■ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 15 ■
はじめに 序論 反復と差異 反復と一般性――行動の視点からする第一の区別 一般性の二つのレヴェル――類似の等しさ 法則の観点からする第二の区別 反復、自然の法則と道徳法則 キルケゴール、ニーチェ、ペギーによる、反復の哲学プログラム 反復と一般性−概念の視点からする第三の区別 概念の内包と「阻止」の現象 「自然的阻止」の三つの事例と反復――名目的諸概念、自然の諸概念、自由の諸概念 反復は概念の同一性によって説明されず、否定的でしかない条件によっても説明されないということ 「死の本能」の諸機能――差異との関係における、そして一つの定立的な原理を要請する者としての、反復(自由の諸概念の例) 二つの反復――概念の同一性と否定的条件による反復、差異による、そして《理念(イデア)》における過剰による反復(自然的諸概念と名目的諸概念の例) 反復における裸のものと着衣のもの 概念的差異と概念なき差異 しかし、差異の概念(《理念(イデア)》)は、概念的差異に還元されることはなく、同様に、反復の定立的な本質は、概念なき差異に還元されることはない
第一章 それ自身における差異 差異と暗い背景 差異を表象=再現前するということは必要なのだろうか。表象=再現前化の四つのアスペクト(四重の根) 幸福な景気、差異、大と小 概念的差異、最大かつ最高の差異 アリストテレスによる差異の倫理学、および、差異の概念と概念的差異の混同 種的差異と類的差異 四つのアスペクト、あるいは差異の従属――概念の同一性、判断の類比、諸述語の対立、知覚されたものの類似 差異と有機的な表象=再現前化 一義性と差異 配分の二つのタイプ 一義性と類似の和解不可能性、 一義的なものの三つの契機――スコトゥス、スピノザ、ニーチェ 永遠回帰における反復は存在の一義性の定義である 差異とオルジックな表象=再現前化(無限大と無限小) 理由としての根拠 ヘーゲルによる差異の論理学と存在論――矛盾 ライプニッツによる差異の論理学と存在論――副次的矛盾(連続性と不可職別者) 差異のオルジックなあるいは無限な表象=再現前化は、前述の四つのアスペクトから、どうして免れていないのか 差異、肯定と否定 否定的なものの錯覚 否定的なものの排除と永遠回帰 プラトンによる差異の論理学と存在論 分割の方法と諸形態――要求者たち、テスト―根拠、問い―問題、(非)―存在、および否定的なものの身分 差異の問題において決め手となるもの――見せかけ(シミュラクル)、見せかけ(シミュラクル)の抵抗
第一章 それ自身における差異 差異と暗い背景 差異を表象=再現前するということは必要なのだろうか。表象=再現前化の四つのアスペクト(四重の根) 幸福な景気、差異、大と小 概念的差異、最大かつ最高の差異 アリストテレスによる差異の倫理学、および、差異の概念と概念的差異の混同 種的差異と類的差異 四つのアスペクト、あるいは差異の従属――概念の同一性、判断の類比、諸述語の対立、知覚されたものの類似 差異と有機的な表象=再現前化 一義性と差異 配分の二つのタイプ 一義性と類似の和解不可能性、 一義的なものの三つの契機――スコトゥス、スピノザ、ニーチェ 永遠回帰における反復は存在の一義性の定義である 差異とオルジックな表象=再現前化(無限大と無限小) 理由としての根拠 ヘーゲルによる差異の論理学と存在論――矛盾 ライプニッツによる差異の論理学と存在論――副次的矛盾(連続性と不可職別者) 差異のオルジックなあるいは無限な表象=再現前化は、前述の四つのアスペクトから、どうして免れていないのか 差異、肯定と否定 否定的なものの錯覚 否定的なものの排除と永遠回帰 プラトンによる差異の論理学と存在論 分割の方法と諸形態――要求者たち、テスト―根拠、問い―問題、(非)―存在、および否定的なものの身分 差異の問題において決め手となるもの――見せかけ(シミュラクル)、見せかけ(シミュラクル)の抵抗
第二章 それ自身へ向かう反復 反復、それは、何かが変えられること 時間の第一の総合ーー生ける現在 ハビトゥス、受動的総合、縮約、観照 習慣の問題 時間の第二の総合――純粋過去 《記憶》、純粋過去、そして諸現在の表象=再現前化 過去の四つのパラドックス 習慣における反復と記憶における反復 物質的反復と精神的反復 デカルト的コギトとカント的コギト、未規定なもの、規定作用、規定されうるもの ひび割れた《私》、受動的な自我、そして時間の空虚な形式 記憶の不十分な点、時間の第三の総合 時間の、形式、順序、相対、セリー 第三の総合における反復――欠如によるその条件、変身のその作用者、その無条件な特徴 永遠回帰における反復という観点からする、悲観的なものと喜劇的なもの、歴史、信仰 反復と無意識――『快感原則の彼岸』 第一の総合と拘束――《ハビトゥス》 第二の総合――潜在的な諸対象と過去
エロスとムネモシュネ 反復、置き換えと偽装――差異 無意識の本姓に関する諸帰結――セリー状の、差異的=微分的な、そして問いかけ的な無意識 第三総合あるいは第三の「河岸」に向かって――ナルシシズム的自我、死の本能、そして時間の空虚な形式 死の本能、対立と物質的反復 死の本能と永遠回帰における反復 類似と差異 システムとは何か 暗き先触れと「異化させるもの」 文学的システム 幻想(ファンタスム)あるいは見せかけ(シミュラクル)、および差異に対する同一的なものの三つの形態 プラトン主義の真の動機は、見せ掛け(シミュラクル)の問題の中にある 見せ掛け(シミュラクル)と永遠回帰における反復
第三章 思考のイマージュ 哲学における前提の問題 第一の公準――普遍的本性タル《思考》の権利 第二の公準――常識〔共通感覚〕の理想 第三の公準――再任というモデル 思考とドクサ カントにおける《批判》の両義性 第四の公準――表象=再現前化のエレメント 諸能力の差異=微分的理論 諸能力の不調和的使用――暴力とそれぞれの能力の限界 プラトン哲学の両義性 思考するということ――思考におけるその発生 第五の公準――誤謬という「否定的」なもの 愚劣の問題 第六の公準――指示の特権 意味と命題 意味のパラドックス 意味と問題 第七の公準――解の様相 新理論における解の錯覚 問題というカテゴリーの存在論的重要性と認識論的重要性 「学ぶ」ということは何を意味するのか 第八の公準――知という結果 差異と反復の哲学に対する障害としての諸公準の要約
10 :
考える名無しさん :2013/02/05(火) 07:41:20.88 0
第四章 差異の理念的総合 問題的な審廷としての理念 未規定なもの、規定可能なもの、および規定作用――差異 微分 量化可能性、および規定可能性の原理 質化可能性、および相互規定の原理 ポテンシャリティ、および十分な規定作用の原理(セリー的形式) 微分法において無限小が無用であること 〈差異的=微分的〉と〈問題的〉 問題の理論――弁証法と科学 《理念(イデア)》と多様体 諸構造――それらの基準、諸《理念(イデア)》のタイプ 副次的矛盾の方法――特異なものと正則なもの、特別なものと通常のもの 《理念(イデア)》、そして諸能力に関する差異的=微分的理論 問題と問い 命令と遊び=賭け
11 :
考える名無しさん :2013/02/05(火) 07:42:30.58 0
《理念(イデア)》と反復 反復、特別なものと通常のもの 否定的なものという錯覚 差異、否定と対立 否定的なものの発生 《理念(イデア)》と潜在性 潜在的なものの実体性――<スベテノ仕方デ・・・・・・存在者> 差異化=微分的な無意識、あるいは対象の二つの半身 半身のそれぞれがもつ二つのアスペクト 潜在的なものと可能的なものの区別 差異的=微分的な無意識、あるいは判明で―曖昧なもの 《理念(イデア)》の現実化のプロセスとしての異化=分化 力動あるいはドラマ ドラマ化の普遍性 (差異/異)化=(微分/分)化という複雑な基礎概念
12 :
考える名無しさん :2013/02/05(火) 07:44:50.71 0
第五章 感覚されうるものの非対称的総合 差異と雑多なもの 差異と強度 差異の取り消し 良識と共通感覚 差異とパラドクス 強度、質、広がり――取り消しの錯覚 深さあるいはスパティウム 強度の第一の特徴――即自的に不等なもの 数における不等なものの役割 第二の特徴ーー差異を肯定すること 否定的なものという錯覚 感覚されうるものの存在 第三の特徴――巻き込み 本性上の差異と程度上の差異 エネルギーと永遠回帰 永遠回帰における反復は、質的なものでも延長的なものでもなく、強度的なものである 強度と微分 《理念(イデア)》の現実化における個体化の役割 個体化と異化=分化 固体化は強度的である 個体的差異と個体化の差異 「交錯」、「巻き込み」、「繰り広げ」 システムの進化 包み込みの中心 個体化のファクター、《私》と《自我》 心的なシステムにおける他者の本性と機能
結論 差異と反復 表象=再現前化批判 有限か無限化という二者択一は無益であること 同一性、類似、対立、そして類比――それら(四つの錯覚)はどのようにして差異を裏切るのか しかし、同一性、類似、対立、そして類比は、どのようにして反復をも裏切るのか 理由としての根拠――その三つの意味 根拠から無底へ 非人称的な個体化と前個体的な特異性 見せかけ(シミュラクル) 《理念(イデア)》と問題に関する理論 《他者》 遊び=賭けの二つのタイプ――それらの特徴 カテゴリー批判 反復、同一的なもの 二つの反復 病理学と芸術、常同症とリフレーン――すべての反復の共存の場所としての芸術 存在論的な、第三の反復へ向かって 時間の形式と三つの反復 第三の反復の選別的な威力――永遠回帰とニーチェ(見せかけ(シミュラクル)たち) 帰還しないもの 《同じ》ものの三つの意味――存在論、錯覚、そして誤謬 存在の類比と表象=再現前化、存在の一義性と反復
>>3 乙
>鈴木泉教授
>「差異と反復」講義目録。
>
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/deleuze_dr.pdf Gilles Deleuze, Diff?rence et r?p?tition, Paris, PUF, 1968.
Avant-propos p.1 (上記pdf頁数)
Introduction : r?p?tition et diff?rence p.2
Chapitre premier : La diff?rence en elle-m?me p.7
Chapitre II. : La r?p?tition pour elle-m?me p.16
Chapitre III. : L'image de la pens?e p.27
Chapitre IV. : Synth?se id?elle de la diff?rence p.36
Chapitre V. : Synth?se asym?trique du sensible p.52
Conclusion. : Diff?rence et r?p?tition p.67
(Index p.81)
はじめに
序 論:反復と差異
>>4 第1章:それ自身における差異
>>5 第2章:それ自身へ向かう反復
>>7 >>8 第3章:思考のイマージュ
>>9 第4章:差異の理念的総合
>>10 >>11 第5章:感覚されうるものの非対称的総合
>>12 結 論:差異と反復
>>13
ノート、 持ってへんのか。
哲学史的見取り図としては、アガンベンの『思考の潜勢力』 La Potenza del pensiero のラストに紹介されている図が参考になる。邦訳単行本では、雑誌掲載時と違い、訂正されている。 超越 内在 カント スピノザ | | フッサール ニーチェ \ / | ハイデガー | / \ | レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ 「(略)彼(引用者注:ドゥルーズ)の遺書を哲学の使命として引き受けるとともに、近代哲学 〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線ではっきり区別す るような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端として必然的に課されるので ある。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安になるだろう。」 (アガンベン「絶対的内在」『現代思想2002.8』) スピノザとニーチェをつなげているあたり、的確であると言える。
ドゥルーズ哲学全体の見取り図: ひとつの ___同一性___ / | \ / 対 断 \ / 立or絶 \ / | \ / 異なる \ 器官なし 身体__同一性___欲望 諸機械 \ / (の哲学) \ / \/ || \/ 矛盾or対立する \/ 矛盾or対立する 二つの公理系 差異と反復 二つの公理系 /\ || /\ || \/ || 器官なき身体 多様性 欲望する諸機械 \ / 矛盾する二つの公理系 (共通概念)
>>17 あるいは、
ひとつの
___同一性___
/ | \
/ 対 断 \
/ 立or絶* \(第二次大戦)
/ | \(68年)
/ 異なる \
器官なし 身体__同一性___欲望 諸機械
\ / (の哲学)** \ /(プラグマティズム)
\/ || \/
矛盾or対立する \/*** 矛盾or対立する
二つの公理系 差異と反復 二つの公理系
/\ || /\
|| \/**** ||
器官なき身体 多様性 欲望する諸機械*****
******\ /
矛盾する二つの公理系*******
(共通概念)********
*シネマ1、2
**ベルクソン、ニーチェ
***差異と反復
>>14 ****襞
*****アンチ・オイディプス
******千のプラトー
*******意味の論理学
********スピノザと表現の問題
アガンベンの哲学史系統図
>>16 に似てきた。
19 :
考える名無しさん :2013/02/05(火) 18:10:48.44 0
>>18 ドゥル−ズ哲学で、「同一性」と「時間概念(未来−現在−過去)」の連関を
どのように論理化しているのでしょうか?
最近の折り込み広告は裏も印刷されてるからな
>>19 (カントを論じてはいますが)
カント的な様相=時間論は実はドゥルーズとは無縁で
潜勢的なものは常に現在でありつづけます
それを同一性と呼ばないのは誤解を生むからです
上の柄谷の図でいえば潜勢的なものが観念で
同一性は概念に対応します
これだとベルクソン思想とはズレてしまいますが
スピノザとベルクソンは実はそれほど離れていないのではと考えます。
23 :
考える名無しさん :2013/02/08(金) 16:32:53.20 0
>>22 「主観/客観」構図に於いて、スピノザの主観領野と、ベルクソンの時間概念を含めた
主観領野の捉え方は、異なるように思うのですが。
24 :
考える名無しさん :2013/02/08(金) 22:44:20.48 0
25 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 06:50:23.59 0
西村幸祐 @kohyu1952 それも沖縄の隠された真実の一つ。米軍基地の75%が沖縄に集中というのも反 日サヨクの真っ赤な嘘。本当は23%です。QT:惠氏によれば、「基地反対!」 「沖縄は被害者!」と叫ぶたびに、国から金がジャブジャブまかれるという。 基地反対運動で国から金をせびっている。@hyakutanaoki
26 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 10:30:35.89 0
>>24 >>25 こんなのが無関係なスレに書き込むようじゃ、ネット選挙解禁なんてのは結果が見えてるな。
結局、金のあるやつの勝ち、ということか。
27 :
考える名無しさん :2013/02/09(土) 13:32:51.20 0
勿論全部出鱈目ですよ!?♪。
捏造はネトウヨの十八番
さいきん興味を持ったんだけどドゥルーズって何から読めばいいんだ
読まなくてよし
記号と事件
主著は古代からの時間論とハイデガー哲学を論じた「時間無だ」
>>23 主観・客観という図式はドゥルーズの立場にはありません。
>>22 柄谷教はドゥルーズに忠実ではありません。
ドゥルーズは存在の一義性を言っても概念の同一性は阻止されるものになります。
>>19 ドゥルーズ哲学において時間的には自我は同一ではありません。
だからドゥルーズAとBがある
それを一番うまく表現しているのが『シネマ』
40 :
考える名無しさん :2013/02/23(土) 18:29:12.22 0
>>39 やっぱり、埴谷雄高の「自同律の不快」だろう。
>>40 その間に出てくるニーチェのファクターはオミットですか。
ニーチェでなくてベルグソンでもいいんですけどね。
44 :
考える名無しさん :2013/02/25(月) 14:20:52.93 0
ドゥルーズの数十年前に埴谷雄高が同じことを言ってる
>>44 死霊第一章に生得的アプリオリが出てくる。埴谷さんが最も震撼させられた本は
「カント」だそうだ。埴谷のは文学なんで、「差異と反復」を楽しんで読むと思うよ。
「カント」っていう本があるのか。知らなかった。
49 :
考える名無しさん :2013/02/27(水) 02:22:20.06 0
>>46 持ってるんなら、読まなくたってわかるよね。
>>48 素人くさくて済みません。私はドゥルーズの本はほぼ全部読んだ。
だがカント学を語るには及ばない。(全集持ってない)
死霊は冒頭の「干支の時計台」が面白くて、印象に強いです。
五章までしか買ってないです。
同自律の不快っていうこと、ニーチェの文脈で語れていませんか。
>>50 「自同律の不快」ね。
なにかを語る前に、日本語の書き方を整理した方がいい。
>>51 「同自律の不快」ということは、ドゥルーズのニーチェに関する文脈で言うと、
「同一なもの」の反復でないものとして、永劫回帰的反復の中で、根拠が消失
してしまいませんか。
>>52 造語を使うなら、概念の説明をきちんとして欲しい。
>>53 あなたそれ、ジル・ドゥルーズに関する
みごとなカウンター
>>53 「差異と反復」では時間的に自我は同一ではありません。
ドゥルーズの書いてることを公理的に再構成してみると面白いかもしれない
>>57 「存在は生成について言われ、同一性は異なるものについて言われ、
一は多について言われる。」―永遠回帰における一義性。
>>58 それが「自同律の不快」とどう関係するの?
それから、なんで「同自律」なんていう風に言葉をひっくり返すの?
そういう病気があるらしいけど、病気なの?
同一性は時間的に自我ではありえない 自我の意味は永劫回帰の中で一義的に失われる 構成よりも構築されていないものが構造を決める 捕まえた瞬間に変化し喪われるものが意味なら 想像力でさえ分裂を糊塗することにしか役立たない
よくわからないから論理式にしてみて
それらしい単語をつなぎあわせると哲学になる
ソーカルの論文が査読通っちゃうのも仕方ないな
>>59 「自同律の不快」と以下のようなものでよろしいですか。
死霊1章p44〜45
「貴方の先程言葉を繰り返して失礼ですが…で、貴方は私たちが一定の型にはまる―と信じてられますか。」(三輪)
「信じています。」(岸博士)
「ご承知でしょうが、ひとは生み出しうるもののみを生み出す―これは鉄則です。」(岸博士)
「ふむ、貴方も自己意識の延長外に出てみたい一人なのでしょうか。(略)
私は精神科医として敢えて断言しますが自己が自己の幅の上に重なっている以外に、
人間の在り方はないのです。」(岸博士)
「それは不快です。」(三輪)
続き p48 「人間はさて何をなしうるか」(岸博士) 「人間が人間である自己証明でしょう。」 「人間ならずして創り出せぬものを創り出すことによって、です。」 「それは、つまり―嘗てなかったもの、また、決してあり得ぬもの、です。」(三輪) 「ですが、あなたは、虚体を求めていて―それはむしろ一種の神性ではないですか。」 (岸博士)
私の要約では p45の「自己意識であることが不快である」というのは カントにおいては「統覚の先験的統一が必ず経験的総合の根底に必ず存在していること」 から逃れられないこと、すなわち 原理的に恒常的に「いかなる意識の総合も必ずその先験的統一に従属していなければならない」ことの自己同一な(自同律的な)規定の認識の回帰的反復からくる苦痛である。 いわば超越論的次元に関与する「不快」であると言える。
それに対して「生得的なものとは共通感覚の神学である」とするドゥルーズにおいては 認識の超越論的発生が考えらえている。常に同一ではない訳だ。 p48の「嘗てなかったもの、また、決してあり得ぬもの」の創造はド ゥルーズにおいては不可能ではない。
自己意識に関してヘーゲルに則る論旨も出てくる。
最初は真面目に哲学研究やって実績を積んでから 政治運動や社会運動をやって名前を売る そのあとに意味がよくわからないオリジナル哲学を展開するのが良いね
フーコーの「カントの人間学」(博論の副論文)が3年前に出て、
フーコーが「構造主義的において人間主義の突破」を見ていたという古い定見
が覆されるという状況が今世紀にやっと位置づけの再認識に至って覆っている。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/506707.html 本当はポスト構造主義が「実存」を織り込み済みであることは自明なのである。
デリダは周期的にハイデガーに言及し、GDが「存在論的射程を持つ問い」の存在を認め
フーコーがハイデガーの「カントの形而上学」に言及していることから、よく注意してみると
「構造主義」ガチガチの立場でないことが解る。
これは今日的な認識として前提とされていいはずだ。
良質ポエム
>>75 1960年代から70年代にかけて、「構造」か「実存」か、という二項対立がポレミークなものだった。
大体「社会構造」のサイドでものを考えるか、「個的実存」かどちらの立場で自分の生き方
を選ぶかという実践的な生き方の選択に結びついていたのは、確かだ。
「ニューレフト」の時代に、左翼として生きることが「実存的」選択である、と考えた群衆が、
存在していた。(サルトル流他) その人々はそののち「左翼」冬の時代という、悔痕の暗い
時代を生きざるをえなかった。「あの時代は何だったか」という問いを長く反芻したのち
、その世代が若かった時代を忘却するに長い時間を要した。
結局社会情勢の所与の前提が移行したせいで、へーゲル的な自己否定から、ニーチェ
流な自己肯定へと内面性の変化があったとも思う。「ネクラ」から「ネアカ」のエッポクが
80年代に起こる。アンチ体制から制度内参加のチャンスのゲットに、選択枝が変わる。
ドゥルーズ自身が「パリ五月革命」に対して、それに与えた解は「分子革命」である。モル的
な固質な線ではなく、群衆の分子的な量子的な流れによって起きた出来事であると。
>>77 もう少しポエム。
ドゥルーズが「資本主義と分裂症」では、顕著な思考の柔軟性を示す。
モル的な水準では硬質な線にそって条理化される空間を決して逃れることはできないが(制度)、
ミクロ政治学では「分子的」なレベルでの「流れ」は、かつて実存的と呼ばれた個体の生成の
選択の自由度が可能な水準があるとする。
「構造」という桎梏と「実存」という破綻の運命を、人間的なものが担うという、ヒューマニズムを
あるいは人間中心主義をDGは「機械」が担うという、人間的な内面性を捨象した次元(メガノスフィアー)に
おいて考えようとする。
構造と実存がヒューマニズムの観点から考えられるのではなく、敢えて取られた「非人間主義」
(鈴木泉)によって「構造主義」の決定論と「実存主義」の決断主義との主体の問題とは別様に、
オルタナティヴな実践の問題として考えようとするのが、ここでのDGの狙いである、といえよう。
間違えた「メカノスフィア―」です。
ドゥルーズはハイデガーに十分敬意を表しながら、距離を置くのは、常に生成する自我・主体には 自ずから「同一性」は成り立たない、という点である。それ故野生の力動を人生に認めているのだ。
>>78 ドゥルーズなんかがなにを言おうと、社会的にも思想的にも無価値だよ。
本来、いわゆる「左翼」というのは、人間というのが大半がいま生きている社会を肯定する観念しか持てないということから、その社会の変革のためには、経済構造を変革することが必要だ、という考え方のことだよ。
例えば、サルトルは自分の現実への拒否感覚を社会変革につなげることが、自身が社会の中で生きていることの証明だという意味で、それを実存と言った。
ハイデガーなんか関係ない。
>>83 少数だけどね。
思想としては未だにこれを超えるものはでていないな。
まあ、せいぜい「哲学」でもやって、新自由主義のお先棒でも担いでいればいいさ。
ハイデガーのナチスと同じようにね。
85 :
考える名無しさん :2013/03/26(火) 01:19:23.88 0
アルチュセールの思想には、旧マルクス主義的な経済決定論の尾てい骨のような考え方があり、 フーコーやドゥルーズ(ガタリとワンセットでない単品の)の思想は、それを取り除いたことが、 新しい、かのような評価があった。 だが、今になって思うに、むしろ、かつては旧弊にみえた、アルチュセールの思想における 経済審級が最終審級であるという尾てい骨的だったはずの考え方が、「左翼思想」としての譲れない肝心な部分を、 保っていたように思われるのだ。 そのアルチュセールのいう「経済」というものが、いうなれば、自然と文化を架橋する活動そのことなのであれば、 そして、それが実存(生存)のための基底的条件(「存在が意識を規定する」マルクス)なのであれば、 サルトルよりは、やはり後期のハイデガーにより近いのではないか。
>>84 サルトルみたいな「乗り越え不可能」なものじゃとっくにないよ。
>>85 >そのアルチュセールのいう「経済」というものが、いうなれば、自然と文化を架橋する活動そのことなのであれば、
>そして、それが実存(生存)のための基底的条件(「存在が意識を規定する」マルクス)なのであれば、
>サルトルよりは、やはり後期のハイデガーにより近いのではないか。
この部分ハイデガーとマルクスがどう交差するかを、詳しく論じてください。
88 :
考える名無しさん :2013/03/26(火) 02:50:10.30 0
ハイデガーは、文化=象徴系の構造が人間的自然を規定する、 というよくある現代思想的観点には立っていなかった、と私は思う。 むしろ、象徴系の構造のほうが、「物」的である記号およびその結合態のルーティン的操作に起因するものだ、 と考えていたのではないか、と思われる。そして、記号のルーティン的操作、 というのが「経済」だと、いいたいわけ。この「経済」は、もちろん、近代の経済学が扱う領域よりも、ある意味で広い。 意識的存在者であるための活動あるいはパフォーマンス全般を指すわけだから。たぶん、エコノミーの語源のオイコノモスに近いだろう。 したがって、これは、従来のマルクス主義のいう「経済的下部構造」とは違うにしても、 精神分析や構造人類学などとはしっくりいくとらえ方だろうと思う。
89 :
考える名無しさん :2013/03/26(火) 02:58:55.25 0
文学のたとえを出せば、ドゥルーズの「機械」という概念は、オートポイエーシスに近いという人があるが、 ポイエーシスが、元来は「制作」というよりは、「詩作」の意味だった、 といったことをハイデガーは述べている。 記号的なものの操作=詩作が、むしろオート(自働的)に「作者の自意識」をもららす、 といえ、これには、経済活動が意識を規定する、ということとのアナロジーが成り立つだろう。
ピンクパンサーであれ!
>>88 >「物」的である記号およびその結合態のルーティン的操作
>記号のルーティン的操作、というのが「経済」だ
もう少し考えさせて欲しい。GDの文脈で考えてみたい。
>「物」的である記号およびその結合態のルーティン的操作 >記号のルーティン的操作、というのが「経済」だ どうやって「操作」可能なのか?
93 :
考える名無しさん :2013/03/26(火) 13:14:19.78 0
操作というのは、とりあえず言ったのであって、 オートなのだから、とうぜん、自由意思的に操れる、 といったものとは考えていない。 なお、精神分析、とくにラカン派などでも、象徴性は 無意識の領域に根ざすものをいうのだから、 そう違いがあるとは思わないし、 また、「文化主義」の代表格であるかのようなバルトの「記号」観にしても、 追従者と違い、いがいとマルクス主義的な面を残していたと思う。 「構造主義」は、あんがい、いわゆる構造主義的、ではなかった、のではないか。
>>93 バルトならいわゆる「表彰文化論」の範囲に収まるぐらいだよ。
95 :
考える名無しさん :2013/03/29(金) 22:07:06.65 0
「零度のエクリチュール」などは、必ずしもそうではない。
96 :
考える名無しさん :2013/03/29(金) 22:31:39.59 0
偶然の出来事にあって私を捉え、私の中で反響しているものは、 原因ではなく構造である。まるでテーブルクロスごと食卓の上のものが 引き寄せられるようにして、恋愛関係の全構造が、私の元へ引き寄せられてくる。 その不都合も、その罠も、その袋小路も、なにもかもすべてが(螺鈿のペン軸に ついた小さなレンズの中に、パリが、エッフェル塔が、見えるようなものなのだ)。 私は非難を口にせず、疑いを差し挟むこともなく、原因を探ることもしない。 恐怖とともに、自分の捉えられている状況の広がりを眺めているのだ。 私は恨みっぽい人間ではなく、宿命論者なのである。 (私にとって偶然の出来事とは、記号であって、標識ではない。なんらかの 体系の構成素であり、特定作因の開花ではないのだ) (ロラン・バルト著・三好郁郎訳『恋愛のディスクール』みすず書房。104頁)
バルトの「恋愛〜」は要所要所抜き出してツイッターで朗読してた けっこうふぁぼられた 一冊まるごと朗読するかと思ったけど、 あと50ページってとこで著作権的にまずいとわかってやめた
パリ五月革命の後に20年経って、本家のパリでも急激に左翼的なものが姿を消した。 自らがそれに依って生きている社会の中で「左翼的」言辞を述べること自体のほうが 「ブルジョワ」的なのであって、欺瞞である、というのが、社会通念となったからである、 と言う。 パリ五月革命は、歴史の中で生きている日々の生の中での試みとして、 完成したのだという実感がその根拠となっているという。 (Dork Zubnyan)
折しもフランス社会党の政権誕生の後であった。
>>101 フランス人はみんなバカ?
なんてことはあるまいよw
103 :
考える名無しさん :2013/04/02(火) 16:01:53.58 0
萱野 バリバールやネグリ、アルチュセールも、スピノザについて書いてい ます。ただ、大学院に入って本格的にスピノザを読んでいくと、現代思想業 界で言われていることの半分ぐらいはでたらめであることがよくわかりまし た。特にネグリのスピノザ論(『野生のアノマリー』)は問題です。 アルチュセールに関しては、正面からスピノザを論じていないところもある から、一方的に断定するのはフェアじゃないけれど、正直言ってあやしい。 アルチュセールのいう新しい唯物論の概念はそれ自体としてはおもしろいけ ど、それをスピノザから導き出すのは相当無理があるんじゃないか。 國分 現代思想業界でスピノザについて言われていることの半分ぐら いがでたらめだっていう話に同意するんですが、僕にとってはやはり ドゥルーズのスピノザ論が大きかった。そして勉強を進める中で、 ドゥルーズのスピノザ論がまともに読まれていないということが分かっ てきた。『スピノザと表現の問題』はかなりテクニカルな話をしてい て、相当に読み込まないと分からない。ドゥルーズの文章は非常に簡 潔ですので、彼が一行の中に込めている内容はそのロジックを順序立 てて理解していかないとまったく分からない。今回の本の最後で、 『エチカ』の定理十一までの話を細かくしていますが、ドゥルーズは そのことだって、二、三行で書いている感じですよ。ドゥルーズの不 親切さには注意しないといけない。なのにドゥルーズのスピノザ論の 名前はよく耳にする。そういうこともあって、今回の本ではドゥレー ズのスピノザ論で読まていない部分、たとえば「分析的方法と総合的 方法」を論じた箇所や、フランス語訳『エチカ』の誤訳の指摘、『 単論文』における神の定義の問題点などといった箇所をかなり意識的 に引用しているんです
104 :
考える名無しさん :2013/04/02(火) 18:38:56.14 0
呉一郎 @lamed_vovnik 3時間 昔、小谷野敦先生が著書でブランショの思想を指して「文学青年のたわごと」とバッサリ切っていたなー、そう言えば。本当にその通りなんで俺ァ嬉しくなりましたよ。
>>104 そこから先、と言うか、その根拠が知りたいけど、短文じゃ無理かw
ドゥルーズも一定の警戒を置いたブランショの抽象性を切り捨てるような立場もあろうとは思う
まあ
>>104 のような田子作の下痢便ツイートは論外だが
107 :
考える名無しさん :2013/04/04(木) 23:14:07.52 0
北関東クラスタ ‏@superflat_2 2時間 モーリス・ブランショのテキスト「日常の言葉」(現代詩手帖2008年ブランショ 特集号p194)を読む。なるほどねえ。当方が「創造」を拒むのも、隠れて生き るのが好きだからだろうな。なるべく目立たず、何も起こさず、責任なしで、 同じことを繰り返しながら、誰でもない人生を生きることの真理。
108 :
考える名無しさん :2013/04/07(日) 00:41:28.90 0
<…それで、ジル・ドゥルーズの『べルグソン』の訳本 (宇波彰訳、一九七四年)が出たときに??あれは『本 居宣長』が終ったころだと思いますけれど??彼の心残 りは『感想』だろう、次は『感想』をやるだろうと思っ て、ちょうど間違えて二冊買っちゃったから、彼に一冊 贈ったんですよ。アインシュタインとの論争では、ベル グソンがだめだということばかり言われるけれども、そ の経過においてベルグソンはとてもいいことを言ってる んだということが、書かれているんです。 大江 ドゥルーズが書いているわけですか。 大岡 ええ、「註」の中に書いてあるんです。そのほ か、ベルグソンについて、差違から入った、新しい見方 もある。その時はとっても喜んでたそうですよ。だいた い礼を言わない男でね。ぼくは彼が礼を言ったの聞いた ことがないですよ。(笑)> (大岡昇平「追悼小林秀雄 伝えられたもの 対談大江健三郎」 大岡昇平全集別巻1996.8、669頁より。初出『文学界』1983.5)
自我を否定しつつ自我の重さに耐えられずマンションから飛び降りた人
彼女には、もう〜♪こうするしかないのだ〜♪ 13階の屋上から♪身を投げる事〜♪
「ねえ、エンペドクレスのサンダルの話知ってる?」 「え? なんだって。」 「エンペドクレスって、世界で一番最初に、純粋に形而上的な悩みから自殺したんですって。」 「へえ。」 「それでヴェスヴィオスの火口に身を投げたんだけど、あとにサンダルが残っていて、きちんとそろえてあったんですって。」 「へえ。」 「素敵ね、エンペドクレスって。」 「うん(?)」 「サンダルがきちんとそろえて脱いであったんですって。いいわあ。」 「ふーん。」 「ねえ、とってもすごい話じゃない?」 「うん。」 『赤頭巾ちゃん気をつけて』(15-16p)
113 :
考える名無しさん :2013/04/18(木) 04:38:03.08 O
差異と反復、読み終わった! ドゥルージアンの人に聞きたいのは戴冠せるアナーキーな生き方なんてできるのか? よほど恵まれた環境じゃないと無理なのでは、と思った!でも面白かった!
戦後最大のポウイスト
まともなスレだな。よっしゃー、、タルムード、マイモニデス、 ルター、プラナイティス神父、ヘンリー・フォード、マックス・ウェーバー、テルトゥリアヌス、そして 決定的な、著書「道徳の系譜」を読んだ。(ニーチェは恐らく、文献学者であったのに、タルムードそのもの を読んでいない、故にテルトゥリアヌスからの間接的情報でしか知らない。だがニーチェの洞察は、それらで充分だった。 ニーチェの敵は、「言葉を使ってあれこれ言い訳、弁解、するやつ」、おおざっぱにいえば、「弁証法」 もちろんヘーゲルも含む、」、もっとおおざっぱに言えばユダヤ人である。だが、ユダヤの創造力に期待する・・その視野の広さ。。 ニーチェはスピノザの注解と言えるかもしれない、スピノザはすごく分かりやすい。この二人は明らかにつながっている。 そして、ドゥルーズは完全にとは言わないが、この偉大な二人を理解し、 敵はだれか?をはっきり言った。だがドゥルーズの仕事はそれに とどまらない・・。
117 :
考える名無しさん :2013/04/22(月) 07:31:19.22 0
マルタンのドゥルーズ論が河出文庫で、ヘーゲル論が法政から出るな。 最近来日してるし、弟子筋では活躍が目立つようになった。
ヘーゲルはドゥルーズの天敵じゃないの? なんでドゥルージアンがヘーゲル論じてるのかわからん。
カント論を「敵について書いた」みたいなもんでないの
121 :
考える名無しさん :2013/04/25(木) 20:24:22.96 0
316 名前:考える名無しさん :2013/04/24(水) 23:27:29.60 0 萱野がラジオの中で言ってる、日本で言われてるフランス現代思想は みんなハッタリ、と切って捨ててるのが興味深い。 まあ同業者の生態をつぶさに見てのことなのだろう。
122 :
考える名無しさん :2013/04/25(木) 20:25:36.82 0
302 名前:考える名無しさん :2013/04/24(水) 13:00:11.15 0 昨日荻上ラジオに出ていた萱野稔人の喋りは萱野が生きてる上で本音が露骨に表出されていて それは残念を誘うのと同時にとても安堵できた
・ドイツの哲学者 カント、ヘーゲル、マルクス、ライプニッツ、ゲーテ、ヘーゲル、フィヒテ、シェリング、ニーチェ、ハイデッガー、アドルノ ・アメリカの哲学者 クワイン、パース、クリプキ、W・ジェームズ、サール、パトナム、ミリカン、デネット ・フランスの哲学者 ラカン、デリダ、ドゥルーズ、デカルト、ニザン、リオタール、ボーヴォワール、サルトル、バタイユ、ベルクソン、フーコー、カイヨワ ・イギリスの哲学者 ラッセル、ロック、ウィトゲンシュタイン、ベーコン、スペンサー、ホッブズ、ミル ・ロシアの哲学者 コジェーヴ、バフチン、バクーニン ・インドの哲学者 龍樹、タゴール、ガンディー、シヴァ ・中国の哲学者 孔子、毛沢東 ・韓国の哲学者 李南麟 ・日本の哲学者 【東浩紀】、西田幾多郎、田邊元、三木清、大森荘蔵、九鬼周造、西谷啓治
124 :
考える名無しさん :2013/04/26(金) 01:44:27.06 0
ヒガシは抜いとけぼけ
125 :
考える名無しさん :2013/04/26(金) 14:58:40.20 0
>>115 >ドゥル−ズは、「差異と反復」の思考過程に於いて、弁証法の「アウフヘ−ベン(現象化)」を
どのように捉えているのでしょうか?
126 :
考える名無しさん :2013/05/02(木) 18:05:18.98 0
608 名前:考える名無しさん :2013/05/02(木) 01:25:27.18 0 國分ドゥルーズ論最終回読了 わくわく感はあまりなかったがバカな自分には大変勉強になった。 40ページほとんど解説だけといっていいんじゃないかな。 最終回が一番解説的な気がする。いろいろモヤモヤがとれて読んでよかった。 やっと最低限の全体像が見えた気がする。その分興味も消えたが。 おすすめ。
127 :
考える名無しさん :2013/05/02(木) 18:34:13.77 0
浅田: 老人病院に行けば口癖のように「死にたい」って言う人が多いように、 死は解放でもある。むろん、そんな人たちでもたまには幸せな瞬間を過 ごしてるわけで、だから生きてたほうがいいって言うんだけど、介護す る側はその瞬間の思い出で元気が出るにせよ、本人は無理に生かされた くない場合も多いと思うな。 むろん、人間には生への執着がある。宗教で病気が治るって言われて、 莫大な金を出す人の気持ちも、わからなくはない。科学的にはおかしく ても、「不条理ゆえに我れ信ず」ってやつで、信じてしばらくの間でも 心の平安が得られればいいともいえる。それがいけないというなら、新 興宗教だけじゃなく、仏教もキリスト教もいけないでしょう。 でも、人間は死ぬわけよ。その死を悲劇的に捉えるべきじゃない。逆に、 ずっと生きようとして延命を図るのは拷問かもしれず、ソンタグはあえ てそっちを選んだけど、僕なら早く生の苦しみから解放されるほうを選ぶな。
ガンになりかかりで身体苦痛でもガンバって生きよう!!!
自我を否定しようとしたが自我に負けて窓から飛び降りちゃった人
自我から逃れるのではなく、それを突き抜けること。 自我にこだわり抜いて抜けた底の下に広がる風景を描写すること。
ドゥルーズの自死は 『差異と反復』の第三章の愚劣についてのテーマを思い出すけどね 彼は自死することで彼のヒーローたちの仲間入りをしたんじゃない? 「バカだろ? 笑ってくれよ」 と言いながら飛び降りた感じ
単純に病気の苦しさからだろ? 人の死を、変なふうにいじり回すなよ。
笑い死に 歴史上の事例 紀元前3世紀の古代ギリシアのストア派の哲学者クリュシッポスは、ロバに葡萄酒を与えた後、その酔った ロバがイチジクの実を食べようとしている様子を見て、笑い死にしてしまったと伝えられている。 アラゴン王マルティン1世は、消化不良にコントロールできない笑いが重なって、1410年に死亡した。 1556年に没したイタリア・ルネサンス期の作家ピエトロ・アレティーノは、「笑い過ぎて窒息死したと言わ れている」。 ビルマ・タウングー王朝のナンダ・バイン王は1599年に「訪れたイタリア人商人からヴェネツィア 共和国は王のいない自由な国だと聞かされて、笑い死にした」[10]とされている(実際には、退位後の1600年に 暗殺されている)。 1660年、スコットランドの貴族で、博学者であり、フランソワ・ラブレーの作品を最初に英訳した人物である トマス・アーカートは、チャールズ2世が王位に就いたと聞いて、笑い死にしたと言われている。 現代の事例 1989年、デンマークの聴覚学者オレ・ベンツェンは、コメディ映画『ワンダとダイヤと優しい奴ら』を観て、 笑いながら死んだ。心停止にいたる直前には、心拍数は1分間に250 - 500回に達したと推測されている。 2003年、ダムノエン・サエン=ウムという52歳のタイのアイスクリーム売りが、寝ている間に笑いながら死ん でしまったと報じられた。妻は夫を起こそうとしたが果たせず、夫は寝たまま2分間笑い続けた末に、息を引き 取ったという。この男性は、心不全か窒息によって死んだものと思われる。
病気の苦しみこそ自我の存在を示す
ドゥルーズの死についてあまりあれこれ言うのは、 愚劣だ。 どんな人だって死ぬほど苦しい思いを必ず生きていくうちに味わうものだ。 あれこれ言ってもあんたがたも、必ず死ぬ。
そうかな だったら生前に自我がどうこう言わなきゃいいわけでね
あれは舗道への、大地への生成変化だ
>>137 具体的にどの箇所に「自我論」が出てくるのか?
河出文庫のマルタンのあとがきによると鈴木泉らがピエール・モンテベッロのドゥルーズ論を訳してるそうだ 同じ年に2冊ドゥルーズ論を出してるがどちらかはわからない
マルタン本買ってしまった つまらなかったらステマと見なそう
VRINの”DELEUZE"(2008)のことかな?
マルタン読了。新書より少ないぐらいの枚数でほぼ全著作に言及してる。 ドゥルーズ読みには入り易い文体だ。 いきなり導入部がマゾッホ論だったり、表層の哲学者という側面を押しだしてるあたり、妙に元総長を連想する。
ABCの字幕版を希望
このスレの古い過去ログに英語版字幕のファイルがあったな、アベセデールのやつ。 とてもDVDに字幕を差し替える、ハカー的才能なし。ソフトあるからできるかもしれない。
文庫本でスピノザと表現を出すのかな
ABCの字幕版出ないね 文庫本そこそこ売れてるんだから 需要はあると思うんだけど
ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書) [単行本(ソフトカバー)] 國分 功一郎 (著)
雑誌論文のままを、載せるんだったら、俺は買わない本になりそうだ。
読むこと自体に意味を見出してる奴多そう
東大の鈴木泉の「スピノザの方法のライプイッツによる精緻化」 という発表論文があるが、鈴木はドゥルーズを本腰で論じてない。 その分ドゥルーズでステージで踊ってるのが国分という構図。 まあそれだけ、市民権をDGが得ることになるなら結構だ。
154 :
考える名無しさん :2013/06/01(土) 10:34:19.55 0
>>153 ドゥルーズが市民権を得ると、哲学はどう変わるの?
ドゥルーズはどうしていつも道化師のようにおどけた声遣いで話すのか?
>>154 ポスト・デカルト主義、ポストカント主義を鮮明に打ち出した
哲学が、認められるとしたら大きな出来事だから。
>>158 なんだ逃げるのかw
ドゥルーズの話するやつって、中身の話になると逃げてばっかりw
泉さんの方が、学者としては國分なんかより遥かに格が高いからな
>>156 それ、デリダにもそのまま使えるキャッチフレーズでね?
なんか哲板に質問ちゃんが湧いてるよな
>>162 まあ、答えられないことを書き込むほうが悪いんじゃないか?
ドゥルーズはツリー状の思考に対してリゾームの思考を提示した インターネットのカオス状態を予言したとも言える 質問、解答といったヒエラルキーはまだツリー状の思考に毒されている <‥…「私と同じようにやれ」と 言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたちに とっての唯一の教師は、わたしたちに 対して「私と共にやりなさい」と言う‥… > (『差異と反復』単行本p.49より) ...
>>156 > ポスト・デカルト主義、ポストカント主義を鮮明に打ち出した
> 哲学が、認められるとしたら大きな出来事だから。
こういう言い方をするのなら
ドゥルーズもハイデガーへの注釈でしかなくなってしまう
デカルト主義批判とかドイツ観念論批判とか分析哲学の売り文句と変わらないし、 むしろまたかという感じだよね。。
ドゥルーズもぐら あるところにドゥルーズもぐらがいました ガタリ犬とハイデガー狐の住処をつなぐ穴を開けて 真面目な分析哲学ザルの怒りを買ったりしていました もぐらは死んでしまいましたがその残した穴は あらゆる動物の遊び場になり 移動が楽になりみんなに感謝されています
ドゥルーズに感謝しない奴はドゥルーズスレに書き込むな
>>170 なんで? 批判は受け付けない、と?
ドゥルーズって、ナチ、とか、大政翼賛会、みたいなもんなの?
>>172 原発反対デモができるのは、ドゥルーズのおかげなの?
>>172 ドゥルーズは新しい概念を作った
それを共通言語にみんな会話している
あなたのような幼い質問中毒者を相手にできるのも
その新たな概念のおかげだ
それは接続詞の「と」と言われることもある
176 :
考える名無しさん :2013/06/02(日) 15:50:19.00 O
「おかげだ」とか「〜ではなく〜」とか自分から因果関係や論理的関係を述べてるわりに、 他人に訊かれた途端に答えられなくなるのがドゥルーズ思想なんだね。
ドゥルーズに感謝すること そこからしかドゥルーズははじめられない
>>177 ドゥルーズに感謝したいんだが、なににどう感謝すればいいかわからないな。
教えてくれよ。
用匿名的方式公表意見的人、在現実中不會興他人接触。ー般説来、
想要脱離匿名状態的欲望興政治結合的時候、有一個顕著的傾
向、就是容易産生排外的・?視的運動;在政治上會出現法西斯主義。
但這是必然的事情、我們除了暫時容忍、没有別的辨法。 想要透過密名
的方式宣揚理念、是心行不通的。人的「 主體」是由他身處的場合或結構
所形塑而成的。證據很明顯‥人一旦離開匿名的状態、就會立刻改變他
的意見。
所以、日本之所以貢要示威活動、並不是為了要發動革命;但總而
言之、示威活動的存在是很重要的一件事。不過、為了這個目標、我們
需要Association。
『柄谷行人談政治』柄谷行人 / 林暉鈞 / 心靈工坊 台北 22011-7-4 180〜1頁
(p)(窓)
http://book.douban.com/subject/6756119/ 匿名で意見を述べる人は、現実に他人と接触しません。一般的にいって、
匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動
に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的に
はファシズムです。しかし、それは当たり前なのだから、ほうっておくほ
かない。2ちゃんねるで、人を説得しようなどとしてはいけない。場所あ
るいは構造が、主体をつくるのです。その証拠に、匿名でない状態におか
れると、人はただちに意見を変えます。
だから、日本では、デモは革命のために必要だというようなものではない。
とりあえず、デモが存在することが大事なのです。しかし、そのためには、
アソシエーションがなければならない。
柄谷行人『政治と思想』平凡社ライブラリー 151頁
どうみても「ドゥルーズ信者はみな馬鹿である」という印象のための 工作にしか見えないですなw
英米哲学勢からポモは白眼視されてるけど、 ドゥルーズはとくに馬鹿にされてると思う。 やっぱソーカルに直にネタにされたのが悪かったのか。
欠陥のない思想家って居るんだろうか?
直ではなかったような? それはともかく、ドゥルーズのどこに感心すればいいのか、わからない。
文庫でたくさん読めてうれしい
日本人がいわゆるポストモダンに飛びつくのも飽きてアンチに転ずるのも極端なんだよ 案外英米では最初から今でも冷静にポストモダンを受け止めてるよ
ツイッターでドゥルーズで検索するとアニメアイコンばかり引っかかるな
また再評価されるかも知れないし、読んでもいいと思う。
マドンナが今でもアメリカでは1位をとるのに日本では売れないというか洋楽すら離れてるみたいな感じかな
>>189 長いのを二つ三つ読んだけど、どこに感心すればいいのか、わからない。
ちょっと感心したのは、どっかの大学での講演記録。
哲学は大学教師になるための学問に成り下がってるとか言ってた。
自分が大学教師なのに、と思って、少し感心した。
>>191 構造主義以降の思想は正直社会科学も影響があるんじゃないかな?
たとえばマクロ経済学とか経営学の組織管理論とか・・・
あくまでもおいらの想像だけど。
哲学として考えると違和感を感じるかもね。
>哲学は大学教師になるための学問に成り下がってるとか言ってた。
これは経済学でも似てることだと思う。
いまの主流の経済学は実体経済(ぶっちゃけ中小企業のための経済学って言い換えてもいいと思う。)のための学問ではなくて、
経済学者のための学問になってると思う。
未だにケインズかハイエクかって議論から抜け出せていない。
彼ら以降の経済学者(ハイエクは思想家って気もするけど)で世界経済をリードした人は未だいないと思う。
訂正 意味不明になったw >構造主義以降の思想は正直社会科学も 誤 >構造主義以降の思想は正直社会科学の方面に 正
>>192 経済学の話はやめたほうがいいんじゃないだろうか?
せっかく書いても、全部でたらめに見えてくる。
>>194 哲学の領域だけでは上手く説明できなくてw
語彙が少ないからだけど。
あくまでも説明の手段でしかないよ。
ドゥルーズが扱った領域ってのは哲学だけじゃないんじゃないかな?
>>195 ドゥルーズは極端に狭い哲学かと思ってた。
存 在=潜在性 | 複数世界 | 発生論 ライプニッツ| スピノザ、ベルグソン ______|______ 自由間接話法| 系列 ヒューム | ニーチェ | 現存在=現実性 参考:ドゥルーズの方法 ドゥルーズ=潜在性の現実性と、ハイデガー=現存在の存在はベクトルは逆だが似ている ドゥルーズは線を志向し、ハイデガーは点に帰着する ドゥルーズ哲学は、純哲学的にはスピノザ(単一性)とライプニッツ(複数性)の調停という形を取る ちなみにドゥルーズのヴィトゲンシュタイン嫌いは有名だが数学を複数体系とする考えは似ている 違いはドゥルーズが法よりも判例を重視するところである
>>183 ソーカルの論文の五年前に「ミルプラ」で答えは回答は出ていた。
ソーカルといえば、ドゥルーズを貶せる、何とかなるという愚かな
デマゴギーはすでに誰もが見抜いている。
p318
「遊牧科学は、王道科学あるいは帝国的科学とはまったく異なった
奇抜な仕方で展開する。」
「これら二つの科学の様態が相違するにもかかわらず、
国家科学は自らの主権の形式を遊牧科学の発明に絶えず、
押し付けるからである。国家的科学機械から占有できlるものだけを
採用し、それ以外の残りは、真の科学的資格を持たない応用範囲の狭く限れた
便法としてしまうか、あるいは単に抑圧してしまうのである。」
ここでいう「遊牧科学」の宣明こそ、「マイナー哲学」としての
D・Gの理論があらかじめ織り込んである、前提である。
どうして、遊牧"科学"なんて呼んだのだろう ドゥルーズのシンパでない人にとっては違和感アリアリだよね?
>ツリー状の思考に対してリゾームの思考を提示 それって単なる価値観の表明であって哲学じゃないよね
哲学は往々にして価値観の表明になるね。
202 :
考える名無しさん :2013/06/03(月) 17:35:27.65 O
文章がへたくそなんだわ、こいつは。ガタリがいないとなにも語れないし(笑)
は?デリダと比べて、すごく簡潔なフランス語だと思うけど? ガタリ以後はむしろ混濁したフランス語になった
>>203 日本人が、フランス語を云々してもねえw
>>204 あと何年かはしらないが大学入ったらもう少し知のパースペクティブが広がると思う
>>205 >知のパースペクティブ ってなに?
フランス語わかったちゃんになること?
207 :
考える名無しさん :2013/06/05(水) 00:35:23.60 O
フランスの哲学者は糞だわ
デカルトやルソのこともディスってるの?
ってルソーはスイスだなw
フランスに比肩しうる哲学大国なんてほとんどないだろ
近代哲学といえばドイツでしょ。 フランスは、哲学でも、世界最高の二流。
うん、ドイツと答えるのが常識 ポモ世代末期かなあ、フランスとか言っちゃうの
というかドイツやイギリスにはカントやフッサールやバークリーやヒューム級の哲学者は、 フランスにはデカルトとベルクソンしかいない。ドゥルーズもベルクソンの解説者だし。
日本語がおかしいやつの言うことなどあてにならん
国分の「哲学原理」やっとコピーして読んだ。 このくらいで良いにしておこう、という敢えて「フーコ」の補助線で終わらせている。 一般的にはこのくらいのことでも凄く立派な論考に思えるだろう。 新書で出すには十分な啓蒙書になりそうだ。 国分には言いたいことが、たくさんあるが、玄人芸としての判断で、ここまででいいかな という線かも知れない。 博論が「スピノザの方法」と聞くがやっぱり、と思うようなことになった。 色々氏の論文等読んでみたが、ドゥルーズはスピノザを明らかに 「差異と反復」において、件の「ニーチェ」に即して修正しながら導入しているのは、 明らかに述べられてるのにもかかわらず。 どうしても国分にはニーチェのファクターが欠けているというのは、 プロの間での定見というしかないかもな。
p76 「実体は、それ自体、諸様態についてのみ言われ、しかも 諸様態についてのみ言われる鵜という条件が必要になるだろう。 そのような条件が満たされうるのは、存在は生成について言われ、 同一性は異なるものについて言われ、一は多について言われる等々となるような より一般的なカテゴリー上の逆転という代償を払うときだけである。」 p77 「永遠回帰とは存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な 実在化なのである。」 国分に腹立たしい思いをさせられるのは、「自我同一性」に関する 社j会心理学(起源はヘーゲル)のディスクルスを未だに大事後生に 持ち上げる間抜けぶりが、ドゥルージアンの本懐にそぐわない と思うからである。
ドゥルーズだにね。
「永遠回帰」はニーチェを襲った一回きりの「体験」だからなあ 理論化しようとすると、どんどん怪しさが増す ニーチェ自身それに失敗してるしね
理論てw
(ドゥルーズのニーチェ解釈はどちらかと言えばスピノザ寄りだが) ライプニッツの多元論とスピノザの一元論を折衷し得たのが永遠回帰 超人思想=進化論への内在的反措定でもある
>>220 こんなデマゴギーで世の中を渡れるはずがない。
ライプニッツの多元論ってどういうこと? 『弁神論』の著者に対してさ
Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 私がドゥルーズを気にくわないもっともたる理由のひとつは、 彼の善悪二分法に見えるやり口だろう。ニーチェはよい、 アリストテレスやヘーゲルは駄目という彼の分類は非常に わかりやすいが、しかしそれを言い立てることによって 安易な正義の正当化に接近しているのではないか、 と私は懐疑する。
その反論は浅すぎる理解が浅すぎるからだ
ドゥルーズに対しては浅いがドゥルーズを扱う多くの者には該当するだろう。 しかしということはつまり223もその多くの者の変種に過ぎないのではないか、 と私は懐疑する。
kimarxは、一本も論文がないことからも分かるように ツイッターで140字ずつ、論証抜きに、固有名をちりばめただけの 知ったかぶりをして、他人を揶揄することしか できないへたれにすぎない。聞く耳をもつ必要なし。 「ポモ」と呼ばれる若手へのdisは続いているようだが、 相手からは一切無視されている。
ドゥルーズだったら長生きすればしれっとヘーゲル論やアリストテレス論書いて評価すべきところは評価するに決まってるな 弟子のマルタンのヘーゲル論が邦訳されたばかりだ
kimarxなあw 最初は、「すげえ!こんなにたくさんの哲学者の名前を知ってるんだ!」 と思ってけど、実際哲学者の名前を多く知ってるだけだった 即フォロー解除したわ
まあでも、ポモにかまけるより、カントやプラトンを10年かけてよめ、というのには 共感したかな
>>228 残念ながら2行目の感想を持つ者に3行目の判断は無理
できるんだなこれが
>>231 うまいレジでくくってもいいけどそんなに甘くないよ。
わかなん ‏@j_u_t_u_n_a 非公開アカウント ふむふむ國分功一朗「ドゥルーズの哲学原理」をぱらぱら。ネグリ&ハートとジジェクの、 「ドゥルーズにおける政治的な態度」にまつわる対立が面白い。私はジジェク派かな〜。 ドゥルーズは自由闊達に何でも語ったけど、基本はロマンチストの詩人だと思っているよ。
Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 千葉が書き上げてから、多様体の解説をした方がよいだろう。敵に塩を送るつもりは私はない。 これが簡単にさえわからないから、彼らはまちがいを起こしているところがあるのだけれども。 Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 私が解説をそこまでで止めたから、わからなかったのだろうか?気のせいだろうか? 偶然にしては、止まっているところが同じというのはできすぎている。それでは、いまのところ、 私がわかる範囲で多様体の解説をこれからしようか。 Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 國分がフーコーを批判する気を見せていたから、それをたしなめる意図もあって、 ドゥルーズのフーコー論を、ルーセル(カント)からメルヴィル(ホワイトヘッド)への、 点から線への移行というように図式化し、ドゥルーズとフーコーとの共通点を示した。 そのとき多様体の説明まで行ってなかった。 Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx これを読むなら多様体概念の読解という正面からの勝負を避けているとはいえ、別方向から、 散逸構造を暗黙のうちに参照しつつ、ドゥルーズを読もうとした小泉義之の『ドゥルーズの哲学』 の方が、『差異と反復』にはるかに深く踏み込んでいる。これより退行してどうする? Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 多様体の手前で止まったら、『差異と反復』の簡単な解説にもならない。 Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 超越論的経験論まで、ドゥルーズ = フーコーの点から線への移行までで國分が止まったのは、 多様体概念に触れるのが、こわかったからだろうか。それ以前にいろいろとまちがいがあるから ツッコミはいくらでも入れれるけれども。
>>234 こんなやつが研究者として認められてるの?
それとも、こいつ一人で妄想してるだけ?
「デカルトにもの申す。コギト=我思う故に我あり…は、そこに疑うべき他者がいるから成立するので、 いなかったら、自他の区別もつかず、コギトさえもエポケーされて、私たちは無の空間で一体化せざるを得ない。」 というような事を、ドゥルーズが語ってるのではと思われるけど、このスレ住民的にはデカルトってどうなの。
>>236 デカルト的な精神と身体の縦のヒエラルキーをスピノザ流に横に並べ直すのが
一般的なドゥルジアンだろうが、
柄谷がいうようにデカルトを悪者にして成り立つ哲学史は不毛だと思う。
参考:
「〈差異〉は…〈規定作用ソノモノ[私は思考する]〉と〈それが規定するもの[私の
存在]〉とのあいだの先験的な〈差異〉として発見される…」
ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日『差異と反復』
第二章、邦訳142頁)
「コギトは哲学的になった共通感覚(サンス・コマン)である」
ドゥルーズ(『差異と反復』第三章、p.170、邦訳210頁)
「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考する
もの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに
更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
>>237 むむ!そうなの?
國分さんの「ドゥルーズの哲学原理」の第二章に、無人島の話が出て来て、
ドゥルーズが
>>236 のような事を言っている様に読めるんだけど…。
気のせいかな。
何故國分の本なんかから結論するのか謎 ドゥルーズ自身のテキストを読め
>>239 横からなんだけど、どっちを読んでも社会的にはもとより、哲学的にも無意味じゃないの?
國分の住民投票プランに検討を加えるんなら、まだ意味があると思うけど。
自由間接話法、発生論の有無、系列の思考、ガタリとの関係、、、
「ドゥルーズの哲学原理」は基本的なドゥルーズの方法を押さえた
いい論考だと思う。
ただ「哲学原理」というからには、やはり、スピノザとライプニッツ
の折衷案たるドゥルーズ哲学の原理面への考察がもう少し欲しかった。
ドゥルーズ哲学は、純哲学的にはスピノザ(単一性)とライプニッツ
(複数性)の調停という形を取るが、永劫回帰や多様体論が
キーになるという議論は当然あり得るはず、、、
千葉某氏はライプニッツ派で國分氏はスピノザ派だそうだが、、、
発生論のないカント哲学にいら立ちながらもカント派であり続けるという
アカデミックな部分は評価出来る。
>>238 デカルトの「説得」に異議を持つのは理解できるが、
一般の読者がそれでデカルトが歴史的に乗り越えられたと誤解する危険がある。
スピノザがデカルトを読み替えたその方法は、それこそ日々繰り返さなければならない作業だ。
歴史的に乗り越えたとするならヘーゲル主義に堕するだろう。
ドゥルーズはスピノザ研究者として何度もデカルトに言及するが、デカルトのコギトを出来事して読むことで晩年は新たな地平を開いていると思う。
>>237 デカルトのコギトとカントのコギトは違うといっており、
ドゥルーズは時間的な了解を伴うもの、だといっている。
243 :
考える名無しさん :2013/07/06(土) 06:39:50.74 0
内なる差異って下位カテゴリーとどうちがうの
「差異は現象(フェノメノン)ではなく、現象にこの上なく近い可想的存在(ヌーメノン)である。」 (ドゥルーズ『差異と反復』第五章冒頭部分より)
そりゃそうだよ
《(媒介しかつ媒介されるものとしての)差異が反省概念であることをやめ、 現実的に実在的な概念を取りもどすのは、その差異が、たとえば、 もろもろの類似のセリーにおける連続性の断絶や、類比的な諸構造のあいだの 越えがたい裂け目といった、カタストロフを指し示すかぎりでのことでしかな いのである。差異は、反省的であることをやめれば、必ずカタストロフ的にな る。そしてたしかに、差異が反省的であるのをやめるということと、その差異 がカタストロフ的になるということは切り離すことができない。》 (ドゥルーズ著・財津理訳『差異と反復』河出書房新社)
「外国人であること、しかし、単に自国語ではない言語を話す誰かのようにで はなく、自分自身の言語においてどもること。二国語あるいは多国語を用いる ものであること。しかも地方語、あるいは方言とは関係なく、唯一の同じ国語 において。私生児であり、混血児であるが、人種としては純粋であるというふ うに。こうしてスタイルは言語となる。こんなふうにして言語活動は強度的と なり、価値や強度の純粋な連続体になるのだ。こうして言語は秘密となるが、 別に言語の中に秘密の下位システムを出現させるわけではなく、何も隠すこと などないのだ。」(『千のプラトー』 118-9頁)
引用も結構 ただひと言で良いから、自分の見解を載せてくれ
ポエム板でやれ
>>249 みんな思ってても言わずに我慢してることだよ
空気読め
キムさんは浅田彰に認められてるわけだから、 お前らがこんな掃き溜めでいくらくさしても痛くも痒くもないだろうな
ドゥルーズは自分でしきりに社会改革の実践を主張しながら、実践したのは精神分析の補助ぐらいかな? フーコーは、ドゥルーズの本の賛辞は書いたが、実際の対談では、まあ、ぼろくそと言ってもいい内容だ。 ドゥルーズは自分で書いたことが、結局はなんの役にも立たない哲学史の変形にすぎなかった、という思いがあったのかも知れない。 だから、後年、マルクスを読みだしたんだろう。
ツイッター覗いてみたが、 最近のキムの標的は、千葉ではなく、 ドゥルーズ本を出した國分のようだな。 相変わらずねちねちと気持ち悪い。
254 :
考える名無しさん :2013/07/15(月) 12:23:53.51 0
>>236 自我を含めて、すべての対象を「差異」として相対化する。
ドゥル−ズ哲学の差異化は、「自我(主観)」に対して最も強く現れている
と思う。 ドゥル−ズの「自我(主観)」の捉え方は、「コギト=私は考える故に私はある・・・
は、そこに疑うべき他者がいるから成立する」と記している様に、超越論的次元の「私(超越論的主観)」に
対して、疑うべき他者を設定して差異化している。
しかし、デカルトは述べている様に、方法的懐疑の極点で「私は疑っているが、そうやって疑っている私は疑えない」と
記しており、 この超越論的次元の「私」は、「不可疑な領域」として命題化している。
デカルトは、その究極的な根源を「不可疑な領域」と捉え、ドゥル−ズは「可疑なる差異の領域」として捉えている。
従って、事象(存在)の究極的な根源に於ける捉え方の違いが現れているので、認識論と存在論の根本に関わってくるものと思う。
デカルトの「疑えない」は「迷えない」だよ
256 :
考える名無しさん :2013/07/21(日) 19:41:29.45 0
第5のりんごってなに?
257 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 03:21:14.24 0
ドゥルーズに詳しい人、教えてくれい。 『スピノザ』第1章「スピノザの生涯」の最後に引用されている ヘンリー・ミラーの文章って、ミラーのどの作品に載ってるの?
260 :
考える名無しさん :2013/07/22(月) 21:48:56.62 0
土木板でやれ
時間イメージって要約するとどういうものなの?
「最近、アイドルみたいな若手学者の宣伝で、哲学にまったく興味のない人でも、誰も彼もが ドゥルーズだけは変によく知っているみたいな風潮が解せない、そんなに功績のある人じゃないのに」 って、知り合いの研究者が言ってたよ。
功績っていうか 一種の文学とかファッションとしての人気なんだろう どうでもいいけど差異を含んだ反復って宇野邦一の説明だと家族的類縁性そのままだよね
ドゥルーズは最初から人気ある いま物書きはじめたのは第4世代目ぐらいか
うん 今に始まったことじゃない で、読了できなかった人々がポエムと卑しめる側に回ってる
読了してもしなくてもポエムであることには変わりないと思うよ
レイコフによる比喩の定義にしたがえばドゥルーズの表現は明らかに創造的な比喩で 普通そういうのはポエムに分類されるんだ
今朝の日経にドゥルーズさんが載って嬉しい(^-^)
270 :
考える名無しさん :2013/09/01(日) 04:11:45.89 0
猫飛ニャン助 @suga94491396 4時間 「風立ちぬ」は明後日観る予定。明日はガキども最後の夏休みで混むこと恐れる。 不快なのは美学的に良い、実物観れば良いと分かるというハスミ主義者。ハスミ が実物読まずに帯書いた本知ってるが、それでOK。読まなくても分かる本はある。 映画も同様。いくら美学的に良くても愚作ある事知らぬ馬鹿め。
パイドロスを饗宴と訳しちゃう蓮実重彦のことか
小林秀雄「日本におけるドゥルーズ人気はわしが育てた」
275 :
考える名無しさん :2013/09/03(火) 02:32:15.24 0
■ 2013年10月刊行予定の本 『存在と時間』 ハイデガー 高田珠樹訳 予価:7,000円(税別)
ピンクパンサーであれ
駅前貴金属強盗
じ〜にゃすは、バルダミュ。
280 :
考える名無しさん :2013/09/13(金) 21:09:14.20 O
『哲学とは何か』を読んでいるのですが、サッパリですわ… 全然理解出来ないし、当然読み進めることも出来ない(汗 こんな読書体験初めて。
だって書いてる本人が理解してもらおうと思ってないからね
282 :
考える名無しさん :2013/09/14(土) 17:16:38.29 0
464 :考える名無しさん:2013/09/05(木) 18:04:07.06 0 @shoheizg @kanedaitsuki ドゥルーズとかデリダを日本の一般人に紹介した功績はあると思います。デリダはフランスでは2000部しか売れないが日本では数万部とか
>>282 数万部売れたらベストセラーじゃんww
シネマがバカ売れといわれて5000部だったのに、どこ情報だよw
284 :
考える名無しさん :2013/09/14(土) 20:02:14.81 0
東浩紀
専門的な哲学書は初版1500部程度。 バンバン売れるものじゃないから大概売り切ってからじゃないと重版されない。 数回の重版を経て1万部到達だろう。 デリダやドゥルーズの主要著作1、2冊が1万部に到達していないとは言わないが、数万部売れるという話しはにわかに信じがたいな。
286 :
考える名無しさん :2013/09/14(土) 20:29:08.24 0
東「デリダがフランス語版では2000部、日本語版では数倍」かな
>>280 ドゥルーズは『記号と事件』から読まないと
スピノザとライプニッツがそのあと
そこから他のドゥルーズの主著へ
288 :
考える名無しさん :2013/09/20(金) 04:25:55.00 0
叢書・ウニベルシタス 515 ドゥルーズの哲学 〈新装版〉 マイケル・ハート:著, 田代 真:訳, 井上 摂:訳, 浅野 俊哉:訳, 暮沢 剛巳:訳 四六判 / 294ページ / 上製 ISBN978-4-588-09973-1 C1310 定価:3,200円 + 税 発行年月2013年10月(発売予定日:2013年10月22日)
289 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 16:22:31.75 0
2013-09-19Add Star ●短いものだけど、数日かけて書いていた書評の原稿が書けて、編集者に送信したら、ホッとして、一日ぼんやりしてしまった。 ●ベイズ統計とか圏論とかの初歩的な教科書みたいな本をぼちぼちと読んでいるのだけど、我ながら「一体何を目指しているんだ、自分」という気がさすがにしてくる。四十代も半ばを過ぎているというのに、迷走しているしてるよなあ、と。
290 :
考える名無しさん :2013/09/21(土) 16:27:14.77 0
ドゥルーズに詳しい人にお願いだ〜
>>280 の人と同様オレもサッパリわからん。
どう読めばいいのか教えてほしい。
オレが今まで読んだ哲学書は、
フッサール「イデーン1-1」「デカルト的省察」
ハイデガー「存在と時間」「ニーチェ」「形而上学」その他
デカルト「方法序説」、スピノザ「エチカ」「知性改善論」
ニーチェ「道徳の系譜」「善悪の彼岸」「ツァラストラ」その他
あと日本人による上記の関連書いろいろ。
ドゥルーズが分からんのは、何か前提知識が欠けてるのか?
ドゥルーズの著作は、上記哲学者たちのものと、
なんていうか「ノリ」みたいなものが少し違うように思う。
とくに「アンチオイディプス」「ミルプラトー」は
テンポの早さ、熱、のようなものを感じるが、何がやりたいのかサッパリ。。。
一般の主婦から、おもしろかった、と手紙を貰い、
それを嬉しそうにインタビュアーに見せた、とかいう話を以前ここで読んだ。
自身も、学者やインテリの方がこの本を理解できないだろう、みたいなことを言ってたとか。
マジでどう読めばいいの?ド素人にも分かるように書いてくれ。長文すまん。
ニーチェをそれだけ読んでるなら「ニーチェと哲学」から読めば?
>>290 スピノザを読んでるなら『スピノザ──実践の哲学』もいいかも
ドゥルーズ単独の著作は総じてドゥルーズ=ガタリよりも読みやすいよ
ドゥルーズ=ガタリの著作を読む場合は、事前にマルクスとフロイトを読もう
あと、ドゥルーズ=ガタリを読みたいなら、國分さんのドゥルーズ本はお勧めだな。 「アンチ・オイディプス」をあたりを読むのに必要不可欠なフロイト、ラカンの精神分析 理論が非常にわかりやすくまとめてある。
294 :
290 :2013/09/22(日) 02:43:53.55 0
>>291 そうかポモの拠り所はニーチェだったな。読んでみるよ。
>>292 「スピノザ 実践の哲学」は読んだ(用語集は読んでない)。
この著作はまだ分かりやすかったしちょっと感動した、元気になった。
國分のドゥルーズ本、アマゾンレビューを見る限り良さげだね、買ってみる。
295 :
考える名無しさん :2013/09/22(日) 04:16:14.25 0
ドゥルーズ KAWADE道の手帖 河出書房新社編集部 (2005/10/21) この中の記事で國分がドゥルーズの勉強の仕方を書いてる。 ハードだけど正攻法
296 :
290 :2013/09/22(日) 15:30:17.87 0
>>295 数年前、何かのブックフェア用に國分がブックリストを作ってたな。
あれと同じような流れならハードだわ。
>>290 宇野邦一の解説書をまず読むといいよ。一番わかりやすくて堅実
ついでに言っておくと、今ドゥルーズを読むのは一種の知的娯楽以外の意義はほとんどないと思う…
学部で哲学専攻から大学院で理転した者の意見です。
哲学が全く無価値とは思わないけど。
なになにを読めとは言うが自分はどう読むかは言わないのがこのスレの特徴
ドゥルーズ読んだことないけど、千のプラトー面白そう
300 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 04:32:53.38 0
山内志朗 @yamauchishiro 9月16日 ださくてもかっこわるくても生き恥さらしてでも生きろ。世界は成功者のために存在しているのではない。ださくても生きること、これこそ存在を祝福することだから。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 山内志朗 @yamauchishiro 9月16日 貧乏だとかっこわるくても生きていくしかない。したたかになれる。今の若者はかっこよい。しかし、かっこわるく生きていくことができない。
301 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 04:33:40.41 0
山内志朗 @yamauchishiro 5時間 17世紀のスコラ哲学者は自分達の滅びを見抜いていたと想う。その上であれほどの完成度が高く、誰にも読まれないものを残していったのは「かっけー」のかもしれない。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 山内志朗 @yamauchishiro 5時間 17世紀のスコラ哲学者、たとえばポンキウスにしてもマストリウスにしても、彼らは材料を残して、スコラ哲学に滅びの運命を刻みながら死んでいった。
302 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 04:42:45.83 0
山内志朗 @yamauchishiro 9月15日 フォンセカとスアレスのレキシコンを作る必要がある。これだできあがると、近世哲学の地図がずいぶん変わるだろう。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 山内志朗 @yamauchishiro 9月15日 スアレスの思想は、伝統的な見解の集成ではなく、独自のテンションが込められている。半端じゃない強度が感じられる。 開く 山内志朗 @yamauchishiro 9月15日 スアレスの文章は、きめ細かくて、無駄な言葉がない。遠くから見ているのと、実際に彼のテキストを一字一句見ていくのとでは全く異なる。あれだけたくさん書きながら饒舌な人ではない。
303 :
考える名無しさん :2013/09/23(月) 04:49:30.39 0
山内志朗 @yamauchishiro 9月15日 近世のスコラ哲学は内容が煩瑣でつまらなかったから滅んでいったのではなく、メディアとして容量超過だった。いつも1000字使ってしか書けないツイートのように。
304 :
290 :2013/09/23(月) 15:48:42.73 0
>>297 宇野邦一の本はタイトル忘れたが読んだことがある。
なんというか、いわゆるポストモダン的、という印象。
この人の本を読んでもドゥルーズが分かるようになるとは思えなかった。
>>299 そうなんだよ、とっても面白そうなんだよな。
でも読むとチンプンカンプン。
スピノザを読んだ時のような高揚感は感じるんだけどね。
一連の奇妙なタームの意味はあまりつっこんで考えず、
スピードに乗ってザーっと読むのがいいのかもしれない。
上で教えてもらった國分の本によると、
戦争機械など有名なタームってドゥルーズじゃなくガタリに由来するらしい。
ジジェクは、政治的ドゥルーズはガタリ化されたドゥルーズであり本来のドゥルーズではない、
「アンチオイディプス」はドゥルーズ最悪の作品、とか言ってるそうな。
『ドゥルーズキーワード89』おすすめ 術語が特徴的な哲学者の著作は事典的なものがあると大いに捗る
捗るってなんで漢字に変換したがるんだろうね2ちゃん界隈w
2chでなくてもよく使われる漢字だからに決まっているだろう
変換キーを押して漢字が出たのをひらがなに戻す手間を省いただけ
やっぱり解説本の紹介ネタしか出てこない
そうそう、「誰それはこう読んだらしい」ばっかりなんだよwwww
>>311 学問ならなんであれオーソリティーに依拠しないと始まらないと思うんだけど。
ドゥルーズが学問じゃないというならそれでもいいけど。
まあ、確かに学問的じゃないものを許容する余地はあるよね。
どちらかというとオーソリティーが定まらないというのが現代思想が抱えてる問題なのかな。 ドゥルーズに直接学んだ宇野ですらオーソリティーとして認められないくらいだし。 まあ、あくまでこのスレでの話で國分先生はちゃんと認めてたけど。 ちなみに『ドゥルーズキーワード89』も良書だと勧めてたよ。 國分先生の講義を受講した三年前の話。
フランス現代思想の難解さは、詩的言語の難解さに近いから、どうしても解説者が必要になる
ドゥルーズってのはオーソドックスなのかいな。 近代哲学の正典、キャノンをひととおり狩猟して、自己の 哲学を形成したというキャリアをみれば、オーソドックス そのものだな。 ドゥルーズの形成した哲学システムなるもの自体は オーソッドクスとはほど遠いものにみえるけれども。 インサイダーにしてアウトサイダーであらねばならない それが今日におけるオーソドックスの運命かな。
哲学のCanonなんて単に支配的だった流れだったと言うだけの話だ。
317 :
考える名無しさん :2013/09/24(火) 04:12:54.24 0
810 :考える名無しさん:2013/09/23(月) 17:03:25.22 0 國分功一郎 @lethal_notion 2時間 江川さん、こちらこそ!素人がハンパに知識だけ身につけるとああな るって例として珍しくRTいたしました。不愉快な思いをさせてしまいすみません!@pettazzoniano …ドゥルーズ研究に関するあの悪意のあるツイートはなんでしょう。イメージだけで語っており、箸にも棒にもかからない… 811 :考える名無しさん:2013/09/23(月) 17:05:07.03 0 「素人がハンパに知識だけ」でドゥルーズ語るなBY國分功一郎
318 :
考える名無しさん :2013/09/24(火) 04:18:26.32 0
山内志朗 @yamauchishiro 5時間 自分の哲学的営みを信じ切れずに、反復し続けること、そこには哲学的問いの根源の姿がある。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 山内志朗 @yamauchishiro 5時間 哲学は苦しみから抜け出るために存在するのではない。ヴィトゲンシュタインは、哲学的な難問など存在しないことを証明し続けた。自分が行った非存在の証明を信じられなかった。
こんなポエムを哲学として語る傾向はやっぱり浅田がつくっちゃんだろうね
320 :
考える名無しさん :2013/09/25(水) 00:29:11.79 0
山内志朗 @yamauchishiro 1時間 人魂とは死後に漂うものではない。燃え尽きた生者が背負っている青白い怨念のことなのだ。それを忌み嫌ってはならない。怨念無しに生きられるものは幸いなのか、人生を知らないのか。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 山内志朗 @yamauchishiro 3時間 幸福は命令でも規範でもない。人生の目的を幸福において、その幸福を安くて手頃に買えるかのように語って、それで稼ぐのは、概念の切り売り商人のすることだ。 開く 山内志朗 @yamauchishiro 3時間 幸福になることを強制し、幸福であることを強迫観念として押しつける倫理学は勝ち組のために倫理学だ。幸福になれないことは、罰ではない。
哲学するとは、最も本来的な意味で、愛撫である― 思索へのこの上ないひたむきな愛の証し、知に触れる絶対的悦楽の証しである (ノヴァーリス) 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない (西田幾多郎) 人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。 あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。 自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係(ry 浅田も何もないわ そんなやつ昔から沢山いるがな(´・ω・`)
本屋で千のプラトーとアンチオイディプスを少し立ち読みしてきた。 逆立ちしても理解できそうに無い
あれは本棚に飾っとくもの つまりインテリア
>>323 www
テンション高い文章はカッコイイんだけど、読んでもよく分からなかった
「アンチ・オイディプス」に関しては、同本翻訳者の一倉さんが出してる 「現代フランス思想への誘い」が、個人的には一番役にたった。 順序通り章ごとに解説する参考書みたいな感じだから、同時に読み進めると理解しやすかったな。
学問っていうより文学作品に近いと思う
君、わかってるね。
シネマ1,2で付与された質的定義、文化的分類こそがドゥルーズの最高峰
ピエール・モンテペロの原書を読んだがとても良かった。 翻訳をはおめでたいです。
旧版のハート訳本を買ってみたが、「存在の一義性」を 「有の均等な配分」と書いてあったので、 こりゃどうかな、と思って読むのやめた。
『記号と事件』を読みました。 難しいorz 次は『フーコー』読もうかと思ってます。
333 :
考える名無しさん :2013/10/07(月) 04:21:57.35 0
>>333 面白そうな本だけど誤爆?
さすがにアームストロングの本はドゥルーズと関係がなさそう。
ハートの本。惨め。 旧版p57 「「一義性は存在の一般的一様性(同等性)と共有性を含むが それは潜勢性的な平面にしか現れないのである」 これじゃ再販してどうなるんだ〜。
>>335 一応ヘーゲルに対抗するという意気込みから
ハートは書いている所は見どころだが、
「存在の一義性」「実在的区分」
の説明が、まだ雲をつかような話の水準
での理解でしかないのが、欠点。
とはいえ、ドゥルーズのトリアーデについて
死後一年で書いていたというのは、
野心的といえる。
(とフォロー)
337 :
考える名無しさん :2013/10/19(土) 22:51:58.11 0
難しいことを難しくいってるだけ、それがドゥルーズ。 読む必要はない
読まなければ語れないし、また読んだからといって語れるわけでもない
存在と時間は簡単なことを難しく言ってるなあと思った
筆者が簡単なことしか書いていないではなく、自分が簡単な部分しか読み取れていないとは思わなかったのか?
難しくしか言えない簡単なことってあるからな
そういうレベルの言い訳しかできないのがフランス現代思想の種差
そのレベルに到達できないものの僻み?
ドゥルージアンが僻みとか言うんだw (´,_ゝ`)プッ
347 :
考える名無しさん :2013/10/22(火) 03:43:58.98 0
Berial @setzgg 7時間 マイケル・ハートの単著、『ドゥルーズの哲学』の翻訳が新装重版され、10月25日発行とありました。 ニーチェの章の翻訳を担当したのは、本当に大昔の日々。この頃のぼくは、今のぼくと本当に同一人物なんだろうか。 翻訳者の一人も、同じような違和感を覚えているみたい。 でも、名著ですよ。
「僻」と「襞」は似ている
だー。マイケル・ハートの改訳本の 訳者誰も博士論文通ってない。 フランス語原典に当たらずに英語版との照合のみの訳。 国分がハートを揶揄するだけのことはある。 ま〜二流だ。
博士論文に人生と思想を賭ける人もいるんだね。 正規雇用の教師になれば一生生活が保証されるから当然だね。 でも、博士になっても正規の教師になれるとは限らないのかな?
>>351 どっちに僻んでるんだろう?
博士であること?
正規雇用の教師であること?
俺だったら、生活の保証が少しだけうらやましい気がするな。
雇用だろうな 人文系で、賞はおろか著作もないような人がいきなり准教授 珍しいと思うは
>一生生活が保証されるから されないよ 雇用されても、私立なら学部単位、大学単位で潰れるところも今後さらに出てくる
それを言ったら話にならないw 私立で雇用される前提はおかしくないか?
国公立でも人文系は肩身が狭いところが多いし 実際に自分の研究分野(教育分野)を多少変えないと行けないところがほとんどだよ そんなwを付けられるような状況は10年前までの話
ポエム評論に税金使っちゃダメだよ
>>357 そうはいっても、方法的な成り立ちが、元来、人文科学には
一括りで「ポエム的」なところが大なり小なりある。
経済学や法学部との比較で。
357さんは「お金のこと」を言う限りは、「経済」の観点から 考えている。経済学は「物財の交換」の活動の側面に限定された、 条件下で「人間」を見る。法学は「行為の規範性」の側面について のみ「人間」を見ることを強いられる。各々学問的制限かにある。 人文科学は「人間観察」を最も制限のない「生」の形で語る。 ポエム的性格の学、を侮るのは好みであるが、 今や一番需要があって、面白がって望まれるものは 「フィクション」であり、日本のコンテンツビジネスは 最初にもどって言えば「お金になる」ものなのだ。 侮るなかれ。ついでに言えば表象文化論は それに目配りしたディシプリンである。
人文系への予算は基本的に図書収集保存だけに使うべきだと思う
ドゥルーズの『フーコー』読みました。 粘り強い文章で充足感がありました。 フーコーの『知の考古学』の読解は非常に勉強になりました。
362 :
考える名無しさん :2013/11/01(金) 03:59:01.95 0
『 「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』 山内志朗 定価2940円 (2013年11月下旬 発売)
363 :
考える名無しさん :2013/11/02(土) 03:28:38.64 0
「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ [単行本] 山内志朗 (著) 価格: ¥ 2,940 内容紹介 哲学とは、「誤読」への勇気である! 中世・近世から現代までの哲学の根本問題の系譜を、第一人者が「誤読」をキーワードに鮮やかに読み解く。 ドゥルーズやフーコーによる中世・近世の大胆な解釈。それらは現代思想の世界に強烈なイ ンパクトを与えたが、批判も少なくない。 そう、たしかに彼らの読みは間違っていたかもしれない。しかし、それは正しい読みよりも もっと正しい「誤読」だったのだ! 現代哲学の格闘をその源流から辿り直し、超高密度の議論で語りつくす挑戦の書! 登録情報 単行本 出版社: 青土社 (2013/11/22)
364 :
考える名無しさん :2013/11/02(土) 14:42:31.24 0
内志朗 @yamauchishiro 3時間 哲学はかろやかであるべきだ。坂部恵先生はそれを教えてくれた。折口信夫や小林秀雄や本居宣長とも対話できるような哲学でなければ日本人として哲学をする意味はないと教えてくれた。
365 :
考える名無しさん :2013/11/02(土) 14:44:11.20 0
山内志朗 @yamauchishiro 3時間 哲学はかろやかであるべきだ。坂部恵先生はそれを教えてくれた。折口信夫や小林秀雄や本居宣長とも対話できるような哲学でなければ日本人として哲学をする意味はないと教えてくれた。
坂部恵の日本語の哲学は期待して読んででみたらオカルトだった
367 :
考える名無しさん :2013/11/02(土) 16:16:39.94 0
ドゥルーズオカルト
368 :
考える名無しさん :2013/11/03(日) 03:48:25.72 0
山内志朗 @yamauchishiro 4時間 「友だちって、いなくちゃいけいないもの?」−−私にはずっと友だちがいなかった。小 学校も中学校も高等学校も。田舎の神童はそうなってしまう。ただ、都会では凡才になるところが滑稽だ。 山内志朗 @yamauchishiro 4時間 孤独で、いじめられ、先生からも無視された。授業なんか聴かなかったし、教科書は一日 で読み終えたから、授業の時は、空ばかり眺めていた。友だちなんかいなくても平気と強 がっていても、東京に出てきて、凡才の確認を毎日していると寂しくなった。 山内志朗 @yamauchishiro 4時間 大学一年生の時は、だからパチンコと酒だらけの日々である。夕方ナイターを聴きなが ら、安ウィスキーばかり飲んでいた。哲学書は乱読していたけれど。 山内志朗 @yamauchishiro 4時間 このどうしようもない落差はどこから来るんだろう。オラの父ちゃんは木こりだったし、 母ちゃんは飯場の飯炊き女だったと納得しようとしたりもした。一日のバイト代550 0円をパチンコですって下宿にかえってまたバイトに行くのは、ちゃんとシーシュポスの神話でした。
國分さんの「ドゥルーズの哲学原理」読了。大変な労作だ。 岩波「思想」連載のころより、哲学的徹底性が深化している。 これからも頑張って、よい研究書を書いてほしい。
読了ってw 読むだけなら中学生でも読めるよ
「読了」ってのを本を読んだことを自慢しているんだと思い込むのは確かに中学生レベルだ
読了にはそれ以外の意味はないよ
本をちゃんと読むことができない人にとっては、本(それも哲学書などの難しい本)を最後まで読むこと 自体がすごいことなんだろうな
286 :考える名無しさん:2013/11/06(水) 16:48:33.03 0 やっと「動いけ」買った。今度の土曜はイベント行くつもり。 第8回研究発表集会 書評パネル 國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』×千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 日時:2013年11月9日(土) 場所:東京大学駒場キャンパスアドミニストレーション棟学際交流ホール 午後 13:30-15:30 ・國分功一郎(高崎経済大学) ・千葉雅也(立命館大学) ・堀千晶(早稲田大学) 司会:佐藤嘉幸(筑波大学) ドゥルーズ哲学のアクチュアリティはどこにあるのか? 現代社会への批判的介入を促す実践的なドゥルーズ解釈=國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』と、 ポスト構造主義以後の「思弁」哲学を考慮に入れつつ、 狂った生存をやりくりすることをめぐるレトリック分析=千葉雅也『動きすぎてはいけない』を叩き台として、 國分・千葉・堀千晶・佐藤嘉幸の四つの異質なドゥルーズ像が交差しすれ違う諸地点を探る。
まだまだモダンもポストモダンも有効な気がする 作家や批判家を目指すなら
読了ってそんな特別なニュアンスのある言葉だっけ?
読了は「読み了(おわ)る」だよ。最後のページまで読んだということ。 だいたい読み終わらなきゃその書物についての議論ははじまらないわけだから いちいち「読了しました」などと言わなくても良いこと。ただ議論を始めればいいだけ。
読み終えることに価値のある本なんですねw
>>378 読み終わらなきゃその書物についての議論ははじまらない⇒読み終えることに価値がある
これは論理的帰結か
>>379 違うよ。読み終わる事自体にはなにも意味がないということ。
読み終わって、それをどう理解(あるいは誤解)しているかについてしか話題にならないだろ。
読んだことにより、おのれがどう変容してるのかの報告が大事なんだよ。つまり差意と反復。
買ったことを自慢されるより読み終わったことを自慢してもらった方がいい それより感想を書いてもらった方がいいのは同意 国分vs.千葉 で スピノザvs.ライプニッツ の 代理戦争希望 どこか雑誌にでも載ればいいのだが
読了したって言ってるだけでそのことの意義になんて触れてないのにひどい言われようだな ただ本を読むことに過剰な意味を持たせてるのはどっちだろうなw
読むこと、そして/あるいは読むこと
384 :
考える名無しさん :2013/11/09(土) 01:11:40.99 0
千葉人気に乗って河出からヒューム論文庫化されそう
え 千葉って人気あるの?
>>385 栃木よりは人気があるだろう。
埼玉の次ぐらい。
WW2以後、米露の首脳と、独逸、伊太利亜、此の辺りの首脳と一部知識層のみで、異星人問題に関する攻防戦が繰り返された。 スターリン及びルーズベルトが、7つの文明豊かで友好的な惑星の訪問者から技術指導をされ、以後60年指導が続いている。 ヒトラーの元には、訪問者は現れず、ヒトラーはルーズベルト批判を徹底し、一方で「宇宙からのカタストロフィ」に熱狂した。 此れに関し、辺境の黄色い猿は蚊帳の外だ。話して聞かせても、臭い歯を剥き出して、蛸と人を混ぜたお化けが、と、半狂乱で笑い、 見世物にはしゃぐ愚民の、下らない幼稚な好奇心を剥き出しにするのを、何十年も止めなかった。だから黄色い猿は嫌われる。 宇宙開発に関して、未来のビジョンを冷静に語れた日本人は星新一以外皆無で、殆ど全員が、荒唐無稽なオカルトをでっち上げた。 (星新一「白い服の男」は、知的かつ簡潔に、今後数数百年の間に、「地球がどう在れば?」を端的に述べた、未来への遺産だ。) 馬鹿を会議の卓に混ぜる訳に行かないので、国連やG8は知能の低い国をブロックし、会議はちゃくちゃくと進んでいる。 出自の悲しいヒトラーがロスチャイルド家との間で巻き起こした類いの、寂しい陰謀論を止めにして、協力し合うべき時だ。 だから、少しずつでも、先進国首脳は、現在取り仕切ってる仕事内容をオープンにしているので。内容を理解するべきだ。 先日「米露が核と原発を手放したがらない」と書いたが、米国は既に、原発を段階的に廃絶し、代替エネルギーに切り替えている。 だが、原発の特許は抱えたままで、此れに振り回されているのが哀れな日本。後100年は、原発問題から逃げられないだろう。 放射能にヤラレタ属国日本の惨状は一つあるとして、地球の住人は、如何に星の環境を整備し、美しい惑星にするか考える時だろう。 星新一のアイデアの内、海底通路は、チューブに熱湯を送り寒冷地に温かい泉を作るものだが、米露は敵対国の傍受用に海底通路を作った。 乾燥地に雨雲を作り上げる技術は、今開発中で、テストが成功した報告が有る。星と星の間のエレベーターも、開発が着々と進んでいる。 他にも色々、環境の為の高度な技術を、各研究機関が必死に作り上げていて、私たちはテレビのお笑い等より此方を見た方が良い。
>>374 結局ドゥルーズと精神分析の関係っていうのは結構難しくて
それをどうとらえるかがドゥルーズの生かし方に繋がるって感じだったね
お、行ってきたのか。できたら、もうちょっと詳しいレポお願い
いやー、昨日のセカンドはやられました。はめられました。 第一ロッター・・・・・小カタメ少なめ 第二ロッター・・・・・小カタメ 第三ロッター・・・・・小カタメ麺半分 第四ロッター(俺)・・・大 見事デスロットです。今思うと前の三人、確信犯だったと思う。 知り合い同士みたいだったし(てかよく見る奴らw)、第三ロッターのメガネが俺の食券見た後、前二人とひそひそ喋ってた。 『あいつ、ロット乱しにして恥かかしてやらない?w』 こんな会話してたんだろうな・・・ いつも大を相手にしてる俺に嫉妬してんだろうな。。 陰険なやり方だよ。正々堂々と二郎で勝負しろよ。 正直ロットタイムは心臓バクバクだった。 でも俺は覚悟決めた。この卑劣なやつらに勝負挑んだよ。 ロット乱して店主に恥かかせるわけにはいかないし、一応ここの常連の看板背負ってるしね。 焼け石に水かも知れないけど、一応ヤサイは少な目コール。 三人もさすがよく来てるだけって(あえて常連とは呼ばない)素早いフットワークだった。 やきもきしながら俺も遅れて戦闘開始。タイムラグは二分近くはあったと思う。 今俺がすべきことは二郎を味わうことや、ロットリズムを楽しむことではない。 『いかに早くこのブツを胃袋にぶち込むか』これだけを考えた。 結果ですが、なんとか三位に入ることができました。。 あいつらの唖然とした表情は俺の最高のデザートだった。 平常心を装ってさりげなくいつも通りの『ごちそうさま』と店主に軽く会釈 その時、店主と目があった。 店主の目は少し笑っているようにも見えた。俺もついに店主に認められたかなw 三馬鹿トリオがその後どうなったのは知りません。 しかし一言だけ言わせてもらう。 『勝負する時は相手を選べ』 以上レポっす。チラシの裏すんません。
拉麺二郎のレポで停滞してて なんか楽しいな
ドゥルーズ的に極論すると、拉麺二郎の制作者も 「いかにうまい麺を喰わせるか」 を思考している哲学者だ
393 :
考える名無しさん :2013/12/02(月) 04:34:47.25 O
ラーメンを食わせたいという欲 というものが認識において「捕えられる」ならばなぜそれは 固定したものではないのだろうか
>>393 単なる欲に留まらず、「欲望」の定立でないからだろう。
ジロリアンは戦争機械
396 :
考える名無しさん :2013/12/09(月) 05:23:51.00 0
山内志朗 @yamauchishiro 18時間 『「誤読」の哲学』は、山内ワールドに楽しみを見つけてくれる人のために書いた。分かりやすくという要求(あまり期待されていないような気もするが)を気にしないで、同じ空気(この薄い、吸いにくい空気)を吸っている人のために書いた。
>>396 確かに読んでみたい本なのだが、「問いには常に正解があるのだ」という試験問題のお正解が出せればいい、
という臭いがあって、そんなもはや評価の定まっってしまった(かに見える)古い中世の哲学の解釈の正解を
聞いても、それが「現在」にどう結びついているか、いかに今に生かすか、とういうことでなきゃ、
逆説ながら、学者に許された狭い世界の独断ということもできる。(言い過ぎだが)
千葉雅也の『動きすぎてはいけない』は評価高いけど國分の『ドゥルーズの哲学原理』はどうなの?
399 :
考える名無しさん :2013/12/14(土) 08:15:06.73 0
國分さんは背広が似合う。カメラを首からさげると尚良い。
他人の解説を読みたい人っているんだね。
日本の40代以下って異常にドゥルーズ好きだよね やっぱり浅田の功罪なんだろうかw
好きだから修論書いたけどね。ドゥルーズで。
>>398 >千葉雅也の『動きすぎてはいけない』は評価高いけど國分の『ドゥルーズの哲学原理』はどうなの?
入門者向けとしては國分
個人的に触発されるのは千葉
國分本はドゥルーズの哲学原理というよりドゥルーズの方法の方が正確な書名だと思う
自由間接話法は原理というより方法だから
千葉本は内部に複数性を抱えているのがいい
ただ大学のレポートのような感じもあって整理されてない
ドゥルーズもいいのだが、
文科省が予算を出してライプニッツとスピノザの比較研究を二人にさせるといい、とも思う
>>403 横だけどしっかり、コンパクトにまとめてるね
拍手
405 :
考える名無しさん :2013/12/15(日) 03:30:05.41 0
国が文系学者に専門外の文学者の研究をさせるとか、どこのカードゲームだよ。
てゆーか自分でやればいいんじゃね?
>>403 そんなことに税金使っちゃいけないよw
ただでさえ大学には多額の補助金が出てる。
どうせ税金使うなら、少しでも学費を安くする方に回すべきだね。
408 :
考える名無しさん :2013/12/15(日) 20:00:37.39 0
東浩紀:また、韓国については韓国が日本をレイプしたのを日本がレイ プし返したような関係になっているので、これを修復するのは難しい。 日中韓の歴史認識問題に関してはサスペンドしておくしかない。
409 :
403 :2013/12/15(日) 22:38:11.42 P
ライプニッツ研究は工作社の著作集あたりが民間では精一杯 ドイツ、フランスと組んで世界的プロジェクトが必要 消費税が上がるのを切っ掛けにもっと税金の使い方を積極的に提案した方がいい どっちみち人件費が半分近くなのだから 東や千葉がライプニッツに接近しながら回避するのは結局全体像を知る機会と 予算と時間がないから
東も千葉もラテン語読めないでしょ
411 :
考える名無しさん :2013/12/16(月) 15:12:02.32 0
佐々木敦が、ニッポンの思想で 東浩紀が一人勝ちしたとか書いているが、 佐々木って、哲学なんか何もわかってない いい面の皮だぜ
412 :
考える名無しさん :2013/12/17(火) 23:04:18.77 0
三島由紀夫が生きていたら、彼に読まれるということだけで、書けない 小説があったはずだ。三島が死んでしまったら、同世代の作家たちの中 に、あいつに読まれたら恥ずかしいという意識がなくなって、歯止めが きかなくなってしまった。小林秀雄が現職のときも、そういうことがあっ たと思う。――蓮實重彦
413 :
考える名無しさん :2013/12/18(水) 19:23:15.28 0
nibuya @cbfn 8時間 或る知人に「マルローの美術論で・・・」と言い出したら言下に「マルローなんてまったく駄目 ですよ、エリー・フォールの方が・・・」と言われ、しかし話すとどうもその人マルローの美術論を見た気配がない。ああ、ドゥルーズがそう言ってるからなのね、と納得。不毛な会話・・・
414 :
考える名無しさん :2013/12/20(金) 05:32:37.13 0
K. Hirose @parergon2 6時間 デリダの動物論より、まずはFrançoise Dasturのデリダ批判が紹介されるべきだろう。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 K. Hirose @parergon2 6時間 亡きサラ・コフマンは「自分はドゥルーズのほうが好きなのに、デリダ派に入れられて一生をダメにした」と学生に助言していたそうな。これはその後の彼女を考えればほんとうに痛ましい。なぜデリダはまわりの人間をダメにしてしまうのか。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 K. Hirose @parergon2 6時間 メルロ=ポンティについて書くときには、ドゥルーズもデリダもいないことにしている、と学生に放言してしまった。ましてやデリダからドゥルーズに転向する連中は信用できない。
はい、紹介しましたよw Heidegger, Derrida et la question de la différence Françoise Dastur (univ. Nice Sophia Antipolis) 21 octobre 2005
文字化けしたので貼りなおし Heidegger, Derrida et la question de la difference Francoise Dastur (univ. Nice Sophia Antipolis) 21 octobre 2005
「紹介されるべき」だと思うなら、要点を書けば済む話だろう。 その要点にソースがあるならそれを示せばいいだけ。 単なるネーム・ドロッピングは、哲学的態度から最も遠い。
ジルときてドゥルーズだからな
ドゥルーズとか知性のかけらもないゴミだろ 拙い言葉の羅列で言葉遊びしてるだけのがらくただろー こんなやつの徒労じみた空回りばっかの哲学を研究する価値などない 崇高さとかそういうものを感じさせてくれないポストモダンは全般的に たんなる言葉のがちゃがちゃした空転で読んでられんわ 崇高以前にドゥルーズとかIQ低すぎだろ(笑) 数学を乱用してダメだしされていることが数学への理解の 浅さと知能の低さを物語っているな こんな落書き羅列したトイレットペーパーみたいな哲学読む価値なし!
とりあえずインチキが確定している数式の部分を削ぎ落した 改訂版は出してほしい
何故わざわざそんなゴミスレに
ドゥルーズは理性や論理で読んじゃだめ 心で感じるんだよ
そっちのほうが難しいわ
佐々木敦は与沢翼と同類の詐●師だろ
425 :
考える名無しさん :2013/12/24(火) 21:20:24.05 0
nibuya @cbfn 7時間 どうでもいい昔話だが、或るパーティーで、僕が宇波彰氏のドゥルーズ訳をあ まりに批判するので?四方田犬彦がわざわざ宇波さんを僕に紹介した。困惑し たが宇波さんは意に解せずという方なのかホウホウとしておられた。四方田は 意地悪ね。何の会だったかキアロスタミさんもいた気がするから変な会だった
四方田がいじわるなのはチョー有名な話
「文句があるようだから本人を連れてきた」 親切じゃん
428 :
考える名無しさん :2013/12/26(木) 21:31:57.12 0
守中高明 @ladissemination 12月21日 渡辺一民氏ご逝去の報。私は、佐々木明氏との共訳『言葉と物』(1974年刊) がすでに高校時代に読めた世代で、どれだけその恩恵に浴したか言い尽せな い。だが、不遜を承知で言えば、この翻訳は実に正確だが、フーコーの美し く壮麗な文体は再現し得ていない。刊行から40年、新訳が出てもよい。
429 :
考える名無しさん :2013/12/27(金) 00:02:13.85 0
riow1983 難しい。。もうさーっと流した。デカルト、ライプニッツ、ヒューム、 カント、フロイト、ラカン、フーコー、それから構造主義についての基 本的知識が無いと太刀打ちできないと思った。とりあえず課題本だから 辛抱した。ブログで本書を酷評していた平岡公彦氏のレビューをもう一度確認しておくつもりだ。
430 :
考える名無しさん :2013/12/27(金) 00:08:26.70 0
『思想』の連載第1回目の書評に、私は「第一級のドゥルーズ入門書の 完成を予感させる」などと書いたが、撤回する。本書でドゥルーズの哲 学に入門するのはお勧めできない。本書は、ドゥルーズの解説書として はこれまでになくわかりやすいすぐれた本であることはまちがいないが、 気をつけながら読まないと、著者のおかしな考えに誘導されてしまう困っ た本である。非常に難解な概念を明快に解説しているいいところもたく さんあるだけに、この欠点は厄介だ。この欠陥のせいで、哲学の入門書 として気軽に人に薦めることもできない。ほんとうに残念である。
國分さんはあとがきとかで「必死に勉強した」とか書きすぎ。 必死に勉強したことと、著作の出来栄え(水準)は関係ない。 『ドゥルーズの哲学原理』は、『スピノザの方法』と比べて論証の精密さに 欠ける。モノグラフィとしては論述や論証がけっこう荒っぽい。かと言って エッセイとも言えない。正直、中途半端。もっと時間をかけて研究をしてほしい。
そりゃ博論と『思想』連載では出来栄えが違うのは当然 そもそも『スピノザの方法』は論証が細かい反面、テーマが狭すぎた スピノザ研究の盲点を突いていたことは確かだが
435 :
考える名無しさん :2013/12/29(日) 03:50:47.97 0
すげーしったか
436 :
考える名無しさん :2013/12/29(日) 22:57:42.29 0
守中高明 @ladissemination 2時間 遅ればせながら、千葉雅也『動き過ぎてはいけない』を読む。留保なしに感心 する。書くことが、「知」だけでなく、対象の諸概念にみずからの欲望と情動 を叩き込んで出来事を引き起こす「暴力」を要請することをこの著者は知って いる。ドゥルーズの生成変化の哲学についてのこれまでのところ最良の一冊。
437 :
考える名無しさん :2013/12/30(月) 00:01:02.59 0
kumatarouguma @kumatarouguma 12月27日 ベンヤミン論の次のホワイトヘッド論書き始め、 ベルクソニスム翻訳本詰め、 日本哲学ようやく序文書き始め、できれば詰め(最後の大森の章 含む)、ドゥルーズ関係の学会系の文書づくい これが二月
438 :
考える名無しさん :2013/12/30(月) 19:06:39.37 0
439 :
考える名無しさん :2013/12/30(月) 22:45:41.30 0
守中高明 @ladissemination 12月28日 「現代思想」1月号読み始める。が、千葉雅也×清水高志「ポスト・ポス ト構造主義のエステティクス」でいきなりつまづく。清水氏は、ミシェ ル・セールの「ノワーズ」の思考を西田流の述語的論理によって「補強」 できると言う。そんな読みをきっぱりと斥けるのがセールの「唯物論」であることは明証事。 守中高明 @ladissemination 12月28日 この種の日本的思考をヨーロッパ哲学に曖昧に融合させることが生産的 だと考えるのは、たとえば、ハイデガー哲学を京都学派の諸概念に翻訳 することを企てる自民族中心主義者・辻村公一一派と同類である。 清水高志 @omnivalence 12月29日 守中高明はもうちょっと考えてからもの言おうよ。(苦笑) 郷原佳以をい きなり剽窃よばわりして顰蹙を買っていた頃と何も変わらないな。対談 で西田の名前を出しただけで「京都学派の自民族中心主義者」だとのレッ テル貼り。。いい加減にしてくれよ馬鹿かよ。 清水高志 @omnivalence 23時間 ハイデガーを京都学派風に読もうとしているやつと同じだとか、俺がい つそんな読み方をした。ちゃんと書いたものを読んでから口を利け。そ もそも俺にはハイデガーを持ち上げる趣味は全くないし。 清水高志 @omnivalence 23時間 二十年くらいまえならいざ知らず、今時西田にも哲学的に参照すべきア イデアがあると言ったことに対してまるでファシストか何かのように決 めつけるとか、そんな出鱈目が許されると思ってるのか。 清水高志 @omnivalence 23時間 それとセールの「唯物論」とやらについて、展開できるものならしてみ ろ。笑 自分がさっぱり分かってもいない、語る能力すらないものについ て知ったかぶりをし、明証とかなんとか言っているのは滑稽で仕方がない。
440 :
考える名無しさん :2013/12/30(月) 22:56:32.15 0
lys blanc @lysblanc_yurie 46分 郷原氏が大変お怒りの様子だったので何事かと思ったらそういうことがあった のね。デリダもブランショも、まだまだ背伸びしたって読めないなあ。と横目で見つつ。 開く Shigeo Hayashi @HAYASHI_twit 1時間 週間読書人最新号、守中高明氏(@ladissemination)の郷原佳以氏(@deja_lu) に対する批判的意見を読んだ。デリダの音声中心主義批判の源泉にブランショ のシャール論「ラスコーの獣」があるという氏の「固有な」仮説を盗んだとい うもの。氏が前提とする固有性が真の問題では? 郷原佳以 @deja_lu 4時間 守中高明氏に大変な誤解と侮辱を受けた(『週刊読書人』2013年5月3日〔4月26 日合併〕号4面)。「空いた口が塞がらな」いのはこちらである。公開で謝罪していただきたい。 守中高明 @ladissemination 27 Apr 「週間読書人」最新号掲載の拙文が、郷原氏の指摘するように、 事実誤認、というより同氏の仕事についての私の無知に起因する 不適切なものであり、同氏の発言を「盗み」と断定したのは、 私の誤りであり、非は完全に私にある。研究者の一人として、 氏の要求する「公開での謝罪」をすることを約束する。
この界隈の人たちはいつもこういうコップの中の荒しを演じてみせてるの? エンターテイメントにすらなってないよ。
高尚な(笑)学問をやっている人たちのはずなのに、ジブラとツイッター民のやりとりと同じレベルw
443 :
考える名無しさん :2014/01/01(水) 22:47:14.06 0
こうも頻繁に専門家同士が相手の無知を非難し合う事態に陥るのは 学としての整備が行き届いていないからなんだろうな 何十年もかかってこの始末だという時点で 大陸の現代思想というものの不毛さを感じざるを得ない
444 :
考える名無しさん :2014/01/01(水) 22:48:38.04 0
人i ノ:;;,ヒ=-;、 (~´;;;;;;;゙'‐;;;) ,i`(;;;゙'―---‐'ヾ ヽ;;';ー--―-、'';;;;;゙) /::: 第三の波平 \ /:::" ヽ ,i :: -=ニ=- -=ニ=- i \.. / ー-' ヽ. / \::.| ト‐=‐ァ' |.:./ どれどれそこのお嬢ちゃん 新年早々 オジサンに具を見せてごらんw ウエッヘッヘ イエーイwww♪ . \ `二´ '/ ,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-、 ( 〃ヽヽ //ヾヽ ) ヽ `ヽ、 ⊂ニpikarrrニ⊃ ,r'' / ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 / ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
ドゥルーズはベルクソンから多くの考えを引き継いでいますが、 逆にドゥルーズがベルクソンから引き継がなかった部分、 ベルクソンの哲学の中で、受け入れなかった部分ってどのあたりなのかわかりますか? 以前、そのような文章を目にしたような記憶があるのですが、失念してしまったもので。
446 :
考える名無しさん :2014/01/02(木) 15:50:37.96 0
2009年 12月 03日 藤田尚志 藤田尚志「ドゥルーズか、ベルクソンか〜何を生気論として認めるか」 藤田さんから、『思想』の最新号、ベルクソン特集を頂いた。早速論文を拝読。 ドゥルーズとベルクソンが「似ている」というのはよく知られているが、 「何が違うのか」に焦点を当てた論考。両者の共通点を見極めた上で、 その土台のうえで生じる差異を明らかにしている切れの良い議論だった。 結論の一部を引用する。 アニミスムがベルクソンとドゥルーズを隔てるのではなく、〔ドゥルー ズにおける〕魂の観照、行動の放棄という点が二人を分かつ。潜在性と しての出来事が二人を隔てるのではなく、出来事の反ー実現、現働化の 放棄が二人を分かつ。外部を呼び求める点で二人が異なるのではなく、 外部から完全に有機性を放逐するまでに切断を非合理化するか否か、全 体性を完全に手放すかどうかが二人を分かつ
>>446 求めてた内容にぴったりです。ちょっとこれ探してみます。
どうもありがとうございます!
448 :
考える名無しさん :2014/01/03(金) 19:03:26.59 0
ジル・ドゥルーズ "Kant's Critical Philosophy: the Doctrine of the Faculties" 理性が実際的な利害のために法を定めるとき、それは、自由で理性的な 存在、理解可能な存在を支配する法を作る。……かくして、みずからの理性 によって法を作りだすのが、理性的存在ということになる われわれは、理解可能な存在であることをやめるわけではない。その存在 が自然の一部となり、他のものとともに体系的な全体を構成する条件を、 われわれは失うだけである。かくして、われわれは臣民であることをやめる のだが、それは主として、立法者であることをやめたからである…… 実践理性において、「主体」なる言葉が意味するのは、まさに次のこと である……主体と立法者は同一のものであり、その結果、立法者は、自身が 立法者としてとりしきる自然の一部でもあることになる
449 :
考える名無しさん :2014/01/04(土) 03:25:47.24 0
柄谷行人Bot @KarataniBot 12月26日 それでつくづく思うのは、浅田彰についても、今あまり頭のレベルでは考えて なくて……もちろん頭が良くないとありえないことかもしれないけど、彼は人 格として、ほとんど信じ難いような人間ですね。ほとんど「無私の人」ですね。「友愛論」(1993)
450 :
考える名無しさん :2014/01/06(月) 04:22:31.64 0
仁平政人 NiheiMasato @m_nh 11時間 「あらゆる形態は保守的である…このところ、すっかり時の人になったジル・ ドゥルーズは〈出会い〉を定義して、「それは形態と空間の消滅である」とし ている。たしかに、私達は何かと何かを出会わせようとしたら、多くのものを 消滅させなければならない」(寺山修司「一時間国家のテロル」1973年) 仁平政人 NiheiMasato @m_nh 11時間 (承前)日本でのドゥルーズの本格的な紹介・受容は蓮實重彦あたりから、 という漠然としたイメージがあったけど、この寺山の評論は、蓮實が『海』 にドゥルーズ論を書いたのとほぼ同時期(『批評あるいは仮死の祭典』は翌 年)。この時点で、「すっかり時の人になった」と言える状況はあったのか な。
451 :
考える名無しさん :2014/01/07(火) 01:16:09.78 0
フランス現代思想なんて読むくらいだったら カントの三批判書何回も読んだ方が得るもの多い気がする
452 :
考える名無しさん :2014/01/07(火) 03:06:05.60 0
453 :
考える名無しさん :2014/01/07(火) 03:19:05.52 0
>>451 カント読むくらいなら工学か情報科学の本読んだ方が役に立つよ
454 :
考える名無しさん :2014/01/07(火) 07:33:59.79 0
小林卓也 @takuyak56 10月7日 今度は「ベルクソンにおける差異の概念」(『無人島』所収)。前田 英樹氏は、différencierを徹底して差異化と訳されている。 kumatarouguma @kumatarouguma @takuyak56 これまずいよね。『ベルクソニスム』の方は借訳すんだの で博論終わったら読んでくれ。博論おわったらね。出すように。 kumatarouguma @kumatarouguma 10月22日 競馬書き始める。これとフランスでの発表で今月は終わる。来月は競馬 引き続き、あとベンヤミンアレゴリー論、12月は競馬締めで今年は終 わり。早いな。としあけにはいい加減ベルクソニスム翻訳と日本哲学で これで三月。そのうちローズの翻訳のゲラ直し。今年度はこれで充分だ (といいきかせる) 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 Shigeo Hayashi @HAYASHI_twit 10月8日 風の便りを届ける南方郵便局で、つまりはタイムラインのことなのだけど、ドゥルーズ『ベルクソニスム』新訳の報が。
455 :
考える名無しさん :2014/01/08(水) 09:14:04.83 0
「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ 山内志朗 ドゥルーズの哲学 マイケル ハート 動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 千葉 雅也 ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造 山森 裕毅 ドゥルーズの哲学原理 國分 功一郎 ドゥルーズ ---経験不可能の経験 (河出文庫) ジャン=クレ・マルタン ドゥルーズ=ガタリのシステム論と教育学: 発達・生成・再生 森田 裕之 ドゥルーズ---群れと結晶 (河出ブックス) 宇野 邦一 魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 西川 アサキ 瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論 檜垣 立哉 ドゥルーズと創造の哲学 この世界を抜け出て ピーター・ホルワード ドゥルーズを「活用」する 澤野 雅樹 ドゥルーズとガタリ 交差的評伝 フランソワ・ドス ドゥルーズ哲学のエッセンス―思考の逃走線を求めて ライダー デュー ドゥルーズ入門 (ちくま新書) 檜垣立哉 ドゥルーズ キーワード89 芳川 泰久、 堀 千晶 ジル・ドゥルーズ クレア コールブルック ドゥルーズ (現代思想の冒険者たちSelect) 篠原 資明 ドゥルーズ―生成変化のサブマリン 松本 潤一郎、 大山 載吉 身体なき器官 スラヴォイ・ジジェク 存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論 江川 隆男 ドゥルーズへのまなざし ルネ シェレール ドゥルーズ―解けない問いを生きる 檜垣 立哉 ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ) 宇野 邦一 サハラ―ジル・ドゥルーズの美学 ) ミレイユ ビュイダン ドゥルーズの哲学 (講談社現代新書) 小泉 義之 ドゥルーズ―存在の喧騒 アラン バディウ ドゥルーズ・変奏 ジャン=クレ マルタン ドゥルーズ・ひとつの出来事の哲学 フランソワ ズーラビクヴィリ D―死とイマージュ 宇野 邦一 ジル・ドゥルーズの試み 市倉 宏祐、菊地 健三、 伊吹 克己 ドゥルーズ (Century Books―人と思想) 船木 亨
72年でアンチオイディプスがフランスでベストセラーで 「すっかり時の人になった」んだろ
既出かもしれないが 河出文庫のアンチ・オイディプス、数年前の増刷から紙変えてた?
ほんとどうでもいいことが気になるスレだなw
今のところまだ哲学書は紙の本だから、書き込みやすさは重要 物質性をなめちゃいけない
でも君たちはドゥルーズprprしてるんでしょ?
461 :
考える名無しさん :2014/01/09(木) 16:07:33.77 0
エルピー・プル?
ドゥルーズは理性や論理で読んじゃだめ 心で感じるんだよ
そりゃもう哲学じゃないな
哲学を、言語による暗黙の認識論的制約を言語それ自体によって突破する試みだと見なせば、 理性や論理を保留して心で感じるように「言葉で説得する」ことも、哲学的営為と言えなくはない、 と思う。 ただ、そこからさらに、理性や論理を超越する感性の必然性を、理性や論理の語法内で説明する ことで理性や論理を相対化できなければ、ただの無力な隠者思想に過ぎなくなる、とも思う。
「哲学は何の役に立つのかと問われたとき、答えは攻撃的でなければならない。なぜなら、 そのような問いは皮肉で辛らつたらんとしているからである。哲学は国家や教会の役には 立たない。国家や教会には別の関心事がある。哲学はいかなる既成の権力にも役立たな い。それは悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も不愉快にしないような哲学は哲学 ではない。哲学は愚劣をやっつけるのに役立ち、愚劣を恥ずべきものとみなす。それは次 のような使用法以外のものをもたない。つまり、あらゆる形態における思惟の低俗さを告発 すること」 『ニーチェと哲学』 「哲学は時代にたいする怒りから切り離せないということはたしかだ。しかし、もう一方では 哲学が静謐の感をもたらすということも、やはり見落としてはならないのである。哲学は力 をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであっ て、哲学はけっして力をもたない。」 『記号と事件 1972-1990年の対話』
まー引用したくなる哲学者であることは確かだね
467 :
考える名無しさん :2014/01/11(土) 17:36:28.11 0
>>455 ドゥルーズを読む→まったく歯がたたない→解説書を読む→凄く理解できてスッキリする→
再度ドゥルーズを読み直す→やっぱり歯がたたないw
この繰り返しなんだけど、欲しいのはドゥルーズの思想の全体像についての本じゃなくて、
特定の、どれか一つの著書だけに限定して徹底的に解説してくれるような本なんだよな。
468 :
考える名無しさん :2014/01/11(土) 20:20:44.54 0
469 :
考える名無しさん :2014/01/11(土) 20:30:20.25 0
「ニーチェと哲学」にしてもニーチェを読んでいればドゥルーズは必要ない 同様にベルクソンを読んでいればドゥルーズは必要ない
そんなこと言い始めたらアリストテレスだけ読んでりゃいいことになる
471 :
考える名無しさん :2014/01/11(土) 20:56:30.46 0
ドゥルーズの哲学者解釈はあまり取るに足るようなものがない そういう意味では彼の著作を読む意味がないんだよ しかも極めて文学的で曖昧な表現ときている それなら直接出てくる哲学者の著作を読んだ方がいい
473 :
考える名無しさん :2014/01/11(土) 21:40:01.07 0
むしろドゥルーズの解釈はまったく別の哲学者像を生み出してると思うんだが。 背後からおかまを掘って、その哲学者本人とまったく似ていない赤子を 創りだすみたいなこと言ってたけど。
475 :
考える名無しさん :2014/01/12(日) 10:45:38.32 0
スピノザと表現の問題の新装版ページ数がアマゾンでみると 441ページから460ページ増えてるンだが誤訳なりなんなり色々改訂 されてるのかな。ならちょい高いが買おうかな
476 :
考える名無しさん :2014/01/12(日) 13:15:08.36 0
わからないことに喜びを覚える わかったと言ってわかったと言うだけ 宗教の聖典との差は何か
>>471 駄目で良いような人。ドゥルーズの哲学に関心がなければ、ドゥルーズの他の哲学者に関するモノグラフを読む必要はない。
>>476 >わからないことに喜びを覚える
まるで人間には分からないものががないような口ぶり。
哲学は無理だから別のスレへどうぞ。
まああえて言えばソクラテスの「無の知」という
哲学のイロハのイもわかっつてない。
>>478 お前がやってるのは小学生が「バーカ!バーカ!」って言うのと内容的には変わらない
お前はどっちなの?
「いやー、やっぱりわからん(笑)」なんて、やったことないよね?
何かの言説を「宗教」と呼べば、 それだけで罵倒が完了したと考えるのはアホ そういうやつに限って習俗としての神道や仏教を無反省に信仰している
>>478 >>479 まあ、哲学なんて、いつでも小学1年生から始めてるようなもんだよ。
社会に影響を与えた哲学なんて、マルクス以外にないし。
>>481 同じこと思ってた
哲学の特質性ってそこにあるよな
文学との親和性はそこから生まれてくるのかな
新しいほど洗練されてるわけじゃない
古いからって過去のものってわけでもない
>>476 宗教の聖典も、旧約の預言者の書などは、おのが存在を賭した神との激烈な対話を通じて倫理が新たな立ち上がってくる
あたり、哲学的とも言える。実際、ベルクソンは旧約聖書的系譜に立っているとも言われるし、ベルクソンの強い影響下に
あるドゥルーズもやはりその気が強いのではないかな。
聖書は少なくとも哲学書だよ 始めに言葉ありきって時点でね そこから光と闇を、昼と夜を、天と地を……単純な意味の二項対立で物事を生成していった 後は精神の成長の話とか、農業に必要な天文学の知識をお話風にしてたりとか そういうあらゆる古代の学問のごちゃまぜ本
>>484 聖書が哲学書なわけないだろ。あれは掟を明文化するための叙事詩だ。
それが語るものは何か、ということについての思考は哲学になりえるけどな。
486 :
考える名無しさん :2014/01/12(日) 20:46:42.38 0
私のなかの「漢語」と「やまとことば」の区別は、私が欧米語の文献を翻訳す るときにしばしばもつ或る違和感にもとづいている。たとえば、日常会話で、 「それはちがっている」とは言っても、「そこには差異がある」などとはあま り言わない。しかし、哲学書を訳すときには、「ちがい」よりも「差異」とい う漢語を使ってしまう。 ドゥルーズの主著の表題を『差異と反復』と訳したが、いつか述べたように、 『ちがいとくりかえし』と訳してもよかったかもしれない。私のなかでは、 「差異」よりも「ちがい」の方がピンとくる。だが、『ちがいとくりかえし』 という「やまとことば」はだらつく。『差異と反復』という漢語の表現の方がス ッキリするし、書き言葉ではなぜか「漢語」の方が高尚な感じがする場合が多 い。というわけで、『差異と反復』という訳語を採用した。
488 :
考える名無しさん :2014/01/12(日) 21:03:38.95 0
だれか『ちがいとくりかえし』で訳してほしいな いろんな訳があっていいんだから
まあ君たちは前田英樹の著作でも読んでいいないさいよ♪
だれ、それ?
哲学に限らず、おそらくどの学問でも学術用語には漢語を使いがち 手軽に造語できて便利すぎるし
表意文字の強み
いまだにドゥルーズとかを相手にしてるところに日本人の思考力の低下が垣間見える
誰を相手にすれば思考力が低下しないのか書いていないところに
>>494 の思考力に疑問がある
俺も正直ドゥルーズは終わったと思うよ
497 :
考える名無しさん :2014/01/14(火) 05:40:46.93 0
50年後にドゥルーズの名前が残っているかどうか 今よりファンの数は減ってそうだが
50年後は君はもう生きてないから心配することないよ
50年先の話をすると鬼が爆笑する
哲学自体がとっくに終わってるので 世間の言説に流されずに哲学徒はプラトンなりヘーゲルなりドゥルーズなり読みたいものを読んでればよい
哲学が「終わる」とか言っちゃう人はそもそも哲学が何か分かってない
そういう人はニーチェを読めばいいよ。
504 :
考える名無しさん :2014/01/15(水) 23:30:39.18 0
nibuya @cbfn 11月27日 哲学が現実生活に何が出来ると問う人がいますが、無論哲学が「変える」 ことが出来る生は多分たかだか学者の人生で、しかもそれは「賢明に」 することなど殆どない。哲学が問題となるのは「言葉を刻む様に行動する」 者にとってだけで、しかもその場合その者は哲学そのものに成っているの で書物は要らない
505 :
考える名無しさん :2014/01/15(水) 23:32:36.32 0
nibuya @cbfn 11月29日 偏見というのはどうしようもないもので、僕にはサルトル自身はともかく日本 のサルトル派というのに自分でも不当と分かっていても、偏見があります。受 苦の顔をした傲慢さ、といった。というわけで平井啓之さんにも偏見があった のですがジュネ解釈に於けるサルトル批判あたりからちょっと見直しています nibuya @cbfn 11月29日 平井さんのジュネ『葬儀』の訳は、堀口大学調が嫌いじゃない僕には、今文庫 で手に入る生田耕作さんの意外に生硬な訳文よりしっくり来ますし、ドゥルー ズの簡潔難解なベルグソン論『差異について』あたりの翻訳−解釈も素晴らしい 。『パピヨン』みたいな小説?を訳してる! のも何か嬉しい。
「差異について」はいい本だね ドゥルーズ=ガタリがあまり好きじゃないんだけれども
507 :
考える名無しさん :2014/01/16(木) 00:58:04.94 0
ベルグソン『時間と自由』も白水社の平井啓之訳が、白水社の竹内氏 の新訳がでるまでは唯一通読可能な翻訳だったと思う。 岩波の新旧『時間と自由』訳よりは白水社の新旧訳がいいと思う。
翻訳を読むなら、文庫に限るw
509 :
考える名無しさん :2014/01/16(木) 01:29:38.37 0
志紀島啓 blog 三島憲一氏がドゥルーズのニーチェ解釈を批判している文章を以前読ん だのだが、具体的にどこで読んだのか忘れてしまっていた(かなり辛辣 なトーンだったことを記憶していた)。該当箇所がはっきりしたので、 個人的メモとして書いておく。 「差異と力の概念を中心にし、形而上学の解体を伴奏者にしたニーチェ 解釈は一時期流行したが、その元凶となった本(『ニーチェ』ではなく 『ニーチェと哲学』を指す)。かくも凡庸かつ月並みで思いつきだけを 並べた本、そして自分の「思想」を述べるためにニーチェを利用しただ けの本は見たことがない。著者たちが批判する近代的な主体の横暴をニ ーチェに及ぼしているだけ。そういうものとしてぱらぱら見ておいても いいかもしれない」 (『現代思想の冒険者たち第00巻現代思想の源流』講談社、 三島憲一氏がニーチェのパートを担当 1996、p.288) 昔、読んだときはドイツ系の人がフランス系の解釈を退けているのだろ うか? くらいにしか思わなかったのだが。最近はドゥルーズに対する 自身の解釈が変わってきたので、三島氏のいうことが正しいのではない か、と思いなおしている。
510 :
考える名無しさん :2014/01/16(木) 02:20:11.52 0
猫飛ニャン助 @suga94491396 1月13日 ドゥルーズ/ガタリの「戦争機械」概念の『パルチザンの理論』のシュ ミット参照は明らか(両者ともクライスト)。両者の関係論じている者 、あまり見ないが(多少、見たことあり)、何故か。日本のドゥルージ アンは多くはリベラル派で、暴力の問題回避している。戦争機械を「反 戦」なんて言ってた奴も。 閉じる 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 10 件のリツイート 17 件のお気に入り Lito Snowfieldfemmeletshat808/ハットハチマルハチ勇敢モジョ・フラニーKentaro_SUZUKIHirokuni Takagishi上山和樹 2014年1月13日 - 20:17 · 詳細 Kentaro_SUZUKI @suzuken2002 1月14日 .@suga94491396 私には、だからドゥルーズは後進国フランス、シュミッ トと同様に遅れたヨーロッパの理論家にすぎない、と端的に馬鹿にする ほかないところです。
511 :
考える名無しさん :2014/01/16(木) 03:33:28.91 0
pouvoirmagique @pouvoirmagique 6時間 イデオロギー闘争を嫌うリベラルな人に抗して、イデオロギー闘争しな いと、左って絶対に意味を持たないと思うんだけどね。ドゥルーズは左 翼政権は存在しない、と言っている意味で、左翼は常に闘争状態でしか 存在しえないってことなんだから。
512 :
考える名無しさん :2014/01/16(木) 04:05:30.37 0
hbios @hbios 2時間 若い頃のドゥルーズがヒュームについてラジオで語った音声ファイルに ついてジャン=クレ・マルタンがツイートしたところ、お気に入り/リ ツイートしたアカウント9つのうち7つが日本語(今現在)……「翻訳大 国」という単語を思い出した。
こういう自分の好みを結論だけで書いてる人たちって、なんなんだろうと思う。 きちんとした著作も書いてるんだろうが、ここに紹介されてる文じゃ、2ch以下。 こんな精神持ってる連中が丁寧に哲学を語っても、たぶんつまらないものに違いない。 だから、僕は、ここに紹介されてる連中が書いた本があっても、買わないw
514 :
考える名無しさん :2014/01/17(金) 13:30:34.14 0
「哲学を分かっていない」 「理解していない」 「ちゃんと読め」
國分氏の本ってどうですか? これを読めばDZがわかりそう?
世界中の哲学教授たちですら難解と認定しているのだから、それを超えた新たな思想が現われて、それと 比べつつ振り返る形にならないと、「読んだだけで分かる」本は誰にも書けないと思う。
ところで今日はジル・ドゥルーズの誕生日。
頭イッちゃってるんじゃないのか
ドゥルーズの標準解釈ってあるの? デリダとかフーコーなら、あるように思われるんだけど。
デリダなら高橋哲哉とかのは、そうじゃないんですか? フーコーも、著作に添っている限り、そんなに書き手によって ブレが出るということはないと思うけど…
國分が訳したクレア・コールブルックによる入門書とか、 ライダー・デューによる入門書とか ドス「ドゥルーズとガタリ 交差的評伝」とか 持ってるんだけど、おすすめはどれ?
持ってるなら全部読めよ コールブルックは批判的な視点が強い
92,93が白仁さんの本のことを言っているのか分からないけど、 どうなんですか? 91 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 01:33:33.69 0 財津さんのブログにあった白仁高志の本を時間を作って読んでみた。 「野心的な」という試みではあるが、ストリップティーズみたいなところが あって、もっと違う言い方もあるだろと言う部分が多少恥ずかしい。 92 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 01:40:17.66 0 上述の本チャート式みたいなまとめ方で、要約しようという側面があるが、 ドゥルーズはそれからもれたほかのことも言っている所が、はっきりあるわけで、 果敢な試みではあるが、成功しているかどうか今の時点では分からない。 93 : 考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 01:42:17.99 0 上述の本果敢ではあるが、完全に網羅的であるかどうかが不安だ。
528 :
考える名無しさん :2014/01/22(水) 01:56:14.02 0
>>526 白仁さんの本はフランス語でしょ。読んでみてよ。出版社の前文に
「ドゥルーズ自身のテクストに付け加えるるべきものなどない。」と言いつつ、
白仁はドゥルーズのテキストのみに尋ねている、とジャック・ランシエールが
書いている。その忠実さ以外に尺度はないので、その点で合格したんだろう。
テクスト(笑)
極端な物知りと物知らずが混在するよな 2chはもういいや
532 :
考える名無しさん :2014/01/30(木) 06:58:23.07 0
Shigeo Hayashi @HAYASHI_twit 9時間 『差異と反復』に結実する前の50年代のドゥルーズの講義から辿り直していく 國分氏の論述は示唆に富んでいて首肯する面も多い。ただし、ドゥルーズにお ける #キルケゴール を過大評価しているのではないだろうか。というのも、 Dzにおいてキルケゴールはニーチェと同等の位置にはないだろうから。
533 :
考える名無しさん :2014/01/30(木) 08:09:03.15 0
文化・思想時評 ドゥルーズの言っていることを真に受けるとはいかなることか : HAPAXによる『絶望論』批判への応答 廣瀬 純 情況. 第四期 : 変革のための総合誌 2(6), 232-243, 2013-11
535 :
考える名無しさん :2014/02/01(土) 06:26:06.75 0
千葉雅也 Masaya CHIBA @masayachiba 1月30日 いつもながらツラそうだな、キルケゴール。RT @Kierkegaard_bot: 永遠こそは真の反復である。
536 :
考える名無しさん :2014/02/03(月) 10:27:18.28 0
537 :
考える名無しさん :2014/02/04(火) 10:47:26.09 0
アイカワ @aikawajenjenn 57 分 〈僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限 界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。21世紀にもなって そんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバ カですね。〉浅田彰・不整脈入院中「週刊スパ2/11・18合併号」142頁
あ、オレも馬鹿だわ 他にどんな手段があるのか 賢い人、教えて
>>537 丸山真男がもっと発言していれば、「21世紀にもなって」なんて言う人も少なかったんだろうけど。
たけしと一緒にワイドショーに出て へらへらコメントしてる30年遅れのヌーヴォーフィロゾーフに 國分を貶す資格などない
21世紀にもなって浅田彰のコメントが載る雑誌があるなんて…
今日はこの話題で持ちきりだったな 哲学の過疎スレ界隈 なんだかんだで、浅田飴は影響力があるのか 最後の残照か
>>543 ドゥルーズの本は数十冊読んでいるが、
構造と力ほど理解不能な本はない。
最近SとかMとか女子高生が口にしているらしいが、 ゲロが出る。 間抜けすぎる「倒錯者の戦略」の人は 迷惑だ。それ以外ドゥルーズにコミットしていないじゃないか。 サドマゾの本を翻訳してそれで「倒錯」しかドゥルーズから読み取って ないのか?
ドゥルーズにはCINEMAという本があるが 映画評論をしている人が、まともにそれについて論を立てているのか? 知っている人は教えてほしい。
>>544 浅田を読んでない僕が聞くのもなんだけど、「構造と力」というのはどんなところが理解不能なの?
一つ二つ例示してくれないだろうか?
>>547 平面が超越的な点に向かって引き上げられると、
反作用で深層に向かって反対の極ができる,
という図示されたセオリーの典拠または事例が示されていない。
私が無知なのか、これのどこが理論なのだろう。
何が言いたいのだろうと、思う。
549 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 08:30:55.03 0
Ayumu Okubo @waschmaschine 廣瀬純氏による國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』書評(文學界9月号) を読む。「これまで読んだことのない」ドゥルーズ論などではなく、 「読んだことのある」議論でしかないとし、その議論のまっとうさを認 めつつ、特にドゥルーズの政治性に関して異論を唱える。提灯記事など ではない、真摯な批評。 Kim, Yi-Chul 金利哲 @kimarx 8月17日 おおくぼさんは悪いひとではないので心苦しい のだが、國分のあのテクストを読んで、この誤読をはじめいくつかのも わからないのだから、「本もまともに読めないの」と浅田彰に説教され た國分と同じく本をまともに読む能力がないと言わざるをえない。
>>548 どこまでが浅田の文章なの?
「平面が」から「理論なのだろう。」まで?
551 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 19:02:45.19 0
その、平面が〜、というのは、 原始社会から古代文明社会へ、 物々交換経済から貨幣経済へ、 というような発展論的な説を図解したところじゃないの。
552 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 19:20:54.43 0
浅田はけっきょく現在までまともな論文集は出していないからね 「構造と力」だって雑文集だし(対談やらインタビューもある) ようは論文書けなかった人なんだよ浅田は
553 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 19:24:45.68 0
平凡たる論文なんか、どんな馬鹿でも書けるだろう。 雑文書くほうがはるかに難しいぞ。
文系学部には卒論があるしねw そのあとも修論とか博論とかがあるから、全部で年数十万の論文が書かれて、紀要などに載るのは数万かな? 適当に計算してみたw
555 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 20:53:30.19 0
≫昔、読んだときはドイツ系の人がフランス系の解釈を退けているのだろ ≫うか? くらいにしか思わなかったのだが 私が初めに読んだドゥルーズの本は「ニーチェと哲学」の翻訳だった。 十六、七、だったこともあり、まるで、ちんぷんかんぷん、だったが、 なんだか知らないが、かっこいいと思った。 その後、ある程度分かるようになって思ったのは、 ハイデガーを超えようとするあまり、反対のことをいいすぎている、 ようするに、気負いがあるのじゃないか、ということだ。 しかし、ハイデガーのニーチェ解釈は、かなり癖はあるだろうが、 それほど恣意的ではない。 たとえば、ニーチェは、存在を価値とすることで、形而上学へ逆戻りした、 や、永遠回帰=同一的なものの回帰、などの理解は、普通に読めば、そうであろう。 こういうことに、ドゥルーズは、相当無理をして、反対していた感がある。 そういうハイデガーが形而上学へ逆戻りしているのだ、とか、 差異的なもの回帰、とか言いかえてみたり、ということである。 だから、三島の嫌悪は、わりと分かりやすいものだと思う。 だいたい、ドゥルーズが、ハイデガーほど、ニーチェを、すらすら読めるはずもない、 ので、狭義の「学問」的には、やる前から勝負はみえている、のじゃないか。
>>555 そもそも現代では、哲学なんて学問じゃないだろw
557 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 21:19:20.99 0
それはそのとおりだ。 だから、ドゥルーズの本も、そういう雑文の気分で読めば、 じゅうぶんに面白いんである。 三島憲一はやはり年寄だから、学問的に不謹慎だ、とたぶん思うんだろう。
558 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 21:34:33.70 0
ちなみに、三島憲一も、1980年代に出した岩波文庫の「ニーチェ」では、 ドゥルーズを腐していなかった。 独創的あるいは独自の解釈、くらいに言っていたと思う。
559 :
考える名無しさん :2014/02/07(金) 21:35:51.65 0
岩波文庫→岩波新書 に訂正。
>>555 「ニーチェと哲学」などという初期モノローグではなく、それら初期モノローグ
の結実である国家博士論文の「差異と反復」を読んでほしい。ハイデガーとは全く違うスタイル
において別のことを論じている。
561 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 00:28:20.40 0
だから、どうこがどうちがうのか、 一つ二つくらいは、なんか書きなさいよ。 まあ、「差異と反復」は、流行したときに、読んでますよ。 翻訳で、だし、あらたか忘れたが。
>>555 どうでもいいが、ドゥルーズもフーコーもフランス語版「ニーチェ全集」の編集責任者だ。
日本語でハイデガーやニーチェを読むことと同じじゃないか。私もドゥルーズの本を全部
フランス語で読んだわけじゃない。
ドゥルーズは実存を「存在の一義性」に関連づけている。 その準備として表象代理現前の罠をくぐりけるための、4重の罠について論じている。 存在論に問題を限ってはいないため、最後に思考の無能力に比して、 「思考の生殖性」による概念創造を論じている。
ニーチェと哲学くらい読めよw 文系理系関係なく。初期後記関係なく。 ニーチェは八割方あれでわかるんだから貴重な資料だろ。 ベースになるもので。 三島とかのゴミとかどうでもいいし。
>>564 他人の解説よりニーチェ自身の著作を読んだほうがいいんじゃないか?
566 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 04:13:18.35 0
個人的には、やはり、系譜学者ニーチェがいいんで、 哲学者ニーチェは詰まらん。 これは、後期のハイデガー、フーコーのラインがいいということだ。 ドゥルーズは、哲学者ニーチェに重きを置きすぎていたように思う。
>>566 ニーチェがそんなに怖いか?「永劫回帰的反復」
本当はまだ老大講壇哲学者がいいんだろうな。歴史だろ。「知性とはすでに敗北した 愚鈍さであり、誤算を回避するカテゴリー的技法である」フーコーコレクション3 p336
569 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 04:56:35.90 0
高木 @takagiy 5時間 浅田彰さんが國分功一郎さんの事をメタクソに言っていて笑った。國分 さんに余りにも教養がない上に、人の質問に答えず、スピノザガーと 自分の言いたいことだけを繰り返すのに呆れ果て、つい「すみません 、あなたは馬鹿なんですか」と訊いちゃったらしい。そういう方なんですか? 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 音環卒展2014 @onkan2014 2月6日 僕もあわてて買っちゃいました。SPAの浅田さんと福田さんの対談読み たくて。NHKでよく見る若手論客の番組を優等生の学級会だと。國分さ んのような似非優等生よりは千葉さんのような不良がいいと。いいねぇーー 笑
570 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 05:04:56.37 0
千葉が不良?筋の通ってないゲイだろ。
571 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 06:48:23.56 0
餌
千葉は千葉で結構まじめというか几帳面だよ だって博士論文の審査委員の著作をくまなく全部引用して目配せしてるしね
>>566 >ハイデガー、フーコーのライン
この二人がどうつながるの?
「私の思想はハイデガーを読むことで ほとんどすべて固まりました」(フーコー「道徳への回帰」) うろ覚えの引用だけど。
>「差異と反復」を読んでほしい。ハイデガーとは全く違うスタイル において別のことを論じている。 結局、この本は何を言っているの?
戦後フランス思想というのはヒューマニズム書簡以降のハイデガーを絶賛しているし、 レヴィナスやアドルノのようなユダヤ思想家はこのような風潮を苦々しく思っている。 ポパーなんかは敵意むき出しだよね。 「開かれた社会とその敵」の脚注でものすごく批判している。 まあ、そこがヴィトゲンシュタインですら苛立たせたポパーの底意地の悪さだけれど。 哲学者は覇権的で意地悪なのが多い。
>「開かれた社会とその敵」の脚注でものすごく批判している。 >まあ、そこがヴィトゲンシュタインですら苛立たせたポパーの底意地の悪さだけれど。 この2行の間、飛躍してるな
ドゥルーズについて理解できない人は雑文だと言い、 同様に理解に届かない人々と、仲間内で「そうだ、そうだ」と言ってる。
>>575 違いと繰り返しのことを言ってる、と翻訳者が言ってるw
>>579 ドゥルーズを理解すると、なにがわかるの?
>>581 哲学に関与しないとか、ものを考えないという人は、
おしなべて、本なんか読まなくてもいいし、何かをわからなくてもいい。
>>582 なんで?
哲学の本読むと、君みたいに無教養で下品になっちゃうの?
それでもドゥルーズは「生」について、 生きる上で起こりうることを言葉で表現している。 哲学として語られるものが、何の準備もなく 哲学書を読んでもわからない。 論証・弁証が欠かせないので、論理性それが把握できるまで 時間がかかる。
説明の場を避けるための紋切り型のあしらい方やね
>>584 >生きる上で起こりうることを言葉で表現している
文学だったらそれはあたりまえのことだけど、普通の哲学というのは、生きる上で起こりえないことを言葉で表現してるの?
>哲学として語られるものが、何の準備もなく
>哲学書を読んでもわからない。
「てにおは」の使い方が混乱してるのは見逃してあげるけど、ドゥルーズの「論証・弁証」ってなに?
具体的に例示してみてよ。
>>586 「てにおは」じゃなくて、「てにをは」だ。
ただのミスタッチだなんて言い訳はできないねw
なぜ私があなたに説明してあげる責任があるのか? 論証・弁証の意味すら知らないで、 いくらお勉強をし、どのくらいマナーを知っていても 本当には「真実」をつかむことはできない。 583が必死でごまかしているものも分かっている。
>>586 逆にあなたの「弁証・論証」というものが何かか説明してみてよ。
その答えで正体がわかる。
何かを、のミスタッチ。
>>588 できないなら、説明なんかしなくていいよ。
でも、「論証・弁証の意味」なんか知ってても、ドゥルーズの「論証・弁証」の例示もできないんじゃ無意味だろ?
それから、お勉強をしてマナーを知ることは大切だよ。
人間として生きる上での基本だと言ってもいい。
それも知らずにつかんだ「真実」に、どんな意味があるのかな?
ところで、
>>583 の僕はなにを必死でごまかしてるんだろう?
僕がなにかをごまかさなきゃならないほどの内容が君から提示されてるとも思えないんだが。
>>589 哲学の弁証や論証なんかに興味はないな。
どうせ趣味の問題だからw
違うというなら、弁証でも論証でも確実になされている哲学の本を教えてよ。
ドゥルーズだったら、この本のこの部分が明確に論証できている、とかさ。
それから、僕の正体って、なに?
僕のなにが知りたいの?
わからない人に教えるのは、ただただ時間の無駄。
>>593 教えてくれって言ってるわけじゃないんだw
どうせ説明できないんだろって言ってるんだ。
君は
>>585 さんの指摘どおりの人だったね。
あまり見栄を張ると、おなかが破裂しちゃうよw
>それから、お勉強をしてマナーを知ることは大切だよ。 >人間として生きる上での基本だと言ってもいい。 生において学校の試験の問題のように「正解」が与えられていたりしない。 とドゥルーズは言っている。これを指して「真実」といっただけだ。 常識でも良識でも、実在的経験は与えられない。 略式の論証。
596 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 19:23:15.33 0
たとえば、存在について(それは何か?と)考える、は、哲学的 存在についての考え方について(それは何か?と何ゆえ問うか)考える、は系譜学的 ではダメかな。
>>581 >ドゥルーズを理解すると、なにがわかるの?
579ではないけど、一部お答えしましょう。
まず、「可能性」なんてない、ということが分かる。
次に、「思考の自由」だとか「意志の自由」などというものはない、ということが分かる。
最後に、存在とは個体であって、ゆえに明日何がどうなるか分からない、ということが分かる。
以上を肯定するのがドゥルーズ。でも普通はむしろ絶望するかもね。
>>595 >生において学校の試験の問題のように「正解」が与えられていたりしない
そんな床屋の親父さんが言うようなことが「真実」ねえw
>>596 そんな区別はどうでもいいんじゃない?
>>597 ありがとう。
>存在とは個体であって、ゆえに明日何がどうなるか分からない
から、「可能性」なんだろ?
明日が分かれば、それは「可能性」じゃなくてタイムマシン。
>「思考の自由」だとか「意志の自由」などというものはない
から、「自由とは必然性の洞察」(ヘーゲル)なんだろ?
当然マルクスもその根拠を提示しているし、それに明るく「絶望」したレーニンは、「前衛」党の必要性を説いた。
ドゥルーズって、ほんとに
>>595-597 みたいなこと言ってるの?
最後に飛び降り自殺したのは、「思考の自由」と「意志の自由」ゆえの「可能性」の希求ではないの?
ひとのあげあしとるのっておもしろいですね
>>600 しっかりと足を地に着けていれば、揚げ足はとられないんじゃない?
彼は「雨が降るように人は死ぬ」と言っていたような。
603 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 20:54:58.69 0
自らの足で立て、 という説教親爺風のことを、ニーチェも何かで言っていたしな。
>>598 >ドゥルーズって、ほんとに
>>595-597 みたいなこと言ってるの?
だから自分で読め、と言ってるんだ。原書で400p近い本の要約が、
欲しい、というのは2chでは無理だね。馬鹿馬鹿しいおねだりだ。
極論すると自分で原典に当たらないと本当のことはわからない。
597でいいんだったら、俺は構わないよw
ヘーゲルやプラトンの同一性、絶対的な観念の哲学に対してドゥルーズの差異と反復の哲学がある。 とはいえヘーゲル、プラトンを読んでない人にドゥルーズを薦めるのはためらわれる。 分析哲学のように不合理なものを切り捨てるのではなく、どんどん接続してゆく「と」の哲学と いうことは言える。 経験主義的哲学の系譜、ニーチェからスピノザへの系譜、こうした哲学史は押さえておかないと 面白く読めないかもしれない。
ここで書くより論文発表するよ。ただで教えてやっても、文句言うし。
609 :
考える名無しさん :2014/02/08(土) 23:42:01.99 0
ドゥルーズのある種の説について語るのに、 力学系理論がしばしば援用される。 で、そういう力学系理論のおける時間は、 「持続」的なもんなのか、 それとも、カントのいったようなものに近いのか、 「ドゥルーズ哲学を理解している人」に尋ねたいね。 なお、ここでドゥルーズを嫌っているかに見える人は、 むしろ、ドゥルーズではなく、「ドゥルーズ哲学を理解している人」たちを バカにしているのじゃないの。 ただ、私は別にバカにしない。
>>609 その「力学系」は何の本の何ページにある?
611 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 00:29:21.15 0
ドゥルーズのある種の説について語る人が、 力学系理論を援用する、ということが多い、 といったのね。 そういう事実がないと思うなら、 それはそれでかまわない。
612 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 03:09:10.87 0
これってしらす漁だよね 絶対しらす漁だよ
ベルタランフィを第一世代とすると第二世代システム理論はプリゴジンになるが 熱力学系システム理論を、全然システム的でない、ドゥルーズにつなぎ合わせよう という辺境(東大他)のよくわからない人たちがやっていることは聞いたことがある。
ドゥルーズはベルグソン・フッサールと同様アインシュタインの影響下にある。 だが熱力学系の時間理論とは、やはり一線を画している。時間については 「固有時」の考え方に関係ある。時間は運動する系の内部でしか一定でなく、 (固有時)その外では、時間の長さが違う。時間は伸長するわけだ。こうした 時間理論が、まったく物理時間ではなく、フッサールの「内的時間経験」とか「持続」の概念に結びつく。
また、絶対たやすくはないのに、n次元多様体を、ベクトル行列式で電算機 数学で解こうという一応は科学的な試みではあるが、とても哲学ではない。 ドゥルーズは機械論ではなく。生気論であり、ほほえましいアメリカの サイオントロジー(トム・クルーズもそう)が一応の根拠としているのが、ネゲントロピー である、というのも聞いたことがある。
ネゲントロピーはスピノザのコナトゥスとあまり変わらない。
哲学は科学と干渉して、何かかを取り入れるかもしれないが、 数学的な理論にならない、というのは、ドゥルーズの持論である。 (哲学とは何か)
神の恩寵のもとでの有機的なつながりとして理解されていた中世機械論的自然観が デカルト的オートマンの思考によって個別的に分解されたのちに、ヘーゲル経由で体系化されたのだけど マルクスによってこの体系を動的にとらえていこうという試みが出てきた。 その潮流の一つがドゥルーズ哲学でしょう。 だから彼の言う戦争機械や欲望機械というのはドイツイデオロギーや経済学批判で指摘された イデオロギーや上部構造に該当するものだともいえるが、静態的で自足したものでもない。 だから接続という形容がでてくる。 しかし、この発想形式で人類史がすべて割り切れるわけでもない。 ドゥルーズのテキストには非西欧地域の歴史にまで言及しているような部分があるのだけれど、 それは単に彼の妄想(願望)に過ぎない。 であるならば、マルクスが哲学者による世界解釈のヴァリアントに過ぎない、と切って捨てた イデオロギー(虚偽表示)とどこがどう違うのか? マルクスは資本主義的交通によって本来は異質な地域や宗教が再編され、 これと同時に意識の変質(洗脳ですね)がなされる、と「ドイツイデオロギー」で指摘している。 ドゥルーズがこの変質(洗脳)から逃れているのかというと…。
>デカルト的オートマンの思考によって個別的に分解されたのちに、ヘーゲル経由で体系化されたのだけど >マルクスによってこの体系を動的にとらえていこうという試みが出てきた。 >その潮流の一つがドゥルーズ哲学でしょう。 そんなことは絶対ありません。 A・Oでも体系ということは目指されてない。
>中世機械論的自然観 と「機械主義」は違います。
中世機械論的自然観の「決定論」のような、ものすごく古い考えは、 D・Gにはありません。マルクスだってとうに越えられています。 ドゥルーズは資本主義をマルクスとは違った形で再定義している。 それをマルクスを信じる、というような形で信じてくれ、なんて言ってない。
「固体」の機械ではなく「流れ」であり、もちろん物象化でもない。マルクスに言及してはいるが、 欲望論の問題は物的過程ではない。
M・Pではもはや生産様式すら問題にはならなくなる。
私はあなたのように洗脳されたくないです。
>ドゥルーズのテキストには非西欧地域の歴史にまで言及しているような部分があるのだけれど、 >それは単に彼の妄想(願望)に過ぎない。 反対でしょ。マルクスですら元来日本のものではなかったんだ。
>>604 勘違いしないでね。
要約がほしいとか教えてほしいとか言ってるるんじゃないんだよ。
君がドゥルーズの理解者みたいなこと言ってるから、それなら書いてごらんとw
こんな短文ですらそんな読み違いをしてるようじゃ、ドゥルーズに限らず哲学なんか読み取るのは無理じゃない?
>>607 >ヘーゲルやプラトンの同一性、絶対的な観念の哲学
見栄を張っちゃ、だめだってばw
まあ、なんであれ、議論が活発になってよかったw
>>626 あなたはそれではドゥルーズの理解者ですか?
伸びてると思ったらこれか・・・
>>629 さあ、どうだろうね?
でも、静的にか歴史的にかしか捉えていなかったそれまでの哲学に対して、存在している物や事柄の動きそのものを捉えようとしたことだけはわかる。
ただそれが弁証法と違う視点を獲得したかどうかは疑わしい。
メルロ=ポンティのような徹底した人と物との関係の追求があるわけでもないし。
>>630 >ヘーゲルやプラトンの同一性、絶対的な観念の哲学
それならヘーゲルの哲学のどこを同一性の哲学で、どこが絶対的な観念の哲学なのか、きちんと説明してごらんよ。
633 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 16:02:26.80 0
ポール・ド・マンは、ドゥルーズ哲学には、かなり冷笑的だったそうだ。 カルフォルニアあたりのニューサイエンス系哲学のフランス版ぐらいに考えていたらしい。 「衒学」的・「文飾」的なのがフランス的くらいのことじゃないか、と思う。 とはいえ、もとの話が又聞きなので、たしかとはいえない。
634 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 16:16:46.54 0
ドゥルーズが、新左翼主義の思想家だったという、 ほとんど当たり前のことを、日本ドゥルージアンは、わからないのか、あえて見ないのか、 いずれにせよ無視するから、得体のしれないないことになるのだな。 新左翼の理論を、あれこれと援用して、メタフォリカルに云っているのだ、と思えば、 難しいところなど、ほとんどないと思うが。
635 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 16:40:34.58 0
だいたい、ドゥルーズらが、ヘーゲル的プラトン主義なるものに対して、 徹底抗戦の論陣をはる動機は何だと思っているの。 ヘーゲルが、キチガイで、デタラメ言っていたからですか。 それとも、仮面ライダーのショッカーみたいな悪の結社のイデオローグだとか、ですか。
636 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 17:22:15.37 0
また、ドゥルージアン方に一つ訊くが、 ドゥルーズ哲学の基本のアイデアに、微分というものがある。 ふつうに、内積の概念の元は、ピタゴラス定理だといえるだろう。 これは解析幾何学等に詳しい人が補足してくれるとありがたいね。 こういう「基本的なもの」のさらに基本にあたるものは、ドゥルーズ哲学では、 どこからくることになっているんですか。 ところで、「幾何学を知らざる者は入るべからず」とプラトンのアカデメイアの門には は掲げてあったという。
637 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 17:37:31.05 0
618のAクラスの整理に対して、 619みたいなわけのわからん反論が出てくるようだから、 「ドゥルージアン」は馬鹿にされるんだな。 618は、ドゥルーズが体系化を目指す哲学者のひとりだなどとはいっていないのだ。 ドゥルーズのやっていたことは、イデオロギー批判だといっているわけね。
たまには邦訳でもいいからドゥルーズの文章を読んでみるのがいいんじゃないかな。 ジル・ドゥルーズ『差異と反復』第一章冒頭(財津理訳) 「反復は一般性ではない。反復は、いくつかの仕方で一般性と区別されねばならない。 両者の混同を巻き込んでいる言表は、いずれも厄介なものである。 たとえば、わたしたちが、二つの事物は、二つの水滴のように類似しているという場合や、 「一般的なものについてしか科学は存在しない」というのと、「反復するものについてしか科学は存在しない」 というのを、同一視する場合である。差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、 その類似とのあいだにある。」
>>638 そこだけで言えば、それは抽象の放棄、つまり自然科学的法則の放棄でもあるよね?
一方的に説明を求めるだけの人に、説明する義務なんてないね。 636-635-634-632に関して答えはあるが、言わない。もったいないよ。 わからない人には教えない。このスレは、長い歴史があって、過去に何度も同じことを書いて いる訳で。過去ログ読めばわかる。楽して答えなんか得られないよ。
641 :
638 :2014/02/09(日) 19:09:45.24 0
>>638 の一節を読んでみる。
・反復は一般性ではない
→この段階では何も分からない。
・反復は、いくつかの仕方で一般性と区別されねばならない。
→反復と一般性のいくつかの「区別の仕方」が今後提示されると思われる。
・両者(反復と一般性)の混同を巻き込んでいる言表は、いずれも厄介なものである。
→反復と一般性を混同している言表が例示されるらしい。
642 :
638 :2014/02/09(日) 19:15:24.61 0
■反復と一般性を混同している言表の二つの例 ・例1.二つの事物は、二つの水滴のように類似しているという場合 ・例2.「一般的なものについてしか科学は存在しない」というのと、 「反復するものについてしか科学は存在しない」というのを、同一視する場合 →例1.のどこが「反復と一般性を混同している」のかはまだ分からない。 →例2.は分かりやすい。「一般的なものについてしか科学は存在しない」=「反復するものについてしか科学は存在しない」 とすると(同一視すると)、「反復と一般性を混同している」ことになるのは形式的には分かる。
>>640 はいはい、こんなところで時間つぶしてないで一生懸命論文でも書いてなさい。
君のレスなんか誰も期待してないからw
644 :
638 :2014/02/09(日) 19:25:19.48 0
・差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、その類似とのあいだにある。 →ここで初めて例1.の意味が少し分かる。 ただし、「その類似」の「その」が、文章のどの部分を指しているのか明確にしなければならない。 解釈は二通りある。 (解釈1)「その」は「たとえどれほど極限的な類似であろうと」を指す。 (解釈2)「その」は「反復」を指す。 どちらを採用すべきか。
645 :
638 :2014/02/09(日) 19:32:11.34 0
ここでは、解釈2を採用する。するとこの文章はこうなる。 ・差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、反復の類似とのあいだにある →つまり、「反復」と「反復の類似」の間には「本性上の差異がある」、 たとえ、「反復の類似」が「どれほど極限的な類似」であっても、である。 例1.の「二つの事物は、二つの水滴のように類似しているという場合」の「二つの水滴のように類似している」 という表現は、「極限的な類似」の事例と考えられる。
646 :
638 :2014/02/09(日) 19:39:25.46 0
ここまでの読解を図式化すると以下のようになる。 <反復> ------本性上の差異--------------------- <一般性> <反復の類似> <反復の類似についてしか科学は存在しない>
647 :
638 :2014/02/09(日) 19:44:14.49 0
この読解は仮のものであって、以下「差異と反復」の第一章第二段落以降を 読んでいくに従って、修正されねばならないかも知れない。 という訳で、これ以降の論述については、個人的に読む。 冒頭のこの一段落だけでも、正確に読むというのは難しいのであって、 異なる解釈や整理がありえるはず。
>>643 説明しろ、で本当にすると、結局わからんのですね。
650 :
638 :2014/02/09(日) 19:59:27.49 0
>>638 この第一段落だけでは、「抽象の放棄」や「自然科学的法則の放棄」を述べているとは
言えないと思う。論点を先取りして言えば、ドゥルーズは自然科学法則は「一般性」「反復の類似」
「各項が等価交換できること」の水準で成立するものと規定している。
そして、「差異と反復」では、その「一般性、類似、等価性」を成り立たせる基盤、つまりよりリアルなものとしての
「差異」と「反復」について考察が進められていく。のだと理解している。
651 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 20:01:20.75 0
こいつは、フランス語なんかできんし、 研究者でもなんでもないだろう。 フランス思想界隈には、こういうわけわかんないのが なぜか、むかしからいるのだ。
652 :
638 :2014/02/09(日) 20:02:27.57 0
653 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 20:03:06.20 0
651は648に対して。
654 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 20:07:41.15 0
微分の哲学者(「差異と反復」終盤でそう呼ばれているライプニッツのことではなくドゥルーズ) のピタゴラスの定理の扱いはどうだ。 論点をしぼったほうが、多数にわかりやすいだろう。 同定理は、「プラトン主義」云々の場合は、それこそ基本中の基本だろうから、 差異的、じゃなかった、最適だろうし。
>>650 >ドゥルーズは自然科学法則は「一般性」「反復の類似」
>「各項が等価交換できること」の水準で成立するものと規定している
たぶんそのとおりだと思うけど、それがドゥルーズの抽象を理解していないところだと思うんだよね。
たとえば、1、という概念はある意味恣意的な設定によるものだが、その恣意的な設定もまた抽象による。
逆に言えば、差異も反復も、抽象を放棄したところからしかみることはできない。
抽象はその差異を否定し、結果として反復という概念を消滅させる。
656 :
638 :2014/02/09(日) 20:23:29.39 0
テキストを形式的に読む訓練を繰り返すしか、哲学の醍醐味を味わう方法は ないと思うな。よほどの天才は別だろうけどね。少なくとも自分はこうやって ちまちまと(笑)原典を読むのが好き。すると必要に駆られて原書も買うし、 訳文と対照させる段階から、原書で読む段階へと移れる。正直、めったに原書だけで 読むことはないけどね。さっきの段落だと、実際の書き込みはこうなる。 「反復は一般性ではない。/反復は、いくつかの仕方で一般性と区別されねばならない。/ 両者(反復と一般性)の混同を巻き込んでいる言表は、いずれも厄介なものである。/ たとえば、わたしたちが、(1)二つの事物は、二つの水滴のように類似しているという場合や、/ (2)「一般的なものについてしか科学は存在しない」というのと、「反復するものについてしか科学は存在しない」 というのを、同一視する場合である。/差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、 その(反復の)類似とのあいだにある。」
657 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 20:24:06.09 0
1が抽象、なんてどうしてわかりますか。 ちなみに、ピタゴラス派は、数は元素だと言っている。
658 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 20:26:09.06 0
正確には、元素は素数だったかな。
659 :
なんとなく思った名無しさん :2014/02/09(日) 20:36:00.54 0
ソース かも
ドゥルーズは、ベルクソンをベースに、スピノザとライプニッツをニーチェにおいて調停することを意図 していた、と言うようなことを、檜垣立哉の「ドゥルーズ入門」で目にして、なるほどなぁ、と思ったんだ けれども、でもそれと難解な新語・造語作りまくりとの関連がよく分からない。ベルクソンがベースと 言っても、「創造的進化」までで「二源泉」にはまったく触れていないようだし、そのライプニッツ論は ライプニッツ研究者たちからはまったく無視されてるみたいだし (後者は目指すところが違うから、と いうのもあるだろうけど)。 私自身は、ベルクソンを最後に、それ以降 (フッサール現象学系以降) の哲学者たちは皆、結局は 道半ばで挫折しているようにしか見えないのだけれども。
661 :
538 :2014/02/09(日) 20:50:18.29 0
自分はスピノザを専攻していたこともあって、ドゥルーズの本では 『スピノザと表現の問題』が一番面白かったし、今でも好きだな。 ちなみにこの本はドゥルーズが『差異と反復』を国家博士号請求主論文 として提出したときの副論文で、本来はセットで読まれるべきだと思う。 自分から見ると、どうしてもドゥルーズはスピノザ哲学を現代的にアップデート するために、ベルクソンの潜在性概念を道具として使い、ニーチェの永遠回帰を 補強材にした−という風に読めてしまう。実際『哲学とは何か』ではスピノザを 究極の哲学者としているしね。
662 :
638 :2014/02/09(日) 20:56:57.78 0
しまった638だった>538→638に訂正 『スピノザと表現の問題』では、スピノザの言う個体の本質は「強度(内包量)」 である、という解釈が斬新だった。スピノザのテキストにはそんなことは書かれて いないから、思い切った解釈だなと感心した。 名無しに戻るわ。
>>662 でも、面白かったよ。
また今度やってみて。
664 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 23:08:45.87 0
656 :638:2014/02/09(日) 20:23:29.39 0テキストを形式的に読む訓練を繰り返すしか いちおう、哲学をやっている、と称しているものが、 形式的という語を、こういうふうに遣うというのが、 何をかいわんや、だな。
>>664 横だけど、普通に通じるような使い方じゃだめなの?
666 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 23:28:07.95 0
形式的に読む、 というのが普通に通じるのか? 動いう風に読むことなの。 論語の素読か、 謡曲の口伝えみたいにでも読むんですか?
667 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 23:31:36.08 0
数や三角形の話しが出てるんだから、 ドゥルーズ哲学を「応用」して、 とりあえず何かいったらいいんじゃないの。
668 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 23:39:17.45 0
それとも、フォーマルに燕尾服でも着て読むんですかね。
>>666 横の続きねw
形式的に読む、と言うのは、他者の解説を参考にするのではなく、その文章を著者の意を汲むことを目標にして読み込む、ぐらいのことに受け取ったけど?
ま、本人がどう言うか知らないけど。
670 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 23:46:42.83 0
形式的がそういう意味なの。 その形式は、従来の形式ではなく、造語に近いね。
>>670 ふうん。
従来の形式って、どういう意味なの?
672 :
考える名無しさん :2014/02/09(日) 23:55:13.84 0
辞書ひけばいいんじゃないの。
>>672 たとえば、アンカーを付けてレスするのが形式的で、アンカー付けずにレス書くのが内容重視、みたいなもの?
>>664 「テクストを形式的に読む」というのは、テクストを構文的、論理形式的に
正確に把握しながら読む、という意味。
例えば、指示語が何を指しているのか、係り受けがどうなっているか、
といったことをきっちり押さえながら読むこと。ある文章が例示なのか、仮定なのか、
後に否定されるものなのか、著者の主張なのか、といった区分けをしっかりやりながら読むこと。
そういう意味で「テクストを形式的に読む」という表現を使った。純哲ではよく言われる表現だと思うけど。
失礼。674は自分です。
例えば
>>644 で、
「その類似」の「その」が、文章のどの部分を指しているのか?という問題について、
「反復」を指しているとしたけれど、ここは議論があってしかるべきだと思う。
場合によっては、原文を参照する必要があるでしょう。こういう「形式的な読み」を
ないがしろにして、ドゥルーズはああ言っているこう言っているって議論しても仕方がない、
というのが自分の立場。構文的、論理形式的に正確な把握ができていないと、追思考することが
できないでしょう。まあ別に流し読みや入門書頼みでも個人の自由だけど、自分は嫌だな。
676 :
638 :2014/02/10(月) 05:12:03.68 0
名前欄の数字が消えてた、すみません(笑) 674,675で回答になっているといいけど。まじで名無しに戻る。
677 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 05:24:25.10 0
純哲でよくいうということは、 もとは外国語ですか? そうなら、ドイツ語ないしフランス語でなんというの。
679 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 11:47:16.39 0
國分「ドゥルーズがそんなこと、どこに書いたというのですか!?」。 市田「この本に書いているけど…」。 國分「ズーラビクヴィリを日本に紹介したのは僕ですが、このズーラビクヴィリの用法はちょっとおかしい!」。 市田「(おれ、古くから彼と知り合いなんだけど…、)本人に確認したけど」。
>>674 純哲ってなに?
なにか区分けはあるの?
教えてチャン消えてね
>>686 教えてって言ってるんじゃなくて、いい加減なことを言うなって批判してるんだよ。
>指示語が何を指しているのか、係り受けがどうなっているか、
>といったことをきっちり押さえながら読むこと。ある文章が例示なのか、仮定なのか、
>後に否定されるものなのか、著者の主張なのか、といった区分けをしっかりやりながら読むこと。
こんなこと書いてるのに、たかが分類の基準を追求されて逃げ出すんじゃ、恥ずかしくないのかい?
厳密な振りをしても、中身は空っぽ。
まさに内容じゃなくて形式だねw
からっぽがからっぽを笑う 哲板のいつもののどかさよ
690 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 20:08:02.99 0
髭面のヘーゲル、髭のないマルクスを描こー といった人の本を「形式的に読む」(ふつうの日本語では精読味読する) のがバカらしいとも思わん人たちには無理かもしれんが、 深爪のドゥルーズを想像してみるくらいのことはやってみたら、といいたいね。 中身がない、空っぽ、というのは、まだ辛辣とは言えない云い方だ。 はっきりいえば、基礎的学力がない。あたりまえの知識量がない、 外国語もぜんぜんできん、要するに、バカだ、ということにつきる。
>>690 つまらない比喩と、思いつきの罵詈雑言で自分を慰めているのは、なぜ?
692 :
考える名無しさん :2014/02/10(月) 20:34:58.92 0
事実を言っているだけだ。 さて、きみは、かんたんな議論くらいなら、フランス語でやれるか?
>>692 できないよ。
フランス語は分からない。
で?
ふむ。ROMってろよ。
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』第一章冒頭-第二段落(財津理訳) 「一般性は、類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。 もろもろの循環と、もろもろの等しさとが、その象徴である。 だが、いずれにせよ、一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。 もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。 だからこそ、経験論者が、言葉のうえで一般観念に類似している個別観念ならどのような個別観念であろうと、 その一般観念の代理として用いてかまわない、という気持ちを加味することを条件に、一般観念を、それ自身において 個別的なひとつの観念として提示するのも間違いではないのだ。 これとは逆に、わたしたちには、反復は代理されえないものにたいしてのみ必然的で根拠のある行動になるということがよくわかる。 行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。反映、反響、分身、魂は、 類似ないし等価の領域には属していない。そして、一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことは できないのである。交換が一般性の指標だとすれば、盗みと贈与が反復の指標である。したがって、反復と一般性のあいだには、 経済的な差異があることになる。」
697 :
696 :2014/02/10(月) 22:15:05.63 0
昨日に引き続いて『差異と反復』のテキストを読んでいきます。(参加自由) ・一般性は、類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。 →一般性についてのより詳細な説明に入るらしい。一般性が提示するものは、類似と等価である。 そして、類似は質的レヴェルに属し、等価は量的レヴェルに属する。 ・もろもろの循環と、もろもろの等しさとが、その象徴である。 →「その象徴」の「その」は何を指すのか? 解釈1.「一般性」を指す。 解釈2.「一般性の二つの大きなレヴェル」を指す。 ここでは、解釈2.を採用する。すると、この文章は、 「もろもろの循環と、もろもろの等しさとが、 類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルという、 一般性の二つの大きなレヴェル象徴である。」となる。
昔、こんな感じの「差異と反復を読む」っていうスレッドがあったな
699 :
696 :2014/02/10(月) 22:21:33.48 0
・だが、いずれにせよ、一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。 →「いずれにせよ」とは「何と何であるにせよ」なのか? 解釈1.類似の質的レヴェルにせよ等価の量的レヴェルにせよ、である。 解釈2.もろもろの循環にせよもろもろの等しさにせよ、である。 解釈3.類似の質的レヴェルおよびその象徴のもろもろの循環にせよ、 等価の量的レヴェルおよびその象徴のもろもろの等しさにせよ、である。 ここでは解釈1.を採用する。
700 :
696 :2014/02/10(月) 22:25:27.98 0
・もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。 →一般性に対応する行動の定義=もろもろの個別的なものの交換ないし置換、である。 言い換えれば、もろもろの個別的なものを「交換すること」「置換すること」が、 一般性に対応する「行動」である。
701 :
696 :2014/02/10(月) 22:30:24.36 0
・だからこそ、経験論者が、言葉のうえで一般観念に類似している個別観念ならどのような個別観念であろうと、 その一般観念の代理として用いてかまわない、という気持ちを加味することを条件に、一般観念を、それ自身において 個別的なひとつの観念として提示するのも間違いではないのだ。 →この文は構文がやや複雑なので、少し気をつけて読む必要がある。 大きく見れば、「経験論者が、一般観念を、それ自身において 個別的なひとつの観念として提示するのも間違いではない」ということである。 但しこれには「条件」がある。すなわち「言葉のうえで一般観念に類似している個別観念なら どのような個別観念であろうと、その一般観念の代理として用いてかまわない、という気持ちを加味すること」 というのがその「条件」である。
702 :
696 :2014/02/10(月) 22:42:32.00 0
・これとは逆に、わたしたちには、反復は代理されえないものにたいしてのみ必然的で根拠のある行動になるということがよくわかる。 →ここから、「一般性」ではなく「反復」についてのより詳細な説明がはじまるらしい。 ここでは、「反復という行動(の定義)」が述べられている。 先に「一般−個別」の軸が提示されていた。この軸は相互に「代理可能」であった。 これとは逆に、「反復すること」という「行動」は、「代理不可能なもの」に対してのみ、 「必然的で根拠のある行動」になる、ということである。
703 :
696 :2014/02/10(月) 22:48:41.08 0
・行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。 →「行動としての一般性」は「もろもろの個別的を交換ないし置換すること」であり、 「視点としての一般性」は「どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるということ」であった。 これに反して、「行動としての反復」も「視点としての反復」も「交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる」。
704 :
696 :2014/02/10(月) 22:55:22.15 0
・反映、反響、分身、魂は、類似ないし等価の領域には属していない。 →この段階で特に解釈の必要はない。「類似ないし等価の領域」が「一般性の二つ(質的、量的)のレヴェル」 であったことを想起しておくことくらいでよい。 ・そして、一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことは できないのである。 →上記の「反映、反響、分身、魂」のうち特に「分身、魂」の具体例として「一卵性双生児の魂」があげられている。
705 :
696 :2014/02/10(月) 23:04:18.15 0
・交換が一般性の指標だとすれば、盗みと贈与が反復の指標である。 →ここまでのドゥルーズの記述にもとづいて補足すれば、これは「行動」の指標であると解釈できる。 ・したがって、反復と一般性のあいだには、経済的な差異があることになる。 →ちょっと笑ってしまうユーモアを感じる。「一般性」は「等価交換」という経済的行動を示し、 「反復」は「盗みと贈与」という経済的行動を示す、というわけだ。資本主義は明らかに「一般性」に もとづくものであるから、「反復」は反−資本主義的、ないしは非−資本主義的なものである、と考えてよいかもしれない。
706 :
696 :2014/02/11(火) 00:49:25.30 0
ここまでの読解箇所をざっくりと図式化しておく。 <反復> 代理されえないもの 交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる 反映、反響、分身、魂 盗みと贈与 ------本性上の差異----------------------------------------------- <一般性> 一般観念と個別観念は相互に代理可能 どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうる 類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェル もろもろの循環と、もろもろの等しさ 等価交換 反復の類似 反復の類似についてしか科学は存在しない
707 :
696 :2014/02/11(火) 01:03:56.48 0
以上の読解を本に書き込みするとこうなる。 「一般性は、類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。/ もろもろの循環と、もろもろの等しさとが、その(類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの)象徴である。/ だが、いずれにせよ(類似の質的レヴェルにせよ等価の量的レヴェルにせよ)、一般性は、どの項も他の項と 交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。/ もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。/ だからこそ、経験論者が、【言葉のうえで一般観念に類似している個別観念ならどのような個別観念であろうと、 その一般観念の代理として用いてかまわない、という気持ちを加味することを条件に】、 一般観念を、それ自身において個別的なひとつの観念として提示するのも間違いではないのだ。/ これとは逆に、わたしたちには、反復は代理されえないものにたいしてのみ必然的で根拠のある行動になるということがよくわかる。/ 行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。/ 反映、反響、分身、魂は、類似ないし等価の領域には属していない。/ そして、一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことはできないのである。/ 交換が一般性の指標だとすれば、盗みと贈与が反復の指標である。/ したがって、反復と一般性のあいだには、経済的な差異があることになる。」
708 :
696 :2014/02/11(火) 01:25:17.88 0
次の第三段落まで進めば、 『差異と反復』序論「反復と差異」第一節”反復と一般性−行動の視点からする第一の区別” を読み終わることになり、一区切りつきます。 当然、ここまでの読解について、様々な異論がありうると思うし、 自分で間違った読み方をしていたことに気付くこともあると思う。 ただ、こうして自分の読みを本に書き込んでおいたり、ノートにとっておいたりしておくと、 後で(例えば何年か経ってからでも)、過去の自分の読みを確認したり修正したりできるので、 有益です。自分の読みの浅さや誤りに自分で気付く、修正していくという過程が大事なんじゃ ないかと思います。 理解することばっかりは、他の誰かに代わってやってもらうことができないからね。
ごめん、日記でやってよ。
710 :
考える名無しさん :2014/02/11(火) 03:24:16.46 0
こういう場合は、引用は、印象的なものを、一、二行すれば十分だから、 それについて、何人かが入れる話題になるような 数行の私見を付け加えるといいんじゃないの。
うん、引用のまずさってその人の理解度を示すよね。
712 :
696 :2014/02/11(火) 11:01:56.57 0
>>709 うん、ニーズが無いようだからやめる。
>>710 2ちゃんで議論するならそういうスタイルがいいみたいだね。
スレをざっと読んで、『差異と反復』が話題になっていることが多いのだけど、
ちゃんと読んでいる人が少なく、それゆえ空疎な「ドゥルーズのイメージ」について
あれこれ適当なことを言いあっている印象が強かったので、それは不毛だな、と思った。
だから序論だけでも逐語的に読解しあうことができれば、迂遠に見えても、実は効果的なんじゃないか
と思ったんだけど、そう思わない人が多いのでは、あえてやる意味がないね。
>>4 から
>>13 で、『差異と反復』の目次を小見出しまで含めて書き写しているのは、
とても素晴らしいと思う。これをじっくり読むだけでも、かなり有益だからね。
>>711 失礼ながら、お前はアホか!(笑)講読の授業を受けたこともないのか。原典を一部分だけでも
全文逐語的に読解していこうという主旨なのだから、引用したら意味無いだろ。モグリでいいから、
一回くらいは大学って場所に行ってみれば?
713 :
696 :2014/02/11(火) 11:26:57.16 0
>>4 から
>>13 を読めば分かるけど、この『差異と反復』の序論では、
「反復と一般性を区別する」という重要な作業が行われている。
ドゥルーズは三つの視点からの「反復と一般性の区別」を提示している。
ひとつめが今まで読んだ「行動の視点からの区別」、ふたつめが「法則の観点からの区別」、
みっつめが「概念の視点からの区別」。つまり、「反復と一般性の本性上の差異」を示すためには、
「行動」「法則」「概念」という三種類の区別をすることが必要不可欠だとドゥルーズは考えたわけだ。
このなかではみっつめの「概念の視点からの区別」が最も難解。概念の「阻止 blocage」という、ちょっと例を見ない
考え方を理解しないといけないから。この「概念の阻止」について、正面から論じている研究は少ない。
國分さんの『ドゥルーズの哲学原理』を読んでも、千葉さんの『動きすぎてはいけない』を読んでも、
「概念の阻止」については何も分からない。ググれば、概説はないでもないけど、十分な分析は見当たらないよ。
715 :
696 :2014/02/11(火) 14:54:34.24 0
>>644 と
>>645 の解釈は、原文を参照したところ、やっぱり間違っていた。
La difference est de nature entre la repetition et la ressemblance, meme extreme.
だから、「その類似」の「その」は、特に有意な何かを指示していない。
ここの訳文は、
「差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、その類似とのあいだにある。」
よりも、
「差異は本性上、反復と類似とのあいだにある。類似がたとえどれほど極限的な類似であろうとも。」
とした方がいいと思う。
717 :
696 :2014/02/11(火) 15:11:34.09 0
だから、
>>704 の図式も
>>716 に連動して訂正する必要がある。
<反復>
代理されえないもの
交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる
反映、反響、分身、魂
盗みと贈与
------本性上の差異-----------------------------------------------
<一般性>
一般観念と個別観念は相互に代理可能
どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうる
類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェル
もろもろの循環と、もろもろの等しさ
等価交換
類似(極限的な類似も含む)
718 :
696 :2014/02/11(火) 15:20:42.06 0
財津さんの訳文を尊重するなら、
>>716 は、
La difference est de nature entre la repetition et la ressemblance, meme extreme.
「差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、その類似とのあいだにある。」
ここの「その類似」の「その」は、「極限的な」を指す、と解釈すべき。
つまり、「差異は本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、その(極限的な)類似とのあいだにある。」
と読まなければならない。
719 :
696 :2014/02/11(火) 15:36:33.01 0
>>714 紹介してもらったスレの当該箇所(初学者さんの考察)は、とてもいいですね。
特に160の「こうして、我々は反復と一般性とを「概念の阻止」という観点から区別してきたわけだ。概念の阻止によって引き
止められる類似・一般性と、概念が阻止されることで概念の追っ手からどこまでも逃げ去っていく反復。
しかしこうしたかたちで行われてきたのは、反復を直接に捕らえようとする試みではなく、あくまでも反復を炙
り出すというしかたでの、いわば消極的な把握である。なぜそうせざるを得なかったのだろうか。それは、我々
があまりにも概念的思考に慣らされてしまっているからである。そのため直接的に反復を捉えることはいきなり
には無理であって、その下準備として概念的思考のモデルを機能不全に陥らせる必要があったのだ。」
という箇所には賛成します。
720 :
696 :2014/02/11(火) 15:53:21.28 0
>>714 自分の暫定的な解釈では、「概念の阻止」の議論(というか初学者さんの
言うように思考実験と捉えるべきでしょうが)は、ドゥルーズが『哲学とは何か』で
鮮明に打ち出した「論理学(特に論理実証主義)」に対するある種の「軽蔑」
あるいは「論理学の限界の認識」につながっているものだと思えます。
「反復、即時的差異、純粋な潜在性」を積極的に提示する、というドゥルーズの試みは、
ちょうどスピノザの実体を積極的に提示することと同じで、非常に難しい。経験的に・通常の意味での
概念的には、提示不可能なので、論述は逆説的にならざるを得ない。スピノザが、実体は知性でしか捉えられない
と述べていたのと非常に似ている。スピノザが神秘主義者ではないように、ドゥルーズも神秘主義者ではない。
あくまで思考の力能に信を置く態度を捨てないからです。
721 :
696 :2014/02/11(火) 16:02:44.23 0
しかし、今回自分が哲学板に書き込みしたのは、数年前に比べて哲学板全体が 惨憺たる荒廃ぶりをしめしていることに驚いたからです。 訳のわからないスレが乱立し、AAや電波レスばかりが溢れている。 なぜここまで荒れ果てたのかは分からないが、ちょっと酷すぎる(笑) これも時代の流れなのかもしれない。
序論を細かく読んで疲れて、最後まで読み終わらなかったりかったりして。
>>722 それで発狂するやつとかたまにいるよね。
724 :
考える名無しさん :2014/02/11(火) 19:14:31.36 0
≫2ちゃんで議論するならそういうスタイルがいいみたいだね 長々引用している人は、分かっているなら、そうしたらいいのじゃないか。 ただし、引用貼り付けよりは、能力を求められるぞ。
725 :
考える名無しさん :2014/02/11(火) 19:25:12.40 0
左利き占星術キチガイくんのせいで哲学板が荒廃したのは仕方がない もはや誰も彼を止められないのだから そうそれこそ時代の流れ
726 :
考える名無しさん :2014/02/11(火) 19:32:25.50 0
ほんとどうしようもない「邪魔者」っているんだよな こういうやつは基本的に自己顕示欲もかなり強い 俺は海外の大学行ってたとか言い出すw
ドゥルーズは「差異について」をよめば十分
>>722 だからこのスレではやらないってば(笑)財津訳を手打ちしているんだから、疲れるわ。
次の第三段落までで序論の第一節が終わるところだけど、ニーズがないからやらない。
『差異と反復』は何回か通読してる。
>>727 さすがにそれは不十分でしょ。個人の自由だけど。
>>725 波平とぴかぁもA級戦犯だな
哲板のレベルがだだ下がりなのも事実
726とか典型的な低脳荒らし
730 :
考える名無しさん :2014/02/11(火) 20:51:42.94 0
>>712 誠実そうな物言いを続けてられればよかったのにね。
ちょっと批判されるとすぐ本性が出てしまうw
もし大学でやってることがきちんとしているなら、一つ一つに自信もって賛否とその理由が言えるよね。
大学なんて教師を含めて解釈にもならない解釈を思いつきでこじつけてるだけだから、自分の言葉で、社会の状況を踏まえて他人に説明することはおろか、自分自身すら理解できないことを語ってるだけなんだよね。
だから哲学はいつでも小学校からはじめてる、なんていわれても反論できないんだよ。
君たちの哲学なんて、社会にはもちろんなんの影響も与えられないし、思想状況にだってかすりもしない。
息苦しくなると、原典原典と呪文を唱え始める。
寝言を原語で言ってるくらいにはなってるんだろうが、そのときは日本語の読み書きを忘れてしまっている。
もし大学で給料もらってるんなら、日本人に理解できる言葉でその原典を翻訳して無料で公開することだ。
多額の補助金が給料にも入ってるんだから、アルバイトの翻訳で小遣い稼ぎなんてみっともないよね。
どうせ哲学の院生だの大学教師だのなんて自分たちでオダあげてるだけで、社会にはなにも貢献してないんだからさ。
732 :
試作 :2014/02/11(火) 22:21:59.52 P
チャート図:『差異と反復』>>14 _______|_________ 差異__|__反復 |同一性と _|_ 0序論>>4 |対立の哲学 | | | |ハイデガー >>5| | _|__ | 一それ自身における差異| | 反復と一般性の区別>>111| ショーペンハウアー | | _|_ >>696| | アリストテレス| | | | | | | | 行動、法、概念 | 一義性と差異 | | _|_ | | | | _|_ | | スコトゥス、 | | | | 固定(阻止) | スピノザ、 | | 裸(拍子) 着衣(リズム) | ニーチェ | | | | |二それ自身へ向かう反復>>7ヒューム| | ライプニッツ | >>8 | | | 時間の総合 | | ヘーゲル ____|____ | | | | |フロイト|ニーチェ | |______| 現在 過去 永劫回帰 | | |____|____| | プラトン |__________| | |>>9ベルクソン 四差異の理念的総合 三思考のイマージュ >>10カント|_________________| >>11 | >>12 五感覚されうるものの非対称的総合_____結論:差異と反復 >>13 共通感覚 強度の特徴 個体化 ライプニッツ ニーチェ
733 :
訂正 :2014/02/11(火) 22:23:49.91 P
>>111→>>21
AA板でズレない練習をしてから書き込んでくれないかな?
735 :
696 :2014/02/11(火) 22:56:40.36 0
>>714 で紹介してもらったスレ「差異と反復を読みたい2頁目」を全部読んだ。
2006年から2010年まで約4年間かけて1スレが消化されていることに感嘆しました。
内容も非常にレヴェルが高い。当時の日本でのドゥルーズ受容の貴重なドキュメント
だと思う。
実のところ2010年から2013年にかけて公刊されているかぎりでは、日本のドゥルーズ研究は
さほど進展していない。2008-2013年の間に公刊されたもので、必読だと思える論考は以下の2点。
「『差異と反復』における微分法の位置と役割」近藤和敬(「ドゥルーズ/ガタリの現在」平凡社 所収)
「交錯するエピステモロジー ドゥルーズというひとつの事例から」(「エピステモロジー 20世紀のフランス科学思想」慶應義塾大学出版会 所収)
翻訳書では、『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』フランソワ・ドス(河出書房新社)
736 :
696 :2014/02/11(火) 23:02:20.13 0
「交錯するエピステモロジー ドゥルーズというひとつの事例から」の著者名が抜けていた。 著者は、米虫正巳さん。
737 :
696 :2014/02/11(火) 23:17:09.00 0
近年の日本のエピステモロジー系の若手研究者の水準の高さは瞠目に値する。 おそらく、カヴァイエス、グランジェ、ヴュイユマンらの数理系のエピステモローグを 研究する過程で、かなりの知的訓練(ディシプリン)を必要とするからだと思う。 2014年は日本の研究者ではエピステモロジー系の人たち、翻訳紹介ではモンテベロとデランダが ドゥルーズ関連では期待される。
738 :
考える名無しさん :2014/02/11(火) 23:27:38.65 0
「『差異と反復』における微分法の位置と役割」は、それなりにあるのは、 分かったから。それが、「差異と反復」におけないところで、どういう位置と役割をもつのか、 ちょっとでも書けないもんかな。
739 :
696 :2014/02/11(火) 23:50:46.66 0
あと今年は
第二回ドゥルーズ・スタディーズ・アジア国際会議(2014年6月6日−8日)
とそれに関連して先行開催されるドゥルーズ・キャンプ(連続レクチャー 5月31日−6月3日)
があるから、行ける人は行ったらいいと思う。自分は行く。
>>738 申し訳ないが、問いかけの意味が分からない。
「『差異と反復』における微分法の位置と役割」は論文のタイトルだよ。
>「差異と反復」におけないところで、どういう位置と役割をもつのか、
740 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 00:35:35.79 0
論文のタイトルなんだから、 その論文では「おける」ところを主題的に扱っているんだろう? あなたには、「おけない」ところでは、どうなの? ときいているわけね。
「おけない」ところという日本語がよくわからないが 『差異と反復』以外の場所(数学や工学とか?)での微分法の位置と役割をきいてるのか?
742 :
696 :2014/02/12(水) 00:55:16.85 0
>>739 なるほど、了解した。『差異と反復』を離れたところでの、自分にとっての
微分法の位置と役割は、それぞれ日常生活にテクノロジーとして組み込まれ
ているもの(例:自動車の速度計)で、身体の延長の役割を果たしているもの
ですね。
743 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 01:32:52.91 0
「身(み)の構造」とか、「精神としての身体」とか、 こういう題名の本が、昔一寸売れたことがある。 わたしは、「精神としての身体」のほうしか読んでない。 ドゥルーズのいう「微分」というのは、ようするに、 釣人が、竿や浮きなどの「釣りシステム」の全体を、あたかも体の延長のように「感じる」とか、 そういう話しなわけ? もしそうならば、そのなにが「微分」なの?数学用語で訳す必要はどこにありますか。
全然話がかみ合ってないな。
微分の「哲学的意義」は、微分法の発案者のひとりであるライプニッツが与えているよ。 微分されたもの=モナドで、それにより最善選択説と予定調和説の数学的根拠が得られ、またデカルトの 二元論を一元論へと収斂できるとか。 ドゥルーズのそれも、この線に沿ったものじゃないかな。彼のはまだ読んでないから断言はできないけど。
ドゥルーズはベルクソニアンだから ベルクソンを読めばだいたい理解できるよ
747 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 01:52:36.87 0
≫微分されたもの=モナドで、それにより最善選択説と予定調和説の数学的根拠が得られ もしかして、お経の話しですか?一即一切とか。
748 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 01:59:54.67 0
古典的な多体問題としては、太陽系のような恒星と惑星が、 万有引力で相互作用し合う場合の惑星運行の問題が挙げられる。 太陽と地球のような二体問題は厳密に解けるが、例えば月の運動も考える 一般の三体問題以上になると解析的に解くことはできないとされる ↑のような「融けない微分方程式」のような場合に モナドとかいうものはどうなるの。もしかして、発狂するとか、するのか?
749 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 02:25:29.45 0
750 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 02:32:23.98 0
國分「ドゥルーズがそんなこと、どこに書いたというのですか!?」。 市田「この本に書いているけど…」。 國分「ズーラビクヴィリを日本に紹介したのは僕ですが、このズーラビクヴィリの用法はちょっとおかしい!」。 市田「(おれ、古くから彼と知り合いなんだけど…、)本人に確認したけど」。
>>748 ライプニッツのモナドロジーでは、モナドはオブジェクト指向のクラス階層的な「場の体系」の体現存在と
見なされてるよ (磁場における鉄粉のようなもの、それによって磁場が「見える」ようになるように、モナド
によって究極には神に起源する「場の体系」が「見える」ようになる)。
その観点から見れば、多体問題でも「ひとつの統合的秩序系」さえ成していれば、そうした階層性を使っ
て「モナドの体系」として把握できるんじゃないかな。
752 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 03:26:33.44 0
ハロウィンにしては寒すぎるが。
753 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 03:31:24.41 0
たぶん、微分とは「無限小」のなかに、「解ける解けない」、にかかわらず、 いわば全体が集約的にある、 というようなこと、とでもいいたいわけだろう。 だから、その喩えとしての微分をもって、なにをいわんとするの。 あるいは、その種のホーリズムが、そんなに珍しいものだと思っているんですか?
754 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 03:34:00.27 0
ホーリズム→ホーリズムの亜種
は〜。こういう水準なのね。ライプニッツはそんなもんかw
>>751 三体問題に「オブジェクト指向」。的外れ。
758 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 07:17:15.03 0
アンフォルメル
一生懸命書いてるね。いまいちなのに。
間抜けなこと書いてるけど。スレがにぎやかでいいや。
595です。(国分) >問題を立て直す素材を与えることはあっても、解答を与えるものではない(ドゥルーズ)。
>>748 微分方程式自体解が得られるとは限らない。「解が発散する場合」
ということを、ドゥルーズは考えており、その場合にライプニッツとの関連で、
副次的矛盾ということが言われる。
「問いー問題」の複合は現代思想の獲得物であるが、それが どれほど存在論の復興を基盤としているかを改めて指摘する必要がある。 「それは諸存在、諸事物、諸出来事に、本質的なあり方で属している 超越論的な地平、超越論的な焦点としての問題的なものである。」 (旧版296){差異と反復」
こうしてドゥルーズはハイデガー的な「存在の問い」から「問の存在」を論じるのである。
床屋談義じゃないよ。「生(存在)」と「問い」。出来事としての「問い」。
ずいぶんスレが伸びたが、60パーセントぐらいだよ。回答として。
>>743 イデ―に関して微分が言われ、水泳の波に一滴に対して、身体は「曖昧であるが判明なもの」
を理解しています。
>>731 哲学にしか可能でないものがある。社会的状況に即した効用のレトリシズム
では片付かないインスタンスでものを考えられる。
769 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 11:34:40.47 0
随分フレンドリーな神だね。
ソーカル臭が漂ってるなw
>>770 書くと損する、がもうちょっと待ってもらう。
「差異と反復」以降書いてない。それ以降のドゥルーズ著作の吟味が、長くかかった。 あと二年ぐらいで書き終える予定。
「差異と反復」(1968):20世紀最大とも思われる現代における哲学的ディシプリン。多岐にわたる論旨の現代的総合であって綿密に読まれて良い書。 ヒュームの経験論から発して「親密な敵」であるカント主義のラディカルな批判により、生得的なアプリオリを共通感覚の神話とし、経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる。
サイト反復の読み込みに時間がかかった。だがこういう風に読む、という ラインを引いた後、これは一個の「論文」になる、と気づいた。
「ドゥルーズ」でググると1ぺージめに出てくるよ。へへ。
後期博士課程に入るめどが立たないので中断。
779 :
696 :2014/02/12(水) 15:52:30.06 0
>>773 ブックマークさせてもらいました。内容が充実していますね。
拝読します。ありがとう。
(『スピノザと表現の問題』や『スピノザ 実践の哲学』についてならコメンタリー
できると思います)
>>773 ちょっとだけ読んだ。
一生懸命書いてることだけはわかるから、あまり批判はしたくない。
ただ、ヘーゲルやマルクスをちゃんと読めば、そんなに簡単に片付けてはいけないこともわかるはずだ。
その緩さがドゥルーズ理解の甘さにつながらなければ幸いだ。
M・フーコーがコレージュ・ド・フランスの講演で J・イポリットは「哲学にして、ヘーゲル的でないものがありうるだろううか。」 と問い、「ヘーゲルの体系を安心の宇宙として利用しなかった。氏はそこに 、哲学がとらえた極度の危険を見ていました。」と語りました。私は市倉氏訳の イッポリットの書物を読んでいます。
>>780 逆に言うとヘーゲルやマルクスの観点からみるとどういう点が
緩やかなんでしょうか?それを聞いたほうが勉強になりそうです。
ヘーゲルのほうが神秘主義なんじゃないかと思いますが。
ベルグソンが直接性に準拠し、それを止揚したた概念である知覚を メルロポンティが考察する。この間に入ってくるのは反省です。 現象記述をやめて、メルロポンティは、お手軽に反省概念を導入しますが、 現象学の根本前提を、逸脱しているようで、好きじゃないです。
785 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 19:11:48.65 0
目を疑う書き込みだな
世界による拘束性からの脱却だったのに、 世界の根源的な所与性と意識そのものの世界への 根源的な帰属性が、イデ―ン期以降明らかになるとしても、 ありきたりな生活世界を正当化する図式になりそうなので嫌であります。 どういう権利根拠でカテゴライズできるのかを問ううことの根拠が、 生の自明性にあるなら、トートロジーになってしまう。
事実再認とか、事後確認のコンセンサスに留まる場合、 メルロポンティは、ある意味<イデオローグ>であります。(上部構造) ミッシェル・フーコーが狙ったのは、生活世界に住む人間自体を 構成することになる諸力の分析なのであります。(土台) ヘーゲルにもマルクスにも関係ないけれど、ドゥルーズが何としてでも 等酒ておいた主題であります。
「等酒」は「遠ざけ」のミスタイプ。
789 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 19:56:07.20 0
ラカンが理解できなければフランス現代思想は理解できないもんね
もはやそこには人間はおらず、非人称的な場における諸力の関係こそが 発生の場であり質および量として異化分化する、ドゥルーズの言うところの 「超越論的な場」なのであります。
792 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 20:00:13.48 0
一例。 統覚とは、他者に関係することにおいて自分自身に関係する純粋な自己関係 (ヘーゲル) ラカン鏡像段階説のみならず、ほとんどの現代他者論のネタもとだ。
>>790 ラカンだったらいいです。ラカン自身が自分の論理をガタリが
どう評価してくれるかきにしていたわけで。大物ぶる(父権的=ファロス的)
というのがどんなに頑張ってもフロイトの理論の自己回帰的(強迫「反復」的)
帰結だからです。フロイト自身が無意識に乗り越え得ざる父として振る舞い、
たちまちに多数の流儀に分裂し、パリーフロイト学派も同様です。
結果になる
>>782 >>790 「ギリシャ哲学以来の「哲学の総括」(ポール・リクール)としてのヘーゲル哲学の体系はおよそ網羅的であって」
「マルクス主義への失望のあとの時代に、進取の志を掲げた現代フランス哲学」
こんなとこ。
ほかにもいっぱいあるよ。
>>784 >メルロポンティは、お手軽に反省概念を導入
ついでにいえば、メルロポンティも読んでないよね?
>>792 統覚自体が超越論的に発生する際に、初めは自我も他者もいないです。
他者が関係するのは結構ですが、客観的精神の発生はどうなるんですか?
ひたすらソーカルに向かってまっしぐら、じゃないか?
798 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 20:28:47.06 0
西田幾多郎ふうに、無の自己限定、とか解釈すればいいだろう。 ヤコブ・ベーメの「無底」でもいい。 「無底」はシェリング経由でドゥルーズの援用していたのじゃなかったか。 ただ、その種の「起源」というものについては 不可知論というのではなく、問い(自体)が成り立たない。 ようするに、自己もなければ他者もない、自他未分といえば、 お経の文句みたいなもので、なんかわかったような気もするが、 しょせん、死んだらどうなる、みたいな話しなわけね。 自他未分であっても、結局は、さらにもとに、純粋差異、とか、そんなものをもってくるわけで、 屋上屋を重ねる、というのにすぎない。 なお、791みたいなのは、ニューエイジサイエンスなどにはいくらもあった。 あるていどの年齢以上の人にとっては、たいがい飽き飽きした話しなわけね。 松岡正剛の千夜千冊でも読んだらどうか。雑学ですむところは、それですますのがエコノミーにかなっている。
>>794 どこが緩いのか、肝腎な点は答えないんだな
やっぱり
個体化がそれ自身の生成によるのではなくして、まず普遍的な精神 から分析される、というのが逆じゃないですか?
801 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 20:42:00.04 0
ヘーゲルも「自己関係」といっているだろう。 この「自己」は、じつは「自体」なわけで、 そこに、自分と他人・他物の別はまだない。
>>798 「精神現象学」W精神ーが無の自己規定なのか?
>>799 >>794 と
>>795 でわからなければ、別にいいんじゃないか?
要するに、読んでもいない本を読んだ振りをしちゃだめだよ、ということ。
緩いというのは、精一杯オブラートに包んだ言葉なんだよ。
804 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 20:52:10.26 0
生成にしても、それを近代哲学に持ち込んだのは、 ヘーゲルだ。 「小論理学」の生成の項目を参照したらどうか。 有機体論的なとらえ方が、ロマン主義に著しい特徴、 というのは、 「読むことのアレゴリー」で、ド・マンなども、一章さいて書いてますよ。 ニーチェを中心に論じている第七章だと思った。が、もしかして違う章だったかもしれない。
「生成」の源泉はヘラクレイトスではありませんか?
806 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 20:55:55.09 0
近代哲学、といっただろ。 ヘラクレイトスは近代ですか。 もちろん、ヘーゲルのネタは古代哲学だよ。
「その生涯に終わりにあったってフッサールも反省なるものの第一の成果は 我々が反省に先立って生きているがままの世界(生活世界)の現前を再び取り戻してくれる ことだ、ということを認めていました。」(人間の科学と現象学P49)メルロポンティ ということは事実再認でしょ、メルロポンティも。
>>807 メルロ=ポンティのは、事実再認、じゃなくて、ものがある、ということを確認してるだけ。
自身を含めて、ものとしてあるから見えるし見られることになる。
どういう風に確認しているの?表象=代理現前としてでしょう。
810 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 21:26:42.41 0
「純粋な存在とは、無とおなじもの」(ヘーゲル「小論理学」)
無意識の発見後の「精神的無」なんてたかが知れている。
「曖昧だが判明なもの」のドゥルーズ独自理論ー規定性ではないが理解できるもの。
>>809 ちがうよ。
あるものをあるものとして確認してる。
確認というのは、ただ、あるものはあると設定してるという意味。
ポール・リクール「解釈の葛藤」p245 「ある意味では、どの人間もしめくくりをしようとしているのであり、その締めくくりは、 基本的な経験を落とすことなしに可能なのだから理性的な方法でなされうるのだから どの人間も歴史の終末にいるのだ。」 p250「彼の時間は、哲学者にとっての一瞬、人間の経験のすべてが 集められるのがいられる一瞬であったろう。我々の時代は、哲学者の時代ではないだろうし、 部分的な解釈しか試みえない。」
すべての牛が黒くなる夜、とどう違うんだ。
>>813 「或るもの」が「ある」に規定性があるか?
>>814 「いられる」でなく「見られる」のミスタッチ。
820 :
696 :2014/02/12(水) 21:59:00.59 0
唐突ですが、 「祝祭というものには、「再開不可能」なものを反復するという明白な パラドックス以外のいかなるパラドックスもない。〔…〕ペギーが言ったように、 バスティーユの攻略を記念するあるいは表象=再現前化するのが連盟祭なのではなく、 まさにバスティーユ攻略が諸連盟をまえもって祝いかつ反復するのである」(『差異と反復』序論) ここの連盟祭の例って、誕生日祝いに置き換えると分かりやすくなる気がする。 「誕生を記念するあるいは表象=再現前化するのが誕生日祝いなのではなく、 まさに誕生が誕生日祝いをまえもって祝いかつ反復するのである」 だと理解しやすい。誕生は再開不可能なものだし、誕生日祝いはその再開不可能なものを 再開するという明白なパラドックス以外のいかなるパラドックスもない、と考えれば納得がいく。
名無しに戻るんじゃなかったのかよw
822 :
696 :2014/02/12(水) 22:06:39.50 0
>>821 すまんね(笑)名前欄の数字を消すのを忘れてた。
日本には連盟祭に相当するような祝祭ってないでしょ。
まさか終戦記念日を例にとるわけにはいかないし。
誕生日祝いがしっくりくるかな、と思ってさ。
>>819 「或る物」があるというのは、習慣的に「ある」とみなしている場合もあろうし、
それについて「判明で曖昧なもの」として識るばあいは、「微笑表象が
差異的=微分的な諸関係に=比」「をとらえているからであり曖昧である
というのはそれがまだ「区別のある(ディスタンゲ)」ものになっていず、まだ異化分化して
いないからである。」p322「差異と反復」
824 :
696 :2014/02/12(水) 22:23:19.31 0
ドゥルーズの根本的な発想に、「可能的なものの現実化」ではなく、 「潜在的なものの現動化」で考える、というものがあるでしょう。 これは要するに存在は個体だ、という発想だと思う(多くの留保が必要であるにせよ)。 「数的区別は、実在的区別ではない」という言い方もそうで、唯一で外部をもたない比較を絶した スピノザ的実体を肯定する発想が根本にある。その実体=存在の構造については、複雑な議論が あるんだけどね。
825 :
696 :2014/02/12(水) 22:47:58.20 0
これはおそらく今後指摘されることが多くなると思うんだけど、 一般的には、ドゥルーズの潜在的なものの存在論はベルクソンから来ている、 と言われていて、それは確かなんだけど、ドゥルーズはベルクソンの潜在性概念を 道具として使ったと見なすべきだ。ベルクソンとドゥルーズでは、基本的な発想の方向性が 相反するところが多い。 「潜在的なものの現動化」はむしろ、現実存在しない個物の潜在的存在について述べている 『エチカ』第二部定理八及び系及び備考から来ていると考えたほうがいい。
826 :
考える名無しさん :2014/02/12(水) 23:32:23.35 0
自己と他者の別の前、 というときの「前」は継起的時間的な「前」なのか? 誰でもいいから、私見を述べてほしい。
まだかな
828 :
814 :2014/02/13(木) 00:09:48.14 0
やっとアクセス制限止まった
こういうスレって日本語としてちゃんと馴染んでない訳語を訳知りに語るからなんか疲れるね
その変換だけで甲論乙駁になるから実を結ばない
>>826 を訳すと
自己と他者を別つ前段階というのは
いわゆる幼少時と考えておk?
みたいなことなんかね
もっとラフに話せないもんか
超越論的というだけあって「権利上」先立ってです。だが、超越論的な発生 というのは、個体化の場であり、自分が「生成」の中にある時の経験です。 自覚的に意識できないかもしれないプロセスだとしか言えません。
831 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 00:24:01.34 0
幼少時ではないな。 他者というのは、他のもの、であって、 いわゆる他人のことではないからな。 継起的時間的というのは、自他の別がない、または、自他未分 では、時間がないだろう、からだ。 宇宙論などの話が好きそうな人が多いので、 喩えると、ビッグバンの前に時間はあるか、 といえば、ない、と答える人がいるだろう。 それと似たことだ。
>>830 要はドストエフスキーのてんかん体験みたいなことを言いたいわけ?
なんか最近こういう文章読むと赤面するようになってきた
833 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 00:27:49.97 0
830は、ちゃんと質問の意味を分かって答えている。 権利上と事実上、をごっちゃにしないなら、 問題はない。 理屈と膏薬は何にでもくっつく、からだ。
>>823 もう少し日本語を整理しないといけないよ。
「ある」という言葉で物を表す場合と事柄を表す場合は当然違う。
総体としての物が動くことが時間だとすれば、その時間の捉え方が事柄ということになる。
時間の中では当然のこととして、差異もあれば同一性もある。
それを反復というかどうかは言葉の問題に過ぎない。
あるいは、事柄の特徴のひとつに過ぎない。
>>826 ぼんやりと雑踏の中を歩いていて友人に気づくようなもの。「雑踏=自己=友人」だった状態が、気づきによってただちに
雑踏を背景化しつつ自己と他者たる友人とに分離する。その「前」すなわち「雑踏=自己=友人」だった状態は、時間的に
は「前」だが「継起的」ではなく逆に「断続的」。なぜなら、「継起的」だとすると友人の存在を無自覚に気づいていたもの
と見なさなければならなくなるから。
疲れてきました。ドゥルーズはベルグソンなので時間は「持続」です。 休みます。
ドゥルーズもベルグソンも 激甘だよwww
838 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 00:47:56.40 0
発生前に持続はないだろう。 超越論的に時間があるというなら、 それはカント的な形式的な時間に似たものになるだろう。 だからたぶん、ここでいう権利上の前とは、どいう意味でも、 時間的な「前」ではないのだろう。
まあ、どっちでもいいような気がw
840 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 00:52:16.23 0
ちなみに、ニュートン的な「絶対時間」なら、 ビッグバンの前からあり、宇宙の終わりの後もある、といって差し支えない。 ライプニッツ的のほうは、時間は事物事象の関係であるから、 ない、ということになるのじゃないか。
>>837 何言ってんだ。親密な敵「カント」を破り、さらに参考にした「ハイデガー」
の時間性等を、「差異と反復」の二章で「時間的総合」として
見事に、打ち立てているよ。カントのアプリオリ
(時間形式における総合は論じられない:無時間)では、
全然ない。
読んでからにしてください。
>>838 「差異と反復」二章の第一の時間的総合は明らかに持続。
(縮約による習慣形成)愚ではあるが、たとえれば連続創造になる。
ここでも「差異」は縮約されているよ。現働化するものは「発生」するよ。
>>839 あなたの考えている「発生」は勘違いかもね。
補足すると「綜合」は「発生」です。
もし物質が有限で時間が無限であるなら、全く同じ出来事が無限に繰り返される。 ここで物質を力の関係とみなせば、ニーチェのいう永遠回帰(「力への意志」)になる。 ところで、ドゥルーズはニーチェの永遠回帰をこのような標準的解釈では捉えない。 むしろ永遠回帰を選別のテストをみなす。つまり、自身の力の度を十全に、極限まで 展開したものだけが、永遠回帰の選別テストにかなう、とする。 これは論理的にはスピノザのいう第三種の認識に至ることと同型であり、 ドゥルーズの哲学的プログラムである「スピノザとニーチェの重大な統一」のひとつの アスペクトである。 まあ、三島憲一のような人はこういうニーチェ解釈を絶対に認めないのだが。
846 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 02:21:00.62 0
まあ、SFだと思えば、面白いとこころもないとはいえない、とはいえる。 ので、超越論的「持続」があってもいい。 云うだけなら、なんでもありだからな。 しかし、ドゥルージアンが、なんかの新興宗教関係の人みたいになったね。 そこが、むかしとは様変わりだな。 発生が、絶えざる発生でも別に同じことだよ。
>>841 >親密な敵「カント」を破り
ここはその通りで、『差異と反復』はいわばカントの超越論的哲学の徹底化
あるいは純化を遂行したと言ってかまわない。
ドゥルーズの診断では、カントの超越論は経験的なものを前提しているので、不徹底である。
経験的なものを発生させる純粋な超越論的領野を思考すること。これがドゥルーズの最も大きな
哲学的寄与であり、同時にその正当性の検証の困難なところだ。
なんか書物に飲まれてるような気がw
849 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 02:29:15.23 0
ドゥルーズがかくかくしかじかといったのは正しい、 なぜなら、ドゥルーズがかくかくしかじかといっているからだ。 これでは、ほとんど相手にされない、 ということは分かっていやっているのだろう、たぶん。
850 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 02:35:25.33 0
破るって、本の帯の文句かなんかじゃないの。 ちなみに、ハイデガーの「ニーチェ」の帯文も、最大の敵ニーチェをハイデガーは読み破ったか」 だったな。 お二方とも、研究中にいらついて、本をびりびりと破ったとかかね。
>>849 それは分からないでもないけど、シニカルに過ぎるでしょう。
ドゥルーズ哲学の検証が研究者の間で本格的に始まったばかりのこの時期に。
むしろ、80-90年代までのドゥルーズ受容こそが、宗教信仰的だったのであって、
ニューアカ現象なんてその最たるもの。
852 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 02:40:46.59 0
カントが不徹底だ、というのは、 フィヒテもヘーゲルもいっているわけよ。 新カント派もその不徹底なところを徹底させたつもりだったし、 他にもそういう人たちはいたでしょう、自称他称にかかわらず。
853 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 02:45:41.39 0
ニューアカは、モードだもの。 ブームがすぎておわりですよ。 哲学本を、真摯な気持ちで読んでませんでしたからね。 いまの人が真摯なのはいいんだが、もうすこし見聞を広くしないと、 よろしくない感じはするのだな。
結局、なんでドゥルーズって話なんだよな 語りたいテーマがあればそれをそのテーマのスレで横断的に語ればいい 結局、ドゥルーズをいちばん理解してるのはオレだワタシだみたいな はいはいとしかw
>>852 その場合、「どこが」不徹底だったのかを明示してもらわないと話にならない。
シモンドンやロトマンをドゥルーズがいかに参照し、いかに変形し拡張したのか、
これを検証すべきでしょうね。
856 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 02:55:31.77 0
わたしが、カントを不徹底だと思っているわけではなく、 ヘーゲル大先生以来、ほとんどみんな言って、「自らの哲学」を作ってきたわけだから。 わたしはだいたい、そんな網羅的に知りませんし。 ただ、あるころから、いまでもカントでほとんど間に合う、とは思うようになった。
>>854 >結局、なんでドゥルーズって話なんだよな
これはね、もう笑うしかないんだけど、スピノザ研究をしているものから
見れば、あまりにも明瞭なんだよ。はっきり言って、ゲルー、ドゥルーズが
出てくるまで、標準的なスピノザ解釈は、ヘーゲルの哲学史講義に従っていた。
コジェーヴなんかが影響力をもっていたから、驚くべきことに1950年代までそうだった。
1960年代のいわゆる「スピノザ・ルネッサンス」が起こるまで、お話にならないくらい
ヘーゲル一辺倒だよ。
>>857 君がそういう問題意識をもつならスピノザスレでやったらいいと思うわけ
結局さ、そういう問題意識が見えないままああだこうだ語っても暇つぶしにしかならんよ
古本屋には今日もきれいな千のプラトーが並んでる
ドゥルーズは国家博士論文として「差異と反復」を出版した。 日本ではニュー・アカなるものは、はやりすたりであっても、 フランスでは「オーソリティ」以外の何物でもない。 小さい日本のアナクロのアカデミズムの常識に閉じこもりたければ、 ドゥルーズを読まんでもいいです。 そういう人は去っていけばいい。
ドゥルーズに限らず、と言うのなら、デリダの「グラ」でもやってみてくれないか? 反ヘーゲルなんだからさ。
>>859 ドゥルーズの国家博士号請求は、『差異と反復』だけでなされたものではない。
主論文が『差異と反復』、副論文が『スピノザと表現の問題』だ。
ドゥルーズ自身が、「哲学史の規範にのっとって最も真剣に研究したのがスピノザ」
「私は知識人ではない。仕事を終えたら全部忘れてしまうからだ。スピノザだけは例外だ、全て暗記している」
等々としばしば語っていることを無視することはできない。
863 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 16:05:07.69 0
洗剤の成分と言われてる。
ドゥルーズがモノグラフ(個別研究)で取り上げた哲学者は、 ヒューム、ベルクソン、ニーチェ、カント、スピノザ、ライプニッツ。 このうち特に肯定的だったのが、ベルクソン、ニーチェ、スピノザ。 それで、ドゥルーズ研究者は大きくベルクソン派とスピノザ派に分かれる。 (千葉雅也はヒュームを重視するが、トリッキーであることは否めない) ここで不思議なのは、ニーチェ派がほとんどいないってこと。なぜだ!
865 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 17:35:27.02 0
じゅんいちすっかり名無しになってるな(わらい
866 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 19:00:00.98 0
フランス国家が与えた文化的権威云々というならば、 ドゥルーズよりも、ビートたけしのほうが上ではないか?
867 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 19:35:04.43 0
859さんは、どのくらいフランス語できるの? ドゥルーズの本よりも、フランス語初級のテキストブック読んだほうが いいようなんじゃ、目も当てられんが、まさか、そんなことはないんだろう?
>>867 DELFA1だよ。大学の第二外国語レベルでのんびりとった。C2ぐらいで
留学できる。
>>868 仏検二級はディクテーションができなかった。
辞書片手に読むだけで、あんまり原書は苦にならない。昔「狂気の歴史」 を読んだときは苦労した。フランス古語じゃないか?と思った。
ビートたけしが、アカデミズムに関与しているとは思えない。
英語学校の宣伝やってるし。フランス語できないんじゃない?
873 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 21:38:21.37 0
フランス語できなくても、 L'Ordre des Arts et des Lettres はもらえる、と。 「開かれる」というのは、いいことだな。
874 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 21:43:38.87 0
871さんはたぶん、東大出で、フランス留学もし、 いずれは、(わが国の)文化勲章をもらえるくらいの アカデミックな経歴の持ち主なんだろう。 すばらしい、ドゥルージアンの星ですな。ニューアカ世代としては、 隔世の感がある。
権威主義的パーソナリティ?
フランス語は読むのは楽。書くのが苦痛。アクセント記号覚えないから。
フランス人なら、フランス語は話せる。だが書くのは難しいと習った。 ランス人なら誰でも一流の哲学者になれる、ということだろうか?
一流ポエム
879 :
714 :2014/02/13(木) 23:19:27.02 0
ポエムとしか思えんなら、おれのHPを見てくれ。真面目に書いた。
ジル・ドゥルーズでググると1P目に出てくる。
>>878 これからまだ生きていたらHPの続きと「論文」を書く。学会の審査が通るかだけだよ
883 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 23:28:30.04 0
1ページ目のどれか? ぜひ読んでみますよ。
「ジル・ドゥルーズ研究」
人はみんな、なにかにすがりつきたいんだよ。 大学教師という職業だったり、博士や修士という学校資格だったり、出身大学だったり、そういうものへの共感や反感だったり、そしてドゥルーズだったり。 中には外国語にすがりついたりする人もいるくらいだ。 みんな自分に自信がないんだよ。
という妄想にすがりつきたいのですね?
887 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 23:38:09.12 0
九割以上の部分を、 ドゥルーズの著書からの引用が占めているブログのことか? 何のつもりでこんなことやって、公開してんの?
>>887 ある程度知っている人に、ドゥルーズを紹介するページ。パースがないと、
すぐにポエムになるからさ。
889 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 23:50:26.00 0
人が書いた本の一部をコピーしてブログ記事にしているのにも、 正当化の理屈がつく?一例としては、意義があるだろう。
>>887 ちゃんとした論文を作って査問を受けるんだ、って言ってるだろうが。
それは、独自の読み込みと論旨を含んでいる。修士の担当教授には、
送っているよ。
>九割以上の部分を、
>ドゥルーズの著書からの引用が占めているブログのことか?
お前が自己の流儀で一切「引用しない」で書いたHPが
GOOGLEに載るもんか。
892 :
考える名無しさん :2014/02/13(木) 23:58:37.87 0
グーグルに載る、なんてのが、たいそうなことだと思っているんだから、 こりゃ、そうとうなもんだね。
>>889 他に誰もこの手のものを手掛けた人は5年前にはいなかった。
今の実際にいないんだ。情報的に必要とされているHPなわけよ。
それだけの社会的価値はあるわけ。
>>892 あなたの出版なさった本の署名をお教えください。論文表題でもいいです。
>>892 あなたはGOOGLEなんてどうでもいと思うなら、社会的価値あるいは
学問的な価値のある著作(書物)がある知識人であるはず。あるいは日本トップ
水準とされる学問的業績・名声があるはずだが。
もしないとしたら、変なイチャモンはやめてくれ。
返事がないな。やはりヤシだったか。
>>894 >>896 横だけど、それは自分に対する批判を認めたくないという小心者の脊髄反射だと思うよ。
どうせ相手のレスだって、それならお前の論文を見せてみろ、程度なのが目に浮かぶ。
そんな惨めなやり取りしてないで、テーマをひとつずつに絞って議論したほうがいいと思うよ。
フランス語じゃなきゃやだ、なんてわがまま言うなら、フランスの掲示板かなんかでやったほうがいいしね。
899 :
714 :2014/02/14(金) 00:22:15.65 0
>>898 何度も繰り返しているよ。私のHPで緩やかなところがどこか、
指摘できんならならしてみてと。その批判は受けるつもりだと。
単なる要約だって、そのためのポアンドヴュが含まれているのは自明のはず。 そこをつけばいいじゃないか。
>>899 君がヘーゲルもマルクスも読んでいないのに、彼らの思想に言及しているところだって書いといただろ?
批判の根拠がないところに批判の柱を立てれば、その柱が立ってられないぐらい緩いに決まってるだろ?
902 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 01:25:31.10 0
この、論文だかどうした、アカデミズムがこうした、というブロガーさんが、 何か言うだけバカらしい相手だということくらい マルクス読め氏(らしき人)は分からないか。
>>902 そうだね。
ついかまっちゃったね。
もうやめるよ。
>>714 気になるところを率直に述べてみます。
「「差異と反復」(1968):20世紀最大とも思われる現代における哲学的ディシプリン。
多岐にわたる論旨の現代的総合であって綿密に読まれて良い書。
ヒュームの経験論から発して「親密な敵」であるカント主義のラディカルな批判により、
生得的なアプリオリを共通感覚の神話とし、経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる。」
>哲学的ディシプリン
→意味が分からない。ディシプリンをどういう意味で使っているのですか。
哲学的訓練?哲学的規律?哲学的専門分野?
>多岐にわたる論旨の現代的総合
→意味が分からない。「多岐にわたる論旨」とは何を指すのですか?
ドゥルーズの主張?様々な哲学の理説?「論旨」という言葉は普通は「著者ドゥルーズの主張」の意味になるが、
「現代的総合」というのだから、「様々な哲学的問題の現代的総合」の意味ですか?
>経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる
明らかな誤読と思われます。まずカントにそって言えば「経験的なもの(現象)」を基礎付ける(条件づける)ものが、
「超越論的(先験的)なもの」であって、論理的に「超越論的(先験的)なもの」が「経験的なもの(現象)」に先行します。
ドゥルーズは、カントの超越論は経験的なものを密かに前提していることを批判する。
従って、ドゥルーズは、経験的なものを生成する超越論的な領野を、経験に拠らずに、
それ自体として打ち立てようと試みたわけです。「経験を通じて」では真逆です。
日本共産党員だったか。
マルクス・レーニン主義にのっとって「革命」は起らない。
908 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 02:46:06.50 0
>「「差異と反復」(1968):20世紀最大とも思われる現代における哲学的ディシプリン。 >多岐にわたる論旨の現代的総合であって綿密に読まれて良い書。 >ヒュームの経験論から発して「親密な敵」であるカント主義のラディカルな批判により、 >生得的なアプリオリを共通感覚の神話とし、経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる。」 「生得的なアプリオリ」、「認識が超越論的に発生する」って何だよw こういう頓珍漢なことばかり言っているから、馬鹿なのだよ。 ドゥルーズの薀蓄の前に、基本的なことを学べよ。
909 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 09:43:01.13 0
学べよ。
910 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 10:04:53.33 0
>>907 マルクス・レーニン主義って、どんな思想なの?
>>908 「差異と反復」
p228「明晰判明性は再認の論理であるとすれば、生得性は共通感覚の神学であ」る。
p230「「だからこそアルトーは、思考の中で、生殖性を、生得性に対立させ、のみならず
想起にも対立させているのである。こうして、ひとつの先験的経験論の原理を定立するのである。」
>>904 1)専門分野・主題
2)「様々な哲学的問題の現代的総合」です
3)「ドゥルーズは、経験的なものを生成する超越論的な領野を、経験に拠らずに、
それ自体として打ち立てようと試みたわけです。」こういう趣旨はドゥルーズにはありません。
912を参照
内在論的かつ超越論的なものとは「問題的なもの」の発生です。
916 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 12:12:19.37 0
>>912 その程度のかみ砕き方でわかった気になってると、何も残らないから注意したほうが良い。
もっと詳細に論じることはできるから、大丈夫。うまい言葉でようやくは難しいですね。
920 :
904 :2014/02/14(金) 17:49:31.88 0
>>914 回答ありがとう。1)と2)については、言葉の用い方が不適切であるということ
ですから、あなたが納得したなら、適切な言葉に書き換えることを検討してみてください。
問題は、3)です。あなたはドゥルーズのいわゆる「超越論的経験論(先験的経験論、高次の経験論)を
完全に誤解しています。誤解というか、真逆な理解をしています。
921 :
904 :2014/02/14(金) 17:51:22.49 0
>>914 カントの超越論的(先験的 tansendental)な哲学が、経験的なものを条件づける(基礎づける)「はず」であるにも関わらず、
実際は密かに経験的なものを前提している(引き写している、密輸入している)がゆえに不徹底である、というドゥルーズのカント批判。
ならびに、ドゥルーズはそれゆえに、経験的なものに拠らない、純粋に超越論的な領野を定式化しようとしたこと。
この2点については、『差異と反復』第三章と第四章で集中的に論じられています。
以下引用。
922 :
904 :2014/02/14(金) 17:52:59.82 0
「カントを例にとってみよう。すべての哲学者のなかで、先験的(超越論的tansendental)なものの 驚くべき領域を発見しているのは、まさにカントである。〔…〕だが、彼はいったい何をやっている のだろうか。『純粋理性批判』の第一版で、彼は思考能力のそれぞれの寄与を表す三つの総合を詳細に 記述している。それらの能力は、第三の総合、すなわち再認の総合において絶頂に達する。 〔…〕明らかにカントは、そのようにして、先験的(超越論的)と呼ばれる諸構造を、心理学的な意識の 経験的諸行為を引き写すことによって描いている」(p.212)
923 :
904 :2014/02/14(金) 17:54:42.93 0
「先験的(超越論的tansendental)なものは、それ自身としては、ある高次の経験論(先験的経験論、超越論的経験論) −それのみが先験的なものの領域と範囲を探究することができる−の管轄に属している。 それというのも、先験的なものは、カントの信念とはうらはらに、共通感覚の規定のもとで 現れるような通常の経験的な諸形式からは帰納されえないからである。 今日、諸能力に関する理論が陥っている不評は、しかしもちろんその理論は 哲学体系においては絶対に必要な部門であるにせよ、そうした本来的に先験的な経験論 への無理解によって説明されるのであって、以前は(カントにおいては) 経験的なものの引き写しとしての先験的なものが、むなしくその先験的な経験論の 代用品になっていたのである」(p.223)
924 :
904 :2014/02/14(金) 17:55:40.61 0
「先験的な経験論は、反対に、(カントのように)経験的なものを引き写す ことによって先験的なものを描くなどということをしない唯一の手段なのである」(p.224)
925 :
904 :2014/02/14(金) 17:57:03.88 0
「<理念>においては、未規定なものと規定可能なものと規定作用の三つが、同一化も混同もまったくされずに、 内的に問題的に対象的に統一されているのである。 そうした事態はおそらく、カントにおいては十分に現れていないだろう。 というのも、それら三つの契機のうち後の二つは、カントによれば、 外在的な特徴にとどまっているからである。 〔…〕カントは、ドイツ観念論者たちが非難したように、発生の観点に達することなく 条件づけの観点にとどまっているだけなのだ〔…〕 『純粋理性批判』には、経験論がありあまっている。」(p.262)
926 :
904 :2014/02/14(金) 18:13:33.60 0
>>914 はっきり言って、ドゥルーズ哲学が、生成としての存在(なる、としての、ある)を、
経験的・事実的なもの(諸存在の事実性)に拠らずに、むしろ諸存在の純粋な(原理的な)生成
から、つまり純粋に発生的な観点から、定式化しようとしたものであることは、
基本的な常識です。ドゥルーズにおいて「経験論」は、発生の観点を提示した限りで評価されるのであって、
「経験を通じて」などということは問題になりません。
上記の引用からでは分からない、私の言葉は信用できない、と思われるなら、『差異と反復』を読まれてもおそらく
この要点を理解することはできないでしょう。「超越論的経験論」をキーワードに、二次文献を調査されることを
お勧めします。以上です。
「認識は経験から生まれる、とする理論として、経験論を定義することは不可能であるように思われる」 (ドゥルーズ『経験論と主体性』) ⇔「経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる」(Blogジル・ドゥルーズ研究)
928 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 19:03:01.72 0
≫結局、なんでドゥルーズって話なんだよな これには、かつては簡単に答えることができた。 正統的ヘーゲル哲学は、旧左翼主義とべったり結びついていたからだ。 なんとか違う線でものを考えたい人は、それに対抗的な言説のよりどころを 少々いいかげんなものでも採用しなければならなかった。 フランス系だと、アルチュセールでは、まだヘーゲル・マルクス主義色が濃く、 だから、それを、より払しょくした〈かに見える)ものが、求められただけのことだ。
929 :
考える名無しさん :2014/02/14(金) 21:33:22.20 0
うーん、、、フランス書院の中でワシが誰と会おうがワシの勝手じゃないかと思うんだけどね。
おまえがだれとあったかサーバーに蓄積されてて、明日の三面で事件化してるぞ!!!
実在的経験と存在の一義性および永劫回帰のことはどうすんの? カントの超越論をどう純化するのか? そういう純粋な意識領域とは 「思考のうちにおけるある思考できないもの、あるいは或る純粋な 思考の無意識は、以上の条件においてのみ、知の理想としての無限な 悟性の中で現実化されなければならず、そして、諸微分は、その無限な 悟性の中で完全に現実的な実在性の尺度を見いだせなければ、 単なる虚構にならざるを得ないのである。」だから「虚構」なのだ。 「問題的なものは一種の独特なものであること、そして無意識が有限な思考に 帰属していること、これは依然として理解されていない」p293 のであって、 「問いを存在論的な地平を持つものと見る観点」は、「それは、諸存在、諸事物、諸出来事に「本質的な」 あり方で属している超越論的な地平、超越論的な焦点としての、問題的なものおよび問いの発見である。」 (p296)ことが重要なのだ。
932 :
915 :2014/02/14(金) 23:22:44.69 0
経験に内在論的かつ超越論的なものとは「問題的なもの」の発生です。
一挙に「解答など与えない」といううことも教育である。かもよ〜
要するに人間にとってアプリオリであることは、実は有限なんだ。その 限界を超脱することは、「問題」の形をとって、我々に「思考せしめる」、 「思考を強制するもの」としてあらわれる。
潜在的なものとは、潜在意識(無意識)を指しているのではなく、 存在論的に潜在的であるわけです。(国分も潜在的なものを 無意識としているくだりがあった。)これはベルグソンです。
また存在論的という場合には、ドゥルーズの場合、ハイデガーに 敬意を示しつつも、スピノザの「エチカ」に依拠しているわけです。
937 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 00:21:51.64 0
後期のハイデガーは、いわゆる存在論、じゃないわけ。 従来的な存在論についての批評、というほうがいい。 ドゥルーズも、じつは批評だと思うが、 それを従来的な存在論とおなじように考えてしまう人達が、 ある時期から、日本では目立って増えた、ということじゃないか。
>>926 それは言葉が足りないよ。表象=代理現前を破るために、絶対に
実在的経験が前提になる。純粋な生成=永劫回帰的反復だし。
>>937 存在史でしょ。必死でハイデガーをノートとって勉強したフーコー
がニーチェを読んで開眼したらしい。フーコーの「知の考古学」
が、私見では「存在史」に影響されてるとずっと思てたよ。
「系譜学」かなー。でもガダマーを挟むとそうも容易く言えないしさ。
「作用史」と考えると、連続しちゃうじゃん。
「作用史」は虚構だ、って柄谷が切り捨ててるしなー。
フランス現代思想にハイデガーはよく出てはくるけれども 実際は現存在とか彼の考えの一部に敬意を表して名前を出しているだけ ハイデガーは使えないよ しょせんは人生哲学だからね 論語とか老荘思想とか仏教思想のベクトルに極めて近いのがハイデガー
ヘルダーリンの詩の解釈なんて、もや病膏肓に至ってないかと。
944 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 00:44:56.96 0
Kritik der reinen Vernunft(純粋理性批判) は、純粋理性批評、でも別に誤訳じゃあない。 じっさい、戦前の日本では、カントの批評哲学といっていた。
>>943 ハイデガーは「存在と時間」にしても膨大な講義録にして前半はまあいいんだよね
しかし最後には「〜というように生きることなのだ…」みたいな人生論がくっ付くんですよ
ハイデガーを今でも崇めている化石学者の皆さんはそれに騙される
でも渡邊二郎とかこの間亡くなった北川東子なんかは、「けんきょくは人生論か?」みたいな批判をしているけれどね
これじゃあフッサールにも見放されるよ
946 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 00:50:54.58 0
942にいうと、 ハイデガーは、哲学は役割を終えた、と言っている人だから、 もともと使い道なんかどうでもいいわけよ。 ちなみに、わたしも、哲学は役割を終えている、と思う。
947 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 00:59:54.34 0
ハイデガーは、まだエピステーメにおける哲学の主導的役割、 みたいなことをときにいったが、 フーコーなんかは、そういう残滓もなかったからね。より徹底していた、とはいえる。
そうだな、ハイデガーは踏み込んでもあまり実がない。 あれは勢いだけの人。
949 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 03:15:53.21 0
AntipodeSI @AntipodeSI 41分 3年前ドゥルーズの著作で読めたのは対談・小論集とか「スピノザ」くらい。 今振り返るとフッサール、メルロ、サルトル、ベルクソンを読んだのが一番 大きかったなと思う。ラッセルの哲学史とか構造主義からはじめたから現象 学は敬遠してたけどなんだかんだでここらへんは読まなきゃDは難しい。 開く 返信 リツイート お気に入りに登録 その他 AntipodeSI @AntipodeSI 58分 3年前ドゥルーズ読んでも意味不明だった。自伝のなかでDが学生に「サルト ルやってもいいけど、まずはプラトンから始めなさい」みたいに指導してた という記述を読んでプラトンからサルトルまで…というよりもう色んなもの読みまくった そんで最近Dに帰ってきた。ようやく読めるようになった気がする
950 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 03:23:33.35 0
modi operandi @modi_operandi 3時間 浅田彰氏が、世の中に影響を与える本は数十万部以上売れたベストセラー本か数百部しか売れない専門書だ、というようなことを言ったらしいけど、これに一理あるとしても日本に限った話。
951 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 03:33:46.30 0
ハイデガーの思索に付いていけない奴は読まなくてよろしい
952 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 04:30:55.59 0
なお、Kritik der Politischen Ökonomie にしても「経済学批評」と訳して間違いではない。 カント、マルクス、ともに、批評家、言いかえれば、評論家、 でいいわけだ。
>>931 これは「理念」の在り方だな。「カテゴリー」ではない。せまくそうとると
p4222
カントが提示している理念は3個ないし4個しかなくてね。大違いなんだ。ドゥルーズ とカント。カテゴリー批判は2pしかない。すでに主要な議論を済ませた後。
「幻想的基礎概念」がドゥルーズにおけるカテゴリーに相当する。カントの カテゴリー表はほとんど触れられないや。
「諸カテゴリーは表象=代理現前に属しているからであり」というところで 終わってしまうけどね。
>>926 >生成としての存在(なる、としての、ある)を
>純粋に発生的な観点から、定式化しようとした
同義反復というか、なにも言ってないというか。
経験と発生の違いに根拠がないというか。
超越概念の境界があいまいのままというか。
ま、横からだかららどうでもいいんだけど、現象学全体がそうだよね。
ドゥルーズの重心はそういうところにはないんじゃないのかな。
それフッサール・スレで現象学のステルス・ネガティブ・キャンペーンやってたやつと同一人物だから。
960 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 10:34:20.62 0
926は、かまわないほうがいい人なんだ。 いちおう、ふつうに話がしたければ、ここはその方お一人用にして、 ほかにスレをたてるべきだろうな。
961 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 10:49:08.45 0
電波ブロガーによるネガキャンが酷いな。批判を甘受できないならそう言えよ。
962 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 10:53:00.17 0
これだけでも電波ブロガーの負けだろ。馬鹿馬鹿しい。 927 :考える名無しさん:2014/02/14(金) 18:52:28.67 0 「認識は経験から生まれる、とする理論として、経験論を定義することは不可能であるように思われる」 (ドゥルーズ『経験論と主体性』) ⇔「経験を通じて認識が超越論的に発生する機序を論じる」(Blogジル・ドゥルーズ研究)
963 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 11:11:19.74 0
國分功一郎によるドゥルーズの基礎の要約。 「超越論的なものとは、経験領域を基礎づけるものである。カントは、それを定義するに あたって、いくつもの不純物を混入させていた。自我や意識といった経験的領野で発見される 形象を超越論的領野に密輸していた。経験的領野を「引き写す」ことで超越論的領野を描いてきた。 それを批判するドゥルーズは、純粋に超越論的な領域の理論化を目指している」
964 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 11:27:39.17 0
存在の外に当為はなく、 自由の外に自由意思はない、 もいいんだけれど、しかし、たいして面白くはないな。
965 :
バカ :2014/02/15(土) 14:27:01.52 0
>「超越論的なものとは、経験領域を基礎づけるものである。カントは、それを定義するに >あたって、いくつもの不純物を混入させていた。自我や意識といった経験的領野で発見される >形象を超越論的領野に密輸していた。 それは『純粋理性批判』を読めば誰でもわかることであって、ことさら指摘することでもない気がする。 カントが重要なのは、あるいはフーコーが注目したのは、経験的なるものと超越論的なるものが 入れ子状になっているということ、身体の内と外との関係が奇妙にねじれていることを論じたことではないだろうか。 だから、「不純物を混入させていた」というのは事実であるけれど、それを取り払ったら、 そもそもカントを読む必要もないし、カントが何を問題にしていたのかすら、実はとり逃すと思う。
966 :
バカ :2014/02/15(土) 14:43:10.84 0
ヒュームより前の時代は、現実の存在者というのは統一的なものであって、 その表象を受容して、それを切ったり焼いたりバラバラにするのが悟性のすることだと考えられていたけれど、 ヒュームにおいて、現実の存在者の方が実はもともとバラバラであるということが主張されて、それを受けて カントは、現実はバラバラなのに、なぜ私は統一されたものとして認識するのか?と問う。それでカントが与えた回答が、 「統覚の超越論的統一は、直観において与えられたすべての多様なものが、それによって 客観についての一つの概念において合一されるところの、そのものである」というものだ。 超越論的統覚を考えるのに、本当はバラバラなものをまとめて認識している意識のことを前提にしていなければ、 そもそも超越論的統覚を考えることすら無理でしょう。
967 :
バカ :2014/02/15(土) 14:49:01.56 0
「自我や意識といった経験的領野で発見される形象を超越論的領野に密輸していた」って、 「密輸」していたなんて言うけれど、カント自身は、経験的なものと超越論的なものが折り重なっている、密輸されている、 その認識の構造自体を問うているのだから、「密輸」しているからカントは駄目だって、カントの意図を理解しようとしないお前が駄目なんだ、という話。
968 :
バカ :2014/02/15(土) 15:05:53.37 0
ドゥルーズが、カントについて、こんな阿呆なことを言うはずがないから、國分さんの整理が間違っているのではないか。
哲学者の研究って生物学でいえば、細胞や生物を研究する代わりに山中教授や小保方さんの研究するようなものか。
970 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 16:34:31.05 0
>>968 めんどうな奴だな。そんなに自分の「独走的」解釈に自信があるなら、
『表象』の公募論文にでも投稿してみればいいじゃん。
971 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 17:00:17.45 0
>>968 「ドゥルーズが、カントについて、こんな阿呆なことを言」っているよ。ソース。
「『純粋理性批判』の第一版で、彼は思考能力のそれぞれの寄与を表す三つの総合を詳細に
記述している。それらの能力は、第三の総合、すなわち再認の総合において絶頂に達する。
明らかにカントは、そのようにして、先験的(超越論的)と呼ばれる諸構造を、心理学的な意識の
経験的諸行為を引き写すことによって描いている。たとえば、覚知の先験的総合は、等々。
カントは、第一版の当該箇所を第二版では削除しているが、それはかくも見えすいたそのやり方を
隠すためである。けれども、そうした引き写しの方法は、もっとうまく隠されていたとしてもなお、
おのれの「心理主義」をそのまま伴って存続しているのである」差異と反復邦訳212頁
ジル・ドゥルーズ研究というブログは以前検索で見つけたことがある。 そのとき一読して、これではだめだ、役に立たないと思った。 Wikipediaのドゥルーズの項目もひどいが、どっこいどっこいだ。 最近ではネットでドゥルーズなどを検索するときは必ずPDFを検索ワードに入れる。 するとたまにいい論文がある。
さすがに「バカ」というハンドルネームだけに、カントとヒュームだけしか出てこない。 では逆に問うと「経験的初行為を引き写すことでなく、純粋に超越論的な領野を 画定したとして、それはいったいいかなるものなのだ?
974 :
ZEEK :2014/02/15(土) 17:31:09.73 0
>>972 5年前に書いた文言が載っているが、専門家が論文にするようなもの
をネタ探しで、ネットから拾おうとするさもしい魂胆なら、
それは私のHPから得られなくてもいいよ
私のHPなんかじゃなく「国分」「千葉」をよめばいい。 もう書かれちゃったから他の使えるネタを探す、なんて ネットでやるもんじゃない。
捨てゼリフ、か。
978 :
ZEEK :2014/02/15(土) 18:40:46.82 0
979 :
ZEEK :2014/02/15(土) 18:44:37.84 0
830もそうだよ。
>>971 なんだ、ドゥルーズって、阿呆だったのかw
981 :
972 :2014/02/15(土) 19:05:34.54 0
>>974 君のHPはドゥルーズを理解するためには全く役に立たない、ということだよ。
君のよくないところは、ドゥルーズの論述を精確に辿らずに、用語の字面だけで
性急な判断を下してしまうところだ。超越論的経験論という字面だから、経験を
通じて認識が超越論的に発生する機序を論じているのだと君は考える。
しかし、それではドゥルーズの超越論的経験論を誤解することにしかならない。
ポスト・モダンの思想家とドゥルーズを紹介しているが、リオタールは読んだかね。
「ポスト・モダンの条件」を読んでいれば、そんな風にドゥルーズを紹介することはできないはずだ。
君が友人たちからドゥルーズに詳しい奴だと評価されることと、実際にドゥルーズを
理解していることとは、全く別の問題だ。熱意は認めるが、君が表象文化学会などに
論文を投稿したとしても、今のままでは到底認められないよ。謙虚にテキストを読むことをお薦めする。
982 :
972 :2014/02/15(土) 19:25:23.00 0
>>974 ついでだから、君の思考の理路を分析してみようか。
君は、ドゥルーズの哲学が超越論的経験論としてもっともしばしば総括される
ことを知っていた。そして、超越論的経験論という字面から、それは「超越論的な経験論」
だと考えた。そして君の経験論の理解は、「経験を通じて認識が発生すること」だった。
ここで既にドゥルーズの経験論理解と乖離している。ドゥルーズは「認識は経験から発生する、
と経験論を定義することは不可能」だと述べているからだ。
次に君は、超越論的という形容詞をどこかに入れないといけないと考えた。
そこで「超越論的」に「経験を通じて認識が発生する」と形容した。
すると「経験を通じて認識が超越論的に発生する機序」という文になる。
だが、それはドゥルーズの超越論的経験論とは全く異なるものだ。
外部から見れば、君の文章の理路は、例えばこのように見えるということだ。
983 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 19:42:44.11 0
カントが「心理主義」だというのは、 普通に読めばそのとおりなわけね。 普通の読み、だから、とっくに多くがそういっていた。 まあ、おおむねは、 ウィトゲンシュタイン曰く、 これまで哲学と呼んできたものは、心理学のことである。 ということなんだろうが、違う読み方(柄谷・蓮實曰く「可能性の中心で読む」)をすればいいだけの話しでもあるし、 その前に、心理主義でとくに悪い、ということもない。 なお、ほんとうに(いちおうでも)徹底したい、というならば、いわゆる「哲学学」なんかやめて、一例を挙げれば、 グロテンディークのトポスみたいな、 数学的形式化を試みるべきだろうな。ただ、そんな頭があるわけないからテツガクーなんぞというものを やって、わかった気になっている人に、云うだけばからしいことであろう。
>>982 ヒューム論も読んだよ。人間的自然は所与の自然から「超出」することによって
人間は自己の人間的自然を獲得する、という。その「超出」はなぜ起こるかわからない
という不可知論だった。表象文化学会には関係がないんだけど。
よく知らない。
こういうことは言えないかね。人間の生得性としての自然を「超出」するのなら、
先天的アプリオリを人間は「超出」するだろう。(自明のロジックだと思う)
生得性としてのアプリオリに対してアルトーは生殖性と言っているよ。何度も言うが。
表象文化学会というものを「立てる」という「建前」がある限り、「表象=代理現前」 の批判もうまくかわさなきゃならんのだろう。「千葉」みたいなパスティーシュの話だね。
東が浅田が絶賛というのも、あの二人にいじられる世界、というのも ひねりを利かした芸としてだろう。あんなのが博論か?最後のほうが SMだっていうのが(蓮見?)愚にもつかないよ。
988 :
考える名無しさん :2014/02/15(土) 20:14:33.65 0
グロテンディーク→グロタンディーク
989 :
984 :2014/02/15(土) 20:28:54.71 0
982の即答はないか。考え付かないか?
982は馬鹿か?
991 :
972 :2014/02/15(土) 20:35:03.69 0
>>984 「経験論と主体性」の冒頭には「いかにして精神は人間的自然(人間の本性)へと生成するのか」
とあるでしょう。この場合、精神は所与であって、バラバラな諸観念のことを指す。
人間的自然(人間本性)は、このバラバラな諸観念が連合という構成作用を通じて、諸観念の連合という
状態になったあとで、現れるものなわけだ。
順序はこうなる。@所与としての精神(バラバラな諸観念)→連合という構成作用→A諸観念の連合の形成→B人間本性の生成。
「超出」とはAとBの過程を指す。だから超出は連合という構成作用によって準備される。
これは人間本性の発生の過程を描いているでしょう。ドゥルーズが重視するのはこの発生の観点だよ。
要するに「人間」という形象を前提しないことがポイント。
だから「>先天的アプリオリを人間は「超出」する」、という言い方は「人間」を前提しているから、
理解が逆になる。あえて君の言う事をドゥルーズ風に書き換えるなら、
「先天的アプリオリを「超出」することによって人間が構成される」となる。
もちろん、こう書き換えてもおかしいけどね。
うん馬鹿だな
993 :
972 :2014/02/15(土) 20:39:11.67 0
>>989 本当に失礼な人だね、君は。十分に応えたと思うので、もう対話は
やめにするよ。さようなら。
俺もそう思う、馬鹿だ。
こいつが東大だったら、右翼みたいに駒場をつぶしたい、という心を抑える。
996 :
995 :2014/02/15(土) 20:47:33.18 0
私は791です。もう一回超越論的な場をどういったか考えてよ。
横だが、ウィキペディアによれば、アプリオリの和訳は「先験的、先天的、超越的など」だそうだ。 先天的アプリオリはだから、先天的先天性といった意味になるはずだ。とりあえず、この無意味な重複用語を 自己解決してくれまいか?
バルトが言っているが「モード」を消費するのが、ポスト・モダン少なくとも 消費社会であるという。そうすると一過性のモードとして「ポ・モ」などと言って かつてのフランス現代思想が、モードとして消費され、もっと新しいものが欲しい、 もう古いという「記号消費」になるはずだ。私は交換価値としての、 ドゥルーズという観点を持たない。
>>997 アプリオリとは、スコラ哲学における言葉で、順序の上で先に来るもの
というのが語源。
少し休みます。連投。
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