1 :
考える名無しさん :
2013/10/25(金) 19:54:14.78 0 カール・ハインリヒ・マルクス
(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)
1818年 プロイセン王国トリーアに生まれる
1836年 検事総長の娘イエニーと婚約
ボン大学、ベルリン大学、イエナ大学に入学
1841年 イエナ大学への学位請求論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』により哲学博士
1842年 ケルンで創刊された「ライン新聞」主筆を務める(翌3月失職)
この頃フリードリヒ・エンゲルスと出会う
1843年 イエニーと結婚
パリに移り『独仏年誌』出版
1845年 プロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけでパリから追放され、ベルギーのブリュッセルに移る
1846年 ブリュッセルでエンゲルスとともに「共産主義者同盟」の結成に参画し『共産党宣言』を起草
1848年 フランス二月革命のため夫婦とも警察に抑留され、パリにもどる
1849年 エンゲルスの招きに応じてロンドンに亡命
1851年 ニューヨーク・トリビューン紙特派員となり、1862年まで多数の記事を寄稿
ロンドンで結成された第一インターナショナルに参加
1867年 『資本論』第一巻刊行
1871年 パリ・コミューン
1881年 妻イエニー逝去
1883年 ロンドンで逝去(65歳)
1850年から亡くなるまで毎日大英図書館に開館から閉館まで通っていたといわれる
1889年 エンゲルスにより『資本論』第二巻編集・出版
1894年 エンゲルスにより『資本論』第三巻編集・出版
前スレ
カール・マルクス 4
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1364436602/
>>1 乙
スレ文は前のさらに前のスレのあれもよかったな
「マルクスのテキストをマルクスとして読む」とかいうやつ
>>2 ご指摘ありがとうございます。
自分の主観が入らないように、ごく簡単な年譜だけにしました。
ご海容ください。
保守、というとマルクスらしくないので、革命。 意味不明だけど。
全スレが不可解な落ち方をしたのだが・・・
ごめん。前スレッドの誤変換。
>>7 そういえばそうだね。
コテが連投し始めたんで、削除依頼でもでてたんだろうか?
保守
11 :
高橋裕次郎 :2013/11/05(火) 18:07:51.02 0
sageてる場合じゃない これ、マジ
>>11 前スレでコテがデタラメ書き飛ばしはじめちゃったんで、懲りたんだよきっと。
宗教は阿片、すなわち麻薬として機能することがある。 麻薬は脳内の幻想の世界での幸福を個人に与え、錯覚させることができる。 宗教は現世の人々の苦悩をすべて個人の脳内問題、心の問題に還元して片づけてしまいがちだからだ。 宗教にとっては、あなたが不幸なのはあなたの気の持ち様が悪いせいでしかない。 あなたの信仰心が足りないせいなのだ。すべては自己責任。心の修練が足りない個人の自己責任なのだ。 マルクスは宗教の持つこうした面に大きな不満を感じていたんだろ? これは宗教に対する偏見だと宗教家は反論する? それともそのとおりだと認める? 前者ならば、あなたは宗教家でありながら、すべてを心の問題に還元しない唯物論者でもありうる。 きっとマルクス主義者と協働することができるだろう。
その「宗教」はもっと広く「教条的世界観」に置き換えられることをスターリンらが実証した。そしてその教条的世界観 という麻薬に対してはマルクス主義も無力だ。
大麻と覚せい剤。 有機物と化学合成物質。 この違いが重要だ。 (純粋主義的全面禁止は両者の違いを隠蔽してしまう。) これらは、科学的にも流通経済的にも単純再生産と拡大再生産の違いに対応する。 アメリカで医療用の大麻が使用されるように、大麻は解禁されるべきだろう。 一方ケミカルな薬剤は規制されるべきだ(一般人ではコントロール出来ない)。 花田清輝が、単純再生産=ユートピアとみなしたのは正しい。
>>14 スターリンは社会変革ではなく個人の内面の心の変革に階級闘争を還元したのか?
それならスターリンもマルクスが批判した意味での宗教と同じだ。
ただし注意しておかなければならないは、
ソ連は教条主義的なマルクス主義史観に反して革命の段階を歴史的に飛び越えようとしたこと。
その時点でマルクス主義の教条主義からは大きく外れているんだよ。
マルクス主義の頑固な教条主義をもっていたプレハーノフやメンシェビキの目から見れば、
レーニンやトロツキーの考え方は反教条主義、よくて修正主義だった。
スターリンがやったのはソ連の国民を急激な工業化の歯車・労働力機械にすることだった。
歴史を飛び越えて社会主義を実現するために開発独裁的手法をとった。
それははじめ、日本に次ぐような経済成長を実現した。
ちなみに、毛沢東も教条主義をもっとも嫌っていたことで有名だ。
毛沢東らが走資派と揶揄したトウ小平らの実権派のほうがマルクス主義の教条主義に近かった。
ゆえに毛沢東からトウ小平に実験が戻ると、中国は改革開放となづけた資本主義化・市場経済化に
それ以前より積極的に取り組んでいったわけだ。
マルクス主義の教条主義的な唯物史観とはそもそも 「資本主義化なくして共産社会の実現なし」というものだよ。 初期のころのマルクスはブランキ主義に傾倒していたが、 ヨーロッパ各地の社会主義者と共闘する過程で次第に そういった史観を共有するようになっていく。 ヴァイトリングとマルクス派との対立はそれを象徴する出来事だった。 マルクス主義の教条主義的な史観にもとづけば、 少なくとも当時のロシアや東欧で共産革命が実現することはありえない。 アジアでは尚更ありえない。 いやでも実現したじゃないか、というのはレーニン&トロツキー主義の立場。 そのレーニンやトロツキーでさえ実はロシア革命を共産革命だとはしていない。 だって、彼らもそれがマルクス主義史観に反することを知っていたわけだからね。
>>11 アゲるからこういうのが混じっちゃうんだよ ヽ(o`ε´o)ノ
またDAT落ちさせますか? さすがに18ではマズイでしょ。
>>19 哲学板はなかなかDAT落ちしないよ。
前スレがなんで落ちたのかは知らないが、スレが少ないからでも間隔があいたからでもないだろう。
俺の書き込みに誰も反論できなかったんで、前スレおちたんでしょ。 ハッハッハッw
(;-_-) =3 フゥ
レーニンはマルクスが亡くなった時、わずか13歳であったというから マルクスと会ったり、書簡をかわしたりしてたはずがないね。 マルクスが一番よくしってたロシア人といえば、バクーニンだろうよ。 バクーニンはプロ独に反対してたと、バクーニンについての記述に あるな。独裁制の弱点については、バクーニンのほうがよくわかってたと いえるな。 プロ独だろうと、そのほかの独裁制だろうと、独裁制には根本的な 欠陥があるということは、昔からよく知られている。 革命を成し遂げる ためには独裁権力がたしかに必要だろうが、革命をなしとげたあとには その独裁権力自身が革命を蝕むという、そういう図式であるね。
レーニンはプロ独の思想はマルクスから受け継いだんだろうが 革命のやりかたについては、バクーニンから受け継いだわけだろうな。 まったく非合法な手段で革命やったわけだからね。
資本主義が矛盾を含む故にいつか崩壊するなら、資本主義が発達するのを待たなくても、最初から 資本主義の後に来るべき体制を構築すればいいんじゃないの?
>>26 マルクスがプチブル社会主義、エンゲルスがユートピア社会主義と
名付けたものがそれだね。
ロシアでいうとナロードニキがそれに近い。
ナロードニキはロシアの資本主義化については否定的な認識だった。
対して教条主義的なマルクス主義者であるプレハーノフは
封建社会->資本主義社会->共産社会という段階的な史観に固執して、
ナロードニキと論争した。
レーニンとトロツキーの考え方は、純粋なマルクス主義というよりは
ナロードニキとマルクス主義の雑種っぽい。
ナロードニキの流れを汲むエスエル党左派がロシアの農民の圧倒的な支持を得て、
ボルシェヴィキ党は都市のプロレタリアートと軍人から支持を得ていたらしい。
当時のロシアは農業国で、都市部では工業化がすすんできていたものの、
ロシア帝国全体から見れば、第一次産業が主流で国民の大多数が農民。
プロレタリアートは少数派だったから、
ロシア全体ではエスエル党左派のほうがずっと人気があった。
マルクスは農民が共産革命の主体になるということにどちらかというと否定的で、
アジア的専制の段階を脱却しておらず、右翼的な革命になってしまうと考えていたようで、
資本主義化(ブルジョア革命)がプロレタリアートを生み出すとともに個人主義や
民主主義をその社会に定着させるだろうという展望をもっていたようで・・・
つまり、その段階を経ずに一気に共産社会を実現しようとするのは唯物論に反しているから
非常に無理なことで、必ず失敗に終わるユートピア社会主義だということなんだと思う。
共産主義というのは、労働者の利益と解放を目指す日々の運動のことじゃないの? マルクスはそう言ってるけど?
>>27 なるほど。マルクスの考えていた共産主義社会は、原始共産主義社会とは違って
個人主義的で民主主義的な精神を前提にしており、なおかつ、その精神は資本主義
によって涵養されると考えていたということですか。
マルクスは共産主義社会なんて具体的には考えてないんじゃない? ただ夢物語として、搾取がなくなって人々が貨幣に振り回されない世界を思い描いただけじゃない?
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/1033.html 『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』より
五 協同組合運動(労働)
…
(イ)われわれは、協同組合運動が、階級敵対に基礎をおく現在の社会を改造する諸力のひとつ
であることを認める。この運動の大きな功績は、資本に対する労働の隷属にもとずく、窮乏を生み
出す現在の専制的制度を、自由で平等な生産者の連合社会という、福祉をもたらす共和的制度とお
きかえることが可能だということを、実地に証明する点にある。
(ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の
零細な形態に限られるかぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社
会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変
化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力
を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することはできない。
(ハ)われわれは労働者に、協同組合商店よりは、むしろ協同組合生産にたずさわることを勧め
る。前者は現在の経済制度の表面にふれるだけであるが、後者はこの制度の土台を攻撃するのであ
る。
(ニ)われわれは、実例と教導との双方によって、言いかえれば、新しい協同組合工場の設立を
促進することと、また説明し説教することの双方によって、協同組合の原理を宣伝するために、す
べての協同組合がその協同収入の一部をさいて基金を作ることを勧告する。
(ホ)協同組合がふつうの中間的株式会社(societes par actions)に堕落するのを防ぐため、協
同組合に働くすべての労働者は、株主であってもなくても、平等の分けまえを受け取らなければな
らない。たんに一時的な便法として、低い率の利子を株主に支払うことには、われわれも同意する。
1866年8月末 ジ・インタナショナル・クリア 1867年2月20日 第6号・第7号 大月全集第16巻 189ページ
>>23 >>24 なんだよ、「プロ独」って。
マルクスは「プロレタリアのDiktatur」とは言ってるが、「プロ独」なんて言ってないし。
マルクスを別にしても、唐突に「プロ独」なんて出てくる思考はどうしてもおかしい。
33 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 08:19:09.83 P
>>31 やっぱりマルクスが考えていたのは俺の考えに近いな
資本主義国で共産党が政権をとる
その条件で下からの改革を漸進的に進める
これしかないな
>>32 プロレタリア独裁のことを、日本ではプロ独って訳することがあるのさ。
そんなの常識〜♪
某所より引用
>プロレタリア独裁(プロレタリアどくさい、ドイツ語: Diktatur des Proletariats、
>英語: Dictatorship of the proletariat)とは、階級独裁の1種で、
>プロレタリアートによる独裁のこと。労働者階級独裁、無産階級独裁とも
>訳される。日本では、「プロ独」とも呼ばれる。
「訳する」じゃなくて、「略する」といったほうがいいな。
36 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 23:00:18.05 0
共産革命が一気に実現可能かという問いに否と答えるかたちで、 革命が漸進的な社会改良によってすすめられるということを エンゲルスはすでに『共産主義の諸原理』の時点で述べている。 革命が実現するとすればまず民主政治が実現され、そのもとで イギリスのようなところではプロレタリアートが直接的な統治に携わるだろうが、 フランスやドイツなどでは間接的な政治関与にとどまるとしていた。 メンシェヴィキの見解はこれに倣ったもので、ロシアで革命が実現しても、 政権与党の座につくのはブルジョア政党であって、プロレタリア政党は野党の座に とどまって間接的にこれを批判しかつ支える立場にあるということを示唆していた。 レーニンもロシア革命当時、ロシア革命が社会主義革命であることを否定しており、 (かといってブルジョア革命ではないともしているが・・・) ソヴィエト連邦に社会主義秩序を導入することをとんでもなく馬鹿げたことだとしていた。 この見解はトロツキーも共有していたし、メンシェヴィキら、他の社会民主党 (共産党はその当時社会民主党を名乗っていた)の人々もそうだった。 『収容所群島』で引用されているプレハーノフの公開書簡でも、ロシアで社会主義を 実現することは時期早々としていて、プロレタリアートの利益にならないと書いてある。 こうして本来のマルクス主義の教条主義的見解を見てみると、 その後の歴史がマルクス主義の教条主義的見解から大きく外れたのだとは思われないのだよ。
37 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 23:03:38.22 0
レーニンは、プロレタリアートによる民主主義的独裁という言い方をしていて語義矛盾に思えるんだけど、 マルキストがもともと、ブルジョア民主制をブルジョアジー独裁と見なしていた立場からすれば、 ああそういう意味なんだと納得できるんだよね。
38 :
考える名無しさん :2013/11/07(木) 23:31:11.92 0
マルクス=エンゲルスの教条主義に反する一国社会主義については トロツキーがスターリン体制のそれを批判して問題にしつづけたことだけど、 『裏切られた革命』でもその名が挙げられているとおり、 ドイツの政治家で社会民主主義者であったゲオルク・フォン・フォルマルという人物が 『孤立した社会主義国家』という論文で、 社会主義革命が実現するとすれば、最初は一国社会主義としてはじまるのが いちばんありえそうなことだ、ということを記していたらしい。 フォルマルは、私有制の廃止などの改革も性急に行うべきでないとし、 市場は国家の規制を受け入れつつも、国家もまた市場において個人個人と 競争せねばならないと説いていたようだ。
プロ独についてのマルクス主義のドグマを検討するなら、プロ独の テーゼを示したゴータ綱領批判を検討するのが、正しいドグマティストの ありかたであろうが、プロ独についての論をエンゲルスの解釈に もとめようとは、ずいぶんと腰のひけたドグマティストと思わざるえないなぁ。 まあ、マルクスがプロ独が必要と考えたのは、なにも伊達や酔狂から ではなく、ドイツ革命やパリ・コミューンが当局によって鎮圧されたと いう現実を観察した結果導かれたものなわけだな。そういうことで 革命遂行のためには独裁が必要というのは、現実の観察から 導かれたテーゼであるということはいえる。 レーニンはロシア革命は社会主義革命であることを否定したって プロレタリア独裁であることは否定してないわけだからねえ。 カウツキーがソビエトは独裁だって非難したのに応じて、レーニンは ソビエトはプロレタリアートによる民主主義的独裁だって応じた わけだな。カウツキーの非難は、バクーニンによるマルクスへの非難の 焼き直しといえるな。
あの「独裁」は誤訳だよ。 あの場合のDiktaturは「独裁」ではなく「権力を取ること」の意味でしかない。 あの文章は、「今の状況を変えるにはプロレタリアが権力を取るしかない」と いうニュアンス。 「独裁」だと、前後のつながりから文章が不自然になってしまう。 具体的な政治形態を述べている箇所ではないのに、唐突に「独裁」と いう言葉がでてくるのはおかしいんだよ。
で、バクーニンはマルクスに敗れ、カウツキーはレーニンに敗れた わけだ。正しいテーゼが間違ったテーゼ、反対のテーゼに打ち勝った わけだね。ところが打ち勝ったはずの正しいテーゼも、ずっと勝利者の 地位を保てるわけではないので、現実の歴史にあっては、敗れたはずの 反対テーゼによって、乗り越えられてしまう。 これこそがヘーゲル的 弁証法、歴史学における弁証法の真髄といえようw つまり、マルクスとレーニンといえど、弁証法的論理展開から離れた 絶対不変のドグマ的存在とはいえんってことだな。
>>40 Diktatur,Dictatorshipってのは、独裁って訳するのが普通で
それでなんも問題ないから。 どの字引みてもそうだからw
いや、「プロレタリア独裁」なんて、今どき恥ずかしいぞ。 今の常識では訳語は「プロレタリア執権」だよ。 マルクスは民主主義的な議会も利用するものは利用する立場だから マルクスの考えに「独裁」はそぐわない。
プロレタリア執権ってのは、プロレタリア独裁じゃイメージがわるいってんで 共産党あたりが考え出した訳語だろ? もともとの訳語で十分だよ。 Diktaturを「執権」って訳するなんて、日本人ならやはり執権北条氏を 連想してしまうわなぁ。北条氏ってそんなにイメージ悪くないので、「執権」と いう訳語も「独裁」ほどキツイ言葉ではないね。 しかしまあ、そんなのは訳語の正確性とは関係ないねw Diktaturは 「独裁」と訳するのが正しいねw
45 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 02:26:50.17 0
マルクスとエンゲルスら義人同盟が『共産主義宣言』を書いたころには 欧米社会でもまだ普通選挙は実現しておらず、 貧しいプロレタリアートに選挙権は与えられていなかった。 この時代がブルジョア独裁だったという見解を字義通りの意味で 今日の人々も認めるのではないだろうか? この時代の革命家たちにとってはまず普通選挙を実現することが先決だった。 ただしバクーニンらアナキストとっては普通選挙すらも詭弁に過ぎず、 代表による独裁が実現してしまうものでしかなかった。 過渡的な国家、プロレタリアートの国家であっても、国家であるかぎりは 独裁の本質を逃れられない。 これに対してマルクス派は国家を維持する過渡期というのは避けられないとした。 エンゲルスに言わせると、国家というのはプロレタリアートが引き継ぐ害悪でしかない。 害悪をできるだけ捨て去って、そしていずれは国家そのものを捨て去ってくれる 新しい世代が現れるだろうということになる。 つまりこの論争は、革命後に国家を即座に破棄できるのかできないのかを めぐる論争だったと考えるべきだろう。
46 :
考える名無しさん :2013/11/08(金) 03:02:01.84 0
『国家と革命』を記したときのレーニンにとって、 プロレタリアートによる民主的独裁が必要とする国家とは 死滅に向けて速やかに歩き出した国家でなくてはならないとされていた。 そして、プロレタリアートの代表が官僚化してしまうのを防ぐために、 マルクスとエンゲルスの考えた方策が実現されねばならない、とした。 すなわち ・選挙制+解任制(リコール権) ・労働者の賃金水準を著しく超えない国家公務員の給料水準 ・誰もが官僚になれ、すなわち誰もが官僚になれない状態へ性急な移行
(四) NAMは、その組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する。
すなわち、それは、選挙のみならず、くじ引きを導入することによって、代表制の官僚
的固定化を阻み、参加的民主主義を保証する。
(4) NAM's organization and movement themselves embody what it intends to realize.
Namely, by way of introducing the lottery into the election process (I will explain this
later), it prevents a bureaucratic fixation while at the same time guaranteeing a
participatory democracy.
『原理』(太田出版2000年11月9日)p17-19
http://nam21.sakura.ne.jp/nams/nampri.html http://web.princeton.edu/sites/sics/NAM_principles.pdf !
「Diktatur」ってドイツ語にとっては外来語であって、 ローマ時代の「執政官」に由来する言葉だったはず。 「執政官」を「独裁官」って訳すのもおかしい話である。 それ以前に、マルクスのあの文章には「独裁=プロレタリアートが単独で」 の意味はどうやっても見出せない。イメージの問題なぞではない。 「ブルジョア独裁」の反対解釈だと無理やり弁解するのも苦しすぎる。 文章の前後関係からマルクスの意図を汲んで素直に読み取るべきだ。 古い用語の誤訳は誤訳と認めるべきだ。
誤訳であったとしても、よく読み込めば誤訳による誤解はほとんどなくなるよね。 スローガン的に言葉を使おうとすると、誤訳が独り歩きする子はあるんだろうが。 有名なのが「Show the flag」かな? 当時の日本のアメリカ特派員や自民党の政治家は、「旗を見せろ=自衛隊を派遣しろ」ということだと理解した。 一方で、普通の使い方としては「旗幟を鮮明にしろ=立場を明確にしろ」という意味だと言う指摘もあった。 結局、スローガン的な言葉というのは、都合のいい方に理解されたり使われたりするだけのことなので、実際には文脈の中で理解するほかはないということだろう。
「執政官」はローマ時代においては「コンスル」とよばれてたので 「Diktatur」の語源は、ローマ時代のディクタトル「独裁官」に由来 するの。 ちっとは調べてから書き込めよな。
>>50 それが事実でもそうじゃなくても、語源と訳語は関係ないんじゃないか?
>>51 >「Diktatur」ってドイツ語にとっては外来語であって、
>ローマ時代の「執政官」に由来する言葉だったはず
おめ〜は
>>48 のこの発言をまず説明しろよ。
Diktaturが「執政官」に由来するとか、デタラメこきやがってw
>>52 それ、別人だからw
横だとことわっておけばよかったね。
そこまで文体を読み取れないとは思わなかった。
そんなことだから、なんて言うと、罵詈雑言になっちゃうから、やめとくw
>>48 それは現在の日本共産党の公式的な見解とほぼ同じじゃないかな。
マルクスは、ブルジョワジーの価値観とプレタリアートの価値観は根本的に異なる、という理論を構築した人 なのだから、両者間の対話による歩み寄りが可能とは考えないはずだと思うけど。
マルクスは、資本主義経済を土台とする社会には、マクロ的におおざっぱに見て、 利害関係が異なる二大階級が出現するとし、この二つの階級が自らの利益を 追求しようとするときに生じる矛盾と摩擦に注目しました。 一方は少数派ながら社会秩序的に経済的利権を掌握する階級であり、 他方はそれを持たず、自らの生計の源泉となる購買力を得るために 労働の自由をその階級に売り渡すことで、自らの利益をそこに隷属させる階級であり、 ただし、資本主義の発展とともに次第に多数派を形成することになる階級です。 マルクスは、前者をブルジョアジー、後者をプロレタリアートと名付けました。 今風にいえばこれは、 ブルジョアジーとプロレタリアートという階級モデルに基づいたゲームの理論です。 ブルジョアジーとプロレタリアートという二大階級が繰り広げるゲームから資本主義 の構造と動向を分析しようという方法論です。 『共産主義宣言』が発表されたころには欧米にも普通選挙が実現していなかったですから、 ブルジョアジーは少数派でも政治的な権力を掌握できる事実上の独裁的身分にありました。 これをブルジョア民主主義と呼びましょう。 『共産主義宣言』を記した義人同盟のころのマルクスたち共産主義者にとってとりあえずの目標は、 普通選挙を勝ち取ることでした。 資本主義の普及と発展は自ずからプロレタリアートという階級を人口動態的に増大させていきます。 つまり、資本主義はプロレタリアートを数の面でブルジョアジーに対抗する勢力に育んでいきます。
ブルジョアジーとプロレタリアートの利害関係は異なるベクトルを向いているものの、 いかなる意味でも協力ゲームが成り立たないという意味ではありません。 それどころか、互いに意識せずして相手の利益を生産しています。 ただし、プロレタリアートはその利益に当面は与かれないというだけのことです。 資本主義経済体制が堅持される度合いに応じて。
>>53 別人? 別人ならはっきり別人と言えよ。
>>50 についてレスが
きたなら、
>>50 の内容は
>>48 へのレスなんだから、当然
その流れでレスするわな。この板はIDもでないんだから
別人だとはっきりさせるなら、コテつけるなり、
>>48 とは
別人だが…と最初にことわっておくべきだったね。
そんなこともはっきりさせないで、たった一行のレスで
文体がどうとかいいだすなんて寝言もいいとこだな。
おめ〜が文体を云々するなんて三百年はやいね。
罵詈雑言やりたいなら、別に俺はとめないよ。好きに
すればいいんじゃないの? ただしそれなりのカウンターが
返ってくることは想定しておけよなw
誤訳が一人歩きしている例はいくらでもあるね。 mit Gewaltやgewaltigを「暴力で」と訳したり
Dikaturを「独裁」と訳するのは誤訳じゃないからw それを誤訳だというのは、世界広しといえど日本共産党 だけだな。
kapitalistische/kapitalistischer/kapitalistischenを 「資本家的」と訳さず「資本主義的」と訳すのも誤訳だ と指摘している人もいたりする。 マルクスには「資本主義 Kapitalismus」という概念がそもそもない。 資本論にはそんな言葉はどこにも出てこない。 空手家の故廣西元信さんあたりに言わせると資本論は誤訳だらけ。 基本的な概念が誤訳から成り立っている。 彼の資本論解釈に同意するマルキストは少ないと思うけれども。
廣西元信氏のそれはアソシエーション論を先取りするもので、 今日では意外と賛同者がいそう。
>>58 そんなに悔しかったの?
かわいそうにねw
君は、中学生なのかな?
それなりのカウンター、とかw
君のレベルの書き込みをひとつでも読んであげただけたんだから、感謝して欲しいくらいなんだけどねw
これにレスしても、もうレスは返さないよ。
カウンターが怖いから、逃げちゃうんだw
マルクスにとって株式資本は、資本家的生産様式の矛盾をはらんだ最高の形態の一つで、 共産主義へと飛躍する可能性をもったものとされます。 資本家的生産様式内での資本の揚棄だとまで言い表されています。それゆえに矛盾をはらむ。
資本家的生産様式によって発達するのは個人主義化された生産ではなく、 大規模に組織化された集産なのです。会社的な生産、それが発達します。
>>61 >>62 廣西という人をネットで見てみると、スターリン型国家社会主義が日本語への誤訳に基づいてるみたいな話になってる。
紹介してる人がなにか混乱してるのかも知れない。
アソシエーションだって、もともと英語じゃないの?
マルクスは言うまでもなく世界各国の言葉に翻訳されてる。
それぞれの言葉の成り立ちも社会的な背景も違うから、同じ原語でも場面によって違う言葉に訳した方がいい場合も多いし、逆に、違う原語を同じ言葉に訳した方がいい場合もあるだろう。
一つの単語は一つの訳語、なんてことができないことぐらいは想像がつきそうなものだ。
学会で無視されてたとかいうのも、ネット情報で見る限りではだけど、当然だと思うな。
>>64 >>65 >資本家的生産様式
日本語としておかしくないんだろうか?
資本家というのは、資本を持ってる人、という意味だ。
資本を持ってる人が実行する生産のありかた?
マルクスは社会のシステムとしてこうした表現をしているわけだから、資本主義的生産様式、のほうが適切じゃないのか?
資本主義に基づく生産のありかた。
こっちのほうがわかりやすいし、元の主旨に近いと思うが、どうだろう?
資本主義Kapitalismusという語の使用がカール・マルクスの膨大な文献においてほぼ皆無であり、
形容詞形のkapitalistische/kapitalistischer/kapitalistischenを「資本主義的」ではなく「資本家的」
と訳すべきだという見解は、重田澄男氏が『資本主義とはなにか』で論じておられることです。
>>67 > マルクスは社会のシステムとしてこうした表現をしているわけだから、
> 資本主義的生産様式、のほうが適切じゃないのか?
「資本制生産様式」と訳しておられる方もいらっしゃいますね。
しかし重田澄男氏によると、「資本家的」とするのがもっとも適当だということになるようです。
どの見解が正しいかどうかはともかくとして、訳語をめぐってこのような論争があった、
議論があった、ということを知っておくのは無駄ではないと思います。
資本主義という言葉を有名にしたのはマックス・ヴェーバーの用いた概念 「der Geist des Kapitalismus」ではないでしょうか。 これはマルクス主義の唯物史観に対する一種の反証的試みですから、 資本主義という用語を使うのはどちらかといえば反マルクス主義的なのです。
>>66 おっしゃいますとおりで、associationは英語(アソシエイション)ですが、
フランス語(アソシアシオン)でもありまして、
ラテン語->フランス語->英語という順番で英語に入ってきたと考えられているようです。
マルクスはドイツ語の他にフランス語も使えました。
エンゲルスと違って英語はどちらかというと苦手だったようです。
廣西元信氏によれば、プルードンへの批判論考とされている『哲学の貧困』で
ブレイという人の説をマルクスが英語からフランス語に訳して引用しているのですが、
そこでjoint stock systemをassociationとマルクス自身が意訳している、ということです。
廣西元信氏あたりに言わせますと、マルクスにとって株式会社とアソシエーションは
イコールではないものの、イコールに近い概念としてあったということになるようです。
たしかに、資本論第三巻(だったでしょうか?)で、マルクスは株式会社について記していて、
それは資本家的生産様式の限界内での資本の揚棄だみたいなことを書いていますよね。
『哲学の貧困』を読むと、プルードンへの批判らしきものがあまり出てこないのでがっかりしますよ。 最初はプルードンにラブコールを送っていたマルクスなので、マルクスにとってはプルードンは もともとは批判対象じゃなかったはずです。プルードンのほうがマルクスをつっぱねたのですね。
>>68 >>69 訳語の適否についての議論は知っているけど、先人が苦労して適切な訳語を探し出そうとしたことも間違いない。
原文を見ないで訳したわけじゃないし、ドイツ語が読めなかったわけでもないんだからw
先人の訳より適切な日本語になっていればいいが、資本論の理解の中で、「資本主義的」を「資本家的」とか「資本制」とかにすると日本語としておかしくなる。
「資本家」というのは、資本を持ってる人のことだし、「資本制」では資本という名詞に制度をつけるというなじめない日本語になる。
これは「労働者的生産様式」だとか「商品的生産様式」だとかに置き換えてみれば、意味をなさないことがわかる。
それぞれ、原語に近い訳語を採用したいという「翻訳原理主義」の気持ちはわかるが、他国の言葉には、日本語に移しやすいものと移しにくいものがある。
和語といわれる日本語は概念的な表現がとても弱いから、漢字の、それも日本で使われる意味を組み合わせて新しい概念を表現するしかない。
そうしたことを踏まえて、新しい訳語で原語の意味を適切に表せるならとてもいいことだが、語尾に何々が付くから、人のことだったり主義のことだったりするに違いない、という程度の訳語の選択では、学生レベルと言われてもしかたがないだろう。
翻訳に必要なのは、原文の意を十分に汲んだ適切な訳語や表現であって、言葉を単純に置き換えた逐語訳ではない。
>>70 >資本家的生産様式の限界内での資本の揚棄だみたいなことを書いていますよね。
そこは、資本主義が新たな段階になるという意味です。
資本主義そのものの揚棄ということではないので、念のため。
英語の capitalist には資本家と資本主義者の 2 つの意味があるから (資本主義は元々英国の主義なのだから、 英語の定義が基本になるはず)、「資本主義者的」とするのが妥当と思われ。
マルクスに関してはもう間違いだらけというのは自明なのだから 資本論を読む場合は一体どこから彼は間違い始めたのかを意識して読むといい。 勿論第一章から間違っていることがわかる。
「資本家はいても資本主義者はいない。」なんて柄谷が対談で いってたのを思い出したなぁ。 ありゃどんなテーマで誰との対談 だっけか。 「資本主義的」という訳語は、資本主義社会全体をさす用語として 使えるだろうが、「資本家的」という用語は、資本主義社会における 特定の階級、つまり資本家階級をさす語にみえる。つまり語の指し しめす範囲は、「資本主義的」という訳語のほうが広いんじゃないの? まあ、資本主義社会は資本家によって完全に支配された社会である といえるならば、「資本主義的」と「資本家的」は同じ意味になるだろうが それなら区別して訳する意味がないんだね。 いずれにせよ、「資本」とはなんぞやという問題にくらべれば、「資本家的」か 「資本主義的」か、どちらが訳語として正しいかなどという問題は二義的な 問題にすぎないね。そんな風に訳語をいじくりまわして、マルクス主義の 将来についての展望がひらけるのだろうか。俺はきわめて疑問だw
マルクスの訳語についての議論は、たしか「独裁」をめぐる議論から 派生してきたんだよなあ。独裁の訳語が正しいということを、どうしても 認めたくないから、訳語が間違ってるって、訳者に責任を押し付けようと したんだね。マルクスの翻訳にいろいろ間違いがあるというのが事実でも 全部間違ってるのでないならば、「Diktatur」の翻訳が正しいか否かについて 決定不能におちいるなんてことないんだねw 今度、資本論の新訳がでるらしいが、「資本主義的」という訳語が 「資本家的」になったりしてるのかいな。 いままでの翻訳と比べて まったく革新的な訳になってるとは、おもえないけどね。ドイツ語翻訳の レベルが現在とてもあがったならいいんだけど。 昔のドイツ語翻訳 特に哲学の翻訳は非常にわかりにくい訳文がおおかったが、最近は こなれた訳もでてるとか。ヘーゲルやカントも昔にくらべれば、ずいぶん 訳がわかりやすくなったらしい。マルクスの訳が昔にくらべて改良された としたら、日本語としてこなれてきた訳になったと、そういうことに なるんじゃなかろうか。
バクーニンはアナキストだったが、カウツキーはどう考えても アナキストじゃないんで、独裁批判したのは、もっぱらアナキストで あるという批判はあたらないね。 しかしまあ、マルクス自身は理論においては独裁的革命を必然的な 段階と位置づけたが、現実の政治活動においては、合法的な活動を 志向してたってね。 マルクスにおいても、理論と現実的活動の あいだには、必ずしも全面的な一致があるとは限らんわけだ。
政治的権力を握らなければ何も始まらないと言った政治主義的な考えは危険だ 権力を握らなくても出来ることはある ガンジーの考えはそうしたものだった それを社会革命という名前で呼ぶべきかどうかはわからないが アナキズムについて言えば、今日の中国共産党を見てしまうと、アナキズムの 歴史的再検証は必要だと思う
>>72 > 「資本家」というのは、資本を持ってる人のことだし、「資本制」では資本という名詞に制度をつけるというなじめない日本語になる。
> これは「労働者的生産様式」だとか「商品的生産様式」だとかに置き換えてみれば、意味をなさないことがわかる。
マルクスが問題にしたのは、資本を持つ階級と持たない階級の間の所有格差の上に
成り立つ生産様式があるということに尽きるわけで、
生産手段を私有する階級=資本家(日本語だと短複同形になってしまいますが複数形)の特権を前提とした
生産様式ということをマルクスは理論的に強調したいわけですよ。
資本主義生産様式なら労働者たちのアソシエーションによる生産様式だって含まれてしまいます。
資本を所有する主体と所有しない主体があるという所有関係事態がまず問題になっているわけですからね。
> それぞれ、原語に近い訳語を採用したいという「翻訳原理主義」の気持ちはわかるが、他国の言葉には、日本語に移しやすいものと移しにくいものがある。
単なる字義主義の問題ではなく、文脈、コンテキスト全体からして、マルクスが問題にしたのは資本主義一般ではなく、
資本家階級と労働者階級との不均衡関係にもとづく生産様式なんですから、そこはすごく重要だったりします。
それから唯物論という文脈からしても、マルクスが問題にしているのが単なる「主義」ではなく
物質的な所有関係であるということです。
資本家的生産様式は単なる主義の問題ではないのです。
資本主義という用語は、マックス・ヴェーバーやヴェルナー・ゾンバルトによって積極的に用いられたもので、
彼らはある意味ではマルクス主義に唯物史観に対抗する研究としてそれを使っているんです。
彼らにとっては資本家的生産様式の発達は「主義」の水準で根拠づけられるものということになります。
>>80 マルクスが「資本論」で明らかにしようとしたのは、現実の社会での経済のあり方。
資本家と労働者の階級対立というのは、その経済構造の結果としてあらわれる。
個人として見れば資本家であったり労働者であったりすることが、固定されているわけでもなく、資本家も労働者も可逆的な個人の状況に過ぎない。
マルクスの分析によれば、資本家に特権があるから商品の集積としての資本が成立し、増殖するわけではない。
所有という概念が確率した社会では、商品がその経済構造の中で資本となり、資本がいわば自動的に増殖することを分析、解明した。
だから、資本主義社会では、個別の労働運動は個別にとどまり、資本主義社会自体の変革にはつながらない。
もちろん、マルクスはそれでも個別の運動の大切さを力説することと個別の運動への称賛と批判を惜しまないが。
マルクスが「資本論」で問題としたのは、まさに資本主義経済一般のこと。
階級というのはその資本主義経済の構造からくる観念上の立場であって、観念上の立場が先にあるから資本主義による経済が成立しているわけではない。
観念論でもかまわないが、マルクスの考え方とは正反対だ。
そういったことを踏まえて、先人たちは資本主義的という訳語を採用している。
少なくても「資本論」を読むためには、「資本論」は資本主義社会に対する処方箋ではなく、資本主義の経済構造の分析だということを忘れてはいけない。
82 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 19:31:45.94 0
>>77 『資本論の誤訳』をお書きになった廣西元信氏はマルクス主義者ではなく、
むしろ右翼系の論客で、マルクス主義に対する批判をいくつも展開しているので、
「誤訳を持ち出す=マルクス主義者の弁解論」という仮説に対する反証になる。
レーニンやトロツキーよりも当時の正統なマルクス主義者と見なされていたのは
カウツキーやローザ・ルクセンブルクらで、レーニンらより人気があり著名だった。
歴史家のエレーヌ・カレール=ダンコース氏は『レーニンとは何だったか』によると、
カウツキーらに比べればレーニンはロシア10月革命まではマルクス主義言論界でも
ほとんど無名の人物だった。
そのカウツキーらがソ連の独裁体制を批判しいてたということは
ソ連の共産党独裁をマルクスのいうプロレタリアート独裁の実践だとする見解が、
当時のマルクス主義者の間で広く認められていたものだとは考えにくい。
むしろマルクス主義の教条主義路線への裏切りだとする反応があったことを
物語っているのだから。その前にロシアマルクス主義の父・プレハーノフの警告もあるし。
83 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 19:57:29.50 0
>>81 > マルクスが「資本論」で明らかにしようとしたのは、現実の社会での経済のあり方。
> 資本家と労働者の階級対立というのは、その経済構造の結果としてあらわれる。
ですからそのあり方が、資本を所有する階級と所有しない階級という現実の社会関係を前提に
成り立つ経済の在り方なわけで、その経済体制の結果としての階級対立の必然性なわけです。
> 個人として見れば資本家であったり労働者であったりすることが、固定されているわけでもなく、資本家も労働者も可逆的な個人の状況に過ぎない。
いや、固定されていますよ。
もちろんマクロ的に問題にしているわけですから個別の例外がないという意味じゃありません。
誰もが明日はブルジョアジーで今日はプロレタリアートになるような流動性が十分にある非階級社会を
マルクスが対象にしていたわけではないことは明らかでしょう。
そうなれば未来の共産社会での生産様式が資本家的生産に代わって実現してくるかもしれません。
それは資本家的生産様式が資本家的生産様式を超克していく可能性です。
> マルクスの分析によれば、資本家に特権があるから商品の集積としての資本が成立し、増殖するわけではない。
> 所有という概念が確率した社会では、商品がその経済構造の中で資本となり、資本がいわば自動的に増殖することを分析、解明した。
それはどちらかというと唯物論を転倒させた論法じゃありませんかね?
私個人はマックス・ヴェーバーのような方法論は買っているので、アナール学派のような歴史観も尊重していますけれども・・・
>>83 君とは「資本論」の読み方も考え方もすべて逆だね。
これ以上の議論は無駄だからやめる。
85 :
考える名無しさん :2013/11/11(月) 20:27:42.47 0
>>84 そちらの読み方は、資本論以前のマルクスがすっかり存在しなかったかのような読み方っぽいなあ。
>>85 一番大切なのは「資本論」、それもマルクスが自分で数年かけて完成させた第1巻だと思ってる。
「経済学批判」と合わせれば10年以上かけた、マルクスの集大成だからね。
ちなみに、ドイツ語のdas Kapital(単数形)には、集合的に「資本家」を表わす意味がありますけどね。 訳し方によっては『資本論』は『ザ・資本家』という邦題にできないこともないです。w
>>87 読んでない本のタイトルについて語るのって、面白いの?
KapitalにはKapitalienという複数形があるんだけど、 資本論の英訳ではcapitalsが使われているのに ドイツ語では一切使われていない。 字義的には、kapitalistischを「資本主義的」とも 「資本家的」(こっちのほうが通俗的)とも訳していいんだけど、 前者の意味だとすると、マルクス自身がKapitalismusという名詞を 使っていないことが、たしかに不可解といえば不可解。 だからこういう議論が出てきたのだと思う。
90 :
考える名無しさん :2013/11/12(火) 02:50:46.12 O
工場監督官ロバート・ベイカーはイワンデニーソヴィチの1日を読んでどう思うだろう
>>89 > KapitalにはKapitalienという複数形があるんだけど、
> 資本論の英訳ではcapitalsが使われているのに
> ドイツ語では一切使われていない。
ごめん。訂正。一切使われていないということはなかったわ。
註釈文において僅かに使われていた。本文には出てこない。
>>91 ごめん。また訂正。本文中にも2箇所あった。
その1つは資本論24章本源的蓄積の6節での
G・フォン・ギューリヒの著作からの引用文中であり、
もう1つはその引用文をもとにマルクスが言及している箇所。
その2箇所だけ。私が調べたかぎりでは。
レイモンド・ウィリアムズによれば、capitalismなる用語が英語に登場したのは 19世紀初頭からで、これはフランス語やドイツ語における登場とほぼ同時期 だそうな。 capitalやcapitalistという用語はcapitalismより早く使われてきた これはどうやら確かなようだな。 英語版のWikipediaによれば、capitalismなる用語は、1850年にルイ・ブランが 1861年にプルードンが使ってるという。 マルクスは資本論ではcapitalistという 用語は多用してるが、capitalismという用語は、ほとんど使ってないそうだ。 全然使ってないわけではなく、ドイツ語版資本論第一巻124ページにみえるという。 マルクスがcapitalismという用語をあまり使わなかったのは、capitalismという語が 新しくて、capitalやcapiltalistという語にくらべてあまり使われていなかったせいだろう。 エンゲルスはマルクスにくらべて、capitalismuという用語をもっとよく使ってるそうな。
>>82 レーニンは革命が成功するまでは無名であった、むしろ革命が成功したから
有名になったわけだな。ソ連もすぐにぶっ潰れたわけじゃなくて、70年近く
存続してたし、そのあいだはレーニンは社会主義革命のモデルとして、ずっと
マルクスと結び付けられてきたわけだ。
capitalなる語が、経済学上の用語として使われたのは、capitalismより ずっと早く、アダム・スミスの著作にすでに「流通資本」(circulating capital)の 定義がある。古典派経済学では、「資本」(capital)の機能、およびその変種の 機能が定義されている。 リカードもcapitalという語は用いていたが、capitalismと いう語は用いていないようだねどうも。マルクスは古典派経済学を研究して それを乗り越えたとされてるから、用語においても古典派から影響はうけてるだろう。 capitalの語源は、フランス語のcapital、それから遡ればラテン語のcapitalis 語源はラテン語のcaput(頭)であるという。 そこから後代のcapitalに関連した 語群が生まれてきたわけだ。 以上簡単な語源学的豆知識。
>>93 英語版のWikipediaのcapitalismのページには、
マルクスが用いたのはcapitalistやcapitalist mode of productionで、
それらが資本論で2600回以上用いられているのに対し、
capitalismの使用例はたった2回だとしていますね。
その1つが『資本論』第一巻ドイツ語版の124ページ。
もう1つは『剰余価値学説史』ドイツ語版の493ページ。
後者は確認できましたが、前者は見つかりませんでした。どこでしょう?
ところで、ルイ・ブランとプルードンは共にフランスの社会主義者で、
特にルイ・ブランはマルクスに多大な影響を与えた人物なので、
マルクスがその用語を知らないはずがないとも思われますが・・・
かの有名な「能力に応じて・・・必要に応じて・・・」はルイ・ブランの言葉らしく、
農民らが寝返ったことによって社会主義者であったルイ・ブランは政治家の座
から降ろされ亡命したという歴史があり、農民が革命の主体にはなりえない
と考えたマルクスの仮説ができる上での根拠の1つがここに見いだされます。
ルイ・ブラン自身は『労働の組織化』で資本主義という語を用いたらしく、
ある階級が他の階級を退けて資本を独占するという・・・
まさしくその意味で資本主義という語を使っていたらしいのです。
>>97 かみあってはいると思うよ。
ただ、どちらの人の考え方も現代の日本での現実的な有効性を見いだせてはいないけど。
>>97 日本共産党の政治的位置付けで真っ向から対立しているね。
エンゲルスをベルンシュタインに連なる修正主義者に含める解釈は
マルクス主義者の間では一定の支持があるのかな?
ゲゼルについてはケインズが『一般理論』の中で高く評価したと思いきや、 すんなり始末しちゃってもいるよね? ゲゼルに対するケインズの批判をどう見る?
>>99 その時代時代の政治運動にレッテル張っても無意味だろ?
せめて、天才エンゲルスが秀才マルクスのどこに敬服していたのかを考えて、現代の政治に対するマルクスの有効性を再確認する努力をした方がいい。
102 :
がんばれじいさんたち :2013/11/14(木) 07:44:41.23 0
資本論 読み残したる悔いあれど 世界の歴史変わり果てたり (市川市 井原茂明) 【評】マルクス主義全盛のころのわが青春。難儀して難儀して 「資本論」に挑戦したものだ。いつか世界は大きく変わり、 かつての聖典も見るかげもない。重い感慨の伝わる歌。 小池光 選 (読売新聞11月12日 読売歌壇より)
>>97 いまの日本共産党は事実上、ほぼベルンシュタイン系路線の政党なんじゃないか??
いわゆる欧州の社民主義。
>>102 資本論を理解できないようなら、どんな経済学もどんな哲学も理解できないよ。
社会経済の根幹をシンプルに分析してるだけなんだから。
>>102 バブルの時代ならまだ分かる歌だが、資本主義の優等生であったその時代の日本を含め、
その後の世界経済の停滞、デフレ圧力の進行を考えれば、むしろ資本論を時代錯誤と見る
認識がもはや時代錯誤になりつつあるんじゃないか?
107 :
考える名無しさん :2013/11/16(土) 00:38:22.56 O
資本論読むよりはケインズの一般理論読んだ方がいいと思うけど
資本論を丹念に読むくらいの人はケインズも読んでいると思うけどなあ。 ケインズの文体も修辞的で理解しにくいと宇沢弘文さんが解説に書いているが、 そうでもないしね。 ケインズ研究者やマルクス研究者の人は深く読み込もうとするので そう感じるのかもしれないが。
109 :
参考 :2013/11/16(土) 11:15:43.39 P
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b710.html 『「ケインズ革命」の群像』(中公新書)の第四章は、ほぼポーランドのミハウ・カレツキの
経済理論の説明にあてられている。根井氏によれば、カレツキは、ケインズとは関係なく、
ケインズの『一般理論』が出る前に、1933年の『景気循環理論概説』で、ほぼケインズ革命
の本質(「投資と資本家消費が利潤と国民所得を決定する」という命題)をつかんでいた。
カレツキの利潤理論は、それを示している。
政府部門のない閉鎖体系で、労働者がその所得をすべて消費する(賃金=労働者の消
費)とすれば、
利潤P=投資(I)+資本家の消費(C) (1)
が成り立つ。
Cが固定的部分B0と利潤に比例する部分をλP(0<λ<1)とすると、
C=B0+λP (2)
(1)と(2)から、
P=B0+1/1−λ (3)
「さらに、利潤Pの国民所得Yに占める割合をπとすると(P=πY、0<π<1)、
次の式が得られる」。
Y=1/(1−λ)π×(B0+1) (4)
この(4)式の1/(1−λ)πが、カレツキの乗数である。「注意すべきは、それが資本家
の消費性向λばかりでなく、利潤分配率πにも依存していることである」。
カレツキは、これをマルクスの再生産表式から導き出した。…
110 :
参考2 :2013/11/16(土) 11:16:44.85 P
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b710.html 根井氏は、ケインズが、不況の責任を、活動階級たる企業者階級に負わせたくなくて、
あえて、完全競争の仮定に固執したのではないか、不況を投資者(金利生活者)の貨幣愛
に帰するために、流動性選好説を唱えたのではないか、と厳しく指摘する。そして、宮崎
義一氏の以下のケインズ批判を引用する。
「ケインズ体系において労資の対立を素どおりして、労働者の失業の原因を、主として
金利生活者の行動に帰せしめることができたのは、この完全競争の仮定によるところが大
きいというのが私の考えです。生産物市場における完全競争という仮定は、いいかえます
と企業の生産設備能力は、つねにフル稼働されているという仮定にほかならない。完全競
争の仮定のもとでは、どの企業もみなオプティマス・サイズ以上の水準で生産していると
いうことでなければ利潤はプラスじゃない。ということは操業短縮をしていないというこ
とでなければならない。しかし実際は、二九年恐慌以後の不況期には、莫大な滞貨もあり
操短も行われていたはずです。でも理論上は、完全競争の仮定をかくれみのにして、それ
を反映させなかった。なぜか? もし理論上操業短縮を容認すると、失業の原因はたんに
相対的な高い金利だけでなく、むしろ主要な原因は、企業の利潤追求による操短にあるこ
とがうかび上がってくる。・・・ところが完全競争の仮定を採用すると、あらゆる企業は
設備能力いっぱいを稼働していることになって、失業の責任をうまく金利生活者に肩代わ
りさせることができるわけです」。
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b710.html カレツキは、社会的・政治的要因が、完全雇用の維持を掘り崩すと述べている。以下
のカレツキの引用は興味深い。まるで、小泉改革のことを言っているようだからである。
「不況になると、大衆の圧力のもとで、あるいはそれがなくても、いずれにせよ大規模
な失業を防止するために借入れによって調達された公共投資が企てられるだろう。しか
しこの方法をその後の好況のさいに達成された高雇用水準を維持するためにまで適用し
ようとすると、『実業の主導者』の強い反対に会いそうである。すでに論じたように、
永続する完全雇用というものはまったく彼らの好むところではない。労働者は『手に余
る』だろうし、『産業の統率者』はしきりに『彼らに訓戒を垂れ』ようとするであろう。
さらに、上向運動時の物価上昇は大小いずれの金利生活者にとっても不利になり、ため
に彼らは、『好況にうんざり』してしまう。
このような状態においては大企業と金利生活者との利害との間に強力な同盟が形成さ
れそうであり、またそのような状態は明らかに不健全だと言明する経済学者をおそらく
一人ならず彼らは見出すことであろう。これらすべての勢力の圧力、とりわけ大企業の
圧力によって、政府は、十中八九、財政赤字の削減という伝統的な政策に後戻りしよう
とするだろう。不況がそれに続き、政府の支出政策は再び彼らの権利を回復することに
なる」。
やはり、マルクスの経済理論を学んでいると、視野が広くなるし、歴史・社会・文化
その他もろもろとの関連を含めた経済の運動をリアルに捉えられるようになるものだ。
シュムペーターはマルクスを経済学「史家」として相当高く買っているようで。 資本論よりも剰余価値学説史はシュムペーターを大いに刺激したようで。
シュンペーターの「イノベーション」という概念がそもそもマルクスの学説のなかに見いだされるもの、 おそらくはそこから着想を得たものであることは、のちに彼自身が認めていたことでもあったようで。
>>80 氏の解説はわかりやすい。
>>81 氏は「所有」や「階級」を観念・概念にすぎないものとして
読み込んでいるところにちょっと違和感を感じる。
>>115 『ドイツイデオロギー』をどう読むつもりなの?
117 :
考える名無しさん :2013/11/24(日) 10:53:48.47 0
昔は省略して『ド・イデ』と呼んでたな。
>>80 「主義」をどの水準で使っているかという問題もあるね。
主義を一般に言う以上にもっと深い意味で、
例えばフランス構造主義が言うような意味で使っているのならば、
または、アルチュセールのいうイデオロギー装置のような意味合いで使っているならば、
マルクスの考え方にそう反してはいない。
ttp://www1.axfc.net/uploader/so/3099842 37:40〜39:00
「…社会主義運動が集権的であったのは実はロシア革命以後です。
つまりそれまではアナルコサンディカリズムが中心だった。ネットワークのようなものですね。
それはフランス、アメリカだけではない。
日本でもそうです。幸徳秋水、大杉栄に人気があったわけです。
ロシア革命以後はそうではなくなる。
資本主義国家でも社会主義者の要求を入れた福祉国家をつくろうとしました。それはまたフォ
ーディズムのはじまりでもあります。
つまり中央集権的形態はむしろ自由主義に固有なものである。
ゆえに対抗運動がネットワーク型になることを資本のポストフォーディズムへの変化と同様に
リニアな発展としてみるのは間違いだ。
むしろそれは現在が帝国主義的段階であることを意味する。
したがって今後にネットワーク型運動、マルチチュードの叛乱に期待するだけではいけない。
かつて帝国主義時代に対抗運動がどのようなものであったかを体系を通す?必要があります。」
_______________________________________ |1750ー |1810ー|1870ー|1930ー |1990ー |1810 |1870 |1930 |1990 | ______|______|_____|_____|______|______ 世界資本主義|後期重商主義|自由主義 |帝国主義 |後期資本主義|新自由主義 ______|______|_____|_____|______|______ 覇権国家 | |英国 | |米国 | ______|______|_____|_____|______|______ 経済政策 |帝国主義的 |自由主義的|帝国主義的|自由主義的 |帝国主義的 ______|______|_____|_____|______|______ 資本 |商人資本 |産業資本 |金融資本 |国家独占資本|多国籍資本 ______|______|_____|_____|______|______ 世界商品 |繊維産業 |軽工業 |重工業 |耐久消費財 |情報 & |(マニュファ|(機械 | |(フォーディ|(ポスト・フォ 生産形態 | クチャー)| 生産) | | ズム |ーディズム) ______|______|_____|_____|______|______ 国家 |絶対主義王権|国民国家 |帝国主義・|福祉国家 |地域主義 ______|______|_____|_____|______|______ |ネットワーク|1848 | |1968 | 対抗運動 |型=分散的 |集積的 |分散的 |集積的 |分散的 ______|______|_____|_____|______|______ 資本主義の世界史的諸段階 (『世界史の構造』412頁。資本主義の循環的、反復的交互性を示す。対抗運動を補足)
主な参考文献: モーゲンソー『国際政治』(帝国と帝国主義の差異。帝国主義を国家間の関係で見た?) ホブソン(岩波文庫だとホブスン)『帝国主義』(単純な内需拡大論だが、イギリスを見ていた点で、 ヒルファーディング『金融資本論』のドイツ、アメリカ偏重より評価出来るらしい) カウツキー『帝国主義論』 レーニン『帝国主義―資本主義の最高の段階としての』 (1916年。その帝国主義観はヒルファーディングに従っている) 幸徳秋水『帝国主義』(1901年) 宇野弘蔵『経済政策論』(重商主義、自由主義、帝国主義という段階論) アーレント『全体主義の起源2』 ウォーラーステイン 『近代世界システムII―重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集 1600-1750』 デヴィッド・ハーヴェイ 『新自由主義―その歴史的展開と現在』 (レジュメには書名は未記載だが柄谷は「中国的特色を持った新自由主義」という言葉を引用した) ネグリ&ハート 『マルチチュード ~時代の戦争と民主主義』
フォーディズム = 労働者を囲い込んで高級消費者へと転嫁 > 商品の高級化 > 少数精鋭化 > 職人組合への退化 消費資本主義 = 消費者を囲い込み > 現在 > 大量雇用・大量生産・大量消費の行き詰まり > 封建経済への退化 現在を分析するにはこの 2 つだけで十分な気がする。グローバリズムも、商人が越境的に活躍した中世の再来とも見なせるし。
エンゲルスって英語読みするとエンジェルス?
124 :
考える名無しさん :2013/12/02(月) 22:07:27.45 0
エンゲルスとマルクスはイエス・キリストとパウロの関係に似ている。 パウロは我こそ史上最初のキリスト者だと胸を張って死んでいった。 同じようにエンゲルスも史上最初のマルキスト。 純粋な宗教・思想などない。 イエスやマルクスもパウロやエンゲルスなしには存在そのものさえ怪しい。 「マルクスを超えるマルクス」は「マルクスを超えるマルキスト」で充分。
史上最初のキリスト教殉教者はステファノで、パウロはその際にはまだ迫害者側にいたよ。 パウロの功績は、キリスト教の脱ユダヤ教を促進してその普遍化・国際化を理論的に追求したこと。
>>119 ロシア革命直後も集権的ではなかったように思えます。
ソビエト(会議)は、マルクス主義とは関係のない非常に自生的なもののようでしたし。
レーニンが選挙の結果を尊重していれば、複数党による連立政権が実現していたかもしれません。
>>124 たしかに、エンゲルスに出会わなければ
マルクスが共産主義運動に没頭するようになったかどうかは
定かではなかったかもしれませんし、
共産主義運動家たちの中でマルクス派を形成するのに
エンゲルスの英語力とディベート力が一役も二役も買っていたらしいし、
資本論2巻3巻も世に出なかったのかもしれませんね。
しかしそれにもかかわらずエンゲルスほどマルクスの影に徹した人も珍しい。
マルクス=エンゲルスと連名で全集が出るくらい表に出たんだから、「影に徹した人」とも 言えないだろう
マルクスが一人で図書館に通ってしこしこと文筆活動に没頭するタイプなのに対して、 エンゲルスは社交的で雄弁家だったようですし、 西欧の共産主義運動の中でマルクス派を一大勢力にすることができたのも、 社交面でのエンゲルスの活躍があればこそだったんでしょう。 ただし文筆面では、 例えばエンゲルスに対するヨーゼフ・シュムペーターあたりの評価は低いですね。 その一方、ランドル・コリンズ氏の『社会学の4つの伝統』では、 シンボリック相互作用論、合理的選択理論、デュルケームより派生する構造機能主義理論 と並んで社会的紛争理論が扱われていて、その初期の貢献者としてマルクス主義と マックス・ヴェーバーの名が挙げられているのですけれども、 紛争理論への貢献という点ではマルクスよりもエンゲルスのほうを圧倒的に買っているんですよね。
>>128 「影に徹した人」という評価はシュムペーターによるものです。
シュムペーター氏は、経済学史上の貢献という点では
エンゲルスをマルクスの単なる影という存在に位置付けて片づけています。
エンゲルスが自ら「この点では私とマルクスとの考えは異なる」と明言している箇所はあるんでしょうか? 現実にはそうじゃなかったとしても、少なくとも意識的には、エンゲルスはマルクスの影、マルクスのコピペ であろうとしたように思われます。あるいは、悪意をもってみれば、それを装うとした。
>>130 それは知らなかったけど、シュムペーターもマルクスのことはまったく理解していないからね。
エンゲルスのことも理解できなかったんだろう。
エンゲルスは一言でいえば天才だ。
おそらく、どんな本でも1度読んだだけで内容を理解してしまった。
エンゲルス独自の著作でも天才的なひらめきが随所に見える。
残念なのは、天才であるがゆえの軽さ、つまり問題点を掘りつくさないところだ。
そこがマルクスとの大きな違いだ。
シュンペーターの経済学史観は、レオン・ワルラスに代表される新古典派学説を頂点に置いて、 そこへの発展史観・進歩史観として経済学の系譜全般を描くという歴史学的方法論なので、 歴史相対主義とは対極に位置し、そのかぎりではエンゲルスの仕事(ユートピアから科学へ)に 似ているところもあるんですけどね。 エンゲルスもマルクスの学説を頂点に置いて社会主義の思想史を眺望する史観を描いてみせた。 シュンペーターは経済学の歴史の日本語版で、イノベーションに代表される自分のアイデアが マルクスの学説にすでに見出されるものであったことを認めるコメントをしていたようですが、 それを言うならエンゲルスの『ユートピアから科学への社会主義の進化』のほうだって・・・ と思ってしまいますけどね。 『経済学の歴史』のなかでエンゲルスについてシュンペーターが評価しているものが唯一あるとすれば、 それは『イギリスにおける労働者階級の状態』のようですね。 エンゲルスのこの仕事にイギリスの経済史を知る上での実証的な価値があることを否定できないだろう という趣旨のことは少し言及していますね。まあ、それだけでエンゲルスをあっさり片づけていますが。
>>133 シュンペーターをマルクスとエンゲルスの評価の基準にする理由はなに?
もちろんそれぞれ見解があるという相対化をしているつもりですよ。 エンゲルスを軽視するJ. A. シュムペーターと重視するR・コリンズ という相反する二人の代表的人物を挙げているわけでして。 シュムペーターの見解を絶対視しているわけじゃないです。 新古典派のイデオロギーの擁護者のなかで カール・マルクスの学績を経済学的にもっとも評価している一人に J. A. シュムペーターがいたんだと思うんです。 彼は、経済学の正統な学説史の中にマルクスのことを無視せずに ちゃんと位置づけようとした。そこは注目すべきことだと思います。
>>135 別にシュムペーターに評価してもらう必要はないんじゃないか?
シュムペーターがマルクスを理解していたとは思えないし、そもそも、そんな評価も位置づけもまったく無意味だ。
137 :
考える名無しさん :2013/12/04(水) 04:44:51.47 O
マルクス批判主義、という主義があるのでしょうか? 某所で目にしたのですが寡聞にして存じません。ご教示くださいますよう。
138 :
考える名無しさん :2013/12/04(水) 12:42:09.74 0
>>132 マルクスの“唯物論の概念”と、エンゲルスの“唯物論の概念”は、弁証法の捉え方も
含めて、大きく異なっているように思う。
マルクス理論は、どちらかと言うとフォイエルバッハ(私と汝論理)に近いと思うが、
この両者の論理の違いは大きいのでしょう。
>>137 criticism が「批判」の意味なのを「批判主義」に誤訳しただけかと。
宇野弘蔵で、本当にバカだな 日本人として悲しいな
佐藤優って、いい人だと思うけど、論理が乱暴すぎるのは 宇野と広松を真面目に論じてるレベルだったからか。
>>138 二人の違いを、もう少し詳しくお願いします。
>>129 つづき
ランドル・コリンズ氏は、マルクスについてボロクソな言い様をしているんです。
マルクスを学術的に評価できるところはほとんどないと言っているに等しい、そんな評価の仕方をしている。
それに対して、マルクス主義の社会科学(紛争理論)への貢献のほとんどはエンゲルスによるものだと。
そう彼は言うんです。
マルクスは女性差別主義者だったがエンゲルスはそうではなかったとも・・・。
http://honfleur.sakura.ne.jp/bbs/bbslog/200210.txt 2002年10月27日<日>02時13分
柄谷行人『可能なるコミュニズム』より
田畑稔(『マルクスとアソシエーション』)によれば、『資本論』第三巻の草稿
で、マルクスは次のように書いた。
《資本制的生産諸部門の内部では、(部門間の)均衡は不均衡から脱する不断の
プロセスとしてしか自分をあらわさない。というのは、そこでは、生産の(総社
会的)関連は盲目的法則として生産当事者たちに作用し、彼らがアソシエイディ
ドな悟性として、その関連を彼らの共同のコントロールのもとに服属させていな
いからだ。》
マルクスがいう「アソシエートされた悟性」は奇異に聞こえる。しかし、それ
は、ハーバーマスが理性をコミュニケーションによる公共的合意において捉えな
おそうとしたことと比較するとき、理解できるし、もっと含蓄に富んでいる。と
ころで、田畑稔は、エンゲルスが第三巻を編集するとき、マルクスの原文を次の
ように書き換えたことを指摘している。
《資本制的生産諸部門の内部では、個々の生産部門の均衡は不均衡から脱する不
断のプロセスとしてしか自分をあらわさない。というのは、そこでは、総生産の
関連は盲目的法則として生産当事者たちの上に自分を強制し、彼らのアソシエイ
ディドな悟性によって把握されそれによって支配された法則として、生産過程を
彼らの共同のコントロールのもとに服属させていないからだ。(『資本論』第三
巻3−15−3)》
これはほとんど犯罪的な改稿である。エンゲルスは「客観的法則の認識による支
配=自由」と見なしている。ここでは、「アソシエートされた悟性」はヘーゲル
的な理性にほかならない。それは党=国家官僚=理性が経済過程をコントロール
するという考えに導かれざるをえない。そして、コミュニズム=国家集権主義と
いう考えは、根本的にエンゲルスに由来するのである。マルクスは「アソシエー
トされた悟性」が一挙に成立するなどとは考えなかった。《労働の奴隷制の経済
的条件を、自由で連合した(associated)労働の諸条件によって取り替えること
は、時間を要する漸進的な仕事でしかありえない》(『フランスの内乱』)。
146 :
考える名無しさん :2013/12/05(木) 00:42:14.79 0
>>143 マルクスの哲学は、人間(類的な人間)を、自然的な客体として捉えて、
実践し働く主体的(=主観的)なもの、感性的・肉体的な批判活動として捉える。
そして、人間は作られながら、実践的に自らを創造し、変革していく存在である。
主体的な意識を持った人間は、自然の一部として自然の中に埋もれているのでなく、
自然を対象として働きかけ、実践し、自然を変えていく。とマルクスは述べている。
つまり、社会的、経済、政治などの“客観的存在”に対して、人間として主体的(=主観的)な
存在として社会に働きかけて、社会を変革する存在として捉えている。
フォイエルバッハの哲学は、現実の感性的人間(類的人間)を、意識(主体としての)する自然の
一部として捉えている。
マルクスの哲理は、フォイエルバッハの類的人間(私と汝論理)の“自然的領野”から“歴史的・社会的領野”へと
拡大していく。この視点の理論的拡大が、マルクスとフォイエルバッハの相違点となっている。
>>146 マルクスの自然と人間との弁証法的関係にも触れてほしいと思う。
自然としての人間がその自然を人間化する。
それはつまり、自然としての人間を自分自身が疎外し、別の自然としての人間に止揚される。
自然が自然自身を疎外するということになる。
ただ、人間を自然的な客体として捉えるのではなく、人間もまた自然そのものだという捉えかただ。
>現実の感性的人間(類的人間)を、意識(主体としての)する自然の
>一部として捉えている
これがフォイエルバッハだとすれば、自然と人間を弁証的な関係としては捉えていないということだろうか?
148 :
考える名無しさん :2013/12/05(木) 15:16:03.34 0
お前らの中にイケメンいない? 稼げるのかレポ頼むw URL貼れないから メンガ って検索して! ※正しいサイト名は英語です。
149 :
考える名無しさん :2013/12/05(木) 15:49:24.74 0
>>147 フォイエルバッハは「真の弁証法は、孤独な思考者の自分自身との独話ではない。
それは「私」と「汝」の間の対話である。(根本命題62)と述べている。
上記で述べている様に、フォイエルバッハの弁証法は、私と汝との“対話形式”になっている。
ヘ−ゲル的な弁証法は、「定立(テ−ゼ)→反定立(アンチテ−ゼ)→綜合(ジンテ−ゼ)」という
三枝弁証法であり、フォイエルバッハとの「思考過程」が異なっている。
又、フォイエルバッハの弁証法的“対話形式”で気が付いたことは、ヘ−ゲルの“否定原理”を導入していない
ことである。対話形式(私と汝)による“生成論理”が、フォイエルバッハの基本的な“弁証法”と解釈している。
従って、自然としての人間(意識する主体=私)と、客体としての自然(=汝)を相関的関係として捉え、“否定原理”を
導入しないので、自然が自然自身(人間)を疎外することはない。
私見ですが、フォイエルバッハは、ヘ−ゲル批判の一つとして、ヘ−ゲル的弁証法での「アウフヘ−ベン」の思考過程に
あったのではないかと思う。つまり、アウフヘ−ベンは、否定論理(否定・廃棄)と生成論理(生成・保存)で構成されている。
このアウフヘ−ベンの、否定原理(否定の否定)を排し、生成論理による“対話形式の哲理”が、フォイエルバッハの特徴となっていると
解釈している。
>>149 対話というと、弁証法をプラトンに戻すのかな?
そうだとしても、必ずしも退行とは考えないけど、ヘーゲル、マルクスのダイナミックさはなくなるね。
ひとつ気になるのは、この説明だと否定ということを、人為的なものとして理解しているように見えるところ。
ヘーゲル、マルクスの弁証法は、否定が人為的なものとしてではなく、必然的なもの、存在そのものとして捉えられている。
エンゲルスの自然弁証法などが、そのわかりやすい解説であるともいえる。
ある事柄の中には、そのこと自体の中に自身を否定する要素が含まれているため、存在自体が不安定で内的に対立要素を持っている。
だから、自身が自身を肯定するとともに否定することになるので、自己疎外という状態が発生する。
疎外された状態というのは、そのまま疎外を解消する動きとなって新たな自分となる。
これがアウフヘーベンだ。
ヘーゲルもマルクスも、そしてエンゲルスも、生命体にとどまらず、動くということ自体の中にこの弁証法を見出した。
時間が弁証法そのものだと考えたといってもいい。
それをたとえば、個別の存在のあり方という面から見れば哲学としての弁証法となるし、人間社会のあり方という面から見れば思想としての弁証法となる。
ヘーゲルとマルクスは後者についての関心が強かったし、エンゲルスは、むしろ前者についての関心が強かったようだ。
151 :
考える名無しさん :2013/12/07(土) 17:10:32.99 0
>>150 すべての事象には、それ自体の中に“自身を否定する要素”と同時に“自身の内に肯定する要素”を、
合わせ持っている。
「すべての事象の中に否定要素と、肯定要素を持っている」ことと、アウフヘ−ベンの「否定する(否定論理)」とは
概念が異なっていると解釈している。
アウフヘ−ベンは、否定論理(否定・廃棄)と生成論理(生成・保存)によって構成されており、この「否定論理」での
“否定”の意識は、主観(自己)の意識によって、“意識的”に対象とする要素を選別し、“否定”をしている。
つまり、否定論理は、“主観”を基底として、能動的に“否定意識”を働かせていることが分かる。
一方、生成論理(生成・保存)は、“不可疑性”であり、その内に主観が基底されていない。明証的な直観認識による
“現象化”と解釈している。
>>151 >否定論理は、“主観”を基底として、能動的に“否定意識”を働かせている
これはヘーゲル、マルクスの弁証法ではないよ。
ヘーゲルもマルクスも、あくまでも緻密な観察の結果としての弁証法だから、論理というより、事象の追求といった方が適切だ。
現実に生きている人間にとって「明証的な直観認識」という概念に意味があるとも思えないが、設定したとしても、それもまた主観に過ぎないということになる。
同様に、「不可疑性」というものが言葉の問題に過ぎないのは、疑うということ自体が人間の心の動きだから、主観で主観をもてあそぶほかはないというところに表われる。
だから、デカルトは人間のすべての感覚もまた疑えなくなるし、フッサールにしても、結局は判断中止とかいう自己矛盾を抱えて迷走することになってしまった。
フォイエルバッハについては概要しか知らないので、言えることはない。
153 :
考える名無しさん :2013/12/07(土) 18:12:34.04 0
>>151 続き
ヘ−ゲルの弁証法は、定立(主観)の即自存在(肯定)→反定立(客観)の対自存在(否定)→綜合(否定の否定)の
思考過程となる。
この思考過程をさらに具体的に述べると、即自存在(正)を否定し、「反」としての対自存在(客観)となり、さらに「反」である
対自存在を否定し、即自存在と対自存在の“本質”が保存されて、「合(否定の否定)」として高次の自己へと「生成」した
自己存在(主観)に至るとされている。
ここで、一つの問題を提起すると、否定された主観(即自存在)と客観(対自存在)の“本質”が保存され「主観(綜合命題)」となるが、
何故、「合」に於いて「主観」となるのかと言うことである。つまり、ヘ−ゲル的弁証法では、主観(正)→客観(反)→主観(合)という
“三つの命題の循環的”思考となっている。
即自存在(主観)と対自存在(客観)が“否定”され、その両者の“本質”が現象化により“再合一”するのであれば、「合」は主観とは限らないし、
又、客観とも限らない、或いは、即自存在(主観)と対自存在(客観)の“合一”した、新しい存在ということが論理として成立する。
事象の捉え方、又は、問題の“本質”を正しく把握する為には、先ず、主観である自身の考え(論理等)を白紙(既成概念を排する)にして、
その後に、問題に対する“再構築”が必要になる。
この“再構築”の段階に於いても、主観(自己の既成概念)を導入しては、「合」としての結論は、“私利的要素”の混入したものとなってしまい
その結論も意味のないものとなってしまう。
>>153 ヘーゲルから離れるばかりな気がするけど。
ヘーゲルのなにを読んでそう書いてるの?
ヘーゲルは読んでいません。 ヘーゲル弁証法を「主観の世界」に矮小化し、 ポモ的観念論と混同させて葬り去りたいだけなんです。
ヘーゲル弁証法は、カントの「物自体は認識できない」を前提として継承してるから、わざわざ矮小化せずとも、 もともと「主観の世界」だけの記述すなわち観念論なのだけれど。
>>157 それでは、主観の世界ではない記述というのが、どうやったら成立すると思うの?
ちなみに、エンゲルスは物自体の認識とかいう議論を無意味なものとして退けてはいるけどね。
ヘーゲルをわざと誤読して「だからマルクスも間違ってる」とやるの、最近の流行なん? 70年代は「今は科学哲学や分析哲学の時代だ。マルクスは古い」と。 80年代はポモ的にマルクスを自由に変形して俺様的にマルクスを解体させる。 90年代は「ソ連は崩壊した。だからマルクスは間違ってる」と。
160 :
考える名無しさん :2013/12/09(月) 18:03:03.44 0
>>154 ヘ−ゲルの「精神現象学」と「論理学」を読んでいるが、「精神現象学」の
副題が、「意識経験の学」となっている様に、アウフヘ−ベンの「生成論理」は、
経験(ア・ポステリオリ的に)を基底とした人間精神の成長を描いている。
「生成論理」は、“形式論理学”とは異なり、「Aは非Aである」と言う“現象学的”な
思想展開をする。
このヘ−ゲルの「精神現象学」での中心的な思考の流れは、従来のカント等に見られる
“形式論理学”とは180度概念が異なる為に、非常に難解とされてきた。
>>160 だからなに?
マルクスは、ヘーゲルを補完するかたちで、
その「精神の現象」が成り立つ前提について述べているわけだが。
>>160 ほんとにヘーゲル読んだの?
ずいぶん理解のしかたが違うように思う。
これでは話がかみ合わない。
ヘーゲルに絡めた話はもうやめる。
フッサールのが"精神現象学"だからといって、無理やりそっちへ もって行きたいのだろう
マルクスの論理だと独裁政治になるから知識人はヘーゲルに遡行するのが一般的 ジジェク、宇野弘蔵、三木清、廣松渉、吉本隆明、その他 ヘーゲルを読めば言われるほど反動的ではないとわかるし、 ヨーロッパ中心史観もほとんどない 問題はヘーゲルの(志向する)弁証法は無効であり、なおかつヘーゲルの論理それ自体は 弁証法ではないということだ 三幅対自体は論理学ではないからだ ヘーゲルに関してはボルツァーノ以上の批判はまだない 柄谷行人がやっと代替物をつくったくらいだ
165 :
考える名無しさん :2013/12/10(火) 10:28:13.84 0
弁証法は、従来の“形式論理学”とは異なるのだから、唯物史観の本質を 知る為にも、その基底としてあるヘ−ゲル的弁証法の構造を分析することが 必要となる。 弁証法の長所と短所を究明し、新たなるマルクス理論の構築を目指すのは、 過去の歴史に於ける、スタ−リニズム、またポル・ポト政権等の暴力革命の原因が なんであったかを論究するうえに於いても必要なことである。
>>164 >マルクスの論理だと独裁政治になるから知識人はヘーゲルに遡行するのが一般的
いくらなんでも、でたらめ過ぎるんじゃない?
167 :
考える名無しさん :2013/12/10(火) 14:32:17.61 0
エンゲルス的唯物論と、マルクス的唯物論論は、違うけれども、 確かに、今までの共産主義国は、一党独裁(独裁政治)の形態をとっている。
でたらめ過ぎるのは最初の一行でわかったが、 最後の行で柄谷を出してきたのはやっぱりというか
170 :
164 :2013/12/11(水) 13:35:00.09 P
マルクス主義陣営でヘーゲルの遡行が一般的だということ… このことを反省材料として捉えるか開き直るかで今後のマルクス主義が決まる。 ただし、プルードン(及びゲゼル)への再評価がなければ社会運動としては 意味がないと思う。 反省しないなら永遠に社会革命ではなく政治革命=政治主義に逃避していればいい。 柄谷もこの点は中途半端(NAMはマルクスの看板で発足した。言わばマルクス 主義の延命装置だった)だったということは認める。
>>169 そういった事情や思想(?)にくわしくないので、なぜ
>最後の行で柄谷を出してきたのはやっぱりというか
なのか、まったく分かりません。勉強不足のそしりは十二分に受けますのでこの意味を是非、ご教授いただけませんでしょうか?
ちなみに
>>164 さんとはまったく無関係な一労働者です
ヘーゲルは科学を超えた大思想家なので、当面はマルクス主義的に問題になりません。
>>170 NAMはどう見ても社会革命路線じゃないか。政治革命を棚上げした。
そういう俗にいう「オルタナティブ」路線にも多くの可能性があるにはあるが、
ユートピア社会主義が行き詰まったのと同じ困難が現在でもなおつきまとっているのではないかな?
>>170 >政治革命=政治主義
というのは逃避じゃなくて、社会を変えるための(社会革命?)ほとんど唯一の方法なんだよ。
定本『トランスリティーク』柄谷行人422−4頁より 「…立憲君主制であろうと、共和制であろうと、議会民主 主義を、個々の市民の意見が代表される過程と見るのは幻想である。それは、実質的に、官僚あるい はそれに類する者たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思い込むようにする手続き である。そのことは、たとえ社会民主主義の政府であっても変わらないどころか、むしろそれ以上に、 官僚あるいはそれに類する者の立案にもとづくことになる。 ところで、初期マルクスは、右のようなヘーゲルの考えを批判した。彼の考えでは、市民社会(社 会的国家)が基底にあり、政治的国家はその自己疎外感である。しかし、マルクスがそこでいう「市 民社会」とは、すでに諸「国家」によって区分され組織されたものである。市民とは国民なのだ。だ から、たとえ政治的国家を解消しても、市民社会そのものに国家が残っている。シュティルナーが批 判したのはいわば、このことである。この時期、マルクスは、国家を他の国家を前提することなしに 考えていた。そのため、国家が市民社会に還元されない自律性をもつことを見ていない、実際、マル クスはヘーゲルの『法権利の哲学』を批判したとき、ヘーゲルが指摘した或る重要か二点を見落とし ている。それは、国家(主権者) は、むしろ外的に他の国家に対して存在するということである。ヘー ゲルはいっている。《略》(『法の哲学』、第二七八節)。 マルクスは、フォイエルバッハ的な思考を放棄するとともに、初期の国家論を放棄している。その ことは、『ブリュメール一八日』を見れば明らかである。彼は、そこで、国家を、君主、代表制、官 僚機構などのすべての面において捉えなおしている。しかし、これは国家論として書かれたものでは ない、また、その後にも、マルクスは国家をそれ自体として論じていない。その結果、マルクス主義 者は初期のマルクスの考えやエングルスの考えにもとづいて、国家について考えた。…」
政治的国家はその自己疎外感 ↓ 政治的国家はその自己疎外態
177 :
考える名無しさん :2013/12/11(水) 19:42:01.41 0
お前らもうちょいむずかしい話しろ あくび出るわ
178 :
FIG :2013/12/11(水) 20:11:46.49 0
自己矛盾と便秘は違うんだけど その辺の解釈が 電波で いっしょになって 人体宇宙論の中で 言語展開され いまなお 現代にいたっているわけですが うんち出た?
179 :
FIG :2013/12/11(水) 20:13:00.75 0
まちがった あくびだった ごめんね
↓ 重要な一点
181 :
考える名無しさん :2013/12/11(水) 21:02:11.83 0
>>175 >マルクスが、フォイエルバッハ的な思考を放棄している、と述べているが、マルクスは
エンゲルスのように固定化した“唯物論的一元論”ではないと思う。
「人間は作られながら、実践的に自らを創造し変革していく存在である。」と、マルクスは
述べている。
この“自らを創造し、変革していく存在”を可能としている論理は、フォイエルバッハの
「私と汝」論理であり、主観(私)と汝(客観)との相関関係(二元論的連関)によって成立が
可能となる。
>>175 柄谷がいつも混乱してるように思うのは、国家、法、政府の区別と関係がわかっていないんじゃないかと思うところ。
国家というのは、法と政府であって、マルクスが幻想としてみた国家というのは法のことだし、レーニンが力として見た国家は政府のことだ。
それぞれの視点によって国家を捉えているだけ。
市民社会を規制するのは国家(法と政府)だけど、市民社会はその国家に規制されながらも独自な活動体ということになる。
だから、国家がなくなっても変わっても、市民社会はその活動をやめることはない。
それが顕著に表われたのが、敗戦直後の日本だろう。
国家が無くなったといえば無くなったし、日本がアメリカに変わったといえばアメリカに変わった、とも言える。
対共同体外的に国家が見えるのは、その法と政府が、地形や言葉や宗教によって閉じられている、ということに過ぎない。
それを崩しつつある例が、EUということになる。
どちらも、規制を別にすれば、市民社会の活動自体が変わるわけではない。
>>171 長くなるので簡単に。
マルクスの論理は独裁政治にはなりません。彼は、労働者が権力を取る
しかないんだ、ということは言っているが、共産党単独でなきゃいけない
とか「独裁」だとかいう具体的な政治形態については語っていません。
宇野弘蔵、三木清、廣松渉…、これらの人については支持者もいますが、
批判もかなり多い人たちです。マルクスの解説というより、自分流に
マルクスを解釈した本といったほうがいいかも。実際、初学者が彼らの
本を読んでマルクスを理解できるかといえば否でしょう。
吉本さんにいたっては文芸評論家であり、哲学の人というより社会一般に
184 :
183 :2013/12/11(水) 22:28:44.81 0
ついて語る人です。吉本を読んだからといってマルクスがわかるわけでも ない。 ヘーゲルの弁証法は無効ではありません。形式論理だけではとらえきれ ない客観的世界の運動法則や、それに規定されつつそれを能動的に反映する 人間の意識活動について述べているからです。自然や社会の運動を機械的な 因果法則でなく発展法則としてとらえることができるようになったのは ヘーゲル弁証法があったからこそです。 柄谷さんは、普通にマルクスやヘーゲルを読んでいる人からみると ヘーゲルやマルクスの解釈自体に違和感ありまくりの人。というか、 間違いだらけ。その上で、マルクスやヘーゲルを自由に「解体」し、 自分流に「再構築」する。彼の話はもはやマルクスでもへーゲルでも ありません。まあ、もともとポモの人ですから仕方ないのかも。 ちなみに柄谷さんについては、吉本が「知の三馬鹿」の一人と呼んでます。
定本『トランスリティーク』柄谷行人333−6頁より 「フォイエルバッハは、感性的で類的本質存在である人間が、その類的本質を疎外されたかたちで把 握しているのが宗教であり、そのように疎外された類的本質を取り返さねばならないと考えた。しか し、このような宗教批判は、カントより後退している。第一に、カントはすでに道徳的なものとして の宗教以外の宗教を否定していたからであり、第二に、崇高は、威圧的な自然への宗数的な「畏怖」 がなくなったときにしかありえないからである。したがって、崇高において見出される論理を宗教批 判に適用することはできない。崇高そのものがすでに宗教の否定だからだ。カントがいう崇高は、た んなる自然的な対象にこそ見出されねばならないのである。つまり、崇高は人が充分に啓蒙され世俗 的になったときに成立する感情である。そうだとすれば、マルクスがフォイエルバッハの宗教批判を 世俗的な資本主義経済に振り向けたというのは事実だとしても、むしろ、マルクスの貨幣論は、カン トのサブライム論から見たときによりよく理解されるはずである。さらに、フォイエルバッハの自己 疎外論と違って、カントの崇高論には文字通り資本主義への認識が含まれている。カントがいうよう な、「没関心性」によって見出される美は、すでに、使用価値の質的差異に無関心な商品経済の所産 である、ところが、美はまだ使用価値=快感原則と切り離すことができない。崇高はむしろ使用価値 =快感原則と根本的に反するものとしてあらわれる。 … 崇高においては、不快を通して或る種の快が得られる。カントはそれを「自分が犠牲に供したとこ ろのものよりも、大きな拡張と威力」を得ることだと考える。それはまさに剰余価値の問題である。 … フロイトは「マゾキズムの経済的問題」について考えたが、カントはいわば崇高における経済的問 題を考えたのである。 … 資本の蓄績のたえまない運動は、快感原則でも現実原則でもなく、フロイト的にいえばそれら ある活動(死の欲動)として見られるべきである。」
しかし、資本の 蓄績のたえまない運動は、快感原則でも現実原則でもなく、フロイト的にいえばそれらの「彼岸」に ある活動(死の欲動)として見られるべきである。
>>183 丁寧にご返答していただき、ありがとうございます
朝イチに読んで熟考し、結果今日からでも『資本論』そのものに挑戦してみようと決心しました
一日一ページの気合いですがw 死ぬまでに読み通せればと思っております
古典を直接読んでみるのはいいことですよね。 部分部分でわからないことがあっても読み進んでいくうち、 直感みたいなものは確実に身につく。 マルクスを論じている怪しい人たちの言説について これはおかしいこと言ってるな、と気づく直感が。
189 :
門外漢 :2013/12/12(木) 09:13:27.58 i
お、俺も読んで参加するかな、 15年ぐらい前のマルクススレで 「ヘーゲル抜き(弁証法抜き)のマルクスが求められるんじゃないか?」って書き込んだことがあるんだが、 その時に 「ヘーゲル抜きのマルクスなんて、骨のついてない骨付き肉みたいなもんだ」って返された ダイナミックな大言壮語ではなく、マルクスが取り組んだ問題を読み取りたい
骨のついてない骨付き肉って、いい表現ですね。 正しい。
191 :
考える名無しさん :2013/12/12(木) 11:27:12.00 0
>>185 フォイエルバッハの「私(主観)と汝(客観)」論理と、カントの
「現象界(主観)と物自体(客観)」論理は、両者とも、主観的存在と
客観的存在との、相関関係(二元論的連関)に於ける思想展開をしている。
フォイエルバッハは「汝」である客観的存在を“実在”として論理展開をしている
のに対して、カントの場合は、「物自体」としての“客観的存在”を実在として捉えていない。
この点が、フォイエルバッハは、カントより事象に対する捉え方が“前進”している。
フォイエルバッハが、「汝」を実体とした「客観的存在」として捉え論理展開をする哲理は、
カントより大きく前進したことであり、この主観(現象界)と相関する客観的存在を実在として
捉える哲理が、マルクスの思想へと継続されて行く。
192 :
がんばれじいさんたち :2013/12/12(木) 11:55:17.93 0
マルクスはマルクス本人によってしか乗り越えられない。 つまり「初期マルクス」を乗り越えた成果が1859年の『経済学批判』だろう。 そこではもはや「哲学」とか「宗教学」とかは“批判”の対象でさえない。 これからは経済学一本でやる。 それが中気マルクスいやいや「中期マルクス」。 それが1867年の『資本論』初版刊行時にはー経済学批判ーという副題に格下げ。 もはや「経済学」でさえ研究の対象から格下げされてるわけだ。 資本の運動法則の研究。 これしかない。 だから「初期マルクス」はマルクスの思想発展史以上のものは認めるべきでない。(個人的には) 道具立だけは立派だが中身がない。 (厳密にいえば外身がない) 結局はマルクスのヘーゲル読みの逆行退化。 廣松の「物象化論」も《モノ》一つ転がるわけでもない。 腹に響かん。 ここは哲学スレだから経済は経済学でやれというがマルクス哲学はそうじゃないだろ。 脳内哲学はいくらでもやれ。 しかし町内哲学いや腸内哲学をもっとやれ。
193 :
考える名無しさん :2013/12/12(木) 19:45:04.26 0
初期マルクスは文学的表現や皮肉表現が多く、用語も整理されていない。 それゆえ、言葉を言葉でいじくりまわすタイプの"文化人"は初期マルクスの あいまいさにつけ込みそのあいまいさを利用して文壇や業界で目立とうとする。 疎外論だの物象化(物神化)論だの幻想論だの。 それにまんまと騙されてありがたがってる読者もいる。
>>193 初期のマルクスにも、ほんとうの意味では曖昧さなんかないと思うよ。
曖昧に見えるとすれば、未完や断片のものが多いからだろう。
革命家として逃亡生活を余儀なくされてたマルクスだけど、それでも、よく著作が残ってる方だと思う。
文学的表現というのがどういうものを指すのかわからないけど、資本論なんかでは感情むき出しの表現もあったりして、後期の方が親しみやすくはなってるね。
195 :
考える名無しさん :2013/12/12(木) 21:03:21.80 0
ちなみに、マルクスは実は「疎外」なんて言ってない。 これ豆な。
>>195 マルクスは、あっちこっちで「疎外」って言ってるよ。
これも豆。
マルクスって日本人だったのか
>>197 座布団一枚まではいかないな。
ちょっと定番過ぎw
単なるオヤジギャグと言ってほしい
200 :
考える名無しさん :2013/12/13(金) 20:53:31.21 0
>>192 >結局はマルクスのヘ−ゲル読みの逆行退化。
>マルクスが問題としたのは、資本を持つ階級と、持たない階級の間の“所有格差(経済格差)”
の上に成り立つ生産様式があるということに尽きるけれども、この問題の根底にあるのは、“唯物史観”の
哲学的な分析(究明)にある。
つまり、唯物史観の基底にある「弁証法的唯物論」は、ヘ−ゲルの観念論的体系としての「弁証法的唯心論」の
“絶対精神”と“物質”とを置き換えものであり、その本質は、ヘ−ゲルと変わらない主観主義的な認識論としてある。
上記の観点を踏まえて、マルクス理論は、マルクス本人を起点として、マルクスを乗り越えて行くものであり、
ヘ−ゲルの弁証法の欠点と、長所(アウフヘ−ベンの生成論理)を明確として、更なる論理の進展が求められている。
201 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/21(土) 23:43:47.48 0
ワープアを作り出したのは、資本主義自体が望んでいたこと。 いまさら気づいたか、よいう感じ。 資本主義はもういらぬ。
202 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/21(土) 23:46:56.47 0
しまいには、制御装置付きロボットの開発には金を惜しまない。 不変資本だと、思っているからだ。 今に、馬鹿をみるだろう。
203 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/21(土) 23:57:50.74 0
受肉しているものだけに価値を見出す、馬鹿どもの法則がこのような形で発展していくとは マルクスも苦渋で悶えてるだろう。
204 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/22(日) 00:09:05.18 0
グローカルだの、グローバリゼーションだのいっても、所詮、欲望の宙返りはとまらない。 資本主義のバカさ加減は、資本主義では気づかないんだ。
> 「貨幣それ自体が 貨幣をうみだすことはない」 ケインズが『・・・一般理論』の中でゲゼルを高く評価しているところと同時に批判しているところ、 それから同じく『・・・一般理論』の中で、 私が古典派経済学理論の中で唯一共感できるところがあるとしたら それは労働価値説だ というふうなニュアンスのことを述べている箇所があり、そこを思い出した。
206 :
考える名無しさん :2013/12/22(日) 20:30:34.31 0
げーヴぇーげーだっしゅ げーヴぇーげーだっげーヴぇーげーだっげーヴぇーげーだっしげーヴぇーげーだっしゅ ゅ しゅ マルクスなんて、たいしたこと言ってない げーヴぇーげーだっしゅ げーヴぇーげーだっしゅ げーヴぇーげーだっしゅ げーヴぇーげーだっしゅ げーヴぇーげーだっしゅ しゅ げーヴぇーげーだっしゅ げーヴぇーげーだっしゅ
207 :
考える名無しさん :2013/12/22(日) 20:33:47.63 0
資本という名前の擬人化マンガってこった。こんな糞を信奉するやつ、まだいるの?
資本主義社会はハウルの動く城に似ている
209 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/24(火) 13:38:33.18 0
マルクスはマルサスをぱくった。
211 :
考える名無しさん :2013/12/29(日) 00:04:39.40 0
大谷禎之介が『資本論』第一巻の新訳を準備中らしいが、ぜひとも第ニ・三巻もお願いしたいところだ ちなみに「です・ます」調らしい
>>204 無意識に競争社会や差別意識が肯定される価値観になった感はある
俺のなかで資本主義て、資本主義導入→右肩上がりの経済成長→文明と経済成長がピークにきたら世界恐慌→世界大戦→文明、経済崩壊→ふりだしにもどる
みたいなイメージだが
エコロジカルなマルクスの使い方。
>>212 案外それがマルクスの正しい読み方かも。
新聞でマルクスについて軽く触れた文章を読んだのだが
イギリスの帝国主義をもって、マルクスはそれが植民地の独立に発展することを説いたのだそうだ
正・反・合。帝国主義、反対運動、民族自立へとつながる歴史的発展を読み取ったのだろう
だが、帝国主義が植民地の独立という結果をもたらすのを知りながら
マルクスはイギリスの帝国主義に反対したのだそうだ
他人を奴隷扱いしようとすることは自分自身が奴隷のような思考に陥ってしまう、という論法だったらしい
自分たちのために(イギリス国民のために)帝国主義はやめるべきだ
これがマルクスの考えらしい
マルクスの理論って人の心や思考を組み込んであるね
思考や心が外的影響を受けるのがマルクスの理論の核心じゃないかな、とその時思ったよ
>>214 自分は哲学もマルクスも素人なんだが、マルクスが大衆の文科や思想は経済的な外部要因で決まるみたいな事言ってるが、それも凄く説得力あるなぁ。って感じる
例えば俺なんかゆとり世代で、ものごころついた頃からバブル崩壊で閉塞感マックスで希望ももてない世代だった
逆に俺の両親は高度経済成長期にうまれた
こうなると俺の年齢の時と、両親のその年齢だった時の価値観で比較してくるから話しがまるで噛み合わないんだよね
これもその時代の経済的な社会背景のバックボーンが違うのが影響してるのかと
例えば 両親の時代は経済成長、希望、安心、夢をもちやすい、不便だが人同士が繋がってた、戦後復興という国民が団結する目標があった 俺の時代は経済停滞、絶望、変に物質的に豊だから夢ももてない、利便性はあるが孤独感抱えてる、アイデンティティーがつかみにくい ここまで社会背景変わると価値観変わるよ 昔の時代は社会的地位の獲得が大衆の夢。今は孤独感を抱えないことが夢。夢がもてないからニヒリズムに陥ってニート、鬱、自殺のオンパレード 昔の日本人はバリバリ働きまくってた。今はニートとか、上の世代も働くのがつらそう 政治的にいうなら昔は反社会的で左的て国に対し、デモや学生運動だらけ、今は右寄りの国粋主義が幅をきかして、デモも全然ないし、あっても国粋主義的なデモでしょ? 何が言いたいかというと経済的な成長背景で大衆の価値観が全く変わってるんだよね
217 :
考える名無しさん :2013/12/29(日) 19:36:19.60 0
経済的な成長背景で大衆の価値判断が変わったのも一原因と思うが、 その奥に根本的な原因が、隠されているのではないであろうか。 特に、この20年間は、IT技術の驚異的な進歩による世界的な情報革命、又、 生産部門の産業ロボット化による革命的な生産技術、そして、メガトン級の核兵器等に みられる破壊兵器の強大化など、これらのテクノロジ−に対して、人間の“極小化現象”が 起きているのが、その根底にある原因と考えられる。 だから、経済問題と連動して、種々のテクノロジ−の価値観と、人間の価値観との“調和”という 視点から捉え直していかなければならなし、今日のこの状況は、人類が未だ経験したことのない領域に 在るのではないかと思う。
218 :
がんばれじいさんたち :2013/12/29(日) 20:50:36.41 0
マルクスにとってのアジアとはなにか? もちろんここでの“アジア”とは地理的歴史的なものを意味しない。 資本論の分析対象はあくまでも19世紀半ばの英国経済。 イングランドあるいはヨーロッパ半島がその対象であり 資本論刊行時のマルクスの視点においてはアジアとは「夾雑物」にほかならない。 もちろん後の「アジア的生産様式論争」を無視するつもりはないが。 (吉本隆明の「アフリカ的段階」も詩人的直感としてはすぐれているが後が続かない) さてここからが問題だが では資本にとっての“アジア”とは何か? (つまりアジアだろうが日本だろうがアフリカだろうが中近東だろうが) これこそが現代の大問題だろう。 資本論冒頭の価値形態論(貨幣発生史)にそのヒントが隠されている。 特殊歴史的事象(本源的蓄積論)と普遍歴史的事象(貨幣発生史論)。 マルクスが(近代的)生産資本の発生以前に貨幣の発生を解くのはごくごく当たり前だ。 しかしこの(論理的には)当たり前のことが(歴史的には)まったく不可逆なのだ。 これが本当の資本論の難解さではないか。 なお宇野弘蔵が「価値形態論」は資本論「第0巻」に位置するというなら理解はできる。(続)
>>218 マルクスのアジアは歴史的段階としてのアジアだよ。
ヘーゲルの歴史観を受け継いだもの。
資本主義経済の投資先としてのアジアではないよ。
マルクスでも吉本でも宇野でも、誰かの著作を引き合いに出すなら、一応は本を読んでから書き込んでくれよ。
221 :
考える名無しさん :2013/12/29(日) 21:52:44.47 0
おいおい専門外だが一応全部読んでるぜ。 ヘーゲルなんか持ちだすからこっちはカチンとくるんだ。 わかるかい?わかんねだろうなあ。
>>221 君がカチンとこようがコチンといこうがどうでもいいよw
マルクスを理解するにも吉本を理解するにもヘーゲルは必須だ。
宇野の理解には不要だがw
いったいなにをどう読んだら、そんな戯言を並べるようになるんだ?
まあ、柄谷さんみたいな戯言の人もいるんだし
224 :
考える名無しさん :2014/01/04(土) 20:27:27.03 0
二十世紀最大の欺瞞はマルクス主義、共産主義、 社会主義であることは二十一世紀のいま誰が みても明らかな弁証法上の真実であーる。腹の底から 怒りがこみ上げてくるは。
ソ連は 8 時間労働の土日休みで公共機関はタダ同然ですべての児童が巨大な児童館をタダで利用できたんだぜ。 資本主義諸国が労働者の共産賛美を嫌ってマネしたから日本人もその恩恵が受けられたんだぜ。
227 :
考える名無しさん :2014/01/04(土) 21:07:55.31 0
Stahlinは確か共産主義者のはずだが人間を何人殺したかな? 毛沢東はたしか共産主義者のはずだが「人民」をどれだけ 虐殺したかな?習近平はたしか共産主義者だがチベット人、 ウィグル人を今どれだけ殺しを続けているのかな? 社会主義国北チョン帝国では三代続いた王朝の現国王が 人殺しをし続けていないかな?それもこれも >タダ同然ですべての児童が巨大な児童館をタダで利用できたんだぜ (日本語怪しいな!)なら許されるのかな?
>>227 証拠はあるの?
まあ、資本主義国の侵略や植民地化や奴隷狩りで殺された人間の数も限りないけどね。
国家というものは、その理念にかかわらず、個人を圧殺することに変わりはない。
国家という概念そのものを否定していたのがマルクスだよ。
>>227 それらの国の中で、近代的資本主義を経験した国があるのか?
創価があるから仏教はカルトって言ってる様なもんだぞ。
アメリカ独立革命も、数知れぬネイティブアメリカンを結果的には粛清したようなもの。 フランス革命も粛清が横行したあげく、ナポレオンがヨーロッパ中の膨大な人々を死に至らしめた。 産業革命も、酷使され死んでいった労働者は数知れない。 最初の世界戦争は、産業推進の帝国主義化の果ての帝国間の闘争。 二度目の世界戦争も、仏英がドイツに天文学的賠償金を請求し追い詰めたのが根本原因。 共産主義が原因で死んだ人より、資本主義が原因で死んだ人の方が少ない、ということはない。
そもそも、不適切な既得権層から政府が既得権を回収するのに、粛清か内乱などの自滅的戦争か以外の手段があるのか疑わしい。 その意味では、少なからぬ既得権層の共産党内への侵入的温存を許してしまった点で、共産諸国はむしろ不徹底とすら言える。
232 :
考える名無しさん :2014/01/05(日) 15:44:36.99 0
簡単に言うとマルクス主義なるものは、幻想に過ぎず 人類はいまだかって実現したことがない。すなわち 気違いの寝言にすぎないと証明されたわけだな。
マルクス主義否定するならレヴィストロースくらい出してくれないと。
生産手段の共有は、労働者の生存権を確保するが、幸福権を確保できない、で論破できんじゃない? 幸福は、スピノザなどに拠れば自己の実現だけど、それは生産手段の固有化によって初めて確保される。 なぜなら自己の実現は個性的生産であり、生産の個性化は必然的に生産手段の個性化を要求するから。 職人は自身の道具の工夫にも余念がないけど、その共有はそうした工夫を禁じられるに等しい。 道具への憎悪はやがて生産自体への憎悪になり、労働はできればサボりたい必要悪でしかなくなる。 ゆえに、生産手段の共有は、万人が万人の奴隷となる状態を生むにすぎない、とか。
235 :
考える名無しさん :2014/01/05(日) 18:27:57.77 0
ま、キリスト教の一派にすぎないので、唯一の 基準で人間が解るという思い上がりの典型。
それはブルジョアジーの搾取よりマシで論破できそうかなぁ。 私有財産の否定とプライバシー権の関係とか、そもそもマルクス主義が無限の生産性に基づいてるとか、そっちの方がいけそう。 知の権力の肯定が云々ってやると、ちょっとかっこ良いかな。
>>234 >>236 論破なんて中学生みたいなこと言ってないで、現実社会を見つめて問題点の解決を図る思想たり得るかどうかを議論しないといけないよ。
これまで哲学は現実をさまざまに解釈してきた。
大事なのは、現実を解釈することではなく、現実を変えることだ。
かっこ良いのは、ドゥルーズあたりのポモ哲学だけで十分だよw
238 :
考える名無しさん :2014/01/05(日) 19:24:55.91 0
>かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w >かっこ良いのはポモ哲学w
>>238 君は、反語や皮肉が理解できないんだな。
中学生同士で論破ごっこやってるのがお似合いだw
240 :
考える名無しさん :2014/01/06(月) 19:32:11.69 0
まーどうでもええが、こま るのは、自分がどうしょうもない くさい議論をしているのに すこしも気がつかないって事だな
241 :
考える名無しさん :2014/01/06(月) 20:39:01.04 0
>>237 大事なのは、現実を解釈することではなく、現実を変えることだ。と述べているが、
その通りだと思う。
しかし、ポストモダン哲学が戦後の荒廃からどの様な経緯で現れて来たかを知ることが、
現実を変えることに繋がって行くと思う。
つまり、ポストモダン哲学は、戦前のフッサ−ルから、メルロ=ポンティ へ「発生的現象学」として
引き継がれ、サルトル、ハイデガ−、デリダ、ドゥル−ズ等は現象学を基底として発展した。
戦前そして戦後を通じての「論理実証主義的」な文明の進展が、行き詰まりとなっている状況に於いて、
現象学が創出して来たのであり、現に於いても、文明の行き詰まりは続いているのが現状である。
242 :
考える名無しさん :2014/01/06(月) 20:42:50.25 0
>>241 >「論理実証主義的」な文明の進展が、行き詰まりとなっている
かどうかについては議論もあるだろうが、哲学の閉塞感はものすごく強いとは思う。
サルトルもメルロ=ポンティもドゥル−ズもフーコーも、現実社会に対する変革の意志を失わなかった。
方法と視点はそれぞれであったとしても、だ。
ところが日本に輸入されたそうした哲学は、サルトルを除いて机上の学問に貶められてしまった。
だから、日本における彼らの系列は、就職先の確保が目的であるかのような無意味なスコラ的な議論になり、それが大学哲学の主流となってしまった。
日本でサルトルが顧みられなくなったのも、そのことと無関係ではない。
244 :
考える名無しさん :2014/01/07(火) 13:56:58.03 0
>>243 戦後の日本の一般社会に、メルロ=ポンティ、デリダ、フ−コ−の哲学が根付かなかった
原因は、どこにあったのでしょうか。
日本はモノづくりの国。戦後は特に。 モノづくりの生産現場は自然科学的な見方が必要だ。 つまり唯物論的弁証法的な思考、合理的な思考とは親和性がいいんだね。 だから、唯物論的弁証法的な思考を否定する言葉遊びの"哲学"の 胡散臭さには耐えられんかったんじゃろ。
確かに俺も西洋人の「言葉」信仰に当初は馴染めなかった これ、マジ
>>244 事前に対象とその関連分野を綿密かつ徹底的に研究する方法論系だからじゃない?
あるいはそのために、根付きつつあっても華がなくてマスメディアには出てこないとか。
>>244 単純に自民党の教育政策が浸透しているからだろう。
政治的な思考を排除して机上の研究だけを重要視する。
特に反体制的な論考は大きな不利益がもたらされるから、継承者がいない。
だから、詳細な解釈と新しい視点の提示というニッチな論考だけが高い評価を受ける。
人間と社会の関わり方の研究も社会の根源的な分析も、現実社会を排除したところでしか考えることが許されていないかのようだ。
哲学も思想も、就職のための大学哲学に閉じ込められてしまっているのだろう。
まさに、スコラ哲学だ。
>>234 >>236 を読むとポモ流行の現実を見せ付けられたようで軽い衝撃を受ける。
マルクスを語ると見せかけておいて、もはやマルクスだの現実だのどうでもいい世界。
言葉遊びは恥ずかしいものではなく、むしろかっこいい「知的な」世界なんだな。
すごいわ。
250 :
考える名無しさん :2014/01/08(水) 13:35:16.26 0
>>249 それは、ポモ流行の現実とは別ものであり、ただの浅薄な知識の遊びにすぎない。
哲学や社会科学じゃなく創作文芸の世界なんだよね
柄谷くんとかねw
>ゆえに、生産手段の共有は、万人が万人の奴隷となる状態を生むにすぎない、とか。 舐められたもんだな
「生産手段の共有」自体がわかってないのだろう。 「生産手段の固有化」だとか「幸福権」だとか。 で、最後は「道具の工夫」だの「論破」だのw
>>254 ただ、バカなだけw
舐めてるんじゃなくて恐れてるから必死に否定してるw
資本論だけではなく近代経済学も学んだ人は?
>>217 俺は素人だけど
>IT技術の驚異的な進歩による世界的な情報革命、又、 生産部門の産業ロボット化による革命的な生産技術、これらのテクノロジ−に対して、人間の“極小化現象”が
起きている
軍産複合体とか産学複合体とか言われるけど以下の箇所は興味深い
>「生産の知的能力はある一定方向においては拡張するが、それは他の多くの能力が消え去るから」である
・・・この分離過程は・・・単純協業に始まる。
それは、労働者を不具にして自分自身の一断片にしてしまうマニュファクチュアにおいて発展する。
そしてこの過程が完成するのは大工業においてであり、「科学を労働から切り離された生産能力にし、それを資本に奉仕させる」(P473〜474)
ああ素人がたまたま読んでた箇所とリンクさせちゃっただけなので全然違う話だったらすみません
>>217 >>258 >人間の“極小化現象”
これは、マルクス、エンゲルスが「資本論」で労働価値の低下という言い方で指摘しているよ。
「兵器の強大化」とは無関係だけど。
このレスの人は、経済の領域と国家という幻想の領域を混同してるんじゃないかと思う。
261 :
考える名無しさん :2014/01/14(火) 21:11:44.25 0
いやテクノロジーとの関係を論じるレスが前からあまり見かけないのが不思議だ ったからちょっとあれしてみただけ 「労働価値の低下」以外に何かないのかなと
>>261 テクノロジーの発展が生産力を高めるから、相対的に労働価値が低下する。
これは、理想としては賃金を維持したままの労働時間の短縮につながるし、現実には賃金の低下につながる。
だから、労働対資本という階級間の闘争になる。
テクノロジーの発展と資本主義経済政権の方向は、マルクスが予見したとおりに進んでいる。
OECDによる報告書は、OECD加盟諸国で起こっている雇用の不安定化の原因を グローバル化にも新自由主義にもない(その影響は僅かでしかない)と評価していた。 OECDの分析では、その原因の最大のものはむしろ技術革新と産業構造の変化なんだとか。 これはジェレミー・リフキン氏の『大失業時代』(The End of Work)が論じていた内容と符合する。
264 :
考える名無しさん :2014/01/14(火) 22:29:28.03 0
テクノロジ−の発展により驚異的に生産力は高まり、相対的に労働時間の短縮により、 現実的に賃金が低下する。ここまではマルクスの予見した通り進んでいるが、現実は更に、 “産業ロボット”の急速な進歩により、“人間自体”を必要としない生産体制が進んでいる。この様な 状況は、単に「労働者」と「資本家」という従来の相対的な関係を越えているのであり、マルクスの予見を 越えた新たなるテクノロジ−(科学技術)と資本主義経済社会が到来しているのではないであろうか。
産業ロボットも生産手段の一種。それが労働者を不要化しても、巡り巡って「消費者」が激減することになる から、大量消費者を維持するには産業ロボットを共有化して、それがもたらす利益を労働者に分配する形 にしないと。
>>263 一人当たりの労働時間を短くすればいいんだよ。
賃金はそのままで。
それが可能なのに、政治的に資本の利益を重視してそれをやらないから、失業問題が起きる。
>>264 マルクスの予見の範囲だと思うよ。
「資本論」は目を通しておいたほうがいい。
原理的には「資本論」のとおりに資本主義経済が動いてるから。
267 :
考える名無しさん :2014/01/19(日) 16:12:20.67 0
現代の社会は、過去に例をみないスピ−ドで技術革新(テクノロジ−)と、産業構造の変化が進んでいる。 資本論は、資本家(ブルジョアジ−)と労働者(プロレタリア−ト)を基底として階級闘争の理論を展開すらが、 マルクスが生きた時代と今日の産業構造は、大きく変わって来ている。 現代社会は、資本家と労働者の関係の他に、技術革新(テクノロジ−)を独立した分野として捉えていく 必要があると思う。 つまり、マルクス主義では、資本家と労働者という対立する関係を、定立(=資本家)と反定立(=労働者) としての「弁証法的(=階級闘争的)」な捉え方による論理展開をしていた。 現代のテクノロジ−による驚異的な産業構造を的確に分析するには、資本家と労働者と技術革新(テクノロジ−)の 独立した“三つの分野”を総合的に捉えていく、新たなる論理展開(従来の弁証法ではない)が必要になってくる。
技術革新は、単に生産手段の革新というだけで、産業構造自体を変化させるものではないと思うけど。 生産手段の日々的革新ならマルクスの時代にも普通にあったし。
マルクスがすでに明らかにしているように、技術革新は生産諸力の一部で あって、その発展はいずれ現行の生産関係と衝突することになるんや。 別に独立した三つの分野でもなんでもなく、その相互の連関はすでに 明らかにされているわけやな。 新たなる論理展開なぞ必要ないし、柄谷さんみたいな自由な改変は やらんほうがええで。
271 :
マルクソ主義者の冒険 :2014/01/20(月) 16:14:45.57 0
いま流行の“イノベーション”もすでに「相対的剰余価値生産」でやってるな。 まあ大雑把といえば大雑把なモデルではある。 シュンぺ―ターは一産業・一企業・さらには一個人にまで及ぶがマルクスはざっくりと。 一資本家としては利潤(絶対的剰余価値)を求め。 全資本家としては相対的剰余価値を求めていく。 それが資本のメカニズム。 この辺は考える名無しさんにとっても耳タコだろ。 スミスの「見えざる手」を思い起こすな。
>>271 >一資本家としては
>全資本家としては
そんな話は、ないんじゃないか?
273 :
マルクソ同文 :2014/01/20(月) 17:22:38.45 0
内科な 外科かな
274 :
考える名無しさん :2014/01/20(月) 21:32:27.83 0
>>263 そこで言われてる技術革新と産業構造の変化についてKWSK
>>274 OECDの研究のほうか、ジェレミー・リフキン氏の著作のほうか、どっちの?
276 :
考える名無しさん :2014/01/21(火) 14:29:49.86 0
>>275 ジェレミ−・リフキン氏の技術革新による産業構造と、新自由主義がどの様に
連関しているのかを知りたい。
277 :
考える名無しさん :2014/01/21(火) 18:16:54.15 0
>>275 OECDは産業構造の変化をどう論じてたの?
て読んだほうが早いかw
279 :
素人 :2014/01/25(土) 01:26:49.58 0
>>266 >一人当たりの労働時間を短くすればいいんだよ。
賃金はそのままで。
それが可能なのに、政治的に資本の利益を重視してそれをやらないから、失業問題が起きる。
それはケインズが予言?したような意味でですか?
>>279 ケインズじゃなくて、マルクス。
生産性の向上により、同一生産量なら労働時間は短くなる。
より多くの剰余価値を求める階級としての資本家は、生産性が同じであればより長い労働時間を要求するし、生産性が向上すれば同じ労働時間を要求する。
だから、組合活動によって労働条件を守ったり向上させたりする必要がある。
>>279 ケインズもそれに近いことを予言していましたけれど、
ケインズはマルクス主義者ではないにしましても
マルクスを相当読み込んでいたと思われます。
しかしケインズは階級闘争には言及していないと思います。
ケインズは資本主義は自動的にその道を行くかのような予言をしていますが、
マルクスは労働組合なり労働者たちの連帯が必要だという立場だと思います。
282 :
考える名無しさん :2014/01/25(土) 16:54:46.49 P
「剰余価値」って今で言う「付加価値」と何が違うの? 剰余価値を資本家が取るのはなぜいけないの?
>>281 ケインズはマルスクをほとんど理解していないよ。
読んでないのかも知れない。
価値の原泉の理解がまったくない。
>>282 付加価値という概念自体が曖昧だが、一般的には、本来の商品の用途に別の用途を加えるとか、競合他社製品との差別化という程度の意味で使われることが多いので、剰余価値とは無関係。
剰余価値というのは労働により生み出される価値だから。
労働により生み出された価値だから労働した人が受け取るのが自然なのに、剰余価値を資本家が自由に配分できるという法を定めているのが資本主義国家。
その剰余価値を、全体として働いた人のものとする法に変えるのが共産主義。
284 :
考える名無しさん :2014/01/25(土) 17:38:51.90 P
なるほど共産主義は資本家に全く権利を認めて無いのか 資本主義脳から抜け出せてなかった ありがとう
ワーキングプアが増えたのは不況のせいでも新自由主義のせいでもグローバル化のせいでもなく、 単に産業構造の変化、つまり、サービス産業への労働人口のシフトの結果に過ぎないという指摘もある。 要するにサービス産業には、とくに飲食・小売業にはもともと非正規雇用が多いし、それに近い待遇の正規も多かった。 だから産業構造がそちらにシフトすれば、その度合いに相関して非正規雇用人口もワーキングプアも増える構造にある。
介護なども飲食・小売業の部類に入るけど、サービス産業の中で唯一の例外は金融。
>>285 あまりバカなことを書き込まないようにw
職種で正規非正規の割合が違うのは、近年の新自由主義による資本家最優遇、つまり株主配当最優先の経営のため。
ちなみに、コンビニなどのフランチャイズ方式の運営もミニ資本家を多数輩出して非正規増大に寄与している。
日本の製造と小売りは、ほぼ生活保護以下の最低賃金が支えているという異常な経済構造。
製造は違うでしょ。
>>288 工場の非正規率は上昇するばかりだよ。
賃金も低下の一途。
一つの例が農薬事件。
>>285 こそまさしくマルクスが想定していた筋書に近いでしょう。
>>290 マルクスは、産業構造なんて曖昧な概念は使ってないだろ?
不況とかグローバル化とか新自由主義の問題に還元されちゃうと けっきょくはニューも含めたケインジアンで解決できちゃうという話になるから マルクスの出番がまたなくなる。
>>294 じゃあ、レスの趣旨の戻って、マルクスの読解をやろう。
どれからでもいいよ。
現代の経済や社会を考えるのに、とても役に立つと思う。
296 :
考える名無しさん :2014/01/28(火) 19:27:12.42 0
20世紀にはびこった最大最悪のまやかし、人類の許しが難い 敵、最大の詐欺師 魔婁苦棲
297 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 02:30:30.32 0
20世紀最大最悪のまやかし かつ資本家の許しがたい敵・詐欺師・大悪魔 魔婁苦樔の復活を! この「平和」な21世紀に望むなり
>>291 産業構造論でいうところの第一次産業から第二次産業への労働人口の移動が、
マルクスの考えたプロレタリアート階級の歴史的な台頭をそのまま意味してきたことは事実。
第一次産業は機械化によって労働人口を大幅に減らした。
これは資本論で論じられていることそのもの。
300 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 13:12:32.66 0
生産手段の効率化/進歩は、タイムシェアリングによる労働時間の短縮を導かない。 過酷で生き残りをかけた市場競争があるためで、世界は、リフキンのいわゆる大失業時代に 向かわざるを得ないと思う。
301 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 13:29:39.74 0
>>300 追加;生産手段の効率化も、それに由来する解雇も、ともに、過酷で生き残りをかけた市場競争由来。
303 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 18:15:11.18 0
>>299 したがって、「マルクス」はせいぜい第二次経済時代までの話。
>>303 資本論も読んでいないのに、マルクスの限界を指摘するのは無理だろw
305 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 18:45:43.07 0
ひたすら、資本論を読んだ読まないだけで考えるこの愚かさ。マルクスはきっと泣くよ。
>>305 マルクスが泣くか笑うか知らないが、こと経済に関してマルクスに言及するなら最低限の前提となる知識だろ?
マルクスのなにを読んで、「マルクスの出番がまたなくなる」だとか「せいぜい第二次経済時代までの話」だとか書いてるんだ?
読んでないなら、マルクスなんか引き合いに出すことはないだろうw
307 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:00:50.60 0
では、マルクスを読んだと称するあなたの、第3,4次経済時代についての、マルクス主義の観点からの考察/解析を述べてごらんよ。 できるかな??
>>307 君、バカだろw
>第3,4次経済時代
そんな時代区分は無意味だよw
309 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:11:32.62 0
>>307 ちょっと言い過ぎた。
よかったら、どうか教えてください。
310 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:13:48.72 0
その根拠は??
>>310 マルクスは、経済学的にはサービスも生産の一つとして捉えているからだよ。
だから、「資本論」ぐらい読んでからにしたら、と書いたんだよ。
312 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:22:49.41 0
わかった、ありがとう。なら、「第4次経済時代」的な予測については、マルクス主義的な立場からの 解釈は?
>>312 いいかげんにしたら?
誰かの勝手な時代区分に付き合うつもりはないよ。
314 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:31:50.93 0
>>312 追加;この時代区分は無意味だとしても、世にいわれる第4次経済時代(R.シューなどの)のスタンスに関する解釈です。
315 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:32:15.30 0
マルクス兄弟のハリウッド喜劇映画えかったなあ。 マルクス兄弟の二丁拳銃最高。もう、七十年たつか?
>>314 それだったら、プルードンやゲゼルがいいんじゃないのw
317 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:37:14.75 0
結局、マルクス主義は、これらの現代的な問題については、見えていないと考えてよいのかな。
>>317 なにも理解してない人間の逃げ口上がそれかいなw
マルクスの分析の範囲内なんだよ。
だから、「資本論」ぐらいは読んでおかないといけないよ、と言ってるんだ。
資本主義社会では、いまのところマルクスの想定をこえるものは出てきてないよ。
319 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 19:52:54.33 0
何も理解していないから聞いているのです(
>>314 )。
何時まで「不適中の誤謬」にしがみつき続けるつもりですか?
>>319 せめて、どういう根拠で時代区分をしてるのかをはっきりさせてくれよ。
マルクスは生産対象による区分はしていない。
一括りにして、人が欲するものを作るのが生産だとしている。
その上で、資本主義経済のありようを分析している。
だから区分には意味がないと言ってるんだよ。
ところで、「不適中の誤謬」ってなに?
僕が無教養のせいか、わからない。
321 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 20:14:05.72 0
第一次経済時代;農耕革命以来の農耕産業(第一次産業)が社会の生産を担う。 第二次経済時代;産業革命以来の製造産業(第二次産業)+一次産業。 第三次経済時代;IT革命以来のサービス産業(第3次産業)+一、二次産業 第四次経済時代;つぎに予測されると思われる経済時代(種々の人がいろいろに提唱、グーグってください) 不適中の誤謬:たしかアリストテレスが言ったと思う、議論の時、適さない論拠で議論を進めることを指す?、大声で脅すとか、情に訴えるとか?
322 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 20:16:36.80 0
>>303 第一次産業から第二次産業への労働人口の移行は
マルクスやエンゲルスが生きていた時代に先進資本主義工業国で起こっていたことで、
マルクスはこの事実から、おそらく将来、先進資本主義諸国ではこれと同様のことが
第二次産業や第三次産業でも起こるだろうという理論的予測と展望を抱いた。
なぜそうなるかを資本家的生産様式のメカニズムから論じたのが資本論。
324 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 20:19:36.04 0
生産対象による区分(農産物、工業製品、サービス)もあり、両方か?
>>300 > 生産手段の効率化/進歩は、タイムシェアリングによる労働時間の短縮を導かない。
> 過酷で生き残りをかけた市場競争があるためで、世界は、リフキンのいわゆる大失業時代に
> 向かわざるを得ないと思う。
リフキン自身もマルクスに言及しているけど、
リフキンが描いたものはマルクスの仮説のなかの「困窮化仮説」として有名なもの。
その焼き直しをしてみせたのがまさに彼の著作『大失業時代 The End of work』。
>>321 そういう区分なら、第3次が資本主義だよ。
だけど、その第4次じゃ人それぞれのただの予測だ。
つまり現実ではない。
強いて言えば、共産主義経済ということになるだけだ。
「不適中の誤謬」の意味を教えてくれたから原典の根拠は薄くても感謝するよ。
その意味だったら、あてはまらない使い方だと思うけど、言ってる方が曖昧ならしょうがない。
>>326 訂正
第3次が −> 第2次、第3次が
マルクスの困窮化仮説として有名なものはマルクス主義者でさえ棄てた仮説とされているもので、 日本でもバブルの時代に多くの人が困窮化仮説はもはや陳腐だと笑い話になっていたものだが、 世界的な経済危機と経済格差の拡大が止まらない時代に突入した今、再び現実味を持ちつつある。
>>321 IT革命は予想されたほどの雇用を生み出していないか、生み出された雇用の多くが
不安定な非正規職だった、というのがリフキンの分析だったと思う。
330 :
考える名無しさん :2014/01/29(水) 20:29:13.43 0
熊野の本ってどうですか?
熊野らしい無駄に嫌みったらしい表現だなあw
熊野って学者としては優秀なの? 東大に戻れるくらいだから優秀なんだろうけど
>>334 翻訳者としては優秀だと言って良いのではないか?
>>335 同じこと言ってる。
いわば、あたりまえのこと。
だから、階級闘争としての組合活動に意味があるし必要でもある。
338 :
考える名無しさん :2014/02/01(土) 18:35:06.97 0
>>337 同じこと? 正反対でしょう。
一方の人は、機械化によって労働者の余暇が増えるとするのがマルクスの説だと言い、
もう一方の人は、機械化によって資本家が大儲けするだけだというのがマルクスの説と言う。
マルクスが言ったとする内容が正反対。
実はマルクスはこのどっちでもない。彼らはケインズと勘違いしている。
>>338 元ネタは資本論にある生産性の向上による労働価値の低下だろうな。
上の人のは、それをドイツイデオロギーの「食後には批判を」なんていうフレーズと結びつけて余暇の増加と言ってるのだろうし、下の人のは、そのまま資本の利益の増加として言っている。
ほかにそれらしいことが書いてあるところがあるかも知れないけど、僕が思いつくのはそんなところだ。
ふたりとも、それにどう対応するかという階級闘争の問題は抜けている。
そこが「現代風」なのかなw
どちらにしても、機械化などによる生産性の向上は、同じ生産量であれば労働時間の減少をもたらすし、同じ労働時間であれば価値の増加をもたらす、ということだ。
だから、あたりまえのことだし、階級闘争の問題ともなる。
ツイッターで「これがマルクスの主張だ!」とゆうとるが、 マルクスのほんの一部分だけを取り上げとるだけや。 この部分だけに限ってなら、確かに「マルクスの主張」といってもええが、 それをいいことに、あとは自分の解釈を都合よく付け加えてるだけやな。 マルクスが言わんとしてる大事な部分や全体像はどこかに行ってしまっとるわけや。 木だけを見て森を見とらん議論でっせ。 ほな、次いこか。
相対的剰余価値の増大には、技術革新以上に、集合力が多く関わる。 この集合力の肯定的側面を見ないと、仮に共産党が政権を取ったとしても 何もできないということになりかねない。 相対的云々というマルクスの命名自体に問題がある気もするが、集合力は社会の根源に関わる ということを忘れてはならない。 搾取とは労働者が集合力で得た価値を消費者として買い戻し損ねているということだからだ。 こうした掲示板も集合知、集合力の賜物だ。
>>341 >搾取とは労働者が集合力で得た価値を消費者として買い戻し損ねてい
どういう意味?
343 :
素人 :2014/02/03(月) 12:35:03.53 0
>>337 >だから、階級闘争としての組合活動に意味があるし必要でもある。
確かにそれはわかります。
しかし、グローバル化だかなんかが進み、ソ連や中国等の自由化?とともに過剰な労働人口が現れ
たことで先進資本主義国における組合活動などは今とても不利なのではないでしょうか?
資本家は簡単に世界中に有り余る安い労働力のある地域に拠点を移転させられるからです。
(曖昧な言葉使いですみません)
344 :
考える名無しさん :2014/02/03(月) 16:12:43.24 0
複雑で“多様化”している現代に、階級闘争(弁証法)の視点で捉えていくのは 無理(限界)があるのではないであろうか。 弁証法は、限定した定立(=問題)と限定した反定立(=問題)との“否定の否定”という 否定論理により、「合」としての限定した結論(解答)を創出する。 現代は、資本家と労働者という相対的な問題の他に、ITを中心としたテクノロジ−の問題、 新自由主義に基づく経済問題(=金融工学)、産業構造のロボット化の問題等々、これらの問題を 直接に綜合的に解決する「複合的な思考法」が必要となる。 弁証法的思考は、定立と反定立として、二つの問題を“否定原理”で選択し限定された結論を出すが、 出された結論では、多様化した現代社会では充分に機能しない。 従って、マルクス主義は、従来の唯物論的弁証法から、弁証法を導入しない新たなる客観的立場に立った 論理の構築が必要になる。マルクス本人は、客体(客観)と主体(主観)を相関関係的に捉え、ヘ−ゲルの 主観主義的(観念論)な一元論から、フォイエル=バッハの「私と汝」という客観的論理に唯物論を導入した 論理を確立している。 新たなるマルクス主義の一つの方向としては、客観的な「構造主義」の導入も視野に入れて良いのではないで あろうか、マルクス主義も「上部構造と下部構造」として問題を“構造”として捉えている。 この「構造主義」の優れているところは、“構造”を「否定論理」ではなく、ゲシュタルト論理として捉えている ところである。
>>343 >安い労働力のある地域に拠点を移転させられる
税制を含む国内法の問題だから、階級闘争としての組合なり社会主義的な政党の強弱による。
あくまでも国内政治の問題。
もっとも、資本主義は原理的な姿のままであればその本質として国家を解体していくから、解体しきってしまえば、それはそれで総体的な階級闘争の問題となる。
>>344 資本家と労働者というのは、弁証法による見かたでもないし、新自由主義で解消される概念でもない。
あくまでも、資本主義としての経済法制のもとに資本を持つ者と資本を持たない者を概念rとして分類したもので、それぞれの立場にある個人を示すものではない。
また、新自由主義というのはむしろ原理的な資本主義だから、より明確に資本家と労働者の概念が現実として表われる。
「従って、マルクス主義は」以下の文章は自分には理解できないから、別に意見はない。
>>344 弁証法は「テクニック」やない。
上から認識の網をかぶせるようにして物事を見るためのテクニックとはちゃうんや。
客観的的世界が"弁証法"的に動いており、それを反映する人間の認識も
弁証的に動いている、という事実を述べてるだけや。
構造を調べるというテクニックが好きなら勝手にやってみなはれ。
だけどそれは弁証法の否定とはなんの関係もないわけやな。
物体の構造を調べるのにニュートン物理学を否定する必要がある、と
言ってるのと同じくらいおかしな主張なわけや。
348 :
考える名無しさん :2014/02/03(月) 23:54:11.49 0
>>347 ヘ−ゲルの弁証法は、主観的な自己の思考を含めた意識活動と、客観的な歴史・社会活動として
正→反→合という展開(連続的活動)として捉えられている。
つまり、事象の根底にある活動を“弁証法”として捉らえており、マルクス=エンゲルス主義は、
ヘ−ゲルの一元論的な観念論の“精神”から“物質”へ置き換えた論理であり、その本質は観念論としてある。
従って、弁証法は、ヘ−ゲルの“事象”に対する捉え方であり、否定論理を基底とする哲理(弁証法)は、ヘ−ゲルの
論理として構築されている。
構造主義は現状追認の論理だから、変革や変化が求められている場面では無力だよ。
351 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 09:20:48.66 0
たとえば発癌機構の分子生物学的追求、極めて複雑な論理の実例。絶対精神に至るとやらの弁証法と何の関係もない。
352 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 09:33:19.43 0
医者が弁証法にこだわっていたら患者を殺してしまう?
353 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 09:47:30.58 0
交代人格をしてる人に質問なんだけど 自分が消えるって思うと怖くない
354 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 09:52:38.77 0
交代人格?
355 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 09:57:20.58 0
>>350 ヘーゲルを読んだことがない人間、まるわかり。
356 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 10:08:50.18 0
>>355 そんなこと言わずにどこに書いてあるのか教えてくれよ。
読んでみるからさ。
358 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 10:38:48.70 0
全部読みなさい。
>>358 冷たい人だねえw
そんなこと言わずに、とりあえず1冊教えてよ。
ほんとに読んでみるからさ。
360 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 12:09:14.80 0
今まで読んだのは?
361 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 12:30:42.84 0
弁証法は、対話法の一種。Dialectics、-icsは-法。
362 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 12:32:44.47 0
ヘーゲルの著述も、対話法を駆使して展開している
363 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 12:36:09.53 0
>>347 みたいに考えるから、得たものはドグマ化する。
>>360 精神現象学、法の哲学、美学、歴史哲学ぐらいかな?
ほかにも読んだかもしれないけど、思い出すのはこのくらい。
バレンタインの季節です。 吉川裕(東北大学大学院)による贋ラブレターの計に注意しましょう! 身も心もズタズタにされます。 -------------------------------------------------------------------------- 発信者 よしかわゆたか SUB RE:RE:RE:RE:百合とは何か 2/11 23:24 スカイプはつかってなけりゃあ、そもそもパソコンが今手元に無い。 研究室に置きっぱなし。そして私は今から寝る。「あーもーいいや、寝ちゃお寝ちゃお寝ちゃおーそう寝ちゃおー」と、 「ふわふわ時間」的に言いながら。ああ神様お願い。ドリームタイムください。 じゃあまた。
確かにマルクスはヘーゲルの弁証法を引きずってはいるが、 それは彼の政治思想においてであって、資本論では違う。 資本論のキーワードは二重性であって、これは弁証法とは認識 の前提においてズレる。 商品の二重性、労働の二重性は、弁証法という思考パターン には収まらない現実観察を要求している。
ヘーゲルについて拘泥するようになってから このスレの勢いというか清新さが無くなった気がするよ たとえマルクスがヘーゲル主義を語ったとは言っても ヘーゲルスレでやってほしい議題がたくさんある
>>369 いや、マルクスを理解するためにはヘーゲルの読解は必須だろう。
そんなことより、ヘーゲルの哲学は読んでて面白い。
エンゲルスも、実は哲学的な著作が面白い。
マルクス、エンゲルス、ヘーゲルと交互に読んでるとものすごく楽しいんだから、邪魔しないでよw
ここは哲学板だからどうしてもこういう展開のループになってくるんだろうな。
>>369 ポモ構造主義ってのは、
>>344 を読んでもわかるとおり、
マルクスを否定するのに「ヘーゲル弁証法の否定」っていう迂回戦法を
使いたがるんだわ。柄谷さんみたいに。
具体的にはヘーゲル弁証法を意図的に誤読することから始めるのが
多くみられるパターン。
373 :
素人 :2014/02/04(火) 17:01:51.98 0
>>345 >あくまでも国内政治の問題。
もう少し詳しくお願いします。
構造主義の本質については
>>349 氏がズバリ言ってる。
構造主義は、物事の変化や発展を見ず、一部を切り取って固定したもの
として分析するだけだ。
科学の一手法としては有効なんだが、それをわきまえずに調子こいて
弁証法=客観的法則性を否定できると勘違いしてるから馬鹿にされる。
>>373 資本の増殖、つまり投資のリターンを最優先する原理的な資本主義を維持育成する政策の問題。
たとえば、配当や株式の売買益に対する税率の低さや、法人税の低さなどによって投資家を優遇している。
つまり労働によって得た利益を、労働者に戻すのではなく、むしろ労働賃金をさらに引き下げることも法的に認めて、資本を実体経済ではなく金融投資に集中させる政策によっているという意味。
そうした政策を逆方向に大きく変換すれば、生産性が向上した分だけ、労働時間も短くなり、労働賃金も十分な額になっていくから国内消費市場も拡大して、廉価大量生産という呪縛からも逃れることができるだろう。
376 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 18:26:49.24 0
>>372 唯物史観にしても、その“根本”にあるのは、ヘ−ゲルの弁証法(正・反・合の展開)であるのだから、
ヘ−ゲル哲学を論究することが、マルクス主義の長所と短所の究明に繋がってくる。
377 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 20:47:49.05 0
>>374 >構造主義は、物事の変化や発展を見ず、一部を切り取って固定したものとして分析するだけ。
>構造主義とは、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を単に科学的な体系として捉える
のではなく、種々の要素間にある潜在的な規定条件としてある関係性(=現象化)を抽出することである。
従って、「要素還元主義」のように、事象をいくつかの単純な要素に分解・固定し、それぞれの単純な要素を
理解することで、元の複雑な事象を理解出来るとする理論であり、「構造主義」とは根本的に異なっている。
レヴィ=ストロ−スは「野生の思考」著書の中で、文明によって加工される以前の思考を、“野生の思考”と呼んでいるが、
構造主義が“客観的な事象”を対象とした論理としてあるだけではなく、主体的な人間の思考(意識)をも対象としている
ところに、哲学としての多様性と創造性を感じている。
378 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 20:51:38.48 0
共産党の独断性もこれに由来すると思う。
>>377 構造主義とは、「構造主義」とは根本的に異なっている、と書いてるように読めるんだけど、その「構造主義」って、なに?
>>378 これに由来、って、どれに由来?
客観的な事象や主体的な人間の思考(意識)を対象としてる、 というだけじゃ科学的とはいえない。
381 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 23:03:29.93 0
>>379 「構造主義」と「要素還元主義」の違いについて述べているのだと思う。この「構造主義」の
概念とは、種々の要素間の潜在的な関係性(=現象化)を抽出する理論です。
それに対して、「要素還元主義」は事象をいくつかの単純な要素に分解・固定して、それぞれの
固定化・単純化した要素を理解する事で全体(元の複雑な事象)を解明出来るとする理論です。
で、構造主義は「種々の要素間の潜在的な関係性」とやらで 資本主義のメカニズムやその運動を説明できたのか?
384 :
383 :2014/02/05(水) 01:01:45.82 0
昔からマルクスの名を借りた亜流はいっぱいあった。 マルクスの名を利用してのし上がろうとするものや、 「マルクス主義」なるものを騙ってマルクスの否定を目論むものまで。 で、その内実を見てみると、やはり現代の観念論哲学に過ぎないのだが。
てか、マルクスも構造主義者だし、ポスト構造主義者。
>>386 宗教で「本当はこういうことなんだ」が乱立するのは、何も原典が不完全だからというわけでもないのか
マルクス学派教は教典が残っているというのに
388 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 14:29:41.27 0
>>379 共産党の救いようのない独善性は、「対話法」の一つにすぎない弁証法を彼らは絶対化していることに由来していると思う。
どう絶対視しているの? ソースは?
390 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:10:36.29 0
391 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:15:13.59 0
絶対化とは、「対話法」の一つにすぎないと弁証法を相対化しないで、 「absolute=解けることと無縁、すなわち自立化」させていること?
392 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:17:29.60 0
dialectics: 言語lecを通じあうdiaための技術ics。
>>390 横で悪いけど、
>>347 を、弁証法を絶対化している、と読むのは変だよw
資本家の利益を増やしたいのも共産党が嫌いなのも自由だけど、思いつきでデタラメを書いちゃいけないよ。
>>392 勝手な定義はそのくらいでね。
ヘーゲルを読めとは言わないけど、単純な言葉の意味を絶対視しても無意味だよw
395 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:28:52.96 0
対話法、対話方式、問答形式などそれぞれいろいろと沢山あります。弁証法dialecticsは、対話法の 一種にすぎません。
396 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:31:30.75 0
ヘーゲルが、彼の著述の展開に、弁証法を方法として徹底して利用したわけでしょう
397 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:35:41.18 0
問答形式で書くのは、自己の思想をわかりやすく説明する最短の方法。
弁証法を自然科学のモデルに採用しようとしたのはエンゲルスだよね?
400 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:43:52.60 0
駄目押しで申し訳ないが、ある対象について、即自は自分の意見の開陳、対自はそれに対する相手の反論、即且対自は両方の命題の積、止揚による当面の結論
401 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 15:53:26.82 0
>>399 彼が現在の、複雑を極める分子生物学的な発癌機構などの論理構造を知っていたら
今よりもっと明快な解釈を下すかも
?
即自を「存在による能動的働きかけ」、対自を「それに対する環境の受動的応答」と見なせば、弁証法は 「自然は常に最善解を希求する」ことが真である場合に限り、自然の本質的法則とも見なせるんじゃないかな。 逆に言えば、そう見ないということは、「自然は常に最善解を希求するわけではない」という立場に立つことに なるけど、これは同時に「自然は非科学的である」と言うに等しいと思う。
>>395 ぜんぜん違うよw
>>396 ヘーゲルについてレスするなら、とにかくヘーゲル読んでからにしてよ。
>>399 >>401 現在のエンゲルスの評価は高くないけど、エンゲルスっていうのはほんとに天才だと思う。
ただ、天才にありがちな、なにごともすぐ理解してしまって深く追求しないまま結論を出しちゃうという面がある。
405 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 17:30:23.88 0
>>398 ちょうどよい機会なので、弁証法に対する、現在の中国や日本の共産党の公式見解を教えてください。
>>402 そのような解釈の妥当性は、どのようにして検証すればよいでしょうか、あるいは、されているのですか。
406 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 17:38:30.13 0
>>403 >>396 は大論理学で得た読後感です。細部にわたってdialecticsで貫徹しています、機械的な適用は戒めていますが。
407 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 17:54:25.64 0
>>402 弁証法の基底としてある「アウフヘ−ベン」は、即自存在と対自存在に対して、
どの様に働きかけているのでしょうか。
私見としては、即自存在を“主観(意識)”して、又、対自存在を“客観的存在(自然・社会)”と
解釈している。つまり、フォイエルバッハの「私と汝」の連関として解釈しています。
>>406 せっかく読んだんなら、読後感じゃなくて、ひとつふたつ具体的に書いてみなよ。
ちなみに、「大論理学」は、「弁証法を方法として徹底して利用したわけ」じゃなくて、弁証法を説明してるんだよw
409 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 18:06:22.26 0
>>408 さん、じゃ、「根拠関係」と「現象」との止揚をどのような図式で実行しているか、
その個所の、あなたの読後感を教えてください。ちょっと考えていることがあるので、ぜひお願いします。
410 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 18:10:48.61 0
それと、たしかに>>徹底して利用したわけ」じゃなくて、弁証法を説明してるんだよ>>の面がありますね。 じつは私の立場は「弁証法の不備」の解析にありますので。
>>409 >「根拠関係」と「現象」との止揚
なんだ、それw
>>410 ヘーゲル読んでないのが丸わかりだよw
412 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 18:33:46.43 0
日本語訳、物置の中、取り出しちょっと面倒 Der Grud から、Die Erscheinung、そして、Die Wirklichkeitへの箇所。ズールカンプ版ならp80からp186あたり。 でも、{「根拠関係」と「現象」との止揚 }このkey wordでピンと来ないとは!?
413 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 18:35:02.09 0
GrudはGrund
414 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 18:39:54.66 0
>>402 そのような解釈の妥当性は、どのようにして検証すればよいでしょうか、あるいは、されているのですか。
ぜひぜひお願いいたします。
>>412 そんなキーワードじゃピントもカントも来ないよw
くだらない見栄張るのはやめときなw
416 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 21:05:21.01 0
ヘーゲルの反省論のエッセンス。びっくり、不適中の誤謬さん、可愛いね。
>>416 本気で言ってるんなら、とんでもない読み違いをしてるよ。
>ヘーゲルが、彼の著述の展開に、弁証法を方法として徹底して利用したわけでしょう
こういう馬鹿なことを書いておいて、エッセンスとかw
418 :
考える名無しさん :2014/02/05(水) 22:22:28.18 0
弁証法の相対化、現代では当然の解釈の一つ。
ヘーゲル読んでないのにヘーゲル読んだとか へーゲル読んでないのに「弁証法の不備」だとかw
>>418 どこまで本気で書いてるのか知らないが、ヘーゲルの弁証法の相対化なんかマルクスがやってるよw
ヘーゲルの弁証法というのは、現実のものやことがらへのひとつの視点。
世界が時間の中にある以上、常に現在は否定されて新しい現在になる。
そのもの自体に内在する矛盾のあり方を分析することでその方向を見出す。
出発点と終着点が絶対者であるとしたのがヘーゲル。
それを社会経済の中での人間の活動としたのがマルクス。
>ヘーゲルが、彼の著述の展開に、弁証法を方法として徹底して利用したわけでしょう もしかして、弁証法ってのをソクラテスの対話法としか理解してないのでは?
>>404 アメリカの社会学者のランドル・コリンズ氏は、自著のなかで、
マルクスのことをボロクソに扱き下ろす一方で、現在の社会科学理論の一系統を担う
紛争(闘争?)理論の初期の功績がエンゲルスに拠っているとエンゲルスを高く評価していた。
マルクスは女性蔑視の持ち主らしいが、エンゲルスはジェントルマンだったとも。
マルクス主義とエンゲルスとが同一視され、マルクス主義者によってすらどちらも悪く
言われるようになって久しいけど、エンゲルスのほうを買う人もいるんだなあと思った。
423 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 13:55:01.37 0
>>420 ありがとう。でも、マルクスも、「弁証法そのもの」は、其のまま使っているのでは??
宜しくお願いします。即自、対自、即且対自のメカニズムのことです。
424 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 14:17:36.99 0
>>421 かれは、種々の分野での対象の(彼の言う)弁証法を、その著述のため、これまた弁証法的問答形式、dialectics、で展開していると見たのですが。
425 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 14:34:37.21 0
>>423 対象把握の一つの仕方としてのとらえ方>>世界が時間の中にある以上、常に現在は否定されて新しい現在になる。
そのもの自体に内在する矛盾のあり方を分析することでその方向を見出す<<です。
絶対精神ありき
427 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 14:59:20.42 0
>>426 もちろんそれに賛成しています。ただし、絶対精神/absolute Geist の absoluteを,ラテン語の原義に従って、not soluble溶けない、not dependent依存しない。したがって、
「自立した精神」ととります。
絶対精神と訳すと、「超絶」を意味し、ヘーゲルの最も嫌った意味になってしまうと思います。
428 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 15:04:14.51 0
429 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 17:24:52.07 0
要するに、第二次、第三次経済時代における共産党の、その独善性による世界史的終焉は、 一つの大きな理由として、かれらが弁証法を絶対視したことによるとの解釈から発した「弁証法」に対する疑問 から出発しています。
430 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 17:29:05.53 0
ここで、何か有益な示唆を得たいのです。
>>429 むしろ逆に、スターリン主義の絶対化 (より本質的には労働階級の最終支配階級化) によって、弁証法的発展が
抑止されたためだと思うのだけれども。弁証法に忠実に従うなら、労働階級の勝利による共産社会もまた一時的
なものに過ぎず、それによる矛盾を軸にさらなる弁証法的展開が生じる、と考えるはず。
432 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 18:39:06.50 0
あくまで、弁証法擁護ですね。どんな場合も、この種の擁護論が許容されるのですね、弁証法では。 これは、何によるのかなー?
433 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 18:52:37.91 0
>>431 たしかに、<<労働階級の最終支配階級化>>なる固定化が、反弁証法的ですね。
何故彼らはそう思ったのでしょう。
>>432 弁証法というのをなにか固まった論理の進め方と考えているようだけど、そうじゃない。
>>425 で十分だと思う。
あくまで、弁証法否定ですね。どんな場合も、この種の否定論で粘着するのですね、構造主義とやらでは。 これは、何によるのかなー?
436 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 19:02:19.51 0
>>対象把握の一つの仕方としてのとらえ方>>世界が時間の中にある以上、常に現在は否定されて新しい現在になる。 そのもの自体に内在する矛盾のあり方を分析することでその方向を見出す<<。これは、私のレスですが、ここで言いたかったことは、 対象把握の「一つの仕方として」のとらえ方にすぎないというこただったのです。
437 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 19:06:54.33 0
>>435 >>あくまで、弁証法否定ですね>>でなくて、弁証法の絶対化を否定しているつもりなのですが。
>>435 かみ合ってないなあ。
弁証法の否定なんかしてない、というより、弁証法は肯定したり否定したりするようなものじゃないよw
構造主義に、主義という名をかぶせちゃったから賛否が出てきてしまうようなもの。
比喩的に言えば、時間をみれば弁証法だし、空間をみれば構造主義。
ヘーゲルもマルクスも、その空間と時間を自由自在に行き来する。
そこに、二人のすごさがある。
439 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 19:20:06.87 0
>>433 かれらが、労働階級が最終支配階級と思ったのも、弁証法を絶対視したからですね。
440 :
考える名無しさん :2014/02/06(木) 19:25:11.12 0
>>438 <<比喩的に言えば、時間をみれば弁証法だし、空間をみれば構造主義>>
大変ありがたい、こんな比喩が知りたかった。ちょっと考えてみます。多謝!
>>439 労働が価値の源泉である以上、概念としての労働者階級がその富を受け取る。
これが階級闘争の理念的な根拠。
労働者階級が支配階層になるのは、資本主義から共産主義への、 すなわち階級の消滅へ向けての移行期とされているにすぎず、 そらが共産社会の最終到達地平ではない、ということはよく言われている。 支配階級の座についた労働者階級はその時点でマルクス主義の定義からして 労働者階級ですらなくなってしまっている。 その前提となっていた階級関係が消滅してしまうから、階級的利害からも解放され、 純粋に真の意味で民主主義的な近代主体になっている。 中途半端に近代化を偽装していたブルジョア社会を通り越して 実質的な意味での近代化・民主主義化がやっとここに完成する。
共産社会の入口に立って人類はやっと近代の幕開けを経験することになる。
>比喩的に言えば、時間をみれば弁証法だし、空間をみれば構造主義。 >ヘーゲルもマルクスも、その空間と時間を自由自在に行き来する。 この比喩は間違いだな。 弁証法と構造主義を同列で比べるのは間違い。 弁証法は客観的な法則そのものだし、構造主義はモノの見方の一つに過ぎない。 弁証法を否定することは自然の法則そのものを否定するのと同じ。 だから「弁証法の絶対化」の否定なんてのも間違い。 自然の法則には絶対もクソもない。法則は法則だ。 それからヘーゲルもマルクスも「時間と空間を自由に行き来」してないよw
ヘーゲルとマルクスはその法則性に迫っただけだよ。 自然科学者のように。
446 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 10:19:55.66 0
>>442 ,443 「以上、終わり!」
共産党の、例の公式見解ですなw
447 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 12:09:16.02 0
448 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 12:15:52.31 0
「弁証法絶対化」の成果ですな。
弁証法って哲学用語だけど、エンゲルスあたりの用法だと、ほとんど進化経済学じゃね?
450 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 14:52:56.55 0
>>444 自然(すべての事象)は、命題化(前提化)が出来るものと、命題化(前提化)が
出来ないものとが“混在”している。つまり、「自然」は形而上的領野と形而下的領野により
構成されている。
従って、「自然」に対して弁証法的法則を見いだせるのは、“形而下的領野”に限定されるのであり、
前提化(命題化)出来るものと出来ないものを明確にしたうえで、“弁証法”の展開を捉えて
いくことが必要となる。
理解できない、理解するつもりもないからといって「共産党の公式見解」「弁証法絶対化」と茶化すだけ。 ほんと頭が悪そうだよな。ここはけっこう真摯な人が多いからね。 恥ずかしくないかい? 共産党の公式見解など関係ないよ。 何が正しくて何が間違っているか、それを考えていくだけだよ。
「共産党」というのはブルジョア民主主義の限界かな。 政党支配、党派政治から抜け出せない。
>>444-445 そうだね、そういう見かたもあるかも知れないね。
>弁証法は客観的な法則そのものだし、構造主義はモノの見方の一つ
法則自体も人間のある視点を前提にして成り立つもの。
種から花が咲くとして、それを種の中に種というあり方を自らを否定する構成があるから成長して花になるという見かたもできるだろうが、その種の構成そのものを分析するのが構造主義だともいえる。
時間軸を考えた見かたが弁証法だし、あり方そのものを考える見かたが構造主義だ。
ちなみに、ヘーゲルもマルクスも、そのものの分析という意味でそのものの構造をとらえ、その構造が歴史的にどういう変遷を経ているかを分析する。
その中から、その構造と歴史的な発展の根拠を解明しようとした。
>>141 宇野弘蔵の『経済原論』はヘーゲル小論理学に対応する。
松村一人訳のヘーゲル『小論理学』目次に宇野が書き込んだメモのファクシミリ版が
『『資本論』と私』(2008年、お茶の水書房)に載っている…
以下、図解すると、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
457 :
456 :2014/02/07(金) 21:51:33.17 P
ヘーゲルの場合、 /\ (絶対理念) (生命) 理念 (認識) /______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』 /\ <概念論>/\ /推論\ /__\ / 主観的\ / 客観 \ /概念__判断\/______\ /\ /\ / \ / \ /限度 \ 『論理学』 /現実性 \ /______\ /______\ /\ <有論> /\ /\ <本質論>/\ / \ / \ / \ / \ / 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \ /______\/______\/______\/______\ 図の妥当性は別にして、 ヘーゲルの弁証法をこうしたトリアーデ以外のものとして理解することは出来ないだろう。 マルクスの資本論の場合、経哲草稿とは異なり、ヘーゲルのカント譲りのカテゴリー 論の比重が弁証法より大きい。 結果的にマルクスの思考法はカントのカテゴリー論(四分割)に近くなる。 ヘーゲル経由のカテゴリー論なので、カントとは違い、量よりも質が先に来る(もしくは質 と量は二重になる)。
ヘーゲル的トリアーデだと夾雑物がなくなり、資本論にそれを当てはめると
その歴史性がなくなる
そうした
>>332 における廣松渉譲りの宇野批判は正しい
ただ宇野の段階論は今日的だし(ソニーのような企業で金融が支配的になる
のは段階論的事例だ)、その恐慌論も再生産表式に対応させるなら、具体的で
有意義だろう
459 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 23:18:21.34 0
今時ボカロ制作なんて恥ずかしくないかい?
>>455 法則自体も人間のある視点を前提にして成り立つもの、と言ってしまうのなら、
それは観念論になってしまう。
なぜ唯物論が『意識から独立して存在するもの』について語っているか、その
意味を没却してしまわないことが大事。
「法則自体も人間のある視点を前提にして成り立つ」かどうかの問題は
マルクスエンゲルスによる唯物論と能動的反映論の話で解決されてる。
種や花が咲くメカニズムや構造の解明は昔から自然科学が普通にやってきた
手法だし、部分部分だけでなくさらに全体像を把握するためには時間軸で
考えることもやってきた。
つまり、構造主義の本質は、古くから普通に行われてきたあたりまえの手法を
新しい手法であるかのように装い、「構造の分析」を強調することで
弁証法=法則性を否定することにあるのだ。
もちろん、自然科学と社会科学の手法を同一に論じることができないが、
社会も自然の延長であることや客観的実在であることには変わりない。
部分的な分析には有効な古典的手法も、悪用されると恣意的な言葉遊びや
非合理主義に利用されてしまうことになる。
>>460 >構造主義の本質は、古くから普通に行われてきたあたりまえの手法を
>新しい手法であるかのように装い
この部分は賛成だ。
装ったというのは言い過ぎだと思うけど。
弁証法がある法則の抽象化であることは確かだけど、法則は必ずしもひとつじゃないから、やっぱりある視点の元に見いだされる法則だと思うんだ。
だからこそ、その法則を見いだす視点が重要だということにもなる。
悪用とか、非合理主義に利用されるとすれば、その悪用や利用する行為そのものを理念として否定できなければいけないんじゃないかと思う。
ちなみに、いわゆる構造主義者には、日本以外は反権力、反資本主義の人が多いよ。
>>332 坊主頭が似合ってらっしゃいますね。長髪のときよりカッコいい。
資本主義社会のなかにある共産党は資本主義に従属した共産党であって、 労働者の利害と一致しないのは当たり前だよ。 労働者自身も自分の利益のために行動することができない。 労働者自らも資本主義の歯車でしかないからだよ。それをマルクスは論証しようとした。 けっきょく我々は構造の奴隷なんだ。 しかし法則は違う。それはレヴィ・ストロースのいう構造に近い概念。
マルクスはその間違いが100%証明されてるトンデモ理論 いつまで拘泥してるんだ?
466 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 18:25:14.68 0
>>460 <<弁証法=法則性を否定することにあるのだ。>> これこそ「弁証法=法則の絶対化」のもの言い。
科学の法則はすべて条件付き(相対化)。同一対象に対する、ニュートンの運動方程式も、量子力学の波動方程式も、条件付き。
467 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 18:32:02.67 0
増大しつつある「第3部門the third sector」の経済。マルクス経済学の答えは????
>>467 無知でもうしわけないが、「第3部門the third sector」てなに?
第一セクタ: 民間部門 第二セクタ: 公共部門 第三セクタ: 社会経済(Social economy)部門 具体的にはNPOとかNGOとかをすぐに想起しますね。
470 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 19:21:19.25 0
The voluntary sector or community sector (also non-profit sector or "not-for-profit" sector) is the sphere of social activity undertaken by organizations that are not for profit and non-governmental.
471 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 19:23:16.01 0
オランダなど、GDPの1割。4次経済時代の経済を支える。
472 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 19:34:42.88 0
次のグローバル経済時代を支える第三部門。
473 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 19:44:00.03 0
結社の伝統ある国はいいなあと思う 日本ってそういうのすげーやりずらくね?
>>469 いわゆる3セクのこと?
ただ、普通3セクというと民間と自治体が共同で出資した事業体を指すだろ?
それとは違う分類なの?
NPOは利益を追求しないことを標榜するただの民間事業体だし、NGOはその海外版。
その意味では協同組合と変わらないし、民間会計を採用する場合の独立採算の公共事業体とも変わらない。
普通の3セクは利益を出資者(公を含めた資本家)に分配するから、その意味では少し分類が違う。
いずれにしろ、資本主義経済総体の中では、その扱う事業によるところはあるにしても、流通の一部門をなすにとどまるから、個別の経営のあり方以上のものにはならない。
女工哀史とフォーディズムの違い程度かな?
ただ、国全体としてそれが採用されれば、旧ソ連のような経済体制となるということだろう。
475 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 21:37:51.83 0
ここの人の言う構造主義者って誰?
476 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 10:17:31.55 0
>>474 リフキン「大失業時代(The end of work 1995)」で、リフキンの言う「work」の意味は、剰余価値依存の1,2,3次産業。
そして、彼は、次の時代に、3セク経済規模の増大を期待する。
この考えにどう思われます? 教えてください。なお、
>>469 の第一セクター民間部門が、リフキンのWORKに相当しますね?
リフキン自身はSocial economyという言葉を使っていたはず。
リフキン氏はその著書のなかでマルクスに言及しかつ第三セクタの増大に言及しているものの、 代替案らしきものを提示していないと思います。 リフキン氏と似たようにEnd of workの問題に積極的に言及してきていたアンドレ・ゴルツ氏らのほうが 代替案について言及が多いですね。
479 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 10:34:52.43 0
>>478 アンドレ・ゴルツの本、アマゾンで検索したら何冊かありましたが、「代替案について言及が」比較的多いのはどれでしょうか?
厚かましいお願いで恐縮ですが宜しくお願いします。
>>479 買わないで。外れだったら責任持てないですよ。
ゴルツ氏の場合は早い話が、マルクスが資本論で言及している伝統的な「時短」闘争+
オランダモデルとされているオランダ型ワークシェアリング+最近日本でも議論の対象に
なってきているベーシックインカムといったところだと思います。
ヨーロッパの社民主義とエコロジー(緑の党)系の混じったような感じです。
481 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 11:18:21.62 0
警告射撃を実施する。
482 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 11:23:55.49 0
>>480 多謝、それに、少し詳しいサイトも見つけました。買いません。多謝。
>>476 >リフキンの言う「work」の意味は、剰余価値依存の1,2,3次産業
そもそもリフキンなる人の本を読んだことがないので、なに言ってるのか分からない。
普通に解釈すれば、剰余価値依存というのはたんに資本主義社会の普通の事業体と言ってるだけに見える。
リフキンという人のWORKマルクスの労働が同じかどうかも分からないし、答えようがないが、
>>474 のなにを聞きたいの?
484 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 18:22:48.87 0
>>483 >>469 で仰る第三セクター民間部門は、
農業(一次産業)、製造業(二次)、サービス業(三次)を経営する現在の民間企業群を指すのですね
と聞くつもりでした。舌足らずですみません(
>>476 )。
485 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 18:26:34.31 0
なお、「work」は、「雇用的なしごと」を指す意味でつかわれています。
>>485 雇用的なしごと、というのは仕事そのものを指すの?
個人の自営業者の仕事なんかは除くという意味?
488 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 19:24:28.37 0
Yes、雇われてする仕事。
489 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 19:35:34.60 0
491 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 20:27:55.28 0
その辺を深く追求したい。第三セクターの実働経済が知りたい。
492 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 20:29:24.98 0
経済、まったくの素人なので、よろしく。
493 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 20:37:17.37 0
ロリエ スーパーガード 安心ショートタイプ
>>474 第3セクターは日本では第4セクターと言われているかもしれないね。
英語でSocial economy(社会経済)と言われているものです。
これが雇用の受け皿になるということはないでしょう。
むしろ雇用の喪失を象徴して成長している部門でしかないのです。
495 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 22:02:29.79 0
雇用の喪失によって生長、その意味を教えてください。
>>494 >雇用の受け皿
確かに資本主義脳だね。
497 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 11:06:23.56 0
受け皿 of [雇用の喪失]
構造主義とは数学の本質を社会の本質に置き換えるモデル。 ポアンカレは言う。 「数学者は対象を研究しない。研究するのは対象間の関係である。 だからその関係が変わらないかぎり、これらの対象を別の対象でおきかえることには 無頓着である。数学者は質料には無関心であり、ただ形相だけが関心を引く」 (ポアンカレ著『科学と仮説』河野伊三郎訳 岩波文庫 43頁)
>>499 なるほどね。
しかし、数学の場合はわからないが、社会に置き換えるとこの関係というのは社会の共同規範ということになるんだろうな。
吉本隆明の構造主義批判はそのところにあったようだ。
501 :
考える名無しさん :2014/02/26(水) 18:15:31.63 0
構造主義 数学 equation 二項間の同一関係
502 :
考える名無しさん :2014/02/26(水) 20:19:08.22 0
equation equalizing 関係規定=数学
>>501 それを否定したかったのがドゥルーズだろ?
構造主義もさまざまだな。
504 :
考える名無しさん :2014/03/02(日) 06:21:32.13 0
結局構造主義をまともに理解できて奴らはいませんか・・・ 「マルクス主義経済学は悲しいほブルジョワ経済学に似ている」(ハーヴェイ)
>>504 構造主義は知らないが、マルクス主義経済学とブルジョワ経済学は似てないよ。
なにしろ価値の源泉に対する考え方がまったく違う。
というより、ブルジョア経済学には価値の源泉という考え方自体がないに等しい。
マルクス氏は基本的には古典派ブルジョワ経済学の後継者のうちの一人。 しかしそれを脱構築しようとした人でもあって、その試みが未完に終わっている。 ブルジョワ経済学の道具立てを最大限利用し、ブルジョワ経済学の理論の内部から ブルジョワ経済学を越えていく可能性を探る、という脱構築的な思索に生涯を費やした。
>>506 基本的な分析と考察は終わってる。
せめて資本論第1巻を読んでからレスして欲しい。
>>504 せめて資本論第1巻を読んでからレスして欲しい。
スティグリッツ氏によれば、ロシアの貧困層は1989年時には2%、 しかし、1998年には23.8%に拡大している。 彼によると、資本主義経済へ移行した旧共産圏のほとんどで貧困層が拡大したそうだ。 世界銀行の調査では、ロシアでは一日当たりの支出が4ドル未満の者が人口の40%を占めた。 子をもつ家庭の50%が貧困層となった。スティグリッツ氏によれば、 社会指標の数値の多くがロシアの国民の平均的生活水準の低下を示しているそうだ。 一握りの富裕層がより富めるようになった反面、中産階級は貯蓄を無くし没落しはじめた。 つまり、資本主義経済へ単に移行すれば社会主義経済よりもマシになるとは 手放しで言えない事実がある。資本主義経済>社会主義経済は一概には成り立たない。 結局はどのように資本主義経済を運営するかという計画性の問題になるのであって、 資本主義経済、市場経済それ自体が無条件に優れているわけではないということ。 そこを見誤って資本主義経済を採用しさえすれば万事うまくいくという発想は大間違い。 うまくコントロールされた計画性がなければ、市場経済は管理経済よりも劣るということだ。
ソ連末期には、縁故主義による資源分配の非効率性が最大化して、総国民貧困化になりかけてた。 つまり、経済全体が破綻しかけていた。
511 :
510 :2014/03/09(日) 03:01:17.30 0
もし資本主義へ移行していなければ、今の北朝鮮のようになっていた可能性が極めて高かったんだ。
>>510 根拠となるソースでもあるの?
誰かのブログとかじゃなくて。
しかし社会主義なのにモノが無いというのはおかしな話だな 恐らく農工業のバランスが取れていなかったのではないかと思う
>>513 資本主義の拡大とともに、人間の金に対する執着と欲が際限なく膨らんでいくからだろう。
どの経済体制でも、生技技術の向上などで生活上の必要品が不足することはなくなっていくのだろうが、必要ではないものへの欲望を掻き立てるのが金への執着と欲。
その欲望ラインが定着すると、そこが生活に必要なものというラインになる。
そうした欲望のスパイラルを生み出すのが資本主義だから、社会主義がそのスパイラルに乗れないのもまた当然。
これは経済体制の問題であって、統治体制とは関係がない。
人間にとってどちらが幸福なのかはまだわからない。
ただ、金に追い回されるか金を追い回すかに人生をかけなければならない資本主義社会が窮屈なことは確かだ。
マルクスは、これを貨幣の物神化と指摘したが。
515 :
510 :2014/03/09(日) 16:06:20.52 0
>>512 講談社現代新書の「ソ連共産党書記長」 (初代からゴルバチョフまでの書記長列伝)。
アフガン侵攻までは問題なかったのに、それが終わる頃には資源分配システムがグダグダになってし
まっていたらしいよ。
>>515 そのうち読んでみよう。
資源分配システムというのは、計画経済のバランスということかな?
計画経済に批判的な経済学者からは そもそも必要な分配と再生産の計画が 市場なしには計算不可能という分析もあるので・・・
>>517 計画経済というのは需要の制御でもあるからね。
市場がある必要がないというか、あってはいけない。
個別(集団)の需要の意向を計画立案者がくみ上げ、他の個別(集団)とのバランスをみながら生産、流通計画を立てる。
需要が一時的に多岐にわたっていく資本主義的市場性の影響を受けた市民の需要を制御するのは不可能といっていい。
その資本主義的市場もまた、大規模生産と画一化される流通によって需要自体がただの少品種大量需要になっていくので、一般の個人が得られる商品には見かけほどの差はなくなっていく。
でも、一般市民は自分の手に入るものではなくて、その見かけの多種多様な華やかさに目が向いてしまう。
これが消費(需要)面からみた計画経済破綻の根拠ということになる。
『ミネルバのフクロウ』ブログより
「ポール・クルーグマン、ロボットと泥棒男爵 (No.1560 12/12/14)」
ttp://weltgeist.exblog.jp/d2012-12-14/ マルクス主義的にいう困窮化仮説も究極的にはこれに近いよね。
ケインズのテクノロジー失業概念もそうだけど、
生産手段の技術進歩によって生産効率が上がっていけば、
資本主義の経済システムでは資本の私的所有者に富が集中し、
労働力の売り手が困窮するのは当然の帰結なんだと。
>>519 >資本主義の経済システムでは
経済システムと言ってもいいかも知れないが、具体的には法のあり方による。
>>520 鋭いご指摘ありがとう。
市場原理主義とされているものも
たしかに国家権力による法的警察的軍事的支配の産物だからね。
「自生的秩序」とそうでない秩序を分けること自体が幻想。
ケインズも労働価値説を極めて遠回しに擁護しているように思える。 ケインズ著『雇用、利子および貨幣の一般理論』(間宮陽介訳 岩波文庫 p.299-230) { 私が古典派以前の学説に共感を覚える理由はここにある。 それによれば、すべてのものは労働によって生産される。 すべてが、昔は技芸と呼ばれいまでは技術と呼ばれているもの、 希少・豊富の違いによって対価が変わる資産という過去の労働の所産、 これらの助けを借りて労働が生産したものなのだ。 労働、もちろん企業者や彼の補助員たちの人的用役も含めて、 労働こそは、技術、自然資源、資本装備、および有効需要といった所定の環境の中で はたらく唯一の生産要素と見なすべきである。 労働が唯一の生産要素だということは、 なぜわれわれが貨幣単位と時間単位〔という非物的単位〕に加えて 労働単位をわれわれの経済体系に必要とされる唯一の物的単位として用いてきたか、 その理由の一端を示すものである。 }
フーコーは、複数の権力の分析をしている『資本論』第二巻を賞賛する。
<『資本論』の第二巻に見いだせるもの、それは結局のところ、まず第一に、一つの権力があるのではなく、
いくつもの権力があるということです。複数形の権力、それは支配の諸形式、服従の諸形式という意味であり、
それらは局地的に、たとえば工場、軍隊、奴隷制を敷いている所有地や隷属関係が存在する所有地などで機能
するものです。こうしたすべては局地的・地域的であって、そこには固有の作動様式があり、それなりの手順
や技術が存在します。〔中略〕まず第一に、一つの権力があるのではなく、いくつもの権力があるということ
です。〔中略〕これらの権力は本源的であるような一種の中心的権力からの単なる派生 物とか結果としては
理解することができないし、理解されるべきでもないということです。法学者の図式というのは、グロティウス
やプーフェンドルフのそれであれ、ルソーのそれであれ、次のように言うところに存します。「初めは社会
なるものはなかったが、それから社会が出現した。まず主権の中心点が出現して社会集団を組織し、しかる
後に一連の局地的・地域的な権力を可能にしたのである」。マルクスは暗黙のうちに、この図式を認めてい
ません。彼は逆に、これらの小さな権力地域が――所有地、奴隷、工場、また軍隊として――初めからもと
もと存在すると考え、そこから発して国家の大きな装置がいかにして少しずつ形成されえたのかを示してい
ます。国家の単一性もじつのところ、これらの地域的・特殊的な権力と比べれば二次的なものであり、これ
ら複数の権力こそが一次的なものなのです。>(Foucault 1981b 186:406 -407頁)
「権力の網の目」『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』
参考:
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/kuwano_42.pdf
525 :
考える名無しさん :2014/04/02(水) 06:00:37.12 0
また止まってんのか
政治もまた市場だと考えてみましょう。 市場を健全に保つのは競争です。 共産主義は政治市場における資本主義の競争相手です。 競争相手を失った資本主義は独占企業となり、やりたい放題でその需要者を支配します。 それは資本主義党独裁です。
528 :
考える名無しさん :2014/04/14(月) 12:52:05.92 0
質問、 マルクスの原書では、地主は、 Vermieter になっているだろうか?
529 :
考える名無しさん :2014/04/14(月) 13:02:14.27 0
労働価値説は、大筋では正しいととりあえず認めてよいと思われる。 問題は労働(企図製作・ポイエーシス)を、あたかも「エネルギー保存則」のアナロジーのように、 単純計算が可能な対象としてしまうことにあっただろう。
530 :
考える名無しさん :2014/04/14(月) 13:03:50.99 0
正しい、は、およそ妥当の意味。
ケインズと違って(いや、ケインズもそうかもしれないが)、 マルクスは労働価値説を資本制生産様式の限界内に仮定していて、 それが未来永劫普遍的な生産要素だとは必ずしも見なしていない。 少なくとも人間労働という意味ではそう見ていない。
532 :
考える名無しさん :2014/04/14(月) 23:13:06.21 0
詳しく
533 :
考える名無しさん :2014/04/15(火) 00:23:38.07 0
労働価値説が間違ってるんだよ 商品は全てペテン師がいくら騙したかで価値=価格が決まる
労働価値説というのはブルジョワジーが自らの特権の物質的基盤である 資本主義生産様式を物質的に維持するために労働者階級に労働義務を押し付ける必要があり、 そのためにつくりだしたイデオロギーがブルジョワ経済学に転用されたものにすぎない。 ブルジョワジーは資本主義生産様式の法的支配によって労働者階級よりも先に労働から そのぶんだけ自由でいられる特権をもち、労働者階級を労働者として再生産するために 労働倫理を押し付ける所有関係を維持し、自分たちだけが早々と労働義務から解放される道だ。 しかしマルクス主義によれば、それは資本主義生産様式がまだまだ未熟な段階の所産であって、 資本主義生産様式がその生命線である生産性の増大と生産力イノベーションを成し遂げ成熟すれば、 マテリアルな意味でも労働者階級の労働の義務から解放することができる物質的基盤がいずれは達成され、 労働価値説が真の意味で階級格差を越えて無意味になる社会が訪れる、あるいは革新できるとした。 その社会につけられた名こそがマルクス主義的な意味での「共産社会」に他ならない。 成熟した共産社会にあっては、労働価値説はもはや物質的な意味でも、労働者階級の 従って実生活においても陳腐な過去の遺物にすぎないくなっている。
労働価値説というのはブルジョワジーが自らの特権の物質的基盤である 資本主義生産様式を物質的に維持するために労働者階級に労働義務を押し付ける必要があり、 そのためにつくりだしたイデオロギーがブルジョワ経済学に転用されたものにすぎない。 ブルジョワジーは資本主義生産様式の法的支配によって労働者階級よりも先に労働から そのぶんだけ自由でいられる特権をもち、労働者階級を労働者として再生産するために 労働倫理を押し付ける所有関係を維持し、自分たちだけが早々と労働義務から解放される道を選んだ。 しかしマルクス主義によれば、それは資本主義生産様式がまだまだ未熟な段階の所産であって、 資本主義生産様式がその生命線である生産性の増大と生産力イノベーションを成し遂げ成熟すれば、 マテリアルな意味でも労働者階級の労働の義務から解放することができる物質的基盤がいずれは達成され、 労働価値説が真の意味で階級格差を越えて無意味になる社会が訪れる、あるいは革新できるとした。 その社会につけられた名こそがマルクス主義的な意味での「共産社会」に他ならない。 成熟した共産社会にあっては、労働価値説はもはや物質的な意味でも、労働者階級の 従って実生活においても陳腐な過去の遺物にすぎないくなっている。
労働価値説というのはブルジョワジーが自らの特権の物質的基盤である 資本主義生産様式を物質的に維持するために労働者階級に労働義務を押し付ける必要があり、 そのためにつくりだしたイデオロギーがブルジョワ経済学に転用されたものにすぎない。 ブルジョワジーは資本主義生産様式の法的支配によって労働者階級よりも先に労働から そのぶんだけ自由でいられる特権をもち、労働者階級を労働者として再生産するために 労働倫理を押し付ける所有関係を維持し、自分たちだけが早々と労働義務から解放される道を選んだ。 しかしマルクス主義によれば、それは資本主義生産様式がまだまだ未熟な段階の所産であって、 資本主義生産様式がその生命線である生産性の増大と生産力イノベーションを成し遂げ成熟すれば、 マテリアルな意味でも労働者階級を労働の義務から解放することができる物質的基盤がいずれは達成され、 労働価値説が真の意味で階級格差を越えて無意味になる社会が訪れる、あるいは革新できるとした。 その社会につけられた名こそがマルクス主義的な意味での「共産社会」に他ならない。 成熟した共産社会にあっては、労働価値説はもはや物質的な意味でも、労働者階級の 従って実生活においても陳腐な過去の遺物にすぎないくなっている。
537 :
考える名無しさん :2014/04/15(火) 08:09:29.50 0
自由のお約束、と 部質だよな俺ら ∧_∧ ∧_∧ (;´_ゝ`) (´<_`; ) _/__\ _ _ /__\ _ | \_____\ . | \_____\ _|\|______|_|\|______| |\\|______||\\|______| \\ \__)_) \\ \__)_) \\_____\ \\_____\ \|______| \|______|
538 :
考える名無しさん :2014/04/15(火) 11:54:36.67 0
テルケル派や柄谷行人は、価値形態論に着目して、 その良し悪し、出来不出来はともかく、「可能性の中心」での解釈を試みたものだった。 その種のことで、マルクスの地代論(とくに絶対地代論について)に着目したものはないか? 知っていたら教えてもらいたい。
539 :
考える名無しさん :2014/04/15(火) 12:02:27.25 0
540 :
考える名無しさん :2014/04/15(火) 12:10:37.46 0
なお、労働価値説は、それをいわば公理的に採用したら、 かくかくしかじかと考えることができる、ということに意義がある。 ようするに、それによって導かれる理論の妥当性の有無が肝心なのだ。 そして、それはいわゆる「真理」ではないが、 妥当性は近現代に於いてそれなりにある、 といえるのではないか。
541 :
考える名無しさん :2014/04/19(土) 00:55:46.03 0
労働価値説ってのは胡散臭いだけどお それをカッコに入れても流通で剰余価値が出ないってところで 俺とマルクスは決定的に対立するんだお。 そんな俺がアルチュセールを読むんだがお、 もしアルチュセール読んだ奴がいるなら感想をくれお。
542 :
考える名無しさん :2014/04/19(土) 01:07:57.10 0
ちなみに今の数理マルの吉原さんなんかお近代経済学を勉強して一般化された商品搾取定理 で資本論批判するがお、あまりに高コストなんじゃないかと思うお。 そういう数理に頼らなくても剰余価値は流通では発生しないってところを批判して、 大資本の実例を実証した方が低コストで資本論体系を批判できると思うお 要するにマルクスは流通手段ってものを考えなかったんだと思うお 生産手段だけだお、流通手段の不均等でも当然に剰余価値が発生するはずだお それはいわゆるペテンとは違うお
543 :
考える名無しさん :2014/04/19(土) 01:29:18.41 0
きちんと論じれば、おっしゃる通り、のところがあると思うが、 労働価値説には一ついいところがある。 これは、否定力というものを、唯一の価値の源泉としているところだ。 いたって雑にいえば、否定を差異に置き換えたのが、ポストモダニズムだったが、 もし、ポモはたいがいにやめてもらいたい、という人が多いならば、 いったん労働価値説を大筋で復活させても、そう悪くはないだろう。 それに、いまなら、労働価値説も、むかしのような、神学的説にはならないはずだ。
544 :
考える名無しさん :2014/04/19(土) 02:47:34.44 0
労働価値説っていうのは経済学では労働一財だったらわかるお。 比較優位なんかはいい例だが労働や資本が混在する中では成り立たないお。 まあマルクスと俺が対立するのは剰余価値だがね。
>>542 ウィキペディアの「剰余価値」に、
剰余価値は商品交換(流通過程)によっては生まれない。なぜなら、流通過程においてどんなに不等価交換が
生じたとしても、社会全体の価値総額は常に等価であるからである。
と書いてあるよ。
546 :
考える名無しさん :2014/04/19(土) 15:54:19.79 0
547 :
考える名無しさん :2014/04/19(土) 17:22:57.01 0
うーむ、では、資本論の中にあるこの一節はどういう意味に読んだらよいのでしょうか。 『カール・マルクス資本論@第1巻(1)』(大月書店 p.196) { ・・・。流通G-W-Gはそうではない。・・・ ・・・。それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G'であって、ここではG'=G+僭である。 すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、 または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。それゆえ、 最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで 自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖する のである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。 } 流通過程で剰余価値が生じているとマルクスが言っているようにどうしても読めてしまうのですが・・・
>>547 G は貨幣、W は商品だから、G-W-G は投資による商品生産とその売却による原価プラス剰余価値の
貨幣としての回収のことでしょ。
この部分では、まだ「流通」という語が、「交換」だけでなく「生産」もその過程のひとつとして含むものとし
て取り扱われてるための勘違いと思われ。
>>548 そうだね。
その生産過程の中での労働の量が価値であり、その価値から再生産に要する価値を減じた部分を剰余価値という。
>>547 の引用部は、
「商品流通は資本の出発点である」(同書p.191)
という文よりはじまる資本論の第四章「貨幣の資本への転化」の
第一節「資本の一般的定式」からのものです。
で、「・・・と思うお」「・・・だお」さんが論拠としているのもおそらくは
この同じ章「貨幣の資本への転化」に書かれてあるマルクスの文だと思われるんですよね。
551 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 08:50:20.67 0
俺が根拠としてるのはマルクスの文ではなく実際の大資本の独占利潤とかだお
552 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 08:56:58.88 0
俺はむしろ「貨幣から資本への転換」を批判しながら資本論を読んだお。 ここが崩れると資本論が崩れるという。 独占利潤が等価に配分されることは考えにくいお。
553 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 08:58:23.55 0
転換ではなく転化だったお
>>551 マルクスが流通過程での剰余価値を否定しているという解釈は
マルクスのテキストに依拠しているわけでしょ?
でなければ、その事実はともかく、その点についてマルクスの理論が
誤っていると見なす根拠がどこにもなくなる。
で、資本論を読むと、あなたのマルクス解釈を根拠付けるような文が
たしかにあり、それが
>>547 の引用箇所と同じ章にあるということ。
だから
>>548 さんの解釈が正しいとすると、マルクスは同一著書の
同一章で「流通」とか「G」や「W」を異なる意味で用いてしまっていることになる。
価値が単純に富の量で決まるのなら、価値は交換だけでは増えないよな。 交換で価値が増えるなら、価値が誰が所有者であるかということに相対的に決まらないと。
556 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 11:14:17.09 0
>>554 流通で剰余価値が生じないという解釈はマルクスの文だお
そう解釈しないと資本論が成り立たないお
でも剰余価値が流通で生じるのは独占利潤によるお
>>554 >「流通」とか「G」や「W」を異なる意味で用いてしまっている
ここでの流通というのは生産から再生産の過程を表している。
商品の生産から貨幣に変わるまでの過程を流通ということもある。
それぞれの流通という言葉の意味の違いは普通の読めば誰にでもわかる。
GとWは固定した概念を持たせているので意味に変化はない。
>>556 くだらない書き方に見合ったくだらないレスだな。
ほんとに資本論読んだことあるのかな?
558 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 12:36:31.80 0
こういう話しは、具体例を一つ二つ出しながらやらないと、 こう書いてある、ああ書いてある、か、 でなければ、言葉の定義を巡る議論、に終始する傾向がある。 そして、むかしからそれが、空理空論化の大きな原因であった。 だから、なんでもいいから具体例を出すといいと思う。
>>558 資本論というのは抽象的な資本主義経済の構造を分析したもの。
だから安易に現実的な具体例と引き比べると、論理の本質を見失って、流通とか価値、価格とかをマスコミ解説程度の意味にとらえてしまうから、資本論の内容を把握できなくなる。
>>558 マルクスの資本論の理論が事実に対して正しかったのか誤っていたのかを検証するのが
目的であるならば、そのテキストに目を通さないと科学的に意味がない裁断になるだけでしょう。
アインシュタインの相対性理論についてだって同じ。アインシュタインが言ってもいない事を
言ったと主張して、それが誤っているから相対性理論はもう終った、なんて論じるのは科学的?
現実を問題にするなら、マルクスやアインシュタインの理論が正しいか誤っているかはひとまず
棚上げして議論すればいいのであって、理論が科学的に正しいか誤りかを主張したいなら
理論の書かれたテキストを正確に引用して論じないとただの藁人形論法の繰り返しにしかならず、
それこそ意味がない。
561 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:11:46.08 0
じゃあ、仲間内のお話、に永久に引きこもってなさい。
もちろん、マルクスの資本論は経済学的に見ても社会科学的に見ても古典になっていて、 エンゲルスも認めているように、理論としての厳密さにおいてまだまだ洗練され煮詰められておらず、 曖昧な点が多々あるかもしれない。 それならそうと、マルクスはダメだという裁断をやるよりは、マルクスの理論のこの解釈については 現実のデータや経験と照らし合わせて誤っているのではないか、精確さを欠いているのではないか、 いや、こういうふうに解釈すれば現実と照合するだろう、などという議論だったら有意義だと思うよ。
>>561 いや、科学的言論の一般論としてもダメだという話。
564 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:23:17.60 0
しかし、資本論の原書の(ドイツ語の)言葉遣いについて、 質問したが、答える人が一人もいなかったスレで、 マルクスのテクストに則して、 というのもたいした話だと思うね。 ところで、あなたは、答えられますか?
565 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:25:39.00 0
まあ煎じつめて言えばウォルマートについて調べれば流通で剰余価値が出ない などという資本論の妄言が意味をなさないことがわかるお。 資本論体系は見直されるだろうし、穴丸などの一般化された商品搾取定理 の議論を実証的に考えることにもなるお。 資本論の論点の一つだなお。
566 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:30:14.49 0
まあ資本論読むのは久しぶりだがアルチュセールに即して読むつもりだお 誰かアルチュセールは読んだ人いるかお。
567 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:34:50.46 0
>>557 くだらないというならウォルマート、ロスチャイルド、ロックフェラーで出た
独占利潤が等価に平坦に落ち着く過程を示してみろお
資本論の枠組みでは決してできないお
568 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:39:51.48 0
端的に言えば貨幣から資本への転化の部分で マルクスは大チョンボしたんだお。 流通の部分の議論があまりにもお粗末。
569 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:40:26.43 0
その流通の問題は、コミュニケーションにおいて否定性が介在する、と言いかえられなら、 ヘーゲル的には、別に変でもないのじゃないか? アルチュセールは、いくつか読んではいるが、 なにぶん昔のことなので、あらかた忘れている。 憶えていることに関してだったら、少しは話し相手にはなれるかもしれない。
570 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:44:11.06 0
これで有機的構成の高度化で資本主義の転落を予言した 資本論の読み方は意義がなくなるお
571 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:48:15.00 0
>>569 俺はマルクスのテキスト一辺倒で、
ヘーゲルに即した読みというのはわからないんだが、
なんかいいテキストはあるかお
あとアルチュセールは要するにどういうことを言いたかったのか
要約してくれると解読する役に立つお。
572 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 13:57:20.47 0
正確である自信はないが、 わたし個人的には、524のフーコーの説と一点だけ違う、 (しかし、そこが今になってみれば、とくにマルクスとのかかわりでは、決定的に重要)、 と考えておいて、差支えないのではないか、と思う。 524の解説レスでのフーコーのいうような「システム」の動向を決定づけるのが、 最終審級としての経済審級であり、これは、、むかしふうにいえば、生産力と生産関係の「矛盾」によって、 それが駆動するのだ、という考え方を残していたところだろう。と思う。
>>567 独占過程で没落したほかの弱小小売などの価値減少分総体と相殺されるんじゃない?
574 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 14:46:06.49 0
>>573 確かに独占過程ではそうも言えるが確立した独占企業では流通で剰余価値
が「出続ける」お
575 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 14:53:32.21 0
ちなみにミクロ経済学の独占企業のグラフ参照ね。
576 :
なんとなく思った名無しさん :2014/04/20(日) 14:59:13.80 0
4択(NEWS) の 限界対偶
>>559 『経済学と実在』という本を読んだことがあるんですが、
その著者はそういう構造分析こそ実在に迫るものだとしていたね。
578 :
パンの耳 :2014/04/20(日) 15:03:34.19 0
>>576 改正
この場合の4択は 4卓の主観的評価 と 位置づけします
>>574 その場合は単純に、本来競争によって定まるべき値段が独占によって不当に釣り上げられたままなの
だから、その独占企業の商品購入者全体の方の価値減少分と相殺されることになると思うけど。
580 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 16:07:01.24 0
しかし、このスレをちょっと読むと、 共産党員とくらべれば、ポストモダニストのほうが、 やはりだいぶましだ、と思わざるをえなくなる、のが悲しいところだ。 ところで、フーコーが「権力には中心がない」ということを マルクスから読み取ったのは、意義のあることだったし、 それは、かつては、有効な場合の多い考え方だった、とも思うが、 「中心がない」という考え方にあまりに固執するのも、 よろしくない、といえるだろう。とくに今はそうではないか。 ことに大方のドゥル―ジアンのように、権威盲従的で、 「中心がある」ことを、なんら疑いもせず振る舞っているとしか見えない者が、 口では「中心がない」とお題目のごとき「理論」を唱えるのは、 もはや滑稽でさえある。
581 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 16:29:26.78 0
たいがい護教論をやめられないもんか。 教説護持、というのが、神学・形而上学の最大の特徴だろう。
582 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 16:34:01.89 0
>>579 ちょっと考えさせてくれ一理ある。
でもそれだと価値が労働であることが自明でないと成り立たない
ような気がする。
583 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 16:38:37.45 0
理論的につじつまが合っている、ということと、 理論に妥当性がある、ということは、ぜんぜん別のことだ。 たとえば、マネタリズムにしても、つじつまは合っている。 証明というものは、証明できるように公理系ができていれば、 当然できるわけだが、それは、その公理系自体の妥当性を、何ら保証しない。
584 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 16:46:55.53 0
でも大抵公理系でもなく、 資本論とにかく嫁が流通の話だと主流の反論だったから 新鮮だわwww.
585 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 17:13:09.02 0
うーん本来競争であるべき価値かあ。ちょっと考えてみよう。
>>567 そのくだらない書きぶりには答える気はない。
内容もくだらない。
マスコミ的単語の使い方と、経済学的単語の使い方を混同しているだけじゃなくて、価値を生む労働という概念もまったく理解していない。
子供じみた書きぶりなのは頭が子供だからだろう。
587 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 19:56:12.93 0
>>587 はいはい、別のやしから新鮮なネタもらったから結構ですよ。
マスコレルくらい読んで上等きいてんだろうなあ。
マスコレル読んだの?ぷ
588 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 19:58:27.14 0
間違いた
>>587 は
>>586 マスコレル読んでたら認めてやるよ。資本論じゃあ経済学云々言われたくない。
589 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 20:17:13.83 0
最低限、経済学というなら数理丸できなきゃなあ。マルクス一辺倒のおバカさんにはうんざり。
>>587 >>588 マスコレルなんて名前も知らない。
なんかおもしろいこと書いてるのか?
ワルラスなら読んだことある。
ワルラスというのは、経済の原理の分析がまったくできずに現象面だけをいじくり回してる。
資本論の資本主義経済の徹底した構造分析には足下にも及ばない。
原理がわからないから、というより、資本主義経済の原理を認めると資本主義を非人間的な悪のシステムと認めなければならないから、原理を見ようとしないんだろうな。
どっちみち資本主義擁護の10年たてば消えていく数多の「近代経済学者」の一人なんじゃないのかい?
591 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 20:47:09.43 0
>>590 マスコレルというのはミクロ経済学の院コースワークの定番だよ。
そのくらい知ってから経済学語れ。マルクス経済学だけだと
経済学扱いされないよ。数理マルくらいでないと生きてけないね。
今にも消えそうな化石ご苦労さま。
592 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 20:52:52.70 0
ヘーゲルの目的論とマルクスの労働過程論:マルクス「機械論」形成史研究 吉田文和 ↑の論文が良くまとまっており、早わかりに適しているように思った。 ちなみに、ヘーゲル目的論→マルクス機械論の否定中心主義を 差異中心主義に変奏したものが、よくいわれるように、ドゥルーズ機械論であろう。
593 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 20:57:22.20 0
>>592 なるほど俺は哲学的にマルクスは全然よんでないので新鮮だわ。
ありがとう。
>>591 だからね、マルクスの原理的な経済学以外はゴミのように捨てられていくんだよ。
現象だけを追いかけても、社会が変わればなんの役にも立たない。
それが「近代経済学」。
無理矢理ノーベル賞作っても、その「近代経済学」で投資家以外の国民が豊かになったことはない。
資本主義経済を生きながらえさせることにすら、どれほどの効果があるのかな?
時代に合わせてその時々の経済的勝者を設定していくだけのものに過ぎない。
経済学は、その根底に哲学を持っている。
なぜなら人間の活動の結果が経済だからだ。
595 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 21:22:18.45 0
>>594 あなたは営業としてブラック企業で働いたことがありますか?
現象を追わない経済学など無意味。
それに経済学の事情にも明るくないようだ。
2chの方言も知らない。
そんなあなたの発言には重みがない。
マルクス経済学の危機もご存知ないようだ。
片腹痛い。
596 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 21:27:25.44 0
資本論は読むべき 一番わかりやすいのが資本論
597 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 21:30:22.80 0
資本論はヘーゲルなどよりはよっぽどわかりやすい。 確かにそれは認める。 マスコレルなどのように数学漬けにならないでいいし。
598 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 21:32:13.28 0
あとだおは文化である。www.
>>595 2chの方言w
知ってると自慢になるのかい?
現象を追うのは経済学などではない。
政治の問題だ。
どの政策をとるのかを決める根拠は単純だ。
資本家の利益を優先するか、労働者の利益を優先するかということだ。
御用経済学など資本家に利益を渡すための名目作りに過ぎない。、
ブラック企業がなぜブラックなのか?
マルクスなどの指摘のとおり、価値が労働により生み出されることを経営者が体験的に知っているからだ。
労働者をただ働きさせる分だけ資本家の利益は増加する。
マルクス経済学に危機などない。
危機があるのは国民の生活だ。
600 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 21:44:20.36 0
>>599 方言はバカになりませんぜ。
立派な文化だよ。文化には文化の価値がある。
現象も大事。
現象を語れるから本質論には意味がある。
ブラック企業は資本家が搾取するだけではなく
グローバル化という現象も見逃せない。
労働基準行政が国際的に行われないことで生まれる現象。
マルクス経済学は本当危機だよ。
数理マルクス経済学じゃないと大学で生き残っていけないのが現実。
近代経済学でも空間経済学などは御用経済学のブレークスルー
を見た思いだったけどね。
>>600 甘ったれた仲間意識に文化などない。
1年も持たないだろう。
大学での講義などただの時間つぶし。
経済学の講座がなくなっても、経済学部がなくなっても、社会に悪影響など及ばない。
大学に職を求めたい連中以外にはどうでもいいことだ。
グローバル化などと、資本家の利益代表の政治家とその御用学者のおためごかしに過ぎない悪宣伝を振りまいて、せっせと資本家に利益を貢がせようとする経済学などない方がいいに決まっている。
経済的な現象というのは、政治の結果であって学問ではない。
602 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:01:33.35 0
流通で剰余価値が出るケースが、本来の競争の相殺の元で生まれるということで考えると いわゆる独占、寡占をすることで企業は資本主義でも生き残って行けることになる。 この点は注目するべきだろう。 今日一般的には寡占が最も多いだろうが、このメカニズムで資本主義が消え去ることはないわけだ。
>>602 流通で剰余価値が出ることはないが、競争により独占資本となっていくことを資本論では説明している。
604 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:08:32.05 0
>>601 一年以上前からだおはあるようだがね。
大学の講義は重要。社会の常識水準になるから。
グローバル化は労働運動でも必要。
今こそインターナショナルではないがグローバル化した労働運動が必要なのだよ。
経済の現象をマルクスが表している。つまり搾取ということがマルクスの意義であって
本質論がただの内容のない神学になるのでは意味がないよ。
605 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:10:18.20 0
>>604 だおは前世紀からある、ってか今更感がハンパないんだけど。
607 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:16:51.29 0
>>603 独占資本の件だけ真面目に教えてくれないか。
興味がある。
608 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:18:19.55 0
609 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:28:37.86 0
グローバライゼーションが必ずしも悪いと言いきれるか? もしかして、「世界史的過程」なのじゃないのか。 具体例に関して、コメントしない、と言っている人も、 GHQのやった、日本の財閥解体、農地改革、などは、 いちおうの成果があった、と考えるのではないか。 かつてアメリカが、その意図はともかくとして、結果的に正しいことしてくれたこともあるならば、 いま言っていること、求めていること、 それは悪いとなぜいえる?
610 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:36:26.96 0
資本のグローバル化に国家や労働組合が追いつけないことが問題だと思うがね。 現状の問題について言うと。 つまり市場経済を継続する以上、資本主義になるし、その点では国際的 な労働基準行政しか救いはないように思う。
>>607 競争による資本の集中というところがあるから目次でも探してみてくれ。
一々自分で探してあげるほど親切じゃないし、めんどくさい。
612 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:42:48.05 0
>>609 >>610 いいとか悪いとかじゃなくて、政治的な課題に過ぎないと書いといただろ?
そもそも市場経済などという考え方自体が資本主義なんだし。
現実を客観的に見る訓練をしないと、社会の本質は見えてこない。
多くの人は自分をとりまく社会を肯定しながらしか生きていない。
だからレーニンは前衛党の存在を社会改革のための必須の条件だとみなした。
ちょっと余談だが。
614 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:54:06.45 0
>>613 進化経済学知ってる?
それによるとスーパーコンピュータ使っても計画経済ができないとある。
進化経済学ハンドブックに乗ってるよ
複雑系経済学入門にも載ってる。
615 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 22:55:31.13 0
>>611 目次にはなかったけどきっと三巻だよね。明日から読み返してみるわ。
616 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 23:19:46.48 0
わけのわからん人だね。 国民の生活が危機的、といってみたり、 グローバリズムのもたらす貧困等は、 政治的課題にすぎない(すぎない、は、ふつう、軽んじる場合に遣う言葉だろう) といってみたり。 世界の人が、みんな「資本論」を、 お経みたいに、写本でもすれば、万事解決、とでもいいたいのか?
617 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 23:28:11.13 0
その可能性はないとは言えない
618 :
考える名無しさん :2014/04/20(日) 23:45:13.00 0
写経資本論か。www. 独占資本の場所わかる方いれば助かる。
ブルジョアジーがプロレタリアートを搾取する理論は100%真理だが その解決法として共産主義を持ってきたのは愚か過ぎる 「団結せよ万国の労働者」 これは甘美だけど絶対に無理
620 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 01:47:13.24 0
消費者の良心的なネットワークがないと良心的な企業も生き残れない 集合力はまず消費者側から
>>618 めんどくさいやつだな。
資本の蓄積過程でも読んどけよ。
624 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 03:07:40.33 0
日本語ができないのじゃなく、 字が小さくて見えないわけよ。 自分で書いたことが、ほとんど読めないので、 言づかいがおかしくなったりするわけさ。
625 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 03:35:20.05 0
王、亦た仁義を曰ふのみ、何ぞ必ずしも利と曰はん、と。
マルクスの労働価値説はあくまでも抽象労働価値説と呼ばれるべきであって、 リカードの労働価値説とは違うね。 資本論でマルクスがリカードを批判している箇所(素朴な労働価値論に賛意を表す リカードが抽象的労働概念に至っていないことを批判している箇所)を読んでそう思った。
627 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 14:27:52.51 0
625のような国語辞典には書いていないような言葉遣いの 読み下しにも、文句をつける人はないようだ。 孟子の伝統的な読み下しの引用には、マルクス嫁氏にして、 「日本語勉強しろ」とはいわないわけね。 だったら「資本論」に、こう書いてある、ああ書いてある、 おまえが言うことは、それとは違う、間違っている、の類いのことも 云わないことだ。そういう権威主義的なイチャモンつけたがりというのは、いわば、 日教組・文芸誌下読みさんのねじけた根性にちかい。知的な人のすることではない。
>>627 孟子なんて読んだことがないけど、読み下し文というのは外国語の理解のための独特の言い回しだということは知識としては知っている。
現代の日本語から判断するものではないということも、知識としては知っている。
読み下し文に馴染みはなくても、マルクスを読まずにマルクスを批判したり、肯定したりはしない。
翻訳の文体でも全体を読めば理解はできる。
それを理解していれば、他人のレスを大きく曲解することもないはずだ。
読んでいるのに曲解しているようだから、あとは日本語の理解の問題ということになる。
>「資本論」に、こう書いてある、ああ書いてある、
>おまえが言うことは、それとは違う、間違っている
資本論に書いてあることと違うから間違っているなんて書いてない。
資本論も読まずにマルクス経済学が間違っていると書く人に、そういう批判は読んでからにしろ、と言ってるんだ。
そのくらいの文章の理解力もないから、日本語の勉強が必要だと書いたんだ。
君のほかのレスもそうだが、共産主義の意味を分かろうとせず、ましてマルクスの著作などまったく無視して、ただ共産主義を否定したいだけの書き込みをしても無意味だ。
否定するには相手を理解することが必須の前提だよ。
>>627 ちなみに、文芸誌下読みというのはどういう職業か知らないが、日教組の教員たちはとても優れた素晴らしい人たちが多いよ。
唯々諾々と国歌を歌い国旗に敬礼する国家の御用教師などまったく教育者としての存在価値がないが、日教組の教員には日本の平和を守るための大きな希望が託されている。
特に現在のような戦争賛美の右翼的風潮が強い時期には、国の存亡すら彼らにかかっているといってもいいくらいだ。
630 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 15:36:46.69 0
読み下し文は、現代の日本語からも、判断するものだ。 日本の文芸というものは、もとをただせば、漢文を翻訳することによってできた、 といってよい。文芸がそうである、ということは、日本語がそうなのだ、 といっても過言でもなんでもない。 それに明治以降は、いうまでもなく欧米語の翻訳の影響が加わるわけだ。 あなたは、自分のマルクス像、資本論理解と違うと、 意味わかってない、と言っているだけじゃないの。 しかし、もしかして、あなたの嫌いなドゥルーズにしても、 自分ほどマルクスの「真意」を理解している者はいない、 と思っていたかもしれんよ。 ちなみに、私は、人に対して、分かっていない、とはいわない。 そのかわり、その読みは詰まらん、と感想をいうことにしている。 なお、ろくに読んでいない人の「読み」が斬新で、熟読している人の「読み」がつまらんことも多々ある。
631 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 15:58:21.53 0
マルクス嫁氏は、ドゥルーズスレの「差異と反復」嫁の電波ブロガーには、 呆れてたんじゃないのか。 ところで、あなたは、ドゥルーズの著書の何を読んで、ああだこうだいっていたわけ?
632 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 16:25:45.25 0
大分前の話だが、 わたしの知人が文学の新人賞をもらったとき、 選考委員の一人であったかの浅田彰に、 作中の言葉遣いの誤りを指摘されたことがある(ただし、浅田氏が強く推して受賞となったので、 作品自体は割と高く評価していた) ところが、私にすれば、その知人の言葉遣いは、誤りでもなんでもなく、 古典的で、むしろ格調高いと思えるものであった。 マルクス嫁氏も、人の云うことを間違いだの、理解不足だの、 何だのという前に、もしかして自分が無知なのかもしれない、 一呼吸おくべきだろう。 誤りではなかった。
633 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 17:51:58.91 0
アルチュセールの「国家イデオロギー装置」論の中に、 言葉遣いと社会的再生産を巡る考察がある。 ひじょうに俗っぽく要約すれば、フランスのような国語の「正しい使用」にうるさかった国では、 下層階級の出の人が上級の教育を受けようとする場合、身についた言葉遣いが、選抜の際の(最初の?)壁になる、 というわけね。フランスに限らず、ヨーロッパは、(日本とはまた別の意味で)言葉づかいにうるさい。 馴染みのある英語に関して言えば、言葉づかいで、ほとんどの場合、(英国人の場合)階級がすぐわかる。 そして、一般によい言葉づかい、というのは、ようするに、ブルジュワのそれだ。 非英語圏の人への英語教育にしても、細かいことについてうるさくいうのは、 ネイティヴとの差を、よけいに埋めがたくする。これは、国際的な階級格差を固定しやすいのじゃないか。 言葉づかいがどうこう、とよくいう人は、 そのことによって、現状の階級制度の固定化に加担している、かもしれないといえるわけだが、 共産党員みたいな人は、たいていの場合、そういうことに気づきもしない。 なお、これは、ブルデューの「文化資本」に関する考え方と共通する考え方だ。
>>630 >日本の文芸というものは、もとをただせば、漢文を翻訳することによってできた
あまりバカなことは言わないように。
万葉集はもとより源氏も読み下し文などではない。
漢字が使われたり漢文の引用に読み下し表記があっても、基本的にはすべて日本語表現。
記紀本文は和製漢文だが、それは史書であり、文芸といえる部分の歌謡は古くからの日本語。
>人に対して、分かっていない、とはいわない。
>そのかわり、その読みは詰まらん、と感想をいうことにしている
>ろくに読んでいない人の「読み」が斬新で、熟読している人の「読み」がつまらんことも多々ある
どっちでもいいが、読んでないならマルクスだのドゥルーズだのと名前を出す必要もないことぐらいは理解しろ。
それが、日本語の理解というものだ。
>>631 >あなたは、ドゥルーズの著書の何を読んで、ああだこうだいっていた
なにが言いたいのか知らないが、ドゥルーズというのは動態を動態のまま捉えたいという現代風の課題を追求しただけで、なにかの成果があったとも思えない。
動態を動態として捉えようとしたそれ自体が成果だというほかはない。
だから、晩年には、それまで読んでもいなかったマルクスに頼ろうとしたのだと思ってる。
これが、ドゥルーズ主要著作といわれるものをいくつか翻訳で読んでの、ああだこうだの感想だ。
>>632 知人が新人賞をもらおうが本人がもらおうがどうでもいいが、どの言い回しが正しくてどの言い回しが間違いなのかは使われる文脈によるに決まっている。
そもそも浅田氏が文学表現の権威であるという話も知らない。
3バカの一人といわれたことがあるのは知っているw
仮に権威であっても、すべてが正しいわけでもない。
漢字の権威白川氏に対してすら、誤りを指摘する人もいるくらいだ。
他人の間違いを指摘するのは当然のことだし、自身が間違えている可能性もあるのは当然だ。
そんな中学生でも前提としていることを、なにを得意げに吹聴しているんだ?
>>633 言葉の理解と階級的な言葉遣いの違いにはなんの関係もない。
それぞれの馴染の中で相互理解が難しいときもあるだろうが、それは一過性のものだ。
太宰治の「斜陽」の言葉遣いを非難した上流階級出身の作家程度の話だ。
君は、なにかにつけて共産党や共産主義を否定したいのだろうが、その程度の知識と教養では日教組(多くの組合員は平和を希求はしても共産党支持ではない)にも共産党員にも、はるかに及ばない。
>>627 > だったら「資本論」に、こう書いてある、ああ書いてある、
> おまえが言うことは、それとは違う、間違っている、の類いのことも
その言い方には問題の巧みなすり替えがある。
正確にはこう書くべきです。
マルクスの著書には、こう書いてある、ああ書いてある、
あなたが、あたかもマルクスが主張したかのように言っていることは
実際のソースに当たれば、マルクスの主張ではないと分かるか、疑問符がつく。
したがって、マルクスがそう主張しているというあなたの解釈をもって、
マルクスの主張に誤りがあったとするのは早急であるか、的外れであり、
藁人形論法であるだろう、と。
しかし、このことは経済学的な対象についての事実判断とは別の問題です。
637 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 19:00:25.33 0
いいたくないが、きみはとにかく無学だな。 読み下し文である、などとはいっていないだろう。 漢文学翻訳が日本文学のベースになっていた、ということだよ。 和歌というのは、もともとが漢詩形式の模倣だ。 紫式部は、漢学者の娘で、本人も、ほぼ漢学者といってよい。 女の「学者」なんていうものが、いてはならない時代だから、 そうはなっていないだけである。 こんなことは、常識だぞ。傷つけたくはないが、 あなたははっきりいって、表象文化論者や批評空間グループがどうこうといえるような おつむの人ではない。 読んでる読んでない、が問題だというなら、 出来る出来ない、だって問題なのじゃないの。 だとすれば、日本古典語で何か書けるでもない、欧米語で何か書けるでもない人が、 あれこれ云うのは、おこがましいのじゃないか。 まあ、ドゥルーズスレの電波ブロガーとどっこいのようだから、 今後は、互いに無視しましょうね。
マルクス経済学にかぎらず、ある論者が主張したことの是非を科学的に論ずる場合には、 いかなる場合にもその論者の主張の証拠になる文献に当たる必要があるんですよ。 その場合、文献が化石のようなものです。文献が証拠になる。 例えばダーウィンの理論は間違っていると科学的に主張しようとする場合、 その人がダーウィンの論文にちゃんと基づかずに印象にもとづいてそう主張していたら、 それは証拠にもとづかない主張で、まったく意味がありません。
639 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 19:04:31.11 0
誰?
化石にも解釈問題ってあるからね。しばしば論争になる。
641 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 19:25:10.67 0
「科学的」のほうは分かった。 「技術的ないし技能的」のほうは、 出来ない人は黙っていろ、でもいいかな? もとがドイツ語の文献についてと、日本古典文学については、 喋れんことになる人も出るかもしれんので、わたしは望まないが。
>>637 >和歌というのは、もともとが漢詩形式の模倣だ
本気で言ってるのか?
万葉も記紀歌謡も勅撰の一つも源氏も読まずになにを言ってるんだ?
マルクスを読まずにマルクスを否定し、日本の古典も読まずに日本文芸の源流を中国だと決めつける。
はじめから君と議論ができるとは思ってなかったが、いくらなんでもそこまでの無知と無教養を晒してまで<論破>しようとするのは、2chといえどもさすがに君は希有な存在なのかも知れないw
稀少だからと言って価値が生まれるものではないことは、この事例でもよくわかるなw
なんでもいいから、少しは本を読んでから書き込めよ。
643 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 19:34:43.26 0
けっきょく、こういうステマ的な悪質な手口にいくわけよ。 やはり、ぜんぜん体質改善しないのね。
>>633 てか、イギリスのバジル・バーンステインの研究(言語コードと階級に関する実証研究)が有名だね。
科学では証拠が重要です。証拠にもとづいて論じることで客観的判断ができます。 マルクスがこう言っていると主張したい場合に、もっとも科学的な方法はその証拠を提示することです。 つまり、マルクスが実際にそう言ったり書いたりしている物証を提示することです。 マルクスは文筆活動をしていましたから、文献がもっとも豊富で確実性の高い証拠になるでしょう。
647 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 20:06:16.34 0
「証拠」についてはわかった。じゃあ、今後は思いついたときに、原書にどう書いてあるか、 こと詳しく、と訊くことにしますよ。
A: ダーウィンは自然淘汰説で「人はサルから進化した」って主張したけど、 それは間違いだ。現代の生物学からするとダーウィンは間違っていたね。 B: 本当にダーウィンがそう言っていたのかい? ダーウィンの『種の起源』は読んだことあるの? A: ないよ。 B: じゃあ、ダーウィンはどこでそんなことを言っていたの? A: さあね。 こんな展開になっているんだよね。これじゃ、科学者だったらオボちゃんみたいに総スカンでしょ。
>>647 ここは2ちゃんねるだから公式の論文みたいにそこまで求める必要はないだろうけれども、
少なくともダーウィンやらマルクスの書物を読んだこともなく、
ダーウィンはこう言っていたから彼の理論は誤っていたとか、マルクスはこう主張していたから
彼の理論は誤っていたとか、そう主張していたんでは話にならないでしょう。
科学的な厳密な論文を書く場面では当然、証拠になる文献の一字一句を提示して、
この文からこう解釈する以外にないから、彼はこう主張していて、しかしそれは誤りだったとか
いう論じ方をするわけでしょう。
それはまさしく証拠に基づく科学的な論じ方をしようとするからそうするわけであって、
それを訓詁学だ云々と否定したら、科学にしろ、歴史学の実証主義にしろ、すべて否定することになるよ。
「チャールズ・ダーウィンの自然選択理論は『ヒトはサルから進化した』としていて、 それは現代の生物学の常識からすると誤りである」と主張したい場合、 一、ダーウィンの自然選択理論のソースとなる『種の起源』を証拠として提示し、 二、その文献に「ヒトはサルから進化した」と解釈するしかない文が書かれていることを示し、 三、現代の生物学がそれを否定している証拠になる現代生物学の文献もまた提示する。 科学的にはこういう手続きが最低限必要でしょう。 なぜならその議論で問題となっているのはまさに文献なのだからね。 証拠になるものとしてダーウィンの書いた本、現代の生物学者の書いた本に当たれ! というのは科学的な議論をするために当たり前の展開でしょう。
651 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 21:19:28.99 0
なるほど、Philologieは科学だ、ということね。 じゃあ、証拠は、やっぱり「決定版」の原書でなきゃいけないだろな。 確たる証拠を提示することに、紀要だからどう、2ちゃんねるだから、 あるいは、居酒屋談義だからこう、などという違いもなかろうよ。
いけないことはないでしょ。 もちろん証拠能力は、マルクスの直筆>原書>訳書の順に高まるでしょうが。 読んでないとか、風の噂というのは論外ですよ。
653 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 21:49:36.42 0
スレチで申し訳ないが、 たちの悪いステマ的な、それこそ「非科学的」なことを真に受ける人がいると 困る、というか、不本意なのでいっておく。 たとえば、五七五というような、音数律というのは、 文字で書く、ということが前提にないと、あまり意味ないわけ。 なぜなら、母音というものは、たとえば、エーエーエー、とか延ばせば、 数合わせなんか幾らでもできるものだからだ。 こういうのは、謡やらの古典歌謡をちょっとでもやったことがあれば、すぐに分かる話だ。 つまり、日本固有の詩文のリズム、といわれるようなものも、実は先に文字ありき、なのね。
654 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 21:53:09.99 0
訳書なんて、確たる証拠にはならないだろう。 訳文には、訳者の解釈が入っているじゃないの。 いわば「伝聞証拠」のたぐいになるのじゃないか。
656 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 22:23:52.37 0
音数律は、くどく言いかえれば、音節文字数律だろう。 なお、わたしは、書かれたもののことをいっている。 録音がないわけだから、音声のほうは、ほんとうのところは分からない、 想像するしかない、としかいいようないな。
>>653 いや、文字がなくても、その言語特有のリズムを利用した歌を持っている民族はたくさんあるだろう。
日本語の場合も、文字がなくてもシラブルやモーラについて把握することは可能だろうし、万葉仮名が
先に作られたおかげで、万葉集の歌謡が生まれたというのはちょっと考えにくいと思う。
658 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 22:30:53.76 0
ご配慮して頂き誠にありがとうございます。
659 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 22:35:16.41 0
古代歌謡にも、とうぜん今日的な意味でのリズムはあっただろう、 というか、それがなければ、歌謡にならない。 しかし、それが五七調や七五調といわれるものであった、とはいえないわけね。 たとえば、五七の数律で書かれたものも、母音を延ばして、 今なら、六八調やら七九調といえるみたいに謡ったかもしれないわけよ。 そして文字数が、五、七、を基本とするというのは、むろん元が、漢詩の形式だ。
日本語の場合、母音の長短は早い時期から弁別的だったといわれるので それはただのトンデモ
661 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 22:58:53.25 0
歌会始 天皇陛下のお歌 じゃあ、↑で引くと動画出てくるから、 これが、何調で(音声的に)歌われているか、教えてください。 変な言いがかりつける前に、なんでもいいから純邦楽の唄本見なさいよ。 たとえ、文字と音声とのあいだの相互規定、みたいなこといったとしても、 別に反マルクスにはならないわけね。 これは、ヘーゲル的には、理性の奸智の一種といえるわけさ。
ある音を実際に長く伸ばすかと それが何拍の音と認識されているかは全く別の話 日本語で「エ」の音を狭い音で発音しても広い音で発音しても 「エ」であるというのと同じ事だよ ある音の違いが、言葉の意味に関わる音の違いと認識されるかどうかに 文字がすでに導入されているかどうかは関係ない そういう返しをするのなら 「まずは言語学のお勉強してください」としか言いようがない
663 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 23:06:54.33 0
歌謡のリズムっていてたんじゃないの。 これは今なら拍数のことだろ。 わけのわからん奴だね、ほんとに。
拍数は意味の区別に関わる単位で それは実際にどれだけの長さで調子を付けるかとは別だ という程度の事も分からない奴
665 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 23:14:20.33 0
ああ、音楽用語の拍数じゃないのね。 あなたのいう拍数は、何辞典をみれば、 それについて書いてあるの?
そんなことも知らないで日本語の音の長さを数えているつもりだったのか アホだとしか言いようがない 日本語学の教科書でも読んでから考え直してね
横だけど、
五七調・七五調は比較的新しいリズムじゃないかい?
古事記に出てくるそれ以外の古代歌謡や中世歌謡と比較するに、「実際の歌」から抽象的に分離されてできた、
かなり高度に普遍化された様式に思えるし、その過程で漢詩の影響もあったかもしれないよ。
>>665 とりあえずウィキペディアの「拍」を見れば、言語学での意味も出てるよ。
668 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 23:28:41.38 0
モーラのことだろ。どういう説明するかと思って訊ねてみたのだ。 まあ、そいう概念が、無文字社会にありうるか、といえば、 私はなかったと思う。 近代の無文字社会であったかにみえるケースも、それは宗主国の文化の流入によってのことだろうな。
669 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 23:38:06.78 0
だいたい、はじめから、歌の話しなんだから、 近代にあっては、音楽用語で言わなきゃ仕方ないわけね。
日本語だからモーラの話をしている という程度のことも理解できてないですね、これは。
671 :
考える名無しさん :2014/04/21(月) 23:45:48.72 0
歌というのは、詠むものだからな。 まあ、和歌じゃなく、話し言葉の話題だったわけね。 それは失礼しました。
歌おうが何だろうが日本語の言語構造を前提にしているということも分からない人だったのですね。 ご苦労様。
673 :
考える名無しさん :2014/04/22(火) 00:02:09.51 0
鳴くよ鶯平安京
>>668 日本語のモーラが文化流入によるなら、モーラが無い中国語でなくサンスクリット由来ということになるはず。
文字を持ち込んだいわゆる宗主国にモーラがないハワイ語にもモーラがあるから、文字の有無とモーラの有無
は関係ないようだよ。
>>630 >日本の文芸というものは、もとをただせば、漢文を翻訳することによってできた、
>といってよい。
>>637 >和歌というのは、もともとが漢詩形式の模倣だ。
>>653 >たとえば、五七五というような、音数律というのは、
>文字で書く、ということが前提にないと、あまり意味ないわけ。
>>656 >音数律は、くどく言いかえれば、音節文字数律だろう。
>>659 >文字数が、五、七、を基本とするというのは、むろん元が、漢詩の形式だ
>>661 >たとえ、文字と音声とのあいだの相互規定、みたいなこといったとしても、
>別に反マルクスにはならないわけね。
>これは、ヘーゲル的には、理性の奸智の一種といえるわけさ。
最近これだけ笑わせてくれた人はいなかったな。
この人の書いたものはどれをとっても面白い2chならではのキャラだ。
相手の人は、我慢して付き合ってあげて偉いと思う。
付き合ってる人の書いたものは本当の意味で面白いから、その意味ではお笑いキャラさんも役に立ったことになるかな。
まあ、中国語にモーラがなくても、中国から輸入した漢字を1モーラ1文字の表音文字として使うことによって、 モーラを発見したという可能性は考えられなくはないけど、人類学による無文字社会の研究を見る限り、 文字の発明のずっと前から言語の音韻構造を利用した詩や歌謡の類はあったと見るべきだろう。
677 :
考える名無しさん :2014/04/22(火) 00:40:10.04 0
今日にいうモーラを表すような概念がなかったんじゃないか、といったのね。 まあ、たとえば、五七五七七の三十一は、(およそ)仮名文字数=拍数なんだろうけれども、 それはふつうに声に出して読んだ時のことであって、 詠ずるとなれば、また違う、音楽的な意味の拍数でいわなきゃ、 意味ないだろう。でなければ、そもそも歌えないのじゃないの。
678 :
考える名無しさん :2014/04/22(火) 00:50:57.70 0
それは、文字発生以前にも歌謡にあたるものはあっただろうから、 あっただろうね。 日本の場合、歌詞を音節を表す文字にすると(およそ)同じ数、という形式の確立は、 だいぶ後のことで、それには漢文学の影響が大だっただろう。 といったまでだが。
679 :
考える名無しさん :2014/04/22(火) 18:11:08.77 0
まあ進化経済学もマスコレルも知らんでドキュン確定だが。 俺も道楽なんでとりあえずどうでもいいような気もする。
>>679 そうか。
進化経済学とマスコレルを知ってるとお笑いチャネラーになれるのか\(^o^)/
進化主義経済学といえば ヴェブレンの主流派経済学への批判を想起する。 ダーウィン主義経済学とはまたちょっと違う。 ナッシュ均衡というところに拘る経済学をも ヴェブレンからすれば静態的な思考がまだまだ経済学に 蔓延っている証だということになるのかもしれない。
682 :
考える名無しさん :2014/04/23(水) 16:25:33.43 0
東大教授熊野純彦氏が出した『マルクス 資本論の思考』は 今後 マルクスを研究していく上で必読の書といえるだろう…
683 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 02:19:17.54 0
相変わらず言葉遊びばかり
684 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 02:25:54.46 0
封建階級や中産階級と共存することをちっとは考えろ スターリンの民族論じゃないけどさ、彼らの創造した 文化と形式をプロレタリア社会へと脱構築するんだ
685 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 04:20:33.25 0
熊野純彦(東京大学教授・哲学者) 「いま、なぜマルクスなのか?」 ↑で引くと動画が出てくる。 それをとばしとばし見た印象では、廣松流解釈を、少しばかり疎外論許容的にした感じ、 くらいのものじゃないか、というような気がした。 もしもそうなら、「いまさら感」が強いものだろう。かくして、 まったく読む気が起きなかった。
ヴェブレンの名前が出てきてるな やっぱあんた経済学の秀才だろ?
687 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 13:43:09.97 0
>>685 なにがいまさらだよw
熊野は廣松と宇野を弁証法的に止揚するというスゴい芸当をやってのけたんだよ
読めばわかる
688 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 16:48:42.92 0
弁証法的に止揚する、とは、なんのことだ。 かたや相対主義、かたや本質主義、その止揚、とか、そういう意味かね?
689 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 18:27:55.64 0
働け
無職がなんか言ったか?
691 :
考える名無しさん :2014/04/24(木) 23:02:27.25 0
692 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 10:15:34.99 0
てか、「疎外」の話ってそんな大事か? マルクスがヘーゲル用語を皮肉なニュアンスで使っただけなのに。 「疎外論」なるジャンル自体が言葉遊びの人たちのスクツとなっている現状
疎外論はポモ(現代思想系)の人たちによって一時かなり叩かれたね。
694 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 11:54:31.29 0
だいたい、疎外と物象化をはっきり区別しているのが、 日本、というよりも、廣松・柄谷系だけじゃないだろうか?
695 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 12:00:02.88 0
本質は最初の自己内での反照の全体であるが、しかし、それはそうした内面性に とどまっていないで、根拠として現存在のうちへ現れ出る。こうした現存在は、 その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに 現象に他ならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介された ものに過ぎず、したがって、自分自身に依存せずモメントとしての妥当性しか持 っていないような、多くの多様な現存在するものを思いうかべる。 ヘーゲル「大論理学」
>>694 それぞれニュアンスは異なるが両者の関係は日本に限らずずうっと問題になってる
697 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 12:35:25.90 0
それは、疎外論対物象化論、じゃなく、 本質主義対相対主義、といったほうがいいのじゃないか。
>>695 なるほど。
ちょっとスレチだけど、メルロ=ポンティはこういうところから自分の理論を組み立てているのかもしれないね。
699 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 13:49:30.84 0
べつにメルロ₌ポンティに限らんのじゃないの? ヘーゲルによるカント哲学解釈の重要なところの一つだろうから、 ほとんどの哲学者が影響受けてんじゃないですか。
700 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 19:02:42.72 0
若きマルクスの自己疎外論は、ヘーゲル的な思弁が残っているもので、 『フォイエルバッハ・テーゼ』や『ドイチェ・イデオロギー』で唯物史観が 成立することによって、払拭された未熟な思想であるというのが、 ソ連共産党など正統的なマルクス主義の保守派の見解。 ようするに、「対立」の根は↑なんだろうな。 ちなみに、アルチュセールがいったのは「認識論的切断」であって、 そこにヘーゲル哲学に関する通俗的な「誤解」は、とくになかったと思う。
701 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 19:14:21.13 0
ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)とは、 知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態) から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう 現象をいう。(wikiゲシュタルトの項目から) ≫本質は最初の自己内での反照の全体 ちなみに、ドゥルーズの「差異と反復」などでは、↑のヘーゲルの「本質」論の根本を認めないことで、 結果的に、ゲシュタルト崩壊のような「カタストロフ」(いわば分裂病化)を「よし」としているかのような 議論になっている、のじゃないか。
702 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 20:19:39.08 0
弁証法のアウフヘーベンの論理に対して、 アウフヘーベンを拒絶する系列の論理がある 前者はヘーゲル、マルクス、後者はプルードン、ドゥルーズなど 単純な結合労働力を発揮するにしても、個人が捨象されるべきではない 後者のアナーキズムが見直されるべき所以だ また、マルクスの価値形態論にしても後者による読み替えが可能なはずだ
703 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 21:52:57.51 0
ドゥルーズのどこがそうなのかな?
704 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 22:23:52.59 0
反照なき質的多様(純粋持続)なるものの称揚。
705 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 22:55:57.81 0
ドゥルーズはマルクスから影響を公言しているし↓、
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1392654002/34- フランスのアナーキズムの伝統を受け継いでいるとは言えないが、
それでもニーチェから系列の系譜をより受け継いでいる。
ガタリとの共著にしても(ガタリとの関係はもちろん)、諸機械と器官なき身体は平行
関係にある。
<‥…「私と同じようにやれ」と 言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたち
にとっての唯一の教師は、わたしたちに 対して「私と共にやりなさい」と言う‥… >
(『差異と反復』単行本49頁)
差異と反復よりも意味の論理学が
意味の論理学よりもシネマ2(第六章)がわかりやすいかもしれない。
そこではツァラトゥストラ第四部の登場人物の羅列が例示される、、、、
706 :
考える名無しさん :2014/04/25(金) 23:20:10.07 0
ようするに、批判的マルクス主義者ドゥルーズ像と、 日本ドゥルージアン好みのあたかもマルクス主義と無縁であるかのようなドゥルーズ像(虚像?)というのがある。 704で書いたようなことは、ある時期の、ある状況下でのドゥルーズの主張なのだろうが、 一部では「これぞドゥルーズの説」となっているわけだな。 また、スピノザ、スピノザ、と唱える日本ドゥルージアンにしても、 アルチュセールの、認識論的切断(ほんとうは、問題構成の転回、のほうがいいだろうが)の後のマルクス とよく似た像として描いたとされるスピノザ論は、ほとんど無視するという、変なことになっているようだ。
707 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 01:02:54.59 0
>>702 現実的にアウフヘーベンは否定し得ない
独立生産者的幻想にとどまるつもり?
それこそ夢物語
実態的な運動を否定することは単なる空想に過ぎない
708 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 01:08:28.64 0
こういう思想が俺の好みだ、ということは何ら科学ではない アウフヘーベンを気に食わないからと言ってもそれがなくなるわけではない 原子や分子を俺は気に食わないと言ったところでそれがなくなるわけではないのと同じだ
709 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 01:12:26.57 0
もちろん単なる哲学や思想なら、俺はこう見る、これがいい、こういう見方が好きなんだ、で構わない しかしマルクス主義は実践的なものだ だから科学性が要求される 単にそれは世界の見方に関わるものではない 見方が間違えば実践において失敗するわけだ
710 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 01:23:14.92 0
むしろ、無い、という人に、いや本当は在るのだ、 と言って納得させることができないのじゃないのか。 頑強に「無い」という人に対しては、ひどいときには、恫喝や拷問をして、 「在る」といわせるとか、 そのくらいしか手がないだろう。 ちなみに、原子や分子が在る、というのは、約束事ですね。 これは、とりあえず、大多数にとって有益な約束事だと思われるが、 ところが、ニュートリノとなると、「実験」に莫大な無駄な金をつぎ込むだけ、 馬鹿らしいもんだ、といえないだろうか。
711 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 01:33:46.28 0
ちなみに、「認識論的切断」という考え方をアルチュセールに提供したバシュラールは おおざっぱには、科学とは、近似的認識の積み重ね、としていたはずだ。 クーンやら、誰やら、違う考え方も、いろいろとあろうが、 これはこれなりに穏当な考え方ではあっただろう。
><‥…「私と同じようにやれ」と 言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたち にとっての唯一の教師は、わたしたちに 対して「私と共にやりなさい」と言う‥… > さすがドゥルーズ。いいこと言うねえ。
>>697 ポモ系からの疎外論批判は、簡単にいうと、疎外論が人間の本質を想定しているからってことかな?
疎外されたものは人間の本質にもともとあるものだというのがフォイエルバッハのテーゼにはあったが、
マルクスの物象化論ではそういう本質は想定されていない・・・ってこと?
714 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 15:20:13.18 0
マルクスの「人間は社会的諸関係の総体(アンサンブル)」 は、ヘーゲル的に言いかえれば、「反照(リフレクション)の総体」だろう。 ようするに、これにしても、ヘーゲルからきているわけだ。 つまり、ヘーゲルは、このような在り方が、エッセンスだ、としていたわけだろう。 また、ヘーゲルの「自己」というのは、じつは、自己もなければ他者もない、 フィヒテ的にいえば、「大我」なわけね。これはいわば、ヤコブ・ベーメの系統は、 たぶん全員そうだろう。そして、その子孫の最後が、ドゥルーズじゃないか。 日本ポモ系の、「疎外論批判」というのは、ひじょうにローカルなもので、 60年安保組知識人の、70年安保組の吉本(あるいは大江健三郎あたりも入るか?)などカリスマに対する、 下克上意識の産物じゃないのか? ちなみに、後の世代の浅田は、疎外論と物象化論をとくに分けていない。おなじことの違う表現だと考えていたはずだ。
715 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 15:59:26.87 0
「代表される」者と「代表する」者との関係は、なんら類似的でもましてや必然的でもなく、 まるで恣意的である。加えて、ここにはもうひとつの逆転がある。 モナド(個々のもの)は、何ものかを(宇宙全体を)表出=代表するものだったが、 個々の選挙民たちは、「選択する」者であっても、代議員によって「代表される」者にすぎない。 それと、柄谷などがよく問題にしたのは、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」にかんする↑のような読解じゃないのか。 とはいえ、だから議会なんてどうでもいいんです、「権力に中心はない」、なんていっていると、 いつのまにか、ドンドン消費税あげられちゃったりするのじゃないの。
716 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 16:19:45.85 0
中世スコラ学以降、essentia (本質存在)は実存( exsistentia)の対概念とされてきた。 なお、肝心な↑を書かなかったので付記。 伝統のせいで、「エッセンス」という言葉が、ある種の西洋人(被差別民族やフェミやホモレズの知識人などが典型例だろう)には、 なにやら抑圧的に響くことがあるのじゃないの。
「大我」っていわゆる「超自我」? フォイエルバッハのいう「キリスト教の神」?
718 :
考える名無しさん :2014/04/26(土) 19:29:51.93 0
結論としてはアウフヘーベンを否定するのは浅薄だってことか
弁証法ってカタストロフィーとかカオスとか複雑系とは関係あるのかなあ。
>>714 >ヘーゲルの「自己」というのは、じつは、自己もなければ他者もない
自己と他者がなければ、弁証法は成立しないんじゃないかい?
721 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 03:01:58.76 0
≫本質は最初の自己内での反照の全体であるが、しかし、それはそうした内面性に ≫とどまっていないで、根拠として現存在のうちへ現れ出る。こうした現存在は、 ≫その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに ≫現象に他ならない。 三行目の「他のもの」というのは、自己に属していたものが、 他者として現れているのじゃないんですか? わたしは、「じつは、自己もなければ他者もない」といった。 「じつは」とつけているのね。 ちなみに、あなたのいう「他者」というのは、冠詞は何ですか?
722 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 11:53:39.96 0
>>720 ヘ−ゲルの弁証法弁証法の根本概念は、アウフヘ−ベン(止揚)であるけれども、
この、アウフヘ−ベンは「否定する(廃棄する)と高める(創造する)」という
相反する“二様の基本概念”を内包している。
しかし、弁証法という一つの思考過程で、「否定と高める」という相反する思考作用は、
出来ないのではないかと思う。
つまり、定立命題と反定立命題を始めに否定するのであるから、否定され廃棄された命題を
“高める”ことは、理論上、出来ないはずである。ここに、弁証法の矛盾が露呈してくる。
関係の物象化がシステムを産み出し、システムが階級とその利害ゲームを産み落とし、 しかし利害ゲームはこのシステムに制御されているが、ゲームをしている個人にとってはこのゲームの 中で常に自分の利益を最大にすることにしか関心がなく、システムを省みる余裕はない。 こうしてシステムはゲームの均衡点に個人を向かわせ、個人をゲームの囚人にし続けることで安定する。
>>722 ヘーゲルやマルクスの弁証法というのは、きわめて動的なもの。
定立命題とか反定立命題という概念とは全く違う。
自己自身が自己自身の内部に矛盾を抱えているために自己自身であることすら否定される。
自己と他者の関係においても、他者が事故と接すること自体が矛盾の始まりであり、矛盾の解消となっていく。
もちろんその螺旋はそのものが存在する限り、永遠に続いていく。
たとえば間のあり方は自然の弁証法といってもいいし、人間とその他者であり自身でもある自然との自己疎外の関係であるといってもいい。
こうしたことをヘーゲルは人間の精神や社会や歴史に見出し、マルクスはヘーゲルを受け継ぐとともに自然全体の中にも見出した。
エンゲルスの解説は非常にわかりやすいためか、むしろ軽んじられがちだが、とても適切に説明している。
個人の生存戦略はつねにミクロなゲームに囚われていて、 その利害関係のやりくりに常に切迫させられている。 つまり、そのマクロなシステムの下で労働者はつねに 労働者同士の競争の駒にさせられている。 しかし労働者にその自覚は乏しいか、自覚があっても普段 の生活のひっ迫から、そのゲームを放棄することは難しい。 マクロなシステム内での囚人のディレンマが彼を常に縛っている。 そうして個人はけっきょくはシステムがつくりだすゲーム環境の中に とどまってその中で自分の利害を最大化する戦略にあくせくする。 システムはこのゲームの均衡によってますます安定するのだ。
>>725 訂正: 自分の利害を最大化または最小化する戦略にあくせくする。
>>725 だから、レーニンは前衛党の重要性と必然性を説いた。
728 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 14:25:16.39 0
わたしは、マルクス主義哲学、という言い方がそもそも変だと思うのだな。 狭義の哲学というのは、たんなる思弁であり、しょせん(というと悪いが)形式的なものだ。 理屈と膏薬は何にでもくっつくし、なにがどうした、なんたらかんたら、論建て次第で、どうとでもいえるものだ。 一元論をとれば、(実は)自己もなければ他者もなくなる。 ドゥルージアンのようなものには、いかにもそれがたいしたことのように思っているのがいるが、 自他未分→自他分裂→自他再同一化(そのヴァリエーション含む)、こんなのは、お経にだってある話だ。 ハイデガーは、ヘーゲル哲学について「哲学の完成」といった。 これと同じ味方の人は多い。たとえば、コジェーヴやイポリットもそうだった。 しかし、もう一方で、ウィトゲンシュタインは、 哲学の問題がすべて解決しても人生の問題は何一つ解決しない、 といっている。 ようするに、「哲学は完成した、が、で、それがなんなの?」ということじゃないか。 後期のマルクスに、前期と比べての「成長」が見られたとすれば、 それは、疎外論から物象化論へ、あるいは、本質主義から相対主義へ、 などという哲学論上のものではなく、 哲学的思考そのものから身を離そうとしたことにあっただろう。
729 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 14:34:20.65 0
まあ、全英、じゃなかった、前衛として、他者、じゃなかった、他人を指導したがる前に、 冠詞が何かくらい答えなさいよ。
730 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 14:55:58.55 0
≫ヘーゲルは人間の精神や社会や歴史に見出し、 ≫マルクスはヘーゲルを受け継ぐとともに自然全体の中にも見出した。 ↑こういうのが、俗流マルクス主義哲学とかいうもののバカらしいところなんだな。 ヘーゲルのいう精神というのは、スピノザのいう神、とほとんど似たもので、 それが即ち、自然なわけね。 いうなれば、精神の自己展開、 時間発展の形式を加えたことに「モダン」な新味があった、 といえるくらいのものだ。 ようするに、ヘーゲルに限らず、ドイツ観念論は凡そ、 いわゆる汎神論的思考のスタイルだった。といっても、別に神秘主義ではない。
731 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 15:07:37.84 0
ヘーゲル弁証法的止揚というのは、古代ギリシャ以来?の ピュシスとノモスの対立の止揚を含む、というか、 それがメインなのじゃないの?
732 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 16:13:32.91 0
宗教は民衆の阿片、 という、いまさら言いたくもない言葉がある。 これは、阿片のようなものに依存しないといられないような酷い現実があるのだ、 という、わりと同情的なニュアンスのあるものなのだと、柄谷はいっていたが、 そのあたりの真偽はよく知らない。 で、これに倣えば、今日にあって、哲学は知的大衆のコカインくらい、くらいのことは、 おそらくいえるだろう。普通に考えて、気晴らしにちょっとやる、くらいにしたほうがよいものだ。 中毒はよろしくない。 もちろん、人に気晴らしさせるプロ、というのがいてもいい。つまり、現代の哲学者というのは、 一種のサービス業従事者といえる。 そして、この場合の哲学というのは、科学理論を装った神学・形而上学的思考を含むものだ。
735 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 16:25:35.71 0
ヘーゲルの著書で、「他者」というのは、何と書いてある、 その冠詞はなんですか?ときいたわけよ。 ヘーゲルをお読みになった方に、あらためておたずねしたいね。
737 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 17:12:27.70 0
マルクス嫁嫁、とか言っている人のようなヘーゲル哲学の理解だと、 ヘーゲルという人が、スピノザも、ライプニッツ・ヴォルフも、カントも、 ぜんぜん分かってなかったバカな人、みたいになっちゃうわけよ。
738 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 17:17:51.31 0
キリストーユダヤ の構造を破壊しつくすのには相当な役を買ったよな ここをわかっていない奴が多いが、マルクスの打ち立てた経済機能こそ現今の資本主義体制の土台となっているんだから 資本主義ー共産主義 Nation−State
他者=das Andere 例えば、 “Dieses sosehr synthetische als analytische Moment des Urteils, wodurch das anfängliche Allgemeine aus ihm selbst als das Andere seiner sich bestimmt, ist das dialektische zu nennen. ” (Hegel:Wissenschaft der Logik) 「この綜合的であるとともに、また分析的であるところの判断の契機によって、始原の 普遍は自分自身からして自分を自分の 他者 と規定するのであるが、このような判断の 契機は弁証法的な契機と名づけてよい。」 (岩波書店ヘーゲル全集8『大論理学下』366頁) ヘーゲルの他者は最終的には絶対精神に回収されてしまう、、、 結局カントの物自体を認めないヘーゲルに「他者」は存在しない。 反対にマルクスの唯物論には自己が存在し得ない、、、、
740 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 18:21:10.59 0
>>739 ヘ−ゲルの「他者」とは、主観の絶対的自我(=絶対精神)の拡張であり、カントの
「物自体」を基底とした「他者」とは、180度概念が異なっている。
マルクス・エンゲルス的唯物論は、ヘ−ゲルに於ける“絶対精神(コギト)”を基底とした
弁証法的唯心論の「絶対精神」を、「物質(=客観的存在)」に置き換えたものであり、本質的には
観念的認識論の範疇にある。
>>739 >ヘーゲルの他者は最終的には絶対精神に回収されてしまう、、、
>結局カントの物自体を認めないヘーゲルに「他者」は存在しない。
ヘーゲルというのは合理的な、ある意味唯物論者だよ。
だから、物自体を認めるとか認めないとかじゃなくて、人間と物との関わりとしての精神のあり方を追求している。
絶対精神というのは、自己とすべての外界との関係のあり方を完全に洞察しきった状態ぐらいの、いわば永遠の未来といったような精神。
だから、自由とは必然性の洞察ということになる。
>マルクスの唯物論には自己が存在し得ない、、、、
マルクスのなにを読んでそう思ったのかな?
自己という物がなければそもそも唯物論が存在し得ない。
唯物論ということは一義的には自己も他者もそこにある物として捉えることが前提となっている。
引用してくれたのは感謝だし、原書で読解してたり原文と翻訳を対照しているのは凄いと思うけど、読み方の正確さとは違うことなんだろうな。
論理学はどうしても抽象的だからいろいろな読み方を許すかも知れないが、いくつもの講義録の方は具体的で、恣意的な読み方を誘わないしわかりやすい。
マルクスなどが心酔した理由がよくわかる気がする。
742 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 19:05:03.47 0
>>724 ヘ−ゲルの弁証法は、即自存在(定立命題)→対自存在(反定立命題)→総合命題(ジンテ−ゼ)
という一連の思考過程を進む。
従って、定立命題(即自存在)と反定立命題(対自存在)は、一連の弁証法的活動の中に組み込まれている。
それから、ヘ−ゲルは「みずから分裂し、対立し、否定し媒介する存在こそが本質であり主体(=主観)である。」と、
述べているが、即自存在(自己)→対自存在(他者)→「合(ジンテ−ゼ)」に於いて、高次の自己へと“生成”した
自己存在(主観)を構築している。
743 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 19:10:42.22 0
ヘーゲルは、ある意味合理的、ある意味唯物論、なんじゃなく、 ヘーゲル哲学が、合理論、観念論即唯物論の決定版なわけね。 「純哲」的な完成度からしたら、マルクス・エンゲルスなんか問題にならんという人が多かろう。 ただ、これは、ようするに、哲学作家の哲学作品として、近代的な到達点、ということであって、 ほかの意味はないわけね。ようするに、ゲーテとか、ベートーベンみたいな意味で、偉い人ではあるが、 だからそれで?、ということなわけね。
これは九州朝鮮団に利用されたあと野焼される相じゃないのかね1!!
745 :
横レス失礼 :2014/04/27(日) 19:17:51.61 0
>>745 資本論での人間の姿が経済学的カテゴリーでの抽象的な人間に過ぎないということを断ってるだけだよ。
>個々人に責任がないということは、主体がないということ。
>ここでは主体=自己ということでいい。
これだとまったくの誤読ということになる。
747 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 19:32:17.51 0
≫ヘ−ゲルの弁証法は、即自存在(定立命題)→対自存在(反定立命題)→総合命題(ジンテ−ゼ) ≫という一連の思考過程を進む。 ところで、↑は、ヘーゲルのどの著書のどこに書いていますか?
748 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 20:02:05.32 0
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」 rationalismの訳は、合理主義だけじゃないわけね。理性主義もある。
749 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 20:32:15.20 0
マルクス嫁さんは、 ほかの住民の云っていることが、ピンとこなかったら、 自分が常識的な哲学理解にも至っていないのだ、と思ったほうがいいぞ。 たとえば、739、740の人が言うようなことは、 わたしとしては、全く同感、ではなくても、ピントはずれと全く思わない、 どころか、それぞれ有力な見方だと思えるものだ。
>>749 思うのは自由だけど、正しさの保証にはまったくならない。
まして、ヘーゲルもマルクスも読んだことがない奴の応援演説では、応援される方はありがた迷惑ならぬただの迷惑だろう。
751 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 20:54:42.54 0
私が、応援しているのじゃなく、 ぎゃくに私の書き込みについての書き込みの性格がつよかったのじゃないの。 じゃあ、読んでいるあなたなら、747の質問に答えられるね。
>>751 ちょっと補足しとかないとまた誤解されちゃうかな。
>>747 の引用の相手は僕じゃない、という意味だよ。
754 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 21:00:22.70 0
べつに最初に書き込んだのが、あなたじゃなくても、かまわないよ。 教えを乞うているわけよ。 ぜひ指導してください。
755 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 21:18:42.14 0
「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなければならなかったにちが いない。ところが人も知るように実際につくり出されたのは、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジー にすぎなかった。ブルードン主義者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていた が、パリ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝ったが、その勝利 は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル的否定の力によるものではなく、純粋に 単純に二律背反の一方の項を押えた外力によるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとって どういう代価を意味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、マルキ シスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦い、征服するために自己を変革 し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれば、それは精神そのものとなっていたであろう。しか し、作家貴族がマルキシスムから千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキ シスムは教会になったのである。」 サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」(『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より
>>754 ああ、言葉が通じてなかったんだな。
>>742 は僕のヘーゲル理解とは関係ないし、僕にはそうした文の記憶はないよ。
757 :
755 :2014/04/27(日) 21:26:51.69 0
政治主義的に他者を排除することでしか自己の正しさを証明出来ないのは 日本のマルクス主義の貧しさといってよい。 サルトルも言ったように、プルードンなどのアナーキズムを否定して来たことのツケが来ているのだ。 サルトルは弁証法を信じていたから正確なプルードン評価は出来ていないが、大筋の状況論として今も 同じことが言える。
758 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 21:58:44.72 0
ヘーゲルによれば、自然的な世界も精神的な世界も同一の原理によって動いている。 その原理の内実をなすものは絶対精神である。絶対精神が物の形をとると自然的な 世界としての相貌を呈し、意識の形をとると精神的な世界の相貌を呈する。だから 意識とその対象としての自然的な世界とは、無媒介に対立しあうのではなく。同じ ものが違う形を取って現れているに過ぎない。二つとも同じ原理によって動いている。 その原理をそれとして取り出せば、それは論理学の内容と同じものになる。ヘーゲルは 更に進んでそう考えるのだ。 こんなふうに整理すると、ヘーゲルの体系がスピノザのそれに似ていることに気づく。 スピノザの場合においては、神が世界の究極の原理である。実体としての神が展開したもの、 それが世界である。
759 :
考える名無しさん :2014/04/27(日) 21:59:23.24 0
マルクスの思想はスピノザ哲学の亜流に過ぎない。またフーコーが指摘するようにリカードとの差はほとんどない。
むしろ抽象化された労働価値説には弊害の方が大きい。例えば税制が、つまり国家が資本論から除外された。
マルクスの二元論的な階級闘争の捉え方は中途半端なものでもはや有効ではない。
もしそこに主体性の契機を無理矢理見つけるとしたら、、、両極に引き裂かれる中間層こそが重要だろう。
資本論のキーワードは二重性であり、マルクスはその点をぼかしている。ザスーリチへの手紙でも曖昧にしていたが、、、
弁証法による止揚、揚棄という考え方がやはり諸悪の根源だ。
マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ。
弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的だ。
「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。
アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」
(プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより)
http://www.kagomma.net/saito/works.html 矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10)
http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。
ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。
ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論をプルードンから
剽窃したことを隠蔽するために、プルードンの交換銀行論を曲解する必要があった。
>>759 >アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる
それがアウフヘーベンじゃないの? 解消せずに互いを在らしめたまま均衡させるってのが。
761 :
考える名無しさん :2014/04/28(月) 04:56:41.31 0
二律背反(にりつはいはん、アンチノミー、独: Antinomie)とは正命題、反命題の どちらにも証明できる矛盾・パラドックスのことである(しばしば勘違いされるが 単なる矛盾・パラドックスではない)。 (以上はwikiから) アンチノミーの真の解決は、同一の概念に必然的に帰属し、かつ対立する二つの規定を その一面性において各々それだけで妥当させるということではなくて、むしろ二つの規定 がその真理をそれらが止揚されることにおいて、それらの概念の統一において持つという ことにある。(大論理学)
>>757 じゃあプルードン主義のほうはどうかってことになる。
マルクスはもともとはプルードンに好意的だったのに
プルードンのほうがマルクス主義に常に一貫して否定的・排他的だったんだよ。
そして今のあなたのようなプルードン主義者もそう。
マルクス主義のサルトルとは対照的
とりあえず、プルードンを持ち上げてる人はプルードンの和訳を進めてほしいものだ。 採算の問題はあるだろうから、出版なんか考えないでネットに載せればいいと思う。 英訳だったらネットにあるわけだし、日本語訳がネットにないというのは残念なことだ。
765 :
考える名無しさん :2014/04/28(月) 15:48:41.17 0
766 :
考える名無しさん :2014/04/28(月) 18:13:31.21 0
ヘーゲルの観念論と無理な体系化とが合わさると,とんでもない荒唐無稽な論理展開 となる。たとえば,概念論における主観から客観への移行である。概念論は〈A 主観的概念〉, 〈B 客観〉,〈C 理念〉から構成されている。この構成自体は理念=真理は主観と客観の一致で あるという,きわめて正しい真理観を述べているのである。ところが『大論理学』では,未分化 な潜在的に存在していた主観が外に現れ顕在化したものが客観だということになる。自己自身を 完全に展開し実現していないという意味での抽象的な主観的概念が,それ自身で自己を展開して 客観になる,というような無理な展開をするのである。 (「ヘーゲル論理学と『資本論』の方法」平野喜一郎) ↑みたいな俗論的な批判をするのだったら、はなから「ヘーゲル論理学」なんぞは、 妄想的戯言、くらいに言ったほうがいいのじゃないか、と思うのだな。 上で「無理な展開」といっているものがなければ、じっさい「ヘーゲル論理学」は、 じっさい意味をなさない。 大雑把には、ヘーゲルは、コギトの本質を否定の否定とすることで、 それを論理学的に表しうるものとした。 といったことをハイデガーは「存在と時間」の中で述べている。 どうやらハイデガー先生は、ヘーゲルの意図を理解して、 「無理な展開」、どころか、そうすることによって出来た、と、 言っているようだが、違うか?
以下、参考までに代表的なヘーゲル批判を孫引きする(山下正男『論理学史』225頁より)。
「(ボルツァーノは) 例えばヘーゲルの好む表現 "運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ
場所 m にあり , そして , ないことである" (大論理学邦訳岩波中79頁より)を論理
学の自殺だときめつけ, 運動はそうした 矛盾律を犯さなくてもつぎのように正しく
把握できると主張した. " 質点Mが一定の時間 T に運動するとは , M が同一の場
所に静止するような T の部分 t は一つも存在しないということである " . 」
参照されたのは『知識学』(未邦訳)§ 22。以下ドイツ語原文。
B. Bolzanos Wissenschaftslehre: versuch einer ausführlichen und ... - Bernard Bolzano -
http://books.google.co.jp/books?id=tLU9AAAAIAAJ http://books.google.ca/books?id=oA1NDDirneQC&pg=PA31 (英語版)
ボルツァーノ(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano,1781-1848、
カント『純粋理性批判』の出た年にチェコに生まれ、マルクス『共産党宣言』
の出た年に没。ちなみにカトリック。)
>>767 >M が同一の場所に静止するような T の部分 t は一つも存在しない
ゼノンのパラドックスみたいだねw
tがなければTも存在しえないんじゃないの?
この部分だけだと、ヘーゲルの論理を理解した上での批判とも思えないね。
769 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 00:34:35.19 0
なるほど、ジル・ドゥルーズは、 このヘーゲル説とボルツァーノ説の対立を「止揚」するために、 微分、微分、と唱えたのか。 いや、勉強になった。 かくて、ボスとモダニズムは弁証法主義である、といえる、のだろうか。
以下、山下正男『思想の中の数学的構造』(ちくま学芸文庫)374-6頁より …原子論者とヘーゲルの違いは,へーゲルがいきなり有 機的な実体的統一をもちだすのに対し,原子論者は烏合の衆の状態から契約によって一歩一歩新しい社会を組み立て ていこうとする点にある.こうした態度を知識論に適用すると,原子論者がすべての知識をそれ以上分解不能な最小 単位にまで分析し,そうした最小単位から全休を再構成するのに対し,ヘーゲルその他の全体論者は,厳密で入念な 再構成といった迂遠な方法を嫌い,性急な総合をなしたり,場合によっては,分析を経ないで全体を全体として扱うも のだということができる.したがって知的態度に関する限り,集合論の態度はまさに原子論の態度に属することは明 らかである.いや集合論こそ,原子論的態度をもっとも厳密にそしてもっとも徽底的に遂行しようとしとものである ということができるのである. さてそうした性格をもつ集合論は確かにカントールの創始したものではあるが、それよりまえに集合の概念を論理的 にはっきり把握したのがボルツァーノである.ボルツァーノはヘーゲルより10歳ばかり年少のチェコスロバキアの 哲学者兼数学者兼論理学者であった.彼は数学、論理学にもよく精通していた関係上、ヘーゲルの弁証法をこっぴどく 批判した.さてボルツァーノの主著は1837年に出た4巻本の『知識学』である.この本は実質的には論理学、しか もきわめて優れた形式論理学の書物だということができる.
771 :
770 :2014/04/29(火) 11:34:51.66 0
ところでこの書物の81節で集合(Menge)の概念が定義 されている.すなわち彼は「集合とは,要素間の結合の仕方が確定されていないような諸要素の集まりである」と規 定する.そしてその例として貨幣の堆積を挙げ,そうした場合,一枚一枚の貨幣がどんな順序で並べられているかと いったことはどうでもいいものとして度外視されると述べている.そしてその後でボルツァーノはさらに人間社会の 喩えをもちだす.すなわち集合とは人間社会でいえばその成員である個々人がどう並んでいてもよいような社会,つ まり各人の間にいかなる階級的上下関係をも認めない社会のようなものだと主張しているのである.こうしてボルツ ァーノの集合概念は人間社会になぞらえられたもの,つまり擬社会観的なものであるということができよう.ところ でボルツァーノは哲学者として,『最良の国家について』という国家論の書物をもあらわした.彼はそこでヘーゲルな どとは違って,民主主義的社会主義の立場に立ち,人間は性,年齢,気質,体質などで区別はつけられるが,財産と出生 によって差別されるべきではないと主張した.またボルツァーノはカトリック教徒として,その著『宗教学教本』で, 「全人類はアダムとイブの子孫であるかぎり,本質的には平等である」と述べている.こうしてボルツァーノの集合の 定義つまり「相互にいかなる順位ももたないメンバーの集まり」は彼の社会学説,神学説,倫理学説における人間平等 の思想にはっきり対応しているのである.
772 :
訂正 :2014/04/29(火) 11:36:55.62 0
原子論者がすべての知識をそれ以上分解不能な最小 単位にまで分析し,そうした最小単位から全体を再構成するのに対し,ヘーゲルその他の全体論者は,厳密で入念な 再構成といった迂遠な方法を嫌い,性急な総合をなしたり,場合によっては,分析を経ないで全体を全体として扱うも のだということができる.
>>770 −772
>原子論者がすべての知識をそれ以上分解不能な最小
>単位にまで分析し,そうした最小単位から全休を再構成する
意欲としての方向性はわかるけど、最小であるというのも設定にすぎないしもちろんその正当性が保証されるものでもなんじゃない?
事柄総体として把握しようとするヘーゲルのほうが適切な抽象性を持ってると思うけど?
>集合とは人間社会でいえばその成員である個々人がどう並んでいてもよいような社会,つ
>まり各人の間にいかなる階級的上下関係をも認めない社会のようなものだと主張している
それはそれで、単に一つの集合の把握のしかたに過ぎないんじゃない?
主張と反対に、結論から逆に導き出しただけの方向性の一つだろ?
引用してくれた部分だけを見るとこんな疑問がわいてくる。
でも、引用ありがとう。
考える糸口になって楽しい。
774 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 12:57:59.55 0
数学史には、(いまや、さしてかえりみられないが)ヒルベルト対ブラウエルを中心とした いわゆる「直観主義論争」というものがあった。 下手な考え、のまえに、それに関してググってみたらいいんじゃないですか? なお、アンチノミーの解消は、無限を以てする、とはヘーゲルの言だ。 無限小量をもちだすドゥルーズは、その意味でヘーゲル的じゃないか?
775 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 12:59:39.25 0
>>767 >>770 >>771 ちなみに山下正男は京都大学『プルードン研究』(岩波書店1974年)の共同研究者、執筆者のひとり
だからたまに著書にプルードンの名前が出てくる
776 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 13:07:42.84 0
柄谷行人も言うようにヘーゲルからは保守から革新にいたるあらゆる思想を取り出すことが出来る フランス現代思想もコジェーヴによるヘーゲル読解から始まっている マルクスもあくまでヘーゲル左派という自覚の元に生きていたに違いない 気をつけないとヘーゲル批判がヘーゲルに似てくる ただプルードン、ボルツァーノに関しては代表作が未邦訳なままなので、 対へーゲル、対マルクスにおいて欠席裁判の様相を呈していることは否定出来ない
777 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 13:17:16.74 0
旧左翼主義者の多くが、社会構成主義的な考え方を、まるで理解できなかった、 というのは、たしかにあった。 それがポストモダニズムの流行を招いた面がある。 とはいえ、マルクス主義者の味方したわけではないが(だいたいここでも、たちの悪い嫌がらせされているので、 不愉快だからな)、ポストモダン社会構成主義的な活動というのは、けっきょく、 従来のリベラル左派とたいして変わらないものになっているわけだ。 たとえば、同性愛問題などに関しても、「再生産イデオロギー」を巡る問題意識のようなものがないと、 たんに比較的富裕な教育のある階層の権利保護に役立つ、くらいのものにしかならない。 デリダ主義・フーコー主義にある考え方は、ほとんどアルチュセール主義にあるが(なにしろ、フーコー、デリダの師匠だからな)、 アルチュセールには、フーコーが捨ててしまったものが残っていた分、 フーコー主義にないものがある、と私が言うのは、そこが問題だからだ。
778 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 13:55:06.06 0
ヘーゲルには、あらゆる哲学的思考の型がある、というのは、 ようするにハイデガーが言うように、ヘーゲルで「哲学(という思考のスタイル)が完成している」からじゃないの? ちなみに、後期のハイデガーは、わたしは哲学と違う思考を求める、と言っていたが、 けっきょくは、たんに気分的に求めただけだったろう。 かの氏にかぎらず、職業的知識人は、哲学的思考の安楽から、まず出られられない。
>>774 そんなものがなんかの役に立つと思ってるところが、哲学音痴の発想w
>>778 だからマルクスやエンゲルスのように哲学の方向性を逆転させる必要があったんじゃないかい?
781 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 14:56:32.56 0
哲学というのは、逆転しようが、軸をずらそうが、 解体しようが、しょせん哲学にすぎんわけね。 「哲学の革新」なんてのは、囲碁将棋の新手みたいなもんだ。 まあ、一部の棋士は、碁盤・将棋盤には「宇宙がある」みたいな大げさなことをいうことあるが、 そんなのは喩えであって、「リアル」に考えれば、あるわけない、と。 まあ、羽生さんの発言に注目する人もいるように、 人気のある哲学者の発言には、それなりの宣伝効果がある、くらいのことはいえるかもしれんが。
まあ現状では何言われても返す言葉が無いよな。 科学の前線に携わってる人にとっては形而上学だのなんだのやってる暇無いしね。
783 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 15:45:58.11 0
科学の前線、のように見えるものが、 実はけっこう形而上学的だったりするのが、 むしろ問題なのじゃないの。 一部の宇宙論なんかその典型だと思うがね。
784 :
パンの耳 :2014/04/29(火) 15:54:53.87 0
粘菌 の 遺伝子操作
>>783 問題ってよりも、これまで水と油だった形而上学と数学とが手を取り合ってる分、むしろ形而上学側から見ても
飛躍的前進なんじゃない? (デカルトやライプニッツの頃は数学と協働的だったけど、以降の観念論が数学から
離れてしまったのが、最先端科学で再びよりを戻しつつある感じで)
>>782 科学は科学、哲学は哲学。
いくら科学が進んでも人間の心はそんなに変わるわけじゃない。
もちろん哲学を研究したからといって科学の進歩に寄与することはまれ。
こんな言い古されたことをあらためて言わないといけないようなレスが散見されるのは残念だな。
787 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 20:13:21.34 0
ヘーゲルによれば、自由というのは必然的であること、だろう。 これは、自由とは必然的ないこと、とするカントとは逆で、スピノザの線である。 ドゥルーズスレの住民がさも卓越した知見、 のごとくいう、俗に「自由意思」などというものはない、とも解されるものだ。 いうなれば、自由落下している物体は、自由だ、というような話である。 俗っぽく言えば、必然的とは、スピノザでは、神の法則的(あるいは、法則そのものである神的) ヘーゲルでは、理性的、ということで、狭く哲学的に解釈すれば、マルクスでは、逆立ちしている? ヘーゲル説を正したので、物理法則的、ということなんじゃないの。 でなければ、「唯物論」じゃないだろう。それとも、日本語訳の「唯」というのは、 無駄にくっついているんですか? なお、ライプニッツあたりまでは、科学は自然哲学であって、 まだだいぶ神学的だったのじゃないか。そういう時代のような諸学の 未分離状態の復活が良い、とは、あまり思わないな。
788 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 20:26:38.41 0
なお、Materialismusを唯物論と訳すなら、 Idealismusは、唯念論とでも訳しなおすべきだった、 といえるかもしれない。
>>787 ニュートン力学だって、無限に続く空間と時間、という未確認事項を前提にしている点でまだ十分に
神学的だと思うよ。それがあまりに安易なので哲学的対象たり得なかったってだけで。
相対論だって「人間の五感による確認」を絶対根拠としてる点で同様だし (光を含む電磁波に依拠
しない観測法が見出せれば、光速度という限界を持たない宇宙像も描けたかもしれない)、量子力
学も力を相互作用として把握するあたりが神学的と言えまいか (現象を常に、構成項同士の関係
としてしか把握できない点で)。
790 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 23:28:06.79 0
未確認事項を前提にしているのが、神学的・形而上学的ではないのだな。 未確認事項について、ああだこうだと説明をこじつけるのが、そうなわけね。 たんに、「仮定的前提です」とでもいっておけばいいのだ。 なお、科学入門書的な説明を理解することと、「デモンストレイン」のための技能を身に着けることは、 全然違う。
791 :
考える名無しさん :2014/04/29(火) 23:43:08.33 0
俗な例で悪いが、「 自然の斉一性 」を前提にするのはいいとして (というか、たいていする)、かくあるべくして自然は斉一性的である、 と自然科学者が言うならば、それは形而上学の領分である。
792 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 16:11:55.77 0
流通で剰余価値が出るかという問題で少し考えたがやはり出ると言ってもいいのではないか。 市場が完全競争市場でなければならない必然性はどこにもないわけで、独占や寡占もまた必然と考えるなら 独占等により競争市場で発生する価値が相殺されるということは言えないわけだ。 とすると資本論体系の資本主義の崩壊、長期利潤率低下などは言えなくなる。
793 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 16:15:55.06 0
しかしこの指摘も国家独占資本主義などの発想からすれば目新しいとはいえない。 国家独占資本主義のテキストをこれから読むのだが感想をまた書き綴ろう。
>>792 流通という言葉を整理して考えたほうがいいよ。
資本論では、確かに流通という言葉を現代の流通業のような意味で使うことはむしろ少ない。
現代の流通業のような意味での流通だと、交通ということになるだろう。
>流通で剰余価値が出るかという問題で少し考えたがやはり出ると言ってもいいのではないか。 これどんな風に考えた?
796 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 17:13:24.24 0
流通は、貨幣から資本への転化で、等価とされる商品流通部門のこと。 実は商品流通部門は等価ではなく、凸凹な不均等なもので 流通手段の所有の差により、労働力ならぬ流通力も剰余価値となりうること。 これがマルクスに対する僕の答えだが、 これで資本論体系は随分変わるだろうね。
797 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 17:23:09.02 0
>>795 独占資本の歴史を調べているうちに、
具体的にはスタンダード石油、ロスチャイルド、ウォルマートのことだが
彼らが流通手段とも呼ぶべき独占力を有し、そこから現象的には剰余価値が発生
しているのを発見した。
これはマルクス資本論が流通では剰余価値が発生しないという貨幣から資本への転化と矛盾する。
以後この見解にこたえられた論者はネットではいない。
一人だけ、独占というのは競争市場で起きうる価値を相殺しているのだから流通では剰余価値
が発生しないと優れた反論を見せた。そこでこの見解に着いてしばらく考えていたが、
競争市場は自明なことではないのでやはり違うという結論だ。
798 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 17:32:02.33 0
このことから価値には労働価値だけではなく流通価値も必要なことが導かれる。
>>796 流通産業という意味でなく、市場での純然たる単なる交換からは剰余価値は生じないんじゃないですか?
800 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:09:12.02 0
>>799 それは資本論のモデルを読んで考えているだけだから、
実際の独占資本の剰余価値はこう。
スタンダード石油は精油所とパイプラインを流通的に独占して、
巨大な剰余価値を上げた。これは搾取の転化では説明不可。
ロスチャイルドも五兄弟のリスクヘッジという流通手段により独占的金融帝国を作った。
ウォルマートは価格での競争優位とITなどの先端流通手段により世界一の売り上げの企業である。
ここは搾取でも有名だが搾取だけでは説明がつかない。
つまり仮説を資本論として、実証を経済現象に見ると資本論の方が間違えてる。
ならば仮説である資本論を書き換えなければならないということ。
801 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:12:20.00 0
もちろん資本論のような等価交換モデルを考えることはできる。 でも理論のための理論ではなく実証で経済現象を科学的に調べようとすると それには収まらないということ。
>>800 >>801 とても「資本論」を読んだと思えないレスだな。
なにより、流通なら流通という概念がごちゃごちゃ。
これじゃ、読んでいても理解するのは無理だったんだと思う。
803 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:25:57.70 0
>>802 資本論を書き換えるような発見を俺はしたのだよ。
確かに資本論にはまったのが昔すぎて理解はさびついているが、剰余価値が流通で出る
ということが明らかになればもう資本論は全部書き直しと言ってもいい。
本当に「理解」するということはこういうことだ。
804 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:28:55.10 0
いいかね資本論とは要約すると産業資本での搾取を各部門に配分している というのが骨子だ。それは流通で剰余価値が発生しないから成り立つのだ。 これが崩れると全て崩れる。
805 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:32:47.85 0
僕のレスが理解できないなら貨幣から資本への転化をもう一度読み直して、 流通で剰余価値が出ないことがどれだけ重要か理解してから、ロン・チャーナウのタイタン を読めばいいよ。
807 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:41:39.54 0
流通過程において剰余価値が出ない、というのがマルクスの説、だということの、 文献上の証拠は何なの? それは、はたして文献学上、厳密に証拠と言えるようなものなのか? そこは知らないので、教えてもらいたいものだ。
808 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:45:50.34 0
>>807 資本論一巻の貨幣から資本への転化の部分、
特に一般定式の諸矛盾のあたりを読むといいよ。
809 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:48:17.21 0
なんでこんなこと聞くかというと、この件はどうか知らないが、 「本場」では、定説が覆っているのに、日本ではあまり知られていない、 というようなことが、割合あるからだ。 たとえば、ニュートンが、絶対空間説を唱えた、ということは、英国では通説ではないし、 カントが、非ユークリッド幾何学のありうることを否定した、というのも事実ではないそうだ。
810 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:49:38.01 0
つまり概説するとマルクスはそこでこう書いているAーBーCでお互い10づつ取る ように流通では剰余価値は発生しない等価交換だ。ではなぜ剰余価値が発生するのか それはおなじみの労働力と労働の差だと。
811 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:51:50.01 0
文献学上の厳密な意味での証拠としてどうか、と訊いているわけよ。 それほど長々と書かなきゃならんものでもないだろうから、 答えてもらえるとありがたいね。
>>810 >労働力と労働の差
資本の循環と労働力の再生産以上の労働による生産があるから、ということな。
813 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 20:56:02.56 0
この説は僕の全くのオリジナルなんだが、 一般化された商品搾取定理の話に近いかもね。 厳密には全然違うけど、 一般化された商品搾取定理は マルクスの基本定理で搾取がどんな利潤でも発生すると言ったら、一般化された 商品搾取定理ではそれは労働じゃなくても当てはまるということだ。
814 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:05:12.89 0
>>811 悪いけど一般定式の諸矛盾の部分全部をかきうつすことになる。
あえて書き取るなら
彼の蝶への成長は、流通ぶもんのなかで行われなければならず、
しかも流通部門の中で行われてはならない __
“ここがロドス島だ。ここで跳べ”
新日本出版社資本論 2の284ページ
815 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:08:29.19 0
>>812 だがそう言えるのは流通で剰余価値が出ないから、
流通で剰余価値が出ると搾取と流通の両方で資本になる剰余価値が出ることになり
資本論が覆る。
816 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:13:24.46 0
証拠とおぼしき部分を書いてくれ、といっているのではなく、 文献学上、厳密に考えて、証拠として信頼できる理由をいってくれ、 と頼んでいるわけよ。
817 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:14:03.54 0
これから資本論のあんちょこ本をつかって流通価値を加味した新しい資本論 書いてみるかな。今日はここの反応見て遊ぼう。
818 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:17:36.50 0
>>816 悪いけど文献学についてはニーチェがその教授だってことしか知らないよ。
それに流通で剰余価値が出ないということは資本論のイロハであって、
公式だから。そのまま書き写してくれとしかいえない。
場所は十分示したと思う。
819 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:20:10.10 0
したがって、資本(=剰余価値)は、流通から生まれることはできないのであり、 しかも流通を離れて生まれることもできないのである。資本は、流通のなかで 生まれざるをえないと同時に、流通のなかで生まれてはならないのだ。 ↑価値形態論にある文章じゃないか。
820 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:20:32.34 0
ここなんかどう。 流通または商品交換は何らの価値も創造しない。 新日本出版社 資本論2 279p
821 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:23:48.18 0
価値形態論に書いてあるとは思わなかったな。 まあ一貫してマルクスは剰余価値が流通では出ないと言ってる。 だから労働価値説だよね。
822 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 21:53:13.80 0
G-W-G'、 は流通における剰余価値の生成を表すが、そこでも 社会的インフラという形を持つ集合力が搾取されていることが洞察されるべきだ 労働時間の延長による絶対的剰余価値よりも 集合力による相対的剰余価値の方がより本質的なのだ マルクスの絶対的もしくは相対的という命名がそもそも間違い 転形問題論争を待つまでもなく、第一巻の労働価値説を第二巻 以降マルクスは引っ込める 価値は価格に転化する その分析まで正しい ただ第一巻の集合力の扱いが間違っている
>>800 独占では、独占によって排除された同業他企業の膨大な労働者の存在により、独占企業に雇われている労働者の
賃金が本来あるべき水準まで上がらなくなる。つまり、労働という商品が供給過剰となって安く買い叩かれるように
なる。さらに、その独占商品を利用する他企業からも、本来あるべき値段より高い値段で販売することで、その他企
業が得た剰余価値を吸い上げる。この損失分がその他企業の賃金をも低止まりにし、労働力過剰の状態を関連す
る全業務において恒常化する。
この理解ではダメなの?
824 :
考える名無しさん :2014/05/01(木) 23:16:03.72 0
けっこうな見方だと思うよ。 マルクスの著書の片言節句にこだわるよりも、私には良いと思えるが。 ところで、レーニンの「帝国主義論」は、 あれは一種のパワーゲーム論、グラムシ的には、ヘゲモニー論の一種になるか?、 そういうものとして面白いと思うのだな。 とはいえ、三十年以上も前に読んだので、そういう記憶がある、 と言うだけのことであるが。
825 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 09:18:59.59 0
>>823 本来あるべき姿というのがフィクションだと思う。
あるべき競争市場など存在しない。
独占も資本の必然だと考えればあるべきに対応させる意味がない
826 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 09:22:55.38 0
もうひとつ 労賃があるべき姿にあって収奪してるとしても 剰余価値の値が合わないと思う。多分独占の剰余価値の方が多い。
流通資本についての言及は資本論にないの? 交通・運輸という意味での流通資本ならけっきょく労働力の産物でしょ?
828 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 15:50:53.27 0
「独占」と「交通」の問題が出ているので、いうと、 現在の日本が、新帝国主義体制下の国家独占資本主義の段階にあるとするなら、 後進国(最貧国はとくに)の民衆にとって、日本の労働者中間層というのは、 いうなれば、「蟹工船」の浅川のような鬼畜現場監督的位置にいるのじゃないのか? だとして、浅川のような鬼畜の利益を守る必要というのは、 はたしてあるもんなのか? あるとすれば、それはどうしてか。
>>827 プルードンが、搾取は流通より生じる、とし、その原因は貨幣と商品との不平等性にある、とした (商品の価値
は時間とともに減じるが、貨幣の価値は不変である、という不平等性)。
マルクスはプルードンを徹底的に批判してるから、搾取、すなわち剰余価値が流通で生じる、という見方も断固
反対だったんじゃないかな。
あと、もしかして、と思って念のために書いておくと、「利潤=剰余価値」じゃないよ。既存の価値の総体を超過す
る新たに追加された価値が剰余価値で、既存の価値の総体を変化させない利潤は単なる価値の移動。
830 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 17:45:11.38 0
>>827 運輸、倉庫に在庫は価値増殖するよ。俺が言ってるのは商業利潤のような流通のこと。
>>829 俺の理解では価値は流通や、道具や機械からも出ることになる。
マルクスが流通から価値が出ないことは押さえた方がいいね。
資本論読解の基礎だよ。
俺の意見はマルクスとは違うからまとまったらWEBで自己流資本論を公開する。
831 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 17:52:39.71 0
価値が労働からのみ生ずる、 というのは、ようするにマルクスが、ヘーゲルよりも、 カントに近かった、ということだろうな。 それは、いうなれば、認識にとっての「外部」的なものによる触発が、 真の「原因」であって、「自己原因的」なものというのは、 実はないということだろうからだ。
>>830 くだらない御託並べてないで、自分のを書いてりゃいいだろ?
833 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 18:07:25.94 0
だとしたら、マルクス主義に、哲学というものがあるとすれば、 それは、一元論的独断論に対する批判としての哲学、批判哲学だろう。 したがって、「マルクス主義哲学」は、唯物論ではない、 となる。
834 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 19:24:55.58 0
>>832 まあマルクスと対比してでないと、俺の資本論は価値がないということだな。
それだけマルクスブランドは強固。俺流資本論とか書く意味があるのかイマイチわからんが
まあやってみる。
835 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 19:58:09.07 0
プルードンとマルクスの関係は、マルクスによるプルードンからの剽窃が本質である。 だいたい20年遅れでマルクスがプルードンを剽窃する。 (プルードンは、C=不変資本、V=可変資本といった記号をつかっていないが、、、 ちなみに、これらは流通インフラと労働力に当てはまる概念だ) 違いはマルクスが貨幣形態を不可逆かつ固定的なものと考えたところだ。 プルードンが『所有とは何か』で提出した集合力も、マルクスは受け継いでいる。 プルードンの主張は以下だ、 「資本家は労働者の日当を支払った、と人は言う。正確には、資本家は日々労働者を 雇い入れるたびにその日の日当を支払ったと言わなくてはならない。これはまったく 同じことではない。なぜなら、労働者たちの結合と調和、彼らの努力の集中と同時性 との結果から生ずるこの巨大な力に資本家は少しも支払っていないからだ。二百万の 擲弾兵が数時間でルクソルのオベリスクをその土台の上に建てた。ただの一人が二百 日でどれだけのことが成し遂げられると人は思うであろうか。しかるに、資本家の計 算では賃金の額は同じだったとのだ。ところで、砂漠を耕地にし、家を建て、工場を 経営することは、オベリスクを建て、山を移すのと同じである。べきことだ。そこで、資本家が受け取ったものと支払ったものとを清算してみよう。」 邦訳プルードン第三巻『所有とは何か』第三章141頁 「生産者が生活するためには、彼の賃金で自分の生産物を買い戻すことができなけれ ばならない。」同第四章207頁 「商業あるいは交換は、それがとにかく行われるといういうだけですでに、それ自身 の効力によって富をつくり出す。…商業を一つの経済力と考えなければならない。だ が…どの時代においても、投機は、商業のこの二つの害悪、生産物の稀少性と価値の 恣意性を利用してきた…」同第一巻『十九世紀における革命の一般理念』238頁
836 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 20:09:53.49 0
訂正 ただの一人が二百 日でどれだけのことが成し遂げられると人は思うであろうか。しかるに、資本家の計 算では賃金の額は同じだったのだ。 追記 マルクス&プルードン往復書簡1846年5月 ↓ マルクス資本論第一巻1867年 プルードン交換銀行1848年 ↓ マルクス『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』1866年
837 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 20:13:50.35 0
ヤコービ 私はかの「物自体の」前提なくしてはカントの体系に入りえず、 (カント自身の定めた因果性のカテゴリーの使用規則に則らないことになるので) この前提を以ってしてはカントの体系に留まりえぬ マルクス 資本は、流通のなかで 生まれざるをえないと同時に、流通のなかで生まれてはならない
838 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 20:34:33.23 0
剰余価値が流通過程で生じない、のは分かった。 で、そのように考えるのが正当だ、というならば、 その根拠はなんなの? まさか、マルクスがそう書いているから、ではないだろう。
839 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 20:45:53.55 0
「資本論」においてのマルクス曰く、 流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだ。 ならば、なんでみんな、そういう濡れ手で粟の商売をしないのか? 役所勤め会社勤めなんぞ辞めて、ぼろくやったらいいんじゃないのか、 と思うが、そう出来ないわけがあるんだろうか。
840 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 21:19:59.09 0
>>838 だから実例でそれは違うと指摘した。
つまりマルクスの間違い
>>893 流通での剰余価値生産は流通手段と生産手段のように考えるとわかりやすい
すなわち流通手段をより多く持ったものが流通から剰余価値を得る。
極限が独占。
841 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 21:21:11.43 0
842 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 21:26:37.58 0
流通手段大の順で 独占>寡占>商店>個人
843 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 21:32:08.99 0
この時マルクスの主張の通りだと 独占=寡占=商店=個人でなければならない これは明らかにおかしい
844 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 21:42:53.50 0
俺は資格勉強の傍ら、資本論の書き直しやってるがほんと趣味だなと思う。 書いても一文にもならない。内容も新古典派を組み込めればいいのだが 数学の関係でベタベタの算数だ。
やはり大事なのは経済学批判だ 現実の革命に経済理論の革命が先行せねばならない
資本論をべたに読んだり、あるいはそれを進化させるよりも、新古典派経済学の批判をすべきだと思う、マルクスのように
847 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:03:56.24 0
流通過程で剰余価値が生じない、 というのは、ようするに、「純粋」な流通過程(なんらかの生産の準備という面を除いた「純」の意味) というのは、ひらたくいえば、ギャンブリングだ、ということじゃないの。 柄谷の、「流通過程で剰余価値が生じる」の説も、ほとんど投機の理屈だったね。 いわば、「総資本」の側から見れば、労働力を安いときに買って、高いときに売っている、という理屈ね。 まあ、その時間差攻撃の相対的有利さを説明するのに、技術革新による生産性の上昇を主として置いているところが、 びみょうに投資寄りの投機、という感じではあった。 なお、これはシュンペーターあたりにあったような理屈じゃないかとも思うが、 記憶が定かでない。
流通から剰余価値が生じるにしても、競争が激しすぎてすぐに儲けがなくなっちゃうんじゃない? 工場的生産手段なら、初期投資の大きさで参加者を制限できるし、使い方のノウハウ蓄積で先行者の うま味を少なくとも投資分を回収できるまでは維持できるだとうけど。
849 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:05:26.31 0
新古典派批判もやるつもり、でも英語と数学で資本論より難しいので 資本論批判の後だ。
>>845 剰余価値が流通でも出るなら、搾取の階級性がなくなるから、革命自体が無意味化するよん。
剰余価値が流通で生まれることにしてしまうと、資本論の理論的価値はなくなる それをすると、労働力、資本、土地はそれぞれ等しく収益、そこから推し量られる剰余価値を生むという事になり、現実追認以上の主張ができなくなるから
852 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:10:20.18 0
独占企業、寡占企業、一般企業、一個人 で競争したらと思考実験したら簡単にわかるが 独占企業>寡占企業>一般企業>個人 の順に強さが出るだろうね。 競争が独占だとないから丸儲け
剰余価値は歴史貫通的な範疇 それは一つの共同体がある所には必ず存在する、何故なら共同体は剰余生産が可能だし、事実上必然だから 譲与生産物分に充てられた労働は剰余労働であると考えられる とするなら、流通がなくとも剰余労働は存在しうる その剰余労働が近代資本主義においては、剰余価値となり、更には利潤として現れる
854 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:12:51.60 0
>>850 >>851 ようやくことの大きさに気づいてもらえたね。
その通り革命の必然はなくなり、改良主義の出番になる
>>853 剰余価値は利潤や剰余生産とは別物だってば。
コスト+手数料では剰余価値は生じない。素材の価値+手間の価値以上の価値を創造したわけではないから。
なぜ労働が価値として現れるのか、そこを理解しないと剰余価値はわからない 歴史貫通的な剰余労働が、資本主義においては剰余価値として現れる、ここがポイント
857 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:24:36.98 0
「血を流さずに済む」なら、けっこうなことじゃないか。 だから、改良主義ではダメだ、ということの根拠を示さなきゃならんだろう。 その場合、マルクスがこう書いているから、では、理屈にならんわけね。
>>857 成果がすべて、独占企業などの既存権力に吸い上げられちゃうから。改良主義が有効であるには自由競争が不可欠。
マルクスがやろうとしたのは飽くまで経済学批判だと思う だから所謂ブルジョア経済学から切り離された資本論解釈は無意味であると自分は思う おそらくマルクスもそういうはず
近代経済学では解決できない問題がある、ここがポイント この、近代経済学に解決できない問題こそが、問題のみが重要
マルクスは資本主義の批判をしたのではなく、経済学の批判をした この経済学の批判こそが、おそらくは最も革命的な行為
862 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:54:25.60 0
てすと
863 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 22:59:37.76 0
資本論による革命は流通でも剰余価値があるので無効。進化経済学から市場なしの社会は築けない。よって、搾取を制限するために労働基準行政をグローバルに行う改良主義になる。行き過ぎた独占は近代経済学からも認められない。いわゆる独禁法
864 :
考える名無しさん :2014/05/02(金) 23:05:07.73 0
近代経済学で問題は搾取の概念がないこと。これは労働基準行政をグローバルに行うために近代経済学特にミクロ経済学に搾取概念を作らなければならない。私が資本論批判するのも新古典派批判するのもブラック業界で搾取を体験したからどうにかしたかったため。
865 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 00:38:31.32 0
剰余労働は歴史貫通的な範疇 それは一つの共同体がある所には必ず存在する、何故なら共同体は剰余生産が可能だし、事実上必然だから 譲与生産物分に充てられた労働は剰余労働であると考えられる とするなら、流通がなくとも剰余労働は存在しうる 労働生産物が商品となる資本主義経済においては、労働は価値になる *、従って剰余労働は剰余価値になる 剰余価値は流通の場において実現されなければならないが、そのためにはそれは先だって生産の場で発生していなければならない *利潤は剰余労働が無ければ存在し得ない また利潤は貨幣、更には商品の存在を前提とする、商品は価値と使用価値とからなる 利潤の存在を保証するには、剰余労働が存在し、さらにそれは剰余価値で無ければならない
866 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 00:41:49.65 0
*の部分をうまく説明し切れてない
867 :
866 :2014/05/03(土) 00:44:14.66 0
なぜ価値の基礎は労働でなければならないのか それは、価値は流通において実現されなければならないが、その価値は生産の場において発生しなければならないから 生産の場における要素は、労働と生産手段である 生産手段が価値を創造するとは考えられない であれば、価値の源泉は労働でなければならない これでどうだ
868 :
866 :2014/05/03(土) 00:46:26.48 0
行き着くのは資本主義経済の細胞となる商品というものの不思議さ
869 :
866 :2014/05/03(土) 00:53:59.91 0
なぜ価値は生産の場で発生しなければならないか 誰か頼んだ
870 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 01:54:22.75 0
>>867 いや、「生産」の中には流通も入っているのだよ。
「発生」と「実現」の区別も曖昧だな。
発生したが、実現しなかったなんてことはありえない。
実現しなかったものはそもそも発生などしてもいないのだ。
どんなに動いて疲れたところで、ゴミはゴミだしな。
剰余価値の概念に関してはもちろん重要だが、近代経済学の教科書の一つの章に入れればすむ程度のことだ。
生産の能率をいかにあげるか、いかに魅力的で手に取りやすい品を生み出すか、それをいかに告知して流通させるか、
そのあとにいかに分配するかだろうがよ。そんなのは貧乏な零細企業労働者の俺でもわかることだし。
資本論にしろ、マルクスは経済学については三流で、ただ、ひとつ(剰余価値)面白い指摘を出したって程度だろ。
あとは経済学でもないしいかに社会が豊かになっていくかの具体的な政策論でもない。歴史、文学、ヘーゲル哲学を織り交ぜた文学にすぎん。
871 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 01:58:46.16 0
>>867 生産手段は価値を産まない、とどうして断定できるのか?
ここにも論理の飛躍がある。
人間が手を下していないからなどという循環論法なしに説明してくれ。
872 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 02:04:46.20 0
>>869 そもそも「生産」とは、価値の生産なのだからそれは自明のことでしょう。
そして今、社会活動の中での話をしているわけだから、社会の中における「生産」、「価値」という但し書きがあるわけです。
もちろん価値概念を相当に広げれば、あなたのここでの書き込みもあなたにとって価値あるといえるでしょうが、
社会の中でいう「価値」とは何の関係もありませんよね。例えて言えばそういうことです。
873 :
866 :2014/05/03(土) 02:08:35.83 0
マルクスが問題だと思ったのは、阻害としての搾取であろうと思う、 つまり、労働者が物を作るにも関わらず、労働者にはその一部しか与えられず、大部分は資本に吸着され更なる支配の条件となるという、 この労働者の自己破壊的状況の解明と、改善がマルクスの動機であった これをするには、労働生産物の循環が、資本主義的な商品形態の下でいかなる様に行われているかを明らかにしなければならない そのために価値の源泉は労働でなければならなかったと、こういうマルクスの事情はあったと思う
874 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 02:10:56.91 0
生産に関しても同様で、 ここでいう「生産」とは価値を生み出すことですから、 誰も使わない物を作ったり誰も読まないものを書いたりしても生産にはならないわけです。 「社会の中で」という但し書きを抜ければべつですが。だから不思議でもなんでもない。
875 :
866 :2014/05/03(土) 02:13:16.08 0
つまり、労働生産物の生産と分配が、商品-貨幣の形態の下で、いかにして遂行されているかを確認するためには、価値は労働でなければならなかった 明らかにしたいのは、資本主義下における労働の、また労働生産物の循環なのだが、これを明らかにするには、労働の循環を商品の循環と絡めて見なければならない そうした時に、労働生産物を商品と結びつけるには、労働を価値と結びつけるしかなかった
876 :
866 :2014/05/03(土) 02:16:01.28 0
価値が流通で生まれるとしても良いし、生産手段も価値を生産すると見てもいいのだが、そうすると労働の意義というのは消えてしまう つまり労働を、労働者を、見ようとするならば、価値の源泉は労働でなければならない
877 :
866 :2014/05/03(土) 02:17:59.09 0
思い切っていうならば、価値の源泉は労働であるべきなのだ
878 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 02:18:23.91 0
>>873 つまり、最初から想定している目的(結論)のために労働価値説
の論理を無理やりひねり出したってことでいいですか?
879 :
866 :2014/05/03(土) 02:20:01.02 0
良い、のかな・・・ でもその「最初から想定している目的(結論)」というのは無碍に否定されるべきものではないと思う
880 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 02:22:47.58 0
しかしろくに働いたこともないマルクスに言われても説得力ないよな 経営者(たとえばエンゲルス)よりもっとたち悪いじゃねえか。
881 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 02:29:37.86 0
カネの流れからして、 労働者⇒エンゲルス(会社の経営者)⇒マルクス(ニート) 結局マルクスも労働者から搾取してんじゃん間接的に(笑)。 価値ある自分(博士号持ちの天才文筆家)社会から認められず、カネももらえない (怒)ってのが彼を経済哲学へと向かわせ、ああいう論理ひねり出すのに 人生すべて費やす動機になったのは間違いないだろうけどね。 学生時代は純粋な意味での哲学専攻(たしか古代ギリシャの唯物論研究)だったんでしょ。
882 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 07:57:25.94 0
まあ何れにせよ資本論は流通で剰余価値が出るので無効だよ。 もちろん搾取はある。これも実体験した。 だから搾取をなくすような改良主義が正しい。
883 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 08:32:04.81 0
労働者が搾取されている。これは俺も体験した全くの事実。 それは救わなければならない。それには今の資本論ではダメだということ。
リカードによって完成されたという「労働価値説」が再び話題にのぼっているけれども、
ケインズが労働価値説について言及していると思われる数少ない文の1つが
>>522 。
『雇用、利子および貨幣の一般理論』でケインズはマルクスの名に僅かに言及している。
1つは「古典派経済学」という言葉をマルクスから借用している点。
ただしケインズはマーシャル、ピグーらを含めて古典派と呼ぶとしている。
しかしケインズはマルクスに対してはどちらかというと一貫して冷淡で、
『一般理論』の最後のほうでも、シルビオ・ゲゼルの減価する自由貨幣論に言及する箇所で
自分はマルクスよりゲゼルを買っているのだということを表明しているのは有名。
ただし、そう思いきや、ゲゼルの減価貨幣案に現実味がないという批判も付け加えているので微妙。
ところで、マーシャルやピグーの研究者にいわせると、ケインズの古典派経済学批判も
マルクスのプルードン批判と同様に藁人形論法(架空の論敵への批判)っぽいところがあるらしく、
マーシャルらはちゃんとセイの法則が崩れる可能性についてもちゃんと理論化していたんだ、という話。
>>883 http://www.jca.apc.org/~altmedka/marx-hihan-10.html にも書かれてあるとおり、
プルードン派は見様によっては折衷論者のように受け止められる余地があり、
マルクス派はそこをついてプチブル学説だと揶揄しているところがあるんだという話。
http://www.kagomma.net/saito/travaux/P&M.html によれば
{
プルードンは晩年の著『労働者階級の政治的能力』の末尾で,
「労働者たちは自分自身の苦しさしか視野にない。
ブルジョアの難儀苦悩には想いが及ばない」と書いている
}
らしいので、
マルクス派によるプルードン派批判がその当時の労働者解放闘争のなかで
勝利してしまったのも無理はないという気もする。
今日ならば、プルードン派が勝利するかもしれないね。
プルードン派は中間層に昇格した労働者階級のイデオロギーとして適応しやすい面もあるのかも。
とはいえ、格差拡大社会の靴音が日本でも徐々に響きつつあるので、
マルクス派の古典的な困窮化仮説も棄てきれない面がある。
とはいえ、困窮化仮説の真意は、プルードンのいう集合化+ケインズのいうテクノロジー失業
のことをマルクスは資本論で示唆しているので、格差とはまた別の問題なのかもしれない。
むしろ資本主義がうまく持続していったほうがマルクス派の困窮化仮説は現実味を帯びてくる。
それに対抗するブルジョワイデオロギーの最後の砦がゲゼルの減価貨幣案なのかもしれない。
>>759 >>828 プルードン派の考えが中間層の利害に適応しやすいのが本当だとすれば、
プルードン派はプチブルイデオロギーだ云々はある意味では当たっていたのかもしれないね。
とはいえ、そういうマルクスとエンゲルスもまた
ヴィルヘルム・ヴァイトリングさんあたりからプチブル呼ばわりされる位置関係にあった。
『マルクスと批判者群像』(平凡社)によると、マルクス派はヴァイトリング派に冷淡だったところがあり、
この本の前半はむしろヴァイトリングを中心に扱っていて、
ヴァイトリングに目線に接近した立場から書かれているように思える。
同書によれば、マルクスとエンゲルスが当時の欧州の共産主義運動に接近していったときも
二人はプチブルの知的エリート、ブルジョアジーの手先という疑いの目で見られていた。
トロツキーも言っていたように、当時の欧州の共産主義運動(社会主義運動)を担ったのは
プロレタリアートではなく、主として職人たちであって、ヴァイトリングもその一人だった。
当時の親方にあたるのが現在にいう正社員だとすれば、
ヴァイトリングらは親方に使われる身で、ギルド(組合)に参加する権利はなかったので、
彼の地位は現代で言えば非正規雇用労働者、プレカリアートになるのかもしれない。
つまり、マルクスが生きていた当時の共産主義運動は、プロレタリアートvsブルジョワジーではなく、
ギルドの親方階級vs徒弟階級の間の闘争みたいなものだったのかもしれない。
だからマルクスの理論は当時の共産主義運動の実態とも整合しない。
むしろ未来の共産主義を仮定して書かれている。
トロツキーは当時のロシアがマルクスの理論と整合しない歴史段階にあることを認めていた。
ネットというのはバカが大手を振って自説を開陳することができる便利なツールであることは確かだなw バカが量産されるわけだ。
プロレタリアートが本当に社会の主流派に台頭してくるのはマルクスの死後ずっと後で、 資本主義が大恐慌を乗り越えて黄金時代を迎えたころ、米国のフォーディズムの黄金期、 日本でいえば高度経済成長以降だと思う。 日本の場合は自営農が地方に保守利権をつくり、サラリーマンの力は都市部に限定された。 ロシア革命当時のロシアにあってはプロレタリアートはやはり都市部で人口を増やしていたものの、 ロシア帝国全土からすれば2割以下。 マルクスの革命理論ではそういうところで起きる革命は右翼的革命か、せいぜいのところ ユートピア社会主義になるだけであって、マクロ経済学的に成功できるはずがないとされていた。 マルクスもレーニンもロシア第三革命(10月革命)がかなり無理のある歴史的離れ業であることを 認めていて、共産主義はもちろん社会主義を導入することさえ未来の話になるとしていた。 そういう意味ではロシア革命を社会主義革命とするのはマルクス派的には正しくないのかもしれない。
890 :
10 :2014/05/03(土) 10:26:51.10 0
重要なのは生産効率と流通の改善によりいかに皆がプチブルになるか もっと理想いえば皆がブルジョアになれるか 搾取によらずにね 前後の先進国では前者は8割方成功し労働時間も短縮できたが維持できなくなってきてる 共産国はいかに皆が平等に貧乏なプロレタリアであり続けるかだから論外(笑) スウェーデン型社民主義が最高。
だから当時のロシアをはじめ、中国や東欧やアフリカや中南米のような知識では 皆がプチブルになる唯物論的(マクロ経済学的)基盤が、生産力はもちろんにして、 いろんな面で成り立っていないと見做していたのがマルクス派でしょう。 資本主義以前か、資本主義がまだ未発達な段階にあるところでの共産革命は 成功しない、ユートピア社会主義か、右翼革命になるだけだ、というのがマルクス派の 本来の唯物史観だったはず。 トロツキーもレーニンもその点は真っ向からは無視できなかった。 彼らがマルクス派にとどまりたいのであれば、ロシア革命は共産革命ではありませんでした と宣言するしかない。で、ある局面では彼らはそう宣言している。
マルクスのそうした革命条件をめぐる段階論は義人同盟のカール・シャッパーらの影響を 強く受けていることは明らかで、それを剽窃と言ってしまうなら、そうだね。 ブランキ、ヴァイトリング、プルードン、シャッパー、リカード、ヘーゲル、フォイエルバッハ、 などなど、その他無数の論客たちからマルクスが強い影響を受けているのは間違いないことで、 資本論のなかでもマルクスは、これについては自分のオリジナルな発見だとわざわざ主張している 箇所があるくらいだから、資本論全体がオリジナルだと主張している風では全然ないでしょ。
>>889 > マルクスもレーニンもロシア第三革命(10月革命)がかなり無理のある歴史的離れ業であることを
> 認めていて、
ここを訂正します。「トロツキーもレーニンも・・・」が正しいです。
マルクスはロシアの10月革命を知りませんね。
ただしロシアで「彼らがいう意味での共産革命」が起きる可能性についてなら言及していますね。
条件付きで成り立つことをマルクスが認めていたにしても、本来は否定的で、
エンゲルスにいたってはほぼ否定的だったはず。
>>893 その程度の基本的な事実を錯覚するぐらいの思い込みの強さだと、なにを書いても戯言の域を出ないよ。
書くのは、もう少し基礎的な歴史と思想の勉強してからにしなよ。
>>890 レーニンに言わせると、プチブルイデオロギーは、プロレタリアートの権利を条件付きでしか認めないものらしい。
どういう条件かというと、何かあったらその権利がブルジョワジーの手にすぐに奪還できてしまう条件の成り立つかぎりで
資本主義はプロレタリアートに中間層としての権利を「おこぼれ」として日和見的に与えるだけにすぎないって。
つまり、プロレタリアートから中間層の権利をいつでも奪還し、剥奪できる、その利権が確固としてなりたつかぎりで
の折衷案を提示しているのが、プチブルの中間層(労働貴族)イデオロギーでしかないんだということだね。
中間層になったかのように錯覚しているのと裏腹に、彼らはシステムの上では何も変わらず奴隷であり続ける。
いま、世界の資本主義社会で起こっている中間層の没落という事態は、レーニンが言っていたことが正しくて、
資本主義下での中間層の勝利が一時の錯覚・幻影にすぎなかったということを思い知らされるような出来事なのでは?
>>894 ただの書き間違いの揚げ足を取られても・・・
自分で書き間違いだと気が付いてすぐに訂正しているでしょう。
>>890 > 重要なのは生産効率と流通の改善によりいかに皆がプチブルになるか
> もっと理想いえば皆がブルジョアになれるか
> 搾取によらずにね
それこそまさしくマルクス派のイデオロギーだよ。
だからエコロジーなどの影響を強く受けた新左翼からマルクス派は徹底的に批判を受けた。
> スウェーデン型社民主義が最高。
北欧も微妙だけどね。北欧ですらいま徐々に反動が起こっている。
>>896 マルクスとロシア革命の時代差があたまにに入っていないんだから、書き間違いとかいうことじゃないよ。
完全に基礎的な勉強不足。
899 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 11:33:10.22 0
物量というよりシンボルの所有の格差 じゃないのか先進国はもはや。 そもそもプロレタリアという概念自体、時代錯誤 アイデンティティーの上では9割方皆プチブルだといっていい 中流崩壊だというがさ最低賃金の俺でも吉野家いってユニクロいってニトリいくことはできる。狭いが小綺麗な部屋にも住んでる 車ももってる。彼女と旅行にも芝居みにもいく。 それもできない人は何割いるだろうか
>>835 そこでプルードンが書いている流通がマルクスが資本論に書いている流通
>>547 とまったく
違うことのようには見えないなあ。
プルードンはそこで在庫管理や運送のことを指して流通としているのだろうか。違うでしょ?
あなたのいう流通も違う。
在庫管理にしても運送にしても労働とその社会的表現である集合力とが担っているものでしょう。
レギュラシオン学派のいうフォーディズムを挙げるまでもなく、
特に日本の自動車産業はこの在庫管理の効率化で生産力を上げてきた面がある。
そしてそれは労働者の負担にもなってきたという批判がある。
これはマルクスが資本論で言及している貨幣と商品の相互転化をめぐる商業資本としての
流通とはまた別の話。
>>891 > だから当時のロシアをはじめ、中国や東欧やアフリカや中南米のような知識では
訂正:「知識」改め「地域」
>>898 だーから、誰からも指摘を受ける前に自己訂正しているじゃん。
勉強不足なら自己訂正なんてできないでしょ。
そういう揚げ足取りではなく、もうちょっと実りのある反論がほしいところ。
902 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 11:55:40.51 0
俺が言うのは自虐的かもしれんが搾取はあっていい というか必要だ 程度問題と使い道だろ 要は
>>899 それは意識レベルと唯物論レベルとの混同になるんじゃないかな?
マルクス派は唯物論的な事実とイデオロギー的な事実とをいちおう仕分けして捉える面があったのだから、
意識レベルでの中流意識の広まりをもってして、プロレタリアートなる階級がもういかなる意味でも存在しない
という結論づけることはできないし、マルクス派への反論にもならない気がする。
プロレタリアという概念が時代錯誤だという認識が再び時代錯誤になったということが今の最新事情では?
あなたのその観点はバブル景気の時代だったら説得力があったし、実際にその時代にポモ言説とともに流行った。
吉本隆明氏あたりもその時代にそっちに大きく揺れていたね。
日本人のほとんどが中流意識をもつようになったっていう意識調査のデータを根拠にして彼は語っていた。
実態レベルでも日本についてはいまのところ格差が顕著に拡大しているとまで言えないかもしれない
(論争がある)ので、中流意識とその実態との解離はあまりないのかもしれない。
ただし若者や教育の水準でその兆候が見られて懸念されていて、将来的には格差拡大が懸念されている。
米国では格差がいちじるしく拡大してきたようだけど、それにもかかわらず中流意識は崩壊していないんだって。
>>902 マルクスはゴータ綱領(ラサール派)批判で平等主義をブルジョワイデオロギーだと批判しているからね。
そもそもラサール派の平等主義は労働力によって人間を測る思想の上に立っていて、それは資本主義、
ブルジョワ社会の害悪だということを言っている。
ラサール派が労働を介した平等主義を掲げるのは結構なことだが、それはまだ資本主義の害悪を共産社会が
引き受けている段階に由来する「母斑」であって、それが共産社会の到達点だと考えては決してならないとしている。
これもラサール派の言葉尻を捉えた揚げ足取りのような批評と言えないこともないんだけれども、 結果としてマルクスが労働原理主義者でないことが明らかになっている点では、 「労働価値説=マルクス派」という俗説と裏腹に、なかなか興味深いとは思う。
>>901 反論してもらうほどのレベルに達してないことぐらい自覚しろよ。
まず、基礎の歴史と思想の勉強してから反論を期待しな。
907 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 13:05:54.53 0
>>902 共産党宣言では搾取が肯定されていると俺はみなしている
封建階級の抑圧・搾取の中で中産階級が育ち、力をつけ、
中産階級の搾取の中で労働者階級が発展し、いずれは主人と奴隷の弁証法で革命がおきる
そして中産階級にはいまや労働者階級を搾取するだけで育てる力がない、
それは革命の頃合いを意味する。時は来た!……と結んでいたはず
肯定・否定というよりは、唯物史は、それ自体、 理念からは相対的に自律して動いていくものだ観点があるからね。 つまり、科学的な予測と、それが人道的に正しいかどうかは、 別問題なのだという、現代の科学観にも通ずる素朴な認識論がある。 自然淘汰理論とそれが社会正義論は互いに独立しているという 科学者たちの素朴な見解と同じ。
>>907 そういう意味では、カール・マルクスほど資本主義を絶賛した共産主義者もいなかったのかもね、
っていう話もあるんだよね。
その点については私は2ちゃんねるのあちこちに投稿しているので、どこかで読んだ人もいるかもしれない。
マルクスの資本主義に対する考え方は、言ってみれば、資本主義というものはその本性によって
半ば必然的に共産社会へと人類を救い導いてくれるノアの箱舟のようなものだ、という話になる。
資本主義の道をあまりに楽観的に評価してイギリスを絶賛していると受け取られる余地が充分にあるからね。
でもそれは一面的な見方かもしれない。マルクスの書いてものを読むと、 例えば、マルクスは生産機械が労働時間を短縮して労働者を雇用労働の束縛から徐々に 解放してくれる可能性を資本主義生産様式が内包していると資本論で論じる一方で、 生産機械がいかに労働者を機械の奴隷にしてしまうかという側面に言及するのも忘れていない。 その論じ方は経済学哲学草稿の初期の著作からある。 資本主義は封建的な家族関係の呪縛から個人を解放するものの、 カネの切れ目は縁の切れ目のような関係に家族関係を変えてしまったというような言い方もする。
そういう意味では、唯物史観は、社会改良主義、社会改革・革命主義とも違う。 社会を計画的に改良・変革していこうとする考え方と真っ向から対立している。 唯物史観は、「自生的秩序」によって封建社会->資本主義社会->共産社会が 移行するのだと論じている風でもあり、社会を計画的に変革するという発想は ユートピア社会主義者の発想だと一蹴している面がマルクス派にはあった。
そういう意味で、マルクス派にとっては、 将来の共産社会がいかに人類の社会にとって合理的な正義を実現しうるかについて 詳細に論じて証明する必要がなかった。 歴史はそのように自省的ではなく自生的に、まるで自然原理のほうに動くだろうという発想が 唯物史観には根強くあった。これを吉本隆明氏はマルクスの自然哲学だと見なしていた。 しかし現代の分析的マルクス主義者はこの唯物史観を放棄している。そうキムリッカ氏は言う。 だからこそ分析マルクス派はその理念がいかに合理的に正義たりうるかを数式を用いて 厳密に証明する必要があったわけだ。
長々と意味のないこと書いてるなー
>>910 資本論 読んでないのが まるわかり
マルクスを 読まずに語る 風流人
>>915 資本論を読んでいるならちゃんと具体的に反論してほしいなあ。
どこがどう資本論と矛盾するのかを指摘できないんじゃ、
あなたが資本論を本当に読んでそう書いているのかも怪しいよ。
>>916 それじゃ、一つだけ。
資本論でマルクスがあこがれてたのは、アメリカだよ。
マルクスは、流通->貨幣->資本という流れをつくりだす現象形態を見ている。 資本主義が成り立つためには流通市場の発展が不可欠だった。 マルクスの資本論いわく { 商品の流通は資本の出発点である。資本が成立するための歴史的な前提となるのは、 商品生産と発展した商品の流通、すなわち商業である。一六世紀に世界的な商業活動が 展開され、世界市場が成立したことで、資本の近代的な生の歴史が開幕するのである。 }(「資本の現象形態」 カール・マルクス『資本論 経済学批判 第1巻 I』 中山元 訳 p.315より)
>>917 マルクスはイギリスとアメリカとオランダに期待していたところがあるね。
ちなみにレーニンはアメリカをソ連のモデルにしようと考えていたらしいね。
>>917 資本論を読み込んでいる人らしいもっと具体的に踏み込んだコメントがほしいなあ。
そのくらいの知識ならネット上で拾えるもんね。
ヘーゲル・マルクスの弁証法的世界観をライプニッツのモナドロジーに擦り合わせてみると、弁証法はモナド内原理 としては妥当だが、モナド間原理ともするのは無理があるんじゃないか、ということに気づく。 つまり、ヘーゲル・マルクスのいう弁証法を原理とする共同体は、有機的共同体=全体主義共同体にしか当てはまら ないんじゃないだろうか。だとすれば、彼らの目指す理想社会は、理性的全体主義であって、全体主義からの解放 は元から目指していなかったのかもしれない。
923 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 17:57:14.24 0
<消費社会においては貧困者は定義上、その存在が自体が、「欠陥」であり「罪悪」> こういう「本音」というのは、かなりあるだろう。 私に言わせれば、921さんは、ひじょうにきちんとしたことを書いている。 そういう良心的かつ知的な人の論説を、ネット掲示板利用者をひとくくりにして貶めることで、 やたらと、なにか(傍目にはどうでもよさそうなことだが)を防衛したがる連中というのがいる。 ふつうステマ的と言われる人たちだ。 その種の輩の悪宣伝のお決まりが、「2ちゃんだから〜、いくら2ちゃんでも〜」のたぐいである。 これは、初めに書いた「論法」と同型だから、よりもよってマルクススレでやるのはどうか、 と思うが… まあ、2ちゃんねる利用者=貧乏人、=バカ、=落伍者、等々という「先入観」?を 利用してそのワンパターンをやりつづける。 (ほんの数人じゃないかと思われるが)スレの読者に対する印象操作であるから、 貶めようとしている相手が、じっさいにどういう人であるかは、まるで問題ではない。 でなければ、たんにレス数を伸ばそうとしており、そのための小手先技、だろう。 921さんは、そのたぐいを相手にしないほうが良いと思う。
人間には自由意志はないらしいから全体主義社会とそうでない社会との区別は不可能らしいよ。
925 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 18:11:39.52 0
ヘーゲルには、カント哲学の不徹底なところを徹底させたとともに、 ライプニッツ体系をもモダンに仕立て直した、 という自負があっただろう。実際にそうだと思う。 その哲学としての完成度の高さを、かえって、常識的に「荒唐無稽」のように かんじる人がいる。ようするに、体系的エゴロギーというものは、半面で完全な実在論だ、 ということが、あまりピンとこない人が、そう感じるのだろう・ 一般にマルクス・エンゲルス主義哲学と言われているものは、 素朴な19世紀知識人的な「物質観」に基づく、ヘーゲル哲学体系の通俗化であって、 正直言って、とるに足らない。
926 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 18:54:39.81 0
共産主義にとって致命的なのは計画経済が計算不可能性を秘めているということだね。 最適条件ではスーパーコンピューターでも計算できないらしい。複雑系や進化経済学の指摘だが それについては言及がないところが嘆かわしい。 消去法で市場経済しかなくなる。つまりは市場を元にした資本主義の中でしか改革できない。 さてそこで重要なのは労働基準法の尊守が行政警察などの手で行われることだ。 他に改善点はあるか。
927 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:07:34.31 0
これは主流派の経済学でもそうなのだが、計画経済の失敗はソ連の失敗で何と無く というレベルだ進化経済学や複雑系経済学でようやくこの重要論点に学問的メスが入る。 もっとも証明としてもっと検討されるべき領域だと思うが。それだけで一つの学問ができるだろう。
そもそも共産主義と計画経済になんの関係があるんだろう?
929 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:12:41.68 0
上記の件と剰余価値が流通でも出る。つまり資本論モデルの利用不能によりとるべき現実策 は決まってくると思うのだが。それを無視してマルクス派と言っても意味はないだろう。
>>921 がんばるねw
以前たくさん指摘されたときには無視したり同じ言葉を繰り返しただけじゃなかったっけ?
>>929 流通って、具体的には何を想定してるの?
いわゆる流通業?
932 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:17:30.78 0
>>928 共産主義の具体的モデルが提示されてない以上、ソ連のモデルが検討されるのは
当たり前ではないか、あとはローマーのクーポン社会主義があるがあれはダメだろう。
他に検討に足る具体的モデルがあるなら参考図書とともにあげて欲しい。
ただし観念遊びではない具体的なものだ。
933 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:20:39.12 0
サービス業以外は全部流通はいってくるじゃん あるところからないところに物を移動させる過程でも 価値は生じるってこと。 手間という意味もあるが、価値とは主観であり 価値を感じない場から価値を感じる場への移動
934 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:21:02.68 0
>>931 市場による商業流通一般。
上記にレスしたがもう一度書くと
スタンダード石油などは明らかに独占で剰余価値をあげている。
つまりマルクスの剰余価値説は実証的には間違いで
実は商品流通でも剰余価値はでる。
>>932 おいおい、共産主義という意味ではマルクスも否定したであろうロシア革命の経済政策をモデルにするのかい?
いや、ロシア革命自体はマルクスが生きていたら大喜びしたと思うけど、政策が共産主義だったかどうかとは別問題だろ。
936 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:25:04.64 0
わかりやすく書くとマルクスの剰余価値説が正しいならば 独占の剰余価値=寡占の剰余価値=一般企業の剰余価値=個人の剰余価値 になるはずだがこれは明らかにおかしい。 要するに資本論は搾取の指摘以外は間違いなのだと言っても過言ではない。
937 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:26:19.60 0
>>935 だったら具体的なモデルを提示しろと書いたはずだ。
938 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:33:49.34 0
このように具体的に共産主義を提示している文献は稀だ。 またソ連の政策は圧政だったが経済がうまく行けば民主的な計画経済もありうる。 ただしそれが成り立たないことを進化経済学は示している。
939 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:35:42.05 0
計画経済の話をするなら、 混合経済体制の話しに広げないと、いけないのじゃないか。 だいたい、「ザ・計画経済」論者などというものが、 いまや、ほとんどいないだろう?
940 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:42:31.86 0
混合経済はマクロ経済学や公共経済学に入門書から乗ってるので当たり前の話だ。混合経済でない資本主義社会はない。計画経済は実現で切るなら混合経済より望ましいが、計算不可能性により不可能。 複雑系経済学入門と進化経済学ハンドブック参照。
>>937 なんで具体的なモデルを提示しなきゃならないんだよw
マルクスはそんなものは提示していない。
まさに、資本主義経済というものを分析した。
提示しているとすれば、当時の状況に怒りを持って分析している部分に垣間見られる労働者保護への現実的な政策だ。
942 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:50:10.90 0
>>941 ほら具体案がないじゃないか。
具体案がないものをどう論じるんだ。スーパーヒーローマルクスの持ち上げはどうでもいい。
搾取されてる労働者を助ける方が大事だろう。
私はそれはグローバルな労働基準行政だと言っている。
>>934 ああ、流通業のことを考えてるんだね。
マルクスが価値は生まれないと言ってるのは、他にも指摘した人がいたけど、商品Wから貨幣Gに交換される部分のこと。
君の思ってる流通というのは、基本的には生産過程の中の商品の移動。
ちなみに、独占についてはマルクスは十分に説明しているし、そもそも石油メジャーというのは採掘権を持っている事実上の生産企業だ。
944 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:53:23.87 0
実際に忙しい中小企業では組合活動、政党活動はする余力がない。だから行政でやらなければならない。 今はグローバルな競争時代だからグローバルにやらなきゃ効果ない。
>>942 >搾取されてる労働者を助ける方が大事
同意だけど、そのための具体案なら、税制や福祉政策、そして労働法規等ということになるよ。
946 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 19:58:47.72 0
>>943 まず生産企業で流通業でもあるが、マルクスの言う労働力と労働の差ではなく独占という流通部門で剰余価値を発生している。
これはロスチャイルド家でもウォルマートでもそうだが幾つも見つけられると思う。
つまり資本論は誤り。
資本論は大筋でしかよんでないので独占については具体的にどこで書いてるのか示してくれ。
検討してみたい。
947 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:02:36.27 0
>>945 だから労基法をグローバルに展開して労働行政で取り締まるべきだと。
まだまだ勉強中の身なので、税制や福祉などで良い腹案があるなら伺いたい。
948 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:06:23.29 0
資本論が誤りという表現は違うな、搾取告発は正しいがすべての剰余価値が搾取というのは誤り
>>946 商品の移動には労働力や移動手段、つまり資本が必要だ。
いろいろな人から指摘されてるように、流通業は生産過程の一部。
目次を見れば見当がつくと思うが、独占についてどこに書いてあるかなんて聞くより、自分で読んでみたほうがいいと思う。
「資本論」、特に第一巻はきわめて論理的に組み立てあるから、部分読みだと誤読することもある。
950 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:08:04.92 0
国家独占資本主義は、国内の労働者を懐柔するため、社会保障政策を行ったり、 財政政策による高雇用政策・持続的成長を目指す方向へと転換していく ↑のような理解は有力なものとしてあると思うのだが、 それでも、「福祉主義万歳」の方向でいいわけか?。
>>947 税制としては法人と富裕層への高率な累進制の採用。
福祉としては年金制度の拡充。
労働法では原則正規雇用と定年制の廃止。
それだけでも経済成長が見込めるし、大多数の国民が豊かになる。
952 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:13:50.34 0
≫搾取告発は正しいがすべての剰余価値が搾取というのは誤り これは、正誤の問題ではないだろう。剰余価値は搾取によって生じる、 と予め決めているだけの話だから。
953 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:17:17.47 0
>>949 その理解は違うよ。独占メジャーはマルクスが産業資本から剰余価値を受け取るはずと言った商業資本で剰余価値をあげているロンチャーナウのタイタンを読んでご覧。
あと時間が勿体無いので場資本論の場所は教えてもらえると助かる。
俺は非公式な労働運動家のつもりだが学者になりたいわけではない。
>>950 懐柔というが福祉主義ではないどのような道があるんだ?
954 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:26:16.02 0
>>951 まあオーソドックスな左派の意見だな。でも定年はあった方が良くない?俺は公務員の年齢制限撤廃。院生司法試験合格者の職づくりもあげようかな。あと高年齢者の職づくりも
>>952 そういう理解でもいいと思うけど実践理論的には空論だよね
955 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:27:50.92 0
現状では、先進国における一国福祉主義は、先進国の国民が、後進国の国民を 「搾取」する、ということでしかない、かもしれんよ。 世界万民に福祉をいきわたらせる、という理想に照らせば、 日本人などは、下層階級と言えどもまだ贅沢すぎる、という理屈は成り立つ。
>>953 >ロンチャーナウのタイタン
そんな本を読むより、君が「資本論」を読めばすむことだよ。
流通も独占もちゃんと書いてあるから。
君のそれぞれの概念把握はめちゃくちゃだよ。
>>954 個別の政策論に入るときりがないから、この辺にしとくよ。
>>955 中東に行った日本の赤軍みたいな意見だな。
959 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:39:17.81 0
かつての日本赤軍と同じ意見でも別にかまわんのだが、 まあ、アメリカ合衆国を盟主に戴く新帝国主義下の国家独占資本主義体制下に日本国民があるとすれば、 もっと手厚い公的保護を、というのは、ぶんどったものの分け前をもっとよこせ、 ヤクザの下っ端が、親分衆にいうのと、どうちがうか、と言いたいね。 マルクスの「万国の労働者云々」というスローガンとは、だいぶ言い分が違うわけだ。
960 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:39:25.50 0
>>955 実際のデータが全然ないね。それじゃあ空論だよ。搾取の証拠は?
>>956 資本論のあらすじがわかってないね。産業資本で搾取して他部門に分配するのが大筋で。これが正しいなら商業資本は産業資本のおこぼれを預かってるだけなんだけど実際のロンチャーナウのロックフェラーの電気だとその逆。
一回理論と実際の資本を見てご覧よ。世界観がひろがるよ。
まあ資本論絶対ってタイプだな。
こういう御仁は資本論を読み込んで細部で叩き潰さないとダメか。しかしね資本論などつまらんよ。搾取はいろんな企業でおこってることは働けばわかる。その解決にならない本だしね。
961 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:42:19.16 0
電気じゃない伝記だ。エレキテル失礼
>>960 読んでないのにあらすじなんか説明するなよw
君が労働運動をやりたいなら邪魔はしないけど、少しは勉強しとかないと誰もついてこないと思うよ。
最低限、知らないことは知らないと言わなきゃいけない。
労働運動に必要なのは、誠実さだよ。
963 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:48:23.89 0
うむ。久しぶりの哲学板、楽しかった。 共産主義の具体的モデル、資本論の独占の部分、福祉政策税制などであたりの書籍などあれば教えてくれ。 遊んでくれた皆ありがとう。
>>959 とりあえず、「国家独占資本主義」などと言う曖昧な言葉は使わないほうがいいんじゃないかと思う。
965 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:50:05.19 0
それをいうなら、資本主義も、あいまいだからな。
966 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:51:26.85 0
>>963 このパターン。細部おたくであらすじわかってない人。まあ君みたいなの潰すには細部読まなきゃダメなのはわかった。
967 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:53:03.57 0
国家独占資本主義は、レーニンの用語の訳じゃないのか。 ちがいましたか?
968 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 20:53:26.30 0
969 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 21:08:49.41 0
でも資本論の細部一つで支持者が出るなら読み込むのもありかもな。 かったりーけど読むか。どうしてみな本気じゃないし効率的でないのだろう。分業した方が生産的じゃんね。これが疎外ゲームか。 ゲーム理論読んだ人いる? 俺も入門書レベルだけど、 疎外って実にゲーム的な状況だよね クールノーとかゲームを意識しないで後付けでゲーマー扱いだけどマルクスもそうだよね。今のも囚人のジレンマみたいなレスの応酬でしょ。
970 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 21:25:50.17 0
マスコレルと資本論 共通項 入門書から段階的に読まぬと理解不可能。 そして読んで真理じゃないのはすぐわかるので読むモチベーションがさがる。 このマルクス新古典派の共通項。 おそるべし。
>>926 >>912 はスルー? 唯物史観は本来、計画経済とはなんの関係もないよ。
てか、歴史段階をとびこえて計画経済を実現できるという発想も本来のマルクス主義にはない。
972 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:01:04.05 0
>>971 すまんそのレス周辺見てなかった。
唯物史観で計画経済が関係ないのは理屈としてはわかる。ただ歴史的に行き当たりばったりにしてれば自然と良くなるもんでもないだろう。
具体的に試論なりモデルなり共産主義を具体的に著述したものはないのか? それがないなら俺は実践主義なんでなんとも言えない。
純粋な流通過程での剰余発生はないのではないかな。 流通と言うのは財貨と貨幣の移動でしかなく、いわばゼロサムなので、剰余は発生しない。
自由は大事だよね。 近代社会は形式的自由を達成したが、実質的にはまだ不自由が残っている。 プロレタリアは賃金の鎖に繋がれているし、ブルジョアはその不合理な鎖を解く事が出来ないという点でプロレタリアに依存しており、同様に不自由である。 マルクスが近代の限界を見たのはこの賃金の鎖において。 この鎖をどう緩めていくか。
独占によって剰余価値が発生するという事はないと思う。 独占によって起こるのは、資本間での剰余価値の再分配だ。
976 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:17:17.89 0
>>973 そういう理解も成り立つと思うが、純粋な流通というのは形而上の世界だ。実践の理論には役立たない。
>>974 自由というとどういう状態が自由なのだろう?
私は経済的自由ならもっと合理的にシステム設計が可能であり得るし、それを試みたい。またはできる人を探したいと思っているが。
977 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:23:57.93 0
>>975 独占が剰余価値発生ではなく、搾取の再分配だとは考えにくい。もしそうだとしてどういうメカニズムでだろう。確かに資本論と比べると雑学的意味合いの資本メジャーの資本メジャー歴史だが少しかじっただけで
資本論とはまるで違うのだが。
会計学をマスターしたらもっとはっきり示せると思うが残念ながら勉強中だ。
978 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:25:53.34 0
仕事自体不自由なもんだししたくないこと大半 だからこそ資本主義共産主義以前に権力や管理が必須 仕事に上意下達の命令系統は必須だしな 金銭欲、出世欲という主体性に期待し社会貢献に接続するのが今の経済 それを完全否定してやりがい 事故実現 社会貢献とかいったところでサボるやつばっかになるのがおち それが自由だろうか アダムスミスの指摘は的を得ている
低賃金労働というものがある。 低賃金労働は不合理で、恐らくは誰しもがそれを改善すべきであると考えるはずだが、しかし現場においては全員その思いとは逆の意思を持っているかのように振舞わざるを得ない。 つまりは低賃金労働の依存、鎖から抜け出す事が出来ない。 何故近代においてその様な事が起こるのか。 資本があるからだ。 しかし資本を廃棄してしまえ、というのは強引に過ぎる。 その強引さから距離をとるためには、経済学批判、唯物論、世界同時革命というトリアーデが必要になると思う。 つまりアダムスミスを読み替えることで、自然に革命を成立させる。
新古典派的賃金決定の理論を変更して、どういう理論が成立するか。
981 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:33:51.38 0
どうもこのびんたんという専ブラ書きにくい。読みにくいのはご容赦。
>>978 アダムスミスの意味でも現在が理想状態ではない。つまり夜警国家を考えても搾取という盗み。わかりやすいところでは労基法違反が取り締まられていない。
私の改革案の主軸はこの労基法違反をグローバルに取り締まり、アダムスミスの意味合いでの自由を確保することだ。
それと日本は転職システムが不自由。そこも改める。
確かに問題は労働市場だよなあ・・・
983 :
980 :2014/05/03(土) 22:38:07.12 0
大分でたらめを言ってしまった。
984 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:38:23.41 0
革命など必要ないし、仰々しい思想も必要ない 不完全ながら基本的に市場にゆだねるしかない なぜなら人間自体が不完全で、欲深い存在だからだ 全員が聖人なら共産主義が理想であり、うまくもいくだろう。 ただ、問題は雇用契約自体が自由契約のていをなしにくい代物だということだ だからこそ組合、法律等で補正する必要があるしそうしてきた(修正主義) その補正が十分か、不十分か、時代にあってるかあってないかという議論に尽きるはず実践的には。
985 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:38:58.20 0
>>979 フェアトレードという運動をご存知だろうか。私は工業品の認証フェアトレードを早急に作りそれをグローバルスタンダードにすれば、低賃金に歯止めがかかり資本主義内での改革が可能だと思う
986 :
980 :2014/05/03(土) 22:39:55.67 0
評判が良さそうなので Introduction To Modern Economic Growth Daron Acemoglu を購入してきた。 これから読む。
987 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:43:59.38 0
マルクスは剰余価値のアイデアだけ取って、 あとは捨ててよい。 自由契約と議会による立法、これしかどうしようもない。 そして、不自由な契約、ゆがんだ立法過程を補正する。 労基法違反に関しては匿名で社員が告発するしかない。 行政はわいろもらってさぼってるわけでもつるんでるわけでもない。 世界中の全零細企業の一挙手まで監視するのはコスト上無理だろう。
988 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:48:03.27 0
転職システムが不自由なのは微妙な問題。 正社員の解雇がそうそうできないという解雇権濫用禁止の法理、労働者保護政策の裏返しであり、 労働者が他の労働者のクビをしめているだけなのだ うちの会社は組合もなく、雇用も不安定な代わりに、中途採用の転職組は半数以上だ。 転職で入りやすいよ(笑)
進化経済学と関係ありそうな古典の有名どころは、 マルクス学派、ヴェブレン、シュンペータ、オーストリア学派、カレツキ、ケインズ、ポランニー等々かな。 制度学派と進化経済学との関係も深いね。
990 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:50:44.21 0
>>986 マクロは斎藤他で止まってる。ローマーや洋書も読まにゃなあ。道は遠い。
>>987 行政による取り締まりだが労基署の警察並みの組織化、犯罪並みの労基法の国際取り締まりを目指している。タレコミ、抜き打ち検査など。
まあ十割はダメだろうが七割くらいとりしまれればいいかな。
991 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:53:34.22 0
京大の理系の博士課程を中退した20代後半の俺が入れる会社は ここしかなかったわけだ。 周りにはそもそも大卒自体少なく、高校中退者が多い。 でもかれらとは同い年でも仕事のキャリアからして10年くらい差があり、 俺は彼らの部下として働き続けるわけだ。 不思議な感覚ではあるが、これは日本だから起こる事象なのか、よくわからない。
992 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:56:03.18 0
>>988 そうだねえ労基法含めバランス良くしないと怖いかもね。納得。
>>989 そうだね制度学派特に新制度学派の比較制度分析なんかは進化ゲームを使って限定合理性という意味で近いところがあるね。
993 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 22:57:10.90 0
>>990 というか、組合を通じてタレこみやらないと個人では無理だ。
だが組合結成は無理なんだよ。うちはオーナー起業だから。
抜き打ち検査はありだな。
そういう意味ではやらない行政は甘いね。高度成長期に見て見ぬふりしてきた名残かもしれんな。
>>976 マルクスの場合、自由とは「労働からの解放」を意味している。
特に生存・生計の必要に迫られ、適応的に強いられる労働からの解放。
そこに自由への最初の「入り口」があるというのがマルクスの考えだった。
995 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 23:05:35.30 0
>>991 アメリカとかだと博士いったらいい職とかあるよね。俺も日本も取り入れるべきだと思う。
>>993 ノンキャリ国家公務員から聞いたんだがそいつは一番就職の多いところで、一番少ないのが労基とかなわけ
比率的には50対2だって。それだけ力抜いてればダメだよ。労基署がタレコミやぬき打ち検査をやって、予算も人員も警察並みの組織にしないと、今はグローバル化してるから労基法もグローバル化しないとね。そうすれば多分何か良くなると思う。
>>994 資本主義のもとでの疎外された労働からの解放、な。
対照的に、ケインズには、労働から解放されると人びとは退屈で精神を病んでしまうだろう という発想があるね。 だから労働をシェアしてでもなんとか完全雇用を目指さないといけないというのがケインズにはあった。
998 :
考える名無しさん :2014/05/03(土) 23:09:23.28 0
>>994 それはよくわかるけど具体案がないよね。それがマルクスの弱いところ
>>996 労働そのものからの解放に近いよ。必要労働・生存労働からの解放。
共産社会は原始共産制に戻ることじゃないからね。
1000 :
せんこ ◆ALDuc1GHMs :2014/05/03(土) 23:12:21.56 0
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