1 :
考える名無しさん :
2011/11/01(火) 21:07:46.32 0 1889年9月 メスキルヒに生まれる。 1919年 フライブルク大学哲学第一研究室にてフッサールの助手となる。 1920年 フッサール61歳の祝賀会でヤスパースと出会い意気投合。哲学者として認め会う。二人 の書簡は『往復書簡』として遺される。ただ、ハイデガー思想がよく理解できなかったこともヤス パースの自伝に打ち明けられている。 1927年 『存在と時間(有と時)』刊行。ターム:Dasein 現存在、現有。 In-der-Weit-sein 世界内存在、世界の内に有ること。 Seinsverstandniss 存在了解、有の理解。 Verfallen 頽落。 1933年4月 周囲の推薦でフライブルク大学学長になる。同時にナチス党に入党。 1934年3月 総長を辞任。 1936-1938年 論稿『哲学への寄与』執筆。生前は刊行を禁ずる。ターム:Seyn 有・、奥深い存在。 Ereignis 性起、呼び求める促し。 Ab-grund 底無しの深淵。 1946年 『「ヒューマニズム」に関する書簡』執筆。サルトルの命題《実存は本質に先立つ》を形而上 学の命題と断ずる。《併し、ある一つの形而上学的命題を転倒しても、その転倒は依然としてある 一つの形而上学的命題に留まっている。》 1961年 『ニーチェ』全2巻を刊行。遺稿「力への意志」をニーチェの最終到達点とし、その意義と問 題をみる。 1962年 『技術と転回』刊行。世界をあまねく算定し、役立つよう立たせ、かつ自分をもそれを確保 するよう立たせる対象と化す人間。 1975年ハイデガー全集ドイツで刊行開始。 1976年5月 心臓麻痺で逝去。 影響は現代思想ではサルトル、デリダ、フーコー、現代日本では木田元、福田和也、が有名
2 :
考える名無しさん :2011/11/02(水) 16:24:55.23 0
スレタイ、きもいなー なんだよ「マルティン」て。 「マルティン」とちゃんと書けないのかよ。
3 :
考える名無しさん :2011/11/02(水) 17:00:43.54 0
>>2 ちゃうちゃう
「マルテイン」になっているわけよ
つまり単なる「半角カナ」の変換にしている(笑)
どういう変換を記憶させているのかねえ??
まあ「人生論」と「変換技術」は関係ないから
どうでもいいのかもしれないけれど
こういう変な誤字は大抵波平の仕業
前スレの終わりで「ハイデガー思想は人生論」への懐疑を述べたんだけど。補足すると、「人生」と いう語彙に付いた手垢があり、そしてその手垢というのは、生を物語化してしまう、で、そこで 物語化されえないものは排除されるという性格がある。オウム事件のとき、溢れ返ったのがまさ に物語。麻原の出生、挫折、鍼灸院も失敗。オウム開設。権力志向。王国。重なる無法、犯罪。殺人。 という挫折と転落の物語ですね。それが合ってるところもないわけではないにせよ、そこに収ま り切れないものもあったのかもしれない。しかしそれは見事に排除されてしまう。教義上の理由 とか、だからあの事件では捨象されてしまった。それが物語化の威力だと思う。「人生」という 場合、物語(因果性)に収まらないものはないのと一緒になる。ハイデガー思想の場合も、生をとら える場合に物語に収まらないものも射程に入れていく。だからそこでも「人生」という語彙にはめ ることには無理があると思うんですね。
6 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 13:45:53.00 0
人生論人生論って喚いているバカなんなんだ。 人間の実存の構造を問えば全部人生論かよw ウィトゲンシュタイン読んでもそこに人生論しか読まなければ人生論だろう。
ハイデッガーはどう考えても「一般的な意味での人生論」そのものだろう
「一般的な意味での人生論」だと、 人付き合いの仕方とか、幸福論とか、処世術とか 成功法とか、どうやったら自信が得られるかとか、 PHPの本みたいなものになるはずだが、 さすがにハイデガーの本にはそんな阿呆なことは書いてない。
それは書かれた当時の時代性といものもある 書いた人間が違えば「人生論」の中身だって当然違う 「ハイデガー人生論」ということだな 人生色々 人生論も色々
存在神学なんて最終的には人生論でしょ 主体的に行動しようが 存在と言う名の神に身をゆだねようが 人生論には変わりがない
仮にそうだとして、だから何なんだよ?何度も同じ事を書いて。
12 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 16:36:20.54 0
じゃあお前の考える人生論でない真の哲学ってどんなものかいってみろ。 それでおまえのレベルを判断するから。
人生論だって哲学だろ 人生論ではマズイ何かでもあるのか 人生論で大いに結構ではないか
14 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 16:54:22.06 0
でおまえは誰を哲学者として評価しているんだ。
そりゃ マルテイン・ハイデガーでしょ 波乱万丈の人世論哲学さ
16 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 17:46:15.74 0
本当のところいえよ。 恥ずかしくて言えないならべつにいいけど。
17 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 17:48:45.64 0
まさかの竹田青嗣とか。
18 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 17:50:33.06 0
あまりレベルのひくい解説書は読まないほうがいいよ。
ハイデガーの場合、玉石混交で幾つも出てるものな。
『ヘタな人生論より「寅さん」のひと言』 河出文庫 吉村英夫 著
マルテインは ネ申がかっているぅ〜
22 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 18:10:47.68 0
ハイデガーって、それを叩くことで無能が優越感に浸れる便利な存在なんだよな。 ここで粘着しているバカみたいに。理解しなくてもとりあえず政治がらみで叩けるからな。 そういう思想家もどきはこれまで無数にでてきた。
で、もちろん皆、ドイツ語で読んでるんだよね?
24 :
考える名無しさん :2011/11/03(木) 18:21:35.34 0
あまり レベルの ひくい 解説書うわぁ 読まにゃい ふぅおぐぅあ いぃいぃぃ にょおおおうおぅ。
生の物語性を人生と呼び、それを論ずれば人生論とすると、そのような物語性を成り立たせる地 平のことを、個体の生の担う歴史性または経歴だと考えて分析したのだと思う。で、歴史性として 既有的に将来する、とうのがそこでの時性のありかただから。そこの辺りの言い方から導けば、 『Sein und Zeit』のもつ性格ー個体の生の軌道や価値観や心の形、 それらの生じる根底を時 の地平から分析した、ということーが見えてくる。
>>25 君の悪癖がもろに出た文章だな
人生論は人生論で八百屋のお父つぁんにも十分通じることばだ
もともとハイデガーはまどろっこしい表現ばかりなんだから
それを咀嚼して簡単に言うことに意味がある
それを読解というわけだろ
こねくり回したルービックキューブをさらにこねくり回してどうすんの?
人生論というのは〈私の人生〉とか〈山田さんの人生〉また〈昭和生まれの日本人の人生〉とか、です ね。ところがそこにはある特徴があって、それが問題になる。というのは〈人生〉という場合に、前 提としてどうしても自我同一性というのを下敷きにしてしまう。その下敷きの上に〈人生〉を捉え 論じていく。それが人生論です。 ところがハイデガーの場合、人格というのは、現れる精神の深さで変容する。言い換えれば自我 同一性はそこでは問題にならない。これは昨今の凶悪事件で実は暗示されて、しかも無視されて いる問題としてある。ハイデガー思想に存在(有)としてSeinとSeynの2つがあることは割合に 知られてる。その違いがそれです。ハイデガーの著書にも〈変容を堪え抜かねばならない〉といった 言い方がされている。人間性が変容するわけです。深さによって。これが『哲学への寄与』とかに 書かれていることで、謎めいた部分で、研究者の指摘にも出てこない。これからも出てこないかも しれない。でも言ってます。それが〈Seynのもたらすいぶかしさだ〉としている。つまり自我同一性 は、成り立たない。ハイデガーの認識を取り入れたら、だから責任観念は成立しない。先のレスで 物語にならない要素が人生論では排除される、そこが問題だと書いた。あれはそういう意味なん だよ。。そういう話は八百屋のオッサンには通じないだろう(笑)
28 :
考える名無しさん :2011/11/04(金) 17:35:54.12 0
ネット上でハイデガーを社会と関連させて論じているとか言うサイトの アドレス教えろよ ハイデガーガー君よ
29 :
考える名無しさん :2011/11/04(金) 17:36:54.74 0
八百屋のオッサン差別する君はネット上でだけ天下国家論じるニートか?
お言葉に甘えて宣伝させてもらいます。 タイトル:Seyn フォレスト です。なんで、そのタイトルで検索してください。終わりに感想書き込めるコンテンツが あるので、そこに出来れば書き込んでほしいですね。宜しくお願いします。
>>27 その「人間性が変容する」というところだけれどボスなんかの現存在分析においては
精神病についてやはり「変容」という形でしか捉えられていないんだよね
これは多くの学者が指摘していて「人間性の変容」としか捉えられないことに対して
多くの批判がなされた(実際そんなに単純なものではない)
そのけっか現存在分析はすぐに下火になって現在では完全に過去の遺物になってしまった
つまり自己主体の考え方があまいなわけですよ…と書いてもわからないか
33 :
考える名無しさん :2011/11/04(金) 19:49:36.89 0
>>32 そこは確かにハイデガーの弱いところだね。
まあ人生論ではあっても主体論ではないから仕方ないけれども。
フロイトを読まなかったこともハイデガーのナチ思想と関係あるんだろうな。
フロイトはユダヤ人だったから。
人生楽ありゃ苦もあるさ。 ハイデガー
32というのはハイデガーに影響された精神科医などが考える人間分析が、実はハイデガーから みると悉く誤解していた、という1例だと思うんですね。人間の概念の拡張、というところまでは 精神科医は行かない。しかしハイデガーの根本にはそれがある。そこが違う。また、フロイトも 当然読んでおり、ツオリコーンゼミナールにフロイトのことは語られている。事実が知られてない ね。
36 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 13:50:39.74 0
精神分析がハイデガーのいう存在を捉え損なうのは当然で、 ハイデガーのそれは歴史的な展開=転回として捉えられるものだからな。 精神病理といううすっぺらい現象の底にそれは横たわっているってかんがえている。 フロイトの上澄みだけを頂戴しているカウンセラーにそれを論じろったって無理ってもの。 もし精神病っていうなら、「現代人」がすべて病なんだよ。 フロイトはそれを理解していただろ。単なる精神病理学者でないからだよ。
37 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 16:49:56.90 0
原発爆発して、今後奇形児でも生まれたら、それは存在の性起で好ましい事なの?
35に追加すると、例えばSeynということで、〈変容〉ということが一つ言われている、と私は書い たけども。そうすると、早速そこを解釈されて、‘ああ、これは要するに統合失調症のことだ’とか、 ‘それは妄想系の精神病の言い換えだ’とか、言われる可能性が高い。けども、それも違うので。と いうのも、Seynの開ける時空としての現‐有 Da-sein というのは、〈いぶかしい‐変容〉だとされ ている。〈いぶかしい〉という語彙はSeynの開け、として頻出してくる語の一つである。これをど う取るか、も想像力が必要だけども、例えば〈変容〉というと、精神病に入れられる可能性が高いわ けだから、精神病との関連性でいうなら、現‐有というのが、病気かそうでないか、判断しがたい ということでは、思う。そこら辺で、精神病医学もそこまでで階段を外されてしまう。Seynの開け というのがそういう意味合いになるとすれば。そこも非常に今的であると言えると思う。
39 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 18:04:31.62 0
「いぶかしい」ってなんというドイツ語の訳なん?
40 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 18:36:14.57 0
ドイツ語以前に、句読点の打ち方等から判断して、 まともな日本語教育受けたのかどうか心配になる
41 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 19:08:09.13 0
いぶかしいって「zögernde」の訳だろうか。
最近の若い奴はそんな奴が多い。でも、大して若くもなさそうだなw
いやハイデガーはフロイトを読んでいないも同然だ ツォリコンゼミで出てくるとはいっても話題として出てくるのみで人間の意識・無意識という重要な視点 そしてフロイトが正しいかどうかということよりも新しい視点を提供している事実には言及してはいない さらにフロイトは精神病についてその考察はシュレーバー症例のみであり基本的に神経症の研究をした人物 ヤスパースとのやり取りが続いていたのだからフロイトの精神分析を知らないはずは無いのだが ほぼ無視したに等しい ちなみに同時代人のウィトゲンシュタインはフロイトについては「師」であるとまで書いているがその思想には 激しくぶつかりかなりの影響を受けていた ウィトはハイデガーについては「共感はする」という程度の感想を残しているだけ つい最近になってウィトはソシュールも読んでいたというようなことを指摘している本が刊行されている
44 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 19:28:25.85 0
ハイデガーがラカンの新著でたけど読むのが億劫だってアレントに書き送っていることがある。
45 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 19:47:51.58 0
>>43 そうなんだろうけれども、ハイデッガーをフロイトやヴィトゲンシュタインと同系列に考えると無理があるよ。
ハイデッガーはやはり「人生論」だと思うから、分析的に細部を考えていく「精神分析」や「分析哲学」なんかとは、
ちょっと相性が悪いんじゃないのかな。
ハイデッガー人生論は歴史から顧みる、いわば歴史の集積から人生を考える手法だから、文献学や解釈学に親和性があると思う。
以前に、親鸞がどうたらこうたら…ということが出ていたけれども、そういうもっともらしい話題も、ハイデッガーが人生論を
考えていたからこそのことでしょ。
だから現存在分析にしても、現代では化石状態だし、「現象学的精神医学」は今でも続いて発展しているよね。
ハイデッガーも、精神分析を取り入れられれば取り入れた思考をしただろうけれど、先に書いたように親和性がないから組み込めない。
「人生論」という言葉に抵抗がある人がいるようだけれども、ニーチェもキェルケゴールも人生論だし。
かりに「人生論」を否定してしたとすると、大抵の有名哲学者を否定することにもなるしね。
38に続けると、学は因果性によって、論理によって行為を解析する。で、そこで解析されないも のは無として排斥されていく。しかしハイデガーが掘削したのはまさにその無であり。いかなる 因果性からも外れていくもの、つまり無なわけで。現‐有という時空とは〈底無しの深淵 Ab- grund〉だというところが、そこを、つまり根拠の〈底無し〉を言っている。それが行為に関する従 来の分析から外れていくところになる。 「訝しい」は原語では befremdlich になってますね。「意外な、不審な、訝しい」とあります。
>>46 「根拠の〈底無し〉」といってもそれはやはり根拠はそれぞれの時点ではあるわけで
その〈底無し〉に思えることを追っていけばやはり何かに突き当たる
それが最終的なものではなくとも経験や欲望やDNAにまで行き着くことは当然だと思うし
ハイデガーとフッサールが決裂したのもフッサールは現象学でハイデガーは人生論を志向していた
という事実の部分ですれ違ってしまったというのが真相なんじゃないかと思う
ハイデガーは歴史でフッサールには歴史は重要ではなかったから
人生論というのは広すぎるんです。夏目漱石の文学も人生論。親鸞も人生論。サルトルも人生論。 長渕剛も人生論。宇多田ヒカルも人生論。クラプトンも人生論。寺山修司も人生論。柄谷行人も 人生論。ヘーゲルも人生論。小林秀雄も人生論。吉本隆明も人生論。福山雅治も人生論。岡林信康も 人生論。佐野元春も人生論。尾崎豊も人生論。浜田省吾も人生論。渋谷陽一も人生論。唐十郎も人 生論。ベルイマンも人生論。小林よしのりも人生論。カントも人生論。ジョン・レノンも人生論。 etc. どんな思想家もシンガーソングライターも作家も、どっかで「どう生きるべきか」と問うし、「生き るとはどういうことか」と問う。またはそういった問いを孕みながら独自性を表現する。それはそ うだが、そこで纏めても何も言ったことにはならないし、どっかでその人生観が出てたり、してい るからといって、また人の生死を語ったからといって、「彼らは結局人生論を語ったのだ」とか言 っても何も言ったことにはならない。生が結局主題だから、無関係ではないが、それを人生論で 纏めても無意味だと思います。ミソクソで粗雑だし、個々の方法論も無視したがる。関心できない ですね。
49 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 20:37:51.05 0
>ミソクソで粗雑だし、個々の方法論も無視したがる。関心できない >ですね。 これはハーデガーガーのおっさんが典型だろう
>>48 それをいったら哲学も同じでしょう
みんな哲学になるし
だいたい人生論をやっている人が多いということはいけないことなのかな?
「その人の人生論」という意味で成り立つのだから問題ないと思うわけですよ
化学といったって高分子化学もあれば反応化学やら色々とある
しかしそれらをひとまとまりに「化学」と呼ぶ便宜性をとっている
人生論のも色々とあるけれど人生論というくくりで呼ぶと「そういうことか」と
理解がしやすいのは事実だしどの分野でもそうしていることは決して変なことではない
医学だって何種類もあるしね
>>48 は考え方が偏狭過ぎるんじゃないのかなあ?
51 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 20:50:01.76 0
まだ人生論バカがでてきた。 現象学もフッサールの人生論だよなw
52 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 20:55:18.46 0
フロイトやマルクスなんてもろユダヤ的人生論の代表だろう。 レヴィナス以上にそうだよ。 彼らの理論を科学的とか客観的とかいうひといまいないよ。
53 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 20:58:50.40 0
〈底なし〉の人生論 これぞまさしく ハイデガーの 真骨頂なり 『歴史から学ぶ〈底なし〉の人生論』ハイデガー著より
54 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 21:02:08.33 0
>>47 フッサールもハイデガーも読んだことないの丸バレw
まさか僕とツンデレとハイデガーとかで哲学勉強している?
55 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 21:08:36.88 0
私の 人生 暗かったぁ〜〜♪ −這い出るゲロ−
56 :
考える名無しさん :2011/11/05(土) 21:29:07.28 0
_,........._ r'::::::::::::::::::::`::::::::-、 .r':::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、 ./:::::::::::::::r'" ` ‐-::::::::::::::::ヽ l:::::::::::::::ミ  ̄ ̄ ヽ::ミ !::::::::::::ミ. l::ミ ,.ヽ::::::r' .lr'" .l:. ヽ:! ,,,_ l! l (´ ` :ィtナ、"': .:r'ニ、l ヽ ´' ::'`´ ,.l ,l 1 ::. / i:(i :. ,:' ‐,,、 ,:::: ./ /::::::::ヽ、 ,:'ー 'llllllllli;, / <確かに私は人生論者だよ ♥ ,r'´::::::::::::::::::ヽ -‐‐ / ::::::::::::::::::::::::::::::`-、-、 _/::l :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l ̄!:::::::::::::`:´:i.
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58 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 00:11:16.18 0
『郵便的不安たち』の22頁で東浩紀がこう言っている。 《いまは「哲学」や「思想」というと、一方ではニーチェや現象学に依拠するいつも変わらない人生論 もの、他方でアカデミックには文化研究(カルチュラルスタデイーズ)やポストコロニアル批評 が主な流れになっている。僕にはこれは両方とも、何かのための哲学のようにみえる。つまりそこ では哲学は、よく生きるための、あるいはよく社会を知るための一種の道具になっている。》 ここで東は持論の導入部として、ニーチェや現象学が人生論に使われていく状況というものを 指摘して、哲学の人生論化として指摘している。東がそのように指摘する前提に、東にとっての哲 学の在り方というのがあると思う。少なくとも東にとっては、ニーチェや現象学とはそのような ものではない。だからこそここで上記のような批評が導入部として為された。ニーチェや現象学 が人生論に使われてく状況、というのが80年代以降、一般化して行っている。そこに東は気付いて 、その上で、自分はそうはならない、という方向を彼なりに決めたのだと思う。東と違いデリダは 私は高くは評価しないが、上記のような現在の哲学の使われ方への批判には共感するところが あった。このスレでの‘ハイデガーは人生論だ’という読み方も、よき社会生活のために使える、 という当世で流行りの哲学入門の影響下にあるのではなかろうか。どうもそんな気がする。東に 言われるまでもなく、市民社会の次元まで平坦化するわけで、どうしようもないと思う。
東は市民社会のなかでうまく立ち回っているだろう その東の言葉を真に受けているお前は単なるカモだよ
ついでに言えば、昨今の哲学入門によくあるタイプの本はいずれも、哲学というのを何 らかの実効性に還元し、‘いかに役立つか’を強調する、哲学の機能性を基にしている。し かもこの手の本を書く輩はおそらく自分のやっている行為の本質に疎いまま書いている わけで、そういうところもこの手の本の特長だろう。間違っても現存する社会の土俵から は出ていかない。
>このスレでの‘ハイデガーは人生論だ’という読み方も、よき社会生活のために使える、 という当世で流行りの哲学入門の影響下にあるのではなかろうか。 どうも58は偏見に満ちているような気がする 「人生論」が悪いかのような書き方だ そして大きな勘違いは「現象学」と「人生論」というのは相性がが悪いという事実に気づいていないこと 「現象学」はその後の発展継承をみても「論理学」の系譜でありだからこそ「分析哲学」へと受け継がれていった 「精神医学」や「オートポイエーシス」などにも導入されている さらにいうとハイデガーはもともと「人生論」の学者であったしその差異は『ブリタニカ草稿』を読めば一目瞭然だ ハイデガーは「木を竹で継いだ」ように「現象学」と「人生論」を強引に接合したことに無駄な難解さが表出してしまった 東浩紀の言説は・・・全然駄目な本ですよそれ(笑)
そりゃなんだって人生論になるさ。w
63 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 14:19:37.55 0
おまえらちゃんとパンツ、穿いでっがぁ?
64 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 15:35:48.53 0
さすが東はドイツ語できないだけあって的外れすぎて意味がわからない。 現象学に依拠した人生論ものが流行ってるって、なんだそりゃw
65 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 15:38:09.68 0
カルスタやポスコロ批評が哲学のアカデミズムで主流になったことなんかないしね。 馬鹿そうなオタクだし、批評空間とかがアカデミズムだとか思っちゃったのかなw
66 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 16:19:17.61 0
>>62 そりゃなんだって人生論になるさ。w
そりゃなんだって文学になるさ。w
そりゃなんだって哲学になるさ。w
不毛な思考回路だな。w
フッサールはマッハの認識論から刺激を受けて最初は心理学の改造みたいなところから始まった。 ハイデガーに接続して初めてかなり広い意味で人生論といえなくもない、という感じ。 現象学が人生論って竹田青嗣とかそういうのか?竹田さんの本は読んだことないけど。
ハイデガー人生論は無駄が多いよな
69 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 18:58:49.29 0
━━━一 ポッキーでも喰えよ
ハイデガーは人生論である。ハイデガーは人生論ではない。人生論の取り様でどっちも言えるの で。真の人生論とは有の問いのことである。と言えばまた元に戻るわけで。または〈人生論の究極〉 =〈有の問い〉としてもいい。そうするとハイデガー思想の適切な形容にはなる。問題は有の問いは 人生論に入るか、にある。ハイデガーは人生論。という読みは当然それを肯定するだろうから、 それ以上で人生論という語彙に拘泥するのは無意味でしょう。
71 :
考える名無しさん :2011/11/15(火) 22:07:37.81 0
ハイデガーはどう読んでも完全な「人生論」だろう 人生論と何かの境界線上にあるというわけでもなくて完全なる「人生論」 ハイデガーを「人生論」として読まないから意味がわからなくなる ちゃんとキェルケゴール→ニーチェ→ヘルダーリンという人生劇場の流れがわかれば 自ずとハイデガーは読める 「有の問いは人生論に入るか」とか実に馬鹿馬鹿しいことを書いているが ハイデガーは「人生論」に「存在論」を絡ませたが相性がことごとく悪かっただけのはなし あんた本当に読む力が無い人だねw
━━━一 まあポッキーでも喰えよぉ・・・・・
存在と時間は本当の真実の正体ですよねー!?♪。
《跳躍とは、性起への聴従的帰属性の備えを跳躍的に‐開くことである。神々の到来と出奔との突発 的出現と欠在、すなわち性起は、思惟という尺度に合わせて強いて獲得することはできないが、お そらく思索的に開けを用意することはできるであろう。その開けは、時‐空(瞬間場)として、有・ の裂け開けを現‐有の内で通路づけるように、そして持ちこたえ得るようにするのである。》 上は『哲学への寄与論稿』251-252頁をただなぞっただけのものだが、これを読んで、「いやあ、 これこそ人生論ですね!」と感心する人間がいたら、文意を把握してないまま適当に言ってるか、 でなければ単なる馬鹿か、どちらかだろう。いや、そうではない、これこそ人生論!というのが 72レスのような人だと思うので、できれば72の人に、《》内のどの辺が人生論なのか、うまく説明 してほしいが。無理ならいいけど(笑)
結局人生論の人って、ろくに読まないまま色々言ってる人だというのが真実で、適当に語彙や 名前を繋ぐのが達者なだけの人間なんだろうが。将来的に一大学派になるかもしれない。いや、 きっとなるだろう。多分天才バカボンのパパの大学ですけどね。ああいう暇人が変なことを言って 結構さまになるのが哲学板のいい加減さですね。まあ笑うしかないので。ああいうのでも対話の ネタを提供してる人間に変わりはないから、その意味での意味はあると思うけど。しかし低いね え。具体性がないからどうでも言えるんで。「…論」とか言っても意味ないですね。
寄与は断章形式で普通の著作とは意味合いが違うというのは常識ですよん? 書きたいこと書いたというよりも書こうとしたしたことをインデックス的に並べた スレ主がバカボンのパパの大学とか言っちゃうのってそうとうレベルが低いですねえ 正論を言っているだけの人を邪悪な嫉妬と魂胆の崇拝信仰心から出た悪辣なだけの言を弄するのでは ハイデガー自信が邪悪なナチのレイシストであったようにスレ主自身も単なる誹謗中傷しか手がない 思想なきカルト廃出下痢餡という立場の表明しかできない気の毒な人 ━━━一 まあポッキーでもどうぞ下痢餡さん♪
_,........._ r'::::::::::::::::::::`::::::::-、 .r':::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、 ./:::::::::::::::r'" ` ‐-::::::::::::::::ヽ l:::::::::::::::ミ  ̄ ̄ ヽ::ミ !::::::::::::ミ. l::ミ ,.ヽ::::::r' .lr'" .l:. ヽ:! ,,,_ l! l (´ ` :ィtナ、"': .:r'ニ、l ヽ ´' ::'`´ ,.l ,l 1 ::. / i:(i :. ,:' ‐,,、 ,:::: ./ /::::::::ヽ、 ,:'ー 'llllllllli;, / <確かに私は人生論学者だよ ♥ ,r'´::::::::::::::::::ヽ -‐‐ / ::::::::::::::::::::::::::::::`-、-、 _/::l :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l ̄!:::::::::::::`:´:i.
フッサール「ハイデガー君、君と私が現象学だ!」
79 :
わしは人生論なのだっ! :2011/11/16(水) 15:14:53.96 0
_,-‐‐、 ,i´ l、__ _,.....、 l ‐-/´ `y‐'´ ヽ__ !、__,...-'!、__,ノー ノ ``ー 、_ , / ヽ、 ノ‐- 、__ `く-、 / `ー‐'´`-、 `ー-、 | '--、__________,.........-----‐‐'ー、_ `ー、 ,i ,-、‐‐-- 、ニ二`ー‐- 、 ,l´ ` 、 ヽ) /.´,-! 7`i_ー | ヽ __ ) _,.-‐‐ ( __ `i ヽ _,i'´ ヽ i´ -‐'_フ'´ノヽ、____,i´ ヽ'´ ,く | !、_______,.......,--、_` ヽ、 、 、 ノ (\(\ !、_____| ~`ー-、___ ,ヽ ヽ -、-'´ i´`i , ^, ⊂ニ メ' \\ |___ ``7'´ | ヽ ,l | `' 、r''´) ⊂ニ( / `、 `ー、_ ,- 、 __~ / ノ,-'´|´ ヽ‐'、 ⊂ -―/ `ー-、.`ー!、 Y ´ )_,.i'´ ノ | '‐く `ー、 , `ー、-、___ ___,.-‐´ ヽー-‐'`ー´ `ー/ /ー-ュ‐'~~ _,-‐'´ /-、_ l_ 8 / _,..-‐''´ ,.-‐-、/ /`ー-、~ _/ ,/ `ー、,l`i /__ /~``7ー-‐'´/____ ,i'´``ー-、 ノ_,/‐'´ `ー、 / /‐--、`ニ‐、_ ,!``ー- 、 ノ / `、___/_______/i ~((`、ヽ . | `ー-、/ ,! ヽ ,i' `ヽ__ ヾ .)`i `ーt_´ ,-f,.--‐‐'´`ー、___ _,i'´ ヽ`ー==ニ-'_ノ ~ `二~ _,-‐'´
ハイデガー「師匠、人生論に逝かせてください!!」
_,-‐‐、 ,i´ l、__ _,.....、 l ‐-/´ `y‐'´ ヽ__ !、__,...-'!、__,ノー ノ ``ー 、_ , / ヽ、 ノ‐- 、__ `く-、 / 有と時 `ー‐'´`-、 `ー-、 | '--、__________,.........-----‐‐'ー、_ `ー、 ,i ,-、‐‐-- 、ニ二`ー‐- 、 ,l´ ` 、 ヽ) /.´,-! 7`i_ー | ヽ __ ) _,.-‐‐ ( __ `i ヽ _,i'´ ヽ i´ -‐'_フ'´ノヽ、____,i´ ヽ'´ ,く | !、_______,.......,--、_` ヽ、 、 、 ノ (\(\ !、_____| ~`ー-、___ ,ヽ ヽ -、-'´ i´`i , ^, ⊂ニ メ' \\ 人生論 |___ ``7'´ | ヽ ,l | `' 、r''´) ⊂ニ( / `、 `ー、_ ,- 、 __~ / ノ,-'´|´ ヽ‐'、 ⊂ -―/ `ー-、.`ー!、 Y ´ )_,.i'´ ノ | '‐く `ー、 , `ー、-、___ ___,.-‐´ ヽー-‐'`ー´ `ー/ /ー-ュ‐'~~ _,-‐'´ /-、_ l_ 8 / _,..-‐''´ ,.-‐-、/ /`ー-、~ _/ ,/ `ー、,l`i /__ /~``7ー-‐'´/____ ,i'´``ー-、 ノ_,/‐'´ `ー、 / /‐--、`ニ‐、_ ,!``ー- 、 ノ / `、___/_______/i ~((`、ヽ . | `ー-、/ ,! ヽ ,i' `ヽ__ ヾ .)`i `ーt_´ ,-f,.--‐‐'´`ー、___ _,i'´ ヽ`ー==ニ-'_ノ ~ `二~ _,-‐'´
82 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 03:04:36.09 0
>>74 しかし『寄与』は翻訳すると大変なことになるなw
この一文を理解するには、存在と時間は無論のこと、後期の思想にいたるまでを全体的に俯瞰していなくてはならない。
83 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 04:42:47.97 0
幸い『寄与』も日本では翻訳されているし、『寄与』についての論考・解説本も 何種類か出ている。 『寄与』を読むというよりも、他の講義や論文などを読みながら『寄与』を参照すべきだろう。 巷間コアなマニア学者が重要視しているが、実際はハイデガーの書式からいっても極めて異質。 書いてきたものの補填解説と、これから書かれるものの予告編と見るのが一般的な意見のようだ。 木田元なんかは『寄与』にはほとんど興味がないらしい。 というよりも、ハイデガーに対して過去の自分はかなりの過大評価をしていたというようなことを よく書いたり、言ったりしているから、そういう類のものなんだろう。
>巷間コアなマニア学者が重要視しているが いや、最近渡邉二郎著作集が出てるんで少々読むと、第4巻は全てが『哲学への寄与』の読解にあ てられている。晩年はあの論稿の読解に費やしていたのが分かる。渡邉はあれを相当重く受けとめ ている。それは自分で書いているよ。これを読解しないことにはハイデガーは語れない、くらいの 重要性を見ている。むしろ、『寄与』は全体像の中で位置付けるべき、というのが私の見方だけどね 。あれは重要だけど、あれにハイデガーを収斂させるのもまた違うと思うので。
85 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 13:52:59.03 0
たぶん『寄与』はハイデガー自身の思想的見取り図なんだろう。 しかしハイデガー自身が確かに人生論をベースにして思考しているのだから、あまり過大な意味を 持たせることにも疑問が残る。 存在や時間やそういう感覚についての問題は医学・脳科学・神経心理学などが得意な問題だから これからもその分野が確実に成果を残していくだろうし。 哲学では心の哲学なんかがそうした科学の成果を受けて思考しているから、ハイデガーの入る隙間はない。 ハイデガーは残念ながら、生まれるのが100年遅かった。 それがフッサールの現象学が、医学や科学そして哲学など多岐の分野に接続できたにもかかわらず、ハイデガーは 早くも悪い意味で古典として扱われているという現状。 継承・進展・接続が行われない現代哲学ほど悲しいものはない。
86 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 16:26:33.63 0
>>84 『寄与』にはその後発展させられなかったアイデアも書かれている。
それはハイデガーに代わって展開するとおもしろい。
しかしそこはまだまだ研究が進んでいないな。
87 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 16:36:18.46 0
いまだまだ『寄与』はいわば解読の途上にある。 決定的な解釈はまだ出されていない。 それを出したひとが次のハイデガー研究をリードするはず。
88 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 16:52:39.85 0
若い哲学本読者層はかなりハイデガーから離れているからね ジジイ層にしかハイデガーは受けない現状 いずれは化石と化すだろう 南無
89 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:01:27.43 0
『寄与』はハイデガーの時間への問題意識からでたものだろうな。 じつは『存在と時間』ではハイデガーは時間論を「まだ」展開していない。 このへんすらまだわかっていない層がいる。
90 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:06:23.10 0
>>84 >第4巻は全てが『哲学への寄与』の読解にあてられている。
この読んでもいない嘘吐きめ!
渡邊二郎著作集4・目次
1 ハイデッガーの「第二の主著」『哲学への寄与試論集』研究覚え書き(導入的小考探索的考究)
2 『「ヒューマニズム」について』より(ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』解説
ハイデッガー新訳の試み ほか)
3 遺稿論文三篇(限界状況歴史的現代の特徴づけとしての技術時代について ほか)
4 「呼び求める促し」の思索から(“Ereignis”についてハイデッガー論のためのメモ)
★遺著『ハイデッガーの「第二の主著」「哲学への寄与試論集」研究覚え書き』ほか、
著者晩年の重要な論文、哲学的思索の結晶八篇を収録。
91 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:09:02.34 0
Zeit-Raumという概念がでてくるのが『寄与』 その後一貫してこの概念をハイデガーは使う。Zeit-Spiel-Raumとか。 「瞬間場Augenblicksstätte」というのもこれに関係している。
92 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:12:08.53 0
Zeit-Raumに関連して、後期思想は一般に「場所Ort」の思想という体裁をとるが、 しかしそれは時間思想を秘めた場所思想であることを理解しなければならない。
93 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:25:02.86 0
「Zeit-Raum」なら「時−空」とでもいたところなんだけれど ドイツでは一般的に「時間」かな しかも「始まりと終のある時間」という意味で使っている しかしハイデガーの語の意味に翻弄されては駄目だと思う そうするとかえって読み難い
>しかしハイデガー自身が確かに人生論をベースにして思考しているのだから いや、ハイデガーにおいてはそこには重心はないよ。人生といえばそうだけど、生を成立 させる地平が問題視されるのだ。論じることのウェイトが何処に置かれているか、でズレ ている。だから存在(有)がその地平として、問われていくのだ。無関係とは言わないけど ね。そこで単なる世界観の問題にも違和感を持ったのだから。ハイデガーからすると、〈 人生としてみたら壊れ物〉というところにむしろ意義を見ている。人生としては無価値、 または廃人、というところに最高の存在(有)はあるかもしれない、そういうことも書いて る。「人生」というタームだと使い途として不足してるんだよ。『哲学への寄与』の内蔵する 問とはそういうものでもあるんだよ。
95 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:35:52.30 0
『寄与』では時間と空間が分離してくるところを捉えようとする野心的な議論があるが、 これは難解過ぎて誰も理解できていないところ。 ハイデガーもその後その議論を展開することなかったのは残念。
96 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:38:00.47 0
>>94 そいつかまってちゃんだから相手にすんな。
発言からして、全くハイデガーを読んだ形跡がないw
たぶん竹田青嗣の本でかじったんだろ。
97 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:45:26.71 0
>>94 渡邊二郎著作集12〈全12巻〉
ハイデッガーを超えて
『人生の哲学』
『自己を見つめる』
★生きがいとは何か、幸福とは? 真摯な哲学的思索から紡ぎ出される人生論。
『人生の哲学』『自己を見つめる』ほか、詳細な「年譜」を収録。
二郎さんも最後にまとめて「ズバリそのもの」を書いちゃっているじゃないか
ハイデガーは「人生論の哲学者」なんだよ
文句は亡くなった二郎さんに言ってくれw
98 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 17:53:14.34 0
寄与の時間論の問題意識がおそらく『時間と存在』という最晩年の論考で若干もういちど問われている。 ただこれも講演の原稿だからあまり立ち入って論じたものでない。 時間の第4次元としての現前が問われている。
>>97 思っくそ人生論やん(笑
渡邊二郎がいうんやからそうなんやろな
100 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 18:34:31.54 0
『寄与』において歴史性の概念が「運命的Geshicklich」という概念に引き取られていく。 そこにハイデガーの時間思想の深まりを見るべき。
どうも「ハイデガーは人生論」を真面目に論じてる人間とそうでないのが混じってるようだね。 紛らわしい(笑)荒らしたいだけの不届き者はどうでもいいが、真面目に「人生論」だと論じ てる人間がいるなら、「人生論」ではハイデガーの重心は外れる、とだけ言っておく。むしろ〈人間〉 として流通する諸々が拒絶されていく。拒絶は『哲学への寄与』の鍵概念の一つで、〈贈与の最高の 貴位〉とされている。有・ Seyn の根本動向である拒絶が現‐有として時‐空を獲得し、開ける。そ の開けがあの本で性‐起 ereignis と呼ばれているものだ。〈拒絶の内で有・を保証することの 充実〉とか言われている。〈いぶかしさそれ自体〉ともいう。何れも人間性の根源に降りていくこと を暗示している。人生という語彙では届かないと思うけどね。それでも「いや、届く!」というかも しれないが(笑)
じゃあ渡邊二郎は完璧にズレているのか?
103 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 18:47:30.63 0
しかしハイデガーには「性起」という概念に逃げてほしくなかったな。 みんな分けわからないままこの概念だけが独り歩きしてしまった。 やっぱりそこを時間と空間という問題にそくして突き詰めてほしかった。 まあそこは解釈者の課題だな。
104 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 19:01:28.33 0
>>101 はもう青息吐息状態だな
二回も「(笑)」を入れていて、いっぱいいっぱいという感じかね「(笑)」
ハイデッガーは間違いなく人生論主体の哲学だ
そこに存在や時間や時空などの概念を取り込んで論を展開したが、確かに人生論との相性は最悪だ
抽象概念と実人生は中々結びつかないからね
そこは完全にハイデッガーのミスであり、方法論上の限界だったと思う
多少は現象学の流れである「分析哲学」も読んでみたらどうかね?
97は嘘は良くないな。『渡邉二郎著作集第12巻』は研究論文以外のエッセイの類いだろう。第12 巻のタイトルは「自己と世界」であり、「ハイデッガーを越えて」は94の創作だろう。上手いな、ご まかしが(笑)大体最後までハイデッガー思想を讃えていた渡邉二郎が「ハイデッガーを越えて」 などと書くこと自体おかしい。本当にずる賢い奴だな、94。でもそれしかないか(笑) 104もメッチャクチャだなあ(笑)なに、ハイデガーは人生論主体の哲学だが、方法論を誤って、 存在や時間などの抽象概念を取り入れて展開した…じゃ結局全否定じゃない(笑)あーあ。おかし いわ。
間違えた。94じゃない97だ。嘘つきレスは。(笑)
107 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 22:47:40.16 0
108 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 22:56:49.87 0
性起という概念は、歴史的時間の生成をいうハイデガーなりの概念だが、 それは出来事の生起を「いぶかしさ」の相でとらえる。 まさにこの「いぶかしさ」の相の根底に時間の秘密がある。
109 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 23:05:33.06 0
それにしても、befremdlich「いぶかしさ」なんて訳して翻訳者も罪作りだな。 これはハイデガーではunheimlichとかと同系列の語で、 要するに予定調和でない異質なものとして存在を経験することをいっているだけなのに。 木田元でないけど、やっぱり創文社の翻訳は問題あるな。
>>105 君は完敗じゃないか。
97に謝罪するのが人生の常識。
そう簡単に人を嘘つき呼ばわりしない方がいい。
それから(笑)は4回も必要ないと思う。
礼節がないから人生論が読み取れないていないんだろうね。
111 :
考える名無しさん :2011/11/17(木) 23:21:11.59 0
『全集』は意図的にあの変な奴が仕切って改悪している 権威主義がチラ見できて凄く嫌になるな そうでもしないとメッキが剥がれるからかもしれないからかだろうよ
112 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 00:16:18.78 0
befremudungなんてのは、 マルクスの「疎外Entfremdung」の概念にハイデガーがそれなりに共感していた事とつながっている。 それは「存在の歴史」=「存在棄却Seinsverlassenheit」を言い表す言葉だろ。 「いぶかしさ」なんて訳してだれが得するんだ。 だから原書で読まなければならないってんだよ。 ここにいる誰かさんも。
113 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 00:35:09.77 0
誰かさんは原書を読めないよ、独語が出来ないから。 ペーパーバックのラブコメを読むのとは違うから、辞書を引き引きではどうにもならんだろう。 ハイデガーは用語の枝葉にこだわっていると余計に読めないでしょ。 何でもそうなんだけれど、ざっくり全体像を掴んでから用語を検討しないと、 そもそもの問題の中心から大きく逸脱してしまう。 そういう学者はかなり日本にもいるじゃない。 偉そうなこと書いて、自分の行いを問われると、沈黙して逃げるような人だから ハイデガーの著作が頭抜けた高みにあると錯覚するとえらい目にあう。
波平が「パルメザーン」とか名のっているのを見ると、チンカスを連想する 他のコテだったらそういう連想はしないのだが波平の下衆で下品な性格を見ると どうしてもチンカスを連想してしまう 気色悪い
115 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 01:18:35.62 0
上の「いぶかしさ」の遣り取りを見ていると 翻訳を中心に読んでたまに原著を見るだけの人間は 原著を読み込んでいる研究者には叶わないわけだあ 勇ましい事を言うのは自由だけど やっぱり浅はか浅知恵な感じが丸わかりでカッコ悪いわ
お前がなw
存在との関わりにおいて、どうあるべきか(=生きるべきか)を論じてるんだから人生論なのよ 世間的な処世術だけが人生論だと思ってるなら、古代哲学から勉強し直した方が良いよ
118 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 15:05:41.01 0
___ _ \V ̄ ̄ ̄__| \二二/|_ / / ̄__| [__] | \ │ / /`ヽ__∠__>J__> |/ /| ‐―――――――― | ( / | ――――――――‐ | (_/ | ● ● | |\ | (_人_) \_ _____ | ) | _ __|||||||||||_____) /渡邊二郎も ヽ_| ///└┘  ̄ ̄ ̄ └┘| | / 人生論だと /// 有と時=人生論 // < 言っているのだ |//\_ (⌒Y⌒) _// \ これでいいいのだ \ ヽ―─―⌒ ̄ ̄ / \_____ `―──―――‐―´
粉チーズ風味
121 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 16:55:13.19 O
『渡邉二郎著作集12 自己と世界』の帯にこう書いてある。 《ハイデッガーを超えて『人生の哲学』『自己を見つめる』 己れの深みから他者の拡がりへ 世俗への暖かな眼差しあふれる円熟期の思索》 これが帯の文句である。帯の文句だから、とうに死んでる著者本人が選んだわけがないし、可能 性としては出版社の人間が高い。一応帯に書いてあるということで、丸っきり嘘っぱちではなか ったとは言える。しかしこれが渡邉二郎にとって、〈ハイデッガーを超えて〉という問題意識で 書かれたかどうかは解らないというしかない。丸っきり嘘ではなかったのだから一応詫びておく 。これはどうも失礼。 しかしこの内容からして、この本に渡邉が書いた人生論をもって、即渡邉にとって、ハイデガー 思想とは人生論である。というメッセージまで読み取るのは行き過ぎだと思う。ここにある内容と は、本によれば、放送大学の授業のさい、学生からの要望が多かったので、実施し、本にも纏めた、 とある。これは渡邉の純粋に主体的な著述、とはちょっと言い難い。哲学の2つの側面ー研究、そ してまた、人生とは何かの問ーの展開だとしている。 一方、私には渡邉のこの答え方に疑問符がある。哲学とは、また思想とはそれ自体、問を突き詰 める行為であり、その作業自体に生の意味を問い詰める営為まで含んでいる。わざわざ人生論と か名付けずとも、生とは?という問は既にそこに包括されている。。ただ様々な問を突き詰めると いう営為が先行していくので、わざわざ人生とは?とか問われないだけだ。単に人生とは?と問う よりずっと深く、例えば有とは?という問の過程で生は包括されている。私は渡邉のように2つに 分けることはないと思う。単に思想は思索するだけだ。
もうひとつ。第12巻はそのように人生論を展開しているが、読んでいて、渡邉が実はハイデガー をどう読んでいたのか、というのが出てしまっているのであるが、既に『哲学への寄与』とかを 読んでいるにも拘わらず、また『「ヒューマニズム」に関する書簡』とか熟読してるにも拘わらず、 ここで渡邉は要するに通俗的ヒューマニズムーハイデガーによって、真に人間の尊厳を表してい ない、と言われた理性的動物ーになっている。内容は中庸を旨とした、ハイデガー研究者でなくと も書ける代物である。キリスト教的な人生観で、この本をかじった私の最大の疑問は、90年代 に書かれた一般向けの哲学的人生論がこれだとして、渡邉二郎は、無論ハイデガー研究者として 生涯全うしたわけだが、どこまで把握していたのか、という疑問が湧いてきた。一般向けの人生論 だが、根底に渡邉のハイデガー研究はあると私は信じる。それがこうだとしたら、それはどういう ことか。ハイデガー研究の第一人者ともいえる渡邉の一般向けの哲学がこれで、…。私には、結局 ハイデガー研究とは、研究者にとって何か、考えこまざるを得なかった。
124 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 20:52:22.70 0
床屋政談で天下国家を語ってる人のように哲学を語る連中と違って 職業哲学研究者には社会的責任があるってこったろ まずはハロワ行け
人生論はなんかかっこ悪いから せめて実存主義にしてくれw
渡邉二郎の哲学的人生論は、古今東西の古典から色んな哲学を引用して論じている。バラエテ ィーに一見富んでいるが、その実、不変的価値を予め前提し、哲学がそのために考えられる点で、 ハイデガーの特徴である個体の没‐交渉的存在の追究ーそれこそ存在(有)論の本質であるーから 後退しており、更に言えば理想主義もしくはイデア主義 idealism である。通俗的哲学入門の 赴きがあるがここでは古今東西の古典がイデア主義としての価値によって纏められていく。どう みてもこれは、ハイデガーが哲学史を存在(有)論へ脱‐構築した営為を再び構築させたものだ。そ の意味では復古主義または反動で、褒められないものである。
>>122 渡邊二郎は確かにハイデガー研究の第一人者であったし、それに相応しい経歴を歩んできた。
しかし渡邊二郎がどれだけの評価をされているかというとかなり怪しい。
そうはいってもそれはハイデガーの存在論の側面について評価なのだが、これは渡邊二郎というよりも
ハイデガー自身の書き方に問題があったと考える方が筋が通る。
ハイデガー研究者は何故か異常にハイデガーを持ち上げ過ぎていて、天才哲学者の聖典のようにその
著作や講義を読むが、やはりそれは行き過ぎで意味が無い。
ハイデガーの生きていた時代ならばいくらでも利用できる新しい思考手法があったにもかかわらず
けっきょく閉じた世界観に沈泥したままだった。
でもしかし、渡邊二郎は貴方より確実にハイデガーを読めていることだけは間違いないよ。
128 :
考える名無しさん :2011/11/18(金) 23:16:02.52 0
>>126 ハイデッガーは神様じゃねえぞ
ハイデッガー信仰なんぞいい加減にして
もっと他の哲学者も嫁やw
129 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 00:15:49.64 0
批判的読解が出来ないと完全な信仰になってしまうんだな 恐ろしいことです
ハイデガーにはありがちだろ。 何しろ100巻以上の全集があってただ単に翻訳解説してれば飯が食えてしまうという「ハイデガー業界」が成立してるから。
131 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 01:26:58.79 0
ハイデガー研究者は誰かさんみたいに馬鹿ばっかりだけれどね 内輪で集まって重箱の隅をつっついているだけののろま 100巻もあってあの程度の人生論じゃどんだけのろまなんだ 訳し終えたらC・S・パースの全集でも刊行すればいいんだよ 500巻以上あるらしいから
飯の種に群がるような体質があるから。 しかも妙に思わせぶりな深遠さを醸し出していてハイデガーの翻訳紹介は馬鹿にはぴったりの仕事だろ。
133 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 17:26:57.33 0
渡辺二郎はハイデガー研究者としてレスペクトはされても、 だれも引用なんかしない。 そのへんから感じ取れ。業界の雰囲気を。 ところで『暇と退屈の倫理学』をだれかよんで書評してくれ。
134 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 17:44:54.05 0
だいたいハイデガー本体よりも大部の解説書かいてどうするって。 そんな解説読むよりはハイデガーそのものを読んだらいい。
135 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 22:13:31.40 0
ハイデガーの抱いていた疑問についてはウィトゲンシュタインのように「共感はする」が
ハイデガーの思考方法がその初期から行き詰っていたことは事実だと思える
人生論でいくのか存在論でいくのかの選択をした方がよかった
> 104もメッチャクチャだなあ(笑)なに、ハイデガーは人生論主体の哲学だが、方法論を誤って、
存在や時間などの抽象概念を取り入れて展開した…じゃ結局全否定じゃない(笑)あーあ。おかし
いわ。(
>>105 より)
「誰かさん」もたまにはいいことを書くなと思ったのだがそういうことだ「結局全否定する」以外にない
木を竹で継ぐように「存在」と「人生」の距離は遠いい
人生とは価値観の集合体だが存在の問題はそれを感じる人間の感覚器官や突き詰めれば「素粒子物理学」の問題
水と油のような関係になってしまうのだから『存在と時間』を読んだフッサールが「これでは駄目だ」と感じたのは当然だろう
全体としていえばハイデガーの思想というのは「完全なる失敗」なのだと思う
だからといって「無駄」だといっているわけではない
ハイデガーの誤謬に気づくとこが重要なことだということだ
遠いい
137 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 22:36:01.08 0
>>133 『暇と退屈の倫理学』はエッセイ程度に軽く書いている本だが、読んでみると面白い。
ハイデガーに対する批判も鋭いし、とはいってもハイデガーは宗教から中々逃げれなかったんだろうね。
一神教の窮屈な人生束縛問題は根が深い、アメリカだって同様の状態から今も抜け出せていない。
國分は問題提起の仕方もユニークだし、いい本なんじゃないか、色々な側面から考えさせられるよ。
ただ、どう生きたっていいんだよね、別に暇だろうが退屈だろうが、それはその個人の感じる状態であって
人間は本質的に自由なはずなんだが、社会がそれを許してくれない。
「自由をはき違えている」という言葉もあることだし。。。
なんかお前らのすさまじい頓珍漢さを見てると 木田や門脇って飛びぬけて頭が良かったんだなと思わずにはいられないなw
139 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 22:59:18.69 0
>>137 ようするにつまらない本だってことだな。
反発するにせよ、キリスト教が絶対的な理念、指針になる感覚は分からんしな
自分に理解出来ないものは頓珍漢に思えるものさ これ豆な
142 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 23:04:15.47 0
>人生とは価値観の集合体だが存在の問題はそれを感じる人間の感覚器官や突き詰めれば「素粒子物理学」の問題 こいつよく恥ずかしくなく哲学板きて書きこむなw匿名って強いなw
ファシズムは近代的であると同時にポストモダン的でもある さらに民族的な神話のハイブリッドだからな 共産主義をも止揚した抵抗革命として ハイデガー程の知性でなくとも、容易に取り込まれるな
144 :
考える名無しさん :2011/11/19(土) 23:09:21.07 0
>>140 確かにキリスト教国家の国民の苦悩は彼らでないとわからんよな。
欧米においての最大の問題は宗教の問題。
だからニーチェだって『アンチクリスト』を書いたわけだし。
そこんとこ日本人は幸せなのかもしれないね。
145 :
考える名無しさん :2011/11/20(日) 00:45:37.94 0
ハイデッガー 死後に残した 百巻のゴミ
細かなことだが、パースは、現在刊行中の全集で30巻予定 草稿を全部出版しても300巻程度だよ
147 :
考える名無しさん :2011/11/20(日) 15:08:02.68 0
パースは偉大だったな ハイデガーなど足元にも及ばない存在
_,-‐‐、 人 ,i´ l、__ _,.....、 生 l ‐-/´ `y‐'´ ヽ__ 論 !、__,...-'!、__,ノー ノ ``ー 、_ , で / ヽ、 ノ‐- 、__ `く-、 い / 有と時 `ー‐'´`-、 `ー-、 | き '--、__________,.........-----‐‐'ー、_ `ー、 ま ,i ,-、‐‐-- 、ニ二`ー‐- 、 ,l´ ` 、 ヽ) し /.´,-! 7`i_ー | ヽ __ ) ょ _,.-‐‐ ( __ `i ヽ _,i'´ ヽ い i´ -‐'_フ'´ノヽ、____,i´ ヽ'´ ,く | ♪ !、_______,.......,--、_` ヽ、 、 、 ノ (\(\ !、_____| ~`ー-、___ ,ヽ ヽ -、-'´ i´`i , ^, ⊂ニ メ' \\ 人生論 |___ ``7'´ | ヽ ,l | `' 、r''´) ⊂ニ( / `、 `ー、_ ,- 、 __~ / ノ,-'´|´ ヽ‐'、 ⊂ -―/ `ー-、.`ー!、 Y ´ )_,.i'´ ノ | '‐く `ー、 , `ー、-、___ ___,.-‐´ ヽー-‐'`ー´ `ー/ /ー-ュ‐'~~ _,-‐'´ /-、_ l_ 8 / _,..-‐''´ ,.-‐-、/ /`ー-、~ _/ ,/ `ー、,l`i /__ /~``7ー-‐'´/____ ,i'´``ー-、 ノ_,/‐'´ `ー、 / /‐--、`ニ‐、_ ,!``ー- 、 ノ / `、___/_______/i ~((`、ヽ . | `ー-、/ ,! ヽ ,i' `ヽ__ ヾ .)`i `ーt_´ ,-f,.--‐‐'´`ー、___ _,i'´ ヽ`ー==ニ-'_ノ ~ `二~ _,-‐'´
ビートルズの後期の曲で「Let it be」というのがあるけど、実はあのタイトルはハイデガー的 で。あれはitという不定代名詞にたいし、使役動詞のletが掛かり、beすなわち〈ある〉をさせる。 これはちょうど『zollikoner seminare』でハイデガーが、〈存在(有)を探求する者がむしろ、 己における存在(有)を自由にさせることを知るべきである〉と語っていたことに対応している。 《存在者を、それが自らを示すがままに「させること(Lassen)」、つまり「許すこと(Zulassen)」 は、予め、そして不断にこの存在が、つまり現にあることが見て取られているときにのみ、 ということは探求者自身が自らを現にあることとして、「(現へと)出で立つもの(Ek- sistierender)」として経験ずみであり、そして今もそのように経験しており、あらゆる人間的 現実がそこから規定されるときにのみ、「あらしめること(Sein-lassen)」としてふさわしいも のとなる。》(307頁 みすず書房) 存在(有) Sein を〈それが示すがままにさせる、許す〉というのは、端的に言えばLet it be というふうになると思う。そういえば、あの曲も、〈ある苦しみ悩むとき〉という状況の設定がなさ れていた。〈苦しみ悩むとき、母親のメアリーが私に来て知恵のある言葉を言う。「なるがままにな さい」〉というのがその歌詞だ。 When I find myself in times of troubles Mothe Mary comes to me Speakig words of wisdom ‘let it be’ これは1969年1月、ビートルズの崩壊の始まりとよく言われる、ニューアルバムのrecording をそのまま記録映画にしようとした、その映画の中でも演奏されている。ビートルズの才能はこ のとき、存在(有)について語っていたハイデガーとも思想的にクロスするところまで来ていた。 ちなみにここに引用したハイデガーの談話は1968年9月とされている。ハイデガー研究者の書く 哲学的人生論よりもむしろビートルズの曲の方がハイデガー的である。
ポールマッカートニーってDQN校卒とかだからハイデガーなんて知らないと思うw
哲学知ってる奴の方が偉いってのはハイデガー病だと思うw
そいつがどういう経路でハイデガーに行き着いたか、というのは比べると面白いだろうな。w
ビートルズは LSDとか薬の歌が多いからな それからもう少しジョージ・ハリスンの曲を採用してやって欲しかった
Q:あなたはどういう経路でハイデガーに行き着きましたか? 1)ひとに勧められて(教官含む) 2)図書館・書店で見かけて(古本屋含む) 3)読んでいた本で見かけて(書名: ) 4)まだ読んだことがないが名前は聞いたことがある。 5)行き着いていない。
6)読む必要がない。
「Here Comes The Sun」か ジョージの曲って楽しいよね 名曲だ
Gelassenheitなんて、本人も言ってるとおりキリスト教神秘主義 (ハイデガーは、主にドイツ神秘主義経由だけど)そのまんま ちなみにGelassenheitは、アーミッシュにとっても重要なテーマになってる 存在との関係で人間のあるべき姿を示すなんて語りだす時に 最もハイデガーはキリスト教伝統内の人生論の伝統にひたりきってるのに 基本的な教養がないから、全部ハイデガーのオリジナルに見える
ロックとハイデガーというネタでもうひとつ。ジョン・レノンが「Imagine」で国家や宗教の壁 が無くなった世界をimagine つまり「想像してごらん」と歌い、かつ自身は盛んに平和を訴える 発言を行った。このことを、ハイデガー的に取るとどうなるか。例えば死後にやはりジョンの意志 を継ごうということで、平和運動の必要性が妻の小野洋子によって訴えられたり、また、アメリカ の過激派との付き合いもあったことで、政治行動や反戦のメッセージをジョンも続けていた。よ ってビートルズファン、ジョンのファンなら平和運動に参加すべき、という言い方もされがちで はないか。また、ファンはそう思いがちだと思う。だけどハイデガー的に見ると違う見方が出て くる。ジョンという人は、青春期の自己の暴力の罪悪を生涯忘れず、その罪悪感に忠実だった。こ れは『ジョンとヨーコ ラスト・インタヴュー』(集英社)という本でジョンが告白してることで、 青春期に自分が他人に向けた暴力の罪悪感が平和運動の動機だと。 《僕は(昔、どんな女でも)すぐ殴るんだ。自分を表現できず、それで殴った。男とはケンカをして、 女は殴った。だから、今はいつも平和のことを語ってるんだ。愛と平和を語る人間というのは常に 暴力的な人間だ。すべては逆さまだよ。でも、僕は心から愛と平和を信じてる。僕は非暴力である ことを学び、自分の暴力を後悔してる暴力的な人間だ。》(250-251頁)
死の前に語られたインタビューでこのように、ジョンが自分の傷を持ち続け、その傷に忠実だ ったこと、それが彼の平和運動の根底だったことを告白している。これを読むと、ジョンという人 が実はいつも自己の内面、それが要請するものに忠実だった。そのことが伝わってくる。それと、 このことは、ジョンという人の平和運動の特徴を際立たせている。それは、様々な大義名分によ って政治行動をする、そういうこととは違う。実は違うということは、でも意外に知られてはいな いと思う。一般的にジョンレノンという人がマスコミで語られる場合、‘終生、平和運動に勤しんだ ’‘「Imagine」でも平和を訴えた’そういうふうに語られる。しかし、盲目になってはいけないのは 、上に書いた事柄であると思う。内的な要請、願望に忠実だったジョンの性格であって、そこが外 されてはならないのではないか。単に社会的な善人になった、ビートルズ解散後、社会運動に目覚 めて…ということでは全然ない。ハイデガー的に見るとそうなると思う。例えば政治家、運動家も また平和運動をする。そういう人たちが‘ジョンレノンも平和運動したでしょ?貴方もビートルズ ファンならやるべきじゃない?’と言ったとする。それは全然彼らが間違っている。どこが間違い か、それが上に書いたことです。
ビートルズについては栗本慎一郎が『パンツを脱いだサル』で書いてもいるがかなり胡散臭い政治活動が絡んでいるらしい まあしかし音楽の世界のことだしそういうことで言えば様々な芸術運動も政治的な活動と結びついている それは特にここで説明しなくとも多くの哲学者が取り上げていることだから哲学板の人間なら分かることだ ジョン・レノンも活動家さと考えれば合点がいくしどうということはない どうでもいいことだよ
158は別にそれでいいんじゃないですか?ドイツ神秘主義だと。私が渡邊二郎の哲学的人生論が キリスト教的と言ったのは、愛、美、善き人生とかをイデアとして前提してる。そういうところが 既にニーチェなどからすれば批判の対象だろう。勿論ハイデガーも批判するだろう。プラトニズ ムということで。そういう意味で書いている。イデア的、キリスト教的とはそういう意味です。そ こはハイデガーはニーチェ同様渡邊二郎みたいな反動ではない。
俺は158じゃなくて161だがジョン・レノンなんかを持ってきてハイデガーと絡まそうとしても仕方ないでしょ ハイデガー人生論は確かにニーチェとは違うのは理解できるがハイデガーとて頭上にはキリスト教という厄介なものが あったからこそそれに対しての反発もあった 昔から聖職者の汚職や怠慢は平然と行われていて「何がキリストだ」という思いは多くの人が実際に抱いていたし
ジョンレノンの平和運動をどう見るか、は少なくとも一般的なメディアでは奥底の動機は語られ ない。ここで内的な動機と政治行動の関係として語る意味はある。上には書いてないが、サルトル 的に見方とハイデガー的な見方の違いでもある。〈責任=自由=状況〉というタームで専ら語られる のが哲学的にも多い。そこでハイデガー的な視点の意義を強調することは無意味ではない。音楽家 と運動ということで、今、福島復興支援運動などもよくメディアに出てくる。実は私にはあの問題 にもジョンレノンについて書いたことを適用していいと思っている。まだジョンレノンの平和運動 の問題というのは形を変えて続いている。それはサルトルとハイデガーの問題でもある。
民間運動を単純に何かに踊らされていると考えることは間違いではないとは思う しかし山本太郎みたいに完全にテロリストぎりぎりの言動を平気でする人間も」いるが 日本の場合はたぶんにようやく不満を(それが的の外れた低次元の不満でも)行動化する なんていうことは日本ではほとんど無い だから全体として考えればそういう不満分子が出てくることも当然だし賛成はできないが 避けられない現象でもあるということ そこにハイデガーは中々絡められないでしょう
本当に教養ないなあ そもそもキリスト教内部においても 神秘主義的伝統以外でも、キリスト教的な神というのは 人間が理解可能な善を超えた善であり、存在者を超えた存在であるわけ ハイデガーとキリスト教の伝統との距離なんて実際にはほとんどないんだよ そういう意味で、ハイデガーが、断絶を語る伝統とは別の語り方をしようとした スコトゥスからはじめているのは示唆的
そういうことを俺は前提にしているんだけどなあ??
ビートルズは労働者階級出身でしょ。 たぶん何も考えてなかったろうし、何も知らない人だったろう。 ミック・ジャガーの方がかなりインテリ。 オックスブリッジ出身じゃないけどロンドンスクールオブエコノミクス中退だし、 家は代々教師で保守党支持の家系だし。 ミックは常に何らかの本を読んでいると元恋人が言ってた。
169 :
考える名無しさん :2011/11/22(火) 20:20:03.17 0
どうして社会はこんなに優れた俺を評価しないんだっ! 社会がおかしいっ! って人がハイデガーにはまります
>Gelassenheitなんて、本人も言ってるとおりキリスト教神秘主義 (ハイデガーは、主にド イツ神秘主義経由だけど)そのまんま ちなみにGelassenheitは、アーミッシュにとっても重 要なテーマになってる 存在との関係で人間のあるべき姿を示すなんて語りだす時に 最もハイデ ガーはキリスト教伝統内の人生論の伝統にひたりきってるのに 基本的な教養がないから、全部 ハイデガーのオリジナルに見える そういう解説でハイデガーの意義が尽くされるものではない。ハイデガーの言葉で暗憺たる世界 に一筋の光線が一瞬見える、そういう立場からすると、そう意味のある話じゃない。業界通ならぬ 哲学通の間で下記のように話されてるのがお似合いの話だと思われる。。 「みんな知らないだろうけど、ありゃキリスト教と瓜二つでね、それを皆教養ないから知らないん だよね(笑)困ったもんだよ」 教養があると分かることもある。しかしそれが分かってることで、ではハイデガーの読解は深 まるか。そこに読者としての問題はある。158.166見てて、私にはこれを知ってても知らなくて も、さほど読解が深まるとは思えない。ただ、『放下の所在究明に向かって』に対話式の形式で、エ ックハルトへの敬意と、しかしあれはハイデガーの抱える問題とは同一視できないという批判、 が読めた。それは良い読書だった。こういう形でエックハルトに触れてる文章を読めたのは良かっ た。しかし、それがハイデガー読解を深めたかというと、そう変わらない、というのが本当のとこ ろである。親鸞という人が浄土教であり、親鸞もエックハルトと似て義のために義を捨てる、とい う教義を説いていた。また、人間の行為の本質を、内なる歴史と空間の交差に視ている。そこが ハイデガーと似てると思った。しかしわざわざここに書いて、「こういう思想はハイデガーだけで はありません。皆さん教養がないねえ(笑)」とか言う気にはならなかった。
171 :
考える名無しさん :2011/11/22(火) 22:05:31.29 0
似たような思想とか、部分的に同じ言説というのはいつの時代もどこの国でも起こり得ること。 そういう研究と、あくまでもその人のコンテクストの中で捉えられなければならないようなこともある。 しかし、ことキリスト教とハイデガーの関係は重要だから知っておく必要はあるだろう。 親鸞への同意が嘘か真か親鸞会に取り上げられているが、なるほどと思ってしまうのも親鸞がハイデガー好みに 感じられるからという理由なんだろう。
>そもそもキリスト教内部においても 神秘主義的伝統以外でも、キリスト教的な神とい うのは 人間が理解可能な善を超えた善であり、存在者を超えた存在であるわけ ハイデ ガーとキリスト教の伝統との距離なんて実際にはほとんどないんだよ だがハイデガーはキリスト教の復権を狙ったわけでは当然ないので。むしろ、あらゆる 歴史上の真理概念の根本をお見せする、という意図でしょう。キリスト教の建て直しする 気はない。キリスト教の人が自分の思想を使うのは構わない。そういう構えでしょう。
【海外】クリスチャンのパン屋、同性愛者のウェディングケーキ注文拒否、訴訟へ発展か
米アイオワ州に住むクリスチャン女性のヴィクトリア・チルドレスさんが、自身の
経営しているパン屋でキリスト教の信仰に従って同性愛者のカップルのための
ウェディングケーキ受注を拒否したことを受け、法的措置を受ける可能性が生じている。
彼女の経営する「ヴィクトリアのケーキコテージ」に女性の二人連れが入店、
女性たちの関係性を知らずに、客である彼女らに対し、試食用の5つのケーキを焼いたという。
試食中にヴィクトリアさんは、二人連れの女性のひとりに対し、「お連れの方は妹さんですか?」と
尋ねたところ、「いいえ、彼女は私の同伴者です」と言われたという。チルドレスさんはその答えを
聞いて、自身がキリスト教の信仰をもっているため、その客のためのウェディングケーキを作ることはできないと答えたという。
チルドレスさんは、「私のクリスチャンとしてのライフスタイルの信念から、彼女たちのための
ウェディングケーキを焼くことはできませんでした。この決断をするのは、
経営者としての私の権利だと思います。これは私が持っている決断権を行使したのであって、
(同性愛者の)彼女たちを差別したわけではありません。彼女たちの側の問題によるのではなく、
私の側の問題として、私は神様とともに歩んでいるのであり、私が神様に対して答えるべき
答えに相応しい決断をしただけです。彼女たちにはお客様として最大限丁寧に対応させていただいたつもりです」と述べている。
女性たちは「私たちはただケーキが欲しくてパン屋さんに行ったのです。
イエス様が愛しておられることは知っていますが、そのことをパン屋で私たちに彼女が語
必要はなかったと思います。彼女のビジネスのために私たちの振る舞いが
厳しく非難されたようなものです」と述べている。
http://www.christiantoday.co.jp/article/3774.html
《J-CASTニュース》 AKB48が朗読する「僕とツンデレとハイデガー wanna be Fresh Lemon Edition」 ITmedia eBook USER 学生時代、国語の授業で気になるあのコが先生に当てられて、一生懸命に朗読する姿にドキドキした経験を お持ちの男性諸氏。あのころのときめきを感じられる電子書籍が登場した。 それが、講談社から9月14日にリリースされたiOS向け電子書籍アプリ「僕とツンデレと ... ニーチェがヤンデレ!? AKB48市川美織が“娯楽哲学書”を朗読するアプリインフォシーク 株式会社講談社読売新聞
175 :
考える名無しさん :2011/11/23(水) 00:33:47.59 0
>>173 そんなにキリスト教って厄介な存在なのか?
これは差別じゃん
変な宗教だよw
キリスト教云々、というのは元々、渡邊二郎の哲学的人生論がキリスト教的、と私が批判したこ ことから来てると思うんだけども。それはでも、キリスト教っていう文句に引っ掛からない方が 良いと思う。そこは想像力を働かせてほしいっわけで。私からすれば、そこはキリスト教的という よりむしろ創価学会的の方が妥当かもと思う。要するに国家社会的に合致した宗教、また知の 形態、そういう意味で私は書いたので。キリスト教、創価学会と並べてみて、ピンと来るとしたら 有難い。意図は通じたかもしれない。慈善事業やhumanismに結び付いた宗教を指示している。
177 :
考える名無しさん :2011/11/23(水) 11:20:54.29 0
炊き出しとかをやってる神父さんは 2ちゃんで存在とやらを語っているだけの人より 偉いと思うけどね
178 :
考える名無しさん :2011/11/23(水) 12:06:10.74 0
>>176 >キリスト教云々、というのは元々、渡邊二郎の哲学的人生論がキリスト教的、と私が批判したこ
ことから来てると思うんだけども。それはでも、キリスト教っていう文句に引っ掛からない方が
良いと思う。
そういうことではないでしょう。
ハイデガーはもともと神学者として出発したが、「存在と時間」の頃はもう反神学者になっていた。
だがしかし、ハイデガーはキリスト教徒という立場は捨てること無く後期はキリスト教の信仰継続と
ニーチェの「神は死んだ」という思想とを両立している。
そこら辺の葛藤は当然ながら「哲学への寄与」にも見出されるし、ハイデガーは自分の葬儀ではキリスト教式での
葬儀を希望し、ヘルダーリンの詩の朗読を頼んでいる。
しかしこの後期ハイデガーにとって最重要なヘルダーリンは「神の欠落」ということを言っている。
つまり常にハイデガーは「既存の神学」とは闘っていて、「新しい神学」を模索していたということ。
この辺りが理解出来ていないと、ハイデガーの本質的な部分の理解が滞るのではないだろうか。
ハイデガーは元々カトリックの家に生まれたが、それでは職が得られないと判断すると出世のためにプロテスタントになった。 哲学の世界で芽が出そうとなるとフッサールの弟子になり、ナチスがドイツで力を得るとナチス党員になった。 要するに常に自分の出世のために機械主義的に行動したから、彼の本質的部分なんて本当にあるのかどうかも良くは分からない。
ここで今一度、ハイデガーは人生論、を再論する。結局これの源は、渡邊二郎の90年代の放送大学 での講義とそれを纏めたテキストにあると思えた。全集の第12巻である。そこで渡邊は、人生論の 必然について語り、人生論こそはあらゆる人間の関心事、哲学もまた、研究的態度だけではいけな い。生きた人生の問、人生論的態度がなければ生きた哲学にはならない。とこういう風に、ここの スレの人々が言うのと同じように渡邊もまた言っている。しかし、もちろんここでのこういった 論とは、渡邊二郎の思想と言うしかない。私からみて、渡邊が自分の哲学をどこまで語ろうと、そ れが渡邊の思想だと断られる限り、それはそれでよいと思う。。 ハイデガーの思想もかなり引用されてるので紛らわしいが、ハイデガーのテキストと比べると、 どこが違うかというと、前レスにも書いたが、ハイデガーの場合、人間が本当には何者なのか、未 決定、未決断のままそこだけ空白にしてある。渡邊二郎では、悪をどれだけ離れられるかに人生の 意味の一つが置かれているが、そこも、ハイデガーに於ては善悪の問題に重きは置かれていない。 性‐起 ereignis という場合、それは根源の歴史の開けでもあるので、それが人間かたみて、善 でもあれば悪にもなる。つまりそこでは人間の把握する善悪は問題にならない。そこがいかにも 渡邊の発想が「人間」中心、にしかみえない由縁で、『「ヒューマニズム」に関する書簡』も『哲学への 寄与』もその根幹のメッセージは無視されている。つまり渡邊からみて「人生」とされないもの、「 人生論」に包括されない存在(有)は最初から排除されている。だからハイデガーが最も重要視し たであろう問題、Seynの無尽蔵、それがもたらす絶望に堪えるべき、とされたものは「人生論」に ならないから最初から無視されている。しかし人間とは誰か、を問うならばそこにーSeynにー向 かうしかない。よってハイデガーの問いは最重要な部分では顧みられないことになった。渡邊二 郎の「人生論」はよってハイデガーの批判する「ヒューマニズム」に実は囲い込まれている。
なんだ?いつの間にか渡邊二郎論になっているな ハイデガーは人生論(が核)であるというのは渡邊二郎の専売特許じゃないだろ 研究者の多くは人生論としてそれに付随するオントロジーも含めて理解しているはず ハイデガー自身だって口先だけで社会も人生も変えてはいないご都合主義のナチ党員 まずは自分の人生を説明しないとな せめて死後発見でもいいからそういうことはちゃんと書いておかないと学者として情無い
要するにLebenが生とも人生とも訳される事が理解できないから 人生=ヒューマニズム と安易に決め込む事しかできない 存在との関わりで人間に特権的な位置が与えられている以上 そもそもハイデガーの理論もヒューマニズムでしかない だが別にヒューマニズム=悪というほど簡単な話でもない
>>171 が書いているように、親鸞とハイデガーの影響関係(笑)というネタと
キリスト教(神秘主義)とハイデガーの関係は性質が全く異なる
ハイデガーは、元々濃厚な神学的伝統から出てきているのであり
ドイツ神秘主義との関係については、単なる外面的な類似ではなく
本人の伝記的にも直接的な影響関係がある
そして、彼の議論の多くが、一神教的(非)存在論の裏返しである事は
彼の議論が、逆説的にフランスのカトリックの間で広く受け入れられた事が間接的に示している
そもそも、最高の存在者=神 という議論に対して
存在者と、神との間の断絶を主張し続けるのがキリスト教(を含む、あのあたりの一神教)の伝統であり
それに対して、存在(者)の一義性を唱える事は、スコトゥス(自身は微妙だが)からはじまる近代の伝統である
だが、それは、キリスト教的にはむしろ異端であり、存在と時間の頃のハイデガーが批判している構図は
実は、むしろ、そう」した反キリスト教的な伝統である、という、極めてねじれた関係がある
「ハイデガーは神」の病気クンに言わせると
影響関係があるというだけで、偶像としてのハイデガーの神格が汚されるようで嫌なのだろうが
全く切り離されたオリジナリティなど、山下清的神話に過ぎず
そうしたコンテキストを念頭に入れて、はじめてハイデガーがどういう意味を持っていたのかが明らかになる
ハイデガーの「存在」は虚焦点みたいなもので、そこには誰も座ってない。 だから、神とは無関係なんじゃないかね。
185 :
考える名無しさん :2011/11/25(金) 05:23:29.29 0
ハイデガー信者と二郎信者は似てる
ハイデガー信者と木田信者は似てる
ハイデガーが神、て誰が言ったのかな(苦笑)神というのは『哲学への寄与』の重要概念だけど、 勿論ハイデガーは神ではない。神格化することもない。 183は物知りだけども、研究者の典型で、影響関係、成立関係など詳しいのだが、それが己の何 なのか、聴いてる側にさっぱり見えない。読書は教養以外のものではないので、なんの緊張感も ない。ただ説教臭く、へどが出る。(笑)要するに既成の図式に嵌めておきたいだけではないか、 という感じが漂ってくる。既成の図式をはみ出すとこは見たくないし認めたくないのが露骨であ る。キリスト教との関係は無論否定しないがそれだけ一つ覚えみたいに言ってても無意味だろう と言ってるのだ。
問題ははっきりしていて、議論の中身がどうこうより 入門書しか読んでない奴がうざいだけ。
それを言う資格があるのはドイツ語原書で繰り返し読んでるやつだけだからね
意味がわからん。図星だったか。
というかあまりに幼稚な権威主義がおろかしい。
ヘドが出る、はないな。。それは言い過ぎだ(笑)183は丁寧に語っている訳だから。ただ、キリスト 教というのは存在論に止揚された、と見るのが妥当でしょう。保存され、だが超えられた、と。そこ にヤスパースとの共感もあったと思うし。あくまでそれがどう転化したか、と込みで論じられる べきでしょう。 渡邊二郎を私は敬意を持っていた。翻訳も愛読していたし。晩年に『哲学への寄与』の研究をして いたと知り、凄いなと思っていた。ところが例の哲学的人生論とかを読む内に、どこまで把握して いたか、不審に思うようになった。『哲学への寄与』に関する限り、あれを用語の研究に止めては 不完全、不十分で。何故ならあれは哲学書にしては驚異というレベルでまさに高度資本主義社会 の人間の姿を描いてしまってる。何故それが可能だったか、という謎もあるが、とにかくあれは 下手な社会学より遥かに現在を言い当ててしまっている。その言い当てているところに研究者が 言及しない。臆病か、鈍いのか、よってあの本の解読はされてるが、どれも肝心要を外したものに なってる。渡邊二郎は別だと思っていたら、どうも渡邊も肝心なところは読めていなかったんじゃ ないかと思えてきた。ハイデガー研究者は結局ハイデガーの根幹には未だに触れていない。それ が私の感じで、渡邊二郎への見方は最近変わったということです。
>>192 >>97 に感謝すべきなんじゃないの?
だってあんたは12巻を指摘されるまで渡辺二郎に疑問を持ったレスなんか書いてないし。
それがあたかも自分で気がついたかのごとく剽窃している。
けっきょくあんたの読解というのはほとんど当てにならないということだな。
「ヘドが出る」とか書くのもあんたの精神の異常性がはっきりと出ているし。
>渡邊二郎は別だと思っていたら、どうも渡邊も肝心なところは読めていなかったんじゃ
ないかと思えてきた。ハイデガー研究者は結局ハイデガーの根幹には未だに触れていない。それ
が私の感じで、渡邊二郎への見方は最近変わったということです。
ほら剽窃以外の何物でもない。
指摘した人の存在が無きものとなっているご都合主義者。
何が「最近変わった」だよ(笑)。
失礼千万・迷惑千万の極地。
これこそ「ヘドが出る」ような行為だろ?
194 :
考える名無しさん :2011/11/25(金) 15:14:08.46 0
何言われても念仏唱えているだけの信者だからね 自閉している姿勢が研究者との違いでしょ
>>194 まったくです。
あいつは人間のクズでもあることが分かってよかった。
別にハイデガーを読んで救われたっていいんだけどさ せっかくだから、ハイデガーが読んだ元のテキストにさかのぼって そうしたコンテキストを見ていけば ハイデガーが、実際には何と戦おうとしていたか さらに良く見えるってだけの話なんだけどな んで、ハイデガーを読んで救われてるだけならいいんだけど ろくに知りもしないキリスト教の話とかを 非常に適当に持ち出すから、突っ込まれてるのよ
197 :
考える名無しさん :2011/11/26(土) 01:30:43.81 0
_,-‐‐、 人 ,i´ l、__ _,.....、 生 l ‐-/´ `y‐'´ ヽ__ 論 !、__,...-'!、__,ノー ノ ``ー 、_ , で / ヽ、 ノ‐- 、__ `く-、 い / 有と時 `ー‐'´`-、 `ー-、 | い '--、__________,.........-----‐‐'ー、_ `ー、 の ,i ,-、‐‐-- 、ニ二`ー‐- 、 ,l´ ` 、 ヽ) だ /.´,-! 7`i_ー | ヽ __ ) ♪ _,.-‐‐ ( __ `i ヽ _,i'´ ヽ i´ -‐'_フ'´ノヽ、____,i´ ヽ'´ ,く | !、_______,.......,--、_` ヽ、 、 、 ノ (\(\ !、_____| ~`ー-、___ ,ヽ ヽ -、-'´ i´`i , ^, ⊂ニ メ' \\ 人生論 |___ ``7'´ | ヽ ,l | `' 、r''´) ⊂ニ( / `、 `ー、_ ,- 、 __~ / ノ,-'´|´ ヽ‐'、 ⊂ -―/ `ー-、.`ー!、 Y ´ )_,.i'´ ノ | '‐く `ー、 , `ー、-、___ ___,.-‐´ ヽー-‐'`ー´ `ー/ /ー-ュ‐'~~ _,-‐'´ /-、_ l_ 8 / _,..-‐''´ ,.-‐-、/ /`ー-、~ _/ ,/ `ー、,l`i /__ /~``7ー-‐'´/____ ,i'´``ー-、 ノ_,/‐'´ `ー、 / /‐--、`ニ‐、_ ,!``ー- 、 ノ / `、___/_______/i ~((`、ヽ . | `ー-、/ ,! ヽ ,i' `ヽ__ ヾ .)`i `ーt_´ ,-f,.--‐‐'´`ー、___ _,i'´ ヽ`ー==ニ-'_ノ ~ `二~ _,-‐'´
Googleで「ハイデガー読解」で検索すると、このスレの一部が1頁の先頭に検索されてきました。 なので2ch.の読者層ではない、ハイデガー研究者や愛読者もここを見ている可能性があります。 また、前スレ『マルテイン・ハイデガー、今。』は3頁辺りに検索されてきます。実際に書き込みし ている以上の人々がここや前スレを読んでるのだと思います。読むに値するかはまあ明言はしな いでおきます。(笑)
200 :
考える名無しさん :2011/11/26(土) 16:26:41.35 0
>>199 そりゃ読んでいる人もいるでしょう
しかしあなたのその上から目線は本当に傲慢ですね
いつもそうですよね
渡邊二郎の件も他の人のレスに教えてもらったのだから
お礼と謝罪はしなさい
読むに値しないのはあなたのレスも同じ事
不遜なところだけはハイデガーとそっくりですよ お馬鹿さん
>>198 構造と言ってしまうと、人間を排除した構造主義と混同しやすい
「現存在」とよばれはするが、人間の位置が理論の中に記述されている点で
いわゆる構造主義とはかなり違う
もちろん、サルトル的な実存主義とも違うのだが
何、お礼と謝罪?教えてくれた、て全然丁寧じゃないし情報だけ放り投げてあっただけだし、あれ も不躾といえば不躾だぞ。本を「ほらよ!こう書いてある」と言いながら放り投げられたみたいな 書き方だろう。あれにお礼を言う馬鹿がいるわけないだろ。頭おかしいんじゃないか?お礼と謝罪 って(苦笑)ここに来て揚げ足とってる人種とか、どうみても人間的な歪み満載。ハイデガーを真 面目に読んでるとも思えない。まともに話とかするべきではないって変な不潔なオーラが噴き出 してるだろ。何がお礼と謝罪(笑)目の前にいたら頭に拳骨入れてるぞ。何勘違いしてる。本当に 仕様がないな(苦笑)
>目の前にいたら頭に拳骨入れてるぞ う〜ん、、、 先生、コテハンにしてくださいよ。 そうすれば読みたくないヒトは読まずにすみますし、 文句も言われませんよ。
>>203 さすがはボケ老年だノータリンぶりがはっきりと出るようになったな
人間的な歪みならリアル精神病を告白しているお前自身の精神構造だろ
教えてくれた人に対して誰だか俺も知らんが、それでも教えられたことには違いないから
自分の無知を詫びて感謝するのは当然じゃないの?
理解力のない精神異常者はここだけで騒ぐだけにしろよ
人の迷惑をまず考えてから家の外に出ることな
203って誰よw スレ主なんだろ 狂人らしいけれど こういう老人が本当にいるんだな しかもずっとハイデガースレを立て続けていたみたいだね なんかこいつヤバイしww
>しかしあなたのその上から目線は本当に傲慢ですね >読むに値しないのはあなたのレスも同じ事 199レス読んで「上から目線」と取るこの人の読解力も相当変だと思う。レス199では「です、ます 」調で「こんなの見つけましたよ」という報告をしてるだけ。200レスのこの歪んだ読みには私はと にかく責任はない。199レスからそういう不快を感じるというのは何か相当変わった人間だろう としか思えない。おかしいと思う。 >読むに値するかはまあ明言はしないでおきます。(笑) と私が書いたのは、色んな不特定多数が読んでるかもしれない、研究者も読んでるかもしれない から、読まれても恥ずかしくないものを目指そうよ、という気持ちだった。読まれる価値のある ものを、という。どこか200はひがみでもあるんだろうか?よく分からない。 検索ついでに前スレ、その前スレとかも読んでみたが、とにかく私が書いた長いレスを、改めて 読んでみたが、予想外に面白かった。私のはどれもスペース一杯に書いてるのですぐ分かった。 面白いし、ハイデガーをめぐる根本的な問を出して、懸命に答えていこうとしている。よくやって ると思った。私のばかり目立ってるきらいもあったが、それだけハイデガーは難物だし、若い人に は取っ付きにくいのだろうし、仕方ないかなと思う。
208 :
考える名無しさん :2011/11/27(日) 01:15:34.60 0
_,-‐‐、 人 ,i´ l、__ _,.....、 生 l ‐-/´ `y‐'´ ヽ__ 論 !、__,...-'!、__,ノー ノ ``ー 、_ , す / ヽ、 ノ‐- 、__ `く-、 ら / 有と時 `ー‐'´`-、 `ー-、 | 理 '--、__________,.........-----‐‐'ー、_ `ー、 解 ,i ,-、‐‐-- 、ニ二`ー‐- 、 ,l´ ` 、 ヽ) で /.´,-! 7`i_ー | ヽ __ ) き _,.-‐‐ ( __ `i ヽ _,i'´ ヽ な i´ -‐'_フ'´ノヽ、____,i´ ヽ'´ ,く | い !、_______,.......,--、_` ヽ、 、 、 ノ の (\(\ !、_____| ~`ー-、___ ,ヽ ヽ -、-'´ i´`i , ^, だ ⊂ニ メ' \\ 人生論 |___ ``7'´ | ヽ ,l | `' 、r''´) ♪ ⊂ニ( / `、 `ー、_ ,- 、 __~ / ノ,-'´|´ ヽ‐'、 ⊂ -―/ `ー-、.`ー!、 Y ´ )_,.i'´ ノ | '‐く `ー、 , `ー、-、___ ___,.-‐´ ヽー-‐'`ー´ `ー/ /ー-ュ‐'~~ _,-‐'´ /-、_ l_ 8 / _,..-‐''´ ,.-‐-、/ /`ー-、~ _/ ,/ `ー、,l`i /__ /~``7ー-‐'´/____ ,i'´``ー-、 ノ_,/‐'´ `ー、 / /‐--、`ニ‐、_ ,!``ー- 、 ノ / `、___/_______/i ~((`、ヽ . | `ー-、/ ,! ヽ ,i' `ヽ__ ヾ .)`i `ーt_´ ,-f,.--‐‐'´`ー、___ _,i'´ ヽ`ー==ニ-'_ノ ~ `二~ _,-‐'´
209 :
考える名無しさん :2011/11/27(日) 01:32:57.18 0
>>207 私にはそのやり取りがよくわかりませんが
>>207 さんは少し傲慢だと思われても仕方ないのではないでしょうか。
ここは誰が書いてもいいし、スレ立て主とか関係ないですよね。
何故ならば、スレッドは立て主の所有ではなく、単なる1に過ぎないからです。
それから、
>とにかく私が書いた長いレスを、改めて 読んでみたが、予想外に面白かった。
私のはどれもスペース一杯に書いてるのですぐ分かった。
面白いし、ハイデガーをめぐる根本的な問を出して、懸命に答えていこうとしている。
よくやってると思った。私のばかり目立ってるきらいもあった
これは真面目にそう思ってらっしゃるならば、少し異常な感じがしました。
私もあなたの書いたと思われるものを読んでみましたが、まず文章が下手ですし、
ほぼ本を写しているような書き方は、とてもではないですが、手本となる意見には読めません。
これは私の、あくまでも私の感想ですが、こういう正直な感想すら切り捨てるのなら(それは自由ですが)
哲学には全く向いていないようにも思えます。
ダイアローグ(対話)の重要性はバフチンも説いていますし、他の多くの哲学者も説いていますが、
ダイアローグの重要性と
>>207 さんとの関わりが希薄であったとしたらば、マスターベーション程度の
意味しか無いものと思われます。
私は少なくともそう感じたので、私なりに書いてみましたが、そう確信しているわけではありません。
それは
>>207 さんが対話を好まないから、
>>207 さんのことがよく分からないからでもあると思います。
>>209 無駄だよw
相手は「自分世界一」の基地外
レス読んでわかるじゃん
発狂してんのよジジイは♪♪w
そもそも最初にハイデガースレが哲学板に立ったころ この子はいなかったと思うの
>>211 子じゃねえんだよマジで
還暦あたりらしい
長いこと精神病でダウン
ハイデガー読んで病状が良くなってきたんだって
全然よくなってないと思うんだがな…┐(´д`)┌ヤレヤレ
>まず文章が下手ですし、ほぼ本を写しているような書き方は、とてもではないですが、手本と なる意見には読めません。これは私の、あくまでも私の感想ですが、こういう正直な感想すら切り 捨てるのなら(それは自由ですが)哲学には全く向いていないようにも思えます。 面白いね。因みに「マルテイン・ハイデガー、今。/ロムちゃんねる」という、前スレが読めるサイ トがあるのでそれを取ると。そこの47.52.55.56.62レスで私は麻原彰晃の思想を自分なりに 纏めて、それとハイデガー『哲学への寄与論稿』に展開された思想を関連付け、オウムの無差別殺傷 の必然というところまで横断線を引いてみせている。よく調べたわけじゃないが、こういうことを 考え、試みてる研究者は居ないと思うし文献も出てない。私はここで誰もやったことのない思考 実験を試みた。たしかに悪文だろうがそんなことより試みたことの意味はあったと思う。同じ194 レスでは酒鬼薔薇少年と『哲学への寄与論稿』に横断線を引いてみている。そんなこと、誰もやら ないし、研究者でもできてないと思う。私はハイデガースレでそういう思考実験をやってきた。「ほ ぼ本を写してるような」って言うけど、私がやってるようなことは、研究者でもやってない、で もやればどうなるか、という思考実験がまま為されてる。麻原とハイデガーの横断線て、研究者で も書けてない。麻原の本を当時私は読んでその上で書いた。 235.236.237では震災後の3/13に、震災をバックにハイデガーを読む意義を探っている。これも 手前味噌だけど面白かった。そんなこと研究者でも多分書いてない。本を写してる箇所は私は《》 で囲むから写してる箇所とそうでない箇所ははっきり解りますよ。 209さんの話されてることはそれとして読んだけども、あんまり当たってないな、と思いますね。
>ダイアローグ(対話)の重要性はバフチンも説いていますし、他の多くの哲学者も説 いていますが、 私はダイアローグもいいけど、生き生きとした感性をどれだけ維持できるか、頑張って る人を、また優れた読み手や書き手を、その試みを、真っ直ぐな瞳で見極められるか、も 大事だと思いますね。そういうことのないダイアローグとか幾らやっても意味ない。ズレ たことを言い合って、また同意し合って(笑)それこそマスターベーションだよ。
215 :
考える名無しさん↑↑↑ :2011/11/27(日) 20:25:21.01 0
>ヾ`丶、 ゝヽヽヽ丶,てヽ ヾゝゝゝゝ`-' ヽ、  ̄>⌒ ( ゝ>\ ^ー-__/~/ ヾ!、 < ≦/::::\ \/:::::::::::.....\ __ \::::::::::::::::::....\ ,= ̄⌒ヾ、、 \:::::::::::::::::.... \ r´ _,j L_ヽi \::::::::::::ノ::::....\ /! r¨¨ ,,,、¨¨ ヾ \:::::::::=ン::::::...\ i| ゝ /lllll ノ リ {:::::::::::::::::::.. \_ 〈l, ヽ ⌒ lrリ SIEG HEIL !!! ヾ、::::::::::::::::::::.. ´i  ̄l ゝ:::::::::::ヽ / SIEG HEIL !!! 〉::::::::::::::::::.... i \_ j≧-‐t‐,--< SIEG HEIL !!! l:::::::::::::::::::::. !i l ⌒ゝ-__≠'" ̄ゝkj_,,-‐^ヽ }:::::::::::::::::::. !i l リ / 。 ≦;;;-、_ / _ ≧、 \::::::::::::::::::!i;ノ/ /i⌒ヽ `ヾ;;;ヾ´ ̄ ⌒, ̄`  ̄`ゝ-、__ \::::::::::!i リ /;;.. ) \『≫ ヾ-、_r,_ j \ \::::::::r/ ;;,... ≪;;;:\ 、_ii_ヽ v | \::Z レ _---、_\;;;\,、 ~ル^ 〉´ ヽ、 |j, _,--/⌒) ~^l| ̄⌒ー、_ }了__∠/ |::/;;'';;;;;;;;;;;;《>´ _ }} `ヽ-i_;';';';';';'|l、
216 :
考える名無しさん :2011/11/27(日) 20:49:59.49 0
>>214 バフチンに言っている「ダイアローグ」というのは自分自身で何かを考えることも含めて
それは他者性の眼差しを常に持った状態で自己批判的にも考える「行って来い」の思想です。
誰かが書いていますが、本当に
>>214 さんは精神病にかかっているんですか?
今はお仕事はされているのですか?
ウィトゲンシュタイン関連本を読んでたら、ウィトゲンシュタインもハイデガーと同じ1889年 生まれで、ただ死んだのはウィトゲンシュタインの方が早く1950年代に死んでる。ウィトゲンシ ュタインの発想の中には言語の機能には使用者の意図を外れたものが含まれている、とするもの があるでしょう。これこれの命題に真に意図されたのは何か、と。言語機能には意図を超えたもの が担われている。これは実はハイデガーの問題と同じじゃないかと思えます。存在問題もまた、 主体の意図を超えた領域を暗示するものだから。だけどウィトゲンシュタインとハイデガーは正 反対と見なされることが多いのだろうし。ただウィトゲンシュタインの哲学批判、無意味という のは、ハイデガーの思想とクロスしてると思いますけどね。ハイデガーだってあれも哲学批判と いえるわけだから、そこもそう離れていないんじゃないかな。
ちょっと違うかな。 ウィトゲンシュタインはある意味で「意図」そのものを消去しようとした。 乱暴に言うと、心と意味との間には断絶がはっきりあることを示したんだな。 心の中のイメージには意味がない。「意図」は伝えるべき心ではない。 フッサールは心をつきつめれば意味の原子がつかまえられると信じていたけれども、 それがハッキリ終わらせた、されるのがフレーゲやウィトゲンシュタインなんだな。
219 :
考える名無しさん :2011/11/28(月) 20:38:49.32 0
>>217 そういう意味ではないと思うのだがウィトゲンシュタインはハイデガーをちゃんと読んでいた
だからハイデガーに対して「ハイデガーには共感する」という言葉をちゃんと残している
そういう意味では色々な問題意識というか感じ方のスタンスには共通したものがあったのだろう
ハイデガーについてのウィトゲンシュタインへの意見は知らない
ハイデガーは「論理哲学論考」を読んだのかね?
読んだとしても全く理解出来なかったろうな
論理哲学者と人生論者では思考の範囲が全く違うから
『哲学的文法』35節でウィトゲンシュタインはしきりと〈理解する〉とはどういうことを指すのか 、繰り返し問い掛けている。そこを見てると、これはもう存在了解(有の理解)の前まで来ている、 という感がする。こういう問に惹き付けられていくところが、ウィトゲンシュタインには存在の 問が自身にも顕在化せぬままあったのではと思えるところである。私はハイデガーよりも先に ウィトゲンシュタインに惹かれて、それは今思えば論理実証主義というより、ウィトゲンシュタ インに見え隠れした存在問題だったんじゃないかと思う。
221 :
考える名無しさん :2011/11/28(月) 22:54:30.27 0
存在の問題はハイデガーだけの問題ではなかったんだよ 特に20世紀に入ってからは中心問題になっていた(科学の領域も含めてね) ただハイデガーは非常に残念ながら「言語」の問題に深入りできなかった フランスでは「言語」獲得による存在の深化という問題が嫌というほど議論されていたが ドイツは総じてそういう流れは無かった 「言語」を獲得した場合とそうでない「狼に育てられた少年」のような例ではものの捉え方は 全く違っていた。 その点ウィトゲンシュタインはどうやら「言語」の問題つまり「ソシュール言語学」と邂逅していた という説が最近本になっている。 「言語」による「象徴化」は人間だけの特権であるからハイデガーもぜひ立ち入って欲しかったな
戦前でもカッシーラーは言語について盛んに論じていたでしょう。
またあの下らない新刊の宣伝っすかw 言語と存在の関係なんてフンボルトやらドイツでの方が盛んだったぐらい ソシュールの文献学も、ドイツの伝統からの影響も大きい
ウィトゲンシュタインの『哲学文法』はフレーゲの意味論を大して進めてない。 ソシュール言語学との邂逅がウィトゲンシュタインを存在への問いへと近づけた、 なんてのは無理筋だな。 「存在は二階の述語」というフレーゲの発想が、 『論考』の中ですでに生かされているわけだから。 まぁフレーゲやラッセルの「意味」の理論に比べると、 ソシュールが心理的な「意味」を重視していたことは間違いない。 そこにウィトゲンシュタインの独我論に関係を見つけることはできるかもしれないが、 ウィトゲンシュタインが結局心理的意味自体を消去しようとしたことを思えば、 それ以上は無理筋だろうな。
木田元がウィトゲンシュタインのハイデガー評を著書に書いてるね。《私には言語の限界に向かっ ていく気持ちがよく分かる》と言っていたという。〈言語の限界〉というのも、これはハイデガーで いう存在の領域だから、これも親近性を表していますね。ウィトゲンシュタインの生涯を見ると 非常に波乱万丈で、同性愛、自殺願望、戦場体験…と、己の生の意味を問わないでは居られなかった ろうという感じはする。細川亮一というハイデガー研究者が1冊ウィトゲンシュタイン論を書いて るね。『形而上学者ウィトゲンシュタイン』という本。それは別に不思議ではないということなん だろう。
>>224 ここはハイデッガースレだぞ
逸脱し過ぎだw
まあまあ。ウィトゲンシュタインの記事でへえ、と思ったのが、彼は長い間、禁欲的な人間だと されてきた。だが、死後に若い頃の日記が発見され、そこに、オナニーがやめられない、という言わ ば罪悪感が書かれていた。今日もやってしまった、と。実は私も、10-20代にかけて、オナニーの 罪悪感が抜けず苦しんだ覚えがある。ひどく自分を責めてしまい、それが神経症の切っ掛けでも あったと思う。それが原因かと思うが、いまだに人間性を全体‐事実として肯定してるかどうか が思想をみる場合には基準点になっている。言語でいうと〈内部/外部〉という全体が言語だとす るところ、その全体が人間なのだと。その開かれ方を倫理とされたりしてる。ハイデガーだと言葉 は存在の住みかである、という言葉がある。人間が左右しえないものが言葉にあるという。そこも 共通項でしょう。
言語が無くても「存在」というのはまた別な形で認識するのだと思う。 そして言語があることによって人間社会の特別な「意味」が付与されるのだと思う。 そして当然ながら言語が違えばその「存在」の文節の仕方もまた違うのではないか。
229 :
考える名無しさん :2011/11/29(火) 01:29:47.62 0
そりゃ違うんじゃないの。丸山圭三郎みたいな話だけど。
>>229 そうじゃなきゃ他の動物は言語がないのにどうやって物事を週別しているっていうんだい?
いや、だから言語によって違うんじゃないの?って話。 ただ、そこまで言い切れるかどうかは疑問だけど。 丸山圭三郎まで行くと独我論と言うか観念論みたいになる。
>>230 ああ、なるほどね、翻訳の問題もあるもんな
確かにそういう問題が存在しないならば、翻訳の問題なんか存在しないし
ドイツ語なんかで書かれた原書を読む必要なんかないもんなwww
>>231 それはちょと違うのではないかな。
>>232 さんも書いているけれど「翻訳の不可能性」についてはあのクワインが論文を書いているよね。
だから言語によって「単語」だけとってみても差異があるんだから当然完全には咬み合わない。
まあ「異種言語間差異」ということだと思う。
>>233 ネルソン・グッドマンのさあ『世界制作の方法』なんかはそういうことを述べている本だなw
235 :
考える名無しさん :2011/11/29(火) 01:58:39.08 0
どちらかというと永井均も傷が「痛い」かどうかを決めるのは、 傷を負った者ではなく医者であるみたいな人だな。
クワインが言ったのは「翻訳の不確定性」なわけだけど、 ハイデガースレ的には不確定も不可能も似たようなもんだろって感じなんですかねw
まあ似たような意味ですな これこそ翻訳の不確定性でしょう
不確定と不可能を似たような意味にとらえたら クワインの本なんて読めないと思うけどね
「翻訳の」というコトバがついているから意味はわかる 他の場合ならわからないこともある 色々ある
___________現 存 在__________________ | | | 世 界 _________内=存在 自 己 | | \_不安(世界 内=存在 自己) | | | 頽 | | | _理解_落_好奇心_良心_投企_死_投企_ | | |_/_語り___空談_____沈黙___沈黙_\_内=存在 | 世界性 \_情態性__曖昧性____不安___不安_/ ・ | |_ ・ ・ ・ ・ | | | ・ _____________________| 環境世界| _______|_______ ・ ・ | | | ・ ・ | ・ ・ 道具 | 人間 ・ ・本来的 ・ ・ | | 非本来的 ・ ・ 自己・・ ・ ・ ・気 遣 い 近づける| | ・ ・ ・ 関 心 /| | |_開示性_________決意性_先駆的決意性 | 方域| | | | \| 道具全体性__道具__差しおく___適所性・|・ ・ ・ | 場 \_適所_/ | | 全体性 | | 過去_________現在_________将来 | 既在性________現在化__自分に先んじて存在____| (事実性) (頽落性) (実存性) 忘却・反復 予期
242 :
考える名無しさん :2011/11/30(水) 19:56:01.40 0
人 生 論 | ___________現 存 在__________________ | | | 世 界 _________内=存在 自 己 | | \_不安(世界 内=存在 自己) | | | 頽 | | | _理解_落_好奇心_良心_投企_死_投企_ | | |_/_語り___空談_____沈黙___沈黙_\_内=存在 | 世界性 \_情態性__曖昧性____不安___不安_/ ・ |_ ・ ・ ・ ・ | | ・ _____________________ 環境世界| _______|_______ ・ ・ | | | ・ ・ | ・ ・ 道具 | 人間 ・ ・本来的 ・ ・ | | 非本来的 ・ ・ 自己・・ ・ ・ ・気 遣 い 近づける| | ・ ・ ・ 関 心 /| | |_開示性_________決意性_先駆的決意性 | 方域| | | | \| 道具全体性__道具__差しおく___適所性・|・ ・ ・ | 場 \_適所_/ | | 全体性 | | 過去_________現在_________将来 | 既在性________現在化__自分に先んじて存在____| (事実性) (頽落性) (実存性) 忘却・反復 予期
(『存在と時間』−環境世界−開示性)÷共同現存在+頽落=人生論
そのサイズでレイアウトしたいなら、素直にAAのエディタを使った方が良い
AAのエディタ???
246 :
考える名無しさん :2011/12/02(金) 02:50:29.10 0
アマゾンでおもしろい本みつけた。 死生の哲学―織田信長とM.ハイデガー [単行本] 龍宝 省己 (著) 龍宝 省己 昭和3年生まれ。法大卒業後、業界紙記者、会社嘱託などを経て、平成6年定年退職。退職後、母の介護に全力。平成16年母死去。その後は長く続けてきた執筆活動に専念
ウィトゲンシュタインとハイデガーは勿論同じではない。しかし重大なところで横断線がひける 気がする。というのは『論理哲学論考』の最後近くでウィトゲンシュタインは、哲学的命題は無意味 であり、それらは自然科学に浄化されるべき、と語っている。実はハイデガー有論の本質的なとこ ろは、意識=世界=自然と捉える観点だと思う。ハイデガー有論に自然の概念は本質的なところで 陰を落としている。久しぶりに『論考』を読んで、改めてハイデガーとの横断線ということに気が 付いた。
『論理哲学論考』6.44,6.45でウィトゲンシュタインは語っている。 《世界がある、ということが神秘的なのである。》 《世界を境界づけられた全体として感ずること。この感じこそ、神秘的なものである。》 ここでの〈世界〉という語の使われ方を辿ると、ここで書き手が言っているのが、存在者すなわち 有るものではなく、有るものの成立する地平のことを言っているのが分かる。この〈世界〉の使わ れ方もハイデガーと全く同一である。特にハイデガーから影響を受けたわけではなく、独自の探 究によるものだろうが、これは同一な問題意識があったことを証していると思われる。また、興味 深いのが、このときウィトゲンシュタインにあったのが、哲学における無意味の捨象であったこと で、これはハイデガーにおける存在論への志向の核心とも繋がってくるところである。よく 知られているようにハイデガーは形而上学の歴史が存在の問を孕み、しかも顕在化しなかった歴 史として捉えている。そこでハイデガーが形而上学を止揚する仕方とウィトゲンシュタインが 哲学を浄化をはかる仕方は〈世界〉という概念について言えば同じものを見ていたと思われる。や はり両者は根底で繋がるものを持っている。
ハイデガー『存在と時間』 哲学書概説シリーズ 11 後藤嘉也/著 晃洋書房1,365円頁数・縦 : 128,6P 19cm [目次] 第1章 『存在と時間』まで;第2章 “存在と時間”という問題設定; 第3章 現存在について問い、存在すること一般について問う; 第4章 現存在の実存論的構造;第5章 本来的実存と脱自的時間性; 第6章 歴史性と共同運命;第7章 「時間と存在」; 第8章 ナチズム参与という決断;第9章 『存在と時間』をみずから解釈する 著者紹介後藤 嘉也 (ゴトウ ヨシヤ) 1953年山形県天童市生まれ。1981年東北大学大学院文学研究科博士課程後期3年 の課程単位取得退学。2005年博士(文学)(東北大学)。現在、北海道教育大学教授 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
250 :
考える名無しさん :2011/12/04(日) 16:20:18.90 0
あらぁ、59歳か若いよなあ・・・(合掌)。
ウィトとハイデガーは全く関係無い。 関係あると言う人がいるとすれば、 それはオーストリアとオーストラリアぐらい似ていると言える。 つまり、文字面的に同じに見えるだけで内実が全然違う。
日本語訳で存在っていう単語が同じってだけで、 考察している内容が全く違う。 しかも、ウィトはハイデガーが自分に関係あると思ったっぽいが、 ハイデガーが考えていたのは一般的な意味でのウィトが使っている様な 意味での存在では無い。
>>252-253 おっ、真打ち登場ですな
純一ハイデガー論を少し展開してやってくれ
どうもウィトとハイデガーを同じように考えているスレ主には理解できんようだから♪
ハイデガーが言ってる存在ってのは、 現象学をベースにして考えてる訳で、 現象学も知らんのに勝手に関係あると思っちゃった奴がウィト。 これはテレビで歌手を見て、あれなら俺にも歌える、と 思った子供がウィトである、とも言えるね。
あと、竹田青嗣を馬鹿にする奴が多いが、 こういう奴は内容を理解して馬鹿にしているのではなくて、 竹田が分析(ウィト含む)に批判的だから、 当の分析哲学者である名無しが竹田を馬鹿するという流れになっている。 それを裏付ける様に、入門書なら細川亮一も出してるが こっちは分析称揚なので全く馬鹿にされない。
要するに、竹田を名無しが馬鹿にするのは、 名無しが分析哲学者だからであって、 ウィトを称揚、あるいはウィトとハイデガーが 密接に関係してますという結論ならば受け入れる訳で、 内容を理解して話している訳ではなくて、要するに好き嫌いの問題でしかない。
ウィトは前期で論考、後期で探究なので、 ハイデガーも無理矢理この図式に当て嵌めなければ 分析哲学者にはとても受け入れ難い。 そこで、前期の独我論的な論考を実存主義に強制的に当て嵌め、 後期の慣習的な探究をハイデガー後期に無理矢理当て嵌め、 後期に軍配を挙げる、という流れでないと分析哲学者は 絶対にハイデガーを受け入れない。 そこで、前期称揚の竹田は叩かれ、後期称揚の細川は批判されない、 という流れになるが、これは単純なウィト図式へのハイデガーの 矮小化された強制的な当て嵌めに過ぎない。
つまり、前期称揚の竹田は、 分析哲学のウィト図式を強制的にハイデガーに当て嵌めた 分析哲学者の名無しには人生論に『一見して見える』という だけの事に過ぎず、そもそもハイデガーをウィトにこじつけて 勝手にウィト化している事自体が問題であって、そもそも ハイデガーを勝手に分析哲学化したら理解できる訳が無い。
でもハイデガーは間違いなく「人生論」をやっているじゃないか ハイデガーの存在論はあくまでも「人生論」の付属だ またハイデガーが「人生論」であることを見失うと存在論も意味がわからなくなる 渡邊二郎も「人生論」として研究しているだろ
人生論っていう根拠は『ヒューマニズムについて』とかその辺でしょ。 つまり、ヒューマニズム=人生論という安直な理解。 でも、ウィキでヒューマニズム調べてご覧。 >人道主義・博愛主義を指してヒューマニズムと言う場合もあるが、 >英語では人道主義を「humanism」と区別して「humanitarianism」で表すこともある >(必ずしも一般的ではない)。今日の日本ではむしろこの意味でヒューマニズムが用いられることが多いが、 >上記のように歴史的・哲学的文脈での人文主義者の主張は、戦争反対とか、弱者に優しくしようといった >発想と直ちに重なるものではない。 つまり、日本語の意味でヒューマニズム=人生論とか理解してはいけない。
では、ハイデガーが批判するヒューマニズムとは何かと言うと、 > ルネサンス期における「ヒューマニズム(人文主義)」とは主として古典研究、 > フマニタス研究を指すが、20世紀にはいると、この古典研究の意味から離れて > 合理主義的解釈が施され、以下のような極端なとらえ方がなされる場合がある。 > 善や真理の根拠を、神でなく理性的な人間の中にみいだそうとした、と。 > その延長上として「人間中心主義」と訳出する場合があるが、この「人間」とは > 西欧近代的な価値観に基づく『理性的』な人間であり、理性中心主義・西欧中心主義に通じる概念である、と。 > この解釈は啓蒙主義以後の観点であり、ルネサンス人文主義とは明確に区別されるべきであろう。 つまり、日本語の語感では、ヒューマニズム=人世論っぽいが、 ハイデガーが用いているヒューマニズムとは理性主義の事だ。 では、誰が理性主義か?論理を信じるウィトでありフッサールだ。
要するに、ちゃんと中核を掴めてれば、 ハイデガーの批判するヒューマニズムは人生論とかではなくて、 理性主義の事であり、それは論理を信奉するウィトとかフッサールまでもが 批判の対象に含まれる、という事ね。
反対にサルトルは『飢えた子供の前で文学が何の役にも立たない』とかの 発言からも分かる様に、人道主義という意味でヒューマニズムを使っているので、 サルトルには全く罪は無い。
つまり、ハイデガーがヒューマニズムとか ヒューマニストとか言う場合、そこに想定されるのは 論理主義のウィトとかフッサールであり、それがヒューマニズム(理性主義)に 陥っている、という話をしている訳で、 それを分析哲学者が、『おいおいハイデガーは人道主義や人生論を批判しているぞw』 と言う場合、それは逆転して話している訳だ。 要するに、ハイデガーが批判しているのは当の分析哲学者の理性主義具合であって、 人道主義とかを批判している訳では全然無い。
純一は本当にバカだな しねばいいのに
だからこう、ドイツ語云々とか言ってる学者も、 絶対にヒューマニズムを正しく理解している奴なんかいないからな〜 あくまで通常の日本語的ななんとな〜くのイメージで 人道主義とかいう日本語の語感で語ってるが、 これは西欧では理性主義って意味ね。 語学をやってるんならこの辺をまず理解しましょうって話ね。
269 :
考える名無しさん :2011/12/04(日) 21:35:53.26 0
本当に純一のレスは役に立つな 最高の反面教師だよ
で、個人的な話だけど、そういう意味では細川亮一って馬鹿だよ。 関係ないウィトとハイデガーを並べて、 そして、『原著を読め』と事あるごとに書く。 しかし、俺が上で説明した様に、そもそもヒューマニズムの意味は 通常の日本語の意味とは違う。なのに、当の理性主義であるウィトと ハイデガーをくっ付けてしまうので、細川がハイデガーを理解して いない事は一目瞭然である。 しかし、分析哲学徒は分析称揚してくれる細川が大好きであり、 内容も分からずに称揚し、逆に竹田を叩くという失態をしてしまう訳だ。 まあ、要するに分析にとって都合の良い文献だけ読んでるって事ね。
では、ハイデガー的にはウィトやフッサールの 『ヒューマニズム(=理性主義)』はどう批判されるのか?と言うと、 要するに歴史性であり、ウィトやフッサールの論理主義の背後にあるのは ユダヤ教的な一神教性や律法主義というユダヤ教の教義の歴史性にあるのであって、 論理独自の独立性が無いという事をウィトやフッサールというヒューマニズム(理性主義)に 陥っている者に教えてやる事。これがヒューマニズム(=理性主義)を乗り越える、 という事なのだよ。
つまり、まとめると、 『原著を読め』と言う細川→なのにウィト(ヒューマニズム)とハイデガーを同定 『ドイツ語云々』と言う輩→なのにヒューマニズム=人道主義と誤解 というパターンが殆どのハイデガー読みなので、 要するに殆どアテにならない。
273 :
考える名無しさん :2011/12/04(日) 21:55:40.02 0
274 :
age :2011/12/04(日) 21:56:39.57 P
ハイデガーとウィトとの関係は哲学史的にはライプニッツを源流に置くとわかり やすい。 __ニーチェ__ハイデガー ライプニッツ_| |____ラッセル__ウィト 両者の差異を強調することもできるし、共通性を強調することもできるが、論理 (学)内に倫理をそれぞれ別の形で取り入れた、ということは言えると思う。 ちなみにハイデガー『ニーチェ』の第三部はライプニッツを扱っているが、この 部分だけ文庫化されていないのが惜しい。 (細谷貞雄はそもそも『ニーチェ』第三部を訳していない。邦訳が入手出来ると すれば薗田宗人訳の白水社版単行本版)。
>ハイデガーが用いているヒューマニズムとは理性主義の事だ。 では、誰が理性主義か?論理を信じるウィトでありフッサールだ。 ウィトゲンシュタインは確かに理性的だけど、同時に『論考』ではその理性の限界ということも 射程に入れてるでしょう。6.362や7で書いてるけども。 《そして因果法則によって排除されるべきものは、記述されえぬものである。》 《語り得ぬことについては沈黙しなくてはならない。》 とする。因果法則とそこからの排除、という問題、また語り得ぬこと、という問はそれ自体、理性 の限界を射程においた人間の発想でしょう。記述は理性的だがそこでまた理性の外部をも見てい たことを評価しなければ、見方としては片手落ちでしょう。で。私がハイデガーとの関連性を 言う場合には専らその辺にばかり標準を合わせている。ウィトゲンシュタインとハイデガーは何 から何まで同じで、なんて言う気はないわけです。ただ、接点はあるし、ウィトゲンシュタインか らみて共感できるとこはあったろう。それは発想の仕方に出ているから分かる。そう言ってるだ けです
もしや私じゃないかもしれなけど、私も竹田青嗣は嫌いで、名無しで。でも私かな?(笑) サルトルのハイデガーとの顕著な差異は、前期の哲学で意識されるものについて、人間は既にそ れを選択している、という考え方がある。そこで自由は責任を意味し、そのように人間は世界に加 担する、ということになる。『存在と無』に以下の記述がある。 《人間は、世界についても、自分自身についても、存在のしかたに関するかぎり、その責任者である 。われわれは、《責任》 responsabilte という語を、《ある出来事もしくはある対象の、あらそう 余地のない作者である(ことについての)意識》という一般に用いられている意味に解する。この 意味において、対自の責任は、圧倒的である。というのも、対自は、それによって、一つの世界が そこに存するようになるところのものであるからである。》(『存在と無』第4部 V自由と責任) サルトルの前期の哲学の性質がこういうところによく出ていますけど。サルトルの哲学はかつ て60年代に参加する哲学として流行するわけです。それはこれを読めば一目瞭然で、これを読ん でしまえば、デモに行かざるをえなくなる。そういう謂わば強迫観念に引き摺りこむ魔力があった 。他国の戦争だろうが、そこには自分は責任はある、と見なす他ない。それが対自存在の自由であ り、責任なわけである。それは絶えず理想へ乗り越えるべき否定性で。この哲学に巻き込まれれば デモに行くしかない。どこまでも否定し、乗り越えていく存在それがこの自由である。そこでこの 哲学の解毒剤としてのハイデガー思想というのがある。ハイデガーでは己の配慮、目線、気掛かり、 が有限性として拘束し、何にでも関心をもち責任をとる、とかそんな馬鹿な話にはならない。人間 は時熟によって到来する本来性があり、また、世界は単独的で有限的である。全世界にたいする 自由と責任の主体がサルトルの対自存在で、柄谷行人がこの時期のサルトルを評価するところか らも分かるように、マルクス主義の補完にもなる。サルトルのいう対自存在というのは単に理性的 というだけでは足りない非常に問題がある。この哲学が及ぼした害毒というのがある。
>竹田が分析(ウィト含む)に批判的だから、当の分析哲学者である名無しが竹田を馬鹿するとい う流れになっている。 因みに私は竹田青嗣は嫌いだけど、分析哲学派でも何でもないですよ(笑)大体分析哲学自体よ く知らないし(笑)竹田青嗣は純一氏の区分けによるとまさに理性的動物としての人間をヒュー マニズムとして捉えている思想で、ハイデガーともウィトゲンシュタインとも本質的なところで 縁のない思想だと思いますね。ハイデガーを論じたりしてるけど、究極のところでは背反する関係 だと思います。ただハイデガーの実存的なところを認めているだけだし。竹田青嗣に合ってるの はハイデガーではなくヤスパースのような哲学だと思いますね。
278 :
考える名無しさん :2011/12/04(日) 23:48:44.62 0
>>277 純一のいう「分析哲学」というのは哲学一般でいうところの意味とは違うんだよ
精神分析も「分析するから分析哲学」らしいしね(笑)
だからヤスパースも「純一の言う分析哲学」というものに相当するらしい
本来の英米系哲学としての分析哲学と
純一流の用語である「分析哲学」は全く違う
だいいち純一も分析哲学については全く知らないし読んでいない
相手にししても仕方ないよ
ただ荒らしているだけだからねw
279 :
考える名無しさん :2011/12/05(月) 01:59:09.19 0
877 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2011/12/04(日) 15:14:39.36 哲学板は酷い有様だけどな キチガイが独り言書いてるだけどスレとか
タイポしてるだろ。そいつが独り言の張本人だ。
ちょうどお似合いのレベルの二人だと思う
いつものおっさんもコテつけて欲しいな。コテみたいなもんなんだし。
ハイデガーが『ウィトは素晴らしい』とか言ってれば別だけど、 たぶん、そんな事一言も言ってないと思うよ。 代わりにハイデガーはバタイユの事を『フランスの最良の思考』だと、 賞賛していたが、ウィトを賞賛しているところとか聞いた事ない。
ハイデガーはウィトではなくて ナチを賞賛していたからな
285 :
考える名無しさん :2011/12/05(月) 22:54:18.08 0
ハイデッガーは「論考」なんか読んでいないんじゃないかな?
286 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 00:37:04.44 0
おれが知っているハイデガーがウィトゲンシュタインのことに言及しているケースは、 全集15巻ゼミナール。 思考することの困難にいてウィトが、部屋から出ようと試みるひとに例えているというもの。 窓は高すぎる、暖炉は狭すぎる、はて困ったとおもったら、ドアが開いていたっていうはなし。 ウィトがこれをどこで言ったか知っているひといるかな。
287 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 00:41:15.53 0
>>286 ウィトゲンシュタインが生前に出版したのは「論考」だけだから
「論考」を読んだハイデガーが感じたイメージ的な発言ということではないの?
288 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 01:02:41.53 0
全集15巻は66年から69年のゼミの記録で、ウィトの名が3回出てくる。 一つは上に述べたやつで、もう一つはゼミ生のひとりが、「論考」の言葉=有機体という考え方を指摘している。 もう一つはハイデガーの言葉かどうかさだかでないが、ゼミの記録として、 「論考」の冒頭の命題「現実的なものは成立して事柄である」をとりあげて、 なんとも面妖な命題だっていっている。
289 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 01:42:56.46 0
>>288 「論考」は論理学の論文だしその時の担当教授だったラッセルですら何が書いて
あるのかすら全く理解出来ないような有様だった
そういうような本だから当時の学生が「論考」を理解出来ていた可能性は低いし
ハイデガーとはほとんど関係の無いような類の本だと思うよ
「論考」の解釈はいまだに確実なものが無くて「論考を読む」みたいな本が新刊として
まだ書かれて出版されているし
ただウィトゲンシュタインはハイデガーを読んでいた
それからウィトゲンシュタインは天才的な人だったがハイデガーは綿密な秀才という感じの人
前例のないようなことを考えようというウィトゲンシュタイン
過去の評価の定まった大哲学者を歴史的に追っていき解釈学的に読み込んでいくのがハイデガー
そういう差が二人にはある
どちらが正しいという意味ではないよ
まるをつける まるをはずす
べつの せかいが できるかな
ハイデガーとウィトゲンシュタインの類似(と違い)という話は
正直、より多くの参照点を導入しないと面白い話には全くならないと思うんだけど
上の人のコメントにもう少し加えとく
・一つ目の言及は、フィンクとのフライブルク大学における66-67年の共同ゼミナール
(このスレで関心を持つ人は少ないかもしれないが、アガンベンが出ていたゼミナール)
こちらは、ヘラクレイトスにおける ta panta をどう解釈できるか、という文脈。
その解釈の際、解釈学的循環から抜けられるのかどうか、といった文脈。
そこで、
>>286 のような話が引かれるが、言うまでもなくこれは『哲学探究』99。
>>288 >もう一つはゼミ生のひとりが、「論考」の言葉=有機体という考え方を指摘している。
回答の際、ハイデガーは、ユクスキュルの名を引いている事
また、そこで、デリダなどが好んで取り上げる、『形而上学の根本諸問題』での
石、動物、人間における世界の問題、有機体の問題が言及されている事も重要
・二つ目の言及は、ル・トールでのゼミナール(1969年9月2日)でのもの。
ここで引用されているのは、論考の冒頭の命題(のハイデガー的理解)。
ギリシャ的な「存在」の豊かな経験に対して、私達にとって「存在」はもはや空虚な語に過ぎず
「世界は、規定しうる/規定された出来事(Fall)の総体」というウィトゲンシュタインのテーゼは
そうした私達にとっての「存在」を良く示している、というもの。
横レスですが、
>>286 >おれが知っているハイデガーがウィトゲンシュタインのことに言及しているケースは、
>全集15巻ゼミナール。
>思考することの困難にいてウィトが、部屋から出ようと試みるひとに例えているというもの。
>窓は高すぎる、暖炉は狭すぎる、はて困ったとおもったら、ドアが開いていたっていうはなし。
>ウィトがこれをどこで言ったか知っているひといるかな。
"Routledge philosophy guidebook to Wittgenstein and the Philosophical investigations"
http://books.google.co.jp/books?id=jDJGjCOU3SUC のp.20によると
"Ludwig Wittgenstein: The Man and His Philosophy"K. T. Fann
に収録された
"Wittgenstein as teacher"Gasking and Jackson
らしい(邦訳未確認)。
"culuture and value" 1980 p.42(邦題:反哲学的断章)
にも似たような記述があるようです。
292 :
291 :2011/12/06(火) 04:55:54.99 P
ゲーデルと違った回路でラッセルの論理学を批判したウィトは、
フッサールを批判したハイデガーと重なる(柄谷『隠喩としての建築』参照)。
特にウィトの語った世界の驚異について有名な命題はハイデガーが着目した
ライプニッツの以下の命題と響き合う。むろんライプニッツは実学を志向したので
直接ウィトとは繋がらないが。
ライプニッツ『二十四の命題』1690
<「二四の命題(Die 24 Sätze)」と命名し注目したのはハイデッガーである。短いながら、その内容は、
晩年の『モナドロジー』にも似て、存在の定義から発して倫理への示唆にまで至る。つまり、「理由及
び理由律」(1)→「可能」(2)→可能の存在要求的性格(5)→「最大」(9)→「多様性」(13)→「秩序(判明
な認識、 美、完全生)」(18)→「喜び」(18,23,24)という進行は、ライプニッツ形而上学全体を俯瞰す
るようなスケールをもつ。>『ライプニッツを学ぶ人のために』(世界思想社p.189より)
以下、ハイデッガー 薗田宗人訳『ニーチェ3』 (白水社pp.222-225)より
(カタカナ表記をひらがな表記に変えた。
ラテン語原文は
http://la.wikisource.org/wiki/24_th%C3%A8ses_m%C3%A9taphysiquesより 。
その他、
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/24.html または、
池田善昭『『モナドロジー』を読む』、ライプニッツ著作集8、海神通信にも邦訳及び解説がある。)
ライプニッツ『二十四の命題』
Godefridus Guilielmus Leibnitius 24 thèses métaphysiques
一 なぜ無ではなく、なにかが実在するのか、という根拠が自然のなかにある。…
1. Ratio est in Natura, cur aliquid potius existat quam nihil.…
以下略
294 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 15:05:00.96 0
>>252 :純一 ◆QzuB1xeuck :2011/12/04(日) 19:55:45.66 0
ウィトとハイデガーは全く関係無い。
関係あると言う人がいるとすれば、
それはオーストリアとオーストラリアぐらい似ていると言える。
つまり、文字面的に同じに見えるだけで内実が全然違う。
ようするに、深い関係は無いがハイデガーの話題には出たという程度のことだな
295 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 15:47:33.28 0
>>290 はなかなかのひととお見受けした。
本物の哲学研究者だな。
アガンベンがでていたというのは実に興味深い。
296 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 15:57:13.38 0
ハイデガーの本物の後継者は、ハイデガー思想を本質的に批判できるひと。 そうしたひとをハイデガーは自ら育てたことになるな。 アレント、レヴィナス、アガンベンといったひとは、 いずれもハイデガーに直接ふれた経験がある。 ハイデガー思想を正面からひきうけることで、ハイデガーを超えていくことができた。 ハイデガーは最強の哲学教師だったわけだ。
297 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 16:13:52.53 0
>>296 それを言うならフッサールだろう
ハイデガー、デリダを直接指導して
その後の哲学地図を塗り替えた巨人
フッサールこそ現代哲学の巨人だろうな
298 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 16:34:45.42 0
フッサールは教師っていうよりも思想家。 教師として影響を与えるというのとはちょっと意味が違う。 ハイデガーの本質は哲学教師としてのそれだった。 フッサールがプラトンににているとすれば、 ハイデガーはアリストテレスににている。 プラトンは自分の思想を語ったが、アリストテレスはひとに教えようとした。
299 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 16:39:38.40 0
プラトンはアリストテレスという最強の批判者をもつことで、 逆説的に最強の思想家としての地位を確固たるものにした。 同じことがフッサールとハイデガーに関しても言えそう。 よき思想家のあとには、よき教育者がでてくる。 これが哲学の伝統だな。
300 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 16:43:48.95 0
カントとヘーゲルの関係についてもいえそうだな。
301 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 17:26:17.79 0
しかしハイデガーがよき教師だというのならば いったい誰を育てたのか? アーレントは特にどうというほどでもない アガンベンは刑務所にでみ入っていればいい レヴィナスは良かったり悪かったり ハイデガーの弟子や継承者にろくな学者はいないw
>>286 > おれが知っているハイデガーがウィトゲンシュタインのことに言及しているケースは、
> 全集15巻ゼミナール。
> 思考することの困難にいてウィトが、部屋から出ようと試みるひとに例えているというもの。
> 窓は高すぎる、暖炉は狭すぎる、はて困ったとおもったら、ドアが開いていたっていうはなし。
> ウィトがこれをどこで言ったか知っているひといるかな。
ふーん、これは知らなんだな〜
303 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 17:36:35.20 0
・・・と自称哲学通が申しております。
304 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 17:40:20.79 0
>>303 は
>>301 に
哲学板にくるひとって、なんでこうとりあえず否定してかかろうとするんだろ。
もっとも非哲学的なセンス。
305 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 17:41:09.47 0
>>302 まだTSUTAYAのアルバイトは続いているのかい?
ただ、
>>286 は、ハイデガーの全著作の中で3回『も』名前が出たっていうよりも、
『たった3回しか名前が出なかった』って言う方が正しいんじゃないかな?
他の思想家ならハイデガーの全著作からすれば100回くらい名前が軽く出てる
思想家も居るだろうし、また不要であるとか、あるいは大して問題にしない場合にも
『○○という思想家は扱う必要は無い、何故なら○○は〜であり、即ちここで○○を
扱う必要は無い』と書いただけでも3回は名前が出る。
この回数が結局は必要か必要でなかったかを証明している様にも見えるがね〜
307 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 17:49:49.82 0
>>306 ハイデガーにとってウィトが重要だったということはないと思う。
そのゼミもハイデガーのもう死にかけのころだし。
むしろ哲学の潮流が独仏から英米にうつる転換点のドキュメントとしておもしろい。
俺はこれ逆だと思うけどな〜↓
>>289 > ウィトゲンシュタインは天才的な人だったがハイデガーは綿密な秀才という感じの人
>>298 > フッサールは教師っていうよりも思想家。
> 教師として影響を与えるというのとはちょっと意味が違う。
> ハイデガーの本質は哲学教師としてのそれだった。
フッサールはそもそも数学基礎論の人間で、
哲学については殆ど知らなかったし、この人の興味は最初から
最後まで数学基礎や論理学オンリーだったと思うね。
ウィトも基本的には論理学から離れてないと思うね。
ハイデガーは詩とか芸術の人間だから、どっちが秀才タイプかっていうと、
フッサールで、思想家ってのはハイデガーだと思うね。
まあ、ただ、分析哲学オンリーの君達から見ると、 当然、フッサールは(分析哲学徒にとっての)天才に見えるし、 ウィトゲンシュタインも(分析哲学徒にとっての)思想家って事だろうね〜 ただ、これは数学者の〜とも言い換えられる。 つまり、フッサールは(数学徒にとっての)天才に見えるし、 ウィトゲンシュタインも(分析哲学徒にとっての)思想家って事だろうね〜 要するに哲学じゃない一分野としての論理学とか数学の〜 という意味での天才とか思想家とか言うんならまだ許せるね。
同じように、ホーキングがハイデガーに比べて 天才とか思想家であるとかも、確かに 哲学では無いある特殊な分野(科学やら数学やら論理学)での、 天才とか思想家とかいうのなら分かるね。 ただし、ウィトもフッサールも根本的には哲学とは違うからね。
311 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:00:24.72 0
フッサールは哲学者 ハイデガーは哲学史家・解釈学者・文献学者・ナチズム ただハイデガーはナチの党員だったから汚点がついている ハイデガー自身もナチズムとの関係をちゃんと説明していないところが 思想家として極めて弱い点だろう
擬似科学っていう言い方があるけど、 ウィトとかフッサールは言わば擬似哲学と言えるもので、 最近になった力を持ってるアメリカとかイギリスが 哲学『っぽいもの』として提出しているまがい物哲学っていうかね。 言い方は悪いけど、大陸哲学がiphoneだとすると、分析哲学ってのは サムスンのギャラクシーみたいなもんだね。
313 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:02:37.16 0
思想家タイプっていうのは自分の固有の世界をかっちり構築するひとってこと。 扱う内容が論理か思弁かという区別と関わりない。 それに対して、思考を他者との関わりや運動のうちに展開するのが、教育者としての哲学者。 ハイデガーの講義をなんでもいいから読んでみれば、ハイデガーがいかに教育者として思考しているかわかる。 フッサールのモノローグ的なテクストとはずいぶん印象がちがう。 ハイデガーの講義はぜんぜん難解でない。いっしょうけんめい学生に教えようとしているテクストだから。
ただ、今の世界、科学一辺倒だから、 それに付随する形で科学哲学としての分析哲学が流行るのは 分かるんだけど、科学=哲学じゃないからね〜 ウィトとかフッサールは科学の中核である論理ってものを まず疑ってみるって事を絶対にしないからね〜 特に科学の背後には論理と数学が控えていて、これをまず疑わない。 ハイデガーはこれを疑う。
315 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:04:46.91 0
ニートの純一がいっても 全く説得力がないなwww
ハイデガーは技術というものに関して懐疑の眼差しを向ける。 技術の背後には当然、論理や数学が控えており、 これが上でも言った、理性主義としてのヒューマニズムを形作る。 従って、そういう意味では論理や数学を手放しで信奉する ウィトやフッサールは技術を背後から支える論理、数学の 奴隷であり、これを構成する思想的なイデオローグが 理性主義としてのヒューマニズムという観念に行き着く。 まあ、結局これはウィトとフッサールが入信している ユダヤ教の強迫観念から来ているものなんだけどね。
317 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:09:12.27 0
>>313 なんと言おうとしょせんは「ナチズム崇拝者」
自分とナチとの関係すらちゃんと説明出来なかったようなご都合主義者に
まともな弟子がいなかったことは至極当然の話だな
318 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:09:39.47 0
ハイデガーのナチ加担の件で言えば、 あれはハイデガーが教育者として「大学教育」という場に浸りすぎたことによるもの。 つまり大学の政治的な位置づけをハイデガーは甘く見ていた。 あれは教育者ハイデガーの挫折なんだよ。ヤスパースとの往復書簡みれば、 ハイデガーが当初いかに大学教員になることに過大な期待をかけていたかわかる。 しかし大学教育とはちがうかたちで、ハイデガーは哲学教育のおおきな貢献をしたことはたしか。 それは皮肉にも大学という組織をはみ出すかたちで成し遂げられた。
まあ、ウィト&フッサールとハイデガーの明確な違いを 喩えで説明すると、 例えば、森林があったとして、ウィトとフッサールは 『環境に優しいビルを建てましょう』と主張する人間。 で、ハイデガーは『そもそもビルを建てる事自体が森林破壊である』 という人間である、という説明が一番分かりやすい。
320 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:11:32.15 0
>>316 理性主義者がナチの党員だったわけですか?
笑止千万だなw
要するに、ウィトが仮に『言語外』を発見したとしても、 そもそも最初に言語を使用してしまうのが間違いであり、 フッサールもまた死ぬまで数学や論理に対する信奉を捨てていない。 つまり、あくまで言語や論理への信奉を死ぬまで持ち続けていた訳だ。 大して、ハイデガーはその言語や論理そのものに、 ユダヤ教が関わっているとかそういう歴史的なものによって、 論理への信奉が構成されただけなのではないか?と疑ってかかる訳だ。
322 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:14:56.92 0
>>318 レヴィナスもヤスパースもそうだが
ハイデガー自身はナチとの関係をちゃんと説明する責任が哲学者としてあったのに
自らは逃げて説明しなかった
多弁で雄弁なハイデガーが笑わせるなw
要するに、一般的な人間は、 ウィト&フッサールの『環境に優しいビルを建てましょう』という 章句で満足できる。別におかしい事では無い。 だが、よくよく考えてみると、↑の言葉は要するに ビル(論理)を建てたいだけなのではないか?と考えてしまうのが ハイデガーなのだ。
324 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:19:44.30 0
>>321 人間にとって「言語」以外にいったい何が説明や思考の道具として存在するんだ?
数学だって「言語」があるから出来た
論理も当然そう
まず「言語」があるんだよ
純一はその「言語」以前に何があると主張しているんだい?
325 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:20:10.00 0
ハイデガーにおいて大学教育という問題が重要なのは、 哲学が歴史的にその住処を見出しうるのはそこしかないから。 これは今日でも未解決の問題。 大学教員の質がわるいと、哲学の息の根が止められるからな。 哲学においてアカデミズムというのは厄介な問題なんだ。
>>324 まあ、そこを疑うのがハイデガーって事ですな。
ウィト&フッサールは森林をぶち壊して、ビル(論理=言語)を建て、
『ほら、このビルを建てて自然(言語外)と共存したんだよ』と言うのだが、
ハイデガーは『ビル(論理=言語)を立てる事自体自然破壊じゃね?』と問う訳だ。
327 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:27:26.63 0
>>325 オウム真理教の幹部だった人がオウム事件後に東大で教授として倫理学を教える
ハイデガーの場合も似たようなものだろう
自らの間違いの総括を一切行わないで思想家や教師は務まるはずもない
これはほとんど常識レベルのことだぞ?
「厄介」もクソもない
ハイデガーは単なる責任回避の行為をとり続けただけの話だ
328 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:27:56.15 0
いや、言葉の根拠への問いという点では、フッサールもウィトもハイデガーも、 それぞれにすぐれた批判的な観点をもっている。 アプローチがちがうだけ。
329 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:30:50.07 0
>>326 それも結局は「言語」で行うわけでしょ
それなのに純一は何で「言語」による思考を否定するんだ?
あたかも「言語以前」の探求をハイデガーはしていたかのように書いているよね?
ならば、ビルに言語を代入してみれば良いじゃないか〜 自然保護(言語外)はビル=言語で行うものか? そもそも、ビル(言語)を立てなければ良いのではないか? と問うのがハイデガー。
331 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:34:18.52 0
>>327 おまえなんも知らないならいうなよ。
ハイデガーは大学教育者として結果的にナチに加担し、
そして大学教育者として罰をうけた(教授資格を剥奪された)。
しかしハイデガーの思想は大学の「外」で影響を与え続ける。
ここに哲学とアカデミズムの関係の問題があるっていっているんだよ。
たんに人を裁きたいんだったら哲学なんかやめちまえw
マルクスレーニン主義に加担したサルトルだって、その思想は影響を与えることができる。
なんも不思議はないんだよ。
332 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:38:01.60 0
>>330 なんでその文に「ビル=言語」「自然保護=言語外」という関係が成立するんだよ?
明らかにおかしい変換だろ??
論理学を知らないからそういうバカみたいなことを平気で書けるんだよ
一番フッサールがヒューマニズム(理性主義)に浸っていたのが分かるのは、 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という著作で、俺は これを流し読みしただけだが、フッサールの有名な一文があって、 『ヨーロッパ人はアジアとかの非理性的な人種とは明らかに違うのであって…』 みたいな一文がある。これがハイデガーがフッサールを嫌う根本的なところね。
334 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:44:53.34 0
>>333 いや、ハイデガーもおなじこと言うと思うよ。
理性とは特殊西洋的な現象だというのが、ハイデガーのヒューマニズム批判だろ。
335 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:50:34.19 0
だからその「理性主義」と「ナチズム」はどうつながっているんだ?
336 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:54:43.46 0
知りたかったら「啓蒙の弁証法」よめばいい。
337 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 18:56:36.93 0
>>331 違うよそういうことではないよ
それはどこにいたって「思想」は大学外でも影響を与えるだろう
だからこそかつての大学人として
哲学者として他のことを考える前に
自らの誤謬を語る必要があったわけさ
でなければ今でもある沢山の「ハイデガーのナチ加担問題」を問い続けることなど
あるはずがない
これはハイデガー自身の責任として語らねばならないことだった
ハイデガーは卑怯者の偽善者だな
338 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:06:26.63 0
ハイデガーとナチの関係がなかったら もっとハイデガーの思想は広がりを持って弟子たちによって展開されていただろうな レヴィナスもデリダもことナチ問題については厳しかったからね 汚職をした政治家みたいなもんで早くちゃんと清算して出直せばよかったのに まあハイデガーが悪いんだが…
339 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:10:55.36 0
ハイデガー自身の責任なんてたいして問題でない。 ハイデガーは大学人として責任とらされた。 そういう意味での反省ならハイデガーだって軽率だったと反省している。 問題はそういう「卑怯な偽善者」の思想がなぜかくも「力」をもつのかってことなの。 そこに哲学の厄介さがあるってこともわからんなら、やめちまいなってw ハイデガーをもっともよく理解しているひとは、ハイデガーマンセーの信者なんかでないんだよ。
340 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:16:15.54 0
>>338 それはちがう。レヴィナスもデリダもアレントも、
まさにハイデガーという「問題」に直面したところからその固有のすぐれた思考を展開している。
ハイデガー思想ってのは、受け売りする教義とか学説ってものでなくて、
現代哲学の「問題」そのものなんだよ。
341 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:18:37.11 0
>>339 君はかなりズレているよ
ハイデガー自身の責任は「極めて大きい」よ
それは社会的にということではなくて哲学者としてという意味
それにハイデガーはまさしく「軽率だった」程度のことしか言っていない
これこそ哲学の重要問題でしょう
ハイデガーは基本的には「人生論」を考えてきた人だ
だからこそ「人生論」として「権力」の問題として「誰もが陥る問題」として語らねばならなかったんだよ
>ハイデガーをもっともよく理解しているひと
それは誰のことを指しているの?
342 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:21:30.56 0
逆にあれだけ人格者と評判があったヤスパースが、 今日であまり人気がないのは気の毒だな。 ハイデガーとの往復書簡よめば、ヤスパースってほんとにいい人だってことがわかる。
343 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:23:48.86 0
>>341 おまえは例の人生論のひとかw
ハイデガー思想の解釈において、おまえとはまったく話が合わんからあしからず。
344 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:24:35.43 0
>>340 何を言っているの?実際にナチ問題には厳しかったじゃない
ちゃんと彼らの本を読めば?
俺が言っているのはハイデガーは「ダメな思想」ということをいっているわけではない
やるべき落とし前をハイデガーは果たさなかったということを一貫していっているだけ
大学を去ってもそのあとにナチを賛美するようなことを言っていっるし
けっきょく自らナチ党員を辞めることはなかったわけだからこれは酷い
俺は君とは別のことを問題にしているのがまだ分からないのかね?
345 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:28:58.11 0
>>343 例の?何それ?
誰がどう考えても「人生論」が中心になっているではないか?
いちいち名前は書かないが日本の大御所哲学者や研究者だって「人生論」として考えている
先頃惜しくも亡くなった東大教授の北川東子さんも「人生論」とはっきり著作に書いている
俺も先達たちと同様にそう思うというだけの話だよ
346 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:32:48.64 0
>>342 ヤスパースは厳密には哲学者というほどではないからな
精神科医だよ
343みたいなハイデッガー信者は、「ナチ加担」と「人生論」という単語に 弱いんだよ。 馬鹿発見器ならぬ、盲目的狂信者発見ワードだよん ♥♪
348 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 19:51:18.09 0
ハイデガーなんて古代思想の部類 性格も劣悪だったって木村敏が会った時のことを回想して書いていた 木田元も同様のことを書いている
小林秀雄かよ お笑いだなw
351 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 20:23:48.01 0
小林秀雄って『考えるノート』かなにかに書いてあったんだが 電車に乗って椅子に座っていると対面の男がどうしてもゴリラに似ていてそれが言いたくて仕方なかったたしい そこで小林秀雄はついに「アンタの顔は、ゴリラにそっくりだねえ!」って言ったんだと そしたらあっさりそのゴリラ男にぶん殴られて血まみれになったらしい 小林秀雄って本当の基地外だなw
小林秀雄はまあ、日本人〜って感じがするね。 格好悪くは無いな、格好良いチョイ悪加減があって、 ビジュアル的にも良いので世界に出せる日本人かもね。
デリダに似てるな
354 :
考える名無しさん :2011/12/06(火) 20:34:53.89 0
純一は岡山人っていう感じが全くしないよなあ 岡山人ってけっこうアクティヴで歴史的人物も多いし文化的にも凄いじゃない なんでそういう凄い土地にいて純一は影響を受けないのかな 備前焼なんて素晴らしいじゃないか! 岩井志麻子も岡山人だし
もの書きじゃなかったら、博打好きの工事現場の カッチョイイオッサンって感じだけどな。 江戸っ子というか。
フィンクとのフライブルクでの共同セミナーは面白いよね。 現象学に首突っ込んだ人じゃないと、あまり読む人多くないけれど フィンクを経由して、それまでハイデガーがあまり真剣には検討しなかった スコラ主義以前の否定神学的伝統と、ハイデガーの存在忘却についての思索が接合される。 これに対して、ハイデガーは、存在神学の伝統が比較的一枚岩であると見ようとすることもあり ギリシャとスコラの間に、ハイデガーの言う存在忘却とは違う否定神学の伝統が存在したという可能性を 拒否するかのように、微妙な距離を取ろうとする。 ところで、こうしたフィンクのラインは、フランスの「現象しないものの現象学」へと繋がり やがてマリオンとデリダの間で行われる否定神学を巡る論争は あたかもフィンクとハイデガーの微妙なすれ違いを再演するかのように行われる……。
357 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 01:56:21.76 0
>>345 やはりこのスレのキチガイさんか。
北川東子のアマゾン評にかいたのも。
そんなにバカ晒したいのかw
358 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 02:11:14.94 0
以来、今でも知り合いなどから「ハイデガーってどういう思想なの?」という質問をされることがあるのですが、 私は「俺は最初今で言う認知科学的な他者や物体についての、人間の認識と、客観的な物としての存在を比較しているのかと思ったら、 たぶん神(一神教)に常に監視されている社会を生きる、人間存在の苦悩とその生き方みたいな人生論だったよ」と、答えるようにしていました。 こんな理解をしておいて、 ですから、中上級者にもお薦めしたいと私は思っていますが・・・・・。 だってさ。まったくため息しかでないね。 決して好きではないけど、細川亮一が書いた入門書くらいの知識はもとうよ。 ハイデガー読むんならさ。ハイデガーの「存在」という問いがどこに由来するかしらないで、 存在と時間なんて読む意味ない。 竹田青嗣よめばいい。
359 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 02:18:52.18 0
>>356 フィンクの宇宙論的存在論っていうのと、
ハイデガーの後期思想との違いって端的にどこにあるんだろう。
それがその否定神学に対する態度ってことなのかな。
360 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 02:21:13.98 0
でもハイデガーはエックハルトをつねに座右においているって言っている。
361 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 02:54:39.38 0
>>344 おまえこそよく読め。
デリダもアレントもレヴィナスも、
ナチ問題なんてちゃちなことでなく、むしろハイデガー思想そのものについて厳しかったんだ。
それは裏返せば、かれらがハイデガーの提起した「問題」の重大性を認識できたから。
そして決定的に対決する必要を認めた。そこからかれらの固有の思想が展開されてくる。
デリダのエクリチュール、アレントの公共性、レヴィナスの他者。
これらはいずれも、ハイデガーの実存概念をゆすぶることを目指している。
ナチ問題を人格攻撃に使うだけの道学者とは彼らはレベルがちがう。
すぐれた哲学者だけがすぐれた哲学者を知るってこった。
このスレのレベルでは言うだけ虚しいがなwww
>>360 そのあたり西田にも影響したんだろうと推察。
極めて乱暴に、極めて乱暴に、フィンクと(後期)ハイデガーの差異を要約するとすれば ・フィンク 存在=(存在者が織りなす)世界 ・ハイデガー 存在=存在者の総体に属さないもの、世界から抜け落ちるもの だと言って見る事も出来るかもしれない。 とはいえ、後期ハイデガーにおいて、果たして一つの立場があったかは微妙な所で 彼の探求が、存在者ではない形で存在(を考える、語る事)は可能であるか、という 極めてアンビバレントな探求である以上、それは、どうしても可能と不可能の間を揺れ動くことになったのは テキストからも終える事(それゆえに、上の要約は、後期ハイデガーの一側面でしかない)。 いずれにせよ、そうした立場からすると、盛期中世スコラ哲学の中で ハイデガー的な言い回しを使えば(実際にはもう少し複雑だ)「最高の存在(者)=神」という図式が成立したのち それに対してはじめて、そのネガとして出てくるタイプの否定神学 (神が、そうした存在者の系列に対して、欠如である無として表象されるような種類の否定神学)に対して ハイデガーは親近感を持つ事が出来るが 最高の存在を存在として描きつつも、存在者の系列とは異なるものとして描く 否定神学の伝統には否定的な立場にならざるを得ない事は理解できる。 それに対し、もろもろの存在者たちの織りなしが世界としてあること、その事態に存在者たちとは違う存在を見出すフィンクの立場は ハイデガー的な視点からは、より存在者的な視点に留まるものであるともいえる。 だが、彼の視点からすれば 存在(者)ではないような存在(者)を考え続けてきた古代末期からの否定神学的伝統は 単に存在(者)の否定と通じて、最高の存在者を見つけるような否定的な伝統ではなく ある種の肯定的な伝統として見られるべきものになるという事も理解できる。 そうした立場の違いは、ハイデガーがかつて強調した、石、動物、人間の間の差異を フィンクは、ハイデガーよりも小さく見積もろうとしているところ それにより、世界(内)の存在(者)としてそれらを位置づけようとしている所に見て取ることも出来るかもしれない。
このすれっどはべんきょうになるなあ〜
フッサールが分析哲学者だったという純一史観(?)が哲板で広まってるのが謎だな。 自演かもしれないけどw フッサールが分析哲学黎明期の学者たちと問題を共有していた、 というのならまだ分かるけど、問題に対するアプローチとしては真逆だよな。 フッサールは思念体を重視する。分析哲学者は思念体を回避するよな。 フッサールが思念体から出発して、 疑いえないような科学の起源を見つけようとして、 おそらくフッサール自身はそれができると信じていたけれども、結果として失敗した、 というのなら、むしろ一般的なフッサール像だよな。 現象学のさわり程度の話。竹田くらいしか異議を唱えてないw
366 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 14:04:20.53 0
一部の粘着低能が哲学板のレベルをおそろしく下げている。 いうだけ野暮ってもんか。
ハイデガーは論理が循環しているからダメなんだよ。
___ _ \V ̄ ̄ ̄__| \二二/|_ / / ̄__| [__] | \ │ / /`ヽ__∠__>J__> |/ /| ‐―――――――― | ( / | ――――――――‐ | (_/ | ● ● | |\ | (_人_) \_ _____ | ) | _ __|||||||||||_____) /渡邊二郎も ヽ_| ///└┘  ̄ ̄ ̄ └┘| | / 人生論だと /// 有と時=人生論 // < 言っているのだ |//\_ (⌒Y⌒) _// \ これでいいいのだ \ ヽ―─―⌒ ̄ ̄ / \_____ `―──―――‐―´
369 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 14:16:42.78 0
まあ、否定神学の話とかはね〜 実際には殆ど哲学とは関係無いんですよ。
否定神学関連として色々名前が出てきますが、 基本的に否定神学どうたらっていうよりも、 否定神学を出す人ってのは、まず東浩紀を読んでますからね〜 そっから否定神学という言葉を知って、 その後に色々と調べる訳です。 従って、否定神学という場合には、 根本的に想定されているのはマリオンとか海外の人というよりも、 東を先に知って、その後にそれに符合する形で海外の説とか 人物を繋ぎ合わせて否定神学が重要であるかの様に言うって感じ。
レヴィナスとかフランクフルト学派ってのは、 哲学かの様に装ってますが、俺から見ると、 どうしてもユダヤ系が多いのが目に付きますからね〜 要するに、ハイデガーによってナチス加担が生じてしまった事に対する 反発の学派という部分がどうしてもある訳です。 で、根本的にフランクフルト学派はユダヤ人だけなので、 どうしてもナチスに協力したハイデガーを批判する目的で動く事になり、 要するにユダヤ人の利権を根にして動きがちなのです。
ですので、否定神学を語るフランクフルト学派とかは あまり哲学を主軸にして動いていると俺は思ってないね〜 で、ナチスについてなんだけど、 今の時代ってナチスを冷静に判断できるところまで来てないと思うね。 というのも、ナチスに対する反発というものは我々は刷り込まれてきているが、 ナチスがどういうものでどうだったのか?という部分が見えない様に 教えられてきている訳だ。
ナチスを冷静に見るには、今の日本の状態と比べる必要性がある。 例えば、日本国内を歩けば小さな街ですら一キロごとに パチンコ店が存在する。そのパチンコ店は殆ど在日朝鮮人が経営しており、 この売り上げが北朝鮮に送金される仕組みになっているのは良く知られている。 また、消費者金融もおそらく在日であり、この辺を考慮すると、 放っておくと日本はボロボロになるのは目に見えている。
ここで登場するのがナチスであり、 パチンコや消費者金融で儲ける在日(ユダヤ人)を 強制収容所に入れて、労働の尊さを教えてやろう、 という極めてまっとうな思想であり、それがナチス人気の理由である。
では、ナチスを仮に存在しない、あるいは 躍進する前にそれをフランクフルト学派の言う様に 阻止したとしよう〜一体日本ならばどうなる? それは相変わらずパチンコが存在し、 コマーシャルは消費者金融で溢れ、結果として 何も建設的にならず、廃れていく一方、それを経営する 在日(ユダヤ人)は億単位の収入を得て、それを元手に 政治に深く介入する、という具合になってしまう。 要するに、今の日本が正にそういう状態になっている訳ね。 それを阻止しようとして人気を得たのがナチス。
仮に、今の日本でナチスが台頭したとするなら? それはまずパチンコを禁止するだろう。 そして、消費者金融を取り潰し、 在日を強制収容所(要するに刑務所)に入れて 職業訓練させる、その事によって、モノを生み出さない 賭博や高利貸しではなく、世の中の為になる労働を教え込む。 うむ、きわめてまっとうな思想ではないか〜
ところが、このナチスの思想、 今の在日が気に入るだろうか?いいや気に入らない。 高利貸しやパチンコで折角儲けているのに、 俺達在日(ユダヤ人)の邪魔をするな!と思うだろう? そこで、フランクフルト学派の様にユダヤ人(在日)は 消費者金融やパチンコ経営をやっていた事等、すっかり棚に上げて、 『ユダヤ人(在日)という異他なるもの』とか深淵っぽい感じで語るが、 現実的には高利貸しとかパチンコとかまっとうな商売をしていない事が 原因であってだな、異他なるものの概念とかほぼ関係無い訳だ。
従って、そういうまっとうな思想に ハイデガーが共感するのは至極当たり前であり、 自分の貧乏な生活の中での人との繋がりが存在する故郷という概念に ハイデガーが傾倒するのも至極当然であり、 高利貸し等で儲けていたユダヤ人の哲学者とはまた感覚が違う訳だ。
380 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 20:40:15.08 0
ナチスは当初はまっとうであったとしても ユダヤ人を強制収容所に連行して殺す必要まではない どれだけユダヤ人が殺されたのかは今での不明で大袈裟な数字が流布されているようだが それでもかなりの人数のユダヤ人を殺していたのは間違いないこと ハイデガーは哲学史家なんだから歴史の重要性から目を逸らしてはいけない ましてやハイデガー自身がナチ党員だったわけだから 思想的総括は必要だ そういうことだよボンクラ純一よ♪
やっぱ本場大陸のフランクフルトはでかいのかね?
波平はポークビッツらしい
383 :
純一 :2011/12/07(水) 21:16:21.34 0
>>380 まあ、確かにそうなんだけど、
面白い事にハイデガーがその質問に生前答えていて、
『君の言うナチスを連合国軍に一部に当て嵌めても成立する』って言ってた。
まあ、基本的には君の言う通りなんだけどね。
ハイデガーは『何故田舎に留まるのか?』って論を書いてたんだけど、 俺はこの論が結構好きでね〜 ここにハイデガーの本質があると言っても過言では無い。
386 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 21:37:18.85 0
387 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 22:28:23.40 0
純一は不思議な人間だな 頭の悪さと、自分の間違いを認める潔さが両立している ふつうハイデゲリアンというのは極めて頑固で他の領域には目がいかなほど窮屈な輩が多い ここのスレ主や、その他のねらーハイデゲリアンがまさにそう
日本のハイデガー研究者というのはおそらくハイデガーが著書でいう探究者ではないのだと思う 。ハイデガーの言う探究者というのは有 Sein を自由にさせる、そのようにさせうる者のことを 言う。ハイデガーは言う。 《探究者には、理性的な生き物という人間の企投から現存在としての人間存在への移行という、ま さにこのもっとも困難なことが要求される。》(『Zollikoner Seminare』306頁) つまりまさに有の開けを見守りうること。社会常識や大学人や大人性やらといった観念によっ て閉じないこと、それが可能であることが探究者の条件としているので、まず現存する哲学研究 者とかはそのようなことは出来ないだろうし、そこが平板な人間学を書いてしまう理由であろう と思う。 ヤスパースの『哲学入門』というのは新潮文庫から出ているが、これで扱っているテーマが、どう も渡邊二郎が書いてる哲学的人生論と酷似している。人間学として公共的に考えられていくとこ ろも同じで、当然ハイデガー思想に於ける脱‐「人間」的なところからは賢く一線を画している。ま たそのため平板にもなってしまう。実はハイデガーよりヤスパース的な立場で。よってハイデガ ーの最も深度のある箇所は敬遠していた可能性を感じる。
389 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 23:37:39.75 0
>>388 おまえのいう「存在の開け」に開かれているひとって、
きのう逮捕された酒鬼薔薇みたいなキチガイ中学生をいうんだろ。
ハイデガーの解釈って難しいよな。
人生論っていうひともいれば、狂気の理論だというひともいる。
390 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 23:50:14.07 0
>>389 誰が読んでもそう思うだろうし
ハイデガー研究者だって人生論+αだというのは事実
渡邊二郎や北川東子や木田元や…
そういう多くの人が著作で何がしかのかたちで人生論という表現をしている
人生論だからなんだというの
人生論には問題でもあるのか?
哲学の大半は人生論なんじゃないのかな
391 :
考える名無しさん :2011/12/07(水) 23:56:28.29 0
>>390 なにが誰が読んでもだ。
寄与にジンセイロン読むようなら別の意味で天才だわ。
392 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:01:58.45 0
>>391 文句は著名ハイデガー研究者にでも言えよ
お偉い先生方がそう書いているんだから仕方ない ┐(´∀`)┌ヤレヤレ
寄与は断章形式のインデックスみたいなもの
他の講義録などと参照してはじめて意味を持つ
これも木田元ほかの大先生が言っていたことそのまんまだけどねw
>>392 ハイデガーがニーチェやキェルケゴール同様に人生論であるということなら異論はないな。
ただ存在についての考察というか研究は「脳科学」や「認知科学」や「心の哲学」の成果の方が大きいと思うけれど。
394 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:15:08.71 0
>>393 その代わりに精神医学と精神分析は衰退しているよ
まあ精神医学なんて医学とはいっても科学ではないからね
ほとんど患者の観察学で他の分野の研究者が開発した薬の処方箋を書くだけ
いまは精神科医ほどあてにならない存在はない
精神分析家なんかそもそも不要だしw
395 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:16:52.80 0
>>392 せめて翻訳で原著を読んでから書きこめカス。
時間損したわ。
396 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:18:39.17 0
>>393 そういう意味ではヤスパースなんかハイデガーの関連で読まれているだけでしょ。
精神科医だったヤスパースの思想の研究者なんて存在するのかな。
397 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:22:39.05 0
>>395 そんなもの当然読んでるに決まっているだろ(笑
読解するのと字面を目で追うのとは全く別のことだぞ波平くん(大爆笑
398 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:26:54.82 0
波平って本当に正体が判りやすいわな グハハハハッ♪
399 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 00:28:16.83 0
そんな流し方しても波平であることは疑いようがない 波平の名無しほどバカレスなものもないからすぐ判明するんだよ はよ寝ろ32歳の引きこもりニートwww
>つまりまさに有の開けを見守りうること。社会常識や大学人や大人性やらといった観念によっ >て閉じないこと、それが可能であること これ自体が極めて良くある人生論であるという自覚はないのだろうか・・・w
402 :
考える名無しさん :2011/12/08(木) 01:15:49.37 0
>>401 人生論という言葉になんか分けのわからないネガティヴなレッテルを勝手に貼っているのは
ハイデガー信者の方なんだよ
ちゃんとしたハイデガー研究者は人生論がたぶん最も歴史のある思想で人類にとっても重要
だということが全く認識できていない
孔子だって老荘思想だって人生論だからね
2ちゃん程度の中途半端なハイデガー教信仰をしているカルトはいわゆるマスコミの言葉狩りと
同じくらいに無能な存在なんだと思う
ハイデガーの、いわゆる「反ヒューマニズム」の 要点は、人間は理性により存在者を暴き立てる(ことができる)ものである、という人間観 (=「ヒューマニズム」であるとハイデガーは考える)を採ると 結果として、人間もまた存在者に過ぎないものとなり 人間の特殊なありかがた失われてしまう、というところにある それに対して、ハイデガーは、単なる存在者とは異なり、 存在の場としてあ(りう)る本来の人間の有り方を忘れてはいけない、というお話なんだけれど 世界の中で、人間に極めて特権的な位置を認める、という点で それは、ウルトラ・ヒューマニズムだとも言える その際、いわゆる「転回」以前のハイデガーでは能動的な側面が強調され 「転回」以降は、受動的な側面が強調される その背景に、彼の「政治的失敗」の影響を見るのは、自然だともいえる
401は違うね。人間が何者かを探究せずして人生論とかいっても無意味だ。人生論というがその 人というのがどういう存在かまだ解答がでていない。また簡単には出せない。人間が何者かさえ 闇にあるので、その段階で人の生といっても始まらない。著名な学者の説とかいってもダメで、 著名な学者さえそこは答えられていないのだから。
それから、有の開けこそ人生論だろう、と言っているけども、〈有の開け〉という概念には、人間が 変幻する、また底無しになる、という有の開けに伴う変容という面が包括されてる。人生論でいう 〈人生〉という語彙に、かような〈変容〉という場面が包括されているとはみなしにくい。しかし ハイデガー有論を語るならそういうことでは根本概念足り得ない。
>>404 人間が何「もの」かなんて問いは、存在的な問いに過ぎないので
人間の生を規定するのにふさわしくない、というのがハイデガーの回答
後期ハイデガーはそういう風に人間をものとしての規定をしては不十分なものとし
人間のあるべき生の姿を描いている
プラス、『「ヒューマニズム」に関する書簡』にある主題の一つしても、理性的動物という規定では 有の開けとしての人間の尊厳には到らない、というのがそこでのハイデガーの主張としてある。 それはあれを読んでいれば分かるところである。そこでヒューマニズムにどのような新しい意味 が与えられるだろうか、がそこでの問いかけであった。そこでも人が何者か、いう問の未決定性と いうのが鍵になってる。そこを見ずにハイデガー思想を規定することはできない。
>後期ハイデガーはそういう風に人間をものとしての規定をしては不十分なものとし人間のある べき生の姿を描いている それには異論はない。それは何か?は形而上学である、というのがハイデガーだからね。しかし 一方、理性的動物としての人間、という言い方もしてるので。形而上学を超えるために形而上学を 使うというのがハイデガーの方法だと思う。
ヴィトゲンシュタインがおこなったカント『思惟において方向を定めるとは、どういうことか』 (1786)への批判はハイデガー『存在と時間』23節にもある。 ただしハイデガーのそれは分析的なものではなく、世界内存在という主観的な構造をカントが 見ていないというものだ。ハイデガーには以下のような本質的なカント批判はできなかった。 以下は『論理哲学論考』より 六・三六一 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、平面の場 合に既に存立しており、それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。 …………〇━━━━━━ ×…………×━━━━━━ ○………… a b ここで二つの合同な図形α、bを、この空間の外へと動かすことなくしては、重ね合わせる ことはできない。 右手と左手とは実際に完全に合同である。そして両者が重ね合わされないことは、このこと とは全く関係がない。 右手の手袋を仮に四次元空間で回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能で あろう。 『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p.114より)
>>409 すいません、ウィトゲンシュタインを褒め称えたければ
分析哲学の方のスレッドでお願いします。
完全にハイデガーと関係無くなってます。
まあ、でもこれでハッキリしたんじゃないかな?
>>409 はハイデガーではなくて、ウィトをハイデガーに転写して喋ってる。
つまり、 ウィトは前期『論考』→後期『探究』に転回した=元ネタ ↓転写 ハイデガーは前期実存→後期宗教に転回した =↑の転写
つまり、
>>409 が理解しているのはあくまで分析哲学の
ウィトゲンシュタインだけで、ハイデガーは理解していない。
分析哲学のウィトからハイデガーに似たような所と
>>409 が
思ったところをハイデガーに無理矢理転写して喋ると。
しかし、
>>409 の引用にハイデガーの名前を入れる必要があったんだろうか?
完全にウィトだけで完結してますが…。
まあ、でもここらへんが分析哲学徒のややこしい点でもある。
要するに、何故、ウィトだけで完結するつもりなのに、
わざわざハイデガーがさも関係あるかの様に言うのか?
という問題が残る訳だ。
>>409 の様にウィトだけで解決できるのなら、
そこにハイデガーの名前を入れる必要性はどこにあったのか?
一個は権威付けってもんがありますよね〜ウィトの方が
ハイデガーよりも上だ、みたいな。
やっぱ分析哲学徒ってのは、ややこしいな。
大陸哲学と英米系言語哲学を安易に重ね過ぎる。
しかも、
>>409 に至っては全く関係無いブログ記事を
ハイデガーに無理矢理関係された内実は分析哲学じゃないか〜
まあ、そのパクリについては皆さんに判断に任せて、
俺は
>>409 の改竄については大目に見る事としよう。
で、
>>409 のウィトの内容なんだが、
これは俺から言わせれば批判になってないと思うね〜
例えば、右手左手の問題を俺が
>>252 で言った、
オーストリアとオーストラリアの問題に変換してみると、
ウィトの解決法というのは、『オーストリアはオーストラリアを武力で
制圧すればオーストラリアもオーストリアになる』と
言ってる様なもので、何も解決にはなってない訳だ。
それはあくまで『喩え』としてカントが出しているんであってだな〜 それを別の無関係な側面から否定したとしても、 その喩え固有の問題であってだな、全然解決になっていない訳だ。
だから、右手左手が駄目なら、 別の喩えでも良いのであってだな、 オーストリアとオーストラリアを右手左手の喩えの代わりに 用いても全然問題ない訳だ。 すると、次元の話とかはどうで良い視点である事が分かる。
で、本論に戻りますと、 ヒューマニズムとはウィトやフッサールの如く、 論理や数学を無批判に称揚する態度であります。 技術の裏側には数学や論理が控えていますので、 当然、技術を批判するハイデガーは技術の背後に控えている 論理や数学を無批判に称揚するウィトやフッサールを ヒューマニズムの一種と見ている。
図式化すると、 ヒューマニズム(理性主義)=ウィト、フッサール等 ↓支える 数学、論理学等=ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑ ハイデガーの技術批判&理性主義批判
ヒューマニズム(理性主義)=ウィト、フッサール等 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
ずれたな、もうちょい ヒューマニズム(理性主義)=ウィト、フッサール等 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
ですから、英米系分析哲学なんて、 ハイデガーから見ればモロにヒューマニズム(理性主義)なのです。 ただ、ウィトなんて英米系ですから、そこまでハイデガーを理解していない。 ここが救いとなって、ウィトは実に中途半端なところで止まる。 論理が何か?とか数学とは何か?とか全然考えない。 はじめから疑う事なく前提して考えるアホさを持っている。
ですから、ハイデガーから見れば、 ウィトは茂木健一郎みたいに見えていた事でしょう。 クオリアとか言ってるが、まだまだ哲学には遠いな…と。 同じ様に、存在とか言ってるけど、まだまだ遠いな…みたいな。
ただ、科学の方が一般的というか受けやすいので、
茂木さんの方が受けるのと同様、
どっちかっていうと分析哲学の方が科学全盛の現代では
受けやすいので、ウィトは理解しているがハイデガーは全然、
あるいは逆にウィトからハイデガーを無理矢理ねじ込もうという
>>409 みたいな流れになってしまう訳です。
形式がなぜ対象と結びついているのかは語りえないんだよ。 語りえぬものには沈黙しなければならない。
というか、分析哲学とフッサールをなんでごっちゃにするのかと思ったら、 分析哲学もフッサールも科学に好意的だからというだけなのか。
波平以上に対話が成り立たない人なのでNG登録をおすすめします
433 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 17:09:26.14 0
最近はハイデガーとウィトゲンシュタインの思想を比較する論文なんかも出てきているようだけれど 両者は手法も方向性も違うから単純な比較は難しいと思うよ 純一は分析哲学が大嫌い(笑)だからかなり分析哲学系に攻撃的だけれど俺にはその気持ちは何となく 共感できる部分もある 何と言うか分析哲学はチマチマしたことを考えていくからね でも実際にそのチマチマの代表格であるデイヴィドソンなんか読むとやはり面白い それで今度はフランス現代思想やドイツ形而上学に戻ると根拠のはっきりしないことをどんどん根拠として 平気で使用していくから「なんか文学的だなあ…」などと思ってしまう ハイデガー哲学の継承者がいないてんも大きいと思うし
そうかなあ、ハイデガーもチマチマしていると思うよ。 例えば〈存在〉について論じるにしても道具がどうした気遣いがどうしたって いうように、日常的例で脇を固めようとしても、では道具は〈存在〉ではにのかと。 〈現存在〉だって、ようはデカルト的な自分自身のことでしょ。 そういうところが、大雑把で無神経かと思いきや、延々と歴史的思想を援用しながら 〈現存在〉についてもそうであるかのような説明を延々とやる。 分析のチマチマとはちょっと違うのかもしれないけれど、ハイデガーもチマチマとしか 論じられていない。 これでは英米の分析だって、引用のしようがないんじゃないのかな?
だから、それは分析哲学やん
分析哲学を基礎としてハイデガーを理解しようとするから、
>>409 みたいに、関本洋司って人のブログから勝手にパクリ、
その人は述べていないのにもかかわらず、ハイデガーとの
関連を勝手にくっ付けた、と。
>>435 そんなことは一切書いていない。
>>409 にはそもそも興味がないから、どうでもいいんだが、多少は科学的な思考も
入れないとハイデガーのように混沌とした循環理論に陥るだけということ。
だってハイデガーの思想はデカルト以上に〈考える私〉がシンポしているかね?
それから純一がどうのこうのとは書いていないよ。
関本さんのブログより↓
> 六・三六一 〓 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、
> 平面の場合に既に存立しており、それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。
>>409 のレス↓
> 六・三六一 右手と左手を重ね合わせることができない、というカントの問題は、
> 平面の場合に既に存立しており、それどころか次のような一次元の空間においても存立しているのである。
同じじゃねーか。
だから
>>409 には興味がないし、共感もできないって言ってるだろ。
もうそれはわかったから、やめてくれないか。
だから、この関本洋次って人のブログから
>>409 が勝手にパクったんだろ?
しかも、この元ネタのブログにはハイデガーの名前等、
一切出てこない。
従って
>>409 はそれに後付けでハイデガーを勝手にくっ付けただけやん。
で、引用元も比較してみよう〜
まず関本さんのブログより↓
> 『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p114より)
次に
>>409 のレスより↓
> 『論理哲学論考』(邦訳全集第1巻p.114より)
おいおい、引用元まで同じじゃねーか。
で、関本さんのブログから分析哲学者の
>>409 がパクって、
しかもそのままパクるのではなく、一部改竄している。
関本さんのブログより↓
> 以下、ウ(ヴ)ィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より、カントに関する記述の引用です。
> 対称性をめぐる考察がウィトの主旨ですが、カントが四次元をわかっていない、と受け取ることも出来ますし、
> カントの批判をウィトが推し進めたとも受け取れます。
↑の様にハイデガーの名前は1回も出てこない。
続いて、
>>409 の文章↓
> ヴィトゲンシュタインがおこなったカント『思惟において方向を定めるとは、どういうことか』
> (1786)への批判はハイデガー『存在と時間』23節にもある。
> ただしハイデガーのそれは分析的なものではなく、世界内存在という主観的な構造をカントが
> 見ていないというものだ。ハイデガーには以下のような本質的なカント批判はできなかった。
パクリ元の関本さんのブログにはハイデガーという名前を無理矢理入れている。
444 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 18:06:39.89 0
>>441 俺がそんなこと言われる筋合いはないな
俺は409じゃないしね
俺の
>>433 と何の関係があるのかさっぱりわからんが
コピペしてきた奴はどうでもよくないかねえ
だいたいハイデガーと関係ないしw
要するに、パクリ元ネタである関本さんのブログには
ウィトゲンシュタインのカント批判としか書いていないのにもかかわらず、
>>409 はそこをわざわざ『削除して』、ハイデガーに関係ありますと
言わんばかりの戯言を入れてしまったという事ですな〜
>>444 ほーらな、自分が他人のブログからパクってきたのに
名無しだから逃げおおせると思ってんだよな〜
さすがはポール君、分析哲学者らしい卑怯な行動だ。
447 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 18:08:57.50 0
純一は釣られているだけだよ アフォ♥
449 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 18:11:54.68 0
>>446 俺はポールじゃないよ誰だよそれ
おまえ頭おかしいな
だから、分析哲学徒は素直に論考だけ読んどきゃ良いんだよ。 無理してハイデガーと関連づけようとするから とんちんかんな理解になったり、ポールの様にパクって改竄したり する破目になる訳だからさ〜
まあ、そんな訳で本論に戻りましょう〜 ヒューマニズム(理性主義)=ウィト、フッサール等 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
453 :
考える名無しさん ABC :2011/12/09(金) 18:23:00.62 0
で、このハイデガーが批判するヒューマニズムには フッサール現象学やウィトの分析哲学までもが入ります。 ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
455 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 18:28:25.27 0
>>451 <勁草書房>
『孤立の社会学』 石田 光規 著 税込価格: \2940
フッサール現象学は受動的綜合等とも言われる様に、 要するに、論理学や数学の基礎付け理論として 分析哲学徒に大人気の理論なので、 ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 という図式が成立します。 分析哲学ならばラッセルのプリンキピア・マティマティカ等も 結局は数学の基礎付けに使われている訳でこの図式の正しさを 証明しています。
458 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 18:36:48.40 0
純一はアフォだから しねばいいのにね ♥♥♥
で、フッサール現象学や分析哲学によって基礎付けされた 数学や論理学はヒューマニズムを更に強化します。 ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
言ってみれば、フッサールの超越論的主観性という 考え方自体が理性によって全てを基礎付けようという ヒューマニズムの最たるものなのです。 また、論理によって世界を記述し尽くしたと考えてしまった ウィト等もこれにあたります。 ところで、日本ではヒューマニズムは何と呼ぶのでしょうか? それは中二病と呼ぶのです。
だから、フッサール現象学や ウィト等の分析哲学を支持する人間は 大抵、ヒューマニズム(理性主義)=中二病です。
462 :
考える名無しさん ABC :2011/12/09(金) 18:46:39.86 0
>>457 フッサールは重要であると思うよ
ウィトゲンシュタインはラッセルの下で学んではいたけれども『論考』以降の
後期著作では『心理学の哲学』『色彩について』とか言語哲学的ではない方向性にいっている
463 :
考える名無しさん ABC :2011/12/09(金) 18:58:25.98 0
>>461 じゃあハイデガーはその逆で「感性主義者」ということなのかな
物語をつないでいってお伽話を作る作家であると
そして出世欲と感性のおもむくままにナチ党員になる
そういうことかね
ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官
僚による統制経済です。それはワ イマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決し
て、「大衆の支持」を獲得したわけです。
こうして見ると、逆に、自由主義が何であるのかが見えてきます。それは、「人民の意志」が公開討議による合意に
よって決定されるという考え方にもとづいています。もちろん、このことは、哲学における「真理」の問題とつながっ
てきます。
自由主義によれば、真理はとりあえず合意によって承認された暫定的なものでしかありません。この意味では、近代
科学における真理は、暗黙に自由主義にもとづいています。
それを批判したのがハイデッガーです。彼によれば、真理は、討議や多数決によってあるのではない。また、それは
表象(代表)によってつかまれるものでもない。 真理は「存在の隠れ無さ」であり、それは少数の者(詩人)の言葉
において開示される、というのです。(中略)
ハイデッガーもシュミットも、議会という形態そのものではなく、そこに対する自由主義に反対しているということ
ができます。彼は、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにあるというわけです。
ハイデッガーの近代哲学・近代科学への批判が標的としているのは、実際は、表象=代表 representation によっても
たらされるような真理なのです。
(柄谷行人 『<戦前>の思考』 文藝春秋 p.46-p.50)
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/cahier6.html 参照:定本トランスクリティークp.227他
465 :
考える名無しさん :2011/12/09(金) 22:55:42.65 0
>>464 柄谷行人の駄目なところが非常に解りやすく出ているね
議会であれ村の会議であれ集団で何かを決めるということは集団の最大公約数で蹴ってするわけだから
当然ながら次元の低い決定とならざるを得ない
あらゆる集団というのはそうならざるを得ないという不幸な運命を背負っている
大統領制のようにまた有能な独裁者による政治では何から何まで一気に決定することができる
だから発展途上国のは大統領制や独裁政治の方が国家の発展の最初の段階には向いている
しかし独裁者のまわりには官僚のように取り巻きがいて富を独占的に集中させようとしてしまう
これは世界中の国に当てはまることだ
ハイデガーにはそういうことまでは当時考えが及ばなかったんだと思う
人間が上の方で権力の集中化を図ればその権力集団は腐敗したものになってしまうという歴史的事実をね
466 :
age :2011/12/10(土) 00:10:32.53 P
ハイデガーは下からの革命を支持したので、議会も選挙も拒否した。むろん官
僚制(=統治の代理人)も。
選挙、代理人の拒否は表象の拒否を意味するので、ハイデガーの思想と深く関わる。
端的に言えば、実在論的存在(表象されるもの)と唯名論的存在者(表象す
るもの)の差異は自らの決断による以外には埋まることがないという思想だ。
(「いいかえると、投票はするが、それは代表制(議会)における投票のごと
きものではない、というのです」柄谷『戦前の思想』)。
ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。
ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ
し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくて
むしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそ
うしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる
直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろう
としているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
(「アドルフ・ヒットラ〜と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-606.html 左右の違いの認識なども、空間がアプリオリに決定するというカント説=
唯名論にハイデガーは依拠するが、ただしそれらの規定はあくまで共同体を
前提にしたものだ。ハイデガー自身はギリシアとドイツの二つの民族の間にい
たと言うだろうが。
興味深いことに、柄谷はハイデガーが突撃隊を支持したことを、西田幾多郎が
海軍に加担したことと比較している(定本5巻232頁)。
ハイデガー批判は盛んだが、西田への批判は十分ではない、、、ということは
日本人は未だに自分の姿が見えていないということでもある。
表象の問題は何も貧しい国家だけの問題ではない。
http://yokato41.exblog.jp/12288301/ 柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションをしながら,その内容
に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりするけれど,それは非常に曖昧
かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね.
黒崎――だから,直接民主主義というのを,どの時点でやるのか,ニュースを流す前にやるのか,
後にやるのか,それだけで結果が全然違ってくる.
柄谷――自己というものを持つには,一定程度の時間が必要なんですよ.そのことは,ヒュームも
言っているし,ニーチェも実はそれをひそかに引用していると思う.
つまり,自己というのは一つの政府(ガヴァメント)だ,多数の自己の間での代表だ,とその意味
で,自己というものがすでに代表制でしょう.そうすると,その ような自己から成り立つ政府形態
というものを考えるときに,それを直接民主主義でやるというのはおかしいんです.全国民がボタ
ンを押して絶えず現在での意 見で政策を決めるようになれば,政策の一貫性なんてなくなるんですよ.
468 :
考える名無しさん :2011/12/10(土) 00:44:35.64 0
どうあれ机上論ではなくて実際の政治は色々なバランスも配慮しなければならない 何故かというとそれぞれの国民において業種も違えば規模も違うのだから一律にみんなが豊になる などということは有り得ない ただ一つ言えることはどちらにしても小さな政府を目指して政治改革や地方改革をするべきだろう そう考えていくとニーチェもヒュームもルソーもハイデガーも時代格差が大きすぎて実学には役にたたない
若き日のハイデガーとアレントの写真を並べ
まあ、それはともかく本論に戻ろう〜 ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↓支える 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↓支える 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
この『支える』の部分は逆に言うと、『基礎付け』でもある。 ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↑基礎付け 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↑基礎付け 技 術 =ウィト、フッサール等 ↑批判 ↑批判 ハイデガーの技術批判&理性主義批判
現象学なら論理学を現象学で基礎付けようというのが、 フッサール現象学であり、分析哲学ならラッセルのプリンキピア・マティマティカ等が 分析哲学による数学の基礎付けにあたる。 ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↑基礎付け 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↑基礎付け 技 術 =ウィト、フッサール等
ところが、ハイデガーはこの三層構造に対して批判を向ける。 ハイデガーの技術批判&理性主義批判 ↓ ↓ ヒューマニズム(理性主義)=現象学、分析哲学 ↑基礎付け 数学、論理学等 =ウィト、フッサール等 ↑基礎付け 技 術 =ウィト、フッサール等
ハイデガーからの、ウィトやフッサールという ヒューマズム(理性主義)への批判は簡単で、 要するに、ウィトやフッサールは中二病である、というものです。
よく、こう中学生ぐらいだと、 ノートの端とかに数式を書いて、人は数式化できる、とか 世界を記述し尽くしてしまった…とか考えます。 ハイデガーはこれをウィトやフッサールに見る訳です。
ウィトは↑での例の中学生と思考はほぼ同じです。 フッサールは数式や論理学を現象学で基礎付けして、 これまた数式や論理式で全てを記述できる様にしようとする訳ですが、 これこそ中二病である、とハイデガーは言います。
で、ハイデガーによれば、こういう論理主義を ヒューマニズムと呼ぶ訳ですが、それの何が悪い!と思う人が いるかもしれません。 論理主義は論理や数理というものに己の自我を一致させているので、 己=論理と思っている訳です。すると、己がいくら間違いでもその事を 認めようとはしない。これ↓が論理主義の良い例です。 > 44 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/01/12(水) 14:59:06 0 > ここ最近、読者の質が悪いや > 佐々木わたるんの読者評価が高いのが気に入らないと > つぶやいているらしいが、 ↓ > 85 :純一 ◆QzuB1xeuck :2011/01/12(水) 18:06:48 0 > あと、俺気になったんだけど、 > 上の方で波平って『中(あたる)』を『わたる』って読んでないか? ↓ > 798 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2011/01/14(金) 01:04:17 0 > あたるんにはまるのは必然。クオリティは別にして、 > びっくりするぐらいに思考の系譜が似ているから。 ↓ > 804 :考える名無しさん:2011/01/14(金) 01:07:40 0 > 何事もなかったかのようにあたるんって言ってる・・・屑だなあ
要するに、間違ってようが間違っていまいが関係無い訳です。 分析哲学者は殆ど己=論理だと思い込んでいるので、 自分のする事が論理的に正しいと思い込んでいる。 波平も同じで、論理を自分が扱っているから、 自分は決して間違えないと思っている。 例え、↑の様に明らかな読み間違い等をしても、 ヒューマズムであるウィトやフッサールは気にしません。 何故なら彼らの主体は論理や数学という絶対的に正しいものが 担保しているから、と彼等は思い込んでいる訳です。
従って、基本的に分析哲学や論理の基礎付けとしての フッサール現象学をやってる人は、波平と同じく、 己=論理だと思い込んでいるので、自分の間違いを絶対に認めようとしません。 これがヒューマニズム(論理主義)ですね。
で、ウィトとかフッサールは論理主義(ヒューマニズム)なので、 己=論理だと思い込んでいますので、 とにかく宮台の様に自意識が大きくなります。 己=論理だと思い込んでいるので当然です。 すると、波平の様に間違っても間違いと認めない。 何故なら己=論理であるからです。 で、これがヒューマニズム(論理主義)ね。
つまり、自分の意識(自意識)に論理(理性)が予め、 認識形式や悟性として組み込まれている、という考え方が ヒューマニズム一般だと言えるでしょう〜 これだとカントも入りますね〜
宮台なんかも数理システム論から出発している事からも 分かるように、ヒューマニズム(論理主義)に罹っています。 本人は認めませんが、己=論理だと思い込んでいるので、 明らかな性犯罪をやっても、論理が己の正当性を支えていると 思い込んでいるので、犯罪をやっても反省しないという特徴が 生まれます。
ところが、フッサール現象学の受動的綜合による 論理学の基礎付けも、はたまたプリンキピア・マティマティカも どっちも失敗しています。 ところが、基礎が不安定でも関係は無い、 波平や宮台やウィトやフッサールという分析哲学者というのは、 とにかく己=論理と思えりゃ良いのであって、 基礎が不安定だろうが関係ありません。
宮台なんかも論理主義の典型で、 例えば内芝容疑者の如く、性犯罪を起こしても、 あれは性の解放のフェミニズムだったとか、 とにかく己=論理だと思い込んでいるので、 己のやる事なす事が全て論理的だと思い込む様になってしまう訳です。 素直に己のアホさ我侭さですと言えない。 間違えたと言えない、何故ならウィトやフッサールの様に 自己の背後は論理や数学がその主体の正しさを証明していると 思い込んでいるからです。だから間違いを認めない。
更に論理主義は西洋の文化的傾向までも決定している。 コンキスタドールによる原住民の殺戮等は、 裏に論理主義があり、己=論理だと思い込んでいるコンキスタドールは 侵略をむしろ西洋の論理性の拡大と考える。 何故なら西洋人の己=論理であるから目の前で殺戮をしても 己=論理が担保するので、絶対的に正しい数学や論理が背後にいる =己は何をしても論理的かつ数学的に正しい、という思考になる訳です。 これがヒューマニズム(論理主義)だと言えましょう〜
これは言ってみれば西洋特有の病気です。 ハイデガーはそれを超えようとした訳ですね〜
数学や論理学は、全てのものを支配する対象として見る事を前提としている。 つまり、支配対象として如何に利用するかという点で 初めて必要性の生じる学問であると言えましょう〜 つまり、これはハイデガーから見ると、人間(理性=論理)>自然となる訳です。 利用する対象としてのみ、存在を見ている訳ですからね〜
なるほど、数学や論理学が固定項とすると、 その数学や論理を使用していると想定されるのは一体どんな 概念なのか?それこそヒューマニズム(論理主義)であり、 それは全ての存在を理性=論理により支配下に置く『論-理性的人間』なのです。 これはハイデガーの自然論に繋がり、これをハイデガー的には 制作的自然観みたいなものになる訳ですな。
ハイデガーが問うているのは、この『論-理性的人間(ヒューマニズム)』が、 如何に歴史的に形成されたのか?という事、 つまり、論理主義は誤りなんですな〜 ハイデガーは既に論理自体が誤りと前提された上で、 論理主義という誤謬がどの様に形成されてしまったのか? という問い方をしている訳です。 つまり、西洋はいつから論理主義という謝った道に入ったのか?って事ね。
では、論理主義が何故誤りなのか?と言うと、 実際には誤りなのに、それを誤りと認めてこなかった訳です。 例えば波平は漢字の読み間違いすら認めませんが、 これも己=論理であると思い込んでいる西洋的論理主義が原因です。 宮台も数理システム論をやっているので、己=論理と思い込んでおり、 性犯罪をしても、性の解放だ!と言い訳しかできません。 そして、視点を西洋に移すと、コンキスタドールやコロンブスを見ても、 原住民を論理の名の下に殺しまくっており、これも論理の成せる業です。 根拠無き正当性がそれを可能にする。
例えば、これは日常生活の中でも遍く見られる。 論理に近いものと言えばITです。 プログラム言語等は論理式と同じか極めて似たものです。 こうなると、ITを操るものの意識は、当然ハイデガーが批判する 論-理性主義的人間(ヒューマニズム)の観念に入っていき、 常に全世界を論理的人間が見下ろす形になる。 こうなると、例えその人間が犯罪をしても、全く反省しなくなります。 何故なら彼の主体は論理的だと思い込んでいるからです。
例えば、プログラムをやってる人間が覗きをしたとしましょう。 すると、彼の中ではこれは性の解放なんだ!と勝手に正当化する。 何故なら彼の主体は論理に支えられていると思い込んでいるからです。 つまり、彼のやった事は論理から導き出された行動であり、 それが覗きという犯罪行為にまで拡大される。そこに論理的根拠を 付け足す訳ですな〜これが西洋の本質であり、イデオロギーである という事でしょう。
きちんと考えなくていいや ハイデガー先生がきちんと考える事否定してるし 学問的に考えなくていいや ハイデガー先生が西洋は全部だめって言ってるし といった口実に使われる側面がハイデガー自身になかったわけではないが ハイデガー自身は、ただの反近代、反形而上学、反テクネー主義者ではなく 存在のウィンクに気付けるのは、あくまでも形而上学の徹底、技術の果てだと言っている
495 :
考える名無しさん :2011/12/11(日) 17:05:02.22 0
純一がいくら「ハイデガーは論理主義を批判している」といっても当のハイデガーも 自分の論理の中で拘泥している。 あとキリスト教の問題、これもハイデガーはちゃんと考えぬいていない。 あまりに文学的過ぎるのも論旨が掴みにくく、むしろ非常に解り難いし。
論理というのは思索の方法としてありとあらゆる思想が採っているもので、ハイデガー自体がそ の意味では論理的。また大学の講義として語っているくらい理性的な論議である。ただ彼にとっ ての人間存在はどこまでも歴史に貫通されている。理性や論理で操作支配しがたい存在で、また、 その場所、有の開く場=時空であるところに、有の見守りたるところに、人間の尊厳をみている。 むしろハイデガーの場合、論理や理性を裂き開け、開く歴史としての有 Sein ということを考え ていたと思う。 あと、宮台が論理主義という話があったが。『限界の思考』で宮台はハイデガーを引用し、〈世界〉 の根源的未規定性に開かれることを称揚する思想として、ニーチェとともに挙げている。宮台に よればハイデガーは人間が理性的であることによって理性と別の枠を希求することを証した、 となる。論理で人間が覆えないものがあることを思想もしていると思う。 《理性を失わずに客観性を尊重して生きれば、「本来的」か。あり得ないという僕たちは理性的たる がゆえに、〈世界〉を生きることを「ある枠のなかを生きることだ」と感じ、別様の枠にしたがった 〈世界〉のあらわれを想像せざるを得ないのだと。》(『限界の思考』100頁)
いや、だからハイデガーと宮台は全く無関係だし、 分析哲学とハイデガーも無関係ですって話をしてるんですが。
498 :
考える名無しさん :2011/12/11(日) 21:49:47.20 0
hidden
ちゃぶ台後とひっくり返そうとするのはニーチェ・ハイデガー的ってことで
500 :
考える名無しさん :2011/12/11(日) 23:07:33.99 0
どちらにしてもハイデガーは少々思考がズレているんだよ 自分の中の個人的葛藤があってそうした思想を語っているのにその葛藤自体は明確化しない フロイトで言えば抑圧されたままそれは置いておいて語っているから本当の原因が隠蔽されている それはハイデガー自身のとった行動を見れば一目瞭然だ ハイデガーという症例は非常に興味深い症例だと思う
鳥かごは鳥が必要なんだよ 歴史の理解ってのはそういうことだ 鳥かごは鳥を超越してんだ 自然でないがゆえに さて、だったら鳥(自然)はどこにいる(ある)?
超越なんてない そう考えるほうがよっぽどシンプル
ハイデガーを語るためには、ハイデガーが語られなければならない それが超越
504 :
考える名無しさん :2011/12/12(月) 00:36:12.98 0
ハイデガーは自分を語らなかったじゃないか そこがニーチェに完敗しているところだな
残るものは何だ 次のレスが着くまでの間 何がそれを生じさせるかということだ そういうことだろハイデガーの視点ってw
506 :
考える名無しさん :2011/12/12(月) 00:46:08.56 0
哲学者は自分を語らないと駄目だよ 自分を徹底的に分析しないと駄目だ
ハイデガーは時間を導入して論理学を批判したが、 その導入はスピノザを無視することで成り立つ 程度の偽りの論理学だった。 スピノザ哲学には最初から時間がないから ハイデガーの言う存在者は様態に過ぎない。 そして本質と実在は同時に、疑いつつある、 のだから現存在という規定も無意味だ。 残るは実体だが、これを存在と呼ぶのは本質を 規定しないことを意味してしまう。 『存在と時間』独自のタームをその後発展させら れなかったのは属性の定義が曖昧だからでもある。
まあ、ハイデガーが分析哲学は素晴らしい、とか、 あるいは宮台は日本最高の思考である、とか言ってなら分かるけど、 実際にはハイデガーはバタイユをフランス最高の思考と言い、 歎異抄を褒めている訳だから、この時点でウィトとハイデガーがどうの、 と言ってる細川は原著読めてないね。
ハイデガーの著作でも、形而上学入門やヒューマニズムについてでも、 出てくるのは繰り返し、論理学への批判だ。 だが、原著読んでると言う奴に限ってここをすべて無視して語るから面白い。 細川なんぞ、関係ウィトと無理矢理こじつけ様とする様が素晴らしい。
で、分析とハイデガーが関係あると誤解した人用の 偽ハイデガー説ってのがありますからね〜 これからご紹介しましょう。
例えば、宮台とか今なら内芝の様に、 性犯罪をやってる者が居たとしましょう。 この人達の中では論理は重要です。 何故なら違法な事をしていても、俺達は論理的なんだ、 人道的な法よりも現実的な論理をとっているんだ、という具合に考えます。 そこで、人道主義としてのヒューマニズムを批判したと思い込み、 ハイデガーを称揚したりする訳ですが、これも説明した通り、 西洋ではヒューマニズム=論理(理性)主義です。
従って、ハイデガーの論旨の中で批判されているのは、 実は当の論理的だと思い込んでいる性犯罪者である宮台や内芝なのです。 宮台や内芝の中では、ハイデガーは人道主義を批判したと思い込んでいます。 従って、宮台や内芝の中では性犯罪をモラル的に批判する側が 現実的では無いと嘲笑する訳ですが、ハイデガーが批判しているのは 実は宮台や内芝という論理主義者の方なのです。 従って、ハイデガー哲学にはモラルを含んでいる、とある意味で言えます。
で、ハイデガーを勝手に分析哲学に引き寄せて誤解してしまった人は、 大体、ルーマンに行きます。 ルーマンはオートポイエーシスなので、時間という動的なものを 取り込んだ、と思い込む訳です。 これは分析用ハイデガー、言ってみれば偽ハイデガー像と言えましょう。
大体、ウィトとかルーマンは英米系哲学です。 大して、ハイデガーは大陸系哲学です。 要するに、源泉となる流れが違うのに、 それを一緒くたにしてしまう細川はやはりアホだと言えるでしょう〜
これはデリダなんかにも言える事で、 デリダも大陸系哲学です。ところが、分析哲学とサール論争を通じて デリダの存在を知られてしまった為に、デリダを勝手に 分析哲学だと思い込む人が増えてしまった。 まあ、大体、このスレの殆どはそういう分析哲学者しかいませんな〜 で、ハイデガーも同じでウィトが現象学も知らないのに、 勝手にハイデガーの名前を出してしまったが為に、 まるでハイデガーが分析哲学の一部である様に語られてしまう訳です。 細川亮一の誤解が典型例だと言えるでしょう〜
大体、分析哲学がデリダやハイデガーを語るのは、 茂木健一郎が哲学を語るのとほぼ同じレベルです。 茂木でピンと来ないなら、遺伝子工学が哲学を語るのと、 分析哲学がデリダやハイデガーを語るのはほぼ同じレベルの事で、 そもそも分析哲学者自体が大陸哲学を良く理解していない。 全く別分野なのに、例えば遺伝子工学で哲学を語る事等できませんし、 脳科学で哲学を語るのも的外れです。それと同じ様に、 そもそも分析哲学が正統哲学を語るのもほぼ同じで的外れなのです。
ですから、ウィトとハイデガーを並べて論じる人というのは、 科学とハイデガーを繋げようという試みくらい無意味です。
あと、スピノザってのもね、分析用哲学が 隠れ蓑に使う哲学者の一人でね〜 エチカって何かに似てません?そう、ウィトの論考です。 本当は論考に似ているからスピノザに手を出すんですが、 分析哲学者は大陸哲学を装いたいのでその本音は言わない訳です。
だから、スピノザを持ち出す時、 本当は後ろに分析哲学のウィトの事を語ってる訳です。 これが分析用に歪められた哲学史の語り口の一つですね〜
520 :
考える名無しさん :2011/12/13(火) 00:12:15.24 0
まあな、ハイデッガーは文学だ。
ライプニッツ→ゲーデルという正統派のラインが分析哲学側の人間にも 認識されていないからそれに対する反措定も不毛なものになる。 ちなみにゲーデル数はライプニッツのパクリだ。 「われわれはその事物によって他の事物を表示するために素数を使用するのである。」 (『普遍的記号法の原理』Elementa Characteristicae universalis ,1679 「計算の原理」1679、邦訳ライプニッツ著作集1、64−5頁より) 傍流だけが人気を集めてもしかたない。 ハイデガー、ウィトは傍流。 ただし、ドイツ観念論を中心に考えればハイデガーは最重要人物。 ここに捻れがある。 ドイツ観念論はライプニッツの可能性を隠蔽してゆく歴史だから、そう考えると ハイデガーのライプニッツ読解がドイツ観念論にとってもハイデガーにとっても重要になる。
ラッセルがライプニッツを研究してたなんてのは常識だが、 ハイデガースレってのは適当な出まかせ書くやつの溜まり場なのか
ライプニッツはビッグネームだから多くの人が研究していた。 …だからどうしたというのか???
ん?
>>521 も関本洋次って人のブログからのコピペだな〜
まあ、本人が書いてるんなら良いが、コピペならやめとけよ〜
まあ、それはともかくライプニッツからゲーデルって言っても、 ゲーデルって哲学者か? どっちかって言うと、数学者とか論理学者だろ?つまり分析系。 となると、ライプニッツも微積分とかそういう数学と形式論理学の これまた分析哲学系として見ている訳でしょ? それは哲学とは言わないけどね〜
まあ、英米系分析哲学の人から見れば、 ライプニッツとゲーデルが正統派の流れに見えるんだろうけど、 それは英米系が勝手にとっただけなんじゃないかね〜
ハイデッガーが特に凄いというところは別にないな。
ハイデガーは論理学万歳って人には向いてない。 むしろ、そこから脱却した人向け。
530 :
考える名無しさん :2011/12/13(火) 20:27:48.61 0
つまりハイデガーは論理的ではないから 文学として楽しめるような人向けということですかねえ
そもそもハイデガーを文学として楽しんでいる人等いるのか? 読んでて苦痛じゃないの?
533 :
考える名無しさん :2011/12/13(火) 20:47:32.36 0
だからそういう超越的に物事を思考するような人ではなくて 言われたことをそのまんま理解しようとするような秀才質の人が 楽しんで読んでいるんじゃないのかな だから竹田青嗣のような外部の思想家が知名度に言わせて本とか書くと 自分たちの解釈と同じか違うかという下らない論点で誹謗中傷する ハイデガー本人は置いておいて 日本のハイデガー研究者って本当に頭の悪い人が多い どうやってもドイツやフランスのようには読めないからね
まあ、ハイデガーを理解するにはハイデガーがヘルダーリンの 詩を信奉していた様に、詩とか歌が理解できないと駄目だと思うね。 例えば、論理で詩は書けないし、論理で歌は作れない。 そこを説明するのがハイデガー理論だと言えるのかもしれない。
>>533 俺はそれいつも逆だと思うんだけどな〜
そもそも論理を好きな奴なんて秀才肌の奴しかいないじゃないか。
バンドやってるとかダンスやってるとかなら天才肌って言うけどさ。
ハイデガーは『芸術作品の根源』とかも書いてる訳だから、 根本的に芸術の人って言うなら分かるね〜
537 :
考える名無しさん :2011/12/13(火) 20:53:45.57 0
>>534 いやそこは違うんじゃないかな
確かにハイデガーはヘルダーリンの詩に心酔していたけれど
ハイデガーは作家ではない
バルトやバタイユは思想家であり作家でもあったから自分の理論を生かし創作活動をしたが
ハイデガーにそこまでの仕事は見られない
だからヘルダーリンの詩はハイデガーにとっては思想を紡ぎだすための触媒だったんだと思うよ
触媒?
まあ、詩を理解できない人もいるかもしれないが、 如何に論理が好きな分析哲学徒でも好きな曲とか 歌手ぐらいはいるだろう。それが果たして論理で説明できるのか、否か。 説明できないのならば、結局はハイデガーに頼る他無い訳で。
俺は竹田青嗣好きだね〜 この辺は芸術が好きなら竹田、論理が好きなら細川に 客は流れるだろう〜
ただし、細川も原著を読めと言うなら、 ちくま新書でそもそも入門書を出さなければ良いのであって、 ここらへんは欺瞞を感じるところだ。
542 :
考える名無しさん :2011/12/13(火) 21:04:30.07 0
『芸術作品の根源』は芸術論とは言えないよ むしろ芸術作品を語る上で人生を語っている そういう意味では非常にハイデガーらしい
人生論厨うざっ
http://homepage1.nifty.com/haniu/040828.html フォン・ノイマンが「ゲーデル博士への賛辞」と題して述べたことから抜粋引用する。
クルト・ゲーデルの現代論理学における業績は, たぐいまれで記念碑的なものです. ・・・・・ 本当に
それは記念碑以上のもので, 空間と時間を遠く離れたところでも目にすることのできる目標物で
あります. ・・・・・ 論理学の主題はゲーデルの業績によって, はっきりと完全にその性質と可能性を
変えました. ・・・・・
・・・・・
強調しなければならない重要な点は, これが哲学的原理とかもっともらしい知的態度ではなく, 極
端に複雑な種類の厳密な数学的証明の結果だということです.
ハイデガーのヘルダーリン論は以下の構図を持つ 天 神々 人間たち 大地 つまりハイデガーは詩の中に論理的構造(構図)を見出しているということだ。 それは自己言及システムを持ち、パラドックスにいたるようになっている。 ただ、それらはゲーデルとは違うし、ゲーデルを意識して(「ゲーデルが 内側からやった事を自分は外側からやった」)論理を破壊したウィトとも違う。 ハイデガーの論理学にはあらかじめ非合理な限界がもうけられているが、 これらはヘーゲルの論理と同じく、自己言及性のパラドクスを誘発するから その構造を自覚しないで、否定又は肯定することは無意味だ。 つまりハイデガー理解にもゲーデルの自己言及性の限界の論理的理解が 欠かせない。それなしでは、それ自体が文学を否定する文学ということに なってしまうのだ。
いや、それはルーマンね。 ハイデガーじゃない。
ルーマンはパラドクスをパラメーターを増やすことで 乗り切ろうとした。これは哲学とは関係ない。 師匠のパーソンズにもそのカテゴリーミステイクを批判 されている。 ハイデガーのやったことは人間の限界を規定すること。 これは哲学にしか出来ない。
いえ、単なる人生論です。
しかし、社会学系の連中が使う「言語ゲーム」ってウィンチとかの時代のだよな。 ウィトゲンシュタインの解釈としては古いんだけど、 いつまでもアップデートしないまま使い続ける気なのかな。
550 :
考える名無しさん :2011/12/18(日) 21:29:53.89 0
様々なハイデガー論が未だに研究者を始めとして発表されている。だが、それらは、またはその ことは、当のハイデガーからすれば、さほど意味のあることではない。というのは、それら様々な ハイデガー論とは、あくまで座標の上で、ハイデガーを位置づけ、このような知です、論理です、 とするだけなのだから。つまりハイデガーの提起する問題系は相変わらず無視されていることに 変わりはない。69年のTVインタビューでハイデガーはインタビュアーに対して、自分の思想が理 解されていないことがまさに存在忘却のメルクマールだと語っているが、今の段階での問題とは 、ハイデガーを研究対象という位置に措定し、そこから動かさず、しかもハイデガーの提起した 問題自体は正面からは検討しないですます、という謂わば知の様式の問題になっている。実は 重要なのは、ハイデガーを研究することではなく、その問題提起に応える用意はあるのか、であり 、この問を当てることによって、現在一見盛んなハイデガー研究に於て、実は正面からその当の 問題提起に応える気はないという不思議な結果が出てくるのではと思われる。
今ハイデガーをやってるのは爺だけ ・ゲートボール(体育会系) ・ハイデガー(文化系) この二者択一だ 若者には全く関係なしw しね
この1969年の80歳記念TVインタビューでハイデガーは、インタビュアーからの、「あな たは、哲学には社会から委託された使命のようなものがあるとお考えですか?」という問 にたいし以下のように答えている。 《いいえ!―そのような意味では、社会から委託された使命といったようなものなど問題 になりえません。 その問に答えるためには、まず「社会とは何か?」と問わねばならず、しかも、今日の社会 とは近代的主観性の絶対化されたものにすぎないということと、主観性の立場を克服して しまっているような哲学では、そのような主観性の立場から調子を合わせて何かを語る わけにはいかないということをよく考えなければなりません。》(『ハイデッガーは語る』 78頁 理想社) 今日、哲学の使命は如何に社会に貢献し、また社会の役に立つか、といったところにあ るとする、実効性に還元する思考が横行し、2ch.でも同じだけども、実はハイデガーの 思想とはそのような発想とは全く異なっている。それを上のインタビューは自ら強調し ている。
そうだな ハイデガーも自分の思想については言いたいこと言いまくったくせに 肝心なナチズムの総括をナチ党員である当人のハイデガーは怠った これも彼に言わせれば「そのような主観性の立場から調子を合わせて何かを語る わけにはいかないということをよく考えなければなりません。」 ということになってしまうんだろうな ああ自分に都合がいいって酷く惨めで浅ましい精神だよなあw しね
いえ、怠ったのではなく、総括などする必要はないと思っていたかもしれない。ヤスパ ースなどと違って、ナチの残虐行為とかを間違っていたと実は思っていなかった可能性 もある。そこが計り知れないところがある。簡単にHUMANISMでは斬らない方がいい。 刃が掠めない可能性があるのだから。
555 :
考える名無しさん :2011/12/18(日) 23:00:48.44 0
>いえ、怠ったのではなく、総括などする必要はないと思っていたかもしれない。 だとしたらだよ、そうだとしたらそれはかなりの問題なのではないかな? 大戦当時のドイツのナチス党員であり、著名な哲学者であるハイデガーが歴史に残る国家の一大事を 回顧して、それはいったいどのような現象であり、どういうふうに考えるべきなのかを哲学することは 彼の立場からしてもしなければいけなかったことだ 「簡単なHUMANISM」などというものでは全くなく、「現実の悲惨な現象」として思考する必要があるのは当然 ハイデガーは「卑怯者」であったか、「異常者」であったかの何れかでしかないだろうな
ハイデガーの謂う有・Seyn というのは〈神が必需とする〉とされており、してみれば、有・ Seyn が開けるとき、人間は変容を蒙り異人 Alien となるという解釈も成り立つ。有・Seyn とは「道徳的‐人間学的」なものを新たに捉え返すことなしには可能ではないとされている。あと、 『Sein und Zeit』の失敗とは、有 Sein が「実存的」・「人間学的」に曲解する危険を孕んでいる ところにある、ともいう。つまり「道徳的‐人間学的」な観点が届かないところに有・Seyn は考え られている。「道徳的‐人間学的」な追従とは最も有・とは相容れないものだろう。異常もなにも、 元々有・の開けという概念ではその辺の観念は捨象されているだろう。社会的道徳といった観念 よりも有・に帰属し聴くことのほうが重要視されている。生命尊重イデオロギーとかはとうに 問題とされなくなっている。「現実の悲惨な現象」という言葉へは以下の言葉が相応しいと思う。 《あまりに短絡的に思惟する者、つまり決して本質的には思惟しない者、そういう者だけが、語り 拒みと否定とが押し迫る場所に固執しつづけ、そこから絶望の機会を得る。しかしこのことはい つも、われわれが有・の全面的な転回をまだ測り定めたことがなく、このことにおいて現‐有の 尺度を見出していない、ということの証拠である。》(ハイデガー全集65巻『哲学への寄与論稿』 創文社 446-447頁)
ハイデガーは反神学への道を選択したが、彼の思考は常に「神学」とともにあった。 その「神学」とは「キリスト教」のことを指すのだが、ハイデガーが「道徳的」とか 「人間学的」などと語るときには対概念として常に「キリスト教の神」への反論となっている。 このことが理解できていないと、ハイデガーの謂わんとしていることが見えなくなる。
このスレでハイデガーの口パクしてる人って何なの? 普段も大川隆法みたいにハイデガーの声帯模写してるの? 是非忘年会に来てよ!
ヤスパースが生前書き貯めていたというハイデガーに関する覚書が死後にヤスパースの弟子で あるハンス・ザーナーに整理され、『ハイデガーに関する覚書』(邦題『ハイデガーとの対決』 紀伊国屋書店 1981年)として刊行されている。日本語版にして470頁にわたり、ハイデガーと 出会った1920年代から第二次大戦を経た戦後、ヤスパースの逝去する1960年代まで誰にも見せ ることなく、自己内問答として書き貯めていたものらしいが、自分との類似を認めながらも、根本 で分かれる勿体ぶったその文体、思想的神秘化をヤスパースが嫌っていたことは伝わってくる。 嫌っているし自己神格化の欲望さえ感じていたようだ。それらは一面当たっていないこともない ではろうが、しかしヤスパースはハイデガー思想の存在意義を結局掴めなかったという気がする 。ハイデガーが時たま批判的に挙げていた「道徳的」・「人間学的」思考の枠からヤスパースはつい に出ていかない。そこから知識人の責任も論じられるわけで、勢い市民主義に近くなる。ハイデガーがその辺 で避けられない分岐点が介在している。ヤスパースがハイデガーを根本で理解しきれなかったの は内実からすれば当然だった気がする。理性の担い手としての人間をそれは越えていかない。そ こでハイデガー思想はそこから分離されることを称揚するので、そこから全く違ってくる。
ヤスパースは精神科医だったので、精神科医のとしてのベクトルがかなり強く出ているよ つまりハイデガーに対しては患者を診る態度に近い ハイデガーが「抑圧」しているもの、「否認」しているもの、「逃避」しているもの これらをハイデガー自身に直視させるためには、哲学思想の網の目の中で格闘しても仕方ない つまり純粋に「精神活動の問題」としてハイデガーの内面に、意識に浮上させなければいけない 人間は時に自分の大きな「失態」や「恥」や「罪の意識」を受け入れ難く、それを直視する苦しみから 逃避しようとするケースが多い ハイデガーのケースもその例外では全く無く、基本的には「逃避行動」をとっているのだ ヤスパースは哲学論理的にそれらを潰していくのではなく、ハイデガー自らが「気づき」「受容」し そこからはじめて哲学的思考に至ることを熟知していたから、基本的かつ一般的なアプローチに終始したのだ
ハイデッガー「乏しき時代の詩人」を理想社の選集(手塚冨雄高橋英夫共訳)で読むなら、 「世界教養全集22実存の哲学」に入っているバージョンのが、 理想社版をさらに手を加えていると解説に書いているので古本で見つければ 買っといたほうがいいよ。
下痢庵先生はどうおっしゃるかな
566 :
考える名無しさん :2011/12/22(木) 01:15:02.71 0
ハイデガーの理論上、個体の本来的有というのは没交渉的なはずで、そこが魅力でもあったのだ が。彼が批評家のネタになることが多くなるにつれ、前記の側面は顧みられなくなっているよう に思う。そこが教養人のネタになることの弊害でもある。元々はあの理論上は、自立的自己、とい うその有の領域の解明でもあったわけで。本来的有と世人とのズレがどこにあるかという場合、 水平化というのが有の忘却の特徴で、そこで知のもつ形式化は批判されていく。没交渉性こそ 本来的有の在り方なのだから。ハイデガーが知的装飾品に成り下がるというのが教養人の特徴 で。実際にはハイデガーの理論は教養人や批評家などに独占されるのではなく開かれる性格を 備えているが、現在のところそこが具現化されていないように思える。むしろ知的読書家しか あれを知り得ないという状況はハイデガーの理論にとっては失敗に値すると思う。そこであれが 哲学色を払拭しようとしたのは正しい。ただその代わり神秘思想に見られるようになったみたい だが。
ハイデッガーの存在(有)は神によって創られた存在の反意味論として展開されているから そのことが分かれば理解はしやすい。 その後のハイデッガーが神秘思想のようなかたちで捉えられたのはハイデッガー自身の説明方法に 大きな問題があったと考えざるを得ない。 時代は20世紀後半であるのだから同時代の先端思想や科学に目を向けるべきだったが彼は詩人に目を向けた。 生まれるのが100年以上は遅かったハイデッガー。 事実上のドイツ観念論終焉の引導を渡す役目となった。
なんで科学とか出るんだw 雑音だろ雑音。
cattはいつも邪魔 頭悪いんだからしね
570 :
考える名無しさん :2011/12/22(木) 06:36:14.59 0
マルチンという名前が笑える。ちんぽ丸出しのイメージ。
571 :
よんさま :2011/12/22(木) 07:30:25.89 O
太陽のひかりに照てられかわい
572 :
考える名無しさん :2011/12/22(木) 09:34:43.03 0
ぴかぁ〜フルチン説 1 :考える名無しさん:2011/11/29(火) 19:26:23.70 0 街歩いてたよ!
573 :
考える名無しさん :2011/12/22(木) 11:53:39.72 0
>>566 オマエも公共の場で一人言ぶつぶつ言うだけじゃなくて対話しろよ
あと、口だけで偉そうなこと言う前に、隣三件の前を毎朝箒で掃くこと
わかったな?
574 :
考える名無しさん :2011/12/22(木) 15:56:29.62 0
最近やっとヘーゲルとハイデガーの言いたいことが分かるようになってきた。 分かるまで時間がかなりかかった。
人世論はけっこう難しいんだよ 理解するまでそれなりの人生経験が必要さ
cattはしにました
まんこってなんでおいしいんだろうな
『形而上学の根本諸概念』退屈論との対応関係 現 存 在 ___世界=内=存在____ | | | 世界 __内=存在 自己 | | \_不安 | | | 了解_頽_企投_ 内| | |/視__落_好奇心\_存・・関心 | |語り___沈黙_| 在| 気遣い 世界性 情状性___不安_/ ・| | _|_ (気分) 良心 死 ・| | | | ______| | 環境世界| __|__C・ ・ | | | 非本来的/本来的・ 自 | | A | | ・ |・・己 | | |開示性_決意性_先駆的・ | | | 決意性・ | | 道具全体性_適所性・・・世 | 場 界 | 配慮/瞬視 (日常性) 過去_____現在_____将来 時間性 既在性____現在____ 到来_脱自態 B今 (内部性) A退屈の第一形式(世界性) B退屈の第二形式(時間性) C退屈の第三形式(内=存在、自己) 『存在と時間』第65節(気遣いと時間性)参照
579 :
補足 :2011/12/22(木) 20:54:03.91 P
退屈=根本気分のひとつ (気分は情状性、心境の様態)
下痢庵先生は果たして認めるだろうかな?
581 :
考える名無しさん :2011/12/22(木) 21:44:03.51 O
マルチンはやっぱりすげーよ。
582 :
考える名無しさん :2011/12/23(金) 13:02:27.54 0
わたし女だけど、クリスマスに一人でいる人にハイデガーが理解できるとはおもわない
下痢庵先生は果たして認めるだろうかな?
584 :
考える名無しさん :2011/12/23(金) 18:03:48.72 0
今日はイブイブですな はあ忙し忙し
いやいや イボイボですよ ウエッヘヘヘヘ ♥
577 名前:考える名無しさん :2011/12/22(木) 18:16:08.42 0 まんこってなんでおいしいんだろうな
関野昂著作選〈1〉関野昂哲学論集 [-] 関野 昂 (著) 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 関野 昂 1989(平成元)年8月8日群馬県に生まれる。四歳のころより多くの物語を書き、 小学校六年生からは哲学への強い関心を持つ。館林市立第五小学校から館林市 立第四中学校に進み、中学一年生より生徒会本部書記。陸上部部長。中学二年 生の夏、館林市中学生オーストラリア派遣団に参加。帰国後の2003(平成15)年 8月24日夕刻、栃木県足利市内のJR線踏切に入り、自ら命を断つ。享年十四歳 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) -: 198ページ 出版社: 現代図書 (2005/8/8) 内容, 2008/1/25 By 編集部 - レビューをすべて見るレビュー対象商品: 関野昂著作選〈1〉関野昂哲学論集 2003年8月に14歳と16日で自らの命を絶った中学2年生の遺稿集の第1巻。「14歳から」 ではなく、「14歳までに」哲学と対峙し、格闘した軌跡を哲学論集としてまとめた。 「存在」と「認識」をめぐり、「現象はそれ自体として存在し、宇宙は認識によっ て存在しない」という結論を見出すに至るまで、小6から中2までの2年間、著者は悪 戦苦闘を続けた。「思惟すること」自体がはらむ問題と可能性を読者に突きつける。 哲学者入不二義基のHPの推薦コメント 20. 関野昂著、『関野 昂著作選1 関野 昂 哲学論集』、現代図書 14歳で自死した哲学少年の遺稿集。すでに或る高みに到達していて清々しい、 と同時に惜しい。
厨二病で本当に自殺した哲学好き少年って 本当にいるんだね(合掌)
>「現象はそれ自体として存在し、宇宙は認識によって存在しない」 それを「なぜ?」と問い、証明しようとするのが哲学だ こいつはまだ入り口にしか立ってない この程度の奴は学部レベルにすら大量にいる
読まないで、それを問うていないとまで結論できるとは 凄いエスパーですねw
哲学とは入口に立ち続けることだ
存在と時間読んだけど最後の最後で「時間性と歴史性」を語り始めたところでひどくガッカリしました 時間が歴史って・・・
googleで「『哲学への寄与論稿』 麻原彰晃』で検索するとこのスレがやはり1頁目の先頭に出て きました。これはしかしあの書き込みを斬新ともとれるし恥と思っている人もいるかもしれませ ん。受け取り方は色々でしょうね。 関野昂。14歳の哲学論。一度読んでみたいですね。
594 :
考える名無しさん :2011/12/26(月) 01:36:08.59 0
創文社版全集42シェリング論、年内刊行。
世 世界_環境世界/道具全体性_ 現 界 | | 存_内_内存在_了解_頽落_企投__関 在 存 | 良心 死 心 在 自己__非本来的/本来的__| | 図解:ハイデガー『存在と時間』 時間性
世 世界_環境世界/道具全体性_ 現 界 | 放射線量 発送電分離 | 存_内_内存在_了解_頽落_企投__関 在 存 | 内部被曝 良心 死 心 在 自己__非本来的/本来的__| 癌 半減期| 原発版:ハイデガー『存在と時間』時間性
関野昂の遺作となった哲学書。かじってみました。最後の「認識の終焉」だけですけどね。 そこで関野さんが展開する説とは、解りにくいものだが、察するに、物自体と人間の認識との 乖離があり、人間は物自体に到達することはない。おそらくそれが言いたいのだと思う。そこを 抜粋してみよう。 《(…)色彩は我々がものを見るその時にのみ存在しているのであり、実際の現象には色彩が存在し ないのではないか、という事である。しかしこの事実は逆に一つの真理を明示し得る。それは即ち 現象はそれ自体として存在するのであり、元来我々の認識はそこに無関係なのである。それは 宇宙が我々の認識を超えているという事実をも明示するものである。我々が知り得ぬ形で宇宙が 更に存続している可能性があるという事は自明である。宇宙は我々の認識を超えている。》(『関野 昂著作選 1』127頁) このように、物自体は認識の外部にある、という難題を関野さんは発見し、ここが哲学的思索の 終点だと見なした。物自体は人間にとって絶えず外部として認識を阻む、という問題はまた以下 のようにも捉えられる。 《自己と現象の矛盾=自己が現象をそれ自体としてとらえ得ない事 自体と他者の矛盾=@自己の精神体系の質量が他者である事(この場合の他者は広く現象を含み 得る)、即ち自己が自己であり得ずその本質が他者である事。A認識論により自己の意志を中心と した世界が形作られるにも拘わらず、他者が存在し意志を所有する事。(この事実に@が加えら れる)》(同書 125-126頁)
598 :
考える名無しさん :2011/12/30(金) 00:40:38.80 0
認識する自己にさえ介在する他者(物質性)。また、対象は対象として、認識にどこまで自体を明 かしているか、不明である。これらの難題は悉く、認識の限界を我々に示している。そうして、まさ に関野さんはそのように、ここが思索の限界だと悟り、以下のように最後に記した。 《認識の矛盾の前に全ては虚しく在るのみである。虚ろとsての無の裡に宇宙は見い出され、虚構 としての宇宙に我々の意識は偶発した。ただ認識の終焉という結末のみが、今私の前に在る。》( 同書 133頁) しかしまたここで展開され整理されている問題というのは、実は現象学が現象学的還元によって 突破できると考えた問題ではないか。生起する現象をそのまま自然に受け取らず、意識作用、意識 されたもの、意識主体、と現象を分解し、それによって事象そのものへ、人間は辿りつくことは 可能だ、としたのが現象学である。そこから多大なヒントを取って形成された一つの派として、 ハイデガー思想もまたみなすことができる。その意味で、フーコー、デリダ、ヘーゲル、カント、を 10代前半にして読破したという関野さんは、現象学に向かえば、自分の課題を更に追究しえたの かもしれない。現象学の本を読んではいなかったことが、その「認識の終焉」の原因だったのかも …。しかし、独力で辿り着いた結論を抱いて、著者は早世した。
599 :
考える名無しさん :2011/12/30(金) 01:21:39.47 0
ハイデガー研究者がセクハラするのは正しい、それともギルティ?
66 名前:名無しさん@涙目です。(氷川神社)[] 投稿日:2011/12/30(金) 08:21:54.59 ID:3HzOwJdC0
>>65 HiSEを長野電鉄に売ったときにハイデッカー構造のせいでバリアフリー法?に対応する改造が出来ないからって言ってたから
HiSEもRSEもハイデッカーだから今回の引退もそれかも
601 :
考える名無しさん :2011/12/30(金) 16:11:21.83 0
149 :考える名無しさん:2011/12/28(水) 19:27:11.79 0 丁度スレの話題に合っているので。 以下、小泉義之による『リアルの倫理』書評より ジュパンチッチが指摘するように、近年のカント解釈はまったくダメである。 ロールズやハーバーマスやアレントの解釈(柄谷行人『トランスクリティーク』はこの段階にある)は、すべてダメである。カントの凄まじさを見逃しているからだ。 カントは、日常的な「功利主義の倫理」を断ち切って、「欲望の倫理」を導入したのである(浅田彰『構造と力』はこの段階にある)。 しかし、カントを越えて進まなければならない。ラカンは、欲望の倫理を突き破って、「欲動の倫理」を導入したからだ(スガ秀実『「帝国」の文学』はこの段階にある)。 しかし、ラカンも越えて進まなければならない。ry
602 :
589 :2011/12/30(金) 20:32:41.94 0
>>597-598 カントのパクリじゃん
パクリなのに限界感じて自殺とか
カントはそこから始めたのに
やはり惜しい人材では無かった
>>601 ドゥルーズガタリかぶれの厨房みたいだなw
存在と存在者の差異 は、 ベクレルとシーベルトの差異 ただし、 現存在は内部被曝=ベクレルを含む
606 :
考える名無しさん :2012/01/05(木) 00:30:41.08 0
03-01-2012 『「知」の欺瞞』が岩波現代文庫に!■[評][目]『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』 アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン[田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳] (2000年5月24日刊行,岩波書店,東京,xxviii+338+30 pp., ISBN:4000056786 → 版元ページ|正誤表) 元のハードカバー版は今から十年以上前に出版されたが,その後は品切れになっていた.本書が今年2月に岩波現代文庫に入るとの情報を得て,ひそかに拍手をしている.イワナミ,えらいっ.文庫の「解説」は誰が書くのだろう?
607 :
改訂版 :2012/01/05(木) 02:39:43.04 P
『存在と時間』と『形而上学の根本諸概念』退屈論との対応関係 *退屈=根本気分のひとつ(気分は情状性、心境の様態) 世 世界_環境世界/道具全体性_A 現 界 | | 存_内_自己__非本来的/本来的C_| 在 存 | 先駆的決意性 | 在 内存在_了解_頽落_企投_ | 情状性___不安_\関 *(気分)良心 死 心 | 既在性___現成化___到来__時間性 B 今 内部性 A退屈の第一形式(世界性)** B退屈の第二形式(時間性) C退屈の第三形式(内=存在、自己) 『存在と時間』第65節、参照 **退屈の二つの特徴もしくは構造的契機 Strukturmomente 空虚放置(空無への放置 Leergelassenheit)/ 釣られ引き止められ(宙づりのままに保持されてある Hingehaltenheit)
608 :
考える名無しさん :2012/01/05(木) 02:44:25.26 0
>>598 どうなんですかね。その現象学的還元というやつも結局は、ニーチェ的には「人間の生存のために必要とされる誤謬」と思えるしな。
ニーチェはむしろ、「他者(物質性)」としての肉体の方が意識に先行しそれを支配していると考えた。
レヴィナス、ドゥルーズ等々の、むしろ他者性をそれぞれの仕方で歓待する思想を、関野君ならどう読んだかな、と思うな。
「他者」としての「物質」が意識に介入してくるのに耐えられなくて自殺(肉体の破壊)したということなのかね。
なんだか、自我・意識中心の古めかしい哲学が現実に耐えられなくてポッキリ折れただけみたいな印象。
610 :
考える名無しさん :2012/01/07(土) 23:43:37.37 0
>様々なハイデガー論が未だに研究者を始めとして発表されている。だが、それらは、またはその ことは、当のハイデガーからすれば、さほど意味のあることではない。というのは、それら様々な ハイデガー論とは、あくまで座標の上で、ハイデガーを位置づけ、このような知です、論理です、 とするだけなのだから。つまりハイデガーの提起する問題系は相変わらず無視されていることに 変わりはない。 550で上のように書いたが、辻村公一が91年に刊行した『ハイデッガーの思索』の序文に、似たこ とが書かれているのを発見した。 《本書は「ハイデッガーの思索」と題されたが、それは彼の思索を主題として対象化した客観的研究 ではない。勿論そういう客観的にして学的な研究がそれとして重要性と意味とをもつことを、著者 は認める。併し、主観-客観‐関係という特に近世形而上学的な関係を、その根底に向かって掘り 下げ掘り崩した處から出てくる彼の思索を、その関係を前提にして客観的に研究するということ は、何か魚をそのエレメントたる水から引き離して陸に上げて見るような行き方であるように、 著者には思われた。(…)このような根本性格をもったハイデッガーの思索を、その根本動向の 際立って現れている種々の局面に沿って、著者なりの仕方で追思索しようと試みたのが本書であ る。》(『ハイデッガーの思索』序文 創文社 1991年) ハイデガーを読む場合にその提起される問題を受け止めて追思索する、というのは、学的研究を 放棄することによってむしろハイデガーの思索を追っていくやり方だと思う。圧倒的に多い学的 研究ではないやり方を採る、辻村公一の読み方にどちらかといえば私は共感する。
もういい加減に ハイデガーの先に進まないと こんな化石哲学やってても仕方ないだろうw
>>589 本来、小中学生の時点で到達すべきレベルなのに
学部でようやく到達するような連中は、才能が無いから哲学やめた方がいいな
>>611 諸学より哲学のが展開が遅いから、ハイデガーでも充分新しい。
哲学だと300年一昔、くらいでちょうどいい。w
八巻正治先生も笑わせてくれますねえ。 自称・教育学博士(ニューポート大学大学院)のお方は言うことが違いますね 「日本の大学だって、海外ならば非認定校だ。ディプロマミルと同列視されるのは、とても不愉快だ」(弘前学院大学・八巻正治教授) 八巻正治さん、これって学歴詐称じゃないのかな。 ね、八巻正治さん。 でも八巻正治さんは、大学教授なんだよな。結局は勝ち組なのかなあ… 八巻正治さんは本当に不思議な人物だなあ。
615 :
考える名無しさん :2012/01/11(水) 14:03:31.12 0
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、 価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真 理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組 みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。 それは好運と呼ぶべきことで、常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、 時代の真理に盲目である。
ドイツが脱原発に舵を切ったのはドイツ観念論が観念に終わっていないからだろう その点日本とは対照的である
617 :
考える名無しさん :2012/01/13(金) 17:40:25.21 0
うんこ
618 :
考える名無しさん :2012/01/13(金) 23:11:58.17 0
下痢庵
>>609 いやまて。
哲学に挫折して自殺したようなストーリーになってるが
学校の成績に悩んでとか、失恋してとかで自殺したのかもしれんし。
かわいそうな両親のあとがきによれば >「書き置き」には、自ら命を絶つことを決した理由は、「私の思惟の果てに見出された結果がこういう事を余儀なくしました」と明記してあった。
世界は私の外に確実に存在するのに 私は私の認識を超えることができない だから死にます 意味不明
人は哲学のみにて生きるにあらず、ってことなのではありませんか?
ドイツ人生論はごまかしが大杉
624 :
ユーサネイジア ダニエル・カール :2012/01/17(火) 23:55:57.19 0
精神と科学が調和するアレフ信者なだけじゃ ダメかあ☆
625 :
既出 :2012/01/18(水) 07:19:58.21 P
「しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。
シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――
われら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあ
すの分かれるところである。(略)人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。
道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中に
も美を見いだそうと努めている。」(『茶の本』「第三章 道教と禅道」岡倉天心 村岡博訳より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html このなかの「処世(術)」の英訳 (to be in the being of the world)がハイデガーの
世界内存在(in-der-Welt-sein)に繋がったとされる。
荘子の「処世」は「世に処(お)る(In-Sein)」と「世に処する(Ver-walten)」の二つを兼ねる。
« Allein das wichtigste Gedanke des Taoismus an das
Leben Asians liegt auf dem Gebiete der Aesthetik. Die chi-
nesischen Historiker haben vom Taoismus stets als von
der "Kunst des In-der-Welt-Sein” geredet, denn er handelt
von der Gegenwart, von uns selbst. »
"Das Buch vom Tee" p.31
/ Okakura Kakuzo. Aus d. Engl. von Marguerite und Ulrich Steindorff [1919]
参考;今道友信「一哲学者が歩んだ道」(中央公論1999年1月号)
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022
「私の恩師の一人、伊藤吉之助は一九一八年、第一次世界大戦直後、ドイツに留学、そのときハイデガーを教師に雇いました。 敗戦後のドイツはひどいインフレ で、連合国側の日本の留学生のポケットマネーはドイツの若い学者たちには魅力的でした。 (中略)伊藤は帰国に際し、お礼の心づもりで『茶の本』の独 訳"Das Buch von tee"をハイデガーに手渡しました。それが一九一九年。 そして一九二五年にハイデガーの名を高からしめた『存在と時間』が出版され、 あの術語がことわり もなしに使われていたので、伊藤は驚くと同時に憤慨もしていました。 それからはるか後年の一九四五年、「いやあ、世話にはなっだんだが、やづければよがっ だなあ」と庄内弁で私に述懐なさったことがあります。」 (後に『知の光を求めて―一哲学者の歩んだ道』今道友信 2000/3 に再録) なるほど
627 :
考える名無しさん :2012/01/18(水) 16:21:41.76 0
《自己と現象の矛盾=自己が現象をそれ自体としてとらえ得ない事 自体と他者の矛盾=@自己の精神体系の質量が他者である事(この場合の他者は広く現象を含み 得る)、即ち自己が自己であり得ずその本質が他者である事。A認識論により自己の意志を中心と した世界が形作られるにも拘わらず、他者が存在し意志を所有する事。(この事実に@が加えら れる)》(関野昂著作選1 125-126頁) …が有る、…で有るを形成する有 Sein は結局実在に到達できない。とするのはオウムの教義にも 見られる。有を捕らわれ、愛着と規定し、そこからの離脱によってしか真理には到達できないとす すのがオウムの教義である。またオウムでなくとも、死に近いほど真理に近いという教義は仏教で は古代からある。関野さんの発想はさほど珍しくはない。現代人にとって驚きではあろうけど。実 は珍しくはない。ちなみにハイデガーの場合、有は贈与であるとするところで、神を覆蔵してい るととれると思う。それは有が贈られるとするところで神学の名残を残している。また、それと 別に、1930年代に思索した有・ Seyn にたいし、神=無=空としての真理を導入している。それ は知から脱去しながら合図をする絶対否定性であり、そこでオウムの現出させる涅槃との共通性 を示す。
今道友信の息子はバービーボーイズのギター・作詞・作曲担当
ハイデガーの美と性悪は イマサのアートへ流れたわけだ
630 :
考える名無しさん :2012/01/18(水) 19:34:46.45 0
日常性に深く刻み込まれているがゆえに、我々の視野から隠蔽されている暴力性を 「総駆り立て体制 Ge-stell」として暴き出し、死すべき者としての人間の住まう新た な空間を開拓する試みが、 ポリスなき者の創設に委ねられるわけである。このポリ スなき者は、異質なものを排除するのではなく、異質な自他の出会う〈公共的〉空 間を創設しうるのだろうか。自己を外部に向 かって開き、〈無関係な外部〉を自己 の再発見・再生を可能にする〈有意味な外部〉へと変容させる可能性を提示しうるの だろうか。原存在 Seyn と現-存在 Da-sein との「対抗振動 Gegenschwung」、人間の 「内向的な対向性 die inwendige Gegenwendigkeit」というハイデガー の思索は、この 問いに対して新たな視野を切り開く。
ハイデガー思想は何故ゆえに中途半端なのだろうか 一番の理由はハイデガー自身の考えがまとまっていなかっただけなのだが 多くの老人信者はそれさえ気づくことが出来ない ハイデガーは使い古されてボロボロになった玄関マットだ 靴底をマットで拭おうとしても全くとれずにマットからとれた毛を中に持ち込んでしまう ではどうすればいいのか 簡単なことだ 新しいマットに変えればいいのだ 今こそハイデガーというボロマットを捨てる時かもしれない
「在る」とはどういうことか 哲学史上において この問いを発したことがハイデガーの唯一にして最大の功績である しかし肝心の『存在と時間』がかなりバタバタして書かれた未完成の大作であり ニーチェや古代ギリシャの哲学者達をハイデガー流に読み解いてみた仕事はほとんど無価値と言っていい ナチス関連のアレは弁護のしようがない
634 :
考える名無しさん :2012/01/19(木) 20:37:42.54 0
>>633 しかしその「在る」ことを歴史的に初めて問うたのはアリストテレスなんだけどね
フッサールも先行して問うているし
ハイデガーは事故言及的循環に論が陥っていて
ごちゃごちゃになってしまった
現在は「心の哲学」において「在る」ことの問題は考えが発展しているから
もうハイデガーにまで戻る必要は全く無いよ
636 :
洋楽 :2012/01/19(木) 21:51:55.83 0
そっちの 世界で ・・・・・ 記憶に ございません とか 禁止だっけ? びみょう だよね (笑)
637 :
洋楽 :2012/01/19(木) 21:55:15.76 0
あと 「 ・・・・・・・・ あれっ? 」 とかも(笑)
>>635 うん、でも現象学ってやっぱりよく分からないんだよね
学問になり損ねたというか
だからこんな表現はまさにハイデガーみたいで好きじゃないけど
「現象学的存在論」みたいな形でとりあえず語れる形に無理矢理してみせた功績はあるんじゃないかと
じゃなきゃ現象学は哲学にすらなれない未満のものとして消えていただろうし
そうかね。フッサールが生のまんま使えなさそうなのはそりゃそうだろうし、 現象学についてはハイデガーの功績も大きいだろうけど、 ハイデガー読めないメルロ=ポンティみたいな奴もいるわけじゃん。
そのメルロ=ポンティすら読めない奴がいるなw
641 :
低木犬轍 :2012/02/06(月) 12:14:04.94 0
ハイデガーが重要なのは<住まうこと>以後だと思うがやはりいないか
643 :
考える名無しさん :2012/02/06(月) 12:44:32.92 0
995 名前:レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/02/06(月) 12:28:27.50 あまりに云われつけたことだが、「現代思想」というのは、多くがハイデガーが設定した問題圏をうろうろしていたところがある。 ハイデガー的な整理をさらに雑にすると、 カント哲学は「ほとんど最後の哲学」、ヘーゲル哲学は「哲学の完成」 カント哲学の「現象論」は力学的に表され(これはカント本人も言っている)、ヘーゲル哲学の「現象学」は命題学的に表される。 哲学=形而上学で、論理学が記号論理学に整頓されていくのは、ハイデガーによれば「形而上学の執拗な支配」 また、いうなれば、数学上の概念は、ロジック=集合論の言葉に、例外なく「翻訳」できる。 で、正統派マルクス経済学の計画経済論というのは、前にハイエクの話が出た時云ったが、 古典経済学を裏返しにしたもの(逆に読んだ、ともいえる)。 そして、古典経済学とは、古典物理学を丸写しにしたものだった。 とここまでくれば、 モダニズム的「大きな物語」をヘーゲル・マルクスの名がシンボライズしている、 といっても、変ではないでしょう。 ただし、前にも述べたが、「ポストモダン」というのは、あるころから、今日的な文化のモードを示す一般語なんで、 そういう「教科書的」な狭い意味に限定できないところがある、というのは、まったく正しいと思う。
>>641 ハイデガーがある程度東洋思想も翻訳で読んでたのは事実だけど
そのネタについては、元の新聞記事以外ドイツ語のソースなど一切見つからない
645 :
低木犬轍 :2012/02/08(水) 17:14:34.45 0
>>644 ありがとうございます。
了解しました。
嘘教団のデマに騙されてしまいました。
憤慨してハイデガーの特集が載った本を一冊購入して勉強します。
646 :
洋学 :2012/02/08(水) 17:32:01.11 0
647 :
考える名無しさん :2012/02/08(水) 18:50:41.53 O
てめえ誰の島でいっぱいいってんだよ しゃば代払えやゴラ洋カビ
648 :
洋楽 :2012/02/08(水) 19:14:22.21 0
・・・・ おねしょたれ (笑)
649 :
考える名無しさん :2012/02/11(土) 00:11:40.79 0
Seynとは涅槃 nirvana と考えれば、『哲学への寄与』での晦渋な言い回しも分かるんではなかろうか。 脱去しながら合図を贈る、拒絶の開けというのが何か。そしてそれが有るものとなるとき、暴力と と照合されたり、絶望を生む、とされるのが何故か。そこに覆蔵される歴史という問題圏、そして 麻原の孕む涅槃との関わりがある。
650 :
考える名無しさん :2012/02/11(土) 00:52:16.77 0
みるきぃホームズ見とったやろw
651 :
考える名無しさん :2012/02/23(木) 11:10:40.22 0
649のように考えるとき、地下鉄サリン事件の本質、また、現在の麻原の精神崩壊、などが見えてく る。Seyn=nirvana(涅槃)またはその最高次としてのmahayana(真我)と捉えること。この読み 方が最も必要だろう。研究者のようにどれだけ哲学用語を動員してもSeynを読めることはない。 元々Seynを旧来の哲学史から読むことはハイデガー自身が不毛な試みとしている。それを相も 変わらずやっているのがアカデミズムにいるハイデガー研究者で、Seynの覆蔵し合図する拒絶の 意味は無視されて、『哲学への寄与論稿』は「思索の事柄」と言われてしまう。そのような事を言うな らば『寄与』の意味は帳消しにされてしまう。最も疑うべきはかようなハイデガー研究が発表され いる現状である。
『哲学への寄与論稿』の冒頭でこう書かれてる。 《有・の内への跳躍、跳躍は裂け開けの底無しの深淵を跳躍的に開き、そのようにして初めて有・ から指し向けられた現‐有の基づけの必然性を跳躍的に開く。》14頁 《ここではすべてが、有・の真理への唯一の問いにかかっている。》14頁 《問うことは、覆蔵された仕方で強いるものへと解放することである。》15頁 これら諸命題とは悉くいわゆる性‐起 ereignis 、すなわち了解の促しについてであり、了解 とはハイデガーの中では行為の本質である。言い換えると了解が起こるところでは相応した行為 もまた為されるということを意味している。これは単に「思索の事柄」とするのは表現として妥当 ではない。また「思索の事柄」という規定はこの論稿を事実上矮小化することである。
『哲学への寄与論稿』というのは理性や知性への外部性を歴史的に基礎づけるものだと思う。なの で動機不明な殺傷や自傷、またcounter cultureの極北ー例えばrockn roll cultureの 極北、すなわち行為や感性の最深部へ召還するものらを歴史的に、必然的をもって讃えるものだ と思う。ハイデガーの遺した文章の中でも最も開かれたものだ。哲学やハイデガーを熟読したか 否かに拘わらず、〈深さ〉というところへ召還し、讃える。それがこれなので、一部研究者の言うよ うな、評価を鵜呑みにする必要もないし、〈深さ〉と応答することの讃歌として読めばいい。そこ で現代社会の不明さや一般に不吉と言われているものが一挙に照明を当てられて見えてくる。そ こが画期的なわけで、研究者のやっている語源研究とか、さほど知らなくとも大して影響はない。 むしろ細部の言葉遣いに拘って、先に述べたことが見えなくなることの方が悪い。
654 :
考える名無しさん :2012/02/23(木) 19:02:07.22 0
大五郎うめーっ、焼酎はいいね! ハイデッガーってナチスのインテリの本、酒場でインテリの兄ちゃんにもらったけど くるね! 薄い本だったけど、名前は忘れたけど、存在は大事だよな 体が資本の土木作業は存在が無くなったらダメだもんな その後焼酎とソープで一発、いいね! 653はハイデッガーの事、なんもわかっとらんね 大五郎とソープ知らねーでハイデッガーはわからんよ
655 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 01:55:54.80 0
:: .|ミ| :: .|ミ| :: .|ミ| :::::::: ::::: ____ |ミ| :::: :: ,. -'"´ `¨ー 、 :: :: / ,,.-'" ヽ ヽ、 :: :: ,,.-'"_ r‐'" ,,.-'"` ヽ、 :: :: / ヾ ( _,,.-='==-、ヽ ヽ、 :: i へ___ ヽゝ=-'"/ _,,> ヽ :: ./ / > ='''"  ̄ ̄ ̄ ヽ :: / .<_ ノ''" ヽ i :: / i 人_ ノ .l :: ,' ' ,_,,ノエエエェェ了 / i じエ='='='" ', / :: 存在と…じ、時間… ', (___,,..----U / :: ヽ、 __,,.. --------------i-'" :: ヽ、_ __ -_'"--''"ニニニニニニニニヽ :: `¨i三彡--''"´ ヽ :: / ヽ :: / ヽ::
656 :
考える名無しさん :2012/02/26(日) 18:09:40.96 0
仕事の後の大五郎はうめーな こう寒いとな やっぱ653は学者とかわらん意見だ 小難しいだけ
657 :
考える名無しさん :2012/02/27(月) 18:05:49.25 O
推薦で私大の哲学科に入った奴の哲学って、結局頭使って楽するのが勝ちってやつでしょ? 現象学とか関係ないよ?
658 :
考える名無しさん :2012/02/29(水) 19:43:02.44 0
有の困窮から有・Seyn の脱去と合図という、有るものの拒絶が贈られる、それがハイデガーの 言う性‐起 ereignis で、これは一般社会的には無尽蔵の暴力と見なされ、絶望や嫌悪を強いる 。この思索は『哲学への寄与論稿』のあちこちから昇ってくる話で、してみればこれは、底無しの無 ー有るものを無さしめる時ーの可能とその意味を讃える、そういう本だとも言い換えられる。同 じようにこの本の悪魔性でもあり、カルトでもある、また最高に魅惑的な所でもある。無尽蔵の無 を讃える、また無の宗教性をそなえる、とも言い換えられる。それはこの本を何回か読むと伝わっ てくる。途撤もない話だがこれがこの本の重要な所だ。ハイデガーの裏面、裏ハイデガーとも言え る。また、これが現代の底無しを本質的に撃っている、とされる所でもある。ちなみに656が言う「 学者」はこういうことは言えないだろう。
ついでに言えば、優れた芸術家が突然不可思議な死に方を遂げることに潜む謎にも、ハイデガー のいうSeynは光を当てている。これまでの目的や基準に合わせた操業としての「芸術」は窮迫とし てある、というものだ。 《これまでの諸々の「芸術作品」やそれらの「目的」に対応するものの作成を、計画的に調整すること は、あまりに広範な成果に達しうるということであり(注:決して芸術ではありえない)》(『哲学 への寄与論稿』542頁 創文社全集65巻) 《芸術は、(注:本来的には)ここでは、ただ有‐のひとつの性起としてのみ、自らを開き示す。》 (『哲学への寄与論稿』542頁 創文社全集65巻) 《この現‐有の内的緊迫性から、有るものの優位の粉砕が準備され、そしてそれによって、「芸術」の 別の根源の尋常なら‐ざるものと不‐自然なものが準備される。その別の根源とは、神々と人間の 底無しに深淵的な応対を黙秘することの、覆蔵された歴史の元初である。》(『哲学への寄与論稿』 542頁 創文社全集65巻) ジミ・ヘンドリクスから尾崎豊、X-JAPAN hIDEに至る不可解な死があって、いまだに話題に なるが、ここでのSeynが「芸術」の操業化から促されるという記述はロックミュージシャンの 不可解に鋭い照明を当てている。
660 :
考える名無しさん :2012/03/03(土) 22:23:25.33 0
学者モドキのつまらん書き込みはもういいよ 存在言うなら先ずは大五郎とスープだ
メチエの哲学史の村井則夫氏のやつへの腑に落ちない観とか違和感はなんだろうな。 少なくとも文章の形がおかしいとかはまったくないのだが。 そこで解説されていること(あえて言えば「言葉遊び」)と、 そのことの重要さの評価(哲学史を哲学的に理解するとか)のギャップに納得できないってことなのか。 その「言葉遊び」は関連する知識がなければできないものなんだろうし、 「言葉遊び」によるある種の正当化的によって示される世界観みたいなのに興味もつ人もいるとは思うけど。
662 :
考える名無しさん :2012/03/25(日) 00:50:12.25 O
>>654 ナチス体制ではハイデッガーは「ブルジョアインテリの古狸」くらいな
扱いだぞ。だからハイデッガーもフライブルクの学長を続けなかった。
ナチス内の路線対立で辞任した。だがナチス党員は最後まで辞めなかった。 ハイデガーは突撃隊的なナチスに期待していた。
664 :
考える名無しさん :2012/03/26(月) 23:23:13.92 0
全集の訳が酷すぎてワロタwww
ハイデッガーの片思いだったわけだろ。
ラジオの周波数のダイヤルを固定しちゃう奴らだぞ。 ハイデッガーなんかの出る幕はねえし。
まったく自分で調べないで訊くんだけど ベルリン市街戦のときとかこういう学者のおっさんはどこにいたの?
田舎の自分の山荘に疎開でないかな?
669 :
考える名無しさん :2012/03/27(火) 02:46:22.60 0
疎開かぁー(遠い目) 武装親衛隊の外国人義勇兵とか貧乏くじ引いたなー
自分の出世のためにカトリックからプロテスタントへ、そして神学を捨てて哲学に移行した人だよね。
ネガチブキャンペンーに参加させられてしまった(笑苦)
全集の訳は本当にひどい 木田元も文化的犯罪だと厳しく非難していた
673 :
考える名無しさん :2012/03/28(水) 00:12:57.91 0
若い頃はヒトラーとチャップリンの真ん中みたいな顔してんだよね。
武装親衛隊にフランス人とかロシア人とかいたのは不思議ではないとしても 遊牧民とか回教徒とかまでいたという,
訳語が今までの流れを踏襲してなかったり、 直訳気味なのが気に食わないのだろうか全集 まあでも、ちょっと前に興味のある巻だけ10冊くらい読んだけど、 訳語が一部統一されてる以外は結構訳者の裁量で、思い思いに訳してある印象だった
『存在と時間』が重要なんだから、理想社版を読めば 良い。筑摩で文庫で読めるけどハードカバー上下2冊 が欲しいね。 『オントロギー(事実性の解釈学)』読んだら、ギュンター・ グラスのハイデッガーパロディ詩そのままな文章が出て来て ガッカリさせられたのは懐かしい思い出。 表題はポイント突いてるんだけど。
677 :
考える名無しさん :2012/04/06(金) 01:30:16.47 0
熊野純彦「マルクスをどう読むか――時間論としての資本論――」『立命館哲学』第二十三集、平成二十四年三月。 立命館大学での講演原稿です。いささか私秘的なことも語られていますが、こ こでは措きます。興味のある方は直接お読み下さい(なお、三批判書とハイデ ガー『存在と時間』の邦訳が予告されています)。
『存在と時間』は後半は駄目だったけどな。まぁ、キルケゴールの 哲学的翻訳とでも割り切って読んだら何とかなるか知らんけど。
679 :
考える名無しさん :2012/04/17(火) 09:06:48.91 0
存在論的差異と詩ってどうつながるのか理解できん。
680 :
考える名無しさん :2012/04/17(火) 11:32:42.91 0
681 :
考える名無しさん :2012/04/17(火) 23:48:45.59 O
>>679 差異だなんて言葉にこだわるのはベルグソン=ドルーズ教徒だけだろ。
我々の使う日常言語こそが歴史そのものであって、紙に書かれた
ものは記録に過ぎないとしたら?
語原学とは言葉の歴史学だとは言えないか?
682 :
考える名無しさん :2012/04/17(火) 23:55:36.38 O
語源学。 差異だなんてものは比較するだけだ。詩の本質は発語の直接性にある。 「俺の言葉は神託だ。嘘偽りもない」とランボーは『地獄の季節』で 言ってる。
683 :
考える名無しさん :2012/04/18(水) 00:04:39.46 O
言葉は太古の世界より人から人へと口伝えで使い継がれる。 歴史の外に立っている者は誰もいない。
大五郎うめーっ、焼酎はいいね! ハイデッガーってやたら存在だの亀頭だのって言ってるけど よくても単なる人生論だよな それも抽象的にかっこつけた無内容な話 自分でもわからなくなってるのがわかるよね 体が資本の土木作業は話が具体的でなくっちゃダメだもんな 大五郎と肉体労働知らねーでハイデガーのインチキぶりはわからんよ
685 :
考える名無しさん :2012/04/18(水) 07:10:59.31 O
ランボーはまた「分からせようにも外道の言葉しか知らぬのだ。 ああ、しゃべるまい」とも言ってる。もっともな話だ。
686 :
考える名無しさん :2012/04/18(水) 07:37:12.58 O
ランボーは詩を放り出して、波止場人足なんかしながら放浪したな。 俺も昔やってたが、岸壁の甲板からの眺めは気持ち良いもん。 チンピラならず者の口にも、政治家の口にも、学者の口にも、 外道の言葉が溢れかえっている。
687 :
考える名無しさん :2012/04/18(水) 07:39:59.77 O
まあ、死ぬまで誰とも口をきかないのが最高なのさ。
689 :
考える名無しさん :2012/04/18(水) 17:41:11.13 O
我々は呼吸をするように言葉を使い、 言葉を使うごとに歴史を呼吸する。
ハイデッガーが詩人、詩人ってやりだしたのは形而上学に転向して 詩人でなくなってからだな。
「言葉は存在の家」(『「ヒューマニズム」について』)なのではなく、 存在が言葉になり、存在の言葉を吐き出すのが詩人だ。
ヘルダリンとかのこと? まぁあれは完全な個人的な趣味でしょ。
おまえが詩集なんて一冊も持ってないのは分かる。
694 :
考える名無しさん :2012/04/21(土) 15:19:28.84 0
>>681 http://bungoku.jp/column.html?page=1;num=10#03 >>生誕と呼ばれる放擲を発端に演じられる一幕の劇の演じられる場所、即ち、
>>本質的に分裂したものである自我(この分裂が存在論的差異の現われ出る場
>>所、現存在だ。)は、消尽点へと至る間を歩む歳月を言語化することによっ
>>て自らの生を現に在らしめるわけだが、ある種の者たちはエンペドクレス宜
>>しく存在論的分裂の超克という不可能な試み、不遜な挑戦へと投じられてい
>>る。不可能事への挑戦である以上、必然的にルサンチマンという情態性の色
>>彩を帯びることとなるこのゲームの消極的な規則が予めの敗北であれば、積
>>極的な規則は言語を生きるということだ。これによってルサンチマンを超克
>>せんとするのである。
>>言語を紡ぐ(詩のようなものを書く)ということは、存在論的差異を生きる
>>ということと同義だ。
これ、意味不明なんだよね。
どう読んだらいいんだろう、と思って。
>要するにキチガイ沙汰だが、エヴァンゲリオンだ。綾波レイたんハァハァ これは分かりやすい。
698 :
考える名無しさん :2012/04/25(水) 23:13:55.07 0
ハイデガーがギリシア古代のフュシスに定位するのに対し、ナチはドイツ中世に定位。共に近代の超克を目指したが、 その基準となるものの本質は違うはずなのに、ハイデガーはその点をはっきり見定めることができなかった。 しかもその理由が単にハイデガー個人にあるというよりも、彼の哲学そのもの、彼の哲学の究極の原理である ザインそのものの中に問題があるということ。ハイデガーにとってザインまたはフュシスは「聖なるもの」「宗教的なもの」 すなわち主観的態度であって、明確な社会的内容をもたないもの。したがって相手を単に気分から捉えるから ナチに対し気分的に同調することになる。そこに致命的な短所がある。
フッサールが付き合って非常に疲れる、時々いるタイプのユダヤ的性格 だったせいもあろうw
700 :
考える名無しさん :2012/04/29(日) 14:44:40.01 0
いずれにせよ『存在と時間』は20世紀最大の哲学書だわな。
ちゅか、20世紀最大の「哲学詐欺」書だわな。
東浩紀が あれは長すぎるよね、問題だよね…ぶっちゃけ大したこと言ってないでしょ 「世界内存在」と聞いて想起される厨二的な何かあるじゃん?でも、そのまま文字通りの意味なのな! とか何とか言っていたのにはフイタ(会場もドッカン)
木田元:実は俺もわかってなかったんだから。えっへっへ
大したことを言ってないのに厨二的な感情を起こさせるところに意味があるんだよ。 中身がないことを言っても厨二的に盛り上がってくれる層がいることを知らしめて くれたところに功績がある。
ハイデガーの存在論ってつまり存在することへの驚きですか?
死ななきゃならないのに生きてるなんて、こんな支離滅裂な話はない。
ハイデガーの解説書を読んだ上での感想だけど ハイデガーが西洋形而上学の歴史を読み込んでいって最後には全部ひっくりかえすみたいなことをやったわけだね ただ西洋の思考を本当に否定していいのかがひっかかったんだよな ハイデガー以後アリストテレス以来の存在論は死んだのか?価値がなくなったのか?んなことないと思うけど確信が持てない
生あれば死あり。 これは理にかなっている。
不生不滅だろう。滅するのが必定なのに生きてるのは どう考えても間違ってる。
>>707 ハイデッガーはアリストテレスを買い被っただけ。
だから『存在と時間』は未完成。
>>709 悟りを開けば不生不滅だけど、悟ってもいない私たちは、生じて滅するの繰り返しでしょう。
その現実を受け入れて、修行するしかないのでは。
無明に留まる限りは人生はやっぱり不条理だ。何で死ななきゃならん のに生きてるのか!
つまり悟るのは無理だと悟るのが悟りなのであります。 (-人-)
不老不死になっても人生は不条理だよ。 つか、死ねない方がもっと不条理だよ。 手塚治虫の火の鳥や高橋留美子の人魚シリーズを読めばそのことが分かる。 死にたくなければ、生まれてこなければよいということになるかもしれないが、 仏教的には、修行して解脱涅槃しない限り誰でも輪廻して、生まれては死ぬの繰り返しです。 それは避けられません。 仏教が嫌なら、さあ、ハイデガーを読んで、先駆的覚悟性について学ぼう。
永遠の生は永遠の童貞人生・・・
つまるところハイデガーの後期の存在の思索って、どんな意味があるのよ なんか詩人のように存在の世界を感じながら生きろとか芸術家にしか受け入れられないようなことを言ってるだけじゃ? それではニーチェより読者が限定されるよ
デリダはかなりハイデガーの後継者と言えるのでは?
フィクション系ライターとか評論家とかテレビ関係の人とかは 意味あるんじゃないのかな。 無理やり言葉を紡ぎ出してメシを食ってる文系人間の人たち。
哲学史的にはもちろん価値があるでしょ ドゥルーズもデリダもそういう後期ハイデガーとの対決から思想を形成していったわけだから
ハイデガーがいったい何をなにをなしたというの?????
今まで木田元「ハイデガーの思想」細川亮一「ハイデガー入門」古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」という入門書を読んできた そのなかで一番わかりやすくてハイデガーの思想を捉えてたのは古東さんのだと思う 細川さんのは存在への問いって視点はギリシアから続く問題だってことは説明できてたけど、存在の意味への問いあたりから問題が分かりにくくなって 後半はウィトゲンシュタインに1章割いてたりで趣味全開になってくる 古東さんのは途中まで読んだ感じではハイデガーの著作が道であることや世界内存在することの意味なども丁寧に説明してくれてる 木田さんのはさすがだなとは思うが、やはり分かりにくい
>ハイデガーがいったい何をなにをなしたというの????? 深遠さを装った空虚な言葉で人々をダマくらかして青年たちに貴重な時間を 浪費させ哲学研究を後退させた罪。 「しょせん哲学は糞のような学問だ」という誤った認識を世間に広めた罪。 まあ、騙されるほうが悪いんだが。自己責任だし。
理解できない馬鹿は逆恨みで哲学を嫌悪する
全くのスレチで大変恐縮ですが、メルロポンティの「知覚の現象学」はみすず書房と法政大学出版局ではどちらが読みやすいのでしょう? フランス語は全くできないので、読みやすい翻訳で読みたいと思っています。
みすず書房
727 :
考える名無しさん :2012/05/28(月) 02:03:40.84 0
>>726 ありがとうございます。
哲学板のしかもスレチで鵜呑みにするのもなんですが、鵜呑みにして購入します。
>>721 ハイデガーは単純に言葉をスライドさせているだけだから
しかも手法がほとんど無いに等しいし
メルロ=ポンティなんかはもっと思考の手法が豊富だけど
729 :
考える名無しさん :2012/05/28(月) 03:37:46.59 0
ハイデガー挑戦しなければ
ハイデガーが悪いというより、ハイデガーをありがたがる人がいるのが原因。 江原とか宮台に深遠さを見てありがたがるのと同じ。 ラノベだの「もしドラ」だのに飛びつく層と重なる。
731 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/29(火) 04:04:07.98 0
現象学がもつ必然的な行き詰まり それは独我論的行き詰まり 存在論へ展開することで、新たな分野を開拓した 独我を救い出すこと 世界内存在への展開=独我の関心が道具的な世界を作る これは、現代思想の主テーマになる 最大の問題、他我とはなにか、へつながる。 現代思想の哲学者の多くがハイデガーから 影響を受けていることが面白い ハイデガーが作った存在論的主体像をもとに、 その限界として、他我問題に取り組んだということだろう。 現代思想の基本は、 他我とは決してコミュニケーションできないということ そして主題は、コミュニケーション不可能な他我と以下に 関係していくか、という倫理問題 ハイデガーとウィトという形而上学に対する裏表がともに 同じ結論へ導くことは面白い
法政大学出版局は日本語のおかしい翻訳を出すことで有名だよ
733 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/30(水) 09:33:39.55 0
>>732 哲学書の翻訳でまともなのはそうそうないよ
小太郎みたく翻訳以前の知性がまともじゃないのも居ますしね
735 :
考える名無しさん :2012/05/30(水) 13:12:14.91 0
>>733 > 303 :第三の波~平 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/13(日) 09:58:29.17 0
> ハイデガーがどうとかは安くで入門書あるんだから読めばよいだけ
736 :
考える名無しさん :2012/05/30(水) 18:19:34.13 0
かくして生身の女とできずに2次元世界へ 乙
738 :
考える名無しさん :2012/05/31(木) 20:19:48.63 0
言葉において考える奴はそうかもな。
>>721 古東のその本は簡略化しすぎて電波にすら思える。
例えばEreignisなんかの説明がそう。
本体も電波なんだから電波で良いんじゃないのw
742 :
考える名無しさん :2012/06/01(金) 10:48:23.18 0
古東さんのは分かりやすくて面白かったけど、 たぶんハイデガーそのものではないんだろうな、 と思った。
古東の本は、いろいろな例が参考になるけど ハイデガーに即して正確に説明することは、 放棄されている。 俺は、京都系「ハイデッガー」派の抹香臭い世界観は 爺臭くて嫌いだね。古東自身は距離をおきたいようだが 残念ながら古東、その世界観にかなり引き摺っている と思う。 ハイデガーの思想自体はもっと洗練されていて、 おどろくほど繊細で簡素なスマートさが核にあるのだが。 まだ木田元のハイデガーのほうがいいね。変な先入見 が少なくニュートラルで。
>>744 誤植訂正
× 残念ながら古東、その世界観にかなり引き摺っていると思う。
○ 残念ながら古東は、その世界観をかなり引き摺っていると思う。
「存在と時間」って本はハイデガーの代表作なんですよね。 この本さえ読めばハイデガーの思想に対して理解できますか。 そして、この本は素人が挑戦するにはちょっと読みにくいんでしょうか。
ま、一年! と思って、各種辞書、参考資料いったりきたり、本文もいったりきたり。 基礎概念とそもそもそうとらえようとする動機や目的について、自分なりの理解を簡単でいいから文にしながらやったんさい。 で、重要なことだが、彼がそう考察することに対して、今の自分は正直なところ、どう考えるか、考えてみること。なんも考えられなくてもいい。考えてみることが大切。なにか、考えられたら、自分とどう違いどう似てるか比較。 最初はよくわからないか、誤解がせいぜいだから、さしあたり自分の中で整合的な理解の仕方ができればそれでいい。 それと抽象的概念をなるべく自分の経験に照らし合わせながら、その具体例から目を離さず抽象的理解を進めないと単なる記号的空間たる抽象性に陥るぞ。 ま、言葉だけの世界というやつ。 具体を見つめ続けろな。
>>747 ありがとうございます。ww
いい参考になりました。
重要なのは自分なりに考えながら、いろいろと参考しながらよめばいいですよね。w
なんだか、大変なことになるかも知れないけど、ドキドキしてきました。
ま、下手なりに頑張ります!
ガンバレー
750 :
考える名無しさん :2012/06/02(土) 16:49:56.33 0
>>746 ハイデガーを読むなら、特に西洋でのキリスト教の重さを理解することから始めないと無理。
基本的には神が造った存在を証明しようとする話だ。
西洋哲学の多くはキリスト教精神を理解していないと、理解が見当違いの方へ進んでしまう。
そんなの無視してやんなさい。 そもそも、キリスト神学を理解するにはと、どんどんと。
それと、西洋哲学なんてことも無視しましよう。
>>748 オカルトとか新興宗教とかその系統の話が好きな人なら
ハイデガーを読んでもいいと思う
>>753 ハイデガーの哲学はオカルトでも宗教でもないぞ
本当に凄いものなら、キリスト教がどうの関係なく浸透してしまうだろう
いくら言い訳しても所詮は実存主義でしかないんだから、 実存主義にありがたみを感じる人だったら青春の貴重な時間を 費やして後悔するのもまたいいかもね
757 :
考える名無しさん :2012/06/03(日) 15:32:17.09 0
>>756 というと、実存主義とはどういうものだと考えてるの?
人はありがたみで生きていけるんじゃないか?
759 :
考える名無しさん :2012/06/03(日) 15:47:43.01 0
>>754 キリスト教に基づく神学だろ?
どう読んでも。
ドイツ人の「人生論」です。
NHK 第43回 青年の主張 それではさっそくですがマルチンさんお願いいたします。 題は「私の人生論」です! といったところでしょうか
>実存主義とはどういうものだと考えてるの? 「人生」や「(この自分という)存在」といった口あたりのいい主題で 人を引きつけておきながら、主観的態度ばかりで客観的な態度や 明確な社会的内容をもたないもの。 いつも対象を単なる気分で捉え、単なる気分だけで論ずる。 そこに致命的な短所がある。 したがって、非科学的態度・バカ文系的でっち上げ作文を容認する風潮につながり、 神秘的なオカルトや新興宗教カルトが幅をきかせていることの一因にもなっている。
新進研究者のハイデガー研究が最近よく出てるね。何れも法政大学出版局からで。まあ、買う気 はないけど。研究者には本家にある怒りや焦燥感はない。それと、ハイデガーは度々、哲学企業、 ないし哲学操業と化した学を批判している。哲学は有の問、また各々の有の本来性に向かう道標 で。それ自体何らかの目的でもない。従って学としてか操業としてか、論文生産工房にすぎない 哲学研究所という企業と化したものには意味を見い出さない。実際孤独の意味を後になるにした がい強調するようになる。もう一つ。ハイデガー研究者がハイデガーの言う「ヒューマニズム」へ の問題視を正当に正統に受け止めている例はほとんどないと思う。あれを受け止め切れないまま ハイデガー研究とかやってる姿は滑稽で欺瞞的で。よってハイデガーは研究者によって大学や 哲学企業のお題目に止まる。それに気付くこともない人間のサロンなので、ほとんど意味なしだ と思う。ただ翻訳だけは尊重するけどね。
764 :
考える名無しさん :2012/06/04(月) 10:48:22.61 0
>>762 なるほど。
ハイデガーには神の社会の一員にならなければならないという「明確な社会的内容」があるし、サルトルはマルクス主義をマルクスの思想の根源から再構成して社会変革を目指す、というこれも「明確な社会的内容」があると思うが、どうかな?
それを普遍化するために、客観的(絶対的)な根拠から(根拠を求めながら)自分のあり方(生き方)を追求していこうとしている、とも言えるんじゃないだろうか。
「 それを普遍化するために、客観的(絶対的)な根拠から(根拠を求めながら)自分のあり方(生き方)を追求していこうとしている」 これを求めるから物語を「真実」などと言い出す。 せいぜい、「それを以下、W客観的(絶対的)な前提として採用する」程度であって、それをこえて、まさに眺めみて、知られるべきなにかとしてのW客観的(絶対的)な根拠」が存在し、そして知ったなんてんじゃ、ただのケイジジョウガク 宗教でもやってよう。
766 :
考える名無しさん :2012/06/04(月) 12:29:44.01 0
>>765 言いたいことはわかるんだけど、彼らはあらかじめ「客観的(絶対的)な根拠」を設定してるんじゃなくて、その根拠を追及してるんだよ。
それはともかく、さて、では
>>765 さんはどういうのが「客観的な態度や明確な社会的内容を」持つと考えるのかな?
767 :
考える名無しさん :2012/06/04(月) 15:47:41.73 0
ハイデガーに限らないが、西洋哲学の翻訳者には日本語が十分に理解できていない、操れない人が多い。 原著は十分に理解してるのだろうが、それを日本語にすることができない。 だから原語を読めない人間には2重、3重の壁がある。 すぐれた翻訳者がこの壁を崩してくれることを期待している。 せめて、単語や熟語の選択だけは適切なものにして欲しいし、翻訳書の前文かあとがきでその日本語を選んだ理由ぐらいは説明してもらいたいものだ。 もっとも翻訳者がその哲学を解説したものでも適切なものは多くないようだが。
ハイデガーは彼の問題意識が分かればそれでOK ハイデガー自身は特に何も研究成果は出していないからね 全集訳の酷いこと酷いこと 日本人はドイツ人に馬鹿にされているだけw
769 :
考える名無しさん :2012/06/04(月) 19:03:34.10 O
「現存在」が原書では単に「Das Sein」って書いてあったのにワロタ
770 :
考える名無しさん :2012/06/04(月) 19:12:59.59 0
771 :
考える名無しさん :2012/06/04(月) 19:19:31.50 0
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∠ ノ 丶 | ノ | | / ̄ ̄ ̄ ̄\ | | / ヽ | | | | | | | | | | | | | / | | / ヽ \_/| |\_/ ヽヘ | / \ /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ パンとか止める存在↑
>その根拠を追及してるんだよ。 追及するだけ。 具体的な結論は何も示していませんよね。
根拠を追求するということ事態がすでにケイジジョウガク
774 :
考える名無しさん :2012/06/05(火) 09:05:07.05 0
>>773 では、形而上ではない哲学(思想)とはなに?
775 :
リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/05(火) 09:05:53.32 0
776 :
考える名無しさん :2012/06/05(火) 09:12:34.46 0
メタ・フィジカル − フィジカル 形而上 − 形而下 すでに意味が変容してしまってるような・・ 翻訳は難しい。
>どういうのが「客観的な態度や明確な社会的内容を」持つと考えるのかな? 客観性・客観的存在とは何か、客観的存在と人間の意識はどいう関係に あるのか、人間は客観的存在を正しく認識できるのか、… という問題については、ヘーゲルやマルクスが真面目に取り組んで 一定の答えを出している。 ハイデガーは定義もない独りよがりの用語を並べるばかりで、ズルく この問題を避けている。 ハイデガーやってる人は、こんなレベルの「哲学」で満足できるんでありましょうか? この点では、同じ実存主義でもサルトルのほうがまだ誠実だったといえましょう。
え? マルクスなんてお気楽よ。 「我々は物質を承認する」 ヘーゲルと一緒にするか?
>ハイデガーには神の社会の一員にならなければならないという「明確な社会的内容」があるし 764↑が言う「社会」とは「神の社会」なので、そこを踏まえないと話にならない。人間社会ではない のだから。それからハイデガーはマルクスも読んでおり、しかしまだ対話が可能な段階ではないと みなしていた。ただ、マルクス関係の愛読者はハイデガー思想はほとんど価値なしとするので、 大抵は詰まらない中傷しあいになる。実際にはハイデガーでいう工作機構、集‐立 Ge-stell に マルクスとの横断線はあると思う。人間が有用性に集‐立されていく。それにむけて工作されえい くことだが。しかしマルクス主義的主体はハイデガーからすれば工作機構の一部または延長であ りその意味でこれも否定されていくだろうし集‐立の一種である。ハイデガー思想は左翼の特権 意識や市民意識への解毒剤になることは昔から言われていた。マルクス主義とは相容れないし、 左翼でハイデガーをまともに読んでる人間はほとんどないし、それはハイデガー思想にマルクス 主義にたいする頽落の指摘が暗に提示されているのを察知するからかもしれない。実際提示、さ れているのはよく読めば分かるしね。
781 :
考える名無しさん :2012/06/08(金) 18:50:20.57 0
>左翼でハイデガーをまともに読んでる人間はほとんどないし、 ハイデガーのひとは右翼ばっかりなのは、だからか!
782 :
考える名無しさん :2012/06/08(金) 20:47:28.90 0
>>780 マルクスは自然の一部としての人間が自然を人間化するという矛盾を洞察した。
人間と自然の弁証法的な関係。
これを変えることはできない。
根源的な疎外関係ということになる。
技術の発達により社会経済が発展していく過程で、人間の生活に直接寄与するものではない富(貨幣)というものが生まれる。
その富自体が人間の欲望の対象となり(物神化され)蓄積されることで資本主義社会が成立していく。
資本主義社会の発展は、必然的に、その人間と人間の生み出した富の矛盾を拡大する。
これが資本主義社会の疎外。
無理を承知で強引につなげれば、この疎外関係をハイデガーの「集‐立」に対応させることができるかもしれない。
ハイデガーやってる人でヘーゲル・マルクスの概略を理解してる人は ほとんどいないでしょ。
有・ Seyn は表象から掴めない場所に脱去し、そのように有るものの大量と構造を拒絶。同時 にそのように身を隠したまま有るものを拒絶していることを合図として贈与する。それが有・ Seyn の根本動態で、さっきも姜サンジュンがTVで未だに不明とか言ってるオウムの事件も 有・Seyn の動態というところで見れば解かれてるんだけどね。それはハイデガー研究者を除いて ハイデガー愛読者には周知の事柄だと思うが。
>>784 >解かれてる
オウムのどういうことが解かれているの?
教義?
修行の意味?
政治活動の意味?
テロの理由?
で、ハイデガーのその周知の事柄によって オウム事件をどう読み解いたわけですかw
787 :
考える名無しさん :2012/06/09(土) 10:35:08.45 0
>>785 自己レスです。
>>786 的な悪ふざけと一緒にされるといけないので補足しておく。
オウムの教義は知らない。知りたいとも思わない。
ただ、宗教というのは人間としての生死を否定していくものだと思ってる。
その意味で、ハイデガーの「実存」から「存在」への融解と言う考えと同じではないかと。
宗教での修行というのは、個人としてその「実存」から「存在」への融解(時間の否定)を体感するためのもの?
政治活動はそういう個人の状況を国全体に広げていくという、非常に主観的な「救済」理念に見える。
テロはそうした「救済」活動に対する「抵抗」を排除するための戦いと捉えるのが普通か。
そんなふうに見ている。
その主観的な部分はハイデガーと同じ方向性でもある。
ちょっとだけは、ハイデガーとナチスの関係に思いを馳せてしまわないわけでもない。
こういう考えと
>>784 の考えの違いを知りたいと思った。
785が教義、救済活動、テロ、等々のどれが解かれてるのかと言ってるが、その手の表象から脱去 することで掴めなくなってるのがこの事件の特徴だ。あらゆる表象や計算から脱去するのが有・ Seyn だろう?それらはメディアや社会分析が立てた項目で、重要なのはそういった諸々の中心 が何か。の方だよ。それは784の数行でほとんど言ってる。それだけのことだと見れるし核心部分 はそれで解かれてる。宗教かどうか、もそこではさして重要ではない。有・ Seyn はおそらく 宗教や神以前を指しているだろうから。つまりオウム分析や分析項目が勿体ぶってる話は核心で はない。そこだけで見てるから古舘や姜みたいになるわけさ。
補足すれば、有・はそれを本質現成させる人間に没落を要求する。狂気や不能に陥れることも 書かれてる。麻原の禁治産者状態も予見されてると読める。敢えて教義と関連づけるなら、真我 というのが修行の最終到達点としてあるだろう。最終解脱という。そこと関係づけられるかもし れないがね。しかしこの手の話もハイデガー研究者はなし崩し的に伏せたがっているようだから 、それでハイデガー研究とか笑わせるしハイデガーを最も矮小化させてるのが実はハイデガー 研究じゃねえのかってことも言っておきたいねえ。
>>789 ハイデガーにそこまで多くを求めても仕方がない
それほど多様な哲学ではないのだから
社会の考察や人間の精神活動の問題などに使おうとするのは無理があるよ
791 :
考える名無しさん :2012/06/10(日) 18:35:51.05 0
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、 価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真 理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組 みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。 それは好運と呼ぶべきことで、常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、 時代の真理に盲目である。
>>768 氏や
>>790 氏の説明は実にすっきりして良い感じ。
でも、そのように整理をつけて次に進める人ならいいけど、
現実には、それ以上の物があると期待を抱いて騙される人たちが後を絶たないわけで、
793 :
考える名無しさん :2012/06/11(月) 10:32:47.80 0
>>791 なんでもこじつければいいってもんじゃないが、それがいくらかでもハイデガーの思考に近いなら、ナチと同一歩調をとったのもうなずける。
だけど、原発がなぜ不条理を孕んでると思うのかな?
もともと個人の気分や直感を文学的に記述したようなものであって 客観性などないのだから、社会現象を論じようとしても 個人の感想を基にしてこじつけをやるしかないんです。 てか、自由にこじつけを楽しめるのがハイデガーの魅力なのかも
ハイデガー本人が客観だのなんだの、そのへんの事を わりと詳細に書いてる本があった気がするんだけど、タイトルが思い出せない この流れだからこそ読みたくなったのに
マルティンさんが理解できないからその周辺の人ばっかり読んでるけどめっちゃ面白い だからマルティンも理解できれば超面白いんだろうなーと
797 :
考える名無しさん :2012/06/16(土) 13:02:27.35 0
主観‐客観の成立する地盤がこれまで本格的に問われたことはない。それを問うのが有論だ、有 とは何か、だというのハイデガーだよ。メルロ・ポンテイも晩年それに気付いていったな。だから 晩年はハイデガーとほとんど一緒だ。そこまでも行けない輩が小難しい堂々巡りをいつまでも やってるみたいだけどな。ハイデガー研究者や学生みたいに(笑) 高橋克也が麻原をずっと読んでたらしいが著書からサリン事件を解くことは不可能だ。高橋克也 は『哲学への寄与論稿』を読めば解ったろう。
メルロ=ポンティは若くして死んだのに天才的な人だったな あの水準の現象学者は日本にはいないな
799 :
考える名無しさん :2012/06/16(土) 18:17:07.72 0
>>797 >主観‐客観の成立する地盤
という考え方を否定したのがフッサール。
すべて主観の中に閉じ込めようとして無理やり存在というものを超越的に神として設定したのがハイデガー。
メルロ=ポンティはフッサールの立場から、そういう言いかたをすれば、客観がどのように主観の中に入ってくるかを相対的に分析していった。
ハイデガーとは反対側にしか見えない。
未完の著書をもとに何かを言うのはよほど注意しないと危険。
ところで
>>797 はサリン事件のなにがわかったと主張しているの?
800 :
考える名無しさん :2012/06/16(土) 18:24:02.97 0
>>799 その前にわかるとはどういうことか、わからないとはどういうことかをはっきりさせないとね。
801 :
考える名無しさん :2012/06/16(土) 20:42:42.94 0
主観‐客観の成立する地盤がこれまで本格的に問われたことはない。それを問うのが有論だ、有 とは何か、だというのハイデガーだよ。メルロ・ポンテイも晩年それに気付いていったな。だから 晩年はハイデガーとほとんど一緒だ。そこまでも行けない輩が小難しい堂々巡りをいつまでも やってるみたいだけどな。ハイデガー研究者や学生みたいに(笑) 私のように生活は貧しく、心は貴いというような奴は研究者にはいないだろうな。 事故の報告書から原発事故を解くことは不可能だ。国民 は『哲学への寄与論稿』を読めば解ったろう。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、 価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。 それは存在の開けの到来のことだ。 それは好運と呼ぶべきことで、停電や経済の心配によって原発再開を判断すべきでない。
『哲学への寄与論稿』の中でハイデガーは“この論稿において重要なのはイマジネーションであ る”と言い放っている。だから誰々がこう言ってる、誰々がこう言ってる、とかクダをまいてる 輩はもう相手にしなくていいと暗に諭しているわけだ。その手のはもうどうでもいいと言ってる 。ただイマジネーションをもって来いとだけ言ってる。哲学研究者などは読んでも解らんだろう しもうどうでもいいということだ。実際そうだからな(笑)もう見限っていたんだろう。文献学者 や研究者はな。物知りぶってるだけで何もない。どうでもいい人間だ。
フッサールにおける現象学的還元を〈有る〉の問の方法としたのがハイデガー。ただそこから普遍 的学問という方向へは行かなかったこと、むしろ知性が生の在り方を疎外することを暗に込めた ことが気に障ったのだろうがそんな揉め事に関わるのは研究者に任せておけばいい。またメルロ ポンテイの思想には人間の知覚像や感覚の成立する下地への予感がずっとあったはずだ。よって 晩年にハイデガーに接近したのは不思議でも何でもない。この手のことはだが後回しでいいし 知らなきゃハイデガーは解らんこともないしひけらかす話じゃない。研究者はこの手の話にいつ までも拘ってばかりいてどこにも発展しないので敢えて付き合う必要はない。有の呼び声に気付 き存在を自由にさせ、常識やら知性やらで抑圧しないことがハイデガーのメッセージなんだから 。存在の意味に気付くことをね。それが「人間」ではない人間であることの本当の意味だとね。無論 『哲学への寄与論稿』もその思想の延長にある。
804 :
考える名無しさん :2012/06/17(日) 01:14:41.98 0
『哲学への寄与論稿』の中でハイデガーは“この論稿において重要なのはイマジネーションであ る”と言い放っている。だからハイデガーがこう言ってる、ハイデガーがこう言ってる、とかクダをまいてる 輩はもう相手にしなくていいと暗に諭しているわけだ。 そ の 手 の は も う ど う で も い い と 言 っ て る 。
「主観-客観」図式のへの問いと云えばジャン=リュック・ナンシーと廣松渉 結論としては二人ともほぼ同じところに行き着いたな 主観性の根源には人称性以前の知覚作用があり、根源への所与のレベルでは経験される自我と他我は等価である
ハイデガーの思想は有の問への掛け橋であり自覚もしていたろうから自分がこう言ったとか どこまでも拘るのは間違いだと思っていたろう。また哲学一般などもどうでもいいと思っていた かもしれない。ハイデガー研究者とか、自分を文献学に押し込めるだけならば自分と最も遠い人間 だと思っていただろう。哲学流通の手段にするとか、うんざりしていたはずだ。哲学読書家が ハイデガー思想に精通してると思ったら大間違いだからな。大家の話を直接聞いたことがあるが、 唖然とする解釈を堂々と喋ってた。大家がこの程度かと驚いたな。ハイデガーの芸術観が狭いとか 、芸術と呼べるのは僅かだとか。それは要するに性起と関連づけた場合に言えることで。そこで 性起概念を入れないで済ますという間違いを犯していたわけだ。誤読だ。
807 :
考える名無しさん :2012/06/17(日) 14:54:32.17 0
ハイデガーに限らず西洋哲学のほとんどは言葉に支配されてしまう。 フォイエルバッハやマルクスは言葉に支配されることはなかったが、精神そのものの追及は観念論として退けられる風潮も生んだ。 フーコーがやっと抜け出す手がかりを提示した。 デリダは戻っちゃったかな? それにしても、いまの世界を見ると現象学も実存主義も構造主義もその後の流行哲学も、なんの役にも立たないね。 現実世界に大きな影響を及ぼしたのは、むしろ消え去ったマルクス主義だけだ。 それ以外は資本主義的経済活動の補完物にしか過ぎないのが現状だ。
808 :
考える名無しさん :2012/06/17(日) 19:32:49.46 0
ハイデガーはおまえのような学の無い虎の威を借る狐が一番嫌いだと思うよ
おれもハイデガーみたいな世人が一番嫌い
810 :
考える名無しさん :2012/06/17(日) 20:06:45.39 0
>>808 >>807 のこと?
反論したければ具体的にね。
だいたいハイデガーに嫌われるとか好かれるとか、現代の精神の状況と何の関係があるんだ?
そういう書き方が、まさに虎(ハイデガーと学?)の威を借る狐(808)そのものじゃないか。
そのくらいのことに気づけよ。
そこまで鈍感じゃ、ハイデガーどころじゃないぞ。
フォイエルバッハもフーコーもデリダも読んでなくていい。
>>807 の趣旨の理解に影響はない。
でも、マルクスは絶対に読んでおかなきゃいけない。
特に初期の哲学系の論考と資本論の第1巻。
そのうえでハイデガーを読めば少しは違う感想もあるだろう。
自分の理解力のなさを自覚しないと、何を読んでもなにもわからないままだ。
カニは甲羅に似せて穴を掘る、とかいうことわざもあったんじゃなかったっけ?
論理学や自然科学に弱い人、アリストテレスやらヘーゲル・マルクスを 理解できない人がハイデガーに騙される傾向にあると思う。 あとは、「なにがマルクスだ、インテリぶりやがって」と 的外れな嫉妬の炎を燃やす人
ひどい逆レッテル
マルクスはいいけどマルクスの威や後継者を自認する〜連合、〜派、は一切信用しないな。ちょう どハイデガー派を信用しないのと同じようにね。多数の威を借りない一人で戦う奴など表面に 出てくることは最後の最後にならないとない。あとは烏合の衆だ。その手のは反対派におけ る階級をもう暗黙の前提条件にしてるしその手のが権力を握ったらどうなるか歴史が証明してる 。マルクス派が切り開く唯一の条件はマルクスも何も知らない人たちをどれだけ尊重し、沈黙の 声を聞き取れるかに掛かっている。しかし未だ嘗てそのような組織が現れたことはない。ハイデガ ーを云々する人間がハイデガーなど知らない人たちが暗黙に体現するハイデガー的問題に盲目 なら絶望的なのと一緒だ。
原佑『ハイデッガー』勁草書房はどうよ?
存在と時間はどの翻訳がいい? ちなみに、「In-der-Welt-sein」を「-」なしで「世界内存在」と訳した 木田と渡辺は糞だって指摘を1つ耳にしました。 「世界-内-存在と訳さないと現存在が「主体」と変わらなくなる。」とのこと。 よくわからないけど、それ踏まえつつどの翻訳がいいですかね?
細谷は木田よりまともな研究者だけど意訳が多いとも目にしましたage 教えて4649
じゃあ岩波文庫版読むしかないんじゃない?それか全集版の有と時
「じゃあ」から始まるアドバイスはいらない。
>>815-816 で指摘したけど、「それでも」他と比べて渡辺訳がマシなのなら、
マシだと言ってほしいし。読み比べてない人のアドバイスはいらない。
819 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 18:31:05.60 0
>>818 自分で読み比べればいい。
理解できれば、それがいい翻訳。
随分傲慢な質問者ですね -を入れるかどうかなんて些細な問題に固執するのなら全集版は選択肢に入らないでしょう 現有なんて訳語は余りに奇妙だ それとあなたがそれをどこで読んだのかは知らないが日本のハイデガー受容はかなり偏ってる 木田のハイデガー理解は渡辺などよりも精確だと思うよ
821 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 18:50:13.07 0
邦訳を何冊も読み比べるぐらいなら原典読めばいいのに
ハイデガーの場合「有と時」派というのがいるからややこしい
824 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 20:10:21.98 0
>>823 「う」と「じ」?
「ゆう」と「じ」?
「ある」と「とき」?
どれが正しい読み方なの?
うとじ 端的に有時(うじ)とも 道元の使った言葉
826 :
考える名無しさん :2012/06/19(火) 21:08:56.12 0
有と時は翻訳としては優れていると思いますよ。 おそらく逐語的に最も正確でかつ意味もわかるという意味で。 「有」が気に入らなければ「存在」と置き換えて読めばいい。
>>820 ハイフン入れる入れないが「些細」なことじゃないと思ってる人の指摘を挙げたんだから
どう些細なのか言ってほしいところだけど。あと木田も理解じゃなくて、
木田は意訳が多いという指摘をしたんだからそれを受けて言ってほしい。
>>821 アドバイスできない奴がアドバイスしたがるな。
>>822 そういうベタな指摘はいらない。聞いてるのは翻訳。
ハイデガー本人が「文法がない」と言っているくらいだから 「存在と時間」なんかまともに読もうとしても無駄 「カッセル講演」で十分だろうな
君はそれを世界内存在や世界/内存在、あるいは世界内/存在のように読めるのか? 世界内存在と書くだけで世界/内/存在という強固な隔たりが感じられないのか? そして私が些細と書いたのは現有なる語との対比してだということも忘れないでほしい いずれにせよそのような態度ではハイデガーの言うところの道を辿ることなどできまい
良いから処世って訳した本出してくれ
高田珠樹という人はどうですか?
>>830 読んでない者が聞いてるののに読めるのかと訳がわからない。
傲慢でもまったくないし。
創文社全集2巻『有と時』は多の版と違う特徴があり、手沢本と呼ばれる、ハイデガーの 手元にあって書き込まれていた欄外註がそのまま本文の間に書かれている。それがある のは全集版と、たしか中央公論社の世界の名著クラシック『存在と時間』(現行3分冊)だ けだと思う。このことも念頭に置けばいい。ただ、基本的な読解もないのに欄外註がどう とかいうのも滑稽だからね。古書なら中央公論社世界の名著版(原・渡辺訳)も河出書房 新社世界の大思想版(辻村訳)も500円ほどで店頭にあるし、俺が最初読んだのも河出 書房新社世界の大思想『有と時』の古書だったしそれで十分だったからね。金に糸目ない なら欄外註つきとか買えばいいんじゃないか。
まあ暴論を言えば Sein und Zeit なら どの訳で読んでもとんでもなく問題が生じるということもない
>>834 今日、書店で中公クラシックスの『存在と時間』(原、渡辺)を手に取った。
3分冊で1冊1400円前後だったかな。
よほどダメな訳者でない限り新しいものの方が良くなってるはずだろう
838 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 01:20:01.71 0
839 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 01:21:39.00 0
>>833 日本語も生活態度も最低なお前に教える気はないよ。
>>837 そうとは限らない
純理はここ数年の翻訳ラッシュで選択肢が増えたが、それ以前なら長い間60年代の高峯訳に人気があった
ハイデガー←→親鸞 ウィトゲンシュタイン←→道元
『存在と時間』はハイデガー自身の文章がまずいから その翻訳を買ってもそれほど変わらないよ だいたい大したことは書いていない 一生を通じて何の成果を出したんだか不明なお方だ
>>842 ハイデガーの影響によって現代の哲学は大変貌した。
もっと勉強しろ。馬鹿。
844 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 11:47:26.10 0
>>843 おやおや、小太郎くんじゃないか
ハイデガーを読んでもいないのにレスかい?
バカはしんでも治らないねえwww
秘教的だから無視される
アーレント、レーヴィット、レヴィナス、デリダ、 ドゥルーズ、フーコー、ナンシー、アガンベン、 和辻、三木に至るまで、 ハイデガーの影響下にあった現代の哲学者は枚挙に暇がない。 ハイデガーの哲学の威力がどれだけすごいかは 少し勉強したら阿呆でもわかる。
>>846 別にハイデガーだけの影響を受けた哲学者ではないじゃないか
むしろ彼らに批判されていることも多いし
なんせナチ加担は痛すぎるからな
そのくせナチ加担の説明やナチズムの哲学的考察なんか一切していないのがハイデッガーだ
長生きしたくせに何のするべき仕事もしなかった愚鈍に過ぎないよ
>>847 ナチ加担が、ハイデガー哲学の本質と
どう内在的な関係があるのかを説明できないかぎり、
人格攻撃か揶揄中傷でしかないな。
『存在と時間』を生んだ哲学者というだけで
十分な反証になっているだろう。
本書はナチ加担以前の書物だし。
「存在と時間」の執筆以前からハイデガーはナチを(ヒトラーを)支持していた(ナチの初期党時代) そしてフライブルグ大学を辞任してからも「ハイル・ヒトラー!」ということを書簡に書いている もちろんハイデガーによるナチへの共感は終生変わらなかった
ま、いずれにせよ、 ハイデガーの人格や政治行動が糞だったとしても 書物やテキストとして残されているものは、 それらと一端切り離して考えるのが哲学読解の基本。 哲学は、哲学者の人格には決して還元できない。
これは単純な人格攻撃ではない ハイデガーの思想は生涯語られることの無かったナチズムという思想がベースにあり そして講演が行われてや書物も書かれた これはハイデガー思想の最重要な思想的基盤の話になるということ そうでなけばこれほどハイデガーの後年の弟子たちがそろいもそろってアンチハイデガーとして ハイデガーを批判した書を書いているはずがない 不倫相手だったアーレントにすらハイデガーは避難され続けた 自分の思想的尻拭いくらいはハイデガー自身がちゃんとするべきだった だからあれほど気を使ってくれたヤスパースとですらついには決裂してしまう ヤスパースがハイデガーに粘り強く言っていたことも全くの正論だ いまどき「ハイデガーのナチ加担はハイデガー思想には関係ない」とか言う輩は珍しいよ(笑) 御大長老の木田元だってそんな古臭い擁護はしていないし まあ読んでからこういうことは書くことだな(どうにもならんねしかし・笑)
852 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 13:17:07.55 0
リーマン小太郎はハイデガーは読んでいましぇ〜ん だから理解できましぇ〜ん ということですね ( ´∀`)
評論家のいい加減な本と解説書で語らないでねw
pikarrrには何を言っても無駄ですよ。 中高年引きこもりニートの限界です。 せめて本人の著作を読む習慣があればなあ。
>>851 >ハイデガーの思想は生涯語られることの無かったナチズムという思想がベースにあり
>そして講演が行われてや書物も書かれた
だから、このことの根拠が全く示されてないよ。
君があとに書いてることは、皆人間関係のもつればかり
ではないか。
『存在と時間』に一言でもナチが出てくるか?
それから俺は「ハイデガーのナチ加担はハイデガー思想には関係ない」
とも言ってない。言っているのは、
関係はあっても還元はできない。
かつ、切り離して考えることが先。
切り離して考えたとき、ナチの思想がベースに
あるなどとは全く言えないということだ。
横入りだが、おまえらはっきり言ってドイツ語原文でハイデガー読んでいるのか?? 主著の『存在と時間』に限らず、ハイデガーの書簡とかまで、ちゃんと原文で読んでいるのか? 読んでもいないくせにハイデガーについて語るなどおこがましいわw 慎めよ。
ほら原文ヨメヨメ厨でたよ。
>>855 ナチがひとことも出てこないからといって関係ないということは有り得ない
だいいちハイデガーは「存在と時間」を書く前にディルタイを持ち出して「存在と時間」と同じようなことを言っているが
「存在と時間」にはディルタイは出てこない
だからといってハイデガーの「存在と時間」にディルタイは関係ないとはいえないのは自明だ
ハイデガーをちゃんと読んでから書いて欲しい
>>858 >「存在と時間」にはディルタイは出てこない
出てくるよ馬鹿
読んでないのはお前だろ?
で、『存在と時間』のどの部分が
ナチをベースにしてるの?
指摘してみ?
あ・・・こいつバカだ
861 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 13:58:13.56 0
なんか話題をすり替えてるだろうwww
>>858 第77節 歴史性の問題についての上述の論法と、ウィルヘルム・ディルタイの
初研究およびヨルク伯爵の思想思想との関連(下巻P350-)
ちゃんと読んでからにした方がいいよ
もちろんそれ以外にも出てくる
それから割り込むならコテにしてくれないかな
誰が誰だか文章だけだと分かりにくいからね
864 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 14:14:41.03 0
また何読んだか自慢大会かよ ウンザリだぜwww
>>839 だから誰もお前には聞いてないから落ち着けアホ
>>864 別に自慢しているわけじゃないよ
ハイデガーのスレだからハイデガーの著作を出しても差し支えないよね
駄目だな批判のレベルが低すぎるよ
これが2ちゃん水準なんだな
真面目にレスすればするだけ陥れられるということか下らんな
867 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 14:26:35.25 0
本を引用すればなんでも済むのかウンコ頭が 自分の頭で考えるの哲学っていうもんなんだよ 下らんのはオマエだw
>>867 なんでそういう…まあいいだろう
あれやこれやと話題を変えて逃げまわるのが楽しいのかい
人も色々だな
もう退散するから喜びな
869 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 17:07:33.52 0
>>865 それならこんなスレに書き込むな、バカ。
870 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 17:09:03.38 0
>>868 やっと自分のバカさがわかったかw
閉じこもってゲームでもやってろw
すっかり糞スレ化
872 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 17:55:17.17 0
>>850 そうすると、哲学ってなんだろうね?
信念に基づいた発言や行動を哲学や思想と切り離す?
生活のために上司にゴマ摺ってるのとはわけが違うだろ?
>>872 ヒント:一つの思想信条や哲学的な信念に基づいて、
政治的な行動したり発言したりする仕方には複数ある
まともなレスを抹殺すれば いつもどおりのノータリンスレに落ち着く事実 情けないのお (´・ω・`)。。。
そもそもハイデガーの思想は「哲学」に分類すべきものではなく、 せいぜい「エッセー」や、良くても「評論」「文化評論」程度のもの。 戦勝国の論理でナチが全て悪いとするつもりはないが、ハイデガーを 支持する勢力の背景には「マルクス的な労働運動の制圧」という政治的 意図があった。とりわけナチスドイツは、社会主義的政策を採用したにも かかわらず、宿敵ソ連打倒のためにソ連=ボルシェビズム=レーニン=マルクス という図式でマルクスを敵視した。 ところがマルクスの思想や手法は近代自然科学そのものと重なっており、 動かしがたい説得力を持っていたため、ハイデガーは「"マルクス的・ヘーゲル的な "科学主義の否定」という手法を取ることにした。その形式としては、やたら主観的態度 を強調して読者の目をそらさせ、反論理・反客観・反科学の世界に導こうとするものであった。 ハイデガーの毒と限界はこの点にこそある。 岩波文庫の著者としても知られた武市健人はこう批判している。
(続き) 「ハイデガーがギリシア古代のフュシスに定位するのに対し、ナチはドイツ中世に定位。 共に近代の超克を目指したが、その基準となるものの本質は違うはずなのに、ハイデガーは その点をはっきり見定めることができなかった。 しかもその理由が単にハイデガー個人にあるというよりも、彼の哲学そのもの、彼の哲学の 究極の原理であるザインそのものの中に問題があるということ。ハイデガーにとってザイン またはフュシスは「聖なるもの」「宗教的なもの」 すなわち主観的態度であって、明確な 社会的内容をもたないもの。したがって相手を単に気分から捉えるからナチに対し気分的に 同調することになる。そこに致命的な短所がある。」 (武市健人)
武市の言うことには一理あるがそれ以上にやはりハイデガーはナチ的な人間だったと思う 『存在と時間』以前から「ドイツ語を話すドイツ人限定」というしばりで講義をしたりしていた かなりのナショナリストであり「ゲルマン民族はアリストテレスなどの古代ギリシア哲学の 正当な継承の上に成り立っている」という今のコリアンのように極端な歴史偏重主義者でもあった ここらへんのことが理解できていないとハイデガーの思想もよくわからないくなる >そもそもハイデガーの思想は「哲学」に分類すべきものではなく、 >せいぜい「エッセー」や、良くても「評論」「文化評論」程度のもの。 これは他の学者も同様のことを言っているし実際にそうなんだと思うよ
ハイデガー思想は、というより有は主観的ではなく、「ハイデガーは主観的」などと言ってる時点 でもうあんまり理解していないことが解る。武市某がそう言ってるのなら武市某にも残念ながら よく解らなかったんだろう。よく解らなかった人間しかその手のことは言わない。 あと、ハイデガーの思想がナチ的とか言ってるが『哲学への寄与論稿』はナチより過激で不吉、 驚愕的なものだ。ハイデガー思想がナチ的で良くないとか言ってる時点でもうハイデガーの最も 暗い部分は読めてないことが明らかだ。ナチ加担や民族主義は自分の思想に引き込むための 掛け橋みたいなもので、民族に溶ければいいという思想は自分とは関係ないと『哲学への寄与』で 語っている。再度強調するが、ハイデガーの最も過激な思想はナチよりもむしろ絶望的である。 また、ナチよりも暗い。ナチよりも絶望的で暗いのがハイデガーだというのだからナチ程度のこ とはどうということもないということだったろう。
879 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 23:30:54.28 0
>>878 ハイデガーの「存在」はどう読んでも神の創造物(あるいは神そのもの)。
キリスト教徒は「選ばれた民族」「神の言葉」という理念から抜け出すのはかなり大変じゃないのか?
武市の評価は知らなかったけど、ほとんど同意できる。
>「ハイデガーは主観的」などと言ってる時点
>でもうあんまり理解していないことが解る
>ハイデガーの最も過激な思想はナチよりもむしろ絶望的
とか抽象的にじゃなくて、具体的な表現を示さなければ反論にならない。
>>878 どうということもないようなことを何でちゃんと総括できなかったのだろうか
ちょっと「寄与」に比重を置き過ぎなんんじゃないのかな
「寄与」がハイデガーのすべてということは全くないし
君の視点はかなりズレていると思うよ
>ナチよりも絶望的で暗いのがハイデガーだというのだからナチ程度のこ
>とはどうということもないということだったろう。
こういう書き方はさすがにまずいだろう
ナチズムは「ナチ程度」のことだったかねえ歴史的にみて?
哲学>エッセー他
って時点で
>>875 などどうでもいいわ
882 :
考える名無しさん :2012/06/20(水) 23:42:11.62 0
ナチズムは大したことないよ、チャーチルに比べれば ハイデガーは少しまし。ネオナチに期待
既存の分類に属しつつも留まらないというのは理想形だと思うの
キリスト教が深く思想に入り込んでるのは西欧哲学ではたいていそうだから
客観性の問題については何も具体的に語らず、「お前には理解できてない」と罵倒するだけ。 彼岸の世界での理解を求められても困るわ。 考えることに意味があるんだよ、などどいうごまかしはもううんざり。
こうだと思う・こうすべきだと思うを大量に生みまくってるな ハイデガーの意図通りだ そのハイデガー自身も、こうだと思う・こうすべきだと思うで終わった人 哲学はヒントで良いんです!
ハイデガー研究者がみんなアレなことがハイデガーの思想を証明している
889 :
考える名無しさん :2012/06/21(木) 17:11:26.98 0
>>887 「ハイデガー」をほかの誰に変えても同じ書き方ができるな・・
哲学はヒントで良いのなら、テリー伊東も宮台真司もみんな 「哲学者」になってしまうんです!
ハイデガーとナチの関係というのは当初は自分の思う方向に変えていけると思い込んでいた、 というのと、期待しなくなってからは距離を取っていたが逆にナチからは問題視されるように なった、というのが混在して読み取りにくくなってる。 あと、ハイデガーのナチ加担を問題にする人間はほとんど“大量に殺人した”というところから ナチをとらえその協力者としてのハイデガー批判をする。そうである限りハイデガーの批判した ヒューマニズムの枠内にあり、その側面からの批判はハイデガーには届かない。 こう言ってみてもほとんどの輩には届かないだろう。元々理解できない輩が理解できないまま 批判してるようだから(笑)客観性は有によって個体に訪れる。それを考慮して初めて全体性は 掴みうる。これを理解しない客観性が全体主義になる。 『哲学への寄与』全てではないという理由で『哲学への寄与』を理解できない自分を正当化する な。
>>890 哲学史に載ってる人物達だって、いわゆる「哲学」やろうとした人ばかりではないじゃん
今後入れ替わりもあるだろうし、人によっても違っているだろう
カント(哲学)よりたけし(お笑い)の方が上と言う人も居るが、それでも別に良いんじゃね?と思う
893 :
考える名無しさん :2012/06/22(金) 02:43:41.25 0
>>891 ハイデガーがナチと意気投合したのは、どちらも自民族至上主義だからじゃないの?
逆に言えば、ただそれだけ。
>客観性は有によって個体に訪れる
と言ったんでは、それはすでに客観性ではなくて主観。
「個体に訪れる」というのは神の存在が前提となる。
そこが日本人には理解しにくいところ。
普通の客観として理解すると論理矛盾をきたす。
キリスト教世界が前提だから、日本人がハイデガーを読むときはキリスト教の感覚を知らなきゃならない。
なかなか実感するのは難しい。
>>893 キリスト教国家であることは別にハイデガーに限ったことではないでしょ
ハイデガーがナショナリストなのはそうなんだろうけれど
問題はハイデガーがナチの渦中にいたにもかかわらず
哲学の問題として考察しなかったこと
考える時間はたくさんあったのにね
そこを問題として考えることは非常に重要だ
895 :
考える名無しさん :2012/06/22(金) 18:16:57.95 0
日本人にはマルクスやサルトルは理解しやすい。 フッサールやメルロポンティも自身の信仰は知らないがキリスト教と離れて理解できる。 一方、デリダはもちろんだがフーコーでもキリスト教の感覚を離れて理解するのは大変な気がする。 ましてハイデガーをキリスト教から離れて理解するのは不可能だろう。
自分は逆でたとえば仏教という問題をずっと西洋哲学と一緒に考えてる 仏教は哲学と同形だと思う(相似形でなくて)
897 :
考える名無しさん :2012/06/22(金) 20:34:24.18 0
僕はむしろその逆でキリスト教という問題をずっと欧米哲学と一緒に考えている キリスト教が現存在を圧迫しているんだと思う
和辻は極右だし三木清は哲学者としてそんなに優れているとは思えない 九鬼周造は文句なしですごいですよね?
言葉が悪かったが仏教に限らず広く宗教一般も自分の問題意識にあるな たとえばハイデガーに影響を受けたブルトマンの神学なんかも興味深いと思ってる
900 :
考える名無しさん :2012/06/22(金) 22:15:15.28 0
891はほんとうに情けないやつだな ハイデガーの名前を借りていばってるだけ おまえ、ひとを腐せるどんな生き方してるんだよ 2ちゃん番長なだけ?
おんなじキリスト教の影響下にあった西洋の哲学者でも 特にキリスト教界のドン(首領)だったヘーゲルさんは 客観的存在の法則性と、それを認識しようとする主観(人間の意識) の法則性を徹底して追求し、その法則性こそキリスト教そのもの だとした。 ヘーゲルさんが偽装した唯物論者だったかどうかは別問題としても、 キリスト教を非合理主義的・神秘主義的にしかとらえてなかった ハイデガーさんとはえらい違いでっしゃろ。
ハイデガーの問題は特に何かを明らかにしたというような業績はないということ それから不幸にも(?)ナチズムの中にいたが そういう経験をいかして「ナチとは何であったのか」ということを考察しなかったこと ある意味現在の韓国人なんかが自分たちの起源を何か偉大なものに結びつけようと必死だった そういう行為に酷似した哲学と行動をとった人という認識で相違ない フッサールはちゃんと英米哲学に導入されているがハイデガーはされていないという事実がある あのデリダですら英米哲学界に進出した ハイデガーは日本人には特に買い被られすぎているようだ
つまり、説明がつかないものについて無理やり説明をでっち上げようとした。 もしくは、説明できないものについて無理やり説明できるかのように装った。 結果として、誰もが理性で納得できるような合理性とはかけ離れたものに なるしかなかった、ということでありましょうか
>>901 ヘーゲルは『キリスト教の精神と運命』の中でキリスト教の限界を
訴えている。カントにしても時代を考えて婉曲的に表現しているが、
キリスト教以外の価値観を持つべきと唱えている。
つまりカントにとって神はキリストではなく、それ以外のもの、それは世界に在るわけではなく
世界の外側に在るとした。
そういう流れも踏まえつつ、ニーチェを見ればハイデガーに後は何を要求されるのか、
今さらキリスト教云々は学校で神学を学んだことで充分だった。
聖☆おにいさんも、大英博物館に置かれ、フランス語版あり 変わんねーじゃん
英米に〜ってだけで評価もアホかと思うが ローティはともかくとしても ドレイファス経由での広い影響も知らずにそういう話をしてるのは 本当に何も知らずにイメージだけで語ってるのが良く分かる 英米系中心史観のようなんで言っても仕方ないだろうけど カント解釈における構想力の重要性やRealitaetという語の解釈 存在の忘却というテーゼ等々色々成果はあるよ
907 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 10:06:02.28 0
影響といったって、宗教家以外の哲学者・思想家で本当に世界に影響を与えたのはマルクスぐらいだろ? 他はせいぜい心理学やコンピュータ開発などの他の分野に少し影響をあたえる、という程度。 結局、哲学なんて大学の教師になるための、毒にも薬にもならない中途半端な幼稚園のお遊戯みたいなもの。
影響を与えたから凄いって方向だけじゃなくて、 学んでないからこんな酷い状況になっているというのも大事だがな
909 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 13:13:07.57 0
>>902 イギリスはどうかなあ?
まあアメリカの分析哲学では名前すら、まず出てこないのは事実だよな。
ローティはプラグマティズムだし、カヴェルは批評家の方が近いし…。
どちらにしても、ハイデガーが英米にはあまり浸透していないのは事実だろうね。
自分ではいけないと思いながら人間や動物を殺す快感を捨てきれないなど、公共的な意味を 有が凌駕することはあり得る。その場合主観的にも客観的にも自己倫理が凌駕してしまう。その ような凌駕があり得る根拠をハイデガーでは内的経歴、記憶されることなく堆積した経歴、すな わち歴史におく。ハイデガー思想が主観的とはやはり掴めなかったとしか言えない。
912 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 13:40:23.87 0
>>909 その本読んだことあるのかな?
単純に「第3の認知科学」を目指して、執筆者たちがハイデガーを絡めて論文を書いているだけのもの。
別に「認知科学にハイデガーが浸透してる現状」を書いたものでは全く無い。
下らないボケをするなよ。
ドレイファスも知らずに恥をさらした人が必死です
>>911 ハイデガーは主観的というよりも自己弁護的だという方が正しい
自分の都合のいいように思想的帳尻合わせで考えていた
弟子のガダマーなんかもそういう点を厳しく批判している
哲学の修行はゴールが見えないですよ!?♪。
>>913 ドレイファスは認知科学者とはいえない。
単純に欧州哲学をやっているアメリカの哲学者だよ。
それにアメリカでは、ドレイファス意外にはいないといっても過言ではないくらいに、なずみかけない。
奴隷ファシズムw
哲学を研究しましょう!?♪。
920 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 15:07:18.36 0
>>919 せいぜがそのあたりだよ。
分析哲学全体からみれば浸透していないと考えられる。
常識レベルのことすらわからんちんでは仕方無い。
まあ、ハイデガーのスレにまで来て 偏見と嫌味を垂れ流し、 反論されるや自分の都合の悪いことには聞く耳をもたないとくる。 哲学の多様性を無視する分析哲学者特有の偏狭さが 見事なまでに滲み出てるよ。
↑自演乙www
923 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 15:22:14.37 0
>>907 本当はそんなことみんなわかっているけど、認めてしまえば自分の職業や生活の糧がおびやかされるから、触れないようにしているだけ。
924 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 15:24:26.93 0
たしかに
>>907 の書き込み以降、だれかが自演の嵐でレスを埋めてるな・・
925 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 15:30:57.28 0
↑自演乙www
926 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 15:37:05.55 0
>>925 別に他人の振りはしてないぞ。
沈み込まないようにアンカーをつけたんだぞ。
幼稚園お遊戯程度の哲学を読みかじってるだけだと、そんな程度の「洞察力」しか身につかないのかw
927 :
考える名無しさん :2012/06/23(土) 16:15:32.28 0
最近ハイデガースレ良く上がってるな なんかあったの?
下衆ニートのリーマン小太郎が age ているんだよ
科学的態度を否定するハイデガーは叩く必要があるから。 変な新興宗教やオカルトにだまされる悲劇をなくすために。
ハイデガーの哲学は宗教とは違うよ ただ自分に都合がいい考え方過ぎるだけ 『形而上学入門』からは本当に酷い 自己正当化のために哲学するようになっていったから批判にさらされている 人間として異常なんだよ
資本主義の紊乱、腐乱←これこそマルクスが予言した世界 現代はまだ途中だが、マルクスの予言どおりに事が運んでいってる。
932 :
考える名無しさん :2012/06/24(日) 09:59:09.60 0
>>931 非常に生産性の高くなった資本主義経済は、増殖した資本(剰余価値)の行き場所を金融市場に求めることになる。
金融市場というのは実体経済を伴わないギャンブルだから、それ自体が膨張すれば破裂するしかない。
マルクスがそこまで読みきっていたかどうかわからないが、金融政策を無原則にした資本主義経済の必然であることは間違いない。
そうした貨幣の物神化を読みきっていたことは確かだ。
心理学だの精神分析だのの分野って、文芸風味の物語的解釈が けっこう許容されているような分野だからね。ハイデガーを 持ち出しやすい分野ではある。 考えてみれば「Seinを問う」という仕掛け自体がすでに 胡散臭いのではないのか。「Seinを問う」ってことは、 「問う主体」っていうものを前提としており、結局、 問う主体として神だの実存だのを持ち出してくるんだろうから。 しかもこの文脈で「客観性」を語るから説得力がない。 哲学を名乗るなら、Seinを問うよりもExistenzそのものを解明 すればいいのに、やろうしない。 人間の主観や感情や情念というものを合理的に解明しようとする ならそれは哲学といってもいいだろうけど、主観や感情や情念に ついて自分の主観や感情や情念のレベルで述べるだけなら哲学と いうより文学・文芸でしょう。
934 :
考える名無しさん :2012/06/24(日) 14:22:47.95 0
>>933 そういう指摘につなげることを含めて思考訓練なんだろうな、哲学というものは。
学校の哲学史にでてくるような有名どころをいくつか読んだが、理屈をこねて人に嫌われるようになった以外の効果はなかった。
日本の翻訳哲学者たちは、大学教師として自分の出世の役に立っているからいいんだろうが、あまり他人を巻き込まないでほしいものだ。
936 :
考える名無しさん :2012/06/25(月) 16:30:58.94 0
文学板にハイデガー詳しい人いるらしけどどのスレにいます?
有の問も哲学も脱‐構築されるべきことはハイデガーを読んでれば解る話なので、そこ で有の 問の主体だの理屈っぽくなってどうの、と言ってる時点で、たいして読み込んで はいないこ とは察知できる。 文学板の「デリダとドウルーズV 文学との関係を中心に」てスレがある。そこのアセン ショ ンさんのことかな?その人ならデリダやドウルーズ、ハイデガーについても詳しい と思うよ 。ただスレ名がデリダとドウルーズだしそっち寄りの人なんで、ハイデガーに最終的に軍配をあ げる俺とは互いに尊重しながらも平行線だったと記憶しているが。でも確かに詳しいし。色々教 えてくれる。知ったかぶりしない率直な人だった。
ハイデガーは『存在と時間』の周辺だけでいいような気がする 『形而上学入門』なんか酷いし
939 :
考える名無しさん :2012/06/25(月) 20:27:12.44 0
逆で存在と時間がむしろ特殊じゃないか
940 :
考える名無しさん :2012/06/25(月) 20:51:19.27 0
一般的にある作者のどの著作でも完結した読み方ができるんじゃないかと思う。 ただ、後期の著作になると、人によってはそれまでの著作の補足だったり、それを踏まえた著作という場合もあるだろう。 ハイデガーの「存在と時間」、それを踏まえた「現象学の根本問題」あたりの位置づけはどうなんだろう? 全体構想としては中断されたものであるとしても、論考自体はひとつの達成と見てもいいと思うんだが。
ディルタイやらヨルクやらアリストテレスやら… とにかく自分の考え(ドイツ哲学)をギリシア時代からの直系として位置づけようとして必死だったから それがかえって『存在と時間』を未完成かつ読みにくくさせてしまったんだろうね フッサールが『存在と時間』を読んで「これはダメだ」と感じたのも そういう欠点をすぐに見抜いたからだろう ハイデガーは哲学をする動機が不純なんだよ
942 :
考える名無しさん :2012/06/25(月) 21:51:55.23 0
フッサールとは違って哲学史家でもあるからね 存在と時間が完結してなかったことに加えそういうところがお気に召さなかったんだろう
フッサールは著作を読んでみれば 確かに分析哲学しているもんなあ(笑) フレーゲと並んで分析哲学の源流と言われるだけのことはある もちろん分析哲学が良いとか悪いとかいう話しではないけれどね
著作を全部読む必要ないのがハイデガー。 時間の無駄。 ただし、ゴマカシのテクニックを研究するには役立つかもしれない。
ただ全集の範囲まで読むと いかにハイデガーが「ドイツは世界一」「俺はそのドイツで選ばれた哲学者」であり 「アリストテレスの直系の世界でもっとも本質的な哲学者」なんだ ということをかなり若い頃から本気で信じていて それを守るというかそうであるかのような自惚れを実現化させるためにナチにもなったし 大量虐殺ごときは大きな世界の歴史の中では大した問題ではないなどと開き直れたんだと思うよ
946 :
考える名無しさん :2012/06/25(月) 23:34:31.10 0
>>945 自分はその正否を判断できるほど読んでいないが、ハイデガーシンパの人の反論も聞きたい。
意外とそうした見方に対する反論がない。
だからハイデガーが「親鸞に心酔した」といいようなことが出てきたけれども(けっきょく真偽は不明…) 「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」と親鸞はいうが これは後期のハイデガー思想と一応は対立するものではない そう考えるとハイデガーの後期思想はいいんでは?とも思うかもしれないが 上述のように「ハイデガーは世界の世界史の中心にいる」から自分以外の存在の行為や善悪ごときなど 大きな歴史からみれば善悪もクソもないからどうでもいいのだという考え方をそのままイコール(=)で むすぶことは決してできない ハイデガーは終戦でナチが無くなるまでちゃんと党員費を払っていた ちょっと自惚れと他者軽視の程度が度を越して酷過ぎる 病跡学の観点から人物及び思想の分析をする必要があるくらいに現実がみえていなかった ヒトラーと基本的な精神構造は変わらなかったと思うけれどね
また、ナチだの親鸞だのハイデガーの思考を その人格と挿話に押し込めようとする還元主義か。 そういう読みはホントにくだらない。 テクストそのもの、思惟そのものの可能性を 引き出すようにハイデガーと対決しないと意味がない。
ハイデガーのテクストと対決した結果、思惟そのものの可能性を 引き出すことは無理と判断しました。 ハイデガーの功績は、自らの体をはって実存主義の限界といんちきぶり をわかりやすく見せてくれたこと。
950 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 10:05:53.03 0
『現象学の根本問題』は面白いよね。 『存在と時間』の裏舞台がよくわかる。 ハイデガーが、ヒトラーとかナチとか そういうことではなく、 現象学的な思考を徹底して精密に 推し進めた成果が『存在と時間』である ということが心底納得できる。
フッサールとフレーゲの数学基礎論をめぐる議論に、 分析哲学の成立の起源求めることはできるだろうけど、 フッサール自身を分析哲学者に数える奴はいないでしょ。
952 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 11:13:24.60 0
>>950 『現象学の根本問題』を読む限り >現象学的な思考 と考えるのは難しいんじゃないだろうか。
ハイデガーも自身をスコラ(学校)哲学の流れに位置付けていると思うが。
少なくてもフッサールの現象学とはずいぶん違うんじゃないか?
953 :
名無し :2012/06/26(火) 11:38:46.53 0
マルテイン・ハイデッカーVS松本零士!?♪。
955 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 14:23:57.39 0
>>937 有難うございます。
でもアセンションさんは引退?したみたいでしたOrz
956 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 16:10:52.61 0
>>937 翻訳者が悪いんだが、おかしな和製漢語はなるべく使わないように努力するべきだよ。
自国語との格闘というところだけはデリダを見習うべきだ。
957 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 16:19:46.18 0
なるほど、有と訳したから仏教がどうとか出てきたのか
958 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 16:33:03.60 0
>>957 訳者の読解に左右されちゃうのはしかたがないかもしれないね。
959 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 16:34:56.64 0
訳語に対する自分の理解を示せるといいね。
講義録は本当に面白い 文章は重い・・・・
961 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 18:53:28.83 0
財津理が書いてるが有と訳す難点はなんか有してる、所有している/されているというニュアンスが入ってしまうことだと思う。 さすがに存在にはbe動詞の意味があるってのはもう誰でも心得ているだろうから、存在でいいんじゃないかと。
962 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 19:10:15.73 0
ハイデガー読みたいんですが、なんか前期とか後期とかあるみたいなんですが、 年代順に並べるとどうなりますか?
963 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 19:33:10.29 0
「有」「時」と「存在」「時間」という訳語の違いは、当然内容にも影響があるだろう。 「ゆう」ならまだ一般的だが「う」という呉音での読みだ。 「有」「時」の訳を読むなら、道元は必須なんだろうか?
道元は関係ないだろう もちろん親鸞もね どちらにしても全集版翻訳は日本人がリーダーシップを取れていないから そこが問題なんだろうね
965 :
考える名無しさん :2012/06/26(火) 20:41:59.46 0
翻訳者が道元とハイデガーの概念を近いものとしてとらえたからと言って、それが必ずしも正しいとは限らない。 むしろ、そういう先入観を排除して読んだほうがいいんだろうね。 読みにくければ「存在」「時間」の訳を読めばいいのかな?
>>964 一部のヘンテコ訳語はリーゼンのせいじゃねーべさ・・・
962さんみたいな人のためにここの扉があるんじゃない?すなわち前期『有と時』、中期 『哲学への寄与論稿』、後期『「ヒューマニズム」に関する書簡』『ニーチェ』『技術論』とかね。 創文社全集でいうと2巻『有と時』、5巻『杣径』、6ー1・2『ニーチェ』、9巻『道標』、65 『哲学への寄与論稿』、くらい読めば重要な著作や講演、草稿は読めたことになるんじゃ ないかね。あと後期の技術論は平凡社で『技術への問』というのが出てるし理想社の選集18『技術論』 を古書で入手する手もある。選集15『放下』は後期の技術論の到達点とも言える。
「存在」「存在者」っていう訳語もおかしいよな。 「…であるということ」「…であるとところの者」っていう ニュアンスのほうが近いのでは? 「…」の部分に何が入るかっていえば、まあ、あれだ。 荒れるから言わないけど。
>>964 ハイデガーでさえ晩年にやっと『歎異抄』の存在を知るのだから
西洋人はずいぶん遅れているよなあ。
やはり心底には東洋への偏見があるんジャマイカ。
教団か
教団だ
973 :
考える名無しさん :2012/06/27(水) 21:37:37.01 0
>>970 偏見なんていうものじゃない。
進歩史観の中だから、西洋は先端、アジアは未開、アフリカにいたっては原始。
偏見はせいぜい対アメリカ、だろ?
ハイデガーは「ドイツNo.1」の人物 いってみれば偏見の塊だ それが祟って ナチにどっぷりハマってしまった そして当のハイデガーは自分がいかなる立場にいたのか その集団はどういうことをやっていたのかということすら分析することが生涯出来なかった 理由は「ドイツNo.1」という思考を捨てることが出来なかったから 誰にでもわかるようなことですら合理化されてしまったということだろう 晩年のハイデガーはある種の狂気の状態にあったのだと思うよ
本音を言えば自分だって白人に生まれたかったさ
白人と黒人が歴史的に見て立場的に逆だったら どうなってだろうね。
ここは浄土真宗親鸞会のスレか。 さようなら。
978 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 10:11:08.46 0
>>967 ありがとう御座います。
やっぱり文庫でも出てる『存在と時間』からですかね。
『哲学への寄与』も読みたいのですが高いですねorz
979 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 10:32:51.78 0
>>974 ドイツ人が優秀なのは認めるけれど、そのドイツ人でさえかなわない分野で
ユダヤ人や日本人、インド人が飛びぬけて優秀なのは不思議というか
かなり複雑な気分になる。
981 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 12:08:41.05 0
>>980 遺伝的な民族ごとの優秀さ、なんてほんとうにあるかなあ?
歴史と環境じゃないの、と思うことが多い。
具体的にはアメリカの黒人たち。
スポーツは当然だけど、家の資産が不要で差別も少ない政府の黒人なんかは桁違いの優秀さだ。
それぞれの民族が優秀である一面を持っているのは、歴史と環境だとしか思えない。
たとえばユダヤ人は金融や頭脳的な職業でしか収入を得ることが難しかった。
日本人は狭い国土で地形や四季に制限されて生活の工夫を凝らすしかなかった。
ある意味アメリカと同じように外国文化との混交も文化を発展させた。
ドイツ人が優秀かどうかは知らない。
982 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 12:33:28.90 0
歴史と環境には優劣があると
983 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 12:41:03.39 0
環境の優劣もある価値観からいうのだから単純ではないが 歴史の優劣となるとほんとうに一概にいっていいものか
984 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 12:56:34.57 O
環境の差違が身体的、文化的な差違をもたらす最適化への過程が歴史なのかな? お前らが他者との差違をゾルゲし哲学に意味を発生させた過程に似てるかも
西欧的な価値観を規準にすれば優劣はあるけど、その規準に根拠はないよね 金儲けやスポーツが出来れば優秀というのは任意だし、そのルールすらもさ まーそれを自明の前提とするならいいんだけど
価値観の根拠が云々とかカテゴリーミステイクな議論だな
987 :
考える名無しさん :2012/06/28(木) 13:40:00.60 O
>>982 ごめんよ
ちょっとデリダの物真似がしたくてさ
734 :可愛い奥様:2012/06/28(木) 03:22:00.69 ID:TtWD3WDf0 セブ島で薬を盛られて強姦だけじゃなく殺人未遂です 奴らの悪行を広めて韓国とは国交断絶しないと被害者が増えるだけ 15 :名無しさん@13周年:2012/06/28(木) 02:21:43.37 ID:ZvZbERgp0 >現地新聞ではレイプされた日本人女性は、肛門が裂けさらに陰部も裂傷する瀕死状態 >で発見されたと伝えている。警察が通報で踏み込んだときに発見された状況は、女性 >は出血多量で瀕死状態で、肛門の穴が大きく裂けて、出血でベットは血だらけ、残虐な >レイプ殺人未遂事件として現地メデアは伝えている。現地警察当局が異例な事件として >緊急手配捜査した背景には、事件が単純なレイプでなく、殺害目的の残虐なレイプとし >て異例の捜査になったと・・・・・ >観光地セブ島でこんな残酷な事件が起きたことに、現地観光関係者はショックを受けて >いると伝えている。 これテレビ新聞で全然報道してないだろ、怖い。
>価値観の根拠が云々とかカテゴリーミステイクな議論だな 価値観の根拠云々の議論になったら、 ハイデガーはひとたまりもないからな