【ショーペンハウアー】ペシミズム [転載禁止]©2ch.net
1 :
考える名無しさん:
人生とは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、
それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。
蛙の面似のショーペンハウアー
3 :
考える名無しさん:2014/11/10(月) 23:18:29.81 0
age
自殺についてなんてどんだけ勇気ふりしぼってレジに持っていったか
5 :
考える名無しさん:2014/11/14(金) 10:30:48.36 0
単なるショーペンハウアー好きのおっさんなのだが、
ショーペンハウアー協会に入ったら楽しいかしら?
ショーペン読本はいい
7 :
考える名無しさん:2014/11/19(水) 01:07:46.29 0
全集と中公と、どっちの翻訳が良いのだろう・・・。
8 :
考える名無しさん:2014/11/25(火) 01:06:42.43 0
age
人間には盲目な生きる意思があるらしい
お前らはちゃんと日々を生きようとしているか?
10 :
考える名無しさん:2014/12/02(火) 20:27:39.54 0
>>9 盲目なのになんでわざわざ「生きること」を見えるように書いてるの?
あほなのか?
11 :
考える名無しさん:2014/12/02(火) 20:31:30.52 0
>>10 お前ショーペンハウワー読んだことないだろ
おほ、ショーペンハウワースレなんてあったのかと思ったらこの過疎ぶり
だれかいないのか
ここにいるぞ!
宗教について
第一七四節 ある対話
デモフェーレス: ねえきみ、ここだけの話だけれど、きみがときどき宗教を皮肉ったり、いや、明ら
かに嘲笑して、きみの哲学的能力を示すのは、どうもぼくの気にくわないね。人それぞれの信仰はその
人にとって神聖なものだ。だからきみにとっても神聖なはずじゃないか。
フィラレーテス: そういう推論は否定するね! ひとさまが単純だからといって、なぜぼくまでが欺
瞞をありがたがらねばならないのか、ぼくにはわからないよ。どんな単純な場合も、ぼくが尊重するのは真理
だ。だから真理に反するものは、尊重しないだけのことだ。きみたちがそういう調子で人びとをしばり
つけているかぎり、真理の光がこの地上にさすことは絶対にないだろうよ。ぼくの標語は、「たとえ世界
は滅ぶとも、正義は行なわれよ」という法律家たちの標語をまねて、「たとえ世界は滅ぶとも、真理は
存続してあれ」というんだ。どの部門にも似たような標語があってしかるべきだね。
デモフェーレス: だったら医学の標語は、「たとえ世界は滅ぶとも、丸薬はまるめられてあれ」ぐら
いだろうかね ― こいつはいちばんてっとりばやく表現できるだろうて。
フィラレーテス: まさか! なにごとも「ほどほどに匙かげん」ということがあるさ。
デモフェーレス: まあね。だからこそぼくの気持ちとしては、きみも「ほどほどに」宗教を理解して
くれて、民衆の欲求には彼らの頭に応じてこたえてやる必要があることを悟ってほしいんだ。宗教とい
うのは、低級な営みや物質的仕事に追いまくられている大衆の粗野な心や硬直した頭脳に、人生の高い
意味を告げ知らせ、それに気づかせるただひとつの手段だからね。というのは、普通の人間は、もとも
と肉体的欲求や情欲を満足させることだけに夢中で、それがすめば、おしゃべりとか気晴らし以外にべ
つにこれといって関心はないんだ。こういう人間をその惰眠からゆさぶり起こして、生存の高い意味を
指示するために、教祖とか哲学者とかいうものがこの世にあらわれてくるわけだが、哲学者は少数の例
外者のためだろうけれど、教祖というのは大勢の人たちのため、人類全体のために出現するわけさ。だっ
て、きみの尊敬するプラトンもすでに言っているとおり、「大衆は哲学者たりえず」だからで、まさか
きみもこの言葉は忘れちゃいまい。宗教は民衆の形而上学だ。これは絶対に民衆にまかせておくべき
で、だからわれわれも外面的には尊重しないといけない。これにけちをつければ、それは民衆からこの
形而上学をとりあげることになるからだ。世には民謡といったものもあり、諺には民衆の知恵が出てい
るように、民衆の形而上学もなくてはいけないんだ。なぜかというと、人間にはどうしても人生の説明
が必要だし、それは彼らの理解力に応じたものでなければならない。だから民衆むきの解釈は、いつで
も真理には比喩の衣を着せて、たとえ話に仕立てる。これが実際の場では行動の指針となり、気持ちのう
えでは、苦悩や死に臨んでの安心や慰めになって、真理同様の―といってもわれわれがかりに真理を
もっていると仮定しての話だが―、真理そのものの果たす役割とおそらくは同じ役割を演じるのだ。
その形式が混乱してまとまりがなく、一見理屈に合わないところがあるからといって、腹を立ててはい
けないよ。だって、きみの教養と博識をもってしても、深い真理をたずさえてあの荒削りな民衆に近づ
くには、どんな回り道をしなければならないか、想像を絶するものがあるからだ。いろいろな宗教は、
民衆がそれだけではどうにも把握できない真理をつかんで心のなかに描きだすための、いろいろな図式
といってよく、民衆にとっては、真理はこういう図式と不可分に癒着しているんだ。だから、きみ、わ
るくとってもらっては困るが、きみが宗教を馬鹿にするのは、偏狭であると同時に不公正なんだ。
面白い
>>17 ワロタ
ショーペンの小対話編はどれも面白いわ。
フィラレーテス 偏狭で不公正といえば、民衆の欲求や理解力にあわせて仕立てあげられた形而上学
以外に、どんな形而上学もあってはいけないと望むことだって、まったく同断じゃないか? 民衆形而
上学の説くところが人間の研究心の境界石であり、あらゆる思惟の基準であるべきであり、したがって
きみのいう少数の例外者のための形而上学も、民衆形而上学を確証し、確立し、解明することに落ち着
くべきだと注文をつけること、つまり人間精神の最高の力を利用せず伸ばさないで抑えておくばかり
か、芽生えのうちにつみ取って、この力の活動が例の民衆形而上学と衝突することがないようにしなく
てはいけないなどという言い分は、やはり偏狭で不公正じゃないか? そして宗教はいろんな要求を
かかげているが、結局はこれと変わらないではないか? 自分では不寛容・無慈悲そのものであるくせ
に、ひとさまに寛容や、やさしい慈悲を説くなんて、おかしいではないか? ぼくはその証拠に、宗教
裁判や異端糾問、宗教戦争や十字軍、ソクラテスの毒杯やブルーノやヴァニーニの火刑をあげる! な
るほど今日こういうことは過去の話になったとはいえ、ほんとうの哲学的努力、誠実な真理探究という
う、最も高貴な人類のこの最も高貴な仕事を邪魔だてしているのは、国家から独占権をあたえられてい
る例の因襲的形而上学で、その命題はだれの頭にもきわめて若い時代に焼きつけられる。それが真剣
に、深く、しっかり刻みこまれるため、奇蹟的な弾力性をもった頭でもないかぎり、どうにも消せな
いほどにこびりつき、健全な理性はこれを限りに調子っぱずれになってしまう。つまり、自分で考えて
偏見のない判断をくだすという、もともと薄弱な能力が、嗜好や判断に関連するすべての点で永遠に働
かなくなって台なしになるというわけなんだ。
デモフェーレス それはこういうことだろう。ともかくそれでいったん信念ができた以上、世間の連
中はそれを捨てて、いまさらきみの考えを受けいれる気にならないだけの話さ。
フィラレーテス ああ、その信念とやらが、認識にもとづいているなら文句はないんだけどね!
そうなれば根拠をあげて迫ることもできるし、双方、同じ武器で戦える場がひらかれるわけだ。ところ
が宗教というのは、はっきり言って、根拠をあげて信念に対するのでなく、啓示をもちだして信仰に頼
るのだ。ところで、あたまから信じこむ力というのは、子供時代がいちばん強い。だからこの気持ちの
やわらかい子供時代をねらうことがまっさきに考えられる。そのほうが、あとから威嚇したり奇蹟を教
えたりするより、はるかに強く教義が根をおろす。つまり、ごく若い時代に、ある種の根本的見解や教
説を、それこそ並々ならぬいかめしさで、その子供がはじめてお目にかかるような厳粛きわまりない表
情で、くりかえしたたきこむ。それに対して疑問がきざすかもしれぬなどということは、完全に素通り
だ。あるいはそれに触れるにしても、疑いをいだくことこそ永遠に堕落する第一歩だというふうにほの
めかすといったぐあいにやれば、その人の受ける印象は深刻で、普通は、ということは十中八九、その
人間が例の教説を疑うことができなくなることは、ほとんど自分自身の存在を疑いえないのと同じこと
になるだろう。そうなれば、「それがはたしてほんとうなのか?」と、まじめに率直に問うだけの精神
の堅固さをもつ者は、何千人中に、ほとんどひとりもないことになろう。それにもかかわらずあえて問
うことのできる人たちを「強い精神」(esprits forts)と呼びならわしてきたのは、だから普通に考え
られている以上に適切な言い方なんだ。ところが、それ以外の人びとにとっては、例の方法で注入され
たのに、いっこうゆるぎない信仰が根をはらぬということぐらい、理屈に合わぬ腹立たしいことはな
い、ということになる。
たとえば、異端者や無信仰者を殺すと、それがあの世で魂が救われるたいせつ
な所業だということにでもなれば、ほとんどだれもかれもがそれを人生の一大事と心得て、往生ぎわ
に、人殺しがうまくいったことを思い出して、そこに慰めと安心を見いだすということになろう。現に
昔はほとんどすべてのスペイン人が異教徒火刑を最も信仰のあつい、最も神意にかなった所業とみてい
たし、インドでこれと好一対をなすのはサグという宗教の秘密結社だ。これは最近やっと大量処刑に
よってイギリス人が弾圧したが、それというのも、この結社の仲間は、女神カーリーに対する彼らの信
心と尊崇をを示すために、機会さえあれば、友だちでも旅の道づれでも暗殺してその所持品を奪うという
ありさまで、しかもなにか大いに賞賛すべきこと、自分たちの永遠の救いのたしになることをやった
と、それこそ本気に盲信していたからだ。こういうふうに、若いときに焼きつけられた宗教上の教義は
じつにすさまじい威力を発揮するもので、その力は良心を眠らせ、はてはあらゆる同情や人情の息の根
をとめることさえできるのだ。ところできみが、信仰を若い時代に植えつける行き方の結果を自分の目
でまぢかに見たければ、イギリス人を見ればいいのだ。世の中のあらゆる国民より自然に恵まれ、悟性や精
神や判断力はゆたかにそなえ、節操もかたいこの国民が、彼らの愚昧な教会的迷信のために、他のあら
ゆる国民のはるか下位に蹴落とされ、いや、まさに天下の笑いものになっていることを見てほしいの
だ。その教会的迷信は、彼らのほかのいろいろな能力のなかにあって、まさに一種の固定妄想、偏執狂
と思われるのだが、それはただただ教育が僧侶の手に握られているせいなのだ。僧侶たちはありとあら
ゆる信仰箇条を、ごく若い時期に彼らの頭にたたきこむように心がける、それは一種の局部的な脳髄麻
痺を引き起こす。この脳髄麻痺は生涯、あの愚鈍な頑信となってあらわれる。
彼らのなかで、ほかの点
ではたいへん分別もあり才気も、ある連中でさえこの頑信のために退化し、われわれを途方に暮れさせ
るというわけだ。こういう傑作にお目にかかれるというのも、要は心のやわらかい幼年期に信仰を植え
つけるからだということを考えてみると、布教事業などというのも、現に成果をあげているのが、
ホッテントット族とかカフェル族、南洋諸島の住民とかその他、まだ幼年期の状態にある民族に限られ
ているのもうなずけるが、しかしそれ以上に出ると、もはやたんに人間の厚かましさ・出しゃばり・無
恥の骨頂と思われるだけでなく、馬鹿げたことに見えてくるのだ。インドあたりでも、キリスト教の布
教者の講話となると、バラモンの僧侶たちはうなずくように愛想笑いをしたり、あるいは肩をすぼめて
みせるだけで、概してこの民族のあいだでは、絶好の機会があったにもかかわらず、布教者たちの改宗
の試みはまったく失敗したのだ。『アジア雑誌』第二一巻におさめられている一八二六年の信ずべき報
告によると、布教者たちが多年にわたって活動したあえく、インド全土で(そのうちイギリスの領土だ
けで、一八五二年四月の「タイムズ誌」によれば、人口は一億五千万だ)、現に生きている改宗者は三
百に満たないそうで、しかもその内情は、こういうキリスト教に改宗した者にかぎって品行がきわめて
わるいということだ。つまり億をかぞえる住民のうちで、わずか三百の魂が売りに出され、買い取られた
ということだろう。その後、インドのキリスト教の事情が好転したようすは、どこにも認められない。
もっとも布教者たちは、いまのところ宗教教育でなく、もっぱら世俗的なイギリス式教育をやる学校で、
協定に反して、彼らの精神を子供たちに及ぼそうとつとめており、いわばキリスト教の密輸をはかって
いるが、これに対しては、インド人は非常な猜疑心をいだいて警戒している。なぜかというと、まえに
も言ったとおり、信仰の種をまくには幼年期にかぎるので、おとなになってからでは手遅れであり、と
りわけまえの信仰がすでに根をはっている場合はだめだからだ。
ところで、おとなになって改宗した連
中が新しい信念を得たと称するのは、普通は、なんらかの個人的利害の仮面にすぎないのだ。それ以外
の理由はほとんどありえないということが、だれにでも一見してわかるものだから、いい年をして宗旨
がえするような人は、どこでもみんなから馬鹿にされるのだが、しかしこのことで何か明るみに出て
いるかといえば、たいがいの人が、宗教を理性的な信念の問題とは考えておらず、ただ若い時期に、な
んの検討も加えないで植えつけられた信仰の問題だとみなしていることなんだ。だが、それも無理から
ぬことは、盲目的に信仰している大衆のみならず、どの宗教の僧侶も、その身分上、宗教教典や論拠、
教義や論点まで研究しつくしているにもかかわらず、あげて自分の生まれた祖国の宗教を熱烈・忠実に
信奉しているという事実からも判明する。だから、ある宗教もしくは宗派の僧侶が他の宗教に移るなど
ということは、世にもまれなことなのだ。たとえば、われわれは、カトリックの僧侶が彼らの教会のあ
らゆる教条の真理性をかたく信じているのにお目にかかる。だがプロテスタントの僧侶も新教の真理性
にはゆるぎない確信をもっているんだ。そして双方、たがいに劣らぬ熱意で彼らの宗派の教条を弁護し
ている。だがこの確信は、めいめいが生まれた国しだいにすぎない。つまり南ドイツの僧侶には、カト
リックの教義の真理が完全にのみこめるし、北ドイツの僧侶には新教の教義がよくわかるというわけ
であるに相違なく、植物と同じように、一方の信念はこの土地でだけ、他方の信念はあの土地でだけ栄
えるにきまっているわけだ。ところで民衆は、どこでも、こういう地方的信念居士の確信を、そのま
ま、まともに頂戴するものなのだ。
デモフェーレス 同じキリスト教である以上、本質的に差があるわけでもないんだから、それはそれ
でもかまわないんじゃないか。そのうえ、たとえば現に新教は北に適しているし、旧教は南にうってつけ
だよ。
フィラレーテス そういうふうに見えるね。しかし、ぼくはもっと高い立場から、もっと重要な問題
に目をつけているんだ。すなわち人類における真理の認識の進歩ということだ。この進歩にとってじつ
におそるべき事柄は、ある種の主張が、だれかれかまわず、その出生地がどこであろうと、すでにごく
若い時期に焼きつけられるということだ。しかも、疑えば永遠の救いもふいになる危険があるから、疑
うことは絶対まかりならぬなどと駄目押しまでついているんだから、これはまったくゆゆしい問題なん
だ。つまり、ここで主張といったのは、われわれの他のあらゆる認識の基礎に関係しているような主
張、したがって認識の観点を永久に確定し、もしこの主張自体がまちがっている場合には、認識の観点
をも永久に狂わせてしまうような主張のことだ。さらにその結論はいたるところでわれわれの認識の全
体系に食いこんでくる関係上、人間の知識全体がこの主張のために徹頭徹尾まがいものになってしまう
のだ。これはすべての文献の証明するところだ。とりわけ中世の文献が最も顕著な証明材料だが、十六
世紀および十七世紀の文献だってこれに劣らない。だって、これらのどの時代においても、一流の精神
人までが、例の誤った根本観念のために、まるで麻痺したようになっており、とりわけ自然の真の本質
や活動を見ぬくことになると、目隠し同然であることが見られるではないか。それというのも、キリス
ト教が勢力をもった全期間をつうじて、有神論は、あらゆる精神的努力、とりわけ哲学のうえに、重苦
しい夢魔のようにのしかかり、あらゆる進歩を妨害し、あるいは萎縮させてきたからだ。神・悪魔・天
使・悪霊といったものが、あの時代の学者たちの目から、自然をすっかりおおい隠していた。どういう
研究もとことんまで押し進められることはなかったし、どういう問題もその根本まで掘りさげられるこ
とはなく、明らかな因果関係をこえるものはすべて、神や悪魔といった例の人格をもちだしてきて、た
だちに葬り去られてしまったのだ。
そういう場合に、ポンポナッツィ(『魔法について』第七章)の言
うせりふは、この男の皮肉じゃないかと疑えないわけではない。なにぶんこの男の陰険ぶりは、この場
合にかぎらず、世間周知のことだからね。だがじつは、彼はこの言葉で、当時の一般的な考え方を言っ
たまでなのだ。もし実際に、いろいろな鎖を断ち切る唯一の力である珍しい精神の弾力性でももってい
た日には、その著作どころか、おそらく彼自身が、ブルーノやヴァニーニと同じように、火あぶりの刑
にあっただろうからね。―ところで、若い時代に例の形而上学的手ほどきを受けたりすると、凡庸な
頭がどれくらい麻痺するものか。これがいちばんはっきりわかり、しかも滑稽な側面から見られるの
は、そういう頭脳の持ち主が自分とは無縁な、ほかの教義を批評しようとくわだてる場合なんだ。そう
いう場合にふつう見られる図は、ほかの宗教の教義が自分の信じている宗教の教義と合わないというこ
とを、やっきになって証明しようとかかることだ。すなわち、ほかの宗教の教義には、自分の信奉して
いる宗教の教義に説かれていることと同じことが言われていないばかりか、その意味するところもたし
かに違っているということを、苦労して証明するだけなんだ。まことに素朴きわまる話だが、これで本
人はほかの教義のまちがいを論証したつもりなのさ。どちらかが正しいのだろうか、といった疑問を提出
することなどまったく念頭になく、自分自身の信仰箇条はア・プリオリな原理として動かないわけだ。
『アジア雑誌』第二〇巻でモリソン師は、シナ人の宗教と哲学を批評した一文で、この種の愉快な実例
を提供してくれているが、―まったく楽しくなってくるよ。
29 :
考える名無しさん:2015/01/29(木) 18:14:42.89 0
>>4 自殺を考えているときはそんな余裕もなく買ったよ、銀座で。
30 :
考える名無しさん:2015/01/30(金) 13:06:57.62 0
どうだった?
内容か?忘れたよ、10年ぐらい前だからな
そのうえ、女に不自然な権利を与えたことは、ひいては、これに不自然な義務を負わせることと
なって、この義務にそむくことが、反対に、女たちを不幸にしているのだ。たいていの男は、地
位や財産に対する顧慮から、結婚をー何らかの輝かしい条件が附帯しない場合にはー不得策なこ
とと思うであろう。そこで、男は、みずからの選択によって、女とやがて生まれる子供たちとの
運命を確保するために、結婚以外の条件のもとで、女を得ようと望むようになる。ところが、こ
の条件は、男にとって、たとえ、そのように公正かつ理性的であり、また、事態に適合している
としても、女としては、結婚によってのみ与えられる不相応な権利を放擲することになるし、や
はり、結婚は市民的社会の基底をなすものであるのだから、この条件に同意するならば、その結
果、或る程度まで自分の名誉を失い、悲しい日陰の生活を送らねばならぬことになる。というの
も、所詮は、人間の天性が、他人の意志のうえに、それに対し全くふさわしからぬ価値を置くと
いうならわしを有っているからである。しかるに、女が、そのような条件に同意しないときには、
やむなく自分の気にいらない男と結婚するか、それとも、老嬢として味気ない一生を過ごすか、
いずれかの危険にさらされる、何と言っても、女性の結婚適齢期は、はなはだしく短いのだから。
幸ちゃんが書いてるのはだれ訳?西尾?
>>33 西尾幹二は続編や随想録の翻訳はしていない筈だが。
デモフェーレス じゃ、それがきみのいちだんと高い立場だというわけだね。。だが、もっと高い立場
があると、ぼくは断言する。「まず生活し、つぎに哲学する」という格言があるが、この言葉は、すぐ
のみこめる意味よりも、もっと広い意味をもっているのだ。―とりわけ肝心なことは、大衆の粗暴で
低劣な気持ちを抑制して、彼らを極端な不正や残虐から遠ざけ、暴力ざたや醜行に近づけないようにし
なければならない。大衆に真理がのみこめるまで待っていた日には、後手になることは必至だ。だっ
て、真理がすでに発見されていると仮定したところで、それは大衆の理解力に余るだろうからね。大衆
に役立つのは、いつでも真理を比喩の衣にくるんだもの、つまり寓話とか神話だけだ。カントも言って
いることだが、法と徳の公的な旗じるしがなくちゃいけない、いや、その旗をしょっちゅう空高くひる
がえしておく必要があるんだ。その旗にどんな紋章が描かれていようと、意図するところをあらわして
さえいれば、どんな紋章だってかまわないのだ。真理のこういう寓話は、時と場所のいかんを問わず、
大衆には、けっこう役立つ代用品の一種で、けっきょく彼らには永遠に近づけない真理そのものや、絶
対彼らにはわかりっこない哲学のかわりをつとめるものなんだ。といっても、哲学は毎日すがた形を変え
ているし、どんなすがた形にせよ、まだ一般の承認を得るまでにはなっていないが、それはここでは別
問題としての話だ。そういうわけで、フィラレーテス君、実践的目的のほうがあらゆる点で理論的目的
より優先するわけだよ。
フィラレーテス むかし、ピュタゴラス学派のロクリスのティマイオスが、「ほんとうのことを言っ
ても実効があがらない場合は、いつわりの話で人びとの心を御してゆく」と言っているが、きみの立場
というのも、ほぼそれに近いね。かんぐるわけじゃないが、きみは、近ごろの流行で、
でもね、きみ、ゆっくり落ち着いてなにかうまいものでも食べたいと
思うときが、またやってきますぜ
ということをぼくに説きつけようというんじゃないかな。つまりきみの勧めることは、不平から乱暴を
しでかす大衆にぼくたちの食卓を荒らされないように、いまのうちに気をくばっておけ、ということに
帰着するわけだろう。
>>34 金森訳の『随想録』は古書店に売ってしまった。
もったいないことした。
洞察力半端ねぇよなこの人
38 :
考える名無しさん:2015/02/09(月) 14:25:29.04 0
嘲笑 反対 同調
の出典わかるかたいますか?
「天才は、時代という惑星軌道の中に飛び込んだ彗星のようなものである。
惑星軌道の、規則正しい、すっきり見渡すこともできる秩序からしてみれば、
彗星の極めてエキセントリックな振動は異様である」
(『存在と苦悩』ショーペンハウアー著、金森誠也訳、白水社)
なんだかそんなふうに邪推したくなるね。だが、そういう立場は、なるほどこん
にち一般的に人気があるけれど、断然まちがっているよ。だからぼくは間髪をいれずに意義を申したて
るわけだ。国家や法や法律が宗教およびその信条の助けをかりないと維持されえないし、司法と警察は
法の秩序を貫徹するために、そのやむをえない補充として宗教を必要とする、と考えるのはまちがって
いる。たとえ百ぺんくりかえされたって、まちがいはまちがいだ。というのは、古代人、とりわけギリ
シア人が、れっきとした事実上の反証をわれわれに提供してくれているからだ。つまり、こんにちわれ
われが宗教と解しているものは、ギリシア人にはまったくなかったものだ。彼らは聖典なんか持ってい
なかったし、若いときからたたきこまれ、すべての人に押しつけられるような教義なんかは彼らのあず
かり知らぬところだった。―同様に、坊主ふぜいが道徳のお説教をしたり、ひとさまの品行を気にか
けたり、一般に庶民のなすこと、なさぬことに頭をつっこむなどということは、まったくなかったこと
なんだ! それどころか神官の任務は神殿の儀式、祈祷、歌唱、供物、行列、清祓式などに限られ、そ
れもひとりひとりの個人の道徳的向上などという大それたことを目的とするものでは、さらさらなかっ
た。当時のいわゆる宗教は、ごく局限されたものだ。つまり、ほうぼうの都市国家に「偉大な氏族の神
神」の、ここではこの神、あそこではあの神を祭る神殿があって、ここでその筋の命令で上述の礼拝が
行われただけなのだ。だから、この宗教的儀式は、つまるところ警察事項だったわけだ。この儀式で
働く職員以外は、だれひとり、参列の義務もなかったし、その神を信じるように強いられることはな
かった。なんらかの教義を信奉する義務を負うというようなことは、古代全体をつうじて、どこにも見
あたらない。ただ神々の存在を公然と否認したり、あるいは神々を誹謗した者だけは、処罰された。そ
れは、この神々に仕える国家を侮辱するものだったからだ。
しかしそれ以外には、それをどう考えようと、
めいめい各人の勝手だった。もしある人が、祈禱ををあげたり、お供えものをしたりして、私的に例
の神々のおめぐみを得たいと思うとき、自分で費用を出して損害を負担する気になれば、だれでも自由
にやれたし、そうしないからといって文句をつける者は皆無であり、いわんや国が異議反対を唱えるこ
とは、ぜんぜんなかった。ローマ人の場合は、各家庭にそれぞれの氏神や家神があったが、これらは要
するに祖先を祭ったものにすぎなかった(アプレイウス『ソクラテスの神について』第十五章)。霊魂
の不滅や死後の生といったことについては、古代人は明確な概念をもたず、いわんや教義として固定さ
れた考え方をいだいていたわけではなく、各人各様、きわめて漠然としてあいまいな、動揺して疑義も
多い概念をもっていただけなんだ。古代人の神の表象もこれまた同じことで、千差万別、ひとそれぞれ
に違って、つかみどころのないものだった。要するに、今日の言葉づかいの意味での宗教なるものは、
古代にはほんとうに存在しなかったのだ。だが、それだからといって、古代は無政府と不法の支配する
ところだったろうが? むしろ法律と市民的秩序は彼ら古代人の大事業であって、われわれ現代の法的
秩序の基盤になっているくらいじゃないか? 財産は、なるほど大部分は奴隷から成りたっていたにせ
よ、完全に守られていたではないか? そしてこの状態は一千年以上もつづいたではないか?―
だからぼくが、きみが示唆するような意味で、あらゆる法的秩序の不可欠な基盤として、宗教は実際
上の目的をもっているから必要だとする、こんにち一般に受けいれられている見方を認めることはでき
ない。それで、意義を唱えざるをえないのだ。だって、そういう立場からすれば、光明と真理をめざす
純粋で神聖な努力も、すくなくともドン・キホーテ的に見えるだろうし、またもし哲学が、こちらのほ
うこそ正しいのだという気持ちから、宗教の権威信仰を、真理の王座をわがものにして、たえずごまか
しつづけることでその王位を主張している簒奪者として告発することにでもなれば、もちろんそれは犯
罪視されることになるからだ。
今日はショーペンハウアー先生の生誕日ですね
この人の弟子になりたい
デモフィーレス しかしなにも真理と宗教は対立するものじゃなくて、宗教はそれなりに真理を説く
ものなんだ。ただ、宗教の活動範囲はせまい講堂じゃなくて、世間であり、大きな意味の人類だから、
こういう多数の、いりまじった大衆の要求や理解力に合わせる必要上、むきだしに裸のまま真理をもち
だすことはできないという制約があるだけだ。医学的なたとえを使えば、宗教は真理という薬を大衆に
服用させる場合、真理に混ぜものをする、つまり「転位」させるわけで、一種の溶剤として、神話の衣
をかぶせざるえないだけの話なのだ。この観点からいえば、きみのいう真理なんかも、本来は気体
の、ある種の化学的物質にたとえることもできるわけなんだ。これは放っておけば発散してしまうか
ら、薬として使う場合、あるいはまた保存したり発送したりする場合には、この気体を、固形の、手に
触れうる基底に結びつける必要が出てくるわけだ。たとえば、塩素が、こうしたすべての用途に、塩化
物のかたちでしか用いられなようなものさ。ところで、あらゆる神話的なものと無関係な、純粋で抽
象的な真理なんか、未来永劫、どんな人にも、哲学者さえ、到達できないとすれば、そういう真理
は、単独では絶対に析出できなくて、いつでも他の物質と化合してあらわれる弗素にくらべたらいいだ
ろう。あるいは、―もっと平たくいえば、神話や寓話のかたちでしか言いあらわしえない真理は、容
器がなければ運べない水にくらべてもいいだろう。ところが哲学者たちは、そういう混ぜものを入れな
いで真理を所有しようとがんばっているわけで、彼らは、水そのものを持ちたいばかりに、容器をこわ
してしまう人みたいなものなんだ。ひょっとしたら、これはたとえ話でなくて、じじつ、そういうこと
だろう。ともかく宗教というものは、寓話や神話をかりて言いあらわされた真理なのであり、またそのお
かげで大衆にも手がとどいて消化できるようになった真理なのだ。大衆なんて、混じりけなしの純粋な
真理には、絶対に耐ええないだろうからね。それはちょうど、われわれが純粋な酸素のなかでは生きる
ことができなくて、五分の四の窒素という添加物が必要なのと同断だろう。
たとえ話はこのへんで切りあげるとすると、人生の深い意味と高い目標を大衆にもちこみ、これを開示
するには、象徴に限るのだ。だって大衆には、自分の頭でそこまで理解する能力がないからね。これに
反し哲学は、エレウシスの秘儀同様、少数の選ばれた者たちのためにあるべきものなのだ。
フィラーテス もうわかったよ。問題はけっきょく、虚偽の衣をつけた真理ということに帰着する
わけだ。しかしこの組合せは、真理にとって破滅的だよ。だって、真理を大衆のところへ運ぶ車として
非真理を使う権能をもっている人たちに、いかにも危険な武器が手渡されることになるじゃないか!
こうなっては、宗教にくっついている虚偽のひき起こす害のほうが、宗教のふくむ真実がもたらす利益
をうわまわることになるのではないかと、心配になってくる。じっさい、寓話がはっきり寓話と名乗っ
て出てくるぶんには、それはそれでさしつかえないだろう。だがそうなっては、寓話を尊重する気が
すっかりなくなって、したがって効果もゼロになってしまう。だから、寓話が真実なのは、せいぜい比
喩の意味にすぎないのに、本来の意味でも真実としてまかり通り、真実だと言い張らざるをえなくなる
のだ。この点に、どうにもならない害、永続的な弊害がある。だからこそ宗教は、純粋な真理を求める
とらわれない高貴な努力とたえず衝突してきたし、これからさきもくりかえし衝突することになるわけ
なのだ。
デモフェーレス いや、そうはならないさ。そうならないように、ぬかりなく手は打ってあるんだ。
たとえ宗教が、その寓話的な本性をあけすけに白状しなくたって、いやというほどそのことは暗示して
いるんだからね。
フィラレーテス というと、どこにそういう暗示があるんだ?
デモフェーレス 密儀さ。それどころか「密儀」(Mysterium)というのは、結局のところ、宗教的寓
話に対する神学上の術語にほかならないんだ。それにまた、あらゆる宗教に密儀はつきものだ。そもそ
も密儀はあきらかに不条理な教義だ。だがこの教義には、それだけでは粗野な大衆の平凡な悟性のまっ
たく解しえないほどの、高遠なひとつの真理が秘められている。ところが大衆は、彼らでさえ気づくよ
うな不条理な点にはちっとも迷わされないで、素直に、この覆いのままで真理を受けいれ、そのおかげ
で、彼らにできる範囲においてではあるが、事柄の真髄にあずかるのだ。注釈としてつけ加えると、哲
学の畑においてさえ、密儀を使うこころみがなされている。たとえばパスカルだが、彼は敬虔主義者で
あり、数学者であり、同時に哲学者であるというこの三重の特性を生かして、「神はいたるところ中心
であって、周辺ではない」と言っているし、マルブランシュも、「自由とは一種の密儀だ」と、いみじ
くも述べたのだ。―われわれはさらに進んで、もともと宗教にあってはすべてが密儀なのだと、主張
することもできるだろう。というのは、本来的な意味での真理を粗野そのものの民衆に教えこむのは、
あたまから不可能であって、ただ真理の神話的・寓話的な残照だけが、民衆にあたえられ、その心を照
らすことができるからなのだ。なんの覆いもないむきだしの真理なんかは、在俗の民衆の眼前にさしだ
せるものでなく、深々とヴェールをかぶった場合にだけ、真理は民衆の目に触れてもさしつかえないよ
うになるのだ。だから、宗教が本来的な意味で真理たるべしというのは、宗教に対するまったく不当な
要求だし、したがってまた、ついでながら言わせてもらうと、現代の合理主義者も超自然主義者も、筋
の通らぬことを言っているからだ。というのは、両者とも、宗教が本来的意味で真でなければならないと
いう前提から出発しているからだ。そしてこの前提のもとで、合理主義者は、宗教は真ではないというこ
とを証明しようとし、超自然主義者は、宗教こそ真であると頑強に主張しているわけなんだ。
あるいはむしろ合理主義者は寓話的なものに刈りこみを加え手かげんして、それが本来的意味で真であ
るようにするわけだが、こうなれば寓話も陳腐な言葉にすぎなくなる。他方、超自然主義者は、なんの
調整も加えないで、寓話こそ本来的意味で真なんだと主張するわけだが、―これはしかし、彼らとて
当然わかるはずだけれど、異端裁判と火あぶりの薪なしには、とうてい貫徹しえないことだ。ところで、
神話や寓話は、実際に宗教の本来の要素なんだ。大衆の頭が低いんだから、宗教がそれを借りること
は避けがたい制約だけれど、それでも宗教はどうにも抹殺できない人間の形而上学的欲求をじゅうぶん
に満足させ、達成のきわめて困難な、ひょっとしたら絶対できないような、純粋な哲学的真理の代用
になるのだ。
フィラレーテス なんのことはない、木製の義足がほんものの足のかわりになるみたいなもんだろ
う。なるほど義足も代理はつとめ、どうにかこうにかその役目をはたし、そのうえほんものの足に見ら
れたいと思いあがり、ときには巧妙につくられたり、ときにはぶざまにできていたりする、といったぐ
あいだ。しかしひとつ違いがある。義足よりさきに、ほんものの足があるのが普通だが、宗教はどこで
も哲学に先んじていたということだ。
デモフェーレス 文句のつけようもないところだが、でも、ほんものの足をもたない者には、義足
だってたいしたものだよ。見のがしてもらっては困るが、人間の形而上学的欲求は絶対に充足を求めて
いるということだ。なぜなら、人間の思想の地平線は、無際限というわけにはいかず、閉じられる必要
があるからだ。ところで、さまざまの根拠を考量して真偽の決定をする判断力は、人間はふつうもって
いない。そのうえ、自然と自然の困苦によって人間に課せられた仕事は、そういう研究をする暇も、そ
ういう研究が前提とする教養の余裕さえあたえてはくれない。だから普通の人の場合、論拠に立脚した信
念は問題にならず、宗教と権威に頼らざるをえないのだ。
49 :
考える名無しさん:
ペシミズム→最悪を想定する→期待どおりでも失望しない/期待を裏切られたときの喜びが最大
オプティミズム→最良を想定する→期待どおりでなければ喜べない/期待を裏切られたときの悲しみが最大