フーコー派とラカン派の対立

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1考える名無しさん
ってどうよ。
日本では顕在化してないけどな。
2裏ヒロスエ:2000/11/22(水) 16:44
それはデリダ派VSラカン派なんじゃないの?
3考える名無しさん:2000/11/23(木) 02:19
1さんが言ってるのはコプチェクとかについてでわ
4名無しさん@1周年:2000/11/23(木) 12:03
フーコーの「性の歴史」に対してジジェクが批判してるって聞いたことはあるけど。どういう文脈なんだ?
5考える名無しさん:2000/11/23(木) 15:41
>4
コプチェクは、フーコーを歴史主義として批判的に捉えているようですが、ジジェクは、僕が読んだ限りでは、フーコーとラカンの共通性を捉える、
もしくは、フーコーをラカン化させている感じですね。
デリダに対してもそんな感じ。

権力の表象が多様性をもった社会関係の網目の二次的結果として現れる、といったようなミクロ権力の分析を、パノプティコンといった構造的概念(といったら語弊があるか)とどのようにつなげるか、というのがジジェクの問題意識だと思う。

で、ジジェクは「権力」はなく、拡散した、「すべてではない」網目があるだけだ、と読みかえる。
自己流解釈ですが、パノプティコンといった概念を、<法則化されていない特異な事象の発現の規則>、<偶然的な特異性の集合>といった逆説的に捉え、それを<幻想>として構造化する、といった感じなのでは。

で、こういう構造を脱歴史化して普遍化するところ、それから<幻想=構造化できない形式>を「固い核」とか表現しちゃうところにジジェクの問題があるのでわ。
ジュディス・バトラーとジジェクの対立も同じような感じなのでわ。

ジジェク「フーコーとラカンにおける主体の概念」(『フーコーの世紀』)では、『性の歴史』2、3巻のフーコーについて述べてるらしいが、読んでないのでわかりません。
6禿(-h):2000/11/28(火) 23:44
フーコー派とラカン派の対立は日本では顕在化しにくいでしょう。
しいて言うならば、カルスタ対NAM、経験論対超越論の対立軸で
捉えられるかもしれないけど、カルスタもNAMも双方がお互いに
無関心を装ってるからね。

あ、最近思ったんだけど、カルスタが依拠するのが後期フーコーの権
力概念なら、たとえば最近東君がよく使うフーコーって『言葉と物』
あたり、せいぜい『知の考古学』あたりまでの前期のものが多い。こ
れは結構面白いかもしれない。4さんも言っているように、権力を社
会関係の網目的な拡散性として捉える後期フーコー概念は、権力の中
心化作用を捉え切れない部分があって、それに無条件に依拠している
日本のカルスタ理論つーのは中心的な権力を措定できないがゆえに
戦うべき外部を措定できず、結局は現状肯定の理論しか生み出せない
不健康さを持っているからね。どこが左翼なんだよって感じだよ全く。

7禿(-h):2000/11/28(火) 23:47
まちがえた。権力が網目うんぬんって言ってたのは
4さんじゃなくて5さんだたね。
しづれい。
8考える名無しさん:2000/11/29(水) 01:14
みなさん頭がいいんですね
あたしには何が言いたいんだかさっぱりわかりませんわ
けどフーコーやラカンがわかるようになったら
みなさんみたいなしゃべりかたになりそうだから
やっぱわからないままでいいわ
9禿(-h):2000/11/29(水) 02:14
>8
そんなことここでわざわざ言うべきことなのか?
あなたのその物言いはフーコーとラカンについて語るために作ったスレで、
フーコーとラカンのことを語るな、と言っているようなもんだ。

それとも、なに? ここに来る人たちを
「専門知識ばかり詰め込んで社会のことが見えてない頭でっかち」
ていう紋切り型に押し込めて、自分を高みに置きたいの?
そういうヒガみ根性を「ルサンチマン」っていうんだよ。現代哲学の基礎知識
だからよく覚えておこうねっ☆
10名無しさん@1周年:2000/11/29(水) 09:16
カルスタとNAMの対立ってそんなに単純なの?
柄谷様のカルスタ嫌いは、わかりやすいけどね。
毛嫌い、なんか嫌い、あるいは造反無理、って感じってゆーか、
確かにカルスタは左派じゃない方向に行き易い…かなぁ。
11禿(-h):2000/11/29(水) 09:56
>10

>カルスタとNAMの対立ってそんなに単純なの?

もちろん、そんな単純なものではないでしょうね。
僕も思いきりガサツに乱暴にラカン対フーコーの構図に繋げてます。
でもそういう読みも仮説としてアリかな、と思って。

なるべく微に入り細をうがうような周到さを避けて、わかりやすさ
を求めたつもりだったんですが、それですら8さんのような批判を
受けてしまう・・・。知識のタコツボ化を批判するのも正しいけど、
やっぱりある程度の棲み分けも必要悪としてせざるを得ない・・・

まあ、こんな議論を2ちゃんでやろうとした僕が愚かといえばそれ
までなんでしょうけど。
12考える名無しさん:2000/11/29(水) 13:22
>>6
どうして現状肯定の理論だと不健康なんですか。
考えた結果そこに行きついたというのならそれで良いんじゃない?
左翼でなければならないというのもよくわからない。
そういう前提条件を限定した議論は政治思想であっても、哲学とは
いえないと思いますが。
また、私の常識からは「権力」をこういう観念論でとらえて、ます
ますわかりにくくするのが「左翼」だというのもよくわかりません。
因みに私は哲学研究者ではないけど戸坂潤の古い愛読者で、「常識」
を積極的に考えています。
戸坂潤だから日共という罵倒は無しね。
13考える名無しさん:2000/11/29(水) 18:06
現実にはいろいろな矛盾や問題が山積しているというのに、
それを肯定(黙認)してしまう(効果がある)のが、「現
状肯定の理論」だとしたら、それはやはり不健康なのでは?
14禿(-h):2000/11/29(水) 21:19
>12
現状肯定の理論を不健康だと見なす議論は哲学的でない、というのは全く
おっしゃる通り。哲学は哲学でとりあえず別個に取り出してやらないと
不自由すぎて身動きがとれない、というのも納得。ただ、僕は日本でカル
スタをやっている人たちが(一部の良心的な学者をのぞいて)「考えた結
果そこに行きついた」からやっている、とはとても思えない。というか
端的に言えば日本の学問は制度化された途端につまらなくなる。どっかで
聞いたことのあるような物言いだけどさ。カルスタはとくにそれが顕著。
自分の好きなモノを理論化する作業は全く不健康ではないが、カルスタの
左翼的な出自に全く無自覚なまま、制度的に守られた環境でぬくぬくとそ
ういうことをやっている光景が単純に不快なんだね、僕は。

さらに言えばNAMは理論的にも理念的にも純度が高く期待が持てるけど、
それでもやっぱり究極的なところで「何かをしなければならない」という
倫理(強迫観念)に依拠せざるをえないところに限界を感じている。

「何かをする」倫理と、「何もしない」倫理(不健康さ、ではない)、
両方あるはずだと思うし、もっとその両者の間で揺れ動くべきだ、と思って
るんですけどねえ、といったらこれもまた悪しき弁証法になってしまうの
でしょうか。ってちょっと議論を飛躍させすぎかな。

ちなみに戸坂潤は「日共」ではないと思いますよ。
15考える名無しさん:2000/11/29(水) 22:36
>ちなみに戸坂潤は「日共」ではないと思いますよ。

ははは、そうならよいのですか。以前新左翼系の人に
そんなふうにいわれたことがあるもので。

ところで、カルスタ、NAMと言うのがよくわからないんで、
もし暇だったら説明してくれるとうれしいんですが。
「左翼的な出自」というのもどうも、よくわかりません。
16名無しさん@1周年:2000/12/05(火) 09:24
好きなスレなのであげ
17禿(-h):2000/12/07(木) 10:53
説明めんどっちかったのでこのまま下げちまおうかと思てたのに・・・

>カルスタ
細かく論じるときりがないので大ざっぱにまとめます。
68年以降、マルクス主義が経済や政治の面で行き詰まっちゃったんで、
じゃあ今度はふだん我々が無意識的に享受している文化的な営みを分析
していって、いろんな文化や言説のなかにひそむ権力を暴いていくことに
しよう、ていう左翼運動の理論的な方向転換がカルスタのひとつの母胎に
なっています。フレドリック・ジェイムソンのいう「文化論的転回」って
やつです。ホントはイギリスのニューレフトさんたちの活動とか、いろんな
政治的文脈で錯綜したコンテクストのなかから生まれたもので、ホントは
こんな説明は乱暴以外の何者でもないんだけど、まああえてこのスレの文脈
でまとめればそういうこと。具体的には、テレビとか映画とか音楽とかいった
サブカルチャーや、より日常に密着して我々が無意識的に享受しているよう
な文化的慣習なんかに目を向けて、そういう慣習のなかにひそむ差別とか
抑圧とかなんかを分析していこう、っていうふうに展開していきました。
でもって、それが大学の制度のなかに取り込まれるにつれて、特に日本なんか
では、そういうカルスタが本来持っていた左翼的な出自が完全に忘れられて、
たとえば自分の好きな音楽とか映画とかを研究するためにカルスタが利用
されてしまっているという一面があって、僕が問題にしたかったのはそのこと
だったんです。かなり乱暴で一面的すぎるまとめ方なんで、鵜呑みにされる
と困ちゃうんだけどね。

NAMについては・・・↓を参照してください(笑)
http://www.nam21.org/index.html
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=972471627
18考える名無しさん:2000/12/15(金) 23:39
禿(ーh)
19禿(-h):2000/12/16(土) 02:33
>18
禿(-h)っつーのはageの意でもあるんだけど、いちおう僕のタイプ名
なんですよ。他にもいろんな板に出没してますが、(たぶん)全部
同一人物です。他に使ってる人がいなければ。念のため。
20禿(-h):2000/12/16(土) 19:04
ラカンとフーコーについて語る板でNAMとカルスタの話ばっかしてても
しょうがないんで、ちょっとしたアウトラインでも書いておきます。
オン書きにつき、誤字脱字および話の乱暴さには目をつむってね。

オリエンタリズムを中心に。ラカンの精神分析理論は、「女」とい
う要素を入れてしまうとあの完成された形態が土台から揺らいでし
まうということで、その理論の中核には「女は存在しない」という
とんでもないテーゼが含まれているんですね。そのあたりがフェミ
ニズム論者や反フロイト主義者たちの格好の批判の的になっている
わけですが、現代における最強のラカニアンであるジジェクに言わ
せると、ラカンによる「女」の排除というのは実はオリエンタリズ
ム批判にも通ずるものがあるらしい。というのは、西洋の視点から
東洋を顕揚する考え方(オリエンタリズム)と、男の視点から「女」
とか「女性性」とかいったものを神秘化する考え方は全く同種のもの
なんだと。つまり西洋=男、東洋=女、というわけですね。でもって、
神秘化することによってしか語り得ないものについては沈黙を通す
という倫理的な側面もラカンにはあって、その男根主義的側面をい
ちがいに批判するわけにもいかないんだと、そういうことらしい。

西洋中心的な男根主義を徹底化させることによってかえってオリエ
ンタリズム批判を免れてしまうという逆説。このあたりに、ラカン
の「強さ」ってのはあるんですね。

でもって、バトラー―フーコーによるクイアー理論と、ジジェク―ラカン
の精神分析理論との対立にこの話をからめると、一貫して「女」というカ
テゴリーの捏造の系譜を暴きそれを批判するバトラーの思考もまた、
「東洋」というカテゴリー捏造の系譜を暴こうとするオリエンタリズム
批判のそれと軸を同じにする。つまり、オリエンタリズム批判を介して、
対立関係にあるはずのバトラーとジジェクは危うい緊張感をともなった
共振関係にもある、という刺激的な仮説がここで導かれることになる。
さらに言えば、マイノリティを[表象/代行]してやろうという欺瞞に
西洋中心主義的なオリエンタリズムを見るスピヴァックの議論にもまた、
同じようなことが言える。

で、何が言いたいかというと、クイアー理論の最前線と、精神分析理論
の最前線と、文化人類学の最前線と、少なくともこの三つが危うい均衡
において接触する「オリエンタリズム批判」という結節点は、現在の思
想というものを考えるうえでメッチャクチャ重要なメルクマールになっ
ているということ。

だいたいこんなところでしょうか。なんか致命的な間違いがあったら
ご指摘願います。僕もまだまだ無知な部分が多々ありますので。
21名無しさん@1周年:2000/12/17(日) 00:56
いえいえ、これからもいろいろ啓蒙してください(←本気)。
22考える名無しさん:2000/12/17(日) 01:00
おお、おもろいやん!
23名無しさん@1周年:2000/12/18(月) 13:40
フーコー派とラカン派の対立点、近接点について、他には何かございませんか?
24:2000/12/18(月) 16:58
ジジェクのバトラーやカルスタへの主な批判点は、禿(-h)さんが言う
ように「左翼の出自が忘れられている」という点にあります。

ラクラウ+ムフ「ポスト・マルクス主義と政治」などが「経済による
最終審級における決定」をあらゆる社会に妥当する普遍‐合理主義
として退けたことにより経済の領域が「脱政治化」されてしまった。
ジジェクは、経済領域を「現実界」同様、言説の外部と捉えている。
ところが、バトラーなどは言説以前の身体や物質性を認めず、それら
の差異は言説のパフォーマンスの内部で生じる、としている。バトラ
ーはクィアたちの政治的実践が再生産、つまり異性愛制度を覆そうと
することにより、資本主義生産様式に対する脅威となりうる、とする
が果たしてそうだろうか?現代資本主義システムはそのような運動、
政治的要求を呑み込んでしまうのではないか?左翼の「文化論的転回
(cultural turn)」により、環境破壊や人類の終焉に対する想像力が
衰え、資本主義に対するオルタナティヴを誰も真剣に考えず、多文化
主義やラディカル・デモクラシーなどといった言説だけが巷にあふれて
いる。ジジェクは「資本主義の枠内で」といった資本主義の現状を容認
する態度、ブルデューなどEUの理念を擁護する人たちに対してムカつ
いているのでしょう。ジジェクはマルクス主義者として、経済領域の
「再政治化」を論じているのでしょう。

この言説の外/内という対立点は、決定的でコプチェクのフーコーに
対する批判点もその内在性にあります。一方、デリダは「真実の配達
人」で、ラカンにおけるシニフィアン=「声」の一体性を批判するが、
ジジェクは「声」は体系の安定性を保証するシニフィアンではなく、
「対象の残余」という曖昧な「しみ」、「幽霊」なのだ、とする。この
あたりはずっと平行線だと思う。もうすぐ、バトラー+ラクラウ+ジジ
ェクの「偶発性・ヘゲモニー・普遍性」が翻訳されるらしいので、この
対立もより明確化されるのではないでしょうか。
25考える名無しさん:2000/12/18(月) 17:21
おお、このスレレヴェル高いじゃねーか。
ラカン理論って、基本的に象徴界における不可能なものを一点に集約させて、その大文字の不可能なものによって逆説的にシステムを安定化させる、といったいわゆる構造主義的な理解が一般的だけど、晩年には、その不可能なものの男性的な処理(否定神学)の他にも、女性的な不可能なものの処理の仕方、つまり不可能なものが複数であるようなシステムについて考えていたって言われているでしょう。そのあたりに詳しく触れている本とかあるのかな? あと、サントームって何? これって確か結構後期の概念だよね。不可能なものの複数化とかとも関係してるの? それとも全く別物?
26:2000/12/18(月) 23:39
サントームを含む後期の概念に関しては、
現代思想の冒険者たち13の福原泰平『ラカン』の中の第八章「人間という『症
状』」が男女の性差を中心に考察しています。

あとは、
ジジェクのThe Sublime Object of Ideology (イデオロギーの崇高な対象)
の第二章 From Symptom to Sinthome など。ちなみにこの本の序文はラクラウ
が書いています。
27ーh、名を名乗れ:2000/12/19(火) 00:55
意味のあるスレッドが下がりそうな場合、あげる人? フランス語にな
じんでいる人(語頭のh)。とまれ日本で一番ハイブラウ。頭は薄いがスケ
ベではないと?
28卵の名無しさん :2000/12/19(火) 01:28
「DMS-X」読め
29禿(-h):2000/12/20(水) 02:05
>ジジェクは、経済領域を「現実界」同様、言説の外部と捉えている。
>ところが、バトラーなどは言説以前の身体や物質性を認めず、それら
>の差異は言説のパフォーマンスの内部で生じる、としている。バトラ
>ーはクィアたちの政治的実践が再生産、つまり異性愛制度を覆そうと
>することにより、資本主義生産様式に対する脅威となりうる、とする
>が果たしてそうだろうか?

基本的には同意です。ただ実は、ちょっと僕はバトラーに可能性を感じていまして。バトラーはアイデンティティは実体としてあるのではなく、言説のパフォーマティヴな実践(=反復)の効果としてある、と言ってますね。これは言説の外部(超越論性)を認めないという意味では経験論的でもあるんですが、実はデリダ−東浩紀の郵便概念にうまく接続できるのではないか、と僕は考えているんです。ほとんどアイデアの域を出ていない仮説なんですけど。

言説の不断の反復の効果としてアイデンティティが立ち現れるのだとするなら、アイデンティティは不変ではない。これは固有名が確定記述の訂正可能性に常にすでにとりつかれているとみなす東−クリプキの固有名論とリンクするでしょう。

さらに、言説の反復とは「引用」のことであるとみなせば、言説を引用するたびにその言説には必ずヴァージョン(異本)が生じる。ズレをともなう反復というやつですね。言説実践=引用を行う者(行為者)のコンテクストによって生じるズレ。これはそのままシニフィアン(手紙=言説)の誤配可能性を論じる東=デリダの郵便的思考とリンクしうるのではないか。反復=引用されるべき言説の堆積されている場所を、シニフィアン(手紙)の行き交うネットワーク空間=幽霊の宿るデッドストック空間と同じ位相で考えることはできないか。

不可能なものを一点に集約させることによってシステムの安定化をはかるラカン理論に限界があるとすれば、象徴界というひとつのシステムから出発していることにすでに転倒があったのだとみなさねばならない。となれば、「象徴界の成立以前、シニフィアンの集合が「世界」として纏めあげられる以前」(東浩紀『存在論的、郵便的』)のシニフィアン(手紙=言説)の錯綜したモルキュラルなネットワーク(リゾーム?)を想定すべきではないか。ここまでいくとほとんどドゥルーズ=ガタリになっちゃうんですけどね。さらに言えば、こういう微分的・微視的な権力=言説のメカニズムの解明のほうに傾きすぎてしまうと、果たしてそれで資本主義への有効なブローとなりえるのか、という疑問はつねにつきまうことになりますね。

だからこそ、現実の理論は微視的な視点と巨視的な視点との間、経験論と超越論との間、理論と実践との間を往復するフットワークの力を必要としているのでしょう。ジジェクとバトラー(と、ラクラウやコプチェクも含むか?)らの関係は表面的には対立関係ではあるものの、相補的でもあるのであって、さらに彼らはそのことに自覚的ですね。来年翻訳される『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』は僕もいまから楽しみです。


>27
僕はべつに頭も薄くないし、ハイブラウでもないし、スケベです。
名乗るほど実績のある人間じゃありません。
ついでに言えば大学教育もまともに受けてません。
だからちゃんとした実証的な訓練を積んでいないのが弱みといえば弱みですね。
30考える名無しさん:2000/12/20(水) 02:13
哲学板人気もののタイプ分け:
1)知識、読書量の豊富さ、整理された論議のかきこみ
2)粘り強い批判、きちんと質問には答えてくるタイプ

1)は こざっぱりとしてスマート
2)は どろくさいも地道カツ誠実な印象でグッド
オマケ:
3)その他 名無し は 煽るだけ煽っておいて具合が悪くなると
  すたこらさっさと逃げを決める。おれはここにいる。
31考える名無しさん:2000/12/20(水) 13:04
オリエンタリズム批判とは、他者に関するある種の語り方を倫理的な意味で不当
とすることではないでしょうか。男が女のやさしさを、学者が民衆の健全さを称
揚することは、実はアリバイとして、つまり手段として、女を、民衆を利用する
ことである・・・
するとやはり、カント=柄谷テーゼは正しい?

女を称揚することはオリエンタリズムであり不当である、としても、
女を無視することはオリエンタリズムでは無く、よって正しい、とは
いえませんよねえ。

32教えて!:2000/12/20(水) 13:13
ド・マンが最後に発表したのはラカンについての文章だと聞いたような
気がするのですが、ご存知の方! 教えてくださいませぬか。
オースティンの言語行為論の帰結はデリダのsecだけでなく、
ド・マンの「読むことのアレゴリ」でもあるはず。
33考える名無しさん:2000/12/20(水) 13:20
1です。
だいぶ議論が深まってきた(煮詰まって?)から、ちょっと視点を変えて、日本の文脈にひきつけてみたい。
おれは、この議論を5〜6年前に『批評空間』のセックス/ジェンダー特集で初めて知ったんだけど、その当時は日本ではこういう対立は全くなかったように見えたのね。
そのあと、オウム事件やエヴァやカルスタ興隆とかで日本でもそろそろこの対立が顕在化するんじゃないかと内心期待(?)していたんだけど、あんまりそれを指摘する人がいないから、じゃあ2ちゃんから盛り上げようか、と思ってスレを立てた。
で、日本の文脈でいうと、『批評空間』の特集の後に、スガ秀実がある文芸時評でこの対立を日本の文脈に引き付けて、「おたく派」をフーコー派(フーコー、バトラー)に、「反おたく派」をラカン派(ジジェク、コプチェク)に模していて(ただし、ラカン派は「反おたく派」のような杜撰さはないとも留意している)、それなりにおもしろかったんだけど、そこである重要な指摘をしていた。日本では「おたく派」が観念的に、「反おたく派」の方が現実的に見えるが、アメリカではフーコー派が現実的に、ラカン派が観念的に見える云々と。
それなりに納得したんだけど、この前提が正しいとして、じゃあ「おたく派」が観念論から脱するにはどうすべきか、そこがいまひとつうまく考えつかなくて・・・
34考える名無しさん:2000/12/20(水) 15:58
"Jacques Lacan." (In French. With an English translation
by Shoshana Felman) Shoshana Felman's "Postal Survival,
or the Question of the Navel." Yale French Studies (1985),
69:50-51.
35考える名無しさん:2000/12/20(水) 18:16
フーコーはとラカン派との対立が
現実的と観念的とに対応して
それぞれが状況により現実的あるいは観念的な役割をするとして

ちょっとききたいのは
それぞれの対立を対立せしめる要素の一つかと思う
獲得目標の違いてのがあるんじゃないかと。
それはたとえばなんでしょう?
36考える名無しさん:2000/12/20(水) 18:41
2次元萌え は 現実逃避だとすれば 観念論的で
3次元萌え は 現実的生身へ向かうから 現実的 ?
37吾輩は名無しである:2000/12/20(水) 18:45
どっちもどち子さんです。
38考える名無しさん:2000/12/20(水) 18:57
どして?
39素人:2000/12/20(水) 23:46
>34
ありがとうございます。甘えついでに、よかつたら要約していただけ
ないでしょうか。

さて、よく考えるのですが、たとえばカントは物自体を認め、ベルグ
ソンは認めない。しかしカントとベルグソンの差は、カントとカンテ
ィアン、ベルグソンとベルグソニアンの差よりも小さいのではないか。
カントはベルグソンと話すほうが自分の弟子と話すより楽しいはずで
は・・・・。
フーコー派とラカン派が対立するとして、教祖どうしは本当に対立して
いるのでしょうか。どちらも親カントですよね。またこの対立はデリダ
を葬るための陰謀ではないのですか。
40考える名無しさん:2000/12/21(木) 00:29
>39
やだ
41考える名無しさん:2000/12/21(木) 00:40
やだ じゃありません。
もういい大人なんだから、
そんな態度、許しませんよ。
42:2000/12/21(木) 00:58
>禿(-h)さん

いや、僕もバトラーは好きなのですが、最近、ジジェク批判が多いし、否定神学だからダメだ、とか聞くと、ジジェクも好きなので代弁したくなるんですよ。

確かに東浩紀とバトラーの間には重なり合う部分があるでしょう。しかし、それよりも興味深いのは、33さんも述べていますが、バトラーがクィアの政治的実践を考えているのに対し、東さんはオタクのセクシャリティや「萌え」などについて考えている。同じような理論装置にも関わらずこのような差異が現れるのは、異性愛制度や家父長制などのヘゲモニックなイデオロギーに対抗(異議申立て)する必要がバトラーにはあったのに対し、東さんには、異議申立てを行う対象としてのイデオロギーも象徴界もすでに機能不全である、という(ある意味、観念的とも思われる)認識があるからでしょう。一方、ジジェクもタマゴッチ、ビル・ゲイツやカルスタを取り上げて象徴界の機能停止やスキゾな主体のシニシズムを批判的に考察している(というか東浩紀の状況認識はジジェクから引っ張ってきたものが多い)。しかし、ジジェクとも異なり、東さんは象徴的同一化と想像的同一化の区分を歴史的なものとしてしか考えていないので、古いモデル(映写機モデル)にこだわって現状を批判することよりも、現在の新しい枠組み(データベースモデル)の中で考えることが重要だということでしょう。

何故、こういった極端な思考を東浩紀が繰り広げてしまったか、を考えると、一つには『存在論的、郵便的』において、「存在論的システム」と「郵便的ネットワーク」を分けて考えてしまったのが間違いだったのではないか。つまり、ネットワークにおいて宛先に届かない手紙がいくつかはあるが、安定したシステム(存在論的システム)として二次的に表象されるくらいは宛先に届いている、と考えるべきだったのではないでしょうか。それを郵便ネットワークだけから状況分析を始めたのでおかしくなってきた。

バトラーが、アイデンティティは不変ではない、というのは、アイデンティティが無い、あるいは機能不全である、といっているわけではないでしょう。そうではなくて、絶え間無くアイデンティティの分節化と脱分節化が出現しているというわけですね。アイデンティティが固定化してしまうと他者の歓待もありえないから。ところが東さんのデータベースモデルによると状況が記憶を組みかえて人格を決定する多重人格になってしまう。単純というか、極端というか・・・。まあ、東さんの次の本が出るまでは、どうなるかわかりませんけどね。
43考える名無しさん:2000/12/21(木) 17:02
東だけじゃないでしょ。いわゆる日本のおたく(=フーコー派?)は観念的すぎる。それにくらべると、フーコーもバトラーも実践的ですよ。
44考える名無しさん:2000/12/21(木) 17:16
いかなる意味において
「観念的過ぎる」?
結局、足腰手足 うごかせ!って落ちか?
45考える名無しさん:2000/12/21(木) 17:40
何をもって実践的なの?
フーコーにしろ、サイードにしろ、政治とリアルに関わっているからか?
46名無しさん@1周年:2000/12/21(木) 20:23
>5
ちょっと疑問に思ったことを。

ラカンの理論では、無意識の穴=一者の場所を占めるシニ
フィアンがたえず更新されていく状況を想定していると思
うのですが、42にあるバトラーの「アイデンティティは
不変ではない」という表現は、ラカンのこの仮説によって
いるのでしょうか?
47考える名無しさん:2000/12/22(金) 11:48
ここしばらく、ずっとセックス/ジェンダー問題、というよりもクイアー理論について頭を悩ませている1です。
というのも、日本の文脈に絡めて考えているから。
昨日も『批評空間』のセックス/ジェンダー特集の「聖フーコー」を読んでいて、急に一つ思い浮かんだんですが、クイアー理論を日本の今日的な文脈に接続すると、クイアーはおかまとか変態にあてはめるよりもむしろ「おたく」に当てはめた方が適切なんじゃないかと感じたんです。たしかスガ秀実もそんなことを逝っていたような気がするんですが・・・
いかがでしょうかね?
48>42:2000/12/22(金) 12:34
どうも「存在論的システム」と「郵便的ネットワーク」の関係を的確に把握していないんじゃない? 東の論点は「存在論的」に論理的に先行しているのが「郵便的」だっていうことでしょ。
49考える名無しさん:2000/12/22(金) 12:54
>47
そうかもしんないけど
それだと日本特殊説みたいになるんじゃない?
50:2000/12/22(金) 16:51
>46
46さんが指摘する点においてバトラーとラカン―ジジェクの対立点が現れます。
アイデンティティは言説パフォーマンスの結果である、という定義にはジジェクも同意するでしょう。そして、バトラーはセックスもセクシャリティ等の言説パフォーマンスによって構築されたものとする。一方、ジジェクは、セックスはセクシャリティの結果ではなく、原因である、と反論します。ファルス<であること>=女、<を持つこと>=男(二種類の象徴化の失敗)を通じて、主体は「性(セックス)の不可能性」を抱えつつ、ゼロ記号ともいえる特権的シニフィアン=ファルスに支えられた象徴界に参入します。そしてこの不可能な領域が「現実界」なのですが、その「現実界」という穴を覆い隠すために(性の不可能性を克服しようとして)シニフィアンがセクシャリティ等によって、46さんが仰るように次々と更新されていく。つまり、ファルスは言説を、そしてセクシャリティの更新を可能にする「形式」である、ということです。となると、象徴界での男女の性差は認識論レベルのセクシャリティであり、セックスは不可能な領域である現実界に属することになります。まあ、ここからも細かい対立(ファルスをめぐる対立など)があるのですが、24で述べたように、言語化できない領域を言説の外部に置くか(ジジェク)、言説の効果とするか(バトラー)といった感じにも要約できると思う。といっても、僕はラカニアンでも何でも無いので、説明が間違っている可能性大です。                                                                         

>48
48さんのいうとおり「郵便的」は「存在論的」に論理的に先行している、ということでしょうし、あの本は本当に素晴らしいものだとも思うのですが、ひとつ不満があるとすれば、「郵便的」と「存在論的」とのつながりをもう少し論じて欲しかった、ということです。例えば、『批評空間』の討議の基調報告で東さん自身が「否定神学は何故かくも好まれるのか?」という問いを発している。まあ、浅田さんのように資本主義だから、という答え方もあるのでしょうが・・・。現在、東さんは、そういった問いを避けて、「郵便的ネットワーク」に重点を置いて状況分析を行っているような感じがする。そして、『存在論的、郵便的』の時点では郵便制度として「いくつかのミス」があるくらいだったのに、現在では「郵便的ネットワーク」は「象徴界の機能不全」の隠喩になってしまった。ちょっと、極端な気がする・・・、というような素人の感想ですよ。僕個人的には、東さんのイデオロギー分析をもっと読みたかったので
51考える名無しさん:2000/12/25(月) 18:23
別に東の言ってることはそんなに変じゃないし、大筋では正しい(ざっとしか読んでないんだけど)と思うよ。象徴界の機能不全の隠喩として郵便的ネットワークを持ってくるのもそれはそれでいい。けど、状況論としては何を今更、って感じの凡庸な一般論でしかないんじゃないかな、というのが僕の意見。どっかで聞いたような話を、さして精密でもなく、新しい視点から切り込むでもなく、趣味のアニメと結び付けて平易な文章かつ平易な論理構築で、啓蒙的に「一般の」読者に対して垂れ流す。そういうものとしては評価できるけど、もし本人がこれを本格的な仕事だと思ってやっているのだとしたら、ちょっと勘違いなんじゃない? というのが僕の感想。
52考える名無しさん:2000/12/29(金) 20:45
濃ゆいスレ応援あげ
53考える名無しさん:2001/01/04(木) 10:14
age
54考える名無しさん:2001/01/05(金) 17:13
あげまくり
55考える名無しさん:2001/01/06(土) 15:05
ちょっとスレ違いかもしれないけど、ラカン派に対して一言。
ラカン派(特にジジェク)は晩年のフーコーの、同性愛者の美学化に対して批判するけれども、ラカン派自身もラカンの教えを美学化(というかサブライム化)しているんじゃないかい?
2ちゃんに集う日本のラカン派(っているのかどうかわからないが)は、こういう事態をどう思う?
56考える名無しさん:2001/01/10(水) 09:17
57考える名無しさん:2001/01/19(金) 22:30
>55
>ラカン派自身もラカンの教えを美学化(というかサブライム化)しているんじゃないかい?

例えば?
58考える名無しさん:2001/01/21(日) 05:46
クリステヴァあたりはどう?
59考える名無しさん:2001/01/23(火) 22:56
ついに日本のラカン派が結集旗揚げ?
http://www1.ocn.ne.jp/~lsj/index.html
60モー娘。らぶ。。。:2001/01/24(水) 10:21
日本にもフーコーの影響を受けた連中は多いけれども、フーコーだけに、まとまらなそうだね。
61フーコー:2001/01/24(水) 11:51
62考える名無しさん:2001/02/05(月) 21:07
定期あげ
63考える名無しさん:2001/02/05(月) 23:16
>>61
なにこれ?
64英米系:2001/02/06(火) 00:32
>>8
友達になれそうだね。
65考える名無しさん:2001/02/06(火) 18:03
ラカン派はいっぱいいるけどフーコー派って例えば誰?
66モー娘。らぶ。。。:2001/02/06(火) 20:03
そうだな。
この議論の文脈でいうと、イヴ・コゾフスキィ・セジウィックとかジュディス・バトラーとかデイヴィッド・ハルプリンじゃねえか。
いずれもクイアー理論の可能性を考えているんだよな。
67モー娘。らぶ。。。:2001/02/06(火) 20:05
ちなみにこのスレっておれが立てたんだけど、急に盛りさがっちゃたね。
68考える名無しさん:2001/02/07(水) 13:10
>>66
さんきゅう

ところで、フーコー派が実践的というレスが並んでいるけど、実際にどういう実践をしているの?
同性愛者の権利獲得運動とか?
69考える名無しさん:2001/02/07(水) 16:02



       
           平等なフェラチオの供給
70考える名無しさん:2001/02/07(水) 20:24
そのとおり。
日本におけるフーコー派のイメージは政治的実践からほど遠いかもしれないが、アメリカにおけるフーコー派は同性愛者の権利獲得に大きく寄与してるんだよ。
だから、上の方のレスにもあるように、日本的クィアの非実践的姿勢が問題となるんだよ。

まあ、性の多様なあり方が認められてきているのに、ロリは相変わらず迫害されてるよな。
71考える名無しさん:2001/02/12(月) 21:56
禿
72考える名無しさん:2001/02/13(火) 16:23
73考える名無しさん:2001/02/13(火) 17:15
だってロリは対象が子供だもん
74考える名無しさん:2001/02/13(火) 17:30
とりあえず改行しろよおまえら。
見にくいんだよ!ボケ!ハゲ出てこいよ。
75猫電波:2001/02/13(火) 19:01
政治思想板のオリエンタリズムスレhttp://2ch.server.ne.jp/2ch/test/read.cgi?bbs=sisou&key=981285722&ls=50
76考える名無しさん:2001/02/14(水) 01:45
フーコーってなにから読んだらいい?
「現代思想の冒険者たち」は使える?
77考える名無しさん:2001/02/14(水) 02:29
おれもフーコーのお薦めボン知りたい。
78禿(-h)改めキトリ・オム:2001/02/14(水) 06:34
ひさびさに書きます。ちなみになまえかえました。

改行してなくてすみません。ブラウザによってはそのまま自動改行
されずに表示されちゃうのかな。

最近は映画ばっか見ててお勉強さぼってます。
気の利いたこと書けなくてスマソ。
79禿(-h)改めキトリ・オム:2001/02/14(水) 06:45
「現代思想の冒険者たち」はテーマが分散しててちょっとわかりにくい、
ていうか浅いかも。最初に読むなら、

内田隆三『ミシェル・フーコー』(講談社現代新書)
はパノプティコンの権力分析を社会学よりのアプローチで論じていて、
新書とは思えないクオリティの高さ。

中山元『フーコー入門』(ちくま新書)
は、わかりやすいけど、実存くさい。

とりあえずこの二冊から僕は入りました。他に、個人的にフーコー本で面白い
と思えたのは、ドゥルーズの書いたやつと、
蓮實と渡辺守章の編著『ミシェル・フーコーの世紀』、このへんでしょうか。
80考える名無しさん:2001/02/14(水) 10:18
禿はどんな映画観たの?
81考える名無しさん:2001/02/14(水) 15:59
禿げやめたんだとさ。んでなに見たの?禿。
82名無しさん@どーでもいいことだが:2001/02/14(水) 17:51
じゃ、ラカンは何から読んだらいいの?

アニオタにも理解る奴。環ちゃんの「文脈病」が読解できなくて困ってるよ。
83>82:2001/02/14(水) 17:59
構造と力のラカンの章がいちばん手っ取り早いんじゃない?
「現代思想の冒険者たち」はレトリカルでくどい。
あと、ジジェクって手もある(笑。
84名無しさん@どーでもいいことだが:2001/02/14(水) 18:23
浅田彰ですね? 読んでみます。ありがとう。

「現代思想の冒険者たち」は別で売ってた年表だけ買ったです。
真面目に勉強する以外の人には面白いと思います。
85ジジェク、じぇく:2001/02/14(水) 19:59
このスレに書き込みのお方、どなたでもかまいませんから、ジジェクスレにも書き込んでちょ。
みなさん賢そうですから。
禿さんとか、スレ立てたモーヲタさんとか。
86考える名無しさん:2001/02/15(木) 01:03
禿、改めたっつうのに・・・みんな・・・
・・・ププ・・・かわいそー
87禿(-h)改めキトリ・オム、にもかかわらず厳然たる禿:2001/02/15(木) 05:32
きょうは「ユリイカ」みました。
あしたは「回路」みにいきます。
あさってはユーロスペースで小沼勝のロマンポルノを見ます。
はやく改名させてください。おやすみなさい
88考える名無しさん:2001/02/15(木) 10:33
浅田彰セレクションなんてどお?
89考える名無しさん:2001/02/25(日) 07:11
ラカンはワカラン
90考える名無しさん:2001/02/25(日) 07:20
東vs浅田?
91考える名無しさん:2001/02/25(日) 13:39
下北でやってる「ギプス」おすすめ。
92猫電波:2001/02/25(日) 16:41
大庭健《自己組織化の倫理学》シリーズってラカンですか?
93考える名無しさん:2001/03/06(火) 02:43
あげ
94猫電波:2001/03/23(金) 18:42
自己組織化→自己組織システム
しかもほとんど関係ないみたいだ(恥
95考える名無しさん:2001/03/27(火) 17:13
これってsage進行じゃないよね?
あげちゃうよん
96考える名無しさん:2001/03/27(火) 20:19
























































































































































































































































































































































































































































97考える名無しさん:2001/04/18(水) 15:01
age
98考える中年名無しさん:2001/04/19(木) 22:57
少し考えると馬鹿らしいスレだ。ご苦労さん,ということであげとくけど。
所謂構造主義が,サルトルなんかの実存主義とどう戦ったか(思想的にだよ)
なんて,今のお子さんたちにはわからないだろうな。
99禿(-h)改めキトリ・オム:2001/04/28(土) 00:27
>>98
自分で勝手にフレームアップした世代性に依拠して、ある種の人間を圧迫することによってしか承認を得られないあなたの書き込みも、少し考えると馬鹿らしいものに見えますがどうでしょうか。
100柄谷後塵:2001/04/28(土) 01:37
キトリ・オム 氏に同意。
101考える名無しさん:2001/04/28(土) 01:57
おれも同意。99にね
102考える名無しさん:2001/04/28(土) 05:22
やっと禿って言われなくなったね
10398:2001/04/29(日) 20:31
>>99
世代性に依存しているということは否定しない。君たちは君たちの道を
歩みなさい。ただ,「圧迫」とか「承認」とか,正直いって全く解らない。
少し敷衍してくれるとありがたいのだが。
104キトリ・オム:2001/04/29(日) 21:45
あえて馬鹿正直に回答すると、承認は「自己承認」か「尊厳」か、圧迫は「排撃」
とでも置き換えてもらえればいいと思います。というかそれ以前に、ぼくの前
のカキコミは単に2ちゃん流常套句である「オマエモナー」をいかにも高尚らし
く装うイヤミったらしさで飾っただけなんですけどね。それから僕は「世代性
に依存している」ことそのものをあげつらいたいのではなく、依存していると
思っている世代性って別に自明でもなんでもないんじゃないの?ていう単純な
事実を指摘したつもりなんですけれどね。ただまあそんなことを言っても、
しょっぱなから「私」と「君たち」という区分を頑なに信じて疑わないのであ
る以上、歩み寄りの余地はなさそうですが。
105構造化された名無しさん:2001/04/29(日) 23:34
103です。
「私」と「君」の区別は当然でしょう。私と貴方は異なった主体であり,
だからこそ,議論することに意味があるのです。98が,世代が違うから
議論できない,という印象を与えたのなら,これは本意ではなく,謝罪し
ますが。
それにしても,貴方のいう「尊厳」とか「排撃」とかは理解できないな。
103にループしちゃうけど。


106笑福亭ポコチン:2001/04/29(日) 23:40
>>105
「私」と「君たち」でしょ?103をよく読んでポコチン!
107105:2001/04/29(日) 23:53
>>106
で,何が言いたいんだよ,ポコチン君?
108考える名無しさん:2001/04/30(月) 00:08
>>105はラカンスレに書き込んでた人?
まあとりあえずフーコー派とラカン派の対立ってことで
109構造化された名無しさん:2001/04/30(月) 00:22
>>108
だったらどうした,とかは言わないけどね
フーコー派とラカン派の対立って,そもそも何なんだか教えて下さい
110考える名無しさん:2001/04/30(月) 00:49
過去ログ読めば
111考える名無しさん:2001/05/03(木) 13:27
age
112考える名無しさん:2001/05/05(土) 15:41
age
113考える名無しさん:2001/05/09(水) 01:56
114考える名無しさん:2001/05/15(火) 12:45
禿ももーむすもいなくなったのか
115考える名無しさん:2001/05/17(木) 11:59
禿は名前を変えていろんなところに出没してるよ。
もーむすは文学板の大江スレでやけに濃い(笑)レスを繰り返していたぞ。
116考える名無しさん:2001/06/01(金) 23:05
kienaide
117考える名無しさん:2001/06/04(月) 19:16
age
118考える名無しさん:2001/06/09(土) 12:26
すが秀実がおたく派をフーコー的実践を試みていると称揚していたね。そういえば。
具体的にいうと宅八郎とか松沢呉一あたりをフーコー派になぞらえてたね。
119考える名無しさん:2001/06/09(土) 14:39
禿、さいきんどんな映画観たんだよ?
120120:2001/06/11(月) 22:22
>>118
今、フーコーなら称賛するかもしれないのは、
宮崎学
山の手緑+矢部史郎
あたりかな。
121考える名無しさん:2001/06/13(水) 09:39
フェミニズムにあんまり詳しくないので誰か教えてください。
フェミ理論におけるフーコーの影響ってどうなんですか?
かなり使えると思うんですが。
それと、日本のフェミはどういう文脈でフーコーを読んでいるのですか?
禿でもモームスでもだれでもいいから、詳しい人がいたら教えて。
122ジャコバイト:2001/06/13(水) 16:23
レンウィック「とびきり哀しいスコットランド史」
読みやすくて面白かった!
123考える名無しさん:2001/06/14(木) 09:58
基本的にラカン派っていうのは反動的なのではないでしょうか。いや、精神分析自体が反動的なのかもしれません。
特に日本の文脈にひきつけていえば、ラカン派が称揚する人たちっておたく嫌いの、洗練された大人の趣味人という気がしますし。
フーコー派はどう考えてもおたく好きだと思うけど。
124考える名無しさん:2001/06/20(水) 10:02
age
125吾輩は名無しである:2001/06/20(水) 11:13
おお、こんな良スレがあったんだ。
しかし、フーコーがあの時期に反精神分析という立場を取ったのは理由がないことではないと思う。
明らかに精神分析が反動であった時期があったから。日本でも「ものぐさ精神分析」とかいう駄本が人気を博していたこともある。
だが、今精神分析を批判することが必要とされているのだろうか?
むしろ今こそフロイト主義=ラカン派が求められているのではないだろうか?
126出張:2001/06/20(水) 11:20
じゅり@MtFバイです。

ちょっとだけでばります。

アタシは、ポストモダン・フェミニズムをもっと推し進めて
バイセクシュアル-セクシュアリティを整理する立場だから、
ラカン派の理論は批判するわよぉ(ワラ

フロイトもラカンも嫌いじゃないですけど。
でもフーコーの方がもっと好き☆

しっつれーしましたぁ。
127>121:2001/06/20(水) 11:26
じゅり@MtFバイです
>>121の方

>フェミ理論におけるフーコーの影響ってどうなんですか?
>かなり使えると思うんですが。

えーと、フェニミズムでは、フーコーの影響を受容しているのは
ラディカル・フェミニズム特にレズビアン・フェニズムと
ポストモダン・フェミニズムの陣営だと思います。

興味深いと思うのは、ポストコロニアル・フェミニズムでの受容と
思いますけど。

>それと、日本のフェミはどういう文脈でフーコーを読んでいるのですか?
んー。日本の大姉御たちは、実はリベラル・フェミニズムの人が多いと思うので。
どういう文脈でもなにも、まだ影響は表立ってないと思いますよ。

これから出てくる人ではないですか。
やっぱり、日本の現状で簡単にモダニズム批判をできない
(例えば批判しながらモダンを確立しなくちゃいけない面とか)
ってゆーのが、ネックにはなってると思います。

草の根でレズビアン・フェミニズムやってる人とかに熱心な人とか
いますので。個人的には、今後に期待と思っています。
128考える名無しさん:2001/06/20(水) 11:43
>>127
なるほど、日本の文脈にフーコーをそのまま当てはめるのは難しいというわけですな。
じゅり@MtFバイさん
ちょっとお聞きしたいのですが、ラディカルフェミニズムの人たちはいわゆる「おたく」をどう思っていますか?
129ヲタクですか……:2001/06/20(水) 12:06
じゅり@MtFバイです。
>>128の方

えーっと、ヲタクって無限定な言葉だから、語るのむずかしーんですよね。

アタシが知ってるのはレズビアン・フェミニストですけど、、、

自分のセックス・ファンタジーを空想領域で消費してくのみで、
生活思想に還流させないタイプのヲタクは、
一言で言うと「鼻クソ」扱いでしょうか(ワラ

アタシはまた別の角度から観るんで、ビアン・フェムの彼女達の言葉遣い
とは違うはずですけど。
もともと脅えてるようなオトコのアイデンティティ補強にファンタジー
を消費してるようなタイプのヲタクには手厳しいですよね。
(実はマヂメに考えるとここ微妙なポイントではあるとは思いますけど)

ただし、ラディカル・フェミニストにも、ヤヲイもショタもいますので、
一部では、目クソ鼻クソを笑う状態もあるとは思います(ワラ

コスプレソープなんかに行って綾並レイを指名するようなヲタクには、
やっぱ「好きにチープな頽廃ごっこしててよ」、って感じかと思います(?)。
(碇ゲンドウのコスプレしてお店に行くなら
アタシ的には見物と思うんですけど:ワラ)

ついでに言うと、リベラル・フェムの大姉御たちには、ヲタクとか
ヤヲイとかって欲望様態は理解不能みたいですね(ワラ

>>128の方の「ヲタク」っ言葉は、どの辺が焦点なのでしょうか?
それによっては、お返事を代えなくてはいけないかもしれません。
130考える名無しさん :2001/06/23(土) 20:53
hage
131考える名無しさん:2001/06/24(日) 01:00
やっぱり浅田と東の喧嘩?
132考える名無しさん:2001/06/24(日) 19:08
東工大の赤間はどうかな?
ラカン本書いてるでしょ?
133考える名無しさん:2001/06/26(火) 05:15
>>132
おまえ、赤間にヤなことされたのか?
134考える名無しさん
帝国