◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない189◆
1 :
考える名無しさん:
人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がありません。
しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。
人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に
すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。
『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により
決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない188◆
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1324487103/
そのあとは互いに六尺姿で威嚇、腕組みヤニ咥えガン飛ばし、
大股で筋肉と勃起誇張して、野郎比べだ。
雄臭ぇポーズで挑発しあう。腰突き出し勃起を振り回し、
オラオラ節で興奮に火が付く。
やわらオイルをタップリ仕込んで、いよいよズリ戦開始だ。
胴ズリ、逆ズリ、雁ズリ、玉ズリ、上ズリ、下ズリ。
野郎うなぎ責め、腰砕けの手マンコ、野郎泣かせの亀頭責め。
片手技と両手技の競り合いで、雄の粋と艶を比べ合う。
ズリ見せ根性丸出しでな。
一息入れる時にゃ、ハゲの胸板めがけて、勃起ションベン。
ビシバシ痛ぇくらいに、照射すりゃ、雄の征服感が全身を
快感となって駆け回る。
さらにオイルを仕込んで2R。
今度は俺のズリビデオ見せながらのダブルズリ攻撃さ。
ラッシュ飛ばして、ド淫乱野郎に変獣し、チンポ・センズリ・押忍の連呼。
俺達はまさに、チンポ、ズリ、男意気を激しく比べ合う戦闘士だ。
寸止めのエロい表情も相手を落とす神技、何度も食らう度に金玉の
引きつる痛みさえ新たな快感に変わる。
その時、ほんの少しの気の緩みでハゲは快感のコントロールを失い
射精の痙攣に突入。
2回に渡るファイトはいずれも俺の勝利、最後はハゲのチンポめがけて、
野郎征服の快感に酔いながら勝利の照射!
3時間勝負は俺達ズリ舎弟の絆を更に固めたぜ!
ソフトウエアというのはハードウエアという物質の上に必然として存在する
>>1が理解できないのはハードウエアではない仮想ハードウエアで
存在しない物理原理を元にできたソフトウエアは仮想ハードウエアを構築する
ハードウエアに必然的に依存していると説明しているわけである。
つまり俺の友達の友達は友達であるという飛躍論法である。
さらに拡張すると俺の知人の友達の孫の遠い親戚の友達も人間関係の輪の
つながりだから一種の友達であるという考え方である。
実に素晴らしいではないか。
4 :
てすすき:2012/02/08(水) 19:54:48.75 0
>>2 つまりこのスレは
持論展開スレ・自己満足スレ・満足させ合うスレと言いたいのかな。
割とくだらない・下劣なものかもと。でも大切に思う人もいる的な。
てすすきは何を言っとるのだ
出しゃばりすぎましたので
少し控えます
近鉄さん
「完全な言葉」の続きをお願い♥
8 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2012/02/08(水) 23:37:38.21 0
新PCから久々に来てみました。
9 :
「機械的唯物論」者:2012/02/09(木) 00:02:47.29 0
「私」を、突き詰めれば働きだけが残る。
なぜか私はそのはたらきのことを知っている。
11 :
考える名無しさん:2012/02/09(木) 15:23:24.87 0
我思う故に我あり
以外に何を断言しても無意味である
でも無意味なことを断言したがるのが人間という動物である
と断言してみる
故に我は人間である
>> 999
> 時刻と時刻の「間」が時間だとするためには、
> 時刻が時間を表示するための方便であること、
時刻は時刻を表示するため。時間は時刻を引き算をして出てきます。
> そして時刻と時刻の「間」が「時間」と相関する何かであること
> それを既に知っていなければならない。
時間と相関する時計や太陽から時間を理解することも可能です。その前に時計や太陽が時間と相関する
ということを既に知っていなければならないのでは、時計や太陽から時間を理解することは不可能に
なってしまいます。
> 貴方の論理ではね、二丁目と三丁目の間を「時間」としても良いわけですよ。
> しかしそれが不都合なのはどうしてですかね。
時間と空間の違いですね。
時間の進行は原因から結果への連鎖であり戻ることは無いのです。空間は戻ってもおかしくは無いです。
> え?三丁目は時間と関係ないから、ですか?
> じゃあ最初から時間ありきで時刻を決めてるんじゃないの。
はい、時間はずっと前から最初以前からあります。物質もです。何かおかしいでしょうか。
> カラス君は何年もここにいて、いったい何を問題だと思ってるのかね。
決定論、すべては決まっているとおりで何の問題も無いでしょう。
> 時間があるのはあたりまえ、全て物質であるのはあたりまえ
> そう思って生きていけばいい。なーんの不都合もない。
> 議論など起こりようがない。問題自体が無いのだから。
> 哲学って何ですかね?
疑って哲学しましょう。その結果何が得られたのか、きちんと対案として提示しましょう。
ここは単なる投票所なのかな。
>.12
>時刻は時刻を表示するため。時間は時刻を引き算をして出てきます。
貴方がそこで言っていることは
『時刻が分からなければ時間は存在しない』
ということでよろしいですかね。
>>14 時刻がわかる主体などは想定していません。時計が無くても時刻自体はあります。
たとえば地球が誕生したのはいつか、というとき、地球が誕生したときの時刻はあることが
前提になります。
>時間と相関する時計や太陽から時間を理解することも可能です。その前に時計や太陽が時間と相関する
>ということを既に知っていなければならないのでは、時計や太陽から時間を理解することは不可能に
>なってしまいます。
これは
『太陽や時計が無ければ時間は理解できない』
と言いたいのですかね。
>>15 地球が誕生したときの時刻とはいつですかね?
どうやって調べます?
>>16 そんなことは無いです。例えば子供が親に少し待ってと言われて待つのと、しばらく待ってと言われて
待つ違いを体験することで待つの意味とその長さを表す言葉が理解できるようになります。
「ことも可能です」と書いたので
>>16のように捉えられるのは意外です。
>>18 「しばらく待つ」ことを知らない人間にとって
「時刻の引き算が時間である」ことに意味が成立しますかね。
>>17 オレはわかりませんが、調べている人はいるのではないでしょうか。
>>20 それを敢えて調べようとするなら
「時間」によって「時刻」を決めるしかないのではないですかね。
哲学なんて石ころだ
何でもない
>>19 意味の成立とは意味が理解できるということでしょうか。
そのような主体にとっての意味はどうであれ、それは主体の無いところにも成立する時間の性質では
無いでしょう。
24 :
考える名無しさん:2012/02/09(木) 21:00:58.75 O
自分の脳みその化学物質を直接指定し操って行動を起こすのですか?
>>23 主体の無いところに成立する「時刻」とはどうやって決めるのです
>>21 すべて物質の原因と結果の関係の連鎖があり、それを時間と表現するのです。
時刻を誰かが決めなくてもいつも物質は時を刻んでいるのです。
>>26 つまり、
「時間」が「時刻」よりも優先される、
ということを了解していただけましたかね。
『時刻の引き算が時間』とか本末転倒でしょう。
>>27 時刻と時間に優先なんてあるのでしょうか。何が「つまり」なのかも意味不明なのですが。
オレは時間は時刻と時刻の間を指していると思っています、と書いただけのことなのに
どうしても鶏と卵の論法みたいなことをしたいのでしょうか。
>>28 「つまり」とはですね
貴方は
>>26で「時を刻む」と言っているでしょう?
まず時間があって、それを便器的に刻んだ(切断する)ものが「時刻」だと
そう言ってるでしょう。
時刻について考えると、刻むというのは瞬間ということだろうね。時刻は時の瞬間といえるかも。
>>30 瞬間は(それが長さゼロだということなら)それをいくら足しても時間にはならないでしょう。
刻むためにはそこにまず時間がなければだめでしょう。
分かっていただけました亀?
>>29 時間は時刻から時刻を引き算して出てくるのに対し、時刻はその時刻に既にあるとも考えてもいいのでは。
でもオレはどちらが優先かはあまり興味無いですが。時間が優先だとしたらどうなるのでしょう。
>>32 カラス君の頭の中にある、その「既にある時刻」とは何なのよ?
何かそれを確信できる根拠があるんでしょ?
どんな客観的な事態を想定してるのかね。
あるいは妄想なのかね。
松緑さんの時間や時刻の定義は未だ不明ですが、抄録さんにはどうぞもプリーズも失礼らしいので
聞けないのですが、かなりの身分の方なのでしょう。
>>33 すべての物質は原因から結果へ変化しますがそのうちのひとつの状態を指します。
時刻があるという信仰はありますが根拠らしい根拠は無いです。
時刻は無いというのは根拠はあるのでしょうか。
唯物論においては空間も物質ですが、物質同士の関係が位置関係としてもあらわれている
のです。
決定論を信じることは信仰にすぎません。それぞれ信じている自分なりの根拠はあるでしょうけれど
信仰合戦の場に根拠なんて何になるのでしょう。
結局は決定論の恩恵を受けずに生存できるかという話になります。
科学が決定論を支持しているかしていないかはわかりませんが、役に立つことは、どんな
原因からどんな結果になるかという知識です。
39 :
考える名無しさん:2012/02/09(木) 22:24:31.59 0
セマンティックウェブ病それは喉の痛みから始まり、(適切に処置をしないと)あらゆる コンテンツ作成者がいずれ仲良く協調してー致した(メタ的な)意見を持つようになるはず だ、と全面的に信じ込んでしまうほど症状が悪化する。この病状はその発端(特に.ある 名称や
象徴やタグの意味が人間に理解できるなら、プログラムにも理解可能だろうと信じ込むこと)において、AI一族の疾患の一部に関連があるかもしれない。この病状に苦しむ患者はその進行に気づかないことが多い。技術的知識を持つ善人たちによる小規模かつ団結力の強い
集団に感染した場合には、……そのように信じ込むことにも意義はあるからである……したがって自分自身で安静をこころがけ、精神科で次回の診察時には、無料で(セマンティックウェブ病の)スクリーニングテストが受けられないかどうか、医師にたずねてみること。
(ティムコンバースのブログ記事より引用)
40 :
「機械的唯物論」者:2012/02/10(金) 00:39:28.58 0
量子論ではミクロの世界では時間と空間が入り交じるということになります。
プランク常数は不確定性理論に必要な常数ですし、プランク時間は「時間」
の最小単位ということになります。
41 :
考える名無しさん:2012/02/10(金) 00:44:43.54 O
時間が入り交じらない世界なんてあるのか…
時間が入り混じらない世界は原理的に想像できないと思われ
43 :
考える名無しさん:2012/02/10(金) 13:00:53.42 0
ベハマラヤー教と、ケイカークテキーニ教との戦いがあった筈なんだけど
あの宗教戦争どうなったんだっけ?
44 :
考える名無しさん:2012/02/10(金) 13:06:05.47 0
光子とか電子とかの量子についてはシュレディンガー方程式に従う
時刻を一つに決めると位置が不確定になり分布確率でしか決められず
位置を一つに決めると時刻が不確定になり分布確率でしか決められない
要するにそれが量子力学の不確定性理論
極微の世界で時間と空間が入り交じるというのはそういう意味だろう
機械帝国の本拠地
46 :
てすすき:2012/02/10(金) 15:01:48.09 0
マシンサイドへようこそ?
エネルギーがなかったら時間もないんだろうなあ。
47 :
668:2012/02/10(金) 15:01:48.39 0
>981(ゲーム氏)
>おそらく君は「力への意志」のような概念を想定しているのだろうが、これもまた
>一つの解釈であり、この帰属先のない表現は何ごとかを想像させはするけれども、
>それ以上の特別な意味があるわけではない。
ここでもまた、ゲーム氏は相変わらず、「一つの解釈」(にすぎない)というネガティブなニュアンスで書いているので、
前に書いた、《ネガティブであることへの疑念》の続きを、少し書きます。
前に書いたように、「解釈」に《すぎない》と言うためには、それとは別に、それより高い価値が置かれるものが存在しなければならない。
そして実際、ここで、ゲーム氏は「それ以上の特別な意味」と書いています。
(>820の「図式的にいえば、・・・」以下の、世界Bに相当するのが「解釈」であり、「それ以上の特別な意味〔を与えるもの〕」が、世界Aに相当する)
しかし、「全ては創造的な働き」でありそれ以外はない、というのが私の考え方です。
>853では、次のように書いています。
【もちろん、私の考えでは、「価値を認める」という働きも、「創造的な働き」の一部です。】
つまり、「解釈」も、「創造的な働き」と別のものではないので、
私の考え方の中には、「それ以上の特別な意味〔を与えるもの〕」というものは存在しないことになります。
したがって、私の考え方においては、「解釈」は、ネガティブな意味を帯びません。
だとすれば、ゲーム氏の考え方の中に、「それ以上の」もの、に相当するものがあることになります。
(でなければ、ゲーム氏の上の文は意味不明になる。)
ゲーム氏にとっての、「それ以上の特別な意味」というのは、どういうことを言おうとしているのだろうか?
48 :
668:2012/02/10(金) 15:02:49.23 0
>まして君の「すべては創造的な働き」なる言い回しは「“すべて”とは何?」
“すべて”については、>935を見れば、だいたい分かると思います。
私は、次のように書きました。
>その点(世界が二重化することを警戒する点)では、私の考えはニーチェと同じであり、
>私が、「《全て》は〜である」という考え方を好むのも、そのためです。
世界が二重化する(二つに分裂する)ことを警戒するから、「《全て》は〜である」という考え方をする、ということ・・・
つまり、「《全て》は〜である」という考え方は、世界を(そのどの部分をとっても)《同質》なものとして見ているわけです。
《世界の二重化(分裂)》ということの中には、もちろん、デカルトの物心二元論も含まれます。
デカルトが「物」と「心」とを截然と分けた結果、両者の関係を説明することが困難になりました(→心身問題)。
(両者を、全く《異質》なものとして分けたのだから、その関係が説明困難になるのは当然だと思われる。)
ゲーム氏がとっている「意識」中心の立場は、デカルトによって分けられた「物」と「心」のうちの一方に重きを置く考え方であり、
それは、「片肺」であるように私には思われる。
また、なぜ「物」と「心」という枠組みの中で考え続けようとするのだろうか・・・と、不思議になります。
意識を中心として考えたとしても、結局のところ、《意識》と《意味づけられた物》という、《異質》なものの二元論にならざるを得ないと思われ、
それは、デカルトの《物》《心》二元論のバリエーションとなります。
49 :
668:2012/02/10(金) 15:04:08.37 0
もともと「物」と「心」という(《異質》な)領域があったのではなく、
それは歴史的に(特にデカルトにおいて決定的に)分けられ、分裂してしまったものです。
そして、その分裂によって、解き難い問題が多く生じているとすれば、
いったん、「物」と「心」とが分かれる以前のところへ戻って考え直してみる必要があると思われます。
「全ては創造的な働き」=「自然」という考え方は、もちろん私独自の考えではなく、古くは、古代ギリシャの「自然」(ピュシス・フュシス)が、そういう考え方です。
「ピュシス」は、「誕生」「成長」「生成」などの意味を含んでおり、アリストテレスによれば、「自分自身のうちに運動の原理をもつもの」が「ピュシス」です。
「ピュシス」は、人間的なものと異質的・対立的ではなく、人間と「ピュシス」は《同質》的に調和する、と考えられていた。
ハイデガーがこの「ピュシス」という考え方を重視したことはよく知られています。
(なお、“フィジカ「自然学」”が、近代になって、《死せる》「物質」についての学問である“フィジクス「物理学」”に大きく変化したことは、前に>772で書きました。)
>「働き」に“創造性”があるらしいが、“すべて”あるのに、その他に何を創造するのだろうか。
たぶん、「“すべて”ある」という部分に、誤解が含まれていると思いますが・・・
そういう言い方をするのであれば、「“すべて”は《ある》」ではなくて、「“すべて”は《なる》」と言った方がいいと思います。
そして、その場合の《なる》が、「創造的な働き」です。
つまり、「創造的な働き」というのは、《存在(ある)》というより、《生成(なる)》です。
「ピュシス」が「生成」という意味を含むことは上に書きましたが、「自分自身のうちに運動の原理をもつ」「ピュシス」という考え方は、
ハイデガーやニーチェだけでなく、現代の多くの哲学者に受け継がれています。
それらの哲学者は、上で書いた《「物」と「心」とが分かれる以前のところ》を考えているのだと思います。
例えば、ディルタイの「創造力の連続性」や、ベルクソンの「生の飛躍」なども、そうだと思われます。
50 :
考える名無しさん:2012/02/10(金) 19:41:39.23 0
>>668
>もともと「物」と「心」という(《異質》な)領域があったのではなく、
>それは歴史的に(特にデカルトにおいて決定的に)分けられ、分裂してしまったものです。
それは貴方の意見ではなく、たんなる書籍の知識、
それは現実でもなく作成者の見た側面でしかない。
精神病棟スレ
52 :
考える名無しさん:2012/02/11(土) 09:57:52.69 0
d2ψ 8π2m
――― + ―――― (E-U) ψ = 0
dx2 h2
53 :
考える名無しさん:2012/02/11(土) 10:21:45.42 0
>>49 知識で説明する論理は解釈にすぎない。
時代の変貌と共に意味は変貌し元の知識とは異なってしまう。
56 :
考える名無しさん:2012/02/11(土) 13:29:16.03 0
57 :
考える名無しさん:2012/02/11(土) 13:36:31.23 0
「私」も「物質」も「意識」も「感覚」も全部存在などしていない
よーくよーく考えてみれば存在するのは各人のクオリアだけだろう
58 :
抄録:2012/02/11(土) 15:35:56.75 0
>>57 そのクオリア(=感覚質)が存在する、ってのはだな
「否定できない判断」ではあるが、しかしその判断の根拠もやっぱり感覚なのだ。
思惟(≒【私】)が思惟によって(同時には)懐疑できない、その構造と同じなのだが
しかしそれが感覚である以上、感覚に頼って感覚の絶対存在は保証できないのだ。
「思惟している間は思惟は存在する」とするなら、すでに論理を介入させている。
論理が思惟の存在よりも先立つことになる。しかしそれもおかしな話。
もうね、よーくよーく考えてしまっちゃったら
「○○だけは存在する」なんて○○は、どうやったって言えない。
っていうことだけはたしかだよな。カカカ!
>>59 『論理的には』そうなるのかねぇ
論理の論理性(なんぞそれ)だけは信頼するしかない
w
>>59 それを確かめるには、現象学的還元(超越論的還元)すなわち、スイッチを切ることが必要です。
スイッチを入れれば当然世界が現れますが、むしろスイッチよりは配線の有り様を確かめることに、
意味があります。
なんだただの自演か。
668さんはスレ変わったのでハンドル名にしてみては。
ゲームさんは唯意味論という一元論的な主張をしていましたが一元論者なのでしょうか。
>>49 ピュシスとノモスの議論と大して変わってないのかも。
65 :
にゃ:2012/02/12(日) 00:14:04.02 0
配線のあり方とか馬鹿過ぎる 笑
自由意識ないのに
おまえはサバンかよ
66 :
「機械的唯物論」者:2012/02/12(日) 00:33:07.92 0
>>58 >そのクオリア(=感覚質)が存在する、ってのはだな
>「否定できない判断」ではあるが、しかしその判断の根拠もやっぱり感覚なのだ。
「クオリアなくして感覚無し」が正解でしょう。
クオリアは視覚で言えば「網膜に結像した可視光線」であり、聴覚で言えば「鼓膜を
震わせる空気の振動」であり、味覚で言えば「味蕾を刺激する化学物質」です。
視覚において「風景が見える」というのは「網膜に結像した可視光線を風景として脳内に
取り込む」という「志向的クオリア」の働きが必要です。
その段階で初めて「結像」は「視覚のクオリア」として「風景」を構成するのであって、
「網膜に結像した」段階ではそれは「視覚情報としての感覚情報」でないどころか
「視覚の感覚的クオリア」さえ構成しないということです。
67 :
「機械的唯物論」者:2012/02/12(日) 00:35:37.79 0
熟睡中に鼓膜を振動させる空気の振動(音)が生じても、それは「音の感覚」として認識
されないのも同じ原因です。熟睡中の音は目を覚まさせるほどの大きな音以外は「感覚されない」
(されていない)ということです。
ちなみに「(熟睡中も)潜在意識が感覚して記憶している」という説も出てくるでしょうが、それは
「そもそもそれ(意識しており記憶に残る的感覚)」とは無関係だということです。
潜在意識的記憶や夢と感覚的クオリアの関係は明白ではなく、それらはむしろ志向的クオリアとの関係が
深いと思われます。
機械さん、前にも訊きましたが
その志向性クオリアとは魂ですか
69 :
「機械的唯物論」者:2012/02/12(日) 00:46:15.80 0
>>68 日常的な言葉で敢えて言えば、「注意力」に近いかもしれません。
ぼんやりTVを眺めていても「見て」はおりますが、「認識している」という
レベルで「視覚(映像)・聴覚(音)情報を認識している」とは言えないでしょう。
それに対して、「興味があることは注視して認識する」訳なので、同じように網膜の振動と
鼓膜の振動があっても、「同じレベルの認識とは言えない」ということです。
すなわち注意力(志向的クオリア)の働きの程度により「認識の深さが決まる」ということです。
本日は脳内睡眠物質の蓄積により就寝させて戴きます。
志向性クオリアとは物理的な実体ではなく、
「注意力」なる輪郭の分からない精神的な事態なわけですか
それでは魂の存在を認めるとのほとんど同じではないですか
71 :
「機械的唯物論」者:2012/02/12(日) 01:03:11.04 0
>>70 「注意力」の事態が判らないのなら、心的現象の「何?」の「事態」が判っている
とお考えですか?
「注意力」は日常的に理解できる心的現象であり、「心理学」においても重要な概念
だと思われます。
ほかならぬ「あなた」が「ぼんやりTVを眺めている状態と注意力を持って見ている状態」
の区別を理解できないとおっしゃるなら、あなたは「注意力」の実態なり実在なりを把握する
ことは出来ないでしょう。「(本当は判っていても)意地でも理解したくない」と考えるのは
いかにも「ああでもない・こうでもない形而上学」がお好きな観念論の「言葉遊び」に淫しすぎて
いるのではないか?と思えてしまいます。
72 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 01:07:46.50 0
71 : 132人目の素数さん : 2010/01/25(月) 20:01:06
科学をゼロから学びたいという割に、物理だの不確定性原理だの
イメージだけで突っ走って、科学のスタート地点に立つどころか
あさっての方向の遙か彼方のさらに斜め45度を逝ってるのは、
科学に真摯に向かってるとは言いがたいし、だれもそんなものに
手を差し伸べようとは思わないだろう。
注意力は日常的に理解できる心的現象であるように
自由意志も日常的に理解できるわけです
しかし機械さん、貴方はそれを「感じに過ぎません」と言っているのですよ。
注意力も「感じに過ぎない」はずです。
注意力は脳のいかなる作動なのか、そこまでは訊きませんよ。
それに答えることができるヒトは未だいない。
しかしですね「志向クオリア」なんぞという、物質だか魂だか分からぬ亡霊を持ち出して
それを唯物論の盾にできるとお考えなら、それは浅はかに過ぎる、と思いますな。
早く寝てくださいw
74 :
「機械的唯物論」者:2012/02/12(日) 01:13:23.51 0
>>72 観念論の泥沼から抜け出せない方に手を差し伸べていただかなくても結構です。
彼らに手を差し伸べられても握り返す気にはなれませんので。
本日は就寝させて戴きます。
75 :
「機械的唯物論」者:2012/02/12(日) 01:19:24.07 0
>>73 ほかならぬ「あなた」が「ぼんやりTVを眺めている状態と注意力を持って見ている状態」
の区別を理解できないとおっしゃるなら、あなたは「注意力」の実態なり実在なりを把握する
ことは出来ないでしょう。
と申し上げております。
自由意志の実在を証明したいなら、あなたが「生物学的・社会的に危機的状況になること」
を実行することが出来るかどうか?試してみてください。人類は「動物」ですから、そんな
ことは出来っこありません。
あなたの脳はそういう危険を注意深く排除しつつ、「自分の人生がうまくいく方向」にしか
あなたの肉体を動かすことは「できない」ということです。
本日は就寝させて戴きます。
>>75 「ぼんやり」と「注意力を傾注して」の違いぐらいは私も分かりますよ
*************************
機械さんは「社会的合理性」に従って生きてこられたので理解できないでしょうがが、
私は割と破滅的に生きてきましたのでね。
ヒトは社会的合理性(≒立身出世)だけを追求して生きることはできないのです。
性分によって選択するのです。
まあ止めておきますw
早く寝てw
77 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 01:32:37.14 0
>
自由意志の実在を証明したいなら、あなたが「生物学的・社会的に危機的状況になること」
を実行することが出来るかどうか?試してみてください。人類は「動物」ですから、そんな
ことは出来っこありません。
できたよw 今年それをやってその後遺症で半年くらい苦しんでたw
78 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 01:33:30.11 0
×今年
○去年
79 :
てすすき:2012/02/12(日) 04:05:46.62 0
ありありとした「夕日の美しさ」のクオリアを感じるのは、
視覚の一部を他と区別できる領域と捉えそこに、
眩しさ、形状の上下左右対称性と円形、時間的限定性、等
を認めるからなのかなと思う。今の所。
80 :
てすすき:2012/02/12(日) 05:22:14.51 0
追加して、眩しさからの連鎖的な体の様々な感覚、過去の
経験情報からの夕日の一部の印象、周囲の状況、等も
含めて「夕日の美しさ」のクオリアと呼んでいる気がするなあ。
部屋のモニタで見る「夕日の美しさ」と本物のは違うし。
いきなりあっても面喰らうだけ
通りすぎるのがこわい。スルーがこわい。無視が寒い
82 :
てすすき:2012/02/12(日) 09:49:16.16 0
常連だとしてもここでポエム書かれてあって何がそんなに怖いのか。
>>1の内容にもスレの流れにも合っていると思うけど。けど確かに
ここまで僕を理解する人は少ないな。不規則生活満喫中だ。。
>>77 今年、もう一度同じことを繰り返すことが出来るなら
そしてさらに後遺症を悪化させて苦しみを倍加させることを敢えてすることが出来るなら
自由意志が存在することの証明になるかもな 無理だろ?
今のままでは過去の自分の選択に後悔してるだけ 二度と同じ選択はできまいに
>>83 過去の原因を熟知した上での選択は自由意志の大事な要素の一つだけど、その選択の結果何が生じるか選択の前に熟知してなければ本当の自由意志とは言えない。
後遺症とか悪化とか表現してるうちは自分に酔ってると思われ
85 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 12:25:12.85 0
>>77 なぜ今年に限定してるの?そしてなぜ名無しになったの?
場合によっては今年だろうが、今後も同じ選択はありうるよ。
(そもそも
>>75で「生物学的・社会的に危機的状況になること」なんて条件つけてるけど、
それはあなたにとってありえない話なのかもしれませんが、他人がそうであるなんてそんなこと全然ありませんよ。
社会的面子なんて私はとうに捨ててまして屁でもないですし、生物学的に自分を痛めることは
自分への制裁とかはたまた自分の可能性への挑戦みたいな感じで行う事はままあります。
つまり、たしかに再度それを行ってその後の過程で判断が変化してその状態、行為をやめることに
なるかもしれません、つまり死まで到達する前にやめるかもしれません、が、単に選択して
その道を進んでみること自体は前と似たような道であろうが屁でもありませんね。)
>今のままでは過去の自分の選択に後悔してるだけ
自己紹介でしょうか?何か過去にお辛い事でも?それともTVの見過ぎですか?
86 :
85:2012/02/12(日) 12:38:00.41 0
85は×
>>77 ○
>>83 このスレきらいだからもうレスしないつもりだけどもうちょっとかいとこう。
>>83は多分自由意思とかいう話を聞きかじってそれを披露しているだけなのだろうが、
それはともかくとして、世の中、状況なんて数えきれないくらいのバリエーションがあるのを知るべき。
何か本に書かれていることがあってそれがまるで普遍的なもののように勝手に思い込んでしまうのはよくない。
それを他人に強制や説教するのはもっとよくない。
推測だが、
>>83は波瀾万丈とか、無職になったとか、倒産とか、そんなワードとは無縁の人生しか経験してないのだろう。
全てをすてて一つのことに向かう場合、生物学的だの社会的危機だのの優先度は下がるものなのに。
あと、最後に機械氏にはこの言葉をおくっておこう。知識を得たと勘違いして目が暗んでいるみたいだから。
「学びて思わざればすなわち暗し。思いて学ばざればすなわち危うし。」
87 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 13:12:08.44 0
88 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 13:27:19.38 0
70 名前:名も無き被検体774号+[] 投稿日:2012/02/12(日) 13:13:36.81 ID:me/4hny70
>>68>>69 特定系は本当に勘弁して下さい。狭い業界なので。
91 :
第四の波平:2012/02/12(日) 14:51:13.30 O
でんでらばってんでてくるばってん♪
92 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 15:02:31.77 0
100 名前:名も無き被検体774号+[] 投稿日:2012/02/12(日) 14:52:46.49 ID:ebmI/bbV0
好きな小説家は?川上未映子とかどうよ?
103 名前:1[] 投稿日:2012/02/12(日) 14:56:25.15 ID:me/4hny70
とか言いながら、
>>100 川上さん会ってみたいです。可愛いですよね。あこがれる。
小説はいろいろ読みますが、最近時間がとれなくて…。
塩野七生さん(とくにエッセイ)が好きです。
さあ、昼寝昼寝。
哲学については全く知らないんですけど質問させてください
ある時「世界台本説」っていうのを思いついたんです
自分以外の人には台本が手渡されていて、それに従い周りの人物は行動しているという考えです
ルールとしては
@自分の行動は自身の認識外であらかじめ予定されており、台本に記述してある
A全ての人物は自分の知らない所で台本を読み込み、それに従い行動、発言する
B台本を読み込んでいる場面を目撃することはできない
C台本を公表する行為も「台本通り」ならOK
Dアドリブを行ってはいけない
そんな台本なんか持ってるわけないじゃんww アホくさっていう発言も実は台本通りっていう
考えてるとだんだん疑心暗鬼になってきました
この考えも先ほどのレスにあった独我論なんでしょうか?
94 :
考える名無しさん:2012/02/12(日) 22:20:50.83 0
人間の脳は椅子から立ち上がる8秒前に「椅子から立ち上がる」というパターンの脳波を出すそうな
何かでびっくりして反射的に立ち上がる時も脳波が0.3秒ほど先行するそうな
これって、脳派が動いてから行動がおきるってことで、コンピュータの指示で機械が動くのと原理は同じ
自由意志って脳波が動く感じだろうけどそれって「自由」って言えるのか?
訓練して裏切れるようになりながら
倒れる自由と起き上がる自由を満喫するがよいぞ
はっはっは〜きやがった!俺の獲物があーーーーーー!
97 :
考える名無しさん:2012/02/13(月) 11:45:47.47 0
>>86 哲学ってのはね思いってが間違いの基になりがちなんだよ
特に観念論系
素人には判りづらいだろが
98 :
考える名無しさん:2012/02/13(月) 16:08:19.90 0
100歩譲って、脳の構造が全て物質で説明可能だとしても
ニューロン同士の連携によって創りだす<意識>が
非物質的な何かとして存在することは疑いないじゃん
その生成に物理的過程を含むかどうかは
<意識>が物質であるかとは別の問題だろ
99 :
ゲーム:2012/02/13(月) 16:21:03.74 0
>>63 カラス君
方法的一元論でした。ww
といっても、主観に照準して語っていたので「(意味とは)何かの意味」であり、
やはり二元論的のそしりは免れません。
それよりも、カラス君のいう“時刻”が判然としない。
そのような“点”状の「時」を現前に見出すことは不可能。
“時刻のクオリア”などはない、といい換えてもよい。
時刻とは思考の産物、つまり君のアタマのなかにある概念では?
むろん、だれかと“時刻を共有する(約束する)”ことはできる。
もう一つ、君は「空間も(ということは時間も)物質である」と述べている。
時空には質量があるということ? 私は「ない」と思ってきた。
100 :
ゲーム:2012/02/13(月) 16:59:24.15 0
>>47(668)
前にもいったように、ネガティブなのは信念、信仰を「正しい言表」である
かのように語るその口吻に対して。君は、こういっている。
「すべては創造的な働きであり、それ以外はない」と。
“すべて”が曖昧だが、存在の総体、事物の一切…といった意味なのだろう。
「なぜ君が“一切”を知っているの?」という突っ込みは控えるがw同様の
主旨については前スレで「伝聞情報によれば」と断ったうえで「エネルギー、
時空、意識が存在する」と、私は述べている。この表現のほうが君の“働き”
よりもスッキリしているのではないか。w
ただし、エネルギーは何もの(ごと)をも生まない。それは、変様、変態、変成は
しても君が述べるように“生成”はしない。創造せず、ただ変化するのが“働き”
ではないのか。
「すべては創造的な働きであり、それしかない」というのが君の信仰の表白なら、
あるいは文学的な表現なら、卓抜としているか否かはともかく、否定はしない。w
しかし君はそれを“正しい言表”として語っている。
101 :
ゲーム:2012/02/13(月) 17:29:31.64 0
>>48 「すべては…」という言葉を使ったからといって“二元論”が解消できるわけではない。
そんなに簡単なことなら、とっくに“二項構制”問題は片づいている。w
現に君は「すべては働きである…」とのべたあと、世界は(そのどの部分も)同質である、
と「みている」という。いつのまにか“働き(すべて)”が、世界とそれをみている“主観”
に分岐していることがわかる。(時間がない?ので、またいずれ)
機械さんは得意のクオリアについて、おもしろいことを述べていますね。w
機械さん、身体的反応とクオリアは違います。
後者は(数)量に換算できない“質”感。
ここから、物から意識への“転化”がなされるのだが…
>>93 君、やっと気づいてくれたのか。
と台本通りに書きこみました。
/ ̄ ̄\ ←哲学板古参
/ _ノ \ ____
| /゚ヽ/゚ヽ / \ ←初心者
| (__人__) ブビッマジパネェ /ノ \ u. \
| |'|`⌒´ノ ヴビビッ!! ビイビィヒヒ /(●) (●) \
. |. U } ...| (__人__) u. | なんだこいつ・・・マジやべぇ。
. ヽ } \ u.` ⌒´ / 来る板間違えたかな・・・・。
ヽ ノ ノ \ だが俺がこの荒廃しきった板を立て直してやるっ
/ く
/ ̄ ̄\
/ _ノ \ ____
| /゚ヽ/゚ヽ / \ 一年後・・・・。
| (__人__) ブビッ ブビビビビビッ!! /ノ \ \
| |'|`⌒´ノ / /゚\ /゚\ \
. |. U } | (__人__) | ウボッウボボボボッガビビビビッ
. ヽ } \ .` ⌒´|'| / パネェパネェッッッッッッッッwwww
ヽ ノ ノ .U \
/ く
>>94 > 自由意志って脳波が動く感じだろうけどそれって「自由」って言えるのか?
自分で自由意志が脳波が動く感じとしているのだからそれは自由な意志ではないでしょうか。
>>98 > ニューロン同士の連携によって創りだす<意識>が
> 非物質的な何かとして存在することは疑いないじゃん
面白そうな疑問ですね。物質的と非物質的の違いは何でしょうか。他のかたはこれについてどう
でしょうか。
>>99 > やはり二元論的のそしりは免れません。
一元論らしい主張をしていないようでしたが。唯○○論は一元論です。
> それよりも、カラス君のいう“時刻”が判然としない。
> そのような“点”状の「時」を現前に見出すことは不可能。
> “時刻のクオリア”などはない、といい換えてもよい。
現前に見出せるという主張はしていません。
> 時刻とは思考の産物、つまり君のアタマのなかにある概念では?
もちろん、あるから書いています。
> もう一つ、君は「空間も(ということは時間も)物質である」と述べている。
> 時空には質量があるということ? 私は「ない」と思ってきた。
質量を物質と同じ意味で使用しているのでしょうか。質量が物質とは違う意味であるなら
唯物論は特にその質量についての論というのでは無いです。
オレもいつの間にか哲学板古参になっちゃうのかな。宇宙ヤバイの時だから。
一番古参そうなのはFeさんかな。
朝鮮人スレ
107 :
考える名無しさん:2012/02/14(火) 08:09:36.18 0
>自分で自由意志が脳波が動く感じとしているのだからそれは自由な意志ではないでしょうか。
観測者の主体を都合でころころ変えるとこういう考えになる。
108 :
668:2012/02/14(火) 18:54:24.76 0
>>100 >前にもいったように、ネガティブなのは信念、信仰を「正しい言表」である
>かのように語るその口吻に対して。君は、こういっている。
>「すべては創造的な働きであり、それ以外はない」と。
(ゲーム氏の察しのわるさは相変わらずですね・・・w)
ゲーム氏が「力への意志」に言及したので(私はそういうつもりで書いたのではないけれども)、
ニーチェの例で説明しましょう。その方が分かりやすいかも知れない。
以下のことは、私が書いたことについても、だいたいは当てはまります。
例えばニーチェは、「この世界は力への意志である。」と、(私の書き方以上に)断定的な書き方をしています。
ゲーム氏は、そのように断定的に書くことを、「『正しい言表』であるかのように語るその口吻」と言っているのでしょう。
しかし、断定的に書くか、あるいは自信なさげに控えめに書くかは、ゲーム氏の言う『正しい言表』とは、全く無関係です。
ゲーム氏はそこを勘違いしています。
ゲーム氏がよくここで書いていること・・・「真理はない」「物自体はない」・・・というのは、もとはといえば、ニーチェの思想です。
「すべては物語」というのも、「一切は解釈」というニーチェの思想と同じことです。
そして、「この世界は力への意志である。」というニーチェの言葉は、
「真理はない」「物自体はない」「一切は解釈」という思想を前提とした言葉なのだから、
それももちろん、ニーチェの「解釈」なのであって、ニーチェはそれを『正しい言表』などとは思っていないのです。
109 :
668:2012/02/14(火) 18:56:51.16 0
では、なぜニーチェは自信たっぷりに、「この世界は力への意志である。」と、言えるのか・・・
ゲーム氏のように「私の想像ですが・・・、」みたいに、自信なさげに言わないのか・・・
それは、私が書いていた「ネガティブさ」ということに関係してきます。
前に書いたように、「全ては物語」「一切は解釈」であるならば、「物語」や「解釈」からは、ネガティブなニュアンスが消え去ります。
だから、そこにおいて、ネガティブからポジティブへと転換し得るのです。
「真理はない」とすれば、自分の解釈を「一つの解釈にすぎない」と卑下する理由はなくなるわけです。
ゲーム氏の考え方は、その辺が全く一貫していないので、
「一つの解釈」に《すぎない》というネガティブさをずっと引きずってしまうから、そこを理解できないのだと思います。
110 :
668:2012/02/14(火) 18:59:13.74 0
>前スレで「伝聞情報によれば」と断ったうえで「エネルギー、
>時空、意識が存在する」と、私は述べている。この表現のほうが君の“働き”
>よりもスッキリしているのではないか。w
たしかにゲーム氏のような考え方をすれば、「スッキリ」と、“二項構制”になると思われる・・・
ゲーム氏は、「時空やエネルギー」は「概念化(意味づけ)されたもの」であると書いていますね。
それに対して、《概念化(意味づけ)している働き》が、「意識」でしょう。
そしてゲーム氏は、それら両者が相関的に存在するとしている。
つまり、ゲーム氏の出発点には、《概念化(意味づけ)されたもの》と《概念化(意味づけ)している働き》という二種のものが
一緒に(つまり同時に)存在しており、出発点から、“二項構制”になっていると思われる。
ゲーム氏は“二項構制”を問題視しているにもかかわらず、そのように、出発点から“二項構制”を採用しているのが、私にはとても不思議です。
それから、私が書いた《働き》ということも、ゲーム氏には分かりにくいようですが・・・
デカルトやカントでいえば、「思う」が《働き》です。
それは《もの》ではなく《働き》(あるいは「動き」)なのであるけれども、
デカルトはその《働き》を、静かな鏡のような「心」として、《もの化》してしまった・・・ということは、前にも書きました。
(それに対応して、「思う」という動詞が、デカルトにおいては「心」という名詞の形になっています。)
ゲーム氏の言う「意識」は、「心」と同じ名詞の形になっているけれども、本来は《働き》であるはずでしょう(静かな鏡のようなものではなくて)。
だから私は上で、「意識」を、《概念化(意味づけ)している働き》と書きました。
111 :
668:2012/02/14(火) 19:01:50.55 0
この前私は、ゲーム氏のような「意識」中心の考え方は、「片肺」であるように思われる、と書きました。
つまり、いくつかに分裂したものの中の、一つだけを取っているように見えるわけです。
今は、「意識」と言えば、思考や知覚などの何らかの心的現象を指していることは誰にでも伝わります。つまり現代の常識になっています。
それは逆に言えば、現代に生きる我々は、そういう常識によって時代的制約を受けていると言えるわけですが、
哲学というのは、そういう時代的制約や常識を超えようとするものですね。
「意識」という語が、今のような意味で用いられるようになったのは、
デカルトが“コンスキエンティア”というラテン語を「意識」という意味で用いたのが最初だとされており、
デカルト以前は、この語は、「良心」という意味で用いられていたそうです。
「良心」というのは、善悪に関する内的な体験であり、「意識」とは、かなり感じが違うと思います。
また、カントにおいては、(Fe氏との話の中ででてきたように)「理論理性」と「実践理性」が区別されていて、
「実践理性」においては、「意識」ではなく、「意志」が重要な役割を果たします。
この前私は、デカルトの《物》《心》二元論のうちの一方だけに重きを置いているから「片肺」に思われる・・・という書き方をしましたが、
だから、実際は、その《心》の中身も、「意識」「良心」「意志」「衝動」・・・等々と、様々に《分けられ》てきたわけです。
おそらくゲーム氏にとっては、その中の「意識」の存在が特別に「自明なこと」であるように思われるのでしょうが、
そういう歴史的なことを考えてみると、そこにはやはり、時代的制約があることが分かるでしょう。
「意識」という《働き》、「意志」という《働き》、「衝動」という《働き》・・・、
それらの《働き》が、様々に分けられる以前のものを、私はここでは、《創造的な働き》と呼んでいます。
112 :
668:2012/02/14(火) 19:03:45.69 0
>>101 >現に君は「すべては働きである…」とのべたあと、世界は(そのどの部分も)同質である、
>と「みている」という。いつのまにか“働き(すべて)”が、世界とそれをみている“主観”
>に分岐していることがわかる。
私はこの前、【「解釈」も、「創造的な働き」と別のものではない】と書きました。
「みている」というのも「解釈」(=「創造的な働き」=「自然」)であるので、そこには、ゲーム氏が考えるような「分岐」はありません。
分岐しないポイントは、その《同質》性にあります。
ところで、例えば、カントの「主-客」図式に立って見れば、大抵のことは、「主-客」図式で説明することができます。
ゲーム氏が上で言っていることは、『あなたの考え方を、「主-客」図式で説明できますよ』ということにすぎないので、それは批判にはなっていなくて、
それはただ、ゲーム氏が“二項構制”でしか考えられないことを示しているだけ…のように、私には思われますね。
「全ては創造的な働き」とか、一昔に流行った「宇宙の全ては波動」と同様
宗教、オカルトの類である。
もうお止めになったらどうか
114 :
668:2012/02/14(火) 19:34:44.98 0
>>113 哲学と宗教との違いは、かなり難しい問題になるでしょうね。
その境界線は明確には引けないと思います。
ただ、今まで私が書いていたことは、
宗教か哲学か、という点に関しては、明確に、哲学でしょう。
私が書いたことが宗教であるとすれば、私が言及した
ハイデガー、ニーチェ、ベルクソンなどの哲学も、宗教であることになってしまいます。
(2チャンネルに、そのように言いたがる人が、結構いることは知っていますよ・・・)
宗教というのは、「物自体」についての「信仰」でしょう。
また哲学において、「物自体」について判断するのが「形而上学」です。
それに対して、私が書いたことは(ハイデガー、ニーチェ、ベルクソンなどの現代思想の多くがそうですが)、
そもそも「物自体」に対応するものがありません。
「物自体」と「現象」という二世界論を撤廃したところで考えているのが、そういう哲学だからです。
それらの哲学は、「物自体」と「現象」というように、二項図式に陥ることを極度に警戒しています。
ではでは。
668氏が消えてしまわれたのでモンクだけ言いますよ?
668氏はどこかで「自然はあるがまま」とか言っておられた
なんすかねこりゃw
『自動車はあるがまま走っている』
そりゃそうだろうが、だからどうしたと?
「物語りに過ぎない」ことからネガティブを消去するには、「全てを物語り」としたのではまるで話にならない。
それは物語りの意味を消失させただけ。
それでネガティブが消失したと思っておられるのは668氏だけでしょう。
恐らくこうすべきである
見えるもの語られるものは物語りだが、それが“十分に物語りであり得る”ことを求めることができる。
そうしてこそ物語りは物語りとしてポジティブ(これもなんだかなぁ)となる。
不可知が良くないのは、何が分からないか分からないものまで不可知としてしまうから。
知り得るものは十分に知り得る。知はそれが「十分に知である」ことを求める。
ハイデガー、ニーチェ、ベルグソンなんざ一行も読んだことはありませんが
彼らの思考の経緯こそが問題なのであり
結論を思想として引き写し、だからこれは哲学なのだと強弁できるとは思えません。
116 :
668:2012/02/14(火) 20:29:47.58 0
>>115 >「物語りに過ぎない」ことからネガティブを消去するには、「全てを物語り」としたのではまるで話にならない。
>それは物語りの意味を消失させただけ。
ネガティブさが生じる理由、そして、消え去る理由については、
抄録氏には、前スレの>820で、敢て分かりやすくするために図式化して(図式化は危険なのでできるだけしませんが)
説明したのだけれども、あれでも分かってもらえなければ、とりあえず、諦めましょう。
>不可知が良くないのは、何が分からないか分からないものまで不可知としてしまうから。
不可知論だと、不可知な部分に「真」が存在する可能性が残されるので、
「真理はない」とも、「物自体はない」とも、言えないのですね。
だから、「物自体」に対してネガティブな意味を帯びている「現象」は、
不可知論の場合でも、ネガティブな意味を帯びたままになります。
ではおやすみなさい。
イデア界Aと感覚的世界Bを上下の関係としたのでは
もはやネガティブとするための論点先取。
イデアの影は十分に影であることを求める
不可知論の話はですね、話のついでです。
いずれにせよ、ポジティブにしたつもりでも
それは平行移動しただけなので何一つ解消されない。
「全ては物質」と同じ。
寝るの早いすね
また、ですw
>不可知な部分に「真」が存在する可能性が残される
見過ごすところでしたが、これは本当ですかね
きりきり舞いになるんじゃないですか。
不可知であるが、そこに真が残される“可能性”が残される・・・
この主張を可能とする理解の方法が私には思いつかない。。
>>93 どうせどこかのコピペだろうけど、ちょっと考えてみましたよ♥
1.私以外で明日死ぬ人はそのことが台本に載ってる
2.私以外の人は台詞のNGはできない。常に一発OK。
3.私以外の人はくしゃみも勝手に出来ない。不意にうんこにも行けない
4.台本に無い「偶然」など絶対に起こらない
5.なので私以外の人は「偶然」の意味を知らない
6.宝くじの当選番号は私以外みんな知っているがあえて買わない
7.私以外の人は台本に予定されている大災害の瞬間まで平気で芝居をする
8.私以外の人は台本に載っていない感情を表さない
9.悲しいのに「喜ぶ」と台本に書いてあるとすれば(ここ微妙w)彼らは恐らく感情を理解しない
10.彼らの間では互いの暗黙知の理解などない(不要なので)
11.そんな彼らは小説を読んでも面白くも何ともない。
12.赤ちゃんも台本を読んでその通り芝居をする
・
・
台本だけじゃ弱いような
もっと強力にならんかね
どこまで強力にすれば決定論になるのかしら・・w
「形而下のことは形而下に、形而上のことは形而上に(返しなさい)」
たぶん、それでカタがつく
何のカタだw
形而下と形而上のちがいは、言葉の扱いのちがいだ
レスするかしないかの選択があるとして
ぼくは眠ることにする
これが自由意志の意味だ
証明できるかね?
なんのこっちゃいw
**************
※「役に立つ」は安易に過ぎた
しかし場合によってはそれでも足りる
125 :
考える名無しさん:2012/02/14(火) 23:03:15.44 0
いや、カラスたんと機械たんのについてちょっと考えてただけ
最近ものすご〜く冴えない
やる気なし
すまnageテもうた
>>123 >レスするかしないかの選択があるとして
>ぼくは眠ることにする
眠いからレスしないで寝るんでしょ。。。
ひとりしゃべりのおっさんの自作自演スレ
129 :
洋楽:2012/02/15(水) 01:19:44.18 0
ふぅーん ・・・
おじゃましましたー
テメエ何また調子に乗って書いてんだよ洋ばく
131 :
ゲーム:2012/02/15(水) 16:53:50.31 0
>>108(668)
「察しが悪い」のは私だけではないでは?w
少し前には「668のレスは(悪い意味の)ブッキッシュ」といった感想があったし、
抄録氏も「オカルト」のたぐいと語っている。そこまで私は断じていないので、
察しのいいほうではないか。w
君の書き込みから有名・固有名詞を除けば、こう要約できる。
「すべては創造的な働きである」
「すべては同質である」
しかも、これは“解釈”ではなく、また「正しい言表」ではないという。
これが君の“見解”でないとすれば、何ですか。
「真理はない」「物自体はない」というのはニーチェからの借りものでもあり、
また般若心経の影響。w いや、様々な先達からの受け売り(引用)である。
「すべては…」という表現を用いるときは、私なら「君の述べている“すべては”…」と
一応、何の“すべて”か、限定するだろう。君の場合は、いきなり“すべて”と措くので、
恣意的に受けとられても仕方なかろう。で、何の“すべて”ですか。
132 :
ゲーム:2012/02/15(水) 17:26:13.63 0
以下、延々と書き込みつつありましたが、それは近いうちに。
すべては“同質”ではなかろう。
もうこの板ではおれも古参に入るんだろうな
昔はゼロと名乗ってたこともあった。あのころはゼロが少なくとも3人いて、よくとばっちりを受けたものよw
言語使用の仕方のみが意味を作るという、ウィトゲンシュタインの天才によって明かされた仕組みが、ここで適用されるなら、
ここで問題になっているのは、「すべて」の言語使用の仕方であり、668氏の「すべて」とは、「すべて」“だけ”、という
仕方でなされた場合の意味空間の開き方である。意味空間を開いたり閉じたりすることは、僕にとっては非常に新鮮な
言語使用の仕方です。「すべて」という語の仕組みまではわからないけれども。
>>127 自由意志をどうやって判別してるか
それを問うてるわけだ
レスしようがしまいが、そこに「自由」は見つからない
意志や行動が拘束されてるんじゃない
その理解のあり方が拘束されてるんだ
ぼくが眠ることで、「レスしなかった」と決定することは
ぼくの意志には関係のないことだ
行動が論理で理解されるからといって
意志(論理)の適用は決定されない
論理を決定するのは言葉だ
言葉は決定されない
言葉は自由だ
言葉を失うとぼくのすべてが止まる
原理的に、すべては上書きされ得る。自己を除いては。他人とは、心を通じ合えないものである。
違いにしろ悪意にしろ。
メモリーの分け方が、自己と他人の線引きである。
産まれた時から決定論を信じている人はいないと思いますが、ある程度普通に生きていて
それでも最終真理である決定論を信じない人はかなり自分の産まれてきた世界に対して
理解が無いのでしょう。
まあ普通に生きてたら理解が決定論を産むといっても過言ではない
>>135 >レスしようがしまいが、そこに「自由」は見つからない
うん。だから、それが当たり前じゃん、って言ってるわけです。
じゃあ、こんな話はどう?
-----
私は今年で70歳になる独身のヨボヨボの老婆だ。
生まれた時からある、一軒家に一人で住んでいる。母は20年前に、父は14年前に死んだ。
なぜ一人身でい続けているかというと、大昔戦地に行った旦那を今でも待ち続けているからだ。
彼が死んでいるのは50年前から知っている。50年前から独り身で生きることがどういうことか知っているし、何が起きるかについても知っている。それに後悔することもあるのも知っている。
なにより、死んだ旦那本人が一番それを望まないだろう。
ただ、それでも私は他の男と一緒になるより、死んだ男を一人で家で待ち続けることを選ぶ。
-----
単純に選択すること自体になんの自由もない。その選択が何かに強制されているのであれば自由なわけがない。
さて、この老婆が独り身で居続けることで生じる事態を事前に熟考したと過程する。
あなたの例と根本に違う側面があると思います。
朝鮮人スレ
145 :
ゲーム:2012/02/16(木) 15:51:15.33 0
>>134 あいかわらず君は難解なので「すべて」についてのみ感想を述べます。
668氏のいう「すべて」は全部、全体、総体、一切といった意味だろう。
通常、この言葉は〜のすべて、というふうに使う。“集合”といってもいい。
しかし、彼は「〜の」と限定していない。
とすれば「すべてのすべて」あるいは“集合の集合”を指しているのだろう。
時おり、私がつかう“存在の総体”の謂いであり、いわば言葉のアヤ(戯言)だ。
ヒトは、それを推論の果てに“概念”として表出することはできる。
が、そのようなものは「ない」ので、それを認識することはできない。
もう一つ。もし“全体(すべて)”の外に立つ(超越する)ことができれば、それを
認識し、語りうるかもしれぬ。が、これは“神”のみなしうる業である。
つまり668氏は「戯言を弄しているか、神さまか」のどちらがである。w
146 :
ゲーム:2012/02/16(木) 16:36:19.07 0
668氏は、私が意識に偏重(片肺)している、という。
たしかに以前、最高位のいう「私(自我)」よりも“意識”のほうが先行する
ゆえんを、新生児を例にあげて述べたことがある。
新生児のありようを想像するに、おそらく“感”だけではないか。まだ言語
に介入(侵食)されない純クオリア(質感)を、彼らは生きているかにみえる。
意識は快/不快を表出し、その身体も動くので、心身が機能して(働いて)いる
のは間違いない。この働き(機能)は、端的に“エネルギー”の所産だろう。
668氏ふうにいえば「すべての働きはエネルギーの発現」に違いない。
が“唯エネルギー論”には無理があり、それだけでは“世界”を構成できない。
最近、抄録さんはプラトニズム(イデア論)に感心をお持ちのようですね。w
147 :
考える名無しさん:2012/02/16(木) 17:14:39.80 0
地殻変動および地殻活動の完全かつ迅速な人工調整の実用化……
というのを誰も指摘しないのはどういうことだろうか
ただの思考放棄だろうか?
148 :
668:2012/02/16(木) 18:40:51.38 0
>>131(ゲーム氏)
>「察しが悪い」のは私だけではないでは?w
他の人とは、全然比較にならないですね。
なぜなら、今回の場合、ゲーム氏は、「真理はない」「物自体はない」「一切は解釈である」
というニーチェの思想の一部をパクっているにもかかわらず、
ニーチェの思想の肝心なところ(「価値転換」の思想)が、理解できない。
そこにゲーム氏の「察しのわるさ」があるからです(私が丁寧に説明しているにもかかわらず・・・w)。
>これが君の“見解”でないとすれば、何ですか。
これは、ゲーム氏が
>>101で書いたことと同じことでしょう。
「みている」を「見解」という言葉に置き換えても、私の答えは、
>>112と同じになります。
>何の“すべて”ですか。
これも、ゲーム氏が前にした質問とあまり変わらないように思いますが。
ゲーム氏は、質問の仕方も曖昧なので、同じような質問の繰り返しになっていますね…
「全ては〜」という表現で、《同質》性を示しているということは、前に書きました。
(再掲)
【世界が二重化する(二つに分裂する)ことを警戒するから、「《全て》は〜である」という考え方をする、ということ・・・
つまり、「《全て》は〜である」という考え方は、世界を、(そのどの部分をとっても、)《同質》なものとして見ているわけです。】
ここで私は、意味を明瞭にするために、【そのどの部分をとっても】と書いています。
つまり、「《全て》は」は、言い換えれば、「個々の部分はどれもみな」という意味です。
前に書いた「存在」と「生成」という言葉を使って、また、ゲーム氏ご要望の「〜の」を付けて言うならば、
「存在者《の》全ては(=個々の存在者のどれを取って見ても)、根源的には生成である。」でも、良いと思います。
149 :
668:2012/02/16(木) 18:48:01.44 0
>>145 >もし“全体(すべて)”の外に立つ(超越する)ことができれば、それを
>認識し、語りうるかもしれぬ。が、これは“神”のみなしうる業である。
>つまり668氏は「戯言を弄しているか、神さまか」のどちらがである。w
まず、勝手に「全体」としてしまっているところが駄目ですw
私の書き方をよく見れば、私の「解釈」が《全体に関する判断》と受け取られないように、注意深く書いていることがわかるはず。
(《部分と全体》の問題は、哲学史の難問の一つであるので、その問題に入り込んでしまえば、
そこだけで議論が尽きなくなってしまうので、それを避けているだけですが…。)
当然のことですが、「全体」は、「主観」の対象(「客観」)にはなりません。
しかし、私が主客図式で考えていないことは、最初のほうから、何度も繰り返し述べています。
また、「認識」としてではなく、「行為」として捉えている、ということも書きました。(それについては詳しく説明していないけれど…)
だから、ゲーム氏が書いた「外に立つ」も、「認識し」も、全く的外れです。
前に書いたことがそのままここにも当てはまると思います。
(再掲)
【ゲーム氏が上で言っていることは、『あなたの考え方を、「主-客」図式で説明できますよ』ということにすぎないので、それは批判にはなっていなくて、
それはただ、ゲーム氏が“二項構制”でしか考えられないことを示しているだけ…のように、私には思われますね。】
(《部分と全体》の関係を、「主-客」関係としてではなく、考えている思想も、もちろんあります。
その中で、特に重要だと思われるのは、ヘーゲルとヤスパース。二人は対照的な考え方ですが。)
150 :
668:2012/02/16(木) 18:55:18.84 0
>>146 >668氏ふうにいえば「すべての働きはエネルギーの発現」に違いない。
>が“唯エネルギー論”には無理があり、それだけでは“世界”を構成できない。
もちろん「それだけ」ではありません。
(私の考えについては、ほんの少し、しかも断片的にしか書いていないので、書いていないも同然なのですが。)
あと、抄録氏に「オカルト」と言われ、(彼はここの中心的人物の一人であるようなので、正直なところかなりがっかりだ・・・「抄録氏、お前もか!」w)、
ひょっとしたら私が書いたことが、こういうふうに誤解されているのかな・・・と、思ったので、それについて書いておきます。
例えば私が、「存在者の全ては、生成である」と言う場合、私は「存在者」を否定しているわけではありません。
また、Fe氏との話の中で書いたように、我々は言語や法・・・等々の様々な「約束ごと」の世界に生きていますが、
それらの「約束ごと」を否定しているのでもありません。
そうではなくて、例えば、それらの「存在者」や「約束ごと」を、仮に、《表層》とすれば、
その《深層》には「生成」がある、ということを言っています。
(《表層》と《深層》というのは、説明の便宜上分けているだけで、《表層》と《深層》は連続的であり、
そして、《表層》と《深層》との関係をどう考えるかが、哲学的には、極めて重要であると思います。)
例えば、確固とした「存在者」に囲まれた我々の日常をビデオに録画し、それを、超々々高速で早送りすれば…、
確固としたものと思われていた物も、次第にドロドロと動き出す(「生成」)でしょう。
「存在者」に囲まれて生活している《表層》を、《深層》を見る目で見れば「生成」である、とは、例えばそのようなことです。
私は「根源的」という言い方を最初のほうからしているので、その辺のことは伝わっているのかな・・・とも思いますが、念のため。
例: 前スレ>781
>「語られたもの」があるためには、その前に、「語ること」があるはずで、
>その「物語ること」つまり「物語る」という《働き》をより根源的なものと考えるのが良いと思われる。
(明日から、しばらく書き込めないかもしれません。)
>>146 プラトニズムなんてとんでもない。
たまに知ら読みするのは『パイドン』ぐらい。
それもまともに読んだことはない。
ソクラテスだかプラトンだか私には分からんですが
パイドンをちら読みするかぎり、ソクラテスは自覚的、合理的なことを言っており
倫理の時間に習ったような「イデア界」なるオカルトを中心に語っているようには見えない。
「2が偶数として成立するとき、それは奇数ではない」というような、
いわば『論理を支える感性の正当性、普遍性』を対話によって了解しようとした作業のように
私には思われます。(近鉄さんの言う「掬う」とはこのようなことかしら・・・w)
まあ最後は「霊魂は不滅である」という判断をしてしまうので、そこはチャレンジャーやのう、
とは思いますがw
霊魂が不滅なのはイデアが不滅であることと直結する理屈なんだと思いますが、
しかし現代に生きる私から見れば善のイデアと謂えども不滅とは言えない。
ましてや霊魂のイデアなんぞ・・w
ここはゲームさんも同意してもらえるかもしれない。
なんでもそうですが、文書の意味内容が成立する時、その責任の半分?は読み手側にある。
・イデアが成立するのは、それを支えるさらに普遍な自然の秩序があるから。
わたしの中ではそのように了解済み。プラトンの“あの世的な話”は無視ですw
「知ら読み」ではなく、「ちら読み」でした。スンマソンw
>>150 わたしは「中心的存在」なんかではないのだが
しかし人があまりいないので少数で踊るしかない。
ゲームさんとは旧知であるような話しぶりでしたので、古参の人かと思いましたが
違いましたか。。。
ターゲットがゲームさんのようなのでなるべく見ているだけにしようと思いましたが
ちっとも話が佳境にならないのでw
しかし「働き」とは、言い換えれば「生成」なわけですね。
・「どの部分をとっても」それは《同質》に「生成」
同質であることの比較可能性をどこに求めたのでしょう?
つまりいかなる「質」によって同じなのか。その「同質」を確信する状況を語れるのか。
あるいは「同質」と判断することによる有効性があるのかしら。
それも無ければ「同質」と判断することによる気持ち的な安心感、でしょうか。
・超々々高速でのビデオ再生による「生成」の発露
確かにドロドロと動き出すでしょうが、しかしそれは「変化」としか私には思えない。
「生成」とは本来、「無」から「有」を生じることでは?
ヒトによって「無」とされる事態は恐らく虚無ではない。
しかしそれが分析不能の「無」としてしか判断され得ないなら、
「生成」はその都度要請されるでしょう。
・生成が世界の「根元」。
それでもいいですよ。それは尊重しますけど、
それが物理の何に相当するのか
それによって時間の謎を解けるのか(時間は実在?本当の過去とは?タイムトラベルはあり?)
そこにアクセスできないような思想は、私には「毒にも薬にもならない」。
(これは以前にも申し上げたかもしれない)
また、ですw
きしょ伊スレ
自作自演スレ
中二病特異患者による一人喋りスレ
君が一人で喋っているのだろう?
158 :
ゲーム:2012/02/18(土) 16:52:08.49 0
>>148(668氏)
君の構文は(などと、もったいぶることもないが)「すべて同質」いや、同型である。w
「すべては働きである」「すべては創造的である」「すべては生成である」
「すべては同質である」「すべては、あるがままにある」
君の述べていることは、みごとなまでに同型であり、わかりやすい。w
「すべては〜〜である」との語り口を好む“心性”を、ここで論うのは控えるが、
この「すべては…」の構文には特有の弱点がある。自ずと“不完全性”を孕んで
しまうのである。
「すべては…」の“すべて”のなかには当然、君自身も含まれるのだろう?
一メンバーでありながら、自らをも括る全体(すべて)に言及するとき、言述の
正否は決定不能に陥る。これに類することを君は別の言い方で、よくしていた。w
これを解消するには“すべて”の外に立たなければならない。
そのメンバーから離れて上位クラスから旧メンバーを俯瞰すれば、よくみえる
にちがいない。しかし、そこに君は存在しない。君がみているそれは、もはや
“すべて”ではないのである。
「すべて」といった超越的な言辞を弄することで却って無自覚な“二項構制”の
罠に陥ってしまう典型例を君は示している。もっとも「すべては〜〜である」が
不完全な表現であるのを承知で用いるのは歓迎したい。それは戯言(タワゴト)で
はなく、レトリックだからだ。
159 :
ゲーム:2012/02/18(土) 17:39:03.63 0
もう少しベタに668氏の「すべては働きである」という言明が戯言にすぎないw
ことを述べてみる。
彼の句は「働きしか存在しない」と同義だろう。少し前に、すべてのw働きは
エネルギー(この語を使わないと、唯物論スレにならないだろう)の発現であり、
その様態である、と私は述べた。働き(仕事)のすべては、そういってよかろう。
旧来の知識(伝聞)によれば、エネルギーは何ものをも生成しない(らしい)。
変様、変態、変成はしても、生成(創造)はしないのがエネルギーであり、仮に
エネルギーがすべてなら、668氏ふうに述べると「すべては“生成”なき働きで
ある」となる。
しかしエネルギーと並んで、もう一つ時空が「ある」。
独断すれば、時空はエネルギーも質量も有していない。そこに働きはない、と
いうよりも“働き”を可能にする何か、とでもいうしかない。
「すべては生成なき働き、と時空からなる」のか。
いや、もう一つあるが、時間がないので、いずれ。w
抄録氏よ、時空について何か述べてくれ。
アブサロム氏よ、ダーク・エネルギーについて語ってくれ。やさしい文章で。
暗闇と意識、ということについて述べれば、全てはかつては不分明であった。
赤子は時空以外は何も認識しない。そこに、意味という空間が覆うようになる。闇から光の中へ。
無知から自己へ。
ところが、逆の働きはない。それが人間というものだ。知ったことは知らないことにはならず、知らないことは
いつか知りうる。
それが、エネルギーの働きについての人間的な有り様、すなわち消費と維持であると思う。
まとめれば、エネルギーの働きの跡が人間であり、その十分な使用が生命の本質である。
161 :
「機械的唯物論」者:2012/02/19(日) 22:09:18.12 0
>>111 >「意識」という《働き》、「意志」という《働き》、「衝動」という《働き》・・・、
>それらの《働き》が、様々に分けられる以前のものを、私はここでは、《創造的な働き》と呼んでいます。
「そういうもの(原初の欲動)」が有る・・・という確信は間違いないと思われます。
どなたかが言及されているように、我々「意識と意志と衝動を併せ持つ大人としての自我」は、時間的に
「嬰児との連続性」を持っていることを誰一人否定できないでしょう。
それならば「個体発生的な原初」・・・要するに「新生児であった『この私』」に「何?」が
有ったか?・・・それこそが唯一の「原初の欲動」であり、新生児と連続している『現在の私』は、結局
新生児以降に「五感」を通じて経験した「コト」にその「原初の欲動」が反応した結果以上でも以下でもない
・・ということなのです。
似非唯物論
163 :
「機械的唯物論」者:2012/02/19(日) 22:29:47.87 0
言い換えると「確かに存在する」と言えるのは「原初の(嬰児期の)『私の脳』」と
その後の「感覚的クオリア」・・・「網膜に映った母親の顔のクオリア」「鼻腔を刺激する
母乳の臭い」「舌で感じる母乳の味」「母親の乳首を唇で咥える触覚」等々が「最古の
感覚的クオリア」である人が大部分であり(母乳で育った人はゴムの感触ですが)、その後
おもちゃの「ガラガラ」が回る光景とか音とかがやはり「感覚的クオリア」として脳内に
入ってきた・・というのが事実でしょう。
我々「意識や意志を持った大人の脳」はその「新生児の脳」が一日一日の「経験」を積み重ね、
少しずつ少しずつ変化したモノ「脳」であることに違いはない・・ということです。
164 :
「機械的唯物論」者:2012/02/19(日) 22:45:23.06 0
さらに言い換えると、「デカルト的自我」・・「このかけがえのない唯一の『私』」
が「同一である」と「合理的・論理的」に主張できるのは「嬰児期の『私』」までであり、
それは「今の『私』の脳」という物質が「同一性を保持しながら成長してきた」という
「唯物論的根拠しか存在しない」ことによります。
「他者の『私』」が存在するか否か?はあくまで「デカルト的反省」から結論を得る
ことはできない・・・ということは(形式)論理の自同律上も明白です。
165 :
「機械的唯物論」者:2012/02/20(月) 00:05:50.97 0
現在、地デジの2チャンネルでNHKスペシャル「色は脳で造られる」
を放映中です。
「クオリアについてどうしても理解できない」という方にお奨め致します。
色は脳で作られる
見ましたよ♥
色は言語に左右されるとかまるで観念論のような話でしたねw
とは言え、意識を相対化するには思惟を分析するだけじゃ無理。
思惟をいくら探っても認知科学による知見は絶対出てきませんからね。
そこは機械さんの言うとおりです。
クオリアはともかくとしてw(番組ではクの字もでませんでしたね)
>>159 時空について面白く語れそうなネタがどうしても思いつきませんw
またそのうちに思いついたらくっちゃべりたい。
中二病隔離スレ
知識では表面を語ることができても本質は語れない。
そして本質が分からないカスは必ず本質が語れない事実を目にすると反感を
あらわす。
お前だ。
170 :
ゲーム:2012/02/20(月) 11:22:18.07 0
機械さんの唯物論は「すべては物質である」というもの。典型的な“すべては…”構文だ。
決定論も同タイプである。「すべては一意・必然的に決定されている」という主意である。
かつて後者について『くるぶし』なるコテが、一旦、決定論を肯定したうえで“決定ずみの
すべて、の一員”として内側から決定論を食い破ったことがあった。
>>158は、それを倣った
謂いにすぎないが、これは決定論にかぎらない。すべてのw“すべては〜〜である”言明は
自ずと正誤の決定不能に陥ってしまうのである。Fe君のいう“間違い”でもなく、といって
“正しい”わけでもなく“(彼が正誤と分別した)でたらめ”に近いニュアンスである。
むろん、決定不能(でたらめ)の言説を「信じる」のは自由である。
カラス君は、決定論が信仰であるゆえんをよく心得ている。w
171 :
ゲーム:2012/02/20(月) 11:57:39.00 0
>>167 “すべては…”という主辞を受け入れたうえで、私は668氏の「すべては働きである」
という言明の“間違い”を指摘した。「すべては働きではない」「働きではないものが
“ある”からだ」と述べたのである。
古い知識(伝聞)にしたがって、その一つは「時空である」とも語った。
なぜなら“時空”には「働きも重さもない」 すなわちエネルギー(⇒物質)ではない何か
だから、とその理由をあげた。
抄録氏にお聞きしたいのは“時空”がエネルギー(物質)なのかどうかという点。私は「違う」
と考えているのだが。(最近、少し雲行きが替わってきたようにも…)w
172 :
ゲーム:2012/02/20(月) 12:41:45.83 0
もう一つ、働きでないものとして“意識”をあげる。
何かを“意識する”のは、たしかに668氏も述べているように「働き」である。
感じ、表徴し、思考し、概念化するためにはエネルギーを費すだろう。
また“媒体”としての身体を必要とする。
では、意識の“働き”は何を生成するwのか。“意味”である。
意味には、熱や重さはない。時空的な存在でもない。
ちなみに“意味”は668氏のいうように「すべては同質」なら生じない。
クオリア、表徴、概念…つまり意識の所産である「意味」は、連綿たる異質、
いわば“差異”の別名である。
何も生成しないエネルギー、生成され続ける時空と意識(⇒意味)…
これを三題噺としてでっちあげるのは、さすがに…(苦笑)
173 :
考える名無しさん:2012/02/20(月) 15:55:04.98 0
>決定論が信仰であるゆえんをよく心得ている。w
だったら決定するのはいったい誰なんだよ?物理法則を無視した決定も出来ると言うかw
174 :
668:2012/02/20(月) 18:48:36.03 0
>>158(ゲーム氏)
>「すべては働きである」「すべては創造的である」「すべては生成である」
>「すべては同質である」「すべては、あるがままにある」
>君の述べていることは、みごとなまでに同型であり、わかりやすい。w
あたかも私の言葉の引用であるかのように引用符を付けられると、気持ちの良いものではありません。気をつけてほしいです。
確かに、私は前スレで「全ては〜」という表現を非常にたくさん使いましたが、多用した理由は、
何度も書いた《ネガティブであることへの疑念》について述べるためでした。
まず、「全ては〜」という表現を最初にしたのは抄録氏で、それはゲーム氏へのレスです。
【しかし貴方のように「全てが物語り」としてしまえば、「物語り」の意味は霧散するでしょう。】(>748)
ここが出発点で、ここから私は、ゲーム氏が「全ては物語り」と考えているにもかかわらず、
「物語り」に《すぎない》と、ネガティブな表現をするのは首尾一貫していないのではないか・・・ということを(長々と)書いたわけです。
だから、私が書いた「全ては〜」という表現の大半は、ゲーム氏の考え方(「全ては物語り」)に沿って書いたものです。
(実際、「ゲーム氏の考え方に沿って書いている」と何度か書いた。)
なぜだか、今になって、ゲーム氏は「全ては〜」という表現にこだわり出しましたので、
今更ですが、ゲーム氏に確認せざるを得ません。
抄録氏が書いた「全ては物語り」というのは、ゲーム氏の考え方ではないのですか?
175 :
668:2012/02/20(月) 18:51:16.40 0
その他にも、もともと、ゲーム氏は《存在についての判断》を書いており、
例えば、前スレの>588では【「ある」のは意識現象だけ】と書いています。
これも、ゲーム氏の考えによれば、《全体に関する判断》になるでしょう。
あとは、「エネルギー、時空、意識が存在する」も。
これも、その三種類以外の存在様態がないとすれば、ゲーム氏の考えに従えば、《全体に関する判断》になります。
(だから、ゲーム氏が>171で【“すべては…”という主辞を受け入れた】などと書いているのが、私には意味不明です。
上の《存在についての判断》も、裏側からいえば、「全ては〜」と言っているのと同じことになると思われるので。
ついでに言えば、「物自体は存在しない」という判断も《全体に関する判断》でしょう。)
ところで、【全ては物語り】と【「ある」のは意識現象だけ】と【エネルギー、時空、意識が存在する】
という三つの判断は、そのままではすんなりと、つながりません。
できれば、それら三つの判断の関係を説明してほしいと思います。できれば、ですが。
>一メンバーでありながら、自らをも括る全体(すべて)に言及するとき、言述の
>正否は決定不能に陥る。これに類することを君は別の言い方で、よくしていた。w
>これを解消するには・・・
「正否」というのは、『正しい言表』か否か、という意味ではないのですか。
私は、ゲーム氏が【『正しい言表』であるかのように語るその口吻】云々・・・と書いたことに対して、
【『正しい言表』などとは思っていない】と書いて、
>>108で説明したばかりです。
だから、「正否」が決定不能に陥るのを「解消する」、という発想がそもそも違うので、
このあたりのゲーム氏の文章全体が的外れになっています。
ここもそうですが、ゲーム氏は、こちらが説明しても、その説明が目に入らなかったように、
前と同じような質問や反論をする癖(?)があるみたいですね・・・
176 :
668:2012/02/20(月) 18:52:43.86 0
>これを解消するには“すべて”の外に立たなければならない。
ゲーム氏は「全体の外に立つ必要がある」ということを繰り返し主張しているので、その点について。
「全ては創造的な働き」・・・ゲーム氏はこれれを「全体」であるとしているわけですが、
仮に、それが「全体」であるとして、その場合の“外”とは、どういうことでしょうか。
「《働き》の“外”」とは・・・?
私は前に、《働き》ということの意味を説明するために、カントの「思う」という《働き》を例に挙げて説明しました。
そしてデカルトはその「思う」という《働き》を《もの化》してしまった、と書きました。
《もの化》されたものの「“外”に立つ」ことはできるでしょう。
しかし、カントにおける「思う」のような《働き》には、“内”も“外”も、ありません。
つまりそれは、空間的に表象することのできないものなのです。
もしそれを空間的に表象してしまえば、それを既に《もの化》してしまっているのです。
だから、
ゲーム氏が書いた「“すべて”の外に立たなければならない。」という発想は、
空間的に表象できない《働き》を、空間的に表象してしまっているのだと思われます。
177 :
668:2012/02/20(月) 18:56:12.37 0
>>159 ゲーム氏の言う「エネルギー」には、どうやら、《生命》は宿っていないように思われますね。
私のように《生成》として見るのではなく、《変化》として見る、などの違いは、おそらく、そこから生じるのだろうと思います。
ゲーム氏の言う「エネルギー」は、生命と精神を排除することによってデカルトが開いた、
《死せる》「物質」という領域(前スレ>772、このスレ>49、あたりで書いた)の延長線上にあるように思われます。
「物質」の延長線上にゲーム氏の言う「エネルギー」があり、デカルトの「心」の延長線上にゲーム氏の言う「意識」があるとすれば、
前に私が書いたように、ゲーム氏の考え方は、デカルトの物心二元論の延長線上にあることになります。
ここでのゲーム氏の書き方も、私には、そのように見えます。
ゲーム氏は、“二項機制”ということを問題視しているように私には思われたので、
私はてっきり、ゲーム氏はデカルトの物心二元論に対して批判的であると思い込んでいましたが、
ひょっとすると、ゲーム氏はデカルトの物心二元論に対して、肯定的なのですか?
また、もしゲーム氏の言う「エネルギー」に「生命」が宿っていないとすると、
「生命(「生きている」ということ)」は、どこにあるのでしょうか?
(ゲーム氏の言う「物語り」「意識現象」「エネルギー」「時空」「意識」のうちの、どこかに、あるのか・・・)
178 :
668:2012/02/20(月) 19:00:16.56 0
>>171 >なぜなら“時空”には「働きも重さもない」 すなわちエネルギー(⇒物質)ではない何か
>だから、とその理由をあげた。
>>171-172あたりを、ゲーム氏が本気で書いているのか、ふざけているのか、分かりませんが…
ゲーム氏の【“働き”を可能にする何か】という表現からすると、
ゲーム氏が考えている「時間」は、多くの現代思想家たちに批判されてきた、【器】のような「時間」ではないのか…
それは例えばベルクソンが批判した「空間化された時間」あるいは「時計的時間」のようなものではないか…
よくわかりませんが、とにかく、ゲーム氏の批判は、私の考え方に対する批判には全然ならないと思います。
私は、そもそも、「存在」と「時間」とを分けて考えるのがよくないと思っているのです。
私の考えでは、「生成(働き・動き)」そのものが、同時に、「時間」です。
(次の書き込みは遅くなるかもしれません)
179 :
抄録:2012/02/20(月) 21:37:13.41 0
〜エネルギーとか〜
エネルギーなる概念を最初に言い出したのはライプニッツらしいですな。
ニュートン力学に於いてエネルギーは不可欠なものではないわけです。
しかしエネルギーを決めた方が計算は圧倒的に容易となる。
なんとなれば「エネルギーは保存するから」です。
とはいえ、エネルギーは観測によって得られる事態ではなく、
恐らく体系の中に保存する何ものかを見つけて、それをエネルギーとしているわけでしょうが。。
森羅万象の任意の事態に於いて、
事態の特性とエネルギーとの相関を与えることが(奇跡的に?w)可能となっているので
エネルギーが保存することからその特性の強度が計算できることになる。
特性とは運動量だったり温度だったり、光量、音量、周波数だったりするわけです。
エネルギーが保存することには深いわけがあるやもしれんですが、
とりあえずはツールとして意味しかない。
そしてエネルギーは保存される性質を持つ「のみ」なので「時間的ではない」。
ゲームさんの「何も生成しない」の意味は私にはちょっと分かりにくいがw
エネルギーは増殖することがない、ということならそうかもしれない。
「変様、変態、変成」が、それが生成も消滅も伴わないとする意味であるなら、
それは「変わらない何ものか」との相対状況となるので、エネルギーには
そのことを支える実体としての意味が付与される・・かしら。。。w
このことは恐らくもっと広い繋がりがあり、人の病と言い捨てるには惜しい気がする。
(《深層》かどうかは分かりませんがw)
180 :
抄録:2012/02/20(月) 21:41:08.95 0
空間はエネルギーをもつか
ニュートン力学に於ける(絶対)空間は、カントが言う形式としての空間を実在化させたようなものです。
ですので、この空間は物質の運動を可能とするための枠組としての性質しかなく
それ自体はエネルギーを持つものではない。
力学では物質と物質との間に働く「力(相互作用)」によって各物質は運動することにしているわけですが、
ある質点の運動を考える時に便宜上、空間の各点に「予定される力」を仮想することができて、
それが「場」なわけです。
しかしまだここまでは空間がエネルギーを持つ必要はない。
ところが20世紀になって力の伝播速度は有限だということになって、
空間は力を伝播する物理的実在性を持つ、つまり物質化することになる。
このときに場としての空間はエネルギーを持つことにしないと具合が悪い・・らしいw
それ以上は知らない。自分に残念・・・
素粒子物理なんかで言われる「真空のエネルギー」なんかは機械さんが詳しいかもしれない。
w
181 :
ゲーム:2012/02/20(月) 22:14:42.46 0
>>174 一つずつ述べるが、時間がなくなれぱ、次回に回します。
「すべては〜である」という君の言述を五つほどあげたけれども、
そのなかで君が「言った覚えがない」のはどれですか。
「あるがままにある」かな?
たしか、君のは「自然は、あるがままにある」だった。
「すべてはあるがままにある」との違いがあれば指摘していただきたい。
そう、抄録氏と遊んでいたところに、君が上から目線で横スレしてきたのが発端。
「すべては物語である」との謂いは、語り(言説)のすべては騙りであるという意。
君とちがって、いきなり“すべてのすべて”を私は無条件に措いたりはしない。
あのレスで、あのように述べた直接的な理由は、抄録氏が「客観的真理はある」と
明言していたから。抄録氏は“物自体”という表現こそ使わないが、真実在、存在の
“真”相“実”相(真実)はあるとする立場。「そのようなものはない」とする私から
みれば“真理(がある)”を前提にした言明は“偽”ですらなく、物語、露骨にいえば
戯言である(戯言でしかない)。w
「最終真理がある」とする(スレ主の)本旨は、実は君の「すべては働きである」とする
言明と同型である。あるいは同根である。機械氏のそれは「すべては、真理に貫かれて
いる」と意訳できるからである。
以下、例によって随所に曲解が目立つが、のちほど。
そもそも決定論の土台となっている物理法則は、それが成立しえない
状況を想定している。自己矛盾があることがあるが分からないと説明すら
拒否している。
183 :
ゲーム:2012/02/21(火) 08:41:57.93 0
>>180 「(時)空間=真空が“エネルギー”を胚胎している」のは私も聴いたことがある。
お聴きしたかったのはそこではなく、「時空間はエネルギー(の様態)か」である。
抄録氏は「エネルギーはツール」だという。これはエネルギーは“存在しない”が、
計算上の補助線として必要だという意味? 説明を請う。
「この世界」で科学的事例だけが「特殊な観念」であるとする科学的根拠は
全くありません。科学も歴史上における「観念の進化」の一過程に過ぎず、
宇宙の万象の『観測』も何ら「特別」ではありません。
『観測』は『器官』を持つ動物全部に生成する現象です。
「何を想うか何を意思するか」をきめる決定論は思想の歴史の過程の一部分であり、
なぜ観念論が歴史上存在したのかを説明することはできません。
自由および偶然は、人間の意識の中でのみ成り立つことで、科学の用語では
説明することができないことです。
硬直した科学決定論は自己を飲む蛇であり、乗り越えられない自縄自縛の自己矛盾です。
科学的真理が「有る」か「無い」かと問うてから問題をすすめる思考には限界があります。
頑張ってみた
185 :
ゲーム:2012/02/21(火) 11:15:29.68 0
>>175 「すべては物質である」というのがスレ主の結論であり、彼はそれを“真理”と
称している。それに対して私は「意識(⇒意味)は物質(⇔エネルギー)ではないし、
時空も物質ではない」と異を唱えているだけである。
「意識(という働き)は現前(意識への直接的な現われ)を“意味”として意識する」
というのが意識現象である。しかし、意識は何かについての意識であり、おそらく
クオリアが“外部”への直接的な通路なのだろう。
この“質感”をもとに、知覚し、思考(分析・判断)し、推論する。
「エネルギー、時空」は直接的な経験によるものではなく、それらは思考・推論と
(種々の伝聞情報の)理解の所産である。
またエネルギー、時空、意識が“すべて(全体)”といった覚えはない。
それらは私が「ある」だろうと推理する“すべて”であり、それらの他にも何かが
「存在する」可能性は残されている。
186 :
ゲーム:2012/02/21(火) 11:48:47.59 0
もう少し先でいうつもりだったが…
そもそも“すべて”“全体”“一切”などは概念でしかなく、そのようなものは
「ない」とみなしている。「“存在”が一個の全体として成立することはない」と
いいかえてもよい。
“全体(すべて)”が成立しているのなら、その真(実)相=真理も「ある」だろう。
その場合は「真理はない」のではなく、不可知なだけであり、いずれ「最終真理
に至る」と“最後の審判”を待ち続ける機械氏の姿勢も捨てたものではくなる。w
187 :
ゲーム:2012/02/21(火) 13:19:11.62 0
>>175 “すべて(全体)”という概念は虚妄だが、そういってしまっては議論にならないので、
君のワンパターン言明の“すべては…である”の主語を受け入れたうえで、述語の内容
を吟味し、判定したのである。いまでも君は「すべては働き(エネルギーの発現)である」
と考えているのだろうか。
「正否…」という言い方が適切ではなかったのは認める。「妥当/不当」とすべきだった。
君は、こう言明した。「すべては創造的な働きである」と。
むろん、君自身も“すべての一員”である。この文言が妥当か否かを決める方法は二つある。
一つは、君が全メンバーの意見を一人ずつ聴いて回り、多数決をとるやり方。
もう一つは、あらかじめ「妥当/不当の基準と規則」を決めておいて、それに則って決める。
ルールは、全メンバーの“外”に超越していなければならない。しかしメンバーだけでは、
その適用をめぐり侃々諤々となるのは必死であり、当事者(メンバー)とは別にルール適用者
として審判員や裁判官を置くのがふつうである。
ここには超越的なルールもなく、審判員もいないので、君の「すべては創造的な働きである」
「すべては同質である」が妥当かどうか、一人ずつ聴いてみるといい。
188 :
ねこ:2012/02/21(火) 17:24:58.86 0
流れた時間と流れつつある時間は別だと思う。過去・現在・未来を流れた
時間とみなすのなら、決定論は正しいと言えるが、時間は流動であり、その中
では自由意思はある、というのが常識のとるべき道だと思う。
エネルギーという概念を捨てられない限り、時間が何かなど
定義できるわけねぇ。
190 :
ねこ:2012/02/21(火) 18:04:03.03 0
時間の定義って?存在であり、物質の変化であると思うが、それ以外に
時間の定義ってあるのかなあ。まさか、時間は「無い」とでも?
科学的に解明されるまでの間、時間の定義は、権威の高い順に採用され、入れ替わっていきます。
192 :
ねこ:2012/02/21(火) 21:36:01.91 0
「時間の矢」と言われるように、生死の間で止まることなく、繰り返さず
ず、後から前へと時間の矢は飛びそして落ちる。決定論者は現在及び未来
を過去化して惰性へと導く。そこには、空と無があるのみで創造はない。
193 :
考える名無しさん:2012/02/21(火) 22:10:59.98 0
人生ってのは愛をはぐくむためにあるんだから。魂の世界は全てが愛という価値観なんだ。
つまり意識レベルの高い魂から低い魂まで、皆愛をはぐくみたいんだよ。
しかし魂だけでは愛をはぐくみたくてもはぐくめないんだよ。波長同通って法則がある。これは全ての世界で成り立つ法則だ。意識レベルの高い魂は温かく優しい思いの波長を出してる。
波長同通の法則に従うと、意識レベルの高い魂は周りに皆同じような思いの魂が集まるため居心地はいい、だが愛をはぐくみたくてもどうしたってはぐくめない。
逆に意識レベルの低い魂は周りには嫌なやつしかいない。だからとにかく愛をはぐくみたいのだ。魂の世界では異質の魂とめぐりあうことが出来ないためである。
魂ってのは再び地上に生まれ変わる際、愛をはぐくむためにはどうさたらいいか考える。そこで自分にとっては思いもしないような人生のシナリオを創る。しかしこの世に生まれた瞬間その記憶は消されリセットされる。
記憶しているとすれば本当の生きる目的、つまり理屈が全て分かる。なので理屈が分かるため辛いことがあっても情をはぐくめない。いいこと悪いことがあっても心の成長にはならない。そのために全てリセットされる。
そこで神の救いがある。「道しるべ」。本当に迷ってしまわないため必ず人生には道しるべがなされてる。それに気づくためには自分を愛して幸せになる人生を歩まなくてはならない。
今肉体を持った我々は意識レベルの高い魂から低い魂まで皆同じ次元でめぐりあえるのだ。
そこでこんな人間、あんな人間もいるんだと知るということができ自分を変えるというきっかけを作ることもできる。
やがて人生を終えると魂は再び帰還し、前世での課題をクリア出来たかどうかチェックする。どれだけ愛をはぐくめたか、いかに修正できたかチェックする。これの無限ループというのが輪廻転生。
>>183 時空間はエネルギーの様態か・・・
こりゃ難しい。
しばし待たれよw
エネルギーは計算上の補助線か・・・
いや、ちょっと違うように思う。
そう・・・マルクスの言う「貨幣」
人にとってのエネルギーは、ゲームさんの好きなw「貨幣」に似ている。
(※資本論をまともに読んだことはありませんが)
事態は商品と同じく変態していくのだが、その変態の交換基準が自然に存在しており
それをヒトが統一して理解するためにエネルギーが要請されている。
もちろんエネルギーは貨幣のように任意に量や価値を操作することはできないわけですが。
もっとも、エネルギーがツールであるってのはアカデミックな解釈ではなく
多分に我流の持論に過ぎませんがね。はは
だから力という観念のフィルターで見るから、その歪みが
理論自体を歪める。
哲学なら力とは何かを考えれば?
196 :
ゲーム:2012/02/22(水) 10:05:22.74 0
>>177 君の疑義に少しずつズラして答えている。しかし、外してはいないはずだ。
「二元論」「二項構制」は、先験的なヒトの“心的制度”である。それを対象化し、
否定することはできる。が、そうしたからといって、その“外”に超出できるわけ
ではない。
「自由へと呪われている」をもじっていえば、ヒトは「二項構制へと呪われている」
らしいのである。君のように「すべては…である」と言明したからといって、それを
解消、止揚、超克できるわけでもない。
それを踏まえたうえで“主観”に定位するか、あるいは“客観”に照準を合わせるか。
そのどちらかを選択し、超越“論”的に思惟し言述する、というのが伝統的な方法。
もっとも抄録氏や私のようにw二項をタユタフのも“弁証法”という大河小説に呑み
こまれないための一興(方途)ではある。
197 :
ゲーム:2012/02/22(水) 10:26:00.47 0
>>178 いや、そこはベタに(本気で)述べている。
「唯物論の否定」の契機は“時空の発見”によるからである。ww
「時空」には“質量”“熱”“力”…が「ない」というのが私の理解である。
君の言葉を借りれば、時空には“働き”がない、といってもいい。
これは“間違い”かもしれない。時空もまた“エネルギー”の様態でありうる。
それが論証されれば、唯物(エネルギー)論の妥当性は若干、高まる。
さて、時空だが…
198 :
ゲーム:2012/02/22(水) 11:30:53.19 0
>>178 「時空は“存在”の容器ではない」というのは過去に、私が機械氏に対して幾度も
繰り返してきた批判の一つである。君からそれをいわれるのは私の表現が雑だから
だろう。w
君のいうように、時空は容器ではない。
主観に定位すれば、それは直感→認識の“形式”である(そうだ)。
ここは唯物論スレなので客観に照準し、私は「存在の“形相”である」と述べた。
「形」も「相」も“かたち”という意に用いられる。
形相と質料(素材)。
“二元論”の呪いをかけられているヒトには、そのようにしか対象を把握できない。
が、この両項は不即不離である。引き剥がすことはできない。顔のかたちを顔から
剥がせば顔は崩壊する。コップのかたちを… “存在”のかたちも、然りである。
時空(形相)においてエネルギー(質料)は様態化され、事物として存在する。
形相が本質なのか、質料が実体なのか。唯物論は後者だが、この妥当性をめぐる勝負
は決着していない。
しかし、いいたいのはそこにはない。
199 :
うさぎ:2012/02/22(水) 12:43:07.05 0
脳は物質であり、確かに必然に左右される、という説は理解できる。
完璧な論理かもしれない。しかし、ある人(A)にとっては、世界の
中心が我であって、我の死後も世界(事物)が存続することはありえない
と思うことも理屈に合っている。自己の消滅とともに世界も消滅する。と
ゲームはNEET?
201 :
考える名無しさん:2012/02/22(水) 18:33:04.49 0
人間の知覚・感性は自己自身に属しており、他人とは共有できない。
人間における、死の最後の一歩は、唯物ではなく唯我だろう。
202 :
抄録:2012/02/22(水) 22:15:32.79 0
〜空間が先か物質が先か〜
今月号の『ニュートン』でヒッグス粒子の特集をしてましたので
機械さんもカラス君も怠慢なのでw
あたくしが図書館まで行ってちら読みしてきましたばい。
CERNなる素粒子研究所で大型加速器LHCが稼働しているのは
ニュースでも度々取り上げられて、我々素人でもちらちら情報は入ってくるわけですが
そこでの目玉目的の一つがヒッグス粒子を見つけることなわけです。
ゲームさんが物質よりもエネルギーを根元とする根拠は恐らくE=mc^2に依るのではなかろうか。
物質とは質量があるからこそ物質であり、質量があるならそれはエネルギーと等価であろうと。
実際、私もそう思っていた。しかし最近の主流はそれとはどうも違う。
素粒子は元来質量を持たず、空間はヒッグス粒子で埋め尽くされている。
その「ヒッグス粒子の海」の中を電子やらの素粒子が抵抗を受けながら移動している、
その現れが質量だ、というのが主流の『標準理論』とやらの内容・・・らしいw
つまり「空間の(形式としての)性質は物質であるヒッグス粒子によって規定されている」とする方が
考え方として自然だということになりますか、ね。
まあ素粒子物理なんていつでもひっくり返っちゃうようにも思いますがw
空間についてはそうかもしれぬが、時空の『時間』についてはどうなのか。
そこはニュートンを読んでも分かりませんw
それもいずれ素粒子によって規定されてしまうのかしら。。案外そうかもしれん。
203 :
抄録:2012/02/22(水) 22:23:04.66 0
204 :
あまの:2012/02/22(水) 22:47:52.93 0
グータンmeetsキャリーパムパム!!!
205 :
あまの:2012/02/22(水) 22:48:43.93 0
こんばんは、一服の清涼剤です。
206 :
あまの:2012/02/22(水) 23:06:28.53 0
今のところ、「力」とはヒッグス粒子と種々の素粒子の相互反応ということに
還元される、というところまで行ったわけだな。
しょせんさらに下の階層に還元されたというにすぎないということで良いのでは?
おお、あまの君
あなたの好きそうな話だろ
少し語りたまえw
208 :
あまの:2012/02/22(水) 23:10:19.51 0
唯物論的見地って、かつての青春ドラマのお約束「お前ら、夕日に向かってダッシュだ!!」
に通じる果敢なさを感じさせてくれる一服の清涼剤だな。
209 :
あまの:2012/02/22(水) 23:23:35.14 0
唯物論的では時間と空間(今や五次元方向に振動するらしい)を依然として
主観から独立して実在するという方便を諸事情により仕方なくとらざるを得んのだが
もうそれは、その事と引き換えに、必然的に科学は還元主義地獄の扉を次々に開かざるを
得ないと言う運命が待っているのだよ。
罪深い事よのお・・
別に地獄じゃねえよ
極楽だろw
211 :
あまの:2012/02/22(水) 23:32:07.06 0
寝る。
終わりかいw
寝ろ
213 :
あまの:2012/02/22(水) 23:34:27.60 0
いつまでたってもネタが尽きそうに無いと言うのは、まあ楽しいかもしれんな。寝る。
214 :
ゲーム:2012/02/23(木) 09:38:09.93 0
>>202 機械氏やカラス氏よりも怠け者なので、その特集も読もうと思いながらも…(苦笑)
素粒子には「質量がない」というのは薄々、しっていた。
たとえば「光」には質量がない(らしい)。しかし“エネルギー”は有している(そうだ)。
話題のヒッグス粒子もエネルギーを持っている、というよりもエネルギー“態”ではないのか。
その“ヒッグスの海”のなかを他の素粒子が「移動」し、そこから“質量”が生成されるwのなら、
「エネルギーは質量に先行する」証左ではなかろうか。
もう一つ“海”“移動”という表現(比喩)が用いられているように「空間」の存在が前提されている。
空間は、それ自体としては存在できず「時間」と同在する(時空としてある)。
つまり、エネルギーが“質量”を生みだす(本当は変化だと思うが)とき、時空はその出来事の“形相”
をなしていることがわかる。
主観(私)的には「時空/エネルギー」が“客観の二元(項)”の究極におもえる。
(たぶん間違っているだろうが。w)
215 :
ゲーム:2012/02/23(木) 09:57:38.71 0
>>200 そのような恵まれた立場ではありません。w
>>201 感覚も知覚も“意識”です。意識の帰属先もまた“意識”である。
“死の直前”も唯意識でしょう。
意識を意識するとき、記憶(意識)とあいまって“自我”意識を持つけれども、
それも消失し、自我なき意識が残り、それも消えうせ、二度と回復しないことを
“死”と呼んでいます。
ソクラテスのいう意味ではなく、私たちは毎日、そのレッスンを義務づけられている。w
>>170 > カラス君は、決定論が信仰であるゆえんをよく心得ている。w
「どんな論を信じるのも信仰」くらいの考えですが。
>>171 物質とエネルギーは違います。エネルギーは極論するなら単なる数値です。
>>179 まだエネルギーが保存されるとお考えのようですが熱力学第二法則と矛盾無く成立することを
説明できるようになりましたでしょうか。この話は確か186スレあたりでした。
オレが書いたこと理解できるようになりましたでしょうか。
エネルギーもエントロピーも定義次第なのです。
>>185 > 「すべては物質である」というのがスレ主の結論であり、彼はそれを“真理”と
> 称している。それに対して私は「意識(⇒意味)は物質(⇔エネルギー)ではないし、
> 時空も物質ではない」と異を唱えているだけである。
>>13にも書いたのですが比較できる程度に対案を出さないと検証もできないです。
>>202 > 〜空間が先か物質が先か〜
唯物論なら当然空間も物質なはずですが。
217 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2012/02/23(木) 11:44:46.60 0
>>216 その「熱力学の第二法則」とは何か、説明して下さい。
では転載しよう。
318 名前:抄録 ◆xOLbFG9QNU [sage] 投稿日:2011/09/03(土) 15:44:44.92 0
>熱は高いところから低いところに流れる(第二法則)からするとこの差はすぐに無くなります。
確かに高いところから低いところに流れるだろうが、それで「この差」は無くなるのか?
貴方がそれでなにごとかを納得しているのだろうな、という気持ちは伝わるが。
219 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2012/02/23(木) 12:01:51.12 0
>>218 誰も転載など要求していない。
「この差」とは何ですか。
貴方と違って私は連投が8回までなので無駄にレスをさせないでください。
まだかね
もう出かけますよ
例題
水の入った容器Aと容器Bがあって、容器Aの水位は容器Bの水位よりも高い。
容器Aと容器Bを管で繋いで水位を同じにした。
このとき容器を繋ぐ前と後とでは、全体の水量は同じですか、変化しますか。
これ考えておいてください。
>>219 > 貴方と違って私は連投が8回までなので無駄にレスをさせないでください。
そんな制限があるとは知らずレスしていました。(オレは何回制限だろう?わからん)
そういう方は少しのレスで伝わるように書かないと余計にレス数が増えてしまって大変ですね。
「この差」とは温度の差のことだったですね。熱量がエネルギーならば温度の差もエネルギーと
なり得るということはわかりましたでしょうか。
>>220 同じ、でいいのでしょう?何を意味するのかにもよりますが蒸発とか想定しないですよね。
>>221 温度の差は「温度差」です。
温度の差がどんなエネルギーになるのですか?
「分かりません」ので教えて下さい。
>>220 その水量は内部エネルギー(この場合は熱エネルギー)のアナロジーです
全体の熱エネルギーは同じ、つまり保存されるのです。
「仕事」が外部からなされる場合は、その仕事量分のエネルギーの増減がある。
表意言語で表意単語を並べ、表意論理で固めても
それは建前の薄っぺらの外見を緻密に観測した話にすぎない。
討論や議論という手法は表面上の論理の秩序を扱うものである、
学校でそれしか教えてもらわなかった奴には漏れの言葉は
糞にしか見えないんだろうけど、見えているものだけを見て
それが本質、真理だと思うのは信仰にすぎない。
見えないものを見る能力は、見える力が強いほど得られない。
合理化の流れを極めても合理的な答えしかでるわけがない。それこそ真理である。
>>222 > 温度の差がどんなエネルギーになるのですか?
例えば電力。冷却水と蒸気の差で圧力差が発生しタービンを回す、などなど。
これも転載しておきます。
340 名前:飛べないカラス[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 12:29:02.49 0
> 等しくない。エネルギー(=熱量Q)が移動しただけで、全体として減少していない。
熱量の総和がエネルギーだと定義しているのでしょうか。エネルギーは定義次第なのでそれでもいい
のですが、ここでは熱の差が問題になっているのでしょう。熱の差からエネルギーが得られエネルギー
から熱の差が作れるという了解の上の話ですね。差がエネルギーのもとと考えることもできるのです。
熱の移動によってエネルギーが失われることにするか、エネルギーは保存されエントロピーが増加する
ことにするかの違いです。
ちなみにこのような容易に失われるエネルギーは熱に限ったものでは無いです。
高いところにある水をそのまま下に落とすか水力発電するかで得られるエネルギーは違います。
位置エネルギーも失われやすいエネルギーなのです。しかし位置エネルギーが失われるとエントロピーが
増加するという人はあまりいないようです。
>.224
発電に於いて熱エネルギーは蒸気の運動エネルギーに「形態を変化させる」
蒸気の運動エネルギーはタービンの機械的エネルギーに形態を変化させる。
タービンの機械的エネルギーは発電機に於いて電気エネルギーに形態を変化させる。
しかしそれらの間の交換比率が決まっており『エネルギーの総量は変わらない。』
それがエネルギー保存則です。
エネルギーは定義した中で値が決まるわけで全体として保存なんてされないしされる必要も無い。
>>226 位置エネルギーが運動エネルギーに変化するときの交換比率は決まっている。
そうでなければ電力の計算などできない。
「エネルギー保存則が必要無い」ということは物理法則など無いと言うに等しい。
50度の水を10度と90度の水に分けると温度の総和は等しいが差は増加する。
分けるにはエネルギーが要るし分かれた水から戻すときにエネルギーを取り出せる。
今、やっとわかりましたかな。
>>228 50℃の水を10℃と90℃の水に分ける方法を教えろ、とは言いませんが
外部からのエネルギーが要る、ということは、『外部のエネルギーが減少している』ということ。
系の全体のエネルギーは変化しない。
それが「エネルギーの保存則」
>>229 そう仰ると思っておりました。差にエネルギーがあることはわかりましたね。
では、10度と90度の水をただ混ぜたら保存されているはずのエネルギーはどこに
いってしまうのでしょう。
そういえば抄録さん冷蔵庫作っているんじゃヒートポンプのほうがよかったかな。
>>230 どこにも行かない。
一方でもし、熱エネルギーの移動に伴って仕事を取り出すなら、
熱源の熱エネルギーは減少し、全体の温度はただ混ぜるだけのときよりも低くなる。
熱エネルギーと、取り出される仕事(運動エネルギーなど)の総和は変化しない。
それが「エネルギーの保存則」
>>232 仕事も物体を振動させるだけのような役に立たないことに使うとエネルギーが消えているようなもの。
熱は少ししか出ない。もし大量のエネルギー資源をそんなことに使ったら無駄ですね。
ヒートポンプで電力を使って10度と90度の水に分けてそれをただ混ぜるのも無駄。それでもその電力分が
どこかに保存されているのでしょうか。
234 :
考える名無しさん:2012/02/23(木) 19:16:34.69 0
235 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2012/02/23(木) 20:44:20.53 0
>>233 振動している機械の運動エネルギーは、一部は摺動部あるいは転動部の摩擦熱(熱エネルギー)となり
熱伝導さらに赤外線となって放散される。
残りは音波(空気あるいは基礎土台の振動エネルギー=分子の運動エネルギー)となるだろう。
これも最終的には熱エネルギーとなって放散される。
現象的な特性(すなわち便宜的な呼称としての「○○エネルギー」の○○)は変化するが、
『エネルギーは消えていない。』 それが「エネルギーの保存則」。
50℃の水を10℃の水と90℃の水に分けるのに使われた電力は
90℃の水の熱エネルギーとなる。
方法としては、50℃の水を半分づつ二つに分け、一方を冷蔵庫に入れ、
一方を放熱部に置いて吸熱させるぐらいが妥当か。
機械効率100%で冷媒に作用できるとして理想的な断熱状態で作業すれば、
冷蔵庫の水が10℃になったら放熱部の水は90℃を越える。
分けたものをただ混ぜれば、温度は50℃より高くなる。
(※しかし現実的にはそうならずに機械から外部に熱エネルギーが放出する。)
電力による仕事は熱エネルギーに変わる。エネルギーは消えない。
236 :
洋楽ばびろん:2012/02/23(木) 20:56:59.55 0
ぜったい 0度っ!
それ びんぼーゆすり だとおもう
えっ そーなの?
うん
出てけ洋楽
238 :
洋楽ばびろん:2012/02/23(木) 21:09:21.76 0
・・・ なんかの 役に立つ?
ぜろ振動
人類はいったい 何をさせられてたの?
(笑)
そのあとは互いに六尺姿で威嚇、腕組みヤニ咥えガン飛ばし、
大股で筋肉と勃起誇張して、野郎比べだ。
雄臭ぇポーズで挑発しあう。腰突き出し勃起を振り回し、
オラオラ節で興奮に火が付く。
やわらオイルをタップリ仕込んで、いよいよズリ戦開始だ。
胴ズリ、逆ズリ、雁ズリ、玉ズリ、上ズリ、下ズリ。
野郎うなぎ責め、腰砕けの手マンコ、野郎泣かせの亀頭責め。
片手技と両手技の競り合いで、雄の粋と艶を比べ合う。
ズリ見せ根性丸出しでな。
一息入れる時にゃ、ハゲの胸板めがけて、勃起ションベン。
ビシバシ痛ぇくらいに、照射すりゃ、雄の征服感が全身を
快感となって駆け回る。
さらにオイルを仕込んで2R。
今度は俺のズリビデオ見せながらのダブルズリ攻撃さ。
ラッシュ飛ばして、ド淫乱野郎に変獣し、チンポ・センズリ・押忍の連呼。
俺達はまさに、チンポ、ズリ、男意気を激しく比べ合う戦闘士だ。
寸止めのエロい表情も相手を落とす神技、何度も食らう度に金玉の
引きつる痛みさえ新たな快感に変わる。
その時、ほんの少しの気の緩みでハゲは快感のコントロールを失い
射精の痙攣に突入。
2回に渡るファイトはいずれも俺の勝利、最後はハゲのチンポめがけて、
野郎征服の快感に酔いながら勝利の照射!
3時間勝負は俺達ズリ舎弟の絆を更に固めたぜ!
240 :
ゲーム:2012/02/24(金) 10:58:23.89 0
>>216(カラス君)
「信仰は物質ですか」 それは“意識”の様相の一つである。w
まず、君の“物質”の定義wを教えてくれ。
私のそれは質量と体積を持っているという、ごくありふれたもの。
もう一つは「絶えず変化している」いいかえれば“常態”のない存在、それが物質である。
細かい点については、いずれ述べる。ところで、よく君は「定義しだい」と嘯く。
“定義”を定義するとw限定された“意味”ということらしい。
「定義しだい」とは、事象は実体を持たないので、どう定義するかによって「その“様相”
が決まる」くらいの意だろう。
そこで、質問する。「ある」「ない」も定義しだいですか?
エネルギーは定義しだいでは「ない」といえるの?
もし、いえるのなら定義によって「エネルギーが存在しない」ことを示していただきたい。
241 :
考える名無しさん:2012/02/24(金) 13:29:34.65 0
カラスは唯意味論者。
242 :
うさぎ:2012/02/24(金) 18:09:39.72 0
唯物論者は外界を客観的に論ずる。自我もまた同じく客観視してしまう。
科学は外界及び自己を物質として扱う。科学は測定であり量であり、質では
ないのだ。そこではあらゆるものが量として扱われる。しかし、常識は科学
に味方するであろう。ところがである、常識はなんと自由意思が当然と思って
いる。自由意思とは唯心論のことだなあ。矛盾するではないか?
科学も元を辿れば、主観的(人間的)なところがあると思うけど、
例えば摂氏0℃のマイナス方向は273℃までだけど、
プラス方向では太陽の表面温度は6000万℃もある。
この0℃の取り扱いのアンバランスさは人故のモノサシ。
244 :
洋楽:2012/02/24(金) 21:40:09.26 0
だから 核もってんじゃん (笑)
245 :
洋楽せんせい:2012/02/24(金) 21:44:26.01 0
ちょっと 職員室にきなさい ってかんじ ・・・・
>>243 ℃(摂氏)とは一気圧での水の氷点と沸点を100で度数にしただけだろ。
水が物質の三体のいずれでも存在できない太陽付近を例にすること自体がアンバランスだ。
そもそも太陽表面温度は6000万℃ではない、一般に6千℃に近い値とされているが
桁が4桁違う。お前のものさしは狭すぎる。
>>240 実証と証明の区別ができないカラス君に定義によって意味が変わる
類を突き詰めるのは酷ですよ。
中二病患者隔離スレ
249 :
考える名無しさん:2012/02/25(土) 05:14:31.42 0
機械は臆病者
250 :
考える名無しさん:2012/02/25(土) 05:15:01.39 0
口だけで勝ち馬に乗りたいだけのクズ
251 :
考える名無しさん:2012/02/25(土) 06:39:29.00 0
8レス規制うざいな。考えた奴を呪う。理由が何であっても。呪って流す。
おれの処遇は棚上げで。
252 :
243:2012/02/25(土) 08:58:43.95 0
>>246 >℃(摂氏)とは一気圧での水の氷点と沸点を100で度数にしただけだろ。
結果、マイナス方向は273℃までだけどプラス方向では太陽表面温度は
6000℃でアンバランスっていうこと。
水を基準にしてるのが人間的。なぜなら水の存在など地球くらいだ。
しかしなぜなら、ヒトの為の学だから一般的な水基準が一番適当なのだろう。
単位は皆そんな感じで作られてるヒトスケールだ。
訂正ありがと。
253 :
考える名無しさん:2012/02/25(土) 11:11:27.71 0
r=== n
`TY´ !
{ 丿
j /
/.::.::.::.::.::.`ヽ、 / ノ
/.::;'.::.::.::.::.::.::..::i:.:〉/ /
.i:::;':.::.::.::.::.::.:::i::.:ト'/ /
レiイ:.:.::.::.::.::.::lリ:::j/ /
l:::.:::.:::.:::;:;ル:ノ /
トNlVル' / おすし げっと
イ^ 〈
. ! 、 ' ヽ ですし ! !
i ヽ ヽ ! 丿 ノノ
! ! 广´
ソ ソ /
. / / {
'´ ,ル' -─−:−:-l
r─‐'´ / {.: : : : : : : : ;ハ l
´ ̄`ゾ ヽ、: : : : :/ |
! ` ーイ l
あんたチンコぐじゅぐじゅね〜
255 :
考える名無しさん:2012/02/25(土) 17:16:33.66 0
256 :
洋楽/ぶらっくまんば:2012/02/25(土) 17:37:31.06 0
ん? 光よりはやいもの ・・・・・
光ってないものに きまってんじゃん(笑)
だーくまたーちゃん ってゆーの
よろしくねー ぴゅー ・・・・・ \(^o^)/
257 :
洋楽/ぶらっくまんば:2012/02/25(土) 17:48:02.62 0
ねー 哲学なんでしょお?
なんで 光るのか考えてみればわかるじゃん ・・・・
【 うさぎ と かめ 】
いま 写真判定で 揉めてるの ・・・・ (笑)
258 :
洋楽/ぶらっくまんば:2012/02/25(土) 18:20:43.22 0
光は つねに 後からやってくることになってて はじめて
逆算上 膨脹しながら
宇宙の存在が 保ててるって わけです
びっぐばん の 仕組み ・・・・ わかりましたか?
259 :
洋楽/T-X:2012/02/25(土) 21:04:59.65 0
宇宙の年齢とか計算していいわけ ないじゃん ふつー(笑)
なに 企んでんだよ ってはなし ・・・・
狂った↑
261 :
洋楽/T-X:2012/02/26(日) 02:14:11.95 0
ようは これも ベクトルでしょお ・・・・・
しかも 太陽系のるーる で
宇宙つくったって 無理があるってば(笑)
だからぁ いっかい ちゃんと 整理しましょお
って はなし
決定論スレ規則
第一条、唯物論・観念論・宗教等に対する感情的な誹謗中傷を禁止する。
第二条、固定ハンドル叩きを禁止する。
第三条、論理的でない感情的批判、自作自演呼ばわり、病人呼ばわり、罵倒することを禁止する
第四条、無意味な荒らしカキコ、捨てぜりふ、感情的な書きなぐり、AAは禁止する。
第五条、厳密な争点で常識を持ち出すことを禁止する。
第六条、日本国内の法律に違反することをしてはならない。
第七条、長期に渡って論争を行なう場合は、固定ハンドル推奨。
第八条、故意にスレッドの趣旨と無関係のレスを投稿し、スレの運営・成長を妨害してはならない。
263 :
668:2012/02/26(日) 14:52:39.90 0
私はこの前、【ゲーム氏はデカルトの物心二元論に対して、肯定的なのですか?】と質問しました。
私がこの質問をした理由は、ゲーム氏の批判の「でどころ」が分からないから、つまり、批判が出てくる思想的背景が分からないからです。
ゲーム氏は、「あるのは意識現象だけ」という立場から批判しているように思われる時もあれば、
物心二元論のような立場から批判しているように思われる時もあった。
上の質問は、批判者としてのゲーム氏の立ち位置をはっきりさせるための質問でした。
しかしやはりゲーム氏は、この質問に対しても明確には答えなかった。
また、ゲーム氏は、【「ある」のは意識現象だけ】や、【エネルギー、時空、意識が存在する】というゲーム氏の判断についても、
それが自分の立場の表明であることを、認めようとしませんでした。
そして、ゲーム氏はこう書いています。
>それを踏まえたうえで“主観”に定位するか、あるいは“客観”に照準を合わせるか。
>そのどちらかを選択し、超越“論”的に思惟し言述する、というのが伝統的な方法。
>もっとも抄録氏や私のようにw二項をタユタフのも“弁証法”という大河小説に呑み
>こまれないための一興(方途)ではある。
“主観”と“客観”との【二項をタユタフ】、そして、ある時は、「あるのは意識現象だけ」という立場から相手を批判し、
またある時は物心二元論的立場から批判する・・・とすれば、私が感じていたことは、当たっていたわけです。
しかし、批判がまともな批判であるためには、批判そのものも、その人の思想(立脚点)の表明でなければならない、と私は思っています。
批判者の立脚点がぶれてしまっているならば、それは、批判として破綻していると思います。
264 :
668:2012/02/26(日) 14:56:06.25 0
それから、もう一つ。
ゲーム氏は、《自分の立場を明確にし、それを明確に述べる》ということが、
《真理》とか《物自体》とか《正しい言表》とかに結びついてしまう、と思い込んでいるようです。
しかしこれは明らかに誤解であり、自分の立場として明確に述べようが、あるいは曖昧に述べようが、
「解釈」は「解釈」、「仮説」は「仮説」、なのです。
このゲーム氏の勘違いについては>108でも書きましたが、ゲーム氏のその他の書き込みの中にも、
例えば、前スレ>891
【真“相”や真“実在”を否定しているので、どしても曖昧になる。】
にも、このゲーム氏の勘違いが現れています。
そして、この勘違いは、ゲーム氏が自分の立場を明確にしないことと、おそらく無意識裏に、つながっていると思います。
そのことを、上の>891の書き込みが示唆しています。
とはいえ…
今までのゲーム氏の反論に対して、私は一応ちゃんと答えたと思います。
(立ち位置をずらすゲーム氏を、「ずるい」とは思いつつも…)
265 :
668:2012/02/26(日) 15:00:22.44 0
今までのゲーム氏の反論で主なものの、一つは
「世界」を「見る」ということは、「世界」の《外》に立つことである、という考え方による反論。
>>101 >現に君は「すべては働きである…」とのべたあと、世界は(そのどの部分も)同質である、
>と「みている」という。いつのまにか“働き(すべて)”が、世界とそれをみている“主観”
>に分岐していることがわかる。
これに対して私は
>>112で、それは「主-客」図式に当てはめているだけであって批判にはならない、と答えました。
「見る」ということが、ただちに「主観」につながるとゲーム氏が思うのならば、
それは、ゲーム氏が最初から「主-客」図式を前提していることを示しているだけなのです。
つまり、「世界を見る」ということを、はじめから、「世界の《外》に立つ《主観》として、世界を《客観》視すること」として捉えているわけです。
「全体」を見るためには「全体」の《外》に立たなければならないというゲーム氏の考え方も、同じ見方(主-客図式)を前提しています。
(この反論に対しては、
>>176で、私は別の観点から答えました。)
266 :
668:2012/02/26(日) 15:02:28.04 0
それに対して、私の「見方」が、そのような「見方」ではないことを、これまでの書き込みの中でもたびたび書きました。
例えば、抄録氏へのレスで、「世界」が「世界A」と「世界B」に分裂することについて図式的な説明をした際に、
私は、図式化は危険なのでできるだけしたくない、という私の考えを述べました。
もし、「世界」が「世界A」と「世界B」に分裂する図をノートに描くとすれば、まさに私は「世界」の《外》に立ってしまうことになるからです。
(頭の中で思い描く場合でも同じです。)
その時「世界」は、「主観」に対する「客観」となってしまいます。
それから、前に私は、「見る」ということを、「認識」としてではなく、「行為」として捉えている、と書いたことがありますが、
それはつまり、私は「世界」を(傍観者的に)《外》から「見て」いるのではなく、
現にその「世界」を「生きて」いるのだ、というような意味です。(⇒「世界-内-存在」)
「時間」についても、同じことが言えると思います。
「時間」を、例えば直線として思い描いたり、曲線として思い描いたりする場合はもちろんですが、
何らかの形で「時間」を思い描き、表象(対象化)してしまえば、「時間」は、「主観」に対する「客観」となってしまいます。
そして自分は「時間」の《外》に立ってしまうことになります。
それに対して、私は、現に私が「生きて」いる《世界の流れ》(=生成)そのものが「時間」である、と考えています。
267 :
668:2012/02/26(日) 15:04:45.35 0
ゲーム氏の、もう一つの反論の仕方は、デカルト物心二元論的(物理学的)言葉づかいをしている反論です。
>>159 >しかしエネルギーと並んで、もう一つ時空が「ある」。
>独断すれば、時空はエネルギーも質量も有していない。
ゲーム氏がデカルト的(物理学的)立場に立って批判をしようとしているのかどうか、疑問に思われたので
私は【ゲーム氏はデカルトの物心二元論に対して、肯定的なのですか?】という質問をしたわけですが、
いずれにせよ、物理学的立場の見解をそのまま私への反論とするのは、見当違いです。
なぜなら、私は、デカルト的物心二元論とその延長線上にある物理学的な考え方を批判する視点から、「創造的な働き」について書いたのだから。
「創造的な働き」についての私の基本的な考え方は、>49で書きましたが、もう少し詳しく説明します。
>49で私は【いったん、「物」と「心」とが分かれる以前のところへ戻って考え直してみる必要がある】と書きました。
「物」と「心」とが分かれる以前、つまりデカルトによって(死せる)「物質」という領域が生み出される以前は、
存在するものは「生きて」いる、という考え方が一般的でした。
その代表的なものが古代ギリシャの「ピュシス(自然)」です。
自然科学的なものの見方に慣れている現代人にとっては、「ものが生きている」という考え方は、オカルト的に思われるかも知れないのですが、
しかし、そう即断することはできないでしょう。
なぜなら、自然科学的な、「物質」という領域が生まれた背景にも、宗教(キリスト教)的な世界観があるからです。
268 :
668:2012/02/26(日) 15:06:48.94 0
キリスト教においては、生命と精神は、超越的な神に由来します。
「神の国(天国)」と「地の国(この世)」は完全に断絶しており、
「この世」のものが「生きて」いるのは、その断絶を超えて注がれる神の恩寵による、とキリスト教では考えられています。
つまり、キリスト教の考え方では、「生命」は、この世には「内在」していません。
近代自然科学は、そのようなキリスト教的世界観の中から生まれました。
この世の生命の由来である「神の恩寵」をカッコに入れた時に見られたのが、生命を内在していない(死せる)「物質」という領域だったわけです。
当時の科学者たちは、宗教的な読み込みを排除して、先入観なしにものを見ようとしたのだけれども、
宗教的な読み込みを排除することが、「生命」を排除することになってしまったわけです。
それは、キリスト教においては、「生命」は神に属するものだったからです。
コペルニクス、ケプラー、ガリレイ、デカルト、ニュートン・・・彼らは皆、キリスト教徒でした。
これに対してギリシャ的な世界観には、「神の国」と「地の国」のような断絶はなく、
ピュシス(自然)は生きた統一体であり、そこにおいては、存在する限りの全てのものは「生きて」いる。つまり、生命を、内に備えています。
その考え方は、キリスト教的世界観、つまり《超越》神を立てる見方とは対照的に、「存在」そのものに「生命」が《内在》していると考える。
キリスト教の《超越》神よりも、そのようなギリシャ的《内在》の立場に、私は親近性を感じます。
私がそう感じるのは、おそらく、東洋的「自然」といわれるものが、
キリスト教的な考え方よりも、はるかに、ギリシャ的「ピュシス(自然)」に近いから、ということもあるでしょう。
「存在(生成)」を「創造的な働き」として見る私の見方は、そのような、《内在》の立場に立つものです。
269 :
668:2012/02/26(日) 15:09:19.52 0
以上の説明で、私の言う「創造的な働き」を、(無生命的な)「エネルギー」に置き換えてしまうゲーム氏の反論が、
見当違いな反論であることは、理解してもらえると思います。
それから、私が
>>150を書き、ビデオに録画された「日常」を高速早送りすればすべてが「ドロドロと動き出す(「生成」)」と書いた時、
ゲーム氏も抄録氏も、そこにあるのは「生成」でも「創造的な働き」でもなく、単なる「変化」だろう・・・というような感想を書きました。
そこに、我々のそれぞれが、「存在」をどのように捉えているのか、がよく現れていると思います。
私の見方が《内在》という見方であるのに対して、ゲーム氏や抄録氏の、自然科学的な見方は、間接的に、キリスト教的な《超越》の見方と関係があるでしょう。
キリスト教的な世界観においては、「生命」も、「創造」も、超越的な神に属するのであるから、
ビデオに録画された「日常」を高速早送りしても、そこには「創造的な働き」はなく、あるのは「変化」だけ・・・と考えるのは当然です。
ところで、今回の説明をしなくても、私は何度も、《死せる》「物質」という書き方をしており、
それと「創造的な働き」を対照させて書いたし、また、>49を見るだけでも、「創造的な働き」という私の考え方の中心(核心)には、
【《創造》-《生命》】があることは、わかると思います。
しかし、私への反論の中で、ゲーム氏は、《生命》ということには全く触れていないように思いました。
相手の考え方の核心部分を避けている反論は、そのことだけを見ても、良い反論にはなり難いでしょう。
私がこの前した質問『ゲーム氏の考え方において「生命」はどこにあるのか?』という質問(
>>177)に対しても、ゲーム氏の答えはなかったと思います。
デカルトの《物》《心》二元論の延長線上において、「死せる」《エネルギー》と、《意識》との間を「タユタフ」としても、
そこからは、【生命】も【創造】も、出てこないのではないのか・・・
(もちろん、自然科学においても、後に、「生物学」というものができたわけですが、
《死せる》「物質」を扱う物理学を基礎とした「生物学」には、いろんな点で「無理」がある、と私は思います。)
ではまた。(返事をいただいてもしばらくレスできない可能性があります。)
熱いものの上でゆらゆら揺れるかつお節は生きてるんですかね
教えてエロイ人
271 :
抄録:2012/02/28(火) 23:38:19.38 0
生命とはなんぞ
ゲームさんは668さんの相手をするのに飽きたようなのでwあたくしが勝手にくっちゃべります。
「生命」の前に、「生物」の定義は一応あって、
・栄養代謝・運動・生長・増殖などのいわゆる生活現象を表す“もの”。
というのが「生物」の一般的な定義です。
しかしこれは具体的な存在者をヒトが「生物」として認めることが前提としてあり、
定義はその後追いにすぎないようにも思えます。
一方「生命」とは、その具体的な生物に見られる現象から抽象される一般概念
それを「生命」とするようです。
生命のイデアがあるのかどうか、それは分からない。
我々は地球の生物しか知らないので、生命が果たして普遍的な事態であるのか
見当がつかないからです。
しかし、生物から離れて生命の本質など考えようがない。
「火山は生きてる」とか「すべてのものに生命が宿っている」とか文藝なら許されるだろうが、
それによって生物の不可思議を説明できるわけでは全然ない。
生物は実際にいるのであり、それは石でも水でも空気でもない何ものか、なわけです。
明日につづく。
>>271 命あるものだろwwwww、つまり死ぬってこと。
死なない生物には命などない。
目の前にそのままあるのに、その存在を掴めないのは、既存の概念でそれを掴もうとするからだと思う。
命あるものとないものを比べて見れば明らかな違いがあることを誰でも少し集中すれば分かる。
命は身振りでも記憶でもなく、命なんだと思うなぁ。
自分とまったく同じ身振りをする機械が存在するとして、身内はそれを不気味、と形容すると思う。
命ないものがそれを上手く模倣しても目の肥えた観客である一般人にはすぐバレる。
>>272 だからなんじゃい、その「命」とはw
ヒトは何十年も生き続けて、いつまでも生きていられそうなのに、結局死ぬって
どんな必然なのだろうね。不思議よね
276 :
抄録:2012/02/29(水) 23:47:35.44 0
生物は機械なのか創造か〜いや「もの」です。
量子力学を建設したシュレディンガーはその著書の『生命とはなにか』に於いて
「生物は既知の物理法則とは別の物理法則を含み、生物は負のエントロピーを食べている」と口走りw
最近流行った「動的平行」に似たようなことも書いています。
シュレディンガーによってこれが書かれたのはDNAが発見される10年ほど前です。
しかし70年経った現在でも生命の本質に関してシュレディンガーを古くさいと
言い捨てることができるような状況にはなってませんw
生物の生物性とは何なのか、それを記述する物理は未だ無いわけです。
生物はある種の秩序であることは間違いないわけですが、しかしその秩序は固体結晶の秩序とはどうも違う。
しかし全く違うとも言えない。恐らく繋がっている。
所詮は「もの」なんです。生気とか創造的行為なんちゅう、神もどきが介入する
余地など殲滅せねばならない。
「もの」は死んでなどいないし、生きているわけでもない。「もの」とは不滅の普遍性であります。
不滅の物質から刹那的な生物が成立するとはいかなる事態なのか。〜つづくかも
>>275 観客は皆目が肥えてますよ。皆そう。
だって、日常的に生命を無意識的に観察してますから
>>274 社会の全員がクローン人間で、その1人に個人という意識が持てないならば
1人が死んでも社会には死んだという価値観は生まれない。
観測者の立場から生まれる意味にすぎない。
存在の機能が意味を持つときに初めて命の評価がなされる。
人間がとある知らない銀河の中に1人だけいたとして、評価をする観測者が
誰もいなければ命にはならない。
生きることは活きることで意味を活かすことでもある。
物に魂が宿ると表現されたとき、その物には観測者からの評価として意味が
そこに宿っている。意味が失われたときに死(止)となる。
意味を評価する誰とは自身であり他者でもある。それを秩序と呼ぶのも
意味を見つけなければ秩序とは評価しえない。
>>277 無意識的に観察して分かるぐらいなら
擬態なんかに引っかかったりはせんだろ。
サンゴとか見ただけで動物だとすぐ分かるかね。
>>278 観察者がいなけりゃ「意味」は無くて、命も秩序も無いのかね。
「意味」は観察者が創造したものだとでも思うのかね。
何にも無いところから観察者が生まれたのかね。
何にも無いところすら観測者がそう名付けたにすぎない。
ほぅ
その観測者とは誰だ。
貴方か?俺か?
なんとなくか
仮に観測者が俺だとするわ
でな、俺は100年前から存在してるわけじゃあない
その俺が名付ける100年前とは何だ?
「俺が100年前に存在していない」という言い立ては無効か?
>>281 物理学での観測者だろ。たぶん。
機械でも人でも観測できる能力があれば観測者となる。
>>283 その100年前はたぶん、記録であって100年前の情報が飛んでくるわけじゃない。
>>279 >擬態なんかに引っかかったりはせんだろ。
うーん。身振りでもなければ外見でもないとおもうけどねぇ。
他の命ある生物と見間違うことについてですよね。言ってることは。
ちなみに、擬態が植物だったら植物にも生命はあるよ。鉱物にはないけど。
>>284 貴方が名付ける100年前は「記録」か?
「100年前という過去があった」ということは貴方には理解できない、ということか?
ちがうだろ。「記録とは過去の記録である」と理解しているのではないのか。
>>285 貴方は「無意識に観察しているから目の肥えた観客には生命が分かる」と言っている人だろう?
その「状況」を俺に分かるように具体的に説明してくれ。
そうだな
蛸が岩や砂に擬態するだろ?それについてとかな。
あとよ、きれいな死体は生きているように見えるぜ。あと精巧な蝋人形とかな。
>>288 >きれいな死体は生きているように見えるぜ。あと精巧な蝋人形とかな。
そうですね。確かに生きていると「間違える」ことはあるかもしれないですね。
でも少ししたら違和感を感じるようになると思いますよ。その原因の大きな一つは生命がないから、だと。
「状況」を分かりやすく説明すると、
電子楽器の演奏と古典的な楽器の演奏の違いや、プログラムされた即興演奏や人の即興演奏の違いとかで類比できるかな?
生命の観察は悟性でも掴めるのだろうけど、どちらかというと芸術的感性を使うほうが掴みやすいと思われ。
だから「観客」って言ってます。
>>286 >「100年前という過去があった」ということは貴方には理解できない、ということか?
必ずしも100年前の歴史と事実が一致するとは限らない。
100年ではわかりにくいので100万年ではどうかな解釈によってはどうにでもなる曖昧な
ものを完全な記録へ合理化される、当時の状況を知らずに現状の常識をもって当時の状況を
計る。傲慢じゃね?
つまり貴方にとっての理解とは、そういうぬけを無視する理解ということでしょう。
291 :
抄録:2012/03/02(金) 18:50:51.15 P
>>290 >必ずしも100年前の歴史と事実が一致するとは限らない。
そう書いてしまう以上、貴方は既に「事実」というものを理解して思考しているのですよ。
その理解を前提に、「事実」と「歴史」との相違を問題にしようとしている。
貴方によって思考される世界構造に於いて、100年前というものが理解されている。
そして貴方が生まれたのは、「その」100年前よりも最近だとして、
同じ時間枠の中で理解されているでしょう。
しかし貴方は100年前は観測者によって名付けられる記録でしかない、とも言う。
すると100年前は記録でしかないが、それと同じ時間枠の中で理解される
「自分が生まれたという事実」は本当(の過去)だとして理解するのですか?
それはダブルスタンダードなんですよ。
292 :
抄録:2012/03/02(金) 18:52:03.79 P
100万年前に何があったか、もはや分からない。
しかし100万年前という事実の総体があったこと自体は認めなければならない。
それを認めないというなら、「一切の過去は無い」として世界を再構成してみてください。
**************************************
ここに古代史の書かれた古文書があるとする。
過去の実在性にとって重大なのは、ここに書かれている内容ではないんです。
重大なのは、この古文書が「書かれたものである」という、その判断なんです。
これを書いたのはヒトであろうけれども、仮にそれが動物であっても、
はたまた水の流れによって超偶然的に書かれたとしても構わない。
しかしこの古文書はたしかに書かれたんです。そう判断するしかない。
ヒトに理解される「過去の実在性」はこの判断に直結しており、それ以外の判断は必ず破綻します。
293 :
抄録 :2012/03/02(金) 19:05:06.70 0
>>289 なんすかそりゃ
“生きている”のは電子楽器の演奏ですか、それとも古典的な楽器の?
(そこに差異があるだけではただの差異ですよ。いかように生きていますか?)
また、貴方の話は結局「芸術的感性によって観客が生きてると感じたらそれは生命を持っている」
という論点先取となるしかない。
あと、前にも言いましたけど、その「“生きている”演奏」の話は生物の不可思議を何一つ説明しない。
それは貴方にとって問題ではありませんか。
294 :
281:2012/03/02(金) 19:13:17.46 0
猫に頭を咥えられたオニヤンマを奪い取って
マジマジと眺めたときは、翅は虹色で、黄色と黒の
グラデーションを鮮明であり、やがて
息絶えたその様は、色を失くしたモノそのものと記憶している。
現代では、死の定義は心停止に加えて脳死などがあげられるが
医学がまだない時代、眠っているのか死んでいるのかさえはっきりしない、
それはそれは想像を超えた私には未知の世界が嘗てあった。
第一章 観測者の観測 <続かない>
抄録は哲学じゃなくて詭弁を吐くようになったの?
>>295 ん〜?詭弁かぁ?
その自覚は無い・・w
どこが詭弁かちょっと指摘してくれ
>>293 >なんすかそりゃ
類比ですよ。例えを使っての説明です。
>「芸術的感性によって観客が生きてると感じたらそれは生命を持っている」
>という論点先取となるしかない。
私が言っているのは、所与のものとして生命があり、それを感情で把握することが出来る。
悟性で把握しようとすると、唯物論的アプローチからだと物質の動きとその結果しか見えないので、それを可能にする土壌としての生命まで認識が達さないことが多い、ってことです。
意識的に区別出来る人と出来ない人がいますが、少なくとも観客としての一般人は違和感は感じる、と言ってます。
違和感を感じるのは、生命をどのような形にせよ、すでに知ってるからです。
※あたりまえのことですが
でも、あなたはそうではないみたいなので、それはそれで構いません。
>>297 コテハンと名無しで平等だと思っているの?
300 :
抄録:2012/03/03(土) 02:44:00.05 0
>>298 私も物わかりの良い方ではないがwそれが例えであることぐらいは分かります。
恐らく貴方は、古典的な楽器の演奏に生命的な何かとの類似性を見るのかもしれない。
その気持ちも分かるのですよ。
しかしどうですかね。。それってやっぱり「分析可能な“外見”」ではないですかね。
私はね、「命」なんてものがあるとして、それは観客が見ただけじゃ分からないと思います。
感性が鈍いんですかね。
>>300 >しかしどうですかね。。それってやっぱり「分析可能な“外見”」ではないですかね。
そうですね。分析可能な外見だと思います。で、その分析可能な外見の原因が直接は分析可能でないさらに奥のほうにあるのだと。
生命があって、それが物質に結果としてなにも爪痕を残さないのであれば、生命は殆ど私たちと関係のないものだと思います。
でも、実際は違います。
だからといって、生命が外見とイコール、ということにはならない。
>感性が鈍いんですかね。
とても精巧な薔薇の造花と生きてる薔薇を並べて集中して5分観察してみてください。
その後で自分の中に自動的に生じた感情を観察してみてください。
生きている薔薇特有の何かに対応する感情が微かに見つかるはずです。
その後、その感情を無意識化に落とし込んでください。
何日か後に、その感情はよりわかりやすい形態で意識の表面に登ってきて、あなたの馴染みのあるものになると思います。
繰り返すほど輪郭はましてゆきます。
生命は意識化して区別がよりつくように出来ます。芸術家はそのような技に長けてるのだと思います。
>>301 実際そのようなことはあるかもしれない。
しかしね
貴方の感性論に乗っかるなら
残念ながら、貴方の文章からは「本物」に接したときの“感情”を受けない。
前のめりというか、背伸びしすぎというかね。
668さんと同様、胡散臭いんですよ。すいませんね。
303 :
考える名無しさん:2012/03/03(土) 10:57:39.90 0
メタならメタなほど優勢って意味でこの議論は究極的だけど、
人間の具体的な意思動機一切を棚上げしてしまうので、
自分がどうやって生きていけばいいかわからん。
自分の感情気分を客観視できるほど達観できないし
そう考えると唯物論者にとって唯心論は仮想的な議論として
把握しておく必要がある気がする。
なんというか生きるためのテクニックとして。
>>302 >668さんと同様、胡散臭いんですよ。すいませんね。
そうですか。今までのやりとりの内容はくだらなかったけど、最後の感想のとこだけは面白いですね。
305 :
考える名無しさん:2012/03/03(土) 17:41:58.19 0
668氏はニーチェ、ベルクソンに言及してるところを見ると、
ドゥルーズについても何か聞きたいな。
306 :
洋楽:2012/03/03(土) 17:59:14.37 0
Live or Thing
真と偽について思うのは人間の認識能力では真なるものを確実に選ぶことはできないということです。
人間に限らず生物は騙されることがあるんですよね。
というより分からないことだらけで死んでいくわけだから信じたものに裏切られなければ
それが真であったとしておくしかないのではないでしょうか。
だからといって真偽についての思考が無駄だとも思いません。
皆さんもノギスぐらいは使ったことがあると思いますが
ノギスで丸棒の直径を測るのはさほど難しくありません。
マイクロメータもご存じだと思いますが、丸棒の直径をマイクロメータで測るのは
ちょっとした訓練が必要です(本当にちょっとしたもんですがw)
マイクロメータにはストッパーが付いてますが、鋼の丸棒を測るときにはこれは使いません。
手に伝わる感覚を頼りに測るんです。そうでないと正確には測れない。
なんともいえない「きゅきゅっ」とした感覚を掴めば、ほぼ誤差1/100mmで測ることができます。
平板の表面を仕上げるのにはフライス盤てのを使います。
これを使えば1/100mm程度の表面粗さ(及び狂い)で仕上げることができます。
しかしこのフライス盤自体の摺動部はそれ以上の精度が要求されます。
どうやって仕上げるのでしょう。機械では仕上げることができません。
達人がキサゲというノミのような工具を使って感覚を頼りに
手作業で1/1000mmレベルの驚異的な精度に表面を仕上げるのです。
アスリートなんかもすごい感覚を持っているでしょう。
人間の感覚は常識外れなところがあります。
しかしそれは唯物論から外れる話では全然ありません。
309 :
あまの:2012/03/03(土) 23:02:53.82 0
生物にとって、同族も含め、他の生物は捕食できる可能性とかこっちの命を脅かす
可能性も有るから鋭く感知しようとするわね。
310 :
あまの:2012/03/03(土) 23:07:25.40 0
なるほどね、野郎は工学部的工作頭脳の持ち主だったんだな。
納得。
>>310 マイクロメータなんぞ中卒の方が器用に扱うわい
312 :
あまの:2012/03/03(土) 23:13:17.73 0
中卒が日本を支えていたんだなあ。
詐欺師が騙されるなんてこともあります。
真を極めた人間が実在するというのは嘘話としてよいでしょう。
人間は様々な判断をやむを得ずし続けて生きていますが、どれだけ証拠を揃えても確実ということはありません。
人間の認識能力は他の生物と比べて決して低くはないどころか総じて高いはずです。
しかしそんな人間もときに認識の修正を迫られることがあるのです。
どの時代の人間も決して甚だしく劣っていたり著しく優れているわけではありません。
自分の認識能力に限界が無いという自己への過信は真なるものをますます遠ざけるでしょう。
「真に迫る」というのはなかなか良い表現です。
真を体現することはできなくてもそれに迫ることができるということです。
>>312 国際化が進めば日本が日本を支えるという島国根性は永遠には続かない。
そんなの自覚していんじゃね?
>>300 なんか意味が分からない、どうしてそういう風に意味がわからないようにするの?
>>317 何が分からんのだ?
俺はな、これでも必死で分かってもらおうとしてんだよw
319 :
考える名無しさん:2012/03/04(日) 05:45:34.47 0
なんのこっちゃい
つまんねーんだよバーカ
322 :
考える名無しさん:2012/03/04(日) 20:17:02.23 0
>>320 そう思えばいいじゃん。信じることは大事だwwww
323 :
考える名無しさん:2012/03/05(月) 09:12:03.97 0
なんか、話がおもしろくないね
324 :
考える名無しさん:2012/03/05(月) 09:35:34.75 O
やめればいいんですよだったら
325 :
ゲーム:2012/03/05(月) 16:29:59.51 0
>>292 抄録氏
「100万年前という事実の総体があった」 大きくでましたね。w
そんなものは、ないでしょう?
100年前でもいい。そもそも「100年前」を明確に限定し、指示できるのだろうか。
一年前でもいい。そのときの“事実”とは何を指しているのだろう。
そのうえ、その“総体(すべてのことだよねw)”とは何の謂いぞ?
もっと易しい例を挙げましょう。
抄録氏には当然ながら「昨日の事実の総体」は「あった」はずである。
そこで、まず問われるのは“昨日”の意味。この言語が指し示す領域を限定できますか。
次いで“何かを事実である”と断定するためには、どのような条件を満たさねばならないか。
最後に“総体(すべて)”とはw何を指しているのか。
それらの“解”はないだろう、と私はみている。
ただし、その種の言明を曲りなりにも成立させる手立てはある。
質問の意味は伝わりましたか。
>>325 「事実」が独我論的にしか意味をなさないとするなら、
すなわち、それが「自分の前に現れる何ごとか」でしかないとするなら
貴方と私の間で共通して了解できる同一の「事実」など無いとの主張を否定するのはとりあえず難しい。
ですので、客観性を度外視して「自分の目の前に現れる何ごとか」についてだけ考えることにするとですね。
私にとって「昨日」とは「(時間枠に於いて)昨日以外ではないもの」として限定可能です。
ゲームさんはしばしば「的中」にこだわるが、的中が可能であることなど多くはない。
故に背中律を信頼しているわけでしょう。
まず、私は確かに昨日を経過して今日には到ったのだと設定します。
昨日は一昨日よりは後にあり、今日よりも以前にあることを了解すれば十分です。
しかし「昨日は昨日としてのみ成立する」ことは了解する必要がある。
次いで、自分の前に次々に現れる全ての事実に対して、
それが私の固有時(これは怪しい謂いだがw)に対する『いつか』であるとすることが
“その都度可能”だとする。
そうするとですね、任意の事実Aは、昨日に対応するか、昨日に対応しないかのどちらかなわけです。
よって昨日の事実は操作的に決定可能なのです。
「曲がりなりにも」との表現はちょっとどうですかね。。
数学でも「中間値の定理」なんかがあって、解に的中しなくても解があることは証明できるわけでしょう。
(※連続であることが条件です・・よね。教えてエロイひとw)
>昨日の事実は操作的に決定可能なのです
これはちょっとまずい。。。
こうします。
「昨日の事実が一意に定まることを了解可能である。」
つまんねー話だなあと思うのは「設定」とか言って勝手な土台を作っておいて
その上で事実AとBとCがどーちゃらこーちゃらしゃらくさいって言うんですよね。
塩なめくじか
そんないじけたレスはいらん
「勝手ではない土台」って何だ?そんなもんがあるのか?言ってみそ
例えば今日と昨日の関係を設定したついでに事実AでもBでも設定できるわけですよ。
勝手だから文句言ってんじゃないんですよ。さも最小限の勝手さに留めてますアピールのうざさ。
>今日と昨日の関係を設定したついでに事実AでもBでも設定できるわけですよ
おお、それちょっとやってみそ
俺には見当がつかん(昨日を事実にするってことか?)
設定だから勝手にできるわけですよ。
私は今日焼き鳥を食べました。事実A設定完了。
「さも最小限の勝手さに留めてますアピール」なんざ、貴方の心象だろう。
俺はそのとき俺の考える最良の思いつきをくっちゃべるだけでな。
うざいとかってのは、貴方が私にいらついてるだけっしょ
事実AでもBでも設定ですよ。
それをさも自分の解釈抜きに成り立つと信じ込む愚かさったらありませんね。
>>334 ああそれはよ、もちろんそれで有効な場合はそれで言いわけだろうが
今回は違うだろ。
つまりだな
ゲームさんが「昨日の事実なんてどうやって限定するんだ?」と訊いてきてるわけで
そんな「昨日の事実とは昨日の事実Aのことだ」では話にならないだろ?
あまのっちだったか
>>338 そんな質問自体がとんちんかんなんであって昨日って何ですかと言っとけばいいんですよ。
つまりおとぼけ合戦になってくるわけですよ。
>>340 哲学板でそんな身も蓋もないようなこと言うなよ
>>342 中途半端にとぼけられるとイライラするんですよ。
もちろん私も全部設定だなどと心底思っておりませんが設定と言われると全部設定なんです。
だったらもうお互い設定同士でいいじゃないですか。
昨日は昨日でだいたいわかるやん?今日は今日やん?分からん奴は黙っとけみたいな。
>>343 ゲームさんの問いが私に響いたから私はレスするのだよ
俺のレスは貴方には響かないがゲームさんには響くかもしれない(響かないかもしれない)
「おとぼけ合戦」とは言い得て妙だな
数学でも物理でも、微妙なとことはおとぼけ(分かった気になる)合戦だろ
しかしそれが成立してしまうのだから面白いよな
昨日という言葉の意味は、各主体にとっての意味があって、しかもそれは瞬間瞬間で変わる。
コンピューターには扱いづらい言葉だ。
“総体”にしてもそうで、主体がその言葉を使うとき、主体の中にはその全体像が浮かんでいるわけではない。
主観─客観的に意味がきまってくる。すべての言葉が定義されて使われていないことは、言語ゲーム
として表されている。
従って、ネットワークに対するプログラミングで、作られる計算は、今までのコンピューターの成し得なかった
思考を可能にするのではないかと思う。
347 :
ゲーム:2012/03/06(火) 11:12:06.24 0
なでしこが昨日(昨夜かな?いずれにせよ、昨日とは何?と問う勿れw)米国選抜と戦い勝利した。
まずサッカーの試合がおこなわれた、というのは事実か。「勝った」というのは本当(事実)か。
なぜ、それらが事実(あるいは事実でない)といえるのか。
その答えが“事実”という言葉が、どういう場合に用いられるかを明らかにするのではないか。
もう一度、お聴きしたい。昨夜(日)なでしこが米国チームと戦い、勝利した、というのは事実か。
もうひとつは、昨日の“ゲームの総体”とは何? あの試合の“すべて”とは何?
観客や視聴者もゲームの或る部分をなしている。が、それをいいだせば、おの試合が“世界”へと広がってしまう。w
そこで、ゲームを「グランド上」と結界する。(つまり、モデル上のお話であるw)
そのうえで、聴く。(とくに抄録さんにw)
ゲームの総体(すべて)とは、いかなる謂い?
それは「ある」のか「ない」のか。あっても「しりえない」だけか。
最後に改めて「昨日」「一年前」「100年前」「100万年前」とは何? 実は、これが一等、難問ではないか。
“時間(空間)”とは何?という問いだからである。これは、まぁ、おいおいと…。w
348 :
考える名無しさん:2012/03/06(火) 11:22:39.46 0
般若心経はこの世は虚しくて当たり前だと説いているのではないか?
とかく人は意味を探りたがる
何故なら人間がこれまで知ってきた物事には必ず意味が存在してきたから
人生に意味があるかどうかはわからないが、
もし無いとすれば人間の思考回路はシャットダウンされるであろう
意味がわからない…、つまりエラーの状態である
人間の脳は無を理解出来ないのだ
349 :
洋楽:2012/03/06(火) 14:31:18.76 0
空しい ・・・・ やってらんねー ってかんじ
虚しさを越えると 楽になるよ マジで(笑)
仏教でゆう 無 って Nothing に近いんじゃないかな?
時間が 止まってる ってやつ
350 :
抄録:2012/03/06(火) 21:04:15.29 0
>>347 ゲームさんも私もそのサッカーの試合を「知っている」わけです。
つまり命題としての指示内容は既に成立している。
私も貴方もそれを伝聞でしか知らないのでサッカーの試合が行われたことは
いまのところ特定の情報に対する信頼でしかない。しかしそこに『矛盾は無い』。
サッカーの試合が行われたことが事実(真実)であるかを“本気で”追求するなら
その反対命題である「サッカーの試合は行われなかった」との対比によって主張可能でしょう。
・現地時間3月5日14:10分から、ポルトガルのファーロで日本vsアメリカの女子サッカー試合は行われなかった。
本気で追求された時に、この言い立てを矛盾無く成立させることができますか?
試合が行われなかったのなら、その時なでしこはどこにいたのか。
それともなでしこなんてもとからいないのか。じゃあなでしこって何?
その時競技場は何に使われていたのか。別の試合?何の?
行われなかった試合をどうやって中継したの?特撮?誰がどうやって?
本気の追求が無制限に行われるなら、それらを矛盾無く成立させることなんて不可能です。
作為的な行為はそれ自体が事実となる。偽の事実を創造することはできない。
命題化された真実は「ニセ」を駆逐することでそれが唯一の矛盾無き真実であることを主張可能のように思います。
事実・真実とは恐らく“それだけ”の意味。真実にそれ以上を求めるなら
それは不可知論・懐疑論(≒妄想)となる。
こんな話はFe氏の専売特許なのだろうけど、最近お疲れのようで
どうしたスモ氏(名前はなんでもいいw)
そんなに怒るなカラスくん
351 :
抄録:2012/03/06(火) 21:07:52.01 0
〜ゲームの総体とは〜
サッカーゲームに限らず、(客観的)モデルを仮想してよいなら
事実の総体とは「何(要素)がいつどこにあるか」でしょう。
言われるサッカーモデルの要素を勝手に設定(w)するなら
「一つのボールと22のプレイヤー」でとりあえず間に合う。
その他にゲームを成立させる環境条件としてコートとゴールも必要かしら。
「ボールとプレイヤーがいつどこにあるか」は矛盾無く成立する。
※個々のプレイヤーの精神世界とか感覚とか、そんなもんはグラウンド上には収まらんと思いますぜ。
>>350 それ貴方の尺度でいっているだけで、貴方以外にそれを認められないとか
考えないなら(ry
>352
エネルギーの勉強でもしてろ
それなら学術的に(略
354 :
ゲーム:2012/03/07(水) 10:29:06.81 0
>>350>>351 ちょっと忙しいので、のちほど突っ込みます。
ひとつだけ。
では、一プレイヤーの宮間の“総体(すべて)”って「ある」の?
鮫島でもいい。むろん、抄録氏でも私でもいい。w
これが難しすぎるのなら、グラウンド上の“小石”でもいい。
何でもいいが、或る存在者に“総体”があるのなら、その総和である「全存在にも
総体がある」公算が大きい。
小石でも、コップでも人間でもいいが、それらに総体(すべて)があるのなら、その
真相(真理)も「ある」はずである。その場合、原理的に「真相がわからない(カント)」
か、いずれ「わかる(機械氏)」かのどちらかだろう。
しかし、私は存在者に“総体”はない、とみる。
それらは「あるがままにある」のではなく、むしろ「ないがままにある」からである。
最近忙しいくて。
麻薬取引している掲示板があるらしいがどこの極悪掲示板だろう。
>>353 エネルギーとは何?
エネルギーをエネルギーなしで説明してくれ。
>>354 総体とは総和ということでしょうけど、
宮間の総体も小石の総体(=全て)も「ある」のかどうか見当がつかない。
何を言えばそれに答えることになるか・・いや分かりません。
ゲームさんの言うように
「存在者の総和が全存在である」ことを認めてしまうということは
特定の部分(総)和が特定の存在者となることを認めるのと大差無い。
それなら宮間(or小石)の総体とは「宮間(or小石)を構成する全ての素粒子がいつどこにあるか」
ということなんですかね。
しかし宮間も小石も組織ですよね。
要素の総和は要素から成る組織とは等価ではない(かもしれない)。
>>355 そうだったの
それはすまんかった
また、である
>>356 エネルギーとは何であるか
俺には分からんよ
貴方が説明してくれよ
全ては設定であると認めてしまえばいいんですよ。
総体という言葉も作ってはみたけれども実はあんまりよくわからないんです、
ただそういう言葉でとりあえずしのげる場面があるもんですから勝手だとは思いますが
使ってしまっておりますごめんなさい。という誰に対する言い訳なのか分かりませんが
どうやら言葉を厳密に規定しなければ気が済まないという空気があるようですので
とりあえず言い訳してみましたがお気に召しましたでしょうか。
でももうちょっと言い訳させてもらうと言葉なんて全部そうですよ。
曖昧さを排除したらそれこそ言い訳もできなくなりますよ。
361 :
北野派:2012/03/08(木) 00:15:17.41 0
食べなきゃ脳は存在し得ない
寝なきゃ脳は存在し得ない
思考しなきゃ脳は存在し得ない
変化の原因の条件のひとつがエネルギーって感じがするなぁ
363 :
ゲーム:2012/03/08(木) 01:19:39.54 0
>>356 以前、抄録氏が“動的秩序”という表現をされていた。
この“動”あるいは668氏いう“働き”の要因が「エネルギー」ではないか。
>>357 “小石”も“宮間”も動的存在である。
小石を、あるいは宮間を総べる輪郭を引くことはできるのか。
それらに“すべて(総体)”があるのなら、それは(総べることは)可能だろう。
それらに“秩序”があるかどうかは、また別問題のようにもおもえるが…
もしかすれば同じ問題かもしれない。
>359
>エネルギーとは何であるか
>俺には分からんよ
>エネルギーの勉強でもしてろ
分からないくせに分からないものを分かっているように
それで、エネルギーが何かすら考えることも放棄しちゃった?
それとも自分で考えた定義すら忘れちゃった?
>>364 あなたは
>>352かね。私はね
>それ貴方の尺度でいっているだけで、貴方以外にそれを認められないとか
>考えないなら(ry
に対して応えただけだよ。これは
「抄録の尺度なんて抄録以外にそれを認められないことを考えろ」
ってことで、書いた人間の本意は
「自分には抄録の尺度なんて意味がない」って言いたいわけだろ。
私は私の考えを述べてるので、それを認めるか認めないかは相手次第。
認めないなら、その根拠を言って反論すればいい。
単に「お前の言うことなんて一般的には意味ねえよ」と言いたいだけなら
一般的に認められる学術を学んでればいいだろう。
エネルギーの一般的な定義は事典に載ってるのだから、貴方にはそれで十分だろう、ということ。
私はそれに飽き足らないので「エネルギーはツールだ」とか言ってるだけ。
貴方にとってそれに意味がないなら俺のレスなんて読まなくていい。
「全ては(ヒトによる)設定」と言い捨てることはいつでも可能なのだが、
しかしその「設定」とは何でしょう。
仮定される設定の下で概念が論理に沿って動き出す。その振る舞いは無条件でしょうか?
ヒトが自然の秩序と一体であるなら、思考に自然秩序が投影されていることは想定できるわけです。
蜂が幾何学的に美しい巣を作ることができるのは蜂の本能と言い捨てることは可能だが、
しかし本能が自然から独立してあるわけではない。
自然の秩序がそれを可能とし、またその可能性は自然からの制限と衝突する。
理解とか知とかっていうのは、ある妥当と思われる設定の下で動き出す思考だとか
または仮定モデルを自然に適用してその応答を調べる等することで得られる知見とか
そういったものを受けて、何ごとかが己に成立する感覚ではなかろうか(なんぞそれ)。
思考がヒトを裏切らないのには理由がある(結果論w)。
367 :
:@\]:2012/03/08(木) 22:53:03.08 0
368 :
:ゲーム:2012/03/08(木) 22:57:57.63 0
>>366 酔っ払って打ち間違えました。失礼。
“総体=全体”あるいは“秩序”について、抄録氏の見解をお聴きしたい。
明日は、早朝から出張です。
レスがあれば、日曜日にお返しします。
「私は昨日を経て今日に至った」は安易だった。
こうだ
「私の前に次々に現れる事実はやがてしかし確かに昨日の事実となる。」がよいかしら。
なでしこは昨日ドイツに負けたらしい。
現時点でこの「事実」を矛盾無く否定することはできないだろう。
しかし100万年後、ドイツ戦の記録など恐らく微塵も残っていない。
もはや肯定も否定もできない。
そのとき、このドイツ戦は「事実で無くなる」のか。
事実の事実性とは「いやそうではない。いつまでも事実なんだ」との判断なのである。
>>368 そんな大仕事は無理っ
出張いってらっしゃいw
わたしもしばらくぶりに仕事をもらったので仕事します。
仕事って金を貰えるしごとね
2chの大仕事は金にならんし
抄録には謙虚さがないね。コテハン使うならスルー能力と謙虚さは必須だろ。
逆にもっと傲慢且つ濃密に絡んで欲しいと
そういうことだね♥
サイトの選択にも知性が現れるよな
377 :
考える名無しさん:2012/03/09(金) 22:57:30.91 0
人間がわからないだけで全て決定してる。
ラプラスの魔が正解
量子力学はクソ屁理屈
ラブプラスの魔には絶対に勝てないですの!?♪。
379 :
考える名無しさん:2012/03/10(土) 06:00:07.54 0
勝ち負けで計れば世の中簡単ですぅ
中二病患者隔離病棟スレ
381 :
考える名無しさん:2012/03/10(土) 17:41:59.96 O
脳は霊が思考や感情を地上レベルで表現するための機械に過ぎない。
382 :
考える名無しさん:2012/03/10(土) 17:52:38.46 0
哲学板中二病患者認定キーワード
ラプラスの魔 量子力学 ゼノンの亀 クオリア 脳科学 ひも理論、その他枚挙にいとまがないがw
歴史よりは哲学的かもしれない
384 :
あまの:2012/03/10(土) 23:16:56.26 0
霊とか科学の領域ですね。
385 :
考える名無しさん:2012/03/11(日) 02:21:59.99 0
>>384 霊を科学とするならば、存在しない妄想の類も科学とする必要がある。
君は科学技術の再現性や他の側面の反証性を否定してでも霊を科学に融合
したいの?
対象物に対して形而上の類を、対象物と同じ形而下で成り立つというのは
常識であるが、形而上の仕組みが形而下の仕組みと融合するわけではない。
それは精神世界と物質世界とに分けたとき、物質が精神の根源だとしても
精神世界の仕組みを物質世界の尺度で説明できるわけがない。
してしまいたい気持ちは単に精神世界の仕組みが何も分からないから
物質世界と同じだと思いたいという欲望の現れにすぎない。
人 ショッキングな論破体験をした高尚な文系諸侯が
ノ⌒ 丿 演繹推理外交によって精神病理的現象する場じゃな?
_/ ::(
:/ :::::::\:
:( :::::::;;;;;;;):
ノ _―― ̄ ̄:::::\:
:ノ ̄◞≼◉≽◟ ◞≼◉≽◟::::):
{..:{::::/:.:.:.:.:.:.:.Y:.:.:.} ̄ }:.: ̄ ̄`丶、
ヽヽ:{:.:.:.:.:.:.:.:.ノ:.:./ / /:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\
`ーY−=イ:.:.:{ / /:.:.>―― - 、:.:.:.:.:.、.__∠8
/ィノへノ.:.:.:.ミ、._ .ィ:.:.:.:.´:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`丶、_:.:.:.:.:.:.三8
8彡ィ彳 /ハハハヽー――=−- :.:.:.__.:.:.:.:.:.:_二二三8
° ° °°°°  ̄ ̄  ̄¬8
388 :
考える名無しさん:2012/03/11(日) 17:55:09.64 O
VIPの哲学系スレより随分マシな連中が集まってる
形而上学的なものを空
形而下的なものを色
とすると
色即是空 空即是色
であるように
フェルミオンはボソンから成り立っており ボソンはフェルミオンを生み出す
と言える
いつの間にか、宗教スレになっとるw
それでいいのか、機械タン
>形而上学的なものを空
>形而下的なものを色
>とすると
空は形而上学的なもの
という理解がそもそも違うんだが・・・・
再掲
哲学板中二病患者認定キーワード
ラプラスの魔
決定論
唯物論
機械論
ゼノンの亀
クオリア
脳科学
多世界解釈
392 :
ゲーム:2012/03/12(月) 08:42:23.68 0
>>390 ほぅ、そう解釈しますか。
たとえば、路傍の小石。
その小石が“空”であり、 それを“空”とみなす「主観」もまた“空”。
いわば底なしのニヒリズムが仏教である。
そこに踏みとどまれず、安直に“縁起”を持ちだすところが仏教の甘さ。w
393 :
ゲーム:2012/03/12(月) 08:46:24.28 0
394 :
390:2012/03/12(月) 10:15:32.02 0
>>392 >いわば底なしのニヒリズムが仏教である。
「即」の意味を理解していない。
>そこに踏みとどまれず、安直に“縁起”を持ちだすところが仏教の甘さ。w
逆です。“縁起”は初期仏教からの思想。
“縁起”とともに、“空”が中心になったのは龍樹から。
395 :
ゲーム:2012/03/12(月) 10:34:40.40 0
>>394 では“即”の意味を語りたまえ。否定だけするのは○○だよ。
仏教史を語っているのではない。
初期的なものは、御伽噺。
釈迦が「覚った」という伝説を、まさか信じてはいないだろうね。
「イエスが処女から生まれ、復活した」というのと同じで、説話である。
このスレでとりあげるとすれば、なぜその類いの“伝説”が事実であるかのように
信じられ、一定の範囲に流布されたのか、その理由だろう。
396 :
ゲーム:2012/03/12(月) 10:36:52.98 0
上のようなレスをすると、たいていアクキンを喰らうね。w
397 :
390:2012/03/12(月) 10:52:09.87 0
>>395 >では“即”の意味を語りたまえ。
“そのまま”という意味。
“空”がそのまま“色”なのだから、「底なしのニヒリズム」などではない。
>釈迦が「覚った」という伝説を、まさか信じてはいないだろうね。
>「イエスが処女から生まれ、復活した」というのと同じで、説話である。
悟りの内容に触れもしないで、そういう言い方をするのは全くナンセンス。
398 :
ゲーム:2012/03/12(月) 11:09:19.95 0
何であれ「覚った」という思い込みがナンセンスだといっているのである。
ついでに聴く。釈迦は何を覚ったの?
“色”がそのまま“空”である、とはどういう意味?
空がそのまま…でもいい。
「そのまま」という表現を用いれば、なぜ“底なし”ではなくなるのか?
“底”には何があるの?
399 :
390:2012/03/12(月) 12:03:58.75 0
>>398 >何であれ「覚った」という思い込みがナンセンスだといっているのである。
それは貴方が「覚った」の内容に特殊な意味付与をしているからでしょう。
だから「何であれ」じゃなくて、「覚った」の内容が問題なわけ。
>釈迦は何を覚ったの?
釈迦の悟りの内容が、仏教です。
>“色”がそのまま“空”である、とはどういう意味?
これ以上やさしく言うのはむずかしい。
言い換えれば、“色”と“空”は「不二」ということ。
>「そのまま」という表現を用いれば、なぜ“底なし”ではなくなるのか?
“色”は「無」ではないから、“空”も「無(ニヒル)」ではない、ということ。
(こんなやりとりをしていてもあまり意味がないと思うので
主張したいことがあれば、もっと詳しく自説を纏めておいてください。)
400 :
洋楽:2012/03/12(月) 13:33:27.01 0
彼 たぶん 悟って無いよ
解る度に 言葉失っていった だけ ・・・・ (笑)
401 :
洋楽:2012/03/12(月) 13:39:09.19 0
最期は 出家した意味すら 失ったわけ ・・・・
そりゃ 空しいわけですよ
かなしい おはなしです チーン
解決してない問題を
例示してくれよ
404 :
ゲーム:2012/03/13(火) 09:35:51.58 0
>>399 君は日本語が不自由のようだね。
「何であれ」というのは君の「悟りの内容に触れもしないで…」を受けたレスで、
“内容”が何であれ、という意味。内容などどうでもよく「覚った」ということが
ナンセンスだと述べいるのである。もっとも、御伽噺として伝承されてきたという
のなら、とりたてて云々するつもりはない。
だから、こちらから(覚りの)内容を質問しても「(それが)仏教」と答えを逸らす。
ちなみに辞書によれば(仏教の覚りとは)迷いを去って、真理を体得する、とある。
私が「御伽噺、説話」とみなす理由がわかるだろう?w
ニヒルは「無」と訳するよりも、虚無(的)のほうがいい。真理や価値、人間存在を
空虚で無意味なものとする考えや立場を指す。つまり“空”の謂いである。
私見では、仏教は底なしのニヒリズムだが、そこに凄みがあり、評価している。
405 :
ゲーム:2012/03/13(火) 09:47:35.15 0
>>399 「…意味がない」と思うのなら、仕掛けてこなければいい。
いつも君の横ヤリから始まる。
そして君のレスは言葉数が多いわりに「不二」である。w
>>402 「何が存在する」のか。
「どのように存在している」のか。
「なぜ存在する」のか。
グルーのパラドックスって何の意味があるのかわからん。
帰納法に根拠がないって以上の意味ある?
407 :
390:2012/03/13(火) 21:32:41.61 0
>>404 >辞書によれば(仏教の覚りとは)迷いを去って、真理を体得する、とある。
>私が「御伽噺、説話」とみなす理由がわかるだろう?w
「真理」という言葉に対するゲーム氏の拒否反応が何に由来するのか(何らかの幼児体験とか・・・?)、私には知るよしもありません。
しかしとにかく、言葉の表面だけを見ていてはだめでしょう。
ゲーム氏は上で「真理を体得する」と書いていますが、「体得」の意味について、よく考えてみましたか?
それは少なくとも「認識」とは違うであろうことは推察できるはずで、
私が
>>266で書いた「行為」に近いことも推察できるでしょう。
「迷いを去って、真理を体得する」とは、どういうことなのか。
仏教でいわれる「真理」とは、「法」のことであり、ゲーム氏が想像しているようなものとは、おそらく全く違うでしょう。
道元によれば
【自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。】
自己の思いによって(自己をはこびて)、真理(法)を処理しようとすれば、それは迷いであり、
その反対に、万法の在り方として自己が在ること(自分が処理されること)、それが悟りである、と言われています。
だから、この場合の「真理」とは、自己の向こう側(外)に在るようなもの(対象、客観)ではなくて、
《自己ぐるみの存在(生成)そのもの》が、ここでの「真理」です。
408 :
390:2012/03/13(火) 21:36:25.20 0
>ニヒルは「無」と訳するよりも、虚無(的)のほうがいい。真理や価値、人間存在を
>空虚で無意味なものとする考えや立場を指す。
ゲーム氏はニーチェの思想の中から「真理はない」「物自体はない」「一切は解釈である」という思想に加えて、ニヒリズムの思想も「借用」したようですね・・・
しかしニーチェの思想は、全体として見れば、《ニヒリズムの克服》の思想なのです。
不思議なことにゲーム氏は、ニーチェの思想についても、仏教思想についても、その否定面だけを見ていて、肯定面を見ていない。
(ネガティブ思考が《好き》だから、というだけでは、このことは説明し難いように思われる・・・)
(ひょっとしたら、他人の見解を批判するための《道具》を探しているのだろうか・・・?)
一般にニーチェの中心思想とされているのは、ゲーム氏が「借用」した否定的思想ではなく、彼の肯定的思想である「力への意志」「永劫回帰」「運命愛」です。
その中でも、「運命愛」の思想は、《自由と必然》に関する思想なので、このスレの内容にも直接関係する思想ですね。
【私が生き抜いているような、そうした実験哲学は、試みとして根本的なニヒリズムの可能性をすら先取りする。
といってもこの哲学は、否定に、否への意志にとどまるものではない。この哲学はむしろ逆のところまで突き抜けようとする。
すなわち、割り引きもせず、例外もつくらず、選択もせず、あるがままの世界に対するディオニュソス的な肯定にまで。
この哲学は永遠の循環を、同一の事物を、結合の同一の論理と非論理を欲する。およそ哲学者たる者の到達し得る最高の状態、
すなわち生存に対してディオニュソス的に立ち向かうこと。それをあらわす私の定式は、運命愛である。】
ニヒリズムの「否定」にとどまるものではなく、「逆のところまで突き抜け」た肯定の思想が、「運命愛」なのですね。
(なお「運命愛」は、通常の運命論〔宿命論〕とは似て非なるものであり、「運命愛」においては、自由と必然の対立がない。)
それぞれの意見をまとめてください
410 :
あまの:2012/03/13(火) 22:55:24.37 0
虚無主義ってさあ別に克服しなくてもいいよねww
克服もくそも肯定しようっていう掛け声だけじゃね
412 :
あまの:2012/03/13(火) 23:12:18.91 0
やだよな、こんな痩せ我慢熱血馬鹿野郎。
巻き込むな俺を!!としか言い様がないわ。
413 :
あまの:2012/03/13(火) 23:20:33.53 0
こういう肯定厨と一緒に行動してたらいつか電車のドアに挟まれるよ。
そいつだけ間一髪乗り込んだ直後にな。
414 :
あまの:2012/03/13(火) 23:23:09.08 0
同じ班にこういうやつ一人おったらヘトヘトにさせられるわ。
「哲学すきです。でも仏教はもっと好きです。でも卒論大変だから2chで現実逃避。でも悟りを求めてます。」な人は大変だな。
>>404 ごめん、貴方の日本語が一番分からない。
>>407 本当にそうかな?
それは貴方から見える極めて狭い経験による答えではないのか?
もし貴方が正しいのならば相手が納得するのではないのか?
つまり貴方は自分の都合を説明しているにすぎない。
否定を徹底すると最後はその徹底した否定さえ否定する。
これ究極のニヒリズム(否定)によって超人(肯定)が誕生。
単なるニヒリズムとは全く異なる。
否定を否定するって深淵そうな表現だけど
何を指してるのかさっぱりなんだが
420 :
ゲーム:2012/03/15(木) 12:00:39.94 0
>>416 謝ることはない。わからないのなら無視すればいい。わからない書き込みを、
わざわざ読むのは愚の骨頂。それを避けてもらうためのコテなのだから。w
>>407 長文だけれども、仏教の一つの伝説(御伽噺)を紹介しているだけである。
君は、それを信じていればよろしい。当方に文句はない。w
最後の“決め”もw概念を羅列しているだけの、典型的なナンセンス文。
“自己”とは? それと「ぐるみ」の“存在”とは何?
いささかトウのたった感がある“生成”も、意味不明。生成って何?
ナンセンス文学というのもあるので、文芸をしているつもりなら、結構だが。
>>419 徹底した否定に根拠などあるわけねぇだろ。
そしてその否定の否定にも根拠も理屈も道理もない。
単なる糖質が陥る思考パターン、つまり否定をしていると勘違いしている
糖質がそういう風に読み取ってしまうだけ。
多様性がなくなった否定に否定の力などなく、それは否定をしている
空虚と同じ。
否定の行い方も知らずに否定をしている、それは否定ではなく拒絶であり
反論でもない。つまりニヒリズムでもない。
それをニヒリズムの類に分類し言葉を簡単な意味でしか捉えない合理性は
自己紹介をしているのと同じである。極端に断言する説明のように見せかけても
奥の深い何かを生み出す何かであるならそれは良いだろう、しかし
本人が緻密と明確さをもち正確にそれを表現しているならばそれは病気なんだろ。
422 :
ゲーム:2012/03/15(木) 12:42:54.09 0
>>408 誤解、曲解を「正しい」と思い込み、それに基づいて他にレッテルを貼って何かを
語ったつもりになるのは幼稚である。
少し前にも口ぎたなく「ニーチェをパクつた」などと頓珍漢を述べていたけれども、
過大評価も甚だしい。パクれるほどニーチェをしらない。ww
スレに参加した当初は、ラビ氏などと同じ不可知論だったが、ここで幾人かの書き手
と云々かんぬんしているうちに「真理はない」派に転向したのである。
「すべては神の御心であり、御業である」
これが弱者の“全体主義”であり、弱々しくはあれ「真理はある」と言明している。
ニーチェはこれを解体したかっただろうが、結局、彼も「すべては…」と無自覚裡に
語ってしまっている。
(すべては)「力への意志」であり、(すべては)「永劫回帰」する…
「すべて」すなわち407氏のいう「ぐるみ」幻想に彼もまた嵌っていたのではないか。
一神教あるいは、その変奏である真理主義の解体は至難であるようだ。
>それに基づいて他にレッテルを貼って何かを語ったつもりになるのは幼稚である。
相手にそう思わせる手段なら高尚である。しかし本人がそれと違うことを
表現しているのにレッテルと思い込む読解力は哀れに思うだけ。
424 :
抄録:2012/03/15(木) 13:56:53.79 0
390氏は「ここから物語り論が始まる」と自ら鳴り物入りで参戦されたのだからw
そろそろ「物語りの差異」があることを示して欲しいです。
ゲーム氏が「底なしのニヒリズム」とやらwに共鳴することはこのスレでは以前から周知のこと。
その立場から私や機械さんの急所を具体的に攻めてくるわけです。
対して390氏は「生成と創造」を言われる。
しかしその根拠が「高速ビデオ映像」では弱すぎる。そこに生成は要請されていない。
具体的な問題として「生成」を要請しなければ示し得ないこと、が“世界”には実際あるでしょう。
それはどんな状況でしょう。
「物語りの差異」を示すには“優れた”物語りを語るしかない。
(「優れた物語り」とはなんぞw)
425 :
ゲーム:2012/03/15(木) 14:24:54.20 0
>>424 もちろん“仮説”なのだが、この宇宙は“無のゆらぎ”から生まれた、とされる。
つまり“無”からエネルギー、時間・空間を生じた(らしい)。
これは“生成”と称するべきなのか。それとも別の見方をすべきなのか。
その直後の“相転移”は物理学的に言述できるらしい。
このあたりについての、抄録氏の知見や如何?
超人(肯定)に向かうにはニヒリズムの徹底の道一本しかない。
ニヒリズムがニヒリズムのだ。
つまり最終的にはニヒリズムが、ニヒリズム自身をニヒリズムまで到達せねばならん。
単なる肯定など、「是是是ゼェ」と鳴く驢馬の肯定だ。
427 :
あまの:2012/03/15(木) 20:10:32.76 0
べつに徹底する必要もないがな・・
君はあれか?トップとバックしかない車か?
まあもっと簡単たんに言えば、徹底とは単なる破壊ではない。
この場合の徹底は、自己破壊である。
429 :
抄録:2012/03/15(木) 21:18:57.48 0
>>425 「空」に価値を認めるゲームさんですが、
ビッグバンを語ると、とたんに実在論的になるというのは不思議な感じがします。
ビッグバンなんてものはゲーム氏の言葉を借りれば説話・戯言の極みです。
現状の科学理論を宇宙開闢に適用しようってんだから、もうこれ神話と言わずしてなんぞw
ビッグバン理論はよく知らないのですが、素人が外から眺めている範囲で語ればですね
ビッグバン“以前”は「無」であったとするのですが、しかしこの「無」は
物理的な「真空」の意味を越えることはなく、「虚無」ではないようです。
「真空」に従来知見的な「(エネルギーを保持できる)場」としての性質を
わりと無批判に持ち込んでいるように思える。
三次元空間は確かに無いが、位相空間(=数学的仮想空間)は尚存在すると言いたげです。
確かに「生成」は要請されるのだろうが、それが「唯一特別な生成」であると言えるのかどうか。
430 :
軽ファン:2012/03/15(木) 21:35:24.19 0
>>418 “超人”は「肯定」だろうか。
ニーチェのそれは、たしかにそのようなニュアンスがある。
あるいは、肯定/否定の止揚、すなわ超克的な意味合いも感じられる。
だが、いずれにせよニーチェは、そこに到達できずに「挫折した」印象が強い。
肯定/否定、さらにはその超克にも「意味」を付与せず、すなわち感慨を抱かずに
“無意味”を生きる(死ぬ)ことが“超人”的ではないのか。
むろん、私はそれを目標にすらしていません。w
ニーチェが超人かどうかと聞くならばNOだ。
しかし、彼は予言者である。
432 :
ゲーム:2012/03/15(木) 21:58:10.08 0
>>429 伝聞情報の一つを受け売りしただけ。
「この宇宙」と記したように、それは字義どおりの「開闢」ではないらしい。
ここは多世界の一つらしく、そのあたりにも面白みを感じている。
その言説(物語)は「トンネルを抜けると宇宙だった」というものでw抄録氏の
いう“真空(のエネルギー)”が「無」から発生するところは怪しい。
そもそも“無のゆらぎは”の原因も「偶然」で片づけられているようだ。
しかし、そうかもしれない。非決定論には結構な主旨である。w
433 :
抄録:2012/03/15(木) 23:14:35.12 0
〜無とか生成とか〜
宇宙論に到らずとも、科学がその対象を要素還元できているかというと、そんなわけでもなく、
“何もない”ところからの飛躍的出現はあちこちで起こる(ように見える)わけです。
アナロジーとして適当かどうか心許ないですけど、例えば液体が冷却して固体結晶になりますよね。
しかし「結晶のでき始め」とは何だと思います?
原子が二つくっついたのが最初だと思いますか?そうはいかないのです。
固体結晶になるってのは「その温度では結晶化する方が安定」だからなんですが
安定である、つまり系の内部エネルギーの大小を相変態の基準に設定(また設定かw)するならば
相当規模の大きさの「(結晶)核」が『一気に』発生しないと駄目なんです。
それは結晶部分とまだ結晶となっていない液体部分との境界で緊張(表面エネルギー)が生じるために
小さな核は不安定となってしまう。核がある程度の大きさであれば、結晶となることによるエネルギー低下(体積エネルギー変化)が
表面エネルギーの生成を上回るので、安定するわけです。
その際の個々の原子を主役とする詳しい物語りは分からない。
しかし原子論を軸にして核生成を統計力学的(≒確率的に)扱うことはできる。
ひょっとすると、もとからそれ以上の「詳しい物語り」など無いのかもしれない。
そこは「無」ということになって、神の住む場所となるわけですw
物理に支配されない神がいて現実世界に影響を与えている
このように仮に物理で説明できないことがあったとしよう。
だからなんだというのだ。
435 :
あまの:2012/03/15(木) 23:31:41.27 0
「有」も見切ってない割りに、よく簡単に「無」を持ち出せるもんだよ。
マクロもミクロも現象であって実在ではない。
有と無の二項対立とか幻想でしょう。
あまの君
「有」を見切るってどういうことかね
「幻想」でないことって何かね
437 :
あまの:2012/03/15(木) 23:48:29.01 0
「有」が一番の謎だと思うんだけどね・・
時間の中では、突如として「形式」と「有」を同時に突きつけられ
主客の分裂に於いては我々が「形式」と「有」の担い手となっているわけだ。
きみはこの「有」を規定して記述し、「無」と分離できるのか?というくらいの意味だよ。
有と無を対立させても、何かが分かるといったことは無いだろうよ。
438 :
あまの:2012/03/15(木) 23:58:57.05 0
でも、
>>433は「唯物論的見地」から「神の存在」に簡単に到達する様子が
ごく自然に表現されているよ。
その「形式」とやらを伴わない「有」もあるのかね
それは「無い」のか、それともそれは「考えない」のか?
無を有と対立させてるわけじゃあない。その形式とやらが俺には分からんということだ。
440 :
あまの:2012/03/16(金) 00:06:11.78 0
どこまでが「形式」でどこからが「有、内実」なのかって、それを考え込んでるわけでね。
それらの領分のせめぎ合いをやってるわけでしょ、ここで。
「神」なんざ、おふざけで口走ったまで
神と無は同種の方便である(ついでに法と真理も)
その「内実」とやらはどこにどうやって形式とは別に“示され得る”と考える?
考え方を間違ってんだろ
442 :
あまの:2012/03/16(金) 00:26:26.79 0
>>433で下の2行はおふざけだったんだな。
でも、流れとしては自然で、案外本気でそう考えているのかなって思っちゃったよ。w
>その「内実」とやらはどこにどうやって形式とは別に“示され得る”と考える?
示され得ないと思うよ。示し尽くされ得ないと思う。
でも時間や空間はアプリオリで形式的なものでしょう。
神なんてもんは分析不能なのっぺりした場所=無にしか住めないってことよw
時間や空間は「形式のみ」ってことか、カント先生?
ほんとかよ
444 :
あまの:2012/03/16(金) 00:52:44.30 0
ん?まじか?
時間や空間が無ければどんな現象も起こりえないでしょ?
なんだそりゃ
時間は現象に先立って実在するってことか
俺が言うならまだしも、貴方がそれを言うとはな
446 :
あまの:2012/03/16(金) 00:59:36.76 0
>時間や空間は「形式のみ」ってことか
たしかに「もっぱら形式として純粋な時間や空間」は我々が勝手に
抽出しているのかもしれん。
寝る。
447 :
あまの:2012/03/16(金) 01:02:35.77 0
でも実際、どんな現象でもいいから、きみは時間や空間をとっぱらって思い浮かべることができるのかな?
寝る。
俺もね、それができないことになっているぐらいは知っているのだよ
問題は、時間が単なる思考の形式なのか、実在なのか、でな。
俺はね時間が実在すると思っているわけだ。
貴方は違うだろう?おやすみ
>俺はね時間が実在すると思っているわけだ。
思うのはいいけどさ、実在が何かすら分かっていないのでは?
単に実在だと思うのも自由だけどさ。
「何故」に対する答えを自分で持っても「どのように」という答えが
そこにあるのか?
表面上の「どのように」は簡単に表現できてもその元とかになると
曖昧にして自分との関係でしか説明できないわけ。
>>449 レスして欲しいのか、スルーして欲しいのか、面倒くさい人だな
貴方も自分との関係で説明してみればいいのだよ
それで対話が成立すれば幸運だし、成立しなきゃあきらめるさ
時間が形式であったならどんな不都合が生じるのか?
はいどうぞ
再掲
哲学板中二病患者認定キーワード
ラプラスの魔
決定論
唯物論
機械論
ゼノンの亀
クオリア
脳科学
多世界解釈
454 :
あまの:2012/03/16(金) 23:51:47.98 0
しかしさあ、唯物論的立場に立てば、原因が無ければ、いくら時間が経過しても
変化が無いわけで、形式的な側面がより強調されると思うがね。
近年の量子論では、因果律を無視するような振る舞いも、その可能性が無いでは無いらしく、
わけが分からないよ。
455 :
考える名無しさん:2012/03/17(土) 02:42:44.98 0
バカのつくったスレタイで
いつまでもバカが続けているから
哲学板はバカにされているんだが
頭の良い方
>>455の有難い哲学がこれから披露されるそうです
↓
>>455 哲学は馬鹿じゃなければできない。簡単なことさ。
そんな簡単なことすらできない単細胞になってしまった気分は?
この場合のバカとは、知能が低い、偏見にとらわれやすい、という意味です
459 :
考える名無しさん:2012/03/17(土) 12:56:48.60 0
場合によって馬鹿の定義をするバカを発見しました。
普遍的な馬鹿
って何?
462 :
洋楽れべる:2012/03/17(土) 13:44:07.40 0
好物が ニンジン と せんべい
面白いテーマないのか
464 :
考える名無しさん:2012/03/17(土) 15:18:27.32 0
465 :
眠い:2012/03/17(土) 20:55:54.02 0
エビフライが見つからない
エビフライをエビフライすることはできない
466 :
眠い:2012/03/17(土) 21:01:37.96 0
我々が、(窓のない)電車内存在だとすると
電車が動いているのか止まっているのか、どのように知りえようか?
467 :
眠い:2012/03/17(土) 21:03:51.60 0
永遠には、
時間があることと、時間がないことの、どちらでも解釈できる
468 :
抄録:2012/03/17(土) 21:08:59.20 0
ああするどい
もっと書いてw
469 :
眠い:2012/03/17(土) 21:10:13.92 0
エビフライひとつ問うに、論理の適用を超えている
論理は永遠を問えない
470 :
眠い:2012/03/17(土) 21:18:53.39 0
エビフライはどこからやってきた?
わからない
471 :
眠い:2012/03/17(土) 21:30:54.78 0
う〜ん・・・
電車が動いてないと、エビフライ弁当は買えないか
472 :
眠い:2012/03/17(土) 21:41:07.37 0
まだまだだな
とりあえずエビフライ買っとく
支払いは来月な
買えればとりあえずいいのかよ
・・そうかもしれんな
474 :
あまの:2012/03/18(日) 01:07:32.49 0
時間は永遠性の模写だって誰かが言ってたような気がするが。
時間の「中」に有りうるような実在性とか、「時間自体が実在する」とかねえ。
隔離病棟スレ
抄録は他人にかき混ぜられたイライラを冷静に捨て去ることすらできない。
安心しましたか
隔離効果絶大だな。
479 :
眠い:2012/03/18(日) 21:15:22.22 0
1度きり、であるということは
1度もない、ことに等しい
エビフライが買えるためには、
2度目があってはならない
2度目がある、ということは
論理で扱えるということだ
論理で扱えるということは、
相対できるということだ
相対されるということは、
エビフライをエビフライするということだ
よって、静止した電車内でエビフライは買えない
480 :
眠い:2012/03/18(日) 21:18:03.04 0
時間は数えられない
時間は数ではない
481 :
眠い:2012/03/18(日) 21:24:53.28 0
「同じ河にわれわれは入って行くのでもあり、入って行かないのでもある。」 ヘラクレイトス
482 :
眠い:2012/03/18(日) 21:27:22.10 0
>>473 見積もり頼む
来月考える・・・かもしれんw
もうひと月は忙しい
483 :
抄録:2012/03/18(日) 23:02:17.03 0
そうねー・・気持ちは分かるような分からんような
『世界の一切が』一度きりであったとしても
それが「一度もないのに等しい」とできるのか・・微妙
484 :
抄録:2012/03/18(日) 23:07:45.54 0
なんとなればですね
「一度きり・・」も「一度もないに等しい」も既に「一度」を介入させている
それを越えて詩的に何かを見ろということかしら
エビフライと電車の比喩にはさっぱりアクセスできない
「エビフライはエビフライできないからエビフライなんだ」と思ってたのだが
違ったようだw
敢えて言おう
時間は量(≒数)である
世界に現れる一切は特性の強度(=量)である
見積もり・・・エビフライの見積もりですかね
見積もりができて、それが買えるなら、それで既に十分
ということにはならんのかね。電車が動かないと駄目かね
488 :
抄録:2012/03/18(日) 23:41:49.02 0
あとはたのみますよ
>>486 計れない量も数だというなら、デタラメにすぎない。
それはデタラメを数で表現するのと等価である。
再掲
哲学板中二病患者認定キーワード
ラプラスの魔
決定論
唯物論
機械論
ゼノンの亀
クオリア
脳科学
多世界解釈
変化の過程から変化後の世界を観測することについては、
ありのままの世界を受け止めることからの飛躍を感じるが、
概ねは同意できてしまう
人生には意味がない
だけど意味や価値の世界に生きられないことが苦しい
この苦しみは脳の働きでしかないなどと割り切れない
この苦しみは現実であり、自分の脳内で現実に物理的に
善悪の悪として既定されてしまう
誰かに決定論を論破して欲しい
お願いします
492 :
390:2012/03/19(月) 16:54:12.24 0
>>424 >具体的な問題として「生成」を要請しなければ示し得ないこと、が“世界”には実際あるでしょう。
>それはどんな状況でしょう。
抄録氏は(ゲーム氏も)「生成」という語を何か特殊な意味で使っているように思われますが、前に書いたように、
私が書いた「生成」は、「ある(存在)」に対する「なる」であり、それが哲学における「生成」の一般的な意味です。
ゲーム氏のレスにも「生成って何?」という質問があったので、「生成」について書くことにします。
哲学の歴史の中では、代表的な「生成」の哲学は、ヘラクレイトスとへーゲルの哲学です。
(哲学者名を挙げることを嫌がる人も多いと思いますが、哲学用語や哲学的概念は歴史的に形成されたものなので、哲学史を見るのが当然だと思われるし、
また、それによって誤解が少なくなると思うので、私は哲学者名を挙げています。)
(ただ、誰かが書いていましたが、私の解釈が客観的で正しい解釈であるとは思っていません。
哲学史について書くことは、結局は自分の考えを書くことになります。)
まず、抄録氏やゲーム氏のレスを見ると、私の言わんとすることがあまり理解されなかったように思われるので、ちょっと要旨再説。
「生成」や「創造的な働き」について書いた時に、一貫して書いていた私の考え方は、「物」⇔「心」、「生」⇔「死」というように
《截然と【分ける】こと》に根本問題があるだろう、ということです。
そして、「物」⇔「心」、「生」⇔「死」のように截然と分けてしまったものを結びつけるのは困難であるので、
いったん「二つに分かれる以前」のところに戻って考えてみる必要があるだろう、ということでした。
その「分かれる以前」のところにあるのが、私が書いた「生成」「創造的な働き」「ピュシス(自然)」など、です。
493 :
390:2012/03/19(月) 16:56:42.78 0
だから、例えば>271のような書き込みを見て、抄録氏は私の言わんとすることを全く理解していないようだ(おそらくちゃんと読んでいないのだろう)と思いました。
そこで抄録氏が書いた「生」と、私が書いた「生」とは、意味がズレているからです。
抄録氏が書いた「生」は「死」に対立する概念ですが、私が書いた「生」は「死」に対立する概念ではありません(あとでまた書きます)。
鰹節は、「死」に対立する概念としての「生」の意味においては、「生きて」いません(あたりまえですが・・・)。
「生成」について。
ヘラクレイトスの「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想とよく対比されます。
パルメニデスは「有はあるが、無はあらぬ」と考えたのに対して、ヘラクレイトスは「全ては流れる」と考えました。
パルメニデスは、「有」と「無」とを《截然と【分ける】》ことによって、それを固定化し、
そして、「ある」のか「ない」のかわからないような《動き(生成)》を退けてしまった。
パルメニデスの弟子のゼノンの、飛矢不動論や、アキレスと亀のアポリアは、「有」と「無」とを《截然と【分ける】》と、
《動き》がとれなくなる、ということを示していると思います。
或る一点に「ある」、と固定的に考えてしまえば、そこからは《動き》がでてこない。
「ある」と「ない」とが「分かれる以前」のところに、《動き(生成)》があります。
【「有」「無」「成」】のトリアーデで説明されるへーゲルの弁証法は、このことを示しています。
「分ける」というのは、そこに共通の根があるから「分ける」ことができるのだ、というのがへーゲルの考え方です。
だから、「有」と「無」という互いに矛盾する契機が媒介し合って「成」へと止揚されるのではあるけれども、その場合、
はじめに「有」と「無」があって、そののちに「成」が生じるのではなく、「有」と「無」という二つの契機の共通の根として「成」がある、という考え方です。
494 :
390:2012/03/19(月) 16:59:13.54 0
パルメニデスとヘラクレイトスの関係は、デカルト・カントとへーゲルの関係に似ています。
デカルトが「物」と「心」とを截然と分けたように、カントも、「主観と客観」「物自体と現象」「感性と悟性」を、二元論的に截然と分けました。
そしてデカルトが「物」と「心」とを結びつけるのに苦労した(心身問題)ように、カントも「感性」と「悟性」とを結びつけるのに苦労した。
いったん二つに分けて固定化してしまったものを、あとで結びつけるのは困難なのです。
そのような時に現れたのが、へーゲルの「生成」の哲学でした。
「有」と「無」のように二つに分けられたものの《共通の根》が「成」である、というへーゲルの考え方は、
私が
>>150で書いた《表層と深層》という見方と同じことだろうと思います。
《表層》的には、我々は截然と分けられて「固定化」した存在者(「有」)に囲まれて生活しているのだけれども、
それは生活の便宜上の「約束ごと」にすぎないのかも知れない。
《深層》的に見れば、それらは固定したものではなく、もっと大きな流れの契機をなしている・・・という見方です。
その大きな流れが「生成」であり、また、ギリシャ的「ピュシス(自然)」における「生」であると思います。
古代ギリシャにおいても、もちろん生き物の「死」はあったのだから、「死」に対立する意味での「生」の概念もあったのですが、
それと同時に、「生」と「死」の《共通の根》として、「ピュシス(自然)」を見ていたのだろうと思います(《深層》を見る目で)。
《表層》「有」「無」 「生」「死」
《深層》 「生成」 「生(ピュシス)」
(このような、「生」と「死」との《共通の根》としての「生(自然)」という考え方は、日本の伝統の中にもあると思われ、
例えば、「土に還る」というような表現には、「生」と「死」とを截然とは分けない見方が現れていると思います。)
495 :
390:2012/03/19(月) 17:01:09.95 0
>>420 >長文だけれども、仏教の一つの伝説(御伽噺)を紹介しているだけである。
結局のところ、ゲーム氏がそれを御伽噺とみなす理由は何ですか?
ゲーム氏の、「私が『御伽噺、説話』とみなす理由がわかるだろう?」(>404)に対して、私は>407を書いたのだから、
ゲーム氏が「御伽噺とみなす理由」を説明しもせず、>420で再び「御伽噺」と書いているのはおかしいでしょう。
「御伽噺」と言い張るだけではだめです。
>“自己”とは? それと「ぐるみ」の“存在”とは何?
私が書いた《自己ぐるみの存在(生成)そのもの》というのは、内容的には、
>>266で書いたことと同じです。
「主-客」対立、から、「世界-内-存在」、へ。
特にその内容をあらわしている一文を抜き出せば
【私は、現に私が「生きて」いる《世界の流れ》(=生成)そのものが「時間」である、と考えています。】
ところで、前から非常に気になりつつも、言いそびれていましたが、
ゲーム氏が多用している「〜とは何か?」という問い方は、《本質》を問う問い方です。
しかしゲーム氏は前に、《本質は存在しない》ということを書いていました。
一方では、本質は存在しないと言いつつ、他方で本質を問うのは、矛盾しています。
もし、ゲーム氏の思考の中では辻褄が合っているのであれば、どのように辻褄が合っているのかを説明してください。
496 :
390:2012/03/19(月) 17:03:30.76 0
>>422 「すべて」ということについてのゲーム氏の書き込みに対して、私は
>>176と
>>265-266で答えたので、
それでも同じような書き込みを繰り返すのであれば、ゲーム氏はその主張の根拠をちゃんと示す必要があります。
また、前にも同じような質問をしましたが、「真理はない」「物自体は存在しない」というゲーム氏の考え方は、
「すべては非真理である」「すべては非物自体である」とどう違うのか、という点についても答えてください。
>(すべては)「力への意志」であり、(すべては)「永劫回帰」する…
>「すべて」すなわち407氏のいう「ぐるみ」幻想に彼もまた嵌っていたのではないか。
>一神教あるいは、その変奏である真理主義の解体は至難であるようだ。
断定的な言表と「正しい言表」とが無関係であることについては
>>108-109で書きましたが、
「すべては〜」という言表と「真理」も、無関係です。
「一切は解釈である」というニーチェの言表は、それ自身が「解釈」なのです。
例えばニーチェは、彼の「この世界は力への意志である。」という言表について、次のように書いています。
「君たちは、それも一つの解釈だ、と言うのだろうか? それならば、ますます結構だ。」と。
497 :
390:2012/03/19(月) 17:05:58.50 0
ついでにここで、【「優れた物語り」とはなんぞ】という抄録氏の疑問に対する、ニーチェ的な答えを書きます。
(私の考えは、ニーチェの考え方と同じではないですが。)
「一切は解釈である」という解釈によって、ニーチェは「真理」と「虚偽」の対立を廃棄します。
そうすると、ニーチェは何故キリスト教やプラトニズムを批判することができるのか?という疑問が生じてきます。
なぜなら、ニーチェの世界解釈も、キリスト教的世界解釈も、そのどちらにも「正しさ」はないことになるから。
ニーチェがキリスト教やプラトニズムを批判することができるのは、実は、「真/偽」という尺度を廃棄するとともに、
それに代えて「強/弱」という尺度を新たな尺度にしているからなのです。
つまりニーチェの批判の仕方は、キリスト教的世界解釈は、「弱さ」にもとづく世界解釈であるが故に「劣った」世界解釈である、という批判の仕方です。
そして、「弱さ」にもとづく解釈が何故「劣った」解釈なのか、ということについて、ニーチェは詳述しています(ルサンチマン、禁欲主義・・・などへの批判)。
ニーチェが、「強/弱」という尺度を持ち出したことの是非はともかくとして、
彼が「強/弱」を《新たな尺度》としたことは、「真/偽」という尺度の廃棄を徹底することと、表裏一体をなしています。
なぜなら、もし「真/偽」という尺度を廃棄するだけで、そこに新たな尺度がないとすれば、
前にFe氏が書いていたようなアナーキズム的状況に陥ってしまうからです。
498 :
390:2012/03/19(月) 17:08:33.76 0
ニーチェはそこまで徹底して「真/偽」という尺度を捨てているのだから、
(不徹底で一貫性がないように私には見うけられる)ゲーム氏が、ニーチェの思想の中にも「真理主義」があるなどと書くのは、なんとも…
「真理」とか「正しさ」という言葉に対して拒否反応を示すゲーム氏ですが、ゲーム氏の書き込みを見てみると、
ニーチェのように「真/偽」という《尺度》そのものを廃棄しようとしているようには見えません。
一例を挙げれば、「伝聞情報」としてゲーム氏が「エネルギー、時空、意識が存在する」として、「エネルギー」について書く時、
そこには科学的研究成果の「正しさ」への信頼があるように見えます。
数多くの「伝聞情報」の中から、ゲーム氏はなぜ「エネルギー、時空、意識が存在する」という伝聞情報を「選択」したのか?
つまり、その選択の《尺度》は、「真/偽」でないとすれば、何でしょうか?
ゲーム氏の書き込みの中には、ニーチェの「強/弱」のような、「真/偽」に取って代わる《尺度》が見あたりません。
(前にゲーム氏は「妥当性」という言葉を使っていましたが、「妥当性」と「正しさ」には、大きな違いはないと思います。)
499 :
抄録 :2012/03/19(月) 18:49:29.70 0
私もね、360さんが「生成」を「生き物」とは別に考えていることぐらいは分かるわけですよ。
そのギリシャの思想はいつでも復活できるわけですが、復活しない。
それは何故だと思いますか。
それはですね、科学において(たぶん哲学に於いても)有効性も発展性も可能性も『まるで無い』からです。
それは何かを説明できそうで、実際には何も説明できないんですよ。
>《表層》「有」「無」 「生」「死」
>《深層》 「生成」 「生(ピュシス)」
この構造を設定wしたからといって、その《深層》をどうこねくり回しても、
その《表層》は現れない。
私はもともと金属屋で、物質が停止した粒の集まりでは『ない』ことなど
平均的な人達よりはしみじみ知ってると思いますよ。
しかしながら、興味深くも不可思議な物質の振る舞いを知り、
さらに「自然の根元は生成なんだ」と考えたところで、それは結局
「生物」が生物として活動する、その原理について何の説明もできないんです。
ヒトには、昨日まで生きていた死体を生き返らせることすらできないんです。
360さんは「現状の生物学には無理がある」と言われましたね。
それはどんな無理ですか。
それはピュシスとやらによって解決されるとでも思いますか。
360ではなく390さんでした
スンマソンw
501 :
あまの:2012/03/19(月) 21:29:00.31 0
科学を批判できるのは哲学だけでしょ。
502 :
あまの:2012/03/19(月) 21:30:54.56 0
「科学が哲学を批判する」とか主語と述語が矛盾する。
おお、その哲学による科学批判やってみそ
>>489 オカルト君に電波よばわりされるとは、こちとら脱腸になるわw
量れる(=計れる)から量なのだ
計れない量とは、例えばどんなんかね
505 :
あまの:2012/03/19(月) 22:12:00.42 0
子供かww
科学は「形而上学的な解釈」を排して、専ら操作主義と道具主義をとる。
そういう一定の制限のもと、それらの決め事の中での整合性や法則を導き出す学問だろ。
場合によっては、我々の実生活や他の分野へ寄与したりと、現実的な利便性は得られるだろうよ。
抄録は、こういうことが重要だと思っているような節が見受けられるが。
こういうのこそ科学の領域でしょう。
わたしは利便性がどうとか言ったことは無いように思うが
科学は「決め事」を作ることもできてるわけだろ
学問としての哲学に、科学を批判する力など残っているかね
507 :
あまの:2012/03/19(月) 22:31:35.40 0
批判って「価値を」ということじゃないよ?
科学がとるべき方法を探る場合、拠るべきものは科学哲学しかないでしょうに。
508 :
抄録:2012/03/19(月) 22:32:31.85 0
哲学が科学に影響を与えた事例とか
一番最近だとどんなのがあるかね?
科学哲学を否定はしませんけどね、
しかし諸々の科学の内容を理解してこその作業であるはずでしょう
「科学哲学」という名前によって科学を批判した気分になるのは、なんかおかしいと思うね
510 :
あまの:2012/03/19(月) 22:38:18.57 0
物理学の言葉は数式なのであって、これは同業者と情報を共有できる為なのであって、
そのことを優先したからでしょう。
操作主義のために「こちらから自然に勝手な枠組み」を当てはめてしまっているわけですよ。
この時点でなにか「でたらめ」が生じていないと考えるほうがどうかしているわけで・・
511 :
あまの:2012/03/19(月) 22:39:26.71 0
>>511 言いたいことは、批判するなら覚悟してやらないと怪我するぜ、ってことよw
「科学哲学」というシステムは科学を批判(≒吟味・解明)できるほど強力ですか?
513 :
あまの:2012/03/19(月) 22:52:26.85 0
>>512 科学的方法を吟味するためには、科学以外の拠り所がいるでしょうに・・・
そういうものを科学哲学って言うの。
解明とか知らん。
514 :
あまの:2012/03/19(月) 23:02:06.92 0
「方法を決めた」ということは同時に「得られる知見がどういうものかも」も限定しているのだよ。
>>513 そりゃ勝手に「科学」とか「科学的方法」を決めつけてるからだろ
哲学を吟味するのには哲学以外の拠り所がいるのかね
>>510>>514 科学はさ、自分で「方法」を編み出してきたんだよ
哲学に言われて、「あっそうですね」なんてことはもうありそうにねーよ
こないだノーベル賞もらった人が言ってましたね。
一つの分野に留まらず他の分野にも関心を持つべきだと。
科学者の中に科学以外からの影響があって当然なんですね。
それは科学者に限らないわけですが何か科学は何物にも依存せぬみたいな
カチカチの頭は学問に向いてないんじゃないかと思いますね。
518 :
抄録:2012/03/20(火) 01:18:55.54 0
>>517 それは分かっているんですよ。
「科学を批判できるのは哲学だけ」の謂いに異議を申しているだけ
私のこれまでのレスを見てカチカチ頭だと思われましたか。思うんでしょうね。寝ます
519 :
ゲーム:2012/03/20(火) 02:23:28.57 0
>>486 たしかに時間は(数)量として数えることができ、事実、日常ではそうしているが、
それこそが、あまの氏のいう「決め事」を前提にしている。規則的な反復の回数の
多寡を長短へと変換し、そこに“時間”をみ、数えるわけだ。
しかし、それは時間の“影”でしかなく“時間”を把捉したことにはならない。
たとえていえば、美しさを採点するようなものだ。その数値のなかに“美”をみる
ことができないように、数量化した“時間”のなかに「時間はない」のではないか。
520 :
ゲーム:2012/03/20(火) 02:47:00.70 0
>>516 このスレに参加している、たいていのものが科学を信用しているのではないか。
信用できる理由は「言述できることと、できないことを明確にする」からである。
「すべては〜である」と大口を叩かないからだ、といいかえてもよい。w
また或ることを言明したとしても、それを「真理」とはせず、いずれ書き換えられる
ことを、あらかじめ予期する「開かれた言説」であるという点も大きい。
科学は私たちの視野を広げる有効な方法だが、機械氏のような科学万能主義は宗教の
一変種に近い。(そろそろ機械さん、登場すれば?)
科学の問題はその実証という方法にある、
それは反証によって他の側面からも検証しているわけだが
全て観測者による解釈にすぎず都合の良い部分だけを強調し
有効値とならない類を全て切り捨て見なかったことにしている。
つまり分からないことに対してわからないとは認めず、無言である
ということである。
物事の捉え方の次元をそろえ簡単な類だけを扱い、割り切れない類
まで簡単な構造であると分解してしまう。
原理が機能しえない領域まで分解すれば原理は消滅し原理に意味はない。
つまり形而上と形而下の区別が曖昧であり都合によって解釈を変更する
その態度は愚かである。
522 :
考える名無しさん:2012/03/20(火) 04:34:09.80 0
>>521 おまえ馬鹿?
解らないことは解らないと認めるからこそ、無言なんだろうがw
そこにわけのわからんストーリーを作って何か言うのはオカルト・似非科学の類
それたぶん誤解してますよー
想像上の科学でなしに、常に具体的な事例を念頭に置かないと、トンデモに走っちゃいます
>割り切れない類まで簡単な構造であると分解してしまう
具体例を一つ挙げてみてくれ
これはお前に対する試験だから慎重に答えるんだぞ
πはさらに分解できないことろまで突き止めた
構造なんじゃね。
じゃあなんでπになるのか?といえばそんな意味は
数学っでも科学でもどうでもいい問題なんだよ。
これを使って実証できるならばそれでOK。
勝手にOKと思ってるだけで一生懸命計算してる人たちもいますよ
>>526 計算をするのと意味を考えるのとは違うと思います。計算を続けている目的は単なる趣味か、cpuの処理能力の指標としてぐらいでしょう。
πは簡単に言えば「円周の長さは直径のおよそ三倍」。それだけを表してます。
様々な場所で顔を出す不思議な数ではありますが。
528 :
525:2012/03/20(火) 19:17:52.41 0
>>527 なぜおよそ三倍になるかですよ。
しかし、これにこだわらないところが
産業革命ひいては人口増大に寄与したわけですね。
529 :
考える名無しさん:2012/03/21(水) 00:17:28.30 0
ちょっと、いい?
なぜ、Πは割り切れないのですか。
10進法だから? では、何進法にすれば、割り切れるのですか。
もう一つの答えは「曲線を直線で割るのは不可能。何進法にしても、割り切れない」
本当の理由は何ですか。どなたか教えを請う。
>>529 あまりこういうことは言いたくないんだけどさ
「割る」の意味をどう捉えてるの?
言葉を曖昧に捉えてたら何もわからないよ、たとえどんなに丁寧に説明されても
531 :
考える名無しさん:2012/03/21(水) 00:27:24.49 0
>>530 「比率」のことです。この場合は、円周と直径の比かな?
屁理屈は、結構です。質問にこたえられないのなら、入ってこないでください。
>>529 πはπ進法で割り切れる。
>曲線を直線で割るのは不可能
アナログをデジタルで数値化すると同じで愚問である。
無限で限りが無いのにその限りを無限大のように値として脳内変換すれば
無限の限りは値となる。それは有効値の範囲とするかの判断であり、
定義で割り切れないとしたものを割り切れない本当の理由はと聞くのと同じである。
曲面とは直線ではない、君は直線と曲線と定義した前提を否定したいようだが
前提を否定すれば屁理屈になるだけ。
単に形而上の判断と形而下の区別を混同しているだけにすぎない。
>>531 自分の尺度に合わないなら全て聞く耳を持たない傲慢な質問者に
答えがあるとしら、それは傲慢な自己満足でしかない。
貴方が希望するものが答えであり、客観的な答えは貴方にとって嘘になるわけな。
>>525 >数学っでも科学でもどうでもいい問題なんだよ。
数学と物理の区別ができない愚か者の考えでしょう。
>これを使って実証できるならばそれでOK。
実証とは主体が住む圏内で、主体とその状況で別の観測が
常にその圏内の関係で成立する有効値の観測にすぎない。
それは現実の状況を示すのに過ぎずその圏内を越えた外でも通用
する実証ではないのは明らかである。
それと違い証明は定義の基に仮想モデルに矛盾が存在しない論理的
条件の完全成立にすぎない。観測事実の実証を伴う必要すらない。
証明と実証の違いすら理解できていない無学を自己紹介する人は多いけど
貴方も同じなんでしょうね。
534 :
525:2012/03/21(水) 08:04:24.97 0
>>533 残念ながら俺は無学を誇りにしてる。エッヘン。
>>532 「長さ」は解析学で定義されていて曲線であってもきちんと計算可能です。
また、円周率が無理数であるかどうかは自明ではなく証明によって無理数であることが確かめられました。
ただなぜ無理数なのかは数学では答えられないように思います。公理から演繹的に導いた結果、円周率は無理数である。数学的にはこれ以上でもこれ以下でもないでしょう。
537 :
ゲーム:2012/03/21(水) 09:56:00.32 0
>>492 抄録氏が返しており、私と390氏との違いも明らかなのでスルーしようと思ったのだが、
あまりにも長文なので…
君は「『ある(存在)』に対する『なる(生成)』であり…」と存在と生成を対比させている。
それに対して私は「存在=変化」とシンプル。もしかすれば“この世界”が始発するとき、
“生成”されたのかもしれぬ、とは述べた。抄録氏は、それ以外にも“生成”と表現すべき
事態はある、と語っている。彼に「それは何?」尋ねてみたら、いかが。
「分かれる以前に…」何があったのか、は本スレのテーマ。とはいえ、その答えが「生成、
創造的働き、自然」ではレトリック過剰で曖昧。それらよりも“エネルギー”という概念
のほうが明瞭である。生成も働きも自然も、エネルギーの様態だからである。
ただし私は唯エネルギー(物)論者ではなく、時空、意識はエネルギーに還元不可能とみる。
あるいは、それらも生成されたのかもしれぬ。
>>529 円周率は無理数ですので整数の比ではあらわすことは出来ません。何進数表記でもです。
また、曲線の長さは必ずしも無理数にはなりません。なので曲線であることが問題の本質ではありません。
539 :
ゲーム:2012/03/21(水) 10:30:18.44 0
>>495 御伽噺、説話、神話、いいかえると“フィクション”である、というのが私の見方。
「お釈迦さまが覚った」伝承は、お話としては面白いが、信憑性がないという意味。
そもそも「覚った」詳細については百家争鳴。仏教徒の数だけ、その解釈がある。
なぜ私が信じられないかは、語ってきた。これが“御伽噺”でないことを証す任務は、
それをノンフィクションとみなす君の側にある。
540 :
ゲーム:2012/03/21(水) 11:15:03.71 0
>>495 矛盾しない。
「〜は何か」を私が問う相手は、真理(本質)主義者に限られる。
彼に対して(非真理主義者の)私が「それは何?」と訊くのは当然の所作だろう。
もし、その答が本質(実体)を言い当てていると確信できれば、私は脱帽し、帰依(転向)する。w
確信させるのは簡単である。「すべては〜である」と大風呂敷を広げる必要はない。
(よく例にあげるw)小石の“真相”“実相”を教えてくれればいい。
「何があるのか、どのようにあるのか、なぜあるのか」の“解(真理)”を示してくれればよろしい。
ちなみに「正しい(真と善の両義)」と“妥当”とは異なる。
これについて議論したいのなら、お相手する。
ニーチェは全き“アナーキー(空)”に耐えられなかったのだろう。
しかし真/偽にかわって強/弱をもちだしたのは、たしかに時代に先行している。
今日の俗世wが“正しさ”ではなく“強/弱”によって秩序づけられているのは明白だからである。
しかし、これはニーチェに責任はない。彼の予言は大筋で「当たった」ということだろう。
πの小数点以下桁数競争も“強/弱”っぽいねー
542 :
529:2012/03/21(水) 14:46:34.39 0
曲線が無理数だといっているのではありません。
曲線と直線の長さの“比率”を計算する際、一旦、曲線を“直線化する”のではないか、という疑問。
もっとも、Πが無理数である所以は、そこにはないらしい。
そこで、もう一つ質問します。
“無理数”とは、それを直訳すると「“理”がない」という意になる。
これは、円周と直径の“比”は(存在するけれども)算定不可能という意味?
それとも、その比率は「存在しない」という意味?
官能基を直訳すると「官能の基礎」あるいは「官能的な基礎」という意になる
官能小説はこれからカルボン酸ノベルと呼びたい
545 :
527:2012/03/21(水) 19:37:20.26 0
>>542 まず長さについて
曲線上にいくつか点をとり、その点を順に結ぶと折れ線ができます。
この折れ線の長さの和はショートカットをしているので元の曲線より短くなります。
ここで、曲線上にとる点の数を増やし、点と点の間隔を狭くしていくと折れ線は曲線に徐々に近くなっていきます。
そして、点の間隔を限りなく小さくしていったときの折れ線の長さの和を曲線の長さといいます。
見方を変えれば曲線を細切れにして、定規に沿って真っ直ぐ並べているとも言えると思います。
546 :
527:2012/03/21(水) 19:55:42.81 0
>>542 無理数について
円周と直径の“比”は存在します。
数として数直線上に確かに存在はするのですが、具体的に有限の数字では表記できないのでπと文字で書いているのです。
また、無理数という名前ですがこれは単に整数の比(分数)ではあらわせれないことを表しています。
英語ではirrational numberと書き、ratio(比)に否定の接頭詞irがついています。
直訳すれば「比的ではない数」ですかね。
>>536 > また、円周率が無理数であるかどうかは自明ではなく証明によって無理数であることが確かめられました。
> ただなぜ無理数なのかは数学では答えられないように思います
言っていることが矛盾しているよ、
証明=数学です。
>証明によって無理数であることが確かめられました
数学では証明を答えとする。日本語大丈夫ですか?
>ただなぜ無理数なのかは数学では答えられないように思います
πが無理数であることの意義(数論的意義・幾何学的意義)は数学では説明できない。
という意味だと思うが。
549 :
529:2012/03/22(木) 17:15:53.41 0
>>548 そういわずに、そこをなんとかできるだけ易しく説明していただきたい。
“数値の限界”ということ?
敷衍すれば“記号の限界”ということになるのだろうか。
550 :
洋楽れべる:2012/03/22(木) 17:20:36.18 0
まぁね 舌打ちで 会話できる アフリカの ひみつ
“記号の限界”というフレーズは、全く別の内容の主張を連想させるので不適切。
数学は数値だけを扱うわけではないので“数値の限界”も不適切。
(…ひょっとして、何かカッコイイ、短いフレーズが欲しいのか?)
科学は"how"を問い、哲学は"why"を問う。
などど言われるけど、今の場合も似たようなものだ。
証明によって無理数であることは判ったけど、何故無理数なのか、無理数であることの意義は何か、
と問うたところで、たまたまそうなっているとしか言いようがない(少なくとも、「これっきゃない!」というような答えは見つからない)
552 :
洋楽れべる:2012/03/22(木) 17:51:01.69 0
周波数に 数字と記号わりふっても 実数値化される
伝達エナジー と 感覚器官に伝わるエナジー との差
要は LUX と 消費換算される /Kcal の れべるなんだけど
仏教の 数え方じゃ 限界があんだよね ・・・・・
光粒子 の 無志向性 放射ベクトル
あれ ・・・・・・ 巻きはいってないから
553 :
忍法帖【Lv=37,xxxPT】 :2012/03/22(木) 17:56:21.28 O
パン買ってこいよ
554 :
529:2012/03/22(木) 18:05:51.09 0
>>551 >>546 がいうように、その“比”は「数として確かに数直線上に存在はする」のだろう?
これは「あるのに、言い表わせない」という意味のはずだ。
「(あるのに、それを)数値という記号では表現できない」といってもよく、これが“記号の限界”の意味である。
すなわち無理数とは“降参しました”の表明のようにみえる?w
カッコイイ短フレーズを求めているのではない。
(正解が)あるのに、それを言い当てられない理由が瞭然としないので、お聴きしているだけ。
もしかすれば厳密な“比”は存在しないのではないの?w
527に代わって補足しよう
>直訳すれば「比的ではない数」ですかね。
これは、より詳しく言うと「整数同士の比で表せない数」のこと。
「比がない」と騒いでるのは、古代ギリシア人と現代の貴方ぐらいのものだ。
557 :
洋楽れべる:2012/03/22(木) 18:19:59.60 0
ぐらでーしょん・てくのろじー どーしても
相対比率 がないと 成り立たない視覚伝達なんだけど
森羅万象 とかの 世界じゃないじゃん
・・・・・・・ あっちカーストだし
558 :
529:2012/03/22(木) 18:25:42.17 0
>>556 いや、おおよその“比”があるのは小学生のとき以来、知っている。w
「整数では表わせない」とはどういう意味? というふうに、ここから先を云々するのは苦手?
整数がだめなら、では何によってなら表わせるの? (πはだめだよ)
この二つの質問に対する答えが納得できたなら、引き下がります。
559 :
洋楽れべる:2012/03/22(木) 18:26:48.79 0
ふぇ−どいん → ふぇーどあうと ・・・・ (笑)
>>558 >では何によってなら表わせるの?
例えば、πの小数展開を与えるアルゴリズムによって。
表すだけならπの定義を与えてやればそれで済むけどな。
なんらかの有限的な表現法が知りたいんだろう?
(ほとんどの)数学では無限的な対象も躊躇なく扱う。
「存在」という概念をかなりおおらかに捉えることで、縦横無尽に推論することが可能となった。
πの場合は小数展開を与えるアルゴリズムがあるが、このようなアルゴリズムのない実数もある。
それでも別に不都合はない。実数の具体的な数値(=小数表示)を用いることは数学ではまずないから。
「存在」を広く認め過ぎたことで不確かな理論になった!という哲学的な批判はあり得るが……。
>「整数では表わせない」とはどういう意味?
実数xのうち、x=a/b(aとbは整数で、b≠0)であるものが有理数
それ以外が無理数
この定義に疑問の余地があるのか…?
実数の定義を知らないのが混乱の原因だというなら、そこから先は自分で勉強してくれ
>>561は削除してくれ
質問の意図を勘違いした
>「整数では表わせない」とはどういう意味?
論理的には、数体系を整数→有理数→実数→複素数というふうに拡大していくので、
単なる分類として「無理数」という名前をつけた。
歴史的には、ギリシア人が整数を特別視していたので、有理数でないもの(√2とか)はことさら奇妙に思われた。
無理数が存在すること自体は当たり前。
有理数から実数へと数体系を拡大したのだから、新しく加わったものを「無理数」と呼ぶだけのこと。
今問題にしているのは、円周と直径の比であるところのπが、何故無理数なのかということ。
それに特別な意義はあるのか?ということであった。
この種の問いならいくらでも作れる。
正方形の対角線と辺の比が無理数なのは何故か?
自然対数の底が無理数なのは何故か?
……
これらにいちいち納得のいく答えが見つかるとは思えない。
πが無理数なのは何故か?という問いも、無数にあるつまらない問いかけの一つかもしれないし、そうでないかもしれない。
物理的には、ある数値が有理数か無理数かどうかという問題は全くナンセンスなので、数学の外に意義を見出すのは期待薄。
見出せるとしたら、数学の内部に。もしくは神秘主義に走るか…。
決定論主義者の生きるモチベーションは何?
「やる気」はどこから出てくるの?
「現状を変えよう」と思ったりもしないの?
ああ..ゲームさんが的中にこだわる気持ちが何となく分かったような気もしますよ
無理数・・・覗くと怖いですね
565 :
考える名無しさん:2012/03/23(金) 08:50:17.89 0
馬鹿しかおらんなw
_____
+ へ/ \ へ +
___./\i / \ /\___
+ / \.r/ ヽ-/ \ +
/ ./~\.`l |._./~\. \
\ ` .-=・=- i、-=・=- /
\.. / ー-' ヽ /
\::.| ト‐=‐ァ' |: / 服薬したのかね〜?
/ ー--´ ヽ
>>549 > そういわずに、そこをなんとかできるだけ易しく説明していただきたい。
素を素以外で説明するにはそれ以外の全てとの関係を完璧に求めることが
要求される。
素を素で表せるのに素以外を説明するとか愚の骨頂である。
そして無限を人類が手に入れられないのに、無限の説明が必要なものを
無限が何かすら説明できないのに表すことが無意味である。
限りが無いのに限りがあるのを無限とするのか?(無限大)
つまり無限の近似は説明できても無限そのものは説明できないのと同じ。
それは値ではないのです。
>それは値ではないのです
値は小数で表現されるはずだ、あるいは値は小数で定義されるものだ、という先入観からくる発言
見かけの形ではなく、それが持つ機能によって特徴づけするのが普通
>>568 数学で扱う定数の無限大(=∞)と
観念で扱う無限(値が無い)を混同する奴がたくさんいるけど。
少数って話でもない。
観念でいう無限とは限りを計ることが出来ない意味を指し数式では
表せないものを言う。
それは大小を表せないということです。
値の持つ無限とは、無限÷無限=1となる計算のようなものです。
計算式で表せるものは全て事実上無視できるような大きな値であり、
決して値が無いものではないのです。
見かけの無限しか見れないと先入観で無限を全て∞という記号だと誤認します。
機械タンは死んだのか?
最近見かけないけど
量と数〜無理数とか無限とか
円周率は率(=比:ratio)なので比と言えば比なわけですが、分数では表せない。
しかし「直径が1の円」の円周があり、その円周に「長さが“ある”」と認めるならば、
その長さ、つまり「量の値」である「π」は「存在する」ことになる。
πは、第一義的には「量」です。
「量を表現する手段」として「数」があるわけですが、量を全て数(小数)で表現できるのか
微妙なところです。
「ヒトは無限を扱うことができるのだ」として、量を数で表現できるとしているのだろうか。。
恐らくカントールは、ヒトをして「無限を扱うことが可能な存在者である」とし、
地獄の扉を開けたのであります(知らんけど)。
π=3.14159......
無限の存在(つまり無限が「“ある”ものである」こと)を認めるなら、
数値としてこれ(πに相当する“数”)が存在することを認めることになる。
このとき、アプリオリな概念としての「量の連続性」を表現するために、
もともと離散的な概念である「数」を使って、「連続な実数のシステム」を作為的に作る必要があり
無理数はそのために要請され、とりあえずシステムの作成に成功した・・んでしょ。
ただ、そのために一見奇妙なことも事実として認める必要が生じる。
0.9999999....=1 であることを認めないと、実数の連続性を保てない。
実に「おとぼけ合戦」的ですな。
失礼
0.9999999....=1であることは、実数とか無理数を持ち出すまでもなくわかることなんだけど
実数の連続性とか関係ない
>>572 算術的に証明するのは“簡単”だな。
私の話は高木貞治のパクリなのだが
貴方の見解では「実数の連続性とは関係ない」のか
・・・そうなのか
574 :
抄録:2012/03/25(日) 07:29:23.41 0
実数の連続性とか「無」とか
実数の連続性をヒトがどうやって理解するのかというと
これ「デデキントの切断」によるわけですが、これが実に珍妙な話で・・
簡単に言うと
実数を切断して部分AとBに分けると、部分AまたはBには端(最大または最小)があり
もう一方の部分には“端が無い”。
とするわけです。
「端が無い」って・・・じゃあ何があんだ?「無」があるとでも・・w
察するに、これは背中律を優先させたんです。
つまり「切断によっていかなる数もAかBのいずれか一方のみに属する」ことを最優先に
システムを作ったわけです。数学というのは結構、荒技ですばいw
直観よりも規約重視
ヒトはいかなる規約を優先するのか・・こっちは哲学的w
で、0.99999...の話に戻るんですが、これがどうして1と一致しなければならないのか。
それはですね、
自然数では、9と10の間の自然数は無いわけです。
そうするとですね、自然数で構成される0.99999..と1(=1.0000..)の間には、
いかなる数も存在できない。
つまりこれは0.99999..と1の間で切断することができない、ってことになるわけです。
また0.9999..と1の両方が切断の端になることもできない。
なので0.9999...と1とは一致するのだ、と。
私が理解するところではこんな感じですが、何だか不思議な話ですばい。
575 :
抄録:2012/03/25(日) 07:35:16.68 0
ちなみに0.9999...=1の算術的に証明はですね、
572さんの代わりに私がやりますけど
0.9999...=S としますと
×10して
9.9999...=10S
辺々引いて
9=9S よってS=1
となるんですが、厳密とは思えませんわね
厳密な証明はあたくし知りません。
誰ぞ教えてたもれ
等価であるのと一致は違うんですよ。
デジタルとアナログの違いが理解できないやつはデジタルで
アナログを表せると言い張る。
1を2分の1にして、さらに2分の1にしてこれを永遠に繰り返せば
値は0になるという理屈は有効値かどうかの話にすぎないのです。
解釈で意味が生じるのと論理的なモデルを混同している。
有効値という概念すら知らない頓馬な人が都合よく詭弁するのには丁度いいだけです。
2分の1を無限回繰り返す、それは無限という値を扱っていることに気が付いて
いない。無限大という値が限りが無い無限と同じ機能で同じ意味をなすから
同じものだとこじつけしているだけであります。
無限とはそもそも円運動の同じ軌跡を通るのような概念であり、平面状の事象の地平
を示すものではないのです。
同じ計りで計算できるモデルに当てはめた時点で形而上の概念を形而下で
通用すると論理説明しているだけです。神を使って物理を表すのと何の違いもない。
>>576 おまえ頭だいじょうぶか?
アナログもデジタルも同じ値なら完全一致なんだよ。
学校卒業したのか?
578 :
ゲーム:2012/03/25(日) 17:03:20.99 0
>>564(抄録氏)
ここは、的中してほしいところである。w
というのも、論じている題材がプラトニックな領域に属しており、点、線、面…
あるいは“数”は現前しない純粋概念であり、大胆にいえば“数学”もまた御伽噺
だからである。
これは「イエスが復活した」とか「お釈迦さまが悟った」といったそれとは趣きを
異にしている。これらが多義的であるがゆえに伝承の輪を広げたのに対して“数学”
はその絶対的な一意性によって“普遍性”を獲得したようにみえる。
「イデアは天上に実在する実体」とするのがプラトニズムだが、抄録さんが時おり
名指すペンローズは、この純粋概念の織りなす数学的領域を、たしか意識的所産に
格下げしていた?と記憶する。
はしょっていえば、プラトニックな世界は“真”“善”とから構成さるべきでは?
しかし、ここにも“穴”があるということか。“正しさ”は何処にありや? w
背中律ではなく、排中律でしたw
いつもいつもスンマソン
>>576 オカルト君、気持ちは分かるのだw
しかしこれは、半分の半分の半分の、そのまた半分の・・・とはどうも話が違うと思う。
つまりだな、まあちょっと喩えが我流に走って危なっかしいがw
0.99999...というのは「1の影」なのだよ。
最初から1に“くっついてる”のだ。
不思議な話よのう・・w
>>578 似たようなこと何度も言いますけど、
そんな大仕事を的中できるようならですね、
あたくし恐らく、こんな貧乏暮らししておりませんわw
正しさって何でしょう。
最近思うのはですね、いかなる根拠付けも最後には宙に浮くわけです。
また、とりあえずヒトの都合によって厳密に規約を決めたとしても、
数理体系を無矛盾完全にすることは、もとから望めない・・わけでしょ。
どうやっても穴ができてしまう。
そうするとヒトに残された道は「何を優先するか」しか無いわけ・・ですかね。
*********************
しかしそれでも真理は揺るがない。
なんとなればですね、
ヒトがそのように理解し判断できる世界がやっぱり成立しているからです。
私は一般的な決定論(機械的唯物論)を排して、そうすることが真理だと考えてるわけです。
それは他人からみれば矛盾した言いぐさなのかもしらん。
しかし私はそこに自然の真理を見ようとするわけです。
これはおかしいこと?w
582 :
525:2012/03/25(日) 19:51:13.34 0
>>581 おかしくはないですよ。真面目な答えです。
>0.99999...というのは「1の影」なのだよ。
なるほど幻想を描いているのですね。
584 :
考える名無しさん:2012/03/25(日) 22:42:25.95 I
決定論という信仰あるいは妄想は、
言い訳や負け惜しみや諦めや許すことの慰めとして役に立てれる人には立てれるが、
結局観測不可能なわかるわけがないことを言っているのであり、
現実的には何の役にも立たず、
多くの人間にとっては何の意味もなく、徒労であることは間違いない。
0.9999=1は決まってるだけだろ。
数学はそもそも仕組みとして完全とは思えない。
本当に完全なら0で割れないとかいう「例外」はなくせるだろ。
例外がどこかにある限り、他にも例外がたくさんあってもおかしくない。
例外はそのシステムを使う限りはじめから真であるわけでそこでああだこうだやることは無意味。
>本当に完全なら0で割れないとかいう「例外」はなくせるだろ。
これはただのイチャモンだ。その例外に何の害があるのか。
完全であることを期待する先が、まるで見当違い。
数学というか論理学の"不完全性"だが…
2階論理で完全性定理が成り立たないことは、論理の"不完全性"を示す例として説得力がある
数学はほとんど2階以上と考えられるし
0で割れないとかはどうでもいいw
どうでもよくないだろ。
全ての対象に例外無く適用できる法則がより完璧に近いと考えるのは自然。
割り算は1や−10.2を分母にもってきてもいいが、0は駄目ってのはその考えに反する。
おまえらがこれに(大した理由もつけれずに)反論してるのは、数学の大家が皆それを当然のものと
考えていそうだからそこは問題ないと思考停止しているだけにすぎない。
チキンだよきさまらは。哲学がお似合いwww
>>582 ええねん、そんなんはええねんw
>>583 幻想・・
んーなんか微妙
理解に都合の良いようにルールを決めるわけなんですけど
そのために犠牲になることが生じるのではないですかね。
それ以上は私には見えんのだが
貴方もプレーヤなんだからちょっと考えなさいよ
590 :
529:2012/03/26(月) 08:54:02.73 0
細々したことはいいから「数学とは何か」を、本スレの主意に沿って、
真っ向から語ってほしい。「御伽噺」でいいのか。
>>587 勘違いすぎるですよ、数学は完璧です。
なぜなら事実無根、現実と何の関係もなくても数学は成立するからです。
数学は自己の中での完璧な方程式だけの世界であり、方程式が不完全
などありえないのです。方程式自体は世界ではなく、脳内の
まゆつばですけどね。
>>588 算数しか知らない小学生のような問題意識だ
「せんせー、どうしてゼロで割っちゃいけないのー?」
593 :
390:2012/03/26(月) 16:26:32.09 0
>>540 >矛盾しない。
>「〜は何か」を私が問う相手は、真理(本質)主義者に限られる。
説明が、おかしいですね。
ゲーム氏は「何が存在するのか」が本スレのテーマであるとして、それについて、自ら「エネルギー、時空、意識」と答えているのだから、
その場合の「エネルギー、時空、意識」は、存在の《本質》です。
《本質は存在しない》と言いつつ、そのように《本質》を答えている・・・という自覚がゲーム氏にはないのでしょう。
思考が整理されていないからだと思います。
《本質》について整理すれば・・・
一般的にいえば、「○○は□□である」の「□□」にあたるのが「○○」の《本質》です。
哲学辞典には次のようにあります。
「物事が本来何であるかを規定し与える根本の自己同一的な固有性。それを言語化したのが定義である。」
ここに、「規定し与える」とありますが、問題なのは《本質》を「誰が(何が)」与えるのか、ということであり、
それについての考え方の違いによって、《本質》が「どこ」にあるのかも違ってきます。
(第一の立場)
一神教的な伝統においては、超越的な神が《本質》とともに万物を創造する。
その場合、《本質》は《存在》の「外」から与えられ、《存在》の「外」にある。(超越的という点で、プラトンのイデアもこれに属します。)
(第二の立場)
《本質》は《存在》の「外」から与えられるのではなく、もともと《存在》の中に内在している、というアリストテレス的立場。
素朴実在論的な見方も、この第二の立場に属すると思います。
つまり、《本質》は誰が決定するものでもなく、はじめから《存在》に備わっており、それを我々が見つけ出す・・・という見方。
(第三の立場)
《本質》を与えるのは「我々(人間)」である、という立場。
観念論的な傾向の強い考え方は、この第三の立場に属します。
594 :
390:2012/03/26(月) 16:28:37.16 0
ゲーム氏が“真理主義”を批判する場合には、ゲーム氏はこの第三の立場に立って、第一と第二の立場を批判しているのだろうと思います。
ゲーム氏が書いていた《本質は存在しない》という考え方は、おそらく、大乗仏教の考え方でしょう。
大乗仏教はこの第三の立場に属します。
大乗仏教で《本質は存在しない》と言う場合、その意味は、《本質》は「第一の立場」や「第二の立場」のような形で存在するのではない、
ということであって、《本質》はどこにも存在しない、という意味ではありません。
なぜなら、現に我々は種々様々な《本質》(「これは○○である」「あれは△△である」・・・)に取り囲まれて生活しているのだから。
では、それらの《本質》は、「どこ」からやってくるのか・・・?
それに対する大乗仏教の答えは・・・人間の倒錯した意識の働きによって《本質》は生み出される、というものです。
大乗仏教では、《本質》を生み出すこの意識の働きを、「妄念」とか「妄想分別」と呼びます。
(ゲーム氏が“真理主義者”を批判する場合には、このような立ち位置から批判すると思われ、
「タワゴト」などのゲーム氏の言い方が、仏教の「妄想分別」に相当します。
しかし、ゲーム氏が「エネルギー」について書く時には、立ち位置は、ズレています。
ゲーム氏は、「エネルギー」を「妄想分別」として否定的に見ているのではなく、そこに「妥当性」を求めているからです。)
《本質》を与えるのは「我々(人間)」である・・・という第三の立場の中で、
人間が与える《本質》に「妥当性」を認める代表的な考え方が、カントの認識論です。
カントによれば、現象界においては人間の認識は「妥当性」(=「普遍妥当性」)をもちます。
人間の認識が「妥当性」をもつ理由は、認識が、経験に先立って(つまりアプリオリに)備わっている原理(カテゴリー)
に従って認識対象を構成するから(コペルニクス的転回)です。
こうして、主観が対象をアプリオリに構成することによって「妥当性」(=「普遍妥当性」)が生じるのですが、
その場合の「主観」というのも、《個》的なものではなくて「意識一般」なのであり、
そのような《普遍》尊重の考え方から、カントの認識論における「妥当性」(=「普遍妥当性」)が生じてきます。
595 :
390:2012/03/26(月) 16:31:10.40 0
同じ第三の立場の中でも、《普遍》尊重のカントの認識論と対照的なのが、ニーチェの解釈論です。
ニーチェは「力への意志」「永劫回帰」などの思想に「妥当性」を求めません。
「強/弱」という尺度についてはこの前書きましたが、それらのニーチェの思想は、「強さ」にもとづく思想なのであり、
少数の者(強者)のための思想だからです。
だからニーチェがそこに「妥当性」(=「普遍妥当性」)を求めるならば自己矛盾することになるでしょう。
ニーチェの考えでは、「妥当性」(=「普遍妥当性」)を求める思考法は(>187でゲーム氏が書いていた「多数決」という発想も)、
「弱さ」にもとづく思考法の典型です。
弱者はそれによって、「強/弱」の差異を隠蔽しようとするのだ・・・とニーチェは考えます。
(ついでに言えば、「力への意志」という思想は、マイヤーやフォークトなどの自然科学的「力」概念への批判から生まれた思想なので、
それは「エネルギー」への批判から生まれた思想であると言っていいでしょう。)
第三の立場の具体例として、大乗仏教、カント、ニーチェ、の三つの考え方を挙げました。
《本質》を与えるのは「我々(人間)」である・・・という第三の立場は、大きく見れば、《本質》を「フィクション」と見る立場です。
しかしその中で、《本質》を「妄想分別」として否定的に見る大乗仏教、《本質》に「普遍妥当性」を認めるカント、
そして「普遍妥当性」を認めない(「それは《私の》趣味である」とする)ニーチェ・・・と、考え方は全く異なります。
「タワゴト」「御伽噺」「フィクション」というゲーム氏の考え方が、大雑把すぎることがわかると思います。
上の三つの中で言えば、ゲーム氏は、他の考え方を批判する時には大乗仏教的立場から批判し、
自分の考え方を述べる時にはカント的立場に立っていると思われます。
しかしその二つの立場は、両立しないと思われます。
>ちなみに「正しい(真と善の両義)」と“妥当”とは異なる。
>これについて議論したいのなら、お相手する。
まず、参考までに、哲学辞典の「妥当」の項から引用します。
「妥当」という概念を哲学的概念として定式化したのはロッツェで、ロッツェによれば、
【真理価値たる妥当は主観と独立で超時間的である】。
カントは【時間関係の経験的認識がいかなるときにも成り立つこと、これを客観的妥当と呼んだ。】
シェーラーやハルトマンらは【歴史文化的に異なる価値が、妥当によって規定されているかぎり相対化されないと唱え、
妥当概念を反相対主義的主張の足掛かりとした。】
また、一般的な用語法としては、「妥当性」=「普遍妥当性」であり、>187のゲーム氏の
「全メンバーの意見を一人ずつ聴いて回り、多数決をとる」にも、「普遍」尊重の考えが現れています。
だから、ゲーム氏が「妥当」対して肯定的であるのに、「普遍」に対して否定的であるのは、矛盾していると思われます。
では、ゲーム氏が考える「妥当」とは、どういうことなのか。説明お願いします。
597 :
390:2012/03/26(月) 16:35:10.41 0
>ニーチェは全き“アナーキー(空)”に耐えられなかったのだろう。
そういえばゲーム氏は、「空」を、「底なしのニヒリズム」、と誤解していましたね。
実は、ニヒリズム(無意味)に耐えられることが、まさに、ニーチェの言う「強さ」なのです。
時間がなくなってきたので、それについて書くのはやめて、
まずゲーム氏の考えを聞きたいと思います。
ゲーム氏は、仏教の「底なしのニヒリズム」には凄みがあり、それを評価していると書いていました。
しかし、ゲーム氏を含め、我々は、底なしのニヒリズム(無意味)の中で生きているのではなくて、種々様々な「意味」に取り囲まれて生きています。
そして、ゲーム氏を含めて我々は、生きるために「意味」を必要とします。
このことは、「底なしのニヒリズム(無意味)」を「評価」することと矛盾しませんか?
そして、《ニヒリズム(無意味)に耐える》ということを、ゲーム氏はどのように理解しているのですか?
598 :
390:2012/03/26(月) 16:37:02.11 0
>>499 :抄録氏
生物学に「無理」があると私が思う理由は、>268-269に書いたとおりです。
>それはピュシスとやらによって解決されるとでも思いますか。
哲学というものは、それによって世の中の何かを「解決」するようなものではないのではないのか・・・
と思います。
哲学は、科学的理論とは性質が異なり、一人の哲学者の中で思想が「完結」しているようなところがあります。
だから、プラトンの思想の中ではプラトン的問題が「解決」されており、
デカルトの思想の中ではデカルト的問題が「解決」されている・・・
とは言えるのかも知れません。
「有」「無」「成」のへーゲル弁証法において、「有」と「無」の対立は既に止揚されているのと同じように、
「生」と「死」とを截然とは分けない「ピュシス(自然)」という思想の中には、もともと「生」と「死」の対立がありません。
だから、「生」と「死(非生)」とを截然と分ける考え方において存在する《解決すべき問題》、
すなわち「生」と「死(非生)」との「断絶・飛躍」という問題が、そこには存在しない。
つまり、その思想《によって》何かの問題を「解決」するのではなく、その思想《において》問題は既に解消している・・・
ということだと思います。
599 :
527:2012/03/26(月) 17:02:04.61 0
>>575 (証明)
Sn=0.9+0.9*10^(-1)+0.9*10^(-2)+...+9*10^(n-1)
とおく
両辺に10^(-1)を掛けて
10^(-1)*Sn=0.9*10^(-1)+0.9*10^(-2)+...+0.9*10^(n-1)+0.9*10^(-n)
辺々引いて
0.9*Sn=0.9-0.9*10^(-n)
Sn=1-10^(-n)
n→∞とすると
Sn=1 (終)
0.999...を無限等比級数として計算したものです。
技工的には同じですが。
>>572 無限大を扱っているので実数の連続性は必須だと思います。
600 :
ゲーム:2012/03/26(月) 17:26:37.18 0
>>390 いまから出張なので、詳しくは帰ってからお答えします。
一つだけ述べると、私は“普遍”妥当を否定しているのです。
何が普遍妥当するのか、例をあげてください。
“普遍”が成立する言説領域を「御伽噺」と、私は呼んでいます。
ついでに、もう一つ。
以前、唯意味論をコテにしていました。
凡庸なるものは“意味”を求めるしかありません。むろん私もそうです。
つまり方便のことです。方便を要しない存在、それが超人でしょう。
値から値で説明している証明は、有限値を有限回数と照らし合わせて説明しているだけで限りが無いという観念には1歩も歩んでいない。
計算できないもを便宜上計算の方程式にしたところで、それは値じゃない物を値に定義した時点で間違いだと気が付くべきだな。
>>592 0というのが値なら、割ってもかまわない、
値じゃないなら割るとかありえない。
604 :
抄録:2012/03/27(火) 00:54:12.77 0
>>598 ん〜哲学史の講釈が大半で、どこに貴方の考えがあるのか読み取れないのですが、
貴方にとっては、
“「生」と「死(非生)」との「断絶・飛躍」という問題が存在しない。”
ということでいいですか?
それって、
生物は「生成としての非生物(水とか土とか空気とか)」によって理解できる。
ということですかね。
それとも貴方の考えは違うんですか。
貴方は
>《死せる》「物質」を扱う物理学を基礎とした「生物学」には、いろんな点で「無理」がある
と言っておられる。
デカルトが400年前どう考えていたかは知りませんがね
現代に於いて、物質が死んでるとか生きてるとか考えてる物理学者はいないんじゃないですかね。
「物理学」とは物質の“振る舞い”を探求する学問。物質は常に作動してるんですよ。
なので「物質は生成である」としたって物理学は何も困らない。しかし「生成」なんて使いようがない。
「生命が存在に内在している」としたところで、生物学の何が変わり得ると思います?
生物は、現実に「生きている」んですよ。そしてそれは土じゃないんです。
土がやみくもに「生成」したって生物は生まれないんです。
まるで言いっ放しの煮ても焼いても食えない“内在する生命”とやらを、
この21世紀にどうやって学問にする気です?
以前にも言ったかもしれませんが、とぼけた話は大概にしていただきたい。
生死を分けるのは自然な感覚だと思いますが、ぼんやりとした生を生きている私のような人間には
もう少しぼやかしておいてほしいというのはあります。
あんまりくっきり分けるとますます死が怖くなるのですよ。これは私だけじゃないと思いますね。
時代は何でもくっきりはっきりさせたがる方向に向かっている。それが迷惑だと思う人間もいるのです。
ごちゃ混ぜでは困るし線引きされ過ぎても困る。我儘ですかね。
>>605 なるほどな
そういう変化球を投げてこられるとな
なんというか否定できんわけで
俺も困るわけよw
俺はただ胡散臭い話しが嫌いなんだよ
我儘なのよ
我儘に生きよう
それしかねーし
寝る
>なんというか否定できんわけで
>俺も困るわけよw
どうしても討論という形式にしたいのは貴方の本質か?
ここは討論の場です、討論したくない人はカエレ・。
609 :
考える名無しさん:2012/03/29(木) 03:13:49.21 0
決定論とは信仰なの?
>>609 まちがいなくそのとおり。
極論をいえば論そのものが信仰ですよ。論以外を否定するそれは論という
手法を疑うことはありえない。
今日もお日柄がよろしいようで。
>>609 決定論は自然ではない。
612 :
ゲーム:2012/03/29(木) 16:51:39.31 0
>>593 あいからず長文であり、その大分が教養の披瀝であり、それを除けば
君の批判の骨子は「本質がないとしながら(私が)本質を語っている」と
いうに尽きる。
“エネルギー、時空、意識”は少ない伝聞情報に基づいて私が妥当と
みなす主観的見解にすぎない。つまり意味であり、一つの解釈だ。
ただし、本スレではだれからも賛意を得ていないので、彼らからは
“タワゴト”とみられているのだろう。w
“妥当”は「適切。よく当てはまる」いう意味であり「本質」を指す
言葉ではない。むしろ、本質(真理)がないがゆえに“妥当性”を求め
ざるをえないともいえる。普遍性=一般性なら(そういう意味もある)
普遍妥当なる表現も悪くはない。しかし、それが「例外なく」という
意味なら、それは御伽噺のなかでだけ成立する概念である。
613 :
ゲーム:2012/03/29(木) 17:13:26.87 0
>>595 についてはていいだろう。
>>597 “空”が底なしのニヒリズムでないのなら、何?
それを語らずに「誤解している」と頭ごなしに否定するのは君の悪い癖である。
では、“空”はどんなニヒリズム? それともニヒリズムではないの?
権威筋の引用が多く、君が何をいいたいのか(私に文句があるのはわかるがw)
主旨が曖昧。整理して、このスレに沿って何か述べてほしい。
>>610 論というのは実際信仰を理論化したものだろうと思われる。
なぜならば化学的真理の完全なる理論家は数理的に不可能だからだ。
これは言語でも同じであるので、同様に不可能。
つまるところ信仰という語が信仰から最も遠ざけるものであるだろう。
やけに説得力のある意見とか文章とかに出くわした時の記憶が真理のイメージの基礎になってるんでしょう。
そうなると真理とは究極の説得力を持つ仮想の文章と言えるでしょう。
でもそれってたかが我々人間を説得できるだけなんですよね。
我々ごときが真理かどうかを判別することはできないとすればあるかどうかも結局分からないんでしょうね。
我々にできることは説得力の強弱を評価することだけでしょうね。
そう考えるとニーチェの強弱の尺度は確かにその通りと認めざるを得ない。
ニーチェなど読んだことなかったんですが390氏に感謝です。分かりやすい解説でした。
ニーチェだろうが無理ですな。
記憶とかイメージとかは観念論ですし。
機械タンが嫌うものだ。
617 :
ゲーム:2012/03/30(金) 09:32:08.37 0
ニーチェは「狂った」といわれる。それが本当なら、そこに深い意義がある
のかもしれぬ。が存外、たいした問題ではないのかもしれない。なにせ世に
狂人は多いので。
真/偽、善/悪を“強/弱”によって脱構築したのだろうが、これも目新しい思想
ではない。強/弱もまた“理”だからである。
かの地の人は理(ロゴス)を求める心性が植えこまれており、プラトニズムと
キリスト教に抗った流石のニーチェも却って“弱肉強食”という俗流の圏域
に差し戻されているようにみえる。“優勝劣敗”は彼ほどの教養がなくても
古来、だれもがよくしっている世界観だからである。
618 :
ゲーム:2012/03/30(金) 10:03:08.27 0
>>581(抄録氏)
おかしくはない。
しかし、それは“真理”とはいえぬのでは?
それは主観(理解と判断)が、客観(世界)を一定の“あり方”で認識している
という事態を指してはいるものの、その“主客の一致”を「正しい」とする
根拠はどこにもなく、抄録氏がそのように確信しているだけである。
「主客は相関する、ただし相関の内実はヒトそれぞれ」という俗流相対主義
との違いがみえてこない。
別にニヒリズムをも超える哲学を創造しろよ。
620 :
考える名無しさん:2012/03/30(金) 18:18:11.62 0
客観なんてないんだよ
そこから間違えてる
622 :
考える名無しさん:2012/03/30(金) 18:26:55.61 0
>>619 忍法君は前田推しだろう?
今回の前田の決断を、どう思っているのかな?
623 :
615:2012/03/31(土) 00:57:10.35 0
>>617 あなたのは新/旧によって強/弱を脱構築ということでしょうか?
私は何も真/偽、善/悪の脱構築に賛同したわけじゃありませんよ。
ニーチェがどういうつもりで言ったのか知らないんでアレなんですが。
真理がどんなものか分からないのでひとまず説得力を基準とするのがよかろうと思っただけです。
目新しさよりはいくぶんましだと思いますがどうでしょう。
特に真と偽は見極めきれませんのでね。見極めきれる者がいるとすれば真理を知っているでしょう。
私も一応真と偽に関する判断はしていますがよく間違うのですよ。かと言って判断しない訳にもいかない。
真/偽を直接判断しないという意味で真から遠ざかる、少し偽に傾く危険はやむを得ないですね。
それ言われたら新/旧はどうなんだと言わせてもらいますよ。
624 :
抄録:2012/03/31(土) 01:32:44.29 0
390氏に説得されちゃったわけですか
625 :
抄録:2012/03/31(土) 01:41:09.69 0
>>618 んー言っておられることがよく分からないのですが
私の言いたいのは、「リンゴがリンゴの意味であるときにはトマトではない。」
ぐらいの話。論理の論理性は主観に先立つ(微妙w)
626 :
抄録:2012/03/31(土) 01:48:07.20 0
「強弱」は「結果論の変奏」以上のものになり得るのかしら
627 :
24:2012/03/31(土) 08:50:09.97 0
>>618 真理が見えたら真理じゃないですよ。だってそれって真理を定義するようなものでは?
真理というなら真理が主観的であっても定義されるべきです、主観的な定義ですから客観的論理
など無視できるわけです。
それは関係性の定義であって自己との自然さは成立しても不特定の他者からの自然さは成立しえない。
自分から見えた自然さが真理という話を否定もできない。
つまりその真理への自然さとか自己本位でしかない。
決定論が全て錯覚だと納得させて通すのは不自然です。自然というのならば
自己と不特定の他者が対立するのではなく、両者が一致する必要もなく
両者が自然であるべきです。つまり決定論を排して扱われる自然は不自然というもの。
排さずに自然さを捉えられないのならば形而下でしかそれを捉えていない証拠に感じられないですか?
628 :
考える名無しさん:2012/03/31(土) 10:01:14.25 0
>>628 釣りと馬鹿の区別ができないのは、空気読めないってことだよ。
630 :
考える名無しさん:2012/03/31(土) 10:11:03.73 0
釣りと馬鹿の区別ができないふりが解らないのは、空気読めないってことだよ。
機械=純一=波平(笑)
632 :
ゲーム:2012/03/31(土) 12:24:20.23 0
>>625 主観(抄録さん)的には、そのとおりである。
「これはリンゴであり、トマトではない」というのは、たとえば“私”にとっても
不可疑である。(ちなみに机の上に、たまたま“リンゴ”を置いているw)
ただし、その私(抄録氏)の主観が「正しい」という根拠はない、ということである。
その記号の使い方の適否は云々できる。ある“物体”をリンゴと呼ぶか、その他の
呼称を用いるかが決められていて、さらに語順を含む“文法”の相互了解があれば、
その言明が「論理的か否か」を相互主観的に判断することはできる。
が、これは“存在の真/偽”とは異なる。
リンゴの本質(もの自体)が「わからない」もしくは「ない」ので論理整合性の強/弱、
すなわち説特力によって「その妥当性が判定される」のである。
633 :
ゲーム:2012/03/31(土) 12:34:48.19 0
ある“物体”を、たとえば「トマトと呼んでいる」のが「正しいかどうか」を
一応、一般的に判定することはできる。
しかし、このような約束事についてさえ“普遍妥当性”を得ることは不可能。
先ずですね
ゲームさんは「正しい」を宙に浮かしていると思う。
貴方はそこで「正しい」について、「何ごとかを“正しい”とする根拠を全て拒否する記号」
として設定している(つまり「正しいものなど無い」)
あとですね、
文法の相互了解とか相互主観とかリンゴと呼称できる事態とか
それは「自明ではない」でしょう。
しかし成立する。それを「真理の現れ」と言わずしてなんぞ?
オカルト君にも言っときますが
「論を論によって否定できない」とか、それは既に論であり
「論理ありき」で成り立つ主張。
いかなる戯言もデタラメも論理から逃げられない。
「説得力」とか「強/弱」とか、もう胡散臭くてかなわん
詐欺師上等ってことですかね
「論理的整合性」と言うは簡単だがそれを掴み取るのは容易ではない
随分前になりますが、複素数で揉めた時、
オイラーの公式がどうたらと口走ったらペテン師よばわりされましたな
最近の私のレスも「意味が分からない」とも言われます
説得力ゼロですわ
639 :
ゲーム:2012/03/31(土) 17:21:28.52 0
>>634 抄録氏の言葉を借りれば“正しい自然”など存在しない、といっているのである。
なぜ“正しさ”を欲するのか、そこは興味ぶかい。
ただし、これもみながみな欲しているわけではない。
>>635 それは、主観と主観はルールについて“合意”に至ることもありうるという話。
この相互主観的(アバウトな)一致を共同幻想と呼ぶらしいが、たいていの場合、
“真理”とは、この共同幻想を指している。(ラビ氏によればw)
>>637 こちらからみれば、“真理”や“正義”を宣うほうが胡散臭い。w
ちょっと疲れぎみで、さえません。(苦笑)
エネルギーが何の供給もなく増大するようなものが間違った自然です。
自然ならばエネルギー消費と共にエネルギーは減少します。
このように正しい自然さはあるのです。
何もない惑星の中にいきなりブラックホールが乱立したら?
それは自然ではありません。
641 :
525:2012/03/31(土) 19:19:02.32 0
>>640 >エネルギーが何の供給もなく増大するようなものが間違った自然です。
過去、人は鉛を金にしようとしたが錬金術は挫折した。
しかし、その代わり(鉛→金)を人の中に発見したのだ。
おかげで人口は爆発的に増えている。
>>639 w
私も冴えない。且つ余裕が無い
来週ぐらいには数学の話も絡めて説得力の無い話をくっちゃべりたい
正しさ、正しさ・・
一時期は世界最高の知性とうたわれた波平の力は、
今やハーバードの全学生に崇拝されるまでにもなった。
"The Namihei" と言えばもはや全米ではタックスヘイブン扱いである。
>>936 そんなんじゃありません。
これは幼少期から続く状況です。
朝起きたらケロリとするようなものではありません。
仕事や何やらで凹むとかは関係ないです。
まさに悪霊にとりつかれたかのようにおかしくなるのです。
もう外に出たくない・・・。
哲学は無意味ですよ。
647 :
考える名無しさん:2012/04/01(日) 22:14:25.79 0
決定論は趣味
648 :
考える名無しさん:2012/04/01(日) 23:45:53.07 0
>>646 そのとおりだよ、忍法君。
君が前田を推してきたのは、その意味では哲学的である。
今後はどうするつもり?
650 :
考える名無しさん:2012/04/02(月) 09:35:36.02 0
>>646 内野安打が好きな人はフェラ強要願望があるらしい。
651 :
じゃこうネズミ:2012/04/02(月) 15:57:46.86 0
無駄じゃよ、無駄じゃよ、
最悪の想定の少し斜め上を行くぐらいじゃないと。天才とは言わない。
ほんとうにそうかな?
654 :
考える名無しさん:2012/04/02(月) 20:19:14.03 0
>>646 君の知ってる範囲では哲学は無意味であるというのが正しいと思うよ
皆様646とどっちがより正しいと思われますか
ところで抄録様。正しいとはつまりはより人々の役に立つということに尽きると私は考えますが
つまりより多く価値があるほうが正しいということに尽きるんでないの。実はそれが唯物論だと思うが
>>654 多数は常に移り行く。世界の大多数の正しさより優先される守るべき
正しさもあるさ。
656 :
抄録:2012/04/02(月) 22:07:43.69 0
>>654 どうなんでしょうねぇ。。
「正しさ=役に立つ」に解消する立場もありなんだろうが
しかし数学ですら整数論の大半は役に立たないように思う
フェルマーの定理も「正しい」のかもしれんが何の役に立つのか見当もつかん
円周率も何兆桁まで計算したのか知らんが、10桁以上計算しても工学には何の役にも立たない
それでも意義はあるようにも思える。。
数学者はしばしば
「神だけが持つ正しい数学の書」を夢想しているようにも見えるが
しかしそんなものは無いようにも思う
数学はこうでなくもありえた(微妙w
「正しさ」に対するヒトの適正な距離(感)が成立するはずで(ひょっとしてこっちが正しさ?)
極端な場所に「正しさ」を置くと大騒ぎになる
といって、正しさがヒト固有の成立か、もっと普遍な事態なのか、見当もつかん
説得力もしまりもない話ですまんね。そのうちネタ考えてくるね
眠い氏、そろそろ出番やでw
よっぱらいか。
機械タンは蒸発してしまったようだね
663 :
超絶に退屈で死にたくもなるわn:2012/04/03(火) 04:27:08.77 0
664 :
654:2012/04/03(火) 08:46:36.51 0
>>655 より多くの人々が賛同するのが正しいなどとぜんぜん言ってませんよ
多くの人々に結局は役立つことがぜんぜん評価されない場合のほうが多数でしょう
役立つと認識されなくても役立つことが正しさであるといってるわけ
意識の根源は幽霊の魂魄ですよ。
666 :
考える名無しさん:2012/04/03(火) 15:42:31.30 0
正しさといってもそれ、あくまで数学的な正しさでしょ。
すむ世界が変われば正しいなんていってられない場合もあるし正しくない場合もある
スレタイトル、なに?前近代ね。
「だから必然」っていうレベルでやってもなあ。
あら、抄録さんって、主観に先立つ論理とかいってる。
随所で論理信仰かいてるね。
あって欲しいものなんだろうが、さてそんなものあり得る?
自然言語使って非定量的な何かとして了解ないし認識を為していこうとするときに。
ゲームさんは、自存する論理なる呪縛にはないようで、そこが両者のスタンスの差かなあ。
まあ、もっと見てみよっと。
ウフ
669 :
抄録:2012/04/03(火) 18:56:00.03 0
「論理は主観に先立つ」はちょっと思い切りすぎた。
しかし反駁し難いように思う。
感覚を鋭くすると背景に論理が現れてしまうように思えるのだ。
貴方も見てないで参戦するがよいのだw
670 :
抄録:2012/04/03(火) 19:01:20.58 0
>>668 >自然言語使って非定量的な何かとして了解ないし認識を為していこうとするときに。
↑これよく分からないのでどういうことか説明してちょ
>>667 > 「だから必然」っていうレベルでやってもなあ。
物質である(形而下での意味)
必然である(形而上の意味)
この意味が理解できない時点で賢いにはほど遠い
「電子の動きを説明できるから、熱現象はそれを元にしている」
ここまではいいとして、熱現象を分析するのに電子の仕組みで捉えるのは
完全に方向違い。素粒子で人間ができているから社会現象は素粒子で
説明されるとまで誇張しないと理解できないようでは言葉が通じていない。
672 :
超絶に退屈で死にたくもなるわn:2012/04/04(水) 02:03:35.12 0
決定論は原理的に否定できない。
↑これが全く解説無しなんだが。
>>673 決定論的な論法で否定できないってこと。
おまえらwwwwww
まだやってるのかよwwwwwwww
3年ぶりにきたぞぉおおおおおおおおおお
さいころおじさんはまだいるのかな?
で?結論はどうなったか簡潔に頼む
ググレカス
679 :
考える名無しさん:2012/04/05(木) 03:29:57.70 0
/) /)
/ ⌒ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ●_ ● | < と発達障害者(チビ、ブサ、知的障害)が申しております
(〇 〜 〇 | \
/ |
| |_/ |
>>679 たしかに論だけなら無駄だな。
だが論のように見えても論ではない部分があることに気が付かない
無能も然り。
論理によって気が付くのだよ
683 :
超絶に退屈で死にたくもなるわn:2012/04/05(木) 19:05:13.98 0
682そんなかんじ
人間の論理なんてあてにならないお^^
哲学からろうお^^
686 :
( ^ω^) ◆x5KAaBZgXA :2012/04/05(木) 19:26:19.13 0
あげ
>>671 アホや
所詮2chやな
形而下と形而上だって
ぷぷぷ
それ、形而上学の枠だよ
「だから必然」のね。
散文的構造の文章は控えましょう
>>688 論理的な文章は作り話になるさかいなあ
散文マンセーや
要請の事実化
もう氾濫
>687
形而下を決めたとき形而上が決まる。
すなわち形而上=形而下でもある。その単純反応はとんまである。
機械は消えた。
観念論の勝利だ!
機械的唯物論は滅びた!
>>691 勝利とは論理や理屈ではなく関係で決まる。
693 :
第四の波平:2012/04/06(金) 19:53:54.72 O
しんぼう
>>691 しかし、そうなることははじめから分かってたんだ。
決定論故に。
カッコいいぜ機械成し遂げたな。
695 :
第四の波平:2012/04/06(金) 21:16:42.72 O
2時40から2時50のあいだにカンブリア期にミクロミンギアがいた
それがダリの歪んだ時計の絵のように
696 :
ネム:2012/04/06(金) 22:23:39.84 0
論理そのものは測れない
いくら語ろうが真理は語れない。何故なら語れないものを真理と呼ぶ。
どんな幻であっても、それを感じている本人にとっては真実である。
完璧に正しい論理であってもそれが評価されないなら何もないのと同じである。
ニヒリズムは飽きた
建設的に行こう
699 :
ネム:2012/04/06(金) 22:31:47.48 0
論理そのものに正しさも誤りもない
「論理」は問えない
自然が論理で理解できるってことは、非論理を含意してるってことだ
だから自然が論理で成り立ってるとは、適切な理解じゃない
飽きた、というよりは、わざわざ強調するほどのことでもない
701 :
ネム:2012/04/06(金) 22:37:02.26 0
論理が論理からしか生じないなら、世の中、論理死してるわ
702 :
ネム:2012/04/06(金) 22:42:43.53 0
なんにもやる気しない・・・
論理に従って生きるなんて息詰まるわ
まったく疲れる
703 :
ネム:2012/04/06(金) 22:44:12.14 0
704 :
ネム:2012/04/06(金) 22:49:55.50 0
論理なんてくそったれ哲学くそったれ
んん畜生
論理ははずせない
論理にはこだわれ
論理とはなんだ!!
705 :
ネム:2012/04/06(金) 23:17:20.72 0
所詮、時間によって展開された論理で云々してるに過ぎない
そのことは逆にいえば、時間が論理を表すということだ
706 :
抄録:2012/04/07(土) 00:46:20.55 0
ネム氏は十分に論理的に考えているのだ
既存の論理学の不備を補おうとしてシステムを拡張する。
その作業そのものは論証的とは言えない(かもしれない)。
しかしそれはやみくもな創造ではなく、論理を求めているのだ。
妄想(≠空想)による意味不明の言葉遊びをしている間は「見えていない」のだから
それが論理かどうかは問えない。
しかし、どれほど思考の奥深く潜ろうとも、そこに何かが見えたのなら
そこで気付いたものがニヒリズムであろうが、その克服であろうが
それは、我々が何ごとかを論理によって掴む、そういうことだろう。
そうでなければ本当は見えてないのだ。
自然には科学理論で語り尽くせない事態があるとすれば、それはやはり論理によって知られる。
知るとはどこまでも論理的だ。
思考は論理からは逃げられない。これは宿命にも見える。
しかし一方、論理は自由だ。論理によって息をするのだ。
機械は来る
論理で答えがでないのは。論理が空想と同じように働いているだけ。
通常は論理は正しく機能するが機能しないと分かる類に対しても
同じように正しいという気持ちはわかる。
物事の側面の捉え方次第で論理は時に矛盾を持ってしまう原理でもある。
709 :
抄録 :2012/04/07(土) 09:44:25.46 0
論理性とはなんぞ〜正しさとかなんとか
あたくしは論理記号も読めませんし、古典論理も様相論理も知らないわけですが
それでも何ごとかを考えるのに不自由を感じたことはありません。
私にとって(論理的にw)考えるの際に最重要なのは区別可能性です。
これ間違いない。
同じ言葉であっても使われる状況によって意味が異なってくる。
感覚を集中してつらつら考えると、それが見えてくる訳です。
見えたものの本質を崩さないような表現を必死で探す。
しかしこの見えたものも、ひねり出した言葉も、それが“正しい”保証はない。
論理は始まりであり終点でもあるのでその根拠付けはできない。
次いで重要なのは普遍性です。
言語を媒介にして、私に成立する区別(比較)が他者にも成立する。
成立する保証は全くない。しかし有効に成立するように見える。
経験と訓練によってその精度を上げられるように見える(最近は説得力がないw)。
これは、論理を成立させるための普遍的な構造によって我々も構成されているのだとしか考えられない。
ところが以上は論理的に思考した帰結なので、それが論理性の本質であるかどうかは宙に浮いてしまう。
・・・ということも論理的な思考の帰結・・・やっぱりおかしいか?w
渦中(論理)に居ながら、渦中の外で冷静に見れば本質は見えずとも
浮かび上がります。
見えざる物を見て名づけても見えない事の真実が変わるわけでもございません。
しかし名づけることで見えない何かを縛り見えないという事実を受け入れれば
自ずと形は浮かび上がりましょう。その形が名づけた結果として生じたとしても
名前に対する真実の形の他にありません。
711 :
考える名無しさん:2012/04/07(土) 19:08:54.67 0
つまりランボーが脱出して、大爆発するってことね。
ロッキーバルボア
俺にとっての直子とそこで息してる直子の違いだな
論理はミクロ的な捉え方をしたときは正しく機能するが、
マクロ的な捉え方をしたときにも同じように機能するとは限らない。
思考も前提ありきで、前提が違うのに狭い範囲の完璧な論理が通じるわけでもない。
宇宙ありきな宇宙論は、宇宙なしでは成立しえない。
永遠に宇宙がない輪廻を繰り返すそれは、宇宙ではないのだから。
アナロジーを無節操に使うここの住人にとっては耳の痛い話ですね
>>714 あんた、論理について、あまりに無知やで
宗教乙
>>710 「見えざるもの」とやらが浮かび上がり
名前を付けることができるなら
既に論理の中にあるとは思いませんか。
>>714 貴方が論理的に考えた結果がそのレスなんでしょう?
まあ、宇宙がない輪廻とか、分かったかように念仏を口走るのは
私にはあまり論理的とは思えませんがね。
718 :
抄録:2012/04/08(日) 19:48:16.84 0
ああw
717は私です
そして惰性ですすむ
722 :
ゲーム:2012/04/09(月) 10:26:28.29 0
>>706 抄録氏の「論理」は、ほとんど“言語”と同義である。
抄録氏の「何ごとかを“論理”によって掴む」は“何ごとかを言葉によって把握する”
のと変わりがない。言葉はロゴスであり、存在の“理”でもあって、初め「それは
神と一体だった」そうである。まさか、隠れクリスチャンではないでしょうね。w
「論理」の意味を明らかにしてほしい。それは何に所属しているのか?
ふつうに読めば、主/客の分岐を統一的に超越する“理法(真理)”なのだろう。
しかし、そう断じるのは早計にすぎる。たしかに「ヒトは言葉で認識し、思考する」
が、それは“真理の存在”を保証するものではなかろう。ヒトの一般的特質である、
とはいえようが。
>隠れクリスチャンではないでしょうね。w
そのとおりである。
なるほど
725 :
抄録:2012/04/10(火) 00:24:11.74 0
>>722 論理とは、普通に言われるのは言語による推論の形式ということなんでしょうけど、
論理が言語に回収されるかといえば、それはほとんどありそうにないと思います。
ゲームさんが言われる
>隠れクリスチャンではないでしょうね。w
これにどう答えればよいでしょう?
私がロボットなら「ちがいます」と答えるかもしれない。
しかしヒトである私は、貴方がどんな考えでこんなことを言ったのだろう
なんて考えるわけです。
揶揄しているのだろうな、ぐらいの推察は私にも起こるわけです。
「ちがいます」なんて回答を期待して言われた質問ではない。
この経験的な合理性には言語に回収できない量的、強度的な要素がある。
私の思考は強度を含意しながら推論するわけです。
揶揄の程度が「どの程度」なのかは言語に回収できない。
思考は「意味の固定する単語」の積み木ではなく、強度を伴う単語の繋がりです。
この強度は、言語システムの内部からは抽出できない。(コンピュータに小説を読ませても本当には理解できない)
しかし論理は『思考の全て』(所属は私には分かりません)ですから、強度を含む必要がある。
「論理の論理性が主観に先立つ」はですね、有効かもしれないし、妄言かもしれない。
もう少し考えたいw
わかります。貴方が正しい。
あほー
そりゃロゴスの意味やー
相即してカテゴリーの意味やー
んなんならいくつでもツクレルデー
だから言葉の中では言葉の外を計ることはできない。そして表現しても言葉
は言葉の中の何かで説明するしかない。決して伝えられないものもある。
>>729 それ、鳥瞰しちまってるよ
つまり、そういうカテゴリーにたっちぁいますウ
でしかない。
言葉は呪術だろ。昔から決まっていたこと。
そして論は玉虫色。
733 :
ゲーム:2012/04/11(水) 17:13:05.11 0
>>725 「論理性」と、いい換えてはいるものの“論理”のことだろう。
勝手に意訳すると「言語(論理)に先立つ理(ことわり)がある」となる。
「理」は“存在のそれ”を指している(のだろう)。
典型的な真理主義の言表であり、ほとんどのものがこの“常識”を信じている。
「自分が死んでも、この世界はこのまま続くだろう」と。
そのことを云々するのは措き、もし抄録氏のいうように“主観(意識)→言語”に先立つ
“理”があるのなら、それは「決定論」を肯定することになるのではないか。
“理”とは筋道だっていることであり、偶発性(偶然)の否定を意味するからである。
抄録氏を「たゆたっている」と揶揄する理由もここにある。w
734 :
抄録:2012/04/11(水) 19:37:28.37 0
>>733 いや、いま私が混乱しているのはですね
ゲームさん、貴方が何を言おうとも、その言表を私は論理的に理解しようとするのですよ。
そして貴方もそれを望んでいる。なぜなら貴方はしばしば相手の誤読・曲解を責める。
“曲”解を拒否するなら、論理的な“理”解以外の解などあり得ますか?
>「理は筋道であり、それは偶発性の否定を意味する」
そのレスは貴方が自身なりに論理的に考えた末の表現でしょう。
貴方の中で「筋道が通っている」んですよ。
オカルト君がどれだけ「論などはw」と吠えようとも、
彼は単に彼の少しユニークな(論理的)思考構造の中で語っているだけであり、
論理を解体することなどできないのです。
ゲームさんも好きであろうw「知」とやらに近づこうとするなら、論理を使う以外に方法が無い。
物自体があるとか無いとか、真理があるとか無いとか、やれ形而上だ形而下だ、唯物論だ観念論だと
それは論理の中でしか言えないんです。
そしてこの自明にも見える論理が自明では無いのだとすれば
論理は「実在する」とするしかない。
ところがそれは“論理的に考えれば”なのです。
私はここで止まってしまったのです。
あとですね
「理」があることが即ち「決定論の肯定」になる、との謂いは
ゲームさんがそのように「理」を捉えている、ということ(だけ)を示す、
てことが“論理的に”理解され、また反論もできるわけです。
よって未知な領域はその論理的制約故になかなか語り得ない。
哲学書が無駄に長く複雑に見えるゆえんだな。
>>736 いやそれは「論理的に考えて」だろう?
未知とか論理的制約とか、そんなこと言い出すと、それはまるで違うんだよ
もう俺は黙ることにする
言いたい欲求を論理的形式に従い試みたまでのこと。。。。
ちゃうか?ちゃうのんか?
>>734 >オカルト君がどれだけ「論などはw」と吠えようとも、
それが本当にオカルトならば、彼が表現するそれはオカルトであって
論ではない。つまり論ではないオカルトで論ではないと表現しているならば
論と受け取った側のほうが錯覚しているだけではないの?
>>738 ちゃうちゃう
>>736 未知や不思議などない、そう思うからである。
観測した時点で未知な何かと思うのは自由であるが、それは観測した
時点で未知ではなくなっている。何か分からない類でも名づけた時点で
分からない何かではなく名前が付く。
不思議と思うからこそ不思議なのである。
物事を計り観測するという態度を持たないでえ恐れるからこそ未知とか
不思議といった観念であいまい化してしまう。
観測できないものは無い。たとえあったとしても観測できないのだから
無いのである。もうすこし大人になろうな。
>>739 その人が誰かはしらんけど、論ではない人が論を語るのは滑稽である。
既に論に支配され扱うのも論であるからである。
それが論ではないのならば、自然であるだろう。
>>740 観測した時点で未知ではなくなるなら観測前は未知でよろしいでしょう。
観測できないから無いとは言えない。あるのか無いのか分からないのです。
観測できた途端に無いと言っていたものをあると言い出すのが大人ですか?
わからないことはわからないと言うのが大人の責任だと思いますがね。
743 :
抄録:2012/04/12(木) 01:36:22.05 0
論理は規則(ルール)なのか形式なのか
1年ぐらいまえですかね、Fe氏とゲーム氏が討論してて(何の話だったかな・・)
ゲーム氏は真理の普遍性を駆逐しようとしたのか
「相手は将棋をしようとしており、こちらは囲碁をしようとしているのだ」
とか言ってたわけです。
対してFe氏は、「自分の決めたルールは守るのが大事」とか言い返してたような。。
私に言わせるならですね、将棋だろうが囲碁だろうがオセロだろうが、
それらのルールは確かに違うが、いかにルールが変わろうとも
“どのルールであっても理解できる”ということ(のみ)が重大問題なんです。
これはルールとは理解可能であること、つまり論理的であることを示している。
しかしこの論理の論理たるところはもはやルールとは言えない。
なぜなら、それがもしルールだとして、そのルールの中身は説明できないからです。
数多の説明可能なルールを理解することで、それらが論理的であること、
“規則性そのもの”であること、を直観しているだけ。
では論理とは「形式」なのか。なんですかその「形式」とは?
カント先生も時間を形式と言ったはいいが、形式の中身は説明できないわけです。
「形式とでも言うしかない」ぐらいの意味しかない。この形式は孤立してるんです。
論理は形式か?それはわたしなんかにはなんともw
>>743 > 論理は規則(ルール)なのか形式なのか
状況における秩序です、状況が成立しえねば、秩序も成立しえません。
その有り様は、論から理が生じるという物を比喩したものにすぎません。
それが規則に見える事も、状況により形式に見えることもありましょう。
将棋でも囲碁でも勝ち負けの事の有り方に過ぎません、それを超えた
楽しみ方もそこに賭け事という概念も大きくまとめて例えることもできるはずです。
単純なものとしてみるか複雑にしてみるかでも意味が変わってくるでしょう。
物事の事ばかりを見て物としての意を扱わないのでは世界を構成する素しか
見ていないのと同じなのではないでしょうか?
745 :
736:2012/04/12(木) 08:52:44.24 0
>>740 >時点で未知ではなくなっている。何か分からない類でも名づけた時点で
>分からない何かではなく名前が付く。
それで済むなら、哲学者なんて必要ないよねぇ。
746 :
736:2012/04/12(木) 08:56:50.38 0
プラトンがイデアと名付けてハイ終了って言われても。。。
なんだよそれって?
747 :
ゲーム:2012/04/12(木) 09:33:13.39 0
>>734 論点が少しズレているので… 私は“論理”を否定しているのではない。
抄録氏のいう“論理”が前述のように「言語」と同義であり、たしかにヒトは
言葉(ロゴス)によって世界像を描出する。が、それはヒト特有の“存在”との
関わり方であって、抄録氏も認めるように、それが「正しい」根拠はない。
抄録氏の“論理的”とは、言述についての言語による“保証”ではないのか。
端的に述べましょう。少し前に“論理”の所属先を質問した。私には、抄録氏の
それがヒトに所属しているようにしかみえないのである。
お聴きしたいのは、存在(抄録氏のいう自然)に“理”はあるのか? 当然「ある」
と答えられるだろう。それを抄録氏は“動的秩序”と称していた。
仮に“秩序(理)”が「ある」とする。では、それはヒトのロゴス(言語)と、どの
ような関係にあるのか。(難しいのでw示唆していただければ、幸いである)
748 :
ゲーム:2012/04/12(木) 09:49:12.62 0
>>735 (自然の)動的秩序は、決定論(必然)的ではないということだろう。
にもかかわらず、そこには“理”があるという。
では、それはどのような“理”なのか。例示するか、示唆するか、お願いしたい。
749 :
ゲーム:2012/04/12(木) 10:16:16.87 0
>>743 Fe君との件だが、これも微妙に、いや、かなりちがう。w
一つのゲーム、たとえば将棋、あるいはサッカーといった個々の
ゲームのルールは、たいていのものが理解できる。(これはこれで
スゴイことなのだろう)
私の疑念はそこにはなく、将棋をしたがるA君と囲碁を望むB君は
どうやってゲームをするのか、というもの。
たとえていえば、私たちと北朝鮮は、どんなゲームができるのか。
(これはルールを共有しているかにみえる米国とのあいだにもある)
そのゲーム(ルール)に加わることの良否を超越する“正義”はない、
と主張したのだと思う。
>>748 ゲームの理とは何ぞ?
抄録の理と同じなの?
ゲームとは賭け事、それは心の駆け引き
>>747 ああ、所属とはそういうことですかw
論理は誰のものか?・・そりゃ難しい
コンピュータ言語はヒトのものかコンピュータのものか
「所属」は相性が悪い気がする
753 :
抄録:2012/04/12(木) 21:19:57.56 0
「秩序と理」について比喩的に言っちゃうとですね
例えば将棋で「金」が動く時に選択できるマスは最大6つです。
ルールと秩序があったとしても、どこに行くかの選択肢はあるわけでしょう。
>>749 正義の話でしたっけ
たしかに正義は胡散臭い
正義のイデアはどこにどの状況で成立可能なのかしら
言語と論理は同じものなのかしら
私にはそのように思えない
言語学の対象は言語?
論理学の対象は論理?本当かよ
>>753 言葉は全て比喩から始まる、比喩では無いと言うおごりがあるのでは?
「言葉は全て比喩」
よく言われる台詞だが、本当にそうなのかね
759 :
ゲーム:2012/04/13(金) 09:18:21.10 0
>>750 「理は存在しない」という立場です。存在(自然)に“理”は不要だからである。
それを必要としているのは、たぶんヒトなのだろう。
それに対して抄録氏はヒト(主観)にも自然(客観)にも“理”が内属していて、
両者を整合的に関係づける言明を“論理”と称している(ようだ)。
彼のそれは単なる形式主義的なものではなく、実在の自然のありよう(理)と
対応していることが条件であるらしい。「初めに言語(ロゴス)あり」ではなく、
初めに(自然の)摂理あり、というのが(たぶん)抄録氏の立場。
760 :
ゲーム:2012/04/13(金) 10:09:35.92 0
>>753 将棋は人工のゲームである。囲碁やサッカーをはじめ、ヒトは無数の
ゲームをつくってきた。その理由を探るのも面白かろうがそれは措き、
抄録氏のレスに沿っていえば、そのルールも秩序もヒトが定めたもの
である。したがって、それ以上は遡れない。
なぜ『金』は6とおりの選択肢なのか、その理由はない。なぜ盤上を
逸脱できないのか、それも問うことができない。それに無条件に従う
ものだけが将棋ゲームに参加できるのである。
しかし、このたぐいの人工的ゲームとヒトの“生死”ゲームを類比的に
扱うことはできない。後者の場合、片方が「将棋をやろう」というのに
対して、もう一方は「囲碁をやりたい」と主張し、また別の連中は「サッ
カーがいい」といいだす…。これが“人事”ゲームの実情である。
抄録氏のいうルールを決め、秩序を樹立するのは“力”を行使する以外、
不可能ではなかろうか。
761 :
抄録:2012/04/13(金) 12:58:54.48 0
>>760 人工的ゲームではない人事(生死)ゲームとは、何のことを言ってるんですかね?
個人の金儲け?出世?権力闘争?学歴?地位名誉?幸せ自慢?
企業の技術競争?価格競争?規模拡張?新卒採用?買収合戦?株価?
国の国際貿易?領土問題?エネルギー問題?GDP?国威発揚?戦争?
その他?
************************************************
“力”の行使による秩序?
その「力」とやらは秩序を求める作用のこと?
それともシステム(人間とか家庭とか会社とか)の状況変化の責任を「力」に被せるのかしら。
ひょっとして秩序の前の破壊・殺傷を「力の行使」と言っておられるのか。
「力」・・まったく胡散臭い
「力」を説明できないやつほど、「力」を使って説明してしまう。
>>760 本来は将棋を行うようなゲームのルールは人であり、審判は人である。
機械がゲームのルールとしてもその機械へルールを与えるのは人である。
判断をする審判を共に行い完全な検証ができる状況ならいいだろう。
機械にルールを与えた人や一部な人が発見されないイカサマをを行うとき
それは発見されなかったのでイカサマではない。
負けたからといってイカサマだと断言できるわけでもない。
人工のゲームとはそういう裏の要素が隠れることが可能だということ、
裏の要素が完全にないと言う思い込みの上の説明なら誰にでもできる。
そもそも見えないから裏の隠された要素なのだから。分かることはありえない。
>>761 >「力」・・まったく胡散臭い
力という概念こそ胡散臭い
>>764 では力という何かは、なんなのであろうか?
力とは有りが有るままの現象の表れ、つまり事象の成す模様が
状況に表れる様にすぎない。
力は関係を纏め群れのように集まりそれ以外との関係が示されてゆく様子である。
力なき者たちが鋤で畑を耕すことこそ力である。
768 :
考える名無しさん:2012/04/14(土) 05:12:19.93 0
技なきものが力に頼る。心なきものは論理に頼る。
場を読まないものは流れに頼る。
所詮はめぐるめくる世界の輪にすぎない。
次は俺様の出番
力の本質が分かれば、敵なしじゃね?
良くわかんないんだが、「力」てなんなのさ。
まずそれを定義してくんないと
773 :
考える名無しさん:2012/04/14(土) 22:47:53.37 0
/が、「力」
しばらく眺めているとバカが見えてきます。
774 :
考える名無しさん:2012/04/15(日) 00:00:42.52 O
豊田エリータン
なんちゅう安っぽい名前だ なんとかしろ
空気読めていないな
空気読めていないな
メンヘラのスレ
779 :
ゲーム:2012/04/15(日) 11:42:08.44 0
>>761(抄録氏)
胡散臭いのは、それを直接的に「見る」ことも、それに「触れる」こともできない、
にもかかわらず、いたるところに、それが「ある」のを知って(感じて)いるから。
辞書によれば、それは(潜勢的な)エネルギーの発現、すなわち作用、働きを指す(らしい)。
エネルギー⇒作用は、何がしかの説明ではある。しかし“力”という概念を包括しては
いないように思える。
“生死”ゲームはオーバーかもしれぬ。が、それは「生死を賭ける」という意味ではなく、
「生まれ死ぬまでに参加する様々なゲーム」くらいの意。生活ゲームのほうが適切か。
780 :
ゲーム:2012/04/15(日) 12:37:55.00 0
>>761 抄録氏が列挙された各種ゲームを貫徹する規則が(法)である。
これが適用される領域は、しかし限られている。
北朝鮮は“力”を誇示することによって“彼らのゲーム”に関係諸国を誘い込もうとした。
ミサイル発射→核爆発の実験を成功させることによって、その後の“話し合い”を有利に、
換言すれば「彼ら好みのルールのもとで」進めようとしたのである。
ヤクザから国家まで“力”を対手に直接的にぶつけるのは最後の手段である。
直接的な行使よりも、それを誇示することによって対手に退かせる(こちらのルールを押し
つける)のが良策とされる。
つまらんはなしを
哲学かんけいない
782 :
ゲーム:2012/04/15(日) 12:50:26.06 0
法が適用される人事ゲームにおける“力”の源泉を三つあげる。
貨幣、権力、権威。したがって、ヒトはそれらを求めて争う(ゲームする)。
他にもありそうだが、とりあえず…
783 :
考える名無しさん:2012/04/15(日) 14:27:15.17 0
チチャチャップーズーしか食えないっていう
プチャチャーズーていう
ズーしか食えないっていう
>貨幣、権力、権威
信用がない通過、従う人がいない権力、関係のない権威
もっと根本を抑えないと形式的な建前では?
通過とかジンバブエドルが高騰していた世界では金での取引を拒み、
ぶつぶつ交換だったわけで。一ヶ月で価値が1割以下に落ちるような
流れでは信用とか無い。燃料の代わりに燃やす人も多かったとか。
>胡散臭いのは、それを直接的に「見る」ことも、それに「触れる」こともできない、
>にもかかわらず、いたるところに、それが「ある」のを知って(感じて)いるから。
電子が動くマクロ現象を熱と呼ぶ、人は電子には触れられないが熱を感じられる。
だがそれは観測者の主観によるものではないか、
電子は物理的に触れている事実はあるそして知識はあっても意味(関係)を結び
付けられない。体感できるマクロ現象ではないからである。
直接知覚できるものと間接にしか知覚できないもの、常時関係をもっているもの
稀にしか遭遇できないもの。胡散臭さは意味として捉えられないだけでしょう。
例をあげると光速を超える技術があったとしてUFOが本当にあったと仮定して、
光速は超えられないと絶対的な教育とその説を支持するものが無数であれば、
光速を超える原理は完全に否定されUFOは絶対にありえないと信じてしまう。
接触できる情報の数と日常のような普遍的な関係は真偽の是非には無関係に
圧倒的な数の勝利、周囲の見えるべく普遍さが優先されるのは現実ではないだろうか、
誰かが発想したビックバンの説明が胡散臭いのと同じと思うが、理解しえない
論理上で矛盾がなくても自分の知っている知識に合致しないのであれば、信じるか
信じないかの話にすぎないのでは?
788 :
考える名無しさん:2012/04/16(月) 15:30:44.94 0
>>786 信用のないそれは通貨ではなく、屑。
従う人間が存在しないのなら、もはや権力でない。
畏怖されたり、敬意を持たれないそれは権威ではなかろう。
力は関係において生じる可変的な「働き」としかいいようがない。
>>788 ジンバブエドルは貨幣として機能してたよ、
政府からの給料が貨幣で支払われていた現実があるわけで。
税金も貨幣で機能していたからな。現実みろよ。
うは
>>789 機能しているのなら、まだ信用があるわけだ。
なら、屑ではなく、貨幣価値を有しており、なにがしかの「力」もあるのだろう。
オマエサンの言っていることは支離滅裂。整理してから、書き込め。
なに独り言いっているんだよ
793 :
考える名無しさん:2012/04/17(火) 02:11:12.48 0
|.-──-、
| : : : : : : : : \
|: : : : : : : : : : : ヽ
|-…-…-ミ: : : : :',
| '⌒' '⌒' i: : : : :}
=・=-∴-=・=|: : : : :)
| ,,ノ(、_, )ヽ、,,|:: : : :;!
| `-=ニ=- ' | : : :ノ コラおまいっちょえーじゃよな
|! `ニニ´ イゞ‐′
| ` ー一'´丿 \
794 :
考える名無しさん:2012/04/17(火) 05:13:07.77 0
相手が詐欺師であっても言葉が通じるということはある種の信用があるんだろう。
信用と言うか最低限の共通のルールに従っている関係性というか
795 :
宮家:2012/04/18(水) 00:33:05.74 O
長い休みみたいなものですよ
ウソツキが上手な相手に対して100%の疑い。それは?
相手がウソツキだという信用はあるよな、信用とは常に正しいもの
を信じるわけではないってことだ。凡庸でもその性質が極みにならない
という信用もありえる。何をするか分からないというのもそれである。
言葉だけで考えるからこそ言葉に支配される。
797 :
考える名無しさん:2012/04/18(水) 03:27:14.54 0
なに独り言いっているんだよ
798 :
ゲーム:2012/04/18(水) 09:29:10.58 0
>>796 言葉以外のもの、が何かは知らぬが、それを使って考えるというのは
イヌやネコやハエのように考える、ということかな?
相手を「ウソツキだ」とみなすのは、相手に対して“信用できない“と
いう不信(感)を抱くことであり、信用しているのはその相手ではなく、
自分のその思いである。
信用とはw信じるその思い(彼は信用できる、あいつはウソツキだ、彼は
凡庸である)を「正しい」と信じる(あるいは信じたい)心的状態である。
決定論なら流されるのが必然である。そこに自由意志はなく場の律が全てを
支配する。
801 :
考える名無しさん:2012/04/18(水) 19:53:30.25 0
抄録のおじさんは何処へ消えたのだろう?
機械のおじさんは何処へ消えたのだろう?
804 :
考える名無しさん:2012/04/19(木) 19:25:47.90 0
そして誰もいなくなる。
機械は死にました
806 :
「機械的唯物論」者 ◆Fo5F9DK8X6 :2012/04/20(金) 03:20:36.75 0
「真実」が捻じ曲げられてしまうことがないように、何度でも繰り返させていただきます。
いいですか。 「陰茎は(現在の瞬間も)膨張している」・・という「当たり前の事実」でさえ、
「言えないようにしたい」という「犬さんのような言論禁圧主義者」さんたちが実は
この世間を「支配している」ということが「真実」なのです。 犬さん自身は「何もレスを返す能力がない」のですが、「記秋的唯物論者がレスしたら手マンしろ」
という「心の中の親分の命令」に逆らうことが出来ずに、四六時中このスレを見張っていて、
「自分でいけないようならば手マンしろ」と言われたように、機械的に手マンしてこのスレを
オーガズムに追い込もうとしております。 まさに「知の手マン」の助けをしているという自覚無しに「親分の言うとおり機械的に動く」
ことで、やっと「生きている意味」を見いだすことが出来る・・という「観念論の犠牲者」は結構多数
居る・・ということです。
「包茎」が剥け破られてしまうことがないように、何度でもつっこまさせていただきます。
いいですか。 「真実は(満甲の輪廻も)勃起している」・・という「触り前の感触」でさえ、
「触れないようにしたい」という「娘さんのような陰毛禁圧主義者」さんたちが実は
この前穴に「挿入している」ということが「感触」なのです。 娘さん自身は「何も入れ返す能力がない」のですが、「酒池肉林者が愛撫したら手マンしろ」
という「心の中の快感の中枢」に逆らうことが出来ずに、四六時中この穴を見張っていて、
「自分でいけないようならば手マンしろ」と言われたように、機械的に手マンしてこのスレを
オーガズムに追い込もうとしております。 まさに「知の手マン」の助けをしているという自覚無しに「親父の言うとおり機械的に挿入」
ことで、やっと「感じている恍惚」を見いだすことが出来る・・という「趣味変態の犠牲者」は結構多数
居る・・ということです。
808 :
考える名無しさん:2012/04/20(金) 15:09:22.09 0
>>807 どうしてくだらんことをするのか?
せっかく本物が降臨したというのに。
一応例えそれでも死後の世界は存在するよ!?♪。
810 :
考える名無しさん:2012/04/20(金) 17:57:01.65 0
四六時中このスレを見張っていて、
「自分でいけないようならば手マンしろ」と言われたように、機械的に手マンしてこのスレを
オーガズムに追い込もうとしております。
けだし名言だなやw
811 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/04/20(金) 17:57:50.65 O
きらぴら
【東スレ発祥で批評や現代思想の中心用語となった言葉たちとその主義者たち】
おもらし ・・・どうなるか分からないが何か変わるかもと微かな希望で起こす行動。
おちんちん限界主義 ・・・ニヒリスティックにすぐに現状で諦め惰性で生きる立場。OG。
おもらし実践主義 ・・・絶望を感じていても信じ広げようとする強い立場。OJ。
頻尿主義 ・・頻繁に薄いのを出すものの実はおもらし自体が目的になっちゃった立場。ホリエモンなど。
カテーテル主義 ・・・煽ったりする事によっておもらしを導く立場。宮台など。
糖尿主義 ・・・女性関係でのおもらしが主な立場。
血尿主義 ・・・困ったらすぐに闘争やプロレスを仕掛けていく立場。金正日、ムガベ、東浩紀など。
酸っぱい葡萄強調主義 ・・無理に舐めて嘘か本当か「ほら酸っぱい」と強調する立場。宇野など。
おしっ湖 ・・・東浩紀により集合知という恥ずかしい名称で一人歩きしている概念。
知んカス ・・・洗うのを忘れて輝きを失った知。2006年以降の東など。
言い得て尿 ・・・言い得て妙な事。
おちんぽ界 ・・・この社会、この現実、の事。
813 :
宮家:2012/04/20(金) 18:11:37.25 O
言い回しが変態ですね
814 :
宮家:2012/04/20(金) 18:49:44.38 O
激しい雨が降りますな
>>808 その程度で怯むなら本物とはいえない。たとえ実態が過去のそれの
残骸であっても過去と同じ性能を有しない。
>>808 彼?に発言する必然さがあるのならば、どんな書き込みにも影響しえない
必然とはそういうものだよ。
決定されているものが変わるわけがない。
817 :
考える名無しさん:2012/04/20(金) 22:12:13.95 0
はたしてそうかな?
過ぎ去った現実を疑うのは新しい解釈にすぎない。
時は虚ろ
820 :
宮家:2012/04/21(土) 00:05:33.67 O
さみしんげ
力っていうのは超えられない壁を越えたときに、そこに生じるものな。
積み重ねてもノイズに過ぎないのでは打ち消されている。
簡単に超えるには逆の状況において一気に転極したとき。
つまり静は動を生むってことだ、わからんだろうなぁ。
それも究極な静は究極の動に転換される。
場に力が溜まるのはそれに対する対極の存在があるからであって
単独では生じても力は常に反作用うけるんだよ。当然だけどな。
822 :
宮家:2012/04/21(土) 03:05:05.47 O
何いってるか意味わかりません
823 :
宮家:2012/04/21(土) 04:53:24.26 O
ハア..何もない。何か人間て愚かだなって
824 :
考える名無しさん:2012/04/21(土) 04:59:42.51 0
★社会から孤立した在日大阪人 自称ズーム君こと甘くてショッパイ塩キャラメルおばさんのウダウダした粘着水掛け論がキモチわるい
★大阪住之江区の低所得者が入居する実家のボロ団地で無職のニート生活を送り社会と他人を妬み恨むズーム真理教を組織する
スーザン・ボイル似で自称ラムダ・ズーム君こと甘くてショッパイ♀イカの塩キャラメルおばさん煽り厨は
未婚と閉経でストレス下にあり人間関係が不得手で権力を求める傾向にあり注目を浴び興奮を得る為か世の中の為と思ってか
妄想による架空の人物・ブル厨船橋を連呼し千葉が大好きなおばさん
★図星の指摘には自己紹介乙、お前の方がと改変オウム返しなのも更年期障害で頭と心が弱っているため
★自称ズーム君こと甘くてショッパイ塩キャラメルおばさん煽り厨は⇒実家の貧乏団地生活を激白、自演失敗で自らを罵倒⇒無茶な脳内統合
Get Backすら理解不能な低脳低学歴と墓穴の神が降臨中で全部裏目で現実逃避w
★ズーム真理教は自称ズーム君こと甘くてショッパイ塩キャラメルおばさん同様の低脳低学歴の煽り厨おばさんが信者の特徴で
アンカーなしで煽り最後は必ず共通認識の奇妙な呼び名を喚き相槌する別の老婆と意気投合と自演が鉄板w
★おばさん煽り厨の発作的語彙は生・塩キャラメル,イカ,自演,発狂,脱糞,露出,死ね,馬鹿,阿呆,サザエ,昭和,車イス
ドン引き,マジキチ,ジャズ珍,不惑,あの人,シゲッチ,中曽,ジジイ,爺さん,スカトロ,私怨の個人名,ブル厨と一目瞭然www
★80年代に定員割れの女子短大に不合格した実績を持つ極貧育ちの低脳低学歴で頑固な自称ズーム君こと塩キャラメルおばさんは処女
★ズーム君など甘くてショッパイ塩キャラメルおばさんのコテ(=ホーリー・ネーム)が複数あるのは多くの偽名を使った福田和子おばさんへのオマージュと
塩キャラメルおばさんとバレない為の偽装目的が 塩キャラメル 連呼のAAで正体発覚。現在はひたすら(●笑)で攪乱・陽動・火消しの日々w
★社会との接点が皆無なことからここ数年間、年末年始、平日、週末問わず毎朝、毎晩定刻で2ちゃんに登場し
ズーム以外を貶すか誰かに因縁をつけて嫌われており、リアル無職で孤独なおばさんと確認されました
収入ゼロで買えないから基本カタログや説明書をダウンロードで吟味し語るだけの
知ったかスペック厨=(、笑)でおなじみの自称ズーム君こと甘くてショッパイ塩キャラメルおばさん煽り厨の真実だ
825 :
考える名無しさん:2012/04/21(土) 05:52:12.96 O
眠ってるちんぽおっ立ててオナニして寝ます
>>780 ゲームさんは北朝鮮の話が好きなようなのでw
時事ネタは得意じゃないが乗っかりますよ
北朝鮮はですね、私に言わせると“彼ら好みのルール”なんか無いんですよ。
タイガーマスクの歌でありますでしょ
「ルール無用の悪党に〜♪(ふっる〜」
奴らはほとんどルール無用なんですよ。
それでもみんな、彼らを合理的に理解しようとするわけです。
ゲームさんが「北朝鮮好みのルール」などと言うのも、
「ゲーム」という合理的範疇で奴らの行動原理を理解しようとする現れなんです。
ゲームさんやら私やらがFe氏に嫌われるのはw
ルール無用だからです
貴方の言うその“力”とやらも、
相手の出方によってどうとでも融通無碍に利用できる方便でしょう
「力」なんてものはそれを制御できる間は怖くない。
制御できない力が怖いわけです。
恐らくゲームさんがそこで言う“力”は
力を制御できない「不安感」に意味の重点がある・・?
北朝鮮の話に戻りますけど、
ルール無用とはいえ、何某かの事実が積み重なって彼らの国家が成立しているのは間違いない、
という判断はどうやったってあるわけです。
ルールは無くとも論理はあるんです
北朝鮮といえども論理からは逃げられない
つづきませんw
力とは支点と力点の関係だよ、こんな単純なことすらわからない馬鹿ってwww
834 :
考える名無しさん:2012/04/21(土) 14:32:26.59 0
論理は人が決めたものにすぎない、
論理を超えたことなど普通に起きているから恐怖というものが生じる。
見ない起きない。
絶対に起きないから安全対策をしていなかった、5重の安全で守られたものが
一瞬で崩壊するとか絶対にない。
自殺テロとか絶対におきない。生命の論理にたいして非論理だもの。
力とは友にするものであって、「友」ではなく「反」することではない。
予知と予測の違いで前者を頭から否定する奴は何もできない
そんだけの話。
ポエムはポエム板で。
ホリエモン 元ニート でググれ
やばすぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
839 :
考える名無しさん:2012/04/21(土) 20:50:21.18 0
ホリエモン 元ニート でググれ
やばすぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
840 :
宮家:2012/04/21(土) 21:10:33.16 O
イベントの望月商事
841 :
考える名無しさん:2012/04/22(日) 01:14:16.51 0
ホリエモン 元ニート でググれ
やばすぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
842 :
考える名無しさん:2012/04/22(日) 01:34:19.36 0
:.| ´,rェェェ、` .:::::::::|:
:.\ ヾ`ニニ´ .:::::/…
:/  ̄"''''ヽ:
:.| ´,rェェェ、` .:::::::::|:
:.\ ヾ`ニニ´ .:::::/…
:/  ̄"''''ヽ:
:.| ´,rェェェ、` .:::::::::|:
:.\ ヾ`ニニ´ .:::::/… ?
:/  ̄"''''ヽ:
A
(%)<リスカはおとこはしないだろ
小
人
844 :
考える名無しさん:2012/04/22(日) 23:14:45.38 0
ユダヤの人って○○をもとめる脳領域が脳内シェアを奪っているよね
他者の脳を操作する領域にかわり、
だから他者脳操作が出来ずに攻撃される。
でも答えを導き出せる。
言語は脳を変化させるから○○の部分は書かないけど。
スティーブンスピルバーグ監督がユダヤの方だけど、
年をとっても素晴らしくいる秘訣というのに。
〜なことに〜し続けることと言っていたのをヒントにそれを頭の中で考えたら
その脳内シェアを変更できた、
でも他者から酷く扱われそうな感覚と、もとの状態に戻すのにかなり手間どったから
どうするかは書かないけど、
なるほど○○を求められるなと思った。
ちなみに自分が首の凝りで脳血流が低下していて思考力が低下していて
長年周りから攻撃されてきて厳しかったが、
これの場合は思考力は高いが、攻撃されるという感じになりそう
まあ、はじめに言葉ありき、であろうはずがないわね
でも、言葉の世界だけにしたいんだよね?
847 :
ゲーム:2012/04/23(月) 09:26:30.45 0
>>抄録氏
このところ抄録氏は過酷な労働を強いられていたらしく、お疲れとみえる。w
>>832 をみると、さながら「論理」は超越的であるかのようだ。
論理とは“言明の筋道”の謂い。或る言明が論理的たるには、規則(ルール)に
従わねばならない。ルールに則らない言明を支離滅裂という。ルールは論理に
先行する。抄録氏の論旨は、そこが転倒している。
北朝鮮の主張にも、この私のそれにも、もし論理の片鱗が感じられるのならw
「ルール無用」ではなく、なんらかのルールに基づいているからだろう。
848 :
ゲーム:2012/04/23(月) 09:41:40.57 0
>>抄録氏
北朝鮮とのパワーゲームは、主張と主張をぶつけあっても、平行線をたどるだけだろう。
ルールが異なるのだから。相手のそれを突き崩すには、その主張の“理”を保証している
ルールを無効にしなければならない。その方法は、二つくらいしかおもいつかない。
この件について“床屋”政治談義をやりたいのなら、多少はつきあいます。w
849 :
ゲーム:2012/04/23(月) 10:12:04.21 0
>>829 Fe君には、北朝鮮のような頑なさがありw、常に彼のルール⇒ゲームを唯一のもの
と信じているらしく、彼と色々な人たちとの議論をみてきたけれども結局、ゲームに
ならずに、白々と物別れに終わっている。
その点、私は融通無碍でw、たいていのゲームに参戦できます。その戦法は単純明解。
たとえばFe君なら、その言明を可能にしている規則の“無根拠性”を衝く、という
やり方。一種の反則だが、私の立場とは矛盾していないはず。w
将棋の『金』には6通りの選択肢があるが、その決まりの根拠などない、ということ。
なお私に“方便”は不要。妥当とみなせることをレスしている。
もっと熱くなれよ!!
852 :
抄録:2012/04/23(月) 15:24:19.84 0
>>847 論理は当然に超越している。
なぜなら、貴方のいう「言明の筋道」は、結局は言明できないからです。
論理学は、「正しい言明がいかようにありえるのか」について、
具体的な言明のパターンを整理することしかできない。
アリストテレスがやったことは『整理』であり、言明の筋道の解明ではない。
整理することで、正しい言明のありようを気付かせて見せたのでしょう。
北朝鮮の主張にもルールはない
それがどんなルールが言えますか?言えるなら言ってみて下さい。(片鱗を感じればルール?)
将棋をしているのかオセロをしているのか、奴らは自分でも分かっちゃいない。
場当たりに歩を飛車だと言い張り、別の時には歩で挟むと駒をひっくり返せるはずだ
とか言い、とにかく負けなきゃなんでもいい。自分の勝ちだと言えばいい。
そんなものがルールと言えますか。
ところがヒトはその言明の不条理を理解することができる。
それは論理によるのですよ。そしてその論理の中身については言えない。
それはもはやルールではないから。それを超越というならそうかもしれない。
「存在を要素に分けて、ある要素をAだと言える」ことは自明ではない。
それはヒトが決めれる話ではない。つまりルール(規則)じゃあない。
だが有効に成立し理解できる。ヒトが世界を理解できる根拠など論理的には無い。
853 :
抄録:2012/04/23(月) 15:24:55.90 0
>>849 「無根拠性を衝ける」のは何故なんですかね。
貴方が「根拠が無い」という事態に気付いたのはどうしてですか。
それは論理に依って、でしょう。(言語によってではない)
「根拠が“言えない”」のだということを、論理によって理解しているわけです。
違うなら説明してください、論理的に。
「根拠が無い」ことと「論理的であること」
いづれを優先しますか。どちらが重大でしょう。
そしてそれは何故ですか。
「金が六つの場所に動ける」というルールに根拠はない。
一方、「金が六つの場所に動ける」というルールが理解され、成立可能であるのは自明ではない。
つまりこれにも根拠はない。
しかし「理解されることには根拠が無いから、ルールなんか無効」とはならない。
「根拠がない」という武器の及ぶ範囲は無制限ではない。
正しさは、数学であろうと常に結果論。
成立に何を見るか。美を見るのだろうか。。。
朝鮮人のスレだということがバレたようだな
>>853 >いづれを優先しますか。どちらが重大でしょう。
割り切れないものを割り切り比較できないものに差をつけ、
世界を知ったそれが世界の実態という主張ですね?
>正しさは、数学であろうと常に結果論。
>成立に何を見るか。美を見るのだろうか。。。
結果の評価も論なのですね、誰かが正しさを相性で説明したら
論での説明がつまらなくなりそうですね。
>>852 >とにかく負けなきゃなんでもいい。自分の勝ちだと言えばいい。
>そんなものがルールと言えますか。
ルールを途中で変更されたら困りますからね、評価する神がいたとして
ルールを変更できないように頼みましょうか?
圧倒的に不利なルールなら自分が有利になるようにルールを変えて
しまうのは将棋や囲碁では許されなくても喧嘩に通用するのかと
考えれば同じルールで喧嘩するんでしょうね。喧嘩している人にルールに
従え、それなら片方がルール違反で凶器をもって殺すとかしたら逮捕
でしょうね。ルールって凄いねぇ。
>だが有効に成立し理解できる。ヒトが世界を理解できる根拠など論理的には無い。
信じちゃった人は世界がどんな未知で見えざる触れないものであっても
理解していると信じている気もしますね。
理解を紐解いて行けばたどり着く最後の末端を信じるってことにも
思えますね。末端の先は?そんなの理解できるわけないでしょう、
関係もない果て、関係が生じる末端のさらに向こう側なんだから。
>>846 言葉だけの世界にしたいはずがない
芸術もスポーツも論理を支えている・・いや逆なのか
先立つものなどないのかもしれん
>>856 何が割り切れないのか
割り切れると何事なのか
世界を知るとはいかに
一切の美は相性なのか
なぜそう思うのか
“美”を理解しないヒトはいるのか・・・いるような気もするなw
>>857 ルールを変えたことが分かるような世界であることを希望しているのだ
実際、そのような世界だ
ここには無い彼岸とか非常に気を付けないといけない
超越は要請されこそするがそれを対象にすると論理破綻になる
しかし破綻しても良いのか・・もう分からんな俺には
863 :
ゲーム:2012/04/24(火) 00:34:42.19 0
>>852 勘違いされている。もっとも抄録氏からみれば、私が勘違いしていて非・論理的
に映っているにちがいない。この齟齬は、言語にまつわるルールが抄録氏と私と
では異なるがゆえに生じたものである。この場合のルールとは“言葉の使い方”を
指す。このことを承知のうえで、もう少し私の意見をのべてみる。
或る言明が論理的か否かは、たいていの場合、判定できる。それが筋道だっている
かどうかは規則(ルール)に照らせば、分析・判断できるからだ。ただし、抄録氏の
言明と私のそれのいずれが整合的かは決定不能である。言葉の使い方(ルール)が違う
からだ。この場合、議論は物別れに終わる。
抄録氏は「論理は超越的だ」という。それに対して私は、或る言明が規則に従って
いれば「論理的」であり、超越的なのは論理ではなく、規則(ルール)だと主張する。
864 :
ゲーム:2012/04/24(火) 01:20:11.36 0
眠いけど、もう少し…w
>>852 北朝鮮がルール無用? ご冗談を。
抄録氏がどのような組織で働いているのかしらぬが、吹けば飛ぶような
小組織にもルールはある。会社なら社則があり、それらの個々の違いは
最終的に「法」によって統括される。何らかのゲームで個人、あるいは
組織同士がぶつかったとき、法によって「どちらの言い分が“正しい”か」
が裁断される。
とはいえ、すべての組織が法に従順(合法的)なわけではない。この国にも
利害が対立し、ほどけなくなった場合、暴力ときには殺人を容認する組織
も現に存在している。連中は法こそ破るけれども、ルール無用ではない。
敵対者を暴力によって排除、抹殺するのが彼らのルール(掟)なのである。
北朝鮮も彼らのルールに則って国際的なパワーゲームをやっているのだろう。
ルールが異なるので無茶苦茶にみえるけれども、彼らに無茶ができるほどの
余裕があるはずもなく、彼らなりに合理的に振舞っているつもりではないか。
865 :
考える名無しさん:2012/04/24(火) 02:53:49.63 0
抄録が3行になった
866 :
抄録 :2012/04/24(火) 06:11:08.57 0
>>863 ゲームさんの言うような「それを照らすことで筋道だっているかどうかを分析・判断できる何か」があるとして
それに「規則」の称号を与えることができるのか、非常に疑問に思いますね。
なぜなら、それを規則化することなどできないからです。
よく言う“支離滅裂な文章”を翻訳機に掛けても「翻訳してしまう」でしょう。
翻訳機は「規則に則って」翻訳してしまうんですよ。
ある言明が支離滅裂であることを判断するとは、
「意味が統一されていない」ことが理解され得る、ということでしょう。
つまり「さっきと言ってることが違う」ってことです。
この判断をするための規則なんて「無い」んですよ。
この作業は恐らく分析よりも統合・構成の力。
(※いわゆる「中国人の部屋」なんか絵に描いた餅にもならんのです。)
ものわかれですかねw
867 :
抄録 :2012/04/24(火) 06:11:24.13 0
>>864 初めは擬人化された北朝鮮vs日本に於けるゲームの話だったはずと思いましたが
北朝鮮内部の組織の話を混入させちゃうわけですか。。。まあいいですw
組織にルールがあるのはあったりまえ。
それが組織の条件なのだから。
しかしその内部組織の規則を国際的なゲームに持ち込めるわけじゃあない。
国内法を押し付けるなら、それは内省干渉だとして一般にも嫌われる行為
私が「北朝鮮はルール無用」というのはですね、
ミサイルは発射しないといいながら「いやこれロケットなんで発射します」と言い
偽ドル札を作っては外貨を稼ぎ(これは伝聞ですが)
核兵器は作らないと言って金をせびりながら、しれっとその金で爆弾を作り
おまけに「全部アメリカと日本が悪い」とまで言いだしかねない厚顔ぶり
そーゆーのを例えて「ルール無用」と言ってるんですよ。
いやわかるでしょ、論理的にw
「内政干渉」でした。。スンマソン
869 :
ゲーム:2012/04/24(火) 09:15:24.05 0
>>863 ルール、規則を成文化された近代法のたぐいに限定している。
いつからヒトになったのかしらぬが、言葉を使用するようになったときから、
掟、規範のもとで人間は生活(ゲーム)してきた。正/誤の基準のない共同体は
存在しなかったし、というより一定の基準(ルール)に従う集団を“共同体”と
称しているのである。(原的規則=掟は単純である)
抄録氏も認めるように規則に則って“論理的/支離滅裂”は区分けされる。
規則がなければ、論理的と支離滅裂の区別はできない。
規則には抄録氏の好きな“秩序”という意味がある。
この人事の秩序(ルール)と“自然の摂理(動的秩序)”を連関(環)させるのが
抄録氏の立場では? 規則(秩序)を否定したら、真理主義の立場は瓦解する。w
870 :
ゲーム:2012/04/24(火) 09:45:31.33 0
>>867 共同体内の法がすべて。条約はそれを超えているとの見方もあるが、
それも国内法に則って結ばれる。
むろん共同体の法を国際ゲームに持ち込めるわけではなく、どちらの
ルールに従うかをめぐって交渉がなされ、調停がつかなければ、断絶、
ときには戦争にいたる。国家間を超越する国際法なるものが未完成だ
からである。
北朝鮮でも憲法はもとより、諸法も整備されている。
その理念は“国益”を最大限にすることだろう。ミサイル発射や核実験
あるいは偽ドル発行は、その理念に沿うものと彼らは考えており、法の
もとでなされている。ゴロツキではなく、知的な連中の仕事なのである。w
ちなみに、北朝鮮のモデルはアメリカと日本であるらしい。
871 :
ゲーム:2012/04/24(火) 10:11:40.41 0
>>869の一行目は、抄録さんが「限定している」ようにみえる、ということです。
>869
私のレスが「近代法に限定している」ように読めますかね。。
掟でも規範でも構いませんよ
言明の“論理的/支離滅裂を測る「掟」なんかありますか?
私は「そんなものは無い」と言ってるわけです。
「規則に則って“論理的/支離滅裂”は区分けされる」なんて私は認めてないっす
認めてるように読めます?
規則によっては分からないと言っとるんですよ
「規則には“秩序”という意味がある」てのは良い例じゃないですかね
自分に都合の良いように意味をずらしたらいかんのですよ。
「論理的に考える」ってのは、曖昧な言葉の網を細かくする作業でしょう。
手元の辞書で、「rule」を調べて「秩序」と書いているものは一つもないっす。
規則を秩序の意味で使いたいなら、それでもいいですけど
ゲームさん、貴方はこの先その責任取らんといかんですよ
辞書に面白い例がありました
「Chaos rules in this school(無秩序がこの学校を支配している)」
言葉とはまったく不完全な道具
論理はそれを補わねばならない
>>870 北朝鮮の憲法がどんなものか(あるのかどうかもw)私は知りませんが
例えば日本国憲法のどこに「国益を最大限にする」なんて理念があるんですかね
教えを請う
「北朝鮮のモデルはアメリカと日本」
そうなんですか
同じ人間のすることですから、羨ましいところは真似したいでしょうが・・
どういうことですかね?こっちも教えを請うw
880 :
考える名無しさん:2012/04/24(火) 13:42:27.29 0
スレタイは、脳は物質だから意識は「偶然」に過ぎないって言い換えることもできるよね
脳科学者の池谷裕二さんによると、脳神経の細胞膜のイオン濃度は
とくに理由もなく、常にゆらいでるんだって
その、偶然に過ぎないイオンのゆらぎが、人間の意思決定に大きく影響を与えてしまうんだ
脳は物質だから、自由意志なんてものはなくて、
脳がたまたまその時にどういう状態であったかという偶然の結果でしかないんだね
881 :
ゲーム:2012/04/24(火) 15:49:31.78 0
>>872 では、その言明が論理的かどうかは、何に基づいて判定するのだろう?
抄録氏によれぱ、それもまた“論理”だそうである。
抄録氏の論旨は「それが論理的か否かは論理によって判定する」としか読めない。
おかしいでしょう? 抄録さんにはおかしくないですか。
或る言明が論理的かどうかを判定するのは、その外部にある(超越的)論理であり、
それを「規則」と私は呼んでいる。社則のような私的規則の正当/不当を判断する
ためには、それらを超える“国内法”が必要なのである。
882 :
ゲーム:2012/04/24(火) 16:03:49.54 0
>>874 『ルール』を辞書で引くと、規則、決まりとある。『規則』を調べると、
何番目かに“秩序”と記されている。次に『秩序』をみると、社会的な
“決まり”とある。これで、よろしいか。
ここでの議論は、辞書に載っている“意味”を踏まえてやっている。
>>876は、抄録氏の反省を込めたレスらしいw。カオス⇒混沌、無秩序、
無法とあり、規則=秩序が私のハッタリではないことがわかるだろう。
883 :
ゲーム:2012/04/24(火) 16:25:53.22 0
>>877 とぼけた見解である。数千万人を抱える北朝鮮を統治するのに、法に
拠らずに、どうやってそれを推進するのだろう? 10人の集団も規則
なしに、管理することはできないというのに。
いかなる国家の憲法にも、自国の利益増大の意図が盛り込まれている。
ただし、わが国のそれは米国主導で起草されたものであり、必ずしも
その基本的理念が国益と合致するとは限らない、という見方も根強い。
884 :
ゲーム:2012/04/24(火) 16:38:02.13 0
>>876 「言葉が不完全である」というよりも、人間のつくるものに完全なものなどない
ということだろう。もっとも私は神のつくりしものにも、そんなものはない、と
思っている。w
言語が不完全な記号なら、その連なりである論理も不完全では?
抄録氏のいう「論理」とは、何を指しているのだろうか。
自然の摂理? それなら、そのように表現するほうがいい。
>>881 私にとっておかしくない、というか、諦めました。
ヒトは「私」に成立するこの“正しさ”を受け入れるしかない。
前にも言いましたが、ヒトが自然を理解・判定できる根拠など
結果論以外に無い。
>>858 > 言葉だけの世界にしたいはずがない
でも言葉じゃないものを論理から排除したいんですよね?
超越が外部にある、というのは集合論的な理解なのでしょうけど
その「規則」とやらは不可知論的妄想となって意味が浮いてしまう。
実際にある社則と法律の関係をどこまでも拡張できる根拠もない。
>>882 ゲームさん、言葉としての「規則(性)」が「秩序」と連関しているだろうことは
常識的に了解され得ることです。
なので、「規則」の項目に「秩序」の文字があってもおかしくない。
しかしですね、
貴方は規則(ルール)と秩序を使い分けることがありませんか。
それぞれに用いるのに相応しい状況があるわけでしょう。
論理はそれらの差異を支えているとは思いませんか。
>>883 北朝鮮が法に依って統治されていて別に構いませんよ。
ただそのことは、北朝鮮が国際的なゲームで法に則っている根拠にはならないでしょう。
>>886 そんなことはないと思う
わたしは動的秩序とかしばしば口走ったわけですが、空疎且つ安易すぎた。
もう使いません。
>>884 自然の摂理ですか。。。。それも遠慮しておきます。
論理は当たりすぎてその正しさを吟味できない
しかし論理的な思考は容易ではない。
論理とは何か?これ以上先には進めないんですよ。
もう黙りたい
893 :
ゲーム:2012/04/24(火) 17:55:21.08 0
>>889 言葉の使い方の違いを知っているということです。
状況を支えているのは自然の摂理でしょう?
むろん私はそれを認めませんが。w
状況という言葉を用い、そこに秩序があるというのなら“摂理”に従っている
というほうが相応しい。言語⇒論理に、状況を支えることはできないからだ。
言語⇒論理が支えられるのは、ヒトの心的秩序だろう。
>>893 言葉の使い方の違いをどうやって「知る」んです?
それは言語によっては判断できないでしょう
895 :
ゲーム:2012/04/24(火) 18:10:00.62 0
>>890 國際社会なる言葉はあるけれども、字義どおりの国際法など存在しない。
米国の核保有は許され、イランや北朝鮮のそれは間違っているというは、法ではない。
国家間に超越的な「法」はなく、大国のルール⇒論理が罷り通っているだけ。
北朝鮮やイランは、わが国とちがって大国のルール⇒論理に従いたくないのだろう。
>>894 知りえないものを知る方法があるだろ、言葉に支配されていたら
それすら理解できない。
知る方法があるのに知り得ないのかよ
勘弁してもらえませんかね
898 :
考える名無しさん:2012/04/25(水) 00:13:41.13 0
物質に意識があるのは必然なの?w
>>897 結婚生活の実感を知りたいなら結婚しなければ知りえないだろ?
結婚しなければ実感として知ることは不可能じゃんけ。
>>898 人間は物質じゃないから、意識などないのかも?
901 :
考える名無しさん:2012/04/25(水) 01:43:23.48 0
脳って要するに、
センサーからの一方的外部入力に直結してるプロセッサとメモリでしょ
そこで動いてるプログラムが、「世界を認識している自分」を認識している訳だ
というのと同じ状態なら、シリコン回路や他のバイオ回路でも意識があると言える
だから、「物質だから必然」なんてウソだね
その辺の物質にそんなプログラムが走ってないもん
何の回路も形成してない
脳の中には未発見のプログラム言語が実装されていて素晴らしい原理で
プログラムされております。そのアルゴリズムや回路は正しく解明すれば
完璧に理解できるんです。
脳の中でプログラムが走っている、それは神が創ったんでしょうか?
すばらしいです。
>>899 そうね、知識・体験は重要だな
己の論理の網の精度を上げるには知識を要するのだが、それだけでは不十分で
知識を矛盾無く関係付ける作業によって概念の精度は上がるのかしらね
>>899 離婚の実感を知りたけりゃ離婚しなきゃわかんねえべ。
再婚の実感をしりたけりゃ再婚しなけりゃわかんねえべ。
再々婚の実感も同様だべさ?
計れないものを計るにはどうすればいいんだろう。俺の寿命
906 :
ゲーム:2012/04/25(水) 08:46:54.77 0
>>894 中断して失礼しました。
「使い方の違い」は親や先達のそれを真似て、学ぶのが一般的。
彼らを真似て喋り、それを彼らから笑われたり、修正されたりしながら、使い方(規則)を知るのである。
一定の年齢になれば、友人や後輩、あるいは書物からも教えられるだろう。
抄録さんも、そうやって話し方、言葉の用い方を覚えたのでは?
抄録氏はそこんとこに不思議なものを感じてるんでしょうな。
人知を超えた論理を感じると。なるほどね〜。
908 :
ゲーム:2012/04/25(水) 09:44:48.94 0
>>907 人知を超えたものを「論理」と呼ぶから、狭隘なイメージを払拭できないのである。
「論理」とは、言語=記号の筋道だった(規則的な)使い方の謂いだからである。
かつて抄録氏は「自然の動的秩序」という表現を用いていた。
これは“自然の摂理”と同義だろう? なぜ、この言葉を使わないのか解せない。
自然(存在)に動的秩序=摂理がないのなら、それは混沌、無秩序、無法ということになる。
これは抄録氏の立場上、マズイ見解では? w
909 :
ゲーム:2012/04/25(水) 10:25:15.20 0
もう少し抄録氏(のイメージ)を語ると…
彼は「世界(自然)は意識⇒言語には収まらない」とみなしている(のだろう)。
そこで、彼は意識⇒言語を超越する概念として「論理」を仮想(仮設)する。
しかし私見では、意識⇒言語⇒論理は(共同)主観に属している。
つまり“論理”という概念によって「意識⇒言語を包摂(超越)するのは不可能」というのが私の主張。
とはいえ、これは所詮「論理」なる言葉の使い方をめぐる彼我の相違にすぎない。
ほんとうの差異は(共同)主観の外部に、換言すれば意識・言語・論理を超越する“理”のあるやなしや?
彼は「ある」といい、私は「ない」とみなす。
どうしても「論理」という言葉に拘るのなら、これを用いることによって、どこまで“世界”を語りうるのか。
今後のレスに期待したい。w
横槍失礼(にっこり)
解釈したものを認識するか、認識したものを解釈するかの違いでしょう。前者は、能動的人間知能のなせる世界像
の織り上げ方で、後者は受動的自然解釈の際のルールみたいなものでしょう。前者はゲーム的であり、後者は
禁欲的(?)である。前者が人間で、後者は神であるという感じを受けます。
もっこりカエレ
>>906 状況説明的にはそうでしょう。当然、経験が契機になっているわけです。
教えられることで無条件に“知る”ことができる「オールマイティなヒトの知性」
にお任せ、というわけですか。
>>909 >どうしても「論理」という言葉に拘るのなら、これを用いることによって、どこまで“世界”を語りうるのか。
語るだけが論じゃないよ。
1つ1つ汲み上げ完全を目指す論理と、1つ1つの布石によって虫食いが有る
論が生み出す論理は別ものである。
ボトムアップ的な論では語れるものは機械的なものになってしまう、
そこに自然さがないのは作った理と生じた理の違いである。
後者に自然さがあるのは整合性の点で機械的な完璧さを求める要素が抜けている
からである。
「蜂はどうしてあんな六角柱の巣を作れるんだろう?」
「木の皮を剥いできて、つばでこねて作るんだよ。」
「はぁ・・・」
ちと遠いか
>>908 「記号の筋道だった(規則的な)使い方」とはどんな規則に依るのですかね?
なんて訊くのは反則ですか
「言明の“筋道”」って何ですかね?
言明が論理的であるとは恐らく、“その内容が無矛盾である”ということである。
それを規則とか筋道と呼びたいならそれでも良いのか。。。
まあ、もうどうでもいいw
形式的に無矛盾な記号列は、規則的・機械的に作れるだろう。
だが「何事かを矛盾無く説明する」には、それとはまるで違う作業を要する。
概念を有効に掴み、普遍的に機能させるのは容易ではない。
>言明が論理的であるとは恐らく、“その内容が無矛盾である”
それは普遍ではない。数学的な捉え方で得た定義と証明の間にある論理モデルに
すぎない。美しくあっても汚くない、汚さが無いのは常に限定条件の中であり、
それを超える外界が無いと定義してしまったからである。
それは「混沌、無秩序、無法」など捉えられないものを排除してしまっている。
>>916 おおw であるか。
>>919 オカルト君の言明こそが「普遍ではない」のだw
理解できる奴が他にいないだろーがw
混沌なんてものは矛盾を避けるための方便だ
あと、
>>879「憲法とは」を見ましたよ
勉強になりました
寝る
彼は他人に言明するのでなく自己に対してである。
言うとは常に自己の鏡であり自分自身への道しるべとなる、
迷えば幻でも言明するそれが未来の捉え方で、結果として天から授かる
ものこそ結果である。原始的オカルトの基本だ。
見えないものは照らしてから見るべきで強引に見るものではないだろう。
鳴かぬなら、鳴くまで待つホトトギスでもなく、
鳴かぬなら、鳴かせてみせようでもなく、
鳴かぬなら、殺してしまえ ホトトギスでもない。
鳴かぬなら、自分で鳴こう偽ホトトギスである。
>自分で鳴こう偽ホトトギスである。
ホトトギスの代わりに代行して鳴き真似するですね。ww
ほーほけこっこ。
924 :
ゲーム:2012/04/26(木) 09:35:53.20 0
>>915 「使い方」が規則なのである。
「使い方を覚える」とは、その“規則”を知ることを意味している。
その使い方が“正しいか否か”は相手とのあいだに、それが“流通”するかどうかで決まる。
抄録氏と私のあいだには「論理」と「規則」という言葉の使い方の不一致があり、筋道だっていない
と、互いに感じているのだろう。比喩的にいえば、北朝鮮と連合国?側のパワー・ゲームのルールは
異なっており、北朝鮮もまた自らのそれを「正しい」と確信しているにちがいない。
925 :
ゲーム:2012/04/26(木) 09:56:47.33 0
もう一つ比喩をいえば… 抄録氏はスポーツをやった経験がおありだろうか。
始めにルールブックを読んでから(たとえば)野球をやるものはめったにいまい。
プレイしつつ、禁止項目やアウ/トセーフ、ボール/ストライクの意味を覚えるのである。
そこで、質問。w
打者がサードゴロを打ち、一塁ベースを駆けぬけた。
三塁手から一塁手に投げられたボールと“同時”にみえた。
「同時」はアウトかセーフか。
926 :
ゲーム:2012/04/26(木) 11:19:40.12 0
>>918 厳密には、無矛盾な記号列はつくりえないのでは?
仮に、それに近いものがつくられ、それによって“事物”の説明がなされたとする。
しかし、それが可能なのは“無矛盾に語りうる”対象に限られるのではないか。
換言すれば、その記号列を適用できる“或る断面”の(近似的)説明にすぎないのではないか。
その無矛盾な記号列では語りえぬものは初めから「排除」されている…
>>919 は、そういいたいのではなかろうか。
抄録氏のいう自然(存在)は、たぶん矛盾を内包している…
>>925 野球規則にはホームランの打ち方も超ファインプレーの仕方も載っていないんです。
しかしそれらは矛盾なく実現するのです。
空振りしたらホームランにはならんのです。
しかしそれを「規則」と呼んだら、規則のダブスタになる。
私はそれを「規則」とは呼べない。
>>925 中学のときは卓球部でした
その野球クイズは、調べるとセーフのようですが・・・
どんな禅問答すか?
>>926 自然数のシステムは「無矛盾であれば不完全」ではなかったですかね。
述語論理は「無矛盾かつ完全」なシステムであるとか(知らんけど)。
無矛盾であることと完全であること、いづれが優先されるのか・・
無矛盾であることを示すために用いてよいのは、どの程度の強さの論理なのか?
程度問題でしかないよ
強い論理を使えば自然数だって無矛盾であることは証明できる
恐らく、無矛盾であることが優先される。
矛盾を内包すると全てがナンセンスになって何も言えなくなる。
オカルト君よ、『自然は完全ではない』ということにしようw
>>930 なんですかね、その「強い論理」とは。
論理の「強さの程度」とはなんぞ?
ちょっとその証明やってみてちょ
>>932 例:
弱い論理…原始再帰的算術 PRA
強い論理…最初のε数までの超限帰納法
>>933 そんなんでこっちが分かるとでも思うのかね
貴方、俺が「鋼を焼き入れると硬くなるのはマルテンサイト変態による」
とか言ったとして、それで納得するかね
分かるとは思ってない
論理を議論の対象にする場合、「議論の対象としての論理」と、「議論を行うための論理」の区別を認識してさえいればいい
>>935 それもまた後で訊きますが
先ず「強い論理」とは何が強いのか教えてちょ
そんな説明に悩むほど込み入った話なのか、論理の「強い/弱い」てのは。
また夜にでも来るので頼みましたぜ論理先生
938 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 14:16:13.26 0
現代の科学で、思考、記憶、判断といった心的機能の脳の物理的な過程
は解明が可能な領域に入っている(イ−ジ−プロブレム)。しかし、
あなたは、他の誰でもなく、今のその、あなたの体験をしているのか、
と言う問題(ハ−ドプロブレム)は、チャ−マ−ズを中心として研究
されているが、ティム・ロバ−ツ、永井均は「意識の主観的体験」は
ハ−ド・プロブレムとは別の、より難しい問題として「意識の超難問」
として提起している。
ハ−ドプロブレムを強い論理とは言わないと思うわ。
>>932 論理ではなく論理力なら強さという表現があってもいいかと思うわ。
>>931 >オカルト君よ、『自然は完全ではない』ということにしようw
完全の定義による。完全も不完全も模様にすぎない。
神は完全な力で世界を作ったという考え方と、神の力は不完全だからこそ
完全であるみたいな評価もできるんじゃね?
それは形而下で見るのと形而上で見るのでは関係が変わる相性に過ぎない。
>抄録氏のいう自然(存在)は、たぶん矛盾を内包している…
自然(存在)は観測者の主体による存在であるわけで、
関係による意味は常に矛盾を内包するのは当然と思うですぅ。
計り方によってどのようにでも説明できたりする類は計ることによって
矛盾が発生するんじゃね?
ミクロ現象をマクロ現象に適用したとき捉えた尺度によっては矛盾と
感じても変ではない気がする。
942 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 15:03:15.41 0
科学が今後どこまで進歩しても、完全なものには、成り得ないし、また、自然をどこまでも
探求しても完全なものには到達しない。しかし、探求すればするほど自然は不可思議
なる「力」で、動いているのも事実です。
943 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 15:29:42.68 0
実存的存在という概念には、自己の主体的存在と、客観的(自然も含めて)な存在
を包含しており、私達が一般的に使っている「論理」は主体的意識下に於ける認識
にすぎない。従って、客観的にみた場合、「論理」は人それぞれにより論理的思考
は異なるものと思う。
>>942 力と定義した時点で理解できないものが出てくれば不可思議となるのでは?
>>943 単に範囲の違いだろう客観的に見えたとしてもさらにその外ならば
それは主体的にすぎない無限の入れ子構造
945 :
ゲーム:2012/04/26(木) 16:38:46.62 0
>>927 「ホームランの規定」がルールであり、その打ち方はルールではない。w
野球というゲームがほとんどの場合、矛盾なく進行するのは、そのルールを
両チームが受け入れているから。それでも互いが(自分の正しさを)言い張る
ときがあり、それに備えて審判が配置されている。
ルールはマニュアルではなく、その振る舞いを終始、規定するものではない。
抄録さんも「朝から晩まで法に律せられている」実感はないはずである。
「同時」の質問をしたのは、その答えで年代が推測できるから。
まだまだ、お若いようですね。w
最近のルールは知らないけれども、以前は“同時”についての言及がなかった
そうである。足がボールよりも速ければ、セーフ。(間違っているかもしれぬ)
946 :
ゲーム:2012/04/26(木) 17:07:53.87 0
>>927 ここで問題にしてきたのは、抄録氏と野球をする話ではない。
抄録氏が野球をしたがり、私がサッカーを望んだとき、どんなゲームが
可能なのか、というテーマ。(ふつうは、やらない)
しかし“言葉のやりとり”は、同じ国語のそれでも異種格闘に似たところ
がある。言語は伝達という目的があり、非私的である一方、何を語っても
残滓が感じられる秘私的な側面を否定しがたいからである。いわば言語は
矛盾を重ね合わせた記号であるらしい。(以下は、いずれ) w
947 :
抄録 :2012/04/26(木) 18:11:14.40 0
>>945 ゲームさん、「野球の世界」を「言明の世界」の比喩として設定する場合
その「球の打ち方」は「言葉の使い方」に相当するんですよ。
野球のプレイも、言明の行いも、言われるその「振る舞い」なんです。
状況はいつも違うんです。
言葉とか概念は無制限(≠無限)に作り出せる。作らねばヒトに進歩はない。
野球も一本脚打法とか出てきてもOKなわけです。
しかし思考によって概念を紡いでいく時に、これは論理の中でしか機能しない。
矛盾する言明であってはならないんです。
「言葉(を含む一切の)矛盾のない振る舞い」を保証する何ものかを、私は「論理」と呼ぼうとしている。
しかし貴方はそれを「規則」と呼ばねばならないはず。やはり「規則」ですか?
948 :
ゲーム:2012/04/26(木) 22:03:13.23 0
>>947 そこは微妙な違いがある。
バットの長さ、その材質、また打つ位置などは規定されていると思う。
そのルールさえ守れば、どう打とうと自由である。
そこには規則のもとでの“恣意”が保証されている。
それに比して、言葉の使い方は何一つ規定されていない。
にもかかわらず、一つのの共同体には共通の「使い方」がある。
それが“規則”である。
が、それは共同体内・或る家族のそれと全的に重なるわけではない。
そこにもまた独得の“使い方”があり、他家族とは異なる規則がある。
そして家族内・個人にも独自の“使い方”すなわち規則があり、たぶん私の姉とは
世間話をしているぶんには(共同体の、あるいは家族の規則に従っているかぎりは)
コミュニケーションは可能だろうが、私の知覚、表徴、判断、推論を語るや否や、
彼女は引くにちがいない。w これは逆もしかりである。
949 :
ゲーム:2012/04/26(木) 22:18:16.29 0
>>947 それが抄録氏と私の“言葉の使い方”の違いである。
言葉を紡ぐとき、一般的に無矛盾を志向する。つまり論理的たろうと心がける。
それは、超越的な規則のもとで初めて可能になる。
規則のないところに“良い打ち方”も“論理的な表現”もありえない。
なお、その規則には“(正しいという)根拠”がないということである。
>>948 バットがバットであるための特徴が決まっているように
「りんご」も「りんご」と有効に発話・筆記しなければならない。
しかし同じ発話・筆記は無く、恣意的であることは許されている
野球のルールも野球より先に決まっていたわけではない。
遊びの中から来歴を経て、ルールが決まっていく。
もとから比喩なんですから、「微妙な違い」はそりゃありますよ。
重大なのはそこではなく、
凡そ世界に起こる状況は矛盾しない、ってことです。
「三振した結果ホームランを打った」という「言明」も「状況」も
いずれも論理的にあり得ない、ってことです。
>>949 「言葉の使い方」について、たしかに文法はある、慣用的言い回しもある。
それはロボットでも習得できるかもしれない
しかし、それだけでは『思考することはできない』
「思考する」ためには、言葉以前に世界のありようについて
概ねヒトはそれを知っている必要がある
言葉なんてものは、直線状に並べた積み木に過ぎない
そう、「言葉ありき」ではない
言葉はロゴスではない。
データ化するための外部機器、いわば算盤である。
それも言葉である。
算盤か
いよいよ規則的なものを想定し出したぞコイツ
>>956 んー・・それは別に構わない
>>957 論理に規則などない
それ(規則とやら)が超越していることはゲーム氏も認めている
ん?
規則を論理と呼ぶのだと思っていたのだが違うのか?
>>957 あと、コイツとかあまり言わない方がいいよ
もうやめるか、くだらねえ
>>959 おいおまえ、責任もって残りのレス面白いこと書けよ
962 :
考える名無しさん:2012/04/26(木) 23:49:05.66 0
終了
論理に強度はなくても、強度の論理はある。痛みは強度を持つ。その程度を言語で表すことはできないので、
論理とはある基準を持たないものだということが帰結される。すると、程度を表すには論理に強度を持たせる
ことが必要となる。
ゲームさんの主張でおかしいと思ってしまうところは、ゲームが多人数でのコミュニケーションと同一視されている
と思われるところだ。ゲームとは、本質的にひとり遊びである。自然を相手に遊ぶ。他人は理解不能であるから、
偶然を相手にひとり遊びをする。
言語とは、ゲームではない。それは祈りであり、本能だ。コミュニケーションとはゲームではない。
それは殺し合いであり、愛し合いだ。ゲームはしたい人間だけがすればよい。本来的な言語を
ゲームと呼ぶべきではない。それは、獲得の過程においてはゲームであるが、その使用においては、
ゲームに一元化されない。規則の共有化をゲームと呼ぶ必要はない。それは単なる規則の束である。
だから、ゲームと呼ぶことの陥穽が論難を呼ぶのである。ゲームとは、規則に従うことではなく、
遊びたいという心だ。
966 :
ゲーム:2012/04/27(金) 09:25:43.51 0
細かく疑問を呈する。
>>948 その発話、筆記も規則のもとでの“恣意”である。
私的な、もしくは親族や共同体の規則に法って表出し、表現する。
>>951 野球というゲームは様々な“遊び”が集約される格好で成立したのだろう。
では、それ以前の様々な“遊び”にルールはなかったのか。むろん「あった」。
ルールのない遊びはなく、それに従わないものは相手にされない。
仲間はずれにされ、だれからも遊んでくれなくなると、アブサロム氏
>>964のいう
「ひとり遊び」に耽るしかない。では、それは無理、無法、無秩序か。
そこにもルール(私的な規則)を設けざるをえない。
ルールなしには、一人で“遊ぶ”こともできないのである。(彼と結論は逆)
967 :
ゲーム:2012/04/27(金) 09:53:01.14 0
>>952 はわかりにくい。説明を請う。
>>954 それは、どうかな?
私たちにも言葉を有しない“とき”があった。乳幼児期だ。
そこにも“世界”はあった。
が、それは欲求に沿って裁断されていて、欲求がなくても“意味”として
開かれるためには“言葉の使い方”を覚えなければならなかった。
遊ぶためには、偶然が必要である。探検は、未知に出会う喜びであるし、赤ん坊はなんにも知らない故に
何にでも驚き、老人は楽しみが少なく達観している。コンピューターは、自然的な意味での乱数の生成が
できない(授業で習った)。多分人間にも乱数は作れないが、他者の考えはわからない部分が多く、
他者の未知の部分が偶然となる。自我という形で心を枠づけた時、その限定性が他者という偶然を
認識可能にする。自我のない人間にとっては他者は存在しない。
969 :
ゲーム:2012/04/27(金) 10:12:35.95 0
>>958 ここは少々、おかしい。
抄録さんも、論理的/非論理的の差異は認めているのでしょう?
その判定の基準を「規則」と称しているのである。
たとえば矛盾のある言明を論理的とは呼ばないのでは?
この“矛盾”の規約などがそれである。
非秩序と秩序の狭間に世界がある。
論理も同じである。ただ極限ではないその狭間なのに極限のそれと
無意識に誘導されているだけにすぎない。
論理を完全値として証明するのならば世界は有限値でなければ成立しえない。
数学もわからないのか?
>967 :ゲーム:2012/04/27(金) 09:53:01.14 0
> 私たちにも言葉を有しない“とき”があった。乳幼児期だ。
> そこにも“世界”はあった。
> が、それは欲求に沿って裁断されていて、欲求がなくても“意味”として
> 開かれるためには“言葉の使い方”を覚えなければならなかった。
乳児期の前には世界と原始的な意味を成立させる時期もあった。
すなわち意味が成立しない時期も存在した。意味が成立する前提段階を
経てなければ。。
972 :
考える名無しさん:2012/04/27(金) 18:53:18.22 0
>論理を完全値として証明するのならば世界は有限値でなければ成立しえない
文学的表現というやつですか?普通の言葉で説明してくれませんか?
>>972 それは論じゃないから触ったらダメ。空気よもうな。
>>972 ヒント:形而上の類を形而下の意で説明しても意味は成立しえない。
魔物を物理的に説明するようなもの。
975 :
考える名無しさん:2012/04/27(金) 19:28:21.39 0
どんな顔して書いてんだか…
>>967 「言葉の使い方」を“覚える”ことが可能であるためには
「正しい言葉の使い方」がヒトに成立しなければいかんのですよ。
つまり、矛盾する言葉の使い方は、「使い方」にはならんのです。
>>969 ゲームさん、「矛盾がない」ことが“規約”とすることができるなら
「矛盾がない」ことが「正しさの根拠」だと認めるとの同じなんですよ。
貴方は「正しさには根拠がない」と言っていた人でしょう。
もうずっとアク禁でね
無理して2、3行ずつ端折りながら書いてるのだが
それも書けたり書けなかったりで
当分書きませんw
あらら、それはとても残念。
どうしてアク禁に?
私、仕組み知らないのですが。
980 :
麦茶:2012/04/27(金) 22:00:57.48 0
コテハン出来たかな
981 :
麦茶:2012/04/27(金) 22:02:02.43 0
>>979 わたしはプロバイダがdionなのだが
dion使ってる奴が一人でも悪いことすると
全dion軍がアク禁になるのよ
あと頼むぞ麦茶w
983 :
麦茶:2012/04/27(金) 22:20:30.51 0
あー、規制というやつですか?
解除まで閲覧のみですか。まあ、しばし、お休みください。
論理、概念、ロゴス・・・
そうした事への捉え方は、私、多分抄録さんとは対極的だと思いますが、あなたの異論への姿勢が素晴らしいなあという記憶があります。
といっても一度読んだ日があるだけですが。
普段スマホなのですが、近いうちにまともなキーボードで書き込みもしてみようかと思います。宜しくお願いします。
3行規制って始めて聞いた
985 :
ゲーム:2012/04/27(金) 23:17:38.77 0
>>971 それも言葉を操れるようになってから「わかった」のである。
たぶんサルも乳幼児も「前期段階」など知らないはずである。w
>>977 露骨な例をあげる。
抄録氏と(私もそうだが)アメリカ人のジョン氏とは“正しい言葉の使い方”が全く異なる。
中国人の周氏とも同じことがいえる。正しいそれは共同体ごとに違う。
共通しているのは、どの共同体にも“正しい言葉の使い方”があるということ。
それは、間違った使い方も共同体ごとにある、ということを意味している。
「矛盾」する表現が間違った言葉使い方だとすれば、それは矛盾を否定するルールがあるから。
>>984 まともには全く書けない
あやしげなサイトを経由して書いている
どうしても長文のときはレス代行に頼んでいた
しかしもう面倒w
987 :
ゲーム:2012/04/27(金) 23:37:24.96 0
>>977 依然として抄録氏は冴えないようだ。w
存在(抄録氏のいう自然)には真/偽も正/誤も、たぶん美/醜もない、
その理由が抄録氏と私とでは真逆。(それについては、いずれ)
にもかからずヒトは無法、無秩序を生きることができず、ルールを仮設する。
それによって真/偽、正/誤、美/醜(これについては異論がある)を判定する。
それらはルールがあって、初めて区分けできる。
ただし、そのルールが“正しい”という根拠はない。これが私の主張。
>>985 日本人とアメリカ人とでは正しいことばの使い方は確かに異なる。
しかし日本人は英語を使えるようになるでしょう。
日本語も英語も「使い方の“正しさ”」を論理が支えているからです。
>>987 ヒトがルールを仮設できるのは無条件ではない
(共同主観など、言ったもん勝ちの論点先取)
「区分けできる」ことが可能となって初めてルールが成立するのである
990 :
ゲーム:2012/04/28(土) 00:06:13.20 0
>>988 どの言語にも規則があるから近似的に使うことができる。
支離滅裂なものは真似ようがない。
その“論理”について、もう少し説明してしていただきたい。
そもそも抄録氏の言う“正しい”とは、どういう使い方?
991 :
ゲーム:2012/04/28(土) 00:12:18.15 0
>>989 では、その「条件」とは何?
その「区分けを可能にする」のは何? 論理?
では「論理」とは何? 結局、ここへ帰ってくるわけです。w
>>990 それはゲームさんが既に述べている。「矛盾が無い」と等価。
しかし「矛盾が無い」ことを掴む、つまり「論理的整合性」と掴むことは
容易ではない。概念を決める「規約」が無いのです
次スレ立てる頃じゃないか
>>991 それでも概念はその都度「成立」する。青い赤は無い。
一切の思考は、当然とも思えるがしかし不思議なこの事態(=論理)の中でのみ成立する
>>992 論理的整合性はもとを辿れば体験の中の原因と結果のつながりから来ているのです。
997 :
ゲーム:2012/04/28(土) 00:33:46.98 0
>>992 或る言明が「矛盾している」といえるのは“矛盾”という言葉の意味について
規約(規定)があるからである。
その規約を受容しないものにとっては“矛盾”でない。
無矛盾/矛盾=論理的/非論理的ということらしい。
その区分けは規則に基づくというのが私の主張。
それに対して抄録氏は論理的/非論理的を区分けるのもまた“論理”だという。
では、後者の“論理”が整合的(論理的)であるか否かを判定するのは何?
それも論理?
998 :
ゲーム:2012/04/28(土) 00:38:42.20 0
>>994 感覚器官の機能の問題。
しかし、彼は良い人であり、かつ悪い人である。この種の矛盾は少なくない。
>>998 それは「(誰かにとって)良いところ(orとき、感じ)もあり、悪いところもある」の謂いであることが
論理的に理解され得るから言明として成立するのです。
ぜんぜん書着込めない。もうやめw
1000 :
ゲーム:2012/04/28(土) 00:47:55.21 0
少し、曖昧なので…
一つの行為の良し/悪しも規則なしには決めようがない。
「人を殺すのは悪なのか(ちょっと違うか)」という有名スレがありますね。w
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。