2001/02/28(水) 01:59
>存在を忘却した没落の歴史

するとれすね、にんげんが「世界へのもたれかかり」から自分じしんを取り戻して
自分じしんに覚悟をきめたところで、そこでそんざいそのものの意味が理解できる
かのうせいはもう開きようがないのれすね。
だからおじたんは「追いながら思う」や「あきらめつつ言う」ことへとおもむいていったのれすね。
252マルティン・ハイデガー:2001/02/28(水) 02:21
>>250
 関係していると思います。直接的な言明はないですけどね。
 『存在と時間』でも、耐えることに私は触れていました。
 さっきの話でいうと、確かに人間は数々の存在可能性の選択の自由がある。
 これは可能性を投げ入れるという「将来」の時間性に基づいています。
 が、人間の自由は万能ではない。
 “既に”選択してしまった、という形で、その結果に耐えるしかないような状況、
 これを私は「投げられて在ること」という意味において、人間の過去(私の言葉では既在)性、歴史性
 のどうしようもない事実性として分析したのです。
>>251
 そうですね。
 だがホントウに存在の意味の可能性がないのかどうかは、大いに疑問もあるでしょう。
 私とともに、また私に反駁しつつ思考してほしいですね。
253考える名無しさん:2001/02/28(水) 02:44
けっきょく、おじたんの言葉でいえば各人がじぶんの「そんざいの明き地を堪え抜く」
ことがじゅうようになってくるのれすねえ。
「そんざいとじかん」でもおじたんはおもしろいことをいってますた。
他人の世話をすることは、けっきょくそのしとのじつぞんのかのうせいを奪ってしまう、
そのしとを支配することになってしまうのれす。はんたいに、他人に先んじてそのしとに
引き受けるべきじつぞんのかのうせいを開放してやることが大切なのれす、と。これはののも
そうおもうのれす。でもとってもむずかしいことでもあるのれす。
254考える名無しさん:2001/02/28(水) 03:00
おじたんの「ひゅーまにずむについて」をひもといてみました。
「そんざいの真理というところが、行止りとなっているのか、それとも
自由な開かれたところなのかについては.....指示された道をゆく試みをしたあとで....
ひとそれぞれがこれを判断してもらいたい...」
おじたんじしんにもこうなんだよ、という答えがない。すくなくとも
みんながそう思っているようないみでの答えではないのれすね。
ののももういうちどおじたんのほんを吟味してみようとおもうのれす。
255マルティン・ハイデガー:2001/02/28(水) 03:04
そうですね。
私も今もって私自身の思想の吟味をおこたるわけにはいきません!
じゃあ今日はこの辺で。

レヴィナス君の反論はまだかな〜
256考える名無しさん:2001/03/01(木) 00:18
age
257マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 00:20
おばんです。
さぁ!異論反論何でもきなさい!
時代はヴァーリ・トゥード(何でもあり)ですからね!
258考える名無しさん:2001/03/01(木) 00:27
ハイデガー先生ごめんなさい。
あなたについていけません。
ぼくはフッサール先生についていきます。
さようなら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
259考える名無しさん:2001/03/01(木) 00:32
漏れ、あんたの芸術作品論読んだよ。
厨房だし根気もないからよくわからなかった。
今では大地と何とかの争いというフレーズしか覚えてないな。
美学関係にはヴァカなりに興味はあるんだけど、
あんたの本って、美学関係者にも公表なの?
教えれ。
260考える名無しさん:2001/03/01(木) 00:50
神の彫像は神に似せて作られた像なのではなく、彫像が神そのひとなのである。
悲劇においては神々の戦いが実際に起こっているのだ。

要するに、芸術作品は複製という言葉では十分には説明できない
ということを言いたいのだろうが、いや、わかるんだけどね、
喉に骨がひっかかった感じなんだよね。
261考える名無しさん:2001/03/01(木) 00:53
ちょっと盛り下がってきたかな。
詳しい人も何人かいるみたいだけど、
さすがに他の板みたいにマニアがわんさかってわけではないから、
2、3人の玄人が来なくなるととたんに下がってしまう。
ここは素人衆ががんばってアゲねば。

つーわけで、素人からの質問です。
ギリシャ語(ラテン語だった?)のアレーテイアを
先生は「非隠蔽性」という意味で使ってます。
その理由ずけを先生は、「ア」は否定の接頭辞だから、
等々の語源的なところに求めているのですが、
これって、ギリシャ語の専門家はぜったい認めない説だと
聞きました。もしこの理由ずけが間違ってたら、
「アレーテイア」を「非隠蔽製」と解す先生の論も
ぜんぶダメだってことにはなりませんか?
262・e・:2001/03/01(木) 00:54
>>259
 私の時代は体験美学がさかんでした。
 これはシェリング以来のロマン主義的な美的体験を重んじる志向で
 体験の主体である主観に近づけて、美的現象を解釈しようとするものでした。
 ディルタイの体験、表現、理解の三っつの契機や、新カント派の表象美学(フィードラ?)
 などがその係累にあたります。
 これにたいし、私は出来事としての美的経験を重んじました。
 それは主観による構成作用という枠組みをこえて、一度限りの美的現象の出来事的性格に注目することに他なりません。
 こうした存在論的美学(?)は、私の弟子でるガダマーが受け継いでいるようです。
 美学者には私の理論はまずまず受け入れられているようですが、
 私の詩論の一部は酷評されています。
263・e・:2001/03/01(木) 00:59
>260
 どこの箇所か分かりませんが、
 神の彫像は、それ自体が神的な経験をもたらすものであり、
 代理不可能なものであるから、けっして神の代用品ではない、という程度
 のことでしょうか。
 私の立場であればもはや本物/複製というカテゴリーはその妥当性の多くを失うでしょうね。
  
264考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:01
ハイデガー=・e・

ついにばれちゃったな。
まえまえからそうだとにらんではきたが、
でも責める気はないよ。
265・e・:2001/03/01(木) 01:02
>>261
 そうですね。そうなります(笑)。
 アレーテイアはギリシア語で、普通は真理と訳すところを
 私は非・隠蔽性とか非・覆蔵性と訳しました。
 要するに英語のディスカバーと同じ原理ですね。
 ディス・カバーすなわち覆いを取る、という力動性をあらわしている、と。
 
266マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 01:05
爆死!!
267・e・:2001/03/01(木) 01:07







268考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:08
もう終わってしまうのか?
269マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 01:09
っき、気にせずいこうぜ〜〜〜〜
270考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:09
あれ、わざとじゃなかったの?
じゃあ、見なかったことにする。
271考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:13
うぷぷ。
でも、・e・氏の書き込みって、最初から読んだけど
数えるくらいしかないなし、まあいいんじゃないの?
なかったことにしてこれまで通りにつづけましょうよ。
272マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 01:14
は!!
私は何を言っていたのでしょう。
変なコテハンが取り付いていたようです。
とりあえず忘却の作業からはじめましょう。
思い出す、ということもないように、
忘れた、という感覚さえも忘れてもらいましょう。
神は二度死ぬ、の原理です。
何事も無かったかのようにスレを進めるのです!!
273いぢわるな人:2001/03/01(木) 01:16
先生、ぼくは阪神ファンです。
とくに最悪くんこと今岡には、がんばって欲しいです。
先生もそうでしょ?
274考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:21
ハイデガー先生、「弘法もコテハンの誤り」と言いますよ。
元気出して下さい。
275:2001/03/01(木) 01:21
どこがいぢわるなのかわかんないのだけど、
忘れるべきことは忘れて蒸し返すな、
と言っておくべきなのかな。
276考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:24
ギャハハハハハ・・・・・・・・・
久しぶりに笑わせてもらったよ。
ありがとう。
君は哲学板のアイドル、王者、主、、、だよ。
IP丸出しよりオモロイ。
ここ数日見かけないなあ、と思ってたんだよ。
まだまだ修行が足りん!

>・e・
277マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 01:24
>>273
 大阪にオリンピックが似合わないように
 阪神に優勝は似合いません――
>>274
 私はいつだって元気です。

 いまさらに名づけることの不思議さを味わいました。
 言葉はどのような状況であれ、権威的なものを持つのですねぇ。
 ハヤクアガレ・・ハヤク・・
278考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:33
ごげんてきなしょうこを度外視してみるとれすね、
「そんざいとじかん」でおじたんはへらいれいとすの断片を引用しながら
真理がもともとは隠れなさであったことを推測してみせているのれす。
本書をもっているしとは、44節のbを読むとよいのれす。

ロゴスを理解しているしとに対して、へらくれいとすはロゴスを分かっていないしとを
対立させているのレス。ロゴスを分かっていないしとにとっては、ロゴスは悟られずに
隠れている、つまり忘れられているのれす。
そういうわけで、ロゴスには隠されていないという性質があることになりまう。
ロゴスが真なるものであるとすれば、真理とは隠されていないことという結論が出てくるのれすね。

おじたんは古代ギリシア人たちの言葉を読み解くために、ずーっと伝統的に培われてきた解読法を
すっとばして読もうとするのれす。
279考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:49
がいしゅつだが、ののたん、詳しい。
マルティン・ハイデガー=ののたん=55=ハイデッゲル?
280マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 01:52
>>278
そうですね。ですが覆いを取る、という作業の持つダイナミズムや
否定(無い)の持つ積極的な働きを、私がいつ、自覚しはじめたのか。
それは古代ギリシア思想の解釈に端を発していたのか、それとも、
私にそういう志向があって、それを解釈の際に投影したのか、そのへんは不明瞭ですね。
ちなみに初期講義の年代を書いておきましょう。
1919「哲学の使命について」
1919ー20「現象学の根本問題」
1920「直観と表現の現象学」
1921「宗教的生の現象学」
1921-22「アリストテレスについての現象学的解釈」
・・・1922年に成立したいわゆる『ナトルプ報告』、これは『存在と時間』の
プロトタイプだといわれており、ここでは既に「無い」の積極的な叙述があります。
ということは、それ以前ということになりますね。う〜ん。
281考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:53
やめなよ、そういう詮索。
これまで通り、マターリ逝こう。
282考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:54
武士の情じゃ、早あげに協力しよう。
>279 もう野暮はやめな。
ハイデガー先生は根はいいやつみたいだしね。
283考える名無しさん:2001/03/01(木) 01:55
ののたんはせかいにひとりしかいないのれす
284279:2001/03/01(木) 01:57
スマソ。反省する。
285考える名無しさん:2001/03/01(木) 02:00
>>280

>・・・1922年に成立したいわゆる『ナトルプ報告』、これは『存在と時間』の
プロトタイプだといわれており、ここでは既に「無い」の積極的な叙述があります。
ということは、それ以前ということになりますね。う〜ん。

この文章は、つまり、「ナトルプ報告」の時にはアレーテイア=非隠蔽性
という解釈がまだ出てきていなかった、という意味ですか?
286考える名無しさん:2001/03/01(木) 02:05
俺、なんかののたんのことが好きになってきたかも。
ネカマでもいいからどんどん書き込んでくれハアハア
287考える名無しさん:2001/03/01(木) 02:11
このスレ、かなり勉強になるぞ。
おれの卒論研究のためにも、みんなもっと書き込むのだ!!!

288マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 02:11
>285
いえいえ、その時点でアレーテイア=非隠蔽性 という解釈があったということ。
ちょうと手元にあるので引用しましょう。
「アリストテレスは、それ自身において隠されているということを積極的なものとみなしていた。
また「真実」の意味がギリシア人にとって、単に文法的ではなく意味の上からいっても
欠如によって特徴づけられているのは偶然ではない。・・存在者とは、ただ単にそこにあるだけではない。
それは「課題」である。包み隠されていないという在り方をした存在者とは、失われてしまうことがないように
真実化(verwahren)の中に取り込まれ保存されねばならない。」
28955:2001/03/01(木) 02:45
私は初期の先生のことはほとんど知らないのですが、
最近は初期フライブルク時代のことを調べるのが
はやりみたいですね。
何かいい参考文献があったら教えてください。
日本語で読める奴きぼん。
290マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 02:59
>>289
 そうですね、私の講義録でいうと1923年の『事実性の解釈学』が薄くて手軽です。
 研究者の本でいうと、茅野良夫『初期ハイデガーの哲学形成』かな(厚いけど)。
 あとレーヴィットの回想録が、初期フライブルルク時代の雰囲気を伝えています。
 私が評価していたパウル・ナトルプ、ディルタイの娘婿であるミッシュ、
 フッサール先生や数多くの日本の留学生、ホルクハイマー、ルカーチ、ガダマー等々、
 初期フライブルク期はキャラが豊富ですね。

 じゃあきょうはこの辺で〜
291四迷木皮:2001/03/01(木) 04:29
なぜ大恩あるフセアルHusserl先生をいぢめた!?
292考える名無しさん:2001/03/01(木) 04:46
>>224>>291
やめなよ、もう。
293考える名無しさん:2001/03/01(木) 06:22
>>287
他人任せではいけません。
294考える名無しさん:2001/03/01(木) 07:50
>287
あなたもなんか書きませう
295287:2001/03/01(木) 13:52
いや、ののたん始め、レベルの高いレスが多いんで、
ちょっと気後れしちゃうのさ。
ま、おれなんてどうせ、渡辺次郎氏の本から『存在と時間』の
問題点を拾ってきて,適当にハイデガーにいちゃもんつける
くらいの卒論しか書けないだろうけど。
どのくらい勉強したら、ハイデガー氏やののたんみたいに詳しくなれるの?
とりあえずそれを聞きたい。
296考える名無しさん:2001/03/01(木) 23:10
そうですね、だいたい、一日に15時間の勉強を
四年間ずっと続けるといいでしょう。
一日でも休むとだめですよ。
297マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 23:32
わんばんこ!!
298考える名無しさん:2001/03/01(木) 23:35
あ。先生だ。アゲ。
299マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 23:37
わが師匠フッサールについては、フッサール専門家の方からもレスが欲しいところですね。
いちおう前期の私の立場は現象学ですし。
それはそうと私が表立って現象学批判をはじめるのは
1925年講義「時間概念の歴史への序説」でさすね。
1923年にフライブルクからマールブルク大学へと移って、つまり
フッサール先生の影響下から逃れて二年後のことです。
我ながらいい根性をしてますね。
300マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 23:38
キリ番ゲットゥ!!
301考える名無しさん:2001/03/01(木) 23:39
現象学批判といっても、先生が嫌いだったのは
『イデーン』以降の現象学ですよね。
302301:2001/03/01(木) 23:41
用事ができたので私は落ちます。
ネタの振り逃げごめん。
303マルティン・ハイデガー:2001/03/01(木) 23:52
>>301
そうですね。イデーン以降は当時の私にはデカルト主義への退行のように感じられたのです。
304四迷木皮:2001/03/02(金) 01:29
なぜ大恩あるフセアルHusserl先生をいぢめた。
305マルティン・ハイデガー:2001/03/02(金) 01:46
訴追の恐れがありますので!!
306考える名無しさん:2001/03/02(金) 02:07
ハイデガーさんはなぜハイデガーさんになったのですか?
論理的必然?歴史的必然?それとも状況の産物?
フッサールさんの弟子だったから?
ただの気まぐれ?
同時代の他の哲学者のようにならなかったのはなぜ?
307考える名無しさん:2001/03/02(金) 02:21
目立ちたがりやだからです。
308マルティン・ハイデガー:2001/03/02(金) 03:02
>>306
 これはそうですね・・考えさせてください。
 ちなみに私の伝記的著作を紹介しましょう。どれも分厚いです。
 フーゴ・オットー『マルティン・ハイデガー』
 ザフランスキー『ハイデガー』
 ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』

 今日は用事ができたのでこの辺で。
309考える名無しさん:2001/03/02(金) 15:07
あげとこう
310キュリーよ!:2001/03/02(金) 18:31
私はキュリー婦人あるよ!
!スレ違いね〜!失礼ぶっこいたね〜)わら
311考える名無しさん:2001/03/03(土) 00:37
空開所(Lichtung)とか現っていうのは、
存在了解と同じ概念と見てよろしいか?
312311:2001/03/03(土) 07:22
よろしいかったらよろしいか?
313名無しさんの主張:2001/03/03(土) 07:28
時空を超えてやって来たのですか?
さすがですね(藁
314考える名無しさん:2001/03/03(土) 10:07
いいえ。クレムリンで改造されたらしいのです。
315考える名無しさん:2001/03/03(土) 15:49
先生にとってテツガクとはなんですか?
316マルティン・ハイデガー:2001/03/03(土) 23:24
静かな夜ですね。いかがお過ごしでしょうか。
317マルティン・ハイデガー:2001/03/03(土) 23:28
>>311
 すごい訳ですね。Lichtungは通常は「開(ひら)け」或いは「空け」と訳されるのでは。
 ちなみに存在了解は前期の思想、開けは中期以降なので、単純に同一視することはできません。
>>315
 全てです。私は哲学を利用しましたし、強要もされましたので。
318マルティン・ハイデガー:2001/03/03(土) 23:28
なんでもこいや。
319考える名無しさん:2001/03/04(日) 00:13
>>318
それじゃ質問!先生にとって2ちゃんとは?
320マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 00:24
>>319
 ううむ・・・・そうですね。
 哲学に肥大化した知識ではなく、ただ問いの真剣さと返答のセンスを要求する
 私の立場からすれば、
 なかなか面白い場所ではありますよ。
 他の学問板のように「萌え」スレの乱立になってない点は評価できますよね。
321名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/03/04(日) 00:26
先生のストレス解消法は?
322マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 00:39
>>321
 昔はスキー、サッカー観戦、散歩でした。
 今は・・・・そうですね・・・う〜ん。
 皆さんは何ですか(笑)?
323考える名無しさん:2001/03/04(日) 00:39
先生はどうして自分の思想を著作として世の中に発表したのですか?
お金のため?
名誉?
人々に自分の思想を知ってもらいたかったから?
324マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 00:48
>>323
 言いたいことがよく分かりませんが・・
 私が完全な著作として発表したのは、1929年の『カントと形而上学の問題』だけです。
 『存在と時間』ですら、その構想からすれは半分の未完です。
 しかもこれは、半ば私の意図に反して出版されました。
 大学教官としての著作の少なさを文部省に指摘されてのことでした。
 もっとも、自分の思想を知ってほしいという野心はありましたよ。
 
325考える名無しさん:2001/03/04(日) 02:31
もしも、ひとつだけ願いが叶えられるとしたら
何を望みますか?
326考える名無しさん:2001/03/04(日) 05:36
transzendentalという言葉の訳語が、理想社版全集の『カントと形而上学の問題』(木場深定訳)では「超越的」となっています。理由があってのことかと思うのですが、先生にとっては、超越的と超越論的との区別はどのようなものなのでしょう。カントとは定義が違うのでしょうか?
327名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/03/04(日) 05:52
好きな女性芸能人は?
328マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 06:21
>>325
 そうですね、宇宙から地球を見たいです。
>>326
 うう〜ん、これは難しいですね。訳としては「超越論的」が正しいと思います。
 いろいろな存在者との関わりを存在的(ontisch)と言い、
 これを可能にしている現存在の実存論的な構造を存在論的(ontologisch)と呼ぶなら、
 経験的→存在的
 超越論的→存在論的
 という翻訳は、いちおう正しい手続きを踏んでいると思います。
 問題はカントにおける「もの自体」を私がどう処理しているか、ということですね。
 なぜならもの自体とは、カント的には、表象不可能な「超越的」存在ですからね。
 もういちど整理しましょう。
 カント的文脈では現象―もの自体、の二項が基準です。
 で、物事の本質もそれに対応する形で領域分けがされると思います。
 つまり現象界では物事の本質とはその現象であり、悟性によってカテゴリーの形式が与えられる直観内容ですね。
 で、もの自体というか、理念的存在の本質については、カントはその領域をせばめると思います。
 つまり、道徳的な格率が適用されるわけですね。
 たとえば、現象界においては、物質の因果関係に自由はほぼ認められません。ここでは自然法則が支配するわけです。
 他方、道徳行為としては、意志の自由が――しかもただこれだけが――認められるわけです。
329考える名無しさん:2001/03/04(日) 06:21
世界内存在って何ですか?
330考える名無しさん:2001/03/04(日) 06:31
>328
意志の自由の規定根拠としての道徳法則について、あなたはいかに処理されていますか。
ご教授下さい。
331考える名無しさん:2001/03/04(日) 06:31
>>328

それは、超越論的観念主義と経験論的実念論の区別ですか?
それにしてもハイデガーさん、イヤに遅くまで起きてるんですね(笑

332考える名無しさん:2001/03/04(日) 06:33
彼女はいないのですか?
333マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 06:33
で、問題はこういう領域分けというか、住み分けが私の場合、
ほぼ考慮されていない、という点にあります。
つまりわたしにとっては、現存在とは、科学的な表象行為を超越論的に基礎づけている当のものであり
同時にこの現存在は、科学的な表象操作を逸脱し、これを超越する主体でもあるわけです。
例えば『存在と時間』では
表層)科学的表象(ものをその眼前存在から見る)
 ↓
 ↓)実践的行為(ものをその手元存在から見る)
 ↓
 ↓)科学的、実践的行為の破綻、意味の喪失(不安、世界が無化すること)
 ↓
根源へ

という感じです。↓へむかっては、現存在はある意味「自己超越」をしてるわけです。
日常的な自己理解からの逸脱ですね。でも↓は↑にもなりうるわけ。
なぜなら、不安のなかから生まれる本来的な存在理解こそが、世界についての新しい意味づけを担うわけだから。
だから超越的=経験からの逸脱、じゃなくて、
超越的=新たな経験の創出であり、これを基礎づけるもの=超越論的、というわけ。
334マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 06:37
問題はなぜカント的な領域区分を私がしていないか、ということだけど、
これはおそらく師匠フッサールの影響だろうね。
現象学は現象と本質とを分けるのではなく、現象の中にこそ本質をみようとする。
フッサール先生は知覚の問題ばかりやってるけど、これはある意味、知覚の問題を普遍化することでもあったんだ。
つまり意識に与えられた現象こそが全てだ、と。で、その上で現象からその本質的なカテゴリーを抽出する。
本質直観とか、現象学的還元というやつね。
335マルティン・ハイデガー:2001/03/04(日) 06:42
もう寝ます。つーかさっきまでうたた寝してた・・
>>327
鈴木あみたんハァハァ
>>329
明日レスします。
>>330
これもややこしい。明日レスします。
でも基本的に私は倫理的問題を扱っていません。
>>331
>超越論的観念主義と経験論的実念論の区別
もう少し詳しく説明お願いします。
>>332
エルフリ−デが死んでからは一人だよ。さびしいよぅ・・

336考える名無しさん:2001/03/04(日) 11:00
高校の倫理では先生を実存主義者のひとりとして紹介しています。紹介はこんな感じです。
『日常的な現存在とは平均的で非本来的な「ひと」であると指摘し、自らが死への存在であることを直視する本来的自己をとりもどすことを説く。』
何か不満ありませんか?また、自分で思想を短く要約するとしたらどう書きますか?
337ななしくする:2001/03/04(日) 12:00
『カントと形而上学の問題』のなかで先生は、感性と悟性の綜合、
両者を媒介する構想力の問題について、次のように書いています。

「『純粋理性批判』第一版の基礎づけにおいて、いわば一瞬の間だけ開かれた
<超越論的構想力>への見とおしは、第二版において再び覆い隠されることとなった。
超越論的構想力に根ざす根源的な人間の本質理解は、カントが『我々には知られざる根』
について語ったとき、カントがのぞき込まなければならなかった<未知のもの>である。
・・・・カントは超越論的構想力のさらなる根源的な解釈を遂行しなかった。反対に、
カントはこの知られざる根から退避したのである。」

感性と悟性は構想力によって綜合される。しかし構想力を感性と悟性の共通の根と見なすと、
感性と悟性の二元論は崩れ、構想力一元論に転化してしまう。カントはそこで逡巡した。
じゃあ、いったい、どうすれば感性と悟性をうまく綜合できるんだろう。
先生の意見を訊かせてくらはい。確か、時間性の問題につなげていたと思うんだけど、
根本的な解決にはなっていないと思いまする。

338レヴィナス:2001/03/04(日) 16:36
わたしはどうやらあなたのことを誤解しすぎていたようです。
あなたの存在論のなかにもエートスの倫理を読みとることができる。
しかし、しかしです。やはり「存在することの彼方へ」としての倫理はない。
あなたの息子がもしロシアの収容所で死んでいたとしても
あなたの存在論は変わらなかったのでしょうか?
339考える名無しさん:2001/03/04(日) 16:36
・・・
340マルティーン・ハイデガー:2001/03/04(日) 17:59
こんにちわ。今大学です。
>>337
カントには構想力一元論はヴォルフ以来の表象一元論への退行にしか見えなかったはずです。
ですからカントは、第一版を重視するフィヒテを批判するわけですね。
カントにしてみれば、感性と悟性との間に、両者の共通した根源を設定することは、
再び形而上学へと逆戻りすることでしかない。批判哲学としては、それは何らの解決にもならないわけです。
わざわざ領域区分した意味がないっちゅーねん、てな感じなわけ。
私の場合、むしろフィヒテ的な解決を模索しつつ、同時に普遍的理性ではなく、人間のカント的な有限性を
強調しようとする、いいとこどりを模索していた、と言えなくもない。
>>338
相変わらず意味不明です。「存在することの彼方」とは何でしょう。
息子がもし・・とはどういう意味でしょう。
というか、それ以前に、あなたの言う「倫理」なるものの定義を教えてください。
341マルティーン・ハイデガー:2001/03/04(日) 18:20
>>329
「世界−内−存在(In−der−Welt−sein)」
字義通りには「世界の内にいること、あること、またこういう事実そのもの」という感じですが
むしろ「世界へと出ていること、世界にさらされていること」といったほうがニュアンス的には近いですね。
一般的には、主観ー客観関係へと限定された科学的表象以前にある、世界との実践的な関わりとその場面
を意味しています。
>>330
倫理については難しいですね。わたしの存在論は倫理的要請も含んでますから、確かに。
ひとついうと、私は「倫理(エートス)」をギリシア的響きから理解しているということ。
つまり政治的な意味あいも含まれている、と考えて差し支えないと思います。
カントの道徳律とは違うようです。

じゃぁまた夜に。
342考える名無しさん:2001/03/04(日) 18:31
>>340
カントは、何故、感性と悟性との共通の根、なんてことを言ったんでしょうね。
何かアイディアあります?
343ななしくする:2001/03/04(日) 22:20
>私の場合、むしろフィヒテ的な解決を模索しつつ、同時に普遍的理性ではなく、人間のカント的な有限性を
>強調しようとする、いいとこどりを模索していた

ちぇんちぇい、もう少し深く突っ込んだ話が訊きたいのれす。
344考える名無しさん:2001/03/05(月) 01:44
>>341
>「世界の内にいること、あること、またこういう事実そのもの」
なんじゃそりゃ。
ハイデガーを名乗るには・・・・役不足。
もっとかみ砕いて説明してみ。
345考える名無しさん:2001/03/05(月) 01:55
たしかに341ではよく分からんね。
ハイデッガ^の世界って概念がもってる独特の
意味合いを説明しなきゃ。
でも、カキコでそんなことやろうと思ったら、
すげー長文になっちゃうよ。
346考える名無しさん:2001/03/05(月) 02:20
にんげんが「世界の-中に-居ること」の「中に」(in)は、
ものが別のものの「中に」あることとはちがうと、おじたんは
言うのれす。例えば、水がコップの「中に」あることの「中に」は
もの(水)ともの(コップ)の空間的な位置関係しか意味していないれすね。
おじたんは、こういう意味での「中に」を「内部性、世界内部性」と名づけて、
にんげんが「中に」居ることの「中に」と区別したのれすね。
 にんげんが「世界の-中に-居ること」の「中に」の意味を、おじたんは
古代語の「中に」(in)の意味から採ってきたのれす。古代語ではinは
inanれした。inanとは、慣れている/住んでいる/愛着があるとかを
意味していたのれす。だから「中に」はもともとは、単にものが別のものの中に
あるという位置関係以上のことを意味していたのれした。
 というわけで、「世界の-中に-居ること」は「世界に-住んで-居ること」なのれす。
347考える名無しさん:2001/03/05(月) 02:48
うん。だから、世界って言葉で
何を言ってるかが問題なんだよね。
今夜は先生は来ないみたいだから、
ののたん、代わりに解説してくれないかな。
おれもしょせんは素人だから、
ののたんのほうが詳しいと思うんだ。
348考える名無しさん:2001/03/05(月) 02:51
木田元氏は<世界内存在>の概念とユクスキュルの<環境世界>の概念の
関連を頻りに強調なさっていますが、これはメルローポンティー読みの
バイアスが強過ぎるのではないかと愚考するのですが、
この点について如何御考えでいらしゃいますか。
349考える名無しさん:2001/03/05(月) 02:53
「生物はそれぞれ独自の環境世界に生きている。
人間もまた人間に固有の環境世界の中に生きている。
これをハイデガーは「世界内存在」と名づけた。
こう言うとわかった気になるだろう。
しかしこのように解することはよくある誤解である」
らしい(細川@一、ハイデガー入門、137頁)
350347:2001/03/05(月) 02:53
リクエストしといて無責任だけど、
おれ、もう寝る。
ののたん、ごめん。
351考える名無しさん:2001/03/05(月) 03:42
わかったのれす。

おじたんは「そんざいとじかん」では、にんげんが生活しているところ、身の回りの世界
を分析すると言っていたんれす。そんで、この世界を世界として可能にするもの、世界性を解明しようとしたのれす。
にんげんは「世界の-中に-住んでいる」とき、具体的には夢を追求していたり困りごとを解決しようと努力していたり
あるいは仕事に忙しくしていたり、遊びを楽しんだり、なんにもしないでぼけーっとしたりしているのれすね。
こういうことはぜんぶ「世界の-中に-住んでいる」ことなのれす。なぜかというと、夢や困りごと、仕事とか遊びはぜんぶ
「世界」の出来事だからです。またぼけーっとしていることには「世界」がないのではなく、にんげんが仕事や遊びといった
「世界」の出来事から疲れて身を引いていることなのれすから、これも「世界の-中に-住んでいる」だと言えるのれす。
「-を追究する/-を解決する/-に忙しい/-遊ぶ/(-)ぼけーっとする」は、「-住んでいる」ことのいろんな仕方なのれす。
 じゃあ「世界」そのものとはなんなのれすか?「世界」がどういうものとしてそこに住むにんげんに受け止められているとき、
夢-を追求したり、仕事-に忙しくしたりすることができるのれすか?ここで「世界」の「世界性」という問題が出てくるのれす。
例えば仕事に忙しいとき、にんげんにとって「世界」は「住み甲斐のあること/有意義なこと」として現れているのれす。
「世界」が「住み甲斐ある」から、にんげんが仕事のようなものを見つけれて、同時に「(仕事に)忙しくする」ことができるのれす。
「世界」の世界性とは「住み甲斐あること」なのれす。
 
352348:2001/03/05(月) 04:14
349さん、ありがとうございます。
早速、御教示いただいた本を買い求めて読んでみたいと思います。
このスレッドは「住み甲斐」があるようですね。
353182 344:2001/03/05(月) 10:54
>>345
ならねぇよ、別に。
ここのハイデガーがガキなだけ。

人間てゆうのは「客観的世界」の中に居るわけじゃなくて、
それぞれが個々に持っている世界像の中を生きている。
「世界内存在」とは単にそれだけのこと。要するに「世界」の現象学的解釈。
354考える名無しさん:2001/03/05(月) 10:57
それに囚われれば囚われるほど、世界像(ひらたくは世界観というね)は緻密になるけど、
他人と共通する理解を得たり生存に適した行動をするのに不都合なものになっていくということだね。
355考える名無しさん:2001/03/05(月) 12:42
>>353
ハイデガーのどの時期を扱うのかによっても
違ってくるかもしれないけど、
『存在と時間』の時代だったら、そういう解釈は
成り立たないと思うんだが。
356考える名無しさん:2001/03/05(月) 14:12
ハイデガーおじさん、なんでそんなにろんりてきしこうが
へたくそなんですか?
ぼきゅのめいせきなあたまではあなたのいってることが
りかいできないのです。
357考える名無しさん:2001/03/05(月) 14:15
>>353
「世界内存在」が個々の「世界観」をいきる人間のことなら、
「世界の世界性」ってのはどういう意味になるんだ?
だいたい、「個々の世界観」てのは存在論と何の関係もない。
「世界観」という概念自体、「哲学」以前の概念じゃないの?
358考える名無しさん:2001/03/05(月) 14:16
>>357
世界ってのに二通りの意味があるのを使い分けて書いてよ。
スコラ哲学でいう自然とか、その類の書き分けでいいからさ。
359マルティーン・ハイデガー:2001/03/05(月) 17:18
こんにちわ。今大学です。
>>353
 解釈がちょっと違います。
 個々の世界像ということですが、これでは私が世界−内−存在の間主観的な契機を先行させた意味がなくなります。
 人間はまず「ひと(das Man)」という形で、匿名的、公共的かつ時代精神的な集団性を帯びて現われるのです。
 それに個々の世界観が独立してあらわれる、という相対主義的な世界像は、私が既にヤスパースの
 『世界観の心理学』の書評で批判したものです。
360考える名無しさん:2001/03/05(月) 17:19
>個々の世界観が独立してあらわれる

集合的な世界観に先行して…ということでしょうか。
361マルティーン・ハイデガー:2001/03/05(月) 17:26
世界−内−存在という概念自体、非常にややこしいものなので
私は先ず概略的な定義だけしてしまいました。すいませんです。
いろいろ問題提起が起こってきた所なのでちょっと見て行きましょう。
まず「環境世界」あるいは「周囲世界(Umwelt)」についてですが、
これは、世界について客観的で事物的な表象をおこなう以前に、人間がその周囲世界と“親しんでる”とか
なじんでる、という状況を指します。要するに動物が世界とのプラグマティッシュな関わり、或いは
動物“なり”の世界解釈に埋没し、これをアタリマエのものとして享受している、そういう状況ですね。
ネコにはネコの、ネズミにはネズミなりの世界がある、と。
こう考えると、木田元氏が世界−内ー存在=環境世界、といった理由もわかります。
362考える名無しさん:2001/03/05(月) 17:27
>>361
主婦が自分の家の台所の様子をやたらに詳しく知っているとか、そういう状況ですね。
363マルティーン・ハイデガー:2001/03/05(月) 17:39
ここからがややこしい。
上のような「環境世界説」をとると、どうして問題なのかというと、
それは動物と人間との間の「世界解釈」の違いが、程度の違いでしかなくかるから。
人間はやしかにネコよりも“精妙な”世界解釈をしていることになる。でもそれは本質的な違いではない。
ですが私によると、唯一人間だけが、世界を世界「として」自覚することができる、つまり
周囲世界との親しみから“しりぞき”、“距離を取る”ことができる。ここに人間ならではの「自由」も生まれる。
この点でいえは私の世界ー内ー存在は、シェーラーのいう「世界開在性」に近いわけです。

木田氏もこの点は気付いてるようです。彼はここで時間性のはなしをしますね。
動物には時間がない。どれは、動物には習慣として無自覚に反復する「過去」或いは学習によって見につける「将来」
はあっても、「思い出」としての過去や、可能性として捉えられる将来はない。
これらは、いったん現在の自己から距離をとったうえで、改めてそれを対象化する、という二重の手続きが必要になる。
連続する現在ではなく、過去や将来から規定される現在、というのは、こういう二重のヒダ(?)を持っているわけです。
364考える名無しさん:2001/03/05(月) 17:43
>>363
おお、いい感じですね。より古い哲学では、その襞の奥に隠れているものを
自分、であるとか、内なる衝動(デーモン)であるだとか、
割と思いつきで恣意的に命名していた気がしますね。
365マルティーン・ハイデガー:2001/03/05(月) 17:57
たとえば時間の話しではないですが、私の言葉に「ent・fremden」という言葉があります。
ふつうは「疎遠になる」とかいった意味ですが、私の場合ちょっと違います。
まず接頭語のent、はここでは「除去する」とか「「取除く」というニュアンスがあります。
何を取除くのでしょうか。das fremdeなものつまり「疎遠」なものです。
原氏訳の『存在と時間』ではent・fremdenは「遠ざかりの奪取」とやくされてますが、ようするにこれは
遠くのものを近くに持ってくる、という意味です。これは意味深です。
というのは、それは、事象が「いったん疎遠なもの、遠くのもの」として理解されねばならない、ということを
暗に含んでいるからです。動物には思い出はない。或いは、動物は、例えば日本にいてアメリカの状況を
想像したりすることはできない。唯一人間だけが、自己の環境世界を越えた世界を想像できる。
言い方をかえれば、環境世界を拡張することができる。
それは、自己の「可能性」(疎遠なもの)を投げ入れ、再びこれを我がものにする(自己に近づける)という
二重の手続き、もしくは循環構造なのです。
こうしてみていくと、世界−内ー存在とはただたんに客観的世界以前の「ぼーっとした」世界であるばかりか、
科学的な世界像の発生契機であることも分かりますね。だから私は『存在と時間』序論で
現存在の存在構造を、諸学問が生まれ出る存在論的前提としてとらえたわけです。
366マルティーン・ハイデガー:2001/03/05(月) 18:04
 誤字が多い・・・
>>362
 ええ、そうですね。

世界−内−存在の記述は、いわゆる科学的、客観的世界「以前」の世界の記述でしょうか、
それとも科学的、客観的世界の「前提」の記述でしょうか。
おそらくここに、前期の私の立場がかかえている、ある種のジレンマがあるのです。
ここがムツカシイ!!
367マルティーン・ハイデガー:2001/03/05(月) 18:07
よるにまたきまーす
368ちゃちゃですが:2001/03/05(月) 18:09
主婦は通常、自分の台所を占める工業製品がいかなる科学的原理で作られたかを問うことはないので、
世界観をより客観的にしようと言う契機が起こりうる可能性を内在はしているのでしょうが、
それを「以前」というか、「前提」というかはちょいとむつかしいですね。
369考える名無しさん:2001/03/05(月) 18:10
ちゃちゃは>>366です。ああもうだめだ。
370ななしくする:2001/03/05(月) 20:18
せんせい、内在性を論理形式と考えていいんですか?
そーすると、東浩紀のデリダ論を思い出す。たしか第3章だっけ。
できれば、それ以上の解釈を聞きたいなあ。(自称)本人なんだからさ。
371考える名無しさん:2001/03/05(月) 21:05
「以前」か、「前提」かはつまりは、自覚の有無の問題ではないかと
思います。それはそうと、東というひとによるハイデガーさんの晩年
の文章の引用は随分と恣意的かつ皮相的なもののような気がしますが
どう思われますか?
372考える名無しさん:2001/03/05(月) 23:00
マルティンがマルティーンになったのには
意味があるのだろうか。
文体もなんとなく砕けてきてるような。
ま、いいか。
373マルティン・ハイデガー:2001/03/05(月) 23:31
ティンとティーンはパソコン(学校と自宅)によるHNの違いなのです。
374マルティン・ハイデガー:2001/03/05(月) 23:33
>>370
>内在性を論理形式と考えていいんですか?
もうすこし詳しくお願いします。
>>371
こちらももうすこし詳しくお願いします。

今日は二時ぐらいまで大丈夫・・
375考える名無しさん:2001/03/06(火) 19:21
あげとこう
376考える名無し@哲学バカ:2001/03/07(水) 01:55
>>マルティンハイデガーさまへ

関係ないことお聞きしますが、学会には入られていますか?
入られているとしたら、現在の学会の状況についてどのよう
におもわれますか?
わたしは、哲学関係では日本科学哲学会会員ですが…
377マルティン・ハイデガー:2001/03/07(水) 01:55
レスがない・・・・うう。

関係ありませんがサフランスキーの『ハイデガー』通読しました。
非常に面白かったです。
私の思想に興味ないひとでも読んでください。
378マルティン・ハイデガー:2001/03/07(水) 02:01
グッドタイミング!
>>376
数箇所入っているのれす。具体名はいえませんが・・・
そうですね、一般的なことをいいましょう。学生さんもいらっしゃるようなので。
規模的には『日本哲学会』と『日本倫理学会』ここが大きいですね。
私は以前『日本現象学会』で発表しましたが、さびれた学会でしたね(ワラ
入るのなら上の2つが、まずお勧めです。
学会の現状については、どれもにたりよったりです。
『関西哲学会』は京大の同窓会だと聞きましたが、ホントウでしょうか?

これから入ろうとする若い研究者は、単に発表して実績をつむ場所だ、
ぐらいの割り切り方で望んだほうがいいんじゃないでしょうか。
或いは、別に哲学系の学会にこだわる必要もないように思います。
379考える名無しさん:2001/03/07(水) 02:09
すいません。
質問です。
将来において観念論的な哲学が復活する
ということはありえない話でしょうか?
380考える名無し@哲学バカ:2001/03/07(水) 02:12
>>378
なるほど。現象学会は規模が小さいようですね。科哲は
ただ興味で入っているだけです。倫理学会は規模も大きいし、
他の学会と違いイデオロギー対立がなくていいですね。

関西哲学会は僕は知りません。すいません(汗

しかし、ハイデガーなど読んだこともないので
お勉強させていただいています。たいへんですね。
これだけレスするとは(笑

私の専門は細かいこというとあれですので、
おおまかにいいますと、英米系社会道徳哲学です。

これからも、がんばってください。私はほとんどレスできませんが。
私は以前カントの道徳律についてたずねた者です。

ではでは。
381マルティン・ハイデガー:2001/03/07(水) 02:17
>>379
 む・・・そうですね。難しいですね。
 でも日本の教授、助教授世代はいまだにドイツ観念論を経由されてきている
 かたが多いみたいですが、他方で観念論がアクチュアリティを持ち得ることは
 非常に困難だと思います。
 特にオウムの事件の余韻がまだ残ってますからね。
 ただ、体制としての観念論が下火になったとしても、観念論“的”な思考、
 つまり思弁的精神のエネルギーは――もしそれが哲学的志向を持つ人間に
 なかばアプリオリに存在するのだとすれば――何らかの表出対象を見つけることになるでしょう。
 観念論以外の分野にその代用を求めるかもしれませんね。
 フロイト的な話ですね〜
382マルティン・ハイデガー:2001/03/07(水) 02:22
>>380
 英米系社会道徳哲学・・・ロックやポップズあたりでしょうか。
 最近でいえばローティーとか・・面白そうですね。

 お互いがむばりましょう!
383考える名無し@哲学バカ:2001/03/07(水) 05:43
>>383
レスありがとう!ロックもホッブズも射程範囲内というところ(笑
ローティーは勉強不足で読んだことない(汗

そうですね。あなたの口調はまじめで、ここでは一番好感が持てますよ。
ときたまくだらない質問することあるけど、よろしく!
384考える名無しさん@哲学バカ:2001/03/07(水) 06:37
>>マルティン・ハイデガーさんへ
今日はちょっと徹夜なんですが、もうひとつ聞きたいんですが、
ハイデガーの著作の中で、社会・道徳に扱ったものはありますか?
もしあるなら、お教え下さい。
385考える名無しさん@哲学バカ:2001/03/07(水) 06:38
ちなみに383と384はわたしです。ハンドルネームに「さん」をいれました。
386考える名無しさん:2001/03/07(水) 07:08
先生でも死ぬのは怖いですか?
387考える名無しさん:2001/03/07(水) 09:20
哲学者が先か、社会変革が先か?
ルソー→フランス革命。
ヘーゲル、マルクス、レーニン→ロシア革命。
哲学者が社会変革を生んだのか、それとも
社会変革待望の空気が哲学者を生んだのか。
先生はどう思われますか?
388考える名無しさん:2001/03/07(水) 10:32
ルソー→フランス革命
ってのはちょっと眉唾だな。
厨房としては合格だけど。
389考える名無しさん:2001/03/07(水) 11:03

あほか。

社会変革は、唯物論的に生起するにきまっとるだろうが。
社会変革を説明する上では、哲学者などに意味のあるレベルの影響力は付与できない。

社会契約説なんていうあんなくだらないフィクションを真に受けてどうするんだ。
あんなもん、あってなもなくても関係ない。

390考える名無しさん:2001/03/07(水) 11:10
>>389
ああいう現実離れしたフィクションだから、政治的感覚の鈍い庶民に受け入れられて
革命で社会体制が崩壊する最後の一押しに役だったということだとおもうんですが。
391388:2001/03/07(水) 11:39
>>390
当時のフランスの識字率をかんがえませう。
392考える名無しさん:2001/03/07(水) 12:07
>>391
アジ演説というはあったでせう。
393考える名無しさん:2001/03/07(水) 12:33
あったでせう
394考える名無しさん:2001/03/07(水) 13:40
当時のフランスでは、ルソーはあんまり読まれていないし、
読んでるとしてもかなり誤解が入ってる。
395考える名無しさん:2001/03/07(水) 13:51
>>394
革命当時のロシアでのマルクスの扱いも同様でしょう。
396マルティン・ハイデガー:2001/03/08(木) 00:14
おばぁぁんです。
>>384
 う〜ん、しいて挙げるとすれば『ヒューマニズム書簡』ですかね。
 1940年代の小論で、当時一税を風靡していたサルトルやマルクス主義についても
 ちょっと触れています。
 文庫でもありますよ。
>>386
 当然。
>>387
 当然、社会変革のほうが先でしょう。哲学は万能ではないのですから。
 哲人政治のプロジェクトは既に2000年以上前に失敗してますからねぇ。
 でも変革を導く当人の価値観やイデイロギーの持つ形而上学的前提を考えれば
 哲学と政治が全く別物、ということでもないようです。

 
397考える名無しさん:2001/03/08(木) 00:29
なんか最初は本人ですって言い張ってたのに最近そうでもないような
398マルティン・ハイデガー:2001/03/08(木) 00:30
本人です!
399マルティン・ハイデガー:2001/03/08(木) 00:31
そうこうするうちに・・
400考える名無しさん:2001/03/08(木) 00:31
ハイデガーって死んだんじゃなかったっけ。
401マルティン・ハイデガー:2001/03/08(木) 00:31
キリ番ゲットゥ!!
402考える名無しさん:2001/03/08(木) 00:32
バカめ
403マルティン・ハイデガー:2001/03/08(木) 00:32
鬱だ氏のぉ・・
404考える名無しさん:2001/03/08(木) 00:33
死んだ奴でも、もう一度死ぬことってできるのか。
405考える哲学素人:2001/03/08(木) 00:33
ハイデガーさま

相手にしないほうがいい。最近変なやつが無用スレ立てて
煽ってる変人がいるので相手にすると荒れますよ。
406考える名無しさん:2001/03/08(木) 00:33
キリ番踏み外してるのに「キリ番ゲットゥ!!」
言ってる先生の姿は見たくなかった。。
自重してください。
407考える哲学素人:2001/03/08(木) 00:34
すこし様子見も必要だとおもいます。。。
408マルティン・ハイデガー:2001/03/08(木) 00:38
死に関しては文学板で面白いレスがあったので紹介します。

名前:吾輩は名無しである投稿日:2001/03/06(火) 02:24
「楽天記」新潮文庫版の解説(佐伯一麦)よりP327−328

「あれは1987年、昭和62年の10月、『海燕新人賞』の授賞式があった夜の
二次会の飲み屋の座敷でだった。その夜デビューした新人作家の『小説は
一度死んだ形式だ』と気負いのこもった物言いが、ひとしきり座の話題と
なっていた。テーブルを囲んでいた島田雅彦や私は、『小説は死んで
いない』と反論していた。しばし応酬があった後、おもむろに古井氏が
新人作家に向かって言い放った。『君は、dieとdeadを間違えたんだよ』
笑みを湛えていたようにも見える。
小説は死んである形式だ、という認識は、新人作家も若手作家も沈黙
させるに充分だった。デッド・ゲームを宣告されたようなものだ。(・・・)
小説は死んでいる、だが死んでいるからこそ生きられるという小説の
場がある、というイメージを私は漠と思い浮かべたことだった。」
409考える名無しさん:2001/03/08(木) 00:41



        キリ番ゲットゥ!!
410考える名無しさん:2001/03/08(木) 01:40
ニーチェをどう思いますか?
411考える名無しさん:2001/03/08(木) 01:41
>408
それだったら死ぬの怖がらなくてもいいじゃん。
死ぬことは別の種類の生への移行ってことでしょ。
412考える名無しさん:2001/03/08(木) 01:46
>>411
読解力ないんだね。君は哲学に向いてないよ。
413考える名無しさん:2001/03/08(木) 02:00
>412
?
414考える名無しさん:2001/03/08(木) 08:18
ハイデガー先生と2チャンネラーの方々とのやり取り、
たいへん興味深く読ませていただきました。
でもぜんぶ読んだらとても疲れました。
いろいろと伺いたいことがあって
たくさん質問を書きすぎてしまいました。
どうか気長に答えてやって下さいませ。
返事を楽しみにしています。

>>11
「知の過剰は無意味であり、真理は単純なものではないか」と書かれていますね。
知の過剰、つまり哲学以外の諸学の過剰について
もっともよく書かれたテキストをお教えください。

>>64
あなたの心情の吐露としては分かりますが、
あなたのテキストにおける「私の死」という問題の理論的可能性について
もっと詳しく知りたいと思うのです。とくに1947年以降で・・・。

>>148
「私は人間に仕えるとともに真理に仕えてきたつもりです」。
とくに「私は人間に仕えるとともに」の部分は
どのテキストを参考にすればよいのでしょうか。

>>194
ハイデガーさん、このようなことについては沈黙するのがあなただったのでは?
415マルティン・ハイデガー:2001/03/09(金) 01:43
OBURRN!!です。
416考える名無しさん:2001/03/09(金) 01:52
そういえば先生はメタラーだったな。
417マルティン・ハイデガー:2001/03/09(金) 01:57
>>414
 自分の主張を撤回するようなのですが、いまさらながらに思うのは、
 知の過剰の正体のことですね。
 1930年代の私の講義に次のような言葉があります
 「動物にはそもそも存在の理解が欠けている・・・
  だから人間は常に、動物を越えているか、それとも動物以下であるかのいずれかだ。
  動物には実存の内的な高まりもないし、同時に転落もないのである」
 また1920年代の講義に次のような言葉があります
 「欺かれるためには、私はそもそも発見するという態度で生きている必要がある」
 私がいいたいのは、動物には存在するものとの「存在的」な関わりがあるが、
 存在「論」的な関わりはないということなのです。それは動物には存在への問いがない、という意味です。
 お分かりでしょうか。存在への問い自体が既に――もしかすると根元的な――過剰なのです。
 「はじめに言葉ありき」。神の存在の肯定は、既にひとつの過剰であり
 要するにおおいなる「うそ」なのです。
 動物はうそはつかない。欺くことはない。
 欺くということは、それ自体が事柄との過剰な関わりや取引を含んでいます。

 私は上の講義で、真理を問うのに、同時に非真理を問いました。
 自分を欺くことが、哲学にとって、したがって全ての諸学にとって本質的なことだ、という洞察があったからです。
 この辺りの話は私自身もまだ整理しきれていません。
418マルティン・ハイデガー:2001/03/09(金) 02:12
>>414
 「私の死」の理論的可能性を私の後期の作品から抽出するのはほぼ不可能でしょう。
 やはり『存在と時間』が最適でしょう。
 ですがここでは、現実問題としての「死(Zu Tode Sein)」ではなく、現存在の「死への存在(Sein zum Tode)」
 が話題になっています。
 この二つは近いようで最も遠い問題系です。前者の「死」は間違いなく個々人の死の問題です。
 ですが後者は――それは死に近づきながらもギリギリのところでそれを回避しているように思います――果たして個々人の問題に
 還元されるのでしょうか。死について語ること、それはひとつの文化的形態です。
 そして唯一人間に「死の文化」が存在することを考えると、
 死を問うこと自体が、ある種の公共性を帯びていると言わざるを得ません。それは魂の不死性にも関連することです。
 デリダの『アポリア』では、こうした私の死の実存論的規定がかかえている
 二重性が主題となっています。引用しておきましょう。
 「死が絶対的な特異性のかけがえのなさそのものを名指すとすれば、世界中のあらゆる例が、この特異性をまさしく例証することができる。
 おのおのの死は、「私の死」と言い得るあらゆるものたちの死は、かけがえの無いように思われる。・・そこから、
 例たることの最初の範例的な複雑化が由来する。つまりもはや「私の死」以上に置き換え可能なものはない」
419マルティン・ハイデガー:2001/03/09(金) 02:16
>>414
 私をめぐるドロっとした人間模様はがいしゅつの
 『ハイデガー』(ザフランスキー)がお勧めです。
 私の哲学への道がいかに“不純”なものを抱えているか、
 ということが分かりますね(笑)。

 奨学金がらみの話とか、正教授獲得のための駆け引きとか、
 まぁ現代的なアクチュアリティを感じる話がいっぱいです。
420マルティン・ハイデガー:2001/03/09(金) 02:31
>>414
 最後です。
 私の沈黙、そうですね。事実私は最後まで沈黙しました。
 アウシュビッツやヒトラーについてもそうです。なぜでしょうか。
 つまり私はなぜ「弁明」を、或いは「自己告白」をしなかったのでしょうか。
 私は告白の、つまり自身について語ることの虚偽を考えていたのでしょうか。
 アウグスティヌスの『告白』に次のような言葉があります
 「自分を賞賛する心は、私が自分を批判する場合においても、まさにこの自己批判という行為において
 自分を誘惑する」
 弁明や自己批判は、すくなからず虚偽を含んでいるものです。
 それは本心を語るのでしょうか?おそらく私は殺人の理由を問われたムルソーのような仕方で自己弁明をすることはないでしょう。
 つまり「太陽がまぶしかった」とは私は言わないでしょう。
 ですが私は、自分の行為の理由づけをあれこれと考えるもともなかったと思います。
 理由づけにつきまとう個人主義的な欺瞞に比すれば、まだ事象そのものの「匿名性」を尊ぶほうがよろしいでしょう。
 私の犯した行為、不成功に終わった私の目論見、こうした過去的な事象については、まさにその事象のもつ
 さまざまな問題をそのままに保つ限りにおいて――何らの理由づけも脚色も無意味である、と私は考えてのでしょうか。
 いずれにせよ私は沈黙していました、が私自身に対して沈黙していたのかどうか、といわれますと、
 それは別の話です。
 サブランンスキーの主張が正しければ、私は自分への恥じゆえに、自己弁明を差し控えた、ということになりますが・・
 
421考える名無しさん:2001/03/09(金) 06:25
現代日本で八面六臂の活躍をしている
宮台真司氏について先生のご意見を聞かせて下さい!
422考える名無しさん:2001/03/09(金) 07:00
『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡』を読ませていただいております。
21年1月22日のノイマン氏を巡ってのあなたさまの書簡はたいへん興味
深いものでした。先生の学問に対する真摯な姿勢がもたらす教育的措置が
先生のパーソナリティーに関する多くの誤解のもとになっているのではないかと
愚考いたしました。
先生のナチズムに関するコミットメントはある種の教育的効果を狙った
「さらしあげ」なのでしょうか。
423考える名無しさん:2001/03/09(金) 08:35
「時熟」っていう概念、もひとつよくわかりません。
どういうことなのでしょうか。
あと、『存在と時間』以外に時間論を扱ったものには
なにがあるのでしょうか。
424名無しさん:2001/03/09(金) 12:31
先生の言う「神的なるものども」ってのがよく分かりません。
宗教的な神とは違うのですか?
425考える名無しさん:2001/03/10(土) 02:57
今日は飲んだくれてんのかなあ?
426神様:2001/03/10(土) 07:02
デカ君、エンジョイしとるかね?
427語学板住人:2001/03/10(土) 07:04
>423

僭越ですが、先生がいらっしゃる前に
私個人の意見を申し上げさせてもらいます。
時熟にかんしては、木田さん以来、「自分を時間化する」と訳す
方も多くなってきました。
世界が世開する(die Welt weltet)とか、言葉が語る(die Sprache spricht)とか、
ハイデガーには同語反復的な表現がたくさんあるのですが、
世界や言葉などの存在者ではないものに英語で言うbe動詞を使うのに、
抵抗があったんでしょうね。私自身は、たとえば
「時間性は脱自的なものとして時熟する」
という文章は、
「時間性は脱自的なものとしてある」
という風に勝手に読み替えちゃってます。

あと、時間論については、有名なのは「時間と存在」
という晩年の講演ですが、ドイツ語で読んでも日本語で読んでも
よくわかりません。ツォリコーン・ゼミナールなんかは、
素人向けの本ですから読みやすいのではないかと。

428マルティソ・ハイデガー:2001/03/10(土) 14:09
曇り空の日には何か心を揺さぶるものがありまする。
429マルティソ・ハイデガー:2001/03/10(土) 14:16
>>421
 宮台氏は朝生でちょっと見かける程度であまり知りませんので
 お勧めの文献を紹介してください。
>>422
 なるほど。或いは私があからさまなナチスでもなかった点が
 詮索好きの人間の探求心をかきたてるのでしょうか。
>>423
 後半の質問から。
 1924年の講演『時間の概念』が公的なものとしては初出になります。アウグスティヌスの時間論をあつかっています。
 あと私はもともとアリストテレス研究者でしたから、彼の時間論をあつかった講義もあります。
 もっとも私は講義『現象学の根本問題』以降、晩年の『時間と存在』にいたるまで
 まとまった時間論を書いていません。
430マルティソ・ハイデガー:2001/03/10(土) 14:21
>>424
 宗教的な神、つまりキリスト教の神については問題が微妙です。
 まず思想的な点からいうと、私は「存在者」として表象される神には懐疑的なのです。
 むしろ私は、そういう偶像崇拝的な手続きをとることなく、「〜でない」という否定神学的な仕方で、
 神的な――つまり聖なる――存在について考えるわけです。
 あと現実的話でいうと、私はもともとカトリック→プロテスタント→哲学、という具合に
 宗教者としては挫折の道を歩んでいるので、その点、神学に対してはなにか期するものがあったのかもしれないです。
431マルティソ・ハイデガー:2001/03/10(土) 14:29
>>427
 あなたの言うように、「時熟」と訳すと、何か瞬間的なものの待望のように誤解されるわけですね。
 もちろんそういう面もありますけど。
 ですがzeitigenというのは、将来と既在(過去)の側から再帰的に規定される「現在」という構造も
 意味しているわけです。私が前に書いたように、距離的なものを縮減するような循環構造ですね。
 ですがこう規定してしまうと、伝統な時間論との違いがぼやけでしまう危険もあるわけで、
 zeitigenがアリストテレスとアウグスティヌスの時間論の折衷案である、という結果になってしまい、
 『存在と時間』のもつ脱構築的側面がくずれてしまう恐れもあるわけです。
432しっつもーん:2001/03/10(土) 19:59
ヘラクレイトスの言った「すべては流転する」って嘘じゃないですか?
すべてと言うからには「すべては流転する」って事も流転するんでしょ、
そしたら自己否定になっちゃうじゃん!
とすればヘラクレイトスの言ったことは、
「絶対なんて絶対ない!」とか
「僕はうそつきだ!」と同類なんじゃない?
433考える名無しさん:2001/03/10(土) 20:04
ハイデガーさんが詩を好むのは分かりましたが、
小説で好きなものはありますか?
434考える名無しさん:2001/03/10(土) 23:31
430、431は本物?それとも騙り?
435考える名無しさん:2001/03/11(日) 01:32
確かに今日だけ昼間に書き込んでる
436考える名無しさん:2001/03/11(日) 01:34
>>432
嘘じゃないだろ・・。
437マルティン・ハイデガー:2001/03/11(日) 01:58
ホンモノです。ちょっと遊んでしまいました!
438マルティン・ハイデガー:2001/03/11(日) 02:05
>>432
 ちょっと意味が分かりませんが、私は言葉の自己言及性というか、
 自己矛盾をそう変なものとは思いません。
 「この世の全ては美しい」ということは、この言葉もまた、美しさという
 形象を持つことを意味するのでしょうか?う〜ん。
>>433
 アーレントとの不倫中に、一緒にトーマス・マンの『魔の山』を読みました。
439考える名無しさん:2001/03/11(日) 06:50
そう言えば、筒井康隆が「存在と時間」の講演会を催していたな。
内容がかなり希釈化されていたが一時間でハイデガー思想を説明しようと
すれば無理もない事か。しかし、あの難解極まりないハイデガー思想を、
キーワードを要所に宛がう事によって初心者に理解させる技量は流石。
こう述べたところ、直ちにハイデガー研究者から「筒井程度でハイデガー
を理解したつもりでいて貰っては困る」と言う反論が返って来そうだが。
440考える名無しさん:2001/03/11(日) 23:49
ちょっとペースダウンしてきたが
まだまだ優良スレ。
よってアゲ。
441考える名無しさん:2001/03/12(月) 22:27
age
442マルティン・ハイデガー:2001/03/13(火) 00:10
こんばんわ!!
443マルティン・ハイデガー:2001/03/13(火) 00:16
>>439
 筒井康隆氏は私の『存在と時間』に関するCDも出しておられませんでしたか?
「世界〜内〜存在の〜♪」みたいな。

 さて、返答をいただいていない私の問いをリストアップしておきます。
 誰か答えてね。
444マルティン・ハイデガー:2001/03/13(火) 00:20
・・・・・と思いましたが面倒なので止めます(笑)

445考える名無しさん:2001/03/13(火) 01:57
>さて、返答をいただいていない私の問いをリストアップしておきます。

って、先生の側から参加者に質問ってこと?
面倒にならない程度でかるーく書いてみてよ。
ののたんなんかが答えてくれるかもしれないし。
446考える名無しさん:2001/03/13(火) 02:09
結局、ニーチェの言う超人って誰だ?
447考える名無しさん:2001/03/13(火) 02:39
筒井康隆氏の講演のカセットを寝る時に聴いていたことがある。
途中、だれ場があって、そこでよく眠れるのであった。
448考える名無しさん:2001/03/13(火) 03:02
>>446

ベタだが、キン肉マンのことではないかと思う
449考える名無しさん:2001/03/13(火) 06:23
>>448

判定・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いくらなんでもベタすぎます

ごめん。
450考える名無しさん:2001/03/14(水) 02:41
age
451考える名無しさん:2001/03/14(水) 02:59
丁寧な回答、ありがとうございました。
>>414
>>417
「存在への問い自体が既に――もしかすると根元的な――過剰なのです」。
腑に落ちました。

>>418
あなたの後期作品では「死すべきもの(たち)」という表現が散見されます。
この死すべきもの(たち)という概念における<死>は、
『存在と時間』における人間の有限的全体性を境界づける<死>と比較すると、
いかなる違いを見せるのでしょうか?

>>419
ザフランスキーの著作、さっそく探してみます。
たとえば「存在の見張り番」(『ヒューマニズム書簡』)のように
存在の真理に仕える人間はまた、人間にも仕えているという話ではなかったのですね。
このような話があなたの存在論のなかにあるのかと思い、おたずねしてみました。

>>420
有無を言わせぬ説得ブルドーザー細川亮一氏が最近出された
『ハイデガー入門』(ちくま新書)におけるハイデガーとナチズムについての理解は
いかがなものでしょう?
452考える名無しさん:2001/03/14(水) 04:04

『存在と時間』だと、人間の存在了解内容のなかにしか
存在はない、という話だったと思うけど、
後期だとどうなってるのかな。
人間なしでも存在はあるんだろうか。

人間がいなかった時代でも、恐竜とか三葉虫とかは
いたわけでしょ? するってーと、恐竜や三葉虫の「存在」は、
人間がいなくてもやっぱり成立してたように思うんだけど。

素人の質問で悪いけど、答えてよ。
453考える名無しさん:2001/03/15(木) 04:22
age
454マルティン・ハイデガー:2001/03/16(金) 00:47
おばぁぁん!
455マルティン・ハイデガー:2001/03/16(金) 00:56
ニーチェの超人については私もまだまだ勉強不足ですのでちょっと待ってください。
でも基本的に私は『ツァラトゥストゥラ』よりも『権力の意志』を優先させてますね。。
>>451
「死すべきものたち」という表現はギリシア・ローマの古典や宗教書にはわりと頻出する語のようです。
例えば私は1921年の夏講義でアウグスティヌスの『告白』を解釈していますが
ここでもアウススティヌスが、不死の神にたいして「我ら兄弟たち」のことを「死すべきものたち」と呼んでいます。
原語はどうもギリシア語のようです。
『存在と時間』では個別的な死のかけがえの無さが強調されていましたが
後期の私の著作では、死一般の価値が見えにくくなってきていることが、
絶対的な価値や形而上学の崩壊という文脈とともに問題になってきています。
細川氏の著作についてはまだ未読なのでちょっとお待ちを。。
456マルティン・ハイデガー:2001/03/16(金) 01:00
>>452
後期においても、現に―存在する可能性が人間になければ
存在が現出することはないでしょう。両者は不可分の関係にあります。
人間以前の「存在」それ自体を設定することは、存在をなんらかの実体的な
「存在者」に見立てることであって、
これは形而上学的で存在-神-論(Onto−theo−logie)的な思考なのです。
457考える名無しさん:2001/03/16(金) 06:29
452ではありませんが、
先生、>>456でのご解答は、私にはうまく飲み込めません。
もう少し詳しく書いてください。
458あぼーん:あぼーん
あぼーん
459あぼーん:あぼーん
あぼーん
460考える名無しさん:2001/03/17(土) 01:00
ここだけは荒らさないでほしかった…
毎日楽しみに見てるのに。
荒らすんなら、クソスレだけにしてほしい。
461あぼーん:あぼーん
あぼーん
462考える名無しさん:2001/03/17(土) 01:10
おなじく。なんか寂しい気持ち。
463無学の人:2001/03/17(土) 01:19
>>460
同感です。458さん、459さん、お願いします。
464マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 01:52
ウエルカム・トゥ・ジャングル!!
この程度の荒らしは慣れてます。
465マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 02:02
>>452
>人間がいなかった時代でも、恐竜とか三葉虫とかは
>いたわけでしょ? するってーと、恐竜や三葉虫の「存在」は、
>人間がいなくてもやっぱり成立してたように思うんだけど。
 もちろんそうです。ですが恐竜や三葉虫が「存在する」ということを
 それ「として」把握するということ、
 つまり「在る」ということを言語化するロゴスの次元、
 これは人間に、そしておそらく人間にのみ、可能なことです。
 前期の私はこのロゴス化の次元を、人間の存在理解へと求めました。
 後期でも基本的な線は変化していません。
 むろん「存在それ自体」により“語りかけられる”人間という具合に、
 ここでは現存在としての人間よりむしろ、何かしら実体的な「存在それ自体」に
 バイアスがかかっているように見えます。
 ですが両者は「問いと応答」「語ることと語りかけられること」といった具合に
 絶えず対応するような形で捉えられています。
 結局のところ私は、そうした言語化可能な意味地平“以外”に、
 何かしら人間の手が届くような次元を考慮に入れていないのかもしれませんね。。。。
466マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 02:03
ロゴス還元主義の魅惑はたいへんなものです・・・・
ここを超えるためには、いかなる努力が必要なのでしょうか。
467考える名無しさん:2001/03/17(土) 02:16
既出かもしれませんが・・・
ハイデガー先生がいらしてる(見てる)板は他にもありますか?
468マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 02:42
>>467
 ええ、それはもう、キルケゴールばりのいろんな仮名(HN)で・・
469わかりません:2001/03/17(土) 03:06
若輩の不勉強者ですが、ひとつよろしく。
ハイデガー先生は、最近のスコラ哲学の動向をいかがお考えですか。
先生は伝統的な存在論と形而上学とを存在忘却として退けていらっしゃいますね。
このことについては確かに多くの神学者や哲学者が議論しているところですが、
ご本心はどうですか。
なんていうんだろう、同じ存在論ということですぐ浮かぶのは、トマスですね。
先生がおっしゃられるとおり、トマスが存在忘却しているとすれば、存在と存在者の区別や、
先生が言われるところの本質存在と現実存在の区別さえトマスにはないことになりますが、
ありますよね、トマスにも。
しかも、トマスの区別には、超克可能であり先生の課題でもある存在忘却と超克不可能な
存在隠蔽の区別がありますが、先生にはおありでないとのこと。
この点をいかがお考えですか。
私には、先生の哲学が中世哲学の伝統を一気に飛び越えたからこそ成し得た思想的
自由がおありだったと思うのですが、同時に限界を示されてしまったという気が
少しばかりするのです。私には、先生にトマスと同時代の哲学的伝統を見出すのですが、
だからこそ近づかなかったかのようなものを感じていますが、
ほんとはラテン語が出来なかったりして…。
僭越でした。

470本スレ愛好者:2001/03/17(土) 05:05
>>465

こだわるようで恐縮ですが、

>もちろんそうです。ですが恐竜や三葉虫が「存在する」ということを
>それ「として」把握するということ、
>つまり「在る」ということを言語化するロゴスの次元、
>これは人間に、そしておそらく人間にのみ、可能なことです。

って、説明として有効なのでしょうか。
おそらくこれは、
「人間がいなければ存在をロゴス化できない、
したがって存在はあるともないとも言えない」
というご趣旨だと思うのですが、
これを認めるのなら、たとえば犬について、
「人間がいなければ犬をロゴス化できない、
したがって犬はあるともないとも言えない」
が成り立ってしまうような気がします。

話者としての人間のいる、いないに問題を還元してしまうのは
ちょっとどうかと。

471あぼーん:あぼーん
あぼーん
472マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 05:30
そろそろ来ると思ってましたよ。
473マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 05:31
ゆっくり観察させていただきますよ。
上の方への回答はちょっとまってくださいね。
475マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 05:55
>>470
 非常に難しい問題に直面しています。
 おそらく私の哲学的志向に関わる問題でもあると思います。
 まず私は、「或る犬が存在する」という確定記述の内容、
 つまり犬の実在性に関する経験的判断に関しては、何も述べる点がないのです。
 私が「存在するとは何か」と問うとき、それは――誤解を与えるかもしれませんが――権利問題として述べているのです。
 つまり何が“真に”存在するか、という必然性に関するものです。
 あなたのいうように、これは存在言明を話者の判断へと還元する結果にしかなりません。
 しかも私の文脈では、この「話者」とは、単独の現存在ではなく、「我々」という
 複数的人称が集まる場面、すなわちひとつの時代的な視点にまで拡大解釈が可能なのです。
 したがって私の「存在とは何か」という問いは、決して中立的なものではありえないのかもしれません。
 私の存在論が「何が真に存在すべきか」についてのドイツ民族の総意を代弁するような、
 そうしたイデオロギーへと転化する可能性もここにあるのです。
 前に書きましたが、存在への問いは見かけほど生真面目な問いではありません。
 それはひょっとしたら、いかがわしい過剰を含んでいるのかもしれないのです。
476考える名無しさん:2001/03/17(土) 06:00
>>475
すいません。先生に一つお聞きしたいと思っていたことがあります。
存在論と認識論はどう違うのでしょうか。簡単で結構ですのでお願いします。
荒らしもやんだようですし。
477考える名無しさん:2001/03/17(土) 06:02
476の私は、近現代経済学説を専攻しているものです。
478マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 06:13
上の書き込みからお分かりだと思いますが、私の問いは経験的アプローチを
かいくぐるような形で展開されます。「何が在るべきか」という問いの過剰は、
問うものの立場を超越論的なポジションへと引き上げます。歴史的に問題提起しているように見えても
実際は反・歴史的であるという側面、これは私が形而上学の歴史を「存在忘却の歴史」として考える場合でも
同じことなのです。
>>469
私はなぜ英米圏の哲学に、そして中世哲学に触れなかったのでしょうか?
不勉強からでしょうか。中世哲学に関しては、私は長く神学部で勉強していましたので
周知の分野でした。教授資格論文の主題はスコトゥスでしたし、
講義ではアウグスティヌスやルター、スアレスも取り上げました。
ですが、私にとっては哲学史を歴史学的に網羅することが必要だったのではなく、
現代という時代がいかに形而上学の歴史からその負荷を受けているか、
ということを際立たせ、それによって現在の時代状況にある揺さぶりをかけることが重要だったのでしょう。

この辺りは私の哲学の根幹にあたるものですので、細かな質問もどんどんどうぞ!

479マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 06:19
>>476
 ごくごく単純に言うと、
 存在論は「何が存在しているか」「存在するとはどういうことか」という問題設定ですね?
 認識論は「或るものが存在している、と認識するのは、どういうことか」という切り口ですかね。
 存在論では上の問いが「じゃぁ、ホントウに存在していると言えるものは何か」ということで
 例えば万物の創造主としての神サマの問題へと上昇するのにたいして
 認識論では、「認識する当人は誰か?」ということで、或るものの認識を構成し、
 基礎づけるものとしての超越論的主観の問題へと行き着くわけですね。
480考える名無しさん:2001/03/17(土) 06:25
>>479
そうしますと、先験的(究極的)主観そのものはどう認識されるのでしょうか?
主観(略します)を主観として認識することはどう考えれば?
481感心している名無しさん:2001/03/17(土) 06:33
初めてここのスレに書き込む者です。
度々ハイデガー氏の発言に耳を傾けるのですが……
つくづく「啓蒙家」だねぇ…… なんでそこまで懇切丁寧に説明してあげられるの?
オレが質問攻めにあったら、都合の良い問いにだけレス付けるか、もしくは
放棄… の二択だな(自嘲
あなたのスタイルには感心するよ。マヂで。
一体、マルティン・ハイデガー氏は何者?(笑

あ。ちなみにこれは独り言です(返答不要
482マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 06:39
>>480
 その点は微妙です。
 カント的解決)主観を主観として認識するのは不可能である(無限遡行)
 ヘーゲル的解決)理性が理性自身を自己反省的に捉える、と考えよう。
 
483考える名無しさん:2001/03/17(土) 06:43
>>482
わかりました。ありがとうございました。
社会科学では簡単に「認識」という概念を使いますので、
ちょっとおききしたかったもので・・・
484マルティン・ハイデガー:2001/03/17(土) 06:51
>>481
 私の動機はけっこう不純なのですよ(笑)
 限られたサークル内での議論ではなく、原則的に無限に開かれたサイバースペースで
 質疑応答を実践することによって、
 私の思想の欠陥が発見され、また私の思想の普遍妥当性も強化されます。
 私のほうこそ勉強させられます、というより
 勉強されられるために私はここにいる、と言っても差し支えないでしょう。

 じゃあもう寝ますね。
485ななしくする:2001/03/17(土) 08:56
>また私の思想の普遍妥当性も強化されます。

普遍妥当性を目指すなら、なぜハイデガーなど研究する。藁)
ハイデガーの問題設定は、それこそ哲学という限られたサークル内
でしか通用しないよ。 そもそもサイエンスに認識論はあるけど、
存在論はないしー。特に後期ハイデガーなんてわけわかんないしー。
なんていうーかー、そんなの、興味ない、ってかんじ―。

 
486マルティン・ハイデガー:2001/03/18(日) 00:07
>>485
 無理は承知です。
 老後はヒマなので昨日から『存在論的、郵便的』を読みはじめました。
487わかりません:2001/03/18(日) 01:17
ご返答ありがとうございました。
私にとってそのご回答はハイデガー先生らしからぬと存じます。
私の質問は、あなたが存在忘却として退けた哲学にあなたの思索を超えるものが
有ったのではないかというものでした。しかも、スコラ哲学からの反批判として
超克可能な存在忘却と不可能な存在隠蔽の区別をあなたがされていないということが
なされています。したがって、あなたが存在と時間をお書きになられた根拠そのもの
が問われているにもかかわらず、中世哲学について知っていたという程度のご回答では
不十分なのではないでしょうか。
また、確かにスコトゥスやアウグスティヌスについて論じていらっしゃいますが、
私はあなたが生涯をかけて格闘されたアリストテレスとのかかわりから、それらについて
一書をお書きになられていたということを重々承知しています。だとしたら、なおのこと、
アリストテレスを伴侶として思索したトマスについて積極的にご発言されてもいいようなものです。
それと、身体論についてですが、ツェリコーンゼミナールでは消極的なご発言がありましたが、
実際はどうですか。私は道具的存在者について存在と時間で語られていることで十分であったとは思いますが、
そこにこそ身体論などに発展するものがあったと思います。しかしそれをされていないというのは、
私にはやや不思議なのです。現存在分析だけで事足りるとお考えですか。
メルローポンティなどの思索についてなどのご感想をいただければ幸いです。
488わかりません:2001/03/18(日) 01:44
>現代という時代がいかに形而上学の歴史からその負荷を受けているか、
ということを際立たせ、それによって現在の時代状況にある揺さぶりをかけることが重要だったのでしょう。

だとしたら、ここにこそ問題の核心があるのですが、私はあなたが
反歴史的という際に、超克可能な存在忘却のみが取り上げられていると
思うのですね。
しかし、それは、歴史に対して我々がそのすべてを超克できることを
前提にしているかのような解釈を起こさせないでしょうか。
確かに、あなたは存在の歴史において近代科学が隆盛となることも
予見していらっしゃったと思うのですが、これに対して嫌悪感を
示されていたこともまた事実です。
これこそ近代的傲慢と思うのです。しかも、もし、存在を忘却した
哲学とあなたが退けられた哲学が、自らの限界をすでに定めていた
にもかかわらず、それをあなたは認めていないかのようです。
だとしたら、あなたの取られた神学に対してのスタンスが、
どうしても気になるのです。
哲学の独自性や独立性といわれるものをどのようにお考えですか。
489マルティン・ハイデガー:2001/03/18(日) 06:35
>しかも、スコラ哲学からの反批判として
>超克可能な存在忘却と不可能な存在隠蔽の区別をあなたがされていないということが
>なされています
 このあたりがちょっと分かりません。ちょっと説明をお願いしていいですか?
 ・・もちろん、何らかの超越論的審級を設定する哲学を
 全て形而上学と、つまり或る超越者を表象し、その存在については原則的に問わないような
 思考の構造を全て形而上学と呼ぶような括り方が暴力的であることは私も承知しています。

 身体論についてですが、結論から申しますと私は身体論を扱っていないような気がします。
 道具的存在については、むしろ後の私の思想にとってはマイナスの要素が多かったように思います。
 というのは、全てを「手元にあり」「利用可能である」というプラグマティッシュな観点から捉える
 私の視点は、後期の私の思想では、まさに形而上学的発想の結末としての現代技術の問題につながるからです。
 この点をメルロ・ポンティがそう考えているか、ということについては私はよく知りません。
 が、彼の場合、私の道具的存在者に関する考察をあまりに近視眼的に捉えてしまい、
 私の技術論への展望をふさいでしまうような格好になっているように思います。
 ちなみに私の前期の思想に、身体というより「空間」が欠如していた、という批判はしばしば聞きます。
 『存在と時間』っでは、時間性によって規定された空間のありようが問題でしたから。
 和辻の風土論などは、場合によっては私の時間論にたいする身体論の側からの反駁と見ることもできるでしょう。
490マルティン・ハイデガー:2001/03/18(日) 06:50
>>488
 前半のあなたの主張は正しいと思います。
 私自身、後期ではもはら「超克」という言葉を使いません。
 それは、超克するという姿勢こそが、自己を反省的に支配し、訂正してゆこうとする
 形而上学的な思考、意識の同一面が展開する表象作用である、と気づいたからです。
 後期では「耐忍」という言葉を使いますね。耐え忍ぶ、と。
 これは一種の限界規定です。
 私の思考そのものの限界の自覚です。
 だとしたら、私はどこにいるのでしょう?
 おそらく重要なのは、思考の独自性や同一性を誇ることではないのでしょう。
 存在への問いをどこに向けるか、このことが問題なのです。
 が、ここでも反駁は必然的です。
 つまり、私の思惟がその内容ではなく、その形式、「何に関して存在を思惟すべきか、という
 地理的形式」において捉えられたとしても
 (おそらく私はここでは、たとえ神学的なモチーフについてあれこれ言わないとしても
 やはり神学的に思考すているのです)
 その思惟が向けられる実質的内容や対象は
 いかなる選択に基づいているのか、と。
 私の詩論はなぜゲーテではなくヘルダーリンに向かうのでしょう。
 私はなぜトマスを無視するのでしょう。
 単なる好みでしょうか?・・・・難しい問題です。
491わかりません:2001/03/18(日) 08:29
レスポンスありがとうございます(レスだけでいいのかしら?)。
ハイデガー先生は、存在忘却を存在の歴運として我々に不可避なるものである
とお考えになる傾向がおありだったと思います。ゆえに耐え忍ぶと…。
少し時間をください。ただ、情報としてはヨハネスBロッツがハイデガーとトマスという著作の中で
展開していますので、よろしかったら、ご一読を。

あと、私がお伺いしたのは、思考の独自性云々ということではなく、
神学と哲学の関係ということになるんですね。
神学をほとんど取り上げていらっしゃらないというのは、
戦略的なものもおありだったんではないでしょうか。
トマスを批判したり、非難することは、ちょっと普通では社会的に不自由
なことになってしまうというのがあったんではないですか。
もし本当にやってしまったら、あなたがナチであったこと以上に、
世俗的には難しいことになりそうですからね。本当はそれほどでもないかも。
単なる雑談でした。
492考える名無しさん:2001/03/18(日) 17:23
先生にとっての愛というのはどうゆうものですか?
493マルティン・ハイデガー:2001/03/19(月) 00:26
>トマスを批判したり、非難することは、ちょっと普通では社会的に不自由
>なことになってしまうというのがあったんではないですか。
 ・・・事実だけを羅列しましょうか。
 私の家はカトリックでした。14から17まではカトリック系の寄宿学校へ通いつつ
 司祭養成のためのヴァイス奨学金で暮らしていました。
 さらに22まではエリーナ奨学金という、これまた司祭養成のための奨学金をうけていました。
 フライブルク大学入学後は従って、自然と神学部に入りました。
 さらにスコトゥス関係の教授資格論文を書くまで(27)、トマス関係の財団から奨学金を受けていました。
 伝記によるとこの年、私はカトリックの教授ポストに失敗し、
 なおかつプロテスタント系のエルフリーデと結婚します。
 ・・・まーいろいろあったんでしょうね(笑)
>>492
 愛・・ですか?
 人生で一度くらい実感できればいいぐらいの類のものです・・かな?
494考える名無しさん:2001/03/19(月) 02:49
>>491
>情報としてはヨハネスBロッツがハイデガーとトマスという著作の中で
>展開していますので、よろしかったら、ご一読を。

もっと詳しい書誌情報を書いていただきたい。
495492:2001/03/19(月) 03:31
ありがとうございます。考えます。
496考える名無しさん:2001/03/19(月) 03:48
あのう、わかりませんのハイデッガー理解につっこみ入れてよい?
わかりませんの書いていることはその語調の強さのわりに
誤読もしくは未読じゃないの?と思わせるところが多い・・・。
超克可能性という観点からの存在忘却と存在隠蔽の区別(これはロッツ?)とか、
トマス思想における存在論的差異(esseとensのことか?)とか、
メルロ・ポンティ身体論に対するハイデッガー哲学の影響(後期ポンティのことか?)とか、
ありがちな山勘解釈が並んでるような・・・。
スレッドの趣旨上、ハイデッガー先生がいやなら、やらないけど。
497考える名無しさん:2001/03/19(月) 19:02
永井均の<私>論についてどう思われますか?
「神秘主義に陥らない事実としての神秘性」という
ことで案外に並行性が存在するように受け取れるのですが。
498OFW:2001/03/19(月) 20:27
スレの流れと外れて恐縮ながら、一つ質問ありんす。
>>381(ハイデガー先生)
>観念論がアクチュアリティを持ち得ることは 非常に困難だと思います。
>特にオウムの事件の余韻がまだ残ってますからね。
 哲学界事情には全く疎いのですが(業界が違うので)、オウム事件に対し
 て日本の哲学者達の反応はどうだったのでしょう?
 既成宗教界の沈黙ぶりはヒドイものだったが、哲学者達も思考停止状態?
 「オウムとナチスは似ている。沈黙いずくんぞ許すべけんや?」
499御刺身:2001/03/19(月) 21:46
やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君 by与謝野晶子
500わかりません:2001/03/20(火) 00:20
>496und1
私の解釈なんて、もう山勘海勘ですよ(大学出てから十うん年)。
ただし、揚げ足を取ろうという意図は、あんまりないです(少しはあるかも)。
もっとも、あれだけ存在という言葉を使っておきながら、トマスを本格的に
取り上げた言及がないというのは、ちょっと哲学史かじると、すぐ出てくる
疑問なんじゃないかしら。
だとしても、こういういいががり的なことでなにがいいたいのかというとね、
はっきりいってしまいましょう、ハイデガー先生において、
真理とはなになのかということが知りたいんですよ。
ハイデガー先生の存在論がいわゆる通俗的な意味で存在と時間の
次元にとどまるとしたら、やはり三木清なんかが言ったりしてた人間論とか、
現存在分析の次元にとどまってしまうのだと思うのですね。
ところが、存在がそれとして語られる次元と言うのがあるのではないか、
それこそ真理という問題が主題的に語られる次元ではないか、
もっとも、次元という言葉はハイデガーにはないような気がするのですが、
そういうことを聞きたいなって思っています。
だって、存在が明らかにされることによって、どうなるのかが本当は
みんな聞きたいんじゃないですか。存在が重要なのはわかるけど。
存在が明らかになることによって、すべてが統一的に同じ地平で
語られ得るような気がしませんか(相変わらず山勘海勘です)。

それと、私の主張の元ねたですが、「聖トマスにおける知性真理の根源について」
という論文の冒頭からの引用です。
それと、この論文でも引用されていますが、
JohanennesB.Lotz,Martin Heidegger und Thomas von Aquin,Verl.Neske Pfullingen1975
が、この点の元ねたらしいです。

それと(まだあります)、メルローポンティについては私の考え100%です。
これは知覚の現象学での身体論を念頭においています。ただし、
ハイデガーのほうがすんなり理解できますね。配慮ということで
説明できてしまうわけですから(分量も短いし)。
後期ポンティは、まったく念頭に置いていません。あれはわかりません。
あしからず。
501マルティン・ハイデガー:2001/03/20(火) 03:45
>>499
 おお・・逝き、じゃなく粋だねぇ。
502マルティン・ハイデガー:2001/03/20(火) 03:49
>存在がそれとして語られる次元と言うのがあるのではないか、
>それこそ真理という問題が主題的に語られる次元ではないか、
 その通りです。私の思惟はそういう場(例えばdaという地平)そのものを問うているのです。
 つまり存在の真理、或るものがその“真の”姿で在ることができるような、
 そういう本来的次元をですね。
503マルティン・ハイデガー:2001/03/20(火) 04:05
だから私の存在論は、その初期から真理論と関係が深かったのです。
もっと深く言うと真理/非真理の区別の問題ですね。
例えば1924年頃の講義ではプラトンの『ソフィステース』が主題となりますが、
ここでは「何が存在するか」が話題となっています。ソフィストは存在し得ないものについても語る。
だがこれは、単にソフィストの誠実性に関わる問題ではない。
事柄が全て真であるなら、我々は或る対象にたいしてどうして異なった判断をするのだろうか。
「ソクラテスは賢い」「ソクラテスは醜い」これは両立可能なのでしょうか?
固有名の内容を示すのに、確定記述をいくらあつめても無意味なのでしょうか?
ほかならぬそうした確定記述の束は、どのような真理基準に基づいているのでしょうか?
あるいはそうした確定記述は、互いに置換可能なものではないか?ここにソフィストの陥穽があります。
つまり私たちは、時に誤り、時に正しいのではなく、本質的に真理/非真理の置換可能な曖昧な存在である、と。
ないものについて「ある」と言ってのけるのは、私たちの本質そのものである、と。
この講義で私は言います「錯誤の危険がなければ、同時に真理の獲得も無い」と。

『存在と時間』で私が存在問題の核心において「死」を扱ったのは、
置換不可能、代理不可能な「私」の死というものが、何が真なる形で存在するか、という判断基準において、
おそらく唯一の審級として機能するだとう、という目論見があったからです。
504わかりません:2001/03/20(火) 05:55
ハイデガー先生のおっしゃられることは正しいですね。
言葉の上で、つまり言葉の構造として文法的に正しい言表と、
対象である事物とのかかわりにおいて正しいということと、
この二つがまず区別される必要がありますね。ここに先に語られていた
世界−内−存在についての議論が生きてくるのでしょうね。
事物が了解されるというのは、写像理論のように単に受け取るのではなく、
事物を自らの世界の住人として対話し、事物の語り掛けに耳を傾けるかのような行為
そのものを指していなければなりません。
私たちは、常に世界へと開かれており、その限りにおいて改めて個々の事物
について語ることが許されているのですが、まず第一に捕らえられるべきは、
語り合うということにはすでに判断が伴っており、それは事物と寄り添うように、
行われるのだということです。
もちろん、知性には、事物を拒絶し、自らの力で対象とのかかわりを破壊することも
また正しく認められるのですが、だとしても、別の見方をすれば、そういうかかわり
をもつこと、として、事物が了解されることもあり得るということです。
なぜならは、私たちは、すでに世界へと運命付けられ、投げ出されているのですから。

ところで、ハイデガー先生が世界−内−存在について述べていらっしゃった内容ですが、
フッサールの生活世界(LebensWelt)とどう違うのですか。ちょっとこういう質問は、
せっかくだから、しとかなくちゃね。
505考える名無しさん:2001/03/20(火) 09:40
「審級」とはどのような意味でしょうか。
よく大澤氏や東氏などが用いますが・・・。
506マルティン・ハイデガー:2001/03/21(水) 00:32
>>497
 永井氏の著作は読んだことがありません。
 「事実としての神秘主義」とは何でしょう?
>>498
 公団哲学者も沈黙しています。
 それ以前に関心がないのかもしれません。嘆かわしいことです。
 仏教界以上の無関心さには愛想が尽きます。
>>504
 フッサール先生の場合、生活世界とは、科学的世界観を離れた世界ではなく、
 科学的世界観が生成するような、学の生成場面ですね。
 そういう意味では先生は「ヨーロッパ的なもの」が生成してくる場面を、生活世界に求めたわけです。
 もっともそういう遡行的手続きは、自然と歴史主義に行きますから
 晩年の『危機』や『幾何学の起源』においては、西洋の歴史の再確認的な手続きをとっているわけです。
 これは反対に読めば、フッサールの生活世界概念は科学的世界観を反照的に示すものであり
 「洗練された自然主義」(ペゲラー)に過ぎないわけです。
 で、私の場合も、『存在と時間』の場面では氏の限界内にあると思います。
 前期の私の存在概念も、ある意味では「洗練された自然主義」です。
 もっとも、ここからの脱却の契機として、不安や退屈概念が出てくるんですけど。
507マルティン・ハイデガー:2001/03/21(水) 00:42
>>505
 審級というのは法律用語ですね。
 中世の学の基本は法学、哲学(神学)、医学ですから、もともと
 互いに概念のインターコースが盛んだったのでしょう(というより、専門分野への
 厳密な分化がなかったのかもしれませんが)。
 で、この場合思い出されるのはカントですね。
 彼は「権利問題」という語もつかいますし、審級という語の由来もカントじゃないか、と予想されます。
 意味は、要するに、認識のあらゆる条項について、その内容的な基準や決定がなされる最終的な場面や概念、
 ぐらいのことでしょう。
 カントの場合はもちろん理性を指します。ドイツ観念論ではこれは一貫していますね。
 で、私の場合は「存在」ということになるんでしょうけど、
 私が「存在とは何か」と問うている以上、この審級そのものの脱構築を私は目指しているのです。

 哲学と法学との繋がりについては、スピノザやホッブスなども絡んでくるでしょうから
 誰かフォローお願いします(笑)
508考える名無しさん:2001/03/21(水) 03:28
ども。哲学厨房です。
ここのスレを読んでいるうちに影響され「存在と時間」を読みはじめたものです。
本を読みはじめてから、またここを1から読んでみたりして、参考にさせていただいてます。
ここがなかったらきっと30ページぐらいで放り出していた事でしょう。
感謝です!
ところで、前の方のレスで申し訳ないのですが、ちと気になった所が…

>>420
<<おそらく私は殺人の理由を問われたムルソーのような仕方で自己弁明をすることはないでしょう。
 つまり「太陽がまぶしかった」とは私は言わないでしょう。>>

ムルソーの発言「太陽がまぶしかった」とは自己弁明だったのでしょうか?
ムルソーは自己批判などはまったくせず、いくらなんでもこんなやついるかってぐらい正直な事しか言わない人だと思ったんで、これが自己弁明とは私には思えませんでした。
ムルソーが好きなので、ちと気になりました。
509マルティン・ハイデガー:2001/03/21(水) 05:53
>>508
 自己批判とは難しいものです。
 批判は、それがホンモノであればあるほど、容易に弁明へと結びつかないものです。
 つまりこの場合およそ弁明には、極端な場合、二種類しかないように思います。
 すなわち、完全な沈黙か(これは自己弁明による罪の軽減への欺瞞に反して行われます)
 救済とは無関係に行われる弁明です。少しも助かろうとしないような弁明です。
 ムルソーの場合後者にあたるのであろうと思います。
 殺人の理由を問われる。もちろん彼は刑に服する覚悟はある。が、一般的な価値観によって
 構造化された言語ゲームに妥協する気は無い。
「すいません、不意に相手が襲ってきたもので、つい不可抗力で・・」「おお、そうかそうか、そういうこともあるわな」
 なんてやり取りなんて冗談じゃない!太陽がまぶしかったぐらいのことで十分だ!
 とまぁこんな具合なのだろうと想像します。
 ムルソー(カミュ)は要するに、言葉の無謬性をそれほど信じているわけではないのです。
 このような人間が作家という道を選択したこと、こういう矛盾は文学者にはおおよそ普遍的な問題であろうと思いますが。

 カミュの晩年の『転落』には弁護士クレマンソーが出てきますね。弁明の(もちろん悪い意味での)達人です。
 ここでカミュは『異邦人』とは全く逆の戦略をとります。つまり弁明の拒否ではなく、
 弁護士クレマンソーに徹底的に自己批判的な弁明を展開させ、そのことによって
 自己弁明の欺瞞性をカリカチャライズしているわけですけど。

 どちらにせよ、自分を正直に“語る”とは困難なことです。


 
510508:2001/03/22(木) 00:49
>>509
にゃるほど〜。救済とは無関係に行われる弁明ですか。
弁明と言うと、助かりたいという意識があるもんだと思ってました。逝ってきます(藁

>一般的な価値観によって構造化された言語ゲームに妥協する気は無い。

これ、まさにその通りっすね。

勉強になりました。ありがとうございました。
511508:2001/03/22(木) 00:50
>>509
にゃるほど〜。救済とは無関係に行われる弁明ですか。
弁明と言うと、助かりたいという意識があるもんだと思ってました。逝ってきます(藁

>一般的な価値観によって構造化された言語ゲームに妥協する気は無い。

これ、まさにその通りっすね。

勉強になりました。ありがとうございました。
512考える名無しさん:2001/03/22(木) 05:12
>>507
ありがとうございます。原語(ラテン語?)は何ですか。
513考える名無しさん:2001/03/23(金) 00:36
>>507
 しんきゅう・・・Instanzらと思うのれす。
あ、どいつごなのれすね、てへ。
514考える名無しさん:2001/03/23(金) 00:39
>>512
 へんじするとこをまちがえちゃったのれす。
ののたんはきょうてれびにでるのれす。
515考える名無しさん:2001/03/23(金) 02:16
 
516考える名無しさん :2001/03/23(金) 03:17
ののたんマンセ〜
517考える名無しさん:2001/03/23(金) 04:51
ハイデガーさんへ。
「存在と時間」の数ある和訳のうちで、一番いいものはどれですか?
518考える名無しさん:2001/03/23(金) 06:02
>>513
ありがとうございます。カントの法廷モデルの用語でしょうかね。
だとすればクルージウスかヴォルフが元ネタになるのでしょうか・・・?

存在論と神学のはなし、つづきを楽しみにしております。

レスはいらないつぶやきですが、、
ハイデガー先生はいくつもペルソナをお持ちのようですね。
「わ○りま○ん」も one of them なのでしょうか・・・?
519考える名無しさん:2001/03/23(金) 12:39
Instanzっていう言葉、カントはほとんど使ってないみたいですよ。
むろん法律用語なのですが、意識的にこれを比喩として使っているのは
フロイトですね。
例えば、『自我とエス』を見て下さい。
超自我は自我を上位から裁く「審級」として定義されています。
520考える名無しさん:2001/03/23(金) 16:44
あげ
521あぼーん:あぼーん
あぼーん
522考える名無しさん:2001/03/24(土) 01:13
また荒しが出てきたのでSAGEますが、
このスレ、楽しみにしてます。
ぜひ哲学板の看板になってもらいたいです。

先生も質問者たちも、実はいろいろ忙しいでしょうから、
あまり根をつめずに細く長くスレを続けましょうね。
一週間やそこらレスがつかなくても、
私はのんびり待ってますよ。
523考える名無しさん:2001/03/24(土) 02:18
>>519
ハイデガーのおじたんはカントとフロイトのしんきゅうのかんがえにつながりをみているみたいなんれす。
ツォリコーンゼミでおじたんはこう言ってます。
「フロイトのしんきゅう:わたし・それ・すーぱーなわたし、は感性と悟性・理性・定言命法の言い換えみたいに思われる。」
たぶんこうなんれす。形而上学は「わたし」を主観、Subjectum(えいごだったらサブジェクトれすね)としてかんがえます。
ところが、Subjectumはヒュポケイメノンというギリシア語からきていて、これは「したによこたわっているもの・基体」
という意味らったんれす。これは単にもののそんざいに関係する言葉であって、「わたし」のようなにんげんの存在に関係するものではなかったのれす。
ところが、デカルトたんがでてきたときに、それはにんげんの存在、つまりわたしの存在を言い表すようになりました。
どういうことかというと、「わたし」が基体となることによって、「わたし」がものの存在を支えると考えだしたんれすね。
カントたんでも同じことです。「わたし」がしんきゅう、裁判所として何が認識できてできないのかを判定します。
ここでも「わたし」が認識の裁判所として、ものの存在を支えるものとして考えられているのれす。

ふゥ。きのうのののたんはがんばってちゃんとはなせたのれす。でもあいぼんはすごいなあ。はなしてるだけでみんなにっこにこれすね。
えいごはだめなのれす!てつがく的思考に堪えれることばはぎりしゃごとどいつご(それとにほんご)だけなのれす!
あめりかじんのミカたんに、きゃにゅーすぴーくいんぐりっしゅ?ときいてしまったのれす、てへへ。てれびてきにはおいしかったけど。
524考える名無しさん:2001/03/24(土) 06:27
>>523
>>519
以前『第一批判』を読みましたが、「Instanz」という言葉はあまり見覚えがなかったもので・・・。

ハイデガー先生流のやり方で構想力を法廷モデルのなかに位置づけるとどうなります?
思考実験、お願いします。 
525あぼーん:あぼーん
あぼーん
526あぼーん:あぼーん
あぼーん
527考える名無しさん:2001/03/24(土) 08:35
>>523
たしかにカントとフロイトはつながると思いますよ。
フロイト自身も「自我とエス」の中で、
「超自我」の「自我」に対する命令を「定言命法」という言葉で
表しています。
フロイトもそのあたりには自覚的だったようですね。
528あぼーん:あぼーん
あぼーん
529考える名無しさん:2001/03/24(土) 13:07
>>523
「フロイトのしんきゅう:わたし・それ・すーぱーなわたし、は
感性と悟性・理性・定言命法の言い換えみたいに思われる。」
>>527
「・・・カントとフロイトはつながる・・・」。

理論理性と実践理性の区別はどのように考慮されてるのでしょうか。
530考える名無しさん:2001/03/25(日) 01:38
せいしんぶんせきのせんもんせきな知識はあまりわからないのれす...
ただ、ハイデガーおじたんの言いたいことはこういうことだと思うのれす。
 デカルトたんの「思うわたし」にとっては、全ては明晰・判明に知られます。
明晰・判明でないものは、「思うわたし」にとって存在しないものなのれす。
カントもやはり、ものの存在に認識が先立つとして(コペルニクス的転回)同じように考えたんれす。
しかし、フロイトたんが「無意識」を発見したことで、「思うわたし」が明晰・判明でない何かによって
操られていることがわかり、デカルト的「わたし」は崩壊してしまったのれす。
ところが、フロイトたんさえ形而上学的思考から自由になることができなかったんれす(とおじたんは思っていた)。
無意識は「わたしを超えたもの」として、「わたし」に密かに「〜するべし」と命令してくるのれすね。
それが「なぜか手を洗わざるをえない」といったふうにノイローゼとして生活に現れてくるのれすよね?(ののたんは自信がありません)
つまり、無意識は意志をもったものとして考えられているのれす。無意識も意志的なものとして「わたし」のようなものです。
フロイトたんは「わたし」の暗黒面を顕わにしたんれすが、結局「わたし」中心に考えているんれす。
531考える名無しさん:2001/03/25(日) 02:05
ハイデガーおじたんは「無意識の意志など存在しない」と言っているんれす。
ようするに、「わたし」の能力をこえたものがある、それだけのこと?
にんげんは、自分の力を超えるもの、強大なものに向かって取り組んでいるのれす。
それを支配するにせよ、諦めるにせよ...。これはあたりまえの事実れす。
無意識というものも、そういう強大なもの、どうにもできないもののことだと思うのれす。
ただし、それを何か意志をもったものとして考えるのは、デカルト・カントたんの「わたし」中心の考え方
に依存しているのかなぁと思えるんれす...

なぜ、認識や意識・無意識に関して、しんきゅうみたいな法律用語が使われるのれすか?について
古代ぎりしあの人たちは、ものごとをピュシスとノモスに分けて考えたんれす。つまりですね、
すべてを自然(もともと在るもの)と慣習(人間がつくったもの、制度)とに分けて考えたんれす。
そうすると、しんきゅうとかは慣習・ノモスにもとづきます。つまり、認識や意識とかは、にんげんに
関係しますからノモスに属するしんきゅうが使われるのもそれほど変ではないと考えられるのれす。
532マルティン・ハイデガー:2001/03/25(日) 02:51
こんばんわ。
ののたんによるカントとフロイトのつながりの説明は面白いですね。
デカルトの「私」の明晰さは、フロイトによるエスの先行性の発見によって揺らぐことになった。
もっともこの発見はフロイトの専売特許ではありません。
そこには偉大な先行者、精神の暴露者であるニーチェの存在があります。
ニーチェは、偉大なキリスト教的道徳は、すべて人間の自己解釈が外化したものだ、と考えた。
そこから彼は、解釈の解釈、つまり精神分析的な手法をいちはやく発見したわけですね。
もっともフロイトを西洋哲学の系譜につなげようとする戦略は、
デリダをはじめとするいわゆるポストモダンが大々的に展開したものですけど。

余談ですがフッサールは『危機』でフロイトに少しだけ言及していますね。
私もたしかにツォリコーンゼミで言及していますが、どれほどフロイトに通じていたかは不明瞭ですね。
当時、ビンスワンガーをはじめとする実存論的精神分析への私の共感があったのは確かですが。

ののたんのピュシスとノモスの対比はたいへん勉強にまります。
ただフロイトについては、エス、自我、超自我と意識、無意識など、
カテゴリーの意味や働きが微妙に違う場合がありますので、私もちょっと勉強してみます。
フロイトは面白いですね。誰か話を膨らませてほしいです(笑)
533マルティン・ハイデガー:2001/03/25(日) 03:03
>>524
 構想力と法廷モデル・・・う〜ん、どうも相容れない概念のような(笑)

 フロイトの解釈は微妙なのです。
 エスは性的衝動としてのリビドーであり、超自我はその衝動の発露に抑圧をかける、
 という意味で法廷モデルですね。そして中間に、日常的な自我がある、と。
 これらは精神の一階、二階、三階という具合に空間化できる、とされています。
 が、他方でエス、自我、超自我はリビドーのエネルギーの回流や外化、
 エネルギーが生へと配分されるまさにその関係性もあらわしています。
 たとえばリビドーの定量をxとし、エスをa、超自我をyとすると
 a+b=x、極端にいうとこんな具合にまりますね。すなわち自我がエスと超自我との関係性、
 その軋轢が意識化し、言語化した表層である、と。
 この場合aやbには定数がない。ゆえに安易にこれらを空間化してイメージ化してもならない、云々。
 ・・・・・・なんかアヤシイですね。
534ムトーちゃん:2001/03/25(日) 04:30
何がハイデガーじゃ。
存在と時間すら読んだ事ないくせに。
って言うか、ゴミは氏んでね。
535考える名無しさん:2001/03/25(日) 04:33
>534
ハイデガー先生は大学教授だそうだよ。あんたみくびらないほうが良いよ。
536ムトーちゃん:2001/03/25(日) 05:08
お、仲居クンスレもってんのか。
>>535
そんで>>534は騙りだよ。憐れに思ってあげようぜ。
っちゅーか大学教授でもなんでもいいし(笑)
537考える名無しさん:2001/03/25(日) 07:01
そろそろ飽きてきたな、このスレも。
ここらでハイデガー先生の正体を暴いてみないか。
これだけ特定の分野に集中的に知識のある人間なら
少しでも身近な人間であれば見当はつくだろ。
研究室だの牛丼だの私生活を垣間見えるカキコもしているしね。
>>262からの間抜けなレスを見てもあまり知識をひけらかし過ぎて
自分がどこの誰か特定されかねない、ということまでの配慮をして
レスをつけてはいないものと推測される。
500近くもマジレスしたらその人の人間像が自ずと明るみになるぜ。
かつての同級生、今の同僚なんかが見たらすぐにわかるんじゃねえの。
自己批判は困難なんてこと書いてたけど相当の文章家でなおかつ
自分の書く文章を無個性なものとするのも恐らく至難だろうからねえ。
538考える名無しさん:2001/03/25(日) 07:02
>537
社会不適応者
539考える名無しさん:2001/03/25(日) 07:07
お前、何の目的があってそんなことするの?
540考える名無しさん:2001/03/25(日) 07:11

>>537
ハッキリ言って興味ありません。
私の目的はここに掲示される情報の取得であり、
それがもたらすインスパイアの獲得です。
まったくもって、決してその情報発信者が誰であるのか、ではありません。
て言うか、詮索してどうするの? それが聞きたい。
541考える名無しさん:2001/03/25(日) 07:13
>インスパイアの獲得

なにこれ?inspireはverbよ。正しく使ってください。背伸びしないで。
あっ、きを悪くされたらすいません。おばかはん。
542本スレ愛好者:2001/03/25(日) 07:23

お。非難轟々。
俺も>>538-540とまったく同意見だけどね。
有名コテハンをジェラシーから叩くのはよく見る光景だから、
まあ、ほっときゃいいんだけどね。

ここのハイデガー先生の人柄には俺も好感もってる。
本物のハイデガーよりずっと良さそう。
それを前提にした上で言うのだけれど、
必要以上に持ち上げたり、
言葉は悪いが馴れ合いスレになったりすると、
537みたいなひねくれ者がでてきていちゃモンをつけるのは、
2chでの経験則から予測できることだと思う。
先生と真っ向勝負の論戦ができるくらいの知識と根気を
もった人がレスつければ、
ドキュソに突っ込まれる隙もなくなるんだが、
そんな人なかなかいないよなぁ。
543考える名無しさん:2001/03/25(日) 08:05
537=542!
544考える名無しさん:2001/03/25(日) 10:01
>>533  ハイデガー先生
>構想力と法廷モデル・・・う〜ん、どうも相容れない概念のような(笑)

カントに即して考えることは留保しておくという前提にします。
で、ハイデガー先生が示す、先生なりの「構想力」理解と「法廷モデル」理解のあいだに
いかなるつながりがあるのか、という問題は非常に考えにくいですよね。
わたしも強くそう思うのです。しかしだからこそ思考実験をしてみると面白いのでは!?
現存するテキストの解釈を離れ、ぽっかり空いた穴を埋める作業で
ワイワイやってみたいな、と思った次第です。ふつうなら飲み屋でやるものですが・・・。

>>523  ののたん
>英語はダメなのです! 哲学的思考に耐えうる言葉は
>ギリシア語とドイツ語(それと日本語)だけなのです!
(ののたん、ごめんなさい。引用は漢字に変換しました。)

ののたん、日本語も入っているのはなぜでしょう。
昭和となって十数年のあいだに活躍した人々が
ハイデガー先生の前期思想を血肉とし
興味深い論考を多々なしたことから
日本語の哲学的ポテンシャルが証明されている、
と考えることもできましょう。
急に『言葉についての対話』を
読み返したい気持ちになりました。

Seiendheitは存在性もしくは存在者性と訳されているようですが、
ののたんはどちらの訳語を採用しますか?
できれば理由も併せて教えてください
545考える名無しさん:2001/03/25(日) 22:13
ハイデガーさん、東洋思想で興味を持たれたものってあります?
546考える名無しさん:2001/03/25(日) 23:44
>>544
え〜とれすね、ちょっとふざけてみただけなのれす...てへ。

Seiend-heitとは、存在的-であることれすね。別の言い方では、Ontisch-heitれすかねぇ。存在論の営みは
存在者の存在を問う(存在論的・ontologisch)ことにあるのれすが、それは
全ての存在者の存在根拠である存在そのものを問うことなく、個々の
存在者の存在を問うことにとどまっていたわけれす。要するに、
存在論の営みは、結局存在論的になりきれずに、存在的(ontisch)にとどまっていたんれす。
それをハイデガーのおじたんは批判して、存在者のSeiendheitではなく、Seinそのものを
問わないといけないといっているんれす。訳するときは、そういうところをほのめかすような
ことばがいいんではないれすか?       
547考える名無しさん:2001/03/26(月) 05:18
>それは全ての存在者の存在根拠である存在そのものを問うことなく、
>個々の存在者の存在を問うことにとどまっていたわけれす。

がいしゅつなんだが、よく分からんぞ、やっぱり。
  従来の存在論が問題にしていたもの=ここの存在者の存在
  ハイデガーが新たに問題にしたもの=「全ての」存在者の存在
なのか?
アリストテレスだって、個々の存在者ではなく、
存在するものの全体を問題にしていたと思うんだが、
その辺はどうよ?
548考える名無しさん:2001/03/26(月) 08:19
>>546
ののたん、ナイスな回答ありがとう。すっきりしました。
549考える名無しさん:2001/03/26(月) 12:09
ののたんは辻希美
550あぼーん:あぼーん
あぼーん
551考える名無しさん:2001/03/26(月) 12:27
神聖なハイデガスレにこんなコピペが。
552あぼーん:あぼーん
あぼーん
553考える名無しさん:2001/03/27(火) 00:53
ずれてるよ。
ちゃんと練習した?
554考える名無しさん:2001/03/27(火) 00:59
ごめん。ずれてなかった。
555・e・:2001/03/27(火) 00:59
・・・・・・
556考える名無しさん:2001/03/27(火) 01:38
>>547
いたいとこを突かれてしまったのれす...
そのとおりれすね。存在者ぜんぶをひっくるめて考えるのが形而上(メタ-ピュシス)学らったのれす。
個々の存在者の存在を問うのでは、まだ個別の自然(ピュシス)についての学にとどまてますね。

ぎりしあ哲学では、存在者と存在の違いがはっきりしていません。to on(the being)は
存在者(das Seiende)を意味すると同時に存在(Sein)も意味していたのれす。
つまり、ぎりしあ哲学では「存在」は両義的らったんれす。
「ギリシア語のto onはしばしば第二の意味を表し、従って存在者そのもの、存在的であるところのものではなく、
「存在態(das Seiend)」,存在者性(Seiendheit),存在者存在(Seiendsein),つまり存在を意味する。
これに反して第一の意味での「存在者」は全ての、または個々の存在するものそのもののことを言う...」(形而上学入門.川原栄峰訳)
たしかに、形而上学は全体としての存在者の存在を問うのれすが、存在そのものではないのれす。
それはto onが存在者と存在(存在態)の両義性を持つことに現れているとハイデガーのおじたんはかんがえているようれす。

形而上学は存在者の存在を前提しておいて、それから存在者の存在を問うのれす。そこでは存在者と存在は異なるということが
あまり気にされていないのれす。だから、ぎりしあ哲学では存在は両義的であるとおじたんはかんがえたようれす。
存在は存在者を存在させながらも、やっぱり存在者では「ない」という仕方であるのれす。
形而上学では、存在者が存在する事は当たり前の事として前提されているのれす。つまり、
存在は決して存在者ではないということは、形而上学の営みからはすり抜けていってしまうんれす。
だから、形而上学的営みののかちんこちんに絡まった閉塞を解きほぐして、つまり解体(脱構築ともいうれしょうね)
して見過ごされている問題を浮き彫りにすることがハイデガーのおじたんの後々の課題となっていったんれしょうね。
557考える名無しさん:2001/03/27(火) 01:42
こりゃまた見事な・・・
哲板住人のアスキーアートを見るとは・・・
・e・は只者じゃないな。
558マルティン・ハイデガー:2001/03/27(火) 05:29
ののたんに補足させていただきます。
ご存知のとおり、ドイツ語の動詞は現在進行形の形で名詞化されます。
例えば「言ってる(sagen)」だったら「言ってるひと(das Sagende)という具合にですね。
ギリシア語にもおなじような構造があります。
ゆえに「存在」とは、存在者が「在る」こととしても、あるいは「存在者」としても示されます。
私の中期以降の問いは、いわば存在についての名詞的解釈から、存在そのものの動性、その動詞的なダイナミズムへの問いなのです。
が、これは非常に難しい問いです。
周知のように、例えば存在概念について分析命題では名詞の同一性(AはAである)を手がかりにします。
このとき「ある」は、名詞の同一性を手引きにしなくては理解不可能です。
ゆえに、こうした――私流に言えば形而上学的志向とは――ある意味避けることのできない思考方法です。
559考える名無しさん:2001/03/27(火) 14:06
どうも・e・はITが苦手らしい。
こんどはどんなボロを出してくれるか楽しみだ。
>>552は全画面表示だとちゃんと見えるよね。
でも、テクニシャンはどんな表示方法でも
きちんと見える方法を選択すべし。
560考える名無しさん:2001/03/27(火) 14:47
・e・とマルティン・ハイデガー>ジキルとハイド
561あぼーん:あぼーん
あぼーん
562・e・:2001/03/27(火) 21:55
東浩紀けっこう面白かったよ。
563考える名無しさん:2001/03/28(水) 04:07
>>561

上級削除屋にIP抜かれる危険を冒してまでご苦労なことだが、
かちゅーしゃ使ってたら、お前の荒らし全然うざくないよ。
一発でレスあぼーんできるからね。
コストパフォーマンス的に割りあわないんじゃないか、
と老婆心ながら忠告。
564考える名無しさん:2001/03/28(水) 06:49
このスレにもいるらしいが、
「ののたん」っていったい誰なんですか?

芸能界にはうとい私には分からなかったので、
ほんのちょっと調べてみたところ、
どうやらモーニング娘の一員らしいですね。
なんで「ののたん」と呼ばれているのか、
またなぜ2chでこれだけネタにされてるのか、
教えてください。
あと、できれば画像も貼ってくれたらうれしいです。
565本スレ愛好者:2001/03/28(水) 13:01
>>558

>ゆえに「存在」とは、存在者が「在る」こととしても、
>あるいは「存在者」としても示されます。

存在者が「在る」ことってのは、存在者の存在のことですよね。
これと存在者が違うってのは分かります。
形而上学が存在者の存在ばかり問題にしてきたという話も一応理解できます。
しかしこう言っただけでは、>>556嬢の発言

>形而上学は存在者の存在を前提しておいて、それから存在者の存在を問うのれす。
>そこでは存在者と存在は異なるということがあまり気にされていないのれす。

を補足したことにはならないと思うのです。
存在者の存在を問うのでは、なぜいわゆる存在論的差異が気にされなくなってしまうのか、
私には一向に分かりません。

堂堂巡りのようですが、やはり、昔から問われてきた「存在者の存在」への問いと、
先生が新たに立てた「存在そのもの」への問いとの二つが、
何を目安に区別されるのか、またなぜ区別されねばならないのかが
問題になってくるのではないでしょうか。
「存在と時間」で先生はカントが時節性の問題に届かなかったとおっしゃいます。
「四つのゼミナール」では、フッサールが存在の意味を問わなかったと言ってます。
存在を問うことと、時節性や存在の意味を問うこととの間に、
先生は大きな隔たりを見ておられるようなのですが、
これが「存在者の存在」「存在そのもの」の区別につながっているのではないですか?
566あぼーん:あぼーん
あぼーん
567考える名無しさん:2001/03/28(水) 19:23
おもろい>>1
568ななしくする:2001/03/28(水) 19:59
>東浩紀けっこう面白かったよ

感想を書け。第四章のハイデガー論の是非を論ぜよ。
あの手のウィトゲンシュタインとの比較は、むしろ常套的なのか?
569考える名無しさん:2001/03/29(木) 01:40
>>565
「そんざいとじかん」のやりかたは、解釈学れした。
解釈学とは、理解を更に理解すること、理解を発達させることれす。
「在る」はなんとなくわかっているので、その存在の理解を存在論的に
発達させれ(解釈する)ば、「在る」の学的理解に到達できると考えたようれす。
理解されるのは意味れすから、存在の意味がその目的れす。そしてハイデガーのおじたんは
存在の意味は「時間的であること・時節性」だとにらんでいたようれす。
要するに、ごちゃごちゃしたあいまいな存在の理解をすっきりとしたクリーンな理解に
仕上げればよいのだとかんがえたようれす。
 ところが、そううまくはいかないようになってきたんれす。存在は理解の届かない
ところにある。しかもそれが理解を可能にしているんじゃないかなと...
存在そのものは、理解の働きにとってはまさに無でしかない。存在の無の働き、この無は
理解しようとする動きをいっきに挫折に追いこむような、激しくうごめいているはたらきれす。
「存在は争いをはらんだものである(Strittiges)」はそういうことを言おうとしているんれしょう。
でもうまく納得できるような説明はできないれす....
誰かがここで「形而上学とは何か」の講演文はドキュソっぽいと言っていましたが、
それはまともな感想だと思うのれす。G・スタイナーっていう人もやっぱり「奇妙な議論をしている」
といっています。あれは「そんざいとじかん」の直後に書かれたもので、存在の無の働きについて
のものだそうれす。古代ギリシア人にとって、真理は「かくれ-無いもの」として捉えられた事、
なぜ真理は「明らかなもの」ではなく「かくれ-無いもの」らったんれしょうか?
ギリシア人はそうやってひねくれた考え方しかできない人達とみなしてよいものなんれしょうか?
570考える名無しさん:2001/03/29(木) 02:05
ののは「のぞみ」なんれすが、ちっちゃいころに舌がまわんなくて
「のの」と自分で呼んでいたんれす。それでまわりのひともそう呼ぶようになたんれす。
んで、「たん」はここの独特の愛称れす。娘。板にいけば、いろんな
かわいいののたんがみれるれす。てれびのののたんはちゃんと話しているのれす。
にってれのスペシャルばんぐみにでたんれす。ののはよく知らないんだけど、
えなりかずきっていう男のこが「モー娘。と友達になりたいんやろー」って今田さん
にからかわれていたんれす。そのこはののとそんなに違わないのにゴルフが趣味みたい
れした。そんで、今田さんが「友達になったら、セクハラゴルフレッスンするんちゃうか」
って言ったらスタジオ中がおお笑いれした。ごとーさんや吉澤さんも笑ってたのに、
ののはなぜおもしろかったのかわかんなかったので、きょとんとしていました。
「セクハラ」ってなーに?ってあとでマネージャーさんに聞いたら、ののたんの
そういうところがいいんだよって。わかんないけど、まあいいのれす。てへへ。
571あぼーん:あぼーん
あぼーん
572マルティン・ハイデガー:2001/03/29(木) 07:52
 おはようございます。
 最近忙しいのでレスが短くなりますがご容赦下せぇハーハー
>>568
 私も東氏の本読みましたのでもう一度読み返してみますが
 ヴィトと私の比較研究ではアーペルが知られています。
 『ヴィトゲンシュタインとハイデガー』という論文がありますので探してみたらどうでしょう。
 ただ、東氏の解釈はかなり無理してる力技でしたね。そこが面白かったんですが。
>>565
 存在者の存在は“さまざまに、そして意匠を代えて何度も”問われてきた。
 そのような反復的問いを誘発するような存在とは何か、という具合に考えられませんでしょうか?
 デユナミスもイデアも意識も精神も生も、全て「同じ」ものを問うてきた。
 このすべての意匠を誘発してやまないのは「現前への誘引」ともいえるものです。
 同一の事柄を、手を変え品を変え、明るみにだそうとする、そういう表象行為は形而上学特有のものですが。
 したがって存在への問いは、そのような表象行為を誘引するものへの問いでもあります。
 なぜ存在者の存在ではなく、存在なのでしょうか。
 或る存在者の存在を問題として、よしんば或る解決が与えられたとしても――実際形而上学とはそういう歩みをたどってきました――
 別の存在者の存在が問題になる。
 このような反復を誘発せしめてる存在そのものとは何であるのか。こう考えてはどうでしょう。
 これはひとつの提案です。

573考える名無しさん:2001/03/29(木) 08:05
相変わらずレベルが高いですね、ここは。
勉強になります。

574マルティン・ハイデガー:2001/03/29(木) 08:11
私は最近、存在の問いだけでなく、
問いそのものに関しても考えるところがあります。
考えること、それは「同じ」ものを繰り返すような、一種の反復装置ではないのか、と。
問いとは一種の過剰、人間にのみ許された或る「過剰」ではないのか、と。
最も早く気づいた者は誰でしょう?ニーチェでしょうか?
超人もまた一種の過剰でしょう。それは永劫回帰を反復するように誘引する限り
れっきとした形而上学的産物なのです。
それは「もっと多くを」という生の過剰に奉仕するしかないのです。
このような生の過剰が、結局人を発狂に追い込むとは悲劇としかいいようがありません。
が、或る人は言うでしょう。発狂のないとことに幸福はない・、それは
あまりに人間的な行為である、と。
しかしこうしたなアナーキズムを
はたしてこの世のどれだけの似非ニーチェ主義者が実践できるでしょうか?
人間は思惟によって挫折させられる存在です。
挫折が怖いのであれば、何も考えない、何も問わないことがよいのでしょうか。難しいですね。
575考える名無しさん:2001/03/29(木) 08:31
>>574s
電波出てるよ。
576オナニスト:2001/03/29(木) 08:50
>>574
日常語に翻訳。


「問うこと」は人間にのみ許されることである。
その知的欲求が発狂の道に向かわせることもある。
欲望を満たし幸福を求めた結果であって、これを人間的というべきか?

または何も考えない方がいいのか?


何の事はない。知性で飾られた文の内容はこれだけさ。
577考える名無しさん:2001/03/29(木) 08:55
>>576
意味がわからん。もうちょっと補足プリーズ
578ふまじめ:2001/03/29(木) 09:13
>>577
おそらく・・。

人間には知的欲求があるから、
それによって様々なことを知ろうとするあまり、
発狂のようなことが起こってしまう。
例えば、麻薬とはどのようなものかを知りたいと願う。
そして麻薬を吸引する。このような発狂に繋がる行動を人間的というのか?

それとも発狂を起こすような、知的欲求などは捨てるべきなのか?

という、意味のような・・。
>>574よりかはだいぶ解り易いと思う・・僕的には。。
579ふまじめ:2001/03/29(木) 09:14
寝るので・・・
580ななしくする:2001/03/29(木) 09:16
あーぺる読んだことある。
東の解釈とはだいぶ違った気がする。
581考える名無しさん:2001/03/29(木) 09:19
>>578
でも、同じ疑問を何度も自問自答することが麻薬のような(ですか?)効果を持つという
筆者の体験を述べた部分がまったく割愛されてますよ。
うまく言葉にできない体験が核にないと、そもそも何かを言う意味がなくなってしまうのでは?
582ふまじめ・・・:2001/03/29(木) 09:46
>>581
ごめん・・・>>574は何が言いたいのか論点がはっきりせずに意味不明だったんで・・
>>576をみて>>574の内容を予測した・・・
それだけ・・・おやすみ・・
583考える名無しさん:2001/03/29(木) 09:47
>>582
寝ないで返事を書いてくれたんですか…
すんません。
584考える名無しさん:2001/03/29(木) 10:32
>>558
>周知のように、例えば存在概念について分析命題では
>名詞の同一性(AはAである)を手がかりにします。
>このとき「ある」は、名詞の同一性を手引きにしなくては理解不可能です。

上記の例は先生のテキストであれば、どれを参照すればよいのでしょうか?
先生以外のひとで言えば、あなたの批判に執念を燃やした某有名人が
似たような例を挙げていましたが・・・。
また、上記の引用「・・・このとき「ある」は・・・」に出てくる「ある」について、
コプラなりエッセンティアなりの区別をしつつ、
さらに具体的な説明をしてくださるとありがたく思います。
585考える名無しさん:2001/03/29(木) 19:44
「死がこわい」とか「自己保存本能」を自明なものとせずに
これらに対しても批判的なまなざしを向けることはないのか?
「知的欲求」も知るべき対象がある、というよりかは
知りたい自分がある、とは考えられないか?
発狂せずにこれらのことを思惟できるのがホンモノの哲学者だ。
586怖いね:2001/03/29(木) 22:31
>>585
やはり、この言葉を呟かない訳には、まいるまい。

「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。
そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。」
       ニーチェ著『善悪の彼岸』第4章「箴言と間奏」146節 岩波文庫訳
587怖いね:2001/03/29(木) 22:31
>>585
やはり、この言葉を呟かない訳には、まいるまい。

「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。
そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。」
       ニーチェ著『善悪の彼岸』第4章「箴言と間奏」146節 岩波文庫訳
588>587:2001/03/29(木) 22:38
しまった!
繋がらないと思ったら2重投稿になってた。
589考える名無しさん:2001/03/29(木) 23:45
>>586
それ、サカキバラやん。
590考える名無しさん:2001/03/30(金) 00:19
>>589
サカキバラがニーチェから引用してたの知らなかったの?
もしかしたら漫画や何かからかもしれないけど・・・
591考える名無しさん:2001/03/30(金) 00:21
>>589
ニーチェからの引用って知らなかったの?
もしかしたら漫画か何かからかもしれないけど・・・
592考える名無しさん:2001/03/30(金) 00:23
オイオイ
何か怖いな
593あぼーん:あぼーん
あぼーん
594あぼーん:あぼーん
あぼーん
595考える名無しさん:2001/03/30(金) 00:26
ニーチェってやっぱり恐いわ。
ついでにサカキバラも恐い。
世田谷一家殺人犯も恐い。
早く捕まってくれ。
596あぼーん:あぼーん
あぼーん
597マルティン・ハイデガー:2001/03/30(金) 00:39
誰?
598考える名無しさん:2001/03/30(金) 01:02
599考える名無しさん:2001/03/30(金) 01:27
アイアンメイデンだ〜♪
600マルティン・ハイデガー:2001/03/30(金) 01:30
NWOBHMか・・
601OFW:2001/03/30(金) 22:13
>>590
 横レス失礼
>サカキバラがニーチェから引用してたの知らなかったの?
>もしかしたら漫画や何かからかもしれないけど・・・
 『FBI秘密捜査官』からの引用です。

 …さて、酒鬼薔薇君の話題が出たので、ハイデガー先生に質問ありんす。
 彼は『我が闘争』も愛読していたそうですが、自己を表現するために、
 殺人という儀式を行わざるを得なかった。それは、『透明な存在』という
 言葉に良く現れて(現象して)いる。存在とは透明なものでしょうか?
602マルティン・ハイデガー:2001/03/31(土) 04:47
こんばんわ。
朝まで生テレビという番組を見ていました。
田原総一郎氏はここをご存知のようですね・・
>>601
自己を表現するためには殺人しかなかったのでしょうか?私はそうは思いません。
いかなる儀式も代理可能、代用可能、代償可能であることは、
フロイトを持ち出すまでもありません。
どんなに神聖なものに見えようとも、それは世俗的なものとの提携を決して失ってはいないのです。
バモイドオキ神(?)は、オカルト趣味と漫画の知識がないまぜになった単なるコピー商品にすぎません。
透明な存在などあるはずもない。
彼は不透明であることに耐えられなかった、ただそれだけです。
この世の誰が自分の存在をハッキリと見極めることができるでしょうか!
常に途上にあること、これを性急に跳躍しようとする者は、
知らず知らずのうちに透明な場所を表象するのでしょう。
そしてその場所に何が来ようが、本質的にはどうでもいいことなのではないでしょうか?
603マルティン・ハイデガー:2001/03/31(土) 04:54
最後の箇所、分かりにくかったので訂正。
>そしてその場所に何が来ようが、本質的にはどうでもいいことなのではないでしょうか?
→そしてその場所に何が来ようが、彼にとっては本質的にはどうでもいいことなのではないでしょうか?
604考える名無しさん:2001/03/31(土) 10:57
ありゃりゃ?
サカキバラの言う「透明な存在」ってみんなからダメのレッテルを貼られて
学校でも家でも居場所のない、存在価値のない人間、という意味だったのでは?
不透明であることに耐えられなかった、というよりは
何か存在感のあるカラーになりたかったんじゃ、なかったの?
自分の中のドス黒いものに耐えられなかった、というわけではないような気がするけど。
ここにいる人たちはむしろ「透明な存在」になりたいんだよね!
彼の場合は、透明かドスグロか、という問いに直面する前にこの世の中から
疎外されていたという感じがするよ。
彼の周りにここにいる人たちのような哲学に少しでも造詣のある大人がいれば
よかったんじゃないか、って思う。
彼の両親は中卒か高卒の金の卵就職のブルーカラーだし、中学教師やその他
周囲の大人もたぶんニーチェとかちんぷんかんぷんだろうしね。
彼の母親は文化祭かなんかの演劇の時に彼に
「緊張したら観客席の人を野菜かなんかだと思えばいいよ」
なんて子供だましなこと言ってんだもん。
当のサカキバラは存在とか深淵とかで悩んでるのに。
俺があの状況におかれてもキレたくなったような気がするよ。
チャンネルがないよな。
何か哲学的問いに接続できるような。
と、いうわけで俺としては彼の周囲に哲学的造詣のある大人が一人もいなかった
ことが彼にとっての最大の不幸だった、と思ってる。
あの中学の校長もむかついたな。
605考える名無しさん:2001/04/02(月) 00:52
age
606考える名無しさん:2001/04/03(火) 19:17
初めまして、プロフェッサー・マーチン。

この地球上で、人間だけが貨幣を用いて経済活動を行っているのは何故か、
その理由は、>>363 にあるように、人間には時間があり、
将来を可能性として捉えられるからだ、と私は考えているのですが、
プロフェッサーは、この問題についてはどのようにお考えですか?
607606:2001/04/03(火) 19:19
>>606
誤:初めまして、プロフェッサー・マーチン。
正:初めまして、プロフェッサー・マーチン・ハイデッガー。
です。
608考える名無しさん:2001/04/05(木) 17:40
ハイデッゲル先生、お目にかかれて光栄です。
>>606
現実的には「無」価値である貨幣が、未来において受け取ってくれるであろう他者
への信用を媒介として、「今、ここ」での価値を得るという岩井克人さんの議論で
すよね? そして、そのような未来の他者への信用が崩壊する事態がハイパー・イ
ンフレーションであると。これをハイデッゲル先生の『存在と時間』の文脈に翻訳
すると、貨幣が何ら問題なく流通している通常の事態が、人々が他者への「期待」
を媒介にして行動するがゆえに「頽落」しており、ハイパー・インフレーションに
おいては、他者から手渡される貨幣が未来において使用できるのか分からないが、
受け取るか受け取らないか未来に向けて「決断」しなければならないということに
なるのでしょうか?(蛇足でしょうが、政治的「決断」としてのナチズムと経済的
「決断」としてのハイパー・インフレーションとの同時性を指摘しておくべきでしょ
う)。しかし、そうすると、ハイデッゲル先生においては、貨幣や法律といった、
いわば、人々の「頽落」に基づく現象は否定されるべきものと見なされるのでしょ
うか?
以上のような疑問をレーヴィットの「カール・シュミットの機会原因論的決定主義」
やクロコウの『決断』を読み、感じたのですが、哲学素人にも飲み込めるように(
当方は法律学科の一学生に過ぎませんので)御教授願えましたら幸甚に存じます。
609707:2001/04/05(木) 17:42
ハイデッゲル先生、お目にかかれて光栄です。
>>606
現実的には「無」価値である貨幣が、未来において受け取ってくれるであろう他者
への信用を媒介として、「今、ここ」での価値を得るという岩井克人さんの議論で
すよね? そして、そのような未来の他者への信用が崩壊する事態がハイパー・イ
ンフレーションであると。これをハイデッゲル先生の『存在と時間』の文脈に翻訳
すると、貨幣が何ら問題なく流通している通常の事態が、人々が他者への「期待」
を媒介にして行動するがゆえに「頽落」しており、ハイパー・インフレーションに
おいては、他者から手渡される貨幣が未来において使用できるのか分からないが、
受け取るか受け取らないか未来に向けて「決断」しなければならないということに
なるのでしょうか?(蛇足でしょうが、政治的「決断」としてのナチズムと経済的
「決断」としてのハイパー・インフレーションとの同時性を指摘しておくべきでしょ
う)。しかし、そうすると、ハイデッゲル先生においては、貨幣や法律といった、
いわば、人々の「頽落」に基づく現象は否定されるべきものと見なされるのでしょ
うか?
以上のような疑問をレーヴィットの「カール・シュミットの機会原因論的決定主義」
やクロコウの『決断』を読み、感じたのですが、哲学素人にも飲み込めるように(
当方は法律学科の一学生に過ぎませんので)御教授願えましたら幸甚に存じます。
610考える名無しさん:2001/04/05(木) 21:48
>>608
でしたら、デフレの現今は「頽落」の極みにあるということでしょうか?
611考える名無しさん:2001/04/05(木) 21:53
ハイデガー先生最近忙しいのかな?
612考える名無しさん:2001/04/05(木) 22:01
「やっぱりだな。エルウィン、お前はお兄ちゃんの見込んだとおり、男のくせに突っ込まれるのが好きな変態野郎だな。」

キースの言葉に答える事も出来ず、ただ首を縦に振る。それを見たキースは、黒い笑いを満面に浮かべた。

「よし、だったらお兄ちゃんがもう一本突っ込んでやろう。」

言うなり、エルウィンの腹を手刀で切り裂く。一瞬、エルウィンの喘ぎ声が途切れたが、また一層激しくなった。腹を切られたことすら快感に感じているのかもしれない。

「さぁ、行くぞ…」

キースはエルウィンの顔をちらりと見、そして自分の一物を、エルウィンの腹の傷に無理矢理突っ込んだ。

「あぅっ!!」

さすがのエルウィンもこれには顔を歪めたが、キースはそんな事にはお構いなしで腰を振り、一物を出し入れさせる。その度にぐちゅぐちゅと卑猥な音が響き、傷口の奥から溢れ出つづける血は泡をつくって地面に伝って落ちた。

先ほどは苦痛を感じていたエルウィンだったが、今は苦痛どころか快感に支配されていた。血の流し過ぎで顔面は蒼白だったが、それとは逆に表情は快楽に満ちていた。そこにあるのは狂気、それのみ。

一方キースは、絶頂に達する寸前だった。人間のからだは、創傷は塞がるように出来ており、したがってキースの一物は、女性の中に入れたときとは比べ物にならないほど強力に締め付けられていた。

「くっ、これほどまでとは…出すぞ!」

「…っ、あっ、き、来て、兄さん、出して…!」

そして兄弟は同時に絶頂を迎えた。

613考える名無しさん:2001/04/05(木) 22:04
>>604
正解だね。サカキバラの年齢頃には、純粋に哲学的思考に
集中する種類の人間達が居る。本当に集中し、現実を突き
抜けて、自分ー命ー外界ー他者ー死、についてトコトン
考えるものさ。そこで、自ら死を選び取る者もいる。誰かを
殺すことで自らも消そうとする奴もいる。
現実世界から見れば理解不能の動きをするのさ。体験者には
わかるよな。そこを生き延びて大人になると…こんなところに
カキコしたりしてる(藁
614共鳴:2001/04/06(金) 01:14
私と同じように、相手も命を持っている。
私と同じように、相手も物を考える。
私と同じように、相手も怒り、悲しみ、喜び、笑う。
相手も私もおなじ。同じ人間、同じ生き物、同じ、存在。

私は傷つくのがいや。

私に相手を傷つけることはできない。

私の思いやりに対する考え方です。間があるところは、文字通り行間を読んでいただきたい。
思いやりって、理由をつけたりするものじゃないと思います。
さらに話がずれていきますが・・・
私は法よりも思いやりを推します。
すべての人間がルールを忘れても、すべての人間が思いやる心を持ち合わせていさえすれば、おそらく社会は乱れない。
まあ、現代社会で即効性があるのは、確かに法律でしょうけど。
>>段階が速すぎ 何をさしているのか判らないので、コメントは控えておきます。
>>35 私はまだ罪についての定義がわかっていませんが・・・キリスト教を根本にした場合、植物がそういった認識になるのは仕方が無いのでは?ヨーロッパでは、その気候風土からか、自然を敵視していたので。
615考える名無しさん:2001/04/06(金) 01:19
↑スレチガイ
616マルティン・ハイデガー:2001/04/06(金) 04:52
あげっ
617マルティン・ハイデガー:2001/04/06(金) 05:07
 そろそろ学校が始まりますね・・・
>>606
 そうですね。それはそうと
 前世紀から今世紀にかけて、あらゆる分野で交換や代理機能が主題化されてきました。
 フロイトのリビドー論、マルクスの貨幣論、そして記号的存在としての言語論やコミュニケーション論、等々。
 こういったシンクロニシティは人間の精神活動がもつ或る形而上学的傾向が
 煮詰まってきたという証拠なのでしょうか。。
>>609
 決断についてのあなたの議論がちょっと分かりませんが・・・
 そうですね、貨幣や言語活動は一種の「万人向けの約束事」であり、
 特定の人物でない、匿名的他者を想定するような精神活動は、人間に特有のものでしょう。
 貨幣の媒介項としての価値は、いわば先の見えない他者に依存した頽落状況を指している、といえなくもない。
 が、こうした価値基準は崩壊するのでしょうか?私にはわかりません。
 それは、よしんば特定の貨幣体系がくずれようとも、こうした人間の精神構造、もっといえば
 現存在の代理可能性はそうかんたんに崩れるようには見えないからです。
 あと決断についてですが、私はこう考えています。
 他者への依存に基づいた責任倫理は、いわば地続きの共同体的なものです。それは、
 他者への期待といった相互主観的な結びつきそのものが、責任を共同体内に分散させるような構造を持っているからです。
 これにたいして主体的な「決断」には、そうした期待を望むことは許されないのです。
 だからいかなる決断も、決して報われないということ、このことを念頭においてなされるべきではないでしょうか?
618マルティン・ハイデガー:2001/04/06(金) 05:12
余談ですが『存在と時間』執筆期に
私はジンメルも読んでいます。(有名な『貨幣論』ではありませんが・・)
岩井克人氏はちょくちょく耳にしますね。
読んでみようかな・・
619マルティン・ハイデガー:2001/04/06(金) 05:23
>>584
>周知のように、例えば存在概念について分析命題では
>名詞の同一性(AはAである)を手がかりにします。
>このとき「ある」は、名詞の同一性を手引きにしなくては理解不可能です。

>上記の例は先生のテキストであれば、どれを参照すればよいのでしょうか?
>先生以外のひとで言えば、あなたの批判に執念を燃やした某有名人が
>似たような例を挙げていましたが・・・。
>また、上記の引用「・・・このとき「ある」は・・・」に出てくる「ある」について、
>コプラなりエッセンティアなりの区別をしつつ、
>さらに具体的な説明をしてくださるとありがたく思います。

 同一性については1928年のライプニッツ講義(GA26)がありますが
 翻訳されてないのでその短縮版『ライプニッツに関する最終講義』をおすすめします。
 全集『道標』の入ってるはずです。
 あと「ある」に関する哲学史的な外観は『哲学とは何か』(剄草書房)の
 「存在」の欄にどなたかが書かれていたように思います。
620マルティン・ハイデガー:2001/04/06(金) 05:33
この時期はどうも勉強に向いてないと思うのは私だけではないように“期待”しましょう(笑)
桜の下/酒を運びつ/もの思う・・・嗚呼。
621614:2001/04/06(金) 11:47
あぅ・・・なぜにこうなったんだ?
気にせんといてください。
622法律学徒:2001/04/06(金) 18:18
「決断」に関して補足しますと、レーヴィットは、ハイデッゲル先生とシュ
ミットを戦争という「極限状態」を前にして決断それ自身を目的とした決断
を唱える点において同類であり、それは、シュミットが『政治的ロマン主義』
においてロマン主義=議会主義を何ものも決断しないとして批判した不決断
主義の単なる裏面に過ぎないとして批判しています。決断主義=独裁/不決
断主義=議会主義というわけです。ここから考えると、ハイデッゲル先生へ
の批判から出発したデリダが決定不能性(=不決断主義)や表象の問題(=
議会主義)を問うことは必然だったという気もします(もちろん、デリダと
ドイツ・ロマン派とは、類似よりもその差異をこそ強調すべきなのでしょう
が)。
もちろん、私はハイデッゲル先生の思想を『存在と時間』という未完の書物
に全て還元し尽くせるとは考えておりません(先生は、『存在と時間』にお
ける人間主体の決断という人間中心主義から、『ヒューマニズムについて/
超えて』へと文字どおり進まれたわけですから)。が、しかし、『存在と時
間』に関して言うならば、私には先生が「我々は本来的な生から疎外されて
いる。それゆえ、我々はそれを取り戻さなくてはならない!」と言われてい
るように感じます。それは、やはり、ロマン主義的な疎外論ではないでしょ
うか? 疎外論は必然的に反動を呼び込みます(失われた豊かな過去が未来
へと投射され、そして、いつの日にか取り戻されるであろう豊かな未来は、
過去と円環を結ぶというわけです)。
わかりにくい文章ですいません。ハイデッゲル先生には私の下手な説明より
も直接、レーヴィットの論文(カール・シュミット『政治神学』未来社所収)
を御一読いただいたほうがよいようです。


623あぼーん:あぼーん
あぼーん
624あぼーん:あぼーん
あぼーん
625あぼーん:あぼーん
あぼーん
626考える名無しさん:2001/04/06(金) 23:28
「大地」って何?「素材」じゃダメなの?
627考える名無しさん:2001/04/06(金) 23:29
先生は「現代日本における2ちゃんというメディア」を
どうお考えですか。ガイシュツだったら須磨祖。
628名無しさんといつまでも一緒:2001/04/11(水) 07:22
先生、講義を再開してください。
629代理の者ですが:2001/04/11(水) 15:39
「現代日本における2チャンネルというメディア」かぁ、
たぶん先生なら公庫耐えるかな。

まず、メディアなるものがいかなるものであるかと言うとこ
ろから語られなければならない。従来で有れば媒体と情報という
単純な構造に還元するものだと直感的に納得してしまうもの
であるが、単純なモデルの中にこそ疑う余地があるのである。
Aという人物がいたとする。そして方片方にはBという人物が
いるとして、情報としての言語と言う意味であるならば、直接
会話するということと、手紙やメールなどその他の手段に
よって情報(この場合はAやBとは直接関係のない事柄)の
やりとりを行う分には本質的な相違はあり得ないことになる。
しかし、実際には全く関係のない事柄、言い換えるとA,Bに無限
に関係のない事柄は存在しない。このことから情報摩擦が生じる
のである。このことは後に述べる媒体の透過性の話につながるの
であるがここでは割愛させてもらう。

ここまでのネタでわからないことがあるか?
630代理の者ですが:2001/04/11(水) 21:09
よし、じゃ次に逝く

インターネットの急速な普及により今では愛モードなどでも
インターネットができるようになった。これからの課題は
いかに通信速度を速めて、価格をやすくしていくかだろうね。
お隣韓国ではリアルタイムアクションゲームの対戦ができるほど
インターネーット環境は整っている。日本がインターネット行進
国になっているというのは本当のようだ。でも海外とは
一点についてのみ違いが有ることがある。それは2ちゃんねんの
そんざいである。これは特筆すべきはこれだけいい加減な事を
言っても、何の法的な規制や行政指導が入らないと言う点だ。
テレビで「マンコから密が出てきたよ」なーんてのたまおう
ものなら、抗議の電話殺到、PTAや教育委員会から矢のような
催促がある。これは従来型のメディアとは違う点なんじゃない
かな。
631代理の者ですが:2001/04/11(水) 23:32
テツガクバンノカタハ、ネタハオキライデスカ?
面白いネタなら大好きだぞ。
633マルティン・ハイデガー:2001/04/12(木) 01:11
こんばんわ。
最近本業が忙しくてシャレになりません。
論文を書いているところですが、
気が向いたら要旨をうぷしてよろしいでしょうか?
いちおうROMっていますので質問のほうも引き続きそうぞ!
634代理の者ですが:2001/04/12(木) 19:31
私が全部答えますので安心してください。ただしネタでですが。
635代理の者ですが:2001/04/12(木) 19:33
犬に意識はあるのでしょうか?マジレスでお願いします。
636考える名無しさん:2001/04/12(木) 19:37
大作先生に聞いてください。
637考える名無しさん:2001/04/16(月) 01:35
下がりすぎだよ
638名無し@ラジ:2001/04/16(月) 02:10
ハイデッガー先生こんにちは!

あのう、、質問なのですが。

「良い×悪い」と「好き×嫌い」というのは、実は同じことなのでしょうか?
「好き×嫌い」を巧妙に理由付けして「良い×悪い」にしているように
時々おもいます。

先生のお考えを教えてくださいませ。

639 マルティン・ハイデガー:2001/04/16(月) 04:50
>>638
ずばり別だ。
ちゃんと様々なものに当てはめて思考したかね?
640スペンサー卿:2001/04/16(月) 21:36
635に答えてやってはくれまいか。
641西田:2001/04/16(月) 21:49
>犬に意識はあるのでしょうか?

獣医さん的には「ある」ということにはなるらしいな。
642ッダ:2001/04/16(月) 23:05
「馬鹿馬鹿しいかもしれない」という「不安」をどう考えたらいいのでしょう?
643コクティン・ホイデカー:2001/04/18(水) 23:54
>>638

>「良い×悪い」と「好き×嫌い」というのは、実は同じことなのでしょうか?
意識を目的的に行動させる動因としては同じだ。
しかしそれは区分されるべきである。区分の目安としては人称区分が適当だ。
「好き×嫌い」の区分は一人称によるものだ。
好きとか嫌いとかはいいかえると「〜したい」「〜ほしい」といった欲求の表現に
なる。「わたしは彼女としたい」とか「わたしは彼女がほしい」という。
しかしここに「あなたは彼女としたい」とはいえない。
「『あなたは彼女としたい』とおもっている」といったメタ表現になる。
希望欲求はあくまで個人の主体から発せられるものである。
対して「良い×悪い」は三人称区分というべきものだろう。
すなわち第三者的な発言である。
「あなたは彼女とするのが良い』というのは本人の欲求とか希望以前の普遍的
価値観念を前提とする。すなわち、良い子孫を残すためとか、第三者的判断で
相性が良いとかのことである。
実はこれ以外に二人称区分という物がある。「善い×悪い」というものだ。
これはいわゆる倫理である。すなわち仲間内における動機の妥当性を測るもので
「わたしは彼女としたい」と言う欲求があっても果たして彼女の同意を得られるかと
か「人妻に手を出すべきでない」という規制が掛かるものである。

一個の人格が行動を起こすのは、この三区分の価値判断によるものだ。
区分間で葛藤状態に陥るわけだが、この人称区分のどの部分が固体に対して
主に影響しているかを測定すれば限定的な環境において、その固体の行動
をある程度予測できる。この区分の測定は****年、選ばれたた国家間で
その国民性を測定するために実施されたがこの区分間の行動力学的調整
は教育によって制御可能なものであり国家間に闘争を引き起こすことへの
利用も可能であり、現実にわれわれのエージェントによって二つの大戦を実現
できた。
644考える名無しさん:2001/04/19(木) 00:31
>「馬鹿馬鹿しいかもしれない」という「不安」をどう考えたらいいのでしょう?
不安は,もし現実に目の前に危機が迫っているという状況認識でないとすれば
過去の何らかの条件反射によるものである。
たとえば彼女に振られた痛い体験をした時にちょうど「たこ焼き」を食っていたとする
と、この「たこ焼き」と絶望的な失敗体験が無意識に結びついてしまう。
よって 「たこ焼き」を目にするといいしれぬ不安に襲われるようになる。
645考える名無しさん:2001/04/19(木) 00:35
↑・・・体験者か!!つらいね〜。
646マルティン・ハイデガー:2001/04/19(木) 05:34
>>638
 うん、まず「好き」と「嫌い」についてですが、これが個々人の趣味嗜好に
 限定されていれば話はラクですね。でもどうでしょう。好みというものは政治的、
 社会的文脈に平気で出て行きますね。ブームであれ政治家のカリスマ性であれ、
 好きや嫌いという判断は多分に文化的な匂いがします。
 それは言語を媒介として伝達される、という限りにおいて、好みというのは幾分人工的なものです。
 ここから好き・嫌いの言説の有効範囲が、良い、悪いといった倫理的文脈へと進出しているわけですね。
 で、両者の違いですが、私は絶対的な境界線は不可能ではないか、という気がします。
 後者のほうに特徴的なのは、強制力を持つということでしょうが。
 
647マルケツ・ヘイデカー:2001/04/19(木) 08:40
>良い、悪いといった倫理的文脈へと進出しているわけですね。
> で、両者の違いですが、私は絶対的な境界線は不可能ではないか、という気が>します。
> 後者のほうに特徴的なのは、強制力を持つということでしょうが。

以上を補足すると、これは言語分析における「自己否定」「他者否定」にかかわる。
これはもちろん、「この文は偽である」の一般命題における「自己否定」ではない。
普通我々が使う自己否定とは「この文はダメだ」のような「良い悪い」の区分である。
たとえばわたしとあなたとの間で
・「わたしは焼き芋が食べたい」
と発言したとしよう。
この場合、わたしの不足状況を提示することであるから、いわば「わたしはダメだ」
を前提として今の不安定状態を解消しようとするものである。
これに対して
・「わたしに焼き芋を渡すべきだ」
と発言したとしよう。
この場合、あなたの不足状態を提示することであるから、いわば「あなたはダメだ」
を前提として今の不安定状態を解消しようとするものである。
以上の区分は歴史的伝統のカモフラージュによって絶対的な境界線は不可能と
解釈されるものである。
648じゃん ぽーる さるとる:2001/04/19(木) 11:13
ところで、わたしの斜視はなんとかならんもんかね?
649ぷーチン:2001/04/19(木) 11:37
>>648
暮無倫へいらっしゃい、喪素桑研究所の医療チームに対応させよう。

ところで、ハイデカー氏を援護するためにイミテーションをニ体送った。
ただし反応を見てみると本来知識データベースであったものが自我を持ち始めて
いるようだ。ハイデカー氏であればうまく処理できるであろう。
不必要と判断すればミールと同様の処分を検討する。
<ロシアから愛を込めて>
650コクティン・ホイデカー:2001/04/19(木) 12:01
>>635
>犬に意識はあるのでしょうか?
この疑問はチューリングテストの変形である。
SONYではロボット犬を出したそうだがそこに意識はあるのかを
検討してみよう。
この問題は意識の規定問題にかかわっている。自我の意識は明白
であるが他者の意識は投影でしかない。
よってあなたが犬に対峙してそれとかかわる時、それの愛される
ことへの欲求やあなたに対して嫌悪の情を示した、などの解釈が
可能か否かを当てはめてみれば良い。
あなたがラプラスの魔のごとく犬の行動全てを力学的に解釈できれ
ばそこに意識はない。シャーマニズムに生きる未開人にとって
神は自然という形で生きているのだ。
すなわち他者の意識に対する回答はあなた自身にある。
651代理の者ですが:2001/04/19(木) 22:41
>>650
つまり、あなたには意識がないということ?
652考える名無しさん:2001/04/20(金) 07:58
私の近所のある人は、仕事もせず、真夜中にもそっと起きては哲学系のBBS
にかきこみし、朝方寝る。という生活を繰り返していますが、こんな非生産的
なバカにとって、「存在」とは?「時間」とは?
653コクティン・ホイデカー:2001/04/20(金) 09:12
>>651
すなわち、あなたがわたしの発言を分析して必然又は偶然のアルゴリズム
の内に解釈するならあなたにとって、われコクティン・ホイデカーには意識
がないとしてよい。
ただしあなたがヘイデカーが示したような
・「わたしは焼き芋が食べたい」
・「わたしに焼き芋を渡すべきだ」
の類の意味論構文でわたしにアプローチするならあなたはわたしの意識を
認めたことになる。
あなたが焼き芋をほしいと思い、わたしが焼き芋を持っているとしたとき
もしあなたが機械としてわたしを解釈するなら、わざわざこうした構文を
構成せずとも「焼き芋」という音声を発生させるだけでよいからだ。
あなたがわたしとコミュニケーションを取るのはシンタックスがわかれば良
いと推測するだろう。つまりあなたのパソコンを操作するのに思うように
動かないから「動いてくれ!」と頼む事はない。
もちろん擬人化してそう思うことはあっても今の貴方がたなら神を引き合い
に出すほうが多いのではないか?
神とはそうした擬人化の代表なのだから。
654なまけものキラー:2001/04/20(金) 13:15
>>>652
うちの家族にもそんなんがいまっせ。
いまだに親元にパラサイトしています。
働けッちゅーの。age
655考える名無しさん:2001/04/20(金) 21:14
>>652
近所と云うだけでそんな事知ってる田舎者は、そいつが猟奇系BBSに書込ま無い事を祈ってろ。
都会じゃそんな一元的な価値判断は危険なんだよ。
そいつ等にとって「存在」や「時間」は主観的な思考対象なんだろよ。
自暴自棄に殺人や強盗やらかすよかましだ。
放っておいてやれ。
656考える名無しさん:2001/04/20(金) 21:44
>>>>というか回りくどい自己紹介のし方だな
657ぷーチン:2001/04/20(金) 22:09
二体のアンドロイドの発言は「ロシア連邦国家会議、連邦会議の二院で評決
したが積極的支持は得られなかった。
よってオモテミジル・ぷーチンは先に予告した通り,二体のアンドロイド
の爆破を実行する。以降実存に関する回答は従来どおりマルティン・ハイデ
カー氏に委ねるものである。参加の皆さん、ダ スヴィダーニヤ。
658考える名無しさん:2001/04/20(金) 22:11
>>656
君ほどじゃ無い。
659考える名無しさん:2001/04/21(土) 01:14
>>652
私の事だ。逝ってきます。
660考える名無しさん:2001/04/21(土) 01:16
私は無職で年食っている独身モノだけど、時間は有効に使っている。
哲学のこと毎日勉強している。私はバカじゃない。
661スペンサー卿:2001/04/21(土) 01:26
ハガイデーよ
662マルティン・ハイデガー:2001/04/21(土) 02:05
 Guten Abend!
>>652
 確かに痛い生活ですね。
 書き込みもしょせん書き込みにすぎませんから
 もっと将来につながることをやってほうがいいですね。
>>657
 ご苦労さまです(●´ー`●)
663マルティン・ハイデガー:2001/04/21(土) 02:06
ところで私は決断主義者でしょうか、そうでないのでしょうか。
664マルティン・ハイデガー:2001/04/21(土) 02:07
まてよ、そもそも決断主義という言葉のほうこそ変ですね。
決断とは個々の瞬間的な事例や状況にたいする、その場限りのレスポンスであるはずなのに
決断することがイデオロギーとして絶えず普遍化され、引き伸ばされるとは・・・・・
665ダミアン:2001/04/21(土) 03:13
ひょっとして…
666ダミアン:2001/04/21(土) 03:14
666ゲットか?
667とおりすがり:2001/04/21(土) 04:15
毎日が辛くてたまりません。
生きる意味とは何なのでしょう。
668マルティン・ハイデガー:2001/04/21(土) 06:58
>>667
 つらいのは誰も同じです。
 安易に意味を問わないほうが健康的です。
 振り返らずに前のめりにどうぞ!
669匿名希望さん:2001/04/21(土) 07:33
なぜフセアル(フッサール)先生をいぢめた?
670考える名無しさん:2001/04/21(土) 11:40
ったく、真夜中にご苦労なこった・・・
夜中の3時に書き込んでいるバカがいるよ。

いろいろ、こむずかしこと考えて、気がついたらジジイ・ババア
で、「人生とは・・・」でポックリ死んで、それが辞世の句に
なるんだろうな。遺族ばか笑い。
まぁ、逝ってくれたほうが地球上の酸素無駄遣いしなくてすむから
歓迎ですがね。
671ダミアン2:2001/04/21(土) 12:21
↑汝もサタンの魔方陣の中で引き裂かれるであろう。
672考える名無しさん:2001/04/21(土) 13:24
「存在と時間」読了しました。
673考える名無しさん:2001/04/22(日) 13:01
けっこうスラスラ読めるでしょ<存在と時間
674考える名無しさん:2001/04/24(火) 01:20
私のじいちゃんは70歳で悟りを開いて30分後に肺炎で死にました。
675考える名無しさん:2001/04/24(火) 01:57
>>670

>まぁ、逝ってくれたほうが地球上の酸素無駄遣いしなくてすむから
歓迎ですがね。

クソカキコして資源の無駄使いしてるあんたがさっさと逝ってね。
11時40分に書き込んでいるバカへ。
676考える名無しさん:2001/04/24(火) 10:21
>>675
執念深い方におすすめです。
http://www.uni.ne.jp/jyu/guide.html
ハイデカー氏にも日本の文化をどうぞ。  
*****陰明師****   きょうやるのだ   NHK
   
677阿部晴明:2001/04/24(火) 13:20
↑ 誤字するようでは日本文化を語る資格なし。
*****陰明師**** →  *****陰陽師****
ダメねぇ。  
678考える名無しさん:2001/04/24(火) 14:11
>>675
2001/04/24(火) 01:57
あのなぁ、こんな時間まで起きて、電気無駄に使っているんじゃないよ>低脳
私生活であった鬱憤を晴らしているのはわかるけど、もっと生産的なことしな!
働け!働け!働け!働け!働け!働け!働け!働け!働け!働け!働け!働け!
モニタ焼けした顔でココ書き込んでいるのかと思うとゾットするぜ>無駄に年重ねた軽頭
675の反応はこうくるぜ「そのことばそっくりそのまま返します」ってなところだろ。
679考える名無しさん:2001/04/24(火) 15:11
↑さらに執念深い方に・・・。
http://www15.tok2.com/home/voicelex/ushi.htm
680考える名無しさん:2001/04/25(水) 02:51
>>678
うざすぎ。さっさと回線切って首吊んな。馬鹿。
夜中に書き込むと低能とか言われちゃうわけ?
ハイデガー先生もよく同じ時間帯に書いてるよねえ(藁

つーか、優良スレに邪魔入れんなよ。コピペアラシより始末わりーや。
681考える名無しさん:2001/04/25(水) 08:41
>>680
たかが2chで何いきがっているんだろうねぇ<優良スレ
悪いこたーいわない、とっとと働けや、な?>非生産存在よ
682なまけものキラー:2001/04/25(水) 10:53
>>681
そういうあんたは働いているの?
働きもせずに「人生とは、存在とは、時間とは」ってうじうじ
やっているやつはムカつきますよね>680
683考える名無しさん:2001/04/26(木) 02:13
ポイントと言われている69節あたりからさっぱりわからん。
読むのつらいが、ここまで読んでやめるわけにはいかない。
岩波文庫の桑木務訳読んでます。
「見回し」だの「眺めやり」だの、「手もと存在」だの…
あ、2時過ぎ。この頃夜中にカキコするとうるさいのがいて面倒だな。
朝からここ見てる方がなんだかなあと思うけどねえ。(藁
それぞれ働く時間帯も違うわけで、夜中にしか書けない人だっているんだけどねえ…
そんな事もわからんとは低能すぎて話にならんな>>681>>678>>670
684考える名無しさん:2001/04/26(木) 02:49
『存在と時間』とカント第一批判に関しては、
岩波文庫はクズだと言われてます。
よりによって途方もない翻訳で読み始めてしまったものですね。
685マルティン・ハイデガー:2001/04/26(木) 03:00
 おひさしぶる。
>>683
 岩波の桑木氏の訳語は、専門家の間でもハァ?といわれるケースがおおいようです。
 ご注意を(笑)

 関係ない話ですが最近「携帯」なるものを購入予定です。
 え?何するって?そりゃもう出会い系でハァハァ・・・・・●%!!□★○!!%・
 と、失礼。
 多分あう、にするでしょう。
686考える名無しさん:2001/04/26(木) 03:06
お。先生じゃないですか。
お久しぶりです。
時間が時間なので、わたしゃ、もうすっかり酔っ払ってしまいました。
硬い話はできそうにないですが、ちょっとした質問を。

インターネットにつないでて、哲学研究の上で得することってありますか?
本の情報を仕入れたり、『論理学研究』のテクストをダウソしたり、
使いようによっては便利なこともあるとは思うのですが、
遊びへの誘惑の方が強すぎて、
むしろネットになんてつながないほうが勉強できると思うんですが。
(ひょっとして俺の意志が弱いだけ?)
687683:2001/04/26(木) 03:11
>>684 >>685
レスどうもです。はあ〜。やはりそうっすか。
もう読んでても全然進まなくて。(泣)
この前、細谷訳がいいと聞いたんで、今度そっちで再読してみます。
ところでカント(純粋理性批判だけど)も岩波文庫買っちゃったんですよねえ。(藁
688マルティン・ハイデガー:2001/04/26(木) 04:24
>>686
 勉強はそうですね。
 ネットというのは欲望や誘惑が裸でたむろしているようなところです。
 そういう意味では勉強の役にたたないのかもしれないですね。
 でも逆にいえば、他人を誘惑しないような研究をやっても無意味だ、ということもいえます。
 惹かれるというのは、何がしかの必然性を見出すことですね。
 そういう必然性を感じることなしにダラダラと勉強をしつづけても無意味な気がします。
 まぁ、ネットは便利です。はまると半年ほどは抜けれないでしょう(笑)。
 でも所詮サイバースペースです。いつかは踏ん切りをつけるときがくるでしょう。
>>687
 私の本にしてもカントにしても
 一生モノ(おおげさ?)ですので、できればハードカバーがよろしいのでは?
 世界の名著シリーズはどうでしょう?中古だと1000円ぐらいで手に入りますよ。
689ジミー:2001/04/26(木) 08:15
>>687
>もう読んでても全然進まなくて。(泣)

岩波の本は捨てましょう。世界の名著でさわりを読んでから。
 大雑把ないみだけでもつかんでから読むほうが絶対に進むと思うけどなぁ。
690考える名無しさん:2001/04/26(木) 10:10
話を戻すと、先生は決断主義者なんですか? 上を見ると決断主義という言葉に何か
疑問をもたれているようですが、そこのところを詳しく教えていただけないでしょ
うか。
691マンゲ・ソルガリータ:2001/04/26(木) 13:07
>でも逆にいえば、他人を誘惑しないような研究をやっても無意味だ、ということもいえます。
 ???
 その昔、カビの研究をしている人たちは、「道楽モノ」扱いで、世間から見向きもされませんでした。
 その後、青カビから抗生物質(ペニシリン)が検出され、医学の進歩に大きな飛躍を
 与えると、手のひら返しで世間に認められるようになりました。
(他人を誘惑する/しない)=(意味/無意味)
 なんて等式が当てはまらないのが理科系学問の面白いところです。

 それにくらべて、哲学ってやつは、他人を誘惑する/しないなんて判断基準がはいりこんでくるんですか??(呆)
692考える名無しさん:2001/04/26(木) 15:24
先生、はじめまして。
今日は先生に質問というか相談があります。
私は進学を希望している大学四年生で、
卒論ではフッサールの『イデーンT』を扱う予定です。
翻訳では二度ばかり通読したのですが、原文では全体の四分の一くらいしか読んでません。
で、今、卒論で使いそうな箇所を、PC上でノートを取りながら
ドイツ語で読んでいるのですが、時間がかかりすぎて困っています。
修士課程の先輩は、ノートなど取らずに本の余白にメモを書き込むだけで充分だと
言っているのですが、私の場合、それだと何も頭に残らないので、
ノートを取るのはどうしても必要なのです。
それでも、ノート作りの密度が濃すぎるのかなと思って少し手を抜いてみたのですが、
どんなに頑張っても一日に4〜5ページしか進みません。
このままでは、必要な部分を読み、かつノートを作るだけで一年が終わってしまいそうです。

初心者がテキストを読む上でのアドバイスがあればご教示ください。
また、先生はどんな読書スタイルなのかも、参考までに教えていただければ幸いです。
693考える名無しさん:2001/04/26(木) 19:48
>先生はどんな読書スタイルなのかも、参考までに教えていただければ幸いです。

やはりバックがいい。あと、駅弁スタイルもなかなか捨てがたいものがあるが。でも
フィニッシュは正常位。これだけは己のけじめとして変えられぬのである。
694考える名無しさん:2001/04/26(木) 21:08
>>693
それが面白いとでも?ぷっ
695マルティン・ハイデガー:2001/04/26(木) 23:49
 ごはん食いすぎて動けません。。。。
>>691
 そうでしょうか?自然科学研究というものは、帰納法であれ演繹法であれ
 統計的方法であれ、とにかく物事の本質を整理しようとします。
 それは、理論なり法則なり経験則なりを一般化して提示することにより
 万人が近づき得るようになるためのプロセスです。
 そういう意味であらゆる学的探求というものは、万人が近づけるような普遍要求を持っており
 それはすなわち誘惑的である、ということです。
 無論、自然科学においても「無用な誘惑」というものはあるでしょう。
 ですが規制や厳密な共通了解のない人文科学においては、
 ますますその誘惑の真偽をつきつめて考える必要があります。
 無用なもの、それは「擬似問題」と呼ばれます。
 実験をすればとにかく何からの「結果」が出る自然科学においては擬似問題はあいまいなままですし
 そもそも何を持って擬似、と見定めるか、という議論もあります。
 しかし、こうした詰めをほうっておいて一番痛い目にあうのは人文科学の分野だと重います。
 やみくもにやればよい、という話ではないのです。

696マルティン・ハイデガー:2001/04/26(木) 23:54
>>690
 決断主義につきもののアポリアについては以前のとおりです。
 このアポリアを肯定してる、という意味で私は決断「主義」者なのでしょう。
 一例をあげます。
 私は死の分析において、死への不安における決断を肯定しました。
 そして同時に、積極的な死の選択(自殺)については否定しました。
 一方において決断が、他方において非決定があります。
 それらは事態としては同時なのです。
 私の論理、それは死を覚悟しつつ決して死んではならない、という奇妙なものです。
 
697MtFTG・CD:2001/04/26(木) 23:55
>>695
えっと。せんせいはぁ「人文科学」ってどうゆう意味で使ってられる
のかお教えくださーい。

アタシはぁ、自然科学/人文学って分節はもう無効かなって思っててぇ。
実験科学/解釈学って分節が有効かな、とか思ってるんですけどぉ。
もちろん先生のお弟子さん筋のガダマーさんの言われる線ですけどぉ。

人文に科学があるのですか?
あるのでしたら、どのような方法論なのでしょうかぁ?
698マルティン・ハイデガー:2001/04/27(金) 00:04
>>692
 そうですね。
 翻訳を何度も読み、問題意識を鮮明にさせることが先でしょう。
 何を書きたいのか、という見通しがついてなければ、いくらノートをとっても
 それが役に立つという保証がありませんし
 ただ教科書的に読み、ノートをつけるだけなら頭に残りにくいと思います。
 自分が書きたい箇所というのがある、もしくは見つかるはずですから
 その部分を原典で読むのも手です。
 しかしながらとりあえず原典全体に眼を通しておくのは必要ですから
 邦訳で問題意識を詰め、原典で読解になれておく、という同時並行的な勉強法がのぞましい。
 ・・・・アドバイスになってない。。。。
 学部生であれば、問われるのは「読みの正確さ」ですから
 あまり無理をしたり、奇をてらった解釈をするのは避けたほうがいいかもしれません。
 とにかく一年間の間、イデーン漬けになってみてください。
 余計な文献を摂取しないで、ひとつの文献にずっと取り組んでみると
 雑学以上に得るものがありますぞ。
699マルティン・ハイデガー:2001/04/27(金) 00:13
>>697
 なるほど、人文科学というと曖昧ですね。哲学の話で結構です^^;
>アタシはぁ、自然科学/人文学って分節はもう無効かなって思っててぇ。
>実験科学/解釈学って分節が有効かな、とか思ってるんですけどぉ。
 そうでしょうか?越境する知、というのが
 最近の流行のようですが、それは哲学の内部での話ではないのでしょうか?
 つまり哲学は、文学も精神分析も社会学もそれぞれの境界をとっぱらおうとしている。
 しかし逆にこれらの分野にしてみれば、そうしたポストモダン的発想そのものが素人主義に見えないでしょうか?
  例えばこの板でもラカンやフロイトが問題になってますが
 臨床経験のない我々が、そうした分野にどこまで精通することができるでしょうか?

 ・・自分で何を話しているかわからなくなりました(笑)。

 
700マルティン・ハイデガー:2001/04/27(金) 00:18
む?
701マルティン・ハイデガー :2001/04/27(金) 00:23
お?
702687:2001/04/27(金) 02:34
先生、キリ番ゲットですね♪
ところで、やはりハードカバーっすか。電車で読む事が多いんで、つい文庫本買っちゃってます。
アリストテレスの「形而上学」文庫で読んだ時もあまりよくわからなかったんですが、自分が馬鹿だからだと思ってました。
そう言えば、哲学って文庫でしか読んだ事なかったりして。
サルトルは家にあったから「サルトル全集」読んだけど、サルトルやニーチェは文庫でもわかりやすいっすよね。
ハードカバーで読めば理解できるかもと思ったらちょっと希望が持てました。
ありがとうございました。
703687:2001/04/27(金) 02:42
ジミーさんもアドバイスありがとうございました。
704考える名無しさん:2001/04/27(金) 11:27
科学(自然科学)というのは、理論があって、それを証明する事物なり、事象があって、
しかもそれが再現可能ということでしょう。

人文科学はエントロピーが高い分野が多いので、「科学」という言葉をつけるのに
非常に抵抗があるのですが?どーでしょーおきゃくさん。はぁはぁ
705考える名無しさん:2001/04/27(金) 12:12
対句として美しいのでしょう。
科学技術=自然科学技術で、科学〜=技術知の様なので、
学問の中で自然科学が例外だという事を押えておけば
言葉尻にはあまりこだわらなくてもよいのでは?
706=697:2001/04/27(金) 12:15
>>704
あー、うん。
あのね。せんせいにはナイショね。

アタシも哲学は科学では無いような気がするのね。
でも怒られると怖いから、遠まわしに聞いてみたの。

実験科学は再現可能なんだと思うのね。
で例えば、言語を対象にした学問にも、実験科学的な言語学
(音声学とか)と、解釈学的言語学(テクスト批評とか)が
両方あると思うんだけど。
実験科学/解釈学って分節スッキリすると思うんだけど。

精神分析は解釈学だと思うなぁ。心理学は実験科学で。
なんかそんな感じぃ。
707考える名無しさん:2001/04/27(金) 12:22
哲学は学問の、それも原型だから、別に科学で権威付けなくてもいいのです。
708吾輩は名無しである:2001/04/29(日) 23:37
デリダの「脱構築」概念について分かりやすく説明して下さい。
709マルティン・ハイデガー:2001/05/02(水) 03:37
みなさん、こんばんわ。
ところでこれから私の思想を研究しようと考えているみなさんにご提案があります。
それは私の研究に関する著書、論文に関するデーターベースをここに立ち上げようというものです。
とりあえず日本語に限ってこまめにうぷしていこうと思いますが
なにぶん大変な作業ですのでご協力ください。
(なんていっちゃったけど、できるかな・・)
710マルティン・ハイデガー:2001/05/02(水) 03:47
いや・・こりゃ無理だ・・
711本スレ愛好者:2001/05/02(水) 04:06
法政だったかどこだったかの院生が、
ハイデガー研究のHPを立ち上げてますね。
まずはあれからリンクしてみたらいかがでしょう。

Internet Link Agentを入れたらIEのお気に入りが
なぜか消滅してしまったので、私は検索しないと
再発見できません。
つーか、もう眠いのでまた明日にでも検索します。
712クリストフォロス:2001/05/02(水) 05:57
ハイデガー先生、先生のことではなく、先生の先生である
フッサール先生についてちょっとお尋ねしたいのですが、
よろしいでしょうか。

私は現在、デリダの「幾何学の起源」の序文を故あって英訳で
読んでいるのですが、フッサール、あるいはデリダのいう、
「理念性の歴史」とか、「超越論的前史」とか、いわゆる
「歴史性」historicity (Gechichtlichkeit) に絡む概念が
いまいち理解できません。

ハイデガー先生の歴史性の概念については、最近発見された
アリストテレスの現象学的解釈に関する草稿で読ませて頂き
ましたが、フッサールのとはまた違うなあ、と感じました。

一体、先生方の問題にされている「歴史性」とは、たとえば
どのような現象を指して言われているのでしょうか。
フッサールの場合は、いわゆる共同主観性の考えがこれに絡んで
来ると思うのですが、この辺のところの繋がりがよく分りません。

漠然とした問いで申し訳ないのですが、示唆程度でも構いません
ので、何か教えて頂けないでしょうか。

また、先生は、たとえばデカルトやフッサールなどがそうした
ように、数学や幾何学を理想的な学と見なし(フッサールは還元
においてこのような学問の先入観を否定しますが)、哲学も
ある程度はこれに倣うべきであるような考えには断固として
反対すると思います。しかし、例えば数学や幾何学のもつ
理念性というものについてはどのようにお考えでしょうか。

先生は論理学というものに対しても、例えば英米圏の哲学者が
示すような態度とはまったく違った反応、つまり、論理学に
とって本当に根源的なものに迫ろうとする傾向があるものと
お見受け致します。しかし、論理的必然性とか、先の幾何学の
洞察とか、いわゆる経験的なものを除外したところに成り立つ
ものを、何か特別視するようなお考えはないのでしょうか。
もしくは、経験をそのように規定したりすること自体が、既に
さまざまな前提を受け入れているというべきなのでしょうか。

先生、舌足らずですが、お願いします。
713クリストフォロス:2001/05/02(水) 08:06
先生、失礼しました。「共同主観性」ではなく、
「間主観性」です。どうも Mitdasein が念頭にあり、
ゴッチャになってしまいました。

ついでに二、三質問をさせて下さい。

私は後期フッサールの思想と、先生の思想との関係に興味が
あったのですが、なにせこれをやっていたのは数年前なので
よく覚えておらずうろ覚えの箇所もあります。

先生は「イデーン」以降のフッサールの思想を、デカルト的な
後退と見なして居られるようですが、最晩年の思想がそうでない
ことは明白だと思います。フッサールは「危機書」以前に、
頻繁に歴史に言及していますし(Erste Philosophie)、
彼のいう ego cogito は、それが彼の時間の思想と連関されて
いる限り、デカルト的自我とはやはり異なります。

私はフッサールが、「危機書」で大真面目に理性の目的論を
唱導したとは思えません。今、手元に英訳しかないので、
原文で示すことはできませんが、彼のいう「古代哲学の再生」
や、還元における反覆、あるいは反覆を可能にする普遍的真理
に至ろうと試みる、学問の、理念に対する反覆的接近などは、
目的論の範疇に収まるものではありません。

むしろ私は、これらの問題が、先生が Sein und Zeit で
企図したことを先取りしていたように思えるのです。
フッサールの思想の中には、先生の Sein の終末論に近いものさえ
感じられるのです。彼のいわゆる transcendental motif には、
目的論と終末論との錯綜した構造があるように思います。

またフッサールは、自分が過去の哲学者の相続者であることを
強調しています。過去の哲学者たちは、フッサールにとって
過去の思想ではなく、あくまで亡霊的に回帰するものだと
思われます(デリダ風に言うと)。こういうねじれた時間構造は、
先生の言われる temporality (Zeitlichkeit) にある意味で
近いように思います。

先生は果たしてこれらのフッサールの思想に対し、どのような
態度を取って居られたのでしょうか。また、先生はフッサールが、
先生の主著をサッパリ解さなかったことについてどう思われて
いるのでしょうか。

最後に、先生は、どうして英国の哲学者をことごとく無視する
のでしょうか。フッサールはイギリス経験論を、ある意味で
カントよりも重要と見なし、特にヒュームに至っては、
自分の transcendental empiricism の先駆であると考えています。
the empirical と the transcendental とを縫合不可能とする
カントの形式主義よりも重要と見なしたわけです。
それなのに、フッサールの弟子である先生は、どうして
イギリスを完璧に無視するのでしょうか。

もし、英国経験論について述べられた著作がありましたら、
ぜひ御教示願います。

714クリストフォロス:2001/05/02(水) 08:17
また、私は先生の後期の思想と、ヴィトゲンシュタインの
後期思想(注、前期思想ではない)には、密接な連関があるものと
考えています。ヴィトゲンシュタインは、哲学が言語ゲームの
中に解消されるとか、そういう類の主張を本気でする人では
ありません。

先生がもし彼の後期思想に対し、何等かの感想をもたれている
のなら、ぜひお聞かせ願いたく思います。

また、全然関係のない話で申し訳ないのですが、
先生は日本で刊行されている全集が、先生の用語を禅の言葉で
訳していることに対しどのようにお考えですか。「性起」なんか
は「仏性」の思想から来た言葉ですが、このように伝統を無視
したような安易な翻訳に対し私は断固反対したいのです。

もし、先生がこれに対し何等かの提言をなさるのなら、
私は自分がどのように先生の言葉を翻訳すべきか、
僭越ながら申し上げたいのです。

先生、お願いします。
715考える名無しさん:2001/05/02(水) 13:02
どっこいしょ
716ななしくする:2001/05/02(水) 17:10
>他人を誘惑しないような研究をやっても無意味だ、ということもいえます。
>惹かれるというのは、何がしかの必然性を見出すことですね。
>そういう必然性を感じることなしにダラダラと勉強をしつづけても無意味な気がします

結構イイこというね。
こういう生活に根ざした何気ないフレーズにむしろ哲学を感じる。
ハイデガーも存在論も、残念ながら俺様の頭を素通りしていくけど。
717ジミー:2001/05/03(木) 01:59
義務教育終わったら、必然性に基づき勉強するのはあたりまえ。
718本スレ愛好者:2001/05/03(木) 19:21
>>711ではああ書いたが、
酔いのようやくさめた頭で考えてみると、
この掲示板から了承もなくかってにリンクするわけには
逝きませんわな。
興味のある人は自分で探してね、ごめん。
719考える名無しさん:2001/05/04(金) 01:36
ハイデガー先生、戻ってきて下さい
720考える名無しさん:2001/05/04(金) 01:47
休講札出しておいて欲しいよね。
721考える名無しさん:2001/05/04(金) 01:52
久しぶりに現れた骨のある質問者クリストフォロス氏に、
ハイデガー先生がどう答えるのか、
期待age
722考える名無しさん:2001/05/04(金) 03:53
他スレでも、昔いたすごい人で今残ってるのは
ハイデガー先生だけだとか言われとるで。
退官とかしないでね
723考える名無しさん:2001/05/05(土) 18:37
先生、帰省でもしてるんじゃないかな。
そろそろ帰ってきてね。
724考える名無しさん:2001/05/06(日) 00:58
PC初心者板の回答者たちと一緒で、
ボランティアでレスつけてくれてるわけだから
あんまりせっつくのもどうかと思われ。
といいつつageてしまうおれも偽善者だけど。
725マルティン・ハイデガー:2001/05/06(日) 22:58
どっこしょ
726マルティン・ハイデガー:2001/05/06(日) 23:14
>>704
>人文科学はエントロピーが高い分野が多いので
 ええっと、もうすこし解説お願いします。
>>712
 歴史学性(Historitaet)と区分された形での歴史性(Geschichtlichkeit)とは、第一に
 現存在が引き受けるべき本来的な可能性に関わります。もっと砕いて言うと、歴史を担う主体の
 態度のことを、歴史性と呼ぶわけですね。考えてみれば、これは実に奇妙な概念です、そう、実に奇妙です。
 通常、私は可能性の引き受けを、過去を将来へと企投する、と表現します。
 つまり過去と現在との間の時間差を縮減し、さらに現在から将来へと可能性をばらまく。
 これは定式でいうと妙に聞こえますが、人間ならだれでもやっていることです。
 人間は記憶や想起によって、過去を一瞬にして表象しますし、また先の将来的な計画を立てることができます。
 つまり人間の歴史的構造(時間的構造)は、それ自身歴史に拘束されないという意味で、ある種普遍的、超越論的性格をもつものです。
 歴史性とは、歴史をそれとして認識可能にしながらも、それ自体は超ー歴史的な装置、こう考えることもできるでしょう。
 もっともこうした解釈も、私の前期までの立場に制限されますが。
727マルティン・ハイデガー:2001/05/06(日) 23:28
さらに補足説明しますと、フッサール先生の言う理念性の歴史も、そうした超-歴史的構造をもっています。
言うまでもなく自然科学の理念はそれ自体、普遍的なものであり、従って事実的な歴史学性には拘束されない、といわれます。
つまり幾何学の起源、とはいっても、それは古代エジプトの測量技術へと遡行する必要はない。幾何学自体は、いかなる時代においても
学習、反復可能である、と。これにたいして、たとえ幾何学といえども、それが伝承され後世に伝わるようなエクルチュールの体裁をととのえないと
不可能やないけ、というのがデリダの主張ですね。
書き物を軽蔑したプラトンといえども、肝心の書かれたものが残存していないことには
そういう主張も発見されない、という具合です。
このあたりは、経験的なものが先か超越論的なものが先か、という争いになりましょう。


そういう意味で、私は学を可能にしている理念は、いつでも現在化しうるような超ー時間的なものである、と考えました。
これが学は存在の現前性である、という私の主張の骨子になっているわけです。
私はこうした現前化作用に拘束されない、「より先なるもの」を考えようとしました。
ただ、これはポジティブな意味においては何も言っていないのと同じである、という批判は正当なものでしょう・・・
728マルティン・ハイデガー:2001/05/06(日) 23:44
英米系の論理については私は詳しくありません。ただ論理というものはしばしば錯覚を与えるものです。
AはBである。BはCである。従ってA=Cである、と。こういう三段論法や
仮説的手続きに従うならば、論理的に正しいが事象としては不明瞭なものをうやむやにしてしまう恐れはないでしょうか。
それにたいして、私が主張した論理とはごくごく単純なものです。
それは事象をよく見る、観察するというアタリマエの態度です。


>>713
晩年のフッサール先生は、歴史の目的論というより、歴史の超越論的構成という企てをもってらしたように思います。
それは理性の現前性に従って、学の西洋史的発展を再度、構成しようとするものです。
この点で、フッサール先生と近いのはヘーゲルであり、そして「私自身」です。
なぜなら、私が前期で主張した歴史性も、超越論的で超-歴史的な構造をもっており
その点でいうならあらゆる歴史学的事象を「現在」へと縮減しようとする、形而上学的思考を
当時まだ私は踏襲していたわけです。
従って私は、現在を欠いた現在、という奇妙なロジックを肯定せざるをえなくなりました。
これは終末論ですらありません。
「かつていた神々は退き、そして再び現れることもない」。それは、現在を欠いた空虚な現在を「絶えず」地すべりのように
移動する動きを見せます。ある意味ではデリダの「差延」にもつながる考えでしょう。
72992:2001/05/06(日) 23:55
野矢茂樹スレッドに出入りしてます92です。
先生のお話の中で
>通常、私は可能性の引き受けを、過去を将来へと企投する、と表現します。
が目にとまったのでもしお相手いただければ幸いです。
ゲーデルの証明可能性をあれこれ詮索していると、可能性という概念は、けっして
一通りではないように思います。
普遍的可能性の概念の明確なものはやはり、確率だと思います。
しかしながら、貴方の使用する企投は主観性を帯びた不安や期待に近いもの
ではないかと考えます。
企投概念は、証明可能性に通じる物としてよろしいでしょうか?
730マルティン・ハイデガー:2001/05/07(月) 00:06
>>713
 イギリス哲学については・・・私は興味あったのかなぁ(爆爆爆)
 英国経験論については、ロックに多少言及している程度ですね。

 それとヴォトゲンシュタインの後期思想についてですが
 私に近い立場もあるんじゃないでしょうか。私は20年代末に
 さかんにspielen(遊ぶ)という語やプラグマティックな発想をしていますし
 言語的なもの、を思考の境界性に置いている、という点ではとりわけそうですね。

 最後に私の訳語が仏教用語に近いという話ですが、これにはご存知のように
 歴史的背景がありまして
 まぁぶっちゃけた話、私の全集の編集の中心であり、西田系列である京大の
 ○村公一氏とその周辺の問題ですな。
 ただ最近でもドキュンな訳語を使われる方もいますが
 ニューラルな訳が大勢になってきたのではないでしょうか。
 昔は性起は「示顕」とか訳されてましたね。意味不明(笑

731マルティン・ハイデガー:2001/05/07(月) 00:49
>>729
ふむ、私が逆に聞いてみたいところですね。
私の「可能性」というのは両義的なニュアンスをもっています。
つまりそれは限りなく証明不可能なものと、限りなく証明可能なものです。
私は死の例をよく出しますね。
死、とりわけ私の死という固有な事象は、限りなく証明不可能です。
私というものをそういう枠組みで相対化するにか、という段階にもよりますが
例えば私が日本人だとすると、私の死は1,3億分の一であり、
或いはその現実化のスパンにより、確率はさらに変動します。
ところが逆に、私自身へと事柄を「主観化」するならば、
死はやがて引き受けられねばならない、もっとも確実な可能性です。
私のいう可能性概念は、この両者にかかわります。
企投概念が時間性に関わるのも、言わば絶えず変動する確率が100lになる
まさにその瞬間の途上へと向けられているからに他なりません。
このあたりの構造は非常にややこしいと思われます。

732考える名無しさん:2001/05/07(月) 08:11
なるほろ
73392:2001/05/08(火) 10:27
わたくしは先生の「存在と時間」で不自然に思っていたことがありました。
それはいずれの章か忘れましたが、先生が価値の概念を排除されていることです。
「Aはよい、わるい」という命題の単位は普遍性を持ち得ません。
それが如何なる意味を持つか考えてみると、わたしはこの概念を生かして先生の
現存在と結び付けてみました。
そこに自己の存在価値という概念が出てくるのです。
命題はすべて真実性が問われます。それはある言明が普遍的に真偽いずれかの
判定を求めるからです。さてこの前提のもとに価値命題が如何なる意味を有して
いるか、改めて問うて見ます。
たとえば目の前に幽霊がいると思って、びっくりして確かめてみると枯れ尾花であ
った、とします。この意識過程を式系列にしてみると
(1)目の前にいるのは幽霊である。
(2)目に前にあるのは枯れ尾花である。
現実世界では時間t1において(1)が設定され、時間t2において(2)が設定された、
そして、(1)は偽、(2)は真という、従来の記述方式ではそれだけの表現となります。
ところでここに価値の概念を導入してみると、次のことが言えます。
(1)では認識の対象は否定的価値を持つものです。すなわち幽霊はいやだ。
この命題は普遍的判断の対象とはなりませんが、現存在に関わってきます。
すなわち幽霊を前にしたわたしはだめだ、という存在価値の否定が記述されます。
ここに(1)は単に偽として切り捨てられるのではなく現存在との連関において
有意味性を持つと判断されます。

以上を考えると先生の存在論において
(1)なぜ価値概念を排除したのか?
(2)幽霊の正体見たり枯れ尾花、は先生の存在論でいかに記述されるか?
73469エリート街道69:2001/05/08(火) 16:11
>>1
先生、{dieEntschlossenheit}の定義に付いてですが、
それは「懸隔性」がア・プリオリに機能するという前提で
人間に宿るのですか?それとも絶対的な概念として独立した物なのですか?

宜しければ教えてください。既出だったらすいません。
735マルティン・ハイデガー:2001/05/09(水) 01:30
>>733
 例がよくわかりませんので訂正しますね。
 (1)が真、(2)が偽であるという判断自体、時間t3においてのみ可能でしょう。
 つまりt1の時点では「これは幽霊だ」という判断は当人にとっては真です。
 そしてt2において「やっぱりこれは枯れ尾花だ」という判断が下され、先ほどの判断が
 ここで初めて訂正されます。
 そして「最初は幽霊だと思ったが実は枯れ尾花だった」この判断はt3においてのみ可能です。
 そしてこうした記述自体、判断にたいして常に事後的になされるように思われます。
 価値判断は常に時間性の問題と不可分です。
 あなたは論理学系のかたのようですが、論理学的には時間の問題はどうなっているのでしょうか?
736マルティン・ハイデガー:2001/05/09(水) 01:33
>>734
 ・・おっしゃることがよくわかりませんが
 全体的に独立した概念、という実体的表象は私はしないと思います。
737マルティン・ハイデガー:2001/05/09(水) 01:38
最近プラトンが面白くなってきました。ちょっと、ほんのちょっとだけね。
『テアイテトス』『ソピステス』『国家』・・やっぱこの辺りかな。
『ヒレボス』これもいい、うん。
上で確率論に言及されている方がいましたが、プラトンはその走りですね。
ピュタゴラスあたりに感化されたのでしょうか。
738考える名無しさん:2001/05/09(水) 02:47
下がりすぎだろ、これは。
739考える名無しさん:2001/05/09(水) 04:56
先生、安部公房を読んだことはございますか?
新潮社の安部公房全集第一巻に『詩と詩人(意識と無意識)』なる
論考が収められておりまして、例えばこんなくだりがあります。

 そして夜が、一瞬に於てその体験的現存在の直覚として捉えられ
 た時、その一瞬に於てこそ、彼の果てしなく繰返して止まなかっ
 た世界内=在と世界=内在とは、止揚されて、人間の在り方とし
 ての純粋な世界になるのだ。

1944年に書かれたものだそうです。先生の『哲學入門 思索と
詩作』の講議との平行関係を考えることは徒労でありましょうか。
野蛮な時代にこそ詩が必要なのではないか。等々。
740あぽあぽ:2001/05/09(水) 04:56
先生、安部公房を読んだことはございますか?
新潮社の安部公房全集第一巻に『詩と詩人(意識と無意識)』なる
論考が収められておりまして、例えばこんなくだりがあります。

 そして夜が、一瞬に於てその体験的現存在の直覚として捉えられ
 た時、その一瞬に於てこそ、彼の果てしなく繰返して止まなかっ
 た世界内=在と世界=内在とは、止揚されて、人間の在り方とし
 ての純粋な世界になるのだ。

1944年に書かれたものだそうです。先生の『哲學入門 思索と
詩作』の講議との平行関係を考えることは徒労でありましょうか。
野蛮な時代にこそ詩が必要なのではないか。等々。
74169エリート街道69:2001/05/09(水) 08:39
>>1
先生、分かり難かったですか。残念です。
じゃあ例えばショーペンハウアーのいう「表象」というのは
ハイデガーの言う「死への態度」に対する「エロス」という解釈は出来ますか?
742名無しさん:2001/05/09(水) 09:53
先生!、質問です。
存在論の表現形式としての「学問」の限界をどのようにお感じですか?
74392:2001/05/09(水) 19:22
>>735
表現が未熟であればお許しください。
>あなたは論理学系のかたのようですが、論理学的には時間の問題はどうなっているのでしょうか?
次の解釈は他文献を良く調べたわけではないですが、今のところわたしの勝手な
解釈だと思いますので、あしからず大目に見てください。
(あっ、とりあえず和辻哲郎がこれ否定していたように覚えてます)
基本命題は「AはBである」の形式を取り、それは二つの概念の結合と繋辞
「ある」から成立しています。
存在命題「Aがある」は概念一つと存在辞「ある」から形成され、それで完結してい
ると考えられていますが、実はこの命題は不完全であるとおもいます。
正式には「BにAがある」が正しい表現になると思います。
たとえば「人間は哺乳類である」にたいして「哺乳類に人間がいる」は前件後件を
いれかえた存在表現であり、命題の質としては同値と見て良いのではないかと
考えます。繋辞と存在を同値と見る方法では時空は、事実存在者を一つの概念
とする今一つの概念にほかならず、事実としての命題とは「時空にAがある」の
真偽判定は原則我々の五感がこれを承認していると解釈します。
ただし五感は事実命題判定の一要素に過ぎず、最終的に事実命題の真偽が
決定されるのは・・・
ここに時間要素が介入してきますが時間の前後の無矛盾性を確認した上で
「Aがある」は最終的に真偽判定が下されます。

つまり先の例ではt1において「幽霊がいる」はt3において偽と判定されました。
これはt1において視覚は幽霊なる存在を知覚したと判断したわけですが
t3において前後の矛盾を確認したわけです。よって「幽霊がいる」は偽なる
命題とされたわけですが、わたくしはt3においてもそれを真とする解釈を想定
しています。それが時間の前後の無矛盾性から判断される客観的存在命題
にたいして主観的命題を設定する体系です。
なぜこう考えたかといえば価値命題「Aはよい」はそうした時間の前後で
一貫した無矛盾の体系を作ることがはなはだ疑問で、その真偽判定は
時間を超えたものが必要かどうかがわからなくなってしまったからでした。
しかしながらわれわれの感情を表現する諸概念はやはり、価値命題を必要と
するように思えるのですが、この概念を使わずに意識の存在形式を追及した
先生の存在論にあらためて真摯に向き合ってみたいと思った次第です。
744考える名無しさん:2001/05/09(水) 22:59
先生のおかげで「存在と時間」をあきらめたもののの
もう一度読みなおしています。
哲学は専門ないのでとてもありがたいです。
745考える名無しさん:2001/05/09(水) 23:01
先生のおかげで「存在と時間」をあきらめたもののの
もう一度読みなおしています。
哲学は専門ではないのでとてもありがたいです。
746考える名無しさん:2001/05/11(金) 00:06
l
747マルティン・ハイデガー:2001/05/12(土) 05:51
本日の仕事・・『プラトンV―哲学(2)―』、岩波書店、1982年を読む。まずまず。終盤がgut。
74892:2001/05/12(土) 06:54
論理学において時制は取り扱いが確定しているわけではありませんが、
一般的に通用しているものとして、条件方⊃を因果的なものとして取り扱う時に
適応されるようです。
たとえば、「一所懸命勉強するならば、親は口うるさく言わない」を考えて見ると
A⊃Bはその対偶がかならず真ですので
「親が口うるさく言ってるので、一所懸命勉強しない」も真である、これはおかしい
ではないか、というものです。
よって命題論理を現実に適合しようとして因果律を考える時は命題論理の基本
枠組みに対して時制を追加した物が必要で、代表的なものは時間論理の体系Kt
があります。
この場合、時間は原始命題の性格を捉えるためにメタレベルで捉えられていると
いえます。
さて、上記サンプルを存在繋辞同値ではどう処理するかと言いますと、まずここで
のA⊃Bはあくまで法則であって、時空に適応される以前の物として扱います。
よってその対偶も現実の時空に一定の場を占有しているわけではなく、あくまで
法則を示していると捉えます。すなわち
¬B⊃¬Aは「親が口うるさく言う、ならば(その場合)一所懸命勉強していない」
となります。
A,Bともに時空にはいまだ掛かっていません。
詳細を記述すると、「一所懸命勉強するが観察された」かつ「一所懸命勉強する
ならば親は口うるさく言わない」ならば「親が口うるさく言わないが観察される」
となります。時空概念をSであらわすと、
((A∧S)∧(A⊃B))⊃(B∧S)
で表現が可能で、
※時空存在Aが時空概念Sに対して連言∧で掛かるのは・・・
先のサンプルでは冗長なので単純にコップとします。
「コップは机の上である」のばあい全てのコップが机の上という特定空間にある
わけではありません。よってある時空(今、机の上は時空の部分と考える)に特定
のコップが対応していると考え、連言の適応となるわけです。
ある女性は学生であるのような場合F∧Gとあらわすのと同じ。

よって時制は命題論理内に収まる物であり、蛇足だと考えるものです。
74992:2001/05/12(土) 06:58
すみません、よけいものみたいですね。
チラッと感想いただければ幸いです。退散します。
750マルティン・ハイデガー:2001/05/12(土) 07:15
いやいや、面白いですよ。
ところで以前の、柳と幽霊の例だとどうなるのでしょうかね。
Aという人物が
時間t1において「これは幽霊だ」と判断する(判断1)
時間t2において「これはやはり柳だ」と判断する(判断2)
時間t3において「あれは幽霊のように見えたがやはり柳だった」と判断する(判断3)
客観的に言うなら、これらの判断にたいしてメタレベルで判断をくだす場合においては
常に事実が変化されえない普遍的時制が設定される必要がありますね。
いついかなる場合においても「これは柳である」といい得る時間ですね。
それに対して判断というのは、認識者側の主観ですから、常に変動しうるものだ、ということになる。
で、客観的に見るなら、この主観的立場というのは無視され、常に普遍的時制がら事象が記述されるべきだ、ということになる。
が、その場合においても、常に「記述する側」の観点の存在は無視できない。
つまりメタレベルの立場であっても、その自己言及性がゆえに、絶えずオブジェクトレベルへの転換の可能性があるわけだ。
しかもこのオブジェクトレベルの主観的立場を完全に無視するなら、判断における錯誤(つまり判断1,2,3の内容的変化)を説明できない。
結局のところ、事象の真偽確定においては
客観的立場と主観的立場、相互の結びつきが考慮されねばならない、というわけだ。
というよりむしろ、この両者の間には、その自己言及性がゆえに
絶えず一方が他方へと転換しうるという「可逆性」がある、ということになるはしないだろうか。
・・・・なんんだかわたしも意味不明ですね。退散します(笑
75192:2001/05/12(土) 12:21
評価して頂いたので調子に乗ります。前回のものは解釈すると・・・。

幽霊だと検証のレベルが難しいのでサンプルを変えます。
たとえば図形などで背景の違いで大きさが違う、いわゆる錯覚という現象が
あります。図形a,bとします。

時間t1:a,bはaのほうが大きい、と観察した。               A∧S
時間t2:a,bは同じ大きさである、と観察した。               B∧S
時間t3:a,bに定規を当てて同じ寸法、ならば a,bは同じ大きさである、と判断。 C⊃B
時間t4:a,bに定規を当てて同じ寸法、が測定された。         C∧S
よって
時間t5:t1でa,bはaのほうが大きい、と観察したのは間違いである、と判断した。
(C∧(C⊃B))⊃B・(前件肯定式)、よってA=0、B=1。

ここで改めて考えるのですが先生の
>時間t3において「あれは幽霊のように見えたがやはり柳だった」と判断する
>(判断3)
および、わたくしのt3、t5は論理式で時空との接点がありません。
よってこれらの判断は時空を超越しているとはできないでしょうか?
ようするにかかわってない。
先生はすべて時空内での判断だとしましたが、観察、判断は区別したら
うまく行くのでは・・・?
75292:2001/05/12(土) 17:32
主観性の議論をするには、やはり幽霊のほうがやり易いようです。

時間t1:なにか幽霊のようなものがみえたと思った。   A∧S
時間t2:あれは柳ではないかと思った。           B∧S
時間t3:幽霊なのか、柳なのか、そばへ行ってみればわかる。 (C⊃A)∨(C⊃B)
時間t4:そばへ行ってみた。                  C∧S
時間t5:柳であった。                       B∧S

問題は図形などと違って恐怖の感情が介在することです。恐怖に陥ったら時間t4
t5は実現しないかもしれません。このへんを記号化できないかというわけです。
恐怖は現存在の価値的な否定と考えられます。記号VSを割り当てます。
Aは幽霊なのでほんとうだったらいやだ、という価値命題VAを設定します。
現実に幽霊であるかもしれない可能命題をPAとして設定します。
A,Bは最終確認ではないので、時間t1t2は様相オペレータをつかって◇A◇Bと
記述すべきかもしれません。

感情の公式を対象存在Aの価値と可能性の連言より導出されると仮定します。
(VA∧PA)⊃VS   VA=0(価値的な否定) PA=1(可能性の肯定) より
現存在の否定 VS=0が導出される。つまり現存在は恐怖に陥っている。
問題はVS=0でt4の記述が実現できないだろうということです。
VSは→1なるポテンシャルがあってVS→0を避けようとするからです。
すなわちCの実行はVS→0を意味しているからです。
ここで勇気を振るうとか居直るという心理過程は、VAの削減、つまり幽霊であっ
てもかまわん、どうにでもなれ、とかいう自己宣言なのかもしれません。

以上、主観性の記述。
調子に乗りまくり、失礼しました。      退散しますU。
 
753吾輩は名無しである:2001/05/12(土) 19:59
あげ
754考える名無しさん:2001/05/12(土) 20:53
あなたの山荘の写真を拝見したのですが
電線が見当たりません。
失礼ですが電気はどうされていたのですか?
755考える名無しさん:2001/05/12(土) 21:01
先生は『存在と時間』の中で唯一の世界内存在である人間をどうして
『der sein』と呼んでいるのでしょうか?素人なんでテクニカルターム
使わずに教えれ!
756考える名無しさん:2001/05/12(土) 21:48
なんのために
757考える名無しさん:2001/05/16(水) 00:49
下がりスギだゴルァ!!!
758考える名無しさん:2001/05/16(水) 01:08
お、上がってきたね。
759考える名無しさん:2001/05/17(木) 00:56
先生こないね。とりあえずサゲ進行
760考える名無しさん:2001/05/18(金) 01:11
あ〜あ、100以下になっちゃったよー
761考える名無しさん:2001/05/25(金) 01:17
ageてみたいんだが、
先生ももう来なくなったし、
質問ももう出尽くしてしまったのだろうか。
どうだろう。
762考える名無しさん:2001/05/26(土) 03:04
そうさなあ、新客を招き入れるかな、学部生でもなんでもいいから。
763考える名無しさん:2001/05/26(土) 21:47
ひさびさあげ
764考える名無しさん:2001/05/27(日) 19:22
忘却について
「彼の家を出ていくことにおいて、彼女はまだあまりにも彼のもとにいる
ために、バッグなどはそこにまったく存在していないのです。このような
有様で出ていくときにバッグが置き忘れられます。」
『ハイデッガー ツォリコンゼミナール』232頁。
765考える名無しさん:2001/05/30(水) 01:21
先生が来ない。。。。
100以下に下がってたので、とりあえず俺様がレスつけとく。
文句のある奴は突っ込んでくれ。

>754
山荘のことはよく知らん。電線なかったか?
だが、当時の山村には電気が通ってないところなんか
ヨーロッパでも珍しくなかったぞ。
ハイデガーの山荘はたしかスキー場の端っこに建ってた奴だろ?
電気が通ってる方がむしろスゲーって感じがする。

>755
質問の趣旨がよくわからんが、『存在と時間』で人間を
der Seinと呼んでるところはないぞ。
ついでに言っとくが、der Seinなんてドイツ語もない
(Seinは中性名詞なので冠詞はdas)し、
SeinとSeiendesを区別するハイデガーの用語法から言っても、
人間という存在者をSeinと呼ぶことはありえないと思われ。
何か勘違いしてない?

まあ、人間とは世界−内−存在という形で存在してる、と
書いてるところはあるわな。
世界−内−存在というときの「存在Sein」は、名詞のSeinじゃないんだ。
つまり人間は(世界−内−)「存在」という存在者である、という意味じゃなくて、
人間であるとは(世界−内−に)「存在すること」である、
というほどの意味。
ハイデガーのSEINを名詞として読んじゃうと訳わからなくなる場合が
多いから要注意だ。
766名無しさん@1周年:2001/05/30(水) 01:53
全然哲学と無縁の技術屋なんですが、ソフィーの世界の
次に読めるような、簡単なレベルの本(日本語)があったら
紹介してください。ギトンというのを読まされましたが
全くもって意味不明でした。
767スレ違いにも優しい人:2001/05/30(水) 02:33

一口に哲学と言っても間口は広うござんす。
あなたがどんな哲学に興味をおもちなのかが
わからないと、うかつなことも言えませぬ。
そこでこんなスレをご紹介することにいたしましょう。

入門者向け哲学書(思想書)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=979527277
768766:2001/05/30(水) 04:41
ご紹介ありがとうございます。
わたしも自分がどんな哲学に興味があるのか、から
探して勉強していきたいと思います。ではでは。
769      :2001/05/31(木) 08:02
あげ
770考える名無しさん:2001/06/01(金) 21:15
「建てること、住むこと、考えること」って講義はどこかに載ってますか?
771オナニー名無し君:2001/06/01(金) 22:11
772考える名無しさん:2001/06/02(土) 00:01
そう言えば、「同一性と差異性」読んだ人います?
あれはドイツ語じゃないと読めないんでしょうか?
773ぴらら:2001/06/02(土) 03:28
ハイデガーさん、ところであなたのトラークル論って、何であんなにレベル低いの?
私はオーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの研究者だけど、あのトラークル論にはひっくりかえりそうになりましたよ。
774考える名無しさん:2001/06/02(土) 03:36
ハイデガーさん
夜が明けてきましたね。哲学初心者ですが、わかりやすくておすすめ
の本をいくつか教えてください。
>>773
 お詩学研究者か?
 ひとつききたい。ヘルダーリン、トラークル、ツェラン、リルケ
 ハイデガーの解釈でどれがまともでどれがドゥキュン?
776ぴらら:2001/06/02(土) 07:58
私はトラークル論しか読んでないけど、
あれってひどいですよね。
でもねハイデガーが言っているというだけで、信じてる人がいます。それだけ。
777名無しさんといつまでも:2001/06/05(火) 19:21
あげ
778考える名無しさん:2001/06/08(金) 12:43
先生,休講続きすぎッすよーAGE
779考える名無しさん:2001/06/13(水) 23:27
アゲトキマス
780考える名無しさん:2001/06/14(木) 02:09
「存在と時間」なんですが難しすぎてわけ分かりません
内容を分かりやすく教えていただきたいです
哀れな愚か者に救いの手を差し伸べてください よろしくお願いいたします
781考える名無しさん:2001/06/14(木) 17:54
>>780
確かに難しいよね。
木田元『ハイデガーの思想』っていうのが解りやすかったから読んでみるといいと思うよ。

最近先生来ないなあ・・・。
782考える名無しさん:2001/06/14(木) 18:10
先生のヘルダーリン理解は保田の後鳥羽上皇理解に通じるものがあると思うんですが・・・
783考える名無しさん:2001/06/14(木) 18:13
福田
784形而上学とは名無し:2001/06/15(金) 01:52
>>775
それ私も聞きたいな。出てきてよ。
785ジャコバイト:2001/06/15(金) 14:38
>1

なぜナチスに参加したんですか?
786考える名無しさん:2001/06/15(金) 15:23
先生の恐るべき理力を持ってしてもヒトラーを御すことは
できなかったんでしょーか?
787丸珍肺でグァー!:2001/06/15(金) 15:33
>>758
あー、痛いなー。何となくかなー。
>>786
うん。まあ・・・ねぇ。しょうがないっしょ。
っつうわけで、丸珍でした。
チェケラッチョ♪
788丸珍肺でグァー!:2001/06/15(金) 15:37
>>758>>785の間違いね♪
そいじゃまたね。
ウンポコチン♪
789考える名無しさん:2001/06/15(金) 19:50
ヒットラーの何がいけなかったかをまず整理した方がいいと思うけど。
790zjyue:2001/06/16(土) 03:55
791ぴらら:2001/06/16(土) 03:59
>>784
つまんないことだけど、ハイデガーはトラークル論で、トラークルのgeistlich
は宗教性を意味するのではなく、魂を意味するといってるのですよ。
でも、それはなんの根拠もない。いってるだけ。
でも、特に日本のトラークル研究家は、ハイデガーがいっているというだけで、それを盲信してるんですよ。
こちらのほうがしんこくだと思います。
792ヘーゲル万歳:2001/06/16(土) 04:53
西田幾多郎のことが嫌いでしょ?
793考える名無しさん:2001/06/16(土) 13:07
先生来ませんね、留学したとかどっかで書いてあったような
794考える名無しさん:2001/06/16(土) 13:24
「りんりについてかんがえています」というスレと
「Bibliographie in 2ch「今日何読んだ?」」
というスレで登場してた。
蕎麦屋で「ウルトラジャンプ」読んでるんだから日本にいると思うが。
795考える名無しさん:2001/06/16(土) 14:08
ハイデガーさん、肩に力が入り過ぎてませんか?
死ぬことを意識して生きるのはムリだって。
ガクセーの頃に信じてて損したよ。
796考える名無しさん:2001/06/16(土) 19:05
>>794
それは・e・さんでしょ
このスレ主とは違うはず
797考える名無しさん:2001/06/16(土) 20:23
>>795 いえいえ、先生は人生を通じてユーモアを実践してくれましたよ。
   偉大な著作をものにした後、その透徹した聡明さをもってして
   あえてニーチェを誤読してみせて、ナチスに入ったということ、
   これは先生がいつもの先生らしく準備周到に演じた世界史的ギャグなのであります。
798考える名無しさん:2001/06/16(土) 20:59
●▲■ 集まれバカども!■▲●

http://aqua.cha.to/

by 兄貴
799考える名無しさん:2001/06/16(土) 21:11
ナチスは間違いかい
800三村@さま〜ず:2001/06/16(土) 21:38
>>797
アレはギャグかよ!
801考える名無しさん:2001/06/16(土) 22:22
>>794
それ何処?
802考える名無しさん:2001/06/17(日) 00:25
>>796
 >>262-272
803考える名無しさん:2001/06/17(日) 02:00
804考える名無しさん:2001/06/17(日) 04:57
>>803
有難う。
805考える名無しさん:2001/06/17(日) 09:47
ナチスの哲学か
806考える名無しさん:2001/06/17(日) 22:55
ナチスの哲学は言いすぎだと思う。
ハイデガーはナチスに共感するところが結構あったのかもしれないが、全てを肯定したわけではないような気がする。
807考える名無しさん:2001/06/17(日) 23:19
>>802
失礼しました
808考える名無しさん:2001/06/21(木) 11:08
 
809考える名無しさん:2001/06/22(金) 23:35
先生は実はまだ時々ここをROMってて、
1000レス目だけは自分で踏もうと
虎視眈々と狙ってる、に一票。
810考える名無しさん:2001/06/23(土) 02:44
キリ番外した先生が懐かしい。
811考える名無しさん:2001/06/23(土) 02:59
実は=・e・だって知ってるの?
・e・なら2、3日前別スレで見た気がするぞ。
812811:2001/06/23(土) 03:06
すまそ。
すぐ上でがいしゅつだった。
813ハムハム:2001/07/02(月) 17:43
一つ質問でーす。 周りから多くの影響を受ける人って、周りに多くの影響を与えることってできますか?
814考える名無しさん:2001/07/04(水) 02:36
ハイデガー先生は今ハイデガーを勉強しているようですが、
アリストテレスなんかも勉強しているんでしょうかね?
先生は二次資料????は重視しないとか、、、
815吾輩は名無しである:2001/07/04(水) 02:50
いきなりですみませんが
アドルノの思想が端的かつ分かりやすく紹介されてる本教えてください
またそれに反対する立場(おもにアドルノの言う文化資本に反対する立場)のものの本も教えていただけると幸いです

マジレス希望です
816マルティン・ハイデガー:2001/07/04(水) 06:49
ひさびさ降臨!!
>>815
現代思想の冒険者達『アドルノ』読みなさい。
マーティン・ジェイ『アドルノ』読みなさい。
817考える名無しさん:2001/07/04(水) 06:50
先生、お久しぶりですなあ。
818リアル厨房(15歳):2001/07/09(月) 15:25
先生はベンヤミンをどう見ていらっしゃいましたか?
やはり
うぜえよ、おまえ!逝ってよし
とか思っていましたか?
819考える名無しさん:2001/07/19(木) 14:13
age
820WIZARD’S筆頭WIZ:2001/07/19(木) 14:41
あいーん
821ナナシ:2001/07/19(木) 15:48
ごめんなさい、哲学じゃないんだけどさ、
倫理的相対主義って何?どんな内容?
822スーパー名無しくん:2001/07/19(木) 16:03
俺も知りたい
823考える名無しさん:2001/07/20(金) 03:36
「1=・e・」だったんだね。
824考える名無しさん:2001/07/21(土) 07:54
age
825考える名無しさん:2001/07/21(土) 09:52
1=・e・=らげ だったんだね。
826考える名無しさん:2001/07/21(土) 10:26
>>816
現代の思想で、先生の考えを最もよく受け継いでいるのは何ですか?
別に思想でなくともかまいません。
デリダだかドゥルーズだかが、ハイデガー的意味の存在論は死んだ、
みたいなことをどこかで言ってたと思いましたが、彼らは何をいいたいのでしょうか?
827考える名無しさん:2001/07/21(土) 11:01
「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」
828アゲダマー:2001/07/21(土) 11:03
先生は自作自演が発覚して謹慎中だから代わりに弟子の
アゲダマーが答えましょう。
先生の系列は、あえて言えばラカンです。最近ではジジェクです。
存在論の死の意味は自己言及システムの限界ということです。
829考える名無しさん:2001/07/21(土) 11:17
>>828
ありがとうございました。ラカンってのはかなり敢えて言われた感じがします。そういや三つのスカンションって時熟と雰囲気が似てますね。
自己言及システムの限界は哲学の限界でもあるのでしょうか?
830考える名無しさん:2001/07/21(土) 11:29
>アゲダマー助手
ところで、ハイデガーのうんこはでかそう
なんですが、それは彼の存在論となにか関係
あるとみなしていいのでしょうか?
831考える名無しさん:2001/07/21(土) 15:00
>>828
>自作自演が発覚
どこでの話ですか?
832考える名無しさん:2001/07/21(土) 15:20
>>831
マルティン・ハイデガー(このスレの1)=・e・=ラゲ
のことを自作自演といったのでは?
833考える名無しさん:2001/07/21(土) 15:52
>>832え! そうなの。びくりつしました。
834考える名無しさん:2001/07/21(土) 16:45
>>833
東スレッドで発覚しました。
602でらげを擁護してしまったのです!

かなりの低脳・・・・・・
835考える名無しさん:2001/07/21(土) 16:48
まったくこの先生懲りないひとだねえ。
一度ならず二度までも。
自作自演もきっちり二回ともバレてる。
このスレにらげのレスがないのがなによりの証拠じゃないか。
それにらげが現れたのはこの先生が消えてから。
836考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:04
>>836
>このスレにらげのレスがないのがなによりの証拠じゃないか。
なるほど!
さすがに自分のトピは荒らさないかワラ

それから↓が、あげぞうが発見した「・e・=ラゲ」らしき人物のサイト。
http://www.shinenet.ne.jp/~buraiha/buraiha/index.htm
リンク集には、
http://www.shinenet.ne.jp/~buraiha/buraiha/link.htm
■私がハイデガーだが何か質問ある?
■ハイデガー/ユンガー対アドルノ/ベンヤミン
■下痢気味ヘーゲル
■他者について
への直リンクが貼ってある。自己顕示欲の強い先生だねぇ。
837考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:08
「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」
838考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:09
「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」
839考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:10
>>836すげ〜予想通りなキャラだな。独文学者に多そうな感じ。
840考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:10
816 名前:Rage Against The Philosophy 投稿日:2001/07/20(金) 06:45
ふ〜ん、すごい話になってるなぁ。
俺としては
>636 名前:629 投稿日:2001/07/18(水) 04:25
ここ凄いですね!
僕素人ですけど、たまにきてもいいですか!
>638 名前:629 投稿日:2001/07/18(水) 04:37
哲板で初めてまともな人を見つけた様な気分です。
また来ます。
これのほうがよっぽど自作自演っぽいけどな(笑)
まあいいや、こんなゴシップめいた詮索に興味ない。
俺が・e・だって?否定はしないよ(笑)

まぁそんなことより次第に芸能リポーター並みの
メンタリティを曝しはじめたあげぞうの無残なレスを楽しんでるよ。
俺がらげ名義でいろんな板に書き込んでるので物証はいつでも出せるんだけどね。
841考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:13
602 名前:・e・ 投稿日:2001/07/17(火) 22:20
端からちょっとだけ見てるけど
あの、あげぞうさんの
>実存主義のメインストリームは、キルケゴールからサルトルへと連なるけど、
>トマスやニーチェも実存主義として理解されておかしくないのだよ。
>伝統的な西洋思想史の文脈では、ヒューマニズムは「自由な主体」として理解されている。
>ヒューマニズムは「責任ある主体の他者との関わり」としても定義される必要がある。
>ということで、私はヒューマニズムを「私的−公的」同時に考えようとしているだけであって、
 これ全てそのまんなサルトル的な実存主義の定義に過ぎなくて
 どの程度まで他の文脈に適用できるかは疑問だよ。
>そうかな? 新たなヒューマニズム概念の構築こそ、
>現在最も解決を要求されているテーマの1つだと思うが。
>つまり、第2次大戦後にはその必要性を感じられたことでは?
 問題意識の状況もそのまんまサルトルだわ。

らげの可逆性について推察すると、
意識/無意識の形而上学的ヒエラルキーは価値観の上下関係を含まざるをえない
つまりそれは、欲望の肯定を下位に、禁欲を上位に置くようなプラトニズム的なキリスト教神学となる。
これにたいして病者/健常者という対概念にあるのは、価値の上下関係ではなく
たんなる視点のフラットなレベルにおける可逆性。
これは一見、全ては差異の戯れ、とするポストモダンの相対主義を示しているが
可逆性は常に視点の切り替えの実践を要求する。
現代においてはこのような複眼的視点が、ニーチェの思想の生産的側面として析出できるであろう、と。
でもこれは、小林秀雄の「すべては意匠に過ぎない」がそうであったように
あくまで出発点に過ぎない。そういう意味ではらげには
あげぞうの性急さは見られないな。

以上、論文でぶったおれそうな研究者でした♪
842考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:14
613 名前:Rage Against The Philosophy 投稿日:2001/07/18(水) 02:32
あらあら・e・が
俺の書くことだいたい言っちゃってくれてるわ
まるで自作自演みたい(笑

面白いのはあげぞうがサルトルを読んでるかどうかじゃなくて
自分の哲学述べますって言っときながら
内容はまるで教科書的なサルトルに過ぎないってことだな。
最初は他人の受け売りからでも、書きこみにはそれなりに「マイ哲学」が反映されるのだよ。
俺のカリスマ的な人気を見れば自然と分かると思うがね。
843考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:15
>>1
>できるだけ何でも答えましょう。

冥土の住み心地はいかがでっか。
844考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:19
773 名前:ぴらら 投稿日:2001/06/02(土) 03:28
ハイデガーさん、ところであなたのトラークル論って、何であんなにレベル低いの?
私はオーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの研究者だけど、あのトラークル論にはひっくりかえりそうになりましたよ。


774 名前:考える名無しさん 投稿日:2001/06/02(土) 03:36
ハイデガーさん
夜が明けてきましたね。哲学初心者ですが、わかりやすくておすすめ
の本をいくつか教えてください。


775 名前:RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY 投稿日:2001/06/02(土) 04:27
>>773
 お詩学研究者か?
 ひとつききたい。ヘルダーリン、トラークル、ツェラン、リルケ
 ハイデガーの解釈でどれがまともでどれがドゥキュン?
845考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:20
自作自演の下手さ具合にこの先生の限界を感じるね。
我から脱却できていない。
846考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:33
>>836
らげ氏が述べた考えが、よい説明であったか否かは別として、
哲学上の問題について自分が考えた内容を、自己顕示欲の表れと
してしかとらえないのは、乱暴に過ぎるのでは?

だいいちハイデガースレ読めばわかりますが、全然自己顕示欲など
感じられないではないですか。
847考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:34
「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」「・e・=ラゲ」

らげは非研究者
848846:2001/07/21(土) 17:36
>>845
それは、我から脱却できているかどうかの問題ではなくて、
論理的整合性が演ずる主体内できちんと保たれているかどうかと、
たまたまある解釈上のミスが、異なるHN間に共通してみられたから
ばれた、というような問題でしょう。

彼は基本的に良心的な人間なので、私としてはがんばって欲しいと
思っています。
849考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:39
>彼は基本的に良心的な人間なので
どこが???
アイツはリアル厨房だぜ。知識を振りかざすしか能のない荒らしだよ。

オマエ、らげだろ。
850考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:39
いまだに自作自演のらげ。

おおわらいー
851考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:45
846=らげ

ギャハハハハハハハハハハ!!!
852845:2001/07/21(土) 17:49
>>846
いやいや、我からの脱却は重要だよ、
哲学においても自作自演においても。
人間はそうそう自分の慣れ親しんだ
思考パターンから脱却できるものじゃない。
我が哲学理解、あるいは他の人格を
演ずるジャマをする。
853考える名無しさん:2001/07/21(土) 17:51
ひとつ言えることはあれだな。
この人はどれだけ叩かれても
哲学板から出て行くことはないな。
ハンドルを変えて意地でも居座りつづけるよ。
安心して叩こう。
854846:2001/07/21(土) 18:40
>>849-851
あなたたちには、それしか言うことはないのですか? 私はらげではないです。

>>849
マルティン・ハイデガー名義での応対を見ればわかるでしょう。
くだらない身辺ネタにもいちいちひねりを利かせて答えていたりしています。

>>852
今回は我からの脱却云々の話ではない、と言っているのであって、
我からの脱却なるものが不要か否かについて問題にした覚えはないです。

>>853
そのことと、叩いていいことは、何か関連があるのですか?
855考える名無しさん:2001/07/21(土) 18:43
教えてくれさえすれば、誰でもいいよ。
自作自演だろうが、厨房だろうが、通りすがりだろうが。
856考える名無しさん:2001/07/21(土) 18:47
>>855
教える人が不快になるようなレスを堂々と付けられる君はすごい。
いや、これからも何がいけないんだ、とマイノリティでいてくれたまえ。
857846:2001/07/21(土) 18:49
>>855
私もそう思います。
858846:2001/07/21(土) 18:50
>>856
我からの脱却は十分ですか?
859考える名無しさん:2001/07/21(土) 19:20
>>856渦中の人なのかい?
860age:2001/07/21(土) 19:21
コテハン叩き醜態さらしage
861考える名無しさん:2001/07/21(土) 19:23
>>860真っ赤になってるぞ
862考える名無しさん:2001/07/21(土) 19:31
都合の悪いときは考える名無しさんage
863・e・:2001/07/21(土) 19:35
・e・<ち、ちがうよぅ・・・
864考える名無しさん:2001/07/21(土) 19:38
>>863ワラタ
865・e・:2001/07/21(土) 19:39
(T_T)
866考える名無しさん:2001/07/21(土) 19:42
そろそろRAGEがそ知らぬ振りして顔を出すに1,000ペソ
867Rage Against The Philosophy:2001/07/21(土) 19:49
(^^;;
868考える名無しさん:2001/07/21(土) 20:01
>>867
ときどき名無しになったりしてるの?
869Rage Against The Philosophy:2001/07/21(土) 20:05
(-_-)
870考える名無しさん:2001/07/21(土) 20:07
彼にとって周辺的な人格から順番に出てきているな。
  考える名無しさん=>・e・ =>らげ
でも名無しの攻撃性(しかも相手の反応を先取りする小心)が、
彼の最も基本的な性格と思われ
871考える名無しさん:2001/07/21(土) 20:11
次はどんなコテハンかな?
わくわく…
872考える名無しさん:2001/07/21(土) 20:41
>>856
キミもなんか喋ってみたら?
873考える名無しさん:2001/07/21(土) 21:13
ちょっと幻滅
874考える名無しさん:2001/07/21(土) 21:28






コテハン依存症
875考える名無しさん:2001/07/21(土) 22:01
Heideggerってある意味Rage Against The Metaphysicsだよね。
876考える名無しさん:2001/07/21(土) 22:56
コテハンなんてどーでもいいよ。
それより、こんな事しか話題に出来ないロビラーは学問板にくんなよ。
騙りにコピペで騙される厨房はお前等と同類の奴しかいねーよ。
877晒しあげ:2001/07/21(土) 23:13
ルサンチマン爆発age
あげぞう新派誕生age
878考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:15
>>876でたね、ダッシュ1
879考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:22
あげぞう新派発見!
880考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:29
>>879
いや、腐臭のするルサンチマン野郎だろ。
糞レス付けるしか能の無い名無しだ。
祟られるぞ、相手にするな。
881考える詩人@WIZ:2001/07/21(土) 23:29
わはははhっははっはhっはっはははh!!!!!
882考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:30
>>876
りゃげ!
883考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:33
880=りゃげ⇒こわい
884考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:34
ロビー発見!
885考える名無しさん:2001/07/21(土) 23:53
>>856-884
は永久保存にしとくよ。ネット人格の勉強になった。
886考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:06
乖離性人格障害者発見!
887考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:08




















(・∀・)本当に イイ!











コテハン依存症
888考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:12
おお?
先生ついに発狂か。
889考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:15
夏厨発見!
890考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:16
この人を見よ。
891考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:18
ほとんど死戦期でしょう。けいれんしてます
892考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:23
>>890
で? 誰でも知ってるニーチェひいて何んなん?
893考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:23
もうこの先生がマジレスしても説得力がなくなったな。
自作自演は良識とはかけ離れたものだぜ。
特にラゲで語って別ハンドルの・e・でフォローなんて最悪だな。
下劣だぜ。
894考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:32
>>893
匿名掲示板でそんな事言い始めたら切りねーよ。
それに自作自演だって見てる奴が内容で判断すりゃ惑わされねーだろが。
あげぞうの推理が正しいと思ってる奴マジ大丈夫か?
それにあげぞう自身自作自演をやってる様に見えるぞ。
895考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:37
この名無しさん>>894はどうしてこんなに必死なの?
らげの話なのにプ
896考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:40
>それに自作自演だって
切なくなってくるな
897考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:43
>>895
おまえ“らげ”ばかりか“あげぞう”も居付かせる気か、、、

もういいや、好きにすれば厨房くん。
898考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:46
一度コテハンにしたら変えない方がいいと思った。
変に変えるとボロがでる。
899考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:46
>>897
あなたが好き勝手やったほどには好きにしてません
900考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:53
>"らげ"ばかりか
だって。巧妙さに反吐がでるぜ
901考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:53
妄想型分裂病患者発見!
902考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:55
らげは認めてあげぞうは認めない本心がミエミエ
903oremona-:2001/07/22(日) 00:55
乖離を巡る妄想。
あなたに関係する人物はみな同一人物である。
904考える名無しさん:2001/07/22(日) 00:57
ほら。
こうしてる間にもらげはどこにもいない。
らげが必死で下げレス付けまくってる証拠だぜ。
905考える名無しさん:2001/07/22(日) 01:18
事実であるかのような雰囲気を作ろうと必死だねぇ。
906考える名無しさん:2001/07/22(日) 01:22
往生際が悪い!
907考える名無しさん:2001/07/22(日) 01:24
その悪辣さ、しつこさ、
オレの記憶にはしっかり焼きついたよ
908考える名無しさん:2001/07/22(日) 01:30
コテハン批判をどうしてもやりたければ、下記スレでたのむ。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=995727385&ls=50
909考える名無しさん:2001/07/22(日) 01:56
X=Xに夢中になるってことは現存在の配慮からくるのかしら。
なんつって。
910考える名無しさん:2001/07/26(木) 11:16
さいきん、笠井潔の『哲学者の密室』っていうミステリーを読んだんですけど、
笠井の『死への先駆』の解釈はトンデモだって本当ですか?

なんか、笠井は『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」みたいな解釈だったけど。
911考える名無しさん:2001/07/26(木) 16:58
912考える名無しさん:2001/08/04(土) 01:28
コテハン叩きも人段落したかなあ。
どうだろう。観測気球をあげてみる
913考える名無しさん:2001/08/05(日) 15:22
ハイデガー先生
実存主義は神の否定だと思いましたが、
ハイデガー先生においては
どうなのでしょう?
914考える名無しさん:2001/08/05(日) 15:26
細川亮一を読もう。
915考える名無しさん:2001/08/09(木) 15:32
age
916考える名無しさん:2001/08/09(木) 15:40
「研究者(2001年決定版)」
長所:自分のやりたいことが仕事になるのでうれしい。
短所:会社員よりもお金が儲からない。非常に難しい。研究者
   になるまでの リスクがあまりにも多い。失敗すると今ま
   で積み上げて きた努力や地位や学歴がすべて消滅して、
   ただ年を喰っただけの丸裸の自分が残る。
   社交性が身に付かず、また結婚の可能性も薄いし、相手
   の選択の幅もかなり狭い。ただ暗い。運の占める割合が
   大きい。苦しい。将来の見通しがたたない。ここまで来て
   才能のなさがわかっても引き返せず鬱な人生をおくる。
   こんなに難しい職業なのに医者や弁護士に比べてたいして
   尊敬されない。etc..。

   こうなりました。これが日本における研究者の実体なのです!
917わかりません:2001/08/13(月) 03:39
ハイデガー先生、出稽古をお願いします。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=987628518&ls=50
918考える名無しさん:2001/08/15(水) 04:52
『ハイデッガー全集 第17巻 現象学的研究への入門』を買い求めた
のですが、こなれない日本語の翻訳で、元のドイツ語を参照しなければ
まともに読めない感じがします。きっと翻訳された先生はドイツ語のま
まよく理解されているのでしょうね。この本を理解するには翻訳を必要
としないドイツ語の修得が必要なのでしょうか?
これはいいすぎでしょうか?あるいは私に哲学的素養が不足しているだ
かなのでしょうか?

 「諸君は、ここで思念されていることを、[伝統的に]思念しなけれ
 ばならないとして、思念してはならないのである。」???
919考える名無しさん:2001/08/15(水) 23:53
君ら少しはこういうもん見て勉強しな。
http://www.hinomarubus.co.jp/kanko/bus.htm
920考える名無しさん:2001/08/16(木) 00:00
>>918の引用は僕ならこう読むな。
原典はおろか、引用された部分以外は何も知らないけど。

「ここで思念されていること」を
「伝統的に思念しなければならないものだ」と
考えて(思念して)はならないよ、諸君。
921考える名無しさん:2001/08/16(木) 00:08
>>919
一人で声出して笑っちゃったよ
922考える名無しさん:2001/08/16(木) 00:21
ハンナ・アレントどうだった?
気持ちよかった?
923わかりません:2001/08/16(木) 00:49
ひのまるぶす.co.jp/かんこ/ぶす.htm
と読んでしまいました。かんこというふす?
スーパーハイデッガー。
924考える名無しさん:2001/08/16(木) 01:05
「存在と時間」の後編はいつ出ますか?
925ヴィクトル・ファリアス:2001/08/22(水) 02:10
あいつは元来頑迷固陋なカトリックを土壌にして育った奴なのヂャ
926考える名無しさん:2001/08/22(水) 02:13
せんせーまた木田君がことわりなしに変な本だしましたー
927考える名無しさん:2001/08/22(水) 03:08
つーか、ハイデガー先生どこ行ったんだよ!?
928考える名無しさん:2001/08/22(水) 17:14
あんげr
929考える名無しさん:2001/08/23(木) 18:27
age
930考える名無しさん:2001/08/23(木) 20:01
ハイデガー逝ってよし。
931マルティン・ハイデガー :2001/08/23(木) 21:47
こいつの本は禁書である
解ったな

ロックモア,T.(トム) 著/奥谷 浩一 訳/横田 栄一 訳
『ハイデガー哲学とナチズム』
北海道大学図書刊行会   1999
\6,800
932考える名無しさん:2001/08/23(木) 22:32
933考える名無しさん:2001/08/24(金) 08:57
age
934考える名無しさん:2001/08/24(金) 14:29
ハイデガーさんなんで存在と時間の後半を書かなかったのですか?
諸説があるんですがイマイチなので
教えてください
935中西:2001/08/24(金) 15:08
1)存在への道2)無への道3)仮象の道。『形而上学入門』より
これら全ての道を歩むものとは?例えば歴史上の人物では誰が近いの?
答えてよ!
936中西:2001/08/24(金) 15:18
あんたは結局、時流にのまれるだけの短命を嘆くおっさん
だったのでは?
937考える名無しさん:2001/08/24(金) 18:23
あげ
938マルティン・ハイデガー:2001/08/24(金) 19:22
マルティン・ハイデガーの現存在を了解できぬ者は、
いっさいマルティン・ハイデガーについて語るな
939考える名無しさん:2001/08/24(金) 19:25
>>938
偽者?
940考える名無しさん:2001/08/24(金) 19:43
>>939当然でしょ
941考える名無しさん:2001/08/24(金) 19:48
>>939何時本物が出てきたの?
942考える名無しさん:2001/08/24(金) 20:33
943考える名無しさん:2001/08/24(金) 20:55
>>940
1のことだよ馬鹿
944考える名無しさん:2001/08/24(金) 21:48
本物が書いてると思った・・・
945考える名無しさん:2001/08/24(金) 22:01
>>943
おまえこそバカ
946考える名無しさん:2001/08/24(金) 23:12
>>938

でも、これってハイデゲリアンの基本的スタンスじゃないの?
案外当たってるかも・・・
947考える名無しさん:2001/08/25(土) 14:21
あげ
948考える名無しさん:01/08/26 20:31 ID:IIdBmoP6
あげ
949考える名無しさん:01/08/26 21:31 ID:wgZc4Emg
>>931
ロックモアの本は、ハイデッガー論争を判り易くまとめてあって良いよ。
あと、リチャード・ウォーリンも良い。
950考える名無しさん:01/08/27 04:11 ID:3KgihlQk
ハイデガーのナチ転向を庇ってきたのが、
サルトルやデリダなんかの、
フランスのいわば進歩的文化人というのが、
不思議だ
951Rage Against The“fucking”Philosophy:01/08/27 04:13 ID:PCX8GMo2
サルトルやデリダは
ヒトラーに協力的だったヴィシー政権についてどう考えているのだろうね。
952考える名無しさん:01/08/27 05:31 ID:T1lAMorY
>>934
>>生きると言うことは、ただそれだけで十分に価値がある
>>他に理屈なんか要らない
>俺が欲しいのはこの心境なんだよね
己の目的を確信している人間の境地ですな
確信しているが故に意味を問う事は無い、其の必要がない
ああ、生きていて良かったと、思ったときに其の人は己の人生を完全に肯定しているのであり
其の「為」に生まれてきたと彼は自分自身に示す事が出来るはずです
    
目的は、理論からは生まれにくい
これは真に本能に根ざした、怒り、悲しみ、喜び、その他からしか来ないと思う
何故ならば、目的とは、「希求」する物でなくてはいけないからです
そして、希求、それは本能以外を根拠とはしえないものであるからです

人として、其の本能と、理性を調和させ
己が真に信じられる「希求するもの」、即ち、目的であり「理想」を
我々は、人であるかぎり掲げていかなければならないと思います
歩みを止めたら其処が終りとなるでしょう

我々の本能が悪ではないことを願ってやまない
953考える名無しさん:01/08/27 08:55 ID:T1lAMorY
>204
ひとつ聞いていい?
君はどっち派?神はいる派?いない派?
なんか、どちらともいえない派のような気が…。
ハッキリしてもらえないと俺は混乱する。
ハッキリしようぜ!な?
取りあえず、俺はいる派!けど、神は逝ってよし!

>物理
なんか、揚げ足を取るようで悪いんだけど、
>物理法則の根本的な理論は当然、終着駅があると考えています。
>応用を含めればそれは無限にあるでしょう。終わりはありません。
法則の終着駅が、神がいないことを証明できるの?
俺、物理は良く知らないから偉そうなこといえないけど、なんかおかしくない?
だってさ、
>「その認識できない部分にも人間には認識できない法則が存在し…」
>近いです。法則は「理解」できるはずなんですが、その「領域」の
>存在の証明とかそういうのができない…机上の空論となってしまう
>領域というのか…のこと。
こういう意見でしょ?いくら式で導いても机上の空論は出てきちゃうんでしょ?
だったら、神がいない事は証明できないんじゃない?
飛躍し過ぎかも知れないけど、宇宙の事を幾ら語っても宇宙は宇宙でしょ?
赤方偏移だとか、難しいことをいっても、「ムー的な宇宙の存在」の可能性は否定できないでしょ?
じゃあなんで宇宙は存在したの?ってことにならない?
物理法則でこれも分かるの?(可能性を否定する事は出来るの?)
でね、いくら突き詰めても原始(原子でもいい)の存在は証明できないでしょ?
それと同じで、俺達が人間である限り、神の存在の証明はできないんじゃないの?
つまり、俺はそういう意味で>>205をいったのかどうかは知らないけど…取りあえずそういう意見!
954考える名無しさん:01/08/27 15:52 ID:q13A9iAs
素人です
丸珍牌弟峨の著作のうち、
『存在と時間』に次いで重要なものは、何でしょうか?
955 :01/08/27 17:28 ID:BvMklDhY



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↑( ・∀・)イイ!
956考える名無しさん:01/08/31 13:16 ID:q6QtRtvY
2
957考える名無しさん:01/09/02 01:27 ID:H3G8mInE
ハイデッガー先生、
いつ現われて下さるのでせう?
958考える名無しさん:01/09/02 23:33 ID:tTzAirO2
とりあえず、相手の回答を待ってから、自分の考えを書きこみませんか?
結論だけずらずら並べても説得力は増しませんから。

>>836
>>あなたの考え・あなたの構図の取り方それ自体への疑いがないです。
>どこを疑えばいいのか、そこを教えてください。
あなたは「疑うことが出来ている」と述べたはずですが。
教えろといいますが、そこを自分で見出すこと自体が疑うことでしょう。
方便でしょう、あなたの疑うという態度は。

>>837
>結局真理(というか、正しい認識)は、真理ゆえに真理として扱われるのではなくて、
>その真理を説得的に論証できたかどうかで、真理らしく扱われるというにすぎないのです。
>これは相対主義ですか?
そこに書いたとおりの考えです。なんでレッテルを使うことに疑いを持たないので
しょうか?

>それともあなたの真理に対する考えかたですね?
場合わけして論じたのに、なんで考え方が表れていると判断できたのでしょうか?

>私は哲学者がそんな居直りをすることはできないと考えています。
>もしあなたがこの答えで納得できるのなら、あなたの哲学はもう終わっています。
正しく認識して仕方が無い面を理解することのどこが居直りなのでしょうか?
あと、終わっていると「あなたが判断している」にすぎません。
そういう視点がないことが、疑うことを知らない、ことでしょう。

>つまり「真理なんてない」という主張ですね?
>だとしたらこれ以上何を求めて哲学をするんですか?
>答えはもう出ているのではないですか?
>だから虚栄心があってもなくても関係ないわけですね。
哲学をするということ自体を疑っています。
哲学というのは、多くの人間が、それぞれが思うところを割り当てて論じられる
概念です。だから哲学をするとだけ述べても、内実がわかりません。
少なくとも、あなたが言うところの哲学は、やっています、と答えたはずです。>>827最後
その部分は真理を求めることとは関係がないでしょう。

>後は以下に論理的に説得できたかなんですね。
>これはもうスポーツみたいですね。
>でも私はそうは思いません。
あなたがそう思わないなら、それがスポーツみたいだろうが、そうでなかろうが、
あなたの言うことが認められることは無い、と述べただけです。

>「真理なんてない」という主張は無意味です。
>なぜならそれは「真理があること」が前提になってはじめて意味をなすから。
真理があると考えるのは、あなたです。主体構造から逃れられてないですね。

>「真理があるかどうかすら分からないけど、それを求める!」
>というのが哲学の態度だと思います。
あるかどうか分からないことを求めることは、宗教じゃないですかね?

>「真理なんてないから、後はいかに人の人気を得るかどうかだ」
>なんて考えを認めることはできません。
あなたに読解力がないだけです。
959考える名無しさん:01/09/02 23:54 ID:tTzAirO2
私(二酉)が言ったときは安易と切り捨てたのに自分(悲しみさん)が仰ったときには
重要だと言う事になっていて謎が深まる二酉であります(笑)
一般の人っていうのがどんな人なのかいまいち想像がつきませんが
(なにせついこの前まで私自身が「一般」に相当すると思っていたので)
でもって1.2.っていうのはどこにあるんですか?ちょっと見つからないもので・・・
ちなみに間違っていると思う=批判する、ではなく、
自分の思ったこととズレがある=指摘するだと思っています。
960考える名無しさん:01/09/03 18:07 ID:VSdNEK1U
age
961考える名無しさん:01/09/03 21:07 ID:9O15xeFM
下等ほにゃらら(仮)が言っていることは、未来を優先するために今したい事を
我慢するのもよし、未来を優先せず今したい事をするのもよし、という事ですよね?
私は頭が悪いせいか下等ほにゃらら(仮)さんの文章を誤解しているかもしれません。
もう少し易しい言葉で説明して頂けると嬉しいです。
962考える名無しさん:01/09/07 23:09
もう来ないの?
963考える名無しさん:01/09/21 18:47

わたしたちは、ただただその到来を待つしかないのでしょうか?
964考える名無しさん:01/09/21 18:53
1000になる前に終わろう?
965考える名無しさん:01/09/23 18:36
哲板NO1良スレはこれ
966考える名無しさん:01/09/24 23:25
ハイデガー様
問題を正しく定立したとき、その問題は80(50か?)%解決している、についてですが、
正しい問題の定立の仕方が、ア・プリオリに存在しているのでしょうか?
967マルティン・ハイテガ−:01/09/24 23:40

ファイナルアンサ−かな...

  。
    。
      。
        。
          。
            。
            正解!

http://www.j-cuties.com/index.html?01258
968考える名無しさん:01/09/28 23:30
>そこのところで、声と現象で、批判がでたと思うが。結局、純粋に始原を求めてる
>と見せて、実際は論者の論じたいように構成してると。
>別にそのこと自体は批判されるべきではないが、科学史なり分析哲学なり権力分析
>なりの成果無視して現象学者が特権的にいい成果あげられるという根拠を示してく
>れないと駄目。
>独断論の神秘主義との批判は防げない。その文脈で目的論が叩かれる。
>実際、フッサールやハイデッガーの著作に人種主義的予断は満ちている。
>デリダの場合、自分の言葉遊びを正当化するためユダヤ人のくせに、フッサールを
>叩いてハイデッガー評価を宙吊りに保つと狡猾だが。
969考える名無しさん:01/09/28 23:44
こういう意見を読んだらこのスレのハイデッガーさんはどう答えたんだろう?
970マルティン・ハイデガー:01/09/28 23:49
私の後期思想を神秘的という貧しい語彙でしか規定できない
日本の批評家にたいしては「ああそうですか」としか言いようがないですね。
民族の問題にしてもそうです。
971考える名無しさん:01/09/28 23:53
別に神秘的かどうかはどうでもいいが、
>別にそのこと自体は批判されるべきではないが、科学史なり分析哲学なり権力分析
>なりの成果無視して現象学者が特権的にいい成果あげられるという根拠を示してく
>れない
このへんドーヨ。
972マルティン・ハイデガー:01/09/28 23:58
おおよその検討はつきますが上のコメントの内容がよくわからないのです。
科学史というか、科学哲学について言うと、これは氏フッサールの弟子連中が
新たに切り開いた学問地平です。ベッカーとかその代表ですね。
必ずしも現象学者と科学史家、分析哲学者が対立するとは思いませんし。
もっとも現象学者をどう定義するかが問題ですねどね。
日本では現象学ほど曖昧に使用されている言葉はないと思いますよ。
973 :01/09/29 00:00
なんか、970、972のハイデガー先生は偽者くさいと感じてしまうのは、
おれの心が2chに汚染されているからなのだろうか。。。。
974考える名無しさん:01/09/29 00:00
声と現象でやられたような現前の現象学の視点から世界の多様さを
特権的に捨象して解釈する思想が、
@現在の権力分析の水準からみてどうなんだ
Aナチズムを正当化した事実から示される独善の危険性
は結構大きな問題に思えるが。
975マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:04
974氏が何をおっしゃりたいのかよく分かりません・・
>声と現象でやられたような現前の現象学の視点から世界の多様さを特権的に捨象して解釈する思想
>現在の権力分析の水準
??
私は正当性(Richtigkeit)の思想こそ形而上学だと考えてきましたから
私はナチズムを正当化したというのは間違いです。
私はナチズムを肯定したにすぎません。
あなたがたは日本人であることを肯定するでしょうが、それを正当化はしないでしょう。
976考える名無しさん:01/09/29 00:06
>975
声と現象読んだことあります?
977マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:08
ありますよ。
思想というものは全て捨象し、斜視的に見る傾向がありますが
それを「特権的」という特徴づけでもって片付けられるのは心外です。
978考える名無しさん:01/09/29 00:09
>975
せめて、現象学が現前と見えながら再現前となってしまう構図が
わからないと議論にならないのですが?
979考える名無しさん:01/09/29 00:14
>977
その斜視的に見る思想で、フーコーとかクワインとかのアクチュアル
な思考と比較したとき、ナチズムを肯定するのだって問題ありすぎで、
充分、特権的な甘い思想と言われても仕方ないと思いますが?
980マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:14
ますます意味不明ですね。
現前・再現前の問題は別に現象学に限った話ではなく
プラトン以来の伝統です。
知覚(アイステーシス)思考(ノエシス)、そしてファンタスマ(想像)
この三つ巴の構造が現前性の思想を規定しているのは
カント、ロマン主義的なドイツ観念論についても妥当するのですが、
まぁこのような広範な話をしても意味がないですね。
981考える名無しさん:01/09/29 00:15
>>975
この論理はちょっと強引じゃないですか?

>私はナチズムを肯定したにすぎません。
>あなたがたは日本人であることを肯定するでしょうが、それを正当化はしないでしょう。

これだとナチズム=ドイツ人ということになりますよね。
それはドイツの人が聞いたら怒るんじゃないでしょうか?
982考える名無しさん:01/09/29 00:16
日本人であることを肯定することと、ナチズムを肯定することは
単純に並べられることではないでしょう。
983マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:17
話が前後しますが
>>979
フーコー氏の場合肯定ではなく「記述」ですから、批評的評価の度合いは
益々減少しているように思われるわけです。彼は私よりも歴史家的スタンスをとりますから。
それにしても私は「思想」のような大げさなものを語ったつもりはないのですが。
もちろん、思想に甘いも厳しいもないと思いますよ。
984考える名無しさん:01/09/29 00:18
斜視的に見る思想と開き直られて、ナチズムで開き直られたら言葉
がないいんですが。
かなり体当たりでぶつかっている幾多の現代思想に失礼です。
985マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:19
挑発的な問いでもうしわけないのですが
私がナチズムを肯定したとして、何か都合の悪いことでもありますか?
986考える名無しさん:01/09/29 00:20
>985
それなら、存在の思考の特権性についてごちゃごちゃ言わないで
下さい。
987考える名無しさん:01/09/29 00:23
>985
結局知の官僚として内在(世界内存在)と超越(時間)について
威張ったプラトン以来の形而上学者ということでいいのですか?
988マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:26
>>986
思考の普遍性は行動の普遍性とは異なるわけですよ。
もっとも
行動は思想を離れては無意味ですが。。。このあたりが非常に難しい問題なのです。
989考える名無しさん:01/09/29 00:30
>986
思考の普遍性などと言ってる時点で痛いぞ。
自分で斜視的と言ってるだろう。
ましてやナチズムに結びつけて。
990マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:31
知の普遍性を追求すれば、いやがおうにも哲学はある種の特権的地平を模索しなければなりません。
その意味で哲学は知の官僚ではなく、知の頂点そのものです。
事実としてではなく、目されるべき可能性として、ですね。
私は根拠もなしに威張り散らしたわけではありませんよ。
あなたは等身大の知をお求めですか?それこそ知のドメスティックな矮小化としか言いようがありません。
991考える名無しさん:01/09/29 00:31
>>985
ナチズムを肯定してしまう哲学者なんて、どれだけち密な論理を積み上げた
ところで、土台が腐っているのだからまるで信用ならないと思ってしまいます。
これが科学や技術だったらその成果がはっきり目に見えるので某かの利点も
あるだろうけど、思想、哲学といった分野では致命的だと思います。
992989:01/09/29 00:31
>986、988の間違い
993考える名無しさん:01/09/29 00:32
>>991
なぜナチズムを肯定から、土台が腐っているを導けるのかな?
そこの部分の論理をきちんと説明できないと説得力ないよ。
994989:01/09/29 00:34
>990
このように開き直る時点で、現代思想の先端の権力批判から見て
何もわかってないことだろう。
自分の斜視的な思想を引き受けて、押し付ける勇気は時に必要だが、
それには謙虚さが必要であんたにはそれが欠けている。
995マルティン・ハイデガー:01/09/29 00:35
ナチズムの起源は西洋の形而上学そのものの起源です。
その意味で、これは科学技術の根でもあるわけです。
その上に科学的成果やその応用可能性を追求するのであれば
それこそ狂乱の知の暴走としかいいようがないですね。
私は決してヒトラーを肯定したわけではありません。
肯定という語の意味は、私にはナチズムの台頭が西洋の歴史の歩みそのものと
重なって見えたということであって、繰り返しますが何らの価値判断や正当化も
含まれていません。
996考える名無しさん:01/09/29 00:36
>993
そこで現前の形而上学の権力性の問題がでてくるがハイデッガーさんに
はぐらかされている。
997考える名無しさん:01/09/29 00:36
おりょ?
998考える名無しさん:01/09/29 00:37
>>994
後からでてきたもので、先にあったものを一方的に断罪しても何も出てきません。
999考える名無しさん:01/09/29 00:37
もしや。。。。
1000考える名無しさん:01/09/29 00:38
1000だ!!
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。