1 :
考える名無しさん :
2013/03/28(木) 11:10:02.50 0 カール・ハインリヒ・マルクス
(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)
1818年 プロイセン王国トリーアに生まれる
1836年 検事総長の娘イエニーと婚約
ボン大学、ベルリン大学、イエナ大学に入学
1841年 イエナ大学への学位請求論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』により哲学博士
1842年 ケルンで創刊された「ライン新聞」主筆を務める(翌3月失職)
この頃フリードリヒ・エンゲルスと出会う
1843年 イエニーと結婚
パリに移り『独仏年誌』出版
1845年 プロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけでパリから追放され、ベルギーのブリュッセルに移る
1846年 ブリュッセルでエンゲルスとともに「共産主義者同盟」の結成に参画し『共産党宣言』を起草
1848年 フランス二月革命のため夫婦とも警察に抑留され、パリにもどる
1849年 エンゲルスの招きに応じてロンドンに亡命
1851年 ニューヨーク・トリビューン紙特派員となり、1862年まで多数の記事を寄稿
ロンドンで結成された第一インターナショナルに参加
1867年 『資本論』第一巻刊行
1871年 パリ・コミューン
1881年 妻イエニー逝去
1883年 ロンドンで逝去(65歳)
1850年から亡くなるまで毎日大英図書館に開館から閉館まで通っていたといわれる
1889年 エンゲルスにより『資本論』第二巻編集・出版
1894年 エンゲルスにより『資本論』第三巻編集・出版
前スレ カール・マルクス 3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1357016648/
2 :
考える名無しさん :2013/03/28(木) 17:35:47.58 0
かわいそう
何がw?
4 :
考える名無しさん :2013/03/29(金) 15:01:40.68 0
現代に於けるマルクスの在り方を、「マルクスの思想」と「マルクス主義」を大別して、人間疎外(人間性)を 視点として、その意義を再検討をする必要がある思う。つまり、マルクスの思想は、デカルトから 始まり、ヘ−ゲルからフォイエルバッハを基点としてマルクス主義としての弁証法的唯物論が形成されて行く。 この思想的流れの中で、マルクスが一貫して継続したのは、「人間疎外(人間性)」であると思う。この人間性は、 フォイエルバッハの影響が大きい。現代に於けるマルクスの思想を、フォイエルバッハの「私と汝」論理を基点として 再構築することは大きな意義があると思う。ヘ−ゲル観念論を、コギトを物質に置き換えた「弁証法的唯物論」の論理的な 限界にたいする再検討、それに併行して「人間性」の再検討と再構築が、今、求められている。
フランス国旗掲げマソと中核派ってどうちがうの
貨幣は「与えたものに見合うものを受け取る/受け取ったものに 見合うものを与える」という約束が一般化されたものに過ぎない。 この基本さえ押さえておけば、経済学者が広める偽の議論に 騙されることはほぼなくなる。真の意味で経済が成長するとは、 人々の間の協力関係が成長することに他ならない。
勿論人間の協力関係は大事ですよ
国の経済は、野球やサッカーのチームとは違う。 野球やサッカーのチームが強くなるためには、チーム内の協力関係 だけでなく、チーム内のメンバーの競争も大切である。だが、 スポーツのチームと違い、国の経済ではベンチ入りできない 選手の移籍先となる別のチームも、別の職業の選択肢もない。 競争のために協力関係を犠牲にすれば、試合に全くでない し、練習する意欲さえない、腐りきったメンバーをチームに 抱え込むことになる。
ボカロを愛でる派 ↑(敵視) ボカロを崇拝していて盛り上げる派 愛でる派を崇拝派は敵視しているが バレたくないので至るところに潜伏をしている 例:アンチスレ、代行スレ 「ミク厨」を都合がいい隠れ蓑にしていることも分かっている 「スレ住民」の分析をはじめると潜伏がばれる事への恐れから 勢いで流したり誤魔化そうとする 「このスレには仲間がいる」と確信したスレでは常套手段で押し流す
11 :
考える名無しさん :2013/03/31(日) 20:28:53.40 0
age
マルクスを支持するかしないかの基準は、経済的な価値が労働によって生まれるのか、それが違うのか、ということにつきるかも知れないと思ってる。 ただ、労働以外の価値が生まれる根源を提示した人を知らないんだ。
マルクスは、資本主義を歴史上もっとも革命的な経済システムと見なしていました。 彼の革命理論は、資本主義がもっている革命的な性格が旧い社会システムを次々に 破壊していき、新しい社会を作り上げていくだろう、というものです。 資本主義は自らを常に革新しつづけなければ生き延びることができない経済システム であるというのです。そのことをマルクスは見抜いていたのです。 そしてこの資本主義の革命的性格こそが、最終的には人類を共産社会へと半ば 必然的に導いてゆくものだろう、とマルクスは考えたのでした。 マルクスの革命理論では、資本主義を廃止して共産社会をつくるのではありません。 資本主義の発展の最終段階に共産社会が訪れることになっているのです。 共産革命とは資本主義の発展の別名にすぎません。資本主義の歴史それ自体が革命史なのです。 資本主義を廃止して共産社会をつくろうとすることは空想的社会主義だとされたのです。
>>13 いつも同じこと書いてるけど、まるで違うよw
マルクスを語るなら「資本論」を読んでからにしてくれよ。
15 :
考える名無しさん :2013/04/01(月) 12:24:19.46 0
>>13 資本主義の革命的な性格が、最終的には人類を共産社会へと導いて行く。
当時の社会状況は、マルクスが分析した方向性を指し示していたのであろう。しかし、
現代の経済システムの発展は、マルクス当時とは、大きく変遷している。例えば、新自由主義の
導入により、市場原理主義の強化、徹底した公益性の排除、又、徹低した金融工学の、経済システム
への導入。経済を中心とした「自由」は、一方では、「人間性の疎外」となって現出している。
マルクスが、目指した「共産社会」とは人間性と経済との調和のとれた「共生としての」社会構造では
なかったかと思う。従って、現代の経済システムに対応した、従来のマルクス理論を越えた人間性と経済の
「共生社会」を基底とした論理の再構築が求められている。
17 :
考える名無しさん :2013/04/01(月) 19:18:20.32 0
w
18 :
考える名無しさん :2013/04/02(火) 16:28:15.74 0
age
19 :
考える名無しさん :2013/04/02(火) 18:09:42.13 0
>>13 を読むと、修正資本主義がマルクス史観を反証したというのは嘘っぽいな。
20 :
革命的名無し :2013/04/02(火) 21:19:42.71 i
「コミュニズム」は、「コミューン主義」(共同体主義)」、ルソーに遠く共鳴するもの、 とする理解は斬新だった。「共産」の訳語よりも、「共同体」を強く意識する「共生」、そう 「共生主義 」とでも、名実ともに命名し直したいな。
21 :
考える名無しさん :2013/04/04(木) 03:02:23.11 0
今のアベノミクス見てると人類はマルクスの考え云々以前に自分の 責任と裏腹の自由という意識を持つ勇気さえ無く,ただカネというカミの 前に踊らされる極めて全体主義に弱い動物なんだなって思う… ぶっちゃけアベノミクスは一種の現代版ヒトラー内閣でそれがソフト に失敗しつつある事を物語っているだけな希ガス…
官僚と財界の操り人形に選択権はないからな 持論は美しい日本という抽象的観念だけでそれ以外はただ原稿よんでるだけだし やることは閣僚がきめてるだけ
24 :
考える名無しさん :2013/04/05(金) 08:14:17.41 0
黒田節 札は刷れ刷れ 乞食スレ
25 :
考える名無しさん :2013/04/05(金) 13:49:56.73 0
いくら「札」を刷っても、銀行が膨れあがるだけではないか。問題は受け皿となる国内の、 潜在的な企業力が拡大しなければ意味がない。つまり、海外企業の転出と、国内企業の、 バランスこそ「重要な支点」であると思う。海外転出に活路を見出そうとする国内企業の 苦しい情況は、官僚そして政府は痛いほど分かっているはずである。現況に於ける最大の問題点は、 中小企業を主体として、国内企業の「潜在的な企業力」をいかに付けるかであり、その「潜在的企業力」と 海外転出企業とのバランスを、舵取りすることが、今、政府に一番、求められている事ではないであろうか。
地域のインフラを整備するためにも 地域金融に地域への一定規模の融資を義務付ける地域再投資法が必要 ベンチャー企業の社長だって「地域」で子どもを育てるのだから
>>26 それ、田中角栄がやったと。
金融への義務づけとかじゃなくて、公共事業として。
その原資は法人税と富裕層への所得税。
その税率を大幅に縮小させたから、いまの赤字と中流層の没落がある。
効果的な投資先や融資先を役人は判断できなくなっているから 公共事業は結局無駄になる 足で稼ぐ地域の銀行マンが顔の見える取引をする必要がある
>>28 そういう金儲け優先の投資の結果が現在だよw
地域でお金が回るようにしないから今の社会がある
>>30 地場産業というものが本質的に成り立たないのが資本主義経済。
利益を確保するための生産効率が優先されるほかはないから、規模の拡大と一極集中になる。
地域で金を回す、なんてことは資本主義を変えない限り不可能。
ちなみに、優良企業の株の4割ぐらいはすでに海外投資家のもの。
傘下の日本法人によるものを含めれば、半分ぐらいになるかも知れない。
メガバンクですら3分の1程度は国外株主だ。
これが資本主義日本の現在。
個人的に変えたければ、ヤマギシ会的な農業生産を中心とした自給生活に近づけるほかはない。
その意味で、プルードンの主張した農工連合が見直されるべきだろう 工業とまではいかなくても加工までやっている農家は今の日本でも自立している エネルギー自給は技術的に可能だから後はそれを逆回転で支える貨幣システム が必要 ゲゼルの減価貨幣はカレツキの理論を介在させればマルクスの理論と相反しないと思う
>>32 プルードンだのゲゼルだのってw
柄谷の受け売りをしてもしょうがないだろ?
柄谷だって本気でプルードンなんかを再評価したいのかどうかわからない。
時代に合わせて変わるものだとかいう、彼のマルクス理解だって怪しいものだしね。
「ユートピア社会主義」って要するに「社会工学」「経済工学=計画経済」のことでしょ。 その意味のユートピア社会主義批判はハイエクに近い面もある。 ま、エンゲルスや初期のマルクスは社会工学にある程度の期待をもっていたようだけど。
35 :
考える名無しさん :2013/04/06(土) 01:42:27.04 0
>>34 マルクスもエンゲルスも、完成した形の社会像は描いてなかった。
夢描いたようなものはあるけど、具体的ではない。
2人が強調しているのは、現実変革への絶えざる行動。
どうすれば資本主義という貨幣を神とする社会を人間の手に取り戻せるのか、ということが最大のテーマ。
36 :
考える名無しさん :2013/04/06(土) 15:55:23.73 0
>>35 現代社会の混迷の最大の原因の一つが、この「貨幣を中心」とする考え方である。
マルクスの究極の目標は、「人間性」と「経済」との調和であり、今日の社会に最も
望まれていることである。
37 :
考える名無しさん :2013/04/06(土) 16:13:39.25 0
>>35 つまり、彼らが世間で流布されているような
首尾一貫した計画経済=社会工学論者であったならば、
具体的な社会主義経済システムの設計像づくりに
その知力を最大限向けたはず。
しかしその点にはマルクスもエンゲルスも極めて慎重で、
そういう設計主義自体をユートピア社会主義と名付けて批判している面さえある。
要するに彼らのいうユートピア社会主義とは、
現行の社会システムに代わる理想のシステムを綿密に計画設計し、
それを現行システムの改良案として提示していく考え方のことで、
そういう試みに対してそれなりに理解を示しながらも
一定して距離を保ったところに本来のマルクス主義があったように見える。
現代の分析的マルクス主義は、その意味では本来のマルクス主義を棄ててしまい、
ユートピア社会主義に回帰しているところがある。
マルクスとエンゲルスは、少なくとも彼らが生きている歴史段階においては、 経済システムを設計しようとする計画経済的試みは実現不可能で現実には実を結ばないと 考えていたように見える。 その段階の資本主義システムには計画経済は適応的でない、不釣合いだ、と。
39 :
考える名無しさん :2013/04/06(土) 22:31:41.06 0
マルクスとエンゲルスの著作から導かられる『正しく読んだであろう』 結果の共産主義は無理。なんせ労働=自然とのやりとり=自己が自然で ある事の確認行為としておきながら,一方で『労働者は今日はこれを やり,明日はこれをやり,私的生産様式の元で強制される分業はする 必要な事が無くなる』と言っている(ゴーダの簡略)。そりゃまさに 労働では無い。一方でスミスばりの分業がより生産性を上げると のたまわっていると言ってるから困ったもんだ。一番近い形は狩猟 採集時代かなw。キリストが農業を堕落の始まりと言っていたのと これ又不思議に一致している。しかし亜減ノミクスのような強度な 『資本主義的生産様式』に生きるはずの我々には非常に困ったもので 有る。国家が市場にプレーヤーと同一の動きをしてきて最早これを 恣意的な計画経済と言わんとして何というかだ。
40 :
考える名無しさん :2013/04/06(土) 22:31:55.33 0
プルードンだのゲゼルだのってw
>>39 >著作から導かられる『正しく読んだであろう』結果の共産主義
というのは、
>>35 に書いたこと。
共産主義社会なるものの完成形があるわけではない。
ゴーダ綱領批判は、あくまでもゴーダ綱領に対する批判であって、その中に人間本来のあり方という夢をちりばめただけのもの。
マルクスがゴータ綱領批判で示唆した資本主義の混合経済段階の共産社会でなら、 プルードンやゲゼルの考え方が有効である気がする。ケインズが評価したように。
43 :
考える名無しさん :2013/04/07(日) 17:53:08.08 0
AGE
44 :
考える名無しさん :2013/04/07(日) 21:31:46.82 0
降旗節雄って優秀?
細部はもうどうでもいいんじゃないかという気がする
宇野弘造の経済原論で理論的には九割くらい完成している気がする それを使って何かやるべき事があるような気がするんだけど マルクス主義の本質というか最優先事項、ファーストプラオリティて何ですか? その優先順位の整理をというのができていない気がする
47 :
q :2013/04/07(日) 22:12:05.01 0
課題に順位をつけて大事なものから順に片付けていくという感覚が希薄なような気がする だから外から見ていると何をしているのか、何をしたいのというのがいまいち良くわからなくて混乱する
最優先は赤旗を読んでもらうことです
>>46 宇野は、マルクス経済学の根本が労働価値説にあるということを理解していないんじゃないか?
資本の増殖とそれによる生産過剰の循環しか見ていない、といったら言い過ぎかな?
宇野−梅本論争は、経済学の中で労働者の主体性を認めるかどうかみたいなまとめになっているけど、根本はそこに労働による価値の創出の捉え方の違いにあった気がする。
商品の価値は労働によって創出されるが、その価値が社会経済として実現するのは貨幣と交換された場合においてのみだ。
社会の中で実現されなかった価値は、負の価値として社会に働くから労働力以外に自分の生活手段を持たない総体としての労働者が、その負の価値をすべて引き受けることになる。
だから、労働者は恐慌とともに生存をかけた戦いを始めるほかはない、というのが梅本の言いたいことだったんじゃないかと思う。
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51 :
考える名無しさん :2013/04/08(月) 15:54:21.88 0
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>2013年秋を予定 全文検索が完成するまで待つか、早く登録して持ってないものを読むか、難しいところだな。 どちらにしても、出版社の努力に敬意をはらいたい。
労働価値説も理解出来ない者がマルキストにいるとはショックだな
55 :
考える名無しさん :2013/04/12(金) 15:29:34.90 0
お前らガン( ゚д゚)ガレ
56 :
考える名無しさん :2013/04/14(日) 08:22:01.44 0
なんでこのスレ盛り上がらなくなったの?
>>56 マルクスの資本論は正しかったということが、現実社会で日々明らかになっているから。
58 :
部外者 :2013/04/16(火) 07:47:03.29 0
>>54 価値形態論の重大性を無視してきた自称マルキストは山ほどいる。
因みに俺はマルキストではないし、かなり距離を置いてるが。
59 :
考える名無しさん :2013/04/16(火) 10:06:58.61 0
中沢新一は晩年のなお反原発を批判する吉本隆明に対し やんわりと量子力学を知らなかったマルクスの限界を指摘している。 しかし吉本はそうではないはず。 もしマルクスが生きていたら吉本と同じく「もし原発を放棄したら人間は猿に戻る」と言うのか? その辺はどうなの?
>>59 >量子力学を知らなかったマルクスの限界
どういう論旨?
61 :
考える名無しさん :2013/04/16(火) 10:56:32.22 0
全集のオンラインかあ。 年間12000円って微妙だね。 CDROM版の出来があまりよくなかったってきいてるので、 精度を確認してからにしよう。
>>59 言うと思う
というよりそういう企ては所詮失敗するみたいな言い方だと思うけど
>>62 言うわけないだろ?
というより、マルクスは自然科学の発達を肯定的に見てはいても、自然の中の人間という位置づけから離れたことがない。
物質自体のエネルギーへの転換という、ある意味もっとも反自然、反人間的な科学の実用化を社会的に当然だとする感覚はないだろう。
必然的に進んでしまった資本主義経済への歴史を、根本から変革しようとしてるんだから。
64 :
考える名無しさん :2013/04/17(水) 17:58:55.85 0
(マルクスが)量子力学を知らなかったというのは、観察者が観察対象に対し無意識のうちにいつのまにか影響を与えること。 マルクス自身は客観的な観察者として資本主義を分析した。 しかしついにその資本主義に自分が与えた影響を見る事無しに死んだ。 大雑把にはそう理解している。 吉本隆明はそのマルクスの<進歩史観>を最も正統的に受け継いだ一人だ。 中沢新一の吉本批判(擁原発)は「ユダヤ教的一神教」から派生した<進歩史観>批判としては当然のことだ。 中沢らが<労働>の概念の前に<贈与>を置く。 これまた当然のことではないか?
65 :
部外者 :2013/04/17(水) 18:40:04.24 0
>中沢らが<労働>の概念の前に<贈与>を置く。 これまた当然のことではないか どう当然なのかよく分からない。 中沢は内なんとかいう猿みたいに軽々しく「贈与」という言葉を用いてはいないが。
>>64 >観察者が観察対象に対し無意識のうちにいつのまにか影響を与える
これはマルクスのもっとも基本的な考え方。
だから資本主義社会では貨幣の物神化がおきる。
それを現実社会に適用しようとしたレーニンは、それを打ち破るために前衛が必要だとする組織論を構築した。
人は現実社会の中で生きているので、その社会からの影響は必ず受ける。
弁証法というのは、そうした見方でもある。
マルクスは当然のこととして論を進めているが、その論理の説明は、エンゲルスがとてもわかりやすく書いている。
吉本の原発擁護は、はっきり言えば耄碌してからの戯言。
原発擁護の根拠は専門家でもない大前研一の原発レポートにある。
それ以前の吉本では、そんな根拠の薄弱なものから何事かの結論導き出すことはなかった。
マルクスも吉本も、経済社会的な歴史の流れとしての段階を想定しているので、宗教的(国家的)な段階とは明確に分けられている。
マルクスに脱原発の鍵となる自立分散型社会への視座はない。 終生政治的理由により、自立分散型志向のアナキズムを抑圧したからだ。 リービヒ経由で循環型農業の知識はあったとは思うが。 吉本は戦中派の物理学崇拝(物理学科は徴兵を免れ得た)を引き摺っ ていたが(呆けて回帰しただけかも)、 そもそも原発は原理的にはお湯を沸かして発電するだけで旧式の熱効率の 悪い技術だ。 認識が足りないのである。 また、マルクスの言う「物質的な生活諸条件」は量子力学的なものではない。 マルクスは弁証法を信じているから自らを産んだ諸条件を捨象してしまう。 彼のプルードン批判やデューリング批判がその代表例だ。
>>67 全体になに書いてるのかよくわからないんだが、いくつか確かめてみたい。
自立分散型社会とはどういうもので、それが脱原発の鍵となる理由はなに?
自らを産んだ諸条件を捨象してしまうというのは弁証法ではないと思うけど?
プルードン批判はマルクスだけど、デューリング批判はエンゲルスじゃないの?
おまけとしては、吉本隆明は物理じゃなくて化学だったんじゃないの?
最終的には応用化学で就職してるようだし。
>>59 > もしマルクスが生きていたら吉本と同じく「もし原発を放棄したら人間は猿に戻る」と言うのか?
マルクスなら、原発で働くプロレタリアートの心配をして、
それを賃労働の疎外的な側面としてクリティカルに描いたんじゃないかな?
資本主義を鋭く批判的に見つつも、その歴史的な不可避性を肯定するという矛盾を
マルクス主義はそのまんま体現した言説になっている。批判的合理主義観がある。
批判的という側面を消し去ったら、保守主義の言論に堕落しちゃう危険性をもっている。
そこにスターリン主義が忍び込んでくる。
マルクス主義のなかにある進歩主義的な史観はそれ自体極めて保守的な近代主義と裏腹で、 それへの批判的な言説を棄て去ったら完全に保守主義に組み込まれてしまうものだと思える。 機械がテクノクラートという技術ブルジョアに牛耳られているという批判意識を棄て去ったとたんに 完全に保守主義に絡めとられ、下手をすればファシズムと変わらないものになってしまう。
>>64 その観点は重要だと思う。
マルクス主義は一般にイデオロギーの影響力を軽視するような、
素朴な経済決定史観と考えられている。
同時に
>>66 さんの反論にも一理あると感じる。
というのは、私も弁証法を
>>66 さん流に理解していた面があるから。
それに対する
>>67 さんの更なる反論↓についてもっと詳しく知りたい気がする。
>>67 > マルクスは弁証法を信じているから自らを産んだ諸条件を捨象してしまう。
> 彼のプルードン批判やデューリング批判がその代表例だ。
この部分。
72 :
考える名無しさん :2013/04/18(木) 18:12:21.39 0
マルクスが量子力学的観点を知らなかったというのは如何なものかと… マルクス自身,その『物質的諸条件に基づいて表現された意識による行動が それ自身又社会に対して影響を与える』と言ってるのだから(出典さっぱり 解らん。エンゲルスだったかもしれん。ただしエンゲルス自身は『自分達の 思想も歴史的にいずれ変化しうる』と完全明白に述べているから,ある意味 観測者の立ち位置と観察物の動きを同時に決定する事は不可能であるという 意味で(何故なら観測者自身何かしらした瞬間,観察物は影響を受けるから) 量子力学的観点から外れていたか?と言われるとそうでは無く,寧ろ近いように 感じる。
主客二分法が当然だった自然科学界では量子力学の命題は衝撃的だったんだろうけど、 社会科学の世界ではそれを考慮せざるをえないのは初めっから当たり前のことだからなあ。 古くからあった哲学的な命題である観念論をマルクスが知らなかったはずもなかろうし。
74 :
考える名無しさん :2013/04/18(木) 23:13:19.96 0
マルクスは言っていることとやっていることが違う 経済決定論をとなえつつやっていることは政治的なライバルへの中傷、暗躍 ゴータ綱領批判はいいが具体的なことはやっていないし他人を批判するだけ 二度目が喜劇なんじゃなくて見ようによって変わるのだ ブリュメールなどは他人事だから喜劇にできる 「哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を 変えることなのである。」 この言葉より以下の言葉の方が深い 「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、 観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬ…」 ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉(『因果性と相補性』岩波文庫191頁) 小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁より
>>74 >政治的なライバルへの中傷、暗躍
具体的には?
ボーアの言葉というのは知らないが、その言葉がなぜ深いと思うの?
吉本なぞどうでもいいよ。 マルクスを理解するのに吉本は不要。 てか、邪魔なだけ。
77 :
考える名無しさん :2013/04/19(金) 09:58:11.00 0
吉本(というより先人)にもっとこだわれよ。 マルクスだって活動家時代を知っている支援者辺りから『資本論』を出版した時点で 何だこんなわけのわからないもの書きやがってとうとうマルクスも耄碌すたなぐらいの 陰口を叩かれていたに違いない(たぶんきっと)。 吉本も『共同幻想論』辺りからそれが始まったといえなくもない。 しかし3・11以後の「原発論」は耄碌というより自己の思孝に忠実だったといった方がいい。 耄碌というよりは頑固だな。 そこはマルクスも同じ。 たまには先人の骨を拾ってやれよ。
>>76 吉本隆明は、マルクスの理解には不要かも知れないが、邪魔ではないよ。
79 :
考える名無しさん :2013/04/19(金) 10:28:58.90 0
最近の金の暴落とアベノミクスとマルクスの理論の関係について 考えていんだが,いまいちしっくりしたこれぞ,という理論的な 筋道見いだせないんだよな。ただし,アベノミクスは札は刷るが, いずれ過剰生産分とその暴力的廃棄という意味で最終的に日本に 致命傷を与えうるだろうという予感はする。
>>79 金が、ある意味で固定した価値を持っていたのは、金融商品としてではなく、基準商品(貨幣)としての名残があった時代まで。
たんなる金融商品としてみれば、金は実体経済上の消費量がさほど変わらないので、成長経済化での価格は相対的に低下する。
株高を期待して資金が動く、金価格の水ぶくれ部分の縮小だろう。
銀行等への資金の提供が、実体経済に反映するためには、消費の拡大がどうしても必要。
つまり、一般大衆の収入と購買意欲の増加が必要。
イメージ戦略だけでも購買意欲は多少強くなるだろうが、一般大衆の将来的な安定を考えあわせた大きな購買意欲の増加は、安定雇用によるほかない。
もちろん実際に希望のものを購入できるだけの収入の増加は不可欠だ。
そう考えると、生活必需品のインフレに終始して、過剰生産にすらならないのではないかという気もする。
81 :
考える名無しさん :2013/04/19(金) 11:57:24.90 0
まあじゃあインフレに見合うだけの所得を得られない事による需要不足 と言い換えてもいいかも。資本はその蓄積自体が主目的だからとても 単なる株高での保有『架空(=膨張)』資本を労働者に素直に渡すとはとても思えないw。
ニートは資本も労働も超えた存在
>>82 ニートは資本家と同じ。
他人の労働に依存してる。
84 :
淀屋橋ハニワ :2013/04/19(金) 20:54:39.00 0
にーとは、新世界のパイオニア はーとは愛 はとはひっこし
85 :
考える名無しさん :2013/04/20(土) 17:23:47.37 0
資本主義社会ではニートはプロレタリア階級においてのみ問題にされている。 なぜなら資本主義にとってプロレタリア階級がプロレタリア階級を再生産することは 必要条件だからだ。 ニートはその再生産構造を崩す分子としてブルジョアイデオロギーには映るはず。 プロレタリア階級にとっても、彼らが自らの労働力しか売るものがない現実を改めて 見せつけられるのがニート問題でもある。
>>85 残念ながら、資本主義社会にとってはニートはたんなる失業者と同じ。
経済的にも文化的にも、その存在自体としてはなにも生み出さない。
個人としてみた場合は、ニートというのは恵まれた立場にあるのだから、消費の一部としてだけではなく、文化の担い手にでもなるつもりで勉強することが一番いいと思う。
文化は、いつの時代でもニートが育ててきたとも言える。
京都の駅はルンプロにやさしいのであった
吉本は単なる耄碌ジジィに過ぎない。
>>86 失業者というのはプロレタリア階級の再生産構造の中に積極的に服従しようとするように
うまく調教されているまさしくプロレタリアートとして条件づけられた主体だけども、
ニートになるとそのイデオロギーの再生産秩序が崩れてしまっているんじゃないか?
だからブルジョア社会の秩序にとってニートが問題になる。
例えば、資本主義の黎明期に資本主義がなかなか成功しなったのはプロレタリア階級に 労働力秩序(労働倫理)がしっかりと叩き込まれていなかったせいだとも言われている。 マックス・ヴェーバーあたりがそのあたりの実証データを根拠にして資本主義が労働倫理を プロレタリア階級にイデオロギー的に叩き込むことでやっと成立できたと論じているのは有名な話。
>>89 ニートと失業者には、そういう違いはあるだろうね。
ニートが増えれば、労働人口が減少して賃金が上がるからね。
もっとも実際には、女や国外労働者の導入で人数面からの賃金低下の圧力を強めるだけだけど。
>>90 黎明期に資本主義がなかなか成功しなった、というのは、具体的にはどういうこと?
92 :
考える名無しさん :2013/04/21(日) 12:41:06.00 0
マルクス“葬送派”というのがあったがマルクス“耄碌派”というのがあってもいい。 ところで吉本の「アフリカ的段階」はもっと注目されていい。 思想家というより詩人の直感によるデッサンみたいなものだが。 マルクスによる「アジア的生産様式」の概念は「アジア的停滞」というオリエンタリズムだ。 マルクスその人までとはいわないがその後の西洋マルキシズムの限界を露呈している。 その代表例が日本共産党の「先進国革命論」。 「マルクス的停滞」そのものだ。 “赤い資本主義”に先立つ(自民党による)“青い社会主義”のひとつでも筋だった説明をして欲しいものだ。
資本主義というのはその黎明期というか萌芽期というか、 その初期の段階でかなり産みの苦しみを経ているらしい。 それに、成立してからもそんなに成功をおさめていなかった。 資本主義が本当に経済的豊かさをもたらしたのは フォーディズム以降だという話がある。
>>93 フォーディズムという言い方をするなら、資本主義はそれが前提だろ?
大量生産が可能になった産業革命が資本主義をもたらした。
フォーディズムは大量生産のことじゃないよ。需給の拡大をもたらすシステム上の好循環のこと。
マルクスが分析したような資本主義の欠陥を補正するようなシステムが成り立ったときに 資本主義は飛躍的な経済発展を世界にもたらすようになった。 日本が幸運だったのは丁度その波に乗れたことだろうね。その点、中国は損をしている。 それまではいろいろと欠陥も多くてガタガタだったんだよ。それほどうまく回っていたかった。
>>95 それじゃ意味をなさない。
好循環と悪循環を繰り返すのが資本主義。
マルクスが分析した資本主義のイロハ。
>>96 欠陥が多いんじゃなくて、それが資本主義の原理そのもの。
日本の発展は、資本主義を社会主義的に修正したことによる。
日本はその修正をやめたから、経済破綻をきたした。
中国は別に破綻してないようだが。
98 :
淀屋橋ハニワ :2013/04/21(日) 16:36:18.57 0
外国資本があるから破綻しないが 月みたいに人が住めなくなるかもな
99 :
淀屋橋ハニワ :2013/04/21(日) 16:38:48.62 0
資源がたくさんるし欧州ぐらい充分養える
100 :
考える名無しさん :2013/04/21(日) 19:09:20.48 0
>>97 フォーディズムってのは一種の社会主義だと思うけどね。
おっしゃるとおり、資本主義を社会主義的に修正したのがフォーディズムの功績かと。
>>100 フォーディズムの定義の問題だね。
人によって使い方が違うようだ。
102 :
考える名無しさん :2013/04/21(日) 21:51:48.13 0
>>101 そちらはどう定義していたわけ?
マルクスの資本主義分析では、資本主義が発展してもサラリーマン家庭はますます困窮するし、
サラリーマン家庭が自分の子を将来サラリーマンに再生産できる最低限の経済的再配分しか実現
しないだろうってことになっていて、初期の資本主義はマルクスの分析したとおりだったようだけど、
フォーディズムがそれまでの資本主義の常識を塗り替えていったわけで....
そのフォーディズム以前にロバート・オウエンによる前例となるモデルがあったことを考えると、
フォーディズムはそれを引き継いでいるという意味では、社会主義の要素を資本主義に取り込む試み
だったとも言えなくはなかったのでは?
>>97 > 好循環と悪循環を繰り返すのが資本主義。
> マルクスが分析した資本主義のイロハ。
それは好景気と不景気のことでは?
フォーディズムにいう好循環とは概念が違うよね。
>>102 ただの生産システムの合理化。
消費拡大策までフォーディズムとする考えもあるのだろうが、現在の先進資本主義国では、社会主義的なそれは破棄されている。
あるいは破棄の方向に進んでいる。
その見返りとして、消費の拡大を国家の財政出動に頼るから、各国とも国債の発行が欠かせなくなっている。
自転車操業だ。
結局、マルクスが分析した原理的な資本主義に回帰している。
今後の先進資本主義国は、経済破綻を社会主義社会への変革のきっかけとさせないために、旧態依然たる戦争による解決を選ぶのかも知れない。
>>104 > ただの生産システムの合理化。
生産システムの単なる合理化ならテイラー主義とかフォードシステムと言われるよ。
フォーディズムと言ったときにはグラムシやレギュラシオン学派の認識にもとづいていて、
被用者側にテイラーシステムを受け入れてもらう代わりに賃金への再配分を雇用者が
保障するという暗黙の慣行様式(一種の社会制度化)のことを含めているんであって、
それによって実現された好循環様式まで込みになった概念として使われるのがふつうだよ。
>>104 さんの後半の認識はおっしゃるとおりで、そのフォーディズムが崩されてきたところに
かっての資本主義が再び復活してくる事態が生じているわけで、いくらリフレ政策をしたって、
フォーディズムが崩れていたらしょうがないということになってしまう。
フォーディズムあってのリフレだから。
>>106 こだわってもしかたがないが、人によって使い方が違うんだから、そう言いたければそう書けばいい。
マルクス主義といっても、人によって様々であるのと同じこと。
>>107 フォーディズムという言い方で中味を曖昧にするのはよくない。
具体的な政策を指摘することが必要だ。
>フォーディズムあってのリフレ
フォーディズムとは具体的に何か、リフレとは具体的に何か、そして、リフレがフォーディズムを前提にする理由とは何か、そのくらいのことには踏み込まないといけない。
>>106 「フォーディズム(Fordism)とは、大量生産、大量消費を可能にした生産システムのモデル」(wiki)
このあたりが標準的な定義だろう。
フォード社の生産システムだからフォーディズム。
命名者?のグラムシはフォーディズムを肯定しているのではなくて、その非人間的な労働形態の改革の方向を探っていたと思うが。
賃労働者は単なる奴隷ではなく消費者として再生産に加担し
結果的に資本主義の拡大に貢献する
労働者は自らが作ったものを買い戻す
歴史的には自動車の前に鉄道が
鉄道の前に貿易船が投機の対象としてあった
http://members.jcom.home.ne.jp/katote/data23.htm <マルクスの『資本論』が古典派経済学から区別されるのは、価値形態論に依拠した使用価値
や流通過程の重視であった。なのに、マルクス主義者たちは、剰余価値論がリカード左派のつ
くりだしたものであることを忘れ、それに対するマルクスの批判の意味を汲み取ることができ
なかった。しかし、産業資本の蓄積をうみだす剰余価値は、労働者が作った商品をみずからが
買い戻すという過程においてしか実現しない。>
112 :
考える名無しさん :2013/04/23(火) 10:20:36.00 0
リフレはフォーディズムやトヨティズムとセットであれば最強。 しかしフォーディズムやトヨティズムが壊れかかっている時代にまで 通用するのかはまだ未知数。
>>112 それぞれの定義を確定しないと、何かを言ったことにならない。
>>111 に紹介されてる論への賛否は別にして、あの程度の概念整理は必要だ。
・ドイツの哲学者 カント、ヘーゲル、マルクス、ライプニッツ、ゲーテ、ヘーゲル、フィヒテ、シェリング、ニーチェ、ハイデッガー、アドルノ ・アメリカの哲学者 クワイン、パース、クリプキ、W・ジェームズ、サール、パトナム、ミリカン、デネット ・フランスの哲学者 ラカン、デリダ、ドゥルーズ、デカルト、ニザン、リオタール、ボーヴォワール、サルトル、バタイユ、ベルクソン、フーコー、カイヨワ ・イギリスの哲学者 ラッセル、ロック、ウィトゲンシュタイン、ベーコン、スペンサー、ホッブズ、ミル ・ロシアの哲学者 コジェーヴ、バフチン、バクーニン ・インドの哲学者 龍樹、タゴール、ガンディー、シヴァ ・中国の哲学者 孔子、毛沢東 ・韓国の哲学者 李南麟 ・日本の哲学者 【東浩紀】、西田幾多郎、田邊元、三木清、大森荘蔵、九鬼周造、西谷啓治
>>116 一人も知らないや。
括弧に入ってる東って人が一番偉いの?
118 :
考える名無しさん :2013/04/26(金) 15:40:23.77 0
東を入れようが入れまいが使い物にならねえわな
>一人も知らないや。 えっ?
デフレは日本だけというけど、強力な金融政策を持続的にやらなければ常にデフレに 落ち込んでしまうような慢性恐慌のリスク市場に先進資本主義国は落ち込んでいるじゃないかな。
121 :
考える名無しさん :2013/04/27(土) 22:48:40.23 0
>>120 世界経済が、強力な金融政策を持続的に、やらなければ慢性的な恐慌に落ち込んでしまう危険性があり、
現在の先進資本主義国は、恐慌のリスクを恒常的に抱えている。その原因はどこにあるのだろうか。
その根本的な原因は、行き過ぎた市場原理主義にあるように思う。
それもあるけど、北欧諸国なども例外じゃないと思うよ。
123 :
考える名無しさん :2013/04/28(日) 00:25:53.35 O
フォーディムWにしろトヨティズムWにしろ、マルクス主義ってのは資本主義の分析どころか随分学んでるな。笑えると言うべきか、侮れないと言うべきかW?
125 :
考える名無しさん :2013/04/28(日) 20:41:31.09 O
いや、フォーディズムという語をWてっきりマルクス思想のオリジナルテクニカルタームかなと思ってたんでW
>>102 なんかはまったくもってグラムシそのものだし、
フォーディズム論の生みの親グラムシが言ったことそのものでしょう。
>>126 グラムシはフォーディズムをたんなる生産工程の合理化と、それに伴うわずかな賃金の上昇と捉えた。
だから、グラムシ的なサンディカリズムの思想からは最も遠い。
グラムシ自身は、人間を機械のように扱うもっとも資本主義的な非人間的な生産システムとして、否定している。
経済的再配分?という考え方はないだろう。
128 :
考える名無しさん :2013/04/29(月) 09:58:26.57 0
マルクスだって市場原理主義者だよ。ブルジョア市場は不公平だと考えていたけどね。
不公平ってのは対等に自由な主体の間で交わされる契約・交換関係じゃないってことね。 この対等な自由契約という前提を無視すると、奴隷と主人の関係すら公正な市場になっちゃうからね。
>>127 もちろん、グラムシがフォーディズムを全面肯定していたという意味じゃないよ。
グラムシはここからサディカリズムの可能性を見出したにすぎない。
生産のコンベアライン方式などによる徹底した分業と効率化、労働者の勤労意欲の徹底した管理、
といった労働者管理社会がここから出てくるのはたしかで、そこはマイナスの評価になる。
労働者側がこのマイナス点を受け入れる代わりに賃金の上昇と時短を求める今日の
労働争議のパターンはフォーディズムによって生み出されたもので、その点は
>>106 のとおり。
だから、フォーディズムがグラムシが求める理想の最終形態と言っているのでは決してなく、
グラムシのフォーディズム評価そのものという話。レギュラシオン学派の認識の基礎もグラムシにある。
フォード自身は自称「新保守主義」を唱えていて、進歩主義と保守主義との妥協を求めた。
ただし、最低賃金を2ドルから5ドルに引き上げ、労働時間を週5日、一日八時間に短縮し、
そのほうが生産効率が上がると唱えたり、労働者を労働者である以前に消費者であるとして、
生活賃金を固定しようとする賃金制を批判し、生産の拡大と賃金の上昇が同時に達成されることが
めぐりめぐって企業経営側のためにもなると主張していたことは事実。
これらの主張の基礎には、フォード以前の工場経営者ロバート・オウエンの成功がある。 オウエンも労働者をむやみに酷使せず、その代わり教育の機会を与え、労働者の生活を より豊かにすることで経営がむしろ上向くことに気がついてそれを実践し大成功をおさめた。 エンゲルスによれば、そこまではブルジョアジーの間でもオウエンは英雄的存在とみなされた。
自由の問題、それはまず貧困からの自由の問題でなければならない。
136 :
考える名無しさん :2013/05/04(土) 18:33:07.78 0
そりゃ間違い。マルクスの言う『自由』とは疎外からの解放の問題である。 管理と労働の分化,分業による人間の不具化,マンモンへの人々の(誰彼 問わず)崇拝。昨日のニュースで高校教師が借金返済(自分のショッピング分) の為に風俗店でアルバイトした事がバレて解雇されたニュースが有ったが, 誰も彼もが死せる労働の権化=カネを崇拝して止まない世界。そしてその追及を 強制する資本的生産様式という競争制度。勝てば見下ろし,負ければ文句。 衆愚政治の果てにアベノミクスはくすぶり始め,さてどこへ行くのやら? 最早制度の問題では無く個々人の有り様の問題で有ろう。自由とは。自虐笑。
137 :
考える名無しさん :2013/05/06(月) 17:17:23.04 0
質問させてください。 ヨーロッパに共産主義という幽霊がうろうろしているとマルクスは書いてますが、 何で共産主義が幽霊なんでしょうか?
138 :
考える名無しさん :2013/05/06(月) 20:12:58.42 0
http://www.workersliberty.org/system/files/fscache/CE/01/CE01FB54 “A spectre is haunting Europe ― the spectre of communism”
This is most likely to have come from an article by Wilhelm Schulz in the Rotteck and Welcker encyclopaedia
(1846), which began: “For the last few years there has been talk about communism in Germany, and it has
now become a menacing spectre, of which some take fright and which others use to inspire fright”.
A similar expression is in an anonymous brochure, Der Pauperismus und die Volksschule (1847): “there
is a growling of the thunder of discontent with the status quo, and... the flashing lightening illumines the
pale spectre of communism”. In an influential book, Socialism and Communism in France (1842) Lorenz
Stein referred to “communism, a dark, menacing spectre, in whose reality nobody wants to believe, and
whose existence however everyone acknowledges and fears.” (Draper 1994 pp.204-205)
139 :
考える名無しさん :2013/05/06(月) 22:40:12.77 0
共産主義を幽霊と称することで何を伝えようとしたのでしょうか?
140 :
考える名無しさん :2013/05/06(月) 23:50:08.73 0
安倍たちの紙幣の増刷による単純インフレ策は、プルードンからしたら正気の沙汰じゃないかも知れないね。
マルクスもワルラスもセイの法則を言論上では否定していたのにもかかわらず 数理的エレガントさに幻惑されたのか、はたまた経済の原理を思考にまで適用した オッカムの剃刀に魅惑されたのか、数式上ではセイの法則を受け入れちゃったんだよなあ。 マルクス経済学も近代経済学もそこで狂いを生じちゃっている。
>>143 >数式上ではセイの法則を受け入れちゃった
具体的に、マルクスの場合はどういうこと?
マルクスについては小室直樹さんの『数学嫌いな人のための数学―数学原論』をご参照あれ。
ちなみにワルラスについては、 森嶋通夫さんの『無資源国の経済学―新しい経済学入門』をご参照されたし。
>>145 >>146 セイの法則なんか無理やりに結び付けて、なにが面白いんだろう?
特に小室なんかは、いわゆる「トンデモ」だしw
小室さんは経済学に関しては森嶋通夫さんの弟子みたいなもんですから、ソースは森嶋さんにあります。
もちろん、マルクスもワルラスもセイの法則を否定していた。 マルクスが資本論の文脈でセイの法則を仮定したことは、資本論が一種のブルジョア経済学へ のアイロニーだったからでもありましょう。そう解釈することによってその謎が解けます。 ワルラスはどうなんでしょうねえ。
>>148 じゃあ、一度は読んでみるかな。
ワルラスもケインズもシュムペーターも、経済の原理まで踏み込んでいないから、くだらなくてあきれ返ったけど。
でも、高いから、図書館で読むことにしよう。
岩波全書では、宇野弘蔵でがっかりさせられたこともあるけど、そんなことも忘れよう。
>>149 >資本論の文脈でセイの法則を仮定した
>資本論が一種のブルジョア経済学へのアイロニーだった
どういう意味?
というより、資本論読んだことないんじゃない?
セイの法則が成り立つなら恐慌論も成り立つはずがないとか?
セイの法則は、次のように少し補正して解釈したほうがいいかもしれない。 資本主義の生産活動には需要を喚起する活動が含まれるのだと。 一定の消費は生活必需となるが、それ以上になると需要は滞る。 だから資本主義は、需要を喚起する生産をしなければならない。 実際、消費におけるブーム、モードは、企業によってつくられている。 つまり、企業側が商品を開発し、それによって人々の欲望を作り上げる。 生活必需でない部分のほとんどの需要は供給サイドが生み出してきたのだ。
>>153 それはすでにセイとは無関係だろ?
ボードリヤールなんかが大胆に展開してる資本主義の終末形だ。
>>154 マックス・ヴェーバーとかを読むと、資本主義の黎明期からそれがあったようにも思われる。
エンデの『モモ』の灰色の男たちだ。
資本主義を可能にするほどの需要も貯蓄も、もともと庶民の中にあったものではない。
初期の労働者たちは、賃金の上昇も溢れる消費も望まず、そのぶん働かない時間が多くあるほうを選んだ。
>>155 「初期の労働者」云々は誤解だと思うよ。
資本主義初期には、そんなことを選べる労働者はいなかった。
マルクスもエンゲルスも、だから、共産主義を掲げた。
時代の把握が違うんじゃないだろうか?
157 :
考える名無しさん :2013/06/08(土) 12:49:32.99 0
スティグリッツ氏によれば、ロシアの貧困層は1989年時には2%、 しかし、1998年には23.8%に拡大している。 彼によると、資本主義経済へ移行した旧共産圏のほとんどで貧困層が拡大したそうだ。 世界銀行の調査では、ロシアでは一日当たりの支出が4ドル未満の者が人口の40%を占めた。 子をもつ家庭の50%が貧困層となった。スティグリッツ氏によれば、 社会指標の数値の多くがロシアの国民の平均的生活水準の低下を示しているそうだ。 一握りの富裕層がより富めるようになった反面、中産階級は貯蓄を無くし没落しはじめた。 つまり、資本主義経済へ単に移行すれば社会主義経済よりもマシになるとは 手放しで言えない事実がある。資本主義経済>社会主義経済は一概には成り立たない。 結局はどのように資本主義経済を運営するかという計画性の問題になるのであって、 資本主義経済、市場経済それ自体が無条件に優れているわけではないということ。 そこを見誤って資本主義経済を採用しさえすれば万事うまくいくという発想は大間違い。 うまくコントロールされた計画性がなければ、市場経済は管理経済よりも劣るということだ。
>>154 ボードリヤールの駄目なところは自分の歴史を高度消費社会に特有の現象だとしてしまったことだよ。
資本主義の本質にそれがあったと見ない。経済の本質にあったと見ない。
>>158 ボードリヤールは、資本主義の必然、と見てると思うけど?
160 :
考える名無しさん :2013/06/12(水) 10:35:07.21 0
黒田節 いつのまにやら 阿波踊り
161 :
考える名無しさん :2013/06/12(水) 10:47:14.61 0
阿波踊りの「連」はアソシエーションであって 資本主義に対抗する唯一の原理を体現している その認識が欲しい しかも柄谷的に言うなら、踊りながら移動するから財産を持たない 財産を持たないから階級差もない
泡=バブルと掛けたのはわかるのだが、、、、
164 :
考える名無しさん :2013/06/15(土) 11:35:09.16 0
>>162 ただの「無縁」じゃん
なりたければすぐになれるよ
で「祝祭」が永遠に続けばいいなってか
連は通常職場を単位にする 仕事場の潤滑油に阿波踊りの練習が機能する 「祝祭」は統整的理念であり、経済的な基盤を持つ
166 :
考える名無しさん :2013/06/18(火) 09:30:04.30 0
バズーカ砲 いつのまにやら うんこ玉 (異次元なんちゃら詐欺師の手口)
べ
なんにしても、流通貨幣を増やして、投資家利益を増やそうとすれば、スタグフレーションになるのはわかりきったことだけどね。 流通貨幣を増やして、好景気のインフレにするためには、賃金引き上げと安定雇用のための法整備が必要。 まあ、政権ブレーンはそんなことはわかってて、投資家利益を増やしたいから、アベノナントカでバズーカ砲なんだろう。 バズーカ砲の標的は、もちろん一般大衆。
蛇口をひねる前に二段になった水の流れの下段部分を整備しなければ
その下まで水は行かない
地域再投資法が必要なのに政治家は上段しか知らないから何もしない
p1 追加的不変資本Mc
_産業利潤_追加的可変資本Mv
_____ | 個人的消費Mk
|第1部門 | P|_利子z__単利__|
|機械と原料| 利潤| 複利 |
|_____| /|_地代r__差額地代|
/ 絶対地代|
不変資本C 可変資本V 剰余価値M 生産物W |
_____\____ / |
/ \ / |
____ / 労賃\ / _産業利潤_ |
|第2部門| / \/ | | |
|生活手段| / /\ 利潤_|_利子___| |
|____ / 労賃__/__\ / | | |
/ / / \\ |_地代___| |
/ / / /\\ | |
不変資本 可変資本/ 剰余価値 生産物______/_/
/ /
____ / /
|第3部門| / /
|総生産物| / /
|____|/ /
____/ _______/__
不変資本 可変資本 剰余価値 生産物
(p)
http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/35/78/3663578/12.jpg (邦訳 (p)
http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/35/78/3663578/13.gif )
↑ マルクス経済表(AAは部門の1と2を逆にしたものだが『資本論』再生産表式の順番とは同じ)
今からおよそ80年前の世界恐慌の真っ只中、資本主義が最大の危機に直面していた頃、 今後100年後の資本主義社会がどうなるかについてケインズが述べていたことがある。 ただし、「人口の爆発的増加」や「大きな戦争」がなければという条件つきで。 資本が年間2%の率で増加すると仮定すると、百年余りたった後には生活水準が 今のおよそ8倍になると想定できるだろう、と彼はそのときに述べた。 彼がいうには、人間の経済的ニーズには、生活の必需性を満たす絶対的ニーズと 他者との競争での優越感を果てしなく求めつづける相対的ニーズとがあるが、 少なくとも絶対的ニーズに関すればその頃には経済問題のほとんどが解決するだろう、と。 つまり、絶対的なニーズに関するかぎり、人々はあくせく働いたりする必要が消える。 しかし仕事を全くやめてしまう生活にも人間は耐えられず、 上流階級のご婦人が直面しているような深刻なノイローゼが蔓延するかもしれないから、 1日3時間勤務、週にして15時間勤務にすれば、この問題をまだ先延ばしにできる、と。 これは現在の一日の法定労働時間にすれば、「ほぼ週休5日制」ということができる。 そこでケインズは、ワークシェアリングの必要性までも語っていた。 要するにこれは、絶対的需要に関する雇用はそこまで消滅するだろう という推測のいくぶん遠回しな言い方だろう。 資本主義社会は放っておいても将来こんな恩恵をもたらすというプロパを込めて、 ケインズは経済学者の立場から一般大衆向けに資本主義を弁護するつもりで述べたのだろう。 ケインズはここでマルクスそっくりのことを述べている。 しかしこの予測が資本主義性善説に立った楽観面を「一見して」語っているにすぎない という点ではマルクスと決定的に異なる。 果たしてケインズは正しかったのか。それともマルクスのほうが正しかったのか。
マルクスに1票
ケインズは階級闘争の問題をスルーしている。政治の役割を棚上げている。 あたかも資本主義の発展を見守ってさえいれば階級闘争なくしてこの未来像が 自動的に実現してくれるはずだと、ケインズは大衆に約束していたかのようだ。
物質的上昇によって必需性も増えるはず
1930年から100年後といえば2030年? そう遠くない将来だな。 週15時間勤務の世の中が実現するということか? つまり1日8時間ほどの勤務で週2日出勤すれば食っていける時代。
>>175 本当は、現代はもうその時代に入ってる。
資本家の利益ばかりを確保しようとするから、労働時間が減らない。
177 :
メモ :2013/07/09(火) 23:26:13.18 P
絶対的 時間 | 法則 拡大__|__単純 効率 | 総合 相対的
178 :
メモ :2013/07/09(火) 23:37:04.50 P
プルードンーーーーーゲゼル l \ l l X l X \ l l ワルラス l l \l マルクスーカレツキーケインズ
179 :
改訂 :2013/07/09(火) 23:53:09.33 P
マルクス ワルラス l \ l l \ l カレツキ x x l \ l l \ l l \ l ケインズーゲゼループルードン マルクスもワルラスも(プルードンを剽窃しつつの) プルードン批判がキャリアの出発点である ワルラスとケインズではセーの法則に賛否が分かれるが ワルラスが近代経済学の祖と言っても間違いではない
180 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 15:47:48.44 0
過疎
181 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 16:14:38.26 0
ようやく悪菌が明けた
182 :
考える名無しさん :2013/07/23(火) 16:33:42.76 0
おめでとう
183 :
考える名無しさん :2013/07/24(水) 21:59:46.26 0
私有の概念変えないとダメだね
184 :
考える名無しさん :2013/07/25(木) 16:33:26.57 0
マルクスの言う「自由」とは、疎外からの解放であり、この「疎外」からの解放とは 単に、経済的な「疎外」からの解放を意味していない。 社会組織の中で、その社会を構成 している個々人の「人間としての存在」の自由が疎外されており、現代の市場原理主義 システムの中での、経済と個人の存在としての、精神的な自由を束縛する「疎外」からの 解放とも連動しているのであろう。
185 :
考える名無しさん :2013/08/06(火) 07:39:05.12 0
過疎化。以前の勢いはどうした?
マルクスを読む人が減っているのか、大月書店のデジタル版マルエン全集を読むのに忙しいかのどちらかだろう。
>>179 ワルラスはセーの法則を否定していたらしいよ。
マルクスもそれをもちろん資本主義の矛盾を無視したバカげた法則だ見ていたけど、
ワルラスもマルクスでさえも数式上ではセーの法則を前提としちゃったらしいよ。
数学上のモデルに置き換えたときにセーの法則を仮定しちゃったらしい。
そのほうが数式的にすっきりするから論じやすかったのか、いったいなんでだろうね。
ワルラスについては森嶋通夫さんが『無資源国の経済学』で、
マルクスについては小室直樹さんが『数学嫌いな人のための数学』でその点に触れている。
ちなみにワルラスは、マルクス同様、資本主義が永遠に続くとは考えていなかったらしい。
古典的一般均衡理論の構成 @消費者 A生産者 B価格調整機構(関数)
@消費者 消費空間Xm(m、はその集合がm番目の消費者のものであることを示す添字)と財ベクトルについての選好Pmによって規定される ・・消費空間X(消費可能な財の組み合わせの集合) 1、Xmiは閉集合 2、Xmは下方有界 3、Xmは凸集合 4、Pmは非飽和(消費者は満足しない、任意の財ベクトルxmの近傍にはそれよりも強く好まれる財ベクトルx´mが存在する) 5、Pmは連続 6、集合Pmは凸 そうすると消費者mの(素直な)需要関数Dm(p、I)を作るが出来る ここでpは財の価格ベクトル、Iは所得 選好が強く凸な場合受容されるベクトルは一意で定まる、一般には需要関数Dmは集合値関数となる
不動店定理を応用して均衡界の存在を示すためには、社会的需要関数X=ΣXmが有界、閉、かつ凸である事が必要 上の条件の下で導出されるXはそうなる。
やばい細部はあらかた忘れてる
この条件に関してはそう非現実的ではないはず だから問題は生産、価格調整機構にあると言える 前者を問題にしたのが森嶋、後者を問題にしたのが不均衡動学の岩井克人
森嶋の最大の特徴はその資本理論にあると思われる
森嶋の資本、耐久財を、岩井は私情調整のプロセス(ワルラスの仮定した競り人の否定)を重要視する
森嶋は資本、耐久財を、岩井は私情調整のプロセス(ワルラスの仮定した競り人の否定)を重要視する
理論的な消費者理論は割りとシンプル 資本主義の複雑性は、生産と価格調整過程の複雑さに由来するのかも
確か森嶋は「資本と信用」という論文集を出してたはず そこで大きなウェイトを以って言及されていたのがヴィクセル 岩井もまたヴィクセルを重要視した 生産の問題と価格調整機構の問題は独立したものではないのかもしれない
198 :
考える名無しさん :2013/09/01(日) 18:02:34.33 0
盛り上がらんな
経済学板でやれ
200 :
考える名無しさん :2013/09/02(月) 13:22:12.71 0
俺はマルクソ主義者だ。なんか文句あっか。
201 :
考える名無しさん :2013/09/02(月) 23:54:23.51 0
経哲草稿を買い直そうと思うんだが、長谷川宏訳は良い出来なのか? それとも大人しく岩波文庫にしておくべきか、はたまたマルクス・コレクションという手もあるが
>>198 もーなんか、スコラ哲学の碩学の集まるスレみたいなんだもん
マルクスって何? っていう初心者が入れる隙を作ってほしい
共産主義は愛にあらず、敵を砕くハンマーなり! キリスト教道徳から生じた社会主義を一蹴する一種の超人思想
ダーウィン・マルクス・ニーチェ「ぼくたちイルミナティ三兄弟でーす」byシオン賢人議定書
>>203 それこそキリスト教だけどな
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ伝)
ブルジョアの慈善事業によってではなく、プロレタリアの勝利によって獲得することに意味がある
209 :
考える名無しさん :2013/09/04(水) 20:21:35.64 0
マルクス主義と構造主義は、「主観より、客観が先立つ」という優越的存在論の立場であるが、 「人間の存在」を基底として、マルクス主義の長所を生かした論理の「脱−再構築」が求められている。
>201 疎外という概念に興味があれば岩波文庫 ヘーゲルに興味があれば光文社 ドイツイデオロギー(第3巻)と一緒に読むなら大月全集 以下、大月書店版全集版第40巻online目次より 1844年の経済学・哲学手稿 385 序言 387 第1手稿 390 労賃 390 資本の利潤 402 1 資本 402 2 資本の利得 403 3 資本の労働にたいする支配と資本家の動機 406 4 諸資本の蓄積と資本家間の競争 407 地代 417 疎外された労働 430 第2手稿 443 私的所有のあり方 443 第3手稿 450 私的所有と労働 450 私的所有と共産主義 454 必要,生産および分業 468 金 484 ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判 ~512
211 :
考える名無しさん :2013/09/05(木) 11:44:10.49 0
>>209 唯物論ってもっと素朴に「夢を持つだけじゃ夢を実現できない。まず生計を立てなきゃ」って意味だと思うよ。
そして経済的な土台があって人々の自由がそれだけ可能になるということ。
この現実を覆したとき、マルクス主義を終わらせることができるし、共産社会を実現することができる。
>>211 唯物論はそんなに内容のない話ではないだろw
プルードンとかは減価貨幣とか新しい概念の発見と新発明のシステムによって
社会を変革しようとしたが、それは無から新世界を創造する空想的な試みであった。
一方でマルクスは唯物史観に従い、この世の全てとその歴史は必然である、
すなわち封建社会もブルジョア社会も人類に必要不可欠だったから生じたとし、
それら過去を土台とせずには次の新世界を切り開くことはできないとする立場だと思う。
213 :
考える名無しさん :2013/09/06(金) 08:14:10.21 0
マルクスを覆すマルクス それが弁証法だ
214 :
考える名無しさん :2013/09/06(金) 16:48:32.22 P
>>211 共産主義という夢を実現するには生活の基盤を持たなきゃならないが、プロレタリアが生活の基盤を持つためには共産主義が必要
アンチノミーだな
215 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 22:56:31.64 0
恐ろしいぐらい過疎ってんな アベノミクスくらいからか
216 :
考える名無しさん :2013/09/09(月) 23:26:24.58 P
アベノミクスごときがマルクスを倒せるかよw
フロイトにとっては幸いなことにラカンという最良の発展的後継者が現れたけど マルクスにとって最良の発展的後継者とは誰だったのか、あるいはこれから現われるのか
218 :
考える名無しさん :2013/09/10(火) 02:07:18.56 O
マルクス信者ばかりだと無性生殖のクローンばかりで発展性は無い 大いなる異種交配=真の弁証法による可能性を探るべし
219 :
考える名無しさん :2013/09/10(火) 14:21:27.02 0
>>217 ケインズとゲゼル?
それともA Capitalist Road to Communismのフィリップ・ヴァン・パレース氏か?
マルクスにとってのラカンは、同じ構造主義四天王のアルチュセールじゃないのか
アルチュセールってフランスの廣松渉じゃないの
アルチュセールを「科学主義的」マルクス主義と形容する伝統は理解できない
エマニュエル・トッドに完全敗北やろか マルクス主義は今後スピノザの仮面をかぶるしかないと思う
224 :
考える名無しさん :2013/09/11(水) 21:05:05.81 0
225 :
考える名無しさん :2013/09/12(木) 17:58:08.73 0
226 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/12(木) 19:40:00.69 0
>>12 :考える名無しさん:2013/03/31(日) 20:40:26.95 0
>経済的な価値が労働によって生まれるのか
この最初の段階でマルクスは初歩的な間違いをしているので、マルクス主義自体意味を成していません。
まずモノ(商品)には価値はありません、あるのは交換価値だけです。
この交換価値の「価値」と言う用語を、人間の価値とか生きる価値とか言う本来の意味の「価値」と混同する幼稚な間違いから資本論は始まっている。
労働には価値があるとは確かにいえる、しかしその意味はその人間の人生に取っての価値であり其れを普遍化して数量化したり商品に付与できるようなモノではない。
普遍的には物質を加工すればするほどエントロピーは増える。
従って商品が加工されて意味を持つのは経済的に極めて限定された場合だけである。
何時でも商品としてある労働を基礎において経済を分析するよりも常に限定的な需要とか市場に注目した経済学のほうが有効である。
労働はあくまでも経済学上あまたの商品の一つに過ぎない。
エントロピーの増大 = 乱雑さの増大 エントロピーの減少 = 整然さの導入 商品化加工は後者のはず。その消費が前者なのだから。
228 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/12(木) 20:35:05.90 0
>>227 :考える名無しさん:2013/09/12(木) 19:56:48.63 0
>エントロピーの減少
こんな事はあり得ません。
エントロピー増大の法則なのですから。
商品加工する為に莫大な環境資源を消費してる訳です。
貴方の言ってるのは揚水式発電みたいなものです。
夜間に莫大な電力を浪費して昼間に少量の発電をする例です。
昼間の需要が夜間の浪費を上回ると言う限定的な市場原理です。
結局エントロピーは増大しています。
生産の時も消費の時もエントロピーは増大し続けます。
229 :
考える名無しさん :2013/09/12(木) 20:39:35.64 P
勉強不足やねえ爺さん 例えば散らかっている部屋を片付けると、その部屋という系だけで見たエントロピーは減少するのよ マルクスについても間違いだらけ 少なくとも資本論くらい読んでから批判しようぜwww
230 :
考える名無しさん :2013/09/12(木) 22:37:36.51 0
マルクスの場合「需要」ではなく「必要」だ
231 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 00:37:39.21 O
マルクスだったら! 今の日本と世界にどう提言するかな? 教条主義的な、まだろっこしい理想論とゲンガクはうんざり。
232 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 00:50:03.86 0
なるようになるさ
233 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 01:04:51.64 0
資本論は経済モデルではなく社会モデルだから マルクスの目標は資本主義の運行予測ではなく、資本主義の相対化による認識だから、現象面はどうでもいいんです 現実にある商品の価格がいかなる水準に定まるかというのは現象面に属する問題
234 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 01:07:26.11 0
> 何時でも商品としてある労働を基礎において経済を分析するよりも常に限定的な需要とか市場に注目した経済学のほうが有効である マルクスはこういう事を明らかにしようとして資本論を書いたわけではない
資本論の範型は「経済学批判」だから
資本論は経済学じゃない 経済について書いているから経済学としても読もうとすれば読めるけども
資本主義を批判してるのに、価格予測的なシンクタンクみたいな事するわけがない
238 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 01:30:12.16 0
労働=価値のの循環という事を考えているので、交換価値を価値に抽象するのは必要です 交換価値は価値を体現しないので、商品の特質を交換価値=価格にしてしまうと、労働の循環をモデル化できなくなる
「古典派は、抽象力が足りなかったので、交換価値から価値を見出すことが出来なかった」という事をいってる そうすると色々欠陥が出てくるんです
240 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 01:35:43.99 0
マルクスは確信犯です
241 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 02:10:45.65 O
まどろっこしいなW
242 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 02:31:31.58 0
実は久々に酔ってる > 資本主義的生産様式を支配している社会的富は、「巨大な商品のかたまり」として現れ、この富を構成しているのがこの商品である。 だから、われわれの研究は商品の分析から始まる 冒頭のこの一文に尽きる。
243 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 02:32:16.54 0
普通の経済学は商品の分析なんてしません
244 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 02:34:35.78 0
商品の分析から労働力商品の特性というものが否応なく浮かび上がってきて、それが資本主義の要にあることが明らかにされる
245 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 02:35:30.92 0
資本主義の要は労働力の商品化ですよ ここを見逃すと資本主義が分からなくなる
246 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 02:38:32.44 0
この辺りの事情を明らかにするために価値概念の抽象が必要だった
247 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 03:12:16.14 0
というか経済学には商品という言葉すらでてこない コモデティ、財なんて言ったりしますね 226はこれと同じパ−スペクティブの下に資本論を批判している
248 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 03:13:11.86 0
対象の歴史性、固有性に徹底して無関心であるという事だ
そうするとクラスの混乱を引き起こして、語り得ないものを語ってしまったり、しそう
拝金主義はクラスの混乱が原因だと思います
拝金主義というかフェティシズムね
252 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 07:46:30.36 0
たぶんマルクスも13日の金曜日は気にしていたと思う。
253 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 10:46:33.88 0
とにかく資本論を読め雑魚共WWW
熊野純彦のマルクス本買いに行ったけど、売ってなかったわ
熊野さん今度はマルクスか。いつ寝てるんだろう。
どうせなら『資本論』新訳もお願いしたくなるな
特に好きでもないけど、哲学者(レヴィナス研究)としても翻訳者(カント)としても優秀だし それに廣松渉の一番弟子じゃん
>>258 なんで専門外のマルクス経済学を論じたり翻訳したりに期待するの?
専門にこだわらず多彩な哲学者を論じ、翻訳してきた実績があるわけだし そこらのマルクス一点張りの専門家とは違う視点からマルクスの可能性を見出すことが期待できるからだよ 翻訳はスミスの『国富論』がいい例だが、専門家がやれば優れたものができるとは限らない
マルクスの専門的研究を読むほど、マルクスを知っているわけでもないし、かといって、 現代思想のマルクス論はもうお腹いっぱいだし、その一方で、マルクス自体は読むべき 価値がまだまだあると思うし、そんなこんなで、社会よりも倫理を論じてきた熊野さんが、 マルクスについて語るのはちょっと興味が惹かれると。あと、熊野さんには、仕事の質は もちろんのこと、仕事の量にも期待しているのであったw
>>260 >>261 マルクスは哲学博士だけど主著は経済学だよ。
マルクスに興味があるなら、「資本論」を読めばいいと思う。
和訳ばかり4種類ぐらい読んだけどw、どの訳も優れていると思うしわかりやすい。
もちろん文体の好き嫌いはあると思うが。
「国富論」は誰の訳だったか忘れたけど、わかりやすかったと思うけどな。
専門外の人の訳ではなかったような気がする。
263 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/14(土) 04:47:06.66 0
>>229 :考える名無しさん:
>例えば散らかっている部屋を片付けると、その部屋という系だけで見たエントロピーは減少するのよ
全く頓珍漢なエントロピーの捉え方では?
散らかっている部屋より片付いている部屋の方がエントロピーが少ない
それはまあ〜ムリクリいえるかもしれませんね〜
しかし問題は片付けると言う動作を問題にするのがエントロピーの考えでしょう。
貴方の例に当てはめると、今度は片付いた部屋を散らかす動作をしなくてはいけません、そして又片付ける、そんなことを沢山繰り返すと、散らかすより片付けるほうがエネルギーを消耗すると嫌でも判る訳です。
これがエントロピー増大の法則です。
覆水盆に帰らず・・・です
>>238 :考える名無しさん:
>交換価値は価値を体現しないので、商品の特質を交換価値=価格にしてしまうと
仰るとおりです ですから・・・
>労働の循環をモデル化できなくなる
こんなこと出来なくてよい
労働など経済、社会の本質的な要素ではないと言っているのです。
勿論ある程度は重要ですが。
私は需要と供給が本質的な問題だと思います、今風に言うと「生産者」と「消費者」の対立です。
労働、労働者は生産側の一味に過ぎません。
労働は機械に置き換えられます、その場合の生産性の向上を労働の価値の増大と解釈するのは無理です。
263あなたは資本論を読む前にまずドイツイデオロギーを読んでください。 読み終えるまであなたに資本論は読めません。
というか資本論読んでないですよね。
>労働は機械に置き換えられます、その場合の生産性の向上を労働の価値の増大と解釈するのは無理です。 マルクスは絶対にこんな事は言いません。 価値と労働の生産性を混同しているようですが。
本来全く別物の機械と労働というものが、同一の生産要素として通約的に見えてしまうのか(「労働、労働者は生産側の一味に過ぎません」)この錯視の由来を批判的に明らかにしているのが資本論なのです。 つまり資本論はまさにあなたのその反論のようなタイプの言説を批判しているのです。 、
そういう理解からは素朴な政治主義しか生まれません。 何故なら肯定と否定が構造的には同型だからです。
271 :
考える名無しさん :2013/09/14(土) 13:02:13.12 P
>>263 本当こいつは馬鹿だわw
経済学部一年生レベルw
普通のやつなら近代経済学など半年で終わらせ、その限界を感じ、マルクス経済学に移る
じじいは赤子レベルw
シュレーディンガーの「生命とは何か」くらい読んどけよ
生命は秩序を食べることでエントロピーの増大を防いでいる
つまり、断熱系では、エントロピーの変化量は0以上である、不可逆変化ではゼロより大、可逆変化ではゼロ、が正確な表現になる
じじいはこの程度のことすら理解していない
従って意味のある結論を出すことは不可能で、無意味な戯言を弄んでいるだけにすぎない
マルクスに喧嘩を売ろうなんざ千年早い
272 :
がんばれじいさん :2013/09/14(土) 13:34:18.49 0
まったくこの墓場スレにじいさんのような奇特な方がわざわざ スレしていただくことはを亡霊たちは泣いて喜べ。 それをシホンロンを嫁とかよんでないとか。 そういう上から目線がマルクスともども嫌われてるんだよ。 じいさんの言ってることはもっともだ。 たとえば大企業の労働組合。 これが“一味”じゃないと言い切れるかね? 資本論冒頭。 商品分析の第一歩。 そこからして消費者(労働者)はマルクス以上の厳しい審美眼をもっているんじゃないのか。
確かに護教は意味ないな いかにサービス出来るかが重要だ つまりスレに来ていただいた方にサービスを提供する
内部規律の抑圧性がそのままサ−ビスの態度になるような所があるな 客を従業員として扱うというか 客と就業規則は無関係だからな
客に就業規則を読めと強要するのはナンセンスだからな
俺は客ですらなかった
店員を演じる暇人であった
278 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/14(土) 19:08:26.90 0
>>268 :考える名無しさん:
>マルクスは絶対にこんな事は言いません。
そのとおり、だからマルクスはピントがずれていると言っている。
>
>>269 :考える名無しさん:
>資本論はまさにあなたのその反論のようなタイプの言説を批判しているのです。
そのとおり、だからじいさんはまさにマルクスのようなタイプの資本論を批判しているわけです。
機械、道具は人間(労働者)の手足みたいなものです、優秀な手足を持てば生産性が上がるわけで、機械と労働はどうしたって同一の要素です。
生産要素の一つに過ぎない労働は社会経済の基本とはならない。
商品に価値はないし、従って投下労働量で割っても掛けても「労働価値」など生まれてこない。
商品は売れて(交換)何ぼのもんでしょ。
売れないものは価格が付かないゴミである、労働のよって商品に価値があると考えるとその辺が処理できなくなる。
投下労働にしがみ付くとゴミまで価値を認めなければならない。
不要な労働にも価値が付与されてしまうと言う事。
ソビエトが潰れるはずである。
正しくは本来商品には価値は無い、交換価格だけが経済学の使える概念。
279 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/14(土) 19:11:08.84 0
>>271 :考える名無しさん:
>じじいは赤子レベルw
おっしゃるとおり、だからじいさんに論破されると赤子以下だぞ^^
>生命は秩序を食べることでエントロピーの増大を防いでいる
そのとおり・・・引用・・・・・・・・
http://brownian.motion.ne.jp/17_DawinsLost/02_Evolution.html しかし、たとえ生物の内部で局所的にエントロピーが減少したとしても、外部の環境でそれを上回るほどのエントロピー増大が起こっていれば、全体の差し引きでエントロピーは増大する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>226 :じいさん ◆6rgGIYz09M
>普遍的には物質を加工すればするほどエントロピーは増える。
>従って商品が加工されて意味を持つのは経済的に極めて限定された場合だけである。
要は加工商品は局所的にエントロピーの低い位置にあっても社会経済(自然界)を見渡して普遍的にはエントロピーは増大している(例えば大気汚染、資源の浪費、温暖化)。
至極真っ当で平凡な事を言っているに過ぎない。
分かった、賃金、利子、等の経済学的概念をその本質を問わず現象面で理解するという事ですね それはいいんですが、そういう方法はいかなる世界観、理論、具体的な目標と結びつくのでしょうか
281 :
考える名無しさん :2013/09/14(土) 19:20:29.22 0
>>279 爺が言っていたのは
商品生産が意味を持つためには売れなければならず売れるためにはエントロピーの減少が必要だなんていう基地外じみたことだろ
んなものは間違いだといっているんだよ
商品生産はエントロピーの減少で消費はエントロピーの増大だという指摘の方が正しい
もっとも資本論はエネルギー的観点から論じられるべきだ
いずれにせよマルクスへの反論にも議論にもなっていないわなあw
お前ごときアホで無知が俺を論破できるわけがないわ
現象面に留まると現状肯定的な結論しか出て来ないというのがマルクスの考えでした
現象面からの視点しかないと、対象の形態と実体の混同を生み、その十分な認識が不可能になるというのがマルクスの考え
284 :
考える名無しさん :2013/09/14(土) 19:35:05.52 0
>>278 売れるか売れないかなど関係がないわ
売れなかったらその価値が実現されなかっただけ
売れたらその価値が実現される
例えば売れる作家でも売れない作家でも本の価格はほぼ一律だろが
爺の理屈では売れない作家の本は安く売れる作家の本は高くなる
現実には価格調整よりも生産量調整で需要の変動に対応する
価格はコスト+利潤で決まっているからだ
つまり資本論は需給による単純な価格変動の向こうにあって価格を規定する交換価値について論じているわけだよ
労働、資本、土地を物的生産要素として捉えると、賃金、資本、地代の区別もつかなくなる 現象面にのみ拘ると、どうしてもそのように対象把握が平板になる
前三者は生産要素に、後三者はその報酬として互いに区別のないものとして把握される事になる
一番の問題は価値をその形態論において説明しているということ 価値は商品論のような流通形態論で捉えるのではなく、(社会的な)生産論で捉えるべき
熊野さんの本買ってきた〜 厚い
エコロジーの面から資本論を再読するのは正しい リービヒを参照するまでもなく、資本主義的生産様式は土地を疲弊させる つまりエントロピーは増大する 熊野さんはそこらへんをどう解説しているのだろうか? マルクスは実体論者として考えないと不毛になる
目次見る限り熊野本は普通の解説書のような気もする・・・
293 :
考える名無しさん :2013/09/15(日) 09:56:18.83 0
みなさんの投稿内容が高度すぎて読んでも意味がわかりづらいです。 もう少し砕いて言い表していただけたらいいなあ。
マルクスの経済論なんて古すぎて、もう意味ないでしょw 具体性なんてないし しょせん、19世紀の発想でつくられた経済書 古典として読むのはいいけど、それ以上の価値はないでしょ
295 :
考える名無しさん :2013/09/15(日) 10:51:21.78 0
古いというより新しすぎる面もあるw 歴史学でいうところの長期波動を扱っているから。 革命といっても100年200年300年という単位の革命を扱っているから。
しかしそういうのは実証科学というよりは神学か宗教にしかならないのでは。
現代の経済学をどれぐらい知った上で話しているのか知らないけれど マルクスが提示した仮説に基づいた検証可能な数学的モデルを提示している人も 森島や置塩他多く居るし そもそも反マルクスの連中でも、オーストリア学派なんかは 数学的モデルの濫用が経済学の本来の科学性を損なっているという立場だよ
リカードの労働価値説を下地にもっているのが致命的だわ ワルラスばんじゃーい
300 :
考える名無しさん :2013/09/15(日) 21:12:05.76 0
>>296 なんで?
資本主義経済がマルクスやエンゲルスの生きていた時代よりは社会主義的になってきているのなら、
実証的に彼らの予言は検証されるのでは? そうでなければ反証される可能性が十分にあるし。
しかもこれは潔癖なポパー主義に依拠した場合で、ポパーでさえここまでの潔癖な反証主義は修正している。
ポパーの継承者たちに至っては、反証主義を放棄する人まで現れた。
301 :
考える名無しさん :2013/09/15(日) 21:19:02.28 0
>>299 マルクスは当時のブルジョア経済学の権威であるリカードを鵜呑みにして資本論を書いたわけじゃないよ。
資本論というのは哲学の用語でいえばブルジョア経済学への「脱構築」を実践した本。
この場合の脱構築というのは、ブルジョア経済学の概念に依拠しつつブルジョア経済学の限界を露呈させ、
その矛盾を明らかにしていくこと。マルクスにとって資本論は、結局、労働価値説の超活を扱った本。
実際の資本主義経済がブルジョア経済学(特に労働価値説)を超えていく可能性について論じている。
302 :
考える名無しさん :2013/09/15(日) 21:19:59.41 0
ごめん。誤変換。超活→超克ね。
303 :
考える名無しさん :2013/09/15(日) 21:23:54.53 0
マルクス主義経済がそもそも労働価値説を鵜呑みにしていたのなら、 資本主義経済の必然性としての恐慌の可能性についても論じられるはずがない。 セイの法則がそのまま成り立っちゃうからね。 しかしマルクスもワルラスもセイの法則には否定的な見解をもっていた。 ところが二人とも、数式の上ではセイの法則をそっくり仮定しちゃっている。 その点では、マルクスもワルラスも誤っていた。
マルクスがセイの法則に否定的であったことは、 ケインズも『雇用・利子および貨幣の一般理論』で触れているけど、 ワルラスも否定していたということは知らなかった。 ワルラス研究家でもあった森嶋通夫さんの本を読むまでは。
>>300 >資本主義経済がマルクスやエンゲルスの生きていた時代よりは社会主義的になってきているのなら、
>実証的に彼らの予言は検証されるのでは?
マルクスはそんなことを予想だか主張だかしているんですか。
共産主義革命じゃなければだめだといっているんじゃないの。
マルクスはやはり階級解放のモチーフが強い 労働環境の改善についての意見はかなり否定的 「労賃の力ずくの値上げは奴隷の給料引き上げ以上の何物でもなく、労働者のためにも、その人間的な本分と品位を獲得した事にはならないのであり、」 「私有財産等々からの、隷属からの、社会の解放は、労働者の解放という政治的な言葉で言い表される。」経済学、哲学草稿より このモチーフがバイアスとしてマルクスの著作にどのような影響をもたらしているか 現実のマルクスは、歴史学者としてのマルクスと、革命家としてのマルクスからなっていて、その様なものとして、マルクスはものを書いてきた だからマルクスの著作には混乱がある そこをどう読み替えていくか
つまりマルクスは古典派のイデオロギー性とそこから来る理論的な不備を批判したんだけど、それと同じ事はマルクスの共産主義イデオロギー性にも当てはまる
やはりマルクスは共同体主義者なんだよな 人は本来社交的であるという人間観がある その本来の共同性を毀損する資本主義は良くないという視線がある
マルクスにとって自由とはなんだったのか、気になるな 自由の観念が人に非本来的な閉鎖性をもたらす、というような発想なのかな
最初期マルクスはこんなことを言っている 「しかし、実は自己意識の絶対性と自由こそが、 エピクロスの哲学の原理なのである。 ただし、自己意識は、その個別性の形式でしか捉えられていないのだが。」 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』
自由というより自意識の問題だな
社会関係が意識を規定するという人だから、おそらく自由はブルジョアイデオロギーにすぎない非本来的なものとして否定されるんだろうな でもこれは偏見だよなと思う
厳密な意味での自由とは、あえて損を取ること。 利得のための自由は、損得勘定の必然的帰結に他ならず、従って自由ではない。
>>310 それ、マルクスの考えというより、マルクスのエピクロス理解に過ぎないんじゃない?
315 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/16(月) 14:18:18.61 0
>>281 :考える名無しさん:
>商品生産が意味を持つためには売れなければならず売れるためにはエントロピーの減少が必要だな
そんなことは一言も言ってない、寝ぼけないで欲しい。
>商品生産はエントロピーの減少で消費はエントロピーの増大だという指摘の方が正しい
何度も言うが商品生産は自然界からの資源の収奪であり労働と言うエネルギーの消費でありエントロピーの増大である。
消費も同じくエントロピーの増大である。
何をやってもエントロピーは増大する・・・これがエントロピー増大の法則。
>>284 :考える名無しさん:
>売れなかったらその価値が実現されなかっただけ
では価値以上に高く売れることもあるわけね?
で、其の価値は何処で決まるんですか?
>売れない作家の本は安く売れる作家の本は高くなる
本来はそのとおり、しかし現実には日本では書籍は再販制なので自由競争でないので社会主義経済みたいな特殊な分野です。
>現実には価格調整よりも生産量調整で需要の変動に対応する
>価格はコスト+利潤で決まっているからだ
それって破綻したソビエトみたいな社会主義経済の例じゃあないですか???
あと日本では破綻しつつある東京電力みたいな、特殊な例では。
市場経済では消費者は同じ品質なら安いほうを買う。
「価格はコスト+利潤で決まっている」ならば倒産する会社など無いはず。
>つまり資本論は需給による単純な価格変動の向こうにあって価格を規定する交換価値について論じているわけだよ
交換価値って「需給による単純な価格変動」以外に何があるって言うの??
マルクスはシンクタンクの研究員ではありませんよ
とりあえずジャブ打って様子見
「需給による単純な価格変動」 これはまず先に誰もが考える事 価格は需給で決まる、誰でも知っている当たり前の事です 当然マルクスもそれを知っていた そのマルクスが何故敢えて労働価値説を導入したのか、これについて考えてみてもいいと思います
唯物論者であるマルクスは何故労働価値説なる一種の神秘主義を、大論の要として採用しなければならなかったのか
「昔の人間(例えばアダムスミス)は愚かにも労働価値説なるオカルトを信じていた、そこから脱けて経済学を科学にしなければならない」 普通はこう考える
でもね、その科学的に捉えようとする資本主義というものが、オカルト視される古典的な経済学以上にオカルト的なんだよ 資本主義を科学的に捉えようとするとオカルトになる マルクスはそこに自覚的だった
経済が自律化して人間から働く場を奪う、というのはどうみてもオカルトじゃないですか
現象面=需給に囚われている限り、このオカルトの完全な克服は出来ない
大不況が来れば肌で分かるよ
如何に資本主義がオカルト的かと言うことが
>>12 マルクスにとっては労働と資本と自然かな。
資本というのは過去の労働力の蓄積だから労働か。
>>263 > 私は需要と供給が本質的な問題だと思います、今風に言うと「生産者」と「消費者」の対立です。
マルクスもいちおうそういうことは書いていますね。たとえば、
(『マルクス経済学・哲学論集』 「賃労働と資本」 長洲一ニ訳 河出書房 p.328)
{
商品の価格は何によってきめられるか?
買い手と売り手の競争によって、需要と供給、欲求と提供の関係によって。
商品の価格を決める競争には、三つの面がある。
}
この三つの面というのは、マルクス(同著同頁)によれば、
「売り手のあいだの競争」「買い手のあいだの競争」「買い手と売り手のあいだの競争」です。
しかしさらにマルクスは次のように問います。
(『マルクス経済学・哲学論集』 「賃労働と資本」 長洲一ニ訳 河出書房 p.329)
{
(略)・・・。また価格が需要供給の関係できまるとしても、需要供給の関係は何によって決まるのか?
}
マルクスはここではこの問いを「形而上学的な難問」と読んで即座にそれについて答えません。
そこではとりあえず、ブルジョアが生産費を基準に交換価値を見積もることを挙げます。
さらに、ある商品の価格が上がることは別の商品の価格が下がることを意味するとします。
マルクスにとっては労働力も貨幣も商品ですからね。
こうした市場価格の上げ下げは長期的に見れば相殺されるというようなことをマルクスは書いています。
>>263 > 労働、労働者は生産側の一味に過ぎません。
ブルジョアジーにとってはそのとおりです。
ブルジョアジーはプロレタリアートから買う労働力に依存しない選択肢を持ちます。
プロレタリアート側はブルジョアジーに依拠せずには自ら生産手段をもたない階級です。
> 労働は機械に置き換えられます、その場合の生産性の向上を労働の価値の増大と解釈するのは無理です。
まさにマルクスが『資本論』で論じようとしたことの主題がそれです。
資本家的生産様式において循環的に労働力が「節約」される動機付けが働いている
というのが『資本論』(第一巻)での1つの大きなテーマなのです。
労働力は、集団化や効率化(テーラー主義)、または機械に置き換えられることで
節約されていきます。後者はケインズがテクノロジー失業と呼んだ事態を意味するでしょう。
マルクスが『資本論』で労働時間の短縮を論じるのもこういう議論の過程にあるものです。
そしてその延長上に共産主義革命の可能性が展望されているわけです。
資本主義社会での経済学の基本は、「資本論」第1巻だと思うよ。 賛成であれ反対であれ、資本論第1巻を離れた議論は断片的で空虚な経済現象を追っているだけだ。 労働により創出された商品の価値がなぜ交換価値となるのか、そしてそれがどう増殖していくのか、緻密に描かれている。
マルクスは分析しただけ 社会変革とつなげたかったら 素朴な集合力理論に立ち返った方がいい
>>278 『資本論』が論じているのは、あくまでも資本家的生産様式についてであり、
資本家的生産様式自らが自らを唯物論的水準で止揚していく可能性についてです。
マルクスが扱っている経済学というのは、歴史をもたない抽象的な経済学ではありません。
マルクスにとってブルジョア経済学は、資本家的生産様式とセットで存在する
ある歴史的な産物(構築された構造)です。
マルクスにとって「労働価値説」もまたブルジョア経済学のイデオロギーであり、
資本家的生産様式のある段階を想像的・社会的に反映したものということになりましょう。
資本家的生産様式が発展していくにつれて、このイデオロギーの矛盾がますます
大きくなっていく、その可能性についてマルクスは『資本論』で論じています。
そういうマルクスの基本的スタンスが見逃されていると、『資本論』をマルクスが古典派と
読んだブルジョア経済学のパラダイムのなかで解釈して裁断する以外になくなります。
古典派経済学の概念を用いつつ、マルクスがそれを止揚しようとした議論過程が見えなくなります。
>>331 読んだ→呼んだ
>>278 思うに、機械も道具もロボットも、少なくと過去+現時点での現実問題として、
人間労働の産物であるのもまた事実であり、蓄積された労働=資本という意味では、
やはりそれ自体も労働時間が積もり積もったものではないでしょうか。
実際問題、過去から現在までの資本家的生産様式は人間の労働力に依然として
その多くを依拠しているのであって、だからこそ「雇用問題」なんてのがいまだに大きな
経済問題になっているわけです。
ミクロ経済的には理論上たしかに個々人の「選好等の差異」がそれだけで交換価値を生み出します。
だからこそリサイクルショップみたいなのが成り立つ余地がある。
しかし現実問題、リサイクルショップも店員を雇っていますし、オークションサイトのプログラムも
人間が労働時間を費やしてつくっているのが過去から今までの現状です。これが唯物論的制約です。
現在の資本家的生産様式はリサイクルショップという市場だけで成り立つわけではないんです。
たまたま拾った石ころを集めて別の人に売る過程にも労働力は必要なんです。店員も。
たしかに自販機やATMが発達してきていますが、現実問題としてはまだ人間労働が不要という
ところまでは言っていませんし、その証拠に失業や雇用問題が景気の動向に大きな影響力をもっています。
それから唯物論的にもう一つ忘れてはならない事実は、プロレタリアート(俗にいえばサラリーマン)が
われわれの社会の多数派を形成しているという事実があります。彼らが消費者でもあるわけです。
そしてその消費者はその購買力(実際の需要力)を、賃労働の報酬(労賃)に依存しているんです。
これが資本家的生産様式であり、これを超えていく可能性を資本家的生産様式は秘めているものの、
資本家的生産様式の段階にあるかぎりは、現実問題としてこの構造は維持されたままなんです。
>>332 不要というところまでは言っていませんし、
↓
不要というところまでは行っていませんし、
>>305 >
>>300 > >資本主義経済がマルクスやエンゲルスの生きていた時代よりは社会主義的になってきているのなら、
> >実証的に彼らの予言は検証されるのでは?
>
> マルクスはそんなことを予想だか主張だかしているんですか。
漠然と書いてしまいましたが、科学的に検証する場合はもっと厳密にマルクスの著作物にあたって、
マルクスのいくつかの記述内容を整合させながら、検証可能ないくつかの論理的命題として取り出し、
これは実証された、これは反証された、これはこれから検証可能な仮説だ、とかやるべきなんでしょうね。
科学は語る主体が誰かを全く問わないはずなので、
マルクスが正しかったとか正しくなかったとかいうのではなく、
彼の記述の中から明らかに取り出せるこの命題は正しくてこの命題は誤りだ、
というふうに厳密に命題単位で検証していくことはいくらでも可能だと思います。
たとえ、いくつかの解釈可能性がある場合であっても、それらをちゃんと整理したり分類したりしながら
検証可能な命題として取り出していけばいいんです。で、この解釈可能性は否定された、肯定できる、
あるいは、まだまだ仮説として保持できるとか、そのように検証していくことができます。
> 共産主義革命じゃなければだめだといっているんじゃないの。
そうだと思いますが、でも、革命というのをもっと多様なイメージで階級闘争一般として
捉えたほうがいいと思います。資本家的生産様式の中にありながら労働者が自らの権利を
少しずつ勝ち取っていくのも革命のプロセスなんだと思いますよ。
335 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/16(月) 23:31:42.90 0
>>327 :考える名無しさん:
>この問いを「形而上学的な難問」と読んで即座にそれについて答えません。
結局マルクスは何も答えられないんですね。
>ブルジョアが生産費を基準に交換価値を見積もることを挙げます。
それは間違い、そんな見積もりは社会主義国家の事で、市場経済の中ではあり得ない。
>市場価格の上げ下げは長期的に見れば相殺される
意味不明、そんなこと言える根拠は??
例えばHDDの価格なんて長期的に価格が下がり続ける法則みたいなものがあるが・・・・。
>>328 :考える名無しさん:
>ブルジョアジーにとってはそのとおりです。
>プロレタリアート側はブルジョアジーに依拠せずには自ら生産手段をもたない階級です。
これって矛盾してません??
依存せずには居られないんだから、一味でしょう。
チンピラがやくざから足を洗いたいけど怖くて出来ないので一味になっている例と同じでしょう。
>その延長上に共産主義革命の可能性が展望
ではその共産主義と言うのは労働力を節約しようとしない主義なんですか? もし共産主義でも同じなら「節約」は資本主義の特徴であるとは言えなくなる。
>>332 :考える名無しさん:
>現実問題としてはまだ人間労働が不要
だれもそんな事は言っていない、先の人も言っているとおり労働力の節約が常に行われると言っている、その結果失業、雇用問題が起きているんでしょ。
プロレタリアートと消費者を混同しては経済、社会は全く見えなくなる。
> それは間違い、そんな見積もりは社会主義国家の事で、市場経済の中ではあり得ない。 →いや資本主義は寧ろ生産価格的に価格を決定してる つまり価格は基本的に原価で定まる 意味不明、そんなこと言える根拠は?? 例えばHDDの価格なんて長期的に価格が下がり続ける法則みたいなものがあるが・・・・。 →これも十分説明可能 森嶋と置塩の論文読んで説明するからしばし待たれよ
>>328 :考える名無しさん:
>ブルジョアジーにとってはそのとおりです。
>プロレタリアート側はブルジョアジーに依拠せずには自ら生産手段をもたない階級です。
これって矛盾してません??
依存せずには居られないんだから、一味でしょう。
チンピラがやくざから足を洗いたいけど怖くて出来ないので一味になっている例と同じでしょう。
→そういう奇妙な一味=依存関係を批判しているのがマルクス 労働者は見えない鉄の鎖につながれている その鎖を見ようとしたのがマルクス
転形問題に対するアプローチは、「歴史的転形」による解法を除けば、ボルトケヴィッチ・スウィージー以来の価値と価格の間の数理的な問題とするものと、価値体系と価格体系の相違の問題とするものがある。 日本においては、前者のアプローチとしては置塩信雄の解法が、後者のアプローチとしては「価値は価格としてしか現れ得ない」以上両者に矛盾はないはずであり、マルクスのそもそもの問いのたて方を疑問視する桜井毅等のものが知られている。
「転形問題」のwikiより
追加生産可能な工業製品は基本的に原価を下に生産価格的に値付けをする 専ら需給関係によって価格が定まるのは骨董品のような追加生産不能な商品のみ 基本は前者ですよね で、追加生産かのうな商品の価格は投下労働に比例するというのがモチーフ
マルクスはそのつど市場で価格が決まるような商品は一先ず除外して考えている
342 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/16(月) 23:57:31.22 0
それはその通りなんじゃないですか
労働組合と資本論-マルクスを結び付けているのですか?
社会発展を阻む頑迷なあしき意味での左翼性を象徴するものとしてマルクスをみているのですか?
共産主義と労働組合って関係無いんじゃないですか 労働組合は、資本主義のもとで労働者の待遇改善を図ろうとする社会民主主義的なもので、多分マルクスはそれに反対すると思います あなたと同様に その反対のよって立つ根拠は異なるでしょうが
需給から目が離れないのは、生産についての意識がないからかな 市場に出る商品はいかに生産されるのかという視点を持つと見方が変わるかもしれません
個別の事象と現実を抽象化したことで得られる理論を混同してる人がいるね。 価格の問題にしても、政策の問題にしても、短期的な事象から理論の有効性を正誤や見ても意味がない。 あくまでも資本主義社会の経済構造をどこまで根源的にとらえることができているかということ。 マルクスの言う共産主義というのは、現実の社会を少しでも労働者の利益になるようにするとともに、物神崇拝から人間を自由にするための日々の行動のこと。 その意味で、労働組合運動であれ、反資本主義運動であれ、待遇改善を求める運動自体が共産主義としての運動となる。 ただ、その目標が物神崇拝から離れられない単なる賃上げ運動であれば、共産主義とは言えないということだろう。
349 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/17(火) 02:05:11.60 0
>>348 :考える名無しさん:
>個別の事象と現実を抽象化したことで得られる理論を混同
個別を説明できない理論は役に立たない、抽象化した膠理論は抽象画だ。
>短期的な事象から理論の有効性を正誤
長期的に見てますよ、個別の事象を長期的に見るのが大事。
>資本主義社会の経済構造をどこまで根源的にとらえることができている
そこです、マルクスはピンとはずれなので根源的に捉えるのに失敗していると言っているのです。
>物神崇拝から人間を自由にするため
そこなんですよね〜何も資本主義に始まった事ではないでしょう物神崇拝って、古今東西歴史始まって以来、人は物神崇拝のとりこです。
諸歴史の事実を抽象化して長期的に観察すれば物神崇拝とは、資本主義と言う個別で短期的な事象でなく、人間の根源的な本質にもとずいて居るのが判る筈。
マルクスがどうピント外れなのか具体的にお聞かせ願いたい
マルクスは歴史貫通的なものを具体的な形態において捉えようとする 近代においては労働力や土地等の歴史貫通的なものが全て商品として現れる これについてどう思われますか
近代を商品という具体的な形態において捉えようとしたたマルクスはすごいと思う ピント外れであるとは思えない
マルクスは商品に全てを要約したんですよ
マルクスは的外れなのではなく、さしあたりどうしようもない事実を指摘してしまっただけなんだと思う
それに対する苛立ちを感じる そういうときは、その認識は不毛であるという意味を込めてピント外れであると批判してしまう でも、絶望しようぜ
資本論の理論的な不備に関しては、1、2、3巻の間に方法論的な整合性をつければ解消出来る、これは何とかなりそう
絶望したくないのだろう
解決不可能な問題をどう捉えるか 解決が不可能なのだから解決を求めて行動すべきでないと考えるか、それとも根本の部分にこだわるか
ピント外れというのも、煮詰めれば、解決不可能な問題を提起し、それを解決しようとする事はKYであるって所に行き着くような気がするな
でも、その解決不能性こそが仮称であり、問題の根であるという事もある 解決可能な問題の根を、解決不能であると見て放置する事で何時までも問題が解決しないというような
過激な言葉になるが、そのために自己のイデオロギー性を自覚的に批判する必要がある訳だ
それを踏まえて、マルクスのどこにピントの狂いを感じるか、指摘していただけると有りがたいです
>>349 レスありがとう。
>個別を説明できない理論は役に立たない、抽象化した膠理論は抽象画だ。
個別が説明できないというのは、自分には説明できなしという意味?
例えば価格の変動について、マルクスは需給関係によるという説明をしている。
その個別の商品価格の変動がどこに収束するのか、あるいはその商品は消えていくのか、ということの根源を労働に求めている。
これが抽象ということ。
抽象画も同じだよ。
ある人たちは、空間表現でしかありえない絵画に、その空間そのものを使って時間を取り入れたりする。
ある人たちは、単純化された模様のように、空間の存在そのものだったり、現実の色そのものだけを表現したりしている。
抽象というのは、現実のある面を一般化するための必須の論理作業。
>個別の事象を長期的に見るのが大事
個別の事象というのは、その時々の状況によってさまざまに変化する。
その個別の事象そのものが消えていくのが普通だ。
個別の事象を長期的に見るためには、その状況との連関を含めて抽象することが必要。
>物神崇拝とは、資本主義と言う個別で短期的な事象でなく、人間の根源的な本質にもとずいて居る
資本主義における物神崇拝とは、貨幣崇拝。
貨幣とは特殊な商品にすぎないが、一方でその物自体の使用価値を失った商品でもある。
人間としての使用価値の創出のための労働が、資本主義社会では、その目的を失って交換価値のみを目的とした労働として表れる。
これが疎外された労働。
364 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/17(火) 16:18:07.63 0
>>363 :考える名無しさん:
>個別の商品価格の変動がどこに収束するのか、あるいはその商品は消えていくのか、ということの根源を労働に求め
ここが問題だと言っているのです、その商品に費やされた労働量はその時点で確定している訳でしょう、その後に商品価格が需要によって変動する訳です、売れずに消えちゃうかもしれない。
そういう実体経済の流れの中では商品に労働価値がくっ付いていると言う発想は、生産後の価格変動と労働価値がリンクしないので意味をなさないんです。
>資本主義における物神崇拝とは、貨幣崇拝。
ですから貨幣崇拝と言うのは資本主義に始まった訳ではないと言っているんですよ。
ギリシャローマの時代から金で奴隷が売買されていたのだから。
>交換価値のみを目的とした労働として表れる。 これが疎外された労働。
このような平板な捉え方が抽象と言うのかもしれないが幼稚過ぎて話にならない。
例えば愛する妻子を養う為に10万円必要だ、その為にはどんな仕事でもする。
このようなモチベーションの労働は疎外労働とは言わない。
交換価値が疎外を産む張本人ではない、もっと別のところにある。
人間の疎外などと言う大きなテーマを貨幣、労働だけで説明しようとするのは無理。
ま、そこで価値と言う概念を思いついたんだろうが、生きる「価値」と商品価値の価値と混同したのではしゃれにもならない。
それは抽象でなく単なる誤用。
>
そういう戯言は転形論争、置塩、森嶋の定式化ぐらい見てから言えば良いのに 多分、置塩モデルすら理解できる頭がないから342とかトンチンカンな方向に話をそらすんだろうけど
資本主義的商品と、それいがいの社会における商品は全くの別物ですよ。
367 :
363 :2013/09/17(火) 18:12:45.01 0
>>364 残念ながらまったく論理的な思考のできない人だったんだね。
君との議論は終りにするよ。
ブルジョアジー=DVヒモ男 プロレタリア=ブルちゃんがいないと寂しいマゾ女 革命無用
なんか資本論を神格化してないか?w ただの経済書なのに まるで経典かなんかのように深読みしてさ 資本論をいくら読み込んでも共産主義社会なんて来ないさ
ブルジョアに搾取されるのんぎもちぃいいいい!!
今の先進自由主義諸国は、ソ連の労働者保護政策に対抗した名残りで資本主義本来よりもかなり社会主義寄り。 資本主義本来の在り方は、アフリカなどの発展途上国における苛烈な搾取がそれだし、ソ連が滅んだからには先 進国がそんな風に戻るのも時間の問題かと。
社会主義か、それとも共産主義か? 社会主義は半端な労働者保護とリフレ安定成長に甘んじている
>>369 誰も深読みなんかしてないって。まったく読まずして藁人形論法で批判する奴が多すぎるだけだろ。
素直に読めば批判が的外れだとわかる場合がほとんど。
ある面では非合理的な資本主義を、自分含め多くの人間が支持するのは、資本主義が曖昧さを擁護するからだと思う 人は曖昧さを好む 自由、平等、友愛という近代の夢は、結局この曖昧さへの欲望の現象形態なのではないかと思う 人はズルズルが好きなんだわ そのズルズルを許容するのが資本主義である
そういう意味では、ポストモダンは結局近代の徹底に過ぎない
「近代的な理念」を擁護しつつ、あるいはするために、ズルズルを切断しようとする試みは、全て失敗している
377 :
考える名無しさん :2013/09/18(水) 03:21:38.28 0
神からも、合理からも離れる これが無意識の欲望なんだろう
政治家はその欲望を感じているからあえて失政を繰り返す 所謂フロイトの言い間違いのように
失政は人間としての政治家の持つ無意識の欲望だ
そして資本主義が相対化されないから超自我が宿らない
立派な政治家は突然変異的な異常な個体だ そういう錯乱した異常な固体を作り出さないと資本主義は回っていかない
自由と平等は矛盾しない 何故ならそれらはともに曖昧さの欲望の現れであるから
383 :
がんばれじいさん :2013/09/18(水) 07:31:39.06 0
肝心の剰余価値が語られていない。 労働価値や交換価値の“価値論”はそのための前提に過ぎない。 半端な抽象論⇒「哲学」に逃げ込んではだめだ。 マルクスこそ「哲学」から「経済学」批判(社会科学)を立ち上げた本人。 そこを忘れている。 今もマルクス(スレ)はエンゲルス(ナビゲーター)を必要としている。
近代経済学は需給関係は何によって決まるとしているの?
http://blogs.yahoo.co.jp/f196ip7d/17928011.html 栗田康之(宇野学派)はマルクスの再生産表式を有効需要の観点から修正したという
カレツキの表式について次のように述べている。
「カレツキ表式論の意義は、まず第1に、そのような投資(および資本家消費)に
よる、利潤と賃金および国民所得の決定という資本主義的階級関係を前提とした
有効需要論の展開にあるといってよい。」
栗田によれば、カレツキは、マルクスの再生産表式における、T生産手段部門
U消費手段部門をさらに、1投資財生産部門、2資本家消費財生産部門、3、
賃金財部門、に再分割し、次のように展開している。
1 T=P1+W1 P(総利潤)、W(総賃金)、T(投資)
2 Ck=P2+W2 Ck(資本家消費)、Cw(労働者消費)
3 Cw=P3+W3 P=P1+P2+P3
W=W1+W2+W3
さらに
Y=P+W
=T+Ck+Cw・・・@ Y(国民所得)
まず、賃金財の3部門の資本家が賃金W3を払って、手元には利潤(余剰賃金財)
P3が残る。これは、資本家消費財部門が設定されているので、そっちには行かず
1部門と2部門の労働者によって消費されるので、
P3=W1+W2・・・A
カレツキはこのA式こそ、
「投資と資本家消費が利潤と国民所得を決定する」という命題を導くとのことである。
カレツキは、短期の価格変動には、主に生産費(費用)の変動によって決まるものと需要の変動に
よって決まるものの二種類があるという。
「短期価格変動には、大きく分けてつぎの二つの種類があると考えられる。主として生産費の変動に
よって決定されるもの、および主として需要の変動によって決定されるものである、一般的にいうなら
ば、完成財の価格変動は『費用で決定され』、主要食料品を含む原料の価格の変動は『需要で決定され
る』。完成財の価格は、もちろん、『需要で決定される』原料の価格変動によっても影響を受けるので
あるけれども、この影響が伝えられるのは費用の経路を通してである。
これら二つの価格形成の型は、供給条件の相違に由来するものであることは明らかである。完成財の
生産は、生産能力に予備があるために弾力的である。需要の増大は、主として、生産量の増大を伴うだ
けであって、価格は同一水準にとどまる傾向がある。価格変動が起こるのは、主として生産費における
変動の結果である。
原料については、事情がちがっている。農業生産物の供給増加には、かなり多くの時間を必要とす
る。このことは、同じ程度ではないにしても、鉱業について妥当する。供給は、短期的には非弾力的な
ので、需要の増大は、在庫品の減少にしたがって価格の上昇をひきおこす。この最初の価格のうごき
は、通常、標準化されていて、商品取引所で相場がたてられる。最初の需要増加は価格を上昇せしめ、
しばしば第二次的な投機的需要を伴う。このことが、また、短期において、生産を一そう需要に追いつ
きにくくしているのである」。
ずいぶん、われわれが今目の前で見ていることの像に近くなっている。…
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b710.html マルクスから学んだカレツキの経済理論: 21世紀の風
マルクス再生産表式の部門1を二つに分けたのがカレツキの肝だ。 誤解されがちだが、 国家計画経済を推進したというよりは持続可能な経済を見いだそうとしたと言える。 だからこそケインズに先んじることが出来たのだ。
389 :
考える名無しさん :2013/09/18(水) 16:44:28.94 0
マルクスの意図とは逆の方にマルクスは利用された気がする
カレツキは公共事業よりもベーシックインカムに好意的な感じがするけど、勘違い?
391 :
考える名無しさん :2013/09/18(水) 20:35:00.45 0
>>371 同意。ソ連があったからこそ資本主義国も比較的誠実な経営に徹していたというのはある。
人間が社会をなして生産を行うとき、社会的生産体は、それを構成する各成員の生存に必要な量を超える財貨を生産することが出来る。 つまり、社会的に生産を行うとき、必要生産物だけでなく、剰余生産物をも作る事が可能。 前者に体現されている労働を必要労働、後者に体現されている労働を剰余労働と呼ぶ。 資本主義においては、必要生産物-労働が賃金として現われ、剰余生産物-労働は利潤、地代として現われる。 この利潤が資本関係を再生産する。
つまり社会は剰余財貨の生産が可能。 資本主義においては、資本関係に基づいて、この剰余が利潤として資本家に帰属し、この利潤が資本関係を再生産する。
なぜ社会をなして生産しているのに、剰余生産物が専ら、労働に携わらない資本家に帰属するのか?という疑問をマルクスが提起している。
395 :
考える名無しさん :2013/09/19(木) 00:50:49.83 0
古典派経済学は、労働の根源性を無視し、「労働」と資本と土地を同次元に並べることによって、この搾取(強い言葉!)を隠蔽する、と資本論において古典派自身の労働価値説を引用しつつ批判的に指摘したのがマルクス。
396 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/19(木) 01:21:58.60 0
>>385 :考える名無しさん:
これらの数式の中に「労働価値」と言う項目が無いが、
W(総賃金)を総労働時間で割ったものが「労働価値」と言う解釈で良いのですか?
>>387 :考える名無しさん:
>ずいぶん、われわれが今目の前で見ていることの像に近くなっている。…
これは「生産費(費用)の変動」を供給側の事情と言い換えれば、
要は「価格変動は需給で決まる」と言うことでいいのでは。
>>396 >W(総賃金)を総労働時間で割ったものが「労働価値」と言う解釈で良いのですか?
横で悪いけど、いくらなんでもそこまで無理解なんじゃ、マルクスどころか経済学そのものを論じるのが無理だろ。
じいさんは、マルクス置いておいて、まず近代経済学をまじめに勉強してみたら良いと思う……
399 :
がんばれじいさん :2013/09/20(金) 07:54:08.92 0
いや「金だい経済学」をまじめに勉強してみたら“経済”がますますわからなくなる。 それは請け負う。 じゃあマルクスならセーフかというとそうもいかない。 マルクスも多くの“亡霊”の一つだ。 「亡霊」とは記号のことだが結局自分の頭の中に棲む亡霊をどこまで追いだせるか。 結局はそれにかかっている。
400 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/21(土) 00:46:44.71 0
>>397 :考える名無しさん:
では「労働価値」は数式には入ってこないと言う事ですか?
貴方なりに「労働価値」を数式に即して説明してください。
401 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 01:02:16.14 0
397じゃないけど、「貴方なりに」とか失礼じゃね? まあそれでもやれといわれりゃやりますけどね。
402 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 01:04:11.76 0
もうちょっとさ、気合入れて質問してよ。
403 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 01:08:02.54 0
あなた本当にそれ知りたいの?
404 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 01:18:53.36 0
貴方の質問に答えるというより、一種のチャレンジのつもりで答えるけど。 今アマゾンで本を何冊か注文した。お急ぎ便で明日届く。 届いたら読んで来週中に労働と価値と価格の間の関係について自分なりに書き込む。
405 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 01:34:58.14 0
頼まれたから金と時間かけてやるんだからよ、貴方きちんと反応しろよ。
必ずしもそういう事ではないか。
407 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 02:57:45.32 O
てか 経済システムの改変だけじゃ何も変わらないよね また同じ歴史繰り返すつもり? 弁証法どこ行った?
408 :
がんばれじいさん :2013/09/21(土) 08:38:58.46 0
経済システムの改変だけじゃ何も変わらない。 そりゃそうだ。 しかし長期的に見れば? 「見る前に跳べ」だ。 跳ぶ前の自分と跳んだ後の自分とは違う(たぶん)。
「労働価値」とか言ってる人は何か勘違いしてると思う… 「価値」の源泉が「労働」であるという話なのだから
410 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/21(土) 13:51:44.33 0
>>367 :363:2013/09/17(火)
>君との議論は終りにするよ。
この人はこうやって都合が悪くなると逃げるクセがあるのかな・・・
ものすごいブーメランを見た 頭に刺さってる
>>412 たとえば、金とかダイヤモンドは鉱石として山の中にあるだけで価値を生む?
414 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 19:49:34.23 0
キャバクラ行けばマルクスが間違いだとよくわかる。 ブサイクが作った水割りは安いが美人が作った水割りは高いw 同じ労働でも値段ってのは全然一緒じゃないんだよ
415 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 19:51:10.22 0
>>394 そんなこともわからないマルクスさんはアホってことだな。
「美人であり続けること」も労働の一種と思われ。 水割りへの価値の転嫁を行うことからすれば、ブサイクか美人かは生産手段の相違か。
価値は根源的には、本来不安定な未来を、部分的に安定化し確実なものとして提供することによって生じるのではなかろうか。
>>412 その需要は資本主義下では主として労働よりもたらされる。
そしてその希少性も労働と自然によってもたらされる。
マルクスはゴータ綱領批判で価値の源泉は労働と自然だと書いている。
資本主義を止揚すれば労働価値説も揚棄されることだろうってのがマルクスの展望。
421 :
417 :2013/09/21(土) 20:10:52.06 0
>>419 簡単に例で言えば、納期と契約を守る労働は価値を生むが、守らない労働は生まない、ということ。
読み返さないと駄目だな マルクス自身のテキストに当らないと
423 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 20:35:30.91 0
価格を決めるのは需給、価値を決めるのは労働 二本立てなんだよな 需給一元論でも、労働一元論でもない これを無理に一元化しようとするから混乱する 次に為すべきはマルクスのこの二元論の由来を説明し、資本論の正確を特徴付ける事
424 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 20:39:03.31 0
需給一元論=近代経済学は恐らく労働一元論=古典派の進化版 そういう意味で、もしマルクスを古典派的な労働一元論を採っているものとして見ると、恐らく幼稚な不備しか見えてこないだろうと思う おそらくマルクスの価値概念を批判している人は、マルクスとマルクスの批判した古典派の区別がついていない
425 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 20:40:49.94 0
だからマルクス批判者の見ているのは、二元主義者マルクスではなく、一元主義者の古典派リカードなんだろうと思う でも、基本的に価値一元論と価格一元論は同じものだと思う
426 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 20:41:50.40 0
多分マルクスが見えていないと思う
427 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/21(土) 20:53:48.25 0
>>395 :考える名無しさん:
>搾取(強い言葉!)を隠蔽する
近代の生産様式は本質は自然からの収奪である、その意味で資本家も労働者も共犯者、パイの奪い合いに過ぎない。
限られた地球資源は一体誰のものか?
企業(労働者+資本家)の所有(独占)が基本的に許されるのであろうか?
現代の矛盾はこの一点だとじいさんは思う。
三池争議にしろ国鉄分割民営化反対闘争などのとき労働者には、資源が人民のものだと言う視点が無い、企業エゴイズムが労働争議の本質である。
そして今で言う郵政民有化反対の流れである。JP労組と言うらしいがこれらは特権の上にあぐらをかく人民の敵である。
>>394 :考える名無しさん:2013/09/19(木)
>なぜ社会をなして生産しているのに、剰余生産物が専ら、労働に携わらない資本家に帰属するのか?という疑問をマルクスが提起している。
極めて簡単な事である、もし剰余生産物が労働者に帰属するなら企業活動の責任もになわなければならない、今で言えばチッソも原発事故もその責任も問われる。
しかし資本主義制度では一般に企業家が無限責任を負う、言って見れば主犯である。そのために企業の反社会的結果責任は従業員は問われない。
自然からの収奪の主犯は企業(企業家=資本家)であり労働者が従犯である。
>>413 :考える名無しさん:2013/09/21(土)
山の中のそれに価値を見出すから戦争まで起こっているのだが???
ちなみに金価格の増減で金鉱山の採掘、労働者の賃金が敏感に左右されている。
さらには不思議な事に埋蔵量まで変化する。
資本主義の下ではその企業エゴイズムは必然であると考えたのが恐らくマルクスですよ で、その主張の基礎には資本論がある だから、おそらくじいさんの主張を煮詰めると理論的には資本論に行き着く 企業エゴイズムの基礎は労働力の商品化だよ
社会の矛盾→企業エゴイズム(じいさん、プルードン)→資本主義(マルクス)
じいさんは企業エゴイズムの発生原因は何であるとお考えになりますか?
宮台真二の書いた廣松渉についての文章を読んできた 自分の薄さにうんざりした
訂正 ×宮台真二○宮台真司 失礼だった
433 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/09/21(土) 22:27:22.82 0
>>430 :考える名無しさん:2013/09/21(土)
>企業エゴイズムの発生原因は何である
それは企業活動が自由であることです。
労働者からの搾取の自由、自然からの収奪の自由これらの自由な企業活動が競争となって大きなイノべーションを産み社会が繁栄し人民(消費者)が多大な恩恵を受け地球上で巨大な人口を養えるようになりました。
労働者からの搾取を認めず、消費者を無視し需給に基づかない計画(不自由)経済は破綻しソビエトは解体しました、マルクス思想の終焉です。
しかし重要なのはこれからで、自由競争はご存知のとおり最初は自由競争、市場経済ですがやがては独占資本主義に行き着きます。
ところがこの独占企業と言うのが意外に脆く、新興の企業に追撃されると言う事態がたびたび起こりますソニーや本田の例です。
勿論彼らも既に国際独占資本の仲間入りをしているわけでそのうち落ち目になるかもしれません。この新陳代謝こそが資本主義の生命力です。
ただそこには更に問題があって独占資本は正統な競争以外の部分で市場、資源等を囲い込んだり政治的に経済的に競争を阻んで消費者をないがしろにします、所謂カルテル、トラスト、コンツエルンです。
自由競争が阻まれ価格は需給では決まらず消費者に著しい不利益が生じ、経済が恐慌に陥ります。其れを防ぐ為には独占禁止法と言う法律があります。
従って資本主義は独占禁止法が遵守されている限り繁栄すると言えます。
ちなみに情報分野の独占が不当にも政治的圧力で立法化されたものが知的財産権であることは言うまでもありません。
434 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 22:52:50.19 P
資本主義は必然的に独占に行き着く ジジイは資本主義をナメすぎている 法律を守れで済む話ではない 強力な政府で抑圧して行くしかないのだ 今のところ解決策はプロレタリア独裁しかない 革命しか世界を救えないんよ 市場機構がうまく機能するなどそれこそ幻想かイデオロギーに過ぎないし、下からの改革と称するプルードン的市場改革も結局は資本の荒波に沈没させられざるを得ない空想的社会主義だ
空想マルクス主義
>>427 >
> 極めて簡単な事である、もし剰余生産物が労働者に帰属するなら企業活動の責任もになわなければならない、今で言えばチッソも原発事故もその責任も問われる。
> しかし資本主義制度では一般に企業家が無限責任を負う、言って見れば主犯である。そのために企業の反社会的結果責任は従業員は問われない。
> 自然からの収奪の主犯は企業(企業家=資本家)であり労働者が従犯である。
厳密には労働者や労働組合にも責任があると思うが、第一義の責任主体は、
企業の意思決定権を握っている者やそれを任命する者にあるだろう。
経営者または経営者を使命する権限を握っている側にあるんだと考えるのが、
近代の責任概念だと思うが。
ある行為の責任が問われる場合、その行為を実行することを選択・決定・命令する権限・権力を どれだけもっているかで、その責任の度合いが見積もられるはず。 責任というのはこうした権限に対応して生じ、権限の度合いによって大きくなったり小さくなったりする。
ブルジョア経済イデオロギーは需要を個人の私的で主観的な問題に還元として捉えてそこで 思考停止してしまいがちなところがあるけど、需要が唯物論的には購買力に支えられていることや、 その購買力の源泉が資本主義社会で多数派を占めるプロレタリアートにおいては 主として「賃労働」である点が無視されている。(ケインジアンを除いて) また私的・主観的な観点(個人の主観的効用論)に還元した場合にも、 労働(負の効用)が重要なファクターになっていることを無視しがち。ケインジアンを除いて。
資本主義システムを擁護しながら労働価値説を否定するというのはダブルスタンダード
441 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 10:24:16.70 0
価値と価格との関係の数学的表現 まずモデルを構成する要素を定義する ・p 価格ベクトル ・w 賃金 ・r 利潤率 ・L 労働投入ベクトル 第i要素が財Iの単位辺り生産に必要とされる労働投入量を示す ・K 資本係数行列 行列の第i,j要素は、j財の単位生産に必要とされる第i財の量をしめ
442 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 10:26:12.20 0
その上で、価格方程式(フルコスト原理、もしくは利潤率均等化原理による)と価値方程式との間の関係について考える。
443 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 10:44:42.43 0
まず価値方程式について。 Yを各財に投下されたそう労働量を示すベクトルであるとすると、それは次のような方程式で表現される(この方程式が価値方程式である)。 δKを資本減耗行列とする、それは対角行列であり、その第i要素はi自身を生産するに当っての資本減耗率を表す。 するとまず、資本減耗分に体化される過去の労働はAδKで与えられる。 また、直接労働は投下労働ベクトルで与えられるから、総総投下労働ベクトルは YδK+L で与えられる。 よって(この総投下労働ベクトルをYで表すと)価値方程式は Y=δK+L で与えられる。
444 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 10:51:31.90 0
訂正 ×δKを資本減耗行列とする、それは対角行列であり、その第i要素はi自身を生産するに当っての資本減耗率を表 ○δを資本減耗行列とする、それは対角行列であり、その第i要素はi自身を生産するに当っての資本減耗率を表
445 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 10:55:19.06 0
次いで価格方程式について。 第i財を生産するのに必要な(金額で図った)費用は、w(Li)+pδKiで与えられる。ここでLiはLの第i列ベクトル。 利潤率が任意のiについて均等化するものと仮定すると、次のような価格方程式が得られる。 P=wL+pδK+r(wL+pK)
446 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 11:00:39.65 0
以上を前提に、証明すべき労働価値説の数学的表現は、p=hY で与えられる。 森嶋によればこれが成立するための必要条件は、全ての生産プロセスについての資本構成が人しいこと、つまり、任意のiについてpKi/Li=kが成り立つ事である。 これを森嶋はリカ−ド-マルクス定理と呼ぶ。 リカード-マルクス定理 任意のiについてその資本構成が等しいならば、価格は価値に比例するという労働価値説が成立する。
447 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 11:01:36.66 0
証明・・・いる?
価格方程式と価値方程式を用いて、価格と労働の低比例関係を示すp=hYを導くという事なんだけど。
>>396 カレツキの場合、労働者賃金にはW3という記号が付与されています
(マルクスで言えばV2)
W3/Ck(労働者消費)=w3という分配率が重要になります
労働価値=分配率と考えていいでしょう
時給=労働価値としてしまうと比率が見えないので
分配率はマルクスで言えば2(V)/2(C+V+M)
この分配率は、(この部門内で消費される限り)利潤が労働者に分配されることを
前提にしたもので
以下のマルクスのタームとは一線を画します
剰余価値率または搾取率m'=利潤m/賃金v
利潤率はp'=m/(c+v)
(カレツキにMは存在しないというよりは投資家の投資という別部門に分類される)
カレツキは原材料費を別枠で取り、完全な労働価値説を取りません
ただしこの方が少子化、設備投資費の減少した今の現実に近いと思います
原材料費を別枠にする意味は、労働者自身の再生産(20年でやっと成人)を別枠、
というより別のタイムスパンで捉えるのと同じ理屈です
あと労働価値が搾取されるのではなく労働における集合力が搾取されるのです
マルクスはここの分析が甘い
というより(後述するが分析対象を無意識裏に自明視してしまうという)分析的思考の欠陥です
価値と価格の乖離の根本原因は、
農産物など商品や人的資源の価値は減ってゆくのに、貨幣の価値は目減りしないことにある
これを解決するためにはプルードン-ゲゼルの減価マネーを取り入れるしかない
450 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 15:38:43.07 0
AKBのじゃんけん大会のチケットに20万円の値段がつく時点でマルクス経済学なんて間違い
森嶋の証明を写そうとして気づいたんだけど、一つ式の展開に付いていけない箇所がある。 そこは証明の最後段の箇所。
452 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 23:45:26.11 0
>>450 その手は使い古されたデマゴーグの論法だ。
なにをいまさら。
個々の資本家の下で社会的に作られたAKBのチケットが
全社会的に20万で取引されているとでもいうのか?
AKBオタクの間でだけだろ。
つまりそういうことだ。
AKB48のようなアイドルが活躍するまでに、あるいはその背後で、どれだけの裏方労働力が 注ぎ込まれているか知らないんだろうな。そのうえに希少性を生み出す偶像性も成り立っている。
森嶋の叙述に関して理解出来ないのはここ。 「価格pi(i番目の財の価格)の費用w(賃金)Li(第i財の単位辺り生産に要する労働投入量)量+p(価格ベクトル)(δK)iを超過する部分は利潤となる。 よってこれを総資本w・Li+pKで割ると第i生産プロセスにおける利潤率riが得られる」 このδというのはKを対角化する記号なんだと思うんだけど、そうすると、pδKiは減価償却費になってしまう。 利潤計算において原材料費が抜けてるようなきがするんだよな。。 どこを誤解してるんだろうか。
455 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 12:26:03.96 0
文中でデルタについてはこう定義されてる。 「Kを資本係数行列とする。・・・Kの第(i,j)要素であるKijは第i商品の生産に必要な第j資本財である。 最後に、KiをKの第iベクトル、対角行列δはその第i対角要素δiが第i資本財の減耗率である。」 森嶋道夫『リカードの経済学』
いや、δは対角化ではなく、Kをそのまま対角行列にする記号 他にどういう読み方があるのか。
p・δKiは何を表しているんだ?
森嶋の叙述に総資本wで割ると産プロセス第におけi得られるi (潤「価格pi(i番目の財のLi+pK)L率生る利が」 関して理 解来出な価格・いこ。 第rii財の単位辺り生産に要する労働投 入量)量+p(価格ベクトル)(δK)iを超過する部分は利潤と なる。 よってこれを)の費用w(賃金のはこする うんだけど対角んをと償却費になってしまう。 利潤計算において原材料費いのはうKとるようながなだきが思号、 そうと、pδKiは減価このδ抜けてするんだよな。。 化する記 どこを誤解してるんだろうか。 第i商品の生産に必である要な第j資 資本係。・・・Kの第(i,j)要素であるKijは本財。いてはこう角 最後に、KiをKのに行列とするタ第i対要素δi耗率である。」 森嶋道夫『リカードの学対角つ定義されてる。 角行列が第i 「Kを第iベクトル、対δはその資本財の減 文中でデル数経済化ではなく』 があるのか記号いや、にどういう読δはにする方、Kをそのまま対角行列 他み。
459 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 12:56:37.50 0
理解できないのはこk。 「価格pi(i番目の財の価格)の費用w(賃金)Li(第i財の単位辺り生産に要する労働投入量)量+p(価格ベクトル)(δK)iを超過する部分は利潤となる。 よってこれを総資本w・Li+pKで割ると第i生産プロセスにおける利潤率riが得られる」 文中でデルタについてはこう定義されてる。 「Kを資本係数行列とする。・・・Kの第(i,j)要素であるKijは第i商品の生産に必要な第j資本財である。 最後に、KiをKの第iベクトル、対角行列δはその第i対角要素δiが第i資本財の減耗率である。」 森嶋道夫『リカードの経済学』 δKiは何を表しているのか。
460 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 13:06:52.35 0
利潤=pi-(wLi-δKi)となってる。 近代経済学の利潤関数は、 利潤=pf(x)-wl-rk、ベクトルで書くとp・y、このp・yが森嶋のwLi-pKiに当たる。 あと行列の対角化というのがまたべつにあって。、、
ブルジョア経済学が仮想するリサイクルショップだけで成り立つ産業社会は 空想的社会主義のように、未来の話か、部分的にしか成り立たないんだろうな。 ケインズの言うようにそれを一般モデル化しちゃあかんという話かもしれん。
463 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 17:29:26.20 0
>>453 マルクスを読めば一番最初に書いてるじゃん。
アイドルのチケットが高額で取引されるような現象は
資本主義以前にもあったし、資本主義を特徴づけるものではない。
資本主義の特徴は全面的な商品交換社会という点にあるのだから、
この全面的に交換される商品を分析していく、って。
たわ言を垂れ流して申し訳ない。 訂正 ×利潤=pf(x)-wl-rk、ベクトルで書くとp・y、このp・yが森嶋のwLi-pKiに当たる。 ○利潤=pf(x)-wl-rk、ベクトルで書くとp・y、このp・yが森嶋のP-r(wL+pK) に当る、産出物×価格−投入物×価格なので。 に当たる。
森嶋『リカードの経済学』の該当箇所を略さず原文のまま載せます。 「3 では、価格と価値決定体系はどのようにして決定されるだろうか。 pを価格(行)ベクトル、wを労働一単位当たり賃金率、rを利潤率とする。 Lを労働投入係数(行)ベクトル、Kを資本係数行列とする。Lの第i要素をLiとし、第i商品の生産に直接必要な労働量を表す。 Kの第(j,i)要素であるKijは、第i商品の生産に必要な第j資本財である。 最後に、KiをKの第i列ベクトル、対角行列δはその第i要素δiが第i資本財の減耗率である。」 ここまでで1パラグラフ。長くなるのでパラグラフ毎に投稿します。 五回引用文と、引用元の本文を照らし合わせながら、読み返しました。 その限りにおいては転載ミスを発見できませんでした。
続き 「各生産者は二種類の資本を持っていなければならない。一つは労働を支えるための資本であり、いま一つは道具、機械、建物などに投資される資本である。 それぞれを、リカードは流動資本と固定資本と呼び、マルクスは、可変資本と不変資本と呼んだ。 かくしてマルクスと同様に、リカードの場合、第i商品1単位当たり生産に必要な総資本はwLi+pKiという事になるが、もし生産が瞬時に行われるならば、これはpKiとなるだろう。 ここから、リカードはとの要素についても何らかの生産ラグを仮定していたと考える事ができるだろう。・・・続く 長いのでパラグラフ変更はありませんが、一旦投稿します。
続き ・・・しかし、実際にはリカードは農業には1期の、製造業には0期の生産期間を仮定したのである。 この明らかな矛盾は最終章で、ヴィクセルとフォン・ノイマンの新賃金基金説を扱うときまでは、本書を通じて無視される。 価格piの費用wLi+p(δKi)(賃金+資本財のユ−ザーコスト)を超過する部分は利潤となる。 よって、これを、総資本wLi+pKで割ると第i生産プロセスにおける利潤率riが得られる。 すべてのri(i=1,2・・・)が互いに等しくなるような均衡状態において、我々は次の均等利潤率方程式を得る。 p-(wL+pδK)=r(wL+pK) これは価格ないし価格-費用方程式として次のように表される。 p=wL+pδK+r(wL+pK) (1) ここでrは均等利潤率を表す。
469 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 19:08:48.23 0
この方程式は(a)所与のマークアップ率rについて、ある種のフルコスト原理によって価格が決定される場合にも、あるいは、(b)利潤率の異なる生産部部門で、低利潤率部門から高利潤率部門へと資本移動が生じ、 経済全体で均等な利潤率が形成される場合にも妥当する。 リカードは部門間の資本移動はスムーズかつ迅速に行われると考えた。 この仮定は、リカードの時代には一般的であったように、生産が巨額な初期固定資本を必要としない経済にあっては成立する。」 森嶋の価格方程式に関しての叙述は以上です。 次パラグラフから価格方程式から話題を転じ価値方程式の叙述に入っています。
哲学板で何言ってんだこいつw
まあ、そう言うなよ。 たまにはこういう独りよがりもいいもんだよ。 枯れ木も山の、とか言うじゃないか。
枯れ木も山の馴れ合い、とか言うじゃないか。
>>467 >「各生産者は二種類の資本を持っていなければならない。一つは労働を支えるための資本であり、い
>ま一つは道具、機械、建物などに投資される資本である。
>それぞれを、リカードは流動資本と固定資本と呼び、マルクスは、可変資本と不変資本と呼んだ。
流動資本:固定資本と可変資本v:不変資本cはズレると思うのでそこだけ気になる
(近代経済学にはストックとフローしかなく、マルクス経済学は恐慌を回避する術を提示しない)
新たな価値論の中で両者は統合されると言うのだろうか?
474 :
考える名無しさん :2013/09/26(木) 09:19:17.12 0
マルクスって反ユダヤ主義者だったんだよねえ 宗教批判しまくってたから相当嫌がらせもあっただろうな
475 :
がんばれじいさん :2013/09/26(木) 11:37:03.51 0
ガリレオは神を否定したわけではない。 むしろ自然(宇宙)法則こそ「神の意志」だと。 神の(間接的ながら)存在証明でもあるわけだ。 アインシュタインをはじめとする西洋の現代物理学者が 素朴な“信徒”であるが故に最先端の真理に迫れるという逆説。 カミと神の区別のある日本人にはちと分かりにくい。 さてマルクス。 十九世紀当時の最先端の自然科学法則を人間社会に当てはめ 同じ法則性があることを証明してみせた。 社会科学の誕生。 「神の見えざる手」(アダム・スミス) 「貧困化法則」これも神の意志なのか? そういうことからはじめよう。
>>474 「ユダヤ人問題によせて」を読むと、ユダヤ教を冒涜しているとも受け取られかねない
表現に満ち満ちているね。
ユダヤ教の現世的な基盤を「欲望と私利」だとし、その現世的な神は「貨幣」だと書いたり、
その祭祀を「穢れた商売」だと書いたり、ユダヤ教のなかに人間への蔑視が含まれているとか、
男女関係をも取引の対象になるとか、「ユダヤ人の妄想的な国籍」などという言い方までしている。
けっきょくユダヤ教は近代市民社会(ブルジョア社会?)の母胎だったみたいな・・・
そして、ユダヤ人の解放はユダヤ教からの解放にあるんだ、みたいな・・・
フォイエルバッハの影響を強く受けた当時の青年ヘーゲル派のなかでは 当然の観点だったのかもしれないけど・・・
バウアー、マルクス、デューリングのユダヤ人論の枠組みは以下、
B | A
政治的←宗教的
__↓↑_|___
人間的|
C | D
バウアーはAからBを主張し、マルクスはBからCを主張し、デューリングはCからBを主張した。
肝心のスピノザはDの位置にいる。(ただしデューリングは一応総合的な志向を持っていた。)
(なお、マルクスとバウアーの関係については以下が詳しい。
マルクスとユダヤ人問題 神田順司
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kandaju.pdf )
<彼がユダヤ 人コンプレックスを抱えていたことは否定しようのない事実として残る。マルクスは、
みずからの出自や父の改宗について語ることは一度た りともなかった。あるいはハイネやヘスの
ように、改宗ユダヤ人である ことの、そしてユダヤ人であることの「痛み」を率直に語ることも
なかった。マルクスは幼少期に改宗したとはいえ、多くのラビやユダヤ教徒の 親族に囲まれ、ユダヤ
人の社会状況を熟知し、かつみずからが徹底した 差別を体験したにもかかわらず、そのようなドイツ
の差別社会と闘うこ とはなかった。彼はむしろ批判の矛先を同胞に向け、ユダヤ人の解放と は
「ボロ儲け」からの解放であると主張した。ちょうどハイネが別の事例について厳しく批判した
ように、マルクスもまた「自分の出自に気付かれないように、ユダヤ人についてひどい悪口を言って
見せた」のである。マルクスの「ユダヤ人問題」は彼自身の「ユダヤ人問題」であった のかもしれない。>
>十九世紀当時の最先端の自然科学法則を人間社会に当てはめ >同じ法則性があることを証明してみせた。 この大事な点をわかってない人が多いんですよね。 マルクスは事実を客観的に見ようとしただけ。 その点、マルクスは実に理解しやすいと思うんです。 柔軟な理系的客観的態度があるだけでいいんですから。 逆に、言葉を言葉でこねくり回す文系思考の人や 額に汗して働いたことのない人には理解しにくいでしょう。
基本的なマルクス批判
神田順司
マルクスとユダヤ人問題 (Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kandaju.pdf …かつてヘーゲル「法哲学」研究に多大な功績を残したイルティンクはマルクスの「ヘーゲル法哲学批判」を評して、
マルクスは「ヘーゲルの叙述の政治的意味をほとんど?むことができなかった」と述べた。マルクスの「ヘーゲル法
哲学」に対する唯一正当なこの評価は、しかしながら、この草稿の一面を特徴づけているにすぎない。たしかにマルクス
はヘーゲルの『法哲学』を理解できなかった。いや、それどころか彼の「ヘーゲル法哲学批判」のほとんどがヘーゲル
『法哲学』の曲解に基づいていると言ってよい。しかし問題は「理解できなかった」ことにあるのではなく、マルクス
がヘーゲルに対する無理解あるいは曲解を通して、ヘーゲルがドイツの近代化に向けて体系化した西欧近代の法的
政治的諸カテゴリーを「幻想」として、あるいは「妥協」として排除したことにある。こうして人間の恣意や情念の
、そして暴力の暴走を阻止するために長きにわたって築かれてきたあらゆる法体系や政治制度が「幻想」として排除
され、いまや剥き出しにされた「欲求の体系」が社会や歴史の全面に置かれる。ヘーゲルに対する曲解に基づいたマルクス
のこの一面的な「市民社会の発見」が、道徳理論、法理論、国家論そして民族理論の欠如というのちのマルクスのそして
マルクス主義の最大の欠陥に繋がるのである。
>>480 こういう結論だけ引用されてもなあ。
この人のヘーゲル理解がどういうものかすらわからない。
>政治的諸カテゴリーを「幻想」として、あるいは「妥協」として排除した
これだけ見ると、この人はまったくヘーゲルを理解できてないというより、読んですらいないんじゃないかと思えてくる。
>>475 毎週教会に通ってる素朴な“信徒”なんて、ほとんどいないだろ。
神を信じる人はいるけど。
アインシュタインはスピノザの神なら信じると言ってるね。
>>478 >>480 その神田氏のマルクス『ユダヤ人問題によせて』理解がそのまんま
>>476 と同じなんでびっくりした。
神田氏は『ユダヤ人問題によせて』をただ単に「ユダヤ教への悪口・悪意」でしかないと受け取っているんだよね。
>>480 この人、ヘーゲルを読んでないか理解してない感じだね。
ヘーゲルの真意はこうこうであるから、と説明する部分が
ほとんどないから説得力もない。
「マルクスはヘーゲルをわかってない」と罵倒するだけ。
マルクスによるヘーゲルの積極的評価も知らないのではないか。
マルクスが言った「逆立ちしている」というヘーゲル批判の本質も
わかってないようだ。
http://straight-line.seesaa.net/article/168415343.html アソシェーションがどのような社会であるのかは必ずしも明確ではな
いが、柄谷はアソシェーション以外の形態、共同体(ネーション)、国
家、資本が三位一体として強力にタッグを組んで作用してきたのが世界
史であり、今後もしぶとく生き残るだろうというのが柄谷の見方であ
る。これまでの思想家、マルクスでさえもこの3つの形態のいずれかで
しか考えていないことを柄谷は明らかにする。
この3つの異なった原理にもとづいた、資本=ネーション=ステート
こそが我々の世界を規定している強力な力である。この3つの異なった
交換の原理にもとづいた形態を侮るな、と柄谷は再三警告する。
岩波現代文庫『トランスクリティーク』
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6002330/top.html 「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてと
らえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである.それはまた,フラ
ンス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある.ヘー
ゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に「自由」
を見出す.つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす
富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現するものとして,国家=
官僚を見出す.最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出
す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家
を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである.」
http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html 『世界史の構造』の序文で柄谷は次のようにいっている。「資本=ネーシ
ョン=ステートは実に巧妙なシステムなのである。だが、私の関心はむろ
ん、それを称揚することではなく、それを越えることにある。」
>>480 その神田氏の文章で有用なのは、当時のユダヤ人の多くが貧困層で、
金融業を営んでいたのは1割ほどにすぎなかったという点か。
だからこそユダヤ人の解放は宗教的なそれであるよりも唯物論的な
解放であるべきだとしたのがマルクスじゃないかな? そう読める。
>>485 マルクスを語るとみせかけながらトンチンカンなマルクス解釈を披露して
失笑をかっても、「俺はマルクスの外側で語ってるんだから」という
言い訳するズルさ。苦し紛れにヘーゲルの威光を持ち出してデッチあげた
「アソシエーション、ネーション、…」という渾身の"オリジナリティ"にも、
読者の心をとらえるほどの斬新さも緻密さもない。読者があまり知らないで
あろうヘーゲルを持ち出せば読者を騙せると思い込んでいるが、結果的に
自らのヘーゲル解釈の稚拙さをさらけ出してしまっている。
やはりポモがマルクスを語ることには無理がある。「マルクス批判」
という看板を掲げればマルクスを知らない層の食いつきがよくなる
からといって、マルクスをダシにして金儲けすることをやめるべきである。
柄谷による交換様式論は、マルクスの生産様式論の批判的乗り越えであって、 マルクスを後世に活かす唯一の道なのだ。 単純再生産と拡大再生産の違いもわからず、 マルクスを理解できない人間がマルクスを崇拝しているから無意味な議論が続くのだ。 もっとも、マルクスを読まない人がマルクスを批判しているのが今日の主流だが。
批判=吟味
>>488 >>489 マル経を嫌っている人の少なからずが、
マルクス主義者は訓詁学ばかりやっているからウンザリするみたいなことを言っている。
誰のマルクス理解・解釈がもっともカール・マルクス自身の真意に近いのかと、
原典を読みあさって、真のマルクス主義者を決めるゲームを延々競い合っているにすぎないと。
しかしそういう批判をする人も、マルクスは間違っていたと安易に裁断しちゃうんだよね。
けっきょく、マルクスは正しかったのか間違っていたのかを問題にする。
それこそ訓詁学だよ、と思う。
その是非を決めようとするかぎり、マルクスの原典をくまなく分析する作業でしか実証できないことだから。
柄谷は、マルクスを語るにしても、なぜ"文芸評論"的にしか 語れないのだろう? 経済や哲学として正面から語ることができないのなら無理しないで ヤメればいいのに。
494 :
考える名無しさん :2013/09/29(日) 15:46:50.61 0
マルクスみたいなトンデモオカルトをいい年して信用してる奴は大体が団塊世代
ネーションだのアソシエーションだの、誰からも合意をもらってない 俺様用語を使ってる時点でもうね。 しかも上部構造から下部構造を説明しようとするし。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-5d0a.html まず、柄谷行人の言うことに耳を傾けよう。彼いわく。(『世界史の構造』7頁〜)
『史的唯物論を唱えるマルクス主義者は、「資本論」を充分読むこともなく、
「生産様式」という概念をくりかえしただけだった。』
『経済的下部構造=生産様式という前提に立つと、資本制以前の社会を説明で
きない。のみならず、それは資本制経済さえも説明できないのである。資本制
経済はそれ自体、「観念的上部構造」、すなわち、貨幣と信用にもとづく巨大
な体系をもっている。マルクスはこれを説明するために、「資本論」において、
生産様式ではなく、商品交換という次元から考察をはじめた。』
『われわれは「生産方式」=経済的下部構造という見方を放棄すべきである。
だが、それは「経済的下部構造」一般を放棄することではまったくない。たん
に、生産様式にかわって、交換様式から出発すればよいのだ。』・・・と。
以上のような考えから、柄谷行人は、交換様式という切り口で、世界史がどう
なっているか、構造的な分析を行なっている。その際の交換様式とは、次のと
おりである。
A、交換様式A:いわゆる贈与にもとづく交換様式。
B、交換様式B:いわゆる略取にもとづく交換様式。
C、交換様式C:いわゆる商品交換。
D、交換様式D:交換様式Aが高次元で回復したもの。
<マルクス主義者は国家やネーションをイデオロギー的上部構造とみなしてきた。
しかし、国家やネーションが資本主義的な経済的構造に還元されない自立性をも
つのは、それらが「相対的に自立性をもつイデオロギー的上部構造」としてある
からではない。それらが、それぞれ異なる経済的下部構造、すなわち、異なる交
換様式に根ざしているからだ。マルクス自身が解明しようとしたのは商品交換様
式が形成する社会だけであった。>(『世界史の構造』17頁)
マルクス主義者は、…「生産様式」という概念をくりかえしただけだった? そんな話は初めて聞いたわw 「生産様式」という概念をくりかえすだけのマルクス主義者ってのを見てみたい ものだ。それって、柄谷にとって都合のいい脳内"マルクス主義者"だろw 経済的下部構造=生産様式という前提に立つと、だって? マルクスのいう下部構造って生産様式だけじゃないよ。生産様式も 交換様式も含む生産諸力のことだよ。なぜに下部構造という客観的実在を 勝手に規定する? 下部構造=生産様式であるという決め付けと、「資本制以前の社会を 説明できない。のみならず、それは資本制経済さえも説明できないの である。」っていう決め付け。アホみたい。原始共産制も封建制も 十分に説明できてるじゃん。 あえて交換様式を取り上げることにした動機の説明も弱いね。 "批判的乗り越え"っていうけど、知的装いをこらしながら マルクスの言うことの細部を微妙にシフトしていき、それに 自分勝手な解釈を織りまぜて恣意的な結論に導いていく手法だね。 この痛さと軽さはなんなのだろう。 柄谷って、山口二郎とつるんだり、「日本はアジアに迷惑をかけた」って 言ったり、まあ、ポモ界の中でも浮いてるし。
カール・ポラ(ン)ニー氏の学説なんかは、マルクスに依拠しながらも、 オウエンやプルードンあたりをより高く評価していたんだっけ?
このスレ読むと けっきょく誰のマルクスの解釈に依拠(参考に)して 『資本論』を読んで良いかわからん 誰にも頼らずただ黙々と独学せよ、ということか・・・
すべてを疑い、我が道を行け!
>>501 誰もが結局のところ自分自身の現存在から生じた問題意識に引き寄せて
そこからなんらかの着想を得ようと思って、マルクスにかぎらず古典を読んでいるんだと思うよ。
504 :
考える名無しさん :2013/09/30(月) 12:06:05.88 0
>>501 いい解説書って、今はほとんど出版されてないよね。80年代頃は
いい解説書がいっぱいあったから、古本や図書館を探したほう
が早いかもね。オススメは新日本出版社系の入門書だね。新日
本新書シリーズとか。新日本出版社は共産党系だけど、解説書
はピカイチだと思う。(新日本出版社の歴史系は、コミンテル
ン史観のバイアスがかかっているからダメダメだけど、哲学系
や経済学系は学者の層が厚く質が高い。)
避けるべきは、ポモ系(特に最近は構造主義)、実存系、ヘル
メット左翼系、話題の文系評論家の本など。彼らは、マルクス
を語ると称してウソばっかり書いてるし、読むだけ時間の無駄。
合わせてエンゲルスの「自然弁証法」やヘーゲル論理学の解説書
を読むと急がばまわれで結局的に楽できる。
(有斐閣新書「ヘーゲル論理学入門 鯵坂真」はよかった。
今は3000円くらいまで値上がりしてるね)。
今時変に教条的な奴がいると思ったらヨヨギ系w
>>507 日本共産党を貶めるのが左右両保守の安住の地なんだろうが、日共の経済社会の分析には否定できるところなどないよ。
マルクスの経済社会の分析は、資本主義の範囲である限り正当性を維持してる。
日共系の出版社のものの方が、きちんとマルクスを読み込んでいるだけまともな解釈があるし、まともな議論ができる。
現代社会の猥雑さに翻弄されている思いつきのマルクス批判などは、マルクスにかすりもしていない。
ヨヨギの公式解釈だけがマルクスの可能性だとか そういうファナティック人って今でもいるんだなあ(感動)
>>509 もちろん、まともな議論ができるというのは、批判ができるという意味でもあるよ。
今どきのマルクス研究においてアルチュセールはどんな位置付けにいるの?
>>509 「代々木系」だとかの特殊用語を使っての罵倒レスはいいから、
具体的なところでマルクスを語ってくれよ。
ここは哲学の話をするところだから。
いい本があるなら具体的に挙げてくれよ。
>>505 ルイ・アルチュセールもダメなの?
テリー・イーグルトンはもちろんダメか。
>>514 ダメとかそう言うんじゃなくて
その思想家のマルクス解釈が、
自分の問題意識と合致するかそうじゃないか
ということなんじゃないか、と
516 :
501 :2013/10/01(火) 08:02:48.50 0
スラヴォイ・ジジェクはどうなのよ。
アルチュセールに対する批判論文は古い「唯物論」誌にあったなあ。 読んでないけど。たしかアルチュセールの構造主義的な解釈がどうの こうのという批判だったような。 この手の本って、著者のマルクス解釈がどこまで正しいのかわかり にくいよね。どこまでがマルクスの考えでどこまでが著者独自の 考え方なのかよくわからないと本当にストレスがたまる。フランス 共産党の変遷とかアルセチュール自体に興味ある人ならいいかも しれないけど、マルクスを理解するための参考にするんだったら、 純粋に入門者を対象にしている普通の解説書がいいと思う。 それも、著者の独りよがりな解釈・造語を盛り込んでない誠実な本。 テリー・イーグルトンってググッたらちょっとおもろそうだと思った けど、積極的に読もうとは思わないなあ。マルクスを持ち上げていても、 「ヨヨギ、ヨヨギ」って連呼するような人の立場に立った本もあるし、 構造主義だのこっそり持ち込んで微妙に変形し、いつのまにか俺様解釈 を披露している本もあるから。
アルチュセールはかえってマルクス以上に難解そう。 テリー・イーグルトンは口語調に分かりやすく論じる人のようだが、翻訳があかんらしい。
521 :
考える名無しさん :2013/10/01(火) 21:25:02.01 0
アルチュセールは、
>>505 さんが批判する、マルクス主義の構造主義的解釈の
代表みたいな人と評価されていることが多いし、、
テリー・イーグルトンのほうは、
>>505 さんが批判するまさしく文芸批評系の人。
ただしテリー・イーグルトンはポストモダニズム論者に対しては
マルクス主義の立場から一貫して痛烈な批判を繰り返してきていた人としても著名。
構造主義は上部構造をそれ自体で下部構造なしに独立に対象化できるようにするモデルだから、
一見すると唯物史観に反する。
その学説を取り込みつつも、マルクス主義史観とうまく整合性をもたせようと試みたのが
アルチュセール学派だったという見方は正しいのだろうか。
イデオロギー装置論は明らかにグラムシの文化装置から来ている。
アルチュセール学派の大きな功績というか注目すべき点は再生産論に改めて目を向けさせたことかな。
イデオロギー装置といっても、もっと露骨に暴力的に働きかけてくるもんだとする論者もいた。
プーランツァスのことだけど。学校教育制度が階級の再生産装置になっているという点ね。
雇用市場ばっか見ていちゃいけない。教育の場でも労働者(将来の労働者)に対する搾取が成り立っているんだと。
522 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/10/02(水) 04:56:59.73 0
>>508 :考える名無しさん:2013/09/30(月)
>現代社会の猥雑さに翻弄されている思いつきのマルクス批判などは、マルクスにかすりもしていない。
これは噴飯もの
言い換えると・・・
マルクスに沿った考えとは、現代社会の猥雑さから超絶する事だ・・・と言う感じかな?
要はマルクスは現代には役に立たないという事ね。
>>521 :考える名無しさん:2013/10/01(火)
>プーランツァスのことだけど。学校教育制度が階級の再生産装置になっているという点ね。
こういうのもひどいね、そんなこと誰だって知ってるでしょ。
では学校教育制度を廃止せよと言う訳? ・・・違うでしょ。
教育が階級を再生産しない様にするには制度をどの様にしたらいいかが、現在は問題になっているわけでしょう。
ピントがずれている。
>教育の場でも労働者(将来の労働者)に対する搾取が成り立っているんだと。
こんな感じでピントのずれが拡散する。
階級の再生産と言えば古代中世の「身分制度」でしょ。
教育の格差は「身分制度」の復活であって、断じて労働搾取の問題ではない。
523 :
考える名無しさん :2013/10/02(水) 05:42:45.90 P
いいからじじいはマルエンをどれか読んでこいw
じいさん、読み取り力、無さ過ぎですよw 「現代社会の猥雑さに翻弄されている思いつきのマルクス批判」って、 脱構築だのマルクスを再構築するだの、現代版観念論による軽佻浮薄で ズレまくった「批判」のことを言ってるんだと思いますよ。 本質的じゃない、"言葉の遊び"的な「批判のための批判」のことを。 なんでそこから「現代社会の猥雑さから超絶超絶する」だの 「現代には役に立たない」だのという展開になるんですかね? 「教育の場でも労働者(将来の労働者)に対する搾取が」って、 現在の学校もまた現代社会の上部構造に組み込まれている以上、 そのような性格を帯びているのは否定できないでしょ。 「階級の再生産」とか「教育の格差」とかをいうなら、わざわざ 古代中世の身分制度など持ち出さなくても現在の資本主義社会には 様々な例があふれかえってるんだし。なんで古代中世の世界に帰るのか。 じいさんは、あちこちに自由に思考が行き来するタイプみたいだから、 マルクスなんか読んでるより、柄谷とか浅田とか宮台みたいな世界で 仲間たちとマルクスを脱構築しちゃって楽しく生きたほうが向いている んじゃないかと思います。
>>400 に対して森嶋モデルが提示されたのに
理解できなくて逃げたじいさんが何を言っても、もはや説得力ないのよね・・・
>構造主義は上部構造をそれ自体で下部構造なしに独立に対象化できるようにするモデル 一言でまとめていただき、大変勉強になりました。 >イデオロギー装置論は明らかにグラムシの文化装置から来ている。 グラムシはよく名前を聞くけれど読んだことはありません。 おかげさまで少し興味が出てきました。
527 :
がんばれじいさん :2013/10/02(水) 09:35:23.99 0
じいさんのような人がこのスレに降臨する事自体が有り難いこと。 昔はじいさんのような疑問の回答者として吉本隆明みたいな“大明神”が御座ったもんだ。 要は答えるほうの側の問題。 ○○を読めなんてのは自分の頭で考えてない最低の答えだワ。
528 :
考える名無しさん :2013/10/02(水) 17:02:47.69 0
>>527 じゃあ、あなたがじいさんに答えてあげてくださいよ。
530 :
弧高の鬼才 :2013/10/03(木) 01:04:52.07 O
もう、池上彰の解説本だけ読んでればいいよ、その程度の代物ってこった。マルクスなんて。
531 :
考える名無しさん :2013/10/03(木) 01:34:29.50 0
煽りはもういいよ その程度の煽りは せっかく真面目な議論が続いているんだから
532 :
がんばれじいさん :2013/10/03(木) 08:03:59.47 0
マルクスを含む古典を読むのは現代生活に役立たないよね? と云う質問に対して一言で済ませるのは確かにむずかしい。 ちょっと前に子供が「人を殺してはどうしていけないの?」 という問いにおとなの答えがその子供をぶん殴るだ。 それとちょっと似てる。 「資本論(その他マルクスの著作)を読め」もある種のぶん殴り。 (マルクスを多少は読んでる人なら)もっと親切にたのんます。
アホな質問かもしれませんが 皆さんは資本主義は色々問題含みながらも 地球滅亡まで続くと思いますか? それとも共産主義そのほかの、資本主義よりはマシと思える 世界が生まれる可能性はあると思いますか?
>>532 はじめから共産主義を否定する目的だけでマルクスの話を出してるだけの人に、なにをどう答えろと?
マルクス読んでいなくても、人の話を聞く耳を持つ人には丁寧に答えるさ。
535 :
考える名無しさん :2013/10/03(木) 13:02:12.69 0
>>532 直接読んだほうがいろいろ早いからでしょ。議論するのでも
質問に答えてもらうのでも。人生の時間も短いし。
わからないなりにも、少しでも理解したいという気持ちで
読んでれば、じいさんとか柄谷とかAKBチケット話についても
明らかにおかしいと直観的に気づくことができる。
感覚みたいなものが身に付くんだ。
「殺してもよい。だけど君も君の家族も殺される」
>>533 マルクスと同時代を生きた経済学者のなかには、
著名ななかではたしか、ジョン・スチュアート・ミル、ワルラスらのように、
資本主義を未来永劫続く経済システムであるとは考えなかった
経済学者もいたようですね。
あの時代、マルクスのそれは現在ほど特異な思想ではなかったのかもしれない。
マルクスはミルの影響をかなり受けていると言われますよね?
ミルあたりからリバタリアニズムとマルキズムが両方出てくるというのは興味深い。
新古典派総合のサミュエルソンが、経済学の入門書の中でその問題に触れていますが、
資本主義から共産主義への必然的移行があるという見方に対しても、
資本主義が永遠に続くという見方に対しても、
彼の場合は経済学の範疇を超える問題だとして距離を置く姿勢を表明していたでしょうか。
現在の経済学の入門書では、マルクス主義について章を割いている本はほとんどないですが、
サミュエルソンのそれはマルクス主義やソ連について意外なほど触れているのが興味深いです。
有限の世界で永遠の成長はありえない。世界と労働者を搾取し尽くせばそれで資本主義は終わり。 後に残るのはもはやエネルギーの一滴も絞り取れない、生存も不可能な枯れた世界だけ。 地球滅亡まで続く、じゃなくて、資本主義こそが地球を滅ぼす。 それはきっと地球自身の意志、すなわち人類こそは自殺するために地球が生み出したからくり。
>>518 のリンク先で藤井厳喜氏もおっしゃっているように
資本主義は「自転車操業」のシステムですからね。
少しでも失速したら途端にデフレーションの危機に陥っちゃう。
それでいてこれまでも第三世界からの搾取でやっと成り立ってきたところがある。
540 :
考える名無しさん :2013/10/03(木) 22:46:36.28 0
>>538 「唯物史観」の論理は、ヘ−ゲルとフォイエルバッハの一部分を統合化した論理だが、
今日の社会で、マルクス主義が下火となり、資本主義が継続されているのは、単に「経済理論(=資本論)」
だけの問題ではなく、基底に「個人−人間−社会」の深い関わりがあるのであろう。
資本主義が地球を滅ぼす…確かに行き過ぎた市場原理主義による、盲目的な消費経済活動を観るとき
誰しもが、地球の行く末を案じる。
マルクス主義は、人間の疎外ということが論じられるが、社会の中で、主体的な個人の自由、主権に
ついて述べられていない。論理として、社会的なものに規定されると同時に、個人の自由と権利が認められ
なければ、人々はその思想を受け入れられないものとなって行く。
マルクス主義は、フォイエルバッハへ立ち戻ることも必要ではないであるうか。
フォイエルバッハの「我−汝」論理は、客観性と主観性の両方を「人間」という概念の中に包含している。
マルクス理論の「客観性」を生かしつつ、「我−汝」哲理の我(主観性=人間性)を統合させていく。この
新しい論理構築を、考えていくことも必要ではないであろうか。
541 :
考える名無しさん :2013/10/03(木) 23:04:27.78 0
必要ではないと思う。
弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ マルクスに欠陥があるとしたら、この思考法をヘーゲルから受け継いでいるところだ その点、フォイエルバッハよりブーバーの「我と汝」の方が興味深い これは柄谷も『世界史の構造』で触れていた、、、 弁証法に関してはプルードンの以下の指摘が決定的だ 「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところは ここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな 二項との間でバランスをとる」 (プルードン『革命と教会における正義』斉藤悦則氏のHPより) ワルラスもマルクスもその経済学をプルードン批判(剽窃)から始めているのは偶然ではない。 ワルラスにとって「二つの項」は需給バランスを指し、マルクスは自らの価値形態論を 強固にするためにはプルードンの交換銀行論を曲解する必要があった
ミシェル・フーコー的だね。ハバーマスに対するフーコーのそれ。
544 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 00:37:04.18 0
観念と物質は、どちらが本来的な存在なのかという議論(観念論と唯物論 の対立)があったが、マルクスやエンゲルス、レーニンなどの唯物論者は、 精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考えた。物質が本来的で、 根源的な存在であり、 人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれ るのである。現在は分離していると考えられている精神と物質
545 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 00:46:44.70 0
それから均衡とかバランスという考え方は、新保守主義っぽいね。 西部邁氏にいわせると、保守主義の真髄とは、 「伝統のなかに蓄積されている平衡感覚の知恵とでもいうべきものを保守する」 (『大衆の病理』NHKブックス142頁) ということにあるらしい。 この本が言っていることはけっきょく「すべてはバランスだよ」の一言に尽きる。
547 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 00:58:02.31 0
>>546 は
>>543 の続きね。
で、「すべてはバランスだよ」は、ハーバーマス氏あたりにからすれば、
すべては相対主義と言っているようなものであり、
ポストモダニズム右派というレッテルを貼られるんじゃないだろうか?
548 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 01:02:25.78 0
>>544 「本来的で根源的」というよりも、まさに「土台」なんじゃないかな?
結婚生活の経済的な土台みたいなもん。因果関係じゃないけど、支えてくれるもの。
>>544 自分は勘違いしていたのかな?
物質と精神の間の弁証法だと思っていた。
例えば、
WindowsやLinuxを機能させるにはそれをインストールできる
パソコンという乗り物が必要。
ソフトウェアはハードウェアを制御しているものの、
ソフトウェアの自由度はハードウェアに限界づけられている。
だから社会はイデオロギーによって制御される対象でありながらも、
その土台であり、その乗り物であって、イデオロギーの自由度を限界づけている。
したがって個人の自由度も限界づけている。
こんな感じでシンプルに理解していた。
社会は慣性が強すぎて人為的には変えられない、その事の表現が史的唯物論だろう
人為による革命をマルクスは信じていない マルクス主義者はマルクスを読めてなかったんじゃないかな
人為による革命が可能なら、史的唯物論なんて必要ないですよ 自然史的な発展として、各社会体制の変遷を特徴付ける必要なんてない 単に、意識が社会を変えるとすればそれですむ
553 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 01:27:21.09 0
資本主義は搾取の体制で、それは不当であるから変える、といえば済む話だ
そうしなかったのは、それが不可能だと思っていたからだろう
それだとハイエクっぽい気が・・・
557 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 01:35:13.11 0
>>556 生産力と生産関係との矛盾の発展、とマルクスは言った
558 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 01:36:13.30 0
でもその矛盾を解消するような機構、すなわち国家があるから、矛盾が発展しない
559 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 01:37:47.58 0
純粋に資本の論理で社会が動いていたら恐らく遠の昔に資本主義は別の社会体制に変ってたんじゃないかな 良くまだ分からないけど
>>551 人為というのが微妙な表現だけど、
ある意味でそれはマルクス主義のもっともスタンダードな見方の一つでもあったと思う。
青年マルクスがヴァイトリングら共産主義活動家たちと次第に袂を分かっていったのは、
共産主義革命というのは、もっとなんとうか、マクロ経済学的な出来事なんだよって考えに
近づいて行ったことと関係がありそう。
>>557 矛盾が拡大すると、どうして人の意志と無関係に資本主義から共産主義になるの?
>>560 資本主義経済が破綻したからといって、それが共産主義につながることにはならないんじゃない?
>>562 資本主義が破綻するというよりはむしろ、
資本主義が発展した結果として、資本主義の成果物として共産社会がある
と表現したほうがいいように思う。
だから、共産社会というのは資本主義の究極の姿、資本主義の発展した結果の姿、
資本主義というイモムシが蝶になったときの名称、
それをただ共産社会と名付けちえるんだと言ったほうがいいんじゃないかな。
>>564 資本主義というのは、万能の商品である貨幣を人間にとって最高の価値とする社会。
共産主義というのは、人間を自由な個人としてみることを最高の価値とする社会。
ではないの?
この価値観のコペルニクス的転換は、資本主義がいくら発展しても無理じゃないの?
資本主義と共産主義とは一見すると芋虫と蝶々ほど異質な外形をしているけど、 それは芋虫と蝶々の関係みたいなもんで、芋虫がある程度成長した段階で変体するよって ことなんだと思う。見た目は異質だけど、実はつながっている。 蝶は芋虫の段階なしには蝶になれない。それがマルクス主義的なもっとも教条主義的な史観。 しかし今どきのマルクス主義は従来の教条主義的な史観をほとんど捨てちゃっているのでは?
567 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:03:07.46 0
史的唯物論を捨てると直接的な構想主義になってしまう気がするんだよね
568 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:03:48.03 0
>人じゃなければなにが革命を起こすの? 歴史の原動力は人だよ。 これはマルクスも言ってる。 でも、歴史的な条件や制約を飛び越えて 社会を変えることができるわけではない。
>>566 変な喩えは無意味だと思うよ。
マルクスは極めて明確な論理を追及した人なんだし。
570 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:06:32.18 0
直接的な構想主義の例がソ連だったように思う この辺りは歴史過程を具体的にフォローしないと意味ないんだけど
だから昔のスペックのパソコンに最新のWindows8をインストールしようとすると できないことはないかもしれないけど、ソ連みたいなことになるよって話だと思う。
572 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:08:46.53 0
クリストファーアレクサンダーとかも読まないと駄目かもね
>>568 その歴史段階としての資本主義社会を分析したのが資本論だよね。
歴史の中で資本主義の段階になる必然性と資本主義社会そのものを分析して、生が尽きた。
574 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:10:04.78 0
建築とか都市論の本ね
576 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:11:00.81 0
人工と自然の区別への配慮がソ連には無かったと思う
577 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:13:31.22 0
専ら人為的に制度を設計する事が可能であり、またそうすべきであり、実際にそうする様な態度
ハイエクのいう自生的な秩序も、広い意味では人為だよね? 人為という言葉がちょっと微妙。
>>577 構想主義の説明?
人間は自然に対してすらそういう態度をとるよ。
経哲にも、自然の人間化という表現があるし。
人間の活動としては、あらゆる事柄に当てはまるんじゃない?
>>578 ハイエクの自由というのは、経済活動の自由というだけじゃない?
581 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:22:33.97 0
でも資本主義は作ろうとおもって作ってないじゃない? 資本主義は時間をかけて徐々に出来上がってしまったものでしょ
マルクス主義者が「教条主義」をあまりにも悪い意味で使いすぎてきたから、 教条主義的であることがまるでマルクス主義的でないことのように言われすぎてきた。 私はむしろ良い意味でこの言葉を使っているよ。
>>581 歴史というのは、作ろうと思って作られていくんだよ。
使用価値のない貨幣を価値として歴史を作り上げるか、他の価値を見出すことができるか、という違い。
資本主義が発展し、大半の人々が貨幣を自分の価値としてしまったときに、恐慌によりその貨幣が失われることで社会的な価値の逆転が起きる。
その時に、逆転した価値による社会のシステムの構築を目指せることが、人間としての自分を失わなかった少数の人間に求められる。
フーコーは、一見して自由に見える市場ゲームの中に張り巡らされている支配の構造を見い出して、 市場ゲームをする個人は権力の箱庭で遊ばれている自由人であるにすぎず、 構造全体を見渡せば最初から選択の道が決めれた存在にすぎないことを喝破してしまった。 ゲームの理論は、市場がいかに不自由な選択肢に制約された世界であるのかをむしろ示してくれている。
585 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 02:45:54.72 0
>>581 歴史の原動力は人間だから、人間はそのように行動する、
そのように行動してきた、ってことだね。
経済が発達して余剰生産物を作れる余裕がでてくると
略奪や交換という段階に入っていく。
でもそれは人間が恣意的にやってきたことではない。
そこにマルクスは自然界の延長としての人間社会における
法則性をみたわけでしょ。
資本主義は、ブルジョワすなわち資本家が互いに競い合い相手をプロレタリアへと追い落し合うシステム。 今がまさしくそうであるように、国家をも超越しつつ格差を指数的に拡大していく。 それが極まり 99 % がプロレタリア化すれば、投資は元々資本自体の自動運動なのだから、それを国家と して制度化すれば、自ずと国家がそのまま唯一の投資家であるスターリン型の共産主義になる。
587 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/10/04(金) 04:12:41.32 0
>>525 :考える名無しさん:
>400 に対して森嶋モデルが提示されたのに
すいません その提示はどのレスですか?
そして其のレスは貴方のレスですか?
貴方(525)が責任を持って答えてください。
>>542 :考える名無しさん:2013/10/03(木) 23:29:55.12 P
>弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ
仰るとおりだと思うんです。
何で止揚しなくちゃならないの?
そんな事例が歴史上有ったとも思えません。
また個人の精神現象でも断じて些かもありません。
「弁証法」なるものがなんかの役に立った事があるのでしょうか?
それがないとするなら 『議論』に意味はない
589 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/10/04(金) 04:59:49.08 0
>>565 :考える名無しさん:2013/10/04(金)
>資本主義というのは、万能の商品である貨幣を人間にとって最高の価値とする社会。
全く判ってない、江戸時代も「金が仇の世の中」だった。
>>584 :考える名無しさん:2013/10/04(金)
>一見して自由に見える市場ゲームの中に張り巡らされている支配の構造
是は同意します・・・・
今の世界経済の問題は金融の問題である、しかし意外な落とし穴は貨幣は金本位制をやめて以降、国家権力の信用に裏打ちされて存在している現実である。
じいさん的には現代社会経済の肝は「資本主義」ではなく「国家主義」だと思う。
質問に対して質問で答えて逃げるバカw
591 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 07:10:31.82 P
>>542 それは現状維持したいという保守主義
弁証法的展開がなければ歴史はない
実際にはマルクスが明らかにしたように資本主義社会は弁証法的に成立してきた
また貨幣の成立も弁証法的なものだろう
マルクス主義は資本主義社会を全面的に乗り越えようとするものである
微調整的な問題対処の仕方では根本的問題は解決されない
ヘーゲルが捉えた近代社会の総体を覆し新たな社会に進むのがマルクス主義である
そこにはいかなる妥協もない
社会矛盾をアンチノミーとして保存することではプロレタリアートは決して解放されない
592 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 07:31:36.52 P
>>551 唯物論からも人間の主体的意志が出てくる
すべてが物質的に規定されているならば自由意志も規定されている
したがって自由に振る舞えば良い
あるいはカント的に言えば自由であるかのようにみなすことが倫理的であるということだ
マルクス主義というのはそのような運動だ
唯物論は主体性を否定しない!
>>586 社会経済、つまり市民社会と国家は本質的に別のものだとしたのがヘーゲルだろ?
市民社会は経済の自律性によって発展破壊を繰り返すが、国家は独立した理念によって導かれて、その市民社会を正しい道へと進める。
これに対してマルクスは、その国家の理念、幻想の共同性もまた、大きな意味での市民社会の制約を免れるものではないことを提示した。
だから、市民社会の分析として資本論を書いたし、それが自由への道、必然性の洞察であると考えた。
>>589 一応説明しておくと、江戸時代は米本位制、つまり使用価値が価値の源泉だったんだ。
資本の集積によるその内部的な矛盾が、外国からの開放圧力、つまり貨幣経済への圧力とあいまって、明治維新となった。
595 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/10/04(金) 14:40:15.03 0
>>594 :考える名無しさん:2013/10/04(金)
>米本位制・・・・
では江戸時代の米には労働価値は無いのですか?
現代の米には勿論あるんでしょ?
>>資本の集積によるその内部的な矛盾
明治以降は産業革命による社会構造の変化が開国と同時にもたらされて日本が資本主義になったので「資本の蓄積」は単なる要素に過ぎない。
イノべーションが資本主義の原因である。
資本の蓄積(=金の蓄積)は江戸の其れまでも充分あったし、中世でも古代でもあった。
決め手は産業革命である。
社会の変革は勿論人間が行うことではあるが其の行動を規定するのは物質的変化つまりイノべーションである、決して矛盾が高じて止揚するものではない。
石器、青銅器、鉄器、産業革命・・・・と言う歴史が証明している。
イノベーションが瞬時に全世界に行き渡るならともかく、イノベーション以前の経済や文化との矛盾を止揚しつつ各地域へと定着していく ように思われるのだけれども。
597 :
考える名無しさん :2013/10/04(金) 17:08:33.51 0
>>542 >弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源なのか。
>一般的に「弁証法」は、今日ではヘ−ゲルの「弁証法」をさす。
このヘ−ゲル的「弁証法」は、定立命題と反定立命題で構成されているが、
特徴的なのは「アウフヘ−ベン(止揚)」を導入していることである。
この「アウフヘ−ベン」は、辞書をひくと「否定・廃棄と保存・高める」という
相反する性質(現象化)を包含している。
しかし、ヘ−ゲル的弁証法は、「否定論理」を基底としている。
この「否定論理」を基底としていると言うことは、定立と反定立の限定された命題の
一方を否定することであり、否定された命題は、廃棄されるので、保存されることはない。
つまり、アウフヘ−ベンでの「保存、高める」作用は除外されている。
>>595 >江戸時代の米には労働価値は無いのですか?
いくらなんでも、酷過ぎる質問だよね。
こんな質問する人にどういうレスをすればいいの?
以下、同様。
労働価値があるとか、ないとか、とか相変わらずマルクスと関係のない俺用語を 擦り切れたレコードのように繰り返してる人間と対話は不可能なのでは・・・?
600 :
考える名無しさん :2013/10/05(土) 02:37:26.86 0
「労働価値」って変な言葉だよね。 「労働価値説」とか「使用価値、交換価値、価値」とかだったらわかるけど。
ってか、江戸時代は米本位制だった、だから使用価値が価値の源泉 だったという話自体がおかしな話だろうw 農民は米を売って、それで米以外の日用品を購っていたので 米が交換価値として認められてたから、米が貨幣の代用に なったんだよ。
602 :
考える名無しさん :2013/10/05(土) 03:14:48.20 0
これもすさまじいなw >>弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源だ >仰るとおりだと思うんです。 >何で止揚しなくちゃならないの? >そんな事例が歴史上有ったとも思えません。 >また個人の精神現象でも断じて些かもありません。 >「弁証法」なるものがなんかの役に立った事があるのでしょうか?
603 :
じいさん ◆6rgGIYz09M :2013/10/05(土) 04:21:46.75 0
>>599 :考える名無しさん:2013/10/05(土)
>労働価値があるとか、ないとか、とか相変わらずマルクスと関係のない俺用語を
資本論の第一章で「労働価値」をクドクドと持ち前の悪文で述べているのは外ならぬマルクスさんですよ
>>601 米本位制に戻せばゲゼルの構想が実現するかもしれないね?
米という貨幣は劣化するというところに欠点があるので。
カール・ポランニーが言っていたように、マルクスの資本論というのは、 貨幣経済というか商品経済(市場)が支配的になった産業革命以降の社会を 分析対象にしていると思うんだ。 それ以前の社会にその要素が全くなかったというのではなくて。
606 :
考える名無しさん :2013/10/05(土) 07:57:45.84 P
>>604 そういうのが資本主義社会では不可能だと言っているのが価値形態論なんでしょ
劣化しない貨幣経済が支配的になっていく過程が資本主義の発達過程?
米本位制というのは厳密にはたぶん米耕作地(田)本位制なんだと思うけれども、 抽象的な土地それ自体は劣化しないだろうけれど、田んぼは自然環境の変化に 大きく左右されるから来年再来年に決まって豊作になるという保障もまったくないし、 貨幣としてあてにならない。維持管理も大変だしね。 やっぱり劣化しない貨幣というのが社会全体に広まることになった要因というのが 産業革命というか資本主義化の要因と相互関係しているんだろうね。 技術革新というのも産業化との相乗効果をもつことではじめて加速しただろうから、 どっちが先かという話も、卵と鶏の関係みたいな議論になる。 スターリン体制というのはこれを一国単位で中央集権的に、しかも周囲を敵に囲まれ、 軍事的にも経済的にも孤立した中で強力に推し進めようとした結果出てきたものかな。 イギリスの産業革命(工業化)のいくつかの原動力をソ連はそれなりに分析して やろうとしたことはたしかだけど・・・
マルクス主義経済学も含めて経済学の矛盾は、(経済学に限らないけど、進化生物学も同じ?) 科学的であることを目指せば目指すほど、現代は科学信仰の時代だからってのもあるけれども、 予言の自己成就効果をもってしまうということ。 科学的というのは予測可能という意味に多くの場合理解されていると思う。 科学であるかぎり、未来を正確に予測できるはずだし、その予測の精度が科学性の証みたいな。 で、みんな、学者さんがあれこれ予測するんだけど、それが「人為効果=予言の自己成就」効果をもっちゃう。 マルクスにしても、ブルジョア経済学(古典派)、現代の新ブルジョア経済学者にしても、同じ。 自説をオープンにするから、それがイデオロギー効果をもっちゃう。あるいはそれを意図しているところがある。 リフレ派が主張する期待インフレ効果なんかまさにそう。
ピエール・ブルュー氏などは、社会科学はそれをも客観化しないといけないよっていう。 学術的に見て、これがただの円環運動になるのか、それとも弁証法になるのか。
>>603 資本論には第一章に限らず「労働価値」なんて言葉は出てこなかったと思うけどなあ。
記憶違いだったらごめんね。
>>604 >>608 「米本位」経済というのは、国の経済が米を基準にして運営されていたという意味で書いた。
もちろん実際には米を持ち歩いてなにかを買うわけにはいかないので、米は両替商などによって金、銀、銅(銭)と交換されて、商品経済の中では貨幣が使われていた。
その貨幣の価値を担保するのが、米という使用価値であったという意味で、米本位制と書いた。
使用価値を持ったままの貨幣では、貨幣としての独自な活動が妨げられるため、貨幣という特殊な商品が使用価値を無化してしまうことを、マルクスは商品の「命がけの飛躍」と表現した。
柄谷さんの世界史の構造は3分の1くらい読んだっきり、そのまんま。 内容も忘れちゃった。もう一回読み始めようかな。
614 :
考える名無しさん :2013/10/05(土) 21:59:41.45 0
アマゾンでの柄谷に対する低評価コメントが興味深い。 「カント論で、実体とは他者であると繰り返し述べていますが、 だからどうしたというのでしょうか。 他者であるからこうなのだという新しい知見が展開されていないように思われます。 「経済は下部構造ではない」(303頁)と言っています。 … 価値は交換過程で生じると繰り返し述べていますが、 これは、マルクスの労働価値説の誤解であるか、 故意の曲論であると思われます。 「マルクスその可能性の中心」でも、 価値は時間差によって生じると主張されていましたが、 価値は、生産や労働によって生じるのではなくて、 交換あるいは消費によって生じるというのに等しいと思われます。 これは別に新しい知見でもありません。 私が読むに耐えないと思った本でもベストセラーになっているものもあります。 世の中千差万別と思っています。 ですから、本書は私には合わなかったと申し上げているにすぎません。」
615 :
考える名無しさん :2013/10/05(土) 22:02:01.06 0
(アマゾンでの別の低評価コメント) 「しかし私にはついていけなかった。著者・柄谷行人のカント、マルクス解釈について、 私が強い疑念を抱いたからである。 … 柄谷氏のカント試論、マルクス試論は、カント思想、マルクス思想を概略、 敷衍、祖述したものではなく、カント、マルクスという名前を借りて、 ごじしん独自の意見に「箔」をつけているようにしか見えないのである。 カントとマルクスを論じるかたちで、「カントのようなもの」「マルクス のようなもの」をつくりあげてしまったのである。柄谷氏の中で、 カントとマルクスは、本来あるべき姿のカントとマルクスから乖離して しまったのである。 … 柄谷氏も、カントとマルクスを背景として借りて暢びやかに筆をすすめ、 カントとマルクスとはべつの、なにやら摩訶不思議なものを生成した だけである。そう考えれば、この『トランスクリティーク』は娯楽作品 として、楽しく読めるのではないか。 柄谷氏は思想家ではない。思想史家でもない。哲学史家というのは、 ドゥルーズのような人であり、ドゥルーズとて、けっして哲学者とは いえないのではないだろうか。柄谷氏は文藝評論家である。」
まあ、日本に限らず世界にも柄谷みたいなマルクス改変をありがたがる 人はいるわけで。てゆーか、柄谷が問題なのは、もはや改変ですらない 点だ。柄谷が取り上げるマルクスはマルクスですらないのだ。 それを指摘すると柄谷は「タイトルをよく読め。あれはマルクスじゃ なくてマルワスだからな」、なんつって、ガッハッハ。
>>603 資本論の第一章に「労働価値」などという言葉は出てきません。
それでも出てくると言い張るのなら、翻訳でもいいからページ数を示してください。
あなたは何か勝手な勘違いをして、勘違いをした対象を相手に踊っているだけです
「僕の本には書いてないんですけど…想起ということの問題を改めて考えました。 思い出すというのは、ソクラテス問答法というのは…相手が思い出すのを助ける。 自分は何もしない… 精神分析も医者は関係ない。患者が思い出すだけです…後になって理論的にまとめ たのは医学用の話で… 僕はそのことで思うのは、それは革命の問題もみな同じではないか。 みんながね、どういう理論で、あるいはどういう社会を実現するんですかと聞く んですよ。 けどねそれは僕はこう答えるんですよ。それは君たちは知ってるんだ、と。 現にあるんですよ。イソノミアが現代ならどういう社会ですかと聞かれたら、 協同組合ですよと答えます。 自分が経営者で自分が労働者、あるいは共同所有…。支配関係はありません。労働 商品ではないから、イソノミア、ノールールです。 協同組合が社会全体であるような社会をマルクスは共産主義と呼んだんですよ。 国家がやってはダメですよ。協同組合が国家にとってかわらなければならないと言 っているんです。マルクスは若いときから言っています‥ 『彼ら(労働者)は、実現すべき理想を何ももっていない。彼らのなすべきことは、 崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会 の諸要素を解放することである。』(『フランスの内乱』より) 解放すべき諸要素はあるんです。それを解放すればいいんです。 要素があるだけで…それを思い出せばいいだけです。」 「民主主義を超えて――イソノミアへ 」柄谷行人(大澤真幸との対談) 2013年02月7日 @新宿サザンシアター
>協同組合が社会全体であるような社会を >マルクスは共産主義と呼んだんですよ。 これもすごいな。マルクスもあの世でびっくり。 じいさんの「労働価値」がかわいく思えてきた。
柄谷さんのことになると皆さん下品になるので 普通の《議論》に戻ってください
>>604 いや〜現代ではやはり難しいんじゃないの? なんで米ばかり
優遇するのか、麦やパンや肉じゃ駄目なのかって批判がくるだろうし。
結局米本位制になったのは、農本主義的な考え方が根本に
あったからで、士農工商なんて階級の表現に典型的にあらわれてるな。
生産されたものを交換するだけで価値を生む商業は卑しいものだと
いう道徳意識があって、それが商業より農業を上位に置く考え方に
なったわけだな。実際には商人のほうが農民よりはるかに金持ちが
多くて、幕府のイデオロギーと現実の社会は食い違い、それを
繕うために幕府はいろいろ苦労するわけだけど。 まあ江戸時代の
商業をどういう風に評価するかは、歴史学者のあいだでもいろんな
意見がたたかわされてるね。
>>612 >江戸時代は米本位制、つまり使用価値が価値の源泉だったんだ。
これじゃ〜江戸時代は使用価値を価値の源泉として機能していた
という話によめる。つまり江戸時代はすでに共産主義社会になっていた
という風にも解釈できてしまうな。 もうちょっと精密に文章を書いたほうが
誤解されないですむとおもうぞw
しかしまあ、批評家のなかで、一番マルクスに言及してるのは、なんだ かんだいって柄谷だよね。 読み方にはいろいろ批判はあるにせよだ。 吉本隆明だって、それほどマルクスに言及はしとらんだろう。ってか 吉本って、マルクスどのくらい読んでたのかな。
文献の再解釈を中心にしてマルクスを再評価しようという試みは 哲学の領域でいくつかなされてるね。 マルクス再評価の動きと いうのは、文学的、哲学的な再解釈としばしば連動してるな。 代表的なのはアルチュセール? あとはバリバールとか。 バリバールって今調べたら、アルチュセールの弟子なんだってね。 フレドリック・ジェイムソンとか、ヘイドン・ホワイトとか、その方面には 暗い俺でも、この辺の名前はおもいつく。 柄谷のマルクス解釈もそういう欧米におけるマルクス解釈の潮流と 連動していた、あるいは連動させようとしていたわけだろうね。
「マルクス再評価」って口あたりのいい言葉ですけれど、現状は ポモの中の人たちが自分の名を売ろうとマルクスをダシに使っている のがほとんど。言い換えれば、マルクスに興味を持った人たちを ダマくらかして本を売りつけ、踏み台にしているだけ。真面目にマルクス に取り込んできた人たちからみれば今さら「再評価」もなにもない。 マルクスに興味をもった初学者がいくら柄谷だのアルセチュールだのを 読んでもマルクスを理解しやくなるということはなく、むしろその反対で、 混乱が深まるだけでしょう。柄谷とか(かつては浅田とか)を読んでると、 なんとなく自分も"知的な"雰囲気を味わえるってだけ。(もっと深刻な、 社会に与える害毒の話はおいといて) かつての吉本も"今どき流行の文芸評論"でしかないでしょう。吉本や広松 を読んだってマルクスがわかるわけでもないし。
しかしま〜じゃあ解説書一切なしで、ぶっつけ本番でマルクスの 本文にあたるのが一番いいんだって、ま〜理屈はそうかもしらんが なかなか理解が難しいのじゃないの。まったく予備知識なしで マルクスのテキストだけに取り組むって。 学者だってそれなりの 予備知識を前提にマルクスを読むわけでねw
いい解説書はありますよ。ポモのように良心を失ってない解説書がw そのような解説書をもとに本文にあたるのが結局はいちばんいいんです。 無駄なお金も時間も使わないで済むしw
>>628 へ〜じゃああげてみてよ、その良い解説書の例をいくつか。
マルクススレで、あんまりそういう解説書の善し悪しについて
書かれてるのみたことないからね。
631 :
630 :2013/10/06(日) 07:07:35.79 P
>>623 使用価値が価値の源泉として機能しているのが共産主義社会?
マルクスが共産主義と言ったのは、資本主義社会で労働者からの搾取をなくすべく活動する日々の行動のことだろ?
共産主義社会というのは、その最終形として、能力に応じて働き必要に応じて受け取る、という夢の世界のことだろ?
>>629 普通の教育を受けて普通の理解力がある人なら、一度自分の利益を忘れて日々の生活を客観的に見たり、報道に目を通したりするだけで、たとえば「資本論」を理解することができる。
必要なのは、そうした視点を獲得するために本を読んだり勉強したりする姿勢だろう。
「資本論」に興味を持ったら理解できるまで何回でも読めばいい。
翻訳者の異なるものや、語学が得意なら原書や英訳版も参考にしていけば、誤解できるぐらいには理解できるようになる。
>>626 マルクス再評価というのは、ドゥルーズの晩年やフーコーがマルクスに強く影響されているからだろう。
彼らの理解にはマルクスが欠かせない。
彼らのマルクスがソ連風マルクス主義だったとしても、だ。
日本の研究者は、西欧思想の誰それに寄りかからないと自分の考えをまとめることができないから。
>>630 Evernoteに転写させていただきました
ありがとね。良いスレだ
柄谷さんらの試みが、マルクス自身、カント自身、ヘーゲル自身である必要はないんじゃないかな? そこからなんらかの着想(ヒント)を得たってただそれだけのことをもって、 それらの人物名や著作名を挙げているだけで、 べつに彼らは真なるマルクスや真なるカントを求めているわけじゃないのでは? 彼らがポストモダニズム文芸批評の系譜にあるとしたら尚更のこと、 「真なるマルクス解釈」を追い求めようなんてつもりはさらさらないだろうから。 かといって純粋な独創なんてものも世の中におそらくないだろうし。 むしろマルクスを解体構築して1から作り直そうというのがポストモダニズム批評の醍醐味じゃないの? そういう試みがあってもそれはそれでいいんじゃないかな? もちろん、それが成功しておらず、すでに行われた議論の焼き直しにすぎないよというような 批判がいくらでもあっていいとは思うんだけど。
ポストモダンは、古くなった古典を「テキスト」として、現在に有効な思想として読み直そうとするものである 試験問題によくあるような、「作者は、ここで何を言おうとしているか」などということは全く問題にせず 「ここの文章から何が読み取れるか」というように、著者が自分でも意図せずに書いてしまっているようなことを見つけ出す作業をする だから、「資本論」でマルクスが何を言っているかではなく、「資本論」の文章の中に、近代の行き詰まりを乗り越えるヒントになる理論が読み取れないかを検討する 重要なのはマルクスではなく、マルクスの著作であり、そこから現在に有効な思想を見つけ出そうというのである したがって当然、頭の固い共産党の教条主義的解釈やマルクス信者の反発を受けることになるが、 ポストモダンには「真のマルクス」も「真の資本論」も存在しないし、「誤読」などいうものもそもそも存在しない
つまりポモって、このスレのじいさんみたいなものなのですね
>>636 ポストモダンで「資本論」に言及してるのはどれ?
>>635 >マルクスを解体構築して1から作り直そうというのがポストモダニズム批評
それをやってるのは誰なの?
>>636 >重要なのはマルクスではなく、マルクスの著作
マルクスとマルクスの著作とはどう違うの?
ポストモダンは、少なくともフランスのその系の思想家たちは元々共産主義系。 アルチュセール、フーコーはそもそも共産党員だし、ポストモダンを自認するリオタールはトロツキー系組織のメンバー。
ポストモダニズムの古典の一つにマルクスの資本論などがあると考える一派だね。 マルクス自身が古典派経済学の解体構築をやろうとしたんだっていう。
642 :
考える名無しさん :2013/10/06(日) 16:05:17.78 0
>>636 つまり、オカルトってことね。
例えば相対性理論を書いたアインシュタインの文章を勝手に翻案することは不可能である。
なぜならばそこには厳密さが存在するからであり、それが科学の基本である。
キチガイが独自解釈すればどんな結論にも辿り着ける。
キチガイがユークリッド幾何学の本を独自解釈すれば、この世は人間が逆立ちして歩く世の中だと言い出すかもしれない。
結局、マルクスやその他の共産主義にかぶれて抜け出せなかった、というのはこの科学的な思考能力が欠如していたためである。
教条主義の対極に位置する流れの1つだと思うけど、そういう試みはそれとして興味深いし、 マルクスの思想の懐の広さを物語っているんだと思う。 しかし一方で、私はむしろ、いまこそ教条主義に立ち返ったほうがいい面もあると思っている。
>>642 それは自然科学に対する誤解じゃないかな。自然科学の世界だって同じだよ。
どういう理論・モデルが実際の観測結果や実験結果などに適応的かを思考錯誤する過程では、
思弁的にいろいろこねくりまわしている。数学を用いたって同じこと。超ひも理論なんてまさに・・・
>>640 アルチュセールもフーコーもポストモダン?
ポモの定義はなに?
>>635 >>636 さんの
>ポストモダンは、古くなった古典を「テキスト」として、現在に有効な思想として読み直そうとするものである
という定義とはずいぶん違うように思う。
というか、この定義だと、ほとんどすべての思想家がやってることだとは思うけど。
どちらにしても、どういう意味でポモと呼んだり、共産主義とかマルクスとか言ったりしてるのかぐらいは、はっきりさせて欲しいと思う。
>>642 >キチガイがユークリッド幾何学の本を独自解釈すれば、この世は人間が逆立ちして歩く世の中だと言い出すかもしれない
横だけど、相対性理論て、それに近いんじゃない?
数学でいえば、集合論と圏論がそれに近い関係かも知れないという話もあるようだしw
>>645 ポストモダン思想は厳密にはリオタール、ドゥルーズ、デリダあたりを指すことが多いね。
アルチュセールは違うとされる。フーコーも微妙か。
ポストモダンとかポストモダニズムがそもそも何を指しているのか論者によってまちまち。
批判する側ですら明確に定義しているとは言いがたい。
ポストモダニズムから言わせると、この批評的スタンスは、
ほとんどすべての思想家が実践してきたことだ、ということになるんだと思う。
マルクスだってポストモダンだと見なされるからね。
文芸批評というのは、作者の意図・真意を読み取ろうとすることだという立場、
いや、作者自身ですら気が付かない無意識を探り当てる精神分析なんだという立場、
いやいや、それは作者の意図や無意識をも乗り越える可能性をもったテクストなんだという立場。
最後のが俗にポストモダン批評だよね?
当時のフランスはソ連べったりの共産党主流派 (マルクスを読まずにソ連共産党が作った教科書しか読まない)か いわゆる前期マルクスに、それとは違う可能性を見出して資本論を無視する連中がほとんどだったんだよ そんななかでアルチュセールたちは「まずは資本論を読もうぜ」と言ったわけだ その読みが今から見ると無茶な部分を含んでいても そういう時代的状況は無視できない
>>647 わかりやすくていいまとめだね。
それだと蓮実や柄谷といった文芸評論家限定かも知れないね。
思想としてのポストモダン、歴史的な経緯を一度棚上げして、社会を同時代の動的な構造として捉えたい、という方向の人たちが抜け落ちるかな?
まあ、その種の思想の分類にたいして意味があるとも思えないけどね。
650 :
考える名無しさん :2013/10/06(日) 17:28:44.42 0
>>644 自然科学は少なくとも仮説を明確に区別します。
アインシュタインの仮説も実験によって実証されるまでは認められなかった。
ひも理論というのもそうで仮説にすぎない期間がとても長いわけです。
そして仮説が誤りと明確になった場合はだれもそれに目を向けません。
651 :
考える名無しさん :2013/10/06(日) 17:30:28.47 0
文芸評論には文芸以上の価値はない。
>>650 超ひも理論は大ブームになったでしょ。ポストモダンブームと同じころに。
>>650 前にも書いたけど、それは非常に素朴な反証主義の立場をとればそうなる。
前期ポパーがそれからな。
しかし科学史家が科学の歴史を実証していく中でポパーの学説(反証主義)が
厳密な意味では適応しない例が多々あることが明らかになってきた。
そこでポパーもその学説を途中で史実に適応するように修正を加え、緩和している。
マルクス主義経済学だってそうやって部分的に修正していけばいいことで、
途中で修正してきたから全部ダメだって発想こそ非科学的。
私は意外と、教条主義的なオーソドックスなマルクス主義のほうが現実にフィット
していると思っているけどね。
>>650 前にも書いたけど、それについては非常に素朴な反証主義の立場をとればそうなる。
前期ポパーがそれだね。
しかし科学史家が科学の歴史を実証していく中でポパーの学説(反証主義)が、
厳密な意味では適応しない例が多々あることが明らかになってきた。
そこでポパーもその学説を途中で史実に適応するように修正を加え、緩和してきている。
マルクス主義経済学だってそうやって部分的に修正していけばいいだけのことで、
途中で修正してきたから全部ダメだって発想こそ非科学的。
私は意外と、教条主義的なオーソドックスなマルクス主義史観のほうが現実にフィット
していると思っているけどね。
655 :
考える名無しさん :2013/10/06(日) 20:52:13.06 0
>>653 反証という行為に素朴も何もない。
それは極めて厳格なもの。
科学の歴史において適応しない場面があるというのが何を指すのか不明だが、科学が科学であるためには厳密さが要求されますから、ある仮説が一方で正しく一方で誤りという状況は仮説自体が間違っている可能性が極めて高いでしょう。
マルクス主義というのは科学的なものではないので、あくまでもマルクスという人の意見にすぎませんから、それをいくら修正したところでそれは修正した人の意見にすぎません。
自然科学というのは誰かの意見や思いとは別に歴然と存在するものであり、他人によって解釈が異なるようなものは科学では決してありません。
近代経済学と同じ程度には数学的モデル化は可能だし(実際いくつもモデルがある) 少なくとも近代経済学が科学であるというのと同程度には科学であるけどね てか、実際に自然科学やってたら どこまで誤差と考えるか、理論のどのレベルが間違っているのか そんな単純に割り切れない場面に何度も出会ってるはずなんだけどね
>>655 >>656 山の高さは? とか、海岸線というのはどこ? みたいな話だよね。
ある決め事に基づかないと答えが出ない。
その決め事は人為的なもの。
>>655 反証という行為が素朴だなんてどこにも書いていないよ。
「素朴な反証主義」とは書いたけれどね。潔癖な反証主義と書き換えてもいい。
おそらくあなたの考えはポパー流の反証主義の仮説に立ったものだと思ったから、
それについて言及したまで。
この問題は科学哲学では「線引き問題」と言われているものであるけれども、
これについてポパーが反証主義という1つの仮説を唱えたことはご存知のとおり。
しかしこの仮説はのちの科学史研究によって反証例がさらされるようになっていった。
潔癖な反証主義論者であったころのポパーはダーウィニズムの理論すら科学と
認めないほどだったが、科学史的反証例が見つかるようになって、
潔癖なほどの素朴な反証主義をいくらか修正し、緩和するように変わっていった。
ポパーの後継者たちはさらにその修正を進めるなどしていき、
ついに科学的アナーキズムを唱える人さえ現れたほど。
ポパーが唱えた反証主義だって科学哲学や科学史における一つの仮説または理論上のモデルだ ってことを忘れちゃいけないよ。 最近では、この問題について、手軽なページ数で手短かに読める 『科学哲学』サミール オカーシャ著(岩波書店)のような本も出ているから、読まれることをおすすめするよ。
客観的な見方、科学的な態度とはなにか、というテーマは大事なんであります。 哲学史的にはヘーゲル・マルクスあたりで一応の成果が得られているんであります。 まさに人類の資産なんでありますが、ぶっちゃけポモはこれを否定する立場なんです。 ポモは、基本的に、古くからある非合理主義の焼き直しにすぎません。その本質は 「非科学的な態度」「科学的認識の否定」を特徴とする主意主義的観念論なんです。 社会変革をテーマに語る場合でも、「俺がマルクスを解体・再構築してやる」という ふれ込みは実にカッコいいのですが、結局、古典のトンデモ解釈やひとりよがりな 創作文芸をだらだら述べるだけで、科学的分析も具体的で有効な提案もできてません。 ポモは科学的認識とはなにかの考察が決定的に欠如しているからなんです。
たしかにポモの世界には「真のマルクス」も「誤読」も存在しないでしょう。 そもそも「客観性」や「科学的認識」なんてテーマとしてませんからw。 奔放すぎる自由な世界なんです。なにもないところに無理やり言葉をつむぎ出す世界。 マルクスの世界とは別次元の世界です。 そういう自由な世界があってもいいことは同意しますが、できれば文芸評論や創作文芸 の世界だけにしておいて欲しいものです。社会科学分野で知的な装いをまといながら 若者たちに非合理・反科学な態度をファッションとしてふき込むのは厳しく批判されても しかたありませんね。 科学的な態度とはなにか、いうテーマに少しでも興味と学問的良心があるのなら、 「頭の固い共産党の教条主義的解釈やマルクス信者」などという言葉を投げつけて満足 する前に、マルクスのテキストに帰って先ずはマルクスの本意を誠実に捉えるように したほうが結局はいちばん効率がいいんです。柄谷だのアルチュセールだののポッと出に くらべたら確かすぎる定評があるんですから。
「科学的な態度」と言いながら、「マルクスのテキストに帰って」という聖書解釈のごとき原典主義 から離れられないこの奇妙さ
>>662 「科学的態度」の基本は唯物論、弁証法です。
それらのエッセンスがバランスよく含まれているのはやはり
マルクス・エンゲルス、ヘーゲルの著作、そしてその誠実な解説書です。
「科学的」を装いながら、弁証法的な連関を無視した機械論的、観念論的な
似非科学の書物は世間にいっぱいありますからね。
いちおう原点を読んでればそんなのに引っかかりにくくなります。
私のような初学者でさえ柄谷のめちゃくちゃぶりにはピンときましたからw
ああ、「唯物論、弁証法」イコール「科学的態度」と考えているのか。 マルクスはいまでも重要な思想家だと思うけど、「科学的態度」という訳の 分からない評価基準でマルクス主義を特権化しようとする態度は勘弁願いたい。
一昔前によくあったマルクスに捧げた青春、といったものはもう二重の意味で返ってこない ドゥルーズもデリダもプルードンを読まずに死んだ 間に合わなかったのだ サルトルと柄谷はプルードンを読んでいる 特に柄谷は『トランスクリティーク』でギリギリで間に合った 危ないところだった ちなみに柄谷の最近作『哲学の起源』はポパーの『開かれた社会とその敵』を 見事に受け継いでいる あくまでクセノファネス=スピノザ=マルクスの系譜に身を置きつつだが そして反証可能性はソクラテス、カントに帰するものとされる
「マルキシスムもまた競争相手の理論を吸収し、消化して、開かれたままでいなけ ればならなかったにちがいない。ところが人も知るように実際につくり出されたの は、百の理論の代りに二つの革命的イデオロジーにすぎなかった。ブルードン主義 者は、一八七〇年以前の労働者インターナショナルでは多数を占めていたが、パ リ・コンミューンの失敗によっておしつぶされた。マルキシスムは敵対者に打勝っ たが、その勝利は、マルキシスムがのり越えながらそのなかに含んでいたヘーゲル 的否定の力によるものではなく、純粋に単純に二律背反の一方の項を押えた外力に よるものであった。その光栄のない勝利がマルキシスムにとってどういう代価を意 味したかは、何度いってもいい過ぎない。すなわち矛盾する相手が欠けたときに、 マルキシスムは生命を失った。もしマルキシスムが最もよい状態にあり、絶えず戦 い、征服するために自己を変革し、敵の武器を奪って己れのものにしていたとすれ ば、それは精神そのものとなっていたであろう。しかし、作家貴族がマルキシスム から千里もはなれたところで抽象的な精神性の番人になっている間に、マルキシス ムは教会になったのである。」 サルトル『文学とは何か』第三章「誰ために書くか」 (『シチュアシオン2』人文書院p141.加藤周一訳)より
マルクススレでサルトルだの実存主義はいいよw
668 :
考える名無しさん :2013/10/07(月) 08:12:24.28 0
マル経を嫌っている人の少なからずが、 マルクス主義者は訓詁学ばかりやっているからウンザリするみたいなことを言っている。 誰のマルクス理解・解釈がもっともカール・マルクス自身の真意に近いのかと、 原典を読みあさって、真のマルクス主義者を決めるゲームを延々競い合っているにすぎないと。 しかしそういう批判をする人も、マルクスは間違っていたと安易に裁断しちゃうんだよね。 けっきょく、マルクスは正しかったのか間違っていたのかを問題にする。 それこそ訓詁学だよ、と思う。 その是非を決めようとするかぎり、マルクスの原典をくまなく分析する作業でしか実証できないことだから。
>>655 ニュートン力学は、相対性理論の登場で「厳密には正しくない」ことが明らかになったけど、地球上の人類的尺度ではその誤差は
とるにたらない、ということで今でも使われてる。
量子力学は、今でもさまざまな解釈があって、科学者によってどれを是とするかは異なっている。
>>664 >「科学的態度」という訳の分からない評価基準
>マルクス主義を特権化しようとする態度
「科学的態度」に関しては哲学史的に一定の答えがでている。
唯物論か観念論かの問題。
世界(客観的実在)はどのような法則で運動しているか、
それに対して人間の意識はどのような関係にあるかの問題。
認識論における無原則な相対主義・不可知論の問題。
客観的実在と人間の意識の関係、客観的実在と意識の一致は
どのように検証されるのかの問題。
これらも問題はヘーゲル・マルクスによって克服されているし、
自然科学分野では自明のこと。
『「科学的態度」という訳の分からない評価基準』という言説は
これらの成果や自然科学を否定することにつながる態度。オカルトや
創作文芸の世界だね。
レーニン「唯物論と経験批判論」、エンゲルス「自然の弁証法」は
けっこう軽く読めるほうだからオススメ。ヘーゲルにも自然科学の
話がけっこう出てくる。
ポパーの"科学哲学"も、"構造主義""分析哲学"も、一定の限られた
分野では有効な手法であるというだけであって、だからといって
「科学的」の装いをこらして唯物論や弁証法を否定するのはお門違いで
あり、現代の観念論といわれてもしかたない。
671 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 01:38:52.07 0
>>661 > たしかにポモの世界には「真のマルクス」も「誤読」も存在しないでしょう。
この言い方は誤解がある気がするのですが、ポストモダニズム批評の実践が
「真のマルクス」や「誤読」の存在をいっさい認めないとかいうのではなく、
そのようなアプローチに訴えない目的をもった思想的・批評的な態度であるというだけです。
これは科学的な真偽の議論とはまったく無関係です。
というか、要は、何を目的に科学しているのだろうか、ということです。
科学する目的において、マルクスやマルクス主義のテクストを科学的に検証する
目的をもつのならば、明らかな誤読があってはならないでしょうが。
672 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 10:59:31.27 0
>>664 「弁証法(=否定原理)」は、「唯物論」の理論的構築に対して、
どの様な意味を持っているのでしょうか?
それまでの唯物論は、自然科学には適用できたが社会科学には適用できなかった。社会が弁証法的に進歩している ことの判明により、社会科学にも唯物論が適用できるようになった。またこれにより、それまでの静的唯物論が動的唯 物論へと拡張された。
674 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 16:14:23.57 0
弁証法は解体構築?
それまでの唯心論は、社会科学には適用できたが自然科学には適用できなかった。社会が弁証法的に退化している ことの判明により、自然科学にも唯心論が適用できるようになった。またこれにより、それまでの動的唯心論が静的唯 心論へと純化された。
676 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 16:43:16.16 0
…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋
化によって要請される政策目標設定との「同時並行性」を指摘するのであるが,
この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身
によって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説
明がない以上,その真意は測りかねるが,たとえばアルチュセールによれば,
「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。
これは並行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実
現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に対して,知性(精神)からの
制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」
の名で知られるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると
いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考するということであり,一方の
他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに
おいても想定可能である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され
えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本と「ともに」思考
する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を
展開するのである。国家という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本
の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という「身体」と「と
もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした
理解を示すかのように,宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と
身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476)。
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」大黒弘慈
>>677 宇野経済学というのは、マルクスの労働価値説を「否定」してる点で、そもそもマルクスとは違うだろ。
特に有効性もないんじゃないかなあ。
679 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 18:07:39.72 0
でも労働価値仮説を仮に放棄したとしても搾取理論は成り立つわけでしょ?
「否定」のかっこがどういうつもりか知らんけど 宇野経済学がマルクスの労働価値説を否定している などと言っている時点で、宇野をろくに読んでいない よくあるヨヨギ系だと良く分かる
結局、最近すみついてるヨヨギ公式万歳の人って マルクスの資本論をまともに読む事すらせずに エンゲルス、レーニンを介して流布した定式化しか知らない人なんだよね マルクス自身が資本論を完成させられず死に またマルクス自身が数学的な定式化を願って、晩年まで数学の勉強を続けていたとか そういった側面を全部切り捨てて お経のようにマルクスレーニン主義を唱えるだけの人なわけだ そんな人が信奉している自称科学には、信者以外 誰も目を向けないよ
>>679 そもそも宇野は労働価値説を放棄はしていない
流通論を先に持ってきて再構成した
だから確かに置塩や森嶋流のモデル化と親和的な部分もある
でも労働価値説自体の放棄はしてないんだよね
そこを中途半端だと批判するなら分かるけど
683 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 18:15:50.77 0
>>682 むしろ労働価値説を補完した、というほうが正しいわけだ?!
>>683 本人はそのつもりだっただろうね
もちろんそれを不徹底だとか批判する事は可能だけれど
マルクス自身が資本論の後半(つまり再生産に関わる部分)を仕上げられずに
死んでしまったことを考えれば
可能な一つの再構成であって「マルクスと無縁」と言うのは違うと思うな
685 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 18:39:46.72 0
>674 >弁証法は、解体構築? >ヘ−ゲル的弁証法は、「アウフヘ−ベン(止揚)」の否定論理を基底としている。 この「否定論理」を基底としていると言うことは、定立命題と反定立命題の限定された命題の 一方を否定することであり、否定された命題は廃棄される。 従って、弁証法は「解体」をしない。 一方の命題を「アウフヘ−ベン」の否定論理で、「否定」するので 「構築」はされない。
むしろその帯で「宇野弘蔵は労働価値説を否定しているに違いないんだ!」と思い込んだ理由を聞きたい
結局、最近すみついてる「ヨヨギ、ヨヨギ」を連呼する人って 「定式化」だの、「お経のように」だの、「マルクスレーニン主義を唱えるだけ」 だの、「信者」だのって、レッテル貼りや罵倒だけで、中身のある話は 全然できないのな。
>>687 私は
>>678 を投稿した者ではないので、
>>678 さんがこれを読んで労働価値説を否定していると認識したのかどうかは分かりません。
ただ、宇野氏が「価値法則はなぜ廃棄されねばならないのか、の問に答える」という表現はまるで
著者である宇野氏自身が「価値法則は廃棄されねばならない」と考えているかのような物言いですよね?
そうでないならば、
「価値法則はなぜ廃棄されるべきではないのか、の問に答える」とか、
「価値法則は本当に廃棄されねばならないのか、の問に答える」とか
いった表現にならないと不自然なので。
690 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 20:02:36.04 0
とはいえ、宇野経済学に関するウェブ上の説明を読む限りでは、 宇野氏が労働価値説を否定しているわけではなく、 マルクスとはべつのアプローチの仕方をマルクス(の資本論の未完の部分) から着想を得て補ったという理解が一般的なようですね。
人生は短いんだ。 アルチュセールとか柄谷とか宇野とかの胡散臭い本なんか 読んでる時間はない。
692 :
考える名無しさん :2013/10/08(火) 20:12:45.96 0
労 働 価 値 // | | //Λ_Λ | | | |( ´Д`)// <うるせぇ、労働価値ぶつけんぞ \ |
>>689-690 非常に簡単に言うと価値の規定は商品論では完結しないで
(再)生産過程を必要とするし
そこから考えないと価値形態論の意義も明らかにならないってのが宇野
これを極端に純粋化すると森嶋的な
「労働価値説なしでもマルクスの再生産理論には意味がある」
ってネオリーカディアンなモデルになるんだけど
>>680 >>682 >>683 え?
宇野読んだことある?
基本は労働価値説の「否定」だよ。
マルクスの労働価値説に補完すべきところなんかないよ。
>>684 >>689 >>690 宇野の価値論というのは、いわば流通過程にも価値の創造を見る考えかた。
流通というのは価値の実現の過程であって、流通過程からは価値は作られない、とマルクスが指摘しているところの根幹にかかわる理論。
>>694 > 宇野読んだことある?
> 基本は労働価値説の「否定」だよ。
普通の意味の否定で使ってるのね
ヘーゲル的な意味ではなく
本当に宇野読んでないんだね…
>
>>684 >>689 >>690 > 宇野の価値論というのは、いわば流通過程にも価値の創造を見る考えかた。
「流通過程にも価値の創造を見る」?
こんなトンデモ説が彼の何を読んで出てきたのか謎だ…
> 流通というのは価値の実現の過程であって、流通過程からは価値は作られない、とマルクスが指摘しているところの根幹にかかわる理論。
これを読むと宇野が「流通過程から価値が作られる」と主張しているように見えるが
宇野はそんなことは言っていない
>>695 >ヘーゲル的な意味ではなく
ヘーゲル的意味の否定ってなに?
宇野本人は、否定じゃなくて補強という意味で価値の創造を考えてる、という意味でのカギカッコだよw
>これを読むと宇野が「流通過程から価値が作られる」と主張しているように見えるが
>宇野はそんなことは言っていない
では、宇野はどこから価値が生まれると考えているか指摘してみてくれ。
宇野の書いたものを本当に読んだとして こういう勘違いをする人間がいるのだとしたら実に興味深い 宇野が流通と(再)生産過程を考えないといけないと言ってるのは そもそも商品論の段階で価値を実体として労働から規定すると 論証が論証として成立しない、 たとえば貨幣の価値尺度機能を理解する事が出来なくなると言って そこから労働価値説を考えなければいけないと言っているのであって 「流通で価値が作られる」とは全く言っていないのだが 一体何を読んでそんな勘違いをしたのだ?
読まない人間の孫引き、股引きの批判ほどバカバカしいことはないので 宇野の文章を引いておく 彼の分析に同意するかどうかは別にして、彼の問題意識はこれ以上でもこれ以下でもない ところがこの価値形態論に先んじてなされる「価値実体」論のために「商品」論の中心が 曖昧になると同時に、価値形態論自身もその影響を受ける事になり、 労働価値説の論証もまた決して十分なるものといえないことになっているのである。 マルクスがほとんど作り上げていながら、最後で論証のための構成を失敗した(と宇野は考えた) 労働価値説を、いかに適切に再構築するか、が彼の終始一貫した問題意識
>>697 宇野は実現されたときに価値が生まれると考えている。
だから、流通が大きな論点になる。
このことを流通が価値を生むと考えている、と言ったんだよ。
だから、マルクスとは真逆。
労働によって創出された価値が、価値として実現されるかされないかは別問題。
実現されない価値が大きくなれば、社会総体の価値が失われるから恐慌となる。
>>699 >
>>697 > 宇野は実現されたときに価値が生まれると考えている。
> だから、流通が大きな論点になる。
> このことを流通が価値を生むと考えている、と言ったんだよ。
宇野は「実現されたときに価値が生まれる」とは考えていません
そう考えているなら「価値=価格」で済むわけ
君は形態論の重視を、流通で価値が生まれるいう論だと勘違いしている
黒田等々と同じパターンの誤解
宇野が売れるか売れないかを強調するのは、商品保有者と貨幣保有者の違いがあるから
流通論の協調が必要なのは、それが貨幣形態の導入になり資本の生産過程へと繋がるからなわけ
よく(俗流)経済学かぶれから突っ込まれる価格と価値の乖離の問題を考察する装置でもあるわけ
そうした資本の再生産過程が、労働の実体的過程を形態的に取り込むというのが彼の考えであって
>>694 >「流通過程にも価値の創造を見る考えかた。」
なんていうのははなはだしく誤読だと言われても仕方がない言い換えだよ
>>700 >商品保有者と貨幣保有者の違い
>貨幣形態の導入になり資本の生産過程へと繋がる
これはマルクスの商品そのもの。
>資本の再生産過程が、労働の実体的過程を形態的に取り込む
これはどういう意味?
「実体的過程」というなら、それは、流通によって実現した価値、のことじゃないの?
ちなみに、マルクスは、論理的には最終的に「価値=価格」となると考えているよ。
それがマルクスの分析の一番すごいところでもある。
なんだ本当に宇野自身の書いたものを全然読まずに語ってたんじゃないか… 価格と価値の話も読んでるならどういう文脈で書いてるか分かるだろうに
>>702 そこまでいうなら、自分の理解をちゃんと書いてみな。
自分でも何書いてるかわからないようないい加減な人の言葉を持ち出さないでさ。
価値については宇野自身があいまいなまま原理論を構築しようとしたから、結局中途半端なものをいくつか書いただけだし、段階論も現状分析もまったく手が付けられなかった。
現状分析で、いくらかまともなことが言えたのは岩田強ぐらいだろう。
それだって、当時の社会主義圏を排除した「世界」資本主義だ。
価値の実現を価値の創出と見た宇野の根本的な錯誤が、全体を無意味な経済学にしてしまったんだよ。
698の宇野本人の文章はスルーして あくまでも >価値の実現を価値の創出と見た この誤読が正しいと言い張るわけだなあ 宇野本人の書いたものを読まずに勝手な像を作って批判している人間と どんな議論が成り立つか謎だね
「俺は読んだ、読んで批判してるんだ」って言い張るので 読んでる事を前提のやりとりをしていたけれど、全く読んでいない人だったようなので… 文脈を良く知らないでこのスレを読んでいる人に補足しておくと 宇野弘蔵と言う人は マルクスの『資本論』自体を一字一句そのままに読む読み方を批判して (実際『資本論』の構成にはいくつかの案があった) 彼なりに整合性があると考える再構成を行いました でも、それが結果として、その再構成自体の良し悪しを理論として検討するのではなく マルクスの一言一句をそのまま真理と受け取っていないからダメだという形で まったくバカバカしく批判されたという経緯があるのね そのときに、こういう感じの読まない批判が沢山出回りました (実際に宇野の書いたものを見れば分かるけれど、一部批判している所はあっても マルクス自身の書いたもの全体の整合性を気にして マルクス自身のテキストをかなり細かなところまで読んだ上で行っている再構成なんだけど) 別に宇野の再構成に同意する必要もないけれど 読まずにイメージだけで批判することに何の意味があるのか本当に不思議ですね
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。
ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3 という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。
リカード経済学を呑み込みつつも租税を無視した点や、プルードン批判の
非合理性も、マルクスの持つ無意識に原因の一つがあるのは精神分析的に
明白だ。
ユダヤ的出自を隠蔽したことと、影響された元ネタの排除もパラレルだ。
唯物弁証法の貫徹が、既に倫理原理でもある気がするのだけれども。 自己の見解を絶対とは見なさず、常にそれをアンチテーゼによって超克し続けること、そしてそれによって 現実を日々より深く理解できるようになること、は、現実に対し常に誠実であれ、という倫理規則とも読める んじゃないかな。
>>707 その通り。
対象は目の前の現実・実在する客観的世界なのであって、それを人間が
いかに正確に反映できるかが大事。
ヘーゲルやマルクスはこの点をつきつめてきた人だから、先ずは素直に
ヘーゲルやマルクスが言ってることを正確に読み取る努力ぐらいしようよ、
ということ。まずはこれが基本ですよ。
それを「教条主義」とか「信者」だとかいうのはズレまくりですね。
>>707 その通り。
対象は目の前の現実・実在する客観的世界なのであって、それを人間が
いかに正確に反映できるかが大事。
ヘーゲルやマルクスはこの点をつきつめてきた人だから、先ずは素直に
ヘーゲルやマルクスが言ってることを正確に読み取る努力ぐらいしようよ、
ということ。まずはこれが基本ですよ。
それを「教条主義」とか「信者」だとかいうのはズレまくりですね。
まあ、このスレのレスの伸びを見ると、まだまだマルクスに染まった人が健在ということがわかって何よりですわ
711 :
考える名無しさん :2013/10/09(水) 01:04:49.01 0
労 働 価 値 // | | //Λ_Λ | | | |( ´Д`)// <うるせぇ、労働価値ぶつけんぞ \ |
>>704 >ところがこの価値形態論に先んじてなされる「価値実体」論のために「商品」論の中心が
>曖昧になると同時に、価値形態論自身もその影響を受ける事になり、
>労働価値説の論証もまた決して十分なるものといえないことになっているのである。
これのどこに議論できる中身がある?
マルクスの「商品」論の中心は曖昧になどなっていない。
マルクスは、きわめて明確に商品の価値が労働のみから成立することを論証している。
それを曖昧と受け止めたとすれば、それは宇野の読み方が間違っているだけだ。
>>705 も同じだが、相手を誤読だ、宇野を読んでないと言い張るだけで、肝心の宇野の価値論そのものに言及することもない。
大事なのは、論考の中身だよw
宇野はマルクスを補完したんだと言い張っても、宇野の価値論そのものが、何回も書いているように価値の実現と価値の創出を混同したものだ。
違うというなら、論拠を示してごらん。
宇野が他のマルクス経済学者から相手にされないのは、そうした混同が宇野理論の中核をなしているからだ。
鈴木鴻一郎や岩田強のような優れた弟子でさえ、そのことが足かせになって議論に耐える論考を提示できなかったと言えば言い過ぎかも知れないが。
どの投稿がどの投稿と文脈的に繋がっているのか分かりにくいけど、
たとえば
>>705 を書いた人が
>>706 も書いているというつながり?
というかマルクス自身が資本論で書いたの部分のほとんど商品についてだよ 商品の成り立ちから延々説明してる
まあ、このスレのレスを見ると、ポモ構造主義という非合理主義・反科学主義に 染まった人がまだまだ健在ということがわかって何よりですわ
そんな人、このスレッドにはどこにもいないように見えるけど、どの投稿を根拠に言っている?
マルクス主義者はいてもいいけど、敵に「非合理主義・反科学主義」なんてレッテルを安易に使う人はいなくてもいいなあ
>>718 「マルクス主義者はいてもいい」なんて言い方をする人も、いなくてもいいなあ、と絡んでみたいんだがw
そもそもマルクスがいなければ、今の世界観は発生していないわけで 飛行機を語っていて「ライト兄弟ファンはいてもいい」っていうようなもんだろ
ライト兄弟ファンはいいけど、ライト兄弟の作った飛行機以外は飛行機じゃないと言い張る ライト兄弟主義者が出てきたらどうすんだよ
723 :
考える名無しさん :2013/10/09(水) 15:19:09.89 0
>>542 >弁証法による止揚、揚棄という考え方が諸悪の根源。
マルクスに欠陥があるとしたら、この「思考法」をヘ−ゲルから受け継いで
いるところだ。
その点、フォイエルバッハより、ブ−バ−の「私と汝」論理の方が興味深い。
>ヘ−ゲル的弁証法は、「アウフヘ−ベン(否定論理)」を導入しているが、
この「否定論理」が、マルクス理論に欠陥を生じさせたのであろう。
つまり、定立命題(正)と反定立命題(反)を限定し、アウフヘ−ベンによる「否定論理」により、
反定立命題(反)は、否定され廃棄される。その結果、必然的に定立命題(正)が統合命題として
肯定される。
フォイエルバッハの弁証法は、「対話的弁証法」であり、アウフヘ−ベン(否定論理)を導入していない。
この思想の基盤としてあるのは、「私」と「汝」の統一としての『人間』を基底としている。
フォイエルバッハの哲理が現代に於いて多様性を持つのは、同じ「弁証法」ではあるが、アウフヘ−ベンの
「否定論理」を排して、「私」と「汝」の間の“対話”を「真の弁証法」と述べ、「私」と「汝」を区別する
立場こそが「真の哲学の立場」であると述べている。
そして、一旦、確定した「私」と「汝」を区別した立場から「対話的弁証法(=現象化)」により、両者を統一(構築)
する思考過程となっている。
ブ−バ−の「私と汝」論理もフォイエルバッハと類似しているが、人間の本質を、主観(私)と客観(汝)の「合一」
としての「人間」の存在を基底としているところが、ブ−バ−より優れた論理であると思う。
フォイエルバッハはポモ受けしそうだね。
>>723 間違ってる。
弁証法的な「止揚、揚棄」「否定」は客観的に実在するものだから。
当然に、その客観的実在を能動的に反映する意識にも「止揚、揚棄」「否定」は存在する。
「止揚、揚棄」「否定」を否定することは、客観的実在を否定する観念論。
>>722 それって、『「科学」よりも科学的なものは他にもある』
と言ってるのと同じ。
>>723 テーゼとアンチテーゼの関係が運動的でなく空間的である限り、主観的 (観念論的・形而上学的・静的) 弁証法にしか
ならないんじゃないかと。
フォイエルバッハが構造主義者に見えてきたよ
フォイエルバッハはすでに克服されている。 (フォイエルバッハに関するテーゼ)
ポモ・サピエンス
>>725 唯物論を自称していても根拠はテクストにしかないのでは?
マルクスを現実の資本の分析に応用する力のない人が
マルクスを崇拝する傾向がある
二項の片方を否定してもその項が抹殺されるわけではないのに
マルクス主義者はその項を存在しないものとしてしまう
ヘーゲルの弁証法は生物学モデル(父母子etc.)だからまだ可能性があった
>マルクス主義者はその項を存在しないものとしてしまう 「その項を存在しないものとしてしまう」なんて、 それって、あなたの脳内マルクス主義者が言ってるだけでしょう。
>>731 マルクス・エンゲルスでもヘーゲルでも"マルクス主義者"でも
二項の片方を否定しているなんて見たことも聞いたこともないなあ。
あったらその箇所を教えて欲しいぐらいだ。
「止揚」といってるぐらいだから、普通の意味での「否定」とは違う
んだが。弁証法でいう否定の意味を勘違いしていないか?
>唯物論を自称していても根拠はテクストにしかないのでは?
ってのも、「唯物論」の意味を勘違いしてるのかも。
例えば、研究者が地球を研究している場合でも、「地球が存在する
という根拠はテクストにしかないのでは?」とかありえないでしょ。
それと同じ。
734 :
考える名無しさん :2013/10/10(木) 03:29:22.98 P
フォイエルバッハは我と汝の対話しか見ないから社会性がないとマルクスとエンゲルスによって批判済み マルクス以降に、フォイエルバッハやプルードンや老子に帰ろうとするのは無駄なこと それは反革命、反動政治、保守主義に過ぎない
736 :
考える名無しさん :2013/10/10(木) 10:26:45.58 0
ヘ−ゲル的弁証法は、アウフヘ−ベン(止揚)を導入しているが、 このアウフヘ−ベンは、「否定、廃棄と保存、高める」と言う二様の性質を 持っている。 しかし、実際の思考過程は、「否定論理」を“基底”としているので、 定立命題(正)と反定立命題(反)がアウフヘ−ベン(否定論理)により、反定立命題が 否定され廃棄される。廃棄された反定立命題は、保存され、高められることはない。 従って、ヘ−ゲル的弁証法は、事象に対して「解体」も「再構築」も出来ない。このことは、 歴史が、それを証明している。
>>736 文章の主題がわかりにくいんですけど。
何でも好き勝手に「解体」「再構築」してしまう構造主義は
ヘーゲル弁証法の立場からも否定されるべき、ということ?
それとも、ヘーゲル弁証法は構造主義のような「解体」「最構築」
をしないからダメだ、ということ?
「廃棄された反定立命題は、保存され、高められることはない。」とは、
「保存されるが高められることはない」という意味?
それとも「保存されることも高められることもない。」という意味?
「歴史がそれを証明している」とは、具体的にどんなことをどのように証明?
>>736 に書かれている「ヘーゲルの弁証法」って、まるで
形式論理学でいう排他的選言とまったく同じことのように説明されている。
そのように読めるんだけど、それが「弁証法」って理解で本当に正しいのかねえ?
それとも私の誤読?
伝統的な形式論理学の範疇で説明できちゃう意味でしかないのならば、 「弁証法的論理学」なるものの哲学的意味はないように思うんだけど。
「有る」かつ「無い」という矛盾に対して「成る」という概念を導入するのが弁証法?
>>739 弁証法が知りたければヘーゲル読むのがいいんじゃないか。
読みやすいのは歴史哲学とか美学かな。
学生向けの講義をまとめたものだから、とてもわかりやすいし興味が尽きないおもしろさに満ちている。
ちなみに、美学はマルクスが絶賛してるよ。
在る、かつ、在らない -> 成る
翻訳が悪いのか、やけに難解な文体ばかり。 修辞的とされるマルクスやケインズの文体が相対的にいかに読みやすいかを 逆に思い知らされるよ。
「有る」と「無い」は「生滅」という運動のコインの表と裏、 ってことだと思う。
747 :
考える名無しさん :2013/10/10(木) 19:32:15.61 0
ヘ−ゲルの弁証法は、アウフヘ−ベンを導入しているが、このアウフヘ−ベンは、 形式論理学(演繹的推論)とは異なる、一種の「現象学的思考」であり、「廃棄する・ 否定する」と「保存する・高める」という相反する思考活動をする。 しかし、実際に、この相反する概念に基づいて思考が可能なのであろうか。 ヘ−ゲルは、この相反する二様の概念の中に、「否定論理」を導入している。 つまり、「否定」という概念を中心に据えて、「アウフヘ−ベン」を構成している為に 「保存する・高める」という精神活動が、否定され消滅している。
>>747 ヘーゲル弁証法は「否定」ばかりで、「保存する・高める」がない、って?
それ、完全にヘーゲルを誤解しているよ。
「保存する・高める」ように「否定」するからヘーゲル弁証法なんだよ。
たぶんあなたの間違いの原因は、弁証法の「否定」って言葉を
形式論理でいう否定の意味だけでとらえているからだと思う。
美学を翻訳しながら読んだよ 読みづらいよ
>>747 日本語の「摘み取る」が「廃棄する・否定する・保存する・選別する」意味を兼ねるのと同じ。
こういう語はむしろ、一面的意味に限定して使う方がかえって難しいんじゃないかな。
751 :
考える名無しさん :2013/10/10(木) 23:16:12.39 0
>>748 「保存する・高める」ように「否定」するとは、どのような思考過程なのか
具体例で説明して下さい。
752 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 00:03:32.01 0
円形の物体があるとするわけだ。 人間の意識は「円形の物体だ」認識するわけだ。 次に、同じ物体が三角形に見えるわけだ。 人間の意識は「円形じゃなく三角形の物体だ」と認識するわけだ。 この時点で、最初の「円形だ」という概念は"否定"されてるわけだ。 形式論理では円形≠三角形だから、この範囲では正しいわけだ。 その後、「これは円錐体なんだ」という認識にいたるわけだ。 つまり、最初の「円形だ」という概念は否定されたもの保存されてる からこそ円錐体という認識にいたることができるわけだ。 人間の認識というものはこうなってるわけだ。 ヘーゲルはこのことを言ってるわけだ。 つまり、『ヘーゲルの「否定」には「保存する・高める」がない』は 根本的な間違いなわけだ。
マルクスの価値形態論もヘーゲルの影響下にあるという説(※)がある。 質-量-関係-様相というカテゴリーをカントではなくヘーゲルの順番で 展開しているからだ。 しかし、ヘーゲルのカテゴリー論は(その弁証法と同じで)新たなステージ において円環を描くように循環するのに、マルクスの価値形態論は循環しない。 物々交換から貨幣の王権に至る過程が不可逆的かつ絶対的に固定されるのだ。 そこにマルクスがプルードンの交換銀行の試みを(マルクスはそれを時間労働 説と曲解した)理解できなかった理由の一つがあるように思う。 ※ ヘーゲル全集『大論理学(下)』武市健人訳注による
>>751 より美しくなるために現在の食欲を否定するダイエットとか、「空腹は最高の調味料である」の実践とか。
即反論したいのを否定し、相手の批判をよく検討して自身の不備に気づき、よりよい仮説を形成するとか。
ひよこが生まれるためにはおのれを包む卵の殻を自ら否定 (破壊) せねばならないとか。
いずれも、思い込みや決めつけで自ら作ってしまった壁を否定し克服する「自己超越」なので、思考過程と
しては「自己相対化と同時に引き起こされる跳躍的気づき」(悟り・ひらめき) になる。単純な否定だと克服
にはならず、自己の思い込みや決めつけを温存したままの単なる選択行為になる。
「Aかつ非A」が、「かつ」を「同時」でなく「交互」の意味に取れば成立可能であることに気づくこと (この気づ
きがアウフヘーベン)。
よくわかる解説だけど 難解な自己啓発本読んでるみたいだ
>>749 自分で訳してるの?
すごいね。
翻訳ものでいえば竹内敏雄訳の「美学」が読みやすかった。
長谷川訳は出来不出来が大きい気がする。
「美学講義」は不出来の方かな?
「歴史哲学」は素晴らしい訳だと思うけど。
>>753 その訳注は知らないけど、価値形態論が弁証法によるものだと言ってるの?
価値形態論というのは、構造分析だから弁証法にはならないんじゃない?
弁証法というのは、あくまでも時間の推移に伴うもの。
構造分析には無関係だろ。
プルードンおっさんのいうことだから
価値形態論をどうしても弁証法としてみたいなら、使用価値(正)、交換価値(反)、貨幣(合)とするんだな。 使用価値のある商品は自分にとって価値のある商品、交換価値のある商品は相手にとって価値のある商品、貨幣は使用価値が交換価値となった双方に価値のある止揚された商品。 言いたければ、こんな言い方ができる。
760 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 03:19:14.26 P
プルードン支持者は論理的ではないんだよな プルードン自身直感で考える人だったからな 理数系の基礎訓練を経ている人でプルードンを支持する人を聞いたことがない なぜ円環をなさねばならないのかわからないね そもそもプルードンは独立生産者のことしか考えていない 交換銀行の恩恵を受けられるのはプロレタリアではなく、プチブルだけだろう 資本家は交換銀行券などそもそも欲しがらない プルードン的に言えば交換券には経済的な権力がないからだ そもそも社会の内部から革命を起こすことは不可能だと俺は思う 資本制経済の内部の変革は資本制内部に寄生するものに過ぎないだろう プルードンの改革を完全に否定しているわけではないが、彼の改革が奏功するのは革命の後だろう
そう言われるとプルードンをその可能性の中心において読みたくなるではないか
柄谷 その可能性の中心 // | | //Λ_Λ | | | |( ´Д`)// <うるせぇ、知の三馬鹿の一人をぶつけんぞ \ |
763 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 04:02:37.26 0
『プルードン その可能性の中心 〜癒しwith capitalism〜』(上) 24P 幻冬舎刊
『プルードン その可能性の中心 〜癒しwith capitalism〜』(上) 俺著 24P 幻冬舎刊
『プルードン その可能性の中心 〜ビール、枝豆と共に〜』(中)俺著 1024P 日本経済評論者
『プルードン その可能性の中心 〜何物かに抗して〜』(中)俺著 詳細未定
『プルードン その可能性の中心 〜癒しwith capitalism〜』(上) 俺著 24P 幻冬舎刊 『プルードン その可能性の中心 〜ビール、枝豆、腸詰と共に〜』(中)俺著 1024P 日本経済評論者 『プルードン その可能性の中心 〜何物かに抗して〜』(下)俺著 詳細未定 all prices can be set at your own assession.
下巻はblue-rayで出すか
いやこれは失礼した 話を続けてくだされ
酔っ払って書き込みするのヤメましょう
>>752 有形 かつ 無形 -> 成形
円形 かつ 三角形 -> 円錐
この->がヘーゲル流の止揚でしょ?
>>760 内部での改革の積み重ねが長い目で見たら革命となってゆくような可能性はないんでしょうかね。
マルクスは資本主義経済と共産主義経済とが混在した段階がありうることを示唆していたようにも見受けられるのですが。
プルードンとマルクスとの一見すると対立図式が成り立つ地平を止揚する観点があったら面白いかな。
774 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 13:29:04.47 P
その種の誤解が左翼の間で蔓延している 問題を複雑にすべきではない やるべきことは簡単だ プロレタリアが国家権力を奪うのだ それしかない
>>772 共産主義経済なんてものはない。
国家(共同体)資本主義を共産主義だと思ってるんだろうが、まったく違う。
共産主義というのは、資本家による搾取をなくして、働者が労働によって創出した価値を自分たちのものとするための日々の行動のこと。
国家が存在する時点で、その社会は共産主義ではない。
ここのプルードン派の人も人で、 ヘーゲルの弁証法(Aand¬Aをいずれか一方の否定で乗り越える?) をマルクス受け継いでしまったことにマルクスのそもそもの誤りがあるとしながらも、 その結果としてマルクスの議論を単純に否定しちゃうところは、 まるでその人が批判するヘーゲル弁証法とやらの論法とそっくりじゃないかなあと思う。 そこに矛盾を感じざるをえない。
>>774 プロレタリアが国家権力を奪うという事態が具体的に何を意味するのか
定かではないけれども、それを否定しているわけじゃないですよ。
プルードンの議論のほうが優れているんだとか、
マルクスの議論のほうが優れているんだとか言い争っている
その両者が暗に共有している対立図式の地平をうまく統合できる観点で、
なるほどぉーと思わせるもう一つ別の議論があったら、
それが優れているわけじゃないけど、それはそれで面白いなっと思ったまで。
>>777 日本風の、まあまあ仲良くしましょう理論かw
>>712 岩田強氏ではなく岩田弘氏? 世界資本主義論の。
>>779 そうだね、間違えた。
ごめんよ。
言い訳しとけば、あの小柄な体で豪快なところが「弘」と結びつかなくて「強」になっちゃったんだと思うw
>>778 それは表層だけの取り繕い(妥協¬=止揚)だから問題なわけで、
理論的に明確に統合する観点ね。
>>775 > 共産主義というのは、資本家による搾取をなくして、働者が労働によって創出した価値を自分たちのものとするための日々の行動のこと。
そのことは、資本家的生産様式と共産社会との混合経済段階が過渡的に成り立ちうる
という史観(仮定)と矛盾するんでしょうか?
>>782 まず、「共産社会」というのが何のことだか具体的に説明してくれ。
そうしないと話がかみ合わないよ。
784 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 15:43:19.65 0
>>754 一つの例として、「花は、花自身を否定して実になる」
この場合は「花」は定立命題であり、「花自身を否定」が、反定立命題となり、
そして、綜合命題が「実」となる。この場合の反定立命題(花自身を否定)は、廃棄されて
保存されることはない。
「花自身」を否定することにより、定立命題の「花」が「実」に反転している。
つまり、A(花)が非A(花の否定)の論理が働いている。
上記のようにアウフヘ−ベンは、「形式論理学」ではなく、 一種の「現象学的思考」
である為に、定立命題と反定立命題に限定された状態で、「現象学的思考」をするので
その思考する人間の知識・認識レベルの「主観(自己)」により、「合」としての結論が
導きかれることになる。
従って、その時代の状況、その人の地位、学識、私的利害意識により「合」としての結論は、
左右される。
又、定立命題と反定立命題という限定された「前提」とすることが、事象(問題等)の本質を
捉える「解体」を制限しているところに、ヘ−ゲル的弁証法の特徴がある。
>>784 「実」は「花でないもの」という定義を暗黙に含んでいるから、「花自身を否定」も保存されてるよ。
786 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 17:21:43.58 0
>>785 弁証法は、論理として定立命題を「花」とし、「花自身」を反定立命題として厳密に
設定する。だから、一般的な論理思考とは異なるので、そこを理解しなければならない。
この場合は、「花自身」は否定され、保存されないのがヘ−ゲルの「否定論理」となっている。
そして、「花は、花自身を否定して実となる」の「正(定立)」の“花”が、「合(綜合)」の“実”に
「転化」している。
>>786 横だけど
>花は、花自身を否定して実になる
なんてどっかで聞いたような言いかただけど、それ自体が間違ってるんじゃない?
まして
>定立命題を「花」とし、「花自身」を反定立命題として厳密に設定
なんかしないよ。
どこかからの引用だったら、読み違えてると思うよ。
>>786 そもそも、マルクスの「唯物」弁証法は、生物の進化や熱力学的現象をはじめとして自然界の諸事象が
弁証法「的」に推移していることから、これを現象の統一運動原理として社会学などにも適用できるはず
である、とする「世界観」だから、ヘーゲルの弁証法が例え論破されたとしてもまったく関係ないよ。
「それでも、自然は弁証法的に運動している」のだから。
>>788 >マルクスの「唯物」弁証法
どこにあるんだよ、こんなのw
791 :
考える名無しさん :2013/10/11(金) 20:06:01.84 0
>>787 それ自体が間違っていると言う、その理由を正、反、合、で
具体的に説明して。
>>790 マルクスが書いた著作の中で、どこにあるのか聞いてるんだが。
>>791 >正、反、合、で
なんて説明する必要はないよ。
花は花であって、自身を否定して実になるわけではない。
花は実の一部になるわけでもないし、実が花の弁証法的発展でもないw
雄蕊や雌蕊を花と言いたいのなら、その言語センスがおかしい。
どうせなら、フランスの誰かのように、人間の精子と卵子の弁証法的発展が人間だとしたらどうかw
>反定立命題(花自身を否定)は、廃棄されて保存されることはない。 >アウフヘ−ベンは、「形式論理学」ではなく、 一種の「現象学的思考」である >定立命題と反定立命題という限定された「前提」とすることが、事象(問題等) の本質を捉える「解体」を制限しているところに、ヘ−ゲル的弁証法の特徴がある。 「現象学的思考」「解体」って言ってるとことをみるとポモ構造主義の立場で 言ってるんだろうけど、あきらかにヘーゲルを理解できてないね。 だからポモって馬鹿にされる。
>>792 788 の「マルクス」は「マルクス主義・マルクス系諸思想」の意味。起源的にはエンゲルスの発想でマルクス
自身は自然科学の弁証法的把握は評価保留してるようだけど、レーニンあたりになるともうそれを当然の
前提として論を進めているので、マルクス系の公式的解釈のひとつと見なせるんじゃないかと思う。
>>794 そんないい加減な使い方しちゃいけないよ。
まして、「マルクス系の公式的解釈」をつかって、でたらめな弁証法並べればますますマルクスから遠くなる。
読んでもいないマルクスを自分勝手な「公式的解釈」で拡大して、それを批判してもまったく無意味だよ。
>>789 唯物弁証法ってよく使うよ。
特に、へーゲルの観念論的弁証法と区別するために。
>>795 「でたらめな弁証法並べれば」とか、
「読んでもいないマルクスを自分勝手な「公式的解釈」で拡大して」とか
抽象的な罵倒はもういいから具体的なところで語って欲しいね。
「公式的解釈」って言い方はあなたのような人が噛み付いてきやすい
表現だとは思うけど、794はあなたよりはマルクスを読んでると思うよ。
弁証法はヘーゲルにおいては無批判的だけど、フォイエルバッハにおいては批判的な実践となっていて、 文脈的には、マルクスはここでフォイエルバッハを評価しているっぽいけどなあ。 フォイエルバッハの批判的弁証法こそ重要だと。
799 :
797 :2013/10/11(金) 21:59:44.46 0
>>795 「公式的解釈」って、別に「日本共産党の解釈が公式」って意味じゃなくて、
ヘーゲルやマルクスを意図的に変形せずに著者の意図を素直に読み取ったら、
というニュアンスで言ってるんだと思うよ。
たまたま共産党系の研究者に素直なのが多く、他はポモ系だとか実存系だとか
新左翼系だとか外国勢力系だとか、あまりに変なのが多いから。
>>784 > 一つの例として、「花は、花自身を否定して実になる」
> この場合は「花」は定立命題であり、「花自身を否定」が、反定立命題となり、
> そして、綜合命題が「実」となる。この場合の反定立命題(花自身を否定)は、廃棄されて
> 保存されることはない。
そういう喩えや説明は、ヘーゲルの『エンチクロペティ』をざっと読んでも出てこないように思ったんですが、
同じ喩えや類似の説明がどこかにあったら、引用するかその場所を示していただきたいです。
それに、その説明だと形式論理学のそれとまったく変わらない理屈に終ってしまいませんかね?
なぜなら形式論理学的に見てもまったく矛盾のない説明になるそうで・・・
Aの否定がAでないもの、すなわちBになるというのは、あまりに素朴で、弁証法でもなんでもないような・・・
シルビオ・ゲゼル研究室 代表作「自然的経済秩序」1-0
http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo1-0-jp.html なぜマルクスの資本理論がプルードンの学説を追い出せ、社会主義を独裁制にできたの
だろうか。どうしてマルクスと彼の理論が世界のあらゆる新聞で語られるのか。マルク
ス主義の絶望とそのための無害性だという人がいる。ちょうど資本家がキリスト教の教
義を恐れないように、資本家は彼の理論を恐れない。むしろ、マルクスやキリストにつ
いておおっぴらに話すのは資本家のためになる。マルクスは資本家を決して破壊できな
いが、それは彼が資本の性質を誤解しているからだ。しかし、プルードンに注意しよう。
彼は徹底的に無視するに限る。妨害や擾乱、または中断なしに労働者が働ければ、資本
家は資本の供給過剰(商品の生産過剰と混乱しないように)ですぐに窒息するという彼
の主張は正当なものなので、彼は危険人物である。直ちに実行できるため、資本家の攻
撃のためのプルードンの提案は危険なものである。マルクスのプログラムは最新の機械
と道具を備えた現代の訓練された労働者の莫大な生産能力について語っている。マルク
スはこの莫大な生産能力で何も始められない。プルードンの手にかかるとこれは資本家
に対する武器となる。そのためプルードンを忘れてもらえるように、マルクスを喧伝せ
よ、と。
エンゲルスの自然弁証法の要旨は、けっきょく、事物の動態性の強調だよね? 事物を生態的(体系的)に見るばかりでなく、動態的(構造的)に見よ、ってことを論じている。 この構造的というのはレヴィ=ストロースの構造と同じ意味。
>>802 違います。
構造主義は限定された分野では有効ですが、
客観的存在や人間の意識の全体像や仕組みをとらえるにあたっては
事物の「発展法則」を見ないか、意図的に見ないようにするもので
しかありません。
わざわざ生態的(体系的)・動態的(構造的)という言葉を
つかって構造主義に引き寄せ変質させようとする意義はどこに?
「唯物弁証法」は知らんが「弁証法的唯物論」ならマルクスでもエンゲルスでもなくプレハーノフの言葉だったはず
805 :
がんばれじいさん :2013/10/12(土) 07:58:01.13 0
読売の橋本五郎も親分が元共産党員だけあって資本論が気になるのか(10・12読売朝刊) 熊野マルクスにも言及してやがる。 もっとも岡崎次郎の“美しい死”が言いたいことなのはよくわかる。 岡崎の「抑圧者としての向坂逸郎」。 これが言いたいのだな。 しかし本音をさぐれば上司である元共産党員の“美すい死”をこそ望んでいるのだろう。 まさか自分が岡崎のようにひっそりと消えてしまうとは思ってもみない(はずだ)。 橋本の「抑圧者としてのナベツネ」。 それはありえることなのか?
>>803 オーソドックスなマルクス主義は、事物の発展法則を、
法則をもつがゆえに一定の構造だと見なしているわけで、
構造主義の歴史主義的な立場の一つだと思うんですよ。
共時的な体系(システム)に対して、
歴史的な構造があるとする動態的モデルを採用している。
新古典派は共時的な体系内で完結するがちがちの
線形モデルを作ってしまう。構造を排除してしまうわけです。
レヴィ=ストロースやその賛同者たちは、意外とその構造を
ヘーゲルやマルクスの弁証法に依拠していると自称することもあるんです。
構造主義というのは、ヘーゲルに代表される歴史は人類の進歩の歴史であるとして、その各段階を地域的な状況から想定していることへの批判が始まりだろう。 レヴィ=ストロースは、いわゆる後進国というのは、西欧が先進であり、それに近づこうとしている後進なのではなく、それぞれがその歴史を持ち、その時代とその地域として独自性を持っているとした。 進歩としての歴史観のサルトルとの論争は有名だ。 「一般的なマルクス主義」は、歴史を進歩の過程としてとらえないと、その主張を組み立てることが難しい。 歴史の変化を人類の進歩の過程と見るのは、当時の西欧では普通の価値観だったと思う。 フーコーは、「知の考古学」でレヴィ=ストロース的価値観を学問一般の分野にまで押し広げて見せた。 また、それぞれの地域での状況を、進歩としての歴史の一コマではなく、時代の同時的な観念性から見ようとしたのがドゥルーズということになるのかも知れない。 一度価値観の転換が行われると、新しい価値観の中での歴史をどうとらえるのかが大きな問題となってくる。 いわゆる構造主義がその答えを出すのには、まだ時間がかかるんじゃないだろうか。
重箱の隅をつつくことではありますが、「進歩」というと人間の 価値判断が含まれているようなニュアンスになります。 歴史は、より高度に複雑なものへ、という「発展」であり、また、 人間の恣意的な価値判断とは別に客観的に存在するものです。 「進歩」という価値判断を置いてから主張を組み立てるようなものでは ありません。それでは逆立ちになってしまいます。 構造主義はあくまで個別科学としての「手法」であり、そのつどの 社会や歴史を自由に解釈して価値観を織り込んで記述するには有効な 手法の一つかもしれません。しかし、全ての歴史や全ての人間社会 に貫徹する「法則性」を"客観的に"分析したマルクスの功績とは 別次元のものとして区別するべきです。 いくら構造を分析したって、そこに発展法則を見るのでなければ、 単なる機械論的分析だけで終わってしまいますから。 ですから、「ヘーゲルやマルクスが指摘した法則性も結局は構造 なんだよ」というのは、都合のいい後だしジャンケンといわれても しかたありません。
単純に種として存続するだけなら、例えばゴキブリやシーラカンスのように、発展は必ずしも必要では ないけれども、界全体を満たすエネルギー連鎖は、例えば新世界の有袋類が旧世界の哺乳類と軌を 一にする進化を遂げたように、やはり発展の相にあるんじゃないかな。 西洋は、一番ハードな歴史を辿ったから (何度も絶滅や退化しかけてる)、そうした発展の相でもやは り先進的 (ほかの種もいずれは辿る道を真っ先に辿っている意味で) なのかもしれない。西洋をワン オブゼムと軽く見るのは、絶対視するのと同じくむしろかえってアンバランスな見方かもしれないよ。
体系と構造を分けて考えるのがレヴィ=ストロースの立場で、 ソシュールのいう共時的なものは体系です。 体系論(システム論)と構造論を区別する必要がありまs。 ソシュールはシステムという言い方をしていて、構造という概念を用いませんでした。 ソシュールのいう体系は共時的なもので、それぞれの地域、社会、時代によって 独自の差異化の関係を分析するためのモデルです。 レヴィ=ストロースはこの意味では構造という概念を用いません。 彼にいわせると、構造というのはソシュールのいう体系とは別の概念ということになります。 例えば、マルクスが原始共産制以降の人類史に階級闘争の通時性を見るとき、 そこにすなわち構造を見いだしているのです。
>>807 そうだとすると、自分はヘーゲル主義者だという批判を受けているんだと
レヴィ=ストロース自らが語っていたことの説明がつかないように思います。
彼自身、ヘーゲルと遠く隔たっているわけでないことを認めています。
と同時に、自らの議論を唯物論だとも称しているんです。
812 :
考える名無しさん :2013/10/13(日) 15:30:16.24 0
>>800 >>784 さんとは別の例えを述べると、 ヘ−ゲルの弁証法は、自己(主観)が異質な他者(客観)の
中で、いったん自己を見失い、その他者(客観)と和解しあうことによって、より大きな自己へと生成し
究極的(弁証法的展開)な絶対知へ至る。
つまり、定立(主観)の即自存在(肯定)→反定立(客観)の対自存在(否定)→綜合(否定の否定)の
思考過程となる。
この思考過程をさらに具体的に述べると、即自存在(正)を否定して、「反」としての対自存在(客観)となり、
さらに「反」である対自存在を否定して「合(否定の否定)」として高次の自己へと「生成」した自己存在(主観)
に至る。
ここで問題となるのは、対自存在(反)の「否定の否定」から、「合」の次元で何故、アウフヘ−ベン(現象化)
により「高次の自己生成」がされるかと言うことである。 「生成」される具体的な思考の現象化する仕組みが、
示されていない。
例えば、デカルトの「方法的懐疑(思考法)」のように、誰しもがある程度の知識を持っていれば理解できる
思考過程が、ヘ−ゲルの場合は思考法が記述されていない。否定されて、保存されていた即自と対自の本質が、
どのような現象化(アウフヘ−ベン)を経て、高められる(生起)のかと言う手順が最も重要なことと思う。
もう一つの留意点は、「否定の否定」により、高次の「自己」を生成するが、この「合」とは“主観的存在”であり、
その思考する人間の知識、精神現象学の知識のレベルにより「合」としての結論が導き出されることである。
つまり、その時代の情勢、その人の地位、学識、私的利害意識により、「合」としての結論が、その人の「主観」に左右
されることとなる。
「生成」される具体的な思考の現象化する仕組みが示されていない? 自然も思考もそうなってるから、としかいえないでしょ。 なぜ物体は等加速度で落下するのか? なぜ地球は存在するのか? 自然がそうなっているからでしょう。自然がそうやって客観的に 存在しているからでしょう。 その時代の情勢、その人の地位、学識、私的利害意識により、 「合」としての結論が、その人の「主観」に左右されるのは当たり前 でしょう。 個体としての個性はありますから。でもその個体の中でも ヘーゲルの言う法則性は当てはまるし、個体差を捨象しても同じく 当てはまります。 主観や固体差を強調することにどんな意味があるのか。 観念論的に考えすぎでは?
>>811 >自分はヘーゲル主義者だという批判を受けているんだと
>レヴィ=ストロース自らが語っていた
>自らの議論を唯物論だとも称している
ヘーゲルは観念がすべての頂点であり、その観念によってすべての歴史が作り上げられていくと考えた。
同じことだが、その頂点に向かって進歩していくのが人間の歴史であると考えた。
こういうところからも、ヘーゲルというのは徹底した観念論者であると同時に、現実は現実そのものとして見る、唯物論者と言ってもいいくらいの現実主義者でもあったことがわかる。
ヘーゲル主義者だという批判は知らないが、進歩としての歴史を否定しているところを、たんにマルクスを否定しているという意味でヘーゲル主義者と批判されただけなのかもしれない。
現実を現実のままに捉えようとするレヴィ=ストロースが自分を唯物論だといったとしても、違和感はない。
いずれにしても、そのエピソードの事実も背景も知らないので、確かなことはわからない。
自らを唯物論者だと名乗ることは簡単だ だが、科学的であるためには唯物論だけでは足りない 科学的であるためには唯物論+弁証法が必要なのだ 自然科学の発達自体がそのことを示している 唯物論+弁証法、これが無ければ観念論か機械論的唯物論になってしまうのだ
レヴィ=ストロースらに見られる構造主義は、案外、 オーソドックスなマルクス-エンゲルス主義的な面をもっている。 彼らが好んで原始共産的な残余を残している社会を分析対象にするのも、 そういう面のあらわれだと思います。 これがポスト構造主義になるとぜんぜん違ってきますね。 構造という概念、歴史的法則という概念を、とことん解体する ところまで思考実験をすすめる。
スレ違いのコピペする奴、うざい。迷惑。
アヌンナキ「中国の文化大革命こそ。マルクスイズム到来の灯火である アヌンナキ皇国
アヌンナキが 〜 キリストが〜 マルクスが〜 オリオンが〜 コンセプトが〜
821 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 15:06:28.95 0
>>812 >否定されて、保存されていた即自と対自の本質が、
どのような現象化(アウフヘ−ベン)を経て、高められる(生成)
のかと言う手順が最も重要なことである。
>ヘ−ゲル的弁証法の思考の基本としてあるのは、現象化(アウフヘ−ベン)
によって「高められる(生成)」ことですが、これ(弁証法)は、従来の西洋哲学の
「形式論理学」の同一原理「AはAである」又、矛盾原理(矛盾律)「Aは非Aでない」の
論理と異なっている。
弁証法のアウフヘ−ベン(現象化)は、「Aは非Aである」という論理なので、
一種の現象学的思考と考えられる。
「生起」という現象化(志向性の精神活動)の思考プロセス(手順)が、一般化
することが重要と私も思っている。
繰り返しになるがヘーゲルの弁証法は生物学をモデルを持つ。 ヘーゲルの自然哲学は例えば当時のホメオパシーなど雑多なものを含み、純粋主義的で ないところが興味深い。 ただし論理学的には矛盾を孕んでいる。 例えば論理学的には(フッサールも賞賛した)ボルツァーノがヘーゲルを批判している。 以下、山下正男『論理学史』(225頁)より 「(ボルツァーノは)例えばヘーゲルの好む表現 "運動とは質点Mが同じ瞬間に同じ場所mにあり, そして,ないことである"(大論理学邦訳岩波中79頁より)を論理学の自殺だときめつけ,運動はそ うした矛盾律を犯さなくてもつぎのように正しく把握できると主張した. "質点Mが一定の時間T に運動するとは,Mが同一の場所に静止するようなTの部分tは一つも存在しないということである".」 追記: マルクスが『資本論』を書いた時、ヘーゲルよりもアリストテレスを意識したかもしれないが、 アリストテレスにしても論理学と共に動物学(分類等)を研究していた。何が言いたいかというと 対象となる現実を持たないと学問も空虚になりがちだということだ。最近のマクロ経済学に その傾向があるのは危険な兆候だと思う。
答えは現実の中にあります。客観的実在そのものを素直に観察しましょう。 形式論理はある一定の範囲では正しいものです。ただし、自然の法則を 正しくとらようとすると形式論理では限界があるのです。例えば物体の 運動を形式論理で表そうとすると「そこにあって、そこに無い」という ”矛盾”として表現されるだけのことです。 自然科学の発達によって光は粒子であり波であることがわかりました。 つまり「有体物である」(粒子)と同時に「有体物ではない」(波=エネルギー) のです。これが自然の姿です。 形式論理学は正しい。ですが、客観的実在は形式論理学だけでは正しく とらえらることができません。 そこに弁証法的論理学が求められてくるというわけです。
個人的な考えではありますが、哲学の教師になるのでもない限り、 ヘーゲルを観念論的に読んで何になるのか、と思っています。 私にとっては、「世界はどのようになっているか、それを反映する 人間の意識はどのような関係にあるのか」だけが関心事であります。 ですから、ヘーゲル弁証法を「偽装した唯物論」として、その 唯物論的エッセンスのみを読みとるだけであります。 キリスト教的絶対精神だとかフッサールだとか、その他の観念論的部分や 文学的表現を味わうのはスルーかあとまわしでいいかと思っております。
825 :
考える名無しさん :2013/10/14(月) 18:23:45.87 0
ヘーゲルを読むべくライプニッツと格闘中
826 :
考える名無しさん :2013/10/15(火) 23:05:50.57 0
唯物論はヘ−ゲルの世界創造の原理と根拠を、コギトや神に見るドイツ観念論の体系を、 「転倒」させて、コギトや神にを置き換えた一元論であり、「Aは非Aである」の論理に よって論理構築が可能となっている。 つまり、アウフヘ−ベン(Aは非Aである=現象的思考)により、コギトと物質の「生成」が 可能となっている。 >823さんも述べているように客観的実在は、形式論理学と現象学的思考の両方で捉えられる ものであり、弁証法の基底としての「アウフヘ−ベン」の短所を克服(思考プロセス)して、一元論的な 唯物論の再構築が求められている。
827 :
考える名無しさん :2013/10/16(水) 15:29:57.12 0
>>826 (訂正)コギトや神に置き換えた一元論であり → 物質に置き換えた一元論であり
レヴィ=ストロースの場合、その物質が脳になっている。 構造主義を根拠づけるものがそもそも人間の脳の性質だというのが構造主義の仮説。
>>828 その話おもしろそう。
脳というものの扱いが唯物論なのか、観念論的なのか。
レヴィ=ストロースの構造主義は、ノーム・チョムスキーの生成文法とそう大きな差はないのかも。 どっちも人類の脳の性質からそれぞれの規則の体系を説明しようとする仮説にもとづいている。
デュメジルは、最終的には大脳生理学ですべて明らかになるだろう、と言っていたなあ
ペイントソフト的な色ドットのみ情報からドローソフト的なオブジェクト群への変換は、視覚神経自体で やってるらしいよ。
唯物論とか弁証法とか抜かしてるマルクス信者まだいるんだな
唯物論というのは、そこにあるものはそこにあると認めることで、弁証法というのは、ある事柄はその内部に自身を否定する要素を持つ、ということだろ? マルクスは、社会の発展というのが大きな歴史の中では経済の問題がその時代の性格を決めると考えた。 その歴史が資本主義で終わりになり、経済的な価値によらない新たな歴史が生まれることを期待した。 資本主義までが人類の前史であるという壮大な哲学だ。
挫折したのはスターリン式の「形而上学的唯物論」社会主義であって、実際のところ資本主義陣営でも 既存の「形而上学的唯物論」諸科学は時代遅れになりつつある。20 世紀はまさしく東西ともに形而上学 的唯物論の時代であって、それが完成し破綻した 21 世紀こそは「弁証法的唯物論」社会が到来する。
>>835 形而上学的って? これまた弁証法と同じくらい分かりにくい哲学の代表的用語が出てきた。
838 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 20:17:32.16 0
唯物論の概念は、デカルトの「心身二元論」から創出している。 つまり、「唯物論」は、この世はすべて物質で構成されており、 精神は、物質の属性であると言う論理であり、「物質」を基底した一元論である。 「心身二元論」の“精神”を基底とした「コギト」を“絶対知”して体系化したのが ヘ−ゲル観念論であり、 ヘ−ゲルの「コギト」をアウフヘ−ベンにより、「物質」に 生成したのが「弁証法的唯物論」である。
形而上学的唯物論は、弁証法的唯物論以前の科学的唯物論。世界をひとつの精密な機械と見る世界観。 自由資本主義陣営、特にアメリカの科学が基礎に持つ唯物論 (機械の作者=神とすれば、キリスト教と共存 できるため)。
唯物論というのは、あるものはそこにあると認めることだ。 地球がある、地球があって自然がある、自然があって人間がある、 人間の脳髄があって意識がある、と認めることだ。 客観的実在=物質が存在しているという客観的事実を認めることだ。 意識と物質の関係において物質がより規定的であることを認めるのが唯物論なのだ。 唯物論を否定するのは自然科学を否定することであり、オカルトや神秘主義を認めることだ。 弁証法というのは、客観的実在と意識の運動法則だ。 ヘーゲル、マルクスは物質の運動法則のみならず、意識と物質との間の弁証法的関係も解明した。 また、マルクスは、社会というものも自然と同じように法則性をもって 発展してきたこと、また、当然にこれからも法則性をもって発展していくことを解明したのだ。 その客観的な法則性(科学性)が空想的社会主義とは区別される所以である。 弁証法を否定するのは科学的態度を否定することであり、反科学主義・非合理主義を認めることなのだ。
841 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 22:46:14.50 0
おしいな。全然違う。
この点がわかっていないと構造主義やポパーの「科学哲学」に ころりと騙されてしまう。 いまどき実存主義やポモに騙される人間はさすがに少なくなって きているが、「科学的」を偽装した現代の観念論にはあっさりと 騙されてしまう人が多いのだ
843 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 23:36:23.37 0
弁証法は、正→反→合という「思考法」であり、否定論理とアウフヘ−べを 導入して、“生成”により、「合」の次元でより高次の「自己」を形成することである。 この「生成」が、「Aは非Aである」の論理であり、ヘ−ゲルの精神現象学的思考を基底 としている。
844 :
考える名無しさん :2013/10/18(金) 23:39:57.44 0
「思考法」というのは誤解が多い。「自己の形成」という言い方も観点論的である。 弁証法とは世界と意識の運動法則なのである。 世界が"弁証法的に"運動しているから、それを反映する 人間の意識も"弁証法的に"運動している、いうことなのである。 したがって、世界の姿を正しく捉えるには思考も"弁証法的に" するのがいいというだけなのであって、弁証法は単なる「方法」 ではない。 唯物論の立場にたって客観的実在と意識の関係においてとらえる ものべきなのである。
すべての物体は矛盾を内包しており、その矛盾を原動力に内発的に運動する、とするのが弁証法的唯物論。 物体は決して内発的に運動せず、運動はすべて外部からの力の与えによる、とするのが形而上学的唯物論。
847 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 00:47:50.33 O
けっきょくは実存主義が正解だとおもうよ。
>けっきょくは実存主義が正解だとおもうよ。 www
>>842 レヴィ=ストロースの構造主義とサルトルの実存主義は真っ向対立していたんじゃ?
ポパーまでもポモ呼ばわり?
>>840 マルクス主義の駄目なところがよくわかる文章だよね
どういうところが? 根拠もなく否定しても感情論にしかならないので。
> 唯物論を否定するのは自然科学を否定することであり、オカルトや神秘主義を認めることだ。 > 弁証法を否定するのは科学的態度を否定することであり、反科学主義・非合理主義を認めることなのだ。 この二つは悪しき教条主義の典型じゃん。まあ、唯物論はまだ許せるけど、いまどき > 弁証法というのは、客観的実在と意識の運動法則だ。 みたいなことを言い出したら、「たちの悪い宗教にひっかかったんだね可哀相に」としか 思われんよ。
むしろ「教条主義は何が何でも悪だ」という教条主義がマルクス主義者 や左翼の間に蔓延り過ぎてきたんだよ。 その結果、なんでもありな状況になったのは自由のように見えるが、 けっきょくポストモダンは観念論的自由だけを追求したので、虚無主義的になっている。
>>853 あなたの書き方が悪しき相対主義そのものに見えるんだけどw
もしかして悪しきなんとか主義のパロディでずっと書いているの?
>>854 煽りはいいから、哲学板のマルクススレらしく具体的に語ってくれよ。
このスレにかぎって一家言ある方は コテつけてほしいなあ 参考になるレスが多いんだけど 誰が誰だか錯綜してわからなくなるので
せめてIDが出たらねえ。書いている本人は自分と論争相手が区別できれば問題ないんだろうけど、 第三者が読むときの苦労をちょっとは考えてほしいわ。
858 :
834 :2013/10/19(土) 13:30:54.26 0
>>856 >>857 同意なので、自分の書いたレス番をコテにしておくよ。
論争には加わってないけど、巻き込まれないために。
アンカーもつけてくれると追いかけやすいな。
859 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 13:51:17.52 0
えーと、ヘーゲル−マルクス路線は完全に運休となりました。 現代に通用するのは、ニーチェ−サルトル路線であります。 ポモは焼き直しに過ぎません。デリダ−ドゥルーズ路線は意味ないです。
860 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 14:07:40.75 0
デカンショ・ヘーゲル・マルクスに価値などないのはなぜか。 直観認識力が弱いからである。推論の幅が狭いぜ、おい。ははははははははっはははあはははhh。 プラトン・アリストテレスにも及ばないわ。
861 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 14:24:19.40 0
まあ、ハンナ・アーレントやラカン、リチャード・ローティー、チョムスキーあたりは現代でも通用するね。
>>854 ともかく、「正しい教条主義」と「悪しき教条主義」の区別をしてみてくれないと
なんのことを言っているのかさっぱり分からないですよ。
863 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 15:42:35.57 0
たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま たけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやまたけはらはたけやま
864 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 15:58:01.03 P
教条主義などどうでもいいだろ 正しいか間違っているかそれだけだ それが科学ということだ 正しさにこだわるのは教条主義とは言わない
865 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 16:03:13.39 P
もう少しいえば思考のスタイルなどはどうでもいいことだと思う それは結局表現の差異にすぎないし、哲学にすぎない
866 :
弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/10/19(土) 18:03:35.65 0
>>859 後期サルトルは、マルキシズムを過信しすぎて、レヴィ=ストロースちゃんに、ダメージ食らったからなあ。
前期サルトルはまさに、神7の一人なんじゃないかな。
867 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 18:12:34.05 0
>>852 弁証法は、「二項対立的」に定立と反定立を前提とするが、相対主義(ポストモダン)と
異なるところは、否定原理を導入していないところです。
弁証法の「中心的概念」となる「アウフヘ−ベン」は、ヘ−ゲルが創始した「精神現象学的思考」
であり、「Aは非Aである」の論理が基底となっている。
この「Aは非Aである」の論理は、ヘ−ゲルの「精神現象学」から始まり、フッサ−ルの現象学、
そして、ハイデガ−、サルトル、メルロ=ポンティと引き継がれ、ポストモダンのデリダ、ドゥル−ズ
に続く現象学的な哲学の流れへと続いて行く。
マルクスの弁証法的唯物論の理論的構築の原動力となった思考が、弁証法の「アウフヘ−ベン」であり、
この「アウフヘ−ベン」の“生成”が、「Aは非Aである」という「現象学的思考」であり、実はマルクス理論の
深いところで、現代の現象学と連関を持っていることが分かる。
868 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 19:48:31.15 0
>>867 訂正 否定原理を導入していない → 否定原理を導入している
ヘーゲルの「精神現象学」とフッサール以降のいわゆる「現象学」は何のつながりもないよ。 後者の原理はエポケーすなわち「判断保留」による徹底自己観察であって、アウフヘーベンとは別物。
870 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 20:40:43.11 0
マルクスなんて、デリダからしたら幼稚。てか、論破されたし。
871 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 21:00:49.59 P
デリダ主義なんてものが生まれるとは思えんw
872 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 21:24:18.41 P
>>867 否定が悪いとは言えないのでは?
価値観の問題になるけど
>>867 ヘーゲルの「精神現象学」とフッサール以降のいわゆる「現象学」は何のつながりもないよ。
現象学という言葉にとらわれて両者が同じもの勘違いしているのでは。
874 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 23:30:57.78 0
>>869 一概にそうとは言えないと思う。
「現象学」の論理は、「Aは非Aである」の理論であり、形式論理学とは相反する理論である。
アウフヘ−ベンでの「生成」は、同じ「Aは非Aである」の理論を基底としている。
ヘ−ゲルの即自存在(主観)と対自存在(客観)の否定によって即自存在と対自存在の「本質」
が保存され、「合」の次元で生成(現象化)により「再構築(綜合)」される。
ヘ−ゲルの「精神現象学」では、この「生成(現象化)」については詳しく述べられていないが、
この一連の思考過程の流れは、無視することは出来ない。
「Aは非Aである」が好きだなあw ヘーゲルは神秘的な直感のようなものを批判しているんだが。
876 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 10:03:00.97 O
直感認識力のないやつは、ファイヤアーベントに論破される
877 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 10:49:53.05 0
>>875 アウフヘ−ベンの「生成」という「現象化」をどの様に理解しているのでしょう?
>>874 フッサールの現象学は、形式論理学をも含めた諸学を基礎付ける原理の探求だから、相反するはずがないのだけど。
>>877 てゆーか、弁証法は思考の方法・テクニックだという前提に立ってるから
いつまでもそんなことにこだわってるのかな?
そんな気がしてきた。
880 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 17:48:24.61 0
>>878 「現象学」と「形式論理学」が根本的に異なるところを以下に述べると、
形式論理学は、「前提→推論→結論」の思考過程に於いて、必ず「前提」を必要とする。
それに対して、現象学は、「前提」を必要としない。この「現象学」の前提を必要としない
思考過程が、「Aは非Aである」という論理を可能としている。
881 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 18:10:14.13 0
>>877 ヘ−ゲルに於けるアウフヘ−ベンの「生成」は、否定された「即自存在」と
「対自存在」の“本質”であり、この「本質」は前提ではない。従って、
この「本質」の現象化は、現象学の「本質観取」として捉えられるものと思う。
882 :
考える名無しさん :2013/10/20(日) 20:35:38.71 0
すべて哲学者は腹ぺこでなければならない カール・ハインリッヒ・マルクス
ヘーゲルの「精神現象学」とフッサール以降のいわゆる「現象学」は何のつながりもないよ。
フッサールやハイデガーのヘーゲル『精神現象学』評価はどうだったの?
問題は、フッサール現象学におけるフレーゲのような存在がマルクス主義及びマルクス経済学に はいなかった、ということだと思う。 宇野弘蔵(&その後継者としての柄谷行人)やカレツキ(=近代経済学との唯一の架け橋)の考察は 今でも重要だとは思うが… 「最後の鐘が鳴る」などというのはプルードン主義者から見たら神秘主義でしかない。 ヘーゲルやハイデガーが神秘主義に半部浸かりながらも偉そうにできたのは、切り札としてのギリシア哲学を知っていたから。 (ちなみにハイデガーはヘーゲルの時間概念を通俗的だと批判しながらも、隠れギリシア哲学史 たる「精神現象学」を受け継いでいる…) そしてこの場合、マルクス主義者にとっての「ギリシア」(=切り札)が「(ヘーゲル)弁証法」なのだ。
886 :
考える名無しさん :2013/10/21(月) 21:39:04.34 0
まあマルクスを本当に理解するには哲学ばかりではなくあらゆる学問をやらなければだめだと思うw マルクスを理解できればプルードンの利潤の説明や交換銀行の間違いがわかる プルードンの経済分析は甘すぎる マルクスによってプルードンは大きく乗り越えられた これは大前提として認めなければならない
このスレでもよくプルードンのことが話題になるけど、翻訳されているものが少ない。 英訳のものなら無料で読めるけど、自分の英語力ではひとつ読むだけでもいつになるかわからない。 といって、解説ものではちょっと。 どうしよう?
888 :
考える名無しさん :2013/10/21(月) 22:01:56.59 0
プルードンはあえていま読む必要はない マルクスの偉大なところは資本主義の批判的分析をやったことだ 弁証法などはどうでもいい 未来のことはわかるはずがない プルードンは国家の批判のために資本主義の批判をおろそかにしている 最近の日本の左翼批評家たちも総じてそうだ 基本的にあらゆる思想家が国家論を論じている だからプルードン的なもの(反国家思想)は溢れかえっているのであえて読む必要はない
>このスレでもよくプルードンのことが話題になるけど このスレでプルードンのことを話題にしているのはプルードンおっさん一人だけだよ
プルードンを実際に読んでいるというより柄谷さんなどからの孫参照っぽい。
宇野弘蔵(&その後継者としての柄谷行人)、っておもろいね ポモ柄谷の関連で宇野の胡散臭さがよくわかる
892 :
考える名無しさん :2013/10/22(火) 17:57:02.45 0
資本論の基底としてあるのが、弁証法的唯物論(=唯物史観)なのだから、資本論が これからの現代社会にどの様に受け入れられ、又、どの様に「再構築」されていくのか、 その長所と短所を明確にしていくことは、現代の資本主義社会に対して重要な意味を持っている。 この観点から、弁証法的唯物論の理論構築を可能とした、弁証法の「生成の論理」は更に論究される ものと思う。
麺はもっちりプルプルうどん
>>630 漫画とか超訳ものとか、そんなのでマルクス読もうとはなにごとか!
って怒るひともいそうだなw 柄谷はマルキシズムの解説者としては
論外という意見もあったが、かならずしもそういう評価ばかりじゃないって
ことだね。
>>623 ん〜まあ、交換価値とか労働価値ってのは、社会体制や生産体制の
変化によって、時代ごとにかわるものだろうが、使用価値ってのは
基本、どんな社会でもかわらんとおもうんだな。封建主義社会だろうと
資本主義社会だろうと共産主義社会だろうと。 どんな社会でもコメは
基本食べ物であり、酒は飲むものであり、ツボは貯蔵するものであり
以下同様と。我々はいろいろな商品、生産物の使用をとおして、使用価値の
効用を最大化することによって幸福になるわけだろう。社会に十分な
生産力があって、生産物、商品の使用価値の効用が社会全体で
最大になったとき、われわれの社会は幸福を達成するということだろう。
資本主義体制は生産力の向上にみあった効用の最大化を達成できない
だから資本主義体制はいずれいきづまり、共産主義、社会主義社会が
到来するって、俺はそういう話だと理解してるんだがね。
>>632 >一度自分の利益を忘れて日々の生活を客観的に見たり、報道に目を
>通したりするだけで、たとえば「資本論」を理解することができる。
新聞報道みれば、世界的な経済危機がおきてるとか、貧富の差が
拡大してるとか、そういうような問題があるのは理解できるな。
しかしまあ、そういうような問題が存在すると認識するには
別に資本論をしらなくても理解は可能ではないかとも思われるねw
貧富の差は問題であるというのは、昔からいろんな思想家が
いってることであるからね。
ポパーの名前が出たのに、誰もユートピア社会工学とピースミール 社会工学の違いについて述べてないのにびっくり。 ポパーはマルクスをユートピア社会工学者の列にいれて批判 したというのに。まあもっともポパーのいうユートピア社会工学は 「急進的」、ピースミール工学は「漸進的」といいかえれば それで概念を定義したことになってしまうので、理論的枠組みと しては、あまりに大雑把すぎないかという疑念はわくね。 ユートピア社会工学の祖として、ポパーはプラトンをあげ、無理やり プラトンとマルクスをひとつに伝統に投げ入れて、共産主義批判 やったのだね。ま〜冷戦当時に反共産主義のための思想的 防波堤としてはそれで十分だったんだろう。 資本主義の申し子である投資家ジョージ・ソロスが、ポパーから 思想的影響うけたのは有名な話だな。 ポパーについてちょっと 調べたら、今の日銀総裁の黒田もポパーから多大な影響うけてるとか。 反マルクス主義の思想的防波堤としてのポパーの影響力は いまだに多大というべきか。
プルードンは貧困の哲学が光文社古典新訳文庫から出る予定だから、もう少し待とう
898 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 11:58:14.34 P
じゃあプルードン再批判が必要だな ポパーも完膚なきまで批判せねば イデオロギー闘争は革命に先行する
プルードンに関しては、平凡社ライブラリーから『貧困の哲学〜経済的諸矛盾の体系』(本邦初訳) がもうすぐ出るはず。今までは欠席裁判だった。 日本でも最近、ナポレオン3世の再検証は進んでいるようだが、プルードンを弾圧したことは あまり強調されない(プルードンの交換銀行もナポレオン3世に潰された)。 実践を重視するのであればゲゼルの再評価の方が切迫している課題かもしれないが、、、、 マルクスに関しては大月onlineで『資本論』のテクストデータが会員向けに今年中に公開されるはず。 これでもう少し具体的な議論が出来るようになるのでは?と期待している。
>>900 僕みたいに外国語に弱い人間にとっては楽しみだね。
ところで、
>>897 では光文社古典新訳文庫とあるけど、どちらかの間違いか、それとも両方から出るのかな?
903 :
考える名無しさん :2013/10/23(水) 14:28:26.55 P
マルクスの『貧困の哲学』との合本で出版するべきだろう
>>902 ありがとう。
光文社というのは勘違いかな、それとも別の人が出すのかな?
>>903 ついでにマルクスを読んだプルードンの書き込みもつけて欲しいね。
それで二人の趣旨が大体はっきりするんじゃないかな?
分業社会における無政府主義は、生産者の絶対権力化に帰結する。 子どもが生まれて食料がより多く必要になったとして、増産の要請は生産者にとっての不自由となるし、 それをおもんばかって子を生まないようにするのは消費者の不自由となる。ゆえに、自由は生産者の可 能限界枠内に常に制約され、これは生産者が善意の人であっても変わらない。つまり、生産者の善悪に 関係なく、生産者は事実上の絶対権力と化す。
あまりのお粗末さゆえに保守層にさえ見放されたポパー
>>896 ポパーはマルクスを本当に読んだのだろうか?
何をもって漸進に対する急進のほうにマルクスが属すると解釈したのだろうか?
例えば、比較的晩年のゴータ綱領批判では明らかに共産社会と資本家社会との混合経済が
共産社会の未発達な段階にあることを認める見解をマルクスは述べているわけで、
これは一気に共産社会が実現するという発想とは千里の隔たりがある考えだとしか思えない。
『資本論』24章における「・・・最期の鐘が鳴る。収奪者が収奪される」という箇所とて
急進的な革命によるものだという言及は結局ない。
たしかに、マルクスとエンゲルスが『共産主義宣言』を発表した1848年ごろの時代は
まさに欧州における革命頻発の時代だったし、その後だって、1968年、
そして2011年の中東における急進的な革命のような歴史的政変のような出来事は起きている。
しかしマルクスとエンゲルスがこうした革命になんらかの意義を見いだしていたのはある時期までで、
その後、革命運動から距離を置いて資本論の執筆に没頭していったマルクスにとっては
もはや陳腐な出来事になってしまったようさえ思える。
これらは資本主義社会のなんらかの矛盾の爆発、階級間闘争、激動を意味するとしても、
それがそのまま共産社会革命の実現そのものを意味してはいない。
マルクスが晩年に展望していたのは「長〜い移行革命」であって、
プロレタリアート独裁が実現したのちも資本主義との共存が続く歴史発展の過程だった。
とはいえ、近年の世界的経済状況を見ると、古典的な「困窮化仮説」も棄てたものではない
という気がしてくる。しかしこれさえ「急進的な」革命の必然性を指しているわけではない。
>>899 >1961 年の10 月にチュービンゲンで開催されたドイツ社会学会の研究集会に,ポパーは
>ゲストとして招かれ,「社会科学の論理」と題された講演を行なった。これに対してアドルノは,
>「社会科学の論理に寄せて」というタイトルで応答し,その後それぞれしばらく時をおいて
>アドルノ側のハーバーマス,ポパー側のH・アルバートおよびH・ピロートが議論を引きとる
>形で論戦を交わしている。アドルノによる長文の「序文」が付されて『ドイツ社会学における
>実証主義論争』という書物が出版されたのは,最初の研究集会から八年後の1969 年であった。
>本稿では,必ずしもそこでは議論がうまくかみ合っているとも,そのなかから双方に
>とって建設的な成果が生まれたとも言いがたい論争そのものに立ち入ることは控え,この論争
>のなかでアドルノが示した批判理論の要点のみに照準を合わせるために論争に関連する
>アドルノの論考を見てみることとする(25)。
ポパーとアドルノは論争はやったが、その論争は必ずしも噛み合ってたとはいえず
あんまり激しくもりあがらず、むしろ失望する結果だった、などと論争は評価されたと
いうね。 「社会科学の論理」って読んでみたけど、フランクフルト学派の文章って
なんであんなにわかりにくいのか。翻訳でもポパーのいってることはわかるけど
フランクフルト学派はたぶん原文よんでも、なにいってるのかわかんないだろうよw
それだけで俺はポパーのほうに軍配あげるね。まあ、フランクフルト学派が駄目
だからって、ただちにマルクスが駄目とはいえないわけだけどw アドルノ自身
フランクフルト学派はヘーゲル左派に後退してるって、ポパーとの論争に関連した
質疑応答のなかでいってるし。
>>908 ポパーはマルクスのテキストを引用して分析したりはしてないから
どこまでポパーがマルクスをどこまで読んでたかはしらないね。
ポパーはマルクス主義を「歴史主義」としてとらえて、その貧困を
指摘するというやりかたでも批判してるので、ポパーのマルクス観を
精査するにあたっては、「歴史主義」なるものの内実を調べることも
必要だろう。
「歴史主義」というのは、大雑把にいえば歴史は必然的なものだと
いう話になるわけだな。歴史目的論、テレオロジーの一種であると。
「歴史主義」の批判によれば、スパンが長かろうと短かろうと
将来の歴史が必然性をもって到来するという考え方自体が間違いと
そうなるわけだねw
911 :
考える名無しさん :2013/10/24(木) 08:48:35.63 0
>>910 歴史主義という言葉は非常に多様な意味をもっていて一筋縄にはいかないけれども、
歴史主義といえば近年の思想潮流では歴史相対主義を意味するのが普通だよね?
> 「歴史主義」というのは、大雑把にいえば歴史は必然的なものだと
> いう話になるわけだな。歴史目的論、テレオロジーの一種であると。
その歴史主義なるものはむしろポストモダニズム的な(?)歴史相対主義とは
大きく対立する面をもってくるのではないかと思う。
1. 歴史相対主義は近代以降の進歩史観(啓蒙主義的進歩史観)を疑う。
2. 西欧の社会に起こった近代化を特殊化し、人類の普遍的発展法則と見る近代史観を疑う。
3. したがって産業革命や資本主義化といった西欧に起こった出来事を
世界のすべての人々が遅かれ早かれ経験するに違いないとする歴史必然史観にも懐疑的。
つまりそれは結局、近代化の普遍性を疑う考え方になってくるわけです。
近代の啓蒙主義以降の史観というのは、西欧で起こった歴史的な出来事(近代化)が
世界のすべての地域において遅かれ早かれ起こることで、それが必然だと見なしがちで
あったことからすると、ポパーはこういう考え方に根本的に懐疑的なんだろうか?
そういう疑問が浮かぶ。ポパーとポストモダニズム論者(フーコーら?)とは意外と近い?
912 :
考える名無しさん :2013/10/24(木) 09:01:55.55 0
ご存知のように、ロシア革命以前にロシアの共に社会主義者であるマルキストと ナロードニキの間で論争があったんですよね。 マルキストを代表するプラハーノフは、 ロシアは遅ればせながらも西洋のような資本主義化の道を免れないと考えたのに対し、 ナロードニキのほうはロシアの資本主義化は無理だと考えた。 非常におおざっぱにいえば、この史観をめぐる論争だったと思います。 マルクス主義は啓蒙思想以来の歴史必然史観をとったが、ナロードニキはそれを否定した。 レーニンが武力蜂起せず、選挙の結果を尊重すれば、 このナロードニキの系譜を受け継ぐエスエル党がソヴィエト連邦の政権を握っていた。 マルクス主義は当時においては西欧社会において非常にオーソドックスな史観を 持っていたにすぎないわけです。今日においてもそうでしょう? 世界のすべての国は、遅ればせながら西欧社会に向かっているという歴史必然史観を 信じている人々が圧倒的多数じゃないですか?
ポパーはおそらくマルクスを理解できてないよ 弁証法の表現が理解できなかったからね だから、ポパーはもっぱら、マルクスではなくマルクス主義者への批判をよくしてる ポパーは10代の頃、共産党の活動に参加していたから、 その頃のリーダーの弁舌への批判がメインだろう 一番の批判は道徳批判 「今、資本主義を打倒するための犠牲は、将来資本主義が犠牲にする人よりは少ない。 だから、革命のために人が死んでもそれは結果的に良いことだ」 みたいな弁舌がポパーが共産党と袂を分かった原因 「人が死んで、その言いざまはなんだ」と思ったんでしょ ポパーは道徳的には幼稚だから。 で、マルクスを批判しようとして歴史の決定性を批判したけど これを「歴史主義」と呼んだのもミス 別の意味の「歴史主義」って言葉がすでにあった 以降はマルクスについてあまり語ってない 「マルクスの言うことはもっともだけど、マルクス主義者の言い分は。。。」ぐらいのことばかり ポパーの話題が出たので顔だしました ポパーならなんでも聞いて
914 :
考える名無しさん :2013/10/24(木) 12:51:06.84 0
講談社選書メチエの西洋哲学史の第3巻 あんまり期待せずに読んだがめっさ面白かった。
915 :
考える名無しさん :2013/10/24(木) 16:32:51.32 P
アフリカにある資本制経済が浸透していない社会でも貨幣経済の発生とともに資本の内部に取り込まれて行くだろう 実際市場は世界のあらゆる地域を徐々に取り込んできたわけだし マルクスの歴史分析は西洋中心主義というよりも、科学的ということだと思う だから市場の論理が侵略できないような聖域があるという発想はあまりにもナイーブかと 実際に西洋から発生したモダニズムが世界的拡大を示しているのが現代なわけだし、それを西洋中心史観と批判するのは簡単なことだけど、それでは何ら有効な対抗策を見出せないと思う
今は国家を超越したグローバル企業による帝国主義もとい帝社主義時代か。 それなら国内革命じゃなくて社内革命? 生産手段は情報だから共知主義とか? 社内情報のリークという無企業主義な情報テロ? 企業内構造の分析による、社畜化搾取システム生成と維持の仕組みを暴くのが先か。 企業史的唯物論の解明が急がれるところ。
企業の取引規模が増大すると、知的分業段階、すなわち官僚的組織へと移行する。 知性は分業できるが、責任は分業できない。 また、情緒には集団的・動物的情緒と個人的・人間的情緒があり、後者は分業できない。 このため、知的分業では責任と人間的情緒が疎外される。 グローバル企業は、そのグローバル展開によって、規模にかかわらず知的分業段階へ移行する。 ゆえに、グローバル企業では必ず責任と人間的情緒が疎外される。
918 :
考える名無しさん :2013/10/25(金) 12:00:28.52 0
オーソドックスなマルクス主義への批判として 1. 西洋中心主義史観 2. 社会ダーウィニズム 3. 計画経済、設計主義 4. ユートピアにズム 5. キリスト教の焼き直し ....
>>911 >その歴史主義なるものはむしろポストモダニズム的な(?)
>歴史相対主義とは大きく対立する面をもってくるのでは
>ないかと思う。
これはそのとおりだな。
>ポパーとポストモダニズム論者(フーコーら?)とは意外と近い?
これは違うとおもうなぁ。ポストモダニズム論者は「真理」概念
それ自体を攻撃するが、ポパー自身は「真理」概念をむしろ
擁護してる側だな。「社会学の論理」における討議においても
社会人類学者の文化相対主義が、真摯な討議者による科学的
討議を台無しにした例をあげて、社会科学における文化相対主義を
攻撃してたしね。そういう文化相対主義というのは、大陸哲学の
社会科学にもたらした悪影響であると述べてるね。大陸哲学者の
例として、ニーチェとジュリアン・バンダをあげていたな。
>>912 >世界のすべての国は、遅ればせながら西欧社会に向かっているという
>歴史必然史観を信じている人々が圧倒的多数じゃないですか?
そういう歴史観をもっていたのは西欧社会に多かったが、そういう
歴史観をもっていたのは必ずしもマルクス主義者ばかりではないね。
たとえば、フランシス・フクヤマは、西欧の自由民主主義思想が最終的に
勝利して、ライバルとなるほかの思想をすべて打ち負かし、歴史を
終わらせたと、かつて主張したね。彼の考え方によれば、世界全体が
欧米社会をモデルにした体制へと徐々にむかっているので、共産主義
体制は、すでに欧米によって打ち負かされたのだから、西欧社会を
モデルにした体制に世界がむかうのが必然だとしても、既に打ち負かされた
共産主義思想がでる幕というのは、もはやないということになるw
こういう考え方というのは、トーマス・フリードマンの「レクサスとオリーブの木」
とか、バーバーの「ジハード対マックワールド」にも見られるね。著者は
どちらもグローバリストでマルクス主義者ではないね。
まあ、フクヤマも最近は考え方を修正してるようではあるね。 フクヤマへの批判で、もっとも大きな議論をよんだものは マルクス主義者の批判ではなくて、サミュエル・ハンチントンの 批判であるね。「文明の衝突」ってやつ。すべての世界が 西欧をモデルにしていくかというと、現在の世界は必ずしも そうなってなくて、イスラム世界の復興など、世界が西欧化して いくのは必然というテーゼに対する反証ではないかって 議論ね。まあ、これらの議論にケリがついていないということは つまり歴史がいまだ終わってないということだろう。そして歴史が 終わってないのなら、世界が西欧化していくのは必然という テーゼも証明されてるとはいえないということだな。 マルクスの資本論よむと、社会の事例として挙げられてるのが ほとんど、イギリスの資本家、労働者の例であるね。大英帝国が 当時における最も先端的、文明的な帝国であったのだから これは当然であるが。マルクスがみてた世界はアメリカ大陸の 資本主義発展、オーストラリアへの入植などによって、世界が 大英帝国の資本主義的支配にもとに一体化していく世界で あって、現在のように多極的しゆく世界ではない、ということは いえる。これはおそらくマルクスの理論を歴史的限界を示している といえよう。
923 :
考える名無しさん :2013/10/25(金) 14:09:04.07 P
多極化なんてバカなこと言うなよ 今はグローバリゼーションの時代だろ お前のパソコンだってwindowsやmacだろうが マルクスに限界はないよ
>>923 ずっとwindows一極支配がつづくのかと思いきや、アンドロイド
携帯やタブレットの普及で、ウィンドウズの売上だいぶ落ちた
っていうし、どこから風穴があくかってわかんないよね。
しかしまあ、ほかの哲学者や思想家は、みな時代に制約された 歴史的限界を背負っているが、マルクスだけは例外だっていうん かなぁ。 それはもうマルクスへの信仰といったほうがいいなぁ。 まあ人がどういう信仰もとうと、そのひとの勝手であって、他人の 信仰にとやかくいう趣味はおれにはないので、だからマルクスには 絶対時代的制約なんてないんだ!って主張するのもそりゃ 勝手だろうがねw しかしまあ、思想上の一貫性というのは、そこで 既に消滅しているね。
>>925 マルクスは資本主義を正確に分析したんだから、資本主義が続く限り有効性は失わないだろ?
>>926 マルクスに限界があるかないかという話はする必要がないってか。
まあ、過去の思想家の思想に限界があったして、それは必ずしも
その思想家の思想はもはや価値がなくなったということは意味
しないので、何かしらの有効性はあるといえるだろうなぁ。
その思想家に歴史的限界があるかないかという話は別にして。
>>927 限界があっても無くても、その境界を提示しなければ意味無いだろ?
無い境界を提示するのは無理だけどw
このスレで初めてマルクスを擁護するが、、、、 一応マルクスは、スミスやリカードやミルやリービッヒ(農学)等、当時の学問 の研究成果を念頭に入れている。 特にケネーやリカードやプルードンを剽窃した経済学は当時の学問を総合した 成果と言っていい。 マルクスは批判しながらパクるのがうまいのだ。 後世の人は批判だけを読むから、例えばデューリング(エンゲルスはこの人を 批判しつつその体系性をパクった)のように抹殺される。 その辺のメカニズム(精神分析的なそれ)を頭に入れて読むとマルクスの テクストは面白くなる。 逆に言うとそこがわからないと読む意味がない。
>>928 境界? 思想家の思想をさがせば物理的な境界線がみつかる
などと考えるのは、思想というものの性質を理解してないだけだなw
マルクスが19世紀に生まれたということを示すだけで、19世紀の
時代制約を背負っているということは、時代的制約なるものの
定義上、それが示されたことになるわけでね。マルクスの資本論に
あげられてるのは、もっぱら大英帝国における資本と労働の歴史
であるな。マルクスは大英帝国博物館にこもって、ひたすら勉強
しつづけたというのだから、それも当然だが。大英帝国は第二次
大戦を境に崩壊するわけで、大英帝国の歴史的限界と、マルクスの
思想的制約というのは、きっと同じものだと俺は思うね。
>>930 世紀というものを境界にする理由はあるの?
その時代の制約、と言いたいだけなら、上部構造は歴史の制約の下にある、とみなしたマルクスそのものだけど?
大英帝国の拡大と縮小が、どうマルクスの資本主義の分析に関係するの?
あなたがどう思おうと自由なことは、もちろんだけど。
>>931 そりゃ〜大英帝国の拡大とともに、世界中に資本主義のシステムが
ひろまったわけだからね。資本主義がもっとも発達したイギリスで
プロレタリアートもまた発生したわけだね。 だからマルクスは
先進資本主義国におけるプロレが団結して、革命をなしとげるだろうと
予測したが、実際には大英帝国の崩壊は、プロレの団結によると
いうよりは、複数のナショナル・ステイツの分離独立というかたちを
とったので、あれをプロレの勝利というわけにはいかないだろうと
そういうことがいいたいのさ。ソ連がマルクスの理想とした労働者の
支配する国家ではなかった、ということは言うまでもないとしてさ。
マルクスの理想とする共産社会は、マルクス自身が資本主義発展の極限に現われると予言してる。 と言うことは、そうなる以前の革命運動はすべて別目的。具体的には、労働者の労働者による労働 者のための国家資本主義 (国家=唯一の資本家) 体制、つまりは労働者を最大限に保護する資本主 義社会の形成。 共産主義エリートによるプロレタリア独裁は形而上学的唯物論に基づく構造だが、むしろそれこそ完 全に科学化された資本主義の基盤と予見して意図的に採用したものと思われ。
>>913 >ポパーは10代の頃、共産党の活動に参加していたから
これは知らなかったわ。ポパーはマルクス主義を、もっぱら
当時のマルクス主義者の宣伝を通じてしったわけだね。
んで、マルクス主義者が宣伝文書で、当時の世界における
事件をすべてマルクス主義の理論が正しい証拠であるという
風にいっていて、それに疑問をいだいたことが、後年の反証
可能性理論に結実したってわけだろうな。
まあ、当時のインテリはだいたいマルクス主義に傾倒したってね。
同時代の歴史学者のホブズボウムもイギリス共産党にはいってたと
いうし。 ポスト・モダンの哲学者、リオタールも共産党にはいってた
たんだが、プロレタリアートの連帯の兆しがどうしても見当たらない
ってんで、共産主義から転向したんだってね。
もっともポパーの「反証可能性」についての議論は、もっぱら 論理実証主義の方面でおこなわれていて、歴史哲学においては ほとんど論じられていないようではあるが。
>>929 >スミスやリカードやミル
当時の世界で経済学が一番進歩してたのは
やっぱりイギリスだったんだね〜
937 :
考える名無しさん :2013/10/25(金) 19:12:26.30 P
まあ結論としては共産社会が実現するまでマルクスの理論は有効なわけだな当然だが
939 :
911 :2013/10/25(金) 20:15:52.43 0
>>919 >>911 で何を言いたかったかというと、
マルクス主義をその意味での歴史必然法則化主義だと批判するポパー自身に
自己矛盾がありはしないかということ。
歴史必然主義は、歴史を動かす普遍的な法則がそれこそ歴史を貫く真理として
確固としてあるんだとする仮説の上に暗黙のうちに立っている。
歴史はこの普遍的な法則の上に乗っかていて、その法則によって普段に決定づけられ、
操られ、その法則さえ明らかにすれば、完全に予測可能な必然的未来へと我々を導くことになる。
それに対して歴史相対主義は、歴史を動かす法則とか真理とか言ったものも、
歴史的に生成され歴史的に盛衰する歴史の産物なんだとする仮説の上に立っている。
歴史を動かす法則が歴史的に変動する可能性を無視できないというメタ変数が新たに加わるので、
事態はより複雑になり、未来の予測不可能性がそれだけ高いことを認めざるをえなくなる。
そこを強調したのが、
歴史は非決定的だという原理だけが唯一の普遍原理であるような未来像を描くポストモダン的史観だ。
ポパーはマルクス主義を前者だと評価している。これが一面的な見方だとしても、
ポパーはそう評価して批判するかぎり、自らはその外にいると自負しているんだろう。果たしてそうだろうか?
940 :
911 :2013/10/25(金) 20:32:11.56 0
>>921 そのとおり。
そうだとすると、ポパーは歴史主義としてフランシス・フクヤマや
トーマス・フリードマンらもマルクス主義に対するのと同様に批判する必要がある。
彼らの評価が意味を持つのはせいぜい現時点においてであって、
そのまた未来にマルクスの仮説のほうに軍配があがる可能性を否定できないはずだ。
彼らはちょうど日本がバブルの時代に持て囃されたが、
第二次大戦後、世界資本主義が完全に克服したように思われたデフレーションの危機に
資本主義の優等生の一人であった日本(資本主義の黄金期に最も経済成長を果たした日本)が
長期にわたって悩まされるようになった。
ちなみにそれに次ぐ経済成長を果たしたのは韓国や今の中国を除けば意外にもソ連だった。
経済協力開発機構はその報告書でOECD諸国で雇用の不安定化が起こっていることを
何度も問題にし分析している。
彼らの分析では、雇用に対するグローバル化の影響はほとんどなく、
原因として考えられるのは産業構造の変化と技術革新の二つであるという。
これはケインズやマルクスが予言したことにむしろ近い。
>>940 ポパーの名が度々出るから言わせてもらうけど、
ポパーからすると、批判不可能なものはもっと意義がないことになるよ
「マルクスを批判するならあいつも批判しろ」ってのは批判を否定的に捉えてない?
ポパーにとって、批判可能なものとは議論可能なものであって
「批判的議論をすることによってさらに良くなる」というのがポパー哲学の真骨頂だから、
ポパーがマルクスを批判するのはポパーがマルクスを良くしようとしたということでもある
批判しようとしすぎて誤読する欠陥もポパーにはあったけどね
ポパーからしたら、すべてのものは批判する必要があるし、批判を不必要とするのは教条主義でしかない
>>939 これも違う
ポパーの思考は弟子たちがその分析をしたんだけど、まったく新しい思考が眠っていた
(そのことにポパー自身は気づいてなかったが)
君の939の前提には「批判をするにはその外に立たねばならない」という前提がある
ポパーの立場からすると、その前提が批判可能なんだ
ポパーに近い哲学者でドイツのハンス・アルバートがいるんだけど
彼が定式化したミュンヒハウゼン・トリレンマは有名
このトリレンマは批判に対しても通用するってのが、ポパー哲学になる
ここはポパースレではないから話題としては不適切なんだろうけど
>>919 擁護してるもなにも、ポパーにとって「真理」概念は何より大事なもの
ただ、若い頃は「唯名論的真理」という表現をしてたけど
晩年になって「プラトンの実在論の問題が理解できた。一番興味を持ってる」と言ってる
若い頃は形而上学にあまり興味がないけど
晩年は相対主義の問題を考えてて形而上学にどっぷり漬かってる
でも、ある意味ではポパーと相対主義は似てるところもあるだろう
(だいたいファイアアーベントはポパーの弟子だから、ポパーは相対主義の祖父か近親ぐらいではあるわけだ)
ポパーの哲学は無批判な教条主義を嫌う以上、「真理」概念それ自体も無批判に教条的に擁護はしないんじゃないかな?
(ポパー個人はそこまで自身の立場を徹底できてないけど)
まだ書けるかなこのスレ? テスト
>>939 >ポパーはそう評価して批判するかぎり、自らはその外にいると
>自負しているんだろう。果たしてそうだろうか?
ポパーにしても歴史の外にいるわけではないので、歴史の内側に
いるというのは自明のことだな。
>>940 >そうだとすると、ポパーは歴史主義としてフランシス・フクヤマや
>トーマス・フリードマンらもマルクス主義に対するのと同様に批判する必要がある。
フクヤマの「歴史の終わり」がでたのは、1992年でポパーの死ぬ
二年前だし、フクヤマの議論に対応する時間はもはやそんなに
なかったわけでね。フリードマンの著作がでたのは、ポパーが
死んだあとだし、死後になされた議論に対応しろったって、そりゃー
無理だ。霊媒によって、ポパーの霊魂でも呼び出さない限りは。
ポパーはソ連崩壊までは生きてたようだが、ソ連崩壊をみて
なんかコメントしたのかな?92歳まで生きたというが、死ぬまで
意識はクリアだったのだろうか?
>>940 >そのまた未来にマルクスの仮説のほうに軍配があがる可能性を否定できないはずだ。
そりゃ可能性はあるとおもうよ。そうでない可能性もあるがね。
その仮説が絶対的真理とはいえそうにないという、それだけの
話であってね。
>>943 >晩年になって「プラトンの実在論の問題が理解できた。一番興味を持ってる」と言ってる
へ〜「開かれた社会とその敵」を書いたころは、プラトンの社会論、国家論が
最大の敵とみなしてたのにね。プラトンの社会論は、ヘーゲル・マルクスにまで
影響及ぼしてるって。ポパーは科学と理性を死ぬまで擁護しつづけたが、唯物論者
だったんだろうかな? 唯物論と観念論の問題について、ポパーはほとんど書いてない
気がする。
ポパーは社会科学と自然科学のあいだに区別をもうけて 両者の方法論を混同することが、疑似科学の生むって 批判してるね。反証できないのが疑似科学理論であると。 科学における証明、反証というのは、予測、予想というものと 切り離せないだろうね。一年後の何日に月食がおきると予言 して、その予想があたるから、理論の正しさが裏付けられる わけだ。 自然現象についての理論は、そのようにして仮説→実証という プロセスをへて、より真理にちかづくわけだが、社会学の理論の 場合もそういうふうに進歩するといえるのか、これが問題な わけだろうな。
たとえば一年後にどこそこで会おうと約束して、その約束が 果たされたとする。その約束というのは、科学における仮説に 相当し、実際にあえたということで、約束の正しさが実証されたと つまり明日会おうと約束して会うということもまた科学的証明の 範疇に相当する、これには疑問を抱くひとが多いのではないか。 つまり自然現象と社会現象における仮説→予測→実証というプロセスには 差異があるのではないか。このあたりの議論は歴史哲学の 範疇に該当するわけだろうな。マルクスは社会科学における 予想と実証は、自然対象とちがって、われわれ自身が認識の 客体にして主体なんだから、社会を変革させるというわれわれの 行動が自然科学における実証プロセスであると主張したので あったね。
>>947 ポパーは「自然科学ほど容易ではないが、社会科学もまた同様の知的発展をしうる」と書いてるし
「わたしの理論は、自然科学だけに通用するものではなくて、およそ生物が獲得する知識の方法論だ」とも書いてる
まず第一にポパーは実証主義者ではない
「わたしは実証主義者ではない」と初期のころから何度も書いてるし
実証主義の亜流としての反証主義者でもない
ポパーを批判したクーンも「カール卿は素朴反証主義者ではないが、」と書いてる
ポパーの態度は「実証」というものを嫌ってる側になる
ポパーの言った「反証」が「実証」と同等のものと理解されたあたりがポパーの誤解
これを「ポパー神話」と呼ぶ研究者もいる
>>946 ポパーは唯物論についても書いてるが、
唯物論と観念論に関して言えば、問題を理解してないと思われる
「わたしは唯物論者(実在論者)である。しかし、わたしは物理学主義には反対する」と書いてる。
また「わたしは、理論の経験への優位性を考える。それゆえに唯物論者だ」と書いてるが、
このことは唯物論と観念論の区分けを理解してないのではないか?と思われる
晩年のポパーは三世界論を唱えた
この三世界論こそが唯物論や観念論の問題に対するポパーの回答になるのではないか?
>>950 まあ、ポパーも社会科学は発展しうるって「社会科学の論理」って
いうシンポのなかの講演で語ってはいるよ。さりながら同講演の
なかで、ポパーははっきりこういってるね。
>例えば、誤った、あるいは誤解に基づく方法論的自然主義
>ないし科学主義の立場があります。それは、社会科学において
>科学的方法とはなんであるかについてとどのつまり自然科学から
>学ばねばならないと主張する立場であります。
方法論的自然主義、ないしは科学主義にもとづく社会科学は
誤っているとポパーは断定してるな。ということは、両者は
区別されるべきなんだよ、ポパーの立場からすると。
方法論的自然主義にもとづく社会科学が、統計的実証を
重んずるのに対して、ポパーはそれは間違ってると続く一節で
主張してるから、ポパーが実証的社会科学者でもないことは
明らかではあるねw
ソ連崩壊の時のコメントは知らんが 東側諸国が経済的に大きく躍進している時の講演があって 「われわれ西側は何を誇りに思うべきか」って講演をしている で、「よきにしろ、悪しきにしろ、様々な意見があることを誇るべきだ」という講演をしている ソ連が経済的に急成長しようが、ポパーの西側への信念は揺るがなかったわけで ソ連崩壊をもって「西側の勝利」と見なすことはポパーならば嫌がったんじゃないかな? 勝手な憶測ではございますが
>>951 ポパーの三世界論というのはよく知らないが、仮象の世界と実在の世界と
いうプラトン的なフレームワークに、三番目の世界をつけくわえたというのが
第一印象だなぁ。ポパーも晩年はプラトンの実在論に関心もってたという
からねえ。
>>953 ポパーとソ連についての論文はないかとおもってググったら
ポパーはマルクス主義に対する反証を、ソ連崩壊ではなく
ソ連の誕生にみていたという論文があったねえ。
ロシア革命とソ連の誕生自体が、マルクス主義への反証だって
その理論は、ちょっとポパーにしてはわかりにくい理論であるね。
論文よんでも、よくわからない。
>>954 プラトンの言う「仮像」ってのは現実のことだよね?
現実(日常)⇔脳⇔理論(実在)
これが三世界論
957 :
911 :2013/10/26(土) 12:12:55.36 0
>>922 その理屈からすれば、ソ連が誕生したときにも同様な反論が成り立ったと思われるが、
マルクスが問題にしていたのはイデオロギーによる共産主義国家ではなく、
唯物論的な共産社会の可能性だったので、ソ連建国=共産社会の実験という俗説は
教条主義的にみて即否定されるだろう。
唯物論的足場をもたないイデオロギー的共産社会はユートピア社会主義に終わるというのが
教条主義的なマルクス主義の史観だとすれば。
イスラム諸国というのは、マルクスのいう資本家的生産様式、資本家社会とは
まったく別の道、異なる道を歩んでいると、あなたは見ているわけ?
でなければ、あなたやフクヤマらの議論は、マルクスとは永遠に噛みあわなくなるわけで。
制度学派とマルクス学派の流れをくんでいる例えばレギュラシオン学派などが言うようなこと、
すなわち資本主義の形態に様々なバリエーションがありうるということ、
それまでをマルクスが否定していたのでなければ、マルクスの議論とはずっと噛みあわないはず。
958 :
911 :2013/10/26(土) 12:28:27.05 0
>>924 それも全部、資本家的生産様式の発展内での出来事だというのが
少なくともオーソドックスなマルクス主義の見方でしょう。
マイクロソフトやアップルは典型的な資本主義の巨大グローバル企業。
それをLinuxをコアに採用し、オープンソース業界と協働しているGoogleの
AndroidOSが打ち破る可能性があるかもしれないというのが、
資本主義内の競争原理から何かべつの力が沸き起こってきた兆しを意味する、
という見方もありなのかもしれないが・・・
オープンソース業界がいったい何を意味しているのかもはっきりしないので
何とも言えないが、資本主義的賃労働とは別種のワークが資本主義の中で
一定の力を得るようになってきたという矛盾、ヘーゲル的矛盾を物語っているのかどうか。
959 :
911 :2013/10/26(土) 12:30:34.10 0
>>925 > しかしまあ、ほかの哲学者や思想家は、みな時代に制約された
> 歴史的限界を背負っているが、マルクスだけは例外だっていうん
> かなぁ。 それはもうマルクスへの信仰といったほうがいいなぁ。
それはポパーには当てはまらないと?
ポパーだけはあなたがいう「歴史主義」の外に立っていると言いたいのかな?
960 :
911 :2013/10/26(土) 12:50:36.03 0
>>929 もしマルクス主義がプルードンやデューリングやヘーゲルからのただのコピペならば、
プルードン主義やデューリング主義やヘーゲリアンの立場からのマルクス主義批判
というのも成り立たなくならないか?
そして、プルードンがマルクスと距離を置いたことも意味がないことになる。
>>930 >>928 さんが言っているのは、反証可能な形で提示してくれないと議論にならないってことでは?
大英帝国の覇権の中から産業革命と資本主義という要素を取り出し、
大英帝国は滅びゆくだろうが、これらの要素はナショナリズムに毛が生えた大英帝国の枠を超え出て、
その後も世界史的な規模で普及し続けるだろうという仮定。
この仮定をロシアのマルキストであったプレハーノフは持っていたのだろう。
だからアジア的な段階にあるロシアが、少なくともマルクス主義的な意味での共産社会を目指すなら、
いずれはこの段階を免れないだろう、これを避けた共産主義はユートピア主義の範疇から出ない
という立場からナロードニキと論争した。
しかし当のマルクスには迷いがあったようだ。
ロシアの活動家たちとの文通では、アジア的な段階にあるロシアで共産社会が実現できるのではないか
という進言にマルクスなりに耳を傾けようとしていた。
この点に関してエンゲルスのほうは断固として教条主義を守ったようだが。
961 :
911 :2013/10/26(土) 13:07:52.06 0
>>932 あなたの仮説は、資本主義は大英帝国によってのみ拡大していくというものだが、
それは崩壊したのではないか?
大英帝国がなくなったのちに資本主義化やそれへの発展が起こった地域はたくさんあるだろう。
それは大英帝国の影響力がいまだに残っている証拠だというのなら、その影響力がもうなくなり
つつあるという証拠をもってこなければならな。それがイスラム圏になるのかどうか。
>>934 古典的な困窮化仮説によれば、革命を起こすほどのプロレタリアートの連帯というのは唯物論的に、
つまりプロレタリアートという階級自体の存続が危ぶまれるような経済的切迫に動機づけらるので、
それなしに起こりにくいというのがマルクス主義の仮説になるはず。
大恐慌を経験したのちの先進資本主義諸国は、多かれ少なかれ、労働者の連帯を保障し、
福祉国家や労使の妥協をはかる方向に進展したので、この困窮化仮説は文字通りの意味では
その可能性を減じられたが、困窮化仮説そのものが論理として構造そのものはなんら
間違ってないことを証明している。
これは潔癖なほどの素朴な反証主義には反する解釈かもしれないが、それほど潔癖な反証主義を
ポパーが主張していたとも思えない。ポパー自身がどう自覚していようとも。
962 :
911 :2013/10/26(土) 13:10:37.27 0
>>941 いやだから、ポパー主義者のいう批判的合理主義なるものが
まさしくその批判とやらを受け入れているかどうかに関わる問題だよ。
それに批判するなら合理的に批判しないといけない。
批判だからすべて正しいというのはそれこそ反証可能性を封じる批判だよw
963 :
911 :2013/10/26(土) 13:16:51.02 0
>>942 > 君の939の前提には「批判をするにはその外に立たねばならない」という前提がある
それはまったくの勘違い。
むしろ私の反論の論旨は
>>919 さんがまさにその前提の上で物を言っているということ。
つまり、ポパー主義者自身にその批判が向けられるべきであって、他者を借りるべきではない。
その前提の上に立っていなければ、マルクスやマルクス主義をそう簡単に裁断して
終わらせることはできないはず。
964 :
911 :2013/10/26(土) 13:29:04.30 0
>>945 > ポパーにしても歴史の外にいるわけではないので、歴史の内側に
> いるというのは自明のことだな。
ならば、ポパー主義もまた歴史の落とし子であることも認めることになるよね。
ポパーの哲学も、ある時代の落とし子、エピステーメ上の出来事でしかなかったとねw
xeoさんによれば、大英帝国という基盤・土台によってその時代のあらゆるイデオロギーが
成り立っているんだから、反証可能な言明もろとも時代とともに意義を失ってしまうのだと。
> フクヤマの「歴史の終わり」がでたのは、1992年でポパーの死ぬ
> 二年前だし、フクヤマの議論に対応する時間はもはやそんなに
> なかったわけでね。フリードマンの著作がでたのは、ポパーが
> 死んだあとだし、死後になされた議論に対応しろったって、そりゃー
> 無理だ。霊媒によって、ポパーの霊魂でも呼び出さない限りは。
>>939-940 に書いてあることは要するに、ポパー主義者に向けたものだよ。
ポパーが死のうがポパー主義が生き残っているかぎりは
>>939-940 には有効性がある。
965 :
911 :2013/10/26(土) 16:14:29.64 0
>>950 実証を擁護すると科学とか理性を擁護できなくなっちゃうディレンマにポパーも気が付いていたからね。
>>962 批判的合理主義者は自らの批判的合理主義にも批判的たりえます
これはポパーの後継者たちが、それが可能であることを指摘しました
962において「合理的」「正しい」という表現で何を言いたいのかが不明瞭ですが、
合理主義の新しい可能性を示すことができたということがポパー一派の功績でしょう
ポパー主義者の間での批判なら、マルクス主義者だってさんざんやってきたわけでw
まだ書けるかなっと。
>>956 >プラトンの言う「仮像」ってのは現実のことだよね?
そう、プラトンのいう「仮象」の世界とはわれわれが普通いう
現実の世界のこと。 仮象の世界と実在の世界を媒介するのが
脳というわけだね。
>>957 >ソ連建国=共産社会の実験という俗説は教条主義的にみて即否定されるだろう。
レーニンが実はマルクス全然読んでなかったとか、レーニンのマルクス解釈に
致命的間違いがあったとか、そういうことが示されない限り、即否定なんて
無理だとおもうねえ。 昔はよくマルクス・レーニン主義っていわれたよね。
マルクス主義は。
>>957 >イスラム諸国というのは、マルクスのいう資本家的生産様式、資本家社会とは
>まったく別の道、異なる道を歩んでいると、あなたは見ているわけ?
全然違うとはおもわんがね。文化的上部構造や指導的思想、イデオロギーは
ずいぶん違うように思われるね。イスラム諸国にも社会問題はあるし、貧富の
格差もあるんでアラブの春っていう騒動が最近おきたりもしたね。もっとも
アラブの春を主導したのは、社会主義インターではないし、プロレタリア革命を
めざしてたわけでもなさそうであるが。マルクス主義者なら、アラブの春を
分析して、社会主義的な解釈をおこなうわけだろうが、現実の運動とマルクス
主義的解釈がどういう風に接合してるかは判然としないな。
>すなわち資本主義の形態に様々なバリエーションがありうるということ、
で、イスラムの社会形態は西欧といろいろな点で異なるのではないかって
議論があったわけだが、レギュラシオン学派によれば、それは資本主義という
制度的枠組みのなかでのバリエーションにすぎないってわけね?イスラム圏でも
マルクス主義は一定の影響力があったという話はあるが、イスラム社会全体を
マルクス主義の観点から包括的に分析したという研究にはお目にかかった
ことがないな。イラン革命は社会主義革命であるって研究も見たことないし。
対象社会の分析にマルクス主義はいまのところ失敗しているのではないかと。
>>958 WindowsやMacなどのOSが資本主義的商品であるとして、じゃあ
共産主義になったらあれよりもっといいOSができるかというと
必ずしもそうはいえないんじゃないか?
>>959 いや、俺はそんなことはいってないよ。ポパーもまた歴史の内部に
いるといったからね俺は。
>>960 >しかし当のマルクスには迷いがあったようだ。ロシアの活動家たちとの文通では、
>アジア的な段階にあるロシアで共産社会が実現できるのではないか
>という進言にマルクスなりに耳を傾けようとしていた。
まあ、実際に二十世紀でマルクス主義革命がおきたところって、どこも
先進国ではなかったよね。 あれはレーニンの「帝国主義論」の
影響がでかそうだな。先進国によって搾取されてる植民地が
武力革命をとおして独立するってストーリーだね。ロシアは西欧より
遅れてるが、共産革命を通して、西欧より進歩すると、そういう
目標があったわけだねソ連にも。 一時的には宇宙開発なんかで
世界の最先端いってたこともあったわけだねソ連は。
>>961 >資本主義は大英帝国によってのみ拡大していく
「のみ」とは書いたつもりなかったけど? まあ、もっぱら大英帝国に
よって拡大したといっておこう。それで第二次大戦後、英仏の植民地
体制が崩壊したあと、その後釜にすわったのが、いわゆる「米帝」って
やつだねw
>大恐慌を経験したのちの先進資本主義諸国は、多かれ少なかれ、労働者の
>連帯を保障し
先進国では労働者の連帯が多少なりとも保障されている、だから
プロレタリア革命というのは、やはり今日でも理論的には先進資本主義
諸国のプロレから生まれるって話になるわけか? どうなんだろうね。
>>964 >ならば、ポパー主義もまた歴史の落とし子であることも認めることになるよね。
>ポパーの哲学も、ある時代の落とし子、エピステーメ上の出来事でしかなかったとねw
つーか、ポパーの理論はあらゆる理論は反証によって乗り越えられる
可能性があるというものだから、その理論をポパーの理論自身に
あてはめれば、ポパーの理論もまた反証される可能性はあるという
ことになるわけで、そう考えてしまうとポパーの理論自体は真であるとも
真でないとも言明できないということになってしまう可能性ってありそうだ。
しかしまあ、ポパー自身は自身の理論が乗り越えられてしまったとして
そのことについて別に不服申し立てはしないんじゃないの。それが自分の
理論の必然的帰結ならば。ポパーは合理主義の新しい可能性をひらいたという
指摘もあるわけでね、
>>966 のように。
974 :
考える名無しさん :2013/10/26(土) 22:11:03.33 0
>>969 > レーニンが実はマルクス全然読んでなかったとか、レーニンのマルクス解釈に
> 致命的間違いがあったとか、そういうことが示されない限り、即否定なんて
> 無理だとおもうねえ。 昔はよくマルクス・レーニン主義っていわれたよね。
> マルクス主義は。
その心配はない。
なぜなら、レーニンもトロツキーもカウツキーも共に、ロシア革命が
マルクス主義的にいう共産革命でないことをちゃんと認めていたからだよ。
彼らはロシア革命を少なくともプロレタリア革命でも共産革命でもないと見なしていた。
つまり、レーニンでさえソ連を共産社会を実現した国家だとは見なしていなかったのだよ。
その意味ではレーニンのマルクス解釈は間違っていないし、
トロツキーもそのことを認めていた点では間違っていなかった。
彼らはソ連がマルクス主義的にいう共産国家だという認識をもってはいなかったからね。
その代わりに彼らがもっていたのは、スターリンも含め、ソ連をマルクス主義的にいう共産革命を
実現できる段階までもっていくことだった。レーニンはその道はかなりの困難を極めると演説している。
>>974 必ずうまくいくかどうかはわからないけど、共産革命めざして
やってみようって、そういう話なら、そういう試みを「実験」と
よぶことに何か不都合があるのか?
トロツキーによれば、レーニンはカウツキーの論文の序文に次のような見解を書いていた。 ロシア革命は、(マルクス主義的にいう厳密な意味での)ブルジョア革命でもないし、 かといって社会主義革命でもない、とね。 レーニンもトロツキーもカウツキーも、ロシア革命が社会主義革命でないという点では意見がほぼ一致していた。 彼らにこの問いを発したのはロシアマルクス主義の父といわれるプレハーノフ。 プレハーノフはもっとも教条主義的な立場を代表していたマルクス主義者ともいわれる人物。 歴史家エレーヌ カレール=ダンコース氏によれば、プレハーノフは、マルクス主義的にいう 共産革命の前提条件を満たさない共産革命なるものは共産主義の色を塗った専制国家であり、 政治的怪物になると警告していたらしい。1885年の時点で。1917年の革命よりもおよそ32年も前に。 プレハーノフは断固としてマルクス主義的教条主義の立場にあった。 レーニン、トロツキー、カウツキーらもさすがにこの教条主義的立場から大きく外れることは許されなかった。 大きく外れればマルクス主義の看板を棄てた革命家だと見なされるだろうからね。
ロシア革命は社会主義革命でもプロレタリア革命でもないが 革命ではあり、将来の共産主義体制確立のための実験で あるってことらしいなどうも。 プレハーノフっては、マルクス主義者であるだけでなく 文学批評、芸術批評でもかなりのものだったと聞くね。
大英帝国というのは肥大したナショナリズムにすぎないわけだから、 大英帝国が世界に向けて普及したのは、資本主義であるばかりでなく、 ナショナリズムでもあったわけだよ。まさにヘーゲル的自己矛盾だ。 皮肉なことに、大英帝国自らが大英帝国から独立しようとする ナショナリズム革命(ブルジョア革命?)の芽を世界にばらまいたのだからね。
ロシア第一革命に関しては、帝政ロシアへの農民や軍人らの不満が爆発した動乱から起きたもので、 けっきょく帝政によって弾圧されちゃったけど、レーニンやトロツキーとは無関係だね。 日露戦争に負けてすっかり意気消沈していた帝政ロシア。 その当時、ロシアにおいてはすでに革命の機運が高まってきていて、 帝政ロシアを打倒しようとする民衆パワーが湧き起こり、至るところで革命の火種がくすぶっていた。 だからレーニンやトロツキーなる人物が歴史上存在しなくても、 帝政ロシアが農民や軍人の反乱によって滅ぶのは時間の問題だった。 その歴史の流れにうまいこと乗っかったのがレーニンとトロツキー。 レーニンは革命の最後の最後に現れただけで、ロシア革命が起こっているほとんどの時間を海外で過ごしていた。
>>975 たしか「ドイツイデオロギー」だったかな。
共産革命が実現するための唯物論的条件というのがちゃんと書いてある。
自称マルクス主義者がそこに書いてあることに反して言明したり行動したら、客観的に見てすぐに分かるだろう。
彼らは単なる自称で、客観的にはマルクス主義者じゃないって。
自称でよかったんなら、北朝鮮だって民主主義国だぞwww
イギリスが求めていたのは、世界中に自分のための市場を生成することであって、領土的野心はほとんど無かった。 相互の交易に有利なコモン・ウェルスという形では、だから大英帝国はまだ事実上存続してる。 ロシア革命の共産党レーニン派における現地指揮者はスターリン。レーニンとトロツキーが国外にいる間ずっと彼が 国内に潜伏して様々な裏工作を展開していた。
>>978 ナショナリズムというのは、いつ発生したかってのは、結構
議論になるんだよね。 近代ヨーロッパの到来とともに、植民地に
ナショナリズムが発生したって議論があるが、そういう見方は
ヨーロッパ中心的という批判もあるなぁ。
>>979 しかしまあ、ロシア革命の立役者と聞かれたら、誰もがいまだに
それはレーニンだと答えるよね。
>>980 じゃあ、なんのために革命やったのさ。ロシア革命はマルクス主義とは
ぜんぜん関係ない革命だったと? 革命やった当人たちがそう考えて
いなかったとしても、外からみればマルクス主義者が革命を主導したと
いうのは、あまりに明らかなんだが。
983 :
考える名無しさん :2013/10/26(土) 23:11:49.91 0
バブル時代の日本人、消費社会論のポストモダン論者は、 フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を真に受けたが、先見性がなかった。 その後にテロとの冷戦が起こることも、各地で再び民族紛争が再燃することも、 先進資本主義諸国がそろって深刻な経済危機に直面することも予測できなかった。
資本論のフレーズで、「彼らは意識していないが、しかしそう行なうのである。」 ってのがあったなぁ。 ロシアのマルクス主義者も、自分らがマルクス主義革命 やるとは意識してたなかった、だがしかし革命をやったのであると。 意識レベルの話では、もはやなくなるわけだなw
985 :
考える名無しさん :
2013/10/26(土) 23:19:09.38 0 >>979 ごめん。海外じゃなくて国外だ。ロシアは島国じゃなかったわw