1 :
ミック :
2001/01/12(金) 18:23 最初に読むのは『青本』(全集6巻 大森訳)です。御意見・ご批判は歓迎です。 『青本』は33―34年にかけての講義に使われた口述筆記のノートです。順番としては『考察』『文法』『学団』の後に位置します。量的にはpp.21―130.の100ページあまり。多くはないですが、決してすらすらは読めません(少なくとも僕は)。
2 :
pp.21―38.@ :2001/01/12(金) 18:24
「語の意味とは何か」。以下、まず最初に、広く通用している「語の意味」についての3通りの説明が否定されます。その通俗的説明とは @辞書的説明(他の語による言い換え) A直示定義による説明(再現主義的言語観) B心の中で起る心理的過程に起因するとする説明(心理主義的言語観) まず、@についてはWはあっさり一言で切り捨てます。 「言葉による定義では、ただ一つの言語表現から別の言語表現に移るだけのことだから、ある意味では一歩も進まない」 この辞書的説明というのは、ムーアを初めとするケンブリッジ合理主義者が信奉していた立場ですが、Wはこれを「アホ丸出し」と言いたいようです。 次に直示定義について。これは要するに物を名指すことで意味を与えることです。『論考』では、Wも留保付きでこの立場を採っていました。しかし、これにも「すぐ念頭に浮かぶ難点」があります。「でない」「かつ」「または」など論理定項には直示定義ができないからです。(『論考』にもこのような留保があるし、それ以前のラッセルへの手紙にもやはり「論理定項は存在しない」という一文があります。が、前期のWは、どうも言語を「名‐言語」に限定すればカタが付くと踏んでいたようだ)。 さらにB「意味とは心に浮かぶイメージ」説。これがやはり一番強力な手合いらしく、Wは、以下延々、この説を否定しようと頑張っています。まず、このような具体例を挙げています。 「私がある人に命じる、「牧場から赤い花を取って来い」と。私は一つの語を与えただけなのに、彼はどんな花を持ってくればいいのかどうしてわかるだろうか。 すぐ浮かんでこよう答は、彼は頭の中に赤いイメージを持ちながら花を探しに行き、どの花がそのイメージの色をしているかを見付けるためそのイメージをあれこれの花と比べるのだ、というものである。たしかにそういう探し方がある。しかし、そこで使うイメージが心的なものであるかどうかは本質的ではないのだ」。 なぜ、イメージよる説明が本質的ではないのか?以下は夜に続く。
3 :
考える名無しさん :2001/01/12(金) 18:26
ネット勉強会っていいですね
4 :
pp.21―38.A :2001/01/12(金) 23:27
>>3 そう思ったらご参加を(笑)
さて、Wは語が我々に心的なイメージを喚起させることがあることは否定しません。しかし、心的過程は語の意味を与える「有機的部分」ではないという。そのことを、心(内面)を行為(外面)に引きずり出すという方法によって示します。
「思考過程のこの神秘的な外見の少なくとも一部を避ける方法がある。それは、これらの過程の中の想像の働きをすべて、現実の物を目で見る行為に置き換えてみるのである。例えば、「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼の前に赤いイメージがあることが不可欠のように思えよう。だが、赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。」
「我々の目的にとっては、想像のプロセスをすべて、物を目で見る過程、絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換えるのは一向に差し支えない。また、内語を声を出して喋ることや書くことで置き換えるのも」。
このようにして、「言語の働きにはそれと固く結びついたある独立した心的過程があり、その過程を通してでなければ言語は機能できない」というBの言語観が否定されます。(ただし、Wは、心理学的研究において「心モデル」を設定することの有用性までは否定しません。ただ、その側面から生じる問題は心理学の問題であり、その解決方法は自然科学の方法である、として哲学的考察と区別します)
それでは、語に生命(意味)を与えるのは何か?ここであの有名なテーゼが登場します。
「記号の生命であるものを名指せといわれれば、それは記号の使用(use)であると言うべきであろう」。
「我々のおちいりやすい誤りを次のようにも言えよう。我々の探しているのは記号の使用であるが、それを何か記号と並んで存在しているもののように考えて探すのだ、と(この誤りのもとの一つはまたしても、「名刺に対応する物」を求める、ということである)」。
5 :
いちご姫 :2001/01/12(金) 23:49
ミックさん 『青色本』p.23の「ところで、「これはタブだ」は実にいろいろに解釈されうるのである。」 は、すでに『探求』での直示的定義批判を先取しているのではありませんか?
6 :
ミック :2001/01/13(土) 00:17
ふむふむ。第1節の、いわゆる「アウグスティヌスの言語観」を否定するくだりですね。確かにその雛型といえそうですね。 僕の理解する限り、どうやら直示定義を否定する理由は二つあるようですね。 @レス2で書いたように、直示定義では論理定項や「数」「1」などを指し示せない。 Aいちご姫さんが指摘されたように、直示定義が様々に「解釈」される可能性を孕んでいる。 「タブ」って何だ?という本を持っていない方のために、以下『青本』から引用いたします。 「例えば、「タブ」という語を、鉛筆を指しながら「これはタブだ」と言うことで説明するとしてみよう。・・・・・・ところで、直示定義「これはタブだ」は実にいろいろに解釈されうるのである。・・・この定義は例えば次のような意味に解釈されうるのである。 「これは鉛筆だ」 「これは円い」 「これは木だ」 「これは一だ」 「これは固い」等など」。 この「解釈」の無軌道ぶりからも、やはり語と物との一対一対応は崩れ、直示定義(写像理論)は却下されますね。 そして、今気付いたのですが、B心理主義的言語観は、直示定義を否定する鍵となった「解釈」という行為が心的過程であることから、24ページからBの言語観を否定する流れとなってるんですね。直示定義を「解釈」の多様性によって撃破した時点では、まだ「その解釈こそが語の意味なんだよ!」と主張する頑固者がいたのでしょう。 なるへそ。そう考えるとよくできた作りになっている。
7 :
いちご姫 :2001/01/13(土) 00:26
ここの(青色本の特にp.27の)useは、まだ、使用法usageの意味の様です。 というのは、p.28で「記号(文)はその意義を記号の体系(中略)から得ている」 「文は言語体系の部分としてのみ命を持つ」といいかえられているのですから。 useが「使用」の意味に変わるのは、規則のパラドクスの教訓が十分かみしめられてからなのでしょうね。
8 :
マルカム :2001/01/13(土) 01:28
俺も入れてくれ。
9 :
考える名無しさん :2001/01/13(土) 07:46
これははしごだ。だから登ったらけりたおしてくれ。
10 :
某亡霊 :2001/01/13(土) 07:48
はしごを蹴り倒してはいけません。
11 :
ミック@よく寝た :2001/01/13(土) 07:58
おお、大御所マルコムが・・・ 確かにp.27.で最初に出てくる「使用」という言葉は「使用法」の意味のようですね。 昨日の時点では、僕もちょっと迷っていたのですが、(もっと後期の「使用」のイメージ(!)を先入見に持っていたので戸惑いました) 「なすべきことは、その表現の働き、その表現の文法を理解することである」(p.30.) 「『思想』という語はその使われ方(use)を持っており・・・」(p.31.) という文を見ても、いちご姫さんの読解が正しいと思います。要するに中期の「文法」概念を引き摺っているのですね。しかし、「文は記号体系の部分としてのみ命を持つ」という一文はソシュールを彷彿とさせます。Wとソシュールの類似点が指摘されるのも、納得のいく事実です。 僕といちご姫さんは、「使用」という語の意味を、まさにこの『青本』というテクスト(記号体系)の部分として見ることで、理解するわけですね。 では、また夜までに考えをまとめて書きます。 余談ですが、ソシュールとの類似点と言えば、僕は『探究』を読んでいて思ったのですが、言葉の歴史的な変化を捨象して、共時的な水平面だけに考察を限るという方法論も、二人が共通して採ったやりかたですね。
12 :
ミック :2001/01/13(土) 16:07
>>7 (いちご姫さん)
>useが「使用」の意味に変わるのは、規則のパラドクスの教訓が十分
>かみしめられてからなのでしょうね。
「規則のパラドクス」とは、あの「クワス」で有名になった『探究』の「いかなる行為にも合致させうる規則があるし、ある規則に合致する規則も無数にある」というやつですか。
もし、それを指していらっしゃるのなら、しかし『青本』pp.39-40.において、すでにそのパラドクスを承知している文章があると思うのですが。
「(自然数列を2乗して)私が書いたものは、2乗の一般規則と合致している。しかしまた、それ以外の無数の規則とも合致していることは明白である。そして、それらの規則の中の一つに他のものよりよりよく合致しているということはない」。
これを読む限り、Wがもっと後になって「使用」の概念を変化させた理由は、「規則のパラドクスをかみしめたこと」ではないのではないすか。
13 :
pp.21―38.B :2001/01/14(日) 00:30
さて、Wは、p.27.から、「使用」の概念を説明しつつ、「意味とはイメージ」説をさらに徹底的に否定していきます。 「思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には手によってなされる。話すことで考えている場合には、口でなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合、心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている・・・・・・ということに注意を向けてもらうだけだ」。 つまり、思考の「場所」を云々するとき、我々は「場所」という一つの単語を、世界内の位置を示すときとは異なる使い方をしていることになる。それは、具体的内容をはっきりさせぬまま「文法的比喩」に頼って事を見ているにすぎないわけです。 「つい我々は忘れがちであるが、「場所」という語は多くの違った意味で使われるのである」。 「文はある場所に在るので、思想にもその在り場所を探すのである。(チェス駒セットの王の木駒にはそれぞれの在り場所があるが、それらの在り場所に対抗して、チェス規則が述べる王にもその在り場所を探すようなものである。)」。 しかしもちろん、「このことは、思想が浮かぶ場所を云々することは無意味だ、ということだろうか。もちろん否である」。思想の場所について我々が説明を与える、そうすればその説明が「思想の場所」の意味になるだろう、とWは言います。重要なのは、「陳述の意味はまさに君が与えた説明そのものであって、それ以上でもそれ以下でもない」ことだと言う。つまり、「思想」と「場所」という言葉それ自体は、よくわかった言葉であっても、それが我々に今の所まだわからない仕方(文法)で組み合わせられている場合、「その句の文法はなお説明してもらわなくてはならない」。 ここまでで、だいたいWの言いたい「文法」の概念がわかりました(もちろん『文法』とかを併せて読んだ方がよいのですが、またそのうち)。
14 :
pp.38―43. @ :2001/01/14(日) 00:57
38pの2段落目(「黄色の」・・・)から43pの3段落までは、全体の構図の中ではやや派生的な議論をしながら、今までの主張の再確認をしているようです。何についての議論かというと、「学習」の役割についてです。 「「黄色」の語の意味を、ある種の直示定義(この語の用法の規則)を与えられることによって教えられる場合、この学習もまた二通りの観点から眺められる」。 二つの観点とは、 A学習は訓練であるとの見方。 B学習は、理解する、命令に従う、などの過程に含まれる規則を与える、とする見方。 Aの見方を取る人は、「訓練が原因となって、黄色のイメージや黄色の物を「黄色」の語と連合させることになる」と主張します。で、Wも「黄色」の語が黄色のイメージを呼び起こすことがある、ということは認めています。 「この場合、学習訓練は心理的なメカニズムを作り上げたと言えば言えよう。しかs、そうは言ってもそれは仮説かさもなくば隠喩にすぎない」。 「学習が連想や認知感などを生ぜしめる限り、それは理解したり、命令に従ったり等の現象の原因である。[だが]このような結果を生じるためには学習過程がなくてはならぬ、というのは一つの仮説である。その意味で、理解したり、命令に従ったり等の過程全部が、言語学習を受けなかった人に生じた、ということもありえぬことではない」。 Wの「仮説嫌い」がよくわかる文章の一つです。ここ、僕も理解した自信はあまりないですが、Wはきっと「事実」と「言語」の二つの世界の一致を簡単に信じるな、と言いたいのだと思います。「学習―認知」という二つの出来事が、多くの場合前後関係を伴って生じることはもちろんある。そのような場合、我々の文法では、その二つの出来事の関係を「原因―結果」の関係と呼ぶわけです。しかし、「原因―結果」という言葉の用法が示すのは、ただそれだけの事実であって、決して一般的に恒常的に現実を説明しきるような「理論」を指して使うのではない(にも関わらず人々はしばしば、この後者の意味で「理論」という言葉を使う)。おそらくこういうことでしょう。 この事実世界と言語世界の「すりわせ不可能性」は、直示定義が崩れた以上当然出てくる帰結なわけです。 (明日の朝に続く。おやすみん)
15 :
いちご姫 :2001/01/14(日) 01:49
>12ミックさん 『青色本』のご指摘の箇所でも、それ以前に(確認していませんが記憶では確か)l講義ノートでも、規則のパラドクスには言及していたとは思います。 ただ、ある事柄を認識することと、それがイムプリシッドに含意していることを認識することとは別の問題で、含意までも十分に認識し、それにしたがって使用法ではなく使用に関心を向けたのはもっと後ではないか、というのが私が提起した仮説です。 但し、前後のWの議論の遷移を逐一追った訳ではないので、あくまで、<推測>ですが。
16 :
いちご姫 :2001/01/14(日) 01:57
>11ミックさま 『探求』においては(ごめんなさい、手元に今テクストがないので記憶に頼りますが)「・・・・しかし、ゲームを営みながら規則を変えていく場合もあるのではないか?[もちろんある](筆者補注)]]とあるように、すでに、言語のディアクロニークな側面にウィトゲンシュタインも関心を払っていたと思いますよ。
17 :
いちご姫 :2001/01/14(日) 02:11
>14ミック様 「事実世界と言語世界の「すり合わせせ不可能性」は、直示的定義が崩れた以上・・・・」 これは誤解だと思います。 学習があれば連想や認知感がおこる、この恒常性が確認されるからといって、学習がなければけっして連想や認知感はありえない、ということにはならない。 これがBB39Jの主張だと思います。とすれば、『論考』で既に主張された因果法則の必然的要請にかかわる幻想TLP6.36311,6.37,6.371等の議論の延長線上であり、その限り、直示的定義を認めた『論考』の延長であるからには、当該箇所も直示的定義の問題点を抉り出している、とは考え難いのですが。「
18 :
いちご姫 :2001/01/14(日) 02:11
>14ミック様 「事実世界と言語世界の「すり合わせせ不可能性」は、直示的定義が崩れた以上・・・・」 これは誤解だと思います。 学習があれば連想や認知感がおこる、この恒常性が確認されるからといって、学習がなければけっして連想や認知感はありえない、ということにはならない。 これがBB39Jの主張だと思います。とすれば、『論考』で既に主張された因果法則の必然的要請にかかわる幻想TLP6.36311,6.37,6.371等の議論の延長線上であり、その限り、直示的定義を認めた『論考』の延長であるからには、当該箇所も直示的定義の問題点を抉り出している、とは考え難いのですが。「
19 :
考える名無しさん :2001/01/14(日) 11:22
質問です 分析哲学の現代的意義とは何だと思いますか? 又、言葉の分析とは私達にとってどの様な意味があるのでしょうか
20 :
ミック :2001/01/14(日) 17:36
>>19 ん〜、僕は分析哲学者と呼ばれる方の本を一冊も読んだことがないので、解答不能です。分析哲学がどんな哲学かも知らないのです。
言葉の分析ってどんな意味があるんでしょうね。
いちご姫さんならスパッと答えてくれるかも。バトンタッチ。
>>15 (いちご姫さん)
>ただ、ある事柄を認識することと、
>それがイムプリシッドに含意していることを認識することとは別の問題で、
>含意までも十分に認識し、それにしたがって使用法ではなく使用に関心を
>向けたのはもっと後ではないか、というのが私が提起した仮説です。
うーん、まあこの仮説を論パクするほどの証拠は僕も持ってないんですが(笑)
どうなのかなあ。そうなのかあ。
もしこの仮説に従うとすると、規則のパラドックスは、言語の意味を「使用法」に求めることにおいて、どのような不都合をもたらすのでしょうか。
>>16 (いちご姫さん)
ディアクロニークとは「通時的・歴史的」の意味ですね。確かに『探究』83節に
「われわれがゲームをするとき――<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながら――規則を変えてしまう場合もあるのではないか」。
という一文がありますね。もちろん、規則が刻々と変化していくものだという認識は、我々の経験に照らしも理解できるのですが、しかしこれは「歴史」と呼ぶほど大袈裟なものかな?というのが、僕の感想なのです。
Wが、ゲームの規則の変化に注目しているときというのは、ものすごく短いスパンでの変化、つまりごく小さなブレに関心を抱いているように思うのです。Wが例示する言語ゲームの例って、大体そういう共時的な次元ではないですか?
反対に、Wは子供が訓練を受けて言語を学習する過程や、慣用の形成過程には無関心ではないでしょうか。
>>18 のご指摘は、確かに飛躍しすぎの読み方だったかと思います。でもWが「理論」とか「仮設」を貶すときって、やはりそれが現実を写し取れていないという不信感が根底にあると思うんですよね。
ところで、『青本』をBBと略記すると『茶本』との区別がつかないので、前者をBlB、後者をBrBとしませんか。
21 :
考える名無しさん :2001/01/15(月) 04:15
面白いのであげ
22 :
pp.38-43. A :2001/01/15(月) 04:35
ここから先も引き続き自信がない。ムズイです。
39pから、学習についての2番目の見方B「学習は規則を与える」についての考察が行なわれます。これは、
>>12 でも書いたように、クリプキの「クワス」で有名になる規則のパラドクスです。
「(自然数列を2乗して)私が書いたものは、2乗の一般規則と合致している。しかしまた、それ以外の無数の規則とも合致していることは明白である。そして、それらの規則の中の一つに他のものよりよりよく合致しているということはない」。
この考察を通して得られる結論は何か?それは、こうです。
「人がしたこと言ったことに対して理由を述べることは、その行為にいたる道程(way)を示すことである。或る場合には、ただ自らが歩んだ道を話すことであり、或る場合には、自分が受け入れた或る規則に合わせてそこに至った道を描写することである」。
従って、この場合の理由とは「事後の正当化」に他ならない。理由という言葉もやはり多義的なものであり、人は理由の連鎖が終ったとき(それは確かに終るのだ、とWは断言します)、人は「なぜ」の用法を混同して「理由」の代わりに「原因」を与えがちになるのだ、と。
「例えば、「君に赤の色を描くように言ったとき、なぜ君は他の色でなくまさにこの色を描いたのか」という質問に、君はこう答える、「私は前にこの色のサンプルを見せられ、同時に『赤』という語が私に発音された。そのため『赤』の語を聞けば今ではいつもこの色が念頭に浮かぶので」と。このとき君は行為の原因を与えたのであって理由を与えたのではない
注目すべき点は二つあるように思います。まず、「根拠付けには終わりがある」という、言語ゲームの無根拠性に繋がる主張が見られること。第二に、<原因>と<理由>の「文法の違い」を混同することによって、人々が混乱に陥っている、とする主張。
原因と理由の差異についてWはこう述べます。
「君の行為の原因はかくかくだ、という命題は一つの仮設である。この仮設が十分根拠づけられるのは、大まかに言えば、多数の経験が一致して君の行為は或る条件に恒常的に引き続いて起ることを示した場合である。そして我々はその条件を行為の原因と呼ぶのである。[しかし]君が或る陳述をする、特定の仕方で或る行為をする、等に対する理由を知るためには、相互に整合的な経験などは一つも必要でないし、その理由を述べる陳述は仮設などではない」。
ピンときません。しかし、ヒントになるのは、Wが「理由を述べる」の例として計算を持ち出していることです。要するに理由を述べるとは、「行為の道程(way)を示すことであって、行為Aに対してそれに先立つ現象Bを持ってくることではない」と言いたいのでしょう。
この理由と「原因」の区別が妥当なものかどうか、僕には今のところ判断がつきませんが(多くの反論を招きそうな気がします)、Wの与えた区別はわかりました。以後の検討の課題としましょう。
それでは、この節(といっても僕が勝手に区切ってるのですが)はこのへんで。次は、いよいよ「言語ゲーム」と「家族的類似性」というWの二つの武器が登場します。「日常言語を蔽っているあの心的なものという霧を消し飛ばせ!一般観念など存在しないのだ」
23 :
考える名無しさん :2001/01/15(月) 18:42
すいません。横レスなんですが・・ 議論の邪魔なら無視してください。 このスレみていて面白そうなんで いきなりウィト全集とかひも解いたんだけど 初心者なもんで何をどう読めば良いやら・・。 今まで読んできたテクストと違って全編アフォリズム集の ようでやや困惑しています。 なにか皆さんから見て、ウィト初心者にお勧めの解説書とか、 比較的信用できる?ウィト研究者とかいますか? あるいは「全集」のどのへんなら取っ掛かり易いとかあります? 『ウィトゲンシュタインのパラドクス』は私でも面白かったです。 でもあれはクリプキのオリジナルな議論であってウィトの議論ではない、 とかも小耳に挟んだりしますもので・・ 「教えてクン」になってすいません
24 :
いちご姫 :2001/01/15(月) 23:22
初心者におすすめなのは、読みやすさ・信頼性・バランスの良さ(これが足りないものが多い)を兼ね備えたものとして、飯田隆さんの『ウィトゲンシュタイン』講談社が一番だと思います。特に、心の哲学と数学の哲学にも章を割り振っているのが良い。 癖はあるものの面白い小著としては、永井均氏の『ウィトゲンシュタイン』ちくま新書だったかしら。 あと、マルコムの『なにも隠されていない』産業図書は、中級編の再入門書としてオススメです。 信頼できるW学者としては、日本では、菅豊彦、佐藤哲郎、野矢茂樹あたり。文献学的誤りをしないのは、奥雅博センセ。あと、黒田恒氏も権威です。(この二人は哲学史的!!にはがっちりしています。)後期の数学の哲学については海外をも含めて戸田山和久氏がトップ・クラスだと思います。『論考』についてはよきに付け悪しきにつけ、真っ当な本は末木剛博氏しか書いていません。 おっと、石黒ひで、黒崎宏両先生をわすれてた。 海外では、J.HintikkaとかC. Diamond、von Savigni(スペル・ミスかも)J.Canfield,J.F.M.Hunter、古い大御所ではAnscomb,D.Pears,E.Steniusあたりでしょう。G. Baker & P.M.S.Hackerは、浩瀚なコメンタリを書いて研究用には便利ですが、凡庸な読みしかしていないので余り哲学的刺激を得られるとは思いません。
25 :
いちご姫 :2001/01/16(火) 00:53
>或る場合には、ただ自らが歩んだ道を話すことであり、或る場合には、ただ自らが歩んだ道を話すことであり、或る場合には、自分が受け入れた或る規則に合わせてそこに至った道を描写することである」。 従って、この場合の理由とは「事後の正当化」に他ならない。 これは、誤読だと思います。 「自らが歩んだ道を話す」場合、それは「「赤」の語を聞いてから私が彼に与えた「赤」と記されたサンプルを取り上げそれを写してその色を描いた」事例であり、これは行為の実行までの(事前の)過程を描いたものです。 事後の正当化は、「自分が受け入れたある規則に合わせてそこに至った道を描写する」場合、「「機械的に」あるいは記憶のイメージによって描いたのに(中略)サンプルを指して自分の描いたものはそれと同じ色だ、という場合」です。 つまり、「或る場合には、ただ自らが歩んだ道を話すことであり、或る場合には、自分が受け入れた或る規則に合わせてそこに至った道を描写することである」は、二つの別個の理由の与え方を述べたもので、その一方のみが事後の正当化に拘るものだ、と思います。
26 :
いちご姫 :2001/01/16(火) 01:05
>原因と理由の区別について「ピンときません」 原因は、先行事象―後続事象間の法則、即ち、前後二つのタイプの間の恒常的関係(あるAという種の出来事が起こると後で必ずBという種の出来事が起きる)における先行事象Aです。 従って、観察を繰り返して、AとBが必ず繰り返して起きる事を経験的に確認しなければなりません。そして、無限に起こり得るA−B関係を全て観察することが不可能な以上(ここは説明の為に不正確に語っています)、AがBの原因だは、仮説にすぎないのです。仮説という語に抵抗があるなら、経験的に発見される関係、と考えてください。 対して、自分がなぜある事をしたかは、観察なしに( without obserrvation )知りえます。例えば、林檎を食べた時に、理由を問われたとして、おいしそうだったから、と理由を与える時、あなたは直接それを知っています。対して、原因の場合には、先ずあなたが、林檎がおいしそうに見えた時に、あなたが林檎を食べる、という事象系列を何度も観察しなければ、前者が後者の原因である、とはいえないし、そのような関係があること自体観察の繰り返しなしに知りえないのです。 (この点詳しくはG.E.M.Anscombe Intention Basil Blackwell,アンスコム著菅豊彦訳『インテンション』産業図書及び菅豊彦著『実践的推論の構造』勁草書房を参照ください)
27 :
考える名無しさん :2001/01/16(火) 02:36
>26 君の議論はヒュームについての30年前の議論の結論を、 他だ初歩的になぞらえて惹起させてるだけ。 ちゃんと勉強しろ。
28 :
ミック :2001/01/16(火) 10:20
>>27 このスレの主旨は別に、新しい哲学的見解や独創的なW像を見つけて哲学産業に貢献することにはないのだから、今まで他の人によって繰り返された議論であっても構わないと思いますが。
僕はただ、Wを読んで、彼の言おうとしていることを自分なりに考えて納得できればそれでよいです。そのような僕のささやかなレベルに、いちご姫さんが付き合ってくれているだけでしょう。
W自身の議論がヒュームと重なるという認識は、彼の存命当時からあったようですが、彼にしてみれば「だからどうした」というところでしょう。哲学の目的が哲学産業への貢献にあるとするか、それとも病気の治療にあるとする(同じ薬でも効けばそれでいい)か、その選択によって考えは全く分かれると思いますが。
>>23 Wを下敷きにした議論で、コストパフォーマンス高いのが、いちご姫さんご推奨の野矢先生『哲学の謎』(講談社現代新書)でしょう。最初はこれが良いのでは
もし23さんが大学在籍の方なら、大森荘蔵・野家啓一・黒崎宏各氏の論文をコピるというのも、安上がりな方法です。野家さんの「言語ゲームの射程」とか、良い紹介論文です。
Wの伝記や思想的・文化的背景から責めたければ
マルコム『回想のW』(平凡社ライブラリー)・・・読み物としては文句なし最高
B・マクギネス『W評伝』(法政大学)・・・まだ1巻しか邦訳がない。手紙などをかなり歴史学的に厳密に扱う。史料として価値高し。
レイ・モンク『W』(みすず)・・・大部の伝記だがわかりやすく、ジンとくる。やや著者が転移ぎみで推論が強引なので注意。あと、値段高い。
ジャニク/トゥールミン『Wのウィーン』(TBSブリタニカ)・・・思想史的アプローチの名著。ウィーンに逝きたくなる。僕はこれでWを知った。
ぐらい?のどれかを読んでみてわ。
W自身の本だと何がいいんだろう。今このスレでテクストにしてる『青本』は、断片じゃなく、きちんとした文章でかかれてますよ。飯田さんもこの本が入門に一番と言ってるし。
29 :
いちご姫 :2001/01/17(水) 01:14
>23 あと一冊,格好の中級向けがありました。 但し,『探究』の解説と銘打っているものの、近年の研究水準から言うと,中期末ごろのWの言語観に依拠してかかれていますが。 F.ワイスマン著、フェリクス・ロボ&楠瀬淳三 共訳 『言語哲学の原理』1977 大修館です。
30 :
いちご姫 :2001/01/17(水) 01:41
>28 ブリアン・マギネスの“Wittgenstein゛第二巻はまだ原著も出版されていない、と思います。 訳がないなら原文で、とはりきって探される方がいると気の毒なので,念のため。
31 :
いちご姫 :2001/01/17(水) 01:48
>27さんへ ヒュームに関してそんな論争があったとは知りませんでした。 19世紀までの哲学者については(フレーゲを除いて(笑))全く不勉強なので。 ただ、原因の方はいかにもヒューム的ですが、理由が彼にからむとは無知な私には意外でした。 ぜひ、文献リストのご教示を。 ただ、26での書きこみについては『青色本』(からせいぜい『探求』)でのWの「原因」「理由」両概念の説明なので、Wはあの程度の素朴な把握をしていたのでは。 むしろ、65年以上前に、30年前の論争を先取りしていたとすれば、むしろWの先見の明に驚きますね、私は。
32 :
ミック :2001/01/17(水) 13:06
>>25 (いちご姫さん)
25のご指摘は、全くその通りだと思います。「この場合の理由とは、上に挙げた二種類の理由の第二の種類のものである」という文章などが、自分でもひっかかってはいた(何でWは理由を二種類に分けるのだろう?)んですが、この区別の必要性がよくわからなかったのです。
まとめるならば、「理由」にも二種類の使い方がある。
@その行為にいたる道程を、ただ示すこと
A自分が受け入れた或る規則に合わせてそこに至った道程を示すこと
しかし、この二つの区別はなぜ必要なんでしょうか。なんとなく、Aのほうが規則のパラドクスに繋がる気もしますが。
>>26 (いちご姫さん)
ここの「原因」と「理由」の区別はよくわかりました。僕の読みも外してはいなかったわけですね。
これはあれですな。「斉一性の原理」に関係する議論ですね。われわれが因果関係について持っている知識は、一般性(斉一性)を持っていると我々は信じているが、実はそれは今までの有限回の経験によって得られた不完全な仮設でしかない。だから、原因によって物事を説明するときは、「今までの実験と観察によれば」という留保が本当は要るのだ。それにも関わらず、人々は、観察の必要のない(よってある意味で無謬の)「理由」の代わりに、不完全な「原因」を使って行為の説明を試みる間違いを犯していると、Wは言いたいわけですね。
「現実の理由には始めがあるのだということを一旦認識するならば、或る命令の果たし方には理由が一切ない場合もあるという考えに君が反発することもなくなるだろう。しかし、ここには今ひとつの混同、理由と原因の混同が入り込んでくる。「なぜ」という語の多義的な用法のために、人はこの混同にひきこまれる。それで、理由の連鎖が終わりになったのに更に「なぜ」と尋ねられると理由の代わりに原因を与えがちになるのだ」。
33 :
ミック :2001/01/17(水) 13:07
それにしても、何故タイトルの後のレスの数が激減しているのだろう?
34 :
pp.43-52. @ :2001/01/17(水) 23:36
「さて、考えるとは本質的には記号を操作することだ、と述べたことにもどろう。その要点は、「思考は心のはたらき(mental activity)だ」ということは、人を誤解させやすい、ということであった」。思考の起る場所が我々の「心の中」とか「頭の中」である、という言い方は、「場所」という語の用法の言語形式が似ているがゆえに引き起こされる文法の混同であることが再確認されます。 「思考は、書いている手の、喉の、頭の、心の、働きだ、と言うのはこれらの陳述の文法を[正しく]理解しているときのみ正しい」。 思考とは記号を操作することだ、という考えを説明する際、Wは「記号とは何か、と問うよりも、記号操作の具体的ケースに目を向けよう」といいます。そしてその具体的ケースこそが言語ゲームです。 「言語ゲームは、高度に複雑化した日常言語の諸記号をわれわれが使う際の使い方よりも、ずっと簡単な記号の使い方である。それは、子供が語を使用し始める際に取る言語形態のことである。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の、すなわち原初的言語の研究である」 有名な定義の登場です。言語の数や文脈を簡略化した思考実験の手法は、経済学者スラッファの方法論を利用したものであることも知られています。では、簡略化した言語ゲームを想定することのメリットは何か。それは「通常の言語使用を蔽っているかに見えるあの心的なものの霧」を消し去ることができる点にあります。言語ゲームを簡略にすればするほど、我々が通常の生活でやっていると信じている「頭の中での」解釈という行為が、実は全然内面的なものではないことが暴露されます。 そして46pには、もうひとつの有名なターム「家族的類似性(family likeness)」が出てきます。言語ゲームが、言語にまつわる心的なものという幻想を打ち破るために考案されたとすれば、flは我々の「一般的なるものへの渇望(=個別的ケースへの軽蔑的態度)」を打ち破る役割を果たします。 我々は、一般名詞に包摂される対象の総てに共通する何かをさがす傾向をもっている。つまり、抽象化とか一般化への願望です。世界を割り切って理解したいという願望です。この根の一つは、我々が「科学の方法に呪縛されている」ことにあるという指摘も、もっともなものです。
35 :
pp.43-52. A :2001/01/18(木) 00:09
「自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また、数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問い、且つ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源泉であり、哲学者を全き闇へと導くのである。ここで私は言いたい。それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として[もともと]「純粋に記述的」であるのだ。(感覚与件(sense datta)は存在するか」といった問を考えてみたまえ」。 いやあ、なんというか、殺し文句のオンパレードですね。カッコいいんですが、文章に酔ってばかりもいられない。Wの言う「記述」という哲学の方法も、はっきり言ってよくわからない。どんな形にせよ世界について述べれば、それは一般論たることを免れないのではないか?という疑問は当然湧き起こります。あと、sense dataってのは、カルナップの用語だったと思います。多分「公理」に近い概念でしょう。Wが認めるわけないですね。 とにかく、この世界は個物で埋まっているのに、言語においてそれらを一括りにしてしまうような一般観念はまやかしだ、という主張が眼目です。fl(家族的類似性の略記)が「一般観念」と違うのは、flの場合、とにかく具体的な個物同士を比較することで指摘される特徴にすぎない、ということです。 「家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また他の何人かは同じ歩き方をしている。そしてこれらの類似性はダブっている。一般観念とはその個々の事例すべてに共通な性質だとう考えは、言語構造についての他の素朴で単純すぎる考えとつながっている」 というわけです。W自身の意識的な議論とはずれるかもしれませんが、どうも「無限」を巡る問題と関係しそうです。有限個の個物を比較する限り、その共通する特徴はflと呼ぶことで済ませられます。「一般観念」というシロモノを持ち出さなくてはならない状況とは、対象となる個物が無限にある場合です。しかし無限個の対象を比較するとはどういうことか。ここに可能無限に近い考えを持つWの議論の特質が現れていると思います。『論考』なんかだと、量化を含む命題についてWは実無限的な考えを採用することであっさり片付けていますが、この頃にはかなり方針転換されていますね。 一方、前期からこの時期まで一貫して変わらない考えが、世界は個別的な物の集まりである、というアトム的世界観ですね。これは『論考』の根幹をなす要素命題のアイデア以来Wが変わらず保持している姿勢と思います。ラッセルもこの考えの影響を受けて「論理的原子論」とかいう論文を書いてましたね。 この原子論的世界像と面白い対比をなすのが、最近この板で名前が挙がる井筒さん(サルトルやソシュールもそうかもしれないけど)の「絶対無分節」世界観ですね。言語によって分節化される前の原初的な世界は「のっぺり」した一者である、と。 ま、「だからどうした」とというぐらいの違いかもしれませんが。
36 :
いちご姫 :2001/01/18(木) 00:15
>32 Msg26への応答 について いえ、斉一性原理の問題に基づく、理論(法則)の決定不全性の問題はここでは扱われておりません。 Wは、(1)理由と原因は異なる概念である、(2)にも拘わらず、人は、理由の問いに原因でもって答える事がある、という認識のもとに、両者の混同をいさめているのです。 その動機は、理由付けの連鎖に行き止まりがある事を示したいのに、原因による説明連鎖は(第一原因を認めなければ(笑))無限遡及が可能なので、Wの理由の行き止まり論は誤りである、と誤解される可能性があるからでしょう。
37 :
いちご姫 :2001/01/18(木) 00:22
>32 Msg.25への応答、へのとりあえずのレス 二つの違いは、「ただ自らが歩んだ道を話す」ばあい、自分が行為するに至るまでの出来事を順次述べるわけです. この場合、その連鎖は原因―結果の連鎖であり、(もしくは少なくともその場合があり得る/そう解釈され得る)、引き続いての原因と理由の峻別の為に、予めそれ等の区別を議論しておいたのではないでしょうか。
38 :
ミック :2001/01/18(木) 00:29
>いえ、斉一性原理の問題に基づく、理論(法則)の決定不全性の問題はここでは扱われておりません。 なるほど。『青本』のこの箇所には、確かに斉一性についての議論はないようですね。 下のいちご姫さんによる原因の定義を見て、斉一性の原理を思い出したのですが、この原因の定義は、Wの考えていたものに近いんでしょうか。だとしたら、Wは斉一性の原理(幻想?)についても自覚的だったんでしょうか。その点はどう思われます? >原因は、先行事象―後続事象間の法則、即ち、前後二つのタイプの間の恒常的関係 >(あるAという種の出来事が起こると後で必ずBという種の出来事が起きる) >における先行事象Aです。
39 :
ミック :2001/01/18(木) 00:38
訂正。感覚与件というのは、カルナップの用語ではないですね。Wがたまに使う用語でした。
40 :
いちご姫 :2001/01/18(木) 00:44
>35 (1)『青色本』でなおも原子論的存在論をWが採用している、というのは何処を典拠にした解釈ですか? 私は、むしろ、BlBは明らかに反―原子論的だと思いますが。 (2)『論考』をも、「絶対無分節」世界観に従って読む解釈もあります。 この場合、言語の論理的構文論が、絶対無分節な「原―世界」とでもいわれるべき語りえないものを、言語に写像する際に、世界の事態とモノとに分節する、と、考えるのです。 こうなると、急に言語が世界を分節する、という丸山圭三郎的ソシュール言語論ににてくるでしょ?
41 :
ミック :2001/01/18(木) 01:05
>>35 (1)へのレス
>『青色本』でなおも原子論的存在論をWが採用している、
>というのは何処を典拠にした解釈ですか?
>私は、むしろ、BlBは明らかに反―原子論的だと思いますが。
『論考』ほど明示的な箇所はないにしても、「個々の」「対象」などの言葉の遣い方を見て、そう思ったのです。46p「普通、或る一般名詞に包摂される対象のすべてに共通ななにかを探す傾向」や、同じく46p「「葉」という名詞を学び知った人なら、それにともなって必ず個々の葉の像とは別な、何か葉の一般像なるものを獲得している、と考える傾向である。その人は「葉」という語の意味を学ぶときいろいろな葉を見せられるが、個々の葉を見せるのは単に「彼の中に」ある種の一般的イメージと思われる観念を生み出すための一法だった、と」
このような文章において、Wは、観念と個々の対象を、対照させて使っているのではないでしょうか。
いちご姫さんの「反―原子論的」解釈とは、(2)のような無分節世界が言語によって文節化される、という立場ですか。
しかし面白いですね。BlBでのWが(2)だとすると、Wが「個々」とか「対象」という言葉を使う場合、それらは、「すでに言語によって分節化された言語世界」の中で限定して使っているのであって、言語の外に実在的な世界を認めているわけではない、ということになるのでしょうか。
42 :
ミック :2001/01/18(木) 01:09
>>41 最後の2行ちょっと訂正
>言語の外に実在的な世界を認めている
>わけではない、ということになるのでしょうか
「言語の外に、原子論的な世界の実在を認めているわけではない」のほうが正確です。
43 :
いちご姫 :2001/01/18(木) 01:28
>41,42 はい、「言語から独立して、もしくは、言語が存在しなくとも、原子論的な世界が実在している」事を認めない立場です。 随分以前に私はこの可能性を考えましたし、現在もこの路線で読解している研究者もおります。
44 :
ミック :2001/01/18(木) 12:29
>>37 (いちご姫さん)
細かい疑問にまでレスをありがとうございます。確かに、理由を二つに分ける理由は、そのすぐ後の議論のための布石と思えば、とりあえず納得できます。それにしてもわかりにくい書き方だと思うのは、僕の読解力が足りないのだろうか。・・・・・・その可能性は非常に高い気もするが、しかしもうちょっと整理して箇条書きとかにしてくれてもよいものを。
>>43 (いちご姫さん)
ふむ。もう少し正確に言うと、以下のどちらになるのでしょう。
1.言語が存在しないならば、そもそも「世界」なるものが存在しない。
2.言語が 存在しなくとも、世界は存在するが、それは「絶対無分節」的世界であって、原子論的世界ではない。
1の立場はおそらく、BlBを、後期の言語ゲーム一元論の雛型とみなす立場ですね。2は、上のレスにあるように、井筒-丸山-ソシュール路線ですね。
また、どちらの立場にせよ、いちご姫さんがそう判断する典拠(根拠)は何ですか?
あと、Wが若い頃から晩年まで主張し続けた「哲学の方法は記述である」というテーゼは、どういうやり方だと思われますか?僕はこのWの主張は正直ちんぷんかんぷんなのです。「記述」って言われると、写像理論を想起してしまうのですが、しかし写像理論を放棄した中期以降でも、なおこのテーゼを変えないとはむむむ・・・
45 :
生茶 :2001/01/18(木) 14:47
暫く見ないうちにこのような面白いスレが。 もう一度青本読んでみよう。
46 :
ミック :2001/01/18(木) 20:40
補足です。 1.は、つまり、WがBlBで既に一元論に移行していたという立場 2.は、形はどうあれ、Wがまだ「言語―世界」の二元論にとどまっているという立場です。
47 :
いちご姫 :2001/01/18(木) 23:45
>44「哲学の方法は記述である」 これは、先ず、哲学の方法を世界がいかにあるか、について語る事、即ち仮説をのべることの否定です。 それは、自然誌と科学との任務であり、かつての体系的哲学者がやったような哲学の任務ではない、とWは考えます。 ついで、(あるいは『論考』ですら、そして中期以降はほぼ確実に)言語の分析を哲学の課題とすることの否定です。 それも、言語についての仮説であり、たかだか言語学の課題にWは押しやるのでしょう。 かわって、記述とは、現実の言語において、ここの問題の語や文が使われている、その使用法を記述する事です。 ところが、Wはある語や文が如何に使われているかを一般的に(タイプとして)、即ち、1回1回の使用の状況を(トークン)ではなく、記述しています。 それ故、Wの方法論の徹底としての超克の一つのあり方は、現実の個々の使用(会話の流れ)をそのまま記述しレポートするエスノメソドロジーということになりえるでしょう。 Wがその道を採らなかったのは、言語的規範性は複数回の繰り返し(タイプ)を無視しては語り出せないから、だと推測します。 但し、どちらの道が正しいかを論拠を持って判定する事は、今の私には出来ません。
48 :
いちご姫 :2001/01/19(金) 01:39
>44 もし、当該の解釈が正しいならば、『論考』は1.の立場をとっている、と考えざるをえません。 なぜなら、世界の存在主張も、言語による写像なしにはあり得ず、その際には必ず世界は分節化しているからです。 (存在主張と独立な世界の存在は、「存在する」ということ自体を成り立たせる論理空間が未だ無いのですから、『論考』の立場としては不可能でしょう。) むしろ、やっかいなのは『青色本』のほうで、今の私には、BLBが2.の立場をとっていない事を典拠を示して論証することは出来ません。 ただし、『論考』と『探求』が1.の立場をとっているのにBLBの時期に転向をする動機が見当たらないこと、及び、それを証拠立てる積極的主張も見当たらないことから、BLBの時期も1.だった、と解釈するのが自然だとは思います。
49 :
いちご姫 :2001/01/19(金) 01:58
>38へのレス 斉一性原理については、Wは明らかに幻想だ、と考えていたはずです。 「あることが生起したが故にもう一つのことが生起せねばならない、という強制は存在しない。存在するのは 論 理 的 必然性のみである。」TLP6.37 「現代の世界観全体の根底には、いわゆる自然法則が自然現象の説明である、という迷妄が存在する。」TLP6.371 「かくして、古代の人々が神と運命のところで立止まったように、現代の人々は不可侵なものとしての自然法則のところで立止まるのである。」TLP6.372a これらの節では、自然法則は、事実間の関係であるが故に偶然であること、従って、斉一的であるか否かも偶然であり、それ以外でもありえることから、斉一性原理は『論考』のWにとっては明らかに幻想もしくは根本的仮設だったはずです。
50 :
考える名無しさん :2001/01/19(金) 11:24
埋もれちまった。
51 :
ミック :2001/01/19(金) 11:37
>いちご姫さん 丁寧なレスありがとうございます。3つの論点が入り混じっているので、まとめたいと思います。 (1)斉一性の原理に対するWの考えについて (2)言語一元論と「言語―世界」二元論について (3)「哲学の方法は記述である」というWのテーゼについて (1)から順に整理しますが、それはまた夜に。
52 :
ミック :2001/01/20(土) 00:54
今ワードにログを保存していて思ったけど、このスレ見事に二人でやってる。まあ、僕としてはいちご姫さんという優秀なチューター(研究者の方だったらすいません)を独り占めできて言うことないんだけど(笑)。生茶さんは参加しないのかな。 僕にとってはちょっとした財産になりそうです。 さて、まず(1)斉一性の原理に対するWの考えについて 僕も、いちご姫さんが言うように、Wが斉一性の幻想に自覚的であったという意見に賛成です。事実の成立/不成立が偶然的であるという考えは、「他の全てのことには変化のないままで、あることが実情であるのも可能であり、実情でないのもまた可能である」(TLP1・21)からもわかりますね。ある事実Aの成立に、必ず別の事実Bが必要というような法則はない、ということですから。これを反証するような典拠も、今のところ知らないことですし。 次に(2)言語一元論と「言語―世界」二元論について いちご姫さんは、Wがすでに『論考』の時点で言語一元論を主張していた、と考えておられるようですね。これは、僕にとってはかなり意外でした。というのも僕は、『論考』でのWの立場は、「言語一元論への可能性を仄めかしつつ、基本的には『言語―世界』二元論」だと長らく思っていたからです。 TLPの中では、像(命題)と現実は、明らかに対にして使われていると思うのですがどうでしょうか。釈迦に説法だとは思いますが、たとえば、 「像は現実のモデルである」(2・12) 「像の真偽を認識するためには、我々は像を現実と比較せねばならない」(2・223) 「総ての現実が世界である」(2・063) 「存立する事態の総計が世界である」(2・04)「命題の総計が言語である」(4・001) など。もし、『論考』で使われている「現実」「世界」「事実」などの語が、言語によってのみ我々に与えられたものであるなら、それは「像」「命題」と同じものになってしまうのではないか。命題の真偽は現実と突き合せなければ確かめられないのに、現実や世界そのものまで言語によって生み出されたものだというのでは・・・うむ、わからなくなった(泣 (3)について 個人的感想ですが、Wの遺産で哲学産業への貢献が一番ありえそうなテーマですね。「現実の個々の使用(会話の流れ)をそのまま記述しレポートするエスノメソドロジー」というのは、僕にはまだよくイメージできませんが、面白そうです。それは、会話を全部記録するんですか?膨大な研究用ノートを積み重ねる作業のようにも思いますが。まあ、だから悪いというつもりもないのですが。 ところで「エスノメソドロジー」って何でしょう。A・シュッツという社会学者関係の本を読んだときには「現象学的社会学」というあやしげな訳語だった気がしますが、現象学に関係する方法なのでしょうか。
53 :
いちご姫 :2001/01/20(土) 01:46
>52 (2)について 先ず、命題もまた一つの事態/事実ですね。 他の事実が、命題という事実によって写像されるわけです。 さて、命題(言語)がはじめて世界を分節し存在させるとして、分節され存在させられた諸事態が事実であるか否かは、命題から独立です。 即ち、‘A'という命題が事態Aを分節存立させるとしても、その事態Aが(肯定的)事実であるか否かは、未定です。 それは、Aなる事態の成立・不成立の確認(「比較」)を以ってはじめて定まることです。 つまり、世界の分節化・存在化の過程では未だ事実は確定していない。ただ、事実の存立可能性としての事態が存在しているのだ、ということです。 ここまで書いて、ミックさんを混乱させた原因がわかりました。「世界」ではなく、「世界の可能性」とでもいうべきだったのです。
54 :
いちご姫 :2001/01/20(土) 01:58
>52 (3)についてのレス ミックさんのイメージはほぼピンポーンです。例えば、科学者の実験室での会話を逐一テープに取り、起こしたりしています。 そこで、例えば新しい惑星の発見はいつか、という疑問に、エスノメソドロジストは、この場面で、Aが「これは衛星じゃないか?」Bが「イや違うだろう」といったとか、といった事を報告してくれるのです。 で、エスノメソドロジーは、シュッツ系の営みとウィトゲンシュタイン―ピータァ・ヰンチ系の営みとの合流として発展しました。現在では、所謂古典的現象学の心理主義的傾向は殆ど殺ぎ落とされている様です。 (単に、現象学的アプローチが私には受けつけないので,読んでないだけかもしれませんが・・・・) 余談ですが、私にとっても貴重なスレッドです。 失礼な言い方ですが、アマチュアの方と一緒だと、他人や教官の誰かが調べて答えてくれるだろう、という甘えが許されないこと、及び、普通は自分の読み取りたい事を探してさらりと読み流している部分について、しかも、直観でなく、他人を説得できる様説明すること この二つを同じに満たす営みって言うのは、かなり、Wへの私の理解を向上させてくれています。 今後ともヨロシク。 確かに、青茶さんとか、Wittgensteinスレッドのほうで、いらっしゃった心理系の方も参加してくださるとうれしいですね。 そう言えば、ミックさんが最初に立てられたほうのスレッドナゼ消えてしまったのでしょう?
55 :
いちご姫 :2001/01/20(土) 02:36
>52(2)へのレス ヤヤ、与太話として聞いてください。 『論考』が『純粋理性批判』の影響を受け、近似しているのは有名な話しです。 極論すれば、『批判』が認識論的に範疇を立てた所を、『論考』は言語論的に論理的構文論と真理函数で押しきろうとしているわけです。 すると、『批判』での物自体界に相当するのが『論考』にはあるのか、それがMsg.50番台で問題になっているものです。 で、カントから、物自体界を認識不可能だが不可欠な存在要請と解する穏健な立場のほかに、実質的に消去(無視)してしまう絶対的観念論やアルスーオプの哲学をとるファイフィンガーといった右派が一方にいます。 他方には、物自体界の存在性を強調して、カントを唯物論者として解釈して行く左派的方向性もあります。 同様の諸読解が『論考』に(少なくとも一応)可能だと思われますが、どれが面白いか、生産的か、という点では、言語一元論だと思うのですが。
56 :
ミック :2001/01/20(土) 23:40
さらにしつこく(2)に付き合ってください。まだ自分の中で中途半端な理解ですので。
>>55 での「『純粋理性批判』での物自体界に相当するのが『論考』にはあるのか、それがMsg.50番台で問題になっているものです」というアナロジーは、僕にもよくわかります。「言語―世界」というW的問題の図式は、「人間の認識―物自体」というカント的図式と同じ構造をもっているわけですね。
>>53 の
>先ず、命題もまた一つの事態/事実ですね。
>他の事実が、命題という事実によって写像されるわけです。
>さて、命題(言語)がはじめて世界を分節し存在させるとして、
>分節され存在させられた諸事態が事実であるか否かは、命題から独立です。
>即ち、‘A'という命題が事態Aを分節存立させるとしても、
>その事態Aが(肯定的)事実であるか否かは、未定です。
までの前半は、納得できます。このいちご姫さんの考えに従えば、「事態は命題によって初めて分節存立させられる」わけですね。しかし、後半に僕は疑問を感じます。その疑問を一言で言うと、「事態と事実の違いはどこにあるのか」ということです。
もちろん、「実情であること、即ち事実とは諸事態の存立である」(TLP2)とW自身が言っているのですが、曲者なのはこの「存立」という言葉だと思うのです。
「事態の存立=言語による分節化」というテーゼはわかります。しかし、
「事実の存立=????」なのです。「Aなる事態の成立・不成立」といちご姫さんは言われますが、この「成立/不成立」は、もう言語とは無関係な現象(あるいは変化)としか思えないのです。なぜなら、事実の存立もまた言語による分節化だとすれば、それは事態と全く同じものになってしまいますよね。
ここに、『論考』を言語一元論として捉えることの困難があると思うのですが、いかかですか。
えー、あと、
>>54 の余談へのレス
>この二つを同じに満たす営みって言うのは、
>かなり、Wへの私の理解を向上させてくれています。
こういってもらえるのは、嬉しいですね。やはり僕がいちご姫さんから教わることのが圧倒的に多い気がしていますから。やはり一人で読んでいると、自分の勝手な解釈で終ってしまいますから、複数人で読む作業は心強いです。
>そう言えば、ミックさんが最初に立てられたほうの
>スレッドナゼ消えてしまったのでしょう?
消えてはいませんよ。最近スレッドの入れ替えが激しかったので、地下に埋まっていたのです。また上がってますよ。詳しくは、上のメニューにある「過去ログメニュー」(「i-mode」と「FAQ」の間にあります)をクリックしてみてください。今までの有象無象のスレどもがひしめいております。
57 :
ミック :2001/01/20(土) 23:46
上がれえ
58 :
いちご姫 :2001/01/20(土) 23:49
>35 センス・データとW センス・データ的なものをWが認めるわけはない、とは単純にはいいきれません。 1929年頃に、Wは現象主義を採用したことがあった(らしい)のです。 『考察』§1に「現象学的言語、あるいは私がかつて名づけた言い方では“一次的言語”は、今私の念頭に目標として思い浮かんではいない。私は今ではもうそれを必要とは思わない。」 とあります。 この点については、滝浦静雄著『ウィトゲンシュタイン』1983,岩波書店(126〜153)に詳しい。 また、『論考』の対象が「見知り(aquaintance)」の対象である、という現象主義説をヒンティカはかなりパワフルに主張しています。 (結局、失敗に終わっている、というのが私たちの診断ですが。) Hintikka,Merrill & Jaakko Investigatin Wittgenstein, 1986, Basil Blackwell 復帰後のWの主な批判の対象は、彼自身のそれ以前の著作、思索にむけた振りをしてのラッセル批判、という場合が多いので、BlBでのsense‐dataへの言及もおそらくラッセルの‘aquaintance'概念への批判ではないでしょうか。
59 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 00:18
>56 >>53の へのレス >「事態の存立=言語による分節化」というテーゼはわかります。しかし 「事実の存立=????」なのです。 こちらは、私が?です。「事実の存立」という表現は『論考』ではありえないでしょう。 >「Aなる事態の成立・不成立」といちご姫さんはいわれますが、この「成立・不成立」は、もう言語とは無関係な現象(あるいは変化)としてしか思えないのです。 確かに、そんなきもします。 あ、混乱が一つ分りました。ミックさんが「事態の存立=言語による分節化」はわかる、といわれているのは、「ある事態が論理空間の中に場を占めていること=言語による分節化」ですね。 そうすると、「事実=事態の存立」は言語(命題)によって創り出されるわけでは確かにありませんね。 もう少し、考えてみます。
60 :
石黒ひで :2001/01/21(日) 00:31
[それ」には反対です
61 :
ミック :2001/01/21(日) 00:37
>ミックさんが「事態の存立=言語による分節化」はわかる、といわれているのは、
>「ある事態が論理空間の中に場を占めていること=言語による分節化」ですね。
そういうことです。さらに言うと、今まで僕は、論理空間も、所与のものと考えていたのです。しかし
>>48 のレス
>存在主張と独立な世界の存在は、「存在する」ということ自体を成り立たせる
>論理空間が未だ無いのですから、『論考』の立場としては不可能でしょう。
を読む限り、いちご姫さんは、論理空間もまた、言語によって与えられるという立場ではありませんか?
62 :
ミック :2001/01/21(日) 00:46
余談です。 さらに僕が今まで抱いていた論理空間のイメージについて言うと、僕は『論考』でのWは原子論的世界観の持主だと思っていましたから、「論理空間」も、“将棋の碁盤”に違いないと思っていたのです。一つ一つの升目が「事態」で、実際に指された一手が「事実」で、複数の駒の配置が「状態」なんだな・・・・・・と。ただ、本物の将棋の碁盤と論理空間の違いは、「論理空間の升目は無限にあること」である、と。そして、この「無限」の問題を軽んじたことが、Wにとって後の躓きの石となると同時に、哲学の転換をもたらす要因にもなった、と。こんなシナリオを描いていたのです。
63 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 00:53
>61 へのレス 「いちご姫さんは、論理空間もまた、言語によって与えられるという立場ではありませんか?」 はい、そうです。 理由) まず、「像は論理空間における可能的状態を描出する」TLP2.202。 そして、「事実の論理像が思想である」TLP3のですから、思想、そして命題が、「論 理 空 間 にお け る 可能的状態」即ち事態を写像するのです。 とすれば、仮に「事態が場を占めていること=言語による分節化」を承認するのであれば、論理空間も言語による分節化によって創造される、と考えざるを得ない、と思います。 但し、 (1)言語以外による写像の問題はどうなるか、という問いにこの立場は解答する義務がある (2)ただ一つの事態がただ一つの命題によって写像されただけでさえ、論理空間の全体が与えられるのでなければならない(TLP3.42参照)。 という、悩ましい問題を孕みますね。
64 :
ミック :2001/01/21(日) 00:59
>>59 >>「事実の存立=????」なのです。 (ミック)
>こちらは、私が?です。「事実の存立」という表現は
>『論考』ではありえないでしょう。 (いちご姫さん)
「存立」と「成立」という言葉を区別すべきだ、ということですね。確かに無造作な用語の使い方でした。
まとめるので違ったらご指摘ください。
「事態」・・・言語によって分節化されることによって“存立”する。
「事実」・・・実情であることと同義。事態が“成立”することで事実となる。
という区別ですか。しかし、今『論考』を読み返したら、Wは「成立」という言葉は使っていない(訳の問題かもしれないけど)ようです。「事実とは諸事態の存立である」(TLP2)というように、Wは「事実」についても「存立」という言葉を使っていますよ。
65 :
ミック :2001/01/21(日) 01:03
あ、違うか。 「事実」・・・実情であることと同義。事態が“存立”することで、“成立”する か。これなら矛盾ないですね。しかしやはり、「事実」に「成立」という語を対応させるのは、W自身の言葉ではないのではありませんか。
66 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 01:13
>65 私、「事実の成立」という表現をつかいました?もし、そうなら、それは誤りで撤回します。 事実には、成立も存立もありません。 かくかく――事実である。 しかじか――事実でない(否定的事実である)。 というだけのことです。
67 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 01:16
>62 ミックさんのイメージはほぼ正しいと思います。 問題は、碁石が置かれないと存在しえない碁盤ではないのか、という点です(この解釈は圧倒的少数派でしょうが。) なお、事態の数の無限が『論考』にとってどのように問題であるのか、ミックさんの考えを聞かせてください。
68 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 01:17
>60 石黒ひで センセ ご反対な[それ]とは、どれのことですか?
69 :
ミック :2001/01/21(日) 01:20
いや、確かにいちご姫さんは、「事実」に「成立」という表現は使っていませんでした。僕の勘違いです。レス53を見直しましたが、「成立」という語は、「事態」について用いられています。 そうすると、「成立」と「存立」は同義と考えてよいですか?
70 :
ミック :2001/01/21(日) 01:21
いや、確かにいちご姫さんは、「事実」に「成立」という表現は使っていませんでした。僕の勘違いです。レス53を見直しましたが、「成立」という語は、「事態」について用いられています。 そうすると、「成立」と「存立」は同義と考えてよいですか?
71 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 01:33
はい、成立と存立は同じ意味で使いました。 用語の統一をしなかった私のミスです。
72 :
ミック :2001/01/21(日) 02:04
そうですか。得心いたしました。「事実とは、事態の成立(存立)である」と。
さて、ここで改めてお聞きしたいのですが、「事実」と「事態」の違いは何でしょうか。
二元論に基づいて答えるなら、これほど簡単な問いはないのですよね。「事態とは命題によって表現可能なもの」で「事実とは、現実に成立した事態」ですから。
「このスレを立てたミックという人間は女だ」は事態で、「このスレは72番までレスが付いた」は事実なわけです。
しかし、言語一元論を採るいちご姫さんとしては、「言語から独立した世界」という道具立てを使わずに「事実」を表さなくてはいけないと思いますが、いかがでしょう。
>>67 >なお、事態の数の無限が『論考』にとってどのように問題で
>あるのか、ミックさんの考えを聞かせてください。
いやあ、「躓きの石」とか言ったのは大袈裟でした。ただ、『論考』はいとも簡単に実無限の立場を採りながら、そのくせ無限についてはあまり論じず、処理をおろそかにしているから、どこかおかしいだろう、ぐらいの気持ちです。
実無限のパラドクスが即座に写像理論や真理関数を破綻させるような欠点かどうかまでは、考えたことがありませんでした。
73 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 23:04
Tatsache und Sachverhalt 一晩考えて解けました。 事態が場を占めることになるのは、言語(諸命題とその真理函数)による論理空間の分節化によるものであり、事物・対象が事態に位置を持つのは、その事態を写像する命題の論理的構文論による分節化によります。従って、事態と対象はともに言語によって分節化されるものです。 さてここで、事実は諸対象の配置に過ぎません。配置が現に如何であるか、については、言語は予め関与し如何ならしめるわけではありません。しかし、この配置の変化においてはいかなる存在者も新たに論理空間内に齎されるわけではありません。なぜなら、事実から事実への時系列的変化(ある事態の成立に継起して他の事態が成立する)は、偶然的であり、因果法則のような存在者を『論考』は否定(「TLP6.36,6.37」するからです。事態の成立が偶然であるからには、事態の成立である<諸対象の結合が(単に論理空間に場を占めるだけでなく)世界に現に生起している事>は、偶然的で、何ら(以上の議論に現れた以外の)他の存在者を導入もしくは前提するわけではありません。故に、言語一元論を犯すような、別な因子の存在を要請するわけではない、と結論しました。 おさそい> 『論考』解釈に入りはじめると、泥沼のようなもので、抜け出られなくなりがちです。『青色本』の読解を進めませんか?
74 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 23:09
>72 >>67へのコメントへのレス 『論考』は厳密に実無限をとっているのでしょうか? 無限の新たな段階に入るたびに、それ迄の論理空間全体を廃棄する、と言う形で、実質的に可能無限を採用している、という解釈を採る人もいます。 これだと、後期のWまでと一貫する上、操作の冪としての数、というアイディアとも馴染み深いのです。 但し、それでは、ブロウアァの公演でWが何を得たのか、が判らなくなるのですが。
75 :
いちご姫 :2001/01/21(日) 23:10
>72 >>67へのコメントへのレス 『論考』は厳密に実無限をとっているのでしょうか? 無限の新たな段階に入るたびに、それ迄の論理空間全体を廃棄する、と言う形で、実質的に可能無限を採用している、という解釈を採る人もいます。 これだと、後期のWまでと一貫する上、操作の冪としての数、というアイディアとも馴染み深いのです。 但し、それでは、ブロウアァの公演でWが何を得たのか、が判らなくなるのですが。
76 :
ミック :2001/01/21(日) 23:55
>おさそい> 『論考』解釈に入りはじめると、泥沼のようなもので、
>抜け出られなくなりがちです。『青色本』の読解を進めませんか?
ええ、もうあまり深入りはしません。「事実と事態」「一元論か二元論か」の問題は、個人的にはもう少し検討してみますが、このスレではひとまず置きましょう。そろそろ方向を修正しましょう。
今までで、やり方も固まってきましたね。「つらつらと要約@→突っ込み&派生的議論→つらつらと要約A→突っ込み&派生的議論→つらつらと要約B・・・・・・」を基本路線としましょう。
>>75 >『論考』は厳密に実無限をとっているのでしょうか?
>無限の新たな段階に入るたびに、それ迄の論理空間全体を廃棄する、
>と言う形で、実質的に可能無限を採用している、という解釈を採る人もいます。
まったく、世の中には色々な解釈を考える人がいるものだと感心してしまいます。しかしこれは少しWに好意的すぎる解釈だと思います。「『論考』は可能無限」解釈は、『論考』のどの節を典拠にしてしているのですか?
僕の素直な(浅いとも言うが)読みでは、Wは『論考』では「総計」という言葉を殆ど断りなしに「実体」として用いていると思うのですが。
「世界は事実の総計であって、ものの総計ではない」(1・1)
「世界は諸事実に分解する」(1・2――しつこいですが、「分解」という言葉の使い方も、やはり原子論的世界観を示唆すると、僕は思います)
などなど。もしWが『論考』で可能無限の立場に立っていたなら、その点を明記していたはずではないでしょうか。(実際、哲学復帰後のWは、自分が可能無限的な立場に立つことを明言しますよね。「無限について」『学団』pp.328―34.とか)
ちょっと「『論考』可能無限説」は、Wを神格化している気がします。
77 :
伍長 :2001/01/22(月) 00:05
>>54 (いちご姫さん)、およびミックさん。
興味深くROMしておりますが、悔しいことに議論の半分以上は私の理解を超えております。
大抵の哲学書を読むときもそうなのですが、哲学屋さんの用語法や思考スタイルが私のそれとまるで違うので、
私の常識や心理学的な用語法・思考スタイルに変換できないと理解困難なのです。
『論考』はお手上げですが、後期の「家族的類似」、「規則」、「私的言語」、「心身問題」などの話題なら何とかついていけるものの、
『探究』の翻訳本よりも解説書の方が難解だったりすることもある。
機会があれば質問なり珍解釈なりをさせていただきますので、
どうかこのままお続け下さい。
78 :
いちご姫 :2001/01/22(月) 00:25
>77 伍長さま 「ウィトゲンシュタインをご一緒に」スレッドに書き込んでいらっしゃった方ですね。 どうしてらっしゃるかと思っていました。 このスレッドを覗いていてくださっている、と知ってうれしく思います。 「ご一緒に」スレッドの方に、野矢氏によるマッギンの訳者後書きの一部を引用しておきましたので、そちらもご覧になってください。 また、おひまがあれば、Wrigt, Chrispin Wittgenstein on the Foundations of Mathimatics, Gregg Revivals をごらんになると、Wが規範性にいかにこだわっていたか、判ります。 (但し、450頁を超える大著なので、本当に<暇があれば>の話しですが・・・・>
79 :
伍長 :2001/01/22(月) 01:16
>>姫 >どうしてらっしゃるかと思っていました。 心理板の方で忙しかったということもありまして。 (いわば、私的言語の不可能性に関する心理学的証明ってところかな)。 ご紹介の原書は・・・・「暇」よりも「能力」と「気力」の問題のようです。(泣)
80 :
ミック :2001/01/22(月) 23:23
>>77 (伍長さん)
>大抵の哲学書を読むときもそうなのですが、哲学屋さんの用語法や思考スタイルが私のそれとまるで違うので、
>私の常識や心理学的な用語法・思考スタイルに変換できないと理解困難なのです。
まあ、これに関しては、僕も哲学専攻ですらない一介の歴史屋に過ぎないので耳が痛いのですが、やはり一人で読むよりは複数人であれやこれや言い合うほうが間違いなく生産的です(2ちゃんにはその反例も山ほどあるにせよ)。意見・疑問・批判などありましたら、いつでも歓迎ですので書き込んでください。
次段の要約は、明日ぐらいにはまとめて書きます。
81 :
いちご姫 :2001/01/23(火) 00:24
>76 >>75 へのレス 本日、上記に言及した方とは別の研究者に、『論考』における無限の扱いについて尋ねたところ、「『論考』においては無限は考えられていないか、せいぜい可能無限どまりでしょう。どう、無限を扱い得るのかは、私のほうがききたいです。」との事でした。 無限が『論考』にとって問題となるのは、量化を選言や連言の操作の繰り返しとして考えているところです。 TLP5.5、5.502等で述べられている量化を要素命題の真理函数として考え、かつ操作は< 有 限 回 >に限る(“Alle Wahrheitsfunktionen sind Resultat der successiven Anwendung einer e n d l i c h e n Anzahl von Wahrheitsoperationen auf die Elementarsaetze.(TLP. 5.32;ゲシュペルトはいちご姫による))限り、全称量化子と存在量化子双方を含む多重量化を可能ならしめる為には、対象(物)の数が有限個であらねばならないのです。 (但し、この考え方は「論理空間の無限性」(den ganzen――unendlichen――logischen Raum"(TLP.4.463-c)と抵触しそうで、実際飯田隆氏は、抵触する、と主張していますが。(『言語哲学大全U 意味と様相(上)』 110, 171〜173,勁草書房 1989;Fogilin,R.F.,Wittgenstein 2nd ed., 1987, Routledgeを参照下さい) んー、Wは『論考』で無限を想定していなかったのか、していたけど論理の構築の定式化で誤ったのか、どちらなのでしょう。 なお、前回に紹介した方の研究者の方は、『論考』を出来るだけ現代の哲学に役に立つように読む、という方針で解釈をしているので、「使い捨て論理空間による可能無限」説をとっている筈です。実無限では、彼の哲学的立場とは反するので役に立たなくなってしまうからです。
82 :
いちご姫 :2001/01/23(火) 00:28
すみません、先ほど、手元に翻訳がなかったので独文引用させていただきました。 書き終わって送信したら、見つかりました。(マーフィイの法則そのx)
83 :
ミック :2001/01/23(火) 23:25
>んー、Wは『論考』で無限を想定していなかったのか、 >していたけど論理の構築の定式化で誤ったのか、どちらなのでしょう。 どっちなんでしょうねえ。「無限」という言葉が出てくる以上、頭にはあったんでしょうが、定式化に誤ったか、あまり重要な問題と考えていなかったのどちらかでは。 もし仮に可能無限の立場だったとしても、それは可能無限「的」な漠然とした考えを持っていただけで、後に直観主義が主張するような明確な概念にはまとまっていなかったと思います(でなかったら、ブラウワーの講演からの影響がそれこそ訳わからなくなる)。 1929年にブラウワーの講演を聴いたWは「これだ、これこそ俺が考えていたことだったんだ。そうかそういうことだったのか」とビカビカッと感激したと想定してみる。 そうすると、講演のすぐ後に喫茶店でWが突如始めたという“演説”の内容がわかればこの問題を藪の中から引っ張り出せそうですね。しかしなぜか当事者のファイグルは演説の内容を伝えてくれていない。いちご姫さん、このWの哲学復帰の意志を知らせる演説の内容ってご存知ですか?ブラウワーの講演は出版されてるから、そっから反射的にある程度わかるという話は聞いたことありますが。
84 :
pp.50-53. :2001/01/24(水) 00:11
さて、『青本』の本文へ戻ります。ちょっとこの先大きな区切りがつけづらいので、細かい区切りでまとめます。 ここでWは、「期待する(expect)」という動詞の使い方と意味を例にとって、家族的類似性を解説すると同時に、相変わらず「意味とは感情」という心理主義的言語観を否定します。どうもラッセル批判もやっているようです。ラッセル『心の分析』第三章を参照、と編集者註がついています。多分ラッセルはこの本で「意味とは感情」説を開陳しているのでしょう。 「「期待」の語で或る特定の感情(sensation)を意味するならば、それは[家族的類似性とは]全く違った語の使い方である」。 とは言うものの、Wは、「意味とは感情」説も「実生活上で使うことには妥当な根拠があるのだろう」とし、家族的類似性とも密接な関係があることも認めます。さらに、「この説明を採りさえすれば、この期待の感情は[それ以上は]定義不可能と言うことでそれ以上の追求はかわせるから自分は安全な地盤にいるとさえ君は考えかねない」。 ただ明記すべきは、「「Bが来るとの期待」という句の意味をその仕方で説明したとしても、それによって、その句のBを別の名前で置き換えて出来る句のどれも説明されたことにはならない」。 つまり、「この説明は不完全なんだよゴルァ」というわけでしょう。でもここの証明は、「命題関数」とか「複合名」とか耳慣れない用語を使っていて、僕は妙な印象を受けます。多分、固有名詞と一般名詞の違いによって、「期待」という語の意味が一定しないということだと思います。「Bが来るという期待」は固有名「B」に依存し、他の固有名によって置き換えられれば、「期待」は他の意味になる、ということでしょう。 しかし、「意味とは感情」説を採る側の人はさらに強硬に「「Bが来るとの期待」という句は、或る感情の[全体]の名前ではなくその感情の一特性として使われるのだ」と主張するかもしれない。しかし、これもおかしいとWは言います。「もしこの句がこの意味で使われるのであれば、期待が実現されるまでは何を待っているのかがわからない」からだ、と。あちらを立てればこちらが立たず。
85 :
pp.54-55. :2001/01/24(水) 00:38
さて、今度は「望む」「恐れる」などの語を例にとって、自動詞と他動詞にまつわる文法的区別の話が始まります(最終的には「知る」という語へ話を持っていきたいようだ)。そしてその文法的区別の話から、従来の哲学を混乱させている文法の混同の話、さらに日常言語の使用への回帰を説く、という流れになっております。 我々は、「恐れる」という普通他動詞として使われる動詞を自動詞として使うことで、「特定対象に向けられていない」恐怖の感情を描写することができる。このような用語法は、従来のものからはズレているかもしれないが、いつでも普通の言葉に翻訳しなおすことができるのだから、別に使っても構わないとWはいいます。さらにWは「無意識的虫歯」という例をとってそのことを説明します。 「歯の或る虫食い状態、普通歯痛と呼ばれるものを伴わない状態を「無意識的虫歯」と呼び、またそのような場合、歯痛があるがそれを知らないという表現を使うのがむしろ実際的だと考えられることもある。・・・この意味のもとで、私は歯が痛いがその痛みを知らない、と言って悪いだろうか。少しも悪いことはない。・・・・・・とはいっても、この新しい表現は、我々の規約を一貫して貫き通すことを難しくさせるような挿し絵や比喩を呼び起こして我々に道を誤らせるのである。・・・例えば、「無意識的歯痛」という表現に引き摺られて、我々の悟性を全く途方にくれさせるとてつもない発見がなされたと思わせたり、さもなくば、その表現に鼻をつままれて多分、「如何にして無意識的歯痛は可能なりや」と聞くことになる」。 先生、皮肉きついわ。
86 :
pp.54-55. :2001/01/24(水) 00:39
さて、今度は「望む」「恐れる」などの語を例にとって、自動詞と他動詞にまつわる文法的区別の話が始まります(最終的には「知る」という語へ話を持っていきたいようだ)。そしてその文法的区別の話から、従来の哲学を混乱させている文法の混同の話、さらに日常言語の使用への回帰を説く、という流れになっております。 我々は、「恐れる」という普通他動詞として使われる動詞を自動詞として使うことで、「特定対象に向けられていない」恐怖の感情を描写することができる。このような用語法は、従来のものからはズレているかもしれないが、いつでも普通の言葉に翻訳しなおすことができるのだから、別に使っても構わないとWはいいます。さらにWは「無意識的虫歯」という例をとってそのことを説明します。 「歯の或る虫食い状態、普通歯痛と呼ばれるものを伴わない状態を「無意識的虫歯」と呼び、またそのような場合、歯痛があるがそれを知らないという表現を使うのがむしろ実際的だと考えられることもある。・・・この意味のもとで、私は歯が痛いがその痛みを知らない、と言って悪いだろうか。少しも悪いことはない。・・・・・・とはいっても、この新しい表現は、我々の規約を一貫して貫き通すことを難しくさせるような挿し絵や比喩を呼び起こして我々に道を誤らせるのである。・・・例えば、「無意識的歯痛」という表現に引き摺られて、我々の悟性を全く途方にくれさせるとてつもない発見がなされたと思わせたり、さもなくば、その表現に鼻をつままれて多分、「如何にして無意識的歯痛は可能なりや」と聞くことになる」。 先生、皮肉きついわ。
87 :
いちご姫 :2001/01/24(水) 00:46
>83 きょう、『論考』の無限を可能無限と解釈する研究者にお会いしました。 彼の説明によると、先ず『論考』の無限を実無限と解せざるをえないパラグラフはない。 ‘unendlich’は、「それで終わりにならないもの」との語感であり、実無限の立場をとるならば ‘infinit/Infinitum’を採ったのではないか、ということ、及び可能無限で多重量化の問題は殆どかたがつく、との参点を論拠としておられました。 (もちろん、彼が可能無限を好きだ、という心理的動機は別にして。) この場合、不可能な多重量化とは〜(P1∧P2∧P3∧〜・・・・Pn・・・・P∞)というような、例えば、否定の内部が<無限の>連言を持った場合です。 この場合、まず、無限の連言を操作上構成して、その後にはじめて否定の操作を行わなければなりませんので、可能無限のような無限の全体に行き着く事のない無限観からは何時になっても否定の操作が出来ないわけです。 その程度の(結構重要な欠点かもしれませんが)問題を看過すれば、可能無限と解した方が確かに『論考』を生産的に読解する事が出来ます。 )
88 :
pp.56-60. :2001/01/24(水) 01:09
なんで二重投稿なるんじゃボケ!ドキュソコンピュータ! さて、気を取り直して。p56からは、「知る」という語の使い方に焦点が合わされます。p.57.の「徴候」の議論は、なんだか「斉一性の幻想」を想起させます。 ここでの結論を要約すれば、「言葉の規約のレベルにまで問いをおろせば、もはやそれ以上理由を問うことはできない」となるでしょう。「底打ち」という表現をWは使っています。 p.58.では、言語の規則という、あの悩ましいテーマが登場すると同時に、日常言語重視への態度変更も表明されます。 「我々が言語を使っているときには用法の規則、つまり定義やその他の規則は念頭にはないし、・・・我々は自分が使っている概念を明確に定義することができない。本当の定義を知らないからではなく、それらの概念には本当の「定義」がないからである。それがなくてはならないと考えるのは、子供がボールで遊んでいるとき必ず厳格なルールに従ったゲームをやっているのだと思うのに等しい」。 Wは、数学や科学に見られる言語の厳密さへの志向は、哲学においては「我々が取り除こうと努める当の哲学的困惑」の源であると攻撃します。その槍玉にあがるのが、アウグスティヌスの「時間とは何か」という問いであり、ソクラテスの「知識とは何か」という問いです。 「「時間とは何か」という問いを考えてみよう。一見したところ、この問いは定義を尋ねているだがすぐさま疑問が出てくる。「定義を得ても何になるのか。定義はただ他の未定義の言葉に導くだけではないか。」またなぜ人は、ただ時間に定義がないことに困惑して、「椅子」の定義がないことには困惑しないのか。定義のないところすべて困惑してしかるべきではないのか」。 実は、アウグスティヌスやソクラテスを困惑させているのは、定義の困難さではなく、「語の文法」である。たとえば、アウグスティヌスは、「測る」という語の二つの用法を混同している。つまり「空間的長さ」を測るように、「時間的長さ」を測る過ちを犯している、と。困難は「我々の言語において似た構造をもつ二つの[表現]の間の類似性が我々に及ぼす幻惑」にある。これもやはり「一般性への渇望」に端を発する傾向だとWは考えているようです。 「哲学的に困惑している人は、或る語が使われる仕方の中に一つの法則を見つけ、その法則をすべてに一貫して当てはめようとして、矛盾する結果に終る事例にぶつかるのだ。・・・・・・哲学、我々がこの語を使う場合の意味での哲学とは、表現の形が我々に及ぼす幻惑に対する闘いである」。 面白い。非常に面白い。時間論に詳しい方からの意見を聞いてみたいところです。しかし今日は眠いのでこの辺で。
89 :
いちご姫 :2001/01/24(水) 23:01
>84,88へのレス 「「期待」の語で或る特定の感情(sensation)を意味するならば、それは[家族的類似性とは]全く異なった語の使い方である。」 ここでは[ ]内、つまり、「それ」で言及されている内容が誤解されています。言及されているのは、「(この句の一つの意味では、)この句が指しているものはその時間中持続している特定の一つの心の過程とか一つの状態とかでない(中略)非常に多くのさまざまに異なる心の働きや状態」BlB.P.50であるような、つまり、その句によって指されている心的過程・状態が多様で、家族的類似を相互に持つに過ぎないような、その句のそのような< 使 用 法 >です。 インデクス(指標)と、アーギュメント(独立変数の値)と、 ミックさんの解釈は基本的に正しい、と思います。それがインデクスであれば、’Bright’s desease’ の‘Bright’氏が誰かを知る事なしに、この病気を知り得、理解し得、名指し得ます(例えば、’the desease’として。)対して、それがアーギュメントであれば、すなわち、「ブライト氏がかかっている、その病気」であれば、ブライト氏を知る事なしには、問題の句が名指しているモノを知ることが出来ません。なぜなら、これが指しているのは、ブライト氏が罹った病気のタイプ(たとえば、ブライト氏がA型肝炎に罹っているとして、A型肝炎一般)をでなく、ブライト氏が罹っている< 当 の >A型肝炎、即ちトークンだからです。 ラッセル『心の分析』 当の本が出てこないので確たる事は言えませんが、確か、ラッセルは、<「期待する」とは、ある事柄の実現によって、それが消失する当の感情(その他の心的出来事)である>という特徴付けを与えていたはずです。この場合、<期待>と<期待されていること>は別々の出来事ですから、その関係は高々因果的な偶然的なものでしかなく、従って、我々が自然現象について誤った法則把握から誤った予測をたて得るように、何を期待しているのか、を誤って認識(予期)している事があり得る事になってしまうのです。それの可能性を否定して、Wは<期待>と<期待されていること>との関係は文法的な関係である、ともっていくのです。 無意識的歯痛 要点は、語・句の新たな使用法を採用する事は(それに適切な使用状況がある限り)容認される事である。しかし、だからといって、旧来の使用実績を新規の使用法に基づいて解釈するならば混乱に陥る、従ってなされてはならない、ということです。 規準と徴候 BlB p.56‐58で、「規準」と「徴候」の対象が導入されます。 ここで、「規準」は問題の概念の「定義」、「徴候」はそれについての「仮設」だ、といわれています。 しかし、ここは問題で、この後、ほとんどの場合、規準は定義ではない、とWによって考えられる事になります。つまり、しかじかが概念Aの定義であれば、しかじかが起こりながらAでない、ということはありえません。しかるに、そのような場合がしがじかがAの<規準>であるばあいにはありえる、と主張されるのです(阻却可能性 defeasibility と呼ばれます)。そして、阻却可能性を有する、という規準のこの特徴が、規準を心的単語の意味付けにとって重要な概念になす、と以後(少なくとも糖分の間)Wは考えています。 日常言語重視への態度変更 日常言語重視へと態度を(例えば『論考』のころから)変えた、といえるでしょうか?微妙です。 確かに、「日常言語から言語の論理を直接読み取る事は人間には不可能である」TLP4.002とはいわれるものの、「論理的文法、論理的構文論、に従う記号言語」TLP3.325に至るのは、人工的な規約の導入・採択によってではなく、日常言語からの「言語批判」によってTLP.4.0031であり、しかも、日常言語はそのままで完全なのだ、とすでに考えられているのですから。 敢えて、ここにおける新たな主張を見出すとしたら、「言語は正確な規則に従う記号系(カリキュラス)の如き」ものではない、という点でしょう。『論考』においては、表面上複雑で、記号表記法が、哲学的<深層>文法からすれば混乱している日常言語も、それから哲学的深層文法へ至れるほど、そしてそれは事実、対象と一対一対応をしているほど、厳格で曖昧さの無い言語です。この言語観から「曖昧な境界は境界ではない」というフレーゲの主張を否定する、曖昧さを中核に据えた『探求』の言語観への移行がここに見られるのでしょう。
90 :
ミック :2001/01/26(金) 00:18
>>89 >ここでは[ ]内、つまり、「それ」で言及されている内容が誤解されています。
>言及されているのは・・・・・・その句によって指されている心的過程・状態が多様で、
>家族的類似を相互に持つに過ぎないような、その句のそのような< 使 用 法 >です。
僕もそのつもりだったのですが、勝手にはしょってしまいました。すいません。
>「インデクス(指標)と、アーギュメント(独立変数の値)」について。
トークンというのは、「言語使用の個別的ケース」のことだと考えてよいでしょうか。この単語は、僕はこのスレでいちご姫さんが使うまで知らなかったのですが、何か言語学の専門タームなんですか?
インデクスというのは、「ハンセン氏病」みたいに、既に全体が一つの固有名として通用している場合を指して、アーギュメントは、「ハンセンさんが今かかっている<この>病気」という風に、「固有名+一般名詞」の形をとって<この>という個別性を特徴とするわけですね。こんな妖しげな用語使わなくてもいいのに・・・という一抹の不満意外は納得できます。
>日常言語重視へと態度を(例えば『論考』のころから)変えた、
>といえるでしょうか?微妙です。
また少し『“泥沼”論考』へ入ります。確かに『論考』でもWが日常言語の完全性を承認していたと、僕も思います。「日常の言語の命題はすべて、そのあるがままの現実においてすでに、論理的に完璧な秩序を与えられている。――われわれが日常の言語のうちで提示せざるをえない、かのもっとも簡潔なもの、それは真理の比喩ではなく、全き真理そのものなのだ。」(5・5563)とか。だから、前期と後期で全く断絶しているとは考えません。ですが、やはり前期Wは写像理論と真理関数という二つの道具を使うことで、「論理的文法」、「論理的構文論」に従う理想言語の創出を試みていたのではないでしょうか。
「これらの誤謬を避けるためには次のような記号言語を使用せねばならない。それは、同じ記号を誤ったシンボルに使用せず、また異なった仕方で指示する記号同士を外見上同じ仕方で使用しないことによって、誤謬を排除するものである。それ故、論理的文法、論理的構文論、に従う言語である」(3・325)
この節は、一対一対応を保証する記号言語「によって」言語の混乱を収束させる、と読めると思うのですが。それに対して後期のWは、このような、論理学に基づいて作られる理想言語について否定的な見解を述べるようになります。
「・・・・・・言語の一般概念が、いわば融解してしまうなら、哲学もまた融解するのではないか。そうではない。なぜなら哲学の課題は、新しい理想的言語を作り出すことではなくて、われわれの言語、すでになりたっている言語の使い方を明らかにすることになるのだからである 」(『文法』p.153.)
とか。要するに、Wは、理想言語は、言語「によってdruch」示されるのではなく、言語「においてin」示されるという立場へ変わったのだと思うのですが。だから、日常言語重視というより(それは最初から重視されている)、理想言語創出の放棄と言うべきでした。
いちご姫さんの、「人工的な規約の導入・採択によってではなく、日常言語からの「言語批判」によってTLP.4.0031であり」という部分は、『論考』(あるいは『草稿』)のどこから分かるのですか?僕はまさに「人工的な規約の導入・採択」によって理想言語を目指すのが前期Wの主要課題と考えているのです。また「言語批判が日常言語から行なわれる、ということは、『論考』の当該箇所には書かれていないと思うのですが。
91 :
ミック :2001/01/26(金) 00:18
>>89 >ここでは[ ]内、つまり、「それ」で言及されている内容が誤解されています。
>言及されているのは・・・・・・その句によって指されている心的過程・状態が多様で、
>家族的類似を相互に持つに過ぎないような、その句のそのような< 使 用 法 >です。
僕もそのつもりだったのですが、勝手にはしょってしまいました。すいません。
>「インデクス(指標)と、アーギュメント(独立変数の値)」について。
トークンというのは、「言語使用の個別的ケース」のことだと考えてよいでしょうか。この単語は、僕はこのスレでいちご姫さんが使うまで知らなかったのですが、何か言語学の専門タームなんですか?
インデクスというのは、「ハンセン氏病」みたいに、既に全体が一つの固有名として通用している場合を指して、アーギュメントは、「ハンセンさんが今かかっている<この>病気」という風に、「固有名+一般名詞」の形をとって<この>という個別性を特徴とするわけですね。こんな妖しげな用語使わなくてもいいのに・・・という一抹の不満意外は納得できます。
>日常言語重視へと態度を(例えば『論考』のころから)変えた、
>といえるでしょうか?微妙です。
また少し『“泥沼”論考』へ入ります。確かに『論考』でもWが日常言語の完全性を承認していたと、僕も思います。「日常の言語の命題はすべて、そのあるがままの現実においてすでに、論理的に完璧な秩序を与えられている。――われわれが日常の言語のうちで提示せざるをえない、かのもっとも簡潔なもの、それは真理の比喩ではなく、全き真理そのものなのだ。」(5・5563)とか。だから、前期と後期で全く断絶しているとは考えません。ですが、やはり前期Wは写像理論と真理関数という二つの道具を使うことで、「論理的文法」、「論理的構文論」に従う理想言語の創出を試みていたのではないでしょうか。
「これらの誤謬を避けるためには次のような記号言語を使用せねばならない。それは、同じ記号を誤ったシンボルに使用せず、また異なった仕方で指示する記号同士を外見上同じ仕方で使用しないことによって、誤謬を排除するものである。それ故、論理的文法、論理的構文論、に従う言語である」(3・325)
この節は、一対一対応を保証する記号言語「によって」言語の混乱を収束させる、と読めると思うのですが。それに対して後期のWは、このような、論理学に基づいて作られる理想言語について否定的な見解を述べるようになります。
「・・・・・・言語の一般概念が、いわば融解してしまうなら、哲学もまた融解するのではないか。そうではない。なぜなら哲学の課題は、新しい理想的言語を作り出すことではなくて、われわれの言語、すでになりたっている言語の使い方を明らかにすることになるのだからである 」(『文法』p.153.)
とか。要するに、Wは、理想言語は、言語「によってdruch」示されるのではなく、言語「においてin」示されるという立場へ変わったのだと思うのですが。だから、日常言語重視というより(それは最初から重視されている)、理想言語創出の放棄と言うべきでした。
いちご姫さんの、「人工的な規約の導入・採択によってではなく、日常言語からの「言語批判」によってTLP.4.0031であり」という部分は、『論考』(あるいは『草稿』)のどこから分かるのですか?僕はまさに「人工的な規約の導入・採択」によって理想言語を目指すのが前期Wの主要課題と考えているのです。また「言語批判が日常言語から行なわれる、ということは、『論考』の当該箇所には書かれていないと思うのですが。
92 :
ミック :2001/01/26(金) 00:19
何で二重投稿なるんだよお。調子悪いなあ。すいません。
93 :
いちご姫 :2001/01/26(金) 01:42
>91の諸提起へのレス (1) インデクスとアーギュメント これらは、『論考』4.0411、5.02で議論された用語であり、特に後者は『青色本』の当該問題にかかわった考察でしたから、Wとしては当然の採用でしょう。特に、論理学では馴染み深かった概念ですし。 (2) タイプとトークン 一般に、ある特徴でくくられたもの一般をタイプ、それに属する個別者をトークンと呼びます。(一般に、と言っても、どの程度<一般>かは知りませんが。) 例えば、<水を飲む>行為一般はタイプ、<私が昨日△時○分に××場所での水を飲んだその行為>はトークン、です。 (3)『論考』と『探求』の立場の相違 理想言語を作る必要性と、その可能性とをともに否定する、というのが、後のWを特徴付ける点の一つだ、とは、私も思います。ある人は「(文法)分析の哲学から(文法)展望の哲学へ」と説明されていらっしゃいました。 引用なさった『文法』T―§72bが、『論考』批判であるかどうか、仮にそうであるとして正しい批判であるか、は疑問です。というのは、「哲学の目的は、あれこれの誤解をとりのぞくことであって、本当の理解をはじめて供給するといったようなことではない。」という、それに引き続く文の主張する立場は『論考』から一貫してとられているからです。 (4)日常言語を基盤とした理想言語 TLP.4.0031において、『論考』における理想言語創出の出発点(であり、それをゆがめもしくは改変するものではない)は日常言語である、という考えは、以下から支持されます。 @「ラッセルの功績」とは記述理論の事であり、記述理論は、日常言語における表記法故に生じがちな誤解をその真の論理的構造を顕にする記法を採用する事によって取り除いたものであり、日常言語に 代 わ る 別な言語を創作・採択したのではない事。 (例えば、’The present king of France is bold.’が「xが現在のフランス国王であり、かつ、xが禿であるような、xが一つかつ高々一つ(のみ)存在する」と表記されるのは、前者の深層文法の顕示化であって、代置ではない、そのような事です。) A『論考』においては、仮に日常言語を批判することによるのでないのなら、当然必要であるはずの、理想言語創出の為の手続きとその正当化根拠とが全く示されていない事。 Bこれは、注解書の説明です。(末木剛博著『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考の研究T』公論社 1976 p.199) 「この「言語批判」は次ぎのような手続きによって遂行される。すなわち、 (T)日常言語の外見上の不純物や混乱を先ず排除する。この段階で擬似命題や擬似問題は消滅する。 (U)その結果、純粋に論理的な形式をもつ真正な命題を露出させる。 (V)次ぎにこの真正な命題を完全に分析する(T3.25) かくて「言語批判」は「言語の論理的批判」であり、心理学的批判ではない。」 C「言語批判」の批判(Kritik)は、「わける」「弁別する」という意味ですから、別なものを創り出すのでというよりは、すでにあるもののうち過てるものと正しいものとを区別する、というニュアンスです。
94 :
ミック :2001/01/27(土) 00:31
実に念の入ったレスをありがとうございます。(1)(2)については、おおよそ納得できました。 (3)(4)“理想言語”の問題について 確かに、理想言語を「創出」することが前期Wの目的だったという表現は、正しくありませんでした。創出と言うと、無から有を産み出すようなイメージがありますね。いちご姫さんの「Kritik=弁別」説へ鞍替えいたします。言葉の選び方って難しい。 僕の理解する限り、『論考』の結論は「言語は3つの部分(大きく見れば2つ)に分けられる、というテーゼだと思います。すなわち、 @無意味(邦訳では「無意義」という訳語だったかと)な部分――倫理や宗教、美学などを含む。 A有意味だが偽な部分 B結う意味で真な部分 この考えが正しいなら、Wが行なおうとした「弁別」の作業は、まず@を切り落とすこと(語ってはならないという要請)、次にAとBの区別を付けること(by真理関数&写像理論)という二つからなると思います。僕が「理想言語」という言葉で言い表したかったのは、この二つのプロセスを経た後の姿の日常言語のことだったのです。 前期Wの「理想言語」をこのようなものと考えるなら、日常言語の<外>に新しいもう一つの言語を作り出そうとしたラッセルへの批判とも、矛盾することのない解釈になると思います。うむ。 しかし、ラッセルや論理実証主義者は、Wの「理想言語」を日常言語の外に存在するものと捉えた。そのため、中期以降のWは、「自分の考える哲学は、あのドキュソどもがイメージしているような“理想言語“の創出にあるのではない」と繰り返し明言する必要性を感じた・・・・・・ と、粗雑ですがこんなシナリオを組み立て見ました。ラッセルの序文や中期以降Wが理想言語について言及した箇所と照らし合わせないと断言できませんが。そういえば、カルナップはまさに人工言語学派を作ったと、『小事典』に書いてあったのを思い出しました。やはり彼も「“理想言語“は日常言語の外にある」というテーゼから出発していたのでしょう。
95 :
ミック :2001/01/27(土) 00:36
age忘れた
96 :
いちご姫 :2001/01/27(土) 01:05
>94『論考』の結論 @α 無意義(unsinnich)で価値がない――擬似命題等 β 無意義で価値がある――倫理、審美等 Aα 有意義で無意味である――恒真律、矛盾律等 β 有意義で有意味である――経験命題 −1 真な経験命題 −2 偽な経験命題 以上のような区分だ、と思います。 論点は、 @無意義だが価値がある領域はWにとってきわめて重要(ここが論理実証主義者たちとの根本的相違の一つ)ですから、それと無意義で価値ないものと一くくりにするのは乱暴でしょう。 A経験命題の真偽は、科学の領域ですから、この差異のほうがWにとってはそれほど重要でないものだ、と思います。 Bお節介めいていますが、Ethikが倫理の学でなく、倫理的(価値)なのですから、(そして、LogikもTLP.6.13ではおそらく論理であって論理学ではない)Aesthetikも美学・審美学ではなく美でしょう。
97 :
ミック :2001/01/28(日) 00:04
>>96 >@無意義だが価値がある領域はWにとってきわめて重要
>(ここが論理実証主義者たちとの根本的相違の一つ)ですから、
>それと無意義で価値ないものと一くくりにするのは乱暴でしょう。
もちろん、「無意義だが価値ある領域」はWにとって重要な部分だったと思います。が、弁別作業の面から見たら、ともに「語ってはならない」という一つの要請の下にあると思ったのです。結局、Wが『論考』で目指した目的は、無意義な命題と有意味な命題が入り混じっている現在の日常言語から、「有意義で有意味な命題」だけを選り分けることにあったのですよね。だとすれば、この「有意義で有意味な命題」からのみなる日常言語が「理想言語」でしょう。・・・・・・しかし、今思ったのですが、これを「理想言語」という言葉で表現するのも不適切ですね。Wが「理想言語」を使うときは、だいたいラッセル―論理実証主義的な、日常言語とは別に存在する言語を批判する意味で使うわけだから。
真な経験命題は、
@自然科学の命題のみを表現する
Aそれによって、語りえぬものを示す
という二つの働きをするわけですよね。そうすると「妥当言語」ぐらいがふさわしいような気もします。事実と余すところなく一対一対応し、過不足を生じさせない、さらに、「理想」という言葉に含まれる価値判断のニュアンスもない、という意味で。
>Bお節介めいていますが、Ethikが倫理の学でなく、倫理的(価値)
>なのですから、(そして、LogikもTLP.6.13ではおそらく論理であって論理学ではない)
>Aesthetikも美学・審美学ではなく美でしょう。
いえいえ、おせっかいなんてとんでもない。特に僕は言葉の使い方が不用意なことが多いので、こういう言葉のニュアンスについてのご指摘はありがたいです。言葉の意味が共有されないと議論も空回りしてしまいますし。「あやしいな」と思ったら、びしばし突っ込んでください。
もし大きな不備がなければ、次かその次ぐらいのターンから次段の要約へ進みたいと思います。
98 :
ミック@訂正 :2001/01/28(日) 00:09
>結局、Wが『論考』で目指した目的は、無意義な命題と有意味な命題が >入り混じっている現在の日常言語から、「有意義で有意味な命題」だけ >を選り分けることにあったのですよね。だとすれば、この「有意義で有 >意味な命題」からのみなる日常言語が「理想言語」でしょう。 不正確でした。「有意義で有意味な命題(経験命題)」の段階では、まだ「偽な経験命題」が含まれたままですね。これを除いて「真な経験命題」のみにした段階で、ようやく「妥当言語」になるのでした。
99 :
いちご姫 :2001/01/28(日) 23:04
>96&98 ミックさま (1)「理想言語」か「妥当言語」か ミックさんのご指摘の通り、ラッセル、カルナップらの<理想言語>観とWの言語批判の結果到達する事が目指されている言語とを区別する為には、「妥当言語」等、別な単語を採用する、というのは実践上適切な方向だ、と思います。 但し、日常言語はその意味を表すことにおいて(擬似命題を除外すれば)完全であるとはいえ、その記号表記法が、誤解を招きやすいので避ける事が好ましい、という哲学という分野における実践的な価値判断に基づいて理想言語への言語批判が『論考』では勧奨されているのですから、そのかぎり、「「理想」という言葉に含まれる価値判断のニュアンス」は(その理想が何にとっていかなる意味においてかについての誤解がなされないならば)含まれていても構わないものだ、という気がします。 (2) >不正確でした。「有意義で有意味な命題(経験命題)」の段階では、まだ「偽な経験命題」が含まれたままですね。これを除いて「真な経験命題」のみにした段階で、ようやく「妥当言語」になるのでした 『論考』においては、「哲学の結果は「哲学的諸命題」ではなく、諸命題が明晰になる事」TLP.4.112dで、「自然諸科学の一つではない」TLP.ではありません。そこで、この自然諸科学とは「真なる命題の総計」TLP.4.11です。従って、哲学は命題の真偽にはかかわらない事になります。故に、哲学がその営みによって到達し得る限界を<妥当言語>と呼ぶとすれば、その真偽にかかわらず<諸経験命題の総体>であって、<真なる諸経験命題(の総体)>(若しくは<偽なる諸経験命題(の総体)>ではありえない、と考えます。後者である、と考える事は、『論考』の基本的立場の一つである、哲学と自然諸科学との峻別、を危うくすることではないでしょうか?
100 :
ミック@100番ゲット :2001/01/29(月) 01:10
(1)「理想言語」か「妥当言語」か 前期Wが、擬似命題を取り除いた後の日常言語に感じていた問題は、「その記号表記法が、誤解を招きやすい」ことにあった、ということですか。その典拠は、3・323から3・325までの節と考えてよろしいですか?「これらの誤謬を避けるためには次のような言語を使用せねばならない。それは、同じ記号を異なったシンボルに使用せず、また異なった仕方で指示する記号同士を外見上同じ仕方で使用しないことによって、誤謬を排除するものである」(3・325)確かに、Wは「是非このような言語を採用すべきだ」と強調していますね。 ただ、僕は「価値判断」も、また語りえない「倫理」に属するのではないか、と思ったこともあって、「理想言語」という語の使用を避けようかと思ったのです。しかし、誤謬を避けるというプラグマティックな基準から、素の日常言語と記号言語を比較するような価値判断は、Wは倫理の範疇に入るとは考えていなかったのでしょうか。まあ、Wの言う「倫理」とは何か、と問うのはナンセンスな疑問かもしれませんが。 (2)について えー、理解した自信があまりないのですが、つまり、『論考』における哲学とは、あくまで「有意義な命題(=経験命題の総体)と無意義な命題」の弁別作業のことであって、「真な経験命題=自然科学」であり、哲学ではない、ということでしょうか。 「全ての哲学は言語批判である」という言葉からは、確かにそういう解釈が導けそうです。しかし、もしそうなら、哲学はいちご姫さんが言うような「命題の総体」というよりも、弁別・批判・限界づけといった「作業・行為」と捉えるべきではありませんか。「哲学は学説ではなく、活動である」(4・112)とか「哲学は自然科学が論議可能な領域を限界づける」(4・113)という主張もありますし。 でも、こういうふうに考えると、6・53の命題「本来哲学の正しい方法は、語られうること、従って自然科学の命題以外何も語らないことである」という主張と矛盾してしまうんだよなあ。ここでは「哲学=真な経験命題のみを語ること」なわけ・・・・・・あ!いいのか。矛盾しないんだ。ここでもやはり哲学は「命題」ではなく命題を「語る」という行為(=弁別行為)なんだ! こういう考えをまとめました。いかがでしょう。 だらだらと思いつくまま書いてしまってすいませソ
101 :
nanashi :2001/01/30(火) 00:26
>100 (1)誤謬を避けるというプラグマティックな基準から、素の日常言語と記号言語を比較するような価値判断は、Wは倫理の範疇に入るとは考えていなかったのでしょうか。 おそらく入らないと思います。Wは、後にも、<相対的な>即ち事実に還元できる価値(例えば、<彼は良い走者だ>は<彼は他の人々より速く走る>に還元できる、とWはいう。)と、還元出来ない価値とにわけ、後者のみが本来の倫理にかかわる価値だ、と主張します。 この弁別を、<誤謬を避けるというプラグマティックな基準>に適用すれば、倫理ではない、ということになるでしょう。 >前期Wが、擬似命題を取り除いた後の日常言語に感じていた問題は、「その記号表記法が、誤解を招きやすい」ことにあった、ということですか。その典拠は、3・323から3・325までの 加えてTLP>4.002e,4.0031もです。 (2) >えー、理解した自信があまりないのですが、つまり、『論考』における哲学とは、あくまで「有意義な命題(=経験命題の総体)と無意義な命題」の弁別作業のことであって、「真な経験命題=自然科学」であり、哲学ではない、ということでしょうか。 はい、そのとおりです。トピック・センテンスを書かずじまいにしてしまい、要点の不明瞭な文を投稿してしまいました。陳謝。 TLP.6.53あたりは、あまり額面通りに受け取らない方がいいかも。だいぶ、与太り始めていますから。ま、敢えていえば、<自然科学の命題>のみに限定して行く、という作業が本来的な哲学なのでしょう。 それと、<真な経験命題>でなくてもよい典拠もそこです。自然科学の命題にも偽なる命題があり得るわけですから。
102 :
ミック :2001/01/30(火) 01:08
いちご姫さん?のようですね。 ご説明は了解いたしました。ここまでの議論で、「理想言語」や「哲学のあり方」を巡る僕の混乱が少し晴れた気がします。大きく見たら、これも泥沼へずぶずぶはまり込んでいく一プロセスかもしれないけど。でもとにかく歩むのだ! では、明日次段の要約をのっけます。
103 :
いちご姫 :2001/01/30(火) 01:27
何回か妙なハンドルネームになってしまっていて、申し訳ありません。 要約、期待してます。伍長さんも、待ち望んでいらっしゃるようですよ・・・・
104 :
pp.61-63. :2001/01/31(水) 00:36
p.61.の2段落目は、≪哲学、我々がこの語を使う場合の意味での哲学とは表現の形が我々に及ぼす幻惑に対する闘いである≫という一文のみです。これは、今まで議論されてきた「文法の混同」、つまり同じ語を異なる使用法に基づいて使うことで生じる混乱を収束させなければいけない、という主張の総括と言えるでしょう。或る一つの語の意味は、一意的に決定されるものではない。だから、≪言葉が真に意味するものを明らかにするための一種の科学的研究がありうる≫という考えは誤りである。それなのに≪哲学者連はしょっ中言葉の意味を探究したり分析したりすることを云々している≫。ここで批判されている「哲学者」は、ムーアはじめブルームズベリ・グループのことでしょう。 日常言語に含まれる多くの語には厳密な意味がない。しかしそれは欠陥ではない、とWは言います。 ≪哲学で我々は日常言語に対立する理想的言語を考察する、というのはいけない。そう言うと、我々が日常言語を改良できるとでも思っているように見えるからである。日常言語はちゃんとしている。我々が「理想的言語」を作り上げるのは、それで日常言語を置き換えようがためではない。ただ、誰かが普通の語の[ありもしない]厳密な用法を掴んだと思いこんだがためにその頭に生まれたごたごたを取り除くためである≫ 直前の諸レスでもテーマになっていた「理想言語」についての言葉です。ここでもやはり、「理想言語」は決して日常言語の外に作られるものではない、という『論考』以来の考えが表明されています。この方法でWが望むことはただ、≪[表現形式の]或る類似性の人を誤まらせる作用を中和≫することです。色々な言い換えがなされていますが、「表現形式の類似性がもたらす混同=或る一つの語の異なる使用法の混同=文法の混同=頭に生まれたごたごた」と、全部イコールで結んでよいと思います。p.63では、以前の「欲求する」「恐れる」「期待する」などの動詞の例の他、数学の「証明」という語も例に出されています。手を変え品を変え、今までと同主張をしているのですな。 執拗なまでの論証です(Wの性癖なのか、このぐらいくどくなければ納得されなかったのか、あるいはその両方が理由でしょう)。
105 :
ミック :2001/01/31(水) 00:39
上がれやゴルァ
106 :
pp.64-66. :2001/01/31(水) 01:22
p.63から64の前半までの「方程式の複素解」の例は、はっきり言って何をイワンとしているのか謎であります。いっちゃあ何だがあの悪名高きポストモダンの数学の濫用のような文章です。いちご姫さん、バトンタッチ。 p.64の後半からは、再び「望む」「期待する」「欲求する」などの表現の文法を例として、更に考察が進められます。PUにまで受け継がれる重要なテーマが登場します。「私的体験を叙述する命題の真偽判定はいかに可能か」というテーマです。 ≪「私はしかじかのことが起るように望んでいる」という表現が意識過程の直接の描写である場合を考察しよう。換言すれば、「君が望んでいるのが本当にこれだと言うのは確かか」という問いに、「もちろん、自分が望んでいることを知らないわけがない」と返答したい場合である。≫ 私達は、「もちろん、自分が望んでいることを知っている」と返答したくなります。「だって、ほら、私は現にこう望んでいるんだよ。わかるだろう?」と。しかし、この命題の真偽判定を、万人が納得する形で示すことは容易ではありません。「私はABCを知っている」という命題ならば、その真偽判定は簡単に行なえる。実際に私が「A、B、C」と一文字づつ書くのを他人に見ていてもらえばいい。 Wは、このような私的経験(私的感覚)を叙述する命題をここでは「文法的陳述」あるいは「文法的命題」と呼んでいます。この種の命題は、一応有意味ではありうる。だが真偽判定はどうやって可能なのか? ≪今考察している、「望む」「考える」、等の表現の意味には、非常に多くの哲学的困難が結びついている。だがそれらすべてを、「事実でない事態を考えることができるのはどうしてか」、という問いに集約できる≫ うーん。なんだかp66から先は、後にPUで行なわれる「私的経験」の議論とはだいぶ異なるようです。似ていたのは導入だけか。 結論としては、やはり「文法の混同」へ行き着くようです。が、ここは非常に難しい。今日はひとまずここまでで勘弁願います。また明日までに考えをまとめて書きます。尻切れトンボですいません。 >いちご姫さんへ 104番のレスに対する突っ込みは、書き込んでいただいてかまいません。先にこっちを片付けてから続きでもよいですので。
107 :
pp.64-66. :2001/01/31(水) 01:25
p.63から64の前半までの「方程式の複素解」の例は、はっきり言って何をイワンとしているのか謎であります。いっちゃあ何だがあの悪名高きポストモダンの数学の濫用のような文章です。いちご姫さん、バトンタッチ。 p.64の後半からは、再び「望む」「期待する」「欲求する」などの表現の文法を例として、更に考察が進められます。PUにまで受け継がれる重要なテーマが登場します。「私的体験を叙述する命題の真偽判定はいかに可能か」というテーマです。 ≪「私はしかじかのことが起るように望んでいる」という表現が意識過程の直接の描写である場合を考察しよう。換言すれば、「君が望んでいるのが本当にこれだと言うのは確かか」という問いに、「もちろん、自分が望んでいることを知らないわけがない」と返答したい場合である。≫ 私達は、「もちろん、自分が望んでいることを知っている」と返答したくなります。「だって、ほら、私は現にこう望んでいるんだよ。わかるだろう?」と。しかし、この命題の真偽判定を、万人が納得する形で示すことは容易ではありません。「私はABCを知っている」という命題ならば、その真偽判定は簡単に行なえる。実際に私が「A、B、C」と一文字づつ書くのを他人に見ていてもらえばいい。 Wは、このような私的経験(私的感覚)を叙述する命題をここでは「文法的陳述」あるいは「文法的命題」と呼んでいます。この種の命題は、一応有意味ではありうる。だが真偽判定はどうやって可能なのか? ≪今考察している、「望む」「考える」、等の表現の意味には、非常に多くの哲学的困難が結びついている。だがそれらすべてを、「事実でない事態を考えることができるのはどうしてか」、という問いに集約できる≫ うーん。なんだかp66から先は、後にPUで行なわれる「私的経験」の議論とはだいぶ異なるようです。似ていたのは導入だけか。 結論としては、やはり「文法の混同」へ行き着くようです。が、ここは非常に難しい。今日はひとまずここまでで勘弁願います。また明日までに考えをまとめて書きます。尻切れトンボですいません。 >いちご姫さんへ 104番のレスに対する突っ込みは、書き込んでいただいてかまいません。先にこっちを片付けてから続きでもよいですので。
108 :
pp.64-66. :2001/01/31(水) 01:27
p.63から64の前半までの「方程式の複素解」の例は、はっきり言って何をイワンとしているのか謎であります。いっちゃあ何だがあの悪名高きポストモダンの数学の濫用のような文章です。いちご姫さん、バトンタッチ。 p.64の後半からは、再び「望む」「期待する」「欲求する」などの表現の文法を例として、更に考察が進められます。PUにまで受け継がれる重要なテーマが登場します。「私的体験を叙述する命題の真偽判定はいかに可能か」というテーマです。 ≪「私はしかじかのことが起るように望んでいる」という表現が意識過程の直接の描写である場合を考察しよう。換言すれば、「君が望んでいるのが本当にこれだと言うのは確かか」という問いに、「もちろん、自分が望んでいることを知らないわけがない」と返答したい場合である。≫ 私達は、「もちろん、自分が望んでいることを知っている」と返答したくなります。「だって、ほら、私は現にこう望んでいるんだよ。わかるだろう?」と。しかし、この命題の真偽判定を、万人が納得する形で示すことは容易ではありません。「私はABCを知っている」という命題ならば、その真偽判定は簡単に行なえる。実際に私が「A、B、C」と一文字づつ書くのを他人に見ていてもらえばいい。 Wは、このような私的経験(私的感覚)を叙述する命題をここでは「文法的陳述」あるいは「文法的命題」と呼んでいます。この種の命題は、一応有意味ではありうる。だが真偽判定はどうやって可能なのか? ≪今考察している、「望む」「考える」、等の表現の意味には、非常に多くの哲学的困難が結びついている。だがそれらすべてを、「事実でない事態を考えることができるのはどうしてか」、という問いに集約できる≫ うーん。なんだかp66から先は、後にPUで行なわれる「私的経験」の議論とはだいぶ異なるようです。似ていたのは導入だけか。 結論としては、やはり「文法の混同」へ行き着くようです。が、ここは非常に難しい。今日はひとまずここまでで勘弁願います。また明日までに考えをまとめて書きます。尻切れトンボですいません。 >いちご姫さんへ 104番のレスに対する突っ込みは、書き込んでいただいてかまいません。先にこっちを片付けてから続きでもよいですので。
109 :
ミック :2001/01/31(水) 01:31
今度は3重かよ・・・
110 :
いちご姫 :2001/01/31(水) 22:59
>104&106へのコメント p.61<言葉の意味の科学的研究> 私は、この議論が直接誰(等)を批判の対象としているのかは知りません。 ただ、鍵は「言葉は何かいわば我々に依存しない力からその意味を付与されていて」といわれている点でしょうね。 >執拗なまでの論証です(Wの性癖なのか、このぐらいくどくなければ納得されなかったのか、あるいはその両方が理由でしょう)。 伝統的には、一語一義が前提もしくは理想とされていましたし、特に本来概念はAか〜Aかであって曖昧ではあり得ない、というのがアリストテレス以来の大前提でしたから、これを否定するのはかなり説得の要があるでしょう。ただし、その要というのが他の哲学者や学生の要なのかは怪しく、たんにWが自分で納得する為、という可能性も彼のメンタリティからしてありそうですが。あるいは、納得しないで馬鹿な事をやっている、とWに見えた哲学者連にたいするフラストレーションの発散だったかのどちらかでは?私の私的印象(他のスレッドでこの表現を重言と非難されたのですが‘my private impression’の和語ですから)では、少なくとも、他の哲学者が納得する為の必要、などという感化の為の利他行為にはしるWとは思えないんですけど・… p.63‐64<方程式> 今手元に英文がないし数学史の知識もないので、正確なことはいえないのですが。 @「x2=−1は解を持つ。だがこの式は解を持たないといわれた時代があった」 解を持たない理由は、虚数のみの数(複素数<実数+虚数>ではない形、即ち実数部=0)を認めない、という考えでしょう。すると、解を持たない以上、二次方程式は解を二つ持つ、という原則と矛盾して見える。しかし、解の実数部であるx=0・…に、±β(但しβ=√‐1)だけ近い解を持つ、といえる。そこで「近い」以上x=0ではないのだから、±でその<近さ>には異なりがあるはずであり、従って、α±βと記するならば問題の方程式は複数の解を持つ、と主張することが出来る。それ故、虚数のみの数を認めない、従って、それを解として持つ、といわねばならない方程式は解を持たない、と言う主張は、解が二つある、という主張と矛盾せず、むしろ同一の事を述べているのだ、という趣旨ではないでしょうか。 引き続いての<直線と円>の話題は、疑いなく、一見矛盾して見える複数のいい方が実は同一の事を意味し得る事の例示ですね。
111 :
ミック :2001/02/01(木) 23:24
>>110 前半(いちご姫さん)
>伝統的には、一語一義が前提もしくは理想とされていましたし、
>特に本来概念はAか〜Aかであって曖昧ではあり得ない、というの
>がアリストテレス以来の大前提
「語の意味の曖昧さ」を全面に押し出すことは、排中律(AかさもなければnotA)の放棄と結びつくということですか。
僕は哲学史は全く無知なのですが、排中律というのは、アリストテレス論理学の前提というだけでなく、古来より西洋の哲学全体を貫く前提だったのでしょうか?
Wと近い人でこの排中律をとても重要視していた人と言えば、ヒルベルトですね。逆にブラウワー提唱するところの直観主義は、Wと同じように、排中律を拒否するという大胆な仕儀に及んだのでしたね。Wが直接直観主義から影響を受けた結果かどうかはともかく、この「語の曖昧さ」が排中律の拒否という側面を持つことは、ありえそうです。
しかし、一つ疑問に思ったことがあります。僕は今までヒルベルトやブラウワーが問題にしていたような「排中律」というのは、言語ではなくむしろ世界の出来事についてのテーゼだと思っていたのです。そのことを示す、ブラウワーに関する逸話があります。「πの数は、人間には知り得ないかもしれない。しかし神はご存知のはずです」という人に対してブラウワーは「しかし私は神とのパイプラインを持っておりません」と答えました。
要するに、排中律にも二種類あるのでは、ということです。「概念(言語)」についてのそれと、「事実(世界)」についてのそれです。そしてWのここでの主張を「排中律の拒否」と呼ぶのなら、それは前者の意味においてではないか、と思うわけです。
112 :
ミック :2001/02/01(木) 23:30
すいません、訂正です。 >「πの数は、人間には知り得ないかもしれない。 >しかし神はご存知のはずです」という人に対して 「πの少数展開において、7が続けて二回現れるかどうか、人間には知り得ない」が正しいです。 二種類の排中律の具体例 @言語についての排中律「この語の意味はAか、Aでないかどちらかだ」 A世界についての排中律;πの例もそうだし、「昨日東京に雪が降ったか、降らなかったかどちらかである」
113 :
ミック :2001/02/02(金) 00:23
>>110 後半
<方程式>について
複素解についての、Wの「近づく」という表現が、何を意味しているのかわからないのです。複素解をβ±αと書けば≪その解βにαだけ近づいている≫という箇所です。
近づくもなにも、実数を表現範囲とする座標空間には、虚数の占める位置はないとしか思えないのです。
ここを敢えて解釈しようとするなら、僕は、「ある公理系Lの中では矛盾と思われる命題も、Aのルールを変更(虚数解の例では追加)し、別の公理系L’にしてやることで、一見矛盾と見える事態を解消してやることができる」ということだと思います。
つまり、こういうことです。複素解を認めない系においては、x2=-1のような方程式の解は存在しないことになります。しかし、この場合、複素解はいわば“隠れて”いて、実数の座標空間には明示的に表現されえないが、虚数軸を設定することでそれを可視化することができる、ということです。
この場合、最初の系Lの内部では認識不可能だった虚数解が、系L'からは認識可能である、と言うこともできると思います。しかし、これは系によって認識や表現の方法が異なるだけで、指し示す内容は同じである、と。
ちょうど、赤色色盲の人とそうでない人との間に「赤色」についての認識。表現の違いが出る事態と、同じ構造ではないでしょうか。
しかし自分でも腑に落ちない解釈です。難しい。
114 :
pp.65-66. :2001/02/02(金) 23:14
最近自動車の教習所に通っています。いやあ運転てやることが多くて大変ですね。 さて、「文法的命題」を巡る箇所へ再挑戦です。 ≪文法的陳述≫または≪文法的命題≫という術語が登場します。この命題は、前のレスにも書いたように、ただ「有意味」なだけの命題です。これを『論考』の図式に当てはめれば「有意義だが偽な命題」に含まれるかもしれません。ですが、安易には断定できません。というのも、以下に引用するように、Wの「文法的命題」の定義は、かなりややこしいからです。 ≪「この部屋には長さがあるか」と聞かれて、誰かが「もちろんあるとも」と答える。彼は「無意味なことを聞かないでくれ」と答えることもできるのだがまた、「部屋には長さがある」は一つの文法的命題として使われることもできるのである。その場合には、「部屋は――フィートの長さである」という形の文は有意味である、ということを言っているのである。≫ 文法的命題は、有意味(『論考』の術語なら≪有意義≫)な命題と考えることもできる、とWは言います(注意しなければならないのは、端的に無意味な命題とも言える、と断っていること)。『論考』の中では、有意味な命題ならば真偽判定が可能なはずですが、どうもこの文法的命題は、真偽判定が不可能な(あるいは意味を為さない)命題のことのようです。 確かに、『青本』が書かれた33年の時点で、Wは既に写像理論を放棄していたので、ここで『論考』批判が行われること自体は、おかしなことではありません。実際、以下の段では『論考』において措定された図式が批判されます。まだ理解が不完全ですが、どうも言語一元論的な立場からの議論のようです。
115 :
考える名無しさん :2001/02/03(土) 00:23
ここは長いのが多いね。 ま、読んでないけど。
確かに長文だし、テクスト限定なので、読む人も限定してしまってるかもしれないけど、一つぐらいこういうスレあっても邪魔にはならないと思います。 現在、70ページ代を進行中。このあたり急激に難解になっている。気合入れて読まなければ。
117 :
ミック :2001/02/03(土) 23:32
今日、『青本・茶本』の原書The Blue and Brown Booksを手に入れました。 新品で1700円。安かった。 これがあれば鬼に金棒(? いちご姫さんも最近ご多忙なようでいらっしゃらないし(それとも単に愛想を尽かされたか)、ここは一つじっくりいこう。おう。
118 :
考える名無しさん :2001/02/04(日) 00:04
飯田隆の「言語哲学大全」シリーズ読んだ人いない? 感想を聞きたいなー。
119 :
いちご姫 :2001/02/04(日) 00:50
>117 ごめんなさい。 早めにレスするように努力します。 >118 「言語哲学大全」シリーズ読んだ人いない? 「ごくろうさま。膨大なレファレンス・ブックを作っていただき感謝にたえません。」
120 :
ミック :2001/02/04(日) 00:55
>ごめんなさい。 >早めにレスするように努力します。 ああ、なんだか催促みたいでしたね(笑)。すいません。お忙しい時は急がせませんので、無理なさらないでください。。 今は、僕の方も教習所通いで時間がないのと、70ページ代の難解さのために遅遅とした歩みになっております。
121 :
いちご姫 :2001/02/04(日) 22:59
>113 私ももう一つ釈然としません。自分の宿題にします。 >114 「君はABCを知っているか」BLBp.65 これは、例としては紛らわしい、と思います。Wが、この例にこめた意図は、<ABC――きわめて簡単でほとんどの人が知っているであろう経験的事柄>なのでしょう。しかし、後に『確実性について』では、余りに基本的に過ぎる事柄はそれを習得していること無しにドイツ語(日本語)を話していることはあり得ない。しかるに、知っている/知らない、という答を導く問いは、その言葉の中でのみ有効である。従って、余りに基本的に過ぎる事柄については<知っている/知らない>といわれえない、と主張されます。そこから、この<知っている>と言うことが出来ないという限りでの無意味な問いと、BlBのこの箇所を解したくなるかもしれません。(30秒ほどそう私は思いかけました。)しかし、そう解してはアナクロな上に、議論の文脈も逸脱してしまうので、その解釈は不可だ、ということになります。(自戒) >文法的命題は、有意味(『論考』の術語なら≪有意義≫)な命題と考えることもできる、とWは言います(注意しなければならないのは、端的に無意味な命題とも言える、と断っていること)。 有意味だ、といわれ得るとすれば、文法を述べている、という限りにおいて。BlBの時期には、すでに、文法を述べる、ということは、いかなる意味でも無意味である、わけではない、のですね。これは、『論考』においては、言語の機能は唯一事実の記述であった(従って、命令も、感嘆も、そしてもちろん命題形式の提示も)無意味であったわけですが、使用のあるところには機能があり、機能があるならばその言明は何らかの意味を担う、という立場からすれば、文法の提示が文法をわからせる、という機能を持つ限り、文法陳述の命題は有意味なわけです。 >『論考』の中では、有意味な命題ならば真偽判定が可能なはずですが、どうもこの文法的命題は、真偽判定が不可能な(あるいは意味を為さない)命題のことのようです。 意味を有さない、命題の一でしょう。 文法を提示する命題について真偽を問うことは不可能である。なぜなら、文法は恣意的であり、その恣意性にはある規則の採択についてももはや正誤を問う根拠が存在しないことが含まれているから、ということです。 但し提示された文法の記述が、現実に採択されている文法に即していない、という意味での偽(従ってまた真も)あり得ます。それ故、文法には正誤/真偽はあり得ない。文法を提示する命題には、真偽があり得る、という方が真意を捉えている、とは思います。
122 :
いちご姫 :2001/02/05(月) 23:19
>ミックさん 1週間ほど、アクセスできなくなります。よろしく。
123 :
考える名無しさん :2001/02/05(月) 23:25
ウィトゲンシュタインをWと略すのは、なかなかいけてますね。
124 :
ミック :2001/02/05(月) 23:35
>1週間ほど、アクセスできなくなります。よろしく。 ラジャ。その間に要約を書き溜めておきます。 >ウィトゲンシュタインをWと略すのは、なかなかいけてますね。 むふふ、僕のアイデアです(多分・・・
125 :
ミック :2001/02/10(土) 10:28
そろそろ再開準備しま〜す。
126 :
ミック :2001/02/10(土) 23:28
(1)「複素解」の謎 pp.63―4.にかけての、複素解を例にとった議論については、相変わらず保留です。英文読んでもよくわからん。大森さんの訳がまずいわけではない(もともと構文が難しいわけじゃない)。希望があれば英文と邦訳をアップしてもいいですが、このスレでは措くとしましょう (2)文法的命題 >使用のあるところには機能があり、機能があるならばその言明は何らかの意味を担う、という立場からすれば、 >文法の提示が文法をわからせる、という機能を持つ限り、文法陳述の命題は有意味なわけです。 なるほど。そう考えると、「文法的命題は有意味である」という時の「有意味」という語は、『論考』で使われた「有意義」という言葉とは別のものとなりますね。『論考』における「有意義/無意義」の判定は、事実の写像であるか否かという基準によって行なわれたのですから。 それにしても、今までも読んでいて薄々引っかかっていたのですが、≪文法≫という概念が殆ど定義や説明なしに使われているのがちょっと困ってます。もちろん、「語と語の結びつき方」という一般的な意味をベースにはしているのでしょうが、BlBの中では説明がないのでわかりづらい。 時期的に『青本』の少し前に書かれた『考察』や『文法』から読まなければわからないかな。
127 :
考える名無しさん :2001/02/10(土) 23:34
ただの傍観者。いつも拝見しておりますが,レベルが高いですね。 ヴィトゲンシュタインはまったく素人でが、ここをみて触発されて、 少し読んでみようかな、と思うようになりました。 今後も書きこみはできませんが、続けてやっていただきたいです。
128 :
ななし :2001/02/10(土) 23:35
ただの傍観者。いつも拝見しておりますが,レベルが高いですね。 ヴィトゲンシュタインはまったく素人でが、ここをみて触発されて、 少し読んでみようかな、と思うようになりました。 今後も書きこみはできませんが、続けてやっていただきたいです
129 :
ミック :2001/02/11(日) 23:22
再開まで余談でも書きましょう。 「理想言語」を巡るWの議論について、このスレでかなり勉強になったのは、とても嬉しかったです。というのも、このテーマは、僕にとっては思いで深いものなんですよ。といっても、Wの哲学の中で初めて自分なりにアクチュアルな感覚を伴って理解できたものだったからです(今から見れば多くの誤解を含んでいたとはいえ)。なんだか「カチッ」という音がしたような気がしたものです。 W関係の論文で最初に読んだのが、粂川万理生「理想言語はどこに行ったか?――W・ベンヤミンとL・ウィトゲンシュタインの言語観比較」芸文研究第69号1995 でした。この人、W研究者としては聞いたことないけど、この論文は面白かった。一言で言えば、両者が求めた“理想言語”は、救済の可能性を拓く、旧約聖書の中で使われる神の使う言語だ、というものです。 『論考』においてWが考える言語というのは、究極的には「名詞」、それも「固有名詞」です。そしてベンヤミンが処女論文「言語一般および人間の言語について」『ベンヤミン・コレクション 1巻』で想定する理想言語も、<名-言語(Namensprach)>です。ベンヤミンのこの論文は、学術論文と言うにはあまりにデムパなのに、妙な魅力を持っている点は『論考』と似てます。 旧約聖書の創世記で神が使う言語は、全部「名前」です。「光あれ」って神が言うと、光が創造されます。要するに、この<名-言語>の機能は創造なのです。アダムとイヴも、この言語を持っていますが、彼らの楽園追放とバベル事件以後、人間はこの神的言語を失い、言語の機能も、創造から伝達へと堕します。しかし、この「市民的言語」は、言語の本質を失っている。なんとかして我々は、あの理想言語を取り戻したい・・・・・・ ベンヤミンのシナリオの前半はこんな感じです。宗教的要素を抜き去れば、Wの言語観と似ている部分が実に多い。二人の接触は確認されていないのに不思議な話です。 Wの哲学には、ユダヤ神学や聖書の言語観の影響はないのか?というテーマは、興味深い。「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」というテーゼにも、根源的なものは表象不可能とするユダヤ神学の、像の禁止の要請(Bilderverbot)が働いているとは考えられないだろうか?バートリーも『Wと同性愛』の中で、「このテーゼは実にユダヤ的」とコメントしてましたね。ベンヤミンの場合は、『ドイツ悲劇の根源』なんかにモロ影響を見ることが出来ます。 ただ、Wの場合、キリスト教に共感を示す一方で、自分のユダヤの血筋を嫌っていたので、Bとあまり安易な比較はできないのですが。
130 :
ミック :2001/02/11(日) 23:29
>>127 ,128
もし読まれるのなら、読書案内やってるレスも中盤にあるので、ご参考に。
131 :
考える名無しさん :2001/02/13(火) 00:52
再開期待age 貴方達はこの板の最後の灯です。
132 :
いちご姫 :2001/02/13(火) 00:59
>ミックさん もどってきました >131 考える名無しさん 読んでくださっている方がいるのを知ると、スレッドを私有化してるわけでもない、 と思えて良心の痛みが薄らぎます。多大な努力を費やされているミック氏に拍手を
133 :
考える名無しさん :2001/02/13(火) 04:13
5行くらいにまとめてくれない? 5行のが10個あってもいいけど、1つの事柄に5行以上の要約はいらない。 つーか、1行の枕も必要
134 :
もなるこまき :2001/02/13(火) 07:50
いつも興味深く見ています。 以前、哲学の方法は記述である、というWの箴言が 引用されてましたが、なんとも謎めいていて、とても面白く思いました。 Wのテクストにおける、あるいはその方法論としての<記述>について 詳しく調べてみたいので、参考文献などありましたら教えてください。
135 :
ミック :2001/02/13(火) 23:45
おお、姫のご帰還ですね。では本格的に再開と行きましょう。
確かに毎回要約していちご姫さんの高度な突っ込みに対応するのは、大変な作業ですが(毎回ゼミで当たってるようなもんだ)、それを補って余りある収穫があります。ROMしている方々も何がしかの契機やヒントを得られるなら、一石二鳥の喜びです。
いちご姫さんの方で、何かコメントはおありですか?なければ、漸次、次の要約をアップします
>>133 自分でも冗長で不器用な要約とは重々承知です。
アドバイスに従って、短くまとめることを心がけます。
試しに、色々なテーマやトピックスごとに分類する方法を使ってみます。少々お待ちを。
136 :
いちご姫 :2001/02/14(水) 00:12
ミックさん、要約待っています。 テーマやトピックごとにわける、Wの著作にそれを行うのは苦労でしょうね。 あと、Wは怒るかもしれない。哲学的な思索においては、そのような、要約 ・配列が出来ない、というのは、ポスト=論考期の一つの固定観念みたいなもの のようですからね。 (やると、Baker&Hackerの『哲学的探求』コメンタリみたいなも のになってしまうのかも)(笑)
137 :
ミック :2001/02/14(水) 00:33
全くもって(笑・・・、哲学的テーゼは誰もが異論なく承認するはず、だし。 しかし、ここは一つ、御大には、不肖のファンの試行錯誤には瞑ってもらうとしましょう。 哲学が病気からの治療であるなら、個々人によってその療法もアレンジされてよいでしょうから。
138 :
pp.66-75.@ :2001/02/15(木) 00:02
60ページ代後半から70ページ代にかけては、非常に難解な、細かい議論をしていると思います。具体例がふんだんに提示されているものの、その評価にも慎重を要する。しかし、ここでWが最終的に言いたいことをまとめれば、次の二つになるかと。 @心理主義的言語観(「意味とは心像」説)は、やはりドキュソ。 A理解するのに解釈を必要としない像というのはあるもんだ。 @は、もう、1ページ目からずっと主張されていることです。Wはこの言語観を叩き潰したくて仕方ないようです(この徹底的攻撃はPUにも引き継がれる)。 確かに、我々が言葉を操る際、心の中にあるイメージが浮かぶこともある。そしてそれをその語の「意味」と呼びたくもなろう。しかし、それでもやはり、そのような内観による意味の説明は、誤まっている。 Wがこの心理主義的言語観を論破する基本戦略は、スレの最初の方にも書いたとおり、内面・内観・意識過程といった、“私秘的”な領域を外面・行為といった“公共的”な領域に引きずり出すことです。 ≪しかし、意味を、本質的に上に述べた種類の過程だとする考えに誘うものは、次のような表現形式の類似性である。 「何かを言うこと」 「何かを意味すること」 これらが、二つの平行する過程を示唆する。[だが]人が「言葉を意味する過程」と呼ぶかもしれないこの、言葉に伴う過程は、我々が言葉を話すときの声の抑揚なのである。あるいはそれに類する過程、例えば表情の動きなのである。≫(p.73.) やや強引な解釈かもしれないですが、「何かを言うこと」は“外面・公共”の過程で、「何かを意味すること」は、“内面・私秘”の過程と読み取れます。しかし、Wは、実はこのような二元的な過程を想定することこそ、袋小路へ入り込むだけだ、と言います。実は、言葉の意味とは、徹頭徹尾外面的なものである、と(「意味とは言葉の使用である」というテーゼを思い出してください)。 これは、PUにおいて展開される私的言語批判などにも繋がっていく議論でしょう。
139 :
pp.66-75.A :2001/02/15(木) 00:57
「A理解するのに解釈を必要としない像というのはあるもんだ」について。 このテーマについてのWの議論も、当然、心理主義的言語観を論破する流れの中に位置付けられます。なぜなら、解釈によって像(記号)に意味を付与する(という内面的過程)ことに行き止まりがある、というテーゼは、そうでなければ解釈が無限後退に陥ってしまうため、必然的に選択されなければならないからです。 → ← → という3つの矢印が上下に並んでいる場合、この記号たちがとにかく、人に命令を与えるためには、≪この3つの段のどれが、意味することの段なのかが示されていなければいけない。それには例えば、その最下段が意味することの段だときめればよい。・・・・・・そして、この意味することの層には[もはや]解釈といったものはないのである。≫ それゆえ、この最も根源的な層において、記号は解釈(という内面的過程)なしに理解さら、行為されなければならないわけです。 この議論は、これ以後主張される、行為や言語ゲームの無根拠性の礎石となるものと思われます。以下のような節と参照すると興味深いと思います。 ≪私が根拠付けをし尽くしたならば、私は固い岩盤に達し、私の鋤は跳ね返される。このとき私はこう言いたくなる。『とにかく私はこうやっている』と≫(PU217節) ≪われわれの錯誤は、事実を<原現象>と見るべきところで、説明を求めるということ。すなわち、かかる言語ゲームが行なわれている、と言うべきところで。≫(PU654節) Wは、考え抜いた末に到達する無根拠性・恣意性ならば、それを積極的に認めることを怖れません。むしろ、それこそが全ての人間の活動の意味を付与する根源として措定されます。しかし、ケンブリッジの合理主義者にとって、このようなWの考えは、論理を放棄した哲学アナーキズムに映ったようです。ラッセルは、「Wは思索に疲れてしまい、擬似宗教を発明したのだ」と嘆いていましたね。 どちらに与するべきかは、今は問うつもりはありません。ただ、この時代にあえて無根拠性を全面に出すだけの勇気がWにあったことは認めるべきでしょう。「思想の値段は勇気によって決まる」なら、これは随分高い思想です。
140 :
pp.66-75.A :2001/02/15(木) 00:58
「A理解するのに解釈を必要としない像というのはあるもんだ」について。 このテーマについてのWの議論も、当然、心理主義的言語観を論破する流れの中に位置付けられます。なぜなら、解釈によって像(記号)に意味を付与する(という内面的過程)ことに行き止まりがある、というテーゼは、そうでなければ解釈が無限後退に陥ってしまうため、必然的に選択されなければならないからです。 → ← → という3つの矢印が上下に並んでいる場合、この記号たちがとにかく、人に命令を与えるためには、≪この3つの段のどれが、意味することの段なのかが示されていなければいけない。それには例えば、その最下段が意味することの段だときめればよい。・・・・・・そして、この意味することの層には[もはや]解釈といったものはないのである。≫ それゆえ、この最も根源的な層において、記号は解釈(という内面的過程)なしに理解さら、行為されなければならないわけです。 この議論は、これ以後主張される、行為や言語ゲームの無根拠性の礎石となるものと思われます。以下のような節と参照すると興味深いと思います。 ≪私が根拠付けをし尽くしたならば、私は固い岩盤に達し、私の鋤は跳ね返される。このとき私はこう言いたくなる。『とにかく私はこうやっている』と≫(PU217節) ≪われわれの錯誤は、事実を<原現象>と見るべきところで、説明を求めるということ。すなわち、かかる言語ゲームが行なわれている、と言うべきところで。≫(PU654節) Wは、考え抜いた末に到達する無根拠性・恣意性ならば、それを積極的に認めることを怖れません。むしろ、それこそが全ての人間の活動の意味を付与する根源として措定されます。しかし、ケンブリッジの合理主義者にとって、このようなWの考えは、論理を放棄した哲学アナーキズムに映ったようです。ラッセルは、「Wは思索に疲れてしまい、擬似宗教を発明したのだ」と嘆いていましたね。 どちらに与するべきかは、今は問うつもりはありません。ただ、この時代にあえて無根拠性を全面に出すだけの勇気がWにあったことは認めるべきでしょう。「思想の値段は勇気によって決まる」なら、これは随分高い思想です。
やっちまった・・・ 二重投稿を防ぐ方法を誰か教えてくれえ。
142 :
伍長 :2001/02/15(木) 02:12
>141 「書き込み」ボタンを押して反映されないときに、もう一度あらためて投稿してしまうとか。 そんなときは、リロードして確認すると、反映されていることが多いようです。
143 :
ミック :2001/02/16(金) 01:51
なるほど、リロードは試したことがなかった。やってみます。サンクスです。
144 :
pp.66-75.B :2001/02/16(金) 02:25
多分、心理主義的言語観批判という大きな議論の流れの中では、派生的な議論だと思うのですが、p66―67の「事実と事態」についてのWの主張に興味を惹かれたので、Bの論点として書いて見ます。以前、いちご姫さんは、“『青本』は明確に言語一元論的”と述べておられましたが、おそらく、言語一元論か「世界―言語」二元論か、という問題に関係するはずです。実はよく理解できていないのですが、とりあえずそう読みました。 ここでWは、「事実」という語もまた言語の中にだけ存在するという言語一元論を支持し、『論考』での考えを二元論であるとして自己批判しているようです。 ≪「思考内容を真とするのは[それに対応する]事実が実在することであるが、その事実は必ずしもいつも実在しているわけではないのだから、思考内容はその事実[それ自体]ではない」と言いたくなろう。だがそうかどうかはまさに、この「事実」という語をどう使うつもりかにかかっている。「私はあのカレッジが火事であるという事実を信じている」、こう言ってどうしていけないのか。それはただ、「私はあのカレッジが火事であると信じている」おいうことをぶきっちょに表現しただけなのだ。≫(p.67.) つまり、「事実」という語も、言語と独立に存在するわけではない、ということです。我々は、実は事実を「知っている」わけではなく、事実を「信じている」だけである、と。この場合、人を誤まらせているのも、やはり「思考対象」や「事実」という語に対する文法の混同です(p.66.)。 そして、≪事実を「物の複合」とするものもこの混同から生じる(『論考』参照)≫として、『論考』における「事実」についての考えを批判します。 いちご姫さんは、以前、“『論考』の時点でWは既に言語一元論”という説を出しておられましたが、BlBのこの箇所を読む限り、W自身が『論考』を二元論の立場に立って書いた、と認めているのではないでしょうか?
145 :
:2001/02/16(金) 12:37
146 :
あるケミストさん :2001/02/16(金) 12:44
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147 :
↑ :2001/02/16(金) 18:19
148 :
いちご姫 :2001/02/16(金) 23:28
>144 今日は「BlBのこの箇所を読む限り、W自身が『論考』を二元論の立場に立って書 いた、と認められる」という箇所にだけ、とりあえずコメント。 『論考』より後のWの諸著作では、『論考』の考えが批判されているように見える ところのあちこちで、実際の『論考』より遥かに素朴もしくは愚昧な内容を『論考』 に帰しています。それが他人の著作に言及したがらないWの高慢さか、かつての自分 にやたら否定的な彼の自己否定的な側面のゆえかはわかりませんが。とにかく、中・ 後期の記述から『論考』の解釈を導く、というのは、『論考』誤解する最も容易な路 の一つなので、ご注意あれ。
149 :
ミック@仮免ゲット :2001/02/16(金) 23:44
>中・ 後期の記述から『論考』の解釈を導く、というのは、 >『論考』誤解する最も容易な路 の一つなので、ご注意あれ。 Wにそんな傾向があるのですかー。こりゃ僕一人じゃ気付かなかっただろうな。今度から“『論考』批判“の該当箇所にでくわしたら、注意して読むことにします。 御意見は急がせませんので、気長に相手してやってください。
150 :
いちご姫 :2001/02/17(土) 23:18
≫138 >やや強引な解釈かもしれないですが、「何かを言うこと」は“外面・公共”の過程で、「何かを意味すること」は、“内面・私秘”の過程と読み取れます。 この段階では、Wは、はっきりミックさんの解釈を提示し、それを批判しているのだ、と考えます。 >(「意味とは言葉の使用である」というテーゼを思い出してください)。 こちらはどうでしょうか。既に出てきた‘use’は「使用法」のニュアンスが強かった事、そして、使用法ならばその全体が心のもしくは頭脳の中にある、という立場もあり得る事を考えるならば、この段階では、Wは未だ心像に代わる意味の内実を提示してはいない、と解するべきではないでしょうか。 ※ 内語が意味する事に必ずしも随伴しない事と意味の私秘性の否定 これらは、前者が正しければ直ちに後者も正しい、とい関係ではない(と考えます。)何故なら、意味は本人の念頭(心的表層・意識)に必ずしも立ち上らない心的深層もしくは識域下にその存在を求められるべきものであるかもしれないからです。(この可能性の否定は、規範の共同体原理によらねば出ないのではないでしょうか。) ≫139 >無根拠性 私見ではWです。 ラッセルの場合、他の諸事の根拠を論理に持っていくのですが、そこから先は@論理的対象を認める、A論理をも帰納に還元する、の二択しかあり得ないでしょう。 ところが@の場合、その認識の問題やaRbとbRaの区別の問などが出てきます。 Aの場合、論理無しの帰納の可能性の問題や、帰納自身の根拠の問題が出てきます。 Aの後者は結局そのレヴェルでの無根拠性を認めることになりますし、@の前者もおそらくは同様です。 従って、結局終局的根拠付けが成功するとは思えないのです。(そもそも、根拠の根拠を求めたら無限背進になる筈です。)
151 :
いちご姫 :2001/02/17(土) 23:20
≫144 >「思考内容を真とするのは[それに対応する]事実が実在することであるが、その事実は必ずしもいつも実在しているわけではないのだから、思考内容はその事実[それ自体]ではない」と言いたくなろう。だがそうかどうかはまさに、この「事実」という語をどう使うつもりかにかかっている。「私はあのカレッジが火事であるという事実を信じている」、こう言ってどうしていけないのか、それはただ、「私はあのカレッジが火事であると信じている」ということをぶきっちょに表現しただけなのだ。≫(p.67.) ここでWは、「事実」という語もまた言語の中にだけ存在するという言語一元論を支持し、『論考』での考えを二元論であるとして自己批判しているようです。 つまり、「事実」という語も、言語と独立に存在するわけではない、ということです。 p.67上掲引用文から、直ちに、言語一元論が帰結するでしょうか。「私はあのカレッジが火事であるという事実を信じている」が「私はあのカレッジが火事であると信じている」に還元される、従ってある場合、「事実」という語は言語の表記にその存在を依存している事は認められるとしても、なお、<事実>が否定されるとは限らない、と思います。 むしろ、「思考内容はその事実[それ自体]ではない」と言いたくなろう。」という箇所に明らかな様に、「そうではない。思考内容はその事実それ自体である」従って、事実は存在せねばならない、と読まれるべきだ、と思います。 この箇所で主張されている事は、事実と思考内容と言語表記の三元構造が否定され、事実と言語の二元構造が取って代わるべきだ、ということです。そして、言語(言明)に置いて主張されている事が、事実でない、としても、命題のような存在者が建てられるべきではなく、単に事実に言明が文法的に関係している、ということです。(多田氏、この段階の議論では、明らかに、言明が関係するところの実在しない事実とはいかなる存在様態を採るのか、という疑問には答えていません。――最終的には言語一元論へ収束するとしても) >「泥棒が居ないときにそいつを吊るすことはできない。だが、彼が居ないとき彼を探すことはできる。」 この比喩で注意しなければならないことは、(あるいはWは見落としたのかもしれませんが)、「彼が居ない」とは「彼がその場に居ない」であって、「彼がどの場に居ない」=「彼は実在しない」では無い事です。後者の時には、彼を探すこと自体ができない (unhappy)のです。従って、もしこの比喩を忠実に採るならば、「キングスカレッジが火事でないのに火事だ、と考える」事が出来るのは「キングスカレッジがここではなくどこかで火事なのだ」からだ、と言うことになってしまいます。これは容易に事実でない事態だとか、命題内容とかの実体的存在の要請へと至る思考経路です。 ところでドキュソ/ドキュンとゴルアというのはどういう意味なのですか?
152 :
ミック :2001/02/18(日) 00:04
150と151は、プリントしてよく読ませていただきます。レスは少々お持ちください。
ところで、ワンポイントアドバイスですが、参照レスの示し方で「>>数字」とやるときは、「>>」は、半角英字にするのですよ。
ドキュソ/ドキュンとゴルアについて
(1)ドキュソ/ドキュン
http://members.fortunecity.com/juicynet/bible.html (2)ゴルァ
http://guchisure.virtualave.net/ ≪例えば、「ゴルァ」という語を聞いて理解するときに、少なくとも或る場合には心眼の前にゴルァなイメージがあることが不可欠のように思えよう。・・・・・・しかしそういうのは見当違いだ。また、それは真実でない場合すら多くある。例えば、君が「ゴルァ」という特定の語を使ってレスをするように命じられたとしたら、スレを見て、「ゴルァ」の語が使用されているサンプルレスに導かれ、それを見本にする、ということをやらなければならない場合もあるだろう。
・・・・・・記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用であると言うべきであろう。≫
お目汚しでした(笑
153 :
ミック :2001/02/18(日) 23:41
>>150 @「使用」と「使用法」について
>こちらはどうでしょうか。既に出てきた‘use’は「使用法」のニュアンスが強かった事
>そして使用法ならばその全体が心のもしくは頭脳の中にある、という立場もあり得る事を
>考えるならば、この段階では、Wは未だ心像に代わる意味の内実を提示してはいない、
>と解するべきではないでしょうか。
なるほど、慎重なお考えですね。しかし、「使用法」が心の中にある、と考えた場合、語の意味をもう一度、せっかく葬り去ったはずの「内面」の世界に戻してしまうことになりませんか。どうも、後に「語の意味とは個々の現場における使用」である、と言い切るようになることを考えても、ここでその立場を採るのは一貫しない気がします。ただ、確かにこの時点のWは、一つの選択肢としては、それも考えていたかもしれませんね。
ところで「使用法」とは、「パターン」と、「使用」は「トークン」と同義と理解してよろしいでしょうか。個々の場面で言葉が「使用」される。それがトークン。そして幾つかのトークンから帰納的に導かれる使用規則が「使用法」、すなわちパターン。もしこの考えが正しいなら、「使用法」は「家族的類似性」を言語の使用に適用したもの、と言えそうです。
154 :
いちご姫 :2001/02/19(月) 00:07
>153 「使用法」が心の中にある、と考えた場合、語の意味をもう一度、せっ かく葬り去ったはずの「内面」の世界に戻してしまうことになりません か。 戻してしまうことに<なります>。私の論点は、BlBのここまでのとこ ろでは、<内面にある意味>という観念を葬りさるに足る議論はまだで ていないのではないか、ということです。 >ところで「使用法」とは、「パターン」と、「使用」は「トークン」 と同義と理解してよろしいでしょうか。 違うような気がします。というか、確かに使用法は使用のパターン( タイプ)であり、使用は使用法のトークンでは一応あるのですが。 ただ、Wにおける中期の使用法、という観念から、後期の使用という 観念への移行という着眼点から見た場合、使用法は、現実の生活やその 中での機能を捨象したものという傾向があります。マズイ比喩ですが< 意味論を欠いた統語論>的なニュアンスがある、といえるでしょう。 後期の<使用>は、一方で使用法からは出てこない〈跳躍〉を意識す るとともに、他方で生活形式や自然誌に於いての言語の実践、という面 をもにらんだ概念です。
155 :
ミック :2001/02/19(月) 00:07
>>150 A無根拠性
僕も、Wに味方したいな〜とは思ってるんですが、断言できるほど確信もない。
ラッセル流論理主義による終局的根拠付けのどこがやばいのか、詳しく検討させてください。
まず、@論理的的対象を認める戦略をとった場合の難点。これは要するに、「語の意味とは指示対象」説と同根ですか。たとえば「1+1=2」の根拠は?と聞かれたら、「このリンゴとあのリンゴを足したら、二つになるだろ」というように、記号が実在の対象の配列を写していることをその正当性の根拠にする方法。
しかし、この方向には厄介な問題がたちはだかることになる(「だってあのリンゴとこのリンゴは別々のものじゃないか。それを足すってどういうことだよ」とか)。これがいちご姫さんの言う「認識の難点」でしょうか。
もう一つの難点として挙げておられる「aRbとbRaの区別」のほうは、よく理解できません。「aRb」は、「aがbに対して関係Rにある」という意味ですよね。うーん。ある一つの現実を写す記号が「aRb」と「bRa」の二通りあってはまずい、ぐらいの考えしか思いつかない。
次に、A論理をも帰納に還元する戦略を採った場合の難点。
正直、「論理を帰納に還元する」というのが、一体いかなる作業か見当がつかないのですが、つまり、我々の経験に照らして、それに適合する論理を「真」と認めよう、ということでしょうか。だとしたら、これって@とほとんど同じぐらい素朴な経験論になりそうですが。
あと、余談なんですが、ラッセルが根拠付けの無限後退の危険性について知らないはずがなかったと思うのです。神の不在証明を、その無限後退によってご当人がやっているぐらいですから。ただ、ラッセルとしては、「神なんていうドキュソ用の胡散臭い救済装置と、論理(学問)を一緒にするんじゃねえ」という気持ちがあったのでしょうね。「論理も学問も全部本当は無根拠」というWの主張をラッセルが認められなかったのは、どちらかというと、感情に起因していると思います。
156 :
ミック :2001/02/19(月) 23:19
>私の論点は、BlBのここまでのところでは、 ><内面にある意味>という観念を葬りさるに足る議論は >まだでていないのではないか、ということです。 つまり、BlBのここまでの議論では、言葉の「使用(外面)」とその「意味(内面)」という二元的な過程を想定してしまうと、袋小路に落ち込むだけだ、と警告している段階にとどまっており、語の意味が徹頭徹尾外面的なものという主張までは行き着いていない、ということですか。なぜなら、語の意味がその使用法であるなら、使用法という観念全体が心の中にあると想定することも、理論上できるから。 なるほど。僕は自分が持っている、PUにおける「使用」の概念を密輸入して先走ってしまったようですね。 趣味で読んでいると、どうしてもアカデミックな緻密さに鈍くなりがちだ。気をつけよう。
157 :
ミック :2001/02/21(水) 23:47
>>151 のいちご姫さんの書き込みについては、今考えています。あさって口頭試問が終わったら、書き込みます。
今日は、風邪気味だし口頭試問も近いし、気合を入れて寝ることにしました。
しかしやはり僕は、「事実と事態」の問題になると引っかかるのだよね。何故なんだろうね。
158 :
いちご姫 :2001/02/22(木) 01:02
>157 口頭試問は、答えるべきことは論文を自分で書いているのだから知っ ているし、必要なのは心と体の準備だけ(時に特定教官への対策も)で すね。お大事に。
159 :
いちご姫 :2001/02/26(月) 00:57
>155 (「だってあのリンゴとこのリンゴは別々のものじゃないか。それを足すってどう いうことだよ」とか)。これがいちご姫さんの言う「認識の難点」でしょうか。 それも、ありますね。確かに。 私が考えていたのは、論理的対象はいかにして認識され得るのか。 及び、論理的対象などというものまで対象として認め出したら、認識され得るもの がどんどん増えてしまうだろう(Principles of Mathematicsのラッセルのよう に)という2点でした。 後者は、論理的対象に増加を限定するならそれほど問題ではない、かもしれない。 前置詞に代表される存在者なんて認めたらきりがないですけどね。
160 :
ミック :2001/02/27(火) 15:42
>>151 レスが遅れて申し訳ないです。ようやく全部終ってほえほえになっていました。
>p.67上掲引用文から、直ちに、言語一元論が帰結するでしょうか。「私はあのカレッジ
>が火事であるという事実を信じている」が「私はあのカレッジが火事であると信じてい
>る」に還元される、従ってある場合、「事実」という語は言語の表記にその存在を依存し
>ている事は認められるとしても、なお、<事実>が否定されるとは限らない、と思います。
確かに、この段階で言語一元論を帰結するのは、無理がありました。撤回いたします。むしろ、ここでのWは二元論的な考えを披瀝しているように思えてきました。
いちご姫さんが「<事実>が否定されるとは限らない」とおっしゃるときの<事実>とは、実在論的な、すなわち「世界―言語」二元論的な意味での事実、言語によって写像されるところの事実なのでしょうか?以下の文章からも、そのような二元的構図を採用しているように見受けられます。
>むしろ、「思考内容はその事実[それ自体]ではない」と言いたくなろう。」という箇所
>に明らかな様に、「そうではない。思考内容はその事実それ自体である」従って、事実は
>存在せねばならない、と読まれるべきだ、と思います。
>この箇所で主張されている事は、事実と思考内容と言語表記の三元構造が否定され、
>事実と言語の二元構造が取って代わるべきだ、ということです。
しかし、いちご姫さんは、『青本』でのWは言語一元論を主張している、との見解を持っておられるのですよね。すると、ここで二元論の考えを採用するのは、矛盾しませんか。正直、ご説明がよく呑み込めないでいます。
161 :
いちご姫 :2001/02/27(火) 16:36
>いちご姫さんが「<事実>が否定されるとは限らない」とおっしゃる ときの<事実>とは、実在論的な、すなわち「世界―言語」二元論的な 意味での事実、言語によって写像されるところの事実なのでしょうか? 以下の文章からも、そのような二元的構図を採用しているように見受け られます。 >、「そうではない。思考内容はその事実それ自体である」従って、事実は 存在せねばならない、と読まれるべきだ、と思います。 ここで、存在せねばならない事実は、『論考』における事態と区別さ れた事実です。即ち、存在しない対象について語る場合には、存在する のは事実ではなく事実の可能態としての事実だ、という主張への反論だ 、と書いたのです。 しかし、火事でないのに火事という事実について語るのだとしたら、 それは想定可能なものとして事実でしかあり得ないわけで、したがって、 議論が進めばこの事実は結局文法的要請としての事実に過ぎなくなるで あろう、との見通しを持っているのです。 ところで、口頭試問、うまくいきましたか?
162 :
ミック :2001/02/28(水) 00:51
口頭試問は、色々突っ込まれながらも基本的には誉められました。殆ど先生方が喋ってた・・・大丈夫でしょう。 う〜ん、しかし161も、相変わらず僕にとっては難解です。「事実の可能態」としての事実、というのは、Wがp.66.で挙げているケンタウルスの例ですか? ≪「存在しないものをどうして想像できるのか」と尋ねられた場合、答は恐らく「想像するとしたら、存在する要素からなる非―存在の複合を想像するのだ」となるだろう。[例えば]ケンタウルスは存在しないが、人間の頭と胴と腕、それに馬の脚は存在する≫(p.66.) この非常に常識的な考えを、Wは直後で批判するのですが、「事実の可能態」としての事実による説明は、上記のような例だ、と考えてよいでしょうか。
163 :
ミック :2001/03/01(木) 23:02
とりあえず先へ進みます。この問題はこの先にも関係してるみたいだし。
164 :
いちご姫 :2001/03/01(木) 23:23
P.66あたりでWが何を考えているか、私もすっきりわからないんです。 その先で批判されている、赤の例と関連しますが、『論考』の事態は そう簡単に葬り去られてしかるべきではない、気がします。
165 :
pp.75―85.@ :2001/03/01(木) 23:45
この段でも、Wの議論は、内面と外面を別々のものと想定する二元論の否定という主張へ収束します。≪・・・私の意図のすべては、考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在しなければならぬと考える誘惑を取り除くことであった≫(p.83.) また関連して、次のような論点も出てきます。 @「事実―イメージ―言葉」という三元構造を否定し、「事実―言葉」という二元構造を採用する。 Aその結果、「心」をブラックボックスとみなし、考察から除外する。 @は、いちご姫さんが言われていることですが、Wもはっきり言明しています。 ≪言葉と[本物]のキングスカレッジとの結びつきは多分それ以前につけられているのであり、[イメージのような仲介者を必要とせず、またイメージは仲介役を果たせないのである]≫(p.80.) 正確に言うと、多分Wは三元構造を“否定”するわけではないと思います。ある言葉を聞いたら「イメージ」が「心の中」に浮かぶことは、実際よくあります。ただ、そのような「心的過程」によって語の意味について説明しても意味がない、ということです。 では、語ることと、語られる対象との関係はどのようにして結ばれるのか。その対象について述べるまさにその瞬間に、とWは答えます。 ≪或る人について我々が考えること、語ること、とその人間自身の結びつきは、[例えば]「スミス氏」という語の意味を説明するため彼を指差すときに作られる≫(p.78.) 従って、≪スミス氏がいないときにも[このような結びつきとして]彼を我々の心に何か魔法じみた仕方で呼び出す奇妙な心の働きなぞはない、ということである≫(同上)。 ここでAの論点「心なんて所詮ブラックボックス」が出てきます。Wは、心の作用についてどれほど複雑なモデルを考えても意味がない、と言います。認知系の心理学を敵に回すおつもりです。≪「心的」という語は、それがどのような仕方で働いているのかを知ろうとしても無駄だということを言っているのである≫(p.79.)ま、Wにしてみれば認知系心理学も一般理論を目指す科学の一種なので、それを否定するのも当然かもしれません(ただ、フロイトへ敬意を払っていたことを考えると、言い切る自信がなかったりする)。
166 :
ミック :2001/03/02(金) 00:17
Aは、今書いてるので、ちょっとお待ちを。
167 :
pp.75-85.A :2001/03/05(月) 23:29
A「心の機構をブラックボックスと考える」主張。 我々は、「心」のメカニズムについてある先入観を持っている。しかし、実はそれは仮設の一種に過ぎないのである。 そのような先入観の一例としては、「或る考えが頭にある」「心に現れた観念を分析する」などの日常言語の表現が挙げられる。≪自分の心に現れた考えを表現しようとする、と言うが・・・この比喩は、我々が哲学をしているときに我々を誤まらせることさえなければ、結構である≫(p.82.)。この先入観によれば、我々の心の中に心的言語なるものが既にあり、それを話し言葉に翻訳すればよいことになる。だが、言葉が発話の際に次々と創生してくるとしても、何の問題もないではないか。これだけでも、この先入観を正当化することはできない。 p.84.からは、これまでの議論を踏まえて、話すこと(外的過程)と考えること(内的過程)を別々の過程と捉える二元論が批判されます。思想や思考などの一見内的な過程と思われているものの「意味」は、その表現すなわち「文」として外面に現れた時にのみあるからです。 ≪諸君に要領を一つ教えたい。君が、思考、信念、知識等の本性に困惑している場合には、思想の代わりに思想の表現を置き換えてみること。・・・信念や思想その他の表現は或る文に過ぎない。――その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号体系の中の一つの表現としてのみ、意味をもちうる≫(p.84.) あるいは、意味したり、考えたりなどは、プライベートな経験であって、書いたり、話したりなどの公共的な行動とは違う、両者を一緒にはできないという反論もあるかもしれない。しかし、考えることと話すことが全く別個の行為であるなら、丁度歌詞抜きでメロディを口ずさめるように、話すことをしないで考えることだけができるはずである。だが、そのようなことは、勿論できない。 ここでの結論を要約すれば、≪「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、この吟味を経過することによって、思想を表現する行為とは別に何か奇妙な媒体の中にしまいこまれた奇妙な思考作用を捜し求める誘惑から解放される≫(p.86.)ということです。 次のp.87.からは、哲学的困惑が最も多く絡みついている「私的言語」について論じられます。
168 :
伍長 :2001/03/06(火) 02:43
それは楽しみ。 でも、忙しくて丹念に読めないのが残念。 やはり『青色本』を買わないとダメですかね?
169 :
いちご姫 :2001/03/06(火) 02:56
>168 伍長さんへ 英語版と日本語訳は手元に置いておいてくださいませ。
170 :
ミック@コメント :2001/03/06(火) 23:08
@「事実―イメージ―言葉」の三元構造の否定について 以前広松渉さん(漢字出んぞゴルア(゚Д゚))の書いた入門書(とは到底思えんかったが)に、「意識対象―意識内容―意識作用」(カメラ・モデル)の三元構造が近代的意識観の主流である、と書いてありました。多分、この図式を言語論的に表現すれば、Wの表現になるのでしょう。広松さんも、やはりこの三元構造からの脱却を図っておられたようですが、10ページほどで挫折したので、その後氏がいかなる手腕でこのモデルを否定したのかは知りません。 Wが三元構造を否定する根拠は、大雑把に言えば次の二つだと思います。 (1)或るイメージ(意識内容)は、結局言葉によって代用しても構わないから(p.76.)。 (2)イメージは心的過程であるから、これを想定するのは一つの「仮設」を盲目的に信用することになるから(p.80.)。 (1)よりも(2)のほうが、きっと強い理由でしょう。(1)だけでは、まだ「意味がない」というだけで、「いけない」とまでは言えませんから。 A「心の機構はブラックボックス」ついて これは、特に反論とか疑問点というのは、感じません。心理学が心モデルによってその機構を説明する試みは、要するに世界の事象について一般理論を導こうとする自然科学の一部として位置付けられるわけです。Wも前半でこう言明しています。 ≪心-モデルは、観察される精神活動を説明するためにはひどく複雑でこみいったものでなければだめなことがわかるだろう。そのことゆえに、心を奇妙な種類の媒体と呼ぶことはかまわない。しかし、心のこの側面には我々は関心を持たない。その側面から生じる問題があってもそれは心理学の問題であり、その解決方法は自然科学の方法である≫(p.29.)。 しかし、確かにWは心の機構についてあれやこれやモデルを組み立てる作業に関心は示さないものの、いわゆる「行動主義」と呼ばれる心理学一派の方法論とも相容れない気がします。この点は、行動主義者である伍長さんにお聞きしたいところです。行動主義心理学というのも、説明体系として「心」という≪奇妙な媒体≫を使うことを回避するだけで、やはり人間の行動(という世界の事象)について、一般的・普遍的に説明し切るグランドセオリーの構築を目指すことが、究極の目的ではありませんか? もしそうだとすれば、そのような心理学も、Wはやはり「仮設」として哲学的考察から排除するでしょう。
171 :
伍長 :2001/03/08(木) 00:47
>>170 (ミックさん)
>説明体系として「心」という≪奇妙な媒体≫を使うことを回避する
この立場を「方法論的行動主義」と言います。
これは、二元論者も唯物論者も共に取りうる立場ですが、概して、二元論、メンタリズム、心理主義を暗黙の内に認める立場になりがちです。
これに対し、スキナーは「徹底的行動主義」を主張します。
「物理的事象と心的事象」の区別は誤りで、心的事象は実在しない。
物理的事象の中に、「公的事象と私的事象」が存在するのであって、どちらも回避の対象ではない。
「私的事象」の一部が「心的事象」と見なされることから混乱が生じると考えます。
したがって、「説明体系として「心」という≪奇妙な媒体≫を使うことを回避する」のではなく、そもそも「心」の問題は偽問題なのだから、回避も何もない。
「心的」用語の使用を分析することでこの問題は解消される。あるいは先へ進むことができる。
ミックさんは、「Wは認知系の心理学を敵に回すつもりだ」と言われましたが、全く同じ事を、(多分)ほぼ同じ理由で、スキナーもやっており、実際に認知心理学を敵に回してしまいました。
(なお、私は、スキナーの認知心理学全面否定には必ずしも賛同するわけではない)
とりあえず、スキナー派が心理学における反心理主義の一方の代表(少数派ですが)であることは間違いありません。
Wの反科学的な考え方(と言われているもの)については私には分かりません。
なお、スキナー派の目的は、グランドセオリーを作ることではなく、「行動の予測と制御」です。
また、スキナーの考えでは、科学であろうが哲学であろうが論理学であろうが、その理論なり法則や言明は、研究者たちの共同体の中で、成員の行動を方向付ける《ルール》として機能し、成員たちの実際の《行動随伴性》によって修正されたり、捨てられたり、新たに作り出されたりします。
こういうのは「自然主義」というものの一種なのだそうですが、Wならどう考えるのでしょうか?
とりあえず、先が楽しみなので,構わずにお続け下さい。
172 :
ミック :2001/03/08(木) 00:56
なるほど。心の機構をブラックボックスと考える、ということは、とにかく心という過程があることを認めてしまう、ということですね。 ふむ。確かにスキナーみたいに「心なんてない」とは、Wは言い切らないようです。ただ、考察の対象から心的過程を除外するだけ、か。 そういえば「Wと自然主義」みたいなタイトルの論文も部屋のどっかに埋もれてるな・・・もっぺん読んでみようかな。
173 :
考える名無しさん :2001/03/09(金) 11:10
このスレでオフ会をやりませんか。ミックさん、いちご姫さま、伍長殿あたりが参加できればだけど。
174 :
考える名無しさん :2001/03/09(金) 11:43
大澤真幸氏の『意味と他者性』におけるウィットゲンシュタイン解釈は このスレの人たち的にはどうなんでしょう?
175 :
ミック :2001/03/10(土) 00:09
いちご姫さんや伍長さんには会ってみたいけど、去年夏の文学板の惨劇を一部始終鑑賞した身としては、オフ会という響きには怖いものがあります。 ところで、先の要約に進んでも良いのでしょうか?いちご姫さんその他の方、何か突っ込みを書いておられる途中ですか?
176 :
考える名無しさん :2001/03/10(土) 00:49
>175 明日か明後日当たりに纏めてコメントをかきます。 173さんは面白い事を考えましたね。心理屋さんにそちらの行動主義 の話をお聞きたいし、嬉しいですが。 ミックさんは東京圏ですか?わたしはそうなので、関西や九州でオフ 会を開かれても行けません。そもそも、3人が同一地域に住んでいる、 との情報を173さんは入手しておられるのかしら。 >去年夏の文学板の惨劇を一部始終鑑賞した身 何があったのですか? こわいもの聴きたさで、きょうーみシンシン!! (あと、参加資格に「ウィトゲンシュタイン版ファイナル・アンサー」 とかやって、合格したヒトだけで行けるとか(笑)すると、落ち着くか も・・・・ むしろ、どの程度うける問題をつくれたか、で評価するとか?)
177 :
ミック :2001/03/10(土) 23:53
178 :
いちご姫 :2001/03/11(日) 05:53
>177 卒業? いつですか? てっきり博進のマスター生と思っていたのですが・・・・ 文学板オフ会過去ログに「不快な思いをオフ会でした人はHN変えて2chに再参加なされば? 」って有益なサゼッションがあったのですが、私の場合、HN変えてもカキコ内容 からすぐバレるでしょうねー
いへいへ、僕は一介の学部生です。今月で卒業です。 「口頭試問がある」ということでマスターと思われてしまいましたか。 うちは卒論にまでそういうのがついてくるんです。 文学板の場合、オフ会そのものより、その後の掲示板での投稿が問題視されたので(ひがみとやっかみもあったのだろうけど)、そこに気をつければ大丈夫・・・・・・かな。 実際HN変えて投稿していた人もいると思います。
180 :
いちご姫 :2001/03/11(日) 15:21
>179 では、ミックさんは、開催の方向で動くお気持ちがおあり? ただ一番忙しいのは、 実験がありそうな伍長氏だと思いますが。あと、咲也氏も参加していただけると、 数学の基礎がいかに数学者にとって相手にする気もない代物であるか、ご説明いた だけそうでうれしひ。
181 :
ミック :2001/03/11(日) 23:13
勿論、やりたいです。最小いちご姫さんとサシでも僕はOKですよ。 ですが、やはり5人前後ぐらいは人数が集まるといいですね。 オフ会後は、謙虚かつ図太くやるとしましょう。荒らしと煽りが醍醐味の掲示板。ここは「ヤフーではなく2ちゃんねる」ですから。
182 :
伍長 :2001/03/11(日) 23:49
私は素人の社会人ですから、「実験で忙しい」ということはないです。 仕事は目下忙しいけど。
183 :
いちご姫 :2001/03/11(日) 23:56
>181,182 ではやりましょうか? 設定はだれがします? お茶会とお食事会と 飲み会ではどれがいいのかしら? >175ミックさん どうも、頭がボケボケで、日本語で読んでも文字が頭に入りません。 先にお進みになられてもけっこうなので、わたしのコメントはもう少し お待ち下さい。(こういう時はしょうがないので、コバルト文庫とか、 自分の論文(笑――なんてったって内容はだいたいわかってますもん)と か読むしかない。)
184 :
3 :2001/03/12(月) 00:17
>>7 まったくそのとおりだと思いますよ、あなたの指摘を待つまでもなく。 先にも僕が述べたように、哲学の大前提という言い方は、 認識の彼方の他者というのを包含してるわけだから。 僕が言いたいのは、>>1の問いの立てかたが間違ってるって事。 そして、スレの立てかたも。
これこれ
186 :
咲也@スレストッパー? :2001/03/12(月) 01:34
>>180 素人突っ込みでご迷惑をお掛けしています.
姫様の御指名は光栄ですが東京圏はちと遠いので残念ながら失礼致します.
でも匿名で精密な議論をするのはなかなか難しいですね.
まともに書くと内容で素姓がばれてしまいそうだし.
まあ姫様とはどこぞで顔を合わせる機会があるかも知れませぬ.
187 :
ミック :2001/03/12(月) 01:56
伍長さんなど社会人の方が参加できることを考えると土日でしょうか。 もし土日なら、昼から市民会館の会議室が空いてればそれを借りて、夜になったら食事or呑みというスケジュールも良いのでは。僕の知ってる施設(含大学)の空き具合を明日確認してみます。 土日は大学の建物が軒並みしまってしまうのが不便だ。 あ、そうだ。オフ会用の臨時掲示板もどっかに設けたほうがいいかな。
188 :
いちご姫 :2001/03/12(月) 02:52
>187 原宿、神楽坂、神保町の何れかの近くだと嬉しいです。 あと、土日では、3/18、4/1はパスです。
189 :
いちご姫 :2001/03/12(月) 02:59
そういえば、神保町か本郷なら学士会館を使う、と言う手もありますね。
190 :
いちご姫 :2001/03/12(月) 10:45
学士会館は 分館だと、使用時間10:00〜16:00の間で¥5,000+tax(8人前後) 本館だと、使用時間12:00〜16:00の間で¥8,000+tax(10人部屋) だそうです。 本館はちと高いですね。参加者が6〜7名になればそれほどでもないけど。ただ、 ブラッセルズに流れるには便利ですよね。
191 :
いちご姫 :2001/03/12(月) 10:56
そうでなければ、原宿のデーメルの奥を借り切ってしまってお茶しな がら議論、そのあと5時くらいから飲み会、でも嬉しい。(自分のテリ トリーにこだわるヤツ(笑))
192 :
ミック :2001/03/12(月) 12:55
オフ会掲示板作ってみました。 ID「wittgenstein」(wも小文字) パスワード「offkai」 で入れるはずです。
193 :
ミック :2001/03/12(月) 12:55
194 :
いちご姫 :2001/03/13(火) 00:30
お不快じゃないオフ会age 定員まであと6人位
195 :
名無しさん@1周年 :2001/03/13(火) 01:44
↑めずらしい うかれてるよ
楽しそうだな。レベルも高そうだが。
197 :
いちご姫 :2001/03/13(火) 10:35
>>195 うかれてます。デーメルでケーキだもん♪
(ブロイナーホーフだったらもっとうかれてる)
198 :
いちご姫 :2001/03/14(水) 03:39
オフ会の設定及び参加資格認定は,今オフ会オフィシャル認定委員会が独断と偏見 により選定させていただきます。 オフ会に興味ある方は、サインナップをお願いします。
199 :
考える名無しさん :2001/03/15(木) 04:44
OFF会の件で盛り上がっていたようですが、 購読の続きはないのですか? ROMってて勉強になったので、 再開きぼんぬ。
こっちも続けるつもりです。 僕が学生の間に『青本』を終らせたいけど、う〜ん、厳しいか。
201 :
いちご姫 :2001/03/16(金) 14:42
>>199 W関係ニスレの参加者は、それぞれに『物自体・・・・』スレや『分析的言明とゲー
デル・・・・』スレで、忙しかったですからね。
そうだ、議論の継続を希望なさっているのなら、199さんが要約をお続けにな
られたらいかがですか?モット勉強になりますよ〜キット
202 :
いちご姫 :2001/03/16(金) 17:16
>>165 三元構造(BBp.80前後)について
>正確に言うと、多分Wは三元構造を“否定”するわけではないと思います。ある言葉を聞いたら「イメージ」が「心の中」に浮かぶことは、実際よくあります。ただ、そのような「心的過程」によって語の意味について説明しても意味がない、ということです。
仮にWが三元構造を否定しないとして、その構図は以下の様に書きかえられるべきでしょう。
<第1図>
事 実
|
イメージ
|
言 葉
↓
<第2図>
事 実
|
言 葉 ―イメージ
何故なら、<第1図>においてイメージが両項の中間に挿入されているのは、各々では結合できないはずの事実と言葉とを結びつける機能を担うものとしてイメージが想定されているからです。しかるに、BBp.80に至る議論で、イメージのこの機能は否定されました。一方で、事実と言葉は直接関係するものと考えられ(その結合を齎す第三項が決して存在し得無いことの論証はされていないにしても、少なくとも、それを要請はしていない)、他方で、結合の機能は、後々に明らかになってくるように(生活の使用における)言葉そのものに求められるからです。(したがって、イメージが何処かと結合するとすれば、それは言葉とであり、言葉を介して(事実と)でなければならない。)しかも、言葉と事実との関係という観点からは、イメージは不必要なものと考えられるので、下よりは横に置かれるべきでしょう。
しかし、むしろ、下記<第3図>が<第2図>よりより正しいものに思われます。
<第3図>
事 実
|
言 葉 イメージ
というのは、反―私的言語論(以下A−PLA=anti−private language argument)で論じられる(BBではそこまではっきりしていたかどうか記憶にありませんが、少なくとも『探求』ではそうです)内容に、<心的対象の名指しは不可能である>というテーゼがあります。ところで、念頭に浮か<イメージ>は、典型的に心的な対象です。従って、A−PLAからすれば、イメージは、縦線や横線で事実と言葉がその関係を表現されるような意味で、その言葉との関係が表現され得るものではないはずだからです。
それ故、ではどのような仕方でイメージのような心的対象が我々の言語ゲィムに入りこむのか、というのは考えられるべき問題です。そこで、言葉とイメージとの関係は、事実と言葉との関係とは異なるにしても依然何らかの関係であるはずだ、と考えそこに空欄を置くのでは無く、点線を引く立場<第4図>もあり得るでしょう。
<第4図>
事 実
|
言 葉- - - - - - イメージ
それ以外の表記で表されるのが、両者の関係に適切だ、という解釈もあり得るでしょう。単なる表記法の問題としてではなく、その表記が問題にしているイメージの地位とその言葉との関係それ自体に関心が向けられるなら、これは多いに議論されるべき問題だ、と考えます。
203 :
いちご姫 :2001/03/16(金) 17:35
BB p.83−84 ここに、我々が抱くであろう疑問、一個の語や文が意味を持つためには、それが全体系の中におかれていなければならない、として、どのようにその体系は存在するのだ?、という疑問に対するWの一応の回答が出されています。(PGI-13等参照) 「その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号系の中の一つの表現としてのみ、意味を持ちうる。そこで、この記号系を我々が述べる文のすべてに対するいわば恒久的な背景と考え、紙の上に書かれ声に出された文こそ独立してはいるものの、心の考える働きの中には記号系が全部ひっくるめて存在している、と思いたくなるのだ。この心の働きは、記号のどんな手動操作にもできないことを奇跡的な方法でやってのけるように見える。しかし、何らかの意味で全記号系が同時に現在していなければならぬという考えの誘惑が消えた時には、もはや表現と並んでそれとは別な奇妙な心の働きの存在を 想 定 す る 意味もなくなる。」 つまり、そこから意味が与えられる記号系そのものは、語や文が意味を持つ時に、現在していなくて構わない、というのです。しかし、これはその記号系の在り方あるテーゼを否定したにすぎず、W自身がそれを積極的に語り出している訳では在りません。それ故、記号系は如何なる様態で存在するのか、という問いも我々に課せられます。
204 :
考える名無しさん :2001/03/20(火) 06:25
デレク・ジャーマンage
205 :
考える名無しさん :2001/03/20(火) 09:26
206 :
考える名無しさん :2001/03/28(水) 21:40
全然書き込まなくなったね オフ会でなにかあったのか?
207 :
ミック@卒業 :2001/03/28(水) 23:33
まだオフ会やってません。 最近僕が忙しくてさぼってるだけです。
あぼーん
あぼーん
210 :
考える名無しさん :2001/04/06(金) 23:39
久しぶりに復活期待あげ。
思ったとおりだな
212 :
吾輩は名無しである :2001/04/07(土) 00:07
ウィとちゃんにネットやらせてみたい!と切実に思うよ。 言語ゲームの新展開、期待! ハマったはずだね、絶対。
来週末あたりから再開しようかと思っています。今までのペースは無理だろうけど。
あと、Wはきっと科学技術の産物であるインターネットに大して感心しないと思います。
>>208 Witちゃん、おれもやりたくてたまんないよー。
216 :
考える名無しさん :2001/04/08(日) 23:42
大金持ちの家に生まれた
>>214 Wは絶対ハマると思うぞ。
言語の新たな展開だと思わん?<ネット
218 :
GO :2001/04/09(月) 03:39
GOです。良スレにつき、記念カキコ。GOでした。
219 :
ミック :2001/04/09(月) 23:14
>言語の新たな展開だと思わん?<ネット どのあたりがどういうふうに“言語の新たな展開”なのか教えてください。僕にはネットが特に新しい言語活動の様態とは思われないのです。
220 :
考える名無しさん :2001/04/12(木) 21:28
デレクジャーマンの「ウィトゲンシュタイン」くそつまらんかった。
221 :
比ヤング :2001/04/12(木) 23:18
>>220 漏れも観ました。中学校の時の学園祭の演劇を思い出した。
あーゆーモノは観慣れてないからなぁ・・・
222 :
考える名無しさん :2001/04/12(木) 23:33
デレクジャーマンの「ウィトゲンシュタイン」、好きだけどな。 特に、ウィトゲンシュタインのお姉さんが上手から スタスタ歩いてくるところが。
223 :
考える名無しさん :2001/04/12(木) 23:35
ウィトゲンシュタインのウィーンってどうなんでしょ?
224 :
ミック :2001/04/18(水) 00:32
上げてみる。
225 :
考える名無しさん :2001/04/18(水) 00:58
>>222 脚本がテリー・イーグルトンだってね、あれ。
226 :
考える名無しさん :2001/04/18(水) 09:06
だからおもろいよ
3人の姉、皆才色兼備。クリムトが肖像画描いてるね。 すげえ大金持ちで芸術家のパトロンだった<実家 あれだけ何でも揃ってれば、全てを捨てたくもなるし、 なまじな女性なんかアホくさくてモーホーになるのも当然と 思えるねえ。ラヴ、ヴィトちゃん!
228 :
考える名無しさん :2001/04/22(日) 18:09
プリンセスストロベリーはいつご帰還されるのでしょうか? 楽しみに待ってるのですが。
229 :
吾輩は名無しである :2001/04/22(日) 19:50
>220 俺もつまらなかった。なんか、腹がたったよ。 ヴィトゲンシュタインの、つきぬけるような空の青の感じがまったく 表現されていなかった。
230 :
いちご姫 :2001/04/22(日) 22:54
>>228 ただいま、です。
つかれて頭が鈍っているので、野矢スレッドのカキコミもまだのぞいて
いませんが。
231 :
ミック :2001/04/22(日) 23:23
あ、お帰りなさい。 このスレもボチボチと再開しようかと思っています。
232 :
228 :2001/04/23(月) 01:59
>>229 おお、書きこんだら戻ってたのでびっくり。とりあえず、お帰りなさいま
せ。ここのスレも再開されたら、興味深く議論を拝見しようと思います。
あ、すでに書き込んでるようですが、科学哲学・分析哲学スレッドも
面倒みてくださると、ウレシイ。当方、哲学専攻でないので、やはり、
専門の方にいろいろアドバイスしていただければと思うんですが。
233 :
考える名無しさん :2001/04/27(金) 20:56
本当は野矢スレッドに書き込むべきなのでしょうが、こっちがさがってたの で、「age」と兼任で、書き込みます。 「無限論の教室、読むぞゴルァ(゚Д゚)」はやんないのですか?
234 :
CK@活動休止中 :2001/04/27(金) 21:08
復活してるー♪ >いちご姫 あかりちゃんはパリのトヨタで働いてんだそうです。
235 :
いちご姫 :2001/04/27(金) 21:20
>>234 それはそれは
おしゃれですね〜
すご〜
236 :
いちご姫 :2001/04/27(金) 21:22
>>233 このスレはミックさんがすべてです。
彼がカキコんでくださらないと、ageていただいてもつづきません。
そう決め込まなくても
238 :
考える名無しさん :2001/04/27(金) 23:55
このスレは、どうして過去の書き込みを読もうとすると システムダウンするのですか?(特に最新100)。
239 :
いちご姫 :2001/04/28(土) 00:43
>>238 いまやって見ましたが問題なく動きましたよ、
でも,いように重そうなカキコばかりでしたが
それとみなさんにいちご姫のお願い! 208なんとかならない?の
みるたび2〜3日開きたくなくなるの、このスレ
240 :
考える名無しさん :2001/04/28(土) 00:50
>>238 システムダウンはしないのだが、ここは200以上書き込みあるのに、
スレのタイトルのところにあるレスが未だに2ケタなのが謎
>>239 削除依頼出します?
241 :
考える名無しさん :2001/04/28(土) 00:56
>>姫さま 私のところは、スクロールするとシステムダウンするのが そのあたりです。 これは正当な削除理由になるのではないかと思います。 (あと、あんまり反応してはダメですよ)。
242 :
240 :2001/04/28(土) 01:05
>>240 208の削除できるなら即刻お願いしたいです。あれ見るたび、 気力がなえ,1日研究ができない感じです だれか、よろしくおねがいできませんでしょうか・・・・」
あぼーん
>>243 最低..お願い、詩んでください。
もうこないで下さい。
245 :
ミック :2001/04/29(日) 22:36
さてさて、新入社員の僕にもようやっと暇な時間ができました。久々に90ページ代の要約へ進んで見ます。 本当は、研修ぬるぬるだから暇はあるんだけど、こっから先のBlBが妙に難解なんだよね。議論が納得できないというより、「結局何が言いたいんだお前」みたいな印象。あるいは本人も特に結論を出す気がないのかもしれないけど。
246 :
p.87- @ :2001/04/29(日) 23:01
さて、87ページからは、今まで敢えて論じることを避けていた≪個人的経験[すなわち経験の私秘性]≫がテーマとなります。 大雑把なまとめをすると、多分Wの一番言いたい主張は、特に目新しいものではないと思われます。要するにこういうことです。 「日常生活で日常言語を使う場合、それは全くもって正当な使われ方をしているのであって、「人工の精妙な言語を用いないと事態を明らかにできない」という考えはナンセンスである」。W自身の言葉で例証しましょう。 ≪我々の言語はそのような個人的経験を描写するように作られていないように見える。そこで、この事態を哲学的に明らかにするには日常言語は余りに粗すぎ、それより微妙な言語が必要だ、と考えるようになる。≫(p.86.) ≪だがこれはおかしな疑問ではないか。誰か他人が痛がっているのは私が信じられないということがあろうか。それを信じるのはまったくたやすいことではないか。――ことは常識に映じるままだと言う答ではいけないのか。――また言うまでもないが、日常生活ではこういう困難は生じない。≫(p.90.) ≪我々は、自分の表現の仕方で引き起こされた当惑に面しているのである。≫(p.92.) Wは、個人的経験についての哲学的に混乱した考えとして、「独我論」を挙げて、それを攻撃しています(ひょっとすると独我論にも複数の種類があるのかもしれませんが、僕はよく知りません)。 ≪我々を取り囲む[外的]対象と我々の[内的な]個人的経験との関係を考える時、時に、これらの個人的経験が材料であってそれから現実が作られていると言いたくなる。この誘惑がどうして生じるのかは後に明らかになるだろう。≫(p.88.) 要するに、人間の日常生活や人生から乖離した、衒学的な哲学用語やその言語ゲームを用いて我々の日常生活の現象を説明しようとする試みは、「言語の誤用」以外のものではない、というWお馴染みの主張です。ざらざらした大地へ帰れ! 彼のおおまかな主張がわかったところで、その結論へいたるプロセスが問題になるわけですが、こっからが難物です。to be continued
247 :
ミック :2001/04/29(日) 23:10
まとめきらんと思ってましたが、書いてみたら意外にすっきりまとまったあ。やっぱ読むだけじゃなくて手を動かさないと始まらないね。
>>233 >「無限論の教室、読むぞゴルァ(゚Д゚)」はやんないのですか?
やりたいところですが、僕も去年ほど暇ではないので・・・・・・分担作業にしていただけると助かります。幸い、野矢先生のスレは割と常連さんがおられるようだし。
『青本』や次に読むテキストのまとめを分担していただける方もぼしゅーん。
248 :
233 :2001/04/29(日) 23:48
無限論の教室のまとめの分担やってもいいですが、最近ここらへんのことに 興味を持ったばかりなので、野矢スレッドの常連さんにおまかせできるなら、 おまかせしたいところです。もし誰もいないなら考えます。
249 :
ミック :2001/05/01(火) 22:51
>>248 では、おそらく分担をお願いすることになると思います。BlBを読み終わったらスレを立てるつもりです。あるいはそれより前に主宰してもらっても構いません。
にしてもWの「独我論脱却!」の戦略はわかんねー。もう見切り発車でウプします。
250 :
p.87-A :2001/05/01(火) 23:02
≪自分の経験だけが本当の[経験]だと言いたい誘惑がある。「私が見、聞き、痛みを感じる、等のことはわかっている。だが他人がそうしているかどうか私にはわからない。私は私であり、他人は他人であるという理由で。」≫(p.90.) ≪我々は、心的、物理的、どちらの世界もともに[個人的経験という]一つの材料だけだけからできている、と言いたくなるのだ。≫(p.92.) この種の独我論を、Wは「文法の誤用」によって引き起こされる誤解である、と断じます。なぜ彼は執拗に独我論脱却を試みるのか。「私は他人の痛みを感じられない」という命題は、全くの事実ではないのか。そう、事実なんかではない。「私は他人の痛みを感じられない」という命題において、「他人」「痛み」「感じる」といった語は、単に文法に従って用いられているに過ぎない、とWは言います。重要なのは、事実の報告ではなく、「他人」「痛み」といった語の使い方に目を向けることである、と。 Wはまず、≪痛みが或る場所にあることの[定義]基準としてどんなことがとられているかを調べなければならない≫(p.94)と言います。なるほど、確かに「痛みを感じる」という事態がどのような基準によって定義されるかわからなければ、「私は他人の痛みを感じられない」という命題の真偽もわからないわけです。≪他人が歯痛を感じていると言えるための基準を明らかにすることは、『歯痛』という語の文法を明らかにすること、そしてその意味で、『歯痛』という語の意味を明らかにすることなのである。≫(p.56.)
251 :
p.87-B 独我論脱却! :2001/05/01(火) 23:56
では、他人が痛みを感じているかどうかを判断する基準は何か。それこそがまさに「外的基準(=公共的基準)」です。ここでもやはり基底を成すのは、外面重視―反心理主義の戦略です。 ≪他人が痛みを感じているという仮説と、痛みを感じていないが、痛みを感じていないが、痛みを感じている場合と同じように振舞うという仮説とは、もし一方を証拠立てる可能なあらゆる経験がもう一方を証拠立てるならば――つまり、もし経験によってどちらが正しいか決着をつけることができないならば――、意味が同じであると言わねばならない。≫(『考察』65節――註) 誰かの頬が腫れていて、さらに彼は顔をしかめて頬を押さえている。おまけに「今日は今朝から歯が痛いんだよ」とぶつぶつ言っている。もしこのような人物がいたなら、「彼は歯が痛い」のです。そう言ってしまって構わないのです。勿論、何でかわからないけど(同上を引くためでしょうか)、歯痛の振りをしているだけかもしれない。しかしそのような場合でも、それはやはり“歯痛”の振りでしかない点がポイントです。つまり、上に挙げたような外的基準は、私が「彼は歯が痛い」と確信するに足るものなのです。 ≪だからこの場合、「推測する」とか「信じる」という言葉を君が使うとしても、それらを「知る」に対立する言葉としては使えないのである。だから、君が述べたことは、知ることは達することのできないゴールであり、推測することで我慢すべきだ、ということにはならない(なりえないのだ)。このゲームにゴールはないのである。≫(p.101.) Wの独我論論破の戦略は、大体こんな路線だと思います。もっと深いこと言っていたり、他の論点も間違いなくある気がするんですが、今僕がまとめられるのは、このぐらいです。 註:BlB以外の本から引用持ってくるのは反則気味ですが、両著作は時期的に近いので大過ないでしょう。
252 :
233 :2001/05/02(水) 00:57
了解です。ただ最近、哲学板に居着いたので、一人でスレッドで 孤軍奮闘するのはちょっとキツいです。よって青本読解が終わって からにします。それまで、ここのスレと、野矢スレを復習しておき ます。 あと、「無限論の教室」のまとめ方とか分担の仕方や進め方とか、統 一しておいた方がいいと思うんですけど。ミックさんからご意見あり ますか?
253 :
ミック@会社 :2001/05/02(水) 11:16
>「無限論の教室」のまとめ方とか分担の仕方や進め方とか、統 >一しておいた方がいいと思うんですけど。ミックさんからご意見あり >ますか? 『無限論』そのものが章だてられてますから、最初に5章ぐらいまで割り振っておきましょう。まとめのコツは(僕が言うのもアレだが) 1.時系列順ではなく、テーマごとにまとめる。結論を最初に書き、あとで理由・プロセスを書くと○。 2.理解できるところと理解できないところを自覚しておく。 あと、野矢さんの本だけでは端折られている個所が多いので、他の本も参照しながら読むとよいかもしれません。あとがきで森毅さんの本とか挙げられてましね(読んだことはない)。僕のお勧めは、野矢さんの宿敵佐々木リッキー『科学革命の歴史構造 下巻』(講談社学術文庫)です。 歴史的背景が詳細で歴史専攻の僕としては入りやすかったです。
254 :
考える名無しさん :2001/05/02(水) 12:56
優秀スレあげ
255 :
233 :2001/05/03(木) 22:19
リッキーの『科学革命の歴史構造 下巻』(講談社学術文庫)みつからないんで すけど。。「科学」と書いてあるので、数学のことが詳しく書いてあるとは知り ませんでした。でも確かに、彼、数学得意ですよね。なんか、駒場で、数学の歴史 がクーンのいうパラダイムが見出せるかとかやってるし。。 う〜ん、読解やるなら、コテハンの名前考えた方がいいかな?2ちゃんでコテハン 名乗るのが初めてなんで、ドキドキ。
256 :
考える名無しさん :2001/05/05(土) 18:19
定期あげ。
257 :
ミック :2001/05/06(日) 22:13
旅行から帰ってきたら板がいい具合に荒れてんな。 最近姫見ないね。ご多忙であろうか。
258 :
233 :2001/05/06(日) 22:32
今日、姫は、科学・分析スレに顔を出してましたよ。 あと、いろいろ細かいレスを方々のスレにつけてるので探して みては。 この荒れ具合は、なんとなく大戦時にナチスの空爆を受けながら 授業をするイギリスの大学を喚起しますな。
259 :
↑ :2001/05/06(日) 22:34
マジか?マジで? バカか?アホか?
260 :
考える名無しさん :2001/05/07(月) 12:36
かゆうま回避age
261 :
素朴君 :2001/05/08(火) 01:09
>>251 ずーと読んできたのですが理解できません。
例えば
>つまり、もし経験によってどちらが正しいか決着をつけることができないならば――、意味が同じであると言わねばならない。
「決着が付けれない」以上終了。で構わないと思うのですが????
この様な記述が随所に見られます。
>意味が同じであると言わねばならない。
強弁張るなと怒られるのが普通です。
262 :
ミック :2001/05/08(火) 01:56
>>261 賛同してもらってるのか批判されているのか、これだけでは判らないので、もう少し詳しく述べていただきたいです。
>≪つまり、もし経験によってどちらが正しいか決着をつけることができないならば――、
>意味が同じであると言わねばならない≫
>「決着が付けれない」以上終了。で構わないと思うのですが????
“「決着がつけられない」以上終了”で構わないと思います。
「本当に歯痛な人」と「歯痛な振りをしている人」を、我々が持っている判断基準(大概の場合経験則)に照らして判別できないなら、両者は同じ意味とみなして差し支えないでしょう。
>>意味が同じであると言わねばならない。
>強弁張るなと怒られるのが普通です。
ん〜、何故怒られるのでしょう。詳細説明キボンヌ。
p.s
本当はこのような「意味の検証主義」には、「じゃあ検証の基準に一体何を取る?どの事例にも完全に適用できる基準があるのか?」という、論理実証主義に突きつけられた疑問と同種の問題に突き当たります。あるいは素朴さんの言いたいことはこっちでしたか?
263 :
素朴君 :2001/05/08(火) 02:17
賛成も反対もしかねると言うのが本音です。 >、「じゃあ検証の基準に一体何を取る?どの事例にも完全に適用できる基準があるのか?」 ていう理論実証主義にはまらない程度には、論拠を述べる必要があると思います。 何処まで述べても述べきらないと言うことと、理由を述べずに自身の論旨を展開するのは 学問的誠実さがまったく違います。
264 :
素朴君 :2001/05/08(火) 02:22
簡単に言うと、小学生が僕は「ちがうもん」と駄々こねているのと差異が無くなってしまいますね。 差異とは?って問わないでね。
そうなのか??? 例としてよくわからなく その差異とはどういうものかと問いたくなる・・
ていうか、261も264も意味不明。。。
267 :
考える名無しさん :2001/05/09(水) 02:41
再度、かゆうま回避あげ。
268 :
考える名無しさん :2001/05/09(水) 22:34
かゆうま回避あげ。
269 :
考える名無しさん :2001/05/09(水) 23:08
良スレにつき記念カキコ。うふふ。
270 :
いちご姫 :2001/05/10(木) 17:06
>>261 >つまり、もし経験によってどちらが正しいか決着をつけることができないならば
――、意味が同じであると言わねばならない。
経験が違うという事を、意味が違う事は齎す、という前提がW氏にはあるのでしょう。
(「雨が降っている」と「雪が降っている」とでは、それらが正しい時に、発話者が
持つ経験が違いますね。)
この経験が生活上の機能というところにまで、私秘的・心理的な側面を剥ぎ取られ
公共の水準に引きずり出されてくると、『哲学的探求』の世界になります。
(BLBでは、まだまだ、現象主義の雰囲気が残存していますね。)
271 :
にしかわとおる :2001/05/10(木) 20:08
>270 ということはBLBは知覚が非決定的に受け取れることを利用した 思考上のトリックに依拠しているのでしょうか?
>>271 >知覚が非決定的に受け取れることを利用した
>思考上のトリック
御説明下さい。
273 :
にしかわとおる :2001/05/10(木) 23:21
>272 質問の意味がわからないならもういいです。 質問が無駄になりました。
説明しないから無駄になった・・
275 :
考える名無しさん :2001/05/11(金) 00:21
>>272 同じ映画を見ても感じることは人によって違いますな。
だからって、その映画の意味が一つだと言うのは、自己中のドキュンでも出来る思索であって、
わざわざ哲学者が小難しい言葉使ってしゃべることじゃない。
それを有りがたがって読む必要も無いのではないでしょうか?
ちょっと煽りっぽく表現するとこのような事ですか?
>>273
276 :
ミック :2001/05/11(金) 07:58
>>270 (いちご姫さん)
「現象主義」というのは、「世界の事実を報告するような命題も、結局は感覚的経験について述べる命題にまで分析できる」とする論理実証主義者やラッセルの立場ですよね。つまり、我々は感覚的素材を用いて世界の全体を構成するのだ、という独我論です。
いちご姫さんは「BLBでは、まだまだ、現象主義の雰囲気が残存していますね」といわれますが、むしろWはBLBの中で、この現象主義を批判していると思うのですが。
≪我々を取り囲む[外的]対象と我々の[内的な]個人的経験との関係を考える時、時に、これらの個人的経験が材料であってそれから現実が作られていると言いたくなる。この誘惑がどうして生じるのかは後に明らかになるだろう。≫(p.88)
飯田さんなどは、既に『論考』の時点でWは現象主義を論破している、と書いていましたが、僕はその説明はよく理解できませんでした。
いちご姫さんは、以前にも「中期Wは一時期現象主義に与したことがある」と言われていましたが、僕とはだいぶ異なることをお考えですか?
>>270 >いちご姫さんは「BLBでは、まだまだ、現象主義の雰囲気が残存して
>いますね」といわれますが、むしろWはBLBの中で、この現象主義を批判
>していると思うのですが。
はい、基本的には現象主義を批判していくというのが、『考察』以来の
ヰ氏の立場だと思います。ただ、些かその影を脱却しきっていないとこ
ろが仄見えるような気がします。(『哲学的探求』から振り返ってみると、
ですが。この場合仄見えるのは現象主義という程強く言わない方がいい
ので、意味を十分公共性の立場に引きずり出しきっていない、という方が
好ましいかもしれません。)
>いちご姫さんは、以前にも「中期Wは一時期現象主義に与したことがあ
>る」と言われていましたが、
正直是はわかりません。ただ、『考察』の冒頭で「我々は最早現象学的
言語を必要としない」云々、というところがあるので、それいぜん(し
かもおそらく『論考』より後に、一度「現象学的」立場に彼が惹かれた
事はかなり確かだ、と思うのです。ただ、この「現象学的」立場という
ものが何なのか皆目見当がつきません。
飯田さんの主張については(講談社のでしょう?)読んでみます。
278 :
ミック@花金 :2001/05/11(金) 19:33
>飯田さんの主張については(講談社のでしょう?) そうです。p.156.からを読みました。 Wが現象主義批判に向うのはいいとして、実際、現象主義のまずい点て何があるのだろう。
>>278 めずらしく欲しい本がすぐ出てきた、と思ったら頭がフリーズしてる・・・・
280 :
にしかわとおる :2001/05/11(金) 23:53
>275 すみません。残念ながら違います。271は字義どおりです。なにもむずかしい ことばは使っていないです。 あえて言うなら270の解説では「ウィトゲンシュタインは知覚の帰属先 と意味の帰属先がちがうのはあたりまえであると考えている」という前提を BLBに帰しているのではないですか?ということです。
281 :
にしかわとおる :2001/05/12(土) 00:14
>278 現象主義のまずい点は、コミュニケーション規則を前提に世界を 解釈することです。思考が逆転してます。
282 :
ミック@花金 :2001/05/12(土) 01:39
コミュニケーション規則って具体的にどんなものですか?
283 :
ミック :2001/05/14(月) 00:38
おーい、にしかわさーん。 先ススむっかなあ。 現象主義について解決しておきたかったけど。
284 :
223 :2001/05/14(月) 01:22
先に進んでダイジョーブなんじゃないでしょうか? 多分、先に進むうちに顔を出しますよ。 僕ももうちょっと現象主義について確認しておきたかったけど。
285 :
誰か現象主義に詳しい人いない? :2001/05/16(水) 05:04
1.現象主義って正しいの? 現象主義の主張を一言で言えば、「世界の事実を報告するような命題も、結局は感覚的経験について述べる命題にまで分析できる」という命題になります。これは、シュリック、ヴァイスマンなどウィーン学団の面々が採用していた他、彼らがよく読んだマッハやラッセル(『外部世界はいかにして知られるか』1914年)の立場でもあります。ラッセルに倣って、世界を構成する(?)「感覚的経験」を「感覚与件(センス・データ)」と呼ぶことにします。この用語の発明者はムーアらしいですが、Wも使います。 さて、この現象主義、突っ込みどころは山ほどあるのですが、まず疑問なのが「何を根拠にそんな自信満々に断言できるんだ」ってことです。要するにですねー、これってウィーン学団やラッセルの“願望”を表現しただけな気がするんです。 何で僕がそう勘繰るかというと、彼らが尊しとした数学や物理学の体系とよく似ているからです。感覚与件を「公理」とおいて、世界の現象を説明しきることができれば、正に「厳密な学としての哲学」の完成ではあーりませんか。数学や物理学のように、少数の公理を基にエレガントな(プ体系を作りあげられれば・・・・・・。 どうでしょうかね。それほど外していない推測だと思うんですが。 2.結局、現象主義=独我論では? 多分、独我論と全く同じことを言っていると思う・・・・・・要するに、「私が感覚しないことは世界内の現象ではない」と言っているわけですから。現象一元論というか、感覚一元論というわけです。色とか音とかを我々は知覚し、その経験(感覚与件)によってのみ世界が形作られ、感覚与件についての報告によってのみ世界を認識する言語(現象言語)が作られることになる・・・・・・しかし、こう考えると、一応「世界それ自体」を想定することもできるのか。むしろラッセル達は「感覚―言語」という二元論を採用していたと考えるとすっきりしますね。
286 :
ミック :2001/05/16(水) 05:07
む、今気付いたけど、ラッセルの本のタイトル『外部世界はいかにして知られるか』からも、「外部世界」という言葉がありますね。ということは当然「内部世界」もあるわけで、やはり彼は二元論に基づいていると思われ。
287 :
吾輩は名無しである :2001/05/20(日) 21:06
冬の時代ですが、頑張ってください。
288 :
咲也 :2001/05/21(月) 01:23
ミックさんが挙げていた佐々木力氏の新しい本が出てますね。 「二十世紀数学思想」佐々木力著、みすず書房、3800円 「科学革命の歴史構造」の文庫版の後書きで触れられていた その後の仕事が収められています。その中で 彼の視点からウィトゲンシュタインが語られています。 ウィトゲンシュタイニアンはどのように評価するのかな。 まだあまり読んでいませんが、数学史の仕事としては 比較的穏当で明快な記述という印象です。 明快すぎるところが欠点かもしれません。
289 :
クロ :2001/05/21(月) 02:53
現象主義のどこがまずいのかということは、 それが理論的知識に対する基礎付け主義として提起されたという点を 考慮に入れなければならない。 すなわち、観察/理論という二分法を前提した上で、 感覚経験をするということを観察することになぞらえて理解しよう。 そうした上で、理論から独立に営まれるものとしての感覚イコール観察を 証拠として、正しい理論を証拠付け、基礎付け、その一方で形而上学を排除しよう。 このような営みが、基礎付け主義としての現象主義だった。 このような立場に対する決定的な批判となったのは、観察の理論負荷性という論点だった。 つまり、理論から独立な観察、感覚経験など存在しないのではないか、という点だった。
290 :
クロ :2001/05/21(月) 03:03
>>281 間違ってます。大半の現象主義者にとって感覚経験とは プライベートなもの。したがって、それは他者に対して伝達不可能なものと 考えられることになる。むしろ、285さんのいうように、 独我論に陥る危険性が高いということが、弱点の一つなのです。 28さんも、1の後半は怪しい。そこまで単純な基礎付け主義者って、 実際のところどれだけいたか?少なくともラッセルは 「厳密な学としての哲学」なんて発想とは無縁の人です。読めばわかります。 >>286 ちゃんと読んでから言ってくださいね。ウィトゲンシュタインは結構好きだけど、 ウィトゲンシュタイン愛好者ってだいっ嫌いだ。ええかげんで、えらそうで。 てなこと書くと、いちご姫さんには僕の正体がばればれだろうな。
>クロ いちご姫ってウィトゲンシュタイン愛好者じゃねーの? なおん的ウィトゲンシュタイン愛好者は許すわけやね(ワラ
>クロ >読めばわかります。 これ「えらそう」と言わんの?(ワラ
293 :
ミック :2001/05/21(月) 07:33
一応、285と286は両方とも僕です。
294 :
ミック :2001/05/21(月) 07:41
>>290 (クロさん)
>このような立場に対する決定的な批判となったのは、観察の理論負荷性という論点だった。
>つまり、理論から独立な観察、感覚経験など存在しないのではないか、という点だった。
「観察の理論負荷性」・・・これは誰だっけ?ハンソンという人の考えですか?
すると、「現象主義に対してハンソンが批判した」ということは、哲学史上の事実なのですか?
えらそうな奴に答えたくないと思われなければ、聞きたいところです。
295 :
クロ :2001/05/21(月) 11:36
>>294 そうですね。哲学史上の事実といってよいでしょう。 ハンソン以外にも、「理論は全体として経験の裁きを受ける」 という、デュエム―クワインテーゼも重要だと思います。 おそらくこういったことは、冨田恭彦がかいた、「柏木達彦シリーズ」 でも読めば、まとめてくれているでしょう。面白くない本だけど。
296 :
クロ :2001/05/21(月) 11:48
私が「えらそう」というのは、 過去の哲学者の主張をろくに読んで調べることもせず、 一方的に貶め、ウィトゲンシュタイン、 及びそれを読む自分達の引き立て役として使うようなやり方を指して そういっているのです。 このような態度は、過去の哲学者に対し、非常にアンフェアであり、 かつ哲学的でもない。党派的な不健康さを感じます。 ウィトゲンシュタイン愛好者でも、このような態度を免れている人は まれながらいると思いますし、そのような人に対しては「えらそう」 なんて言うつもりはありません。 「読めばわかります」のどこがえらそうなのか。当然の突込みだと思うけど。 読まずにあることないこというほど、尊大な態度があろうか? まあ、こんな書き方をするとあらしが突っ込みやすくなるでしょうし、 それはこのスレッドにとってマイナスでしょう。おさわがせしました。
297 :
考える名無しさん :2001/05/21(月) 12:18
バートランド・ラッセルが遺言書に 「私が哲学をやめたのはウィトゲンシュタインに出会ったからだ」 って書いたというのはほんとなんですかね? 既出だったらごめんなさい。
298 :
ミック :2001/05/21(月) 18:33
私が「えらそう」というのは、 >過去の哲学者の主張をろくに読んで調べることもせず、 >一方的に貶め、ウィトゲンシュタイン、 >及びそれを読む自分達の引き立て役として使うようなやり方を指して >そういっているのです。 ふーん、そういう態度が僕にあったとしたら、それは少しまずいですね。 いまいち、まだそれほどにクロさんが激怒している理由がよくわからないけど・・・・・・ ただ、正直言って、僕はWの主張そのものには、賛成できない(もっと言えば理解できない)部分が非常に多いのです。 だから、Wの学説を無根拠に称揚するつもりは、僕にはないですよ。むしろそういうのが嫌いです。 ただ、読むにしてはこれ以上面白い人物もいないので、これからも読むつもりです。 僕は、哲学研究者ではないので、他の哲学者の学説を真面目に検討することは、おそらくこれからもないでしょう。時間と金と興味が湧かない限り。
299 :
ミック :2001/05/21(月) 18:35
せっかくだから、クロさんも、もう少しWについて何か語ってくれませんか。Wそのものは、「けっこう好き」なのでしょう? 素性がわからない程度でいいですから。
300 :
ミック :2001/05/21(月) 18:40
しかし、考えてみると、このスレも潮時かな。正直、調べたり考えをまとめる時間がないし。 少し時間を置いて、勉強してみます。 プログラミング言語/技法と分析哲学の関係についても調べてみたいなあ。 こういう時、大学の図書館が使えなくなったのは不自由です。学生の皆さん、環境に恵まれているうちに勉強してね。
301 :
ミック :2001/05/21(月) 18:42
あ、「潮時」とか言ったけど、まだ議論を続けていただけるなら、是非ROMさせてもらいます。
302 :
クロ :2001/05/21(月) 19:38
ちょっと、ちょっと、過敏にに反応しないで下さい。 こんな(2chにしてはめずらしく)良質なスレをやめるのは持ったいない。 きつい言い方してすいません。常日頃のしゃべり方をそのまま書いてしまっただけで、 べつにそれほど激怒しているわけでもないので、そんなに恐縮しないで下さい。 ちなみにラッセルの現象主義と、それが一元論なのか二元論なのか という問題に関しては、「神秘主義と論理」にはいっている、 「物質の究極的要素」がおすすめです。翻訳はよくないですが、 短いのでのぞいてみてください。遺言に関しては、僕は何も知りません。 伝記的事実にはあまり関心がないもので。 そろそろ、現象主義を離れて、ウィトゲンシュタインに 戻ったほうがよいかもしれませんね。
303 :
ミック :2001/05/21(月) 19:51
いや別に恐縮しているわけではないですよ。クロさんの言っていることは、まず正論でしょうから。 確かに、気付かないうちに、Wに感情移入していた部分はあるかもしれませんから。良い自戒の言葉を貰ったと思っています。 ただ、社会人になってから、読む時間/調べる方法が限られてきたので、書き込みも浅くなってきたなあ、と自覚していたところだったのです(去年が深かったのか?という突っ込みは禁止です)。 だから、ここは一つ、腰を入れて勉強に時間を割かなければ、と思っただけですよ。 ラッセルの遺言は、僕も初耳だなあ・・・・・・遺言ではないですが、Wからの批判を受けて、ラッセルが新しく書こうと思っていた本を諦めて意気沮喪していた、ということは、モンクの伝記に書いてあります。
304 :
GO :2001/05/23(水) 04:46
GOです。お邪魔しまーす。パトナム。重大なGO報告にやってまいりました。GOはねー、このスレがねー、1000に近づくときねー、GOはねー、その時にねー、哲学板のねー、コテハンさん達全員がねー、GO!GO!GO!GO!ってねー、どんどんグルーヴしていくのねー。GO!GO!って。もうねー、24時間テレビ−愛は地球を救う−のマラソン状態。BGMはもちろんZARDの「負けないで」。GOです。凄くない?GOはねー、あらゆるコテハンさん達に応援されながら完走するの。いままでGOに批判的だった人もその時にはダンスに参加。あのハイデガー先生やいちご姫も花束を抱えて駆けつけてくれる始末。GOです。ある意味カタストロフです。GOです。そうです。GOです。GOはほとんど熱狂的な声援の中、世界最後のダンスを踊り続けるの。もちろんみんなもつられてダンス!ダンス!そこはまるでリオのカーニバル。GOです。GOはねー、耳たぶ柔らかいほう。それでねー、999でねー、パタッとカキコが止まるの。何故ってGOは思うの?何故なんだ?って。それでどうしたんだろう?って他のスレに様子を見に行くの。そしたら、あらゆるスレというスレに「GO!お前が1000にカキコするんだよ。はやく!もったいぶるんじゃないぜ!みんな待ってるんだよ。GO!おめでとう!今まで良くやったな!さあ、GO、早く!」っていうカキコを発見するの。GOです。GOは感涙にむせび泣き栄光の美酒を飲み干すのさ。リーリーリーリー。GOです。GOです。最後の乱舞が始まろうとしています。GOです。記念カキコ宜しくお願いします。GOでした。お邪魔しました。
>GO あんた○○○○だろ(ワラ
かゆうま?
復活に向け、ただいま青色本修行中・・・
308 :
考える名無しさん :2001/06/01(金) 19:11
agennzo-
309 :
>いちご姫さん :2001/06/05(火) 00:34
都内で,英米系の哲学の洋書が揃ってる本屋が(紀伊国屋その他大型のとこ) 以外にあるって聞いたんですが,御存知ないです?
310 :
考える名無しさん :2001/06/14(木) 17:28
up
311 :
考える名無しさん :2001/06/14(木) 19:24
GO=化ユ うま
312 :
考える名無しさん :2001/06/14(木) 19:55
311=かゆうま
313 :
いちご姫 :2001/06/15(金) 22:59
>>309 おそらく東京堂書店のことではないでしょうか?
三省堂の裏の方にある割に大きな書店ですが、洋書コーナーはごく僅か。なのに、
分析哲学の棚が二つもあるところです。
でも、今ならアマゾンかアマゾン・ジャパンから取り寄せした方が安いし手軽ですよ。
age
315 :
考える名無しさん :2001/06/21(木) 21:11
ミックcome back
316 :
代理いぬ :2001/06/25(月) 19:35
いちご姫と石黒英子は語感が似ていると思ったり。 ま、いちご姫=石黒英子とはちっとも思いませんがね。(ピュア
317 :
考える名無しさん :2001/06/25(月) 23:16
>>316 大先生と並べられては恐縮の限り。
ちなみに、お元気でいらっしゃいました、石黒センセ @日哲
318 :
ミック :2001/06/26(火) 19:10
最近凹み気味なので、カムバックは待ってください。
凹み気味の時こそウィトじゃない
はは、一応励ましてもらってんのかな? いずれ再開はするつもりです。『無限論〜』の方も、議論してみたいところだし。
321 :
考える名無しさん :2001/06/30(土) 12:53
『無限論〜』は何処かでぶっ叩かれてた
322 :
ミック :2001/06/30(土) 13:02
是非どこでぶったたかれてたか知りたいです。
323 :
美麗島の名無桑 :2001/06/30(土) 15:44
324 :
LWファン :2001/07/01(日) 03:09
>>323 中公クラシックで翻訳してる山元一郎 さんてどんな人?
初めて聞く名前なんだけど。
325 :
考える名無しさん :2001/07/01(日) 16:03
青本は持っていないが、黒崎先生の『哲学的探求』を偶然図書館で発見。 今むさぼるように読んでいる最中。 どなたか私に講義してくれまいか?
326 :
考える名無しさん :2001/07/02(月) 02:38
『探究』は、ほんとに難しいですよね。
327 :
考える名無しさん :2001/07/02(月) 03:08
>>36 (いちご姫さん)
>原因による説明連鎖は(第一原因を認めなければ(笑))
>無限遡及が可能なので、Wの理由の行き止まり論は誤りである
と勘違いされることをあらかじめ避けるのが、
wが理由と原因を峻別する理由でしょうか?
前後の文脈から判断するに、
原因が推測から成り立つ仮説の域を出ないのに対し、
理由は推測など不要である文法構造を持っているというのが
原因と理由との混同を避けよというwと主張だと思えます。
>>22 (ミックさん)
原因と理由の文法構造の違いには言及されてますが、
規則に「合致」する場合と、規則が何らかの意味で実践に「含まれ」ている場合とについて
まったく言及されていないのには驚きました。
これは後期の思想において、規則をめぐるパラドックスの提示とそれへの回答に関わってくる
重大な問題であるように思われます。
328 :
考える名無しさん :2001/07/02(月) 14:52
age
329 :
考える名無しさん :2001/07/03(火) 02:24
age
330 :
考える名無しさん :2001/07/06(金) 23:44
ミックさん頑張れage すごいですよ…
331 :
考える名無しさん :2001/07/09(月) 01:58
age
332 :
傍観者 :2001/07/10(火) 01:24
言語ゲームについて、一般的な見解を簡潔に述べてください。
333 :
考える名無しさん :2001/07/10(火) 02:49
便乗age
334 :
考える名無しさん :2001/07/11(水) 23:31
探究の質問しちゃってもいいですかね?
335 :
考える名無しさん :2001/07/13(金) 02:31
なんかさみしいね
336 :
考える名無しさん :2001/07/15(日) 20:12
age
337 :
考える名無しさん :2001/07/22(日) 18:46
agetokimasu
338 :
考える名無しさん :2001/07/23(月) 17:45
暑い夏にはウィトで涼しくなりましょう。
339 :
考える名無しさん :2001/07/23(月) 20:17
ウィトゲンシュタイン? それとも、ヴィトゲンシュタイン?
340 :
名無しさん :2001/07/23(月) 21:47
「ヴィ」は北(標準)ドイツ語読み 「ウィ」はオーストリア(Wittgensteinの生国)読み 近年次第に「ウィ」が主流になりつつある。 なお英語では「ウィッケンシュタイン」
341 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 00:18
あの〜、ウィトちゃんのどのへんが偉大なんでしょうか? 「論考」は箇条書きで言ってることがよくわかりません 「探求」は現在読書中、イマイチよくわからん
342 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 00:33
>>341 いいねぇ、探究読書中ってのは。
私も読書中。現在360節。
どの辺が偉大なのかを知るには哲学的知識が必要になりますよ。
343 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 00:35
341さんへ。 ウィトちゃんは、あらゆることを考えたことがある人だからです。 たとえば、人は「このこと今まで考えたことなかった〜」ってあるでしょ。 でもウィトちゃんは、それがない人なんです。 だって、本人がそう言ってるんだもん。
344 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 00:52
>>343 あらゆることを考えた人ではなくて、
他人がなにかを考えたときには既にウィトによって考えられていたと言うのは事実らしいです。
周りの人間がそう証言しています。
345 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 00:56
343さん そうですか。いい加減な記憶で書いてしまって失礼しました。 ありがとうございます。
346 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 01:11
みなさんはウィトのどこに惹かれて、彼の著作をよんだり 伝記を読んだりするのですか。
347 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 01:15
男の生き様
348 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 01:28
文系ですが、ウィトの論考の中にある数学のたぐい?を 理解しないと前に進んではいけないのですか?
349 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 01:31
せめて論理については理解しておきたい
350 :
名無しさん :2001/07/24(火) 02:13
>>348 論考の存在論・言語論の基礎は数学ヌキでも大丈夫です。
但し、『哲学的考察』『哲学的文法』を読む時苦労します。
351 :
名無しさん :2001/07/24(火) 02:13
>>349 うん、論理は『論考』では存在論の可能性の限界を超越論的に限定する
ものだからね。
352 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 02:20
やはりそうですか・・・。数学、勉強しなおします。
353 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 02:22
354 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 02:33
いいえ。
355 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 02:51
論考ならば数学の知識は必要ないと思うのだが
356 :
考える名無しさん :2001/07/24(火) 02:53
357 :
名無しさん :2001/07/24(火) 13:58
>>356 どうせ『論考』が扱ってる数学って算術レヴェル(加減乗除――減と除はないかも)
なんだし。
358 :
名無しさん :2001/07/24(火) 14:00
『論考』が明示的に扱っているのは自然数論 しかも、+1にあたる操作を繰り返して一つ大きな数を得ることだけ。 従って、割る、という数学的方法をどうやって導入するのか教えて欲しい。 それができなければ、『論考』においては分数すら作れないから、有理 数論すら展開出来ない。
359 :
OFW@区別モード :2001/07/24(火) 19:09
マルクスークリトリクス
360 :
考える名無しさん :2001/07/25(水) 00:31
あ
361 :
考えない名無しさん :2001/07/25(水) 20:45
数字を使わずに言葉で書いていることを数字に置き換えるほうが難しいよね。
362 :
考える名無しさん :2001/07/26(木) 17:28
363 :
考える名無しさん :2001/07/27(金) 19:01
ある言語を理解するという事は、ある技術に習熟する事である。
>>363 だからどうしたっちゅーんじゃ
それだけならコリン・マギンの自然主義路線で成仏じゃねーかよ
つーことでクリスピン・ライトあげ
365 :
考える名無しさん :2001/07/28(土) 02:16
ウィトの反哲学的断章というのを読んだが ウィトは実はアホじゃないかと思った。
366 :
偽者 :2001/07/28(土) 03:20
アホじゃなくてキ印だと思う。
367 :
考える名無しさん :2001/07/28(土) 11:25
ウィトの言語観は、やっぱり自然主義的言語観(というかクワインのような行動主義的路線)とは 相容れないと思うんですよね。 しかし、具体的にどう相容れないかを明示的に語るのは容易ではない。 誰かに御教授賜りたいです。
黒崎宏の「ウィトゲンシュタインが見た世界」は、 その解説書として信用していいものでしょうか? 科学論の歯車の説明などを読んでどうも引っかかるのですが。
>>367 ウィトゲンシュタインは自然主義ではない。
まして物理主義ではない。
さらに、反文化相対主義的な観察的客観観測主義でもない。刺激意味なんてヰ氏は
まちがっても好意を示さないからね。
>>368 黒崎氏が意味≠指示でスパスパ物事を片付けてしまう点以外は、基本的に信用して
いいと思う。
クワインとウィトゲンシュタインの1番大きな違いは、クワインは科学的 観測のデータになるようなものを意味の根底に考えるのに対し、ウィトゲ ンシュタインは文化の総体とレラティヴにしか定まらないような機能を ベースにすることだ。
371 :
考える名無しさん :2001/07/29(日) 03:30
>>369 -370
もっと詳しく説明してくれると嬉しいんだけど。
特にクワインの方。
今『探求』読んでる。 終わったらクリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』。 その後『ウィトゲンシュタインの言語観(クリプキに抗して)』を読んでみる。 夏休みだしね。
373 :
考える名無しさん :2001/07/30(月) 03:25
はいはい、 ただのふぬけやただの馬鹿やただの虚栄心やただの変質者や ただのドキュンやただの勘違いやただの不誠実な人たちは もういいよ。
374 :
考える名無しさん :2001/07/30(月) 03:39
同性愛者であるというのは本当なんでしょうか。
375 :
考える名無しさん :2001/08/05(日) 23:14
あげ
376 :
考える名無しさん :2001/08/06(月) 22:38
age2
377 :
考える名無しさん :2001/08/07(火) 11:58
3
378 :
考える名無しさん :2001/08/12(日) 11:03
age4
379 :
考える名無しさん :2001/08/21(火) 21:42
メンテ
380 :
考える名無しさん :2001/08/23(木) 04:48
ミック氏復活期待上げ
むしろ誰か別の人にもやってもらいたいsage
探求を一節ずつ読んでいきましょう
383 :
考える名無しさん :2001/08/24(金) 23:05
メンテ
384 :
考えない名無しさん :2001/08/24(金) 23:12
いちご姫も来なくなった
385 :
考える名無しさん :2001/08/24(金) 23:59
そういえば黒崎訳で青色本のコメンタリーが出たね. いちご姫の居場所は今の哲学版にはなさそう.
386 :
考える名無しさん :2001/08/25(土) 18:31
387 :
いちご姫 :2001/08/26(日) 03:10
>>385 いちご姫です。
確かに黒崎氏のコメンタリを超える注釈を私ができるとは恐れ多くていいませんが、
だからといって、なぜ「今の哲学版にはなさそう」なのかしら。
そもそも、黒崎氏の読解本は、コメントが簡潔すぎて、やはりあれだけでは平均的
読者が十分に読みこなせるとは思えないのですが。(一応目を通したものとしての
実感。黒崎先生、もっと注釈を詳しくしてください。おねがいします。)
388 :
考える名無しさん :2001/08/26(日) 03:42
わ〜い、いちご姫復活まんせー!
389 :
考える名無しさん :2001/08/26(日) 03:57
>>387 おっと,一行目と二行目は別のコンテクストです.
単に哲学版が荒れていて姫がまともに相手をしそうなスレがないなあ
という嘆息でございました.紛らわしい書き方ですみません.
とはいえ久しぶりにお目にかかれて皆様お慶びかと.
この機会に黒崎版でミックさんの代打に出ようという人はいないかなあ(弱気).
390 :
いちご姫 :2001/08/26(日) 04:16
低能な私でよろしかったら,ミック氏多忙の間代理しましょうか? でも体力的にもたなそうな気がするのよねぇ。
391 :
考える名無しさん :2001/08/26 07:26
あのよう、根本的に言うなら今の時代 衣食住以外にほんまにいるものはないのよ。 だからいりませんて否定することはバカでもできるわけ。 で、俺たちのような知的エリートにとっては、必要を「発明」することが至上命題なわけ。 いい?君のような小物ニヒリストと俺たちとでは そもそも立ってる土俵がちがうのよ。 君は一生コメだけ食ってればよろしい。
392 :
考える名無しさん :01/08/26 09:12
「人はパンのみに生きるにあらず」 パン以外の何かを パン以外の何かを パン以外の何かを パン以外の何かを パン以外の何かを パン以外の何かを 求めてやまない生き物です。
393 :
考える名無しさん :01/08/26 10:08
彼はきっと悩んでいたのだろう。 詩を作れば作るほど出来る、自分と観衆の間の溝に。 自分で認識している「私」と、他人が認識している「私」の間にある、ズレ。 普通に、平凡に、毎日生活していく上では気にならない、ズレ。 そんな些細なズレも、一度社会から注目を浴びると、無視できなくなるくらいに、自分を押し潰し出す。 自分が自分で認識している能力以上のものを、求められたり、期待されたり、その瞬間から、 「私」の一部は、「私」でありながら、「私」ではなくなる。 音楽、絵画、文章、様々なメディアが、固定的な「私」という偶像を作り出す。 社会に流れる直前までは、確かに自分の意志で存在したそれらが、社会に流れ出したとたんに、自分なのに自分でなくなる。 社会からかけられる期待に応えようと、頑張れば頑張るほど、二つの「私」は離れていく。 そして、一人歩きしだした「私」に、認識している「私」が追従する。 「私」が「私」の奴隷になる。 それは、自分の主義主張思想を社会に流通させると、自我が独立してしまうという事。 つまり、自分が自と他に分かれてしまう。 自己自他性。 独立した自我を、再び自身で制御する事の難しさ。 尾崎豊は、その困難に一人挑んでいたのだろうか。 学校、先生、友達、親、社会、自由、恋愛、プロテストする対象がある内は良かったのだろう、それは自分を映す鏡だから。 プロテストすべき対象が無くなっても、歌い続けなければならなかった悲劇。 自分自身を探すあまりに、ひとりになってしまった・・・。 尾崎豊のラストアルバムの最後の曲、“Mama,say good−by”。 それは、母だけでなく自分に向けた、レクイエムなのかもしれない。
394 :
考える名無しさん :01/08/26 10:48
395 :
考える名無しさん :01/08/26 11:30
徒に疑ってみたりしないで大丈夫 いま君が独りで生きているなんて云えるの 君は常にギリギリで生きる あたしは何時も君を想っているのに 『虚言症』 椎名林檎 敗戦後の「希望」という意味の価値観は、多様なものではあり ませんでした。「おいしい物を腹一杯食う」そして「トンネル 状態から脱出」これが生きることの普遍的価値を象徴していた のでした。現在の豊かで快適な消費社会の中では戦後しばらく の間のような強い衝動をもたらす価値が見当たらなくなりまし た。生きることの「希望」が、最初から輝いているものではな くなり個人で見つけ出さなければらないたために「誰にも相談 できない苦しみ」と孤独感に悩み、その孤独感は逆に「華やか な自己妄想」を育ててしまうという悪循環があると思います。 参考文献『人生と向き合うための思想・入門』小浜逸郎、洋泉社
396 :
考える名無しさん :01/08/26 11:31
例えばHEYHEYHEYに出演した「ファナティック・クライシス」という名前の バンドに対して「プロレスの大技みたいな名前やなあ」とボケることに よって、それまで立っていたビジュアル系バンドのかっこいいイメージを すぐさま汗臭い男たちのぶつかり合いのイメージへとずらす。 笑いってのはこのように固定化しようとする社会のコンテクスト(この場合 ビジュアル系バンド=澄ました恰好いいにいちゃんたち)を絶えず ずらしていく運動のことだと思うのです。
>>390 早速荒らされてしまいましたねぇ.とりあえずsage進行にしましょう.
姫にはぜひやって欲しいですが,今の哲学板じゃあ
まともな突っ込みは期待できないかなあ.
ミックさんのとは別の掲示板とかでやるのも一つかな.
398 :
いちご姫 :01/08/26 23:00 ID:fyx/06Ac
>>394 わかっちゃいましたね、あっさり。
91=100=101=いちご姫です。
91の内容は、事実を変化させる、というのは『論考』では不適切な言い方で、
時間的経過における事態の存立・非存立についての表現を十分に厳格にいう事、
及び、意志と事実の関係について厳格に表現すること、のいずれも時間と頭の寝ぼけ
具合の制約から、出来そうになかったので、匿名HNにしました。
「いちご姫」名義での責任を持つ気がない、という気分・態度の表明が匿名HN採用に
こめられています。
>>394 僕は数カ月ぐらい前から姫が匿名でこの板で結構書き込んでたんじゃないかと思
ってましたよ。まあ、それはいいとして、せっかく復活されても、今2ちゃんねる
自体がどうなるかわからない状態なので(とりあえず、致命的な状態は回避され
たみたいだけど)、議論の場所をかえる検討はされた方がよろしいかと。
400 :
385 :01/08/28 02:04 ID:iMgZMUwU
さてどうしましょうか. 姫はまだ気が変わってないのかな? 他の人もマンセーなのかな?
万歳!
久々に来て見たりする。 「語り得ぬもの〜」の93は僕だったりする。 ひょっとしたらいちご姫さんかな〜と思ってたんですが、まだいらしましたか。 向こうのスレは、もう少し読んでからレスします。
403 :
考える名無しさん :01/08/28 20:19 ID:ZR6bbEh6
gomennage
404 :
いちご姫 :01/08/28 20:26 ID:WQeVQIFw
>>402 おかえりなさいませ、スレ主さま
やっぱり、ミックさんこのスレ続けてくださいよ。
ペースが遅くてもかまわない(と決め込んでみたりする)から。
>向こうのスレは、もう少し読んでからレスします。
は〜い、楽しみに待っています(とはいえ、あの問題はつついても何も出てこないと
思うんですけどね)
405 :
:01/08/29 00:50 ID:L.PTClGU
おお!いちご姫とミック氏が復活してる! お二人とも忙しいだろうからあまり無理強いはできないけど 一哲学板ウォッチャーとしてはぜひ議論復活してほしいです。 ここは下らない煽りや荒らしも多いけど その影には二人の議論を楽しみにしている人間がいることも ぜひ憶えておいて下さい。
406 :
考える名無しさん :01/08/29 01:10 ID:5QQmvVgo
FUKKATU AGE
407 :
ミック@有休 :01/08/29 02:10 ID:Ll1gVpCg
うーん、議論に参加したいのは僕も山々だけど、やっぱメインを務めるのはしんどいなあ。 誰か他の方々がやってくれると、負担が減って楽なんですが。 学生の諸君は、いちご姫さんと語り合うことができるなんて滅多にないチャンスだぞ。こんな優秀で親切なチューターにはそうそうめぐり合えない。 僕が学生の頃は(以下略 『青本』とか購読の形式、あるいはこのスレにだってこだわる必要は全然ないですよ。
409 :
考える名無しさん :01/09/01 23:25 ID:pKUuKsWY
ミック君大好きあげー。
410 :
考える名無しさん :01/09/01 23:27 ID:wGI.WAeE
自然には知恵が隠されている。 それを読み取る能力のある者が知恵ある者といえる。 外務省職員や政治家などは、絶対に知恵ある者ではなく、せいぜい巧妙な犯罪者である。 神が万物の尺度であるとすれば、神を信じられない人は、何を尺度とすればいいのか? 不正行為をする者は、金儲けだけがすべての基準であり、いかにして人をだまして金を奪うかということしか考えていない。 それは間違いなく金の奴隷であり、地獄の倫理である。 自然を破壊し、環境を汚染する者には知恵が無いし、公権力を悪用して国民の税金を奪う者は、大罪人である。 それゆえに哲学を嫌う者は、知恵ある者では無い。
411 :
考える名無しさん :01/09/08 22:13
412 :
考える名無しさん :01/09/14 13:14
ミックさん期待あげ
何か恐ろしい部署に異動させられた。残業の嵐が待ち受けている。 いよいよ当分は2chともおさらばかも。 他のスレで推薦されてたけど、『ウィトゲンシュタイン事典』は、面白い本です。 ポケットリファレンスにもなるし、「豆知識」情報も面白い。楽しんで読める事典。
414 :
考える名無しさん :01/09/14 22:53
>>413 >『ウィトゲンシュタイン事典』は、面白い本です。
同意。
探究をここで読むのはどうでしょうか。 昨日一回読み終わって、皆さんと議論をしたいのですが。 夏休みももう終わりで皆さん忙しいですかね。
416 :
考える名無しさん :01/09/23 10:40
ミック君最近やせたね。
>>415 以下のような陳述をするのは大抵の場合「自意識過剰のおバカさん」以
外の何者でもないのかもしれませんが,このスレの場合,まとめ役のミッ
ク氏とコメンテータとしてのいちご姫という役割分担がかなり固定してる
ので,(これからも)コメンテータ(役が期待されているのかもしれない)
いちご姫として一言。
>探究をここで読むのはどうでしょうか。
楽な部分と,とても疲れそうな部分とがあります。
楽なのは既に何度も読んでおり,しかも,(ヰトゲンシュタインの諸著作
の中では)(しかも,始めの方は)最も私が理解している(であろう)著作
である点。
※それに『探求』は面白いですしね。(ただ,今の私の関心は後半から第二部
なんですが。)
疲れそうなのは,私の側として最低参照しなければならないコメンタリが,
(特にBaker & Hacker のおかげで量的にも)多い点。最低,Hallet,von
Savigny, Baker & Hacker は常に目をとおしておかないとならない上,トピ
ックによってその他の研究書にもあたらなければならないですから。
それと,授業等で,ヰトゲンシュタインだけで『日記』,『考察』,『探求』
(の400番題)を今学期は併読するので,加えて『探求』の始めの方もはきつ
いかな〜。でも、ある程度はやいスピードで読むのは,ゼミでねちねち読む
のとは違った種の得るものがあるかもしれない・・・・
なので,いちご姫さんとしては,いつ途中でコメンテータ役に疲れて職務放棄
しても良い,という条件でなら可です。
418 :
考える名無しさん :01/09/23 14:07
>>417 全然それでOKです。
私は後半部分がさっぱりわからず、
もっぱらその部分に興味が移っているので
450節付近まではスピードを上げても構いません。
もうすぐ授業が再開されて私も大変な時期なのですが、
>>418 考える名無しさんへ
>全然それでOKです。
>私は後半部分がさっぱりわからず、もっぱらその部分に興味が移っているので
>450節付近まではスピードを上げても構いません。
まー,スピードを上げられると,当方の得るものが少ないのですが,その代わり
お気楽且つ無責任なコメントでよろしいのなら,その点は可です。
(『探求』に関する私自身の主要な関心部分は,第二部ですが,ここはまだHacker
の注解書がでていないから,コメンテータの立場で議論するのはかなり辛い(笑))
その点400〜600番題まではHackerのが出ましたからね。それに,多少なりと
も私なりにそのあたりまでは,自分の解釈があるのでなんとかなるかな?という気が
します。)
では,条件
(1)418さんが『哲学的探求』読解スレに於いて,固定ハンドルを持つ事。
(2)要約・質問は当方の責でないこと。
この二点がかなえられるのなら,けっこう歓迎です。
(しかし,授業で『日記』『考察』『探求』に加え,自分自身の研究で『論考』の最後
の方,「フレイザ」「講義と会話」『確実性について』,2chでも『探求』ってうーん
なんかまるで私,ヰトゲンシュタイン研究者のようだな〜(笑)。違うのに。)
あ,それと,スレはここと別に立ててくださいね。 スレ・タイトルとしては,当方は「ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』を読む」とか 「〜講読」とかといったおとなしめでニュートラルなものを希望。
>>420 あー,そうか,ここってスレ・タイトルは「青色本をよむ」ではなくて「ウィトゲ
ンシュタイン読むぞ」なのだから,まぁいいのか。
ここはここで残しておきたい気もするし,「読むぞ」とか「ゴルァ」があまり好き
ではないという個人的嗜好の問題もあるけど,ここのスレでテクストを『探求』に変
更でも構いません。
(入力「へんこう」を変換したら,まず「変項」となってしまった。わたしのワード
職業病かも(笑))
>>417 >ある程度はやいスピードで読むのは,ゼミでねちねち読むのとは違った種の得るも
>のがあるかもしれない・・・・
>>419 >まー,スピードを上げられると,当方の得るものが少ないのですが
私によるこの二つの書き込みから,いちご姫の考えは矛盾していてよ〜わからん,
と思われた読者のために。
ゼミのスピードは,週1コマで1パラグラフ程度。
2chでは,ミック氏のなさった速さでも一日数パラグラフ以上。
というわけで、同じ「ゆっくり」でもゼミと2chとでは,スピードがオーダーの
レヴェルで違うので,私としては矛盾した発言をしたとは思っていません。
>>417 >ただ,今の私の関心は後半から第二部なんですが。
>>419 『探求』に関する私自身の主要な関心部分は,第二部ですが
この二つの発言は,ちょっと舌足らずでした。最も関心を持っているのは第二部で,
第一部の中では前半よりは後半に関心がある,という事です。
以上
423 :
ミック@嵐の前 :01/09/24 01:31
『探究』は、持ってる人も多いだろうし、解説本や関連本も多いので、テキストとしては面白いですね。 もし始まったら、僕も蔭ながら応援させていただきます。
あげておきます。 一週間ほどここにはこられません。 その間に,『哲学的探求』講読は実施するのか,するとして誰がどのようにするのか, 興味のある方々の間で話し合っておいてくださるとうれしいな(いちごまーく)
425 :
考える名無しさん :01/09/26 01:12
知らぬ間に新たな企画が! うーむ、確かに『探究』を読むのは面白そうです。 私もできる限り議論には参加したいです。 議論の流れを掴むというよりは、 節ごとに少しばかり詳しめに読んでいくという方向で 読んでもらえるとありがたいです。
426 :
考える名無しさん :01/09/26 01:32
飯田隆氏曰く、「探究は見かけよりもずっと難しい。卒論のテーマにするなら やめておけ」なんだそうな。しかし、どれだけ「難しい」のかを知っておく 必要はあるかと思われるので、もしやるなら楽しみにしてます(さすがにまとめ役 は時間がなくて無理だが)しかし、探究は2次文献が多いですからねえ。。実はそ こが一番問題だったりとか(笑
427 :
考えぬ名無しさん :01/09/26 10:43
>探究は2次文献が多いですからねえ。。実はそこが一番問題だったりとか(笑 それに手を出したらあなたは一生哲学から手をひけなくなるんじゃない?(自嘲 更に,草稿ってものもあって(日本では成城大と阪大が持っている),これに手を だしたら,あなたは哲学に手をそめられずウィトゲンシュタイン訓固学で一生を終 えることでしょう(苦笑
428 :
どこかのお姫さま :01/09/26 10:45
>>426 飯田氏は健全な判断力を持っていらっしゃいますね〜
429 :
考える名無しさん :01/10/03 17:08
age
430 :
考える名無しさん :01/10/03 18:32
すいません、ドイツ語中級者で哲学は素人です。 ウィトゲンシュタインの有名な言葉に、 "Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen." と言うのがありますが、なぜこれの定訳が 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」なのでしょうか? "muss"だから「沈黙せざるをえない」とすべきではないでしょうか? 定訳のだと"soll man schweigen"のニュアンスになります。 原文を読んで「やっぱりな、ウィトゲンシュタインがこんな説教臭い ことを言うはずがない」と納得しました。この訳が定着しているのは 何か理由があるのですか?
>>430 この話題については「沈黙せねばならならない」とか何とかいうスレ
(正確なスレ名は亡失)に多少かきました。
解釈としては「沈黙せざるを得ない」(論理的必然性)とmussはとら
れてしかるべきでしょう。
邦訳において「沈黙しなければならない」(倫理的命令)が採られてい
る経緯・及びその継承の理由については存じません。
あ〜但し,ウィトゲンシュタインは恐ろしく説教くさい(しかも独善 的・独断的・権威主義的に)人間ですよ。 伝記等にもその手の話は沢山あります。 そもそも,『論考』自体――哲学においては言語批判以外するな,自然 科学の諸命題だけつらねさせよ,倫理や審美や高貴なるものについて論じ るな等々――説教みたいなものですし。 草稿には「幸福に生きよ!」なんんてゆ〜のもあります
いちご姫さんへ わー、すごく丁寧に答えてくださってありがとうございます。
434 :
考える名無しさん :01/10/04 23:20
>>430 >>432 あまり自信はないのと、新しい英訳しかチェックしていないのですが、
英訳版の must からの訳であるという側面が強いのではと思うのですが。
もちろん、英語のmustに論理的な必然性の意味もありますが、
やはり義務のニュアンスが、muessenよりも中心的であるように思えます。
>>430 このスレッドにはもっと詳しい人がいるはずなので書きにくいですが、
ちなみに、その言葉が末尾にある『論理哲学論考』は
英語・ドイツ語が、見開きに対訳になっている版で普及しました。
436 :
考える名無しさん :01/10/05 03:48
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. うーん,気取った英語だ.
そして沈黙がおとずれてしまったようだ。
438 :
考える名無しさん :01/10/08 00:56
それでも語るage
439 :
考える名無しさん :01/10/09 03:48
で如何なわけWってさ?
>>439 自分で読んで判断すればいいんではないでしょうか?
少なくとも哲学板でもこれだけ話題にあがるのだから
読む価値無しってのはないようだし。
441 :
考える名無しさん :01/10/09 05:54
下手に読んで、はまると抜けられなくなるので読まないほうがいいかもしれません。
442 :
考える名無しさん :01/10/13 18:58
>>426 >飯田隆氏曰く、「探究は見かけよりもずっと難しい。卒論のテーマにするなら
>やめておけ」なんだそうな。
卒論テーマにしちまって死んでおります
>>442 卒論レヴェルなら,反−私的言語論の解釈論争史(エァーvsリースからギーチ,
等々を経てクリプキ・マギン・マルカムの三つ巴まで)をまとめて,自分なりの
評価を下す,とか
行為と意志の問題を,アンスコムを手掛かりに纏めながら,アンスコムと違う方
向性や彼女の『インテンション』への発展では抜け落ちてしまうヰトゲンシュタイン
自身の問題意識や主張を提示する,とか,といった程度でも充分なのでは?
とりあえず、ヰトゲンシュタインについての論文集をキャンフィールドが纏めて
いますから,その10だったか12だったかの項目のどれかにトピックを絞ってよ
むことあたりから始めるのがよろしいかと。
あと、ギーチだったか?が書いた“Wittgenstein Workbook”のトピのどれか
に依拠するのも,(同書にヰトゲンシュタインの著作上の主な参照個所と,トピに
ついての質問集が作られているので,それに答えれば小論文になる),便利ですよ
>>443 指導教官にも同じような指摘を受けました
とりあえず私的言語関連をクリプキとの対比で取り上げる事にしてます
キャンフィールドの私的言語の巻は借り出してるのですが
ギーチ(?)のは未チェックでした。押さえてみます
>>444 書き込んだ後で思い直したのは,反-私的言語論を扱う<卒論>としては,上記の
内容は扱いきれないかも,という事です。
クリプキがらみなら,
(1)クリプキの解釈としての妥当性を巡って
(2)クリプキの議論の哲学的正当性を巡って
のいずれかでも充分卒論になるかもしれません。
特に(1)は,反論が山のようにあるので,その反論間の解釈の相違を整理して,
テクストとつき合わせるだけでも充分卒論になるかも,です。
(この件については,私も以前何か書いたなぁ,というおぼろげな記憶が
何を書いたかは忘れてしまった・・・・(自爆))
とにかく,卒論レヴェルでは,学習は広くしても,「執筆はできるだけ 狭いトピックに絞り絞って」がコツでしょう。
447 :
442=444 :01/10/14 01:21
>>445 まさしくその(1)の方向性でしょうか。
しかし、クリプキはrule followingの議論をベースにしているので
微妙に私的言語の議論と外れてくるのが難しい所です
(私的言語を論ずる際の仮想敵としてはあまり妥当ではないかも?)
>>446 肝に銘じます。学習に気を取られて卒論が上がらないとかでは笑えないですからね。
ところで、以前から話題になっている『探求』の講読はなさるんでしょうか?>All
期待を表明しておきます。
反−私的言語論(以後時にA(nti)−PLA)におけるクリプキの位置は,『探 求』§243以下の所謂反−私的言語論の個所が,それ以前における規則遵守論の コロラリに過ぎない,という事に有るのは周知の事です。 従って,(1)の方向性で従来のA−PLAを中心に論じるなら,クリプキの議論 との関係は,果たして,§243以下が§198〜§202を中心にした議論の系で あるのか否か,(従って§201〜202がA−PLAと直接的な関係を持つのか, 否か)という一点に絞ってしまえばどうでしょうか?
>>448 そうですね。その一点が焦点になるかと思います
ともあれ、あまり時間がない(年明けすぐが提出期限)ので
ガツガツ書く事に専念します
いろいろと助言ありがとうでした。>いちご姫様
450 :
nanashisann :01/10/18 22:00
age
>>447 >しかし、クリプキはrule followingの議論をベースにしているので
>微妙に私的言語の議論と外れてくるのが難しい所です
そもそも,243節以下でのヰトゲンシュタイン自身による私的言語の規定自体に
問題があります。
即ち,
(1)他人には理解できない言語
(2)自分の私秘的対象(感覚等)を指示する言語
このどちらをもあわせて彼は議論しています。そして,(2)が成立しないから,
(1)はありえない(269など),と彼は考えている様に読めます。しかし,私
的指示ができない事は直ちに(1)の意での私的言語が存在し得ない事を帰結しな
いでしょう。
また,259のように規則が存在しないならばその<語>は語ではない(無意味
である)と彼は考えている様に読めます。しかし,ある語に使用規則が存在しない
事とその<語>が無意味である事とは等価ではありません。事実,ヰトゲンシュタ
イン自身の議論を敷衍しても無意味とはいえない事が,第二部の第二義的意味の議
論を基に,丸田健氏によって説得的に論じられています。(数年前の『科学基礎論
研究』所載のニ論文を参照のこと。)
ここらへんでも規則遵守論と反−私的言語論とが微妙に関係している,といえな
くもありませんね。
なお,上記理由から243節以下は,主に反−私的指示論であって,それが(1)
の意味での反−私的言語論でもあるか,またヰトゲンシュタイン自身はその意図であ
ったとして,彼の見解を哲学的に正しいと認められるか,という重要な問題が残され
ている,と思います。
452 :
考える名無しさん :01/10/23 08:08
Wの良い概説書って在りませんか? 僕が読んだのはアンソニー=ケニ−と飯田隆の物だけだけど。
今のところ日本語で読めるものとしては飯田さんが一押しじゃないかな? あと,個人的見解が強く出ているが,中期にちゃんとページを裂いている 点では永井均 同様の理由で,英語のものなら Hintikka,Merrill B. &Jaakko, Investigating Wittgenstein Blackwell 総括的によい中級の再入門書としては ノーマン・マルカム著,黒崎宏訳,『何も隠されていない』,産業図書 がお勧め?
「確実性の問題について」にいい文献はありませんか? とりあえずマルコムの「何も隠されていない」が日本語として読めるものでは 詳しい文献だと思うのですが。 翻訳されていないものでもけっこうなので教えてください。
>>435 >>430 >このスレッドにはもっと詳しい人がいるはずなので書きにくいですが、
>ちなみに、その言葉が末尾にある『論理哲学論考』は
>英語・ドイツ語が、見開きに対訳になっている版で普及しました。
>>436 :考える名無しさん
>Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
>うーん,気取った英語だ.
英独対訳本は,二種類あります。
一つは1922年板C.K.オグデンの英訳によるもので,436氏が引かれた訳文
はこれによるもの。
他は1961年版D.F.ピアーズ&B.F.マギネスによる英訳のもので,こちら
では7番は
What we cannot speak about we must pass over in silence.
とやたら簡易な訳文です。
>>454 >「確実性の問題について」にいい文献はありませんか?
トマス・モラヴェッツ著,『ウィトゲンシュタインと知』,産業図書,1983
がUGについて日本語で読める唯一のコメンタリ本です。
批判的に検討したものとしては,
丹治信治著,『言語と認識のダイナミズム』,勁草書房の第2章
もまあまあです。
又,筑波の紀要に鬼界氏が「確実性」読解についての連続論文を乗せています。
これは独創的な読解で,評価に値するもののようです(私は未だ十分に
氏の見解を汲み取っていないのですが。)
>>454 Ueber Gewissheitに限定されはしないのですが,類似が良く指摘される
ウィトゲンシュタインとクワインの全体論を比較検討した好著として,
Heal,Jane, Fact and Meaning, Blackwell,1989
が挙げられます。
あと,私自身はあまり賛成できない見解が採られているのですが Stroll,Avrum, Moore and Wittgenstein on Certainty,Oxford U.P.,1994 もお勧め
460 :
考える名無しさん :01/10/25 11:51
突然恐縮です。以前「心ってどこにあるの?」というスレにおける 伍長氏、マルシンド氏なる方々と出会いたいのですが、どのスレに 行けば良いでしょうか(捜索すること一週間!)もしやミック氏なら ご存知かと? 連絡求む! 迷える子羊でした。
「現代思想」などやっているアホども
462 :
考える名無しさん :01/10/25 12:49
>>462 承知しております。
でもココしか頼れる道が・・・
いちご姫さん、ありがとうございます。 モラヴェッツと丹治さんのを読んでみることにします。
465 :
考える名無しさん :01/10/25 19:43
>>460 伍長は別ハンで心理学板に書込んでない?
つい最近、臨床強化ブームを巻起こしてたよ。
そも「心ってどこにあるの?」は向うのスレじゃ。
向うに逝って探してみんしゃい。
>>460 マルシンド先生はずっと昔に固定ハンを捨てていますが、
「アフォーダンス」スレなどで大暴れ。(苦笑)
句読点が,.で、それらしい戦闘的な内容ならマル氏です。
板違いでのご無礼の数々、深く深くお詫び申し上げます。 ご無礼ついでに、迷える私に、ほんの少しの発言のスペースを! 小生、只今「心の自由」という課題に取り組んでいる中、 既述のスレを発見致しました。(以前はプロバイダに勤務するも、掲示板は初体験、恥!) 本来なら、低脳&厨房である小生が、議論できる身分では無いのですが 今一度、伍長氏のご意見を! 詳細は心理学板で「こころを学ぶ」スレを立ち上げますのでそちらで! 当初は突つかれると思いますので、それを眺められるのも また一興かと! 追伸 小生は、スキナーの何たるかも知らない無知無学者です。 それでも「教授してやろうう」と御思いならば、ぜひに!
468 :
考える名無しさん :01/10/26 14:23
なんか、こういう場所のコテハンって、コテハン捨ててもばれてしまうの がなんとも、、プリンセスストロベリーを含めて(苦笑 ところで、結局「探求」読まないんですか?もうちょっと軽めのテキスト なら僕もやる気があるのですが、、そういえば、「無限論の教室」を読もう という話も昔あったなあ。。
469 :
考える名無しさん :01/10/26 17:11
470 :
考えぬ名無しさん :01/10/26 17:52
心が脳の中だけにあるのではない,のは自明と思うんですけどねぇ 心は脳には(少しも)無い,というならそれなりに対処する価値のある 哲学的主張だ,とも思えるけど・・・・ (後者の方だと,創発の場合創発する源とされた生成者とに同一性がい えるか否か,つまり同一性概念は何なのか,という問題が絡むので,興 味を持てる哲学者もいるかもしれない)
471 :
考えぬ名無しさん :01/10/26 17:55
あ,でも科学者側の主張の定式化をきっちり目にしていないので,案外 対立していない可能性は高いか? 同一性については,科学者は多く偶然的同一性を語るのに,哲学者が心 脳同一論について語っている場合,少なからぬ場合に必然的同一を前提 に議論してたりするから・・・・ 議論の単なるすれ違いで,反論しあっていない場合が多い
472 :
考える名無しさん :01/10/26 21:52
473 :
考える名無しさん :01/10/29 10:48
474 :
ありきたりな教えてクン :01/10/31 10:11
Wの前期後期連続性ってどういうことですか?
475 :
考える名無しさん :01/11/03 20:49
むかしはウィトゲンシュタインは若い頃と後の方で全く違う主張をしていると考え られてきた。(本人もそんなふうにいってる) でも、近年の研究によるとかなり両者には似ている部分が多いと次第に考えられる ようになってきた。 その両者の間に似ている(連続性)があるということ。
最近プログラマ板やUNIX板の住人と化していました。 465の伍長さんてご本人かな。それなら、ご健在で喜ばしい限り。 『探究』を読む企画は進展してないのかな。意欲ある方きぼーん。こっぱずかしい意見書いて叩かれたって、2chでの恥は掻き捨てだよ。
477 :
考える名無しさん :01/11/06 22:33
ミックさんプログラム言語勉強するとウィト観は変わりますか?
変わるっていうほど確固たるW観を持っていたわけではないし、まだプログラミング言語勉強し始めて日が浅いから、あまり「これは凄い!」というような感興は起ってないですね。「英語やドイツ語を勉強したらW観が変わるか」ってなもんですよね。 ただ、計算機科学の方面でも面白そうなネタはいくつかストックしつつあります。コンパイラで利用される文脈自由文法や、現在のコンピュータモデルであるチューリング・マシーン(チューリングはWの講義に出てたらしいですね)とか、 オブジェクト指向と写像理論とか関数型言語Lisp・・・・・・まだまだミーハーの域を出ないですけど。 そういえば、情報工学とか専攻していた人の中には、クーンやポパーを読んだ、って人も意外にいます。ヒルベルトを尊敬(!)する数学科の同期もいる。友達にコンピュータ勉強している人がいるなら、話してみると発見があるかも。
479 :
ミック@渦中 :01/11/07 23:23
デフォルトで下げちゃった。
ミックさんお久しぶり.計算機科学には色々ネタが転がっていますね. 危なそうな人も多いけど(w TuringとWittgensteinとのやり取りは Cora Diamond ed. Wittgenstein's Lectures on the Foundations of Mathematics, Cambridge 1939 The University of Chicago Press に出てきます.個人的にはこういった論考から数学の基礎に関する辺りを ちゃんと押さえたいんですけどね.
481 :
ミック@渦中 :01/11/08 01:30
おお。お久しぶり&フォローありがとうございます>咲也さん。
僕もまだ詳しく調べていないんですが、チューリングから見るとWの数学観は「いっちゃってる」印象だったようですね。
かたや、数学を計算機という物理媒体に利用しようとする応用屋、かたや数学の現実世界における意味を解体しようとする基礎屋では、話が合わない
のも当然かもしれないですけど。
>計算機科学には色々ネタが転がっていますね.
>危なそうな人も多いけど(w
プログラマ板を覗けばその手の「危険人物/危険思想」に関する話題は事欠きません(笑。なぜか「そういう」文章には「ハイデガー」「ゲーデル」「ドゥルーズ」
という単語が頻出する傾向があるんだよね。幸い(?)Wは上のビッグ・スリーに比べて出現頻度が少ないようです。
計算機科学基礎論とはずれるけど、この板とUnix/Linux板で共通して名前を見かけるのは、山形浩男さんですね。あの人がどの程度の知識の持主なのか、
僕のレベルではまだ判らないけど、HP翻訳されているRaymondの論文は、面白いです。Linuxやオープンソース運動に興味ある方、または特に根拠はないけ
ど何となくマイクロソフトには味方できない、という方は、覗いてみるといいかも。
http://cruel.org/freeware/cathedral.html
Wittgensteinとあんまり関係ないのでsage. > かたや、数学を計算機という物理媒体に利用しようとする応用屋、かたや数学 > の現実世界における意味を解体しようとする基礎屋では、話が合わないのも当 > 然かもしれないですけど。 Turingが今の感覚で言う応用屋と言うのはちょっと外しているんじゃないかと. TuringとWittgensteinの関係は, 今のではなくあの時代のコンテクストにおいて見ると いろいろ興味深いと思いますよ. そういえばTuringの全集がでるみたい. > 計算機科学基礎論とはずれるけど、この板とUnix/Linux板で共通して名前を > 見かけるのは、山形浩男さんですね。 山形浩生です.2ちゃんねらーだから見てるかも(w E. Reymondの話というのは,言葉にはあまり出てきませんが 基本的にはバタイユあたりのポトラッチの話に関係しているので そっちに興味のある人なら楽しめるかも.
>Turingが今の感覚で言う応用屋と言うのはちょっと外しているんじゃないかと. むう。そうなのですか。やはり碌に調べずにいい加減なこと言ってはまずいですね。 >山形浩生です.2ちゃんねらーだから見てるかも(w こりゃ失礼。「生」の字でしたか。ひょっとして御本人が見ていたらごめんちょ。 聞いてアロエリーナ 今日結合テストやったんだけど、うんともすんとも言わないんです。 明日には動いてくれるでしょうか。土曜日は休みたいな〜〜 聞いてくれてあーりがと アロエリーナ♪ \______ ________/ |/ Ψ ∧_∧ 〃|〃 (∀・ ) □ (∩∩ )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミックさん咲也さんこんばんわ うーん,Wの数学論はちゃんと読んでおかないとまじーですかねー 数学わかんないから数学論もねー ただ,かなりWの「いっちゃってる」面が露骨に出てきているのが彼の数学論だから, クライゼルのようなあきれただけの人が多いのは当然なのでしょう。 ところで,私いまだにWが数学に於けるリヴィジョニストでない,というテーゼと両立 するWの数学の哲学解釈の可能性が思い浮かばないのですが,咲也さんあたり,なにか よいアィディアおありではありませんか?
485 :
考える名無しさん :01/11/10 22:26
ウィトゲンシュタイン、難かしいんですけど。 原語のほうがわかりやすい? 山元さんのって、訳語混乱してません? 俺が混乱してんのかな?
検討した事は無いですが,山元訳はそれほど悪くないはずです。 (時代的制約は当然あるでしょうが) 困るのは奥訳。一部に,この訳語をここで使ってはマズイ!っていう時に つかわれている事例が散見されます。(でも数単語についてだけの話で すが。) 具体的にどこが混乱している,と485さんはお考えになられたのですか?
487 :
考える名無しさん :01/11/10 23:10
>>486 ありゃ、イチゴ姫さん。
いや、読み始めたばっかなんですけど。
全然頭に入ってこなくて。
自分の理解力不足だと思うんですけど。
イチゴ姫さんは
日本語と原語どっちが頭にすっと入りますか?
(私が混乱してるのを下に並べました。)
起こる事、Fall
事実、Tatsache
事物、Ding
事態、Sachverhalt
対象、Objekt
状況、Sachlage
>>483 わはは,XP頑張ってください.
>>484 revisionistという言葉の哲学的connotationはわかりませんが,
Wittgensteinが単体の数学というものを考えていない以上
普通の意味でのrevisionistではありえないのではないかと思います.
そしてもっと積極的にWittgensteinの数学の基礎に意味を見出すことが
可能かという問いならば,私は可能だと思います.
ただそれ以上の突っ込んだ議論はちょっと匿名では難しいかな.
ただWittgensteinは間違っていると言うよりは
違うことを言っているわけですから,
説明責任と言う意味ではWittgensteinが悪いでしょうね.
もっとも彼がそういうことを自覚していたかどうかは怪しいと思いますが.
Kreiselの批判にしても,当時のまともな数学者なら,
こいつなに言ってるんだ,と思うのが普通の反応だと思います.
>>485 論考ですね.こっちを読む方がいいな(w
私もわからないところがあるし.
FallとTatsacheはほぼ同義です Sachverhaltは事物の組み合わせの仕方の論理的諸可能性,Tatsacheは現実に成立して いる組み合わせです。 Objectは写像がそれを写すところのものですからSachverhaltを写像論の文脈で呼 ぶ概念でしょう Sachlageが最も怪しい概念で,概ねSachverhaltと同義もしくはステニウスのように Sachverhaltの存立・非存立の可能性,と解しておけば大きな混乱は無い,と思います。
>ありゃ、イチゴ姫さん。 >全然頭に入ってこなくて。 『論考』って,一見推敲を重ねた文の様でいて結構怪しいところが多い んです。あまり,一語一語にとらわれずに一度完読なさってみたら? >イチゴ姫さんは >日本語と原語どっちが頭にすっと入りますか? ドイツ語は記憶しているので,新に「すっと入る」のは日本語ですね。 何と言っても,日本語は訳が乱立しているので,何がなにやらわからな い(笑)。
注記 489のコメントはあくまで超初心者向けです ここいらの概念でも弄り回せばいくらでもヘンなところを出せますが それはなるべく目を瞑って読み進みましょう,というそういう人の為の 提案ですので,「怪しさ」は無視して初級辞書的説明に徹しました
492 :
考える名無しさん :01/11/11 23:10
チンポ太郎が「浅薄な解釈者どもの群」って、このスレを形容してたYO!
>>488 >説明責任と言う意味ではWittgensteinが悪いでしょうね.
念頭に無いでしょうね,きっと(笑
論考でははっきりそういってるし
中期以降だって実は自分の意見のゴリごしばっかだし
>Kreiselの批判にしても,当時のまともな数学者なら,こいつなに言っ
>てるんだ,と思うのが普通の反応だと思います.
多分そうだろうと私も思います。(当時の数学の哲学の状況を知らない
ので判断じゃなく思うだけなんですけどネ)
>>いちご姫さん どうも、親切にありがとうございます。 頂いたアドバイスを考慮して一度 読み通してみます。 >Sachverhaltは事物の組み合わせの仕方の論理的諸可能性, >Tatsacheは現実に成立している組み合わせです。 この説明は、非常にわかりやすいですね。 さすがです。 >ドイツ語は記憶しているので,新に「すっと入る」のは日本語ですね。 >何と言っても,日本語は訳が乱立しているので,何がなにやらわからな >い(笑)。 記憶してるとは。(驚 日本語で読んでみて、あまりにも納得いかなかった個所があれば、 原語に当たってみようと思います。
495 :
考える名無しさん :01/11/20 04:35
「回想のウィトゲンシュタイン」最高
496 :
考える名無しさん :01/11/20 04:36
翻訳って英語のも問題があるって聞くけど?
497 :
mimesis :01/11/21 00:36
黒崎宏の『ウィトゲンシュタインが見た世界』読んでます。 人生哲学or宗教哲学からのウィトゲンシュタイン入門? 『論考』の難解なところをすっとばして<6の終りのほう〜7> だけ読むのは問題あり?
いちご姫さんって何者なんですか? 大学院行こうと思ってるんですけど、 在野にこんな人がいるんじゃ自信なくしちゃいますよ〜
>>496 オグデン訳もペアーズ&マギネス訳もそれぞれに問題を抱えています。
但し,かつてはかなり酷評されていたオグデン訳にも良い点が少なからずあることが
昨今再評価されてきています。
500 :
考える名無しさん :01/11/27 01:04
「数学の基礎」読みました。 今まで読んだ事無かったけれど、数学基礎論とかとまったく違う問題なのね。 名前にだまされたよ。と言うより僕の無知に。
いちご姫さん。 ヴィトゲンシュタインの独我論についての論文でいいのありませんか? できれば「論考」期ではなくて、中期、後期においての独我論を扱った 論文が希望なのですが。
>501 >中期、後期においての独我論を扱った論文 ごめんなさい。具体的に思いつきません。
503 :
考える名無しさん :01/11/28 01:24
ここはウィトゲンシュタイン文献学のスレですか? ウィトゲンシュタインに触発されて哲学するスレですか?
504 :
考える名無しさん :01/11/28 07:01
505 :
考える名無しさん :01/11/28 22:17
スレ立てた当初は文献学(解釈学)をモットーにしてたようだな。 ま、それはそれで一つのやり方だわな。物足りないのもいるかもしらんが。 そういうのは別スレたてればよろし。
506 :
考える名無しさん :01/11/29 00:41
文献学は大切だが「哲学すること」の1ステップに過ぎないことを、 前提としなければ「哲学学」に陥ってしまうね。 先人の思想からは知識を学ぶのではなく、 「考える」とはどういうことかを学ぶ。 梯子をはずすっていうのはそういうことではないか。
507 :
考える名無しさん :01/11/29 22:46
文献学か…Wが聞いたら笑うね。 「何も解かってない」とかいって。
508 :
エピステメ :01/12/02 21:22
>498 >いちご姫さんって何者なんですか? >大学院行こうと思ってるんですけど、 >在野にこんな人がいるんじゃ自信なくしちゃいますよ〜 こういう問いには誰も答えないでしょう。 学者志望さんはどう考えるんですか。 例えばいちご姫さんの力をどのようにお考えなのですか? 単に27歳程度の博士課程後期の方と考えるか、 もっと実力があってプロの水準なのか、 あるいは凄いプロなのか。 一番最後のところなんかは、自分の認識能力に関する ドクサ的前提そのものを疑うことでしょう。 学者志望であれば、それを含めて反省すればいいのでは?
509 :
考える名無しさん :01/12/03 01:21
>いちご姫さんって何者なんですか? 文献学のプロ水準ってとこでしょう。 学者で自信なくすっていうならわかるが、 まだ学部生でしょ?これから知識増やせばいいことじゃない。 「文献学」いいね、この言い方。奥雅博さんが言ってなかったっけ? 自虐っぽく(w
510 :
考える名無しさん :01/12/03 01:31
>文献学か…Wが聞いたら笑うね。 >「何も解かってない」とかいって。 だね(藁) でもさ、自分の言葉で語るって難しいよ。 まず文献学から、つまりウィトでもカントでもいいけど、 じっくり読み込んで哲学的思考の基礎を築いてから でも遅くないんじゃない? その意味でこのスレは有意義だよ。ためになること書いてあるし。 このスレを卒業してからが哲学の始まりだね。 そこで立ち止まって単なる知的好奇心で終わる人が多いんだけどさ。 (その方が幸せかも・・)
>>510 同意します。
然し哲学的思考の基礎とは何を元にして言っているのですか?
512 :
考える名無しさん :01/12/03 12:27
>>511 それをスパッといえれば苦労はないんじゃない?
>>509 >>いちご姫さんって何者なんですか?
>文献学のプロ水準ってとこでしょう。
え〜っ,私は哲学屋さんで文献屋さんじゃないですっ!
(プライドとアイデンティティにかかわるので!強調!)
哲学的にはヰトゲンシュタインに近い立場に立っている筈ですが,ヰトゲンシュタイ
ンの文献学者というわけではありません.
文献学者さんというのは(比較するのもおこがましいけど)黒田亘氏や奥雅博さんの
ような方々をいうのです.
514 :
考える名無しさん :01/12/03 18:59
哲学屋って名称も相当おこがましいけどな
515 :
考える名無しさん :01/12/04 03:17
>513 黒田亘のどこが文献学者やねん。 黒崎宏の間違いとちゃいますか? あと、あなたとウィトゲンシュタインとが見解を異にするところは どんなとこですか?
516 :
考える名無しさん :01/12/04 08:19
黒田さんが文献学ってのは俺もなんか違う気がします。。
黒崎宏氏は,ヰトゲンシュタインにどっぷりはまり,彼の見解を使いま くっていますが,文献学には殆ど興味をもってませんよ。 ま,ヰトゲンシュタインの霊が降りちゃった人かもしれないけど。
518 :
考える名無しさん :01/12/04 14:46
>ヰトゲンシュタインの霊が降りちゃった人かもしれないけど。 確かに(w ところでみなさん、存在が存在することに驚いたことありますか? 結局、行き着くところは絶句なんですよね。(どうでもよくなる。でも考える・・) ウィトゲンさんのことはあまり知らないのですが、 語り得ぬものには沈黙ってやつ?凄いよくわかるよ。 この一節だけでいいんじゃない?
519 :
考える名無しさん :01/12/04 16:09
>>509 別に、いちご姫の味方をするわけじゃないが、見ててそれはちょっと
失礼な言い方じゃないかとは、外野ながらにも思ったぞ。
520 :
考える名無しさん :01/12/04 17:40
521 :
考える名無しさん :01/12/05 01:12
アイデンティティ、そんなものは放っておいても出来上がる。 それよりも、いま、ここで、世界を見ている、この「私」。 こいつは一体何なんだ! 論考を読むたび他人事とは思えなくなる。
522 :
考える名無しさん :01/12/05 04:00
えっ、「論考」… えっ、アイデンティティほっといても出来上がる?
523 :
考える名無しさん :01/12/05 04:05
エリクソンを知ったら、 「そんなものは放っておいても出来上がる」 なんて口が裂けても言えなくなるYO! けっこう面白いからエリクソン読むべし!
524 :
考える名無しさん :01/12/05 18:15
アイデンティティの指してるものの内容が違うんじゃないですか?<↑の2人 まあ、とにかくウィトゲンシュタインは老後の楽しみで十分ってこった。
ウィトゲンシュタインにとっては 老後の愉しみなんてありえないだろうなぁ...
526 :
名無しさん@1周年 :01/12/05 22:30
527 :
名無しさん@1周年 :01/12/06 20:20
>>526 うんうん、
それに論考の我は、どこのどういう誰、って規定が全くないから、論考を読みながら
どこのどういう誰って自己規定であるアイデンティティがかってに出来上がるって
思っているのって、矛盾じゃないけどヘン
論考読んだらアイデンティティの問題なんかよし重要な問題があったと思ったとかな
ら、それこそ永井路線としてわからないじゃないけど
>>484 (いちご姫さん)
すいません。レス戴いていたのを見逃していました。
>文献学か…Wが聞いたら笑うね。
>「何も解かってない」とかいって。
そうでしょうね。
でも僕はそこまでWと心中する気はないです。
このスレは、とりあえず自分なりにWを解釈して楽しもう、ぐらいの気持ちで立てました。
そのささやかなレベルにいちご姫さんが付き合ってくれただけでしょう。
ところで、書き込みの本題はこっちなんですが、山形さんのHPでこんなの見つけました。
A・チューリング「計算する機械と知性」
http://tanaka-www.cs.titech.ac.jp/~euske/doc/turing-j.html 番外編として、こいつでもテキストにしてみようかな、と思ったわけです。
今日一通り目を通しましたが、短いわりに内容の濃いものでした。とても面白そう。
これなら、誰でもアクセスできるし、引用もコピペで済むし。
計算機理論の方面のこと知らないとイメージ湧かない部分もありますけど、僕に
できる範囲でフォローしてみます。
また、必要に応じて別スレ立てるかも。
>>528 君が斯様に受け取ったのは少々残念。
僕は文献学に矮小化している事に付いての皮肉のために書いたのだ。
詰り対象は寧ろ外野。
最近家のパソコンにLinuxを入れて、Lispをいじり始めました。いいおもちゃができました。
>>529 そうですか。
しかし筋金入りのウィトゲンシュタイニアンから見れば、
やはりこのスレは「何やってんだか」な印象になるでしょう。
「計算する機械と知性」を読んで、まず面白かったのは、オートマトンと『論考』の世界観の類似性でした。 automatonというのは「自動機械」と訳されるコンピュータサイエンスの用語です。チューリングの用語では、“離散状態機械”(p.440)です。今のパソコンや大概の計算機は、全部オートマトンです。当然チューリング・マシンもオートマトンの一種です。オートマトンの特徴は、 1.複数の内部状態を持つ。 2.必ず初期状態から始まる。 3.外部からの入力信号によって状態が遷移する。その際、遷移の結果となる状態は、 入力信号によって一意に決められる。この意味で、オートマトンは入力信号に対す る『関数』と呼ぶことができる。 4.二つの状態が同時に成立することはない。 簡単な例を挙げると、自動販売機ですね。お金が入力信号に当たります。入れるお金の金額によって、自販機の中の状態が刻々と変化していきます。あるいは、電灯を付けるスイッチもオートマトンですこの場合入力信号は、スイッチのオン/オフの動作です。 さて、チューリングはここで面白いことを言います。オートマトンは(つまりコンピュータは)ラプラスの決定論的宇宙と良く似ている、というのです。
≪初期状態と入力信号が与えられれば、以降の状態をすべて予測することができそうである。これはある瞬間の宇宙の全粒子の完璧な状態、つまり位置と速度がわかればそれ以降の状態はすべて予測可能であるというラプラスの予言を思わせる。 しかしいま考えているこの予言はラプラスのものよりいくぶん予測しやすい。≫(p.440) 確かにそのとおりです。ケチをつける点はありません。しかし、オートマトンの振る舞いを全て予言してみせるには、ある状態ある状態で外部から入力されてくる入力信号が全てわかっていなければなりません。その入力信号はどのように決定されるのか? それを知ることは、オートマトンの内部では、多分不可能です。ひょっとすると、オートマトンAによって出力される結果をAの入力信号として使う・・・・・・というような、「自分の足を食う蛸」みたいな自己参照機械がありうるかもしれない。 入力信号を知る別の方法として思いつくのは、別のオートマトンBを用意して、Bの出力結果をAの入力信号として使う、という方法です。つまり別の「系」、別の宇宙、外部を用意してやることです。 プログラミングの世界では、この方法はしょっちゅうやります。独立の機能を持つプログラムを関数に見立てて、複数のプログラムの間で入力信号(引数)と出力信号(戻り値)の受け渡しをさせてやるわけです。 しかし、これをやると、オートマトンAの入力信号を全部予測することはできるようになるけど、そのためには今度はBの入力信号を知る必要が出てくる・・・・・・無限連鎖ですね。 つまり、ラプラスの宇宙とチューリング・マシンとの大きな違いは以下の点にあります。 “ラプラスの宇宙は閉じていることが前提とされた仮想空間だが、チューリング・マシンは、その挙動を全部予測するには(多分)閉じることはできない” 意外に長くなりました。『論考』との関係で考えたことは、また次に書きます。
>しかし筋金入りのウィトゲンシュタイニアンから見れば、 >やはりこのスレは「何やってんだか」な印象になるでしょう。 其れはそうですね。 そう言えば「W小事典」だかの前言にも斯様な事が書いて有りましたね。
534 :
考える名無しさん :01/12/12 14:05
ウィトゲンシュタイン読む前にフレーゲとかラッセルとか 読んでおいた方がいいのでしょうか?読んでおかないと 『論考』が自作自演の空回りに見えてくる?
521さんは『論考』とアイデンティティの問題は無関係ってことを 言いたいのでは? それと「私」の問題。 これは永井氏(不勉強で申し訳ありませんが名前しか知りません) という方がどうのではなく哲学の根本の問題では? 私も常に同じようなことを考えているもので。フォローしたくなりました。 ところで違う方面から、ウィトゲンシュタインに興味を持っていたのですが、 『論考』や永井氏の著作には、このような問題が論議されているのですか? アイデンティティ以前の、普段「私」と呼んでいる「これ」に関する問題が。 だとしたら興味どころではなくなりそうです。
536 :
考える名無しさん :01/12/13 02:32
537 :
考える名無しさん :01/12/13 02:39
>>535 たぶん521と同一人物。違うにしてもこのスレには合わんよ。
永井スレに逝った方がいい。たぶん君の疑問と同じだよ。
538 :
考える名無しさん :01/12/25 01:05
Xmas age.
539 :
エピステメ :01/12/31 02:23
>>517 >黒崎宏氏は,ヰトゲンシュタインにどっぷりはまり,彼の見解を使いま
>くっていますが,文献学には殆ど興味をもってませんよ。
> ま,ヰトゲンシュタインの霊が降りちゃった人かもしれないけど。
こういうコメントはよくわかります。全く同感です。
元来哲学屋さんであるということは承知しております。
勿論文献学もできるけど。
540 :
考える名無しさん :02/01/02 08:52
論理哲学論読んだけど、サパーリ 何かカッコイイこと言ってるなあって感じ。 ちくまの入門書でも読むか。
541 :
大庭忠吾 :02/01/02 12:09
お久しぶり大根です。昨年はどうもお世話になりました。 今年もあまり投稿できないと思うのですが、皆様、よろしくお願いします。 いきなり堅苦しい話で恐縮なんですけど、小林先生の同時テロへの見解に対しては 茶系の皆様は概して否定的なようですね。私は最初はテロ=絶対悪で、ゴー宣の主張には 納得できないものがあったのですが、よくよく考えて今では「う〜む、やむを得なかったのかも」 などと、小林センセの意見と同じように思うようになりやした。なーんかいっつも説得させられ てしまうんですよねー・・・ゴー宣読むと。 モスリムの立場から考えると、自分達のアイデンティティーの中心地を不当に占領している イスラエルへ支援しているアメリカ、湾岸戦争のドサクサに紛れていつのまにかイスラムゆかりの 聖地があるアラビア半島に駐留しているアメリカへの憎悪は理解できるような気がするのです。 口では「人権」だの「自由」だの「平和」だの奇麗事言ってるくせに、当たり前なことなのかも しれませんが、結局アメリカのやってることと言えば、国益第一の自国中心一国主義なんすよね。 選挙でユダヤ系を見方につけて当選する為に、イスラエルに肩入れするし、石油利権の確保の 為にサウジに駐留する。近代化に伴う欧米の価値観(文化、経済)の流入で、貧富の差が 広がり、アイデンティティーが脅かされはじめたモスリムの一部が、そんなアメリカの都合 のいい二枚舌に反発するのも当然かなぁとかついつい考えちゃいます。
< ̄ ̄ ̄ ̄ ̄フ │ヽ / ̄/ │ ̄─_ │ ̄─_  ̄ ̄ ̄フ ノ .││__/ /_  ̄─_│  ̄─_│ _____ / / / \ ______ .│\ /__ \ < < / ∇ / ̄ \ ヽ ヽ___ フ . │ │ / / / / ̄ヽ \ .ヽ \ │凵@ \ | │ フ / │ └─丶 │ │ / / ヽ ヽ .\_ノ ヽ_人__> 丿_/ /∧ ヽ レ──ヽ ヽ │ .ヽ_/ / │ │ // ヽ \ 丶丶 ヽ / / / /_/ \ \ 丿丿 \ノ / /  ̄ ∠/  ̄ /\ へ / / |\ _| |_ / / ││ < > //______ ││  ̄| | ̄ | _ _ _ ヽ │ │ | | | ││││││ │ │ │ | | | ││││││ │ │ │ __| |__ | ││││││ │ │ │ / __ \ ── ┘  ̄  ̄  ̄ └─へ │ レゝ │|_/ / ̄\ \ \______________\ │_/ ヽ___/  ̄ | │ \ \ | ー十 ̄ | ー┼- | | | | | _ | | | | _|  ̄ヽ | | |  ̄ヽ | \/\ __ノ | ー V __ノ |
543 :
名無しさん :02/01/02 15:22
ウィトゲンシュタインの発する言葉の全てが壮大なイロニーなのです。 彼を理解してあげてください。
545 :
考える名無しさん :02/01/03 00:13
飛び入りですいません。ピントはずれかもしれないけど、あえて。 『論考』は大好きなんだけど、「私の言語の限界が私の世界の限界だ」の一節がずっと魚の小骨みたいにひっかかってます。この言葉の真意はどこに? 現実の生活に当てはめるとあまりにナンセンスなわけで。 まるまる一冊で言語ゲームしてるメタ作品といえばそれまでなんだけど、けっこう影響うけることも多かっただけに。
>>545 >ナンセンス
私は素晴らしいセンスだと思うんだけど
547 :
考える名無しさん :02/01/03 00:37
ミックや苺姫がいないと・・・
はらたいらには 常に1000点である 以上
549 :
考える名無しさん :02/01/03 01:16
>>546 かさねがさねピントはずれだとはおもうけど、哲学は生活そのものと地続きでなければ、文学となんらかわらないのでは?
もちろん、「言葉」のセンスは素晴らしいとおもう。
『論考』はたんに言語学なんだろうか?
550 :
考える名無しさん :02/01/03 09:12
>>545 >「私の言語の限界が私の世界の限界だ」
極々現実的なことを言っているように思うけど?
551 :
考える名無しさん :02/01/03 10:38
>>550 「世界」という言葉の捉えかたの問題ですね。
不毛な問題提起でした。お詫びします。
ほっといて先いってください。
552 :
考える名無しさん :02/01/03 19:33
飛び入りだが。 ヴィト氏のなんとかって本、めくってみたけど、ありゃあ箴言集だな。 ご託宣を1行読む・腑に落ちない・一所懸命理解に努める・わかったと 思う・うれしー、と感じたとたん批判精神は雲散霧消。 狐憑きみたようなもんで落ちてしまえば何のことはない。 夫子自ら、この書物を乗り越えなきゃ世界を正しく見ることは出来ない、 とのたまわってるだろうが。拳拳服膺せよ。
なに、いくら読んだってわからない奴にはわからないさ。 逆にわかる奴は、読まなくたってわかってる。そんなもんだ。 ところで本物のヴィトは哲学の本なんてほとんど読まなかったらしい。 もちろん、馬に食わせるほど読んだところで、彼の考えていることについて 彼の半分も考えてるような文章を書いてる奴もいないだろうけどね。 >霊が降りちゃった人 別に霊なんか降りなくたって、同じことを考えてる人はいるだろ。 そういう人にはヴィトゲンシュタインの電波が同調して聞こえる。 こういうのはラジオの性能の問題じゃない。周波数がNHKに あってる奴には、TBSは聞こえないというだけのことだ。 それを奴の頭は鉱石受信機だとか、オレはスーパーヘテロダインだ とかいうのはバカげてるというもんだ。
>>553 そーゆー相対主義とゆーか、ニヒリズムではヴィト氏が
草葉の陰で泣こうとゆーもんだ。
先生は「我を乗り越えて行け」とゆ−とるではないか。
ヴィト氏、内在的に破綻してるって自覚してんですから。
相対主義は贔屓のの引き倒し(w。
せめて何を読んだかとか、引用元とか明示してくれ ここはそういうスレだろ?
>>555 「論理哲学論考」ウニベルシタス叢書 法政大学出版局 1968
P199−200。「論考」6・54。
557 :
考える名無しさん :02/01/04 01:55
>>553 > 彼の考えていることについて
> 彼の半分も考えてるような文章を書いてる奴もいないだろうけどね。
ラムジーが早く死んじゃって残念だったね。
558 :
考える名無しさん :02/01/04 04:44
永井の入門書読むぞゴルア
論文提出の季節ですな。皆様がむばってください。 さて、最近仕事柄Wよりもコンピュータ関係の本を読むことが多くなったのですが 『ゲーデル・エッシャー・バッハ』素晴らしいです。 コンピュータサイエンス、数理哲学についての最高の入門書です。常識かもしれな いけど、何回強調してもいいと思う。予備知識なしで理解できるよう配された巧み な比喩と豊富な例、美しい絵、簡明な説明。一級品です。あの柄谷よしおさんや宮台しんじさんも絶賛。 是非一緒に読みましょう。僕は今第4章まで読みました。半分の10章まで行ったらスレ立てます。もうコメントしたくてうずうずしてます。 哲学板に来る人なら当然持ってますよね?持ってなかったらすぐ買おう。700ページ超で5500円。安すぎ!!
ちなみに章割りはこんな感じ。ほーら読みたくなってきたでしょう。 勿論、Wを読んではみたけど「ハア?」だった人にもお薦めですよ。 第2章 数学における意味と形 第4章 無矛盾性、完全性、および幾何学 第6章 意味の所在 第7章 命題計算 第9章 無門とゲーデル 第11章 脳と思考 第15章 システムからの脱出 第17章 チャーチ、チューリング、タルスキ 第19章 人工知能=展望
561 :
考える名無しさん :02/01/11 02:50
>>559-560 \ | /
六
= ( w ) =
 ̄
/ °\
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・)< 面白そうじゃないカー!
( つ つ \___________
〈 〈\ \
(__)(__)
∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.( ゚Д゚)< スレ立て頼むぞゴルァ!
⊂ ∩ \_______
| |
. .〜| |
U~U
>>559 持ってない。ケド欲しい、買う! 版元どこ?
>563 ヒマが無いんだ、金ならあるけど。マジ。
ゲーデルの部分はすごいのにエッシャー、バッハ部分がだめだめだった いうのは本当?
>ゲーデルの部分はすごいのにエッシャー、バッハ部分がだめだめだった 「だめだめ」という形容詞の意味がよくわからないけど、そりゃ、エッシャー、バッハについての文章は、音楽論や芸術論にはなってないよ、全然。 ホフスタッターにとっては、エッシャーやバッハというのは、数学の問題を視覚的・感覚的に解説するための道具立てなのだから。 僕らもよくやったように、数学の問題を解くときに、式だけじゃなくて図や絵をかいたりするのと同じと思えば、「ホフスタッターはバッハを聴きこなしていない」なんて批判は批判になっていないということは容易に理解されるでしょう。 しかも、ゲーデルは確かに主題の一つだけど、ゲーデルに限らず、幅広い分野をカバーしてくれている(入門書としてはここも重要なポイント)ということも、読めばわかる。読めば。
568 :
考える名無しさん :02/01/11 20:44
ミックさんの温故知新な態度、なんか初々しいわあ。 2ちゃんって歴史3年足らずなんだから、もっとそういうのあるべきね。 私は『メタマジック・ゲ-ム』の方が好き。 「頭の良い15才(20年たったから基準が変わったかも)」の皆さん! 乞う参加! (とかいうフレコミだったなあ『GEB』)
569 :
考える名無しさん :02/01/11 22:32
>>568 >私は『メタマジック・ゲ-ム』の方が好き。
渋いですね。僕も持ってますが、まだ読んでない。
>2ちゃんって歴史3年足らずなんだから、もっとそういうのあるべきね。
そうそう。いきなり難しいテーマだと議論にならなくて非生産的な場合が多いですから。
哲学板も、心理学板みたいに基礎的なことをきっちり勉強できるスレッド図書館があると便利だと思うのですよ。
その点、GEBは基礎固めのレベルとして丁度いいと思う。哲学板データベース化計画。
GEBの「この章の要約を担当してもいい」という方いましたら是非名乗りを挙げてください。
>>569 懐かしいですねー。最初寝ぼけて文学板にスレ立てちゃったんだよね。そっちも意外に長生きだった覚えがある。
オフ会はねえ・・・・・・ふふふ、ちゃんと実は行なわれていたのだよ。しかしいちご姫さんと伍長さんの素性にも関わることなので、ちょっと喋ることはできない。
>『ゲーデル・エッシャー・バッハ』素晴らしいです。 そうね。眠くなったら枕にもなるし(笑) ところで、エッシャーやバッハは、ここでは、 ゲーデルの示した「階層破壊」を、絵画や音楽で 示したということで、持ち出されている。 もっとも、根は物理屋のホフスタッターは、 「階層破壊」の実態についても、細かく説明 している。 >私は『メタマジック・ゲ-ム』の方が好き。 個人的にはキューブのパズルの話が好きだな(笑) ただ、サイエンスのコラムの出来からいえば、 マーチン・ガードナーの「数学ゲーム」や デュードニーの「コンピュータ・レクリエーション」 のほうがいいね。まあ、好みの問題だけど。
>そーゆー相対主義とゆーか、ニヒリズムでは >ヴィト氏が草葉の陰で泣こうとゆーもんだ。 そーゆー精神主義というか、ナニワブシは ヴィトゲンシュタインのものではないだろう(笑) >先生は「我を乗り越えて行け」とゆ−とるではないか。 余計なお世話だ(笑) >ヴィト氏、内在的に破綻してるって自覚してんですから。 >相対主義は贔屓のの引き倒し(w。 何を相対主義といってるのだ(w
>眠くなったら枕にもなるし(笑) 枕にしては厚くて硬過ぎるね。厚い枕は早死にする。 それはさておき、ヴィトさんもかなり詳しそうですね。 GEBの購読はレベルが低いと感じるでしょうけど、気が向いたらカキコしてください。
>枕にしては厚くて硬過ぎるね。 堅さはともかく、厚さはあのくらいないと枕にならんよ。 それはさておき、私が読んだのはもう昔のことなので忘れた(笑)
575 :
考える名無しさん :02/01/13 09:46
>>571 > ゲーデルの示した「階層破壊」
どういうことですか?
576 :
考える名無しさん :02/01/13 10:13
>>572 >そーゆー精神主義というか、ナニワブシは
>ヴィトゲンシュタインのものではないだろう(笑)
不肖の弟子どものせいだ。
>>先生は「我を乗り越えて行け」とゆ−とるではないか。
>余計なお世話だ(笑)
それは先生に言ってもらいたい。
相対主義=鰯の頭も信心から
577 :
575≠576 :02/01/13 10:23
575です。576ではありませんので念のため。 その「階層破壊」というキーワードを理解していないと GEBをちゃんと理解できたことにならないようですので、 教えてください、興味があります。
578 :
考える名無しさん :02/01/13 16:31
579 :
578≠571 :02/01/13 16:32
です。
そう、まずは何はともあれ読もう。 その上で、第4章の「洒落対放題」の小話と、第20図のオーディオの絵を見よう。 意味の二つのレベル(階層)をうまく表現してある。
779 :132人目の素数さん :02/01/12 13:40
Wittgensteinって数学やってたの?
780 :132人目の素数さん :02/01/12 14:19
>>779 やってたよ。初期の数理論理学の仕事をいくつか。なんか神秘的に読まれすぎてる
「論理哲学論考」は論理の本だからね。命題論理の真理表のアイデアとか、
モデル理論に与えた影響とかは大きい。真理関数的意味論はヴィトゲンシュタイン
の仕事じゃなかったっけ?
ただし、後期になると数学から離れてしまったことは事実。ゲーデルについて
2,3言及しているけど、それについては信者以外の評価は低いね。
数学そのものや数学の哲学としてはあまり面白くはない。
後期の仕事は数学以外の分野(人工知能とかやってる人々)で評価が高いね。
781 :ヴィト :02/01/12 16:50
やれやれ、あっちいけといわれたかとおもうと
こんどはこっちこいときた。貴様ら何様だ(笑)
>>780 についてだが、最初の4行の話は、数学的にはツマラナイ。
真理表なんてヴィトゲンシュタインじゃなくてもやってるだろうし
その程度では、モデル理論以前の本当の「児戯」だ(笑)
次の3行に関しては、逆に過小評価だろう。
実際、数学基礎論のいろいろな問題の理由は「言葉」に
あるわけで、その意味で、ヴィトゲンシュタインの洞察は
重要な意味をもつ。ただ、単純素朴な数学屋はのっけから
言葉への信頼と不信のアンヴィバレンスがあるから、
そのことを認識し難いだろうけどね。
とはいえ、ヴィトゲンシュタインにとっては言葉が主で、
数学はむしろ従だった。だから最後の一行のような表現
になるのだろう。
こういう半可通が偉そうに語るのは片腹痛いわ。
582 :
数学板から出張 :02/01/15 06:00
ヴィトゲンシュタインのゼミをやってる工学系の研究者何ぞ いっぱいいるから、人工知能やらの専門書開けば、かなり安直に 参考文献にヴィトゲンシュタインをあげてる本が発見できるはずだ。 ところで、「ケンブリッジ・クインテット」読んだ? #俺は読んでない。
哲学板だから遠慮なく。 > Wがゲーデルについて言及するようになるのは、1935年が一番古い記録のようです。 俺は「数学の基礎」は読んでいないが、黒崎氏の現代思想ゲーデル特集号記載の 論文ぐらいは読んでいるので、それぐらいは知っている。あれ読んでは、とても Wがゲーデルの証明を理解できてるとは思えん。 とりあえず、「Wはゲーデルの不完全性定理を理解できていなかった」のは、まず 確実な線であると思う。これはほぼ定説と思ってもいいと思うぞ? もちろん、このことはヴィトゲンシュタインの評価にはあまり影響はない。ただ単に、 数学の哲学という分野から見れば、直接的にWの研究結果を取り入れることはできん というだけのことだ。 #俺は読んでない。
>数学の公理系は、幾つあっても良いと考えていたのだから、別にプリンキピア・マテマティカの >公理系に欠陥が見つかっても「だからどうした」という感想だったのでしょう。彼の興 プリンキピア・マテマティカの初版にミスがあったことは確かだが、ゲーデルによって プリンキピア・マテマティカの公理系の欠陥が見つかったわけではない。というよりも、 Gの仕事はPMの体系がきちんと出来ていなければ出しえないものだ。 >ただ、数学を「従」として軽んじていたという根拠までは僕は知らないので、 >これはあるいはヴィトさんの言いすぎかもしれない。 フレーゲを訪れて、彼の勧めでラッセルの下に行ってそのキャリアが始まったこ とからわかるように、彼が数学に当初強い興味を持っていたことは確かだが、 俺も書いたように、彼は数学をやめていることもよく知られていることだ。
最後に、論考について。斜め読みだが俺の理解を、、 論考はフレーゲ、ラッセルの(当時の)意味理論の一つの完成形といえるんじゃんか? フレーゲの「文の意味はその真理値である」や名辞の分析とか、ラッセルの「文の 外見上の文法構造と論理構造は異なる場合がある」とか行った成果をふまえ てでき上がったものだろう。 1や2で世界とはどんなものかを示し、3、4,5、6 で要素命題の真偽が「世界」 との対応によって決定されること、命題が要素命題の真理函数 であることや、真理函数ってのがどんなものなのかなどが示され、 文章が意味を持つということがどういうことなのかが明確に示される。 という本じゃないの? ここでWがいう「世界」を、現実の世界とは無関係なものであるとし、 数学的な構造物として考え直して、整備すると、タルスキのモデル理論になる。 現代思想のW特集号の野本さんの論文でその相似性が指摘されておるよ。 5.6 なんかも言語と世界が対応関係になる以上、当然な話だよね。こういった考えは、 直接クワインの「存在は変項の値である」につながっているんでは? まあ、長々と書いたが、読書会の邪魔しちゃあれなので、このへんで失礼、、 って、朝っぱらから何してんだか、、、
まあ、論理屋さんの読みと思ってくれ。じゃ!
なんだ、数学板からは出て行けというくせに
自分は、ひょこひょこ哲学板にくるんだな。
だから厨房は困る(笑)
>>583 >Wがゲーデルの証明を理解できてるとは思えん。
Wがゲーデルの証明の「標準的解釈」を
認めていなかったのは確かだな。
ここで「標準的解釈」とは
「無矛盾ならばゲーデル命題は証明も反証もできない」
というもの。
Wは、上の解釈に実無限の匂いを感じたので拒否したわけだ。
これは彼の哲学的立場からいえば正当だろう。
しかしながら、Wがゲーデルの証明そのものについて
(例えばツェルメロのように証明可能性と真理性を
同一視するような)誤った理解をしていたとはいえない。
>数学の哲学という分野から見れば、
>直接的にWの研究結果を取り入れることはできん
いや、単に実無限を信奉する人間達が、
Wの可能無限的思想を忌避したいだけだろう。
>>585 ところでWが数学の哲学を論じはじめたのは中期以降の話で
そのきっかけはブラウアーの演説を聞いたことである。
ゲーデルに関する言説を理解する場合、「論考」を持ち出すのは
適切でないと感じる。ある意味では中期から後期にかけての思想は
初期の思想をうち捨てるものであったといえる。
>>586 >まあ、論理屋さんの読みと思ってくれ。
数学屋の誤りだろ(笑)
588 :
考える名無しさん :02/01/15 11:45
ウィトのやりたがっていた「内側から境界付ける」ことって 不完全性定理的にはできるんですか?できないんですか?
>585 論理屋さんの読みにしてもヴィトを持ち上げすぎだと思うな. 『論考』がフレーゲやラッセルの抱いていた論理学観の形而上学だという 言い方は出来なくもないかもしれないけど,完成形というのはちょっとな. 要素事態なんてフレーゲは認めないでしょ.
>ヴィト でも可能無限の立場なんかに立てば証明可能性と真理性って一致しちゃうんじゃないの? それにラッセルの体系の公理が不必要だとわかったときのヴィトの反応もちょっと 極端だという感じがするから,ヴィトが不完全性を理解できなかったというのは 一般的な了解事項なんじゃないのか.
わるいが、俺はもともと両方読んでるんだよ。おまえが何をどういおうと、
おじさんの専門は論理だから論理屋なのはしょうがねえなあ。
>>587 >ところでWが数学の哲学を論じはじめたのは中期以降の話で
>そのきっかけはブラウアーの演説を聞いたことである。
そんなこた知ってる。つーか、そんなこともしらんでWがどう
したとか言う話に首を突っ込むと思うか?
>ゲーデルに関する言説を理解する場合、「論考」を持ち出すのは
誰もそのために「論考」を持ち出したわけではいないが?数学、論理
学に与えた影響ということで、論理の本と考えた場合の読み方を披露
しただけだが?私の基礎論スレでの発言の補足だよ。
>適切でないと感じる。ある意味では中期から後期にかけての思想は
>初期の思想をうち捨てるものであったといえる。
だから、そんなこたいわれんでもしってるっつーの。
>それにラッセルの体系の公理が不必要だとわかったときの >ヴィトの反応もちょっと いや、PMの体系が不必要だとわかったことなんてないん だけど。Gの仕事のことならば、それは全くの誤解だ。 歴史的に見れば、PM の初版にはちょっとした ミスがあり、公理が一つ余計だったという事実はあるけど、 それについてWがなにか発言してたってことじゃないよね?
>592 そうだよ.正確に言うと「ラッセルの公理形のある公理」だね. アッケルマンと日本人のだれか(だれだったかな)が余分な公理(5番目だったかな)があると証明したやつ. でヴィトがもしそうだとしても,その余分な公理をはずした体系はもとの公理系とは違う言語だといったんじゃなかった? ときたまヴィトはすごいことを言うんだ.等号はいらないとかさ.
593のことはちょっと信じられないかもしれないけど,そういう変人的なところがヴィトにはあって ときたま凄まじいことを言うんだよね.熱心な人は,なんでヴィトはそんな間違ったことを言ったのかという ところに興味をもって研究するんだよな. 論考もタルスキー流に読もうと思えば読めるだろう,ということではないだろうか.
>>590 >でも可能無限の立場なんかに立てば証明可能性と真理性って一致しちゃうんじゃないの?
そういう瑣末なことは明らかだからどうでもいい。
重要なのは、証明できるとはいえても、
証明できないとはいえないってこと。
公理が一つ余計とかいう話は単にポカだろ。
もっともWはポカの多い人ではあったが。
>>591 わるいが両方読もうが両方読むまいが、
両方の立場は取り得ないのだから関係ないな
君が「論理屋の立場から」というとき、
それは実無限を信仰する数学屋の立場
じゃないのか?といったまで。
>数学、論理学に与えた影響ということで、
>論理の本と考えた場合の読み方を
>披露 した
なるほど、自分=世界というおバカな意見を
披露したというわけか。結構ケッコウ(w
数学板にて >哲学の領域は広く、その中で数学基礎論に近い哲学と言えば、分析哲学ですが、 >Wittgensteinの思想は、分析哲学のメインストリームでは有りません >(もちろんメインストリームがいいとはいえませんが)。 >むしろ分析哲学とは関係無いかもしれない。 まあ、そうだろう。 もし、Wのいうことが哲学でないとしても それはそれで大いに構わない。 結局のところ数学にしても言語にしても 自分の中で自分を語ろうとする行為に 倦んでいるのだ。
些末!! もし単なる勘違いじゃなくてある言語観からの帰結であれば 非常に大きな問題だと思うけど. あと,ヴィトの専門ではないけれど,公理系の問題に対するヴィトの反応って,単なる ポカではなかったような気がするけれど.あれってヴィトの特殊な言語観からの見解でしょ. 見解を撤回するようなことはしなかったんじゃないかな.
いちギャラリーです。 595=596=ヴィト氏、でいいんですね?
>>598 ×瑣末
〇些末
なるほど、これは些末ではない(笑)
ポカはポカ。それがいかほど本人の心に深く根ざしていようと
所詮単なるポカである(さらにいえば、ポカだから撤回するとは
限らない。ネットにはポカを大声で叫ぶ輩はたくさんいる)
>596 >君が「論理屋の立場から」というとき、 >それは実無限を信仰する数学屋の立場 >じゃないのか? 別に僕は論理屋じゃないけれど,ちょっとこの意見って短絡すぎる.
>600 ポカじゃない(と思う).というかその程度の証明ってヴィトが理解できないわけじゃないから. みんなはヴィトをノーマルに考えすぎなのでは^^.やつは異常なんです.
>>601 あ、そう。
じゃ、論理屋の585はどういうつもりで
言ったと稲君は考えるね?。
別に人がどういう意見をもつのも自由だが、
それが唯一無二の立場だと何の根拠もなく
言い張るのは気にいらないね。そうは思わんか?
604 :
考える名無しさん :02/01/15 15:25
長寿あげ
>>600 ,
>>602 私もポカじゃない派。
ヴィトは「ウィトゲンシュタインは数学より言語に興味があった」とか
言いながら、ウィトゲンシュタインの言語観がよくわかってないんじゃ
ないの?
別に間違っている話を分かっても詰まらんと思うぞ(笑) Wは一時期表象は意味を形づくるとかなんとかいったら スラッファとかいう奴(笑)が顎をなでて「これの意味は?」 とかいって、Wを悩ませたらしい。 (ちなみにスラッファがやってみせたしぐさの意味は 軽蔑をあらわすものだったらしい。まあ、こういうことに 関心があるなら、デズモンド・モリスの本でも読め(笑))
>>606 そのエピソードは有名で、今議論に参加してる人はたぶん全員知ってる
と思うけど、ポカの件とは関係ないよ。
>606 ああ ヴィトがスラッファから‘人類学’を教わったというやつな^^. 人類学なんだよな,あれは.
>603 う〜ん.585が言っている意味は非常にわかるし,わかるすぎるぐらいわかるよ^^. しかしよく考えてればわかるけど,585のように論考を読んでしまうと,もう『論考』はいらない, ということになっちゃう.もし『論考』を論理学の本として読むと,むしろフレーゲやラッセルから後退してる. もっと『論考』は面白い,と言いたいんだけど.
スラッファがあの仕草をしてWをなじったというエピソードは有名だけど. この話が論理形式に対する批判であるとしたら,解せないと思ったんだよな. というのも,顎をなでる仕草は,仕草であって言語ではないから.『論考』でもそんな 一般化はしてないでしょ.でもあれが‘人類学’だと聞いたときは,なるほど〜ってけっこう 納得いったな. W専門の人でここら辺の話詳しい人いるんじゃない? どうよ.
>そのエピソードは有名で、今議論に参加してる人は >たぶん全員知ってると思うけど いや別に知らんと思って書いたわけではないぞ。 ところで、このスラッファとかいう御仁。 このエピソードでしか知られていないとすると 不幸だな(笑)
>顎をなでる仕草は,仕草であって言語ではないから. >『論考』でもそんな 一般化はしてないでしょ. でもWには衝撃だった、と(笑) もちろん、人類学的には**なイメージとか いろいろあるらしい。だからそういう話は デズモンド・モリスを読めって(笑)
おいおいスラッファ経済学という言葉があるくらいの,超有名人ですよ. >612 そうじゃなくて,Wはスラッファから「人類学」を教わったの^^.
1日で大分話が広がってますね。
>>583-585 (数学板の論理屋さん)
碌に数学の知識もないのにのこのこと数学板に顔出した挙句、スレの邪魔をしてすいませんでした。自分でもこらえ性がないと反省してます。
今後はああいう軽率なことはやらないので大目に見てください。
しかし、なかなか丁寧なレス感謝です。
>読書会の邪魔しちゃあれなので、このへんで失礼、、
大分前に中断しているので気にしないでください。
>ところで、「ケンブリッジ・クインテット」読んだ?
僕も読んでないです。Wやチューリングが一緒に晩飯を食う話でしたか?
>もちろん、このことはヴィトゲンシュタインの評価にはあまり影響はない。ただ単に、 >数学の哲学という分野から見れば、直接的にWの研究結果を取り入れることはできん >というだけのことだ。 よくわかります。“数学の”という限定詞なしでもよく言われることですし。 ただまあ、趣味で読んでる僕のような人間にとってはWが今の哲学に応用されようと忘れ去られようとどっちでもいい、というのが正直な感想です。しかし哲学や論理学で食っている人にはその人なりのWの評価基準があるのも「よくわかる」という意味です。 >>数学の公理系は、幾つあっても良いと考えていたのだから、別にプリンキピア・マテマティカの >>公理系に欠陥が見つかっても「だからどうした」という感想だったのでしょう。彼の興 > >プリンキピア・マテマティカの初版にミスがあったことは確かだが、ゲーデルによって >プリンキピア・マテマティカの公理系の欠陥が見つかったわけではない。というよりも、 >Gの仕事はPMの体系がきちんと出来ていなければ出しえないものだ。 ここは確かに僕の言い方が間違っていました。Gの不完全性定理の文脈でこう言うべきではなかったですね。 僕が言いたかったのは、PMの公理系の初版にミスがあろうともなかろうとも、PMの公理系内部に証明不可能な命題が見出されようとも、あるいはなされなくても、それらのことはWの関心の埒外のことだったのだろう、という意見だったのです。 >>ただ、数学を「従」として軽んじていたという根拠までは僕は知らないので、 >>これはあるいはヴィトさんの言いすぎかもしれない。 > >フレーゲを訪れて、彼の勧めでラッセルの下に行ってそのキャリアが始まったこ >とからわかるように、彼が数学に当初強い興味を持っていたことは確かだが、 >俺も書いたように、彼は数学をやめていることもよく知られていることだ。 このレスは、論理屋さんが「Wは言語よりも数学を軽んじていた」ということを言おうとしていると取っていいんでしょうか? もしそうだとするなら、僕は疑問です。「彼が数学に当初強い興味を持っていた」というのは曽野通りですが、一体どのようなタイプの「興味」であったか、それが問題だからです。 数学板の基礎論スレに書いたことの繰り返しになってしまいますが、Wが数学に興味を持っていたといっても、それは数学の問題に取り組んだり、定理の証明を考えたり、といった数学者が抱くような興味のタイプではないと思うからです。 この態度は前期―後期を通じて変わらないと思います。レイ・モンクやマクギネスの伝記は、Wがラッセルに師事するようになった当初から、彼の関心は「数学とは何か」「論理とは何か」ということに向けられていたことを示していることが僕の論拠です。 さらに、Wが「数学をやめた」というより、数学という狭い範囲の言語から、言語一般へ考察を敷衍した、と僕は解釈しています。別に珍しくもない解釈ですが。 Wは中期に言語ゲームの一典型として数学をモデルに議論しました。それは、Wがよく使う、単純化された言語ゲームを想定した思考実験のはしりだった、ということです(豆知識:この方法論もスラッファから習ったらしいですね)。
616 :
考える名無しさん :02/01/15 22:46
>>583 数学の哲学を誤解しているんじゃ?数学の哲学は数学でも論理学でもないよ.
>>584 通常の意味での数学活動はやっていないが数学の哲学はやめていない.
というより最初から最期まで彼にとっての数学の哲学がベースだと思うぞ.
逆にいうとそこを避けてウィトゲンシュタイン研究してもしょうがない(暴言).
GEBの第5章は再帰的過程が主題。 プログラミングを例にした説明が多いこともあって、割合すんなり理解できた。 単に簡単な章だったのかもしれないが。 再帰的構造を含む過程が終るためには、どこかで非再帰的手続きが実行されなくてはいけない(≪底上げ≫という表現がされている)。 うーん、直観的に「当たり前」という気はしていても、これでもかというように図を繰り出して説明されると、本当に納得できる。 僕のような入門者にとっては、これぐらいくどい説明が丁度いい。 どうでもいいけど、間接的再帰で循環させる実験は、Excelで簡単にやれる。セルA1にA2を参照する式を入れて、A2にA1を参照する式を入れると・・・・・・エラーだ。
>>616 誤解なぞしていない。わざわざ「数学の哲学 Philosophy of Mathematics」という
言葉を使ったのは何のためだと思う?「数学」と「論理学」と「数学の哲学」
をきちんとわけて書いてるつもりだけど?
区別がついてないのはヴィトぐらいだろ。
>>593 そのエピソードは知らんかった。さんきゅう!
>ときたまヴィトはすごいことを言うんだ.等号はいらないとかさ.
それならべつにすごいことじゃないと思うが。
当時の彼とラッセルがたどり着いていた立場からすれば当然の
発言だとおもうよ。俺だって、等号なんていらねえと思わない
でもないよ。
まあ、残念ながら(?)我々の用いる名前は論理的固有名じゃない
から必要だけどね。
620 :
復讐する名無しさん ◆AI14zans :02/01/16 03:14
スラッファの話はマルコムがいってんだよね。
マルコムといえば、マルコムに「論考書いてるときは自分は 論理学者のつもりだった」みたいなことをいったことがあった という話もあったな。
622 :
考える名無しさん :02/01/16 03:50
>>616 言葉の区別はつけてるだろうけど
「数学の哲学という分野から見れば、直接的にWの研究結果を取り入れることは
できんというだけのことだ」というのをみるとその内容はどうかな?
それとも特定の数学の哲学だけしか認めないとか?
まあヴィト(not Wittgenstein,ハンドルはTPOを考えて欲しいね)
が区別がついてないというのには同意するけど.
>>617 ちなみに再帰過程が終わらなくても計算的には意味があるんで
そういうものについて議論するときには
帰納法じゃなくて別の数学的道具立てを使ったりもします.
まあ面白いことは色々あるってことで.
>>618 我国では、未だに、「科学哲学」という語に関する混乱が
見受けられる。私の用法では、「科学哲学」とは、英語の
「philosophy of science」と同義である。したがって、そ
れは、哲学上の流派(もしもそんなものがあるとしたら)
を指すものではなく、ある特定の主題、すなわち、科学を
めぐる哲学的問題を扱う哲学の一分野をさすものである。
飯田隆『言語哲学大全2』勁草書房、113頁。
「数学の哲学」はPhilosophy of Mathmaticsであって
Philosophical Mathemathics(んなもんがあるとして)
ではないってこと?
Russellの「Mathmatical PHilosophy」って言葉も混乱の元かな?
「数学っぽい哲学」とか・・・
『論考』は「論理学っぽい哲学」?それとも「哲学っぽい論理学」?
駄レスでスマソ。
>>622 「数学の哲学」に限らずとも、「・・・の哲学」はその「・・・」の理解が
いいかげんだとトンデモ言っちゃう傾向が高いよ。「そんな数学、世界の
どこにもないんですけど」という感じの。必ずトンデモになる、とまでは
言わんけど。
いずれにしろ、ウィトゲンシュタインが不完全性定理をわかってないなら、
不完全性が関係してくる問題に関する彼の主張を額面通り受け入れること
はできないので、せめて、彼の主張の本質的な部分をとりだして、正しい
数学理解とすりあわせる作業くらいは必要。
>>583 さんが
>*直接的に*Wの研究結果を取り入れることはできん
と言ってるのは、そういうことでもあるんじゃないかな。
「数学」と「論理学」と「数学の哲学」について
>>618 >区別がついてないのはヴィトぐらいだろ。
>>622 >まあヴィトが区別がついてないというのには同意するけど.
をひをひ・・・
ところで出張小僧(笑)がいう
「Wはゲーデルの不完全性定理を理解できていなかった」
というのは、数学の話のつもりか?
ならばそれは違うだろ。
あれは数学の哲学の相違なのだ。
それは
>>587 で述べた。
それが「数学」と「数学の哲学」の混同だというなら、
そっちが間違っているのだ。
>>622 は、その意見には同意しているんじゃないのか?
もし、なんもわかってないでしったかぶってるだけなら口だすな。
>>624 もし、出張小僧が「Wはトンデモだ」というなら、ウダウダいう前に
誰にでも分かる証拠を示せるはずだ。(もちろん、この場合、無駄な
哲学的懐疑は抜きにしていっている。すくなくとも公理が一つ余計
とかいう話は無駄な哲学的懐疑を抜きにして、証明できる定理に
変化がないとわかるのに、その件に関して「Wの言語観は・・・」
とかいうほうがよほど無駄な突っ込みだろう)
>>626 「トンデモ」という言葉を使ったのは出張さんではなくて私ですし、
私もウィトゲンシュタインがトンデモだとまでは言うつもりは
ありませんが。
>>624 は、数学の哲学にとって数学の理解は非常に
重要だ、だからウィトゲンシュタインが不完全性定理をちゃんと
理解していたかどうかは数学の哲学にとっても関連がある、という、
>>616 の前半と
>>622 に対するコメントですので。
>623 日本でもいまでは「科学哲学」という言葉に混乱はないと思うよ. 科学哲学はphilosophy of scienceで数学の哲学はphilisophy of mathematicsでしょ. scientific philosophyは科学的哲学で,ほとんど論理実証主義の代名詞みたいに 使われてる.いまじゃその意味以外でのこの語の使用は完全に消滅してるよ(多分^^). それとmathmatical philosophyもラッセルもscientific philosophyとほとんど同義で使ってたんじゃない. 当時は急激に論理学が発達したから,論理学が哲学も数学もみんな一挙に解決すると信じられてたからね. むしろscientific philosophyとかmathmatical philosophyという言葉は,哲学の特定の分野ではなくて, 哲学的な一つの運動だろうね.だからscientific philosophyとphilosophy of scienceは 言葉は似てるけど,そもそもカテゴリーがまるっきり違うという感じがするけどね.
629 :
考える名無しさん :02/01/16 14:50
スラッファ知らない奴がいるとはさすが哲学板
>629 別にスラッファ知らなくてもどうということはないよ.
まさか『商品による商品の生産』を理解しろというわけではあるまいし.
632 :
どこかのお姫さま :02/01/16 20:20
>>587 >ゲーデルに関する言説を理解する場合、「論考」を持ち出すのは
>適切でないと感じる。
これはそのとおりですが.
>ところでWが数学の哲学を論じはじめたのは中期以降の話で
>そのきっかけはブラウアーの演説を聞いたことである。
これは,いただけないです.
『論考』においても,数は操作の冪(TLP6.021)であり,数学の命題は等式であ
る(TLP6.2),と数学の哲学のテーゼは提出されています.
(ただ,それが彼の中後期の数学の哲学とは大きく異なるかもしれない,という事
に尽きると考えます.――あえて「かもしれない」と弱めたのは,ブラウアー講演の
エピソードから一般に想定されている事とは異なり,『論考』自体が構成主義的に読
めるかも知れないからです.ま,私は数学の哲学はダメダメなので,確定的な事は言
えませんけど・・・・なので,「どこかの」ヴァージョンです.)
>>625 同意してないよ.付け焼刃だけじゃなく思い込みも激しい奴だな(藁
おやおや・・・・・・632は・・・・・・ 急で申し訳ないんですが、仕事の関係、明日から1週間ほどアクセスできなくなります。 数学板から論理屋さんまで呼び出しておいて、無責任ですが、できるだけ有意義な議論をどうぞ。 ところで、ヴィトさんのレスをしばらく読ませてもらって疑問が募ったんですが、ヴィトさんの立場やW観、あるいは目的というのが、僕には――多分僕だけではないと思うけど――正直掴めません。 多分、それを明言したレスはないのでは? ヴィトさんの拠って立つ考えを前以ってマニュフェストした方が、無用の誤解やすれ違いを減らせると思うのです。 「言っても理解されない」と考えているかもしれませんが、それはやってみないと分からない。 それではまた来週。
なんか荒れてますねー.
>>628 いくらか付け足すと,科学的XXという時にはマルクス主義的用法の
場合もあります.まあ今では死語かもしれませんが.
それとphilosophy of mathematicsを以前からあった
数理哲学という呼称を使わずにわざわざ数学の哲学と訳し直したのは
日本で数理哲学というと田邊元,下村寅太郎などの京都学派が
想起されるのでそれと区別するためでもあったと聞きました.
>>632 「論考」とゲーデルの関係について考えたいのなら、
そんなところじゃなくて、3.333(だったかな?)の
Wによる「ラッセル・パラドックスの解決」を
読んでみたらどうだ?
まあ、しかし、あれはちとトンデモだな(笑)
>>634 私のここでの立場は反プラトニズム、
「言語ゲーム=構成主義」という
ところか。
もちろん、これは世間一般でいう
標準的なWの理解ではないだろう。
私としてはWをなぞるつもりはない。
HNも気分と勢いでつけたので、
こだわりはない。
目的?そうだな、タテマエとホンネの差異を考えることかな?
別にプラトニズムと公言しなくとも、プラトニズムの発想は
人の心に染み付いているものだが、実際の人の振るまいという
ものが、そのような枠組みで理解できるのかどうかについて
私には疑問がある。もちろん、プラトニズムを否定するつもり
はない。ただ、ホンネを引き出すために、あえてタテマエを
一旦否定してみようというわけだ。
>>624 >>*直接的に*Wの研究結果を取り入れることはできん
>と言ってるのは、そういうことでもあるんじゃないかな。
うげ、enter おしちゃった。すまんです。鬱氏。
>>638 の続きね、、
まさに、そういうふうに理解していただけるとありがたいす。
>635 別に荒れてないYO!. >636 当時は意味と論理込みだったからな.
>>632 >>ところでWが数学の哲学を論じはじめたのは中期以降の話で
>>そのきっかけはブラウアーの演説を聞いたことである。
>これは,いただけないです.
うげげ。ほんとだ、これはいただけんなあ。
俺はてっきり「Wが哲学を再開したのは、、、」とヴィトが
かいているとばかりおもってたよ。おれはヴィトを買いかぶ
りすぎていたようだ。
>>641 >おれはヴィトを買いかぶりすぎていたようだ。
おれは歴史家ではない(笑)
ところで「Wは不完全性定理を理解してない」と主張の
論拠は提示しないのか?
はっきり述べずに、「常識だと思うぞ」とかいう雰囲気で
ごまかすのが、論理屋のやり口か?
それは、君以外の論理屋が気を悪くするな(笑)
>>642 >おれは歴史家ではない(笑)
歴史か出なくても知ってて然るべきことだ。中期後期のWを読んでますっていうならな。
要するに常識がないってことだろ?半可通だっていうんだよ。
>ところで「Wは不完全性定理を理解してない」と主張の
>論拠は提示しないのか?
何か気の聞いてることいってるつもりか?それで?時々 2chには
お前のような勘違い君がいるな。論拠を示すべきは常識的ではない
主張をしてるお前であり、俺ではないんだが?
論拠をしめせだ?自分で勉強しろ。甘えるな。
#奥氏の論文でも読めよ。
>>643 「常識」を持ち出すのは手詰まりだからじゃないのか?(w)
>自分で勉強しろ。甘えるな。
オマエモナー(w)人に勉強さすな。
>#奥氏の論文でも読めよ。
どこに載ってるなんという題の論文だ?
645 :
考える名無しさん :02/01/19 11:55
ヴィトちゃんの言いたいことがさっぱりわかりません レポートも書けそうにありません この人ってホントにすごい人なんですか?
>>610 稲氏へ
>スラッファがあの仕草をしてWをなじったというエピソードは有名だけど.この話
>が論理形式に対する批判であるとしたら,解せないと思ったんだよな.
>というのも,顎をなでる仕草は,仕草であって言語ではないから.『論考』でもそ
>んな一般化はしてないでしょ.
いえ,論理形式に対する批判としても理解可能だと私は考えます.
理由は下記の通りです.先ず,スラッファがやって見せた動作は,軽蔑を表します.
そして,『論考』の枠組みでは,何かを表す/意味する為には(語られるのではなく
示される場合を除いて)像を造るしか手がありません(TLP_21,2.11参照).従って,
スラッファがやって見せた仕草は像と解さざるをえません.そして,「像はまた論理像
でもある」(TLP2.182)のですから,その仕草も「写像の論理形式を写像されるもの
と共有」(TLP.2.201)している必要があります.従って,ある種の仕草については,そ
れが有意味であるにも拘らず,その論理形式がそこに含まれていないのだとしたら,『
論考』の基本的主張の一つが崩壊するはずなのです.
※但し,スラッファの仕草からヰトゲンシュタインが学んだ否定されるべきものが「
論理形式共有」ではなく,「命題にとっての文法の必要性」だという報告はフォン・ウ
リクトによってなされているそうです.(黒崎宏『ウィトゲンシュタインの生涯と哲
学』,勁草書房,1980,1984,pp.233−234)
647 :
考える名無しさん :02/01/22 08:00
age
>646 いちご姫氏へ もちろんそのような解釈は可能だと思うし,よくある参考書の類はいちご姫氏のような説明を 与えているだろうと思います(僕もそんな本を読んだことがある). しかし『論考』は有意味性の概念を最大限に拡張しているから,スラッファがWに対して示した 仕草が,仮にそれが有意味だとしたら,何らかの文の形で定式化されなければならないでしょう.もし それが可能でないのであれば,そもそもそんなものが有意味であるかどうかということ自体が疑わしい. そういった意味でスラッファの皮肉は『論考』に対する批判になっているのかどうかよくわからない.だから 僕は,Wはスラッファの皮肉に対してもっとがんばれたと思うわけ. しかしスラッファの皮肉はもっと深い問題を突いていて,簡単に言えば,『論考』以来Wが前提していた 言語観は狭隘だ,という批判だったのだろうと解釈する.つまり,言語が実際に使われている 現場をもっとよく見てみろと,言語が実際に使われるその多様性を論理的に分析なんかできると思っているのかと, そういった批判だったんだろうと思うわけ.Wはスラッファから人類学を教わったというのはそういう意味だと思うけどね. だから,スラッファのこの有名なエピソードは,単にWだけじゃなくて,フレーゲから始まっていまでも分析哲学で 前提されている言語に対する態度への痛烈な批判だと思うけどね.どうでしょう. ちなみに人類学というのは,W自身が弟子の誰かに「自分はスラッファから・・・と人類学を教わった」と言ったんじゃ なかったかな(・・・のところは忘れた^^).何かの本に載ってると思うけど,僕はWが専門ではないし,みんな耳学問だから 詳しい出典とかわかりませんけれど.
にっくさん、いちごさん、歳はおいくつですか?
650 :
考える名無しさん :02/01/23 21:07
すみません。ウィトゲンシュタインを勉強したいんですけど、 この人のどの本から読み始めればよいのでしょうか? どなたかアドバイスいただけませんか?
>>610 > というのも,顎をなでる仕草は,仕草であって言語ではないから.
>>648 > 何らかの文の形で定式化されなければならないでしょう.
これらは,椅子や机の配置だって命題記号だという
論考の主張とそぐわないと思いますよ.
(かといって姫の説明に納得するわけでもないですが).
>652 「椅子や机の配置が命題記号だ」という主張が『論考』のどこにあるのか僕にはわかりません.
>>648 >前提されている言語に対する態度への痛烈な批判だと思うけどね.どうでしょう.
現在の分析哲学は、手法は引き継いでるけど、世界を覆う単独の論理的に
完全な理想言語のドグマを共有してないからなあ。
>>644 「ヴィトゲンシュタインのゲーデル理解」
っていうか、君これ読んだことあるだろ?この論文を読めば、
どっちがスタンダードな考えなのかわかりそうなものだが。
>654(>648) まあね.でもスラッファの皮肉は,理想言語なんてものではなく,まさにその手法そのものに 対する皮肉だったと思うけどな.
656 :
考える名無しさん :02/01/24 19:50
>>648 >僕は,Wはスラッファの皮肉に対してもっとがんばれたと思うわけ.
ウィトゲンシュタインからすれば,スラッファの仕草が,像ではないのは有意味で
はないという切り返しも,有意味なのは像(であり命題に出来る)からだという路線
も反論の筋としてはありえますね.だから,そのエピソードが『論考』のウィトゲン
シュタインを十分に論駁しているわけではないでしょう.
但し,
>言語が実際に使われるその多様性を論理的に分析なんかできると思っているのかと
いう批判には,「日常言語は・・・・複雑である.日常言語から言語の論理を直接読み
取る事は人間には不可能である.」(TLP4.002)という解答が予め用意されています。
そして,倫理や審美については語りえない,という考察が与えられているのだから,
記述命題に限定される限り,そう簡単に「簡単に言えば,『論考』以来Wが前提して
いた言語観は狭隘だ」という結論は理詰めでは出てこないと思います.
なので,稲氏の読みも可能だけど,結局,当該のエピソードはそこでウィトゲンシ
ュタインが何をインスパイアされたのか,という自伝的な問題になるので,彼自身の
説明(についてのマルカムやフォン・ウリクトの報告)を信頼するしかないのでは,
と思うのですが.
657 :
いちご姫=656 :02/01/24 19:58
>>650 直接テクストに当たるなら,『論考』と『青色本』もしくは講義ノート
あたりでしょうが,どちらも(特に『論考』以外は)問題意識を把握す
る事自体が難しいので,解説本からはいった方が良いのでは,と思います.
飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』(講談社)か
永井均 『ウィトゲンシュタイン入門』どこかの新書
あたりが無難でしょうか?
直接『論考』へ行きたいのなら,飯田隆著『言語哲学大全 T』(勁草書房)
を読んでおくと,『論考』が前提しつつ批判の対象としているフレーゲと
ラッセルの話がわかりやすいです.
>>653 LPT 3.1431ですね.山元訳だとこうなっています.
命題記号を,文字記号から合成されていると考える代わりに,
空間的諸対象〔たとえば,(実物の)机,椅子,書物など〕から
合成されている考えてみるならば,命題記号の本質は,
きわめてはっきりするであろう.
そこでは,これらの事物相互間の空間的配置が,
命題の意義を表現しているのである.
LPT -> TLP
>>654 >「ヴィトゲンシュタインのゲーデル理解」
>っていうか、君これ読んだことあるだろ?
ない(笑)
>この論文を読めば、どっちがスタンダードな考えなのか
>わかりそうなものだが。
読んだのなら、説明くらいできそうなもんだが。
結局、著者の名前の権威で押し通す腹積もりか(笑)
だから知ったかは困る。
>>660 君の知ったかぶりのほうが明らかになってるだけだろ。
君の言ってることは俺のあげた奥氏の論文での奥氏の主張と
さしてかわらねー意見なの。だから、よんだことあると思ったんだが?
>読んだのなら、説明くらいできそうなもんだが。
はあ?何を説明しなきゃならないの?権威でおしとおすか、、、
まあ、無知なやつが言いそうな言い訳だな(嘲笑)
よけいなお世話ながら、 ウィットゲンシュタインだよ。 ウィーンをヴィーンとはイワンだろ。 本人も、オレをヴィットゲンシュタインと呼ぶな、と書いている。 それから、どうせ『青本』他読むなら、 黒崎宏先生の新訳、解説付きをお奨めします。 大修館の全集はどれもこれも翻訳がひどい。あまりにひどい。 藤×さんの訳なんか、 「根本的な誤りがある」が「基盤に穴が開いている」となっている。
スレと関係ないけどウィーンはヴィーンだよ。
ドイツ語厨房は、だから困る。 ウィーン、っていうか、オーストリアのドイツ語では、 Wは濁らないの。 みんなががっこで習うのは、北ドイツでしか通じないよ。 南ドイツだの、オーストリアだの、全然違うもの。
そーだったのか。現地の人が濁らせてたからてっきりそう思ってた。 あれは標準ドイツ語で話しかけてくれてたんだね。確かに俺は標準 ドイツ語も少ししかできないので英語とちゃんぽんだったし。 勉強になったよ。
ウィーンは、ドイツの京都みたいなところだから、 お上りさんもいっぱいいて、 べつに相手があえて標準ドイツ語を話したのではないのでは? ただ、けんのんな生粋の連中からすると、 濁るのは、ドイツの山熊と見なされるそうだ。
>>661 >君の言ってることは俺のあげた奥氏の論文での奥氏の主張と
>さしてかわらねー意見なの。
ふーん、でもオレの元ネタは
現代思想1989年12月号「特集 ゲーデルの宇宙」の
黒崎宏氏の「ヴィトゲンシュタインにおけるゲーデルの影」
だよ(笑)
それにオレはあの見解で
「ヴィトゲンシュタインはゲーデルを分かってない」
とは思わんな。
君の分かりたいようには分かっていないだろうが
君が「正しい」わけじゃない。
>オーストリアのドイツ語では、Wは濁らないの。 おら、プロイセンの生まれだ(笑) >ウィーンは、ドイツの京都みたいなところだから んだば、プロイセンは東北だべか(笑)
ハードな1週間だった・・・・・・
ざっと目を通した限り、まず「顎をこする仕草」を像と認めるかどうか、で立場が分かれるみたいですね。稲さんは「顎をなでる仕草は,仕草であって言語ではない」ということだから、
「仕草は言語ではない、それ以前に像ですらない」、という立場かな?
いちご姫さんと咲也さんは、「顎をこする仕草」も像である、あるいは「少なくともWは像とみなした」という立場ですね。
仕草を像と認める立場としては、一応の説明は
>>646 のいちご姫さんのレスでついてるようですね、僕は分からない部分もあるのですが。
『論考』では、像はなにがしかの≪事態≫を表していることになっている。
だから、仕草が像なら、やはり何かしら対象を表していて、さらにその対象と論理形式を共有していることが要求される。
しかし、では「顎をこする仕草」は何を対象とした像で、何と論理形式を共有していると言うのか
・・・・・・まさに「顎をこする仕草」だろうか?すると、像と≪事態≫が一致するなんてことになる。それはおかしい。
しかし、そうでないとすれば、「顎をこする仕草」は、論理形式を共有していない何か別の対象を表している、ということになってしまう。いずれにしても矛盾する。
こんな理解でいいのでしょうか。
それでは、稲さんの言うように、仕草を像と認めなかった場合、Wにはどういう「突っぱね方」があったんだろう。うむ。また考えたら書きます。
>>658 (咲也さん)
>LPT 3.1431ですね.山元訳だとこうなっています.
>
> 命題記号を,文字記号から合成されていると考える代わりに,
>空間的諸対象〔たとえば,(実物の)机,椅子,書物など〕から
>合成されている考えてみるならば,命題記号の本質は,
>きわめてはっきりするであろう.
> そこでは,これらの事物相互間の空間的配置が,
>命題の意義を表現しているのである.
咲也さんは、この節を根拠にして、椅子や机の配置も「命題」である、という主張をされていますが、それはおかしいと思います。
命題は、あくまで「書物は机の上にある」とか「椅子は机の右にある」という言語による像であって、実際の個物の空間的配置は≪事態≫や≪事実≫に相当するはずです。
命題は≪事態≫の、言語による像だからです。
Wがここでいおうとしているのは、論理形式の重要性ではないかと思います。つまり、像が何か対象を表現するためには、個々の対象と一対一対応しているだけでは不足で、論理形式を共有していることが重要だ、と。
数学っぽい言葉で言えば、論理形式とは同型対応のことだと思います。二つの集合(言語と世界)の間には、要素の濃度が一致するだけではなく、要素間の“関係”も一致してもらわないと、命題の有意味/無意味の判定ができなくなる。
おそらくWが言いたいのは、こんな感じではないでしょうか。
>ちなみに人類学というのは,W自身が弟子の誰かに「自分はスラッファから・・・と人類学を教わった」と言ったんじゃ
>なかったかな
多分、その弟子はラッシュ・リースじゃないですか?モンクの伝記に載ってた。「・・・」に入る言葉は、僕もしらないなあ。
既に
>>656 のいちご姫さんのレスで概出だけど、スラッファが顎をこすってみせたことで『論考』を批判した、という逸話は、有名な割にそれを伝える資料が乏しくて、信憑性については、多々疑問が残ります。
この出来事を伝える一次資料を、マルカムの回想ぐらいでしょうし。Wの伝記を書く人々も、この逸話のソースとしてはマルカムの回想のみに頼っているようです。
しかも例によってWは、スラッファの批判を受けて「なぜ」『論考』のアイデアを放棄しなければならなかったか、という理由を明確に述べていないし・・・・・・その分、そこを推論する面白さはあるにしても。
そういえば、スラッファとWの関係をテーマにした論文や本て少ないですね。スラッファも寡作な人だったから、やはり資料に乏しいのだろうか。
この本の第9章ってどうでしょうね。
http://www.kyoto-up.gr.jp/isbn/ISBN4-87698-006-3.html それにしても、ブラウワーの講演もスラッファと同じ趣旨のものだった筈なのに、Wのブラウワーに対する評価は否定的なのもちょっと謎だと思う。
自己レスです。 670を慌てて書いてしまいましたが、『論考』の該当箇所を読み直して、違う気がしてきました。 命題記号を文字ではなく、他の物で置き換えても構わない、という議論の箇所だったのですね。 そうすると、机の上の本の配置で「今日は晴れだ」「今日は雨だ」ということを表したりできるから、一種の暗号ゲームみたいになるわけかな。 すると、言葉で表現する代わりに、身振りを命題記号として使っても一向に構わないことになるわけか。 すいません。焦って書き散らかし過ぎました。風呂にでも入ってゆっくり考えます。
674 :
名無しさん@1周年 :02/01/25 22:26
>>670 >Wがここでいおうとしているのは、論理形式の重要性ではないかと思います。
これはその通りです.TLP3.1432がその典拠になります. 3.1431自身が明らかにし
ようとしているのは,椅子や机の場合,<それらがありながらかつそれら相互の空間的
関係が存在しない>場合があり得ない事を通じて,命題においてそれを構成する名の
名ざしと同様に名と名の関係が必須である事を提示しているのです.
>命題は、あくまで「書物は机の上にある」とか「椅子は机の右にある」という言語
>による像であって、
>実際の個物の空間的配置は≪事態≫や≪事実≫に相当するはずです。
上記に言われていることそれ自体は誤りではありませんが,3.1431の脈絡をそれは
誤読しています.
当該章句では,椅子や机が 文字記号の代わりに言語の記号表現として想定されて
るのです. 従って,(例えば)椅子の右に机がある,という事実が(それ自体命題表
現として)何らかの他の事実/自体(例えば,リンゴの上にみかんがある)を意味し
ているわけです.
命題表現もまたそれ自身事実であるのですから,「個物の空間的配置が「事実」」で
ある事は,なんらそれが言語(命題)である事を妨げるものではありません.
=674
ミスって入力してしまった.
>>673 674を書く必要はなかったですね.そのとおりです.
>身振りを命題記号として使っても一向に構わないことになるわけか。
はい.
残る問題は<軽蔑する>が『論考』の存在論に入り込めるか否かですね.
いちご姫さんとにっくさん、 年齢を教えて下さいってば。 いやならいいけど
>>676 「いやっ」
それと他人事ながら にっく→みっく
ん〜、4捨5入したらまだ20歳、とだけお答えしましょう。
> 当該章句では,椅子や机が 文字記号の代わりに言語の記号表現として想定されて
>るのです. 従って,(例えば)椅子の右に机がある,という事実が(それ自体命題表
>現として)何らかの他の事実/自体(例えば,リンゴの上にみかんがある)を意味し
>ているわけです.
>
> 命題表現もまたそれ自身事実であるのですから,「個物の空間的配置が「事実」」で
>ある事は,なんらそれが言語(命題)である事を妨げるものではありません.
そうです。まさにそういうことです。すっきりしました。命題は何も言語で表す必要はないわけですね。
というより、ある対象を表すことができたという事実が、事物を言語たらしめる条件となる、ということなのですね。
ところで、
>>669 の、「身振りを像と解釈した場合に写像理論に矛盾が生じる」ことの証明の方には、突っ込む箇所はありませんか?
こっちは自信ないんですが。
もし669の説明が合ってるとしたら、自己言及というのはヒルベルト・プログラムだけでなく、『論考』にとっても破綻の契機になったことになるのですね。
何だか自己言及の神秘性を少し感じます。
>>678 より以前
なんか君たちの『論考』の写像理論の理解が怪しいぞ。
彼の写像理論は、現物 対 記号 ではなくて、
現物と現物 対 記号と記号 の間に成り立つのであって、
リンゴと机 は、手とあご とに写像することもできる。
2.11 像は、論理空間において、状況を提示する。即ち像は、
論理空間において、諸事態の成立と不成立を提示する。
2.13 像の要素は、像において、対象に対応する。
像 〜 諸事態
像の要素 〜 対象
っ〜ことでいいの?
>>679
>>680 まだやや怪しい。
リンゴと机、手とあご、は例がよくなかったかも。
リンゴが机の上にある、というのが諸事態A、
リンゴが机の下にある というのが諸事態Bだとしたとき、
手をあごに当てる、と、手を鼻に当てる、が、
論理空間としてあるなら、
手をあごに当てる、を、諸事態Aの像とし、
手を鼻に当てる を、諸事態Bの像とすることができる。
しかし、だからといって、
リンゴの像が手だとか、
あごに当てる、は、机の上を意味するとか言うことはできない。
このように、論理空間については、むしろ『探究』において、
彼が、ソシュールのコードのような、
実在的規則総体を考えていたことがあきらかになる。
>彼の写像理論は、現物 対 記号 ではなくて、 >現物と現物 対 記号と記号 の間に成り立つのであって ということと、僕の670の >数学っぽい言葉で言えば、論理形式とは同型対応のことだと思います。二つの集合(言語と世界)の間には、 >要素の濃度が一致するだけではなく、要素間の“関係”も一致してもらわないと ということは、同じようにしか読めないんですが、何か違うんですか? 要するに、現物と記号が一対一に対応するだけでは不十分で、現物と現物との間に成り立っている“関係”をも保存したまま写像されないといけない、ということではないのかな? そして、その現物と現物との間に成立している関係を、Wは≪論理形式≫という言葉で呼んだ、と。
683 :
考える名無しさん :02/01/26 01:54
>>677 このスレを最初から最後まで読むと大体サバが読めますよ(笑
685 :
考える名無しさん :02/01/26 05:51
オフ会の様子はどうだったんですか?
>>682 残念ながら数学的発想より前の部分をきちんと整理しないといけない。
なぜわざわざウが諸事態などという
うざったい表現を使ったかを理解する必要がある。
言葉で表現すると、リンゴが机の上にある、になるけれども、
実際は、それは、リンゴが机の上にあり、バナナが引き出しの中にあり、
ミカンが床にころがっている、等々、
種々雑多な分節化される以前の世界そのものでしかない。
そして、二つ、二度と同じ状態にない世界を、手をアゴに当てる、
という像に対応させる。
したがって、手にアゴを当てる、という像に対応する世界は、多数ある。
ここで、『論考』全体の構造からすれば、
世界は、主観によって命題という像を立てる以前には語り得ない。
主観が命題を立て、世界との写像規則を担って、
この真偽を論じるとき、手にアゴを当てる、真または偽である、
ということになる。
ここにおいて、世界はそもそも分節化されておらず、かつ、
そのような世界と像との関係は、絶対的に多対1であるから、
要素の濃度などという発想が入り込む余地はない。
このような意味で、『論考』はしばしば
カントの先験的悟性論に近い、と言われるわけだ。
これで少しわかった?
長々説明してもらって恐縮です。 でも全く理解できません。。。疑問とかが湧く以前です。 今の僕には何も言えることがないので、とりあえず保存させていただきました。 ありがとうございました。
うーん、うまく説明できなくてスマヌ。 ただ、話を1まで戻すと、 ふつう、『論考』と『探究』の間の転回点に『青色本』がある、 とされるけれども、 分節化(要素への分解)される以前の世界、という発想は、 『論考』〜『青色本』〜『探究』を貫く下地であって、 『論考』に対するラッセルらの数学的誤解との論争において、 みずからの写像理論の解体そのものへ突き進むという経緯からすれば、 『青色本』に着目したのは悪くないと思う。 彼の独特の論理数学観については、 『数学の基礎』『学団』なども並行して読むとよいのでは。
これはどうも。 でも最近はWそのものを読むより、 GEB →ケンブリッジ・くぃんてっと → マッカーシー ミンスキー チューリング といった、ちょっと違う角度の本を読もうと計画してます。小野寛晰さんも難しそうだけど、読んでみたいな。
純丘えらそうなわりにまとはずれやね.
的はずれというか、日本語としてどうかねえ
わしは、にほん語は知らん。わしのは、のほん語じゃ。
>>672 彼の一時は師であったラッセルはまだ死後50年経ってない
というのがなんとも、、、
>>693 だって、ラッセル、金持ちで、
いいもんばっか喰ってたから、むだに長生きだもの。
後半生なんか、アインシュタインのお株まで奪って、
原子力とせかいへいわ、なんて講演して楽しくやってた。
>>694 ジョークのつもり?ヴィトゲンシュタインも相当な金持ちだろうに。
寄付して金がなくなったって言うなら、ラッセルだって離婚して
かねなくなってるぞ。
>>695 読み返してみると、読みようによっては挑発的な文章だね。すまん。
咲也氏とミックへ 670のミックとだいたい同じだけど,咲也さんの批判は僕に向けられたものだから一応補足しておく. まずミックのいうように,3.1431の部分を咲也さんのように解釈すると,机や椅子が事実だという理屈になっちゃう. 「世界はものの全体ではない」(1.1)わけだから,咲也さんの3.1431の読みは無理があるでしょう. この部分は3.141の「文は語の寄せ集めではない」ということを受けているんでしょ.この部分は,全体としてはWの像理論 の正当化の一部でしょ.つまり「文は単に記号の寄せ集めなんじゃなくて,文の書かれ方ないしその現れが世界の事実と対応 している(像になっている)」ということが言いたいんじゃないかな(この正否はともかくとして). ,
>674(考える名無し@一周年) それはむしろミック(670)のスレを読み間違えてるんじゃないかな.もしそうでないとすれば,一周年の誤読じゃない. 670でミックが言っているのは,「椅子は机の右にある」ということが事実であって,「椅子」や「机」が事実に対応している わけではないということだと思うけど.
↑ これからは敬称略ということでお願いします^^
ヴィトゲンシュタイン、ラッセル、ヘーゲル、ハイデガー、ヤスパース、買ッタケド、全部捨テタ。 精子ヲぶちいえるノニ使ってた。ノリノ役割ヲ精液ガ果たして読めなくなった。 ハラガタッタナァ。
701 :
いちご姫=674 :02/01/28 13:22
>698 稲 (呼び捨てにはなんか違和感が・・・・) >670でミックが言っているのは,「椅子は机の右にある」ということが事実であっ >て,「椅子」や「机」が事実に対応しているわけではないということだと思うけど. >670 >命題は、あくまで「書物は机の上にある」とか「椅子は机の右にある」という言語 >による像であって、実際の個物の空間的配置は≪事態≫や≪事実≫に相当するはず >です。 私がミック氏の670投稿について批判したのは,モノを事実と誤って同一視して いるということではなく,「実際の個物の配置」は事実でしかなく,それが言語(命 題)でもある事はない,という解釈についてです.即ち,批判点は下記部分です. > 命題表現もまたそれ自身事実であるのですから,「個物の空間的配置が「事実」」で >ある事は,なんらそれが言語(命題)である事を妨げるものではありません. ミック氏670投稿を誤読したという自覚は私にはないのですが・・・・
>701 なんか錯綜してきて,全体として何が議論のポイントなのかわからなくなってきたな. で,いちご姫の「なんらそれが言語(命題)・・・」という部分の「それ」は何を指してるの?
674の「当該章句では,椅子や机が 文字記号の代わりに言語の記号表現として想定 されてるのです. 従って,(例えば)椅子の右に机がある,という事実が(それ自体命 題表現として)何らかの他の事実/自体(例えば,リンゴの上にみかんがある)を意味 しているわけです」という部分が何を言いたいのかわからないんだけど.特に「椅子の 右に机があるという事実が他の事実を意味する」という部分がわからない.3.1431って そんなことではないと思うけれど.
3.1431の脈絡って単に「文は語の無意味な寄せ集めではない」ということでしょ.つまりそれは 机や椅子が無意味に配置されてるんじゃないように.この「ように」という部分をいちご姫は強く 解釈し過ぎているのでは.もし「椅子が机の右にある」という文が語の無意味な集まりであるなら, 同じ文をたとえば「右にある机の椅子が」としたっていいじゃないかと.しかしこんなのは文で はないんであって,文の構造の形式がそれが記述している事実の形式に対応している.その共通の 形式が論理形式なんだというのが『論考』の像理論じゃないの? ある事実が他の事実をも意味する なんて『論考』のどこにも書いてないと思うけど.
>702 >いちご姫の「なんらそれが言語(命題)・・・」という部分の「それ」は何を指してるの? 「事実である事」を指しています。 >704 >3.1431の脈絡って単に「文は語の無意味な寄せ集めではない」ということでしょ. 二点あると思います。 言語の側面について言えば,文は語の単なるよせ集めではない,という事が同時に存在 の仕方の側面からすれば,それが文である当の命題符号も事実である(単なるモノ= Dingの寄せ集めではない,という点です. >674において脈絡の誤読といったのは, >(1)命題は、あくまで「書物は机の上にある」とか「椅子は机の右にある」という言語 >による像であって、 >(2)実際の個物の空間的配置は≪事態≫や≪事実≫に相当するはずです。 というミック氏の書き込みの(1)と(2)から,私が読み取った,命題は事態や 事実ではないという主張についてです. >ある事実が他の事実をも意味するなんて『論考』のどこにも書いてないと思うけど. 「命題記号は一つの事実である」(TLP3.14b) 「事実だけが意義を表現できるのであって,名のクラスは意義を表現できない」(TLP3.142) 「像は一つの事実である」(TLP2.141) これらは,事実こそが命題記号でありえるのであり,その事実が世界の他の事実と射影関 係にあるとき(もちろん,前者が後者を写像している,という関係ならば),前者が後 者を意味する「表現する」事を主張しているのではないでしょうか. (「命題とは世界と射影関係にある命題記号である.」(TLP3.12))
いちご姫の指摘が正しい。 稲がやや誤解しているのではないかと疑われるのは、 「文」や「語」というのを、通常の意味で考えている点。 『論考』で「文」というのは、あくまで論理文であり、 たとえば、AかつB AまたはB のようなもの。 つまり、Aだけで、かつ、Aのみが、すでに事実を表現しており、 Aという文字の部品、/ や \ や − は、なにも意義を持たない。 同様のことが、「椅子の右に机がある」についても言え、 この命題の部品である「椅子」「右」「ある」等は、 言語学としてはともかう、『論考』としての分析には値しない。
>706 『論考』の文が論理文に限られるというのは明らかな誤解だろう.そもそも純丘が僕のスレのどこを読んでこんな指摘をしているのか わからない. >705(いちご姫) 674の問題の箇所をもう一度引用しておく. 「咲也さんは、この節を根拠にして、椅子や机の配置も「命題」である、という主張をされていますが、それはおかしいと思います。 命題は、あくまで「書物は机の上にある」とか「椅子は机の右にある」という言語による像であって、実際の個物の空間的配置は ≪事態≫や≪事実≫に相当するはずです。命題は≪事態≫の、言語による像だからです」 この引用文を読んでもわかるようにミックは命題が事実ないし事態だとは言ってないと思うけれど. 次に僕のスレ704「ある事実が他の事実をも意味するなんて『論考』のどこにも書いてないと思うけど」 という部分について. いちご姫の応答の内容それ自身は問題ない.というより『論考』の像理論についての普通の解釈でしょう. しかし僕が聞いているのは,「椅子の右に机があるという事実が何らかの他の事実(例えば,リンゴの上に みかんがある)を意味する」という箇所なんだけど.705の三番目の部分がその応答になっているとは 思えない.
>>707 おお、ようやく問題のややこしさがわかった。整理して確認したい。
いま、
命題は事態である という話と、
事態は命題たりうるか、という話の2つがあると思う。
しかるに、
私は、命題は事態である、と思う。
なぜなら、それは、問われること、
および、真が偽かであることにおいて、世界の一部であるから。
ところが、一見、矛盾しているようだが、
一方、事態は命題たりえない、と思う。
命題は、真偽が問われるべき課題であるのに、
事態は、その命題に答えるに当たって参照されるべきものであるから。
さらにところが、
事態もまた、命題の像であることはできる。
実際、命題という事態は、
通常は、言語の文章という事態に像として提示される。
とすれば、指をこする、が、
いくら? という命題(?)を意味するように、
ある特殊な言語ゲームでは、
椅子や机の配置で、命題の像たりうるのではないか?
実際、碁盤の上の石の配置は、命題ないし命題の像ではないか?
一つのポイントに来ている気がします。
>私は、命題は事態である、と思う。
> なぜなら、それは、問われること、
> および、真が偽かであることにおいて、世界の一部であるから
僕は、この純丘さんの主張「命題は事態である」に賛成です。
それゆえに、ある事態が別の事態を表現することもできるのではないだろうか、と思います。
命題よりももっと広い範囲のタームである「像」も、一つの事態だと思う。
というのは、像というのは、この世界の中にある「もの」を使って表現されたものだからです。
像は、例えば、文であったり楽譜であったり、グラフであったりする。これら像の役割を果たせるのは、この世界に存する事実以外にない。像とは思考の中にあるイメージのような漠然としたものではなくもっと具体的な表現の方法である、ということを確認しておきたいです。
>ある特殊な言語ゲームでは、
>椅子や机の配置で、命題の像たりうるのではないか?
>実際、碁盤の上の石の配置は、命題ないし命題の像ではないか?
僕も、
>>673 で、「机の上の本の配置によって、一種の暗号ゲームができる」と書いたのは、このような意味だったと思う。
純丘さんから見ると、どうですか?多分同じだと思うのだけど。ただ純丘さんのレスの中で、「命題の像」という言葉がよくわからないところです。
碁盤の上の石の配置は、ずばり「像」あるいは「命題」と言ってよいと思う。
710 :
考える名無しさん :02/01/29 03:51
おお有力コテハン入り乱れての論戦ですね。 外野で観戦してます。。
授業の準備に忙しいので,稲 へのコメントは後刻
>>709 >>710 純丘氏とミック氏の発言の一部について・
命題(論理像)はそして像一般も事態です。そして,事実でなければなりません。
何故なら,写像されている為には写像によって生じた思想を表現する命題符号の配置
――或いは他の形式での像の感性的表現形態――が存立している事が必要であるのだ
から,存立していない事態がある事実を写像するという事は考えられないからです。
>命題よりももっと広い範囲のタームである「像」も、一つの事態だと思う。
>というのは、像というのは、この世界の中にある「もの」を使って表現されたもの
>だからです。
これは正しいと思います。ただし,この世界の中にある「「もの」がしかじかである」
という事実を使うが故に,そのなかで「もの」が名として用いられる,という点を見落
とす人がいるとすれば,それは誤解ですが。
>碁盤の上の石の配置は、命題ないし命題の像ではないか?
それが何かを写像していれば,命題ですね。
712 :
考える名無しさん :02/01/29 13:42
どなたでもいいのでここの議論に出てくる用語の関係性について教えて頂きたいのですが 全ての「命題」は「事実」に含まれる 全ての「事実」は「事態」に含まれる ということでいいんでしょうか? どうも「事態」という用語はかなり幅広い意味で使われているようなんですが そうすると「事態」と言語ゲームの関係はどのようなものなんでしょうか
>いちご姫さんとにっくさん、 >年齢を教えて下さいってば。 いちご姫は四捨五入で40だろ。 文章にオヤジ臭さがある。
>>708 >>709 「それが何かを写像していれば」と限定をかけたように,碁石の事例はむしろ『論
考』にとっては悩ましいものでありるでしょう。
例えば,その碁石の配置が過去の有名な試合の復元である場合,前者は後者の像です
から命題だといえるでしょう。あるいは,「クロが3の4にある」が「リンゴは赤い」
を意味している場合,前者は後者の写像ですから,この場合も命題でしょう。
しかし,普通に行われる碁の試合における場合,その一手一手は,あるいはその碁石
の配置の全体は,なにか他の事態を写像しているでしょうか。むしろ,中後期の立場に
組するように,碁の規則とそれまでの諸々の手の配置とからの故に,端的に(他の事態
の写像としてではなく)有意味であるのではないでしょうか。つまり,有意味でありな
がら,像ではなくトートロジーでも矛盾でもない,そういう可能性を碁の事例は示して
いるように思います。
715 :
考える名無しさん :02/01/29 19:43
ははは、「何も意味しない」碁石の配置か。 なるほどね。確かにそれは像じゃない。 まるでヒルベルトの形式主義数学のようですね。
>>697 何故そういう反論になるのかよくわかりませんが,
ミックさんの発言に対するいちご姫のフォローをお読みください.
この節について私が言いたかったのはそういうことです.
>>714 とりあえずは論考について議論してはどうでしょう.
中後期の話を持ち出すと混乱する人がいそう.
>>715 それはヒルベルトの公理論を誤解していますね.
稲 への返答 >674 > 当該章句では,椅子や机が 文字記号の代わりに言語の記号表現として想定されて >るのです. 従って,(例えば)椅子の右に机がある,という事実が(それ自体命題表 >現として)何らかの他の事実/自体(例えば,リンゴの上にみかんがある)を意味し >ているわけです. >704 >ある事実が他の事実をも意味するなんて『論考』のどこにも書いてないと思うけど. >707 >705の三番目の部分がその応答になっているとは思えない. 主張の要点は,我々が日常用いている言語の記号(音声や文字)でなくても,事実 であれば命題として用いられえる(そこに他の事実が写像されえる)という事に尽き ます。 相互誤解があるかもしれないので,まず念を押します。<机の右に椅子がある>とい う事実は<つねに><林檎の上に蜜柑がある>という事実を意味する、と私が主張し ているわけでは全くないということです。主張しているのは,「つくえのみぎにい すがある」や「りんごの上にみかんがある」という(文字という)記号の列(である 事実)が<林檎の上に蜜柑がある>という事実を意味しえるのと同様に,文字ではな いような種の事物からなる<机の右に椅子がある>という事実もまた<林檎の上に蜜 柑がある>という事実をも意味しえる,ということです。そして,現に意味している か否かは,論理形式の同一性を必要条件とした,現に前者が後者を写像しているか否 かという問題です。 もし,上記の議論にあなたが異論ないとすると,私にはどこが問題なのか見当がつ きません。 何かが命題記号であるための条件は,それが「感性的に知覚可能である」事(TLP3.1) 命題を構成する要因であること(同)「その要素である語が,命題記号において一定の様 式で相互に関わりあう」(TLP3.14)事,及び「一つの事実である」(同)事に尽きます。 そして,<椅子の右に机がある>という事実は,感性的に知覚可能であり,椅子と机と は一定の係わり合いの仕方をしており,一つの事実です.とすれば,それが他の事実を写 像する(他のある事態を描出する)よう用いられる事が(両者の論理形式が同一ならば) 可能であり,その際には<椅子の右に机がある>という事実が他の事実を意味すると思い ます. 問題があるでしょうか?
>>712 >全ての「命題」は「事実」に含まれる
>全ての「事実」は「事態」に含まれる
>ということでいいんでしょうか?
>全ての「命題」は「事実」に含まれる(TLP2.141,3)
>全ての「命題記号」は「事実」に含まれる (TLP3.14)
>全ての「事実」は「事態」に含まれる(TLP1.11,1.12,2)
(事実は成立している事態)
の何れも正しいです.
>そうすると「事態」と言語ゲームの関係はどのようなものなんでしょうか
「事態」は前期の概念であり,「言語ゲーム」は中後期の概念であるから,
とりあえず,何の関係もない,というのが第一歩の解答です.
やっと採点おわったよん。 で、中後期の言語ゲームまで話を広げすぎないで、 あくまで『論考』について、整理しつつ問いたい。 碁石の例を挙げたのは、この意味で重要性と躊躇がある。 重要なのは、そのいずれの石にも意義がない、ということ。 意義があるのは、あくまで複数の石の置かれた盤面である。 そして、ただの石の置かれた事態が問いたりうることにおいて、 『論考』の隠された主観の持つ論理規則が示されてくる。 しかし、714にあるように、これは何かの像たりうるか? たとえば、名人同士の試合があり、これを写したものであればそうだろう。 だが、その場合にしても、それは、像というより、 これ自体が問いとして自立してしまっている。 そして、さらに、そもそもこれは命題か? 命題はあくまで事実としての諸事態との関係で、 真偽を問われるものであることになっていると思う。 さて、ここで問題。 たとえば、地球は回っている、という命題は像であり、真だが、 ペガサスに羽がある、という命題は真だが、像か? つまり、カント的に先験分析的命題は、像ではないのでは? このとき、先験分析的であるかどうかは、 じつは、語(概念)が意義(対象)を持つかどうか、で決まるのでは? つまり、事態に含まれる語(部分)がすでに何かの像でなければ、 その事態は、事実に関して真偽と問いうる命題たりえないのでは? この点をウはどのように考えていたのだろう?
>717 問題あるね.まず両者のコンセンサスとしていちご姫は<>でくくったときは事実を意味してて「」でくくったときには文 を意味してるんでしょ.多分ここはいいと思う.で,文記号であるための条件として感覚的(感性的というのはちょっとお かしい)に知覚可能だという条件があるけど,こんなの当たり前なんです.知覚できなきゃ記号でなんかありえないんだから. で,<椅子の右に机がある>というのは一つの事実だと言ってるけど,これも当たり前.だって<>でくくられた部分が事実 であることは前提でしょ.問題なのは,<椅子の右に机がある>という事実が知覚可能だという部分.これはおかしい.事実 が知覚可能だなんてWは言ってない.Wが言ってるのは書かれた記号としての文が知覚可能だということであって,文が書かれたり 発話されたりして世界の事実としてそこにあるからといって,事実が知覚可能だということでは全然ない.単純に「事実が知覚 可能だ」というのは表現としておかしい.これが一点. 次に<椅子の右に机がある>ということが<林檎の上に蜜柑がある>を意味するないし意味しうるというのも非常にミスリーディ ングだと思う.たしかにある文が<椅子の右に机がある>を意味するということから,−文は書かれたものとして一つの事実であ るから− ある事実が別の事実を意味するという意味で,<林檎の上に蜜柑がある>という事実が<椅子の右に机がある>という事 実を意味しうる,ということは言えなくもない.しかしこんなことは『論考』のポイントではない.むしろ『論考』でWが言いたい のは,事実としての文それ自身がそれが表現する事実の像になっているということでしょ.このことでWが意図してるのは,<林檎 の上に蜜柑がある>という事実を認識する‘私(認識主体)’がある文を書いたり発話するという言語行為を消去する,簡単に言っ てしまえば認識の主体としての私を消すことによって認識論を消し去るというのが『論考』の最大の目的でしょ.じゃあ世界と言語 はどうやって結びつくのかというと,文とそれが表現する実在とが論理形式を共有することによって「文が実在の像である」(4.01) ことによってだ,というのが『論考』の答えでしょ.だから<林檎の上に蜜柑がある>という事実が<椅子の右に机がある>という事 実を意味するなんてことは『論考』にとってはどうでもいい問題だと思うけどね. 「『論考』の目的が認識論を消去することだ」ということに異論がある人がいるかもしれないけど,それはそれで別の議論になると思 うけど,僕はけっこうがんばれると思う.
戯論寂滅
すべての哲学的命題は疑似科学でしかない
いちご姫さんご回答ありがとうございます。 過去ログで用語そのものについても解説されていたんですね。 僕のような一般人の為にここでまた引用させていただきます。 起こる事、Fall 事実、Tatsache 事物、Ding 事態、Sachverhalt 対象、Objekt 状況、Sachlage FallとTatsacheはほぼ同義です Sachverhaltは事物の組み合わせの仕方の論理的諸可能性, Tatsacheは現実に成立している組み合わせです。 Objectは写像がそれを写すところのものですから Sachverhaltを写像論の文脈で呼ぶ概念でしょう Sachlageが最も怪しい概念で,概ねSachverhaltと同義もしくは ステニウスのようにSachverhaltの存立・非存立の可能性, と解しておけば大きな混乱は無い,と思います。 注記 489のコメントはあくまで超初心者向けです ここいらの概念でも弄り回せばいくらでもヘンなところを出せますが それはなるべく目を瞑って読み進みましょう,というそういう人の為の 提案ですので,「怪しさ」は無視して初級辞書的説明に徹しました
それで超初心者的な理解として 論考の世界観とは 世界(事実の総体)と可能的世界(事態) の二元論的な世界と考えておいて良いのでしょうか? あと事態の説明で「論理的」って語がくっついてるのも良く分かんないです。 単なる諸可能性じゃだめなんでしょうか。 用語の関係から言えば命題、事実、世界は全て論理的ということに なりますよね。論理的だけど意義がある/ないという区別ですか。 うーん、論理的ってどういうことだろう・・・。
語りえぬことについては沈黙しなければならない
726 :
考える名無しさん :02/01/30 16:15
じゃあ、ウィトゲンシュタインの種子に関する考察と遺伝子について語ってくれ
>>724 >世界(事実の総体)と可能的世界(事態)の二元論的な世界
諸事態の総計としての可能的世界のうち,存立している事態(=事実)の総体が世界
です。後者は前者に含まれるのであって,あい対しているのではありません。ですか
ら,この点において二元的という言い方はミスリーディングだと考えます.
>>724 >あと事態の説明で「論理的」って語がくっついてるのも良く分かんないです.
現実には存立し得ない組み合わせには,物理的・生物学的等々の制約によるもの
もあります.それらは,我々の世界では決して存立しなくとも,我々はそれを思考
する事が可能ですので,事態に含まれます.このような経験的な(ア・ポステリオ
リな)諸制約を排除する為に,「論理的」という形容が与えられています.(つま
り経験的に不可能であっても論理的に可能ならば,それは事態です.)
>>720 (稲さん)敬称は付けさせてもらいます。
>事実が知覚可能だなんてWは言ってない.
>Wが言ってるのは書かれた記号としての文が知覚可能だということ
稲さんの言う「記号」が、一体どのようなものなのか、僕は理解できない。「記号」について説明が欲しいです。
上の引用部分から僕にわかることは、「記号」は事実に含まれるものではない、ということぐらいです(「記号」が事実に含まれたら、上の引用に従えば、「記号」も知覚不可能になる)。
一瞬、稲さんの「記号」は『論考』の「命題記号」かとも思ったけど、「命題記号は一つの事実である」(3・14)のだから、それも違う。
しかも、「記号としての文」と「事実としての文」というように、文(命題)には二つの相があることになる。どうにも不思議な主張、というのが正直な感想です。
もう一つ、腑に落ちない点が以下の文です。
>むしろ『論考』でWが言いたい
>のは,事実としての文それ自身がそれが表現する事実の像になっているということでしょ.
「むしろ」という強調がありながら、この一文は、いちご姫さんの主張と同じとしか読めない。「文は事実であり、像でもある」と。いちご姫さんがずっと言ってたことではないのですか?
>>717 >>729 稲氏及びミック氏へ(ミック氏に従って同等敬称を私も使用させていただく)
>稲さんの言う「記号」が、一体どのようなものなのか、僕は理解できない。
私の理解では,稲氏の見解は,命題符号のような感性的に把握可能な事実も存在する
事は認める.しかし,全ての事実が感性的に把握可能だ,とは『論考』のいずこでも
主張していない。従って,事実は,そのうちに感性的には知覚不可能なサブ・カテゴ
リを持つであろう.これが,私がチャリティを発揮した限りでの稲氏の主張解釈です。
もし,氏の見解が上記の如くであるなら,別段反論するに値する点は見出されえない.
但し,感性的に知覚不能な事実というもので,稲氏がいかなる事実を想定しているかは,
私にとって想像の外部であるのだが.
>>720 >このことでWが意図してるのは,<林檎>の上に蜜柑がある>という事実を認識する
>‘私(認識主体)’がある文を書いたり発話するという言語行為を消去する,簡単
>に言ってしまえば認識の主体としての私を消すことによって認識論を消し去るとい
>うのが『論考』の最大の目的でしょ.
>じゃあ世界と言語はどうやって結びつくのかというと,文とそれが表現する実在と
>が論理形式を共有することによって「文が実在の像である」(4.01)>ことによっ
>てだ,というのが『論考』の答えでしょ.
世界と言語の結びつき(写像関係)を『論考』は如何にして可能ならしめているか,
私にはわかりません。写像するものとされるものとの論理形式の共有は必要条件だが,
それだけを共有しあう事実などたくさんある。しかし,その全てが写像関係にあるわ
けではないのだから,さらに限定する条件が必要でなければならない.
その一つの候補が,写像とする心的意図・行為だが,これが『論考』に入り込む余地
はなさそうに思われる。直示によるというのも,身体を持った主体を『論考』の意味論
にしゃしゃり出させるようで納得できない。ということで,写像を特定の事実間に限定
して成立させる機序を,私は知らない.
>いちご姫とミックへ ‘記号’の意味だけど,僕は普通の意味で使ってますよ.ミックといちご姫が誤解しているところがわかった. 「事実を知覚する」という表現そのものがまずおかしい.知覚できるのは,ものとして実在している机やら椅子なんであって <机の右に椅子がある>という事実を知覚できるなんてことはありえない.「事実は知覚を通して認識される」なんて言い方 が普通でしょ.しかしと思う箇所はたしかに『論考』にある.つまりミックやいちご姫が考えていることは次のことだと思う: 1.文記号は一つの事実である. 2.文記号は感覚的に知覚される. 3.1と2から,ある事実は知覚される. 3はおかしい!!つまり,1か2の理解に何らかの間違いがある.で2は否定できないから1がおかしいということになる. もうわかると思うけど,1というのは「文記号」について述べている,言及しているのね.だから「一つの事実」を2の「文記号」にそのまま 代入してはだめなの.単に1が言っていることは,文記号も知覚可能なものとしてそこにあるという意味で一つの事実だと言ってるだけだから. そう言ったからすぐ後に「文は語たちの寄せ集めではない」(3.141)と言うんだよね.もしそうでなければ「白い 雪が」が文ではないという ことが説明できない.あくまでも文が一つの事実だというときは,文が「白い 雪が」ではなくて「雪が白い」という形式で書かれた記号列と して存在しているときでしょ.まさにそうあるべきかものとして文が書かれたり発話されたときに,それは一つの事実だと言われてるんでしょ. で,文がそのような形式で書かれねばならないということは知覚可能じゃない.知覚可能なのは,「雪が白い」に現れる一つ一つの記号なんで あってまさにそれが文であるための形式が知覚されてるわけではない.だから知覚不可能なサブ・カテゴリーなんてのはまったくの誤解で,そ もそも知覚の対象になるような事実なんて世界のどこにも存在しません.確かに机や椅子を見たり触ったりはできる.しかし,どうやれば<机 の右に椅子がある>という事実を見たり触ったりできるのか,本当に不思議だ.
じゃあ、ウィトゲンシュタインの種子に関する考察と遺伝子について語ってくれ
いちご姫のチャリティは稲には通じていないらしい
>731 稲氏と私の見解の相違点がようやく私に理解できたように思われる. >知覚できるのは,ものとして実在している机やら椅子なんであって<机の右に椅子が >あるという事実を知覚できるなんてことはありえない. 先ず,稲氏に確認したいのですが,知覚(感覚する等々)は認識すると等値してよ いでしょうか? 以下では,良いとの仮定に基づいて論を進めます. 事物は知覚できるが事実は知覚できない、とは,私は考えていません. むしろ, 事実の認識においてのみ,その脈絡で事実は認識に寄与し,現れる,と私は考えてい ます. 像はそれ自体のみでは真偽を決定する事が出来ませんね.(「像だけからでは,像の 真偽は認識できない.」(TLP2.224)そして,その為には,即ち「像の真偽を認識する 為には,我々は像を現実と比較せねばならない.」(TLP2.223)のです. ですから,もし命題(像)の真偽を我々が知りうるとしたら(そして私は『論考』の立 場は知りえる,だと想定していますが,稲さんは反対ですか?),その際には,現実を 即ち,事態が如何様であるかを即ち実情・事実を知らねばならない事になるはずです.こ こで,『論考』の枠組みで,認識(と真理関数的推論)以外に,事態が如何様であるか, 事実を知る方法が与えられているとは私には思えません.従って,命題の真偽を我々が知る 事ができるならば,我々は事実を認識できるのであらねばならない,これが私の議論です. それに,‘机や椅子を見たり触ったりはできる’けど,その時には,机 や 椅子 を認識しているのではなく,<ここに机がある>や<これは机だ>等々を認識している のではないでしょうか. 同様に,机があり椅子がある場合に両者を認識すれば,両者は空間形式,一方は他方の (上下左右前後)どちらかにある,においてなされるアスペクト認識であらねばならない のだから,<机の右に椅子がある>として同時に認識されるのだ,と思うのです.少なく とも 机があり椅子もある時に,両者の位置関係が(どれかはわからなくともよいが)前 後左右上下の何れかであるという関係の可能性を伴わないでの 机 や 椅子 の認 識はありえないと思う.
>>731 先ず,稲氏に確認したいのですが,知覚(感覚する等々)は認識すると等値してよ
いでしょうか? 以下では,良いとの仮定に基づいて論を進めます.
>>734 「事実を知覚する」という表現そのものがまずおかしい.知覚できるのは,ものとして実在している机やら椅子なんであって
<机の右に椅子がある>という事実を知覚できるなんてことはありえない.「事実は知覚を通して認識される」なんて言い方
が普通でしょ.
うー,734で書いた冒頭が731の先頭を読み落としていた.
しかし,事実は認識できるだけであって知覚できないことが,(ある事実が他の
事実を意味できるか否か,という)議論の大筋に影響するのでしょうか。
いま,検討中です.
>717
> そして,椅子と机と<椅子の右に机がある>という事実は,感性的に知覚可能であり
>は一定の係わり合いの仕方をしており,一つの事実です.とすれば,それが他の事実を写
>像する(他のある事態を描出する)よう用いられる事が(両者の論理形式が同一ならば)
>可能であり,その際には<椅子の右に机がある>という事実が他の事実を意味すると思い
>ます.
知覚と認識についての稲氏の言葉遣いが正しいとして,(正しそうだと私も気付いたけ
たけれど),この語が問題にひっかかってくるのは上記引用>717以降に思えます.
としたら,「<椅子の右に机がある>という事実は感性的に知覚可能であり」という
部分を「<椅子の右に机がある>という事実は、「椅子」と「机」という知覚可能な事物
を伴う,認識可能なものであり」と置き換えれば,(事実は他の事実を写像し得るという)
上記議論の結論は変わらないと,私は考えます.
>>731 >1というのは「文記号」について述べている,言及しているのね.
>だから「一つの事実」を2の「文記号」にそのまま代入してはだめなの.
>単に1が言っていることは,文記号も知覚可能なものとしてそこにあるという意味
>で一つの事実だと言ってるだけだから.
稲氏に要望.上記引用三センテンスを敷衍・説明してください.
>1.文記号は一つの事実である. >2.文記号は感覚的に知覚される. >3.1と2から,ある事実は知覚される. 本気でこう考えていた、というよりも、稲さんの言を僕なりに解釈すると、こういう推論が許されてしまうのではないか、と考えていたのです。 この推論が不可能な理由が、説明してもらったものの、まだわからない。 稲さんは1.の命題が「文記号の集合は、事実の集合の部分集合である」という包含関係を意味するものではない、と言いたいのですか? ん〜分からないな。その後の説明にある「(論理)形式が知覚可能じゃない」というのは、もちろんそうだとしても、そのことが今の議論とどう結びつくのか見えない。 事実「そのもの」を知覚することはできない、というのは僕にも分かる。誰でも分かる。 僕らが知覚できるのは、感覚に捉えられる姿での「もの」でしかないから。 そうすると、「雪が白い」という命題が実際に発話されて、「ゆきがしろい」という音として僕の耳に聞こえたとき、それはその時点では「もの」と呼ぶべきだと思う。 何かおかしいのかな。
>ミックといちご姫へ 「文記号の集合が事実の集合の部分集合である」という見解はまず無理だろうね. それに「雪が白い」という命題が発話されるという言い方もちょっとないでしょ. 発話されるのはあくまでも知覚可能な音たちなのであって,むしろ「雪が白い」という 発話によって命題が伝達される,という言い方が普通だと思う. で,「ある文がある事実の像だ」というのは僕でもいちご姫でもかわらない.結論に 関しては始めから両者の見解は一致している.だから問題なのだと言いたい!! とい うのは,文という事実がある事実を意味するということから,容易に文ではないような 事実がある他の事実を意味するということへ移行しちゃってる.もちろん後者のことは 可能であるとしても,これは『論考』の論点をぼやけさせちゃう.「ある事実がある事 実を意味する」というとき,前者の事実は文という事実でないとこまる.これがいちご 姫と僕の論争点なわけ. でなんで 1.文記号は一つの事実である. 2.文記号は感覚的に知覚される. 3.1と2から,ある事実は知覚される. という推論がダメなのかというと,上でも述べたように1の理解に問題があるというこ とだった.実際いちご姫でもミックでもその理解に問題があると思う.「文記号は一つ の事実だ」ときは,それはあくまでも‘文記号’として知覚されていなくちゃいけない んであって,そうでないと「白い 雪が」というの記号の無意味な並びが文ではないと 言えなくなってしまうでしょう.つまり,文「雪が白い」というのは‘単なる’記号の 並びなのではなくて,<雪が白い>という事実の像になっているから,それは文なんだ と言える.だから文「雪が白い」が一つの事実だと主張されているときには,それが世 界のある事実と論理形式を共有しているという情報も込みで言われてるわけだから,知 覚可能だというだけでは汲み尽くされないことを含んでいるわけ.だから1と2から3 への推論はだめなんだと言ってるんだけどね.
739 :
チャランラ :02/02/01 14:56
よくわかんないけど、哲学者って病気みたいなもんなんでしょ。そうでしょ。
>>738 >「ある事実がある事実を意味する」というとき,前者の事実は文という事実でないとこまる.
この主張で、こまるのは文でなく何だと誤解された時にでしょうか.
命題において感性的に認識されるものは思想であり,思想は論理像なのだから,‘ある
事実を意味する'即ち写像する当の事実は当然文/命題(Satz)だ,と私も思います.
>容易に文ではないような事実がある他の事実を意味するということへ移行しちゃっ
>てる
上記の理由から,私は他の事実を意味する事実は全て文/命題だと考えているのですが.
(もし過去のレスで,違う主張をしていたなら訂正です.)
ふー、わかんね。難しい。 稲さんには手間をかけさせますけど、違う方向のことを聞いてもいいですか? 「主体の消失が『論考』の主眼云々」の方です。論理と世界との関係に主体や意思が関与する余地はない、という没人間的世界観は『論考』に割りとはっきり書かれてることだから、あまり発展性はないかもしれないですけど。 それにどうせ戻ってくることになるとは思うけど。
>240 多分いちご姫は 「<苺が蜜柑の上にある>という事実が<机が椅子の右にある>という事実を意味する」 というとき,両者が論理形式を共有していると条件付きで,<苺が蜜柑の上にある>という事実を文と見なすことが できるのではないか,と考えていると思う.しかしこの解釈の余地が全くないとか,完全に間違っているとは言わな いけれど,それはまったく無駄な動きでしょ.だって単純に,論理形式の共有という前置きを入れたって,<苺が蜜 柑の上にある>という事実は文ではないでしょ.いちご姫の‘文’の理解がちょっと広すぎて,『論考』の論点をぼ やけさせるという感じがする.このことに納得してもらえば,議論に決着がついたということになると思う. >241 具体的に何を聞かれてるのかわからないけれど,没人間的世界観というよりは没認識論ということだろうね. まあ『論考』ではそういう基調がはっきりしているけど,それを丁寧に書けば卒論には十分だろうし,うま く書けば学術論文にもなるんじゃないかな.
>>742 >「<苺が蜜柑の上にある>という事実が<机が椅子の右にある>という事実を意味する」
>というとき,両者が論理形式を共有していると条件付きで,<苺が蜜柑の上にある>という事実を文と見なすことが
>できるのではないか,と考えていると思う.
前者が後者の文/命題であるための条件として,論理形式の共有だけではたらない,と
は考えています。何故なら,論理形式を共有していながら,一方が他方を写像して
いないような複数の諸事実というものは,想像可能だからです。その条件としては
正に一方が他方の像である事(その為には当然論理形式の共有は必要条件です)が
あげられてしかるべきだと思います。
>論理形式の共有という前置きを入れたって,<苺が蜜柑の上にある>という事実は
>文ではないでしょ.いちご姫の‘文’の理解がちょっと広すぎて,『論考』の論点
>をぼやけさせるという感じがする.
例えば<苺が蜜柑の上にある>といった,ある事実それ自体は,それのみでは,Satz
(文/命題 といちいち書くのが面倒なのでSatzにします)でないという事には賛成
です。何故なら,ある事実はそれ自体としては像でないのだから。
他方,もし<苺が蜜柑の上にある>といったある事実が他の事実を写像しているのなら,
その際にはそれはSatzでしょう。何故なら,なにものかがSatzである要件は,像であ
ること(TLP2.182,3,3.12から)と,「感性的に知覚可能に表現されている」(TLP3.1)と
の二つだけなのだから.
>いちご姫の‘文’の理解がちょっと広すぎて,
私は,もしかしたら稲氏の‘文'の理解がちょっと狭すぎるのでは,と疑い始めています.
744 :
考える名無しさん :02/02/04 16:18
>>742 おい。おっちょこちょいのノータリン君。遠い過去レス指定する時は>じゃなくて、>>を使えや。この馬鹿。
>744 ノータリンと馬鹿は余分だな. >743 僕の理解する文が自然な理解でしょう.いくら互いの写像関係を前提したとしても, <苺が林檎の上にある>ということを文と解釈するのは普通でないし,一般的にも そんなに広く文を解釈している研究者はいないと思うけれども.
>いちご姫へ まあとにかく,問題の要点はお互い収束したようだから,これまでの議論はここら辺で 打ち止めでいいんじゃないかな(結構つかれた).基本的には両者の食い違いは,『論考』 の‘文’の適用をどの程度までとるか,ということでしょう.結論は世の中の常識で判断す ればいいんではないかね.僕はWの専門ではないから,いろいろな文献を知らないけど,もし かしたらいちご姫のように解釈しているのもあるのかもしれない(というのはいちご姫が結構 がんばるからね).わりと2チャンネルのしては有意義な議論だったような気がするけど. というのも,議論の落としどころまできたからね.どうだろう.
>746 稲さん ほぼ問題点はでつくし、あとはどこまでを文として許容するか、だけに論点が 収束しましたからね。(稲氏を説得しきるほどの材料がこれ以上『論考』にあ るとも思えない。) ここで、終えましょう。
>747 ですね.わりと面白かった.
>>742 (稲さん)
ああ、聴きたいことは今から書くのです。論点をずらしていいですか、と聞いたのです。
おや収束してましたか。 読み飛ばしてました。失礼、失礼。
>稲氏を説得しきるほどの材料がこれ以上『論考』にあるとも思えない。 論考に材料がないから説得できないのじゃない。 お前の頭が悪いんだよ。 お前はサイこな基地外だ。俺が目を見張るほどのナ。楽しませてもらったよ。 お前のカキコを凝視しながら俺は毎日チンこをこすっていたのさ。 俺がチンこをこするためだけのスレだったのさ、このスレは。 このスレの存在意義はそれだけだったのさ。たとえお前が何かを語った気になっていたとしてもな。 お前が真剣に考えれば考えるほど、俺は、あいつは今、思考しているぞ、俺のオナニーネタになるだけとも知らず って思っていたのさ。 まさかこんなにうまくいくとは正直思っていなかったよ。 今もオナっているよ。じゃあな。
752 :
名無しさん@1周年 :02/02/04 23:08
>749 なんか、ミック君 今川雅澄みたいな口調
751はミックじゃないだろ.たまに人のハンドル使ってふざけたこと書くやついるからな. しょうがねえよ,まったく.
んなこた誰だってわかってんだから無視しろ虫.「荒しは無視」は2ちゃんのイロハだろうが. ミックもいちご姫も2ちゃん歴なげーんだから、いちいち気にするかよ.
>>稲さん
まーそだね
>>754 。前から言ったほうがいいかなと思ってたけど、
稲さんはちょっと煽りに乗り過ぎかも。連中は反応してもらって
楽しんでるので、反応すると図に乗るから、無視が基本だよ。
あげ
↑0202112222↑
ウィンチってどうよ
759 :
考える名無しさん :02/02/11 22:30
知りません
うるさいなぁ食べちゃうぞぉ(怒
本当にごめんなさい。 お詫びにマジレスします。 御題をください。
言語派社会学の原理の精読
ぐお!! とぉほっほっほ、、、 無理ッスよ、、、 漏れ厨房だし、、、 OK!!元気よく逝ってきます!!
766 :
考える名無しさん :02/02/12 03:17
やれやれまた異動だよ。ゴタゴタしてるなあ最近。落ち着いて本も読めやしない。
イーグルトンの「聖人と学者の国」はどうですか?
770 :
考える名無しさん :02/02/16 04:31
あ
771 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 13:24
>769
出だしだけはおもしろい
>>760 ウィンチのどこが論理実証主義者やねん
後期のウィトゲンシュタインにばりばりにかぶれてるやないか
(ただし、だいぶ誤解しているが(藁))
772 :
考える名無しさん :02/02/24 14:25
age
773 :
考える名無しさん :02/02/26 15:46
形而上学者ウィトゲンシュタインってどうですか? 買ってよいものやら・・
774 :
考える名無しさん :02/02/26 17:22
それ俺も気になってる だけど4800円ぐらいだよねえ
775 :
考える名無しさん :02/02/26 17:34
細川亮一って人のね。 あの人の書いたハイデガー入門を読んだなぁ。
776 :
考える名無しさん :02/03/01 14:17
ときどきあげてみたりするテスト
777 :
考える名無しさん :02/03/01 19:32
age
778 :
考える名無しさん :02/03/07 14:19
age
ハイデガーとウィトは関連があるとは思えないのだけれども・・。
「ハイデガーは言語の限界に突進しようとしている」とか何とかウィトさんはおっしゃってたらしいね。 木田元「ハイデガーの思想」
781 :
考える名無しさん :02/03/09 12:43
あげ
何か題材はありませんかね。
783 :
考える名無しさん :02/03/09 14:41
784 :
考える名無しさん :02/03/09 15:55
>>780 「それは不可能ではあるが、大いにその動機はうなずける」ともいったらしい。
『論考』が、論理実証主義者が理解したような形而上学蔑視の著作ではない事を
示している点で、ウィトゲンシュタインの解釈上は重要だった。
786 :
考える名無しさん :02/03/09 15:57
↑うぜー
根本的に宗教家だからにゃ。 経験論哲学はピューリタニズムの中からこそ生まれ得たというウェーバーの言葉が思い出されるにゃ。
788 :
考える名無しさん :02/03/13 04:13
このスレがきっかけで青色本よんでます。
789 :
考える名無しさん :02/03/28 22:24
ほぜんぬ。
790 :
考える名無しさん :02/04/10 16:40
ほしゅ!ほpしゅ!
791 :
考える名無しさん :02/04/10 17:42
教授にウィトとハイデッガーは実は似てる 比較してみなと言われた。 おもろそうなテーマではある。
792 :
考える名無しさん :02/04/10 17:44
教授って、細川亮一さんとかいうひと? ハイデとヴィトの両方について本を書いてる。
793 :
考える名無しさん :02/04/10 19:06
>>791 ウィトが「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、
世界があるということである。(論考)」という部分と、
ハイデガーのいう「<存在者が存在する>という驚異」という部分だね。
ただそこに「ある」ということに驚きを本当に感じられるか、どうかが
一般人と本当の哲学者との違いかもね。
794 :
考える名無しさん :02/04/10 19:41
ちょっと前に流行ったテーマだね。ヴィトとデガーの比較
795 :
Aurelius :02/04/10 21:47
_,.. -───- 、.. ,. ‐ '"~´ / ̄ ̄`~`''‐ 、 `` 、 , '´ / / `''‐、 \ , '‐''"~´ ̄ ̄`~`ヽ、 / \ ヽ . /  ̄``''‐.、 ∠>ヽ./\ ヽ . / _____ \ /゚ / ヽヽ 〈 ,. ‐''"~´ l ``''‐、 ヽ. / [ [[[ ヽi . ヽ. /ヽ、_,. -┴─-== __=-'_、_, \、_/ _l . | / 、.__/ ノ!ヽ、._ー-‐''⌒,r=-─ゝノ|| ‖  ̄ ̄ ̄ | ! { / ,イ{ ヽ ( 〈、_,.ィrヮー< _,リ_|| ‖ ! ヽ :ヽ _{. 〈.'`ァrッ‐、- - ,, ヽ-‐='..ゞ.{_.|| ‖ :l . `‐、\\ヽヽ-‐ツ ''´ `{_ |! ‖ ! : |{_ ヽ.i. 〔ー- { !. |!__ ,' 阪神万歳!! . : |{_ _)l `,ィ-─_、 // | 0| ___/ : |{_ ミ. ! ヽ ̄,.-‐) .// /l ̄ __/ 野球万歳! : |{ ,.`ヽ. `ー '´.∠‐'´ /'´ ̄ノ,ノ/ ,l ‐''"~´ ̄ ̄ ̄l~´ /-──<´ 野球と阪神は永遠に不滅だ! | 「 --┘ |___/ `! | L.. -─ ''_""~ ̄‐''"~´l | |  ̄「 | | | _,,.⊥_-‐ `
796 :
考える名無しさん :02/04/11 01:46
ウィトとハイデガー 科学言語と詩的言語という違いから双方の比較はできるかな?
797 :
考える名無しさん :02/04/11 08:51
私は気球の研究をしてました。
798 :
考える名無しさん :02/04/11 10:50
遅ればせながら、飯田隆氏がまず最初に読め、と勧められるとかいう、 ノーマン・マルコム「ウィトゲンシュタイン-天才哲学者の思い出」 (平凡社ライブラリー、または講談社現代新書) 読みました。 いやはや、今さら僕が言うまでもない、と思うのですが、 すごく感動的ですね。ときたま、目頭が熱くなることもしばしば。 どうも「論考」とか「探究」は彼の思考のエッセンスだけを取り出した 感じで、正直読んでいて苦痛、少なくとも気軽に読める書物ではない、 と思うのですが、どうも彼の場合は、それにまつわる枝葉末端がくっつ いた方が、凡人である自分にとっては、血肉化するような感じで、生き 生きとしてきますね。 エリザベス・アンスコムもいろいろ師匠の本を書いてるようですが、彼女 の本ってあんま翻訳されてませんよね?少し興味があるんですけど。
799 :
考える名無しさん :02/04/12 10:22
ヴィトの生き方(・∀・)イ! 回想のヴィトゲンシュタインってどうです?
800 :
考える名無しさん :02/04/13 18:03
801 :
考える名無しさん :02/04/14 00:58
802 :
考える名無しさん :02/04/14 17:05
>>801 ゲームの形態が見えないとなんともいえませんね〜(^^;
803 :
考える名無しさん :02/04/15 00:03
>>798 別の訳が法政大からも出てたかな?
どっちの訳がいいんだろう。
(私は現代新書版を読んで感激したクチ)
804 :
考える名無しさん :02/04/15 10:53
野矢茂樹氏が「論考」について書いた本を書店で発見したage
805 :
考える名無しさん :02/04/15 11:01
806 :
考える名無しさん :02/04/15 16:04
>>805 『「論理哲学論考」を読む』 というそのまんまのタイトル。
大学でのゼミの内容を踏まえたものだそうだ。
ピカピカの新刊。
かなりの自信作らしく、意気込みが伝わってくる。
この本を機会に「論考」を読んでみようかしら。
807 :
考える名無しさん :02/04/15 16:10
『論考』の訳って、どの本のがいい?
808 :
考える名無しさん :02/04/15 17:58
810 :
考える名無しさん :02/04/16 01:11
>>806 野矢氏の論考理解は、無限の理解などかなり独自だから、スタンダード解釈をしってから
あたったほうが哲学キャリアとしてはいいとおもう。
誰か野矢氏の本で主宰できない?
812 :
考える名無しさん :02/04/16 03:17
やってみるんか?
813 :
考える名無しさん :02/04/19 13:12
で、噂の野矢氏の著作ってどんな感じ? 買う価値あり?
814 :
考える名無しさん :02/04/20 12:17
前に話題になっていた細川氏の本と比較して読むと面白いよ。 おなじ箇所が全く違う解釈をされていたりして。 つくづく、いろんな読み方ができるんだなあ、と思う。 論考の全体像もまるで違う。違う本みたい。
815 :
理学部学生 :02/04/23 09:31
野矢先生の本、生協書籍部で見つけて速攻かいました。 野矢先生の大ファンなので、発見したときにはめちゃめちゃ興奮。 キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!! って感じでした。これからじっくり読みます。
『論考』の持つ豊饒性か、野矢、細川氏らの才能か、いずれにせよまだまだ過ぎ去らないようだね。この哲学者は。
817 :
考える名無しさん :02/04/30 00:17
ヴィトちゃん研究してててドツボにはまってる人いませんか?
↑ いちご姫
819 :
考える名無しさん :02/05/02 10:17
>>816 >>『論考』の持つ豊饒性か、野矢、細川氏らの才能か、いずれにせよまだまだ過ぎ去らないようだね。この哲学者は.
野矢氏の本は面白かった。一気に読めましたし、氏の可能世界無限の読みも、奥や飯田、石黒のような大物に対し真っ向から読みを対立させたりしているのも痛快。とてもお安い本でした。
でも、細川氏の本は不満たらたら。たったこれだけの主張をするのに、こんな厚さがいるのだろうか。かって、オグデンとリチャーズの「意味の意味」を読んで感じた冗長さとまるで同じ。
仮想敵国も、ハッカーだ。本当にハッカーが通説なのか? 本格的なウィト研究者でハッカーを通説にしている人なんているの。一般読者は間違うよこれ。
細川氏の読みってどうなんです。ハイデッガーや他の思想と重ね合わせたりして。私は文献学は嫌いじゃないけど、こんなふうに文献学的知識の披瀝に焦点を合わせた本は好きじゃない。
野矢のフィロローグとは目的が違う。この本には哲学でなく、比較思想の駄弁を感じた。言いすぎだろうか。
820 :
考える名無しさん :02/05/04 05:43
ハイデガーとウィトの比較なんておっくんがもうしたよ
821 :
考える名無しさん :02/05/04 07:40
おっくんってだれだ
だれか『色彩について』読んでる人いる?
823 :
考える名無しさん :02/05/04 20:25
細川氏の本はハイデガーとの比較なんかではない。 問題意識を持っている者には、数々の発見があって、ちょっと凄い。 思ってもいなかった繋がりが見えてきたりして。 ある意味では、野矢氏の本より価値があると思う(世界的には)が、 真価がわかる人は、少なくとも日本では、極めて少数だろう。 こういう本は日本語で出てもあまり意味がないかもしれない。 日本の哲学史研究には、この種の無意味に高度な研究が結構ある。 本当に真価のわかる人は主として外国にしかいそうもないような日本語の本。
824 :
HAA〜A〜 :02/05/05 07:26
>>823 どういう問題意識か。思ってもいなかった繋がりとは何か。私は全く高度さは感じなかったが。
もちろん私は、野矢氏の本より価値があるとは思っていないほうだ。
825 :
考える名無しさん :02/05/05 08:00
保坂のほうがずっと頭良い野やより
826 :
考える名無しさん :02/05/05 19:21
うそ〜ん。保坂より野矢の方が遥かに頭いいでしょう。
保坂ってだれですか?
828 :
考える名無しさん :02/05/08 20:14
ワロタ
保坂和志
830 :
考える名無しさん :02/05/12 21:59
マジで書いてるのか? 保坂なんてただの作家じゃん。 しかも大バカ。
831 :
考える名無しさん :02/05/16 00:54
保坂ってどういうこと書いてるの? 書名出版社名とアウトラインおしえて
人から名スレと聞いたので、いま読み終えたけど。。 2ちゃんってこんなにもレベル低いんだ。 ミックさんと稲さんはしっかりと自分の頭で考える人たちだと思うけど、 あそこで議論が止まってしまうとは。 あともう一人のコテハンは。。まあ一生あの程度でしょうね。 ニックさんもオフ会ではさぞお困りだったでしょう。 この2時間はなんだったのか。二度と来ません。
833 :
考える名無しさん :02/05/18 01:15
>>832 文句を書き込むよりも再び活性化させてみろよ。
そんな書き込みで終わるのなら、
結局、キミも同じレベルにしかすぎない。
>>832 >二度と来ません。
具体性の無い書き逃げ。プ
いちご姫ってウィトが専門てわけでもないと思うが・・・
836 :
考える名無しさん :02/05/22 13:46
不定時あげ
837 :
ははあの三年忌 :02/05/22 20:35
>>835 私はその道のプロだと思う。
簡単に応答的にあれだけのコメント書けないよ。
専門論文を多くチェックしてるし、コメントもできる。
また日本ではビビル先生がたに堂々の評価を下せる。
貴殿はどうしてそう感じるか。
838 :
考える名無しさん :02/05/23 11:37
839 :
考える名無しさん :02/05/23 11:38
↑の本の中でどれが一番良いですか? わかりやすい英語で書かれているほうが良いです。
840 :
考える名無しさん :02/05/23 11:43
バカな質問してすみませんでした。 今気づきました。
841 :
考える名無しさん :02/05/23 12:23
何じゃ、ここは
古本で全集買うとしたら幾らまでOKっすか?
843 :
考える名無しさん :02/05/26 00:49
やめて、ホワイトヘッドにしよう。ウィトゲンシュタインは飽きた。マジデ。
>843 ぜひ実行くれ。 今までにも同じこと言うのは何人もいたが、結局ここ以外で成功した例がない。ちょいとさびしいだろ。
845 :
考える名無しさん :02/06/02 22:16
そうだね
846 :
考える名無しさん :02/06/05 16:19
ヴィゲドン文章下手糞ね
847 :
考える名無しさん :02/06/05 16:34
ってこのスレで白頭もやるのか?
848 :
考える名無しさん :02/06/18 10:57
ageとくか
849 :
考える名無しさん :02/06/26 21:15
age
>>846 簡潔ジャン。thatが少ないからか(ww
851 :
考える名無しさん :02/07/04 20:28
age
852 :
考える名無しさん :02/07/10 04:49
853 :
考える名無しさん :02/07/15 21:05
誰か、ウィトについて書かれてる、わかりやすい本を知らんかな? ちなみに、 藤本の講談社学術文庫はもう読みますた。
854 :
考える名無しさん :02/07/15 21:10
野矢と永井と飯田の本だね
855 :
考える名無しさん :02/07/24 20:31
age
856 :
考える名無しさん :02/08/02 22:35
一昔前のわけわからんブームは終わったようだね
857 :
考える名無しさん :02/08/02 22:43
>>583 「論哲論考」の最後の3ページを「するめ」のようによくかんでよむとよい。
最後の一行に立ち至り、「全自己否定」する構成の微妙さをよく読む。
全部読んだって「学術文庫」より少ないよ。「字数」では。
野矢さんの本を読んだよッ。 おもろかったゼイ。 特に、要素命題における普遍論争に関して イロイロ憮然としてたトコがあったので とっても示唆的でした。 以前、細川さんの本を少し覗いた時に、名の配置の記号化 を援用して、唯名論を擁護する記述が あったんけど、どうも納得いかなかった。 野矢さんは性質や関係も対象として取り入れる と考えて、それを論考の脈絡や、唯名論の不自然さを シェイクしながら、独特のウィットでもって実在論を擁護 してたけど、ニフニフ・・・!って感じだったー。
ルッキー(´Д`*)ハァハァ
860 :
考える名無しさん :02/08/11 00:15
age
861 :
考える名無しさん :02/08/12 05:30
日本人が好きそうな哲学者
862 :
考える名無しさん :02/08/17 23:59
誰か続きやらんの?
ヴィトゲンシュタインの入門には、本人の著作を読むのが手っ取り早いと思います。 青土社から出ている「反哲学的断章」は、鋭い(ちょっとキレた)アフォリズム集でいいですよ。 また、ヴィトゲンシュタインの入門は、日本の学者だったら、野矢さんのものが確かにいいですね。 また、「論考」、「探求」、「青本」の訳または読解では、黒崎宏さんのものが、センスもあっていい訳・読解だと思います。 「論考」、「探求」のみドイツ語と読み比べましたが、黒崎さんの訳は正確でした。 なお、大修館の全集には、誤訳がまじっていました。
864 :
考える名無しさん :02/08/18 01:32
>>863 誤訳って具体的にどこですか?
よろしければ教えてください。
奥雅弘と藤本隆志に対して「誤訳」とはすごいですね
865 :
考える名無しさん :02/08/18 11:05
少なくとも藤本訳は誤訳多いよ。 また、入門書はどれもみんな自分の解釈だから、読むなら複数読まないとね。 一冊だけ読んで原典読むと、その解釈を押し付けて読むだけになるね。 黒崎訳の読解部分も要注意。強力な黒崎解釈が入っている。
866 :
考える名無しさん :02/08/19 20:20
>>865 >黒崎訳の読解部分も要注意。強力な黒崎解釈が入っている。
だからタイトル 訳でなく「読解」なんだからさ(建前上は) いいんじゃない?
>>866 もちろんいいですよ。あたりまえ。入門書の場合と同じことです。
>>864 おれの知ってるのでは次のようなのがある。
大修館の全集8巻の藤本隆史訳『哲学探究』第1部第432節は意味が変になってる。
この個所の独語原文の趣旨は
「記号をそれ単独で見たら死んでるよーにしか見えないけど、使用されるときには記号は生きてる。そんとき記号自身に命があんのか、使用が記号の命なのか。」
ってことで、記号の命は、記号自身の中にあるのか、記号の外の使用なのか、って対比をしてるんだと思うが、藤本訳では最後のところが
「その中でそれは生きた息吹を取り入れるのか。それとも、慣用がその息吹なのか。」
というふうに、記号は使用の中で生きてるのか、使用が記号の命なのか、っていうとんちんかんな対比になってる。
誤訳のもとは、「記号」に帰っていくsichを「使用」を指すsieと勘違いしてるから。というよりは、アンスコームの英訳と同じ間違いだから、この個所を独語原文からじゃなくて英訳から重訳してるっぽい。
それから藤本訳に限った話ではないが、Familienaehnlichkeiten (青色本でfamily likenesses)をウィトゲンシュタインは単数と(『心理学の何ちゃら』の中にあった)複数(その他あちこち)を使い分けてるのに、それに気を使っていない訳の方が多いと思う。
英語からの誤訳だと、黒崎が『生涯と哲学』で、
「ドゥルーリー、君が何になろうとも考えることをやめちゃーいけないよ。」
という感じの職業選択の話でもしてるようなエピソードを書いていたけど、原文は"Whatever becomes of you"のはずだから、ここは「君に何が起きても」と訳す。語感を捉えそこねたか辞書を引く手間を惜しんだと思われる。ま、これはどーでもいい感じがする。
おれは哲学専攻でもないし独語の単位も落としてる(wのでこれ以上は知らない。
>>865 誤訳が多い少ないと一般的な論評してる方が格好はつけやすいかもしれないけど、詳しく知ってるんだったら具体的な個所を挙げてやる方が親切ではないの?
869 :
考える名無しさん :02/09/02 10:24
>>868 独語から英語への翻訳でさえ、(たとえば再帰動詞の訳をめぐって)
初歩的なミスを犯すことがあるんですね。
でもウィトの場合、原文そのものが試行錯誤の不統一って気もしますが。
それはそうと、野矢さんの『論考を読む』、遅まきながら読みました。
非常にわかりやすく、おもしろかったです。
870 :
考える名無しさん :02/09/06 03:10
藤本訳の誤訳の典型例としては 我々の言語ゲームは 比較の対象として提示されているのであって、「摩擦や風圧 を顧慮しない最初の近似である」と「近似ではない」という独文の主張を反対に訳し ているところPU I-130とか 「引き受けるべきもの,与えられているものは生活形式である」の「引き受けるべ きもの」を「付け加えるもの」と意味不明な訳にしたてているところ(PU-II-xi)と かもある あと Gebrauchを「慣用」はどうしてもいただけない ※いちいち本を参照していないので、文章に要約・パラフレーズがあったり、参照箇 所が間違っていたら赦して
>>870 確認しました。
PU I-130
原文"Unsere klaren und einfachen Sprachspiele sind nicht Vorstudien zu einer kuenftigen Reglementierung der Sprache,
- gleichsam erste Annaeherungen, ohne Beruecksichtigung der Reibung und des Luftwiderstands.
Vielmehr stehen die Sprachspiele da als Vergleichsobjekte, die durch Aehnlichkeit und Unaehnlichkeit ein Licht in die Verhaeltnisse unsrer Sprache werfen sollen."
藤本訳、大修館「われわれの明瞭かつ単純な言語ゲームは、将来の言語規制を目指した予備研究なのではなく、-いわば、摩擦や風圧を顧慮しない最初の近似である。むしろ、これらの言語ゲームは比較の対象として提示されているのであり、
それらは、類似や相違を介して、われわれの言語の諸状態に光明を投げかけるべきものなのである。」
藤本訳、法政大「われわれの明瞭かつ簡単な言語ゲームは、将来言語を規制するための予備研究ではない。
-いわば、摩擦や風圧を考慮しない最初の近似法である。これらの言語ゲームは、むしろ、比較の対象として提示されているのであり、それらの類似や相違を通して、われわれの言語に関する諸々の事実を解明すべきものである。」
黒田訳、平凡社「我々の明瞭かつ単純な言語ゲームは、将来における言語規制を目的にした予備研究ではなく、
-いわば摩擦や大気の抵抗を計算に入れない最初の近似である。むしろこれらの言語ゲームは比較対象として、すなわち類似と相違の双方を通じて我々の言語の諸状態に光明を投ずべきものとして設定されているのである。」
確かに原文は「一次近似ではない」でした。
PU-II-xi
原文"Die Hinzunehmende, Gegebene - koennte man sagen - seien Lebensformen."
藤本訳、大修館「つけ加えるもの、与えられているものは生活様式である-とひとは言うことができよう-。」
黒田訳、平凡社「引き受けるべきもの、与えられたもの、それが生活形式である-と言えるであろう。」
藤本訳の「生活様式」もいただけないと思われますが、
藤本訳でGebrauchを「慣用」としているのがいただけない理由、
「使用」とするのとどういうところが違ってくるのか教えて下され。
872 :
考える名無しさん :02/09/25 18:49
ウィトゲンシュタインは天才。凄い男〜
873 :
考える名無しさん :
02/09/25 19:35 ウィトゲンシュタインは天才。凄い男〜