ドゥルーズ君のチャット

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1いつも笑顔
アンチ・オイディプス読もうとしたけど、1ページ目で挫折しました。ドゥルーズって何やったの?誰か親切な人説明してください、お願いしマース。
2いつも :2000/10/16(月) 03:46
自我一般を否定したはずが、
自分の自我の重みに耐え切れず自死してしまった人。

「教祖」でさえこのありさまだから、
自分の自我に自信のない人は、そんな本読まないほうがいいです。

オイディプスの三角形を否定したい人は、
まず独り暮らしして親から自立することから始めましょう。


3考える名無しさん :2000/10/16(月) 03:49
>1
毎日一節読んでここに感想文を載せてみたらどうかしら?
いつかは読めてしまうでしょう。
4比ヤング :2000/10/16(月) 12:13
えー、こちら24ページで挫折、オーケイ?
5つまんない :2000/10/16(月) 14:59
sage
6考える名無しさん :2000/10/16(月) 15:00
sage
7太陽肛門 :2000/10/16(月) 20:06
では早速、
第一節 欲望する生産
「<それ>〔エス〕。機械の機械」

「シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線を持っている。
 これは太陽肛門なのだ。」
は?ぁ?いったいどういうこと?
とにかく諸機械。
源泉機械に器官機械。
流れと切断。
なんでも器用にこなすと。
なんだか陳腐だなぁ。

今日から少しづつ読んで感想を書きます。
皆さんも一緒に読んでみませんか?
ペースは河出書房の小見出しを一回、一日分とします。

>1さん
ごめんね。このスレッド乗っ取ります(笑)。
「教えて」はダメみたいだし。
8考える名無しさん :2000/10/16(月) 20:27
前立腺マッサージ中肛門
機械全開作動中
9考える名無しさん :2000/10/16(月) 20:33
>7
どんどんスレなんて乗っ取っていいぞ。
どうせこんなのアホが立てたスレなんだから。

>8
おやおやどっかのホームレスのイカレポンチが混じっているようだな。
おまえ、PCの使い方知ってたのか?
10:2000/10/17(火) 00:59
おおおお、返答ありがとうございます。確かに教えては駄目みたい・・・。誰だアホなんて言ってる奴は、まあ、アホだからいいけどさ・・。
11考える名無しさん :2000/10/17(火) 20:15
台湾まんこ
12地獄の機械(仕掛け爆弾) :2000/10/17(火) 20:46
はい、二日目です。
第一節 欲望する生産
分裂者の散歩

散歩中は社会の中に自分を位置づけることを強制されていない。
そこで一切は諸機械をなしている。
そこでは私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別はなんの意味も持たない。
種々の機械を相互に連結する過程だけがある。
いたるところに生産する諸機械、つまり欲望する諸機械、分裂症的諸機械、類的生命そのものが存在する。

オイディプスは、欲望する諸機械のとてつもない意識的社会的抑制を前提として成立している。
何故抑制されるのか?
いかなる目的で抑制されるのか?
こうした抑制に従う必要性はあるのか?
望ましいのか?
何を用いて抑制するのか?
オイディプスの三角形の中には何を持ち込むべきであるのか?
何によってこの三角形を形成すればよいのか?
こうしたことより重要な問題はないのか?
いかなる機械がこうした効果を生み出す能力を持っているのか?
この機械はいかなることに役立ちうるのか?

どうやら通常「無意識」と言われる領域のことが話されているようですねぇ。
よく分からないなぁ。ま、そのうち分かってくるかも知れません。気楽に読みましょう。

とにかく何かが生産されたら、この何かは機械が産みだした結果であると考えるらしいね。
この生産する諸機械=欲望する諸機械=分裂症的諸機械=類的生命そのものはいたるところにあってここでは自他の区別は意味を持たないと。

諸機械ってのがいまいちよく分からないなぁ。


13考える名無しさん :2000/10/17(火) 21:27
僕は『襞』を読み始めました。
14:2000/10/17(火) 22:13
はい、はい、先生質問。オイディプスの三角形ってなんすか?
15考える名無しさん :2000/10/17(火) 23:09
>1
え?聞こえません。もう一度言って下さい。
フロイト?そうですよ。
16ka69 :2000/10/18(水) 09:49
えっと@`わかりやすい「アンチオイディプス」の背景.
彼等が対峙している敵は二人いる.一人は当然@`ラカン.当時思想界はもちろん
フランス社会全般に影響を与えてたといっても過言ではない精神分析界のドン.
敵対というよりも@`硬直化に抗するためにより動的な概念装置へと精製したとい
ったほうがいいかも.もう一人は@`マルクス.当時フランスは68年の動乱に分かる
ように@`学生運動@`労働者運動のまっただなかだった.その中心的な理論支柱に
使われたのがマルクスであったが@`当然俗化され@`硬直化していった.これを@`換骨
奪胎しようとしたのがかれらである.つまり@`この本は@`マルクス@`ラカン=フロイ
トの理論@`著作に重きを負うているため@`これらとの輪読@`または先に読むのが
お薦めです.>ツヅク.
17Homo natura :2000/10/18(水) 22:29
>ka69さん
背景の説明は有り難いです。こっちは適当に読んでるだけなもんで。

三日目です。
第一章 欲望する諸機械
第一節 欲望する生産
自然と産業。<過程>

<過程>
1;一切は生産。例えば、登録と消費とを生産そのものの中に組み込むこと、登録と消費をも同じ一つの進行中の生産と見做すこと。
2;ここでは生産するものとされるものが一体をなしている。
3;(2の条件)<過程>というものは目標や目的であると考えられてはならない、<過程>自身を無限に継続することと混同されてはならない。これは厳密に言えばその<過程>を早まって突然に停止してしまうのと同じことである。これは精神病院の中にみられるあの人工的な分裂症患者をつくりだす操作に他ならない。この人工的な分裂症患者とは、自閉的な行動を押し付けられてボロボロになり、分裂症の臨床実体として産みだされたひとのことなのである。
分裂症において、分裂症的な特性とか、その臨床実体とかいったものは、なんら存在しないのである。分裂症とは、生産し再生産する欲望する諸機械の宇宙であり、「人間と自然との本質をなす実在」としての生産の働きである。

ここでは<過程>ということが説明されているのですよねぇ・・。
とりあえず、継続しましょう。
18ヘンリー・ミラー :2000/10/19(木) 23:15
三日坊主にしようかとも思ったんだけど・・

四日目です。
アンチ・オイディプス
第一章 欲望する諸機械
第一節 欲望する生産
欲望する機械。部分対象と流れ。<これと、あれと>et...et...

欲望する諸機械は二項機械であり、二項規則つまりつながり体制の下にある機械である。一つの機械は常に他の機械と連結している。生産的総合すなわち生産の生産は、「これと」et「これの次にあれ」et puis...という接続的な形態をもって作動する。ということは、ここに常に流れを生産する機械<と>et、この機械に接続されてこの流れを切断し採取する働きをするもう一つの機械<と>etが存在するということである。そしてまた、今度は逆に、始めの機械がもうひとつの別の機械の方に接続され、この機械に対して始めの機械が切断あるいは採取の行動をとることになる。したがって、二項系列はあらゆる方向に単系的線型状に(多岐的でなく)のびてゆくことになる。<連続する流れ>と<本質的に断片的なまた断片化した部分対象>との間に、欲望はたえず連結を実現し続けることになる。欲望は流れを起して、みずから流れ、そしてみずから切断するのだ。
およそ「対象」はいずれも、流れが連続していることを前提とし、およそ流れはいずれも、対象が断片化していることを前提としている。
恐らく、それぞれの<器官機械>は、自分自身の流れに従って、つまり自分自身から流れ出るエネルギーに従って、世界全体を解釈するのだ。
他の機械との間には、接続の関係が横断線によって常に設定されている。この横断線を通じて、一つの機械は他の機械の流れを切断するか、あるいは自分の流れが他の機械によって切断されるのを「見る」かするのである。

謎だった欲望する諸機械について説明がなされていますね。
しかし、よくわからないよ〜。

ところで明日はたぶんお休みです。

19考える名無しさん :2000/10/20(金) 05:40
お、俺も便乗して読み始めよっかな。
本だけは持ってるからな。
20考える名無しさん :2000/10/20(金) 07:18
http://www.serve.com/knightcrash/DIF/gatari.htm#『アンチ・エディプス』
21トモス :2000/10/21(土) 20:45
ヘンリー・ミラーさんへ。
諸機械について、参考になると思うので少し書かせてください。
(ならなかったらごめんなさい。)

哲学の入門書なんかでもよく見る用語に「要素還元主義」というのがあると思う。
諸機械はそれとの対比で考えると基本的なところはわかる気がします。
例えば人体をいくつかの部分にわけて、「こういう部分があるから、車
(人体)にはこういう働きがあるのだ」(脳があるから思考がある、とか)
世界の諸現象は究極的には素粒子の振る舞いの組み合わせからなるものとして
説明できる、という考え方を指すのだと思うけど、ここで「要素」にあたる
部分は他から独立した本質的な機能を持っていて、それが(病原菌が活発に
活動するから病気が現われるように、脳があるから思考が生じるように)
全体のレベルでの現象の説明に役立つという風に考えられていると思う。
諸機械という概念は、”諸”=初めから複数形でしか物事が存在していない
接続する機械=他の機械といろいろな形で組み合わさり、その組み合わさり方
(切断と流れの形)によっていろいろな現象が起こるのであって、要素の
「本質」が現象を起こすのではないという思想的な立場になっていると思う。

物理現象や社会現象だけではなくて、人間も諸機械だ、と彼らは考えるわけだ
けれども、それもほぼ同じように解釈できる。
個々の人間には単一の自分なり思考なりがあってその意思決定に基づいて人間の
振る舞いが決まるのだ、あるいはある特定の要因(無意識にまつわるものでも、経済的な要素でも)が
意思決定の内容自体を規定してしまうのだ、とか、意思決定の作用を打ち消して
密かに人間の振る舞いを決定するのだ、という考え方は言わば単一主体なり単一機
械として人間を見る見方で、

諸機械だ、という時には複数性と機械性が強調されると思う。例えば、自分の
習慣や行動パターン。習慣は必ずしも首尾一貫した思考や合理的判断に基づいて
いるわけではない。ある場面には妙に慎重である場面では向こう見ずで、ある
時にはやけに弱々しく、ある時にはやけに強がりで、というようなことが身体の
動きのレベルでもあったりすると思う。エコロジストに改心したつもりが実は電気
をつけっぱなしにする癖が抜けていなかったりとか。行動を決定する回路が
ある体系的で単一の意思決定のシステムだというよりもいろいろな回路がごちゃ
ごちゃと寄り集まった、複数性に満ちた回路だということ。
例えば料理ってそうだよね。ひとつの材料が他の材料や調理の仕方との関係でいろ
いろな側面をあらわにする。そして料理について考える時もそうかな。ある時ふと、
炒飯にレモン汁をかけることを試すと、「じゃあこれにレモンをかけてもいいん
じゃないか」とかあるいはレモンじゃなくてライムを使うとか、いろいろ
アイディアが広がっていく。(それがひいては、喧騒と混乱の中を鋭い光が突き
抜けていく絵を見てピンとくる経験に展開したり。。)
この時、展開をひきおこす原動力になっている最初の感動やその後の経験の内容、
期待、などなどが欲望なのかな、と思う。

まあ細かいところはあれこれ書いていて不安があるけど、(例えばどういう
物事が”流れ”と呼ばれるのかとか)解釈の方向としては実用に耐えるもの
だと思います。いかがでしょうか? 他の概念や中盤はあれこれわからない
ところだらけで僕も格闘中です。

アンチ・オイディプスは全体としては、分裂症患者に最も盛んな接続活動を
見て(彼らは融通無碍にいろいろな物事をいろいろな物事にどんどん接続して
いく)、その分裂症の精神の運動をオイディプス・コンプレックスという要素に
還元してしまう精神分析を批判する、っていうことが前半ではされていて、
後半ではいろいろな社会・社会秩序の議論をする中で資本主義がこの
分裂症の精神活動に非常に近い(でも微妙に違う)形態を実現するもの
だということが議論されているように思えます。(ある商品をいきなり
別のことに使い出しても構わない。本当は売り物ではなかったものが売り
に出されたりもする。思わぬ物に買い手がついて取り引きが発生する。
などなど資本主義では社会の諸要素が組み合わされる仕方が規範や習慣から
自由である度合いが高い)
これは16でka69さんが指摘しているラカンとマルクスへの意識、ということと
つながっているようですね。

長くなりましたがこれで。
22考える名無しさん :2000/10/21(土) 20:48
トモス えらい!!
23トモス :2000/10/21(土) 20:49
:D (やったー)
24吾輩は名無しである :2000/10/22(日) 04:06
このスレのアイデアなかなかいいな。
学校みたいに週一で輪読よりもコンスタントにできるし。
他の本で立ててもいいな。
25『機械と少年』 :2000/10/22(日) 11:05
>トモスさん
以前ヘンリー・ミラーだった『機械と少年』です。僕は名前はいつも変えているんです。
今回の箇所は特にトモスさんの説明が参考になります。非常に有り難いです。

五回目です。
アンチ・オイディプス
第一章 欲望する諸機械
第一節 欲望する生産
第一の総合。接続的総合あるいは生産の生産

<流れ - 部分対象>のべつの形態として<生産する働き - 生産されるもの>
生産する働きは、常に生産されるものに接木されている。

たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産されるものに接木してゆくといったきまりこそ、欲望する諸機械、すなわち生産の生産という根源的な生産の特質なのである。


「万物は動くものである」というホメロス、ヘラクレイトス系の思想なんでしょうね、これは。
しかし、よくよく注意しないと何かおかしなことが起きていないとも限りません。
が、とりあえず区切りがつくまでは読むことに専念しましょう。
26トモス :2000/10/23(月) 08:14
名前を変えてるのは気づいてましたよ。 >機械と少年さん

またアンチ・オイディプスのことをあれこれ考えて、冒頭の部分を読み返したので
僕もノートを提出します。 :) 前回と同じくやや踏み込んで危なっかしい解釈
をしていると思いますがもし修正すべき点などがありましたら指摘して下さい。

第一節の主要なポイントは、あれこれ概念の導入を除けば、
分裂者をどう見るかということをめぐっている。
彼らの主張によれば分裂者は家庭や社会を離れて自然と接続されているような
存在であって、それをオイディプスという家庭・社会的な枠組みで理解しよう
とすることは抑制的なこと。
更に、分裂症というのは自然との接続による生産活動の過程であり、それを
ある固定された状態として理解することは残酷な仕打ちであるという議論も
展開されている。(これが上の「抑制」とどういう関係にあるのかは僕に
はわからないな。)
で、自然と過程と生産という概念について特にあれこれ説明がされる。
自然と人間は相互生成的だし、複雑に接続し合って渾然一体となっている
諸機械だ、ということになる。そして接続とは生産活動であり、それは
何かの状態(オイディプス・コンプレックスに支配された精神の状態)
というよりも過程(次々と多様な接続を展開する過程)として見るべき
ものだ、というのが主旨のようだ。

(つづく)

27ƒgƒ‚ƒX :2000/10/23(月) 08:15
==第一節 欲望する生産
2種類の機械を区別している。
エネルギー機械=流れを発する機械=源泉機械
器官機械=流れを切断する機械=器官機械

==分裂者の散歩
分裂者は家を離れて散歩をする。それは自然とつながりあうこと。神や家庭や
父母との関係を離れて。これは分裂者が欲望する諸機械だということだとされる。
オイディプス・コンプレックスの概念を用いた精神分析をすることはこうした
「欲望する諸機械」を抑制すること。

==自然と産業。<過程>
分裂者を固定した極点としてではなく過程として理解することの重要性が
強調される。
これを説明するために、人間がいかに<過程>であり、それが人間と自然の
一体性の明証になっているかを説明している。
自然と人間とは対立するものとして扱われるが、それは間違いだ。
対立するものだと考える代わりにどういう風に考えればいいのか。

1)全てが生産である。
生産(加工)と分配(流通)と消費(使用)とを分ける考え方は、人間と
自然の様々な区別に基づいているが、まず、それら全てが生産の働きの一部で
あるという形で修正される。
これは資本主義においては消費者の需要が生産者の生産活動にも影響を与える、
ということを考えるとわかる気がする。全ては関係しあった一群のプロセスなのだ、
と考えることができる。 自然の一部から何かを摂取してそれを加工して移動
させて消費してまた自然へ返すようなプロセス。
けれどもこれだけなら、自然と人間の間には加工する人間と加工の対象としての
自然という対立関係があるということにもなるような気がする。生産する主体と
しての人間と生産活動の材料として客体化される自然。

2)人間と自然は一体をなしている
生産するものと生産されるものとの関係はお互いがお互いを成立させる条件
になっているという関係だ。(これは「ゲシュタルト」のことを連想させる。
記号論的に分節の形式と言ってもいいけど。あるゲシュタルトがあるからある
対象が存在しているように見えてくると同時に、そもそもそのゲシュタルトを
成立させる「何か」が対象の側にあって自分を触発した面もある。相互生成的。
生産者と生産物も、触発されて切り取る者と触発して切り取られる物として相互
生成関係を持っている。と言いたいのではないか。)

生産が生産される、ということは、エネルギー機械に器官機械が接続され、
流れが切り取られて別の流れに接続されること。で、人間はそうした接続を
やめないものであり、その意味で機械の接続を担当する係員である。
(この係員を人間が、人間だけが勤めているのだとしたら自然と人間の対立を
否定する考えとどうつじつまが合うのかよくわからない。)

3)過程は完成を目指すと考えるべき
過程を無限に継続することはよくない。過程そのものの完成がよい。

以上を総合すると、次のようなことが言える。
分裂者は自然と一体であり、それを社会の問題や家庭の問題(オイディプスの
問題)として解釈することは彼/女の自然と一体となった欲望のあり方を歪める
ことになる。
それは過程であって、完遂されるべきものではあってもある状態とか臨床実体として
固定されるべき症状などではない。
これは更に以下の2項で繰り返し主張・説明される。

==欲望する機械。部分対象と流れ。<これと、あれと>et...et...

ひとつの機械は常に他の機械と連結している。
器官機械は自分自身から流れ出るエネルギーに従って世界全体を解釈する=流れを切り取る。
流れは混沌として、切断は分節として考えるとわかりやすい。というかポスト構造主義的な
記号論として考えることが出来る。

==第一の綜合。接続的綜合あるいは生産の生産

「分裂症患者の机」を例にして、
生産されたものはまたすぐさま次の生産活動のきっかけとなり、
初めから定められた目標に従ってではなくその都度の欲求に従って
生産の過程が続いていく、
ということが示される。
28トモス :2000/10/23(月) 08:18
27も僕です。何だか文字化けしてますが。

==自然と人間の関係についての疑問

D=Gの見るところ、生産は人間に特有な活動なのだろうか?
自然=エネルギー機械 人間=器官機械 であり、
であって、人間は自然を採取加工する主体であり、自然は採取加工される
客体であるということになのか? ならばどのような意味で人間と自然とは
一体なのか?
また、人間は係員だという言い方がされていて、これは人間が何か特別な役目を
担っているというような感じを受ける。

これが対立でない可能性は3つある気がするがD=Gがどの立場をとっているのか
はよくわからない。

可能性1:主体と客体の間に相互依存関係にあるので対立関係にない。

そもそも材料があってこそ加工がなり立つわけで、生産対象と生産活動
とは相互依存的な関係にある。更に言えば、生産活動(自然をある形で切り取る
こと)があってこそそこに”自然”があるのだ、対象があるのだということが
成立すると同時に、そこにそもそも何かがある(無でない)からこそある形で
切り取る活動が可能になるわけで、どちらかが欠ければそれでどちらもが成立
しなくなってしまう。

この立場の欠点は自然は混沌であって人間がそれを切り取ろうが切り取るまいが
混沌として存在し続けるのだ、という見方をすれば自然は人間と相互依存関係に
ないという風に言えてしまうこと。

可能性2:相互浸透的、相互規定的なので対立関係にない

人間もまたエネルギー機械であり、自然を採取し、自然に採取される
ということが生じているので人間と自然とは渾然一体となった複雑な回路を形成
しているのであってきれいな対立の構図など存在していない。線引きができない。
例えば母乳は人間の一部だが、その母乳の流れが口によって採取されるという
生産が生じているように、人間もエネルギー機械として他の機械に採取されることになる。

あるいは更に言えば、人間も自然も主体などではなくていずれもあるパターン
に従って物事を処理する(流れを流す)機械だということなので、単にそれらが
複雑に接続しあっているだけ、ということになる。
このような考え方は、個人がそもそも諸機械であるが故に自分と他人(例えば
ドゥルーズとガタリ)という区別は無効で、ただ複数の諸機械の間にいろいろな
接続があるだけなのだ、という彼らの考え方に似ている。
ただ、この諸機械の接続、回路の形成を取り仕切る係員が人間だということを
強調するなら、人間の主体性は完全になくなるわけではない。

338ページからの「生気論と機械論の彼岸へ」を見るとおおよそそういう風に
書いてある。係員の問題は残るが。

可能性3:共に生命であるという同等性があるだけで対立はない
人間はただ様々な欲望に突き動かされ、回路の接続をするのだし、
自然もまた様々な生命が欲望に動かされて同様の活動を営むのだ、という
意味で両者は対立していない。同じ事をしているだけ。
この立場の欠点は人間が他の生命よりも強力に見えることをどう説明するのか
疑問が残ること(強い者が主体として自らの欲望に従って行動し、弱い者は
それに規定されて物=客体のような立場になる)
と、
そもそも諸機械だと言っていることを生命と機械とは同じものなのだ、という
ことを言っているのだととるならば、石ころにも台風にも欲望があるのだという
見方になるわけで、共に生命であるということを根拠にするわけにはいかなくなる。

「生気論と機械論の彼岸へ」を見ると、どちらもが諸機械であって、複雑に接続されて
いるのだから区別するのがおかしい、ということを書いてある。そうだろうか。
それは木を見るか森を見るかの問題のようにも思える。やはり人間は他の自然の
諸部分から突出した存在だと言えてしまう状況があるのではないか。
機械にも欲望がある、のではなく、欲望は機械に宿っているもので主体にある
のではない、ということが340ページからの「機械の二つの状態」で主張されている。

(まだつづく)
29トモス :2000/10/23(月) 08:21
==「過程そのものの完成」についての疑問

過程そのものの完成、というのは例えば生産のプロセスだったら生産
が完了して生産物が出来た、というようなことだろうか。
それともある過程の形成が完了してある回路が完成する、というよう
なことだろうか。
前者だとしたら、それはつまり、
欲望する生産としての人間のプロセスだったら、種々の欲望の流れが
流れる、ということだろうか。

これは、分裂者を欲望のままに活動させるのがいいのだ、ということ
だろうか。レインが考えたように?
分裂病の人が自分や他人を傷付けるのはどうするのか。

資本主義は過程を永遠に継続させるシステムだからよくない、
という主張に展開していくことになるだろうか? それともひとつ
の流れが十分に流れたら(ある欲求が満たされたら)それでその
流れが消滅できる(ある製品の市場が消滅する)というようなこと
が生じる柔軟なシステムなのでよい、ということなのだろうか。
30トモス :2000/10/23(月) 08:40
今回は以上でした。
(おわり)


31名無しさんZ80 :2000/10/23(月) 09:39
♯トモス ステキ♯
32トモス:2000/10/23(月) 17:57
>名無しさんZ80
:) (からかってるでしょ?)

でももう少しだけ追加です。
書きすぎ?


第一節の主な概念は切断と流れ、生産、諸機械、過程、自然、分裂者、といった
ところだと思うのだけど、これが二節では離接的接続、登録、器官なき身体、
反生産、死の欲動などなどまた別のセットの概念の議論に移ってしまいます。
(で第三節では消費にまつわるこれまた別の概念セットの議論になる)

でも第四節の最初半分ぐらいと、第五節の最初の項(河出の小見出しひとつ分)
はいずれも欲望や生産のことを話しているので第一節と併せて読むと参考に
なるところもある気がしました。

例えば「流れ」。51ページで流れは理念的なるものとみなさなければならない
と書いてあります。これは流れと切断がどういう風に互いを成立させるのか、
どのように対立的ではないのか、を考える上で重要な情報だという気がします。

ある諸機械がソーセージをつくる時、それはソーセージという形に世界の
諸要素の一部を編集する機械になっているわけで、そのソーセージ制作機械
があればこそソーセージの原材料の流れも成立する。 それを更に敷延する
と、切断と流れ、あるいは諸機械も、物理的な存在として境界を持っている
わけでは必ずしもない。ソーセージ制作機械を工場にある金属やゴムの
複合体だと考えても、それが”接続”される対象として”原材料諸機械”
がどこかに物理的にまとまって存在しているわけではないし、それに
物理的に接触してソーセージの原料が採取されて加工されている、
という現場は普通の意味ではない。それは日常の物の見方と違う
枠で見た時に見えてくる流れや存在。決してイメージだけのものでは
ないのだけれども、物質的諸存在を違う形で分節するから見える現象。

うーん。これってわかりにくいかな?

==
ところで第二節ですが、
不動の動者=器官なき身体=資本=死への欲望(死をも欲望する者)=登録
=流動的ですべすべしたもの
という図式は見えるのだけど、一体これは何? ぼんやりとわかるところも
あるけど、諸機械の接続より全然わかりにくいな。。

誰かステキな人が現れて解説してくれないかなあ。。
33名無しさんZ80:2000/10/23(月) 19:19
♯トモス いいやつ♯
34考える名無しさん:2000/10/23(月) 20:15
いいやつすぎるかも。『アンチ・オィディプス』は相手が悪すぎる。
たとえ最後まで続いたとしても、結局よくわかんないだろう。
もう少しやさしいテクストを選択してはいかが?
結果のでる努力のほうが楽しいよ。
35考える名無しさん:2000/10/23(月) 21:01
>>34
アンチ・オイディプス読み始めて、
偶然このスレッド見つけたんだから、
最後まで続けさせてよ。
でもね、節ごとに要約していこうよ。
ヘンリー・ミラーさんみたいに。

社会人には、解説がないと今ひとつピンとこないからね。
続けていってね。トモスさん。
36トモス:2000/10/24(火) 02:25
>35
シュレーバー控訴委員長さんの続投にも (<−次の名前を予測してみた)
僕は期待したいところです。というかこのスレッドは彼/女がのっとったん
だしね。>7 :)

アンチ・オイディプスは確かに手強い相手だと思う。。僕もここ数日は触発
されて頑張ったけど、自分でやってたら3日坊主になってただろうな。

ともあれ今後は控訴委員長の進行にもっと合わせます。委員長よろしく。
371:2000/10/24(火) 09:51
おおお、面白い方向に進んでるぞ。もう少しドゥルーズの全体像が把握しやすい解説をしてもらうと、俺みたいな馬鹿には嬉しいのだが。
38トモス:2000/10/25(水) 14:56
控訴委員長おでましになりませんね。。
僕の書き込みが過ぎたのでしょうか?

委員長?
39考える名無しさん:2000/10/25(水) 15:10
このスレ応援あげ
40考える名無しさん:2000/10/26(木) 03:52
「器官なき身体」(cso)と「部分対象」という概念によって、
D=Gが試みたのは、「全体」と「部分」の関係を
規定し直すことだったのではないかな?
彼らは、「有機体―全体化する全体」に対抗するもの
として「cso―全体化しない全体」を出してきているんだと思うよ。

ところで、「organisim」は「有機体/生物」であると同時に、
「組織/機構/機関」のことでもあるよね。
また、「corps」は「身体」であると同時に、「集団/団体」でもある。
「corps」は、身「体」、物「体」、団「体」
あるいは政「体」の「体」なんだ。
だから「corps sans organe」は「器官なき身体」であると同時に
「組織(organe)のない団体/政体」とも訳せるわけ。

すると、「cso」のイメージがずいぶん変わってこない?
個人の特異性を抑圧して、己の部分として統合する/全体化する「組織」と
個人と個人(部分と部分)との自由な出会い/接続から
自然に生じてくるある「まとまり」。
閉鎖的「組織」と開放的「団体」とでも言うべきかな。
あるいは、こういった図式も成り立つ。
有機体として組織化されている「身体/生命」と
そうした組織化を逃れ、「身体」の組成そのものを
解きほぐしつつ生成変化のプロセスに参入していく「非有機的身体/生命」。
「cso」っていう概念を導入することで、D=Gはおそらく、
生命の次元に関わる事柄と社会/政治の次元に関わる事柄を同一平面上で
並行的に論じているんだろうね。

まぁ、極めて粗っぽい図式だけど、理解のとっかかりぐらいには
なるんじゃないかな。
41考える名無しさん:2000/10/26(木) 06:34
>>40
偉いけど長い。
今度からは分載してくれ。
42シュレーバー控訴委員長代理:2000/10/26(木) 06:38
*委員長がお見えにならないのでちょっとトモスが代理をつとめさせて
いただきます。*

まずは一項目分の要約から。(前項の分は>25にあります。)

第一章 欲望する諸機械
第一節 欲望する生産
器官なき身体の生産

生産する働きと生産されるものとの一体化 が器官なき身体を構成する。

「種々の欲望する諸機械は、われわれの有機体を形成するものであるが、
ところが、この形成生産する働きの只中において、身体自身は、有機体の
形態に有機化されることに苦痛を感じるのである。」

「ある意味では、何ものも動かず、何ものも作動しない方がいいのかも知れない。」
「死の本能、これがこの身体の名前である」
「分裂症患者の机は、ひとつの器官なき身体である。」(机がどんなものかは
18−19ページに書いてあります。)
「器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でも
ない。」「固有の身体そのものとは、つまり身体のイマージュとは無関係である。」

「器官なき充実身体は反生産の領域に属しているが、しかし、生産をこの反生産
に連結することが、やはり接続的綜合のひとつの性格なのである。」

とまあ以上がこの項の主な主張になってると思いました。

図式としては、
生産=生産する働きと生産されるものの一体化=有機体の形成

反生産=死の本能=器官なき(充実)身体
を呼び起こしてしまう、ということになっているようですね。
これはずばり、40さんが指摘した図式と重なっている気がします。というか
40さんの解説を読んでからこの項を読んだのでそう読めたのだろうな。

主旨としてはこういうことでしょうか:

ある形で秩序化される(分節される、回路づけされる)ことの窮屈さ、
それがどのような秩序であってもとにかく特定の秩序をとっている限り
逃れられない不自由さ、というものに対抗する働きというか反作用の
ようなものとして「死への本能」=「器官なき身体」=「何も流れない方が
よかったのかも知れないという思い」が発生してくる。

もう少し言い換えてみれば、秩序が生成されてくる時にはある欲望なり問題
なりへの解決として生成されてくるけれどもそれが生成されるや否や、もうひとつ
別の、形骸化とかその秩序固有の問題が発生する、というようなことでしょうか。

僕は諸機械はどこまでも複数的で、調和や統一のとれないポンコツ機械だと
思っているのですが、それだと「有機体」とはだいぶ違いますよね?
だから、「どうして有機体の形成が起こるんだろ?」と思いながら読んだの
ですが、そうすると目につくのは「欲望する諸機械は、たえず自分の調子を
狂わせながら、変調の状態においてしか作動しないものなのである。」
「この反生産に連結することが、やはり接続的綜合のひとつの性格なので
ある。」といった部分です。つまり、諸機械はポンコツであるがゆえに
どんな場合でも完成しえず、つねに解体への力を孕んでしまう、そういう
性質を持っているのだ、というようなことなのかな、と思いました。

というわけで40さんどうもありがとう。はっきり言っておおいに手がかりに
なった感じです。僕には。
43考える名無しさん:2000/10/26(木) 11:13
トモス 好きにかけよ
あとで読みやすいように編集するし
4440:2000/10/26(木) 13:20
前の書き込みの訂正
organisim→organisme
つづり間違ってた・・・。
45大江:2000/10/26(木) 22:52
大江がノーベル賞受けたときに、「これからはドゥルーズを読もうかと.....。」
といってたが。
46考える名無しさん:2000/10/26(木) 23:36
ますますドキュソ陳腐になるからやめてほしい・・・・・・
大江がっていうより、その影響を受ける若人たちが。
47食いだおれさん:2000/10/27(金) 03:25
ドゥルーズがどんだけくだらないか、わかってよかったです。
48無定形未分化代理:2000/10/27(金) 03:32
*再びトモスです。今回も1項分のノートを提出します。無定形身分化さんが
このまま復帰されない場合どうしたいかについては今はまだ考え中ですが、この
形式はそれなりに気に入っているので。*

第一章 欲望する諸機械
第二節 器官なき身体
反生産。反撥とパラノイア機械

抑圧が何であるかの説明があります。
抑圧は欲望する諸機械に対する器官なき身体の反撥である、というのがそれです。
これは42に書いた解釈に沿って理解できる感じです。
対立がどういうものであるかについての比喩的な描写がいくつかあるので、
ちょっと抜き出しておきます。
欲望する諸機械の活動は次のように描写されます:
「さまざまの機械がそれぞれに接続し、その機械がおのおのに生産を行って、
その全てが運転音をたてることになる」「器官なき身体は、種々の器官となる
べきもののその下に胸の悪くなるような蛆虫や寄生虫がうごめくのを感じて、
《神》の働きが到来するのを感ずることになる。」「器官なき身体に器官を
与え有機化することによって、まさにこの器官なき身体を台無しにし、これを
圧殺する」「肉体に打ち込まれる釘」「いくたの流れは結びつけられ接続されて
切断し直される」
対する器官なき身体の反撥は:
「すべすべした不透明な引き締まった自分の表面をこれらの器官機械に対抗させる」
「無定形身分化なる流体をこれらの流れに対抗させる」

(つづく)
49無定形身分化代理:2000/10/27(金) 03:40

分節対未分節の対立、というこの構図は、パラノイア機械が「はっきりと発音された
ことばに抵抗するために、」「いくつかの息吹や叫びをこれらのことばに対抗させる」
にあてはまるとD=Gは主張します。これは抑圧と呼ばれる現象一般にあてはまる
もののようです。
つまり、パラノイア機械の振る舞いはオイディプス的に(特定の意味が
隠された行動として)解釈されるべきものではなく、単に無定形身分化
な流れへの運動、ということとして見るべきだと。
器官なき身体が欲望する諸機械を《逆備給》するのではなく、諸機械に反撥
するのだ、という言い換えもされています。この備給という概念は後々でも
随分出てくるようです。
「内部の寄生虫や蛆虫を迫害する内的器官」=逆内部の備給
「外部からの《神》の働きを迫害する外的執行者」=逆外部の備給
僕にはよくわからないところがあるので解釈は保留します。

(終)
5040:2000/10/27(金) 20:13
「器官なき身体」の話がつづくから、今回は
「cso」がなぜ「死の本能」なのか?ってことに
ついてでも書こうかな。
また長くなりそうだから、分載しようっと。

一般に、こういうことができるんじゃないかな。
「生」とは「統合」であり、「死」とは「解体」である。
「生」はばらばらの諸部分を一つの全体性のもとに統合し
束ねる作用、求心力で、「死」はこうした全体性を解体し、
断片化する反作用、遠心力である、とね。

だから、生きるためにはとりあえず、オルガニザシオンによる統合を
受け入れなくてはならない。
でも、D=Gはこうした働きに抵抗する
「もうひとつの生」のあり方に注目するわけだね。
つまり、解体/死へと向かう非有機的で、無機的な生にね。
もっというと、「抵抗としての生」に。
(つづく)

5140:2000/10/27(金) 20:17
ところで、フロイトが「死の本能」を無機物への回帰
として考えたことはみんな知ってるよね。
でも、D=Gに言わせると、フロイト(あるいは、精神分析)は
そこに抵抗としての「生」を見ることはなかった。
確かに、有機体としてオルガニゼされた生を解体する
ことは死に繋がる。でも、統合された束を一度ばらして、
その断片を自由に接合し直すような生もアリでしょ?ってわけ。
それは有機体に比べたらなんとも不恰好で
その作動も円滑ではないかもしれない。
でも、有機体としての生命よりももっと生き生きしてるかも
しれないよ、ってことだろうね。
だから、非有機的生としての「欲望機械」は、
きちっと接合された有機体のジョイントを
脱臼させることで作動するというわけだ。
「欲望機械」という言葉それ自体が、
有機性(欲望、これは生と言い換えてもいいだろう)と無機性(機械)
との「不協和的協和」を象徴的に表現しているように思えるね。
(つづく)
52死の本能って:2000/10/28(土) 00:52
今は「死の欲動」が定訳
フラ語だと
本能→instinct
欲動→pulsion
でもDは若い頃「本能と制度」ってアンソロジーを出してて
(日本語訳『初期D』)
その問題とうまいことフロイトをつないだ。
53考える名無しさん:2000/10/28(土) 05:05
第一章 欲望する諸機械
第二節 器官なき身体
反生産。反撥とパラノイア機械
54充実身体(代理):2000/10/28(土) 05:27
*トモスです。53は間違えて書き込んでしまいました。無視してください。*

まずは今日の一項目分のノートを提出します。

第一章 欲望する諸機械
第二節 器官なき身体
欲望する生産と社会的生産。反生産はいかにして生産諸力を自分のものとするのか

欲望する生産と社会的生産との間の平行関係を見る。(これは個人レベルの現象
と社会レベルの現象の類似を見る、ということかな。)
この2つの生産は単に似ているだけではなく、そもそも別々のものではないかも
知れない、と暗に示してもいる。

社会レベルでも、進行の只中における生産の停止、反生産の境域との連結、
社会体として規定される充実身体、といったことを考えることができる。
充実身体(器官なき身体)は大地(土地)、専制君主、資本などの形を
とりうる。
それは「たんに生産力そのものに対立することに甘んじているものではない。
それは、一切の生産の上に折り重なり〔そこに自分の像を写して〕、生産力
と生産の担い手とが分配配置される表面を構成するものなのである。」
「生産の進行の全体ならびに各部分を意のままに操作することになる。...
この全体と各部分とは、いまやこの充実身体から発出してくるかのような
様相を呈することになる。」
(欲望する諸機械と器官なき身体について第一節で書いてあることと同じ。)

(つづく)
55充実身体(代理):2000/10/28(土) 05:39
もう少し踏み込んで解釈してみると:
貨幣によって生産設備が購入され、人が雇われ、資源が調達され、加工され、
商品が売られ、貨幣が入ってくる、というような生産のプロセスを考えると
そこで流れているいろいろな流れ(設備、労働力、資源、商品、貨幣)など
は主に貨幣に媒介されて互いに連結されている。それらの基盤として資本と
いうレベルがあって、それが様々な形に変身することで流れが生じている、
という風にも見えてくる。生産設備に化け、労働力に化け、原料に化け、
商品に化け、貨幣に化ける。
ある諸機械が別の諸機械に接続して流れを切断したから、
(ある生産設備がある原材料の調達経路に接続したから)ある商品が
生産される、ということではなくて、むしろ全ては資本が流れるため
の回路として発生して来たかのように見える。
労働力が生産を行っているのではなくて、資本が行っているように
見えてくるのも、これと同時に生じる現象。
(つづく)
56充実身体(代理):2000/10/28(土) 05:50
ひとつの疑問なのは、「生産の進行の全体ならびに各部分を意のままに操作する
ことになる。」という部分です。これはつまり、器官なき身体(資本)が自律的
な運動をする、ということなのでしょうか。それともそう見えるというだけ?
他のところではそう見えるだけだという言い方をしているようだけれども。。

(終わり)
57トモス:2000/10/28(土) 06:17
40さんのメッセージ(50、51)を読んで思ったけど、
器官なき身体の話は、スピノザやベルグソンについてドゥルーズが
書いていることとはどのくらい直結するんでしょうか。

誰か知ってる人いますか?

批評空間で少し前に話題になっていた「ヴァーチャル」(潜在的)というのは
器官なき身体のことだというのは何となく感じるのだけど。(でこれは
ベルグソンが記憶に関して出した概念の継承だったと記憶しています。)
『千のプラトー』の3章のチャレンジャー教授のお話とかも、器官なき
身体=潜在的なもの という感じで話しているみたいだし。

資本主義での欲望する諸機械の生産と、器官なき身体の反撥とを考えると、
具体的な生産活動(諸々の接続)に対して、どうしてそのような接続が
なされなければならないのか、他の接続の仕方もあるのに、という反撥が
常に存在していて、それは言わば資本という抽象的な存在が具体的な
諸機械の生産に対してつきつける”解体”のプレッシャーだということ
かな。で、確かに資本主義は自己解体と自己再組織化を繰り返すものだから
それを器官なき身体と欲望する諸機械の概念で捉えるというのはわかる
気もする。

32では僕は器官なき身体がかなりわかりづらいと書いたけど、気がつけば
そうでもないという程度にはなりました。40さんには特に感謝します。
もっと批判的に消化できるようになりたいところですが。
5840:2000/10/28(土) 22:36
51の最後に(つづく)って書いちゃったから、
もう少し書きこもうかな。
その前に
>52
D=Gは「cso」に「instinct de mort」という名前を与えて
いるということを指摘しておこう(原書、p.14.)
さらに、彼らは「cso」を強度の極限としての強度=0、
つまり「死のモデル」と規定しつつ、それを「死の経験」と
区別している。
「死の本能」、「死の欲動」についての精神分析的解釈
への批判については『アンチ・オイディプス』邦訳p.394.参照
(原書、p.396.以下参照)

では本題。

「死」はある種の生にとっての生産的
母体として機能する。
で、D=Gはこうした「死」に「corps sans organe」という
名前を与えたわけだ。
死に限りなく近づく線としての非有機的生と
その極限としての「cso」(死)。
だから「cso」に漸近していく非有機的生には多くの危険が伴うって
ことも彼らは十分自覚している。
余りにも性急に解体を推し進めると、取り返しのつかない
かたちで生をダメにしてしまうだろうし、あるいはその反動で
抑圧的で性質の悪い生のオルガニザシオンを引き起こすかもしれない。
事は慎重に進めなくてはならないってことだね。
「ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、
繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない」
(『ミル・プラトー』、邦訳p184)。
革命万歳なんていう能天気なことを彼らは言ってるんじゃない
ってことがよく分かるね。
(つづく)


5940:2000/10/28(土) 22:47
一方では、既に有機化された「身―体」とか、組織化された「社会―体」
があって、こうしたものが我々の生を規定している。
しかし他方で、オルガニザシオンに抵抗する未だオルガニゼされていない
「体」、「organe」のない「corps」があって、
我々は、そうした「もうひとつの生」を生きてもいる。
これら競合する諸力(統合化へ向かう求心力/断片化に向かう遠心力)
のせめぎ合いから成るフィールドが我々の生きる世界に他ならない。
パラノイアの極とスキゾの極との間を揺れ動く「体」として世界を捉え直すことが
『アンチ・オイディプス』の狙いである。
とまぁ、論文調にきれいにまとまったところで
とりあえずおしまいにしとこう(笑)

6040:2000/10/29(日) 00:49
もうちょっと書きこむよ。

>器官なき身体の話は、スピノザやベルグソンについてドゥルーズが
>書いていることとはどのくらい直結するんでしょうか。

「cso」は「卵」、「胚珠」として語られたりするけど、
これらはドゥルーズが『差異と反復』その他で
個体の強度的発生について語るときに使う比喩でもある。
ドゥルーズは、個体発生の超越論的根拠を「前個体的特異性」として
語るわけだけど、この「前個体的特異性」に与えられる諸々の名前
(潜在性、出来事、超越論的領野、内在平面)の一つとして「cso」
を考えることができるんじゃないかな?

以上はあくまで40個人の解釈に過ぎないけど、
「cso」を、ドゥルーズの存在論の根本テーゼ・
「多なるもの」の内在的根拠としての「存在の一義性」、
(バディウの言い方を借りると「l'Un」)の系譜に連なる
概念だと考えることは決して間違いじゃないと思うよ。

その系譜をまとめておくと・・・
「存在の一義性」/「実体」/「潜在性」/「前個体的特異性」/
「超越論的領野」/「出来事」/「内在平面」/「器官なき身体」
といったところかな。
もちろん、全部同じ意味というわけではないよ。
そのニュアンスにおいてすいぶん違いがあるからね。
極めて粗っぽい図式だってことは自覚してるから、
揚げ足取るような突っ込みはやめてね(笑)
61綿入れジャケット(代理):2000/10/29(日) 02:55
*いちおうまだ代理のつもりのトモスです。次回からは代理はやめます。一項毎
の読解はつらいけどやれるところまでやってみますのでみなさんよろしく。*

第一章 欲望する諸機械
第二節 器官なき身体
領有あるいは吸引と、奇蹟を行う機械

反撥=パラノイア機械の働き=無定形未分化なものの噴出
vs
吸引=領有=奇跡を行う機械の働き=器官なき身体が自らを一切の生産の上に
投射すること=登録の表面を構成すること

というのがこの短い項の主旨ですね。器官なき身体の第2の働きである後者の
説明というか描写にこの項は費やされています。

準原因という言葉はもう度々出てきたけれども、これは器官なき身体が諸機械
の生産の真の原因ではないけれどもあたかもそうであるかのように見える、
というニュアンスを伝えようとするものだと思います。

神、奇蹟という言葉がどうして使われているのかはまだわからないので保留。
全ての諸機械が器官なき身体のおかげで生産の働きを発動させることができて
いる、と見えるということが全ての者の成立条件としての神、というような
考えと重ね合わされているのかな。
62トモス:2000/10/29(日) 03:40
40さんの挙げていた『アンチ・オイディプス』p。394(僕は原書は持ってない
ので日本語版です。)からの精神分析の死の欲動解釈とそれへの批判のくだり、
その前後を読んでみました。
欲望する死=器官なき身体という指摘があり、
「死の本能は存在しない」という主張がされている(p.395)辺りで
やや混乱しました。
p.20の「器官なき身体の生産」(第一章第一節)には、
死の本能=器官なき身体という指摘があるので。

僕が読んできた第一章から言えるのは、死の本能というのは、強度=0(これは
何も流れない、何も起こらないということだと思う。)へ向けた動き、あるいは
現存する組織や秩序や形式に対する反撥の動きだということだと思う。どんな
形式にも無理がある、諸機械は常にポンコツである、ということを考えれば常に
解体の作用が働くというのは僕にはわかりやすい。

40さんが指摘したスキゾ(分裂者)とパラノイア(偏執者)の対立関係という
のは浅田彰さんが言っていたこととかなりきれいに重なると思うのだけれども、
で、それは器官なき身体と諸機械の対立を整理する図式としてわかりやすい
のだけれども、

何故か第一章第二節の「反生産。反撥とパラノイア機械」のところで
パラノイア機械は組織化に対する反撥である、という風に言われています。
これは辻褄が合わないように思えるので今のところはむずむずしています。
先を読みながらいずれ解決できることを願うばかり。。
63トモス:2000/10/30(月) 15:14
*忙しいので今回は手短に。。

第一章 欲望する諸機械
第二節 器官なき身体
第二の綜合。離接的綜合あるいは登録の生産。<これであれ......あれであれ>

「生産的接続が(ちょうど、労働から資本に移行するように)機械から
器官なき身体に移行するとき、この生産的接続は別の法則の下に入るの
だといってもいい。この別の法則とは(中略)分配を表現する法則のこと
である。」p.25
どのような二つの器官が考察されるのであっても、その二つの器官が
器官なき身体の表面につながる仕方は「これであれあれであれ」という
形だとされる。
神=実在の総体、全ての実在=神の分割・派生物という考え方が示される。
これは器官なき身体が神だとされる理由。が、それは実際には完全に適切
ではない比喩だという指摘もされる。
ヌーメン(=神霊)=離接登記のエネルギーがという言い方もここでは
されている。そのエネルギーは器官なき身体を遍歴する。

解釈:「あれであれこれであれ」というのは、つまり、常に他の可能性へと
開かれていること、「今はこういう形で器官諸機械が登録されているけれども、
他の形でもよかったはずだ」ということだと思う。これは言い方を変えれば現存
の秩序に対する解体の方向の圧力だ。

64トモス:2000/10/30(月) 15:15
コメント:諸機械と器官なき身体を対立させている、というのは少し興味
深い構図ではある。というのは、通常は諸機械=多数性や多様性 と対立する
のは例えばアトミズムだとか要素還元主義だとか一元論だとか統一性のある
システム観だとかホリズムだとかであり、器官なき身体=未分化無定形性
ではない。また、器官なき身体と対立するのは、多くの場合、完成した
分節体系だとか完全な社会秩序だとか決定論的理論モデルだとかであって、
諸機械のような不完全性や非統一性を備えたものではない。
多様性 と 未分化性 とを対立させている、というのは考えて
みれば珍しい。なかなかいいアイディアのような気もする。
どうして珍しいかと言うと、普通多様性を強調する人(解釈モデルとして
であれ、価値観としてであれ)と未分化性を強調する人とは重なっていて、
そういう人たちが持ち出すのは”フロイトによるオイディプスの解釈
帝国主義”といった類の敵、対立項であって、多様性対未分化性という
いわば内輪の対立にまで考えを巡らせないからだ。
でもこれは単に僕が日ごろ接する理論のレベルが低い、というようなことに
起因しているのかも知れない。

疑問1:器官なき身体の表面はつるつるである、滑らかである、といった描写が
しきりに出てくるがこれは何だろうか?
疑問2:器官なき身体というと常にその表面が問題にされる。それはどうして
だろうか? 何故表面だけが分割されたり線が引かれたりするのか。

(今回はこれでおわります)
65考える名無しさん:2000/10/30(月) 17:41
>>64におけるトモスさんの疑問については
ドゥルーズ「意味の論理学」にヒントがあると思います
と、忘れないうちに、書いておきます。

66トモス:2000/11/01(水) 04:20
第一章 欲望する諸機械
第二節 器官なき身体
分裂症の系譜

分裂症をオイディプスコンプレックスの産物として理解することが間違っている
ことが論じられている。

「器官なき充実身体は《反生産》として生みだされるが、これがこうしたもの
として介入してくるのは、三角形化のあらゆる試みを拒否するためでしかない
のだ。この三角形化の試みは器官なき充実身体が両親によって生みだされる
ことを前提としているからである。」
「分裂者は自分自身の独自の位置を決定する種々の様式を意のままに用いる。
何故なら、かれは、何よりも、自分自身に特有な登録コードを自由に操作する
ものであるからである。」
「分裂症患者はひとつのコードから他のコードへと移行し、次々と提起される
質問に応じてすばやく滑ってゆきながら、一切のコードをかきまぜてしまうのだ。
かれは、何かといえばすぐさま同じ説明を与えることもしないし、同じ系譜を
引き合いにだすこともしない。また、同じ出来事を同じ仕方で登録するという
こともしない。」
「分裂者はたえず不安定な状態にありながら、常にバランスをとって立ち直る。
その理由は簡単である。分裂者にとっては。いたるところ、いかなる離接の中に
おかれても、結局は事態は同じことになるからである。ということは、器官機械
が器官なき身体に引っかかり付着しても無駄であるということである。器官なき
身体は、依然として器官なしにとどまり、ことばの通常の意味で有機体になる
ことはないのである。この器官なき身体は、その流動的なすべすべした性格を
護持するのである。」

細かいところはやっぱりわからない部分があるけれども、分裂者は柔軟な存在
であり、オイディプスの三角形によっては捉え切れないという主旨はわかる。
その背景には、物事の同一性を重視しない意味付けの行為、非一貫性、のよう
なものがあるということのようだ。

疑問:コードというのは具体的にどういう場面で適用される概念なのだろうか?
オイディプス・コンプレックスによって分裂者を精神分析することは、
ひとつのコーディングなのだろうか。

*第二節もこれでおわりです。第三節はまたまたわけのわからないところ
だらけなので僕としては解釈してくれる人の出現を期待しています。
67トモス:2000/11/01(水) 04:24
>>65さん。情報どうもありがとうございます。
でも僕はちょっと意味の論理学が手に入らないんだけど、誰か
解説してくれる人いません?

68スレッド修復テスト:2000/11/01(水) 04:27
スレッド修復テストです
69考える名無しさん:2000/11/01(水) 06:47
http://www69.tcup.com/6930/yonpei3.html
ドゥルーズ学習交流掲示板
■公開講座
ドゥルーズ『アンチ・オイディプス』を読む
講師 早稲田大学 日本翻訳家協会理事 財津理
<講座のねらい>
ドゥルーズとガタリを世界的な規模で著名にした作品『アンチ・オイディプス』の第一章を精読します。テキ
ストは邦訳を用いますが、一行ごとに原文にもとづく講師の解釈を示していきます。ドゥルーズとガタリ
は、本書で、数々の新奇な概念によって精神分析とマルクス主義を批判的に検討しています。それら新
奇な概念を慎重に吟味しながら、わたしたちは粘り強く彼らの考え方を追求していくことになります。哲学
ばかりでなく現代の社会的諸問題に関しても、未来に向けて新たな展開を開きたいと考えています。な
お、講座スケジュールは、予定としてのみ記してあります。(講師・記)
<講座スケジュール>
 回     2000年         テーマ
 1     11月7日      エス・自然・プロセス
 2       21日       部分対象と流れ
 3     12月5日      欲望する機械
 4       19日      器官なき身体の生産

<テキスト>ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディブス─資本主義と分裂症』
(河出書房新社)5400円……授業時にご案内します。すでにお持ちの方は持参ください。
〈講師紹介〉財津 理型(ざいつ・おさむ)
1947年生まれ。早稲田大学文学部卒業。共書に『新・岩波講座哲学9身体 感覚 精神』(岩波書店)、訳
書にドゥルーズ『差異と反復』、メルキオール『フーコー─全体像と批判』、ドゥルーズ/ガタリ『哲学とは
何か』(河出書房新社)などがある。

日時 第1・3火曜日 18:45〜20:30
受講料 会員 10000円 一般 11、200円(入会金不要)    受講料、教材費には消費税5%が
加算されます。
場所 新宿住友ビル48階 朝日カルチャーセンター(申し込みは4階受付)
朝日新聞の文化活動 朝日カルチャーセンター
〒163−0204 新宿住友ビル内 私書箱22号
東京都新宿区西新宿2−6−1 пD03−3344−1945(直)
70考える名無しさん:2000/11/01(水) 06:49
ピエール/ドゥルーズ学習マニア
http://webclub.kcom.ne.jp/mb/kuriggen/gile.htm

@なかよし倶楽部
http://www64.tcup.com/6407/nakayosi.html

Aドゥルーズ学習交流会の掲示板
http://www69.tcup.com/6930/yonpei3.html

B廣松渉から宮崎学まで日本思想史現在進行形
全共闘からアソシエ21結成までの歴史学批判
http://www69.tcup.com/6930/yonpei4.html
7135:2000/11/01(水) 22:44
ご無沙汰してたけど、トモスさんありがたいですね。
無反応だけど、ちゃんと見てるよ。
スレ下がっちゃってるけどね。
すごく助かってる。
通勤中、休憩の間くらいしか読まないから、
あんまり進んでないけど、今2章5節まで読んでる。
これからも続けてね。
72トモス:2000/11/02(木) 02:12
35さん (声をかけて下さってどうも!)
通勤中にあんなに重い本を・・・?
僕も思ったよりも収穫があるのでこれからもぼちぼち続けたい感じです。もし
お役に立っていれば幸いです。
これからもどうぞよろしく。


73トモス:2000/11/03(金) 06:41
*さて。主体をめぐる部分はとってもわかりにくいです。。でもそろそろノート
を提出します。

第一章 欲望する諸機械
第三節 主体と享受
独身機械、第三の綜合。連接的綜合あるいは消費の生産。「だから、
これは......である。」

消費=独身機械=主体

主体は消費のたびにその都度生まれる。一定の自己同一性を持たない。
欲望する諸機械の傍に残余として生みだされる。

欲望する諸機械と器官なき身体との間に新しい縁組を実現する。
=輝かしい有機体を誕生させる
=諸機械と器官なき身体の2つの関係 −反撥と吸引− の対立の和解の実現
=抑圧されたものの回帰として作動する新しい機械の次元
=消費の生産

登録が生産の生産の中で生み出されてくるように登録の生産の中で
消費が生み出されてくる
登録のエネルギー=ヌーメンが生産のエネルギーとしてのリビドーの一部が変容
して生み出されてきたように消費のエネルギー=ヴォルプタスはヌーメンの
一部が変容して生み出されてくる

74トモス:2000/11/03(金) 07:01
コメント1:
生産の生産は欲望する諸機械の接続のこと。生産する働きと生産されるモノとの
成立のこと。登録の生産は? 諸機械の上に自らの身体を映して器官なき
身体が準原因として成立する、ということが登録だと思うので、その奇蹟の
ような働きが登録の生産だと考えてみる。登録の上に自らの身体を映して
消費が成立するのだとしたらそれは「このような分配・流通・生産ネットワーク
の形になっているのは私がそう欲したからなのだ」という説明をつけるかの
ように準原因として主体が成立してくる、ということだろうか? これだと
それが反撥と吸引の対立をうまく統合する、という形になっているとは言える。
でも少し違う気もする。
むしろ、このような生産の働きが生じているから、私はこんな気持ちなのだ、
ということだろうか。
それとも両方だろうか。あたかも主体の心の動きがそのまま生産の働きになって
いるのだろうか? 例えば少年がポケットの石と手と口との連結された機械に
なっている時、消費が成立するというのは、
「この機械は僕がデザインしたのだ」でも
「この機械は僕にこの気持ちを抱かせる」でもなく
「この機械=僕はこんな形で生きているのだ」なのだろうか。
75トモス:2000/11/03(金) 07:03
コメント2:D=Gは主体という言葉を使っているけれども、そして
それは自由意志を連想させるけれども、実際には主体は準原因であって
物事の原因となる自律的要素ではないのだとすれば、代わりに内面とか
精神とか心いう言葉を使ったらわかりやすい気もする。(内面は
フランス語には無い言葉かも知れない。英語にはない気がするな。)

76トモス:2000/11/03(金) 07:12
コメント:

これはどちらかと言うと器官なき身体についてだけれども、
器官なき身体はもともと存在している、実在しているという
ようなモノではなく、生産の生産という働きの中で成立して
くる出来事のような意味合いが強い。 それは反撥とか吸引
という関係を器官機械=欲望する諸機械との間にとり結ぶ
のだけれども、これにしても、器官なき身体が成立してその
後にこうした関係が発生するのではなくて、こうした関係が
あることで器官なき身体が成立することになっている、という
面があるような気がする。つまり、欲望する諸機械が常に
他の連結や流れのあり方への可能性に開かれていて、そうした
他のあり方をどうしてしていないのかというプレッシャーが
あること(=反撥)、そもそも全ての生産は器官なき身体の
未分化無定形を種々の流れに変換しているだけのように
思えてくること(=吸引)は器官なき身体の成立後の現象
ではなくてそれを成立させるきっかけに近い。

存在ではなく働き(関係、あるいは動的な関係)がモノではなく
出来事を成立させる、というこの捉えかたはいわゆる実在論とは
随分違う(静的な関係論とも違う)理論の組み立てかたになって
いるようだな、と思った。
77トモス:2000/11/04(土) 05:34
第一章 欲望する諸機械
第三節 主体と享受
〔文学作品にみられる独身機械〕

*とても短い項ですが忙しいのでちょうどいいです。*

「独身機械は拷問や死をもたらすときですら、..(中略)..太陽の力を
表している。」
独身機械は「最も高度の諸登記」を内蔵しているので「奇蹟を行う性格」
を獲得している。
「ここに起こっていることは現実の機械によって行われている現実の
消費なのである。つまり、自己色情とも、あるいはむしろ自動装置とも
名付けられうるような快楽が生起してくるのである。ここでは、まるで
機械の色情性が、他の種々の力を無制限に解放したかのように、新しい
縁組による婚礼がいくつも結ばれて、新たなる誕生、目もくらむような
恍惚陶酔が起こってくるのである。」

*ここだけ見た人は「デンパだ」とか言いそうですね。。

僕は例に挙げられている独身機械を余り知らないのだけど、デュシャンの
裸の花嫁というのは『独身者達によって裸にされた花嫁、さえも』という
やつだと思います。(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors@` Even)
*これもデンパっぽいですが。

画像がネットに公開されていますね。
http://www.georgetown.edu/departments/amer_studies/limit/h31.html
http://www.innerx.net/personal/tsmith/LGL.gif
78トモス:2000/11/04(土) 06:49
疑問:独身機械=主体=消費 というのが物事を感じるはたらきだ
(を持つ)というのは次の項の記述からもよくわかる。
それは「輝かしい」(前項)「太陽の力」(今回の分)などと
言われている。これはどういうことだろうか? 苦しみであろう
が悲しみであろうが、それは感じることであり、強度ゼロではない、
という意味において肯定すべきことだということか?
79考える名無しさん:2000/11/04(土) 18:37
この辺のハナシは『アンチ〜』だけ読んでてもよく分からないから、
クロソウスキーでも読んで各自補足しませう。
『ニーチェと悪循環』
『バフォメット』
ドゥルーズ『意味の論理学』所収のクロソウスキー論
ユリイカのクロソウスキー特集所収のドゥルーズ/ガタリ『選言的総合』
80トモス:2000/11/05(日) 01:42
なるほど。。。
81よこはいり失礼:2000/11/06(月) 21:39
http://www.asahi-net.or.jp/~WD5E-TOYM/es/dg.html
ここ、いいとおもう。
とくに、音楽2としてまとめられてるところ。
>ドゥルーズ=ガタリは、音楽について面白いことを言ってるの。
> リフレインが脱領土化していくのが音楽、なんだって。
>脱領土化されると再領土化されるわけです。
>んでもって、再領土化されてくれないとぼくたちは音楽として 認識できない。

D&Gによると、音楽はいつもーない または つねにーありすぎる。
音楽の中で、音楽のうちで、音楽となる(生成する)。
メカニズムは?リフレインの脱領土化と再領土化をめぐる運動の効果として
音楽は音楽に なる。
浅田がヘルメス本の中で言う「逃走」となってはじめて、それは
音楽となる。この意味では、音楽は、解釈と意味の総体からの逃走の瞬間であり、
一瞬の(一瞬の中に凝縮された)永遠としてしかありえない。

★どうかな、恥ずかしいことを書いたぞ。あとで、AOの浅田&市田がかいた簡略なレジュメを
ここに書くよ。


82考える名無しさん:2000/11/06(月) 23:33
AOなど、医療の実践と 医療にも関わる精神分析理論とにおいて
使用されうる言説が引用され使用されているテキストを読むときには
ここをよんでねhttp://www.bekkoame.ne.jp/~penta2/emagoM9712.html
83トモス:2000/11/07(火) 11:22
いいですね。上のリンクは2つとも。2つ目の方は別にD=Gの解釈を
しているわけではないけど。1つ目の方はいろいろ参考になりました。

ところでレジュメの方も楽しみにしてます。>よこはいり失礼

*役に立つよこはいりどうもありがとうございました。:)
84トモス:2000/11/07(火) 12:48
82の考える名無しさんのリンク、1レベル上に上がってみると
同じサイト内にあれこれ興味深い論文が並んでいるのがわかります。
例えばこれ。
http://www.bekkoame.ne.jp/~penta2/YoshizawaEs.html
ドゥルーズ=ガタリのエスと臨床問題
吉沢順 吉沢メンタルクリニック imago@`1995年10月号所収

D=Gの欲望する諸機械の解釈をフロイトの精神分析理論、それから
臨床の経験との関係で提示していて、かなり平明です。解釈の根拠に
なるようなテクストの解説などはありませんが。
85スキゾ・キッズ:2000/11/07(火) 18:13
ドゥルージアンの浅田さんがサルトルを語る?!
http://edqoey.virtualave.net/
http://edqoey.virtualave.net/sartre/index.htm
シンポジウム「サルトルの世紀」
加藤周一さん三宅芳夫さん浅田彰さん
時:12月2日(土)
13:30開場 14:00開演
於:京都大学時計台内 法経第一教室
入場料:当日800円 前売700円(京大生協ルネにて販売)
連絡先:075ー753ー3420(呼出)
入場カンパ
当日:800円
前売:700円(京大生協ルネで販売中)


86考える名無しさん:2000/11/10(金) 14:04
* 間が開いてしまってごめんなさい。でも別に投げ出した訳ではないので
しつこく1項分の要約をやります。

第一章 欲望する諸機械
第三節 主体と享受
質料〔物質〕。卵胞。強度〔内包〕。<私は感ずる。>

独身機械を通じて生産されるもの=強度〔内包〕=一次的な感動。二次的な
幻覚や錯覚などではない。=強度や生成(なること)や移行

耐え難い事態に至るまで純粋状態において強度量を経験する分裂症的経験=
感情の激しい移動=純粋でむきだしの強度〔内包〕状態=最高度に体験される
独身の栄光と悲惨

強度は吸引と反撥の比率の変化に応じて上下する。
強度は全て正の値を持ち、器官なき充実身体は強度=ゼロである。

87トモス:2000/11/10(金) 14:23
* 86はトモスです。久々なものでうっかりしてました。

続き。
物事が生きられ体験される感動は、その対象に似ていないし、その対象を
表象することもない。
器官なき身体はひとつの卵胞であり、軸線と閾線が、緯度、経度、測地線が
縦横に走っている。生成や移行を印づけるグラジエントが縦横に走っている。

分裂者はこの経験を通じて質料にもっとも近づく。

(つづく)
88トモス:2000/11/10(金) 14:38

コメント:感動が発生しているのなら死と比べれば確かに正の値を持つ、と
考えると一部わかる。そして、それが対象を認識する、といったようなこと
ではなくて自分が対象になることだ、というのもまあわかる。それは姿が
変わるとか正しく理解してその対象に成りきる、ということだと考えようと
すると筋が通らないけれども、自分に何かが起こって(感動がやって来て)
そのために自分が変容してしまい、結果「おれはカントだ」と思ったのなら
その時は実際にカントになっているのだ、という風には言える。それは
何かを認識したとか、暗に表現したとか、単に似たとかではなくて、
何かを生きた、ということだ。

強度の量が反撥と吸引の力の比率に対応している、ということはよくわからない。
これは比率が大きいと強度も大きいとかいうことなのだろうか?

74の辺りで書いた反撥と吸引の対立についての部分がよくわからないのと
関係がありそうだ。
「何故他の接続のありかたを欲望する諸機械はしていないのか、そもそも
何も流れなければよかった」=反撥
「全ては器官なき身体から発生しているのではないか」=吸引
の対立を、 あたかもそれが自分の生であるかのように解消してしまう、のか?
これは自分の中にあって解体していく力と 物事が全体として動かしがたい
関係を形成しているために持続していく力との対立、といったものだろうか?
それが両方ともに、「私はこういう感動を抱いている。だからこういう不安定さ
とこういうこだわりを持っているのだ」みたいな形で自分を準原因として
説明されてしまうから対立が解消される? だとしても強度が2つの力の比率
に対応するというのはよくわからない。 対立が激しければそれだけ強度が
激しそうなものだけれども(葛藤が大きければ感動が大きい、というような
ことを想像している)。だったら比率じゃなくて積が問題になるハズだから
何か違うのだろう。。。

89トモス:2000/11/10(金) 14:42
79で言及されていた
ユリイカのクロソウスキー特集所収のD=Gの論文
『選言総合』を読みました。独身機械についてはそれほど
書いてなくて、欲望する諸機械と器官なき身体についての
部分の方が多かったです。でも少し手がかりになりそうな
部分もあったので時間があったらまた考えてみるつもりです。
(問題は時間がなかなかないことなのだけど。。。)

(今回はこれでおわり)
90トモス:2000/11/11(土) 20:50
*今日で三節は最後になります。

第一章 欲望する諸機械
第三節 主体と享受
歴史上のさまざまの名前

分裂者を無気力人間として描き、実際にそのような人間にしてしまう、という
のは精神医学の仕業。
これは、精神分析が神経症患者をとりあげてオイディプスの欲望の解釈の枠の
中に閉じ込めてしまうことと関係がある。

これらが間違いだということは、「だからこれは...である」という消費の
働き方、連接的綜合の形態がオイディプス的な精神のはたらきとは大きく違って
いるということを考えればわかる。

消費の働きは、
パラノイア機械(反撥)と奇蹟を行う機械(吸引)の力の割合によって強度が
発生し、次々とその強度が生きられる、というもの。
器官なき身体の上に欲望する諸機械を中心に幾つかの円環が形成され、主体は
欲望する機械の残りものとして生み出され、次々と円環を移っていく。
主体は周縁にあって自己同一性を持たない。
ニーチェには、クロソウスキーが指摘した通り、文献学の教授としての自我が
あってそれが消えていろいろな奇妙な人物に一体化する、ということが起こる
のではない。ニーチェの主体がただいろいろな状態を経巡るだけ。
分裂者はそうして世界史を一挙に消費する。全てを荘厳に、一日の間に、
パントマイムで(世界史のパロディを)演じる。

(つづく)
91トモス:2000/11/11(土) 21:05
コメント1:
「円環」もこれまで何度か目にした気がします。これは諸機械が円環状に連結
されているということなのでしょうか? だとすると僕のイメージとはだいぶ
違ってるのだけど。

コメント2:
前回も問題にした強度=反撥と吸引の割合 というテーゼですが、
反撥=解体志向、「そもそも何も流れなければよかった」
吸引=準原因としての肯定、「自分がそれを欲望した」
という2つの力だと考えれば、反撥の割合が高ければそれは強度が弱く、
吸引が高ければ強度が強い、という風になっていると解せるような気が
しました。本の記述からそうととれるところがある、というわけでは
ないけれど。
あと、この「準原因」は何かの作用を起こす力なのではないから、
実際には「吸引」は力として反撥の力と対立することがそもそも
できないのではないか、という疑問は残ります。

(今日は以上です)
92考える名無しさん:2000/11/12(日) 00:13
いや、トモスさんマジスゲーわ。
93トモス:2000/11/12(日) 17:06
* トモスです。マジスゲーなんて恐縮です。。
第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
無意識と生産の範疇

第二節(p.21-22)に登場した無定形未分化な要素のひとつ、「息吹きや
叫び」がここでも出て来ます。精神医学者クレランボーの命題として、錯乱
〔妄想〕の全体性とか体系性はそれを構成する細かな細部の現象に比べたら
2次的なものだ、というものがあるとまず紹介されます。錯乱=登録、
細部=生産。これはD=Gによって支持されます。
と同時に、”反復音、無声音の有声化、突発音、無意味音といった語基を
形成しない音声現象”を発生させることだけがそうした細部を構成するもの
とされ、その他の、錯乱〔妄想〕の内容に関わる部分(とは明記されていない
けれども)などはむしろ性格だとか生活歴といったその人の固有な部分から
導き出されてくるものだ、という風に(=諸機械の局所的活動とは違う、
もっと体系立ったものだと)されていることにはD=Gはクレランボーに
反対です。
欲望する諸機械の生産はそのような活動に限られない、とします。

これは、フォイエルバッハにマルクスが与えた批判・評価と同じだとD=Gは
書いています。フォイエルバッハは唯物論的な姿勢が徹底していなくて、歴史
を持ち出して社会を説明するようなのですが、その代わりにすべきだったのは、
メカニズムの中に欲望を導入し、欲望の中に生産を導入すること、だと
されます。 フォイエルバッハについては余り想像できないのでクレランボー
に戻して考えてみると、局所的で自動的な働きの中にも欲望があること、
むしろ欲望はそうした分散的なあり方をしていること(ひとつの性格として
体系的に存在しているというよりも。)、そしてその分散された欲望は単に
言葉にならない音を発生させるだけではなくて欲望を具体的な妄想の内容
として生産に結び付けていくこと、をクレランボーは見るべきだった、という
ことでしょう。


94真澄:2000/11/13(月) 15:13
白熱した議論の連続に、眩暈を感じつつ、大変に素朴な疑問を持っ
てしまいましたので、無礼を覚悟でお聞きいたします。
ドゥルーズやフーコーはニーチェが投げ掛けた「系譜学」の概念か
ら、認識の絶対性の解体(それは「知」や「権力」の解体でもあり
ます)を行いましたが、結論は客観の不可能性という現在では多く
の人が納得していることであり、それに対してドゥルーズの著作は
明らかな解明を行なったようには思えません。ドゥルーズの様々な
教養と概念を駆使して小宇宙を織り上げるように「認識問題の謎」
を語っているように感じます。
古典的、党派的なマルクス主義が終焉したカルチェ・ラタン以後の
<反権力>の視線で語り続ける姿だけが浮かんでくるのです。
そのような意味で、ドゥルーズの言葉は本人固有のものであって他
の人が真似をしてもあまり意味が無いように思えるのです。
ドゥルーズの基本的な問いは共有して、さらに思考を進めることが
私には必要だと思われるのです。
最後に大変生意気なことばかりを言いまして、失礼致しました。

95トモス:2000/11/13(月) 16:58
真澄さんはじめまして。トモスです。
このスレッドの最多出場選手としてお返事をする責任を感じる
のでできる範囲で書かせてもらいます。ただ、残念ながら僕には
真澄さんの書かれている「カルチェ・ラタン以後の<反権力>の
視線」のことが理解できないので、もしよろしかったらもう少し
かみ砕いて説明して頂くことはできますか?

他の人が真似をしてもあまり意味がない、というのはきっとその
通りだろうと思います。ただ、僕にはD=Gが書いていることは
わからないことだらけで、彼らの考え方の可能性も限界も含めて
もっとわかるようになりたいというのが僕の願いです。非常に
月並みですが。
では。
96真澄:2000/11/13(月) 21:51
折り返しご返事させて頂きます。

カルチェ・ラタン以後の<反権力ラディカリズム>の視線とは、ナ
ンテールのソルボンヌ分校の女子寮に男子学生が入れて貰えなかっ
たといったことが発端となった、68年5月革命のことです。                                                        
    
「社会を変革して、人間らしさを取り戻したい!」という良心から
生まれたはずのマルクス主義が巨大な権力国家を生み出し失敗を重
ねる姿を見ながら、自らの足元にある「金儲け」に明け暮れる自由
主義(資本主義)の矛盾にも対処しなければならないドゥルーズや
フーコーの切迫した問題姿勢は充分に共感できるものだと思います
フーコーはニーチェの切り開いた展望に沿って「知」と「主体」と
「権力」の関連の構造を取り出しました。ドゥルーズは懐疑的な思
索力を駆使して現代社会が複雑で膨大となり、もはや実生活の場面
から関係することは難しいことを語り続けたと思います。
私はドゥルーズの思索は時代にとって固有のものであり、このよう
に極限まで考えたことには意味があると考えています。
しかし、他の人々がドゥルーズのように考えたいがために、難解な
著作群の前で悲しい気持ちになる必要はないと思っています。
97考える名無しさん:2000/11/13(月) 23:13
いや
誤解だな
難解なものほど、好奇心を沸かせるものだろ。
算数や数学なり、自分には難解に見えること
をやるなってことになるんじゃないのか?
98考える名無しさん:2000/11/14(火) 00:09
どうでもいいよ。
99トモス:2000/11/14(火) 11:28
真澄さんへ
丁寧なお返事どうもありがとうございます。フーコーやドゥルーズの
姿勢についてのご指摘は、僕もぼんやりと感じることもありますが、
共感できるというほどではなく、やはりドゥルーズがわからないという
感触の方が強いです。D=Gの言っていることがわかってみたらやっぱり
それは難解で複雑で実生活から乖離している、ということになるのかも
知れませんが、(あるいは真澄さんが指摘されたのとは別の限界を感じる
かも知れませんが)それにはもう少し読んであれこれ考えないとな、と
思います。ともあれ参考になるご意見をありがとうございます。
では。
100R800:2000/11/15(水) 12:21
真澄さんの「素朴な疑問」にはD=Gが既に答えてる気がします。
この本のp133に

>テキストを読むということは決していくつかのシニフィエを求めて
>博識を競う訓練でもなければ、またひとつのシニフィアンを求めて
>ひたすらテキストに従う訓練でもない。

>…分裂症気質を養う訓練なのである。

ただ、素朴な疑問=「養ってどうする?」
なら話はまた別ですけど。
よく考えたらすごい結論だなあ。

これ以上議論が続くようなら新スレ作ったほうがいいかも。
101トモス:2000/11/16(木) 02:08
*遅々としていますがまだ続けます。

第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
劇場か、工場か

分裂症の議論を特徴づける理論が三つあり、それらはいずれも
身体のイマージュと分裂症の問題を関連付ける。

観念乖離(クレペリン)、自閉症(ブロイラー)、世界内存在
(ビンズワンガー)の三つがそれ。

観念乖離は分裂症者に欠けているものの指摘。自閉症は分裂症の結果
生じる行動の特異性の指摘、世界内存在は分裂症者の世界の独自性を
分裂症者の立場から記述する仕方についての論。いずれも、分裂症者
の自我を論じる形になっており、分裂症者には何も欠けておらず、その
特異性は問題にすべきものではなく、独自の世界を記述するための
分裂症者の視点も虚構でしかない、というD=Gの立場と相容れない。

(つづく)
102トモス:2000/11/16(木) 02:19
D=Gにとっては分裂症者は欲望する生産、諸機械であって、
自我はせいぜい付帯的に発生、変化する現象に過ぎない。

自我の欠損の結果として分裂症を把握したり、自我の特殊なあり方として
分裂症を了解したり、分裂症の自我のあり方の特異さをその特異さに沿って
記述しようとしたりする精神分析理論の試みは、だから、自我を過剰に
強調する分裂症者への誤った接し方になっている。
そうしてこれはやや無理な試みであり、分裂症者にとっては抜け出し難い
罠の中にはめられてしまうことでもあり、既に過去のものになっていた
はずの自我の世界に連れ戻されるということでもある。

工場としての(生産する)無意識に代わり、劇場としての(表現する)
無意識が導入されるということでもある。

(つづく)

103トモス:2000/11/16(木) 02:26
コメント1:
劇場と工場のコントラストについては浅田彰の逃走論に収録されている
今村仁司との対談でも議論されていた記憶があります。アルチュセールの
劇場に対しD=Gの工場、という形で。

コメント2:
分裂症患者は精神分析によって歪められ、そのために苦しんでいるのだ、
というのがD=Gの主張だとして、放置すればいいのか? 問いが残ります。
結局、分裂症患者に他の人々が物の考え方や身の安全などを脅かされるから
治療の必要性が出てくるのであって、分裂症患者は彼らの生を生きられる
のがいいのだ、ということでしょうか? それとも彼らは「独身機械の栄光
と悲惨」を生きていて、何かの意味で苦しんでいるからそれを和らげるため
の他人からの働きかけが必要なのでしょうか? それともそうした苦しみも
ともあれ器官なき身体が誘い込む強度=ゼロの何も流れない何も起こらない
状態に比べればずっと豊か状態だから働きかけは必要ない?
あるいは放置されればその欲望する生産の過程はいつしか完遂されて
分裂病はいつしか解消されるのでしょうか?

(つづく)
104トモス:2000/11/16(木) 02:34
疑問:
僕は精神分析(なり病理学なり)の理論に不案内なので三つの理論についての
議論がわかりにくいのですが、これらの理論は
無意識=原因 分裂症の症状=結果 と見てその原因を究明したり、
その結果の特殊性を説明しようとしたり、その症状を混乱や不正確な
あり方ではなく無意識の的確な表現として理解しようとしたりする、
ということでしょうか? どこが、ということも明確には言えませんが
いまいちすっきりしないものがあります。

(今回はおわり)
105考える名無しさん:2000/11/16(木) 02:50
おつかれ〜〜
106考える名無しさん:2000/11/18(土) 01:09
転載です。

8 名前:伊藤投稿日:2000/11/18(土) 00:17
ドゥルーズ=ガタリは現在の高度消費社会がオートマティック
なシステムとして自己を完成させていることを明らかにしまし
た。人間的「主体」の迷信を「欲望する機械」によって告発し
ました。
ドゥルーズにとって人間的「主体」によって世界(社会)の構
造を認識し、人為的に操作(改変)できるなどということは、
錯誤の最たることのように思えた筈です。マルクス主義の様な
私的所有と自由市場を廃し人間性を取り戻すなどということは
ギャンブラーが、自分だけは勝ち抜け出来るという思い上がる
以外のなにものでもないことをです。
「欲望する機械」の組み合い=出来事の世界の残酷なまでに正
確かつ公平に作動している様を知れば、せめてあの思い上がり
はなくなるではないか。
広大な諸領域に「欲望する機械」の出来事のサンプルデータを
収集し見事な「主体」の破壊を達成したドゥルーズは、この人
間的「主体」が敗北を続けるシステムの中にそのまま閉じこめ
られてしまいました。
最終的には負けると分かっているゲームを続けるギャンブラー
のドゥルーズがストア哲学の愛好者であったことは有名です。
そのような生に何の前触れもなく現われた幸運は、5月革命で
あり、フーコーやガタリとの出合いだったのでしょう。そして
また延々と続く退屈な生の負けの繰り返しだったのではないで
しょうか。
意味の表面の哲学者としてドゥルーズは、この世界(社会)を
改変しようとはせずに、ひたすらプレイし続けた間にニヒリズ
ムのボディーブローを受け続けてしまい、そして身体の病みが
死へ「後押し」してしまったのではないでしょうか。
そのような意味で、ドゥルーズの思想と「生きる」ということ
を深く再考することが大事なのではないかと思います。
ドゥルーズの言葉と死を無駄にしてはいけないと思うのです。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=973290190&st=8&to=8&nofirst=true
107トモス:2000/11/20(月) 09:22
*多忙なので例の投稿はもう少し後にさせていただきます。。

転載された伊藤さんの解釈について少しだけコメントします。
(転載して下さった方、どうもありがとうございます。)

D=Gが資本主義に対してどういう態度をとったかは割と意見が分かれる
ところのようですね。伊藤さんはD=Gが資本主義を肯定的に評価した
と見るようですが、96で真澄さんは反対の解釈を述べられているようです。

いわゆる逃走や脱領土化が起きる部分がよくて、それが再領土化されてしまう
ところが限界、というようなところなのでしょうか? システムとしては
破綻してしまうような、再領土化のない経済(社会)の方が望ましいので
しょうか。これは分裂病患者・分裂者やアナーキーとの距離の取り方とも
関連する、僕にとっては非常に興味深いところです。

108考える名無しさん:2000/11/25(土) 20:39
トモス〜、カムバック!
109トモス:2000/11/26(日) 14:53
すみません。2日以内には必ず復帰します。
(リクエストありがとうございます!)
110トモス:2000/11/27(月) 17:51
* ペースが遅くて本当にすみません。

第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
生産の過程としての<過程> (p.38−)

生産する諸機械は過程であり、分裂病患者は精神分析によって
その過程を停止させられるためにひどい状態に陥ってしまう、という
ことが第一節の自然と産業。<過程>で述べられていましたが、
それを少し展開する形でこの項が書かれているようです。

ひとは小麦の味から、誰がそれをつくったのかを見抜くことはできない。
生産物から、生産体制や生産諸関係を見抜くことはできない。
精神分裂病の患者についても、その言動の内容を味わうことから
諸機械の生産の過程を理解することはできない。

前項で言及された精神分析の3種のアプローチ(クレペリンの観念解離、
ブロイラーの自閉症、ビンズワンガーの世界内存在)はそれぞれ解離した
自我、切断された自我、自分の世界の中に現存在している自我として
分裂症の本質を把握したけれども、それは間違ったアプローチ。
この精神分析についての部分は僕には背景知識がないのでこれが
どういうことなのかはわからないですが、症状を把握することから
精神分裂病の本質を把握しようとする点において共通していて、
いずれも過程に注目していないという風に解釈されているようです。

(つづく)
111トモス:2000/11/27(月) 18:06
「ひとが生産の物質的過程に注目することになれば、〔過程の〕別の完成の
可能性が現れてくると同時に、たちまちに生産物の特殊な性格は消えて
ゆくことになる。分裂症はこうした患者の情感〔症状〕である前に、
欲望や欲望する諸機械の生産の<過程>なのである。」
と39ページにあります。

これは精神分裂病を「自我の情感」を本質として、諸症状をその本質の表象
(表現)とするような把握、つまり劇場的なモデルによる把握をすることを
批判して、代わりに工場的なモデル、つまり物質的な諸過程だけがあり、
生産が営まれているのだと考えることで別の可能性が開けてくる、と主張
するものになっています。

「<過程>を停止したり、<過程>を目標にしたり、<過程>を空虚の中で
無限に空転させたり」(これが上述の3種の精神分析に対応しているかは
不明)する代わりに過程を正しく過程と見るならば完成の可能性が現れて
くる、と書いてあります。ただ、この完成がどういうものであるか、
どうしてそれがよいかについてはまだ詳細な議論はありません。

ヤスパースは観念論の名の下に<過程>が自我と無関係で、自然と産業、
自然と歴史が一体化しているさまを描いたとして肯定されています。
彼に欠けていたのはそれが自然の中の<ダイモン>(アニマのような
ものなんでしょうか? 説明はありませんが)との関係だとしたところを
物質的・経済的な問題として理解することだけだった、とされています。

(この項おわり)
112トモス:2000/11/27(月) 18:41
* もう一項分やります。

第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
欲望を欠如とする観念論的考え方。(幻想)
(p.39−)

欲望を生産とする考え方と獲得とする考え方がに分けるプラトンは間違って
いる、とされます。

欲望を獲得とする考え方は、欠如、特に実在する対象の欠如として欲望を
とらえるもの。弁証法、ニヒリズムとも関係する。
生産とする考え方は、カントが考えたように、「欲望が抱く表象を介して、
これらの表象されている対象の実在を生みだす能力」。つまり想像する能力。

これをカントがしたように幻想の生産だとすると、それは精神分析の理論に
とてもよくあてはまる欲望の見方、「ある欠如があり、それを幻想として
獲得する」という見方を構成することになる。たとえそれが具体的な物として
生産された場合でも、最初にまず欠如があって、その欠如を埋め合わせる
物が生産された、ということになる。

欲望と欲求とを分けて考える場合にも、欲望は絶対的な欠如で、
それが個々の具体的な欠如と結びついたものが欲求、とされ、
この欠如と生産物の関係(最初に欠如があり、生産された物はそれを
反映している)をそのままにしている。


113トモス:2000/11/27(月) 18:50
コメント:
分裂症は自我の表現、欠如が生み出した症状ではなく、
欲望という言葉が使われるとしてもそれは欠如との関連においてではない、
というのが主旨になるかと思います。これはこの章ではいろいろな形で
述べられているので、またか、と思う人もいるかも知れませんね。

D=Gは自我ではなく諸機械による、表現ではなく物質的生産過程としての
欲望を描き出そうとしていて、その詳細については(この項で展開された
批判との関連で)もう一度次の項で展開されているようです。

(今日はこれで終わります。)

114トモス:2000/11/29(水) 14:05
第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
実在するものと欲望する生産。受動的綜合

前項における欲望の間違った考え方への批判を前提にした、D=Gの
欲望観の展開です。少し長いので3つに分けます。(おおよそ記述の
順番と同じです。)

*欲望=受動的綜合=実在による実在の生産
欲望は実在するものを生産する。
実在の中で、実在を用いて生産する。(イメージを媒介にして、ではなく)
欲望は部分対象と流れと種々の身体を機械として動かす働きを持つ。これが
すなわち欲望が受動的綜合である、ということ。
欲望は無意識の自動的生産の働き。
欲望は、だから対象を欠如しているわけではない。

*欲望=対象
主体は欠けている。固定した主体は抑制によって始めて成立する。
存在しているのは、主体ではなく、自然的感覚的対象存在としての
情念〔受動〕である。
欲求は受動的綜合の働きが失われ、主体が欲望から撤退していく
度合いの尺度。
革命家・芸術家・先見者たちは対象的存在であることに満足する。
欲望が生産する能力を持って生命を抱きしめることを彼らは知っている。
欲望が欲求することが少なければ少ないほど、強度の高い仕方で
生命が再生産されることを彼らは知っている。主体ではなく対象。
貧しい者はほんの僅かの「奪われているもの」しか欲求するに
過ぎないことを知っている。だから、食欲に関連づけて人間の欲望の
本質を欠如に結び付けようとするのは間違いだ。

(つづく)
115トモス:2000/11/29(水) 14:16
*欠如の生産
欠如は社会的生産の中で組織される。反生産の決定機関〔審級〕は
種々の生産諸力の上に折り重なり、これらの生産力を自分のものに
してしまう。(器官なき身体と諸機械の関係に同じだということに
なります。)
欠如はこの反生産の決定機関〔審級〕によって逆生産されるものだ。
市場経済学の立場から欠如を支配階級の作為だ。欠如に対する恐怖
の中に欲望を投げ込むこと、欲望の対象だけを実在する生産に所属
させること。こうしたことのために欲望の生産は幻想の領域に限定
されてしまうことになる。

(つづく)

116トモス:2000/11/29(水) 15:01
コメント1: 欲望の主体性
受動的綜合、というタームは、少し厄介な感じです。
ここでは欲望には主体が欠如していることと、
欲望の働きが受動的であることは同じことだと思います。
それは諸機械としての分裂病者は何かの目的や心情があって
生産をしているのではなく、単に自分が接続している他の
諸機械(自然も含め)に促され・触発されてそれらを接続して
いるのだ、ということにもなるのだと思います。

でも同時に、欲求は主体から欲望が離れていく度合いの尺度
だとされます。これは欲望に主体性がある、ということと近い
何かを含意しているようにもとれます。

コメント2: 革命家・芸術家・先見者の対象性、強度
主体的であろうとすると、何かを求めてそれに向けて努力をする、
ということになり、それは無意識による生産=受動的綜合の働き
を妨げてしまうけれども、革命家や芸術家や先見者はそういう
ことをしない、主体性を作動させない、とあります。それが強度
の高い生命の再生産をもたらすことを知っているからだ、と。

強度が高い方がいいのだ、ということが示唆されたのはここが
始めてだと思います。どうしてそうなのか、またどうして欲望の
(実在による実在の)生産の方が、欲求の(欠如に媒介された)
生産よりも強度が高いのか、についてはわかりませんが、
とりあえず、言えそうなことは、分裂者は強度の高い=諸機械
を作動させている存在だから豊かなのだ、という路線が見えてきた
ことです。

強度については、独身機械=主体の感じる感動は「なること」であり、
何かの表象などではないこと、それはまた反発と吸引の比率によって
規定されるところの生の強度であり、それに対して器官なき身体は
強度がゼロなのだ、ということが言われています。
(86から91辺りのメッセージに書いてあります。)
(つづく)
117トモス:2000/11/29(水) 15:26
コメント3:器官なき身体
器官なき身体にまつわるものとおぼしき議論が、やや難解なのでそれを
書いておきます。
器官なき身体の決定機関〔審級〕が欠如を逆生産する、という時の
「逆生産」と「決定機関」が何かが不明です。諸機械の統一的な
秩序の不在が引き金となって解体の作用をもたらす(ように見える)
ものを器官なき身体と解釈してきましたが、それに沿って解釈
すれば
「何故この生産があってあの生産がないのか」という作用を導入
すること(解体の作用)を通じて、「あの生産があって欲しい」
という欠如を生み出すということでしょうか。それが逆生産と
呼ばれるのは生産されるのが実在ではなく欠如だという以上に
何か理由があるのでしょうか。また決定機関という言葉の必要性
もいまいち不明です。

とりあえず今回はこれで終わります。
118トモス:2000/12/02(土) 04:18
第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
唯一の同じ生産としての社会的生産と欲望する生産

もしも、一方に実在を生産する社会的生産があり、他方には幻想を生産する
欲望する生産がある、と考えるなら、その2種類の生産の関係は一方が他方
へ投射される(社会的実践が内面に投射されるか、精神的実践が社会に投射
される)ということになるだろう。それは現実的・具体的な関係ではない。
それは貨幣・金・資本の資本主義三角形とリビドー・肛門・ファルスの
家庭三角形とをおき、平行関係を打ち立てる心地よい暇つぶしに過ぎない、
間違った考え方だ。マルクス−フロイトの平行論は不毛で無意味だ。

リビドーは生産と生産関係とを備給するためには何も必要としない。
単に欲望と社会が存在するだけだ。社会的再生産の最も抑制的なまた
最も致命的な形態でさえ、欲望そのものによって生み出されるもので
他のものの媒介などはない。

(つづく)
119トモス:2000/12/02(土) 04:21
従って、政治学の課題は何故、人々は従属するために、自発的にかつ
救われるためでもあるかのように戦うのかの分析になる。何故搾取
されている人々は必ずしもストライキをしないのか。これはスピノザが
提起しライヒが再発見した問題だ。

ライヒは、ファシズムを大衆の誤解や錯覚によってではなく欲望によって
説明しようとした。が、彼は欲望の中に存在している非合理を持ち出して
彼の精神分析的考察の対象としてしまった。そうではなく、一見合理的に
見えるものもそうでないものも全て欲望する生産の作動なのだということ
を理解する必要がはあった。
合理的に生産される実在する対象と、非合理的に生産される幻影の二元論
から脱け出す必要があった。
120トモス:2000/12/02(土) 05:46
解釈1:
社会的生産は、何よりも一定の条件のもとにおける欲望する生産そのもの
なのである。
と44ページにあるテーゼは、これまでの議論の展開から言ってそれほど
目新しいものではないけれども、それがこの項の主旨になっていますね。
ただ、貨幣=リビドー、金=肛門、資本=ファルスという3角形の対応
関係は僕にはかなり意味不明です。
後半のライヒについての評価は、D=Gが表象モデルを拒否することと
関係があると思いました。誤解、錯覚、主観、社会野で禁止・否定され
ているもの、を群集が欲望したのだ、ということを言えばそれは社会野
と欲望する生産を分けた上で、その関係を語る、社会野が欲望を
発生させたり生産する欲望が社会野にそれを実現させたり、という
ことになります。
そうではなくて、実在しているのは単に諸機械の連結だけで、個人と
自然、個人と社会が分けられる必要はない、連結自体が
欲望の活動=生産だ、ということになるのだろうと思います。

コメント
権力は否定だけでなく生産の働きも持っているのだ、というフーコーの
後期の権力論を思い起こさせます。
後期ヴィドゲンシュタインは内面を否定してただ言葉の行き来がある
だけだと考え様としたようなところがあるそうですが、それにも
似ていそうだと思いました。

生産が何かの結果を欲望するために営まれるのだ、と考えればそれは
意図を伴うものになるけれども、D=Gは単に過程があるだけなのだ、
しかも過程自体が目的にされているのでもない、としている辺りは、
機械的な作用として生産が起こっているという感じがします。
(これを発話がただ発生するのであってそれは特定の効果を狙った
発言でもなく、発話したいという欲望があってのことでもない、
と言い換えてみればヴィドゲンシュタインの行動主義的解釈に
似て来ませんか? 似ていなかったら失礼。)

121トモス:2000/12/02(土) 05:50
疑問
何故搾取されている人々が必ずしもストライキをしないのか、
という疑問への答えはどうなるのでしょうか。
それが起こらないのはオイディプスか何かの仕掛けによって別の欲求が
逆生産されているから、でしょうか。

前項では、人々はほんの僅かのもの、奪われたものだけを欲求するに
過ぎない、とされていました。言い換えると、搾取されていれば人は
欲求を抱くようになる、という風に思えます。だから搾取されている
人々が何故ストライキなり反乱を起こさないのかは欲望と欲求に
ついて僕が解釈したD=Gの議論では説明がつかないことになります。

(おわり)
122トモス:2000/12/06(水) 17:16
第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
集団幻想の実在

欲望する生産(これは社会的生産でもある)に対する大規模な社会的抑制が
存在する。
幻想機械や夢幻機械は技術機械や社会機械のコピー、二次的表現に過ぎない。
幻想は個人的なものではなく集団幻想である。それには2種類ある。
1)欲望する諸機械が群集している場合。リビドーが現存の社会野を
そのまま備給すること。
2)社会諸機械がその構成要素の欲望の諸力に関係づけられる場合。
リビドーが現存の社会野に革命的欲望を差し入れる逆備給をすること。
2)の例:
19世紀の社会主義ユートピアは集団幻想、つまり欲望を実際に生産
する作用だ。この作用は、現状の社会野への備給の撤収(脱備給)や
機構崩壊(脱機構)を可能にし、欲望自体の革命的機構を促進するものだ。
(つづく)
123トモス:2000/12/06(水) 19:15
解釈:
備給と逆備給についてだけ、少し(例によって少々手荒な)解釈を
してみます。備給はここではリビドーから社会野への作用とされて
いて、リビドーも社会野もそれほど僕には明確な概念ではないのだ
けれども、革命とオイディプスコンプレックスが対立する関係に
あるらしいこと、オイディプスコンプレックスや欠如に対する欲求は
ある空虚さを欲望する生産に注入することから生じるのだ、という
説があったことなどを考えると、逆備給はそうした空虚を排除して
もう一度欲望を欠如と結びつかない物理的生産をする力へと返す
働きだろうということになります。

>>49で少しだけ言及がありますが、器官なき身体は
欲望する諸機械を逆備給するのではなく欲望する機械に反発する
のだ、とあります。これも同じように解釈できるようにも思えます。
備給は空虚を投入することで、それは器官なき身体が「なぜ他の
あり方をしていないのか、なぜこの流れがあるのか」という風に
欠如を投げ込むことで欲望する諸機械に対する反撥をするので
あって、もともとある欲望する諸機械の欠如を埋める=逆備給する
のではない、と。
ただ、今回の項に話を戻すと、ユートピアについての説明は意味不明な
上、「そのまま備給すること」についての説明もこれだけではどうも
しっくり来ません。
124考える名無しさん:2000/12/07(木) 02:09
>トモスさん
難しいなりに分かりやすく
勉強にもなりました。
いろいろ興味深いですね。
ありがとうございます。
まだ読んでないけど読もうという気になりました。
125テリー東:2000/12/09(土) 00:38
1番のために俺もなるべくわかりやすく説明しよう。
脱領土化について。
これは文字どうり自分の領土を離れる運動で、例えば、
自分にとって落ち着く場所はだれにでもある。
自分の家、友達、書物など、これが自分の領土であり、
これから抜け出ることは誰にとってもつらいことだ、
しかし、「自分の場所」としての領土や秩序よりも、
そこから脱する脱領土化という運動の方が、より本来的となる。
この前進する行為を、脳の方に移動させてみよう。
それは概念を生むという行為、創造すること、ある地点から別の地点に、
移動すること、これは、「〜へ向かう」という運動で、事実、
それだけではなく、「立ち向かう」「振り返る」「迷う」
といったような運動もかねている。なかなか人はこの壁を乗り越えられない。
乗り越えられなかった事態、もとに戻ること、これが再領土化である。

あまり長くなるといかんのでこの辺で、分りやすくは難しいな、、、


126テリー東:2000/12/09(土) 01:43

私の中の意味性と主体化の相異点。
主体化の点、これは脱主体、これはイデオロギーの固着から出るものでもあり、
対象の重視など、解釈における、動かず、岩のような存在と理解するが、
ココで外部の取込みに関わる(例えばいじめの対象)尺度が
どのようなものかが浮き彫りに出る。
いかなる他者性も壁の上でそれをつぶしてしまう。
場所、条件の変化に応じて、それを受け入れたりする。
この状態で、意味性とはどこに見えるか?
ある面で、はっきりした主体化とダブったり、
ある一面(言語学など)では違ったりする。う〜ん誰か教えて。
127テリー東:2000/12/11(月) 02:48
器官なき体について(あくまでも私の解釈なので、聞き流してちょんまげ)
胃、肺、口、手、それらの器官は個々に多様な動きを見せている。
その動きは、体に吸収され、統合、反映し、多様なうねりを作る。
例えば人間は攻撃性を他者からうけ、同時に癒しも受け入れる。
例えば神経症患者。彼等は他者によって
左右され、不安に出会ったり、それを退けたり、また出会う。
これは一般でいう、感覚、精神性であり、器官による延長線上でもある。
(延長線上と言ったのは、偏見だが最近日本人に二元的な意識が見られるから)
しかし、人とはココまでだろうか?
長くなったのでまた今度。
128考える名無しさん:2000/12/11(月) 03:05
二元的〜だなんて、何も考えずに打ってしまった。
訂正しときます。
129考える名無しさん:2000/12/17(日) 00:17
トモス復帰期待あげ
130トモス:2000/12/21(木) 20:09
*毎度毎度間が開いてしまってすみません。一応まだ続いています。復帰の
リクエストを下さった方、どうもありがとうございます。

第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
欲望する生産と社会的生産との間の体制の相異(p.46−)

欲望する生産と社会的生産の2つの相異について書いてあります。

1.
技術諸機械(=社会的生産の一部=社会レベルの現象)は調子が狂わないことが
作動条件になっているけれども、
欲望する生産(=欲望する諸機械=個人レベルの現象)は常に調子の狂った
諸機械である。

2.
技術諸機械に固有な反生産は外的な諸条件の中から生み出されるが、
欲望する諸機械の反生産は欲望する諸機械自身の中から生み出される。

技術諸機械と「技術諸機械の再生産を支える外的条件=社会機械」
の2要素が社会的生産を構成する。
131トモス:2000/12/21(木) 20:24
(つづき)
上述のことを別の形に言い換えてある部分もあります。

欲望する諸機械は欲望の経済学の基本的カテゴリー。
作動因と部品;生産関係と諸機械自身の間の関係;社会性と技術性
などの区別がない。
欲望する機械は技術的であると同時に社会的。

技術諸機械+社会機械=社会的生産 という社会レベルの体制とはこれも
対照的。技術機械の場合には生産手段と生産物が厳密に区別されている。

(つづく)
132トモス:2000/12/21(木) 20:52
解釈:
欲望する生産の場合には諸機械が互いに接続し合ってさまざまな流れと切断を
引き起こすことで次々と生産活動が営まれる。これは単にいろいろな材料を
様々に加工し、流通させ、循環させている巨大な工場のようなもので、工場の
生産設備とそこを流れている材料に区別はないし(何故なら生産設備も材料
として利用されることがありうるから)、生産の動機とそのための手段にも
区別がない(この工場の操業が欲望の活動そのもので、何かを生産するため
の手段ではないし、あるいはまた、ある特定の生産と流通のシステム・回路
を完成させるべく活動が営まれ、全体がデザインされているわけではなく、
単に様々な欲望の活動自体が接続・切断・流れを流すことなので、ここに
は何かの目的へ向けた組織的活動も自己目的性すらもない。)

別の(以前に出てきた議論の)言い方で言い換えてみます。
欲望する生産は過程である。何かの生産物を生み出そうという組織的運動
(未だ実在していない生産物=欠如 に動機づけられた行動)ではない。
欲望は実在の中で実在を生産する活動であり、「自己」「自己の抱く観念
(欲求の対象、生産したい物)」などとは無縁のものだ。

これに対して、社会レベルでは何がどうなっているのか、はまだ僕には
わからないところが多すぎるので解釈は保留しておきます。

(まだつづきます)
133トモス:2000/12/22(金) 00:32
集団幻想について

ここ2項分ほど、集団幻想についての言及があるのでそれについて少し書いて
みます。
p.45 「だから、幻想は決して個人的なるものではない。それは、集団幻想
なのである。」以下に詳しい議論があります。
それによるとリビドーは
(本来なら欠如を知らない)社会野に集団幻想が欠如を与える(=備給する)
こともあれば、
逆に欠如を消すような(=備給の撤収、逆備給)働きによって欲望(=欠如
なき具体的な生産活動)を作動させることもある。

後者の働きを特に集団幻想と呼び、前者の働きは理想のモデルなどと呼んで
区別するような気配もあり、語法がやや混乱ぎみのようです。

理想のモデル、というのは、しつこいかも知れませんが、実在しない観念を
導入する(ある実現されていない状態=理想を持ち込む)ことでその欠如を
埋めるべく組織的活動が営まれるようにしむけるものとして想定されている
のだと思います。

(備給・逆備給については>>123の解釈をもとにしています。)

(つづく)
134トモス:2000/12/22(金) 00:52
集団幻想の論は更に、
p.46下段で「芸術は... 社会的生産と欲望する生産とを短絡させ、
技術機械の再生産過程の中に、調子が狂うことをひとつの機能として
導入する働きを持つものなのだ。」と展開されます。

これは、たぶん、社会野が本来なら欠如を知らず、
器官なき身体が欲望する諸機械の内から生まれてきて欲望する諸機械自身に
欠如を与えてくるのとは違い、欠如を自らに与える存在を自らの中から
生み出すことがない、ということと関連づけることができるのだと思います。

技術機械=作動する時には生産物をきちんと生産し、欲望する諸機械のよう
には調子を狂わせない、きっちりとした機械に対して欠如を備給するのは
集団幻想のように外的な要素で、それがなければ、技術機械の「再生産」
つまり維持や変更や解体に対する圧力はなにもない。これは欲望する生産が
調和や完成度を欠いた諸機械であり、常に「どうしてこうなっているのか、
別のあり方ではだめなのか」という解体や変容へのプレッシャーにさらされ
ている(「全く自分自身の中から反生産というものを生み出す」(p.47上段)、
つねにどこかに無理がかかっている、と言ってもいい)のと対照的になって
いるのだと思います。

(つづく)
135トモス:2000/12/22(金) 01:36
失礼しました。欠如と反生産は違う気がします。

欠如=欲望を欲求に変えるきっかけ。オイディプスコンプレックスがその例。
(母親が自分のもの「ではない」ということが自分の生産活動を母親の
獲得に向けて組織化する。)

反生産=欲望のあり方=諸機械のつながり方を解体・変容させる圧力。特定
の(一貫した)方向性を持たない。器官なき身体の「反撥」のはたらき。
(器官なき身体には吸引の働きもあります。>>61>>63>>91 などに少し
書いてあります。)

芸術・芸術家は、技術機械というそれ自体では調子が狂っていない機械に
反生産をもちこんで、それが欲望する生産と同じように他の機械と接続し、
流れを切り取るような運動を始めることをうながすものだ、ということに
なるようです。
これは、前に述べた、「理想的モデルを提示すること」ではない、リビドーが
革命的欲望を差し入れるタイプの集団幻想(p.45下段)ということになる
のだと思います。
(つづく)
136トモス:2000/12/22(金) 01:39
やや冗長で、結局この項の要約をもう一度やってしまったような感があります
が、ここまで書いてきてやっぱりよくわからないのは、集団幻想という語が
どうしてここで使われているのか、です。芸術家が集団幻想をつくる、という
言い方がされていますが、この集団幻想の働きはだいたいわかったような気が
しますがどうしてこの働きを集団幻想と呼ぶのかはちょっとピンと来ません。

でも社会野は技術機械と外的条件の2要素で構成される、といった辺りの
記述はわかった気がしてきたのでとりあえず今日はここで終わります。
ではまた。

137トモス:2001/01/02(火) 16:44
*明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく。

第一章 欲望する諸機械
第四節 唯物論的〔質料論的〕精神医学
社会体と器官なき身体(p.47-)

*この項は別にすごく新しいことを言っているわけではない
のですが、どうも解釈しきれない部分をそのままにしておくと何も
わからないままなので長くなりますが例によって手荒な解釈をします。
今までに比べて一段と覚束ないものになりますので、誤りの指摘や
アドバイスなどをしてもらえるととりわけ助かります。

前項では欲望する生産と社会的生産の間に”体制の相異”があると論じた
のに対してこの項ではそれらが同じものであることが2通りの仕方で強調
されます。

1.一切の社会的生産は欲望する生産から生じる。自然人が最初にある。
2.欲望する生産は社会的存在である。歴史人が最初からある。
(つづく)
138トモス:2001/01/02(火) 16:45
器官なき身体が最初からあってそれが社会体=社会機械の中に投射
されたのではない。
社会体は器官なき身体の投射ではない。器官なき身体は最後に残った
脱土地化した社会体である。

社会体は欲望の流れをコード化し、登記し登録して規制なしにどんな流れも
流れないようにする。ただし資本主義は別で、種々の流れを脱コード化、
脱土地化する働きを持つ。この働きの極限において器官なき身体が出現する。
(つまり社会体と器官なき身体は反対の作用を持っている)

資本主義は脱コード化した生産の流れと脱コード化した労働の流れとが遭遇
するところに成立する。資本主義は器官なき身体が出現して欲望の流れが
解放されるような極限へ向かう性質を持っている。

(つづく)
139トモス:2001/01/02(火) 16:47
解釈:
自然人と歴史人の概念について、よくわからない点があり、
それぞれの概念の検討が 欲望する生産と社会的生産は同じものだ
という命題にどのように結びつくのか、についてもわからない点があります。
以下、できる範囲でそれを検討してみます。

==
自然人の概念については17ページ上段前後に言及があります。自然と
分裂者(人間)が一体であること、登録も消費も全て生産であること、
が議論されています。(僕のノートは>>26@` >>27@` >>28 辺りにあります。)
p.14下段前後にあるレンツ神父の「分裂者の散歩」についての説明が
その具体例のような形になっています。
欲望する生産は「機械」のはたらきであり、観念や欠如を媒介にしない
実在の作用であること、だとも言い換えられると思います。

少しややこしいのは、
欠如は社会的生産によって調整され組織されるものだ、という風にp.43
上段で言っておきつつも。その社会的生産も結局は欲望する諸機械が
生み出すものだ、ということ。
(欠如=観念=幻想=実在しない要素=本来無軌道なものである欲望を
ある特定の不在の対象に向けて組織化する(=欲求にする)きっかけ)

(つづく)
140トモス:2001/01/02(火) 16:48
これは、怪しい解釈ではありますが、こういうことだろうと思います:

欲望する生産の中から生まれてくる反撥の作用(反生産の作用)が
組織されると欠如になる。それは社会的生産のレベルで行われる
もの。前々項の「集団幻想の実在」において言われた「幻想は決して
個人的なるものではない。それは集団幻想なのである。」(強調点
省略)という主張はこのことだと思います。欲望する諸機械と器官なき
身体だけからは欠如は出てこない。個人は欠如を知らない。(だから
オイディプスも個人は知らない。) ただ、社会レベルには技術機械が
あるばかりで、そこにはもともと欠如はなく、技術機械を
解体したりつなぎ変えたりする作用も、技術機械の内からは出てこない。
(これは前項の解釈そのまま)欠如は社会レベルで組織されるものでは
あるけれども、同時にその組織される素材であるところの反生産の力
は個体レベル(欲望する生産)の中から生まれてくるもの。
従って、社会的生産は欲望する諸機械からしか生まれるものだけれど
同時に欠如を組織する社会的生産とは違い欲望する生産は実在の中で
作動する機械だということになるのだと思います。

こんなわかりにくい解釈しか提供できなくて申し訳ありませんが。
でも先に行きます。

(つづく)
141トモス:2001/01/02(火) 16:50
==
(自然人は終わって今度は歴史人についてです)

歴史人の概念についてはp.35下段に議論があります。
ニーチェの生をひきあいに出しつつ分裂者は「さまざまの歴史上
の人物にみずから一体化すること... ではなくて、歴史上の名前
を器官なき身体の上の種々の強度地帯に一体化させること」をしている、
そのように世界史を身を持って生きているとしています。参考にならない
とは思いますがノートは>>90@`>>91 にあります。

また、前項の終わりの部分で欲望する諸機械は技術的であると同時に
社会的だ、ということが述べられています。これは社会諸機械とは
違って欲望する諸機械は反生産のはたらきと不可分で、それ故、器官
なき身体が自らの内部から生じてくる、という性質のことだと思います。
欲望する諸機械は常に変動や解体へのプレッシャーを自らの内から
生み出し、変化したり解体したり、しなかったりするのに比べて、
社会諸機械は、いわゆる普通の機械、道具的な機械に近い。

(つづく)
142トモス:2001/01/02(火) 16:52
(歴史人つづき)
どうして自らの内に反撥の力を宿すことが「社会的」と呼ばれるのか、
についてはこう解釈できます。

p.48上段を見ると、「欲望する生産がまず何よりも社会的であり、
自分自身の解放に向かうことになるのは最期においてでしかない
ということ」への言及があります。つまり社会的であることと
解放されてあることとは対立する。

また同ページ下段では「社会体が破壊され器官なき身体が出現して、この
身体の上で、脱土地化した領野の欲望の流れが解放されること」という
言い方がされている部分があり、解放=器官なき身体の表面における
解体 であると解釈できます。

以上から、欲望する諸機械は、実在しか知らないにも関わらず、
社会的生産とは違って自らを組織化する作用を持っている、ということ
になります。

(つづく)
143トモス:2001/01/02(火) 16:54
==
以上をまとめなおしてみます。繰り返しですが。

1.社会的生産は欲望する諸機械と同じ機械である。
2.欲望する諸機械は反生産=反撥=解体の作用を自らの内部から
生み出すが欠如は知らない。生産は実在の只中で、観念の媒介
なしで生じる。
3.欲望する諸機械は欠如を社会的生産によって与えられる。
4.社会的生産は欠如を、自ら作り出すのではなく、反生産を組織化
して方向づけることで作り出す。この反生産の作用は社会的レベル
ではなく個体的レベルに起源を持つ。
5.社会的生産は自分を自分で解体したり作り変えたりする力を
持たない。つまり、反生産の作用は外部からやってくる。
(その外部は社会諸機械と呼ばれることもある。)
6.以上から、社会的生産は欲望する生産から発生するものであると
同時に、欲望する生産はそもそも社会的である、という2つの主張
がされることになる。

もし仮にD=Gの主張がこれだけややこしいものだとして、
何故それがあんな形(自然人と歴史人を手がかりとする2つの側面)で
叙述されなければならなかったのかはとても理解に苦しむところです。
その辺りからも僕の解釈に何か間違いがあるのではないかという気が
するのですが。。。

(つづく)
144トモス:2001/01/02(火) 16:58
この項には資本主義と分裂病についての言及、脱コード化、脱領土化などに
ついての議論も登場し、これも考えてみたいところなのですがまたの機会に
譲ります。
コード化というのは欠如を導入することで欲望を欲求に変換することと同じ
なのか、といった辺りが特に気になりますがそれはまたいずれ。

今回は以上です。おつきあいどうもありがとうございました。
145吾輩は名無しである:2001/01/02(火) 19:04
篠原教授???
146考える名無しさん:2001/01/08(月) 23:39
えっと今日古本屋に行くと『アンチ・オイディプス』が1000円で売ってたので買ってきました。
一応読んでみたいので読み違いの指摘とかをお願いしたいんですがよろしいでしょうか?
前の人のやり方のように一説ずつ行こうと思います。

第1章

[<それ>[エス]。機械の機械](1/8)

エスというのはフロイトが提唱した人の心の構造の分類の一つです。
無意識下で欲望するものがエス。無意識下で抑制するものが超自我、それを意識上で受けるのが自我でしょうか。
ネットで調べた限りではこんな感じでした。詳しいことを教えていただけるかたがいましたらよろしくお願いします。

<それ>=人間の意識をエスというもので区分けしてしまったフロイトに対する批判のように思われます。
そして意識を種々の諸機械としています。
種々の諸機械とは互いに連結し、接続し、他の機械と動かし動かされる関係を持つ機械の機械だとD&Gは言っています。
ここでD&Gは2種類の機械を挙げています。

<源泉機械>(=<エネルギー機械>)→流れを発する機械。
<器官機械>→流れを切断する機械。

そして口を例にして人間は小さい種々の機械を具えていることを説明しています。人は(種々の諸機械の)流れと切断によって生存しているのでしょうか?

その後 シュレーバー控訴院長は〜太陽肛門なのだ。 という一文が見られますが意味がよく理解できませんでした。
147考える名無しさん
えっと今日古本屋に行くと『アンチ・オイディプス』が1000円で売ってたので買ってきました。
一応読んでみたいので読み違いの指摘とかをお願いしたいんですがよろしいでしょうか?
前の人のやり方のように一説ずつ行こうと思います。

第1章

[<それ>[エス]。機械の機械](1/8)

エスというのはフロイトが提唱した人の心の構造の分類の一つです。
無意識下で欲望するものがエス。無意識下で抑制するものが超自我、それを意識上で受けるのが自我でしょうか。
ネットで調べた限りではこんな感じでした。詳しいことを教えていただけるかたがいましたらよろしくお願いします。

<それ>=人間の意識をエスというもので区分けしてしまったフロイトに対する批判のように思われます。
そして意識を種々の諸機械としています。
種々の諸機械とは互いに連結し、接続し、他の機械と動かし動かされる関係を持つ機械の機械だとD&Gは言っています。
ここでD&Gは2種類の機械を挙げています。

<源泉機械>(=<エネルギー機械>)→流れを発する機械。
<器官機械>→流れを切断する機械。

そして口を例にして人間は小さい種々の機械を具えていることを説明しています。人は(種々の諸機械の)流れと切断によって生存しているのでしょうか?

その後 シュレーバー控訴院長は〜太陽肛門なのだ。 という一文が見られますが意味がよく理解できませんでした。