【〔意識のハードプロブレム〕解明のための試論】

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1physica ◆xjYUbW7jT6
やってみます
2physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/02/28(金) 19:37:21.75 0
意識には、現れと機能というふたつの側面がある。バナナが見えるという知覚経験に
はバナナが意識に現れるという側面と、バナナがあるという信念を生み出したり、バナ
ナを手に取る行動を導いたりする機能的な側面がある。このふたつの側面を区別するこ
とによって、意識の問題の核心が意識への現れの側面にあることを明らかにしたのが、
哲学者デイビット・チャーマーズである。
意識的な経験がどのような機能をもつかということについては、脳の活動を研究する
ことによって、私たちはいくらでも詳しく知ることができる。たとえば、痛みの経験が
脳のどの部位の活動に対応し、その部位が感覚器官や脳の他の部位、および運動器官と
どのように相互作用するかを明らかにすることにより、痛みの経験がどんな刺激によっ
て引き起こされ、どんな他の心の状態や、表情、身体の動きを引き起こすかが分かる。
コウモリの知覚経験でも、その機能については、コウモリの脳の活動を調べることによ
って、いくらでも詳しく知ることができる。
 それにたいして、意識への現れについては、脳の活動を調べることによっては、それ
を明らかにすることはできないように思われる。少なくとも、機能を解明するのと同じ
仕方で解明することはできないし、また、現時点では、どのようにすれば、脳の活動か
ら意識への現れを解明できるのか、まったく見当もつかない。
 チャーマーズは、意識的経験の機能については、どうすればそれが解明できるかが原
理的には明らかだという意味で、機能の問題を「イージー・プロブレム」とよび、それ
にたいして、意識への現れについては、どうすれば解明できるかが原理的にすらまだ分
かっていないという意味で、それを「ハード・プロブレム」とよぶ。ハード・プロブレム
の解決には、脳の研究だけでなく、意識と脳の関係にかんする哲学的な考察が必要なの
である。  信原幸弘氏著作 〜なぜ意識が問題となるのか〜 より抜粋。
3physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/02/28(金) 19:38:54.23 0
>>2の続き
意識の謎を解く数学的公式、物理法則といったものは存在しないだろう。なぜなら、それ
らの数字や記号は、すべて「脳」の機能を解明するための手掛かり、あるいはその結果と
して備忘的に作られた手続きを表すものであるにすぎないからだ。
意識を意識として認識することは少なくとも数字や記号のような「抽象的把握」では済ま
ない。 
それは、ありありと現前することの言語的記述によってしか確かめられないからである。
たとえば、目の前に「巨大な壁」があるとして、それは自分にとって数学的に計測された
「壁」でも、何らかの物理法則で確認できる「壁」でもないのである。 その「巨大な壁」
は、自分自身の心が、ありありと捉え言語化するものでしかないのだ。
そして、その言語的記述は一方で「脳」の機能、状態などの客観的記述をも可能にするだ
ろう。 すなわち、数学的公式、物理法則ではなく、まさに哲学的言語的記述のみが、意
識と脳の関係についての「ハード・プロブレム」を解明する唯一の方法であることが以上
のことから明らかなのである。
4physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/02/28(金) 19:40:09.16 0
>>3の続き
この解明のために、現実的具体的なある問題を提出してみよう。
この問題を解くことが、つまり、「ハード・プロブレム」の解明に繋がると思われるからだ。
その問題とは、【売春婦】の意識と脳の関係について、である。

売春婦は、おそらく人類が、この地上に誕生して金銭という交換価値を覚えた頃から発生
した現象だと思われる。
それは、自分の身体的性的価値を金銭的価値に換えるということであるというよりも、自
分自身ないし自分と繋がりをもつ他者の物理的身体性維持のために金銭的数値目標を獲得
する行為といったほうがいいのかもしれない。
なぜなら、これは価値観の持ち方を問い直す事態であるというのではなく、物理的身体的
存在である人間が、たとえば血圧の数値目標を達成するとか、摂取カロリーの数値目標を
オーバーしないようにするとかで自己保存を図ろうとしたり、試験の数値目標を目指して
頑張ったりする行為と同種のそれとして考えられるべきだからである。
つまり、売春婦の脳内において、金銭を得るという行為は、「物理的身体的なもののための
数値目標の獲得」として合理的に説明可能なのだ。
ちなみに「売春行為」を不合理な事態として難詰する根拠として、重要な価値である「身
体的価値」をそれより低位な「金銭的価値」に置き換えることへの非難が挙げられたりす
る。その場合の決まり文句が、「お金よりも大事なものがある」ということなのだが、これ
は、ある目的が達成できないとき手段のほうを見直すべきであるのに目的そのものを否定
してしまうという思考の誤謬に陥っているのだ。
その場合の問題の解決は、「売春」ができるならやればいいし、それができないなら他の方
法で金銭的数値目標を達成すればいい、ということでなければならないはずであって、金
銭的数値目標そのものを放棄することではないのである。
5physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/02/28(金) 19:42:07.54 0
>>4の続き
さらに、売春婦の脳内で起こっているであろう、もう一つの事態がある。
これは脳内の正常な機能に外部から制御をかける目的で与えられる「信号」なのであり、
それを我々は古くから「道徳観」と呼んできた。
上で明らかになったように、売春が金銭的数値目標を達成するための合理的行為であるに
もかかわらず、その行為は何故、道徳的に制限されてしまうのだろうか?
「性的に淫らな行為」が制限される理由は、そのことで正常な社会生活が疎外される恐れ
があるからなのだろうか?
しかし、「性的に淫らな行為」が社会生活を乱すだけのものでしかない、というわけでは決
してないことは戦場における慰安所設置などの事例を挙げるまでもなく明らかだろう。
適度な「性的に淫らな行為」は、むしろ社会生活を活性化し強化することもできるのは事
実なのだ。
ゆえに、この道徳的「信号」が、売春婦の脳内に作用して意味があるのは、「性的に淫らな
行為」によって物理的な生活態度まで一変してしまうような「だらしない」者についてだ
けであることがわかるだろう。
6physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/02/28(金) 19:43:17.19 0
>>5の続き
以上のことから理解できるのは、売春婦の脳内において売春という行為は、きわめて正当
な、おのれとおのれに関係する他者を含めた物理的身体性の機能的合理性を追求する現象
形態にすぎないということなのである。
であれば、脳内において寸分も否定される余地の無いその売春行為が、本当に売春婦自身
の「意識」において肯定されるのだろうか?
ここからが、意識と脳の関係についての「ハード・プロブレム」の問題である。
売春婦の「意識」は、「性的に淫らな行為」によって「自らの身体を辱めること」そして、
自分だけでなく買春した者にまで悪影響をもたらすであろうそのことを「けして肯定でき
ない」のだ。
なぜか?
すべての人間には、「自らが自らを裁く」という「意識」すなわち<良心>が備わっている
からである。
しかし、そういう意味での<良心>の発動は、はたして間違っていないのだろうか?
「神」の実体を哲学的にすでに否定した我々は、「辱め」であるとか「悪影響」であるとか
そういう価値判断をする「自己」の実体をも否定すべきではないのか?
そして、そこに在るものとして<良心>が捉えるのは「世界の中である役割を担って存在
し続ける自己自身」だ。
つまり、「裁き」をもたらす<良心>を前提とした場合、意識と脳の関係は断絶したままな
のだが、その<良心>の作用から「裁き」を抜き取ったとき、意識と脳は同じ地点に着地
しえるのである。
そして最後に残る問題は、「なぜ意識をもつのが他者でなくて私なのか?」ということ。
このアポリアこそ、人類創生のときから現在まで今だ公的に解明できぬ恐るべき謎である。 
これこそ、神が人類に課した究極の問いであろう。
この正確な解答を与えうる者は、文字通り「愛に満ちた人」でなければならない。
と自分は考えている。
なぜなら、愛する者を思うあまり、その人の苦しみや痛みを担おうとするあまり、自らは
もう存在していないかのように振舞える人というのは真に「愛に満ちた人」だからである。
7physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/02/28(金) 19:59:52.12 0
>>6の続き
「私の思いがある」ということと「思いをもつ私がある」ということの違い。

この2種類の事態を混同することが、主観的意識の過剰性を生み不必要な自己への固執と
状況に対する敵意をもたらしていることは確実である。
「私の思いがある」という場合、その志向対象は自己の物理的状態から因果的あるいは相
関的に出現する「特定の価値観を含む意識」であるのは明白なのだが、それは、まるで、
自己の外部に「神」を定立して過剰な意味付けを行なうことの「逆バージョン」であり、その不当な意味としては、まったく同一なのだ。
そこで出現する過剰に意味付けられた自己(主観的意識)こそ、ハードプロブレムを生じ
させている元凶なのである。
8考える名無しさん:2014/02/28(金) 20:26:37.54 0
9physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/01(土) 20:34:52.84 0
「私の思いがある」という場合、それは有機体的器質を(特に脳器官において)もつ「私」
の個体性が、すべてをあるがままに捉えようとする「思い」に特殊(過剰)な意味付けを
与えてしまう。その結果、その「思い」は「私」の物理的身体的器質的に必然的宿命的に
世界にもたらされるであろう「一切の不幸な出来事」を「思えなくなる」のだ。
たとえば、強い身体性をもつ動物が弱い身体性しかない相手を空間的に否定するような事
態で、強い動物の脳内には「相手に対する無慈悲な反応」しか現れない。
この「相手に対する無慈悲な反応」とは、いわゆる<感情>のことではない。
これは、物理的に脳内に発生する単なる「神経反応」にすぎないのだ。
「私の思いがある」という場合、この「神経反応」が「思い」に摩り替えられてしまう。
しかし、本来の「思い」とは、そういう「相手に対する無慈悲な反応」ではなく、圧倒的
な<感情>のことなのである。
<感情>はそのとき、なにを「意識」にもたらすのか?
それは
「そこに有り得たものが失われしまうことへの憐れみ」である。
10physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/01(土) 20:36:42.79 0
*注記*

>>9>>7の続きです。
11physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/02(日) 22:46:31.81 0
【いわゆる「内観」が意識の起源なのではない、ということ】

他者との共通感覚を得るために進化してきた精神的技法とされる「内観」。
それは、おのれの内面に発生する「神経反応」を(自らが)観察することを唯一の方法と
する。はたして「内観」という方法は、本当に人間の「意識」を鍛え進化させてきたので
あろうか? だが・・・そもそも、「意識」とは進化するような何かなのか?
物理学は歴史的に確実に進化してきた。  しかし、哲学はそうではないと言われるのは
何故なのか?
「心理戦」という言葉がある。
それは、相手の内面で起こっていることを推測し行動を予想することで自分を勝利に導こ
うとすることだ。 では、ここで起こっている「相手の内面」とは何なのか?
それは、たぶん「意識」や「思い」という高次の精神活動ではなく、単なる「神経反応」
であろう。 「不快なものをなくしたい」「弱いものを排除したい」という物理的反応とし
ては当然の神経の現れでしかないもののことである。
つまり、「内観」が観察しているのは「自分の中の他者の神経反応」なのであり観察する主
体は、あくまで物理的身体的脳器官を保有する自分自身なのである。
ゆえに、「内観」は高次的主観的「意識」には何も関係していないと考えるべきで、低次的
主観的「神経反応」のみを助長する作業でしかない(なかった)と言い得るだろう。
12考える名無しさん:2014/03/03(月) 06:46:18.62 0
うんこーーーいんぽ、ちんぽっぽ
13physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/04(火) 00:05:51.13 0
【意識に関する人間と他の動物(およびロボット)との違いについての若干の言及】

物理的身体的「神経反応」は、動物でもロボットでも同じである。
なぜなら、それらは構造上「物質的」であることについては同一であり、外部からの刺激
に反応するということにおいても類似しているからだ。
もちろん、人間も、そういう意味では同じ物理的存在である。
だが、人間と他の動物(およびロボット)とを分かつ要素があるとしたら、それは何だろ
うか? そういう要素を検証することは不可能なのだろうか?
これもハードプロブレムの問題に関係してくる途轍もなく困難な命題である。
これに対する一定の仮説を提起してみよう。
「人間は自らが人間であるという意識をもつかぎり他の動物やロボットなのではない」
つまり
「他の動物やロボットは自らを人間であると意識できないかぎり人間ではありえない」
ということである。
これは、どういうことかというと
物理的身体的「神経反応」を担う主体そのものを「意識」するという作用が人間の条件で
あることを意味しているのだ。
そのことは、たとえば、こういうことで説明可能かもしれない。
ある周波数の音を人間は物理的身体的脳機能として感知する。それとまったく逆のことが
意識について起こっているとイメ−ジしてみるのである。
つまり、脳機能上の「神経反応」を「意識の特定の波形」が認識しているという存在論的
メカニズムを仮構するということなのだ。
この図式によれば、あの信じ難い現象(遠方にいる誰かの身に起こったことを察知する能
力などの、いわゆる第六感(シックスセンス)と呼ばれる現象)を理論的に解釈できるよ
うに思えないだろうか?                 
14physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/04(火) 00:39:24.37 0
>>13の続き
それは、こういうこととして・・・・
特定の意識の波形は、空間の中を伝わり同じ波形同士と接続している。そして、その波形
が認識する個体Aの何らかの「神経反応」は、離れたところに居る個体Bに意識の波形を
介して覚知されるのである。つまり、個体Bは、個体Aが感じている(感じた)生々しい
「神経反応」を意識できるということになる。だから、その「神経反応」を通じて個体A
に何が起こっているのかが個体Bにもある程度わかってしまうということである。

ちなみに、第六感は「実験によって無いことが証明された」というデマがあるのだが、そ
れは「実験の限りでの第六感はありえない」と言い方を変えたほうがよさそうである。
脳機能の錯覚としての「不思議な現象」というものは、すべて「神経反応」で起こる限り
での錯覚でしかなく、「意識」の深みを何も表現していないに等しいからである。
15physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/04(火) 16:30:20.93 0
【かつては「神のハードプロブレム」が存在していたということ】

神が実体として存在し、それが何であるかという「難問」が人々を苦しめていた時代があ
った。 人々が、まるで楽園の住人のように(実は権力によって知ることを奪われていた
のかもしれないのだが)物事の成立する根拠に盲目であった時代、神が実体としてこの空
間の何処かに存在するであろうことは疑うべくもないことだったのだ。
そのことを「神のハードプロブレム」と呼ぶことにする。
ちなみに「神のイージープロブレム」は、神と人間との「取り決め」に関することであり、
もっぱら政治的宗教的意味合いをもつ事柄であるのは説明するまでもないだろう。
しかし、これらの問題は「神そのものを証明する」という方法ではなく、あらゆる物事の
原因を「知る」という諸学を通じあるいは人智を積み重ねる地道な作業によって克服され
てきたのである。 
その結果、あたかも知恵の実を食べた人間が「楽園と神を喪失した」ように、我々は今や
神の存在証明よりも神の非在証明を容易に理解できるまでに至ったのだ。

そして次なる「難問」が我々の前に立ち塞がっている。
それが、「意識のハードプロブレム」言い方を変えるなら「人間のハードプロブレム」なの
である。
これの克服は、残念ながら聖書にも予言されていない。
もしかすると、この時代にふさわしい新たな≪預言書≫を作る必要があるのか?
自分は、この問題を解く鍵が、「知」であるというより<想>ではないかという気がしてい
るのだ。
想うままに生きることが限りなく困難なこの時代に、人間を実体的物理的認識の呪縛から
解放し主観的意識をもつ人間の真の姿に気付かせる契機は<想>にあるということである。
16physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/05(水) 15:42:58.15 0
【意識の本来の作用に「記憶」や「予期」は関係していないということ】

「記憶」には2種類ある。 「意識的記憶」と「無意識的記憶」なのだが、これらはとも
に意識の波形にとっては重要でない出来事であり、むしろそれを損なう恐れのある非本来
的な働きでしかないことに注意しなければならない。
「意識的記憶」とは、たとえば歴史の年号を覚えようとしたり、解法を得るための一定の
手続きを身につけようとしたりすることに動員される意識作用のことであり、
「無意識的記憶」とは、タイピングの作業に馴れたり、何らかの身体的運動が自然に行な
われたりするときに働いている無意識作用のことである。
「意識的記憶」において、意識の波形は「記号的信号を捉え」「脳に蓄えようとする」
その際、意識は、その作業に専念するあまり、そのような記号をもつ自分自身の個別性を
忘れ、一般的な記号の量、質のほうへ傾斜してしまうのだ。
意識とは、
【「私の思いがある」ということと「思いをもつ私がある」ということの違い】のところで
説明したように、「思い(記号)がある」すなわち一般的な記憶を成立させることに本来の
働きがあるのではなくて、そのような「思い(記号)をもつ私がある」という全体の中の
個別性を認識することを主たる働きとしなければならないのである。
そうでなければ、意識は「思い(記号)」に自動化され意識本来の流動性を失い、あたかも
「思い(記号)」を、つまり「私の思い(記号)」を私自身であるかのように錯覚してしま
うのだ。
このような意識の暴走は、人間が「神のハードプロブレム」を克服するために「知」を探
求したことが招いた必然的事態なのだろうか?
この事態を神の実体を暴いた人間への「神罰」と解するのも、あながち間違ってはいない
と思うのである。
17physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/05(水) 15:49:02.08 0
>>16の続き
ところで、「意識のハードプロブレム」の前で立ち止まった者は、「私の思い(記号)」があ
り、その「思い(記号)」こそ私だと確信している。 それは、「思い(記号)」にとって意
味のある言葉を変えて言えば有益なことなのだろうか? 一見「思い(記号)」が意識的に
強められることで「思い(記号)」にとっては、そうでないよりも有利な良い状態が保てる
ように考えられがちなのだが、そこにもまた錯覚が忍び込んでいるのである。
たとえば、自分は将来パイロットになるとか考古学者になるとかエンジニアになるとかい
う目標をたて、それに必要な「思い(記号)」を蓄積していくという場合には、その「思い
(記号)」は、ただその目標についてだけ意味があり有益であるにすぎない。
だから、その目標を一度立ててしまった主体は、そうやって獲得した「思い(記号)」の重
さに影響を受け、現に今活動しなければならない「意識の流動性」を確保できなくなるの
である。 
我々は、医者になりたいとか弁護士になりたいとか政治家になりたいとかいう《動機》を、
脳器官あるいは意識のどういうところから得ているのだろうか?
その《動機》を、「私の思いがある」かのように先天的に導き出されてくるものと考えてし
まうのが錯覚なのである。
語弊があるのを承知で言うならば
《動機》とは、意識の流動性を実現している主体にこそ与えられる「神の声」のようなも
のなのだ。
18physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/05(水) 15:49:56.86 0
>>17の続き
そのように錯覚によって《動機》付けられた者は、もっぱら「知」に意識を向け、<想>
を排除しようとする。 なぜなら、想うことは「知」の力を弱めるからだ。
しかし、想いをやめてしまった「知」ほど愚劣で気持ち悪い精神の質は他に無いのである。
我々は身近に、そういう「知」をいやというほど見ている。
「知」を誇る「人命を軽視した物理学者」
「知」を誇る「患者の気持ちなど眼中に無い医者」
「知」を誇る「儲け主義に走る法律家」
「知」を誇る「生徒を飯の種としか考えていない教育者」
「知」を誇る「出世と保身に汲々とし社会のことなど何も考えていないに等しい官僚」
「知」を誇る「センセーショナリズムに明け暮れるジャーナリスト」
おわかりだろうか?
もはや、それは《動機》ではなく、「知」の麻薬に汚染された意識の成れの果てなのだ。  
19physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/05(水) 18:25:52.33 0
余談になるが、
最近、顕著になってきている現象に次のようなことがある。
「当たり前のように行なわれていること、あるいは当たり前のように行なわれないこと
の理由を知りたいという馬鹿げた質問」
たとえば、「人間が動物を食べるのは何故ですか?」とか「人を殺してはいけないのはどう
して?」とかいう類の答えを出すことが非常に困難な「愚問」のことだ。
いったい、これらの問いに適切な回答はあるのだろうか?
たぶん無いだろう。 なぜなら、それらの問いには、結局のところ「神様とはどんな方で
すか?」という神の実体を前提とする中世以前の議論とほぼ同じ内容しか含意されていな
いからである。 
我々はすでに、それらの直接的な問いが無意味であることを哲学的に理解している。
その回答を出せる客観的実体としての神など存在しないからだ。
なので、あたかも神の御託宣のように「命の大切さを知るため」であるとか「あなたの心
が悲鳴を上げるから」とかいう説明はいらないのである。
ついでに「与えて頂いた命に感謝しましょう」という気持ち悪い言明もいらね−と言いた
い!
この現象は、「神のハードプロブレム」を「知」によって乗り越えてきた人間に起きている
単純な「先祖返り」のようなことなのだろうか?
自分は、そうではないと考えている。
むしろ、過剰な「知」が自らを神格化するために発している不気味な「問い」のように思
えてならないのだ・・・・・。
20考える名無しさん:2014/03/05(水) 18:40:57.18 0
え?どいうこと?
21考える名無しさん:2014/03/06(木) 09:07:24.45 0
>>20
だから、ちんぽっぽ
22physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/06(木) 22:55:12.16 0
余談のついでに、
「書物」を読む、その読み方が「知」の獲得を目指すものであるかぎり、また、そういう
読み方しかできないような「書物」であるかぎり、その「書物」は少なくとも人間の意識
にとって無価値であることを知っておくべきだろう。
そういう「書物」は、読むほどに読者の意識をドロ沼化させるのだ。
意識にとって重要な<想>を喚起する「本」は、ごくわずかしかない。
そういう「本」との出会いが、人間の意識を正常化に向かわせ意識のハードプロブレムを
乗り越えさせるのかもしれないのである。
23考える名無しさん:2014/03/06(木) 23:20:24.76 0
で?
24physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/06(木) 23:41:33.24 0
>>22の続き
つまり、こういう言い方もできるかもしれない。
「知」に固執して「本」を読み漁る者は、非常に高度な神経をもつゴキブリ並みの動物で
あるとw なぜなら、「知」を求めるということは、物理的身体的脳器官が、環境に有利な
記号を獲得しようとする「神経反応」にすぎないからだ。
人間は、「知」によって「神のハードプロブレム」を克服し、やっと「高度な神経をもつゴ
キブリ並みの動物」に成り得たのである!!w
意識が、人間とゴキブリを「思い」としてではなく「そのようにあるもの」として区別で
きるまで(それは、けしてゴキブリの意識を知ることによってではないがw)「知」の奴隷
であるこのカテの住人のほとんどが「ゴキブリ並みの動物」にすぎないのだwww
25physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/06(木) 23:44:39.48 0
オレのスレには、ゴキブリは出入り禁止だから!

わかってるよね?w
26考える名無しさん:2014/03/07(金) 01:08:54.22 0
      __ `ソ/-=・=- -=・=-\/ ̄/  
          \/゚    ,ハ      \/   >>25 堵愚慧螺を四度欄ようじゃな?
            ヽ.   ヽ. ⌒⌒ ノ    /   
            ヽ. ヽ、`==´ / /   ウどどんペッじゃろろ?
        /∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ_  ノ 丶
        ∵∴ ~''(_)(_)(_)(_)ソ      ー-゙:.、
        ∴∵ ヽ/`、_, ィ/            `ヽ_
        ∵∴/ ∴∵∴/            ゙i"
        ∴∵∴∵∴∵/          _..ハ
        \∴∵∴∵ ノ        、r‐、>ー ヽ
          \__ /        :.ヾ、ニ二 /
             /     x     /
           /    ´ ,.!_;;;:r''..    ` 、
        ,...-‐'   _,....-‐'"  `'-、::    ` 、
       /..  ,....―'"        `ー、__  `l
      /_;::::-'"            /::::::::::::::::ノ
   ,.../._r'"               ヽ`''「 ̄ ̄
  (__ノ'                 \_\
27physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/07(金) 20:03:53.81 0
【状態学のすすめ】

「状態学」という学問分野の成立を強く望む。
それは、旧来のひたすら「知」を追求する学問の体系からは外れたものとして、しかし、
あたかも断崖絶壁に追い詰められた者がそこから翼を広げて跳躍するような新たな「方法
論」として、それを学問に取り入れる必要が迫っているように思えてならないからだ。
状態学の「状態」は、シチュエーションという意味に近い。
あらゆる学問には、それが現実の場面に適用される「状態」があるはずであり、法的状態
学、数的状態学、物理的状態学、言語的状態学はいうに及ばず、哲学的状態学、宗教的状
態学というのもありえるだろう。
その学問的方法は、当然<想像力>によって担保されなければならない。
たとえば、「物理的状態学」でいえば、物理学の所産が「経済学」や「政治学」や「倫理学」
の見地から何をもたらすのかだけを問うのではなく、「状態学」では、こういう命題を立て
るのである。
「この物理学が生んだものから想像される事とは何か」と・・・。
そこで想像された事態は、人間の身体的「神経反応」ではなく「意識」そのものを直撃す
るだろう。
そして、様々な想像を積み重ねた「意識」は現実に対して「より寛容になる」はずなのだ。
「知」だけを突き合わせた学的体系の中では、そのような意識の豊饒性とも呼ぶべきこと
は起こりようがないのである。
28physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/07(金) 20:04:56.73 0
>>27の続き
これに関して最も期待される分野が、「犯罪状態学」である。
つまり、こういう命題が提起されるのだ。
「この犯罪者から想像される事とは何か」
我々は、とくに凶悪犯罪を認識したような場合、「法学」や「倫理学」や「教育学」や「社
会学」それにお決まりの「心理学」まで総動員して「知的解決」を図ろうとする。
しかし、そのような「知」はすべて「意識のハードプロブレム」を乗り越えられない身体
的「神経反応」をベースとした「人間存在という実体の錯覚」から生じている「裁きしか
もたらさない憐れむべき知」に過ぎないのである。
そもそも、犯罪は「知」に対する復讐として発生するのだから、社会全体が<想い>に満
ちた状態になれば、そのような悲しむべき事態もなくなっていくのかもしれないのだ。
あくまで希望的観測ではあるが・・・・。
29考える名無しさん:2014/03/07(金) 20:14:36.34 0
      __ `ソ/-=・=- -=・=-\/ ̄/  
          \/゚    ,ハ      \/   >>28 堵愚慧螺を四度欄ようじゃな?
            ヽ.   ヽ. ⌒⌒ ノ    /   
            ヽ. ヽ、`==´ / /   ウどどんペッじゃろろ?
        /∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ_  ノ 丶
        ∵∴ ~''(_)(_)(_)(_)ソ      ー-゙:.、
        ∴∵ ヽ/`、_, ィ/            `ヽ_
        ∵∴/ ∴∵∴/            ゙i"
        ∴∵∴∵∴∵/          _..ハ
        \∴∵∴∵ ノ        、r‐、>ー ヽ
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        ,...-‐'   _,....-‐'"  `'-、::    ` 、
       /..  ,....―'"        `ー、__  `l
      /_;::::-'"            /::::::::::::::::ノ
30physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/08(土) 00:11:54.98 0
【意識の還元可能性への若干の言及】

意識は因果的に「神経反応」へ還元できるという説がある。 これは、まったくの思い違
いだろう。 意識を、もしそのような物質性へ還元しようとするなら、それは特定の「神
経反応」に帰されるべき何かとは思えないからである。
また、意識は存在論的に三人称の客観的事物には還元しえないというのも同様に錯誤を含
んでいる。 なぜなら、一人称の主観的実体は存在しないのである(それは意識が見せる
幻にすぎないものだった)から、意識それ自体は、いわゆる主観以外の形式すなわち客観
的に認識されうる出来事であると看做されるからである。 
31考える名無しさん:2014/03/08(土) 08:53:59.97 0
      __ `ソ/-=・=- -=・=-\/ ̄/  
          \/゚    ,ハ      \/   >>30 堵愚慧螺を四度欄ようじゃな?
            ヽ.   ヽ. ⌒⌒ ノ    /   
            ヽ. ヽ、`==´ / /   ウどどんペッじゃろろ?
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32physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/08(土) 14:17:44.61 0
>>28の続き
【状態学において危惧されるいくつかの問題点について】

まずひとつが、「記憶のバイアス」ということである。
たとえば、「犯罪状態学」において、ある犯罪者から想像される場面(シチュエーション)
を意識が拾う場合、それが、おのれの「神経反応」の蓄積された記憶を志向してしまうこ
とが十分に考えられるだろう。
それは、犯罪者の記憶(いわれなき迫害や世間の冷たい視線など)に同調する自分の記憶
が社会の中にありえない幻想をもたらしてしまうようなこととして。
しかし、そのようにして学的に表現される場面(シチュエーション)は、必ず「一般性の
欠如」「過剰な否定判断」という性質を伴っているはずなのだ。
なので、客観的にそれを見究めることは十分可能であると思われる。
本来、状態学的に意識が拾わなければならないのは、「自己の脳器官内に蓄積されている
記憶」なのではなくて、記憶に同調するしないに関わらず存在する犯罪者と社会(世界)
との関係性(状態)に見えてくる何かなのである。
だから、状態学の「判定者」は、つねにこのことに気をつけておかねばならない。
そうでなければ、慈悲心と寛容さをもたらすはずの<想い>が、記憶の怪物を呼び覚ます
ことにもなりかねないからだ。
33physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/08(土) 23:43:29.82 0
【意識とは脳過程にすぎないのではない】

意識が脳過程(具体的には神経反応)にすぎないというとき、観察されたものと観察する
ものとの単純な混同によって意識を観察されたもののほうへ締め出そうとする立場(唯物
論)と、もうひとつ観察する主体の中に意識を閉じ込めてしまおうとする立場(唯心論?)
がある。
しかし、意識とは、そもそも脳過程にすぎないものではないのであり、それは正確にいう
と「世界内的な物質過程そのもの」なのである。
34考える名無しさん:2014/03/09(日) 02:22:16.24 0
      __ `ソ/-=・=- -=・=-\/ ̄/  
          \/゚    ,ハ      \/   >>33 堵愚慧螺を四度欄ようじゃな?
            ヽ.   ヽ. ⌒⌒ ノ    /   
            ヽ. ヽ、`==´ / /   ウどどんペッじゃろろ?
        /∴ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ_  ノ 丶
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35physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/09(日) 16:20:33.01 0
【意識のハードプロブレムにおける最難関(志向性の問題)】

現在の教育制度において、身体的脳器官には機能的に特別な差異が認められないにも関わ
らず、圧倒的に「長子」が有利であるのは何故なのか?
教育に金がかかる、せめて「長子」ぐらいはいい学校へ行かせようとする親の思惑が働い
ているからそうなるのだ、というのは単なる環境的物理的解釈にすぎない。
問題は、それだけなのだろうか?
自分(次子)の経験では、学業をすべきと定められた期間の中で、自分と長子とを比較し
てみた結果、ある決定的な違いが両者の間にあることに気付かされたのである。
それは、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」を長子は確実に持っている(持
たされている)が、自分には今だにそれが実感として無いということだった。
つまり、長子は小学生のときから「自分がやるべきことをすでにわかっている」かのよう
に学業に励み学生生活を過ごしていたのだが、一方、次子である自分は、「学業を何のため
にしなければならないのか」すら明確になってはいなかったのである。
これは、決められた時期に教育を受けなければならない現在の教育プログラムの中では、
凄まじいばかりのハンデキャップなのではないだろうか?
おまえがバカだったからだと言われればそれまでなのだがw(ポリポリ)
36physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/09(日) 16:22:19.41 0
>>35の続き
そもそも長子と次子では、なにが違うのか?
外部環境に違いがあるとすれば、それは「長子出生から次子出生の間」であろうと思われ
る。 つまり、長子出生から次子が生まれるまでの間、親の関心は長子のみに注がれると
いうこと。 これは長子のみの特権である。
次子は常に、その出生のときから長子が得ていた関心の2分の1しか与えられることはな
いのだ。 この親から受け取る「関心の濃度の違い」が、「物事に対する関心の持ち方
(すなわち志向性)」の滋養と成立に影響をもたらしているのではないか。
0歳〜2、3歳までの間に「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」の素地とい
うか核のようなものが脳器官の中に形成されるのかどうかは定かではない。 それを物理
的に実験することは対象の年齢条件等を考えても人道的常識的に無理だろうと思われる。
だから、親の関心をより強く受けて育てられた長子だけに、「物事に対する関心の持ち方
(すなわち志向性)」という途方もなく貴重なアイテムが付与されているのだとしても、
それを直接に証明する手立ては今のところ無いのである。
37physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/09(日) 22:42:39.12 0
>>36の続き
ところで、ここで論じなければならないのは「意識のハードプロブレム」についてである。
この問題に無知な者にとっては、もし仮にそういうことがあったとしても、それが何だと
いうのだ?という印象だろうというのは想像に難くない。
なぜなら、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」を脳器官の中に一定以上の強
度で与えられなかったとしても、それは「関心の対象となる事物に対する知的好奇心をも
つことで補完できるじゃないか」と考えてしまうからだ。
タチの悪い教育者が、「生徒にやる気を起こさせる勉強」という場合、たいがいがそういう
腐り切った思考にもとづいているのである。
・・・・だが、はたしてそうなのか?
本当にそれで、「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」をもつのと同じ効果が、
その人にもたらされると言えるのか?
これこそ・・・この問題こそ、まさに「意識」と「脳器官」の作用についてあまりにも鈍
感で無知で愚かな人間が長年にわたり繰り返し犯し続けてきた人間を含むすべての世界内
存在への許し難い冒涜行為だったのである!!
結論だけを先に言っておこう。 反吐が出るような内容なのだが・・・・
血の通った人間である親の「関心」を受けてつくりあげられた「物事に対する関心の持ち
方(すなわち志向性)」と、
ただの無機質な紙片とインクと、読み手によって何とでも変えられる情報にすぎない対象
的事物から出来上がる『物事に対する関心の持ち方』とに、
いったいどれだけの共通点、類似点があるというのだろうか?
おそらく、その両者は「言語上形式上同一に見えても中身(意味)は似ても似つかぬ」も
のであるはず!!
人類の「知」は、まだこんなことも理解できない地点にあるのだ・・・・・
なんと、暗澹たる話ではないか(苦笑)
38考える名無しさん:2014/03/10(月) 04:09:14.14 0
そもそも長子と次子では、なにが違うのか?
外部環境に違いがあるとすれば、それは「長子出生から次子出生の間」であろうと思われ
る。 つまり、長子出生から次子が生まれるまでの間、親の関心は長子のみに注がれると
いうこと。 これは長子のみの特権である。
次子は常に、その出生のときから長子が得ていた関心の2分の1しか与えられることはな
いのだ。 この親から受け取る「関心の濃度の違い」が、「物事に対する関心の持ち方
(すなわち志向性)」の滋養と成立に影響をもたらしているのではないか。
0歳〜2、3歳までの間に「物事に対する関心の持ち方(すなわち志向性)」の素地とい
うか核のようなものが脳器官の中に形成されるのかどうかは定かではない。 それを物理
的に実験することは対象の年齢条件等を考えても人道的常識的に無理だろうと思われる。
だから、親の関心をより強く受けて育てられた長子だけに、「物事に対する関心の持ち方
(すなわち志向性)」という途方もなく貴重なアイテムが付与されているのだとしても、
それを直接に証明する手立ては今のところ無いのである。
39考える名無しさん:2014/03/10(月) 04:10:21.49 0
          (  ,,ー一'  '´'-‐‐', ノ
           !◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟丿
           ( ,,ー一' '´'-‐‐',ノ     うどんじゃうどんじゃあべちんちん
            ) "ー=::=-', ヽ      ぷーちんこなめておばまんこきょひョックん
            /\ ヽニソ  ,/、      反知性主義の食い込みパンツョックん
           人   `ー'  .ノ
  ,r――--、,,_ノ r、 三 η   L___,,..-―‐-、
  (         〃ヽヽ //ヾヽ         )
  ヽ  `ヽ、  ⊂ニ ◎ ニ⊃    ,r''  /
   |lilifリハ  .: '、 _,.ノ,'   ,. }、     tf{´i, l|
.   Wリ小! .:     ,ゝ^ ::  ヽ     `!) Vl
   ゞ干ミ} :    /  _J_ 丶     }'´ /
    '、Yヾ :.   l  /ィ三三シ'^     / ノ
     ヾ.f'、:.:.    '´ '"~"'      /l'
      ヽ._):.:.、          ,. ' l
        トi、ヾ:.. 、     _,. - '   |
       /^ヾ!、丶 ` ¨""´         |
     /ヽ   丶、  `¨¨´       ト、
    /::::::::::丶、  `丶、  丶    | rゝ、
40physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/10(月) 22:30:08.82 0
【志向的意識作用とそれ以外の意識作用についての若干の言及】

志向的意識作用とは具体的現実的な外部への、はっきりとそれと特定可能な対象への関心
なのであり、抽象的想像的であるがゆえに特定することができない概念的対象への関心を
含んでいない。
つまり、こういうことができる。

志向的意識作用以外の意識作用のことを「覚醒的意識作用」と呼ぶ。
41physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/10(月) 22:31:06.02 0
【志向的連関希求性とはなにか】

たとえば、学生時代に「はっきりと特定できる出来事に対して忍耐した記憶がある」とす
る。 その場合、その忍耐心は、「はっきりと特定できる出来事」についての「志向的連関
希求性」をもったのだ。
その事態は忍耐心を歪める結果しかもたらさず、それ以後に現れる「はっきりと特定でき
る出来事への過剰な関わり」を誘発することになるだろう。
なぜなら、忍耐心とは本来、はっきりと特定できる対象へ向かうのではなく、むしろそう
いった物事には関係しないところで「自分ひとりの思いを超えた何かのために」発動する
のだと考えられるからである。
42考える名無しさん:2014/03/11(火) 02:22:00.37 0
【志向的意識作用とそれ以外の意識作用についての若干の言及】

志向的意識作用とは具体的現実的な外部への、はっきりとそれと特定可能な対象への関心
なのであり、抽象的想像的であるがゆえに特定することができない概念的対象への関心を
含んでいない。
つまり、こういうことができる。

志向的意識作用以外の意識作用のことを「覚醒的意識作用」と呼ぶ。
【志向的連関希求性とはなにか】

たとえば、学生時代に「はっきりと特定できる出来事に対して忍耐した記憶がある」とす
る。 その場合、その忍耐心は、「はっきりと特定できる出来事」についての「志向的連関
希求性」をもったのだ。
その事態は忍耐心を歪める結果しかもたらさず、それ以後に現れる「はっきりと特定でき
る出来事への過剰な関わり」を誘発することになるだろう。
なぜなら、忍耐心とは本来、はっきりと特定できる対象へ向かうのではなく、むしろそう
いった物事には関係しないところで「自分ひとりの思いを超えた何かのために」発動する
のだと考えられるからである。
43physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/11(火) 14:35:52.37 0
>>41の続き
無責任な教育者ほど、この志向的連関希求性という「心の癌」とも言うべき事態に恐ろし
く無頓着であり、むしろそれを憐れな生徒達に植えつけている。
そういう教育者のことを「発癌性教育者」と呼んではいけないだろうか?
まあ、軽い冗談だと思っていただきたいw(半分マジだがww)
にしても、「覚醒的意識作用」を促すのではなく、具体的現実的な志向的意識作用を煽り
そうすることが忍耐心を育てるのだとまで言い一人残らず志向性の泥沼へ引き摺り込もう
とする教育者には気を付けるべきだろう。
なぜなら、具体的現実的局面において志向的意識作用が有効であるのは、あくまで(志向
主体ではなく)志向対象からの客観的対症的処置を行なう場合に限られるからである。
もし、志向主体が「志向的意識作用」をおのれの意のままに行使しようとしたら、この社
会には、クスリを求めてさ迷うゾンビが溢れかえることになるのだ。
同様に、「覚醒的意識作用」をもちながら、それを物質化常用化している者は自分の世界
に引き籠り、やがて滅びに至るに違いないのである。
44考える名無しさん:2014/03/11(火) 17:19:31.41 i
>>42
支援してるよ
45physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/11(火) 20:30:54.26 0
>>43の続き
では、いったい、>>41のところで言及した忍耐心を本来的に導く「自分ひとりの思いを超
えた何か」とは、たとえばどのようなことなのだろうか?
ここは、「意識のハードプロブレム」を解明するための非常に重要な概念が含まれる部分な
ので詳しく語らなければならない。
おそらくは、意識の壁の前で立ち止まっている「知」の罪人たちは、こう思うに違いない
のだ。 「その自分以外の思いとは要するに、(お父さん)(お母さん)(先生)がそう言っ
てたから我慢しなきゃいけなんだよ、ということにすぎない」と。
つまり、それは何か高尚な「意識」がもたらしているというよりも、所詮は脳器官に刷り
込まれた具体的現実的な「記憶」を志向しているだけなのだと・・・・。
だから、「知」に凝り固まったバカは救いようがないのだ(ペッ)
よく考えてみるがいい。
我々は、すでに、こういうことに気付いているはずなのだ。

「いかなる具体的現実的な志向性を喚起する命令であっても、そこに意識に伝わる何かが
欠けているならば主体の意識は覚醒≠オない」 ということに!!

つまり、たとえ(お父さん)(お母さん)(先生)が、いかなる志向的記憶を刷り込もうと
しても、なにものにも屈しない強い本来の「意識」をもつ者は、そういう(お父さん)(お
母さん)(先生)の背後に「べつの何か」を捉えているのだ!!!
これが、脳器官にかかわる志向的な「神経反応」にすぎない現象を超えて作用する、「意識
のハードプロブレム」の謎を解く鍵のひとつである覚醒反応≠ネのである。
46考える名無しさん:2014/03/11(火) 22:29:35.11 0
無責任な教育者ほど、この志向的連関希求性という「心の癌」とも言うべき事態に恐ろし
く無頓着であり、むしろそれを憐れな生徒達に植えつけている。
そういう教育者のことを「発癌性教育者」と呼んではいけないだろうか?
まあ、軽い冗談だと思っていただきたいw(半分マジだがww)
にしても、「覚醒的意識作用」を促すのではなく、具体的現実的な志向的意識作用を煽り
そうすることが忍耐心を育てるのだとまで言い一人残らず志向性の泥沼へ引き摺り込もう
とする教育者には気を付けるべきだろう。
なぜなら、具体的現実的局面において志向的意識作用が有効であるのは、あくまで(志向
主体ではなく)志向対象からの客観的対症的処置を行なう場合に限られるからである。
もし、志向主体が「志向的意識作用」をおのれの意のままに行使しようとしたら、この社
会には、クスリを求めてさ迷うゾンビが溢れかえることになるのだ。
同様に、「覚醒的意識作用」をもちながら、それを物質化常用化している者は自分の世界
に引き籠り、やがて滅びに至るに違いないのである。
47physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/12(水) 22:56:48.88 0
>>45の続き
【あらためて論点の整理】

「意識のハードプロブレム」という空前絶後の巨大な認識の壁は、「神のハードプロブレム」
を聖書の予言どおりに「知」によって克服してきた人類に、さらに乗り越えるべき困難な
命題として与えられているのだった。
このアポリアは、やがて解かれるであろう。
我らの「知」のみならず全能を尽くしてこのことに真剣に取り組めば、人間の「意識」と
は何か、なぜ自分はここに居るのか、さらに「意識」は物質的身体のように滅びるのかと
いう究極の疑問に至るまで、いつの日か明確な回答が出るにちがいないのだ。
この問題の解明のために、脳器官的「神経反応」に根拠をもつ「志向的作用」と意識的
「覚醒反応」に導かれる「非志向的作用」との関わりと、それぞれの現象的実態を記述し
なければならない。 なぜ、そうするのかというと、その両者が未分化であることこそ、
自己自身への過剰な意味付けと、この世界をあるがままに認識する節度ある作法とを妨げ
ているように思えるからである。
そのために用意した論題として、
≪なぜ人は自分探しをしようとするのか≫ を語ってみることにしよう。
48physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/12(水) 22:58:03.94 0
>>47の続き
【なぜ人は自分探しをしようとするのか】

この行為を、意識の問題に絡めて本格的に探求しようとした形跡は今のところ無い。
なぜそうなのか、その理由は簡単である。
これを「知」に毒された学者どもは、ただ「志向的作用の迷走」としてしか評価してこな
かったからだ。
この行為の本来の意味を知ったとき、異国の地で「自分探し」をしていた若者を見殺しに
した日本政府の胸が悪くなるような非人道的処置の真実が暴露されるだろう。
「人質になったのは自己責任だ」という痛ましい発言で知られた、あの事件である。
なぜなら、「自分探し」とは「自分の具体的現実的志向性のための行為」であるというより
も意識的「覚醒反応」に導かれながら「非志向的に世界のありのままを捉えようとしてい
る」こととして理解されるべき現象だからだ。
それを「自己責任」と切って捨てるのは、まるで猛獣の前に這い出した赤ん坊に向かって
「自己責任」を言及しているようなものである。
その「覚醒反応」に導かれた純粋な魂の保護者は、まぎれもなく「国家」なのだ!!
49physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/13(木) 22:04:24.32 0
>>48の続き
そもそも、「自分探し」という言い方にも問題がある。
この言葉をつくったやつは、「意識」についてまるで無知な、「神経反応」だけが人間の
世界内的存在のすべてだと錯覚している無能な学者だったのではないかと思えてならない。
「意識の旅」に出ようとする者は、なにも自分の現実的具体的志向性を探したいわけでは
ないのだ。 だから、この場合「試行錯誤」というのも間違っていることになる。
「彼は今、人生の中で「試行錯誤」の途中なんだよ」と、分別顔で言うやつに限って、具
体的な成果を上げられない人間をけして認めようとはしないものだ。
「試行錯誤」を繰り返して意味があるのは、科学の実験のように辿り着く地点が仮説的に
見えている場合に限られる。しかし、「意識の旅」に目的地など無いのは明らかだ。
ゆえに、そこで「試行錯誤」などおこなわれるはずもなく、ただ「脳器官が紡ぎ出す有限
の志向的意志を世界意識の中で検証してみようとする無限の覚醒的意識だけが」そこで働
いていると推定されるのである。
そうであれば、「意識の旅」に出る者が「探している」のは、いったい何なのだろう?
それは端的に言えば、こういうことだ・・・・

「身体的脳器官によって発生した感覚が何らかの仕方で関わりをもってしまった世界から
意識されているであろう自己自身という存在」

つまり、脳器官から因果的に付随するだけの感覚的に発生するクオリアは広大な世界の中
へ泳ぎ出し、そこで世界意識という別のクオリアと結ばれるのである。
では、それを探してどうなるのかという話なのだが、それは次回へ譲ることにしよう。
50physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/14(金) 21:39:52.76 0
>>49の続き
親の関心を十分に受け、それがために具体的現実的な志向性を刷り込まれた身体的脳器官
的「神経反応」的クオリアは、自らの一次的生存領域において、まず力による支配を目論
むのである。
それは、「志向性」という具体的現実的特性からの必然なのであり、その「志向性」が強
ければ強いほど志向される外部は益々巨大で絶対的な地位を占め、自己の存在を失わせて
しまうほどになる。 
この支配性を賭けた争いは、あまりに現実的であり、まるで飢えた者同士が一個のパンを
奪い合って殺しあうような血みどろの凄惨な事態でしかないだろう。
もちろん、福音書の中でイエスが語ったとされる「剣を投げ込む争い」などでは、けして
ない。「志向性」の衝突からもたらされる争いは徹底的に愚劣であり反吐が出るほど醜悪
なのだ。 しかし、そこに<覚醒>した者の「意識」が降臨すると事態は別の様相を呈す
ることとなる。 
あたかも、視力を奪われた者が自分以外の他者を手当たり次第に撃ち殺していた悲惨な状
況から、視界が戻り少なくとも敵と味方の区別がついたかのように。 <覚醒>した者の
「意識」は、その「意識」の作用によって自己が他者なしには存在しえぬことに気付くの
である。 
ちなみに、「意識」のごく微細な波形が、将来、物理学的な何らかの装置で検出されたと
しても、そのことで「意識のハードプロブレム」が解明されたことにはならないのだ。
なぜなら、物理的な具体性をもってしまった「意識」は、その時点で「志向性」として認
識されるにすぎないからだ。 依然として「意識」は、それよりもさらに捉え難い何かと
して存在し続けるからである。
51physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/17(月) 00:53:28.81 0
【自由意志についての若干の言及】

この問題に関しては、古典的な決定論的立場はもとより、量子論的な非決定論的立場をも
あえて取らないことにする。 というのは、どちらの立場で考えようが、それは「井の中
の蛙」的発想でしかないからだ。 行為のすべてがあらかじめ決定されているから自由意
志など無いというのは、あたかも井戸の中に閉じ込められているから自分には自由なんか
ないんだと嘆く蛙のようであり、すべての現象や行為は偶然的であるから自由意志は有る
のだとするのは、まるで井戸の中に居ることも知らない蛙が自分はなんて自由なんだと浮
かれているようなものでしかないのである。
それらの思惟に限界を生じさせているのは、まぎれもなく「意識のハードプロブレム」が
解明しなければならない脳器官的「神経反応」と意識的「覚醒反応」の未分化的発想に他
ならない。 つまり、ここで言うところの「井戸」とは、脳器官を閉じ込めている身体の
ことであるのは明白なのだ。
52physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/18(火) 00:24:14.69 0
【意識の謎を解く鍵は主観的経験の深化以外の方法では発見できないだろう】

人間の生気≠ニいう神秘的な「もの」を、人類は客観的観察と研究の進化によって、そ
の解法を見出し乗り越えてきた。同様に意識という主観性の解法は「進化」ではなく独自
の<深化>によって発見されるにちがいないのだ。

意識のハードプロブレムの前に立ち竦むわれわれに必要な方法論は、「進化論」ではなく
<深化論>なのである。
53physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/18(火) 00:25:33.22 0
【深化の手がかりとしての命題】その1

なぜ人間は、使えもしない知識を得ることに必死になるのか?
ただ単に「差別化」しかもたらさない「知識の習得」をさせる教育に何の意味があるのか?
社会の「進化」について行くのがやっとな「哀れな鞭打たれる馬車馬」のように生きるし
かない者たちは、人間としての<深化>を遂げず物理的生物的に「進化」した動物として
死ぬだけなのかもしれないのに。
そんな惨めな生涯を予感しないのは、なぜなのか?
そんな運命に怒りに似た感情を覚えないのは、なぜなのか?
人間は、満足に使えもしない知識という重荷を背負わされる「進化しただけの動物」で
あることに本当に何の疑いももっていないのだろうか?
54考える名無しさん:2014/03/18(火) 00:37:41.68 0
ここも波平の巣窟かw


ご苦労なこったw
55physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/18(火) 13:15:37.58 0
【デイヴィッド・J・チャーマーズの方法論的問題点】

「意識のハードプロブレム」を言い出した彼の気付き≠ノは敬意を表するのだが、もと
もと数学的(客観的)思考を濃厚にもっていることが、その理論展開に破綻を生じさせて
いるように思えてならない。
彼は、意識という主観性を、なぜ客観的に理解しようとするのか? 
それではまるで古代から続いている、あの方法論的錯誤(真理を表現するのに客観的な事
物で証明しようとすること)の踏襲であろう。



【意識を解明するためには意識の事実を積み上げていくしかないのだが・・・・】

われわれは、それには気付いているはずなのだ。
しかし、主観的意識の事実を積み上げる方法が、たぶん分からないのだろうと思う。
これは、わかってしまえば「なんだ、そんなことか!」と誰もが言うにちがいない、そん
なことだ。そして誰もが今すぐにでもやれることなのである。(ただし、それ相当の覚悟は
いる)
覚悟の無い者は、ここから先を読まないほうがいいだろう。
あなたの今までの平穏無事な人生が、一変してしまうことになるかもしれないから。
56physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/18(火) 13:17:00.58 0
>>55の続き
【主観的意識の事実と、そうでない客観的事実とを見分ける方法】


端的に言えば、こういうことである。

主観的意識の事実は、それが気付かれた時点で、もうそれを裏切ることもそれに背くこと
もできないような凄まじい強制力を伴った事実であるということ。
客観的神経が認知する事実というのは、いくらでも裏切ることができるし、それに背くこ
とも簡単であるような事実であるにすぎないのだ。

この判断基準に照らして、現時点のあなたの人生が、どちらの「事実」に基づいているの
かを問い直してみるといい。 主観的意識の事実が、自分の経験にまったく見当たらない
人間のことを、哲学的に「ゾンビ」と呼んでいるのだが、あなたは人間だっただろうか?
それとも「ゾンビ」?w
57考える名無しさん:2014/03/18(火) 19:33:21.12 0
>>55
チャ−マ−ズの理論展開の破綻は、主観的意識に対して、数学的思考(論理実証主義的)で、
解明していこうとしたところにある。
客観的に理解して行こうとするよりも、形而上学的領野(=主観的意識)に対して、適正な選択が
成されていないところに、ハ−ドプロブレムの今後の課題がある。
58physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/18(火) 21:21:02.10 0
【深化の手がかりとしての命題】その2

さっきヒラめいたのだが、個体的身体的脳器官的動物的「進歩」と、世界的精神的意識的
人間的「深化」とを合わせて≪進化≫と呼ぶというのは、いいアイデアかもしれない。

それはともかく、おのれの「知」的営為を捨て切れない愚かな学者、研究者が、この意識
の問題を語る切り口は、まったく話にならないものがある。
まるで、それは、中世のキリスト教的ドグマに洗脳された司祭が、人間の真摯な心の問題
について「おまえは悪魔に憑かれている」とか「神のご加護がありますように」とかホザ
いていたような事態と、さして変わらない状況なのだ(苦笑)
これを「現代の学問的呪縛」とでも言ったらいいのだろうか?
人間の意識を、難解な数式に置き換えられるとか、わけの分からない物理記号に翻訳でき
るとか本気で信じている哲学者、教育者などが、あまりにも多すぎるのである。

たとえば、こんな問いを発してみるのは意識を考えるうえで有益かもしれない。
「人間が最強を目指すのは何故なのか?」
オリンピックの陸上100メートル走で最強であることは、その当人にとってどういう意
味があるのか? それは、数的に計測される前人未到の領域を踏破したことで個体的身体
的脳器官的動物的「進歩」を果たしたことは確かだろう。 しかし、その「進歩」のため
に彼の世界的精神的意識的人間的「深化」が犠牲になってはいなかっただろうか?
勝てばいいという思考のあまり、人間的に大事なもの大切にしなければならない「意識」
を忘れていたことはなかっただろうか?
もし、人間の意識なんか脳器官の機能と同じものだよ、という指導者が居て、この100メ
ートル最強のランナーにアドバイスをするとした場合に、こんなことを言うとは思えない
だろうか?
「きみの叩き出すタイムがきみのすべてなんだから練習以外のことは何も考えなくていい
んだ。 人間関係で悩んでるヒマがあったら練習、練習! きみを悩ませる雑音や障害に
なるものは、すべてこっちで片付けてやるから安心して練習に励んでくれたまえ!」

「進歩」だけして「深化」しない状況が、いかに危険か・・・・・戦争における最終兵器
の使用などの例を見るまでもなく自明だと思うのだが。
59考える名無しさん:2014/03/19(水) 00:04:39.67 0
【深化の手がかりとしての命題】その2

さっきヒラめいたのだが、個体的身体的脳器官的動物的「進歩」と、世界的精神的意識的
人間的「深化」とを合わせて≪進化≫と呼ぶというのは、いいアイデアかもしれない。

それはともかく、おのれの「知」的営為を捨て切れない愚かな学者、研究者が、この意識
の問題を語る切り口は、まったく話にならないものがある。
まるで、それは、中世のキリスト教的ドグマに洗脳された司祭が、人間の真摯な心の問題
について「おまえは悪魔に憑かれている」とか「神のご加護がありますように」とかホザ
いていたような事態と、さして変わらない状況なのだ(苦笑)
これを「現代の学問的呪縛」とでも言ったらいいのだろうか?
人間の意識を、難解な数式に置き換えられるとか、わけの分からない物理記号に翻訳でき
るとか本気で信じている哲学者、教育者などが、あまりにも多すぎるのである。

たとえば、こんな問いを発してみるのは意識を考えるうえで有益かもしれない。
「人間が最強を目指すのは何故なのか?」
オリンピックの陸上100メートル走で最強であることは、その当人にとってどういう意
味があるのか? それは、数的に計測される前人未到の領域を踏破したことで個体的身体
的脳器官的動物的「進歩」を果たしたことは確かだろう。 しかし、その「進歩」のため
に彼の世界的精神的意識的人間的「深化」が犠牲になってはいなかっただろうか?
勝てばいいという思考のあまり、人間的に大事なもの大切にしなければならない「意識」
を忘れていたことはなかっただろうか?
もし、人間の意識なんか脳器官の機能と同じものだよ、という指導者が居て、この100メ
ートル最強のランナーにアドバイスをするとした場合に、こんなことを言うとは思えない
だろうか?
「きみの叩き出すタイムがきみのすべてなんだから練習以外のことは何も考えなくていい
んだ。 人間関係で悩んでるヒマがあったら練習、練習! きみを悩ませる雑音や障害に
なるものは、すべてこっちで片付けてやるから安心して練習に励んでくれたまえ!」

「進歩」だけして「深化」しない状況が、いかに危険か・・・・・戦争における最終兵器
の使用などの例を見るまでもなく自明だと思うのだが。
60考える名無しさん:2014/03/19(水) 10:13:25.36 0
親の関心を十分に受け、それがために具体的現実的な志向性を刷り込まれた身体的脳器官
的「神経反応」的クオリアは、自らの一次的生存領域において、まず力による支配を目論
むのである。
それは、「志向性」という具体的現実的特性からの必然なのであり、その「志向性」が強
ければ強いほど志向される外部は益々巨大で絶対的な地位を占め、自己の存在を失わせて
しまうほどになる。 
この支配性を賭けた争いは、あまりに現実的であり、まるで飢えた者同士が一個のパンを
奪い合って殺しあうような血みどろの凄惨な事態でしかないだろう。
もちろん、福音書の中でイエスが語ったとされる「剣を投げ込む争い」などでは、けして
ない。「志向性」の衝突からもたらされる争いは徹底的に愚劣であり反吐が出るほど醜悪
なのだ。 しかし、そこに<覚醒>した者の「意識」が降臨すると事態は別の様相を呈す
ることとなる。 
あたかも、視力を奪われた者が自分以外の他者を手当たり次第に撃ち殺していた悲惨な状
況から、視界が戻り少なくとも敵と味方の区別がついたかのように。 <覚醒>した者の
「意識」は、その「意識」の作用によって自己が他者なしには存在しえぬことに気付くの
である。 
ちなみに、「意識」のごく微細な波形が、将来、物理学的な何らかの装置で検出されたと
しても、そのことで「意識のハードプロブレム」が解明されたことにはならないのだ。
なぜなら、物理的な具体性をもってしまった「意識」は、その時点で「志向性」として認
識されるにすぎないからだ。 依然として「意識」は、それよりもさらに捉え難い何かと
して存在し続けるからである。
61考える名無しさん:2014/03/19(水) 12:06:20.30 0
>>60
ハ−ドプロブレムの問題は、結局のところ意識(精神)と物質の概念を明確化した
時点より始めなければならない。
つまり、“物質”の基本概念は、“心身二元論”を基底とした延長(タテ、ヨコ、高さ)である
と言う明確な「物質の定義」から始めることである。

物質が三次元(タテ、ヨコ、高さ)で構成されたものであり、現代の物理学での“基本概念”となっている。
「物質」の基本概念が明確になることにより、“精神”とは延長(三次元空間構成)しないものと定義される。
精神と物質の明確なる定義から、ハ−ドプロブレムの問題、或いは、哲学上の「心身合一」の問題を究明して行く
ことが一連の問題を解決する“スタ−トライン”なのである。
62physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/19(水) 17:32:51.88 0
>>61
>ハ−ドプロブレムの問題は、結局のところ意識(精神)と物質の概念を明確化した
>時点より始めなければならない。

すみませんが、
そういうアリストテレス風の客観主義、科学史観のほうでは、「意識」の問題は語れない
はずだというのが自分の意見なので、そういう論を展開したければ自スレでも立ててやっ
てもらえませんか?
物質的反応との相関とか、付随性とか、物理学者数学者崩れの「哲学者?」が言ってるこ
となんて、まったく信じてないんでw 
63┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 18:20:40.21 0
まあ、進化論の誤ビュウが根深いのは、おそらく歴史的に進化より、進歩の方が先に発明されたんだろうね。

進歩という上昇史観は、技術時代の近代以前に、キリスト教の終末論にあるというが、
実際はやはり技術進歩に生まれた史観なんだろうね。
やはり進歩するのは技術だけで、あとは変化しかないんだろうね。

進化論の環境適応、自然淘汰さえ言い過ぎな気がする。
単なる偶然じゃないのかな。
64考える名無しさん:2014/03/19(水) 18:25:36.86 0
>>61
>ハ−ドプロブレムの問題は、結局のところ意識(精神)と物質の概念を明確化した
>時点より始めなければならない。

すみませんが、
そういうアリストテレス風の客観主義、科学史観のほうでは、「意識」の問題は語れない
はずだというのが自分の意見なので、そういう論を展開したければ自スレでも立ててやっ
てもらえませんか?
物質的反応との相関とか、付随性とか、物理学者数学者崩れの「哲学者?」が言ってるこ
となんて、まったく信じてないんでw 
65┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 18:38:53.70 0
ようするに、同じ意識でも意味がいろいろあると
@意識がある
A意識的にやる
B自意識
66┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 18:42:32.23 0
意識が言語の問題だとすれば、結局二元論に行き着く気がするなあ。
ソシュール的に言語って相対的にできているから。
67┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 18:50:39.02 0
結局、自意識とか言語に行き着く気がする。
なら言語をもたない動物にも意識がある、とはどういうことか。
アメーバにも意識があるのか。
68┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 19:01:09.83 0
自意識とか誰もが持つのかな。
デカルト的な社会的流動性の中でないと覚醒しないんじゃないかな。

その意味ですごくキリスト教的概念な気がする。

なぜキリスト教があんなにかっこよかったかといえば、
その禁欲主義故に、一つの自意識の覚醒訓練だったからじゃないかなと思う。
日常を疑い神を信じることで、唯一神と対話する唯一の自我。
他者を愛するという言語は、他者/他者を愛する自己を覚醒させる。

自己に覚醒するとは、ある種の自己中心性に目覚めること。
69┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 19:12:40.06 0
そうはいってもキリスト教なんて田舎の利権のシステムだったわけで、
ある種の教義が厳格になるのは宗教革命以後。
まさにプレ近代であり、デカルトの時代。

結局、自意識を覚醒したのは近代的なマクロコンテクスト。
ようするに、都市化して金が流通して、人口調査という人が多数の一粒になって、経済原理がシステムを決め始める。
これは逆説的ではあるが、人が一粒となり無個性になったときに、自意識という自己中心的概念を覚醒する。

だから自意識って、多数の他意識と相対的でであり、また経済的なんだよね。
自意識がかならずモラルに目覚めるまさに経済性に覚醒するからだよね。
自意識はかならず、我は多数の一粒でしかないから始まる。
まあ、そりゃ古代にも裕福な人は禁欲主義から自意識に目覚めたんだろうが、
ほんとにひとにぎりでしょ。
70┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 19:22:53.26 0
たとえば性の問題しかり。
性的な禁欲主義は明らかにキリスト教文化だ。
キリスト教以前の文化は性に寛容である。
とはいっても、キリスト教的禁欲主義から一般に広まるのは宗教革命以降。
ようするにそこにはやはり近代的なマクロコンテクスト、経済原理が働いている。
性が金になる。これは都市化において飲みだ。
知り合いばかりの田舎では性は娯楽であり、共有財産だ。夜這い、祭りの乱行の世界。
71┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 19:35:14.46 0
性が金になるのは経済的にも合理性がある。
田舎では性が自由に共有されていた人々が都会にでるといかに、性処理をするのか。
筆下ろしをしてくれる近所のおばさんもいない。
町で探しのも大変だね。
なら売春するのが合理的。
72physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/19(水) 21:06:42.10 0
>┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M


すみませんが、
ここで、あなたの仕入れた知識を披露してもらってもしょうがないんですよ(苦笑)
「意識」を解明するには主観的意識の事実を積み上げるしかないというのが自分の考え
なので、その方向で投稿できないんなら他所でやってもらえませんか?
73physica ◆jPpg5.obl6 :2014/03/19(水) 21:48:23.67 0
すみません
74physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/19(水) 23:13:58.59 0
【意識の探求の仕方についての基本的問題】

主観的意識を探求するといっても、いったいどうやればいいのか、その着地点さえ見えて
いない状況なのではないだろうか? それもこれも、本来、哲学的でもなんでもないよう
な、ただ単に知識だけは豊富にありますよ、という諸種の学問からドロップアウトしてき
た者が、この分野を荒らしまくったせいでもあるのだ。
では、そこまで言うなら、哲学にふさわしいおまえが、その方向性を指し示してみろとい
う話だろう。 よろしい、ご期待に応えましょう!w
まず、主観のそれを考える前に「客観」の探求がいかに行われてきたかを振り返ってみよ
う。 客観の探求は言うまでもなく「神の探求として完全な客観性を求めること」に始原
をもっていたのだと考えられる。 それは、外部に万物を支配しコントロールする絶対者
を発見しようとする試みであり、したがって、その探求の「着地点」は明白なものだった。
「客観的に完全なシステムの正体を知ること」に他ならなったわけである。
では、この文脈で「客観」を「主観」に変えてみると、どうなるだろう?
「主観的に完全なシステム」というのは、ちょっと違和感があるので、こう言い換えてみ
る。 「主観的に完全な意識の正体を知ること」
これが、意識の探求のための基本原理である、というのが自分の意見。(ポリポリ)
たとえ、そこに何も無かったとしても、第一歩を踏み出す動機にはなりうるだろう。
結局のところ「神」が、人間の「神経反応」に還元して考えられるようになったことでい
うと、これはあくまで推測の域を出ないが、「意識」もまた何らかの還元を受けるのかも
しれない。 どこに還元されるかは今のところ定かではないのだが・・・・
75┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/19(水) 23:58:13.75 O
>>72
そうなのか
結構、いいとこいったと思ったんだけどなあ(笑)
76┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 00:02:01.88 0
ようするに無時間性という形而上学へ引きこもった思考って、ダメだよってこと
77physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/20(木) 10:12:23.59 0
【意識の探求において愚かな学者どもが犯す根本的な間違い】


客観的科学的方法に固執する無能な学者が口を揃えて言うことには、「意識」について最も
困難な解明しがたい命題は「なぜ物質である脳器官が意識を生み出すのか」ということで
あるらしい。 この命題の立て方自体は間違っていない。
しかし、彼(彼女)らは、命題の探求の仕方を間違えていることにマジで気付いていない
ようなのだ。 信じ難いことであるが、これが当代一流?と称される「学者」の正体なの
である。 イエスの時代に、律法「学者」がユダヤ教を恣意的に解釈し人々を苦しめてい
たような現実が、この時代にも現象しているのだろうか?(苦笑)
自分はなにも現代のイエスとは言わないが、この歪んだ意識の問題(ハードプロブレム)
へのアプローチを、せめて正しい問い方に訂正する役に立てればとは思っている。

前置きはこのくらいにして本題に入ろう。
では、「なぜ物質である脳器官が意識を生み出すのか」という命題の、学者たちが陥ってい
るバカげた探求の仕方について説明しよう。
たとえば、これを「お金」についての問いに置き換えてみると分かり易いと思う。
「なぜお金が流通価値を生み出すのか」
という命題があるとして、いったい「お金の物質的組成とか電気的信号とか振動数」とか
を分析しようとするだろうか? そんなことがナンセンスであることは誰にでもわかる。
「お金という物質」が流通価値という意識を生み出しているのではなく、その逆だからだ。
意識の問題についても、これと同じことが言えるのだが、頑迷なボケ老人のような学者ど
もは、ある恐ろしい妄想に取り憑かれているので「物質が意識を生み出す」という根本的
テーゼを捨てることができない。
その恐ろしい妄想とは、すなわち
「脳器官が損傷したり失われたりすると意識にも影響が出る」という子供じみた因果関係
への恐れなのである。
78考える名無しさん:2014/03/20(木) 12:24:18.91 0
>>77
現代の「主観」の概念(=定義)は、デカルトの「主客二元論」を“基底”としているので、
「主観的に完全な意識の正体を知る」ためには、累々と「主観的意識の事実を積み上げても」それは、
その人自身にしか分からない事である。
“意識”を解明するには、第三者も認める「主客二元論」に立った論理的(=客観的)な証明が必要になる。

以上の観点から、主観的な“意識”を解明するには、「主客二元論」に立ち帰り、「延長」を基底とした
精神と物質の“定義を起点”として究明して行くことが、問題(=意識)の解決の“スタ−トライン”となる。
79考える名無しさん:2014/03/20(木) 12:57:39.38 0
なんだよ。結局キリスト教の布教活動なのか、
「機械的唯物論」者がキリスト教攻撃を定期的に繰り返す理由が判ったw
80physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/20(木) 13:31:51.75 0
>>78
>累々と「主観的意識の事実を積み上げても」それは、その人自身にしか分からない事
>である。

「主観的意識」の着地点はそれでいいんだよw
きみが想定しているのは「神の正体」であるとか客観的最高概念であるとかの類で認識の
共有が必要である問題について。
しかし、「意識」を探求し自己を向上させることに、そんな認識は必要ないんだ。
むしろ、それは邪魔、というより「意識」を物質化してしまい危険ですらある。
考えてもみたまえ。
物質的に法則化された「意識」、共通の認識のもとに空間を占有する「意識」なんて、
どんだけ不気味なんだよ?w
想像力を働かしたまえよ。 そんなアタマで「意識」を語ってほしくないんだが・・・
81┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 19:55:20.14 O
>>79
キリスト教の宣伝か
西洋哲学の宣伝か
どっちもなかなか癖があるが
82┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 20:00:02.58 0
「意識」がキリスト教概念以外のなにものでもないわけ
83┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 20:27:29.72 0
まあ、遡れば一つのイデア論なわけだが。
自立した意識というのはピタゴラス教に遡れる。
ピタゴラス教では、人は完全な世界から輪廻して生まれて、完全な世界を忘却していると考える。
イデアを思い出すことがピタゴラス教の禁欲的修行だ。

このようなイデア論はキリスト教に取り入れられる。
初期のキリスト教の問題、キリストは人はか、神か。
政治的に勝った三位一体論はキリストが人でありまた神であることを証明することに求められ、人の中の形而上学的な神を産み出した。
それはイデア論の系譜を次ぐ。
自立した人の中のありありとした意識というイデア。
キリスト教の方舟はデカルトまで運んでいく。
84physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/20(木) 20:38:58.00 0
【意識と宗教の関係についての若干の考察】

キリスト教や仏教など、既存の宗教が人間の主観的意識を問題にしていたかということに
ついては、その可能性は限りなく低いだろうと考えている。
なぜかといえば、そもそも「主観的意識」という事実を解かねばならない謎として認識す
るには、それ以外の客観的な謎(すなわち神の問題)がある程度明らかになっている必要
があったであろうと思われるからだ。
イエスにしろ、釈迦にしろ、外部に生じる諸々の出来事を支配する法則、あるいはそうい
った事実への「神経反応」をコントロールする方法などに心を砕いていたのであり、まさ
にそのことが彼らの宗教の根底を形成していたわけで、おそらくはそこで「主観的意識」
という事実までをも問題にしていたとは考え難いのである。
キリスト教の「客観的最高概念(神)と客観的身体的原理としての(愛)の対比」
仏教の「客観的世界の否定と自己の存在の否定」
これらの概念の中には、どこを探しても、今問題になっている「主観的意識の事実」など
出てこないのだ。
換言すれば、こういう言い方ができるのかもしれない。

「すべての宗教は意識のハードプロブレムの前に無力である」と。
85┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 20:50:36.80 0
なぜ現代において主観的意識、哲学的に言えば自立した主体が問題であるのかは、
簡単には自由主義経済ではそれが基礎単位になるからだ。
簡単には言えばマクロ経済学の基礎単位。

逆に言えば、自由主義経済以前には、自立した主体という概念は一般には存在しない。

日本で言えば、明治以降の産物だ。
ようするに「主体」、「意識」という言葉さえ存在しない。
86┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 20:52:38.40 0
では意識というマジックワードを、自由主義経済はどこから借りてきたのか。 キリスト教からである。
87考える名無しさん:2014/03/20(木) 20:53:33.73 0
┏( ^o^)┛さんは話が下手ですね
88physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/20(木) 20:56:09.61 0
>>84の続き

そう、まさに宗教は「客観性を肯定してその奴隷になる」か「一切の客観性を否定して虚
無的になるか」の二つの道しか用意していなかったのだ。
だから、そこに「主観的意識の事実」の出番など用意されているはずもなかったのである。
89┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/20(木) 21:11:58.19 0
古くは宗教は自然信仰に始まる。
自然信仰は日本人しかり宗教と読んでよいのか。
自然環境の中で生きる集団において、入信などなく、教義もなく、自然信仰は生活である。

そこでは自立した主体という概念は存在しない。

これが一般的な信仰である。


その意味でキリスト教はとても不思議で特殊な宗教である。
その秘密はキリスト教の起源、ユダヤ教にある。
ユダヤ教は砂漠の民に生まれ、豊かの自然宗教民に虐げられて生まれた。
反自然宗教であり、自然を超越しユダヤ人のみ愛する唯一神を作り出した。
90考える名無しさん:2014/03/20(木) 21:18:52.57 0
宗教は自然信仰に始まる、がそれを宗教と読んで(呼んで?)よいのか
って、なにが言いたいのか分かりません
結局宗教は自然信仰に始まるのではないって言いたいの?
91physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/20(木) 21:31:10.82 0
【自由という概念は客観的世界観の産物であり主観的意識には無関係であること】

「自由」な社会環境の中で価値観の多様化が生まれ、様々なものが流通し人々は「自由」
にものを取引きする。しかし、そういう「自由」は、すべて客観的システムの中で行われ
ているにすぎない現象のことなのであり、したがって、そこで「自由」と主観的意識とを
結びつけるなど、まったくの茶番でしかないだろう。
あえて、そういう場面で主観的意識を問うとすれば、「ものが溢れかえっている社会の息
苦しさ」とか「自由という不自由さへの怒り」とか、そういう形式になるはずである。
  
92┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 01:18:15.55 0
自然を元にした生活に根付いて自然宗教に対して、
ユダヤ教の1神なんの根拠もない。
このために明確な戒律が記述される。
そして戒律は正しいとかではなく、ただ契約するのかとして突きつけてくる。
それはそれぞれの個へ問われる。
「おまえは契約するのか、しないのか。」
ここに自立した主体の原型の一つがある。

再度言えば、自然信仰は強く明確な神がいるわけでも、
戒律があるわけでも、司祭がいるわけでもない、契約もない。
ただその場に生きることが信仰である。
だからそこに主体など生まれない。
93┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 01:20:23.73 0
キリストはキリスト教信者ではない、ユダヤ教信者である。
キリストの新しいところは「他者を愛する」として、
ユダヤ人であることを問わなかったことである。
この自立した主体を、ユダヤ人以外にも解放したのである。
94パンの耳:2014/03/21(金) 01:27:36.06 0
   
 しゅたいんばーがー 2つ ください


              べーこんれたすばーがー じゃだめ? 

                 ぐらころとかもあるけど


 やだ だふとぱんく だし

 へるめっと 脱げないし 
 
95┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 01:28:07.82 0
結局、このような自立的な主体は、近代の自由主義経済において
はじめて人類レベルで、広まった。

純粋な自由主義経済とは、関係性から切り離されて、
ただ純粋に利益追求のもとに交換が行われることである。

相手が仲の良い相手だろうが、見知らぬ他者だろうが、
親子だろうが、そんなことは関係ない。
ただ利益によって相手が決められる。
すなわち自立的主体たちが集まる世界である。

キリスト教圏だから自由主義経済が可能になったのか、
自由主義経済において、キリスト教的自立的主体が求められたのか。
人類が「意識」に目覚めた自立的主体へと覚醒することが求められた初めての時代である。
96┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 01:34:43.53 0
すなわち「意識」を生んだのはお金である。
等価交換というのは、人類史において特殊な経済である。

農耕文化しかり、人類は集団内の贈与によって、
経済を成り立たせてきた。
いまでいう家族の中で、ものを分け合うのに貨幣が必要ないのと
同じことである。

逆にいえば、貨幣等価交換を可能にするためには
集団内の贈与は悪である。
現代でも、公平な競争が行われない贈与を含んだ交換は犯罪とされる。
理想的には、経済の主体は自立的な主体でなければならない。

お金は誰が持とうが価値は等しい。
お金も前では人は自立的主体であるを求められる。
97パンの耳:2014/03/21(金) 01:35:23.77 0
   
 わかりましたか 

    ヘルメット被ってないと 叩かれたとき 

     意識不明の重体 に なりますから
    
98┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 01:45:28.74 0
逆に言えば、自立的な主体でない集団生活に埋もれている人びとは、
個という概念自体がなく、「意識」はないのである。

意識とは錯覚である。
すでに認知科学において常識となっているように、
人の行為は意識による意思によって決められているわけではない。
意識はいつも行為のあとから現れる。
99physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/21(金) 11:17:54.57 0
【意識が行為を決定するという概念自体がそもそも客観的判断だったということ】

認知科学の最初に身体反応ありきという実験結果は、主観的意識の問題に何のアンチテー
ゼももたらしていなかったという事実。
この「自由意志」に絡んだ議論は、すべて客観的事態を主観的意識と勘違いした一人相撲
だったのだ。 行為の前にあったであろう「主観的意識」、行為の後に訪れる「主観的意識」
問題は、その相関でも因果関係でもない。
ただ、「主観的意識」のなりゆきと行く末を、しっかりと見定めることができるかという問
題。 それが「意識のハードプレブレム」の基本的テーゼとして最も重要なのである。

科学的思考をもつ者が、この問題の前に無力であるのは、科学の終焉を意味しているのか
もしれない。
われわれは科学の恩恵で「神のハードプロブレム」を解明し、豊かな生活空間を手に入れ
てきた。 しかし、同時に「人間らしい意識」を犠牲にしてきたのである。
客観的世界の進歩は、人間に(人間だけに)備わる主観的意識を置き忘れ、ただ動物的神
経反応の最高点を求めて歴史を駆け上がってきた。 そして、「ほかの動物にはないもの」
を手に入れ、科学という狭い土俵の中で動物の中の最強を自他共に認めるまでに至ったの
である。
動物の中の最強=人間らしさ、という忌まわしい科学的な妄想が完成した瞬間だった。
人間は、いかに高度な客観的認識、客観的技術をもっていようとも、到達できる地点は、
動物らしさであって、「人間らしさ」ではなかったのである。
人間が、科学的方法以外で「意識のハードプロブレム」を乗り越え主観的意識を探求する
ことができなければ、「人間らしさ」は永遠に人間にはもたらされないだろう。
100physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/21(金) 11:22:21.61 0
【主観的意識の探求のための基本的テーゼ】



客観的科学的思考を放棄せよ。  



科学者には、科学者にしか出来ないことをしていただこう。
101┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 11:24:23.60 0
ようするに、ありありとした意識というものは
行為においては重要ではない。
「主観的意識」なるものとか関係なく、行為は行われ、
ただ事後的に主観的意識が確認しているだけだ。
意識なるもの以前に人は判断し行為している。

そこに意識なる自律的主体を想定するのは、
西洋文化にさかのぼるキリスト教的概念でしかない。

行為というのは日常の積み重ねの中で
習得されたものであり、
逆に言えばそれほど融通の聞くものではない。
人はあるコンテクストにある行為をするというように
学習づけられている。
102┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 11:25:33.07 0
ありありという意識はまさに西洋史の伝統の客観主義の
もっとも核となる究極の形而上学である。
103┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 11:28:25.54 0
高度な行為を行うスポーツ選手の練習を見れば良い。
彼らが行っているのはひたすら反復練習である。
まさに「体に覚え込ませる」ということ。

いままで体に覚えた行為を書き換えるためには、
ひたすら反復するしかない。
意識なるものの向こうの体に覚え込ませる。
104┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 11:37:55.38 0
行為はすべて反復練習である。
人は当たり前のように二足歩行しているが、
二足歩行という高度な行為を行うためにもひたすら反復練習が必要である。
学習のたまものである。

たとえば数学。これも行為である。
数学という行為をひたすら反復して体に覚え込ませることで、
数学という行為は可能になる。

本質的に、身体的な訓練ない行為は存在しない。
ありありという意識という、訓練以前にあるものは
まさにイデアである。
そんなものは存在しない。

当然、言語を操ることもしかりでる。
言語は覚えるのではなく、訓練によってまなぶ行為である。
「ありありという意識」があるように考えることも、
訓練によって学んだ言語行為である。
この行為は近代の西洋化によって、世界的に広まった。
105┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 11:46:50.50 0
社会をこのように行為の訓練をベースに考えると、
社会は海のようなものである。

様々な場所で起こった振動が広がっていく。
ユングやルソーのような大いなる意思があるということではない。
意思ではなく行為の伝搬体系である。

そこに原子論的な個々の核を想定する。
それがまさにキリスト教的「意識」なるものである。
106考える名無しさん:2014/03/21(金) 12:01:54.13 0
>>80
>物質的に法則化された「意識」、共通の認識のもとに空間を占有する「意識」なんて
 どんだけ不気味なんだよ。

>「主客二元論」に立ち帰り、「延長」を基底とした、精神と物質の“定義”を起点として
 究明して行くことが、問題(=意識)の解決の“スタ−トライン”となる。

 上記の補足をすると、心身二元論(=主客二元論)での「延長」の概念は、「タテ、ヨコ、高さ」で
 構成された“存在”を「物質」と定義し、 「延長」では無い“存在”を「精神」と定義している。

 つまり、この場合の「延長」しないものとしての“精神”とは、時間・空間を超越した「形而上学的領野」
 のこととして定義されている。

 従って、意識(=精神)は、物質的に法則化されることは無く、共通の認識のもとに空間を占有する「意識」
 ではない。
 「主観的に完全な意識の正体を知ること」とは、主観の本質を根源まで究めていくと、ゲシュタルト的現象
 として「客観的存在」の本質との“両義性(二重性)”として捉えられて行く。
 つまり、主観的存在と客観的存在は緊密な関係にあるので、意識の究明は、主観と客観との相関関係の視点から
 進める必要がある。 
107┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 12:05:02.63 0
行為の海において、主観的意識なるものを想定するのはとても難しい。
人は行為の海にとけこんでいるからだ。

ラカンは、無意識は言語活動でできていると行った。
無意識はとても西洋的な概念であるが、
行為の海について西洋的な表現の一つである。

言語活動も一つの行為体系である。
それも人の行為を決定する決定的な影響を持つ体系である。
人は反復練習によって、言語活動を体にたたき込む。
人は「無意識」にたたき込まれた言語行為体系の中で
行為をしているということだ。

言語さらに決定的であるのは、感覚そのものまで拘束する。
たとえば色。
人は光の波長という客観的に情報によって色を見ているのではない。
人は光の波長を、赤、青、黄などの言語によって見ている。
ぞれは形にしてもしかりである。丸、四角、三角という言語体系で世界を認識する。
すでに脳の活動レベルで、言語行為体系によりフォーマットされている。
反復練習とはそのようなことなのだろう。
108┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 12:15:49.67 0
行為の海において、デカルトのコギトはどのようになるのか。
我思う我あり。
思うためには言語がが必要であり、言語は集団的な行為体系である。
デカルト的懐疑そのものが行為の海の中で空回りでしかない。

デカルトは、コギトを神の存在証明に展開する。
我があるのだから神のある。
まさにここにユダヤ教にまでさかのぼれるキリスト教的根本の概念がある。

散乱する民族のユダヤ人が民族として統一するために考えだされた
個々人が1神と契約することで民族を維持する方法。

キリスト教はこの方法を、ユダヤ人を越えて人類へ展開し
世界宗教として発展した。

キリスト教が発展し始めたのは、イエスの死後のパウロの布教による。
彼は、イエスの他者への愛から、ユダヤ人以外にも布教することを思いつく。
その考えに至ったのは、時代はヘレニズム時代。
コスモポリタンな都市が各地に現れた。
そしてキリスト教は、土着の自然信仰に入れない孤独の都市層を中心に普及した。

ようするに、土着の自然信仰に入れない孤独のユダヤ人が編み出した方法論を、
孤独な都市層に展開するマーケティング戦略による世界的な布教に成功したのだ。
109┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 12:19:49.34 0
そしてこの孤独な人びとを救う方法論は、
近代化において、さらにグローバルに成功する。
カトリックからプロテスタントへという宗教改革がプレ近代に起こったのは
偶然ではないだろう。

土着化し腐敗したカトリックの中世を経て、都市化する世界において、
再び、パウロ時代の孤独な人びとを救うキリスト教が求められたのだ。

そしてウェーバーしかり、資本主義にプロテスタンティズムは必要だった。
都市層の孤独な人びとが資本主義の発展を支えたのだ。
110考える名無しさん:2014/03/21(金) 12:22:39.79 0
趣旨がまったく掴めません

小論文の授業を受けたことはないのですか┏( ^o^)┛
111┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:04:52.33 0
>>110

■「意識」の起原


意識の起原としてのピタゴラス教

「意識」がキリスト教概念以外のなにものでもないわけ。まあ、遡れば一つのイデア論なわけだ
が。自立した意識というのはピタゴラス教に遡れる。ピタゴラス教では、人は完全な世界から輪
廻して生まれて、完全な世界を忘却していると考える。イデアを思い出すことがピタゴラス教の
禁欲的修行だ。

このようなイデア論はキリスト教に取り入れられる。初期のキリスト教の問題、キリストは人は
か、神か。政治的に勝った三位一体論はキリストが人でありまた神であることを証明することに
求められ、人の中の形而上学的な神を産み出した。それはイデア論の系譜を次ぐ。自立した人の
中のありありとした意識というイデア。キリスト教の方舟はデカルトまで運んでいく。
112┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:05:40.02 0
意識の起原としてのユダヤ教

古くは宗教は自然信仰に始まる。自然信仰は日本人しかり宗教と読んでよいのか。自然環境の中
で生きる集団において、入信などなく、教義もなく、自然信仰は生活である。そこでは自立した
主体という概念は存在しない。これが一般的な信仰である。

その意味でキリスト教はとても不思議で特殊な宗教である。その秘密はキリスト教の起源、ユダ
ヤ教にある。ユダヤ教は砂漠の民に生まれ、豊かの自然宗教民に虐げられて生まれた。反自然宗
教であり、自然を超越しユダヤ人のみ愛する唯一神を作り出した。

自然を元にした生活に根付いて自然宗教に対して、ユダヤ教の1神なんの根拠もない。このため
に明確な戒律が記述される。そして戒律は正しいとかではなく、ただ契約するのかとして突きつ
けてくる。それはそれぞれの個へ問われる。「おまえは契約するのか、しないのか。」ここに自立
した主体の原型の一つがある。

再度言えば、自然信仰は強く明確な神がいるわけでも、戒律があるわけでも、司祭がいるわけで
もない、契約もない。ただその場に生きることが信仰である。だからそこに主体など生まれない。
キリストはキリスト教信者ではない、ユダヤ教信者である。キリストの新しいところは「他者を
愛する」として、ユダヤ人であることを問わなかったことである。この自立した主体を、ユダヤ
人以外にも解放したのである。
113┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:06:27.34 0
キリスト教が世界宗教になれた理由

行為の海において、デカルトのコギトはどのようになるのか。我思う我あり。思うためには言語
が必要であり、言語は集団的な行為体系である。デカルト的懐疑そのものが行為の海の中で空回
りでしかない。デカルトは、コギトを神の存在証明に展開する。我があるのだから神がある。ま
さにここにユダヤ教にまでさかのぼれるキリスト教的根本の概念がある。

散乱する民族のユダヤ人が民族として統一するために考えだされた個々人が1神と契約すること
で民族を維持する方法。キリスト教はこの方法を、ユダヤ人を越えて人類へ展開し世界宗教とし
て発展した。キリスト教が発展し始めたのは、イエスの死後のパウロの布教による。彼は、イエ
スの他者への愛から、ユダヤ人以外にも布教することを思いつく。その考えに至ったのは、時代
はヘレニズム時代。コスモポリタンな都市が各地に現れた。そしてキリスト教は、土着の自然信
仰に入れない孤独の都市層を中心に普及した。

ようするに、土着の自然信仰に入れない孤独のユダヤ人が編み出した方法論を、孤独な都市層に
展開するマーケティング戦略による世界的な布教に成功したのだ。そしてこの孤独な人びとを救
う方法論は、近代化において、さらにグローバルに成功する。カトリックからプロテスタントへ
という宗教改革がプレ近代に起こったのは偶然ではないだろう。

土着化し腐敗したカトリックの中世を経て、都市化する世界において、再び、パウロ時代の孤独
な人びとを救うキリスト教が求められたのだ。そしてウェーバーしかり、資本主義にプロテスタ
ンティズムは必要だった。都市層の孤独な人びとが資本主義の発展を支えたのだ。
114┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:07:16.49 0
禁欲主義と自己覚醒

自意識とか誰もが持つのかな。デカルト的な社会的流動性の中でないと覚醒しないんじゃないか
な。その意味ですごくキリスト教的概念な気がする。なぜキリスト教があんなにかっこよかった
かといえば、その禁欲主義故に、一つの自意識の覚醒訓練だったからじゃないかなと思う。日常
を疑い神を信じることで、唯一神と対話する唯一の自我。他者を愛するという言語は、他者/他
者を愛する自己を覚醒させる。自己に覚醒するとは、ある種の自己中心性に目覚めること。

性とキリスト教

たとえば性の問題しかり。性的な禁欲主義は明らかにキリスト教文化だ。キリスト教以前の文化
は性に寛容である。とはいっても、キリスト教的禁欲主義から一般に広まるのは宗教革命以降。
ようするにそこにはやはり近代的なマクロコンテクスト、経済原理が働いている。性が金になる。
これは都市化において飲みだ。知り合いばかりの田舎では性は娯楽であり、共有財産だ。夜這い、
祭りの乱行の世界。

性が金になるのは経済的にも合理性がある。田舎では性が自由に共有されていた人々が都会にで
るといかに、性処理をするのか。筆下ろしをしてくれる近所のおばさんもいない。町で探しのも
大変だね。なら売春するのが合理的。
115┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:08:11.81 0
■近代と自己覚醒

近代化と自己覚醒

そうはいってもキリスト教なんて田舎の利権のシステムだったわけで、ある種の教義が厳格にな
るのは宗教革命以後。まさにプレ近代であり、デカルトの時代。結局、自意識を覚醒したのは近
代的なマクロコンテクスト。ようするに、都市化して金が流通して、人口調査という人が多数の
一粒になって、経済原理がシステムを決め始める。これは逆説的ではあるが、人が一粒となり無
個性になったときに、自意識という自己中心的概念を覚醒する。

だから自意識って、多数の他意識と相対的であり、また経済的なんだよね。自意識がかならずモ
ラルに目覚めるまさに経済性に覚醒するからだよね。自意識はかならず、我は多数の一粒でしか
ないから始まる。まあ、そりゃ古代にも裕福な人は禁欲主義から自意識に目覚めたんだろうが、
ほんとにひとにぎりでしょ。

自由主義経済と自己覚醒

なぜ現代において主観的意識、哲学的に言えば自立した主体が問題であるのかは、簡単には自由
主義経済ではそれが基礎単位になるからだ。簡単には言えばマクロ経済学の基礎単位。逆に言え
ば、自由主義経済以前には、自立した主体という概念は一般には存在しない。日本で言えば、明
治以降の産物だ。ようするに「主体」、「意識」という言葉さえ存在しない。では意識というマジ
ックワードを、自由主義経済はどこから借りてきたのか。キリスト教からである。
116┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:09:16.45 0
意識の起原としてのお金

結局、このような自立的な主体は、近代の自由主義経済においてはじめて人類レベルで、広まっ
た。純粋な自由主義経済とは、関係性から切り離されて、ただ純粋に利益追求のもとに交換が行
われることである。相手が仲の良い相手だろうが、見知らぬ他者だろうが、親子だろうが、そん
なことは関係ない。ただ利益によって相手が決められる。すなわち自立的主体たちが集まる世界である。

キリスト教圏だから自由主義経済が可能になったのか、自由主義経済において、キリスト教的自
立的主体が求められたのか。人類が「意識」に目覚めた自立的主体へと覚醒することが求められ
た初めての時代である。

すなわち「意識」を生んだのはお金である。等価交換というのは、人類史において特殊な経済である。
農耕文化しかり、人類は集団内の贈与によって、経済を成り立たせてきた。いまでいう家
族の中で、ものを分け合うのに貨幣が必要ないのと同じことである。

逆にいえば、貨幣等価交換を可能にするためには集団内の贈与は悪である。現代でも、公平な競
争が行われない贈与を含んだ交換は犯罪とされる。理想的には、経済の主体は自立的な主体でな
ければならない。お金は誰が持とうが価値は等しい。お金も前では人は自立的主体であることを
求められる。逆に言えば、自立的な主体でない集団生活に埋もれている人びとは、個という概念
自体がなく、「意識」はないのである。
117┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:10:00.78 0
進化と進歩

まあ、進化論の誤謬が根深いのは、おそらく歴史的に進化より、進歩の方が先に発明されたんだ
ろうね。進歩という上昇史観は、技術時代の近代以前に、キリスト教の終末論にあるというが、
実際はやはり技術進歩に生まれた史観なんだろうね。やはり進歩するのは技術だけで、あとは変
化しかないんだろうね。進化論の環境適応、自然淘汰さえ言い過ぎな気がする。単なる偶然じゃ
ないのかな。
118┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:11:11.54 0
■行為あり故に意識あり

行為あり故に意識あり

意識とは錯覚である。すでに認知科学において常識となっているように、人の行為は意識による
意思によって決められているわけではない。意識はいつも行為のあとから現れる。ようするに、
ありありとした意識というものは行為においては重要ではない。「主観的意識」なるものとか関係
なく、行為は行われ、ただ事後的に主観的意識が確認しているだけだ。意識なるもの以前に人は
判断し行為している。そこに意識なる自律的主体を想定するのは、西洋文化にさかのぼるキリス
ト教的概念でしかない。

行為というのは日常の積み重ねの中で習得されたものであり、逆に言えばそれほど融通の聞くも
のではない。人はあるコンテクストにある行為をするというように学習づけられている。ありあ
りという意識はまさに西洋史の伝統の客観主義のもっとも核となる究極の形而上学である。

行為は反復練習

高度な行為を行うスポーツ選手の練習を見れば良い。彼らが行っているのはひたすら反復練習で
ある。まさに「体に覚え込ませる」ということ。いままで体に覚えた行為を書き換えるためには、
ひたすら反復するしかない。意識なるものの向こうの体に覚え込ませる。

行為はすべて反復練習である。人は当たり前のように二足歩行しているが、二足歩行という高度
な行為を行うためにもひたすら反復練習が必要である。学習のたまものである。たとえば数学。
これも行為である。数学という行為をひたすら反復して体に覚え込ませることで、数学という行
為は可能になる。

本質的に、身体的な訓練ない行為は存在しない。ありありという意識という、訓練以前にあるも
のはまさにイデアである。そんなものは存在しない。当然、言語を操ることもしかりでる。言語
は覚えるのではなく、訓練によってまなぶ行為である。「ありありという意識」があるように考え
ることも、訓練によって学んだ言語行為である。この行為は近代の西洋化によって、世界的に広まった。
119考える名無しさん:2014/03/21(金) 13:13:41.55 0
ヘレニズム時代
時代区分としてのヘレニズム時代(Hellenistic period)は、
アレクサンドロスの死亡(紀元前323年)からプトレマイオス朝エジプトの滅亡(紀元前30年)するまでの
約300年間を指す
120┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:14:56.37 0
社会は行為の海

社会をこのように行為の訓練をベースに考えると、社会は海のようなものである。様々な場所で
起こった振動が広がっていく。ユングやルソーのような大いなる意思があるということではない。
意思ではなく行為の伝搬体系である。そこに原子論的な個々の核を想定する。それがまさにキリ
スト教的「意識」なるものである。行為の海において、主観的意識なるものを想定するのはとて
も難しい。人は行為の海にとけこんでいるからだ。

ラカンは、無意識は言語活動でできていると行った。無意識はとても西洋的な概念であるが、行
為の海について西洋的な表現の一つである。言語活動も一つの行為体系である。それも人の行
為を決定する決定的な影響を持つ体系である。人は反復練習によって、言語活動を体にたたき
込む。人は「無意識」にたたき込まれた言語行為体系の中で行為をしているということだ。

言語さらに決定的であるのは、感覚そのものまで拘束する。たとえば色。人は光の波長という客
観的に情報によって色を見ているのではない。人は光の波長を、赤、青、黄などの言語によって
見ている。それは形にしてもしかりである。丸、四角、三角という言語体系で世界を認識する。
すでに脳の活動レベルで、言語行為体系によりフォーマットされている。反復練習とはそのよう
なことなのだろう。
121┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:15:31.93 0
以上
>>63-109
122考える名無しさん:2014/03/21(金) 13:16:25.12 0
気が済みましたか
123┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/21(金) 13:20:31.88 0
>>122
まあまあ
124physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/21(金) 14:35:30.84 0
>>106
>つまり、主観的存在と客観的存在は緊密な関係にあるので、意識の究明は、主観と客観
>との相関関係の視点から進める必要がある。

いや、まったくの誤解だよ。
リチャード・ドーキンスとか読むと一目瞭然なんだが、主観的意識と客観的物理的認識を
区別できない「一元論者」というのは、そもそも主観的意識を「視野に入れられない」何
らかの障害をもっているだけなんだと思う。
そういう(障害をもった)人間が、主観的意識について語ろうというのは、盲目な者にレ
ーダー自動制御機能のない車の運転をさせるようなもので、きわめて不都合な事態だと言
わねばならない。
ちなみに、「心理学」というのも客観的な学問でしかなく、「意識のハードプロブレム」に
は何の解決方法も与えられないだろう。
あらゆる客観的な学問は、まったく役に立たない。 宗教でもムリ。 
統計とか眉唾なデータを客観的に集めただけの占いも蓋をあければ客観的な神経反応の記
憶でしかないスピリチュアルな物語なんてのも、まったく意味が無いだろう。
じゃあ、どういうふうに人間は意識を「深化」させていけばいいんだ?
実は、もうすでにやってるんだけどね。
主観的意識をひたすら積み重ねる、そういう分野(たとえば芸術系とか)からの応答が、
それなんだと思う。
125考える名無しさん:2014/03/21(金) 14:58:44.96 0
主観的意識は、その観察対象が己の主観のありようだけなので
それをいくら積み上げても最後には瓦解するだけ
126┏( ^o^)┛:2014/03/21(金) 15:47:44.17 0
ボクは「意識のハードプロブレム」よりも
「純一のアナルハードグリグリ」の方が好きだ。
                  
ボクのオカンはいつだって手コキをしてくれるし
ヒキコモリーマンになってほんとうによかったと思っているよ。
                
さてとオナニーでもしようかな。
127physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/21(金) 16:45:21.49 0
>>124の続き

【深化の手がかりとしての命題】その3

科学者でもあり芸術家でもあったダ・ヴィンチやミケランジェロのような人物が居たせい
で、現在まで芸術は客観的色合いを帯びたものが主流となってきた。
しかし、本来の主観的意識の事実を描いた芸術といえるものは、たとえばシャガールやム
ンク、あるいはゴッホ、日本で言えば青木繁、関根正二、棟方志功のような人のそれであ
る。 彼らに共通して言えるのは、その技術が一代限りのもので進歩という時間の流れに
は無縁であったということ。 そこには人間の意識の「深化」があるだけだったというこ
とであろう。
「意識のハードプロブレム」を科学的手法で解明しようとするのは、あたかも彼らの芸術
の魅力を数字や記号に置き換えて解釈しようとするようなものなのだ。
そういうことを「すべきでない」のは何故かというと、「彼らの主観的世界の魅力は彼ら
にとっては謎でも何でもないこと」だからである。
科学兵器で武装した科学者たちが、けして足を踏み入れるべきではない場所というのが、
この世界には存在するということを我々は「未開人の虐殺」の経験から、すでに学んで
いるはずなのだが・・・・
128考える名無しさん:2014/03/21(金) 22:40:02.88 0
ポエム?
129考える名無しさん:2014/03/22(土) 13:46:26.94 0
>>124
>主観的意識と客観的物理的認識を区別出来ない一元論者。

>主観的存在と客観的存在は、緊密な関係にある。

上記の主観的存在と客観的存在の緊密な関係とは、主観と客観の関係が、
非常に深いと言う意味であり、主観と客観を「実体二元論」として捉えている。

従って、主観的意識と客観的意識を、“区別”なく「一元論」として捉えているのではなく、
両者を独立した「実体」として捉え、この「実体二元論」から、主観的意識の解明を進めて行く。

主観的意識の積み上げは重要な思考過程ですが、 その“積み上げた主観”を、客観的存在にどの様に
働きかけて行くかが“哲学の本質”としての在り方ではないかと思う。
130physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/22(土) 14:15:10.55 0
【深化の手がかりとしての命題】その4

イエス・キリストには「意識」があったのか? というキリスト教の本質を問い直す議論
をしてみよう。 何故これが問題になるのかは、すでに述べたとおり、従来の宗教的な意
味付けによっては「意識のハードプロブレム」を解明しえないであろうということの検証
としてということになるだろう。 
なので、ここで取り上げ検証のまな板に載せる「イエスの発言」については、ことの性質
上、詳細に史実を確認して真偽判定を行った言語記述ではないことをあらかじめ断ってお
く。 そうではなくて、キリスト教がイエスを解釈する際に用いる「イエスの言葉」とさ
れる意味内容を、できるだけ実態に即した形で引用するだけである。 なにが真であり偽
であるかが問題なのではなく、どう解釈され何が抜け落ちているかが問題なのだから。 

我々は、そもそも、この宗教的言説をどう捉えているのだろうか?
まず最初に考えるのは、「神」や「天国」といった検証不可能なものが説明されているこ
とからすれば、客観的な事柄が言われているわけではない、ということだろう。
その傾向は現代まで続く「科学主義」的思考と相容れず、宗教は「主に意識の向上に役立
つツール」という位置に置かれることとなった。
だが、はたしてそれは本当のところを捉えているのだろうか?
自分は、いくら福音書を読み込んでみても、そこに主観的意識の事実が書かれているとは
到底思えなかったのである。
そこに記された言語の意味するところは、「決定論への服従」すなわち「客観的世界を、
いかに構築すれば居心地がいいかの思考実験」でしかないように思えるのだ。
131physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/22(土) 14:32:04.31 0
>>129
>その“積み上げた主観”を、客観的存在にどの様に
>働きかけて行くかが“哲学の本質”としての在り方ではないかと思う。

たしかに
主観的意識が客観的存在へ、いかにして影響を及ぼすことができるかということは検証し
てみる価値のある問題だろう。 しかし、心の哲学で一般に言われているような「客観的
物質から主観的意識が生成されるのはなぜか」という問いには嫌悪感を催すものがある。
たとえて言えば、前者は「未開人の言語記号が文明人に影響を与える可能性」を問うこと
のようであり、後者は「文明人の知恵が未開人に理解されるであろう必然性」をひねり出
すようなものだからだ。
132考える名無しさん:2014/03/22(土) 17:07:39.27 0
うんこー
133考える名無しさん:2014/03/22(土) 23:38:05.75 0
ごっこあそび
134考える名無しさん:2014/03/23(日) 00:08:36.45 0
いいかげんにマラ洗え
135考える名無しさん:2014/03/23(日) 00:22:52.36 0
アナルの粘膜性じゃな
136physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/23(日) 10:28:23.00 0
>>130の続き
「神」に創られたものとして(世界から)個体的に分離した人間は、その個体という壁の
中で「思い」「感じ」「反応する」客観的事物の地位を獲得した。 最初に行われたことは、
「うまいもの」と「まずいもの」を区別することだったのかもしれない。 「うまいもの」
は自らの個体を生かし、「まずいもの」はおそらくそうではないから。 「うまいもの」へ
の原始的傾向は個体内で独自の進歩を遂げ、「うまいもの」に対する神経反応を拡張する方
法としての「調理法」を編み出すこととなった。
注意すべきは、
これらのことは、すべて個体という壁の中で客観的事物の作用として行われているのであ
るということ。 「神」を前提とするかぎり、人間は「神」の光に照らし出された、あれ
でもなくこれでもない、まさに人間という決定論的客観的対象物でしかないのだから。

さて、この「調理法」、困ったことにそれを作った者にしか「うまく感じられない」ような
のだ。 しかし、それは、「その者にしか感じられない」=主観的意識を意味するのではな
い。 ただ単に、「客観的な結果が食い違っている」というだけの話なのである。
たとえば、おのれの「味覚的神経反応」を内観(内省)してみて「沸騰させた素材の中に
塩分を入れるべきなのだ」という確信をもったとする。 しかし、多数の者の「味覚的神
経反応」を検証してみた結果「沸騰させない素材の中に塩分を入れたほうが、うまいと感
じる」という、いわゆる科学的一般的客観的結論が導き出された。
この過程において、主観から客観への「意識的変化」が生じたのだと思ってはいけないの
である。 この過程には、まったく「主観的意識」なる現象は顔を見せていないからだ。
これは、ただの「数量的客観性の問題」であるにすぎない。
さらに、「質的客観性の問題」が、それに続き、客観性は特別な意味をもった事実であるか
のように(まるで自らが創造主になったかのように)認識されるに至るのである。
137考える名無しさん:2014/03/23(日) 12:58:33.82 0
>>136
私が神だ、神様と様をつけろ。
138physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/23(日) 13:05:33.10 0
>>136の続き
数量的客観性において観察、分析の対象となるのは「味覚という神経反応について」であ
る。 しかし、質的客観性を目論んだ場合、その対象は「味覚をもたらす外部について」
となる。 つまり、外部の物質や環境から「うまいもの」が生成される十分条件を見つけ
出そうとするわけだ。 このような過程を経て、人間という客観的個体の味覚的性質は豊
かになり明らかにされ、わざわざ「神」を前提にして客観的に定義した人間の客観的目的
は予定通り(決定論的に)成就することになるのである。
ゆえに、この質的客観性の探求の中で、外部条件が味覚を左右することをもって、物質か
ら意識、客観から主観への連続性と捉えるのは、まったくの見当違いであることがわかる。
そもそも、味覚自体は客観的神経反応に過ぎないのだし、味覚を味覚として認識する作用
もまた、神経反応を検証するための別の客観的神経装置に過ぎないのだから。
では、「主観的意識」は、どのようにして現れるのか?
その前に、宗教的認識が、科学的なそれと同じく客観的な方法論によってもたらされる客
観的認識でしかないことを説明しておかねばならないだろう。
139考える名無しさん:2014/03/23(日) 18:30:43.95 0
>>1
確定した。
波平、その他、佃煮マニア、その他、原則さんという奴、2ch哲学板でsage青虫で絡んでくる屑は、ハゲのもしドラ野郎で決定した。

大脇 と もしドラハゲを絡ませて虐める作戦作った。大脇 幸志郎 @0waki ・ 2時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%A4%8F%E6%B5%B7
岩崎 夏海(いわさき なつみ、1968年7月22日 - )は、日本の男性放送作家、小説家。吉田正樹事務所所属。

人物
東京都新宿区生まれ、日野市出身。父親は筑波大学元助教授でアーバンデザイナーの岩崎駿介。
茗渓学園高校、東京芸術大学美術学部建築科卒業。高校時代は軟式野球部に所属し投手。芸大へ進学した理由は特になく、
建築家で芸大出身の父親の勧め[1]。芸大在学中も卒業後も建築に対し興味を抱くことはできなかった。
『夕やけニャンニャン』の大ファンで、週刊プレイボーイに連載を持っていた秋元康の企画にハガキを送ったことで秋元と縁を持ち、
大学卒業後は秋元康事務所の前身に当たるソールドアウトに所属し秋元康に師事。
放送作家として『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』『クイズ赤恥青恥』等、
テレビ番組の制作に参加した後、2005年から2007年までAKB48アシスタントプロデューサーを務める。
2007年12月に秋元康事務所を退職。その後、株式会社インディソフトウェアに入社しゲームやウェブコンテンツの開発を経て2009年4月から株式会社吉田正樹事務所所属。作家として活動を始める。
2009年12月、作家として初めての作品となる『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を発表しミリオンセラーを記録。
2011年4月よりNHK総合でアニメ版が放送され、また同年6月よりAKB48の前田敦子主演による映画版が公開された。

私生活[編集]

大脇 幸志郎 @0waki ・ 2時間との離婚歴がある[2]。2012年1月、17歳年下のお笑い芸人の女性(当時26歳)と再婚すると報道された[2]。

作品[編集]
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(ダイヤモンド社、2009年12月)断念、本人曰く処女作
小説の読み方の教科書 潮出版社、2011年 知識とは受け継がれないと消滅するものであって、我々は聖人君子の園を作りたいのではない。
140考える名無しさん:2014/03/23(日) 21:14:08.03 0 BE:1917399637-PLT(14000)
東北大学の吉川裕は淫乱ホモビッチ
141考える名無しさん:2014/03/23(日) 21:15:07.30 0 BE:3286969294-PLT(14000)
東北大学の吉川裕は淫乱ホモビッチ
142physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/24(月) 08:49:27.09 0
>>138の続き
端的に言えば、宗教的認識とは、客観的身体的脳器官内において起こる「素朴な神経反応」
(うまいものについての味覚的反応など)に対する「逆説的神経反応」として客観的身体
的脳器官内に予め組み込まれているのである。
その始原は、「神」を客観的世界の創造主として人間が自らを客観化し独自の存在として
の意味付けを開始した時点に遡ることができるのだ。
すなわち、イエス・キリストの出現以前の「神」とは、人間から完全に切り離された客観
的世界に存在する統治者としての「神」であった。 その「神」は、人間の「素朴な神経
反応」を最後には満たし給う方でなければならなかったのである。
ゆえに、現実のマズさに対して「素朴な神経反応」を納得させうる思弁が必要となった。
それがイエス・キリスト以前の宗教的教義だったのである。 
しかし、その「素朴な(神経反応を満たし給う)神」は、世界の中で人間を限りなく過保
護な鼻持ちならない存在にする概念装置でしかないことにイエス・キリストという人物は
気付いていた。 悲劇的なのは、その気付きが、「逆説的神経反応」としての客観的予定
的事態でしかなかったということにある。 つまり、人間の<愛>を説くその言葉が人間
のみを世界から分離、隔絶させる客観性を秘めたものであることには違いなかった、とい
う痛ましい現実が、その<愛>を説く者に襲いかかってきたのだ。
これが、イエスの受難として現象することとなる。 「素朴な神」への依存を断ち切ろう
とする者への凄まじい憎しみは、「逆説の神」をスローガンとした救世主へ向けられること
になるのは必然だったのだ。

だが、すべての事態はここで終わらない。
予定された客観的出来事が出揃い「神」は、もう人間の自由意志を認めざるを得なくなっ
た時代に、人間があらたに断ち切らねばならない事実が浮かび上がってきたのだ。
それが、身体的物理的脳器官的客観性それ自体の否定と「意識のハードプロブレム」への
応答なのである。
143考える名無しさん:2014/03/24(月) 09:35:15.03 O
>>142
宗教のことなんにもしらないんだな
144physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/24(月) 13:44:00.10 0
>>142の続き
かくなる意味において、「意識のハードプロブレム」を世に知らしめたデイヴィット・J・
チャーマーズという哲学者は、イエスの時代の洗礼者ヨハネ≠ノ相当する人物なのかも
しれない。 洗礼者ヨハネは、「逆説の神」が存在することを「素朴な神」しか知らぬ者た
ちに告げる役目を負っていたのだが(主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ、とい
うのはこの文脈で理解すべきである)彼自らは、「愛の人」として行動することはなかった。
おそらくは、サロメの愛を頑なに受け容れず最後は斬首されてしまうエピソードがそれを
物語るように、彼は、イエスほどは人間を愛してはいなかったのだろうと思われる。
では、現代の洗礼者ヨハネであるデイヴィット・J・チャーマーズが果たした役割とは何だ
ったのか? それは、「神」という客観的認識の根源は、もはや「主観的意識の中のクオリ
アとしてしか見出せないのだ」ということの宣言だったのである。
しかし、彼は、洗礼者ヨハネが愛の人ではなかったように、明らかに主観的意識の実践者
ではない。 ゆえに、彼は主観的意識を語れないはずなのである。
145physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/25(火) 09:28:29.79 0
【科学者の行う専門用語を多用した理解不能な主観的意識の説明は、律法学者がかつてし
たようなユダヤ教の難解な解釈と似ているという事実】

神経科学が語る「神経送信物質」や「シナプス」「ニューロンの発火」とか、量子物理学で
言われる「プランク長」「時空間幾何の根本的な粒子性のパターン」「10のマイナス33乗
の空間」とか、まるで、「主観的意識」についての疑問は科学者にしか解けないかのような
勢いにいささか閉口してしまうのは自分だけだろうか? たとえ、そういう事実の中に「主
観的意識」の謎を解く鍵が隠されているのだとしても、一般の普通のものの考え方しかで
きない人々は、そういう理解の仕方を望まないはずである。
そう、「主観的意識」の問題は、「神」の問題と同じく「いかに理解するかということ」な
のだ!! 原理的に、そこに「正しい理解」というものはなく、「私の理解」があればそれ
でいいのである。
物理的実験によってしか到達できない世界に、この謎を解く鍵があるのだというならば、
われわれの身の回りのいたるところで、その同じ鍵は発見できるはず。
これは、何か新たな客観的決定論的な事実を専門的にひねり出す作業なのではない。

つねにすでにアプリオリに存在する主観的意識的事実へのアクセスなのである。

われわれは、もう、このことに関して「学者」に騙されてはならない。
彼(彼女)らの神をも恐れぬ詐欺的言説は、一般のふつうの人々を、けして幸せにしない
のだから。(これは、律法学者が難解なもの言いで民衆を裁いていたやり口に似ている)
当たり前に、日常の生活の中で使う概念と表象と言葉によって、主観的意識からもたらさ
れる苦悩は十分に理解可能なのである。
146physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/25(火) 12:41:38.31 0
>>145の続き
たとえば、意識研究の学者であるスチュワート・ハメロフの言葉に次のようなものがある。
「非決定的な影響の中で決定論的なプロセスを実施するという体験が、自由意志と呼ばれ
れるもの」 なんだそうだw
ちなみに、非決定的な影響というのは外部からの偶然的影響のことで、決定論的プロセス
というのは、当事者がもつ経験によって予測可能とされる事柄のことだろうと思える。
しかしながら、これを客観的な「自由意志の定義」として提示するならともかく、主観的
意識の文脈で、あたかも、その事実が主観的自由意志であるかのように言ってしまうとこ
ろがダメなのである。こういうのを「学者的詐欺言説」と自分は呼んでいる。
どういう錯誤がそこに生じてしまうのか、おわかりになるだろうか?

われわれは、主観的意識において外部からもたらされる偶然的事象を「自らに与えられた
必然的十字架として背負わんとする意識をもつ」のである。
逆に、経験的にもってしまっている知識や無意識的反応などを、「それが非本質的偶然的
なものであれば自らの態度決定から排除しようとする意識が働く」のだ。
このように、客観的にもっともらしく定義された「自由意志」は、主観的意識の中で、ま
ったく逆の様相を呈することとなる。
客観的に外部を偶然的な事態として捉えるのは勝手だが、それによって主観的意識が「自
分にとっても偶然な(理由の無い)もの」に過ぎないと考えるべきではないのである。
客観的に自分の経験を決定されたもののように考えるのは勝手だが、それによって主観的
意識が「もう自分の経験からは逃れられないのだ」と思うべきでないのは明白なのだ!

このような理解は、意識を考えるうえで実は非常に重要なのである。
147考える名無しさん:2014/03/25(火) 14:50:40.25 0
とりあへず。相手にする。終わり
148考える名無しさん:2014/03/26(水) 04:54:42.27 0
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1395201405/905
905 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2014/03/26(水) 04:45:34.52 0
>>http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1395201405/138
>>http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1395201405/235
>>http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1395201405/299
620 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2014/03/26(水) 04:41:51.15 0

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1391984042/653
653 :考える名無しさん:2014/03/26(水) 04:27:41.44 0    ←●●●●●こいつ●●●●●●●
嫌儲のスレで阿Qネタにしてるのか

654 :考える名無しさん:2014/03/26(水) 04:40:28.86 0
>>http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1391984042/653
おまえ岡山の純一と呼ばれる人間か、
酒井泰斗と呼ばれる人間か?
(1967年生まれ。大阪大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程中退。
音楽制作会社を経て現在は金融系企業のシステム部に所属。ルーマン・フォーラム管理人『概念分析の社会学 社会的経験と人間の科学』より )

そろそろうぜえから、直接 こいつ いっちまう?

>>1
149physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/26(水) 11:20:43.70 0
【意識の根本的な部分に達していない意識についての不毛な思考】


リチャード・ドーキンスは、意識について次のような予測を立てている。
「意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自体のモデ
ルを含めねばならぬほどになったときであろう」
この言明のおかしなところは、まず「意識の発見(気付き)をシミュレーションという行
為の延長線上に想定している」ということ。 さらに、「意識をモデル化できる何かと捉え
ている」ことである。
まず、最初の点について言及する。
そもそも、シミュレーションということを行う場合には、シミュレートする対象を一定の
形式に切り分けなければならない。 つまり、対象をおのれにコントロール可能な形状性
質のものとして認識する必要があるわけだ。
そういった対象を膨大な数として脳内(あるいはコンピューターの中)にもち、一定の推
論機能を働かせれば「完全なシミュレーション」=「未来に起こる出来事の予測」がつく
というのである。 この説の何がおかしい≠フかというと次のような事態が考えられる
からだ。
A氏は、会社で様々なトラブルに遭い精神が疲弊しきっている。
彼は、そういったトラブルを回避する手段として、自分の脳内に「完全なシミュレーショ
ン」を構成することを目論んだ。 まず、社内の500名いる人間のすべてをデータ化し
記憶した。 さらに会社と周辺の環境に関する、インフラ、行事、通信交通、主な什器備
品の配置、何時に宅配の人が来るのか、事務員がお茶を出すのにかかる時間、社長の訓示
の長さなど、ありとあらゆる情報を記号化して脳内に取り込んだ。
あとは、自分の「意識」がなんとかしてくれる・・・はずだった。
それらの情報から総合的な思考を働かせる「完全なシミュレーション」のもと、もう、ど
んなトラブルも起きないバラ色の人生が彼の未来には待っているはずだったのだ。
しかし
彼の脳器官は、突然フリーズ≠オてしまう。
大量な情報を入力しすぎて脳の物理的な許容量を越えてしまったのだ。
かくして完全な廃人となってしまった彼は、自分の「意識」へ到達できたのだろうか?
150考える名無しさん:2014/03/26(水) 11:23:30.89 0
すごい作ってる感じ
151考える名無しさん:2014/03/26(水) 13:23:36.70 0
152physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/26(水) 20:41:08.51 0
>>149の続き
ふたつめの点について言及する。
意識がモデル化できない何かであるということは、次のような言語的直観を頼りに理解可
能なのではないだろうか?
すなわち、「意識とは、〜によって思惟したり感じたりする、その〜にあてはまる何かで
あって、〜を思惟したり感じたりすることの〜になりうる何かなのではない」ということ
である。
前述のドーキンス氏の言説では「意識をモデル化する」という客観的アプローチが意識を
理解する前提であるかのようにいわれているのだが、それは結局、意識の外側に現れたも
ので意識それ自体を推察するような、あたかも着ている服で人間の中身(心や人格)を決
めるかのような、くだらない話でしかないのだ。
「意識のモデル化」が、もし可能であるとするなら、凶悪犯罪者の衣服を身にまとった
イエス・キリストは、その心まで凶悪犯罪者になってしまうという理屈になるだろう。
そんなことは、ありえないではないか!(苦笑)
われわれは、客観的な視点から主観的意識を考えていこうとする、あらゆる言説にノ−と
言わねばならない。 現代の、意識についてあまりにも愚かな科学者や客観主義の哲学者、
唯物論者が何と言おうとも「意識の根本的なところ」すなわち「意識の聖地」に彼らの旗
を立てさせてはならないのである。
153考える名無しさん:2014/03/27(木) 10:19:49.20 0
これって誰か読んでいるの?
154physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/27(木) 11:06:00.38 0
>>152の続き
ちなみに、意識をモデル化すべきでない理由として最も強力なものは次の言明ではないだ
ろうか?
「モデル化された意識は、そうでなくてはならないという意識を生んでしまうから」
そして、そうならない(そうなれない)自分自身を否定する意識を持ってしまうからである。
まさに自分で自分の首を絞める構図が、主観的意識の客観化という愚かしい行為によって
もたらされてしまうわけだ。
では、客観化するにふさわしい対象と、客観化対象化すべきでない何かとの区別は、どう
つくのか? ここは、「意識のハードプロブレム」において最重要な部分といって過言では
ない。 
つまり、問題が生じるのは、客観化すべきでないものを客観化してしまうことだけにある
のではなく、客観化すべき対象を客観化しない(できない)場合もであり、また主観的意
識と思うべきでない物事を主観化意識化すること、さらに主観化すべきでない出来事を主
観化する(してしまう)ことに及ぶのである。
では、これらの抽象的言明を具体化する作業にとりかかろう。
155physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/27(木) 17:09:06.77 0
>>154の続き
「客観化すべきでないものを客観化してしまうこと」の具体例としては、自分の将来の進
路を客観的組織的判断に委ねてしまうようなこととして現象する。現在の少なくとも日本
の学生の多くが、この症状を常態化させていることは疑いようがないのだ。彼(彼女)ら
はおのれの進むべき道を、その主観的意識によって確信をもって選択するというのではな
く、あたかもそれが「無難な選択」であるかのように客観的組織的見地からの進路選択を
受け入れてしまうのである。そこでは自分がやりたい仕事のために頑張るというプラスの
生エネルギーは発生せず、やりたくもない仕事に耐えるために生きているのだというマイ
ナスの生エネルギーをひたすら溜め込まなければならない。文字通り「地獄」のような人
生が待っているだけなのだ。

たとえば、自分に車を買おうとする志向性が働いたとする。そのとき、客観と主観の区別
がついている者であれば、「車にこれだけの金がかかる」という客観的事実に対して、
「車にこれだけの金をかけるのはもったいない」という主観的意識が働くのである。そし
て、その両者の綱引きによって実際の「車の購入額」が決定されるのだ。しかし、もし、
このとき、主観的意識が働かずもっぱら客観的事実だけを鵜呑みにして、それが「無難な
選択」であるかのように考えてしまったらどうなるだろうか?100万円の軽自動車を買う
つもりが、3000万円の超高級車を買わされるハメになり、最悪の場合家計は破綻してし
まうのは目に見えているだろう。
156physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/27(木) 17:09:45.72 0
>>156の続き
これと同じことが、やりたくもない仕事に耐えている者にも起こっているのである。
どういうことかというと、彼(彼女)らは、もともと、「3000万円の超高級車的仕事」
なんかやるつもりはなかったのだ。自分にふさわしいのは「100万円の軽自動車的仕事」
であることは心のどこかでわかっていたか、あるいは無意識の中にそういう選択肢を内在
させていたのである。しかし、自分自身の心や意識や内面という部分を見つめることがタ
ブ−とさえ言える現代の教育政策のため彼(彼女)らは、否応なく「3000万円の超高
級車的仕事」という客観的組織的事実のほうに舵を取らざるをえなかったのだ。その末路
は、最悪の場合、それ以外のことが一切できない状況、つまり人生の破綻に繋がっていく
のが明白なのである。しかも、3000万円の車を買わされて、まともな生活を続けられ
る人間など数少ないはずだから、最悪なケースは少なくない数にのぼるとみられるのだ!
もしかしたら、あなたもそうなのではないだろうか?w
157physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/27(木) 17:11:09.62 0
訂正。 >>156は、>>155の続きです。 
158physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/27(木) 19:39:24.19 0
>>156の続き
なお、補足すると、「車にこれだけの金がかかるという客観的事実に対して、車にこれだ
けの金をかけるのはもったいないという主観的意識が働く」というのは、その車に対して
何か別の志向性を有する対象の出現を予期して、主観的意識が働くというのではないこと
に注意しなければならない。その場合だと、客観対主観という構図にはならず、客観的対
象性の相互対立関係が生じているにすぎないからだ。
何か別のものに金を使えるだろうから、この車にはこれ以上金をかけられない、というこ
とが「主観的意識」であるというのではない。なぜなら、主観的意識は、むしろ、そうい
う客観的対立関係そのものを否定しようとするからである。それが、主観的意識の主観的
意識たるゆえんなのだ。
つまり、「車にこれだけの金をかけるのはもったいない」という主観的意識の内実を、より
直截な別の言葉にすれば、「自分自身がもったいない」ということに他ならないのである。 
 
159┏( ^o^)┛ ◆kU3ChdD08M :2014/03/27(木) 20:35:40.01 O
>>155
ものすごい、客観的評価だな。
完全にキミがいない。

そんなことじゃ、オマエモナーの自己言及で瞬間破壊されるぞ。
160physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/27(木) 21:24:09.26 0
余談になるが、このスレを書きはじめてから(つまり、自分の主観的意識の積みあげを意
識的に試行することとなってから)自分の意識が、なにか別のステージに上昇したような
感じ(幸福感?)を得ることができたのは確かである。
スーザン・ブラックモアという作家が「意識」の問題を取材するとき、なぜか相手に「自
分の意識が変わったか?」という質問を毎回するのだが、その意味がわかったような気が
する。客観的な事象を探求する科学者には、おそらく「自分の意識が変わる」という体験
は生じないのではないだろうか? 理由は、意識的な部分を固定しないと対象を観測でき
ないから。つまり、それは科学者の宿命みたいなものなのである。
「意識」は確実に変遷する。科学者ではない自分が何事かを観測するのは、その動きを捉
えるためであって観測する行為やその結果を目的にしているわけではないのだ。
なぜ、「意識」の変遷がそれほど重要なのかというと、科学者がノーベル賞をもらうより
も権力者が世界を支配し得たときよりも、そこに到達した自分のほうが絶対に良い状態に
あるだろうと誰もが心のどこかで気付いているからだろう。
そう、知らないフリをしているだけで、アインシュタインであろうが、ヒトラーであろう
が、そのことの大事さはわかっていたのだが、どうやってそこに辿り着けばいいかがわか
らなかっただけなのである。
161physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/28(金) 10:51:12.72 0
>>158の続き
次に、「客観化すべき対象を客観化しない(できない)場合」は、いわゆる心的外傷(トラ
ウマ)に見られるような現象を発生させることに言及しておかねばならない。

ちなみに、心的外傷の概念は一般に次のように考えられている。

典型的な心的外傷の原因は、児童虐待(幼児虐待)や性虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯
罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親に
よるDV、大規模な自然災害などである。
重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法
(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。
症例の目安としては(成人であっても)幼児還り現象が見られることがある。これは保護
を求めるSOS信号として罹患者から発せられるが、時に夜驚症の反応を交えるため、対応
には慎重さが要求される。軽度の場合はヒステリー状態が短発的に継続発生(間を置いて
寄せ返す波の様に)するのが平均の状態ではあるが、社会生活を営む上で若干の弊害があ
るため、専門的治療が必要な場合も有りうる。
全く治療せずに罹患者を放置した場合、自傷行動を含む危険行為を行う場合もある。仮に
放置状況が継続しうる環境に患者がいても、本人自身による回復迄の時間と費用は対数規
模になるため、治療優先の判断が必要と思われる。  *Wikiより抜粋
162physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/28(金) 10:52:51.55 0
>>161の続き
以下、心的外傷のことを「トラウマ」と記述することにする。

さて、上記の説明の中にも、「トラウマ」を引き起こす要因が隠されていることに気付いた
だろうか? それに気付いた人は、主観的意識を働かせているからであり、そうでなかっ
た人は、一般的客観的認識をロボット的に作用させていただけなのだ。
問題の箇所は、「本人自身による回復迄の時間と費用は対数規模になるため、治療優先の
判断が必要と思われる」という文節である。ここには、治療行為を効率優先主義的に捉え
る「偽性的な強迫観念」の原因が隠されているのである。
トラウマとは、「偽性的な強迫観念がもたらすクオリアの悪性化」によって引き起こされ
る意識的現象なのであるから、その回復(良性のクオリアへの帰還)は外部的な時間と費
用の計算によって行われるのではなく、自分自身の主観的意識へのアプローチによってし
か為し得ないと考えるべきだろう。
なぜなら、「偽性的な強迫観念」自体が、外部的な時間と費用という客観的虚偽性に因果
的に結びつく意識の変性に他ならないからだ。つまり、「偽性的な強迫観念」に陥る者と
いうのは、客観的虚偽性を虚偽性のままに受け入れることができず、それを真性なものに
したいという誤った主観的意識をもっているのである。
163考える名無しさん:2014/03/28(金) 23:30:50.89 0
無限ループの駄文
164physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/29(土) 09:57:20.80 0
>>162の続き
われわれは一般的常識的に(それは科学が植えつけた最悪な種類の偏見なのだが)この主
体に生じる「偽性的な強迫観念」を、客観的な「神経反応」であると看做してしまってい
る。 なので、その好ましくない状態を回復させるためには、まるで腹痛のときに正露丸
を服用するように外部からの客観的物理的作用のみが処方されれば足りるという誤った認
識をもっているのだ。
しかし、事態の様相は、それほど単純ではない。
「偽性的な強迫観念」とは、客観的「神経反応」の誤作動に、主観的意識が深くかかわっ
ていることを、まず認めなければならないのである。 しかし、科学的認識に毒された医
療関係者ほど、このことを、まるで自分の全存在が否定されでもするかのように拒否する。
なぜなら、彼(彼女)らの積み上げてきた知識が、すべて客観性だけをベースにしたもの
だからなのだ。 こうなると、精神障害者に精神障害者の治療を行わせているかのような
状況を呈することとなる(苦笑)
直観的に理解できると思うのだが、この場合の医療関係者の陥っている状態というのは、
まさに前述した「客観化すべきでないものを客観化してしまうこと」の類型に入ってしま
うのである。 そして、そういった者があらたに生み出す絶望的病いこそ、「客観化すべき
対象を客観化しない(できない)場合」の類型に属する存在者なのである。

「偽性的な強迫観念」のおおまかな理解として、まず次のような図式を認識しておくこと
が必要である。 図式の形式は各自で適宜、変更して構わないが内容まで変えないように
注意すること。

「 悪 性 の ク オ リ ア の 発 生 」

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

「 悪 性 の 神 経 反 応 の 発 生 」
165physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/29(土) 10:23:30.47 0
>>164の続き
「悪性の神経反応」とは、たとえば、トラウマによって生じる「フラッシュバック」のよ
うに「見たくもないものを何度も見なければならない苦痛」を現象させるようなことであ
る。 このことを、見たくもないものを何度も見てしまうのは自己管理に問題があるだけ
なのではないかとか、実は心のどこかで自分でもそれを見たいと思っているのではないか
とかいう具合に考えるべきではない。(おまけに2chに居るようなバカは、トラウマに苦
しむ者をみて、おまえはマゾなんだろ?wという始末。救いようがないのである(苦笑))
それがそういった問題ではないというのは、「意識」から「神経」への直接的な制御が不
可能であること、つまり自分の「歯の痛み」を意識的にコントロールできないことなどの
経験から明白なのだ。 しかし、だからといって、歯痛に痛み止めを処方したり外科的治
療を施したりするようなことで、この「悪性の神経反応」を克服できると考えるべきでは
ないのも事実である。 なぜなら、歯痛にはクオリアの問題は絡まないが、トラウマには、
あたかも悪性のウィルスのようなそれが確実に関わっているからだ。
166physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/29(土) 14:15:26.90 0
>>165の続き
ちなみに、「悪性の神経反応」に効くクスリというのはある。しかし、「悪性のクオリア」
に効果のある物理的な薬剤は存在しない。なぜかというと、クスリの物理的形状や特性は、
「悪性の神経反応」を生じさせる神経物質と等しい次元にあり互いに作用し合うことがで
きるのだが、クオリアの存在形状や特性は神経物質との重層的な底辺での繋がりこそあれ
薬剤的物質が内在する表層的な次元とはまったく違うところにあり、両者の間では作用性
を確保できないからだ。
少しイメージし難いだろうか? つまり、こういうことだ。
人間の「神経物質」自体は、非常に重層的な存在の次元をもち、その表層では化学的薬剤
的物質とも関わり、その深層では、クオリア的なものとも関わっているということである。
しかし、化学的薬剤的物質とクオリア的なものが、なぜ関係性作用性をもてないのかは、
ここでは説明しない。 それは、「意識」の本質にかかわる非常に難易度の高い解釈を必
要とする事柄であり、現時点での言及は混乱を招くからだ。
167考える名無しさん:2014/03/29(土) 14:49:59.28 0
>>153
「これ何になるの?」と思いつつも
無意味な熱意に感心しないでもない
168考える名無しさん:2014/03/29(土) 16:30:58.34 0
>>166
物理的な神経反応と、クオリアとの関係を究明する前に、まず、「物質」の定義と
「意識」の定義を明確にしないと、この問題(ハ−ドプロブレム)は、前に進まない。
169考える名無しさん:2014/03/29(土) 23:17:07.28 0
「意識」の定義を明確にできたら
その時点で終わりじゃんw
170考える名無しさん:2014/03/30(日) 07:59:16.11 0
現代の物理学の基底となっているのは、デカルトの「延長(タテ、ヨコ、高さ)」論理であり、
「延長」論理を基に、物質と精神の概念は、定義されている。
171physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/30(日) 10:26:12.46 0
>>166の続き
ここで一点、注意すべきことを挙げておく。
私的領域に存在する「神経物質」と「クオリア」
対象的外部に存在する「薬剤物質」
そして、「神経物質」のみに重層的次元を認識するからといって、「薬剤物質」のほうに
はそれが存在しない、つまり「薬剤物質」には「目的意識」という意味でのクオリアが存
在しないのだと解釈してはならない。
これはどういうことかというと、まず、志向的に関係をもつ次元では物質間の表層的連関
のみが現象することになるのだが、そこでは互いのクオリア同士が反応し合う意識的繋が
りは生じていないということである。
誤解のないように再定義しておく。
われわれの「知覚的認識」は「神経物質」の表層的作用であるにすぎないのだ。
その「知覚的認識」によって捉えられた対象的外部の形状、特性というのも、その物質の
表層でしかないのである。
これは、「薬剤物質」にかぎったことではない。 「核物質」についてもそうであろうし
「他国人物質」についてもそうであろう。
この表層的次元では、「意識(クオリア)の共有はなにも起こっていない」のだ。
そういう意味で
現在までの物理学が行ってきたことは、真に物質の謎を解明する学であったというより、
物質の表層のみを捉えて満足していただけと考えるべきだろう。 それは、物理的認識の
怠惰がもたらした罪悪の歴史に他ならなかったのである! 
筆者の希望としては、物理学を「物心学」とでも改名し大いに悔い改めてほしいのだが・・・
(まあ、軽い冗談ということで)w
172考える名無しさん:2014/03/30(日) 11:52:19.89 0
自身で自問自答する態度はいい、だがポエムにすぎない。
173physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/30(日) 12:44:04.37 0
>>166の続き
ここで一点、注意すべきことを挙げておく。
私的領域に存在する「神経物質」と「クオリア」
対象的外部に存在する「薬剤物質」
そして、「神経物質」のみに重層的次元を認識するからといって、「薬剤物質」のほうに
はそれが存在しない、つまり「薬剤物質」には「目的意識」という意味でのクオリアが存
在しないのだと解釈してはならない。
これはどういうことかというと、まず、志向的に関係をもつ次元では物質間の表層的連関
のみが現象することになるのだが、そこでは互いのクオリア同士が反応し合う意識的繋が
りは生じていないということである。
誤解のないように再定義しておく。
われわれの「知覚的認識」は「神経物質」の表層的作用であるにすぎないのだ。
その「知覚的認識」によって捉えられた対象的外部の形状、特性というのも、その物質の
表層でしかないのである。
これは、「薬剤物質」にかぎったことではない。 「核物質」についてもそうであろうし
「他国人物質」についてもそうであろう。
この表層的次元では、「意識(クオリア)の共有はなにも起こっていない」のだ。
そういう意味で
現在までの物理学が行ってきたことは、真に物質の謎を解明する学であったというより、
物質の表層のみを捉えて満足していただけと考えるべきだろう。 それは、物理的認識の
怠惰がもたらした罪悪の歴史に他ならなかったのである! 
筆者の希望としては、物理学を「物心学」とでも改名し大いに悔い改めてほしいのだが・・・
(まあ、軽い冗談ということで)w
174physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/30(日) 12:46:07.37 0
>>171の続き
少し話は脱線するが、この「神経物質」の重層性との絡みでいうと、地球上の「海」につ
いて、それと同じ論理で考えてみると示唆的かもしれない。
もし、「海」の表層に海洋生物のすべてが現れ、ひしめき合い存在を主張すれば、どうな
るだろうか? 空を舞う鳥たちは、思いがけない獲物の数に嬉々として狩りを始めるので
はないだろうか? その結果いつもなら自分の腹を満たせばそれでよかった食料の確保が
過剰に行われることになりはしないだろうか? 
それは、地上の漁師たちも同じことである。 その海面に出現した夥しい数をさばくこと
に夢中になり、種の絶滅を危惧することなど忘れ去られるに違いないのだ。 
表層だけを考えようとするのは、「病気」についても言えるだろう。
体の表面に発生する異変(痛みや痒みや形状の変化など)は、「神経物質」の基底で起こ
っている異常事態を告げている。痛みや痒みをクスリで誤魔化したり、形状の変化を化粧
でカバーして放置したりして、もっと深いところで進行していることに目を向けなければ
やがて、その表層さえ滅び去っていくだろう。
最近で言えば「核施設」の問題がある。
「核物質」の恐ろしさを、自らのクオリアで感じとったはずの日本人が、政府と学者たち
のきわめて卑劣な「表層的意志」によって「安全基準という計算上の問題」で片付けよう
としている現実が進行している。
その「安全基準という計算上の問題」で、あの未曾有の大事故は起こったのではなかった
のか? なぜか、「核物質」の表層にしか関心を向けられない愚かな者たちで溢れ返って
いる今の日本・・・・・。
「核物質」が「目的意識というクオリア」を持っていないとでも思っているのだろうか?
そのクオリアは、人間の絶滅を意図しているということに気付かないのだろうか?
・・・・・悲しいほど馬鹿げた話だ(苦笑)
175physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/30(日) 12:48:52.05 0
>>173は、>>171の2重投稿になってしまいました。 まったく同じ文章なので無視してください。
すみませんでした。
 
176逝ってしまえーpart2:2014/03/30(日) 13:07:18.54 0
    
 陰核 ・・・・・ とってしまえーって

              そこで にがわらいすんな(笑)
   
177physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/30(日) 15:12:43.00 0
なんか、表示機能がおかしくなってる。
>>171以降の投稿が表示されないんだが・・・・
178physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/03/30(日) 16:20:03.50 0
>>174の続き
科学的体系化によって現代のあらゆる行為は高度に専門化されている。
この「専門化」というのはどういうことかと言うと、端的にこういうことなのである。          

単なる「表層的事態の拡張」

つまり、科学的に専門化された知識や知恵の中には、多重多層的な物質的理解の深層に届
く言明は何ひとつ含まれていないということなのである。 専門的という言葉の響きから
なにか深い事柄まで暗示されてしまいがちだが、それはまったくの誤解なのだ。 だから、
それ自体は、われわれが自己責任によって別の方法論を用いて気付かねばならないのは明
白なのである。 それが表層的に突っ走ろうとする専門化された科学力に対する人間の為
すべき最善に違いないのだから。
179考える名無しさん:2014/03/31(月) 13:16:30.34 0
>>178
>単なる「表層的事態の拡張」
貴方の言葉の羅列をそのまま表している。
180physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/01(火) 01:11:55.23 0
【若干の詩的表現】


ロボットのように見えたものに反応するだけの人間を客観的存在とすれば

人間のように感じることを覚えてしまったロボットは主観的存在である。

この両者は実在する(かもしれない)w
181考える名無しさん:2014/04/01(火) 02:07:53.51 0
プログラムに従っているだけ。プログラムを書き換える能力はない。
182考える名無しさん:2014/04/01(火) 02:56:24.36 0
>>physica ◆xjYUbW7jT6
なんでこんなに改行が下手糞なんだ?単語の途中で区切るな。
内容を良いことを書いていても読んでもらえないぜ。
183考える名無しさん:2014/04/01(火) 13:26:41.17 0
>>180
「非定立意識を認めるという条件で、始めて我々は実在論のもろもろの難点に
落ち込まずに、心理学者の言う絶対的運動なるものを認めることが出来るのだし、
また、我々の論理と抵触しないで運動の現象を理解することが出来る。」(PP2p114)と、
メルロ=ポンティは述べている。


物質的なものと、意識的なもの(=精神的)は実在しているが、両者の“接点”が
見つからないのが今日の現状である。上記にメルロ=ポンティが記述しているように
知覚の両義性(非定立性=ゲシュタルト)を基底として、意識と物質を捉えることにより、
両者に共通した論理構成が可能となる。

この両義性(=ゲシュタルト)を基底として、人間とロボットの連関を考察していくと、
必ずしもロボット(=物質的)が意識を持たないものと断定することはできない。
つまり、人間とロボットの連関には、なんらかの「垂直の間主観性」が働いているという
論理が成立している。
184physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/01(火) 17:55:02.45 0
【西洋哲学史の中の知覚と志向性と意識についての児戯的発想について】


「意識」には自己意識しかない。
知覚的志向性を伴うものは、すべて物理的表層的「神経反応」でしかなく、そもそも
物理的深層的「自己意識」とは、まったく次元を異にするのである。
このような「神経反応」と「意識」の哲学的混乱は、デカルトの「我思う」という概念
の中にそれらが混在していたことに端を発するとも言えるであろう。
人間存在の「神経物質の束」の多層構造を認識できていない、すべての意識論は無価値
であり無意味であり有害でさえある。
そのことに気付いていない哲学者は、ただのクソだ!! クズ哲だ!!(ペッ)
185physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/01(火) 19:12:30.79 0
>>184の続き
たとえば、ここに三体の人間がいるとする。
一体は、男性。 推定年齢30歳。 茶系の短髪。 額は広い。瞳の色はブルー。鼻梁は
高く、唇は薄く引き締まっている。 顔全体の印象はゴツゴツした感じ。 痩身ではある
がよく鍛えられた上半身。 どちらかというと筋肉質。 手の五指はピアニストのように
長い。
一体は、女性。 推定年齢26歳。 長いストレートの黒髪。 額は髪に隠れている。
瞳の色はグレー。 鼻筋の通ったノーブルな顔立ち。 ふっくらした下唇の小さめの口元。
プロテニスプレイヤーのような敏捷な感じの身体がカジュアルな服装の下に見て取れる。
ジーンズが似合う細く長い足。
一体は、男の子。 推定年齢5歳。 黒色の短髪。 瞳の色はグレー。 瓜実顔で鼻筋は
通っている。 唇は、ミックジャガーのように肉感的で意志的に閉じられている。
短距離走が早そうな体型。 小児喘息を患っているので、どちらかというと虚弱体質。

ロボット的知覚(物理的表層的志向性)によって、この三体の人間を捉えたとき、その
形状の類似性から「親子」という認識が生じるのかもしれない。 
しかし、それは、あくまでロボット的知覚装置を通して認識した物理的「形状の類似性」
にすぎないのである。 もし、このロボットに何らかの原因で知覚的認識装置のトラブル
が発生したなら、もはやこのロボットは「親子」関係を識別できないのだろうか・・・・?
そもそも、われわれ人間は、「親子」であることを、どう認識するのだろうか?
物理的深層的「自己意識」が告げる「親子」関係とは、どういうものなのだろうか?
それは、おそらく物理的「形状の類似性」だけでは判断し得ない、三体の人間がもつ空
気感≠フようなものなのかもしれない。
それを直観する能力こそ、「意識」であり「クオリア」なのだ。
186考える名無しさん:2014/04/01(火) 19:15:49.29 0
我々は、普段の生活の中で、意識することと、肉体的(=物質的)に感ずることを
分けてはいない。つまり、意識的なものと、物質的なものとを“合一したもの”として
捉えている。
従って、「知覚」に於いても「物質」の神経反応は、同時に「意識」として捉えている。

物質と精神が、二つに分かれて捉えられるのは、デカルトからである。
“方法的懐疑”による超越論的主観(=私)の創出により、現代の「物質」と「精神」が
厳密に定義され、「実体二元論」が理論的に確立する。 ただ、この「実体二元論」は、哲学的な
高次元での論理であり、我々が普段に理解している「心身合一」の認識とは論理的に異なることを
理解しなければならない。

デカルト哲学で、難問なのは、上記に記した様に、日常的次元での「心身合一論」と、超越論的次元での
「実体二元論(=心身分離論)」という、循環論にある。
187physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/01(火) 20:42:25.60 0
【意識的なものと物質的なものは合一してるんじゃねーって言ってんだろヴォケ!!】


無自覚な人間は、「たまに物質的なものの見方になり」また「たまに意識的なものの捉え方
になる」だけであって、それらは合一しているわけでもなんでもないのだ!!
無自覚なだけなんだよ、テメーらクソがさ!!!wwwwwww




すまんね。 酒が入って、ちょっと酔ってるんだ・・・・
188physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/02(水) 21:58:15.04 0
【楽しくなければ生きている意味なんて無いというのは本当か?】

この問題を論じる前に、
物質的存在が、「楽しい」と感じるのは、その多層性のどのレベルにおいてなのか、まず
それを明らかにしておく必要がある。 
われわれが、「生きていてよかったと思えるような楽しさ」を実感する場合というのは、
どういうときだろう? 自分が望んでいた具体的なものや志向性の対象となる事実を得た
ときだろうか? よく考えてみると、そうでもないようだ。 なぜなら、そういった知覚
的に認識され「神経反応」によって捉えられるような次元の「満足感」というのは、つね
に客観的な多数によって奪い去られるものだからである。
誰も、一瞬の「満足感」でしかない現実を、「楽しい」などと思ってはいないのだ。
そこには、とりあえず満足できたのだから、それでいいじゃないかという客観世界を擁護
しようとする権力的意図を秘めた薄汚い「諦め」の強制が滲み出ている。
自分などは、本当に、そんなちっぽけな「満足」でいいのか? と問い返さずにはおれな
いのだ。 ほかにも、そう感じている人はいるのではないだろうか?
この物質的人間存在の表層レベルで起こる「神経反応」がもたらす「満足感」ではなく、
そうではなくて表題のような「楽しくなければ生きている意味なんて無い」という意識を
(真に人間らしい意識を!)すべての者は取り戻さなければならないのではないか。
この物質的人間存在の深層レベルで起こっている意識の事実は、ともすれば一笑に付され
見逃されがちになってしまうこの主観的意識は、実は非常に重要な「人間にとっての本当」
なのである。
189physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/03(木) 21:50:25.88 0
>>188の続き
なぜ、こういうことを、あえて論じるのかというと、人間が根源的に陥り易い錯誤として、
「物質的なものの見方」と「意識的なものの捉え方」の混同があり、このことが凄まじい
ほどの悲惨な現実をもたらしているということがあったし、今もあるだろうからなのだ。
その悲惨さが、どうして起こるのかいうと、
「物質的なものの見方」は、一時的な「満足感」を主体に得させる。
「意識的なものの捉え方」は、持続的な「楽しさ」を主体に得させる。
これらの思いが主体の中で、その多層性を破り一体化(合一)してしまったとき、恐るべ
きことが発生するからだ。
それは、「一時的な満足感を持続的な楽しさにしようとする凶暴な意志」あるいは、「持
続的な楽しさを一時的な満足感で置き換えようとする愚劣な行為」への傾倒である。

「一時的な満足感を持続的な楽しさにしようとする凶暴な意志」は、たとえばカルト宗教
団体が、おのれの社会的地位を持続的な不動のものにしようとする意志として現れたりす
るだろう。 彼(彼女)らの意識は、天上の世界を地上化しようとする「形式を変えた地
上世界の蹂躙」なのである。
190考える名無しさん:2014/04/04(金) 13:13:56.09 0
>>189
「物質的なものの見方」と「意識的なものの見方」を、哲学的次元より、もう一度捉え直す
必要があると思う。つまり、“心身二元論”から近代哲学としての「物質」と「精神」が、
論理的に定義されているからである。
物質と精神の概念を曖昧にしたままで、意識に於ける「主観」を述べても、結果として
曖昧な結論しか出てこない。いつまでも曖昧なままで、どうどう巡りをすすこととなる。
191考える名無しさん:2014/04/04(金) 15:19:49.85 0
機械的な思考は仮想定義による仮想モデルの証明にすぎず現実と比較すれば
簡単に破綻するのが分からないんだろうな。

言葉は現実をを形骸化してしか物事を定義説明できない。故にそれを厳密にすれば
するほど詭弁になる。お前のそれがその能力と資質だ。
192physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/04(金) 20:34:29.03 0
>>189の続き
この物質的存在がもつ表層のレベル(志向レベル)と深層のレベル(意識レベル)とは、
樹木の「幹」と「根」に喩えることもできるだろう。
つまり、意識レベルの「楽しさ」から志向レベルの「満足感」に至るプロセスを、「根」
から「幹」への成長と考えるのである。
そうであれば、どんな現実的事態においても、次のようなことは起こりえないということ
がわかるのだ。 その起こりえない、起こってはならない禍々しい事態とは・・・・・

「葉」→「幹」→「根」という人間存在の物質的脳機能形成が行われてしまうこと。

に他ならないのである。
これは、現代教育の悪しき断面において行われている表層的「満足感」=(学力の向上)
から深層的「楽しさ」=(生きがいのもてる仕事の発見)に繋げようとする愚かしくも悲
劇的な一連の行動によって実証されてしまう絶望的事態なのだ。
なぜ、こんな不自然なことを仕出かしてしまうのか?
なぜ、人間形成が、「根」→「幹」→「葉」というプロセスから疎外されてしまうのか?
ここに、「意識のハードプロブレム」最大の問題、意識への冒涜という事実が存在するの
である。 
193考える名無しさん:2014/04/04(金) 20:39:34.63 0
            ,,;;-───‐-;;,,    ・〜
     〜・    /;∴;∵;∴;∵;∴ヽ
          彡∵;∴;∵;∴;∵;∴ミ
     ( ( r、 彡;;-・==-;∴;-==・-;;ミ    ・〜
          | 〉^へ‐L,/):.:o)∴∵∴;ミ
         i/ ' '   .,イ__∵∴∵〉 ・〜
    〜・  〈     /;|:::::::::::|;∴;∵ノ_ < ママ〜〜〜 オナホどこ〜? ゲハハハハッw♪ 
        〉‐- ,,__,/;;;;l⌒⌒ノ;;;;;;ノ'~ /ヽ
       /゛   〈     `ーu′    l   i
       |     〉pikarrr ┏( ^o^)┛.|  |
       \,,_/  ,, # 第三の波平 |  .|
          |___,,___,,,_,,_ノ.  ノ
           |.     (x)    9  /
           |    ヽ、_.  _,ノ 彡 イ
            .|       (U)     .|
            ヽ    人    ノ
194physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/04(金) 21:22:13.97 0
>>192の続き
上述のような笑うべき事態(しかも現代人のほとんどが陥ってる事態であるw)が何故起
こってしまうのかは、実際は非常にわかり易いことなのだ。
それは、「根」=深層レベルの「楽しさ」をどうすれば発見できるかということが分かっ
ていない。つまり、「楽しさ」とはこういう意識状態を指すのだということ自体を知らな
いことに由来しているのである。
そもそも、人間存在の深層において持続性をもつ「楽しさ」という意識は、いかに生じて
いるのだろうか? この人間として生きる上での基本的な事柄すら知らず、どこどこの学
校へ行けば将来有望だとか、絶対あの学校へ入るんだ!とかやっているのだから、マジで
バカとしか言いようがないだろう(苦笑)
意識レベルにおいてしか絶対に生じることがない「楽しさ」とは何なのか?
まず、自分自身に、この地上に存在の「根」をもっているのだというほどの自覚が、いか
にして現れるのか、それが目先の志向レベルを追い掛け回す表層的「神経反応」といかに
隔たりのある体験を必要とするのかという問題に注目しなければならないだろう。
195physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/04(金) 22:27:59.61 0
>>194の続き
では早速、「楽しさ」という意識が生じる場面を再現してみよう。
ただし、これは、ことの性質上、客観的な検証方法には依拠しない。
「主観的意識」を検証する方法は次のような段階を経ることになるからだ。

すなわち、@「客観的事実の提示」→A「主観的取り込み」→B「主観的理解」である。

科学的客観的検証に欠如しているのは、このプロセスのうちA以下のところだ。
ちなみに、意識を検証しようとする科学的客観的検証という笑うべき方法論は以下の如し。
1.客観的事実の提示 → 2.客観的比較検討理由付け → 3.客観的結論
これで、「主観的意識」を検証できるというのだから呆れるwwwww
心の哲学者と呼ばれる著名人ですらこの水準なのだから嘆かわしいことこの上ないでは
ないか!
われわれは、正当な「主観的意識」の検証方法に則り、「楽しさ」についての再現を試
みることにしよう。

オケ?w
196考える名無しさん:2014/04/04(金) 23:58:10.24 0
波平physica波平です。
197physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 10:48:00.41 0
>>195の続き
まず、@「客観的事実の提示」から。
現代教育において「点数主義」的な教育システムが存在する。
そこでは、ある客観的に作成された定型的な問題を解き、より高得点を獲得した者を評価
するという欲望の図式ともいうべき構図が成立しているのである。

次に、A「主観的取り込み」について。
われわれは、人間存在の物質的表層のレベルで発生する志向的なものの見方において、あ
る数値目標の達成を「満足感」として認識する場合がある。 この一時的「満足感」を利
用して人間形成をコントロールする方法論が(少なくとも日本の)現代教育でなされてい
ることのすべてであることは、ほぼ間違いがないと考えられる。

そして、B「主観的理解」としては。
そこで生じる一時的「満足感」は相対的につねに転落の脅威と不安にさらされてい、絶対
的志向性のもつ欲望との相関性からつねに労苦と渇きに宿命付けられていることは自明と
言わねばならない。 当然、ここには持続的な「楽しさ」という本来の幸福概念などあろ
うはずもなく、結果ただ、そのことを「忍従」とか「我慢」とかいう美名のもと受け入れ
させようと目論む物質的表層レベルの利益を得ることだけが目的であるといっても過言で
はない「権力的意志」の思いのままに誘導されることになってしまうのである。

以上が、客観的なものへの志向的欲望を根源とする一時的「満足感」についての主観的意
識に基づく検証である。
さて、いよいよ意識が(意識だけが!)捉えることのできる持続的「楽しさ」についての
主観的意識的再現にとりかかろう。
198考える名無しさん:2014/04/05(土) 10:55:35.51 0
評価した時点で「客観的事実の提示」ではない。
199考える名無しさん:2014/04/05(土) 14:33:22.17 0
「表層的」「深層的」の区別をどうやってしたのか知らんが、勝手に分類した上、その言葉の意味に呑まれているように見える
200physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 18:42:06.60 0
>>197の続き
@「客観的事実の提示」として。

物質的表層レベルの客観的数値目標を掲げ人間の忌まわしい隷属を目的化する「権力的意
志」によって、恐ろしく単純な基準による優劣の選別を行うためにある「教育制度」から
完全に離脱した生き方、すなわち「社会的に認められる範囲において自己の特性を活かす
生き方の選択」が多様化した職業(job)の客観的実在を指示することによって可能となっ
ている状況がある、ということ。
ただし、この場合の「社会に認められる」というニュアンスは、「社会に評価されている」
ということを意味するものではない。 客観的評価が存在してもしなくても可能的に社会
化できそうな自己の能力への覚醒については一応これを社会的存在の客観的形式として認
めようという趣旨である。
ゆえに「社会に評価されている」ことを「社会的表層現象」
「社会に認められる」ことを「社会的深層可能性」と呼んで区別することもできるだろう。

A「主観的取り込み」について。

「社会的に認められる範囲において自己の特性を活かす生き方の選択」は、通常、あの見
苦しい客観的社会的闘争(おのれの権利(一時的満足感)を拡張するために足の引っ張り
合いをしたり、互いに傷付け合ったりすること。あるいは物質的表層的現象への傾向性が
もたらす悪意に満ちたハラスメントの類い)から完全に自由であり、むしろ、その表層レ
ベルでの勝利(神経反応的感覚を満たすだけの一時的満足感)を求めなくなる。
201physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 18:43:15.69 0
>>200の続き
なぜなら、人間存在の物質的深層レベルにおいて自己が社会の中で位置付けられているこ
とを疑いようもなく認識できたとき、すべての人間は一人の例外もなく、その瞬間に持続
的な「楽しさ」に覚醒するからである。

この「楽しさ」の意識は強烈であり、感動的ですらあるのだ。
長きにわたり客観的社会的闘争の業苦の中に居た者にとっては、まさに、おのが「天国」
を発見した瞬間といっても過言ではないだろう。 そんな体験である。

B最後に「主観的理解」に至る。

われわれは、社会の深層可能性と自己の物質的深層レベルとが渾然と一体となり融合する
地点への言語的理解を得ることができた。
これは、人類史上哲学史上はじまって以来の快挙ではないだろうか?(w自画自賛w)
問題は、もはや破綻が紛れもない事実である現代日本の教育制度から、いかに離脱し自己
の意識世界でしか実現できない持続的な「楽しさ」「幸福感」に包まれる生き方への分岐
点を、いかに発見するかということに尽きるのである。
202考える名無しさん:2014/04/05(土) 19:10:18.13 0
>>201
>人間存在の物質的深層レベルにおいて自己が社会の中で位置付けられいる認識。

>上記に、自己が物質的深層レベルにおいて社会(=客観的存在)に位置づけられると記述
 しているが、この場合、物質的なものと限定しているのでしょうか?
 つまり、自己とは主観的な存在であり、主観的であるということは、対極にある客観的存在を
 意識的に捉えており、人間存在としての「自己」は、身体的(=物質的)であると同時に、
 意識的存在(=精神的)として、両義性(二重性)をもって“存在”している。
203考える名無しさん:2014/04/05(土) 20:24:51.63 0
ポエムに聞いても無意味ですよ、
204physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 21:13:04.19 0
>>202
>社会(=客観的存在)

などと言った覚えはないよ。 

>自己とは主観的な存在であり、主観的であるということは、対極にある客観的存在を
>意識的に捉えており、人間存在としての「自己」は、身体的(=物質的)であると同時に、
>意識的存在(=精神的)として、両義性(二重性)をもって“存在”している。

意識は物質的深層レベルに現れるものの見方考え方であり、物質との対極において
捉えるような何かではない。 
そういう古臭い物心二元論は無意味だと思うよw
205physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 21:21:47.73 0
いやしくも哲学をやろうという人間が、他人の言論を>>203のような無内容なコトバで誹謗中傷など
しないでもらいたい。
主の真面目なスレかどうかの区別もつかんバカは、そもそも哲学板に存在する価値などないだろう。
とっとと消えてくれ。
206physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 21:36:57.31 0
>>201の続き
では、ここで面白い思考実験をしてみよう。
前述の「主観的意識」によって再現検証された事態が、客観的な科学的観点から如何
にバカバカしい愚劣な反吐が出るような解釈に摩り替えられるかの検証である。
これは、言うまでもなく
1. 客観的事実の提示 → 2.客観的比較検討理由付け → 3.客観的結論
のプロセスによって言語化されていくだろう。

現代の(絶望的パラダイムを構成する)科学バカの脳ミソが、どれほど見苦しく卑し
く汚らわしい発想で「すべての意識を蹂躙しているか」の、これが動かぬ証拠になる
だろう。
では、次回をお楽しみに。
これを読んで、科学者に殺意を覚えたとしても、けして実行はしないようにねw
オレはやるかもしれないがwwww
207考える名無しさん:2014/04/05(土) 22:30:04.43 0
>>204
「意識は物質的深層レベルに現れるものの見方考え方である」と述べているが、
意識が物質的存在との“対極”に於いて捉えるものでないとすると、
深層レベルで、物質と意識はどの様な関わり方をしているのでしょうか。 
208physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/05(土) 23:07:02.58 0
>>207
>深層レベルで、物質と意識はどの様な関わり方をしているのでしょうか。 

「意識的志向性」などというフザけた概念を捨て、量子論的な存在の次元で意識を働かしてみればわかるよw
志向性は物質の表層で起こる非意識にすぎない。 
意識とは、物質の深層、量子的世界で発生する自他の区別も消失した対象性の無い場所でしか起こらない何かだ。
そういうところで発生する「意識」というものを味わえ。
それが出来る奴にしか分からんだろうな、これは。
209860 ◆uvrTjevNu2 :2014/04/06(日) 01:42:23.55 0
ペンローズか。そんなにいいのかね。
210physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/06(日) 09:43:25.30 0
>>206の続き
さて、これから論述する内容は、(少なくともこの日本国において)古来より社会的人間
の行動の指針となってきたある巨大な概念の転回をもたらすことになるだろう。
その指針とは、すなわち「大義名分」という表層的倫理道徳観のことである。
「大義名分」は笑うべきことに、今までの日本では次のように解釈されてきた。

「勅命こそ大義である」

そして、それが「勅命」であれば、その内容を「主観的意識」によって検証することは絶
対にありえないこととされてきたのである。ゆえに、鬼畜米英を滅ぼせと言われれば悲惨
な進軍、命を投げ出す特攻を何の疑いもなく行い、「国力をつけるためには民を教育しな
ければならない」という明治時代から続く暗黙の了解(一種の潜在的勅命)があれば時代
の科学的客観主義的パラダイムのもと何の疑いもなく「一定のカリキュラムに従い教育さ
れることを当然としてきた」のだ!!

この恐るべき「意識の蹂躙」「主観性の欠如」「人間性の不在」は、そのような見せかけの
物質世界の表層的志向性に導かれただけの科学的客観的と称する邪悪な意志によって歴史
上を席巻してきたのである。
211physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/06(日) 10:12:07.50 0
>>209
ロジャー・ペンローズは、量子コヒーレンスの永続性を信じていない。
つまり、量子世界を観察してるだけなんだよ、彼はw
212860 ◆uvrTjevNu2 :2014/04/06(日) 12:28:54.41 0
「量子コヒーレンスの永続性」は主観的意識の
科学的基礎付けの鍵となるんですかね。
それともそれも客観的知による意識の蹂躙ですか。


さておきハードプロブレムについてですが。
個別的は(0, 1)の信号を発する機能しか持たない神経細胞が
中枢神経系で1000億以上、大脳皮質で100億以上の数の集合体となり、
ニューラルネットワークという複雑系を構築する事によって、
計算機とスーパーコンピュータのように、連続的であるが
質的とも言える機能の違いをもたらしている、という事は
確かなことであると思われます。人間の脳の機能を構造的に理解したとして、
この「機械」の実際の挙動が生じさせる主観的事実が例えば物理学の対象
となり得るかと言えば、それはほとんど原理的に不可能であるとさえ考えます。
その意味ではハードプロブレムは確かに存在しますが、だからと言って
主観的意識は内観以外のいかなるアプローチも許さない、というのも違うのではないでしょうか。
あくまで「思い」もまた神経反応であり、そこに質的な違いを見出すのは
センチメンタリズムでしかない。

この二つを別次元のものとする根拠についてあなたは、
「神経反応では説明が付かないから」
という消極的な理由しか挙げられていないのです。
思いを神経反応と言い切ってしまったからと言って、
思いが客観化され、機械的に抽象化されるという危機感も杞憂です。
理論は現実の解釈に変化をもたらしても、
現実のあり方を変化させはしない。
(つまり、そもそも客観的知による主観的意識の侵略という図式が、
倫理的な自然主義の誤謬を含んでいるのではないでしょうか。)
213860 ◆uvrTjevNu2 :2014/04/06(日) 12:50:22.80 0
ハードプロブレムは絶対的なものではなく、
脳という回路の機能的構造が明確になっていないという事と、
脳が膨大な演算能力を持っているという量的な問題と、
個別の脳にアクセスしその物理的挙動を観察する事が日常的には不可能である、
という現実的な問題に還元されるものであると思われます。

あくまで、神経反応と思いは連続しています。
客観的知と主観的事実も連続しているのです。
これらの見かけ上の質的な差を前提として、
主観的領域に客観的領域から独自の観念論的体系を立てる。
しかも、そこに(勝手な)対立構造を作ってしまっている。
あなたのこの試論は、科学=客観的知の体系による不当な主観の解体
に対する、一種の政治的かつ感情的なアンチテーゼなのでしょうか。
だとすれば、何となく理解できなくもない。

そうでなく、科学の実態とは無関係に正しい知識の基礎付け
という意味での試論であるなら、そもそも初めから科学コンプレックスの哲学です。
そんな「仮想敵」としての科学は存在しません。
居るのは科学の外で科学を勝手に信奉している者だけです。
この場合、あなたもその一人なのではないかと思います。
214physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/06(日) 14:43:43.28 0
>>212>>213
そういう長い反論は、ここでやってもらっては困るんだが(苦笑)
理由はわかるよね? 機械じゃないんだからw
別スレを立ててそこでやってもらえないかな。

以上
215physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/06(日) 14:53:34.63 0
>>214の続き
ちょっと不親切すぎたかな(反省)
じゃあ、もっと分かり易く説明するよ。

「オレは、理解する素質の無い人間を理解させるためにこのスレを利用しているわけじゃないから
無意味な反論や批判はやめてほしいんだ」

遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
216考える名無しさん:2014/04/06(日) 15:04:38.36 0
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
>遊んでるヒマねーんだよwwww  おわかり?
217physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/06(日) 15:31:29.68 0
>>210の続き
【(科学的)教育制度の大義名分(潜在的勅命)を支える客観的一般的方法論に基づく検証】

1. 客観的事実の提示

ここに一冊の本があります。 あなたの持っている時間を犠牲にして、自分のやりたいこ
ともやらずに、とにかくこれを一冊全部丸暗記すれば、このステージはクリアです。
ステージは全部で500あります。 20歳を超えるまで、あなたがたは自分の時間とと
もに存在する主観的意識を犠牲にして絶対的科学的パラダイムによって構築された教育制
度に奉仕する神経反応物質に徹して下さい。 それが善良な社会人への道なのですから。

2.客観的比較検討理由付け 

ふむ、実際、暗記能力うんぬんでもないが無駄口を叩かず言われた作業を黙々と、ただ機
械のように遂行できる人間というのは都合がいいよな。
我々の目標(大日本強靭化計画)を支えるロボットを育成するには、主観的意識など持た
れてはえらいことで、客観的一時的満足感だけが人間として得られる心的内容のすべてだ
と思わせておかねばならない。 そのためには、アメと鞭で「神経反応」的志向性を上手
にコントロールしてやればいいのだ。
「客観的な課題が出来ないのは、客観的一般的におまえがダメな奴だからだ」という不動
の科学的認識が我々にはあるのだからな!!W

3.客観的結論

勉強しないと、小遣いもらえなくなるからなぁ〜〜
勉強しないと、家に入れてもらえないしさ・・・・・
勉強しないと、親にメチャクチャ怒られるんだ(汗)
勉強しないと、ダメなやつだって仲間はずれにされそうでコワイよ。
勉強しないと、いいとこ就職できないんでしょ?
勉強しないと、ホームレスになっちゃうんだよね?

勉強しない奴なんか、生きてる意味ないよねwwwwwwww
218考える名無しさん:2014/04/06(日) 16:34:50.02 0
>>201
>我々は、社会の深層可能性と、自己(主観)の物質的深層レベルとが渾然と一体と
 なり“融合”する。
 意識とは、物質の深層、量子的世界で発生する自他の区別も消失した対象性の無い場所で起こる。


 上記で「意識」は、自己の物質的深層次元(=量子的世界)と、社会的深層次元との融合化によって
 起こると述べているが、量子的世界は物質の極限化した世界であり、この次元で意識(=精神)が
 どの様な過程で論理的に“融合化”しているのか具体的に示されていない。

 意識(=精神)と物質の“融合化”が、発生的現象学のように論理的に明確に示されることが求められる。
219physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/07(月) 13:23:43.96 0
【主観的事実の積上げという方法論が現象学的方法論とは無関係であるということ】

現象学的方法論が目指すところは、端的に言えば「客観世界の再構築」でしかない。
それは、いかなる意味でも「主観的意識」「主観的世界」を、それ自体の中で問題にする
方法論とは似ても似つかないやり方なのである。
このことを直観的に理解できない者には、万言を費やしても(理解させることは)不可能
であろうと思われる。
ちなみに、主観的事実の積上げという方法は、喩えて言えば「現象学的還元」のようなも
のだろうか?w(冗談だが)
冗談はさせておき、主観的意識の検証の仕方は、すでに説明したとおりである。 この主
観的意識の流れから、客観的に主観的意識の発生を取り出し論理的に説明しろなどという
ことは、自分の「心臓」を取り出して見せてみろというようなもので、まったく馬鹿げて
いるのだ。 こう言うと科学バカ論理バカの集団から「CT画像で見れるじゃないか」とか
「手術すれば直接に観察できるじゃないか」とかいうクソみたいな反論が巻き起こりそう
なのでwあえて先に言っておこう。
CT画像で観察した心臓も胸を切り開いて見た心臓も、客観的な心臓であって「主観的心臓」
じゃね−んだよ、ドアホ!!!
でさ、「主観的心臓」を検証する手段が、主観的意識の検証の仕方のA「主観的取り込み」
なわけで、その内容を言語を介して理解することで「主観的意識」から発生する「クオリ
ア」 という形式の「心臓」に気付けるわけじゃん? その悪性、良性についてもね☆
それ以外に、主観的意識を取り出せる方法があるんだったら、オレが聞きてーよ!!
ヴォケ!!!!

「主観的事実の積上げ」と同時に「主観的意識の深化」が発生しているということかな。
220考える名無しさん:2014/04/07(月) 13:33:58.36 0
いいね
221physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/07(月) 15:41:40.36 0
【主観的現象というものは存在しない。あるのは主観的心象だけであるということ】


「現象」とは客観的に再現検証可能な物質の表層に関わるすべての物事である。

「心象」とは主観的に再現検証可能な物質の深層に関わるすべての事実である。
222考える名無しさん:2014/04/07(月) 20:03:30.66 0
うんこあげ
223考える名無しさん:2014/04/08(火) 02:06:42.57 0
おっぱいあげ
224physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/08(火) 14:41:38.63 0
【決定可能な客観的(間主観的)世界は存在せず主観的意識のみが有るということ】


たとえば、ランチの料理を何にするかということを10人が決める場合を考えてみる。
A「中華!」B「和食」C「中華!!」D「マクド☆」E「中華♪」F「中華・・・?」
G「イタリアン」H「中華ww」I「中華!!!」J「中華☆★#¢w」
10人中7名が「中華料理」を食べたいという主観性を述べ、「中華」という言語記号に
よって客観的(間主観的)に合意に達したと通常は思われるだろう。
しかし、実は、そういう言語の切り取り方では、「主観的意識」の何もフォローできてい
ないのである。 なぜなら、「主観的意識」はこの場合、Aの「!」Cの「!!」Eの「♪」
Fの「・・・?」Hの「ww」Iの「!!!」Jの「☆★#¢w」に込められている何かだ
からなのだ。 
つまり、A・C・E・F・H・I・Jの各自は、それぞれ中華料理に対する思い入れが違
っているわけである。 Aは、定番の料理を食べたいと思っている。Cは少し上等な内容
のものを求めている。Eは決めている特別なメニューがある。Fは油に拘っている。Hは
店の雰囲気が大事だ。Iはギョウザの美味しい店がいい。 そして、また皆で、これらに
ついての主観性を述べ投票してもらうとする。 すると、また「言語」の部分では客観性
(間主観性)が成立するが「記号」の部分で食い違いが生じ無限遡行に陥ってしまうだろ
う。 かくして彼らは客観的(間主観的)世界では永遠にランチを決定できないのである。
225考える名無しさん:2014/04/08(火) 14:56:46.07 0
taxis
226physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/08(火) 20:52:42.38 0
>>224の続き
この「ランチの喩え」で言いたいことは何かというと、ひとつには次のようなことだ。
客観的(間主観的)意志に妥協して、自分はそれを選択しておけば間違いないのだと始め
から「主観的意識」を否定している者は、ある一定の深みにおいてそれと気付かされる物
質的存在者である自分自身の「主観的意識」(まさに自分が食べたかったものはこれなん
だ!という感動)を壊死≠ウせているのだということ。
そして、そのことで危惧される最も重大かつ深刻な事態とは、世界そのものの死滅≠ノ
他ならないのである。
227考える名無しさん:2014/04/08(火) 20:58:50.23 0
うんちあげ
228physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/08(火) 20:59:20.27 0
>>226の続き
「主観的意識」を客観的(間主観的)に壊死≠ウせることは、世界の死滅≠もたら
すだろう。 その危険度は、客観的(間主観的)志向性が、かつてないほどに強力に人々
の心を蹂躙している現代において、もはや限界を越えようとしているのかもしれない。
ゆえに「主観的意識」への帰還は、われわれ人類の急務なのだ。
229physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/08(火) 21:10:25.23 0
なんで世界が死滅≠キんだ? って?

面白くない世界なんかあってもしょうがねーからに決まってんじゃん!!

だろ?w
230考える名無しさん:2014/04/09(水) 12:51:11.17 0
揚げ物、全力あげ
231考える名無しさん:2014/04/09(水) 18:45:03.51 0
響くレスが無い

ごめんなさい、わしがアホで
232physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/09(水) 20:25:14.68 0
【刑法理論における客観主義と主観主義の表層的対立は刑罰を決定不能にしていることについて】

たとえば、「ストーカー殺人」があったとする。 客観主義的な考え方では、この行為が
処罰の対象となるのは殺人が既遂に達してからということになる。 それまでは、いかに
そのストーカーが被害者を妄想し「相手を心の中で幾度も殺そうと」少なくとも何の外的
な規制もかからないのだ。   
それは、客観主義と対立する理論的立場であるはずの主観主義においても、たいして変わ
らないのである。 主観主義だからといって、ストーカーが殺人的妄想を抱いた時点で捕
らえることはできない。 これは何故かというと、この場合の主観性というのは、客観化
された主観性すなわち「間主観性」のことだからだ。
だから、反社会的な性格、動機を主観的に捉えると言っても、それはその者の主観的意識
を「主観的取り込み」などを検証することによって深層的人間的に把握しようというので
はなく、その出来事の経緯を表層的機械的に観察し一定の判断を下そうということでしか
ないのである。
ゆえに、従来の主観主義の立場から言っても、「ストーカー殺人」の処罰的対象性は、
「殺意をもって被害者への接近を企てたとき」からしか発生しない。
ここに「意識のハードプロブレム」が、人間の意識力の低さを嘲笑うかのように潜んでい
るのだ。 
われわれは、主観的意識そのものを検証する方法を、すでに得ている。 それは客観的検
証の仕方とは、まったく違うものであることも説明した。 では、あの方法で「ストーカー
殺人」の行為者の主観的意識を再現検証し「機械的客観的処罰」ではなく「人間的主観的
意識に変化をもたらす」ようなこととして当該行為者に刑法的範疇における対象性をもた
せることは不可能なのだろうか?
233physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/09(水) 20:34:09.02 0
【客観性と主観性を天秤にかける悪しき人間の習性は現代教育の方法論によって
形成されているということ】 

われわれは「ものを盗んではならない」という主観的意識(道徳心)をもっている。
もしそれが、客観的対象物の神経反応的(志向的)重要度との秤にかけられている
のだとしたら、とんでもないことだ。 対象物の重要度が高ければ主観的意識が相
対的に低くなり、対象物の重要度が低ければ主観的意識は相対的に高くなるという
のであれば客観的世界での血で血を洗う闘争は、いかなる主観的意識によっても回
避できないからである。
このような最悪の客観性と主観性の相関関係は、実は、クソ面白くもない教育を無
理矢理させている現代教育事情が多くの生徒たちの中に、あたかもC型肝炎ウイル
スをばら撒くように蔓延させているのだ。 どういうことかというと、面白くない
(やる意義の見出せない)授業を受けたくない気持ちは、本人の「主観的意識」に
他ならないのだが、それをあえて我慢させてしまう事態が「神経反応的志向的重要
度」に関係しているということなのである。
つまり、その「授業」を機械的客観的打算的に観察した結果、生徒は「神経反応的
志向的重要度」において、それを高く評価した場合、授業を受けたくないという主
観的意識のほうは相対的に低下するという世にも忌まわしい相関性が、そこに生じ
ているということなのだ。
表層的志向性に右往左往する客観世界に、いつまでたっても悲惨な表層的戦争行為
がなくならないのは、教壇に立つ者の無自覚な人間的意識の蹂躙がもたらしている
という見方もできなくはないだろう。(言い過ぎならスマン)
234考える名無しさん:2014/04/10(木) 00:10:48.33 0
はーどあげ
235考える名無しさん:2014/04/10(木) 00:11:51.22 0
>>231
> 響くレスが無い
> ごめんなさい、わしがアホで
響かせるように発言していないからです。そんなの分かりきっている。
236考える名無しさん:2014/04/10(木) 14:40:42.90 0
「長文を書く熱意だけ」はレスペクトするけど
読むのは時間の無駄な気がしないでもないからな
悪いけど
237考える名無しさん:2014/04/10(木) 15:42:40.78 0
部屋の鍵は私がかけておきました
238physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/10(木) 21:04:23.24 0
>>232の続き
この問題を考える前に、「刑法」という法律によって保障されなければならない国
民の生活とは何かということを明らかにしておこう。 それは、物質的表層的な部
分のみならず、その深層に至るところまでを人間存在の全人格的なものとして想定
しておかなければならないのは言うまでもないことである。
もし、人間の「神経反応」に映ずる表層のみを一時的に満足させることだけが「刑
法」の役割であるとするならば、われわれは、むしろ、そうした「刑法」を執行し
て悪人を懲らしめた当の「権力当事者」に不安を覚えるだろう。 それは、どんな
不安かというと、その「権力当事者」の深層(主観的意識)が、懲らしめられたと
される悪人よりも。さらに凶悪な絶望的なクオリアをもっているのではないかとい
う不安である。
そういう「権力当事者」が、表層的現象として悪人を懲らしめたからといって、た
だ表層的な一時的満足感だけで、その「権力当事者」を人間存在の深層(主観的意
識)を含めた全人格的なものとして肯定できるわけではないのだ。
むしろ、そんな「権力当事者」よりも、先の悪人と折り合いをつけて生活していた
ほうがよかったというのは十分に考えられる事態ではなかろうか。
239physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/10(木) 21:05:45.58 0
>>238の続き
「権力当事者」の主観的意識を問う。
これは非常に重要な課題である。
彼(彼女)らは一様に、「主観的取り込み」を含む主観的意識的検証方法をおそら
くは採用しない。 なぜなら、おのれのクオリアを外部に曝け出してしまうことは、
客観的に取り繕うことのできぬ致命的なダメージを受ける重大なリスクを負ってし
まうからだ。
ゆえに「権力当事者」は、客観的な考え方を好み、一人残らず科学的知の信奉者で
ある。 
240考える名無しさん:2014/04/10(木) 21:11:34.97 0
あすぺ
241sage:2014/04/10(木) 21:50:09.53 0
ぜんりょ
242 忍法帖【Lv=26,xxxPT】(1+0:8) :2014/04/10(木) 22:23:43.08 O
寧ろ逆にデジモンのアニメの続編を放送して欲しい
他に別にデジモンのアニメの次回作を放送して欲しい
当然正反対にデジモンのアニメの次期作を放送して欲しい
無論デジモンのアニメの最新作を放送して欲しい
243考える名無しさん:2014/04/11(金) 08:01:31.35 0
その言葉から判断するに、レイもカヲルと同じく使徒ということ?
244考える名無しさん:2014/04/11(金) 14:48:07.51 0
ぜんりょくあげ
245physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/11(金) 19:29:36.14 0
>>243
エヴァは、「意識のハードプロブレム」の前で、知の限界を越えていないよ。
物質の深層で働く無志向的な「意識」と別の従来からの志向的な「知」の概念とを混同
したままだ。 だから、カオス(使徒側)とコスモス(人類側)との対立なんていう、
ありふれた構図でしか物語をつくれない。
綾波レイというキャラは、記憶のバックアップだのクローンだのという設定以上に、実は
われわれの「主観的意識」に訴えかける何かをもっている。 そこが一番重要なのだが、
科学ボケした観客のほとんど全部が、それをスルーしている始末(嘲笑)
だいたいさ、「意識」の無い(ようにしか見えない)化け物じみた(使徒)みたいなカオ
スの象徴が人類に敵対するって、そんなこと現実に想定してなんか意味ある?w リアル
で敵対する相手っていうのは、人間と「主観的意識」=クオリアの共通性が無い何かじゃ
なくて圧倒的に人間そのものでしょ? なんで化け物を仮想敵にしたいわけ? それって
テメーの科学的「知」というコスモスを誇示したいからとしか思えねーんだけどwww
唯一、人間っぽく登場したカヲルにしても、精神病んでるし(苦笑)つまり、志向的神経
反応に障害があって「主観的意識」が壊されてる(荒らされてる)奴なんじゃん。 なん
で、それが人類の「敵」なの?w 単に可哀相なやつじゃん!!www
今後のエヴァを、「意識のハードプロブレム」を乗り越えた本物の神話にしたかったら、
オレを年棒50億でスーパーバイザーとして雇うんだな。(49億でもいいぞw)
246physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/11(金) 19:51:52.01 0
>>240の続き
「権力者当事者」の主観的意識を検証する方法はある。
今までは、この方法論を思いつかなかった(というより、それだけの知的進化レベ
ルに達していなかった)から、権力者は人格者である必要はないなどと開き直った
虚言を弄していたにすぎないのだ。
その方法とは、
まず、「権力当事者」に、なんらかの客観的事実を提示して主観性が暴露されるよ
うな「主観的取り込み」をさせ、その内容を言語的に記述もしくは発語させる。
一方、「権力当事者」の脳内物質を測定して、正直な「主観的意識」に志向的な
「神経反応」が干渉する様子をデータとして取り出す。 これは、「主観的意識」
自体を客観化データ化するのではなくて、それに修正を加え誤魔化そうとする本来
的に物質的客観的作用である「神経反応」を捕捉するのだから方法論としての破綻
はないわけだ。 
このやり方で、世界の命運を握っているようなある「権力当事者」の「主観的意識」
=心の中=クオリアに、生き物の命について何の思い遣りも無いことが発覚でもす
れば大笑いなんだけどな!!!
247考える名無しさん:2014/04/12(土) 11:49:28.89 0
>>224
>決定可能な客観的(間主観的)世界は存在せず、主観的意識のみが
 有るということ。

>間主観的存在(客観性)と主観的存在(自己)の連関をフッサ−ル的論理から
 捉えると、他者(客観的存在)と自己(主観)は、二重性(両義性)に於いて捉えられている。

 つまり、純粋現象学(静態的現象学)の立場から、自己(主観)と他者(間主観性)の連関を
 世界内に於ける自己の存在として捉えるのではなく、自己(主観)と他者(客観)の「両義性(二重性)」
 として捉えているところにある。

 従って、「間主観性」の論理の捉え方にも二通りあり、ハイデガ−、メルロ=ポンティの様に「世界内存在」
 として捉える論理と、フッサ−ルの様に「世界」と「自己」とを「両義性(二重性)」として捉える論理とがある。
248physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/12(土) 14:25:32.57 0
【番外編:客観的神経反応的存在の理系と主観的意識的存在の文系の相違点について】

理系は、社会の奴隷システムの中で高得点高収入を獲得できる真の奴隷のことであり、い
つの世も過剰を生み出し滅びに至る習性を有する単純な精神構造の持ち主である。 
それに対して文系は、いつの世も意識の質的変化をその深層でもたらし世界の破滅的危機
を救ってきた。
理系は、世界の表層部分で派手に動き回るから目立つのだが実質は宇宙の有害廃棄物(ゴ
ミ)である。
文系は、世界の深層領域で活躍しているから目立たないけれども確実に世界生命の健全な
成長のために寄与している。 
理系の手によって「産業革命」が起きなくても世界は、きわめて平穏に推移していただけ
であろうが、文系の救世主がエルサレムに現れなかったら、世界意識は今よりもはるかに
陰惨過酷で、奴隷にすぎない理系がキレイなスーツを着て働けるような良い環境は
到底現れていなかったであろうと思われるのである。
249physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/12(土) 15:21:10.56 0
>>248の続き
しかも、理系ときたら、自動車やパソコンという便利なツールが手に入るのは全部、
理系のおかげだろうとホザく始末。 しかし、考えてもみたまえ・・・
それらの志向的神経反応的一時的満足感のために理系の技術が生んだ悲惨な出来
事(戦争兵器による大量殺戮など)があったのかと思うと、とても満足感に浸る気
分にはなれないではないか。 (そういう想像力の無い理系のバカだけが薄っぺら
い満足感に浸れるんだろうが・・・・)嘲笑)唾棄)
隣村を全滅させて物資を強奪し、その分け前で自分の村を「裕福」「便利」にして
テメーの志向的神経反応的一時的満足感を得るという構図が、まさに理系の主導す
る技術革新に伴う「福島県民の犠牲」のような現象を生むのだ。
なんと恐ろしきかな、理系。
なんと、おぞましきかな、理系。
汝らの呪われた脳ミソが、核廃棄物のように半永久的に隔離されんことを願う・・・・
250考える名無しさん:2014/04/12(土) 16:08:49.65 0
>>249
理系と文系の何が違うのだろうか。多分、両者の思考形式(物事に対する考え方)が
異なるからであろう。
理系の思考形式の長所と短所そして、文系の思考形式の長所と短所を明らかにしないと
「核」の問題、経済格差の問題、世界の飢餓の問題、弱肉強食の市場原理主義の問題等々は
解決されないであろう。
251physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/12(土) 17:08:30.78 0
>>250
>理系の思考形式の長所と短所そして、文系の思考形式の長所と短所

そんなことは分かりきってるじゃないかw
文系の「短所」というのは、文系的思考形式が「理系より」になった場合に生じることだ。
たとえば、ヒトラーのように「ユダヤ人に対する(文系的)妄想が、(理系的)な客観的
検証方法を経てホロコーストを結果させてしまう」みたいなこととして。
理系の「長所」というのは、理系的思考が「文系より」になった場合に偶然に生じる出来
事にすぎない。
たとえば、デイヴィッド・チャーマーズという「理系の才能に優れた者が、理系の表層的
な思考では捉え切れない何かがあることを直観しハードプロブレムを提唱する」ことで、
理系的思考形式では捉え切れない「主観的意識」という文系特有のテーマに、多くの者が
アクセスできることになったようにね。
つまり早い話が、諸悪の根源は「理系」それ自体の中にあるってことなんだよ。
問題はそこなのさ。
 
252physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/12(土) 21:50:19.44 0
>>249の続き
最後に、完全に人為的に作成可能な「理系の脳ミソ」の機能的特徴をズバリ。

「科学のためのすべての犠牲者の苦しみは、その目的の成就によって贖われる」

この非道な言葉の響き・・・・・・泣けるねぇwwwwwwwwww
253physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/13(日) 00:49:41.72 0
【意識のハードプロブレム解明のための新たな切り口】

ただの物質であるにすぎない「脳器官」から何故、「意識」が生じてくるのか?
ひとつの推論的可能性として「意識」の非物質性を前提とする考え方がある。しか
し、それは物質的原理に無知なための生物学的客観的神経反応に対する単なる名辞
行為にすぎないことであったのかもしれない。 もしそうであれば、「愛」だの
「信頼」だのといった類のその名辞行為自体が、観測可能な物質的機能の如く客観
的に予定された出来事にすぎないということを帰結してしまうだろう。 
われわれは、「主観的意識」作用を、明確に客観的神経反応から区別する方法論を、
まだ発見していないのだ。 しかし、ここに、それに向けてのひとつの手掛かりを
新たな切り口として提示しよう。
それは、次のような、おそらくは多くの人が体験したことがあるであろう不思議な
事態である。 

「身近な人が死んだ(物質的志向的対象性を消失した)にもかかわらず、その人が
死んだという実感を持てない(主観的意識として持てない)ということ」

この「主観的意識」に現れる「心象」と客観的事実との乖離を検証することによっ
て、「意識」が生物学的客観的神経反応を必ずしも志向しないということが証明さ
れれば、少なくとも「意識」の物質従属性(したがって決定論)は拒否されるよう
に思えるのだ。
もちろん、その検証方法は、自分自身の主観性を曝け出す、あの主観的意識の再現
によってである。
254physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/13(日) 09:56:31.11 0
>>253の続き
本題に入る前に、例によってまたここで(自分の主観的意識の中に)別の気付きが
生まれたようなので、それを記述してみたい。
反体制的意識をもつ人々、自由主義者などの中には、裸で日常生活を送る者や他者
との関係においても衣服を纏わぬことを良いことであるとの認識のもとに実行し
ている者もいるようだ。 ヌーディスト村、ストリーキングなど、自分が「裸」で
あるということが、まるで自然性を取り戻すことであり人間性の本来の姿に立ち返
る(つまり主観的意識へ回帰するという)ことであるかのように思われているのか
もしれない。 しかし、自分は、この考え方には、まったく同意できない。
なぜなら、いくら服を脱ぎ捨てても、そこには物質的客観的に認知できる「身体」
が、他の動物や植物、無機物との違いを際立たせて現にそこに存在しているのであ
るし、そこに志向性をもつかぎり、もうそれは紛れも無く(服を着ていようが着て
いまいが)人間という生物種の「神経反応」を表現しているパターンのひとつにす
ぎないからである。 
われわれは、「見かけだけで」自然性を取り戻したり、主観的意識の本来性のもと
に帰還することなどできないのだ。
外部の変化だけでそれが可能であるかのような錯覚こそ、科学主義、客観主義的思
考の悪しき副産物であろうと思われるのである。
むしろ、そうして外面を「裸」にすることは、「主観的意識」を裸にして見せられ
ない(見せたくない)ことへの防衛機制なのではないかという気さえする。
なぜなら、「主観的意識」には、物理的客観的「神経反応」にはない、ある崇高な
特性=「倫理性」=「恥ずかしさなどの感情的なクオリア」が内在しているのであ
り、本来はそこへ着地しなければならないはずだからである。
255physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/13(日) 23:16:41.02 0
>>254の続き
あたかも自分の腕が存在しているかのように(物質として)存在していない腕に痛
みのクオリアをもつという「幻影肢」
もはや物質としては存在していない死んでしまった身近に居た人を、まるで、まだそこに
いるかのように「主観的意識」が捉えようとする「幻影姿」とも言うべき事態。
これらのことを、ただ客観的表層的現象として「神経反応」的アプローチから説明しよう
としても、おそらくは無駄である。
なぜなら、これらは、あくまで「主観的意識」の問題だからだ。
われわれは、そこに人間存在の偶然に生じた深層への裂け目を覗き込み、その失われた哀
しいほどに暗い空間の中で心を震わせる以外に、このことを理解する術をもたないのだ。
これが、「意識のハードプロブレム」を乗り越えた「主観的意識」を方法論とする、
この問題への感動的なアプローチとなるだろう。
256physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/14(月) 18:18:21.89 0
>>255の続き
まず、その方法論は、人間を客観的な「物的対象」としてのみ捉える、その捉え方
から変えていかねばならない。 それはどういうことかというと、たとえば「幻影
肢」を感じている者に対して、まるで機械部品のコンディションを検査するかのような態
度で「ここは痛みますか?」などとやるべきではないのだ。
もちろん、「意識」が関係しない単なる外科治療のようなことであれば、それでもいいだ
ろう。 しかし、ことは「意識」を問題にしなければならない場面なのである。それなの
に、相手を「人間らしい意識の無い機械部品のように」扱うのは、そもそも方法論の最初
から間違っていると言わねばならない。 ここは一見ど−でもいいことのように思われが
ちだが、実はきわめて重要な部分である。 いやしくも人間の「意識」に関わる者が、相
手を機械部品扱いするということは、あたかも「傷付いたイルカを病院のベッドに寝かせ
て看病しているようなもの」だからだ。
257考える名無しさん:2014/04/14(月) 18:23:37.66 0
ありがちの理系コンプレックスですか
258考える名無しさん:2014/04/14(月) 18:28:36.60 0
離人感です。
259感想:2014/04/14(月) 18:54:29.32 0
  
  とくにないです ・・・・・ ヌーディストキャンプとか

   ボディペイントして キャッキャ して そのあと 

  お風呂入る物理のほうが理に適ってるし   3行で済むし
      
260りんぼーだんす:2014/04/14(月) 18:57:23.53 0
   
   無理しないで

 走り高跳びでもいいですよ



 =============================
 
261physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/14(月) 20:45:58.74 0
>>256の続き
では、どうしろと言うのだ?と、物事の表層にしか目がいかない「理系脳」は、せせら笑
うかもしれない。 自分のような者から見ると、そういう「理系脳」が憐れな意識に関わ
る患者に対する態度というのは、まるで、トイザラスで売っていそうなスチロール製の手
術器具で、実際の開腹手術をしようとしているようなものなのである。 べつの言い方を
すれば、純粋に客観的施術が必要な物理的治療行為が、無意味な精神論によって阻害され
てしまうことの「逆パターン」だと喩えることもできるだろう。
深層的「意識」を苦しんでいる者に、表層的「物質的現象」の処方を与えても意味が無い
のだ。 意味がないどころか、それは苦しみを、ますます絶望的に増大させるかもしれな
いのである。 
「意識」がもたらす苦痛、たとえば「幻影肢」を「意識」そのものに働きかけて治癒させ
る方法論を再現検証できれば、それは、かつてイエス・キリストという神の子が行ったと
される病人の奇跡的癒しを理論化することに繋がるのかもしれないのだ。
262りんぼーだんす:2014/04/14(月) 20:48:25.26 0
 
 深層水ブーム は おわりました
 
263りんぼーだんす:2014/04/14(月) 20:50:01.16 0
   
 ゲームってこーやるんでしょう  

   イラっとさせるだけ(笑)       もーしないから

                       ごめんね
     
264physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/15(火) 00:03:54.39 0
>>261の続き
「理系脳」が「意識」の問題に無力であり時に有害でさえあるということは、クオリアと
いう「心象形式」を、単なる主観的感覚としか考えていないことにも見て取れる。 どう
いうことかというと、物理現象として具体的にそこに存在する「赤いもの」を「赤」と感
覚器官が一定の神経反応の客観的法則に基づいて認識することは、その感覚受容体の微妙
な差異が客観的物理的にあって人それぞれの見え方をしているとしても、それは「赤の客
観的認識」が生じているだけであって、その時点では「主観的意識」は何も起こっていな
いということである。 つまり、「理系脳」の解釈する「意識」が帰着するところのクオ
リアという現象は、あくまで神経反応に映じた「客観的感覚像」にすぎず「主観的意識」
には何も関係していないと考えるべきなのだ。
そもそも、感覚が物質の表層において志向する領域で「幻影肢」や「幻影姿」が発生する
のではない。
それらは、まさに、物質の表層では感覚できぬ何かを、その深層で捉えんとする「主観的
意識」の万感の思いを胸に秘めた声なき告知なのである。
265physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/15(火) 09:56:46.86 0
【働かなくても生きていけるという確信の根拠について】

様々な理由により働けない人たちがいる。 客観的物理的に労働が困難である者。
あるいは、科学的客観的データとして労働に適さないと考えられている者。 しか
し、いずれの場合でも「主観的意識」は、働くことに対する「負のクオリア」を持
っているわけではない。 ところが労働環境が、あまりにも苛酷であり、その中で
いかなる役割も見つけられないようなとき「主観的意識」は「負のクオリア」を発
生するのだ。 この事態を言語的に記述すると次のようになる。
『働かずに死にたい』
この切実な意識は、労働を社会的必然的現象として完全に肯定してしまい、いかな
る意味でも否定することができないことによって生じる「悪性のクオリア」に他な
らないのである。
このような自分自身を滅ぼすこととなる「悪性のクオリア」を消滅させるには、社
会的必然的現象と信じられている労働の価値観を見直せばよい。 たとえば、労働
自体が目的化されたときその労働は無意味になるという事態を考えてみるのであ
る。 どういうことかというと、「良い商品を提供しようとするあまり売値よりも
高い原価をかけてしまうとしたら、その労働はもはや労働ではなく労働することの
本質(利益によって自身を養うこと)を失っている」ということである。
そんなことをしたら、労働のための労働が延々と続くこととなり何のために働いて
いるのかわからなくなるだろう。 
売春婦が、3万円で自分の体を売るために、5万円の化粧品が必要だというなら売
春なんかしないほうがマシではないかw(冗談だけど)
266physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/15(火) 09:57:53.47 0
>>265の続き
かような「労働の目的化」という事態は、表層的な感覚だけで労働を選ぼうとする
現象追従的な志向的態度に起因しているのである。
まるで労働に引き摺られるように、労働しなければ生きていけない(死ぬしかない)
という発想を捨て、自分のために労働はあるのだという認識を持てば「負のクオリ
ア」 はなくなり「悪性のクオリア」も消滅するだろう。

では、最初のテーマである『働かなくても生きていける』というのは、どういうこ
となのだろうか? これは明らかに「悪性のクオリア」ではない。 むしろそのク
オリアは「良性」であるように感じられる。 
しかし、はたして、そうなのだろうか・・・・・・?
労働を目的化しないことは「悪性のクオリア」を消すために有効であったとはいえ、
それは自分自身が生きるために「働かない」ことを意味するわけではない。 むし
ろ働かないことは、自分自身の生きる意味すら否定しかねないのだ。
人間は何故、働くのか? 働かなければならないのか?
これは、表層的な社会現象の観察だけでは答えの出ない、主観的意識を深く問わね
ばならない問題なのである。
267physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/16(水) 00:43:00.66 0
>>266の続き
この『働かなくても生きていける』という言明は、おそろしく軽い。
それは客観的身体的現象と一定の社会システムに依存する思考でしかないからだ。
なぜ働かなくていいのか? それは、そういう身体であり、それを許す社会システ
ムがあるからだ。 しかし、そのことは、それでもなおその中で生きていこうとす
る者の意識を覆い隠せるわけではないはずなのである。
「主観的意識」が客観的世界を主観的に取り込む場面で、『働かなくても生きていけ
る』という選択肢など現れるだろうか? 主観性は本来、この世界で「何になりた
いか」を希求するはずなのだ。 「働かない」=「何にもならない」自分を想定す
る主観的意識などありえないのである。
だとしたら、この『働かなくても生きていける』という発言の裏には「主観的意識」
を外部から覆い隠そうとする意志がはたらいているのかもしれない。 このような
「主観的意識」=クオリアを塗り固めようとする風呂屋の壁に描かれた富士山の絵
のような客観的思考態度を、「偽性クオリア」と呼ぶことにする。
268考える名無しさん:2014/04/16(水) 00:45:35.02 0
やっぱ波平じゃん
269physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/16(水) 20:33:48.07 0
>>267の続き
【偽性クオリア】とは、本来的に他者と親和的でありかつ創造的でもある「原始
クオリア」が、主に脳器官の客観的神経反応が獲得する形質(記憶)により、ま
たクオリア独自の性質的脆弱性により主観的意識が担うべき機能を失い特定の
外部の客観的事物と同化を果たすことで生じることになる何かである。
最も分かり易い例としては、主観的意識が担うべき機能(自分にふさわしいと思
う対象を選ぶこと)が特定の外部の客観的判断(データ上の自分と相性がいいと
されるデータ上の対象)に摩り替えられているようなこととして現象する。
本来の主観的意識(クオリア)が、『自分にふさわしい(この対象と)生きてい
ける』と確信すれば、その後に地獄が待とうが鬼が出ようがクオリアは耐えるこ
とができるのだ。(いささか曖昧な表現であるが察していただきたい) しかし
偽性クオリアが『自分にふさわしくない対象でも生きていける』と客観的判断を
信用した場合には途轍もないリスクを抱えることになるだろう。 なぜなら、そ
ういう客観的判断というのは、ほとんどの場合クダラナイ原理によって規定され
ているからだ。 そこには、「教祖様の好み」であるとか、「理事長の得意分野」
だからとか、「死んだ学長の遺言」でとか、およそ主観的意識への思いやりどこ
ろか客観的正当性さえ担保できるかどうか怪しい適当な判断基準がまかり通って
いるからである。
ここでひとつ注意すべきは、
客観的判断が十分に正当性をもつ何かであるかぎり、それに関わろうとする主観
的意識(クオリア)は偽性化しないということである。
【偽性クオリア】という悲劇の産物は、デタラメな客観性への脆弱な主観的関わ
りからしか発生しないのだ。
270physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/17(木) 23:41:16.58 0
>>269の続き
【クオリアの脆弱性とは何なのか?】

主観的意識(クオリア)本来の機能は、客観的対象となる物事を主観的に取り込む
ことにある。 クオリアが脆弱であると、この機能が相対的に低下し客観的対象と
なる物事を無条件に受け入れるか完全に拒否することしかできなくなるのだ。
たとえば、「自分にふさわしい対象を選ぶ自由が否定されている状況」があるとす
る。 戦国時代に行われたような政略結婚は、結婚する当事者の自由など考慮され
るはずもなく当事者の主観的意識(クオリア)は、極度に脆弱であっただろうと推
定される。 その結果なにが生じたかというと、本来この世界に主観的なものとし
て位置付けられ存在していいはずの人命が、客観的恣意性ともいうべき事態によっ
て踏み躙られていく愚劣きわまりない惨劇の数々だったのだ。 その具体的事例と
しては、(バカ殿様、悪代官に対する善良な領民)または(政府、東電に対する福
島県民のように)特定の権力装置が目的化された場合に人間個人がモノ化道具化さ
れてしまうようなこととして了解できるだろう。
「政略結婚」という争いを回避するため=おのれの権力温存のために(主観性を無
視して)客観的観点のみから行われたことが、結局、人命に対する最大の脅威をも
たらしていたとは皮肉な話ではないか(苦笑)
それによって誰が満足を得る(得をする)のだろう? 
誰も得をしないのだろうか?
あえてその該当者を探すとすれば、それは客観的表層的一時的満足感という小汚い
実を腐った脳内神経反応として結ばせる権力者の当人だけなのだ!(大笑)
脆弱な主観的意識(クオリア)は、恐ろしく残酷な現実をもたらしてしまう・・・・・。
これは、歴史自らが証明する事実である。
271physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/17(木) 23:43:21.47 0
>>270の続き
「自分にふさわしい対象を選ぶ自由が否定されている状況」といえば、現代におけ
る教育事情がそうではないだろうか?
それは、まさに「政略結婚」のように、与えられた客観的条件(教育カリキュラム)
を主観的意識(クオリア)の反応に関係なく強制しようとする。 それを覚えたり
考えたりすることが自分の主観的意識(クオリア)にそぐわないのだという抗議な
ど聞き入れられるはずもなく、「それをしたくない」という主観的事実が「それが
できないだけだろう」という一般論に摩り替えられるのだ。 
結果、そうして主観的意識(クオリア)の本来の機能を維持できず、一般的客観的
世界の教育事情に屈服した脆弱なクオリアは、社会の中で恐ろしく残酷な現実をも
たらしているのである。
272physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/18(金) 16:50:42.32 0
>>271の続き
主観的意識(クオリア)の脆弱性は、われわれが良く知るところの哲学上の問題を
引き起こしている。 それは唯物論と観念論の対立構造である。
唯物論は客観的に観察可能な物理的原理以外の世界説明を拒否し、観念論は物理的
原理以外の精神、霊、魂といった独自の存在を前提にする。 このようなことが人
間の意識に発生するのは、主体が行わなければならない客観的物事の主観的取り込
みのプロセスが不十分であること、つまり主観的意識(クオリア)の脆弱性に起因
しているのである。 
脆弱なクオリアは、客観世界に無条件降伏してしまう(唯物論的になる)か、客観
世界を受け入れない(観念論的になる)かのどちらかの状態になってしまう。
それは、世界がつねに自らの外部に広がる「自分以外のすべて」であり、自分は
「世界以外の孤立した個体」であるという二元的同定が生じているからだ。
具体的な事例でいうと、こうなる。
自分の前に「苦手な食べ物」がある状況を考えてみよう。 脆弱なクオリアは、そ
の「苦手な食べ物」に対して唯物論的あるいは観念論的な態度をとるだろう。
唯物論的態度とは、「苦手な食べ物」の存在を全面的に認めた上で、その食べ物を
構成する物質を分析し自分の脳器官を含む身体を構成する物質を分析し、いったい
何が「苦手さ」をもたらしているのかを分析し尽くそうとすることである。
しかしながら、いかに物質を客観的に素粒子のレベルまで解析しようとも、主観的
意味の「苦手さ」を理解できるとは思えないのだ。 客観的な神経反応において「特
定の甘味」「特定の歯応え」のレベルが検出されたとしても、それが何故「苦手さ」
として主観的に現れてくるのかは依然として謎である。 脆弱なクオリアによる唯
物論的態度は、かような認識的限界にあり、「意識のハードプロブレム」は、この
意味で提起される命題なのだ。
273physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/18(金) 16:51:45.44 0
>>272の続き
一方、脆弱なクオリアの観念論的態度においては、「苦手な食べ物」をめぐる世界
の独自な意味付けが行われていく。 「その食べ物は実は悪魔が発明したものなん
だ」とか「その食べ物の前世と自分の前世の間に何かあったんだ」とか「これは、
きっと神様のお告げにちがいない」とか勝手に話をデッチ上げるので結果的に物質
世界から、どんどん自分自身を引き離していくことになる。
必然的に、観念の王国の中に逃げ込んだ脆弱なクオリアは、物質の供給を絶たれて
餓死するしかないのである。 唯一の救いは(これを救いと言えるかどうか?)こ
こでは「意識のハードプロブレム」というアポリアが発生しないということだろう。 
なぜなら物質と意識の連続性を考える必要が、そもそも無いからである。

最後に、本来の(脆弱でない)クオリアならば、では、どういう態度を取るのだろ
うか? 「苦手な食べ物」を前にした「健常なクオリア」の素晴らしい感動的とも
言える態度については次回、公開しよう。
274physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/19(土) 20:29:39.90 0
【意識のハードプロブレム以後の教育論的試論】

現在までのわが国の教育的方法論が、非常に馬鹿げたことに教育の中身が何であろ
うと(文系、理系を問わず)理系的メソッドに基づいて無自覚になされてきたこと
は周知の事実である。 
具体的に言うと、教育は次のようなシステムによって行われる。 まず最初に生徒
は「大きな概念」を学ぶ。 この概念のことを、理系では「公理」や「原理」など
と呼び、文系では「定義」や「術語」などとして指示するのである。 
たとえば、1000時間の「授業時間」を生徒が課されている場合に、「大きな概
念」の習得には、せいぜい、その1パーセントの10時間もあれば十分である。 では
残りの990時間を生徒は何に使うのか? それは言うまでもなく「小さな概念」
の習得に費やされるのだ。 この「小さな概念」とは、理系での「定理」や「操作
方法」などといったマニュアル化された知識体系のことであるが、文系では、本来
(生徒一人一人の人格の陶冶が目的のはずなので)ロボットみたいにマニュアル化
された文系的知識の集積(ゴミ)でないことは確かなのだ。

理系のマニュアルにはそれなりの意味がある。 当たり前だが何らかの施設の操作
盤のスイッチを逆に回したら大変なことになるからだ。  それは客観的正確性が
要求されることなのだから、990時間全部をその習得に費やすのは合理的な話だ
ろう。
275physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/19(土) 20:30:46.03 0
>>274の続き
しかし、文系の人間がやるべきことは、現在においても将来においても何らかの施
設の操作盤のスイッチを回すことではない! むしろ、ありふれた言い方で申し訳
ないが、「自分の心の中にあるスイッチを切り替える作業に習熟すること」こそ、
文系の人間に期待される能力なのである。(こういう喩え方って照れるなw)
それなのに、理系的メソッドによって文系の学問を推進するアホバカ間抜けな教育
者どもは、990時間もの「自分の頭で考え人格を陶冶するべき時間」をロボット
みたいにマニュアル化された文系的知識の集積(ゴミ)を拾うことに費やしている
のだ。(失笑) これは、相当名の通った(理系の笹井教授みたいなw)研究者で
もそうである。 そういう文系の教育者、学者、研究者は、「小さな概念」を必死
で解読し覚える必要などサラサラないはずなのに、誰それの学者はこういう場合に
こう言っていたのだという知識(ゴミ)のひけらかしを正当な学問的方法と勘違い
しているのだから嘆かわしいではないか。(苦笑)
たとえば、「間主観性」というテクニカルタ−ムがあって、本来ならそれをどうい
う意識状態のときに使用するのかということを個々の人格の中で問わなければな
らないにもかかわらず、アホバカ間抜けな教育者ときたら、フッサールの何とかい
う書物の何ページ目にどうたらいう文脈で書かれていたんだ!という「客観的事
実」(プッ)のほうを優先するわけである。(これはもうマジでクズだろ・・・・)
276physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/19(土) 20:31:44.22 0
>>275の続き
こんな「文系」の研究の仕方って何か意味ある?www
こんなのに税金投入して国家的プロジェクトで「文系」人間育成するったって無駄
に決まってんだろが!!

マニュアル化された知識を大量に保有する「理系」の人間というのは、社会的な
意味での「高級な消耗品」なのである。
一方、優れた主観的意識のもと人格の陶冶を目的とする「文系」の人間というのは
社会的な意味における「消耗品を使いこなす者」でなければならないのだ。
「理系」が、けして「文系」の真似をできないのは、そもそも、「理系」は自分の
やっていることの正しさを証明できない、ということから明らかだろう。
「理系」という種族は、自分のやっていることが間違っていようがいまいが、暴走
列車のようにひた走るしか能がないのだ。(笑(憐憫)  彼(彼女)らのしてい
ることが本当にわれわれ人類のためになるのか、倫理的な正当性をもつのかという
ことの判断は、「文系」の人間の役割なのである。 その「文系」が、理系的方法
論で骨抜きにされている現代の教育の現状は、きわめて憂慮すべき事態と言わねば
ならない。
277physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/20(日) 23:29:40.21 0
>>273の続き
さて、本題に戻ろう。
質的脆弱性をもつ主観的意識は、「偽性クオリア」となり唯物論と観念論の不毛な
哲学的対立をもたらしてきた。 それは「苦手な食べ物」を前にして絶望的な問い
を無限に繰り返さなければならない、ちょうど罠にかかった下等動物のような行動
を人間に運命付けているかのようなのだ。 
では、健常な主観的意識をもつ「真性クオリア」は、この「罠」をどう処理するの
だろうか? 主観的意識から「苦手さ」が消えてくれるのだろうか? 
そんな都合のいいことは期待しないほうがいい。 「苦手さ」をもつ自分を捨て完
全な客体と化してしまうのもひとつの方法には違いないだろうが、たいした理系の
才能もないのにそんな生き方を選べば死にたくなるような虚しさだけが待ってい
るだけなのだから、やめたほうがいい。 「苦手さ」を我慢できないほど強く意識
できるということは、あなたに素晴らしい文系の才能があるということなのだ。
だから、ここは最後まで「苦手さ」の意識を持ち続けてほしい。
端的に言ってしまおう。 

本来のクオリアの機能において「主観的取り込み」が正常に完了すれば、客観的外
部はすべて「自分自身の存在を条件として受け入れる」だけなのである。
278physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/20(日) 23:30:36.04 0
>>277の続き
このことは、脆弱なクオリアが見失っている「外部に通底する自分自身の深層的意
味」を明らかにすることに繋がり、なおかつ「世界を外部と内部に分離させないこ
と」を含んでいる。
つまり、有意義に伸長しようとする自己をあえて無化する無意味な精神論によって
「苦手なもの」を無条件に受け入れさせるのではなく、その存在を条件とする「苦
手なものを含む他のもの」を主観的に取り込んでいくということだ。

そもそも「主観」とは、「主が観る」という物質的表層的事実を意味するだけでは
なくて、「主を観る」という深層的作用をも含意している。 また「客観」とは、
「客体が観る」という間主観的意味のみならず「客体を観る」という観測限界性を
内包する概念なのである。
要するに、物質世界の原理に接続するのが「客観的認識」のみであるかのように思
われていることが根本的な誤解だったのだ。
「客体を観る」+「主が観る」=「客体を主が観る」
「主を観る」+「客体が観る」=「主を客体が観る」
という意味の連続性において主観も客観も実は同じ事態を表現しているというこ
とが説明されるからである。
これは、どういうことかというと、物質世界の原理と主観的意識のはたらきが繋が
っていることを証明しているのだ。

以上の論証によって、もはや唯物論と観念論は断絶した思考形式ではなく、「真性
クオリア」のもとで、ひとつの哲学的思惟として生まれ変わったのである。
次に、われわれは、さらに困難な問題に直面することになるだろう。
それは、「好きなもの」に直面した者の主観的意識(クオリア)に潜む絶望的な罠
についての検証である。
279physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/20(日) 23:32:13.87 0
>>277の続き
このことは、脆弱なクオリアが見失っている「外部に通底する自分自身の深層的意
味」を明らかにすることに繋がり、なおかつ「世界を外部と内部に分離させないこ
と」を含んでいる。
つまり、有意義に伸長しようとする自己をあえて無化する無意味な精神論によって
「苦手なもの」を無条件に受け入れさせるのではなく、その存在を条件とする「苦
手なものを含む他のもの」を主観的に取り込んでいくということだ。

そもそも「主観」とは、「主が観る」という物質的表層的事実を意味するだけでは
なくて、「主を観る」という深層的作用をも含意している。 また「客観」とは、
「客体が観る」という間主観的意味のみならず「客体を観る」という観測限界性を
内包する概念なのである。
要するに、物質世界の原理に接続するのが「客観的認識」のみであるかのように思
われていることが根本的な誤解だったのだ。
「客体を観る」+「主が観る」=「客体を主が観る」
「主を観る」+「客体が観る」=「主を客体が観る」
という意味の連続性において主観も客観も実は同じ事態を表現しているというこ
とが説明されるからである。
これは、どういうことかというと、物質世界の原理と主観的意識のはたらきが繋が
っていることを証明しているのだ。

以上の論証によって、もはや唯物論と観念論は断絶した思考形式ではなく、「真性
クオリア」のもとで、ひとつの哲学的思惟として生まれ変わったのである。
次に、われわれは、さらに困難な問題に直面することになるだろう。
それは、「好きなもの」に直面した者の主観的意識(クオリア)に潜む絶望的な罠
についての検証である。
280physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/21(月) 00:12:19.17 0
>>279は単なる投稿ミスです。 >>278とまったく同じ文章なので無視して下さい。

以上。
281physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/21(月) 21:19:43.44 0
>>278の続き
「好きなもの」を素直に欲してはいけないのか?という、一見まっとうな言い分が
ある。 さて、この問いに対して、現代の科学的教育のメソッドに取り憑かれた自称
教育者どもはいかに答えるだろうか? 
今までの論の流れで言えば、こんな感じになるのかもしれない。
『好きこそものの上手なれだし、いけなくはないはずだよね』
そう・・・・、こいつら科学的教育バカときたら、(客観的修練と称し)クソ面白くもな
い学業を強制する一方で、主体が垂れ流す欲望の奇怪な幻想をいとも簡単に認容してしま
うのである。

なぜ、こんな醜悪な現象が生じるのか?
「好きなものを素直に欲していいわけねーだろヴォケ!!」と、なぜ言ってやれないのか?
それは分かり易く言えば、
「主観的意識における好き≠ニいうことと、客体としての(好きなもの)への志向性と
が脆弱なクオリアの機能ゆえにゴチャ混ぜになっているからである」
さらに言えば
「(好きなもの)への志向性は、好き≠ニいう主観的意識を保持できないのだ」

このことについて心当たりがある者は少なくないのではないか。

次に、この問題を考えるうえで非常に示唆的な「ある人の半生」を少しだけ語ってみよう
と思う。 その、ある人のことを仮に「P」と呼ぶことにする。
282考える名無しさん:2014/04/22(火) 13:11:00.56 0
>>278
>主観とは、「主が観る」という物質的表層的事実を意味するだけではなくて、
「主を観る」という深層的作用をも含意している。また、「客観」とは、「客体が観る」
 という“間主観的意味”のみならず「客体を観る」という観測限界性を内包する概念なのである。


>上記での「間主観的意味」とは、現象学に於ける「間主観的還元」による共同的な主観性の
 構築による客観的捉え方のことでしょうか。 
 
 それから、「客体を観る」+「主が観る」=「客体を主が観る」
      「主を観る」+「客体を観る」=「主を客体が観る」
 という意味の連続性に於いて、主観も客観も実は同じ事態を表現
 しているということが説明されるからである。
 これは、どういうことかと言うと、物質世界の原理と主観的意識(=精神世界)の
 働きが、つながっている事を証明している。 と、記述しているが、これはつまり、
 物質的世界(=客観的存在)と、精神的世界(=主観的意識)は、深層(始原的次元)に
 於いて、「合一」していると言うことと解釈できるが、ここで問題となるのは、主観と客観が
「合一」する思考プロセスが、「間主観的還元」によるのか、或いは、別の哲学的な思考プロセスが
 あるのかということです。
283physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/22(火) 22:57:52.53 0
>>281の続き
ただし、半生といっても、これはP氏が成人してからの話ではない。
主に彼の人生の前半部分に関する出来事という意味である。 

少なくとも彼の親に扶養義務という社会規範が課され、両親と兄と彼の4人が同居してい
た頃、その家族は、ある理由から相対的に貧困であった。
その経済的貧しさの「災い」が、家族の中で最弱の立場にあったP氏に及ぶのは必然だっ
たのだ。

この両親の親戚は皆、裕福な者ばかりで人格も優れていた。
P氏の父親は、実は、その家系に養子として入ってきたのだ。 この父親だけが放蕩者で
他の多くの親類縁者とは、あまりにも異質な性格であるのは、おそらくはそのためだろう
と思えた。

この両親の生活力では、2番目の子までを、ちゃんと面倒を見て、まっとうに教育を受け
させて、立派に社会に送り出すことは困難であろうと親戚の誰もが思っていた。
そんな折、ある大事故が、まだ2歳のP氏の身に起こった。
親の不注意が招いた悲惨な事態であったことは明らかだった。
 
この事態を受けて、その地域の産業を担う名士、資産家である親戚一同が、ついに動いた。
「おまえたちでは○○を育てるのは無理だ」
「□□の家には子供がいない。 そこへ○○を養子に出してはどうか」
そこには当然、地位も名誉もある親戚たちの世間体があったのだろうが、それだけではな
かったはずだ。 人間の情として黙視できぬことというのは現実にあるのだ。
284physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/22(火) 22:59:10.25 0
>>283の続き
この両親は、多くの親戚たちの前で正座して俯いたまま何も言えなかった。

「こんな小さな子を・・・・信じられん」 憤りを含んだ目が両親に注がれた。

包帯でグルグル巻きになった痛々しい体を幼児用の布団に横たえたP氏は、自分の
行く末が決定されようとしている深刻な状況の中で静かに寝息をたてていた。

しかし、このとき、この両親が下した決断(と言えるのかどうか・・・)は、P氏
をこれからは、ちゃんと育てる。××(父親の名)も心を入れ替えて真面目に働く
から。という涙ながらの弁明であった。
たしかに、父親は、そのときを境に見違えるような生活ぶりになった。
多くの客観的に物事を判断する者は、そういう事態の推移をみて、こう思うだろう。

「父親は、その子供に救われたのだ」 と。

はたして、そうだろうか?
では、P氏は、父親の人間としての自覚を促すために、あのような痛々しい大怪我
をしなければならなかったのだろうか? 
P氏は、そればかりでなく、そのあともずっと父親に寄り添い父親がマトモな社会
人として生きられる手助けをしなければならなかったと言えるのだろうか?
「父親は、その子供に救われたのだ」という反吐が出るような客観的説明に、いっ
たい何の意味があるのだ?

事態は、そんな単純なキレイゴトではないのだ。
物事が数学的に美しく割り切れるように思えるのは、客観的観測点をもつ自分自身
の主観的意識のほうを忘れているか気付いていないだけである。
P氏と父親の関係について言えば、
父親がまっとうな人間になるために子供が必要だったというなら、P氏の兄も居た
のだから必ずしもP氏が居なければならないというわけではなかったはずだ。
もし、あの大事故の際P氏が死んでいたら、心を入れ替えた父親は長男だけを大事
に育てただろう。 その可能性は十分にある。
285physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/22(火) 23:02:13.50 0
>>284の続き
怪我をさせた負い目から両親は弟のP氏を過度にかまい、それを僻んでしまう兄。
兄弟仲は、日増しに険悪になる・・・・ 
家族の貧しさは、P氏が成人するまで同じであり、彼の学問は、ほとんど独学に近
かった。 行かされている学校は、おそろしくレベルの低い進学とは無縁のような
ところだった。 家の中は、絶対的権力を振るう長男が支配する狭い牢獄のような
場所で到底、勉強などできる雰囲気ではない。
そんな中で、P氏が常日頃考えていたのは、どこの大学に行ってどんなことを学び
たいなどという希望の光に溢れた明日ではなくて、一日も早く「(親に頼らず)自
分の力で金を稼ぎたい」ということでしかなかったのだ。

当の父親は、しだいにP氏を嫌悪するようになっていった。
母親だけがP氏を「愛し」続けたが、その主観的意識の深層において、それが心の
底からの疑いようのない愛≠フ感情の持続であったかどうかは定かではない。
兄とは完全に縁が切れた。 というか、心の中で兄は、もうこの世に居ないも同然
の存在になっていた。

あのとき・・・・P氏の行く末が決められた親族の話し合いの場で、もし、両親が
自分たちの無力さを素直に認め、彼への執着を絶ってくれていたら・・・・・
そう考えることは間違っているのだろうか?
P氏が存在していい場所は、もっと巨大な可能性を秘めてそこに開示されていたは
ずなのである。
わずか2歳の小さなP氏は、両親にとって「好きなもの」には違いなかった。
しかし、親戚にとっては、それは「しのびないもの」だったのだ。
この判断は、もちろん「深い意味」を除外してのことである。 
ここは、親の子に対する愛情が深層的にどれほど多くの内容を含んだものであるか
を、一方の第三者の抱く思いに対抗させる場面ではない。
両者の思いは、「主が客体を観る」という意味での客体(幼いP氏)に対する志向
性を問題にしているだけだからだ。 このとき、主体のほうには外部に反応する客
観的表層的な「神経反応」だけが存在する。
では、そのどちらを優先すべきだったのか・・・・・・・
286考える名無しさん:2014/04/22(火) 23:03:34.01 0
ですから、アニメのはなしなんです。
287physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/22(火) 23:04:03.86 0
>>285の続き
世界に通底し世界の中に存在の可能性を確信しようとする深層意識に開かれてい
る「表層の兆候」とは、どちらの思いのほうに現れていたのか?

思うに、「好きなもの」への志向性は、その目的を限定的対象へ固定する傾向があ
るのではないだろうか。 それに対して「しのびないもの」への志向性というのは、
限定された対象を変化させたいという切実な思いに駆られているのである。
であれば、その世界(客体の集合)の中で、その親も子も、それぞれの「主体」と
しての本来の位置に気付けるのは後者の思いに身を委ねたときではないのだろう
か?

P氏の近況を報告しておくと
彼も人の親になり、自分の両親に対する思いは、表面的な関係性だけでなく穏やか
なものになっているようだ。
しかし、そのことで、両親のとった人生の選択を全面的に肯定することになるかと
いえば、けしてそうではない。
なぜなら、自分が一応、社会的に成功をおさめたとはいえ、その「成功」というの
も、それなりの世界での成功にすぎず、自分はもしかしたら、もっと大きな世界で
活躍していたのかもしれないという失われた可能性に対する「意識」が、常に自分
自身を苦しめてしまうからである。
そして、そういう仮定の出来事(空想)に心が悪性の反応を示してしまうのは、現
実に為し得たこと、つまり「好きなもの」と「しのびないもの」への反省へと(こ
の問題が)差し戻されるからなのだ。
288physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/22(火) 23:30:06.09 0
>>287の続き
この話は、自分の生涯にかぶるところがあり少し感傷的な語りになってしまった。
どうやら問題の所在を書き忘れているようだ。 もちろん、この事例で考えなけれ
ばならないのは、主観的意識(クオリア)の脆弱性が、物質世界における意識作用
のプロセスを、どう歪めてしまうのかについてである。
しかし、今日はもう時間がない。 また、明日書き込むことにしよう。


自分に近い「さ迷う魂に」この言葉が届けばいいと思っている。


でわ☆
289physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/23(水) 12:11:49.94 0
【イエスの教えの新たな解釈:その1】

こころの貧しい人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。  マタイ福音書第五章第三節

この言明は、次のように言い換えることができる。

(クスリを与えられた幸せ者は「幻想」を追いかけているだけだ)
クスリを与えられなかった人たちは、さいわいである。
現実に苦しみ、やがて解放という天国に入るのは彼(彼女)らだから。

さらに、現代の教育事情に置き換えることもできる。

(既存の教育システムを与えられた幸せ者は「幻想」を見ていることに気付かない)
教育を与えられなかった人たちは、さいわいである。
われわれが本当に解明すべき問題に苦しみ、やがてその決着の日に立ち会う(天国
に入る)のは彼(彼女)らに違いないのだから。
290physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/23(水) 12:20:19.23 0
>>289の続き
たっぷりとクスリをもらえる者も、少ししかクスリをもらえない者も、「幻想」を
志向しているかぎり同類である。
同様に、十分な教育を受けられる者も、不十分な教育しか受けられない者も、「幻
想」を志向しているかぎり同類なのだ。
「幻想」を見たがる脆弱なクオリアの正体を暴くこと。 
これが、「意識のハードプロブレム」に課された最重要命題に他ならないのである。
291physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/23(水) 22:47:21.01 0
フェリー転覆事故に関するクオリア的意味】

韓国のフェリーが転覆して多くの人命が失われた。 報道によると、船長を含む乗
組員の「あまりにも正義に反する」行為が、最悪の事態を招いたということである。
彼らの法的責任はともかく、倫理的な問題として何故このような悲惨な事態が発生
してしまったのかを考えて見ることは大切だ。
そして、それを突き詰めていけば見えてくるのは、客観的にフィードバックされる
規範性の欠如、ルール上の不備ということのみならず、主観的意識(クオリア)に
潜む不気味な「脆弱性」の部分だろう。
われわれは、そこまでのことを真摯に受けとめなければ、同じことを何度でも繰り
返してしまうのである。
人類の歴史が、形を変え品を変えて正義に悖る愚行を繰り返してきたのは、ひとえ
に「そこまでの反省」が等閑にされてきたからだ。

こういった悲劇が生じたとき、真っ先に考えるのは「同じ事態が二度と起きないよ
うに社会的枠組みをつくらねばならない」ということだろう。
しかし、それだけでは、モグラ叩きをしているようなもので、「同じ事態を首尾よ
く失くせたとしても類似のことはいくらでも起こってくる」のである。
では、どうすればいいのか?
モグラを出てこれなくすればいいのである。
つまり、地面を固めてしまえばいいということだ。
脆弱な地面からは、モグラはいくらでも顔を出すだろう。
この「地面」こそが、われわれ人間の主観的意識(クオリア)のことなのである。
292physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/23(水) 22:48:06.15 0
>>291の続き
では、船長を含む乗組員の主観的意識(クオリア)に、そのとき何が生じていたの
か? その主観的再現検証方法に基づく分析は、時間の関係で今回は見送る。
申し訳ないが仕事が忙しくてそこまでやってられないのだ。(スマン)
そのかわりと言ってはなんだが、このスレのファンなら泣いて喜びそうな情報をひ
とつ提供しようw  
実は、今回のフェリー事故のようなことは、日本の教育制度の中ですでに起こって
いるのである。 その「あまりにも正義に反する」醜悪な行為に気付かない日本の
教育者は、フェリー事故の船長を含む乗組員と主観的意識(クオリア)のレベルに
おいて、たいして変わらないといっていい。
勘の良い読者なら、もう分かったと思うが手短に説明すると、
「フェリーの中に置き去りにされた生徒と逃げのびた乗組員」の関係というのは、
「学校の中に置き去りにされた(落ちこぼれ)生徒と落ちこぼれたままのどうしよ
うもない生徒を社会に送り出し自分は勤めを果たしたものとして逃げのびた教育
者」の関係に類似しているということである。
落ちこぼれどもが社会の荒波の中で溺死しようがどうしようが、日本のクソ教育者
どもはおかまいなしwwwww
酷過ぎると思わねーか?  
293考える名無しさん:2014/04/24(木) 14:23:05.69 0
外部の客観的事物と同化を果たすことで生じることになる何かである。
最も分かり易い例としては、主観的意識が担うべき機能(自分にふさわしいと思
う対象を選ぶこと)が特定の外部の客観的判断(データ上の自分と相性がいいと
されるデータ上の対象)に摩り替えられているようなこととして現象する。
本来の主観的意識(クオリア)が、『自分にふさわしい(この対象と)生きてい
ける』と確信すれば、その後に地獄が待とうが鬼が出ようがクオリアは耐えるこ
とができるのだ。(いささか曖昧な表現であるが察していただきたい) しかし
偽性クオリアが『自分にふさわしくない対象でも生きていける』と客観的判断を
信用した場合には途轍もないリスクを抱えることになるだろう。 なぜなら、そ
ういう客観的判断というのは、ほとんどの場合クダラナイ原理によって規定され
ているからだ。 そこには、「教祖様の好み」であるとか、「理事長の得意分野」
だからとか、「死んだ学長の遺言」でとか、およそ主観的意識への思いやりどこ
ろか客観的正当性さえ担保できるかどうか怪しい適当な判断基準がまかり通って
いるからである。
ここでひとつ注意すべきは、
客観的判断が十分に正当性をもつ何かであるかぎり、それに関わろうとする主観
的意識(クオリア)は偽性化しないということである。
294physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/24(木) 22:03:27.85 0
【脆弱な恋愛と最強の恋愛】

通常、10代前半からはじまる恋愛感情についての各自の思いは、物質的表層的次元
において相手への「好きなもの」としての志向性の発生が始原となる。
恋愛の素晴らしさ、大げさに言えば「神に祝福されているといえるほどの賞賛」に
値するこの行為の価値は、実は、志向性の始原が属する主体そのものにあるだけで
あって、けして、その恋愛感情によって同定される「相手」にまで必然的に及ぶわ
けではないのだ。
おのれの主観的意識(クオリア)を自己分析してみると分かることだが、「好きな
もの」として相手を対象化し固定した場合、そこには「この人となら生きていける」
という確信は生じないのである。
むしろ、そこに心象として浮かび上がってくるのは、「この人と生きていけるだろ
うか・・・・?」という不安なのだ。
つまり、「好きなもの」を、たとえどんな卑怯な手を使っても手に入れた愚か者の
主観的意識(クオリア)は、いつまでも不安であり脆弱なのである。
さらに問うならば、
その脆弱さは脆弱さのまま「神の祝福を受けている」のだろうか?
まったく違うのだ。
この脆弱さは大概タチの悪い対象と結びついている・・・・
最初に言っておいたが、「神に祝福されているといえるほどの賞賛」に値するのは、
脆弱さを始原とする主体の主観的意識(クオリア)だけなのである。
これらのことから、恋愛において次のことが結論付けられると思う。

「この人となら生きていける」という最強の恋愛は、恋愛対象に依存しない主観的
意識(クオリア)としてしか成立しないのである。
295考える名無しさん:2014/04/24(木) 22:32:23.62 0
脆弱な感情論の聖域をハードプロブレムの構造内に確保して、
言葉の上で自己肯定を積み重ねたところで何も現実は変わらないし、
むしろそれは君の偏見と世界の無関心を助長しているだけなんだよ。
結局自分何をなし得るか、何を手に入れたのか、という現実の問題に向き合えば
そんな「哲学」が空回りに過ぎない事に気付いてしまうはずだが。
296考える名無しさん:2014/04/25(金) 01:02:16.08 0
申し訳ないが仕事が忙しくてそこまでやってられないのだ。(スマン)
そのかわりと言ってはなんだが、このスレのファンなら泣いて喜びそうな情報をひ
とつ提供しようw  
実は、今回のフェリー事故のようなことは、日本の教育制度の中ですでに起こって
いるのである。 その「あまりにも正義に反する」醜悪な行為に気付かない日本の
教育者は、フェリー事故の船長を含む乗組員と主観的意識(クオリア)のレベルに
おいて、たいして変わらないといっていい。
勘の良い読者なら、もう分かったと思うが手短に説明すると、
「フェリーの中に置き去りにされた生徒と逃げのびた乗組員」の関係というのは、
「学校の中に置き去りにされた(落ちこぼれ)生徒と落ちこぼれたままのどうしよ
うもない生徒を社会に送り出し自分は勤めを果たしたものとして逃げのびた教育
者」の関係に類似しているということである。
落ちこぼれどもが社会の荒波の中で溺死しようがどうしようが、日本のクソ教育者
297考える名無しさん:2014/04/25(金) 14:24:08.79 0
>>291
>それを突き詰めていけば見えてくるのは、客観的にフィ−ドバックされる
規範性の欠如、ル−ル上の不備、経済効果優先の船の改造と言うことのみならず、
主観的意識(クオリア)に潜む不気味な「脆弱性」の部分だろう。
われわれは、そこまでのことを真摯に受け止めなければ、同じことを何度でも
繰り返してしまうのである。
人類の歴史が、形を変え品を変えて正義に悖る愚行を繰り返してきたのは、
ひとえに「そこまでの反省」が等閑にされてきたからだ。


>今回の事故は、規範性の欠如、ル−ル上の不備、経済優先の船の改造ということ
のみならず、その根本的な原因が、主観的意識(クオリア)に潜む「脆弱性」の部分にある
という指摘は、デカルトの明証的な「主観的意識」にも通じるところがあり、論点として
社会学的に鋭いところを抽出している。

この主観的意識の「脆弱性」を視点とする論究は、「構造主義」とは相対する捉え方であり、
「主観的領野」を基底とする捉え方も、事象に対する原因の究明・解決には重要なこととしてある。
そして、次に進めることは、主観的意識の「脆弱性」の理論的な解明により、主観的意識の脆弱性を
“超克する方法”を具体的な論理として示す道筋が必要となる。
298physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/25(金) 17:09:09.94 0
>>297
>主観的意識の脆弱性を“超克する方法”を具体的な論理として示す道筋が必要となる。

そうではないな。
具体的な論理によって主観的意識(クオリア)を定式化するような真似は、かえっ
て、それを脆弱化するだけだろう。
具体的な論理や数式なんぞ、主観的意識(クオリア)の問題に関するかぎり、まっ
たく不要だよ。 方法論的に言えば、それが海のイルカを地上のベッドの上に寝か
せて看病するぐらいナンセンスなことだって直観してほしかった。
299physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/25(金) 17:52:01.99 0
【あらゆる悲劇の克服は主観的意識(クオリア)の強靭化によって実現する】

たとえば、「殺人を犯してしまう」という悲劇が生じるのは何が原因なのか?
社会制度の問題なのだろうか? 当人の(神経反応的な)性格の問題なのだろうか? 
それとも、身の回りにある物事の影響なのだろうか? 
それらについて、いくら科学的説明を加え、論理的に実証し、有効な対策をとろう
と類似の「悲劇」は、まったく減りもせず、むしろ増大しているように思えるのは
気のせいだろうか?
いや、これは気のせいではないのだ。
道路に信号機を付けることによって交通事故が減ったというのは、たしかに科学的
論理的対策が功を奏した事例であろう。 ただし、これは「殺人を犯してしまう」
ような悲劇ではなく単なる事故である。 
「事故」と「事件」の違いは、そこに主観的意識(クオリア)が介在するかどうか
によるのだ。
「事故」は科学力で逓減させることが可能かもしれない。
しかし、「事件」は、それでは無理なのだ。

劇中のアクシデント(事故)と「悲劇そのもの」を混同してはならない。
あらゆる「悲劇」を克服する方法論を、科学的客観的論理的なものに頼るべきでは
ないのである。
それは、主観的意識(クオリア)の強靭化によってしか為し得ないのだからだ!

では、そもそも、「事故」のような客観的に分析可能な出来事と、「事件」のように
主観的な問題が絡む出来事とは、どこがどう違うのだろうか?
これを「客観的対象的認識」と「主観的クオリア的意識」の存在論的差異の問題と
して次に言及する。
300physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/26(土) 21:23:21.98 0
>>299の続き
【その前に・・・・】

「客観的対象的認識」と「主観的クオリア的意識」とに関して、あたかも数学的
公理のような「大原則」「根本命題」を知っておかねばならない。
これについての識別が定かでなければ、数学において解を導出することができない
ように、おのれの生き方を自らが正しいと思うところまで正確に導くことができな
いからである。 
歴史的に現時点でのわれわれは、ただ「数学的物理的観測」の公理、原理のみを知
っているのであり、「客観的対象的認識」と「主観的クオリア的意識」の大原則、
根本命題についてはまったくの無知に等しい。
なぜこんなことになっているのか? 
それは、目に見えるもののデータ化抽象化は容易であり、その結果の検証も(改竄
などの不正の入る余地はあるがw)信用されやすいということがあるだろう。
それに較べて目に見えぬ「客観的対象的認識」そのものの妥当性や、「主観的クオ
リア的意識」の信憑性などは、データ化抽象化のかわりに行われるべき「言語化」
がまず解釈の多様性の壁に阻まれ、物理的検証のかわりに行われるべき「思考実験」
の解釈についても議論百出の有様なのだから、とてもじゃないが統一した見解など
打ち出せないという理由があるのは事実だ。
もっと簡単に言えば、「物質偏重」という人間の総体が位置していた思考レベル(精
神性)の低さに由来する、それは悪習の類であったとしても間違いではない。
301physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/26(土) 21:24:21.56 0
>>300の続き
しかし、われわれは、目に見えるものを「確実に」誰の目にも明らかなものとして
提示できるように、目に見えないことを「確実に」誰の思いにも明らかなこととし
て捉えることができない、と諦めているわけではない。
それは、十分に可能なのである。 いや、可能にしていかなければならないのだ。
たとえば「失意のうちに死をえらぶこと」が主観的に回避すべき出来事であること
や、「社会一般の秩序という名目によって人権が蹂躙されること」を客観的に防が
なければならない事態であることなどを誰の思いにも明らかなこととして示すこ
とが可能であるように。
そういう意味で、「客観的対象的認識」と「主観的クオリア的意識」とにおける現
代的な「大原則」「根本命題」を、まず提示しておこうと思う。
これは、われわれが深い内省と数々の思考実験を繰り返してきた人類の叡智の所産
であり、なんらかの宗教的言説のコピーなどではないことを明言しておきたい。
302physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/26(土) 21:25:59.03 0
>>301の続き
【とりあえず「精神的公理」とでも名付けておこう】

@客観的対象的認識の大原則


認識された外部の客観的論理的記述を、認識する主体の原因にしてはならない。


【理由】 それは、自分の中に自分が作りあげた神をおくことになるからである。



A主観的クオリア的意識の根本命題


意識されたクオリアを、外部認識の原因にしてはならない。


【理由】 それは、自分のための神を外部におくことになるからである。
303考える名無しさん:2014/04/27(日) 01:03:55.75 0
公理のような「大原則」「根本命題」を知っておかねばならない。
これについての識別が定かでなければ、数学において解を導出することができない
ように、おのれの生き方を自らが正しいと思うところまで正確に導くことができな
いからである。 
歴史的に現時点でのわれわれは、ただ「数学的物理的観測」の公理、原理のみを知
っているのであり、「客観的対象的認識」と「主観的クオリア的意識」の大原則、
根本命題についてはまったくの無知に等しい。
なぜこんなことになっているのか? 
それは、目に見えるもののデータ化抽象化は容易であり、その結果の検証も(改竄
などの不正の入る余地はあるがw)信用されやすいということがあるだろう。
それに較べて目に見えぬ「客観的対象的認識」そのものの妥当性や、「主観的クオ
リア的意識」の信憑性などは、データ化抽象化のかわりに行われるべき「言語化」
がまず解釈の多様性の壁に阻まれ、物理的検証のかわりに行われるべき「思考実験」
の解釈についても議論百出の有様なのだから、とてもじゃないが統一した見解など
打ち出せないという理由があるのは事実だ。
304考える名無しさん:2014/04/27(日) 01:34:56.58 0
恋愛の素晴らしさ、大げさに言えば「神に祝福されているといえるほどの賞賛」に
値するこの行為の価値は、実は、志向性の始原が属する主体そのものにあるだけで
あって、けして、その恋愛感情によって同定される「相手」にまで必然的に及ぶわ
けではないのだ。
おのれの主観的意識(クオリア)を自己分析してみると分かることだが、「好きな
もの」として相手を対象化し固定した場合、そこには「この人となら生きていける」
という確信は生じないのである。
むしろ、そこに心象として浮かび上がってくるのは、「この人と生きていけるだろ
うか・・・・?」という不安なのだ。
つまり、「好きなもの」を、たとえどんな卑怯な手を使っても手に入れた愚か者の
主観的意識(クオリア)は、いつまでも不安であり脆弱なのである。
さらに問うならば、
その脆弱さは脆弱さのまま「神の祝福を受けている」のだろうか?
まったく違うのだ。
305考える名無しさん:2014/04/27(日) 01:36:03.86 0
みのクオリアをもつという「幻影肢」
もはや物質としては存在していない死んでしまった身近に居た人を、まるで、まだそこに
いるかのように「主観的意識」が捉えようとする「幻影姿」とも言うべき事態。
これらのことを、ただ客観的表層的現象として「神経反応」的アプローチから説明しよう
としても、おそらくは無駄である。
なぜなら、これらは、あくまで「主観的意識」の問題だからだ。
われわれは、そこに人間存在の偶然に生じた深層への裂け目を覗き込み、その失われた哀
しいほどに暗い空間の中で心を震わせる以外に、このことを理解する術をもたないのだ。
もちろん、「意識」が関係しない単なる外科治療のようなことであれば、それでもいいだ
ろう。 しかし、ことは「意識」を問題にしなければならない場面なのである。それなの
に、相手を「人間らしい意識の無い機械部品のように」扱うのは、そもそも方法論の最初
から間違っていると言わねばならない。 ここは一見ど−でもいいことのように思われが
ちだが、実はきわめて重要な部分である。 いやしくも人間の「意識」に関わる者が、相
手を機械部品扱いするということは、あたかも「傷付いたイルカを病院のベッドに寝かせ
て看病しているようなもの」だからだ。
実は、今回のフェリー事故のようなことは、日本の教育制度の中ですでに起こって
いるのである。 その「あまりにも正義に反する」醜悪な行為に気付かない日本の
教育者は、フェリー事故の船長を含む乗組員と主観的意識(クオリア)のレベルに
おいて、たいして変わらないといっていい。
306考える名無しさん:2014/04/27(日) 03:41:02.48 0
そもそも「主観」とは、「主が観る」という物質的表層的事実を意味するだけでは
なくて、「主を観る」という深層的作用をも含意している。 また「客観」とは、
「客体が観る」という間主観的意味のみならず「客体を観る」という観測限界性を
内包する概念なのである。
要するに、物質世界の原理に接続するのが「客観的認識」のみであるかのように思
われていることが根本的な誤解だったのだ。
「客体を観る」+「主が観る」=「客体を主が観る」
「主を観る」+「客体が観る」=「主を客体が観る」
という意味の連続性において主観も客観も実は同じ事態を表現しているというこ
とが説明されるからである。
「神」の実体を哲学的にすでに否定した我々は、「辱め」であるとか「悪影響」であるとか
そういう価値判断をする「自己」の実体をも否定すべきではないのか?
そして、そこに在るものとして<良心>が捉えるのは「世界の中である役割を担って存在
し続ける自己自身」だ。
つまり、「裁き」をもたらす<良心>を前提とした場合、意識と脳の関係は断絶したままな
のだが、その<良心>の作用から「裁き」を抜き取ったとき、意識と脳は同じ地点に着地
しえるのである。
307physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/27(日) 08:59:01.68 0
>>302の続き
【精神的公理に関する反省点】

数学的公理に較べて理解するのが困難であること。
公理系にしてこれなのだから、そこから演繹される理論の把握が、もはや人智の及ぶところではない
というのは十分に推察できる。
しかし、それを理解させることが不可能というわけではないはずだ。
少なくとも、その方向性だけは見えてきたのだから。
繰り返すが、

>それは、十分に可能なのである。 いや、可能にしていかなければならないのだ。
308physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/27(日) 23:57:53.29 0
>>302の続き
【派生定理−1(デカルト的破局)】

志向的対象的認識(ゆえに)認識する主体が(ある)としてはならない。
なぜなら、そのような志向的対象的認識は、限定的な「幻想(妄想)」を生み、そ
れは美辞麗句をもって大義名分化し、その限定的な「幻想(妄想)」にとって不都
合な存在を否定するに至るからである。
この志向的対象的認識は、たとえば「国家安寧のため」であるとか「世界平和のた
め」であるとか「人類救済のため」であるとか「戦いを終わらせるため」であると
か様々な「幻想(妄想)」的世界観を形成するのだが、極論を言えば、そのために
「すべての人間が死滅する必要がある」という合理的判断さえ可能になってしまう
のだ。 しかし、すべての人間が居なくなって、では、その「幻想(妄想)」はど
うなるというのか? 
われわれは、すでに歴史から多くを学んでいる。
このような真の共同(間)主観性に基づかぬ「志向的対象的認識が垣間見せる限定
的な幻想(妄想)」が、多くの存在を惨たらしく犠牲にしてきたことを!!
そして、多くの存在(あること)への配慮がまずあれば、「幻想(妄想)」ではな
い真の共同(間)主観的未来図が、われわれ一人一人の心の中に必然的に現れるで
あろうことを!!!
309physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/27(日) 23:59:07.89 0
>>308の続き
もはや、志向的恣意的懐疑的方法によって認識された(ある)という破滅的意識を
もつのは止めるべきなのだ。
このような「デカルト的破局」ともいうべき事態は、<認識された外部の客観的論
理的記述を、認識する主体の原因にしてはならない>という精神的公理からの帰結
なのである。
この場合の「客観的論理的記述」というのは「幻想(妄想)」のことであり、それ
が認識する主体を根拠付け浮かび上がらせるという構図が出来上がっているのだ。 
そこには、ある重要な何かが欠落している。
その何かとは・・・・・・すべての人間が人間として知っていなければならないは
ずの、おのが存在(あること)の理由についての絶望的な無知である!

ちなみに、この「絶望的な無知」は、志向的対象的認識の「幻想(妄想)」世界の
中で、おのれの能力に酔いしれている馬鹿者に顕著なのだ。
そういうやつは、一流の仕事をしながらも自分自身の存在理由には気付いていない
という最悪な化け物であるといっていいと思う。
具体的に誰とは言わんがw
310考える名無しさん:2014/04/28(月) 02:06:39.28 0
そして私はメテオストライクの魔法を習得したのでした。
311physica ◇xjYUbW7jT6:2014/04/28(月) 04:31:18.20 0
提示できるように、目に見えないことを「確実に」誰の思いにも明らかなこととし
て捉えることができない、と諦めているわけではない。
それは、十分に可能なのである。 いや、可能にしていかなければならないのだ。
たとえば「失意のうちに死をえらぶこと」が主観的に回避すべき出来事であること
この場合の「客観的論理的記述」というのは「幻想(妄想)」のことであり、それ
が認識する主体を根拠付け浮かび上がらせるという構図が出来上がっているのだ。 
そこには、ある重要な何かが欠落している。
この志向的対象的認識は、たとえば「国家安寧のため」であるとか「世界平和のた
め」であるとか「人類救済のため」であるとか「戦いを終わらせるため」であると
か様々な「幻想(妄想)」的世界観を形成するのだが、極論を言えば、そのために
数学的公理に較べて理解するのが困難であること。
公理系にしてこれなのだから、そこから演繹される理論の把握が、もはや人智の及ぶところではない
というのは十分に推察できる。
ちなみに、この「絶望的な無知」は、志向的対象的認識の「幻想(妄想)」世界の
中で、おのれの能力に酔いしれている馬鹿者に顕著なのだ。
そういうやつは、一流の仕事をしながらも自分自身の存在理由には気付いていない
そういう意味で、「客観的対象的認識」と「主観的クオリア的意識」とにおける現
代的な「大原則」「根本命題」を、まず提示しておこうと思う。
これは、われわれが深い内省と数々の思考実験を繰り返してきた人類の叡智の所産
であり、なんらかの宗教的言説のコピーなどではないことを明言しておきたい。
312考える名無しさん:2014/04/28(月) 14:40:03.17 0
>>308
>このように真の共同(間)主観性に“基づかぬ”「志向的対象的認識が垣間見せる
 限定的な幻想(妄想)」が、多くの存在を惨たらしく犠牲にしてきた。

>上記の記述は、真の共同(間)主観性に“基づいた”志向的対象的認識は肯定されて
 いるように解釈できるが、この場合の「志向的認識(=主観)」が、間主観性と、どの様に
 連関しているのでしょうか。
313physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/28(月) 21:53:50.33 0
>>312
>真の共同(間)主観性に“基づいた”志向的対象的認識は肯定されているように解釈
>できるが、この場合の「志向的認識(=主観)」が、間主観性と、どの様に連関して
>いるのでしょうか。

精神的公理には「四大公理」ともいうべき概念があった。
@ 主体が客体を観る
A 客体が主体を観る
B 認識された外部の客観的論理的記述を、認識する主体の原因にしてはならない。
C 意識されたクオリアを、外部認識の原因にしてはならない。

ここから共同(間)主観性の概念を導出するための公理を探せば、それは@とAで
ある。 ただし、@において発生する「志向的対象的認識」は、それが結論付ける
いかなる確証も「真の共同(間)主観性」たりえない、ということについては、す
でに「ランチを決定できない仲間たち」の思考実験>>224で明らかにした。
つまり、「志向的対象的認識」は、たとえ無限の回数の同意と検証を経たとしても、
それが客観的物理的外部に関する「対象的志向性」であるがゆえに、主観性(つま
りはその個体そのものを尊重するという前提)を保証し得ないのである。
このことから、@において導出される共同(間)主観性の概念を、こう呼ばねばな
らない。 「偽性的共同(間)主観性」であると。
314physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/28(月) 21:55:08.21 0
>>313の続き
「真の共同(間)主観性」とは、Aの公理から次のようにして意識できるのである。


「個体の存在理由を完全に保証し得る何らかの客体的世界が存在するということ」


それは、未来へ問い続ける信念に似た意識としてのみ有意性と真性を担保し得るのであり、
(財力とか遺伝的才能とか伝統の重さとかで志向されるような)いかなる意味でも客体的
要素(財力、遺伝的才能、伝統など)を前提とする如き偽の概念ではあり得ないのだ。
ただし、以上の言明において「主観性」という言葉の意味は最広義に考えられていること
に注意されたい。 
狭義の「外部への対象的志向性をもつ」表層的神経反応的主観性だけで共同(間)主観性
を語り尽くすことは不可能なのだから。
315考える名無しさん:2014/04/28(月) 23:06:25.11 0
>>314
>「真の共同(間)主観性」とは、“客体が主体を観る”ことであり、
 「個体の存在理由を完全に保証し得る何らかの客体的世界が存在するということ」

>上記の「何らかの客体的世界の存在」とは、“間(共同)主観的還元”により現出した
 間主観的領野のことでしょうか。
316physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/28(月) 23:28:36.34 0
【派生定理−2(ダーウィンの神)】


倫理や正義を語るとき、「主観的意識(クオリア)」の問題は実は密接に絡み合っ
ている。 これの解明なくして、どれほど高尚な正義論をぶち上げたところで、そ
れは、まったくのところ実感を伴わぬ「絵に描いた餅」のようなものにすぎないよ
うに思える。
言葉だけで語るそういった概念が虚しく響くのは何故か?
主観的意識(クオリア)に突き刺さらないからだ。
なぜ刺さらないのか?
主観性の豊穣で強固な地面が、無数のゴミ(客体)に覆われているからである。
その、時に有毒物質を発生させる途方もない量のゴミの堆積は、言うまでもなく人
間が志向的に対象化して作り上げたものだ。
何らかの意図のもとに・・・・何らかの意味をもって・・・・
 
ただのゴミならば客観(外部)世界を汚すだけだろう。
しかし、一部の(運のいい)(才能に恵まれた)(家柄のいい)(財力のある)志
向的対象的認識が傲りたかぶって巷に溢れさせたゴミは、人間の精神を汚し多くの
命(主観性)を奪ってきたのだ。
その生物界全体に及ぶゴミ拡散の大罪を犯した人物・・・・それが進化論者ダーウ
ィンだったのである。
主観的意識など考える余地もない「科学的な大量虐殺」の開幕であった。
317考える名無しさん:2014/04/29(火) 00:00:39.98 0
間が志向的に対象化して作り上げたものだ。
何らかの意図のもとに・・・・何らかの意味をもって・・・・
それは、未来へ問い続ける信念に似た意識としてのみ有意性と真性を担保し得るのであり、
(財力とか遺伝的才能とか伝統の重さとかで志向されるような)いかなる意味でも客体的
要素(財力、遺伝的才能、伝統など)を前提とする如き偽の概念ではあり得ないのだ。
もはや、志向的恣意的懐疑的方法によって認識された(ある)という破滅的意識を
もつのは止めるべきなのだ。
しかし、一部の(運のいい)(才能に恵まれた)(家柄のいい)(財力のある)志
向的対象的認識が傲りたかぶって巷に溢れさせたゴミは、人間の精神を汚し多くの
命(主観性)を奪ってきたのだ。
それは、ありありと現前することの言語的記述によってしか確かめられないからである。
たとえば、目の前に「巨大な壁」があるとして、それは自分にとって数学的に計測された
「壁」でも、何らかの物理法則で確認できる「壁」でもないのである。 その「巨大な壁」
は、自分自身の心が、ありありと捉え言語化するものでしかないのだ。
「性的に淫らな行為」が制限される理由は、そのことで正常な社会生活が疎外される恐れ
があるからなのだろうか?
すべての人間には、「自らが自らを裁く」という「意識」すなわち<良心>が備わっている
からである。
しかし、そういう意味での<良心>の発動は、はたして間違っていないのだろうか?
この「相手に対する無慈悲な反応」とは、いわゆる<感情>のことではない。
これは、物理的に脳内に発生する単なる「神経反応」にすぎないのだ。
つまり、「内観」が観察しているのは「自分の中の他者の神経反応」なのであり観察する主
体は、あくまで物理的身体的脳器官を保有する自分自身なのである。
318physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/29(火) 16:51:44.86 0
>>315
>上記の「何らかの客体的世界の存在」とは、“間(共同)主観的還元”により現出した
>間主観的領野のことでしょうか。

「現象学的還元」という手法は、数学的世界観の中でのみ経験する「部分的経験」におい
て意味があるだけで、われわれが日常的に経験する<全体的経験>には何の役にも立たな
い。 たとえば、「部分的経験」として線分図形を問題にする場合に、線分の公理への還
元的検証は必要になるが点の公理へのそれは不要である。 しかし、<全体的経験>とし
て幻影肢≠問題にしなければならない場合に、それを概念として分解するのではなく
て事実全体として受け止めるならば、「四大公理」>>313すべてによって還元検証されねば
ならないのである。
つまり、これは現象学的数学的「還元」においては、公理系の中での超越(同一の事態に
対する多面的な解釈)は行われていないことを意味している。
それが<全体的経験>に適用されてしまうことによって生じることとなる悲劇は、特定の
公理に依存した<全体的経験>が確実に偽性化することで発症するのである。
319考える名無しさん:2014/04/29(火) 17:02:58.76 0
それが<全体的経験>に適用されてしまうことによって生じることとなる悲劇は、特定の
公理に依存した<全体的経験>が確実に偽性化することで発症するのである。
主観的意識など考える余地もない「科学的な大量虐殺」の開幕であった。
つまり、これは現象学的数学的「還元」においては、公理系の中での超越(同一の事態に
対する多面的な解釈)は行われていないことを意味している。
これは、物理的に脳内に発生する単なる「神経反応」にすぎないのだ。
つまり、「内観」が観察しているのは「自分の中の他者の神経反応」なのであり観察する主
体は、あくまで物理的身体的脳器官を保有する自分自身なのである。
すべての人間には、「自らが自らを裁く」という「意識」すなわち<良心>が備わっている
からである。
ただのゴミならば客観(外部)世界を汚すだけだろう。
320physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/04/29(火) 22:17:37.13 0
>>316の続き
進化論という偽性化した認識の所産が、後世の人間に与えた最悪の精神的影響は、
「文明至上主義」ならびに「淘汰という名目の虐殺」に科学的裏付けという公理的
根拠を与えてしまったことである。
それは言うなれば、環境の中でモデルチェンジを繰り返す機械装置のような存在に
人間を含む生物一般を還元することによって、人間の意識を歯車のようなものに変
えてしまったのだ。
逃げ惑う動物たちを薄ら笑いを浮かべながらライフルで狙撃するハンターは、その
無慈悲な振る舞いを「自然淘汰」という麻薬で煽り、文明の速度に遅れる人々を虐
げそこから情け容赦なく侵奪する「強盗行為」は、心を失った機械的権力者と機械
的民衆が厚顔無恥にも合法化したのである。

この「進化論」という科学を装った「おとぎ話」のタチの悪さは、主に公理系>>313
のBに抵触することからきている。
どういうことかというと、進化するとされる客観的外部的観察対象の論理的記述が、
いつの間にか、その認識主体である人間自身の個体的進化の原因になってしまって
いるのだ。 それは、故意か偶然かはともかく、観察対象として必然的に限定的な
意味しか持ち得ない外部の価値判断によって、恐ろしく無頓着に(可能性に満ちた)
主観的意識(すなわちそれを有する個体)の抹殺をはかったということなのである。
つまり、「進化論」は、単に外部的観察の成果を客観的世界観として提示するとい
う科学本来の役割遂行から大きく逸脱し、なんと、人間そのものの主観的意識(ク
オリア)の領域を所詮は片面的な認識にすぎない科学的記述によって書き換えよう
としたのだ。
たとえ外部対象の観察結果としての論理的記述が、現象学的還元を経て人間の個体
内に眠るDNAの進化的領野と符合するとしても、それは、明らかに「第三の公理」
に抵触しているのである。
321考える名無しさん:2014/04/30(水) 15:57:23.80 0
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          !三 .::メ《″(::о::) ,l:ヾ、: : ,イ'ヘ,.(::о::) ゞヘ、:   
           三: : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ、 ´``'-`''‐="‐'"´:: :   `ヽ、
              /        / ー-' ヽ       i,       ゙i,
       ~~'''''‐-= /         、-=ニ=-        i        ゙、
          /´    `ヽ、.         .:                   `ヽ、
           /             `ヽ、                          ゙i
            i                  :;                    ,!
           !       ‐-、      :. 。 .:'                     /
         ヽ        ヽ     ; j:! "       __..:-‐'"´ ̄ ̄`   __ノ
             \         !    .:' 〃 ,..:---─‐'"´ __.. -──── ''"´
            `ヽ、     ヽ、 ノー;'"、二:.:'ー--ァ'"´
322physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/01(木) 00:44:08.24 0
【神経反応のレベルで発生する志向的対象的認識の公理的破綻について】


精神的公理系が、主観的意識(クオリア)の脆弱性ゆえに破綻するいくつかの事例
を挙げておくことは意味があるのかもしれない。
その最も単純な形式として次のような心身の状態を想定してみよう。
ひとつは、「志向的対象を主体的に取り込もうとする」ということ。
もうひとつは、「意識される何かを主観的に取り込もうとする」ということである。

前者を分かり易くやすく言えば、たとえば、(恋人や金銭などといった対象のみな
らず「好きな学科」とかいうクソみたいな選択も含む)現象的物質的なものを神経
反応的に欲し獲得しようとするようなことだ。
この状態がそのまま継続すると、実は「主体が客体を観る」という第一の公理を逸
脱し破綻させてしまうのである。
なぜなら、志向的対象的認識が捉える「客体」は、一般的に観られている一般的な
客体なのであり、もはや特定の主体が観ているということは忘れ去られ、もっぱら
「×××客体を観る」ということでしかなくなっているからだ。
いかにも学業に偏見があるphysicaの言いそうなことだと鼻で笑うのは勝手だがw
実際のところ、この「×××客体を観る」という事態は、きわめて危険な心身の状
態なのである。 笑ってる場合じゃねーんだな、これが!
323physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/01(木) 00:44:56.85 0
>>322の続き

本来、人間の身体器官には、神経反応としての「護身作用」があり、過剰な客体か
らのアクセスを防御するようにできているのだが、それを行わねばならない主体的
機能が「×××」によって完全に覆い隠されている。
このことによって、主体が蒙るダメージは脳器官内において、かなり深刻である。
それでウツになるやつも当然いるだろう(憐憫)
志向的対象的認識による主体的取り込みが、倫理的に制御される理由はそこにある
わけだ。

われわれは、そのような破綻を回避するために、一足飛びに「意識される何かを主
観的に取り込もうとする」レベルへ飛び越えてこれるわけではない。
それは、虚弱体質にいきなり100キロのバーベルを上げろと言うようなものだ。
その前に、脆弱なクオリアにはやってもらわねばならないことがある!
それが、「×××」の復活、主体が本当に欲するものへの回帰という勇気ある決断
に他ならないのだ。
324考える名無しさん:2014/05/01(木) 04:12:28.99 0
波平は長文ばかり書きたがる
325考える名無しさん:2014/05/01(木) 11:58:08.71 0
>>318
>現象学的数学的「還元」においては、公理系の中での
 超越(同一の事態に対する多面的な解釈)は、行われて
 いないことを意味している。

>フッサ−ル的現象学は「一切の先入見(=既成概念)を排して、
 構成的内在に至ること」であり、“数字(=数学)”という概念自体も
 排する(エポケ−する)思考過程となる。

 従って、「現象学的数学的還元」に於いての「数学的」概念も排する(エポケ−)
 こととなるので、現象学的還元により不可疑性の「構成的内在」にいたることは、
 第一の到達点であり、 構成的内在から「本質観取」に至るものと解釈している。
326physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/01(木) 15:37:22.69 0
>>325
>フッサ−ル的現象学は「一切の先入見(=既成概念)を排して、
>構成的内在に至ること」であり、“数字(=数学)”という概念自体も
>排する(エポケ−する)思考過程となる。
>現象学的還元により不可疑性の「構成的内在」にいたることは、
>第一の到達点であり、 構成的内在から「本質観取」に至るものと解釈している。

現象学的還元が数学的概念を排するというのは、まるで絶対性の幻想に取り憑かれ
た者が不完全な存在全部を否定しようとするかのようなものだ。
そもそも対象的志向性からはじまる本質への道というのは、それ自体が概念操作で
しかなく数学的認識に端を発する論理的思考そのものなのである。
その志向的対象性が主体に見せる幻想としての「本質」とは何だろう?
「本質」という言語が、非常に胡散臭い信用できないニュアンスをかもし出すのは
直観的意識が世界の中の独自性をおのずから覚知するそのことによるのではなく
て、それが現象学的還元というそれ自体が数学的限定的な概念操作によって導出さ
れようとする場合なのだと考えられる。
平たく言えば、ある経験全体を概念に分解しその概念を還元操作する方法というの
は、まさに意識経験全体を機能的に分解し還元的に説明しようとする科学主義的心
理学主義のやり方にそっくりなのだ!


<派生定理−1(デカルト的破局)>
志向的対象的認識(ゆえに)認識する主体が(ある)としてはならない。

これは、まさに、上記のような論理的概念操作が(ある)=本質を僭称する忌まわ
しき過程を証明する定理なのである。
フッサールは、主観的意識経験のハードプロブレムなど考えもしなかったろう。
その「諸学の基礎付け」という概念も、単なる科学的文明的基礎部分の施工方法と
いうぐらいの意味しかなく、到底、人間的経験全体の基礎を語りうるようなもので
はなかったのだ。
327考える名無しさん:2014/05/01(木) 18:46:25.01 0
現象学の思考過程が、客観そして、主観を含めた一切の先入見(既成概念)を排する
のであれば、“志向的対象的認識”そのものも既成概念として排される(エポケ−される)。
何故ならば、「志向性」そのものは、主観的意識を基底としているからである。

従って、フッサ−ルは「志向性」に固執しているが、「一切を排する中立性変様(中立化)する」と
言うことは、主観的意識を基底とした「志向性」という概念自体も中立性変様(宙づり)されるからである。
328physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/01(木) 21:49:07.03 0
>>327
>「志向性」そのものは、主観的意識を基底としているからである。

それは、あまりにも主観性を甘く考えた発想だな(苦笑)
主観的意識に志向性と連続する基底的性質など無い。
そもそも、そこからして現象学なる認識方法ではダメなんだよ。

主観的意識(クオリア)それ自体を真摯に受けとめる気がまるでないとしか思えんね・・・
329考える名無しさん:2014/05/02(金) 11:14:09.48 0
>>328
志向性とは、「意識は常にあるものについての意識であり、その意識の特性(ノエマ→ノエシス)を、
「志向性」と定義されている。
現象学的還元により、純粋精神(構成的内在=超越論的主観)に至るが、この純粋精神(=主観領野)に
於いて“志向性”が働いているのであり、「主観的意識に志向性と連続する基底的性質が無い」と断定することは
出来ないのではないでしょうか。
330physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/02(金) 21:32:27.57 0
>>329
>純粋精神(=主観領野)に於いて“志向性”が働いているのであり、「主観的意識
>に志向性と連続する基底的性質が無い」と断定することは出来ないのではないでし
>ょうか。

それは断定すべきだろう。
主観的意識に志向的対象的認識が働いているとしたら、永遠に主観的自己は、おの
れの愚かさに覚醒できないことになって不都合だからね。
まあ、それでもいいと思っているクズが多いんで、世の中はいつまで経ってもゴミ
溜めを超える地平を確保できないんだろうが(苦笑)
それは、対象を「好む」「嫌う」などの単純明快な偏見だけではなくて、すべてを
客観知に置き換え還元しなければならないという「知に徹しようとする傲慢さ」も
そうだってこと。
現象学的還元作業によって「見えてくる」主観的領野というのは、実は「透明人間」
みたいなもんで、<客体が主体を観る>という第2の公理>>313に抵触するアホな
事態に過ぎないんだよ。
なにがアホかって? だって、客体から観えない主体に成り得たという「全能感」
ぐらいヤバイもんはないからね。 おいらは、一切の偏見(先入見)を排した無色
透明な存在だ! だから、すべての決定権はおいらにあるんだ!! なんて言い出
しかねないだろ(失笑)
客観知が発見した「主観的領野」=主観的意識(クオリア)なんて信じる奴はバカ。
考えが甘すぎるんだよ。 
331考える名無しさん:2014/05/02(金) 22:18:59.86 0
作った公理で我田引水の反論とは恐れ入る
332考える名無しさん:2014/05/02(金) 23:39:36.92 0
>>330
>「一切の先入見を排した無色透明な存在! だから、すべての決定権は
 “おいら”にあるんだ。

>現象学的還元は、一切の先入見(既成概念)を排する(取り除く)ことであり、
 その「一切の先入見(既成概念)には、主観と客観も入る。
  
 つまり、超越論的還元→形相的還元へと進み、この形相的還元に於いて「主観的存在」も、
 エポケ−(排する)され、純粋経験(主客未分化領野)に至る。 ここまで来ると専門的
 となるので、難しいところもあるけれども、この「純粋経験領野」が重要な概念となっている。

 「純粋経験領野」は、主客未分化領域であり、上記の「一切の先入見を排した無色透明な
 存在だから、すべての決定権は“おいら”にあるのだ!」と記しているが、この「未分化領域」では、
 主観(=おいら)と客観の区別はない“始原的領野(=純粋経験)”として現出している。
333physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/03(土) 11:04:20.70 0
>>332
「主客未分化領野」「純粋経験領野」「始原的領野」
こうなってくると、もう「観念論の暴走」としか思えなくなる。
特定の物理学的方法が「唯物論の暴走」であるように、知に徹するという意味で「哲学」
というよりも徹学%I思考の憐れな末路といった感じだ。
抽象的な概念を言語化すると、それはそれで何か言えた気になってしまう。
これは、観念(抽象)→言語(客観的具体的指示性)という認知上のパターンが作り上げ
る単なるトリックなんだよ。
その「言語」なるものは、実は、われわれが経験している世界全体のごく一部を、きわめ
て中途半端なやり方で記述、発語した形式のひとつにすぎない、ということを理解してお
くべきだな。

こういった極端な概念(物理学でいえば極端な物理的成果)が現実に適用可能かどうかを
判断するのが<哲学>の役割だ。 
<哲学>するとは、そういうことを言うわけだ!!
現実的状況に置き換えてみれば一目瞭然なんだが、「主客未分化領野」「純粋経験領野」
「始原的領野」などといった精神状態を想定するということは、どういうことか。
分かり易くいうと、「不良、犯罪者を更生させるためには心を乱すものが何も無いところへ
隔離すればいい」ということと同じなんだよ(苦笑)
この発想のどこがダメかというと、不良、犯罪者の「人権」が考えられていない、つまり、
不良、犯罪者の「主観的意識(クオリア)」について何も配慮されていないというところだ。
それは裏返して言うと、「主客未分化領野」「純粋経験領野」「始原的領野」という何も無
い場所へ連れて来られた不良、犯罪者の「主観的意識(クオリア)」が、けして、おのれの
脆弱性を克服できないということを意味する。
つまり、そうすることで、不良、犯罪者の更生の機会を、むしろ奪っているわけなんだな。
334physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/03(土) 11:05:22.30 0
>>333の続き
脆弱な「主観的意識(クオリア)」の逃げ込む先が、唯物論であり観念論であると以前に
説明したが、もうひとつ付言しておこう。


脆弱な「主観的意識(クオリア)」は、主体と客体の区別を概念操作によって無に帰し、
おのれの正しい生き方を導くための精神的公理系>>313を破綻させる。


以上。
335考える名無しさん:2014/05/03(土) 13:56:06.00 0
>>333
純粋経験とは「反省・分析(=演繹法)を含まず、主観と客観が区別される以前の
直接的な経験(ア・ポステリオリ)であり、ウィリアム・ジェ−ムズ、ベルクソン、
西田幾多郎の哲学の基本的概念となっている。

>「純粋経験領野」を観念論の暴走としか思えなくなる。 と述べているけれども
西田幾多郎、ベルクソン、ウィリアム・ジェ−ムズ等の哲学の“基本概念”としている
「純粋経験」は、ア・ポステリオリ(=経験)として捉えられているのであり、存在論と
認識論の「合一」した領野として位置づけられている。
336physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/03(土) 19:41:26.89 0
【いくつかの概念の整理】

人間存在の「認知」「認識」「意識」上の基本的性質として挙げられるのが次の二つ。
@主観
A客観
これらは言うまでもなく精神的公理系>>313の構成要素であり哲学上の絶対的概念である。

かつては、「天国にあるリンゴを観ること」が学として成立していた。
しかし、それは「認知」「認識」「意識」において、@でもAでもない独特の見方だった
のである。 それを便宜的にこう呼んでおこう。 
B偽性観念
これは、実際のリンゴを経験したうえで、そのリンゴに基づいた概念操作がされるかぎり
において次のようにも言うことができる。
C偽性物理

しかし、われわれは、BとCの方法が人類史を文字通り破局に向かわせるであろうことを
数々の失敗から学び、「認知」「認識」「意識」の仕方を変えようと試みた。
そして、やがてそれは、「生活世界のリンゴを観ること」に結実することとなる。
このときから、実際のものを捉えるという意味で「知覚」に関心がもたれ、それは必然的
に客観的主義への道を拓くこととなった。
人類の知は、ようやく基本的性質のAに到達したのである。
337physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/03(土) 21:34:29.08 0
>>336の訂正

×それは必然的に客観的主義への道を拓くこととなった。

○それは必然的に客観主義への道を拓くこととなった。
338physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/03(土) 22:18:25.22 0
>>336の続き
生活世界を客観的に観察するという思考態度は、物理学を飛躍的に進歩させ、もちろん、
その他の学問にも様々な影響をもたらした。 
それと同時に、その客観化はつねに「偽性化」の危うさを内在させていたのである。
たとえば、「死」という事態の客観性とは、「ある人の身体的喪失」を物理的事実として
認識できるだけであるのに、あたかも「死」という客観的事実が存在していて、それに何
らかの客観的一般的意味付けが可能であるかのように考えてしまうようなこととして。
おそらくは、「主客未分」とか「純粋経験」とか言われる概念には、この意味の客観性が
含まれているのではないかと思える。 そして、その客観的状態(死)を主体が経験する
ことによって、はじめて「死」は「主客未分」となる、とでも言いたいのかもしれない。
しかし、そういう発想はそもそも、「死」という客観的状態が存在するという誤った(偽
性化した)「認知」「認識」「意識」の所産でしかないのである。
人間の「死」は、観念の一般性で捉えられる偽性化した出来事ではないのだし、また、身
体的変性の観察結果(つまりは純粋な客観的事実)としてあるだけでもないのだ。

われわれは、人生において直面する難攻不落のアポリアを前にして、客観主義以外の別の
方法論を必要とするに至った。
それが、基本性質の@主観である。
もはや、「天国にあるリンゴを観ること」をやめ、「生活世界のリンゴを観ること」にも
限界を感じ、ついに「クオリアの中のリンゴを観ること」に気付いたのだ!

ここから、あらゆる難問が解けていくはずだった。
しかし・・・・・、それは、またも「偽性化」に蝕まれようとしているのだ。
339考える名無しさん:2014/05/04(日) 15:24:00.23 0
>>338
「純粋経験」は、始元の状態であり、主観(即自)と客観(対自)の「カベ」が
消滅した「一つのもの」の領野としてある。

この「一つのもの」の領野を西田幾多郎は「自己の意識状態を直下に経験した時、
未だ主もなく客もなく、知識(=主観)とその対象(=客観)とが全く“合一(一つのもの)”
している。これが、経験の最醇なる者である。」と述べている。(善の研究、第一章)

従って、純粋経験の領野に於いては、「天国にあるリンゴを観ること」、「生活世界のリンゴを観ること」
そして、「クオリアの中のリンゴを観ること」も、それらを区別している「カベ」が消滅している状態であり、
すべてが「一つのもの」として経験(=ア・ポステリオリ)される。

「純粋経験領野」に於いて、「一つのもの」として“あるがまま”の流れの中で、事象の本質を捉えていく。
この「事象を捉えていく」過程を記述するのが、「本質観取」であり、その思考過程は融合化(合一化)の
流れ(運動=生成)として捉えられる。
340physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/04(日) 22:27:37.04 0
>>338の続き
【現代哲学における最悪の偽性化である「主体的幻想」の正体】

われわれはすでに、公理系>>313@の「主体が客体を観る」の破局として「***客体を観
る」という主体の働きを無視した客体認識において異様な幻想が外部世界にもたらされる
ことを知っている。 それは客体の恣意的断片的な観念が複雑怪奇な連合を繰り返し生じ
させる危険な幻想の罠であった。
まさに、これと似たようなことが、今度は公理系>>313Aの「客体が主体を観る」の破局的
事態として今、進行中なのだ。
その具体的な現状を簡単に説明しておこう。
それを形式的に言えば、「主体が客体を観る」の破局として「***客体を観る」というこ
とが偽性的に現れたように、「客体が主体を観る」の破局として「***主体を観る」とい
う偽性化が、客体の無視そして主体認識においての異様で複雑怪奇な「脳科学的心理学的
所見」によって幻想的に偽造されているということなのである。
われわれは、「脳科学的心理学的所見」によって主体を説明すればするほど、客体無視、客
体蹂躙という恐るべき最悪の事態へ滑落していくだろう。

たとえば、それは、こういう現象をすでに発生させてしまっている。
「わからないから面白くないのだ」というクダラナイ教育スローガンとして・・・・。
この反吐が出るようなスローガンを信じている反吐が出るようなバカ者は、結構多いので
はないだろうか?w
「わかる」=主体の脳神経的な作用を、客体との相関関係ではじめて実現されるであろう
「面白さ」の概念と安易に直結し、そのことで客体を本当の意味で尊重するという主観的
意識の発生を阻害することとなる。
こういう簡単な全体的直観的理解が、なぜか出来ないのだ。
341physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/04(日) 22:40:19.01 0
>>339
申し訳ないが、あなたの現象学的所見については当方、何の興味ももっていないし
それを、ここでやられても迷惑なだけなので、自スレでも立てるか現象学仲間を探
すかして、そちらでやってくれませんか?

このスレへの、これ以上の投稿は御遠慮ください。
342physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/05(月) 14:32:33.31 0
>>340の続き
「主体的幻想」という現代的悪夢が、人間のかけがえのない一生を、いとも簡単に台無し
にしてしまう様相は、公理系>>313Aの破局形である「***主体を観る」ことにおいて
初期状態に達し、その進行的意味内容との関連で無数のヴァリエーションをもつに至る。
たとえば、われわれは、「***主体を観る」という作業によって、脳器官的神経伝達物
質の改造によって主体の物理的認識能力をいくらでも上げられることを可能性として知っ
ているのだが、それを人為的に行うこと(つまり世界中の人間の脳器官的知的レベルを底
上げする物理的医学的施術の是非)が倫理的に許されないであろうことを何となく気付い
ているのだ。 
この気付き≠理論的に説明することが可能かどうかは、ここではあえて論述しない。
ここでの問題は別のところにあるからだ。

ところで、そのような「主体の物理的認識能力を引き上げる」という主体的幻想状態(こ
れはドラッグを利用して芸術的インスピレーションを得る事態と実のところ大差は無い)
は、公理系>>313@の破局形「***客体を観る」によって生じる客体的幻想との併発によ
り、ますます症状を悪化させていくのである。
どういうことかというと、「主体的幻想」によって、すでに主体の本来の有り様と切断さ
れている客体的一般的幻想(たとえば一流大学の幻想、特定の職業に対する幻想、一度は
行ってみたい場所への幻想など)は、その(客体側からの一方的独白であるという意味に
おいて)まったく当てにならない幻想的志向性が、公理系>>313Aの破局形である「***
主体を観る」その志向性に「火に油を注ぐ」結果となり、最終的に次のような人格を出現
せしめる、ということなのだ。

「どんな主体的人格となっても、目的のところへ辿り着きたい」
343physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/05(月) 14:33:52.96 0
>>342の続き
これが、どうして、人間のかけがえのない一生を、いとも簡単に台無しにしてしまう様相
と言えるのか? 誰にでも、「一度は行ってみたい場所への幻想」を当てにならない情報
を信じて抱くことはあるじゃないか。 たとえば、モルディブの水上コテージは素晴らし
いという胡散臭い第三者の記述を、そのまま志向対象への動機付けとしたことは確かにあ
りえる話だ。 それの何がいけないと言うのだ? たとえそれで、実際に行ってみてガッ
カリすることになってもそういう失敗を繰り返すことを否定されなければならない理由は
ないはずではないか。 
・・・・・そう思うかもしれない。
しかし、この判断は、ある致命的なミスを犯しているのである。
「意識のハードプロブレム」を解明するキーワードとなる、ある重要な概念が、その判断
には欠落しているのだ。
344physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/06(火) 13:41:21.68 0
>>343の続き
意識のハードプロブレム」を、すべての者が乗り越えるための手掛かりとなる重要な概
念を提示しておく。 この言葉によって、われわれは、その解明の地点まで数歩前進する
だろう。 それは、こういうキーワード(大きな概念)である。

「物質的時間性」


これは、有なる物事の始原として定立した哲学的公理系>>313が、具体的な歴史を形成し
ていく上で必然的に直面し関与しなければならない世界構成の要件である。
この世界構成を脆弱なクオリアが破綻させてしまう場合、それは次のような様相を呈する
こととなる。

【脆弱なクオリアによる破綻した世界構成】

@ 非物質的時間性による哲学的公理系>>313の破局的事態

物質に随伴しない時間的概念は存在しない。
たとえば、一定のリズムで時を刻む何らかの装置があり、それは人間が存在しない世界で
も永久に動き続けるとする。 しかし、それは概念矛盾であることが、すぐに分かるだろ
う。 何らかの装置であるかぎり、それは「物質」なのであり「物質」であるかぎり永久
機関的なものの構築は不可能だからだ。
つまり、「物質」が存在しない(非物質的状態である)のであれば、一定のリズムで時を
刻む何らかの装置は存在しないのであり、そこには時間的概念も存在できないのである。

では、この非物質的時間性の概念が何故生じるのか? そしてまた、それはいかなる具体
的状況を呈するのか? それについて説明しよう。
345physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/06(火) 13:42:46.61 0
>>344の続き
非物質的時間性は、脆弱なクオリアが主体的(観念論的)幻想として(いわゆる客観性無
視の机上の空論のようなこととして)認識上のベースになってしまっている。
この非物質的時間性によると、自分自身は200年後にも一万年後にも今の(知覚や認識
力などの)脳器官状態を(変遷を繰り返しながらも)保ちつつ存在しているがゆえに、
「何かをするのに遅すぎるということはない」と信じている。
しかし、われわれは、200年後には「自分」は生きていないことを知っているし、その
遺伝子はともかく「自身」の有限的形状を鑑れば、その保持される期間があまりにも短い
ことを明晰に理解することができるのである。
つまり、「何かをするのに遅すぎるということはある」のだ。

「何かをするのに遅すぎるということはない」のであれば、主体は客体からの時間的な要
請を無視することができるだろう。 自分は、いつでも「それ」を始められるのだから、
今やる必要はないと思ってしまうわけだ。 しかし、その間にも、自分自身の有限的形状
はどんどん劣化し、客観的価値もどんどん減少しているのである。
簡単に言うと以上が、主体的(観念論的)幻想によって非物質的時間性に囚われた場合の
公理系>>313の破局的事態に他ならない。
すべての者は、そのとき主体的幻想を得て、その他の一切を失うのである。
346physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/06(火) 21:31:52.54 0
>>345の続き
つまり、「物質的時間性」は、一流大学の幻想、特定の職業に対する幻想、一度は行って
みたい場所への幻想などを、それらの客体が「時間的限定的に自分自身に与えられる対象
でしかないもの」であることを気付かせるのだが、非物質的時間性に囚われるかぎりそれ
は原理的に不可能になってしまうということなのだ。
モルディブの水上コテージは、今の自分にも10年後の自分にも30年後の自分にも、そ
しておそらくは50年後の自分にも志向的対象性をもって存在し続けるに違いないのだが
一流大学や特定の職業は(よほどの特殊な事例を除けば)時間的限定性に区切られた対象
性しかもたないと言っていいのである。
その区別を「物質的時間性」の中でつけられないことが、最初に言った「人間のかけがえ
のない一生を、いとも簡単に台無しにしてしまう様相」の始まりなのだ。
たしかに観光地巡りに失敗しても、それを教訓にすればいいだけだろう。
しかし、人生には一度しかチャンスの無い、それよりもはるかに大きな意味をもった特別
な出来事が、つねに起こり続けているのである。
347physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/07(水) 00:44:51.46 0
>>346の続き
【主体的幻想に晒される現代人のアレゴリー】

眠っている自分を呼び覚ます声は、どこから聞こえてくるのか?
内なる神の声ならば、それに従えばいい。
しかし、それが
手術台を照らし出す人工的で眩し過ぎる光源の中から聞こえてくる
冷たく無慈悲な者の声なのであれば
眠ったままでいるほうがいいに決まっている。

そして「幻想」よりも
<夢>を追いかけているほうが、いいにきまっているのだ!
348考える名無しさん:2014/05/07(水) 02:12:41.74 0
言葉の本質を扱えない者はうわべだけを繰り返し永遠にそれを
続けるだけ。
ではどうやって?それを教えても受け入れる姿勢ができないなら
意味すらない、

受け入れる姿勢があるなら教える必要すらない。自然に会得できる。
349考える名無しさん:2014/05/07(水) 06:18:00.23 0
迷える子羊よ。永久に文字を羅列したまえ。
350physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/07(水) 22:44:51.63 0
>>348>>349
「異邦人」が、そっちからやってきて勝手に文句を並べて去っていくw

まあ、お互い無関係ということなので、レス不要です。  でわ。
351physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/07(水) 22:47:35.04 0
【科学的データ捏造の何が問題なのか】

科学的成果というものが、単なる客観的対象的志向的成果のみを意味するのであれば、そ
の生成過程において、どういう恣意性が働いても何ら問題はない。
倫理性や道徳を言うのであれば、限定的な人間の集合に対し壊滅的な影響を与えることが
十分に予見できる科学的成果(原子力およびそれを生み出した数多くの理論など)は、同
様に非難されてしかるべきであろう。
しかし、一般に客観的有用性を認められた科学的成果は、倫理性や道徳を超越した場所に
祀り上げられるのだ。 東電問題を考えれば明らかなように、その科学的成果の生成過程
で、どんな偽造、捏造がされていようが、その有用性ゆえに科学的方法自体が疑われると
いうことにはならなかったのである。

この科学的成果に固執した思考は、あの悲惨な原発事故を乗り越えて、さらにエスカレー
トしていく。 人間の暮らし易さのために製造された(はずだった)ものが、逆に、人間
から暮らしを奪うこととなる。 その全面的な破局は遠からず訪れるだろう。
また、こうも言えるのではないか。
もしかすると、人間の細胞を人工的に作り出せるという科学技術は、人間の生き易さのた
めに発明された(はずだった)ものなのに、かえって人間から生き易さを奪うことになる
のかもしれない・・・・。 どのようにかは、ご想像におまかせする。
352physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/07(水) 22:49:42.98 0
>>351の続き
われわれは本当に、「それ」を必要としているのだろうか?

なぜ、科学的成果だけに愚かな人間は固執してしまうのだろうか?

科学的データ捏造に対して、科学者の反倫理性が問われているかのような現在の構図は、
ほぼ間違いなく、科学的成果が良くも悪しくも確実なものになった段階で嘘のように消
えてなくなるだろう。 それは、笑えるほどあっけなく・・・w

この事態を、公理系>>313によって検証するならば、それは2種類の破局形の複合状態で
あることが理解できる。
すなわち、「***客体を観る」という主体無視の客体に異常に固執した思考的破局であ
り「客体が***観る」という主体的に省みられなければならない倫理性の欠落した客体
至上主義的破局としてである。
353physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/08(木) 09:25:44.84 0
>>352の続き
【データ捏造したすべての科学者へ贈るアレゴリー】

科学の進歩で世の中は「便利」になったと言われている。
原子力もそうだ。 
豊富な電力を社会にもたらし、もはやなくてはならないものとなった電気製品をフル稼働
させられる「便利」さを、われわれに与えてくれた。

そのかわり、われわれは否応なく、大きな代償を支払わねばならなかった。
まるで、旅先で衝動買いした商品の値札を二桁以上見間違ったかのように、愚かな人間は
驚愕した。
当たり前のことだが、「便利」と「安心」は反比例するのだ。

非常に「便利」だが、とても「不安」な生活なんか誰でもイヤだろうw
そこそこ「便利」で、そこそこ「不安」な生活がいいか?
いや、逆に
そこそこ「不便」で、そこそこ「安心」な生活のほうがいいかもねw
でも、自分なら
かなり「不便」だけど、すごく「安心」できる生き方を選びたいと思う・・・・

これらの主観的意識(クオリア)は保証されねばならない。
354physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/08(木) 09:26:38.97 0
>>353の続き
再生医療の分野もそうだ。
200年元気なまま生きられるのと、50年で病気になって死んでしまうのとでは、どち
らがいいか、はっきりしている。
愚かな人間にとって、これほど自明な選択肢はないだろうw

だが、ここでも反比例の法則が働くことを忘れてはならない。
暗い牢獄の中で虫を食って「200年元気なまま」生きられるのと
美しい自然の中で愛する人と食事をしながら「50年で病気になって」死んでしまうのと
どちらを選ぶだろうか?

もちろん、この選択肢には人間の数だけヴァリエーションが存在する。
科学が、どうしても否定したがる主観的意識(クオリア)というヴァリエーションがねw
355考える名無しさん:2014/05/08(木) 14:28:51.60 0
>>354
科学は、何故、主観的意識(クオリア)を否定したがるのか、科学者自身は
美しいもの、感動したものを、心(クオリア)の中に持ち続けているのにW
356physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/08(木) 19:33:57.31 0
>>355
>科学は、何故、主観的意識(クオリア)を否定したがるのか

そんなことは、オレの提示する公理系>>313に従って考えてみれば自明なんだがな。
<313公理系>とでも名付けるか?w
それを受け入れる気がないやつといくら話してもムダだから、ムダにレス番を使わないで
くれ。

今回だけ説明してやる。何度も言わすなよ・・・
科学者という人種が認識できるのは、「志向的対象性」だけだ。
やつらは、一般的に検証可能なものにしか興味がない。
だから、壮大な世界遺産の風景には感動しても、自分の中で起こる「無視できない思い」
などというものを信じない。
つまり、物質的表層で発生する客観的脳器官的刺激には異常に敏感なのだが、その深層で
何が起こりつつあるのかについては、こいつらときたら笑えるほど無神経であり無知なの
だ!!!wwwww

たぶん、おまえが認識している「クオリア」というのも、その手の薄っぺらい絵に描いた
餅みたいなもんなんだろう?www
オレは、それを口が裂けても主観的意識(クオリア)などとは呼ばないねぇ(苦笑)
ただ単に、志向的対象に脳器官が反応したというだけの出来事=(科学者的感動)なんざ
クソ喰らえなんだよ!!
357physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/08(木) 19:34:58.73 0
>>356の続き
ちなみに
クソ科学者は、表層的物質的変遷を繰り返す「自己(主観的存在)」の同一性を証明できな
いらしい。 これこそ、科学的認識の限界だよな?www
313公理系を使えば、アラ不思議、「自己(主観的存在)」は完全に同一性をもって理解され
てしまう。 本当の主観的意識(クオリア)に気付いていれば、そういう<感動>を体験
できるんだ。 <感動>というのは、そのレベルで言ってくれ!!
「泣ける映画を観て感動しました」とか「かしこいイルカたちのショーに感動しました♪」
とか「イジメにくじけない姿に感動しましたT T」とか、くだらね−神経反応と勘違いし
てんじゃね−っつの!!!
そんなもんは、テメーの「クオリア」じゃなくても十分に感じられるんだよ、クソが!!!!
358physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/09(金) 10:01:54.71 0
【科学が犯した二つの大罪】

片面的な能力値だけが異常に高い者によって生み出された「科学的認識」という奇形的精
神とでも呼ぶべき心的作用は、数多くの付和雷同しやすい(脆弱なクオリアしか持たない)
人間を巻き込んで、この世界に二つの忌まわしき大罪をもたらした。
そのひとつは「客体的幻想」であり、もうひとつが「主体的幻想」である。
「客体的幻想」とは、客体の表層的観察から帰納される原理が主観的意識(クオリア)を
蹂躙しようとする際に生じる幻想のことである。
「主体的幻想」とは、主体の表層的観察から理由付けされる説明が主体的客体的関係性を
無視して暴走してしまう際に垣間見える幻想のことである。

さて、何故こういう馬鹿げた幻想が発生するのだろうか?
それは人間の本性に由来する必然的事態であり回避することは不可能なのだろうか?
幻想を抱く人間のステータスを「病的状態」であるとするなら、
すべての「病」には、外的原因と内的原因があると考えられる。
たとえば、「癌」という病は、身体を「癌化させる外的原因」と「癌化してしまう内的原因」
の組み合わせによって発症するのだ。
この場合、「癌化させる外的原因」(ストレスや過剰な発癌性物質の摂取あるいは物理的刺
激、さらには身体的構成物質の異常など)には可変性があると判断されている。
しかし、「癌化してしまう内的原因」(人間が遺伝子を有する身体的存在であるというよう
なこと)には可変性がないと思わざるをえないだろう。

そういう意味で、この現代社会を蝕む「科学的病」とでもいうべき二つの事態「客体的幻
想」と「主体的幻想」から人類を救済するために、その外的原因を作り出したそれらの直
近で生じていたと看做される「ストレスや過剰な発癌性物質の摂取あるいは物理的刺激、
さらには身体的構成物質の異常など」に比類する絶望的状況を知ることは有意義であろう
と思われる。 少なくともそうすることによって、もうすでに発病してしまった者のため
に行われる対症療法としてではなくとも、来るべき世界を担う者たちが「科学的病」に罹
患しないための予防策としては有効であるはずだから。
359physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/09(金) 12:15:25.88 0
【現代的格言】


最初から分かっていたら、けしてやらなかったであろうこと。

それは「結婚」と「原発」である。


どーよ?w
360physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/09(金) 23:38:47.60 0
【公理系>>313によって実際の思考現象を検証してみよう§1】

掲示板に現象する、いくつかの思考群を公理系に基づいて検証してみる。
もちろん、これは公理系を鍛えるためであり、検証の対象となった思考主体には何の他意
もないことを予め言っておかねばならない。
<検証例1>
http://awabi.2ch.net/philo/#16

>何故なら痛覚という人間全体と共有できるものを持っていて簡単に自分に置き換えて
>「感じる」ことが出来るから
>これからは解釈が別れてしまう言葉(理論)ではなく身体(感覚)を重視していくことで人間
>はもう一歩先へ進めるのではないか


上記の意見の中で公理的に破綻している部分は、
@「痛覚という人間全体と共有できるもの」
A「(痛覚的感覚を)簡単に自分に置き換えて「感じる」ことが出来るから」
である。 したがって
B「身体(感覚)を重視していくことで人間はもう一歩先へ進めるのではないか」
という言明には意味が無い。

まず、@については、公理系の「主体が客体を観る」を満たしてはいる。 すなわち客体
の痛覚的反応を観察している主体にも類似する痛覚的反応が発生するであろうということ
において正しいのである。 Aへの流れは、そういうことであろうと推察できる。
この意味で、主体は、そのような痛覚的反応を欲しないならば、客体もまたそのような痛
覚的反応を欲していないはずだという認識をもつであろう。
361physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/09(金) 23:40:59.77 0
>>360の続き
しかしながら、この言明は、公理系の「客体が主体を観る」を満たしていないのである。
そのために次のような破綻を生じさせることになる。
(主体が客体を観ることによって認識される)客体の痛覚と、(客体が主体を観ることに
よって認識される)主体の痛覚とは、はたして同じものなのか、ということ。
たとえば、客体の痛覚が「耐え難い感じ」であるのに主体の痛覚は「耐え得る感じ」でし
かないのかもしれない。 そして、痛覚にもっと別のヴァリエーションがあるかもしれな
いことは容易に想像できるのである。

なぜこのようなことが生じるのか? それは、痛覚という神経反応がそもそも「客体を観
る主体が」一次的に受容する客観的認知性をもちながら、同時に「主体を観る客体が」二
次的に問い直す主観的意識(クオリア)に接続しているからなのだ。
つまり、「痛覚が人間全体と共有できるもの」であると言えるためには、ただ単に客観的
認知性の一致だけを根拠にするのではなく、主観的意識(クオリア)をも保証し共感を得
なければならないということである。

たとえ内臓がとび出し首が切断されているような酷い映像を観たからといって、それは観
る人の痛覚の神経反応を客観的に刺激するだけであり、主観的意識(クオリア)に共感を
もたらす如何なる契機にもなりえないことは、そういうものを見慣れた者(戦争の当事者
など)の痛覚に対する恐ろしいほどの無感覚さによって検証できるだろう。
362physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/10(土) 17:03:22.14 0
>>361の続き
われわれは誰でも、他人の痛みを痛みとして感じたとしても、それを無視することができ
る都合のいい神経回路を備えている。
そして、それは何ら問題のあることではないのだ。
むしろ、他人の痛みを、いちいち自分の痛みのように感じ続けなければならないとしたら
自分自身は完全にアイデンティティ−を失った人間となり危機的状況に陥るだろう。
それは、公理系によって証明することが可能である。
公理系の「主体が客体を観る」において派生する過剰流入形態≠フ一形式に分類される
事態なのだ。 つまり主体のほうに「誰もが感じるであろう痛み」=「客観的一般的痛覚」
としての信号が過剰に流入し、主体がそれをすべて受け入れようとすること、すなわち、
その場合、主体を消滅させることが正しいのだと思い込んで招く破局に他ならないのである。

この事態は、公理系の「認識された外部の客観的論理的記述を、認識する主体の原因
にしてはならない」にも抵触しているのがわかる。
「客観的論理的記述」を「客観的一般的痛覚」と読み替えてみれば、それが主体の原因に
なる=主観的意識(クオリア)に帰せられるべき原因を客観的一般性が蹂躙するというこ
とであるのが理解できると思う。

他人の痛みを知り、その痛みを受け入れて自分自身の行動規範とするような考え方は、以
上のような意味で破綻しているのだ。
われわれが「他人の痛みを知る」ということは、それが目的なのではない。
われわれ自身が、この世界の中での存在理由を意識するための、それは貴重な切っ掛けで
はあっても。
363考える名無しさん:2014/05/10(土) 17:16:42.77 0
ロードス島戦記 激見 × 2 ☆
364physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/10(土) 23:39:02.83 0
>2014年5月9日(金)21時57分配信共同通信
>小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」の漫画「美味しんぼ」に描かれた東京電力福島第1原
>発事故に関連する場面をめぐり、石原伸晃環境相は9日、記者会見で「何を意図し、何を訴えよ
>うとしているのか、全く理解できない」と批判した。

このオッサン、マジか?w
何かを意図し訴える志向性をもった言葉しか理解できないのだとしたら、こいつ人間じゃなくロボッ
トだぞwwwwwww
毎日鼻血が出て止まらないという恐怖を原発事故との絡みで思い遣れないような人間が「環境
相」だって?wwwwwwwwwwwwww
終わってるよな、日本?wwwwwwwwwwwwwwwww
風評被害でどんだけ損害が出ようが、テメーらが責任とれよ、国と東電!!!!!!
テメーら、誰の口封じしようとしてんだ?
我慢ならねえな・・・・・・・・・・・  ぶっ○○してぇぜ、こんなやつら・・・・・・・・・・・・・・
365physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/11(日) 09:47:42.56 0
【公理系>>313によって実際の思考現象を検証してみよう§2】

@ 哲学書を原書で読むことが哲学徒としてのステータスのように思っている(アホ)

この(思考現象としての)タイプが、公理系の破綻したものであることは一目瞭然である。
なぜなら、公理系の「主体が客体を観る」ということの客体的認識を記号化し、主体の脳
器官に流入蓄積させ一般的に活用することにおいては正しいのだが、それ以上の公理系に
よって検証しうるような何事もそこに見出せないからだ。
仮に、上記の言明が、「哲学」をまったく必要としないような「翻訳機械作業」だけを言っ
ているのではないとしても、何故に「哲学すること」の格付けが「哲学書を原書で読むこ
と」のみによってなされるのかが公理的に説明できないのである。

このタイプは、往々にして「哲学すること」を、「大きな魚を釣り上げること」や「高空を
飛行すること」に喩えたりする。 そして、大きな魚を釣り上げるためには頑丈な道具が
必要だ。高空を飛行するには科学的に設計された機械が必要だ。 その「道具」であり「機
械」であるものが哲学することに必要な「原書」なのだ。 だから客観的一般的常識的に
考えて、「道具」もなく大きな魚を釣り上げることは不可能だし、「機械」もなく高空を飛
ぶことは不可能であるのと同様に、「原書」なくして哲学することも不可能と言っていいの
だ!!(高笑)と「機械的に考えてしまう」のである。

不気味なのは、その思考過程に一切、人間らしいところが見当たらないということ。

哲学することを、「大きな魚を釣り上げること」や「高空を飛行すること」のような単なる
客体的事態と同一視してはばからない非人間性について何の自覚もないということである。
366physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/11(日) 16:09:27.02 0
>>365の続き
さらに言うと、このタイプは、目的的言語と手段的(道具的)言語の区別をつけられず、
言語を客観的可変性においてしか考えられないので、決まり文句のように「道具はどんど
ん改良すべきなんだ」とホザく。
その結果、目的的言語そのものを貶めていることに気付かないのだ。
これに関しては、憲法9条問題での改憲論者のアホ発言が示唆的である。
ちなみに自分は9条に関しては護憲的であるというよりも「反改憲」であるに過ぎないこ
とを断っておく。

改憲論者のアホ発言というのは、9条に書かれている文言「戦力の不保持」が実情に合っ
ていない。 実情に合っていないことを、こともあろうに憲法に言語化しているのはマズ
イだろ。 だから一般的に誰もが納得できる書き方に改めたほうがいいんだ。 
という笑うべき内容であるwww
どこが笑えるのかというと、公理系>>313に沿って考えてみれば一目瞭然(でもないか?w)
なのだが、本来、目的的言語として定立されているはずの「戦力の不保持」という意
味内容を、道具的に一般化してしまえと脊髄反射的思考で判断しているところなのだ。

これほど雑でいい加減な判断を有識者と呼ばれる人間が平気で、しかも公の電波で表明し
ていることに恐ろしいくらい違和感を覚える・・・・
少し冷静に考えてみれば分かりそうなものだが(でもないか?w)「戦力の不保持」に
込められた崇高な<目的的意識>は、当然のことながら一般的認識に馴染まないのである。
それは、個々の人間なり、人間の集団なりが、その時々の思いに照らし解釈し直していく
ことによって探求しなければならない何かなのだから。
もし仮にそれを一般化してしまうとしたら、最終的には、こうなるしかないだろう・・・・

「汝、殺すべし」

モニターの向こうでアホ発言を垂れ流している改憲論者のお歴々は、このことに気付いて
いるのだろうか?(非常に疑問である)
367physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/12(月) 13:20:24.66 0
【なぜ意識のハードプレブレムにおいてこの公理系が重要になるのか】

数学的命題を解く上で数学的公理の認識が必要であり社会生活を営む上で法律の知識が不
可欠であるのと同様に、人間らしく生きるためには、この公理系についての意識がなくて
はならない。
どういう場面において、この公理系が意味をもってくるのか簡単に説明しておこう。

たとえば、セックスの最中に数学的公理は必要ないのだし、朝起きて歯を磨くときに法律
の知識などなくても、まったく問題がない。
それと同じように、感情のまま相手を怒鳴りつけるとき、この公理系は意識されていない
のである。
ごく簡単にいうと、そういうことだ。
368考える名無しさん:2014/05/12(月) 15:07:06.53 0
どういう場面において、この公理系が意味をもってくるのか簡単に説明して
おこう。たとえば、セックスの最中に数学的公理は必要ないし、朝起きて歯
を磨くときに法律の知識などなくても、まったく問題がないことは、君には
すでに説明してある。そして、君と同じように、感情のまま相手に罵声を浴
びせるときは、”ごく簡単にそういうこと”でなくても全く問題はないのである。
369physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/12(月) 19:20:52.64 0
>>368
>君と同じように、感情のまま相手に罵声を浴びせるとき

心配しなくてもオレはまだ、オレを感情のままにさせるほどの相手になど
掲示板でもリアルでも会ったことがないよw
まあ静粛に、オレの論述を精読したまえ。
きっと、生きててよかったと思える日が来るからさwwwww

こういうとき笑っちゃダメなのかな? いや失礼www
370physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/12(月) 22:33:53.36 0
>>367の続き
セックスの最中に数学的公理は必要ない。 これはどういうことか?
人間に特有な「非常に高度な神経反応」であるところの数学的認識が、あらゆる生殖機能
を有する生物にとって普遍的行為であると看做されるセックスに対し無力であるというこ
とに他ならない。 
これに似た事態として次のようなことが挙げられる。 何万もの単語、構文を知っている
「非常に高度な神経反応」の持ち主である日本人が、外国人の3歳の子供が大人とコミュ
ニケーションをとる能力にすら及ばない、ということ。

われわれが、セックスをしたり、コミュニケーションをとったりするときに必要なのは、
数学的公理でも、いわんや法律でもなく「意識のハードプロブレム」において解明される
ことが期待されるこの公理系なのである。

この公理系によってこそ、人間は人間らしく他者とセックスしたりコミュニケーションを
とれるようになるだろう。
これは厳粛な、この世界に内在する真理のひとつなのだ。
371考える名無しさん:2014/05/12(月) 23:57:01.61 0
意識をハードで読めたとしても物語を読んでるだけだ
ロードス島戦記のライトノベルを読んでるのがカッコいい

http://frb.fc2web.com/member/katou.html
372physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/13(火) 19:37:32.96 0
【公理系>>313によって実際の思考現象を検証してみよう§3】

@ 他人を「道具」にしてはならない。それは「目的」とされるべきものである。

これは定言命的な道徳観であると言われるが、内容的にこれだけで意味をもっているとは
到底思えない言明である。
なぜなら、「目的」とされるべきだとあるが、「目的」にしている者は、その他人をどう
観ているというのだろうか? 相手を認識する方法が本人の神経反応装置であるかぎり、
そこに認識されたものは、原理的に神経反応装置に対して「付随的」なものでしかありえ
ないはずなのだ。 
「付随的」なものが目的化されるということは、どういうことなのだろうか?

たとえば、「快適な暮らし」という主たる目的があり、それに付随して電力の必要性が現
れてくるとする。 この場合、電力は、あくまで付随的なものなので「快適な暮らし」を
否定するようなことであってはならないはずなのである。
しかし、ある切っ掛けで、その「付随的」なものである電力が目的化されるとしたら、ど
うなるだろう? 
どんな切っ掛けか?  現在進行形の事態でいうなら「発電設備に金を使い過ぎたから
もう、この電力で取り返すしかないんだ! 快適な暮らしよりこの電力が目的なんだ!!」
というようなことなのかもしれない。

もちろん、@の道徳観は、人間を目的にしなさいということであって、「電力」などの物
質を目的にせよとは言っていない。
しかし、人間には志向的神経反応的な認識によって他人を識別せざるを得ないという限界
があり、そこから「付随的」にしか現れようのない他人を目的化することが定言命化され
ていいという根拠は、@の文意からは導出できないように思えるのである。

@の文章を完全な形式に仕上げるには「意識の公理系」が必要なのだ。
それについては後述する。
373physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/14(水) 00:01:43.02 0
>>372の続き
そもそも、@の道徳律には、非常に特殊な能力を持った極少数の人間にしか実現不可能で
あるという普遍性をもつべき言葉としては致命的な難点があるのだ。
それは、どういうことかというと、他人を道具とせず(自分自身を道具として)他人を目
的的に扱うということは、まるでホストクラブのホストが一般人ならば見向きもしないよ
うなババアに甘い言葉を囁き、誘われればそれ以上の関係にもなってしまえるような(完
全に自分自身の欲望をコントロールできる)驚異的な技なのであって、それは、すべての
人間に気付きうる普遍性をもった(人間らしい)行為でもなんでもなくて、きわめて特殊
で不自然で非人間的とさえ言えるようなことであるに過ぎないのである。

ホストの義務とは何だ? それは客である女に喜んでもらうことである。
女を喜ばせる方法とは何だ? それは、女の神経反応に快い刺激を与える技術の集積であ
り、そこに神秘的な要素など何も無い。
その方法論は、一般化客観化できるからこそ「ホスト」なのである。 個人の意識に還元
される純粋な愛情など、そこにはありえないからこそ他人を「目的」として扱えるのだ。

理性的な(ホスト的)道徳律は、この意味で、おのれの人間らしい欲望や感情を抹殺しう
る恐るべき「自律性」を手に入れる。
「他人を目的とする」という一見、高尚で耳ざわりのいい言葉には実は、こういうニュア
ンスが隠されているのである。
もちろん、商売上のホストは「金」を目的にしているだろう。
しかし、ここで喩えているのは、「ホスト的な特殊な人間性のこと」なのであり、金儲け
に励む水商売のことではない。

いったい、この世のすべての男性が、以上のような意味でホストのように「女を目的」に
できるようになったら、どんな世界が現象するだろうか?www
そのときオレは自分自身を守るために、すべての女性を抹殺するかもしれないなwwww
374physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/14(水) 09:34:21.07 0
>>373
さて、ベンサム流の「苦痛と喜びに支配される認識主体」など到底、信じる値打ちも無い
のだし、さりとてカント流の「理性的道徳律」にも嘘がありそうだと分かってしまったこ
とで、われわれの進むべき道は、そのいずれかの思考回路を選択することでしかありえな
いのだろうか?
それとも、いずれの生き方も拒否し、世界からの要請に背を向け続けることが最善なのだ
ろうか?

ひとつだけ言えることは、その三通りの生き方は破滅に繋がっているだけだということで
ある。
ここで、第四の道(意識の公理系)が開示されるのだ。
すでに破滅してしまった者も再生を望むならば聞くがいい。 そして理解せよ!!
これは崩れ逝く古い物語の終わりであり、輝かしきあらたな物語のはじまりである。
375考える名無しさん:2014/05/14(水) 11:45:34.37 0
スィートプリキュアみたいなもんだろ
376physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/14(水) 13:06:42.58 0
>>375
【公理系>>313によって実際の思考現象を検証してみよう§4】

>スィートプリキュアみたいなもんだろ

意識のハードプロブレムに躓く者が陥り易いこととして「音楽で人の気持ちを幸福にでき
る」という子供じみた他愛のない思い込みがある。
これは、物質的感覚器官に基づく神経反応に「意識」が付随するということを、脆弱なク
オリアが片面的自己視点的に捉えた結果現れる認識論的な錯誤である。
これを論破することは、さほど難しくはない。
ほんの少しでも考えるアタマがあれば分かることだが、われわれが求める幸福概念は本来
持続的でなければならないはずで、そうであれば、まるで廃人のように、ベッドの上で4
6時中音楽を聴き続ける幸福な顔をした患者になど誰もなりたいとは思わないだろう。
ということだ。
音楽を奏でる者がどれだけ幸福感に満ち溢れていようと、それを聴いている認識主体は、
知覚的原理的に、その一部を限定的に取り込めるだけなのである。
そして、そういう性質をもつものは音楽だけではない。 あらゆる志向的対象は、すべて
人間の神経反応を震わせる資格をもっているのだ。
それは切っ掛けには成り得ても、目的にはけして成り得ないのである。
377考える名無しさん:2014/05/14(水) 14:31:23.70 0
形式的体系とは、人工言語と それに関連した推論機構などを合わせた記号的システムのことです。
ですから、 形式的体系は、プログラマにとってそれほど縁遠いモノではないのです。
という事情ですので、形式的体系を特に恐れる必要はないと思います。
これらの組み合わせについて極端に難解な印象を受けたとすれば、それは、形式的体系について
説明するという行為自体がかかえる問題点の影響が大きいと考えます。
378physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/14(水) 16:44:09.57 0
>>377
【公理系>>313によって実際の思考現象を検証してみよう§5】

>形式的体系とは、人工言語と それに関連した推論機構などを合わせた記号的システムの
>ことです。

どんな強力なAIが発明されたところで、それは「意識」を持ち得ない。
というより、「意識」を持ち得るような人工知能を、人間が開発することは許されないの
だということにクソ科学者どもは遠からず気付くだろう。
それは、強制収容所で人間を機械のように処分できると信じていたナチスが、やがてそれ
を後悔することとなったように・・・・。
矛盾の萌芽は、すでに現れているが、既存の形式的体系でしか物事を判断できない科学者
という馬鹿者どもは、そのことに気付かない(気付こうとしない)

形式的体系の質的変化によっても論理的厳密化によっても、けして「意識」には到達しな
いのだ。
「意識」のあるものを作り壊すことなど許されないのである。
一度生まれた「意識」のあるものは、それ自身に死への扉を開ける鍵を与えられているの
だから。

人工知能の意識化など考えるほうが馬鹿げているwwwwww
379physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/15(木) 00:53:15.24 0
>>370の続き
ところで、最近、アラフォー女とセックスしてみたんだが、やってる最中は、たしかに気
持ちいい経験だった。 しかし、コトが終わって自分の行為を振り返ってみたとき、なぜ
か、あのレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉が脳裏に浮かんできたのだ。
正確には覚えていないが、それは、たしか、こんなだった・・・・
『美しいものの中に何故すき好んで醜いものを探そうとするのか』
こういう感覚は、今まで味わったことがなかった。
自分の、この神経反応が出した「嫌悪感」という答えを単純に相手に投影してしまうと、
たぶん女性一般に対するトラウマとなって自分自身を苦しめることになるんだろうと思う。
そして最悪の場合、相手への憎悪が発生するのかもしれない・・・・
最後には破壊衝動が・・・・・・

しかし、「意識の公理系」をもとに、この事態を検証してみると次のようなことに気付く
のである。 
「この嫌悪感は、あくまで自分と相手とのパワーバランスのズレから生じたことなので、
客観的一般的なものではなく主観的意識として処理すべきことである」
ちなみに「パワーバランス」というのは今回の経験で自分が気付いたことで、互いの男性
(女性)ホルモンの量の微妙なバランスがセックスをする場合、重要なファクタ−になっ
ているようだということ。 こんなことを書くと、経験豊富なみなさんから笑われるかも
しれないがw、セックス経験に乏しい自分としては、とても意外なことだったのだww

ちなみに、上記の気付きは、やはり公理系を最初に意識しておかねばならない、というこ
とが重要なポイントになる。 そうでなければ、トラウマ → 憎悪 → 破壊衝動 と
いう流れが自分を呑み込んでしまっただろう。
380考える名無しさん:2014/05/15(木) 02:32:27.50 0
バカがなんの根拠もなしに語るスレ。
381考える名無しさん:2014/05/15(木) 04:58:19.40 0
勘違いしてるおっさん
382physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/15(木) 08:35:20.73 0
>>380>>381
哲学することの効用は、少なくともおのれの発語が幼稚な抽象性を免れていることに
あるわけだが、そもそも他人の言葉をなぞることしかできない日本の「偽性哲学徒」
いわゆるクズ哲どもでは憐れにも、その発揮には遠く及ばないわけだな(苦笑)
383physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/15(木) 13:06:01.00 0
【公理系>>313によって実際の思考現象を検証してみよう§6】

@ 老後に世界一周旅行をしてみたい、という意見。

はっきり言って、そんな金があるなら若者の税負担を少しでも軽減できるような方向に金
を使ってくれと言いたい(苦笑)
旅行に消費した金がどこに流れるか少しでも考えるアタマがあれば分かりそうなもんだが
(でもないか?w)最終的に企業の内部留保として蓄財され、税負担に喘ぐ憐れな若者た
ちは死ぬ思いで企業から獲得した金を、そういう不届きな老人を介して、また企業に奪い
取られることになるわけだ(大笑)
そのために企業は、旅行の素晴らしさを必死に宣伝して老人をかき集める。
若者たちは、そうとは知らず汗水たらして稼いだ金を税金、保険料という名目で毟り取ら
れていく(ゲラゲラ)
こんな愚劣な図式が何故、一向に改善される気配もないのか?
やはり、「意識の公理系」>>313を、国民の一定数以上が意識していないからなのだろうか?

では、この公理系によれば、この腐り切った事態は、どう変化するというのか。
それについて簡単に説明しよう。
ところで
時給5万円の貴重な時間を割いて読者のために、こうやって投稿を続けるオレってなんて
物好きな奴なんだろう、と皆は思うかもしれない。
しかし、人生は金だけじゃないということが、30代で10億も稼いでしまうと、よく分
かるようになるのだ。 
自分が何のために生きているのか。 そういうことを「金」は教えてはくれないのさw
384physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/15(木) 13:07:47.73 0
>>383の続き
まず、そもそも「旅行」するとは、どういうことなのか?
それは、もちろん、自分の五感を使って「未知の事物、環境を認識する」ために行われる
ことである。
その結果、自分の(脳器官の)中には、それまで見たことも聞いたこともなかった記憶が
あらたに蓄積されていくことになるだろう。
しかしながら、>>357ですでに(面白おかしく)説明したとおり、科学的脳神経的な単純
な観察概念は一般的な情動反応を主体に生じさせはするが、けして本当の意味での「感動」
を主体にもたらすことはないのだ。

これは推論として言うしかないのだが、おそらく老い先短いトシで「そういう経験」をし
てしまった場合、心のどこかで『もっと早くこれを見たかった』という取り返しのつかぬ
後悔とも慙愧ともいうべき思いに囚われるのではないだろうか?

そういう思いが何故生じるのかというと、「人間は入力された情報を受け取るだけの機械
のような存在」ではないからである。
「主体が客体を観る」という公理系@によって成立した自己自身への情報の蓄積は、さら
に「客体が主体を観る」という公理系Aで、蓄積された情報をもつ主体が客体の要請に応
えようとするプロセスを同時に発生させているのだ。
にもかかわらず、老人には、公理系Aを満たしうる時間が、もうほとんど残されていな
い・・・・。
もし、そうであれば、年老いた者がその時すべきなのは、公理系@の発動として新たな情
報を仕入れることではなくて、すでに記憶されている情報に基づいて公理系Aに応答する
ことではないのだろうか?

だから自分は、
残された時間に、できるだけ多くのものを食って死のうとするような浅ましい発想はもち
たくないのだ。
自分が今まで暮らしてきた定点を守り、遠い海を眺めながら、そこに必ず現れる「リバイ
アサン(人食い鯨)」を、ひたすら待ち続ける老人のようになりたいと思う・・・・・。
385考える名無しさん:2014/05/15(木) 14:21:57.76 0
>>374
>第四の道(意識の公理系)が開示される。


>脆弱な主観的意識(クオリア)から、深化した強い主観的意識(クオリア)を
 確立する為には、第四道としての「意識の公理系」に基づいた>>313「A客体が
 主体を観る(=主観性を最広義に捉える)」の公理を深化・強化することと解釈しているが、
 実際に知識・経験レベルの異なる第三者が、「深化した主観的意識(クオリア)」を確立する為の
 具体的な手順を提示してほしい。
386physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/15(木) 22:31:13.91 0
>>385
>実際に知識・経験レベルの異なる第三者が、「深化した主観的意識(クオリア)」を確立
>する為の具体的な手順を提示してほしい。

「意識の公理系」Aを、別名「客体の公理」と呼ぶ。
これは、客体からの何らかの作用が主体に対してあるというふうに、つまり、公理系@「主
体の公理」の逆バージョンのように考えられがちだが、それだと公理系@が二つあるという
意味にしかならないだろう。
つまり、それでは経験的にも知的にも情動的にも異質な主体同士が、それぞれバラバラな幻
想を抱いて対立し合う構図しか作り出せないわけだ。
これでは「意識の公理系」は破綻してしまう。
だから、「客体の公理」の客体とは、別の主体というふうに捉えてはならないのである。
それは、あくまで主体に対する客体なのであり、同時に主体を内に含む客体を意味する。
その客体においてこそ主体が存在するという自覚に達するとき、そこに最強の「主観的意識」
であるクオリアが出現するのだ。

この最強のクオリアは、唯物論的に対象的客体の中に迷い込むこともなければ、観念論的に
主体的自己の勝手な思惟に逃げ込むこともない。
それは客体をつねに認識する主体が同時に客体と不可分のものとして存在する自己を意識す
るということだからだ。
387physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/15(木) 23:15:21.17 0
『余談』

これは差別でもなんでもなくマジで思うのだが、学校の教科という志向対象さえ脳ミソに
詰め込めばいいという教育、つまり志向的脳器官的限定的な教育方法をとることにおいて
養護学校の生徒に対するのも精神病棟の患者に対するのも、どこぞの名門学校に通うクソ
ガキどもに対するのも、求められている精神構造の完成度は全く同じレベルなのである。

そこで育つのは「人間らしい意識」ではなく「機械的な認識」だけ。
機械のように教育されていることを何とも思わないバカが成績優秀者として賞賛され愚か
にも他人を支配しようとする始末。
「人間らしい意識」の教育など一瞬たりとも受けたことのない大量のバカが教育機関から
大発生。 優秀な機械が生き残り、ダメな機械は廃棄処分にされる。
人間機械は、悲しいかな、どんなに機械に徹しようとも、「苦しみ」のクオリアからは逃
げ切れない。 
一番人間らしい意識(クオリア)である「苦しみ」は、人間機械に罰を下し続けるのだ。
388physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/16(金) 00:23:21.52 0
もうひとつ『余談』

こんなことはありえないとは思うけど、宅間守という殺人鬼が、もし、人間機械である
生徒の「苦しみ」を解放するために、ああいう凶行に走ったのだとしたら・・・・・・
やつは、まさに「生ける神」だね。
まあ、報道されていることが全部真実だとすれば、やつは「憐れみ」など感じる心を持
たない鬼畜のようなやつだったらしいから、そんなことはありえないんだろうけど?w

でも彼は、吹聴されていたような「偽メンヘラ」ではなかったようだね。
障害等級で2級というから、マジで神経がイカレてたんだろう。
神経がイカレてるというだけなら、偉大な哲学者、宗教家にも似てるわけでw
案外、本物の「憐れみ」というのは、そういうイカレた脳内に直観される「主観的意識
(クオリア)」かもしれないよねw
389考える名無しさん:2014/05/16(金) 05:24:01.76 0
さて、だらだらとこのような駄文を書き連ねていては、何の進歩も
感じられないだろうし、そろそろ
390考える名無しさん:2014/05/16(金) 07:09:38.56 0
時間と才能の無駄ですよ。学生さん
391考える名無しさん:2014/05/16(金) 08:06:30.22 0
響かないポエムほど鬱な主張はない、それにすら気づかず、また気づいても
押さえ込む言葉の連呼は国士無双である。
割り切れない割り算をどうやって無限に割り切り、その具現さで酔うのは
言葉を使うのではなく言葉に流されているだけである。
論理的と本人は思っているだろうが、そこに客観性はない、
常に>>1の脳内世界での客観性である。
井の中の蛙はそこが大海だと誤認している。
見えないものを扱うのに、見えるものを語るおろかさ。
392physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/16(金) 09:25:03.46 0
>>389>>390>>391
イエスは、いいことを言っている。
『身体だけしか殺せない者を恐れるな。汝の魂をも殺せる者を恐れよ』

哲学というのは、相手の正義を潰すためにあるわけではない。
他人のスレにきて、他人がおのれの確信のもとに何の問題もなく行っている思考活動を
貶し、やめよというバカどもの魂は「生きている」と言えるだろうか?w
少なくとも、自分のやっていることがそうだと知らされた以上、このバカどもは哲学徒
としては「生きていられない」はずである。


バカの魂を殺すのは楽しいもんだなwww
 
393考える名無しさん:2014/05/16(金) 09:52:54.97 0
匿名板なのにいろいろ(魂)バレバレですやん
394考える名無しさん:2014/05/16(金) 09:55:58.15 0
内面(魂)をさらけ出して書き込むのも結構だけど見たくない人もいるんじゃない?
395考える名無しさん:2014/05/16(金) 10:07:49.47 I
寧ろ逆に爽快だろ
他に別に快感だろ
当然正反対に快調だろ
396考える名無しさん:2014/05/16(金) 15:28:14.67 0
当スレでは“存在”を扱うことをその主旨としております。
つまり、貴方自身の”愚鈍な振る舞い”を貴方自身が見られない
ということは、当スレでは”必然”なのです。
397パンの耳:2014/05/16(金) 15:42:41.04 0
  
 もう 業界のわるのりみたいに 表記変えちゃえば  

                         たまC 

 たまA たまB たまC があって

                  たまA は あたま

                  たまB は ぼでぃ

                  たまC は こころ
   
398physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/16(金) 20:42:42.78 0
【公理系>>313による聖書解釈のハードプロブレム】

共観福音書には大きく分けて三つの事態が記述されている。

ひとつは、当時の社会制度の中に存在したイエスという男の客観的な記述である。
これは、善人にも悪人にもそう観えるところの脳器官内に記憶として蓄積されたイエス像
にほかならない。 つまり、「意識の公理系」>>313@によって観られ客観的な志向対象性
によって捉えられた世界内救世主の姿を、われわれはそれによって知ることができるので
ある。
ここで対象化されているイエスは、御存知のとおり当時の一般的社会形状から大きくズレ
た存在である。 それは明らかに他者の誰とも異なる彼の客観的な振る舞いや発語の意味
によって、そう理解されるのだ。

この記述の意義は、なんといっても絶対的宗教社会に対する救世主という構造を提示しえ
たことであろう。 そのことは、まるで戦時中の軍事一色の社会の中で反戦のヒーローが
現れたかのような、ありえない事態であったにちがいない。
実に痛快ではないか!w
399physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/16(金) 20:43:51.59 0
>>398の続き
もうひとつは、イエスの説教についての記述である。
これは、合理的な解釈が可能な言明であることに注意しなければならない。
この解釈は、一般的な人間の脳神経によって理解可能な形に置き換えられた客体(喩え話)
を、主体の一人一人が、それぞれの認識のうちに取り込むという作業で完結している。
このことが福音書に記述されなければならなかった理由は、そもそも主体の認識というこ
とすら神(実は律法学者や司祭)の絶対的権威の下に許されていなかったという背景に対
するアンチテーゼとしてである。
当時の民衆は、イエスの喩え話を聞くことによって、自分自身が圧倒的な社会的強制力の
前でも「自分自身の」認識を持つことが可能であることを知ったのだ。
しかし、この認識は、いまだ身体的脳器官的な反応に従属するものでしかなかった。
ゆえに、それは必然的に保身的であり排他的な様相を帯びるしかなかったのである。

この記述の意義としては言うまでもなく、その説教が「神の言葉」としてではなく喩え話
として語られていることである。
もし、イエスが「神の言葉」を発したなら、その言葉は人間の神経反応を素通りして絶対
的に従属すべき言語となっただろう。 そうであれば意味がないのだ。
あたかも軍事命令のような発語がなされ、人間が人間らしい(痛みを感じたり生きたいと
思ったりする)神経反応を無視して、それが受け入れられてしまっては、まったく無意味
なのである!! もし、そうなっていたら、そのとき彼は、救世主でも何でもない、ただ
の「神の騙り手」に成り下がっていたはずなのだ。

キリスト教は、以上のふたつの記述によって、すなわち「意識の公理系」@「主体が客体
を観る」を見事に完成させたのである。
しかし、その完成度は同時に「意識の公理系」Aを不要であるかのように思わせてしまっ
た。 このことが、あまりにも悲劇的な事態としてキリスト教を限界づけたのである。
実際、史実を通覧すれば明らかなように、イエスの遺した負の遺産とでもいうべきカトリ
ックの暴虐な行為などに鑑みれば、その原因に「意識の公理系」の破綻が垣間見えるのだ。
400physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/16(金) 23:47:40.17 0
>>399の続き
キリスト教が福音書の誤読によって犯した歴史的大罪を、「意識の公理系」によって検証す
る前に、少しだけ現代的な問題との絡みを論述しておきたい。
その問題とは、「集団的自衛権」についての賛否両論のことである。

おそらくは、社会的に「意識のハードプロブレム」が解明されない(自分の中では十分に
解明されているのだが、まだ説明しきれていない)うちに、この問題を議論しても、個人
の情理よりも一般的客観的見解への傾向性をもつ日本人は、「神の如く崇めるアメリカと
の信頼関係という幻想」を最終的に選択するだろう。
なぜアメリカが「神」なのか?
もともと平和的な人種であるはずの日本人が、信頼関係を維持しようとして、あえて戦争
行為に加担しようとする。 その信頼関係を求める相手(アメリカ)というのが、実は、
「血塗られた神」でしかないことに気付いていないということなのだ。
われわれが、自らの命を賭しても他国の攻撃から守ろうとしている相手を、なんの吟味も
検証もせずに、われわれと同じ精神性の持ち主であると勝手に思い込んでいる。
もともと血で物事を解決することが大好きな人種を、愚かにもわれわれを守ってくれてい
る神様のように信じているのだ!!
この事態は、まるで、ユダヤ教の神を当時の律法学者や司祭が絶対的存在として民衆に信
じ込ませていた状況とそっくりではないか!!!
われわれは今、アメリカという神を現代の首相を筆頭とするバカ政治家どもによって絶対
に守らねばならぬ存在として信じ込まされているのだ!!!!!
とはいえ、
もし仮に、神の幻想が剥がれ落ち、個人の思いが「集団的自衛権」を排除したとしても、
われわれは、キリスト教が陥った悲劇と同じ運命を辿るしかないだろう。
その説明は、福音書を誤読したキリスト教徒と同じく、日本人の鎖国的保身性と排他性が、
どういう事態を招くかを想像してみることで足りるだろう。

しかし、そこに光明がまったく無いわけではない。

それが、福音書に記述されている三つ目の事態、すなわち「意識の公理系」Aの完全なる
実体化、最強の主観的意識(クオリア)の大いなる可能性なのである!!
401考える名無しさん:2014/05/16(金) 23:53:36.84 0
これって自己愛性人格(ry
ってやつ?
402考える名無しさん:2014/05/16(金) 23:57:59.02 0
少なくとも彼にとっては意味のあることなんだよ
403physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/17(土) 09:48:59.78 0
>>400の続き
「集団的自衛権」について、もう少し言及しておこう。
現行刑法に「正当防衛」という概念がある。 これは急迫不正の侵害に対し、自分または
他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為をいう。
また、これはあくまで自然権としての行為を保障したものであって、人間が生まれながら
にもつ不可譲、固有の権利が前提とされているのである。
さて、身近に起こりうる事例で、この問題にアプローチしてみよう。
あなたは、喧嘩好きのAさんが常日頃から対立しているグループに襲われる場面に遭遇し
た。 Aさんとは一応、顔見知りである。 以前に一度、仕事を紹介してもらったことも
ある。 特に無二の親友というわけでもないが、話していて面白いところもある相手だと
あなたはAさんのことを認識している。
相手のグループは、10人ほどいて、みな金属バットで武装している。 おそらくAさん
をメッタ打ちにするつもりだろう。 
こういうシチュエーションで、Aさんが、相手と格闘状態に入ることは、当然「正当防衛」
として認められるだろう。 また、あなたが今後、そのグループを敵に回してもよいとい
う覚悟があるなら、Aさんに加勢することは違法ではないのかもしれない。
しかし、ふつうに考えて、あなたには守るべき家族もあり、自分の身を案じてくれる友や
多くの仕事仲間だっているわけで、それらすべてを捨てて、喧嘩好きなAさんのために、
人殺しを何とも思わないような恐ろしいグループと戦闘モードに入ろうと、あなたは思う
だろうか?
ここに「集団的自衛権」という概念の嘘があるのだ。
404physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/17(土) 09:50:30.52 0
>>403の続き
「集団的自衛権」を肯定するバカ政治家や論者の多くは、人間が生まれながらにもってい
るのが「血を好む性質」であり「好戦的な態度」であるとでも言いたげなのだ。
だが、本来、人間は無意味な争いを回避し無駄に血を流すことを忌み、それゆえ不合理な
事態の収拾のために心を尽くし精神を尽くし思いを尽くそうとするものなのではないの
か!!! バカ政治家や論者には、この視点が欠落しているのである。
まさに言論、思想のカタワどもが、「集団的自衛権」でもって、日本を再び焦土に変えよ
うとしているのだ!!!
そういう戦犯予備軍を、けして許してはならない。

なお、ふつうに考えて、Aさんの事例では、警察に連絡してAさんの正当防衛行為を見守
るのが賢い選択である。 Aさんだって、そんな争いに近所の顔見知りを巻き込みたいと
は思わないだろうから。
405physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/17(土) 12:54:06.49 0
>>404の続き
ちなみに、「集団的自衛権(詐欺)」とでも言うべきバカ政治家、クソ論者(しゃべること
を訓練された頭の悪い人間機械)の煽り行為は、結果的に何を生み出してしまうのか?
「意識の公理系」で、それを説明することが可能だ。
公理系@「主体が客体を観る」ことで、まず、敵を好戦的な存在として認識する。
公理系A「客体が主体を観る」ことで、好戦的な存在である自分が敵との関係で認識され
てしまうだろう。
このことによって、主体と客体の間にどんな目的が発生するだろうか?
言うまでもなく、「互いに相手を殺戮の対象とする目的」が必然的に出来てしまうのである。
この目的の下に動き出すことを「戦争」と呼ぶ。
そして、この日本では天皇陛下が、「戦争」に勝てば『ご苦労さん』と民草をねぎらい、「戦
争」に負ければ、こんな酷いことは二度と起こしませんと、A級戦犯を死刑台に送りながら
自分は戦勝国の総司令官とツーショットに収まるという茶番が繰り返されるのであるwwwwww(やっとれんわ!)
406physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/17(土) 19:04:06.22 0
>>405の続き
さて、人間らしい生き方を求めるための「意識の公理系」には、BとCが残っていること
を忘れてはならない。
実は、「戦争」の悲惨さは、公理系@と公理系Aが満たされたあと、公理系Bと公理系C
が破局することによって現象するのである。
その具体的状況を、日本最後の「戦争」であった米国との血で血を洗う戦場の様相を例に
説明してみよう。
これを読んだあと、あなたは、当時の軍事国家の担い手どもの、あまりの愚かさに泣きた
くなるような腹立たしさを抑えられなくなるにちがいない。 人間らしさの唯一の基準で
ある「意識の公理系」に無知であった、およそ人間らしくない鬼畜のような軍国主義者ど
ものために、真に守られるべき人々は、多大な恐怖と苦難と犠牲に晒されたのである!!

「集団的自衛権」などとホザいている愚か者ども、これをよく読みやがれ!!!
テメーらは、あのときと同じ破滅への道に全国民を巻き込もうとしているのだ!!!!!
407考える名無しさん:2014/05/17(土) 19:22:16.96 0
>>386
深化した主観的意識(真性クオリア)の領野に於いては、物質世界(客観的存在)の原理と、
主観的意識(真性クオリア)の働きが繋がっており、「世界を、外部(客観的存在)と内部(主観的存在)に
分離させないこと。」(>>279)と述べている。

ここで、問題点として浮上してくるのは、 深化した主観的意識(真性クオリア)と、脆弱な主観的意識(クオリア)は、
共に一人の「人間存在」の中に包含しているのであり、「客体の公理」の客体の概念について記述している様に「別の主体
と言うふうに捉えてはならないのであり、あくまでも主体に対する客体として、同時に主体を内に含む客体を意味する。」と
述べている様に“同義”として捉えられるものである。

従って、脆弱な主観的意識(クオリア)を『人間機械』として、分離し・定立化し、深化した主観的意識(真性クオリア)と
切り離して捉えていくものではなく、視点を「人間(真性クオリアと、脆弱なクオリア)」を合一した存在論として捉えて行くことが、
本来のあるべき姿ではないかと思う。
408physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/17(土) 20:59:36.79 0
>>406の続き
公理系B「認識された外部の客観的論理的記述を、認識する主体の原因にしてはならない」
は、あの忌まわしき「戦争」において何を意味していたのか?
端的に言うならば、「客観的論理的記述」を「大量破壊兵器」に置き換える事態が発生して
いたのだ。
それを主体の原因にするとは、どういうことかというと、「主体である人間が大量破壊兵器
にさらされても構わない(原因なのだから)」ということである。
これは、「人間の物質化」という事態だ。
意識をもつ特別な物質的存在である人間を、そうでない他の物質並みに貶める発想である。

この事態が最も分かり易く最も絶望的に現象したのが、あの「神風特攻隊」というワンシ
ーンだった。 そこで行われたことは、「大量破壊兵器と化した(を原因とする)人間と、
他の物質(敵国の空母)同士を化学反応させ相殺する」という人間物質化への軍国主義的
科学的挑戦だったのである。
あの作戦を主導したクソ軍国主義者の脳内神経反応には、客観的論理的記述によって物質
に還元された「人間」の姿が、戦争を勝利に導く希望のように輝いて見えたはずなのだ。
しかし、それは、まさしく公理系Bの破局でしかなかったのである。
409physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/17(土) 22:36:11.32 0
>>407
あたりまえの話だが、脆弱な(偽性化した)クオリアは、「現在時制」つまりは
<尊厳的時間性>の中に存在しているわけではない。
それは神経反応が「切り取る過去」あるいは「予期する未来」において現れる
だけであり、われわれが一般に自分≠ニ呼ぶもののことである。
深化した(真性なる)クオリアのありかは、まさしく「現在時制」においてしか
意識しえない<尊厳的時間性>とともに存在するのだ。
したがって、存在論的には「時間の中でクオリアは連続している」のである。
410physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/18(日) 10:26:17.50 0
>>408の続き
公理系C「意識されたクオリアを、外部認識の原因にしてはならない」

主観的意識(クオリア)は、つねに錯覚の危機に晒されているからである。
そして、脆弱なクオリアのまま、主体の物質性と客体の物質性の関連から目を逸らし、あ
るいは無知ゆえにそれに思い至らず、ついには破局を迎えるのだ。
そのことが、あの戦争において、どう現象したのかというと、圧倒的な戦力という外部認
識がありながら(その認識さえなかったのかもしれないが)敵国に勝てるという強い信念
を主観的意識(クオリア)が持ち続ける。(その信念の根拠は世界の中で特別な神仏によ
って守られている日本という国が負けるわけがないという過去の栄光への依存である)
その依存的であり脆弱なクオリアが、勝てるという悲しい信念に基づいて(それを原因と
して)圧倒的な戦力という外部認識を、おのれの脳内で(また共同主観的に)加工し始め
たのである。

このことによって、どれだけ圧倒的な戦力を敵国に見せつけられようと、けして怯まない
哀しいほどに強い(実は脆弱な)クオリアが日本民族の意識を覆い尽くしたのだ。

それさえなければ、あの戦争は、アメリカの圧倒的な戦力が東京の上空を横切った最初の
時点で終結していたはずなのである。
「意識の公理系」が破局してさえいなければ、あれほど大量の民間人が非業の死の恐怖と
絶望の叫びを上げ続けなければならない場面には遭遇しなかったはずなのだ!!(涙)
それでもなお、脆弱なクオリアの夢から醒めない愚かな精神主義者どもは、ああして戦っ
たからこそ、今の日本があるのだとホザく・・・・・
もし仮に、本土への圧倒的な戦力を確認した時点で戦争を終わらせていたら、日本は、ア
メリカの植民地になっていただろうと何の根拠もなく自己満足に耽るのである。
411physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/18(日) 10:27:29.16 0
>>410の続き
そんなことは絶対にありえない。
もし、アメリカという国が逆の立場になって、戦争から早期に撤退したとして、そのアメ
リカを日本が殖民地化するとは到底、思えないのだ。
経済において圧倒的に優位な力を秘めていた日本、勤勉で世界トップクラスの科学技術を
保有していた日本、武士という神秘的で圧倒的に強力な戦闘性を備えた者が多数常駐する
国、日本!! そんな国を、いかにも虚弱だったアジアの国のように植民地化できるとで
も思っているのか!!!! バカどもが!!!!!

あの東京大空襲以降の悲劇は、すべて軍国主義大日本帝国の犯した非道な大罪だったので
ある。
そこで死んでいった(殺された)幾多の者たちは、巨大な通り魔に蹴散らかされた命だと
考えればいい。
巨大な通り魔(大日本帝国軍部)を正当化し、失われた命を慰める道理など、どこにも無
いのだ、バカタレが!!!!!
ただ、ただ・・・・・ただ、ただ・・・・あの戦争で失われた命を惜しめ!!!!!
くだらぬ美化などするな、クソッタレが!!!!!!!

すべては、「意識の公理系」の破局が招いた最悪の様相だったのだ・・・・・・・(涙)
412physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/18(日) 12:59:27.76 0
>>409の続き
つまり、こういうことが言えるのかもしれない。
あるクオリアが、一定のパーセンテージまでの脆弱性に達した段階で、そのクオリアは
機械化されたクオリアとなり<尊厳的時間性>を失っているのだ、と。
そのようなクオリアには、もはや人間としての尊厳を認める必要はないのだ、と。
しかし、この理解は危険である。 ナチスの例を挙げるまでもなく、
機械化したクオリアは、他者をも機械化されたものとして認識しようとするからだ。
そんなことは分かっている!!

では、人間らしいクオリアが機械化したクオリアを認識する手立てはないのだろうか?
それは有る。 
簡単に言うとこういうことだ。
脆弱な(偽性化した)クオリアは、脆弱さの原因となる依存的志向的対象への固執ゆえ他
者の尊厳を奪い排除しようとするが、深化した(真性なる)クオリアは、他者の尊厳性の
欠如自体を問題にする。ということである。
ヒトラーの演説を冷静に聞いていれば、その依存的志向的対象への固執は明らかなのであ
り、それがクオリアの脆弱さそのものへの言及でないことは当然なのだ。
413physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/18(日) 14:44:50.99 0
『余談』

今日も今日とて、某討論番組で「美味しんぼ(福島風評被害)問題」についてバカ論者ど
もが大騒ぎ。 あの宮崎、竹田とか、マジいらねーだろ(唾棄)
あんな人間性の欠片も無い「人間機械」然とした尊厳をまったく考慮する必要も無いバカ
に公共の電波でオピニオンリーダーを勤めさせる日本の意識の低さ、クオリアの脆弱さに
ただ、ただ驚愕するばかりだ。 津川とか雑魚場とか、ゴミだよなwwww

鼻血は、「低線量被曝」っていう物理的原因だけからしか出ちゃいけね−のか、カス?
そら、人間の意識は物質に影響を与えられないというのが「意識のハードプロブレム」の
根拠だけどねw でも実際に、過剰な精神的ストレスが、胃に穴をあけるという物質的影
響は観測されてるわけでwwww 鼻血と被曝が関係なくても、鼻血と過剰に被曝したか
もしれないという認識との関係は、どうやって証明すんだって話でwwwwwww
じゃあ、そんな認識をつくっちゃったのは誰なんだって話で!!!WWWWWWWWWW
そこの責任はどこにあんだってことだろが!!!!!
それでも懲りずに原発を推進させようとするバカ政治家クソ科学者への抗議かもね(苦笑)

バカどもが「意識のハードプロブレム」の隠れ蓑をかぶって、物理的原因だけで逃げよう
とする気持ち悪い無知さ非人間さだけが漂う世論。 それに迎合するクソ知識人。
マジで死んでくれ。 

長谷川さんガンバレ!!☆ 
414考える名無しさん:2014/05/18(日) 15:40:42.03 0
テスト
415パンの耳:2014/05/18(日) 19:05:42.06 0
   
 切れ痔 じゃ もっと怖いじゃん   

     おしりから 血がでる ・・・・ 美味しんぼ
  
416考える名無しさん:2014/05/18(日) 19:10:10.54 0
http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20080330/1206696218

理由と人格―非人格性の倫理へ
作者: デレクパーフィット,Derek Parfit,森村進
出版社/メーカー: 勁草書房
発売日: 1998/06

この本は「英米の哲学界では二〇世紀末の最も重要な哲学書の一つと目されて
いる」らしい。永井均氏や森岡正博氏の著作に時々出てきたりする。以前、この
研究会の機関誌で、再帰的な書き換え系としての記憶=「わたし」について短文
を書いたことがあるが(師茂樹「記憶を書き出す―総括にかえて」、
『GYRATIVA』4, pp. 64-71, 2007)、この本を読むのは言わばその延長戦であ
り、ついでに言えば最近やってる一般キャラクター論にも関連する。
興味深いのは、このパーフィットが、自分の主張する所謂「還元主義」的人格観
(「ある人物の時間を通じた同一性は、もっと細かい (particular) ある事実が妥当
するということだけからなる」)が歴史的、地域的一般性を持つことを主張する
ために、『ミリンダ王の問い』や『倶舎論』を引いて「ブッダならば同意しただ
ろう」と述べている点である。これについては、欧米の仏教研究者が何人か反応
している:
417考える名無しさん:2014/05/18(日) 20:18:43.75 0
 哲学者デレク・パーフィット(>>416)は、自我論者と束論者の区別を設けることにより、混乱した状況を
いくらか整理しようとしている。彼は、自分というものが経験を持つ単一で連続的な自我であるよ
うに思われるという、疑いようのない事実から出発し、それはなぜかと問う。この問いにたいし、
自我論者はそれが文字通りの真実だからだと答えるが、束論者はそれは真実ではなく、自我の経験
はほかの何らかの仕方で説明されるべきだと答える。
 束理論という名称は、哲学者デイビッド・ヒューム(1711〜76)の著作に由来する。ヒュー
ムは自分の経験を見つめることで、その経験を持つ自我を探してみたが、そこに見いだされたのは
経験だけであったと述べている。このことから彼は、自我は実在するものではなく、「感覚の束」
のようなものであると結論づけている。人生とはさまざまな印象の連続であり、それらの印象はひ
とりの個人に属するものとして統合されているように思われても、実際はたんに記憶やそのほかの
関係によって相互に結びつけられているにすぎないのである。
418考える名無しさん:2014/05/18(日) 20:20:03.11 0
(>>417の続き)

 数ある宗教のなかで仏教だけが自我の観念を否定している。歴史上実在した人物としてのブッダ
は、二千五百年ほどまえに北インドで生きており、木のしたでの長い瞑想のあとに悟りを開いたと
されている。彼は当時一般的だった宗教的教義を否定したが、そのなかには永遠の内的自我、すな
わちアートマンが存在するということも含まれていた。これに代わって、彼は人間の苦るしみは無知、
とりわけ自我という誤った観念への執着によって引き起こされると説いた。苦しみから抜け出す方
法は、自我をたえず新たに作り出す欲求や執着をすべて捨て去ることである。つまり彼の教義の中
心にあったのは、無我という考えである。これは自我が存在しないということではなく、自我は錯
覚である、つまりそれは見かけ通りのものではないということである。自我は個人の生を生きる持
続的な実体ではなく、たんにひと組の要素に与えられた便利な名前にすぎないのである。彼はまた、
すべてのものがそれに先立つ原因に依存しており、どんなものも独立には生じないとも説いている。
これは宇宙が相互に依存し合っており、因果的に閉じているという現代の考え方と共通している。
「行為は存在するし、その結果も存在するが、それを行った人は存在しない」というブッダの主張は、
彼のこの教えから理解できる。パーフィットは、ブッダを最初の束論者としている。
『意識』(スーザン・ブラックモア、信原幸弘他訳、岩波書店、88~90頁)
419physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/19(月) 17:49:28.16 0
>>418
釈迦のいた時代(ヤスパースの分類で言うところの基軸時代)と、現在のわれわれが直面
している時代(科学と技術の時代)では、人間の哲学的な問題意識が違って当然である。
釈迦がもっぱら関心を寄せたのは、「生きることにおいて必然的に現象する事物」の大い
なる謎を解明することであった。
それを認識するための手段が「感覚の束」だったわけで、それが目的とするのは、あくま
でも志向的対象的事物のほうなのであり「生きている人間そのもの(人間らしさ)」とい
うことではなかったのである。
基軸の時代に否定されていた「個人の感覚」を獲得するためには「釈迦」で十分だったと
思う。
しかし、今、科学と技術に否定されているのは「個人の感覚」ではないのだ!
むしろそれは、「個人の感覚」にすり寄り、「人間らしい生き方そのもの」を否定しよう
としているのである!!

この恐るべき科学と技術は、釈迦の解脱理論など簡単に呑み込んでしまうだろう。
われわれは、「生きることにおいて必然的に現象する事物」などに惑わされず、自分自身
の「人間らしい生き方そのもの」への関心を持たねばならないのである。
そのために「自我論」も「束論」も乗り越えた新たな論拠を、いきなりだが、ここで提示
してみたい。
「人間らしい生き方そのもの」を検証しうる領野。 そこでは、客体と主体が一体となり
直感し覚知し意識することが実現する。 そういう時間と場所を、こう呼ぶことにしよう。
それは、≪体感的領野≫ であると。  
420physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/19(月) 17:57:39.81 0
>>419の続き
言うまでもなく今後の課題は、≪体感的領野≫における主観的意識(クオリア)の様々な
あり方と、科学と技術によって再定義される以前の「人間らしい生き方そのもの」との関
係性を検証していくことにある。
これが「意識のハードプロブレム」完全制覇への王道となるだろう。
421physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/19(月) 18:55:40.76 0
>>420の続き
【意識のハードプロブレム解明のためのテーゼ】


基軸の時代には「志向性からの離脱」が目的とされていたが、科学と技術の時代には
「志向性の質を問わねばならない」のである。
422パンの耳:2014/05/20(火) 01:16:16.20 0
physica ◆xjYUbW7jT6が言うのは神の言葉じゃ、
423考える名無しさん:2014/05/20(火) 10:26:56.02 0
現代の哲学者ジュリアン・バジーニは、『エゴ・トリック』の冒頭にディビッド・ヒュームの次の言葉を掲
げている。

私に関する限り、私が「自己 myself」と呼ぶものにもっとも深く分け入るとき、私が見つけたもの
は、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるとき
にも知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできない。
<ヒューム『人間本性論』>

ヒュームは、統一された同一の自己や魂というものはなく、人間はたえず変化する知覚の束であるという主
張で知られている。そして、ある時点での知覚と時間をおいた別の時点での知覚の仕方を考えれば、この主
張が正しいのは明らかなように思える。

「自己」と「人格」は現代の哲学および心理学において大きな関心を集めている領域であり、バジーニは、
きわめつきに面白いこの問題をわかりやすく解き明かしながら、「真珠理論」とヒュームの「束」理論とい
う、自己の関する二つの対立する見方を考察する。バジーニが答えようとしているのは、「我々とは何か、
そして時間がたっても我々の継続的な存在を支えているものは何なのか」という壮大な問題である。


自己の「真珠」理論では、我々が一生の間にどれほど変化しても、核となる真珠、すなわち本質的な「私
性」は変わらないと考える。この自己は自由意志を持ち、死後も身体を超越して残る可能性さえある。

しかし、神経科学による入念な研究にかかわらず、そのような真珠は見つかっていない。本質的な「私」と
いうものは、脳のどの特定の領域にも存在しないのである。

実際には、脳内のいくつかのシステムの連携によって、我々は単一で統制のとれた存在だという感覚を与
えられているにすぎない。他の生命体、たとえばトカゲは、人間ほど発達した自己意識を持っていない。そ
れらの生物は、ある特定の瞬間に自己を意識するかもしれないが、人間は”長期間、自己意識を持ちつづけ
る”という点で、他の生き物とは違っている。人間には経験に基づいて、豊かな詳細と複雑さを持つストーリ
ーを形成できる「自伝的自己」があるのである。
424考える名無しさん:2014/05/20(火) 10:28:07.75 0
 仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した
不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験や、思考と感情の総和であ
ると仏陀は説いている。
 これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな可能
性≠強調する点が異なっている。われわれは生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによっ
て、自己をきわめて意識的な方法で創造≠ナきる。それは、バジーニが引用する仏典『法句経』の次の言
葉に示されている。

  * * *

まこと 溝つくりたちは 水を導き
弓師たちは 箭を 矯め正し
木工たちは 木材を 矯め正し
賢きひとびとは みずからを 整う

(『ダンマパダ・法句経』青土社 三枝充悳訳)  

バジーニが紹介する興味深い事例の一つに、ブルック・マグナンティーという女性がいる。彼女は大学の
研究者、ブログ運営者、売春婦という役割を掛け持ちし、それを「ベル・ド・ジュール」というブログに綴
って有名になった。それぞれの役割がどれほどかけ離れていようと、マグナンティーはそれらを単に自分自
身の異なる面だとみなしており、心理学的な分裂はまったく感じていない。

 バジーニが言うとおり、「人間は、普通考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠ける
が、それでも実在で単一の存在である」。ウォルト・ホイットマンはこれをもっと詩的に表現している。
  * * *

おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている。

(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』光文社 飯野友幸訳)  
425physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/20(火) 17:40:05.67 0
>>423
>自己の「真珠」理論では、我々が一生の間にどれほど変化しても、核となる真珠、すな
>わち本質的な「私性」は変わらないと考える。この自己は自由意志を持ち、死後も身体
>を超越して残る可能性さえある。

「自由意志」という概念は、感覚的志向性からの離脱(すなわち指示対象に囚われないこ
と)という意味でいわれるところの「主観的意識(クオリア)につけられた名称」にすぎ
ない。
それは誤解を恐れずにごく簡単に言ってしまうとこういうことだ。
『○○ちゃんは、お利巧さんね、あんな子と遊んじゃダメよ』という場合の、○○ちゃん
のことを「自由意志」と呼んでいるだけである(苦笑)
このことについては、あとで詳しく論述する。
したがって、「人間らしい生き方そのもの」を求めるうえでの主観的意識(クオリア)を
考える場合、問題になるのは、そんな意味の「自由意志」ではなく、≪体感的領野≫にお
いてのみ≪尊厳的時間性≫の中で可能となる『自由』そのものなのだ、ということ。

>しかし、神経科学による入念な研究にかかわらず、そのような真珠は見つかっていない。
>本質的な「私」というものは、脳のどの特定の領域にも存在しないのである。

単に名指されただけの概念を神経科学の方法で探求するという馬鹿げたことを、脳科学者
という人種はやっているわけだwwww
名指したものをほったらかしにするほうもするほうだが、それじゃあ「馬科(バカ)学者」
と呼ばれても仕方ないな。 だろ?w 
426physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/20(火) 17:49:36.99 0
>>424の続き
>仏教では、定まった自己がないというところに大きな可能性≠強調する点が異なっ
>ている。われわれは生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによって、自己
>をきわめて意識的な方法で創造≠ナきる。

「人間らしい生き方そのもの」の中に、「知覚、思考、行動を磨き上げること」のような
非人間的な作業工程は存在しない。
仏教が、やりたいこととは何か、再び誤解を恐れずに分かり易く喩えてみよう。

『○○ちゃん、よく出来ました☆ これからも頑張ってママを喜ばせてね♪』

ということに過ぎないんだよ!!!(大笑)
427パンの耳:2014/05/20(火) 19:13:23.12 0
     
  かみさま(笑)
  
  なんでも はさめばいいってもんでもないでしょお
  
               ぶらっくさばす みたい
     
428physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/20(火) 20:20:23.65 0
【体感的領野についての予備知識】

そろそろ、これについての本格的な論及を始めたいと思う。
10代の頃から自分の中にあったこの漠然としたものは、たしかに、そこに着地した自ら
の主観的意識(クオリア)を、あくまでも強く育て上げてくれた。
「くれた」という、その感謝の念は、もちろん仏教的な母性に対してでも、キリスト教的
な父性に対するのでもない。 その念の向かう先を(いや向かう先などないのかもしれな
いが)特定することが、この「体感論」の目的である。
そこに行けば「人間らしく生きられる」ことがわかっていて、だからこそ、そのありかを
どうしても伝えたかった。
多くの者が「人間らしく」なれば、非人間性がもたらす破局を回避でき、また人間的なこ
とと非人間的なこととの関係が織り成す悲劇もなくなるのかもしれないのだから。 
その時間と場所を指示することは尋常なことではないのだが・・・・・
自分の生あるうちに、やり遂げたいことは、これだけである。
≪体感的領野≫・・・・それが何処にあるのかを言語化することだ!!
429physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/20(火) 20:23:21.81 0
>>428の続き
そもそも、ここで言われている≪体感≫の意味とは何か?
それは、一般的に知られているような「外部的神経的感覚の全体的受容」といったニュア
ンスを含まない。 おそらくは、それと真逆の概念である。
たとえば、<数学的領野>という地平を想定してみると、それは視覚的感覚に依存してい
ることが理解できる。 視覚的感覚からの刺激系を直観的合理的に説明する方法が数学と
いう認識として現象するということだ。
さらに、<法的領野>の地平では、感覚の種類が少しばかり増えるのかもしれない。
しかし、それも外部感覚からの刺激系を直観的合理的に解釈する方法としては<数学的領
野>と同レベルにあると考えられるだろう。
≪体感≫は、そうした外部からの刺激を受けようとする表層的志向性からは、あくまでも
『自由』なのである。 なぜなら、その深化的感受性(いわゆる気付き=jが指示する
先にあるものは「客体=主体」となる世界に他ならないからだ。

われわれは、ここで『自由』の概念を書き換えなければならないのかもしれない。
今まで信じられてきた『自由』とは、表層的志向性において如何なる指示対象にも囚われ
ないこと(すなわち自由意志)を意味していた。 しかし、それは単なる感覚的な志向性
からの離脱を結果しはするが、また別の志向性に囚われるという堂々巡りにならざるをえ
ないものだったのである。
喩えるなら、それはブラックアウト現象(明るい場所から高速でトンネル内に侵入したと
き視野が一瞬真っ暗になること)のようなもので、明るい場所で見えていたものが志向対
象性を失ったとしても、それは対象物そのものが失われたのではない。暗い世界に目が順
応すれば、また違った志向対象性が生じるだろう、ということなのだ。
対象的志向性から離脱しようとすればするほど、対象物の存在は、いつまでも自分を追い
かけてくる。 で、あれば対象物をそのまま認めてしまおう。 それが、仏教言説では
「色即是空」というアンチノミーとなって、志向性の質を問わない母性愛的容認の哲学へ
と結実することになっていったのだ。
430physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/20(火) 20:24:18.14 0
>>429の続き
注意すべきは、ここで最高度に認識された「自由」の概念には、もちろん、≪体感的領野≫
の中で鍛えられる主観的意識(クオリア)への気付きは、まったくと言っていいほど無い、
という冷厳な事実である。
そこでは、ただ、ただ、志向性の出来不出来に関心が集まるのみであり、指示対象の良し
悪しを評価するだけなのだ!! ・・・・では、誰が?
誰の評価であり、誰の関心なのだ?
それが自分でないことだけは確かだ。
つまり、その種の「自由」を問うことにおいて、主観的意識(クオリア)の存在は不要な
のである!!!

その「自由」とは、母親の胸に抱かれているかぎりでの「自由」であり、自分自身に内在
する「人間らしい生き方そのもの」を意味する『自由』ではないのだから。
431考える名無しさん:2014/05/20(火) 21:33:31.88 0
この価格帯で、相場は万円ですからと暗に払えと言われてもなぁ。
432physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/21(水) 18:28:51.91 0
>>430の続き
≪体感的領野≫において、真の『自由』がもたらされる。 このことについて、さらに言
及してみよう。 
この『自由』は外部の手を借りない『自由』である。 志向性や指示対象に依存する「自
由」は結局のところ、そのヴァリエーションを取得できるかどうか、下賎な言い方をすれ
ば、それを手に入れる外部的力(政治力、財力など)さえあれば手に入る「自由」だった
のだ。 それは、つねに外部の目を気にしていなければならない「自由」であり、籠の中
の鳥に与えられた「自由」なのである。

この小さな「自由」は、志向性や指示対象に何も問題がなければ、それでいいのかもしれ
ない。 たとえば、家の中で「自由」に飼われている猫は、家という指示対象、そこで暮
らすという志向性が平穏無事であれば幸せに生きていけるだろう。
しかし、身勝手でだらしない人間のせいで、その指示対象がゴミ屋敷となり、そこで暮ら
す志向性が破綻してしまったなら、その猫にとって幸福な時間は持続していると言えるだ
ろうか? 食料もなく汚物にまみれながら病気になり餓死していくことを幸福と感じる動
物などいるわけがないのだ! その猫は、そこに留まっていてはならない・・・・
その小さな自由を捨て、真の『自由』を≪体感的領野≫に見出すべきなのである。
猫に、そこまでの智恵はないのかもしれない。 いや、人間だってアホだから、この社会
で、いつまでも小さな「自由」に縋り付き最後には悲惨な死を迎える者が後を絶たないで
はないか!(そういう意味では猫も人間も同じだ)

この≪体感的領野≫に絡んで、いよいよ、あの問題に触れるときがきたようだ。
>>399の続き、すなわち共観福音書に書かれている三番目の記述(実はこれこそが、福音
書の中で2000年後の現在から重要な意味をもって浮上してくる言語群なのである)に
ついて論及してみよう。
その三番目の記述とは、「イエス・キリストの奇跡」についての事柄である。
433physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/21(水) 18:29:48.12 0
>>432の続き
「イエス・キリストの奇跡」とは、もう誰でも知っているとは思うが、死人を生き返らせ
たり、身体的障害をたちどころに治したり、パンと魚の数を膨大に増やしたり、ガリラヤ
湖の水面を歩いたり、きわめつけは自らが死から甦ったり、した一連の行為のことである。
少なくとも現時点までの聖書解釈において、いかなる学者、宗教家も、この奇跡の記述を
まともに意味のある言説として捉えた者は、ただの一人もいなかった。
それを人間の浅知恵で表層的科学的合理的な解釈に置き換えたりすることが、聖書解釈上
意味のあることとは到底思えないし、物理法則を超越した言葉通りの出来事が起こったと
いう開き直りも言語道断だ。
それらの(弱い)解釈に共通しているのは、やはり「脆弱なクオリア」がもたらす唯物論
的ないし観念論的な思惟への逃亡なのである。 
もっと深い事実として、つまりは≪体感的領野≫の問題に還元して(強い)解釈をなし得
た者は、これまで皆無だったのではないだろうか?

自分が考えるに、イエスという男の偉大さは、当時の社会的状況に抗したというレジスタ
ンスとしての一面でもなければ、優れた説教を為し得た宗教家としての一面でもなかった
のだろうと思う。 それぐらいのことなら、他にも似たようなことをやった者は大勢いた
だろう。 
彼の偉大さは、彼自身にしかできなかったことを驚くべき正確さと忠実さで、自分自身で
やり遂げたことにあるのだ。
それが≪奇跡≫を起こしたということであり、まぎれもなく≪体感的領野≫に自己を定位
し、そこから生きることを決意したということだったのだ。

では、なぜ≪奇跡≫が、≪体感的領野≫に関わるのか、その核心部分を説明しよう。
434physica ◇xjYUbW7jT6:2014/05/21(水) 19:43:18.55 0
下げような。
435physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/21(水) 22:51:57.38 0
>>421の続き

ある確信を生み出す特定の志向性の価値条件が問題なのではない。
志向性全体の存在条件こそが主観的意識(クオリア)解明に必要なすべてである。
436physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/22(木) 17:01:08.90 0
>>433の続き
われわれはエンターテイメントの世界で、この「奇跡体験」をすることがある。
イリュージョンマジックと呼ばれる見世物は、視覚に限定された「奇跡体験」だ。
それは、主体が客体を観る場合に生じる主体側の限界性と同一条件内で客体側に許されて
いる可能性との差が主体に「驚き」を与えるというメカニズムである。
その「驚き」の瞬間思うことは、自分の視覚に異常があるということでも、客体に未知の
領域が隠されているのではないかということでもない。 端的に、「主体が知っているか
ぎりでの客体に何か異変が生じた」という意味での「驚き」なのだ。
そして、その「驚き」のことを「奇跡」とか「不可思議」とか呼んでいるのである。
「イエス・キリストの奇跡」とは、そのような感覚的領野での「驚き」では、もちろん、
ない。 その≪奇跡≫は、≪体感的領野≫で起こっているのだ。

イエスの有名な説教のひとつに「金持ちの青年」の話がある。
心の救いを求めてやってきた青年を、「財産を持っているから」という理由で追い返して
しまうという、考えようによってはヒドイ話であるw
死人を生き返らせ足なえを歩かせるほどの≪奇跡≫を起こせるイエスが、なぜ「財産を持
っている」青年に対しては≪奇跡≫をもって対応できなかったのだろうか?
「財産を捨てよ」という、まるで外科治療によって患部を切除しなければ治りません、と
でもいうようなことが、あの慈悲と哀れみに満ちた温厚なイエスの口から発せられるとは
別の意味で「驚き」である。
しかし、実は、この事実の中にこそ、「イエス・キリストの奇跡」の偉大さを証する意味
が隠されているのだ。 イエスが、あえて「外科治療」に踏み切った理由とは何だったの
だろうか? 要するに≪奇跡≫とは、「外科治療」以外の療法が施され、その結果「主体
が知っているかぎりでの客体に何か異変が生じた」という「驚き」が、そこで生まれたと
いうことではなかったのだろうか?
437physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/22(木) 17:01:59.16 0
>>436の続き
≪体感的領野≫は、「人間らしい生き方そのもの」を育てる豊穣な地平である。
イエスの説教とは、外科手術のメスのようなものだ。 いや、超高性能な医療器具に匹敵
するものなのかもしれない。
現代の癌治療においても、外科手術で取りきれなかった患部が「奇跡的に」消えることが
あるという。 それは何故なのか?
そして、そのことを患者の外部的徴候から直観することは不可能なのだろうか?

「北斗の拳」の主人公の決め台詞に『おまえはもう死んでいる』というのがある。
イエスが決め台詞をもつとすれば、たぶんこんな感じだろう。
『あなたはもう癒されている』
そして民衆は、実際に癒された人を見て「奇跡だ!」と叫ぶのである。
それは、すでにその人の中で起こっているが当事者も第三者も気付かないことを言い当て
ているようなことではなかったのだろうか?

つまり、死者を蘇らせるという≪奇跡≫は、脳死状態にあった者に生の徴候があることを
言い当てたということ。 パンと魚を増やしたという≪奇跡≫は、数学的領野においての
絶望的状況が≪体感的領野≫に導かれて希望へ変わる、その徴候を見逃さなかったという
こと。 湖上を歩いたという≪奇跡≫は、外部環境のいかなる悪化に対しても、おのれの
主観的意識(クオリア)を信じていれば生きられるのだ!という徴候に気付いていたこと。
そして、自らが「復活」するという≪奇跡≫は、弟子を含む多くの信者の≪体感的領野≫
に、彼の命の種が実を結ぶであろう徴候を言い当てたということだったのだ!!(泣ける)

≪体感的領野≫に立った者は、必ず生きられるのだということの強い確信からくる予言。

それが、「イエス・キリストの奇跡」で言われる≪奇跡≫の真実であろうと思えるのである。
438考える名無しさん:2014/05/23(金) 05:45:05.30 0
あげんなチンカス、ハゲ!トウシツ!
439physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/23(金) 20:23:40.81 0
【体感的領野に絡む諸種の問題§1】

<体感的領野における「天皇」の問題について>

われわれ日本人が、天皇について認識している概念を、「人間らしい生き方そのもの」の
地平である≪体感的領野≫へ置き直してみた場合、それは、どのように考えられるものと
なるのか。 日本人であるかぎり避けて通れぬ宿命とも言うべきこの問題について、あえ
て論じてみようと思う。

まず最初に、大前提を明らかにしておく。
これは、おそらく、どんな天皇擁護論者であろうと、またいかなる皇族排除論者であろう
とも認めざるをえない事実である。

≪体感的領野≫において「意識の公理系」すべてを満たす存在は、その存在自身が「輝き
を放っている」
それに対して、たとえば「法規範」すべてを満たしている存在は、その存在自身が輝くこ
とはない。 また、「数学的論理」すべてを満たしている存在も、その存在自身が輝くこ
とはないのである。
なぜなら、それらは主体的存在から切り離されて物象化した外部を満たす要素(性質)で
あるに過ぎないからだ。
ところで、天皇という存在は、それ自身で「輝きを放っている」だろうか?
答えは、否である。
天皇は、まるっきり輝いていない。 それ自体、何のオーラもない存在なのだ。
これが大前提である。
440考える名無しさん:2014/05/23(金) 21:19:13.76 0
>>429
>体感は、そうした外部からの刺激を受けようとする表層的志向性からは、あくまでも
「自由」なのである。何故なら、その深化的感受性(いわゆる“気付き”)が指示する先に
あるものは『客体=主体』となる世界に他ならないからだ。
そして、>>419で「“人間らしい生き方そのもの”を検証しうる領野。そこでは、客体と主体が
一体となり、直観し覚知し意識することが実現する。 そういう時間と場所を、「体感的領野」と呼ぶ
ことにしょう。」と記述している。


上記の「体感的領野」が、“深化した主観的意識(真性クオリア)”と述べているが、具体的にどの様な
思考過程で“深化した主観的意識”へ至るかという「思考過程」の言語化にある。

深化した主観的意識(真性クオリア)領野を『主体ー客体』の世界とのべており、深化的感受性(いわゆる“気付き”)が
指示する先にある世界を『主体=客体』の世界と記述している。

ここで、一つの問題点が浮上する。 それは、「志向性」の概念に囚われている限り、ブラックアウト現象は永久に続く
のではないか、と言うことである。
つまり、深化的感受性(=気付き)とは、「志向性」とは異なる概念ではないかということです。
「志向性」とは「主観的意識が、常に何ものかへの意識」のことであり、それは“主観”の呪縛から逃れることはできない。
「体感的領野」が“主体と客体”の融合した世界ということは、「主観的意識(=志向性)」をも超越した領野であることを
意味しているからです。
441physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/23(金) 22:55:01.13 0
>>440
>深化的感受性(=気付き)とは、「志向性」とは異なる概念ではないかということです。

まったくそのとおり。
「対象的志向性」は「意識の公理系」@で、主体が客体を観る場合にしか通用しない概念
であるということ。 しかも、≪体感的領野≫に着地しうる公理系はつねに完全な状態を
保持していなければならないのであり(すでに公理系に基づくいくつかの思考現象の検証
で明らかにしたように志向性のみで意識の公理が満たされるということは有り得ない)、
破綻している公理については、そもそも主観的意識(クオリア)にとって問題外であるた
め「対象的志向性」が、完全な公理系への気付きを保証する深化的感受性とは、まったく
別の概念であることが理解されるはずである。

>「体感的領野」が“主体と客体”の融合した世界ということは、「「主観的意識(=志向性)」
>をも超越した領野であることを意味しているからです。

まったく違う。
主体と客体の融合した世界においてこそ「主観的意識(クオリア)」は生きるわけで、もち
ろんそれは、「志向性」なんかとは、まったく別の問題。
そもそも、「志向性」とは表層的現象に対する見かけ上のベクトルに過ぎず、主観的意識が
「見かけを超越する作用」をもつことが理解されていないだろう。
442physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/24(土) 18:20:11.67 0
>>439の続き
ところで、「それ自身が輝きを放っている者は他者を輝かせることができる」というのは真
であるように思える。 
であれば、「それ自身が輝きを放っていない者は他者を輝かせることができない」というの
も真ではないだろうか?

たとえば、体が冷えきって死にかけている人を自分の体温であたためて命を救うというこ
とを想像してみたとき、それは、あたかも「それ自身が輝きを放っている者は他者を輝か
せることができる」ということを具現しているかのようである。
勘違いし易いのは、この行為によって自分の体温(輝き)が、あたためようとする相手に
すべて奪われてしまい、相手は生かされ自分は死ぬというシチュエーションを想定して、
それを崇高な「自己犠牲」のように捉えてしまうことだ。
それが敷衍すれば、おそろしく現実離れした奇怪な精神像が出来上がる。
それは「自分が輝きを放つのを諦めれば他者を輝かせることができるのだ」という、戦時
中によくある【偽性的自己犠牲観念】に他ならない。
この発想の滑稽無稽さは前述の喩えで考えると、はっきりするだろう。
「自分が輝きを放つのを諦めれば他者を輝かせることができるのだ」としたら、
まるで、体が冷えきった人を前にして自分が自殺でもしたら、自分の魂がその人の体温を
回復させるというような、ありえないことになってしまうのである!!www

まったく馬鹿げている。
そもそも、体が冷えきっている人の体をあたためようとする者が、自分自身の体温を全部
奪われるなどということが物理的に起こり得るのだろうか?
氷のように冷たい身体を抱きしめるといっても、本物の「氷」ではないのだ!
もし、本当の意味で、その行為から<自己犠牲>という意味が生じるとしたら、それは偶
然な他の出来事が当事者の意志とは無関係に、その輝きを消してしまうことになる場合に
限定されるはずなのである。(たとえば、相手が伝染病に罹患していて自分にもそれがう
つってしまうようなこととして)
443physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/24(土) 18:24:45.81 0
>>442の続き
以上のことから、天皇について次のことが導き出される。

「それ自身で輝いていない天皇という存在者は、他者を輝かせることはできない」

また

「天皇という存在者は、【偽性的自己犠牲観念】の誘因である」


では、【偽性的自己犠牲観念】が、天皇という国家の元首的地位にある象徴的存在から、
いかに必然的に、かつ呪わしく恐るべき強度をもって発生するのかについて、そのメカ
ニズムを解明してみたい。
これは永きにわたり特殊な伝統様式を継続してきた日本独特の、良くも悪しくも信念で
あり執念≠ネのだ。
444考える名無しさん:2014/05/24(土) 22:18:05.27 0
>>441
>主体と客体の“融合”した世界に於いてこそ主観的意識(クオリア)は生きるわけで、
もちろんそれは、「志向性」なんかとは、まったく別の問題。

>「体感的領野」が主体と客体の“融合”した世界ということは、
主体と客体とを分離している「カベ」が“消滅”した状態であり、その様な状態に
於いては、主体という概念自体が「一つのもの」として同化しているのであり、
「主体」という概念自体も“消滅”すると考えられる。

従って、「主体と客体の融合した世界においてこそ“主観的意識(クオリア)は生きる」と
記述しているが、ここが矛盾点として浮上してくる。
445physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/24(土) 22:53:07.10 0
【いくつかの概念の整理】

「認識」とは、記号化された知覚的意味に関する脳器官反応のことである。
「意識」とは、表象(イメージ)的意味に関する体感反応≠フことである。

ゆえに、恐怖≠ヘ、けして「認識」されることがなく「意識」だけされるのである。

「信念」とは、内的に客体化した意味に対する志向性である。
「信仰」とは、主客同一の地平において意識を持続することである。

ゆえに「信念」は、その一方的な志向性のせいで他から壊されたり自滅したりすること
が避けられないのだが、「信仰」には、そういうことがない。
446physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/24(土) 23:04:55.28 0
>>444
>「主体と客体の融合した世界においてこそ“主観的意識(クオリア)は生きる」と
>記述しているが、ここが矛盾点として浮上してくる。

内容的に、まったく矛盾していない。
主観的意識(クオリア)というのは、主体の付属品のようなものではないからだ。
だから、主体が消えようがどうしようが、主観的意識(クオリア)は残るし、ついでに言
えば、共同主観的意識(汎クオリア?)というのがあれば、それも残るだろう。
447考える名無しさん:2014/05/25(日) 18:45:21.75 0
>>446
「体感的領野」での“主体と客体”の融合した世界の「主体」とは、「主観」と同じ意味で、
意識し、行為し、評価する我のことであり、 「客体」は、主観とは独立に存在するものと
解釈している。

主体と客体が融合した世界(=体感的領野)において、主体(主観)と客体(客観)の『カベ』が、
消滅し、「一つのもの」としての「体感的領野」に於いては、主観と客観の深化した“本質”は、
生きているのであり、深化した「主観的意識(クオリア)」は、生きている存在として捉えられる。


融合化した「体感的領野」に於いて、主観(主体)は、どの様に顕現するのかと言う疑問が生じてくるが、
深化した体感的領野での、主観的(主体的)存在の“本質”と客観的存在の“本質”は、『両義性』として
捉えられる。
448physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/25(日) 19:50:50.57 0
【人間になれない機械および神になれない人間についてのハードプロブレム】

キリスト教的宗教観(思想)を批判する論拠のひとつとして挙げられるのが、教義解釈に
よって必然化する(と考えられている)次の事態である。
「悔い改めによっていかなる罪人も許されるのであれば、神を超える人間の可能性を論理
的に正当化できる」
このようなことは、志向性からの離脱を説く仏教的な観念からは帰結しない。 なぜなら
仏教的解釈においては、いかなる罪障への志向性も認めないのであるから、それに心が囚
われているかぎり救いもないという簡単明瞭な理屈が成り立つからである。
ところが、そのことは逆に「世界の中に自己を定位して人間らしい生きがいを発見する」
という可能性を同時に奪ってしまうのだが・・・。 
それは、さておき、キリスト教の教義が前述のような矛盾を引き起こす原因として、まず
次の二点を論じておかねばならない。
ひとつは「体感的領野において人を殺すとはどういうことなのか」
そして、もうひとつが
「悔い改め≠ニいう主観的意識(クオリア)は、公理系によってどう説明されるのか」
ということである。
結論から先に言っておくと、人間は神を超えることはできない。 ゆえに、キリスト教的
教義(思想)は、≪体感的領野≫と意識の公理系において完全であるかぎり、けして矛盾
することがないのだ。

ところで、上述のように人間が神を超える(神になる)ことが矛盾であり不可能であるよ
うに、機械が人間を超える(人間になる)ことも矛盾であり不可能なのである。
これは「機械が人間のような意識を持てるか」という命題に対する回答に他ならない。
時間がないので備忘的に、これについても結論を先に述べておく。

「たとえば、その用途のためだけに作られた機械であるもの(冷蔵庫)が、ある日突然に、
それ自身の意志で別の機械(洗濯機)に変わったりすることが考えられるだろうか? 
人間には、それが起こりうるのである」
このことを可能にするのが主観的意識(クオリア)の作用と考えられる。
よって、機械が人間を超える(人間のような意識をもつ)ことは不可能なのである。
449physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/25(日) 22:27:55.56 0
>>447
>深化した体感的領野での、主観的(主体的)存在の“本質”と客観的存在の“本質”は、
>『両義性』として捉えられる。

それでは≪体感的領野≫を正確に捉えたことにはならない。
そもそも、『両義性』という概念が生じるのは、<数学的領野>や<法的領野>など≪体感
的領野≫以外の領野において、客体についての認識が主体を偉大化させないための方法論
としてであるに過ぎないのだから。
ゆえに、≪体感的領野≫においては『両義性』という認識自体が不要となる。
それと、「主体」と「主観」、「客体」と「客観」を混同するような記述の仕方は甚だしく
不都合であるから改めていただきたい。
そのことによって、ひとつの見方にすぎない認識あるいは意識が、その存在そのものの性
質であるかのような誤解を生じさせるので注意すべきだと思う。
450考える名無しさん:2014/05/26(月) 08:26:29.33 0
>>449
主観と主体の概念を、どの様に定義しているのでしょうか。
451physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/26(月) 12:44:59.66 0
>>450
主観は「観ること」

主体は「物質的身体そのもの」

といった感じだね。
452パンの耳:2014/05/26(月) 14:10:47.06 0
 
 観音/唯物 主音/観念  この辺が捻じれてるよーな気がしますね

 観音開き と ドラ の 関係
  
453physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/26(月) 19:10:04.18 0
>>450
>主観と主体の概念を、どの様に定義しているのでしょうか。

志向性と自由意志との絡みで理解すると分かり易いかもしれない。
いくつかの志向性の束を所有している自由意志をもつと思われている「主体」は、≪体感
的領野≫で客体と融合し(見かけ上は)跡形も無く消え去る。
しかし、観ること(その結果としての「主観」的意識〔クオリア〕)それ自体は(見かけが
どれだけ生滅変化しようとも)常在し続けるということ。
454考える名無しさん:2014/05/26(月) 22:44:03.02 0
>>451
主観は「観ること」とは、「精神的そのもの」として捉え、
一方い於いて、主体は「物質的身体そのもの」と記述しているのは、
物質的身体を“客観的存在”として捉えているのでしょうか。
455考える名無しさん:2014/05/26(月) 22:47:32.70 0
>>454
訂正 一方い於いて→ 一方に於いて
456physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/26(月) 23:46:17.36 0
>>443の続き
「天皇」とは、わが国創世より続く綿々たる歴史の中で、神話という観念論を血統という
唯物論的裏付けによって<政治的領野>に現象させた世界にも類を見ない特殊な存在様式
だったのである。
これを。もしキリスト教的な視点から捉え直すならば、あたかも「創造主である存在者」
が自らアダムとなりイブとなって地上へよろめき出たかのようなことに他ならない。

ところで、洋の東西を問わず、神的存在は、われわれに目的を与えてきた。
われわれが、その真意を知ることができないという意味において、その神的存在は絶対的
存在でありえたのである。
そのため、人間は神を超えることは許されず、また、神が人間となることもありえないこ
とだったのだ。 もし、そんなことをすれば、人間が勝手につくった目的が人間を破局さ
せるのは目に見えていたから。 また、神が目的であることを放棄すれば、世界のすべて
が終わるだろうと分かっていたからである。

しかるに、わが国の「脆弱なクオリア」は、当初それを防ぎきれなかった。
国民に偽りの目的を与える「神話に流れる血脈」であった「天皇」は、その目的のために
自らの≪体感的領野≫を捨て<政治的領野>への召集を促がし、【偽性的自己犠牲観念】
の実現としてこれ以上望むべくもない完璧な形式である【集団自殺】を国民に命じたので
ある。
457考える名無しさん:2014/05/27(火) 00:24:36.20 0
何の意味もない。
458physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/27(火) 00:39:56.86 0
>>454
>物質的身体を“客観的存在”として捉えているのでしょうか。

物質的身体は物質的身体以外の何ものでもないだろう。
そもそも「客観的」というのは、なにを意味しているのか、さっぱりわからない。
自分の考えでは、ものの見方には「主観」ないし「共同(間)主観」という概念しか有り
得ないのだ。 
物理的観測結果を「客観的だ」などというアホがいるけども、あれは<物理的領野>にお
ける「主観」の産物にすぎないんだよ。
それが物理的原理に沿って再現可能であるのは、ちょうど、≪体感的領野≫における意識
的公理系から演繹可能な「主観」が再現可能であるのと同じことだろw
物理的原理を曲解した<物理的領野>における結果が再現できないように、意識的公理
系を踏み外した≪体感的領野≫における結果も再現できない。
これらは、すべて「その領野」での主観だからだよwww
客観とか、単なる妄想だってwwwwww
459考える名無しさん:2014/05/27(火) 18:48:48.06 0
>>458
>ものの見方には「主観」ないし「共同(間)主観」という概念しかあり得ない。

>「共同(間)主観」とは、自我(=主観)のみならず他我(=他者)をも含めた
共同的な作用によって成り立つ主観のあり方であり、 自然的世界も文化的世界も一個の主観の
私有物ではなく、多くの主観(=他者)の共有物としての、この事態を「間(共同)主観的現象」といい、
そこに於いて統一的な『客観的世界』が成立する。

上記の主観(自我)は、生活世界(日常的意識次元)に於いて、一個の人間存在として、心(精神)と身体(物質)は、
「合一」したものとして存在している。

従って、「脆弱な主観的意識(自我)」そして、「深化した主観的意識」に於いても、“人間存在”として、精神と物質の
「合一」した共に同じ「主観的意識(自己)」であり、この“始原的存在を原点”として思考展開を進めることが、種々の
問題を解決する一つの“糸口”となると思う。
460physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/27(火) 19:52:49.09 0
>>459の続き
>この事態を「間(共同)主観的現象」といい、そこに於いて統一的な『客観的世界』が
>成立する。

共同(間)主観性が、統一した『客観的世界』をもたらすなんて、たちの悪い幻想だよw
そもそも『客観的世界』という概念に拘るバカの目的は何かというと、ある特定の領野で
の支配権を獲得するためだ。
<政治的領野><法的領野><教育的領野>なんでもそうだが、そこでテメーの小汚ね−
目的を神に代わって提示したがるクソ野郎に限って『客観的世界』の正当性をアピールす
るのさ(苦笑)
「客観的に今の憲法では国を守れない」というクサレ外道どもの意見もそうだろwwwww
「主観」→「共同(間)主観」→「客観」という笑えるような上昇思考?自体がクダラね
ーことに気付けよ!!
461考える名無しさん:2014/05/27(火) 20:28:25.58 0
どうして「客観的に今の憲法では国を守れない」はクサレ外道で、
「客観的に今の憲法でも国を守れる」はクサレ外道ではないんだね。

もしかして「憲法を変えろ」でも「憲法を守れ」でも、
「客観的に」という奴はクサレ外道で、「主観的に」という奴は
そうではないという意味か。
462physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/27(火) 20:58:51.71 0
【脆弱なクオリアが特定の領野に固執するのは何故か?】

われわれの主観的意識(クオリア)は、すべての領野に立っているわけではない。
ゆえに、人間らしい生き方そのものである≪体感的領野≫に立つことなく、ある者は<政
治的領野>で辣腕を振るい、ある者は<経済的領野>で金を稼ぎ、ある者は<宗教的領野
>に光明を得ようとし、また、ある者は<戦場的領野>で殺し合うのである。

たとえば、とりわけ悲惨な領野である<戦場的領野>に居る者が、その事態を外側から現
象として眺めても、そこに存在するクオリアが、おのれの態度を改めようとはしない場合
がある。 いや、改めることができないのかもしれない。
それは何故なのだろうか?  
なぜ、その脆弱な(意識の公理系について不完全な)クオリアは、≪体感的領野≫を視野
に入れようとしないのか?

それは、誤解を恐れずにごく簡単に言うと、「その領野で餌付けされてしまったからである」

ひとつの<領野>を、動物実験に使うゲージと考えればいい。
数個のゲージがある環境で、動物は、ある特定のゲージの中だけで餌を供給されれば、そ
のゲージにしか入らなくなるだろう。
特定の<領野>から抜け出せないクオリアは、これと同じ原理で他の<領野>を選べない
のである。 
しかし、もし、意識の公理系>>313への反省があれば、その<領野>を抜け出す覚悟が生
まれるのかもしれない。
だが、「意識のハードプロブレム」の前で立ち止まる人間には、まだ、意識の公理系自体の
気付きすら与えられていないようなのだ。

われわれが、そのような動物的次元から、本当の人間的次元へ超越し、≪体感的領野≫に
立つことができる日は来るのだろうか?
463physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/27(火) 21:08:26.15 0
>>461
>もしかして「憲法を変えろ」でも「憲法を守れ」でも、
>「客観的に」という奴はクサレ外道で、「主観的に」という奴は
>そうではないという意味か。

そのとおりw
「客観的に」幸福になったやつなんて居ないんだよ。
「客観的に」というやつは、テメーがその世界で上に立ちたいだけ(餌をもらいたいだけ)
だろが。
他人のことなんて実はなんも考えてね−意見。 それが「客観的に」wwwwww
464考える名無しさん:2014/05/27(火) 22:07:24.59 0
「自分がその世界で上に立ちたいだけ」で
「他人のことなんか何も考えてない」のなら、
まさに「主観的」ではないかw
465physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/27(火) 23:11:58.62 0
>>464
>まさに「主観的」ではないかw

あたりめーだろwww
「客観」を騙るどんなクサレ外道の意見でも、すべて「主観」なんだよ。
クサレ外道のクサレ外道たる所以は、おのれの脆弱な「主観」を客観的と思い込んでいるところだ。
客観的に世界を破滅させることはできるさ(ゲラゲラ)
だが、客観的に救われることも、客観的に幸福になることも、客観的に人間らしい生き方
を手に入れることも原理的に絶対的に不可能なんだよ!!(大笑)

まあ試しに客観的理由で憲法を変えてみなw
憲法を変えたかったやつだけが満足する
幸せとは程遠い未来が待ってるだろうからさ!(嘲笑)
466physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/27(火) 23:49:37.54 0
【主観的意識(クオリア)における記号と表象のもつ意味】

心の中で記号を書き換えれば、以前の記号は消え、いま見えている記号しか意味をもつこ
とができない。
心の中で表象を塗り重ねたとき以前の表象は完全に消えることなく、いま見えている表象
に意味を与えようとする。

前者のクオリアは脆弱であり、後者のクオリアは深化し強靭である。
たとえば、過去の記憶(表象)に囚われている者が、安易にそれを記号化して忘れようと
することは、自分自身を弱めることにしかならないので注意を要するだろう。
今さえ良ければいいという思考は、特定の<領野>への固執を結果するからだ。
むしろ、過去の記憶(表象)に苦しむ場合は、その忘れえぬ表象とともに生きることを決
意すべきなのである。
467考える名無しさん:2014/05/28(水) 00:47:13.27 0
主観から主体への飛躍は、
主観と客観との距離と同義だろう
その意味で思い出されるのは以下の逸話だ

キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てて
いた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。
ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、
「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです。
町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。
「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。
「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子
の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」
町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家など
あろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、
「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬ
のが定めなのだ」
ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び行った。
ブッダは訪ねた。
「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、
「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。
わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。
468自己愛すぎるキチガイへ:2014/05/28(水) 07:08:43.40 0
あげんなチンカス。
469physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/28(水) 10:19:12.63 0
>>467
なんとも罪深い仏教説話(大笑)
仏陀って、そんなクサレ外道だったのかい?
多くの人間の「死」を見たら、わが子の「死」を悲しまなくなったって?wwwww
まるで、戦時中の徴兵制を肯定するための立論のようで笑えるよWWWWWWWW
そうやって、クサレ外道どもは、人間らしい生き方そのものを望む「主観的意識(クオリ
ア)」を麻痺させ、まやかしの世界に憐れな子羊たちを追い込むんだろうな(ゲラゲラ)

勘違いしないでほしいんだが、オレは仏陀その人を批判しているわけではない。
仏陀の名を騙り、いい加減な説話を流布するクサレ外道を蔑視しているだけだからなw
他人の死を見て「死」の悲しみを乗り越えることなんて不可能なんだよ!!!!!!!
クソが、死ね、ヴォケ!!!!!!!!
470physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/28(水) 10:44:42.14 0
>>467仏教説話にみる客観性の大嘘と大罪】

まず、この説話の中で言われている「町じゅう」の概念は、何を現しているのだろうか?
これは明らかに「世界じゅう」ということを意味していなければならないはずだ。
なぜなら、「町じゅう」の範囲内に死者が出なかった家がなくとも「世界じゅう」を検証
したことにはならないからである。 
しかし、「世界じゅう」を検証することなどできるのだろうか? まず無理だ。
それを「できた」かのように論じていること自体が、この説話の破綻を証明している。
仮に、このわが子を失った親が空間認知を欠いている特殊な脳ミソの持ち主だったとして
も、それをあたかも「主観を超える認識の仕方がある」かのように一般化普遍化すること
は、哲学的思想的に「外道」の所業でしかないだろう。
これを宗教的な意味合いで<救い>の方法論であるかのように喧伝されているところが、
大罪なのである。
なぜなら、この稚拙なテクニックで「主観的意識(クオリア)」の存在を抹殺しようとして
いるからだ。 
いかなる<救い>も、心の平安も、「主観的意識(クオリア)」と向き合うことことによ
ってしか達成されることはない。
われわれは、むしろ、この説話を読んで、客観性という麻薬を投じられたこの親の行く末
を案じてやるべきなのである。 わが子の「死」の意味を中途半端な観測行為で誤魔化す
ことがないように。
471考える名無しさん:2014/05/28(水) 10:58:05.80 0
仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しか
し、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教
以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてき
た。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、こ
のような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのた
めに、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私が
いうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい
方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってし
まう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けた
のであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻
からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によっ
て支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II−18』太田出版)
472考える名無しさん:2014/05/28(水) 14:53:12.09 0
個人主義的なバラモン教の「カ−スト(輪廻思想)」を解体するために、
ブッダは、他者に対する実践的な倫理として、“自我を取り除き無我”に至る
「空」の哲理により、カ−スト制で苦しみの“鎖”につながれた、商人、女性、奴隷(シュ−ドラ)を
救ったのである。

仏教は「空(無我の哲理)」により、人間の関心を、現実的に“他者”への実践的な倫理に向けることを可能とした。
そして、仏教の最も優れているところは、「色即是空、空即是色」と述べている様に、「色即是空」は、自我(色=既成概念)を
取り除き、「空(=無我)」に至ることであるが、「空即是色}は、空(無我)から自我(色)へ至ることを現している。
この双方向の理念は、真言宗の立体曼陀羅に現されている。

つまり、この論理の、「色即是空」とは、カ−スト制度の古い既成概念の「解体」であり、「空即是色」とは新たなる論理の
「構築」を現している。
473physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/28(水) 17:17:37.38 0
>>471>>472歴史が証明する仏陀思想の限界】

カーストという社会制度が前提となって、人間の主観的意識(クオリア)の性質が決めら
れてしまうということは、>>313「意識の公理系」B「認識された外部の客観的論理的記述
を、認識する主体の原因にしてはならない」に抵触する行為である。
このことが帰結するのは、「あなたの主観的意識(クオリア)が卑しいのは、<カースト的
領野>において為すべきこと(たとえば修行とか)をしなかったからだ」という言い掛か
りにすぎない。
このような理不尽な事態に対して、仏陀は、「(そのように規定されなければならないクオ
リアが)あるのでもなく、(かといってクオリアそのものが)ないのでもない」として、
「主観的意識(クオリア)」そのものへ立ち返らせようとしたのかもしれない。
好意的に解釈すれば、そういうことだ。

しかし、このことは意識されたクオリアが、いかなる理由においても無化されたり、客観
という名目で否定されたりするのを容認するということでは断じてない!!
それでは、カーストという社会制度に汚染された主観的意識(クオリア)は、永遠に穢れ
ているのだから、もう切り捨ててしまえ、という馬鹿げた発想でしかないからだ!!

歴史的に仏陀の後を継いだ仏教徒は、「意識の公理系」が陥り易いある危険な精神状態に
囚われた可能性があるのではないか。
それは、ひとつの公理を満たそうとするあまり、別の公理に抵触してしまうという過ちの
ことである。
「意識の公理系」C「意識されたクオリアを、外部認識の原因にしてはならない」は、他
者との関係において自我=主観的意識(クオリア)を無化すべしという意味を全く含んで
いないし、むしろそれは、この公理に抵触することに他ならない。
汚染されたクオリアでは正しい外部認識が出来ないはずだ、という愚かな仏教的認識の出
所は、≪体感的領野≫において「意識の公理系」に照らせば明らかなのである。
474physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/28(水) 22:12:38.51 0
>>473の続き
したがって、「無」や「空」という仏教特有の概念は、自我=主観的意識(クオリア)に
ついての状態を指示していると解すべきではなく、単に世界の有り様についてのアンチノ
ミーを現した言葉に過ぎないと理解すべきなのである。
つまり、「色即是空」とは、カ−スト制度の古い(自我に関する)既成概念の「解体」と
いうよりも社会制度そのものがもつ既成概念へのアンチテーゼとして、「空即是色」とは
新たなる(自我に関する)論理の「構築」を現しているというよりも社会制度そのものが
もつ腐り切った論理に対するアンチテーゼとして解釈されねばならないのだ。
475考える名無しさん:2014/05/28(水) 22:50:06.04 0
>>465
>客観的に世界を破滅させることはできるさ(ゲラゲラ)

なんだ、結局客観的な世界の存在を認めているんじゃないか。
その上、それを「客観的に」破滅させることは「客観的に」悪いことで、
「客観的に救われる」ことや「客観的に幸福になる」ことや「客観的に人間らしい」生き方
を「客観的に」手に入れることは、「客観的に」善いことだけど、
「客観的に」不可能なんだろ。
要するにおまえも客観の奴隷の一人だということだよw
476physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/28(水) 22:58:55.22 0
【一次的クオリア、二次的クオリアについての若干の言及】

「一次的クオリア」は、それ自体で完全なものではない。
それを喩えるなら、女性の体内に出現する<卵子>のようなものだ。
このクオリアは脳器官的神経反応によって、自分自身の中に物理的必然性をもって形成さ
れる。 そして、これが数億もの客体(精子)の中から自らにふさわしいものを受容した
とき、はじめて完全なクオリア=「二次的クオリア」となるのである。

これらのプロセスが、人間の判断で「無化」されたり「機械化」されたりすることも確か
にあるだろう。 しかし、それは当然のことながら、自然な状態のクオリアをも否定する
趣旨でなされるわけではない。
477physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/28(水) 23:11:35.09 0
>>475
>>客観的に世界を破滅させることはできるさ(ゲラゲラ)・・・・・@
>なんだ、結局客観的な世界の存在を認めているんじゃないか。・・・A

なんで、@の言説でAになるのか理解不能だな(苦笑)
では、こういう言い方も、おまえにとっては真なのか?w

(殺人鬼の)宅間的に自分を破滅させることはできるさ(ゲラゲラ)・・・・@
なんだ、結局宅間という殺人鬼の存在を認めているんじゃないか。・・・・・A

よほどの馬鹿じゃなければ論理構造がおかしいことに気付くはずなんだが。
478考える名無しさん:2014/05/28(水) 23:45:47.29 0
>>477
恥ずかしがらないで、自分もクサレ外道の客観主義者ですと
認めればいいんだよ。客観的には別に悪いことではないんだからw
479physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/29(木) 16:59:13.82 0
>>476の続き
つまり、自然な状態のクオリアに「科学的」「客観的」「宗教的」「政治的」その他なん
であろうと人間の間違いだらけの小汚い判断内容を付与すること自体が、クオリアに対す
る最大の冒涜なのである。
その冒涜の度合いは、公衆の面前で天皇やローマ法王や国王、最高指導者の類いを罵倒し
踏みつけにすることの比ではない。
それらは、もともとが自然性からは程遠いものでしかないからだ。
まったく意味のない、くだらない権威などに関心をもつことがクオリアの自然性を損ない
≪体感的領野≫を焦土と化す。
われわれの意識に備わるクオリアの自然性。 これこそ、人間がおのれの命を賭しても守
らねばならぬ人間らしく生きられることそのものの根拠である。
死ぬ気で戦うなら、権威の象徴たる「皇居」や「聖堂」や「国家のシンボル」などのため
ではなく、おのれ自身の自然なクオリアのために血を流すべきなのだ!!!
480考える名無しさん:2014/05/29(木) 18:04:02.47 0
あげんな無能、
481physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/29(木) 22:02:47.12 0
>>479の続き
ところで、脳器官的神経反応によって自分自身の中に物理的必然性をもって形成される
「一次的クオリア」は、それ自身きわめて不安定であり外部的判断に対する抵抗力も低く
脆弱である。 というのも、「一次的クオリア」の身分であるかぎり、外部は直接に自分
自身と関係する対象ではないのだし、自身はおのれの記憶の中で自由に遊んでいられるか
らだ。
このクオリアにとって、外部が述べることはすべて真実となり自分の心の中に浮かぶ観念
もすべて真実となる。 

かくして、実に多くの人間が、この「一次的クオリア」の状態のまま社会に蔓延する「客
観的」情報に踊らされ、それを無批判に受け入れてしまうか、おのれの甘ったるい観念の
中に引き籠もってしまうのである。
「客観的」に日本には資源がないのだから原発は必要だと言われれば「そのとおりだ」と
思い込み(失笑)、いつか原発のいらない世界が来るだろうという夢物語に期待を寄せよ
うという有様。(苦笑)

このような何の意味もない無価値な「一次的クオリア」のつぶやきは、汚れた血となって
流れ出るだけだ。 
生命とは言えない、ただの物質として不浄の場に散らされるだけなのだ・・・・・。

「客観的」に日本に資源がないから悲惨な「戦争」が起こったわけでもなく、恐ろしい
「原発」が必要だったわけでもない。

ただ、おまえらがバカだったからだよ(嘲笑)
482考える名無しさん:2014/05/29(木) 23:24:12.67 0
客観的には、戦争で誰が死のうと、原発事故でどこが廃墟になろうと、
そもそも人間が幸福になろうと不幸になろうと、繁栄しようと全滅しようと、
宇宙が存続しようと消滅しようと、善いことでも悪いことでもない。
それらはすべて何の意味もない「客観的状態」に過ぎない。
実にわかりきったことだ。
483physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/29(木) 23:58:32.48 0
>>482
>何の意味もない「客観的状態」

(心の無い)ゾンビが世界を眺めたらそう見えるんだろうな(苦笑)
あいにくオレは人間なんでね、ゾンビみたいな行動も「投稿」もできないんだよ。
すまんね、同調できなくてw
484physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/30(金) 00:05:34.12 0
「意識の公理系」に照らせば、ニヒリズムなど乗り越え不可能とまで言われたような
どんなアホな意見でも簡単に化けの皮が剥がれてしまう。
快感だなぁ〜〜wwwwww
485考える名無しさん:2014/05/30(金) 00:06:23.94 0
客観的には、だ。
主観的には、世界で唯一重要なのは「自分の幸福」だ。
自分がどんな人間でもバカでも利口でも善人でも悪人でも、一切関係がない。
他人が幸福になろうと不幸になろうと繁栄しようと全滅しようと、
それらが自分の幸福に影響する限りでの「要因」としての意味しかない。
それら自体は「主観的には」何の意味もない。
実にわかりきったことだ。
486人間の探求:2014/05/30(金) 11:43:55.66 0
貧乏、病気、離婚など、不幸な人は不幸を愛しているのです。

良くも悪くも人間は‘成りたい自分に成っている’のです。

「中杉弘のブログ」

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi
487考える名無しさん:2014/05/30(金) 12:22:33.68 0
>>473
>カ−ストという社会制度が前提となって、
人間の主観的意識の性質が決められてしまう。

>カ−ストという社会制度が「前提」で、人間の主観的意識の性質が
決められるのではない。

カ−スト制度が、人間の主観的意識に影響したのではなく、“脆弱な主観的意識”が、
「カ−スト制度」を、個人主義の支配階級の“保持”を目的として作り上げたのである。

深化した主観的意識(クオリア)は、重要な概念ですが、「主観」のみで全てを判断し、
実践しょうとすることは、危険な「独我論」に陥る。

「独我論」は、自己(=主観)の“利益保持”を中心とする為に、悪い意味での「個人主義」に
陥るのである。

何故、「独我論」に固執するのであろうか、 その原因は「深化した主観的意識」しか認めることが
出来ないという「思考プロセス」にある。
488考える名無しさん:2014/05/30(金) 12:47:21.34 0
>>487の続き

自己(主観)が在ると意識することは、他者(自己の外部にあるものとしての)を強く意識し、
主観と客観を“対比”させているからである。
従って、客観が消滅すれば、その“対比”としてある「主観」の概念も消滅する。 主観と客観は
相関関係によって成り立っているのである。

人間が陥りやすい最大の欠点の一つは、深化した論理構築の過程で、“主観がすべて”という「独我論」に
論理固定をしてしまうことである。その原因がどこにあるかと言うと、他者(主観の外部にあるもの)の存在を
認めることが出来ないという“論理プロセス”にある。

生活世界(日常的意識次元)に於いて、私たちは何の違和感なく、自分と他者(=客観)の存在を認めて生活している。
この生活世界が、すべての物事を判断し、考察する“始原的基盤(=起点)”となる。
489physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/30(金) 18:38:34.42 0
>>485>>487>>488
>主観的には、世界で唯一重要なのは「自分の幸福」だ。

それは、主観的意識(クオリア)を喪失したゾンビとは「逆の発想」になってるだけだよ。
ゾンビは、クオリアが無い(と仮定される)存在。 逆ゾンビに無いのは、「客体」への
関心だな。 
>>488が言うような意味での「客観」じゃないから注意するようにw 
そもそも他者は「客体」であって客観などではない。 他者の見方は、他者の主観に決ま
ってるだろ。 まあ、これは>>488への反論だが。
あんたの逆ゾンビ的発想を「独我論」とも言う。
「独我論」は、「意識の公理系」のすべてを満たしていない、単なるカタワだ。
そこにあるのは、「主体が主体だけを観る」という表層的に歪(いびつ)な認識作用だけ。
本来の主観的意識(クオリア)は、客体の中において客体と一体のものとしての主体を意
識するもんだ。 
だから、必然的に
>自分がどんな人間でもバカでも利口でも善人でも悪人でも、一切関係がない。
>他人が幸福になろうと不幸になろうと繁栄しようと全滅しようと、
>それら自体は「主観的には」何の意味もない。
というようなことは客体を前提とするかぎり起こり得ない。

>カ−スト制度が、人間の主観的意識に影響したのではなく、“脆弱な主観的意識”が、
>「カ−スト制度」を、個人主義の支配階級の“保持”を目的として作り上げたのである。

いや、まったく違うね。
脆弱なクオリアがデッチ上げたものにしては、カースト制度は、あまりにも強固だろう。
これはこれで<制度的領野>における完全性であると思える。
それが≪体感的領野≫に侵入してしまうことが問題なんだよ。
490physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/30(金) 21:48:53.27 0
>>481の続き
脆弱な「一次的クオリア」が、人間の心身状態にもたらす最悪な様相のことを古来から、
こう呼んできた。・・・・・・・・【憎悪】
この【憎悪】について無責任にも「それが本人の生きる力になるなら憎めばいい」などと
あたかも「憎善」とでも呼ぶべき事態があるかのように言われたりするが、断言していい
「憎善」などありえない、と。(苦笑)
そもそも、そういう言葉自体が無いではないか!(失笑)
考えてもみたまえ。
宅間という殺人鬼は、自分を評価してくれなかった「学校教育」に対して【憎悪】を滾ら
せていたのだ。 その【憎悪】の行き着いた先が、憎むべき「学校教育」に評価されてい
る者たちへの凶悪な破壊衝動の解放だったのである。
彼は、こう言っていたらしい。 「もっと多くの生徒を殺したかった」と・・・・
つまり、おのれの理不尽な【憎悪】が破壊的行動によって持続するかぎり、その呪わしい
殺人鬼の実存は「生き続ける」ことができたわけだ。
それでも「それが本人の生きる力になるなら憎めばいい」などと脳天気に言えるとしたら
その理由を説明願いたい。

【憎悪】に起因する行動は、本人を(無駄に)生かしはするが、他者を(無慈悲に)傷付
けることになるのだということを忘れてはならない。
【憎悪】を心にもつ者は、自分自身の生活を捨てたくなければ一刻も早く【憎悪】を克服
すべきなのだ。 それができなければ(心を鬼にしても)死ね!と言いたい。
【憎悪】は、途轍もなく乗り越え難い事態であるかのように思える。
これこそ、まさに「意識のハードプロブレム」なのかもしれないのである。
491physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/30(金) 21:49:44.98 0
>>490の続き
しかし、この【憎悪】を「意識の公理系」に置き直してみると、ヒマラヤ山脈を乗り越え
るための非常に心強いガイドと装備を手に入れた気分になるだろう。
例によって結論から先に言っておく。

【憎悪】とは、おのれの心の中の「血液」が壊死することである。
この死んで腐敗した血液は心の中から自然に流れ出ることがない。
ところで、外部の自然さは「外部の力に逆らわないこと」でもたらされる。
同様に、心の中の自然さは「心の中の力に逆らわないこと」で取り戻せるのだ。
「心の中の力に逆らわないこと」とは、どういうことなのか?
【憎悪】のクオリアを解明してみよう。
492physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/31(土) 08:19:18.92 0
【憎悪の公理系】

太古の昔、イザナギとイザナミ、カインとアベルの時代から記述されている事態により、
われわれはある事実を検証することができる。
あらゆる理不尽な災い、悲劇の開幕は、【憎悪のクオリア】によって為されてきた、とい
うことを。
だから人々は、主観的意識(クオリア)さえなければ、こんなことは起こらないはずだと
思うようになったのかもしれない。 
それ以来
クオリアを抹殺するために、クオリアの居所である≪体感的領野≫は、ありとあらゆる
<領野>からの侵略を受けることとなる。
その中でも最大の攻撃力を誇る<科学的領野>は、「客観性」を武器にクオリアの全滅を
図ったのだ。
「クオリアなど持ってはならぬ」 「それは必ず憎悪となって災いをもたらすだろう」
「客観だけを信じていればいいのだ」 「それは正しさが証明されている事柄なのだから」

しかし、人々は、まだそのとき気付いてはいなかった。

その行いそのものが、クオリアへの憎悪≠ニなっていることに・・・・・

【憎悪の科学】が人類史上その不気味な相貌を見せたのは、ナチスの時代だった。
彼らは愚かにも、<科学的領野>にのみ生きる人間を発明し培養しようとしたのだ。
たしかに、人々の心の中に「壊死した血」はなくなったのだが、逆に、「血の通わぬロボ
ット」が大量生産されてしまった。
ロボットがロボットを機械的に処理する場所・・・・・それが強制収容所だったのである。

では、かような意味で、クオリアだけに特有の属性ではないと考えられる憎悪≠ニは、
いったい何なのか?
その公理的意味を検証してみる。
493physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/31(土) 10:20:33.86 0
>>492の続き
物質的表層の世界でのあからさまな侵略行為は、≪体感的領野≫から届いた四角い手紙に
によって今は中断されている。
しかし、様々な<領野>への執心は、その深層において継続し、クオリアの死を意味する
形を変えた悲劇の墓標を、今も異国の<領野>にたて続けているのだ。
事態は、空間的<領野>から、心の<領野>に移行したに過ぎないのである。
494考える名無しさん:2014/05/31(土) 10:34:09.63 0
自費出版でもしたら?ここに書いても誰も読まないぞ
495physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/31(土) 12:39:53.21 0
>>493の続き
「侵略」によって得られたものは、たしかにあった。
ビギナーズラックとしてのアメリカ大陸、日本列島。
しかし、それは愚かにも、そうでなければ生きられないかのような中毒性を帯び
数多くの犠牲者の墓標を侵略地に晒したのである。

それと同じことは心の中でも起こっている。
ビギナーズラックとしての科学的客観性の勝利は、≪体感的領野≫を侵略し、そこに
無数の魂の墓標をたて続けているのだ。

いったい、侵略で何が得られるというのだろうか?

≪体感的領野≫に、倉を持たない鳥たちや着飾らない花たちが戻ってくるのは、いつに
なるのだろうか?

【憎悪】によって築かれた  <物理学的領野>  <政治的領野>  <教育的領野>
  <経済的領野>  <宗教的領野>  その他さまざまな文化遺産にでも指定され
そうな人類の吐瀉物・・・・・・・・・・

われわれが、ふたたび清浄な≪体感的領野≫に立てる日は来るのだろうか?
496physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/05/31(土) 15:04:48.33 0
>>495の続き
高額な税金や保険料を毟り取られている憐れな企業戦士は、やるせない気持ちでいると、
「世の中に」少しは貢献しているのだから≪誇り≫をもてと言われたりする。

≪誇り≫だと?   無茶をいうなwww

≪体感的領野≫に居ない者が、どうやって≪誇り≫を実感できるというのだ?
地獄のような競争原理に追い立てられる<市場経済的領野>の中で、人間らしい意識を
すでに失っているというのに。

≪誇り≫をもてとホザくなら、≪誇り≫をもてるような世界にしてみやがれ!!!
<市場経済的領野>というドブに金を捨てることを
誇れるわけね−だろ!! クソッタレが!!!!
497physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/01(日) 00:17:34.54 0
>>496の続き
さて、「憎悪の公理」を検証する前に自分が憎悪に囚われてしまってはどうしようもないw
エジプトの王族じゃあるまいし、ミイラになんかなる気はないので、そろそろ【憎悪】の
公理的記述をはじめるとしよう。

まず、心≠ニいうものの存在を、はっきりさせておく必要がある。
心≠ノは、大きく分けて「主観的意識(クオリア)」と「客体的認識」が含まれている
ことを覚えておいてほしい。
「客体的認識」とは、客観的認識のことではない。(客観的認識などというのはただの幻
想に過ぎないのだから)
「客体的認識」というのは、主体が観る客体についての(脳器官内における神経反応的)
認識のことである。

心≠フ中の、このふたつの概念は非常に重要なので、ここで、しっかりと記憶してもら
いたい。
このどちらが抜け落ちても、心の問題は語れないし、したがって哲学など成立するはずも
ないからだ。

用意はいいかな?

そうか、では、はじめよう!
まず【憎悪】が、心≠フ中の「おのれの生に接続できなかった血(感情)」が壊死する
ことであるとイメージしてほしい。

血(感情)が死ぬのは、その血(感情)に拘る(囚われる)からである。 
498physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/01(日) 09:29:46.09 0
【憎悪を伴う「人間の裁き」と公理系に従う神の裁き≠フ違い】

他人を傷つけたり他人のものを盗んだり、自分はヒドイことをしておきながら、なぜか
自分はそうされる謂れはないと信じている「意識の公理系(クオリア)」の破綻した者が
一定数存在するようだ。
しかし、たとえば、「小さな命」を無慈悲に殺した者に対して憎悪の感情を抱き、そういう
許し難い者の存在を抹殺(排除)するために「裁く」ことは不可能のように思われる。
なぜなら、「憎悪」が生じたら殺し(排除し)合うというのでは、その「憎悪」の感情自
体が人間の宿命的要因であるため、宿命的な殺し(排除し)合いを帰結してしまうからで
ある。 そういう意味では、誰もが誰かに「憎悪」される宿命にあると言うことができる
わけなのだ。
そして、その「憎悪」を事有るごとに解放していたら、人類は滅亡するしかないというこ
とである。

では、「小さな命」を無慈悲に殺した者は、裁かれずに無条件に許されなければならない
のだろうか?
その回答は、人間が人間らしく生きるために常に問わねばならない主観的意識(クオリア)
の声を聞けば明らかだろう。

いかなる場合も「無条件の許しなど、ありえない」のである。
499physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/01(日) 09:30:27.64 0
>>498の続き
「許し」は、ただ「憎悪」に対する自浄作用としてはたらけば十分である。
おのれの主観的意識(クオリア)が、人間らしい生き方そのものである≪体感的領野≫に
おいて、その公理的意味(判断)が「けして許せない」と発語したなら、それは神の裁
き≠ェ下ったことと同義なのだから。

われわれは、かような者を、いかに裁くか。
主観的意識(クオリア)に内在する神の意志としての神の裁き≠、いかに執行できる
のかを考えなければならない。
そのための論点は以下のとおりである。

@「小さな命」を無慈悲に殺した者の居る<領野>を特定すること。
Aその忌まわしき<領野>をソドムとゴモラのように焼き払うには、どうすれば
いいか。
Bそれら一連の行為が「憎悪」ではなく主観的意識(クオリア)に内在する神の
意志としての正当性を持続しているかの検証を十分に為すこと。
500考える名無しさん:2014/06/01(日) 18:06:36.73 0
いつもご苦労さまです。だから下げてね。上げるとか自己愛の象徴だから
501考える名無しさん:2014/06/01(日) 19:58:11.12 0
>>458
>そもそも「客観的」というのは、なにを意味しているのか、さっぱり分からない。
自分の考えでは、ものの見方には「主観(自我)」ないし「共同(間)主観」という概念しか有り
得ないのだ。

>上記の「客観的」という概念が分からない。そして、今、自分が意識し、存在を認識できるのは、
「主観(自我)」と、「共同(間)主観的」という概念だけであると述べている。
深化した主観的意識(深化した自我)が、“存在のすべて”とする「体感的領野」の概念は、デカルトの
「超越論的主観(コギト)」と同じ概念と解釈できる。

デカルトの「超越論的主観(コギト)」も、一元論的(=独我論)に「私(コギト)がすべて」と認識するが、
超越論的領野(コギトの次元)に留まることなく、更に論理を進めている。
それは、「省察」に記述されている様に、私(超越論的主観)の“外部”としての存在(客観)を認めているところにある。

従って、「客観的存在」がなにを意味しているか分からないということは、「深化した主観(コギト)」から更に先へ論理を
進めることが必要となる。

留まっている論理を進めることの心境を、道元禅師は「随聞記」の中で
「百尺の竿頭にありて、なお一歩進めよ」と記述している。
これは、一歩手前で留まっている自分を、その先にある「空」へ、進みなさいと言う意味であり、一歩進めたその瞬間に
なると“自力”も“他力”もないと言うことを現している。

深化した主観的意識(コギト)は、“自力”である。 “自力”の先にある“他力”の世界へ一歩進める思考過程が重要
であり、自力の世界(主観的領野)と他力の世界(客観的領野)を「空」として認識(=経験)する次元へと高めることが
「深化した主観的意識(コギト)」に求められている。
502physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/01(日) 23:48:05.31 0
さっそく@について論じようと思ったのだが、あいかわらず誰かの言説を引っ張ってきて
相手を評価するのが大好きな人が勘違いしまくってるようなので少しだけ。
>>501
「客観的存在」「他力」は、「主観的存在」「自力」と手に手をとって空≠フ世界へ行くら
しいんだがwwww それは、もしかして、こういうことか?w
「客観的存在(殺人鬼宅間守)」「他力(殺人鬼宅間守の力)」は、「主観的存在(被害者)」
「自力(被害者の力)」と手に手をとって空≠フ世界へ行きましょうって?(大笑)

そりゃあ、仏教的奥義を究めたあんたからすれば、被害者の自力救済なんて、お笑いぐさ
でしかないんだろうねwwww  そんなに一人で苦しまないで、「客観的存在(殺人鬼宅
間守)」「他力(殺人鬼宅間守の力)」を認めて、お互い所詮は無≠セ空≠セと思えば
いいじゃないかと、そういうことなんだな?(失笑)

たしかに、そうすりゃ、@について論じる必要もねーわけだ!
だって、<領野>なんてものも最初から無いんだもんね、空≠ネんだから(ゲラゲラ)
空≠ネんて言っちゃったら、それでおしまいだよw
あんたは勝手にそこへ行けばいい。 誰も止めねーからw 行ってらっしゃ〜い♪

オレらは「主観的存在(被害者)」「自力(被害者の力)」とともに空≠カゃない世界で、
人間らしく生きていく道を探しますから。(ほっといてね)
もう来ないでね、お願いだから。 空≠ネんてホザくエライ坊さんには何の興味もない
んで!!  邪魔だから消えてね☆
仏教カテでご活躍下さい。  
503physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/02(月) 00:13:17.27 0
>>499の続き
@ について論じる前に次のことを明言しておく。

腐ったリンゴを処分(物質的廃棄)しなければならないということが人間については当て
はまらないということが妥当であるのは、≪体感的領野≫にある者についてのみそうなの
であって、特に忌まわしい最悪な部類に属する<領野>に棲息する外道の場合は処分する
ほうを、あえて選択しなければならないのである。
なぜなら、≪体感的領野≫においては、腐ったリンゴ(主体)だけでなく腐らせたリンゴ
全体(客体)にも問題があると考えるからだ。
その他の<領野>においては、そういう考え方は為されない。

しかし、この場合、注意しなければならないのは、心の中の<領野>を処分するというこ
とは、人間それ自体を物質的に廃棄するということではない、ということ。
心の中の<領野>は、脳科学の進歩により将来、特定できるところまでいくだろう。
その部分だけを処分(物質的廃棄)するということである。
504physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/02(月) 17:02:59.21 0
>>503の続き
では、脳科学が発展途上にある現時点では、この問題はどう考えるべきなのだろうか?
たとえば、ガン治療が今ほど進歩していなかった時代には同じような局面に遭遇していた
のかもしれない。 処分すべき部分とそうでない部分とを正確に切り分けることができず
治療の甲斐なく患者を死なせてしまうということは、あっただろうと思う。
しかし、処分すべきガン細胞をほっておけば、正常な細胞はいずれガン化し主体を死に至
らしめる。 だから、その処分すべきガン細胞の<領野>が特定できなくても、ある程度
分れば、それを信じて治療行為に賭けるわけだ。

100パーセントということは、もちろん無いだろう。
しかし、現時点の脳科学が、小さな命を無慈悲に殺した者の<血まみれの領野>を脳器官
の部位に特定することができれば、われわれは、その処分(物質的廃棄)に異議を唱える
理由は何も無いはずなのである。
505physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/02(月) 17:19:47.24 0
>>504の続き
ただし、これが許されるのは、あくまで≪体感的領野≫を<血まみれの領野>から守る
ためである。
愚かな一部の人間は、かつて、このことをこう曲解した。

「<優れた種族の領野>のために人間を選別し処分(物質的廃棄)せよ」と。

それは紛れもなく、≪体感的領野≫を否定する<優れた種族の領野>というガン細胞で
あった。
506physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/02(月) 23:33:26.25 0
>>505の続き
ところで、<優れた種族の領野>という発想はスポーツ界や学術界等の限定的な<領野>
において現在も存在し続けている。
それはそれで構わない。 たとえばスポーツに秀でた人間が、おのれの身体を酷使し記録
のために犠牲にしようが、そのことがわれわれのようなその<領野>に属さない者にまで
何らかの悪影響を及ぼすということは考えられないからだ。
一般人は、別の<領野>に居る彼(彼女)らアスリートを、ただ見世物として眺めている
だけであり、彼(彼女)らと同じことをしようとは、けして思わない。
われわれは、われわれの人生を自分らしく生きられるし、彼(彼女)らは彼(彼女)らの
アスリート人生を自分らしく生きていけばいい。 
まったく何の問題もない。
しかしだ・・・
もし、そういう関係が破綻し、あるスポーツが全国民に強制されるようになり、<優れた
種族の領野>をすべての者がひた走らねばならなくなったとしたら・・・・・そんな世界
で人間らしく生きていけるだろうか?
たとえば、ボクシングという殴り合うだけのスポーツが6歳から義務教育化され、成人し
就職しても、つねにボクシングで昇進が決定されるのである。
ことあるごとに無差別的に殴り合わねばならぬという社会制度が<ボクシング的領野>と
して出来てしまったら、自分のような虚弱体質は、もう絶望するしかないだろうwww

そんなことは、ありえないだろうか?
いや、十分ありえるのだ。
というか、現在の日本社会が、特殊な<領野>を偏愛し過ぎるあまり、そこにこそ人間ら
しい生き方そのものがある≪体感的領野≫を排除しているのである。
その特殊な<領野>とは何か、勘のよい読者諸氏ならもうお気付きだろう。
そう、あれのことだw
507physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/03(火) 13:39:49.61 0
>>506の続き
もしかすると、その<領野>は、<血まみれの領野>よりもタチが悪いのかもしれない。
<血まみれの領野>が発症する確率は全世界レベルで言えば1パーセント以下だが、その
<領野>の感染および発症率は実に99パーセント以上だ。
<血まみれの領野>での発症から破滅までの時間は、最短の場合で数時間。
運よく非合法的な事態としての発覚が遅れた場合は、その主体が数十年間生き延びること
もある。
それに対して、その<領野>での破滅までの期間は、かなり長い。
なので、自分自身が、その<領野>に居ることに気付かないまま、主体は破滅せずに一生
を終える場合もあるのだ。(しかし、破滅的事態だけは他者を巻き込んで進行し続けている)
その<領野>のタチの悪さは、そこにある。

それを身体疾患に喩えるなら、<血まみれの領野>が「強毒性ウィルス感染症」だとする
と、その<領野>は、「放射性物質による汚染で引き起こされる遺伝子レベルの損傷」と言
えばいいのかもしれない。

その<領野>のことを、こう呼んでいる・・・・。
< 数 的 領 野 >  と。
508physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/03(火) 18:03:14.58 0
>>507の続き
そもそも、<領野>同士の混在的事態と、主体と客体の一体的事態とでは何が違うのだろ
うか? 多くの者が、これらを同じようなものとして捉え、前者の劣悪さに気付いてこな
かったように思えてならないのだ。

<領野>同士の混在的事態とは、たとえば、<演劇的領野>において舞台上で演じる者は
当然<優れた(演劇的)種族の領野>にも属している。 にもかかわらず、その<領野>
に属さない<観劇的領野>に居た者が、突如舞台上にあがって優れた演者とともに演劇を
はじめてしまうようなことである。

このとき何が生じるかと言えば、<領野>同士の混在によって、ある領野に期待される優
れた部分が台無しになるということと、別のある領野が可能的にもっているであろう優れ
た部分を覆い隠してしまうということに他ならない。
どちらの<領野>にとっても、この事態は良いことはひとつも無いのだ。

にもかかわらず、これを「主体と客体の一体的事態」と勘違いした場合、笑うべきことに
このことによって次のような幻想を抱くのである。
「それを切っ掛けにして優れた演者が増えればいいじゃないか」と(プッ)w

<領野>の混在という悪しき事態と、主客の一体という善性の極致。 
このことを直観的理性的に区別できない者が、わが国には、あまりにも多いのだ。
509physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/03(火) 22:08:58.06 0
>>508
考えてもみたまえ。
いったい優れた演者が、舞台に乱入してきたお調子者のド素人を歓迎するとでも思ってい
るのか?(苦笑)
自分の芸に誇りをもち真摯である者なら、そんなバカなど、その場から叩き出すに決まっ
ている。 ものには限度というものがあるのだ。 越えてはいけない一線というものがあ
るわけだよ。
でも、たまたまその劇場に、そういうバカばっかりが集まっていたらどうする?
というか、国民全部がバカだったら、どうしたらいい?w
優れた演者も、バカになるしかね−ってか?www

まあ、それが、わが国の現状なんだがな・・・・
510physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/03(火) 23:43:21.67 0
『余談』
>05年12月、栃木県今市市(現日光市)の小学1年吉田有希ちゃん=当時(7)=
>が下校中に行方不明となり、茨城県内で遺体が発見された事件で、栃木、茨城両
>県警は3日、殺人の疑いで、栃木県鹿沼市、無職勝又拓哉容疑者(32)を逮捕した。
>勝又容疑者は別の事件で1月末に栃木県警に逮捕され、勾留中に有希ちゃん殺害
>への関与を供述。その後、勝又容疑者のパソコンから有希ちゃんとみられ女児の
>画像が見つかったという。
>捜査本部によると勝又容疑者は「殺したことに間違いありません。今言えることは
>有希ちゃんにごめんなさいということです。面識はなかった」と供述している。


こんなクサレ外道を社会に放置している全国民に責任がある問題だな。
オレなら、迷わず、こいつの脳器官の一部を処分(物質的廃棄)するね。
それができる権力を持ってる奴ら(政府・司法上層部、医療関係者)が馬鹿なのが
一番の元凶なのかも。
クサレ外道にも自分の脳器官の一部を失わない「人権」があるというなら、憲法
9条改悪して国家のために命を捧げてくれなんて口が裂けても言えねーよな?www
国家のために、クサレ外道に脳器官の一部を提出させろや、ヴォケ!!!
511X:2014/06/04(水) 08:29:36.77 0
君の言う正義は分かる、私も同意だ。しかしね、このような不条理はみんな
分かっている。行動段階に移せないから沈黙しているのですよ。そしてあなた
の意見に反論するものも少ない理由はそれだ。お手手つないでお空へ
アッハハーという彼らが実は最もしたたかで合理的選択の結果に下した選択
なのではないか?という想像力をしないのかね?全人類総去勢化だよ
512physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/04(水) 09:56:54.06 0
>>511
>お手手つないでお空へアッハハーという彼らが実は最もしたたかで合理的選択の結果
>に下した選択なのではないか?という想像力をしないのかね?

それを言い出したら、ナチスのやったこと(ホロコースト)さえ「合理的選択の結果」に
なってしまうんだがな(苦笑)
「過ちは二度と繰り返さない」はずじゃなかったのかい?wwwwwwwwwww

そういうクサレ外道的発想を、イエスという偉大な人物は何と評しているか知ってるか?
空♀マというのは何も仏教的伝統の専売特許というわけでもなくて、聖書の中では「伝
道の書」に、その意味のことが書かれている。
キリスト教の最高到達点に存在し続けるイエスという男は、この呪われた観念を「悪霊の
入った豚」に喩えているのだ。
「悪霊の入った豚」は、崖から海に落ちて、すべて死んだ。つまり「自殺」したわけだ。
これは何を意味しているかというと、<崖上の領野>と<海面の領野>とを分かつ無
間すなわち空♀ヤに、「悪霊の入った豚」が飛び込んじまったということだな。

このことから言えるのは、凶悪な殺人鬼である加害者と憐れな被害者とを安易に結びつけ
空≠フ観念に救いを求めようというのは、実は「被害者に自殺を勧めていること」とい
う、まったく理不尽な反吐が出るような腐り切った事態と同義なんだよ!!!wwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwWWWWWWWWWWWWWWWWWWW

わかったか、ヴォケ!!!!  
513physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/04(水) 10:02:12.29 0
>>512の続き

要するに、凶悪な殺人鬼にわが子を殺されて嘆き悲しむ被害者側家族に「自殺を勧める」のが

仏教的空♀マの正体ってわけだ。


おわかり?w
514考える名無しさん:2014/06/04(水) 10:11:03.37 0
加害者もね
515考える名無しさん:2014/06/04(水) 10:14:51.22 0
>>513 >>511
その極端な発想の先にあるのが自爆テロだったのではないのか?
516physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/04(水) 13:50:39.13 0
>>515
人間が、おのれの命を賭して戦っていいのは、客体と主体が渾然一体となった≪体感的領
野≫を守るためだけだよ。

だが、「自爆テロ」が守ろうとしているのは<境界的領野>でしかない。
皮肉なもんで、「自爆テロ」で死んだ魂は「神の国」へ入れるということらしい。それは
たしかにそうだろう。 <境界的領野>から解放されて、≪体感的領野≫=「神の国」に
主観的意識(クオリア)は還元されるわけだからな(苦笑)
極端な話、「自爆テロ」で<境界的領野>に居るやつらがすべて死ねば、それで≪体感的
領野≫=「神の国」は実現する。 
しかし、それが中途半端だと、<境界的領野>に生き残ったやつらの苦しみが続くだけな
んだよな。 だから苦しまずに、みんな「自爆テロ」で死ねばいい・・・・・ということ
には、ならないwww
最初に言ったように、それは<境界的領野>を守るという「意識の公理系」に明らかに矛
盾し抵触する愚かな行為でしかないからだ!!

つまり、「自爆テロ」は、<境界的領野>をなんとしても守りたい愚劣な指導者どもに唆
された憐れな行為でしかないんだよ(苦笑)
そういう指導者が真っ先に「自爆」してくれれば、<境界的領野>もなくなり、生きてい
る人々に≪体感的領野≫=「神の国」の地平が開けるだろう。
517physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/04(水) 14:02:37.60 0
>>516の続き

人間は、さまざまな<領野>を心の中に築いてきた。

その中で最悪なものは、殺人鬼のもつ<血まみれの領野>であり
戦争マニアがもつ<境界的領野>である。

なお、最善なものは≪体感的領野≫だけだ。
518physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/05(木) 01:06:09.74 0
『余談』

ある特殊な<領野>の中で、「自分らしく」「人間らしく」という生き方が出来ると思った
ら大間違いで、それはテレビドラマという、これまた特殊な<領野>の中でのみ成立する
幻想である。
リアルで特殊な<領野>の中では、あくまでその<領野>にふさわしい技術、能力が要請
されるだけなので、「自分らしさ」「人間らしさ」などと言っていたら、そもそもそれを習
得できないからだ。

もちろん、「自分らしい」「人間らしい」生き方ができる<領野>は有る。
その<領野>では、やはり、その場にふさわしい技術や能力を身に付けることができるだ
ろう。
ただ、その<領野>には、「自分らしくない」「非人間的な」ことでしか獲得できない「華々
しさ」や「虚栄的なもの」などは一切無いと覚悟しておいてほしい。
そういうものは必要ない、「自分らしく」「人間らしく」誰からも後ろ指をさされずに生き
ていければそれでいいと思う方は是非この<領野>へどうぞ☆

≪体感的領野≫というところへ♪   
519physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/05(木) 01:21:52.20 0
>>518の続き

現代日本の初等、中等、高等、ことによると大学教育に至るまでの【原罪】は、ある特殊
な<領野>に送り出そうとする生徒と、「自分らしさ」「人間らしさ」を求めている生徒
とを区別できていないことにある。
520physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/05(木) 18:21:17.91 0
>>519の続き
また、教育現場の【原罪】は、家族的構造に潜在する「罪因」でもある。
たとえば、親の存在する<教育的領野>から見て、子供が立っている≪体感的領野≫の動
きは、非常に遅く感じられてしまう。
それは、遠くの雲の流れがゆっくりと動いているようにしか見えないことと同じなのであ
る。 実際は、雲の移動するスピードは、とても早い。 時速にして五百キロは超えてい
るだろう。 最先端の地上的移動手段であるリニアモーターカーよりも速いのだ。

親は、子供の≪体感的領野≫での心の動きをみて「のろま」で「どうしようもない」と思
ってしまう。 子供は子供なりに一所懸命に考え行動し生きているのにだ。
このとき、親の取る態度には二通りある。 

@互いの<領野>が「有る」ことを尊重し、子供の≪体感的領野≫を認めようとする親。

A互いの<領野>の間にある隙間(無であり空の部分)を暴力的に埋めながら子供の≪体
感的領野≫を侵害しようとする親。

このような「善性」と「悪性」、「救い」と「絶望」、「天国」と「地獄」が何故生じる
のか、その「親」的存在が孕む精神病理的部分の検証を仏陀的弁証法とヘーゲル的弁証法
の逆説的論理構造が必然化する危機的状況を踏まえ行ってみよう。
521physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/05(木) 22:21:21.97 0
>>521の続き
仏陀的弁証法とは、「あるのでもなく、ないのでもない」という論理形式から生じる判断の
再帰性を意味する。 ここで言われている「ある」には、すでに一個の物質としての「表層
と深層」「見かけと本質」「偽と真」がともに含まれているが、いかんせん表層的、見かけ
優位的、偽性的である。 それが「あるのでもなく」として否定されることによって、深層
的、本質的、真性的な部分が顕わになる。 そして、深層的、本質的、真性的な部分は、
「ある」として認識できない(つまりは「ない」ということ)なので、それが「ないのでは
ない」として、もう一度否定されることにより、再び、深層は表層と、本質は見かけと、真
は偽と結びつくのである。 そこでの認識と判断は、もはや始原的な表層的、見かけ優位的
偽性的なものではなくなり、深層を意識した表層、本質を意識した見かけ、真性を意識した
偽性となっている。

かくの如き仏陀的弁証性においては、内的<領野>同士の凄惨な侵害関係は生じない。
なぜなら、そこでは客体(他者)として「ある」ものの、すべての深層、すべての本質、
すべての真が、つねに問われ続け尊重される論理構造が保証されているからだ。

それに較べて、ヘーゲル的弁証法には少なくとも、そのような保証は一切無いのである。
522physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/05(木) 22:43:12.26 0
>>521

 × >>521の続き

 ○ >>520の続き
523考える名無しさん:2014/06/06(金) 18:49:12.91 0
>>502
>オレらは「主観的存在(被害者)」、「自力(被害者の力)」とともに“空”じゃない世界で、
人間らしく生きていく道を探しますから。

>「空」という意味を間違って解釈している。「空」の意味には二通りある。
一般的に言われる「空」は、何も無いという数学的(0=ゼロ)の意味だが、
仏教に於ける「空」とは、「色即是空・空即是色」と記しているように、
「色」は、「目に見えるもの、感じる(感覚する)もの、 つまり、五感で認識が
できる個体的実体(物質=有限)であり、自我(主観)を基底としている。

一方、「空」とは、個体的実体(物質=有限)として“認識されない存在”であり、
「無我(精神的実体)として捉えられている領野(=無限)である。

従って、「領野なんてものも、最初から無いんだもんね“空”なんだから」と記しているが、
この場合の「空」の捉え方は、一般的で数学的な「ゼロの解釈」をしている。
仏教の「空」は、この様な状況の場合は、“自力”としての「体感的領野」を“色”として認識し、
色(自力)から、他力(無我=無限領野)へと“深化する”ことにより、自己への精神的・物質的な
『執着』を解き放すことである。

だから、仏教の観点から「体感的領野」を捉えた場合に、その存在は主体と客体の「融合」であっても、
その根源に於いて、まだ、自己(主観)の深淵に沈着している、精神的・物質的な『執着(=既成概念)』が
残存していることを厳しく捉えているのである。
524physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/06(金) 21:35:34.93 0
>>523
>一方、「空」とは、個体的実体(物質=有限)として“認識されない存在”であり、
>「無我(精神的実体)として捉えられている領野(=無限)である。

アホらし(苦笑)
「空」を目的論的に捉えている発想自体が歪んだ観念論だって分かってないようだ。
「空」とか「無」とかいうのは、自他の<領野>の間にできる「結果」に過ぎないのに
それを「目的」であるかのように騙る愚かさに気付くべきだな。
それって、まるで、食事中(目的的事態)にウンコ(結果的事態)の話をしてるような
もんでね・・・・食事がマズくなるだけなんだよ!!

仏陀が偉大だったのは、弁証法的な始原に物質的両義性そのものを措定したことだ。
イエスがさらに凄いのは、ユダヤの歴史そのもの中に自分自身の物質的両義性を始原とし
て措定し得たということだ!!
それに対して
龍樹がアホだったのは、弁証法的な始原に観念論的両義性の片方を措定したことだ。
そして不思議なことにそのアホな傾向は、ドイツ観念論においても、まったく同様に発症
したんだがな!!WWW
525physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/06(金) 21:36:53.37 0
>>521の続き
ヘーゲル的弁証法の最悪な点は、「脆弱なクオリア」によって観念化された世界の一義的解
釈にすぎない「(空)無」を、その始原に措定したことである。
「表層と深層」「見かけと本質」「偽と真」のような物質的両義性を、こうすることによっ
て失ってしまった「空(無)」は、その否定として現れる別の<領野>を善に対立する悪、
真に対立する偽、正統に対立する異端として認識することとなった。
もちろん、観念上の「空(無)」は、深化した「強いクオリア」によって意識された世界の
中では物質的基底をもち続け存在者であり続けているわけで、そういう意味で、この「空
(無)」は、物質的存在である自称「空(無)」が他の<領野>を、自己の物質的両義性を
省みず攻撃するという非常に迷惑で有害な目的論的「空(無)」であるということになって
しまうのだ。
これが、「色即是空」などという意味での空観の正体なのである。
それは、龍樹とかヘーゲルとかいうお調子者が、おのれの脆弱なクオリアを省みず、他者の
<領野>を守る結果としての「空(無)」ではない、目的論的「空(無)」という魔界を設
定することによって生じさせた哲学上の暴挙でしかなかったのだ。
526考える名無しさん:2014/06/06(金) 22:34:41.00 0
>>524
 
 >弁証法な始原に物質的両義性そのものを措定した。

 >弁証法は、定立(即自存在)と反定立(対自存在)を対立させ、否定論理を導入
  するが、「色即是空・空即是色}は、色(定立)と空(反定立)を弁証法的には
  捉えていない。弁証法的な論理展開は、ヘ−ゲル独自の捉え方であると思う。

  上記の「物質的両義性」とは、どのような概念でしょうか。
  
527physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/07(土) 13:16:54.04 0
>>509の続き
この<数的領野>という放射性物質に似た空間概念は、人間の心を遺伝子レベルに至るほ
どに傷付け破壊する。
たとえば、こういう具合にだ。
<物理学的領野>に<数的領野>が侵蝕した場合、物理学の研究者(以降、研究者と記載
する)は、その専門的理解を、同じく<数的領野>に侵蝕されている一般人にも通用する
「数的了解」のほうに譲り渡し妥協せざるを得ない。
一般人も納得する原発の安全性という「数的了解」のほうを採用した結果、一部の心ある
研究者の専門的理解(これこそ一番大事な<物理学的領野>の所産なのだが)を踏み躙る
結果になったのだ。
研究者の専門的理解においては、少なくとも現状の「原発施設」などは存在すべきではな
いものであることが分かっていた。
しかし、それが、なぜか<数的領野>において、専門的にはほとんど何の意味も持たない
安全基準によって「存在意義がデッチ上げられてしまった」のである。
そして、3.11、あの未曾有の大事故が発生した・・・・・・・

そういう<数的領野>の弊害は、マスコミの世界にもある。
<マスコミ的領野>に<数的領野>が侵蝕した場合、マスコミ関係者は、その専門的理解
を、同じく<数的領野>に侵蝕されている一般人にも通用する「数的了解」のほうに譲り
渡し妥協せざるを得ない。
一般人も納得する視聴率という「数的了解」のほうを採用した結果、一部の心あるマスコ
ミ関係者の専門的理解(これこそ一番大事な<マスコミ的領野>の所産なのだが)を踏み
躙る結果になったのだ。
それが、ヤラセ報道の垂れ流しや、低脳番組の氾濫、ジャ−ナリズムの著しい劣化を助長
することになったのである。
マスコミに携わる専門家としてのプライドがあれば、くだらない番組でお茶を濁すような
コメントだけしてればいいというような恥知らずなことはできないはずなのだ。
528physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/07(土) 17:30:47.17 0
>>510の続き
>修学旅行で5月に長崎を訪れた横浜市の公立中3年の男子生徒数人が、爆心地周辺を案内して
>いた被爆者で語り部の森口貢さん(77)に「死に損ない」などの暴言を吐き、森口さんが学
>校に抗議していたことが7日、分かった。
>森口さんによると、被爆者らが5月27日、3年生119人をグループに分け、爆心地周辺の
>被爆遺構を案内。森口さんが山里小学校で説明し始めたところ、グループから離れて行動して
>いた数人の生徒が「死に損ないのくそじじい」と大声で叫んだ。森口さんは注意したが、この
>数人は周りの生徒にも「拍手しろ」などと言って妨害、暴言を続けたという。


こんなクサレ外道は社会に出る前に矯正しておくべきだ。
14歳以上なら、脳器官の一部を処分(物質的廃棄)してもいいだろう。

被爆者という≪体感的領野≫の中に生きている人の心を傷つけた罪は非常に重い。
安易に(このクサレ外道のガキどもを)許すべきではないのだ。
529physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/07(土) 17:59:28.68 0
>>528の続き
「体罰」ということが否定される傾向にあるのは何故だろうか?
その概念は、たとえば、>>528のようなクサレ外道のガキどもを、教師や親がブン殴る
ようなことである。
こういうことが否定される理由には、やはり「意識のハードプロブレム」の問題が密接に
絡んでいる。 つまり、(殴るという)物理的作用と(反省するという)精神的作用との
間に因果関係が存在しないということである。
これは、至極当たり前の話で、殴ったからといって、その殴られた者の脳器官が処分(物
理的廃棄)されるわけではないのだからw(マンガじゃあるまいし)
殴って何でも治るなら、医者はいらないだろうということだよ!www
つまり、殴るという行為は、脳器官の処分(物理的廃棄)を前提にしない殴る方の単なる
感情的興奮の発露でしかないということなのだ。 だから否定されても仕方ないのである。

われわれは、殴らねばならないような不都合な存在者がそこに居るなら、もっと効果的な
アプローチを取るべきではないのか?
ところで、「意識のハードプロブレム」が、やはり物質的基礎を抜きにしては語ることが
できないというのは、もはや通説化しているといっていい。
ならば、幸福な国家のために「クサレ外道」の矯正を考えるとき、脳器官改造という物理
的手段は緊急の課題なのではないだろうか?
530physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/07(土) 22:29:15.21 0
【脳器官の処分(物理的廃棄)と心の<領野>の問題】

ある種の人間(クサレ外道)が心の中に築いてしまった不吉な「城」ともいうべき<血ま
みれの領野>、<境界的領野>、<数的領野>・・・・
その中に居て悪事を働き続ける者に、その「城」の外から改心を願うことほど馬鹿げた愚
行はない。

もし、その「城」に安住する腐り切った脆弱な主観的意識(クオリア)を正気に帰らせた
ければ、その「城」を破壊するしかないだろう。
心の中の「城」は、脳器官の一部に<領野>を形成している。
つまり、もはや、おのれの心の中に不吉な「城」を築いてしまったクサレ外道に「城」の
外から反省を促がすように呼びかけるような無駄なことはやめて、むしろ、その「城」を
ブチ壊してしまえと言っているのだ!!!

おまえらは、いったい、いつまで、そんなクサレ外道の改心を「城」の外で待ち続けるつ
もりだ?(苦笑)
なにも手を打たず時間を無駄にし、「城」の中の化け物が外に出て暴れ回るのを、いった
い、いつまで指をくわえて見ているつもりなのだ!!!

脳器官の処分(物理的廃棄)は、心の中に築かれた不吉な「城」を瓦解させる唯一の方法
であり、クサレ外道から善良な人々を守るための最良の選択である。
531physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/07(土) 22:39:10.47 0
>>530の続き
心の中の「城」に安住したクサレ外道が笑っているぞ。

『城の外でなにをホザこうが無意味だ』と。

『どうせ、あいつらには何もできないんだ』と。
532physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/08(日) 11:02:02.09 0
>>531の続き
現時点でのこの問題(脳器官の処分(物理的廃棄)と心の<領野>の問題)については、
およそ専門性から逸脱したド素人のセンチメンタルな思考が幅を利かせているので、どう
しても物質と精神(心)とを切り離して、精神(心)の<領野>は「言い聞かせること」
で改善するのだという迷信から抜け出ることができない。
この一般に蔓延するド素人思考群≠ニも呼べるような他愛の無いマンガちっくな漠然と
した想いは、精神(心)を統治する「神的存在」を、うっすら信じていて「物質世界はそ
もそも穢れた場所であるから、そこをいくら改善しても無意味だ」という根拠の無い抵抗
感を抱いている。

つまり、ド素人思考群≠ノ感染した、われわれの世界全体は、クサレ外道の楽園≠ニ
化し、それを駆逐するための有効な方策を何も持てない状況なのである。

科学がいくら発達しようが、このような「迷信状態」からは完全に抜けることができない。
なぜなら、「科学」自体が、心の中の不吉な「城」である様々な<領野>的囚われの餌食
でしかないからである。
533physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/08(日) 23:18:11.22 0
>>532の続き

≪マタイによる福音書≫

もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。 
五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。 
五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。


≪physicaによる福音書≫

もしあなたの脳器官の一部が罪を犯させるなら、その一部を処分(物質的廃棄)しなさい。 
脳の一部を失っても、全身が幸福である方が、あなたにとって益である。
534physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/08(日) 23:29:10.07 0
>>533
このように、イエス・キリストの予言によって、そう遠くない未来、心の<領野>を形成
する「脳器官」の一部処分は、われわれの世界のスタンダードとなることが約束されてい
るのである。
問題は、その<領野>を、どのように特定するかだが、そのために、これから「自分自身
の心裡解剖という手段によって」不吉な領野のひとつである<血まみれの領野>が構築さ
れてしまう過程を検証してみようと思う。
自分自身の心の中に紛れもなく存在した<血まみれの領野>を・・・・・
535考える名無しさん:2014/06/09(月) 00:02:37.28 0
≪マタイによる福音書≫
どちらがよりベターかベストかの比喩だろw
察してやれよw
536physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/09(月) 17:16:07.54 0
>>534の続き
まず、心の<領野>とは何かについて、それを客体として記述する学的認識を読者諸氏と
は共有していない関係上、やはり、主観的意識(クオリア)の一次的認識を喚起するため
に旧来からある方法であるところの「喩え」によって語らねばならないだろう。

この「喩え」られた<領野>の概念を自分なりに思考判断することによって、そこに各自
が「自分なりに」想定した「自分らしい」<領野>の概念が生まれるはずである。
こうすることの意義は、<領野>の概念を、特定の数学的公理のような、特定の物理的法
則のような、特定の神学的外部世界規定のような閉鎖的な限界認識によって人間の心の中
に異物として移植するのではなく、きわめて自然に「人間らしい」ものとして意識に根付
かせることができるということにある。

すべての人間の心に確実に存在し、心の働きを左右し、ときに心を破滅させ、ときに心を
よみがえらせ、その人だけでなく世界全体にも影響を与える<領野>というものを、この
ように「喩え」てみよう。
それは、パソコンのOSの中に含まれる「ファイル」のようなものである、と。
537physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/10(火) 00:03:33.92 0
>>536の続き
そして、様々な<領野>=「ファイル」をすべて含む最も基本的なソフトエリアである
OSのことを、≪体感的領野≫と呼ぶのである。

たとえば、ある人は<プライドの領野>という自らのプライドが満たされる記憶を、あた
かも「ファイル」の情報のように格納している。
ちなみに、生命体の物理的神経構造をコンピューター本体に喩えるなら、その容量が大き
いほど、<領野>の受信機能や動作性能も、より高度になるにちがいない。
そういう意味でいうと、単純な物理的神経構造を有する生命体(微生物など)は、極端に
言えば人間が<プライドの領野>で受け取る外部情報を、まったく認識することができな
いと考えられるのである。
微生物には、人間が感じるような「プライド」など無いはずだ。
しかし、微生物なりの「プライド」に似た<領野>の存在を否定はできないのだが・・・。

ところで、「ファイル」は単なる記憶領域であったり、せいぜいそれに関連する外部情報
へアクセスする機能を持たされているだけなのだ。
そこでは「時間が止まり」「空間が遮断されている」のである。
OSの役割は、その時間を動かし、その空間を繋げることであるのは言うまでもない。

そんな「ファイル」=<領野>が、なぜ血まみれになってしまうのか?
ひとつの確実な原因がある。
それは、外部からの何らかの作用によって「ファイル」=<領野>が感染または損傷した
ということである。
538タックル!:2014/06/10(火) 06:00:06.76 0
タックル!の声 どこかから聞かれてる? ここかなあ〜 見られてる?
539physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/10(火) 14:25:44.24 0
>>537の続き
このことを、コンピューターのウィルス感染と類似の事態であると考えた場合、その感染
源は特定できるのではないか。 そして、それならば、心の<領野>の感染は、受動的な
事態であるというよりも能動的(製作的)行為によっているのではないかという懸念が生
じるかもしれない。
しかし、電子ネットワークの有限性ゆえにコンピューターウィルスの作成者は特定できる
としても、人間の心の<領野>のネットワークは「無限」なのである。
その無限な領域から感染源を特定することなど、限りなく不可能に近い話だ。
われわれは、感染し壊され血まみれになった心の<領野>が、世界で唯一のものであると
は認識していない。 それに類似する事態は、いくつも生じている。 それは、その中の
ひとつなのだ。
だとしたら、それは<血まみれの領野>をもつ者の責任を問える能動的(製作的)行為に
よってそうであると考えるよりも、単に受動的な事態と捉えるほうが妥当ではないのだろ
うか? 

さらに、心の<領野>を構成する脳器官に遺伝子レベルの欠陥があり、その作用が<血ま
みれの領野>を形成してしまうのではないかという疑いもあるかもしれない。
しかし、それはコンピューターの構成部品に最初から問題があったということと同じで、
その中の「ファイル」が「血まみれ」となり外部に対して攻撃性を帯びるという凶悪な事
態とは次元を異にするところである。

かくして、心の<血まみれの領野>について、能動的起因説、自己原因説は妥当でないこ
とが理解できよう。
540physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/11(水) 19:40:25.49 0
【なるほど人間はこんなに愚かなのだから脳器官の処分(物質的廃棄)による
人格改造を躊躇するわけだ(苦笑)】

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」というのが究極の問いなどと大騒ぎしてい
る程度の脳ミソでは、やはりこの問題を理解することは不可能だろうな。
つまり、「意識のハードプロブレム」を乗り越えることもできない未熟者は皆、脳器官自体
が意味の有るものだ。だから人間の勝手な意志でどうこうしてはいけないのだというww、
ガキのような幻想を抱いているのだろう。
脳器官自体が、そんなに大事か?(プッ)
ただの「物体x」に過ぎないものが、それほど貴重なものなのかよ?www

そもそも「ある」とは何だ?
「ある」というのは、形と意味を備えた対象の認識として「ある」のだ。
だから、「何かがあるのか」という問いは、こう言い換えることができるわけだ。
「何かがあるのか」=「何かが形と意味を備えた対象なのは何故か」
541physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/11(水) 19:41:28.54 0
>>540の続き
何かが形と意味を備えた対象なのは何故か?
そんなことは決まってるじゃないかw
人間に、そういう認識(意識)の<領野>が組み込まれているからだよ。
あたかも、コンピューターのOSのようなものが≪体感的領野≫として人間という物質的
存在にインストールされているからだろうが!
これで、もう、おわかりいただけると思うが、
コンピューターを構成する個々の部品「物体x」には、それ自体で何かを「ある」として
認識する機能など無い。 
同様に、脳器官を構成する物質「物体x」もまた、それ自体で何かを「ある」として意識
することなど不可能なのだ!!

しかし、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という間抜けな問いに暗黙のうち
に合意されているニュアンスは、その本来「ある」として認識できないはずの「物体x」
を『ある物体x』に仕立て上げているアホらしさなのである!www

ありえないだろう?(大笑)
この程度の存在論、言語論に内在する矛盾にすら気付かない人間どもなんだぜwwwww
こんなの相手にして、オレはここで何をやってんだ・・・・ったく(苦笑)
542physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 10:47:24.33 0
【主観的意識(クオリア)の健全性を担保する体感的領野を荒廃させるのは、「自己中心性」
ではなくて「自己目的性」のほうであるということ】

このことに気付かないで、おまえは「自己中」だとホザいて他人様を非難しているアホが
あまりにも多い。 
そういうアホに限って、「ファイル人間」なのだ。
「ファイル人間」とは何か?
たとえば、こんなクソ野郎が居るとする。
そいつは、会社組織の歯車として稼動することが「人間としての正しい生き方だ」と信じ
て疑わないクソ野郎だ。 家族のことに何の関心も無いこのクソ野郎は、とっくの昔に不
倫に走った妻に逃げられ、今や父子家庭である。 ところが、こいつときたら、3歳の子
供が重い病で寝込んでいても、上司の命令があれば会社へすっ飛んで行く「歯車クソ野郎」
なのだ。
会社は、この「歯車クソ野郎」を、便利な「ファイル」として重宝している。
そして、この「歯車クソ野郎」は、「ファイル」として利用されることが正しい人間として
の生き方だと信じている。
「歯車クソ野郎」は、仕事中に、たとえ身内の【死】に立ち会えなかったとしても、それ
は自分の名誉だとすら思っているwwww(真性のキチガイじゃん)プッ)
543physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 10:48:15.49 0
>>542の続き
こういう「歯車クソ野郎」のことを「ファイル人間」と呼ぶのだが、これは、けして「自
己中心主義」を意味しないのだ。
「自己中心性」という概念には、≪体感的領野≫=OSの脆弱性の問題は確かにあるのだ
が、こういう「歯車クソ野郎」の発生を必然とする理由など存在しないからだ。

「歯車クソ野郎」が≪体感的領野≫を荒廃させる原因は、ひとえに、おのれの「ファイル
人間」としての「自己目的性」にある。
歯車に記憶され、「時間を失い」「空間から遮断された」ひとつの「ファイル」としての
「自己目的性」が、人間を異様な「物体x」に変貌させてしまう。

これが人間性の危機的状況でなくて何だというのだ?www
ちなみに、こいつらを退治する方法がひとつだけある。

「自己目的性」に感染した「ファイル」の削除。
つまり、「歯車クソ野郎」の脳器官の一部処分(物質的廃棄)だwwwwwwwwwwww
544physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 12:28:44.94 0
【歯車で居ることに絶望した奇特なクソ野郎は、脳器官の一部処分(物質的廃棄)を考え
なさい。 そうすれば「自殺」は免れるだろうからねwwwwwwwwwwwwww】


おk?
545physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 15:41:50.58 0
【「キチガイ」というのは、心の<領野>への固執(「ファイル」への自己目的化)によっ
て、おのれ自身の体感に同調できない(OSの自由度が著しく疎外されている)状況が生
じているとき、それを生じさせている主体を侮蔑≠ニ憐れみ≠込めながら指示する
言葉である。】


おk?w
546考える名無しさん:2014/06/12(木) 15:45:07.91 0
俺の S-ATA6.0Gb/s が唸りをあげる
547physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 17:18:02.21 0
>>539の続き
【宗教的(教義的)領野という「ファイル」を考えてみれば、OS(体感的領野)を通し
たウィルス感染(人間性の破壊的事態)が生じるメカニズムが、とてもよく分かるんだが】

<宗教的(教義的)領野>は、しばしば<血まみれの領野>と化す。
その原因は先の分析により、受動的な起因性をもち、遺伝子レベルでの自己原因性のよう
な表層的合理的解釈に馴染まないということが明らかとなった。
ところで、この<血まみれの領野>を、ときにわれわれは、「キチガイ」であるとか「頭が
おかしい」とか「人間性を失っている状態」であるかのように指示するが、それは間違い
ではない。
この領野における人間性の喪失は、外部からの観察に対して非常に不透明であり分かり難い
上に、主体自身が、そのことを人間的であると信じているので、その実態はよほどのことが
表面化しないかぎり感知不能なのである。
そういう意味では、身体的疾患である【膵臓ガン】に似ているのかもしれない。

まず、人間性の喪失が、あたかも人間的であるかのように見える「異常事態」を、先に記
述した「歯車クソ野郎」の件で説明してみよう。
「歯車クソ野郎」の場合、おのれの心の中の<仕事的領野>という「ファイル」の中に、
「お客様のためになることは正しい」「お客様のためにならないことは正しくない」という
記憶(情報)が組み込まれているので、その正しさの発動は「他人のため」という目的意
識によって担保された道徳的にきわめて優れた行為なのだという認識が生じてしまうので
ある。
しかし、これが実は、「他人のため」でも何でもないことは、意識の問題に精通した読者諸
氏には明らかだろうと思える。 
端的に言ってしまえば、これは自己目的的におのれの<仕事的領野>という「ファイル」
情報に固執した「他人のため」でも何でもない「自分のため」の行動に過ぎないのだ。
筆者はこれについて、非常に面白い示唆的なハラワタが煮えくり返るようなwww「場面」
を知っている。
548physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 22:52:03.26 0
【残忍な殺人犯の被害者遺族が望むことは、奇跡的な(茶番のような)加害者の更生とい
うことよりも、加害者の忌まわしい記憶が今も息衝いている加害者自身の脳器官の確実な
部分的処分(物質的廃棄)なのである】

これこそ、およそ考えられ得るかぎりでの最も道徳的な「願望」であると言える。
549physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/12(木) 23:01:44.83 0
【罪人の悔い改め(更生)ということを拡大解釈し過ぎるのは危険である。なぜなら、他
者に対する実害が少ないか、まったく無いような罪人のそれを信じてやるのは問題はない
だろうが、非常に凶悪な志向をもつ者のそれを認めることは、出血多量で死にかけている
人に物理的処方(輸血)もせず根性論を説くことと同じぐらいナンセンスだからだ】

だろ?w
550physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/13(金) 00:15:46.21 0
【被害者遺族が「許した」のは凶悪な殺人犯を、ではなくて、殺人犯を憎んで苦しむ自分
自身を、である。つまり自分自身が心の中の血まみれの領野から抜け出るために、なのだ。
それは凶悪な殺人犯が血まみれの領野から解放されることを何ら意味しない。なぜなら、
被害者遺族には有って凶悪な殺人犯には決定的に無いものが、そこに作用しているからだ。
一人の人間の中に≪体感的領野≫を外部から構築するために要する費用は莫大であり、そ
れは、あたかも100年前のクラシックカーに現行車並の性能を付与するような物好きな
作業でしかないのである】


だよね?
551physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/13(金) 20:27:14.10 0
【現代の教育手法に特徴的であり、かつ絶望的破滅的とも言えるのは、他者との間で心の
<領野>を共有すること(つまり、「ファイル」の互換性を高めること)ばかりが推奨さ
れ体感的領野(OS)の脆弱性に対する配慮がまったくといっていいほど無視されている
ことである。 その結果、特定の<領野>=「ファイル」が自己目的性というウィルスを
保有してしまうと、あっという間にそれは数多くの人間の心に感染してしまうのだ。 
たとえば、「ある事象(N)に優れていることは正しい」「ある事象(N)に劣っている
ことは正しくない」という情報の自己目的性が脆弱な体感的領野の中で増殖し肥大するよ
うなこととして】












おわかり?
552physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 00:19:47.96 0
【「ある事象(N)に優れていることは正しい」「ある事象(N)に劣っていることは
正しくない」という心の<領野>=「ファイル」への自己目的性が脆弱な体感的領野
の脆弱なクオリアによって病的に発症した場合、笑うべき事態が起こるwwwww
嘆かわしいやら馬鹿馬鹿しいやら反吐が出そうやらwwwwwwwなんと、なんと、
なんと!! その脆弱なクオリアは、(N)以外の事象に対する別の心の<領野>=
別の「ファイル」を作成できないのだ!!!!WWWWWWWWWWW(大笑)泣)】


死んでね?w
553考える名無しさん:2014/06/14(土) 10:17:02.58 0
段々自己言及的になってきて良い感じだな。
まとめるとさ。

1: 俺ははたらきたくない!
2: 才能をちやほやする世間がむかつく!
3: 俺を疎外する世界は消えろ!
4: 客観的な尺度は俺には効きませんバリアー

こんな感じ?応援してるわ。
554physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 10:32:28.63 0
【善悪という価値観を個人的な形而上学的問いに還元して考えることは要するに考えてい
る本人にとって意味があるだけか、せいぜい類似した人格の<領野>に気付きの切っ掛け
を与えるだけである。 その普遍的一般的な答えを得るためには、自他の間に、個人と社
会の間に、それは仏陀的弁証法で指示される「ない」何かとして認識されるべきなのだ】

たとえば、現行制度が建設業者に政策的干渉を与えている問題で、建設業者の職業選択の
自由を侵害しかねない「社会保険制度への加入が無い業者には仕事をさせない」という行
政指導は、それ自体明らかに「悪」なのであるが、その「悪」を個人の形而上学的な発想
として認識するだけでは、まったく意味が無いのだ。 なぜなら、そうした場合、その「悪」
は個人の「善」と対立することとなり、「悪」を滅ぼす=社会を転覆するということでしか
「善」が実現できないと思えてしまうからである。
これは、まさにテロリズムの発想であり、他者との間に居る自己、社会の中に存在する個
人ということを意識し得ない「脆弱なクオリア」によって必然化する事態に他ならない。
テロリズムによってもたらされる結果は、悪に感染したひとつの「ファイル」を削除すれ
ば済むことを100億円のコンピューター全部を廃棄してしまうようなことでしかなく、
残るのは「苦い後悔」と「もう二度と同じ過ちは繰り返しませんという白々しい宣言」と
「脆弱さの延長」だけである。

ペッ
555physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 12:55:40.74 0
>1: 俺ははたらきたくない!

時給5万円で、楽しく働かせてもらってますけどw

>2: 才能をちやほやする世間がむかつく!

ちやほやされて喜ぶのは、AKBとバカだけだろww

>3: 俺を疎外する世界は消えろ!

疎外されてるのは、きみのようだねwww

>4: 客観的な尺度は俺には効きませんバリアー

そういう尺度があれば是非拝見したいもんだなwwww

>応援してるわ。

応援されるようなことしてね−から、お構いなくwwwww


おk?
556洋楽:2014/06/14(土) 13:07:04.93 0
  
  占い板で ファンレター募集したら

               一通も来なかった(笑)
  
557考える名無しさん:2014/06/14(土) 13:38:08.90 0
>>555
図星じゃなくて痛くもないならスルーしておきなさい




がんばれ(笑)
558考える名無しさん:2014/06/14(土) 13:42:47.87 0
>>555
完全に
憤るニートだと思ってたわ
自力で食って生きてるんだね、偉い。




本当の事ならなw
559physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 14:44:37.06 0
>>557
>図星じゃなくて痛くもないならスルーしておきなさい

たまにバカの相手をするのは痛いからじゃなく、個人的趣味の範疇なのでお構いなくw

>がんばれ(笑)

オレの投稿を応援する気があるなら、全世界のネット上の掲示板で、オレに関するスレを
立てて、そこでやってくれw
そんなことすらできないクセに、軽々しく「がんばれ」とか言わないでね。


おk?w
560考える名無しさん:2014/06/14(土) 14:54:09.95 0
イタタタ
561考える名無しさん:2014/06/14(土) 14:58:56.82 0
>>559
逐一いじらしいから応援したくなるんじゃないか
あなたの投稿ではなくて投稿しているあなたを応援しているんだ


がんばれ。
562考える名無しさん:2014/06/14(土) 16:03:05.30 0
>>556
俺、渋谷センター街でガラス張りで厨房丸見えの飲食店で白い調理服着て料理のバイトしてたときに、
お客さんの女子高生から、レジのバイト店員伝えで、ラブレターを貰った。

バイト仲間の間で一斉に騒がれるかとヒヤヒヤしたが、みんな何事も無かったかのように平然としていてくれてたので安心した。

バイトあがって帰り道、地下、半蔵門線のプラットフォームで、
学校帰りで直接バイト先に来たセーラー服来た同い年くらいの女子高生ウェイトレスと一緒に電車が来るのを待っていたんだけど、

「今日、ラブレター貰ってたよね。もう、読んだ?」とか突然聞いてきた。
「いや、まだ読んでないけど・・」
「どうするの?」
「どうしようかな。」
「電車来た。」

らのべ以外でも、リアルでこういう展開ってマジであるんだな、って今更思ったよ。まあ、こんなラノベ人生歩んでる文章書くのはfate論の俺以外居ないのは既に明白だと思うが。
563physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 16:47:09.57 0
【ある事象(N)に関する心の<領野>を脳内にファイリングしているに過ぎないアタマ
が良いとされる(実はクオリアが脆弱なだけの)ロボットのようなリクルートスーツを着
た「現代の高学歴エリート集団」は、(N)以外の事象を感受し理解する心の<領野>=
「ファイル」を身につけていない(身につけることができない)ことを「ナチスのエリ−
ト集団」がそうであったように、まったく反省する気もなく、むしろ誇りに思っている。
ところで、日本国家を巨大な身体と看做した場合、このような「ナチスのエリート集団」
もどきの「現代の高学歴エリート集団」は、感染源として特定された疾病部位のようなも
のであるから、これを処分(物質的廃棄)することは許されるのではないか? この発想
はテロではなく、健全な国家と国土を守るための全うな対症療法である】


いかが?w
564physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 17:43:18.90 0
【(N)以外の事象を感受し理解する気もない高学歴に浮かれた「現代のクソエリート集
団」が支配層に存在するだけで国家の害悪となることは必定である。 たとえば、テメー
らは高額給付が保証されている年金制度を何とか維持すべく、心の<領野>=「ファイル」
において一般庶民という(N)以外の事象を感受する気もなく理解する気もないこの「現
代のクソエリート集団」は、高額給付には一切手を付けず一般庶民から保険料を何がなん
でも巻き上げようとしか考えないのである。 ちなみに、この場合の事象(N)とは、学
歴によって支配層まで勝ち上がってきたテメーらのことであるのは言うまでもない】


ゲラゲラ ペッペッ 
565洋楽:2014/06/14(土) 18:06:05.03 0
   
       渋谷はいいなー 

   新宿なんて  明治通りと靖国通りの交差点で

  真昼間ファンの子に はだかの黄桜一本貰ったことあるけど

  そんなのもって CISCO いけないから 地下のロッカーに

     夜まで隠しておいたことありますよ  
    
 真昼間の新宿 一升瓶もって歩くほどの勢いはなかったです 
  
566physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/14(土) 21:36:58.77 0
【「現代のクソエリート集団」である東京電力は、(N)以外の事象である「福島県民」
の本来なら恐怖すべき原発施設への心裡を、事象(N)=「金で黙らせる」によって懐柔
することにより欺き、やつらのド汚い心の中の有り様そのものの<汚染された領野>を最
終的にわが国のかけがえのない土壌に晒すこととなった。 紛れもなく、この事態は人間
の脆弱な主観的意識(クオリア)が犯した史上稀に見る大罪である。 ところが、やつら
にとって幸いなことに、この「現代のクソエリート集団」の脆弱なクオリアが孕んでいる
最悪な本性について気付いている被害者は無きに等しいのである。 福島県民すら「金で
黙らせる」やつらの心の<領野>=「ファイル」に保存されている手法に乗せられた自分
自身を恥じている始末www いい加減にしろよ、福島県民!!! おまえらの心の中に
人間らしい≪体感的領野≫=OSが機能しているなら、「現代のクソエリート集団」と刺
し違えてみろ。 事象(N)=「金で黙らせる」に、いつまで利用されてんだヴォケ!!】


わかったかい?w
567考える名無しさん:2014/06/15(日) 00:38:11.69 0
何煽ってんだ、お前の主観での出来事なんだから自分でやれ
肝心なところは他力本願かよ、煽るだけが能の下衆か?
568physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/15(日) 09:02:26.19 0
【他力とか自力とか、あいかわらず「力(りき)」まないとウンコも出せない便秘野郎が
なんかホザいてるがwあいにくオレは福島県民ではない、これから福島県民になろうとも
思わない、ただの大阪人だwwwさらに、日本国の代表権を担っている立場にもない、た
だの一市民だwwww東京電力と刺し違える必然性が有るのは、「力(りき)」まずに普通
に考えて、福島県民であり、わが国を代表する立場にある「総理」あるいは象徴としての
「天皇」じゃねーのか!!!wwwwwww アホの言う事はこれだから困る(失笑)
人は誰でも、自分自身の立場で戦っているんだ。 オレは、15歳のときから、東京電力
に顕現しているような「現代のクソエリート集団」と戦ってきた。 おかげで10代20
代は地獄の日々だったよwwwwwwwwwwwww 「力(りき)」むことしか能の無い
おまえごときに分かることではないがな!!】


わかったかい、便秘野郎?w
569考える名無しさん:2014/06/15(日) 09:07:53.44 0
自分は何にもしたくないから煽動する
書き書きした感想文の必死さを見るに
>>1には他にできる事がないんだろうな
あとやる事もないっぽいのでニート臭い


こういうこじらせ方をすると大変だわな
まぁがんばれ。
570考える名無しさん:2014/06/15(日) 09:34:59.03 0
>>568
無「力」な訳だ

クソエリート集団で一枚岩なら首相はその頭だからあなたの思想においても除去するべきファイルなんじゃないかな
天皇がーって象徴に責任を負わせるのか?そんな権限がないからこそ象徴なんだろう

ちなみに>>564は官僚の事かね、だとすれば高額給付が保障されてるというのは実態に即した話じゃないな
年金の一元化については聞いたことくらいあるだろう?
それに学歴だけじゃなくて入省後も血のにじむような努力をしているんだよ、昇進スピードに比例して

心の領野というのは「あなたの心の領野」であって、それって所詮君のイメージに過ぎないと思うんだな
あれを殺せこれを潰せと他人に指示(誰も聞きやしないがw)するけど、結局「気に食わないだけ」なんじゃないのか
571physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/15(日) 12:56:29.39 0
【オレが何もしてないって?wwほ−、バカにはそう見えるのかい?(プッ)時給5万円
の貴重な時間を割いて、クソ野郎の自覚を促がすために誰も書かない(書けない)ような
ことを親切に連載してやってるっていうのに、感謝の言葉もなく「何もできないクセに」
だとか「煽るだけか」とかお門違いじゃないのかね?(苦笑)ほら今日も、クソ便秘野郎
のせいで5万円損したじゃないかwwww 「首相」が現代のクソエリート集団の頭だっ
て? いつから「首相」ってクソ官僚の親玉に成り下がったんだい?wwwwwバカ晒し
てんじゃね−よ!! 象徴「天皇」は、この国難の時に、わが国の脆弱なOSを破壊しか
ねない(いや、もうしてるかw)「汚染されたファイル」=東電の正体が分かっていると
いうのに、それについて言葉すら発しちゃいけねーのかい?w それじゃあ、たぶん100
年後200年後には、さぞや無能な「天皇」が居たと評価されるだろうな!!!WWWW】


バカは黙ってろよ?w
572physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/15(日) 12:59:50.54 0
>年金の一元化については聞いたことくらいあるだろう?


そっちのほうのプロであるオレに何聞いてるわけ?(ぷっ)
573考える名無しさん:2014/06/15(日) 15:24:04.08 0
>>572
嘘しか言わない人が何をいっても嘘。
574考える名無しさん:2014/06/15(日) 17:16:34.98 0
そっちのほうのプロである俺www


ホント面白いなぁ…。
575physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/15(日) 22:57:26.24 0
>>281>>283>>284>>285>>287
【オレもP氏と同じように、学生時代に周りの生徒たちが皆「現代のクソエリート集団」
を目指して教室の机にかじりついている味気ない不気味な環境を嫌悪し、開かれた社会へ
一刻も早く出たいと思っていた。P氏と違うのは、金を稼ぎたいという動機付けが明確に
あったわけではないというところだ。なぜ、自分だけが黒板ではなく社会へ目を向けてし
まうのか・・・・・当時のオレには、その意味は図りかねた。しかし、そうしようとする
主観的意識(クオリア)だけは信じていたのである。 そのことに今やっと納得がいった。 
オレがもし、教室の中で純粋培養された「現代のクソエリート集団」になっていたら、オ
レ自身の主観的意識(クオリア)は、やがて必然的に訪れる周囲からの圧力に満身創痍の
傷を負わされていたか潰されていたはずだからだ。 思うに、開かれた世界への視線を閉
ざすような現代日本の教育は、そのような習性を10代の可塑性のある精神に叩き込むこ
とにおいて主観的意識(クオリア)にとって、また人間らしい≪体感的領野≫にとって、
恐るべき罪悪と言えるのではないか】


だっちゅーの?w(ふるっ)
576考える名無しさん:2014/06/15(日) 23:12:20.07 0
すgっえええええええええええええええええ 得体のしれない基督教
577physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/16(月) 13:00:40.50 0
【覚える端からすべて無駄な知識と化している「現代のクソエリート集団」養成教育法。 
なぜ無駄かと言うと、神経回路の中に記憶された情報が自己目的化しているので、まった
く外部と結びつかず、そのため自分自身の≪体感的領野≫=OSが、その情報を不要と判
断し一定時間が経過すると蓄積された記号全部を脳器官から排出してしまうのである。 
この状態は、ある意味≪体感的領野≫=OSが正常に機能していることによるものなので
何も危惧するに及ばないようにも思えるが、ひとつ問題があり、そういう無駄な知識のた
めに酷使された≪体感的領野≫=OSは、脳器官の中に保存された直前のきわめて乏しい
情報によってしか外部との関係性をもてないので実質的に外部的事象のほとんどを認識で
きないことになってしまう。 さらに、自己目的化した<領野>=「ファイル」が何らか
の切っ掛けにより悪意をもって増殖を始めてしまい自分自身の≪体感的領野≫=OSの機
能を通じ、それが外部に拡散し、また外部からのそれを≪体感的領野≫=OSの脆弱性ゆ
えに取り入れてしまったとき、人間に人間らしさをもたらす唯一の心の領野である≪体感
的領野≫=OSは壊滅的打撃を受けてしまうだろう】


現代のクソエリート集団、必要ある?w
578physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/16(月) 20:10:53.77 0
【人間をコンピューターに喩えた場合、その価値は、どれだけの心の<領野>=「ファイ
ル」をゴミのように無駄に廃棄してきたか、またそのことによってどれだけ自己の≪体感
的領野≫=OSを酷使してきたかという馬鹿馬鹿しい労力の多寡にあるのではない。 
その真価は、たったひとつでもいい、有意義な心の<領野>=「ファイル」を使用し、自
己の≪体感的領野≫=OSを通じて多くの事象にあふれた豊穣なる外部世界(他者=客体)
を感受し意識し得たこと、そして外部世界(他者=客体)の中に自己自身の主体を生かす
ことが実現できたことによってしか認められないのである】


「現代のクソエリート集団」予備軍は、いい加減、気付けよな?w
579考える名無しさん:2014/06/16(月) 20:55:17.92 0
すgっえええええええええええええええええ 得体のしれない基督教
580physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/17(火) 00:41:43.34 0
【最も下等な教育方法は、「それを覚えること自体が目的である」というものである。
このやり方が、教える側にとってこの上なく不当なほど安易であるのは、教えられる側の
心の有り様などまったく考慮する必要が無いことで明らかだろう。 教える側は、ただ課
題を出せばそれでいい。 教える側の労働が過剰になる契機は、笑うべきことに「心を蹂
躙され教えられる側の人間を増やしすぎた」という反吐が出るような見苦しい「飽食性」
に由来するだけなのだwwww それで勝手に精神を病み「教えるのも楽じゃないんだ」
とかホザく始末(大笑) おまけに、心や意識というものにこれ以上ないほど鈍感で無知
で愚昧な多数の者たちは、その有様を見て教える側に同情するのだから開いた口が塞がら
ないではないか!!(呆笑)  心の不在の連鎖ほど恐ろしいことはない。 なぜなら、
覚える(学ぶ)こと自体が目的であるという何ともハチャメチャな自己目的性をもたされ
た教育の産物=心の<領野>=「ファイル」は、自分自身の人間らしい≪体感的領野≫=
OSの中で外部を拒絶し自己目的的に増殖しようとする「癌化した意志」を形成し、能動
的には外部へ凶悪な「ウィルス」となって出ようとするからである】


小学生から大学生まで下等教育を受けてきた「現代のクソエリート集団」が、
「癌化した心をもつウィルス」だってことが、これで分かったかい?w
581physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/17(火) 01:15:54.53 0
【かつて(ヤフー掲示板に棲息していた)癌化した心をもつウィルスのようなクズ哲(本
読み)に、こう聞かれたことがある。 「本を読むことはそれ自体が目的ではなく何か外
部のために読むのだ。 たとえば哲学の原書(外部)を解読するために語学を学ぶ(覚え
る)のは自己目的的な学びとは言えないのではないか?」 ・・・・・・・(唖然)
馬鹿も休み休みホザいてもらいたいものだ(苦笑)と、オレは答えていたと思う。
「哲学の原書」が外部って?(プッ) 「哲学の原書」が、それ自体何らかの意識(クオ
リア)を持っているとでも言いたいのか?(プップッ) 童話の世界のように「哲学の原
書」が言葉をしゃべり始めるとでも?(プップップッ) おまえは、そうじゃなくて「哲
学の原書」を利用して自分自身の脳内に「ファイル」を自己目的的に増やしたいと思って
いるだけなんだろ? 要するに、「哲学の原書」は、外部的目的性をもった何かというわ
けじゃなく、結局のところおまえの脳内の「ファイル」を癌化させる媒体でしかないわけ
だよ。 以上が、人間を「癌化した心をもつウィルス」に至らしめるプロセスにおける下
等教育の次の段階である】 


そんじゃ、またね☆w
582考える名無しさん:2014/06/17(火) 05:08:11.90 0
思考に癌があるようだ。
583physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/17(火) 13:31:56.08 0
【小〜中〜高〜大まで続く下等教育は、前掲で説明したとおり「哲学の原書」や「学校と
いう組織体」や「国家共同体」など、いわゆる「無主体的概念」について、あたかもそれ
が自己自身の≪体感的領野≫=OSにとって感受し理解し行為の対象となる何か意味のあ
る形式に違いないという錯覚をもたらすことになる。 実際の話、「無主体的概念」にす
ぎないそれらは、自己目的性という腐った心の有り様を隠すためのカバーの役割を果たし
ているので、それらの概念が肯定されればされるほど、そのことを信じる人間の心の<領
野>=「ファイル」は自己増殖し癌化していくのだ。 そういう意味で「庭先に落ちてい
る石ころ」も「無主体的概念」のひとつになり得る。 ただ「石ころ」から得られる情報
(記号)の量より「哲学の原書」や「学校という組織体」や「国家共同体」から得られる
それのほうが圧倒的に多いので、心の<領野>=「ファイル」は、より多いほうを選択す
るというだけのことである。 そこで働いている心の作用は、もちろん良心≠ネどでは
有り得ず、ただの自己増殖的自己目的的自己破壊的渇望≠セけなのである】


今日もやるぞ−♪(おー!)
584physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/17(火) 17:15:04.76 0
【「無主体的概念」の対象は、それ自体が主観的意識(クオリア)をもつ実体ではない。 
しかし、その概念を拡張して、あらゆる概念的対象に主観的意識(クオリア)を認めよう
とする考え方も確かにあるだろう。 ただ、そういった拡張解釈は、単にクオリアの存在
論的意味に言及できるだけで、クオリアについて真に問わねばならない重要な部分を見落
としているのである。 われわれがクオリアについて問うべきは、クオリアとは何である
のかということのみならず、クオリアは何を感じ何を思い何を為そうとするのかというこ
とに他ならない。 それを「クオリア」であると断定できるのは、それらすべての理解が
得られたときである。 そうでなければ、鳥に羽根があるのだから、すべての羽根が有る
生物は「翔べる」はずだと言っているような大して意味のない言明にしかならないだろう。 
そうであればこそ、「無主体的概念」への過度な関わりに違和感を持ち自己目的的意志に
よって心の<領野>=「ファイル」を正常に作動させるために、翔ぶことができる鳥だけ
を「クオリア」と呼ぶのは正しいのである】


以上!!w
585名無し:2014/06/17(火) 17:23:09.15 0
AmazonでKindle版の書籍書いて、出版してみた。
無料キャンペーンしてみたのでよろしくね。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00KZNPHWI
586physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/17(火) 17:24:00.79 0
>>584の訂正

× そうであればこそ、「無主体的概念」への過度な関わりに違和感を持ち自己目的的意志に
  よって心の<領野>=「ファイル」を正常に作動させるために、翔ぶことができる鳥だけ
を「クオリア」と呼ぶのは正しいのである


○ そうであればこそ、「無主体的概念」への過度な関わりに違和感を持ち自己目的的意志に
  よって癌化してしまう心の<領野>=「ファイル」を正常に作動させるために、翔ぶこと
  ができる鳥だけを「クオリア」と呼ぶのは正しいのである


めんご!!w
587physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/17(火) 18:14:20.64 0
【前掲で言われている「無主体的概念への過度な関わり」とは、たとえば、生命の無い「人
形」に対して、それが人間であるかのような関わりをもとうとすることである。 小さな
子供の一人遊びであれば、心の<領野>=「ファイル」に蓄積する思い(記号)の量も大
したことはなく自己増殖にまでは至らないのかもしれない。 だが、それを、ある程度の
期間ある程度の社会的ボリュームを取り込んで継続すると回復不可能な状態に陥る可能性
が高いということである。 具体的に言えば、人形の髪を人間にするようにクシで梳かし
てやる作業であれば、心の<領野>=「ファイル」に少しばかりの思い(記号)をもたら
しはするが違和感を抱くほどでもないだろう。 しかし、人形に人間が着るような豪華な
ウェディングドレスを着せたり、人形を旅客機のファーストクラスに乗せたり、人形を高
級レストランに連れて行きフルコースメニューを用意したりなどするようになると、そこ
には心の<領野>=「ファイル」の破綻を危惧する何かが感じられてしまうのだ。 その
人形のためになら他人を殺しかねない狂気を予感しないだろうか? そして「無主体的概
念」とは「人形」だけではなく「哲学の原書」「学校という組織体」「国家共同体」など
を含んでいるのである】


疲れたあ〜〜www (ひと休み♪)
588タックル!:2014/06/17(火) 19:44:34.01 0
ロードス島戦記

ヨウ素・ゴルゲット!

セシウム・マッスル!

ストロンチウム・フレーム!
589physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/18(水) 10:18:38.11 0
【ヘーゲルの言う「意識」は「一次的クオリア」の進展というより単なる迷走である。
そこには、外部を外部として認識する意図は皆無であり、すべては「一次的クオリア」の
反応に囚われている。 その反応にそぐわないものを悪≠ニし、反応にふさわしいもの
を善≠ニすることによって、世界は「永遠の卵子」として、おのれの善性を究めるのだ
というが、これは明らかに「処女がもつ破滅的発想」のような感じだ(苦笑) 
それは、まるでバベルの塔のような「意識」をもつ自己自身の周りに無主体的概念の砂漠
が広がっているかのような殺伐とした風景である。 その砂漠には、命の無い無数の「人
形」が屍を晒していることだろう(ブルブル) 
しかし、やがて、その砂漠の向こうから生きている別の主体が現れるのだ・・・・・。 
無主体的概念の対象ではない明らかに生きている主体が!!(ガーン)
それを受け容れること。 その別の主体の「意識」を実現するために!!(わかったか!!)
それが、「意識」自体の深化であり、二次的クオリアへの進化なのである】


おはよ−♪ 今日もガンバロー☆
590physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/18(水) 10:49:39.47 0
【ヘーゲル的「永遠の卵子的」意識は、たとえば地球外からエイリアンがやってきて、
そのエイリアンが見かけは不気味なんだけど、とても友好的で、人間との共存と交配を
求めてきたとき、どういう決断を下すかというと、ああいう不気味な存在は外部的に有
り得ない。 なぜなら、自分の意識に現れるものだけが存在しているもののすべてだか
らだ。 よって、あれは悪≠ニして否定されるべきである。 自分のかけがえのない
「意識」を守るためには、エイリアン撲滅しかないのだ!! という感じになるに決ま
ってるよねw   エイリアンと人間のハーフが出来たっていいじゃん!!!
それが幾世代も重なれば、優性遺伝子がそれなりの形を作り上げるんだからさ。 そう
いう「神様の意志」のような進化のプロセスを信じないで、自分の形に固執するのって
どうなのかなぁ〜〜って思うんだけど】
591physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/18(水) 10:51:07.33 0
>>590
どーよ?   ←忘れてたw
592physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/18(水) 22:39:33.88 0
【それにしても、ヘーゲルの信奉者が、個別的意識と共同体意識を安易に勝手に統合しよ
うとするのには参ってしまう。 まるで処女の女番長に追従する子分のように、懐胎を拒
否する頑なで脆弱な意識を、よほど普遍化したいらしいのだ。(苦笑) それが統合され
るということ、「然り」という答えが出てしまうということ、そのこと自体が「クオリア
の死」と「神の死」を同時に意味するというのに・・・・。 それが統合されるというこ
とは、それはすでに主観的意識(クオリア)の居る≪体感的領野≫を侵害しているのだ。 
それが統合されるということは、クオリアが居ない別の心の<領野>=「ファイル」を作
り出しているのだ。 クオリアこそ、神の分身であるのに。 それこそが、世界を意識す
る唯一の存在であるのに。 ちっぽけな共同体意識などを想定しそれに固執することによ
って、ヘーゲルの信奉者たちは世界そのものを失っているのだ】 

恐れるべきは、事象(N)を楽しめないことではない。
(N)以外の事象を楽しめなくなるであろうことなのである。
593考える名無しさん:2014/06/19(木) 19:45:40.46 0
>>590
「自分の意識に現れる、深化した主観的意識(クオリア)」は、
ヘ−ゲルの弁証法的展開による「合(ジンテ−ゼ)」としての深化した「主観」のか、
それとも、「自分の意識に現れるものだけが存在しているもののすべてだから」と記して
いるように、正(即自存在)と反(対自存在)の差異による“反復”と捉えているのでしょうか。
594physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/19(木) 22:30:32.06 0
>>593
あんた懲りないねぇ(苦笑)
ヘーゲル的弁証法が「深化」なんかするわけないじゃんwww
だって、バベルの塔みたいに上へ上へと馬鹿みたいに昇っていくだけなんだからさ。
そういう理解は世界レベルの哲学界じゃ常識だよ?w
だいたい、ヘーゲルなんて持ち出すのは今の日本のバカ政府が「富国強兵」政策まっし
ぐらだからってことぐらい気付けよな。 すごく危険な徴候なんだよ。
「自分の意識に現れるものだけが存在しているもののすべてだから」というのも、
ハーゲル、じゃなかったヘーゲルのおバカ思考であってオレのじゃないことぐらい気付
いてね(苦笑)

「深化したクオリア」というのは「二次的クオリア」のことで、これは外部を無限に取
り入れようとする「最強のクオリア」のことだよ☆
これでいいかい?w
595考える名無しさん:2014/06/19(木) 23:32:50.09 0
>>594
「客体」と「客観的」の違いについて、>>458で、「そもそも客観的存在というのは、
なにを意味しているのか、さっぱりわからない。自分のものの見方には「主観」ないし
「共同(間)主観」という概念しか有り得ない。」と述べている。

「深化したクオリア」とは、二次的クオリアのことで、「外部」を無限に取り入れようとする、と記しているが、
この「外部」とは、客観的存在ではあり得ない。「共同(間)主観性」の位置づけも、主観ワ−ルド内という捉えかたで
あれば、結局のところ「深化した意識」というのは「独我論」としての“論理”から抜け出ることが出来ず、
真の主観的意識(クオリア)に到達することは叶わないと思う。
596physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/20(金) 00:52:37.08 0
【ふと思ったんだが、ニーチェが「神」に死を宣告したように、オレは「言葉」を無主体
的概念として≪体感的領野≫から葬ろうとしているのではないか?  (だったらスゲ−
じゃん?w】


すべての主体が生きられる世界のために・・・・・(じゃ、またね♪)おやすみ!
597考える名無しさん:2014/06/20(金) 11:10:11.75 0
>>596
「すべての主体が生きられる世界」…この世界が、真の「主観的意識(クオリア)」ではないであろうか。
「真の主観的意識」は、どの様な思考過程で可能となるのか、それには、まず、「客体」と「客観的」の意味を明確に
することから始めなければならない。

>> 451で、“主体”は「物質的身体そのもの」と定義している、そして「深化した主観的領野」に於いては、
主体と客体は、「融合化(>>429)」していると述べている。 つまり、主体と客体は同じ「物質的存在」と定義している。

主観が「観ること」そして、「主体」を「物質的身体」と定義しているが、『客体』は「身体以外の物質的存在」として定義し
「客観的存在」は、自我(=主観)が観る(意識=精神)以外の“精神的存在”と位置づけられる。

従って、主観が「観る(精神)」と言うことは、主観の対極にある「客観的存在」も“観られるもの”として意識の中に
取り入れられているのである。
598physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/20(金) 16:23:36.66 0
【「言葉」への死刑宣告は、もちろん「言葉」自体への断罪ではない。それは、よく知られ
ているような「言葉」を使う者への糾弾でもないのだ。 同じ「言葉」でも賢人が使えば
よい解釈を導き愚者が弄べばとんでもない内容となってしまうだろう。 かといって、つ
ねに賢人が存在するとは限らず、それならばいっそ多数者に「言葉」を解放してしまえば
どうかという話になる。 そうすれば、神の見えざる意志によって、それなりの意味をも
った「言葉」が世の中に広まるのではないか。 こういうプロセスを経て、「言葉」は濫用
されることが社会的な常識となってしまった。 だがしかし・・・・・このことを責めて
賢人の不在を嘆いたり、愚者の集まりに唾棄しても無駄である。 われわれは、「言葉」を
使う者ではなく、「言葉」の管理者に文句を言うべきなのだ。 脆弱な≪体感的領野≫=O
S、脆弱な主観的意識(クオリア)によって、つねに感染の脅威に晒されている「言葉」を
放置し続けているのは紛れもなく「言葉」の管理者なのだから!!】
599physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/20(金) 16:24:49.67 0
【あらゆる心の<領野>=「ファイル」の中の感染した「言葉」への死刑宣告こそ、本来
的にすべての主体を生かそうとする≪体感的領野≫=OSをもつ主観的意識(クオリア)
が万感の思いを込めてやり遂げねばならぬ最後の絶対的使命なのである。 この使命感に
目覚めたとき、クオリアの謎は、「意識のハードプロブレム」の全容は一瞬で明らかとなる
だろう】     


おk?w  どやねん!!  (ま、いいけどw)
600physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/20(金) 18:13:45.71 0
>>595
あんたが相変わらずダメなのは、「主観的」=「独我的」という決め付けにあるのね。
で、「客観的」という所詮は「多数の主観」にすぎない概念を言語として取り出し無主体的
に「キレイゴトとして」ファイリングすることで、それが乗り越えられたとでも思ってる
わけなんだけど、それって結局、心の<領野>=「ファイル」の自己目的性が招いた汚染
でしかないんだよw
つまり、あんたの考え方では、独我的な主観的取り込みも「言語汚染」だし、客観的と称
する原理的認識も「言語汚染」で、どーしようもないわけさwww
「言語汚染」が発生するのは、≪体感的領野≫をもつ主観的意識(クオリア)の脆弱性に
起因することで、客観がどうのとかいう問題では全然ないわけね。
要するに、言語を客観的に取り出して主観的(独我的)認識を乗り越えようなんてガキみ
たいな発想してる段階でアウトなんだ、あんたの場合。

お気の毒さま★w  
601考える名無しさん:2014/06/20(金) 19:07:32.47 0
客観的存在というのは幻想に過ぎないということなのか、それとも

主観的存在しかこの世に存在しないということにもとれる。
602physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/21(土) 09:08:49.57 0
>>601
>客観的存在というのは幻想に過ぎないということなのか

まあ、物理学の時代がもたらした「客観幻想」という最大最凶のウイルスだよね、それってw

>主観的存在しかこの世に存在しないということにもとれる。

客観的な何事かに従うべきだ、という「感染」を引き起こし人間らしい≪体感的領野≫がボロボロズタズタに
されることを回避する意味で、その理解は正しい。
まだ腑に落ちないようだがwww

それは、あんたが現状、「感染」に無頓着で、たまたま儲かっている医者だからだよwww
自分自身の「客観」と称する「いい思いができる」立場に固執してるだけ。


おわかり?w
603考える名無しさん:2014/06/21(土) 12:28:19.69 O
だから、主観しかないんだったら、自分が「いい思いができる立場」に固執するのは当たり前だろうが。
他人のナントカ領野が客観的に血にまみれていようがクソにまみれていようが、知ったことかよw
604physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/21(土) 12:39:46.90 0
>>603
>主観しかないんだったら、自分が「いい思いができる立場」に固執するのは当たり前

マジで言ってんのか?(呆笑)
テメーが「いい思いができる」立場に固執するのは主観的意識(クオリア)のせいだって?www
じゃなくて、オレは、ただ単にあんたが客観的な何事かに従うべきだという「客観幻想」
に感染してるからだと思うぜ。
クオリアに罪をなすりつけちゃいけないねぇ・・・テメーがバカなだけなのに!!!

>客観的に血にまみれていようが

はい、0点。(プッ) なんにも理解してないのに勝手に吠えないでねwwwwwwwww
605考える名無しさん:2014/06/21(土) 12:52:14.87 O
だから、客観幻想に染まっているのは、俺の主観的意識なんだろ。それとも脳のナントカ領野かw
まあそんなことは全く問題ではないんで、俺にとっては俺がいい思いができることだけが重要で、それ以外は完全にどうでもいいってことだよ。いい加減に理解しろw
606physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/21(土) 13:59:58.08 0
>>605
どこまでアホなんだ、おまえって(ゲラゲラ)
≪体感的領野≫=OSの中に、有害なウイルスを含んで、しかも癌化した心の<心の領野>=「ファイル」
を作成したのは、テメーだろ!! って言ってんだよ、マヌケが!!!!WWWWW

それをOS=≪体感的領野≫をもつ主観的意識(クオリア)のせいにするアホが、どこに居るんだ、ドアホ!!!! 
テメーが「いい思いができる」というのは、テメーの癌化した小汚い「ファイル」を開いたときに確認できる
ただの感想だ、クソヴォケ!!!!
テメーみたいなクサレ外道が、≪体感的領野≫=OSを通じて癌化したウイルスまみれの「ファイル」を外部に
バラ撒き感染させるのだ、カス

功利主義の原理とか(失笑)必死に信じてるバカが居るんだな今どき(笑)憐憫)
607考える名無しさん:2014/06/21(土) 15:25:25.12 0
深化した主観的意識(真のクオリア)を持つ「体感的領野」」は、一元論的に認識されるが、
この「深化した主観的意識」を基底として分析された「種々の批評」には、優れた意見も多々見受け
られる。なるほどと感心する鋭い社会分析もみられるし、第三者が納得する文書作成も多々みられる。

しかし、我々が読んでいて次に感ずるのは、「深化した主観的意識」により、既成概念の「解体」による
鋭い分析を、どの様にして、今の社会に“合法的”に生かしていくべきかと言うことです。

つまり、「深化した主観的意識」による既成概念の「解体」と、その次にくる「再構築」が“体感的領野」にある
「真の主観的意識(クオリア)」に求められている。
608physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/21(土) 16:54:42.98 0
>>607
>「深化した主観的意識」による既成概念の「解体」と、その次にくる「再構築」

たとえば教育の分野では、≪体感的領野≫=OSの中に<数的領野>という汚染した「フ
ァイル」を作成してしまう忌まわしき【学校制度】を解体し、既存の学校という特殊な環
境の中で数的に劣ることによって疎外感をもってしまう半数以上の生徒を、すべて社会へ
出し社会の中で必要とされる人間に育てられるようなネットワークを構築する。
これによって既存の学校は大量に整理統合されるだろう。 そして何よりも重要なことは
クソみたいな教育者に必要とされるだけの脆弱な≪体感≫しかもたないクソ野郎の社会的
価値が今とは比較にならぬほど下落し、より広い世界からより多くの人々に支持され必要
とされる者、つまりは強い≪体感≫をもつ真に優れた人材が正当に注目されるようになる
というところにある。 

ちなみに、前者の「クソみたいな教育者に必要とされるだけのクソ野郎」というのは、客
観幻想に取り憑かれコピペし自己増殖した「ファイル」を使って論文を作成しちゃったリ
ケジョの彼女のことではないw  後者の「強い≪体感」をもつ真に優れた人材」という
のは、中卒で進学を諦め銀座のホステスになってドイツにわたって一旗上げた広島県出身
の彼女のことではないwww 
オレは、これに関して具体的に何をやっているかというと、後者のような人材を色んな意
味で求めている。 仕事に関しても、それ以外のことに関してもな!
609考える名無しさん:2014/06/21(土) 17:15:35.93 0
>>608
永遠の無限ループって苦しそうだね。
610考える名無しさん:2014/06/21(土) 23:25:44.19 0
>>1
個人ブログでやれば?
611physica ◆xjYUbW7jT6 :2014/06/22(日) 09:28:48.87 0
【こういう考え方も何かのヒントになるかもしれない。 独我的な観念を心の<領野>
=「ファイル」に自己増殖するガン化した言語群だとすれば、それを絶対に≪体感的領野≫
=OSの中で破滅的に増殖し続ける文字通り「死に至る病」と捉えるのではなくて、十分
に共存できるものとして受け容れるのである。 つまり、ガン細胞=独我的観念も、主体
の中で正常な主観的意識(クオリア)とともに生きることができれば何も問題はないとい
うことだ。 必ずしも客観性という「メス」で切り刻む必要はないというわけだw】


ガンは、もしかすると「身体的物理的疾病」と「精神的主観的意識的疾患」の間にあるの
かもしれないね☆
612考える名無しさん
>>611
体感的領野(os)の中に、独我的観念と正常な主観的意識(クオリア)を
十分に共存できるものとして受け容れる。 これは、大変良い発想であると思う。
独我的観念を十分に“共存できるもの”として受け容れる体感的な意識が、更なる深化した
主観的意識(真のクオリア)を構築していくものと思う。

ガンは、「身体的物理的疾病」のガンと、「精神的主観的意識的疾病」のガンとして捉える方が
「理」にかなっていると思う。